2012年8月1日星期三

恐れるということ

目を覚ましてまず真っ先に思い浮かべたのはあの中学生のこと。
 あの子は今頃どうしてるんだろうか。
 お母さんと、ちゃんと話ができたんだろうか。

 暑苦しい蝉の声に目を開けて部屋を出ると、お父さんとお母さんが話しているのが聞こえてきた。強力催眠謎幻水
 あぁ、どうやら久しぶりにお父さんがいるらしい。別に頻繁に出張に行っているわけでもなんでもないが、時間が合わないからつい久しぶりに感じてしまう。少し軋む廊下を歩き声のする方に歩いていくと途中でお兄ちゃんと鉢合わせる。
「起きたんか」
「うん。それより……って何、どうしたんあれ」
 眠いのか、あくびをしながら声を掛けてくるお兄ちゃんにそう答えていると突然両親の声が大きくなる。
 喧嘩でも始まったのかその声はひどく荒い。
 あまり広いとは言えない家の中を一瞬揺らした声がどういう理由で発されたのかはよく聞こえなかった。数日経つだけで大分慣れたのか徐々に方言の出始めたあたしの言葉にお兄ちゃんは少し首を傾げ、しかしすぐに「あぁ」と声を漏らす。どうやらお兄ちゃんには理由が分かっているらしい。
 ちょいちょいと手招きされ、不思議に思いながらもついていく。
 なるべく音を立てないようにそぅっと二人で廊下を進み、二人の寝室へと向かう。近付けば近付くほどに喧嘩腰の声が聞こえてくるが、肝心の何を話しているのかはあまりの声の荒さに聞こえない。一体何をそんなに興奮して話す必要があるんだろう。そんなことを考え、ふと昨日の中学生のことを思い出した。彼女は自分には父親がいないと話していた。自分が小さい頃に離婚したからだと。それは一体どういう状況なんだろう。
 こんな風に毎日喧嘩をしている声が聞こえて、それが日増しに強くなるのが感じられてそして一人いなくなって――そんな感じなんだろうか。彼女は覚えていないとは思うけど。
 耳朶を打つ両親の――主にお母さんの――声に心が震える。
 いつも二人が喧嘩しているのを見ても何とも思わなかったのに、この時ばかりは怖く感じられた。
 さぁっと冷えた思考に足を止めると前を歩くお兄ちゃんも数歩先で立ち止まる。
「明日香?」
 囁く声が聞こえたけど、それでも足を前に進めることができない。きっと他愛もないことで喧嘩してるんだ、だから大したことじゃない――そう心の中で何度も繰り返す。あまりにも日常的過ぎてどうでもよくなっていたはずなのに、久しぶりに帰省したせいもあってひどく強く耳朶を打つ。
 ……このまま離婚したらどうしよう。
 さすがにそんなことはないだろうと思ったけど、でも今じゃないいつかにそうなる可能性がないだなんて誰に言えるんだろうか。
 お兄ちゃんはとっくに成人してるしあたしだってもうじき成人する。
 そうすればきっと二人はあたし達のことを気にしない分お互い好きなように生きていける。
 熟年離婚っていう言葉も流行ってるぐらいだし……。
 そうして今まで気にもしなかったことを突然気にしだしたせいで、足裏が廊下にくっついて離れない。ぎゅっと握りしめた手に、額に、汗が浮かぶ。冷房の恩寵を受けられない廊下にずっと立っているんだから、そんなの当たり前なんだけど。暑さにくらくらしそうになりながら、前にも後ろにも進めなくなっていると握りしめた手に少し堅い指先が触れる。
「?」
 顔を上げると、お兄ちゃんがすぐ傍まで来てあたしの手に触れていた。
