三十分ばかり経って、警部はベールの部屋に呼ばれた。
「何かいいお考えが?」
東方王ベールといえば、人間にあらゆるものを見通す力を与えることができる大悪魔である。あるいは透明になる力を与えるとも言われる。どちらにしろ、ただのさえない中年男ではないはずだ。との思いが警部にはある。levitra
ベールは窓から中庭を眺めたまま言った。
「警部」
「はい」
「メルランの家に人をやって、彼が帰宅しているかどうか確認してもらいたい」
「それは」
「この盗難事件、外部犯と考えるには不自然な点が目立つ」
ベールは静かに眉をひそめる。
「では犯人は、門の鍵の異変に気づき、禁書室を調べた者の中にいると仮定する。さらに、犯行に及んだのは今日、その門の鍵の異変以降と考えよう」
「そう考えなければ、やはり不自然が目立つからですか」
「そうだ。彼らにレメゲトンを盗むチャンスがあったのはいつか」
「禁書室に入ったときでは」
「違う。彼らはお互いを見張り合っていた。誰もあの本を持ち出せない」
「ですが、そのときにはすでにレメゲトンは消えていたのでしょう」
「消えていたのは書棚からだけだ」
警部も眉をひそめ、ベールに一歩近寄った。
「それはどういう意味です」
「彼らが見たのは、書棚からレメゲトンがなくなっている光景だけだ。後で警察が調べたように、本当に禁書室から紛失していることをいちいち確かめたわけではない。もっとも、そこまでは確認できなかったはずだ」
「つまり、そのときはまだレメゲトンは盗まれてはいなかったと」
「ひとまずどこか、他の書物の陰にでも隠しておいたのだ」
「ではいつ、それを持ち出したとおっしゃるのです。その後も彼らはずっと一緒にいて、一人抜け駆けて禁書室に忍び込む隙などなかったはず」
「いや、あった」
「いつですか」
「警部が、事情聴取とボディチェックを終えて家に帰した後だ」
「えっ」
ベールは、ゆっくりした動作で机に向かい、椅子に腰を下ろした。深く身を沈めると、長い脚を悠々と組んだ。
「ここへ呼ばれてきた警察官の制服は一種類に統一され、帽子をかぶっている者もいる。禁書室で見た様子では、彼らはお互いの行動に注意を払っているようには見受けられなかった」
「―――」
「犯人が同じ制服を着、帽子をかぶってまぎれ込んでも、気づく者はいまい。そこで証拠品を持ち出すような素振りでレメゲトンをまんまと盗んだのだ。このため、わざわざ事件を起こし、警官を大勢呼び込んでおく必要があった」
これが犯人の手口だとすると、と語を継ぎ、
「犯人の可能性が一番高いのはメルランだ。門の鍵がおかしいと言って入ってきたのは、禁書室を開けさせるためだ。禁書室の鍵にはさすがに手が出せなかったんだろう」
「禁書室で、レメゲトンがないことに気づいたのも彼――」
「警察を呼べと言ったのもだ。真っ先に警部の聴取を受け、出て行ったのも」
「証拠は」
「ない。ないが、外部犯と考えるより合理的だ。メルランの家に行ってみて彼が帰っていなければ、まず間違いあるまい」
「すぐ、向かわせます」
警部は部屋を出た。じきに戻ってきて、
「庭師の家に部下をやりました――が、彼の動機は何です」
「さて、私もそれがわからない」
「金目当てでしょうか」
「そういう性格には見えなかったが、まあ見かけによらないということもある」
「どちらにしろ、庭師が捕まればはっきりすることですな」
「それはそうだ」
しかし、メルランは捕まらなかった。どこをどう逃げたものか、足取りが全くと言っていいほどつかめず、捜査は難航の色を見せ始めた。
その際ベールが向かったのが、悪魔ビフロンスの元である。
ビフロンスは人間に占星術の知識などを与えると言われる悪魔である。自身も占術をたしなむ。彼にメルランの居所を占わせた。
