(それにしても。急病とか言ってごまかせばいいのに、直接会って謝るなんてよっぽど馬鹿正直なのか、頭が固いのかと思ったけど。これ、ひょっとして、ただ単に予想以上に『イってる趣味人』なだけなのかも、この子)紅蜘蛛
善治郎は、『結婚指輪』『ビーズ』『日本の硬貨』を前にして、目を爛々と輝かせるボナ王女を目の当たりにして、そんな感想を抱いていた。
あの後、極当然の流れとして「そういうわけで、誠に勝手ながら本日の会談は中止させて下さい」という話になると予想していたのだが、ボナ王女は真っ赤になってうつむきながらも上目遣いにこちらを見て、「そういうわけで、お許しを戴けるのでしたら、このままお話をお伺いしたいんですが、よろしいでしょうか?」と宣ったのだ。
「え? あ、はい。いいです」
と答えた善治郎の答えは、白状すれば予想外すぎる言葉を理解しきれずに、半ば反射的に口から出たものだった。
首から下は几帳面に薄手のノースリーブドレスを着こなし、髪型だけはぼさぼさのひっつめ髪という違和感という言葉を具現化したような姿で、ボナ王女はテーブルの上に広げられた指輪やビーズに見入っている。
「凄い。この透明な粒もよく見ると大きさと形がほぼ均一。しかも真ん中の穴、なんて小ささ……」
一般女性が宝石を見るキラキラした眼とは明らかに違う、職人の眼をテーブル上のビーズに向けるボナ王女を、対面に座る善治郎は黙って見つめる。
ボナ王女はテーブルの上に視線を向けているため、必然的に善治郎にはボナ王女の頭頂部が見える。
(ふーん、髪型は滅茶苦茶だけど、いつも通り髪全体に銀粉を塗しているんだな。キラキラ光ってる。まあ、当たり前か。途中で誘惑に負けただけで、ちゃんと出迎えの準備は整えてたんだもんな。ん、あれ?)
ボナ王女の髪に塗された銀粉の中に、粉と呼ぶには大きすぎる銀の塊を見つける。細長くて、クルクルとねじれているそれは、言うならば彫刻刀で彫ったときにできる木くずのような形をしている。
(ん? 彫刻刀の削り屑? 確か、ボナ王女は直前まで彫金をやっていたんだよね? ひょっとして……)
銀粉と一緒に、髪にひっついている彫刻刀の削り屑のような形の銀屑。
それに気付いた善治郎は、連鎖的に思考を巡らせる。
そういえば、普段のボナ王女はいつも髪に銀粉を塗していた。その上ヘアスタイルは、真ん中ぐらいまでストレートでそこから緩やかなウェーブを描く独特の形。
そのストレートとウェーブの境目が、ちょうどこの『ひっつめ髪の縛り目』あたりに見えるのは気のせいではなさそうだ。
(ひょっとして、いつもの「銀粉を塗した半分ストレートで半分ウェーブのヘアスタイル」って、「彫金の銀屑と、ひっつめ髪で取れなくなった癖毛」ってオチ?)