 力を入れていた拳を解くように一本一本やんわりと爪先の食い込んだ手の平から指を取っていく。その間にもあたし達のことに気付いていない両親が喧嘩してたけど、お兄ちゃんはそんなことどうでもいいんだとでも言うようにただ静かにあたしの手を取る。そうしてまた指先に力を入れようとしたあたしの手に自分の指を滑り込ませて優しく握りしめる。
 怒っているでもなく馬鹿にするでもなく少し困ったような顔で、お兄ちゃんが小さく笑う。
「ほら、怪我しとろうが」
「……え」
 言われ、自分の手の平に視線を落とすと小さく朱が見えてそこで初めて自分が怪我をしてることに気がついた。力を入れすぎていたとはいえそこまでだったのか。驚いて手を離そうとすると、強く握りしめられる。それでも血が出ている部分には触れないようにしてくれている辺り、お兄ちゃんらしいというか何というか。
 くい、と引かれて足が一歩前に進む。
「うわっ」
「行くで」
 前につんのめりながら声を漏らすと、苦笑混じりの声が降る。
 そして空いた方の手で口元に人差し指を当て静かにするようにとサインをしてから、いたずらっぽく笑って静かに前に進むお兄ちゃんに続いてあたしも静かに静かに歩を進める。
 お兄ちゃんはあたしがどうして前に進めなかったのかを知っているのかいないのか、あくまでマイペースに進む。ただ分かるのは時折触れる腕が汗で濡れて冷えていること、それなのに暑いからと言って急かすことをしなかったこと。そしてあたしがこれ以上手の平を傷つけないようにこうしてこの手を握ってくれているのだということぐらいだった。
 別に寡黙な人というわけじゃない。
 喋る時は本当にうるさいぐらいに喋るしむしろ黙っていることの方が珍しい気がする。
 でもこういう時にお兄ちゃんは絶対何も言わないのだ。何も言わずに、ただこうして手を引いてくれる。
 何も知らないという風に、ただいたずらっぽく笑いながら。
 そんな横顔を見るといつも何もかもお見通しか、という気分になるけど兄妹なんだからそれも悪くないと思った。両親の部屋の前に立ったあたし達は、ドアに頬をくっつけて二人が何を喧嘩しているのか聞いてみる。ひんやりとした感触が片頬に当たると同時に至近距離で同じことをしているお兄ちゃんは、すでに何かが聞こえたのか呆れたような顔をした。
「またくだらんことで喧嘩しよってからに……」
 溜息混じりに声に一体何を話してるんだろうと思い、目を閉じて部屋の中の声を聞くことに集中するとようやく二人が何を言っているのかが聞こえてきた。
「じゃけぇ伊豆がいいって言っとるじゃろ!?」
「いーや、沖縄に決まっとろうが!」
 ……はい?
 思わずずっこけそうになり、必死に体勢を整えていると避暑地に行くかこの際とことん海で遊ぶかというどうでもいい話ばかりが耳に入る。興奮しすぎていて滑舌が悪くなっているのかこうして耳を澄ましていないと何を言っているのかさっぱりだけど、別に聞こえたからといってどういうこともない話だったから少しだけ後悔した。あたしの心配を返してくれ。
 どこの誰だ、二人が離婚したらどうしようとか熟年離婚が流行ってるとか考えたのは。何だかもう疲れきってしまい、流れ出る汗を拭いながらこの中に殴りこもうと思っていたら墨みたいに黒いお兄ちゃんの髪がゆらゆら揺れた。
 どうやらお兄ちゃんも疲れたらしい。
 軽く頭を振り「あほらしい」と言いながらあたしを自分の背後に立たせドアノブを捻る。
 そうして一センチほどドアを開けてから、今度は手を離し――足で蹴り開けた。
 さすがに無理矢理蹴破るなんてことはお母さんに殺されるからやめたんだろう。一応冷静ではあるらしい。
「朝っぱらからがたがたぬかすな、そんなに行きたきゃ二つとも行けばええじゃろうが」