結果は、かんばしいものではなかった。
「見えませんな」
と、ビフロンスはペンデュラムから顔を上げ、言った。
「見えないとは」
「見えないとは見えないということです。何もわかりません」
「なぜ。おまえの占術の腕はその程度のものか」
「私の腕がというより、何者かが魔力をもってメルランの姿を隠してしまっているのでしょう」
「それ以外の可能性は」
「でなければ、私の腕です」
それはつまり、メルランを手助けしている者がいるという意味であった。
6
そこまで聞いてから、アスタロトが口を出した。
「で」
「で、とは」
「で、おまえは俺に何を協力しろと言うんだ。今の話じゃ、もう犯人はわかっているらしいじゃないか。あとは捕まえるばかりだろう」
「まあ最後まで聞け」
「聞いている。早く話せ」
「メルランの居所は、占いですらわからなかったが――」
「うん」
「もう一つビフロンスに占わせてみた物がある」
ベールは上着の胸ポケットから折り畳まれたハンカチを取り出した。それを手の上で開いて見せる。
中に、小さな青玉のイヤリングが片方、包まれている。
「これだ」
「それは?」
「私が事件当夜、館の周りをうろついている際、中庭で拾った」
「それを占わせたのか」
「そうだ。すると、詳しいことはやはりわからないが、ビフロンスは一つだけ断言した」
ビフロンスは、イヤリングに目が着くほど顔を近づけ、いろんな角度からまじまじと見ていた。魔方陣の描かれた巻物を取り出し、その上にペンデュラムをかざしたりしてから、Motivator
「あなた様の奥方様にお話をお聞きになるとよろしいでしょう」
と、ぽつりと言ったのである。
ベールは、じろりとアスタロトの目をのぞき込んだ。
「どうやらおまえに所縁のある代物のようだということだ」
「ふん――」
アスタロトは、ベールからハンカチごとイヤリングを受け取った。
「どうだ、見覚えがあるか」
「別に」
「おまえが嘘をつけないのは、私が一番よく知っている」
ベールはアスタロトの腕をつかんで引き寄せた。顎(あご)に手を当ててこちらを向かせる。
「見覚えがあるらしいな、アスタルテ」
「知らんな」
「なぜメルランをかばう。レメゲトンが盗まれれば心安らかでいられないのはおまえも同じだろう。また人間のいいように使われたいとは思うまい」
「俺はメルランなどというやつは知らん。会ったこともない」
「嘘をつくな」
「嘘じゃない」
アスタロトはベールの目をまっすぐに見返す。
「では何を知っている」
「知らん――」
「言え!」
ベールの苛(いら)立ちに同調したように、窓の外で雷鳴がとどろいた。アスタロトの顎をつかむ手に力がこもる。
アスタロトは、のどの奥でくぐもったうなり声を上げた。
「このイヤリングの持ち主を知っているだけだ」
「それは誰だ?」
「言えない」
「どうして」
「どうしてもだ」
アスタロトは語気を荒くした。
「レメゲトンは俺が取り返してやる。それでいいだろう」
「よくはない。メルランを捕まえなくてはな」
「そいつも警察に突き出してやろう」
「共犯者がいるはずだ」
「ベール、おまえそのことを誰かに話したのか」
と尋ねると、ベールは、なぜそんなことを聞くのかといぶかしげに顔をしかめ、
「いや、まだだが」
「だったら誰にも言うな。ビフロンスにも口止めしろ。共犯者なんていなかった。メルランが一人でやったことだ」
ベールは、ははあ、と合点がいったらしい。口の片端をつり上げて意地の悪い笑みを浮かべた。
「なるほど確かに、今回の事件としては、メルランを探し出し、レメゲトンさえ取り戻せれば解決と言って差し支えない。だがアスタルテ、おまえただで私の口が封じられると思ってはいないだろうな?」
「―――」
何が望みだ、とアスタロトはささやいた。
