2012年8月20日星期一

雨が降りやんでも~夏夜のおとぎ話~

あたしはキラ。
 ずっと腕を捜している。腕以外のことはなにも覚えていない。覚えているのは潰されそうなくらいに抱いてくれた腕。
 あたしはその腕を“ママ”と名づけた。
 どうしてママを捜しているのか。SPANISCHE FLIEGE D6
 その自分の気持ちの意味さえわからない。
 もう老いたあたしはママを恋しがる年でもないのに。
「キラ、来いよ」
 雨が続いているある日、ベッドの上に寝転がった同居人、紘斗が手もとを叩いてあたしを呼んだ。
 いつもより遅く帰ってきた紘斗がお風呂に入ったり、明日の準備をしたりと寝るまでの間、ずっとあたしは近づかず、遠巻きに動きを見守っていた。
 日付が変わるくらいに遅く帰ってくるときはお酒の付き合いか、もしくはメスと一緒だったか。
 あたしをベッドに呼んだということは、今日の付き合いは前者のほうだったんだろう。
 紘斗はメスと交尾した夜は絶対にあたしを呼ばない。
 呼ぶときと呼ばないときがあると気づいたのはいつだったか忘れた。
 どんな違いがあるのだろう。
 そう思ってあたしはその違いを探してみた。
 呼ばれるまで今日みたいに遠巻きに見ていたあたしだったけれど、試しに近づいてみた。
 あたしの鼻は利く。
 お酒を飲んだ日に近づくと、なんだか躰がカッとしそうなニオイがした。嫌いじゃない。普通の日には絶対にしてくれないチュウがあたしを酔わせる。
 気づいたら大の字に寝てたりして、ちょっと恥ずかしい。紘斗に気づかれることもあって、そんなときはあまりの体裁の悪さにあたしは飛び退(の)く。
 それを見て、ヘンな奴、とつぶやく紘斗の歪んだ笑い方が好き。
 ベッドに呼ばない日は。
 好きじゃない、ううん、はっきり嫌いなニオイがした。鼻をつく、ママとは全然違うメスのニオイがした。つくりもののニオイ。
 紘斗はときどきメスを連れてくる。
 同じメスじゃない。というより、紘斗は同じメスを二度と連れてきたことはない。
 それなのに、どれも鼻をつく。
 あたしは近づけない。
 部屋の隅(すみ)っこでじっと紘斗とメスを追っている。
 紘斗はそうしているあたしを見返すけれど、絶対にあたしを呼ばない。
 あたしの視線のせいなのか、紘斗は長居させることもなく、メスを連れだす。
 ほとんどのメスはあたしを無視する。もしくはあまりにも隅っこに置き物のごとく座っているせいで、気づかないのかもしれない。だってメスはそれどころじゃなく、盛りのついた“なんとか”みたいに紘斗を追ってる。
『なんとか』っていうのは『なんとか』。それをはっきり口にしたらあたしのプライドが許さない。あたしは盛りなんてつかないし……まあ、それは置いといて。
 たまに余裕のあるメスがいて、あたしに近づいてくる。来ないでって云うのに、あたしの言葉はメスに通じない。
 つい最近、機敏さがなくなってきたせいで逃げきれず、あたしを捕まえたメスがいる。名前はミハルって云っていた気がする。
 そのとたんにあたしはバカみたいに暴れて爪を立てたんだった。
 このメスじゃない。
 ママの腕を忘れそうで怖かった。
 あたしは紘斗を守ろうとしてた。
 なんのために、なぜ、なにから?
 ここでもあたしは答えを出せない。
 紘斗と出会ったのがいつだったのか。
 やっぱりあたしの脳みそは役に立たない。
 いまは箱の中に住んでいるけれど、ちょっと昔はもっと柔らかい香りのなかにいた。
 家の屋根裏でチュウチュウ――紘斗のとは違う種類のチュウと鳴く、すばしっこい丸々としたのを追いかけたり。やたらと毛のない尻尾が長くて、一度だけ踏んづけたことがあるけれど気持ち悪かった。それ以来、捕まえるのはやめて脅すだけにした。だって紘斗のじぃちゃんとばぁちゃんがせっかく作ったごはんの“もと”を食べ荒らしてしまうから。
 外に出て気紛(きまぐ)れに散歩しながら、緑と風の中で眠ったり、時間の流れが穏やかだった。
 たまにうるさいほど追い払っても追い払っても近づいてくるオスがいたけれど、あたしは独りでよかった。
 独りでというよりは紘斗がいるなら、友だちがいなくてもよかった。
「キラ、おまえ、いっつも独りだな。似てるよな……」
 いつだったか一緒に寝転がった緑の上で紘斗がつぶやいた。
 そういう紘斗も独りでいることが多い。
 たまに紘斗のパパが来るけれど、ほとんど口をきかない。
 でも似てるって?
 あたしと紘斗は似てる。でもいま紘斗が云った似てるというのはそういうことじゃないとわかった。
「おまえ見てると、だんだん心配になってくる」
 普段からあまり語らない紘斗はそう云ってかすかに笑った。
 箱の中に移り住んだのは八年前。
 ここに来て以来、暑いということ、寒いということを忘れてしまった。いつも同じ温度で、心地よい紘斗のニオイに満ちている。
 あたしの仲間は住処(すみか)が変わったらストレスで頭がおかしくなると、まるで自分のことのように嘆いて忠告してくれたけれどなんてことなかった。
 あたしは家のニオイより、紘斗のニオイに執着しているのかもしれない。
 紘斗はたまに公園に連れていく。そこはどんな場所とも違う空気があった。紘斗が決まって座る池の周りにあるベンチは、苦手な寒い冬でも温かい。
 外に出るときにいつも紘斗が纏っている棘(とげ)もそこでは柔らかく身を潜める。
 こっちに来て二年くらいすると、紘斗はヘンなニオイのするものを吸いはじめた。あたしが嫌がっているのを知って、紘斗はわざと口を窄(すぼ)めてニオイを吹きかける。
 思わずくしゃみをしたくなるようなニオイは部屋から抜けることなく、逃げ回っていたあたしもいつのまにか慣れてしまった。それは紘斗のさみしいという表現なのかもしれないと思うようになった。
 紘斗から呼ばれるままにあたしがベッドに飛びあがると、紘斗はあたしを持ちあげて仰向けになり、自分の胸に載せた。
 紘斗はいつになくジッとあたしを見つめる。
「おまえと……会ったんだ」
 紘斗は意味不明のことをつぶやいた。
「なんでだろうな……接点なんてゼロに近いのに……なんで似てるんだ?」
 紘斗の声にはいままでにない響きがあった。さみしさと疑問と腹を立てているような、いろんな響きがごちゃ混ぜになっている。
 あたしにはわからないとあきらめ、紘斗の上で丸くなると、躰を撫でられているうちに気持ちよくなって眠りに沈んだ。
 それからときどき、紘斗からいままでとは違うニオイがした。
 そのうち、紘斗の棘が少しずつ抜けていること、ニオイがだれのものか、ということに気づいた。

 

 八月も盆を過ぎたが、残暑という挨拶には違和を感じる。ビルの谷間を抜ける風も不快な熱を撒(ま)き散らすだけで、涼しいとは程遠い。営業に行く先々でだれもが、暑いですね、と口を開く。
 今日の交渉は思いがけずすんなりと進んで、上司への報告も簡潔にすみ、めずらしく六時には会社を出た。SPANISCHE FLIEGE D5
 会社へ戻ってきたときの天気とは打って変わって、黒い雲が押し寄せ、風の流れも速くなっている。
 雨が降らないうちにと急いで駅に向かった。
 八つ目の駅で降りると、そこはビジネス街の殺風景さとは違い、だれもを歓迎しそうな空気感がある。商店街から会社、民家と入り混じった通りを足早に進む。低い建物が多いなか、一つだけ群を抜いた赤い煉瓦の建物を目指した。
 もう少しというところで雨が落ちはじめる。マンションの玄関前の軒下に入りこむ寸前、一粒だった雨がラインになった。
 中に入るまえに頭を振って水滴を払う。
「紘斗!」
 自動ドアを通り抜けようとした矢先、うるさいほどの雨音を掻(か)きわけるようにかぼそく声が届いた。振り向いたと同時にずぶ濡れに近い躰が走りこんできた。ぶつかる寸前、肩をつかんで受け止める。
「こんなとこでなにやってる?」
「電車の中で紘斗を見かけて……あとをつけてきた」
「ストーカーだ」
 紘斗が顔をしかめて云うと、姫良は気にするふうでもなく、雫が入るのを防ぐように目を瞬(しばた)きながら肩をすくめた。
「雨、止むかな」
「夕立だからすぐに止む」
「タクシー、呼んでくれる? こっち、はじめて来て、なんて説明したらいいかわかんないし」
 紘斗は返事をしないまま、しばらく姫良を見下ろした。濡れた髪の先から、胸もとでバックを抱えこんだ姫良の腕にぽたぽたと雫が落ちている。
「そのまんまじゃ、タクシーも嫌がるだろ。乾燥機あるから、乾かしていけばいい」
「え……」
「下心なんてない。それを心配してるなら。それにうちには番犬ならぬ、番猫がいる。行くぞ」
 困惑した姫良を置いて、紘斗はさっさと自動ドアを抜けた。姫良は慌てて後を追う。
「猫、いるの?」
「ああ」
「意外。動物を飼ってるなんて」
「……おまえは?」
 何気なく聞こえる質問に姫良はわずかに顔を曇らせた。
「わたし? まえは……猫を飼ってた。三年前に死んじゃったの」
「……ふーん」
 その返事はなにか裏があるような気がした。訊ねる間もなく、エレベーターが七階に止まり、姫良は訊きそびれてしまった。

 

 玄関から金属の音が聞こえると、あたしはわくわくしてその姿を待った。いつもより早い気がする。
 あたしは絶対に迎えにはいかない。じっと部屋の隅で待つ。
 ドアが開いたとたん、あのニオイがした。
 あたしが覚えていたのは腕だけじゃない。ママの香りもちゃんと覚えていた。
 足音が香りを運んでくる。
 紘斗の後ろから入ってきたママはなにかを探すように部屋を見回し、その瞳が背筋をピンと伸ばしたあたしを見つけだして止まった。
「すごい、真っ白! なんだか気取ってるけど可愛い。名前は?」
「……さあな」
『キラ』
 紘斗の声とあたしの声が重なった。
『どうして教えないの?』
 紘斗は不満そうに云ったあたしをちらりと見る。
「名前も付けてないの?」
 ママは呆れたように云うとバッグをソファの横に置いて、部屋の隅にいるあたしに近づいてくる。
「紘斗、抱いていい?」
「人馴れしてないから気をつけろよ。このまえ、そいつ抱こうとして噛みつかれた奴いるから」
 ママが手を差し伸べた。
「大丈夫だよ。怖がってる感じしないし。きれいな猫ちゃんだね。おいで」
 あたしは迷わずその腕に委(ゆだ)ねた。香りがあたしを包みこむ。
 やっぱり捜していた腕だった。
「ゴロゴロ云ってる。わたし、濡れてるのに気持ちいいのかな」
 そう云って耳の傍で笑うママの振動が躰越しに伝わった。
 ママの背後で、紘斗がかすかに驚いた表情を見せてあたしたちを見比べている。
「ちょっと待ってろ」
 すぐに肩を小さくすくめ、紘斗はリビングを出ていった。
 覚えているよりやさしくなった腕に抱かれたまま、躰を撫でられるたびにあたしは『ママ』とつぶやいた。
「姫良」
「うん?」
『うん?』
 え?
 紘斗の呼びかけに、あたしとママは同時に返事をした。
 ママはまったく気づいていないけれど、紘斗がくちびるを歪めてかすかに苦笑いしている。
 あたしの名前は……ママと同じ。
「Tシャツ、貸してやるから早く着替えたほうがいい。夏といっても風邪ひかないとは限らないし。タオルはバスルームの棚に新しいのが入ってる。乾燥機の使い方、わかるか?」
「うちにもあるから、たぶん。ありがとう」
 ママ――姫良はあたしを放して頭を撫でると、ふわりと笑って部屋を出ていった。
『どういうこと?』
「やっぱ似てる。おまえの甘えた声も、姫良の笑う顔も……」
 紘斗は当然のようにあたしの問いには答えず、そうつぶやいた。
 しばらくして、ぶかぶかのTシャツを着た姫良が戻ってきた。
 紘斗の横で座って待っていたあたしを見て、
「紘斗、猫ちゃんの写真、撮っていい?」
と訊ねながら、返事を聞くまでもなく姫良はバッグを探っている。
「かまわない」
 紘斗は立ちあがって対面式のキッチンへ入り、セットしていたコーヒーを取りにいった。
 紘斗が戻ってくるまで、姫良は携帯をかざして、あたしの写真を何枚か撮った。
「見て。ほら、きれいに凛々(りり)しく撮れてるよ」
 姫良はそう云ってあたしに画面を見せてくれた。覗きこんだあたしの頭を姫良の手が撫でる。
「紘斗、猫ちゃん、人馴れしてないって云ったけど人懐(なつ)っこいよ。ね?」
 紘斗は答えないまま、コーヒーをテーブルに置いた。
「……もしかして……噛みつかれたのって彼女? だから番猫なんだぁ。偉いねぇ。あたしは二番目だから噛みつかないでくれるのかな」
 姫良は妙に納得して可笑しそうに紘斗を見やった。
「二番目ってなんだ? ハーレムじゃあるまいし。おれは認めてない」
 紘斗が顔をしかめてあっさりと姫良に返した。
「でもちゃんと相手してくれるし、あたしはそれでいいんだから二番目でいいんじゃない? あ、猫ちゃんが一番目だから、あたしは三番目だね」
 姫良が笑う。
 はじめて見た自分の姿はママとは全然違った。
 でもあたしとママは似てる。
 紘斗の云った意味がいまの姫良を見てわかった気がした。

 それからあたしはだんだんと眠っていることが多くなった。もう目が覚めることはないんじゃないかと思うくらい深い眠りの中に入る。食べることも億劫(おっくう)で、眠っていることのほうが気持ちいい。
 ただひとつ。
 ママの腕を捜していた理由。
 それが見つからないと、眠りの中に委ねきることができない。
 ママにもう一度会いたい。そうしたらわかる気がする。
「キラ、姫良に会いたいか?」K-Y
 気づけばなにか云いたげにあたしを見ていた紘斗が、ある朝、躰を撫でながら云った。
『うん』
「わかった」
 紘斗が出かける直前に呼び出された姫良がまにあった。
「……かなり弱ってるから、おれが帰るまで看ててほしい」
 話しながらふたりがリビングに入ってくる。
『ママ』
「なんだかうれしそう」
 弱々しくも呼びかけると、心配ながらも姫良もうれしそうな顔をして、座布団の上に丸くなったあたしの横に座った。
「じゃ、頼む。好き勝手にやっていいから」
「うん。いってらっしゃい」
「……ああ」
 ここでも姫良は気づいていないけれど、云われ慣れていない紘斗は一瞬、見たことのない戸惑ったような表情になった。
 理由の糸口が見えた。
 紘斗が出かけると姫良はあたしを膝の上に抱いた。
「わたしも猫を飼ってたことがあるの。名前がね、笑わないでよ。ヒロト、っていうんだ」
 そう云った本人がくすくすと笑っている。
 その傍らで、あたしの中に、黒斑(くろぶち)の姿が不意に現れた。
 ヒロト……って名前もらったんだ……じゃあ、キラって名前をもらったあたしは……。
「ヒロトって名前の子、何人か知ってるけどなにが違うのかな……紘斗をはじめて見たとたんになんだか……声かけちゃったの。名前を聞きだしたらびっくり。それでなんとなく他人じゃない気がしてくっついて回ってる。ヒロトを飼ったきっかけって覚えてなくて……気づいたらいたんだよね。病気で記憶が飛んじゃってるから。ヒロトって普通、人の名前だし、猫ちゃんにつけないのに……あ、紘斗には内緒ね。プライド、傷つけちゃいそうだし」
 時間は穏やかに流れ、姫良のお喋りの音が心地よい。
「紘斗の彼女、きれいなんだよ。わたしが絶対に持てない自信が見えるの。いいなぁ……違うの。紘斗の彼女になりたいんじゃなくって……あんな女性(ひと)になりたいなって」
 独りで質問を想定して答えている姫良の声に、たまに泣きたくなるような心が表れる。それを消すように姫良のくちびるに笑みが宿る。
 意地っ張り。
 独りでいい。
 でもあたしがいることを忘れないで。
 気づいて。
 似てる。
 ときどきでも紘斗がかまってくれるのなら。
 あたしがずっと紘斗を見ているように、姫良は紘斗のまえに現れる。
 理由が見えてくるにつれ、あたしのまえで光の扉が開いていく。
「大丈夫だよ。紘斗が帰ってくるまでもうちょっとだからね」
 光に気づいているのか、姫良がやさしく囁く。
 それとともに姫良の心があたしの頭に降ってきた。
 温かい雨。
 雨に触れた耳がピクリと動き、その既視感があたしの記憶を呼んだ。
――さみしくないですよね?
 紘斗を守ろうとした理由。
 なんのために、なぜ、なにから。
 姫良のために、姫良のかわりに、さみしさから。
 あたしは姫良に廻り合った。
 捜していた理由。
 そうだったんだ……。
 バトンタッチ。
 今度こそ、姫良が紘斗を守るばんだよ。そうできるのは姫良だけなんだから。
 どれくらい待ったのか時間はわからない。
 玄関が開いて夜のニオイを紘斗が持ち帰る。
「キラ、ありがとう」
 姫良の心とともに紘斗の言葉があたしの中に満ちた。
『紘斗』
 姫良の膝の上にいるあたしの躰を紘斗の手が撫でる。
 光に身を委ねた。
「姫良、悪かったな、付き合わせて。ありがとう」
 紘斗の腕が姫良の背に回った。
 あたしには見えなかったけれど、心に映った。
 雨が降りやむまでその腕は離れない。
 ううん、降りやんでも。
 さみしくないよね――きっと。曲美

