2012年11月16日星期五

名前

俺がこの世界にやってきた日のことを思い出してみる。
 もう遥か昔のようにも感じるが、たったの六日前のことだ。
 そもそも俺がこの世界に飛ばされたのは、従妹の真希が、倉庫で見つけたおかしな道具に『俺なんてゲームの世界に行けばいい』と願ったことが原因だった。D10 媚薬 催情剤
 故意ではないとはいえ真希にはずいぶんとひどいことをされたと思うが、それはとりあえず脇に置いて、その時のことをもう少し深く思い出して欲しい。

 倉庫から見つかった道具は、一つではなかった。
 どんな願いでも叶いそうな七つの玉や、三つまで願いを叶えてくれそうな猿の手のミイラ、壊れた電話ボックスに枯れた井戸、そして俺をこの世界に飛ばした打出の小槌。
 そしてその他にもう一つだけ、真希がその場所で見つけた物があったのを覚えているだろうか。
 そう、それは、一見何の変哲もなく思える細長い紙。
 七夕で使う『短冊』である。

 願いが叶う品物なんて言われても眉唾物だが、もしあの打出の小槌が本物だったとしたら、他も本当に願いを叶える効果を持っていたというのも考えられなくはない。
 真希はあの日、その短冊に『お姫様になりたい』と書いたと話していた。
 もちろんその時は何も起こらず、その短冊には特別な力はなかったのだと今の今まで思っていたが、それが単に、時期が来ていなかっただけだったとしたら?
 『お姫様になりたい』という彼女の願いが、七夕、つまり7月7日の今日になって、急に叶ったと考えるとどうだろうか。
 ――真希がこの世界のお姫様、『マキ・エル・リヒト王女』になり、本来の王女だったシェルミアがその座から弾かれて俺の許にまで飛ばされてきた、とは考えられないだろうか。

 当然これは恣意的な解釈という奴で、どうして真希がよりにもよってこのゲーム世界のお姫様になったのかとか、王女になるという条件を満たすためにどうして元の王女の立ち位置に取って代わる必要があったのかとか、王女だったシェルミアが消えたり別人になったりせずに、バグった状態で俺の所に飛ばされたのはどうしてかとか、そういう疑問全てに答えが出るような模範解答ではない。
 だが、そういう諸々の不自然さを飲み込んでも、それでもある程度支持出来る仮説だと俺は思っている。
 7月7日の午前0時近くに事が起こったというのは偶然にしては出来すぎであるし、それ以外にバグったシェルミア王女が俺の所に突然飛ばされてくるような状況は、はっきり言って思いつかないからだ。

「あんた、さっきからぶつぶつと、本当にだいじょぶかい?」
 八百屋のおばちゃんにそう声をかけられて、そこで俺はハッと我に返った。
 思考に没頭していた意識を、現実世界に浮上させる。
「あ、ああ、すみません。
 実は俺、最近この国にやってきたばっかりで、記憶が混乱してたらしくて。
 この国の王女は、真希……マキ様でしたよね。
 彼女の噂とかはありませんか?」
 慌てて取り繕い、今度はそう尋ねてみる。
 おばちゃんの俺を見る視線は完全に不審者を見るそれになっていて、全く誤魔化し切れてはいなかったようだが、おばちゃんはそれ以上に噂好きだった。
 俺の怪しさなど忘却の彼方にうっちゃって、すぐに王女の噂について話してくれた。
「うーん。いくらあたしでも、マキ王女の話題についてはそんなに聞かないねぇ。
 そもそも王族なんて連中は、年がら年中城に引きこもって外には出て来ないからね。
 おっと、あたしがこんなことを言っていたなんて、他の人には内緒だよ?」
「あはは、そうですよね。ありがとうございます」
 そうやって受け答えをしながら、俺は考える。
 もし真希が王女と入れ替わったのだとしたら、それはやはり今朝起こったのだろう。
 だって、あのトラブルメイカーが何日も城でおとなしくしているはずがない。
 それでも何の噂もないのだとしたら、彼女はここに来たばかりだと考える方が自然だ。
 次に気にするべきは、この世界における彼女の立ち位置だろうか。
 王女関連のフラグや能力を引き継いでいると考えるべきなのだろうか。
 それに、イベントの強制力をどの程度受けるのかも個人的には気になる。
 少なくとも俺に限って言えば、プレイヤーの時にあったシステムの干渉をほとんど受けていないように感じる。
 『盗賊メリペの遺産』の埋まっている地面をイベントフラグが立っていない時に掘り返したのもそうだし、ゲームであれば観戦モードになって身動きが出来ないはずのイベントの最中でも、この世界では自由に動けた。
 元々がゲームのNPCでない真希であれば、俺と同様にイベントの制約をほとんど受けない可能性もあるのだが、どうだろうか。
 最悪、記憶や性格なんかもこのゲームの王女と同じにさせられていたとしたら、色々と面倒くさいことになりそうだ。
 しかしどの道、真希以外の人間はゲームの時とある程度似通った行動を取るだろうし、そうすると真希と接触するのは非常に難しい。紅蜘蛛(媚薬催情粉)
 イベントでしか外に出ない王女が表に出て来る機会は、本当に少ないのだ。
 それでも本当に『マキ王女』が俺の知っている真希であるのなら、絶対に会って話をする必要がある。
 だが逆に、ゲームの通りに話が進むなら、真希が危険に晒される可能性もごく少ないと言える。
 『王都襲撃』イベント以外では、王女に危険が及ぶような状況はなかったはずだ。
 時間的な猶予はある、と思っていいだろう。
 彼女が元の世界のままの真希で、イベントの制約も受けない身分だといいのだが、どちらにせよ彼女と話が出来るイベントが起こるまでに、出来れば帰還の手がかりくらいつかんでおきたい。
 消えたのが俺一人だったら、独り暮らしの大学生がいつの間にかいなくなりました、でそんなに影響はないかもしれないが、流石に真希までこっちの世界に来たとなると話が違ってくる。
 ぼっちだった俺とは違って、真希には元の世界に色々とやり残したことがあるだろう。
 トラブルを起こしてばっかりのしょうがない従妹ではあるが、せめて彼女だけでも元の世界に戻してやりたい。
「う、ぐ……」
 そこまで考えて、嫌なことに思い至ってしまった。
 帰還の手段を優先するのなら、また『あいつ』に会うというのがやはり正道だろう。
 気は進まないが、こうなったら今からでも……。
(いや、待て待て)
 今すぐに行ってもどうしようもないだろう。
 何より、俺に相応の実力が伴う前に『あいつ』と行動を共にするのは危険すぎる。
「……ちょっと、落ち着こう」
 やることが多すぎて、どうも混乱しているようだ。
 まず先に片付けるべきこと、すぐにやれることを考えて、少しずつ処理していかなければ。
「……あ」
 そうやって落ち着いて初めて、俺から少し離れた場所で、芯だけになったリンゴを持って所在なさげに立ち尽くす彼女に気付いた。
(何をやってるんだ、俺は)
 まず優先すべきは、俺のことでも真希のことでもなく、真希の願いのせいで全てを失ってしまった彼女のことだったはずなのに。
「ええと、シェル……リンゴ」
 シェルミアと言いかけて、すぐに言い直す。
 少なくとも、俺がそれを教えるまで、彼女はシェルミアではなく、リンゴだ。
「君のことで、色々分かったことがあった。
 一度宿に帰って、それを説明したいと思う」
 そのリンゴに、俺はそんな風に言葉をかけた。
 その時も彼女の目は俺を向いてはいなかったけれど、俺の言葉に応え、ミクロの単位で小さくうなずいていた。

 宿に帰ってリンゴと二人で食事を頂いてから、部屋に戻ってリンゴに今回のことを説明することにする。
「こんな、まだ日の高い内から……」
 部屋に入っていく俺たちを見て、なぜかアリスちゃんが戦慄の表情を浮かべていたが、聞こえなかったフリをしてリンゴと一緒に部屋に戻った。 

「まず、なんで君が記憶を失っているかってことなんだが……」
 流石にこの世界がゲームだとか、俺が別の世界から来たとかいう話をすると話がややこしくなりすぎる。
 願いを叶えるアイテムなんていうのも、このファンタジー世界でのことにした方が受け入れやすいだろう。
 俺は、俺の従妹が願いが叶うと言われているアイテムを使って『お姫様になりたい』と望んだこと。
 そしてそれによって、本来のお姫様であったシェルミアが世界から弾き出され、俺の所にやってきた可能性があることなどを説明した。
 話を要点だけに絞れば、そんなに語ることは多くはない。
 元の彼女について、俺は記憶している限りのことを話して聞かせたが、彼女は特には反応を見せなかった。
 流石にその無反応さが不安になってきたので、彼女にも話を振ってみることにした。
「って、ことなんだけど、何か分からないこととか訊きたいこととかはないか?」
 そう問い掛けても、俺の言葉を聞いているのかいないのか、彼女は何の反応も見せずにしばらく虚空を見つめるばかりだったのだが、
「……なまえ」
 身動き一つしなかった彼女が、やがてぽつりと漏らしたのは、そんな言葉だった。
「名前?」
 思わず聞き返すと、彼女はごくごく控えめにうなずいた。紅蜘蛛 II(水剤+粉剤)
「まだ、聞いてない」
 久しぶりに彼女がしゃべってくれたのだが、その内容に俺は首を傾げる。
 彼女の本当の名前はシェルミアだと何度も話したはずだが……。
「あ、もしかして、俺の名前か?」
 その思い付きを口に出すと、彼女は小さくうなずいた。
 そういえば、彼女にまだきちんと名乗っていない気がする。
 異常な状態に気を取られていたことも確かだが、これはうっかりしていた。
「悪かったな。俺は、相良……じゃなかった、ソーマ・サガラだ」
「……………」
 しかし、俺が名乗っても彼女は特に反応を示さなかった。
 聞いたからどうということでもないらしい。
(あ、そういや、名前……)
 彼女の元々の名前は『シェルミア・エル・リヒト』。
 鑑定紙に映ったのは『*ェ♯*♯・*♭・゛※*』だから、文字数的には正しいことになる。
 そして、彼女を元の場所から弾き出した『願いの力』のせめてもの温情なのだろうか。
 実は2文字目だけがさりげなく合っている所が心憎いというかなんというか。
 そこまで考えて、俺の頭にちょっとした疑問が浮かんだ。
(そういえば、今鑑定紙を使えば前と結果が変わったりするのか?)
 ゲーム的、コンピュータ的に考えると、本人の意識なんかで途中で名前のデータが書き換わるというのはあまり考えられない事態だ。
 しかし、デジタルな物とそうでない物が奇妙に混交しているこの世界なら、彼女が自分の名前を認識したことでバグが改善されるということもありえる気がした。
「もう一度、君の名前を調べてもいいか?」
 俺はそれを期待して彼女に許可を取り、彼女の腕に鑑定紙を張り付けた。
 その結果は……。

リンゴ・サガラ : LV1

 俺の予想を、ことごとく裏切るものだった。
「いや、おかしいだろ、これ」
 我に返って、そうつぶやく。
 なんか唐突に俺と兄妹か何かみたいな設定になっているし、適当に決めたはずのリンゴが正式な名前のようになっている。
「な、なぁ。いいのか、これ?」
 俺が紙を見せると、やはり注意して見なければ分からないほど小さく、彼女はうなずいた。
 だが、それこそ腑に落ちない。
「だけど、シェルミアっていうのが君の本当の名前なんだぞ?
 それが分かったのに、まだ仮の名前を使い続けるっていうのは……」
 だが俺のその言葉にも、彼女はいかにも億劫そうに小さく首を横に振るだけだった。
 そして彼女は、深い知性を感じさせるその青い瞳に、自らの確固とした意志を込め……。
 珍しく顔を上げてまっすぐに俺を見つめ、涼やかな声で言ったのだ。

「……だって、リンゴのほうが、おいしそう」
「えっ?」

 人の名前は、時に『おいしさ』を基準にして決められることもある。
 そんな世の理を学んだ、ある朝の一幕だった。紅蜘蛛赤くも催情粉

2012年11月13日星期二

酷く真っ当な戦い

飛び出した俺に、敵の後衛からの矢と魔法攻撃が飛んでくる。
 こちらに気付いたのは一部とはいえ、その母数は膨大。
 攻撃の数もかなりの物になっているが、その大半は仲間に当たらないように曲射になっている。美人豹
 ほとんどはこちらの移動速度に追いつけず、俺の背後に流れていくが、
(こっちは、当たるか!?)
 直線に伸びてきたいくつかの攻撃は、俺に直撃するコースを取っている。
 左右に振れば避けられるかもしれないが……。
(それじゃ、ここを抜けられない!)
 ここでのタイムロスを避けたい俺は、あえてルートを変更。
 自分から魔法攻撃に突っ込むような進路を取る。
(ステップハイステップ……)
 距離を合わせるためにステップとハイステップでジグザグに移動して、魔法や矢を目前まで引き付けてから、
(……縮地!!)
 弾幕の一番薄い一角に向かって、縮地で飛び込んでいく。
 緊張の一瞬!

「――抜け、ろぉ!!」

 叫びと共に、俺は弾幕の内側に入り込んでいた。
 『猫耳猫』ではその仕様上、スキル使用中でもキャラクターの命中判定がなくなるということはない。
 だからスキル使用で無敵状態になるということはないが、縮地はその速度ゆえ、最初の数メートルの判定が『抜ける』。
 スキル使用の次の瞬間、命中判定位置が一気に3メートルほど先に飛ぶため、スキル使用位置から前方3メートル以内の場所にある攻撃を、結果的にすり抜けてしまうことになるのだ。
 流石にモンスターや壁をすり抜けることは出来ないものの、タイミングさえそろえれば絶対に避けられないような攻撃を避けることも出来る。
(久しぶりにやったけど、うまくいったな)
 うまく攻撃をすり抜けて、ほっと一安心。
 何より、これで敵の近くまで入り込んだ。
 縮地が終わり、一瞬のひやりとする間があって、
(来た!)
 エアハンマーが発動して、俺の身体をさらに前へと運ぶ。
 タイミングが遅めだったのは反省材料だが、これで完全に敵の懐に飛び込んだ。
 それでも散発的に魔法や矢が飛んでくるが、最初の攻勢を躱した以上、そこにもう勢いはない。
(ステップ横薙ぎステップ、横薙ぎステップ……)
 それをロングとショートのキャンセルを混ぜた神速キャンセルの小刻みな移動で避けながら、敵に接近して、
(……ステップ横薙ぎ!!)
 最後の横薙ぎで、正面の魔法使いたちを一掃する。
(手応えあり!)
 幸い、遠距離攻撃グループに高レベルモンスターはほとんどいない。
 俺の放った横薙ぎはまるでバターでも切り裂くように魔物たちの身体をたやすく両断し、大太刀のスキルが生み出す半径3メートルを越える半円、その内側にいたモンスターはことごとく一瞬で絶命した。
 幸先のいい滑り出し。
 だが、
(やはり、前に進むのは無理か!)
 敵の死体が邪魔で、すぐには前に進めない。
 『猫耳猫』の、倒したモンスターの死体がしばらく残る、という仕様がここでも仇になった。
 ここで無理に移動スキルで押し通ろうとすれば死体にぶつかって止まってしまうし、かといって棒立ちで死体が消えるのを待てば敵のいい的だ。
 だとしたら、やっぱりここは……。
(ジャンプ、瞬突!)
 敵の頭上に躍り上がるようにしてジャンプ。
 そのジャンプの最高地点で、空中発動、空中移動が可能な短剣スキル、瞬突を使用する。
 ステップほどの速度は出ないものの、身体は風を切って前に進み、
(そして、ここでっ!)
 俺の背中が何かに押され、俺はさらに勢いよく前に飛び出していく。
 遅めに発動予約していたエアハンマーが、今度はばっちりのタイミングで俺の身体を前方に押し出したのだ。
 エアハンマーは上下方向の角度指定が出来ない。
 だから単体で空を飛ぶことは出来ないが、空中での水平移動には抜群の性能を誇る。
(瞬突、エアハンマー、瞬突、エアハンマー、瞬突……)
 瞬突と早めのエアハンマーをつないで、心なしか呆然と俺を見上げるモンスターの群れを越えていく。
 そして、群れの最後の一匹、オールドゴブリンメイジをエアハンマーで飛び越えて、
(……エアハンマー、マジックスティール!!)
 MP吸収効果のある短剣の第9スキル、『マジックスティール』で斬りつけて着地。
 行きがけの駄賃として、エアハンマーの連発で消費したMPを補給させてもらう。
(ステップハイステップ、縮地!)
 もちろんそこで止まりはしない。
 後衛部隊の奥にある主力部隊が俺の本当の目標だ。
 後衛と本隊との間の距離は、そんなに広がっていない。
 KBキャンセルを混ぜた最速の移動で一気に駆け抜ける。
「うわっ!」
 ちらりと後ろを振り返ると、抜き去った後衛部隊から、最後の土産とばかりにこちらに大量の魔法や矢が放たれるのが見えた。
 あの数が当たればただでは済まない。
 ただでは済まない、が、
(このまま、行く!)
 俺は前進を選択。
 ステップハイステップ縮地からのエアハンマーのコンボを二度繰り返して、最後、
(突っ込む!)
 主力部隊の群れの中でも比較的安全そうな場所。
 ブラックオークが固まっている地点に向かって突撃を敢行する。
(ステップ横薙ぎ、ステップハイステップ、っくう!)
 至近距離へ接近してからの横薙ぎで敵を倒し、その死体の間を縫うように移動スキルで突っ込む。
 流石に二つ目、ハイステップの段階で敵にぶつかって止まったが、群れの内部には入り込めた。超級脂肪燃焼弾 
 ――そこに殺到する、無数の魔法と矢の攻撃。
 いまだ消えずに残るオークの死体が即席の壁になる。
 いくつかはオークの壁を抜けて俺に届くが、
(隠身!)
 その瞬間に俺は忍刀スキル、『隠身』を使う。
 絶対不可侵の黒いオーラが俺の身体を包み、飛んできた遠距離攻撃だけでなく、周りのモンスターからの近接攻撃も全て弾いた。
 これでしばらくは隠身を使えないが、急場は凌いだ。
(……横薙ぎ、ハイステップ!)
 横薙ぎで周りの敵を蹴散らしてから、ハイステップで後ろに跳んだ。
 もう死体の壁は消えていたが、恐れていた後方からの第二射はない。
 距離が離れすぎていて追撃がされなくなったか、ミツキがうまくやってくれたのだろう。
 その代わりに前方へと目をやれば、目に映るのは、敵、敵、敵!
 どこを見渡しても、モンスター以外の物が見えない。
 絶望的とも言えるこの状況で、しかし俺は笑みを浮かべていた。
 無数の敵の前に、思うのはこんなこと。
(これだ! これが本当の『猫耳猫』の戦闘なんだ!)
 スキルを数発組み合わせて息切れしているようでは話にならない。
 一瞬ごとに違うスキルを組み合わせ、KBキャンセルの度に次のスキル構成を練り、敵の攻撃を必死の思いで躱しながらコンボを組み立てていく。
 それが普通で真っ当な、『猫耳猫』の戦いという物だろう。
 そもそも『KBキャンセル』、つまりはカスタムエアハンマーやカスタムプチプロージョンなしにスキル戦闘をしろなどというのは、目隠しをしながら全力疾走をしろと言われているような物だ。
 そのせいで、俺はこれまでストレスの溜まる戦闘を強いられてきた。
 だが今。
 万全とは言えない程度だが、必要なスキルや魔法、装備がそろってきている。
(つまり、ここからが本番だってことだ!)
 時折頭上で光る雷撃の輝きに口の端を歪めながら、俺は手始めに左側のレッドキャップエリートの群れへと突っ込んでいった。

