2013年1月7日星期一

ワンドの限界

ターレの迷宮十三階層では今のところラブシュラブとしか戦っていない。
「十三階層にはラブシュラブしかいないのか?」
 ロクサーヌに訊いてみた。
 そんなことはないと思うが。VIVID
「えっと。数の少ないところに案内しているので」
「まあそうだよな」
「戦ったことのない魔物のにおいもします。十二階層の魔物だと思います」
「ターレの十二階層の情報はまだギルドには出ていませんでした」
 セリーも知らないらしい。
 入り口の探索者に聞けば分かるのだろうが、そこまで気にしてなかった。
 聞いておくべきだっただろうか。
 まあ別にいいか。
「コラーゲンコーラルのにおいもします」
「十階層か十一階層の魔物ですね」
 探索者ギルドに情報が載っていたのは九階層までだったか。
 九階層までには出てきていない魔物なのだろう。
「数は少ないか?」
「はい。一匹か二匹だと思います」
「じゃあそこへ連れてってくれ」
「かしこまりました」
 低階層の魔物とも一度戦っておくべきだろう。
 ラッシュ三発というラブシュラブの強さが、Lv13だからなのか、ラブシュラブだからなのかが分かる。
 しばらく進むと、コラーゲンコーラルLv13がいた。
 低階層の魔物でもきっちりとレベルは上がるようだ。
 待ち受けてラッシュを叩きつける。
 続いてもう一撃。
 コラーゲンコーラルLv13はラッシュ二発で倒れた。
 ラッシュ二発か。
 十一階層はラッシュ一発だから、順当なところだ。
 おそらくラッシュ一発とデュランダル一振りで倒せるのだろう。
 そうむちゃくちゃに強くなっているわけではない。
 ラブシュラブはラッシュ二発でも倒れなかった。
 十二階層から現れる魔物は低階層の魔物の一.五倍から二倍くらいの強さがあるということだろうか。
 それを確かめなければならない。
「十二階層の魔物のところへも一度頼めるか。魔法を使うから、数は多くてもいい」
「はい」
 ロクサーヌに頼んで、かいだことがないにおいの魔物のところへ連れて行ってもらう。

ピッグホッグ Lv13

 現れたのは、ラブシュラブが二匹と、ピッグホッグだ。
 十一階層まででは出てきたことがないから、十二階層の魔物だろう。
 子豚といっていい大きさのブタである。
 牙は生えているが、剛毛はない。
 メテオクラッシュを放った。
 ラブシュラブ二匹が倒れる。
 ピッグホッグは倒れない。
 メテオクラッシュは火属性魔法で決定か。
 ワンドを放り出し、デュランダルを抜いた。
 子豚に向かって駆け出す。
 遠距離攻撃が、あるかもしれないしないかもしれない。
 近接するまでには撃ってこなかった。
 ラッシュを叩き込む。
 一撃では倒れなかった。
 ピッグホッグの頭突きを冷静にかわし、再度ラッシュを放つ。
 今度はさすがの魔物も倒れた。
 ラッシュ二発か。
 安全策をとってラッシュのみで攻撃したから細かいところまでは分からないが、十二階層より上で初めて現れる魔物が低階層の魔物より強くなっていることは間違いがない。
 メテオクラッシュがラブシュラブの弱点の火属性魔法だとして倍の威力があると仮定すると、ピッグホッグにも半分のダメージを与えているはずだ。
 その残った半分がコラーゲンコーラルLv13と等しいラッシュ二発ということは、十二階層より上の魔物は低階層の魔物の倍くらいの強さということか。
 そう考えるとメテオクラッシュはラブシュラブLv13を屠れるぎりぎりの威力なのか。
 メテオクラッシュにラッシュ二発分のパワーはない。
「十二階層の魔物はピッグホッグのようだな」
「ご存知なのですか?」
「たまたまな。詳しくは知らない」
「ピッグホッグは土属性の魔物です。土属性に耐性があり、土属性魔法を使ってきます。水属性が弱点になります」
 セリーから説明を受ける。
 鑑定で名前が分かっただけなので、知っているわけではない。
 ちなみに残ったアイテムは豚バラ肉だ。
 夕食の食材が決定した。
 デュランダルを使って多少回復しているので、ハルバーの十一階層に飛ぶ。
 ミノを屠ってMPを回復した。
 何故ミノは牛バラ肉を残さないのか。
 肉屋でバラは売っていた。
 MPを回復させ落ち着いてから、考える。
 いや、別に牛バラ肉はどうでもいい。
 狩場をどこにするか。
 メテオクラッシュとデュランダルを駆使すれば十三階層でも戦えるだろう。
 一般論として、レベルアップのためにはより強い魔物と戦った方がいい。
 ただし、俺の場合は経験値スキルのことも考えなければいけない。
 常時デュランダルを出し、戦士のラッシュと錬金術師のメッキも使いたいとなれば、経験値スキルは犠牲にせざるをえない。
 メテオクラッシュを使いまくるのも好ましくない。
 誰かに見られる可能性がある。蔵八宝
 魔法使いが使えるファイヤーボールやウォーターストームなら、万が一見られたとしても魔法使いがパーティーにいると思うだけだろう。
 メテオクラッシュの場合はそのごまかしが利かない。
 総合的にいって、十一階層で戦った方が有利か。
 十三階層で狩をするにはまだ早い。
 十一階層を狩場とすべきだろう。
 板も集めたので、そのままハルバーの迷宮十一階層で狩を行った。
 探索を終え、買い物とアイテムの売却をしてから家に帰る。
 今日はラブシュラブの落とす板が手に入った。
 セリーに新しい装備品を作ってもらわなければならない。
 次に作ってもらうのは棍棒だ。
 セリーの技術が装備に追いついた。
 いや、逆に考えるべきか。
 鍛冶師になりたてのセリーが作れる程度の、下の階層で得られる安い素材から作られた武器しか装備していないということだ。
 十二階層の魔物からは強さが倍くらいになる。
 現状、十一階層の魔物を倒すのに魔法七発が必要だ。
 倍とすれば十四発。
 さすがに魔法十四発はやっていられない。
 糸でも吐かれたら即アウトだ。
 ラブシュラブは火魔法が弱点だから、火魔法を使えば半分ですむが。
 しかし他の魔物が混じってくれば、そうもいっていられなくなる。
 十二階層より上の魔物を倒すのは、結構大変なようだ。
 今はいいが十二階層に上がったらきつい。
 とりわけワンドは、強化する時期に来ているといえるだろう。
 魔法使いのいないパーティーではどうやっているのか。
 人数をそろえてたこ殴りというところだろうか。
 人数に余裕があって、僧侶や神官などの回復役がいれば、多少の長期戦でも戦えなくはないだろう。
 うちのパーティーでは俺が回復役というのがネックだ。
 戦闘終了後に回復する分にはまったく問題がない。
 問題は戦闘中の回復である。
 魔物を殲滅するのも、俺の魔法に頼っている。
 俺が戦闘中に回復を行えば、その分だけ殲滅が遅れることになる。
 だから、グリーンキャタピラーLv11との戦いのように、やるかやられるかの時間との勝負になってしまう。
 ロクサーヌかセリーを回復役にするか。
 デュランダルを出すときにも一応念のために僧侶をつけている。
 僧侶がはずせるようになれば少しは楽になるだろう。
 ただ前衛の数も十分ではないのに回復役を作ってもしょうがないか。
 基本的に人数が足りていないということはある。
「……ご主人様……ご主人様」
 考えごとをしていると、ロクサーヌから声がかかっていた。
 気づかなかったようだ。
「悪い。どうした」
「玄関にメモが入っていました。ルーク氏からです。ウサギのモンスターカードを落札したそうです」
 迷宮に入っている間に、仲買人のルークから使いが来たらしい。
「おお。ウサギか。ウサギのモンスターカードは詠唱遅延だったよな」
「はい。そうです」
 セリーに確認する。
 コボルトのモンスターカードがあれば詠唱中断になる。
 詠唱中断をセリーの武器につければ、戦略が広がるだろう。
 うまく詠唱をキャンセルできればグリーンキャタピラーLv11はもはや目ではなくなる。
 ラブシュラブの遠距離攻撃は防げないが。
 まあ遠距離攻撃まではしょうがない。
 接近してからのスキルや魔法は防げる。
 それだけでも上出来といえるだろう。

 翌朝、まずはクーラタルの十一階層に入った。
 せっかくチェインメイルに装備を強化したのだ。
 試してみるべきだろう。
 近接された直後に糸を吐かれた場合に倒すまでの間踏みこたえられるようになったかどうかは分からない。
 多少のリスクはしょうがない。
 安全が確認されるまで次の階層に進めないとなったら、探索はまったく進まなくなる。
 グリーンキャタピラーLv11もそうそう頻繁に糸を吐くことはないし、セリーがかかるとも限らないし、絶対に耐えられないと決まっているわけでもない。
 そのためにこそ強化したのだ。
 闇雲に仮定を重ねて怖がってばかりでもしょうがないだろう。
「最初はクーラタルの十一階層を試してみよう。チェインメイルでどれくらい戦えるようになったのかを見たい」
「えっと。それでは攻撃を受けてみます」
 セリーが告げてくる。
 なるほど。
 実際に攻撃を受けてみるのが手っ取り早いか。
 わざわざ糸に捕まるまで待つのは、余計な危険をしょい込むだけだろう。
 敵の攻撃を受けるのは嫌なものだ。
 一撃でやられることは、ないだろうとはいえ絶対確実ではないし、痛いものは痛い。
 俺なら尻込みする。
 セリーが合理的で助かった。
「悪いな。頼めるか」
「では、グリーンキャタピラーの数が少ないところを探します」
「数よりも、エスケープゴートのいないところを頼む。魔法を六発撃った後に攻撃を受けることになるから、エスケープゴートがいたら逃げられる」
「分かりました」
 ロクサーヌの案内で、グリーンキャタピラー二匹、ニートアント一匹と対峙する。
 ウォーターストーム四発でアリは屠った。
 さらに二発を加える。
 魔法六発を放つと、セリーが半歩前に出た。
 やや腰が引け気味だ。新一粒神
 気持ちは分かるが、逃げ腰のところを攻撃されるのと糸に捕まって動けないところを攻撃されるのとでは、衝撃が異なるのではないだろうか。
 実際痛いのだし、逃げ腰なのはしょうがないか。
 グリーンキャタピラーが体当たりをかます。
 棍棒でいなさず、セリーがそのまま攻撃を受けた。
 すぐに七発めの魔法を放つ。
 グリーンキャタピラーを屠った。
「どうだった」
 手当てをしながら訊いてみる。
「そうですね。やはり攻撃に対する強度は確実に上がっています。ありがとうございます、もう大丈夫です。多分、魔法四発放つ時間くらいなら耐えられると思います」
 手当ては二回で終了した。
 接近した直後に糸に捕まっても、大丈夫そうか。
 確実なことはやられてみないと分からないが、試してみて駄目だったというわけにもいかない。
 グリーンキャタピラーLv11についての対策は、一応これでできたと判断していいだろう。
 クーラタルでは一度戦っただけで、ハルバーの十一階層に移動する。
 朝食までの間、探索を行った。
 十一階層ではもうほとんど危険がないことを確認したので安心だ。
 迷宮を出てから鏡を一枚届け、朝食を取る。
「防具を強化したので、次は武器を替えたい」
「武器ですか」
「ウサギのモンスターカードが手に入るからな。それに、現状問題はないが、十三階層のラブシュラブはかなり強い」
 ロクサーヌが焼いた兎の肉をほおばりながら会話した。
「ご主人様の魔法を使えば、一撃では」
「実をいうとあれは結構大変なんだ」
「なるほど。切り札ということですね」
 メテオクラッシュは現状二発撃てない。
 MP効率や誰かに見られる危険性を考慮すれば、通常使える魔法ではないと考えるべきだろう。
 まさに、ボス戦か魔物が大量に出てきた場合の切り札だ。
「確かに、十二階層から上の魔物は強くなるそうです。二十三階層から上の魔物はさらに強くなるそうです」
 セリーが教えてくれる。
 やっぱり十二階層より上で出てくる魔物は強いらしい。
 というか、二十三階層でまた一段上がるのか。
 まあ上に行けば強くなるのは当然か。
「とりあえず、俺のワンドの強化は必須だ。それと、魔法の威力を上昇させるモンスターカードって、何かあるか?」
「ヤギのモンスターカードです」
「ヤギか。それもルークに手配を頼んでみたい。後はセリーの棍棒だな」
 魔法攻撃力を上げる系統のモンスターカードは、仲買人のルークに積極的に頼んではいなかった。
 痛くもない腹を探られたくはない。
 痛くない腹というか、実際にはすねに傷を持っているわけだが。
 ここまでくればそうもいっていられない。
「私の棍棒ですか」
「詠唱中断はセリーの武器に融合するのがいいだろう。ロクサーヌなら回避できる可能性もある。詠唱中断をつけるのに棍棒ではもったいない」
「詠唱中断にするにはコボルトのモンスターカードも必要になりますが」
「まあセリーの武器にだけ詠唱遅延をつけてもしょうがないしな」
 俺にはいざとなればデュランダルがある。
 ロクサーヌはスキルや魔法を放たれても回避できる可能性がある。
 放たれて困るセリーの武器に詠唱中断をつけるべきだろう。
 ロクサーヌは前衛の要として魔物の正面に立つから、脇に回るセリーの方が詠唱中断を狙いやすい。
「それはそうですね。ありがとうございます。確かに詠唱中断なら棍棒につけるのはもったいないでしょう。ウォーハンマーかフレイルにつければ、売却するときにもいい値段になると思います」
 ウォーハンマーにフレイルか。
 両方とも、棍棒と同じ槌に分類される武器だろう。
「槌もいいが、槍というのはどうなんだろう」
「槍ですか?」
 セリーは槌と槍を使える。
「詠唱中断で敵の詠唱をキャンセルするなら、少しでも間合いの長い槍の方が有利なんじゃないか」
「なるほど。そうかもしれません」
「現状で魔物に囲まれることは多くないので、棍棒の振り回しはあまり使っていないしな」
「そうですね。ただ、ここのところはニートアントやエスケープゴートが混じることが多かったので、これからは分かりません」
 槍の方が好都合なのは他にも理由がある。
 まあいいや。
 これも言ってしまえ。
「パーティーメンバーはすぐにも増やす。パーティーメンバーが増えれば、振り回す機会はもっと減るだろう」
 メンバーが増えることは常々強調しておかなければならない。
「はい」
「パーティーメンバーを増やすには前衛の方が選択肢が多いはずだ。槍なら後ろから突く形も取れる。セリーには回復役をやってもらうという手もある。槍の方がいろいろと柔軟に応用が利くだろう」
「えっと。私は巫女にはなれませんでしたが」
 あー、そうか。
 セリーが巫女のジョブを持っていることは伝えてなかったんだっけ。
「まあ大丈夫だ。鍛冶師にもなれたのだし。心配するな」
「はい……。がんばります」
「回復役は前衛がやるという手もあります」
 無理やりな説得でセリーがうなずくと、ロクサーヌが発言した。
「そうなのか?」
「はい。僧侶や巫女は、必ずしも後衛のジョブというだけではありません。特に少人数で迷宮に入る場合には僧侶のジョブを取る人も多くいます」
「殴れて回復もできるからか」
 少人数なら前衛後衛できっちり分けることはあまり得策ではない。
 僧侶も巫女もときには前衛に立てると。
「先頭に立って戦いながら仲間の回復もこなす。迷宮に入ろうとする者が憧れる姿です」
 フランス革命で民衆を導く自由の女神という感じだろうか。
 ロクサーヌに似合いそうな気もする。韓国痩身1号
「まあ回復役については今後のことだ。今はまだ俺の回復で間に合っているしな。ただ、その可能性を狭めないためにもセリーの武器は槍がいいと思う」
「分かりました」
 いずれにしても、セリーの武器は槍の方がいいだろう。
 セリーの武器を槍に変えることで了承を得た。

