2012年12月27日星期四

魔王

黒い霧が消えた後の大広間は、それまでとは打って変わった様子です。先程まで所狭しと存在していた残像達は綺麗に消えてなくなり、がらんとした空間だけが広がっています。
 採光を十分に考えて設えられた窓からの光は、ここをきちんと照らしています。舞う埃さえ見える程です。SPANISCHE FLIEGE D9
 今が朝だと言う事をすっかり忘れていました。大広間の片側にずらりと並ぶ窓から差し込む日の光に、ようやくその事を思い出しました。先程まで朝らしからぬものを見ていましたからね。
 大広間の一番奥、数段高い場所にある玉座に座るのは、黒い服を着た人物です。大広間の中程にいるおかげで、その顔立ちはきちんと判別出来ます。
 先程まで目の前で残像を見ていた相手、今の魔王、マーカスです。
 魔王、マーカスはゆっくりと立ち上がり、玉座から離れてこちらに歩いてきます。
「よく来た。待っていたよ」
 顔には微笑みさえたたえて。その様子に逆に背筋が寒くなる感じがします。先程まで見ていたのは、彼のこれ以上はない程の怒りと憎しみでした。なのに今は優しささえ感じる程の笑みです。その落差に薄ら寒いものを感じます。
 近づいてくる彼の顔立ち、それをじっと見ていて妙な違和感に気づきました。先程の残像にはない部分があるんです。ジューンとしての記憶にも、ないものです。
 顎の辺りから目の下辺りまで、顔の輪郭に沿うように入っている文様。まるで大祭司長のそれのようです。違うのはその色でしょうか。
 墨を入れたような黒です。それがまた異様な雰囲気を醸し出しています。黒い服に黒髪なのが相まって、全ては記憶にあるマーカスのままなんですが、ひどく得体の知れない風が漂っていて、足がすくみます。
 記憶を取り戻した私は、彼を前にして何を思うだろう、そう考えた事もありました。結局はわからないままだったので、早々に放棄してしまいましたけど。
 今こうして本人を前にして思うのは、一番は恐怖でした。懐かしさも何も感じません。
 魔王になる前の姿を覚えてはいますが、単純に記憶しているだけという感じです。体の記憶が伴わないせいでしょうか。
 ゴードンさんもちびっ子も巨乳ちゃんも、私達の前でまるでかばうように立ちはだかっています。守ってくれようとしているのが伝わって、少しだけ気が落ち着きました。
 魔王は高所からは降りずに、際の辺りでその歩みを止めました。
「どうした? 何も怖がることはない。あの連中はもういないよ」
 魔王の視線は、気のせいでなければ私に向かっています。私の前にいる四人を通り越して、突き刺さるような視線を感じます。
 声音も表情も優しいのに、その視線だけは強くて彼の前に出るのは勇気がいりそうです。
「こんな異常な状況、ルイザが怖がらない訳ないだろう」
 私の心を代弁するように、グレアムが言いました。割と落ち着いてます。討伐の旅で影とはいえ魔王を倒していますからね。当然と言えば当然ですか。私と比べると踏んだ場数が違いますよ。それ言ったら私以外の四人は全員でした。
 マーカスの方は、少し目をすがめてグレアムを見下ろします。
「今代の勇者。いつまで意地を張り続けるつもりだ? もういい加減気づいているんだろう?」
 気づく? 何を? 私は思わずグレアムの顔を見上げてしまいましたが、背中側からでは彼の表情までは伺えません。
「何を言って」
「守ったはずの人間は、本当にそうするだけの価値があったか?」
 ゴードンさんの言葉を遮り、マーカスはあくまでグレアムから視線を外さずそう言いました。まるで彼以外とは会話する気がないとでも言いたげです。
 魔王の言葉は私にも突き刺さりました。守るだけの価値。その一言は重く心に沈みます。元シーモア侯爵や例の伯爵令嬢を思い出してしまいました。
 この大広間で見たもの程大がかりなものではありませんでしたし、未然に防げたものではありましたが、方向性としては同じようなものだと思います。
 世界を救い、彼らを守った形の『勇者』を傷付け兼ねない行動を取ったのが、当の守られた側だというのが何とも皮肉です。魔王もそこを突いてきているのでしょう。