2012年8月16日星期四

セカンド・インパクト

風邪をひいてせっかくのクリスマスデートはつぶれちゃった。
 
でも、彼と一緒にクリスマスを過ごせたので悪くはない。
 
それから数日後、風邪も治して完全復活した私は貴雅と2度目のデートを楽しんでいた。
 
今日は駅前の繁華街でのショッピングを中心にしたデート。蒼蝿水
 
「にゃー、ここはどこ?私は誰?」
 
……の、はずだったんだけど、まさかの迷子になってしまった。
 
さっきまでは仲良く買い物をしていたんだけど、私がちょっと駅のトイレに言ってる間に貴雅が行方不明に……というか、私がはぐれたんだけどね。
 
荷物は彼に預けてたので携帯電話も持っていない。
 
「はぅ、どうしよう、どうしよう~っ」
 
辺りを見渡しても貴雅の姿はなく、ジッとしている事もできず。
 
「ちょっと待っていて、と別れた場所はここのはずなんだけど」
 
場所を間違えて慌てて戻ってきた時には貴雅はいなっかった。
 
ぐるぐる、ぐるぐると同じ場所を回ってもいないし。
 
「せっかくのデートなのに、こんなミスしちゃうなんて……」
 
ぐすっ、と私はへこんでいると、前から歩いてくる小夜子を見つけた。
 
なんてタイミングでお友達と会うんだろう、ラッキー。
 
「あ、小夜子だ。小夜子~っ!」
 
「ん?あら、美結じゃない。どうしたの、ひとりで泣きそうな顔して」
 
「うえぇーん。助けて、今、ちょっとピンチなの」
 
こういう時に小夜子はとても頼りになるから、助かるんだ。
 
私は事情を話すと、小夜子は呆れた声で私を笑う。
 
「美結らしいわね。そう言うことなら、私が連絡してあげるわ。自分の携帯電話の番号くらい覚えておいて、公衆電話でかければよかったのに」
 
「あっ、その手もあった……って、今時、公衆電話を探す方が大変じゃない」
 
「ここは駅なので探せばすぐに見つかるはずよ。そんな事にも気づかないほど不安だったのかしら?本当に可愛いわね、美結って……(バカっぽいのが見ていて楽しい)」
 
はぅ、ちょっと迷子になったことに動揺してた。
 
こんな不安な気持ちって誰でもあるよね?
 
というわけで、小夜子は貴雅の携帯電話に電話をかけてくれる。
 
「やっほ、貴雅クン。そうよ、私。目の前に何か泣いている猫を見つけたの。そう、猫ちゃん。飼い主のキミが引き取りに来なさい。お姉さんがただいま保護中よ」
 
「誰が猫だよ、にゃー」
 
迷子の小猫ちゃん扱いですか、うぅ……。
 
子ども扱いされてばかりいる私だって、怒る時はあるんだぞ?
 
「アンタよ、アンタ。迷子の子猫ちゃん、大人しくしておきなさい。え?分かったわ。ほら、貴雅クンが電話に代わって欲しいって……別れの電話かしら?」
 
彼女から携帯電話を借りると、貴雅の声が聞こえた。
 
その声に迷子の子供が親にあえたように不安が消えていく。
 
『おぅ、みゆ先輩。今どこにいるんだ?さっきから待ってるんだが、全然来ないし』
 
「え?どこって駅の裏口だよ。貴雅はどこにいるの?」
 
『裏口って北側だよな?俺がみゆ先輩を待ってるのは東側だぞ?』
 
「嘘だぁ。だって、目印も……あ、そうか。ここじゃなかったの。私、勘違いしていたかも。目印にしていたお店って前はこっちじゃなくて、東口にあったんだよね」
 
私が勘違いしたのは洋服のお店、以前はこちら側ではなく東口にあったの。
 
その店舗の見た目が以前と変わっていないからつい勘違いしてしまったらしい。
 
隣の小夜子は「方向を間違える時点でドジすぎ」とからかう。
 
うるさいなぁ、ちょっとしたミスじゃんか。
 
『まぁ、みゆ先輩のドジ属性は今さらだから責めはしない。さっさと戻ってこい。ちゃんと小夜子さんにお礼を言うんだぞ』
 
「はーい。じゃ、すぐに行くから動いちゃダメだよ」
 
『――俺は最初から一歩も動いてねぇよ』
 
そうでした、私のせいだったよね、ごめんなさい。
 
私は気を取り直して、電話を切ると小夜子に返す。SEX DROPS
 
「ありがとう、小夜子。助かったよ」
 
「連絡ついてよかったわね。それにしても、貴雅クンも美結につき合わされて大変じゃない。彼が優しい良い男でよかったわ。そうじゃなければすぐに別れてる」
 
「ふぎゅっ!?わ、別れるって私と貴雅はそんな危機ないもんっ」
 
いきなりの小夜子の言葉に私は新たな不安を抱える。
 
今まで貴雅に甘えてばかりで、彼にしてみれば私と付き合ってよかったと想ってくれているのかなって……。
 
「ネガティブ思考してもしょうがない。そう、私は彼に愛されているの。だから、大丈夫……だと思う。うん、彼の家族とも仲がいいし……問題はないっ、はず」
 
「だんだん自信がなくなってるみたいだけど?彼に甘えるのもいいけど、少しは好かれる努力もしなさい。貴雅クンの前にそれっぽい可愛い子でも現れたら、あっという間に愛想を付かされて、破局なんて展開に……」
 
「うにゃー。そんなの聞きたくない~っ。もうっ、小夜子が意地悪する」
 
私は拗ねて唇を尖らせると、小夜子は微笑していた。
 
この友達は頼りになるけど、すぐに私で遊ぶから困る。
 
「私はもういくから。じゃぁね、小夜子」
 
「えぇ。デートを楽しんでらっしゃい」
 
小夜子と別れた私は早足で駅の構内を歩いて目的の東口へと向かう。
 
すぐに出口を出ると私は貴雅が待っている場所にたどり着けた。
 
……たどりつけたんだけど、そこで私は予想外の光景を目にする。
 
「やだぁ、ホントにそう思う?だとしたら、嬉しいっ」
 
「ホントだ。俺は今日の髪型の方が似合うと思うよ」
 
うぇ、何か嫌な場面に出てきたかも。
 
貴雅は私を待っているはずなのに、なぜか他の女の子と雑談中。
 
「……誰?美人さんと会話なんて珍しい」
 
はっ、これはいわゆるナンパという奴では?
 
私が迷っている間に他の女の子にちょっかいだすなんて……。
 
「貴雅、待たせたわね。あら、そちらの女の子は誰かな?」
 
どういう事情かは分からないけど、私は見ていられずに彼に声をかける。
 
自分の彼氏がそんなひどい人間だとは思いたくない。
 
「どこまで行ってたんだよ。まぁ、いい。おかえり」
 
「……そちらの子は誰なの?誰?誰?」
 
私が彼に詰め寄ると私の前にその子は間近に近づいてくる。
 
私は威嚇するように相手にムッとした顔を見せた。
 
「本物だぁ。ねぇ、これって本物のみゆ先輩だよね?」
 
「俺は他にこんなロリ先輩を知らないぞ」
 
「めっちゃ失礼な事を言わないでよ」
 
彼女は興味津々と言った風に私を見つめてくる。
 
「あの、一緒に写メ撮ってもいいですか?」
 
「え?あ、別にいいけど?」
 
私が?マークを頭に浮かべるのをよそに彼女は私と一緒に携帯電話で写真を撮る。
 
何が楽しいのか、笑顔を見せる女の子。
 
結構な美人の子だ、貴雅の知り合いだとしたら、年下かな?
 
「ふぅ、いいじゃない。これで私の美少女コレクションもひとつ増えたわ」
 
「……相変わらずのようだな、華奈」
 
「まぁね。でも、貴雅ちゃん。こんなにも可愛い子が恋人の貴方なんて羨ましい」
 
私を無視して会話を続けるふたり。
 
あのぅ、無視されると寂しいから仲間に入れてよぉ。
 
「っと、そうだ。紹介するよ、みゆ先輩。俺の幼馴染の宗田華奈(むねだ かな)。俺達と同じ高校に通ってる、俺と同い年だ。偶然、そこで会って話をしていた」
 
「ふーん。幼馴染がいたんだ、可愛い子だね」
 
「あははっ、可愛い?当然ですけど、そう言ってもらえると嬉しいです」
 
よほど自分を褒められると嬉しいようだ、しかもちょっとナルシスト系?
 
私が妙な視線を向けると、彼女はすっと私に手を差し出した。
 
「みゆ先輩、初めまして。貴雅ちゃんの幼馴染で、心の恋人の華奈です。学園で噂のみゆ先輩に出会えて光栄ですよ」
 
「こ、心の恋人?何なの、それ?」三体牛鞭
 
思わぬ単語に動揺する私、だって恋人って……え?え?
 
心の恋人って何なのよ?
 
「おい、華奈。余計な事は言うな。別に変な関係じゃない」
 
貴雅は否定するけど、彼女は私にこう言ったんだ。
 
「本当の事でしょう。私たちが昔、こ……むぐっ」
 
いきなり彼は慌てた様子で華奈さんの口をふさいだの。
 
「何でもないから。ホントに、気にする事じゃない。それよりも、こんな場所で迷子になるとはどんなお子様なんだ?」
 
「違うもんっ、迷子じゃないくて、迷っただけ!」
 
「……どこに違いがあるのか分からない。小夜子先輩がいなかったら、今日のデートはこれで終わってたかもしれないな。ほら、荷物を返すぞ」
 
私にバッグを返してくれる貴雅。
 
聞きたい事はあったけど、誤魔化されてしまった感じ。
 
「みゆ先輩と貴雅ちゃん、ふたりはデートの途中だったの?」
 
「あぁ。この先輩がこんな所で迷子になってな。待ちぼうけしてたんだ」
 
「だから、迷子言うなぁ。少し場所を間違えただけじゃない」
 
うぅ、貴雅がいつものように意地悪する。
 
けれど、隣にいた華奈さんは笑って言うんだ。
 
「貴雅ちゃんって昔から好きな子とか気に入った子にはよく意地悪していたクセがあったけど、まだ治っていないんだ?私もよくされてたもの。好きな子いじめ、少しはやめてあげてよね」
 
「うっさい。そんな昔の事は忘れてくれ」
 
うにゅぅ、私のこと、やっぱり貴雅は気に入ってくれているんだ。
 
意地悪は照れ隠しで、好きな子ほど意地悪しちゃうタイプなのかな……って、“私も”?
 
何かが引っかかる物言い、何だろう……幼馴染ってこんなに親密なものだっけ?
 
「あっ、もうこんな時間。私も待ち合わせがあるから行くわ」
 
「おぅ、また今度な」
 
彼女は貴雅に挨拶して私にも「それじゃ、さよなら。先輩」と頭をさげる。
 
「――ふふっ。みゆ先輩だけが彼の“特別”ではない、それを忘れずに」
 
その去り際、彼女は私の耳元ににそんな意味深な言葉を囁いたの。
 
その後、何もなかったかのように去ってしまう、華奈さん……。
 
彼女は一体、貴雅の何なのよ!?
 
何だか新たな波乱の予感、これっていわゆる幼馴染ライバルの登場なわけ!?
 
