2013年8月15日星期四

髪型

跳ね橋の前まで近づいて見ると、想像以上に立派な城であった。
  まさに古(いにしえ)の騎士道物語に出てくる聖杯城そのものだ。
  周囲を堀で隔てた崖の上ぐるりと城壁が守る。V26Ⅲ速效ダイエット
  その中に、塔や館が大きさのバランスよく配置されている。近くで見ると、真っ白というよりは、どれもが時代を感じさせる象牙色をしていた。
  城門は一段低いところにある。
  門をくぐると奥に石の階段。上段の居住部へと繋がっているらしい。
  上の方は森の木々から頭が飛び出している。麓(ふもと)の町から見ることのできるのは、その辺りだろう。
  門の前には番人の影すらなかった。
 (どうやって中に入るんだ)
  と、ダリオスが首をかしげている横で、ユルシュルが大声を上げた。
 「シャトー・ブランカ! 今帰ったわ。オーベール様の言いつけどおり、お客さまをお連れしたの!」
  すると、
 「おかえり」
  とでも言わんばかりに、ひとりでに跳ね橋が下り始めたではないか。
  ぎぎ、ぎぎ――。と鈍い音をまとわりつかせ、ゆっくりと、勢いを殺して下りてくる。
  同時に城門が上がった。
 「ついてきて」
  ユルシュルに導かれるままにダリオスは橋を渡り、門をくぐった。
  三人が中に入ってしまうと、またひとりでに跳ね橋が上り、門は閉じた。
  内側は意外と狭い。
  石の壁に囲まれただけの空間である。右手には門番の詰所らしき小さな建物(必要があるのか不明だが)。左手には城門の裾に据えられた高楼の塔。
  そして奥には、上の居住部へ続く階段。
  右の詰所から、誰か出てくる気配がした。
  戸を開けて、姿を現したのを見てダリオスはぎょっと肝を潰した。
  牡鹿が服着て二足で歩いている。ように見えたのだ。執事のルネである。
  ローブ風のゆったりとした衣服を着けたルネが、こちらに歩み寄ってくる。頭は鹿だが、足はまるで猛禽だった。ごつごつして、三股に分かれた爪が長い。
  なんだか合成獣(キメラ)のような輩である。
  すっ、と差し出した右手は人間のものだ。
 「ようこそ、ヴルスクル家へ」
  ルネは手を胸元に引き寄せ、ダリオスに一礼した。
 「当家の執事にございます。ご到着をお待ちしておりました」
 「あ、これはどうも、ご丁寧に」
  慇懃にされると、ダリオスの方が恐縮してしまう。
 「ユルシュルもおかえり」
 「ただいま、ルネ様。この娘(こ)が熱を出してる娘よ」
 「どれ、上に運ぶのは私が代わろう。おまえは先に旦那様のところへ戻っておいで」
 「うん」
  ルネは、半獣の背からマリアを引き受けた。
  包まっているマントごと、横抱きに抱える。マリアは間近に迫ったルネの容貌に、
 (ひえっ)
  と、驚いたらしいが、大きな反応を見せる元気はないようだ。
  身軽になったユルシュルは、奥の階段をぴょんぴょん駆け上って行ってしまった。
 「驚かれましたでしょう。何しろ、これで」
  ルネは自分の外見を指して苦笑いしている。
  ダリオスも、変に気を遣うのは却って失礼かと思って、素直に笑顔を返した。
 「ええ、少しだけ」
 「ここまでの長旅、お疲れ様でございました」
 「あの、どうして俺たちを城の中に入れていただけたのか――」
 「それは後で主人から申し上げます」
  二人は階段を登り始めた。
 「執事さん、重くありませんか。俺が代わりましょうか」
  と、ダリオスがマリアのことを言うと、
 「こらー」
  ルネの腕の中から、弱々しくも訴える声がする。
 「誰が重いですって……」
 「ははは、それを言う元気があれば大丈夫だ」
  牡鹿の面が笑み崩れた。
 「羽根のように軽い、とまでは言わないが。十分スリムだよ、娘さん。まあ、しかし」
  とダリオスを見て、意味ありげな顔つきになる。
 「代わった方がよければ代わりますよ」
 「――いえ、別に結構です」
 (ひょっとしてこの人も見てたのか、夕べのを)
  まさか城にいる全員が見てたっていうんじゃないだろうな。
  それはちょっと、恥ずかしすぎる。
  ダリオスは、
 「それにしても、遠目にも美しかったですが、近くで見るとより、立派な城です」
  と、話題をそらした。
 「ありがとうございます。そう言っていただけると、城も喜びますでしょう」
 (城が喜ぶ?)
  奇妙な表現をする。
  階段を登りきり、中庭に出た。
 「こちらへ」
  執事のルネに案内されて、連れてこられたのは主人の居館らしい
 カフェラテと同じ色の屋根をした、華奢な外観の洋館である。
  貴婦人の骨を組んで造ったような――。つまり、柱や窓の周りに装飾を施して縦の線を強調したり、透かし彫りを入れてわざと細い印象を持たせている。
  ここだけ最近建て替えられたのか、壁が新しかった。
  両手がふさがっているルネのために、ダリオスが玄関を開けた。
  彼を先に通し、後に続く。
  パタンと扉が閉まる音と時を違わずして、新しい声が迎えてくれた。
 「ようこそ、我が城へ」
  入ってすぐが赤い絨毯のホールになっている。
  正面に二階へ至る幅広の階段がある。腕組みしながらその手すりにもたれて、こちらに顔を向けているのが、声の主のようだ。V26即効ダイエット
  一見、年齢はダリオスとそう変わらないように見える。

 男は手すりから体を離した。
 「お待ち申し上げていた。私は当城の主、オーベール=ヴルスクル」
  胸に手を当てダリオスに一礼したその所作が、嫌味でなく、板についている。
  容姿は――マリアが元気だったら、見惚れてたことだろうな。という風である。
  同性のダリオスでさえ、見入ってしまった。
  童話の白雪姫がもし、男になったらこんな感じだろう。
  色白で細面、鼻筋が真っ直ぐで、目元が深い。オリーブグリーンの瞳は大きくて、橄欖石(かんらんせき)の欠片に見つめられているみたいだ。
  自然が真心込めて作り上げた、完全な均整である。
  また、老いなど忘れてしまったような瑞々しさ。
  高い窓から照らす日差しに艶やかな、濡れ羽色の髪にはきっちり櫛が入っている。が、ほんの一筋だけ乱れて目に掛かっていた。
  それが似合ってしまうから、腹が立つくらいである。
  ダリオスがぼけっと突っ立っているので、オーベールの方から近づいてきた。
 「お客人?」
  と口を開いた拍子に、尖った犬歯がちらっと覗く。
  その白さがダリオスを我に返した。
 「サー・ヴルスクル――お会いできて光栄です。ダリオス=ジュオーです」
 「こちらこそ会えて嬉しい。が、まあ話は後にしよう。まずはこの娘さんの介抱を」
  執事の腕の中を覗き込む。
 「お嬢さん、お名前は」
 「マリア」
  と、マリアが答え、さらにダリオスが付け加えた。
 「本名はマリアンヌ=デュフォールです」
 「そうか。マリア、私のところにはいい医者がいる。すぐに楽になるよ」
  オーベールは、寝室が用意してあると言って、その部屋に案内してくれた。
  藍色のシャツに黒のベストを重ねた吸血鬼の背中が先頭、ルネが最後尾。その間に挟まれて行きながら、ダリオスは廊下の様子を眺めた。
  ひと言で言えば上品だった。例えば、壁紙と、樫のドアと、鍍金(めっき)の蝶つがいの色合い。先ほどのオーベールの一礼同様、嫌味でない。
  通された寝室には、セミダブルくらいのベッドが据えてあった。これがまた、宮や脚に華やかな装飾のされた品だ。
  そもそも部屋自体、ゲストルームには広すぎるくらいである。
  アンティーク風の家具に壁の絵画まで、そこらの宿屋に置いてあるのとは値段がフタ桁くらい違いそうだ。
  ベッドのそばで、ワンピース姿の若い女が一人、控えて待っていた。
  オーベールが紹介してくれる。
 「彼女はオデット。家政婦兼祐筆(クラーク)だ。オデット、お待ちかねの騎士殿だ。名前はダリオス=ジュオー君。こっちのお嬢さんはマリア」
 「はじめまして。よろしくお見知りおきのほどを」
  オデットはにこっと微笑み、スカートを軽く持ち上げて膝を曲げた。
 (可愛い娘(こ)だな)
  ダリオスはつい、余計なことを考えて、気が散った。
  偶然かどうか、ルネの胸元でマリアの右足がぴくんと跳ねる。ブーツの底がダリオスの腕を蹴っ飛ばした。
 「いてっ」
 (こいつ、またいつぞやみたいに人の心を読んだんじゃ)
  そういう人間離れしたことをするなと言うのに。
  マリアはベッドに寝かされ、オデットが医者を呼びに行った。
  じきに連れて戻ってきた。
  もしかして医者も普通じゃないのでは――と思っていたが、やっぱり普通ではない。
  純白のローブはまあいいとしよう。問題は、その衣の裾という裾、袖、襟ぐり、どこからも一切の肌が露出していないことである。
  足はともかく、手には子山羊の革手袋、頭には頭巾。ご丁寧に顔まで仮面で全部隠している。
  石膏像かと思うような、目鼻の凹凸に生気のない顔が怖い。
  しかも、赤いのだ。その仮面は。真紅である。一体どういう趣味をしているのだ。
  ダリオスが圧倒されているうちに、オーベールはさっさと紹介してくれた。
 「彼が医者のシモン。イカレたやつが来たと思ってるだろうが、その見解でおおむね正しい。気は触れているが、ま医術の腕は確かだから安心しなさい」
 「そこまで仰いますか、旦那様」
  医者シモンが、床で診察鞄を広げながら口を尖らせている、らしい。仮面の下のことはよくわからない。
 「そこまで言うさ。何だ、そのおぞましく不気味極まりない面は」
 「失礼な。僕はお客人がご到着と聞いて、秘蔵の一等美麗な仮面を着けてきたのですよ」
 「どこが美麗だ」
 「紅顔の美青年」
  いけしゃあしゃあと言ってのけると聴診器を首に掛け、マリアの上に屈んだ。
  オーベールは肩をすくめている。
 「ああいうやつだよ」
 「さて――」
  シモンは手袋のままマリアの額を触った。
  マリアが、気味の悪い仮面に(ひええ……)と辟易して眉をしかめる。
 「熱が高いね。お嬢さん、森でメビウス川にでも落ちたのかい」
  マリアは頷く。
 「そう。寒い時節だからね。気をつけないとだめだよ」
  言いつつ、聴診器を耳(と思しき場所)に頭巾の上から着ける。
 「オデット、手伝っておくれ。この娘(こ)の胸元を――」
 「はーい先生。ほら殿方の皆さんはあっち向いてらして」
  ダリオス、オーベール、ルネは入り口の方を向いた。
  ごそごそとシャツをまくり上げる音がする。
  重ねてマリアが咳き込んだ。
 「おい、大丈夫か?」
  ベッドに向き直ったオーベールの顔に、オデットがベッドサイドから聖書を投げつけた。
  顔面を表紙が直撃した。
 「レディーの肌を覗くとは何事ですかっ」
 「だからって、主人に物を投げるとは何事だ」
  オーベールは、やれやれと聖書を拾って元の向きに戻る。
  隣りのダリオスにこっそりささやいた。V26Ⅱ即効減肥サプリ
 「結構、ふくよかだな、彼女」
 (この野郎、しっかり見てるんじゃないか)
  というか、はなから見たくて振り返ったのかもしれない。案外油断のできないバンパイアである。

「ま、大したことはないでしょう。体が冷えて体力が落ちてるんです。下手をして肺でも病めば厄介ですが、今のところはその心配もなさそうですしね」
 「だが熱が高いんだろう。下げてやらねば」
  オーベールが、さっき聖書がぶつかって赤くなった鼻筋を押さえて言った。
 「ええ」
 「インドゥルゲンティアを使おうか?」
 「なに、聖杯を持ち出すほどのことではありません」
  二人が何気なく口に出した言葉にダリオスは興を引かれた。
 (インドゥルゲンティア――聖杯)
  にわかに精神(こころ)の高揚してくるものがある。
  あの予言者アスタロトに、探せと言われて導かれたサングリアルが、もうすぐ近くにある。
  それが本物のサングリアルかどうか、自分の目で見て納得したい一心だけで、ここまで来たのだから。
 「旦那様のお顔こそ、聖杯に癒してもらってはいかがです。麗しい面立ちが台無しです。それでは彼女は口説けませんよ」
  と、シモンがマリアを指す。
  オデットが不潔なものでも見るように、主人に流し目をくれる。
 「やだー、オーベール様ったら、やっぱりそういうおつもり?」
 「何のことかね」
 「この娘(こ)、どう見てもまだ二十歳くらいですよ。五百八十歳も年下の娘に変なお考え起こさないでくださいませ」
 「わかってるわかってる。いつものことながら、おまえは私の姉か何かか? 口うるさいやつだ」
 (本当にわかってるのかな)
  ダリオスは、はたで聞いていて不安になってきた。
  本当にこの城に来てよかったのだろうか。
 「いつもそうやって、わかってるって言いながら、お手をお出しになるじゃない」
 「私が出してるんじゃない。むこうから惚れてくるんだからいいじゃないか」
  何だかやっぱり、来ない方がよかったかもしれない。
 (マリアは惚れませんように)
  心中祈っているダリオスの横に、赤い仮面の医者が身を寄せた。話し掛けてくる。
 「患者が寝ていると言うのに、騒がしい方たちですよねぇ」
 「ええと、シモン先生でしたか」
 「シモンで結構ですよ。何か」
 「マリアの具合は、長引きそうですか」
 「魔法薬を出しますので、それを飲んでひと眠りすれば熱は下がるでしょう。あとは、美味しい物でも食べて、元気をつけることです」
 「ならよかった」
 「あのオデット、ああ見えて料理の腕はいいんですよ。食事の方はお楽しみに」
 「それから、もう一つ」
  と、さらに尋ねる。
 「失礼かとは思うんですが、どうしても気になって……そのお召し物は、ご趣味で」
 「ああ、いや。実は僕これでして」
  笑いながら、シモンは右手の手袋を外して中身を見せた。
 「うっ」
  ダリオスは思わず唸るほど、度肝を抜かれた。
  慌てて口を押さえる。
 「し、失礼」
 「いえいえ、いつも驚かれます。お気になさらず」
  彼の右手は、正確に言うと『手』ではなかった。
  ローブの袖から、十数本の肉色の触手が顔を出し、うねうね蠢いていた。
 「まあというわけで、肌を見せないようにしているのですよ。――あ、仮面も取って見せましょうか?」
  ダリオスをからかい始めたシモンを、ルネがたしなめた。
 「先生、およしなさい。悪趣味な」
  陽気な触手医者は、手袋をはめ直している。
 「これぐらい思いっきり驚いてくれると、見せた甲斐あったってもんです」
 「ジュオー様、どうも申し訳ありません。先生も悪意があってやっているわけではないので、お許しを」
 「いえ、俺もいきなり見せられてびっくりしただけで。魔族の方の中には、そうやって人型を保っていることがあるのは知っていました」
 「ほう、他にもお会いになったことが?」
 「ええ以前、北のガシュテ公国の貴族に」
  半年前、マリアと出会ったばかりのころの話である。
  ダリオスが剣を合わせたボル=マグダという男がいる。彼の本体は、黒い靄(もや)の塊であった。普段はそれが服を着て、人間のような格好をしている。
  彼は仮面は着けていなかったが。
  頭部は靄が兜の内に納まっているだけで、目や口など一切なかった。それでもちゃんと視線を感じ、声が聞けたのだから不思議なものだ。
 「それじゃ、僕は薬を取りに行きます」
  と、触手医者は部屋を出て行った。
 「ジュオー君」
  オーベールが、横たわるマリアの上に屈みながら呼んだ。
 「はい」
 「今度は君の話も聞こうか。ここではなんだから、私の書斎にでも移ろう」
  なぜか彼の手はマリアの顔に伸びていく。
 「熱を見るだけだ」
  何をされるのかと怪訝な表情しているマリアに断ってから、耳の下辺りをなでた。
  向かいでオデットが腕組み仁王立ちしている。
 「オーベール様、それより下をお触りになったら今晩は夕食抜きです」
 「私もよほど信用がないらしい」
  オーベールは、マリアの顔をつぶさに眺め、
 「――薬を飲んだらゆっくりお眠り。その間、ジュオー君は借りていくよ。心配しなくても、取って喰ったりはしない」
  それだけ囁いて、手を離した。