 グレアムは返答しません。しないのか、出来ないのかはわかりませんが。王都でのあれこれを思うと、後者かも知れません。
「何も無理することはない。ただ認めればいいだけだ。この世界は狂っている。そしてそこに住まう人間もまた救いようがないほど壊れた代物だ。こんな世界や人間など、存在する意味があるのか?」
「一部を見て全体を判断するのか?」
 グレアムの返答に、マーカスは一瞬眉根をしかめましたが、すぐに余裕を取り戻しました。グレアムが反論するとは思わなかったようです。
「一部とは言え、同じ事を繰り返す愚か者共にはうんざりしているだけなのだよ。今代にはまだ理解はしてもらえないかな?」
「俺だけじゃないだろう? 四代目以降は納得していないはずだ。それに被害者ぶるのは止めておけ。お前は既に十分加害者側だ」
 魔王となった経緯には同情を禁じ得ませんが、その後の行動を見る限り、やはり魔王は魔王でしかありません。グレアムもそう思っているのでしょう、態度にはとりつく島がありません。
 マーカスの方はと言えば、『加害者扱い』に引っかかったようです。不快な表情を露わにしました。
「小童(こわっぱ)が。いい気になるなよ」
 そう言ってマーカスとグレアムはしばしにらみ合いになりました。高所から見下ろす形のマーカスと、下から睨み上げるグレアムの視線が交差します。
 いつまでこのにらみ合いが続くのかと思いましたが、意外な事にそれを終了させたのはマーカスの方です。
「ふん、まあいい。さて、先程の茶番劇は楽しんでもらえたかな?」
 茶番劇。先程目の前で繰り広げられた再現劇の事ですか。劇という訳ではありませんね。多分あれは、実際ここであった事でしょうから。
「何故あれを俺たちに見せた?」
 グレアムがそう聞きました。その言葉に、マーカスは少し眉を上げて面白そうな表情をしています。そしてそのまま視線をグレアムの後ろにいる私の方へ向けてきました。
「ちょっとした余興にと思ったんだよ。連中が何を考えてあんな事をしでかしたか、君なら知りたがるかと思ったんだ」
 確かに知りたいとは思いましたけど。でも目の前で見せられるとは思いませんでしたよ。
 しかも知っても、結局は何も考えずに行動を起こしたというのがわかっただけですからね。大祭司長からも理由らしき事は聞いていましたし。
 それに見せた理由は、本当に余興のつもりだったんでしょうか。あれだけ執拗に見せようとしていたのに?
 でもそれを口にする事は止めておきました。追求しても意味はないと思ったんです。
「あの、黒い霧みたいなのは、何なの?」
 代わりのように私も聞いてみました。マーカスの方は今すぐどうこうするつもりはないようです。なので聞いてみました。先程王達を巻き込んだあの黒いもの。あれは何だったのか気になったんです。
 切り札は私の手にあります。これを使えば、少なくとも邪魔さえされなければ、魔王を消滅させることはいつでも出来るはずです。だから、焦らなくていい。私は自分にそう言い聞かせました。
 先程に比べれば、徐々にですが緊張がほぐれてきている気がします。
「あれか……知りたいかい?」
 マーカスの口調はあくまで穏やかです。表情も。なのに恐怖心が心の底からわき上がってきます。根源的な恐怖、とでもいうものでしょうか。聞いた事を後悔しそうです。
 それでも、頷かざるを得ません。知りたい。あの後彼らはどうなったのか。本当に死んだのか。それとも、死体さえ残さず消え去ったのか。
 ただの好奇心なのか、それ以上の何かがあるのか、自分の心なのに自分でもよくわかりません。でも、私は知るべきだと、そう思うんです。
 ジューンの死が、マーカスを魔王へと変えさせました。遠因としてでも、彼らの死に、ジューン(私)は関わっています。だからこそ、最後のこの時に知っておきたいんです。
 魔王を消滅させたら、私という存在もここから消えるから。
「あれは彼らを生まれ変わらせる為のものだよ」
 マーカスは薄い笑みを顔に浮かべて、その右手をすい、っと前に差し出しました。
「見るがいい。自らの所行に相応しい姿になった連中の浅ましい姿を」
 そう言うと差し出した右手をさっと振り払うような仕草をしました。それと同時に床の辺りから低い響くような音がします。振動も伝わってきますよ。SPANISCHE FLIEGE