2013年1月4日星期五

居候

今俺は里長であるルシャさんの家の前に来ている。
「何か……素朴な感じだ」
 外観は二階建ての木造コテージで、別にこの里にある他の家と特に変わった点はない。
 里長の家なので他より大きいものだと思っていたのだが…………。
「僕はあまりそういうことには頓着しないからね。
 普通が一番だよ、変に大きくても暮らしづらい。印度神油
 三人家族にはこれくらいがちょうどいい」
「三人?」
「僕とディアナ、そして僕の奥さんでディアナの母親の……」
「セレネです」
 ルシャさんの言葉に続くように家の中から出てきた一人の女性が、後の言葉を引き継いだ。
 どうやらこの人がディアナの母親らしい。
 見た目はディアナにそっくりで、ディアナの顔から厳しさを取って大人びた雰囲気を纏わせたらこうなるのだろうと思わせる姿だ。
「初めまして、ええっと……」
「ああ……ショウです。
 一応人間の旅人で、今は不法侵入者です」
「不法侵入者? ……ああ、もしかして皆が言っていた人間の侵入者ってあなたのことですか?」
「ええ、まぁ……結構警戒されてるようですし」
「そうなんですか? 別にあなたはそんなに悪い人には見えないのだけれど」
 フフフフ、と柔らかい笑みを浮かべるセレネさん。
 外見こそディアナに似ているが、性格が全然違いすぎる。
 本当にディアナの母親なのか疑わしくなるな。
「……フンッ!」
「おっと」
 そんなことを考えている俺に、右横にいるディアナが顔面狙って左の裏拳を放ってきた。
 もちろん俺はしゃがんで避けたが。
「……何すんだよ」
「貴様、今失礼なことを考えていただろう」
「そうやって邪推する方が失礼なんだぞ」
 まあ、考えてたけど。
「セレネ、三人分の……いや、四人分のお茶の用意を頼む。
 君も話し合いには同席した方が良いだろうしね」
「はい、わかりました」
 そんな俺たちにお構いなしでルシャさんとセレネさんは話を進め、話が終わったのかセレナさんが家の中に戻って行った。
「さて、なら上がろうか。
 君の今後についての話し合いはそれからだ」
 そう言ったルシャさんとディアナが家に入っていくのを見て、俺もその後に続いて家に入った。
「やっぱり……中も素朴な感じだな」
 家の中に入った俺が抱いた第一印象だそれだ。
 別に豪勢なものがあるわけでもなく、家具などの生活に必要な調度品しか置いていない。
「人間の貴族みたいに無駄なものを置いてもしょうがないからね。
 これだけあれば長命なエルフでも十分生活していけるよ」
 ルシャさんの言葉からは卑屈な感情は感じられず、ただ真実だけを述べていることがわかる。
 さすが、長く生きているだけあって言葉に重みがある…………何歳か知らないけど。
「それじゃあ話し合いと行こうか。
 ショウ君、そこに座りなよ」
 木のテーブルの周囲にある三つの椅子の内一つを指差しながらルシャさんはそう言うが……。
「あの……俺が座ったら一人あぶれちゃうんじゃ……」
「ああ、大丈夫だよ。
 予備の椅子があるから」
「――そうですか、なら遠慮なく」
 いらない心配だったらしい。
 ルシャさんに指差された椅子に座る。田七人参
 そして俺の横にルシャさん、向かいの二席のうち一つにディアナが座る。
「お茶です」
 お茶を乗せたお盆を持ったセレネさんが奥から出てきて、そのまま俺たちの前にお茶を置いていく。
「……どうも」
「いえいえ」
 お茶を全て置き終わったセレネさんは、そのままディアナの横にある椅子に座った。
 それを準備完了と取ったルシャさんが口を開く。
「全員揃ったことだし、今からショウ君の今後についての話をしようか」
「……お願いします」
 さてはてどうなることやら。
「最初に言ったけど、見張りはこのままディアナ、君だ」
「…………」
 黙って頷くディアナ。
 さっきから妙に静かだな。
「そしてお手伝いの件だけど、まずエルフの戦士たちの魔物討伐に君が同行するのはそのままだ。
 これは構わないね?」
「ええ」
「あなた、大丈夫なんですか?
 里の周囲の魔物は上級のものばかりで……」
 ディアナと同じことを言うセレネさん。
 しかしこちらは本当に俺の身を心配してくれていることが分かる声だ。
 素直にありがたいと思える。
「それは心配無用だよ。
 彼はディアナに一対一で完勝するほどの実力を持っているからね」
「そうなんですか!?」
 驚いた様子で俺の顔を見るセレネさん。
「まあ、はい」
「強いんですねぇ。
 それなら心配無用と言うのも頷けます」
 そう言われると何か照れてしまうな。
 しかし。
「…………」
 ディアナの方に顔を向けるが、何かを考えているのか難しい顔をしている。
 何か気になるな……。
「――――ショウ君?」
「あ、はい、すみません。
 ぼーっとしてたみたいで」
 ルシャさんの呼びかけで考え事をやめる俺。
 今気にするべきなのはディアナじゃなくて俺自身のことだった。
「そうかい、なら話をつづけるよ。
 次のお手伝いについてだけど、君は訓練を付けるのは無理だと言ったね」
「はい、俺の剣術は完全に我流ですから。
 たぶんこの里の戦士たちに合わないと思います」
 ディアナの剣は良く言えば基本に忠実、悪く言えば愚直に過ぎて読み易い。
 そして俺の剣は良く言えば変幻自在で読みにくい、悪く言えばお行儀が悪すぎる。
 完全に正反対だ。
「なら代替案として、この里の何でも屋っていうのはどうかな?」
「何でも屋?」
「そう、何でも屋。
 この里の住民の頼みを聞いてそれを実行するってところかな。
 こっちの方が本当にお手伝いと言えそうだけど……どうだい?」
 何でも屋…………か。
 こちらに他の選択肢を与えてくれるだけでもありがたいんだ。
 これ以上ごねるわけにもいかない。威哥十鞭王
 それに訓練を付けるよりはましだろう。
「それでお願いします。
 まあモノによっては手間取るかもしれませんけど」
「それは構わないよ、誠意を持って働いてくれれば」
 こうして俺のこの里でのお手伝いの内容は決定した。
「このくらいですかね、話は」
 やることも決まったので、これ以上議論することはない気がする。
「いやいや、まだだよ。
 君がこの里に住むのは構わないけど、家はどうするつもりなんだい?」
「あ」
 完全に失念していた。
 そうだ、この里に暮らすにしても家がなければ始まらない。
 まさか里の中で野宿と言うわけにもいかないだろう。
 エルフと親交を深めるどころか、逆に怪しい人間という印象を与えてしまう。
「どうしたもんか……」
 俺が頭を抱えて唸っていると、ふいにルシャさんが俺の肩に手を置いた。
 そして。
「それならこの家に住めばいい。
 セレネも別に構わないだろう?」
「ええ、家が賑やかになるのはいいことですもの」
 とんでもない提案をし、セレネさんもそれに賛成する。
「えっ! でもディアナが……」
 正面に顔を向けるが、ディアナはただ考え事をしているだけで何の反応も示さない。
「ディアナのことなら心配ないさ。
 これで監視も楽になるし構わないだろう」
 ニヤつきながらそういうルシャさん。
 何を企んでるんだこの人は!
「そうですよ、ディアナも構いませんよね?」
「……はい」
 セレネさんの問い掛けに心ここに非ずと言った調子で返事をするディアナ。
 こいつ話を聞いていないくせに。
 無意識に返事だけしやがったな。
「大丈夫だよ、客間が余ってるから君の部屋の心配はないさ」
「それに作る料理の量が一人分増えたってどうってことないですよ。
 むしろやる気が出てきます!!」
 二人は完全にその気になっている。
「なら……お願いします」
 なので俺はそう言うことしかできなかった。
 一寸先は闇と言うが、一寸どころの話じゃないぞこれは……。老虎油

2013年1月3日星期四

魔力

正直な話、私は人間に対して悪い感情しか思い描いていなかった。私だけではない、恐らく村のみんなも同じだっただろう。村人だけじゃなく、同族が何人も人間に殺されているのだ。好きになれという方が無理な話だ。しかし、キッドさんに助けられてからその気持ちに初めて揺らぎが生じた。人間なのに亜人と呼ばれる私達のために、同族である人間を容赦なく殺した。助けたところで何の得にもならない私達を助け、あまつさえ危険を顧みず、家に送り届けようとしてくれている。決して気軽に送って行けるような場所でも距離でもないのに……K-Y
 
 出会った頃、私はキッドさんという人間を計りかねていた。銀狼族の私達にだけ優しいわけではない。その証拠に金虎族のマオちゃんには特に優しい。わざとゲームに負けてあげたり、美味しい物を食べさせてあげたり。それに私達にも分け隔て無く接してくれる。同族にだってこんなに優しくされた覚えはない。始めは何か裏があるのではとずっと警戒していた。しかしそれは全くの無駄だと気づいた。彼は私達に対して全く警戒心がないのだ。正直な話、殺そうと思えばいつでも殺すことができたと思う。果たしてそれが可能だったかどうかは、今となっては解らない。
 
 彼は同じ人間のサピールさん達に対しては、うっすらとだが警戒している感じがする。しかし私達に対してはそれがわずかにも感じられない。私達のような獣人はそのような気配に対してとても敏感なので、その辺りはすぐわかる。あの人は偽りなく私達に心を開いてくれている。
 
 人間ではなく、亜人に心を開く人。何よりも同族を大切にする銀狼族の私には、同族を警戒する彼という人間がよく解らなかった。理解できないため一度彼に聞いてみたことがある。
 
「何故、キッドさんは同族である人間を警戒するのですか?」
 するとキッドさんは不思議そうにしばらく考えてから「ああ!」と、何かに納得したように答えてくれた。
 
「人間はね、普段から君達のように同族だからとか、そういうことで他人との結びつきがある種族じゃないんだよ。人はいろんなもので他人と繋がる。例えば一番わかりやすいのはお金だね」
「お金……ですか?」
「ああ、何よりわかりやすくそれでいて強くて、恐らく人間の間で一番多い結びつきじゃないかな」
 お金で仲間になる。私には理解できないことだった。
 
「じゃあその人達はお金が無くなったらどうなるのですか?」
「ただの他人、もしくは敵になるね。金の切れ目が縁の切れ目なんて言葉があるくらいだしね」
 
 どんなに仲良くしていてもお金が無くなったら敵になる!?
 
「……それは本当に仲間なんですか?」
「意外に金のつながりってのも侮れないものだよ。金のために平気で同族を売ったり裏切ったりする奴もいるしね。酷いのになると家族を売り払うやつなんてのもいる」
 家族を売る!? お金という存在は知っているが、少なくとも私達の村では使い道がないため、お金というものにそこまでの価値があるというのは全く理解ができない。私、いや私達の種族には全く解らないことだろう。
 
「やっぱり全く意味が分からないって顔をしてるね。説明しておくと生き物ってのは生きるためには食べ物や水が必要になる。でも人間が普段住んでいる所ではそういった物はすぐに手に入る物じゃないんだ。だから持っている人からお金を支払ってそれを購入する。つまりお金は街で生きる人間にとっては生きるために必要な物なんだよ」
「生きるためとはいえ、家族を売るなんて……やっぱり私には理解できません」
「まぁ理解できなくて当然だね。自分の子供売り払うなんて人間だけだろうしね。と、言っても人間全てが必ずしもそうというわけじゃないんだよ。どちらかというと家族を何よりも大事にする人のほうが多いと思うよ。まぁその辺は生活している環境によると思うけどね。少なくとも俺の住んでいた所では、そういったことは無かったよ」
 
 それを聞いて私は少し安心する。キッドさんに出会って少しはまともな人間もいると思い始めていた所なのに、人間全てがそうだと言われたら、ますます人間という種族に不信感を抱いてしまっていただろう。
 
「でもハンターなんて連中は結局金のために集まってるんだろうけど、それでも戦いを通じて血よりも濃い絆を作ることがあるんだ。お金のつながりといっても馬鹿にはできないもんだよ。まぁ1人の俺が言うことじゃないだろうけど」
 
 そう言ってキッドさんは笑う。私にはよくわからなかった。
 
 
 
 




 初めての自由な旅のせいか、やや興奮気味でなかなか寝付かなかったマオちゃんとファリムが、ようやく寝静まった頃にそれは起きた。
 
 初めは大きな獣のような鳴き声。その後は大きな鳥が飛ぶような羽音。一体何が起きているのかと外を見ようとしたその時、御者側の扉が閉められた。馬車の中は真っ暗になり、今まで見えていたファリム達の寝顔も見られなくなった。唯一手綱用の隙間から明かりが少し入って来ている。その隙間から外を覗いて見るが、何が起こっているのかここからでは全く解らない。
 
 その後、轟音と共に何かの叫び声が聞こえてきた。とても大きな音で、音と共に色とりどりの明かりが見えた。音は6回程鳴った後に鳴り止み、それまでの騒がしさが嘘のように暗く、そして静かになった。
 
 私は最悪の事態を想定し、ファリムとマオちゃんを後ろに庇いながら息を殺してじっと扉を見つめる。さすがに2人も今の騒音で起きてしまったようだ。うっすらとだが不安そうにこちらを見てきているのが解る。
 
「だいじょうぶよ。キッドさんが何とかしてくれるから」
 私は全く根拠のない励ましで2人を安心させる。根拠なんて全くない。でも、例え何が襲ってきてもキッドさんが負けるはずがない。私は実際にキッドさんが戦ったところを見たことがないのに、何故か確信を持って言っていた。それは私の心が、本能がそう感じているということなのだろう。
 

 しばらくして扉が開けられた。思わず手に力が入る。逆光のため姿はよく見えないが、臭いですぐに誰かはわかった。
 
「何があったんですか?」
 扉を開けたキッドさんに尋ねる。
「なんかコウモリみたいなのがいっぱい来たけど、だいじょうぶだよ。みんな片付けたから」
 それを聞くとマオちゃんとファリムは安心しようでそのまま倒れ込んむように寝てしまった。何が起こったか詳しく聞こうとも思ったが夜も遅い。明日詳しく聞こうと思いつつ、私は緊張から解放された安堵感からか、すぐに夢に誘われていった。





 
 
 
 
 


 
 
 
 
 翌朝、俺はシロに抱きついたまま目が覚めた。野営なのに非常に快適だったのはやはりこのモフモフのお陰だろう。
 
「おはようシロ」
「ガウ」
 シロに挨拶をすると俺は背伸びをして昨日の惨状を確認する。どうやったのかわからないが地面に血の跡はたくさんあるが死骸は1つもない。明るいところでグロいものを見なくて済んで良かったと安心しつつ食事の用意をする。
 
「おはようございます」
 
 朝食の用意をしていると馬車からフェリアが起きてきた。そして俺の横にいるシロを見て固まった。
 
「きっきききキッドさん!! そっそそその魔物は!?」
「あーこの子はシロっていうんだ。新しい仲間だな。よろしく頼むよ。後、魔物というよりは聖なる獣で聖獣だな。ってこらっシロ! 吼えるんじゃない」
 グルルルとうなりを上げてフェリアを威嚇しているシロの頭をペシっと叩く。するとシロはその場に伏せて大人しくなった。
 
「聖獣ですか? 聞いたことないですね。でもキッドさんがそういうならきっとそうなんでしょうね。シロさんよろしくお願いします」
 そういって律儀にシロに頭を下げる。シロは答えるようにガウっと一声吼える。どうやら仲間というのは理解してくれたようだ。
 
「昨日襲ってきたコウモリを倒したのもシロなんだよ。頼りになるだろ?」
「コウモリですか? そう言えば昨日の夜そんなこといってましたね。人を襲うコウモリなんて聞いたことないですが」
「んーたしかにコウモリにしてはシロくらいでかかったし、嘴(くちばし)とかあったけど」
「そ、そんなに大きかったんですか!? それに嘴……それひょっとしてニフテリザじゃ……」
「何それ?」
「山間(やまあい)の森に住んでいる翼竜です。かなり凶暴で群れで狩りをするので、甚大な被害がでることが多くて、村の近くに巣ができたらまず廃村になってしまいます」
「へー、こんな平野にも来るものなの?」SPANISCHE FLIEGE D5
「移動範囲(なわばり)はかなり広いそうです」
「それじゃあ、あの山から来たのかもしれないな」
 あの山とは俺が蛸を倒したあの山だ。名前は知らないのであの山としか呼べない。そんな話をしているとマオちゃん達が起きてきた。
「おはようにゃ」
 眠そうに目をこすりながら起きてきたマオちゃんだったがシロを見るなり固まってしまった。
 
「に……」
「に?」
「にゃあああああああああああああああ!!」
 逃げるどころかマオちゃんは絶叫しながらシロに抱きついた。
「かっこいいにゃ!!」
 首筋に抱きついてくるマオちゃんにシロは困り気味だ。俺に「なんとかして」という表情で俺を見てくる。何故フェリアには吼えてマオちゃんには吼えないんだ。同じ虎だからか?
「マオちゃん、ご飯だからシロと遊ぶのは後にね」
 そういうとマオちゃんは名残惜しそうにシロから離れる。ちゃんということは聞いてくれるようだ。
 
「シロちゃんご飯食べる?」
 
「シロはそういうのは食べないんだ」
 
 シロにパンを渡そうとしていたマオちゃんは残念そうにちぎったパンを自分で食べた。
 
「しかし、シロを連れたまま街とかに入るのは大変そうだなぁ」
 朝食も終わり、出発準備をしながらそう呟く。
「ガウ!」
 
 するとシロは一声吠えると俺のそばによりそのまま地面に吸い込まれるように潜ってしまった。
 
「うおお!? 地面に潜れるのか?」
 
 シロは地面に潜って完全に見えなくなった。これなら街の中でも大丈夫だろう。しかし……
 
「宿の部屋で出したりは無理かなぁ。2階だったりしたら地面ないしな」
 
 そんなことをいっているとシロが地面から現れ馬車に乗り込む。
 
 「ガウ!」
 
 「ん? どうしたんだ? そっちにこいってことか?」
 
 俺はシロに誘われるがままに馬車に乗り込む。するとシロは馬車の上にいながらそのまま馬車に潜るように沈んでいった。
 
 「な!? これは……俺を呼んだってことは俺から一定距離以内ならどこでも潜れるのか、それとも……」
 
 俺は馬車から外にでてシロを呼んでみる。するとシロが地面から現れた。
 
「やっぱり……シロは影に出入り出来るのか……誰の影にでも入れるのか?」
「ガウ!」
 どうやらそのようだ。これなら護衛として他人に付けることもできるな。なんとも優秀だ。しかし真っ暗な場所だと出入りできないかもしれないな。夜は注意しないとな。
 