 オーベールの書斎は、おびただしい数の本と、膨大な量の覚書きに埋もれた乱雑な部屋だった。
  ただ、その乱雑さの中には、主にしかわからない秩序があるらしい。
 「この部屋は家政婦に掃除をさせないから、散らかっていて申し訳ないが」
  主の玉座らしき古い机の椅子に、オーベールは掛けている。机上も本や紙切れでいっぱいだ。
  壁一面の本棚はむろん満員。あぶれて床にまで積まれている有り様である。
  ダリオスはオーベールに対面して座りながら、興味深そうにそれらの文献を眺めていた。
 「これだけの本をよくお集めに。しかも珍しい物がいくつも。『富の精神』『自然科学と魔術に関する一考察』『赤兎』『栄枯論』、全て初版で――」
 「君もずい分読書家らしい。目利きだな」日本秀身堂救急箱
  そこへオデットがお茶を運んできた。
 「どうぞ」
 「ありがとう」
  ダリオス、オーベールの順に、ティーカップの乗ったソーサーを受け取る。
 「そういえば、あなたは何の種族でいらっしゃるのです?」
  ダリオスが尋ねると、オデットは含み笑いを返してきた。
  代わりに、オーベールが教えてくれた。
 「それは人魚だ」
 「しかし、脚が」
 「二本足で地に上がった人魚姫だよ。気をつけた方がいい。歩くことを覚えたついでに、地上の男を誘惑することも覚えている」
 「オーベール様ったら、さっきのこと根に持っていらっしゃるのね」
  意地わる。
  と、捨てゼリフを残し、人魚姫は場を辞した。
  先に紅茶のカップから口を離したのはダリオスの方だった。
  カチン――と小さな音を立て、ソーサーにカップを置いた。
 「なんだかまだ実感が湧かなくて」
 「何がだね」
 「この城にたどり着くことができたことが」
 「ふふ」
  薄く笑う。
 「麓の町では、滅多なことで来れぬ場所だと教えられたね?」
 「ええ。違うのですか」
 「違いはない。ただ、町の皆が思っているほど、何人(なんぴと)も来られない場所でもない。まあここ百年くらいは、確かに客を迎えなかったが」
  昔は、五十年に一度くらいは来客があったのだと言う。
 「割といたんだよ、昔は。君たちのように、世間にわだかまるところのない者が」
 (わだかまるところのない?)
  それってつまり、途方もないのん気者、ということだろうか。
 「もとよりここへ来ようとする者は、九割九分聖杯目当てだ。その中にさまざまな為人(ひととなり)の輩がいる。強欲な者、無欲な者、尊大な者、心優しい者、誠実な者、臆病な者――」
 「それをサー・ヴルスクルは見極めて、ここへ招くかどうかお決めになると」
 「見極める?」
  吸血鬼は牙を見せて笑った。
 「そんなことができるものか。一目で結婚相手を決めろと言われて、君は決められるか? 交際してみなければ相手の本質などわかるまいよ」
 「ではなぜ、俺とマリアをここに」
 「訳なんて言えるか」
 「え?」
 「生命はそもそもが不思議である。どうして生きて自我を持っているかもわからないのに、自分のやること全てに理屈や思慮分別があってたまるか」
  変わったことを言う男である。
 「あえて言うなら、だから、君たちには世間にわだかまるようなところがなさそうだと思ったから」
 「それはつまり、俺たちが暢気(のんき)そうだということで?」
 「のんきものんきじゃないか。夕べはよく、マリアに手を出さなかったな」
 「――ご覧でしたか」
  そうだろうとは思ったが。あの半獣人のユルシュルでさえ見てたって言うんだから。
 「ひょっとして女に興味が無いのか?」
 「いえそういうわけでは」
 「じゃあ男の機能に問題があるのか? それならシモンに診てもらうといいが」
 「別に、悪いところもありません」
 「ということは、本当は抱きたかったんだな?」
  にやにや頬をゆるめて、目を覗き込んでくる。「彼女を腕に抱いてどんな気持ちだった?」と、オーベールは意地悪なことを尋ねた。
  ダリオスも、こうなったら観念した方が得策、と思ったらしい。
 「気持ちがよかったですよ。胸も腰つきも太ももも柔らかくて」
 「そうこなくては。夕べ、君が指一本でも妙な仕草をしたら森の外に追い出すつもりだった。実によく耐えた」
  私だったら耐えられんが。笑顔で付け加えた。
  紅茶をひと口傾ける。
 「それだけのことで、俺たちを招いてくださったので」
 「理屈や思慮分別ではないと言っただろう。理由の一つとして、夕べのを見ていて君に好意を感じたのは確かだがね。今どきこんな暢気な男がいるのかと思った。一度話をしてみたいと思ったよ」
 「――よろしければ他の理由も、あるのならお教え願えませんか」
 「マリアンヌが」
 「マリアが?」
 「彼女が亡くなった母になんとなく似ていたから」
  オーベールは、机の端に置かれていた写真立てを取って、ダリオスに見せた。
  白黒でたいそう年代物の写真に、二十代後半と思しきセミロングの髪の女性が映っていた。
  マリアに似ている、というのは言い過ぎかもしれないが――
「これが母君でいらっしゃる――そうですね、髪型と表情の雰囲気が少し……」
 「それに、私の母も人間だった。混血(ハーフ)なんだ、私は」
  父は純血のバンパイアだった。それが人間の娘に惚れ、愛して、生まれてきたのがオーベールだそうだ。簡約痩身
 「母が亡くなったのはずい分前のことだが、マリアの顔を見ていると懐かしくなってしまってな」
  美貌のダンピール(混血の吸血鬼)は、涼やかな橄欖石の目元を細めて囁くのだった。

2013年8月13日星期二

全てメイドの仕業

三十分ばかり経って、警部はベールの部屋に呼ばれた。
 「何かいいお考えが?」
  東方王ベールといえば、人間にあらゆるものを見通す力を与えることができる大悪魔である。あるいは透明になる力を与えるとも言われる。どちらにしろ、ただのさえない中年男ではないはずだ。との思いが警部にはある。levitra
  ベールは窓から中庭を眺めたまま言った。
 「警部」
 「はい」
 「メルランの家に人をやって、彼が帰宅しているかどうか確認してもらいたい」
 「それは」
 「この盗難事件、外部犯と考えるには不自然な点が目立つ」
  ベールは静かに眉をひそめる。
 「では犯人は、門の鍵の異変に気づき、禁書室を調べた者の中にいると仮定する。さらに、犯行に及んだのは今日、その門の鍵の異変以降と考えよう」
 「そう考えなければ、やはり不自然が目立つからですか」
 「そうだ。彼らにレメゲトンを盗むチャンスがあったのはいつか」
 「禁書室に入ったときでは」
 「違う。彼らはお互いを見張り合っていた。誰もあの本を持ち出せない」
 「ですが、そのときにはすでにレメゲトンは消えていたのでしょう」
 「消えていたのは書棚からだけだ」
  警部も眉をひそめ、ベールに一歩近寄った。
 「それはどういう意味です」
 「彼らが見たのは、書棚からレメゲトンがなくなっている光景だけだ。後で警察が調べたように、本当に禁書室から紛失していることをいちいち確かめたわけではない。もっとも、そこまでは確認できなかったはずだ」
 「つまり、そのときはまだレメゲトンは盗まれてはいなかったと」
 「ひとまずどこか、他の書物の陰にでも隠しておいたのだ」
 「ではいつ、それを持ち出したとおっしゃるのです。その後も彼らはずっと一緒にいて、一人抜け駆けて禁書室に忍び込む隙などなかったはず」
 「いや、あった」
 「いつですか」
 「警部が、事情聴取とボディチェックを終えて家に帰した後だ」
 「えっ」
  ベールは、ゆっくりした動作で机に向かい、椅子に腰を下ろした。深く身を沈めると、長い脚を悠々と組んだ。
 「ここへ呼ばれてきた警察官の制服は一種類に統一され、帽子をかぶっている者もいる。禁書室で見た様子では、彼らはお互いの行動に注意を払っているようには見受けられなかった」
 「―――」
 「犯人が同じ制服を着、帽子をかぶってまぎれ込んでも、気づく者はいまい。そこで証拠品を持ち出すような素振りでレメゲトンをまんまと盗んだのだ。このため、わざわざ事件を起こし、警官を大勢呼び込んでおく必要があった」
  これが犯人の手口だとすると、と語を継ぎ、
 「犯人の可能性が一番高いのはメルランだ。門の鍵がおかしいと言って入ってきたのは、禁書室を開けさせるためだ。禁書室の鍵にはさすがに手が出せなかったんだろう」
 「禁書室で、レメゲトンがないことに気づいたのも彼――」
 「警察を呼べと言ったのもだ。真っ先に警部の聴取を受け、出て行ったのも」
 「証拠は」
 「ない。ないが、外部犯と考えるより合理的だ。メルランの家に行ってみて彼が帰っていなければ、まず間違いあるまい」
 「すぐ、向かわせます」
  警部は部屋を出た。じきに戻ってきて、
 「庭師の家に部下をやりました――が、彼の動機は何です」
 「さて、私もそれがわからない」
 「金目当てでしょうか」
 「そういう性格には見えなかったが、まあ見かけによらないということもある」
 「どちらにしろ、庭師が捕まればはっきりすることですな」
 「それはそうだ」
  しかし、メルランは捕まらなかった。どこをどう逃げたものか、足取りが全くと言っていいほどつかめず、捜査は難航の色を見せ始めた。
  その際ベールが向かったのが、悪魔ビフロンスの元である。
  ビフロンスは人間に占星術の知識などを与えると言われる悪魔である。自身も占術をたしなむ。彼にメルランの居所を占わせた。
  結果は、かんばしいものではなかった。
 「見えませんな」
  と、ビフロンスはペンデュラムから顔を上げ、言った。
 「見えないとは」
 「見えないとは見えないということです。何もわかりません」
 「なぜ。おまえの占術の腕はその程度のものか」
 「私の腕がというより、何者かが魔力をもってメルランの姿を隠してしまっているのでしょう」
 「それ以外の可能性は」
 「でなければ、私の腕です」
  それはつまり、メルランを手助けしている者がいるという意味であった。

6
 そこまで聞いてから、アスタロトが口を出した。
 「で」
 「で、とは」
 「で、おまえは俺に何を協力しろと言うんだ。今の話じゃ、もう犯人はわかっているらしいじゃないか。あとは捕まえるばかりだろう」
 「まあ最後まで聞け」
 「聞いている。早く話せ」
 「メルランの居所は、占いですらわからなかったが――」
 「うん」
 「もう一つビフロンスに占わせてみた物がある」
  ベールは上着の胸ポケットから折り畳まれたハンカチを取り出した。それを手の上で開いて見せる。
  中に、小さな青玉のイヤリングが片方、包まれている。
 「これだ」
 「それは?」
 「私が事件当夜、館の周りをうろついている際、中庭で拾った」
 「それを占わせたのか」
 「そうだ。すると、詳しいことはやはりわからないが、ビフロンスは一つだけ断言した」
  ビフロンスは、イヤリングに目が着くほど顔を近づけ、いろんな角度からまじまじと見ていた。魔方陣の描かれた巻物を取り出し、その上にペンデュラムをかざしたりしてから、Motivator
 「あなた様の奥方様にお話をお聞きになるとよろしいでしょう」
  と、ぽつりと言ったのである。
  ベールは、じろりとアスタロトの目をのぞき込んだ。
 「どうやらおまえに所縁のある代物のようだということだ」
 「ふん――」
  アスタロトは、ベールからハンカチごとイヤリングを受け取った。
 「どうだ、見覚えがあるか」
 「別に」
 「おまえが嘘をつけないのは、私が一番よく知っている」
  ベールはアスタロトの腕をつかんで引き寄せた。顎(あご)に手を当ててこちらを向かせる。
 「見覚えがあるらしいな、アスタルテ」
 「知らんな」
 「なぜメルランをかばう。レメゲトンが盗まれれば心安らかでいられないのはおまえも同じだろう。また人間のいいように使われたいとは思うまい」
 「俺はメルランなどというやつは知らん。会ったこともない」
 「嘘をつくな」
 「嘘じゃない」
  アスタロトはベールの目をまっすぐに見返す。
 「では何を知っている」
 「知らん――」
 「言え!」
  ベールの苛(いら)立ちに同調したように、窓の外で雷鳴がとどろいた。アスタロトの顎をつかむ手に力がこもる。
  アスタロトは、のどの奥でくぐもったうなり声を上げた。
 「このイヤリングの持ち主を知っているだけだ」
 「それは誰だ?」
 「言えない」
 「どうして」
 「どうしてもだ」
  アスタロトは語気を荒くした。
 「レメゲトンは俺が取り返してやる。それでいいだろう」
 「よくはない。メルランを捕まえなくてはな」
 「そいつも警察に突き出してやろう」
 「共犯者がいるはずだ」
 「ベール、おまえそのことを誰かに話したのか」
  と尋ねると、ベールは、なぜそんなことを聞くのかといぶかしげに顔をしかめ、
 「いや、まだだが」
 「だったら誰にも言うな。ビフロンスにも口止めしろ。共犯者なんていなかった。メルランが一人でやったことだ」
  ベールは、ははあ、と合点がいったらしい。口の片端をつり上げて意地の悪い笑みを浮かべた。
 「なるほど確かに、今回の事件としては、メルランを探し出し、レメゲトンさえ取り戻せれば解決と言って差し支えない。だがアスタルテ、おまえただで私の口が封じられると思ってはいないだろうな?」
 「―――」
  何が望みだ、とアスタロトはささやいた。
  ベールの手が腰へと回ってくる。抱き寄せられると、アスタロトの体は自然と柔らかな曲線を描く女性体へ変化した。
  ベールはアスタロトの白く華奢(きゃしゃ)な首筋に口元を近づけ、
 「我が妻よ、聞くまでもないことだろう」
  と、ささやき返す。
 「おまえが隣にいない閨(ねや)は寂しいものだ」
 「―――」
 「目覚めたとき手を伸ばせばおまえがいる。そんな朝が恋しいのだ。夜の間、私の手で乱れに乱れたおまえが、疲れ果てて子どものように眠っている様は何より美しい」
  アスタロトの滑らかな頬の輪郭をなで、有無を言わせず唇を奪った。
  ところが、十も数えないうちにベールは自分から身を引いた。
 「うっ!」
  口を押さえ、うめく。舌の上で鉄臭い味がした。アスタロトに噛まれたのだ。
  アスタロトは唇に付いた血を指でぬぐうと、
 「ふん」
  とベールをにらみつけて凄(すご)んだ。その顔つきはいつの間にか男性に戻っている。
 「ベール、貴様まだわかっていないらしいな。俺がこんな姿になった理由が」
 「何が言いたい」
 「俺は貴様の所有物でも、付属物(オマケ)でもない。ましてや貴様のダッチワイフでいるのには飽き飽きした」
  くるりときびすを返す。一人で禁書室を出て行こうとする背中に、ベールは釘を刺した。
 「アスタルテ、おまえが私の元へ帰ってこなければどうなるか――」
 「わかっている!」
 アスタロトは振り向かずに怒鳴った。

