どうしてこんな男と一緒に公園を散歩しているのかが分からない。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「――えぇ、年中自己中男が隣にいるせいでね」
それもこれも、全部この男のせい。
あぁ、そもそも合唱部の部員が悪いのかしら。御秀堂養顔痩身カプセル第2代
合唱祭が終わった次の日、つまり今日は休日だったのよ。
わたし自身綺麗さっぱり忘れてたんだけど。それはともかく。
朝起きて、目を開けた瞬間飛び込んできたものを見て思わず叫んじゃったわよ。
「――な、何であんたがここにいるのよ! っていうかいつからいたの!?」
「十分ぐらい前じゃないか? 起こすのも悪いと思ったんだよ」
ニヤニヤ笑いながら時間を確認している男の顔が目を開けたすぐ傍にあったから。
普通は驚くでしょう? 常識的に考えてこいつがいるはずなんてないんだもの。
というか、都築。女子高生の部屋に入るのも問題だけど、寝ている所を十分も見ていることないじゃないの!
「この変態!」
「どうとでもいえ」
しかも開き直るから最悪だ。
……こんな奴でも、昨日はものすごくまともな奴に見えたのに!
何? もしかしてわたしの勘違いとかそういうことなの?
合唱祭まで指導してくれてたし、当日も守ってくれたから少しは感謝してるのに。しかもほんの少しだけ格好いいとか気の迷いで思ったりもしたのに、この男はそういう気持ちを一気に崩壊させてくれやがって。
「春奈」
「……何よ、変態誘拐犯」
だからわたしはこちらに向かって声を掛ける都築に冷たく言い放つ。
そうして半眼で睨みつけると、奴は肩を竦めながら尋ねてきた。
「昨日何もされてなかったとはいえ、大丈夫なのか?」
「……」
それはわたしの体じゃなくて心に訊いているんだろうか?
別に何の異常もないしショックだって大して受けてるわけじゃないのに。
……珍しいこともあるものよね、こいつが人の心配するなんて。
いや、もしかしたらそれが勘違いなのかしら? 本当はいつも心配されてたの?
都築は人を心配していても口に出したりしないからよく分からないわ。
実際、そのせいで昨日ひどいこと言っちゃったし。
「大丈夫よ。あんたに心配されるほど弱くないから」
まだ寝癖の残っている髪の毛をくしゃりと片手で撫でて、なるべく柔らかく返した。
心配してくれているという恩を仇で返すことなんてしない。
するとあいつは苦笑を洩らしながらも「そりゃそうだな」と言ってきた。
何よ、もしかしてはなからわたしが大丈夫だと思ってたわけ?
そりゃ、確かに神経図太いけどさ。
「心配してくれたの?」
「まぁ、一応教師だしな。生徒の心配ぐらいするだろ」
「それもそうよね」
でも、その苦笑に呆れたものが入っている気がしたから、本当に奴が心配してくれたんじゃないかと思ってしまった。
そうして尋ねると、案の定そうだと言う。
あんまりにもそっけないから呆れて苦笑を洩らしただけなのだろう。
元々自己中のくせに妙におかしなところがある奴だ。
まぁ、本当の自己中は人の心配なんてしないんだろうけど。
「……でも、ありがと。昨日も助けられたしね」
だからまぁ、今だけはこいつが自己中じゃないと思ってやろう。
そう思って奴にだけ聞こえるように呟いた。
すると、視界の端で小さく震えるからだが見える。
わたしが礼を言うのがそんなにおかしいのだろうか? 失礼な話だ。
だからわたしはすぐに「ほら、着替えるから出てってよ」と促したんだけど。
「本当に感謝してるか?」
「――は? うん、一応」
奴の言葉にそれ以上何も言うことができずにただ呆けながらも答えを返した。
すると奴はにやりと朝起きた時と同じような嫌な笑顔を浮べてから言う。
「だったら、助けてやった礼に今日一日付き合え」
あの時の笑みは、わたしの人生の中でも十本の指に入るぐらい悪どいものになると思う。
これまでも、そしてこれから先の人生の中でも。
それぐらい意地悪で狡猾な策士みたいな笑みだった。
――で。
「いいだろ? 一日ぐらい付き合ったってよ」
「だからってどうして――こんな……」
「腕組みしてるのかって?」
「あーもう! うるさい! 恥ずかしいんだから黙れ!」
わたし達は近所の公園に来ていた。
たまたまかなり大きな公園があるということで「じゃ、行くか」と半ば引きずられるように連れてこられたんだけど。公園に行くこと事態は悪いことじゃないし、緑を見ることが歌を歌う上でかなり重要になるから文句は言わないわよ。
隣に都築がいるのが気になるけどそれはそれで問題ない。
感謝してるのは本当だし、一日ぐらいなら付き合ってもいいかなって思ったのも本当なのよ。
……だけど、だけどね。
「どうしてこんな、恋人みたいなことしなくちゃいけないのよ!」
「だから、一日付き合えって言っただろうが」
「それって、言葉の意味が違うんじゃないの!?」
まさか腕を組んで公園を歩くなんて聞いてない!
というか今すぐにでも離したいんだけど初めにそれをやった時都築に今すぐここで襲われたいのか? って言われたせいでできない。さすがに、わたしだって自分の身が可愛いのよ。こんなところで襲われるって……何をされるかはいまいちよく分からないんだけど、かなりろくでもないことのような気がするし。
そういうわけで、わたしは泣く泣くこの男の言葉……というか命令を聞いていた。
新緑公園、と呼ばれているだけあってかなりの緑が生い茂っているこの公園。
芝生は適度な高さで切りそろえられているし、野草だってたくさんある。
シロツメクサが好きなわたしは、それを見て思わず顔が綻んでしまう。だけど隣に都築がいることを思い出すとやっぱり表情を引きしめないと、と思うのよね。
「お前、花好きなんだろ?」
「……なんで知ってるのよ?」
すると奴がそんなことを言ってきたのでやはり噛みつくように言ってしまう。
だけど、暑苦しい日差しの中歩いているせいで思わず目眩を感じて。
「お、おい!」
慌てる奴の声を頭のどこかで捉えながら、ふらふらと倒れそうになってしまった。
倒れそう、というのはつまり倒れてはないってことなんだけど。
帽子でも被ってくればよかった、と思った瞬間には奴に肩を支えられていた。
腕を組むのをやめられたのはいいけど、これはこれでかなり恥ずかしい。
「……大丈夫よ、離して」
「大丈夫じゃないだろ! 熱射病みたいじゃねぇか」
そう思って奴の腕から逃れようとすると、暑苦しいぐらいに強く抱きしめられた。
後ろから抱きしめられているから顔は見えないけど、きっと不機嫌な顔をしているんだろう。
本当はそんな不機嫌無視して離れたいんだけど。
実際具合が悪かったから、抵抗するのをやめた。
すると奴はどこか日陰で休もうぜと言って、ふわりとわたしの体を抱え上げる。
「ちょ、ちょっと!」
それにはさすがに焦って声を上げると、奴はそんなわたしの意志なんてお構いなしにずんずん進んでいった。半そでのシャツを着ているとはいえ、それじゃまったく効果がないぐらい暑いせいか奴の額にも大粒の汗が浮かんでる。余計に暑苦しいことしなくていいのに。
わたしはどうしてこんな時に熱射病になんてなったのかと自分で自分に文句を言った。
日陰に降ろされると、頭がひんやりとして気持ちがいい。
「とりあえずはこれでいいか……何か飲み物でもいるか?」
「いや、大丈夫……少し休めば治るわよ」
「本当に大丈夫なのか?」
大きな木の下で休むと木漏れ日がまぶしくて何だか時間を忘れてしまいそうになる。
その木に背中を預けるようにして座っていると、隣に腰掛けた都築がえらく心配そうに尋ねてきた。韓国痩身一号
「悪かったな、俺がもっと早く気付けてたらよかったんだが」
「……いいわよ。わたしだって気づかなかったんだから」
そうよ、わたしだって自分の不調に気付いてなかったんだもの。
これで奴が先に気付いてたら大変だ。
というか、怖い。
そう考えて視線を横に動かすと、やはりどことなく落ち込んだような顔が見えた。
そんなに落ち込むようなことないじゃないの。
大体、あんたが落ち込んでると気持ち悪いわ。普段あれほど意地悪でひどい性格してるのに今日だけ優しくて、何だかとてもくすぐったい。
「今日のあんた、何かおかしい」
だからわたしは、気だるい体に鞭を打ってそれだけを搾り出すようにして言う。
すると奴は、きょとんとした顔をしてすぐにいつも通りの不敵な笑みを浮かべた。
……今更いつも通りにしたって、もう遅いのに。
どの道、今日奴の様子がおかしいのは変えようのない事実なのよ。
今更ごまかすように普段どおりにされても困るわ。
「そうか? 俺はいつもこんなだぜ?」
「妙に優しいのね、今日だけ」
今日だけ、にアクセントを付けて言うと奴は失礼だなと言いながら眉根を寄せた。
だけど軽く睨んでくるその目は、やっぱりいつもより優しい。
誘拐した日「二択のどちらかを選ばないと帰らせない」と言った時の残酷さとは大違いだ。
まぁ、あの後すぐに妙な優しさを見せてきたから……あの時に似ているとも言えるけど。
だるい体が早く治るように何度か深呼吸をしていると、奴がそうだなと呟くのが聞こえた。それに釣られて顔を横に向けると、奴が薄く微笑んでいるのが見える。珍しい、まともに笑うなんて。いつもは不敵なものか意地悪なものしか浮べていないのに。
木漏れ日が微かに明るさを伴って奴の顔を照らしているのを見つめると、奴は続ける。
「今日は恋人同士ってことになってるからな。それらしくしてるんだろ」
それはかなり他人事のような言い方だと思うんだけど。
珍しくはっきりしない物言いにあんたも分かってないんじゃないの? と尋ねてしまう。
きっと奴も分かってないんだろう。まぁ、それはわたしの予想で……本当は、ただ理由を言いたくないだけなんじゃないのかと思うんだけど。それでも別にいいとは思う。人の気持ちを詮索してすべてを知りたいとは思わないし。
何せ、相手が都築だ。弱点は知りたいけど、その本心を知ったら大変なことになると思う。
本心を教えたんだから結婚するか? なんて言われそうよ。
あいつはわたしに歌を止めさせるよりも結婚させる方がいいらしいから、何の思惑があるかは知らないけどわたしの一生を決められたらたまったもんじゃないし。
「まだだるいか?」
「少しね、すぐに治すわよ」
そう考えていると不意に奴が声を掛けてきたから思わず素直に答えてしまう。
もう治った、って言う予定だったのに。
そう考えていると突然肩に力を感じて。
「――な、何よ?」
「横になった方がいいと思ったんだよ」
ぐらりと傾いて頭を地面に打ち付けるかと思ったら。
何やら妙な感触を感じて思わず上擦った声を上げてしまう。
顔を上に向けると、やっぱりどことなく優しい奴の顔が見える。
そこで、ようやく理解した。
「こ、こんなことしてもらわなくても地面になるからいいわよ!」
「それじゃ頭が痛いだろ?」
「っていうか、こういうのって普通女の人がするんじゃないの?」
わたしは奴の太腿に頭を乗せられてたのだ。そう、俗に言う膝枕。
辺りに人がいないからとはいえ、こんなところを同じ学校の生徒が見たらどうするつもりなんだろうか、この馬鹿教師は。
そりゃ、地面に寝転がるよりはずっと寝心地がいいかもしれないけど。
膝枕をしてもらうような歳でもないし、そういう関係でも――。
あぁ、そっか。今日一日、恋人やれって言われてたんだっけ。
「ゆっくり寝てろ。何なら、俺が子守唄でも歌ってやろうか?」
「……もう、好きにしてよ」
こうしてると、恋人っぽくないか? と言いながら言う奴に辟易しながらも目を閉じる。
もう体がだるくて、話をするのも面倒だわ。
というか抵抗する体力がないのよ。
……それに。
今日はこいつも、いつも通りの奴じゃないから。
今日ぐらいはこうしてのんびりしてもいいのかもしれないと思う。
結婚がどうとか歌がどうとかじゃなくて、ただ一緒に休日を過ごすだけっていうのも悪くないわ。
そう思うとこうして膝枕されるのも嫌じゃないから、目を閉じ色々と考えながら脳裏に奴の優しい顔を思い浮かべて、次に目を覚ましたら今度はわたしは優しくしようと決めた。
もらった恩を恩で返して、もらった優しさを怒った顔で返さないように。
そうして貸し借りなしにして、明日からまた頑張れるように。
わたしは体の調子が元に戻るまでの間ゆったりと流れる暖かい時間を奴の膝の上で過ごした。
こんな休日も悪くないわよね、とか何とか思いながら。
恋人らしい休日
休日。それは読んで字のごとく、休む日である。
だからわたしはこの休日というものをこよなく愛して、それはもう寝ようと決めていたの。
……なのに。
「ほら、さっさと起きろ」
どうして休日までわたしは奴と一緒に過ごさないといけないのだろうか。
布団に包まり、その暖かさを本気で幸せに感じながら寝転がっていると都築が上に乗りかかってきた。……重いっての。
わたしは耳元に顔を寄せて、朝っぱらからそのバリトンを頭に響かせる男の頭を叩き「うるさい」と一蹴する。しかし奴もなかなか手強くて、しばらく黙ったかと思ったら更に体重をかけながら囁くようになぜかカウントダウンを開始した。
一体何のカウントダウンなのよ!
急に不安になり、奴を押し退けながら上半身を起こし何やってんのよ! と怒鳴る。
すると奴は、まさか自分のカウントダウンがここまで効果を発揮するとは思わなかったらしく、目を丸くした後で声を上げて笑った。
そうして、起きたてで髪だって梳かしていないわたしの後頭部にそっと手を置いて自分の方へと引き寄せる。
そのせいで体が前のめりになったから「離しなさいよ」と言うと奴は「離すわけないだろうが」と即答しわたしの頬に自分のそれを当てた。
別に頬擦りをするでもなく、ただ触れているだけだ。というか、頬擦りなんてし始めたらわたしは怖くてしばらく起き上がれないわよ。
大体、そういうのは都築の性格上ありえない。わたしからすることも、性格上ありえないし。
でも、普段ならこんな風に触れてくることですらありえないはずだ……一体、何があったんだろうか?
「たまには」
すると、奴もわたしと同じことを感じたのか苦笑気味の声でそう呟いた。
耳元に当たる奴の吐息と、バリトンの声に身を固くする。
そうすると奴が笑い出すのを知っていて、それでもそうして身を固くしてしまう自分が一番憎いわ。
案の定肩を震わせて笑った奴は、わたしの頭をぽんぽんと叩きながら一度顔を離し。
かなりの至近距離で、妙に優しい顔をして笑いながら再び顔を近づけ軽くキスを落とされる。
しかし普段なら問答無用で殴りかかっているはずのわたしは、なぜか目を閉じてそれを受け入れていた。
頬に触れてくる奴の手が、冷たくもなく温かくもない不思議な温度を伝えてきていた。
確か何かの授業で、同じ体温をしていると相手の熱が分からないと聞いたことがあるけど、そういうことなんだろうか。
しばらくして、都築が顔を離すとわたしも閉じていた目を開ける。何となく、今顔を開けたら都築が顔を赤くしているんじゃないかと思ったら案の定奴が顔を赤くしているのが見えた。まったくどうしてこいつは毎回毎回、わたしが反抗しないと顔を赤くするのか。
そのくせ、反抗すると不機嫌になるくせに随分と身勝手だと思う。
「顔、赤いわよ」
「うるさい」
指摘すると、奴は軽く顔を隠しながらそう呟く。
何だかその様子はとても大人に見えなくて、口調と姿だけが成長しているように見えた。
仕草と考え方だけが、成長してないかのような。
わたしは小さく吹き出しながら「それで、たまには何なのよ」と訊いてやることにした。このまま奴をからかうのもいいけど、きっとそれじゃ後が怖いと確信しているからだ。そうして手で髪を梳かしながら奴の言葉を待っていると、奴は「あぁ」と返しながらにやりと笑った。
そして再び頬に触れる手。
今度はその手に微かな熱を感じた。自分よりも体温が低いことを告げる、冷たい熱を。
奴はわたしに触れると、また顔を近づけてきながらたまには俺達も、と呟いた。
――んだけど、それは最後まで聞けなかった。
妙に間の抜けた、でも別に嫌な感じを起こさせない機械音が鳴り響いたせいだ。
舌打ちをした奴はポケットから携帯電話を取り出す。
どうやら電話らしい。着信名は『正樹』……井上先生みたいね、なかなかタイミングが良いというか悪いというか。
どの道、都築に怒鳴られる道だけは避けられそうにないみたいですよ、わたしはどこかにいるであろう井上先生に向けて小さく手を合わせた。もちろん、心の中でひっそりと。都築は不機嫌もそのままに荒々しく二つ折りのその携帯電話を開いて「邪魔するな、じゃあな」と速攻で切ろうとする。
いや、それはいくらなんでもひどいだろ。そう思い「ちょっと都築」と抗議の声を上げる。
いくら相手が井上先生だからって、何も聞かずに切ろうとするなんてかなり残酷よ。
すると電話口から『あ、如月さん? 』と聞こえてきたのでわたしは反射的にはいと返事してしまう。それからなぜか慌てて口に手を添えると、都築が大きく溜息をつくのと共に楽しそうな井上先生の声が聞こえてきた。
『やっぱり如月さんだ。おはよう』
「お、おはようございます」
「春奈お前もう喋るな、つけあがる。おい正樹。もう切るぞ」
『うわ、ちょっと待てよ浩介! せっかく幼馴染のためにあのチケット手に入れた俺に対してその仕打ちはひどくないかい? 』
「……何の用だよ」
え、井上先生の勝利?
わたしは意外にも素直に話を聞く都築に、思わず目をむいてしまった。
そして都築の顔に自分の顔を寄せて、話がよく聞こえるようにする。
そうすると奴が「おいちょっと」と抗議の声を上げるが、こればっかりは譲れないと奴の腕に自分のそれをまきつけた。
瞬時に顔を赤くする都築……あーもう、あんたが顔を赤くしたらこっちまで恥ずかしくなるじゃないの。
『どうかしたのかい? 』
「何でもねーよ」
「何でもないです」
小さく奴が声を上げたのが聞こえたのか、井上先生が訝しげにそう尋ねてきたので二人して即答で返す。韓国痩身1号
……あぁ、きっと今ので井上先生はあの綺麗な顔に楽しそうな笑顔を浮かべていることだろう。
絶対何か勘違いしてる……まぁ、勘違いじゃないかもしれないけど。
体をぴったりとくっつけながらそう話していると、都築が急に「悪い切る」と電話を切ってしまった。
プープーという機械音。
「あ、切ったわねあんた!」
「お前がくっつくからだろうが!」
「何よ、くっついちゃ悪い!?」
「いや、悪いとかそういう問題じゃないだろう……」
その機械音に文句を言うと、奴はそう反論しながらもどことなく歯切れの悪い口調だ。
しかも、文句を言うくせに自分からわたしを引き剥がすことはしない。
一体何なのよ――あ。
そこでわたしは、自分が寝間着姿でいることに気がついた。
そんな状態で奴の腕にくっついてたってことは……わたし、恥さらしじゃん!
わたしは慌てて奴から体を離し、傍にあったカーディガンを羽織る。
すると奴はほっとしたような顔を作り「お前本当に今時の高校生かよ」とか言ってきた。
余計なお世話よ。それより、眠っているわたしの部屋に来て寝込みを襲ってきた都築の方が問題よ。
「あんたこそ今時の高校教師なわけ?」
「うるせえな。今時の高校教師は生徒を襲うのが常識だろ?」
「んなわけないでしょ!」
どこが常識だこの馬鹿!
わたしは奴の言葉に枕を振り上げてぼすんと叩きつける。
珍しくその攻撃を受けた奴は、少し眉をしかめて頭をさすりながらさっきより強い力で肩を掴んできた。
そしてそのまま抱き寄せる。
「うわ」
「大人しくしてろ」
その力に思わず声を上げると、都築は短くそう返してわたしを黙らせた。
っていうか、こんなことされて黙っていられる方がおかしいんだっての。
抱き寄せられたわたしは、奴の膝の腕に座らされ後ろから抱きしめられた。
全身を包まれるように抱きしめられると、もう逃げるための術が何も思い浮かばない。
それにしても……。
どうして都築は、朝っぱらからこんなことをするんだろうか?
いくら変態で馬鹿な奴でも、ここまでしなかったはずなのに……何かおかしいわね。
奴が何かをたくらんでいるのではと思い、少し考え込む。しかしその間に、都築は更に強くわたしを抱きしめて髪に顔を埋めながらじっとしていた。
だけどわたしは奴に触れられているだけでどことなく落ち着かないので、とりあえず声をかけることにした。
いつもみたいに不敵な笑みでも浮かべていれば、まだ安心できたはずなのに。
というか、元々こいつに抱きしめられたら安心できたはずなのに今日はかなり落ち着かない。
「都築、井上先生が言ってたチケットって何? あんた映画でも見に行くの?」
「あ? あぁ、見たいって言ってる奴がいたからな」
「ちなみにそれ、いつ見に行くの?」
「今日だ。今から見に行く」
「……だったら、さっさと準備して行きなさいよ」
だからとりあえず今一番訊きたいことを訊いてみると、どうやら奴は誰かと映画の約束をしていたらしい。
しかも今からって……待ち合わせに遅れたらどうするんだこいつは。
あぁ、でも井上先生が相手だったら少々笑って許してくれそうな気がする。
だけど時間に遅れるなんて人としてどうかと思うから、さっさと家を出てほしいんだけど。
わたしがそう言い放つと、都築はぴたりと動きを止めてこちらを凝視している。
……何よ。
「お前、俺が誰と映画行くと思ってんだ?」
「知らない人か井上先生」
どことなくぼんやりとした口調で尋ねてくる奴に即答する。
すると奴は一瞬間を置いてから盛大な溜息を吐き、目の前に二枚の映画のチケットを持ってきた。
あ、これわたしが見たかったやつじゃないの。
なかなか取れないって評判なのに、羨ましい。
……で、何。
まさかわたしに自慢するために見せたわけじゃないでしょう――。
「この映画見たがってたのはお前だろうが」
「そうね……は? まさか映画見に行くって……」
「お前と見に行くに決まってんだろうが。ったく、何ボケたこと抜かしてんだよ」
そこまで考え少し腹を立てていると都築がものすごく不機嫌そうにそう言ってきた。
だから思わず呆けたような声を出してしまった後に一度後悔しながらでも、と抗議の声を上げる。
映画見に行くなんて聞いてないんだから、分かるわけないじゃないの。それにわたしはあんたと別に街を歩くことだってなかったんだから普通予想が立てられないわよ。
元々、休みの日も平日の放課後もずっと歌の練習ばっかりしてたんだし。
映画だってりっちゃんと行こうと思ってたぐらいだし。あまりにも理不尽な言われように腹を立てていると、奴はまた大きく溜息をついてから軽く顔を背けて言った。
きっと、恥ずかしかったんだろう。
「たまには、恋人らしいことしてもバチは当たらないだろ」
背けた横顔が、耳まで赤かったのを見てしまいわたしは思わず声を上げて笑ってしまった。
その瞬間笑われてカチンと来たのか都築がわたしの額を押さえて、その横顔を見せないようにする。
でも可笑しいものは可笑しいんだから仕方がない……わたしはそのまま、お腹を抱えて笑っていた。
そして笑いながら、わたしの額を押さえる都築の手にそっと触れてありがとうと呟いた。
その言葉に驚いたのか、額から手が離れわたしはそれでようやく真正面から都築を見る。
「ありがとう」
だから、今度は真正面からきちんとお礼を言った。すると奴が顔を背けながら「さっさと着替えろ。もう行くぞ」と言ったので、また笑いを噛み殺しながら立ち上がる。そしてドアを開けて部屋を出て行く奴の背を見送って、わたしはカーディガンを元あった場所へと戻した。
それから服を脱ぎ、新しい服の袖に腕を通しながら思う。
恋人なんて響きに、実感なんて湧かないけど。でもこうしてたまに奴とどこかに出かけたりすることができるのなら、その響きもいつか実感に変わるのかもしれない。
……まぁ、恋人ってそうやって休日にはデートしたりするのが普通らしいんだけどね。
もしかして、あいつも休日は皆みたいに過ごしたいと思ってたのかな?
そう考えると悪い気がして、同時にとても滑稽に思えてきてわたしはまた小さく笑いながらドアの外で待つ奴のために急いで準備をした。新一粒神
2012年8月3日星期五
2012年8月1日星期三
恐れるということ
目を覚ましてまず真っ先に思い浮かべたのはあの中学生のこと。
あの子は今頃どうしてるんだろうか。
お母さんと、ちゃんと話ができたんだろうか。
暑苦しい蝉の声に目を開けて部屋を出ると、お父さんとお母さんが話しているのが聞こえてきた。強力催眠謎幻水
あぁ、どうやら久しぶりにお父さんがいるらしい。別に頻繁に出張に行っているわけでもなんでもないが、時間が合わないからつい久しぶりに感じてしまう。少し軋む廊下を歩き声のする方に歩いていくと途中でお兄ちゃんと鉢合わせる。
「起きたんか」
「うん。それより……って何、どうしたんあれ」
眠いのか、あくびをしながら声を掛けてくるお兄ちゃんにそう答えていると突然両親の声が大きくなる。
喧嘩でも始まったのかその声はひどく荒い。
あまり広いとは言えない家の中を一瞬揺らした声がどういう理由で発されたのかはよく聞こえなかった。数日経つだけで大分慣れたのか徐々に方言の出始めたあたしの言葉にお兄ちゃんは少し首を傾げ、しかしすぐに「あぁ」と声を漏らす。どうやらお兄ちゃんには理由が分かっているらしい。
ちょいちょいと手招きされ、不思議に思いながらもついていく。
なるべく音を立てないようにそぅっと二人で廊下を進み、二人の寝室へと向かう。近付けば近付くほどに喧嘩腰の声が聞こえてくるが、肝心の何を話しているのかはあまりの声の荒さに聞こえない。一体何をそんなに興奮して話す必要があるんだろう。そんなことを考え、ふと昨日の中学生のことを思い出した。彼女は自分には父親がいないと話していた。自分が小さい頃に離婚したからだと。それは一体どういう状況なんだろう。
こんな風に毎日喧嘩をしている声が聞こえて、それが日増しに強くなるのが感じられてそして一人いなくなって――そんな感じなんだろうか。彼女は覚えていないとは思うけど。
耳朶を打つ両親の――主にお母さんの――声に心が震える。
いつも二人が喧嘩しているのを見ても何とも思わなかったのに、この時ばかりは怖く感じられた。
さぁっと冷えた思考に足を止めると前を歩くお兄ちゃんも数歩先で立ち止まる。
「明日香?」
囁く声が聞こえたけど、それでも足を前に進めることができない。きっと他愛もないことで喧嘩してるんだ、だから大したことじゃない――そう心の中で何度も繰り返す。あまりにも日常的過ぎてどうでもよくなっていたはずなのに、久しぶりに帰省したせいもあってひどく強く耳朶を打つ。
……このまま離婚したらどうしよう。
さすがにそんなことはないだろうと思ったけど、でも今じゃないいつかにそうなる可能性がないだなんて誰に言えるんだろうか。
お兄ちゃんはとっくに成人してるしあたしだってもうじき成人する。
そうすればきっと二人はあたし達のことを気にしない分お互い好きなように生きていける。
熟年離婚っていう言葉も流行ってるぐらいだし……。
そうして今まで気にもしなかったことを突然気にしだしたせいで、足裏が廊下にくっついて離れない。ぎゅっと握りしめた手に、額に、汗が浮かぶ。冷房の恩寵を受けられない廊下にずっと立っているんだから、そんなの当たり前なんだけど。暑さにくらくらしそうになりながら、前にも後ろにも進めなくなっていると握りしめた手に少し堅い指先が触れる。
「?」
顔を上げると、お兄ちゃんがすぐ傍まで来てあたしの手に触れていた。
力を入れていた拳を解くように一本一本やんわりと爪先の食い込んだ手の平から指を取っていく。その間にもあたし達のことに気付いていない両親が喧嘩してたけど、お兄ちゃんはそんなことどうでもいいんだとでも言うようにただ静かにあたしの手を取る。そうしてまた指先に力を入れようとしたあたしの手に自分の指を滑り込ませて優しく握りしめる。
怒っているでもなく馬鹿にするでもなく少し困ったような顔で、お兄ちゃんが小さく笑う。
「ほら、怪我しとろうが」
「……え」
言われ、自分の手の平に視線を落とすと小さく朱が見えてそこで初めて自分が怪我をしてることに気がついた。力を入れすぎていたとはいえそこまでだったのか。驚いて手を離そうとすると、強く握りしめられる。それでも血が出ている部分には触れないようにしてくれている辺り、お兄ちゃんらしいというか何というか。
くい、と引かれて足が一歩前に進む。
「うわっ」
「行くで」
前につんのめりながら声を漏らすと、苦笑混じりの声が降る。
そして空いた方の手で口元に人差し指を当て静かにするようにとサインをしてから、いたずらっぽく笑って静かに前に進むお兄ちゃんに続いてあたしも静かに静かに歩を進める。
お兄ちゃんはあたしがどうして前に進めなかったのかを知っているのかいないのか、あくまでマイペースに進む。ただ分かるのは時折触れる腕が汗で濡れて冷えていること、それなのに暑いからと言って急かすことをしなかったこと。そしてあたしがこれ以上手の平を傷つけないようにこうしてこの手を握ってくれているのだということぐらいだった。
別に寡黙な人というわけじゃない。
喋る時は本当にうるさいぐらいに喋るしむしろ黙っていることの方が珍しい気がする。
でもこういう時にお兄ちゃんは絶対何も言わないのだ。何も言わずに、ただこうして手を引いてくれる。
何も知らないという風に、ただいたずらっぽく笑いながら。
そんな横顔を見るといつも何もかもお見通しか、という気分になるけど兄妹なんだからそれも悪くないと思った。両親の部屋の前に立ったあたし達は、ドアに頬をくっつけて二人が何を喧嘩しているのか聞いてみる。ひんやりとした感触が片頬に当たると同時に至近距離で同じことをしているお兄ちゃんは、すでに何かが聞こえたのか呆れたような顔をした。
「またくだらんことで喧嘩しよってからに……」
溜息混じりに声に一体何を話してるんだろうと思い、目を閉じて部屋の中の声を聞くことに集中するとようやく二人が何を言っているのかが聞こえてきた。
「じゃけぇ伊豆がいいって言っとるじゃろ!?」
「いーや、沖縄に決まっとろうが!」
……はい?
思わずずっこけそうになり、必死に体勢を整えていると避暑地に行くかこの際とことん海で遊ぶかというどうでもいい話ばかりが耳に入る。興奮しすぎていて滑舌が悪くなっているのかこうして耳を澄ましていないと何を言っているのかさっぱりだけど、別に聞こえたからといってどういうこともない話だったから少しだけ後悔した。あたしの心配を返してくれ。
どこの誰だ、二人が離婚したらどうしようとか熟年離婚が流行ってるとか考えたのは。何だかもう疲れきってしまい、流れ出る汗を拭いながらこの中に殴りこもうと思っていたら墨みたいに黒いお兄ちゃんの髪がゆらゆら揺れた。
どうやらお兄ちゃんも疲れたらしい。
軽く頭を振り「あほらしい」と言いながらあたしを自分の背後に立たせドアノブを捻る。
そうして一センチほどドアを開けてから、今度は手を離し――足で蹴り開けた。
さすがに無理矢理蹴破るなんてことはお母さんに殺されるからやめたんだろう。一応冷静ではあるらしい。
「朝っぱらからがたがたぬかすな、そんなに行きたきゃ二つとも行けばええじゃろうが」
だけどきっと一般家庭の皆様が見たら、この状況は冷静でも何でもないかもしれない。ひんやりとした、でもだからこそ怒ってるんだなと思わせられるお兄ちゃんの声を聞きながら背後に立っててよかったと心から思った。今のお兄ちゃんの顔を見るのは妹のあたしでも怖い。大体ただでさえがたいがいいんだから、後姿だけでも迫力があるのだ。
ばんっ! とドアが壁にぶつかり、異常な速さで跳ね返ってくる。
でもお兄ちゃんはそれすら足で止め、今度は軽く開けてから中へと入ろうとして。
「明日香」
「は、はいっ!?」
「お前今日バイトじゃろ。支度して早く行かんと」VIVID
「あ、そうだった! うん、今行くすぐ行く早く行く!」
突然こちらを振り返ったから思わずびくりと飛び跳ねそうになった。
こちらを見るお兄ちゃんの顔は怖いぐらい爽やかな笑顔で、あたしはどことなくおかしな返事をしながらすぐに背を向けて二階へと駆け上がった。廊下にずっといたせいで汗だくだったけど、シャワーを浴びている時間なんてない。きっとすぐにでもお兄ちゃんの怒号が飛ぶことになるんだろうから。だからあたしは階段を踏み抜く勢いで駆け上がり、簡単に髪をとかして服を着替えてから携帯も持たずに家を出た。
玄関の引き戸を閉めた瞬間、背後からすごい音が聞こえた気がしたけど――気のせいだと心の中で言い聞かせて。
「――なんてことがさっきありまして」
「明日香ちゃんの家は朝から過激だねー……」
そうして国道を目指し歩いて、鉄筋コンクリート二階建ての魔法堂に着くなりあたしは掃除道具を取り出して芹沢さんを顎でこき使いながら先ほどの話をしていた。ちなみにあたしは動かずに椅子に腰掛けている。当然だ、これはこの前あたしを働かせた罰なんだから。
「久しぶりの実家のテンションに付いていけませんけどね――あ、そこの棚まだ埃残ってますよ」
「あぁ、はいはーい……でも賑やかで楽しそうだね」
柔らかな布で店中の商品から埃を取り除く作業をしている芹沢さんは、きらきらと埃が舞うたびにあたしにそう指示されながら優しく商品から埃を取り除く。窓を開け放しているせいで冷房が付けられないからその姿はひどく暑そうだったけど、それでも文句を言わない辺り根性あるのかもしれない。
時折手首で額の汗を拭っている芹沢さんに、少しばかりの同情心でタオルを渡す。
するとあの甘やかな色をしたチョコレート色の瞳が嬉しそうに細められた。
同時に無機質なはずの眼鏡も甘く光ったように見えたのは光の具合の問題だろうか。
「ありがとう」
「どういたしまして。それにしても……離婚するかもしれないって心配して損しました」
もう一度椅子に腰掛けぼやくようにそう言うと、芹沢さんが手を止めて小さく笑う。
それは馬鹿にしたようなじゃなくてどことなく大人びた――実際大人なんだけど――笑みで、あたしはその表情に目を釘付けにしながら「何ですか」と返す。その声が芹沢さんの表情と対になるように子供っぽかったのが悔しいけど仕方がない、この人の方が何だかんだで人生経験豊富なはずだ。
咎めるような言葉に芹沢さんは「いや」ともう一度笑ってから。
「明日香ちゃんは強い子だね」
そう言った。
「? どういう意味ですか」
「言葉通りの意味だけど?」
そんなこと言われてもわけが分からない。
大体どうして離婚の心配をしたら強いに繋がるんだ。
さすがマイペースなだけある……と言うべきなんだろうか。
再び手を動かし始めた芹沢さんは、鼻歌混じりに埃を取り除いていく。
暑さなんて何のその、といった感じの上機嫌で。
光に照らされながらぴかぴかになっていくアンティークに一人満足したあたしは、綺麗になったと分かった商品の辺りのカーテンと窓を閉めた。さすがに真夏の太陽に晒されるのは保存状態によくない。
冷房も付いていないのに窓を閉めるのは心底嫌だったけどこればっかりは仕方ない。
だからあたしはまだ閉めていない窓の傍に立ち、そよそよと入り込む温い風だけで我慢した。じっとりとした肌の感触が気持ち悪くても文句は言えないし、第一今帰るのは怖かった。日焼けしないように長袖のシャツを着込んだのは間違いだった……はぁ。そう考え内心で溜息をついていると、あたしとは逆に半袖のシャツを着ている芹沢さんがタオルで汗を拭いながら唐突に「あの子」と言う。
「お母さんと話できたかなー」
「さぁ。でも、できたんじゃないですか? 魔イテムがあるんですから」
眼鏡にも汗がついたんだろうか、そっと眼鏡を取り軽くタオルで拭いてからケースに仕舞った芹沢さんはあたしの答えに「そっか……そうだよね」と嬉しそうに笑った。先ほどの大人びた表情から一変して子供っぽい無邪気な笑みを浮かべた芹沢さんは、柔らかな声で続ける。
「どんなに当たり前にあるものもどんなに大事なものも、絶対なくならないなんて保証はないんだよ」
「?」
「でもそれを知らないから誰も気にしない。だから当たり前だって信じてるし、知っていても知らないふりをし続ける」
何を突然。
芹沢さんの言葉に内心で首を傾げながらも、何となく今話したばかりのあの子のことが頭に浮かんできて何も言えなかった。あの子は自分が記憶している限りでは何も失ってはいないけど、でもあの子の話を聞いたあたしは――。
……あぁ、そうか。
棚にもたれかかり、口の端を緩やかに上げて微笑む芹沢さんを見て納得する。
あたしは温い風に背を向けて、ふわりと髪の間をすり抜け頭皮に触れた風の気持ちよさに目を細めてから続きを待つ。
すると芹沢さんもそんなあたしの様子に気付いたのか、笑みを深めて続けた。
「だから当たり前のものが壊れるかもしれないって恐れることができる子は強いんだと思うよ。失いたくないと思えば思うほど、当たり前の中でも一生懸命に生きれるから」
「芹沢さんも、そうやって怖がったことあるんですか?」
「もちろんあるよー。なくしてからだけどね」
だから強いって言葉に繋がったのか。
そう納得しつつも問うと、芹沢さんは屈託なく笑いながらそう答えた。
それはとても朗らかで痛みなんてまるで感じさせない声だったけど、はっとなり顔を上げる。
あたしの髪を揺らす風が芹沢さんのキャラメル色の髪も揺らす。
そうして細くて柔らかそうな髪が一房風に揺られて芹沢さんの表情を隠した。だからどんな顔をしていたかは分からなかったけど、あたしは何か言わなきゃと必死になって頭を捻って。ぎゅっと手を握りしめた時、鋭い痛みが走って自分が怪我をしたままであることに今更ながらに気がついて、そしてこの手が傷つかないように自分の手で庇ってくれたおにいちゃんを思い出して。
「ならこれからは、当たり前なものも大事なものも守れますね」
結局そんなことしか言えなかった。
どんなに嘆いたって足掻いたってそんなものいつかはなくなるかもしれないけど、少なくともつまらない理由で自分から手放すなんてことはしなくなるはずだ。
あたしが今日両親に対して恐れを抱いたように。
あの中学生が、自分のせいで母親が大事なものを失いかけていると恐れたように。芹沢さんの言葉が正しいのなら多分そういうことなんだと思ったから、あたしは握りしめた手の力を緩めて表情のよく見えない芹沢さんに視線を向けた。すると芹沢さんはあたしの言葉に少しだけ目を丸くして、それから泣き出しそうな顔で「そうだねー」とわざとらしいぐらいに間延びした声で答える。それはその表情の裏で何を思っているのか隠すためだったのかもしれないけど、それには触れないでおいた。
くるりと外を向き、窓とカーテンを閉めそれからすぐに冷房をつける。
ピッと電子音を響かせて次の瞬間から猛烈な勢いで店内を涼しくしようと稼動し始めた冷房に視線を向け、手近な椅子を引き寄せて座り込む。やっぱり夏の日差しはきつい……少し立っていただけでくらくらした。ぼんやりとそう思い、もう一度芹沢さんに視線を向けると彼はやっぱりまだ泣きそうな顔のままで。あたしは何て言ったらいいのか分からないまま一度息をつき、芹沢さんが何か言うまで待つことにした。きっと、今何かを言ったところで何の効力もない気がしたから。
そうして頬や髪を撫でる風が、外のそれよりもずっと冷たさを増した頃。
「明日香ちゃんは」
「何ですか?」
「明日香ちゃんは、昨日来たお客さんとの接客で何か思うことはあった?」
唐突にそう問われて、あたしは即答で。
「さっき話したこと、そのまんまですよ。生まれて初めて親が離婚するかどうかってことを心配しました」
まるで答えを用意していたかのようにそう答える。
そうだ、第一この店に無理矢理バイトとして雇われなければ昨日あの子と話すことなんてなかったし、こんな想いを持つこともなかった。そう考えるとこの人に感謝すべきなのかもしれないと思った――この想いが果たしていいものか悪いものかは分からないけど。
答えたあたしに芹沢さんが「そっか」と呟き頷く。
「よかった」
そして次の瞬間いつもの呑気な笑みで朗らかにそう言った芹沢さんは、まるで今までの自分をなかったものにしようとするかのごとく「あ、そうだ!」と勢いよく奥へと消えていった。
「……何、あれ」
それがあまりに唐突の行動だったから、あたしは思わずそう呟いて奥へと視線を向ける。
すると階段を上がる音が聞こえて、次に何やらどさどさダンボールを床に下ろす音が聞こえた。
何か探してるんだろうか?