 
 
 その後、マオちゃんにせがまれてシロを馬車に乗せたまま出発した。シロにくっついてマオちゃんは終始ご機嫌だった。さすがに重いんじゃないかと思ったが特に問題もなく動いているのでこのくらいなら大丈夫なのだろう。まぁ荷物なんてほとんどなかったからな。ちなみにスレイプニルはスレイとプニルという名前をつけた。わかりやすいのが一番だ。こいつらは肉食に見えるが実は草食らしい。特にミリャと呼ばれる林檎のような果物が大好きなようだ。林檎よりはるかに大きいが甘くて水分も豊富なので子供にも大人気の果物だ。馬屋のおじさんにこいつらの好物だと聞いたのでたくさん買ってきてある。後で休憩のときにでもやろう。
 
 そのまま順調に旅を続けていると、マオちゃんがシロに乗ってみたいと言い出した。マオちゃんどころか俺でも乗れそうな大きさなので大丈夫だろうとシロにお願いしてみる。最初は落ちないようにゆっくりとだったが次第にとんでもない速度で走り回るようになっていた。うん、俺なら間違いなく落ちるな。マオちゃんはなぜあれで落ちないのか不思議だ。バランス感覚がとんでもないのかシロが何かしているのか……
 
 正午過ぎ、マオちゃんは荷台でシロとファリムと一緒にお昼寝。ファリムも最初シロを見たときは驚いていたが、マオちゃんとのやり取りを見て警戒心はまだあるようだが、大分慣れてきたようだ。そして俺は御者をしながらあることを考えていた。
 
 
 昨日、シロが魔石から魔力を吸うのを見てから辺りに漂う魔力をなんとなく視覚的にとらえることができるようになったのである。それは自身の魔力についても同じで、薄い紫のようなモヤが体からもれているのがわかる。フェリア達についても同様で漏れている量や色については俺と変わらないようだった。その状態で魔力探知を行うと体にまとっているモヤがだんだんと広がっていくのがわかる。自身の周りを紫の薄い水で満たしていくような感じだ。しかし満たされる速度はかなり早い。満たされた場所についてはかなり正確に中のことを把握することができる。しかしわかるのは魔力があるものについてだけのようだ。石や岩のような無機物についてはわからなかった。気力探知ならこのあたりはわかる。しかし気力探知の方はかなり難しく、なかなか範囲を広げることができない。難しいものだ。
 魔力を視覚的に捉えることができることによって魔力を思ったとおり動かせるんじゃないかと色々と試してみることにした。まずは石に魔力を込めて魔石にできないかどうか。これはうまくいかなかった。中に貯めようとすると中には入るがすぐに霧散してしまうようだ。
 次にトンファーを魔力で覆って威力が上がらないかと試した。休憩時に道端にある岩を殴ってみたが特に違いがわからなかった。元々岩より丈夫な素材だからそんなことしたところで意味がないとやってから気がついた。
 次にナイフの周りを魔力で覆うことにより切れ味が増すのではないかというテストを行った。結果全く切れ味は変わらなかった。バターのように岩が切れるんじゃないかと期待していた自分がちょっと恥ずかしい。
 結局使い道がないということになり、なんとか使い道がないかと道中ずっと石を持って魔力を込めながらなんとか使い道を探していた。そこでふと「石の中に魔力を込めるんじゃなくて魔力で覆ってそこにどんどん魔力を流し込んでみたらどうなるだろう?」と思いやってみた。すると拳大だった石が圧縮されて直径1cm程の小さな珠になってしまった。思いのほか驚いてシロに食べられるか聞いたところ、なんと普通に吸い出すことができた。つまり魔石とは魔力が圧縮されてできた結晶という可能性がでてきた。人工的につくることができるなら魔物を倒さなくてもシロのご飯は用意できる。魔力に味があるかわからないが、俺の魔力で作成した魔石にシロが飽きたりしなければ、これで餓死させる心配はなくなったようだ。石以外にもできるのかとパンに試してみたら同じような小さな石になった。噛んでみたが硬くて歯が欠けそうになった。シロに魔力をすってもらったがパンは元には戻らなかった。これは生物にもできるんだろうか。できたらそれは遺体処理をしなくていい殺害方法となる。まぁ穴掘って埋めたり、No100で燃やしたほうがてっとり早い気もするけど。
 
 その後、物体がない状態で圧縮できないか試してみる。手の中にためる感じで魔力を圧縮していく。手に玉のようなものができたところで岩に向かって投げてみた。しかし、手を素通りしてしまい投げられなかった。今度は手を覆い、その状態でボールをつぶすような感じで魔力を圧縮していく。その状態で圧縮した玉を投げると何事もなく岩を素通りしていってしまった。しかしその後はじけるような音がした。岩に異常はない。よくみると岩の後ろにある木が衝撃で剥げたようになっていた。今度は投げずに手にためた状態で木に触れてみた。触った部分がはじけて爆発してしまった。生き物にしか効果がないのだろうか。その後いろいろと実験した結果、込めた魔力の量に応じて効果が変わるのがわかった。込めた魔力が多いほど木が悲惨なことになった。これは生物の持つ魔力の許容量を超えた魔力を無理やり入れることにより、生物の体が耐えられないのではないかと推論する。魔力を餌にする魔物に効くかはわからないが、対人戦ではかなり有効になりそうだ。相手に魔力が見えるかどうかわからないが、見えないなら無警戒の相手に触れることができればそれだけでその部分を破壊することができる。それに投げることもできるので飛び道具としても使える。これはかなりえげつない。SPANISCHE FLIEGE D6
 
 格闘ゲームによくあるように気をためるような感じで両手に魔力をためてから放ってみる。放つといっても自身の魔力を噴射して押し流す感じだ。ためた魔力は勢いよく飛び出し木を破壊した。波、ではなく魔導拳と名づけよう。気じゃなくて魔力だからな。あとは真空魔導拳とか滅! 魔導拳とかあれば完璧だな。まぁそれは追々考えていくとして攻撃に関してはひとまずこれくらいでいいだろう。
 
 
 防御に関しては一つ思い当たることがある。それは魔物が持っているフィールドという物だ。強力な魔物程、硬い透明な壁のような物で守られているが、これは魔物が魔力で無意識に作っているのではないかと思っている。それが正しければ魔力がある人間にも使えるはずだ。
 
 俺は自分の周りに魔力を集め、それを硬くするイメージで圧縮していった。中を圧縮するのではなく、外側と内側から圧縮する感じで薄い板を作るイメージだ。その状態でフェリアに石を投げてもらったところ、コツンという音とともに石が跳ね返った。その後木の棒で強く叩いてもらったが逆に木の棒が折れてしまった。これは使えるんじゃないかとシロに攻撃してもらうことにした。
 
「ガウ!」
 
「へぶっ!?」
 シロが軽く右手ではたくと一瞬だけ抵抗があったが何事もなかったかのようにフィールドを貫通して殴られ、俺は10m程吹き飛んで転がっていった。
 
「いい右持ってるぜシロ……世界を狙……」
「ガウ!?」
 そのまま俺は気絶した。翌朝目を覚ますと焚き火の前でシロを枕にして寝ていた。どうやらシロが運んでくれたようだ。今のところフィールドはまだたいした強度にはならないようだ。矢を弾くくらいは出来そうなので、前後左右を囲まれている時なんかには使えそうだ。目下の課題としては強度と展開速度の向上だな。
 
 
 
 
 訓練を続けながら旅を続けるが結局最初の夜以降、襲われることもなく旅は続いた。と、いっても途中の草原に超巨大な羊が居たり、空に浮かんでいる超巨大なクラゲに遭遇したりしたが……まぁ襲われることはなかったのでよしとしよう。
 
 旅をはじめて3日目が暮れようとする頃、村らしきものを見つけた。規模はマルクート村と同じくらいだろうか。村の入り口に見張りらしき男たちがいる。
 
「止まれ! この村に何の用だ?」
「別に何の用もありませんよ。パトリアに向かっている途中です。ここに寄るつもりもありませんよ」
 実際、馬車は王都の最高級宿より上質の寝床だし、食料もセーヴェルとコンビニで豊富に仕入れてある。こんな村で俺の馬車以上の快適な環境があるとは到底思えない。
 
「そうか。商人か?」
「違いますよ。ただのハンターです。それよりちょっとお聞きしたいのですがパトリアへ行くのはこの道であっていますか?」
「ああ、この道をまっすぐ半日程いくと砦がある。そこを越えればパトリアだ」
「どうもありがとうございます」
 お礼を言いつつその村を後にした。ちなみにマオちゃん達は何か面倒があるといけないから荷台に隠れてもらっていた。そのまま村から1時間程離れた所で夜を明かした。村の近くで休んで何か言われたりするのが嫌だからだ。それに俺は一番危険なのは魔物ではなく人だと思っている。魔物は優しいふりをして近寄ってきていきなり裏切ってブスリなんてマネはしないからだ。悪魔は最初から悪魔の格好でこない。騙すときは必ず優しい天使のフリをして近づいてくる。だから人が相手の場合は心のどこかで必ず警戒をしてしまう。これは癖のようなものだ。おっちゃんの家族だけは別だ。おっちゃん達を信じないで疑心暗鬼になるくらいなら、何も気にせず信じて裏切られるほうがいいと考えている。だからあの家族相手には疑心暗鬼にはならない。
 
 翌日、村人の言う通りに道を真っ直ぐに進んでいくと砦のような物が見えてきた。あれが関所の役割もしているのだろう。塀のような物が遥か彼方まで続いている。そこまでして何をチェックしているんだろうか。いわゆるパスポートのチェックみたいなものだろうか。地球ですら国外に行った事もないのでよくわからない。サイトシーンって言ってればいいと聞いたことはあるがこの世界でそんなもの通用する気はしない。
 
 
 砦の隣にある巨大な門が開けっ放しになっている。通っている者は誰もいない。俺はそのままその門に向かって馬車を進めた。
 
「そこで止まれえ!」
 
 3人組みの兵士が声を上げる。シグザレストの兵士だろうか。
 
「積荷の確認をさせてもらう」
「確認も何も私は商人じゃないですよ」
 そういってハンターカードを見せる。
 
「ハンターか……なぜ荷馬車なんぞに乗っているんだ?」
「小さい子供がいるからですよ。普通の馬車より快適に改造してあります。それとこれを見せればいいって言われたんですが」
 そう言って手紙を渡す。以前、ライドさんから渡された物だ。支部長かららしいが中は見ていないのでわからない。
 
「これは……ちょっと待ってろ。隊長に確認を取ってくる」
 
 そういって手紙を受け取った兵士が一人砦の方へ向かって走り去った。
 
「亜人じゃないか! まさか奴隷か?」
 馬車の後ろに回っていた兵士が叫ぶ。その言葉にマオちゃん達3人はビクッと体を震わせる。それを見た俺の機嫌も一段階下がる。
「奴隷にされそうだったところを助けて、親元に送っていくところですよ」
 御者台から荷台の後ろにいる兵士に話しかける。
 
「どうした?」
「副隊長!」
 すると砦のほうから誰かが出来た。副隊長と呼ばれている以上、ここのNo2辺りだろうか。金髪で汚れも傷もない派手な金ピカな鎧を着ている。戦時中というわけではないだろうが、パトリアがキナ臭いから普段から戦闘の準備だけしているということなんだろうか。それにしても金色をあしらったド派手な鎧は鎧としての用を成しているとは到底思えないが……
 
 副隊長と呼ばれた男は馬車の中を見回し、フェリアを見つけるといやらしそうな目をして舌なめずりをした。
 
「ほう、亜人か……そこの亜人の女。身体検査をするからこっちに来い」
 そういってフェリアを連れて行こうとする。
 
「待ってください。なぜそんなことが必要なんですか?」
「女は隠せる場所があるだろう。マニタリを隠しているかもしれん」
「マニタリってなんです?」
「御禁制の茸だ。食べると気が高ぶって痛みや恐怖を感じなくなるらしい。戦争なんかで使われたりすると大変なことになるから持ち出し厳禁なんだ。見つかったらかなり重い処罰が課せられる」
 もう1人の兵士が答える。そんなものがあるのか。茸食わせるだけでお手軽に死を恐れない兵士ができあがるってことか。副作用があっても一般の兵士を捨て駒にすれば純粋に戦果があがると考える馬鹿がいてもおかしくはないな。ましてそれが敵になるんなら気をつけるのも道理か。麻薬を持ち込まれるのとはまた別問題でたしかに気をつける必要はあるな。しかし……
 
「へーそんな物初めて知りましたよ。でもなぜこの子だけ調べるんですか? 大体隠すなら馬車の下とか上とか他にもたくさんあるでしょう?」
 
「うるさい! つべこべ言わずにお前達は従っていればいいんだ! 本来なら通行料を取るところだが何もなかったら特別に免除してやってもいい」
 そういって副隊長はいやらしく笑う。なんで国を出るのに通行料がいるんだ? ここの砦の維持費にでも当ててるんだろうか。しかし通行料を取る意味がわからない。街に入るときに金を払うというのはわかる。街という外よりは安全を確保された場所で過ごすために必要な対価だろう。しかし、ただそこを通過するだけでそれに対して金銭を払うというのはどういうことだ? 整備された高速道路とか巨大な橋とかならわかるが、ただ門を潜るだけで金がかかるとか意味がわからない。俺は比較的金銭に対して無頓着だが、自分が納得しないものに対してはビタ1文払う気はない。
 
「キッドさん!!」
 そうこうしているうちに副隊長はフェリアを連れて行こうとする。
 
「お姉ちゃんに触るにゃ!」
「いてっ!! このガキ!」
 マオちゃんが副隊長の腕を引っかきフェリアが開放される。それと同時に副隊長はマオちゃんに殴りかかった。パシッ
 
 なんとか間に合った。俺はマオちゃんを殴ろうとした金ピカの手をつかんだ。
 
「うちの子になにさらしとんじゃボケ。ぶち殺すぞ金ピカ」
 フェリア達を馬車に戻し俺は副隊長の腕を捻り上げる。
「いててて、糞!! 離せ! 平民の癖に貴族に逆らう気か!?」
「貴様! 何のつもりだ!?」
 兵士が槍を向けながらこちらに言ってくる。
 
「何のつもりだと? それはこちらの台詞だ。うちの子達に何するつもりだ糞野郎。おとなしくしてりゃつけあがりやがって……馬鹿なの? 死ぬの?」
 俺は副隊長の腕を捻り上げながら槍を向ける兵士に対しての盾にする。
 
「はっ離せっ!! お、お前達!! 何をしている!? とっととこやつらを捕らえんか!」
 副隊長が叫ぶと槍を持った兵士達がこちらに向かってくる。SPANISCHE FLIEGE D9
 
「シロ」
 俺が呼ぶとシロが影から出てきた。
 
「ま、魔物!?」
 兵士達が怯えて下がる。
 
「ど、どうしたんだお前達! 早く捕らえんか!」
 副隊長は俺に腕を捻り上げられているため、俺の横にいるシロを見ることができないため気づいていない。
「シロ、馬車を守れ」
「ガウ!」
 シロが一声すると馬車を囲むように5m以上はあるであろう土の壁ができた。上は開いているが矢でも放たない限り馬車は大丈夫だろう。さて、後はこいつらをどうするかだが……
 
「何事だ」
 奥のほうから重厚な声がする。そちらを見ると鋼色の鎧をまとったいかにも騎士といったいでたちの男であった。
 
「隊長!?」
 槍を向けた兵士達が振り返りながら叫ぶ。
 
「お前がこの屑共の親玉か」
 
 非常に機嫌が悪い俺はつい口調も荒くなってしまっている。
「おいっ平民! 早く私を助けろ!」
 副隊長が叫ぶ。こいつの上官じゃないのか?
 