「な、何?」
「下がって!」
 ゴードンさんはそう言うと、体で私達を脇へ、大広間の壁の方へ押しました。
「心配する事はない。見せるだけだ」
 マーカスがそう言うと、大広間の扉が急にばたんと閉まりました。今の今までしまっていると勘違いしていましたが、現実では扉は開け放したままだったんです。閉まっていたのは残像の大広間の方でした。
 ちびっ子がとっさに扉の方へ向かい開けようと試みますが、取っ手をガチャガチャ鳴らしてもいっこうに開かないようです。
「だめ! 開かない!!」
 そうこうしているうちに、なんと大広間の床に奥から入り口にかけて真っ直ぐ線が走りました。かつては赤い絨毯が敷かれていたそこには、今は何もありません。石敷きの床がむき出しで存在しているだけです。
 そこに走った線は、やがてぎしぎしと音を立てながら開いていきます。ここ、こんな仕掛けってあったんでしょうか。
 違いますね。おそらくはマーカスの、魔王の魔力で開いているのでしょう。その証拠に床は材質が変わったように、柔らかい布地のような状態でめくれていきます。仕掛けがあったとしても、こんな開き方はしませんよ。
 見る見るうちに石の床はぱっくりと口を開けていきます。壁際に寄った私達の足下にも振動は届いているんですが、倒れる程ではありません。
 床の形状も、開いている部分とこちらとでは、切り離されてでもいるように質感その他に影響はありません。それがかえって今の状況の異常さを表しているように思えます。
 開かれた床の底は、ひどく暗いようです。私の立ち位置からは床の底までは見えません。ですが、何かが動いているような音だけは聞こえてきます。何か、いる?
 がさがさともガチャガチャとも聞こえる音は、地の底から響いているかのようです。ひどく、嫌な音。それに、もの凄い異臭です。息が詰まりそうな程ですよ。一体何の匂い?
「な、何ですの? 一体」
 私達の一番前にいるゴードンさんに、巨乳ちゃんが口元を押さえながら聞いています。彼の位置からなら底の方を見る事が出来るんでしょうか。
 背中しか見えませんが、様子が変なのはわかります。緊張が走り、ゆっくりと口元に手が持って行かれました。こんなゴードンさん、初めてです。一体、その床の底には何があるんですか。
 しびれを切らした巨乳ちゃんが、ゴードンさんの脇から出て前に出ようとしましたが、腕を乱暴に掴んで後ろへと放り投げるように阻止しました。壁に激突した巨乳ちゃんは痛そうです。
 ちょ、らしくないですよ、ゴードンさん。
「な、何をするんですの!?」
「見るんじゃない! リンジー、そこから動くな!!」
 さすがの巨乳ちゃんも怒りを露わにしましたが、それ以上にゴードンさんの怒声が凄くて、びっくりしています。私もびっくりしました。
 扉の方から戻ろうとしていたちびっ子も驚いていて、その場で足を止めてしまいました。
 ゴードンさんがこんな風に怒鳴るのは初めて見ました。巨乳ちゃんとちびっ子の様子から、二人も同じように見た事がないんだと判断しました。
 そんなに見せたくないものがあるんでしょうか、その底に。何だか背筋に冷たいものが走ります。
 先程マーカスは『自らの所行に相応しい姿』と言いました。まさか何百年も前に死んだ王達が、あの底にいるとか、言うんじゃないですよね?
 この異臭……まさか。つい怖い想像をしてしまって気持ち悪くなってしまいました。死体って、さすがに何百年も経てば骨になりますよね?
 思わず前に立つグレアムの背中に縋り付こうとした途端、私の耳に遠い位置からの声が聞こえました。
「邪魔はしないでもらおうか。彼女には知る権利がある」
 そうマーカスの言葉が響くと、いきなり私の体がふわりと浮かびました。吊り上げられた訳でも、足下が持ち上がった訳でもありません。
 うまく説明出来ませんが、体そのものが軽くなったらこんな風になる、という感じです。その状態で体が浮かび上がりました。
 いきなり人の頭の高さ程まで持ち上げられ、驚いて周囲を見回せば、足下には肩の辺りを抑えてうずくまるグレアムが見えます。その手からは……血!?
