じめじめとした長い雨が上がり、本格的な夏のシーズンの到来を予感させるようにカラッと晴れ上がったその日の夕方、プールの授業で疲れた体を休めるため居間のソファで真咲がまどろんでいると、庭先からがさがさと物音が聞こえた。花痴
慌てて飛び起きると、庭に植えられたプラムの横にいつの間にか脚立が置いてあり、その実を何者かがもぎ取ってはバケツへと放り込んでいた。驚いて思わず声を上げてしまいそうになったが、よくよく見ると、その果実泥棒は叔父の忠晴に似ている――というか忠晴本人だった。
掃き出し窓をガラリと開けて、庭へ出る。つっかけのサンダルを履いて脚立に近寄ると、叔父は真咲を見下ろして「おお」と破顔した。
「真咲、今年のプラムは当たりだぞ」
そう言って赤い実をひとつ採って真咲に手渡した。「食べてみろ」と言われたので皮を剥いて歯をあてがう。ほんのりと酸味の漂う甘い果汁が口の中いっぱいに拡がり、寝起きのだるい体にしみこんでいくのが分かった。
何か手伝うことはないか、と聞くと、実を拭いて並べるように言われた。台所へ一旦戻りキッチンペーパーを何枚か持ち出し、縁側に座って作業にとりかかった。
拭きながら熟した実とまだ青さが残ってる実を分けていく。脚立を移動し黙々とプラムをつみ取っている叔父は、会社帰りで疲れ果てていたってよさそうなものなのに、実にいきいきとして見えた。
母より7~8歳若い叔父は、「ジョージョー企業」に勤める「エリート社員」なのだと誰かから聞いたことがある。背が高く彫りの深い顔立ちで、「小さい頃から女の子の影が絶えなかった」とは母の弁である。それなのに未だに独身で、早く落ち着いてくれればいいのに、と母はことあるごとに愚痴っていた。
叔父自身はマンション暮らしをしているが、庭いじりをするため、月に2~3度は真咲の家へ草刈りや肥料捲きをしに現れる。放置気味だったプラムの樹が見事結実するまでになったのも、叔父の世話があってである。(もともとこの家は祖父母のものだったが、「年寄りに階段は堪える」とのことで、二人は現在公団暮らしをしている。一軒家をもてあましていたところに、娘と孫である真咲たちが収まったという格好だ。)
真咲にしてみれば自分をからかってくるところが少々苦手だったが、度々会っているうちにそれも馴れてきた。親しくなれば、気さくでいい人間なのだ。
「ねー、おじさん」
叔父が振り返りもせずに「なんだ」と答える。
「今日も、家に帰っちゃうの?」
「……ああ。仕事がまだあるから。帰るよ」
「だったら、いっそのことうちに引っ越してくればいいのに」
叔父は真咲の言葉に一瞬手を止めたが、「バカなこと言ってんな」と言うとすぐにプラムの採取を再開した。
しかし、今家には使っていない部屋があるし、ここに住めば庭だって好きなだけいじれる。わざわざ別に暮らしているのが無駄なんじゃないか……と真咲は思うのだ。
真咲は「えー、でも」と付け加えてから、反論に出た。
「きっと、ガリレオだってその方が喜ぶよ」
叔父の飼っている犬のことを持ち出す。狭いマンションではきっと十分に走り回ることもできないに違いない。叔父もあまり散歩に連れて行けないようだし、もし一緒に暮らしていたら、自分が遊んでやることもできるだろう。
すると叔父は苦笑いをして答えた。
「いい歳こいた男が親とか兄弟と住むのも変だろ」
「でもさ、うちお母さんいないこと多いしさ。いてくれたら嬉しいんだけど」
それは真咲の本音だった。最近本格的に仕事に復帰した母は、夜勤などで長時間家を開けることも多い。
寂しい、と泣く歳でもないが、誰かが一緒にいてくれるのならその方がいい。ずっといい。
脚立から真咲を見下ろしていた叔父は、ぽんと地上に降り立つと、プラムのぎっしりつまった重そうなバケツを持って真咲に歩み寄った。