「うちの部下が何かしたのかね?」
「何かだと? では逆に聞こう。ここを通るためにはこの屑に娘を差し出さなければならんのか?」
「そのような馬鹿なことがあるはずがないだろう」
「ではもう一つ聞こう。ここは通るために金が必要なのか?」
「いや? ここは輸出、輸入の禁止の類の品がないか、又は手配されている者かのチェックをするだけだが?」
「その2つを要求されたから今俺はこうしているわけなんだが?」
 捻る手に力が入る。呻いている副隊長の悲鳴の声が一段高いものになる。
 
「まさかそのようなことを……それは本当のことか? お前達! どうなっているんだ!?」
 
 隊長と呼ばれた男は周りの兵士に向かって問い質す。兵士達はしどろもどろで明確な答えはない。
 
「こ、こいつのでたらめだ! 私がそのようなことを言うはずがない!」
 副隊長が叫ぶ。まぁ確かに物的な証拠はないな。
 
「じゃあ何か? 俺は何の理由もなくいきなりお前を攻撃していると? 初めてあった兵士に対して? 何のために?」
「そ、それは……」
「真実は即座に違うと答えないそいつらが物語ってるだろう」
 兵士達を見るとばつが悪そうに目をそらす。
「貴様ら……本当にそんなことをしていたというのか? 騎士の風上にも置けぬ行い、断じて許すわけには行かん!」
「お、お許し下さい隊長! わ、私は副隊長に命令されて仕方なく……」
「わ、私もです!」
「なら何故私に報告しなかった? その時点でお前達はただの共犯者ではないか!」
 もっともな隊長の言葉に兵士達は言葉を詰まらせる。
 
「面倒だ、そいつも殺せ! どうせいずれ殺すつもりだったのだ。それが早まっただけだ。国への言い訳など後からいくらでも考えられる」
 腕を俺に捻り上げられながらも副隊長が叫ぶ。それを聞いて隊長に槍を向ける兵士達。クーデターでも起こす気かこいつらは?
「隊長!」
 すると砦の方から続々と兵士が走ってくる。さて、俺としてはどう動くべきか……隊長はこの屑とは関係なさげなので隊長側ににつくのはいいとして、問題はこの屑共をどうするかだ。全く……ただ通過するだけが面倒なことになったもんだ……。俺は自らの不運を呪った。
 
「お前達、隊長に向かってなにしてやがる!」
 兵達の中で一際体の大きな男が、隊長に槍を向ける兵に向かって叫びながら剣を抜く。どうやらこの砦は隊長派と副隊長派で派閥ができているようだ。馬鹿らしいことだと思うが人間は2人いれば派閥ができる生き物だから、仕方がないといえばそれまでか。見た感じ平民の隊長とそれをよしとしない貴族のボンボンの副隊長といった所か。貴族がこんな場所にいる理由がわからないが、ここは左遷地域というわけではないのか? 政治的なことも地形的なこともよくわからないので判断がつかない。ひょっとしたらここはエリートが集まる場所なのかもしれないし! まぁこれがエリートなら世も末だけどな。
 
 奥からでてきた副隊長派も加わり、同じ鎧の兵士達が剣と槍を向け合い一触即発の状態になっている。
 
「やめんか! 仲間同士で何をやっているか!」
「何が仲間か! ただの平民の分際で生意気な! お前達何をしている! 早く奴を殺せ!」
 隊長が説得するも副隊長がそれを許さない。この屑を殺すのが一番手っ取り早くないかこれ?
 
「なぁ隊長さんとやら」
「何かね」
「この屑殺していい? それが一番手っ取り早い気がするんだけど」
「できれば生かしておいてほしいものだね。どんな屑でも貴族を勝手に殺すのは不味い。城に連行して法で裁く必要があるだろう」
「貴族ってのは力があるんだろ? そんなの揉み消されて終わりだろ」
「そもそもそいつがここに送られたのも、城で色々と問題を起こしたからだと聞いている。何をしたのかまでは聞かされていないが、さすがに今度はもう揉み消すことはできないだろう」
「そうか、なら生きてさえいればいいんだな。両手両足をつぶして、両目、両耳、喉を潰す。それでこいつは何も出来ない肉になる」
「なっ!? わ、私にそんなマネをしてただで済むと思うのか!?」
「ただの肉になるお前が、自分を潰した人間を誰にどうやって教えるんだ?」
 目に見えて顔が青ざめてきた副隊長に少し溜飲が下がる。
「物言わぬ肉になる前に聞こう。お前いつもこんな事をしてたのか?」
「こんなこと?」 
「見境なしに女に手出してたのかって聞いてんだよ」
 俺は腕を捻る力をよりいっそう強めた。
 
「がああああ! だ、出してない! ここは殆ど女は通らないんだ!」
「そのかわりに金を要求して溜め込んでたってことか。ってことはここで監視してるやつは全員お前の手駒か?」
「そ、そうだ。監視は私に従う者だけで行っている」
「なるほど、そういうことだったのか……見張りは自分達だけで行うなんて言って来た時は、やっとやる気を出したのかとも思ったがそんな裏があったとは」
 隊長が納得するように呟く。四六時中監視しなければいけないのは確かに大変なんだろうけど、こんなやつがなんのメリットもなくそんなことするわけないだろう。そんなことくらいすぐに気づけよ。SPANISCHE FLIEGE
「共犯者を全員捕まえて牢に放り込んでおけ! 抵抗する場合は殺してかまわん!」
 すると槍を持った兵士はすぐに槍を手放して両手を挙げて降参した。仮に抵抗したとしてもこんな場所から馬もなしに逃げることもできないだろう。つかまった後処刑されることが確定しているんなら何が何でも逃げるんだろうが。俺の捕まえている副隊長も両脇を抱え上げられて連れて行かれた。
 
 

2012年12月30日星期日

わたしのお母さま

頼まれ、母親のクラス会の通知文をパソコンで打ちこんで、プリントしたら誤字があった。
 それと気づかずに発送してしまって、今朝、ちくりと母が文句を垂れたのだ。
「気づかなかった私も悪いけど、最後にチェックしてから送ってねって頼んだのに」
 頬を膨らませてブツブツと文句を言った娘に、母ははぁとため息をついた。OB蛋白痩身素(3代)
 かちんと来た。
 あとは、売り言葉に買い言葉で喧嘩をし、外出した。
 それは日常の小競り合いで、特別区切りになるようなものではなかった。
 ため息をついた母が、最後の記憶になってしまった。

 最初に気づいたのは、聞きなれない言葉。呪文のような言葉だった。
 何度も呼ばれるそれがなんであるのか、わからないままにまどろんでいた。
(あ、名前か)
「…… シア?」
 はじめて目に映ったのは母の顔、ではなく金髪に青い瞳の男の子だった。
 きれいな顔立ちをしている。多くの人が思い浮かべる天使像はきっとこんな形に違いない。
 先ほど出会ったダンディな顔とは似ても似つかない。
 と、比べてみようとしたら、モザイクがかかったようにうまく思い出せなくなっていることに気づいた。
 もともと人の顔を覚えるのは得意ではないが、若年性認知症の始まりだろうか。
「シア、セシア?」
 動物の鳴き声のようにも聞こえるが、シア、セシア、覚めない意識の中でも何度も聞いた言葉だ。
 おそらくこの身体の名前だろう。
 ずっとまぶたを閉じていたのに、いざ開けたら目玉は乾いているという不思議。
 貼りついてしまったような痛みがあった。何度も瞬きをくり返していたら涙がこぼれ落ちた。
 表面が潤い、視界がわずかにクリアになる。
 覗きこんでくる男の子に、何かを言おうと口を開いた。
 声が出ない。
 喉元に手を持っていくと布のようなものが巻かれている。包帯だろうか。
 怪我でもしたのか。過去の記憶を探ってみるが、うまく引き出せない。
 今、頭の中に三つの記憶が居座っていることを確認した。
 向こうの世界の記憶と、おそらくこの身体の記憶、そして今まさに積み上がっている記憶だ。
 鮮明なのは三つ目のみで、後の二つはそこにあるだけという感じ。
 身体の記憶については触れることすらかなわない。箱の中に大切にしまわれている感じだ。
 
 だから、目の前の天使のような男の子が誰なのかもわかっているようで、わからない。
 青い瞳にまっすぐ見つめられ、困った“私”は首をかしげた。
 海のように深い青だ。吸いこまれそうだと錯覚をする。
 男の子は、しばらくすると何も言わずに部屋から出て行った。
 人を呼びに行ったのかもしれない。
 あたりは暗い。夜のようだ。
 ベッドサイドにある卓の上には明かりが灯っていて、椅子の上に本が逆さまに伏せて置いてあった。
 読書をしていたんだろうか。
 表紙にイラストがついている。薄く、少し大きめのサイズの本は、絵本のように見える。
 興味を引かれたが手を伸ばすことができない。起き上がることさえ難しそうだ。
 明かりに向かって手をかざしてみる。
 小さな手。
 手は赤い輪郭を持って暗闇の中に浮かび上がり、血液が通っている人間だと教えてくれた。
 鏡がないので全体像はわからないが、ずいぶんと幼いようだ。
 縮んだ、というよりは身体ごと違う感覚だった。
 首元にもう一度手を這わせる。
(セシア、か)
 どんな女の子なのだろう。
 目を閉じるとまたとろとろと睡魔がやってきて、もう一度夢と現実の狭間の世界へと意識を手放した。


 てっきりすぐに周りで動きがあると思っていたがそんなことはなく、朝を迎えた。
 鳥の鳴き声が窓のカーテン越しに聞こえて、けれど自分で起き上がる気力はまだ戻っていなかった。
 やがて、部屋の扉が開き、一人の女性が現れた。
 白いレースのエプロンに、ふんわりとふくらんだ紺色のスカート。
 細い両腕に掃除道具を抱えていて、今から仕事に取り掛かるようだ。袖をまくっている。
 メイドさん、だろうか。物珍しさに、その動向をしばらく目で追いかける。
 てきぱきとした動きには無駄がない。毎日やることの手順がしっかりと決まっているのだろう。
 この広い部屋を掃除するのは大変だろうな。美諾荷葉纖姿
 日本の平均的家屋のリビングよりよほど広いのではないだろうか。
 しかし、家具や余計な装飾品が少ないせいか、殺風景にも見える。
 今眠っているベッドは、セシアの身体に比べてかなり大きく、ダブルベッドくらいのサイズである。
 とりあえず、カーテンを開けてくれないかな。
 と思ったが、なかなか叶えられない。
 メイドは、ベッドを中心にコンパスで描いた範囲を避けるように、近づいてこなかった。
 そういう決まりでもあるのかもしれない。
 驚くべき速さで掃除を終えると、最後に、花瓶に白い小さな花を生け、ベッド横の卓に置いた。
 こういう類いの花だけで飾るというのも珍しいような気がするけれど、小さな花が集まり一つの大きな花のように見え、きれいだ。
 椅子の上で開きっぱなしになっていた絵本も花瓶のすぐ横に置かれた。
 じいっと見つめていると、やっとメイドの顔がこちらを向いた。
 はじめて、ベッド上で目を開けているセシアに気づいたように。
「セシアお嬢様、おはようございます」
 お嬢さまという呼び方に戦慄を覚えつつ、こくりとうなずきを返すと、微笑みが戻ってくる。
 一拍置いて、キャーーー!!! という甲高い悲鳴が家中に響き渡った。


 悲鳴でかけつけてきたのは、同じような格好をした、やや腰の曲がったメイドがもう一人と、おそらく組み合わせ的に執事だと思われる男性だ。若い。
 そして、最後にきらびやかな女性が登場した。
 朝だというのにこれから舞踏会に出かけるのかいシンデレラ、という装いである。
 しかしこれがここの普通であるのかもしれない。
 メイドも執事も、日本にはいなかったし。お姫さまも当然いなかったから。
「………… セシア!!!」
 声とともに、抱きしめられた。
 なんてきれいな人なんだろう。セシアはドキドキとした。
 まるで洋画の世界から飛び出してきた女優さんのようだ。
 いい香りがする。甘いかおりだ。
 セシアがこっそり鼻をきかせていると、キスの雨が降ってきた。
 ひやっと飛び上がりそうになったが、抱きすくめられているので動けない。
 白粉と紅と香水と、いい香りが混ざり合い酔いそうだ。
「セシア? 本当に? ああどうしましょう!」
「奥様、落ち着いてください」
 執事らしき若い男性が興奮したお姫さまの肩にそっと手を置いた。
 お姫さまはなんとか呼吸を整えると、その手をそっと握り返した。そして何度もうなずく。
「旦那様に早急に知らせを」
「そうね、そうね。それから先生にもお伝えしなくては。あとはあとは、ああ、どうしましょう」
 間近にすると、お化粧の必要性がまったくなさそうな顔立ちだった。
 ゆるやかにウェーブのかかった栗色の髪に碧色の目は飛び出す心配をしてしまうほど大きく、まつげは長くくるんと上を向いて、鼻は高く筋がすっと通っており、唇はふっくらとして熟れた桃を連想させる。
 淡いピンク色のドレスがよく似合っていた。後は頭にティアラが載っていれば完璧だ。
「セシア、母様ですよ? わかりますか?」
 このお姫さまが母親なのか。
 愕然とした。この現実を受け入れるのには時間がかかりそうだ、とセシアは思った。
 しかし、そう思いながらも、こくりとうなずいた。理解はしたのだ。
(セシアのお母さまは、お姫さま)
 特大の涙が緑色の瞳からこぼれ落ちた。まるで宝石のようだった。

 頬をなでる指の滑らかな感触がくすぐったい。
 思わず身を引くと、嫌がられていると思われたらしい。手がすぐに離れていった。
 セシアの持つ、“私”の一番古い記憶は、母親の手だ。
 母の親指を触るのが好きで、握ったまま眠ってしまうこともよくあったそうだ。
 カサカサに乾いた指紋の触り心地が好きだったのだ。
 お母さまの手は今まで一度も泥遊びをしたことがありません、という手だった。
 滑々とした石鹸のようで、やはり触られると少しくすぐったい。
 何も話そうとしないセシアにお母さまは困惑したようだった。あからさまに肩を落としている。
 セシアも意地悪で口を聞かないわけではないのだが、声の出し方を忘れてしまったようである。
 そして、先ほど抱きしめられて揺すられて気づいたが、この身体、骨が溶けてしまったように支えがきかない。
 おそらく筋力が衰えているせいだと思うが、お母さまが手を離した途端、顔からベッドに倒れこんでしまった。
 小さな悲鳴を上げてお母さまが驚いていた。ショックと顔に書いてある。
 ずいぶんとわかりやすい人らしい。 
「先生、どうです?」
 
 白衣に聴診器、というのはこの世界でもお医者さんの記号であるらしい。
 セシアの身体のあれこれを診て、医者は難しい顔をした。数字減肥
「まだ目覚めたばかりとのことで断言はできませんが、記憶を失っているようですね」
「ああなんてこと……!」
 この世の終わりというように頭を抱え、お母さまはよろめいた。
 執事がいいタイミングで後ろから背を支え、代わりに口を開く。
「記憶を喪失する病。各地で流行っていると聞き及んでおりますが、そちらとの因果関係は?」
「“迷える悪魔の気まぐれ《フーエンピタル・サファ》”、ご存知でしたか。図書館でいくつかの文献に目を通したことがありますが、これだけでは肯定も否定もいたしかねます。アレは奇病の類。いまだ原因を特定できず、予防も治療も有効な方法はありません。ただ、一時的なものにせよ一生のものにせよ、記憶を失うというのは昔から見られる症状です。いろいろな要因を視野に入れた上で、経過を診ていきましょう」
 よくわからない単語があったが、病名なのだろうと推測する。
 記憶喪失が流行っているのか。伝染するようなものには思えないけれど。
「先生、セシアは、私は、これからどうすればいいのでしょう?」
「現状は周囲がしっかりと支えてあげることが肝要でしょうね」
「では声は、声のほうはどうなのでしょうか?」
「喉の傷については治癒していると見受けられます。こちらも精神的なものが原因なのではないかと」
 
 というような、二人のやりとりを聞きながら、どうやらセシアというこの女の子は一年ほど前から意識不明の状態であったことを知る。
 今年で五歳。
 確かに、何歳からでもいい、と言ったような気がするが、五歳からのスタートとなるとは。
 そして、次に気になったのはこの子自身の意識のことだ。
 今のところ、医療器具らしきものが聴診器くらいしか見当たらないので、意識不明というのがどれくらい深刻なものなのか、判断しかねた。
 心臓を動かしながら眠り続けていた、というところなのだろうが。
 そこに“私”が入りこんだりして大丈夫なのだろうか。
 頭の中の、この触れない記憶の箱がこの子なのかな。何か違うような気もする。
 そういえば、生まれ変わる先の情報については、契約書にちらりと書いてあったような。
 きちんと読まないからですよ、と叱られた気がした。すみません。

 いろいろ考えにふけっているといよいよお母さまの顔色が深刻になってきた。
 それに気づいた医者が別室で休むようにと伝えた。
 執事に細い両肩を支えられながら、部屋の外へと出て行く。
 
 その様子を視線のみで追いかけていたメイドが一人、残された。
 灰色の髪に灰色の目をした、朝、掃除をしてくれていたメイドだ。
 ふぅとため息のようなものをついた後、セシアと目が合うと慌ててぺこりとお辞儀をする。
 仕事モードに切り替わったように見えた。働き者なのだろう。
 新しい寝巻きを持ってきて、着替えをさせてくれる。
 ふにゃふにゃの身体なので苦労したが、慣れた手つきでサポートしてくれた。
 いつも身の回りの世話をしてくれているんだろうか、ありがたいなぁ。
 思ったことを言葉にできないというのは、もどかしい。
 喉の傷と言っていた。こんな小さな女の子がどうしてこんなところに怪我をしたのだろう。
 セシアがもぞもぞしていると、声が降ってきた。
「―― おかわいそうに」
 不意に届いた言葉にセシアはぽかんと顔を上げた。
 メイドは視線の意味をはかりかねたように首をかしげる。
「お嬢様、どうかされましたか?」
 空耳だったようだ。びっくりした。セシアは首を振った。
 メイドは不思議そうにしながらも、黙々と作業を続ける。
 あまり口数は多くないようだ。といっても、話せる相手がいないのだから当然か。
 セシアはおとなしくベッドに横になった。
「―― あんな女が母親なんてかわいそう」
 メイドが退出をする際、今度は閉じる扉から滑りこむようにはっきりと耳に届いた。
 ぱたり、と扉が閉じてしまう。
 …… こんなに堂々とした悪口をはじめて聞いた、とセシアは思った。玉露嬌 Virgin Vapour

