揺れる、揺れる、揺れる。
何度も慣れようと思ったけけれど、この独特の揺れには全然慣れることが無い。むしろ、悪化する一方だ。
それに、この息苦しさと蒸し暑さと言ったら――。
「よし、そろそろいいだろう」RU486
ゼノンの声と共に揺れが収まる。同時に体がふわりと浮いた。
「悪かったな。もっといい方法があれば良かったんだが」
目の前に大きな穴が開けられ、そこから青空がのぞく。メイは穴を目指して全力で頭を外へと突き出した。
「も、もうダメ……。気持ちわる……」
汗だくで青い顔をしたメイを見て、ゼノンが袋の中に手を突っ込み、持ち上げるようにして外へと出してくれた。
数時間ぶりに自由の身となったメイは、草原の上に寝転がりながら何度も深呼吸を繰り返した。
(頭が、頭がグラグラするわ……)
「姉さん、大丈夫?」
ぐわんぐわんと歪む青空の端から、カミュの頭が現れた。
「ほら、これ飲んで」
カミュが頭を抱え上げ、水を飲ませてくれる。
冷たい水が喉を通る感覚に、酷い吐き気も少し和らいだ気がした。
「少し、ここで休んでいくか。この辺りは酪農地帯だから、誰かに見られたとしても牛か山羊だ。安心していい」
心地よい風が、草原を駆け抜ける。
メイは「休憩」の言葉を聞いてすぐ、ぐったりと目を閉じた。
メイたちはゼノンの案内によって、無事にシェルジア王国入りを果たした。
どういう経緯で入国したのかというと、話は昨日にさかのぼる。
「入国できないってどういうことだ! 話が違う!」
ゼノンに掴みかかろうとする弟を止めようと、メイが間に割って入る。
「カミュ、落ち着いて……!」
シェルジアへと向かうことを決意した二人はゼノンの用意した馬に乗り、街道を避け小道を使いながら一気に国境まで駆け抜けた。馬にすら乗ったことが無かったメイはカミュに乗せてもらい、しがみつくようにしてなんとかここまでやって来たのだ。
ヴィアーサはかなりシェルジアへと侵攻していたらしく、数年前までシェルジア領だった土地にはヴィアーサの旗が立てられていた。そこかしこに国境付近を警戒するヴィアーサ軍の駐屯地があり、燃え盛る火の数が兵の多さを物語っていた。
メイたち三人はヴィアーサ軍が陣を敷く平原地帯を避けるために迂回し、道の無い荒れ地を進んだ。時間帯が明け方だったことと、敢えて歩くのも困難な道を選んだおかげで、一行は人に見つかることもなく正午には現在の国境線となる砦近くの高台に到着したのだった。
『このまま入国することはできない』
シェルジアを目と鼻の先にした所でゼノンが言った言葉は、二人に衝撃を与えた。決死の覚悟でついてきただけに、彼を信用していないカミュの怒りは大きい。睨みあう二人の間に入ってみたものの、メイも正直不安だった。
「入れない、とは言っていない。ただ、今のままでは駄目だ、ということだ」
冷静なゼノンは怒りをあらわにするカミュに動じることなく、眼下にそびえ立つ砦を指差した。
「見ろ」
言われて二人は、ゼノンが指差す方角を見る。
国境防衛の要となる砦には、臨戦状態だけに武装した兵がわんさかいる。砦の両脇は黒々とした岩ばかりの高い崖がそびえ立っており、他からの侵入を拒んでいる。山岳部の谷間に造られた砦の中心にはぶ厚い鉄板でできた大門があり、そこから兵たちは国境を行き来しているようだった。
メイは生まれて初めて砦というものを目にしたのだが、威圧的な外観と時折り聞こえる兵士の号令、そしてピリピリとした雰囲気に、すっかり怯えきっていた。