さすがにそこまで露骨に残念な真実はないだろうが、いざというとき銀屑が着いていたり、髪の癖を直さなくてもいいように、わざとそういうヘアスタイルにしている可能性は十分ありそうだ。
思い出してみれば、ボナ王女の髪型は常に同じ――銀粉を塗した上半分ストレートで下半分がウェーブ――だった。
常に同じ髪型というのは、おかしいとまでは言わないが、この年頃の貴族の娘ならば、出席するパーティの趣旨やその日のドレスに合わせて髪型を変えてくる方が一般的である。
そう考えると、善治郎の思いつきにも信憑性が感じられる。
「凄い、この硬貨も大きさから形まで完全に同じだ。ゼンジロウ陛下、詳しいお話をお聞かせ願えますか?」
ただ目で見て堪能するだけでは飽き足らなくなったのか、いつの間にか顔を上げていたボナ王女が真っ直ぐこちらの目を見て、そう懇願する。
(うん、ヘアスタイルに関しては、追求しても誰の幸せにもつながらなさそうだね)
「ええ、私で分かる範囲でしたら。ただ、以前にも言ったとおり、宝飾に関しては私は完全な門外漢ですので、ご期待に応えられるとはとうてい思えないのですが」
「いいえ、ありがとうございますッ。どんなちょっとした事でも、そこから発想が広がっていくことがあるんです」
そう悟った善治郎は、ヘアスタイルに関する情報には意図的に目をつむり、適当に話をあわせるのだった。
ボナ王女のヘアスタイルに目を向けなければ、その後の会談は順調であった。
「なるほど、金剛石を磨くのに金剛石を用いるのですか。ものすごく単純な話ですが、その発想はなかったですね。勃動力三體牛鞭
屑金剛石をどうやって粉末状にするか、その粉末をどうやって付着させて、ヤスリ状にするか。問題点は多々ありますけど、うまくいけば魔法に頼らずに金剛石の加工が可能になるかもしれません」
ウキウキ、ワクワク。そんな擬音が聞こえてきそうなボナ王女の笑顔に、つられた善治郎も笑い返す。
「お役に立てたならば、幸いです。しかし、ボナ殿下は魔法で金剛石の加工はできないのですか? 優れた土魔法の使い手ならば、金剛石を魔法で磨くことも可能だと聞いたのですが」
善治郎の無知な問いに、ボナ王女は苦笑を返す。
「それは無理です。私も土魔法の精密使用には自信はあるのですが、金剛石に魔法で干渉するには私の魔力では、力不足なのです。
逆に金剛石に干渉できるほどの魔力の持ち主は、精密な魔力操作に難がある傾向がありますから、結果として金剛石を魔法で磨く事ができるのは、その矛盾する条件を満たす一部の天才魔法使いだけなのです。
実際にやった事はないはずですけれど、ひょっとしたらフランチェスコ殿下ならばできるかもしれませんね」
「へえ、それは凄いですね」
予想以上に高いフランチェスコ王子の評価に、善治郎は演技ではない本気の驚きを示す。
ボナ王女でも魔力不足だというのならば、善治郎の知る限り、それを可能とする可能性がある人材は女王アウラと、宮廷筆頭魔法使いエスピリディオンの両名だけだ。しかし、エスピリディオンとアウラとの魔力差は結構なものがあるし、そのアウラでも、フランチェスコ王子と比べれば明らかに魔力量は落ちる。しかも、アウラは典型的な精密な魔力操作に難がある大魔力保有者である。
現実問題としては、カープァ王国には金剛石を魔法で磨くことができる人材は、現状一人もいない可能性が高い。
そう考えると、フランチェスコ王子は、本当に魔法使いとしては突出している事が分かる。
ボナ王女は、複雑な思いを隠しきれずに、
「まあ、あの通り色々とその問題の多い方ですが、こと魔法の使い手としては間違いなく一流です。精密操作では私が一枚勝っている自信がありますが、魔力量では勝負にならないくらいに負けています。
むしろ、フランチェスコ殿下ほどの莫大な魔力の持ち主が、私より若干劣る程度の精密操作が可能というのは、驚嘆に値します」
そう、自国の王嫡孫を称した。
もっとも本人に自覚はないが、程度の大小はあれ、その賞賛はボナ王女にも当てはまる。
『血統魔法』の使い手であるボナ王女は、王族の基準で見れば最底辺レベルの魔力量だが、世間一般の魔法使いと比べれば、十分大魔力保有者なのだ。
それでいながら、精密操作が得意と言い切るのだから、その能力は卓越した物がある。
自己評価が不当に低いのか、はたまた慢心を戒めるためにわざとそう言い聞かせているのか、あくまで低い自己評価を下したボナ王女は、話を変えるようにテーブル上からビーズを取り上げる。