不審に思うものの行ったらまた乱雑な光景を見て掃除したくなるのが分かっていたからやめた。
それにしても……。何やら騒がしい天井を見上げながら、はぁと息をつく。蔵八宝
芹沢さん、大丈夫なんだろうか。普段通りのマイペースぶりだけど、それでもさっきの泣きそうな顔が気になってあたしは窓枠に頬杖をついて考え込む。かといって、つい数日前に知り合ったばかりのあたしに何ができるかと訊かれたら答えは「何もない」になることだろう。
あんなペテン師に対して何かしたいと思うのは色々間違っている気がしたけど、相手が誰であれ泣きそうな人を放っておくのは人としていかがなものかと思って自分を納得させた。
そうやってうだうだ考えていると、とんとんと芹沢さんが階段を降りてくる音が聞こえてきてあたしはなぜか姿勢を正す。すでに店内はひんやりと冷えきっており、芹沢さんは一瞬とても寒そうに身震いしてから「ほら」と何やら大きな袋を差し出してきた。
「? 何ですか、これ」
「花火だよー。線香花火から打ち上げ花火まで何でもござれさ」
言われ、がさがさと音をさせながら中を覗き込むと……なるほど、確かにすごい種類の花火だった。ねずみ花火のような小さなものから打ち上げ花火のような大きなものまでたくさんの花火が入っていた。……でも何で花火?
「夏といえば花火でしょ」
「いや、そうですけど」
「だからご家族でどうぞー。たくさんあるから困ってたんだよねー、これ」
……はぁ、どうも。
手渡された袋はどさりと重くて、思わず前のめりになる。
すると芹沢さんが慌てた様子で支えてくれた。どうやら重いとは思わなかったらしい。
「うわわ、ごめん」
「……持って帰れるのか不安なんですけど」
まだバイトを終えるには早い時間だし、今から心配することじゃないんだけど。
でもどの道携帯持って来てないからお兄ちゃんを呼ぶこともできないし、これあたし一人で持って帰るのか……。
げんなりとした気持ちで呟くと芹沢さんが「それなら僕が運ぶから大丈夫」と言ってくれた。
かさりと音を響かせながら袋を持ってくれた芹沢さんはそれを適当な場所に置いて腰掛ける。そうして店内を見渡してから「綺麗になったね」と笑った。そこにはさっきまでの悲しそうな影なんてまったく見えなかったけど、何せこの人はペテン師だから何が本当なのかも分からない。一応嘘をつくのは一回だけって言ってたけどそれが今じゃないとも言えないし。
肌に張りついたシャツをつまみ、ぱたぱたと乾かすように揺らす。
すると微かに汗の匂いがして早くお風呂に入りたい衝動に駆られた。
いくら冷房が効いていてもすでに付着した汗ばかりはどうしようもできないのが問題だ。
そんな風に思いながら芹沢さんの横顔を見つめ、その表情が本物か嘘か判断することに時間を費やした。
そして。
「今日はありがとー」
「……いえ。結局お客さん来ませんでしたし」
「結構暇なんだよ。来る時はそれなりに来るんだけどね」
日が傾いて少し経った頃、あたしは芹沢さんと家の前に立っていた。
結局あれだけ時間を費やしたにも関わらず芹沢さんの表情が本物か嘘か判断つけることができないまま、バイトの時間を終えてしまったのだ。何てもったいない時間だったんだろう……何だか悲しくなってきた。
……まぁ、あれだけ頑張っても分からなかったんだから気にしなくてもいいか。
それにあたしに何ができるとも思えない。
結果的にそういう考えに行きついてあたしはそれ以上気にすることなく頭を下げる。
「荷物持ち、ありがとうございました」
「え? いやいや、いいよー。僕があげたくてあげたんだから」
そうして大量の花火が詰まった荷物を受け取り、今度は体勢を崩さないようにしっかり立つ。
少しふらついたけど、玄関まですぐだから問題ないだろう。
あたしの言葉に照れ笑いを浮かべてそう答えた芹沢さんは「それじゃ」と言って一歩後ろに下がる。
そして背中を向ける寸前、口の端を浮かべた横顔で。
「皆仲直りできるといいね」
それは夕日の効果を差し引いてもなお、おつりが来るぐらいに綺麗な笑顔だった。あの人の持つ甘い色ですら霞んでしまうような笑顔と、そして響いた声があまりに滑らかで綺麗だったからあたしは思わずその姿に見惚れて、でも次の瞬間玄関の引き戸が開く音がして振り返る。するとその隙をつくようにして芹沢さんの姿が遠くに行ってしまい、そこでようやく無意識に袋を落として手を伸ばしかけていた自分に気付いた。
「明日香? 誰かおったんか?」
「え? い、いや誰も」
あたしは一体何をしようとしてたんだろうか。
それすらもう遠くにかき消えてしまい、どこか呆然としたままあたしは家から出てきたお兄ちゃんに答えた。
そして慌てて袋を掴み、軽く土を掃ってから「それより!」とお兄ちゃんに手渡す。
せっかくもらったものなんだから、使わないともったいない。
それに芹沢さんのせっかくの善意を無駄にするのはどうかと思ったから、あたしはさっきの芹沢さんの表情を頭の隅に追いやって不思議そうな顔のお兄ちゃんに向けてわざとらしいぐらい明るく言ってみせた。
「花火。芹沢さんにもらったから皆でやろう!」
そうだ、せっかく実家に帰ってきたんだから皆で楽しく過ごしたい。
それは嘘じゃないし実際そうできたらいいなと思う。
でもどうしてだろうか――さっきの芹沢さんの横顔と声が頭から離れない。新一粒神
あの子は今頃どうしてるんだろうか。
お母さんと、ちゃんと話ができたんだろうか。
暑苦しい蝉の声に目を開けて部屋を出ると、お父さんとお母さんが話しているのが聞こえてきた。強力催眠謎幻水
あぁ、どうやら久しぶりにお父さんがいるらしい。別に頻繁に出張に行っているわけでもなんでもないが、時間が合わないからつい久しぶりに感じてしまう。少し軋む廊下を歩き声のする方に歩いていくと途中でお兄ちゃんと鉢合わせる。
「起きたんか」
「うん。それより……って何、どうしたんあれ」
眠いのか、あくびをしながら声を掛けてくるお兄ちゃんにそう答えていると突然両親の声が大きくなる。
喧嘩でも始まったのかその声はひどく荒い。
あまり広いとは言えない家の中を一瞬揺らした声がどういう理由で発されたのかはよく聞こえなかった。数日経つだけで大分慣れたのか徐々に方言の出始めたあたしの言葉にお兄ちゃんは少し首を傾げ、しかしすぐに「あぁ」と声を漏らす。どうやらお兄ちゃんには理由が分かっているらしい。
ちょいちょいと手招きされ、不思議に思いながらもついていく。
なるべく音を立てないようにそぅっと二人で廊下を進み、二人の寝室へと向かう。近付けば近付くほどに喧嘩腰の声が聞こえてくるが、肝心の何を話しているのかはあまりの声の荒さに聞こえない。一体何をそんなに興奮して話す必要があるんだろう。そんなことを考え、ふと昨日の中学生のことを思い出した。彼女は自分には父親がいないと話していた。自分が小さい頃に離婚したからだと。それは一体どういう状況なんだろう。
こんな風に毎日喧嘩をしている声が聞こえて、それが日増しに強くなるのが感じられてそして一人いなくなって――そんな感じなんだろうか。彼女は覚えていないとは思うけど。
耳朶を打つ両親の――主にお母さんの――声に心が震える。
いつも二人が喧嘩しているのを見ても何とも思わなかったのに、この時ばかりは怖く感じられた。
さぁっと冷えた思考に足を止めると前を歩くお兄ちゃんも数歩先で立ち止まる。
「明日香?」
囁く声が聞こえたけど、それでも足を前に進めることができない。きっと他愛もないことで喧嘩してるんだ、だから大したことじゃない――そう心の中で何度も繰り返す。あまりにも日常的過ぎてどうでもよくなっていたはずなのに、久しぶりに帰省したせいもあってひどく強く耳朶を打つ。
……このまま離婚したらどうしよう。
さすがにそんなことはないだろうと思ったけど、でも今じゃないいつかにそうなる可能性がないだなんて誰に言えるんだろうか。
お兄ちゃんはとっくに成人してるしあたしだってもうじき成人する。
そうすればきっと二人はあたし達のことを気にしない分お互い好きなように生きていける。
熟年離婚っていう言葉も流行ってるぐらいだし……。
そうして今まで気にもしなかったことを突然気にしだしたせいで、足裏が廊下にくっついて離れない。ぎゅっと握りしめた手に、額に、汗が浮かぶ。冷房の恩寵を受けられない廊下にずっと立っているんだから、そんなの当たり前なんだけど。暑さにくらくらしそうになりながら、前にも後ろにも進めなくなっていると握りしめた手に少し堅い指先が触れる。
「?」
顔を上げると、お兄ちゃんがすぐ傍まで来てあたしの手に触れていた。
力を入れていた拳を解くように一本一本やんわりと爪先の食い込んだ手の平から指を取っていく。その間にもあたし達のことに気付いていない両親が喧嘩してたけど、お兄ちゃんはそんなことどうでもいいんだとでも言うようにただ静かにあたしの手を取る。そうしてまた指先に力を入れようとしたあたしの手に自分の指を滑り込ませて優しく握りしめる。
怒っているでもなく馬鹿にするでもなく少し困ったような顔で、お兄ちゃんが小さく笑う。
「ほら、怪我しとろうが」
「……え」
言われ、自分の手の平に視線を落とすと小さく朱が見えてそこで初めて自分が怪我をしてることに気がついた。力を入れすぎていたとはいえそこまでだったのか。驚いて手を離そうとすると、強く握りしめられる。それでも血が出ている部分には触れないようにしてくれている辺り、お兄ちゃんらしいというか何というか。
くい、と引かれて足が一歩前に進む。
「うわっ」
「行くで」
前につんのめりながら声を漏らすと、苦笑混じりの声が降る。
そして空いた方の手で口元に人差し指を当て静かにするようにとサインをしてから、いたずらっぽく笑って静かに前に進むお兄ちゃんに続いてあたしも静かに静かに歩を進める。
お兄ちゃんはあたしがどうして前に進めなかったのかを知っているのかいないのか、あくまでマイペースに進む。ただ分かるのは時折触れる腕が汗で濡れて冷えていること、それなのに暑いからと言って急かすことをしなかったこと。そしてあたしがこれ以上手の平を傷つけないようにこうしてこの手を握ってくれているのだということぐらいだった。
別に寡黙な人というわけじゃない。
喋る時は本当にうるさいぐらいに喋るしむしろ黙っていることの方が珍しい気がする。
でもこういう時にお兄ちゃんは絶対何も言わないのだ。何も言わずに、ただこうして手を引いてくれる。
何も知らないという風に、ただいたずらっぽく笑いながら。
そんな横顔を見るといつも何もかもお見通しか、という気分になるけど兄妹なんだからそれも悪くないと思った。両親の部屋の前に立ったあたし達は、ドアに頬をくっつけて二人が何を喧嘩しているのか聞いてみる。ひんやりとした感触が片頬に当たると同時に至近距離で同じことをしているお兄ちゃんは、すでに何かが聞こえたのか呆れたような顔をした。
「またくだらんことで喧嘩しよってからに……」
溜息混じりに声に一体何を話してるんだろうと思い、目を閉じて部屋の中の声を聞くことに集中するとようやく二人が何を言っているのかが聞こえてきた。
「じゃけぇ伊豆がいいって言っとるじゃろ!?」
「いーや、沖縄に決まっとろうが!」
……はい?
思わずずっこけそうになり、必死に体勢を整えていると避暑地に行くかこの際とことん海で遊ぶかというどうでもいい話ばかりが耳に入る。興奮しすぎていて滑舌が悪くなっているのかこうして耳を澄ましていないと何を言っているのかさっぱりだけど、別に聞こえたからといってどういうこともない話だったから少しだけ後悔した。あたしの心配を返してくれ。
どこの誰だ、二人が離婚したらどうしようとか熟年離婚が流行ってるとか考えたのは。何だかもう疲れきってしまい、流れ出る汗を拭いながらこの中に殴りこもうと思っていたら墨みたいに黒いお兄ちゃんの髪がゆらゆら揺れた。
どうやらお兄ちゃんも疲れたらしい。
軽く頭を振り「あほらしい」と言いながらあたしを自分の背後に立たせドアノブを捻る。
そうして一センチほどドアを開けてから、今度は手を離し――足で蹴り開けた。
さすがに無理矢理蹴破るなんてことはお母さんに殺されるからやめたんだろう。一応冷静ではあるらしい。
「朝っぱらからがたがたぬかすな、そんなに行きたきゃ二つとも行けばええじゃろうが」
だけどきっと一般家庭の皆様が見たら、この状況は冷静でも何でもないかもしれない。ひんやりとした、でもだからこそ怒ってるんだなと思わせられるお兄ちゃんの声を聞きながら背後に立っててよかったと心から思った。今のお兄ちゃんの顔を見るのは妹のあたしでも怖い。大体ただでさえがたいがいいんだから、後姿だけでも迫力があるのだ。
ばんっ! とドアが壁にぶつかり、異常な速さで跳ね返ってくる。
でもお兄ちゃんはそれすら足で止め、今度は軽く開けてから中へと入ろうとして。
「明日香」
「は、はいっ!?」
「お前今日バイトじゃろ。支度して早く行かんと」VIVID
「あ、そうだった! うん、今行くすぐ行く早く行く!」
突然こちらを振り返ったから思わずびくりと飛び跳ねそうになった。
こちらを見るお兄ちゃんの顔は怖いぐらい爽やかな笑顔で、あたしはどことなくおかしな返事をしながらすぐに背を向けて二階へと駆け上がった。廊下にずっといたせいで汗だくだったけど、シャワーを浴びている時間なんてない。きっとすぐにでもお兄ちゃんの怒号が飛ぶことになるんだろうから。だからあたしは階段を踏み抜く勢いで駆け上がり、簡単に髪をとかして服を着替えてから携帯も持たずに家を出た。
玄関の引き戸を閉めた瞬間、背後からすごい音が聞こえた気がしたけど――気のせいだと心の中で言い聞かせて。
「――なんてことがさっきありまして」
「明日香ちゃんの家は朝から過激だねー……」
そうして国道を目指し歩いて、鉄筋コンクリート二階建ての魔法堂に着くなりあたしは掃除道具を取り出して芹沢さんを顎でこき使いながら先ほどの話をしていた。ちなみにあたしは動かずに椅子に腰掛けている。当然だ、これはこの前あたしを働かせた罰なんだから。
「久しぶりの実家のテンションに付いていけませんけどね――あ、そこの棚まだ埃残ってますよ」
「あぁ、はいはーい……でも賑やかで楽しそうだね」
柔らかな布で店中の商品から埃を取り除く作業をしている芹沢さんは、きらきらと埃が舞うたびにあたしにそう指示されながら優しく商品から埃を取り除く。窓を開け放しているせいで冷房が付けられないからその姿はひどく暑そうだったけど、それでも文句を言わない辺り根性あるのかもしれない。
時折手首で額の汗を拭っている芹沢さんに、少しばかりの同情心でタオルを渡す。
するとあの甘やかな色をしたチョコレート色の瞳が嬉しそうに細められた。
同時に無機質なはずの眼鏡も甘く光ったように見えたのは光の具合の問題だろうか。
「ありがとう」
「どういたしまして。それにしても……離婚するかもしれないって心配して損しました」
もう一度椅子に腰掛けぼやくようにそう言うと、芹沢さんが手を止めて小さく笑う。
それは馬鹿にしたようなじゃなくてどことなく大人びた――実際大人なんだけど――笑みで、あたしはその表情に目を釘付けにしながら「何ですか」と返す。その声が芹沢さんの表情と対になるように子供っぽかったのが悔しいけど仕方がない、この人の方が何だかんだで人生経験豊富なはずだ。
咎めるような言葉に芹沢さんは「いや」ともう一度笑ってから。
「明日香ちゃんは強い子だね」
そう言った。
「? どういう意味ですか」
「言葉通りの意味だけど?」
そんなこと言われてもわけが分からない。
大体どうして離婚の心配をしたら強いに繋がるんだ。
さすがマイペースなだけある……と言うべきなんだろうか。
再び手を動かし始めた芹沢さんは、鼻歌混じりに埃を取り除いていく。
暑さなんて何のその、といった感じの上機嫌で。
光に照らされながらぴかぴかになっていくアンティークに一人満足したあたしは、綺麗になったと分かった商品の辺りのカーテンと窓を閉めた。さすがに真夏の太陽に晒されるのは保存状態によくない。
冷房も付いていないのに窓を閉めるのは心底嫌だったけどこればっかりは仕方ない。
だからあたしはまだ閉めていない窓の傍に立ち、そよそよと入り込む温い風だけで我慢した。じっとりとした肌の感触が気持ち悪くても文句は言えないし、第一今帰るのは怖かった。日焼けしないように長袖のシャツを着込んだのは間違いだった……はぁ。そう考え内心で溜息をついていると、あたしとは逆に半袖のシャツを着ている芹沢さんがタオルで汗を拭いながら唐突に「あの子」と言う。
「お母さんと話できたかなー」
「さぁ。でも、できたんじゃないですか? 魔イテムがあるんですから」
眼鏡にも汗がついたんだろうか、そっと眼鏡を取り軽くタオルで拭いてからケースに仕舞った芹沢さんはあたしの答えに「そっか……そうだよね」と嬉しそうに笑った。先ほどの大人びた表情から一変して子供っぽい無邪気な笑みを浮かべた芹沢さんは、柔らかな声で続ける。
「どんなに当たり前にあるものもどんなに大事なものも、絶対なくならないなんて保証はないんだよ」
「?」
「でもそれを知らないから誰も気にしない。だから当たり前だって信じてるし、知っていても知らないふりをし続ける」
何を突然。
芹沢さんの言葉に内心で首を傾げながらも、何となく今話したばかりのあの子のことが頭に浮かんできて何も言えなかった。あの子は自分が記憶している限りでは何も失ってはいないけど、でもあの子の話を聞いたあたしは――。
……あぁ、そうか。
棚にもたれかかり、口の端を緩やかに上げて微笑む芹沢さんを見て納得する。
あたしは温い風に背を向けて、ふわりと髪の間をすり抜け頭皮に触れた風の気持ちよさに目を細めてから続きを待つ。
すると芹沢さんもそんなあたしの様子に気付いたのか、笑みを深めて続けた。
「だから当たり前のものが壊れるかもしれないって恐れることができる子は強いんだと思うよ。失いたくないと思えば思うほど、当たり前の中でも一生懸命に生きれるから」
「芹沢さんも、そうやって怖がったことあるんですか?」
「もちろんあるよー。なくしてからだけどね」
だから強いって言葉に繋がったのか。
そう納得しつつも問うと、芹沢さんは屈託なく笑いながらそう答えた。
それはとても朗らかで痛みなんてまるで感じさせない声だったけど、はっとなり顔を上げる。
あたしの髪を揺らす風が芹沢さんのキャラメル色の髪も揺らす。
そうして細くて柔らかそうな髪が一房風に揺られて芹沢さんの表情を隠した。だからどんな顔をしていたかは分からなかったけど、あたしは何か言わなきゃと必死になって頭を捻って。ぎゅっと手を握りしめた時、鋭い痛みが走って自分が怪我をしたままであることに今更ながらに気がついて、そしてこの手が傷つかないように自分の手で庇ってくれたおにいちゃんを思い出して。
「ならこれからは、当たり前なものも大事なものも守れますね」
結局そんなことしか言えなかった。
どんなに嘆いたって足掻いたってそんなものいつかはなくなるかもしれないけど、少なくともつまらない理由で自分から手放すなんてことはしなくなるはずだ。
あたしが今日両親に対して恐れを抱いたように。
あの中学生が、自分のせいで母親が大事なものを失いかけていると恐れたように。芹沢さんの言葉が正しいのなら多分そういうことなんだと思ったから、あたしは握りしめた手の力を緩めて表情のよく見えない芹沢さんに視線を向けた。すると芹沢さんはあたしの言葉に少しだけ目を丸くして、それから泣き出しそうな顔で「そうだねー」とわざとらしいぐらいに間延びした声で答える。それはその表情の裏で何を思っているのか隠すためだったのかもしれないけど、それには触れないでおいた。
くるりと外を向き、窓とカーテンを閉めそれからすぐに冷房をつける。
ピッと電子音を響かせて次の瞬間から猛烈な勢いで店内を涼しくしようと稼動し始めた冷房に視線を向け、手近な椅子を引き寄せて座り込む。やっぱり夏の日差しはきつい……少し立っていただけでくらくらした。ぼんやりとそう思い、もう一度芹沢さんに視線を向けると彼はやっぱりまだ泣きそうな顔のままで。あたしは何て言ったらいいのか分からないまま一度息をつき、芹沢さんが何か言うまで待つことにした。きっと、今何かを言ったところで何の効力もない気がしたから。
そうして頬や髪を撫でる風が、外のそれよりもずっと冷たさを増した頃。
「明日香ちゃんは」
「何ですか?」
「明日香ちゃんは、昨日来たお客さんとの接客で何か思うことはあった?」
唐突にそう問われて、あたしは即答で。
「さっき話したこと、そのまんまですよ。生まれて初めて親が離婚するかどうかってことを心配しました」
まるで答えを用意していたかのようにそう答える。
そうだ、第一この店に無理矢理バイトとして雇われなければ昨日あの子と話すことなんてなかったし、こんな想いを持つこともなかった。そう考えるとこの人に感謝すべきなのかもしれないと思った――この想いが果たしていいものか悪いものかは分からないけど。
答えたあたしに芹沢さんが「そっか」と呟き頷く。
「よかった」
そして次の瞬間いつもの呑気な笑みで朗らかにそう言った芹沢さんは、まるで今までの自分をなかったものにしようとするかのごとく「あ、そうだ!」と勢いよく奥へと消えていった。
「……何、あれ」
それがあまりに唐突の行動だったから、あたしは思わずそう呟いて奥へと視線を向ける。
すると階段を上がる音が聞こえて、次に何やらどさどさダンボールを床に下ろす音が聞こえた。
何か探してるんだろうか?
不審に思うものの行ったらまた乱雑な光景を見て掃除したくなるのが分かっていたからやめた。
それにしても……。何やら騒がしい天井を見上げながら、はぁと息をつく。蔵八宝
芹沢さん、大丈夫なんだろうか。普段通りのマイペースぶりだけど、それでもさっきの泣きそうな顔が気になってあたしは窓枠に頬杖をついて考え込む。かといって、つい数日前に知り合ったばかりのあたしに何ができるかと訊かれたら答えは「何もない」になることだろう。
あんなペテン師に対して何かしたいと思うのは色々間違っている気がしたけど、相手が誰であれ泣きそうな人を放っておくのは人としていかがなものかと思って自分を納得させた。
そうやってうだうだ考えていると、とんとんと芹沢さんが階段を降りてくる音が聞こえてきてあたしはなぜか姿勢を正す。すでに店内はひんやりと冷えきっており、芹沢さんは一瞬とても寒そうに身震いしてから「ほら」と何やら大きな袋を差し出してきた。
「? 何ですか、これ」
「花火だよー。線香花火から打ち上げ花火まで何でもござれさ」
言われ、がさがさと音をさせながら中を覗き込むと……なるほど、確かにすごい種類の花火だった。ねずみ花火のような小さなものから打ち上げ花火のような大きなものまでたくさんの花火が入っていた。……でも何で花火?