 だけどきっと一般家庭の皆様が見たら、この状況は冷静でも何でもないかもしれない。ひんやりとした、でもだからこそ怒ってるんだなと思わせられるお兄ちゃんの声を聞きながら背後に立っててよかったと心から思った。今のお兄ちゃんの顔を見るのは妹のあたしでも怖い。大体ただでさえがたいがいいんだから、後姿だけでも迫力があるのだ。
 ばんっ! とドアが壁にぶつかり、異常な速さで跳ね返ってくる。
 でもお兄ちゃんはそれすら足で止め、今度は軽く開けてから中へと入ろうとして。
「明日香」
「は、はいっ!?」
「お前今日バイトじゃろ。支度して早く行かんと」VIVID
「あ、そうだった! うん、今行くすぐ行く早く行く!」
 突然こちらを振り返ったから思わずびくりと飛び跳ねそうになった。
 こちらを見るお兄ちゃんの顔は怖いぐらい爽やかな笑顔で、あたしはどことなくおかしな返事をしながらすぐに背を向けて二階へと駆け上がった。廊下にずっといたせいで汗だくだったけど、シャワーを浴びている時間なんてない。きっとすぐにでもお兄ちゃんの怒号が飛ぶことになるんだろうから。だからあたしは階段を踏み抜く勢いで駆け上がり、簡単に髪をとかして服を着替えてから携帯も持たずに家を出た。
 玄関の引き戸を閉めた瞬間、背後からすごい音が聞こえた気がしたけど――気のせいだと心の中で言い聞かせて。

「――なんてことがさっきありまして」
「明日香ちゃんの家は朝から過激だねー……」
 そうして国道を目指し歩いて、鉄筋コンクリート二階建ての魔法堂に着くなりあたしは掃除道具を取り出して芹沢さんを顎でこき使いながら先ほどの話をしていた。ちなみにあたしは動かずに椅子に腰掛けている。当然だ、これはこの前あたしを働かせた罰なんだから。
「久しぶりの実家のテンションに付いていけませんけどね――あ、そこの棚まだ埃残ってますよ」
「あぁ、はいはーい……でも賑やかで楽しそうだね」
 柔らかな布で店中の商品から埃を取り除く作業をしている芹沢さんは、きらきらと埃が舞うたびにあたしにそう指示されながら優しく商品から埃を取り除く。窓を開け放しているせいで冷房が付けられないからその姿はひどく暑そうだったけど、それでも文句を言わない辺り根性あるのかもしれない。
 時折手首で額の汗を拭っている芹沢さんに、少しばかりの同情心でタオルを渡す。
 するとあの甘やかな色をしたチョコレート色の瞳が嬉しそうに細められた。
 同時に無機質なはずの眼鏡も甘く光ったように見えたのは光の具合の問題だろうか。
「ありがとう」
「どういたしまして。それにしても……離婚するかもしれないって心配して損しました」
 もう一度椅子に腰掛けぼやくようにそう言うと、芹沢さんが手を止めて小さく笑う。
 それは馬鹿にしたようなじゃなくてどことなく大人びた――実際大人なんだけど――笑みで、あたしはその表情に目を釘付けにしながら「何ですか」と返す。その声が芹沢さんの表情と対になるように子供っぽかったのが悔しいけど仕方がない、この人の方が何だかんだで人生経験豊富なはずだ。
 咎めるような言葉に芹沢さんは「いや」ともう一度笑ってから。
「明日香ちゃんは強い子だね」
 そう言った。
「? どういう意味ですか」
「言葉通りの意味だけど?」
 そんなこと言われてもわけが分からない。
 大体どうして離婚の心配をしたら強いに繋がるんだ。
 さすがマイペースなだけある……と言うべきなんだろうか。
 再び手を動かし始めた芹沢さんは、鼻歌混じりに埃を取り除いていく。