(横薙ぎ!)
 敵の死体が残るという仕様は非常に不人気だが、集団を相手にする場合にはそれが優位に働く場合もある。
 死体が残るということは、その場所へ奥にいるモンスターがやって来にくいということ。
 要するに、前にいるモンスターを倒せば、しばらく余裕が出来る。
(ステップ、横薙ぎ!)
 それでもその場に留まったままでは、やがて死体が消えて奥のモンスターが襲ってくるし、何より左右から押し込まれてしまう。
 俺はステップで斜め横に跳んで、そちらから回り込もうとしていた新たなモンスターたちに、横薙ぎを喰らわせる。
(ステップ、横薙ぎ!)
 後は、その繰り返し。
 レッドキャップエリートやブラックオークは大挙して迫ってくるが、それはむしろ好都合。
 横薙ぎの一撃で死んでいく人数が、ただ増えるだけ。
(ステップ、横薙ぎ!)
 目の前の敵を斬って、横に跳んで、また目の前の敵を斬って、の繰り返し。
 それを4回ほど、反復して、
(エアハンマー!)
 予約発動させたエアハンマーによって移動するというのを、基本パターンとする。
 本当はステップの代わりにハイステップを使えれば楽なのだが、ハイステップからは下位の攻撃スキルである横薙ぎにはつながらないし、スタミナの消費量も多い。
 ステップと横薙ぎのセットを4回分。
 それが、エアハンマー中に回復出来るスタミナ量の限界だった。
(ステップ、横薙ぎ、……!?)
 だが、流石にルーチンワークで済ませるという訳にはいかないようだ。
 目の前のブラックオークの集団の奥、こちらに迫る、巨大な斧を持った半獣半人の怪物の姿を見つける。
 サベッジミノタウロス。
 レベル155ながら、強大な攻撃力を持つ厄介な相手だ。
 そこから若干外れた場所、ここから少し遠い所にはグレイトリザード、レベル140の姿も見える。
 不意を打たれたりすれば面倒だ。
(先に仕掛ける!)
 次のエアハンマーまでの間にミノタウロス前の敵を優先的に排除、エアハンマーでのノックバック中に、
(パワーアップ、エアハンマー!)
 エアハンマーだけでなく、パワーアップも詠唱、発動予約する。
 そして、
(ステップ、横薙ぎ!)
 パワーアップの発動に合わせての横薙ぎ。
 それはサベッジミノタウロスを見事に捉え、周りのオークも巻き込んで一刀両断。
「やった!」
 俺は思わず歓声を上げ、
「えっ!?」
 そのせいで、迫ってくるもう一つの巨体に気付かなかった。
 気配に気付いた時にはもう遅い。
(グレイトリザ――!?)
 大写しになるグレイトリザードの巨体!
 この突進は避けられない!
「がっ!」
 吹き飛ばされる。
 一瞬、意識が飛ぶ。
 それから、
(痛い! 痛い! 痛い!)
 全身を襲う耐えがたい痛み。
 痛い、確かに痛いが、
(ブラッディスタッブ!)
 これだけでもう、痛みは消える。
 ブラッディスタッブの反転した闇属性攻撃が、俺の身体を瞬時に癒す。
(……大丈夫)
 スタンならともかく、ノックバックなら問題ない。
 一撃で死ななければ大丈夫。
 すぐに立て直せる。
 それよりも、自分の甘さを悔やむ。SUPER FAT BURNING
 ミノタウロスを倒したことで油断して、もう一匹の敵を警戒するのを忘れていた。
 ゲーム時代ではありえないミス。
 だが、長々と反省している暇はない。
(朧残月、ステッ…くっ!)
 結果的に距離の離れたグレイトリザードに朧残月を置き、すぐにそこから移動しようとしたが、吹き飛ばしを挟んだせいでエアハンマーのタイミングが致命的にずれる。
 痛みに気を取られて、秒数を数えるのをすっかり忘れていた。
 やはりゲームの時にはあり得なかった、明らかな失態。
 想定外の移動で、敵の前に無防備に躍り出る。
 ここぞとばかりに群がってくるブラックオーク。
「…っのぉ!」
 それでもノックバックが切れる前にエアハンマーをセット。
 地面に足が付いた瞬間、横薙ぎで前方のオークを薙ぎ払ったところで、
「なっ!」
 一難去ってまた一難。
 朧残月で死んだグレイトリザードと無数のオークを蹴散らしながら、今度は巨大なダンゴ虫みたいな生き物が凄い勢いで転がってくる。
 レベル150のモンスター、ヒュージバグ。
 まるで『猫耳猫』そのものを指しているかのような適当な名前だが、あの転がりには強制スタンがついている上に、背中の防御力が非常に高い。
 パワーアップをかけていない近接攻撃ではおそらく弾かれる。
(ステップ、縮地!!)
 追尾性がある転がりを、ステップで後ろに跳んでわざと追いつかせてから、本命の縮地で横に跳んでギリギリ避ける。
 が、避けた先に、
「じょう、だんっ!?」
 レベル170デスアーマー!
 高レベルな上、明らかにボスクラスのモンスター!
(こんなのまでいるのか、ここはっ!!)
 内心悪態をつきながらも反射的に横薙ぎを放つが、
(通らない…!?)
 鎧によって止められる。
 たいまつシショーに最初に攻撃した時と同じだ。
 近接攻撃スキルであまりに威力が足りないと攻撃が弾かれたと判定され、硬直が発生する。
 足の止まった俺に、デスアーマーが大剣を振りかぶる。
「しまっ…!?」
 背筋を走る悪寒。
 しかし寸前で、身体が急速に後ろに吹き飛ばされる。
 方向を後ろに発動予約していたエアハンマーに命を救われた。
 だが後ろに目をやると、ヒュージバグが方向転換、ふたたびこちらに向かって来ようとしている。
 加えて目の前のデスアーマーは、いまだ無傷でこちらを狙っている。
(くそ、行けるか?!)
 一体ずつならともかく、こんな奴らを同時に相手にするほどの実力はない。
 ヒュージバグの速度と、デスアーマーの挙動、それを、思い出して……。
(いや、無理でも、やるしかない!!)
 祈るような気持ちでエアハンマーの詠唱を済ませ、始動。
「邪魔だ!」
 右側に迫ってきていたオークを一掃、ステップで前進。
 剣を構え直したデスアーマーの前に出て、攻撃を誘う。
 思惑通りに攻撃は来たが、
(よりにもよって…!)
 一番避けにくい薙ぎ払い。
 縮地で後ろに逃げたいところだが、
(こ、のっ!)
 それでもステップ以外で避けたら時間にズレが出る。
 決死の思いで振りかぶった腕に向けてステップ。
 相手の攻撃を潜り抜けるようにして回避を試みる!
(あぶ、なぁっ!!)
 まさに間一髪、頭の上を大剣が唸りを上げて通り過ぎる。
 心臓が冷たい手につかまれたように縮み上がった。
 しかし、本番はここからだ。終極痩身
(それ、からっ!)
 タイミングに余裕はない。
 神速キャンセルで後ろにステップ。
 元の位置にもどる。
(これで……来た!!)
 後ろから、轟音と共にヒュージバグが迫る。
 完全な挟み撃ち、だが、ここで、
「天覇無窮飛翔剣!」
 剣スキル、『天覇無窮飛翔剣』を発動。
 俺の身体は、ジャンプとは比べ物にならないほどの速度で上に跳び上がる。
 直前で目標に避けられたヒュージバグは止まり切れず、目の前のデスアーマーに激突する!
(よし!)
 ヒュージバグはデスアーマーに転がりを止められて硬直、デスアーマーは転がりの強制スタンを喰らって硬直、二体同時に動きを封じた。
 天覇の落下が始まる前に、エアハンマーが空中で発動。
 空に浮いたまま後ろに飛ぶ。
 滑空をしながら、
(パワーアップパワーアップパワーアップ!!)
 落下までの時間で呪文詠唱。
 時間差で魔法を複数セット。
 着地と同時に、不知火を振りかぶり、
(朧残月、ステップ朧残月、ステップ朧残月――)
 パワーアップの発動に合わせ、ヒュージバグとデスアーマー、両方に当たるように位置を調節した朧残月三つを発動!
 さらに、
(ハイステップ、ジャンプ横薙ぎ!!)
 最後の朧残月には横薙ぎを重ねて、
「朧十字斬り!!」
 叫びと一緒に、気合を乗せる!
 今度の横薙ぎは鎧に弾かれることなく、ヒュージバグの外殻を、そしてデスアーマーの鎧を切り裂く。
 二体のモンスターに刻まれる、十字の斬線。
 パワーアップの効いた四発の攻撃には流石のヒュージバグとデスアーマーも耐え切れなかったらしく、二体は粒子になって空に消えていくが、
「……くそ!」
 それを見ながら、俺は歯噛みをしていた。
 技後硬直で、身体が動かない。
 パワーアップを三つ重ねるのが精いっぱいで、硬直キャンセル用の魔法を使えなかった。
 それに、二発目の朧残月は放った角度がズレて、デスアーマーにしか当たっていなかった。
「まだまだ、甘い」
 そうつぶやいたところで、横薙ぎの硬直が終わる。
 自らの戦闘技術の衰えに苛立ちを感じながらも、それでも戦いは続いていく。御秀堂 養顔痩身カプセル