「夏といえば花火でしょ」
「いや、そうですけど」
「だからご家族でどうぞー。たくさんあるから困ってたんだよねー、これ」
……はぁ、どうも。
手渡された袋はどさりと重くて、思わず前のめりになる。
すると芹沢さんが慌てた様子で支えてくれた。どうやら重いとは思わなかったらしい。
「うわわ、ごめん」
「……持って帰れるのか不安なんですけど」
まだバイトを終えるには早い時間だし、今から心配することじゃないんだけど。
でもどの道携帯持って来てないからお兄ちゃんを呼ぶこともできないし、これあたし一人で持って帰るのか……。
げんなりとした気持ちで呟くと芹沢さんが「それなら僕が運ぶから大丈夫」と言ってくれた。
かさりと音を響かせながら袋を持ってくれた芹沢さんはそれを適当な場所に置いて腰掛ける。そうして店内を見渡してから「綺麗になったね」と笑った。そこにはさっきまでの悲しそうな影なんてまったく見えなかったけど、何せこの人はペテン師だから何が本当なのかも分からない。一応嘘をつくのは一回だけって言ってたけどそれが今じゃないとも言えないし。
肌に張りついたシャツをつまみ、ぱたぱたと乾かすように揺らす。
すると微かに汗の匂いがして早くお風呂に入りたい衝動に駆られた。
いくら冷房が効いていてもすでに付着した汗ばかりはどうしようもできないのが問題だ。
そんな風に思いながら芹沢さんの横顔を見つめ、その表情が本物か嘘か判断することに時間を費やした。
そして。
「今日はありがとー」
「……いえ。結局お客さん来ませんでしたし」
「結構暇なんだよ。来る時はそれなりに来るんだけどね」
日が傾いて少し経った頃、あたしは芹沢さんと家の前に立っていた。
結局あれだけ時間を費やしたにも関わらず芹沢さんの表情が本物か嘘か判断つけることができないまま、バイトの時間を終えてしまったのだ。何てもったいない時間だったんだろう……何だか悲しくなってきた。
……まぁ、あれだけ頑張っても分からなかったんだから気にしなくてもいいか。
それにあたしに何ができるとも思えない。
結果的にそういう考えに行きついてあたしはそれ以上気にすることなく頭を下げる。
「荷物持ち、ありがとうございました」
「え? いやいや、いいよー。僕があげたくてあげたんだから」
そうして大量の花火が詰まった荷物を受け取り、今度は体勢を崩さないようにしっかり立つ。
少しふらついたけど、玄関まですぐだから問題ないだろう。
あたしの言葉に照れ笑いを浮かべてそう答えた芹沢さんは「それじゃ」と言って一歩後ろに下がる。
そして背中を向ける寸前、口の端を浮かべた横顔で。
「皆仲直りできるといいね」
それは夕日の効果を差し引いてもなお、おつりが来るぐらいに綺麗な笑顔だった。あの人の持つ甘い色ですら霞んでしまうような笑顔と、そして響いた声があまりに滑らかで綺麗だったからあたしは思わずその姿に見惚れて、でも次の瞬間玄関の引き戸が開く音がして振り返る。するとその隙をつくようにして芹沢さんの姿が遠くに行ってしまい、そこでようやく無意識に袋を落として手を伸ばしかけていた自分に気付いた。
「明日香? 誰かおったんか?」
「え? い、いや誰も」
あたしは一体何をしようとしてたんだろうか。
それすらもう遠くにかき消えてしまい、どこか呆然としたままあたしは家から出てきたお兄ちゃんに答えた。
そして慌てて袋を掴み、軽く土を掃ってから「それより!」とお兄ちゃんに手渡す。
せっかくもらったものなんだから、使わないともったいない。
それに芹沢さんのせっかくの善意を無駄にするのはどうかと思ったから、あたしはさっきの芹沢さんの表情を頭の隅に追いやって不思議そうな顔のお兄ちゃんに向けてわざとらしいぐらい明るく言ってみせた。
「花火。芹沢さんにもらったから皆でやろう!」
そうだ、せっかく実家に帰ってきたんだから皆で楽しく過ごしたい。
それは嘘じゃないし実際そうできたらいいなと思う。
でもどうしてだろうか――さっきの芹沢さんの横顔と声が頭から離れない。新一粒神
2012年7月29日星期日
魔女の狂宴
自分がまったくの無力だとは思わない。
魔女である自分には他の人間より強い魔力があることは、よく分かっている。
けれどそれだけで何ができる?V26Ⅲ速效ダイエット
いくら人より魔力が強いと言っても、私一人にできることなんてたかが知れているのに。
静かに頷いたヴァノッサは、それからもくもくと料理に手をつけていた。いくら時が経ったといっても食事のマナーはあまり変わってはいないらしく、見ただけで本当に皇族なのだと分かる仕草で料理を嚥下していく。
そういえばこの人は何も言わずに食べているけれど、料理は口に合っているんだろうか。
普段から自分やビーの食事しか作らないから、自分好みの味付けしかしていないというのに。
まぁ、まずいと言ったその瞬間に料理を下げるぐらいのことはするのだけれど。
……とりあえずは私の作った料理が今のファルガスタでも食べられていますようにと祈るばかりだ。
この料理は何だと訊かれたら年月が過ぎたことを嫌でも思い知らされて嫌だったし、何より懐かしい故郷の料理を食べたら国が恋しくなることだろうから。そしてそれは私とビーにとっては歓迎すべきことで。夜風と料理の湯気の両方に頬を撫でられながら、私はそれを確認しようかと考えて止めた。
そんなことを話すためにわざわざここに来たわけじゃない。
私が話し出すのを待っているのだろう、あくまでも静かに料理を嚥下するヴァノッサの紅蓮の瞳を一度見やってからついと指先を動かして自分ごと椅子をふわりと浮かせ、リィズネイションが咲く方へと向けた。
そうしてそんな特に意味のない動作をしてから、ヴァノッサに顔を見られないようにしてようやく声を出した。
「オルド暦四六一年」
「?」
「この年に何が起こったか、貴方は知っていますか?」
雪とともにファルガスタに地獄が舞い降りたあの冬のことをこの男は知っているのだろうか。いや、史実としてはもちろん知っているだろう……仮にも炎帝を名乗るなら。
けれど、ほんの一欠片でも想像することができるだろうか。
「原因不明の伝染病に国中が侵され、多くの民が死に絶えました。皮膚の色が変わり激痛に襲われ、最後には狂って死んでいく死の病です」
「……魔女の狂宴か」
変わりゆく肌の色と激痛に死を感じ怯えながら、それでも生きていた人々のことを。
大事な人が目の前で死に逝く中、悲しむこともできないぐらい狂っていった民のことを。
国が滅びなかったのが不思議なぐらい多くの人が、あの冬に死んだ。
それをこの男はどれだけ理解しているのだろうか。
集中していないと聞こえないほどの風音にあえて意識を集中させながら、私は微かに声を震わせて努めて静かに言った。
姉妹月に浮かされてぼうと浮かび上がるテラスに目を細めて、ともすれば泣き出しそうな心を叱咤しながら。
できることなら思い出したくない、けれど思い出さなければ話なんて進まない。
椅子の背もたれに深く腰掛け、同時に嗚咽を吐き出すまいと深く深く息を吸う。すると喉の奥でひゅっという音がして、私はそれを悟らせないために微かに身動ぎした。
そう、あれはまさに狂宴だった。
決して魔女や魔導師が起こしたことではないのだけれど、そう思われても仕方がないほどに私達には異変がなかったし為す術がない出来事だった。
誰に責めることができただろう、誰よりも苦痛を味わう人々が何の苦痛も知らない魔女へ怒りをぶつけることを。
私からすればとんでもないことだったけれど、どうでもいいと思える程度ではあっても強い憎しみに囚われるほどではなかった。
何より陛下に止められない狂気を私に止められるはずがない。
辺境から城下へと迫った狂気は、やがて。
「そう。だから人々は、炎帝の傍に侍る氷の魔女を殺せと国中で声を上げた」
「確かに、手紙にも史実書にもそう書いてあった……だがなぜだ? 当時は他にも魔力を持った者が存在したと――」
「もちろんいました。けれど皆とっくに身を隠していましたから、一番目立つ魔女である私に白羽の矢が立ったのです」
反乱という波となって、城へ……私へと襲いかかった。
もちろんそれは予想していた通りの流れで、分かりきっていた話なのだけれど。それでも私は身を隠したりはしなかった、というと格好良い言い方だけど別に自己犠牲に酔っていたわけではない。
見上げた先にある姉妹月がすれ違いそうなほどに近付くのをぼんやりと見ながら、ささやかに甲高い音をさせてヴァノッサが食事を止めた気配を半身に感じた。そうして気配を感じた方の頬に、強い視線が向けられるのも。
まるで怒っているようなその気配は一体何を言いたいのだろうか。横顔で視線を受け止める私には分からなかったけれど、別に気にする必要はなかったらしい。
がた、と音がしてそれからすぐに姉妹月が消える。自然と降りた影を見ると、それはやはり怒っていた。
肩を怒らせてこちらを見る紅蓮の瞳は私に何も伝えない、だが代わりに言葉で怒りを伝えてくる。
「なぜ逃げなかった」
「……」
「他の魔女達とともに身を隠せば、民だって貴女に憎しみをぶつけることはなかった」
「……一つ、勘違いをしているようですが」
どうして貴方がそんなに怒るのか。
私としてはその方がずっと問題なのだとこの男は気付いて……いないに違いない。
刺すような視線に私は呆れ混じりの溜息をつき、首を振る。するとヴァノッサの怪訝そうな瞳とぶつかった。
確かに普通に考えればそれが正しい。私だって誰かが同じことをしていたら馬鹿にするかもしれない。
けれどヴァノッサは分かっていない。
「私がここにいるということ。生きているということ。その意味が、貴方になら分かるはずです」
「だが――」
「あの時国中の人が、私の死を確信したでしょう。でも私は生きている……逃げて、ここで生きている」
遅かれ早かれ私は逃げたのだ。
なのに逃げなかったことに対して怒られるのは筋違いというもので、なぜ逃げたと言われれば文句は言えないけれど逆は認められない。
そう言った私の顔は、一体どんな表情をしていたのだろう。ヴァノッサが怯んだように目を逸らし、眉を寄せて苦渋を浮かべたのが見えた。
影になっているからそれが本当に苦渋なのかは分からないけれど、きっとそうなのだと思う。
ふわり、と自分の体だけ浮かせてそのままの体勢でテラスの手すりに腰掛ける。体重をかけると何かの拍子に落ちそうだったから、触れるか触れないかという程度にだけど。
そうして自身の身に纏うワンピース生地を柔らかに揺らしながらヴァノッサを見ると、一変して明るい場所で見えた彼の顔にはやはり苦渋が浮かんでいた。
複雑そうなその表情を見て、もしかしたらこの男は気付いたのかもしれないと思った。
「貴女を逃がしたのは、先代の炎帝か」
「えぇ」
気付いた、というよりは確信したというべきか。
予想はしていても確信するには私自身が認めるしかない。
搾り出すような声にできる限り平静を保って答えると、その演技がそのまま私の心を平静にする。
リィズネイションに囲まれて白いテラスの中に佇むヴァノッサはともすれば浮いてしまいそうなその場所で、自然に自己の色を浮かび上がらせる。
特に欠点のないその姿はまるで一枚の絵画のようで、自分が同じ場所にいるとはとても信じられない。姉妹月に背を向けていなければ、その二つの月ですら絵画の中にすんなりと入れてしまいそうだ。
美しいというわけではない、確かに幻想的ではあるがそれが理由ではない。ただ異常なまでの強さがすべてを巻き込んで、それがゆえにヴァノッサと世界が溶け込んでいるように見えたから。……これが炎帝と言われる所以だとするならば、やっぱりあの人とこの男は別人なのだと思った。V26即効ダイエット
見た目はほとんど同じなのに私はあの人にこんな強さを見たことはない。見たいとも思わなかった。
私がそう思っている間に、ヴァノッサは拳を軽く握りしめてこちらを見る。
燃えるような瞳は少しの躊躇を持って一度閉じられ、一歩分私へと近付く。自分の歩幅よりもずっと大きな一歩はしかしそれ以上進んでくることはせずに、瞳を開くことで押し止められる。
「それが、救世主を拒む理由か」
「もちろんそれもあります」
溜息のような問いに肯定と若干の否定を返すと、ヴァノッサはまだあるのかというような顔でこちらを見た。まさかこれだけだと思ったのだろうか、魔女の長い人生を舐めてもらったら困る。
まぁ……すべてあの冬に起きたことだと考えれば、舐めてかかってこられても仕方がないのかもしれないけれど。
とりあえず座ってはどうですか? と尋ねればこのままがいい、という返答とともにヴァノッサはもう一歩こちらに近付いてきた。あまり高くはない手すりに腰掛けて、丁度同じ目線になっていることにその時気付く。
上からでも下からでもなく真正面から見たヴァノッサはやっぱりあの人に似ていて、そのくせ紙一重の差で別人で。
私は一体この男にどんな顔をすればいいのだろうかと悩みながら。
「一つ、昔話をしましょう」
少しずつ自分が話したかったことへと近付いていく。
それは自分が普段思い出すまいとしている記憶との対面だったけれど、何も過去のすべてを事細かに語る必要も思い出す必要もない。ただ、話すべき事柄だけを思い出し話せばいいのだ。なのにどれだけ痛みの少ない記憶を探してもそんなもの見つからなくて、私は痛みに目を閉じた。
そうして閉じた視界の中で、懐かしいあの国の光景が目に浮かんだ。あぁ、どうして記憶をそのまま見せてあげられる魔法がないんだろうか……あれば思い出すだけで済むのに。
黙って立ったままのヴァノッサを見えない視界に捕らえながら私は何から話すべきかと思案して。
「病が城下に近付く、ほんの少し前に私は一人の女の子に出会いました」
「……」
「あの頃はまだ場内の者達にしか私の存在は知られていなくて、何も知らないその子は私によく懐いてくれました」
最後に街に出た日のことを話そうと決めた。
どうして出会ったのかも分からないたった一人の女の子のことを。 そしてその子が死んだ日のことを。
意識を集中させて体を浮かせ続けた私は不意にその魔法を解いてゆっくりと手すりに腰掛ける。今もし何かあったら落ちてしまいそうな体勢だったけれど、どうしても何かに触れていたくてその冷たい手すりに指先を這わせた。
どこか幻想的なこの光景の中で自己を保っているにはそれしかないと思ったから。
「何の話をしていたか覚えていないし、どうして出会ったのかも覚えていないけれど、私もその子のことが好きだったのは覚えています」
そう、会う度に抱きついてきたあの子の冷たい体を抱きしめるのが好きだった。
お忍びで城下へ降りてきていた陛下がそれを見て笑うのが好きだった。
もうすぐ雪が降るなと考えていたのをよく覚えている。
……そんな他愛のないことばかりちゃんと覚えている。何を話していたのかとかそういう大事なことは全然覚えていないのに。それが何だかとても悔しくて思わず唇を噛みしめたくなったけれど、そんな姿を目の前の男に見せたくはなくて、寸前で我慢して話を続けた。
「でもあの子も病にかかってしまった。城下の誰より早く、あの子に死が近付いていきました」
誰もがあの子を遠巻きに見ていた。紫に爛れていく肌を晒したあの子に、誰も手を差し伸べようとはしなかった。
皆知っていたのだ、それが城下で起こる地獄の始まりだと。
ただ私だけがあの子に近付いて、何とかできないかとひたすらに薬を調合した。
魔女がその病にかからないことは、すでに陛下から聞いていたから。
怪我を治すことができるのに病を治すことができない自分をあの時ほど呪ったことはない。
手すりに這わせた指先が、そこから冷えていくのを感じながら私は細く深く息を吐いた。平静で、何事もないかのように話していなければならないのにどうしてもそうはできなかった。
思い出さなければ何てことはないのに、思い出せば後から後から溢れてくる痛みに支配されそうだった。
「毎日毎日、病の対処法に奔走する陛下と一緒に薬を調合し続けました」
「……貴女は」
「でも駄目だった。何度試しても効果がなくて、あの子が痛みに狂うのを見ながら私まで気が狂いそうになりました」
いくら自分が救世主に向かないことを証明するためとはいえ、自分の無力を語ることがこんなに辛いことだとは知らなかった。
卑下ならいくらでもできる、それこそ一晩中自分を卑下し続けよう。
でもそれだけではきっと納得しないことは分かっていたから。確かな理由と過去と持って証明する必要があった。だからこうして話しているのに、いくら覚悟をしてもそれで痛みが和らぐわけではなく、私は死ぬ間際のあの子の言葉を口にした。
「助けて」
「レイアスティ?」
「助けてって……言ってたのに」
助けて、と何度も何度も繰り返していたのを思い出す。
あれはどこだったか、場所は覚えていないけれどそれだけはちゃんと覚えていて。そして私は覚えていないだけで、きっと何度も何度も誰かのその言葉を聞いては助けられなかったことに絶望したのだと思う。
その中でこれは最初の絶望だった。
息絶えるその瞬間まであの子は私に助けてと言い続けていた。
それはもしかしたら私が魔女だと気付いたからかもしれないし、そうではないのかもしれない。でもそんなことはどうでもよかった。
このまま落ちてしまおうか、何とはなしにそう思いながら軽く体を傾け私は続けた。
「私には何もできなかった。誰も助けられなかった。そのくせ一人逃げ出した」
「……貴女はそれを」
「いくら魔女だと言っても、私一人にできることなんてたかが知れています。それなのに貴方は私に救世主を望むのですか」
ファルガスタも、そこに生きる民も他国のこともどうでもいい。
そう思うのは激しい憎しみをぶつけられたせいでもあるし、これ以上関わりたくないという想いのせいでもあるし、本当にどうでもいいと思っているせいでもある。
けれどたとえばここで何とかしたいと想ったとして、私に何ができる?
何もできずにまた絶望するの? あの冬のように。
そんなのはごめんだった、絶対に嫌だった。
そう思い目を開けると、あまりに近くにヴァノッサがいたので思わず手すりから落ちそうになった。だが魔法を使おうとしたところでヴァノッサの腕に支えられたので止める。
小さく礼の言葉を口にするものの、支える腕が離れないので怪訝に思ってそちらに視線を向ける。すると彼は表情を隠すように口を引き結んでこちらを見ていた。
不快感を表すものでもない、同情しているわけでもないだろう、ではこれは何?
不思議に思いじっとその紅蓮の瞳を見つめていると、ヴァノッサは私から腕を離し――え?
「な、何を!」
「――すまない」
いきなり目の前で跪いた紅蓮と黒の体に、慌てて手すりから降りる。
腕を伸ばして肩に触れる。そうして立ち上がらせようとした所で放たれた言葉は、見事に私を固まらせた。
腕が折れている方の肩に熱を感じて思わず指先を離しそうになったのに、それすらできないほどに驚かされた。
……どうして。
「どうして貴方が謝るんですか」
「そうしたかったからに決まってるだろう」
自分が生まれるよりもずっと前の話を聞いて、どうして謝るのだろう。
そう思い困惑をそのままに声を出すと、響いた声に重なるように即答で返された。自分の声の余韻と重なったそれはひどく綺麗に聞こえる。
一歩後ずさってその音の余韻に浸っていると、ヴァノッサはそれにと続けた。
「俺はこれから貴女に残酷なことを言うし、願うからだ」
「……っ」
こちらを見上げる怖いほどに真摯で強い視線を見てこれから言われ、願われる残酷なことが何なのかに気がついて目を見開いた。
これだけ話したのに、人がせっかく痛みに耐えて自分の過去を晒したのにこの男は、まだ――。
「貴女がどれだけ絶望したか聞いて、それでも俺は貴女に救世主を望む」
まだ、私に救世主を望むというの?
あまりのやるせなさに眩暈を感じて、私は手すりに体を預けて跪いたままのヴァノッサを力なく見下ろした。V26Ⅱ即効減肥サプリ
一体どうしてこの男は、そこまでするのだろうか。
何もできなかった私にこうして謝罪までして、どうして。
そう考えているとヴァノッサは苦笑を浮かべながら、疑問に対する答えを返してくれた。
「銀の魔女、最果ての魔女が救世主」
「……? それは確か」
「知っているか、あの物語を。うちの預言者があの物語の通りになると預言したから俺はここに来た」
「でもあれは翡翠の――」
「海のような蒼の瞳を持つ、銀の魔女を指名してきたぞ」
呆れた。
確かにそんな姿を持つのは世界にそうそういるものではないだろう、更には最果てという単語までついたとなれば。
けれどこの男はそんな預言者の言葉を信じて、ただそれだけを信じてここまで来て頭を下げているのか。仮にも皇帝が、そんなにしてまで預言者の言葉を信じて。
紅蓮の瞳から目を逸らして夜風に揺れる紅い髪を何とはなしに見ながら、馬鹿みたいと呟く。本当に馬鹿みたいだ……ただそれだけのために私は振り回されたのか。その預言者にも腹が立つが何よりヴァノッサに腹が立った。
はぁ、と息をつくと先ほどの私の言葉が聞こえたのだろう。ヴァノッサが苦笑を深めてそうだな、と同じく呟いた。
「確かに馬鹿みたいだ。だが今は、預言者の言葉抜きで貴女に救世主を望んでいる」
「……どうして」
「人の死に絶望して、更には三百年経った今でも痛みを感じ続ける魔女なんて、聞いたことがないからだな」
「馬鹿にしていませんか?」
「まさか。むしろ申し訳ないと思っている。俺の国の先祖や民が貴女を苦しめ続けているのだから」
いい加減立ち上がればいいのに、ヴァノッサはやはりその体勢のままただ真摯な瞳でこちらを見ているが少しだけその視線を弱めて笑った。
緩やかに弧を描いた唇が紡いだのはやはり笑みを含んだ声で。
「貴女は自分一人でできることなんてたかが知れていると言ったな」
「えぇ」
「まずその勘違いを正しておきたいんだが」
口調は先ほどから変わらないのに、ひどく優しい声が辺りを満たす。
自分ではきっとどう頑張ったって出せそうにないその声をこの男が出していることが不思議で、私はどことなく自分より年上に見える男から視線が逸らせないでいた。
顔を若干仰向けて姉妹月の光をいっぱいに浴びた瞳は、次の瞬間微かに曇る。想いを隠そうともしない瞳は、最初に出会った頃とは大違いだと思えるほどに分かりやすかった。
きっと、故意にそうしているのだろう。
ここで隠し事をするということがどういうことか分からない男ではないはずだから。
「今、モーリス大陸では俺の国を始め多くの国が地震の被害を受けている」
「……知っています」
「何度家を建て直しても次から次から壊れていく。民はいつまで経っても避難所での生活を強いられているし、何より地震の規模も頻度も大きくなっている」
「そうでしょうね。私もそう感じていますから」
「分かるのか?」
「感覚としてなら。体がかなりだるくなりますけど」
唐突に切り出された言葉に別段何を言うでもなくただ相槌を打つ。すると私に地震の感覚が分かることに驚いたのか、ヴァノッサは微かに眉を上げてこちらを凝視した。
けれどそれぐらいで驚かれては困る、私は一応魔女なのだし。
そうなのか、と呟いたヴァノッサはしかしすぐに表情を引きしめてこちらを射抜くように見た。その表情に徐々に影が出てきたのを感じ、そろそろ姉妹月のうちの片方が消える時間かと内心で呟く。
ということは、もう結構な時間私達はここで話していたということになる。ついとヴァノッサの横に咲くリィズネイションへと視線を向けて、その花が閉じようとしているのを見て確信する。
そうしてそんな確信を抱いていると。
「俺は俺の国と民を守りたいし、守るためには何だってやってやる」
「……」
「一人で絶望させるつもりはない、その時は国を失い俺も一緒に絶望する。一人でできることなんてたかが知れてるなら、二人でやればいいだろう。その結果本当に国が救えるかは分からないが、もしできなかったとしてもそれは貴女の責任ではなく貴女を選んだ俺の責任だ。貴女が苦しむことなんて何一つない、その代わりに俺は貴女に限界を超えて力を揮うことを願う」
「そんな、無茶苦茶な――」
「だから」
無茶苦茶だ。
大体一人増えたぐらいで変わるものではないし、そういう意味で言ったわけではない。
なのにヴァノッサは私を責めないと言いつつも私に限界を超えろと無茶を言う。
そうして真摯な瞳と柔らかい声をそのままに折れていない方の手を差し出した。
ややごつごつとして見えるその手を困惑気味に見ていると、ヴァノッサは続ける。
「俺と来い、レイアスティ。臣下としてではない、救世主として俺の隣に立て」簡約痩身
魔女である自分には他の人間より強い魔力があることは、よく分かっている。
けれどそれだけで何ができる?V26Ⅲ速效ダイエット
いくら人より魔力が強いと言っても、私一人にできることなんてたかが知れているのに。
静かに頷いたヴァノッサは、それからもくもくと料理に手をつけていた。いくら時が経ったといっても食事のマナーはあまり変わってはいないらしく、見ただけで本当に皇族なのだと分かる仕草で料理を嚥下していく。
そういえばこの人は何も言わずに食べているけれど、料理は口に合っているんだろうか。
普段から自分やビーの食事しか作らないから、自分好みの味付けしかしていないというのに。
まぁ、まずいと言ったその瞬間に料理を下げるぐらいのことはするのだけれど。
……とりあえずは私の作った料理が今のファルガスタでも食べられていますようにと祈るばかりだ。
この料理は何だと訊かれたら年月が過ぎたことを嫌でも思い知らされて嫌だったし、何より懐かしい故郷の料理を食べたら国が恋しくなることだろうから。そしてそれは私とビーにとっては歓迎すべきことで。夜風と料理の湯気の両方に頬を撫でられながら、私はそれを確認しようかと考えて止めた。
そんなことを話すためにわざわざここに来たわけじゃない。
私が話し出すのを待っているのだろう、あくまでも静かに料理を嚥下するヴァノッサの紅蓮の瞳を一度見やってからついと指先を動かして自分ごと椅子をふわりと浮かせ、リィズネイションが咲く方へと向けた。
そうしてそんな特に意味のない動作をしてから、ヴァノッサに顔を見られないようにしてようやく声を出した。
「オルド暦四六一年」
「?」
「この年に何が起こったか、貴方は知っていますか?」
雪とともにファルガスタに地獄が舞い降りたあの冬のことをこの男は知っているのだろうか。いや、史実としてはもちろん知っているだろう……仮にも炎帝を名乗るなら。
けれど、ほんの一欠片でも想像することができるだろうか。
「原因不明の伝染病に国中が侵され、多くの民が死に絶えました。皮膚の色が変わり激痛に襲われ、最後には狂って死んでいく死の病です」
「……魔女の狂宴か」
変わりゆく肌の色と激痛に死を感じ怯えながら、それでも生きていた人々のことを。
大事な人が目の前で死に逝く中、悲しむこともできないぐらい狂っていった民のことを。
国が滅びなかったのが不思議なぐらい多くの人が、あの冬に死んだ。
それをこの男はどれだけ理解しているのだろうか。
集中していないと聞こえないほどの風音にあえて意識を集中させながら、私は微かに声を震わせて努めて静かに言った。
姉妹月に浮かされてぼうと浮かび上がるテラスに目を細めて、ともすれば泣き出しそうな心を叱咤しながら。
できることなら思い出したくない、けれど思い出さなければ話なんて進まない。
椅子の背もたれに深く腰掛け、同時に嗚咽を吐き出すまいと深く深く息を吸う。すると喉の奥でひゅっという音がして、私はそれを悟らせないために微かに身動ぎした。
そう、あれはまさに狂宴だった。
決して魔女や魔導師が起こしたことではないのだけれど、そう思われても仕方がないほどに私達には異変がなかったし為す術がない出来事だった。
誰に責めることができただろう、誰よりも苦痛を味わう人々が何の苦痛も知らない魔女へ怒りをぶつけることを。
私からすればとんでもないことだったけれど、どうでもいいと思える程度ではあっても強い憎しみに囚われるほどではなかった。
何より陛下に止められない狂気を私に止められるはずがない。
辺境から城下へと迫った狂気は、やがて。
「そう。だから人々は、炎帝の傍に侍る氷の魔女を殺せと国中で声を上げた」
「確かに、手紙にも史実書にもそう書いてあった……だがなぜだ? 当時は他にも魔力を持った者が存在したと――」
「もちろんいました。けれど皆とっくに身を隠していましたから、一番目立つ魔女である私に白羽の矢が立ったのです」
反乱という波となって、城へ……私へと襲いかかった。
もちろんそれは予想していた通りの流れで、分かりきっていた話なのだけれど。それでも私は身を隠したりはしなかった、というと格好良い言い方だけど別に自己犠牲に酔っていたわけではない。
見上げた先にある姉妹月がすれ違いそうなほどに近付くのをぼんやりと見ながら、ささやかに甲高い音をさせてヴァノッサが食事を止めた気配を半身に感じた。そうして気配を感じた方の頬に、強い視線が向けられるのも。
まるで怒っているようなその気配は一体何を言いたいのだろうか。横顔で視線を受け止める私には分からなかったけれど、別に気にする必要はなかったらしい。
がた、と音がしてそれからすぐに姉妹月が消える。自然と降りた影を見ると、それはやはり怒っていた。
肩を怒らせてこちらを見る紅蓮の瞳は私に何も伝えない、だが代わりに言葉で怒りを伝えてくる。
「なぜ逃げなかった」
「……」
「他の魔女達とともに身を隠せば、民だって貴女に憎しみをぶつけることはなかった」
「……一つ、勘違いをしているようですが」
どうして貴方がそんなに怒るのか。
私としてはその方がずっと問題なのだとこの男は気付いて……いないに違いない。
刺すような視線に私は呆れ混じりの溜息をつき、首を振る。するとヴァノッサの怪訝そうな瞳とぶつかった。
確かに普通に考えればそれが正しい。私だって誰かが同じことをしていたら馬鹿にするかもしれない。
けれどヴァノッサは分かっていない。
「私がここにいるということ。生きているということ。その意味が、貴方になら分かるはずです」
「だが――」
「あの時国中の人が、私の死を確信したでしょう。でも私は生きている……逃げて、ここで生きている」
遅かれ早かれ私は逃げたのだ。
なのに逃げなかったことに対して怒られるのは筋違いというもので、なぜ逃げたと言われれば文句は言えないけれど逆は認められない。
そう言った私の顔は、一体どんな表情をしていたのだろう。ヴァノッサが怯んだように目を逸らし、眉を寄せて苦渋を浮かべたのが見えた。
影になっているからそれが本当に苦渋なのかは分からないけれど、きっとそうなのだと思う。
ふわり、と自分の体だけ浮かせてそのままの体勢でテラスの手すりに腰掛ける。体重をかけると何かの拍子に落ちそうだったから、触れるか触れないかという程度にだけど。
そうして自身の身に纏うワンピース生地を柔らかに揺らしながらヴァノッサを見ると、一変して明るい場所で見えた彼の顔にはやはり苦渋が浮かんでいた。
複雑そうなその表情を見て、もしかしたらこの男は気付いたのかもしれないと思った。
「貴女を逃がしたのは、先代の炎帝か」
「えぇ」
気付いた、というよりは確信したというべきか。
予想はしていても確信するには私自身が認めるしかない。
搾り出すような声にできる限り平静を保って答えると、その演技がそのまま私の心を平静にする。
リィズネイションに囲まれて白いテラスの中に佇むヴァノッサはともすれば浮いてしまいそうなその場所で、自然に自己の色を浮かび上がらせる。
特に欠点のないその姿はまるで一枚の絵画のようで、自分が同じ場所にいるとはとても信じられない。姉妹月に背を向けていなければ、その二つの月ですら絵画の中にすんなりと入れてしまいそうだ。
美しいというわけではない、確かに幻想的ではあるがそれが理由ではない。ただ異常なまでの強さがすべてを巻き込んで、それがゆえにヴァノッサと世界が溶け込んでいるように見えたから。……これが炎帝と言われる所以だとするならば、やっぱりあの人とこの男は別人なのだと思った。V26即効ダイエット
見た目はほとんど同じなのに私はあの人にこんな強さを見たことはない。見たいとも思わなかった。
私がそう思っている間に、ヴァノッサは拳を軽く握りしめてこちらを見る。
燃えるような瞳は少しの躊躇を持って一度閉じられ、一歩分私へと近付く。自分の歩幅よりもずっと大きな一歩はしかしそれ以上進んでくることはせずに、瞳を開くことで押し止められる。
「それが、救世主を拒む理由か」
「もちろんそれもあります」
溜息のような問いに肯定と若干の否定を返すと、ヴァノッサはまだあるのかというような顔でこちらを見た。まさかこれだけだと思ったのだろうか、魔女の長い人生を舐めてもらったら困る。
まぁ……すべてあの冬に起きたことだと考えれば、舐めてかかってこられても仕方がないのかもしれないけれど。
とりあえず座ってはどうですか? と尋ねればこのままがいい、という返答とともにヴァノッサはもう一歩こちらに近付いてきた。あまり高くはない手すりに腰掛けて、丁度同じ目線になっていることにその時気付く。
上からでも下からでもなく真正面から見たヴァノッサはやっぱりあの人に似ていて、そのくせ紙一重の差で別人で。
私は一体この男にどんな顔をすればいいのだろうかと悩みながら。
「一つ、昔話をしましょう」
少しずつ自分が話したかったことへと近付いていく。
それは自分が普段思い出すまいとしている記憶との対面だったけれど、何も過去のすべてを事細かに語る必要も思い出す必要もない。ただ、話すべき事柄だけを思い出し話せばいいのだ。なのにどれだけ痛みの少ない記憶を探してもそんなもの見つからなくて、私は痛みに目を閉じた。
そうして閉じた視界の中で、懐かしいあの国の光景が目に浮かんだ。あぁ、どうして記憶をそのまま見せてあげられる魔法がないんだろうか……あれば思い出すだけで済むのに。
黙って立ったままのヴァノッサを見えない視界に捕らえながら私は何から話すべきかと思案して。
「病が城下に近付く、ほんの少し前に私は一人の女の子に出会いました」
「……」
「あの頃はまだ場内の者達にしか私の存在は知られていなくて、何も知らないその子は私によく懐いてくれました」
最後に街に出た日のことを話そうと決めた。
どうして出会ったのかも分からないたった一人の女の子のことを。 そしてその子が死んだ日のことを。
意識を集中させて体を浮かせ続けた私は不意にその魔法を解いてゆっくりと手すりに腰掛ける。今もし何かあったら落ちてしまいそうな体勢だったけれど、どうしても何かに触れていたくてその冷たい手すりに指先を這わせた。
どこか幻想的なこの光景の中で自己を保っているにはそれしかないと思ったから。
「何の話をしていたか覚えていないし、どうして出会ったのかも覚えていないけれど、私もその子のことが好きだったのは覚えています」
そう、会う度に抱きついてきたあの子の冷たい体を抱きしめるのが好きだった。
お忍びで城下へ降りてきていた陛下がそれを見て笑うのが好きだった。
もうすぐ雪が降るなと考えていたのをよく覚えている。
……そんな他愛のないことばかりちゃんと覚えている。何を話していたのかとかそういう大事なことは全然覚えていないのに。それが何だかとても悔しくて思わず唇を噛みしめたくなったけれど、そんな姿を目の前の男に見せたくはなくて、寸前で我慢して話を続けた。
「でもあの子も病にかかってしまった。城下の誰より早く、あの子に死が近付いていきました」
誰もがあの子を遠巻きに見ていた。紫に爛れていく肌を晒したあの子に、誰も手を差し伸べようとはしなかった。
皆知っていたのだ、それが城下で起こる地獄の始まりだと。
ただ私だけがあの子に近付いて、何とかできないかとひたすらに薬を調合した。
魔女がその病にかからないことは、すでに陛下から聞いていたから。
怪我を治すことができるのに病を治すことができない自分をあの時ほど呪ったことはない。
手すりに這わせた指先が、そこから冷えていくのを感じながら私は細く深く息を吐いた。平静で、何事もないかのように話していなければならないのにどうしてもそうはできなかった。
思い出さなければ何てことはないのに、思い出せば後から後から溢れてくる痛みに支配されそうだった。
「毎日毎日、病の対処法に奔走する陛下と一緒に薬を調合し続けました」
「……貴女は」
「でも駄目だった。何度試しても効果がなくて、あの子が痛みに狂うのを見ながら私まで気が狂いそうになりました」
いくら自分が救世主に向かないことを証明するためとはいえ、自分の無力を語ることがこんなに辛いことだとは知らなかった。
卑下ならいくらでもできる、それこそ一晩中自分を卑下し続けよう。
でもそれだけではきっと納得しないことは分かっていたから。確かな理由と過去と持って証明する必要があった。だからこうして話しているのに、いくら覚悟をしてもそれで痛みが和らぐわけではなく、私は死ぬ間際のあの子の言葉を口にした。
「助けて」
「レイアスティ?」
「助けてって……言ってたのに」
助けて、と何度も何度も繰り返していたのを思い出す。
あれはどこだったか、場所は覚えていないけれどそれだけはちゃんと覚えていて。そして私は覚えていないだけで、きっと何度も何度も誰かのその言葉を聞いては助けられなかったことに絶望したのだと思う。
その中でこれは最初の絶望だった。
息絶えるその瞬間まであの子は私に助けてと言い続けていた。
それはもしかしたら私が魔女だと気付いたからかもしれないし、そうではないのかもしれない。でもそんなことはどうでもよかった。
このまま落ちてしまおうか、何とはなしにそう思いながら軽く体を傾け私は続けた。
「私には何もできなかった。誰も助けられなかった。そのくせ一人逃げ出した」
「……貴女はそれを」
「いくら魔女だと言っても、私一人にできることなんてたかが知れています。それなのに貴方は私に救世主を望むのですか」
ファルガスタも、そこに生きる民も他国のこともどうでもいい。
そう思うのは激しい憎しみをぶつけられたせいでもあるし、これ以上関わりたくないという想いのせいでもあるし、本当にどうでもいいと思っているせいでもある。
けれどたとえばここで何とかしたいと想ったとして、私に何ができる?
何もできずにまた絶望するの? あの冬のように。
そんなのはごめんだった、絶対に嫌だった。
そう思い目を開けると、あまりに近くにヴァノッサがいたので思わず手すりから落ちそうになった。だが魔法を使おうとしたところでヴァノッサの腕に支えられたので止める。
小さく礼の言葉を口にするものの、支える腕が離れないので怪訝に思ってそちらに視線を向ける。すると彼は表情を隠すように口を引き結んでこちらを見ていた。
不快感を表すものでもない、同情しているわけでもないだろう、ではこれは何?
不思議に思いじっとその紅蓮の瞳を見つめていると、ヴァノッサは私から腕を離し――え?
「な、何を!」
「――すまない」
いきなり目の前で跪いた紅蓮と黒の体に、慌てて手すりから降りる。
腕を伸ばして肩に触れる。そうして立ち上がらせようとした所で放たれた言葉は、見事に私を固まらせた。
腕が折れている方の肩に熱を感じて思わず指先を離しそうになったのに、それすらできないほどに驚かされた。
……どうして。
「どうして貴方が謝るんですか」
「そうしたかったからに決まってるだろう」
自分が生まれるよりもずっと前の話を聞いて、どうして謝るのだろう。
そう思い困惑をそのままに声を出すと、響いた声に重なるように即答で返された。自分の声の余韻と重なったそれはひどく綺麗に聞こえる。
一歩後ずさってその音の余韻に浸っていると、ヴァノッサはそれにと続けた。
「俺はこれから貴女に残酷なことを言うし、願うからだ」
「……っ」
こちらを見上げる怖いほどに真摯で強い視線を見てこれから言われ、願われる残酷なことが何なのかに気がついて目を見開いた。
これだけ話したのに、人がせっかく痛みに耐えて自分の過去を晒したのにこの男は、まだ――。
「貴女がどれだけ絶望したか聞いて、それでも俺は貴女に救世主を望む」
まだ、私に救世主を望むというの?
あまりのやるせなさに眩暈を感じて、私は手すりに体を預けて跪いたままのヴァノッサを力なく見下ろした。V26Ⅱ即効減肥サプリ
一体どうしてこの男は、そこまでするのだろうか。
何もできなかった私にこうして謝罪までして、どうして。
そう考えているとヴァノッサは苦笑を浮かべながら、疑問に対する答えを返してくれた。
「銀の魔女、最果ての魔女が救世主」
「……? それは確か」
「知っているか、あの物語を。うちの預言者があの物語の通りになると預言したから俺はここに来た」
「でもあれは翡翠の――」
「海のような蒼の瞳を持つ、銀の魔女を指名してきたぞ」
呆れた。
確かにそんな姿を持つのは世界にそうそういるものではないだろう、更には最果てという単語までついたとなれば。
けれどこの男はそんな預言者の言葉を信じて、ただそれだけを信じてここまで来て頭を下げているのか。仮にも皇帝が、そんなにしてまで預言者の言葉を信じて。
紅蓮の瞳から目を逸らして夜風に揺れる紅い髪を何とはなしに見ながら、馬鹿みたいと呟く。本当に馬鹿みたいだ……ただそれだけのために私は振り回されたのか。その預言者にも腹が立つが何よりヴァノッサに腹が立った。
はぁ、と息をつくと先ほどの私の言葉が聞こえたのだろう。ヴァノッサが苦笑を深めてそうだな、と同じく呟いた。
「確かに馬鹿みたいだ。だが今は、預言者の言葉抜きで貴女に救世主を望んでいる」
「……どうして」
「人の死に絶望して、更には三百年経った今でも痛みを感じ続ける魔女なんて、聞いたことがないからだな」
「馬鹿にしていませんか?」
「まさか。むしろ申し訳ないと思っている。俺の国の先祖や民が貴女を苦しめ続けているのだから」
いい加減立ち上がればいいのに、ヴァノッサはやはりその体勢のままただ真摯な瞳でこちらを見ているが少しだけその視線を弱めて笑った。
緩やかに弧を描いた唇が紡いだのはやはり笑みを含んだ声で。
「貴女は自分一人でできることなんてたかが知れていると言ったな」
「えぇ」
「まずその勘違いを正しておきたいんだが」
口調は先ほどから変わらないのに、ひどく優しい声が辺りを満たす。
自分ではきっとどう頑張ったって出せそうにないその声をこの男が出していることが不思議で、私はどことなく自分より年上に見える男から視線が逸らせないでいた。
顔を若干仰向けて姉妹月の光をいっぱいに浴びた瞳は、次の瞬間微かに曇る。想いを隠そうともしない瞳は、最初に出会った頃とは大違いだと思えるほどに分かりやすかった。
きっと、故意にそうしているのだろう。
ここで隠し事をするということがどういうことか分からない男ではないはずだから。
「今、モーリス大陸では俺の国を始め多くの国が地震の被害を受けている」
「……知っています」
「何度家を建て直しても次から次から壊れていく。民はいつまで経っても避難所での生活を強いられているし、何より地震の規模も頻度も大きくなっている」
「そうでしょうね。私もそう感じていますから」
「分かるのか?」
「感覚としてなら。体がかなりだるくなりますけど」
唐突に切り出された言葉に別段何を言うでもなくただ相槌を打つ。すると私に地震の感覚が分かることに驚いたのか、ヴァノッサは微かに眉を上げてこちらを凝視した。
けれどそれぐらいで驚かれては困る、私は一応魔女なのだし。
そうなのか、と呟いたヴァノッサはしかしすぐに表情を引きしめてこちらを射抜くように見た。その表情に徐々に影が出てきたのを感じ、そろそろ姉妹月のうちの片方が消える時間かと内心で呟く。
ということは、もう結構な時間私達はここで話していたということになる。ついとヴァノッサの横に咲くリィズネイションへと視線を向けて、その花が閉じようとしているのを見て確信する。
そうしてそんな確信を抱いていると。
「俺は俺の国と民を守りたいし、守るためには何だってやってやる」
「……」
「一人で絶望させるつもりはない、その時は国を失い俺も一緒に絶望する。一人でできることなんてたかが知れてるなら、二人でやればいいだろう。その結果本当に国が救えるかは分からないが、もしできなかったとしてもそれは貴女の責任ではなく貴女を選んだ俺の責任だ。貴女が苦しむことなんて何一つない、その代わりに俺は貴女に限界を超えて力を揮うことを願う」
「そんな、無茶苦茶な――」
「だから」
無茶苦茶だ。
大体一人増えたぐらいで変わるものではないし、そういう意味で言ったわけではない。
なのにヴァノッサは私を責めないと言いつつも私に限界を超えろと無茶を言う。
そうして真摯な瞳と柔らかい声をそのままに折れていない方の手を差し出した。
ややごつごつとして見えるその手を困惑気味に見ていると、ヴァノッサは続ける。
「俺と来い、レイアスティ。臣下としてではない、救世主として俺の隣に立て」簡約痩身
2012年7月26日星期四
やっと見た夢
車内に籠もった空気を入れ換えるように、
運転中の航はパワーウィンドウスイッチを片手で押した。
少し冷たさのある夜風が、五センチほど空いた窓の隙間から滑り込み、
佳乃の頬に当たる。韓国痩身1号
泣き腫らし、火照りの残る顔には、その冷たさが心地よかった。
助手席のシートに深く凭れ掛かった佳乃は、窓の外で流れていく夜の景色に
ぼんやりとした視線を向ける。
土曜日の夜らしく、家族連れやカップルの楽しげな姿が多く見える中で
光るネオンや車のテールライトに、眩しそうに目を細める。
風に当たり続けていると、濡れたままの服が冷やされてしまい、
身震いしそうになるが、それでもこの夜風に当たっていたかった。
ふと隣の運転席へと視線を移すと、航もまた、濡れたままの姿で
運転しているのが目に入る。
池の中で散々泣きじゃくった後、佳乃は航の手によって池から引き摺り上げられた。
お互いの手持ちのタオルでとりあえずの水分は取り除くことはできたものの、
二人とも着替えは持っておらず、結局濡れたままで帰る羽目になったのだ。
あの池の中で佳乃が泣き続けていた間、
航はずっと黙ったままで抱き締めてくれていた。
それは、どれぐらいの間だったのかは分からない。
もしかしたら数分のことだったかも知れないし、一時間以上経っていた可能性もある。
それでも航は何も言うことなく、ただ佳乃を胸の中に包み続けていたのだ。
航は車でパークタウンにやって来ていたこともあり、
こうして佳乃を送ってくれることになったのだが、
車の中でも彼は何も話そうとはしなかった。
今、黙々と運転をしている彼の横顔からも、何の感情も読み取ることはできない。
そして佳乃も、何も語る言葉は持っていなかった。
それでも分かるのは、池で抱き締め続けていてくれたことも、
何も話そうとしないのも、佳乃の心を落ち着かせようとする
航の優しさなのだ、ということだ。
彼はいつだって優しかったではないか、と佳乃はこれまで忘れていた、
優しさに対する感受性が蘇ったかのように再確認する。
彼が優しさを目の前で示しても、それを佳乃自身が受け入れるのを
拒否していただけなのだ。
彼の婚約者の存在や、社長である父親の跡を継ぐという彼の責務を
言い訳にはしてきたが、実のところ、
佳乃の心が彼という存在を無理矢理に拒否して続けていただけに過ぎない。
そんな航に対して、優しさには優しさを、
愛情には愛情を返すのが一番良いと知りながら、
その一歩を踏み出すことは、佳乃にとっては勇気の要ることだった。
本当の子ではない自分を育てた父、
そして愛情を持っていなかった自分の代わりに死んだ浩司。
その二人の、己が愛する相手のために殉じるかのような行為に、
佳乃はずっと罪悪感を抱えてきたからだ。
それは航の言うところの、恋愛というゲームの敗北者の成せる業なのだろうか?