「それにしても、このビーズという物も面白いですね。小さな粒を糸でつなげて細工物にする。同じような発想は私の国の民芸細工にもありますけれど、あれは穴を空けた色石をつかうものですから、形も不揃いですし、同じ色の物も二つと存在しない。大体こんなにちいさくないから、大ざっぱな腕輪や首飾りくらいにしか使えません。
それに比べてこれは、大きさと形が全く同じ物が多数存在しますから、非常に美しい形に仕上がりますね」
「ええ、熟練者ならば、指輪、ブローチ、ブレスレットなど、いろいろな物を作るのですよ。設計図もいくつかありますから、良かったらボナ殿下も挑戦してみてはいかがですか?」
ビーズ細工で最近一番多いのは、携帯ストラップなのだが、これは説明が難しいので善治郎はあえて省く。
「よろしいのですか!? ありがとうございます!」
会話は和やかに、まるで段々と互いの距離を狭めながら続いていた。
以前にアウラが懸念していた事だが、善治郎とボナ王女の相性は確かに良い。
現代日本の一般家庭出身でありながら、ひょんな事から王配という地位に就いた善治郎と、下級貴族の生まれながら、隔世遺伝的に『付与魔法』の素質に目覚めたことで王族として迎えられたボナ王女。
その上でどちらも、本質的に真面目で自分の立場を理解するだけの頭を持ち、立場に相応しい言動を取るだけの理性を兼ね備えている。
ようは二人とも、多少の違いはあるにせよ、「生まれより高い身分に着いてしまい四苦八苦している」、という点に関してシンパシーを感じているのだ。
「え? それではボナ殿下は、十歳までは生家で過ごされたのですか?」
「はい。私が王族として迎えられたのは、十歳の時です。それまでは、下級貴族の次女として普通に暮らしていました。
もっとも下級貴族の娘としては破格の魔力を持っていましたので、両親の期待が随分大きかったのは確かですけど」
「なるほど。では、王族と認められたときはさぞ驚いたでしょう?」
「それは、もう。現実だと認められるまで何日もかかりました。私も、当時の私の家族達も」
聞けば双王国では、高位貴族の家に王族に匹敵する魔力の持ち主が生まれた場合は、どちらかの『血統魔法』が使えないか、物心がついた時点で調べられるらしいのだが、ボナ王女の場合は家格が低すぎた。巨根
そのせいで、十歳になるまで発見されなかったのだという。
ちなみに、ボナ王女の一件で「ひょっとしてうちの子も」という淡い期待を抱いた中級以下の貴族が続出したが、あいにくと二匹目のドジョウはいなかったそうだ。
「では、ボナ殿下は『付与魔法』を六年で身につけたのですか? ひょっとして、宝飾加工の技も?」
感嘆の声を上げる善治郎に、ボナ王女は謙遜と自負の混ざった照れ笑いで答える。
「ええ、それも苦労しました。でも、言葉遣いや立ち振る舞いを身につける方が、ずっと大変でしたね。下級貴族の娘と末端とは言えば王族では、礼法が全く違いますから」
正直、まだ冷や汗ものですと、ボナ王女は首をすくめる。
「分かります」
思わず実感のこもった同意を示す善治郎である。
「それに比べると、『付与魔法』や宝飾加工の習得は、大変だったのは確かですが、凄く面白くて充実感がありました。もちろん、まだまだ未熟な身ですけれど」
十歳から学び始めて現在十六歳。六年で、一人前の技術を身につけたというのは、十分賞賛に値するだろう。
シャロワ王家の分家筋には、もっと若くして一人前の付与術士、宝飾職人、武防具職人となった人物もいるが、彼らは物心ついた頃から、その手の修行を積んでいるのだ。ボナ王女とはスタートが違う。
そこまで考えたところで、善治郎は一つ気になる点を思いつく。
「ということは、フランチェスコ殿下は?」
「ええ。あの方は、十二歳の時に一人前の付与術士として認められています。しかも宝飾も、武器も両方こなすのですから、間違いなくこちらの分野に関しては、超一流の才の持ち主ですね」
若干の嫉妬の混じった苦笑を浮かべるボナ王女であったが、今の善治郎にそれに気付く余裕はない。
(やっぱり! ということは、フランチェスコ王子は最初から、直系王族なのに分家王族の教育を受けていたってことになる)
分家王族と違い、直系王族は『血統魔法』である付与魔法はたたき込まれても、宝飾加工技術や武防具作成技術を強制的に学ばされることはない。
魔法の習得も一朝一夕ではできないが、宝飾加工や武防具作成技術習得に必要な時間は、その比ではない。
鉄や銀とにらめっこする日々を年単位で過ごして、初めて身につく技術なのだ。
国家の中枢を担うべき直系王族にそこまで学ばせる時間があるはずはない。そんな事に割く時間があるのならば、もっと別に学ぶべき事がある。