2012年12月27日星期四

魔王

黒い霧が消えた後の大広間は、それまでとは打って変わった様子です。先程まで所狭しと存在していた残像達は綺麗に消えてなくなり、がらんとした空間だけが広がっています。
 採光を十分に考えて設えられた窓からの光は、ここをきちんと照らしています。舞う埃さえ見える程です。SPANISCHE FLIEGE D9
 今が朝だと言う事をすっかり忘れていました。大広間の片側にずらりと並ぶ窓から差し込む日の光に、ようやくその事を思い出しました。先程まで朝らしからぬものを見ていましたからね。
 大広間の一番奥、数段高い場所にある玉座に座るのは、黒い服を着た人物です。大広間の中程にいるおかげで、その顔立ちはきちんと判別出来ます。
 先程まで目の前で残像を見ていた相手、今の魔王、マーカスです。
 魔王、マーカスはゆっくりと立ち上がり、玉座から離れてこちらに歩いてきます。
「よく来た。待っていたよ」
 顔には微笑みさえたたえて。その様子に逆に背筋が寒くなる感じがします。先程まで見ていたのは、彼のこれ以上はない程の怒りと憎しみでした。なのに今は優しささえ感じる程の笑みです。その落差に薄ら寒いものを感じます。
 近づいてくる彼の顔立ち、それをじっと見ていて妙な違和感に気づきました。先程の残像にはない部分があるんです。ジューンとしての記憶にも、ないものです。
 顎の辺りから目の下辺りまで、顔の輪郭に沿うように入っている文様。まるで大祭司長のそれのようです。違うのはその色でしょうか。
 墨を入れたような黒です。それがまた異様な雰囲気を醸し出しています。黒い服に黒髪なのが相まって、全ては記憶にあるマーカスのままなんですが、ひどく得体の知れない風が漂っていて、足がすくみます。
 記憶を取り戻した私は、彼を前にして何を思うだろう、そう考えた事もありました。結局はわからないままだったので、早々に放棄してしまいましたけど。
 今こうして本人を前にして思うのは、一番は恐怖でした。懐かしさも何も感じません。
 魔王になる前の姿を覚えてはいますが、単純に記憶しているだけという感じです。体の記憶が伴わないせいでしょうか。
 ゴードンさんもちびっ子も巨乳ちゃんも、私達の前でまるでかばうように立ちはだかっています。守ってくれようとしているのが伝わって、少しだけ気が落ち着きました。
 魔王は高所からは降りずに、際の辺りでその歩みを止めました。
「どうした? 何も怖がることはない。あの連中はもういないよ」
 魔王の視線は、気のせいでなければ私に向かっています。私の前にいる四人を通り越して、突き刺さるような視線を感じます。
 声音も表情も優しいのに、その視線だけは強くて彼の前に出るのは勇気がいりそうです。
「こんな異常な状況、ルイザが怖がらない訳ないだろう」
 私の心を代弁するように、グレアムが言いました。割と落ち着いてます。討伐の旅で影とはいえ魔王を倒していますからね。当然と言えば当然ですか。私と比べると踏んだ場数が違いますよ。それ言ったら私以外の四人は全員でした。
 マーカスの方は、少し目をすがめてグレアムを見下ろします。
「今代の勇者。いつまで意地を張り続けるつもりだ? もういい加減気づいているんだろう?」
 気づく? 何を? 私は思わずグレアムの顔を見上げてしまいましたが、背中側からでは彼の表情までは伺えません。
「何を言って」
「守ったはずの人間は、本当にそうするだけの価値があったか?」
 ゴードンさんの言葉を遮り、マーカスはあくまでグレアムから視線を外さずそう言いました。まるで彼以外とは会話する気がないとでも言いたげです。
 魔王の言葉は私にも突き刺さりました。守るだけの価値。その一言は重く心に沈みます。元シーモア侯爵や例の伯爵令嬢を思い出してしまいました。
 この大広間で見たもの程大がかりなものではありませんでしたし、未然に防げたものではありましたが、方向性としては同じようなものだと思います。
 世界を救い、彼らを守った形の『勇者』を傷付け兼ねない行動を取ったのが、当の守られた側だというのが何とも皮肉です。魔王もそこを突いてきているのでしょう。
 グレアムは返答しません。しないのか、出来ないのかはわかりませんが。王都でのあれこれを思うと、後者かも知れません。
「何も無理することはない。ただ認めればいいだけだ。この世界は狂っている。そしてそこに住まう人間もまた救いようがないほど壊れた代物だ。こんな世界や人間など、存在する意味があるのか?」
「一部を見て全体を判断するのか?」
 グレアムの返答に、マーカスは一瞬眉根をしかめましたが、すぐに余裕を取り戻しました。グレアムが反論するとは思わなかったようです。
「一部とは言え、同じ事を繰り返す愚か者共にはうんざりしているだけなのだよ。今代にはまだ理解はしてもらえないかな?」
「俺だけじゃないだろう? 四代目以降は納得していないはずだ。それに被害者ぶるのは止めておけ。お前は既に十分加害者側だ」
 魔王となった経緯には同情を禁じ得ませんが、その後の行動を見る限り、やはり魔王は魔王でしかありません。グレアムもそう思っているのでしょう、態度にはとりつく島がありません。
 マーカスの方はと言えば、『加害者扱い』に引っかかったようです。不快な表情を露わにしました。
「小童(こわっぱ)が。いい気になるなよ」
 そう言ってマーカスとグレアムはしばしにらみ合いになりました。高所から見下ろす形のマーカスと、下から睨み上げるグレアムの視線が交差します。
 いつまでこのにらみ合いが続くのかと思いましたが、意外な事にそれを終了させたのはマーカスの方です。
「ふん、まあいい。さて、先程の茶番劇は楽しんでもらえたかな?」
 茶番劇。先程目の前で繰り広げられた再現劇の事ですか。劇という訳ではありませんね。多分あれは、実際ここであった事でしょうから。
「何故あれを俺たちに見せた?」
 グレアムがそう聞きました。その言葉に、マーカスは少し眉を上げて面白そうな表情をしています。そしてそのまま視線をグレアムの後ろにいる私の方へ向けてきました。
「ちょっとした余興にと思ったんだよ。連中が何を考えてあんな事をしでかしたか、君なら知りたがるかと思ったんだ」
 確かに知りたいとは思いましたけど。でも目の前で見せられるとは思いませんでしたよ。
 しかも知っても、結局は何も考えずに行動を起こしたというのがわかっただけですからね。大祭司長からも理由らしき事は聞いていましたし。
 それに見せた理由は、本当に余興のつもりだったんでしょうか。あれだけ執拗に見せようとしていたのに?
 でもそれを口にする事は止めておきました。追求しても意味はないと思ったんです。
「あの、黒い霧みたいなのは、何なの?」
 代わりのように私も聞いてみました。マーカスの方は今すぐどうこうするつもりはないようです。なので聞いてみました。先程王達を巻き込んだあの黒いもの。あれは何だったのか気になったんです。
 切り札は私の手にあります。これを使えば、少なくとも邪魔さえされなければ、魔王を消滅させることはいつでも出来るはずです。だから、焦らなくていい。私は自分にそう言い聞かせました。
 先程に比べれば、徐々にですが緊張がほぐれてきている気がします。
「あれか……知りたいかい?」
 マーカスの口調はあくまで穏やかです。表情も。なのに恐怖心が心の底からわき上がってきます。根源的な恐怖、とでもいうものでしょうか。聞いた事を後悔しそうです。
 それでも、頷かざるを得ません。知りたい。あの後彼らはどうなったのか。本当に死んだのか。それとも、死体さえ残さず消え去ったのか。
 ただの好奇心なのか、それ以上の何かがあるのか、自分の心なのに自分でもよくわかりません。でも、私は知るべきだと、そう思うんです。
 ジューンの死が、マーカスを魔王へと変えさせました。遠因としてでも、彼らの死に、ジューン(私)は関わっています。だからこそ、最後のこの時に知っておきたいんです。
 魔王を消滅させたら、私という存在もここから消えるから。
「あれは彼らを生まれ変わらせる為のものだよ」
 マーカスは薄い笑みを顔に浮かべて、その右手をすい、っと前に差し出しました。
「見るがいい。自らの所行に相応しい姿になった連中の浅ましい姿を」
 そう言うと差し出した右手をさっと振り払うような仕草をしました。それと同時に床の辺りから低い響くような音がします。振動も伝わってきますよ。SPANISCHE FLIEGE
「な、何?」
「下がって!」
 ゴードンさんはそう言うと、体で私達を脇へ、大広間の壁の方へ押しました。
「心配する事はない。見せるだけだ」
 マーカスがそう言うと、大広間の扉が急にばたんと閉まりました。今の今までしまっていると勘違いしていましたが、現実では扉は開け放したままだったんです。閉まっていたのは残像の大広間の方でした。
 ちびっ子がとっさに扉の方へ向かい開けようと試みますが、取っ手をガチャガチャ鳴らしてもいっこうに開かないようです。
「だめ! 開かない!!」
 そうこうしているうちに、なんと大広間の床に奥から入り口にかけて真っ直ぐ線が走りました。かつては赤い絨毯が敷かれていたそこには、今は何もありません。石敷きの床がむき出しで存在しているだけです。
 そこに走った線は、やがてぎしぎしと音を立てながら開いていきます。ここ、こんな仕掛けってあったんでしょうか。
 違いますね。おそらくはマーカスの、魔王の魔力で開いているのでしょう。その証拠に床は材質が変わったように、柔らかい布地のような状態でめくれていきます。仕掛けがあったとしても、こんな開き方はしませんよ。
 見る見るうちに石の床はぱっくりと口を開けていきます。壁際に寄った私達の足下にも振動は届いているんですが、倒れる程ではありません。
 床の形状も、開いている部分とこちらとでは、切り離されてでもいるように質感その他に影響はありません。それがかえって今の状況の異常さを表しているように思えます。
 開かれた床の底は、ひどく暗いようです。私の立ち位置からは床の底までは見えません。ですが、何かが動いているような音だけは聞こえてきます。何か、いる?
 がさがさともガチャガチャとも聞こえる音は、地の底から響いているかのようです。ひどく、嫌な音。それに、もの凄い異臭です。息が詰まりそうな程ですよ。一体何の匂い?
「な、何ですの? 一体」
 私達の一番前にいるゴードンさんに、巨乳ちゃんが口元を押さえながら聞いています。彼の位置からなら底の方を見る事が出来るんでしょうか。
 背中しか見えませんが、様子が変なのはわかります。緊張が走り、ゆっくりと口元に手が持って行かれました。こんなゴードンさん、初めてです。一体、その床の底には何があるんですか。
 しびれを切らした巨乳ちゃんが、ゴードンさんの脇から出て前に出ようとしましたが、腕を乱暴に掴んで後ろへと放り投げるように阻止しました。壁に激突した巨乳ちゃんは痛そうです。
 ちょ、らしくないですよ、ゴードンさん。
「な、何をするんですの!?」
「見るんじゃない! リンジー、そこから動くな!!」
 さすがの巨乳ちゃんも怒りを露わにしましたが、それ以上にゴードンさんの怒声が凄くて、びっくりしています。私もびっくりしました。
 扉の方から戻ろうとしていたちびっ子も驚いていて、その場で足を止めてしまいました。
 ゴードンさんがこんな風に怒鳴るのは初めて見ました。巨乳ちゃんとちびっ子の様子から、二人も同じように見た事がないんだと判断しました。
 そんなに見せたくないものがあるんでしょうか、その底に。何だか背筋に冷たいものが走ります。
 先程マーカスは『自らの所行に相応しい姿』と言いました。まさか何百年も前に死んだ王達が、あの底にいるとか、言うんじゃないですよね?
 この異臭……まさか。つい怖い想像をしてしまって気持ち悪くなってしまいました。死体って、さすがに何百年も経てば骨になりますよね?
 思わず前に立つグレアムの背中に縋り付こうとした途端、私の耳に遠い位置からの声が聞こえました。
「邪魔はしないでもらおうか。彼女には知る権利がある」
 そうマーカスの言葉が響くと、いきなり私の体がふわりと浮かびました。吊り上げられた訳でも、足下が持ち上がった訳でもありません。
 うまく説明出来ませんが、体そのものが軽くなったらこんな風になる、という感じです。その状態で体が浮かび上がりました。
 いきなり人の頭の高さ程まで持ち上げられ、驚いて周囲を見回せば、足下には肩の辺りを抑えてうずくまるグレアムが見えます。その手からは……血!?
「グレアム!!」
「勇者殿!」
「きゃああ!!」
「今治療を!」
「止めろ! こっちに来るんじゃない!」
 みんなもいきなりの事に慌てています。私も慌ててグレアムの方へ手を伸ばそうとしましたが、どうやっても今いる場所から動きません。じたばたと暴れる様は、端から見たらひどく滑稽だった事でしょう。
 グレアムは左手で右肩を押さえています。その手の辺りに銀色の光があふれたと思ったら、程なく彼は立ち上がりました。ここからでは確認出来ませんが、どうやら傷の方は大丈夫そうです。一安心しました。
「今代には随分と入れ込んでいるんだね」
 その声は、私のすぐ側で聞こえました。下にいるグレアムの方ばかりに意識を向けていたので、マーカスがどうしているかは、失念していたんです。
 顔を上げた私の真横に、彼はいました。同じように宙に浮いて。
「ひっ!」
 思わず小さく悲鳴を上げてしまいました。いつの間に!? 驚いている私の顔のすぐ横、マーカスとの間を、風切り音と共に何かがすり抜けていきました。その後斜め上方で何やら重い音がしました。
「ルイザから離れろ!」
 その格好から察するに、何か投げましたね、こちらに。そろーっと音のした方を見てみると、グレアムが持っていた剣が天井と壁の境目付近に突き刺さっています。あれを投げたのか!?
「ちょ! 危ないでしょ! 当たったらどうするのよ!?」
「ルイザには当たらないから大丈夫だ」
 待て。その自信はどこから出てくるんだ。まあそのおかげでマーカスは一旦私から離れましたけど。
「悲鳴を上げるなど傷つくな」
 剣で狙われた割には余裕のあるマーカスは、またすぐ私の方へ向かってきました。空中だというのにまるで普通に床の上を歩いているようです。
「君には奴らの姿をちゃんと見せようと思っただけなのに」
 そう言うとあっという間に私の腰を抱き寄せて、ぱっくり口を開けた大広間の中央付近の方へ連れてきてしまいました。
「ルイザ!」
「ちょっと! 離して!!」
 さすがのグレアムも、これだけ密着したマーカスを狙う事はしないようです。これで攻撃されたら私も確実に被害を被るでしょう。
 なので自力でどうにかならないか、出来る限りで抵抗してみたんですが。
「暴れると落としてしまうよ?」
 そう言われてはおとなしくせざるを得ません。さすがに口開けた底に落ちたいとは思いませんよ。
 下を見ると。暗がりでやはり何かが蠢いているのが見えます。何でしょう、魔物か何か? ちょ! そんなものの上に私いるんですか!?