ベールの手が腰へと回ってくる。抱き寄せられると、アスタロトの体は自然と柔らかな曲線を描く女性体へ変化した。
ベールはアスタロトの白く華奢(きゃしゃ)な首筋に口元を近づけ、
「我が妻よ、聞くまでもないことだろう」
と、ささやき返す。
「おまえが隣にいない閨(ねや)は寂しいものだ」
「―――」
「目覚めたとき手を伸ばせばおまえがいる。そんな朝が恋しいのだ。夜の間、私の手で乱れに乱れたおまえが、疲れ果てて子どものように眠っている様は何より美しい」
アスタロトの滑らかな頬の輪郭をなで、有無を言わせず唇を奪った。
ところが、十も数えないうちにベールは自分から身を引いた。
「うっ!」
口を押さえ、うめく。舌の上で鉄臭い味がした。アスタロトに噛まれたのだ。
アスタロトは唇に付いた血を指でぬぐうと、
「ふん」
とベールをにらみつけて凄(すご)んだ。その顔つきはいつの間にか男性に戻っている。
「ベール、貴様まだわかっていないらしいな。俺がこんな姿になった理由が」
「何が言いたい」
「俺は貴様の所有物でも、付属物(オマケ)でもない。ましてや貴様のダッチワイフでいるのには飽き飽きした」
くるりときびすを返す。一人で禁書室を出て行こうとする背中に、ベールは釘を刺した。
「アスタルテ、おまえが私の元へ帰ってこなければどうなるか――」
「わかっている!」
アスタロトは振り向かずに怒鳴った。
7
アスタロトはメイドのヴィヴィアンとの約束を守り、夕食の前には帰宅した。
「おかえりなさいませ」
執事とヴィヴィアンがそろって出迎えた。
「ああ、今帰った」
アスタロトは外套を脱いで執事に渡すと、
「ヴィヴィアン、ちょっと来なさい」
と、メイドだけ連れて自室へ引っ込んでしまった。
主人の後から部屋に入ったヴィヴィアンはいたずらっぽく小首をかしげている。
「旦那様、何か御用で? それともお夕食の前にあたくしをお食べになるおつもりですの?」
「メルラン、というのはフランス語名だ」
唐突にアスタロトは言った。
「英語名では『マーリン』。言わずと知れた希代の大魔法使いだな」
「それが、何か?」
「まったく」
上着のポケットから青玉のイヤリングを取り出す。それをヴィヴィアンの右耳に着けてやった。そうして両耳にそろった石の控えめな輝きが上品であり、メイドの衣裳にも似合っている。
「おまえの恋人の名だろう」
「さようでございますわね」
ヴィヴィアンは何を考えているものか、穏やかに微笑んでいる。SPANISCHE FLIEGE D9
「ヴィヴィアン」
「はい、旦那様」
「どうしておまえがレメゲトンを欲しがるんだ?」
ヴィヴィアンは、目を細めて、常人の男なら腰がくだけてしまうような魅惑的な笑顔を見せた。
「それとも、地上での恋人に再会したうれしさに、とびきり難しい物をねだってみただけか」
「旦那様、あたくしは、湖の女王とまで呼ばれた妖精ですのよ」
「ああ」
「あの偉大な魔法使いマーリンですら、あたくしの虜。どうあがいても、あたくしからは逃れられませんでした」
「おまえの悪い癖だ。そうやって男の自由を奪いたがる。かのアーサー王までも魅入らせた魔力は恐ろしいな」
「でも、あたくしの力をもってしても、虜にできない方がいらっしゃるのですわ」
「ほう、誰かね」
「レメゲトンの力を使わなければ、自由にできないお方――」
ヴィヴィアンの白魚のような指が、アスタロトの頬に触れた。
「――俺の周りにはこんなのばっかりだな」
とアスタロトはぼやいた。
「ヴィヴィアン、あきらめなさい」
「レメゲトンを?」
「そうだ」
「そんな」
「あれはおまえには――まあ扱えないことはないかもしれんが、一度(ひとたび)あれに書かれた秘法を行ったが最後、ベールに抹殺されるぞ」
