アンジェラのわがままは、最高潮に達していた。
「眠いよー。ねぇぇぇむぅぅぅいぃぃぃ! 超眠い! 無駄にねむーいっ!」
本日十二回目の台詞だ。
(んなの知ったことか)
などと内心毒づきながら、エリスはとりあえず言葉を返した。紅蜘蛛(媚薬催情粉)
「……天気良いしね」
春の陽気は幾分いつもより暖かい気はしたが、まぁそれに不満はなく、あるとしたらやたらに眠気を誘うといったことくらいだろう。暖かいのは大歓迎だ。
後ろからとぼとぼと歩いてくるアンジェラの気配を感じながら、エリスはあごを上げた。
まだ低い位置にある太陽は、陽射しをきつく降り注いでいる。
陽光が木々の合間から煌いていて心地よい。が、逆に言えば遮るものがないと眩しすぎるほどだ。
(……確かに、暖かいけど。ちょっと暑いくらいかなぁ)
なんだかここ最近、気候が妙な日が多い。また冬に逆戻りか、と感じるような寒い日があるかと思えば、今日のように暑いくらいに暖かい日もある。
(大陸間の異常現象……か、な?)
魔物の大量発生なども最近問題になっているが、こういう気候に関する妙もまた、そういったもののひとつなのかもしれない。
ともあれ、このバジル街道の深い木々の間では、暑すぎるということもない。涼やかな風と、少しばかりきつい陽射しは、ちょうど眠気を誘うのに適していた。アンジェラのわがままもそのせいだと思うことにする。
「疲れたよー」
……違ったらしい。
「……まだ街を出て数時間しかたってませんけどお嬢様?」
「昨日夜通し歩いたしー」
「……宿までだけでしょ」
しかも行き道をずれてまで宿に寄ったのは、野宿は嫌だと言ったアンジェラのせいだ。
「ベッド硬かったしー」
「安宿だから仕方ないでしょ」
もともと、アンジェラもエリスも、割と不自由なく暮らしてきた金持ちの娘だ。貴族家系のアンジェラにしても、騎士家系として地位を築いたマグナータ家の長女であるエリスにしても、安い宿というのは実のところ初体験だった。
アンジェラの言う通り、安宿のベッドの硬さに寝付けなかったのは事実だ。エリスもそのせいで、疲れはとりきれていない。
(……そのうち慣れるんだろうけどね)
というよりは、慣れざるを得ないのだろうが。
それにしても、アンジェラの不平不満は次々と言葉になって漏れて来る。
「エリス起こすの早いしー」
「あんたが遅いんだって」
「……ていうか、マジ眠いよぅ」
「……もー少し行ったらレナード村ってとこに着くから、今は起きてなさい」
「足痛いー。疲れたー。眠いー。暑いー。喉乾いたおなかすいたー!」
「……やかましぃ」
呻く。振り返り睨み付けると、アンジェラがぷっと頬を膨らませた状態で足を止めた。
低く、言ってくる。
「――ていうか。ウザいよー」
「……それは同感……」
苦笑して、エリスは頷いた。自らも足を止め、空を仰ぐ。
バジル街道。整備もろくにされていない道は街道と呼んでいいのかなんなのか知らないが、まぁそう呼ばれている。ジャリ道と、両脇の林。鼻先をくすぐる濃い緑の匂いは心地よいが、森林浴としゃれこむわけにはいかなさそうだ。
アンジェラがさっと前髪をかきあげ、呟いてきた。
「……出て来てもらおうよ」
「……賛成」
エリスはペンダントに一度触れ、それからその手で腰の剣に触れた。なじんだ柄の傷を人差し指のはらでなぞりながら、声をあげる。
「――ってなわけで。残念ながら気付いています。眠すぎてこの子無駄に気がたってるみたいだから、早く出てきたほうが身のためよ」
数瞬の沈黙。ややあって――風が流れた。
アンジェラが拗ねた表情のままでそちらを向く。右手奥、街道脇の木陰。そこから、二つ、人影が出てきた。
――若い。
反射的に脳裏に浮かんだのは、その単語だった。
エリスはじっとその二つの影を見据える。
男だ。二人とも、背は高いほうだろう。エリスたちからすれば、頭ひとつ半は違う。年齢は――多少判りづらいが、十七、八、くらいか。アンジェラが小さく口笛を吹いた。
「カッコいいじゃん」
「……あのね」
アンジェラのあっけらかんとした感想に、エリスは思わず苦笑を漏らした。
(まぁ確かに。美形っちゃ美形、かな?)