7
 アスタロトはメイドのヴィヴィアンとの約束を守り、夕食の前には帰宅した。
 「おかえりなさいませ」
  執事とヴィヴィアンがそろって出迎えた。
 「ああ、今帰った」
  アスタロトは外套を脱いで執事に渡すと、
 「ヴィヴィアン、ちょっと来なさい」
  と、メイドだけ連れて自室へ引っ込んでしまった。
  主人の後から部屋に入ったヴィヴィアンはいたずらっぽく小首をかしげている。
 「旦那様、何か御用で? それともお夕食の前にあたくしをお食べになるおつもりですの?」
 「メルラン、というのはフランス語名だ」
  唐突にアスタロトは言った。
 「英語名では『マーリン』。言わずと知れた希代の大魔法使いだな」
 「それが、何か?」
 「まったく」
  上着のポケットから青玉のイヤリングを取り出す。それをヴィヴィアンの右耳に着けてやった。そうして両耳にそろった石の控えめな輝きが上品であり、メイドの衣裳にも似合っている。
 「おまえの恋人の名だろう」
 「さようでございますわね」
  ヴィヴィアンは何を考えているものか、穏やかに微笑んでいる。SPANISCHE FLIEGE D9
 「ヴィヴィアン」
 「はい、旦那様」
 「どうしておまえがレメゲトンを欲しがるんだ?」
  ヴィヴィアンは、目を細めて、常人の男なら腰がくだけてしまうような魅惑的な笑顔を見せた。
 「それとも、地上での恋人に再会したうれしさに、とびきり難しい物をねだってみただけか」
 「旦那様、あたくしは、湖の女王とまで呼ばれた妖精ですのよ」
 「ああ」
 「あの偉大な魔法使いマーリンですら、あたくしの虜。どうあがいても、あたくしからは逃れられませんでした」
 「おまえの悪い癖だ。そうやって男の自由を奪いたがる。かのアーサー王までも魅入らせた魔力は恐ろしいな」
 「でも、あたくしの力をもってしても、虜にできない方がいらっしゃるのですわ」
 「ほう、誰かね」
 「レメゲトンの力を使わなければ、自由にできないお方――」
  ヴィヴィアンの白魚のような指が、アスタロトの頬に触れた。
 「――俺の周りにはこんなのばっかりだな」
  とアスタロトはぼやいた。
 「ヴィヴィアン、あきらめなさい」
 「レメゲトンを?」
 「そうだ」
 「そんな」
 「あれはおまえには――まあ扱えないことはないかもしれんが、一度(ひとたび)あれに書かれた秘法を行ったが最後、ベールに抹殺されるぞ」
 「あたくしの身を案じてくだいますの?」
 「おまえと一緒に俺も殺されかねん」
 「あら旦那様、それならあたくしは本望です」
 「冗談はよせ」
  アスタロトはヴィヴィアンを抱き寄せ、優しく髪をなでてやった。
 「これからは、おまえにあまり寂しい思いをさせないようにする」
  ヴィヴィアンはふくれ面をして、
 「そんなお言葉を鵜呑みにするほどうぶな娘じゃございません。どうせ三日もすれば地獄を抜け出して、地上で乙女をたぶらかしてお遊びになるのでしょう」
 「おまえだってメルランにちょっかいを出したくせに」
 「妬(や)けますか?」
 「少しはな。おまえは俺だけを見てるのかと思っていたよ」
  ヴィヴィアンの耳に触れ、青玉のイヤリングを親指でいじる。ベールにそれを拾われなければ、アスタロトだってヴィヴィアンの仕業だとは気がつかなかっただろう。
 「それにしてもイヤリングを落としてくるなんて失敗をするとは、おまえにしては珍しい」
 「失敗ではありません」
 「なに?」
 「落とし物の一つもしておけば、いずれこうして旦那様の知るところとなるはずだと。あたくしとマーリンとのことを知ったときに、あなた様がどんなお顔をなさるのか、見てみたかっただけのことです」
 「女は恐ろしい」
  アスタロトはもはや苦笑いするしかない。ヴィヴィアンから手を離した。
 「女が恐ろしいわけではありませんわ。あたくしは恐ろしい女ですけれど」
 「自分で言うな。おまえのおかげで、俺はどうやらベールの夜のオモチャに逆戻りしなくちゃならん」
 「え?」
  ヴィヴィアンの表情が曇った。しかし、アスタロトから事情を聞くと、じき元のように妖艶に微笑する。
 「そのようなこと、お気に病まずとも、すべてこのヴィヴィアンにお任せくださいませ、旦那様――」
  一体このメイド、何をたくらんでいるものやら。

8
「旦那様、お電話です」
  執事に呼ばれ、電話機の前に立って差し出された受話器を取った。
 「もしもし?」
 『アスタルテ、おまえ何をした!?』
  途端に受話口からベールの怒声が響いた。慌てて受話器を耳から離す。
 「何の話だベール」
 『何の話だと! おまえ――ことをして、地獄を壊滅させ――つもりか!?』
  ベールの声はかすれたり切れ切れになったりしていた。やけにノイズが多い。
 「よくわからんが、それより俺のそっちへの引越しはいつにすればいいんだ?」
 『それどころじゃない!! 自殺を志願するのでなければ当分自分の領地で大人しくしていろ。間違っても私の前に姿を見せるなよ!』
  受話口から聞こえてきた爆発音と共に、通話は切れてしまった。
  チン、
  と受話器を置いて、アスタロトは長椅子でしどけなく寝そべっているヴィヴィアンを振り返った。
 「どうやった」
 「東方王様の妹君にお会いして参りました」
 「アナトにか」
 「ええ。旦那様が東方王様とヨリをお戻しになるつもりだとお話したら、あっという間に兄君の元へ飛んでいかれて。今ごろは、旦那様を探し出して息の根を止めんとばかりに、東方王様の領地中を焼き払っていらっしゃるでしょう」
 「相変わらず、あいつの嫉妬は世界規模だな」
 「それだけ兄君を愛していらっしゃるということです」
 「俺には理解しかねる」
  アスタロトはヴィヴィアンのいる長椅子に腰を下ろした。甘えてくる彼女の頭を膝に乗せ、
 「さあ、そろそろメルランの居場所とレメゲトンの在り処(ありか)を教えなさい」
  ヴィヴィアンは胸に提げていた金のペンダントを襟の下から取り出した。細い鎖に小さなロケットが付いたものである。
  アスタロトはロケットのふたを開け、中に入っていた似姿を見てため息をついた。
 「やれやれ、女になってベールとヨリを戻すのだけはご免だが、男になったらなったで、そのうちおまえにこうやって閉じ込められてしまいそうだな。俺はただ自由でいたいだけなのに」
  レメゲトンを携えたメルランがそこにいた。ロケットにしまわれた似姿の内側から、半泣きでこちらに助けを求めているのだった。
アスタロトはメイドの手を借り、悠々とした動作で外套(がいとう)をまとった。
 「旦那様、お帰りはいつ?」
 「ま、そうだな、夕食には間に合わせよう」
 「約束してくださいます?」
 「約束する」
 「きっとでございますよ」
 「ああ、きっとだ」
  アスタロトはメイドの右手を取った。その甲にキスをする。
  メイドの名はヴィヴィアンといった。ヴィヴィアンは、美しい目元を弦月のように細めて微笑んだ。
 「あらうれしい」
 「ふふ」
  アスタロトはいたずらっぽく笑い、ヴィヴィアンの手を離した。ふと彼女の顔を見て、おやと気づいた。
 「ヴィヴィアン、もう片方のイヤリングはどうしたんだ」
  ヴィヴィアンの左耳では小さな青玉が光っているが、右の方には見当たらない。
 「なくしたのかね」
 「ええ、ちょっと」
 「ふうん、今度新しいのを見つくろってきてやろう」
 「まあ、旦那様、あたくしのために」
 「おまえは有能で実によく働いてくれる、当家の大切なメイドだからな」
 「まあ」
  ヴィヴィアンは期待が外れたのか、すねたように、ぷっと頬をふくらませた。SPANISCHE FLIEGE D6
  アスタロトは苦笑し、肩をすくめて玄関を出て行った。館の門の外で馬車が待っている。ベールが寄越したものだろう。近寄ると、馭者(ぎょしゃ)がうやうやしく一礼し、
 「お待ち申し上げておりました」
 「おまえは東方王の?」
 「はい。アスタルテ王妃――」
  と言いかけたら、アスタロトに射殺さんばかりの目つきでにらまれたので、慌てて言い直した。
 「ア、アスタロト大公爵閣下を禁書室へお連れいたすようにと申しつけられて参りました」
 「ではとっとと出発しよう」
  アスタロトは勝手に車の戸を開けて乗り込んだ。
  馭者が一鞭くれれば漆黒の馬たちは静かに走り出す。いななく声はおろか足音すら聞こえない。
  光という光の届かない黒々した地獄の空には、今日は緑色の月が昇っている。あれは悪魔の君主サタンの右目だ。足元さえ危うい薄暗闇を、馬たちは難なく駆けていく。アスタロトの広大な所領を出て東へ、東へ。
  地獄の東側一帯を治めるのは東方王ベールである。その領地の広さといったら、アスタロトの所領が小さな庭に見えてしまうほど。ベールが悪魔の中でもトップクラスの実力者であることは言を待たない。
  馬車に揺られて連れて行かれた先は、陰気な雰囲気のする館であった。黒い格子門の内も外もひっそりと静まり返り、妖魔の子一匹歩いていない。ここもベールの財産の一つである。
 「いつもはこのように閑散としてはおりませんが」
  馭者がアスタロトを中へ案内しながら説明してくれる。
 「ここ数日、東方王様が付近を封鎖なさっております」
 「ベールは俺に何の用があるというんだ?」
 「それは直接東方王様の口からお聞きくださいませ」
  と、先方を見れば、長くほの暗い廊下の奥から当のベールが姿を現した。四十を過ぎたくらいの、ひょろりと背が高いばかりでさえない男の格好をしているが、目つきだけは威圧感があって鋭い。
  アスタロトはあからさまに、
 (いやなやつが出てきた)
  とでも言いたそうに眉をひそめた。
  ベールはこちらへ歩み寄ってきた。
 「やあ大公爵、ご機嫌うるわしゅう」
 「たった今、すべてが、うるわしくなくなった!」
 「君は怒った顔も魅力的だ、男でさえなければな」
  馭者を下がらせ、アスタロトと二人きりになった。
 「どうだね、妻よ、久しぶりに我が家へ帰った気分は」
 「なにが我が家だ。俺には我が君から拝領した土地も財産もある。いつまでもおまえに従っていると思うなよ」
 「おまえは私と正式に別れたわけではない。裁判は凍結されたままのはずだ」
 「それだ。なぜいつまで経っても再開されない?」
 「――おまえが、気まぐれに男になってしまったからだろうが」
  ベールは白い目でアスタロトを見た。
  たとえば、十七世紀、ミルトンによって書かれた叙情詩「失楽園」においては、アスタロトはベールの妻アスタルテとして登場し、女性として描かれている。ただし気の赴くままに、男性、女性、どちらの性(あるいは両方)にでもなれる、とも言われる。
  さらに悪魔アスタロトの起源をさかのぼると、紀元前に地中海周辺地域で信仰された豊穣多産の女神アスタルテへとたどり着く。のちのベールも豊穣神バアルとして崇拝されていた。二人はこのころから夫婦である。ウガリットやカナンの神話において、切っても切れない仲であった。
 「誰のせいで俺は男になったと思ってるんだ」
  と、アスタロトはベールをにらみ返した。
 「誰のせいだ」
 「貴様のせいだ貴様の」
 「なぜ」
 「――俺は、その理由をこれまでに八百六十九回は説明したはずだが」
 「嫌なことはすぐに忘れる主義だ」
  アスタロトは、怒りのあまりに体が爆発しそうになった。決して比喩(ひゆ)ではない。悪魔にとって人間の姿をした肉体なんて所詮かりそめのもの。怒り狂って本性を現せば、何が起こるかわからない。
 「貴様は昔からそうだ! 俺がまだ地中海で女神をやっていたときだって」
 「何かしたかな」
  全く記憶にございません。と言わんばかりに、ベールは首をかしげる。
 「貴様妻のある身で! あろうことか! 自分の妹と関係を持っただろうが!!」
  ウガリット神話におけるバアルには、美しい妹アナトがいるとされる。アナトは戦いの女神で非常に攻撃的な性格の反面、兄バアルに対してはとても従順で熱烈な愛情を抱いていた。アスタルテとともにバアルに密接な関係のある女神である。
 「ああ、アナトのことか」
  と、ベールはやっと思い出したように言った。
  ところで、ベールを怒鳴りつけているアスタロトの容貌に変化が起こり始めている。
  見る見るうちに、アスタロトの顔や首筋の輪郭がほっそりと滑らかなラインを描くように変わっていく。体型についても、肩は華奢に、胸と腰の周りは逆にふっくらとしてきた。
 「確かにそんなこともあったが、過ぎたことだ。アスタルテ、おまえには悪いことをした」
 「その言葉を何回聞いたと思ってる!」
  と言う声も、さっきまでの男の声から一オクターブ高くなっている。
  アスタロトは自分の声を聞いてようやく体の変化に気がついたらしい。まず手足を見て、次に胸元を見て、最後にのどを触った。あるべき突起がそこにない。
 「ベール貴様、何をした」
 「アスタルテ、私は何もしていないさ。おまえが心を高ぶらせて、自分で勝手に女に戻ったのだよ」
 「忌々しい」
 「しばらくそのままでいてはどうだね。久しぶりに美しき我が妻の顔を見ることができてうれしいものだ」
 「断じて断る!」
  アスタロトがぱちんと指を鳴らす。すると一瞬にして男性の姿に戻った。苦虫を噛みつぶしたような顔をして言った。
 「もういい、ベール、本題に入れ」
  ベールは肩をすくめ、アスタロトの先に立って歩き出した。
 「ついて来い」

2
 連れて行かれたのは館の北側に位置する禁書室と呼ばれる書庫である。
  ここには、地上で書かれた本の中で、教会によって発禁・焚書処分となったものが集められている。道徳観念を狂わせたり、神の存在を疑わせるような奇書や悪書。または悪魔を召還するための書、グリモワールの類など。処分されたそれらの本から一冊ずつ保存されているのである。
  中には悪魔が人間を堕落させるために書いた本も混じっているし、まれな才能の人間が書いた物もある。SPANISCHE FLIEGE D5