「あたくしの身を案じてくだいますの?」
「おまえと一緒に俺も殺されかねん」
「あら旦那様、それならあたくしは本望です」
「冗談はよせ」
アスタロトはヴィヴィアンを抱き寄せ、優しく髪をなでてやった。
「これからは、おまえにあまり寂しい思いをさせないようにする」
ヴィヴィアンはふくれ面をして、
「そんなお言葉を鵜呑みにするほどうぶな娘じゃございません。どうせ三日もすれば地獄を抜け出して、地上で乙女をたぶらかしてお遊びになるのでしょう」
「おまえだってメルランにちょっかいを出したくせに」
「妬(や)けますか?」
「少しはな。おまえは俺だけを見てるのかと思っていたよ」
ヴィヴィアンの耳に触れ、青玉のイヤリングを親指でいじる。ベールにそれを拾われなければ、アスタロトだってヴィヴィアンの仕業だとは気がつかなかっただろう。
「それにしてもイヤリングを落としてくるなんて失敗をするとは、おまえにしては珍しい」
「失敗ではありません」
「なに?」
「落とし物の一つもしておけば、いずれこうして旦那様の知るところとなるはずだと。あたくしとマーリンとのことを知ったときに、あなた様がどんなお顔をなさるのか、見てみたかっただけのことです」
「女は恐ろしい」
アスタロトはもはや苦笑いするしかない。ヴィヴィアンから手を離した。
「女が恐ろしいわけではありませんわ。あたくしは恐ろしい女ですけれど」
「自分で言うな。おまえのおかげで、俺はどうやらベールの夜のオモチャに逆戻りしなくちゃならん」
「え?」
ヴィヴィアンの表情が曇った。しかし、アスタロトから事情を聞くと、じき元のように妖艶に微笑する。
「そのようなこと、お気に病まずとも、すべてこのヴィヴィアンにお任せくださいませ、旦那様――」
一体このメイド、何をたくらんでいるものやら。
8
「旦那様、お電話です」
執事に呼ばれ、電話機の前に立って差し出された受話器を取った。
「もしもし?」
『アスタルテ、おまえ何をした!?』
途端に受話口からベールの怒声が響いた。慌てて受話器を耳から離す。
「何の話だベール」
『何の話だと! おまえ――ことをして、地獄を壊滅させ――つもりか!?』
ベールの声はかすれたり切れ切れになったりしていた。やけにノイズが多い。
「よくわからんが、それより俺のそっちへの引越しはいつにすればいいんだ?」
『それどころじゃない!! 自殺を志願するのでなければ当分自分の領地で大人しくしていろ。間違っても私の前に姿を見せるなよ!』
受話口から聞こえてきた爆発音と共に、通話は切れてしまった。
チン、
と受話器を置いて、アスタロトは長椅子でしどけなく寝そべっているヴィヴィアンを振り返った。
「どうやった」
「東方王様の妹君にお会いして参りました」
「アナトにか」
「ええ。旦那様が東方王様とヨリをお戻しになるつもりだとお話したら、あっという間に兄君の元へ飛んでいかれて。今ごろは、旦那様を探し出して息の根を止めんとばかりに、東方王様の領地中を焼き払っていらっしゃるでしょう」
「相変わらず、あいつの嫉妬は世界規模だな」
「それだけ兄君を愛していらっしゃるということです」
「俺には理解しかねる」
アスタロトはヴィヴィアンのいる長椅子に腰を下ろした。甘えてくる彼女の頭を膝に乗せ、
「さあ、そろそろメルランの居場所とレメゲトンの在り処(ありか)を教えなさい」
ヴィヴィアンは胸に提げていた金のペンダントを襟の下から取り出した。細い鎖に小さなロケットが付いたものである。
アスタロトはロケットのふたを開け、中に入っていた似姿を見てため息をついた。
「やれやれ、女になってベールとヨリを戻すのだけはご免だが、男になったらなったで、そのうちおまえにこうやって閉じ込められてしまいそうだな。俺はただ自由でいたいだけなのに」