一人はエリスと同じ黄色人種――いや、エリス自身とはまた少し違うらしい。目鼻立ちがはっきりしている。彫りが深い。セイドゥールでは、というよりは、この大陸西部ではあまり見かけない顔立ちだ。異国人だろうか。
長い黒髪と、同色の切れ長の眼。体の線は細いが、弱々しい感じは全く見受けられない。
もう一人。こちらは白色人種然とした容姿だ。ルナ大陸で一番よく見かける人種の特徴をかねそなえている。丁寧にカットされた、陽光に輝く金色の髪と、翡翠のような碧の瞳。手足がすらりと長く、剣を携えてはいるが、正直あまり似合っているとは思えない。慣れた感じは受けるのだが、むしろ楽器でも持っていたほうが似合いそうだ。
その、白人のほうが口を開いた。
「エリス・マグナータ……アンジェラ・ライジネス」
澄んだ声だ。清水のような雰囲気すら、ある。
「……どうでもいいけど。家名、やめてくんないかなぁ……」
エリスは思わず嘆息を漏らしていた。家を出てきたのだから、自分にはもう家名を名乗る資格はないし、名乗りたくもないのだから、いいかげんやめて頂けるとありがたいと思う。最も、そんなことあちらがわには関係のないことではあるだろうが。
「そうだけど。なぁに? 悪役の世界には、相手を襲うときにはフルネームで呼びかけなければいけないとかいう法律でもあるの?」
アンジェラが飄々と言ってのけるが、それに構う様子もなく、今度は黒髪の男が口を開いた。
「……気の毒だが、少々、手荒な真似をさせてもらうぞ」
その言葉に、エリスはアンジェラと顔を見合わせた。違和感が、二つ。
(……アクセント、こっちの方のじゃないな。東部訛り……?)
完全に訛っているわけではないのだが、微妙な違和感がある。この辺り――西部ではあまり聞き慣れない音だ。それが違和感の一つ。もう一つは、台詞の内容そのものだ。アンジェラが肩をすくめて続けた。
「へぇ。案外紳士なんだ。でもね、お兄さん。女の子を襲うのは、感心しないわよ?」
(……だよねぇ)
わざわざ襲うのに断りを入れてくる奴というのも珍しい。エリスは苦笑して、言葉を投げた。
「まぁ、それはいいけど――で、お兄さんたちのどっちが『ダリード』さん?」
ぴくり、と白人男の眉が動いた。黒髪のほうは、全くの無表情だ。気付いているのかいないのか、隠すのが上手いだけなのか知らないのか、それすら読み取れない。
ダリード。昨日聞いた名前だ。といっても、あの男が言っていたのは『おまえ達と同じ年頃の』だ。この二人だとしたら少しばかり年かさになるのだが。
どちらにせよ、この反応――全く無関係ではなさそうだ。
「昨日、ラスタ・ミネアで聞いたんだけど。『ダリード』さんとやらがあたし達狙ってるらしいんで。手ごまじゃなけりゃ、あんた達のどっちかがそうなんでしょ?」
挑発するように肩をすくめ、剣から手を離す。乗ってくるか否か。いちかばちかの懸けだ。
黒髪の男が、薄く唇を開いた。
「――ダリードとは、関係ない」
(……!?)
「エリス……!」
アンジェラが警戒したように小さく声をあげてくる。
知らないわけでもない。雇われているわけでもない。本人でもない。
――関係ない。
(別口……!?)