んにゃー、私ってこんなのばっかりじゃない……どうしよう。男宝

2012年8月14日星期二

二人の転校生

4月の新学期が始まってまだ間もないというのに、転校生が、しかも一度に二人もこのクラスに入ってくるとは、誰も思わなかった。
 噂すら立たず、それは突然に、学校にぱっとその朝、降って湧いたごとくやって来た。
 担任の後に続いて教室に入ってきた転校生。
 ざわめいていた教室が一瞬にシンと静まり返る。簡約痩身
 誰もが目の前の光景に信じられないとばかり目を見開いた。
「今日からこのクラスに入ることになった、トイラとキースだ」
 なんと二人は外国人。
 この高校始まって以来の海外留学生だった。
 クラス中、鳩が豆鉄砲を食ったようになっていた。
 ただ一人、春日ユキだけは冷静だった。というより、冷めた目でちらりと見てはため息を小さく吐いて、窓の外の空に目をやった。
 まるで転校生二人を毛嫌い しているようだった。
 これには彼女なりの訳があった ──。
 クラス中が転校生に注目する中、一人だけそっぽを向くユキのしぐさは、転校生二人の関心をひいた。
 二人は慎重な面持ちでユキを見つめる。
 「見ての通り、彼らは外国人だ。日本にはまだ慣れていない。それじゃ自己紹介を一応してくれるか。Please introduce yourself」
 このクラスの担任の村上先生は英語担当。
 二人も留学生が入ってきたのも、担任がまず英語を理解できるというのが考慮されたのだろうか。
 そうしてもう一人 都 合のいい生徒がいる。
 それが春日ユキ──。
 春日ユキは直感で感じ取っていた。
 自分がこの二人の面倒を押し付けられるということを。
 そしてそれが自分にとても都合の悪いことだった。
 その瞬間、鼓動 が不規則に波打ち、不安という振動を発生させ、神経を伝わって体の隅々までそれがいきわたる。
 空気がないくらい息苦しい状態に陥った。
 ユキは無意識に膝元 で強くスカートの裾を握り締める。
「I am Toyler」
 転校生の一人が『俺はトイラだ!』とでもぶっきらぼうに叫ぶ。
 すらりとした長身。
 黒髪。
 肌は日に焼けたような小麦色。
 目は 宝石のような緑の光が漏れる。
 まさにエメラルドの輝き。
 美しいがそれは清涼さと非情さを同時に持ち合わせていた。
 冷たく悪びれた態度でクラスに挑戦するよ うに鋭く睨みを利かす。
 まるで野獣にでも睨まれているかのごとく、クラス中緊張に包まれた。
 自分の名前だけ冷然に言うと、後は面倒くさそうにプイっと首を横に一振りした。誰も近寄るなと警告している様だった。
「この子はトイラという。出身はカナダだ」
 先生は顔を引きつらせ、気を遣ってフォローをいれる。
 これは先がやっかいだとでも言わんばかりに苦笑いしながら、もう一人に手を差し出して自己紹介を促 した。
「ボク …… ハ キース デス。カナダ カラ キタ。 ヨロシク」
 キースはたどたどしいながらも日本語が話せた。
 トイラと違ってにこやかで笑顔を振りまいている。
 その笑顔はうらうらと温かい陽をふりまいてるようだった。
 こちらも背は高く、髪は少し長めの金髪、白い肌、目はブルーといった王子 様のような風貌。
 女子生徒はあっという間にその美しさに魅了され、目はとろんとしては口元がほころび、キースの笑顔につられて笑みを浮かべてい た。
 トイラはキースのその媚びた態度が気に入らなさそうに、隣で鼻をフンっと鳴らしていた。
 そして春日ユキをちらりと一瞥する。
 冷たいはずの緑の目は、そのとき、懐かしいものを見るかのように優しい眼差しとなっていた。
 張り詰めていた気持ちが突然緩み、トイラの足が前に出る。
 キースは手を差し伸べダメだと知らせる。
 はっとして、トイラは下唇を少し噛んでうつむいた。
 それは注意されて鬱陶しがっているようにも、心から湧き出る感情を必死で押さえつけ、耐えてるようにもみえた。
 春日ユキは二人の自己紹介など聞いてもおらず、どんよりと暗く、ここに居たくないと頭を垂れて、机の上をおぼろげに見つめている。
 先生が授業をしていた ときなら注意されるくらい、完全にその場に参加していない失礼な態度だった。
「日本語はそのうちなんとかなるだろう。それまで皆も手助けしてやってくれ。特に春日、お前この二人を宜しく頼むぞ。二人にも何かわからないことがあった らお前に聞けといってあるから、手伝ってやってくれ。なんせお前は帰国子女だしな」
 春日ユキはこれを恐れていた。
 『帰国子女』とこの言葉を聞く度に耳をふさぎたくなる。
 その言葉と同時に冷たい視線が放射線状に体に突き刺さるのを感じていた。
 ひそひそと話し声が聞こえると、自分のことを悪く言われているようでさらに被害妄想も強まる。
 最悪の瞬間だった。
 帰国子女 ──どれだけ違った目で見られたことだろう。
 春日ユキの脳裏には嫌なことが次々と映し出される。
 英語を話してみろとからかわれ、『アメリカでは…… 』と話始めれば、知ったかぶりの生意気とはやし立てられ、アメリカと日本を常に比べるお高い奴とまで言われる始末。
 挙句の果てに、はっきりと自分の意見を言えば、生意気でアメリカナイズされた態度が鼻につくと虐められる毎日。
 そこへ二人の留学生の面倒。
 またクラスの反感を買うことが目に見えていた。
 これが二人の転校生を歓迎できない理由だった。
 また虐めの種が増えることを懸 念していたのだった。
 案の定、キースを狙っている女子生徒達からは、もうすでに挑戦状を叩きつけられているのか、鋭い視線を受けていた。
 先生が教室の後ろに座るユキの席を指差している。
 ユキはそのとき初めて自分の両隣が空いていることに気がついた。
 どうしてそんなに上手いことその場所が 空いているのだろうとユキは突然首をかしげた。
 前日まではこんな席だっただろうかと、思い出せないくらい奇妙な感覚が走った。
 そんなことをゆっくりと考える時間も与えられぬまま、ユキの左側ちょうど外が眺められる窓際の一番角の席、そこにはトイラが座り、反対の右側に はキースが座った。
「ユキ …… ヨロシク」
 キースが様子を伺いながら、笑顔で親しみを込めて話しかける。
 ユキは適当に愛想笑いを返した。そのユキの態度はキースには物足りないのか、がっかりとし た表情を浮かべた。
 だが仕方ないと諦 めたように、首を縦に振ってはうんうんと一人で納得するように頷いていた。
 その態度でユキのキースの第一印象は『変な人』だった。
 苦手なタイプかもしれないと、ユキは顔を背けた。
 次にトイラに視線を移した。
 一応、義理でも挨拶すべきだろうかと、目だけでも合わせておこうと顔を覗き込んでみた。
 左側の窓際に座ったトイラはユキを完全に無視しようとしているのか、全くユキに視線をむけなかった。V26即効ダイエット
 しかしそれはどこか不自然だった。
 妙にユキを意識して、本当は見たい気持ちを抑え、我慢するかのように葛藤していた。
 トイラは机に手を置くと、苛立ってるのか、 爪を立てて引っ掻くしぐさをした。
 正反対の性格の二人。
 ユキにはまるでトイラが気まま な猫で、キースが人懐こい犬に見えた。
 ユキは怖いもの見たさなのか、暫くトイラから目が離せない。
 焦点も合わさずに前をじっと見つめるトイラ。
 その時、彼の緑の目がユキの記憶をつつくように刺激する。はっとして、ユキの肩がかすかに びくっと動いた。
 美しい目の色はどこかで見た草原の輝きを思い起こさせ、埋もれていた記憶の中からバブルのように何かがぷわんと浮かびあがる。
 その中で、風がやわらかく体を包み込み、ユキはそれを抱くように胸で手を抱き合わせている。
 草木をすり抜けた一陣の風と共に黒いものが現れ、それはユキの頬を愛しく触れた。
 その記憶の中の人物のビジョンがはっきりでてこない。
 漠然としたイメージの中、視界を不透明なフィルムで隠されたようだった。
 ユキはどうしても思い出し たかった。
 このままでは中途半端で脳が不完全燃焼を起して掻き毟りたいほどに気持ち悪い。
 トイラの緑の目に一層釘づけになって、体ごと前にのめり込んでい た。
 突然トイラが睨みをきかせてユキに視線を合わせた。
 その時恐ろしいほど近くに緑の目を感じた。
 ユキは知らずとトイラの顔の側まで迫っていた。
 ユキは触ら れたカタツムリのように慌てて体を引っ込める。
 何をしてたんだと、自分でも急に恥ずかしくなり、その後ずっともじもじと下を向いていた。
 トイラは窓に顔を向け、ユキに気づかれないようにひっそりとため息をついた。
二人の転校生の噂はあっという間に学校中に広まり、2年A組の教室は休み時間になる度に、見世物小屋となった。
 見物料でもとりたくなるほどだった。
「また来たわ。次々と来るもんだわ。外国人なんて今の時代珍しくもないのに」と、ユキは冷めた目で少し馬鹿にした。
 自分は違う人間だとでも主張したかったのか、見物人の目の前で得意げについ英語を話してしまう。
「Say, Kieth. Why did you come to Japan? Moreover, it's a very boring place」
(ねぇ、キース、あなた達なぜ日本に来たの。しかもこんなつまらないところに)
「ユキ、ニホンゴ デ ダイジョウブ。ニホンゴ デ ハナシテ。ベンキョシタイ」
 キースは典型的な外国人訛りの日本語だったが、その訛りが却って作り物のように聞こえるくらい、日本語は上手に話せるようだった。
「キース、日本語上手いんだね。ねぇ、トイラも話せるの?」
「トイラ ニ チョクセツ キイテミテ」
 なぜかキースはクククと愉快とでもいうように声を押し殺して笑っていた。
 この笑いに何か意味でもあるのだろうか。
 ユキは言われるままにトイラに質問してみた。
 トイラは面倒くさそうに振り向くと、やはりまたユキを睨んでいた。
「Toyler, please don't give me a mean look. Do you hate me?」
(トイラ、お願い、私を睨むのはやめて。私のことが嫌いなの)
 ユキは咄嗟に英語で話していた。
 やはりここでもキースは肩を震わせて笑いを堪えていた。
 ユキには何がおかしいのか全くわからない。
 それよりもトイラのこの意地悪そうな性格にはうんざりだった。
「あら、春日さん、さすが帰国子女ね。英語でペラペラと見せ付けてくれること」
 そう言って現れたのは、このクラスでもちょっと突っ張ってる矢鍋マリだった。
 先頭に立ってユキをいじめるリーダー的存在である。
「ヤア、キミ ハ ダレ?」
 キースがにっこりと白い歯をみせて話しかけた。
「あっ、私はマリ。あの…… その…… 」
 矢鍋マリは答えにつまった。
 キースの心に沁みるようなやさしい笑顔が、ピーンと突っ張っているきついマリの性格をも変えた。
 マリは小魚のように口をパクパクしながら慌てている。
 気の強い、弱みなど見せぬ女だが、やはりこの手の王子様には弱いらしい。
 いわゆるツンデレタイプなんだろう。
 キースの魅了させる笑顔は、魔法をかけたようにマリを恥じらいのある乙女に変身させた。キースはマリから言葉を巧みなく引き出す。
 それに乗せられてマリは上機嫌にキースとの会話に声を弾ませていた。
 ユキはほっとした。
 このマリほど陰険でユキを面と向かって虐めるものはいない。
 ここでキースが入り込んでくれて、ワンクッションの役割をしてくれたことに深く感謝した。
 矢鍋マリがキースと楽しそうに話している中、周りに自然と女子がそれにあやかろうと集まってきた。
 キースは集まってきた女の子全員に愛想を振りまいている。自分がモテルことをよく知っているかのようだ。
 しかしそれを鼻にかけることはなく、あくまでも優しい気の遣う男として振舞っている。
 ユキはキースのその態度をみると、何か意図があるように思えてならなかった。
 そしてまたトイラに視線を向けた。
「ねぇ、トイラ、さっきの続きだけど、私のことそんなに嫌い?」
 今度は日本語で問いかけてみた。
 トイラは深い湖の底に神秘的な何かが沈んでいるような目をしてユキをじっと見つめていた。
 先ほどの冷酷さは感じられず、優雅な光を発している。
 ──美しい緑、まるで宝石のエメラルドのよう。
 『エメラルド』と例えたその時、ユキのずれてたピントが合った。
 ──私、この目を知っている。どこかで見たことがある。
 その時トイラが口を開いた。
「オマエ ノ コト キライ デハ ナイ。 オレ ハ コウイウ オトコ ダ」
 トイラも日本語が話せる。
 やはりその訛りは典型的な外国人アクセント。
 でもどこか変に聞こえた。
 一度うつむいて表情をリセットしたのか、再び顔をあげたとき、また仏頂面になってきつく睨み返してくる。
 嫌いではないのに、この極端な態度は何だ。
 ユキの口はただぽかんと開いていた。
放課後、整理に困るほどの女子生徒が押し寄せるように窓や戸口でひしめきあっていた。
 キースは「ハーイ」と手を振って愛想良く構っている。
 その度に『キャー』と歓喜が湧き上がっていた。
 もうアイドルであった。
「さてと、あなた達ちゃんと家まで帰れるよね? それじゃ あまた明日ね」
 やっと離れられると思ったのもつかの間、次の瞬間ユキの顔が引きつった。
「マッテ ユキ、イッショニ カエロウ。 トイラ、 オマエも カエルゾ」
 キースの声で、トイラは命令を受けたロボットのように立ち上がった。
 そして二人はユキの後をついていく。
 その後にも、女子生徒達がぞろぞろついてきた。
 先頭を歩くユキは観光で案内する添乗員の気分だった。
 学校の門を出たところでキースが振り返り「バイバイ」と手を振ると、女子生徒たちはこれ以上ついて来るなと察知したのか、その場で名残惜しそうに手を振って見送っていた。
 静かに3人で歩いているときだった。V26Ⅲ速效ダイエット
「ふー疲れた。日本語話せないフリするのもしんどいな」
「えっ、フリ?どういうこと」
 突然溝に足を取られたようにがくんと体が傾きながら、ユキは顔をしかめて振り返った。
 なんとキースは普通の日本人と変わらぬほどの発音で日本語を話している。
 いや、もうそれは日本人そのものだった。
「まあね、僕達は言葉には困らないってことさ、なあトイラ」
 キースに言葉を振られたが、そんなことどうでもいいというようにトイラは無言のままだった。
「ということは、トイラもフリをしているってこと?」
 ユキは珍種の動物を見つけたような驚きの顔でトイラを見つめた。
「そっ、そういうこと」
 キースがトイラの変わりに答えてやった。
「どうして、そんなことする必要があるの? 話せるんだったら普通にすればいいじゃない」
「だから、こっちにも訳があるってこと。それに皆だって僕達が日本語ペラペラだって思ったらつまんないだろう。ちょっとした演出さ」
 ユキは顎をがくっと落とすように呆れた。
 この二人はどうも何かをたくらんでいる。
 自分は巻き込まれたくない。
 本能的に逃げるスイッチが体に入った。
「そう、わかったわ。好きにすればいい。私も聞かなかったことにするから。それじゃ私こっちだから」
 走りさろうとしたユキ。キースは狙った獲物を逃がさないかのごとく、素早くユキの腕をつかんだ。
 その動作0.01秒。
「ちょっと待ってくれよ。僕達同じ方向なんだから。しかも同じ場所に行くのに、一人だけ走って帰ることないだろ」
 ユキは耳を疑った。
 ソフトに笑っているキースの顔が却って不気味にみえた。
「あの、同じ場所って、近所ってこと」
 恐る恐るユキは聞いた。
「近所じゃないよ」とキース。
「近所じゃないのに、同じ場所?どこそこ?」
「ユキの家」トイラがぼそっと言った。
「えーーーーーーー、嘘でしょ。どうして私の家? なんで」
「あれ、博士から聞いてないの。僕達ユキの家でお世話になるって」
 キースはクスクスと笑っていた。
 博士と言えば、ユキの父親、生物学者なのでそう呼ばれている。
 ユキが海外で過ごしたのもこの父親が海外の大学で働いていたからだった。
「聞いてません!」
 ユキは蕁麻疹が出る勢いで体中ぞわぞわした。
 突然降って湧いた二人の転校生。
 しかも一緒に住むなんて、そんなことがあってたまるものかと、何かの間違いだとお経をつぶやくように 何度も繰り返していた。
「ユキ、俺達のこと、嫌いか?」
 トイラがぼそっと言った。
 トイラのその質問は意外だった。
 あんなに人を睨んでおいてこの質問は信じられない。
「ちょっと、そういう問題じゃ、それにどうしてあんた達日本に来たわけ? 何の目的で?」
「それはそのうち嫌がおうでもわかるさ」
 さっきまでクスクス笑っていたキースが突然影を落としたように暗く沈んでいる。
 二人とも態度にギャップがありすぎる。
 これは何を意味しているのだろうか。
 質問してもはっきりと答えるわけもなくはぐらかされる。
 一体どんな訳があるのだろうと、ユキは帰ったら父親をとっちめる気分でいた。
 自然と鞄を持つ手に力が入り、蟹股でどしどしと闊歩していた。
「へぇ、ここがユキの家か。なかなか大きいな」
 キースがここに住むことをわくわくするように見上げていた。
 遠くに山が重なるように屹立し、周りは畑や更地が広がり、その間を砂利の混じる道がタンポポや雑草に飾られながら通っていた。
 家がポツポツと広い田園で小さな島が浮いてるようにところどころに建っていた。
 ユキの家は小高い丘の上に小山を背にしてどんと構えていた。
 純日本風の二階建て、庭が広く、周りは低木で囲ってあった。
 玄関の鍵を開け、ドアをスライドしてユキは家の中に入った。
 二人は玄関でまず首だけつっこんだ。
 入るなともいえず、手招きでカモーンと合図すると、いそ いそと土足のままあがりこんでしまった。
「ちょっと、靴、靴脱いで。日本は家の中で靴履かないの」
 二人は顔を見合わせて靴を脱ぐ。
 家にあがれば、体を低く構えて、鼻をヒクヒクと動かし、匂いを確かめるように辺りをキョロキョロしていた。
 その行動は見 知らぬところを警戒している犬や猫を連想させた。
「日本の家が珍しいのね」
 ユキが一通り家の中を案内してやった。
 掛け軸を床の間に飾った畳の部屋で、トイラとキースの動きが止まる。
 畳の匂いが心地いいのか、目を瞑って、鼻で深く息を吸い込んでいた。
「森の匂いに似ている」
 トイラが小さく呟いた。
 案内が終わると、居間のソファーに二人は大人しく腰掛け、暫くじっとしていた。日本風の家でありながら、モダンを取り入れて居間は洋風の作りになっている。
 ダイニングキッチンがアルファベットのLの字型に居間と続いていた。
 二人は被告人が判決を待つようにこの後どうなるかハラハラしていた。
 ユキはどうすべきかと、二人を目の前に腕組をして仁王立ちをしている。
「僕達、迷惑かけないから。安心して」と懇願の目でキースが言った。
 トイラは黙ってじっとユキを見つめていた。
「とにかく、この状況をパパに説明してもらわないと、私だって何をすべきなのかわからないわ。パパどこにいるのかしら?」
「博士なら、今日僕達と入れ違いにカナダに行ったよ」とまたキースが言った。
「えっーーーーー、嘘! 聞いてない」
 ユキの素っ頓狂な声で家が揺れる勢いだった。
「突然だったんだ。でも俺達がユキのことちゃんと守るように頼まれたから、だから心配しなくていい」トイラがなだめるように言った。
「昨日までパパは何も言わなかったわ。こんな大事なことどうして黙っているのよ」
 ユキは納得できなかった。
 しかも連絡先もわからない。
 この二人はなぜここに来ないといけなかったのか。
 訳を知っている父が居ない今、ユキは力が急に抜けてへなへなと床に座り込んでしまった。
「大丈夫かい、ユキ」
 突然側に駆け寄り、心配してユキの体を支えようとしたのはトイラだった。
 ユキの体がふわっと持ち上がったかと思うとトイラはお姫様抱っこしてソファーに座 らせてやった。
 キースが肩を震わせて笑っている。
 そしてまた急にプイッと顔をそらしてトイラは冷たい態度になった。
 ただ訳がわからず放心状態のユキだった。
 一体これから何が始まるのだというのだろうか。
 それは毛糸が絡んでしまって一本の糸になれず、困りながら何度も引っ張ってイライラする感情に似ていた。V26Ⅳ美白美肌速効
 解こうにも解けない。
 一層のことハサミでざくざく切って捨てたらどんなに気持ちがいいだろうと、ごっそりと目の前の二人をもちあげて、玄関から投げ捨てたくてたまらない衝動にかられた。
「なあ、ユキ、お腹空いた」
 キースは子犬のように目をウルウルさせ、まるで尻尾を振っているように甘えた声を出していた。
 ユキは父親と二人暮し。
 母親は物心ついた時にはもうこの世に居なかった。
 父娘でずっと暮らしてきて、家事は殆どユキがやっている。
 料理を作るのは苦では ない。
 だが、この二人は何を食べるのかさっぱり分からなかった。
 とにかく家にあるもので料理をこしらえてやった。
「いい、食べるときは、日本では両手を合わせて『いただきます』というのよ」
 言われたとおりにする、トイラとキース。
 その動作がかわいい。
 素直に言うことを聞く二人に驚きつつも、ユキは母性本能をくすぐられた。
 暫し二人を見つめ てほんわかな気分が漂う。
 次の瞬間、我に返って恥ずかしさがこみ上げ、自分の頬を両手でぴしゃりと叩き、その感情を否定した。
 この二人に飲み込まれてはだめと、気を取り直してユキも箸を持った。
 ご飯と、味噌汁、焼き魚に、煮物、そういったものが食卓に並んでいる。
 トイラとキースはもの珍しそうに眺めている。
「これ、何? 食べられるの。たまねぎ入ってないよね。僕もトイラも玉葱は嫌いなんだ」
 キースは柔らかな物腰のくせに、小さなことをいちいち気にしそうな細かさが目に付く。
 しかしトイラは何も言わず黙々と食べだした。箸も結構上手く持っている。ユキの作った料理を一心不乱に食べていた。
 その食べっぷりはユキは見ていて気持ちよかった。
「玉葱が食べられないって、二人とも子供ね、私なんて玉葱大好きよ」
「へぇ、魚って結構おいしい。これって猫の食べ物だと思ってたよ」とまたキースが言った。
 ユキはその一言で欧米の食生活を振り返った。
 確かに魚を食べる人は少なく、肉が主食だというくらい肉ばっかりだったと自然と頷いていた。
 その間にトイラは骨まで食べたのか、あっと言う間に魚の姿が消えていた。
「やだ、トイラ、魚の骨まで食べたの。よく食べられたわね」
 キースはそれを聞いてまたクスクスと肩を震わせていた。
 キースはよく喋る。
 人懐こい。
 子犬が遊んで欲しいのか、自ら玩具を差し出すように会話がぽんぽん出てくる。
 それとは対照的に口数少ないトイラ。
 何もかも自 分のペースを乱さず我が道を行っていた。
「ねぇ、二人は友達なの? だから一緒に留学してきたの?」
 ユキはまだ二人のことについて何一つわからない。いろんなことを聞き出したくてたまらない。
「俺が、こいつと友達?まさか」
 そういったのはトイラだった。
「おいおい、僕達友達じゃないか。付き合いも長いし、まあ特別仲がいいって訳でもないけど、知らない仲でもないだろう」
 キースはおどけて言った。
「ちょっと、待って、じゃあ二人がここに居るのは偶然って事なの?」
 ユキは二人のやりとりが飲み込めない。
 英語が母国語なのに二人で流暢に日本語で話しているのも不思議だった。
「話せば長くなる」とあたかも面倒くさいとでも言うようにトイラが答えた。
「だからそのうちわかるって。それまでこのままで楽しもう。こういう感じ、願わくば、しばらくこの状態が続いて欲しいよ、なあ、トイラ」
 いちいち引っかかるような言葉をキースは使う。
 ユキは首をかしげていた。
 この二人にはついていけないと軽くめまいがするほどお手上げだった。
 夕食の後、洗い物を手伝ってくれたのはトイラだった。
 何も言わず黙々と片付けている。時折視線を感じてユキが振り向けば、慌ててプイッと顔をそらす。トイラは 何 を考えているかユキには全く理解不能だった。
 キースがそれを見ては肩を震わせるように笑っているのも不可解だった。
  ──この二人は一体何者?
 謎ばかりが膨らみ、はがゆい憤懣も比例するように益々募る。
 疑惑の目つきでトイラとキースを交互に見ていた。 男根増長素