より多く好きになってしまった方が負けで、
負けた人間は相手に全てを捧げなくてはいけない、というルールが
そのゲームに存在するならば、佳乃は勝つのも、負けるのも嫌だった。
相手に全てを捧げられたとしても、自分がそれほどの価値のある人間とは思えないし、
そんな価値のない自分が全てを捧げたところで、
相手に何か喜ばしいことが発生するとも思えなかった。
それでも、今ならそんな考えや理屈を抜きにして、
彼に縋れるのかも知れない、と思っていた。
いや違う、私は彼に縋りたいのだ、と髪を風に煽られながら、
佳乃ははっきりと実感する。
池の中でずっと抱き締められていた、あの心地よさは、
身体だけで感じられるものではなかった。
それは佳乃の空っぽだった心をも癒し、温かなもので満たしてくれたのだ。
あの穏やかな温もりをもう一度味わえるなら、と佳乃は航の横顔を見つめ続けていた。
カーナビから杉並区内に入ったことを知らせるアナウンスが流れ、
それに従って航はハンドルを回し、大きな交差点を曲がっていく。
そして通り沿いに進み、佳乃の住むアパートへと車を走らせていった。
アパートの前に車が辿り着くと、航は車を停止させてサイドブレーキを引く。
佳乃はゆっくりと身体を上げて後ろの座席へと手を伸ばし、
そこに置いてあったリュックサックを取り上げ、ドアのロックを外した。
「ありがとうございました」
佳乃は頭を下げるが、航は何も反応せず、
フロントグラスの先を見つめるように正面を向いたままだった。
佳乃はドアを開けて車を降り、もう一度「ありがとうござました」と一礼する。
すると航はやっとこちらを振り向き、「佳乃さん」と声を掛けた。
だが、言葉はそれ以上続かず、航は佳乃を見たままで、
こみあげる感情を必死で堪えるような顔をしている。
佳乃は抱えたリュックサックを強く胸に押しつけながらドアを閉めようとしたが、
心の中にある一つの想いを、このままにしておいていいものか、とも思っていた。
そして航も、そんな佳乃の思いに何となく気づいているのではないか、と。
それでも佳乃は、その想いを振り切るようにドアに掛けた手を押し動かした。
しかし、手からは自然と力が失せていく。
宙ぶらりんな佳乃の心を表すかのように、半開きになったドアを見つめながら、
佳乃は思い切ったように口を引き締め、
手に力を込めて再びドアを開いて車の中を覗き込む。
「樋口さん」
その声に、サイドブレーキのレバーを握っていた航が振り向くと、
佳乃は「あの」と戸惑いがちに声を出す。
「このアパートの裏に、コインパーキングがあるんです」
「え?」
航は何を言われたのか理解できず、素っ頓狂な声を出すと、
佳乃はもじもじしながら言葉を続けた。
「そこに車を停めて、よかったら私の部屋に寄っていきませんか?
乾燥できる洗濯機があるから、服も洗って乾かして帰れるし」
「佳乃さん」
佳乃の言葉を途切るように航は大きな声を上げると、
航は首を曲げて車の中から顔を覗かせ、佳乃を凝視した。
「それってどう言う意味か、分かってて言ってるの?」
その言葉に、佳乃は思わず身体をびく、と震わせる。
何も答えることができず、リュックサックを抱える腕に力を込めて、
伏せた目で何度も瞬きをした。
怯えが見える佳乃の様子を眺めながら、航は厳しい表情のままでため息をついた。
「俺は佳乃さんを好きなんだよ?
そんな男を自分の部屋に入れるって、
どういうことか分かってるかって聞いてんの、俺は!」
ハンドルを平手で叩きつけて、苛立つような言葉を荒っぽく口にすると、
航は佳乃を上目遣いで見つめる。
いつもの穏和な航とは異なる様子に、佳乃は少々恐ろしさを覚えながらも、
こくんと頷いた。
「分かってます」
小さな声で返事をして、次第に頬を赤らめていく佳乃の顔を、
見てはいけないものを見たような気がして、航は思わず目を背ける。
そして「ドア、閉めて」と早口で言った。
佳乃が「え?」と顔を上げると、航は「ドア、閉めてよ、早く」と
正面を向いたままで、サイドブレーキを下げた。
「裏のパーキングに、車置いてくるから」
佳乃はほっとしたように少し硬い微笑みを浮かべ、ドアを閉めると、
車はゆっくりと動き出していった。新一粒神
ドア一枚隔てたところにある、洗濯機の回る音が微かに聞こえていたものの、
シャワーの音で全て打ち消されていく。
そして前に立ちはだかった航に壁に押しつけられ、
唇をこじ開けられるキスをされてしまえば、
この世の全ての音も景色も消え去っていく。
今、佳乃の前に存在しているのは、航だけだ。
その航が自分に愛しげな視線を向け、身体に触れてくれるだけで、
この世にあるもの全ての代わりになる。
そう思いながら、佳乃は航の乱暴なキスにのめり込み、
必死で航の舌に自分の舌を絡ませていく。
躊躇うことなく航の首に手を回し、時折苦しげに息を漏らしながらも、
航が佳乃の舌を吸い上げる度に、目を潤ませて身体を跳ね上げた。
「すごいな。何もしていないのに、もうぐちょぐちょだ」
佳乃の股間に滑り込ませた指で秘部を触りながら、航は真剣な表情で言う。
いつものようなからかいの色が見られないその言葉に、
佳乃は仄かな恥ずかしさを感じながらも、
そんな自分の欲情の証拠を隠す気にはならなかった。
これが今の自分の、航に対する気持ちを表しているとしか思えなかったからだ。
止めどなく愛液を垂れ流す襞の入口を、
焦らすようにそっと撫でる航の指の動きがもどかしく、
すぐにでも身体を繋げて、ずっと抱き締めてほしいとひたすら願っていた。
航と共にアパートの部屋へと帰ってきた佳乃は、
部屋のドアを閉めたと同時に、航とキスをした。
航の強い力に縛られるように、ドアに押し付けられて長いキスを続け、
それが終わると二人で雪崩れ込むようにサニタリーへと向かい、
脱いだ服を全て洗濯機の中に放り投げ、バスルームへと滑り込んだのだ。
そして二人でシャワーを浴びながらも、佳乃の皮膚の奥には、
池の中で航に抱き締められていた時の安心感と心地よさが、
洗い流されることなく、はっきりと残っている。
それがもっと欲しくて、佳乃は赤子のように航に手を伸ばし、抱いて、とせがむ。
逆上せたように顔を赤らめて瞳を滲ませた
いつもの冷たさの欠片もない幼い表情の佳乃を、
航は優しく目を細めて見つめると、彼女の肩に顎を乗せるようにして抱き締めた。
直接触れる航のしなやかな肌の感触が愛おしくて、
佳乃は航の背中に回した腕に力を込め、隙間もないほどに身体を密着させていく。
そんな佳乃の情熱に答えるように、航は数え切れないほどのキスを
佳乃の首筋に落とした。
熱い唇の感触はシャワーの水滴と混じり合い、佳乃の肌を刺激して、
湿った吐息を佳乃の口から吐き出させる。
ずっと待ち焦がれていた航の強い抱擁を、このまま味わい続けていたいと
佳乃は思っていたが、意地悪にも航の腕は佳乃から離れてしまう。
そして彼女の胸や股間へと伸ばされ、そこにある敏感な部分を強く刺激していった。
胸の先端と秘部にある突起を同時に弄られれば、佳乃は
腰を崩しそうになるほどに快感で震え、甘えたように「やぁん」と声を上げる。
その声の聞きたさだけで、航は何度も同じような愛撫を繰り返すと、
あっ、あん、と短い嬌声を、佳乃は絶えず喉を弾ませるように繰り出していく。
これまでの航との行為では、あまり喘ぎ声を出すことのなかった
佳乃の無垢な悦びの声に、航は嬉しさを感じて、
より大きな声を聞こうと、必死で佳乃の秘部を弄った。
股間の敏感な突起を指先で弾くと、
激しい快感を表すように何度も身体を張り詰めさせていく。
そして高い声を上げる彼女の襞の入口へと指を忍び込ませると、
内襞の動きと共に腰をくねらせ、譫言のように、
やぁ、だめ、あぁん、と叫び、涙を溜めた瞳で甘えるように航を見つめていた。
そんな航の指には、佳乃の快感を示す粘液が滴るほどに絡み付き、
彼女の太股に幾筋にもなって垂れ始めていた。
それにも佳乃は恥ずかしさを感じず、より自分の淫らさを引き出そうと、
航の指の、次なる動きを待ちかまえているかのようだった。
航はそんな佳乃の姿にいつも以上に心を擽られながらしゃがみ込み、
背中にシャワーの滴を浴びながら、佳乃の黒い茂みに唇を付けた。
そして佳乃の片足を持ち上げ、首を捻って、
太股にある愛液の流れた跡に舌を這わせる。
秘部を直接刺激している訳でもないのに、佳乃は顎を上げて苦しげに何度も喘ぎ、
ビクビクと身体を震わせた。
そして更に愛液の量を増やし、航を誘うような匂いを漂わせ始める。
お互いの火照った身体を冷ますべく、浴室を出て、
航に抱き抱えられてベッドに連れていかれると、
佳乃は寝そべったまま、航に行為の続きを求めるように腰を擦りつける。
その官能的な動きに、航も我慢ができず、仰向けになった佳乃の脚を開かせ、
急ぐように中へと昂りを挿入した。
襞の入口に減り込んできた硬い感触に、佳乃は、ぶる、と身体を震わせ、
もっと奥まで入れてほしくて、腰を動かす。
その動きに、航は嬉しそうに、ニヤ、と笑い、
焦らすように挿入のスピードを落としていく。
佳乃は何度も首を振り、早く早く、と急くように航の身体に手を伸ばした。
だが航は、挿入を半ばで止め、顔を上げて佳乃に微笑む。
意地悪そうなその顔に、佳乃は急にこみ上げてきた涙を抑えきれず、首を振った。
「ちゃんと、して」
「何が?」
航の問い掛けに、佳乃は子供のような口調で答える。
「奥まで、ちゃんと、ちょうだい」
その言葉を聞いた瞬間、昂りが一層張り詰めていくのを感じながらも、
航は佳乃の中から一旦昂りを引き抜いた。
名残惜しそうに食らいつく内襞の抵抗を感じながら昂りを引き擦り出すと、
航はベッドの上に膝を立てて座る。
恨めしそうな顔を見せる佳乃の視線にも航は悦びを感じながら、
横たわったままの佳乃の腕を持ち、上体を起こさせた。
「欲しいなら、自分で入れてみてよ」
そう言いながら佳乃を膝立ちにさせて招き、自分の股間の上を跨がせた。
熱り立つ航の昂りを目の前にして、佳乃は一瞬戸惑ったものの、
覚悟を決めたように航の昂りをそっと手で押さえ、自分の中へと誘うように
ゆっくりと腰を落としていく。
溢れる愛液で何度か滑りながらも、佳乃の入口へと昂りの先端が入ると、
後は簡単で、何の抵抗もなく佳乃の中へと埋め込まれていく。
佳乃の最奥にまで昂りが到達すると、佳乃は、はぁ、と熱い吐息を吐き出した。
自分の中を埋め尽くす彼の硬いものの感触を感じ、
悦ぶかのように包み込む佳乃の内襞が蠢く。
そこから痺れに似た快感が伝わって、
佳乃は全身の皮膚がぴくぴくと動くのを感じていた。
そんな昂りの圧迫感だけで恍惚の表情を浮かべる佳乃に、
航はいたずらっぽく笑いながら、腰を一回、強く上へと突き上げた。
これまで感じたことのない深い突き上げに、佳乃の身体が大げさなほどに揺れ、
佳乃はしがみつくように航の首に腕を巻き付ける。
それでも更なる快感を求めるように、ああん、やぁ、と声を上げながら、
無意識で腰を上下させる姿は、いつもの佳乃からは考えられないほど淫らに見えた。
ベッドサイドにあるスタンドが照らす薄暗い部屋で、
白い佳乃の曲線的な身体が浮かび上がり、
それが航の昂りの刺激を欲して揺らめいている。
そんな艶めかしい姿に刺激され、欲望を吐き出しそうになるものの、
航は歯を食い縛って何とか堪えた。
そして彼女の身体をもっと味わうかのように、
目の前に突き出された佳乃の胸の先端を口で啄む。
既に硬く凝り、真っ赤に染まったそこを優しく舐め、
唇で吸い上げ、時には優しく歯を立てると、佳乃は耐えきれなくなり、
航を押し倒すように体重をかけてくる。
それに耐えるべく、航は佳乃を抱き締めていた手を、佳乃のヒップへと動かした。
そして柔らかな肉に指を食い込ませて押さえつけると、
下から何度も突き上げた。
すると、佳乃の中が昂りの動きと一緒になって生き物のように蠢き、
口からは甘ったるい声が溢れさせていく。
「んぁ、やぁ、ん」
それと共に、彼女の動きに合わせて、二人の繋がった部分からは、
ぐちゅん、といやらしい音が響いてきた。蔵八宝
佳乃の奥へと強く叩きつけるようにストロークを長くして、
航は勢いよく昂りを突きつける。
佳乃は胸を突き出すように弓なりに仰け反り、その反動で再び強く航に凭れ掛かる。
航はその勢いを借りて、そのまま後ろへと倒れ、ベッドに寝そべると、
繋がったままの佳乃を上に乗せて、更に突き上げた。
佳乃は航の腹に手を突き、自分の感じる部分を探すように、
滑らかに腰を動かし、航を熱っぽい目で見つめていた。
そして内襞で航の昂りをきつく締め上げたかと思うと、
急に力を無くしたように佳乃は身体を倒し、航に覆い被さった。
重なった身体を括り付けるように、佳乃は航の身体とベッドの隙間から
手を入れ、航を抱き締めた。
そして小さな声で「お願い」と呟く。
「お願い、抱き締めて」
その言葉に応じて、航は佳乃の背中に手を回した。
掌を汗で濡れた肌の上に滑らせ、宥めるように佳乃の背中を撫でる。
航の胸元に佳乃の顔があり、彼女の深く焼けるような吐息がそこにかかると、
胸の奥まで焦がされてしまいそうだった。
その吐息の合間に、佳乃は再び小さな囁きを口にする。
「ずっとずっと、抱き締めていて」
その佳乃の願いに、航は悲しげな微笑みを浮かべながら、
彼女の背中に回した腕に力を込める。
するとお互いの湿った肌が張り付き、境目がなくなりそうになるのを感じてしまう。
そんな二人の身体が一つになるかのような幻想の中で、航は「佳乃さん」と、
佳乃の汗の匂いを感じながら呟いた。
「佳乃さんは、俺を好きになった?」
いつも通りのふざけるような口調の航に、佳乃は何故か
安心したような気持ちになり、顔を上げる。
しかしそこにあったのは、言葉とは裏腹な、これまで見たこともないような
航の悲しそうな顔だった。
今日、池で見た表情よりも、もっと深い悲しみを湛えた航の表情に、
佳乃はまた、幼い頃に見た父の顔を重ね合わせていく。
「俺は佳乃さんが好きだよ、ずっと」
航が口にした言葉は、とても情熱的で、嬉しいものであるにもかかわらず、
そんな悲しげな表情で言われては、佳乃はそれを素直に受け取ることができなかった。
自分が口にした「ずっと」という言葉と、航の言う「ずっと」が、
どちらも本当の意味としては
二人の間には存在しないような気がしていたからだ。
「ずっと」とは、いつまでのことなのか、
そしてその「ずっと」が果たされることがあるのか。
佳乃はそう考えていたが、彼の悲痛な顔を見つめていると、
これ以上彼の悲しみを深めることはしたくはない、とその考えを振り払う。
だが、こうして彼の優しい抱擁の中に居ることで、
佳乃は一つの想いに辿り着きそうだった。
幼い頃に池に落ちてしまい、それを助けてくれた父が見せた、
あの悲しげな表情は何だったのか、とずっと思い続けていた。
自分の子ではないと知っていたからこそ見せた顔ではないか、と
ずっと思い続けていたが、きっと違う。
こうして彼の胸の上で、彼の鼓動を聞いている今ならば、
あの表情の意味が分かるような気がするのだ。
航が言ってくれた言葉と、今の表情を心に沁みこませるように
彼の胸に顔を当てて、佳乃は話し出した。
「私ね、分かったことがあるの」
「何が?」
航が尋ねると、佳乃はて恥ずかしそうに笑う。
「昔、私が小さい頃に見た父の顔が、今日のあなたの顔にそっくりだった」
「それって、どういうこと?」
眉を顰めて訊く航に、佳乃は照れ笑いをしながら「内緒」と呟く。
「何だよ、教えてよ」
「いや」
航の胸に顔を擦り付けるようにして首を振ると、佳乃は目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶ、父のあの時の表情も、航の今日の顔も、
どちらも悲しげに見えたのは、
本物の「悲しさ」が生んだものではないだろう。
父は父で、あの時の佳乃を「自分の子ではない可哀想な子」といった
感情で見ていた訳ではないだろう。
航だって、単なる悲壮感から、佳乃にこんな悲しい顔を向けている訳ではない。
彼の言葉や態度からは、ちゃんと佳乃に対する愛情が感じられる。
父だって、父親としての愛情を、絶えず佳乃に惜しみなく向けてくれているではないか。
きっとこんな愛しさから生まれる、悲しみもあるのだ。
それは佳乃の行く末を案じるような、深い慈悲のような愛情だ。
それさえ分かれば、十分だった。
それさえ分かれば、自分も、そんな航の愛情に応えることができるだろう、と。
その後、佳乃は繋がったままの航から再び昂りで突き上げられ、
絶頂を迎えたのかも分からない混沌の中で、航とひたすら繋がっていた。
そして知らぬ間に航の胸の中で眠りについてしまうと、佳乃は不思議な夢を見た。
夢の中で、佳乃があの「最後の森」を、一人で歩いているのだ。
薄暗い「森」の奥には、あの池が見える。
そこを目指して足を進めていくと、その畔に人影が見えた。
誰か居るのか、と佳乃は目を凝らしながら池へと近づいていく。
ぼんやりとしていた姿がはっきりと目の前に現れると、それが浩司であると分かった。
ずっと会いたいと願っていた、夢の中での浩司の姿に佳乃は驚き、
思わず歩みを止めて立ち竦んでいると、浩司は生前のままのにこやかな顔で、
ゆっくりと佳乃へと歩み寄って来る。
浩司が佳乃の前で立ち止まると、佳乃は一歩足を進め、
ずっと言いたかった謝罪の言葉を口にしようとした。
しかし、浩司はこちらの心を読むかのように、それは不要、と
言わんばかりに首を振る。
そして一言、「よかったね」と呟いた。
その優しげな言葉が響いた瞬間、VIVID
指輪を填めた佳乃の右手の薬指の辺りが、突然軽くなる。
指だけでなく全身までも、重力を無くしたかのように
ふわりと浮いていきそうになった。
そんな佳乃を見て、浩司は心から嬉しそうに笑う。
「君が人を愛することができるようになって、本当によかった」
佳乃は何とか浩司に笑い返そうとしたが、上手くいかず、
戸惑いながら顔を俯けていると、「顔を上げて」と優しく浩司が言う。
それに応えて佳乃が顔を上げると、浩司は嬉しそうににっこりと笑った。
「君もいつか分かる日が来るよ、僕の気持ちが」
そう言い終えると、浩司はこちらに背を向け、森の奥へとゆっくりと足を進めていく。
佳乃は彼を追い掛けようと、前のめりになりながら駆け出した。
「浩司さん!」
声を上げるが、浩司は振り返らない。
浩司の歩みは遅いはずなのに、どんなに佳乃が必死で走っても追いつく気配がない。
どこまでも続く「森」の中を走り続けたが、
佳乃は脚の疲れを感じてとうとう立ち止まり、息を切らしながら前を見る。
次第に離れ、小さくなる浩司の後ろ姿に向かって、佳乃は声を振り絞った。
「浩司さん!」
それでも彼は振り返らず、真っ直ぐに木々の中を進んでいく。
佳乃はもう一度、大きな声で叫んだ。
「ごめんなさい!」
浩司がこちらを向いてはくれないことを知りながら、佳乃は叫び続けた。
「ありがとう!」
その言葉が森の中に響いた瞬間、浩司の姿は消えていった。
アパートの二階にある佳乃の部屋に灯る、ベッドサイドのスタンドの明かりが、
カーテンを通して、窓ガラス越しに外からでもよく見える。
その窓が一番見えやすい場所に停められた黒塗りの車の中で、
携帯電話の着信音が鳴り響く。
ダッシュボードの上に置いてあった携帯電話を、小島は手に取り、
液晶画面を確認した。
電話の主は、病院の医師だった。
娘の病気が治らず、入退院を繰り返していた頃は、病院からの電話に
何事か起こったのと逐一怯えていたものだったが、
またもやこんな心境に陥る日が来るとは。
小島は受話ボタンを押し、医師から簡単な状況説明を聞くと、素早く電話を切った。
そして携帯電話を元の位置に戻すと、疲れたように運転席のシートに凭れ掛かる。
どうしても今日は一人で行動したい、という航の運転する車を
パークタウンから尾行して、
佳乃のアパートに辿り着き、五時間ほどが経とうとしている。
このまま朝まで彼女の部屋から航が出て来ないようであれば、
航は彼女に本気で溺れていると思っていいだろう。
そうなれば、早めに手を打たなければいけない。
先ほどの医師から聞いた状況を頭で整理し、繰り返しながら、
小島は必死で自分に言い聞かせる。
残された時間は、あと僅かなのだ、と。強力催眠謎幻水
運転中の航はパワーウィンドウスイッチを片手で押した。
少し冷たさのある夜風が、五センチほど空いた窓の隙間から滑り込み、
佳乃の頬に当たる。韓国痩身1号
泣き腫らし、火照りの残る顔には、その冷たさが心地よかった。
助手席のシートに深く凭れ掛かった佳乃は、窓の外で流れていく夜の景色に
ぼんやりとした視線を向ける。
土曜日の夜らしく、家族連れやカップルの楽しげな姿が多く見える中で
光るネオンや車のテールライトに、眩しそうに目を細める。
風に当たり続けていると、濡れたままの服が冷やされてしまい、
身震いしそうになるが、それでもこの夜風に当たっていたかった。
ふと隣の運転席へと視線を移すと、航もまた、濡れたままの姿で
運転しているのが目に入る。
池の中で散々泣きじゃくった後、佳乃は航の手によって池から引き摺り上げられた。
お互いの手持ちのタオルでとりあえずの水分は取り除くことはできたものの、
二人とも着替えは持っておらず、結局濡れたままで帰る羽目になったのだ。
あの池の中で佳乃が泣き続けていた間、
航はずっと黙ったままで抱き締めてくれていた。
それは、どれぐらいの間だったのかは分からない。
もしかしたら数分のことだったかも知れないし、一時間以上経っていた可能性もある。
それでも航は何も言うことなく、ただ佳乃を胸の中に包み続けていたのだ。
航は車でパークタウンにやって来ていたこともあり、
こうして佳乃を送ってくれることになったのだが、
車の中でも彼は何も話そうとはしなかった。
今、黙々と運転をしている彼の横顔からも、何の感情も読み取ることはできない。
そして佳乃も、何も語る言葉は持っていなかった。
それでも分かるのは、池で抱き締め続けていてくれたことも、
何も話そうとしないのも、佳乃の心を落ち着かせようとする
航の優しさなのだ、ということだ。
彼はいつだって優しかったではないか、と佳乃はこれまで忘れていた、
優しさに対する感受性が蘇ったかのように再確認する。
彼が優しさを目の前で示しても、それを佳乃自身が受け入れるのを
拒否していただけなのだ。
彼の婚約者の存在や、社長である父親の跡を継ぐという彼の責務を
言い訳にはしてきたが、実のところ、
佳乃の心が彼という存在を無理矢理に拒否して続けていただけに過ぎない。
そんな航に対して、優しさには優しさを、
愛情には愛情を返すのが一番良いと知りながら、
その一歩を踏み出すことは、佳乃にとっては勇気の要ることだった。
本当の子ではない自分を育てた父、
そして愛情を持っていなかった自分の代わりに死んだ浩司。
その二人の、己が愛する相手のために殉じるかのような行為に、
佳乃はずっと罪悪感を抱えてきたからだ。
それは航の言うところの、恋愛というゲームの敗北者の成せる業なのだろうか?
より多く好きになってしまった方が負けで、
負けた人間は相手に全てを捧げなくてはいけない、というルールが
そのゲームに存在するならば、佳乃は勝つのも、負けるのも嫌だった。
相手に全てを捧げられたとしても、自分がそれほどの価値のある人間とは思えないし、
そんな価値のない自分が全てを捧げたところで、
相手に何か喜ばしいことが発生するとも思えなかった。
それでも、今ならそんな考えや理屈を抜きにして、
彼に縋れるのかも知れない、と思っていた。
いや違う、私は彼に縋りたいのだ、と髪を風に煽られながら、
佳乃ははっきりと実感する。
池の中でずっと抱き締められていた、あの心地よさは、
身体だけで感じられるものではなかった。
それは佳乃の空っぽだった心をも癒し、温かなもので満たしてくれたのだ。
あの穏やかな温もりをもう一度味わえるなら、と佳乃は航の横顔を見つめ続けていた。
カーナビから杉並区内に入ったことを知らせるアナウンスが流れ、
それに従って航はハンドルを回し、大きな交差点を曲がっていく。
そして通り沿いに進み、佳乃の住むアパートへと車を走らせていった。
アパートの前に車が辿り着くと、航は車を停止させてサイドブレーキを引く。
佳乃はゆっくりと身体を上げて後ろの座席へと手を伸ばし、
そこに置いてあったリュックサックを取り上げ、ドアのロックを外した。
「ありがとうございました」
佳乃は頭を下げるが、航は何も反応せず、
フロントグラスの先を見つめるように正面を向いたままだった。
佳乃はドアを開けて車を降り、もう一度「ありがとうござました」と一礼する。
すると航はやっとこちらを振り向き、「佳乃さん」と声を掛けた。
だが、言葉はそれ以上続かず、航は佳乃を見たままで、
こみあげる感情を必死で堪えるような顔をしている。
佳乃は抱えたリュックサックを強く胸に押しつけながらドアを閉めようとしたが、
心の中にある一つの想いを、このままにしておいていいものか、とも思っていた。
そして航も、そんな佳乃の思いに何となく気づいているのではないか、と。
それでも佳乃は、その想いを振り切るようにドアに掛けた手を押し動かした。
しかし、手からは自然と力が失せていく。
宙ぶらりんな佳乃の心を表すかのように、半開きになったドアを見つめながら、
佳乃は思い切ったように口を引き締め、
手に力を込めて再びドアを開いて車の中を覗き込む。
「樋口さん」
その声に、サイドブレーキのレバーを握っていた航が振り向くと、
佳乃は「あの」と戸惑いがちに声を出す。
「このアパートの裏に、コインパーキングがあるんです」
「え?」
航は何を言われたのか理解できず、素っ頓狂な声を出すと、
佳乃はもじもじしながら言葉を続けた。
「そこに車を停めて、よかったら私の部屋に寄っていきませんか?
乾燥できる洗濯機があるから、服も洗って乾かして帰れるし」
「佳乃さん」
佳乃の言葉を途切るように航は大きな声を上げると、
航は首を曲げて車の中から顔を覗かせ、佳乃を凝視した。
「それってどう言う意味か、分かってて言ってるの?」
その言葉に、佳乃は思わず身体をびく、と震わせる。
何も答えることができず、リュックサックを抱える腕に力を込めて、
伏せた目で何度も瞬きをした。
怯えが見える佳乃の様子を眺めながら、航は厳しい表情のままでため息をついた。
「俺は佳乃さんを好きなんだよ?