「なんだ? お前がそんなこと言うなんて珍しいじゃないか。やっと俺の良さがわかったか」
はぐらかされて真咲はふてくされた。そんな彼女に構うことなく、叔父は予め用意していたらしいビニール袋へプラムを詰め始める。
縁側に並べられたプラムをあらかた詰め終わると、それを指し示しながら真咲に言った。
「これはあとでじーさんとばーさんの方に持ってってくれ」
明日は母と祖父母の家で週一恒例となっている食事会の予定だ。その時に一緒に持っていけばいいだろう。
しかしプラムの実はまだバケツいっぱいに残っている。叔父がその上のほうから「それじゃ、俺はこれぐらい」と3,4個だけ手に取ったので、
「残りは?」
そう真咲が尋ねると、叔父はさも当然というように、
「お前とかーちゃんの分だろ」
真咲の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
ふたたびバケツの中へと目を落とす。プラムは今にもこぼれんばかりに赤く熟したもの、まだ青く固そうなもの。さまざまな色合いのものがあったが、見えているのはごく一部で、一体この中に何個あるのか真咲には見当も付かなかった。
「二人じゃこんなに食べられないよ」
きっと母と自分だけでは食べきる前に腐らせてしまう。せっかく収穫したのに無駄にしてしまうのは可哀想だ。
叔父にもっと持って行け、という意味を込めて言ったはずの台詞は、またもや飄々とした調子ではぐらかされた。
「じゃぁお前の友達にでも持ってけば。喜ぶと思うよ」
「友達……」
言われても思い浮かばない。こんな庭先で採れた果実を学校の知り合いに押しつけたところで、迷惑がられるだけな気がする。
叔父が「いい仕事をした」とばかりに大きく伸びをした。夕陽を受けて庭の地面に落ちた長い手足の影が、ある人物のそれを彷彿とさせた。
(あの人だったら、よろこんでくれるかな)
プラムの入ったバケツを台所に運ぶと、そのうちの10個ほど、あまり傷の付いてない見栄えのいいものを選んで紙袋に詰めた。
自分の部屋に駆け上がると、クローゼットを開け、誰にも見えないように置いてあったビニール傘を取り出した。
突然の雨に降られたあの日、再会した親切な青年から借りた傘。
「やるよ」と言われたが、いつか返しに行こうと思っていた。だけど、手放してしまったら今度こそ本当に縁が切れてしまいそうで行けなかった。
(これのお礼です、って言えば、また少しはお話できるかな)
ビニール傘の柄をぎゅっと握りしめる。先日見たことわざ辞典に載っていた「思い立ったが吉日」という言葉を思い出した。
この気持ちが何なのかは分からない。だけれど、あの男の人と一緒にいると、ホッとするし、楽しい。遠足の前の日みたいにわくわくする気分。ずっと続いてほしくて、時計が止まってしまえばいいって本気で思った。
プラムの酸味のある甘い味が、口の中に蘇ってきた気がした。
数週間前の記憶をたどって、くたびれたモルタル造りのアパートの前までやって来た。
一旦家に帰ったからランドセルはない。体のラインを隠すようにパーカを羽織って、手には以前借りたビニール傘と、袋いっぱいにつめられたプラムの実だけを持っていた。
扉の横のチャイムは「♪」のマークが薄汚れて消えかかっていた。繋がっているかどうか分からないそれを恐る恐る押してみると、中から「キンコン」というような古めかしい音が聞こえてきた。
しかし、扉の内側からはそれ以来一切物音がしない。
「……やっぱいないか」
ため息をついて俯いた。やはり大学生といえど、平日のまだ陽も沈みきってないこの時間に家に居ることはなかったようだ。