だが、現にフランチェスコ王子は若くして付与魔法だけでなく、宝飾加工も武防具作成もこなしているという。ならば、フランチェスコ王子が非常識なくらいの天才でない限り、物心がついた頃からそちらの修行をやらされていた、という結論が出る。
(つまり、フランチェスコ王子は最低でも物心がついた時点で、将来の王位継承者から外れていたって事だよね? ってことは、フランチェスコ王子に王位継承権が与えられない理由は、『馬鹿だから』じゃないことが確定したわけだ)
物心がついたばかりの子供を、『頭が悪い』という理由で見切りをつける人間がいたとしたら、その方がよっぽど頭が悪い。
フランチェスコ王子の出生に、何か秘密があることは間違いなさそうだ。
(この件に関しては、後でアウラに報告しておこう)
「本当に、一芸に秀でている方なのですね、フランチェスコ殿下は」
そう頭の隅に記憶をとどめつつ、善治郎は口では適当にボナ王女の言葉に相づちを打つ。
思考をよそに向けながらの生返事に近い対応であったが、幸いにもボナ王女に気取られることはなかったようだ。
「ええ、本当に魔道具制作者としてのフランチェスコ殿下は、私の目標です。
それにしても、やはり一番目を引くのはこの指輪ですね。本当に見れば見るほど見事な作り……完全に均一な作りをしている三粒の金剛石はもちろん、台座の金細工の精密なこと。いったいどうやってこんなに細かな模様を描くのでしょう」
再び結婚指輪に意識を向けるボナ王女に、善治郎はこれ幸いと便乗する。
「しかもその連続している網目模様の数は、実は全て同じなのですよ」
ジュエリーショップの店員から聞いた知識をそのまま繰り返しただけだったのだが、その言葉にボナ王女は驚きを露わにする。
「本当ですか? 1.2.3……」
ボナ王女は右手の親指と中指で指輪をつまみ、顔の近くに寄せて一生懸命台座の網模様を数え始める。
とはいえ、指輪の網目模様は間違っても人間が肉眼で数えられるような代物ではない。
それでも、一生懸命数えようとしているボナ王女を見て、善治郎はいらぬ親切心を刺激される。
そのとき、善治郎の視界に『テーブルにおいた硬貨』が入っていたのが、ボナ王女にとっては幸い、善治郎にとっては不幸だった。狼一号
(ああ、そうだ)
日頃の警戒心や緊張が極端に薄れていた善治郎は、その場で思いついたことを全く吟味せずに行動に移す。
「ちょっと失礼」
そう一言断った善治郎は左手で、テーブルの上から五円玉を取り上げると、右手の小指の先に水差しの水を一滴付け、そっと五円玉の穴にその水を垂らす。
「ん、駄目だ。凹レンズになった。もう一回……よし、今度はうまくいった」
何度か失敗した後、もくろみ通り水滴は五円玉の穴を丸くふさぎ、小さな『凸レンズ』を形成する。
「ん、よし、うまくいった。ボナ殿下、これをお使い下さい。少しは見やすくなるかと。そっと手に持ってその硬貨の真ん中の穴からみたい部分をのぞき見る感じで」
「え、はい」
それまで必死に指輪の網目模様を数えていたボナ王女は、善治郎のすすめに素直に従い、五円玉を受け取ると今度はその穴ごしに、指輪を見る。
反応は劇的だった。
「え? ええ!? なんですか、これ!?」
初めて見る凸レンズごしの世界に、ボナ王女は驚きの声を上げる。
予想通りの反応に、善治郎は嬉しくなったのか、少し調子に乗って答える。
「水レンズ。光の屈折現象を利用して、物を大きく見えるようにしているんです。ほら、澄んだ水面を上から見たら川底が歪んで見えたりするじゃないですか? あれの応用です」
「ええ? 水を通して見るだけでこんなに大きく見えるんですか?」
「いえ、ただの水じゃなくて。形が重要なんです。こう、真ん中が膨らんでいて、端に行くに従って徐々に薄くなっていく円盤状の形というか」
善治郎の拙い説明を食い入るように聞いたボナ王女は、興奮で少し息を乱しながら、その場で突如呪文を唱える。
「ええと……こんな感じでしょうか? 『器の中の水は我が指先に止まり、しばし我が望む形をなせ。その代償として我は水霊に魔力三百五十六を捧げる』」
「ええっ!?」
今度は、善治郎が驚きの声を上げる番だった。
水差しの水面に人差し指をつけたボナ王女がスラスラと呪文を唱えると、水の一部がまるでスライムのようにうねり、あっという間にその指先で虫眼鏡ほどの大きさのレンズと化す。
「あ、本当だ。凄い、これは凄いですよ、ゼンジロウ陛下!」
自分の水魔法で作った簡易水レンズの効果を確かめたボナ王女は、礼法も忘れて無邪気な声を上げる。
「…………」
一方善治郎は、その声に応える余裕もない。
(まずい。とんでもないことをやらかした……!)