2012年11月11日星期日

澪と料理と勇者と

「ええっと、厚みのある海草と干して堅くなった魚……でしたね」
港町の市場を似つかわしくない女性が歩く。
通りの左右に展開される賑やかな品々、そして品数に負けぬ程に店主たちの呼び込みも声高に行われている。御秀堂養顔痩身カプセル第3代
露店が展開されていない場所が道だとばかりに迷路のような不規則な格子状の通路が構成されていた。
道行く者も上半身裸であったり薄いシャツ一枚を着ている程度の筋骨隆々の男たちが多い。
明らかに見慣れぬ、黒に近い程に濃い藍色の服に身を包んだ彼女は明らかに浮いた雰囲気を放っていた。
着物と言う、恐らくはこの港町の誰も見た事の無い服装。
そして肩に届くかどうかで綺麗に切りそろえられた艶やかな黒髪。切れ長の黒い瞳と鮮やかな紅の唇、異彩を放つその美貌は誰の目にも明らかだった。
服装と容姿、二つの意味で通り過ぎる人を次々に振り向かせ二度見させているのは、クズノハ商会が誇る最強の双璧が一、澪である。
代表である真は現在学園都市にて店舗の開店準備に追われ、何かと最近行動を共にしていた巴は真から申し付けられた所用で遠出している為、彼女は今一人だった。
だが、彼女とて暇なのではない。
真から言われた港町の開拓をする為に、ツィーゲから一路北へ進み、海に面したこの町に辿り着いていた。
さほどに大きな町ではない。ツィーゲと比べればその規模は明らかに小さい。
かの辺境都市には黄金街道と呼ばれる陸路の物流が確保されている事が、この町の発展に多少歯止めをかけていることは否めない。
ヒューマンの足で歩いて数日という微妙な距離も理由に挙げられるだろう。
いずれにせよ、ある程度立地には恵まれたこの港町コランは世界の果ての特需に直結する事が出来ず、本来なら最大級の商船を受け入れるだけの潜在能力を秘めながら未だその規模に達していない、残念な町だった。
それでも流石に海産物についてはツィーゲと比べるべくも無く、澪が初めて見る食材も多く市場に展開されている。
だが、どうやらお目当ての物、それに近しい物は見つからなかったようで澪は足を止めて嘆息する。
「コンブもカツオブシも、ソレらしい物はありませんわねえ」
澪の探し物は真の世界ではごく有り触れた食材だった。
ただ、これは真に頼まれたものではない。
真と別れてからも澪は食を楽しんでおり、ツィーゲで名のある食堂や酒場などは大抵彼女の手がついている。真も彼女に付き合って食べ歩いたり、薦められた料理を頂いたりしてきたが、広いとは言え店の数には限りがある。まだ数軒は主に紹介出来ていない店はあるがすぐに底をつく事は想像に難くない。真と美味しいものが好きな澪としては悩む事になる。
そんな折だった。
巴が何気なく口にしたのだ。
「それなら澪が若の好まれる料理を作れば良いではないか」
と。
澪にとってはまさしく天啓のような一言だった。
自分で、料理を、作る。
出された料理をただ食べるだけだった彼女はその言葉の衝撃に身をよろめかせた。そして天才を見るような目で巴をまじまじと見つめた。
その通りである。
自分が作れば、自分が理想とする味付けが出来る。真が望んだ味の料理だって出せるではないか、と。
手始めにこれまで食してきた料理を再現してみようと取り掛かった彼女だが愕然とすることになる。
料理の手順がまったくといって良い程にわからないのだ。
切って焼く、煮る、炒める、揚げる程度は想像できるがその先がいけない。
亜空にも料理が出来る者はいて、彼女は主にオークに教えを乞い料理スキルを向上させていった。
それでもツィーゲで食べた料理の技には届かず、澪は冒険者ギルドに貼り出される依頼を受ける回数を減らして、食べ歩いた食堂と酒場を再訪して料理人に頭を下げた。
何度か挑戦しては失敗し、基本的な部分から料理に手をつけ始めた澪は、未だ自分が再現出来ていない料理を作る彼らに少々の敬意を抱いていた。だからこそ、そのレシピや技術を教わろうとする澪からすれば頭を下げるのは当然の事だったが、一方でそうされた料理人や店長たちは堪らない。
最早ツィーゲの冒険者やその関係者で知らぬ者はいない存在になっていた澪から料理を教えて欲しいといきなり頭を下げられたのだから。
どちらが頼み事をしているのかわからない程に恐々として竦み上がった料理人たちはほぼ即答で澪の願いを聞き届けた。ただし、他店との競争や秘伝の関係で、教えられない部分もあると冷や汗を隠せない表情で澪に懇願した上で。勿論、澪はその言葉に頷く。そして私的にしか料理はしないし、商売の邪魔になるような事は考えていないと話し、秘伝の味や技法までは教えてくれなくて良いと続けた。
そうして、澪は寝る間を惜しんでそれぞれの料理人の厨房を訪れ、仕込みや仕入れにも、彼らの時間に合わせて同行もした。一ヶ月もすると、澪は完全な再現とまではいかないまでもツィーゲで振舞われている料理の基本的な骨子を理解して真似ることが出来るようになっていた。
小手先の技やソースなどの細かな部分は未だ本職には及ばないとは言っても、目を見張る上達速度だった。御秀堂養顔痩身カプセル第2代
余談だが、冒険者には冷たく接する事も少なくない澪が、教えを受けている料理人には当たり前の様に敬語で接していた為、食堂や酒場、またそれらを内包する宿における冒険者の振る舞いが大人しくなったりもした。
そして今。港町に到着した澪の目的はずばり和食の再現だった。
主人たる真の世界の食べ物。学園に向かう前に真が異なる世界から来た事を説明され、澪はあの記憶の中にある風景や食べ物に出会う可能性が激減したことを悲しんだ。ちなみに真の出自については特に感想も抱かなかった。識などは大いに興奮して騒いでは巴の鉄槌を受けたりしていたが、正直澪にとっては真がどの国で生まれていようと、いやどの世界から来ていようと関係なかった。ただ唯一の主人でありかけがえの無い存在、故にその過去に何があろうと彼女には意味が無い。そんな詰まらない事よりも真が普段食べていた和食の方が大切だった。
和食はツィーゲの食べ物とは根本的に雰囲気が異なる。肉類よりも魚介類を多く使う印象があり、それらが集まる港町は手がかりになる筈だったのだが。
「参りましたね、そもそも乾物の類が少ない。未だ記憶に見た和食は、目玉焼きしか再現出来ていません。巴さんに協力してもらって料理法などを調べてもらってはいますけど、どうやら昆布と鰹節なるものは必須な様子。米やら味噌は巴さんが再現に努めていますからお任せしておくとして、私は材料を調達して色々料理方法を検討したいのに……」
いずれ亜空で真に和食を振舞おうと決心している澪は港町コランに相当な期待をしていた。
しかし現状、色々料理してみたい材料は見つかるものの、肝心の乾物が絶対的に少ない。この町ではそういった加工をしていないのか不安になる程だった。
「乾物? 干物かい? うーん、この辺りじゃあ干してまで魚を食おうって所は無いし遠くまで持っていくなら大抵は相手さんが氷漬けにして運ぶ用意をしてくるし……」
「ここは鮮度が何より重要だからねえ。わざわざ干して加工するってのは、そりゃまあそれぞれの家で一夜干しくらいならしているかもしれないけれど……」
「少ないけど、土産物の店や問屋の方に顔出してみれば少しはあるかもしれないっすよ」
尋ねまわっても得られる回答は頼りないものばかり。それでも魚の乾物については情報も少しはあった。問題は昆布の方だ。特徴を話してみても皆聞いた事が無いという顔をし、澪を落胆させた。
市場を一回りした澪は浜辺に出てみることにした。
魚を干す場所は砂浜だと教えられた為、実際に従事している人から追加の情報を得られないかと藁にすがる思いだった。
「あれか、何だか独特な匂いがしますね。生臭いというか……市で感じた臭みとはまた違う匂い。ふう、浜辺にはそれこそ海草なんて幾らでも流れ着いているというのに。どうして見つからないのかしら」
作業を遠目に見ながらも、そこには魚しか無いことに軽く絶望する澪。ちらと見た浜辺の一角には黒い塊があり、打ち上げられた海草だとわかった。
小石を敷き詰めた場所や木を組んで日光が当たりやすく工夫された台の上に魚が置かれていた。小さい物は原型のまま、それ以外は開かれた状態で干されている。
「そういえば……魚は獣に比べて臭みが強い。獣骨を長く煮込むような出汁の取り方にも適さないものが多いような気がする。巴さんは、そこで昆布と鰹節なんじゃ、とか言っていたから特殊な方法がある? 私は単純に獣骨が魚の骨、香草や野菜の類が海草に置き換わって基本的な調理は一緒だと考えていたけど違うのかも……」
結局、作業者からも真新しい情報は得られず、しかし自分の考えに疑問を抱いて浜辺にある黒い帯状の塊へと近づいていく。
作業者の一人から「それは海のゴミですよ」と声を掛けられたが澪は気にしない。
「肉厚な物も薄い物も、結構種類がある。色もよく見ると緑や青、赤なんて物もある。味は……あら。シャキシャキして美味しい。ゴミだなんて勿体無い。こちらのは……少しヌメりが気になるけど食べれる。この肉厚のは、所々に白い粉が付いてるわね。へぇ、これ旨味が強い。香りも磯の良い匂い。白い粉も毒じゃない。乾燥した部分は硬くなるけど旨味は強くなっている。……十分食材じゃないですか。まったく、見る目が無いこと」
巴にも検証してもらおうと状態の良い物を吟味していく澪。魚を干していた者たちは澪の奇行を遠巻きに気持ち悪そうに見ていた。だがその内の一人が急に澪の方を向いて両手を上げて何かを叫び始めた。
だが、海草選びに集中していた澪はそれに気づかない。
何人もがその原因を見て澪に口々に注意する。中々の騒音になってようやく、澪はその様子に気がついた。しかし時既に遅し。
「あれは……一体何だと言うの? ああ、海草を食べてみた私が不思議なのかしらね。……えっ!?」
突然の背後からの衝撃。
常人がそこにいたなら致命傷は間違いない強力な攻撃が澪に加えられた。
しゃがみこんだ状態から片手に収穫を手にして立ち上がった澪は完全に油断していた。元々、”網”を張って感知域を広げた状態ならともかく、澪は周囲を感知する能力は高くない。何の対処も無く攻撃を受けて吹っ飛んだ。
浜辺の、波打ち際から少し離れた場所に打ち上げられた海草の吟味をしていた所へ背後からの衝撃。
派手な水音が波の音に紛れて上がる。
そう、澪は思いっきり海水の中に飛び込んだ形になった。
手にしていた彼女が厳選した食材たちを不意の攻撃で離してしまい、それらは波に運ばれて沖へと消えていく。
「……」
澪は無言で立ち上がった。
その肩口に獰猛な表情を隠そうともしない銀色の獣が強く噛み付いたままぶら下がっている。後ろ脚で澪の体を何度も蹴りつけていて、下顎にも何度も力が加わっている様子からその獣の攻撃が継続している事がわかる。だと言うのに、澪に反応は無い。
砂浜を澪の方に走ってくる影が一つ、彼女の視界に映る。
「……濡れてしまいました」
底冷えのする声がした。
蹴りを入れるのを止め足を伸ばせば地に脚が付きそうな大きな狼、それが澪を襲った獣の正体だった。韓国痩身一号
けれど、その大きな躯を持つ獣が澪の一言に怯えたように瞳に弱気を浮かべた。
喉からの唸り声もどこか頼りなく響く。
「……」
左の肩口に牙を立てる銀狼の首を右手で無造作に掴む澪。
女の膂力とは思えぬ所業だが彼女はそのまま片手で狼を己の肩口から引き剥がし、海へと叩きつけた。
澪の肩は傷一つ無い。着ていた着物に少々の跡が残った程度。明らかにただの獣ではない狼の一撃をものともしない布。ただの着物で無い事はようと知れる。
一方の狼は、ただ一撃地へと叩きつけられただけでまともに立ち上がる事も出来ない位に弱っていた。前足で体を起こしながらも、後ろ脚がついてこない。澪を弱々しく唸りながら見つめることしか出来ない。
「死になさい、畜生」
澪は懐から出した扇子を閉じたまま振り上げる。
容赦の一切が伺えない冷たい目で狼を見据え、一気に振り下ろす。
正に紙一重だった。
黒い影が攻撃と狼の間へと立ち入り、狼を抱いて駆け抜けた。
余程の全力疾走だったのか、澪から然程の距離も開かない場所で影は体勢を崩す。
「……」
澪は依然目に危険な冷気を纏わせたまま、動きを停めて膝立ちになっていた乱入者を見る。
ずず、と。
何かその場に聞き慣れない音が一つ。乱入者は何事かと音のする方に注意を向ける。
澪が扇子を振り下ろした先の海。
騒ぎにも変じる事無く波を運んでいた海が、突然に割れた。
澪から十数メートルばかりの範囲で海が裂けて海底が露呈する。
たった数秒の現象だったが、乱入者は息を呑んでその様子を凝視していた。
「飼い主? なら一緒に逝ってやりなさい」
先の現象に言葉を失っている乱入者に答えを聞くこともなく、再び澪は扇子を振り上げる。
「ごめんなさい!!」
振り下ろされようとした腕がピクリと動いて、止まる。立ち上がったかと思ったら全力で頭を下げられたからだ。
「……」
興味を惹かれたのか澪の手は止まり、乱入者の次の言葉を待つ。
「砂浜を見に来たら、急にこの子が貴女に襲いかかってしまって……。私の責任です。お怒りなのはわかります、でもお願いします。許してください。お怪我の治療も、その着物の修繕も必ず私たちがしますから!」
澪は扇子をゆっくりと降ろし、そして懐へとしまう。許した、と言うよりは目の前の存在に興味が湧いたからだった。
この辺りで初見でそうと名前を言った者などいない着物を、当たり前の様に知っているこの黒髪の娘に。当の娘は下ろされる扇子を凝視し、脱力している様子だったが。
「……怪我はしていないから治療は結構よ。それに着物の修繕? これは残念だけど貴女に直せる物では無いわね」
着物に牙の跡がわずかに押し込んだ風に残っているだけで破れてもいない。実際、被害らしい被害は選別した海草が流れてしまった事と濡れた事位だった。
「す、すみませんでした」
「そうねえ、私の手伝いと夕食をご馳走してくれるなら無かった事にしてあげてもいいけれど?」
「私に出来る事なら! 食事は勿論ご馳走させて下さい! ありがとうございます! ええっと?」
「澪、よ。貴女は?」
「響(ひびき)です。澪さん、本当にすみませんでした。この子も反省していますので……」
示す先の狼は尻尾を丸めているが未だ敵意ある視線を澪へと送っている。あまり反省している様子ではない。
「反省?」
「ごめんなさい! ホルン! 戻ってなさい!」
銀狼の姿が光に包まれて響の帯へと消えていく。澪はその様子に少しだけ目を細めた。
「あの狼、道具に住まう精霊の類だったの」
「詳しくは私も知らないんですけど、守護獣のような存在、らしいです」
「……そう。じゃあ響、この海草から状態の良い物を選り分けるのを手伝ってくださる?」
「海草、ですか? あの、ワカメとか昆布とか? 澪さん料理人なんですか?」
何気ない響の一言に澪は目を見開く。当の響からすると本命は料理人かと問うた後半部分で、澪が何者かを尋ねる質問に続ける心算だった。勿論、海を平然と割った澪を料理人だとは思っていない。
「!? その! 昆布、この中にあります!?」
「えっ!? あ、その、多分そこの大きな……」
「これ!? それともこれ!?」
先ほどまでの迫力はどこへ行ったのか、両手にそれらしい海草を鷲掴みにして違う迫力を瞳に宿して響へと詰め寄る澪。
「い、今澪さんが右手に持っている方が多分、昆布なんじゃないかと……」
「まさか売っているどころか落ちているなんて……!」
左手に持っていた方を放り投げて右手の昆布(らしい海草)を両手で掴んでまじまじ見つめる澪。
(ええ? 本当に料理人か何かなの? ツィーゲって街から先に広がっている荒野は色々と常識が通じない場所だって聞いて覚悟して来たけど……もうこの辺りから常識が通じないのかしら? ホルンに襲われても無傷で、扇子で平然と海を割れる人が料理人やってるなんて)
そんな澪をまじまじ見つめる響。
「あの、澪さん。捨てられた方も多分ワカメって言って味噌し、じゃなかった。スープの具材何かに合うと思います」
見た目だけで確証こそは無かったが響は捨てられて無残に浜にぶつけられたもう一方の海草をフォローする。すると再び澪はワカメを掴むと海水で洗って手に取る。
「ワカメ! そう、これがワカメだったの! ああ、響さん! この出会いを若様に感謝します!」
「うわっ! 澪さん、若様って一体? って言うかすみません、痛いです、磯臭いです。離してーーー!!」韓国痩身1号 
左手にワカメ、右手に昆布を手にした澪は遠慮無く結構な勢いと強さで響に抱きついた。
澪は全く気がついていないがリミアの勇者、音無響と彼女はこうして出会った。

2012年11月7日星期三

秋・永遠に星を往く旅人

それは私が宿屋で借りてきた本を読んでいた時のことだった。
「うぉーい!! やったぜー! 取れた取れたー!」
 ノックもせずにいきなり扉をブチ開け、シグが大はしゃぎで私の寝転がっているベッドにそのままの勢いで転がり込んできた。もはやコイツの発作的なハイテンションは慣れたものなので、私は動じることなく本の世界へと飛び立っていたのだが。男宝
「なぁなぁ、どうした? って聞かないの?」
 わざわざ覗き込んで尋ねるシグ。その期待に満ちた態度はさながら尻尾を振る犬のよう。思ったんだが、シグはその……いわゆる天然たらしキャラ、じゃないだろうか。年上のお姉さんにバカ受けしそうな気がするんだが。可愛がってあげるわ坊や、とかな。
 だが同時に、この三歳児元気君はそれらのフェロモンを天然で弾き返しそうで怖い。シグナチュラルガード。絶対領域だな。というかなにくだらなすぎることを考えてるんだ私。
 それはともかく、私はチラと彼に視線をくれて、淡々と返す。
 ドアノブが取れたのなら、素直に宿屋の人に謝って弁償してきなさい。
「その取れたじゃないよ!」
 分かった分かった。……この前怪我したところの瘡蓋が取れたんだな? わざわざ報告ありがとう、見せるなよ?
 にこり、と作り笑いを向けると、シグは漫画で言うところのデフォルメ化に雰囲気の変化を遂げており、茫然とこちらを見つめた後、眉をハの字にして、ゆっくりと起き上がった。無言で部屋の入り口へと歩くシグの背中には哀愁が漂っており、時折未練ありまくりに残念そうな顔で振り返ってくる。
 …………。
 無言の駆け引き。それは十数秒で幕を閉じた。
 分かった。分かったから。えーと、どうしたんだ?
 本を閉じて寝転がったまま尋ねると、途端にシグは犬耳があったならばピンと立てそうな勢いで元気よく振り返ってきた。駆け寄り、ベッドにダイブしてくる。反動で少し揺れた。あまりの切り替わりっぷりに閉口していた私に構うことなく、シグは手に持っていたものを私に見せてくれた。
 それは二枚の紙切れだった。ただの紙切れではない。入場券だ。
「音楽祭のチケット、取れたぞ。やっぱり秋は音楽の秋だよな!」
 ほほぅ……つい昨日までは「読書の秋だ!」とか言って、私にも読書を勧誘もとい強要していた気がするのだが? 現に私はこうして今も読書の秋続行中なのだがな。
「んー、そうだっけ?」
 お前はニワトリか。
「まぁまぁ、人の心というものは移り変わっていくものなのさ。様々な感性を磨こうと本能が働きかけているのさ」
 まだ半眼を向けている私へ、というわけで、という前置きをしてから、シグは宣言する。
「今から行こう! 音楽祭!」
 …………今から!?