(こ、こわい……)
闇の中を馬に乗せられ猛スピードで走るのも寿命が縮まるほどに怖かったが、この砦を通って行くのだと思うとその比ではない。砦の前に出ただけで絶対捕まるに決まっている。元より、あの中を歩ける気がしなかった。
「師団長クラスの奴らがごろごろいる。半端な誤魔化しでは通用しないということだ」
砦の様子を食い入るように見ていたカミュは起き上がると、ゼノンを睨みつけた。
「……俺に、どうしろと?」
シェルジアの黒騎士は、挑戦的ににやりと笑った。
「わかってるじゃないか、小僧」
最後の一言を聞いた瞬間、カミュが剣を抜いた。
「俺は小僧じゃない」
「や、やめて!」
緊迫した雰囲気に輪をかけるようにして殺気が広がり、メイの顔が青ざめる。
カミュはゼノンを殺気に満ちた目で睨みながら剣を収めた。
「他に呼びようがなかったからな。別に悪気はない」
言いつつカミュよりもずっと大人の男は、少し笑っている。こんな状況でよく冗談が言えるものだ。メイの心は不安で締め付けられ、今にも息絶えそうだった。
「俺はカミュ。ギルドで傭兵をしている。……あんたは何者だ」
メイは二人とも知っているが、彼らはお互い昨夜顔を合わせたばかりの初対面だ。初顔合わせの時から斬りあいをし、今もこうして睨みあっている。到底仲良くなどなれそうにないのが目に見えてわかる。
「俺はシェルジア王国黒騎士団近衛隊所属、ゼノン・ウルティエ・コルアノ・セルーダ。一応、君たちの味方だ」
ゼノンが差し出した手を、カミュは無視した。
「一応、か。言っておくけど、俺はあんたを信用してない。姉さんとどれほど親しいか知らないが、あんたら貴族のもめ事に巻き込まれるのはご免だ。あんたの力を借りるのは、シェルジアを出るまでだ。少しでも姉さんに危険が及ぶようなら……あんたを殺す」
暗褐色の瞳が鋭さを増してゼノンを見据える。
――カミュは、本気だ。
殺伐とし過ぎていて、メイは男たちの会話に入ることもできない。ただ殺気を放つ二人の男を見上げながら、石のように固まっていた。
「それで、俺はどうすればいいんだ? こんなところにいつまでもいる気はないんだ。さっさと説明してくれ」
少しだけ殺気が緩和された間に、メイは深呼吸をする。空気が重すぎて、今まで息をしている感覚が無かったからだ。
「ああ、わかっている。……お前には、注意を引きつける囮(おとり)になってもらう」
ゼノンは二人に背を向けると、砦とは反対方向の平原を指差した。
「ヴィアーサの連中は、シェルジアが仕掛けてくるんじゃないかと近距離に陣を張っている。シェルジアもシェルジアで、無駄に兵を揃えて砦を警備している。何か事が起きれば、すぐにでも両軍が動き出すような状況だ。……この意味が、わかるか?」
自分にきかれているとは思っていなかったが、メイは心の中で「全然わかりません」と答えていた。
「俺がヴィアーサを撹乱させ、シェルジアの奴らを砦から出す。二つの軍をぶつからせて、その隙にあんたが姉さんを連れて国境を超える。……だろ?」
カミュの回答に、ゼノンは意味深に笑った。
「まあ、大方そんなところだ。頼んだぞ、小僧」
「てっめぇ!」
今度は明らかにわざとだ。
青筋を浮き立たせる弟をなだめながら、メイはゼノンの言った作戦をなんとか理解しようと試みていた。
(カミュが囮になるって……危険なことじゃないわよね?)