そんな男を自分の部屋に入れるって、
どういうことか分かってるかって聞いてんの、俺は!」
ハンドルを平手で叩きつけて、苛立つような言葉を荒っぽく口にすると、
航は佳乃を上目遣いで見つめる。
いつもの穏和な航とは異なる様子に、佳乃は少々恐ろしさを覚えながらも、
こくんと頷いた。
「分かってます」
小さな声で返事をして、次第に頬を赤らめていく佳乃の顔を、
見てはいけないものを見たような気がして、航は思わず目を背ける。
そして「ドア、閉めて」と早口で言った。
佳乃が「え?」と顔を上げると、航は「ドア、閉めてよ、早く」と
正面を向いたままで、サイドブレーキを下げた。
「裏のパーキングに、車置いてくるから」
佳乃はほっとしたように少し硬い微笑みを浮かべ、ドアを閉めると、
車はゆっくりと動き出していった。新一粒神
ドア一枚隔てたところにある、洗濯機の回る音が微かに聞こえていたものの、
シャワーの音で全て打ち消されていく。
そして前に立ちはだかった航に壁に押しつけられ、
唇をこじ開けられるキスをされてしまえば、
この世の全ての音も景色も消え去っていく。
今、佳乃の前に存在しているのは、航だけだ。
その航が自分に愛しげな視線を向け、身体に触れてくれるだけで、
この世にあるもの全ての代わりになる。
そう思いながら、佳乃は航の乱暴なキスにのめり込み、
必死で航の舌に自分の舌を絡ませていく。
躊躇うことなく航の首に手を回し、時折苦しげに息を漏らしながらも、
航が佳乃の舌を吸い上げる度に、目を潤ませて身体を跳ね上げた。
「すごいな。何もしていないのに、もうぐちょぐちょだ」
佳乃の股間に滑り込ませた指で秘部を触りながら、航は真剣な表情で言う。
いつものようなからかいの色が見られないその言葉に、
佳乃は仄かな恥ずかしさを感じながらも、
そんな自分の欲情の証拠を隠す気にはならなかった。
これが今の自分の、航に対する気持ちを表しているとしか思えなかったからだ。
止めどなく愛液を垂れ流す襞の入口を、
焦らすようにそっと撫でる航の指の動きがもどかしく、
すぐにでも身体を繋げて、ずっと抱き締めてほしいとひたすら願っていた。
航と共にアパートの部屋へと帰ってきた佳乃は、
部屋のドアを閉めたと同時に、航とキスをした。
航の強い力に縛られるように、ドアに押し付けられて長いキスを続け、
それが終わると二人で雪崩れ込むようにサニタリーへと向かい、
脱いだ服を全て洗濯機の中に放り投げ、バスルームへと滑り込んだのだ。
そして二人でシャワーを浴びながらも、佳乃の皮膚の奥には、
池の中で航に抱き締められていた時の安心感と心地よさが、
洗い流されることなく、はっきりと残っている。
それがもっと欲しくて、佳乃は赤子のように航に手を伸ばし、抱いて、とせがむ。
逆上せたように顔を赤らめて瞳を滲ませた
いつもの冷たさの欠片もない幼い表情の佳乃を、
航は優しく目を細めて見つめると、彼女の肩に顎を乗せるようにして抱き締めた。
直接触れる航のしなやかな肌の感触が愛おしくて、
佳乃は航の背中に回した腕に力を込め、隙間もないほどに身体を密着させていく。
そんな佳乃の情熱に答えるように、航は数え切れないほどのキスを
佳乃の首筋に落とした。
熱い唇の感触はシャワーの水滴と混じり合い、佳乃の肌を刺激して、
湿った吐息を佳乃の口から吐き出させる。
ずっと待ち焦がれていた航の強い抱擁を、このまま味わい続けていたいと
佳乃は思っていたが、意地悪にも航の腕は佳乃から離れてしまう。
そして彼女の胸や股間へと伸ばされ、そこにある敏感な部分を強く刺激していった。
胸の先端と秘部にある突起を同時に弄られれば、佳乃は
腰を崩しそうになるほどに快感で震え、甘えたように「やぁん」と声を上げる。
その声の聞きたさだけで、航は何度も同じような愛撫を繰り返すと、
あっ、あん、と短い嬌声を、佳乃は絶えず喉を弾ませるように繰り出していく。
これまでの航との行為では、あまり喘ぎ声を出すことのなかった
佳乃の無垢な悦びの声に、航は嬉しさを感じて、
より大きな声を聞こうと、必死で佳乃の秘部を弄った。
股間の敏感な突起を指先で弾くと、
激しい快感を表すように何度も身体を張り詰めさせていく。
そして高い声を上げる彼女の襞の入口へと指を忍び込ませると、
内襞の動きと共に腰をくねらせ、譫言のように、
やぁ、だめ、あぁん、と叫び、涙を溜めた瞳で甘えるように航を見つめていた。
そんな航の指には、佳乃の快感を示す粘液が滴るほどに絡み付き、
彼女の太股に幾筋にもなって垂れ始めていた。
それにも佳乃は恥ずかしさを感じず、より自分の淫らさを引き出そうと、
航の指の、次なる動きを待ちかまえているかのようだった。
航はそんな佳乃の姿にいつも以上に心を擽られながらしゃがみ込み、
背中にシャワーの滴を浴びながら、佳乃の黒い茂みに唇を付けた。
そして佳乃の片足を持ち上げ、首を捻って、
太股にある愛液の流れた跡に舌を這わせる。
秘部を直接刺激している訳でもないのに、佳乃は顎を上げて苦しげに何度も喘ぎ、
ビクビクと身体を震わせた。
そして更に愛液の量を増やし、航を誘うような匂いを漂わせ始める。
お互いの火照った身体を冷ますべく、浴室を出て、
航に抱き抱えられてベッドに連れていかれると、
佳乃は寝そべったまま、航に行為の続きを求めるように腰を擦りつける。
その官能的な動きに、航も我慢ができず、仰向けになった佳乃の脚を開かせ、
急ぐように中へと昂りを挿入した。
襞の入口に減り込んできた硬い感触に、佳乃は、ぶる、と身体を震わせ、
もっと奥まで入れてほしくて、腰を動かす。
その動きに、航は嬉しそうに、ニヤ、と笑い、
焦らすように挿入のスピードを落としていく。
佳乃は何度も首を振り、早く早く、と急くように航の身体に手を伸ばした。
だが航は、挿入を半ばで止め、顔を上げて佳乃に微笑む。
意地悪そうなその顔に、佳乃は急にこみ上げてきた涙を抑えきれず、首を振った。
「ちゃんと、して」
「何が?」
航の問い掛けに、佳乃は子供のような口調で答える。
「奥まで、ちゃんと、ちょうだい」
その言葉を聞いた瞬間、昂りが一層張り詰めていくのを感じながらも、
航は佳乃の中から一旦昂りを引き抜いた。
名残惜しそうに食らいつく内襞の抵抗を感じながら昂りを引き擦り出すと、
航はベッドの上に膝を立てて座る。
恨めしそうな顔を見せる佳乃の視線にも航は悦びを感じながら、
横たわったままの佳乃の腕を持ち、上体を起こさせた。
「欲しいなら、自分で入れてみてよ」
そう言いながら佳乃を膝立ちにさせて招き、自分の股間の上を跨がせた。
熱り立つ航の昂りを目の前にして、佳乃は一瞬戸惑ったものの、
覚悟を決めたように航の昂りをそっと手で押さえ、自分の中へと誘うように
ゆっくりと腰を落としていく。
溢れる愛液で何度か滑りながらも、佳乃の入口へと昂りの先端が入ると、
後は簡単で、何の抵抗もなく佳乃の中へと埋め込まれていく。
佳乃の最奥にまで昂りが到達すると、佳乃は、はぁ、と熱い吐息を吐き出した。
自分の中を埋め尽くす彼の硬いものの感触を感じ、
悦ぶかのように包み込む佳乃の内襞が蠢く。
そこから痺れに似た快感が伝わって、
佳乃は全身の皮膚がぴくぴくと動くのを感じていた。
そんな昂りの圧迫感だけで恍惚の表情を浮かべる佳乃に、
航はいたずらっぽく笑いながら、腰を一回、強く上へと突き上げた。
これまで感じたことのない深い突き上げに、佳乃の身体が大げさなほどに揺れ、
佳乃はしがみつくように航の首に腕を巻き付ける。
それでも更なる快感を求めるように、ああん、やぁ、と声を上げながら、
無意識で腰を上下させる姿は、いつもの佳乃からは考えられないほど淫らに見えた。
ベッドサイドにあるスタンドが照らす薄暗い部屋で、
白い佳乃の曲線的な身体が浮かび上がり、
それが航の昂りの刺激を欲して揺らめいている。
そんな艶めかしい姿に刺激され、欲望を吐き出しそうになるものの、
航は歯を食い縛って何とか堪えた。
そして彼女の身体をもっと味わうかのように、
目の前に突き出された佳乃の胸の先端を口で啄む。
既に硬く凝り、真っ赤に染まったそこを優しく舐め、
唇で吸い上げ、時には優しく歯を立てると、佳乃は耐えきれなくなり、
航を押し倒すように体重をかけてくる。
それに耐えるべく、航は佳乃を抱き締めていた手を、佳乃のヒップへと動かした。
そして柔らかな肉に指を食い込ませて押さえつけると、
下から何度も突き上げた。
すると、佳乃の中が昂りの動きと一緒になって生き物のように蠢き、
口からは甘ったるい声が溢れさせていく。
「んぁ、やぁ、ん」
それと共に、彼女の動きに合わせて、二人の繋がった部分からは、
ぐちゅん、といやらしい音が響いてきた。蔵八宝
佳乃の奥へと強く叩きつけるようにストロークを長くして、
航は勢いよく昂りを突きつける。
佳乃は胸を突き出すように弓なりに仰け反り、その反動で再び強く航に凭れ掛かる。
航はその勢いを借りて、そのまま後ろへと倒れ、ベッドに寝そべると、
繋がったままの佳乃を上に乗せて、更に突き上げた。
佳乃は航の腹に手を突き、自分の感じる部分を探すように、
滑らかに腰を動かし、航を熱っぽい目で見つめていた。
そして内襞で航の昂りをきつく締め上げたかと思うと、
急に力を無くしたように佳乃は身体を倒し、航に覆い被さった。
重なった身体を括り付けるように、佳乃は航の身体とベッドの隙間から
手を入れ、航を抱き締めた。
そして小さな声で「お願い」と呟く。
「お願い、抱き締めて」
その言葉に応じて、航は佳乃の背中に手を回した。
掌を汗で濡れた肌の上に滑らせ、宥めるように佳乃の背中を撫でる。
航の胸元に佳乃の顔があり、彼女の深く焼けるような吐息がそこにかかると、
胸の奥まで焦がされてしまいそうだった。
その吐息の合間に、佳乃は再び小さな囁きを口にする。
「ずっとずっと、抱き締めていて」
その佳乃の願いに、航は悲しげな微笑みを浮かべながら、
彼女の背中に回した腕に力を込める。
するとお互いの湿った肌が張り付き、境目がなくなりそうになるのを感じてしまう。
そんな二人の身体が一つになるかのような幻想の中で、航は「佳乃さん」と、
佳乃の汗の匂いを感じながら呟いた。
「佳乃さんは、俺を好きになった?」
いつも通りのふざけるような口調の航に、佳乃は何故か
安心したような気持ちになり、顔を上げる。
しかしそこにあったのは、言葉とは裏腹な、これまで見たこともないような
航の悲しそうな顔だった。
今日、池で見た表情よりも、もっと深い悲しみを湛えた航の表情に、
佳乃はまた、幼い頃に見た父の顔を重ね合わせていく。
「俺は佳乃さんが好きだよ、ずっと」
航が口にした言葉は、とても情熱的で、嬉しいものであるにもかかわらず、
そんな悲しげな表情で言われては、佳乃はそれを素直に受け取ることができなかった。
自分が口にした「ずっと」という言葉と、航の言う「ずっと」が、
どちらも本当の意味としては
二人の間には存在しないような気がしていたからだ。
「ずっと」とは、いつまでのことなのか、
そしてその「ずっと」が果たされることがあるのか。
佳乃はそう考えていたが、彼の悲痛な顔を見つめていると、
これ以上彼の悲しみを深めることはしたくはない、とその考えを振り払う。
だが、こうして彼の優しい抱擁の中に居ることで、
佳乃は一つの想いに辿り着きそうだった。
幼い頃に池に落ちてしまい、それを助けてくれた父が見せた、
あの悲しげな表情は何だったのか、とずっと思い続けていた。
自分の子ではないと知っていたからこそ見せた顔ではないか、と
ずっと思い続けていたが、きっと違う。
こうして彼の胸の上で、彼の鼓動を聞いている今ならば、
あの表情の意味が分かるような気がするのだ。
航が言ってくれた言葉と、今の表情を心に沁みこませるように
彼の胸に顔を当てて、佳乃は話し出した。
「私ね、分かったことがあるの」
「何が?」
航が尋ねると、佳乃はて恥ずかしそうに笑う。
「昔、私が小さい頃に見た父の顔が、今日のあなたの顔にそっくりだった」
「それって、どういうこと?」
眉を顰めて訊く航に、佳乃は照れ笑いをしながら「内緒」と呟く。
「何だよ、教えてよ」
「いや」
航の胸に顔を擦り付けるようにして首を振ると、佳乃は目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶ、父のあの時の表情も、航の今日の顔も、
どちらも悲しげに見えたのは、
本物の「悲しさ」が生んだものではないだろう。
父は父で、あの時の佳乃を「自分の子ではない可哀想な子」といった
感情で見ていた訳ではないだろう。
航だって、単なる悲壮感から、佳乃にこんな悲しい顔を向けている訳ではない。
彼の言葉や態度からは、ちゃんと佳乃に対する愛情が感じられる。
父だって、父親としての愛情を、絶えず佳乃に惜しみなく向けてくれているではないか。
きっとこんな愛しさから生まれる、悲しみもあるのだ。
それは佳乃の行く末を案じるような、深い慈悲のような愛情だ。
それさえ分かれば、十分だった。
それさえ分かれば、自分も、そんな航の愛情に応えることができるだろう、と。
その後、佳乃は繋がったままの航から再び昂りで突き上げられ、
絶頂を迎えたのかも分からない混沌の中で、航とひたすら繋がっていた。
そして知らぬ間に航の胸の中で眠りについてしまうと、佳乃は不思議な夢を見た。
夢の中で、佳乃があの「最後の森」を、一人で歩いているのだ。
薄暗い「森」の奥には、あの池が見える。
そこを目指して足を進めていくと、その畔に人影が見えた。
誰か居るのか、と佳乃は目を凝らしながら池へと近づいていく。
ぼんやりとしていた姿がはっきりと目の前に現れると、それが浩司であると分かった。
ずっと会いたいと願っていた、夢の中での浩司の姿に佳乃は驚き、
思わず歩みを止めて立ち竦んでいると、浩司は生前のままのにこやかな顔で、
ゆっくりと佳乃へと歩み寄って来る。
浩司が佳乃の前で立ち止まると、佳乃は一歩足を進め、
ずっと言いたかった謝罪の言葉を口にしようとした。
しかし、浩司はこちらの心を読むかのように、それは不要、と
言わんばかりに首を振る。
そして一言、「よかったね」と呟いた。
その優しげな言葉が響いた瞬間、VIVID
指輪を填めた佳乃の右手の薬指の辺りが、突然軽くなる。
指だけでなく全身までも、重力を無くしたかのように
ふわりと浮いていきそうになった。
そんな佳乃を見て、浩司は心から嬉しそうに笑う。
「君が人を愛することができるようになって、本当によかった」
佳乃は何とか浩司に笑い返そうとしたが、上手くいかず、
戸惑いながら顔を俯けていると、「顔を上げて」と優しく浩司が言う。
それに応えて佳乃が顔を上げると、浩司は嬉しそうににっこりと笑った。
「君もいつか分かる日が来るよ、僕の気持ちが」
そう言い終えると、浩司はこちらに背を向け、森の奥へとゆっくりと足を進めていく。
佳乃は彼を追い掛けようと、前のめりになりながら駆け出した。
「浩司さん!」
声を上げるが、浩司は振り返らない。
浩司の歩みは遅いはずなのに、どんなに佳乃が必死で走っても追いつく気配がない。
どこまでも続く「森」の中を走り続けたが、
佳乃は脚の疲れを感じてとうとう立ち止まり、息を切らしながら前を見る。
次第に離れ、小さくなる浩司の後ろ姿に向かって、佳乃は声を振り絞った。
「浩司さん!」
それでも彼は振り返らず、真っ直ぐに木々の中を進んでいく。
佳乃はもう一度、大きな声で叫んだ。
「ごめんなさい!」
浩司がこちらを向いてはくれないことを知りながら、佳乃は叫び続けた。
「ありがとう!」
その言葉が森の中に響いた瞬間、浩司の姿は消えていった。
アパートの二階にある佳乃の部屋に灯る、ベッドサイドのスタンドの明かりが、
カーテンを通して、窓ガラス越しに外からでもよく見える。
その窓が一番見えやすい場所に停められた黒塗りの車の中で、
携帯電話の着信音が鳴り響く。
ダッシュボードの上に置いてあった携帯電話を、小島は手に取り、
液晶画面を確認した。
電話の主は、病院の医師だった。
娘の病気が治らず、入退院を繰り返していた頃は、病院からの電話に
何事か起こったのと逐一怯えていたものだったが、
またもやこんな心境に陥る日が来るとは。
小島は受話ボタンを押し、医師から簡単な状況説明を聞くと、素早く電話を切った。
そして携帯電話を元の位置に戻すと、疲れたように運転席のシートに凭れ掛かる。
どうしても今日は一人で行動したい、という航の運転する車を
パークタウンから尾行して、
佳乃のアパートに辿り着き、五時間ほどが経とうとしている。
このまま朝まで彼女の部屋から航が出て来ないようであれば、
航は彼女に本気で溺れていると思っていいだろう。
そうなれば、早めに手を打たなければいけない。
先ほどの医師から聞いた状況を頭で整理し、繰り返しながら、
小島は必死で自分に言い聞かせる。
残された時間は、あと僅かなのだ、と。強力催眠謎幻水
2012年7月24日星期二
心配娘と子どものお世話
「カオルちゃ~ん、タカヒロちゃんが困ってるみたいよ~? うりうり、どうするの?」
タカヒロが下級区のブライト孤児院の世話を任されてニ日目、お母さんが私をつつきながら変な事を言い出した。V26Ⅳ美白美肌速効
「困ってるって……なにが?」
子どものお世話は大変だと思うけど、しっかり者のユミィちゃんも付いているんだ。それに、孤児院に住んでいるクルちゃんもお手伝いしているはずだ。よっぽどのことがない限り、困ったことにはならないはずなんじゃ……?
「それがね、お母さん、さっき朝市で大荷物抱えたタカヒロちゃんと出会ってね。もう、びっくり! ブライト孤児院なんだけど、子どもが十九人もいるんだって!」
「ええっ!?」
そんなにいたの!? クルちゃんしか見たことないから、いても十人ぐらいだと……十九人って、大家族どころの人数じゃないよ!
「タカヒロちゃんもね、なんだかぐったりしてて……誰か助けてくれないかな~、って言ってたよ」
「タカヒロが……」
気だるげなのはいつものことだけど、十九人の子どもたちのお世話となると、本当に疲れているんだろう。お爺ちゃんのところにいたころは、叔父さんの子どもたちの面倒をみていたからよく分かる。タカヒロとユミィちゃんだけでどうにかなるとは思えない。
「わ、私、ちょっと見てくるね!」
「は~い、行ってらっしゃ~い」
にやにやにと笑うお母さんをそのままに、居ても立ってもいられなくなった私は家を飛び出していった。
(きっと、ご飯なんて適当に済ませちゃってるんだ。洗濯はしてるのかな。掃除だってしなくちゃいけないのに……)
自分のこともままならないタカヒロが十九人もの子どものお世話をするなんて、正直、不安でたまらない。しっかり者のユミィちゃんがいるから大丈夫だとは思うけど、あの子だってまだまだ小さい子どもだ。一人じゃ面倒を見切れないだろう。
(なんでそんな依頼受けるかな~……)
これだけ大きな仕事だ。従業員のユミィちゃんじゃなくて、店主であるタカヒロが直々に受けたものだろう。ユミィちゃんは、受けた仕事はきっちりこなすタイプだ。タカヒロが持ってきた仕事を、断るに断れなかったに違いない。こういう時は、素直に頼ってくれてもいいのに……。
(えっと、ここを曲がればすぐだよね)
ブライト孤児院は、どうやら下級区ではそれなりに有名らしく、屋台のおじさんたちに話を聞いて歩くだけですぐに辿り着くことができそうだった。大通りから外れ、今いる住宅街の通りの中ほどを曲がれば、孤児院はすぐそこだという。
それにしても、下級区は中級区よりもゴミゴミとしているイメージがあったのだけど、そんなことは全然ない。今も、小太りなおじさんがドブをさらっては綺麗にしている。漁港が近いからか、磯臭さや魚臭さは少しばかり強めだけど、私だって下町の人間だ。そんなに気にはならない。
(思ってたほど酷くはないのね)
この街に越してきて一年も経っていないからあまりよくは知らなかったけど、下級区って言っても話に聞くスラムみたいなものじゃないんだ。クルちゃんたちはそんな所に住んでて大丈夫かな、って思っていたけれど、これなら心配ないだろう。
ここに住んでいる子どもたちが笑いながら走り去っていく。おばさんたちがおしゃべりしながらたむろしている。どこからともなくピッ、ピッって、規則正しい笛の音が聞こえてくる。きっと、港に届いた魚をどこかへ運んでいるんだ。こんな雰囲気、私、好きだな。
なんだか焦っていた心が穏やかになっていく。そうだ、こんな場所なら、みんな助け合って生活しているだろう。きっと、タカヒロたちも大丈夫。
そう思って、孤児院へ続く曲がり角を曲がった。すると、私の眼には、和やかな孤児院の風景が……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
「……ケビン、手が止まっていますよ」
「はい……」(ガタガタ)
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
「……ニーナ、もっと丁寧に」
「は、はいっ!」(ビクッ!)
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
「……タウ、手間取っていますね。手伝いましょうか?」
「だ、大丈夫!」(ブンブン)
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。
「あ、あれ?」
目の前に広がった孤児院の前庭は、魚やイカを吊り下げた物干し台がずらりと並んでいた。奥では、肉も干しているようだ。子どもたちが、一糸乱れぬ動きで干物とするものを並べていく光景は壮観と言える。
で、でも、何だか、子どもたちの目が死んだ魚のような……?
「……こんにちは、カオルさん」
「ひゃっ!? あ、あぁ、ユミィちゃんね、こんにちは」
いつの間に傍に来たのか……首からホイッスルを下げたユミィちゃんが、相変わらずの無表情で立っていた。
「え、えっと、ユミィちゃん、これ、何やってるの?」
「……はい、冬の仕事の保存食作りです。ブライト孤児院において、十より上の子どもは、全員この作業に従事する決まりだそうです」
「そうなの……」
私はてっきり、強制労働の現場かと……言われてみれば、十九人もの人数を抱えた孤児院だもの。肉や魚が安い内に買い込んで、冬に干しておくのはそう間違ったことじゃない。お爺ちゃん家にいた頃は、私だってドライフルーツ作りを手伝っていた。でも……。
「保存食作りって、もうちょっと楽しくやるもんじゃないの?」
仕事じゃなくて、家庭での保存食作りは、おしゃべりしながらわいわいと作るもののはず……だよね? ここ、工場とかじゃないよね? 目の前の光景に、いまいち自信を持って断言できない私に、ユミィちゃんはこう言う。
「……それが理想的なのでしょう。ですが、いつまで経っても作業が進まないので、遺憾ながら私が指導役となりました。その結果、作業効率は四倍まで上がりました。これで保存食には当分困りません。素早くやり終えれば、空けることができた時間で楽しく遊ぶこともできるので、子どもたちも満足だと思います……ですよね?」
「「「はい、ユミエルさん!」」」
「……と、いうわけです」
「え、あ、う、うん……いや、ダメだよ!?」
妙な説得力に流されそうになるけど、ここは否定しておくべきだ。ちっちゃい子相手に、効率なんて求めるものじゃない。長い目で成長を見守ってあげなくちゃ。
「……ダメ、ですか? 一体何が……?」
ユミィちゃんは悪気のなさそうな顔をしている……いや、いつも同じ表情だけどさ! それでも、悪意を持って子どもと接しているようには思えない。きっと、本当によかれと思ってやっているのだろう。
「いい、ユミィちゃん。まだ子どもばっかりだもの。楽しくおしゃべりでもしながらやった方が、この子たちのやる気も上がると思うよ? 無理やりやらせたらそりゃあはかどると思うけど、それじゃあダメなの。きっと、お手伝いが嫌いな子になっちゃうよ」
「……なんと」男根増長素
「確かに、所々でビシッと注意してあげるのは必要だと思うけど、ずっとその調子じゃあ気疲れしちゃうよ。だよね?」
ぶんぶんと首を縦に振る子どもたち。それを見て、ユミィちゃんは僅かに目を見開く。
「……そう、だったのですか。それならもっと早く言ってくれればよかったのに」
あぁ、子どもたちの顔が引きつってる……「怖くて言えなかったんだよ!」って言葉が伝わってくるようだ。ユミィちゃん、仕事の時は厳しいからねえ……。
「さって、みんな、おしゃべりぐらいならしててもいいよ? でも、お手伝いはちゃんと終わらせること! いい?」
「「「は~い!」」」
そして、呪縛が解けたように砕けた様子で、思い思いの場所へと移動していく子どもたち。うん、しゃべりながらもお手伝いをしようとしている。これなら大丈夫だろう。
「……カオルさん、教えてくださってありがとうございます。私はどうにも一般常識に疎くて」
「ううん、しょうがないよ」
奴隷だったんだから、という言葉は言わない。本人にしてみたら言われなくても分かっていることだし、今のユミィちゃんはタカヒロの家族だ。常識が足りていないのも、これからゆっくり覚えていけばいい。
それが言葉にしなくても伝わるように、小柄なこの子の頭を優しく撫でてあげる。
「……なんですか?」
「ううん、なんでも。そうだ、タカヒロって、今、どこにいるの?」
「……ご主人さまですか。それなら、一階のリビングで小さい子たちの面倒を見ておられます。玄関から入って突き当たりです」
「そっか、ありがと」
最後に一度、なでなでしてあげてから玄関へ向かう。一階突き当たりね、よーし! きっと、タカヒロはちっちゃい子のお世話にあたふたしていることだろう。早く行って助けてあげよう。どこか頼りない感じがするからなぁ、タカヒロって。
「やめてくれぇぇ~……!」
「きゃはは! へんな顔~!」
「おうまさん、ちゃんとはしって!」
「わんわん!」
「クルミア、おまえデカイんだから、のっかるなよ~!」
「ゴルディとどっちがはやいかきょうそうだ~」
「わん!」
「助けてぇ……!」
あぁ、うん。
想像以上に混沌としてた。
総勢九人(+ゴルディ)ものちっちゃい子たちに纏わりつかれたタカヒロが、木張りの床に転がっている。その顔をわんこたちがぺろぺろと舐めまわし、四肢や胴には子どもたちがしがみついたりのっかったりして動くに動けない状況だ。
「あ、カオル、助けてくれ!」
仰向けのまま、私へと視線を向けるタカヒロ。どうしようもなく情けない顔をしている。まったく、もう……。
「はいは~い、あなた達、ちょっとどきなさ~い」
一人一人、タカヒロにしがみついたちびっ子たちを抱え上げて外していく。クルちゃん以外は初対面だ。きょとんとして、見慣れない私を見上げている。
「ふ~、助かったわ……」
やがて、むくりと起き上るタカヒロ。ボサボサの髪を更に乱れさせ、顔中よだれでべとべとだ。
「も~、なにやってるの」
見てはいられず、ぴょこぴょことはねた髪を撫でつけてあげ、ハンカチで顔を拭ってあげる。タカヒロは「いいよ、これぐらい」と逃げようとするけれど、子どもたちの前だ。あんまりだらしがない姿は見せるべきじゃないと思う。
「はい、おしまい」
ささっと、見苦しくない程度に整えてあげた。うん、これなら大丈夫かな……ん? 狐みたいな耳の女の子が、服の裾を引っ張ってくる。何だろう?
「ね~ね~、お姉ちゃん、お兄ちゃんのおよめさん?」
「なっ!?」
「およめさん」って、あの「お嫁さん」!? おにいちゃんってタカヒロのこと!?
「ち、違うよっ!」
「え~、だって、仲いいでしょ?」
「タカ、ケッコンしてたんだ~!」
「わぅ!? わんわん!」
やいのやいのと騒ぎ出す子どもたち。私が否定すればするほど、面白がってからかってくる。タカヒロも、「あ~、違うぞ、お前ら」と言ってはいるけど、誰も聞いていない。
わいわいと、思い思いに考えたことをそのまま口にする子どもたち。この騒ぎは彼らが飽きるまで、ずいぶんと長いこと続いた。
あ~、なんだか妙に焦っちゃった……ふぅ。
「で、朝ごはんはちゃんと食べさせてあげたの?」
ここから、本来の目的の始まりだ。ちゃんとお世話はできているんだろうか……心配だ。しっかり確認しなくては。
「あぁ、ユミィとガキどもが、雑穀のポリッジ作ってた。あっ、俺は昨日ちゃんと飯作ったからな! ホントだぞ? な~?」
「な~?」
膝の上に乗せた、七歳の男の子(テオって名前だそうだ)が嬉しそうに頷いているところから、本当のことなんだろう。
「じゃあ、洗濯は?」
「さっき済ませた」
「掃除は?」
「ユミィたちが済ませた」
「むむむ……」
なんだ、案外ちゃんとやってるみたいだ。これなら、私が来た意味が……。なんだか、拍子抜けしちゃった。
「は~、じゃあ、お昼の準備もできているよね?」
これだけきっちりやっているなら、当然、出来ているんだろう。もう、帰ろうかな……。
「昼……? やべっ、もうこんな時間か!?」
「ん?」
昼、と聞いたタカヒロの顔が、段々青くなっていく……あれ? もしかして?
「ガキどもに弄ばれて、全然準備してねえ……や、やべえ、ユミィに殺される……! た、助けてカオルも~ん!」
テオを脇にどけて平伏するタカヒロ。あぁ、やっぱりこの人はどこか抜けているなぁ。いざという所で頼りないというか……うん、しょうがない。元々そのつもりで来たし、助けてあげよう!
「はいはい、さっさとご飯作るわよ」
「あ、あれ? ホントに手伝ってくれるのか? 店は?」
「お母さんが、さっき【コール】で、今日はタカヒロを手伝ってやれって……」
「マジでか! うおお! ケイトさん大好きー!!」
「むっ、手伝ってあげるのは私なのに……」
「おお、カオルもありがとうな!」
なーんか適当なお礼……まぁ、いつものことか。さっ、料理だ、料理!
場所を移して、ここは孤児院の台所。大人数の食事を賄うためか、まんぷく亭の台所よりも広い。これは、料理のし甲斐がありそうだ。
「それで? 何を作るつもりなの? 買い物は済ませてるんでしょ?」
「あ~、市場でやっすい貝やら魚やら買ってきたけど、まだ何も考えてねえわ」
「冷えるんボックス」の中を覗くと、確かに海産物が所狭しと詰まってはいるけど……何を作ろうと思って買い揃えたのかいまいちよく分からない組み合わせだ。サバやアンコウ、ホタテでどんな料理を作るつもりだったんだろう。男宝
お母さんが、「主婦は何を作るかだいたい考えてから買い物するけど、男はその時の気分で買い物するから無駄が多いの」って言ってたのは本当のことだったんだ。うん、やっぱり任せておけない。
「決まり! タカヒロはお湯を沸かして、野菜の下ごしらえをしてて! 魚と貝は私が捌いとくから!」
「お~、了解。まあ、任せるわ」
さて、料理屋の娘の腕前、見せてあげる!
「おいしい~!」
「わぅ~……」
「ダメよ、クルちゃん、野菜も食べなきゃ」
「おかわりー!」
「ああ、ホタテは一人一個だからね」
「パンも……?」
「パンはたくさんあるからね~」
わ~、やっぱり、十九人もいたら、お昼ご飯を食べるのも一苦労だ。さっき私が作ったのは、「ホタテの醤油バター焼き」と、「人参とスナップエンドウの塩茹で」、それと魚のアラで作ったスープとライ麦パンだ。
幸い好評なようだけど、お皿をひっくり返したり、スープにむせたりと、私がご飯を食べる暇もなくドタバタとしている。
子どもたちは元気なもので、ご飯が終わったら外で駆け回って、疲れ果てて戻ってきたと思ったらお昼寝だ。干物や洗濯物を孤児院の中に取り込んで、夕ご飯の下ごしらえをしていたら、「ケガしたー」って泣きながら飛びこんで来たりもした。
夜は豪勢に、羊肉を焼いたものと玉ねぎやレタス、トマトと一緒にパンに挟んだものを食べたんだけど、ここでも、上手に食べれない子や、野菜をこっそり抜こうとする子のお世話に駆け回った。
そして、お腹一杯になって一息ついたら、今度はお風呂だ。男の子たちはタカヒロに任せて、ユミィちゃんと一緒に女の子をお風呂に入れてあげる。私やユミィちゃんも含めて十人ぐらいの人数でいっぱいになっちゃうような埋め込み式の浴槽で、ちびっ子たちをあっためさせる。
木の枠で囲まれた直径20cmほどの金属球、【ウォーム】が込められたマジックアイテム・「テキオーン」(開発者直々のネーミングだそうだ)はうまく働いているようで、子どもも嫌がらないちょうどいい温度だ。
ほどよくあったまったら、どこでもはしゃごうとする子どもたちをふんづかまえて石鹸で体や髪を洗わせる。クルちゃんが洗いっこを始めたことによって子どもたちがまたはしゃぎだして、みんな泡だらけになってしまったけど、まぁ、結果オーライということで……。
そして、お風呂上がりの子どもたちの体をタオルで拭いてあげ、牛乳を飲ませていたらもう夜の八時だ。あ、あっという間だった……!
「じゃあ、そろそろ帰るね」
そう言って、帰る準備を始める。何だかんだで夜もお店を休んじゃった。今から帰ったら、片付けと明日の仕込みぐらいは手伝えるだろう。そう考えて手早く手荷物をまとめていると、子どもたちが縋りついてきた。
「え~、やだやだ! もっといてよ~!」
「くぅん、くんくん」
「え、でも……」
困ったな……どうしよう。背中にお腹にと抱きついてくる子どもたちを引き離すのは簡単だけど、どうにも保護欲をくすぐられる。
「ねぇ~、泊まってってよ~」
「そうだよ、そうしてよ~」
「ううん……そう、ね……ね、タカヒロ、どうしよう?」
タカヒロに助け船を求めてみる。すると、彼は両手をパンと合わせて、頭を下げてきた。
「すまん、カオル! 今晩だけでいいから、こいつらの面倒、一緒に見てやってくれ。昨日もなかなか寝なくてな……ユミィとニ人じゃ大変だったんだ」
「そうなの……」
確かに、これだけいたら何をするにも一苦労だと思う。眠ってしまっても、トイレに起きてくる子もいないことはないはずだ。その付き添いで、ろくに眠れなかったんじゃないだろうか。……よし、しょうがない! 最後まで手伝ってあげよう!
「うん、わかった。じゃあ、今晩は私も泊まっていくね」
「おぉ、ありがと!」
「「「やった~!」」」
ふふ、あんなに喜ばれると、満更でもない気分。それに、保存食作りで「指導」を受けた年長組も、ユミィちゃんをチラチラ見ながら懸命に「もっといてよ!」と頼んでいるしね……ユミィちゃん、「指導」はほどほどにね……。
そんなこんなで、ブライト孤児院にお泊まりすることとなった私。あれよあれよと事が進み、今はちっちゃい子用の大部屋で、タカヒロやユミィちゃんと一緒に子どもたちを寝かしつけている。
「ねぇ、もっとおはなしして?」
「う~ん、もう寝なきゃダメだよ」
「もっと聞きたい~」
半分くらいの子どもたちはもう寝ているんだけど、お話し好きな子たちがもっともっととせがんでくる。でも、もうすぐ夜十時だ。子どもはもう寝なくちゃいけない。ここは少し、脅かしてみようか。
「早く寝ないと、お化けが来るんだよー」
う、う~ん、我ながら捻りがない……ほら、子どもたちだって笑ってる。
「おかあさんが、いい子はかみさまが見ていてくれるからおばけなんて大丈夫、って言ってたよ」三体牛鞭
「だいたい、お化けなんていないよ!」
だ、ダメだ。私の話じゃあ、子どもたちを怖がらせることもできない。ちっちゃい頃に聞いたお爺ちゃんの怪談話は怖かったんだけどなぁ……それを聞いただけで怖くなって、布団かぶって一生懸命寝ようとした覚えがあるのに。そうだ、あの話をしてみよう。
「それがね、いるんだよ~。ウブメっていう、いつまで経っても寝ない子どもをさらっちゃうこわ~いお化けがいるのよ」
「う、うぶめ?」
「そう、ウブメ。黒髪の痩せた女の人のお化けでね。悪い子をひゅ~、ってさらっちゃうの」
聞き慣れない響きにちょっぴり怖くなったのか、布団をぎゅっとつかんで互いに身を寄せ合う子どもたち。特に、先ほどまで話を催促していたバルド君なんか、顔を青ざめさせて微動だにしていない。ちょっと驚かせすぎたかな?
「ねぇ、お姉ちゃん……ウブメって、黒い髪の女の人……?」
「え? え、えぇ、そうよ」
そんなに気になるのかな? 確認するかのような口調で、問いかけてくるバルド君。
「それって、あの人みたいな……?」
「え? 誰のこと?」
あれ? 私のことじゃないよね? バルド君は、私の右後ろを指差している。
んん? そっちには窓しかないのに……? 何気なく振り返ってみる。うん、やっぱりカーテンがかけられた窓だ。ちょっとだけカーテンに隙間ができている。直しとこっと。
そう思って、窓に近づいて……気づいてしまった。
いる。
窓の外に何かが。
それは黒髪の女性だ。病的に白い肌に緩やかに波打つ髪を垂らし、ガラスに掌を張り付けて、部屋の中を伺っている。ギョロギョロと動く眼球は、焦点を結んでいないように思える。
やがてソレは、窓の脇に立つ私に気づいたのか、ギン、と睨みつけてきた!
「きゃああああ~~~~~!?!?」
「「「ああああ~~~~~!!」」」
そこからは大変だった……幽霊、いや、エルゥさんだったんだけど、彼女に気づいた子どもたちが、私の悲鳴に呼応するかのように泣き出してしまい、それを収めるのだけで小一時間ほどかかってしまった。
騒ぎを聞きつけて、孤児院のみんながやってくるわ、それでまた騒ぎになるわでほんっとーに大変だった……。
今はタカヒロが、「『@wiki』を読みにだね……いや、ブライト孤児院まで読みに来いって君が……」と弁解するエルゥさんを連れ出して説教している。
「時間を考えろ!」だの、「【コール】で事前連絡しろ!」だのときつく叱っている声が聞こえてくる。あちらは、彼に任せよう。
問題はこっちだ。泣き疲れて眠る子たちが、私やユミィちゃんにしがみついて離れない。無表情に横になるユミィちゃんの、両脇、お腹、頭に子どもたちがくっついてて、とってもシュール。いや、私も同じような状態なんだけどね。
これじゃあ、下手に見動きできないよ……寝る前にトイレ行こうと思ってたのに……。
やっぱり、子どものお世話って大変だ~……。SEX DROPS
タカヒロが下級区のブライト孤児院の世話を任されてニ日目、お母さんが私をつつきながら変な事を言い出した。V26Ⅳ美白美肌速効
「困ってるって……なにが?」
子どものお世話は大変だと思うけど、しっかり者のユミィちゃんも付いているんだ。それに、孤児院に住んでいるクルちゃんもお手伝いしているはずだ。よっぽどのことがない限り、困ったことにはならないはずなんじゃ……?
「それがね、お母さん、さっき朝市で大荷物抱えたタカヒロちゃんと出会ってね。もう、びっくり! ブライト孤児院なんだけど、子どもが十九人もいるんだって!」
「ええっ!?」
そんなにいたの!? クルちゃんしか見たことないから、いても十人ぐらいだと……十九人って、大家族どころの人数じゃないよ!
「タカヒロちゃんもね、なんだかぐったりしてて……誰か助けてくれないかな~、って言ってたよ」
「タカヒロが……」
気だるげなのはいつものことだけど、十九人の子どもたちのお世話となると、本当に疲れているんだろう。お爺ちゃんのところにいたころは、叔父さんの子どもたちの面倒をみていたからよく分かる。タカヒロとユミィちゃんだけでどうにかなるとは思えない。
「わ、私、ちょっと見てくるね!」
「は~い、行ってらっしゃ~い」
にやにやにと笑うお母さんをそのままに、居ても立ってもいられなくなった私は家を飛び出していった。
(きっと、ご飯なんて適当に済ませちゃってるんだ。洗濯はしてるのかな。掃除だってしなくちゃいけないのに……)
自分のこともままならないタカヒロが十九人もの子どものお世話をするなんて、正直、不安でたまらない。しっかり者のユミィちゃんがいるから大丈夫だとは思うけど、あの子だってまだまだ小さい子どもだ。一人じゃ面倒を見切れないだろう。
(なんでそんな依頼受けるかな~……)
これだけ大きな仕事だ。従業員のユミィちゃんじゃなくて、店主であるタカヒロが直々に受けたものだろう。ユミィちゃんは、受けた仕事はきっちりこなすタイプだ。タカヒロが持ってきた仕事を、断るに断れなかったに違いない。こういう時は、素直に頼ってくれてもいいのに……。
(えっと、ここを曲がればすぐだよね)
ブライト孤児院は、どうやら下級区ではそれなりに有名らしく、屋台のおじさんたちに話を聞いて歩くだけですぐに辿り着くことができそうだった。大通りから外れ、今いる住宅街の通りの中ほどを曲がれば、孤児院はすぐそこだという。
それにしても、下級区は中級区よりもゴミゴミとしているイメージがあったのだけど、そんなことは全然ない。今も、小太りなおじさんがドブをさらっては綺麗にしている。漁港が近いからか、磯臭さや魚臭さは少しばかり強めだけど、私だって下町の人間だ。そんなに気にはならない。
(思ってたほど酷くはないのね)
この街に越してきて一年も経っていないからあまりよくは知らなかったけど、下級区って言っても話に聞くスラムみたいなものじゃないんだ。クルちゃんたちはそんな所に住んでて大丈夫かな、って思っていたけれど、これなら心配ないだろう。
ここに住んでいる子どもたちが笑いながら走り去っていく。おばさんたちがおしゃべりしながらたむろしている。どこからともなくピッ、ピッって、規則正しい笛の音が聞こえてくる。きっと、港に届いた魚をどこかへ運んでいるんだ。こんな雰囲気、私、好きだな。
なんだか焦っていた心が穏やかになっていく。そうだ、こんな場所なら、みんな助け合って生活しているだろう。きっと、タカヒロたちも大丈夫。
そう思って、孤児院へ続く曲がり角を曲がった。すると、私の眼には、和やかな孤児院の風景が……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
「……ケビン、手が止まっていますよ」
「はい……」(ガタガタ)
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
「……ニーナ、もっと丁寧に」
「は、はいっ!」(ビクッ!)