今更ながら、自分の失態に気付いた善治郎は、背中にびっしょりと冷や汗をかくが完全に後の祭りである。
そんな善治郎の形相に気付くこともなく、興奮状態のボナ王女は水レンズで、テーブルの木目を拡大して見ていた途中で、魔法の効果が途切れた。
「あっ」
呪力の途切れた水レンズは唐突にその形を失い、バシャリとテーブルの上に落ちる。
「申し訳ありません、不作法をいたしました。
やっぱり、通常の魔法は効果時間が短くて、駄目ですね。それに『水自在変化』では魔力の消費量が多すぎますし、専用の魔法を作ってそれを魔道具化できれば……。
ゼンジロウ陛下、本当にありがとうございますッ!」
善治郎が恐れていた方法をボナ王女はごく当たり前に思いつく。
水をレンズ状にする魔法を生み出し、その魔法を魔道具化する。それは、レンズという重要技術を双王国に独占されることを意味する。
(まずいッ。これは本当に大失態だ。素直にアウラに白状して、対策を練らないと)
「いえ、お役に立てたならば幸いです」三體牛鞭
かつてない失敗に動揺する善治郎は、そうして無難な言葉を返すだけで精一杯だった。
2013年8月22日星期四
2013年8月20日星期二
チョコレートホリック
あれから、半月が経った。
私は携帯電話を買い替え、電話番号もメールアドレスも変更した。これで、もう私からも舞からも連絡を取ることは出来なくなる。こうでもしないと、吹っ切れそうになかったから。
私と舞は、本当にあれでさよなら。さよならをしなくちゃいけない。印度神油
でも、あのブレスレットをまだ大切に仕舞ってある。もう身につけることはできない。私はもう、舞の親友じゃないんだから。
だけど、どうしても捨てられなかった。せめて、最後の思い出に――だって、舞は私の初恋の人なんだもん。
「ねえ、稲葉。今日ちょっと付き合ってよ」
舞が転校してから、舞がインフルエンザで休んでいた時のように、放課後は稲葉と二人で教室に残って喋るようになった。
「なんで、どこに」
唐突に切り出した私に、稲葉が不審そうに眉を歪める。
クリスマスに偶然出会ってしまった以外は、本当に校外で一緒に行動することなんてなかったから。私も稲葉に突然こんなことを言われたら同じような顔をしただろう。
「今日は二月十三日! 明日はバレンタインデー! というわけで、一緒にチョコレートを作ろう!」
グッと拳を握りしめて、正拳突きのように稲葉に繰り出す。
「…………別に、いいけど」
殴られるとでも思ったのか身を引いて背中を椅子の背もたれに押しつけるが、すんなり頷いてくれる。
最近の稲葉は、いつもより優しさ増量中な気がする。バレンタインなんて「誰にあげるんだよ」かとか、「なんで俺がそんなのに付き合わされるんだ?」とか言われそうな気がしてたのに。
「じゃあ、決まり。私の家でつくろう。私の家、今日は誰もいないの」
最後の言葉。男女間で言うにはちょっと妙なニュアンスがあるけれど、稲葉が気にする素振りはない。
「じゃあ行こう」
「ああ」
珍しく、二人揃って教室を出た。
「そのまま家来る? いったん荷物置いてくる?」
「面倒くせぇし、篠塚がいいならこのまま行く。親には、ダチん家行くってメールしときゃ平気だろ」
校門を抜けて、二人仲良く並び私の通学路を逆走する。
「じゃあ、途中でコンビニ寄ってこう。道具はあるんだけど、肝心要のチョコレートをまだ買ってないんだよねぇ」
制服姿の男女である、私と稲葉。きっと傍目にはかわいらしい中学生カップルに見えるんだろう。
「ねえ、稲葉。手ぇつながない?」
夕日に照らされる二つの影に、舞と一緒に帰っていた日々を思い出す。稲葉の影は、舞よりも長い。
「何だよそれ。迷子防止?」
稲葉は可笑しそうに笑って、私の手を掴んだ。
「うん……そうかな」
私は稲葉の手を握り返して、少し俯き奥歯を噛みしめる。少し、泣きそうな気分だった。本当に迷子になってしまいそう。
稲葉が私の手を引いて歩く。
「ていうか、チョコレート作ろうって誘っといて、なんでチョコがないんだよ」