 秋とは実りの季節だ。時間を掛けて育ってきた作物や木の実が人間や動物、魔物達にとって生命の糧となる。五穀豊穣の祝福された季節とも言える。そして同時に、涼しい風が吹き始めて命が枯れ、冬への眠りの準備を始めていくのだ。今頃動物たちは、冬眠に備えて腹一杯に食べ物を胃に詰め込み、たらふくに太ろうとしていることだろう。
 木々の葉は橙色や黄、赤に紅葉し、道には色とりどりの落ち葉。落ち着いた、それでいて何か欲求に駆り立てられるような雰囲気を持っている。そう、例えば本を読みたくなったり、芸術を鑑賞したくなったり、
 こうして音楽を聴きたくなったり。
 シグに引きずられるようにしてやってきたところは、この都市の闘技場だった。本来は格闘技やその他競技の舞台として使われるのだが、それをちょちょいと改造して音楽特設ステージにしてしまったらしい。応用を利かせるというのはよくあることであり、収容人数やスペースの広さでいうならば闘技場は丁度良い公用施設である。
 闘技場の周辺は人集りが出来ており、既に入場が始まっていた。ある者は団扇を持ったり、子供は鈴を持ったりしている。鈴で音頭を取るのはともかく、何故団扇なんだろう?
 そのことをシグに尋ねると、彼は意気揚々と歩きながら答えた。
「とっても運のいいことに、今日の音楽祭には、世界を回る歌姫、ミユコが出るらしいんだ。団扇持っている人は、ミユコの応援が目的なんだよ」三體牛鞭
 どこからか入手してきたらしいパンフレットを手にしていたので、ちょっと見せてもらってもいいか、と断りを入れてからパンフレットに目を通す。
 今日のビッグゲストとして招かれたミユコ(未諭子)は、東方大陸出身者で、幼少の頃から音楽と共に育ってきた。最初は数人の仲間と共に旅をしていたのだが、その知名度が高まった今では、大勢の護衛を引きつれながら馬車や飛空挺に乗って各地を旅して回っているらしい。有名人になると、ままならないこともあるものだ。
 名前だけなら聞いたことがあるかもしれないが、生憎と唄は聞いたことがない。
 どれほどの歌唱力があるのかは知らないが、好感を得られているのだからそれなりにあるのだろう。またこういう有名人にはアンチファンがつきものだ。それも人気の証である。
 どうであれ、私が気に入るかどうかだな。

 大人も子供も集まってきた音楽祭は、賑やかに行われた。鼓笛隊が鳴らす民族楽器の音楽に合わせて、子供や大人の踊り子が華麗に舞い、さらには歌を披露する。それが終われば、子供合唱隊が舞台に立って壮大な声の音楽を震わせて名曲を歌い上げる。
 観客の子らは鈴を打ち鳴らし、それらの音が秋の空へと吸い込まれていく。まさに様々な曲と歌が集まった音楽祭。
 最初こそあまり気分が乗ってこなかった私だったが(なにぶん、読書モードで設定されていたので)、会場の和やかな賑わいと、次々と奏でられる音楽に次第にのめり込んでいった。私は自分でも感性が鋭くないと思っている。そんな私でも、彼らの鳴らす楽器や歌声には、訳もなく心を揺さぶられた。どう揺さぶられたのか、と聞かれると返答に困るのだけれど、確かに心に響いてくるのだ。声なき何かが、話しかけてくる感覚だ。
 もっと聞いていようと、もっと聞いていたいと思う。音と、そこに秘められた形のない何かを。
 なるほど、これが音楽の秋、というものか。私は奇妙に感心した。
「あ。次だ、ミユコが出てくるの」
 パンフレットに記入されている曲目に視線を走らせ、シグが私の肩を叩く。そうか、と返しながら私が会場を見れば、客の纏う雰囲気、のみならず会場の空気が変わっている。
 期待の籠もった良い意味で重いものだ。大物を前に敬愛を示すざわめき。
 どんな人だろうか、と思いながら見つめていると、やがてステージに一人の女性があがってきた。二十代後半くらいの、セミロングの髪をした落ち着きある女性だ。
 彼女はマイクを片手に、艶やかな微笑みを浮かべると、静かに一礼した。すると会場から沸き起こる歓声。彼女の名前を叫ぶ者もいる。その熱狂はある種の重圧だった。これほどの支持を集めながらも、彼女は一歩も引かない。いなすように受け止めていくだけだ。
 この時点で私は彼女の持つ雰囲気に呑まれていた。力がある、とは音楽界ではミユコのような人のことをいうのかもしれない。
 何か挨拶でもするのかな、と思っていたが、その予想は外れた。ミユコはもう一度笑いかけた後、僅かに目を伏せ、
『―――』
 歌い始めたのだ。余計な言葉など要らぬ、とでもいうかのように。
 初めは、あ、から成る音の連なりだった。アカペラで『あ』を歌っていく彼女。腹の底から出される声量はとても深く、会場全体に広く浸透していくものだった。音として充分に成立する、というよりこれこそ音なのだと思わされる声という名の楽器。
 持ち込まれたグランドピアノが静かにゆっくりと奏でられる中、ミユコは歌う。
 歌詞は、春も、夏も、秋も、冬も、大事な人と共に歩き、共に過ごし、けれどもいつかは別れなければいけないという切ない想いを抱きながら、これからも大事なものを抱き締めていくよ、というものだった。会場は、不思議な静けさに包まれている。
 伸びやかに、高音で、ゆっくりと歌い上げられるその唄に、私は不覚にも泣きそうになった。彼女の歌には魂が込められている、大袈裟に言ってしまえば、この一曲を歌うことに命を賭けているんだという必死さ。強さ。
 そして、まるでその歌が、私達のようだと思ってしまったからだ。
 一緒に旅をし続けて、初めは旅の道連れで、向こうから強引についてきたのだけれど、やがて本当に一緒に道を歩くことになり、春を、夏を、秋を、冬を、笑ったり喧嘩したり呆れたりしながら過ごしてきた。大事な仲間だ。いつの間にか、本当に大事になっていた。
 でもやがて、いつかは終わりを迎えるのだろう。終わりがくるのだろう。狼1号
 その時私は、どうなっているだろうか。笑顔で、お前と別れることができているだろうか。そして、私達のお別れとは、どういうお別れなのだろう。想像もつかない。なにせ二人とも、根無し草の身だから。できることならば、
 いけるところまで行って、そして、満足のいく何かを得てから、別れたいものだ。
 ああもう、いつの間に私は涙もろくなったんだ。ええい、早く枯れてしまえ。私が必死に潤む涙を堪えていると、不意に隣のシグが口火を切った。
「なぁ。俺達もいつか、この旅の終わりがくるのかな」
 シグも彼女の歌を聴いて、同じ想いを馳せていたようだ。だって、呆れるほどにあの歌、私達みたいだもんな。きっと誰かにとっても、あの歌は誰かのような歌なのだろう。
 ああ、そうだな。いつか終わるよ。
 私はそう答えてから、シグがどんな顔をしているのか気になって、隣を見た。
 彼は、前を向いたまま淡々とした表情で、
「そっか。そうだよな」
 と、達観めいた口調で呟いた。それで終わるのかと思った。終わりがあることを確認しただけで、終わるのかと。けれども、次の瞬間彼はこちらに顔を向けた。
「じゃあ、その時まで、俺がお前を見ててやるよ」
 そして彼はほんのりと笑顔を浮かべる。無邪気な笑顔で、人を安心させるものだ。
「だってお前、俺がいないとすぐに世界から離れてくじゃないか。だからだよ。俺がいる間は、俺がお前を捕まえててやるよ。でもお前力強いからなぁ……離れてどっかいっちゃうかもしれないなぁ」
 …………。うるさいバカシグ。それはこっちのセリフだ……。
 いつものように冷たく切って捨てようとしたのに、力が出てこなかった。その時私はまた前に向き直って、俯いていたからだ。
 唇を少し噛んで、これ以上涙が零れないように。

 自分の気持ちと同調させてしまうほど、ミユコの存在感、歌は素晴らしかった。今までは名前しか知らなかったが、立派なファンになったぞ。また会えるかな。会えるとしたら、是非今度も聴いておこう。今回はしっとりした曲が中心だったが、もっと力強い曲もあれば明るい曲もあるらしいので、それらも一度は聴いてみたいところだ。
 うん、さすがは音楽の秋だな。物思いに耽りやすい季節にはぴったりかもしれない。
 そう想いながらその日は満足な気持ちで就寝し、翌日。
 扉をけたくって、元気よくシグが転がり込んできた。なんだなんだ?
「なぁなぁ! この都市の美食満腹ツアーってのを見つけたんだけど、行かね!?」
 今度は食欲の秋ってやつですね、シグさん。
 私達の秋は、こんな調子で目まぐるしく進んでいく。巨根

2012年11月5日星期一

神の木

あったかい。
我が身を包む温もりを、心地良く感じながら目覚めたフェリシアは、自身の置かれた状況を上手く把握できなかった。
「…………」
裸の男の胸元に抱かれて眠っている。超級脂肪燃焼弾
どうして、こんな事に?
驚愕に大声を上げそうになった所で、あ、と思い出した。
神の実が欲しくて、今己を抱きしめて気持ち良さそうに眠っているジーンと、取引きをしたのだ。
そうだった、と思いながらゆっくりと身動くと、さらりとシーツが肩から滑り落ちた。
すると、より鮮明に自分の姿が見て取れて、フェリシアは首まで真っ赤になった。
何も着ていない。
それを実感すると物凄く恥ずかしくなった。
何とか起こさないよう、背に回っているジーンの手を外して寝台に半身を起こした。
「っ!」
途端に、全身に漂う奇妙なだるさを自覚する。その上、身の内から何かが溢れ出すのに、服を探す事も忘れて、ぎょっとした。
身体がだるい訳も分からなければ、身を汚す滴りの意味も分からない。
フェリシアは、取引き成立後、ジーンにされていた事を途中までしか覚えていなかった。
この寝台に押し倒されて、行為の途中でジーンが何かを言った。その何かも思い出せないし、それから後の記憶も完全に途切れていた。
記憶のない間、自分の身体が一体どうなっていたのか。
幾ら考えても、脳裏にその情景はまったく浮かんではこなかった。
「私……あれからどうしたの……」
何故、覚えていないのだ。
記憶がおかしい事に不安を抱いていると、ジーンの目蓋が開いた。
「……おや。もう起きているのか? まだ疲れているだろうに。もう少し寝ていると良い」
「あの、……私は何があったのか、あまり良く覚えていないのですが……」
笑顔で見上げられるのに、フェリシアはシーツを引っ張って己の身体を隠しながら、困って目を泳がせた。
取引きをして、己の身を差し出すと約束した筈なのに、何があっていつ眠ったのかを覚えていないとは、どういう事なのだろう。
自分の事なのにあやふやで、訳が分からない。
これでは実が貰えるのかどうかさえ分からず、それが一番不安だった。
「ああ、それは……君の身体があんまり良くて、私が無理を強いたからだろうな。すまないな。今夜はちゃんと覚えていられるように、ゆっくり優しく抱くよ」
「こ、今夜もっ! あんな事をするのですか?」
眉を下げてジーンを見つめるフェリシアに、楽しそうに返ってきた言葉は、ぎょっとするばかりの物だった。
大層機嫌の良さそうなジーンの様子に、怒らせるような真似はしていないようでホッとしたが、告げられた言葉は笑って頷ける物ではなかった。
たくさん身体を触られて、キスもされ、とても自分の声とは思えないような声を上げる事を、今夜も行なう。
そこまでは覚えているのだが、それを思っただけで、全身が赤く羞恥に染まった。
「当然だろう? フェリシアは私の妻となる。早く、夫の私に身も心も慣れて貰わなければならないからな」
「妻?」
思いも寄らない言葉にさらにぎょっとし、呆然としてジーンを見返した。
『ジーンの者となる』 とは、身体を差し出して好きにされる事だとばかりに思っていただけに、結婚を持ち出されてフェリシアは酷く驚いた。
「私の者となってここで暮らすと言うのは、そういう事だ」
「きゃっ!」
腕を掴まれ、ぐいと少し強く引かれる。
フェリシアはジーンの胸元に逆戻りした。
頬に手を添えられ、上を向かされると同時に、口づけられていた。
「んんっ! ぁ…ん……」
舌を絡めて擽られる。
甘い刺激に息が上がるまで解放されず、ようやく解放された時には身体に力が入らなくなっていた。ジーンの胸元にぺったりと縋るようにして身を伏せてしまう。
「可愛いな。私としては今からでもまた抱きたいが、身体が辛いか?」
「あっ!」
身体を巻くシーツの中に入り込んできたジーンの手に、すっと背を撫で下ろされる。
途端に身の内深くから湧き立つ物に、身体がびくんと震えた。
恐怖で震えたのではない。
ジーンの手に快さを感じ、悦びに震えたのだ。
一体何をされれば、こんなにも触られる事に抵抗がなくなるのだ。そして、このままずっとその腕に抱かれていたいなどと思うようになるのだ。
分からない。
自分の心も身体も、自分の物ではないように感じた。
理解出来ない事ばかりで、フェリシアは困惑に瞳を揺らせながらジーンを見つめることしか出来なかった。
「おや……身体はすでに、私の手に慣れているようだ」
「え?」
楽しそうに言い当てられるのに、フェリシアは目を見開いてその顔を凝視した。
どうして、そんなに簡単に自分の事が分るのだ。自分よりも自分を知っていそうなジーンが、不思議だった。
「……君は忘れているようだが、君が眠るまでに、私と君はたくさん愛し合った……もう私に慣れていてもおかしくはない。証拠を見せようか?」
フェリシアの頭を撫でてから、ジーンが身を起こした。
「ジーンっ……なにをっ……」
寝台を降りガウンを羽織ったジーンに、シーツを剥がれ、有無を言わさず抱き上げられる。
そして、広い寝室の一角にある、壁に掛けられた全身を映す大きな鏡の前に、全裸のフェリシアは運ばれ、下ろされた。
磨き抜かれた黒茶の木枠に、秀逸な花模様の彫刻が施された姿見だった。美しい姿身である事に間違いはないが、今の何も隠す術のない頼りない姿を映して見たいとは、フェリシアはまったく思わなかった。
しかし、嫌がってその場を離れようにも、身体はとてもだるく満足に力が入らない。その上、足を少しでも動かすと、身の内から何かが溢れて下肢に滴りそうになるのだ。
その事がどうしても恥ずかしく、動きが緩慢になってしまう。そんなフェリシアがジーンに叶う訳もなく、されるがまま鏡の前に全身を晒された。
何故、こんな事をされるのか分からず、フェリシアは羞恥に身を震わせた。
ジーンはフェリシアの背後に立ち、緩く腕を回して抱きしめると、耳元に唇を寄せて楽しげに笑った。
「怯える事はない。私しか見ていないのだから」
「ジーン……」
そう言われても、全裸で鏡の前に立たされているのだ。恥ずかし過ぎて、平常心を保つ事も、平気な顔を作る事もどちらも出来ない。
フェリシアは全身を真っ赤に染めて何度も首を横に振り、一刻も早く止めてくれるよう願った。
しかし、ジーンにフェリシアの気持ちは届かなかった。ジーンはフェリシアの首筋に触れると、ゆっくりと肌を撫で始めた。SUPER FAT BURNING
「これが、愛し合った証だ。ここもここも、みんな私が付けた。君は、そこに私が触れる度に、とても悦んでくれた」
機嫌の良い声で囁かれる内容に、嘘です、と叫んで否定する事は出来なかった。
そうされた事をフェリシアは覚えてなくても、ジーンが触れる場所には、確かに印が刻まれているのだ。
赤い鬱血の痕が、幾つもフェリシアの肌には花開いていた。
見ないで欲しいと手で身体を隠したくても、そうするとジーンの機嫌が悪くなると思うと、手は動かなかった。
神の実の為に機嫌を取りたいだけではなく、取引きが無くても、ジーンの機嫌は損ねたくないと何故か思ってしまうのだ。
やはり、自分が良く分からない。
少し眠っただけで、何かが大きく変わってしまっているのに戸惑っていると、ジーンの右手がフェリシアの胸に触れた。
その胸にもたくさんの痕があった。
それをジーンの手が辿るのに、フェリシアはその手を制止するよりも先に、快感の喘ぎを零していた。
鏡には、男の胸元に凭れた姿で、胸を揉まれて恥ずかしげもなく気持ち良さげに目を細め、恍惚として浸っている自分が映っていた。
「フェリシアは、特にここを触られると悦んだな」
胸の頂を軽く指で撫でられる。瞬時に走った甘く強い快感に、首を振って悶えた。
「あ、ああぁ……く、ふっ…ぅん……」
フェリシアが身体を揺らせ、歓喜の声を上げれば上げるほど、ジーンは執拗に胸を揉んできた。突起も摘まれ捏ねられる。
うなじにも舌を這わされじっくりと舐め舐られた。
与えられるすべてが心地良い。
仰け反って喘ぐフェリシアの唇に、うなじを這っていたジーンの唇が触れる。口づけは深く、舌を絡め取られて吸い上げられた。
「んふっ、あぅん……」
その最中、左手が下腹部を撫でながら足の狭間に下りていく。
「あぁっ! そ、そこは…だめっ……ああぅん……」
躊躇いなく秘所に触れた指に、フェリシアは堪らず大きく身を捩った。口づけを解くと、制止の声を上げてしまった。
その手が嫌で、逆らいたくて声を上げたのではない。
そこに触られている自分を、鏡に映され間近に見せ付けられるのが、とにかく恥ずかしかったのだ。
「駄目? フェリシアの身体は、私に触られて悦んでいるようにしか見えないのだが?」
フェリシアの抵抗に、ジーンは機嫌を損ねる事無く変らず楽しそうに笑っていたが、望みを聞いて、手を止めてくれる事はなかった。
それどころか、フェリシアの足の間に己の足を割り入れて大きく広げさせると、秘所の割れ目を軽く撫で、指を二本挿し入れた。
すると、中に溜まっていた物が押し出され、とろりと白濁が大量に下肢に滴り落ちた。
「あっ! ぅんっ……」
太腿を何本もの筋を作って滴り落ちて行くそれが、毛足の長い柔らかな絨毯を汚していく。その光景に、フェリシアは居た溜まれずに俯いた。
「お風呂に入れて綺麗にしてあげる前に、私も寝てしまったからな……中にたくさん残っているな、私の注いだ物が」
俯くフェリシアとは対照的に、ジーンはこの上なく楽しそうだった。フェリシアの身の内に沈めた指を、中に溜まっている物を掻き出すようにしながら、ゆっくりと蠢かした。
「はぅ、んぅ…ぁあ……ああぁ……」
くちゅ、にゅちと粘ついた水音が響く。
しかし、本当に不思議な事に、下肢に滴る白濁を見るのも、自分がはしたなくも蜜を滲ませるのも恥ずかしくて堪らないのに、フェリシアの心には、どうにかしてこの場を逃げ出そうと思うほどの嫌悪の感情は、まったく育つ事はなかった。
それどころか、フェリシアの中はどんどん熱く潤い、悦んでジーンの指を迎え入れ、その指をしゃぶるように肉襞が纏わりついていた。
フェリシアの奥深くに埋められたジーンの指が、そこで中を広げるように動く。すると、とうとうとろりとフェリシア自身の快楽の証が、下肢に零れて滴った。
「ふあぁ…んんっ……ジーン。分かりましたから……もう止めて下さい……あぁ……」
このまま続けられれば、身も心も蕩けてしまう。そうなると、もっと自分が変わってしまうように思えて、それが怖くてフェリシアはジーンに懇願した。
「何が分かった?」
だが、ジーンはフェリシアの懇願にも微笑むばかりで、聞き入れてはくれなかった。その指は変わらず中を掻き回し、さらには親指までもを使い、弾くように花芯を弄られた。
問うて来る低音の魅力的な声。耳を擽る吐息にさえ快感を煽られながら、フェリシアは喘ぎ混じりに正直に答えた。それで止めてくれる事を願いつつ。
「ジーンの手が……んんっ……気持ち良い…事…あんっ…身体が慣れてる……事……ああっ……」
何があったのかは覚えてなくとも、ジーンに触られる事が堪らなく気持ち良くて、愛し合ったと言う言葉を疑う気にはなれなかった。
「その通りだ。君はここに私を受け入れて、たくさん気持ち良くなって悦び、私に慣れてくれたのだよ」
ジーンはフェリシアの肩に顎を乗せ、右手では変わらず胸を揉みながら、大きく広げた足の間では、左手が花弁を捲り上げて鏡の前に中を晒した。
ジーンから注がれた残滓と己の蜜を滴らせながら、何かを求めて物欲しそうに蠢く、真っ赤に熟れた秘められた場所を。
「ジーンっ! そんな事、しないで下さいっ……分かりましたから……本当に、分かりましたからっ!」
鏡に映し出される、あまりに淫らな己の姿を見ていられず、フェリシアは顔を両手で覆って叫んだ。
「そうかい?」
ジーンがフェリシアの身の内から指を抜いた。やっと聞き入れてくれたのだと安堵の息を吐いたその時、顔を覆っていた両手を剥がされ、鏡に押し付けられた。
「え? きゃうっ! くふっ……あ、ああぁ……んっ……」
指などより遥かに太くて熱いもので、一気に最奥まで貫かれた。秘所から蜜が飛び散り、淫猥な水音が部屋に響き渡る。
突然の強引な行いに、それでも、何の嫌悪も恐怖も感じなかった。逆に、身の内をいっぱいに広げられ、背後から中が泡立つほどに激しく突き上げられるのが、心地良いばかりだった。
「これからも、こうしてたくさん愛して、フェリシアの望む事は何でも叶えよう。だから、君は私に溺れて、私だけを見るのだ」
「ああんっ! ジーンっ……ひっ、あ、ああぁ……」
蜜壷内の、特に気持ちの良い場所を擦り上げ、抉られる。両手で胸を揉み込まれ、突起も転がすように愛撫される。
鏡に縋り、与えられるすべてに感じ入って、フェリシアは嬌声を上げ続けた。