不安丸出しのメイを見たゼノンは、頭の上にぽんと手を乗せ、言った。
「心配するな。君は俺に任せてくれればいい」
彼の声には魔道か何かの効果があるのだろうか。
不安と緊張で締め付けられていた心が、和らいでいく。大きくて温かな手の主を見上げると、彼はふ、と微笑んだ。
その瞬間、メイはいきなりぐいっと腕を引っ張られた。
「きゃっ」
「姉さんに触るな!」
危うく転びそうになったところをカミュに抱きとめられる。
「カ、カミュ……?」
鬼の形相のカミュが、メイの肩を抱えたままゼノンを睨みつける。
メイはなんだかとっても作戦がうまくいくような気がしなかった。
(ふ、不安だわ……)
こうして幸先不安な越境作戦の幕が切って落とされたのだった。
辺りが暗くなってきたのを見計らって、布でぐるぐる巻きにされた上に袋に詰められたメイは、他の荷物と同じように馬車に積みこまれた。中絶薬
「それでは、後を頼む」
「お任せを」
二人の男が最後に交わした言葉を合図に、馬車がゆっくりと歩き出す。厚手の布でコーティングされているメイは身動きを取ることすらできず、息苦しさと暑苦しさですでに気を失いそうになっていた。さらに最悪なことに荷運び用の馬車だからなのか、思いのほか揺れが酷い。葉巻状態のメイは、何の抵抗もできずごろごろと荷と荷の間を転がるしかない。
(うぅ、気持ち悪い……)
どのくらいの間これを耐えなければならないのかわからないメイは、転がりながらげんなりしているのだった。
カミュがヴィアーサ軍の元へ向かったあと、メイは懐かしい顔と再会した。
ゼノンの執事、ファンデルである。
ファンデルは相変わらずメイに対しても低い物腰で接し、国王暗殺容疑がかけられていることなどまるで知らぬような素振りをしてくれた。穏やかな笑みを浮かべながら、ファンデルはメイを隠し、砦を抜ける準備を整える。そこには、迷いも疑いも何もなかった。あるのは、ゼノンへの絶対的な忠誠。それだけだった。
今思えば、ゼノンはこうなることがわかっていて、全て事前に準備を整えていたということになる。恐ろしく頭の切れる男だということを、メイは改めて目の当たりにしていた。
「おい、止まれ!」
不意に聞こえてきた大声に、メイの心臓が口から出そうなほどに飛び跳ねる。
とうとう、あの大門の前までやって来たのだ。
「このような時刻に何用だ。答えろ」
武装した兵が馬車の周囲を取り囲む、重い足音が聞こえる。
気持ち悪さも吹っ飛ぶほど、メイは緊張していた。
「無礼者。この紋章が見えぬか」
「――こ、これは……! し、失礼致しました! おい、門を開けてお通ししろ!」
何がどうなっているのか外の様子はわからないが、どうやら物凄い家系の紋章が、この馬車には付いているようである。名前を使えば国境を通れるというゼノンの話は、本当だったのだ。
「待て」
ほっとしたのも束の間、別の男の登場で、一気に雲行きが怪しくなってくる。
「陛下の事件があってから、厳戒態勢が敷かれている。身分の差なく、シェルジア入りする者は調べろとの指示がある。従って、伯爵家の馬車といえど、調べぬわけにはいかぬ」
馬車の後ろの扉が開かれた音がした。
つづいて誰かが乗り込んでくる、音。
メイは両目を固く閉じ、ガタガタ震えながら精霊に祈った。
(精霊ザイドよ。どうか、どうかお守りください……!)