 下から響く音とひどい臭い。それにはっきりとは見えなくても何かが蠢く様子はわかる状態に、生理的嫌悪感がわき上がります。
 まさか、ここにいた王侯貴族達を、魔物に……そこまで考えて頭がそれ以上を想像するのを拒絶しました。
「暗くてよく見えないか。これでどうかな?」
 そう言うと、マーカスの手元に丸い光る玉が出現しました。電灯のような明るさです。それを放るようにして床の方へ投げやりました。
「やめろお!!」
 グレアムの怒号が響きましたが、無情にも光の玉は、そのまま床の中へと吸い込まれるように落ちていきました。そしてそれが明るく照らし出した光景は。
 まさしく地獄絵図です。黒い、蠢く何かと思ったのは、人です。いえ、人であったもの、と言い直した方がいいでしょう。
 喉の奥で、悲鳴が固まったような気がします。両手で口元を押さえて、私は床の下のその惨状を見続けていました。Motivator
 顔だけは人のまま、体はまるで大きな昆虫のような、不気味な存在が床の下にはうごめいていました。それらは互いの体を食いちぎり、共食いをしているような状態です。
 一体どれだけの数がいるのか。広い大広間の下の空間全てにその異形が存在しているようです。地下室かなにかでもあったのでしょうか。わざわざ作った空間なのかも知れません。
 どの存在もうつろな目のまま、手当たり次第に相手の体に食らいついています。それは空腹の為というよりは、それだけしか知らないかのような行動に見えました。
 手当たり次第に相手を捕まえては、その体にかぶりつく。そうしている間にも、他の誰かにかぶりつかれている状態です。
 不思議と顔だけには食らいつかないようです。おかげでどの顔も、この位置からでもしっかりと確認出来ました。ああ、先程国王の側で見た宰相もいるようです。
 食われた部分はすぐに肉が盛り上がり、あっという間に再生するようです。こうして永遠のように続く責め苦が続けられてきたという事なのでしょうか。
 おそらくあの黒い霧に飲まれた人達は、一人残らずこの姿になって、この城の地下に押し込められたのでしょう。
 目をそらしたいのに、そらす事も出来ずに凝視したまま、私の耳はマーカスの言葉を捉えていました。
「君を殺させた連中と、実際にあの殺戮に加わった連中だ。奴らはあの時から今日まで、この城の地下で魔物として共食いをし続けている。人ならざる者達だ、相応しい姿だろう?」
 おぞましい姿の中には、確かにあの国王の姿もあります。こんな姿になってまで王冠をかぶっているのは、いっそ滑稽な程です。
 見れば王の体を食んでいるのは、無精ひげのある男の顔でした。あの時の広場にいた群衆の一人でしょう。
 大広間の分だけ地下の空間があったにしても、この数を収容するには狭いと思われます。だからでしょうか、相当な密度のようです。本当に隙間もない程密集していますよ。
 胃のそこから何かがせり上がってくる感覚がします。このままだとまた嘔吐きそうです。気力で何とか押さえ込みました。それでも胸のむかつきは止まりません。
「ゴードン、一体」
「あなた達は見ないように! こちらに来てはダメだ」
 そう言ってゴードンさんとグレアムに阻まれ、彼らの後ろに追いやられた二人は、この光景を見ていないようです。いつの間にかちびっ子も巨乳ちゃんの隣にいます。
 それでも私の様子から、尋常じゃない光景が広がっているのがわかったのでしょう。表情が硬いです。
 私の足下に広がるこれは、人が見るべきものではありません。相応しい姿とマーカスは言っていましたが、私にはとてもそうは思えません。
 確かに彼らは罪を犯しました。でもここまでの責め苦を負わされるほどのものなんでしょうか。
 マーカスの言葉が正しいのなら、彼らはこの姿のまま何百年とこの地下にいた事になります。そして私達がこの虚空城にこなければ、このまままた百年以上の時を過ごしたのでしょう。この暗く狭い、地下の空間で。
 正直、あの記憶を取り戻した後、あの広場にいた人達や、王達に対して憎しみが沸かなかったと言えば嘘になります。
 でもまさかこんな事になっていたなんて! 私の体はがくがくと震えだしていました。
 それと同時に恐怖心もわき上がってきました。このまま、下に落とされたらどうなるんだろう。私もあの、人なのか虫なのかわからない生き物に、生きたまま食われるんだろうか……。
 思わずその様子を想像してしまって、目眩を起こしそうになりました。
「これでも手ぬるいと思っているんだがね。どうだろう?」
 パニック状態の私の耳元で、マーカスは実にのんびりとした様子で話しています。この状況でその口調というのが、ひどくアンバランスでかえって不気味さを煽る形になっています。
 彼は私を抱きかかえたまま、下方を見てあざけるように言いました。
「ああ、お前達は討伐の旅の途中で似たようなものは見ただろう?」
 え? 私はマーカスの方を見ました。マーカスはにこやかな表情のまま、不可解な事を口にしています。
「あちらは虫ではなく動物だったか。あの城の領主は狩猟好きだそうだからな。そういう『注文』になったのは当然か」
 どういう事? 彼は何を言っているの? 言われた方のゴードンさんとグレアムは苦い顔をしていますが、巨乳ちゃんとちびっ子は訳がわからない様子です。
 その時グレアムの言葉を思い出しました。二人には街道に現れる魔物の退治を頼んでいて、壊され、魔物の巣と化した街の中には連れて行かなかった、と。
 大技で一気に終わらせた、とも言っていました。じゃあ、魔物の巣でこれと同じようなものを彼らは見たんでしょうか。
 ゴードンさんはこちらをぎらりと睨み、怒声を張り上げました。その表情には憎しみではなく、怒りがあふれています。
「今ここで言うような事か!」
「ここで言わずにどこで言うのだ? 王国の騎士よ。隠したところでいずれは露見するのだぞ」
 ゴードンさんにそう言い、マーカスは薄い笑みを浮かべました。
「どういうこと? 魔王は何を言ってるの!?」
「ゴードン! 私達に隠し事をしているんですの?」
 見ればちびっ子と巨乳ちゃんがゴードンさんに詰め寄っています。
「あなた方が知る必要はない!」
 ゴードンさんはにべもなく二人を退けています。そんな言い方じゃ余計煽るだけでしょうに。案の定二人は柳眉を逆立てて怒りを露わにしています。
「何ですってえ」
「知る必要ないとはどういう言いぐさよ! 私達だって討伐の旅に同行したのよ!!」
 言い合っている事に意識が向かっていたのか、ゴードンさんもグレアムも、ちびっ子と巨乳ちゃんの立ち位置にまで意識が向かなかったようです。
 二人はゴードンさんとグレアムに詰め寄る形で、どんどんと大広間中央に近づいていました。私が浮かんでいる、こちら側にです。いけない!
「ダメ!」
 こんなもの、見るべきじゃない! そう思って制止しようとしましたが、遅かったようです。見る見る巨乳ちゃんの顔色が悪くなっていきます。
「……何ですの? あれ」
「! 見てはダメだと!」
 ゴードンさんが改めて巨乳ちゃんを引き戻しますが、そのこわばった表情から、既に遅いと気づいたでしょう。ちびっ子の方も見てしまったのでしょうか、青ざめた顔をしています。
「くっくっく。麗しい仲間意識といった所か。だがいくら見せぬようにした所で、人の悪辣さまでは隠せまいよ」
 私を腕の中に抱え込みながら、マーカスは嫌な様子で笑っています。人を蔑むようなその笑い方は、ひどく邪悪なものに見えました。
 この人の側にいたくはない。そう思うのですが、空中で腰をがっしり抱えられていては、離れようがありません。へたに動けばこの下に落とされそうで、それも怖いですし。
「いい加減ルイザを離せ! ぐ!」
 グレアムが、いつの間にか手元に戻した剣を構えてこちらに向かおうと一歩踏み出した途端、いきなり膝を突きました。何? どうしたの!?
 焦る私の視界の端に、マーカスの右腕が入りました。彼はグレアムに向けて手をかざしています。
「勇者殿!」
「近、寄る、な」
 言葉を発するのも苦しそうです。何かの圧力に抗っているような、そんな様子に見えます。これ、どう考えてもマーカスが何かやっていますよね?蒼蝿水(FLY D5原液)
「やめて!」
 私は腕を伸ばして、マーカスの右腕に縋りました。男の人の力は強いけど、女の体重をかければ何とか腕を下ろさせる事が出来るんじゃないかと思ったんです。
 結果、マーカスはあっさりとその右腕を下ろしました。力を込めた分、そのまま私は転びそうになりましたけど、ここ、空中なんですよね。体勢を崩した程度で終わりました。
 崩した体勢を戻すように、彼は私の腹部に腕を回して引き上げました。そこまではいいんですが、そのまま後ろから抱きしめるような体勢になります。
 ちょ、これは良くない! 腹部に回された腕を外そうとしますが、がっちり抱えられていて外せません。先程より密着度が上がっていますよ!
 焦れる私の耳元で、マーカスの声がしました。
「さて、お遊びはおしまいだ。彼女をここまで連れてきてくれた事には感謝するが、そろそろ君らにはお引き取り願おうか」
 マーカスのその言葉に、私の意識は彼に向けられました。マーカスは再び右手を前に差し出しています。今度は何をする気!?
 私は彼の腕の中でじたばたと手足を動かしましたが、見えない何かに阻まれているようで、うまく動く事が出来ません。
「ではごきげんよう」
 そう言って彼が手を振ると、今度はグレアム達の足下の床が急に消えました。その開いた口の中に、声を上げる暇もなく彼らは飲み込まれていったんです。私の目の前で!
 声を出す暇もありませんでした。ただ呆然とその様を見ているしかなかった自分に、我に返って怒りがわき上がりましたよ。人間、唐突に理解不能な事が起こると動けないものなんだと、初めて知りました。
 彼らを飲み込んだ床が元に戻って少ししてから、体がすーっと冷えていくような感じがしました。みんなはどうなったの? グレアムは大丈夫なの!?
「……怖い思いをさせたね」
 その声に、のろのろと声のした方を見れば、少し困った風な表情の魔王がいました。
 そう、彼は紛う方なき魔王です。マーカスと、以前の名で呼ぶ気にはもうなれません。彼の非道な行いを目の前で見ているんですから。
 私の様子を見て苦笑した魔王は、私を背後から抱きしめた体勢のまま、玉座の方へ移動します。やっと床を足で踏みしめたというのに、私は足の力が抜けてその場にへたり込んでしまいました。
 その私の目の前で、ぱっくりと口を開けた床は元通りに戻っていきました。先程グレアム達を飲み込んだ床も、元の通りになっています。
 どうしよう。どうすればいいの? 混乱する頭でも、何とか落ち着くようにと深呼吸をしました。意識して呼吸をすると、随分と呼吸が荒かったのがわかります。
 二度三度と深呼吸して、少しだけ落ち着いてきました。彼らは勇者一行です。これまでにも討伐の旅で困難には何度も直面しているはずです。
 それでも彼らはちゃんと戻ってきました。だから、今回も大丈夫。彼らの心配をするよりは、私は私に出来る事をしなくてはいけない。元々一人で来る予定だったんだから、一人でも魔王を消滅させなくては。
 私がそんな決意をしているとは思わない魔王は、すっと私の目の前にその手を差し出しました。
 さしのべられたその手に、体がびくりと反応します。それを見て、一瞬魔王が苦しげに顔を歪めた気がしましたが、きっと気のせいですよね。
 私がその手を取らないのを見て、ぐっと手を握り込むと少し私から離れました。その表情には苦痛が見えます。
 そんな表情、しないで欲しい。魔王には魔王らしく、残虐な面だけを見せておいて欲しいと思います。そうでないと、決心が鈍りそうで。
 つい先程まで感じていた恐怖も混乱も、どこかへと吹き飛んでしまうような気がして、絆されそうになるのを意識して押さえました。
「こちらへ。見せたいものがある」
 そう言うと、魔王は玉座の隣、カーテンのようなものが引かれている前に、私を誘いました。これ、何?
 マーカスはカーテンの脇に垂れ下がっている房飾り付きの紐を引きました。開いたカーテンの先にあったのは。
「これ……」
「君が戻るまでと思って、こうしておいたんだ」
 そこにあったのは。
 大の大人が二人で両手を広げたより少し広いくらいの幅の、壁に穿たれたへこみのような部分に花で飾られた大きな水晶が置かれています。
 透明なその水晶の中には、少女が閉じ込められていました。瞳を閉じて、まるで眠っているようなその姿。ジューンです。
 その姿は残像で見た通り、綺麗にされていました。あの惨劇の跡はどこにも見当たりません。
 何だか不思議な感じです。生前は確かに自分だったという感覚と、どこまでも他人を見ているような感覚と、両方が私の中で混在している感じです。
 この姿を見ていると、あの時の夢が思い出されます。夢の中で彼女は、あなただけ幸せになっていいのか、と問うてきました。あの時は意味がわかりませんでしたが、今ならわかります。
 なすべき事をなさない限り、幸せになる権利はない、そう言いたいんですね。そして私のなすべき事は……魔王を解放すること。その術を私は既に持っています。
 決意を新たに、水晶の中の彼女を見上げていると、魔王が隣に立っていました。彼も私と同じように、水晶の中の少女を見つめています。
 その目は優しく、慈愛にあふれてさえいます。魔王がジューンを思う気持ちは、本物でとても深いものなのだというのがわかります。
 人を大事に思う事が出来るのに、同じ『人』を何故あれほど憎めるのか。いえ、人を思う事が出来るからこそ、ですか。
 愛憎というくらいで、愛情と憎悪はとても似ている感情だと聞いた事があります。人を深く思える魔王だからこそ、人を深く憎む事も出来てしまうのでしょう。
「あの時、罪人の穴で君の姿を見つけた時の俺の気持ち、理解してもらえるだろうか」
 魔王は静かにそう言いました。胸に痛みが走ります。決して私のせいだとは言いませんが、それでも遠因の一つは確かに私にもあります。
 その結果、ジューンが死んだ事で彼、魔王はその全てを狂わせてしまいました。
 いいえ、彼だけじゃない。アンジェリアやソフィー、それに先程見た床の底で蠢く者達。彼らもまた、『あたし』という存在がいた為に狂わされた人達です。
 やった事を考えれば当然とする考え方もあるでしょう。けれどやっぱり女神がジューン(あたし)をここへ召喚しなければ、少なくともあんな目に合うような行動は取らなかったと思うと、どうしても……。
「腐臭が充満し腐肉にたかる蠅をかき分けながら君を見つけた。近くにアンジェリアとソフィーもいたよ。彼女達の姿もそれはひどい状態だった」
 魔王の一言一言が胸に突き刺さります。大祭司長に話を聞いた時の情景が思い浮かんできて、息をするのも苦しいくらいに感じました。levitra
 彼女達を死に追いやったのは間違いなくジューン(あたし)だ。あんなに良くしてくれた二人だったのに!