鏡の前で激しく抱かれる。
自分がどんな顔をしてそれを受け入れ、淫らで恥ずかしい姿を晒しているのか目の当たりにさせられるのに、抵抗するよりもフェリシアは、ジーンから与えられる快楽にのめり込み溺れてしまった。
次第に羞恥は消え、その代わりに欲望が煽られ、高まった。
最後には、自分から足を開いてジーンをねだりまでしてしまった。
満足行くまで抱き合った。終極痩身
その熱い時間が過ぎ、快楽の余韻が消える。
落ち着いた所で、フェリシアは、変わり過ぎている己の身体に愕然として震えた。
幾らなんでも、簡単に身を許し過ぎなのではないだろうか。
しかもそれを、ジーンなら良いのだとばかりにあまり悪い事だと思っていない己に、フェリシアは青褪め混乱した。
自分の中に、別の自分がいるように感じる。
そんな馬鹿げた事を真面目に考えてしまうフェリシアを、ジーンは浴室へと誘った。
「自分をおかしいなどと思う必要はない。君をそうしたのは私だ。君は、私の望みを叶えてくれているだけなのだ。何も気にする事はない」
「ジーン……」
フェリシアの混乱が、言葉にせずとも伝わっているとしか思えない。
それを、何故伝わるのだ、と訝しむよりも、己を気遣う気持ちを強く感じ、それがとてもあたたかくて心地良く心を穏やかにしてくれた。
「私達は、まだ出逢ったばかりだ。……フェリシアにとって、私はよく分からない人間だろうな。だが、私は君との約束は守る。その証拠を食事が済み次第見せよう。だから、少しずつで良い。身体だけではなく、心も私に開いて欲しい。私は君を誰より大切にする」
向けられた優しい微笑みに、フェリシアは何かを思うよりも先に頷いていた。
取引きを持ち掛けて来たジーンは、正直に言うととても恐ろしかった。
でも、今のジーンは優しくてあたたかくて、ただただ惹き付けられるばかりだった。
それに、取引きに関係なく、自分はこの男を嫌えない。
ジーンという存在は、フェリシアにとって何故かそんな存在だった。

二人で広い、白大理石造りの浴室に入って身を清めた後、ジーンはフェリシアの前に、同い年くらいの少女を一人呼び寄せた。
身の回りの世話役として紹介され、その少女リーファに、あれこれと世話を焼いてもらいながら、フェリシアは淡いブルーのワンピースを着てジーンと食事を摂った。
他人に着替えを手伝って貰うなど初めての事で、最初は抵抗感が勝り遠慮した。
しかし、リーファは 『これが、私の仕事ですからご遠慮なさらないで下さい』 と、可愛らしく笑ってフェリシアの遠慮を封じた。
その、柔らかな人の良さそうな雰囲気と、己の身体の状態に負け、フェリシアはリーファに身支度を任せてしまった。正直、身体は酷くだるく、少し動くだけでも鈍い痛みを訴えてくるのに、病気でなくとも人の助けはとてもありがたい物だった。
リーファは、赤毛を三つ編みにし、それをくるくると巻いて一纏めにしている、薄茶色の丸い瞳が愛らしい少女だった。
自分と同い年くらいだと思うのだが、フェリシアの世話をするのに何の屈託もなく、てきぱきと手際良く動いてくれた。
それどころか、見ていると気持ちが明るくなる笑顔の持ち主であり、色々な事を丁寧に話してくれるのが、とても楽しかった。
フェリシアは、短い時間の遣り取りで、すぐにリーファと打ち解けた。

食事の後、ジーンはフェリシアを断っても歩かせようとはせず、胸元に抱き上げ自ら運んだ。
ゆっくりなら歩けますから、と何度訴えても無視され、行き先も教えて貰えなかった。
機嫌良くフェリシアを抱いて歩くジーンの足取りに苦は感じず、こんな事をして貰っても良いのだろうか、と思いながらも結局は好意に甘える事にした。
ジーンは、城の外に出た。
そこは、フェリシアが地上から案内された折に入って来たのとは異なる場所だった。
恐らく、裏庭だろうと思う。
とは言え、とても広い。
立派な木が多く植えられ、そよ風に吹かれて枝葉が揺れている。可憐な白い花が咲いている小さな木も、規則正しく植えられていた。
そんな、隅々まで手入れの行き届いた庭の左。そこには、赤と白の蔦薔薇が小山を作っていた。
ジーンはそちらに向かって歩き、小山の前に立った。
ジーンの背丈よりも高く蔦薔薇は這い昇り、複雑に絡み合って小山を形成している。
他の木は美しく剪定されているのに、この蔦薔薇だけは伸びるがまま放っているようにしか見えず、フェリシアは首を傾げた。
そんなフェリシアにジーンは楽しげに笑うと、傍らに立つ、己の背と同じくらいの高さの銀色の細い円柱に、左手を触れた。
すると、薬指に填められた指輪と柱の一部が赤く光って反応し ピ と軽い音がした。
同時に、するすると蔦薔薇が動き始める。
複雑に絡み合って小山を形成していたのが嘘のように、瞬時にアーチとなり、人が通れる場所を開けた。
「え?」
植物が動いた。目の前に見ていても信じられない光景に、フェリシアは頓狂な声を上げてしまった。
驚いたままジーンを見つめると、蔦薔薇のアーチをくぐるジーンは面白そうに笑った。
「蔦薔薇は植物ではない。侵入者避けの警備システムの一つだ。あの柱に、入る資格のある者が触れない限り、道を開けない事となっている。無視して強引に山を崩そうとする者の命はない」
「…………」
淡々と語られる、ずいぶんと恐ろしい仕組みに、この先には、そこまで厳重にしなければならない一体何があるのだろうと思う。
アーチを抜けた先には、赤レンガの門柱と壁、ガラスの門扉が待っていた。
裏庭に出るにも、蔦薔薇の小山も解くのも、どこかに手を触れて開けさせていたように、ジーンはここでも同じようにした。
すべて鍵が掛かっており、限られた人間にしか開けられない。その事実に、ここは特別な天の島の中でもさらに特別重要な場所なのだと、自然とフェリシアにも理解できた。
でも、何がある場所なのかは、やはり分からない。
「ここに、何があるのですか?」
「その、丁寧に話すのは止めて欲しい。普通に話せないと言うなら、証拠を見せようと思っていたが止める。……この先には、フェリシアの欲しい物があるのだが、ここで引き返す」
「そんな……」
ガラスの門扉を通った所で立ち止まったジーンに、フェリシアは眉を寄せた。この先に欲しい物がある、などと言われれば見たいに決まっている。
だが、ジーンとは自分が素で会話をしても良い人なのだろうか。本人に良いと言われても、これまでの状況から察するに、あまり良いとは思えないのだ。名を呼んでいる事も、本当は良いとは思っていないフェリシアは、困って考え込んだ。
「私が良いと言っているのだ。余計な事は考えず、頷いて欲しい」
「…………本当に良いの? 無礼者として、神の実の約束を無しにして、罰を与えたりしない?」
促されるのに、おずおずと素の口調で問うと、ジーンはフェリシアの目尻にキスをした。
「大事な君に、そんな馬鹿げた事などしない。ああ、やはりその方が良い……」
「それなら……」
不興を買うどころか、とても機嫌の良い様子に、仄かに頬を赤く染めて小さく頷いた。
ジーンの自分を見る眼差し、そして話す口調にも、すべてに心が甘く擽られているフェリシアだった。
「ここは、神の実を実らせる木がある場所だ」
「え?」
フェリシアの了承に笑みを浮かべ、ジーンは少し歩いた。
歩んだ先にもガラスの扉があり、今度は壁もガラスだった。
中が見える。
キラキラと虹色に煌めいている中には、確かに木があるように見えた。
「私達は、実を持っているだけではない。神の木その物も、ここで管理している」
ガラス扉の一角にジーンが手を触れる。
音も無く扉は開き、フェリシアはすべてを目にした。
ガラス壁で囲まれた円形の広場中央に、虹色に輝く美しい大樹が一本、悠然と枝葉を伸ばしていた。御秀堂 養顔痩身カプセル 
天より注ぐ光が葉に当たって煌めいているのではない。この木は自身で光を放っている。
なんとも珍しく美しい木に、フェリシアは陶然と見惚れた。
サアァ、と水音がし、霧雨のような物が周囲に立てられた柱から木に降り注ぐ。しばしその光景を眺め、水が止まるとジーンは木の傍までフェリシアを運んでくれた。
「綺麗ね」
「一族の宝だ。五百年ほど前に、エディナに奪われるのを警戒した統主が周囲の土地ごと掘り、空に上げた」
「そうなの……」
天の島は、どこかの島を浮かせているのではなく、地上にあった神の木とその周辺の土地だったとは。五百年も前にそんな技術があった事も、驚きだった。
しかし、そんな事よりも、さすがは神の実である。
こんなに美しく神々しい木に実るとは、やはり奇跡の万能薬とは素晴らしい。フェリシアはうっとりした。
ジーンが木のすぐ傍に降ろしてくれた事をありがたく思いながら、フェリシアは手を伸ばし、大事な実を育んでくれる木を、感謝の気持ちを込めて撫でようとした。
「それは、駄目だ」
木の幹に指が触れる寸前、腕を掴まれ止められる。
「神の木は見た目は美しいが、猛毒を持つ木だ。少し触れただけでも確実に死ぬから触るのは駄目だ」
「毒?」
真剣な眼差しで告げられるが、神聖な物を備えているようにも思える美しい木が毒の木とは、信じ難かった。
「そうだ。触れるのは、我が一族かエラノールの中和の術が使える人間だけだ」
「こんなに綺麗なのに……」
誰にも触れる事が出来ないとは、残念な事だ。フェリシアは寂しい気持ちで美しい木を見上げた。
木の上を覆うような屋根も天井なくそよ風が吹き込んでくる。周囲のガラス壁も、よく見れば風が通るようにきちんと何箇所も開けられている。
その風に揺らされ、木の葉が触れ合ってさやさやと音を立てる。優しい音が、触っても良いよと自分に囁いているようにしか聞こえず、フェリシアは思わず神の木を凝視してしまう。
自分の、触りたいと思う気持ちが幻聴となっただけだと分かっていても、この神の木は何故か自分には優しいように感じた。
「最高の宝はそう簡単には手に出来ないという事だ。触ってみたいだろうが、眺めるだけにしておいてくれ」
「はい」
フェリシアは素直に頷いた。自分の不確かな感覚を優先し、ジーンの注意に逆らおうとは思わなかった。
「神の木の毒素を無効化する中和の術。神の実は、その術を高度に使える人間にしか採集出来ない」
「それは、アルピニスの一族なら誰でも出来る、という訳ではないの?」
ジーンの言い方から察するに、たくさん居るようにはとても思えなかった。
「そうだ。私だけだ」
「ジーンだけ、なの?」
言い切られた言葉に、フェリシアは呆然としてジーンを見上げた。
「ああ。今のアルピニスに、神の木の毒を完全中和出来る術師は、私だけだ。だから私が一族の長となり、レイズの統主となっている」
「そんなに……難しいの……」
実を採集出来る人間がレイズの統主。支配者一族(アルピニス)の長となる。
となれば、それは、間違いなく安易な技ではない。
「難しいが大丈夫だ。必ずフェリシアに実を渡す。私の君への愛の証として」
「愛の証……」
手を取られ、そっと口づけられる。
真剣な眼差しと言葉に、胸が高鳴った。
「私は、君を愛している。君にも、ゆっくりで良いから私を愛して欲しい」
心の底まで見通すような瞳で真っ直ぐに見つめられるのに、フェリシアは首まで真っ赤に染めた。
出会ってまだ数時間だ。
フェリシアはジーンの事をまともに知らないし、それはジーンの方とて同じ事だろう。それなのに、妻とか愛とかとんでもないと思う。
優しそうに見えても怖い。
でも、やっぱり優しいのではないかと思ってしまう。
そんな両極の印象を抱くジーンの、この愛の囁きは、どう考えても唐突過ぎる。
しかしそう思っても、フェリシアは拒否しようとは思わなかった。
「…………ゆ、ゆっくりで……良いなら……」
緊張に言葉は途切れてしまうが、受け入れたフェリシアに、ジーンが心より幸せそうに微笑み、優しく口づけてくる。
その口づけも、目を閉じて受け入れた。
これは、神の実を貰う為にしているのではない。
大事な神の実以上に、ジーンから捧げられる愛の方が嬉しいと思ったのだ。
そんな自分の心の動きは、自分でも上手く説明できない物だったが、ジーンに抱きしめて貰うのは、とてもあたたかくて心地良かった。曲美