2013年8月12日星期一

再訪

一度ベイルの迷宮で探索をした後、ベイルの町の冒険者ギルドに出た。
  迷宮に入ったのはアイテムを溜め込むためだ。
  ギルドでの売却には三割アップが有効なので、十万ナールの黄魔結晶は十三万ナールで売れるだろう。lADY Spanish
  さすがに何もなく三万ナールも増えると、ギルドの職員が不審に思う可能性があるのではないだろうか。
  金貨が十三枚だろうから見ればすぐに分かる。
  なるべく不審を抱かれないようにするには、たくさんのアイテムを一気に売り払うのが得策だろう。
  あとは売る場所も考えなければならない。
  今回は初めて魔結晶を売却するので問題はないが、次からは魔結晶のできるスピードに不審を持たれる可能性もある。
  俺には結晶化促進三十二倍のスキルがあるから、他人の三十二倍の速さで魔力がたまる。
  人の多いところでドサクサにまぎれて売ってしまうのがいいだろう。
 「魔結晶って冒険者ギルドでも売れるのか」
 「はい。どこのギルドでも可能だと思います」
  ロクサーヌに確認する。
  冒険者ギルドに売れるのなら、帝都およびクーラタルにある探索者ギルドと冒険者ギルドだけで四箇所の売却先ができる。
  四箇所のローテーションでもそれなりに少なく見せることができるだろう。
  ときおりは他の町も織り交ぜてやれば完璧だ。
  ベイルの冒険者ギルドのカウンターでトレーの上に黄魔結晶を置いた。
  黄魔結晶を覆い隠すように、他のドロップアイテムを盛りつける。
 「買取を頼む」
 「かしこまりました」
  受付のアラサー女性がトレーを持って奥に消えた。
  少しどきどきしながら待つ。
  戻ってきたのは、いつもと同じくらいの時間だろうか。いつもより時間がかかっただろうか。
  トレーの上に金貨が十三枚あるのをいち早く目で数える。
  受付の女性が不審に思っている様子はない。
  大丈夫そうだ。
  金貨をアイテムボックスにすばやく入れた。
  銀貨と銅貨は巾着袋に入れ、カウンターから離れる。
 「では行くか」
 「はい」
  カウンターの職員は基本的に買取金額を云々することはないようだ。
  探索者や冒険者にとっては収入源だから、あまり触れないようにしているのだろう。
  詮索されれば生活レベルなども分かってしまう。
  触れないだけで、実際にはきっちり把握されているのかもしれないが。
  外に出て、しばらくぶりにベイルの町を歩いた。
  特に変わったところはないようだ。
 「店主にお会いしたい」
  奴隷商人の商館に着き、出てきた男に告げる。
  店主の名前は、忘れた。
 「こちらへどうぞ」
  一度引っ込んだ男が案内する。
  奥の部屋に通された。
  あれ?
  いきなり奥の部屋に通されたのは、盗みを働いて奴隷に落とされた村の人を売りに来た最初のときだけだ。
  ロクサーヌを売りに来たと思われてないか。
  ちらりとロクサーヌの方を見るが、表情に変化はない。
  昔自分がいた奴隷商館でも大丈夫のようだ。
  俺は座ったが、ロクサーヌは控えて立っている。
  どうなんだろうか。
  こういうときは横に座らせない方がいいのだろうか。
 「立ってる?」
 「はい。その方がいいと思います」
  何も知らない俺よりもロクサーヌの判断の方が妥当だろう。
  俺はうなずいてそのままにさせた。
 「ようこそいらっしゃいました、ミチオ様」
  すぐに奴隷商人が部屋に来る。
  鑑定で名前を確認した。CROWN 3000
  そうだ。アランだった。
 「急にきてすまないな、アラン殿」
 「いえいえ。いつでもお越しください。さあ、どうぞ」
  立って挨拶すると、あらためてソファーを勧められる。
  使用人がハーブティーを二つ持ってきて、俺と奴隷商人の前に置いた。
  ロクサーヌの分はないらしい。
  奴隷だと分かっているからなのか、売りに来たと思われているのか。
 「ロクサーヌは非常によくやってくれている。よい戦士を紹介してくれたと感謝しているところだ」
  とりあえず、売りに来たのではないと釘を刺しておく。
  変な風に思われて、変な対応をされても困る。
 「さようでございますか。私どもとしても面目をほどこせます」
 「店主が勧めてくれたとおりだった」
 「何か不都合な点はございませんでしょうか」
 「何もないな」
  どうせ本人がいるのだから、めったなことは言えない。
  それは奴隷商人もよく分かっているだろう。
 「ようございました」
 「ロクサーヌもよく働いてくれるのでな。そろそろ次のパーティーメンバーをと考えている」
 「なによりのことでございます」
 「少し尋ねたいが、鍛冶師の奴隷を買うことはできるか」
  こちらの手をさらすみたいで問題かもしれないが、しょうがない。
  素直に訊いてみる。
  雑談の中で巧く聞き出すとか、俺には無理だ。
 「鍛冶師をですか?」
 「そうだ」
 「そうですね……。不可能ではありませんが、なかなか難しくはございます」
  店主は少しだけ考えて答えた。
  やはり特定のジョブとなると難しいのだろう。
 「そんなものか」
 「モンスターカードの融合は失敗することが多いのはご存知でしょうか」
 「知っている」
 「奴隷の鍛冶師であってもそれは変わりません。失敗が続くとやがて所有者は奴隷を疑うようになります。専用の鍛冶師を抱えたがる貴族のかたなどは多いのですが、あまり双方が幸福な結果に終わった話はないようです」
  直接依頼するのと同じ問題があるわけか。
  奴隷がモンスターカードをちょろまかしても捌けるかどうかは不明だが。
  まあ、命令してやらせたのに失敗続きでは怒りたくもなるだろう。
 「なるほど」
 「ドワーフの方でもそれが分かっておりますから、奴隷になる際には鍛冶師のジョブを変更してからなることが行われています」
 「となると、鍛冶師の奴隷はいないのか」
 「まったくいないわけではございませんが、価格の方がどうしても高くなってしまいます」
  なり手が少ないから値段が上がるということか。
  しかし高い金を出して買ったのに失敗続きではますます腹が立つだろう。
  なんか、負のスパイラルに入っているような気がする。
  評判が悪いからなり手が減る。
  供給が少ないから値段が上がる。
  安ければあきらめもつくが、せっかく高い金を出して買ったのにうまくいかなければもっと腹が立つ。
  怒りにまかせて鍛冶師である奴隷につらくあたるから、悪い評判が広まってさらになり手が減ってしまう。
 「まあそこまでして鍛冶師がほしいわけではない。鍛冶師でない他のドワーフはどうだろう。前衛として役に立ちそうだが」
  鍛冶師の奴隷を買うのは難しいらしい。
  しかし、元々それでもよかった。
  ジョブを指定してこのジョブの奴隷をといって求めれば、鍛冶師でなくとも高くなるだろう。
  俺の場合、パーティージョブ設定が使えるのだから、ジョブを指定することに意味はない。
  鍛冶師のジョブを獲得できるドワーフであれば、問題ないはずだ。
 「ドワーフは力強さを持つ種族ですから、前衛として役に立ちましょう」
 「やはりそうか」
  この手の話も多少はロクサーヌから聞いた。
  あくまで雑談に留まる範囲で。VIVID XXL
  ドワーフの奴隷が買えそうかとか、深い部分は尋ねていない。
  そういうことをロクサーヌに訊くのはちょっと憚られる。
  ドワーフや、ロクサーヌのような獣人、竜人は力が強く前衛に向くそうだ。
  というか、人間が非力すぎじゃね?
 「しかしながら、残念なことに当館には現在ドワーフが一人しかおりません。彼女は性格的にあまり荒事には向いていないかと思います」
 「残念だな」
  彼女ということは女性だが、ここで飛びつくわけにはいかないだろう。
  足元を見られる。
  平静に。
 「もしもドワーフがよろしければ、他の店に紹介状を書くこともできます。それを持って、他の店をあたってみてはいかがでしょうか」
 「そんなことをしてもらってよいのか?」
 「かまいません」
 「商売敵なのに」
  俺はいらない客なんだろうか。
  あの客は安く買い叩くからいらない、とか。
  具体的には三割引きで。
 「この商売、買っていただくお客様にはあまりこと欠きません。むしろ大変なのは仕入れでございます。私どもも独自の仕入れルートを持っております。ベイル一帯と、南側にかけての平原が私どもの商圏です。仕入れる地域が異なる店は必ずしも商売敵ではありません。必要なときには融通しあうこともございます」
 「そういうものなのか」
  商売するものがものだけに、特別な事情があるようだ。
 「帝都にある私どもと仲のよい商館を紹介いたしましょう。今の時期ですと、数がそろっていることはないかと思いますが」
 「そうなのか?」
 「春は農繁期でもありますから」
  忙しいなら需要があるのでは、と思ったが、そうでもないのか。
  忙しい間は働き手を売りに出したりはしないだろう。
  口減らしに売るとしたら、農作業が一段落ついてからだ。
  買う側にしても、忙しいからとあわてて買うようでは駄目に違いない。
  必要なだけの奴隷は前もって準備しておかなければならない。
  その程度の才覚もないようでは、奴隷を買えるほどの身分になることは難しいだろう。
 「なるほど、な」
  勝手に解釈して独りで納得する。
  違っていたとしても不都合はない。
  問題は、供給がないから相場が高いのか、取引が活発でないから相場が安いのかだ。
 「紹介させていただく帝都の商館も間違いのない商売をする店でございます。満足のいただける取引ができるかと思います」
 「そう願いたい」
 「その前に、一応、うちにいるドワーフと、他に前衛を務めることのできる者もおりますれば、ご覧いただけますでしょうか」
 「そうだな。そうしよう」
  自然な形で向こうの提案に乗った。
  上出来だ。
  がっつくよりいいだろう。
  奴隷商人も商売だから、できれば見て買ってほしいと考えているはずだ。
 「ミチオ様には一度見ていただいた者もおります。その者たちは除外いたしましょうか」
 「そうしてもらおうか」
  ロクサーヌを紹介されたときに、女性の奴隷はあらかた見たのだった。
  あの中に特によいと思える人材はいなかった。
 「そうすると、男性ばかりになってしまいますが」
 「やむをえないだろう」
  しょうがない。
  やっぱり前衛はおっさんでしょうがないのか。
  まあ、どうしてもドワーフがいいといって断ることもできる。
 「ありがとうございます」
 「ん? ドワーフには会っていないと思うが」
  言ってから、しまったと反省した。
  ドワーフが女性であることに注目していたのがばれてしまう。
 「彼女は最近来たばかりですので」
 「そうか」
 「いえ。ここへ来てから日も浅いですが、物覚えもよく、すでにブラヒム語も習得しております。教育の行き届かないところはないと思います」
  しかし、あわてたのは奴隷商人の方だった。
  少しあせったようにあたふたとフォローする。
  なるほど。まだ教育ができていないだろうと言えば、ウィークポイントにはなるわけか。
  彼女の売り材料を知ることができたので、プラマイゼロだ。
  ロクサーヌはブラヒム語と主人に対する礼儀作法をここで教わったらしい。
  それができていない奴隷は困る。
  奴隷商人は準備をしてくると言って消えた。夜狼神
  ロクサーヌを座らせ、手をつけなかったハーブティーを渡す。
  飲まなかったのはたまたまで、ロクサーヌを引き取りに来たときのように変な薬が入っているのを疑ったわけではない。
  結果からいえば、あの奴隷商人のお薦めは正解だった。
  信用できる商人だと考えてもいいだろう。
 「前衛について何か希望はあるか」
 「ご主人様のお好きなようになされればよいと思います」
  好きにしろというのが一番困るのだが。
  ロクサーヌといろいろ話していると、奴隷商人が戻ってきた。
 「ではまず男性の候補者から見ていただきたいと思います。失礼ながら、彼女にはここで待っていてもらえますか。男性ばかりですので」
 「そうだな。ロクサーヌのような美人が現れたら、どうなるか分からないな」
 「……あ、あの」
 「ロクサーヌは待っていてくれ」
 「かしこまりました」
  男の奴隷の前に彼女を連れて行ったのでは刺激が大きすぎるのだろう。
  奴隷身分に落とされて。商館に長いこと閉じ込められて。突然ロクサーヌのような美人が目の前に現れたら、俺なら謀叛を考える。
  殿中でござる。
  奴隷商人に案内されて、二階に上った。
  部屋に入る。

  ……えっと。

  ここはどこの組事務所でしょうか?
  思わずそう尋ねたくなるようなつらがまえの面々が。
  確かに前衛向きではあるのでしょうが。
  怖い。
  というか、無理。
  こいつらに命令していうことをきかせるとか、難易度高すぎだろう。
  中に入った俺をジロリと睨みつけるその視線だけで殺されそうだ。
  今この場で反乱を起こしかねないと思うのだが、大丈夫なんだろうか。
  ロクサーヌを連れてこなくてよかった、というかむしろ、護衛に必要だったかもしれない。
  飛びかかれば俺の腰に差した銅の剣をすぐにも抜けるだろう。
  置いてくればよかった。
  殿中でござる。
  ご乱心なさるな、殿中でござる。
  吟味もそこそこに逃げ出した。
  圧迫面接というのは聞いたことがあるが、試験官が圧迫される面接というのは初めてだ。
  俺のことを買うよな、と凄まれたら思わずうなずきそうだ。
  部屋の中にいた何人かは候補者ではなく、店側のボディーガードだったようだが、何の慰めにもなりゃしない。
  取り締まる側のマル暴の刑事も暴力団員と変わらない凶暴な顔つきになる、という話を聞いたことがあるが、それと同じ感じだろう。
  奴隷を持つということを、俺はなめていた。
  俺があんな奴隷を持ったら、数日のうちに下克上が発生するに違いない。
  奴隷を持つものにも才覚が必要なのだ。
 「いかがでしたしょうか」
  部屋の外に出ると、奴隷商人が訊いてくる。
  いかがもくそもあるかと言いたい。
  無理だから。
  不可能だから。
  ありえないから。
 「彼らを使うには、俺自身の才覚が足らぬようだ」
  謙遜ではなく本気でそう思う。
 「個別に話を聞きたい奴隷がいれば、呼び出しますが」
  呼び出さなくていい。
  この商人はやり手のように見えて何も考えていないに違いない。
  よく確認すれば、ひょっとしたら気のよさそうな人もいたのかもしれない。
  しかし、暴力団の組事務所に連れて行かれて、居並ぶ組員の中から怖くなさそうな鉄砲玉を選べと言われても無理な相談だ。
  怖くなさそうなやつがいたとしても、前衛としてどうかという問題がある。
  俺が前衛の務まる人物をと注文したから、こうなったのだろうし。
  前衛として有用なら目をつぶるべきなのか。頂点3000
  前途は多難なようだ。

2013年8月8日星期四

石像

石化とクリティカルで、戦いは多少楽になった。
  とりわけ、石化が発生すれば戦闘は半分終わったようなものだ。
  気を抜いてはいけないが。SEX DROPS
  元々数匹しかないない団体の魔物のうち一匹が戦えなくなるのだ。
  戦局が大きく傾く。
  そこにクリティカルまで加われば鬼に金棒だ。
  ロクサーヌとミリアたちはうまく連携して、後で倒す方の魔物をミリアが担当できるように動いている。
  ただし、石化はあまり発生することはない。
  クリティカル率上昇をセットしている俺のクリティカルで魔法の数が減ることよりも少ない。
  そこは、ミリアが戦士Lv30になって暗殺者のジョブを取得することに期待しよう。
  どちらも運頼みというのが、一つ問題点ではある。
  階層の最大数である五匹の魔物が出てきたときに、石化もクリティカルも発生しなかったらどうなるか。
  二十階層では問題はないが、石化とクリティカルを頼みに上まで進んでいったときに起こったら、ピンチになるかもしれない。
  クリティカル率上昇は五パーセントまでで留めておく所以である。
  ボーナスポイントを使う以上、クリティカル率上昇はいつもいつもずっとつけられるわけではない。
  今はもう少し伸ばすこともできないではないが、はずしたときとのギャップは小さい方がいいだろう。
 「ご主人様、ルーク氏からの伝言メモが残っています。コボルトのモンスターカードを落札したようですね」
 「コボルトか。なら明日でいいか」
  夕方、探索を終えて家に帰ってくると、ルークからのメモが残っていた。
  次の強化は、ヤギのモンスターカード待ちだろうか。
  早く落札できればいいのに。
  別に戦闘がつらくなってきているわけでもないが。
  コボルトのモンスターカードはすぐに使う予定もないので、受け取りに行くのは明日の朝にする。
  夕食に取りかかった。
  とんかつだ。
  パン粉を作るのも肉を切るのもベスタにやってもらう。
 「パン粉ができました」
 「ありがとう。ベスタが手伝ってくれるので楽だ。ベスタがうちに来てくれて本当によかった」
 「こちらこそありがとうございます。何を作っておられるのですか?」
  ベスタに手伝ってもらって暇なので、俺はその間にクレープを作ってみた。
  牛乳、小麦粉、砂糖、卵を適当に混ぜる。
  クレープなんか作ったことはないが、多分牛乳少し多めの柔らかいくらいの感じでいいだろう。
 「ちょっとしたテストだ。見ておけ」
 「はい」
  生地を落とし、フライパンに薄く延ばした。
  実験なので作ったのは一枚分だ。
  生地を全部投入する。
  フライパンの上をとろとろと流れていった。
  こころもち柔らかすぎたか。
  牛乳はもうちょっと少なめでいいだろう。
  失敗というほどでもないが。
  フライパンはきっちり温めていたので、すぐに固まっていく。
  クレープ屋の店頭で焼いていたのもこんな感じだったような気もする。
  初めてなのにここまでできれば十分だろう。
  後は折りたたんで……。
  あ。失敗した。
  焼けたクレープをフライパンからはがそうとするとき、うまくはがれず、くしゃくしゃになってしまった。
  もっと慎重にやらないといけないのか。
  あるいは、フライパンの上で折りたたんでから取り出すのがいいか。
  今日のところはテストだからこれでいい。三体牛鞭
  クレープを適当に五つに切る。
  最初の一切れを口の中に入れてみた。
  お。クレープだ。
  普通にクレープができている。
  磯辺焼きは無理だが、クレープはできた。
  柔らかさは似たようなもんかもしれない。
 「試しに作ったものだ。みんなも一切れずつ食べてくれ」
  他の四人にも勧める。
 「ご主人様がお作りになったものなら、楽しみです」
  ロクサーヌが真っ先に次の一切れを取った。
  順番が大切らしい。
  適当に切ったから、大きさも違うと思うしな。
  五等分は大変だ。
 「あくまでテストだからな。次はもう少し本格的に作る」
  期待されてハードルが上がっても困るが。
 「これは、すごいです。さすがご主人様です」
 「柔らかくて、甘くて、美味しいです」
 「すごい、です」
 「美味しいです。こんなにふわふわしていて、こんなにもっちりしていて、こんなに美味しいものがこの世にあるなんて知りませんでした」
  セリーとミリア、ベスタも順番に一切れずつ取って食べた。
  四人とも喜んでくれるようだ。
  普通にちゃんとクレープができたしな。
  とりわけベスタに好評だった。
 「ベスタはこういうの食べたことなかったのか」
 「はい。こんなに美味しいものを食べられる日が来るとは思ってもみませんでした。いつもいつもありがとうございます。ご主人様にはどれだけ感謝しても感謝しきれません」
  ベスタには刺激が強すぎたらしい。
  まだとんかつもあるのだが。
  ベスタは、とんかつにも感激していたが、クレープほどではなかったようだ。
  同じ感激では同じに感じなくなってしまうだけかもしれない。
  同じ感謝では同じに感じなくなってしまったのかもしれない。
  感謝は行為で見せてもらった。
  ベスタははじめから積極的ではあったが、最近ではそれに加えて徐々にねっとりとするようにもなってきたと思う。
  いい傾向だ。