「し、仕方がないでしょ! 昨日の夜、寝る前に思いついたんだから」
私の様子に気づいているのかいないのか、稲葉は笑いながら話しかけてくる。
握った稲葉の手が暖かい。私は少しはなをすする。
二月は一番冷え込む季節だ。今日は、一段と寒い。
「この辺ってあんまり来ないんだよ。コンビニなんかあったんだな」
「稲葉の家、反対方向だもんね」
握りしめた稲葉の手が温かい。その温もりがじんわりと伝わって、心臓を捕えた。
「あ、稲葉。こっちだよ」
十字路にさしかかり、私は稲葉の手を引いて右に曲がる。稲葉の手を引っ張って、ズンズン歩いていく。
「稲葉、どのラッピングがいいと思う?」
コンビニ内にあるバレンタインコーナー。その棚に飾られたラッピングセットの前に立ち、稲葉に問いかける。
「いや……俺に聞かれても」
据わりが悪そうに、きょろきょろと辺りを見渡してバレンタインコーナーから目をそらす。
「恥ずかしがってんのよ。別に下着売り場にいるわけでもないのに」強力催眠謎幻水
「しっ、下着……!」
一瞬にして、稲葉の耳が真っ赤になった。
レジのすぐ近くだったのが災いして、レジのバイトがくすくすと笑う。
「じゃあ、コレとコレとコレとコレん中だったら、どれがいい?」
仕方なく、少しでも稲葉が選びやすいように対象を絞って問う。私が指差したのはどれもボックスタイプで少し他のよりも値の張る、いわゆる本命チョコ用のラッピングだ。
「え~っと……じゃあ、これ」
ラッピングに本命用とか義理用とかがあることを知らないのか、稲葉はなんの疑問も口にせず選び取った。それとも、ただ単にバレンタインコーナーから離れたいのか。
「これね」
稲葉からラッピングセットを受け取ると、パッケージに書かれた完成予想図を確認する。
ホワイトペーパーで箱を包んで、ピンクのくしゅっとした不織紙とリボンで飾る、ちょっぴりゴージャスで可愛いラッピングだ。
「結構、いいセンスしてんのね」
私は稲葉の選んだラッピングセットと、香坂さんたちにあげる友チョコ用のレース模様の小さな袋を買いにレジに向かう。
「篠塚、チョコは?」
「いけない!」
肝心のチョコレートを忘れるところだった。板チョコをごっそりといただく。
「どんなチョコつくるんだ? トリュフとか?」
「ううん。溶かして型に入れるだけの簡単なの。稲葉、あんまり手先が器用じゃなさそうだからね」
「は?」
不思議そうに首を傾げる稲葉は、まだ私の策略に気が付いていない。
「ふふふっ」
家に連れ込んでしまえば、後はこっちのものだ。決して、逃がしはしないよ。
「お願いしまーす」
私は上機嫌で、レジに向かった。
「稲葉。ちょっと顔貸して」
朝のホームルームも始まる前、教室で篠塚にそう言われた時の俺は、きっと引きつった顔をていただろう。
なぜなら今日はバレンタインデー。女子が男子を呼び出せば、その理由はただ一つとなってしまう日だ。その理由とはチョコレートを渡すためで、すなわち愛の告白だ。
実際がどうであれ、本人及び周囲の人間はそれを予感してしまう。
篠塚が愛の告白をするために俺を教室から連れ出そうとしているとは思えないから、そう感じるのは周囲の人間のみに限られるわけだけど。
「ヒューヒュー」
案の定、口笛の吹けない水無瀬が、口笛の音を声で真似してまで冷やかしてくる。
朝練を終えた水無瀬が教室に戻ってきているのにも関わらず、青山の姿は教室になかった。きっと、朝練を応援しに来た女の子たちにつかまっているのだろう。
今ここに、青山がいないことが俺にとって幸運なのか不幸なのか、よくわからない。
「おまえ、どういうつもりなんだよ」
水無瀬から逃げるように教室を出て、篠塚の後を歩きながらその後頭部を睨みつける。俺と篠塚が付き合っているという噂話を、篠塚も知っている。なのに、わざわざ教室の中で俺の事を呼びつけた。それが許せない。
「稲葉が悪いんでしょ。これを置いてったりするから!」