2012年11月2日星期五

出逢いの罠

アンジェラのわがままは、最高潮に達していた。
「眠いよー。ねぇぇぇむぅぅぅいぃぃぃ! 超眠い! 無駄にねむーいっ!」
 本日十二回目の台詞だ。
(んなの知ったことか)
 などと内心毒づきながら、エリスはとりあえず言葉を返した。紅蜘蛛(媚薬催情粉)
「……天気良いしね」
 春の陽気は幾分いつもより暖かい気はしたが、まぁそれに不満はなく、あるとしたらやたらに眠気を誘うといったことくらいだろう。暖かいのは大歓迎だ。
 後ろからとぼとぼと歩いてくるアンジェラの気配を感じながら、エリスはあごを上げた。
 まだ低い位置にある太陽は、陽射しをきつく降り注いでいる。
 陽光が木々の合間から煌いていて心地よい。が、逆に言えば遮るものがないと眩しすぎるほどだ。
(……確かに、暖かいけど。ちょっと暑いくらいかなぁ)
 なんだかここ最近、気候が妙な日が多い。また冬に逆戻りか、と感じるような寒い日があるかと思えば、今日のように暑いくらいに暖かい日もある。
(大陸間の異常現象……か、な?)
 魔物の大量発生なども最近問題になっているが、こういう気候に関する妙もまた、そういったもののひとつなのかもしれない。
 ともあれ、このバジル街道の深い木々の間では、暑すぎるということもない。涼やかな風と、少しばかりきつい陽射しは、ちょうど眠気を誘うのに適していた。アンジェラのわがままもそのせいだと思うことにする。
「疲れたよー」
 ……違ったらしい。
「……まだ街を出て数時間しかたってませんけどお嬢様?」
「昨日夜通し歩いたしー」
「……宿までだけでしょ」
 しかも行き道をずれてまで宿に寄ったのは、野宿は嫌だと言ったアンジェラのせいだ。
「ベッド硬かったしー」
「安宿だから仕方ないでしょ」
 もともと、アンジェラもエリスも、割と不自由なく暮らしてきた金持ちの娘だ。貴族家系のアンジェラにしても、騎士家系として地位を築いたマグナータ家の長女であるエリスにしても、安い宿というのは実のところ初体験だった。
 アンジェラの言う通り、安宿のベッドの硬さに寝付けなかったのは事実だ。エリスもそのせいで、疲れはとりきれていない。
(……そのうち慣れるんだろうけどね)
 というよりは、慣れざるを得ないのだろうが。
 それにしても、アンジェラの不平不満は次々と言葉になって漏れて来る。
「エリス起こすの早いしー」
「あんたが遅いんだって」
「……ていうか、マジ眠いよぅ」
「……もー少し行ったらレナード村ってとこに着くから、今は起きてなさい」
「足痛いー。疲れたー。眠いー。暑いー。喉乾いたおなかすいたー!」
「……やかましぃ」
 呻く。振り返り睨み付けると、アンジェラがぷっと頬を膨らませた状態で足を止めた。
 低く、言ってくる。
「――ていうか。ウザいよー」
「……それは同感……」
 苦笑して、エリスは頷いた。自らも足を止め、空を仰ぐ。
 バジル街道。整備もろくにされていない道は街道と呼んでいいのかなんなのか知らないが、まぁそう呼ばれている。ジャリ道と、両脇の林。鼻先をくすぐる濃い緑の匂いは心地よいが、森林浴としゃれこむわけにはいかなさそうだ。
 アンジェラがさっと前髪をかきあげ、呟いてきた。
「……出て来てもらおうよ」
「……賛成」
 エリスはペンダントに一度触れ、それからその手で腰の剣に触れた。なじんだ柄の傷を人差し指のはらでなぞりながら、声をあげる。
「――ってなわけで。残念ながら気付いています。眠すぎてこの子無駄に気がたってるみたいだから、早く出てきたほうが身のためよ」
 数瞬の沈黙。ややあって――風が流れた。
 アンジェラが拗ねた表情のままでそちらを向く。右手奥、街道脇の木陰。そこから、二つ、人影が出てきた。
 ――若い。
 反射的に脳裏に浮かんだのは、その単語だった。
 エリスはじっとその二つの影を見据える。
 男だ。二人とも、背は高いほうだろう。エリスたちからすれば、頭ひとつ半は違う。年齢は――多少判りづらいが、十七、八、くらいか。アンジェラが小さく口笛を吹いた。
「カッコいいじゃん」
「……あのね」
 アンジェラのあっけらかんとした感想に、エリスは思わず苦笑を漏らした。
(まぁ確かに。美形っちゃ美形、かな?)
 一人はエリスと同じ黄色人種――いや、エリス自身とはまた少し違うらしい。目鼻立ちがはっきりしている。彫りが深い。セイドゥールでは、というよりは、この大陸西部ではあまり見かけない顔立ちだ。異国人だろうか。
 長い黒髪と、同色の切れ長の眼。体の線は細いが、弱々しい感じは全く見受けられない。
 もう一人。こちらは白色人種然とした容姿だ。ルナ大陸で一番よく見かける人種の特徴をかねそなえている。丁寧にカットされた、陽光に輝く金色の髪と、翡翠のような碧の瞳。手足がすらりと長く、剣を携えてはいるが、正直あまり似合っているとは思えない。慣れた感じは受けるのだが、むしろ楽器でも持っていたほうが似合いそうだ。
 その、白人のほうが口を開いた。
「エリス・マグナータ……アンジェラ・ライジネス」
 澄んだ声だ。清水のような雰囲気すら、ある。
「……どうでもいいけど。家名、やめてくんないかなぁ……」
 エリスは思わず嘆息を漏らしていた。家を出てきたのだから、自分にはもう家名を名乗る資格はないし、名乗りたくもないのだから、いいかげんやめて頂けるとありがたいと思う。最も、そんなことあちらがわには関係のないことではあるだろうが。
「そうだけど。なぁに? 悪役の世界には、相手を襲うときにはフルネームで呼びかけなければいけないとかいう法律でもあるの?」
 アンジェラが飄々と言ってのけるが、それに構う様子もなく、今度は黒髪の男が口を開いた。
「……気の毒だが、少々、手荒な真似をさせてもらうぞ」
 その言葉に、エリスはアンジェラと顔を見合わせた。違和感が、二つ。
(……アクセント、こっちの方のじゃないな。東部訛り……?)
 完全に訛っているわけではないのだが、微妙な違和感がある。この辺り――西部ではあまり聞き慣れない音だ。それが違和感の一つ。もう一つは、台詞の内容そのものだ。アンジェラが肩をすくめて続けた。
「へぇ。案外紳士なんだ。でもね、お兄さん。女の子を襲うのは、感心しないわよ?」
(……だよねぇ)
 わざわざ襲うのに断りを入れてくる奴というのも珍しい。エリスは苦笑して、言葉を投げた。
「まぁ、それはいいけど――で、お兄さんたちのどっちが『ダリード』さん?」
 ぴくり、と白人男の眉が動いた。黒髪のほうは、全くの無表情だ。気付いているのかいないのか、隠すのが上手いだけなのか知らないのか、それすら読み取れない。
 ダリード。昨日聞いた名前だ。といっても、あの男が言っていたのは『おまえ達と同じ年頃の』だ。この二人だとしたら少しばかり年かさになるのだが。
 どちらにせよ、この反応――全く無関係ではなさそうだ。
「昨日、ラスタ・ミネアで聞いたんだけど。『ダリード』さんとやらがあたし達狙ってるらしいんで。手ごまじゃなけりゃ、あんた達のどっちかがそうなんでしょ?」
 挑発するように肩をすくめ、剣から手を離す。乗ってくるか否か。いちかばちかの懸けだ。
 黒髪の男が、薄く唇を開いた。
「――ダリードとは、関係ない」
(……!?)
「エリス……!」
 アンジェラが警戒したように小さく声をあげてくる。
 知らないわけでもない。雇われているわけでもない。本人でもない。
 ――関係ない。
(別口……!?)
 そうとしか考えられなかった。しかも『関係ない』と言う事は、この二人は『ダリード』とやらを知っている、確実に。
「どういうことよ!」
 アンジェラが甲高い叫び声を上げた。黒髪の男が、淡々とした口調で続けた。
「――俺はドゥール」
「……ッ!」
 唐突にエリスの肌が粟立った。膨れ上がる強烈な殺気。
 反射的に足をひき、アンジェラを引っつかんで退がらせた。
 危ない。
 脳がその言葉をしきりに発している。
 危ない。こいつらは、危ない。
 もう一人の白人男が、口を開いた。
「――おれは、ゲイル……いくぞ!」
「来ないでいいわよっ!」
 反射的にだろう、アンジェラが悲鳴のように叫んだ。そのアンジェラを背後にかばい、エリスは慌てて剣を引き抜いた。
 
 ――ィヂギィッ!
 重く、歯の根の浮きそうな音がバジル街道の空に響く。同時にエリスの腕にしびれが来た。噛みあった剣を滑らせるために、角度をつけて無理やり流す。白人男だ。ゲイルと名乗っていたか。紅蜘蛛 II(水剤+粉剤)
(こいつ……案外やる!)
 上段から振り下ろされた剣の威力は、ただ力任せにしただけのレベルではなかった。練りこまれた威力がそこにある。
 エリスはアンジェラから離れるように距離をとった。この男、スピードもそれなりにあるようだ。昨晩の男に比べれば、スピード自体は遅いが、それでもエリスに付いてこられるのだからかなりのものと言える。
 男――ゲイルはそのまま、こちらにむかってきた。流された剣に左手を添えて引き戻すと、そのまま突きに転じてくる。後ろに下がればアンジェラがいる。エリスは反射的に左に跳んだ。
「……っ!」
 紙一重。鼻先を剣がかすった。エリスが左に跳んだ瞬間、ゲイルは突くのをやめて剣を薙いだのだ。
 ド、ド、ド……と、心臓が恐怖を感じて鼓動をうるさくさせている。祈る。少し静かにして、後でいくらでも怖がっていいから、今は静かにして。
 しゃがみこみ、エリスはすくい上げるように剣を振るった。ゲイルが跳び退り、間合いが開く。
 と、そこへアンジェラの声が降り注いだ。
「――炎の精霊よ、風の精霊よ! 共に我が腕に今来たれ!」
 呪文。唐突に炎が膨れ上がり、風が吹いた。そのまま、ゲイルに向かって熱風が襲い掛かる。助かった――とエリスは一つ溜息をつき、背後から援助をしてくれたアンジェラに親指を立てた。
「サンキュ、アンジェラ!」
「どーいたしましてっ!」
 にっとアンジェラが笑い――その顔がそのまま固まった。
「――だめ、エリス! 跳んで!」
「……っ?」
 訳も判らず、言われるがまま跳ぶ。次の瞬間、いままでエリスがいたその空間を、ゲイルの剣が薙いでいた。
「効いてない……!?」
 アンジェラが悲鳴のような声をあげた。先ほどの魔導が、全く効果をなしていない。アンジェラが慌ててこちらに走り寄ってくる。
「どういうこと、アンジェラ!」
「わ。わかんないわよぅ!」
「――風に干渉しただけだ」
 ゲイルが、淡々とした口調で告げた。
(風に干渉――?) 
 魔導に疎いエリスにはさっぱり判らない言葉だったが、隣のアンジェラが息を飲んだので、それが酷く異常なことらしいというのは理解できた。
 と、今度はいままで成り行きを見守っていただけの黒髪の男――ドゥールが、すっと右腕を上げた。武器は持っていない。
「なに……?」
 思わず眉根をひそめる。ドゥールはそれには答えず、静かな表情のまま、パチン――と指を鳴らした。
 その瞬間、自分の身に何が起こったのかエリスはよく判らなかった。
 ただ言えるのは、脳が拒絶反応を起こすようなレベルでの爆発音があったという事。そして、周りの木々が数本壮絶な音を立てて倒れたという事。視界が煙に閉ざされたという事。最後に、自分の肌のあちこちに、裂傷が生まれたという事だけだ。
「きゃっ……!」
 アンジェラの悲鳴が聞こえ、慌てて彼女をかばうように腕を回した。身長差で言えばほとんど変わらない――どころか、実はほんの僅かアンジェラのほうが高いのだが――彼女は、エリスの腕の中で身を縮めていた。瞬間的な『何か』が収まった後、エリスは我知らず閉じていた目を見開いた。
 アンジェラの体が、震えている。
「――アンジェラ、怪我は!」
「……擦り傷……ひっどーい! 乙女の柔肌傷つけて!」
 大丈夫そうだ。
 頬や手足に赤い線が走っているが、大きな傷は受けていない。エリスはほっと安堵の息をつくと、アンジェラから離れる。
 剣を握りなおし、向き直った。
「……一体、なんなのあんた達は。変な魔導使いね?」
「魔導じゃ――」
 エリスの言葉に反応したのは、ゲイルでもドゥールでもなく、アンジェラだった。彼女は細い体を震わせながら、悲鳴のように叫んだ。
「法技じゃないわよあんなの! あれじゃ、あれじゃまるで――」
「……魔法、か?」
 その言葉を引き継いだのは、ドゥールのほうだった。感情すら見えない黒瞳に、僅かに光が反射する。
(魔導……法技? 魔法?)
 エリスにすれば、どれも同じに思えるのだが――少ない知識を呼び起こし、考える。法技は一般的に使用されているもの。魔法は――
 ふと、思い当たる。
 魔女、特殊能力者しか使えないはずだ。アンジェラの『先見』の能力と同じ――!
「……そうよ。あんたたち何者よ!」
 アンジェラの声に、男達はお互い一度視線を交わすと、黒髪の――ドゥールのほうが、一歩前へ出て来た。胸元に手を入れ、そして引き出す。
 バジル街道の木々の隙間から降り注ぐ太陽光が、引き出されたそれに反射した。
 赤い、小さな石――
 どくん
「……月の石……っ!」
 アンジェラがかすれた声をあげた。
 エリスは反射的に、左手で自分のそれを握っていた。月の石。あの男が持っているものと同じ、月の石――
「……じゃあ、じゃああんた……エリスと同じ……月の者――!」
「……」
 肯定も否定もせず、ドゥールはそれを再び胸元にしまうと、また一歩、前に歩み出て来た。ゲイルも同じように近づいてくる。エリスとアンジェラは、それに反応するように二歩、後ろに下がった。
「……エリス」
 右隣に立っていたアンジェラが、エリスにだけ聞こえる声でささやいてきた。視線だけで促す。
「――ここから村まで、後どれくらい? 走っていける?」
 アンジェラの質問の意味が判らず、エリスは眉を寄せた。一番近い村はレナードという名前だ。一度だけ行った事がある。そう遠くはない。ここからだと――
「……走れば、十分ってとこかな。走るの?」
 アンジェラは答えず、男二人をにらみやったまま、エリスの手を握ってきた。剣を持つその手を握られて、反射的に振りほどきそうになったが、アンジェラの手の力が思いのほか強く、やめる。乾く喉に無理やり音を発してもらう。
「なに、アンジェラ」
「――十分、か。ちょっと……辛いわね」
 アンジェラの横顔に、挑むような笑みが浮かんでいた。その表情に、エリスの心臓が高鳴った。酷い不安感。
「アンジェラ、あんた……まさか!」
「――やるしか、ないでしょう。ちょっとだけ無茶するわよ。死んじゃったら――ごめんということで」
「アンジェラ……!」
 さらりといった言葉に、これからアンジェラがやることが危険度が高いものだと理解した。なんとなく判る。過去に一度だけ、たった一度だけだが、見たことがある。あれをやろうというのだ――!
 しかしエリスが止めるまもなく、アンジェラがあいていた右手を上げた。声高に、叫ぶ。
「我が中に眠りし時の力よ! 我アンジェラ・ライジネスが命ずる!
 我に先の未来を見せ、我らが時を進ませよ!」
 ――視界がぶれた。
胃の浮くような感覚。違和感――浮遊感とでも称すれば一番近しいのだろうか、感じたこともないような感覚が全身を支配した。
 そして、急激な疲労が襲ってくる。
「――ッ……!」
 エリスは我知らず、両手を地面に押し付けていた。剣は知らないうちに地面に転がっている。いつもなら絶対にしない。剣を粗末に扱うなんて事はない。けれど、そんなことに構う余裕がなかった。
 体が、鉛を埋め込まれたかのように重い。肺が新しい空気を求めて、浅い呼吸を要求している。
「う……」
 頭痛と吐き気――めまい。
 湿った土の冷たさが、手のひらを通じて伝わってくる。土だ。つい先ほどまで足の裏にあったのは、バジル街道のジャリのはずなのに――
 体の望むまま、短い呼吸を繰り返して、エリスは顎を無理やり上げた。冷たい汗が、一筋滑り落ちる。
「……アンジェラ!」
 叫び声のはずが、ひしゃげた声にしかならなかった。すっと血の気がひいていくのがわかる。こうなるから、嫌だったのだ――
 エリスのすぐ右隣、アンジェラが倒れていた。
「アンジェラ! この馬鹿! なんて無茶したのよ!」
「……」
 アンジェラは口を幾度か開いて、何かを言おうとしている。だがはっきりと音にならない。ふだんは白くとも健康的な顔色が青ざめている。ほんの一瞬――いや、正確には一瞬ではないのかもしれないが――で、このありさまだ。
 エリスはアンジェラの口に耳を近づけた。細い、熱く湿った息がかかる。
「……し、かたない、でしょ……」
 途切れ途切れに、荒い呼吸の間からそういってくる。きつく閉じたまぶたが、僅かに開いた。湿ったアメジストの目が、こちらを見つめてきている。
「……はっ……ちょ……っと、私たちの『時間』を……十分、はやめた、だけ」
「馬鹿!」
 思わず叫ぶ。
 心臓が、呼吸が上手く出来ないためではなく別の理由で痛んでいる。さっそくこれだ――守ってやれないどころか、こんな目に合わせている。
「……それやったら、あんたしばらく動けないんでしょう!?」
 エリスの言葉に、アンジェラは僅かに目を伏せて肯定した。その行動は必要ないとも思える。実際、見れば判る。動けないのだ、アンジェラは。指一本動かすのさえ、辛そうだ。
「……擬似時間転移……擬似空間転移に近い、んでしょ?」
「……だ。か、ら。ごめん……って」紅蜘蛛赤くも催情粉
 アンジェラが細く息を吐いた。白い頬に走った赤い裂傷が、痛々しさをいっそう増してみせている。エリスは思わずその傷を人差し指のはらでなぞった。
 アンジェラの能力――『先見』。しかしそれは『一番使用度の高い』能力だ。正確にはアンジェラの能力は――『時間』に関する全て。
 これもそのひとつだった。以前に一度だけ見たことがある、時間を早める能力。アンジェラ自身、その一度きりで懲りたらしく――下手をすれば、死んでいたといった――今日この瞬間まで、二度とやるつもりはないと断言していたのに。
「……しかた、ない、じゃない?」
 アンジェラの頬が悪戯っぽく歪んだ。こんなときでも、アンジェラはアンジェラだ。
「こうでも、しないと……逃げられそうに、なかったし。……あんただって、疲れ、てる、でしょ? 怒鳴ると体力、なくすわよ……」
 アンジェラの疲労は、使用した魔法に体がついていっていないからだ。エリスの疲労とは違う――エリスの疲労は、慣れない感覚と、時間の急速な移動によって、体が悲鳴を上げているだけでしかない。アンジェラほど、辛くはない。
「……ごめ、やすませ……」
「判ってるわよ」
 アンジェラの台詞をさえぎり、エリスはその細い手を握った。冷たい。
「とりあえず、宿……探すよ。歩ける?」
 あいまいにアンジェラが頷くのを見てから、エリスは自らももう一度立ち上がった。なんとかなりそうだ。少なくともエリス自身は。転がった剣をしまい、一度大きく息をつく。
 基礎体力はある。もう心臓も肺も、かなり落ち着いてきている。
 けれどまだいまいち感覚のはっきりしない両足に力をこめ、踏ん張った。アンジェラの小さな体に手を差し伸べ、起こす。
 さらりと黒い髪が、頬にかかった。
 アンジェラのほとんど全体重が、エリスにもたれかかってくる。昨晩のわき腹の傷がその拍子に痛んだが、さして気になるほどでもなかった。なんとでもなる。
「……アンジェラ。ごめん」
「……」
 かすかにアンジェラが笑った。馬鹿なことを言うなとでも言うように。それがほんの少し辛く、けれど嬉しくもあった。
 顔を上げる。
 整備もされていない片田舎の土剥き出しの地面。遠くのほうでキラキラと池が輝いている。青い空を背景に、点在するように立てられた、古い建築技術の家々の姿。
 鼻をくすぐるのは、遅い朝食の匂いだろうか。どこか遠くから、子供たちのざわめきも聞こえる。
 ようやっと落ち着いて来た。バジル街道ではない。
 ――レナード村に、エリスたちはいた。