そうとしか考えられなかった。しかも『関係ない』と言う事は、この二人は『ダリード』とやらを知っている、確実に。
「どういうことよ!」
アンジェラが甲高い叫び声を上げた。黒髪の男が、淡々とした口調で続けた。
「――俺はドゥール」
「……ッ!」
唐突にエリスの肌が粟立った。膨れ上がる強烈な殺気。
反射的に足をひき、アンジェラを引っつかんで退がらせた。
危ない。
脳がその言葉をしきりに発している。
危ない。こいつらは、危ない。
もう一人の白人男が、口を開いた。
「――おれは、ゲイル……いくぞ!」
「来ないでいいわよっ!」
反射的にだろう、アンジェラが悲鳴のように叫んだ。そのアンジェラを背後にかばい、エリスは慌てて剣を引き抜いた。
――ィヂギィッ!
重く、歯の根の浮きそうな音がバジル街道の空に響く。同時にエリスの腕にしびれが来た。噛みあった剣を滑らせるために、角度をつけて無理やり流す。白人男だ。ゲイルと名乗っていたか。紅蜘蛛
II(水剤+粉剤)
(こいつ……案外やる!)
上段から振り下ろされた剣の威力は、ただ力任せにしただけのレベルではなかった。練りこまれた威力がそこにある。
エリスはアンジェラから離れるように距離をとった。この男、スピードもそれなりにあるようだ。昨晩の男に比べれば、スピード自体は遅いが、それでもエリスに付いてこられるのだからかなりのものと言える。
男――ゲイルはそのまま、こちらにむかってきた。流された剣に左手を添えて引き戻すと、そのまま突きに転じてくる。後ろに下がればアンジェラがいる。エリスは反射的に左に跳んだ。
「……っ!」
紙一重。鼻先を剣がかすった。エリスが左に跳んだ瞬間、ゲイルは突くのをやめて剣を薙いだのだ。
ド、ド、ド……と、心臓が恐怖を感じて鼓動をうるさくさせている。祈る。少し静かにして、後でいくらでも怖がっていいから、今は静かにして。
しゃがみこみ、エリスはすくい上げるように剣を振るった。ゲイルが跳び退り、間合いが開く。
と、そこへアンジェラの声が降り注いだ。
「――炎の精霊よ、風の精霊よ! 共に我が腕に今来たれ!」
呪文。唐突に炎が膨れ上がり、風が吹いた。そのまま、ゲイルに向かって熱風が襲い掛かる。助かった――とエリスは一つ溜息をつき、背後から援助をしてくれたアンジェラに親指を立てた。
「サンキュ、アンジェラ!」
「どーいたしましてっ!」
にっとアンジェラが笑い――その顔がそのまま固まった。
「――だめ、エリス! 跳んで!」
「……っ?」
訳も判らず、言われるがまま跳ぶ。次の瞬間、いままでエリスがいたその空間を、ゲイルの剣が薙いでいた。
「効いてない……!?」
アンジェラが悲鳴のような声をあげた。先ほどの魔導が、全く効果をなしていない。アンジェラが慌ててこちらに走り寄ってくる。
「どういうこと、アンジェラ!」
「わ。わかんないわよぅ!」
「――風に干渉しただけだ」
ゲイルが、淡々とした口調で告げた。
(風に干渉――?)
魔導に疎いエリスにはさっぱり判らない言葉だったが、隣のアンジェラが息を飲んだので、それが酷く異常なことらしいというのは理解できた。
と、今度はいままで成り行きを見守っていただけの黒髪の男――ドゥールが、すっと右腕を上げた。武器は持っていない。
「なに……?」
思わず眉根をひそめる。ドゥールはそれには答えず、静かな表情のまま、パチン――と指を鳴らした。
その瞬間、自分の身に何が起こったのかエリスはよく判らなかった。
ただ言えるのは、脳が拒絶反応を起こすようなレベルでの爆発音があったという事。そして、周りの木々が数本壮絶な音を立てて倒れたという事。視界が煙に閉ざされたという事。最後に、自分の肌のあちこちに、裂傷が生まれたという事だけだ。
「きゃっ……!」
アンジェラの悲鳴が聞こえ、慌てて彼女をかばうように腕を回した。身長差で言えばほとんど変わらない――どころか、実はほんの僅かアンジェラのほうが高いのだが――彼女は、エリスの腕の中で身を縮めていた。瞬間的な『何か』が収まった後、エリスは我知らず閉じていた目を見開いた。
アンジェラの体が、震えている。
「――アンジェラ、怪我は!」
「……擦り傷……ひっどーい! 乙女の柔肌傷つけて!」
大丈夫そうだ。
頬や手足に赤い線が走っているが、大きな傷は受けていない。エリスはほっと安堵の息をつくと、アンジェラから離れる。
剣を握りなおし、向き直った。
「……一体、なんなのあんた達は。変な魔導使いね?」
「魔導じゃ――」
エリスの言葉に反応したのは、ゲイルでもドゥールでもなく、アンジェラだった。彼女は細い体を震わせながら、悲鳴のように叫んだ。
「法技じゃないわよあんなの! あれじゃ、あれじゃまるで――」
「……魔法、か?」
その言葉を引き継いだのは、ドゥールのほうだった。感情すら見えない黒瞳に、僅かに光が反射する。
(魔導……法技? 魔法?)