「積み荷は全て、コルアノ・セルーダ様の私物にございます。手荒な扱いは、致しませぬよう」
ファンデルの声は冷静だ。
だが、メイは冷静でなどいられなかった。
すぐ隣にあった荷が持ち上げられ、外へ運び出されたからだ。
「これはなんだ」
「ヴィアーサのバルトガー男爵から火災時の救済の礼として贈られた品々にございます」
心臓の音で、ファンデルの声も聞こえなくなりそうだ。
「よし、次――」
「ルギーレ師団長!」
絶妙のタイミングで、事態は動き出した。
「ヴィアーサの陣営が、炎上してます!!」
「なんだと!?」
数人の兵士が、馬車の横を走り去っていく。
「一体、どういうことだ。事故か何かか?」
「わかりません。ですが、ヴィアーサは一度バルトガー邸炎上の際に我々に疑いをかけています。今回も、我々の仕業と考えなければ良いのですが」
馬車を調べる指揮官の男が、うーむと唸る声が聞こえた。
(ど、どうなっているのかしら。ヴィアーサ軍が燃えてるって……カミュがやったのかな)
外の様子どころか、今現在何が起きているのかもわからない。作戦を聞いても意味が理解できなかったメイは、何も知らないシェルジア兵と同じくらいに動揺していた。
「た、大変です! 白騎士の軍勢が、砦を目指して進撃してきます!」
「くっ、まだ休戦中なのだぞ! ここで戦を始めるわけにはいかん。門を開けろ! 頭の鈍いヴィル人に、話をつけねばならん。行くぞ!」
「は!!」
馬の嘶きと大勢の人間が走り回る音で、メイにも騎士たちがこれから出撃するのだということがわかった。
「そこをどけ! 出撃の邪魔だ!」
偉そうな男の一括で、馬車は再び動き出す。直後に大門を動かす歯車の回る音と、ぶ厚い鉄板の動く重苦しい音が鳴り始める。
大門が開いたのだ。
「ルギーレ師団、マウデル師団、出撃!」
男たちの大喝が砦全体に鳴り響く。角笛が吹き鳴らされ、大地が揺れるほどの音を立てて騎士たちが砦から走り去っていく。恐怖で震えあがっていたメイだったが、その音を聞いてはっと我に返った。
(やったわ……!! わたし、シェルジアに入れるんだわ!)
ぐるぐる巻きの文字通りお荷物の状態ではあったが、メイは見事、ザイド大陸北東部の聖なる王国、シェルジア入りを果たしたのだった。
「姉さんはうまく中へ入ったみたいだな……。良かった」
ゼノンの用意した油をヴィアーサ軍の陣営に撒きながら歩き回り、兵のふりをして身を潜ませ火を点ける。以前大陸南部の王国、アンバーナの軍隊に潜入し諜報員として数か月を生き抜いたことのあるカミュにとっては朝飯前の仕事だ。
当然、火を点けているのを誰かに見られるようなヘマも、逃走時に見つかるような失敗も侵さない。予想以上の大火となったおかげで混乱は大きく、逃げるのも簡単だった。慌てふためくヴィアーサ兵と夜の闇に紛れて移動し、ゼノンとの合流地点へとやって来た。
ほどなくして、岩陰からゼノンが現れる。
「……これを着ろ」
ゼノンはやってくるなり夜の闇に溶け込むような漆黒の布を投げてよこした。
「おい、これは――!」
「それを着たら、俺の後についてこい。……ヴィルもシェルも愚かだということを見せてやる」
赤く燃えたぎる炎に似た怒りを、カミュは見た気がした。
月明かりの下、平原に壁のようにずらりと並ぶ騎馬。白黒両極に別れた双方から、指揮官だけが前へと出る。
「休戦中であるにもかかわらず夜襲を仕掛けるとは、シェル人とはよほど下卑た手を好むものとみえる。腹いせに館を燃やしただけでは飽き足らず、くだらん復讐でもしに来たか」
白騎士の大将が憎々しげに言い放った。
ヴィアーサ側は、完全にシェルジアが火計(かけい)を行ったと思っているようだった。
「口のきき方には気をつけろ。我ら黒騎士はシェルジアの名を傷つけるような不名誉はせぬわ。休戦の誓約を遵守し、仇(かたき)である貴様らを討ち取ることをせずにいるというものを」