 暑さなんて何のその、といった感じの上機嫌で。
 光に照らされながらぴかぴかになっていくアンティークに一人満足したあたしは、綺麗になったと分かった商品の辺りのカーテンと窓を閉めた。さすがに真夏の太陽に晒されるのは保存状態によくない。
 冷房も付いていないのに窓を閉めるのは心底嫌だったけどこればっかりは仕方ない。
 だからあたしはまだ閉めていない窓の傍に立ち、そよそよと入り込む温い風だけで我慢した。じっとりとした肌の感触が気持ち悪くても文句は言えないし、第一今帰るのは怖かった。日焼けしないように長袖のシャツを着込んだのは間違いだった……はぁ。そう考え内心で溜息をついていると、あたしとは逆に半袖のシャツを着ている芹沢さんがタオルで汗を拭いながら唐突に「あの子」と言う。
「お母さんと話できたかなー」
「さぁ。でも、できたんじゃないですか? 魔イテムがあるんですから」
 眼鏡にも汗がついたんだろうか、そっと眼鏡を取り軽くタオルで拭いてからケースに仕舞った芹沢さんはあたしの答えに「そっか……そうだよね」と嬉しそうに笑った。先ほどの大人びた表情から一変して子供っぽい無邪気な笑みを浮かべた芹沢さんは、柔らかな声で続ける。
「どんなに当たり前にあるものもどんなに大事なものも、絶対なくならないなんて保証はないんだよ」
「?」
「でもそれを知らないから誰も気にしない。だから当たり前だって信じてるし、知っていても知らないふりをし続ける」
 何を突然。
 芹沢さんの言葉に内心で首を傾げながらも、何となく今話したばかりのあの子のことが頭に浮かんできて何も言えなかった。あの子は自分が記憶している限りでは何も失ってはいないけど、でもあの子の話を聞いたあたしは――。
 ……あぁ、そうか。
 棚にもたれかかり、口の端を緩やかに上げて微笑む芹沢さんを見て納得する。
 あたしは温い風に背を向けて、ふわりと髪の間をすり抜け頭皮に触れた風の気持ちよさに目を細めてから続きを待つ。
 すると芹沢さんもそんなあたしの様子に気付いたのか、笑みを深めて続けた。
「だから当たり前のものが壊れるかもしれないって恐れることができる子は強いんだと思うよ。失いたくないと思えば思うほど、当たり前の中でも一生懸命に生きれるから」
「芹沢さんも、そうやって怖がったことあるんですか?」
「もちろんあるよー。なくしてからだけどね」
 だから強いって言葉に繋がったのか。
 そう納得しつつも問うと、芹沢さんは屈託なく笑いながらそう答えた。
 それはとても朗らかで痛みなんてまるで感じさせない声だったけど、はっとなり顔を上げる。
 あたしの髪を揺らす風が芹沢さんのキャラメル色の髪も揺らす。
 そうして細くて柔らかそうな髪が一房風に揺られて芹沢さんの表情を隠した。だからどんな顔をしていたかは分からなかったけど、あたしは何か言わなきゃと必死になって頭を捻って。ぎゅっと手を握りしめた時、鋭い痛みが走って自分が怪我をしたままであることに今更ながらに気がついて、そしてこの手が傷つかないように自分の手で庇ってくれたおにいちゃんを思い出して。
「ならこれからは、当たり前なものも大事なものも守れますね」
 結局そんなことしか言えなかった。
 どんなに嘆いたって足掻いたってそんなものいつかはなくなるかもしれないけど、少なくともつまらない理由で自分から手放すなんてことはしなくなるはずだ。
 あたしが今日両親に対して恐れを抱いたように。