エリスにすれば、どれも同じに思えるのだが――少ない知識を呼び起こし、考える。法技は一般的に使用されているもの。魔法は――
ふと、思い当たる。
魔女、特殊能力者しか使えないはずだ。アンジェラの『先見』の能力と同じ――!
「……そうよ。あんたたち何者よ!」
アンジェラの声に、男達はお互い一度視線を交わすと、黒髪の――ドゥールのほうが、一歩前へ出て来た。胸元に手を入れ、そして引き出す。
バジル街道の木々の隙間から降り注ぐ太陽光が、引き出されたそれに反射した。
赤い、小さな石――
どくん
「……月の石……っ!」
アンジェラがかすれた声をあげた。
エリスは反射的に、左手で自分のそれを握っていた。月の石。あの男が持っているものと同じ、月の石――
「……じゃあ、じゃああんた……エリスと同じ……月の者――!」
「……」
肯定も否定もせず、ドゥールはそれを再び胸元にしまうと、また一歩、前に歩み出て来た。ゲイルも同じように近づいてくる。エリスとアンジェラは、それに反応するように二歩、後ろに下がった。
「……エリス」
右隣に立っていたアンジェラが、エリスにだけ聞こえる声でささやいてきた。視線だけで促す。
「――ここから村まで、後どれくらい? 走っていける?」
アンジェラの質問の意味が判らず、エリスは眉を寄せた。一番近い村はレナードという名前だ。一度だけ行った事がある。そう遠くはない。ここからだと――
「……走れば、十分ってとこかな。走るの?」
アンジェラは答えず、男二人をにらみやったまま、エリスの手を握ってきた。剣を持つその手を握られて、反射的に振りほどきそうになったが、アンジェラの手の力が思いのほか強く、やめる。乾く喉に無理やり音を発してもらう。
「なに、アンジェラ」
「――十分、か。ちょっと……辛いわね」
アンジェラの横顔に、挑むような笑みが浮かんでいた。その表情に、エリスの心臓が高鳴った。酷い不安感。
「アンジェラ、あんた……まさか!」
「――やるしか、ないでしょう。ちょっとだけ無茶するわよ。死んじゃったら――ごめんということで」
「アンジェラ……!」
さらりといった言葉に、これからアンジェラがやることが危険度が高いものだと理解した。なんとなく判る。過去に一度だけ、たった一度だけだが、見たことがある。あれをやろうというのだ――!
しかしエリスが止めるまもなく、アンジェラがあいていた右手を上げた。声高に、叫ぶ。
「我が中に眠りし時の力よ! 我アンジェラ・ライジネスが命ずる!