扉に背を向けて寄りかかる。行成の住んでいるアパートは幸いなことに大通りから外れた静かな住宅街にあり、その前を通る道路は交通量が少なく、たまに買い物帰りの主婦や散歩をする老人が歩いて横切る程度である。真咲は「お腹が空くまで待って来なかったら帰ろう」と決めて、そのまま部屋の前に座り込んだ。福源春
向かいの家の垣根から、空に向かって真っ直ぐ伸びるタチアオイの木が見えた。その中心に沿って絡みつくように連なって咲いている赤い花は真夏の太陽に似ていて、これから来る季節を真咲に嫌が応でも思い起こさせた。
本でも持ってくれば良かったな、と思いつつ行成を待つ。チリ……チリ……とどこかで揺られている風鈴の音だけに耳を澄ませていた。
そのうち西の空にたなびく雲が次第に赤みを増してきた。そういえば、往来を行く人の中にも、会社帰りとおぼしき人の姿がちらほら混じりだしている。時計を持っていないので時間は分からないが、もう1時間以上は経っている気がする。
道を歩いていたひとりの老婆が、アパートの前で動かない真咲の姿を見て、不審げに振り返った。もしかしたらずっと真咲がここに居ることに気づいたのかもしれない。
(……変に思われたかな)
そう思うと途端に焦ってくる。お巡りさんでも呼ばれたら大変だ。早く帰らなきゃ、と腰を上げた瞬間だった。
突如、部屋の中からがちゃがちゃと金属が擦れるような物音が聞こえた。
咄嗟のことで身を強ばらせていると、それまで自分がもたれ掛かっていた扉が出し抜けに開いた。
「あっ!」
玄関を開いた人物は、すぐ外に立っていた真咲を見て飛び退いた。
「お前、ずっと待ってたの?」
真咲は行成の問いに頷くこともできず、
「えーと、さっきチャイム鳴らしたんだけど、出てこなったから」
と、言い訳がましく答えた。
行成はうろたえたように口元を歪めた。以前会った時よりも表情に乏しく、顎や鼻の下には点々と髭が生え、疲れているのか目の下は落ち窪んでいた。縒れた半端な袖丈のTシャツにスウェット地のハーフパンツという出で立ちで、まるでさっき起きたばっかりです、と言うような格好だった。
……いや、本当に今の今まで寝ていたのかもしれない。
ああ、悪い、と行成は頭を掻くと、真咲の顔をじっと見つめた。その体からは、ほんのりと酒の匂いがした。
「これ、ありがとうございました」
しどろもどろになって傘を差し出すと、行成は戸惑ったように顔を俯けた。
「そっか。そんなの玄関の前に置いてってくれればよかったのに」
「あ、あと、この前のお礼に、これ持ってきたから」
「なんだこれ。梅? 桃?」
行成は真咲に渡された紙袋を開け、視線を落とす。
「プラム、だよ。うちの庭先で採れたんだ」
ふーん、と頷く。玄関の扉が再び閉じられていく。やはり突然押しかけたのは迷惑だったかと後悔していると、狭くなったドアの隙間から、行成の急いたような声がした。
「とりあえず中入れば」
「えっ?」
「食ってくだろ?」
あまりにも当たり前の様な態度に、真咲は多少面食らいつつも、遠慮がちに答えた。
「でも、ユキナリに持ってきた分だし」
「いや、こういうのってひとりで食っても美味くねーじゃん。一緒に食おうぜ」
長年連れ添った友達のように気安い物言い。それに行成の顔色が悪いのも少し心配になり、真咲は再びアパートの玄関を跨いだ。
実は家で飽きるほど食べた、というのは内緒にしておくことにした。
部屋の中へ入ると、酒の香りがより一層濃く漂った。
それもそのはず。テーブルの周りにはビールの空き缶がいくつも転がっており、さきいかやかまぼこなどの包み紙も散乱していた。以前訪れたときも整頓されているとは言い難い部屋だったが、今回のそれは明らかに「汚部屋」と言っていい有様だった。
「うわー……、こりゃひどいな」
自室惨状を改めて目の当たりにし、行成が呻く。
「何かあったの?」
「いや、まぁ……、大人にはいろいろあるんだよ」