 あの中学生が、自分のせいで母親が大事なものを失いかけていると恐れたように。芹沢さんの言葉が正しいのなら多分そういうことなんだと思ったから、あたしは握りしめた手の力を緩めて表情のよく見えない芹沢さんに視線を向けた。すると芹沢さんはあたしの言葉に少しだけ目を丸くして、それから泣き出しそうな顔で「そうだねー」とわざとらしいぐらいに間延びした声で答える。それはその表情の裏で何を思っているのか隠すためだったのかもしれないけど、それには触れないでおいた。
 くるりと外を向き、窓とカーテンを閉めそれからすぐに冷房をつける。
 ピッと電子音を響かせて次の瞬間から猛烈な勢いで店内を涼しくしようと稼動し始めた冷房に視線を向け、手近な椅子を引き寄せて座り込む。やっぱり夏の日差しはきつい……少し立っていただけでくらくらした。ぼんやりとそう思い、もう一度芹沢さんに視線を向けると彼はやっぱりまだ泣きそうな顔のままで。あたしは何て言ったらいいのか分からないまま一度息をつき、芹沢さんが何か言うまで待つことにした。きっと、今何かを言ったところで何の効力もない気がしたから。
 そうして頬や髪を撫でる風が、外のそれよりもずっと冷たさを増した頃。
「明日香ちゃんは」
「何ですか?」
「明日香ちゃんは、昨日来たお客さんとの接客で何か思うことはあった?」
 唐突にそう問われて、あたしは即答で。
「さっき話したこと、そのまんまですよ。生まれて初めて親が離婚するかどうかってことを心配しました」
 まるで答えを用意していたかのようにそう答える。
 そうだ、第一この店に無理矢理バイトとして雇われなければ昨日あの子と話すことなんてなかったし、こんな想いを持つこともなかった。そう考えるとこの人に感謝すべきなのかもしれないと思った――この想いが果たしていいものか悪いものかは分からないけど。
 答えたあたしに芹沢さんが「そっか」と呟き頷く。
「よかった」
 そして次の瞬間いつもの呑気な笑みで朗らかにそう言った芹沢さんは、まるで今までの自分をなかったものにしようとするかのごとく「あ、そうだ!」と勢いよく奥へと消えていった。
「……何、あれ」
 それがあまりに唐突の行動だったから、あたしは思わずそう呟いて奥へと視線を向ける。
 すると階段を上がる音が聞こえて、次に何やらどさどさダンボールを床に下ろす音が聞こえた。
 何か探してるんだろうか?
 不審に思うものの行ったらまた乱雑な光景を見て掃除したくなるのが分かっていたからやめた。
 それにしても……。何やら騒がしい天井を見上げながら、はぁと息をつく。蔵八宝
 芹沢さん、大丈夫なんだろうか。普段通りのマイペースぶりだけど、それでもさっきの泣きそうな顔が気になってあたしは窓枠に頬杖をついて考え込む。かといって、つい数日前に知り合ったばかりのあたしに何ができるかと訊かれたら答えは「何もない」になることだろう。
 あんなペテン師に対して何かしたいと思うのは色々間違っている気がしたけど、相手が誰であれ泣きそうな人を放っておくのは人としていかがなものかと思って自分を納得させた。
 そうやってうだうだ考えていると、とんとんと芹沢さんが階段を降りてくる音が聞こえてきてあたしはなぜか姿勢を正す。すでに店内はひんやりと冷えきっており、芹沢さんは一瞬とても寒そうに身震いしてから「ほら」と何やら大きな袋を差し出してきた。
「? 何ですか、これ」
「花火だよー。線香花火から打ち上げ花火まで何でもござれさ」
 言われ、がさがさと音をさせながら中を覗き込むと……なるほど、確かにすごい種類の花火だった。ねずみ花火のような小さなものから打ち上げ花火のような大きなものまでたくさんの花火が入っていた。……でも何で花火?