「グレアム!!」
「勇者殿!」
「きゃああ!!」
「今治療を!」
「止めろ! こっちに来るんじゃない!」
 みんなもいきなりの事に慌てています。私も慌ててグレアムの方へ手を伸ばそうとしましたが、どうやっても今いる場所から動きません。じたばたと暴れる様は、端から見たらひどく滑稽だった事でしょう。
 グレアムは左手で右肩を押さえています。その手の辺りに銀色の光があふれたと思ったら、程なく彼は立ち上がりました。ここからでは確認出来ませんが、どうやら傷の方は大丈夫そうです。一安心しました。
「今代には随分と入れ込んでいるんだね」
 その声は、私のすぐ側で聞こえました。下にいるグレアムの方ばかりに意識を向けていたので、マーカスがどうしているかは、失念していたんです。
 顔を上げた私の真横に、彼はいました。同じように宙に浮いて。
「ひっ!」
 思わず小さく悲鳴を上げてしまいました。いつの間に!? 驚いている私の顔のすぐ横、マーカスとの間を、風切り音と共に何かがすり抜けていきました。その後斜め上方で何やら重い音がしました。
「ルイザから離れろ!」
 その格好から察するに、何か投げましたね、こちらに。そろーっと音のした方を見てみると、グレアムが持っていた剣が天井と壁の境目付近に突き刺さっています。あれを投げたのか!?
「ちょ! 危ないでしょ! 当たったらどうするのよ!?」
「ルイザには当たらないから大丈夫だ」
 待て。その自信はどこから出てくるんだ。まあそのおかげでマーカスは一旦私から離れましたけど。
「悲鳴を上げるなど傷つくな」
 剣で狙われた割には余裕のあるマーカスは、またすぐ私の方へ向かってきました。空中だというのにまるで普通に床の上を歩いているようです。
「君には奴らの姿をちゃんと見せようと思っただけなのに」
 そう言うとあっという間に私の腰を抱き寄せて、ぱっくり口を開けた大広間の中央付近の方へ連れてきてしまいました。
「ルイザ!」
「ちょっと! 離して!!」
 さすがのグレアムも、これだけ密着したマーカスを狙う事はしないようです。これで攻撃されたら私も確実に被害を被るでしょう。
 なので自力でどうにかならないか、出来る限りで抵抗してみたんですが。
「暴れると落としてしまうよ?」
 そう言われてはおとなしくせざるを得ません。さすがに口開けた底に落ちたいとは思いませんよ。
 下を見ると。暗がりでやはり何かが蠢いているのが見えます。何でしょう、魔物か何か? ちょ! そんなものの上に私いるんですか!?
 下から響く音とひどい臭い。それにはっきりとは見えなくても何かが蠢く様子はわかる状態に、生理的嫌悪感がわき上がります。
 まさか、ここにいた王侯貴族達を、魔物に……そこまで考えて頭がそれ以上を想像するのを拒絶しました。
「暗くてよく見えないか。これでどうかな?」
 そう言うと、マーカスの手元に丸い光る玉が出現しました。電灯のような明るさです。それを放るようにして床の方へ投げやりました。
「やめろお!!」
 グレアムの怒号が響きましたが、無情にも光の玉は、そのまま床の中へと吸い込まれるように落ちていきました。そしてそれが明るく照らし出した光景は。
 まさしく地獄絵図です。黒い、蠢く何かと思ったのは、人です。いえ、人であったもの、と言い直した方がいいでしょう。
 喉の奥で、悲鳴が固まったような気がします。両手で口元を押さえて、私は床の下のその惨状を見続けていました。Motivator
 顔だけは人のまま、体はまるで大きな昆虫のような、不気味な存在が床の下にはうごめいていました。それらは互いの体を食いちぎり、共食いをしているような状態です。
 一体どれだけの数がいるのか。広い大広間の下の空間全てにその異形が存在しているようです。地下室かなにかでもあったのでしょうか。わざわざ作った空間なのかも知れません。
 どの存在もうつろな目のまま、手当たり次第に相手の体に食らいついています。それは空腹の為というよりは、それだけしか知らないかのような行動に見えました。
 手当たり次第に相手を捕まえては、その体にかぶりつく。そうしている間にも、他の誰かにかぶりつかれている状態です。
 不思議と顔だけには食らいつかないようです。おかげでどの顔も、この位置からでもしっかりと確認出来ました。ああ、先程国王の側で見た宰相もいるようです。
 食われた部分はすぐに肉が盛り上がり、あっという間に再生するようです。こうして永遠のように続く責め苦が続けられてきたという事なのでしょうか。
 おそらくあの黒い霧に飲まれた人達は、一人残らずこの姿になって、この城の地下に押し込められたのでしょう。