2012年8月10日星期五

聖なる王国

揺れる、揺れる、揺れる。
 何度も慣れようと思ったけけれど、この独特の揺れには全然慣れることが無い。むしろ、悪化する一方だ。
 それに、この息苦しさと蒸し暑さと言ったら――。
「よし、そろそろいいだろう」RU486
 ゼノンの声と共に揺れが収まる。同時に体がふわりと浮いた。
「悪かったな。もっといい方法があれば良かったんだが」
 目の前に大きな穴が開けられ、そこから青空がのぞく。メイは穴を目指して全力で頭を外へと突き出した。
「も、もうダメ……。気持ちわる……」
 汗だくで青い顔をしたメイを見て、ゼノンが袋の中に手を突っ込み、持ち上げるようにして外へと出してくれた。
 数時間ぶりに自由の身となったメイは、草原の上に寝転がりながら何度も深呼吸を繰り返した。
(頭が、頭がグラグラするわ……)
「姉さん、大丈夫?」
 ぐわんぐわんと歪む青空の端から、カミュの頭が現れた。
「ほら、これ飲んで」
 カミュが頭を抱え上げ、水を飲ませてくれる。
 冷たい水が喉を通る感覚に、酷い吐き気も少し和らいだ気がした。
「少し、ここで休んでいくか。この辺りは酪農地帯だから、誰かに見られたとしても牛か山羊だ。安心していい」
 心地よい風が、草原を駆け抜ける。
 メイは「休憩」の言葉を聞いてすぐ、ぐったりと目を閉じた。
 メイたちはゼノンの案内によって、無事にシェルジア王国入りを果たした。
 どういう経緯で入国したのかというと、話は昨日にさかのぼる。

「入国できないってどういうことだ! 話が違う!」
 ゼノンに掴みかかろうとする弟を止めようと、メイが間に割って入る。
「カミュ、落ち着いて……!」
 シェルジアへと向かうことを決意した二人はゼノンの用意した馬に乗り、街道を避け小道を使いながら一気に国境まで駆け抜けた。馬にすら乗ったことが無かったメイはカミュに乗せてもらい、しがみつくようにしてなんとかここまでやって来たのだ。
 ヴィアーサはかなりシェルジアへと侵攻していたらしく、数年前までシェルジア領だった土地にはヴィアーサの旗が立てられていた。そこかしこに国境付近を警戒するヴィアーサ軍の駐屯地があり、燃え盛る火の数が兵の多さを物語っていた。
 メイたち三人はヴィアーサ軍が陣を敷く平原地帯を避けるために迂回し、道の無い荒れ地を進んだ。時間帯が明け方だったことと、敢えて歩くのも困難な道を選んだおかげで、一行は人に見つかることもなく正午には現在の国境線となる砦近くの高台に到着したのだった。
『このまま入国することはできない』
 シェルジアを目と鼻の先にした所でゼノンが言った言葉は、二人に衝撃を与えた。決死の覚悟でついてきただけに、彼を信用していないカミュの怒りは大きい。睨みあう二人の間に入ってみたものの、メイも正直不安だった。
「入れない、とは言っていない。ただ、今のままでは駄目だ、ということだ」
 冷静なゼノンは怒りをあらわにするカミュに動じることなく、眼下にそびえ立つ砦を指差した。
「見ろ」
 言われて二人は、ゼノンが指差す方角を見る。
 国境防衛の要となる砦には、臨戦状態だけに武装した兵がわんさかいる。砦の両脇は黒々とした岩ばかりの高い崖がそびえ立っており、他からの侵入を拒んでいる。山岳部の谷間に造られた砦の中心にはぶ厚い鉄板でできた大門があり、そこから兵たちは国境を行き来しているようだった。
 メイは生まれて初めて砦というものを目にしたのだが、威圧的な外観と時折り聞こえる兵士の号令、そしてピリピリとした雰囲気に、すっかり怯えきっていた。
(こ、こわい……)
 闇の中を馬に乗せられ猛スピードで走るのも寿命が縮まるほどに怖かったが、この砦を通って行くのだと思うとその比ではない。砦の前に出ただけで絶対捕まるに決まっている。元より、あの中を歩ける気がしなかった。
「師団長クラスの奴らがごろごろいる。半端な誤魔化しでは通用しないということだ」
 砦の様子を食い入るように見ていたカミュは起き上がると、ゼノンを睨みつけた。
「……俺に、どうしろと?」
 シェルジアの黒騎士は、挑戦的ににやりと笑った。
「わかってるじゃないか、小僧」
 最後の一言を聞いた瞬間、カミュが剣を抜いた。
「俺は小僧じゃない」
「や、やめて!」
 緊迫した雰囲気に輪をかけるようにして殺気が広がり、メイの顔が青ざめる。
 カミュはゼノンを殺気に満ちた目で睨みながら剣を収めた。
「他に呼びようがなかったからな。別に悪気はない」
 言いつつカミュよりもずっと大人の男は、少し笑っている。こんな状況でよく冗談が言えるものだ。メイの心は不安で締め付けられ、今にも息絶えそうだった。
「俺はカミュ。ギルドで傭兵をしている。……あんたは何者だ」
 メイは二人とも知っているが、彼らはお互い昨夜顔を合わせたばかりの初対面だ。初顔合わせの時から斬りあいをし、今もこうして睨みあっている。到底仲良くなどなれそうにないのが目に見えてわかる。
「俺はシェルジア王国黒騎士団近衛隊所属、ゼノン・ウルティエ・コルアノ・セルーダ。一応、君たちの味方だ」
 ゼノンが差し出した手を、カミュは無視した。
「一応、か。言っておくけど、俺はあんたを信用してない。姉さんとどれほど親しいか知らないが、あんたら貴族のもめ事に巻き込まれるのはご免だ。あんたの力を借りるのは、シェルジアを出るまでだ。少しでも姉さんに危険が及ぶようなら……あんたを殺す」
 暗褐色の瞳が鋭さを増してゼノンを見据える。
 ――カミュは、本気だ。
 殺伐とし過ぎていて、メイは男たちの会話に入ることもできない。ただ殺気を放つ二人の男を見上げながら、石のように固まっていた。
「それで、俺はどうすればいいんだ? こんなところにいつまでもいる気はないんだ。さっさと説明してくれ」
 少しだけ殺気が緩和された間に、メイは深呼吸をする。空気が重すぎて、今まで息をしている感覚が無かったからだ。
「ああ、わかっている。……お前には、注意を引きつける囮(おとり)になってもらう」
 ゼノンは二人に背を向けると、砦とは反対方向の平原を指差した。
「ヴィアーサの連中は、シェルジアが仕掛けてくるんじゃないかと近距離に陣を張っている。シェルジアもシェルジアで、無駄に兵を揃えて砦を警備している。何か事が起きれば、すぐにでも両軍が動き出すような状況だ。……この意味が、わかるか?」
 自分にきかれているとは思っていなかったが、メイは心の中で「全然わかりません」と答えていた。
「俺がヴィアーサを撹乱させ、シェルジアの奴らを砦から出す。二つの軍をぶつからせて、その隙にあんたが姉さんを連れて国境を超える。……だろ?」
 カミュの回答に、ゼノンは意味深に笑った。
「まあ、大方そんなところだ。頼んだぞ、小僧」
「てっめぇ!」
 今度は明らかにわざとだ。
 青筋を浮き立たせる弟をなだめながら、メイはゼノンの言った作戦をなんとか理解しようと試みていた。
(カミュが囮になるって……危険なことじゃないわよね?)
 不安丸出しのメイを見たゼノンは、頭の上にぽんと手を乗せ、言った。
「心配するな。君は俺に任せてくれればいい」
 彼の声には魔道か何かの効果があるのだろうか。
 不安と緊張で締め付けられていた心が、和らいでいく。大きくて温かな手の主を見上げると、彼はふ、と微笑んだ。
 その瞬間、メイはいきなりぐいっと腕を引っ張られた。
「きゃっ」
「姉さんに触るな!」
 危うく転びそうになったところをカミュに抱きとめられる。
「カ、カミュ……?」
 鬼の形相のカミュが、メイの肩を抱えたままゼノンを睨みつける。
 メイはなんだかとっても作戦がうまくいくような気がしなかった。
(ふ、不安だわ……)
 こうして幸先不安な越境作戦の幕が切って落とされたのだった。
辺りが暗くなってきたのを見計らって、布でぐるぐる巻きにされた上に袋に詰められたメイは、他の荷物と同じように馬車に積みこまれた。中絶薬
「それでは、後を頼む」
「お任せを」
 二人の男が最後に交わした言葉を合図に、馬車がゆっくりと歩き出す。厚手の布でコーティングされているメイは身動きを取ることすらできず、息苦しさと暑苦しさですでに気を失いそうになっていた。さらに最悪なことに荷運び用の馬車だからなのか、思いのほか揺れが酷い。葉巻状態のメイは、何の抵抗もできずごろごろと荷と荷の間を転がるしかない。
(うぅ、気持ち悪い……)
 どのくらいの間これを耐えなければならないのかわからないメイは、転がりながらげんなりしているのだった。
 カミュがヴィアーサ軍の元へ向かったあと、メイは懐かしい顔と再会した。
 ゼノンの執事、ファンデルである。
 ファンデルは相変わらずメイに対しても低い物腰で接し、国王暗殺容疑がかけられていることなどまるで知らぬような素振りをしてくれた。穏やかな笑みを浮かべながら、ファンデルはメイを隠し、砦を抜ける準備を整える。そこには、迷いも疑いも何もなかった。あるのは、ゼノンへの絶対的な忠誠。それだけだった。
 今思えば、ゼノンはこうなることがわかっていて、全て事前に準備を整えていたということになる。恐ろしく頭の切れる男だということを、メイは改めて目の当たりにしていた。
「おい、止まれ!」
 不意に聞こえてきた大声に、メイの心臓が口から出そうなほどに飛び跳ねる。
 とうとう、あの大門の前までやって来たのだ。
「このような時刻に何用だ。答えろ」
 武装した兵が馬車の周囲を取り囲む、重い足音が聞こえる。
 気持ち悪さも吹っ飛ぶほど、メイは緊張していた。
「無礼者。この紋章が見えぬか」
「――こ、これは……! し、失礼致しました! おい、門を開けてお通ししろ!」
 何がどうなっているのか外の様子はわからないが、どうやら物凄い家系の紋章が、この馬車には付いているようである。名前を使えば国境を通れるというゼノンの話は、本当だったのだ。
「待て」
 ほっとしたのも束の間、別の男の登場で、一気に雲行きが怪しくなってくる。
「陛下の事件があってから、厳戒態勢が敷かれている。身分の差なく、シェルジア入りする者は調べろとの指示がある。従って、伯爵家の馬車といえど、調べぬわけにはいかぬ」
 馬車の後ろの扉が開かれた音がした。
 つづいて誰かが乗り込んでくる、音。
 メイは両目を固く閉じ、ガタガタ震えながら精霊に祈った。
(精霊ザイドよ。どうか、どうかお守りください……!)
「積み荷は全て、コルアノ・セルーダ様の私物にございます。手荒な扱いは、致しませぬよう」
 ファンデルの声は冷静だ。
 だが、メイは冷静でなどいられなかった。
 すぐ隣にあった荷が持ち上げられ、外へ運び出されたからだ。
「これはなんだ」
「ヴィアーサのバルトガー男爵から火災時の救済の礼として贈られた品々にございます」
 心臓の音で、ファンデルの声も聞こえなくなりそうだ。
「よし、次――」
「ルギーレ師団長!」
 絶妙のタイミングで、事態は動き出した。
「ヴィアーサの陣営が、炎上してます!!」
「なんだと!?」
 数人の兵士が、馬車の横を走り去っていく。
「一体、どういうことだ。事故か何かか?」
「わかりません。ですが、ヴィアーサは一度バルトガー邸炎上の際に我々に疑いをかけています。今回も、我々の仕業と考えなければ良いのですが」
 馬車を調べる指揮官の男が、うーむと唸る声が聞こえた。
(ど、どうなっているのかしら。ヴィアーサ軍が燃えてるって……カミュがやったのかな)
 外の様子どころか、今現在何が起きているのかもわからない。作戦を聞いても意味が理解できなかったメイは、何も知らないシェルジア兵と同じくらいに動揺していた。
「た、大変です! 白騎士の軍勢が、砦を目指して進撃してきます!」
「くっ、まだ休戦中なのだぞ! ここで戦を始めるわけにはいかん。門を開けろ! 頭の鈍いヴィル人に、話をつけねばならん。行くぞ!」
「は!!」
 馬の嘶きと大勢の人間が走り回る音で、メイにも騎士たちがこれから出撃するのだということがわかった。
「そこをどけ! 出撃の邪魔だ!」
 偉そうな男の一括で、馬車は再び動き出す。直後に大門を動かす歯車の回る音と、ぶ厚い鉄板の動く重苦しい音が鳴り始める。
 大門が開いたのだ。
「ルギーレ師団、マウデル師団、出撃!」
 男たちの大喝が砦全体に鳴り響く。角笛が吹き鳴らされ、大地が揺れるほどの音を立てて騎士たちが砦から走り去っていく。恐怖で震えあがっていたメイだったが、その音を聞いてはっと我に返った。
(やったわ……!! わたし、シェルジアに入れるんだわ!)
 ぐるぐる巻きの文字通りお荷物の状態ではあったが、メイは見事、ザイド大陸北東部の聖なる王国、シェルジア入りを果たしたのだった。