  コボルトのモンスターカードは翌朝受け取った。
  予備用で使い道はないのですぐ迷宮に入る。
  入った直後、ハルバー二十階層のボス部屋に到着した。
  探索は順調に進んでいたらしい。
  現れたのは、ハットバットとボスのパットバットだ。
  煙が集まって魔物が二匹現れる。
  早速雑魚から片づけようと駆け寄った。
  と、ハットバットの正面にベスタが立ちふさがる。
  何故邪魔をする、と思ったが、ボス戦ではそうするように言ったのだ。
  忘れてた。
  ありがたいが、微妙にありがたくない。
  ちょこまかと飛び回るハットバットの場合、誰かが相手にしているところを横からぶん殴るのも大変ではあるんだよな。
  相打ち上等で正面からやりあった方が多分早く倒せる。
  どうせデュランダルを持っているのだからダメージはHP吸収でカバーできるし。
  まあしょうがない。
  何が出てくるか判断してから指示を出して動かすのもワンテンポ遅れるだけだろう。
  横から殴ればあまり攻撃はされないから楽ではある。
  文句を言ってはいけない。
  ハットバットがベスタを攻撃する。
  ベスタが剣を当ててこれを受け流し、魔物は右から左に抜けた。
  俺はその外側をさらに大回りで追いかけていく。
  ハットバットが空中で体勢を整えたところになんとか間に合い、スラッシュを叩き込んだ。
  魔物は再度ベスタに体当たりを敢行し、俺とは反対側の左に抜ける。
  嫌な方へと動きやがる。
  絶対わざとだろう。
  というか、当然そう動くか。
  あわてて追いかけたが、スラッシュは間に合わない。
  次の突撃には予め一歩踏み出し、ベスタがかわしたところにデュランダルをぶち当てた。
  おっと。
  手ごたえがよかったので、今のはクリティカルになったらしい。
  バランスを崩したハットバットが立てなおしたところにもう一撃浴びせる。
  魔物がベスタを攻撃した。
  ベスタが弾き返したところにデュランダルをぶち当て、さらにもう一発スラッシュを放つ。
  ハットバットが墜落した。
  ようやく倒せたか。
  ハットバットに振り回され、多少時間がかかってしまった。
  ここで一息入れることもできず、ボスの囲みに加わる。
  ボス蝙蝠は、攻撃をすべてロクサーヌが盾で弾き返したので、それほど動き回られることなく、始末した。男宝
  さすがはロクサーヌだ。
 「途中で素晴らしい一撃が出ていました。さすがご主人様です」
  ボスを倒すと、ロクサーヌが褒めてくれる。
 「ありがとう」
 「さすが、です」
 「私のは竜騎士のジョブが持つ特性らしいですが、同じことがおできになられるなんてすごいです」
  そしてロクサーヌに騙される面々。
  パットバット相手には、二回クリティカルが出た。
  ベスタもクリティカルを出している。
  それなのにミリアの石化は出なかったのか。
 「セリー、ボスは状態異常にならないのか?」
 「なったという報告はあります。ただし、頻度が大きく下がるようです」
 「そうなのか」
  唯一人ロクサーヌに騙されないセリーに訊くと、答えが返ってきた。
  ボスは状態異常になりにくいのか。
  やはりボスだけのことはある。
  というか、そういうときこそ状態異常耐性ダウンの出番ではないだろうか。
  今はシックススジョブまでつけているので、博徒と剣士を同時に使える。
  だからクリティカルも出た。
  次は試してみよう。
 「ハルバー二十一階層の魔物は、ロートルトロールです」
  セリーの話を聞いて、二十一階層に移動する。
  ロートルトロールか。
  マーブリームは最後の二十二階層ということになる。
 「午前中はこのまま二十一階層の探索をやろう。昼に休んだ後、クーラタルの迷宮に行く。二十階層の突破と、その後で十七階層へ行こう。な、ミリア」
 「はい、です」
  マーブリームが最後でも、ミリアはそんなに残念そうにはしていない。
  どうせ次に行くことになるわけだし。
  問題があるとすれば、二十二階層を突破するときか。
  二十二階層の次の階層には行きたくないかもしれない。
  いや。二十二階層ではトロが残るまでボスを狩るのか。
  二十三階層でもマーブリームは出るしな。
  うまいことできている。
  先に進みたくなくなるのは二十三階層を突破するときだな。
 「尾頭付きを二個取って、明日の夕食だ。今回はミリアに調理をまかせる」
 「はい、です」
  ミリアを鼓舞して、迷宮を進んだ。
  別に鼓舞しようがしまいが石化の確率に変わりはないだろうが。
  進んでいくと、ロートルトロールが三匹とラブシュラブ一匹が現れる。
  ファイヤーストームを浴びせた。
  十八階層のフライトラップと十九階層のラブシュラブはロートルトロールと同じく火魔法が弱点だ。
  マーブリームを間にはさむより、ロートルトロールは二十一階層に出てきてくれた方がありがたい。
  火魔法を撃ちながら、魔物を待ち受ける。
  ロートルトロールは割と大柄だが、ラブシュラブ一匹を含めた四匹全部で最前線に並んだ。
  並んで迫ってくる姿には迫力がある。
  前衛陣が斬りつけると、お返しに殴りかかってきた。
  威力のあるパンチだ。
  ロクサーヌが軽くそらし、ミリアが避け、ベスタが剣で受け流す。
  ロクサーヌは続くフライトラップの挟み込みも上半身を巧みにそらしてかわしている。
  フライトラップが間に入ったので、ミリアもロートルトロールを相手にするようだ。
  毒持ちのフライトラップの方が厄介といえば厄介だが、ロートルトロールの攻撃も厳しい。
  石化してくれるならどちらでもありがたいところだろう。
  結局、石化は発動せず、火魔法だけで四匹を同時に倒した。
  魔法を放った回数は順当に増えているので、クリティカルは発生しなかったと思う。
  クリティカルが発生してなおこの回数だったという可能性もあるが。
  クリティカルがあると正確な回数が計りにくいという問題点はあるな。
  最初だけ博徒をはずすか。男根増長素
  別にそこまですることもないか。
  クリティカルがなくても石化が発生して狂うこともあるだろうしな。
  クリティカルもそんなにたくさん発生するわけではない。
  最悪で一割くらい戦闘時間が延びることもある、と考えておけばいいだろう。
  次の相手は、ロートルトロール一匹にハットバット二匹だ。
  ウォーターストームで迎え撃つ。
  今は二匹と一匹だからいいが、一匹ずつだったらどっちを先に倒すべきか。
  麻痺攻撃があるロートルトロールが先だろうか。
  ハットバットの突撃をベスタが弾いた。
  ベスタもかなり慣れ、ハットバットの攻撃にも対処できるようになってきている。
  やはりロートルトロールが先だろう。
  そのロートルトロールが拳を振り上げる。
  こっちの重い一撃の方が大変そうだ。
  と、腕を振り上げたところで、ロートルトロールの動きが突然止まった。
 「お」
 「やった、です」
  石化したようだ。
  腕を振り上げたまま、固まっている。
  二本足だと何かの石像のようにも見えるな。
  振り上げた腕が恐ろしい。
  今にも襲ってきそうだ。
  実際、襲ってきていたわけだし。
  世の彫刻家が見れば口惜しがるくらいのできだろう。
  ラオコーンより写実的だ。
  ゴリアテを殴ろうとするトロール像。
  サモトラケのトロール。
  考えるご老体。
  別に考えてはいないか。
  どっちかというと、運慶・快慶の方が近いだろうか。
  金剛トロール像。
  仏像というなら、トロール苦行像か。
  あれは歳をとっているわけではないが。
  水魔法でハットバットを倒した後、ファイヤーボールで石像も片づけた。
  ロートルトロールはすぐに煙になる。
  石化してもちゃんと火魔法が弱点というところが、いじましい。V26Ⅳ美白美肌速効

2013年8月7日星期三

一長一短

さて、次にする事は……。
  そう考えているとキールがワシを小突いた。
 「なんだ?」
 「あのな兄ちゃん。兄ちゃんは俺も強くしてくれるんだろ?」男宝
 「ん? まあ望めばやってやろうじゃないか。他に立候補者が居るのならいくらでもしてやるぞ」
  今は二番塔の守護に意識を集中せねばなるまい。
  戦力強化は急務を要する。
  キールが強くなりたいというのなら、それを叶える事も容易い。
 「じゃあ次は俺を強くしてくれよ! その分戦うからさ!」
 「……キールちゃん。あんまりナオフミちゃん頼りになるのはお姉さん感心しないわよ」
 「良いんだよサディナ姉ちゃん。俺はもっと強くなりたいんだ」
 「今のナオフミちゃんは少し変わってるから、ちゃんと考えてからするべきだとお姉さん思うな?」
 「サディナ姉ちゃん何言ってんだ? 兄ちゃん、言葉使いがおかしいだけだぜ? 現に病気の子を助けたし、今までと何も変わらねーじゃん! 兄ちゃんは兄ちゃんなんだよ」
 「まあそうなんだけどねー」
 「ともかく兄ちゃん! 俺を強くしてくれ!」
 「ふむ……わかった」
 「キールちゃん……」
  キールはLvこそそれなりに高いがラフタリア達の様に飛びぬけて強いと言う程でも無い。
  気の概念の習得も遅れていて、裏切った連中に一歩以上出遅れている。
  ワシはラトの魔物に施した物と同じようにキールを培養槽のある場所に立たせ蓋をさせてから技能を発動させる。
 「お前はどんな様に改造してほしいのだ」
 「えっとなー」
  キールが干渉される力を認識し、なりたい姿をワシに伝えてくる。
  だが……。
 「この改造はキール、亜人や獣人の範疇から逸脱する物であるがそれでも良いのか?」
 「うん! 俺はこうなりたい」
 「ふむ……」
  出来ない範囲では無い。
  キールは健康その物で、地味に改造に耐える潜在スペックを備えている。
  だが、この先を行くと獣人では無く魔物のカテゴリーに足を踏み入れてしまう次元だ。
  一応は……元に戻れるように弄っておく。
  本来は難しいが、他ならぬキールの頼みだ。やって出来ない事は無い。
 「致命的な弱点が出来る事を覚悟しろ」
 「弱点?」
  キールが元に戻れる範囲での改造ではそれが限界だ。
  使い捨てと割り切れば弱点を無くして強力な魔物を作る事も可能だが、それでは意味がない。
  決してキールや我が配下を犠牲にして、勝利を得るつもりは無い。
 「この改造だと苦手な物が出来る。それを攻められたら容易く負けてしまうと言う意味だ」
 「そうなのか?」
 「ああ、それでも……やるか?」
  改造をしてみないと何が弱点になるか分からない。
  それでも改造結果画面に何が苦手になるかを判断できる。
 「うん! 兄ちゃん! ビシッとやってくれ!」
 「覚悟はあるみたいだな」
 「もう……俺は奪われるだけの存在にはならない! 兄ちゃんの力で……生まれ変わるんだ!」
 「わかった」
 「ナオフミちゃん。あんまり取り返しのつかない事は」
  サディナの気持ちがわからない程ワシも愚かでは無い。
  キールはキールを維持したまま強く生まれ変わるのだ。
 「問題は無い。新たな世界を作る時、キールもその一員として迎え入れねばならないのだ。捨て石になるような真似をワシがするはずもなかろう」
  ワシは技能の発動を指示し、キールを強く作りかえる。
  培養槽に培養液が満ち溢れ、ボコボコと泡立ってキールの姿が見えなくなる。
 「改造には少しの時間が掛る。キールよ、生まれ変わるのだ」
  やがて改造を終えた後、キールは培養槽から出てくる。三體牛鞭
 「これが改造の結果なのか?」
 「ああ」
  キールは自分の体を何度も確認する。
  その姿に変化は無い。
 「全然変わって無いぞ兄ちゃん!」
 「人で無くなってはワシが困る。変身する技能にもう一段階追加した。その姿になればキールはもっと強くなる弱点は――」
  ワシはキールに自らの弱点を教える。
  この問題を偽者や勇者に知られたら、キールは即座に敗北してしまうだろう。
 「と言う訳でフィーロと一緒に新たな力を試してくるが良い」
 「うん! フィーロちゃーん! 俺の新しい力を見てくれよー!」
  と、キールは元気よく走って行った。
 「……じゃあお姉さんはキールちゃんやフィーロちゃん達の様子を見た後、見回りに行ってくるわねー」
 「ああ、行って来い」
  こうしてサディナを見送ってからワシは新たなラフタリアの創造を進めるのだった。

  第二塔を守る結界のブーストが切れ、偽者達がガエリオンに乗ってやってくる。
  ん? 小舟で村の奴隷共も来ているようだな。
  だが、今回はそう易々と破壊されたりなどしない。
  元康を筆頭に、こっちの戦闘組を大量に警護に向かわせた。
  塔へ侵入した連中の数よりこっちの方が上だ。村の時とは逆に有利!
  遠隔でワシは様子を見る。何かあったら指示を出そうじゃないか。
  お? 偽者のパーティー内にラトが居るではないか。
  ラトは非戦闘員だったはずだ。なんで奴が居るんだ?
 「正面から突破は難しそうですね」
 「ああ、本気を出せば出来なくはないが尚文の仲間達だし、下手に怪我させたら命にかかわる」
 「……厄介な事です」
  偽者と錬が愚痴っているな。
  そう思うのならワシの邪魔をしなけば良いものを……。
  だが、ここでワシが監視出来ていると言う事は情報が筒抜けであると知れ。
 「とにかく、強行突破で早期解決を狙います! 皆さん行きましょう!」
  偽者の掛け声に勇者とリーシア、ラトその他が頷いて。
  前回もそんな風に入ってきたのだろう。
  最上階に中枢部があると思うか?
  残念だが、塔ごとに間取りが違っているんだ。第一塔は最上階だったがな。
  第二塔は真ん中辺りに結界の発生装置がある。
  ……何処にあるか光るからもろバレか。
 「来ましたね!」
  元康が侵入した偽者達の前に立ちはだかる。
 「元康は俺が足止めする! お前達は先に行くんだ!」
 「く……」
  錬が元康の前に出て偽者達を先へ行かせる。
  さすがに元康でも同じ勇者である錬とは実質互角、後は三匹がどれだけ役に立つかだ。
 「やるの? ちょっと面倒になってきたよね」
 「もーくんがやる気なんだから私達もある程度やらないとダメよ」
 「うん。じゃないと、もとやすさんが困るし」
  そんなやる気の無い会話をしている三匹の前に浮かぶ生物。
 「キュア!」
  ガエリオンと谷子が三匹の相手をするようだ。狼1号
  ああ、ちなみに塔の結界の所為で逃亡阻止は不可能だぞ。
 「元康! こんな茶番はやめて尚文を元に戻すんだ!」
  錬が元康に向けて流星剣を放つ。
  元康は槍を前に構えて受け流し、そのまま乱れ突きを放った。
 「お義父さんを元に戻す? 何を言うのです。フィーロたんはあのお義父さんを好いているではありませんか。なら私がする事はただ一つ、フィーロたんの為にお義父さんを守る事のみ!」
 「やめろ! そんな事をして、正気に戻った時に尚文がどんな事を言うか分からないのか! お前は絶対怒られる!」
  こっちはあまり見る必要はなさそうだな。
  侵入を許してしまった偽者を追おう。