レメゲトンを携えたメルランがそこにいた。ロケットにしまわれた似姿の内側から、半泣きでこちらに助けを求めているのだった。
アスタロトはメイドの手を借り、悠々とした動作で外套(がいとう)をまとった。
「旦那様、お帰りはいつ?」
「ま、そうだな、夕食には間に合わせよう」
「約束してくださいます?」
「約束する」
「きっとでございますよ」
「ああ、きっとだ」
アスタロトはメイドの右手を取った。その甲にキスをする。
メイドの名はヴィヴィアンといった。ヴィヴィアンは、美しい目元を弦月のように細めて微笑んだ。
「あらうれしい」
「ふふ」
アスタロトはいたずらっぽく笑い、ヴィヴィアンの手を離した。ふと彼女の顔を見て、おやと気づいた。
「ヴィヴィアン、もう片方のイヤリングはどうしたんだ」
ヴィヴィアンの左耳では小さな青玉が光っているが、右の方には見当たらない。
「なくしたのかね」
「ええ、ちょっと」
「ふうん、今度新しいのを見つくろってきてやろう」
「まあ、旦那様、あたくしのために」
「おまえは有能で実によく働いてくれる、当家の大切なメイドだからな」
「まあ」
ヴィヴィアンは期待が外れたのか、すねたように、ぷっと頬をふくらませた。SPANISCHE FLIEGE D6
アスタロトは苦笑し、肩をすくめて玄関を出て行った。館の門の外で馬車が待っている。ベールが寄越したものだろう。近寄ると、馭者(ぎょしゃ)がうやうやしく一礼し、
「お待ち申し上げておりました」
「おまえは東方王の?」
「はい。アスタルテ王妃――」
と言いかけたら、アスタロトに射殺さんばかりの目つきでにらまれたので、慌てて言い直した。
「ア、アスタロト大公爵閣下を禁書室へお連れいたすようにと申しつけられて参りました」
「ではとっとと出発しよう」
アスタロトは勝手に車の戸を開けて乗り込んだ。
馭者が一鞭くれれば漆黒の馬たちは静かに走り出す。いななく声はおろか足音すら聞こえない。
光という光の届かない黒々した地獄の空には、今日は緑色の月が昇っている。あれは悪魔の君主サタンの右目だ。足元さえ危うい薄暗闇を、馬たちは難なく駆けていく。アスタロトの広大な所領を出て東へ、東へ。
地獄の東側一帯を治めるのは東方王ベールである。その領地の広さといったら、アスタロトの所領が小さな庭に見えてしまうほど。ベールが悪魔の中でもトップクラスの実力者であることは言を待たない。
馬車に揺られて連れて行かれた先は、陰気な雰囲気のする館であった。黒い格子門の内も外もひっそりと静まり返り、妖魔の子一匹歩いていない。ここもベールの財産の一つである。
「いつもはこのように閑散としてはおりませんが」
馭者がアスタロトを中へ案内しながら説明してくれる。
「ここ数日、東方王様が付近を封鎖なさっております」
「ベールは俺に何の用があるというんだ?」
「それは直接東方王様の口からお聞きくださいませ」
と、先方を見れば、長くほの暗い廊下の奥から当のベールが姿を現した。四十を過ぎたくらいの、ひょろりと背が高いばかりでさえない男の格好をしているが、目つきだけは威圧感があって鋭い。
アスタロトはあからさまに、
(いやなやつが出てきた)
とでも言いたそうに眉をひそめた。
ベールはこちらへ歩み寄ってきた。
「やあ大公爵、ご機嫌うるわしゅう」
「たった今、すべてが、うるわしくなくなった!」
「君は怒った顔も魅力的だ、男でさえなければな」
馭者を下がらせ、アスタロトと二人きりになった。
「どうだね、妻よ、久しぶりに我が家へ帰った気分は」
「なにが我が家だ。俺には我が君から拝領した土地も財産もある。いつまでもおまえに従っていると思うなよ」
「おまえは私と正式に別れたわけではない。裁判は凍結されたままのはずだ」