「夏といえば花火でしょ」
「いや、そうですけど」
「だからご家族でどうぞー。たくさんあるから困ってたんだよねー、これ」
 ……はぁ、どうも。
 手渡された袋はどさりと重くて、思わず前のめりになる。
 すると芹沢さんが慌てた様子で支えてくれた。どうやら重いとは思わなかったらしい。
「うわわ、ごめん」
「……持って帰れるのか不安なんですけど」
 まだバイトを終えるには早い時間だし、今から心配することじゃないんだけど。
 でもどの道携帯持って来てないからお兄ちゃんを呼ぶこともできないし、これあたし一人で持って帰るのか……。
 げんなりとした気持ちで呟くと芹沢さんが「それなら僕が運ぶから大丈夫」と言ってくれた。
 かさりと音を響かせながら袋を持ってくれた芹沢さんはそれを適当な場所に置いて腰掛ける。そうして店内を見渡してから「綺麗になったね」と笑った。そこにはさっきまでの悲しそうな影なんてまったく見えなかったけど、何せこの人はペテン師だから何が本当なのかも分からない。一応嘘をつくのは一回だけって言ってたけどそれが今じゃないとも言えないし。
 肌に張りついたシャツをつまみ、ぱたぱたと乾かすように揺らす。
 すると微かに汗の匂いがして早くお風呂に入りたい衝動に駆られた。
 いくら冷房が効いていてもすでに付着した汗ばかりはどうしようもできないのが問題だ。
 そんな風に思いながら芹沢さんの横顔を見つめ、その表情が本物か嘘か判断することに時間を費やした。

 そして。
「今日はありがとー」
「……いえ。結局お客さん来ませんでしたし」
「結構暇なんだよ。来る時はそれなりに来るんだけどね」
 日が傾いて少し経った頃、あたしは芹沢さんと家の前に立っていた。
 結局あれだけ時間を費やしたにも関わらず芹沢さんの表情が本物か嘘か判断つけることができないまま、バイトの時間を終えてしまったのだ。何てもったいない時間だったんだろう……何だか悲しくなってきた。
 ……まぁ、あれだけ頑張っても分からなかったんだから気にしなくてもいいか。
 それにあたしに何ができるとも思えない。
 結果的にそういう考えに行きついてあたしはそれ以上気にすることなく頭を下げる。
「荷物持ち、ありがとうございました」
「え? いやいや、いいよー。僕があげたくてあげたんだから」
 そうして大量の花火が詰まった荷物を受け取り、今度は体勢を崩さないようにしっかり立つ。
 少しふらついたけど、玄関まですぐだから問題ないだろう。
 あたしの言葉に照れ笑いを浮かべてそう答えた芹沢さんは「それじゃ」と言って一歩後ろに下がる。
 そして背中を向ける寸前、口の端を浮かべた横顔で。
「皆仲直りできるといいね」
 それは夕日の効果を差し引いてもなお、おつりが来るぐらいに綺麗な笑顔だった。あの人の持つ甘い色ですら霞んでしまうような笑顔と、そして響いた声があまりに滑らかで綺麗だったからあたしは思わずその姿に見惚れて、でも次の瞬間玄関の引き戸が開く音がして振り返る。するとその隙をつくようにして芹沢さんの姿が遠くに行ってしまい、そこでようやく無意識に袋を落として手を伸ばしかけていた自分に気付いた。
「明日香? 誰かおったんか?」
「え? い、いや誰も」
 あたしは一体何をしようとしてたんだろうか。
 それすらもう遠くにかき消えてしまい、どこか呆然としたままあたしは家から出てきたお兄ちゃんに答えた。
 そして慌てて袋を掴み、軽く土を掃ってから「それより!」とお兄ちゃんに手渡す。
 せっかくもらったものなんだから、使わないともったいない。
 それに芹沢さんのせっかくの善意を無駄にするのはどうかと思ったから、あたしはさっきの芹沢さんの表情を頭の隅に追いやって不思議そうな顔のお兄ちゃんに向けてわざとらしいぐらい明るく言ってみせた。
「花火。芹沢さんにもらったから皆でやろう!」
 そうだ、せっかく実家に帰ってきたんだから皆で楽しく過ごしたい。
 それは嘘じゃないし実際そうできたらいいなと思う。
 でもどうしてだろうか――さっきの芹沢さんの横顔と声が頭から離れない。新一粒神

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