  監視カメラのチャンネルを弄って偽者を探す。
  いた!
 「ラフー!」
 「ラフ!」
 「まったく、次から次へと!」
  くっ! 偽者の奴、せっかく作ったラフ種達を切り捨てながら進んで行っている。
  さすがに今のラフ種では勇者や偽者相手では手も足も出ないか。
  サディナは何をしているんだ!?
  と思って探すと、二手に別れたのか侵入した裏切り者の奴隷の相手をしている。
  ラフ種に囲まれて、今回も魔法を放てず苦戦をしているな。
  しかもかなりの人数を突破されてしまった。
  事前に打ち合わせをしなかったのが敗因だな。
  ラフ種とサディナは別に戦わせるしかないだろう。
  あ、防衛ラインが突破されてしまった。
  後は結界を維持する装置がある部屋のみ。
  こっちはアトラとフィーロ、フォウルが守っている。
 「フィーロ!」
 「お姉ちゃん、また来たの? 今度は壊させないよ」
 「そうですわ、ラフタリアさん。諦めてお帰り下さい」
 「俺は……俺はアトラが怪我しない為に……戦う!」
  フォウルもやる気を出してくれているようだな。
  やはりアトラとペアで戦わせる方がやる気がでるようだ。
 「いい加減目を覚ましなさい!」
 「目を覚ますのはお姉ちゃんの方だよ。だってごしゅじんさまとっても楽しそうだよ?」
 「アレはナオフミ様ではありません! フィーロ、貴方はラースシールドを使った時、暴走しないように力を貸していたと前にナオフミ様は私におっしゃっていました。なのになぜ今回はナオフミ様を困らせるような真似をするんですか!」
  そんな事もあったな。
  憤怒の暴走を止めるには本物のラフタリアかフィーロがいなくてはならない。
  本能の塊であるフィーロが味方なのだ。
  つまり、今のワシは暴走していない。
  ワシが間違っている道理が無い。
 「それは私が説明しますわ。その力はフィーロちゃんに取って、尚文様の本質を歪めてしまう様に見えたのでしょう。ですが今回は違います。尚文様の本質に大きな違いはありません。ですから私もフィーロちゃんも、尚文様に付き従っているのです」
 「うん! 今のごしゅじんさまね。とっても楽しそうでー……フィーロや皆を大事にしてくれるの。フィーロも楽しいから今のごしゅじんさまも好きだよ」
 「はい。私達と違う世界に生きていた尚文様の心を、真に理解する事は誰にもできないのです。むしろ使う言葉が変わっただけで尚文様を否定するだなんて……私にはできません」
 「それは私に対する当て付けですか? ナオフミ様が正気に戻った時、どれだけ嘆くかわかっているのですか?」
 「だとしても、私は尚文様の敵にはなりません。例え何があろうとも」
 「フィーロ、後でナオフミ様に叱ってもらいますからね!」
 「ごしゅじんさまはごしゅじんさまだよ? お姉ちゃんがいないって沢山泣いてたのに、なんでお姉ちゃんはわかってくれないの?」
 「な、ナオフミ様が……?」
  一瞬偽者が迷うかの様に困った顔をした。
  しかしすぐに元の表情に戻る。巨根
 「……メルティちゃんも怒ってますよ!」
 「メルちゃんもごしゅじんさまに会えば考えが変わると思うよ?」
  怒りも最高潮に達したのか偽者が剣を強く握って構える。
  全体にはオーラを纏っており、女騎士の様に変幻無双流を使える事を示している。
  どこで習得したのか、偽者は変幻無双流まで使えるのか。
 「どうやら話し合いでは解決できない様ですね」
 「話が早いですわ。いずれこうなると分かっていました」
 「たぶん今のごしゅじんさまの方が楽しいよ? だっていっぱい笑ってるもん! フィーロはごしゅじんさまの笑顔を守るって決めたの」
  殺気に反応してフィーロ、アトラ、フォウルも答える。
 「弓の勇者さん、リーシアさん、それにラトさん。分かってますね?」
 「はい」
 「ふぇえ……フィーロちゃん達と本当に戦う事態になっちゃいました」
 「ええ、わかっているわ!」
  それぞれが見合った直後、戦闘が始まった。
  アトラとフィーロがそれぞれ、偽者に向けて攻撃をする。
  しかし、樹とリーシアが遠距離から妨害……のはずがフォウルに叩き落とされる。
 「邪魔はさせない」
 「リーシアさん、どうしましょうか? 本気で放てばフォウルさんに致命傷を与えられると思いますが」
 「ふぇえ! 絶対ダメです!」
 「幻影剣!」
  ゆらぁっと偽者がラフタリアの真似をして姿を掻き消す。
  しかし、それは無意味だ。
 「無駄です!」
  アトラは目で物を追っている訳じゃない。気を察知して追い掛ける事は特化しているんだ。
  姿をかき消した偽者を追い掛けて突き出す。
  フィーロはその点、野生の勘でやろうとするが、偽者の放つ魔法は野生の勘も鈍らせるようだ。
  若干アトラより出遅れている。
 「く……無双活性!」
 「そんなのこっちも出来るよー」
 「ええ、フィーロちゃん! やりますよ!」
  アトラとフィーロは偽者が使った無双活性に合わせて無双活性を放つ。
  二人掛かりでないと戦えないとは……とは思うが時々、フォウルの迎撃をすり抜けて樹とリーシアの援護がアトラ達を邪魔するからしょうがない。
  決定打に欠けるな。要注意事項だ。勃動力三體牛鞭

2013年8月2日星期五

望みの鎖

池田屋の一件を恨みに思った長州が、挙兵して京に向かっている――。
 以前からまことしやかに囁かれていた噂が現実となって耳に入ったのは、斎藤が愁介とひと悶着を起こした翌朝のことだった。三便宝
「――今、長州勢は大坂の山崎に陣を敷いているようだ。先年の八月十八日の政変とは異なり、今度こそ間違いなく戦となるだろう」
 隊士一同が会した道場の上座で、近藤が厳しい顔を引き締め、朗々たる声を上げる。
 いつぞや以上に緊張感の張り詰めた空気に、しかし近藤はいっそ心地良さげに目を光らせて、隊士らをぐるりと見回した。
「池田屋の折には、帝からの禁を侵し都を焼き払うなどと画策した上、それが叶わぬとなれば今度は帝のおわす都へ向けて兵を挙げる……。これぞまがう方なき賊の所業だ。賊の討伐こそ我々に課せられた第一の任務と心得、各々方、いつでも出陣ができるよう支度を整えておくように」
 腹の底に響く声で、厳粛に告げる。
 応、という百名近い男達の返答を満足気に受け取ると、近藤は土方と山南を連れて道場を後にした。
「……なーんかなぁ」
 近藤らの足音が遠ざかり、道場がにわかにざわめきたった時、斎藤の隣に座していた永倉がぼんやりと口を開いた。
 目を向けると、永倉は立てた片膝に頬杖をついて近藤らの歩き去った方角に視線を投げている。
「間違っちゃないんだけどさ、近藤さん『街を護れ』とは言わなかったねぇ」
 どこか不服そうに鼻の頭にしわを寄せ、低くぼやく。
「あー、そういや、そうだな」
 先刻の様子を思い返すように視線を上げながら、永倉の反対隣にいた原田が相槌を打った。
「……近藤さんなら、甘くてもそう言うかと思ってたんだけど」
「そこは、あれじゃない? 土方さん辺りにでも釘刺されたとか」
 藤堂が後ろから顔を覗かせて、永倉の肩に手を置いた。池田屋から半月以上が経ち、ずっと頭に痛々しく巻かれていた包帯が取れて、すっきりとした顔をしている。ただしその額には、右上の髪の生え際から左の眉根の近くまで、一文字の傷跡がしっかり残されており、ただの爽やかな好青年といった印象から少々変わって当人に箔をつけていた。
「まあ、その線が一番アリかなぁ」
 藤堂の言葉に頷いて、永倉ははふ、と吐息した。
「……でも、あれじゃまるで組の手柄のことしか考えてないみたいで、何かヤな感じだわ」
 永倉の呟きに苦笑して、藤堂と原田が「まぁ確かに」と同意する。
「でもまぁ大丈夫だよ、ハチ。そんな考え、山南《やまなみ》さんが許すわけないんだし、今回はたまたまそう聞こえちゃっただけだって!」
 明るく手をはためかせる藤堂に、永倉はようやく頬をゆるめて笑顔を覗かせた。
 それに満足気に微笑むと、藤堂は景気付けるようにパンッと手を叩き合せて立ち上がる。
「はー、オレも怪我治って良かった! 戦が起きるって時に寝込んでたんじゃ締まらないし、何より何より!」
「ごもっともだね。今回も期待してるよー、先駆けセンセ」
 どのような危険にも真っ先に突っ込んでいく、切り込み隊長としての藤堂のあだ名を茶化すように言って、永倉はにかりと歯を見せた。
 藤堂は「ほいほい、まっかせといて!」と胸を叩くと、
「んじゃ、切り込み前の快気祝いに、山南さんを飲みに誘ってこようーっと」
 笑顔で手を振って、いそいそと道場を出て行く。
「……ほーんと、杞憂だといいよね」
 無邪気な後姿を見送った永倉が呟いた言葉は、恐らく隣にいた斎藤と原田にしか聞こえなかっただろう。
 笑みの消えた横顔を見ていると、気付いた永倉はわずかに口の端だけを上げて、軽く斎藤の腕を叩くばかりだった。