黒騎士の大将も負けてはいない。
互いに一歩も譲らず、睨みあいを続ける。
「火計を謀り、シェルジアを攻める口実を作ったのではあるまいな?」
「笑止。それは貴様らのことであろう」
すでにヴィアーサ陣営を襲った火は消し止められており、大将の合図一つで出撃できるよう、兵が隊列を成していた。
今まさに、戦が始まろうとしている。
かつて数え切れないほどの死闘が行われた戦場で、再び同じ歴史が繰り返されようとしていた。――その時だった。
騎馬の列の端が、隊列を乱して騒ぎ始めた。
「何事だ!」
その波は中心へと迫り来る。
号令前に戦が始まったか、はたまた敵の仕掛けた罠か。
双方に緊張が走った。
「あれは――黒騎士!?」
白黒真っ二つに分かれた壁の間を突き進んで走る、二騎の黒騎士。
先頭の黒騎士の姿を見て、シェルジアの大将は度肝を抜かれた。
「コルアノ・セルーダ!?」
指揮官たちの前でゼノンが馬を止めると、周囲をぐるりと槍の矛先を向けた白騎士に囲まれた。もう一人のマントのフードを被った黒騎士も、白騎士に囲まれ動きを止める。
「俺は、ここに殺し合いをしに来たのではない」
ゼノンは言うなり馬を下りて、腰に帯びていた二振りの剣を地面に置いた。
「なぜ貴公がここにいる、セルーダ卿。それに、一体これは何のつもりだ」
黒騎士たちも対抗するように白騎士に刃を向ける。
一人だけ丸腰のゼノンは、両手を上にあげながら指揮官たちに歩み寄る。
「事件の詳細を報告せよとの命令で帰還するところだ。それに……何のつもりだは俺の台詞だ、ルギーレ卿。これから何を始める気だ」
ゼノンの青い瞳が馬上のルギーレを見据える。ルギーレは見下ろしているはずが、完全にゼノンに押されていた。
「妙な言いがかりはよせ。私は戦を起こそうなどという気は毛頭ない。私は戦を止めに参ったのだ」
ルギーレの言い訳を聞いた白騎士の大将は、それを鼻で笑った。
「ふん。おかしなことを言う。私には、貴様が戦を仕掛けにここへ来たようにしか見えなんだが。……まあもっとも、コルアノ・セルーダ、貴様がこの場に来たことで全てが繋がったわ」
白騎士たちの殺意が、ゼノンに集中する。
「バルトガー邸といい、我が陣営といい、火計を仕掛けたのは貴様だな? 戦をする気でないと申して、聖なる白騎士を欺(あざむ)こうとは恐れ入った」
「貴様! それ以上我らを愚弄してみろ。次に口を開く時には、その首が飛ぶぞ!」
黒騎士がゼノンに刃を向ける白騎士を威嚇する。MaxMan
男たちの目が、ぎらりと光った。
「そうだ、セルーダ卿。貴公もこのような者達にむざむざと殺されに来たわけではなかろう。……もはや、話し合いは無用。勝利のみが正義を示すのだ!」
上がる咆哮。
解放された殺気。
燃え盛る松明(たいまつ)は、投げ捨てられた。
瞬間。
「やめろ!!」
ゼノンの怒声が、戦場の時を止める。
殺し合いが始まる一歩手前で、男たちは動きを止めた。
「戦をし、殺し合えばそれで気が済むのか! 殺し合うことでしかシェルもヴィルも正義を示せんのか!」
シェル人もヴィル人も、互いに刃を向けあったままゼノンの言葉に耳を傾ける。
ゼノンの言葉はシェル人のものでも黒騎士としてのものでも無かった。
彼の言葉には、国を隔てる色が無かった。
「ならば殺せばいい。俺を戦の元凶と言うのなら、俺を殺すことで正義が示せるというのならば、俺の命などくれてやる」
ゼノンは軍服を脱ぐと、地面に叩きつけた。
「さあ殺せ。俺は逃げも隠れもしない。俺を殺すならば、殺してみろ!」
「斬ってみろ」と言わんばかりに傷跡だらけの上半身をむき出しにしたゼノンは、無防備でありながらも覇気で戦場を圧倒していた。
彼の捨て身の行動に、誰一人として、動けない。
戦場に一陣の風が吹き抜けた。
「……戻るぞ」