我に先の未来を見せ、我らが時を進ませよ!」
――視界がぶれた。
胃の浮くような感覚。違和感――浮遊感とでも称すれば一番近しいのだろうか、感じたこともないような感覚が全身を支配した。
そして、急激な疲労が襲ってくる。
「――ッ……!」
エリスは我知らず、両手を地面に押し付けていた。剣は知らないうちに地面に転がっている。いつもなら絶対にしない。剣を粗末に扱うなんて事はない。けれど、そんなことに構う余裕がなかった。
体が、鉛を埋め込まれたかのように重い。肺が新しい空気を求めて、浅い呼吸を要求している。
「う……」
頭痛と吐き気――めまい。
湿った土の冷たさが、手のひらを通じて伝わってくる。土だ。つい先ほどまで足の裏にあったのは、バジル街道のジャリのはずなのに――
体の望むまま、短い呼吸を繰り返して、エリスは顎を無理やり上げた。冷たい汗が、一筋滑り落ちる。
「……アンジェラ!」
叫び声のはずが、ひしゃげた声にしかならなかった。すっと血の気がひいていくのがわかる。こうなるから、嫌だったのだ――
エリスのすぐ右隣、アンジェラが倒れていた。
「アンジェラ! この馬鹿! なんて無茶したのよ!」
「……」
アンジェラは口を幾度か開いて、何かを言おうとしている。だがはっきりと音にならない。ふだんは白くとも健康的な顔色が青ざめている。ほんの一瞬――いや、正確には一瞬ではないのかもしれないが――で、このありさまだ。
エリスはアンジェラの口に耳を近づけた。細い、熱く湿った息がかかる。
「……し、かたない、でしょ……」
途切れ途切れに、荒い呼吸の間からそういってくる。きつく閉じたまぶたが、僅かに開いた。湿ったアメジストの目が、こちらを見つめてきている。
「……はっ……ちょ……っと、私たちの『時間』を……十分、はやめた、だけ」
「馬鹿!」
思わず叫ぶ。
心臓が、呼吸が上手く出来ないためではなく別の理由で痛んでいる。さっそくこれだ――守ってやれないどころか、こんな目に合わせている。
「……それやったら、あんたしばらく動けないんでしょう!?」
エリスの言葉に、アンジェラは僅かに目を伏せて肯定した。その行動は必要ないとも思える。実際、見れば判る。動けないのだ、アンジェラは。指一本動かすのさえ、辛そうだ。
「……擬似時間転移……擬似空間転移に近い、んでしょ?」
「……だ。か、ら。ごめん……って」紅蜘蛛赤くも催情粉
アンジェラが細く息を吐いた。白い頬に走った赤い裂傷が、痛々しさをいっそう増してみせている。エリスは思わずその傷を人差し指のはらでなぞった。
アンジェラの能力――『先見』。しかしそれは『一番使用度の高い』能力だ。正確にはアンジェラの能力は――『時間』に関する全て。
これもそのひとつだった。以前に一度だけ見たことがある、時間を早める能力。アンジェラ自身、その一度きりで懲りたらしく――下手をすれば、死んでいたといった――今日この瞬間まで、二度とやるつもりはないと断言していたのに。
「……しかた、ない、じゃない?」
アンジェラの頬が悪戯っぽく歪んだ。こんなときでも、アンジェラはアンジェラだ。
「こうでも、しないと……逃げられそうに、なかったし。……あんただって、疲れ、てる、でしょ? 怒鳴ると体力、なくすわよ……」
アンジェラの疲労は、使用した魔法に体がついていっていないからだ。エリスの疲労とは違う――エリスの疲労は、慣れない感覚と、時間の急速な移動によって、体が悲鳴を上げているだけでしかない。アンジェラほど、辛くはない。
「……ごめ、やすませ……」
「判ってるわよ」
アンジェラの台詞をさえぎり、エリスはその細い手を握った。冷たい。
「とりあえず、宿……探すよ。歩ける?」
あいまいにアンジェラが頷くのを見てから、エリスは自らももう一度立ち上がった。なんとかなりそうだ。少なくともエリス自身は。転がった剣をしまい、一度大きく息をつく。
基礎体力はある。もう心臓も肺も、かなり落ち着いてきている。