 目をそらしたいのに、そらす事も出来ずに凝視したまま、私の耳はマーカスの言葉を捉えていました。
「君を殺させた連中と、実際にあの殺戮に加わった連中だ。奴らはあの時から今日まで、この城の地下で魔物として共食いをし続けている。人ならざる者達だ、相応しい姿だろう?」
 おぞましい姿の中には、確かにあの国王の姿もあります。こんな姿になってまで王冠をかぶっているのは、いっそ滑稽な程です。
 見れば王の体を食んでいるのは、無精ひげのある男の顔でした。あの時の広場にいた群衆の一人でしょう。
 大広間の分だけ地下の空間があったにしても、この数を収容するには狭いと思われます。だからでしょうか、相当な密度のようです。本当に隙間もない程密集していますよ。
 胃のそこから何かがせり上がってくる感覚がします。このままだとまた嘔吐きそうです。気力で何とか押さえ込みました。それでも胸のむかつきは止まりません。
「ゴードン、一体」
「あなた達は見ないように! こちらに来てはダメだ」
 そう言ってゴードンさんとグレアムに阻まれ、彼らの後ろに追いやられた二人は、この光景を見ていないようです。いつの間にかちびっ子も巨乳ちゃんの隣にいます。
 それでも私の様子から、尋常じゃない光景が広がっているのがわかったのでしょう。表情が硬いです。
 私の足下に広がるこれは、人が見るべきものではありません。相応しい姿とマーカスは言っていましたが、私にはとてもそうは思えません。
 確かに彼らは罪を犯しました。でもここまでの責め苦を負わされるほどのものなんでしょうか。
 マーカスの言葉が正しいのなら、彼らはこの姿のまま何百年とこの地下にいた事になります。そして私達がこの虚空城にこなければ、このまままた百年以上の時を過ごしたのでしょう。この暗く狭い、地下の空間で。
 正直、あの記憶を取り戻した後、あの広場にいた人達や、王達に対して憎しみが沸かなかったと言えば嘘になります。
 でもまさかこんな事になっていたなんて! 私の体はがくがくと震えだしていました。
 それと同時に恐怖心もわき上がってきました。このまま、下に落とされたらどうなるんだろう。私もあの、人なのか虫なのかわからない生き物に、生きたまま食われるんだろうか……。
 思わずその様子を想像してしまって、目眩を起こしそうになりました。
「これでも手ぬるいと思っているんだがね。どうだろう?」
 パニック状態の私の耳元で、マーカスは実にのんびりとした様子で話しています。この状況でその口調というのが、ひどくアンバランスでかえって不気味さを煽る形になっています。
 彼は私を抱きかかえたまま、下方を見てあざけるように言いました。
「ああ、お前達は討伐の旅の途中で似たようなものは見ただろう?」
 え? 私はマーカスの方を見ました。マーカスはにこやかな表情のまま、不可解な事を口にしています。
「あちらは虫ではなく動物だったか。あの城の領主は狩猟好きだそうだからな。そういう『注文』になったのは当然か」
 どういう事? 彼は何を言っているの? 言われた方のゴードンさんとグレアムは苦い顔をしていますが、巨乳ちゃんとちびっ子は訳がわからない様子です。
 その時グレアムの言葉を思い出しました。二人には街道に現れる魔物の退治を頼んでいて、壊され、魔物の巣と化した街の中には連れて行かなかった、と。
 大技で一気に終わらせた、とも言っていました。じゃあ、魔物の巣でこれと同じようなものを彼らは見たんでしょうか。
 ゴードンさんはこちらをぎらりと睨み、怒声を張り上げました。その表情には憎しみではなく、怒りがあふれています。
「今ここで言うような事か!」
「ここで言わずにどこで言うのだ? 王国の騎士よ。隠したところでいずれは露見するのだぞ」
 ゴードンさんにそう言い、マーカスは薄い笑みを浮かべました。
「どういうこと? 魔王は何を言ってるの!?」
「ゴードン! 私達に隠し事をしているんですの?」
 見ればちびっ子と巨乳ちゃんがゴードンさんに詰め寄っています。
「あなた方が知る必要はない!」
 ゴードンさんはにべもなく二人を退けています。そんな言い方じゃ余計煽るだけでしょうに。案の定二人は柳眉を逆立てて怒りを露わにしています。
「何ですってえ」
「知る必要ないとはどういう言いぐさよ! 私達だって討伐の旅に同行したのよ!!」
 言い合っている事に意識が向かっていたのか、ゴードンさんもグレアムも、ちびっ子と巨乳ちゃんの立ち位置にまで意識が向かなかったようです。
 二人はゴードンさんとグレアムに詰め寄る形で、どんどんと大広間中央に近づいていました。私が浮かんでいる、こちら側にです。いけない!