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
「……タウ、手間取っていますね。手伝いましょうか?」
「だ、大丈夫!」(ブンブン)
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。
「あ、あれ?」
目の前に広がった孤児院の前庭は、魚やイカを吊り下げた物干し台がずらりと並んでいた。奥では、肉も干しているようだ。子どもたちが、一糸乱れぬ動きで干物とするものを並べていく光景は壮観と言える。
で、でも、何だか、子どもたちの目が死んだ魚のような……?
「……こんにちは、カオルさん」
「ひゃっ!? あ、あぁ、ユミィちゃんね、こんにちは」
いつの間に傍に来たのか……首からホイッスルを下げたユミィちゃんが、相変わらずの無表情で立っていた。
「え、えっと、ユミィちゃん、これ、何やってるの?」
「……はい、冬の仕事の保存食作りです。ブライト孤児院において、十より上の子どもは、全員この作業に従事する決まりだそうです」
「そうなの……」
私はてっきり、強制労働の現場かと……言われてみれば、十九人もの人数を抱えた孤児院だもの。肉や魚が安い内に買い込んで、冬に干しておくのはそう間違ったことじゃない。お爺ちゃん家にいた頃は、私だってドライフルーツ作りを手伝っていた。でも……。
「保存食作りって、もうちょっと楽しくやるもんじゃないの?」
仕事じゃなくて、家庭での保存食作りは、おしゃべりしながらわいわいと作るもののはず……だよね? ここ、工場とかじゃないよね? 目の前の光景に、いまいち自信を持って断言できない私に、ユミィちゃんはこう言う。
「……それが理想的なのでしょう。ですが、いつまで経っても作業が進まないので、遺憾ながら私が指導役となりました。その結果、作業効率は四倍まで上がりました。これで保存食には当分困りません。素早くやり終えれば、空けることができた時間で楽しく遊ぶこともできるので、子どもたちも満足だと思います……ですよね?」
「「「はい、ユミエルさん!」」」
「……と、いうわけです」
「え、あ、う、うん……いや、ダメだよ!?」
妙な説得力に流されそうになるけど、ここは否定しておくべきだ。ちっちゃい子相手に、効率なんて求めるものじゃない。長い目で成長を見守ってあげなくちゃ。
「……ダメ、ですか? 一体何が……?」
ユミィちゃんは悪気のなさそうな顔をしている……いや、いつも同じ表情だけどさ! それでも、悪意を持って子どもと接しているようには思えない。きっと、本当によかれと思ってやっているのだろう。
「いい、ユミィちゃん。まだ子どもばっかりだもの。楽しくおしゃべりでもしながらやった方が、この子たちのやる気も上がると思うよ? 無理やりやらせたらそりゃあはかどると思うけど、それじゃあダメなの。きっと、お手伝いが嫌いな子になっちゃうよ」
「……なんと」男根増長素
「確かに、所々でビシッと注意してあげるのは必要だと思うけど、ずっとその調子じゃあ気疲れしちゃうよ。だよね?」
ぶんぶんと首を縦に振る子どもたち。それを見て、ユミィちゃんは僅かに目を見開く。
「……そう、だったのですか。それならもっと早く言ってくれればよかったのに」
あぁ、子どもたちの顔が引きつってる……「怖くて言えなかったんだよ!」って言葉が伝わってくるようだ。ユミィちゃん、仕事の時は厳しいからねえ……。
「さって、みんな、おしゃべりぐらいならしててもいいよ? でも、お手伝いはちゃんと終わらせること! いい?」
「「「は~い!」」」
そして、呪縛が解けたように砕けた様子で、思い思いの場所へと移動していく子どもたち。うん、しゃべりながらもお手伝いをしようとしている。これなら大丈夫だろう。
「……カオルさん、教えてくださってありがとうございます。私はどうにも一般常識に疎くて」
「ううん、しょうがないよ」
奴隷だったんだから、という言葉は言わない。本人にしてみたら言われなくても分かっていることだし、今のユミィちゃんはタカヒロの家族だ。常識が足りていないのも、これからゆっくり覚えていけばいい。
それが言葉にしなくても伝わるように、小柄なこの子の頭を優しく撫でてあげる。
「……なんですか?」
「ううん、なんでも。そうだ、タカヒロって、今、どこにいるの?」
「……ご主人さまですか。それなら、一階のリビングで小さい子たちの面倒を見ておられます。玄関から入って突き当たりです」
「そっか、ありがと」
最後に一度、なでなでしてあげてから玄関へ向かう。一階突き当たりね、よーし! きっと、タカヒロはちっちゃい子のお世話にあたふたしていることだろう。早く行って助けてあげよう。どこか頼りない感じがするからなぁ、タカヒロって。
「やめてくれぇぇ~……!」
「きゃはは! へんな顔~!」
「おうまさん、ちゃんとはしって!」
「わんわん!」
「クルミア、おまえデカイんだから、のっかるなよ~!」
「ゴルディとどっちがはやいかきょうそうだ~」
「わん!」
「助けてぇ……!」
あぁ、うん。
想像以上に混沌としてた。
総勢九人(+ゴルディ)ものちっちゃい子たちに纏わりつかれたタカヒロが、木張りの床に転がっている。その顔をわんこたちがぺろぺろと舐めまわし、四肢や胴には子どもたちがしがみついたりのっかったりして動くに動けない状況だ。
「あ、カオル、助けてくれ!」
仰向けのまま、私へと視線を向けるタカヒロ。どうしようもなく情けない顔をしている。まったく、もう……。
「はいは~い、あなた達、ちょっとどきなさ~い」
一人一人、タカヒロにしがみついたちびっ子たちを抱え上げて外していく。クルちゃん以外は初対面だ。きょとんとして、見慣れない私を見上げている。
「ふ~、助かったわ……」
やがて、むくりと起き上るタカヒロ。ボサボサの髪を更に乱れさせ、顔中よだれでべとべとだ。
「も~、なにやってるの」
見てはいられず、ぴょこぴょことはねた髪を撫でつけてあげ、ハンカチで顔を拭ってあげる。タカヒロは「いいよ、これぐらい」と逃げようとするけれど、子どもたちの前だ。あんまりだらしがない姿は見せるべきじゃないと思う。
「はい、おしまい」
ささっと、見苦しくない程度に整えてあげた。うん、これなら大丈夫かな……ん? 狐みたいな耳の女の子が、服の裾を引っ張ってくる。何だろう?
「ね~ね~、お姉ちゃん、お兄ちゃんのおよめさん?」
「なっ!?」
「およめさん」って、あの「お嫁さん」!? おにいちゃんってタカヒロのこと!?
「ち、違うよっ!」
「え~、だって、仲いいでしょ?」
「タカ、ケッコンしてたんだ~!」
「わぅ!? わんわん!」
やいのやいのと騒ぎ出す子どもたち。私が否定すればするほど、面白がってからかってくる。タカヒロも、「あ~、違うぞ、お前ら」と言ってはいるけど、誰も聞いていない。
わいわいと、思い思いに考えたことをそのまま口にする子どもたち。この騒ぎは彼らが飽きるまで、ずいぶんと長いこと続いた。
あ~、なんだか妙に焦っちゃった……ふぅ。
「で、朝ごはんはちゃんと食べさせてあげたの?」
ここから、本来の目的の始まりだ。ちゃんとお世話はできているんだろうか……心配だ。しっかり確認しなくては。
「あぁ、ユミィとガキどもが、雑穀のポリッジ作ってた。あっ、俺は昨日ちゃんと飯作ったからな! ホントだぞ? な~?」
「な~?」
膝の上に乗せた、七歳の男の子(テオって名前だそうだ)が嬉しそうに頷いているところから、本当のことなんだろう。
「じゃあ、洗濯は?」
「さっき済ませた」
「掃除は?」
「ユミィたちが済ませた」
「むむむ……」
なんだ、案外ちゃんとやってるみたいだ。これなら、私が来た意味が……。なんだか、拍子抜けしちゃった。
「は~、じゃあ、お昼の準備もできているよね?」
これだけきっちりやっているなら、当然、出来ているんだろう。もう、帰ろうかな……。
「昼……? やべっ、もうこんな時間か!?」
「ん?」
昼、と聞いたタカヒロの顔が、段々青くなっていく……あれ? もしかして?
「ガキどもに弄ばれて、全然準備してねえ……や、やべえ、ユミィに殺される……! た、助けてカオルも~ん!」
テオを脇にどけて平伏するタカヒロ。あぁ、やっぱりこの人はどこか抜けているなぁ。いざという所で頼りないというか……うん、しょうがない。元々そのつもりで来たし、助けてあげよう!
「はいはい、さっさとご飯作るわよ」
「あ、あれ? ホントに手伝ってくれるのか? 店は?」
「お母さんが、さっき【コール】で、今日はタカヒロを手伝ってやれって……」
「マジでか! うおお! ケイトさん大好きー!!」
「むっ、手伝ってあげるのは私なのに……」
「おお、カオルもありがとうな!」
なーんか適当なお礼……まぁ、いつものことか。さっ、料理だ、料理!
場所を移して、ここは孤児院の台所。大人数の食事を賄うためか、まんぷく亭の台所よりも広い。これは、料理のし甲斐がありそうだ。
「それで? 何を作るつもりなの? 買い物は済ませてるんでしょ?」
「あ~、市場でやっすい貝やら魚やら買ってきたけど、まだ何も考えてねえわ」
「冷えるんボックス」の中を覗くと、確かに海産物が所狭しと詰まってはいるけど……何を作ろうと思って買い揃えたのかいまいちよく分からない組み合わせだ。サバやアンコウ、ホタテでどんな料理を作るつもりだったんだろう。男宝
お母さんが、「主婦は何を作るかだいたい考えてから買い物するけど、男はその時の気分で買い物するから無駄が多いの」って言ってたのは本当のことだったんだ。うん、やっぱり任せておけない。
「決まり! タカヒロはお湯を沸かして、野菜の下ごしらえをしてて! 魚と貝は私が捌いとくから!」
「お~、了解。まあ、任せるわ」
さて、料理屋の娘の腕前、見せてあげる!
「おいしい~!」
「わぅ~……」
「ダメよ、クルちゃん、野菜も食べなきゃ」
「おかわりー!」
「ああ、ホタテは一人一個だからね」
「パンも……?」
「パンはたくさんあるからね~」
わ~、やっぱり、十九人もいたら、お昼ご飯を食べるのも一苦労だ。さっき私が作ったのは、「ホタテの醤油バター焼き」と、「人参とスナップエンドウの塩茹で」、それと魚のアラで作ったスープとライ麦パンだ。
幸い好評なようだけど、お皿をひっくり返したり、スープにむせたりと、私がご飯を食べる暇もなくドタバタとしている。
子どもたちは元気なもので、ご飯が終わったら外で駆け回って、疲れ果てて戻ってきたと思ったらお昼寝だ。干物や洗濯物を孤児院の中に取り込んで、夕ご飯の下ごしらえをしていたら、「ケガしたー」って泣きながら飛びこんで来たりもした。
夜は豪勢に、羊肉を焼いたものと玉ねぎやレタス、トマトと一緒にパンに挟んだものを食べたんだけど、ここでも、上手に食べれない子や、野菜をこっそり抜こうとする子のお世話に駆け回った。
そして、お腹一杯になって一息ついたら、今度はお風呂だ。男の子たちはタカヒロに任せて、ユミィちゃんと一緒に女の子をお風呂に入れてあげる。私やユミィちゃんも含めて十人ぐらいの人数でいっぱいになっちゃうような埋め込み式の浴槽で、ちびっ子たちをあっためさせる。
木の枠で囲まれた直径20cmほどの金属球、【ウォーム】が込められたマジックアイテム・「テキオーン」(開発者直々のネーミングだそうだ)はうまく働いているようで、子どもも嫌がらないちょうどいい温度だ。
ほどよくあったまったら、どこでもはしゃごうとする子どもたちをふんづかまえて石鹸で体や髪を洗わせる。クルちゃんが洗いっこを始めたことによって子どもたちがまたはしゃぎだして、みんな泡だらけになってしまったけど、まぁ、結果オーライということで……。
そして、お風呂上がりの子どもたちの体をタオルで拭いてあげ、牛乳を飲ませていたらもう夜の八時だ。あ、あっという間だった……!
「じゃあ、そろそろ帰るね」
そう言って、帰る準備を始める。何だかんだで夜もお店を休んじゃった。今から帰ったら、片付けと明日の仕込みぐらいは手伝えるだろう。そう考えて手早く手荷物をまとめていると、子どもたちが縋りついてきた。
「え~、やだやだ! もっといてよ~!」
「くぅん、くんくん」
「え、でも……」
困ったな……どうしよう。背中にお腹にと抱きついてくる子どもたちを引き離すのは簡単だけど、どうにも保護欲をくすぐられる。
「ねぇ~、泊まってってよ~」
「そうだよ、そうしてよ~」
「ううん……そう、ね……ね、タカヒロ、どうしよう?」
タカヒロに助け船を求めてみる。すると、彼は両手をパンと合わせて、頭を下げてきた。
「すまん、カオル! 今晩だけでいいから、こいつらの面倒、一緒に見てやってくれ。昨日もなかなか寝なくてな……ユミィとニ人じゃ大変だったんだ」
「そうなの……」
確かに、これだけいたら何をするにも一苦労だと思う。眠ってしまっても、トイレに起きてくる子もいないことはないはずだ。その付き添いで、ろくに眠れなかったんじゃないだろうか。……よし、しょうがない! 最後まで手伝ってあげよう!
「うん、わかった。じゃあ、今晩は私も泊まっていくね」
「おぉ、ありがと!」
「「「やった~!」」」
ふふ、あんなに喜ばれると、満更でもない気分。それに、保存食作りで「指導」を受けた年長組も、ユミィちゃんをチラチラ見ながら懸命に「もっといてよ!」と頼んでいるしね……ユミィちゃん、「指導」はほどほどにね……。
そんなこんなで、ブライト孤児院にお泊まりすることとなった私。あれよあれよと事が進み、今はちっちゃい子用の大部屋で、タカヒロやユミィちゃんと一緒に子どもたちを寝かしつけている。
「ねぇ、もっとおはなしして?」
「う~ん、もう寝なきゃダメだよ」
「もっと聞きたい~」
半分くらいの子どもたちはもう寝ているんだけど、お話し好きな子たちがもっともっととせがんでくる。でも、もうすぐ夜十時だ。子どもはもう寝なくちゃいけない。ここは少し、脅かしてみようか。
「早く寝ないと、お化けが来るんだよー」
う、う~ん、我ながら捻りがない……ほら、子どもたちだって笑ってる。
「おかあさんが、いい子はかみさまが見ていてくれるからおばけなんて大丈夫、って言ってたよ」三体牛鞭
「だいたい、お化けなんていないよ!」
だ、ダメだ。私の話じゃあ、子どもたちを怖がらせることもできない。ちっちゃい頃に聞いたお爺ちゃんの怪談話は怖かったんだけどなぁ……それを聞いただけで怖くなって、布団かぶって一生懸命寝ようとした覚えがあるのに。そうだ、あの話をしてみよう。
「それがね、いるんだよ~。ウブメっていう、いつまで経っても寝ない子どもをさらっちゃうこわ~いお化けがいるのよ」
「う、うぶめ?」
「そう、ウブメ。黒髪の痩せた女の人のお化けでね。悪い子をひゅ~、ってさらっちゃうの」
聞き慣れない響きにちょっぴり怖くなったのか、布団をぎゅっとつかんで互いに身を寄せ合う子どもたち。特に、先ほどまで話を催促していたバルド君なんか、顔を青ざめさせて微動だにしていない。ちょっと驚かせすぎたかな?
「ねぇ、お姉ちゃん……ウブメって、黒い髪の女の人……?」
「え? え、えぇ、そうよ」
そんなに気になるのかな? 確認するかのような口調で、問いかけてくるバルド君。
「それって、あの人みたいな……?」
「え? 誰のこと?」
あれ? 私のことじゃないよね? バルド君は、私の右後ろを指差している。
んん? そっちには窓しかないのに……? 何気なく振り返ってみる。うん、やっぱりカーテンがかけられた窓だ。ちょっとだけカーテンに隙間ができている。直しとこっと。
そう思って、窓に近づいて……気づいてしまった。
いる。
窓の外に何かが。
それは黒髪の女性だ。病的に白い肌に緩やかに波打つ髪を垂らし、ガラスに掌を張り付けて、部屋の中を伺っている。ギョロギョロと動く眼球は、焦点を結んでいないように思える。
やがてソレは、窓の脇に立つ私に気づいたのか、ギン、と睨みつけてきた!
「きゃああああ~~~~~!?!?」
「「「ああああ~~~~~!!」」」
そこからは大変だった……幽霊、いや、エルゥさんだったんだけど、彼女に気づいた子どもたちが、私の悲鳴に呼応するかのように泣き出してしまい、それを収めるのだけで小一時間ほどかかってしまった。
騒ぎを聞きつけて、孤児院のみんながやってくるわ、それでまた騒ぎになるわでほんっとーに大変だった……。
今はタカヒロが、「『@wiki』を読みにだね……いや、ブライト孤児院まで読みに来いって君が……」と弁解するエルゥさんを連れ出して説教している。
「時間を考えろ!」だの、「【コール】で事前連絡しろ!」だのときつく叱っている声が聞こえてくる。あちらは、彼に任せよう。
問題はこっちだ。泣き疲れて眠る子たちが、私やユミィちゃんにしがみついて離れない。無表情に横になるユミィちゃんの、両脇、お腹、頭に子どもたちがくっついてて、とってもシュール。いや、私も同じような状態なんだけどね。
これじゃあ、下手に見動きできないよ……寝る前にトイレ行こうと思ってたのに……。
やっぱり、子どものお世話って大変だ~……。SEX DROPS
2012年7月20日星期五
写真の中の微笑み
6月も下旬を迎えて、ここ数日ジメジメとした梅雨空が続いている。紫色のアジサイが庭先を華やかに彩り、梅雨らしい季節を感じさせてくれた。
オレが「ハイツ一期一会」を訪れて、早くも二週間ほど過ぎていた。東京での生活に戸惑いを感じつつも、管理人の仕事にも慣れてきたし、住人たちとも仲良くしてもらって、それなりに快適な生活を送っている。威哥王三鞭粒
そんなオレはいつも通り、アパートの掃除に励んでいる。玄関から始めて一階の各所を巡り、オレはニ階へと足を運んでいた。
「さてと、今日はいよいよここだな。」
オレは、空き部屋の前で立ち止まる。
空き部屋も二週間に一回は清掃するよう、じいちゃんから授かったノートに書かれているため、ここを無視し続けるわけにはいかない。
オレはマスターキーをドアの鍵穴へ差し込み、ゆっくりと回してみる。思いのほか、シリンダー錠は滑らかに回った。
「失礼しまーす。」
ドアを開けて室内を覗き込むオレ。備え付けの洋服ダンスとベッドだけがひっそりと佇んでいて、人の気配のない殺風景な部屋だった。
オレは締まりっ放しだった窓を開放する。すると、しばらく掃除していなかったせいか、吹き込んできた風で、ほこりが軽やかに宙を舞った。
「よーし、やるか。」
モップをしっかりと握り締めて、オレは床を磨き始める。部屋の四隅から始めて、中央まで満遍なく磨き、そして、最後にベッドの下へとモップを滑らせた。
ベッドの下はさほど汚れていないだろうと、オレはモップで数回撫で回してから、これで終わりとばかりに勢いよくモップを引っ張り出した。
「あれ。」
モップのヘッド部分に、ちりやほこりとは違う物が絡みついていた。オレはそっと、その絡みついた物を手にしてみた。
「これ、写真か。」
それは一枚の写真だった。よく見ると、このアパートの住人たちが微笑ましい笑顔で写っていた。住人だけではなく、じいちゃんもちゃっかり写っている。背景からして、このアパートの玄関前で撮ったもので、みんなの姿を見る限り、そんなに古い写真ではないとわかった。
「ん?この人誰だろう。」
その写真には、オレの知らない短髪の女性が写っていた。カメラの性能なのかピントが合っておらず、その女性の顔までハッキリとはわからなかった。
「あれぇ?マサ、こんなとこで何してんのぉ?」
オレに声を掛けたのは、ピンク色のジャージ姿の潤だった。彼女は不思議そうな顔をしながら、空き部屋へと入ってきた。
「あ、潤か。今、空き部屋の掃除をしてたんだよ。そうしたら、こんな写真が出てきたんだ。」
潤は寝ぼけ眼を擦りながら、オレの手にある写真を覗き込んだ。
「あー、この写真懐かしい。一年ぐらい前に、みんなで撮ったんだよぉ。」
一緒に写っている潤だったら、この女性のことを知っているだろう。オレは興味本位でこの女性のことを尋ねてみると、彼女はさらりと答えてくれた。
「この子ねぇ、奈都美だよ。六平奈都美(むだいらなつみ)っていうの。」
その奈都美という女性は、昔、この部屋の住人で、丁度一年くらい前に引っ越してしまった。この写真は、彼女が引っ越すことが決まった後、記念にみんなで撮ったものだと、潤は記憶を辿りながら話してくれた。
「ということは、この写真、その奈都美さんの忘れ物ってことかな。」
「うん、そうだろうねぇ。ここにあったんだから、間違いないと思うよ。」
「それなら、大切な記念の写真だし、彼女に渡してあげたいな。」
オレがそう言うと、潤も相づちを打つようにうなづいた。しかし、彼女はなぜか、悩ましい表情をしていた。
「でもねぇ、奈都美が今どこにいるか、わかんないんだぁ。あの子、引越し先が決まったら、あたしに連絡するって言っててさぁ。結局、今日まで連絡ないんだよね。」
そう言いながら、お手上げのポーズをする潤。
「でもさ、携帯電話の番号とか、メールアドレスぐらいわかるんじゃないの?」
「それがさぁ、奈都美、機械音痴だからって、ケータイ持ってなかったんだぁ。あたしには考えられないよねぇ、ケータイなしで生きるなんてさ。あの子、あたしと同じ年なんだけど、今時の女の子って感じじゃなかったもん。」
潤の言う通り、オレたちぐらいの年代で、携帯電話を持っていないのは珍しいケースだろう。つい先日、携帯電話をなくして大騒ぎした彼女にしてみたら、とても想像できないといったところか。
「そうか、それじゃあ、こっちから連絡が取れないわけか。困ったな。」
電話番号やメールアドレスが存在せず、ましてや現住所も不明では、オレから連絡を取る手段がない。八方塞がりとはまさにこのことだ。
オレが頭を悩ませていると、何かを思い出したような口振りで、潤が声を張り上げた。
「そうだぁ、ハッちゃんなら何か知ってるかも。」
「え、ハッちゃんって、オレのじいちゃんのこと?」
潤はうなづきながら話を続ける。
「奈都美さ、ハッちゃんのこと気に入っててねぇ。ここに住んでた頃、あの子、管理人室へ行っては、ハッちゃんの話し相手になったりぃ、肩とか揉んだりしてたんだぁ。」
潤の話では、奈都美という女性は、幼少の頃に両親が離婚したせいで、長い間、祖父に面倒を見てもらっていたそうだ。その時の印象が残っているので、オレのじいちゃんを本当の祖父のように慕っていたのではないか、とのことだった。
「そうか、それじゃあ見舞いついでに、じいちゃんに聞いてみるか。」
潤は大きなあくびをしながら、ハッちゃんによろしくね、とだけ告げて、空き部屋から去っていった。
「・・・たまには、じいちゃんの見舞いに行ってやれ。まったくもう。」
そうと決まれば即時に実行とばかりに、オレは空き部屋の掃除を手短に済ませた。じいちゃんが、奈都美さんの居場所を知っていると願いつつ、オレは写真を手にしたまま空き部屋のドアを施錠した。
正午を過ぎた頃、オレはじいちゃんが入院している「胡蝶蘭総合病院」へ来ていた。
病院は、アパートから歩いて25分ほどの場所にあるので、オレはウォーキングがてら、毎回徒歩でお見舞いに来ている。今日は天気が不安だったので、ビニール傘を持参しての訪問である。
病院は今日も、いつものように混雑していた。診察待ちなのか、それとも薬の処方待ちなのか、ロビーは多数の人々で埋め尽くされていた。
「あ、エレベーターが開いてる、チャンスだ。」
丁度よく、停止していたエレベーターへと乗り込んだオレ。すると、車椅子の老人と付き添いの看護婦がすでに乗り込んでいた。そんな二人に会釈して、オレは五階のボタンを押した。
エレベーターが目的のフロアへ辿り着くまでの間、二人は楽しそうに、他愛もない世間話をしている。そのやり取りを見て、オレは何となく穏やかな気分になった。
「それでは失礼します。」
エレベーターが五階に到着したので、オレは二人に挨拶しながら廊下へと降りる。そして、じいちゃんの病室である512号室を目指した。
廊下を歩いていると、点滴スタンドを押しながら歩いている患者と出会った。すれ違いざま、その患者がオレに向かってニッコリと笑ったので、オレも微笑みながら、その患者に小さく頭を下げた。
「お邪魔しまーす。じいちゃん、いる?」
オレが512号室を訪れると、じいちゃんはふて腐れたような顔をしていた。機嫌を損ねる出来事でもあったのだろうか。
「どうかしたの、じいちゃん。何か機嫌悪そうだけど、何かあったの?」
じいちゃんは顔を紅潮させながら、わめくように恨み節を口にしていた。
「どうもこうもないわ。看護婦さんがわしの楽しみのペッパーサラミを取り上げてしまったんじゃ。サラミは余分な脂肪が多いからとか何とか言いながら。わしは、担当のお医者さんからは、食事の制限はないと聞いておったんじゃぞ。それなのに、それなのに。」
じいちゃんは、語るごとに涙目になっていく。わがままというか、大人気ないというか、オレはじいちゃんの振る舞いに困惑していた。
「それよりマサ、お土産はどうした?」
「ないよ。この前来た時にさ、看護婦さんから注意されたんだよ。余計な食べ物を与えるなって。」
「余計な食べ物を与えるなだと?わしは野生動物じゃないわい!」
オレが健康管理に重要なことだと諭しても、じいちゃんは拗ねる一方で、オレに背中を向けっ放しだった。三鞭粒
「そんなことよりさ、今日はじいちゃんに聞きたいことがあって来たんだよ。」
そっぽを向いているじいちゃんに、オレはここまでやってきた目的について触れてみた。
「じいちゃん、昔、アパートに住んでた奈都美さんって人、憶えてる?」
じいちゃんはピクッと体を震わせた。
「マサ、奈都美って、・・・奈っちゃんのことか?」
「あだ名までは知らないけど、たぶんその人のことだよ。」
頼んでもいないのに、じいちゃんは奈都美さんとの思い出話を語り始めた。
「奈っちゃん懐かしいなぁ。あの子は本当にいい子じゃった。わしの茶菓子を買ってきてくれたり、一緒にお茶を飲みながらおしゃべりしたり。いやぁ、どこかの誰かさんと違って、あの子は最高にかわいい娘さんじゃったよ。」
「・・・ねぇ、その誰かさんって、もしかしてオレ?」
目を潤ませながら、いろいろな思い出に浸っているじいちゃん。
「で、その奈っちゃんがどうかしたのか?」
「二階の空き部屋でこの写真を見つけたんだ。潤に聞いたら、その空き部屋に住んでたのが、その奈都美さんだったらしいね。」
じいちゃんは老眼鏡を掛けて、オレから受け取った写真を見つめる。写っている自分や住人たちに気付くと、じいちゃんは撮影時のことを思い出してくれた。
「そうじゃ、奈っちゃんの引越しが決まってな、住人のみなさんと思い出を残そうって、アパートの前で撮った写真じゃよ。奈っちゃんは案外涙もろくてな、撮った後にうるうる泣いてしまって、みなさんに慰められていたことを思い出すなぁ。」
「この写真、きっと奈都美さんが置き忘れてしまったと思うんだ。こんな素敵な思い出が詰まった写真だもん。できれば、奈都美さんに渡してあげたいんだよね。」
オレはじいちゃんに、奈都美さんの居場所を知っているかどうか尋ねてみた。しかし、じいちゃんはじっと目を閉じて、唸り声を上げるばかりだった。
「う~ん、わからんなぁ。」
残念なことに、じいちゃんは思い当たらないようだ。顎を指でいじりながら、記憶の断片を回想するじいちゃんだったが、結局、奈都美さんの居場所について語られることはなかった。
「何か手掛かりになるようなヒントみたいなものもないかな?がんばって思い出して。」
「う~ん、ヒントかぁ。」
また唸り声を上げて、じいちゃんはしばらく考え込んでしまった。
祈るような気持ちで、オレはじいちゃんからの返答を期待した。今の段階では、じいちゃんの記憶だけが頼りだったからだ。
焦らすこと数十秒後、じいちゃんがようやく口を開いた。
「そういえば、もう数ヶ月前じゃったかな。奈っちゃんからお手紙が届いた気がするなぁ。住人のみんなによろしくって感じで。」
「手紙って、郵便で来たの?」
「そうじゃ、あのお手紙、郵便屋さんから受け取ったよ。」
奈都美さんの居場所を突き止める有力な情報だった。郵送されているとしたら、どこから送られているかわかる可能性が高い。住所や電話番号も記載されているかも知れないからだ。
「で、その手紙はどこにあるの?」
「う~ん、あの手紙は確か、わしが読んでから・・・。」
またまた、じいちゃんは唸り声を上げながら考え込んでしまった。待ちぼうけにうんざりしつつ、オレはじいちゃんの返答を待ち続けた。
またまた焦らすこと数十秒後、今度はいきなり、じいちゃんは意味もなく笑い出してしまった。ついにボケてしまったかと、オレは慌ててじいちゃんに呼びかけた。
「ひゃっひゃっひゃ、思い出したよ。奈っちゃんからのお手紙は、わしが読んだ後、住人のみなさんへ見せようと思ってな、本棚にいったん片付けたんじゃよ。その後、集金やら宅急便やらで、その手紙のことすっかり忘れちゃって。だから、まだ本棚にしまってあるよ。いやぁ、思い出せてよかったのう。」
「・・・ってことは、じいちゃん、奈都美さんからの手紙、住人たちに見せてないの?」
悪びれる様子もなく、じいちゃんはひたすら笑っている。じいちゃんの物忘れにも困ったものだと、オレは頭を抱えながら嘆いていた。
「マサ、すまんな。お手紙見つけたら、住人のみなさんに渡してくれ。」
詫びながらそう言うと、じいちゃんはオレに写真を返してくれた。その時、この写真を奈都美さんに届けてほしいと、じいちゃんからそんな願いが伝わった気がした。
そういうわけで、オレはアパートまでとんぼ返りする羽目となった。じいちゃんが思い出してくれた、奈都美さんからの手紙を何としても見つけるために。
じいちゃんに別れを告げたオレは、病院五階の廊下を小走りで駆け抜けていた。
その途中、年配の看護婦とすれ違い、廊下ではお静かにと注意されたオレ。すいませんと反省しつつ、オレは急ぎ足を緩めてしまった。
足音を響かせないよう気を付けながら、オレはエレベーター付近までやってきた。すると、エレベーターの先の廊下で、女の子が一人しゃがみ込んでいる姿が見えた。
「ん、あの女の子、どうしたんだろう。」
肩を小さく揺らして、両手で顔を押さえながら、その女の子は泣き声を漏らしている。迷子にでもなってしまったのだろうか、それとも、転んで怪我でもしてしまったのだろうか。
「どうしようかなぁ。」
一向に泣き止まない女の子のために、オレは救いを求めようと前後左右を見渡した。ところが、付近にはオレと女の子以外誰もいない。あの女の子の小さな泣き声だけが、静かな廊下に響いていた。
このまま放っておくわけにもいかないので、オレは泣きじゃくる女の子のそばへと歩み寄った。
「おやおや、キミ、どうしたんだい?」
オレが女の子へ声を掛けようとした瞬間だった。その女の子のもとへ、白衣をなびかせた男性が駆けつけた。思わずびっくりして、オレはその場に立ち止まってしまった。
「あれ、あの人・・・!」
よく見ると、オレはその男性に見覚えがあった。つい先日、じいちゃんのお見舞いに来た時に、ちょうどここの廊下で肩がぶつかったあの男性だった。この前の不機嫌そうな表情から一転、今日はとてもにこやかな顔をしていた。
まるで我が子をあやすかのように、男性は女の子に親身になって接している。その優しさに包まれて、ぐずっていた女の子が少しずつ泣き止んでいった。
「よーし、それじゃあ、先生と一緒に病室へ戻ろうか。」
「うん、ありがとう、せんせい。」
あの男性がやってきたおかげで、女の子はすっかり笑顔を取り戻していた。
女の子と仲良く手をつないで、男性は小児科病棟の方へと歩いていく。二人の会話からして、あの男性は小児科の医師だったようだ。
小児科病棟に消えていく二人を横目で見届けながら、オレは一階へ向かうエレベーターへと乗り込んだ。
病院を後にするや否や、オレは逸る思いでアパートまで戻ってきていた。
管理人室はこの上ないほど蒸し暑く、オレの背中はにじむ汗で湿っていく。タオルで額から流れる汗を拭いながら、オレはエアコンのスイッチを入れた。
「えーと、奈都美さんからの手紙があるのは、確か本棚だったな。」
その手紙には、奈都美さんの居場所を特定する何かがあるはずだ。たとえ特定できなかったとしても、居場所にまつわるヒントぐらいは見つかるだろう。期待に胸を膨らませながら、オレはじいちゃんの言っていた本棚を探す。
今更ながら、ここ管理人室は異様なほど殺風景である。古風な机と椅子が一つずつ、木目調のテーブルと洋服タンスがあるぐらいなので、探していた本棚はあっさりと見つかった。
「これか、じいちゃんの本棚は。」
机のそばにあった小さな本棚には、十冊ほどの書籍が詰め込まれていた。
”盆栽の賢い育て方”や、”全国植木市自慢”といった趣味の本や、”益虫と害虫の見分け方”や、”腐葉土の微生物ノウハウ”といったマニアックな本など、じいちゃん愛用の書籍ばかりだった。
その書籍の山をすべて抜き取って、オレは手紙が挟まっていないか調べてみた。
「まったく、何で大事な手紙を本棚になんか片付けたんだ?後から、見つかりにくくなるだけじゃん。」
そうぼやきながら、オレは一冊一冊書籍を手にして、パラパラとページをめくっていく。すると、しおり代わりにしていたのか、書籍の中に真っ白なハガキが差し込んであった。
「あ、このハガキは!」
オレは唖然とした。なんとそのハガキとは、オレが昨年末にじいちゃん宛てに送った年賀状だったのだ。
まさか、こんな形でオレの年賀状が再利用されていたとは。でも放っておかれて、気付かぬうちに捨てられるよりはマシかも知れないと、オレは気を取り直して手紙の捜索を続けた。
「おかしいなぁ、見当たらないぞ。じいちゃん、やっぱりボケちゃったかな。」
書籍を一冊一冊調べ終えるたびに、オレの期待感がにわかに薄らいでいく。簡単に見つかるだろうという予想は、どうやらオレの浅知恵だったようだ。
「・・・これが最後の一冊か。」
いよいよ、最後の書籍へ手を触れたオレ。じいちゃんの言ったことが正しければ、この書籍の中に必ず手紙があるはずだ。
書籍を手にして、オレは一ページずつ丁寧にめくっていく。百は超えるであろうそのページを、オレは見落としがないよう慎重にめくってみたが、無情にも、手紙らしきものは見つからないまま、巻末まで辿り着いてしまった。
首を傾げつつ、オレは今一度、すべての書籍を簡単に調べてみたが、やはり、手紙のようなものは見つからなかった。しおり代わりのオレの年賀状を除いては。
「やっぱり見つからないな。もう一回、じいちゃんに聞きに行かなくちゃ。」
溜め息を一つこぼして、オレは散らばった書籍を本棚へと片付け始めた。何の収穫もなかったせいか、この片付けがとんでもなく面倒くさかった。
すべての書籍を本棚へ並べ終えると、気疲れもあったせいか、オレは仰向けに寝転がってしまった。このまま目を閉じてしまうと、深い夢の中へ誘われてしまいそうだった。男根増長素
「ちょっとだけ寝ちゃおう。ふわぁ、おやすみ~。」
休憩がてら仮眠を取ろうと、オレは仰向けの体を横にしてゆっくりと目を閉じる。
「・・・あれ?」
目を閉じる瞬間に見えた何かが、残像として蘇ってきた。それを確かめようと、オレはゆっくりと目を開けてみた。
「あ、テーブルの下に本がある。」
木目調のテーブルの下に隠れて、一冊の書籍が放置されていた。
這いつくばったまま、その書籍を手にしてみたオレ。表紙には”簡単!マジック入門”と書かれていた。じいちゃんは、どうもマジックにも興味を持っていたらしい。
「あれ、何か挟まってるぞ。」
その書籍には、厚手の紙のようなものが挟まっている。手触りからして、誰かの年賀状ではないようだ。
ページをめくりながら、その紙が挟まっているところを辿っていくと、その正体は、折り目の糊がはがされた開封済みの封筒だった。