けれどまだいまいち感覚のはっきりしない両足に力をこめ、踏ん張った。アンジェラの小さな体に手を差し伸べ、起こす。
さらりと黒い髪が、頬にかかった。
アンジェラのほとんど全体重が、エリスにもたれかかってくる。昨晩のわき腹の傷がその拍子に痛んだが、さして気になるほどでもなかった。なんとでもなる。
「……アンジェラ。ごめん」
「……」
かすかにアンジェラが笑った。馬鹿なことを言うなとでも言うように。それがほんの少し辛く、けれど嬉しくもあった。
顔を上げる。
整備もされていない片田舎の土剥き出しの地面。遠くのほうでキラキラと池が輝いている。青い空を背景に、点在するように立てられた、古い建築技術の家々の姿。
鼻をくすぐるのは、遅い朝食の匂いだろうか。どこか遠くから、子供たちのざわめきも聞こえる。
ようやっと落ち着いて来た。バジル街道ではない。
――レナード村に、エリスたちはいた。
「エリス顔怖い」
ベッドの中からのアンジェラの台詞に、エリスは眉間に刻んだしわをさらに深くさせた。
「……あんたが無茶するからね」
こんな片田舎の村でも、街道沿いにあるというのは便利なものだ。民家をそのまま改装したような小さなものだったが、宿があった。
アンジェラをそこへ運び込み、ベッドに寝かせて――開口一番この台詞を吐かれ、エリスは少しばかり不機嫌になった。
「うー。……だからぁ、ごめんって言ってるじゃない」
ベッドに横になって、多少とも落ち着いたらしく、アンジェラは苦笑を漏らしてきた。
「大体、エリス。あんたは休まなくていいの?」
「あたしはもう大丈夫だよ。とにかくあんたが休みなさい」
「……はぁい」
存外素直に頷いて、アンジェラはシーツを引き上げる。隣に座っていたエリスは、軽く彼女の頭をなでた。
「おやすみ。でも……まあ、ありがとう」
「うん……」
アンジェラがまぶたを下ろした。やはり疲れているのだろう。
「――っと、そうだ」
いきなり慌てた様子でアンジェラが目を開いた。
「? なに」
「エリス病院!」
「……はぁ? つれてっけっての?」
疲労なんてものは、寝ているのが一番だと思うのだが――と言いかけたエリスを遮って、アンジェラが早口でまくし立ててくる。
「そうじゃなくて。……わき腹の傷。昨日手当てちゃんとしてないでしょ?」
「……ああ」
右わき腹に触れてみる。もうすでに出血もないし、確かに痛みはするがさほど深い傷でもない。エリスは肩をすくめてみせた。
「大丈夫だよ。別に、もう平気」
「だめ。あんたってばいつもそうなんだから。私は寝てるから、エリスはその間に病院にいってきて」
頑としていってくるアンジェラに、エリスは小さな苦笑を漏らした。心配しているのだろう――が、今はこんな傷よりも、自分のことを心配して欲しいとも思う。
「……はいはい。一応探してみるよ。こんな村にあるかどうか知らないけどね」
「うん」
アンジェラがほっとしたように笑んだ。エリスは再度その艶やかな髪をなで、微笑を返す。
「じゃ、あたしは行ってくるけど……一人で平気?」
「平気よ」
「……判った。じゃあね。おやすみなさい、アンジェラ」
「おやすみなさい」
アンジェラが小さく笑って、瞳を閉じた。
こっぴどく叱られてしまった。
まだ脳内でがんがんこだましている医者の怒鳴り声に、エリスは半ばフラフラになりながら宿へ戻ってきた。
何で放っておいた。どこの子供? どうしてすぐに手当てをしなかったんだ。親はどこに居る。何をしたらこんなことになるの。危ないまねをするんじゃない――等々。
まさか、狙われました、とも、実は家出してきました、とも言えるはずもなく、適当にごまかしてきたのだが――医者というのはやはりどうにもエリスは好きになれない。カイリやパズーの家も医院をしていたが――
(……って、思い出すのやめよ)
ふいに暗澹(あんたん)な気持ちになりかけ、エリスは小さく頭を振った。
まだ、あっけらかんと思い出すほどには気持ちの整理がついていない。