「エリス顔怖い」
 ベッドの中からのアンジェラの台詞に、エリスは眉間に刻んだしわをさらに深くさせた。
「……あんたが無茶するからね」
 こんな片田舎の村でも、街道沿いにあるというのは便利なものだ。民家をそのまま改装したような小さなものだったが、宿があった。
 アンジェラをそこへ運び込み、ベッドに寝かせて――開口一番この台詞を吐かれ、エリスは少しばかり不機嫌になった。
「うー。……だからぁ、ごめんって言ってるじゃない」
 ベッドに横になって、多少とも落ち着いたらしく、アンジェラは苦笑を漏らしてきた。
「大体、エリス。あんたは休まなくていいの?」
「あたしはもう大丈夫だよ。とにかくあんたが休みなさい」
「……はぁい」
 存外素直に頷いて、アンジェラはシーツを引き上げる。隣に座っていたエリスは、軽く彼女の頭をなでた。
「おやすみ。でも……まあ、ありがとう」
「うん……」
 アンジェラがまぶたを下ろした。やはり疲れているのだろう。
「――っと、そうだ」
 いきなり慌てた様子でアンジェラが目を開いた。
「? なに」
「エリス病院!」
「……はぁ? つれてっけっての?」
 疲労なんてものは、寝ているのが一番だと思うのだが――と言いかけたエリスを遮って、アンジェラが早口でまくし立ててくる。
「そうじゃなくて。……わき腹の傷。昨日手当てちゃんとしてないでしょ?」
「……ああ」
 右わき腹に触れてみる。もうすでに出血もないし、確かに痛みはするがさほど深い傷でもない。エリスは肩をすくめてみせた。
「大丈夫だよ。別に、もう平気」
「だめ。あんたってばいつもそうなんだから。私は寝てるから、エリスはその間に病院にいってきて」
 頑としていってくるアンジェラに、エリスは小さな苦笑を漏らした。心配しているのだろう――が、今はこんな傷よりも、自分のことを心配して欲しいとも思う。
「……はいはい。一応探してみるよ。こんな村にあるかどうか知らないけどね」
「うん」
 アンジェラがほっとしたように笑んだ。エリスは再度その艶やかな髪をなで、微笑を返す。
「じゃ、あたしは行ってくるけど……一人で平気?」
「平気よ」
「……判った。じゃあね。おやすみなさい、アンジェラ」
「おやすみなさい」
 アンジェラが小さく笑って、瞳を閉じた。

 こっぴどく叱られてしまった。
 まだ脳内でがんがんこだましている医者の怒鳴り声に、エリスは半ばフラフラになりながら宿へ戻ってきた。
 何で放っておいた。どこの子供? どうしてすぐに手当てをしなかったんだ。親はどこに居る。何をしたらこんなことになるの。危ないまねをするんじゃない――等々。
 まさか、狙われました、とも、実は家出してきました、とも言えるはずもなく、適当にごまかしてきたのだが――医者というのはやはりどうにもエリスは好きになれない。カイリやパズーの家も医院をしていたが――
(……って、思い出すのやめよ)
 ふいに暗澹(あんたん)な気持ちになりかけ、エリスは小さく頭を振った。
 まだ、あっけらかんと思い出すほどには気持ちの整理がついていない。
 安宿の、きしむ階段を上がり、アンジェラの寝ている部屋の扉をあける。
「あ、おかえりなさいエリス」
「ただいま」
 ベッドに座っていたアンジェラが、顔を上げてきた。だいぶ落ち着いたようで、顔色も戻ってきている。
 ほっと安堵の笑みがこぼれるのを、エリスは自覚した。
(よかった……大事に至らなくて)
 アンジェラは手にしていた一冊の本を閉じると、それを小さく振ってきた。見覚えのある、青い表紙。
「借りたわよ、これ」
「……って。何で勝手に人の荷物漁ってんですかあんたは」
「だってヒマだったんだもん。でももうこれ、エリスんちであきるくらい読んだわよー。他のないの、他の」
「あのね」
 嘆息。どうやらだいぶ元気にはなったらしいが――だからといって人の荷物を勝手に漁って、あまつさえそれに文句をつけるのはどうかと思う。
「あたしはそれが好きなの。読みたくないなら読むな。むしろ漁るな人の荷物を勝手に」
「いいじゃん別に。セシレル・ハイム、だよね?」
「そうだよ」
 近寄って、アンジェラの手からその本を奪い返す。幾度も開いたおかげで、ページの隅はよれてしまっている。だが、お気に入りの一冊だ。
 セシレル・ハイム――詩人画家の詩集だ。エリスの好きな芸術家で、自室の壁にはその絵のレプリカも飾ってあった。
「まぁともかくありがとう。暇つぶしにはなったわ。あ、それから、この子だしといてあげたからね」
「……って、ぬいぐるみまで引っ張り出してるし」
 ベッドの枕もとに、白い犬のぬいぐるみが転がっている。お気に入りの一体で、バックパックに詰め込んできたやつだ。
 詰め物がたりないせいで、やたら力の抜ける外観のぬいぐるみ。ココアと呼んでいる――白いのに。
 このぬいぐるみは、実はアンジェラに以前もらったものなのだが、すでにそのときに名前がついていたからだ。白いのに、とはエリス自身さんざん思ったが、アンジェラに理屈は通じなかった。曰く『ココアはココアだから』。もはや訳が判らない。
 アンジェラはそのぬいぐるみをぺしぺしとたたきながら、続けてきた。
「あ、洋服とかはクロゼットにかけといたわよ」
「勝手になにしまくってんですかお嬢様」
「ヒマだったんだもん。エリス帰ってくるの遅い」
「……病院行けって言ったのあんたでしょうが」
「そうよ? ちゃんと行った?」
「……行きました」
 ちょっとぐらい疲労していたほうが静かでいいのではないだろうか――などとどこか冷めた思いでアンジェラを見ながら、エリスは小さく嘆息を漏らした。紅蜘蛛


 闇。
 何もない、真の闇。夜ではない。もっと深く、まとわりつく、虚無――
 闇が、そこにあった。闇しかなかった。
 エリスはその中で一人、立っていた。
 いや――立っている、のだろうか。地面の感触すらなく、立っているのかどうかすらよく判らない。浮いている? それも違う――存在している、というのが一番近いのかもしれない。
「……ここ、どこ」
 思わず言葉を漏らす。音が、おかしなほど響かない。奇妙な感触。
 首を左右にめぐらす。だが、何もない。右もない、左もない。上下もない。手を伸ばす。視覚が効かないのなら、それ以外の感覚で情報を得るだけだ。けれど――いくら伸ばしても、なににも触れられない。
 足を伸ばす。何もない。
 匂いを嗅ぐ。何も匂わない。
 耳を澄ます。何も聞こえない。
 寒くも、暑くもない。本当に――『何もない』。
 そんな空間が存在するなど、思いもしなかった。だが、ここにある――
 ぞっと震えが来た。それで、少しだけ安心する。少なくとも『エリス』はここにいる――はずだ。
「アンジェラ……? アンジェラ、どこ」
 声をあげてみるが、言葉はまるでスポンジに吸収される水のように、掻き消えてしまう。
 返答もない。
 ぞっとまぶたを閉じる――閉じたのだろうか。本当に? 判らない。視界は変わらない。そもそも自分は本当に、ここにいるのか――?
 いや。
『ここ』は本当にあるのか――?
『――月の者よ』
 ふいに、音が響いた。
 何処からともなく――まるで、洞窟内で叫んだときのように、反響して聞こえる。
「……つっ!?」
 唐突に、心臓に痛みが走った。胸元を抑え、たまらずしゃがみこむ。頭蓋に響いてくる声に頭痛がした。
「……う」
 汗が、流れる。
『――汝、我が前に来たれ。我、汝を待ち受けん――』
 響く声。
 闇があった。
 ただ闇しかなかった。
 闇だけがあった。
 闇以外には何もなかった。
 ただ、判る。
 呼んでいる声がする。
 自分を呼んでいる声がする。
 そう――行かなければ、この声に応えなければならない。
 行かなければならない。
 呼ばれているから。待ってくれているから。あのお方が。
 エリスはゆるりと立ち上がった。闇の中、頤(おとがい)を上げ、呟く。
「はい……ルナ、よ――」 
 自分を呼ぶ声がする。
 呼ばれている。
「――ス。エリス――」
 呼ばれている。 
 闇の中から、闇の向こうから。
 呼ばれている。
「エリス……エリス?」
 呼ばれている――誰に?
「――エリスってばあッ!」
「うわぁっ!?」
 耳元で強烈に叫ばれ、エリスは飛び起きた。鼓膜がジンとしびれている。
「な、な、な……」
「……あ、起きた。よかったぁ……」
「よくなあいッ! ビビるでしょ!? 何なのアンジェラ!」
 反射的に叫び返して、エリスは声の主を睨みあげた。ベッドの上、覗き込んできている紫色の双眸。緩やかに揺れるウェービー・ヘア。
 アンジェラだ。
 彼女ははぁと大きく息をついてきた。あっけらかんと笑って続ける。
「……おはよ。目、覚めた?」
「覚めたけど! 何もこんな無茶な起こし方ないでしょ! 鼓膜破れる!」
「あんた頑丈だから平気」
「鼓膜まで頑丈でたまるか!」
 叫びながらベッドから立ち上がる。昨晩寝たときとは違う疲労感がある気がしたが――体はわりと素直に動いてくれた。しかしそのついでといわんばかりに、頭がずきりと痛んだ。
 アンジェラの叫び目覚ましのせいでもないらしい。呻く。
「あー……なんか、ちょっと目覚め悪いかも」
「うなされてたわよ? 大丈夫?」
「……?」
 うなされていた――? 
 きょとんとして顔を傾ける。別に暑くて寝付けなかったとか、疲れすぎててどうとか、そういうことはなかったはずだ。だとしたら、うなされる理由は一つしかない。
「……なんか、変な夢見たかも。……よく覚えてないけど」
 気持ちの悪い、不快な感触が肌に残ってはいたが、それに理由が見つからない。夢なのだろう。
 告げると、アンジェラは肩をすくめた。
「まぁ、夢なんてのはそんなもんでしょ。で、どうするエリス? 流石にそろそろ動かないと、昨日の二人が怖いわよ?」
「ん。……今日出ようか。あんたは大丈夫?」
「いっぱい寝たからね」
 アンジェラの笑顔に、エリスはつられて笑った。
「オーケイ」
 ゆっくりと歩き、部屋にある小さな窓を開いた。春先の花の香りが、流れ込んでくる。

 レナード村。
 本当に小さな村で、セイドゥール帝国領の中でもかなり生活水準が低いところだろう。役所もなければ学校もない。医師が居たのは幸いだが。
 村そのものの外観にも、さして特徴があるわけでもない。赤茶けた屋根はセイドゥール帝国の中ではごくごく一般的なものではあるし、白い壁面もまたそうだ。作りの粗雑さや古さは逆に、帝都や大きな街では見られないが――まぁはっきりと良い特徴ではない。
 唯一その名が知られているのは酒が美味い、といった程度か。レナード村の銘酒コンチェルトは、その筋では高く売れる。 現金収入があるのは、村としてはそこそこありがたいはずだ。
 酒が美味いのは、気候的なものもあるのだろうが、それよりも水の美味さが効いているのだろう。紅蜘蛛
 村の西北にある高山からの雪解け水が、小川となってこの村に流れ込んできている。その水の美味さは、わざわざそれだけのために立ち寄る旅人もいるというのだから、相当なものだ。
 そのレナード村の、整備もされていない、ほぼ自然発生的な広場。広場の真中には噴水――といっていいのかどうか、というレベルのこじんまりとした奴ではあったが――があり、主婦や子供たちが井戸端会議やら遊びやらに興じている。