2012年12月24日星期一

邂逅と懐疑

そのひとはしばし黙り込んだ後、ややあって静かな声で言った。
 もう少し、詳しく話を聞かせてくれないか、と。


「いい店だな」
「でしょう?」
 奇異と好奇の視線がちらちらこちらにやってくるのを感じつつ、目の前の人物の言葉に椋は笑って頷いた。老虎油
 現在の、いつものようにクラリオンの厨房に立つ椋の前には、今日偶然出会った人形売りがゆったりと座っていた。カラカラとグラスの氷を揺らしつつゆっくりと中身に口をつけていく様には、妙に気品のようなものが感じられる気がする。
 そこまで相手を眺めて思考したところで、未だに彼女、だと思うが正直自信がないこの相手の、名前すら聞いていなかったことに椋は気づいた。
 椋自身、まだちゃんと相手に名乗っていない。「どういうことなのかもう少し詳しく話を聞きたい」、そんな今までにない反応をこの相手が返してきたせいで、若干焦ってしまっていたようだった。
 声だけ聞けば少年そのもののような声で喋る、妙にたたずまいの落ち着いた静かな人。
 椋が口を開こうとしたまさにそのタイミングで、カラン、と軽やかにまた店のドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませーって、あ。クレイ」
「……リョウ?」
 中に入ってきたのは、ここ一ヶ月強の間にすっかりクラリオンの常連になってくれてしまった友人クレイの姿だった。若干目の前の相手への出鼻をくじかれてしまいつつ声を上げる椋に、なぜかクレイはひどく怪訝な顔をした。
 多分さっきまでずっとみんなに言われてたことと、同じようなこと考えてるんだろうなあ、と。
 そんなことを椋が思う間に、つかつかとクレイは椋たちの方に向かって歩みを進めてくる。
「……おまえの新しい客か?」
 店内での第一声と同じ怪訝を宿す声は、傍から見れば確かにそれなりに怪しい、全身すっぽり枯葉色のローブとフードで覆い隠してしまっている人形売りを指してのものだ。
 既に何度目かも知れないやりとりに慣れてしまったのか、ふっとフードの奥からどこか楽しげな声が聞こえる。
「きみにはいい友人が多いんだな、リョウ君」
「いやあの、さっきから何度もすみませ、……リョウ君?」
 謝りかけて、告げていないはずの名を当然のように彼女に呼ばれたことに気づく。
 またひとつ、フードの奥で笑ったような空気があった。
「つい先ほど、彼が呼んでいただろう? ああ、しかし初対面も同然の私がいきなり君の名を呼ぶのは失礼だったかな。気分を害したなら申し訳ない」
「いや? 別に俺のことは、リョウでもミナセでも、好きに呼んでくれて構わないよ」
「そうか? ではリョウ君と。そう呼ばせてもらうことにするよ」
 どうも聞きなれない不思議な響きの名だが、君という存在にはしっくりくる名前だな、と。
 また、グラスを揺らしつつフードの奥から楽しげな声がする。一方何が面白くないのか、明らかにこの相手が不審に見えるせいか、再度口を開いたクレイの口調は非常にとげとげしかった。
「……あんたは? リョウに何の用だ」
「クレイ」
 それは下手に子どもに向ければ、それだけで子どもが泣きだしそうな声であり視線だった。
 いや、クレイが怪しむのは椋も分かるのだ。何しろこの相手は全く顔が見えない性別も定かでない、しかも誰も(たぶん)彼女のことを知らない。人目の多い王都などという場所にいる以上、正規の手続きは踏んで、この国に入っているのだろうが。
 感覚としては分からなくもない。ないのだが、結局そんなものを全てすっ飛ばして「可能性」が勝ってしまった結果がこれなのだ。
 彼女からしてみれば確実にいわれもない、クラリオンの同僚たちや常連の冒険者たち以上に鋭い追及の声にはさすがに椋も困った。この滅茶苦茶なまでの頑なさは、もはや言うまでもなくジュペスの一件が関与しているのだろう。
 もう少しこっちも話が聞きたいからって、このひとここに連れてきたのはさすがに失敗だったかな、それにしてもさすがにここまで来ると逆に鬱陶しいぞクレイ、などとさりげにひどいことを思う椋をさておき。
 またしても、フードの奥から聞こえてきた声は一切の揺らぎがなかった。
「そう怖い顔をせずとも、私はただ彼の話がもう少し聞きたくてここにいるだけだよ。私はレンシア・フロース。あちこちを旅しながら、自作の人形を売り歩いて暮らしている、人形細工師だ」
「女の身で一人旅、か。感心できるものではないな」
「え、」
「そうかい? 慣れてくるとこれも意外に楽しいものだよ」
 思わずあげかけた声は、彼女の楽しそうな声にかき消された。とりあえず今の会話の流れで判明したが、目の前のこのフードの人物、レンシア・フロースという名の女性らしい。
 クレイのおかげというべきかせいというべきか、目の前の人物に対する疑問が一気に二つとも解消されてしまった。「私(I)」と「あなた(YOU)」で完結してしまう会話には名前が要らない、ということを奇妙に実感することになってしまった椋であった。
 それにしてもなぜ、クレイは彼女を女性だと端から断定できたのだろうか。
 物腰の柔らかさや人々のいなし方などから確かに椋もこのひとが女性ではないかと考えてはいたが、確定の手段がなく、なおかつ当たっていても外れていても失礼な質問になってしまうためにどうにも言いだせなかったのだった。
「で? リョウ。おまえはいったい何をして、そんな人物と知り合ったって言うんだ」
「さっきからなんでそう刺々しいんだよ。おまえは俺の保護者か」
「そうされたくないなら、もう少しおまえは色々なことに対する自覚を強く持て。俺は先日のような騒動をもう起こしたくないだけだ」
「……はいはい」
 思わずぼそりと呟いた言葉は、しれっとざっくり一刀両断された。まったくもって鋭さの減退しないクレイの視線に、椋は苦笑するしかない。
 しかし純粋に誰であろうと「凄い」と思えるようなものが創れるような人間に、悪い人などいない気がするのだが。そんなことを言えば今度こそクレイが烈火のごとく怒りだしそうなので、その思考は口には出さずに留めておいた。
 そもそも椋は、この目の前のフードの人を信じたいから信じただけだ。
 ひょんな話の流れで名前が分かったこの奇妙な人形細工師、レンシア・フロースを。
「そういうあなたは? 名前を伺っても?」
「……クレイだ」
「俺の友人で、ここもひいきにしてくれてるんだよ」
 物凄く言いたくなさそうに、全ては名乗らないクレイの声に重ねて注釈する。椋を思っての行動であることは非常によく分かるのだが、なぜかそれが妙に子どもっぽくも見えるのはなぜなのだろうか。
 まあそれもこれも結局俺のせいかーなどと思う椋をさておき、相変わらず不機嫌と怪訝と不審を隠そうともしない目で、クレイはレンシアのほうを見た。
「あんたは、こいつがヘンだってことを知っててここにいるのか?」
「いや、だからおまえ、クレイ、あのな」
「ほう、リョウ君はヘンなのか。随分と面白いことをいきなり切り出してくる御仁だとは思ってはいたが」
「……」
 本当に椋の内心など知らず、ただ己のペースで相手に滔々と質問をぶつけていくクレイと、そんなクレイの言葉にまたしても楽しそうにフードの奥で笑うレンシアである。
 もはや言葉で応えを返せず、げんなりと椋はひとつため息を吐いた。しかもクレイの追及の目線は、レンシアの言葉を受けてさらに鋭く怪訝さを増したものになった。
「で? おまえは何をしたんだ」
 その上でのこの言葉である。この場合の「面白いこと」というのがクレイの中では即座に「無茶なこと」「普通はあり得ないこと」として変換されただろうことは想像にまったくもって難くない。
 実際ここ数日、あちこちに無茶ぶりをしに回っていた椋には反論らしい反論もできない。痛いまでの追及の緑色に彼はさらにため息を重ねた。麻黄
「……仕方ないだろ。義手の話してまともに取り合ってくれたの、レンシアさんが初めてだったんだから」
「リーでいいよ、リョウ君。まあ、確かに驚いたが、あのときの君の妙な視点と着目の仕方には納得ができたよ。おかげでね」
 二人分の剣呑な空気に反して、レンシア改めリーの声はやはり妙に楽しそうだ。まったくもって、先ほどからクレイの追及の的になっている人物とは思えない気楽さである。
 またしても何とも言えない顔で黙り込んでしまったクレイにとりあえず炒め物を、表情は相変わらず見えないがどうにも面白げなリーにはサラダを出してみる。コトリと皿を置く音に、改めてクレイは顔を上げた。
 上げたと思えば、ほとほと訳が分からなそうな顔でこちらの名を呼んできた。
「……リョウ」
「うん?」
「……ギシュ?」
「あぁ」
 クレイにはそこから説明が必要だったことを、彼の反応を見て椋も思いだした。
 この世界には魔術があるゆえに、「失ったものの代替」としての機械や装具品といったものの需要がほぼ皆無なのである。それは奇しくもかつて、椋が礼人に向かって何気なく口にした言葉の内容をそのままなぞっていた。
 口は災いのもと、とはよく言うが。それなりに言葉の失敗は、したこともある椋であるが。
 ここまで言わなければよかったと、過去の自分を殴りたくなったのも最近では珍しいことでもない。残念なことに。
「ジュペスのなくした、腕の代わりのことだよ」
「!?」
 そんな言葉に弾かれたように、クレイがほぼ限界まで目を見開いた。代替としての「言葉」すら存在していないことを明示する彼の反応に、椋は曖昧に笑うしかなかった。
 ふわりと、そこでリーもまた静かに笑ってこちらに頷いてくる。彼の反応も無理はないだろう、と。
「この国は、魔術が随分発達しているものな。そういうものに対する絶対的な必要性が、他国よりも更に少ないのも当然だ。……ということは結局、そんな言葉を当然のように知っているリョウ君こそがおかしいということにしかならないな」
 首をかしげたときにちらりと見えた彼女の表情は、どこか悪戯っ子のような軽やかさでやはり笑っていた。
 肩をすくめるしかない椋である。リーさんがそういうの面白がってくれる人でよかった、などと暢気なことを考える椋の目前を、また一段階低くなったクレイの声がリーへと向かって通り過ぎていった。
「レンシア・フロースとやら」
「いちいちそれでは長いだろう、リーと呼んでくれ。何だ? クレイ君」
「……こいつから言われたことを、口外してはいないだろうな」
「そんなことをするより、彼の話を聞いてみるほうがよほど楽しそうに思えたからな」
「……ならいい」
 心底やれやれとばかりにため息を吐いたクレイの様子に、リーが去ったあとのクレイの行動が至極想像できてしまった椋であった。これは確実に怒られる。おまえは学習能力がないのかと、言われてもおかしくないことをしたのは椋自身分かっている。分かっていてやったといったら、またそれはそれで余計にたちが悪いと怒られるのがオチだろうが。
 そんな思考への駄目押しのように、笑ったままのリーの声がクレイへ続いてきた。
「まあ確かにこんなことは、あまり大声で人前で喋るようなものではないな」
 
 そんな言葉を口にしつつ、彼女は袖口から取り出した何かをひどく無造作に中空に放った。ほんのわずか一瞬、薄荷か何かに似たような匂いがするりと鼻腔を抜けていったような気がした。
 思わず左右を見回す。当たり前だが何もない。この場にそんな洒落たものなど置いていないし、そもそもこの世界に放りこまれてからハッカの、ガムに良くあるあの匂いを嗅いだのは初めてのことだった。
 フード越しにもかかわらず何となく得意げに見える目の前の相手へと、椋は問いを投げた。
「リーさん今、何した?」
「別に一切、身体に害はないから安心してくれていい。私たちの声に、適度に雑音を入れるようにしただけだよ」
 全く何でもないことのように、何でもないわけがない事をのたまうリー。
 その言葉に先に反応したのは、クレイの方だった。
「声に、……雑音?」
「もし必要だというなら、お近づきのしるしに一つ差し上げようか」
「おいおいリーさん、今リーさんと商売の話しようとしてるの俺でしょう?」
「……リョウ。つくづく思うがおまえは、簡単に他人を信用しすぎだ」
 酒のせいかそれとも元々の性格なのか、リーの調子はどこまでも一定は越えずに楽しげだ。
 そんな彼女のテンションに乗っかって笑って見せれば、クレイが頭の痛そうな顔で額を押さえてげんなりした声を出した。結果的に彼女がこんな人だったのだから別にいいじゃないかと思う椋は、おそらく確実に破滅的なまでに甘い。
 が、これも椋の性分である。今更どうしようもないことだった。
「それに関しては全く私も同意見だよ、クレイ君」
「なに?」
「リーさん?」
 などと考えていたら、若干予想外の方向からクレイの言葉への援護射撃が来た。思わず目を開いたのは椋もクレイも同じことで、しかしやはり目線の先のリーは楽しげな、そしてどこか妙に落ち着いて穏やかな雰囲気を崩さない。
 女性にしては低い、少年のものと確実に声だけでは間違える声はゆるやかに続きを紡いだ。
「私はこの国のものではないし、この国で普遍的な職業に就いているわけでもない、さらには恰好までがこれだ。私のような人間を見たら、まず怪しいと思うのが先決だろう?」
 私自身、クレイ君の反応こそが普通だと思うよ。
 あっけらかんとそんなことまで口にして、彼女は笑う。どうも反応に困ってしまい、椋は軽く頬をかいた。何というか、肯定にも否定にも困るような言葉である。
 一方、クレイはふっとひとつ息をついて言った。
「そう思うのなら、せめて顔くらいこちらに見せたらどうだ」
「本当に君は真っ直ぐな男なんだな、クレイ君」
 ここまであからさまな敵意にも近いものを向けられつつ、何でこの人は笑っていられるのだろう、と。
 微妙に不思議になりつつ何となく展開を見守っていた椋の目の前で、不意に袖口から顔を出したびっくりするほどに白い手が、そのフードに指先をひっかけた。
「正直あまり、他人に見せて気持ちの良いものではないんだが」
 ふわりと、ひどく自然な動作でリーの頭部からフードが取り去られる。
 光にさらされたその相貌に、またわずかに椋は彼女に向かって目を見開くことになった。
その瞬間、言葉を失ったのは椋たちだけではなかった。
 さりげなくを装いながら、やはり意識は確実にこちらに向けていたのだろう。クラリオンの客たちも、にわかに騒ぎを止めていた。
 フードを取り去ったあとに出てきたのは、半分の整った顔と半分の真っ白な、ひどく不気味なのっぺらぼうの仮面だった。
 真っ白な肌と、少し切れ長な新緑色の瞳と薄い唇、涼やかに整った顔立ちが見えるのは左半分だけだった。もう半分は完全に、無表情で、無機質な異様なまでに白い仮面が覆ってしまっていた。
 何もない左半分がなまじ整っているだけに、右半分を覆う仮面はより不可解なものであるように映る。
 言葉を続けられない椋たちに、わずかにリーは困ったように笑った。
「若気の至りというやつでね。少し色々無茶をして、最終的に外せなくなってしまったんだ」
「……」
「言ったろう? 目にして気持ちの良いものではないと」D9 催情剤
「あ、いや、少し驚いただけで、……それだけで十分失礼か。ごめん、リーさん」
 椋もまた苦笑しつつ、彼女へ謝罪の言葉を向け軽く頭を下げる。下手に奇妙に取り繕おうとするよりも、素直に謝ってしまった方が良いだろうと思っての行動だった。
 一方のクレイもまた、深々とリーへと向かって首を垂れる。
「すまなかった」
「そう畏まらないでくれ。君たちが謝るようなことはなにもないよ、クレイ君。リョウ君も」
「いや、俺たちが失礼したのに変わりはないからさ。そこはちゃんと謝らせてよ」
「気にしなくていい、いつものことだ。君たちの言葉を受けてフードを下ろしたのは私自身なのだしね」
「しかし」
 何とも申し訳ない椋たちに対し、あくまでリーはあっさりした、さばさばと拘りのない様子を変えない。彼女はある意味椋の予想に違わず、何とも変わった不思議な人物だった。
 しかし彼女が気にしなかろうとも、無礼を働いてしまった椋たちはそうもいかない。
 まだ何事かを言い募ろうとするクレイにふっと左側だけで笑って、改めてリーは厨房側の椋を片目で見上げてきた。
「それならリョウ君。この店で一番のお勧めの酒と、料理を一品ずつもらおう」
 勿論、君たちのおごりでね。
 最後の一言は、どこか悪戯っぽいウィンクつきだった。外れないという右側の仮面が、何とも勝手ながらもったいなく思われてしまうくらいの楽しげな、違う感情による淀みの一切ない明るい笑い方だった。
 彼女がそうしたいというよりも、椋とクレイのわだかまりを解くための申し出であることは確認するまでもない。
 椋としても、これから一緒に色々と話をさせてもらうためにも非常にありがたい申し出である。彼もまたリーへと笑って、すぐに頷いて見せた。
「了解。もしエビ平気なら、今日すごく珍しいのが入ってるからそれ持ってくるよ」
「エビか。ずいぶん口にしていないな。楽しみだ」
「な、クレイ。クレイもそれがいいよな?」
「……わかった」
 やや大仰なため息とともに、その口の端には苦笑をのせてクレイもまた頷く。軽く頬杖をついて椋たち二人を楽しげに見やるリーの、左とは対照的に右側の仮面は当然ながら一切動くことはない。
 すべてを拒絶するように真っ白なそれは、おおよそ彼女の手が創り出す人形たちともほど遠い奇妙で不可思議で不可解なものだった。
 どこでそんなものとこの人に関連ができたんだろう、若気の至りってどんなものだったんだろうか。
 思いつつ、口に出すことはせずにオーダーを厨房へと椋は伝えた。料理は今日依頼を終えて帰ってきたばかりのパーティが手土産にとくれた巨大エビの蒸し焼き、酒はこの間入ったばかりの新作で、客からの評判も非常によいウィスキーの水割りだ。
 余裕さえあればむしろ椋のほうが飲み食いしたい代物であるが、そんなことは無論、今ここでは口には出さない。
「随分、話がそれてしまったな」
 またひとつリーが笑い、小さく肩をすくめた。あくまでも自分のペースを崩さない彼女の様子に、そのすぐ横のクレイが何か奇妙なものでも見るかのような顔を向けているのがどことなくおかしい。
 しみじみこの人がこういう人で良かったと思いつつ、再度彼女の言葉に椋は頷いた。
「さっきも言った通り、少し事情があって義手が創りたいんだ。でもさっきのクレイの反応から見ても分かるように、この国にはそもそも、そういうものの需要が全然なくてさ」
「それこそ言っておくが、知っているおまえの方が異常だ、リョウ。そもそも腕や足が失われるような異常事態など、そう簡単に起こるものではないぞ」
「あー、そこはもう俺だから、で流していいから。な」
「……おまえの行く末が、本気で心配になってくるな」
「俺自身、さっぱり予測なんてできてないよ」
 深いため息とともに向けられるクレイの言葉に、軽く肩をすくめて椋は応じた。本当に自分がどこに行こうとしているのか未だにまったく分からない、と思う。
 未だに、というよりも、自分のできる限りのことをしようと足掻き始めたが故に余計に分からなくなっているのかもしれない。何しろ椋が持つものは、この場所からしてみれば結構に片っ端から生粋の「異端」でしかない。
 それらがうまい方向に転がってくれることを祈りつつ、またも逸れかけた話を椋は戻すことにした。面白そうな表情で、椋たちのやり取りを見守っていたリーへと視線を向ける。
「で、さ。義手を必要としてるのは、今年で十五になる奴なんだ」
「十五? 随分若いんだな」
「そうなるまで、俺についていた騎士見習いだからな」
 わずかに驚いたように眉を上げたリーに、クレイが淡々と、さりげなく椋が伏せた情報を続けた。
 これにはむしろ、椋の方が驚いてしまった。思わずクレイの顔を見やれば、先ほどの椋の行動をそのままなぞるかのように、しれっと肩をすくめて返される。
 クレイの中でのリーへの警戒レベルが下がったのか、それとも。
 詳しいことはよく分からないが、ひとまずはある程度のジュペスに関する情報の公開はクレイに許してもらえた、らしかった。
 なるほどな。リーがひとつ頷きを返してくる。
「立ち居振る舞いからそうではないかと思ってはいたが、やはりクレイ君はこの国の騎士なのか。そしてリョウ君が義手を探してやっている相手は、君の関係者だと」
「ああ。元々こいつの無茶は、俺が原因を作ったようなものだ」
「そんなことはないだろう。私はまだ君たちと知り合って幾分もないが、それでもリョウ君が飛びぬけておかしい、自分の思考でしか行動しない御仁であることは理解できるぞ」
「おーい、リーさん、ざっくりひどいこと言ってるよね?」
「リョウ、残念ながら否定してやれる要素が俺には見当たらん」
「ひでっ」
 少し大仰に嘆いて見せれば、次には三人分の穏やかな笑いがその場に開いた。
 ひとしきり笑った後、完全に見計らったタイミングで料理と酒が二人の元へと運ばれてくる。椋の合図があるまで少し待っていてくれた同僚たちの気遣いに感謝しつつ、そろそろ何となく気になってきた自身の空腹については、ひとまず無視を決め込むことにした。
 それにしても巨大なエビの切り身である。元のエビが到底一人で食べきれるような大きさではなかったので(何しろ身の詰まっている部分だけで三メートルくらいあったのだ)現在のリーとクレイに出されているのもその切り身と殻の一部だけなのだが、それでも軽く三十センチくらいはありそうだ。そしていい匂いだった。
 手慣れた綺麗な手つきで身を切り分けていきつつ、わずかにリーは目を細めた。さり気にクレイにも取り分けてやりながら、首をかしげる。
「しかし十五歳の騎士見習い、か。ならば義手は見栄えより機能性を重視した方が、その少年には相応しいのかな」
 半ば独り言のように呟きつつ、蒸し焼きを口にして切れ長の目をリーは見開いた。すぐにふわりとその視線が料理に向かって弛んだところを見ると、どうやらこの料理、リーにとっては相当の当たりだったらしい。
 あきらかに厨房奥からこちら側に向けられている複数の視線にぐっと親指を立ててやれば、我が意を得たりとばかりにガッツポーズをする複数人の動きがちらっと見えた。
 だが料理を出されたもう一方、クレイはと言えば、エビを口にするどころかナイフとフォークを手に取ることすらせずにリーをただ凝視している。
「機能性、と言ったか?」
「ああ。何かおかしいことでも?」
「機能性、……動く、のか? 魔具が装着者の意思で、自由自在に動かせると?」
 怪訝と理解不能の詰められたクレイの視線に、ただわずかに首をかしげるだけでリーはあっさりと応じている。挺三天
 さらりと可能と告げられたそれは、人形が何がしかの魔術によってかわいらしく踊りまわっていた光景を目にしていた椋にはまだ予想できないこともないものだった。しかし当然のことながら、それがとんでもない、不可解なことであることには椋もまた、変わりはない。
 何しろ現代においてもそれは、今もまだ多くの思考錯誤が繰り返されている分野なのだ。
 下拵えの手を止め、ひょいとリーの方へ向かって椋はわずかに身を乗り出した。
「それに関しては、俺ももう少し詳しく聞きたい。何をすればどれくらい、どんなふうにどうやってどこが動かせるのか、装着者の負担に関してはどうなのか、とかさ」
 椋の知る「人の意思」で動く機械には、多くの機械が操縦者側にもまた接続されていたうえに、ごく細かな動き、自然な曲がり方や自然な外見などといったものにはまだ随分と遠かった。さらに自分の言葉と思考の結果で、はたと椋は思い当たる。まだ椋たちは、リーと金額について、代金、謝礼についての話を一切交わしていないのだ。
 いざとなればヨルドたちに泣きつけば何とかしてもらえそうな気もしなくもないが、どうもそれでは色々と恰好がつかないにもほどがある。
 内心少し青くなる椋をさておき、リーは料理へ向ける手を止めて軽く、顎へと手を当てた。
「ふむ。その少年には、魔術の才能はあるのかい?」
「え?」
「詳しいことは分からんが、奴は魔術師にも転向できるらしいとは聞いたことがある」
 暢気で思考の遅い椋の代わりに、彼女の質問にはクレイが応じた。元々椋が知らなかった情報でもあるので、少しの驚きも持ってクレイの言葉にはそうなのか、と頷く。
 剣の腕も、魔術の腕も確実に並以上。しかしジュペスから話を聞くに、まだまだ自分より上の人間は数多くおり、だからこそ一刻も早く己が場に戻り、鍛錬を、修練を再開したいのだと、先に進みたいのだと彼は言っていた。
 彼の言う「先」が何を指すのか、青空の色をしたあの目が何を見据えているのかを椋は知らない。相変わらずジュペスに関して、一切の確信など持ててはいない。
 しかし何を知らずとも、妙な椋個人の思考が入っているとしてもジュペスの復帰を願っている気持ちには決して、偽りはない。
 クレイの言葉を受け、少し何か考え込むように左目を閉じてリーは黙り込んでいる。その姿勢や雰囲気は妙に、この国、この場所で椋が一番よく知る人物、ヘイのそれによく似ていた。
 何となく湧いてくる笑いをかみ殺した椋の前で、ややあってからふわりと、リーは切れ長の目を開いた。
 そうして口の端をきゅっとつり上げる。――笑う。
「ならば確実に「動く」ものを創ることは可能だ。詳細な動きに関しては、義手としての魔具の方向性や装着者との相性、魔力の循環法などという、技術と装着者の問題になってくる」
「本当に?」
「奴の腕が、……戻せる、のか?」
「君たちが、そしてその少年が望むというなら」
「本当、に、か」
「ああ。私は決して、自分の仕事に嘘はつかない」
 椋たち二人分の問いに力強く頷き、柔らかくリーは左側だけの表情で笑う。不気味なのっぺらぼうの右側の仮面すらどこか自信ありげに見えたのは、それこそリーの魔具師としての自信や矜持といったものの表れなのかもしれない。
 うっかりその笑みに引き込まれそうになって、しかしいざ「可能」となれば一番の大事となってくる事柄に改めて椋は思い当たった。彼女がこれを「仕事」として受けようとしてくれている以上、きちんと仕事としてこちらも契約を成立できるような立場でいなければならない。
 ウィスキーを楽しみつつ、料理も静かにきれいに、しかもさっさと平らげていくリーを改めて椋は呼んだ。
「リーさん」
「うん?」
「ここまで色々聞いておいて申し訳ないんだけど、そっちの提示金額によっては、俺たちはリーさんには制作を頼めないと思う」
「ああ。それについてはいくつか、交換条件に応じてくれさえすればそれで私は構わないよ」
「えっ?」
 予想の斜め上にもほどがあるような言葉が、あまりにあっさりとリーからは返ってきた。思わず目前の彼女を凝視するも、素知らぬ顔で料理と酒を楽しむリーには何の妙な他意があるようにも見えない。
 他意どころか、面白そうな表情を相変わらず崩そうともせずに彼女はこんな言葉を続けてまで来るのだ。
「それより、本当にその少年の義手を創るとするなら、その子のもう少し詳細な身体的な情報が欲しいな。君なら知っているかな、リョウ君」
「それより、ではないだろう。……本気で言っているのか? それとも、到底こちらが不可能な交換条件でも、突き付けてくるつもりか」
「まさか。そんな無粋で、真剣そのものの君たちを踏みにじるようなことはしないよ。それに私は自分の仕事に嘘はつかない。さっきも言ったはずだ」
「い、いや、でも」
「君たちのような面白い人物と知り合えて、そんな珍妙な依頼が受けられるという時点で私には十分だよ」
「正気の沙汰では、ないぞ。そんなものは」
「なくて構わないさ。君たちが私の懐を、気にする必要などないよ。私はただ、私が楽しむことさえできればそれでいいんだ」
 幸い、そんな無茶ができるくらいの持ち合わせは手許に常に在るからね。
 本当なのか嘘なのか、全くわからない見通せないような不可思議な言葉を吐いてリーはまた楽しそうに笑う。自分が楽しければそれでいい、その言葉に妙な引っ掛かりを覚えるのはおそらく、いつもヘイが同じようなことを、折に触れて椋に向かって当然のように妙に威張って言い放つからだ。
 いや、だが、しかし、でも。椋の脳内を駆け巡る逆接は止まない。
 詳しく見たことはないが、義手というのは基本的に一本いくらぐらいする代物だった? どんなに小さいものでも二十万は下らない、大きいものになれば普通に桁が変わるようなものだったような気がする――。
 リーは椋をヘンだと言い笑うが、どうやらこのレンシア・フロースという人間もまた、とんでもなく変で無茶苦茶な人間であるらしい。
 もはや二の句を継げない椋とクレイに、いつの間にか最後のひときれになっていたエビの切り身をフォークに刺してリーは肩をすくめた。
「度を過ぎた道楽ものでもなければ、いつまでもあてもない旅など、できるものではないさ」
 この世界の魔具師って、皆が皆こんな無茶苦茶に金銭感覚の狂っためちゃくちゃな人たちばっかりなのか、と。VIVID XXL
 最初の無茶を吹っかけているのは自分であるにもかかわらず、ついつい思わずにはいられない椋なのであった。