「――あ、斎藤。お帰りー」
 道場から部屋に戻った時、思いがけぬ声に迎えられて斎藤は目を瞬かせた。
 室内に座していたのは、同室の沖田ではなく「山南を飲みに誘う」と言って先に道場を出た藤堂だったのだ。
「総司なら、さっき土方さんとこ行くって部屋出てったよ」
「はぁ……そうですか」
 明るく報告されるものの、斎藤は戸惑いを隠せず、敷居をまたいだところで足を止める。
「……沖田さんに用だったんですか?」
「んーにゃ。お前とちょっと話がしたかった」
 あぐらをかいていた藤堂は、よいせと両腕を振りながら勢いづけて立ち上がった。訝る斎藤の前まで歩いてくると、わずかに低い位置から覗き込むように見上げてくる。
 斎藤は軽く身を引いて、困惑に眉根を寄せた。
 ――互いに同い年ではあるが、試衛館時代から、斎藤は藤堂と二人きりになったことなど数えるほどしかない。元来の性格が違いすぎるためだ。寡黙で賑わいを敬遠する斎藤と違い、藤堂はいつも元気で爛漫としている。
 沖田も斎藤とは違い、賑わいを好む性質ではあるが……仮にあちらが賑わいを外から眺めるのが好きな性質だとすれば、藤堂は賑わいの中にいるのが好きな性質であり、要は斎藤にとって藤堂は苦手な部類なのだった。
「話……ですか」
 そんな相手に突然、二人きりで「話がある」と言われれば、戸惑うなと言うほうが難しいだろう。
 しかし藤堂はさして戸惑う様子もなく、むしろ斎藤の態度に苦笑して、クセの強い髪を指先でいじった。髪に編み込んである洒落た赤い紐が、指の動きにあわせて艶やかに揺れる。
 考えるような間を置いてから、藤堂はほとんど独り言のように呟きを漏らした。
「オレはさー。腕っ節とか、冷静なとことか、結構お前のこと尊敬してたり、まぁもっと端的に言えば割と好きなんだけど」
「はあ……それは、どうも」
「だから、どうしても言いたくて」
 藤堂はそこで一旦言葉を切ると、指先で髪を払い、いやに寂しげに目尻を下げて、はっきりと言った。
「あのね。お前が死んだら、オレ、泣くよ?」
 明るく、しかし真摯に告げられた言葉に、斎藤は絶句した。
 瞬きさえ忘れて藤堂を凝視していると、藤堂は少しばかり照れたようにあごを引き、額の傷を手持ち無沙汰にそっとなぞる。
「えーっと……ごめんね。要するにオレ、昨日のお前と松平とのやり取りを、実は割としっかり聞いてたわけでして」
「は……?」
「いや、だって……お前ら完全に何も考えてなかっただろうけど、ていうか遅れを取り戻すためにコッソリ腕立てとかやってて障子閉めてたオレも悪いのかもしんないけど……お前らが口論してたの、オレらの部屋の真ん前だからね?」
 軽くめまいがした。
 言われればそうだと気付くものの、それこそ今さらの話で、一瞬にして全身から血の気が引いていく。
「あっ、聞いた話のこと、別にハチとか左之っちゃんには言ってないから! あの時、部屋にいたのオレだけだったし」
 藤堂は慌てたように顔の前で手を振った。巨人倍増
 が、そういうことではなくて。
 斎藤は思考をめぐらせて、昨日のことを思い返した。
 ――葛《かづら》のことを口にしたのは覚えている。が、それ以外はどうだ。会津の間者であることや、それをにおわせるようなことは、口走っただろうか。
 必死に記憶をたどっていき――
 何も、言っていないはず。
 そう結論にたどり着いて、思わず深く嘆息した。しかし冷静になれば、そのようなことを口走っていればそもそも藤堂は何よりまずそこを突いてくるだろうと考えが至り、余計に脱力してしまう。
 ……動揺しすぎだ。
 自分に舌打ちをしたくなり、片手で額を覆ってもう一度、深く嘆息する。
「わーっ、あの、えっと、ごめんって! 結果的に盗み聞きになっちゃって悪かったって反省してます!」
 藤堂は見当違いのところで焦っていたが、逆にそれがありがたくもあった。仲がいいわけではないが、さすがに付き合いの年数が年数だ。藤堂が下手な嘘をつける人間でないことだけは斎藤も知っている。
「いえ、こちらこそお聞き苦しいものを、失礼しました」
 溜息交じりに言って改めて顔を上げると、藤堂は空気をかき回すように動かしていた手を止めて、何か煮え切らないような顔をした。
「いや、別に聞き苦しいとは思わなかったけど……そうじゃなくてさ」
「忘れていただけると助かるんですが」
「それは無理だろ!?」
 間髪容れず突っ込まれ、斎藤が眉根を寄せると、藤堂も困ったように眉尻を下げた。
「いや、だって……もっかい言うけど、お前が死んだら、オレ、泣くよ?」
「……それほど親しいわけでもないのにですか?」
「おお……胸に刺さることをざっくり言うね、お前」
 藤堂は胸を押さえて、よろりと一歩後ろに引いた。
「はぁ、すみません。ですが……少なくとも、藤堂さんが亡くなられても、俺は泣けませんよ」
「そりゃ、お前が死にたがりだからだろうよ」
 人のことを言えないざっくりとした物言いで、藤堂は切り返した。それから難問式でも前にしたように、腕を組んで首をひねる。
「じゃあさ、オレの言うこと、鬱陶しい?」
 どう答えていいものか返答に窮し、首をひねり返すと、藤堂は苦笑のような困惑のような複雑極まりない顔をして溜息をついた。
「斎藤ってさぁ、試衛館にいた頃から割と世捨て人っぽい雰囲気あって、何でなんだろうなーってずっと思ってたのさ。オレはお前のこと割と好きだけど、お前はたぶんオレみたいなのって好きじゃないだろうし、っていうかオレがお前の立場ならオレとか近寄って欲しくないなと思うし、だから今まではあんまり触れないようにしてたけど……」
 藤堂はくるくると舌を回し、押し付けがましいわけではないけれど口を挟む余地のない速さで、言葉を続けた。
「それでも、オレはやっぱりお前が好きだから、死にたがりだったってのは衝撃だったわけさ。死ぬなよオイって突っ込みたくもなっちゃうわけなのさ」
「……藤堂さんに好いていただくような人間じゃないですよ、俺は」
 ただの真実として淡々と告げると、藤堂は普段の底抜けの明るいものとは打って変わった、妙に大人びた表情で目を伏せた。
「うん……お前は、お前が嫌いなんだなぁって、昨日の話し聞いて、それも何となく解った」
 初めて見る表情に驚き、とっさに何も返せなかった。
 藤堂は改めて口元をほころばせると、静かな瞳で斎藤を見上げてくる。
「でもね。それでもオレは、お前が悪い奴じゃないってことだけは知ってるんだ。『面倒』って言いながらオレ達に手を差し伸べてくれる奴だって……ものすごい無関心そうな顔しながらも、怪我したら必ず声かけて心配してくれて、無事と解ったら『何よりだ』って言ってくれる奴だって、知ってるんだよ」
 ――いいように、解釈しすぎだ。
 思ったのに、そうと言い返せなくて、斎藤は藤堂から視線を逸らしながら喉元を押さえた。
 息が詰まる。本当に、誰も彼もひたむきで純粋で、目が痛くなるほどだ。
 ただ、そんなふうに思うのに……何故だろうか。藤堂の言葉は、不思議と不快にはならなかった。
 息苦しさは同じだが、沖田の言葉ように腹に溜まるわけではなく、愁介の言葉のようにいら立ちを覚えることもない。
 ふと、先刻の藤堂の言葉が、改めて頭に引っかかる。
 ――『オレがお前の立場なら……』
 改めて視線を返すと、藤堂は不思議そうに目を丸くした。
「ん、どした? やっぱ鬱陶しい?」
「いや、そうじゃなくて……」
 否定するも、どう訊ねていいものか解らず、また口をつぐむ。
 そうして、しばらくの間を置いて考え抜いた末に口にしたのが、
「……『取り残されたこと』が、あるのか」
 そんな、解るような解らないような言葉だった。
 藤堂は一度、二度と目を瞬かせると、気の抜けたような笑みをへらりと浮かべた。
「……オレにとってねー、山南さんってお天道様なのさ」
「お天道、様……?」
「うん。山南さんが、初めてオレをオレとして認めてくれたから」
 斎藤が目を瞠ると、藤堂ははにかむように歯を見せた。
「やー、まぁお恥ずかしいことにね。性格は元からこんなんだけど、オレ、昔っから『他人』て苦手でねー」
 何てことのないように手をはためかせ、藤堂はあっけらかんと言った。
「母親が津の藤堂家の女中上がりで、オレはお殿様のご落胤で……身分で言えば結構なもんだけど、だからって表に出られるわけじゃないから、周りからすればオレ達って要するに厄介者だったわけでさ」
「厄介者……」
「そ。だから母親が早くに死んでからは、それこそ『取り残された』感じだったかなぁ。なーんか、みんなオレをオレじゃなく『ご落胤』としか見なくて、かと言ってオレ、別にお前ほど突出して剣の腕が立つわけでもないし、特別に学があるわけでもないから、身分を隠せば誰も見向きもしないしで……」
 同じではないが聞いたことのあるような境遇に、斎藤は目を伏せた。
 まさかの告白に驚いたような、妙に腑に落ちて気が抜けたような、曖昧な気分が胸をかき回す。
「……俺は、その『お天道様』を亡くしてしまった」
 気付くと、考えるより先にそう漏らしてしまい、
「……そっか。やっぱ、そうなのか」
 藤堂は納得したように頷いて、苦笑した。
 部屋に沈黙が下り、思い出したように近くの木で蝉が鳴き始める。
 それまでずっと立ちっぱなしだった斎藤と藤堂は、どちらからともなく腰を下ろして身を落ち着けた。並び合うでも、向かい合うでもなく、ただ座って視線を交わす。
「オレはお前のお天道様にはなれないだろうけど……それでもさ。オレ、お前のこと好きだから、お前が死んだらやっぱり泣くよ」
 ぽつりと、藤堂が改めて呟いた。
「お前が生きてることを誰も責めないよ。死んじゃったお前のお日様も、お前が生きてることを責めたりはしないよ、絶対に」
 葛のことなど知るはずもない藤堂の言葉が、けれど今の斎藤には他の誰よりすんなりと耳に入る。
「……側に逝きたいと、思う気持ちが消えるわけでもないが」
 斎藤はささめくように、それでもようやく藤堂に本心を返した。
「藤堂さんの気持ちは、ありがたく思う」
 藤堂は歯を見せて、いつもの底抜けに明るい笑顔を満面に浮かべた。 中絶薬RU486
睨み合いが続いていた長州との戦の火蓋が切られたのは、それからおよそひと月後、七月の半ばを過ぎた頃だった。
 数日前まで人々が行き交い、生活をしていた大通りに、砂と煙がもうもうと舞っている。大砲の放たれる轟音と喚声、刀や槍のぶつかりあう甲高い音が入り乱れ、丸三日続いている戦に、それまで存在していた都の日常など忘却の彼方だった。
 雅さなどの欠片もない、埃と硝煙、血と汗のにおいが、都中に充満している。
「……ッ痛《て》! ああクソッ、かすった!」
 日暮れも程近い時刻、銃弾が飛び交う中、商家の陰に隠れて道向こうを確認しようとした永倉が大きく身をのけ反らせた。
「大事ありませんか」
 すぐ後ろにいた斎藤が口早に問うと、永倉は誠の羽織を片肌脱ぎし、口と手を使って着物の袖を破きながら「問題《もんらい》ねえ《れー》」と頷き返す。
 斎藤は永倉の手を制し、手当てを代わった。診たところ、それなりに血は出ているが左腕ということもあり、刀を握るに不都合はないだろうと知れる。
「ちぇ、面倒くせぇなぁ……」
 永倉は変わらず銃弾が飛んでくる通りを、改めて出格子ごしに覗き見た。斎藤がその腕に布をきつく巻きつけている間に、口の中で相手の人数や地形をぶつぶつと確認して目を光らせていた。
「――よし。斎藤、蟻通《ありどおし》、宿院《しゅくいん》」
 応急手当が終わると同時に、永倉が振り返る。永倉は斎藤とその背後に控えていた平隊士らに声をかけ、淡々と指示を出した。
「ちょい遠回りして向かいの通りに行ってくれるか。敵の小隊は銃持ちで十人足らず、こっちは七人、あちらさんの弾切れ待ってもいいんだが、ちょいと不意でも衝いてやりましょうや」
「本隊の様子も気になりますし、妥当ですね」
 斎藤が頷くと、池田屋の折、斎藤と共に土方隊に加わっていた蟻通が、至極真面目くさった顔で「永倉先生の仇討ちですね!」と意気込んだ。
「おい待て、死んでねぇよ!?」
 頓狂な永倉の言葉に、他の平隊士らが揃ってブッと息をふき出す。変わらず銃弾が飛び交い、遠くで砲声が鳴り響く中、この通りだけ張り詰めていた空気がわずかにゆるんだ。
 蟻通は慌てた様子で「ああっ、いえ、そういう意味でなく!」と手を振り回した。
「解ってるよ! この傷の仕返し、してくれるってんでしょ!」
 何度も頷く蟻通の肩を、永倉は「ありがとさん、よろしく頼むわ」と軽く叩く。
「……それじゃあ、斎藤」
「心得ました。向こうに回り次第、敵の側面を叩きますから……」
「おう。銃弾が止んだ一瞬で、俺らもここから飛んでくよ」
 互いの瞬き一つを合図とし、斎藤は蟻通と宿院を連れて小道を奥へ駆け抜けた。
「……戦況は、どうなっているのでしょう」
 道角の一つ一つで敵がいないかを確認しながら進んでいると、宿院がひそやかにそんなことを呟いた。
「まず、こちらは負けない」
「言い切れてしまうのですか?」
 端的な斎藤の返しに、宿院は不思議そうに問いを重ねる。
「俺達が日々、市中を巡回しているのはこういう時に地の利を得るためだ。俺達は今、迷わず目的地に疾走できているが、これまで一部の人間しか京に上らず、ろくに都を知らない長州兵が同じことをしようとしても、まず不可能だ」
「裏道は、地図には載ってませんものね!」
 蟻通の補足に、宿院が「なるほど」と納得の声を上げる。
「とは言え、街中に火付けでもされて焼け野原にされては後々面倒だ。負けぬからといって手を抜くより、さっさと終わらせたほうが都合がいい」
 言っている側から、遠くで火事と思われる煙が立ち上るのが視界の端に映った。同じくそれを目にした二人も、気を引き締めるように息を詰める。
 そうこうしている間に、先刻いた通りの、敵を挟んだ向かいの小道にたどり着いて、
「このまま突っ込むぞ!」
 気合い一刀、腰の獲物を抜刀しながら、斎藤達は永倉側に向けて銃を構えている長州兵隊に三人揃って突っ込んだ。
 一番手前にいた兵が、ひあ、と引きつった悲鳴を漏らす。それが道いっぱいに響くより前に肩先から刃を振り下ろすと、粘質性の血が足元にぼたぼたと滴り落ちた。
「よっしゃァ、突っ込め!」
 永倉の声が清々しいほどよく通り、残りの隊士達と共に駆けつけてくる。十対七、勢いで圧倒した斎藤ら七人は、あっという間にその場を制し、
「――この方で最後ですかね!」
 不意に正面から駆けてきた男の手によって、まさに最後に残った一人の首が、見るも鮮やかにはね飛ばされた。
「げえっ、総司! 何でお前、おいしいとこ持ってくかな!」
 永倉の非難に、刀を振り抜いた体勢で一つ空咳をした沖田が「えへへ」と笑いながら姿勢を正す。
「善良なる意思においての助太刀ですよぉ」
「善良なる意思とやらで綺麗に首はねられたほうは、たまったもんじゃなかろうけどね」
 苦笑して、永倉は「南無」と片手でホトケを拝んだ。
「……ったく、突っ走って行きゃあがって」
 血刀を拭う沖田の後ろから、今度はそんなぼやきを漏らしながら土方が歩み寄ってくる。
 途端、平隊士達が慌てたように背筋を伸ばして一礼した。
「あれま、土方さん。九条河原の本陣にいるはずの副大将がどうしたのさ、こんなところまで」
「様子見がてら直々に伝令に来てやったんだよ、ありがたく思え」
 茶化す永倉に、土方はあごを上げて不遜に答えた。
 永倉は意地悪く口の端を引き上げて「ウチもまだまだ人手不足ってこったねぇ」と刀を鞘にしまう。
「それで、戦況は」
 斎藤が低く問うと、土方は静かに瞬いて表情を引き締めた。
「敵の本隊が天王山に退きやがった。新選組は後を追う。お前らもついて来い」
「あいよ。それで、近藤さんは?」
「まだだ。斎藤、伝令頼めるか。局長らは伏見稲荷関門への救援に行っている。程近くにいるはずだ」
 有無を言わせぬ視線を投げかけられる。
 特に不都合もないので「承知しました」と斎藤は頷いた。
「伝令だけなら、斎藤先生のお手をわずらわせずとも、我々が……」
 蟻通が手を挙げるが、土方は固く首を横に振って、
「街中にゃ、まだ残党が潜んでやがる。そこここから火の手も上がってやがるし、今の状況じゃ斎藤が適任だ」
「私が行くって言ってるのに。近藤先生のところに行きたかったのに」
「まだ咳してやがる風邪っ引きが我侭ァ抜かしてんじゃねぇよ」
 拗ねた声を出す沖田の頭を、土方は小気味良い音を鳴らして引っぱたいた。
 戦闘の間に乱れたのであろうぼんぼり髪が揺れ、沖田は一層、不満げにむくれる。
「……では、行って参ります」
 どこか恨めしげな沖田の視線をこめかみの辺りで受け流しながら、斎藤は軽く頭を下げた。
 そうして土方の隣を通り抜けようとしたところで、MaxMan
「……山南《やまなみ》さんの様子が気になる」
 ぼそりと告げられ、斎藤は軽くあごを引いて心得た旨を示した。
 ところどころを火事に阻まれたが、途中で賊に出くわすこともなく斎藤は別隊を指揮する近藤と山南の元へ駆けつけた。
 御所の手前で賊を食い止めていたこちらの戦況も、ほぼカタがついたようで、しきりに響いていた砲声も止み、今や小道の隙間から漏れ聞こえる、残党狩りのわずかな喧騒を残すのみとなっていた。
「そうか、本隊が天王山に……どうりで敵も少なかったはずだ」
 報告すると、近藤は煤や返り血で汚れた頬を荒々しく拭って納得の声を上げた。話を聞いてすぐ、伏見稲荷関門の総指揮をとっていた大垣の将に、山南が話を通しに行く。
「――近藤さん、残りは大垣兵のみで大丈夫だと。撤収の許可を得ました」
 駆け戻ってきた山南は、残暑のきつい戦場の中においても寒そうに見えるほどの青い顔で報告を上げた。声はしっかりしているが、なるほど、土方が気にかけていたのはこれだろうかと察する。
「……山南副長。本隊が逃げたとはいえ、後はもはや主戦力の欠いた残党の始末です。お先に屯所に引き上げられては」
 斎藤の進言に、山南はわずかに表情を強張らせた。
 しかし近藤もふむと相槌を打ち、「そうしてくれ、山南さん」と気遣わしげに眉尻を下げる。
 近藤も、元より気にかけていたのだろう。どうやら山南は後ろで指示を飛ばしていたらしく、近藤とは違い、多少煤けてはいるものの目立った汚れもなかった。
「しかし、近藤さん……」
「大丈夫、斎藤くんの言う通り、後は残党狩りだ。指揮は私とトシがいれば事足りるだろう」
 だから案ずることはない、と肩に手を置く近藤に、山南は一瞬、酷い苦痛を噛み締めるかのような顔をした。
 が、目の錯覚だったかと思うほどの瞬く間に表情を落ち着かせて、
「申し訳ありません……では、お言葉に甘えて」
「斎藤くん、山南さんをお送りしてくれ」
「承知しました」
 近藤に頭を下げた時、ふと斎藤の目に、山南の手が映り込んだ。
 爪を立てるようにわき腹を押さえるその手に、わずかに血がついている。新選組の羽織が黒いため、その手の下がどうなっているのかは解らないが――。
「……怪我を?」
 近藤に背を向けて歩き出したところで問いかけると、山南は小さく肩を揺らした。
「いや……大したことはないよ」
「まさか銃弾でも……」
「問題ないから!」
 伸ばしかけた手を遮るように、強く拒絶を示された。
 ――仮に銃弾をかすめたにしても、大した傷ではないな。
 腹から声を返されたことでそう判断し、斎藤は大人しく引き下がった。
 すまない、と山南が妙にか細い声で言ったが、斎藤は特に気にも留めず「いえ」と平坦な声を返す。
「屯所に戻られましたら、手当てなさってください。……藤堂さんに叱られますよ」
 山南が驚いたように目を丸くして斎藤を見る。
 何となしに気まずさを感じ、斎藤はそれ以上は何も言わず口をつぐんだ。
「……ありがとう、斎藤くん。良ければ、あの子に無茶しないようにと伝えてくれるかい」
 静かに告げられた言葉は、別段明るくはなかったものの、山南のことを語った藤堂の声音によく似ていた気がした。

 日が暮れて、辺りが夜闇に包まれる。
 長州軍本隊を追って会津軍と共に天王山に入ると、その中腹から、都に火の手が上がっている様がよく見えた。
「あーあ……燃えてるねぇ」
 隊からわずかに離れてそれを眺めていた斎藤の背中に、歯がゆそうな声がかけられる。振り返ると、不機嫌に顔をしかめた藤堂が斎藤の隣に並び立った。
「せっかく池田屋で『都の焼き討ち』阻止したっていうのにさぁ」
 悔しいのか、藤堂は握り締めた拳をかたわらの木の幹に叩きつけた。鈍い音が鳴り、どこかで鳴いていた夏虫が一瞬ばかり声をひそめる。
「……敵に、何か動きは?」
 斎藤が短く問うと、藤堂は大きく息を吐いて肩をすくめた。
「相変わらずだよ」
 山頂近くのお堂に立てこもっているという敵の総大将、真木和泉守《いずみのかみ》とその腹心達――大した数は残っていないはずだが、近付けば大砲を放たれ、日暮れの時点ではまだ抗う姿勢を崩してはいなかった。
「このまま動きがないようなら、明日の朝に総攻撃を仕掛けるかって……さっき近藤さんと土方さんが、会津のお偉いさん達と話してた」
「……妥当だな」
「オレもそう思う」
 藤堂は軽くあごを引き、それから不意に気が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。
 訝しんで見下ろすと、藤堂は顔を伏せてしばらくの間を置いてから、
「……山南さん、屯所に送ってくれたんだってね」
「ああ……」
 そのことか。
 納得して相槌を返すと、藤堂は伏せていた顔を上げて都に目を向けながら「怪我とか、してなかった?」と呟くように問うた。
「……流れ弾がかすめたようだったが、元気だった」
 というと語弊があるような気もするが、見たままを答えた。顔色は確かに悪かったが、声を張る余裕と藤堂の心配をする余裕だってあったわけだから……
 そこまで考えたところでふと思い出して、斎藤は「ああ」と付け足した。
「藤堂さんに、無茶はするなと言伝を受けた」
「人の心配してる場合かなぁ?」
 わずかな間も空けずぼやいて、藤堂は自分の髪をくすぐったそうにかき混ぜた。が、その声音は安堵に満ちていて、心なしか嬉しそうだ。
「まぁいいや、大事ないなら。ありがと、斎藤。それと……良かったよ、お前も無事で」
 言葉なく視線を返すと、藤堂は裏表のない顔でにっと笑う。
 何だか首元がかゆいような感覚に見舞われる。どういう顔をしていいのか解らず眉をひそめると、藤堂はおかしそうに小さく肩を揺らした。
 立ち上がり、斎藤の肩を軽く叩く。そうして何かを言おうと口を開いた藤堂は、
「……あ」
 急に間の抜けた声を上げて、斎藤の後ろに視線を固定させた。
 同時にかさりと、草を踏み分ける音がかすかに耳に届く。
 肩越しに目をやると、薄暗がりの中に具足を身に着けた会津兵の姿が映り込んだ。
「オレ、戻るね。左之っちゃんもわき腹にかすり傷こしらえたみたいなこと言ってたから、腹の線が二本に増えてないか確かめてくるわ」
 藤堂は明るく言い、もう一度ぽんと斎藤の肩を叩いてから去って行った。
 その後姿を見送り、斎藤はゆったりとした動作で足を返して、体ごと後ろを振り返った。
「……生きてたね。良かった」
 途端に藤堂と同じことを、けれど藤堂よりも安堵しきった声音で呟いて、愁介が口元をほころばせる。
 斎藤は目礼し、周囲に他に人の気配がないかを確かめてから口を開いた。
「……殿は、ご無事ですか」
「うん。帝のお側にずっとついてたみたい。実はまた体調崩して臥せってたんだけど……寝てる場合じゃないって御所に入ってったよ。おかげで取り乱されていた帝も、父上の姿見てからは落ち着いた様子だったって聞いた」
 言い終えると共に、愁介は斎藤の目の前に歩み出た。木々の合間から降り注ぐ月光に照らされ、それまでよりも姿がはっきりと浮かび上がる。
 池田屋の時ほどではないが、それでも愁介は煤と返り血に汚れ、また池田屋の時と同じく瞳の光を失うことなく凛と佇んでいた。
 いつかの時よりも心なしか涼しい夜風が、草木を揺らしながら吹き抜ける。
 紅鬱金《べにうこん》の結い紐が髪と共にやわらかく流れた。月光を反射した結い紐がちかりと輝き、やはりいつかと同じように桜色を錯覚させる。威哥王