バツが悪そうに顔をしかめると、行成はテーブルの上に開きっぱなしだった白い紙と封筒をぐちゃりと握りつぶし、食べ散らかしもろとも部屋の隅にあったゴミ箱へと放り込んだ。
この部屋の状況を見ても、だらしない人間だ、とは思わない。彼の言うとおり、いろいろと子供には分からない事情というものがあるのだろう。真咲は彼に倣って、空き缶などを適当に分別してビニール袋に詰めていく。
あらかた片づくと、行成はプラムを切り分けるために台所へと向かった。
手持ち無沙汰になった真咲は、ついでに部屋中に散乱していた本を本棚に並べ直した。余計なお世話かな、と思いつつ脱ぎっぱなしだった衣類を畳んで、ぐちゃぐちゃになった布団もきちんと皺を伸ばした。
皮を剥いたプラムを手にした行成が部屋の中に戻ってくると、「うわ、すげぇキレイになってる」と驚嘆の声を上げた。
冷えた麦茶と、剥きたてのプラムがテーブルの上に並べられる。
そのうちの一つにフォークを刺し、滴る果汁をトントンと切ってから、口へ運んだ。
顎を動かして飲み込むと、行成は相変わらずの無表情のまま呟いた。
「ああ、これか。昔ばーさんの家で食ったな」
「あ、ホントに? おばあちゃんも家でつくってたの?」
「いや、多分ご近所さんからのお裾分けだったんだと思う。果物やら野菜やら、いつもたくさんもらってたよ」
「へー、羨ましいね。どの辺に住んでるの?」
「北陸の山ん中だよ。ガキの頃は毎年夏になると行ってたけど……。最近は顔も出してねぇな」
瞼を伏せて遠い目をすると、 「まぁ、こんなんじゃ合わせる顔もないけど」と自嘲気味に笑った。
……それは、どういう意味なのだろうか。そういえば、初めて見たときもベンチの上にうずくまったりして、何か深刻な悩みを抱えていそうな雰囲気だった。
だけど、自分が聞いていいものか……、と考えていると、先に口を開いたのは行成の方だった。
「お前はいいよなぁ」
「えっ?」
「やりたいこと、いっぱいできるし、まだまだこれからだもんなぁ」
真咲はムッと顔を顰めた。正直、小学生だってそこまでお気楽ではない。特に自分は、父を亡くし友達も出来ず、羨ましがられるような境遇にはいない。
反論しようとするより先に、行成は「ごめん、なんでもない」と言って再び俯いてしまった。
生暖かい風に乗って、開け放した窓から子供達のはしゃぐ声が届いた。酸っぱいプラムを食べきってしまうとすることが無くなり、気まずくなって真咲は話題を振った。
「そういえば、どこか出掛けるところじゃなかったの?」
先ほどのこと。家の中から勝手に扉が開いた。あれは外に用事があったからではないのだろうか。この前のように自分のせいでバイトに遅れたりしたら大変だ……そう思って尋ねる。
「あ、ああ。夕飯の買い出しだし行こうと思ってたんだわ。日も暮れそうだし、そろそろ行くか」
大した用事でなくてよかった……。そう胸をなで下ろしたのもつかの間、行成は麦茶を飲み干すと、急にテーブルの前から立ち上がった。なんだか唐突な行動である。呆気にとられた真咲は、慌てて背中に向かって声を掛けた。
「どこ行くの?」
「駅前の商店街。あの辺、総菜とかが安いんだよ」
部屋の中を「財布、財布」と、うろうろしている行成に、真咲は思い切って聞いてみる。
「着いてっていい?」
行成が真咲を振り返って、「ああ」と頷いた。
真咲は皿を流しに運んでザッと流すと、運動靴を履いて行成より先に玄関を出た。
ふと空を仰ぎ見ると、太陽の沈んで行く方角に、一つだけ光る星を見つけた。
月は、まだ出ていない。
駅前から数100メートルに渡るアーケード下の商店街には、飲食店をはじめ洋品店、楽器店など、大小様々な店が連なっている。夕暮れ時ともなれば行き交う人々の波で活気に溢れるのだが、今日は特に賑わっている気がする。
その理由をいち早く察知した行成が、隣を歩く真咲に向かって呟いた。