2012年12月20日星期四

反逆者

「『隠形《おんぎょう》』!!」
 俺は何も持っていない左手で脇差を取り出し、隠密系スキル『隠形』を発動させた。
 これは『隠身』の上位に当たるスキルで、格下の相手から完全に身を隠す効果がある。
 幸いなことに辺りも暗い。D10 媚薬 催情剤
 その暗さも俺の姿を隠すのに役立ってくれるだろう。
 ただ、
「…なにか、かわった?」
「隠蔽スキルのようですね。
 私達には丸見えですが」
 同格以上の相手には全く効果がないので、ミツキどころかリンゴにも無意味だった。
 少しだけ悲しい。
 『隠身』との違いはこの状態でスキルや魔法を使ったり、ダメージを受けたり与えたりすると効果が切れてしまうことだ。
 あ、あと、エフェクトには実体があったりはしないので、当然防御にも使えない。
 ただ、普通の町の人とか相手には抜群の隠密性能を誇るので、この状況にはちょうどいいだろう。
 討伐大会以来、俺のレベルも上がっている。
 アレックズやライデン辺りにぶつかってしまうと流石に無理だろうが、普通の冒険者相手であれば、たぶん見破られないはずだ。
「まず、町に入って情報を集めようと思う」
 確かゲームでも、衛兵を殺したりして町や城の勢力友好度が極端に下がると、ちょっとした小ネタとして掲示板に指名手配が出る、という話を聞いた気がする。
 そういう時は基本リセットだったので詳しい知識がないのが悔やまれる。
 ただ、どちらにせよ手配書まで出されるなんて尋常な事態ではない。
 ヒサメ家の窃盗事件程度では、流石にここまでのことにはならないだろう。
 いや、まあその可能性を完全に否定出来ない所が『猫耳猫』なのだが。
「なら、行きましょうか」
 リンゴは無言でうなずき、ミツキはさっさと歩き出す。
 何が起きようと、この二人といればそうそう危険ことにはならないだろう。
 俺は緊張しながら、ミツキの後ろに隠れるようにして街の門をくぐった。

 日が沈んだ後とはいえ、人通りが多く明かりもある王都では、それなりに人はいる。
(いや、いつもより少し、ざわついているか?)
 というか、なんとなく俺が注目されている気がする。
 初めはミツキやリンゴが美人だからかとも思ったのだが、そんな感じの視線ではない。
 俺の方を見てぎょっとした後、二度見してくるような人もいるのだ。
(まさか、『隠形』が切れてる?!)
 ステータス画面が覗けないこの世界では、魔法効果の持続を確認する術がない。
 俺は焦ったが、どうにもそういう雰囲気でもない。
 手配された犯人を見つけたというよりは、むしろ超常現象を目撃したような……。
 俺がその不可解さに首をひねっていると、不意にミツキが口を開いた。
「一つ尋ねますが、貴方のスキルは自身の存在を隠す物なのですよね?」
「え? ああ」
「だったら、『それ』も貴方の一部だという事になるのですか?」
 言われて右腕の方を見て、
 ――ニタァ。
 笑顔のくまさんと目が合った。
(しまった!)
 あまりにナチュラル過ぎて忘れていたが、そういえばくまは俺の右腕に抱きついていた。
 俺が消せるのは俺と俺の持ち物だけだ。紅蜘蛛(媚薬催情粉)
 周りの人にとっては、くまのぬいぐるみが勝手に宙に浮いているように見えていたに違いない。
 新たな怪談が生まれそうなレベルのホラーだった。
 これでは二度見されるのも無理はない。
 俺より高レベルだという疑惑が発生したくまさんをリンゴに預け、先を急ぐ。

(今度こそ、大丈夫か)
 くまをリンゴに預けてから、明らかにこちらに向けられる視線の数が減った。
 というか、なくなった。
 『隠形』の効果は確実にあるようだ。
 街の景色も見慣れた物に変わってきている。
 あともう少しで八百屋のおばちゃんの所まで着くかなという時、
「あー、はんざいしゃのおにーちゃんだー!!」
 後ろから、聞き慣れた、そしてあまり聞きたくない声がした。
 まさか、と思いつつ振り返る。
「ねーねー、いしなげていい? いしなげていい?」
 そこにいたのは無邪気な顔をした幼女。
 『猫耳猫』でたぶん一番有名なモブキャラ、ポイズンたんだった。

 ちらっと横に視線を走らせると、ミツキが「こいつはっ…!」という感じで猫耳をピーンと立てて警戒している。
 そういえばポイズンたんは俺の『隠形』をあっさりと破った訳で、既に格上確定である。
 ミツキが警戒するのも無理はない。
 一方のリンゴはというと、完全に無反応でぼーっとしていた。
 無表情なその顔にはどんな感情も浮かんでいないが、よく見るとちょっとだけ眠そうにも見える。
 ……うん、まあ、もうそろそろ夜だからね。
「ええと、石を投げるのはやめてくれるかな?」
 俺が下手に出るようにそう言うと、ポイズンたんは花が開くように笑った。
「えっ? あ、ごめんねはんざいしゃのおにーちゃん。
 おにーちゃんはよわいから、わたしがいしをなげたらすぐしんじゃうよね。
 きづかなくってごめんね」
「い、いいんだよ、気付いてくれれば……」
 俺は必死で怒りを抑え、そう答えた。
 ポイズンたんと付き合うコツは、とにかく言葉を受け流すことなのだ。
「そっかー。つまんないのー」
 そう言うと、ポイズンたんはいつの間にか手にしていた石を近くのゴミ箱に投げ入れた。
 ゴミ箱は破壊された。
 俺は恐怖した。
 ポイズンたんの投げた石のあまりの威力に、思わずクーラーボックスを用意したいと思ってしまった。
 なんというか、あいかわらず見た目とスペックに開きのある御仁である。
「それで、はんざいしゃのおにーちゃんはこんなところでなにしてるのー?
 『くろいどくろをもちいたおぞましきやみのぎしき』のじゅんびー?」
 ポイズンたんの言葉に我に返る。
「ああいや、そうじゃなくて……」
「もしかしてみせーねんりゃくしゅ?
 おまわりさーん、こいつ……」
「いや、だから違うから!!」
 ポイズンたん相手ではなかなか話が進まない。
 指名手配のことを抜きにしても、選択肢を間違えると即座にリアル犯罪者としてしょっぴかれてしまいそうな危険性がある。
「でも、おにーちゃんすごいんだね。
 わたし、みなおしちゃったよ」
「見直し、た?」
 なぜだろう。
 ポイズンたんに褒められると、無性に嫌な予感がするのは。
「それって、どういうこと、なのかな?」
 俺が恐々とそう尋ねると、ポイズンたんは邪気のない顔であっさり言った。紅蜘蛛 II(水剤+粉剤)

「――だっておにーちゃん、『くににけんかをうった』んでしょ?」

 ……は?
 国に喧嘩を、売った?
 混乱する。
 泥棒、とかではないのか?
 あるいはもしかして、広場に髑髏を置いたことが問題に?
 いや、流石にそれだけで国に喧嘩を売ったとまでは言われないだろう。
「いや、そんなこと、した覚えがないけど……」
 俺がそう言うと、ポイズンたんはきょとんとした顔をした。
「ええ? でも、あやしげなやしきにたてこもっておーこくのきしをまねきいれ、くちにするのもはばかられるおそろしいめにあわせてほうりだし、かんぜんとこっかにはんきをひるがえした、っておとなのひとたちはいってたよ?」
「何だそりゃ!」
 身に覚えがないにもほどがある。
 屋敷に立てこもったことなどないし、騎士を屋敷に招き入れたこともない。
 そもそも俺はこの三日間、ヒサメ家の道場に詰めていたのだ。
 王国の騎士に何かをすることなんて物理的に……。
「言われてみれば、屋敷の方が騒がしいですね」
 しかし、その思考を遮るようにミツキがそうこぼした。
 見ると、確かに猫耳が屋敷の方を向いている。
(屋敷、か……)
 髑髏の事件の時にあれだけ宣伝したのだし、俺の身元が分かっているのなら屋敷が押さえられていても何の不思議もない。
 いや、むしろ髑髏の時点で犯罪者扱いされていたのだし、本当に屋敷の中にいないのか、無理矢理に入って確かめようとするような人間がいてもおかしくない。
 そうなったら、一体何が起こるか……。
「悪い、用事を思い出した!
 ミツキ、リンゴ、屋敷に行くぞ!!」
 俺は不吉な予感に背中を押され、駆け出した。
 ここまでくれば俺たちの猫耳屋敷は近い。
 少しだけ様子を見て、異常がないことを確かめるだけ。
 俺はそんなことを考えながら夜の街を駆け、最後の角を曲がって、
「……あっちゃあぁぁ」
 そこに見えた光景に、思わず地面に膝をついた。

 ――俺たちの住んでいた大きな屋敷、猫耳屋敷の周囲は、多数の騎士によって囲まれていた。紅蜘蛛赤くも催情粉