「それだ。なぜいつまで経っても再開されない?」
「――おまえが、気まぐれに男になってしまったからだろうが」
ベールは白い目でアスタロトを見た。
たとえば、十七世紀、ミルトンによって書かれた叙情詩「失楽園」においては、アスタロトはベールの妻アスタルテとして登場し、女性として描かれている。ただし気の赴くままに、男性、女性、どちらの性(あるいは両方)にでもなれる、とも言われる。
さらに悪魔アスタロトの起源をさかのぼると、紀元前に地中海周辺地域で信仰された豊穣多産の女神アスタルテへとたどり着く。のちのベールも豊穣神バアルとして崇拝されていた。二人はこのころから夫婦である。ウガリットやカナンの神話において、切っても切れない仲であった。
「誰のせいで俺は男になったと思ってるんだ」
と、アスタロトはベールをにらみ返した。
「誰のせいだ」
「貴様のせいだ貴様の」
「なぜ」
「――俺は、その理由をこれまでに八百六十九回は説明したはずだが」
「嫌なことはすぐに忘れる主義だ」
アスタロトは、怒りのあまりに体が爆発しそうになった。決して比喩(ひゆ)ではない。悪魔にとって人間の姿をした肉体なんて所詮かりそめのもの。怒り狂って本性を現せば、何が起こるかわからない。
「貴様は昔からそうだ! 俺がまだ地中海で女神をやっていたときだって」
「何かしたかな」
全く記憶にございません。と言わんばかりに、ベールは首をかしげる。
「貴様妻のある身で! あろうことか! 自分の妹と関係を持っただろうが!!」
ウガリット神話におけるバアルには、美しい妹アナトがいるとされる。アナトは戦いの女神で非常に攻撃的な性格の反面、兄バアルに対してはとても従順で熱烈な愛情を抱いていた。アスタルテとともにバアルに密接な関係のある女神である。
「ああ、アナトのことか」
と、ベールはやっと思い出したように言った。
ところで、ベールを怒鳴りつけているアスタロトの容貌に変化が起こり始めている。
見る見るうちに、アスタロトの顔や首筋の輪郭がほっそりと滑らかなラインを描くように変わっていく。体型についても、肩は華奢に、胸と腰の周りは逆にふっくらとしてきた。
「確かにそんなこともあったが、過ぎたことだ。アスタルテ、おまえには悪いことをした」
「その言葉を何回聞いたと思ってる!」
と言う声も、さっきまでの男の声から一オクターブ高くなっている。
アスタロトは自分の声を聞いてようやく体の変化に気がついたらしい。まず手足を見て、次に胸元を見て、最後にのどを触った。あるべき突起がそこにない。
「ベール貴様、何をした」
「アスタルテ、私は何もしていないさ。おまえが心を高ぶらせて、自分で勝手に女に戻ったのだよ」
「忌々しい」
「しばらくそのままでいてはどうだね。久しぶりに美しき我が妻の顔を見ることができてうれしいものだ」
「断じて断る!」
アスタロトがぱちんと指を鳴らす。すると一瞬にして男性の姿に戻った。苦虫を噛みつぶしたような顔をして言った。
「もういい、ベール、本題に入れ」
ベールは肩をすくめ、アスタロトの先に立って歩き出した。
「ついて来い」
2
連れて行かれたのは館の北側に位置する禁書室と呼ばれる書庫である。
ここには、地上で書かれた本の中で、教会によって発禁・焚書処分となったものが集められている。道徳観念を狂わせたり、神の存在を疑わせるような奇書や悪書。または悪魔を召還するための書、グリモワールの類など。処分されたそれらの本から一冊ずつ保存されているのである。
中には悪魔が人間を堕落させるために書いた本も混じっているし、まれな才能の人間が書いた物もある。SPANISCHE FLIEGE D5
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