篠塚に連れて行かれたのは、人気のない特別教室棟。その三階の美術室の前で、ようやく篠塚は立ち止まった。振り返った篠塚は、俺と同じように怒っている。
篠塚が『これ』と言って取り出したのは、俺が昨日コンビニで選んだラッピングの箱で、中身はチョコレートだ。しかも、ハート型の。そして恐ろしいことに、そのチョコレートの製作者は俺――稲葉圭一だった。
「置いてくに決まってるだろ! 手伝いとか言って、騙しやがって。最初っから、そのつもりだったんだろ? こんなもん……青山に渡せるわけねぇだろうが!」
最初は、篠塚の手伝いのつもりで作ったチョコレートだった。
これだけ他のと違って俺一人に全部やらせるから、変だとは思ってたんだ。でも、まさかこんな無茶なことを言い出すとは思わなかった。
俺がチョコレートを綺麗にラッピングし終えた時、篠塚はこれが青山へのチョコレートだと言った。そして、俺に明日渡せと。
マジであり得ねぇ。どんな顔して渡せってんだ。三笠に玉砕してへこんでるだろうからって、優しくしてやるんじゃなかった。
俺が青山へ渡すために作らされたチョコレートを持って帰れるわけがない。
チョコレートを押しつける篠塚を振り切って、俺は家に走って帰った。
俺がチョコを刻んで溶かして型に流して固めてデコレーションして箱に入れてラッピングして……こんなチョコレートを俺の手から青山に渡すだなんて、愛の告白じゃないか。VIVID
「なにも、自分で直接渡せっていうじゃないんだよ? 机にこっそり入れちゃうとか、誰かに頼まれたとか言ってさ……」
なるほど、その手があったか。
ポン、と心の中で手を叩いた自分もいる。けど、そういう問題じゃないだろ。
「意味がない。こんなことして、なんになるんだよ!」
先がない。未来がない。なんもない。
俺の青山への思いは無意味だ。チョコレートを渡したところで、なにがどうなるっていうんだ。
どうにもならないんだよ、どうしようもないんだよ。
だって青山には、他に好きな女がいるんだから。
「でもっ……!」
篠塚は泣きそうな顔で、俺のチョコレートを胸に抱く。壊さないように優しく、でも力強く。
俺に、訴えてくる。
「お願い……本当に嫌なら、捨てちゃってもいいから。とにかく今は、受け取って。青山へのチョコレート、稲葉が持っていて。お願い!」
頭を下げてチョコレートを差し出してくる篠塚は、まるで俺に愛の告白をしているみたいだった。
「よっ、色男! どうだった」
教室に戻ると、待ち構えていたように水無瀬が冷やかしにかかってくる。
「残念、チョコじゃ無かったよ」
表情を取り繕い、両手をひらひら振って手ぶらであることをアピールする。
「つまんねーの。やっぱり、今年もキングオブチョコレートは青山か」
「なんだよ、そのキングオブチョコレートって……」
水無瀬の言葉に苦笑する青山は、机の上にこぼれ落ちんばかりのチョコレートを積み上げていた。
「スゲッ……」
去年よりも増えている気がする。
色とりどりのラッピングが施されたチョコレートの数々。いかにも手作りっぽい形崩れした蝶々結びや、一寸の隙もない有名ブランドの包装まで見えている。
贈り物はチョコレートだけに留まらないらしく、部活に使う手ぬぐいや、気合の入った手編みのマフラーまで混ざっていた。
「青山。一個貰うな~」
呆気にとられていると、山積みのチョコレートに腹を空かせた水無瀬の魔の手が伸びる。
「いいわけないだろ。くれた子に失礼だ」
パシリと水無瀬の手が叩かれた。
授業が始まる前でこれだけたくさんのチョコレートを貰っているんだ。昼休みや放課後になったら、もっともっと増えてしまうだろう。それを全部、自分一人で食べきるつもりなんだろうか。
俺は甘いものが好きな方だと思うけど、さすがにこの量はげんなりする。でも、青山ならきっと食べるんだろう。この山のようなチョコレートを女の子たちの気持ちごと、食べてしまうんだろう。
「青山って、いい奴だよなぁ」
「な、なんだよ、圭一! 照れるだろ」
思わず口をついて出た言葉に、青山が顔を真っ赤にする。