「姉さんはうまく中へ入ったみたいだな……。良かった」
 ゼノンの用意した油をヴィアーサ軍の陣営に撒きながら歩き回り、兵のふりをして身を潜ませ火を点ける。以前大陸南部の王国、アンバーナの軍隊に潜入し諜報員として数か月を生き抜いたことのあるカミュにとっては朝飯前の仕事だ。
 当然、火を点けているのを誰かに見られるようなヘマも、逃走時に見つかるような失敗も侵さない。予想以上の大火となったおかげで混乱は大きく、逃げるのも簡単だった。慌てふためくヴィアーサ兵と夜の闇に紛れて移動し、ゼノンとの合流地点へとやって来た。
 ほどなくして、岩陰からゼノンが現れる。
「……これを着ろ」
 ゼノンはやってくるなり夜の闇に溶け込むような漆黒の布を投げてよこした。
「おい、これは――!」
「それを着たら、俺の後についてこい。……ヴィルもシェルも愚かだということを見せてやる」
 赤く燃えたぎる炎に似た怒りを、カミュは見た気がした。
月明かりの下、平原に壁のようにずらりと並ぶ騎馬。白黒両極に別れた双方から、指揮官だけが前へと出る。
「休戦中であるにもかかわらず夜襲を仕掛けるとは、シェル人とはよほど下卑た手を好むものとみえる。腹いせに館を燃やしただけでは飽き足らず、くだらん復讐でもしに来たか」
 白騎士の大将が憎々しげに言い放った。
 ヴィアーサ側は、完全にシェルジアが火計(かけい)を行ったと思っているようだった。
「口のきき方には気をつけろ。我ら黒騎士はシェルジアの名を傷つけるような不名誉はせぬわ。休戦の誓約を遵守し、仇(かたき)である貴様らを討ち取ることをせずにいるというものを」
 黒騎士の大将も負けてはいない。
 互いに一歩も譲らず、睨みあいを続ける。
「火計を謀り、シェルジアを攻める口実を作ったのではあるまいな?」
「笑止。それは貴様らのことであろう」
 すでにヴィアーサ陣営を襲った火は消し止められており、大将の合図一つで出撃できるよう、兵が隊列を成していた。
 今まさに、戦が始まろうとしている。
 かつて数え切れないほどの死闘が行われた戦場で、再び同じ歴史が繰り返されようとしていた。――その時だった。
 騎馬の列の端が、隊列を乱して騒ぎ始めた。
「何事だ!」
 その波は中心へと迫り来る。
 号令前に戦が始まったか、はたまた敵の仕掛けた罠か。
 双方に緊張が走った。
「あれは――黒騎士!?」
 白黒真っ二つに分かれた壁の間を突き進んで走る、二騎の黒騎士。
 先頭の黒騎士の姿を見て、シェルジアの大将は度肝を抜かれた。
「コルアノ・セルーダ!?」
 指揮官たちの前でゼノンが馬を止めると、周囲をぐるりと槍の矛先を向けた白騎士に囲まれた。もう一人のマントのフードを被った黒騎士も、白騎士に囲まれ動きを止める。
「俺は、ここに殺し合いをしに来たのではない」
 ゼノンは言うなり馬を下りて、腰に帯びていた二振りの剣を地面に置いた。
「なぜ貴公がここにいる、セルーダ卿。それに、一体これは何のつもりだ」
 黒騎士たちも対抗するように白騎士に刃を向ける。
 一人だけ丸腰のゼノンは、両手を上にあげながら指揮官たちに歩み寄る。
「事件の詳細を報告せよとの命令で帰還するところだ。それに……何のつもりだは俺の台詞だ、ルギーレ卿。これから何を始める気だ」
 ゼノンの青い瞳が馬上のルギーレを見据える。ルギーレは見下ろしているはずが、完全にゼノンに押されていた。
「妙な言いがかりはよせ。私は戦を起こそうなどという気は毛頭ない。私は戦を止めに参ったのだ」
 ルギーレの言い訳を聞いた白騎士の大将は、それを鼻で笑った。
「ふん。おかしなことを言う。私には、貴様が戦を仕掛けにここへ来たようにしか見えなんだが。……まあもっとも、コルアノ・セルーダ、貴様がこの場に来たことで全てが繋がったわ」
 白騎士たちの殺意が、ゼノンに集中する。
「バルトガー邸といい、我が陣営といい、火計を仕掛けたのは貴様だな? 戦をする気でないと申して、聖なる白騎士を欺(あざむ)こうとは恐れ入った」
「貴様! それ以上我らを愚弄してみろ。次に口を開く時には、その首が飛ぶぞ!」
 黒騎士がゼノンに刃を向ける白騎士を威嚇する。MaxMan
 男たちの目が、ぎらりと光った。
「そうだ、セルーダ卿。貴公もこのような者達にむざむざと殺されに来たわけではなかろう。……もはや、話し合いは無用。勝利のみが正義を示すのだ!」
 上がる咆哮。
 解放された殺気。
 燃え盛る松明(たいまつ)は、投げ捨てられた。
 瞬間。
「やめろ!!」
 ゼノンの怒声が、戦場の時を止める。
 殺し合いが始まる一歩手前で、男たちは動きを止めた。
「戦をし、殺し合えばそれで気が済むのか! 殺し合うことでしかシェルもヴィルも正義を示せんのか!」
 シェル人もヴィル人も、互いに刃を向けあったままゼノンの言葉に耳を傾ける。
 ゼノンの言葉はシェル人のものでも黒騎士としてのものでも無かった。
 彼の言葉には、国を隔てる色が無かった。
「ならば殺せばいい。俺を戦の元凶と言うのなら、俺を殺すことで正義が示せるというのならば、俺の命などくれてやる」
 ゼノンは軍服を脱ぐと、地面に叩きつけた。
「さあ殺せ。俺は逃げも隠れもしない。俺を殺すならば、殺してみろ!」
 「斬ってみろ」と言わんばかりに傷跡だらけの上半身をむき出しにしたゼノンは、無防備でありながらも覇気で戦場を圧倒していた。
 彼の捨て身の行動に、誰一人として、動けない。
 戦場に一陣の風が吹き抜けた。
「……戻るぞ」
 最初に口火を切ったのはヴィアーサの白騎士だった。大将が剣を収めると、騎士たちもそれに倣い武器を下ろす。
 危機は、去った。
「今回の件は、これで治めてやろう。しかしだ、コルアノ・セルーダ。次に会った時は容赦なく貴様を殺す。……覚えておくことだ」
「ああ、覚えておこう」
 松明の炎に照らし出されたゼノンの表情は、先程の覇気が嘘のように哀愁を帯びていた。危機が去って安堵しているわけでもなく、緊張感から解放された後の放心でもなく。ゼノンの背は、大きな影を背負っていた。
「さすがだな、コルアノ・セルーダ。見事だ」
 陣へと戻っていくヴィアーサ軍の後姿を眺めながら、ルギーレは満足そうにゼノンの肩を叩いた。王族の判断なしであわや開戦、というところで戦いを回避できたルギーレはご機嫌だった。
「さあ、我らも戻るぞ! 大戦で奴らを叩きのめすために、今は力をつけなくてはな!」
 先陣を切るルギーレの後に続き、黒騎士も砦へと戻り始める。
 ゼノンは地面に叩きつけた軍服を拾い上げると、肩に引っ掛けるようにして羽織った。
「これ、あんたのだろ?」
 事の成り行きを見ていた黒騎士が、二振りの剣をゼノンに差し出す。
「ああ、悪いな」
 ゼノンはそれを受け取ると、再び剣帯に装着した。
「あんた、よほどの派手好きか、もしくは頭のイカレた奴だな。普通、自分で火を放っておいてそれを自分だと言いに行くようなことはしない。それに、わざわざあんたが行かなくても戦にはならなかっただろ」
 白騎士たちが去ったあとの草原で、二人並んでヴィアーサの陣を眺める。
 騒動の前より見張りの数は増え、警戒色は強まってはいるが攻撃を受けたことへの報復を行うような動きは無い。火災があった後にしては、静かだった。
「俺は、自分の尻拭いは自分でする。……それに、今回の件で死人は出したくなかった」
「はっ、よく言うぜ」
 フードを被った黒騎士は吐き捨てるようにして言った。
「不法入国させるために火計を使ったのは、あんたじゃないか。そのあんたが、死人は出したくないだと?」
「ああ、そうだ」
「戦にはならなかったものの、あれほどの大火だ。死人の一人や二人は出てるだろ」
「いや、それはない」
 やけにきっぱりと否定するので、フードの下でむっとした顔をする。
 このゼノンという男、自信家で腕が立ち、おまけにいい男ときている。身分も高く、洗練された言動には人を動かす迫力さえ備わっている。……なんだか、面白くなかった。
(シェルジアをとっとと脱出して、早くこいつと離れよう)
 彼の本能が、この男を危険だと言っていた。
「セルーダ様、そろそろ我らも引きましょう」
「ああ、そうだな」
 ゼノンのために馬を引いてきた黒騎士は、隣にいるフードを被った騎士を指差して尋ねた。
「この者は?」
 黒騎士の軍服を着ているが、中身はヴィル人の、騎士でもなんでもないカミュである。
 微動だにしていないように見えるが、内心ぎくりとするカミュ。ひっそり入国するのかと思いきや、さんざん目立った揚げ句に今は黒騎士の群れの中にいる。ばれれば命が危ういだけでなく、姉の命も危険にさらされるのだ。
「……ああ」
 ところがこの大胆不敵なコルアノ・セルーダは、にこやかに笑うのだった。
「騎士に成り立ての新米小僧だよ。ヴィアーサの連中にビビってしまったもんだから、俺が国に連れて帰ってやるところさ」
 どっと沸き上がる、男たちの笑い声。
 カミュは血管がぶちぎれそうなほどに怒り狂っていた。
(こ、殺す……! こいつ、絶対殺す!!)
「ほら、いくぞ、小僧。シェルジアに戻って鍛え直さないとな」
 ひらりと馬に乗ると、爽やかな笑顔を残して走り去っていく。威哥王
 カミュはその大きな背中を、殺意の塊となって追いかけて行くのだった。

2012年8月8日星期三

役に立たない念書のご利益

「……え、えーと、そういうわけだから。紫乃さんを、しばらくの間こちらで預からせていただけるように、六条さんには、僕から電話でお願いしますよ」
 首にしがみついている紫乃を優しく引き剥がしながら、弘晃が言った。蒼蝿水

「あんな人、放っておけば、いいんです」
 自分は家出してきたのだから父には心配させておけばいい。
 紫乃はそう言い張ったのだが、弘晃は承知しなかった。

「いけません。貴女との結婚のお許しをいただく前に、六条さんに、へそを曲げられては困りますから」
 弘晃にそんなふうに言われてしまえば、紫乃も、それ以上反対する気にはなれない。
「そんな♪ 結婚のお許しだなんて♪」……と、頬も自然に緩んでくるというものである。

「あ、そうだ。 外に和臣がいますの。 電話するよりも、あの子に伝言を頼みましょう」
 弟の存在をようやく思い出した紫乃が提案した。

 紫乃が和臣を呼びにいくと、和臣は、「弘晃さんに夢中で、僕のことなんか、すっかり忘れられているかと思った」と、疲れた顔で嫌味を言った。

「入ってくれば良かったのに」
「嫌ですよ。 お邪魔虫にはなりたくありません。 それより、今まで2人で何やってたの?」
 和臣が、不思議そうな顔をしながら、紫乃の額より少し上のほうを見ながら、彼女の髪や肩のあたりを手で払った。
 紫乃の髪についていた念書の欠片が数枚、ヒラヒラと床に落ちていった。
 
「なにこれ?」
 和臣が、腰を曲げて落ちた紙片を拾うと、なんだろうというように顔を寄せた。
「あ……それは」
「これ? 念書の欠片? 破いちゃったんですか?!」
「あ、あの、ごめんなさいね」
 驚いた顔をする弟に、紫乃は慌てて謝った。  「悪用されないうちに、処分したほうがいいって言われたから、その……」
 先が続かなくなった紫乃は、助けを求めるように弘晃のほうに顔を向けた。
「なるほど。 弘晃さんが、念書を破棄するように、姉さんに勧めたんですね?」
 紫乃の視線の先と、起き上がった弘晃の手元に置かれた洗面器の中の紙くずを見て、和臣が納得したように呟いた。

 和臣と弘晃は、初対面である。
 外面のよさでは紫乃に引けをとらない和臣だが、この時ばかりは、彼は『はじめまして』の挨拶もないまま、弘晃に刺すような眼差しを向けた。

「あのね。和臣……」
「姉さんも、こっちに来てください」
 なんとか場を取り繕おうとする紫乃の腕を強く引っ張ると、和臣は弘晃に近づいた。

「弘晃さん」
 厳しい表情のまま弘晃の目の前に立った和臣が呼びかけた。
 和臣は弘晃を責めるつもりなのか、それとも、酷い嫌味でも言うつもりなのか。
 どちらにせよ、2人の仲が険悪になる前に和臣を宥めなければ……と、紫乃は思ったが、次に和臣が取った行動は、彼女の予測を良い意味で裏切るものだった。

「大変ふつつかな姉で、これからも、ご迷惑のかけっぱなしになるかと思いますが、どうぞ、よろしくお願いします」
 和臣は、自分が頭を下げたばかりではなく、「ほら、姉さんも頭を下げる!」 と、紫乃の頭も鷲づかみにしながら強引に頭を下げさせた。
「あ、いえいえ、こちらこそ」
 弘晃が、恐縮しながら、ベッドの上で正座しようとした。

「な、なに? 怒ってないの?」
 乱れた髪を手櫛で直し、弘晃を横にならせながら、紫乃が和臣にたずねた。

「怒れるわけがないじゃないか」
 和臣が紫乃に呆れ果てたような視線を投げ、それから、弘晃にたずねた。
「さきほど、お見舞いにいらした方ですけど。 ひとりは中村エンジニアリングの初代会長ですよね? もうひとりは、何代目か前の東栄銀行の頭取の……」
「はい。 奥さんです」
 弘晃が微笑みながら肯定した。

「え? 東栄銀行って、中村グループ系列の銀行でしたっけ?」
「……。こら」
「銀行の名前に『中村』が付いてないことからもわかるように、 あの銀行の成り立ちは、 いささか複雑なので……」
 和臣は、紫乃の無知をあからさまに馬鹿にし、弘晃は、さり気なく彼女を庇ってくれた。

「病院に入ってすぐに、中村四家を代表するような大御所ふたりの登場でしょう?  正直、ヒヤヒヤしましたよ。 それなのに、姉さんは、大声出しながら念書を振り回すし、その上、あの2人から、ちょっと嫌味を言われたぐらいで、ブチ切れるし…… 僕は、生きた心地がしませんでした。 ああ、怖かった」
 頭と心臓が痛いのか、和臣は、拳でこめかみをグリグリと押しながら、もう一方の手で胸を押さえた。SEX DROPS

「え? 紫乃さん、あのふたりと喧嘩したんですか?」
「喧嘩ってほどのことではないんですよ。 ただ、ちょっと……」
 真っ青になった弘晃へ言い訳をする紫乃の声が先細りになる。
 弘晃の見舞いに来た者たちと争ってはいけないことぐらい紫乃にもわかっていたが、彼らの嫌味には聞き捨てならないものがあったのだ。

「まあ、いいですよ」
 和臣が、話を切り上げた。
「姉さんの鼻っ柱の強さを、あのふたりは気に入ってくれたみたいですから、終わり良ければ全て良しということにしましょう。それに、念書も、破棄してもらえましたしね」
「あなた、念書を破ってほしかったの?」
「あたりまえじゃないですか。 こんな物騒な念書を姉さんに持たせるのは、狂人に刃物を持たせることと同じです」
「じゃあ、なんで持たせりしたのよ?」
「弘晃さんが、その念書をどうするのか、興味があったから」
 ムッとする紫乃に、さらりと和臣が答えた。
 紫乃に同行した一番の目的もそのためだったと紫乃に告白すると、和臣は弘晃に向き直った。

「念書を持ってきた姉の口車に乗せられて、あなたが小躍りするようなら、僕は、父が何と言おうと姉を連れて帰るつもりでした」
「じゃあ、僕は、とりあえず合格ってことなのかな?」
 弘晃がたずねると、「予想以上です」と、和臣が歳相応の少年らしい笑みを見せた。

「僕としては、あなたが念書を破棄せずとも、使う気がないという意志さえ示していだだければ、それで良かったんです。 まさか、破いてくださるなんて思いもよらなかった。 この姉を、よくも納得させることができましたね? 怒って暴れたりしませんでしたか?」
「彼女は、僕の話に、すんなり納得してくれましたよ」
「そうよ。 和臣やお母さまたちには申し訳ないと思ったけど、弘晃さんの言うとおり、とても危険な書類だとわかったから、私が破くことに決めたのよ。 それに、暴れてもいないわ」
 紫乃が、弘晃の言葉に同調するようにして反論すると、弟は、「こんな短時間のうちに、頭に血が上っている姉さんを納得させたことこそが神業なんですよ」と、減らず口を叩いた。

「僕は、心配だったんです」
 和臣は弘晃に言った。

「姉は、そこそこ器量が良くて、それなりに頭が回るし、人との付き合いにしてもそつがない。 弟の僕が言うのもなんですが、一見、とても、できた女性です。 でも、この人は、時々、後先考えずに、とんでもないことしようとするでしょう? だから、僕や父に代わる存在として、姉の良さを認めながら上手にフォローしてくれるような人が旦那さんになってくれるといいな……と、僕は望んでいたんです」
 まるで、今までは自分が姉の暴走を止めていたかのような偉そうな口ぶりで、和臣が言った。

「そういう人じゃないど、姉は不幸になると思うんです。 姉よりも馬鹿で器量の小さい男では、姉が満足できないでしょうし、夫となった人にしても、初めは才色兼備の妻をもらったことを得意に思ってくれるかもしれませんが、そのうちに頑固に正論ばかり吐く姉を疎ましく思うようになるかもしれない。 そうかといって、姉のやることなら何でも認めて、姉の暴走まで許してしまうような夫では、もっと困る。 それならば、姉よりも優れた男ならいいかを言えば、それだけでは足りない。 『黙って俺について来い』みたいな俺様タイプの夫の言うことを、姉が素直に聞くとは思えない。夫婦の間には争いが絶えなくなるでしょう。 この姉は、うちの姉妹の中で一番適応力があるように見えて、実は、一番面倒くさい女なんです」
「『面倒くさい女』って…… 随分と、ひどいことを言ってくれるわね」
「誰と結婚しても、 姉さんは旦那さんの文句ばっかり言うことになるだろうって言っているだけですよ」
 文句を言う紫乃に、和臣が言い返した。

「妹たちなら相手を愛せるかどうかが一番重要かもしれないけど、姉さんが幸せになるためには、『相手を尊敬できる』だけじゃなくて、『自分のことを尊重してくれる』、そして『暴走した姉さんを止められる。あるいは後始末がつけられる』という条件も不可欠なんです。  なかなか見つかるものじゃありませんよ。 こんな人」
 和臣が、弘晃に尊敬の眼差しを向けた。 

「あなたになら、安心して姉を任せられそうです。 ところで、その紙。 僕が、いただいて帰ってもいいですか?」
 和臣が、洗面器の中に溜まった念書の残骸を示して、弘晃にたずねた。

「そうだね。 破いたとはいえ、ここのゴミ箱に捨てるよりも、和臣くんに処理してもらったほうが安全だろう」
「家に帰って、ちゃんと捨てるなり燃やすなりするんでしょうね? あなた、まさか、それを張り合わせて悪用するつもりじゃ……」
 紫乃が弟に疑惑の眼差しを向けると、彼はムッとした顔をした。