「ダメ!」
 こんなもの、見るべきじゃない! そう思って制止しようとしましたが、遅かったようです。見る見る巨乳ちゃんの顔色が悪くなっていきます。
「……何ですの? あれ」
「! 見てはダメだと!」
 ゴードンさんが改めて巨乳ちゃんを引き戻しますが、そのこわばった表情から、既に遅いと気づいたでしょう。ちびっ子の方も見てしまったのでしょうか、青ざめた顔をしています。
「くっくっく。麗しい仲間意識といった所か。だがいくら見せぬようにした所で、人の悪辣さまでは隠せまいよ」
 私を腕の中に抱え込みながら、マーカスは嫌な様子で笑っています。人を蔑むようなその笑い方は、ひどく邪悪なものに見えました。
 この人の側にいたくはない。そう思うのですが、空中で腰をがっしり抱えられていては、離れようがありません。へたに動けばこの下に落とされそうで、それも怖いですし。
「いい加減ルイザを離せ! ぐ!」
 グレアムが、いつの間にか手元に戻した剣を構えてこちらに向かおうと一歩踏み出した途端、いきなり膝を突きました。何? どうしたの!?
 焦る私の視界の端に、マーカスの右腕が入りました。彼はグレアムに向けて手をかざしています。
「勇者殿!」
「近、寄る、な」
 言葉を発するのも苦しそうです。何かの圧力に抗っているような、そんな様子に見えます。これ、どう考えてもマーカスが何かやっていますよね?蒼蝿水(FLY D5原液)
「やめて!」
 私は腕を伸ばして、マーカスの右腕に縋りました。男の人の力は強いけど、女の体重をかければ何とか腕を下ろさせる事が出来るんじゃないかと思ったんです。
 結果、マーカスはあっさりとその右腕を下ろしました。力を込めた分、そのまま私は転びそうになりましたけど、ここ、空中なんですよね。体勢を崩した程度で終わりました。
 崩した体勢を戻すように、彼は私の腹部に腕を回して引き上げました。そこまではいいんですが、そのまま後ろから抱きしめるような体勢になります。
 ちょ、これは良くない! 腹部に回された腕を外そうとしますが、がっちり抱えられていて外せません。先程より密着度が上がっていますよ!
 焦れる私の耳元で、マーカスの声がしました。
「さて、お遊びはおしまいだ。彼女をここまで連れてきてくれた事には感謝するが、そろそろ君らにはお引き取り願おうか」
 マーカスのその言葉に、私の意識は彼に向けられました。マーカスは再び右手を前に差し出しています。今度は何をする気!?
 私は彼の腕の中でじたばたと手足を動かしましたが、見えない何かに阻まれているようで、うまく動く事が出来ません。
「ではごきげんよう」
 そう言って彼が手を振ると、今度はグレアム達の足下の床が急に消えました。その開いた口の中に、声を上げる暇もなく彼らは飲み込まれていったんです。私の目の前で!
 声を出す暇もありませんでした。ただ呆然とその様を見ているしかなかった自分に、我に返って怒りがわき上がりましたよ。人間、唐突に理解不能な事が起こると動けないものなんだと、初めて知りました。
 彼らを飲み込んだ床が元に戻って少ししてから、体がすーっと冷えていくような感じがしました。みんなはどうなったの? グレアムは大丈夫なの!?