安宿の、きしむ階段を上がり、アンジェラの寝ている部屋の扉をあける。
「あ、おかえりなさいエリス」
「ただいま」
ベッドに座っていたアンジェラが、顔を上げてきた。だいぶ落ち着いたようで、顔色も戻ってきている。
ほっと安堵の笑みがこぼれるのを、エリスは自覚した。
(よかった……大事に至らなくて)
アンジェラは手にしていた一冊の本を閉じると、それを小さく振ってきた。見覚えのある、青い表紙。
「借りたわよ、これ」
「……って。何で勝手に人の荷物漁ってんですかあんたは」
「だってヒマだったんだもん。でももうこれ、エリスんちであきるくらい読んだわよー。他のないの、他の」
「あのね」
嘆息。どうやらだいぶ元気にはなったらしいが――だからといって人の荷物を勝手に漁って、あまつさえそれに文句をつけるのはどうかと思う。
「あたしはそれが好きなの。読みたくないなら読むな。むしろ漁るな人の荷物を勝手に」
「いいじゃん別に。セシレル・ハイム、だよね?」
「そうだよ」
近寄って、アンジェラの手からその本を奪い返す。幾度も開いたおかげで、ページの隅はよれてしまっている。だが、お気に入りの一冊だ。
セシレル・ハイム――詩人画家の詩集だ。エリスの好きな芸術家で、自室の壁にはその絵のレプリカも飾ってあった。
「まぁともかくありがとう。暇つぶしにはなったわ。あ、それから、この子だしといてあげたからね」
「……って、ぬいぐるみまで引っ張り出してるし」
ベッドの枕もとに、白い犬のぬいぐるみが転がっている。お気に入りの一体で、バックパックに詰め込んできたやつだ。
詰め物がたりないせいで、やたら力の抜ける外観のぬいぐるみ。ココアと呼んでいる――白いのに。
このぬいぐるみは、実はアンジェラに以前もらったものなのだが、すでにそのときに名前がついていたからだ。白いのに、とはエリス自身さんざん思ったが、アンジェラに理屈は通じなかった。曰く『ココアはココアだから』。もはや訳が判らない。
アンジェラはそのぬいぐるみをぺしぺしとたたきながら、続けてきた。
「あ、洋服とかはクロゼットにかけといたわよ」
「勝手になにしまくってんですかお嬢様」
「ヒマだったんだもん。エリス帰ってくるの遅い」
「……病院行けって言ったのあんたでしょうが」
「そうよ? ちゃんと行った?」
「……行きました」
ちょっとぐらい疲労していたほうが静かでいいのではないだろうか――などとどこか冷めた思いでアンジェラを見ながら、エリスは小さく嘆息を漏らした。紅蜘蛛
闇。
何もない、真の闇。夜ではない。もっと深く、まとわりつく、虚無――
闇が、そこにあった。闇しかなかった。
エリスはその中で一人、立っていた。
いや――立っている、のだろうか。地面の感触すらなく、立っているのかどうかすらよく判らない。浮いている? それも違う――存在している、というのが一番近いのかもしれない。
「……ここ、どこ」
思わず言葉を漏らす。音が、おかしなほど響かない。奇妙な感触。
首を左右にめぐらす。だが、何もない。右もない、左もない。上下もない。手を伸ばす。視覚が効かないのなら、それ以外の感覚で情報を得るだけだ。けれど――いくら伸ばしても、なににも触れられない。
足を伸ばす。何もない。
匂いを嗅ぐ。何も匂わない。
耳を澄ます。何も聞こえない。
寒くも、暑くもない。本当に――『何もない』。
そんな空間が存在するなど、思いもしなかった。だが、ここにある――
ぞっと震えが来た。それで、少しだけ安心する。少なくとも『エリス』はここにいる――はずだ。
「アンジェラ……? アンジェラ、どこ」
声をあげてみるが、言葉はまるでスポンジに吸収される水のように、掻き消えてしまう。
返答もない。
ぞっとまぶたを閉じる――閉じたのだろうか。本当に? 判らない。視界は変わらない。そもそも自分は本当に、ここにいるのか――?
いや。
『ここ』は本当にあるのか――?