「そんな面倒なことはしませんよ。 持って帰って父に見せようと思うんです」
 父に見せたあとの念書は、暖炉にくべるつもりだと和臣が言った。

「お父さまに見せる?」
「ええ。 弘晃さんが元気になるまで、姉さんは、父さんに、おとなしくしていてもらいたいんでしょう?」
 和臣が、彼が何かを企んでいる時に見せる含みのある笑みを浮かべた。
 なまじ綺麗な顔をしているだけに、彼がそんな顔をすると、姉の目から見ても、妙な凄みが出て怖い。

「何をする気なの?」
「今日、ここであったことを、父さんに話すだけだよ。 だって、この念書を破ってもらえて一番ホッとする人間が誰かといえば、父さんだろう?  あの人はかなり単純だから、弘晃さんが念書を破棄してくれたって知ったら、大感激して、これ以上中村物産に迷惑をかけるような真似もしないだけでなく、弘晃さんのためなら、なんでもしてくれるんじゃないかな。 それにね。これ見て」

 和臣は、紫乃の髪にくっついていた小さな紙切れを摘み上げると、人差し指の上に乗せて紫乃に見せた。
 およそ2ミリ四方の紙には、カタカナの『ヒ』の字が読み取れた。

「これ、紫乃の『紫』の一部だよね? 他の紙切れよりも、ずっと細かく破ってある」
「それは……弘晃さんが……」
 弘晃が、嫌になるほど念入りに破っていたところだ。
「やっぱり」
 和臣が嬉しそうに弘晃を見た。
「ありがとうございます。 姉のこと、本当に大切に想ってくださっているんですね」
 その言葉に、弘晃が照れたように微笑んだ。

「え……?」
「『なんで?』って聞いたら、今度こそ怒りますよ」
 紫乃に忠告する和臣の顔は、既に怒っていた。
 どうせ、説明してやらないと紫乃には分かるまいと頭から馬鹿にしているのだろう。 「つまりね」 と、和臣が続けた。

「つまり、もしも、この念書が破棄されないまま姉さんの手を離れて、誰かに使われることになったとするよね? その時、真っ先に利用される可能性が高いのは、誰だと思う?」
「えーと…… 私?」
「正解。 念書の中で、お母さんたちの株の全部を好きにできると名指しされているのが、姉さんだからね。 だから、もしも、こんな念書を野放しにしておいたら、姉さんは、悪い人に簡単に騙されて利用されまくったかもしれなかったって訳。 つまり、この念書が使われたときに、最終的に一番損するのは父さんだけど、一番傷つくのは姉さんってことになる。 だから……」
「そっか。 だから……」三体牛鞭
 紫乃は、目の前で小言を言い続ける弟を無視して横を向くと、弘晃に感謝の眼差しを向けた。

(そうか、だから、弘晃さんは、私の名前の書かれているところばかりを探して、細かく破いてくれていたんだ)
 この念書のために、紫乃が誰かに利用されたり傷つけられたりするようなことが絶対にないようにと、念には念を入れて……
(そうだったんだ……)

「やっぱり、わかってなかったんだね?」
 弘晃のほうに顔を向けて、しまりのない笑みを浮かべ始めた紫乃を見て、和臣が、咎めるような視線を彼女に向けた。

「紫乃さんは、まっすぐな気性の方だから、 こういった策謀めいた考え事に慣れていないんですよ。 ね、紫乃さん?」
 和臣に馬鹿にされ続ける紫乃を見かねた弘晃が、庇ってくれた。
 それでも、和臣は紫乃に対して容赦がなかった。

「それにしたって、アホすぎますよ。 弘晃さん。 こんな馬鹿を嫁にもらっても、後悔するだけかもしれませんよ。 ご迷惑でしたら、念書と一緒に、この馬鹿も引き取って帰りますけど?」
 紙くずと化した念書の切れ端を、『中村物産』のロゴ入りの水色でマチのあるヒモ付きの封筒の中に回収しながら、和臣が弘晃にたずねた。

「いいえ。 どうか、このまま、ここに置いていってやってください」
 姉のことを宛先不明の小包か何かのように言う和臣に憤慨している紫乃の顔を見てクスクスと笑いながら、弘晃が言った。

「僕には、どうしても必要な人です。 僕にとって、彼女は、かけがえのない人ですから」
「弘晃さんも、もの好きですね」
 未来の義兄にまで憎まれ口を叩きながらも、和臣は嬉しそうだった。 

「では、姉共々、今後とも、六条との末永いお付き合いをお願い申し上げます」
 
 和臣は、破棄された念書を集めた封筒を小脇に抱えながら優雅に一礼すると、病室を出て行った。男宝

2012年8月3日星期五

Holiday

どうしてこんな男と一緒に公園を散歩しているのかが分からない。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「――えぇ、年中自己中男が隣にいるせいでね」
 それもこれも、全部この男のせい。
 あぁ、そもそも合唱部の部員が悪いのかしら。御秀堂養顔痩身カプセル第2代

 合唱祭が終わった次の日、つまり今日は休日だったのよ。
 わたし自身綺麗さっぱり忘れてたんだけど。それはともかく。
 朝起きて、目を開けた瞬間飛び込んできたものを見て思わず叫んじゃったわよ。
「――な、何であんたがここにいるのよ! っていうかいつからいたの!?」
「十分ぐらい前じゃないか? 起こすのも悪いと思ったんだよ」
 ニヤニヤ笑いながら時間を確認している男の顔が目を開けたすぐ傍にあったから。
 普通は驚くでしょう? 常識的に考えてこいつがいるはずなんてないんだもの。
 というか、都築。女子高生の部屋に入るのも問題だけど、寝ている所を十分も見ていることないじゃないの!
「この変態!」
「どうとでもいえ」
 しかも開き直るから最悪だ。
 ……こんな奴でも、昨日はものすごくまともな奴に見えたのに!
 何? もしかしてわたしの勘違いとかそういうことなの?
 合唱祭まで指導してくれてたし、当日も守ってくれたから少しは感謝してるのに。しかもほんの少しだけ格好いいとか気の迷いで思ったりもしたのに、この男はそういう気持ちを一気に崩壊させてくれやがって。
「春奈」
「……何よ、変態誘拐犯」
 だからわたしはこちらに向かって声を掛ける都築に冷たく言い放つ。
 そうして半眼で睨みつけると、奴は肩を竦めながら尋ねてきた。
「昨日何もされてなかったとはいえ、大丈夫なのか?」
「……」
 それはわたしの体じゃなくて心に訊いているんだろうか?
 別に何の異常もないしショックだって大して受けてるわけじゃないのに。
 ……珍しいこともあるものよね、こいつが人の心配するなんて。
 いや、もしかしたらそれが勘違いなのかしら? 本当はいつも心配されてたの?
 都築は人を心配していても口に出したりしないからよく分からないわ。
 実際、そのせいで昨日ひどいこと言っちゃったし。
「大丈夫よ。あんたに心配されるほど弱くないから」
 まだ寝癖の残っている髪の毛をくしゃりと片手で撫でて、なるべく柔らかく返した。
 心配してくれているという恩を仇で返すことなんてしない。
 するとあいつは苦笑を洩らしながらも「そりゃそうだな」と言ってきた。
 何よ、もしかしてはなからわたしが大丈夫だと思ってたわけ?
 そりゃ、確かに神経図太いけどさ。
「心配してくれたの?」
「まぁ、一応教師だしな。生徒の心配ぐらいするだろ」
「それもそうよね」
 でも、その苦笑に呆れたものが入っている気がしたから、本当に奴が心配してくれたんじゃないかと思ってしまった。
 そうして尋ねると、案の定そうだと言う。
 あんまりにもそっけないから呆れて苦笑を洩らしただけなのだろう。
 元々自己中のくせに妙におかしなところがある奴だ。
 まぁ、本当の自己中は人の心配なんてしないんだろうけど。
「……でも、ありがと。昨日も助けられたしね」
 だからまぁ、今だけはこいつが自己中じゃないと思ってやろう。
 そう思って奴にだけ聞こえるように呟いた。
 すると、視界の端で小さく震えるからだが見える。
 わたしが礼を言うのがそんなにおかしいのだろうか? 失礼な話だ。
 だからわたしはすぐに「ほら、着替えるから出てってよ」と促したんだけど。
「本当に感謝してるか?」
「――は? うん、一応」
 奴の言葉にそれ以上何も言うことができずにただ呆けながらも答えを返した。
 すると奴はにやりと朝起きた時と同じような嫌な笑顔を浮べてから言う。
「だったら、助けてやった礼に今日一日付き合え」
 あの時の笑みは、わたしの人生の中でも十本の指に入るぐらい悪どいものになると思う。
 これまでも、そしてこれから先の人生の中でも。
 それぐらい意地悪で狡猾な策士みたいな笑みだった。

 ――で。
「いいだろ? 一日ぐらい付き合ったってよ」
「だからってどうして――こんな……」
「腕組みしてるのかって?」
「あーもう! うるさい! 恥ずかしいんだから黙れ!」
 わたし達は近所の公園に来ていた。
 たまたまかなり大きな公園があるということで「じゃ、行くか」と半ば引きずられるように連れてこられたんだけど。公園に行くこと事態は悪いことじゃないし、緑を見ることが歌を歌う上でかなり重要になるから文句は言わないわよ。
 隣に都築がいるのが気になるけどそれはそれで問題ない。
 感謝してるのは本当だし、一日ぐらいなら付き合ってもいいかなって思ったのも本当なのよ。
 ……だけど、だけどね。
「どうしてこんな、恋人みたいなことしなくちゃいけないのよ!」
「だから、一日付き合えって言っただろうが」
「それって、言葉の意味が違うんじゃないの!?」
 まさか腕を組んで公園を歩くなんて聞いてない!
 というか今すぐにでも離したいんだけど初めにそれをやった時都築に今すぐここで襲われたいのか? って言われたせいでできない。さすがに、わたしだって自分の身が可愛いのよ。こんなところで襲われるって……何をされるかはいまいちよく分からないんだけど、かなりろくでもないことのような気がするし。
 そういうわけで、わたしは泣く泣くこの男の言葉……というか命令を聞いていた。
 新緑公園、と呼ばれているだけあってかなりの緑が生い茂っているこの公園。
 芝生は適度な高さで切りそろえられているし、野草だってたくさんある。
 シロツメクサが好きなわたしは、それを見て思わず顔が綻んでしまう。だけど隣に都築がいることを思い出すとやっぱり表情を引きしめないと、と思うのよね。
「お前、花好きなんだろ?」
「……なんで知ってるのよ?」
 すると奴がそんなことを言ってきたのでやはり噛みつくように言ってしまう。
 だけど、暑苦しい日差しの中歩いているせいで思わず目眩を感じて。
「お、おい!」
 慌てる奴の声を頭のどこかで捉えながら、ふらふらと倒れそうになってしまった。
 倒れそう、というのはつまり倒れてはないってことなんだけど。
 帽子でも被ってくればよかった、と思った瞬間には奴に肩を支えられていた。
 腕を組むのをやめられたのはいいけど、これはこれでかなり恥ずかしい。
「……大丈夫よ、離して」
「大丈夫じゃないだろ! 熱射病みたいじゃねぇか」
 そう思って奴の腕から逃れようとすると、暑苦しいぐらいに強く抱きしめられた。
 後ろから抱きしめられているから顔は見えないけど、きっと不機嫌な顔をしているんだろう。
 本当はそんな不機嫌無視して離れたいんだけど。
 実際具合が悪かったから、抵抗するのをやめた。
 すると奴はどこか日陰で休もうぜと言って、ふわりとわたしの体を抱え上げる。
「ちょ、ちょっと!」
 それにはさすがに焦って声を上げると、奴はそんなわたしの意志なんてお構いなしにずんずん進んでいった。半そでのシャツを着ているとはいえ、それじゃまったく効果がないぐらい暑いせいか奴の額にも大粒の汗が浮かんでる。余計に暑苦しいことしなくていいのに。
 わたしはどうしてこんな時に熱射病になんてなったのかと自分で自分に文句を言った。

 日陰に降ろされると、頭がひんやりとして気持ちがいい。
「とりあえずはこれでいいか……何か飲み物でもいるか?」
「いや、大丈夫……少し休めば治るわよ」
「本当に大丈夫なのか?」
 大きな木の下で休むと木漏れ日がまぶしくて何だか時間を忘れてしまいそうになる。
 その木に背中を預けるようにして座っていると、隣に腰掛けた都築がえらく心配そうに尋ねてきた。韓国痩身一号
「悪かったな、俺がもっと早く気付けてたらよかったんだが」
「……いいわよ。わたしだって気づかなかったんだから」
 そうよ、わたしだって自分の不調に気付いてなかったんだもの。
 これで奴が先に気付いてたら大変だ。
 というか、怖い。
 そう考えて視線を横に動かすと、やはりどことなく落ち込んだような顔が見えた。
 そんなに落ち込むようなことないじゃないの。
 大体、あんたが落ち込んでると気持ち悪いわ。普段あれほど意地悪でひどい性格してるのに今日だけ優しくて、何だかとてもくすぐったい。
「今日のあんた、何かおかしい」
 だからわたしは、気だるい体に鞭を打ってそれだけを搾り出すようにして言う。
 すると奴は、きょとんとした顔をしてすぐにいつも通りの不敵な笑みを浮かべた。
 ……今更いつも通りにしたって、もう遅いのに。
 どの道、今日奴の様子がおかしいのは変えようのない事実なのよ。
 今更ごまかすように普段どおりにされても困るわ。
「そうか? 俺はいつもこんなだぜ?」
「妙に優しいのね、今日だけ」
 今日だけ、にアクセントを付けて言うと奴は失礼だなと言いながら眉根を寄せた。
 だけど軽く睨んでくるその目は、やっぱりいつもより優しい。
 誘拐した日「二択のどちらかを選ばないと帰らせない」と言った時の残酷さとは大違いだ。
 まぁ、あの後すぐに妙な優しさを見せてきたから……あの時に似ているとも言えるけど。
 だるい体が早く治るように何度か深呼吸をしていると、奴がそうだなと呟くのが聞こえた。それに釣られて顔を横に向けると、奴が薄く微笑んでいるのが見える。珍しい、まともに笑うなんて。いつもは不敵なものか意地悪なものしか浮べていないのに。
 木漏れ日が微かに明るさを伴って奴の顔を照らしているのを見つめると、奴は続ける。
「今日は恋人同士ってことになってるからな。それらしくしてるんだろ」
 それはかなり他人事のような言い方だと思うんだけど。
 珍しくはっきりしない物言いにあんたも分かってないんじゃないの? と尋ねてしまう。
 きっと奴も分かってないんだろう。まぁ、それはわたしの予想で……本当は、ただ理由を言いたくないだけなんじゃないのかと思うんだけど。それでも別にいいとは思う。人の気持ちを詮索してすべてを知りたいとは思わないし。
 何せ、相手が都築だ。弱点は知りたいけど、その本心を知ったら大変なことになると思う。
 本心を教えたんだから結婚するか? なんて言われそうよ。
 あいつはわたしに歌を止めさせるよりも結婚させる方がいいらしいから、何の思惑があるかは知らないけどわたしの一生を決められたらたまったもんじゃないし。
「まだだるいか?」
「少しね、すぐに治すわよ」
 そう考えていると不意に奴が声を掛けてきたから思わず素直に答えてしまう。
 もう治った、って言う予定だったのに。
 そう考えていると突然肩に力を感じて。
「――な、何よ?」
「横になった方がいいと思ったんだよ」
 ぐらりと傾いて頭を地面に打ち付けるかと思ったら。
 何やら妙な感触を感じて思わず上擦った声を上げてしまう。
 顔を上に向けると、やっぱりどことなく優しい奴の顔が見える。
 そこで、ようやく理解した。
「こ、こんなことしてもらわなくても地面になるからいいわよ!」
「それじゃ頭が痛いだろ?」
「っていうか、こういうのって普通女の人がするんじゃないの?」
 わたしは奴の太腿に頭を乗せられてたのだ。そう、俗に言う膝枕。
 辺りに人がいないからとはいえ、こんなところを同じ学校の生徒が見たらどうするつもりなんだろうか、この馬鹿教師は。
 そりゃ、地面に寝転がるよりはずっと寝心地がいいかもしれないけど。
 膝枕をしてもらうような歳でもないし、そういう関係でも――。
 あぁ、そっか。今日一日、恋人やれって言われてたんだっけ。
「ゆっくり寝てろ。何なら、俺が子守唄でも歌ってやろうか?」
「……もう、好きにしてよ」
 こうしてると、恋人っぽくないか? と言いながら言う奴に辟易しながらも目を閉じる。
 もう体がだるくて、話をするのも面倒だわ。
 というか抵抗する体力がないのよ。
 ……それに。
 今日はこいつも、いつも通りの奴じゃないから。
 今日ぐらいはこうしてのんびりしてもいいのかもしれないと思う。
 結婚がどうとか歌がどうとかじゃなくて、ただ一緒に休日を過ごすだけっていうのも悪くないわ。
 そう思うとこうして膝枕されるのも嫌じゃないから、目を閉じ色々と考えながら脳裏に奴の優しい顔を思い浮かべて、次に目を覚ましたら今度はわたしは優しくしようと決めた。
 もらった恩を恩で返して、もらった優しさを怒った顔で返さないように。
 そうして貸し借りなしにして、明日からまた頑張れるように。
 わたしは体の調子が元に戻るまでの間ゆったりと流れる暖かい時間を奴の膝の上で過ごした。
 こんな休日も悪くないわよね、とか何とか思いながら。
恋人らしい休日
 休日。それは読んで字のごとく、休む日である。
 だからわたしはこの休日というものをこよなく愛して、それはもう寝ようと決めていたの。
 ……なのに。
「ほら、さっさと起きろ」
 どうして休日までわたしは奴と一緒に過ごさないといけないのだろうか。