「もう夏祭りやってんのか。早いな」
通りの真ん中に、軽食などの露店がいくつも出店している。普段は母親に止められているためあまり買い食いなどをしない真咲だったが、別に何も買わなくてもこのような催し物を見ると心が躍ってしまう。
尤も、真咲よりもこの雰囲気を楽しんでいるのは、彼女よりうんと年上の、隣を歩く青年のようだったが――
「チョコバナナかりんご飴、食う?」
弾んだ声で尋ねられ、真咲は首を振る。
「お母さんがご飯作ってくれてるから、今日は大丈夫」
それに、家の近くまで送ってもらったり、傘を貸してくれたり、お世話になっているのはこちらの方なのに、これ以上恩を受けることはできない。
すげなく断られ、行成は不服そうに口をとがらせた。
「そっか」
……もしかしたら、お裾分けでももらう算段でいたのだろうか。
行成のこういうところが、自分の知っている他の大人の人たちと違って、たびたび自分を戸惑わせるんだろうな、と真咲は思った。
前方から綿菓子を持った5,6歳ぐらいの幼児が突進してきた。ぶつからないようにひらりと身を避けると、行成とはぐれてしまいそうになった。
行成が「こっちだ」と言って真咲の手を取る。
彼の手のひらはがさがさしていて、大きく、それでいて少し冷たかった。
そのまましばらく歩いていると、天ぷら屋の前を過ぎたところで行成は急に足を止めた。
「おっ、金魚すくい」勃動力三体牛鞭
半畳ほどの浅い水槽の中に、オレンジ色に近い赤の金魚が、長い背びれをひらひらと揺らしながら何匹も泳いでいる。よく見るとたまに黒いものも混じっていた。真咲よりもいくらか年若い女の子二人組が、真剣な表情で網を片手に水槽の前にしゃがみ込んでいる。
この子達は上手くすくえるかな、と後ろからその様子を伺っていると、金魚を水槽の角に追いつめたところで、女の子達の網は無惨にも破れてしまった。
「あー、残念」
まるで自分のことのように悔しそうに行成がため息をついた。
女の子達は「はい、オマケ」と店番らしき中年女性から一匹ずつ金魚をもらうと、満面の笑みを浮かべ、そのままどこかへと駆け出した。
行成が尋ねる。
「お前、こういうの得意?」
「やったことないからわかんない」
そうなのだ。年の離れた兄姉や両親など真咲の周りは合理的な考え方をする大人が多く、こういった遊びを「やってみたい」となどと口に出すのはなんとなく憚られる感じがして、結局一度もやらないままこの年になってしまった。
行成は「あ、そうなの」と意外そうに眉を動かして、水槽の前に座り込んだ。
ポケットから財布を取り出すと、お金と引き替えに網を受け取り、その網を真咲の方へと差し出した。
「はい」
「えっ」
「いいからやってみなって。何事も経験だよ」
にやにやとしながら手に網を押しつけてくる。断り切れず真咲は、行成の隣にしゃがんで水槽の中を睨みつけた。
一匹、周りの魚たちに較べて動きの鈍い奴がいた。所狭しと泳ぎ回る金魚が多い中、そいつだけのろのろと白いプラスチックの池を漂っている。
それに狙いを定めて、壁際に寄った隙に網をくぐらせた。捕れた! と喜んだのも一瞬、案外大きかったその金魚はうすい網の上を跳ね回り、お碗の中に入れる寸前でぼとりと水の中に落ちてしまった。
「……やっぱりダメだったか」
あともう一歩のところだったのに。逃げた金魚を未練がましく視線で追ってしまう。
名残惜しいけど仕方がない。諦めようとしたとき、隣の行成が急に袖を捲って宣言した。
「よし、今度は俺がやる」
……結局、自分がやってみたかっただけではないだろうか。それなら最初から自分だけチャレンジすればいいのに、と思ったが、真咲も生まれて初めての金魚すくいを結構楽しんでいたので、何も言わず行成の狩りを見守った。