最初に口火を切ったのはヴィアーサの白騎士だった。大将が剣を収めると、騎士たちもそれに倣い武器を下ろす。
危機は、去った。
「今回の件は、これで治めてやろう。しかしだ、コルアノ・セルーダ。次に会った時は容赦なく貴様を殺す。……覚えておくことだ」
「ああ、覚えておこう」
松明の炎に照らし出されたゼノンの表情は、先程の覇気が嘘のように哀愁を帯びていた。危機が去って安堵しているわけでもなく、緊張感から解放された後の放心でもなく。ゼノンの背は、大きな影を背負っていた。
「さすがだな、コルアノ・セルーダ。見事だ」
陣へと戻っていくヴィアーサ軍の後姿を眺めながら、ルギーレは満足そうにゼノンの肩を叩いた。王族の判断なしであわや開戦、というところで戦いを回避できたルギーレはご機嫌だった。
「さあ、我らも戻るぞ! 大戦で奴らを叩きのめすために、今は力をつけなくてはな!」
先陣を切るルギーレの後に続き、黒騎士も砦へと戻り始める。
ゼノンは地面に叩きつけた軍服を拾い上げると、肩に引っ掛けるようにして羽織った。
「これ、あんたのだろ?」
事の成り行きを見ていた黒騎士が、二振りの剣をゼノンに差し出す。
「ああ、悪いな」
ゼノンはそれを受け取ると、再び剣帯に装着した。
「あんた、よほどの派手好きか、もしくは頭のイカレた奴だな。普通、自分で火を放っておいてそれを自分だと言いに行くようなことはしない。それに、わざわざあんたが行かなくても戦にはならなかっただろ」
白騎士たちが去ったあとの草原で、二人並んでヴィアーサの陣を眺める。
騒動の前より見張りの数は増え、警戒色は強まってはいるが攻撃を受けたことへの報復を行うような動きは無い。火災があった後にしては、静かだった。
「俺は、自分の尻拭いは自分でする。……それに、今回の件で死人は出したくなかった」
「はっ、よく言うぜ」
フードを被った黒騎士は吐き捨てるようにして言った。
「不法入国させるために火計を使ったのは、あんたじゃないか。そのあんたが、死人は出したくないだと?」
「ああ、そうだ」
「戦にはならなかったものの、あれほどの大火だ。死人の一人や二人は出てるだろ」
「いや、それはない」
やけにきっぱりと否定するので、フードの下でむっとした顔をする。
このゼノンという男、自信家で腕が立ち、おまけにいい男ときている。身分も高く、洗練された言動には人を動かす迫力さえ備わっている。……なんだか、面白くなかった。
(シェルジアをとっとと脱出して、早くこいつと離れよう)
彼の本能が、この男を危険だと言っていた。
「セルーダ様、そろそろ我らも引きましょう」
「ああ、そうだな」
ゼノンのために馬を引いてきた黒騎士は、隣にいるフードを被った騎士を指差して尋ねた。
「この者は?」
黒騎士の軍服を着ているが、中身はヴィル人の、騎士でもなんでもないカミュである。
微動だにしていないように見えるが、内心ぎくりとするカミュ。ひっそり入国するのかと思いきや、さんざん目立った揚げ句に今は黒騎士の群れの中にいる。ばれれば命が危ういだけでなく、姉の命も危険にさらされるのだ。
「……ああ」
ところがこの大胆不敵なコルアノ・セルーダは、にこやかに笑うのだった。
「騎士に成り立ての新米小僧だよ。ヴィアーサの連中にビビってしまったもんだから、俺が国に連れて帰ってやるところさ」
どっと沸き上がる、男たちの笑い声。
カミュは血管がぶちぎれそうなほどに怒り狂っていた。
(こ、殺す……! こいつ、絶対殺す!!)
「ほら、いくぞ、小僧。シェルジアに戻って鍛え直さないとな」
ひらりと馬に乗ると、爽やかな笑顔を残して走り去っていく。威哥王
カミュはその大きな背中を、殺意の塊となって追いかけて行くのだった。
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