 布団に包まり、その暖かさを本気で幸せに感じながら寝転がっていると都築が上に乗りかかってきた。……重いっての。
 わたしは耳元に顔を寄せて、朝っぱらからそのバリトンを頭に響かせる男の頭を叩き「うるさい」と一蹴する。しかし奴もなかなか手強くて、しばらく黙ったかと思ったら更に体重をかけながら囁くようになぜかカウントダウンを開始した。
 一体何のカウントダウンなのよ!
 急に不安になり、奴を押し退けながら上半身を起こし何やってんのよ! と怒鳴る。
 すると奴は、まさか自分のカウントダウンがここまで効果を発揮するとは思わなかったらしく、目を丸くした後で声を上げて笑った。
 そうして、起きたてで髪だって梳かしていないわたしの後頭部にそっと手を置いて自分の方へと引き寄せる。
 そのせいで体が前のめりになったから「離しなさいよ」と言うと奴は「離すわけないだろうが」と即答しわたしの頬に自分のそれを当てた。
 別に頬擦りをするでもなく、ただ触れているだけだ。というか、頬擦りなんてし始めたらわたしは怖くてしばらく起き上がれないわよ。
 大体、そういうのは都築の性格上ありえない。わたしからすることも、性格上ありえないし。
 でも、普段ならこんな風に触れてくることですらありえないはずだ……一体、何があったんだろうか?
「たまには」
 すると、奴もわたしと同じことを感じたのか苦笑気味の声でそう呟いた。
 耳元に当たる奴の吐息と、バリトンの声に身を固くする。
 そうすると奴が笑い出すのを知っていて、それでもそうして身を固くしてしまう自分が一番憎いわ。
 案の定肩を震わせて笑った奴は、わたしの頭をぽんぽんと叩きながら一度顔を離し。
 かなりの至近距離で、妙に優しい顔をして笑いながら再び顔を近づけ軽くキスを落とされる。
 しかし普段なら問答無用で殴りかかっているはずのわたしは、なぜか目を閉じてそれを受け入れていた。
 頬に触れてくる奴の手が、冷たくもなく温かくもない不思議な温度を伝えてきていた。
 確か何かの授業で、同じ体温をしていると相手の熱が分からないと聞いたことがあるけど、そういうことなんだろうか。
 しばらくして、都築が顔を離すとわたしも閉じていた目を開ける。何となく、今顔を開けたら都築が顔を赤くしているんじゃないかと思ったら案の定奴が顔を赤くしているのが見えた。まったくどうしてこいつは毎回毎回、わたしが反抗しないと顔を赤くするのか。
 そのくせ、反抗すると不機嫌になるくせに随分と身勝手だと思う。
「顔、赤いわよ」
「うるさい」
 指摘すると、奴は軽く顔を隠しながらそう呟く。
 何だかその様子はとても大人に見えなくて、口調と姿だけが成長しているように見えた。
 仕草と考え方だけが、成長してないかのような。
 わたしは小さく吹き出しながら「それで、たまには何なのよ」と訊いてやることにした。このまま奴をからかうのもいいけど、きっとそれじゃ後が怖いと確信しているからだ。そうして手で髪を梳かしながら奴の言葉を待っていると、奴は「あぁ」と返しながらにやりと笑った。
 そして再び頬に触れる手。
 今度はその手に微かな熱を感じた。自分よりも体温が低いことを告げる、冷たい熱を。
 奴はわたしに触れると、また顔を近づけてきながらたまには俺達も、と呟いた。
 ――んだけど、それは最後まで聞けなかった。
 妙に間の抜けた、でも別に嫌な感じを起こさせない機械音が鳴り響いたせいだ。
 舌打ちをした奴はポケットから携帯電話を取り出す。
 どうやら電話らしい。着信名は『正樹』……井上先生みたいね、なかなかタイミングが良いというか悪いというか。
 どの道、都築に怒鳴られる道だけは避けられそうにないみたいですよ、わたしはどこかにいるであろう井上先生に向けて小さく手を合わせた。もちろん、心の中でひっそりと。都築は不機嫌もそのままに荒々しく二つ折りのその携帯電話を開いて「邪魔するな、じゃあな」と速攻で切ろうとする。
 いや、それはいくらなんでもひどいだろ。そう思い「ちょっと都築」と抗議の声を上げる。
 いくら相手が井上先生だからって、何も聞かずに切ろうとするなんてかなり残酷よ。
 すると電話口から『あ、如月さん? 』と聞こえてきたのでわたしは反射的にはいと返事してしまう。それからなぜか慌てて口に手を添えると、都築が大きく溜息をつくのと共に楽しそうな井上先生の声が聞こえてきた。
『やっぱり如月さんだ。おはよう』
「お、おはようございます」
「春奈お前もう喋るな、つけあがる。おい正樹。もう切るぞ」
『うわ、ちょっと待てよ浩介! せっかく幼馴染のためにあのチケット手に入れた俺に対してその仕打ちはひどくないかい? 』
「……何の用だよ」
 え、井上先生の勝利?
 わたしは意外にも素直に話を聞く都築に、思わず目をむいてしまった。
 そして都築の顔に自分の顔を寄せて、話がよく聞こえるようにする。
 そうすると奴が「おいちょっと」と抗議の声を上げるが、こればっかりは譲れないと奴の腕に自分のそれをまきつけた。
 瞬時に顔を赤くする都築……あーもう、あんたが顔を赤くしたらこっちまで恥ずかしくなるじゃないの。
『どうかしたのかい? 』
「何でもねーよ」
「何でもないです」
 小さく奴が声を上げたのが聞こえたのか、井上先生が訝しげにそう尋ねてきたので二人して即答で返す。韓国痩身1号
 ……あぁ、きっと今ので井上先生はあの綺麗な顔に楽しそうな笑顔を浮かべていることだろう。
 絶対何か勘違いしてる……まぁ、勘違いじゃないかもしれないけど。
 体をぴったりとくっつけながらそう話していると、都築が急に「悪い切る」と電話を切ってしまった。
 プープーという機械音。
「あ、切ったわねあんた!」
「お前がくっつくからだろうが!」
「何よ、くっついちゃ悪い!?」
「いや、悪いとかそういう問題じゃないだろう……」
 その機械音に文句を言うと、奴はそう反論しながらもどことなく歯切れの悪い口調だ。
 しかも、文句を言うくせに自分からわたしを引き剥がすことはしない。
 一体何なのよ――あ。
 そこでわたしは、自分が寝間着姿でいることに気がついた。
 そんな状態で奴の腕にくっついてたってことは……わたし、恥さらしじゃん!
 わたしは慌てて奴から体を離し、傍にあったカーディガンを羽織る。
 すると奴はほっとしたような顔を作り「お前本当に今時の高校生かよ」とか言ってきた。
 余計なお世話よ。それより、眠っているわたしの部屋に来て寝込みを襲ってきた都築の方が問題よ。
「あんたこそ今時の高校教師なわけ?」
「うるせえな。今時の高校教師は生徒を襲うのが常識だろ?」
「んなわけないでしょ!」
 どこが常識だこの馬鹿!
 わたしは奴の言葉に枕を振り上げてぼすんと叩きつける。
 珍しくその攻撃を受けた奴は、少し眉をしかめて頭をさすりながらさっきより強い力で肩を掴んできた。
 そしてそのまま抱き寄せる。
「うわ」
「大人しくしてろ」
 その力に思わず声を上げると、都築は短くそう返してわたしを黙らせた。
 っていうか、こんなことされて黙っていられる方がおかしいんだっての。
 抱き寄せられたわたしは、奴の膝の腕に座らされ後ろから抱きしめられた。
 全身を包まれるように抱きしめられると、もう逃げるための術が何も思い浮かばない。
 それにしても……。
 どうして都築は、朝っぱらからこんなことをするんだろうか?
 いくら変態で馬鹿な奴でも、ここまでしなかったはずなのに……何かおかしいわね。
 奴が何かをたくらんでいるのではと思い、少し考え込む。しかしその間に、都築は更に強くわたしを抱きしめて髪に顔を埋めながらじっとしていた。
 だけどわたしは奴に触れられているだけでどことなく落ち着かないので、とりあえず声をかけることにした。
 いつもみたいに不敵な笑みでも浮かべていれば、まだ安心できたはずなのに。
 というか、元々こいつに抱きしめられたら安心できたはずなのに今日はかなり落ち着かない。
「都築、井上先生が言ってたチケットって何? あんた映画でも見に行くの?」
「あ? あぁ、見たいって言ってる奴がいたからな」
「ちなみにそれ、いつ見に行くの?」
「今日だ。今から見に行く」
「……だったら、さっさと準備して行きなさいよ」
 だからとりあえず今一番訊きたいことを訊いてみると、どうやら奴は誰かと映画の約束をしていたらしい。
 しかも今からって……待ち合わせに遅れたらどうするんだこいつは。
 あぁ、でも井上先生が相手だったら少々笑って許してくれそうな気がする。
 だけど時間に遅れるなんて人としてどうかと思うから、さっさと家を出てほしいんだけど。
 わたしがそう言い放つと、都築はぴたりと動きを止めてこちらを凝視している。
 ……何よ。
「お前、俺が誰と映画行くと思ってんだ?」
「知らない人か井上先生」
 どことなくぼんやりとした口調で尋ねてくる奴に即答する。
 すると奴は一瞬間を置いてから盛大な溜息を吐き、目の前に二枚の映画のチケットを持ってきた。
 あ、これわたしが見たかったやつじゃないの。
 なかなか取れないって評判なのに、羨ましい。
 ……で、何。
 まさかわたしに自慢するために見せたわけじゃないでしょう――。
「この映画見たがってたのはお前だろうが」
「そうね……は? まさか映画見に行くって……」
「お前と見に行くに決まってんだろうが。ったく、何ボケたこと抜かしてんだよ」
 そこまで考え少し腹を立てていると都築がものすごく不機嫌そうにそう言ってきた。
 だから思わず呆けたような声を出してしまった後に一度後悔しながらでも、と抗議の声を上げる。
 映画見に行くなんて聞いてないんだから、分かるわけないじゃないの。それにわたしはあんたと別に街を歩くことだってなかったんだから普通予想が立てられないわよ。
 元々、休みの日も平日の放課後もずっと歌の練習ばっかりしてたんだし。
 映画だってりっちゃんと行こうと思ってたぐらいだし。あまりにも理不尽な言われように腹を立てていると、奴はまた大きく溜息をついてから軽く顔を背けて言った。
 きっと、恥ずかしかったんだろう。
「たまには、恋人らしいことしてもバチは当たらないだろ」
 背けた横顔が、耳まで赤かったのを見てしまいわたしは思わず声を上げて笑ってしまった。
 その瞬間笑われてカチンと来たのか都築がわたしの額を押さえて、その横顔を見せないようにする。
 でも可笑しいものは可笑しいんだから仕方がない……わたしはそのまま、お腹を抱えて笑っていた。
 そして笑いながら、わたしの額を押さえる都築の手にそっと触れてありがとうと呟いた。
 その言葉に驚いたのか、額から手が離れわたしはそれでようやく真正面から都築を見る。
「ありがとう」
 だから、今度は真正面からきちんとお礼を言った。すると奴が顔を背けながら「さっさと着替えろ。もう行くぞ」と言ったので、また笑いを噛み殺しながら立ち上がる。そしてドアを開けて部屋を出て行く奴の背を見送って、わたしはカーディガンを元あった場所へと戻した。
 それから服を脱ぎ、新しい服の袖に腕を通しながら思う。
 恋人なんて響きに、実感なんて湧かないけど。でもこうしてたまに奴とどこかに出かけたりすることができるのなら、その響きもいつか実感に変わるのかもしれない。
 ……まぁ、恋人ってそうやって休日にはデートしたりするのが普通らしいんだけどね。
 もしかして、あいつも休日は皆みたいに過ごしたいと思ってたのかな?
 そう考えると悪い気がして、同時にとても滑稽に思えてきてわたしはまた小さく笑いながらドアの外で待つ奴のために急いで準備をした。新一粒神

2012年8月1日星期三

恐れるということ

目を覚ましてまず真っ先に思い浮かべたのはあの中学生のこと。
 あの子は今頃どうしてるんだろうか。
 お母さんと、ちゃんと話ができたんだろうか。

 暑苦しい蝉の声に目を開けて部屋を出ると、お父さんとお母さんが話しているのが聞こえてきた。強力催眠謎幻水
 あぁ、どうやら久しぶりにお父さんがいるらしい。別に頻繁に出張に行っているわけでもなんでもないが、時間が合わないからつい久しぶりに感じてしまう。少し軋む廊下を歩き声のする方に歩いていくと途中でお兄ちゃんと鉢合わせる。
「起きたんか」
「うん。それより……って何、どうしたんあれ」
 眠いのか、あくびをしながら声を掛けてくるお兄ちゃんにそう答えていると突然両親の声が大きくなる。
 喧嘩でも始まったのかその声はひどく荒い。
 あまり広いとは言えない家の中を一瞬揺らした声がどういう理由で発されたのかはよく聞こえなかった。数日経つだけで大分慣れたのか徐々に方言の出始めたあたしの言葉にお兄ちゃんは少し首を傾げ、しかしすぐに「あぁ」と声を漏らす。どうやらお兄ちゃんには理由が分かっているらしい。
 ちょいちょいと手招きされ、不思議に思いながらもついていく。
 なるべく音を立てないようにそぅっと二人で廊下を進み、二人の寝室へと向かう。近付けば近付くほどに喧嘩腰の声が聞こえてくるが、肝心の何を話しているのかはあまりの声の荒さに聞こえない。一体何をそんなに興奮して話す必要があるんだろう。そんなことを考え、ふと昨日の中学生のことを思い出した。彼女は自分には父親がいないと話していた。自分が小さい頃に離婚したからだと。それは一体どういう状況なんだろう。
 こんな風に毎日喧嘩をしている声が聞こえて、それが日増しに強くなるのが感じられてそして一人いなくなって――そんな感じなんだろうか。彼女は覚えていないとは思うけど。
 耳朶を打つ両親の――主にお母さんの――声に心が震える。
 いつも二人が喧嘩しているのを見ても何とも思わなかったのに、この時ばかりは怖く感じられた。
 さぁっと冷えた思考に足を止めると前を歩くお兄ちゃんも数歩先で立ち止まる。
「明日香?」
 囁く声が聞こえたけど、それでも足を前に進めることができない。きっと他愛もないことで喧嘩してるんだ、だから大したことじゃない――そう心の中で何度も繰り返す。あまりにも日常的過ぎてどうでもよくなっていたはずなのに、久しぶりに帰省したせいもあってひどく強く耳朶を打つ。
 ……このまま離婚したらどうしよう。
 さすがにそんなことはないだろうと思ったけど、でも今じゃないいつかにそうなる可能性がないだなんて誰に言えるんだろうか。
 お兄ちゃんはとっくに成人してるしあたしだってもうじき成人する。
 そうすればきっと二人はあたし達のことを気にしない分お互い好きなように生きていける。
 熟年離婚っていう言葉も流行ってるぐらいだし……。
 そうして今まで気にもしなかったことを突然気にしだしたせいで、足裏が廊下にくっついて離れない。ぎゅっと握りしめた手に、額に、汗が浮かぶ。冷房の恩寵を受けられない廊下にずっと立っているんだから、そんなの当たり前なんだけど。暑さにくらくらしそうになりながら、前にも後ろにも進めなくなっていると握りしめた手に少し堅い指先が触れる。
「?」
 顔を上げると、お兄ちゃんがすぐ傍まで来てあたしの手に触れていた。
 力を入れていた拳を解くように一本一本やんわりと爪先の食い込んだ手の平から指を取っていく。その間にもあたし達のことに気付いていない両親が喧嘩してたけど、お兄ちゃんはそんなことどうでもいいんだとでも言うようにただ静かにあたしの手を取る。そうしてまた指先に力を入れようとしたあたしの手に自分の指を滑り込ませて優しく握りしめる。
 怒っているでもなく馬鹿にするでもなく少し困ったような顔で、お兄ちゃんが小さく笑う。
「ほら、怪我しとろうが」
「……え」
 言われ、自分の手の平に視線を落とすと小さく朱が見えてそこで初めて自分が怪我をしてることに気がついた。力を入れすぎていたとはいえそこまでだったのか。驚いて手を離そうとすると、強く握りしめられる。それでも血が出ている部分には触れないようにしてくれている辺り、お兄ちゃんらしいというか何というか。
 くい、と引かれて足が一歩前に進む。
「うわっ」
「行くで」
 前につんのめりながら声を漏らすと、苦笑混じりの声が降る。
 そして空いた方の手で口元に人差し指を当て静かにするようにとサインをしてから、いたずらっぽく笑って静かに前に進むお兄ちゃんに続いてあたしも静かに静かに歩を進める。
 お兄ちゃんはあたしがどうして前に進めなかったのかを知っているのかいないのか、あくまでマイペースに進む。ただ分かるのは時折触れる腕が汗で濡れて冷えていること、それなのに暑いからと言って急かすことをしなかったこと。そしてあたしがこれ以上手の平を傷つけないようにこうしてこの手を握ってくれているのだということぐらいだった。
 別に寡黙な人というわけじゃない。
 喋る時は本当にうるさいぐらいに喋るしむしろ黙っていることの方が珍しい気がする。
 でもこういう時にお兄ちゃんは絶対何も言わないのだ。何も言わずに、ただこうして手を引いてくれる。
 何も知らないという風に、ただいたずらっぽく笑いながら。
 そんな横顔を見るといつも何もかもお見通しか、という気分になるけど兄妹なんだからそれも悪くないと思った。両親の部屋の前に立ったあたし達は、ドアに頬をくっつけて二人が何を喧嘩しているのか聞いてみる。ひんやりとした感触が片頬に当たると同時に至近距離で同じことをしているお兄ちゃんは、すでに何かが聞こえたのか呆れたような顔をした。
「またくだらんことで喧嘩しよってからに……」
 溜息混じりに声に一体何を話してるんだろうと思い、目を閉じて部屋の中の声を聞くことに集中するとようやく二人が何を言っているのかが聞こえてきた。
「じゃけぇ伊豆がいいって言っとるじゃろ!?」
「いーや、沖縄に決まっとろうが!」
 ……はい?
 思わずずっこけそうになり、必死に体勢を整えていると避暑地に行くかこの際とことん海で遊ぶかというどうでもいい話ばかりが耳に入る。興奮しすぎていて滑舌が悪くなっているのかこうして耳を澄ましていないと何を言っているのかさっぱりだけど、別に聞こえたからといってどういうこともない話だったから少しだけ後悔した。あたしの心配を返してくれ。
 どこの誰だ、二人が離婚したらどうしようとか熟年離婚が流行ってるとか考えたのは。何だかもう疲れきってしまい、流れ出る汗を拭いながらこの中に殴りこもうと思っていたら墨みたいに黒いお兄ちゃんの髪がゆらゆら揺れた。
 どうやらお兄ちゃんも疲れたらしい。
 軽く頭を振り「あほらしい」と言いながらあたしを自分の背後に立たせドアノブを捻る。
 そうして一センチほどドアを開けてから、今度は手を離し――足で蹴り開けた。
 さすがに無理矢理蹴破るなんてことはお母さんに殺されるからやめたんだろう。一応冷静ではあるらしい。
「朝っぱらからがたがたぬかすな、そんなに行きたきゃ二つとも行けばええじゃろうが」
 だけどきっと一般家庭の皆様が見たら、この状況は冷静でも何でもないかもしれない。ひんやりとした、でもだからこそ怒ってるんだなと思わせられるお兄ちゃんの声を聞きながら背後に立っててよかったと心から思った。今のお兄ちゃんの顔を見るのは妹のあたしでも怖い。大体ただでさえがたいがいいんだから、後姿だけでも迫力があるのだ。
 ばんっ! とドアが壁にぶつかり、異常な速さで跳ね返ってくる。
 でもお兄ちゃんはそれすら足で止め、今度は軽く開けてから中へと入ろうとして。
「明日香」
「は、はいっ!?」
「お前今日バイトじゃろ。支度して早く行かんと」VIVID
「あ、そうだった! うん、今行くすぐ行く早く行く!」
 突然こちらを振り返ったから思わずびくりと飛び跳ねそうになった。
 こちらを見るお兄ちゃんの顔は怖いぐらい爽やかな笑顔で、あたしはどことなくおかしな返事をしながらすぐに背を向けて二階へと駆け上がった。廊下にずっといたせいで汗だくだったけど、シャワーを浴びている時間なんてない。きっとすぐにでもお兄ちゃんの怒号が飛ぶことになるんだろうから。だからあたしは階段を踏み抜く勢いで駆け上がり、簡単に髪をとかして服を着替えてから携帯も持たずに家を出た。
 玄関の引き戸を閉めた瞬間、背後からすごい音が聞こえた気がしたけど――気のせいだと心の中で言い聞かせて。