「……怖い思いをさせたね」
 その声に、のろのろと声のした方を見れば、少し困った風な表情の魔王がいました。
 そう、彼は紛う方なき魔王です。マーカスと、以前の名で呼ぶ気にはもうなれません。彼の非道な行いを目の前で見ているんですから。
 私の様子を見て苦笑した魔王は、私を背後から抱きしめた体勢のまま、玉座の方へ移動します。やっと床を足で踏みしめたというのに、私は足の力が抜けてその場にへたり込んでしまいました。
 その私の目の前で、ぱっくりと口を開けた床は元通りに戻っていきました。先程グレアム達を飲み込んだ床も、元の通りになっています。
 どうしよう。どうすればいいの? 混乱する頭でも、何とか落ち着くようにと深呼吸をしました。意識して呼吸をすると、随分と呼吸が荒かったのがわかります。
 二度三度と深呼吸して、少しだけ落ち着いてきました。彼らは勇者一行です。これまでにも討伐の旅で困難には何度も直面しているはずです。
 それでも彼らはちゃんと戻ってきました。だから、今回も大丈夫。彼らの心配をするよりは、私は私に出来る事をしなくてはいけない。元々一人で来る予定だったんだから、一人でも魔王を消滅させなくては。
 私がそんな決意をしているとは思わない魔王は、すっと私の目の前にその手を差し出しました。
 さしのべられたその手に、体がびくりと反応します。それを見て、一瞬魔王が苦しげに顔を歪めた気がしましたが、きっと気のせいですよね。
 私がその手を取らないのを見て、ぐっと手を握り込むと少し私から離れました。その表情には苦痛が見えます。
 そんな表情、しないで欲しい。魔王には魔王らしく、残虐な面だけを見せておいて欲しいと思います。そうでないと、決心が鈍りそうで。
 つい先程まで感じていた恐怖も混乱も、どこかへと吹き飛んでしまうような気がして、絆されそうになるのを意識して押さえました。
「こちらへ。見せたいものがある」
 そう言うと、魔王は玉座の隣、カーテンのようなものが引かれている前に、私を誘いました。これ、何?
 マーカスはカーテンの脇に垂れ下がっている房飾り付きの紐を引きました。開いたカーテンの先にあったのは。
「これ……」
「君が戻るまでと思って、こうしておいたんだ」
 そこにあったのは。
 大の大人が二人で両手を広げたより少し広いくらいの幅の、壁に穿たれたへこみのような部分に花で飾られた大きな水晶が置かれています。
 透明なその水晶の中には、少女が閉じ込められていました。瞳を閉じて、まるで眠っているようなその姿。ジューンです。
 その姿は残像で見た通り、綺麗にされていました。あの惨劇の跡はどこにも見当たりません。
 何だか不思議な感じです。生前は確かに自分だったという感覚と、どこまでも他人を見ているような感覚と、両方が私の中で混在している感じです。
 この姿を見ていると、あの時の夢が思い出されます。夢の中で彼女は、あなただけ幸せになっていいのか、と問うてきました。あの時は意味がわかりませんでしたが、今ならわかります。
 なすべき事をなさない限り、幸せになる権利はない、そう言いたいんですね。そして私のなすべき事は……魔王を解放すること。その術を私は既に持っています。
 決意を新たに、水晶の中の彼女を見上げていると、魔王が隣に立っていました。彼も私と同じように、水晶の中の少女を見つめています。
 その目は優しく、慈愛にあふれてさえいます。魔王がジューンを思う気持ちは、本物でとても深いものなのだというのがわかります。
 人を大事に思う事が出来るのに、同じ『人』を何故あれほど憎めるのか。いえ、人を思う事が出来るからこそ、ですか。
 愛憎というくらいで、愛情と憎悪はとても似ている感情だと聞いた事があります。人を深く思える魔王だからこそ、人を深く憎む事も出来てしまうのでしょう。
「あの時、罪人の穴で君の姿を見つけた時の俺の気持ち、理解してもらえるだろうか」
 魔王は静かにそう言いました。胸に痛みが走ります。決して私のせいだとは言いませんが、それでも遠因の一つは確かに私にもあります。
 その結果、ジューンが死んだ事で彼、魔王はその全てを狂わせてしまいました。
 いいえ、彼だけじゃない。アンジェリアやソフィー、それに先程見た床の底で蠢く者達。彼らもまた、『あたし』という存在がいた為に狂わされた人達です。
 やった事を考えれば当然とする考え方もあるでしょう。けれどやっぱり女神がジューン(あたし)をここへ召喚しなければ、少なくともあんな目に合うような行動は取らなかったと思うと、どうしても……。
「腐臭が充満し腐肉にたかる蠅をかき分けながら君を見つけた。近くにアンジェリアとソフィーもいたよ。彼女達の姿もそれはひどい状態だった」
 魔王の一言一言が胸に突き刺さります。大祭司長に話を聞いた時の情景が思い浮かんできて、息をするのも苦しいくらいに感じました。levitra
 彼女達を死に追いやったのは間違いなくジューン(あたし)だ。あんなに良くしてくれた二人だったのに!

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