「じいちゃんの言っていた手紙って、きっとこれだ!」
その封筒の表側には、このアパートの郵便番号と住所が書かれている。宛名にも、”管理人 八戸居太郎様/住人の皆様”と記されていた。
間違いなく、これが奈都美さんからの手紙と確信し、オレはすぐさま封筒の裏側を見てみた。
「・・・あ!」
オレの期待とは裏腹に、封筒の裏側は何も書かれていない。汚れ一つないほど真っ白であった。
失礼とは思いつつ、管理人代行の特権を活かして、オレは封筒から一枚の便箋を取り出した。二つ折りの便箋を広げて、オレは黒い文字で書かれている文章を読んでみた。
「前略。管理人のおじいちゃんお久しぶりです。六平奈都美です。お元気ですか?会えなくなって、早十ヶ月が経過しました。早いものですね。住人のみんなは元気ですか?一人一人に挨拶すると、だらだらと長くなってしまうので、みんなには、おじいちゃんからあたしが元気でやってること伝えてくださいね。そうそう、あたしの住まいまだ決まってないんで、教えられないんだけど、所属先の住所ならこの紙に書いてあるから。近いうちに遊びに行ければと思っています。それでは、お体に気を付けて。草々。」
その便箋には、奈都美さんの近況が綴られていた。引っ越した後にこういう手紙を送っているところから、彼女はじいちゃんや住人たちとそれだけ親しかったのだろう。
引っ越してから十ヶ月経過しているとなると、この手紙は今から二ヶ月前に届いたということだ。ということは、それほど昔ではないということか。
文面にあった所属先の住所を確かめようと、オレは便箋をくまなく調べてみた。すると、便箋の下の方に住所らしい表記が見つかった。
「あ、これかな。所属先の住所って。えーと、東京多摩FC・・・。これって勤務先かな。住所は、東京都多摩市・・・。」
ありがたいことに、便箋には会社名と思われる「東京多摩FC」の電話番号が表記されていた。
「よし、この番号に電話してみようかな。奈都美さんと話ができるかも知れない。」
管理人室から出ていくと、オレはリビングルームのそばにある電話機のもとへと向かう。
電話機のそばに到着するなり、オレは受話器を握り締めて番号ボタンをプッシュする。受話器を耳に宛がい、オレは緊張しながらコール音に聞き耳を立てた。
「あ、もしもし?」
数回のコール音がした後、受話器の先から女性の声が聞こえた。その女性は、便箋に書かれた「東京多摩FC」を名乗った。
「失礼ですけど、お伺いしたいことがありまして。そちらに、六平奈都美さんはいらっしゃいますか?」
電話口の女性に、奈都美さんに代わってもらおうとお願いをしたオレ。ところが、その女性から予想もしない回答が返ってきた。
「あいにくですが、六平奈都美さんは先日、自己都合により契約解除のため退団いたしました。」
「え!」
契約解除で退団とは、いったいどういうことだろう。奈都美さんは、この会社の契約社員か何かだったのだろうか。聞き慣れない単語が頭を巡って、オレは動揺を隠し切れなかった。
「あの、すみません。奈都美さんの現住所とかご存知ないでしょうか?」
「申し訳ございませんが、プライバシー上、当社の所属ではない方のそのような情報は把握しておりません。」
電話口の女性は冷静沈着に、事務的な口調でそう述べた。
これ以上詮索したとしても、この応対具合では余計に警戒されるだろう。無念ながらも、オレは諦めるという選択肢しかなかった。
「・・・どうも、ありがとうございました。」
歯がゆい思いを噛み殺し、オレはそっと受話器を置いた。
オレは黙ったまま、電話機の前で立ち尽くす。手紙に書かれた勤務先に、奈都美さんはすでにいなかった。たった一つの手掛かりが、こんな形であっけなく消えていくとは。奈都美さんへとつながる線が完全に途切れてしまった。
「せめて会えなくても、何とか、この写真だけは奈都美さんに届けたいな。」
ポケットから取り出した写真をじっくりと眺めるオレ。ピンボケ気味の写真には、奈都美さんの優しい微笑みが輝いていた。蒼蝿水(FLY D5原液)
オレが「ハイツ一期一会」を訪れて、早くも二週間ほど過ぎていた。東京での生活に戸惑いを感じつつも、管理人の仕事にも慣れてきたし、住人たちとも仲良くしてもらって、それなりに快適な生活を送っている。威哥王三鞭粒
そんなオレはいつも通り、アパートの掃除に励んでいる。玄関から始めて一階の各所を巡り、オレはニ階へと足を運んでいた。
「さてと、今日はいよいよここだな。」
オレは、空き部屋の前で立ち止まる。
空き部屋も二週間に一回は清掃するよう、じいちゃんから授かったノートに書かれているため、ここを無視し続けるわけにはいかない。
オレはマスターキーをドアの鍵穴へ差し込み、ゆっくりと回してみる。思いのほか、シリンダー錠は滑らかに回った。
「失礼しまーす。」
ドアを開けて室内を覗き込むオレ。備え付けの洋服ダンスとベッドだけがひっそりと佇んでいて、人の気配のない殺風景な部屋だった。
オレは締まりっ放しだった窓を開放する。すると、しばらく掃除していなかったせいか、吹き込んできた風で、ほこりが軽やかに宙を舞った。
「よーし、やるか。」
モップをしっかりと握り締めて、オレは床を磨き始める。部屋の四隅から始めて、中央まで満遍なく磨き、そして、最後にベッドの下へとモップを滑らせた。
ベッドの下はさほど汚れていないだろうと、オレはモップで数回撫で回してから、これで終わりとばかりに勢いよくモップを引っ張り出した。
「あれ。」
モップのヘッド部分に、ちりやほこりとは違う物が絡みついていた。オレはそっと、その絡みついた物を手にしてみた。
「これ、写真か。」
それは一枚の写真だった。よく見ると、このアパートの住人たちが微笑ましい笑顔で写っていた。住人だけではなく、じいちゃんもちゃっかり写っている。背景からして、このアパートの玄関前で撮ったもので、みんなの姿を見る限り、そんなに古い写真ではないとわかった。
「ん?この人誰だろう。」
その写真には、オレの知らない短髪の女性が写っていた。カメラの性能なのかピントが合っておらず、その女性の顔までハッキリとはわからなかった。
「あれぇ?マサ、こんなとこで何してんのぉ?」
オレに声を掛けたのは、ピンク色のジャージ姿の潤だった。彼女は不思議そうな顔をしながら、空き部屋へと入ってきた。
「あ、潤か。今、空き部屋の掃除をしてたんだよ。そうしたら、こんな写真が出てきたんだ。」
潤は寝ぼけ眼を擦りながら、オレの手にある写真を覗き込んだ。
「あー、この写真懐かしい。一年ぐらい前に、みんなで撮ったんだよぉ。」
一緒に写っている潤だったら、この女性のことを知っているだろう。オレは興味本位でこの女性のことを尋ねてみると、彼女はさらりと答えてくれた。
「この子ねぇ、奈都美だよ。六平奈都美(むだいらなつみ)っていうの。」
その奈都美という女性は、昔、この部屋の住人で、丁度一年くらい前に引っ越してしまった。この写真は、彼女が引っ越すことが決まった後、記念にみんなで撮ったものだと、潤は記憶を辿りながら話してくれた。
「ということは、この写真、その奈都美さんの忘れ物ってことかな。」
「うん、そうだろうねぇ。ここにあったんだから、間違いないと思うよ。」
「それなら、大切な記念の写真だし、彼女に渡してあげたいな。」
オレがそう言うと、潤も相づちを打つようにうなづいた。しかし、彼女はなぜか、悩ましい表情をしていた。
「でもねぇ、奈都美が今どこにいるか、わかんないんだぁ。あの子、引越し先が決まったら、あたしに連絡するって言っててさぁ。結局、今日まで連絡ないんだよね。」
そう言いながら、お手上げのポーズをする潤。
「でもさ、携帯電話の番号とか、メールアドレスぐらいわかるんじゃないの?」
「それがさぁ、奈都美、機械音痴だからって、ケータイ持ってなかったんだぁ。あたしには考えられないよねぇ、ケータイなしで生きるなんてさ。あの子、あたしと同じ年なんだけど、今時の女の子って感じじゃなかったもん。」
潤の言う通り、オレたちぐらいの年代で、携帯電話を持っていないのは珍しいケースだろう。つい先日、携帯電話をなくして大騒ぎした彼女にしてみたら、とても想像できないといったところか。
「そうか、それじゃあ、こっちから連絡が取れないわけか。困ったな。」
電話番号やメールアドレスが存在せず、ましてや現住所も不明では、オレから連絡を取る手段がない。八方塞がりとはまさにこのことだ。
オレが頭を悩ませていると、何かを思い出したような口振りで、潤が声を張り上げた。
「そうだぁ、ハッちゃんなら何か知ってるかも。」
「え、ハッちゃんって、オレのじいちゃんのこと?」
潤はうなづきながら話を続ける。
「奈都美さ、ハッちゃんのこと気に入っててねぇ。ここに住んでた頃、あの子、管理人室へ行っては、ハッちゃんの話し相手になったりぃ、肩とか揉んだりしてたんだぁ。」
潤の話では、奈都美という女性は、幼少の頃に両親が離婚したせいで、長い間、祖父に面倒を見てもらっていたそうだ。その時の印象が残っているので、オレのじいちゃんを本当の祖父のように慕っていたのではないか、とのことだった。
「そうか、それじゃあ見舞いついでに、じいちゃんに聞いてみるか。」
潤は大きなあくびをしながら、ハッちゃんによろしくね、とだけ告げて、空き部屋から去っていった。
「・・・たまには、じいちゃんの見舞いに行ってやれ。まったくもう。」
そうと決まれば即時に実行とばかりに、オレは空き部屋の掃除を手短に済ませた。じいちゃんが、奈都美さんの居場所を知っていると願いつつ、オレは写真を手にしたまま空き部屋のドアを施錠した。
正午を過ぎた頃、オレはじいちゃんが入院している「胡蝶蘭総合病院」へ来ていた。
病院は、アパートから歩いて25分ほどの場所にあるので、オレはウォーキングがてら、毎回徒歩でお見舞いに来ている。今日は天気が不安だったので、ビニール傘を持参しての訪問である。
病院は今日も、いつものように混雑していた。診察待ちなのか、それとも薬の処方待ちなのか、ロビーは多数の人々で埋め尽くされていた。
「あ、エレベーターが開いてる、チャンスだ。」
丁度よく、停止していたエレベーターへと乗り込んだオレ。すると、車椅子の老人と付き添いの看護婦がすでに乗り込んでいた。そんな二人に会釈して、オレは五階のボタンを押した。
エレベーターが目的のフロアへ辿り着くまでの間、二人は楽しそうに、他愛もない世間話をしている。そのやり取りを見て、オレは何となく穏やかな気分になった。
「それでは失礼します。」
エレベーターが五階に到着したので、オレは二人に挨拶しながら廊下へと降りる。そして、じいちゃんの病室である512号室を目指した。
廊下を歩いていると、点滴スタンドを押しながら歩いている患者と出会った。すれ違いざま、その患者がオレに向かってニッコリと笑ったので、オレも微笑みながら、その患者に小さく頭を下げた。
「お邪魔しまーす。じいちゃん、いる?」
オレが512号室を訪れると、じいちゃんはふて腐れたような顔をしていた。機嫌を損ねる出来事でもあったのだろうか。
「どうかしたの、じいちゃん。何か機嫌悪そうだけど、何かあったの?」
じいちゃんは顔を紅潮させながら、わめくように恨み節を口にしていた。
「どうもこうもないわ。看護婦さんがわしの楽しみのペッパーサラミを取り上げてしまったんじゃ。サラミは余分な脂肪が多いからとか何とか言いながら。わしは、担当のお医者さんからは、食事の制限はないと聞いておったんじゃぞ。それなのに、それなのに。」
じいちゃんは、語るごとに涙目になっていく。わがままというか、大人気ないというか、オレはじいちゃんの振る舞いに困惑していた。
「それよりマサ、お土産はどうした?」
「ないよ。この前来た時にさ、看護婦さんから注意されたんだよ。余計な食べ物を与えるなって。」
「余計な食べ物を与えるなだと?わしは野生動物じゃないわい!」
オレが健康管理に重要なことだと諭しても、じいちゃんは拗ねる一方で、オレに背中を向けっ放しだった。三鞭粒
「そんなことよりさ、今日はじいちゃんに聞きたいことがあって来たんだよ。」
そっぽを向いているじいちゃんに、オレはここまでやってきた目的について触れてみた。
「じいちゃん、昔、アパートに住んでた奈都美さんって人、憶えてる?」
じいちゃんはピクッと体を震わせた。
「マサ、奈都美って、・・・奈っちゃんのことか?」
「あだ名までは知らないけど、たぶんその人のことだよ。」
頼んでもいないのに、じいちゃんは奈都美さんとの思い出話を語り始めた。
「奈っちゃん懐かしいなぁ。あの子は本当にいい子じゃった。わしの茶菓子を買ってきてくれたり、一緒にお茶を飲みながらおしゃべりしたり。いやぁ、どこかの誰かさんと違って、あの子は最高にかわいい娘さんじゃったよ。」
「・・・ねぇ、その誰かさんって、もしかしてオレ?」
目を潤ませながら、いろいろな思い出に浸っているじいちゃん。
「で、その奈っちゃんがどうかしたのか?」
「二階の空き部屋でこの写真を見つけたんだ。潤に聞いたら、その空き部屋に住んでたのが、その奈都美さんだったらしいね。」
じいちゃんは老眼鏡を掛けて、オレから受け取った写真を見つめる。写っている自分や住人たちに気付くと、じいちゃんは撮影時のことを思い出してくれた。
「そうじゃ、奈っちゃんの引越しが決まってな、住人のみなさんと思い出を残そうって、アパートの前で撮った写真じゃよ。奈っちゃんは案外涙もろくてな、撮った後にうるうる泣いてしまって、みなさんに慰められていたことを思い出すなぁ。」
「この写真、きっと奈都美さんが置き忘れてしまったと思うんだ。こんな素敵な思い出が詰まった写真だもん。できれば、奈都美さんに渡してあげたいんだよね。」
オレはじいちゃんに、奈都美さんの居場所を知っているかどうか尋ねてみた。しかし、じいちゃんはじっと目を閉じて、唸り声を上げるばかりだった。
「う~ん、わからんなぁ。」
残念なことに、じいちゃんは思い当たらないようだ。顎を指でいじりながら、記憶の断片を回想するじいちゃんだったが、結局、奈都美さんの居場所について語られることはなかった。
「何か手掛かりになるようなヒントみたいなものもないかな?がんばって思い出して。」
「う~ん、ヒントかぁ。」
また唸り声を上げて、じいちゃんはしばらく考え込んでしまった。
祈るような気持ちで、オレはじいちゃんからの返答を期待した。今の段階では、じいちゃんの記憶だけが頼りだったからだ。
焦らすこと数十秒後、じいちゃんがようやく口を開いた。
「そういえば、もう数ヶ月前じゃったかな。奈っちゃんからお手紙が届いた気がするなぁ。住人のみんなによろしくって感じで。」
「手紙って、郵便で来たの?」
「そうじゃ、あのお手紙、郵便屋さんから受け取ったよ。」
奈都美さんの居場所を突き止める有力な情報だった。郵送されているとしたら、どこから送られているかわかる可能性が高い。住所や電話番号も記載されているかも知れないからだ。
「で、その手紙はどこにあるの?」
「う~ん、あの手紙は確か、わしが読んでから・・・。」
またまた、じいちゃんは唸り声を上げながら考え込んでしまった。待ちぼうけにうんざりしつつ、オレはじいちゃんの返答を待ち続けた。
またまた焦らすこと数十秒後、今度はいきなり、じいちゃんは意味もなく笑い出してしまった。ついにボケてしまったかと、オレは慌ててじいちゃんに呼びかけた。
「ひゃっひゃっひゃ、思い出したよ。奈っちゃんからのお手紙は、わしが読んだ後、住人のみなさんへ見せようと思ってな、本棚にいったん片付けたんじゃよ。その後、集金やら宅急便やらで、その手紙のことすっかり忘れちゃって。だから、まだ本棚にしまってあるよ。いやぁ、思い出せてよかったのう。」
「・・・ってことは、じいちゃん、奈都美さんからの手紙、住人たちに見せてないの?」
悪びれる様子もなく、じいちゃんはひたすら笑っている。じいちゃんの物忘れにも困ったものだと、オレは頭を抱えながら嘆いていた。
「マサ、すまんな。お手紙見つけたら、住人のみなさんに渡してくれ。」
詫びながらそう言うと、じいちゃんはオレに写真を返してくれた。その時、この写真を奈都美さんに届けてほしいと、じいちゃんからそんな願いが伝わった気がした。
そういうわけで、オレはアパートまでとんぼ返りする羽目となった。じいちゃんが思い出してくれた、奈都美さんからの手紙を何としても見つけるために。
じいちゃんに別れを告げたオレは、病院五階の廊下を小走りで駆け抜けていた。
その途中、年配の看護婦とすれ違い、廊下ではお静かにと注意されたオレ。すいませんと反省しつつ、オレは急ぎ足を緩めてしまった。
足音を響かせないよう気を付けながら、オレはエレベーター付近までやってきた。すると、エレベーターの先の廊下で、女の子が一人しゃがみ込んでいる姿が見えた。
「ん、あの女の子、どうしたんだろう。」
肩を小さく揺らして、両手で顔を押さえながら、その女の子は泣き声を漏らしている。迷子にでもなってしまったのだろうか、それとも、転んで怪我でもしてしまったのだろうか。
「どうしようかなぁ。」
一向に泣き止まない女の子のために、オレは救いを求めようと前後左右を見渡した。ところが、付近にはオレと女の子以外誰もいない。あの女の子の小さな泣き声だけが、静かな廊下に響いていた。
このまま放っておくわけにもいかないので、オレは泣きじゃくる女の子のそばへと歩み寄った。
「おやおや、キミ、どうしたんだい?」
オレが女の子へ声を掛けようとした瞬間だった。その女の子のもとへ、白衣をなびかせた男性が駆けつけた。思わずびっくりして、オレはその場に立ち止まってしまった。
「あれ、あの人・・・!」
よく見ると、オレはその男性に見覚えがあった。つい先日、じいちゃんのお見舞いに来た時に、ちょうどここの廊下で肩がぶつかったあの男性だった。この前の不機嫌そうな表情から一転、今日はとてもにこやかな顔をしていた。
まるで我が子をあやすかのように、男性は女の子に親身になって接している。その優しさに包まれて、ぐずっていた女の子が少しずつ泣き止んでいった。
「よーし、それじゃあ、先生と一緒に病室へ戻ろうか。」
「うん、ありがとう、せんせい。」
あの男性がやってきたおかげで、女の子はすっかり笑顔を取り戻していた。
女の子と仲良く手をつないで、男性は小児科病棟の方へと歩いていく。二人の会話からして、あの男性は小児科の医師だったようだ。
小児科病棟に消えていく二人を横目で見届けながら、オレは一階へ向かうエレベーターへと乗り込んだ。
病院を後にするや否や、オレは逸る思いでアパートまで戻ってきていた。
管理人室はこの上ないほど蒸し暑く、オレの背中はにじむ汗で湿っていく。タオルで額から流れる汗を拭いながら、オレはエアコンのスイッチを入れた。
「えーと、奈都美さんからの手紙があるのは、確か本棚だったな。」
その手紙には、奈都美さんの居場所を特定する何かがあるはずだ。たとえ特定できなかったとしても、居場所にまつわるヒントぐらいは見つかるだろう。期待に胸を膨らませながら、オレはじいちゃんの言っていた本棚を探す。
今更ながら、ここ管理人室は異様なほど殺風景である。古風な机と椅子が一つずつ、木目調のテーブルと洋服タンスがあるぐらいなので、探していた本棚はあっさりと見つかった。
「これか、じいちゃんの本棚は。」
机のそばにあった小さな本棚には、十冊ほどの書籍が詰め込まれていた。
”盆栽の賢い育て方”や、”全国植木市自慢”といった趣味の本や、”益虫と害虫の見分け方”や、”腐葉土の微生物ノウハウ”といったマニアックな本など、じいちゃん愛用の書籍ばかりだった。
その書籍の山をすべて抜き取って、オレは手紙が挟まっていないか調べてみた。
「まったく、何で大事な手紙を本棚になんか片付けたんだ?後から、見つかりにくくなるだけじゃん。」
そうぼやきながら、オレは一冊一冊書籍を手にして、パラパラとページをめくっていく。すると、しおり代わりにしていたのか、書籍の中に真っ白なハガキが差し込んであった。
「あ、このハガキは!」
オレは唖然とした。なんとそのハガキとは、オレが昨年末にじいちゃん宛てに送った年賀状だったのだ。
まさか、こんな形でオレの年賀状が再利用されていたとは。でも放っておかれて、気付かぬうちに捨てられるよりはマシかも知れないと、オレは気を取り直して手紙の捜索を続けた。
「おかしいなぁ、見当たらないぞ。じいちゃん、やっぱりボケちゃったかな。」
書籍を一冊一冊調べ終えるたびに、オレの期待感がにわかに薄らいでいく。簡単に見つかるだろうという予想は、どうやらオレの浅知恵だったようだ。
「・・・これが最後の一冊か。」
いよいよ、最後の書籍へ手を触れたオレ。じいちゃんの言ったことが正しければ、この書籍の中に必ず手紙があるはずだ。
書籍を手にして、オレは一ページずつ丁寧にめくっていく。百は超えるであろうそのページを、オレは見落としがないよう慎重にめくってみたが、無情にも、手紙らしきものは見つからないまま、巻末まで辿り着いてしまった。
首を傾げつつ、オレは今一度、すべての書籍を簡単に調べてみたが、やはり、手紙のようなものは見つからなかった。しおり代わりのオレの年賀状を除いては。
「やっぱり見つからないな。もう一回、じいちゃんに聞きに行かなくちゃ。」
溜め息を一つこぼして、オレは散らばった書籍を本棚へと片付け始めた。何の収穫もなかったせいか、この片付けがとんでもなく面倒くさかった。
すべての書籍を本棚へ並べ終えると、気疲れもあったせいか、オレは仰向けに寝転がってしまった。このまま目を閉じてしまうと、深い夢の中へ誘われてしまいそうだった。男根増長素
「ちょっとだけ寝ちゃおう。ふわぁ、おやすみ~。」
休憩がてら仮眠を取ろうと、オレは仰向けの体を横にしてゆっくりと目を閉じる。
「・・・あれ?」
目を閉じる瞬間に見えた何かが、残像として蘇ってきた。それを確かめようと、オレはゆっくりと目を開けてみた。
「あ、テーブルの下に本がある。」
木目調のテーブルの下に隠れて、一冊の書籍が放置されていた。
這いつくばったまま、その書籍を手にしてみたオレ。表紙には”簡単!マジック入門”と書かれていた。じいちゃんは、どうもマジックにも興味を持っていたらしい。
「あれ、何か挟まってるぞ。」
その書籍には、厚手の紙のようなものが挟まっている。手触りからして、誰かの年賀状ではないようだ。
ページをめくりながら、その紙が挟まっているところを辿っていくと、その正体は、折り目の糊がはがされた開封済みの封筒だった。
「じいちゃんの言っていた手紙って、きっとこれだ!」
その封筒の表側には、このアパートの郵便番号と住所が書かれている。宛名にも、”管理人 八戸居太郎様/住人の皆様”と記されていた。
間違いなく、これが奈都美さんからの手紙と確信し、オレはすぐさま封筒の裏側を見てみた。
「・・・あ!」
オレの期待とは裏腹に、封筒の裏側は何も書かれていない。汚れ一つないほど真っ白であった。
失礼とは思いつつ、管理人代行の特権を活かして、オレは封筒から一枚の便箋を取り出した。二つ折りの便箋を広げて、オレは黒い文字で書かれている文章を読んでみた。
「前略。管理人のおじいちゃんお久しぶりです。六平奈都美です。お元気ですか?会えなくなって、早十ヶ月が経過しました。早いものですね。住人のみんなは元気ですか?一人一人に挨拶すると、だらだらと長くなってしまうので、みんなには、おじいちゃんからあたしが元気でやってること伝えてくださいね。そうそう、あたしの住まいまだ決まってないんで、教えられないんだけど、所属先の住所ならこの紙に書いてあるから。近いうちに遊びに行ければと思っています。それでは、お体に気を付けて。草々。」
その便箋には、奈都美さんの近況が綴られていた。引っ越した後にこういう手紙を送っているところから、彼女はじいちゃんや住人たちとそれだけ親しかったのだろう。
引っ越してから十ヶ月経過しているとなると、この手紙は今から二ヶ月前に届いたということだ。ということは、それほど昔ではないということか。
文面にあった所属先の住所を確かめようと、オレは便箋をくまなく調べてみた。すると、便箋の下の方に住所らしい表記が見つかった。
「あ、これかな。所属先の住所って。えーと、東京多摩FC・・・。これって勤務先かな。住所は、東京都多摩市・・・。」
ありがたいことに、便箋には会社名と思われる「東京多摩FC」の電話番号が表記されていた。
「よし、この番号に電話してみようかな。奈都美さんと話ができるかも知れない。」
管理人室から出ていくと、オレはリビングルームのそばにある電話機のもとへと向かう。
電話機のそばに到着するなり、オレは受話器を握り締めて番号ボタンをプッシュする。受話器を耳に宛がい、オレは緊張しながらコール音に聞き耳を立てた。
「あ、もしもし?」
数回のコール音がした後、受話器の先から女性の声が聞こえた。その女性は、便箋に書かれた「東京多摩FC」を名乗った。
「失礼ですけど、お伺いしたいことがありまして。そちらに、六平奈都美さんはいらっしゃいますか?」
電話口の女性に、奈都美さんに代わってもらおうとお願いをしたオレ。ところが、その女性から予想もしない回答が返ってきた。
「あいにくですが、六平奈都美さんは先日、自己都合により契約解除のため退団いたしました。」
「え!」
契約解除で退団とは、いったいどういうことだろう。奈都美さんは、この会社の契約社員か何かだったのだろうか。聞き慣れない単語が頭を巡って、オレは動揺を隠し切れなかった。
「あの、すみません。奈都美さんの現住所とかご存知ないでしょうか?」
「申し訳ございませんが、プライバシー上、当社の所属ではない方のそのような情報は把握しておりません。」
電話口の女性は冷静沈着に、事務的な口調でそう述べた。
これ以上詮索したとしても、この応対具合では余計に警戒されるだろう。無念ながらも、オレは諦めるという選択肢しかなかった。
「・・・どうも、ありがとうございました。」
歯がゆい思いを噛み殺し、オレはそっと受話器を置いた。
オレは黙ったまま、電話機の前で立ち尽くす。手紙に書かれた勤務先に、奈都美さんはすでにいなかった。たった一つの手掛かりが、こんな形であっけなく消えていくとは。奈都美さんへとつながる線が完全に途切れてしまった。
「せめて会えなくても、何とか、この写真だけは奈都美さんに届けたいな。」
ポケットから取り出した写真をじっくりと眺めるオレ。ピンボケ気味の写真には、奈都美さんの優しい微笑みが輝いていた。蒼蝿水(FLY D5原液)
2012年7月18日星期三
梅雨明けの街
じめじめとした長い雨が上がり、本格的な夏のシーズンの到来を予感させるようにカラッと晴れ上がったその日の夕方、プールの授業で疲れた体を休めるため居間のソファで真咲がまどろんでいると、庭先からがさがさと物音が聞こえた。花痴
慌てて飛び起きると、庭に植えられたプラムの横にいつの間にか脚立が置いてあり、その実を何者かがもぎ取ってはバケツへと放り込んでいた。驚いて思わず声を上げてしまいそうになったが、よくよく見ると、その果実泥棒は叔父の忠晴に似ている――というか忠晴本人だった。
掃き出し窓をガラリと開けて、庭へ出る。つっかけのサンダルを履いて脚立に近寄ると、叔父は真咲を見下ろして「おお」と破顔した。
「真咲、今年のプラムは当たりだぞ」
そう言って赤い実をひとつ採って真咲に手渡した。「食べてみろ」と言われたので皮を剥いて歯をあてがう。ほんのりと酸味の漂う甘い果汁が口の中いっぱいに拡がり、寝起きのだるい体にしみこんでいくのが分かった。
何か手伝うことはないか、と聞くと、実を拭いて並べるように言われた。台所へ一旦戻りキッチンペーパーを何枚か持ち出し、縁側に座って作業にとりかかった。
拭きながら熟した実とまだ青さが残ってる実を分けていく。脚立を移動し黙々とプラムをつみ取っている叔父は、会社帰りで疲れ果てていたってよさそうなものなのに、実にいきいきとして見えた。
母より7~8歳若い叔父は、「ジョージョー企業」に勤める「エリート社員」なのだと誰かから聞いたことがある。背が高く彫りの深い顔立ちで、「小さい頃から女の子の影が絶えなかった」とは母の弁である。それなのに未だに独身で、早く落ち着いてくれればいいのに、と母はことあるごとに愚痴っていた。
叔父自身はマンション暮らしをしているが、庭いじりをするため、月に2~3度は真咲の家へ草刈りや肥料捲きをしに現れる。放置気味だったプラムの樹が見事結実するまでになったのも、叔父の世話があってである。(もともとこの家は祖父母のものだったが、「年寄りに階段は堪える」とのことで、二人は現在公団暮らしをしている。一軒家をもてあましていたところに、娘と孫である真咲たちが収まったという格好だ。)
真咲にしてみれば自分をからかってくるところが少々苦手だったが、度々会っているうちにそれも馴れてきた。親しくなれば、気さくでいい人間なのだ。
「ねー、おじさん」
叔父が振り返りもせずに「なんだ」と答える。
「今日も、家に帰っちゃうの?」
「……ああ。仕事がまだあるから。帰るよ」
「だったら、いっそのことうちに引っ越してくればいいのに」
叔父は真咲の言葉に一瞬手を止めたが、「バカなこと言ってんな」と言うとすぐにプラムの採取を再開した。
しかし、今家には使っていない部屋があるし、ここに住めば庭だって好きなだけいじれる。わざわざ別に暮らしているのが無駄なんじゃないか……と真咲は思うのだ。
真咲は「えー、でも」と付け加えてから、反論に出た。
「きっと、ガリレオだってその方が喜ぶよ」
叔父の飼っている犬のことを持ち出す。狭いマンションではきっと十分に走り回ることもできないに違いない。叔父もあまり散歩に連れて行けないようだし、もし一緒に暮らしていたら、自分が遊んでやることもできるだろう。
すると叔父は苦笑いをして答えた。
「いい歳こいた男が親とか兄弟と住むのも変だろ」
「でもさ、うちお母さんいないこと多いしさ。いてくれたら嬉しいんだけど」
それは真咲の本音だった。最近本格的に仕事に復帰した母は、夜勤などで長時間家を開けることも多い。
寂しい、と泣く歳でもないが、誰かが一緒にいてくれるのならその方がいい。ずっといい。
脚立から真咲を見下ろしていた叔父は、ぽんと地上に降り立つと、プラムのぎっしりつまった重そうなバケツを持って真咲に歩み寄った。
「なんだ? お前がそんなこと言うなんて珍しいじゃないか。やっと俺の良さがわかったか」
はぐらかされて真咲はふてくされた。そんな彼女に構うことなく、叔父は予め用意していたらしいビニール袋へプラムを詰め始める。
縁側に並べられたプラムをあらかた詰め終わると、それを指し示しながら真咲に言った。
「これはあとでじーさんとばーさんの方に持ってってくれ」
明日は母と祖父母の家で週一恒例となっている食事会の予定だ。その時に一緒に持っていけばいいだろう。
しかしプラムの実はまだバケツいっぱいに残っている。叔父がその上のほうから「それじゃ、俺はこれぐらい」と3,4個だけ手に取ったので、
「残りは?」
そう真咲が尋ねると、叔父はさも当然というように、
「お前とかーちゃんの分だろ」
真咲の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
ふたたびバケツの中へと目を落とす。プラムは今にもこぼれんばかりに赤く熟したもの、まだ青く固そうなもの。さまざまな色合いのものがあったが、見えているのはごく一部で、一体この中に何個あるのか真咲には見当も付かなかった。
「二人じゃこんなに食べられないよ」
きっと母と自分だけでは食べきる前に腐らせてしまう。せっかく収穫したのに無駄にしてしまうのは可哀想だ。
叔父にもっと持って行け、という意味を込めて言ったはずの台詞は、またもや飄々とした調子ではぐらかされた。
「じゃぁお前の友達にでも持ってけば。喜ぶと思うよ」
「友達……」
言われても思い浮かばない。こんな庭先で採れた果実を学校の知り合いに押しつけたところで、迷惑がられるだけな気がする。
叔父が「いい仕事をした」とばかりに大きく伸びをした。夕陽を受けて庭の地面に落ちた長い手足の影が、ある人物のそれを彷彿とさせた。
(あの人だったら、よろこんでくれるかな)
プラムの入ったバケツを台所に運ぶと、そのうちの10個ほど、あまり傷の付いてない見栄えのいいものを選んで紙袋に詰めた。
自分の部屋に駆け上がると、クローゼットを開け、誰にも見えないように置いてあったビニール傘を取り出した。
突然の雨に降られたあの日、再会した親切な青年から借りた傘。
「やるよ」と言われたが、いつか返しに行こうと思っていた。だけど、手放してしまったら今度こそ本当に縁が切れてしまいそうで行けなかった。
(これのお礼です、って言えば、また少しはお話できるかな)
ビニール傘の柄をぎゅっと握りしめる。先日見たことわざ辞典に載っていた「思い立ったが吉日」という言葉を思い出した。
この気持ちが何なのかは分からない。だけれど、あの男の人と一緒にいると、ホッとするし、楽しい。遠足の前の日みたいにわくわくする気分。ずっと続いてほしくて、時計が止まってしまえばいいって本気で思った。
プラムの酸味のある甘い味が、口の中に蘇ってきた気がした。
数週間前の記憶をたどって、くたびれたモルタル造りのアパートの前までやって来た。
一旦家に帰ったからランドセルはない。体のラインを隠すようにパーカを羽織って、手には以前借りたビニール傘と、袋いっぱいにつめられたプラムの実だけを持っていた。
扉の横のチャイムは「♪」のマークが薄汚れて消えかかっていた。繋がっているかどうか分からないそれを恐る恐る押してみると、中から「キンコン」というような古めかしい音が聞こえてきた。
しかし、扉の内側からはそれ以来一切物音がしない。
「……やっぱいないか」
ため息をついて俯いた。やはり大学生といえど、平日のまだ陽も沈みきってないこの時間に家に居ることはなかったようだ。
扉に背を向けて寄りかかる。行成の住んでいるアパートは幸いなことに大通りから外れた静かな住宅街にあり、その前を通る道路は交通量が少なく、たまに買い物帰りの主婦や散歩をする老人が歩いて横切る程度である。真咲は「お腹が空くまで待って来なかったら帰ろう」と決めて、そのまま部屋の前に座り込んだ。福源春
向かいの家の垣根から、空に向かって真っ直ぐ伸びるタチアオイの木が見えた。その中心に沿って絡みつくように連なって咲いている赤い花は真夏の太陽に似ていて、これから来る季節を真咲に嫌が応でも思い起こさせた。
本でも持ってくれば良かったな、と思いつつ行成を待つ。チリ……チリ……とどこかで揺られている風鈴の音だけに耳を澄ませていた。
そのうち西の空にたなびく雲が次第に赤みを増してきた。そういえば、往来を行く人の中にも、会社帰りとおぼしき人の姿がちらほら混じりだしている。時計を持っていないので時間は分からないが、もう1時間以上は経っている気がする。
道を歩いていたひとりの老婆が、アパートの前で動かない真咲の姿を見て、不審げに振り返った。もしかしたらずっと真咲がここに居ることに気づいたのかもしれない。
(……変に思われたかな)
そう思うと途端に焦ってくる。お巡りさんでも呼ばれたら大変だ。早く帰らなきゃ、と腰を上げた瞬間だった。
突如、部屋の中からがちゃがちゃと金属が擦れるような物音が聞こえた。
咄嗟のことで身を強ばらせていると、それまで自分がもたれ掛かっていた扉が出し抜けに開いた。
「あっ!」
玄関を開いた人物は、すぐ外に立っていた真咲を見て飛び退いた。
「お前、ずっと待ってたの?」
真咲は行成の問いに頷くこともできず、
「えーと、さっきチャイム鳴らしたんだけど、出てこなったから」
と、言い訳がましく答えた。