「――なんてことがさっきありまして」
「明日香ちゃんの家は朝から過激だねー……」
 そうして国道を目指し歩いて、鉄筋コンクリート二階建ての魔法堂に着くなりあたしは掃除道具を取り出して芹沢さんを顎でこき使いながら先ほどの話をしていた。ちなみにあたしは動かずに椅子に腰掛けている。当然だ、これはこの前あたしを働かせた罰なんだから。
「久しぶりの実家のテンションに付いていけませんけどね――あ、そこの棚まだ埃残ってますよ」
「あぁ、はいはーい……でも賑やかで楽しそうだね」
 柔らかな布で店中の商品から埃を取り除く作業をしている芹沢さんは、きらきらと埃が舞うたびにあたしにそう指示されながら優しく商品から埃を取り除く。窓を開け放しているせいで冷房が付けられないからその姿はひどく暑そうだったけど、それでも文句を言わない辺り根性あるのかもしれない。
 時折手首で額の汗を拭っている芹沢さんに、少しばかりの同情心でタオルを渡す。
 するとあの甘やかな色をしたチョコレート色の瞳が嬉しそうに細められた。
 同時に無機質なはずの眼鏡も甘く光ったように見えたのは光の具合の問題だろうか。
「ありがとう」
「どういたしまして。それにしても……離婚するかもしれないって心配して損しました」
 もう一度椅子に腰掛けぼやくようにそう言うと、芹沢さんが手を止めて小さく笑う。
 それは馬鹿にしたようなじゃなくてどことなく大人びた――実際大人なんだけど――笑みで、あたしはその表情に目を釘付けにしながら「何ですか」と返す。その声が芹沢さんの表情と対になるように子供っぽかったのが悔しいけど仕方がない、この人の方が何だかんだで人生経験豊富なはずだ。
 咎めるような言葉に芹沢さんは「いや」ともう一度笑ってから。
「明日香ちゃんは強い子だね」
 そう言った。
「? どういう意味ですか」
「言葉通りの意味だけど?」
 そんなこと言われてもわけが分からない。
 大体どうして離婚の心配をしたら強いに繋がるんだ。
 さすがマイペースなだけある……と言うべきなんだろうか。
 再び手を動かし始めた芹沢さんは、鼻歌混じりに埃を取り除いていく。
 暑さなんて何のその、といった感じの上機嫌で。
 光に照らされながらぴかぴかになっていくアンティークに一人満足したあたしは、綺麗になったと分かった商品の辺りのカーテンと窓を閉めた。さすがに真夏の太陽に晒されるのは保存状態によくない。
 冷房も付いていないのに窓を閉めるのは心底嫌だったけどこればっかりは仕方ない。
 だからあたしはまだ閉めていない窓の傍に立ち、そよそよと入り込む温い風だけで我慢した。じっとりとした肌の感触が気持ち悪くても文句は言えないし、第一今帰るのは怖かった。日焼けしないように長袖のシャツを着込んだのは間違いだった……はぁ。そう考え内心で溜息をついていると、あたしとは逆に半袖のシャツを着ている芹沢さんがタオルで汗を拭いながら唐突に「あの子」と言う。
「お母さんと話できたかなー」
「さぁ。でも、できたんじゃないですか? 魔イテムがあるんですから」
 眼鏡にも汗がついたんだろうか、そっと眼鏡を取り軽くタオルで拭いてからケースに仕舞った芹沢さんはあたしの答えに「そっか……そうだよね」と嬉しそうに笑った。先ほどの大人びた表情から一変して子供っぽい無邪気な笑みを浮かべた芹沢さんは、柔らかな声で続ける。
「どんなに当たり前にあるものもどんなに大事なものも、絶対なくならないなんて保証はないんだよ」
「?」
「でもそれを知らないから誰も気にしない。だから当たり前だって信じてるし、知っていても知らないふりをし続ける」
 何を突然。
 芹沢さんの言葉に内心で首を傾げながらも、何となく今話したばかりのあの子のことが頭に浮かんできて何も言えなかった。あの子は自分が記憶している限りでは何も失ってはいないけど、でもあの子の話を聞いたあたしは――。
 ……あぁ、そうか。
 棚にもたれかかり、口の端を緩やかに上げて微笑む芹沢さんを見て納得する。
 あたしは温い風に背を向けて、ふわりと髪の間をすり抜け頭皮に触れた風の気持ちよさに目を細めてから続きを待つ。
 すると芹沢さんもそんなあたしの様子に気付いたのか、笑みを深めて続けた。
「だから当たり前のものが壊れるかもしれないって恐れることができる子は強いんだと思うよ。失いたくないと思えば思うほど、当たり前の中でも一生懸命に生きれるから」
「芹沢さんも、そうやって怖がったことあるんですか?」
「もちろんあるよー。なくしてからだけどね」
 だから強いって言葉に繋がったのか。
 そう納得しつつも問うと、芹沢さんは屈託なく笑いながらそう答えた。
 それはとても朗らかで痛みなんてまるで感じさせない声だったけど、はっとなり顔を上げる。
 あたしの髪を揺らす風が芹沢さんのキャラメル色の髪も揺らす。
 そうして細くて柔らかそうな髪が一房風に揺られて芹沢さんの表情を隠した。だからどんな顔をしていたかは分からなかったけど、あたしは何か言わなきゃと必死になって頭を捻って。ぎゅっと手を握りしめた時、鋭い痛みが走って自分が怪我をしたままであることに今更ながらに気がついて、そしてこの手が傷つかないように自分の手で庇ってくれたおにいちゃんを思い出して。
「ならこれからは、当たり前なものも大事なものも守れますね」
 結局そんなことしか言えなかった。
 どんなに嘆いたって足掻いたってそんなものいつかはなくなるかもしれないけど、少なくともつまらない理由で自分から手放すなんてことはしなくなるはずだ。
 あたしが今日両親に対して恐れを抱いたように。
 あの中学生が、自分のせいで母親が大事なものを失いかけていると恐れたように。芹沢さんの言葉が正しいのなら多分そういうことなんだと思ったから、あたしは握りしめた手の力を緩めて表情のよく見えない芹沢さんに視線を向けた。すると芹沢さんはあたしの言葉に少しだけ目を丸くして、それから泣き出しそうな顔で「そうだねー」とわざとらしいぐらいに間延びした声で答える。それはその表情の裏で何を思っているのか隠すためだったのかもしれないけど、それには触れないでおいた。
 くるりと外を向き、窓とカーテンを閉めそれからすぐに冷房をつける。
 ピッと電子音を響かせて次の瞬間から猛烈な勢いで店内を涼しくしようと稼動し始めた冷房に視線を向け、手近な椅子を引き寄せて座り込む。やっぱり夏の日差しはきつい……少し立っていただけでくらくらした。ぼんやりとそう思い、もう一度芹沢さんに視線を向けると彼はやっぱりまだ泣きそうな顔のままで。あたしは何て言ったらいいのか分からないまま一度息をつき、芹沢さんが何か言うまで待つことにした。きっと、今何かを言ったところで何の効力もない気がしたから。
 そうして頬や髪を撫でる風が、外のそれよりもずっと冷たさを増した頃。
「明日香ちゃんは」
「何ですか?」
「明日香ちゃんは、昨日来たお客さんとの接客で何か思うことはあった?」
 唐突にそう問われて、あたしは即答で。
「さっき話したこと、そのまんまですよ。生まれて初めて親が離婚するかどうかってことを心配しました」
 まるで答えを用意していたかのようにそう答える。
 そうだ、第一この店に無理矢理バイトとして雇われなければ昨日あの子と話すことなんてなかったし、こんな想いを持つこともなかった。そう考えるとこの人に感謝すべきなのかもしれないと思った――この想いが果たしていいものか悪いものかは分からないけど。
 答えたあたしに芹沢さんが「そっか」と呟き頷く。
「よかった」
 そして次の瞬間いつもの呑気な笑みで朗らかにそう言った芹沢さんは、まるで今までの自分をなかったものにしようとするかのごとく「あ、そうだ!」と勢いよく奥へと消えていった。
「……何、あれ」
 それがあまりに唐突の行動だったから、あたしは思わずそう呟いて奥へと視線を向ける。
 すると階段を上がる音が聞こえて、次に何やらどさどさダンボールを床に下ろす音が聞こえた。
 何か探してるんだろうか?
 不審に思うものの行ったらまた乱雑な光景を見て掃除したくなるのが分かっていたからやめた。
 それにしても……。何やら騒がしい天井を見上げながら、はぁと息をつく。蔵八宝
 芹沢さん、大丈夫なんだろうか。普段通りのマイペースぶりだけど、それでもさっきの泣きそうな顔が気になってあたしは窓枠に頬杖をついて考え込む。かといって、つい数日前に知り合ったばかりのあたしに何ができるかと訊かれたら答えは「何もない」になることだろう。
 あんなペテン師に対して何かしたいと思うのは色々間違っている気がしたけど、相手が誰であれ泣きそうな人を放っておくのは人としていかがなものかと思って自分を納得させた。
 そうやってうだうだ考えていると、とんとんと芹沢さんが階段を降りてくる音が聞こえてきてあたしはなぜか姿勢を正す。すでに店内はひんやりと冷えきっており、芹沢さんは一瞬とても寒そうに身震いしてから「ほら」と何やら大きな袋を差し出してきた。
「? 何ですか、これ」
「花火だよー。線香花火から打ち上げ花火まで何でもござれさ」
 言われ、がさがさと音をさせながら中を覗き込むと……なるほど、確かにすごい種類の花火だった。ねずみ花火のような小さなものから打ち上げ花火のような大きなものまでたくさんの花火が入っていた。……でも何で花火?
「夏といえば花火でしょ」
「いや、そうですけど」
「だからご家族でどうぞー。たくさんあるから困ってたんだよねー、これ」
 ……はぁ、どうも。
 手渡された袋はどさりと重くて、思わず前のめりになる。
 すると芹沢さんが慌てた様子で支えてくれた。どうやら重いとは思わなかったらしい。
「うわわ、ごめん」
「……持って帰れるのか不安なんですけど」
 まだバイトを終えるには早い時間だし、今から心配することじゃないんだけど。
 でもどの道携帯持って来てないからお兄ちゃんを呼ぶこともできないし、これあたし一人で持って帰るのか……。
 げんなりとした気持ちで呟くと芹沢さんが「それなら僕が運ぶから大丈夫」と言ってくれた。
 かさりと音を響かせながら袋を持ってくれた芹沢さんはそれを適当な場所に置いて腰掛ける。そうして店内を見渡してから「綺麗になったね」と笑った。そこにはさっきまでの悲しそうな影なんてまったく見えなかったけど、何せこの人はペテン師だから何が本当なのかも分からない。一応嘘をつくのは一回だけって言ってたけどそれが今じゃないとも言えないし。
 肌に張りついたシャツをつまみ、ぱたぱたと乾かすように揺らす。
 すると微かに汗の匂いがして早くお風呂に入りたい衝動に駆られた。
 いくら冷房が効いていてもすでに付着した汗ばかりはどうしようもできないのが問題だ。
 そんな風に思いながら芹沢さんの横顔を見つめ、その表情が本物か嘘か判断することに時間を費やした。

 そして。
「今日はありがとー」
「……いえ。結局お客さん来ませんでしたし」
「結構暇なんだよ。来る時はそれなりに来るんだけどね」
 日が傾いて少し経った頃、あたしは芹沢さんと家の前に立っていた。
 結局あれだけ時間を費やしたにも関わらず芹沢さんの表情が本物か嘘か判断つけることができないまま、バイトの時間を終えてしまったのだ。何てもったいない時間だったんだろう……何だか悲しくなってきた。
 ……まぁ、あれだけ頑張っても分からなかったんだから気にしなくてもいいか。
 それにあたしに何ができるとも思えない。
 結果的にそういう考えに行きついてあたしはそれ以上気にすることなく頭を下げる。
「荷物持ち、ありがとうございました」
「え? いやいや、いいよー。僕があげたくてあげたんだから」
 そうして大量の花火が詰まった荷物を受け取り、今度は体勢を崩さないようにしっかり立つ。
 少しふらついたけど、玄関まですぐだから問題ないだろう。
 あたしの言葉に照れ笑いを浮かべてそう答えた芹沢さんは「それじゃ」と言って一歩後ろに下がる。
 そして背中を向ける寸前、口の端を浮かべた横顔で。
「皆仲直りできるといいね」
 それは夕日の効果を差し引いてもなお、おつりが来るぐらいに綺麗な笑顔だった。あの人の持つ甘い色ですら霞んでしまうような笑顔と、そして響いた声があまりに滑らかで綺麗だったからあたしは思わずその姿に見惚れて、でも次の瞬間玄関の引き戸が開く音がして振り返る。するとその隙をつくようにして芹沢さんの姿が遠くに行ってしまい、そこでようやく無意識に袋を落として手を伸ばしかけていた自分に気付いた。
「明日香? 誰かおったんか?」
「え? い、いや誰も」
 あたしは一体何をしようとしてたんだろうか。
 それすらもう遠くにかき消えてしまい、どこか呆然としたままあたしは家から出てきたお兄ちゃんに答えた。
 そして慌てて袋を掴み、軽く土を掃ってから「それより!」とお兄ちゃんに手渡す。
 せっかくもらったものなんだから、使わないともったいない。
 それに芹沢さんのせっかくの善意を無駄にするのはどうかと思ったから、あたしはさっきの芹沢さんの表情を頭の隅に追いやって不思議そうな顔のお兄ちゃんに向けてわざとらしいぐらい明るく言ってみせた。
「花火。芹沢さんにもらったから皆でやろう!」
 そうだ、せっかく実家に帰ってきたんだから皆で楽しく過ごしたい。
 それは嘘じゃないし実際そうできたらいいなと思う。
 でもどうしてだろうか――さっきの芹沢さんの横顔と声が頭から離れない。新一粒神