2013年8月1日星期四

勝負と現実

今日は運命のピアノコンクールの日、私は朝目覚めた時からすっきりとしていた。
 
負けない、桐生君にだけは負けないと今まで練習をつんできた。
 
課題曲も完璧に弾けるようになった。御秀堂養顔痩身カプセル第2代
 
ミスもしなくなったし、気持ちも、調子も万全、負ける要素なんてひとつもない。
 
私はピアノコンクール会場へと向かった。
 
会場では久賀先生が私を待ってくれていた。
 
「おはよう、西園寺さん。よく眠れた?調子はどうかしら?」
 
「ええ。完璧ですよ。今日は必ず優勝して見せます」
 
「ふふっ、すごい自信ね。西園寺さんの演奏を楽しみにしてるわ」
 
彼女から今日のコンクールの発表順を教えてもらう。
 
「西園寺さんは……最後から2番目ね。1番最後は桐生君。ふたりとも頑張って」
 
「……まぁ、頑張りますよ。あの人に負けたくないですから」
 
最後から2番目、悪くない位置だ。
 
ただし、私の最後が桐生君って言うのはあまり気に入らない。
 
私は控え室に入って、お兄ちゃんからもらったドレスに着替えた。
 
黒と白の入り混じったまるでお姫様みたいなフリル付きのドレス。
 
ゴシックロリータだっけ、よく分からないけど、このドレス、可愛いなぁ。
 
着てみて思ったんだけど、これ、私の身体のサイズぴったり。
 
もしかして、オーダーメイドなのかな……私のサイズ、何であの人、知ってるの。
 
ちょっとだけ怖くなったけど、彼の気持ちは嬉しかった。
 
ピアノコンクールって言うのは、順番にピアノを弾いていく。
 
多目的ホールに集まったたくさんの人の前で演奏するのは緊張する。
 
間違えないかな、上手く弾けるかなというプレッシャー。
 
私は自信があるから大丈夫だと思うけど、子供の頃はそれでミスもしてしまったりして悔しかった記憶がある。
 
「……なんだ、今日は冷静なんだな」
 
私に声をかけてきたのは桐生君だった。
 
彼はいつもなら“プレッシャー”に負け続けていた。
 
本番直前まで緊張していたりして、見てるこっちもダメだなって思うくらいに。
 
それなのに、今日は全くそんな素振りを見せない。
 
「それは貴方の方でしょう。本番に弱いくせに」
 
「今日の俺はいつもと違う。甘く見るなよ、俺は西園寺に勝つ」
 
……彼に不有利な条件はなし、状況は対等、本気の勝負。
 
「……私も負けないから」
 
互いに牽制しあうように、見つめあう。
 
これは怒りではなく、ただ、負けられないというライバル心。
 
「……うっ……それはずるいだろ」
 
先に私から視線を逸らしたのは桐生君だった。
 
なぜか、私の方を見てそこはかとなく顔を紅潮させているようにも見える。
 
私は睨み付けるのをやめて、おかしな様子を見せる彼に尋ねた。
 
「何?……何か言いたい事でもあるの?」
 
「い、いや……なんていうか、その格好なんなんだ?」
 
「え?……このドレスの事?」
 
お兄ちゃんからもらったゴスロリと呼ばれた服装。
 
フリル付きはどことなくメイド服にも見えたりする……やはり、何か変なものだったのかも、お兄ちゃんの選んだ服だからなぁ。
 
「言いたい事があるならはっきり言って」
 
「あのさ……やけに可愛くないか、それ。今までの西園寺のドレスってそんなに大胆な感じじゃなかったし。何ていうかお嬢様オーラ全開って感じ……」
 
「……私がこういう服を着たら変?そう言いたいの?」
 
「べつにおかしいとか言ってるわけじゃなくて。いや、むしろ西園寺に似合いすぎて可愛いと思う、本当にお姫様みたいに……ハッ、俺は何を言ってるんだ」
 
彼は慌てた様子でそのまま、私の前から逃げ出した。韓国痩身一号
 
よく分からないけれど、恥ずかしくなったらしい……照れる必要がどこに?
 
ん……私が可愛い?
 
「~~ッ!?」
 
今度、顔を赤くさせるのは私の番だった。
 
嬉しかった……彼に褒められて……あれ?
 
私、なんで、あんな人に可愛いって言われて喜んでるんだろう?
 
「あ、着替えは終わったの?そろそろ準備して欲しいんだけど」
 
「せ、先生!?」
 
「どうしたの?顔、赤いけれど大丈夫?風邪かしら?」
 
「だ、大丈夫です!全然問題ありませんから……」
 
久賀先生は心配してくれたけど、問題ないと言って追い返す。
 
『お前の事が可愛いと思う』
 
桐生君は私の敵、これはそう、私の心を乱そうという彼の作戦、そうに違いない。
 
だから……他意なんてない……はず、よね?
 
しばらく、彼の言葉が耳から離れなくて、私はひとり落ち着くまで時間がかかった。
 
 
 
発表会は自分の番が回ってくるまでは同じように観客席で座って順番を待つ。
 
今回、審査委員をしているのは有名なピアニスト、レック・シュレッツさん。
 
フランス人で、日本語も上手なのでテレビでもよく見かける評価の高いピアニストだ。
 
私の隣で黙って舞台を見つめる桐生君。
 
先ほどの険悪な様子は一切見せずに集中している。
 
今回のコンクールはレベルが高いと思った。
 
私達以外の他の子たちもすごく綺麗に仕上げてきている。
 
県下のトップクラスの中学生が集められた、そういう大会だと聞いていたけれど、これは私も本気出さないと勝てないかも。
 
「……そろそろ、私の番か」
 
まもなくコンクールも終わりに近づいて私の番が近づきつつある。
 
私は少しだけ席を立って、ホールを出た。
 
化粧室で鏡を見ながら、髪型チェック、大丈夫だ。
 
すると、私の鞄からマナーモードにしていた携帯電話が鳴った。
 
私が携帯電話を取り出すと、表示された名前はお兄ちゃんだった。
 
「はい。私ですけど」
 
『あっ、麗奈。今、大丈夫?』
 
「……はい。でも、もうすぐ発表があるから時間はあんまりありません」
 
大好きなお兄ちゃんの声、私は気持ちが安心するのを感じた。
 
『よかった。麗奈が上手く弾けるか心配だったから。体調とかは大丈夫か?』
 
「問題ないです。調子もいいですし、きっと上手く弾けると思います」
 
『それならいいんだ。俺も応援してるから、麗奈は自分の弾きたいようにしっかりと弾いてこいよ。楽しんで弾くんだ。その気持ちを忘れないで』
 
「ありがとうございます」
 
お兄ちゃんの言葉は私にとって力になる。
 
私はホールにもどって自分の出番を待った。
 
『次は西園寺麗奈さんです。曲名はリスト・愛の夢』
 
……ついに私の名前が呼ばれて、私は舞台へとのぼっていく。
 
広いホールに満員の人々、緊張するなというほうがおかしい。
 
でも、私はその雰囲気に負けずにピアノの前に立つ。
 
いける、私なら……弾いてみせる。
 
深呼吸してから私は椅子に座り、ピアノの鍵盤に触れた。
 
何度も練習してきたんだ、自信を持って弾こう。
 
初めは穏やかな気持ちで私はピアノを弾き始める。
 
……静かな雰囲気の中で、私はその音色を奏でていた。
 
落ち着いて、焦らずに、愛の夢という曲はテンポのよい曲……その分、弾き方が難しい。
 
苦手なところ、中盤部分を中々弾けずに苦しんでいた。
 
それでも、今の私は完成度も技術も負けない、ここにいる誰にも負けてない。
 
勝てる、これならば、彼にも勝てる……。
 
指をスムーズに動かして、私は旋律をこのホール全体に響かせていく。
 
『貴方に私の何がわかるっていうの!私が彼と、今の関係にどれだけ苦しんでいるかも知らないのにくせに。それなのに好き勝手な事言わないでよっ!……好きな相手に好きって言えない。恋愛が楽しいなんて思ってないのに』
 
大好きなお兄ちゃんまで否定した桐生君が許せない。
 
昔からプライドだけが高くて、私に意地悪ばかりしてきた。韓国痩身1号
 
付き合いだけは長い、こういうのを腐れ縁というのだろうか。
 
本当に嫌な人、嫌い……優しいところもあるんだって思ったりしたけど、やはり彼は私にとっての敵だった。
 
桐生雅貴、私のピアノを聞いてもそれだけの事を言える?
 
これまで私はピアノコンクールで勝ちたいなんて思ってなかった。
 
皆に自分の曲を聞いてもらいたい、その一心だけ、でも、今日は違う。
 
私は桐生君に勝つ……私を本気にした事を後悔するのね。
 
終盤はテンポが速くなり、私はそれでも落ち着いてその曲を弾く。
 
愛の夢という曲……私がお兄ちゃんを愛していた事が夢……?
 
……違う、夢なんかじゃない。
 
あの温もりだけは夢じゃない、夢じゃないよね、お兄ちゃん。
 
私は……ピアノを弾き終えて、鍵盤からゆっくりと手を離した。
 
曲を通して完璧に弾けたという、絶対的な自信……私の勝利は揺るがない。
 
桐生君がどんな演奏をしようとも、私には勝てない。
 
私に対して惜しみない拍手が皆から送られる。
 
私は静かに頭を下げて舞台から降り立つ。
 
桐生君に勝ちたいと思う気持ちが大きくて、私の席の隣にいる彼を一瞥した。
 
「どう?これでも私に勝てる?」
 
「……あ?」
 
彼は今、私に声をかけられた事に気づかないような様子で答える。
 
何なの、調子が狂うじゃない。
 
「あ、ああ。……完璧だったな、ミスはなかったよ……でも」
 
「でも……?」
 
『最後は桐生雅貴さんです。曲名は……』
 
アナウンスが私達の会話をさえぎり、彼は席を立ち上がる。
 
……桐生君は私になぜか寂しそうな顔で答えた。
 
「今の弾き方は西園寺らしくなかった。俺はそう感じたよ」
 
「……え?」
 
去り際に彼は私にそういい残して舞台へとあがっていく。
 
何で……そんな言葉を使うんだろう。
 
負け惜しみ、じゃない……違う、私らしくない、その意味は何?
 
私は彼の言葉に混乱しつつも、彼の演奏を聴くことにした。
 
桐生君の演奏は迫力がある、私にはないスピード感、それに、スケールの大きさ。
 
男の子らしい力強い弾き方、それでも繊細なメロディ。
 
聴いて方はゆっくりと心をリラックスして聴ける優しさもある。
 
しっかりと、落ち着いて曲を奏でる。
 
ピアノを弾く桐生君はいつもとは違い、冷静に弾けていた。
 
動揺する事もなく、ただ、誰かのために弾くような人に聴かせるための曲。
 
想いを伝える曲……そう、まさに音楽が生きているような感じ。
 
……彼がこんな風に弾けるなんて私は知らなかった。
 
臨場感に溢れた彼の演奏に聞き惚れる私がいて、その音楽に感動していた。
 
 
 
全ての演奏後、ピアノコンクールの結果がレックさんから発表される。
 
上位3位までが全国大会に出場できる、その結果……。
 
「2位、西園寺麗奈……1位、桐生雅貴」
 
発表された結果は私の敗北だった。
 
「どうして……私が負けたんですか……」
 
コンクールの賞状を受け渡された時、私はレックさんに聞いていた。
 
思わず口を出てしまった言葉だけど、彼は軽く頷きながら、
 
「キミの曲は確かに素晴らしかった。技術力、完成度という意味ではキミの腕前は全国レベルだろう。しかし、キミと桐生君の間には違いがある。とても大きな違い」
 
「違い……ですか?」
 
「そう。……キミの曲には感情がないんだ。ピアノとは喜怒哀楽の感情を表すもの。キミの弾き方は素晴らしいが、人を感動させる力がない。彼にはそれがあった。本来の、キミにもそれがあるはず。今日の演奏ではそれは聴くことができなかった」
 
レックさんの言葉、私には理解していた。新一粒神
 
「……あっ……ぁっ……」
 
そう、お兄ちゃんが言っていた“楽しく”ピアノを弾くという事。
 
私は勝負を意識しすぎて、1番大事にしていたそれを忘れていたんだ。
 
自分が楽しくなければ、人を感動させる事なんてできない。
 
……桐生君の言うとおり、今日の私は自分らしさがなかった。
 
「自分でも分かってるようだね。全国大会を楽しみにしているよ、西園寺さん。キミらしさを持った弾き方で私にその曲を聴かせてくれ」
 
「……はい」
 
そう、私は桐生君の曲に感動を覚えていた。
 
けれど、私にはそれがなかったから、負けたんだ、完全な敗北だった。
 
コンクールが終わり、着替え終わった私は廊下に座り込んでいた。
 
「よう、元気ないな、西園寺」
 
「ううん。それよりも1位おめでとう、桐生君」
 
私は顔を上げて勝利者の顔を見つめた。
 
「今回は私の完敗。負けを認めるわ。悔しいけど、貴方のピアノに感動した」
 
「今日の演奏はお前らしくなかった、それだけだ。次はどうか分からない」
 
「そうだといいけど。……ねぇ、桐生君はどうしてあんな風にピアノが弾けたの?」
 
ピアノで人を感動させる、それは簡単なものじゃない。
 
「……ピアノって自分のために弾くものじゃないだろう。その音楽を聴かせる相手のために弾くものだから。俺は……聴いて欲しい人がいたから、その人のために弾いた。それだけだ。西園寺も本来はそういうスタイルじゃないか」
 
聴いてもらいたい人……桐生君にもそういう人がいるんだ。
 
「気になってたんだけど、この間、一緒にいた男の人って本当にお前の彼氏か?何か、この間の西園寺の態度だと違う気がした」
 
「……まぁね。あの人、本当は私のお兄ちゃんなの。私がただ片思いしていただけ。それにお兄ちゃんは他に好きな人がいるし、私と彼は結ばれないの」
 
……そうさせたのは私だという事はあえて伏せておく。
 
私がそう言うと彼はなぜかホッとした様子を見せて、
 
「それなら、俺にもまだチャンスあるな……。この間は悪い事を言った。ごめん」
 
「え……あ、うん。もういいよ、別に……」
 
彼は素直に謝罪してくれたので、それだけで何だか彼を許してあげてもいい気になる。
 
まぁ、実際は彼のピアノに感動したし、彼を見直した事が大きな原因なんだけど。
 
「それで、約束はどうするの?桐生君は私に何をさせたい?何でもいいわ」
 
「その言い方は何だかなぁ。ま、約束を守ってくれるなら……させてもらおうか」
 
彼は私に顔を近づいて、その言葉を優しく囁いた。
 
「俺さ……西園寺が好きだから。ずっと前から好きだった」
 
一瞬だった、私の唇は彼の唇によって塞がれていた。
 
それがあまりにも突然すぎて私には理解できてなかった。
 
「ん?……んんっー!?」
 
桐生君によって奪われた私の唇……心臓の鼓動が壊れそうなほどに早まっていく。
 
「き、桐生君?な、何でこんな事するのよ?」
 
「これが俺が西園寺にしたかったことだ。今度は全国大会で勝負だからな」
 
「……あっ、キス!?それに……私の事が好き?って、私の気持ちは無視?」
 
今さら気づいて驚いた頃には彼は「またな」と、その場から歩き出していてしまっていた。
 
……私、桐生君に告白された……あのいつも意地悪してきた桐生君が私に?
 
私は自分の唇を押さえて、その後姿をドキドキが収まらないまま、見つめ続けていたんだ蔵八宝