行成はうろたえたように口元を歪めた。以前会った時よりも表情に乏しく、顎や鼻の下には点々と髭が生え、疲れているのか目の下は落ち窪んでいた。縒れた半端な袖丈のTシャツにスウェット地のハーフパンツという出で立ちで、まるでさっき起きたばっかりです、と言うような格好だった。
……いや、本当に今の今まで寝ていたのかもしれない。
ああ、悪い、と行成は頭を掻くと、真咲の顔をじっと見つめた。その体からは、ほんのりと酒の匂いがした。
「これ、ありがとうございました」
しどろもどろになって傘を差し出すと、行成は戸惑ったように顔を俯けた。
「そっか。そんなの玄関の前に置いてってくれればよかったのに」
「あ、あと、この前のお礼に、これ持ってきたから」
「なんだこれ。梅? 桃?」
行成は真咲に渡された紙袋を開け、視線を落とす。
「プラム、だよ。うちの庭先で採れたんだ」
ふーん、と頷く。玄関の扉が再び閉じられていく。やはり突然押しかけたのは迷惑だったかと後悔していると、狭くなったドアの隙間から、行成の急いたような声がした。
「とりあえず中入れば」
「えっ?」
「食ってくだろ?」
あまりにも当たり前の様な態度に、真咲は多少面食らいつつも、遠慮がちに答えた。
「でも、ユキナリに持ってきた分だし」
「いや、こういうのってひとりで食っても美味くねーじゃん。一緒に食おうぜ」
長年連れ添った友達のように気安い物言い。それに行成の顔色が悪いのも少し心配になり、真咲は再びアパートの玄関を跨いだ。
実は家で飽きるほど食べた、というのは内緒にしておくことにした。
部屋の中へ入ると、酒の香りがより一層濃く漂った。
それもそのはず。テーブルの周りにはビールの空き缶がいくつも転がっており、さきいかやかまぼこなどの包み紙も散乱していた。以前訪れたときも整頓されているとは言い難い部屋だったが、今回のそれは明らかに「汚部屋」と言っていい有様だった。
「うわー……、こりゃひどいな」
自室惨状を改めて目の当たりにし、行成が呻く。
「何かあったの?」
「いや、まぁ……、大人にはいろいろあるんだよ」
バツが悪そうに顔をしかめると、行成はテーブルの上に開きっぱなしだった白い紙と封筒をぐちゃりと握りつぶし、食べ散らかしもろとも部屋の隅にあったゴミ箱へと放り込んだ。
この部屋の状況を見ても、だらしない人間だ、とは思わない。彼の言うとおり、いろいろと子供には分からない事情というものがあるのだろう。真咲は彼に倣って、空き缶などを適当に分別してビニール袋に詰めていく。
あらかた片づくと、行成はプラムを切り分けるために台所へと向かった。
手持ち無沙汰になった真咲は、ついでに部屋中に散乱していた本を本棚に並べ直した。余計なお世話かな、と思いつつ脱ぎっぱなしだった衣類を畳んで、ぐちゃぐちゃになった布団もきちんと皺を伸ばした。
皮を剥いたプラムを手にした行成が部屋の中に戻ってくると、「うわ、すげぇキレイになってる」と驚嘆の声を上げた。
冷えた麦茶と、剥きたてのプラムがテーブルの上に並べられる。
そのうちの一つにフォークを刺し、滴る果汁をトントンと切ってから、口へ運んだ。
顎を動かして飲み込むと、行成は相変わらずの無表情のまま呟いた。
「ああ、これか。昔ばーさんの家で食ったな」
「あ、ホントに? おばあちゃんも家でつくってたの?」
「いや、多分ご近所さんからのお裾分けだったんだと思う。果物やら野菜やら、いつもたくさんもらってたよ」
「へー、羨ましいね。どの辺に住んでるの?」
「北陸の山ん中だよ。ガキの頃は毎年夏になると行ってたけど……。最近は顔も出してねぇな」
瞼を伏せて遠い目をすると、 「まぁ、こんなんじゃ合わせる顔もないけど」と自嘲気味に笑った。
……それは、どういう意味なのだろうか。そういえば、初めて見たときもベンチの上にうずくまったりして、何か深刻な悩みを抱えていそうな雰囲気だった。
だけど、自分が聞いていいものか……、と考えていると、先に口を開いたのは行成の方だった。
「お前はいいよなぁ」
「えっ?」
「やりたいこと、いっぱいできるし、まだまだこれからだもんなぁ」
真咲はムッと顔を顰めた。正直、小学生だってそこまでお気楽ではない。特に自分は、父を亡くし友達も出来ず、羨ましがられるような境遇にはいない。
反論しようとするより先に、行成は「ごめん、なんでもない」と言って再び俯いてしまった。
生暖かい風に乗って、開け放した窓から子供達のはしゃぐ声が届いた。酸っぱいプラムを食べきってしまうとすることが無くなり、気まずくなって真咲は話題を振った。
「そういえば、どこか出掛けるところじゃなかったの?」
先ほどのこと。家の中から勝手に扉が開いた。あれは外に用事があったからではないのだろうか。この前のように自分のせいでバイトに遅れたりしたら大変だ……そう思って尋ねる。
「あ、ああ。夕飯の買い出しだし行こうと思ってたんだわ。日も暮れそうだし、そろそろ行くか」
大した用事でなくてよかった……。そう胸をなで下ろしたのもつかの間、行成は麦茶を飲み干すと、急にテーブルの前から立ち上がった。なんだか唐突な行動である。呆気にとられた真咲は、慌てて背中に向かって声を掛けた。
「どこ行くの?」
「駅前の商店街。あの辺、総菜とかが安いんだよ」
部屋の中を「財布、財布」と、うろうろしている行成に、真咲は思い切って聞いてみる。
「着いてっていい?」
行成が真咲を振り返って、「ああ」と頷いた。
真咲は皿を流しに運んでザッと流すと、運動靴を履いて行成より先に玄関を出た。
ふと空を仰ぎ見ると、太陽の沈んで行く方角に、一つだけ光る星を見つけた。
月は、まだ出ていない。
駅前から数100メートルに渡るアーケード下の商店街には、飲食店をはじめ洋品店、楽器店など、大小様々な店が連なっている。夕暮れ時ともなれば行き交う人々の波で活気に溢れるのだが、今日は特に賑わっている気がする。
その理由をいち早く察知した行成が、隣を歩く真咲に向かって呟いた。
「もう夏祭りやってんのか。早いな」
通りの真ん中に、軽食などの露店がいくつも出店している。普段は母親に止められているためあまり買い食いなどをしない真咲だったが、別に何も買わなくてもこのような催し物を見ると心が躍ってしまう。
尤も、真咲よりもこの雰囲気を楽しんでいるのは、彼女よりうんと年上の、隣を歩く青年のようだったが――
「チョコバナナかりんご飴、食う?」
弾んだ声で尋ねられ、真咲は首を振る。
「お母さんがご飯作ってくれてるから、今日は大丈夫」
それに、家の近くまで送ってもらったり、傘を貸してくれたり、お世話になっているのはこちらの方なのに、これ以上恩を受けることはできない。
すげなく断られ、行成は不服そうに口をとがらせた。
「そっか」
……もしかしたら、お裾分けでももらう算段でいたのだろうか。
行成のこういうところが、自分の知っている他の大人の人たちと違って、たびたび自分を戸惑わせるんだろうな、と真咲は思った。
前方から綿菓子を持った5,6歳ぐらいの幼児が突進してきた。ぶつからないようにひらりと身を避けると、行成とはぐれてしまいそうになった。
行成が「こっちだ」と言って真咲の手を取る。
彼の手のひらはがさがさしていて、大きく、それでいて少し冷たかった。
そのまましばらく歩いていると、天ぷら屋の前を過ぎたところで行成は急に足を止めた。
「おっ、金魚すくい」勃動力三体牛鞭
半畳ほどの浅い水槽の中に、オレンジ色に近い赤の金魚が、長い背びれをひらひらと揺らしながら何匹も泳いでいる。よく見るとたまに黒いものも混じっていた。真咲よりもいくらか年若い女の子二人組が、真剣な表情で網を片手に水槽の前にしゃがみ込んでいる。
この子達は上手くすくえるかな、と後ろからその様子を伺っていると、金魚を水槽の角に追いつめたところで、女の子達の網は無惨にも破れてしまった。
「あー、残念」
まるで自分のことのように悔しそうに行成がため息をついた。
女の子達は「はい、オマケ」と店番らしき中年女性から一匹ずつ金魚をもらうと、満面の笑みを浮かべ、そのままどこかへと駆け出した。
行成が尋ねる。
「お前、こういうの得意?」
「やったことないからわかんない」
そうなのだ。年の離れた兄姉や両親など真咲の周りは合理的な考え方をする大人が多く、こういった遊びを「やってみたい」となどと口に出すのはなんとなく憚られる感じがして、結局一度もやらないままこの年になってしまった。
行成は「あ、そうなの」と意外そうに眉を動かして、水槽の前に座り込んだ。
ポケットから財布を取り出すと、お金と引き替えに網を受け取り、その網を真咲の方へと差し出した。
「はい」
「えっ」
「いいからやってみなって。何事も経験だよ」
にやにやとしながら手に網を押しつけてくる。断り切れず真咲は、行成の隣にしゃがんで水槽の中を睨みつけた。
一匹、周りの魚たちに較べて動きの鈍い奴がいた。所狭しと泳ぎ回る金魚が多い中、そいつだけのろのろと白いプラスチックの池を漂っている。
それに狙いを定めて、壁際に寄った隙に網をくぐらせた。捕れた! と喜んだのも一瞬、案外大きかったその金魚はうすい網の上を跳ね回り、お碗の中に入れる寸前でぼとりと水の中に落ちてしまった。
「……やっぱりダメだったか」
あともう一歩のところだったのに。逃げた金魚を未練がましく視線で追ってしまう。
名残惜しいけど仕方がない。諦めようとしたとき、隣の行成が急に袖を捲って宣言した。
「よし、今度は俺がやる」
……結局、自分がやってみたかっただけではないだろうか。それなら最初から自分だけチャレンジすればいいのに、と思ったが、真咲も生まれて初めての金魚すくいを結構楽しんでいたので、何も言わず行成の狩りを見守った。
隣の行成は、先ほどまでのどんよりした表情が一変、今は活き活きと目が輝いている。
行成は水槽に向かって前のめりになると、網と鉢を持って口を固く結んだ。
網を水面すれすれの所で待機させてタイミングを伺う。エサと勘違いしたのか上部に何匹か集まってきた。キッと目つきを鋭くさせると、素早い動きで金魚を水の中から攫った。
間髪入れずにそれをお碗の中へと滑らせる。
「やった!!」
「よっしゃ! ゲット!」
行成が笑顔でガッツポーズを作った。
掬うと同時に網は破れてしまったが、お碗には今しがた捕獲したばかりの金魚が二匹、ぴちぴちと動いている。
「すごーい、やっぱ上手だね」
「いや、そんなんでもねぇよ」
謙遜するように鼻をならす……が、顔は嬉しくて仕方がないといったように緩んでいる。「の」の形をした奥二重の眼が、ますます細く狭められた。
「あー、赤いのだけ狙ってたのに、おまけがいる」
お碗の中を覗き込む。目当てだったのは赤い金魚のみで、黒くて一回り体の小さいものは巻き添えを食らってしまっただけらしい。金魚にとっては災難かもしれないが、自分たちにはラッキーと言えるだろう。
それを店番に手渡した。二匹の金魚は透明な巾着状のビニール袋に移し替えられた。
立ち上がって店番に礼を言うと、行成は金魚の入った袋を、ごく自然に真咲に差し出した。
「はい」
「えっ……、もらっていいの?」
意外な行動にきょとんと顔を見上げた。あれだけ一生懸命やっていたのは、よっぽど金魚が欲しいのかと思って見ていたのだが、そうではないのだろうか。
「ああ。俺、ズボラだし、きっと多分すぐ死なせっちゃうから。お前が持って帰って世話してくれよ。名前でも付けてさ」
あの自宅の散らかりぶりを見れば、生き物を飼える状態じゃないというのは分かってもらえそうなものだが。
それでもまだ納得できないでいる様子の真咲に、行成は背を屈めて顔を覗き込み、その手をとって無理矢理ビニールを握らせた。
「んで、子供が生まれたら引き取るからさ。頑張って育てるんだ」
急に手を掴まれ、耳の後ろがカッと熱くなる。照れていることを気づかれたくなくて、「わ、わかった」と頷くしかできなかった。
ビニール袋を目の高さまで持ち上げる。水の中で、鮮やかな朱赤と濁りのない漆黒の小さな生物が絡みつくように踊っている。
「それじゃ、赤い方がうめぼしで、黒い方がこんぶ」
「お前、案外食い意地はってるのな」
真咲が直感的につけた名前を、どっちもおにぎりの具だろ、と行成は声を立てて笑った。
行成は近くの弁当屋で酢豚とサラダを選んで、当初の目的だった夕飯の買い出しを済ませた。
他愛のないことで笑いながら、日の暮れてしまった街を子供の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。行成の髭の生えた白い肌とシャツが、夕闇に溶けずに浮かんでいた。
家の途中まで着くと、「またね」と手を振って別れた。手にぶら下げた金魚が増えたときのことを想像しながら。そうなったら真っ先に会いに行こうと決めた。
その日の夜、真咲は夢を見た。
ごつごつした岩の多い海で。服を着たまま、尾びれの付いた足で縦横無尽に陸へ向かって泳いでいた。
水の中では、その日捕まえた二匹の金魚と彼らとよく似た子供たち、それと骨だけの青い魚がたくさん泳いでいて、何回もすれ違った。蒼蝿水
目指す場所に待っている人を焦がれながら。息をしようと顔を上げると、外は闇に包まれていた。
空には大きな星が半分だけ浮かんでいた。深い青色を地に、緑と白のマーブル模様の星。あれはどこかで見たことがある。
あの星は地球だ。だとしたら、ここは――
そう考えた瞬間、鮮やかな夢は終わった。
慌てて飛び起きると、庭に植えられたプラムの横にいつの間にか脚立が置いてあり、その実を何者かがもぎ取ってはバケツへと放り込んでいた。驚いて思わず声を上げてしまいそうになったが、よくよく見ると、その果実泥棒は叔父の忠晴に似ている――というか忠晴本人だった。
掃き出し窓をガラリと開けて、庭へ出る。つっかけのサンダルを履いて脚立に近寄ると、叔父は真咲を見下ろして「おお」と破顔した。
「真咲、今年のプラムは当たりだぞ」
そう言って赤い実をひとつ採って真咲に手渡した。「食べてみろ」と言われたので皮を剥いて歯をあてがう。ほんのりと酸味の漂う甘い果汁が口の中いっぱいに拡がり、寝起きのだるい体にしみこんでいくのが分かった。
何か手伝うことはないか、と聞くと、実を拭いて並べるように言われた。台所へ一旦戻りキッチンペーパーを何枚か持ち出し、縁側に座って作業にとりかかった。
拭きながら熟した実とまだ青さが残ってる実を分けていく。脚立を移動し黙々とプラムをつみ取っている叔父は、会社帰りで疲れ果てていたってよさそうなものなのに、実にいきいきとして見えた。
母より7~8歳若い叔父は、「ジョージョー企業」に勤める「エリート社員」なのだと誰かから聞いたことがある。背が高く彫りの深い顔立ちで、「小さい頃から女の子の影が絶えなかった」とは母の弁である。それなのに未だに独身で、早く落ち着いてくれればいいのに、と母はことあるごとに愚痴っていた。
叔父自身はマンション暮らしをしているが、庭いじりをするため、月に2~3度は真咲の家へ草刈りや肥料捲きをしに現れる。放置気味だったプラムの樹が見事結実するまでになったのも、叔父の世話があってである。(もともとこの家は祖父母のものだったが、「年寄りに階段は堪える」とのことで、二人は現在公団暮らしをしている。一軒家をもてあましていたところに、娘と孫である真咲たちが収まったという格好だ。)
真咲にしてみれば自分をからかってくるところが少々苦手だったが、度々会っているうちにそれも馴れてきた。親しくなれば、気さくでいい人間なのだ。
「ねー、おじさん」
叔父が振り返りもせずに「なんだ」と答える。
「今日も、家に帰っちゃうの?」
「……ああ。仕事がまだあるから。帰るよ」
「だったら、いっそのことうちに引っ越してくればいいのに」
叔父は真咲の言葉に一瞬手を止めたが、「バカなこと言ってんな」と言うとすぐにプラムの採取を再開した。
しかし、今家には使っていない部屋があるし、ここに住めば庭だって好きなだけいじれる。わざわざ別に暮らしているのが無駄なんじゃないか……と真咲は思うのだ。
真咲は「えー、でも」と付け加えてから、反論に出た。
「きっと、ガリレオだってその方が喜ぶよ」
叔父の飼っている犬のことを持ち出す。狭いマンションではきっと十分に走り回ることもできないに違いない。叔父もあまり散歩に連れて行けないようだし、もし一緒に暮らしていたら、自分が遊んでやることもできるだろう。
すると叔父は苦笑いをして答えた。
「いい歳こいた男が親とか兄弟と住むのも変だろ」
「でもさ、うちお母さんいないこと多いしさ。いてくれたら嬉しいんだけど」
それは真咲の本音だった。最近本格的に仕事に復帰した母は、夜勤などで長時間家を開けることも多い。
寂しい、と泣く歳でもないが、誰かが一緒にいてくれるのならその方がいい。ずっといい。
脚立から真咲を見下ろしていた叔父は、ぽんと地上に降り立つと、プラムのぎっしりつまった重そうなバケツを持って真咲に歩み寄った。
「なんだ? お前がそんなこと言うなんて珍しいじゃないか。やっと俺の良さがわかったか」
はぐらかされて真咲はふてくされた。そんな彼女に構うことなく、叔父は予め用意していたらしいビニール袋へプラムを詰め始める。
縁側に並べられたプラムをあらかた詰め終わると、それを指し示しながら真咲に言った。
「これはあとでじーさんとばーさんの方に持ってってくれ」
明日は母と祖父母の家で週一恒例となっている食事会の予定だ。その時に一緒に持っていけばいいだろう。
しかしプラムの実はまだバケツいっぱいに残っている。叔父がその上のほうから「それじゃ、俺はこれぐらい」と3,4個だけ手に取ったので、
「残りは?」
そう真咲が尋ねると、叔父はさも当然というように、
「お前とかーちゃんの分だろ」
真咲の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
ふたたびバケツの中へと目を落とす。プラムは今にもこぼれんばかりに赤く熟したもの、まだ青く固そうなもの。さまざまな色合いのものがあったが、見えているのはごく一部で、一体この中に何個あるのか真咲には見当も付かなかった。
「二人じゃこんなに食べられないよ」
きっと母と自分だけでは食べきる前に腐らせてしまう。せっかく収穫したのに無駄にしてしまうのは可哀想だ。
叔父にもっと持って行け、という意味を込めて言ったはずの台詞は、またもや飄々とした調子ではぐらかされた。
「じゃぁお前の友達にでも持ってけば。喜ぶと思うよ」
「友達……」
言われても思い浮かばない。こんな庭先で採れた果実を学校の知り合いに押しつけたところで、迷惑がられるだけな気がする。
叔父が「いい仕事をした」とばかりに大きく伸びをした。夕陽を受けて庭の地面に落ちた長い手足の影が、ある人物のそれを彷彿とさせた。
(あの人だったら、よろこんでくれるかな)
プラムの入ったバケツを台所に運ぶと、そのうちの10個ほど、あまり傷の付いてない見栄えのいいものを選んで紙袋に詰めた。
自分の部屋に駆け上がると、クローゼットを開け、誰にも見えないように置いてあったビニール傘を取り出した。
突然の雨に降られたあの日、再会した親切な青年から借りた傘。
「やるよ」と言われたが、いつか返しに行こうと思っていた。だけど、手放してしまったら今度こそ本当に縁が切れてしまいそうで行けなかった。
(これのお礼です、って言えば、また少しはお話できるかな)
ビニール傘の柄をぎゅっと握りしめる。先日見たことわざ辞典に載っていた「思い立ったが吉日」という言葉を思い出した。
この気持ちが何なのかは分からない。だけれど、あの男の人と一緒にいると、ホッとするし、楽しい。遠足の前の日みたいにわくわくする気分。ずっと続いてほしくて、時計が止まってしまえばいいって本気で思った。
プラムの酸味のある甘い味が、口の中に蘇ってきた気がした。
数週間前の記憶をたどって、くたびれたモルタル造りのアパートの前までやって来た。
一旦家に帰ったからランドセルはない。体のラインを隠すようにパーカを羽織って、手には以前借りたビニール傘と、袋いっぱいにつめられたプラムの実だけを持っていた。
扉の横のチャイムは「♪」のマークが薄汚れて消えかかっていた。繋がっているかどうか分からないそれを恐る恐る押してみると、中から「キンコン」というような古めかしい音が聞こえてきた。
しかし、扉の内側からはそれ以来一切物音がしない。
「……やっぱいないか」
ため息をついて俯いた。やはり大学生といえど、平日のまだ陽も沈みきってないこの時間に家に居ることはなかったようだ。
扉に背を向けて寄りかかる。行成の住んでいるアパートは幸いなことに大通りから外れた静かな住宅街にあり、その前を通る道路は交通量が少なく、たまに買い物帰りの主婦や散歩をする老人が歩いて横切る程度である。真咲は「お腹が空くまで待って来なかったら帰ろう」と決めて、そのまま部屋の前に座り込んだ。福源春
向かいの家の垣根から、空に向かって真っ直ぐ伸びるタチアオイの木が見えた。その中心に沿って絡みつくように連なって咲いている赤い花は真夏の太陽に似ていて、これから来る季節を真咲に嫌が応でも思い起こさせた。
本でも持ってくれば良かったな、と思いつつ行成を待つ。チリ……チリ……とどこかで揺られている風鈴の音だけに耳を澄ませていた。
そのうち西の空にたなびく雲が次第に赤みを増してきた。そういえば、往来を行く人の中にも、会社帰りとおぼしき人の姿がちらほら混じりだしている。時計を持っていないので時間は分からないが、もう1時間以上は経っている気がする。
道を歩いていたひとりの老婆が、アパートの前で動かない真咲の姿を見て、不審げに振り返った。もしかしたらずっと真咲がここに居ることに気づいたのかもしれない。
(……変に思われたかな)
そう思うと途端に焦ってくる。お巡りさんでも呼ばれたら大変だ。早く帰らなきゃ、と腰を上げた瞬間だった。
突如、部屋の中からがちゃがちゃと金属が擦れるような物音が聞こえた。
咄嗟のことで身を強ばらせていると、それまで自分がもたれ掛かっていた扉が出し抜けに開いた。
「あっ!」
玄関を開いた人物は、すぐ外に立っていた真咲を見て飛び退いた。
「お前、ずっと待ってたの?」
真咲は行成の問いに頷くこともできず、
「えーと、さっきチャイム鳴らしたんだけど、出てこなったから」
と、言い訳がましく答えた。
行成はうろたえたように口元を歪めた。以前会った時よりも表情に乏しく、顎や鼻の下には点々と髭が生え、疲れているのか目の下は落ち窪んでいた。縒れた半端な袖丈のTシャツにスウェット地のハーフパンツという出で立ちで、まるでさっき起きたばっかりです、と言うような格好だった。
……いや、本当に今の今まで寝ていたのかもしれない。
ああ、悪い、と行成は頭を掻くと、真咲の顔をじっと見つめた。その体からは、ほんのりと酒の匂いがした。
「これ、ありがとうございました」
しどろもどろになって傘を差し出すと、行成は戸惑ったように顔を俯けた。
「そっか。そんなの玄関の前に置いてってくれればよかったのに」
「あ、あと、この前のお礼に、これ持ってきたから」
「なんだこれ。梅? 桃?」
行成は真咲に渡された紙袋を開け、視線を落とす。
「プラム、だよ。うちの庭先で採れたんだ」
ふーん、と頷く。玄関の扉が再び閉じられていく。やはり突然押しかけたのは迷惑だったかと後悔していると、狭くなったドアの隙間から、行成の急いたような声がした。
「とりあえず中入れば」
「えっ?」
「食ってくだろ?」
あまりにも当たり前の様な態度に、真咲は多少面食らいつつも、遠慮がちに答えた。
「でも、ユキナリに持ってきた分だし」
「いや、こういうのってひとりで食っても美味くねーじゃん。一緒に食おうぜ」
長年連れ添った友達のように気安い物言い。それに行成の顔色が悪いのも少し心配になり、真咲は再びアパートの玄関を跨いだ。
実は家で飽きるほど食べた、というのは内緒にしておくことにした。
部屋の中へ入ると、酒の香りがより一層濃く漂った。
それもそのはず。テーブルの周りにはビールの空き缶がいくつも転がっており、さきいかやかまぼこなどの包み紙も散乱していた。以前訪れたときも整頓されているとは言い難い部屋だったが、今回のそれは明らかに「汚部屋」と言っていい有様だった。
「うわー……、こりゃひどいな」
自室惨状を改めて目の当たりにし、行成が呻く。
「何かあったの?」
「いや、まぁ……、大人にはいろいろあるんだよ」
バツが悪そうに顔をしかめると、行成はテーブルの上に開きっぱなしだった白い紙と封筒をぐちゃりと握りつぶし、食べ散らかしもろとも部屋の隅にあったゴミ箱へと放り込んだ。
この部屋の状況を見ても、だらしない人間だ、とは思わない。彼の言うとおり、いろいろと子供には分からない事情というものがあるのだろう。真咲は彼に倣って、空き缶などを適当に分別してビニール袋に詰めていく。
あらかた片づくと、行成はプラムを切り分けるために台所へと向かった。
手持ち無沙汰になった真咲は、ついでに部屋中に散乱していた本を本棚に並べ直した。余計なお世話かな、と思いつつ脱ぎっぱなしだった衣類を畳んで、ぐちゃぐちゃになった布団もきちんと皺を伸ばした。
皮を剥いたプラムを手にした行成が部屋の中に戻ってくると、「うわ、すげぇキレイになってる」と驚嘆の声を上げた。
冷えた麦茶と、剥きたてのプラムがテーブルの上に並べられる。
そのうちの一つにフォークを刺し、滴る果汁をトントンと切ってから、口へ運んだ。
顎を動かして飲み込むと、行成は相変わらずの無表情のまま呟いた。
「ああ、これか。昔ばーさんの家で食ったな」
「あ、ホントに? おばあちゃんも家でつくってたの?」
「いや、多分ご近所さんからのお裾分けだったんだと思う。果物やら野菜やら、いつもたくさんもらってたよ」
「へー、羨ましいね。どの辺に住んでるの?」
「北陸の山ん中だよ。ガキの頃は毎年夏になると行ってたけど……。最近は顔も出してねぇな」
瞼を伏せて遠い目をすると、 「まぁ、こんなんじゃ合わせる顔もないけど」と自嘲気味に笑った。
……それは、どういう意味なのだろうか。そういえば、初めて見たときもベンチの上にうずくまったりして、何か深刻な悩みを抱えていそうな雰囲気だった。
だけど、自分が聞いていいものか……、と考えていると、先に口を開いたのは行成の方だった。
「お前はいいよなぁ」
「えっ?」
「やりたいこと、いっぱいできるし、まだまだこれからだもんなぁ」
真咲はムッと顔を顰めた。正直、小学生だってそこまでお気楽ではない。特に自分は、父を亡くし友達も出来ず、羨ましがられるような境遇にはいない。
反論しようとするより先に、行成は「ごめん、なんでもない」と言って再び俯いてしまった。
生暖かい風に乗って、開け放した窓から子供達のはしゃぐ声が届いた。酸っぱいプラムを食べきってしまうとすることが無くなり、気まずくなって真咲は話題を振った。
「そういえば、どこか出掛けるところじゃなかったの?」
先ほどのこと。家の中から勝手に扉が開いた。あれは外に用事があったからではないのだろうか。この前のように自分のせいでバイトに遅れたりしたら大変だ……そう思って尋ねる。
「あ、ああ。夕飯の買い出しだし行こうと思ってたんだわ。日も暮れそうだし、そろそろ行くか」
大した用事でなくてよかった……。そう胸をなで下ろしたのもつかの間、行成は麦茶を飲み干すと、急にテーブルの前から立ち上がった。なんだか唐突な行動である。呆気にとられた真咲は、慌てて背中に向かって声を掛けた。
「どこ行くの?」
「駅前の商店街。あの辺、総菜とかが安いんだよ」
部屋の中を「財布、財布」と、うろうろしている行成に、真咲は思い切って聞いてみる。
「着いてっていい?」
行成が真咲を振り返って、「ああ」と頷いた。
真咲は皿を流しに運んでザッと流すと、運動靴を履いて行成より先に玄関を出た。
ふと空を仰ぎ見ると、太陽の沈んで行く方角に、一つだけ光る星を見つけた。
月は、まだ出ていない。
駅前から数100メートルに渡るアーケード下の商店街には、飲食店をはじめ洋品店、楽器店など、大小様々な店が連なっている。夕暮れ時ともなれば行き交う人々の波で活気に溢れるのだが、今日は特に賑わっている気がする。
その理由をいち早く察知した行成が、隣を歩く真咲に向かって呟いた。
「もう夏祭りやってんのか。早いな」
通りの真ん中に、軽食などの露店がいくつも出店している。普段は母親に止められているためあまり買い食いなどをしない真咲だったが、別に何も買わなくてもこのような催し物を見ると心が躍ってしまう。
尤も、真咲よりもこの雰囲気を楽しんでいるのは、彼女よりうんと年上の、隣を歩く青年のようだったが――
「チョコバナナかりんご飴、食う?」
弾んだ声で尋ねられ、真咲は首を振る。
「お母さんがご飯作ってくれてるから、今日は大丈夫」
それに、家の近くまで送ってもらったり、傘を貸してくれたり、お世話になっているのはこちらの方なのに、これ以上恩を受けることはできない。
すげなく断られ、行成は不服そうに口をとがらせた。
「そっか」
……もしかしたら、お裾分けでももらう算段でいたのだろうか。
行成のこういうところが、自分の知っている他の大人の人たちと違って、たびたび自分を戸惑わせるんだろうな、と真咲は思った。
前方から綿菓子を持った5,6歳ぐらいの幼児が突進してきた。ぶつからないようにひらりと身を避けると、行成とはぐれてしまいそうになった。
行成が「こっちだ」と言って真咲の手を取る。
彼の手のひらはがさがさしていて、大きく、それでいて少し冷たかった。
そのまましばらく歩いていると、天ぷら屋の前を過ぎたところで行成は急に足を止めた。
「おっ、金魚すくい」勃動力三体牛鞭
半畳ほどの浅い水槽の中に、オレンジ色に近い赤の金魚が、長い背びれをひらひらと揺らしながら何匹も泳いでいる。よく見るとたまに黒いものも混じっていた。真咲よりもいくらか年若い女の子二人組が、真剣な表情で網を片手に水槽の前にしゃがみ込んでいる。
この子達は上手くすくえるかな、と後ろからその様子を伺っていると、金魚を水槽の角に追いつめたところで、女の子達の網は無惨にも破れてしまった。
「あー、残念」
まるで自分のことのように悔しそうに行成がため息をついた。
女の子達は「はい、オマケ」と店番らしき中年女性から一匹ずつ金魚をもらうと、満面の笑みを浮かべ、そのままどこかへと駆け出した。
行成が尋ねる。
「お前、こういうの得意?」
「やったことないからわかんない」
そうなのだ。年の離れた兄姉や両親など真咲の周りは合理的な考え方をする大人が多く、こういった遊びを「やってみたい」となどと口に出すのはなんとなく憚られる感じがして、結局一度もやらないままこの年になってしまった。
行成は「あ、そうなの」と意外そうに眉を動かして、水槽の前に座り込んだ。
ポケットから財布を取り出すと、お金と引き替えに網を受け取り、その網を真咲の方へと差し出した。
「はい」
「えっ」
「いいからやってみなって。何事も経験だよ」
にやにやとしながら手に網を押しつけてくる。断り切れず真咲は、行成の隣にしゃがんで水槽の中を睨みつけた。
一匹、周りの魚たちに較べて動きの鈍い奴がいた。所狭しと泳ぎ回る金魚が多い中、そいつだけのろのろと白いプラスチックの池を漂っている。
それに狙いを定めて、壁際に寄った隙に網をくぐらせた。捕れた! と喜んだのも一瞬、案外大きかったその金魚はうすい網の上を跳ね回り、お碗の中に入れる寸前でぼとりと水の中に落ちてしまった。
「……やっぱりダメだったか」
あともう一歩のところだったのに。逃げた金魚を未練がましく視線で追ってしまう。
名残惜しいけど仕方がない。諦めようとしたとき、隣の行成が急に袖を捲って宣言した。
「よし、今度は俺がやる」
……結局、自分がやってみたかっただけではないだろうか。それなら最初から自分だけチャレンジすればいいのに、と思ったが、真咲も生まれて初めての金魚すくいを結構楽しんでいたので、何も言わず行成の狩りを見守った。
隣の行成は、先ほどまでのどんよりした表情が一変、今は活き活きと目が輝いている。
行成は水槽に向かって前のめりになると、網と鉢を持って口を固く結んだ。
網を水面すれすれの所で待機させてタイミングを伺う。エサと勘違いしたのか上部に何匹か集まってきた。キッと目つきを鋭くさせると、素早い動きで金魚を水の中から攫った。
間髪入れずにそれをお碗の中へと滑らせる。
「やった!!」
「よっしゃ! ゲット!」
行成が笑顔でガッツポーズを作った。
掬うと同時に網は破れてしまったが、お碗には今しがた捕獲したばかりの金魚が二匹、ぴちぴちと動いている。
「すごーい、やっぱ上手だね」
「いや、そんなんでもねぇよ」
謙遜するように鼻をならす……が、顔は嬉しくて仕方がないといったように緩んでいる。「の」の形をした奥二重の眼が、ますます細く狭められた。
「あー、赤いのだけ狙ってたのに、おまけがいる」
お碗の中を覗き込む。目当てだったのは赤い金魚のみで、黒くて一回り体の小さいものは巻き添えを食らってしまっただけらしい。金魚にとっては災難かもしれないが、自分たちにはラッキーと言えるだろう。
それを店番に手渡した。二匹の金魚は透明な巾着状のビニール袋に移し替えられた。
立ち上がって店番に礼を言うと、行成は金魚の入った袋を、ごく自然に真咲に差し出した。
「はい」
「えっ……、もらっていいの?」
意外な行動にきょとんと顔を見上げた。あれだけ一生懸命やっていたのは、よっぽど金魚が欲しいのかと思って見ていたのだが、そうではないのだろうか。
「ああ。俺、ズボラだし、きっと多分すぐ死なせっちゃうから。お前が持って帰って世話してくれよ。名前でも付けてさ」
あの自宅の散らかりぶりを見れば、生き物を飼える状態じゃないというのは分かってもらえそうなものだが。
それでもまだ納得できないでいる様子の真咲に、行成は背を屈めて顔を覗き込み、その手をとって無理矢理ビニールを握らせた。
「んで、子供が生まれたら引き取るからさ。頑張って育てるんだ」
急に手を掴まれ、耳の後ろがカッと熱くなる。照れていることを気づかれたくなくて、「わ、わかった」と頷くしかできなかった。
ビニール袋を目の高さまで持ち上げる。水の中で、鮮やかな朱赤と濁りのない漆黒の小さな生物が絡みつくように踊っている。
「それじゃ、赤い方がうめぼしで、黒い方がこんぶ」
「お前、案外食い意地はってるのな」
真咲が直感的につけた名前を、どっちもおにぎりの具だろ、と行成は声を立てて笑った。
行成は近くの弁当屋で酢豚とサラダを選んで、当初の目的だった夕飯の買い出しを済ませた。
他愛のないことで笑いながら、日の暮れてしまった街を子供の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。行成の髭の生えた白い肌とシャツが、夕闇に溶けずに浮かんでいた。
家の途中まで着くと、「またね」と手を振って別れた。手にぶら下げた金魚が増えたときのことを想像しながら。そうなったら真っ先に会いに行こうと決めた。
その日の夜、真咲は夢を見た。
ごつごつした岩の多い海で。服を着たまま、尾びれの付いた足で縦横無尽に陸へ向かって泳いでいた。
水の中では、その日捕まえた二匹の金魚と彼らとよく似た子供たち、それと骨だけの青い魚がたくさん泳いでいて、何回もすれ違った。蒼蝿水
目指す場所に待っている人を焦がれながら。息をしようと顔を上げると、外は闇に包まれていた。
空には大きな星が半分だけ浮かんでいた。深い青色を地に、緑と白のマーブル模様の星。あれはどこかで見たことがある。
あの星は地球だ。だとしたら、ここは――
そう考えた瞬間、鮮やかな夢は終わった。
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