隣の行成は、先ほどまでのどんよりした表情が一変、今は活き活きと目が輝いている。
行成は水槽に向かって前のめりになると、網と鉢を持って口を固く結んだ。
網を水面すれすれの所で待機させてタイミングを伺う。エサと勘違いしたのか上部に何匹か集まってきた。キッと目つきを鋭くさせると、素早い動きで金魚を水の中から攫った。
間髪入れずにそれをお碗の中へと滑らせる。
「やった!!」
「よっしゃ! ゲット!」
行成が笑顔でガッツポーズを作った。
掬うと同時に網は破れてしまったが、お碗には今しがた捕獲したばかりの金魚が二匹、ぴちぴちと動いている。
「すごーい、やっぱ上手だね」
「いや、そんなんでもねぇよ」
謙遜するように鼻をならす……が、顔は嬉しくて仕方がないといったように緩んでいる。「の」の形をした奥二重の眼が、ますます細く狭められた。
「あー、赤いのだけ狙ってたのに、おまけがいる」
お碗の中を覗き込む。目当てだったのは赤い金魚のみで、黒くて一回り体の小さいものは巻き添えを食らってしまっただけらしい。金魚にとっては災難かもしれないが、自分たちにはラッキーと言えるだろう。
それを店番に手渡した。二匹の金魚は透明な巾着状のビニール袋に移し替えられた。
立ち上がって店番に礼を言うと、行成は金魚の入った袋を、ごく自然に真咲に差し出した。
「はい」
「えっ……、もらっていいの?」
意外な行動にきょとんと顔を見上げた。あれだけ一生懸命やっていたのは、よっぽど金魚が欲しいのかと思って見ていたのだが、そうではないのだろうか。
「ああ。俺、ズボラだし、きっと多分すぐ死なせっちゃうから。お前が持って帰って世話してくれよ。名前でも付けてさ」
あの自宅の散らかりぶりを見れば、生き物を飼える状態じゃないというのは分かってもらえそうなものだが。
それでもまだ納得できないでいる様子の真咲に、行成は背を屈めて顔を覗き込み、その手をとって無理矢理ビニールを握らせた。
「んで、子供が生まれたら引き取るからさ。頑張って育てるんだ」
急に手を掴まれ、耳の後ろがカッと熱くなる。照れていることを気づかれたくなくて、「わ、わかった」と頷くしかできなかった。
ビニール袋を目の高さまで持ち上げる。水の中で、鮮やかな朱赤と濁りのない漆黒の小さな生物が絡みつくように踊っている。
「それじゃ、赤い方がうめぼしで、黒い方がこんぶ」
「お前、案外食い意地はってるのな」
真咲が直感的につけた名前を、どっちもおにぎりの具だろ、と行成は声を立てて笑った。
行成は近くの弁当屋で酢豚とサラダを選んで、当初の目的だった夕飯の買い出しを済ませた。
他愛のないことで笑いながら、日の暮れてしまった街を子供の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。行成の髭の生えた白い肌とシャツが、夕闇に溶けずに浮かんでいた。
家の途中まで着くと、「またね」と手を振って別れた。手にぶら下げた金魚が増えたときのことを想像しながら。そうなったら真っ先に会いに行こうと決めた。
その日の夜、真咲は夢を見た。
ごつごつした岩の多い海で。服を着たまま、尾びれの付いた足で縦横無尽に陸へ向かって泳いでいた。
水の中では、その日捕まえた二匹の金魚と彼らとよく似た子供たち、それと骨だけの青い魚がたくさん泳いでいて、何回もすれ違った。蒼蝿水
目指す場所に待っている人を焦がれながら。息をしようと顔を上げると、外は闇に包まれていた。
空には大きな星が半分だけ浮かんでいた。深い青色を地に、緑と白のマーブル模様の星。あれはどこかで見たことがある。
あの星は地球だ。だとしたら、ここは――
そう考えた瞬間、鮮やかな夢は終わった。
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