2012年10月28日星期日

智慧を継ぐ者

安曇を叱りつけた須佐乃男は、いいたいことをいってしまうと、さっさと安曇のいた舘を後にした。おそらく次に向かうのは大国主のもとで、その男のことも、じきじきに叱りつける気だ。いったいおまえは、いつまで隠居爺に甘える気でいるのか、と。終極痩身
 遠ざかっていく老王の後姿を、安曇は舘の階段を下りて見送った。
 頭を下げて、礼を尽くして老王を見送っていたが、足音が聴こえなくなるほど遠ざかってから頭をあげ、すこし小さくなった須佐乃男の背中を見つめると、しばらく呆然とした。
(穴持(なもち)様以外からこれほど叱られたのは、初めてだ。いや、ちがうな――。穴持様以外の人からの言葉に心から耳を傾けたのは、生まれて初めてだ……)
 安曇にあった須佐乃男への想いは、身体の内側に巣くった膿に似ていた。
 でも今、それはいとも簡単に消えゆこうとしている。
(あの人の言葉には、強い想いがあるな。それが出雲でいうところの、王の言葉には言霊(ことだま)があるということか)
 須佐乃男は、安曇の胸の内に気づいていたはずだ。
 その原因は彼自身にあるし、彼を拒み続けた安曇の想いなどは、たやすく見抜いたに違いなかった。
 それでも、須佐乃男は安曇を大国主の副(そえ)として認め、素質を疑うようなことはこれまでに一度もなかった。
 安曇はそれを、気づいた上で渋々無視しているのかと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
(あの男にとっては、出雲で暮らすすべての者があの男の子供なのだ。大小にかかわらず、なんらかの力がある者なら、民すべてが子。自分を憎む奴であろうが、隙あらば仇を討とうとしている奴だろうが、すべては大国出雲を動かすための重要な子らであり、駒。あの男は、果てしなく広い世界を見ているのだ。――これが、力の掟か)
 安曇の胸に生まれたのは、老王に対する敬慕の想いだった。
 そんなものは抱きたくなかったし、抱けば、あの男に里を焼かれた故郷の者に対する罪になると胸が脅えたが、抑えようがなかった。
(須佐乃男か――)
 老王が去った兵舎の広々とした庭をぼんやりと眺めつつ、安曇は懐かしい光景を思い出した。
 それは、雲宮の西側にあった小さな舘での出来事だ。
 その小さな舘は、武王が愛した王妃が御子たちと暮らした場所だったが、王妃が死んだとき、死を悲しんだ武王の手で焼かれてしまったので、いまはもうない。
 その王妃、須勢理(すせり)は須佐乃男の末娘だったが、須勢理が産んだ娘、狭霧も、老王にとっての最後の孫娘になった。須佐乃男は杵築の雲宮を訪れるたびにその舘へ寄って、孫娘と会った。
 舘の隣には柿の木が立つ小さな庭があり、柿の木の下には大岩が置かれていた。そして、その大岩は、ときおり須佐乃男の腰かけになった。
「おじいさまの場所はこちらだよ。どうぞ!」
「ありがとう、狭霧」
 狭霧は須佐乃男に慣れていて、須佐乃男がやってくると無邪気に手を引いて大岩へ案内したが、安曇はそれを見るのがあまり好きではなかった。
 自分が父代わりとして育てた狭霧と須佐乃男が仲良く話す姿を見るのが苦手だったので、須佐乃男が来ているときは声をかけようとせず、見て見ぬふりをして通り過ぎた。
 そのときも、狭霧のそばに須佐乃男の姿を見つけるなり、安曇は舘の影に身を潜めた。見なかったことにして立ち去ろうと思ったが、須佐乃男と幼い狭霧の会話を聴きつけると、つい影から、耳をそばだててしまった。
 狭霧を自分の膝に乗せた須佐乃男は、小さな子供がすっぽりと隠れるような太い腕で抱いて、子供をあやすには奇妙な話をしていた。
「狭霧や、目に見えているものは、たいてい嘘だよ」
「嘘? 嘘ってなあに、おじいさま」
「嘘というのは、飾り文句だよ。目に見えているものなど、飾りでしかない。姿形ではなく真髄を大切にして、時と人に合わせて、つねに造り変えていかねばならないのだよ。それが政(まつりごと)だ」
「政?」
「ああ、政。この爺がやっていることだよ」
 大岩の上で、みずからの身体で狭霧のための揺りかごをつくるようにゆっくりと揺れながら、須佐乃男はわらべ歌を口ずさむようにして、狭霧に話した。
「いくつか大事なことがあってね、一つ目は、つねに問うことだ。誰がそれを信じていても、問い続けなくてはならんのだ。二つ目に、信頼できる人をつくること。その者に、問う役を任せられるからだ。すべてを独りでやってはいけないよ。掌握するには、一人でやるよりも、ひとくくりに繋げた端から見るほうが都合がいいんだ。三つ目は、自分を疑うこと。そうしないと、新しい方法を編み出すすべを失うからね。己で編み出したことにも、『なぜか』と問い続けなければいけないよ」
「なぜか?」
「ああ、『なぜか』。狭霧や、今日のおまえの『なぜか』はなんだ。今日、ふしぎだと思ったことは、なにかあるかね?」
 それは、なぜそんな話を子供にするのだと、安曇が割って入って止めたくなるような話だった。のんびりと話してはいるが、難しい言葉だらけで、子供には理解できまいとも思った。でも、幼い子供に、難しい言葉を正しく理解する必要はなかった。幼い狭霧は、老王との話を続けた。
「ううんとね、今日の『なぜか』はね、どうしておじいさまがそんなお話をするのかなあってこと。なぜかなあ。本当は誰か、べつの人に話したいけれど、その人が忙しくて話せないから狭霧にしているのかなあ。でも、どうしてその人は忙しいのかなあ。なぜかなあ。なにかお役目をしているのかなあ。じゃあ、どうしてその人はそのお役目をしているのかなあ。なぜかなあ。……ねえ、おじいさま。『なぜか』の遊びって、こんな感じ?」
 話に乗ってみせた幼い孫娘に、須佐乃男は目を細めて笑った。
「ああ、そうだよ。狭霧は賢いね。それで、その人はどうしてそのお役目をしているんだい。それに、どんなお役目をしているんだい、狭霧や。教えてくれよ」
「ううーん、狭霧、途中で間違えちゃったかも」御秀堂 養顔痩身カプセル
「間違えた?」
「うん。おじいさまが狭霧とお話しているのは、誰かが忙しいせいじゃなくて、もしかしたら、そんな人がいないからかもしれないもの」
「いないのか! それは困る」
 ははっと、須佐乃男は愉快そうに笑った。
 でも、物影で聞いていた安曇は、背筋が寒くなった。
 狭霧と須佐乃男の会話は、よく聞けば恐ろしい内容だったからだ。
 須佐乃男が孫娘に話して聞かせたのは、政を司る者の心得だった。
 そんなことを須佐乃男が狭霧に話したのは、なぜか。須佐乃男は、本当はべつの人と話したいが、その人はとても忙しくて、須佐乃男は話ができない。でも、実はそうではなくて、そのような人が存在しないから、須佐乃男は狭霧に話すしかないのだ――と。
 ふいにそのときのことを思い出した安曇は、気が急いて仕方なくなった。
(ちがう。いないのではない。いないのでは――)
 さきほど須佐乃男からあれほど叱りつけられたのは、それだけ期待をかけられていたからだ。雲宮に乗り込んできて、真っ先にやってきた場所も、自分の居場所だった。
 いてもたってもいられず、安曇は兵舎を出て、本宮へ向かって大路をいった。
 ここを出た須佐乃男が向かった先は、大国主の居場所、本宮のはずだ。
 過去を恨んで、かたくなに心を開こうとしなかった二十年間を、安曇の胸は悔やみはじめていた。恨んで仕方のないことだとは今でも思うが、そのときすでに、老王は恨まれることすら許していたというのに――。
 「振り返るな」、「先を見ろ」と安曇を勇気づけ続けた主の少年の言葉を、憧れるだけで、結局役立てていなかったことも、いまさら痛感した。
(須佐乃男様と話をしなくては。あの男は、私がかなう相手ではない。今さら抗って拒んでも、いいことはなにも起きない。それどころか、大事なものを落としてしまう)
 走るような速さで、安曇の足は大路を進んだ。しかし、そのうち足は止まる。
 大路の向こうから駆けてくる館衆の男と目があった。その男は、安曇を探していた。
「あぁ、安曇様。ちょうどよかった。賢王から、あなたへことづけが。近々、意宇で話をする場を設けるので、そこに参ぜよとのことです」
 あの老王は、なにかを始める気でいるのだ。さっきはうなだれていたのに、すぐさま次の手を思いつくなど、本当にしたたかな爺様だ。
 感嘆するように、安曇はゆっくりうなずいた。
「わかった。それで、須佐乃男様は、いまどこに」
「雲宮を出られました」
「出られた? もう?」
「はい、ついさっき。これから意宇(おう)へ向かうのだとか」
「意宇へ――」
 老王が次に向かった先は彦名のもとだろう。安曇と大国主を叱りつけたように、これから老王は、彦名やその従者に檄を飛ばしにいくのだ。
(忙しい方だ)
 ため息を吐くと同時に、悟った。
 須佐乃男が急いでいるのは、焦っているからだと。
 耳が思い出した老王の言葉は、ぎくりとして背が震えるほどおぞましかった。
『わしは生まれてはじめて、老いることが苦しくてかなわなくなったぞ。……安曇、満足か? おまえはわしを、これ以上はないほど苦しめた』
 あの男にそこまでの言葉を吐かせるほど、自分の力は及ばなかったのか。そう思うと――。
(満足? いいえ。あなたを苦しめたら満足できるかと、心のどこかではきっと思ってきました。でも、あなたがうなだれる姿を見ても、満足などしませんでした。それよりも――)
 永遠に奇怪な化け物であり続けてほしかった男が、ただの老齢の爺にしか見えなくなった瞬間があった。それからというもの、安曇も老王と同じように焦り始めた。
(我々も急がなくては。時は止まらない。子供も老人も、人はみんな老いていく)
「穴持様は?」
 尋ねると、館衆は答えた。
「本宮におられますが」
「わかった」
 返事を聞くなり、安曇の足は再び早足を得て、大路を進みはじめた。主のもとへ話しにいくつもりだった。


 その十日後。意宇の王宮に、王の名や役を負った者たちを集めた須佐乃男は、王間で円座を為すすべての男たちへ命じた。
「急務を与える。出雲を滅ぼしたくなければ、知恵を集める体制をつくれ。力の掟のほかにも、掟をまとめる必要がある。彦名や大国主たち若者は、それぞれ自分の役目で忙しい。掟の土台となるものをつくるのは、わしら、一線を退いた者でおこなおう。どうすれば後世に渡って、いまと同じように国の力を保っていけるのかを、考え抜くべき時が来た」
 須佐乃男は、自分が中心になったその集まりを、「長老会」とひとまず名づけた。


 敷島の西端、引島の砦にいた高比古のもとへ出雲からの使者が着いたのは、それから十日後。高比古が引島に来てから、ひと月後のことだった。
「高比古様、帰還命令です!」
 大きく手を振りながらいそいそと小舟を降りて、自分のもとにやってくる使者を見る高比古の目は、見る見るうちにぽかんとひらかれていった。
「帰還? もう?」
 安曇が自分に引島行きを命じたのは、軍の規律を守るためだ。
 和を乱した者への見せしめの制裁で、なにもしなければ面目が保てないからという事情があるとも察していた。いってしまえば、体面を繕うだけの制裁なので、一年といいつつ半年くらいしたら呼び戻されるかもしれないとは考えたが、まさか、ひと月とは――。
「まだひと月だぞ? 本当にか?」御秀堂養顔痩身カプセル第3代
 喜ぶどころか訝しがる高比古に、使者はおずおずといった。
「私に伝言を命じたのは安曇様ですが、安曇様がおっしゃるには、ここの海を目で覚えたならそれでいいと。ほかにもやるべきことがあるから、すぐに戻れとのことです」
「やるべきこと? 出雲で? なら、おれの後任は誰だ」
「石土王(いしどおう)です。石玖王の長子の……」
「ふうん、豪傑だな――」
 石玖王の御子、石土王は、父仕込みの戦上手だ。安心してこの砦を託せる相手で、申し分ない。それでも、高比古は腑に落ちなかった。
「それにしても、急すぎないか。出雲でなにか起きたのか」
 すると、使者はじわじわと唇をひらいた。
「実は、意宇で、長老会というのができたんです」
「長老会? 意宇で?」
「須佐乃男様が中心となってできた集まりなのですが、意宇と杵築、二つの王都だけでは間に合わない問題について、先に考えておく場なのだとか」
「須佐乃男? なんだ、長老会って……隠居爺さんたちの集まりか?」
「あ、駄目ですよ。悪くいっちゃ。告げ口しちゃいますよ?」
「したければすればいいよ。おれは気にしない」
「いっちゃいますよ。いいんですね?」
 じとーっと睨んでくる使者を無視しつつ、高比古は次を尋ねた。
「で、長老会ができて、なんでおれまで戻されるんだ? おれも意宇にいって、爺さんたちの集まりに入るのか」
「いえ、あなたには、杵築(きつき)で暮らせと」
「杵築?」
「はい。安曇様がいうには、杵築に本格的に居をかまえる支度をせよと。変わるべき時にはその場に居合わせよ、とのことです」
「居合わせよ?」
 やはり、意味がよくわからなかった。
 役目を済ませた使者がそばを去り、一人になると、高比古は砦を出て砂浜を歩いた。波打ち際までいって、ざざ、ざ……という潮騒にひたりながら、彼方の波を見つめた。
 その日、空には雲が多く、まだ夕時には早いというのに、天を厚く覆った雲のせいですでにあたりはうす暗くなっていた。
 海から来る風はいつもより湿り気を帯びていて、風に身を晒しているだけで、衣は水気を含んで重みを増していく。風が来る方角のどこかでは雨が降っているようで、出雲の砦があるこの島にも、いまに雨を降らす黒雲が訪れそうだった。
(居合わせよ? 須佐乃男がなにかをはじめようとしているいま、その騒動の中にいておけってことか? でも、杵築で?)
 使者の話によると、長老会というものが発足したのは意宇の都であって、杵築ではない。
 変わり始めているのは杵築ではなく、意宇ではないのか。それなのに、杵築で暮らせとは――?
(杵築に、本格的に居をかまえる支度をせよ?)
 もともと、高比古が暮らしていたのは意宇の都だった。
 それは、高比古の主、彦名が意宇の王だったからだが、彦名に気に入られて、王の次席ともいわれる策士という役に就いた高比古は、彦名を継ぐ最有力候補と噂されていた。
 だが、一年近く前から、意宇を出て杵築に移り住むようにいわれていた。
 そのように助言したのは、須佐乃男だという。今回、意宇の都で長老会という名のなにかをつくった人物だ。
 一年前、高比古が杵築に移ったばかりの頃、奇妙な噂がまとこしやかに囁かれた。須佐乃男は高比古を、杵築の大国主の後継に据える気でいる。彦名の後継ではなく――と。
 でも、それが真実かどうかは誰にもわからない。だから高比古は何もいわずに、噂も聞かないふりを通してきた。でも、杵築で暮らせという命令が二度も続くと、先のことを考えずにはいられなかった。
(もしかして、武王になるための支度をしろということか。結局おれは、杵築側になるのか)
 杵築で、武王を継ぐ――。
 それは、高比古がこれまで思い描いたうちの最上の夢だった。
 いまの武王は、大国主。高比古が憧れてやまない男だ。その男の後継者となれば、直系の養子になるようなもので、一番親に欲しかった男を、とうとう父親にできるようなものだ。ぶるりと、高比古は背筋が震えるのを感じた。
(出雲最高位の座が、とうとう見えてきた。うそみたいだ。おれみたいな、出雲の血が一滴すら流れていない奴が……)
 魂ごと揺れるような奇妙な震えが、全身を駆け抜けた。
 豪快な笑顔で高比古を励ました巨体の豪傑の声も、耳元でこだました。
『そのまま偉くなれ。それで、一番上までのぼりつめろ。おまえが一番上までいけば、穴持や彦名以上の成り上がりだ。下っ端の兵どもの希望になってやれ!』
 興奮におされて、胃の腑から吐き気に似た笑いがこみ上げた。
(ああ、のぼりつめてやるよ。もうすぐだ)
 でも、同時に、興奮をしゅうと冷やしていく気味の悪いものも感じた。それは、前にふと感じた疑問だ。
 一番上にのぼりつめて、兵の希望になって――それから、おれはどうするんだろう?
(おれ、びびってるのか?)
 だから、湿った海風に歯向かうふうに立った。
 砂浜を踏む足に力を入れて、腕組みをして風に身を晒し、迷いを振り払うようにじっと見つめた先は、彼方の陸地。分厚い雲のせいで、天も陸も海も、どれもが同じような濁った灰色に見えていた。
 薄暗い夕景を眺めながら深呼吸をして、乱れた胸を落ち着かせた。
(ばかばかしい。おれが武王を継ぐとか、そんなことは後の後だ。それより今は、筑紫だよ。おれだろうが、盛耶(もれや)だろうが誰だろうが、北筑紫を制した奴が大国主を継ぐことになるよ。出雲は、力の掟が支配する国なんだから――)
 でも、胸に湧いた疑念は、隅へ追いやられるものの消えることはなかった。
 力の掟って、なんなんだろう。
 どうしておれなんだろう。
 おれなんかが……出雲の血が一滴すら流れていないおれが王になって、本当にこの先やっていけるんだろうか? 王になるのが終わりではない。その先は、遥か遠い先まで続いているというのに。御秀堂養顔痩身カプセル第2代
 頭にふっと浮かんだのは、狭霧の顔だった。力の掟が通用しない、極上の血をもつ娘だ。
 狭霧という大きな例外をもつこの掟が、かつて例のない大出世を認めることができるのか。あの掟は、本当に高比古を王の座まで押し上げることができるのだろうか?
 高比古は、信じ続けた力の掟に、はじめて不安を感じた。