『――月の者よ』
ふいに、音が響いた。
何処からともなく――まるで、洞窟内で叫んだときのように、反響して聞こえる。
「……つっ!?」
唐突に、心臓に痛みが走った。胸元を抑え、たまらずしゃがみこむ。頭蓋に響いてくる声に頭痛がした。
「……う」
汗が、流れる。
『――汝、我が前に来たれ。我、汝を待ち受けん――』
響く声。
闇があった。
ただ闇しかなかった。
闇だけがあった。
闇以外には何もなかった。
ただ、判る。
呼んでいる声がする。
自分を呼んでいる声がする。
そう――行かなければ、この声に応えなければならない。
行かなければならない。
呼ばれているから。待ってくれているから。あのお方が。
エリスはゆるりと立ち上がった。闇の中、頤(おとがい)を上げ、呟く。
「はい……ルナ、よ――」
自分を呼ぶ声がする。
呼ばれている。
「――ス。エリス――」
呼ばれている。
闇の中から、闇の向こうから。
呼ばれている。
「エリス……エリス?」
呼ばれている――誰に?
「――エリスってばあッ!」
「うわぁっ!?」
耳元で強烈に叫ばれ、エリスは飛び起きた。鼓膜がジンとしびれている。
「な、な、な……」
「……あ、起きた。よかったぁ……」
「よくなあいッ! ビビるでしょ!? 何なのアンジェラ!」
反射的に叫び返して、エリスは声の主を睨みあげた。ベッドの上、覗き込んできている紫色の双眸。緩やかに揺れるウェービー・ヘア。
アンジェラだ。
彼女ははぁと大きく息をついてきた。あっけらかんと笑って続ける。
「……おはよ。目、覚めた?」
「覚めたけど! 何もこんな無茶な起こし方ないでしょ! 鼓膜破れる!」
「あんた頑丈だから平気」
「鼓膜まで頑丈でたまるか!」
叫びながらベッドから立ち上がる。昨晩寝たときとは違う疲労感がある気がしたが――体はわりと素直に動いてくれた。しかしそのついでといわんばかりに、頭がずきりと痛んだ。
アンジェラの叫び目覚ましのせいでもないらしい。呻く。
「あー……なんか、ちょっと目覚め悪いかも」
「うなされてたわよ? 大丈夫?」
「……?」
うなされていた――?
きょとんとして顔を傾ける。別に暑くて寝付けなかったとか、疲れすぎててどうとか、そういうことはなかったはずだ。だとしたら、うなされる理由は一つしかない。
「……なんか、変な夢見たかも。……よく覚えてないけど」
気持ちの悪い、不快な感触が肌に残ってはいたが、それに理由が見つからない。夢なのだろう。
告げると、アンジェラは肩をすくめた。
「まぁ、夢なんてのはそんなもんでしょ。で、どうするエリス? 流石にそろそろ動かないと、昨日の二人が怖いわよ?」
「ん。……今日出ようか。あんたは大丈夫?」
「いっぱい寝たからね」
アンジェラの笑顔に、エリスはつられて笑った。
「オーケイ」
ゆっくりと歩き、部屋にある小さな窓を開いた。春先の花の香りが、流れ込んでくる。
レナード村。
本当に小さな村で、セイドゥール帝国領の中でもかなり生活水準が低いところだろう。役所もなければ学校もない。医師が居たのは幸いだが。
村そのものの外観にも、さして特徴があるわけでもない。赤茶けた屋根はセイドゥール帝国の中ではごくごく一般的なものではあるし、白い壁面もまたそうだ。作りの粗雑さや古さは逆に、帝都や大きな街では見られないが――まぁはっきりと良い特徴ではない。
唯一その名が知られているのは酒が美味い、といった程度か。レナード村の銘酒コンチェルトは、その筋では高く売れる。 現金収入があるのは、村としてはそこそこありがたいはずだ。
酒が美味いのは、気候的なものもあるのだろうが、それよりも水の美味さが効いているのだろう。紅蜘蛛
村の西北にある高山からの雪解け水が、小川となってこの村に流れ込んできている。その水の美味さは、わざわざそれだけのために立ち寄る旅人もいるというのだから、相当なものだ。
そのレナード村の、整備もされていない、ほぼ自然発生的な広場。広場の真中には噴水――といっていいのかどうか、というレベルのこじんまりとした奴ではあったが――があり、主婦や子供たちが井戸端会議やら遊びやらに興じている。
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