「あははっ、照れてる照れてる~」
水無瀬の笑い声を聞きながら、俺は考えていた。
こっそり、このチョコレートの山の中に俺の作ったチョコレートを紛れ込ませることは出来るだろうか。もしそれが出来たなら、青山は俺の気持ちも食べてくれるのだろうか。
青山に俺の気持ちごとチョコレートを食べてもらって、この気持ちが消化されてどこかへ消えてしまえばいいのに。
「青山、これ使えよ。カバンに入りきらないだろ?」
「おお、ありがとう」
技術の道具を持ってきた紙袋を青山に差し出す。
「なんでオマエ、紙袋なんか持ってんだよ。さては、自分もたくさんチョコもらえると思って準備してきたな!」
「なにバカ言ってんだよ」
俺は笑いながら、篠塚からチョコレートを受け取らなかったことを後悔していた。
「稲葉!」
ホームルームが終わり、帰ろうと立ち上がった俺のコートが誰かに引っ張られる。振り返ると案の定、篠塚だった。
「ねえ、本当にいいの? 青山、部活に行っちゃうよ」
声をひそめて話しかけてくる。
青山の方を見ると、紙袋にも入りきらなかったチョコレートを服のポケットに入れたり、カバンの隙間に押し込んだりしてどうにか運ぼうと苦戦していた。
「なんなら、私が渡そうか? 友達に頼まれたとかって言って……絶対に、稲葉の名前は出さないから!」
まただ。また泣き出しそうな目で俺を見てくる。どうして篠塚はそんな目で俺を見るんだろう。
「いい」
「稲葉……」
俺の言葉に篠塚の手が震えた。すがりつくような眼差しは不安定で、今にも壊れてしまいそうに見える。
「いい。自分で渡すから」
「稲葉ぁ!」
そんな表情から一変して、花が咲いたようになる。今度は、嬉し泣きでもしそうな勢いだ。
なんで篠塚がこんな必死になるんだろう。理由はわからないけれど、篠塚のこの必死さに動かされたところがあるのは事実で、少し嬉しかった。蔵八宝
篠塚のおかげで、青山にチョコレートを渡す決心がついた。自分一人じゃ、絶対にこんなことしようと思わなかっただろう。
これがいいことなのか悪いことはわからないけど、いいじゃないか。俺の青山への気持ちがバレないんなら、俺だってバレンタインデーの浮ついた空気を楽しんでも。
だって、青山が好きなのは俺の正直な気持ちなんだ。好きになった相手が、たまたま同性だったってだけだ。
「でも、俺からだとは絶対言わねぇからな! 頼まれたって言って渡す」
「うん。それでいいよ!」
俺は、篠塚からチョコレートを受け取った。
さっき食べたチョコレートの甘さが口の中にまとわりつく。
香坂さんたち仲のいいクラスメイトと交換した友チョコ。
去年は舞ともチョコレートを交換したけど、舞のは友チョコで私のは本命チョコだった。今年も同じだと思ってたけど、舞はいなくなってしまった。
舞の転校は仕方がないことだし、舞に告白したことも後悔していない。
でもやっぱり、寂しさはぬぐえない。
『……ねえ、知ってる?』
さっき香坂さんたちと交わした会話を思い出していた。
『チョコレートって、媚薬なんだよ』
前になにかのテレビで言っていた、チョコレートの秘密。
『人が恋に落ちると分泌される脳内物質が含まれているんだって』
どうして好きな人にチョコレートを贈るのか。
『ほんの少しだけど』
どうして、稲葉にチョコレートを贈らせたいのか。
少し、最近の私はおかしい気がする。妙にハイテンションというか、カラ元気というか、そのくせ感情の起伏が激しくてすぐに泣きたくなってしまう。
原因は考えなくてもわかる。舞とお別れしたからだ。だから、稲葉を騙して青山へのチョコレートをつくらせたりした。私の代わりに。
チョコレートは中毒になる。チョコレートの中に含まれるテオブロミンは常習性のある劇薬らしい。
「青山。水谷先生が呼んでる」
チョコレートを制服の下に隠して、稲葉が青山を連れ出す。
「こっち」と言って青山を人気のない方へ誘導するその後を、私は追いかけていた。
見つかったら物凄く怒られるとわかっていても、心配で気になってどうしようもない。
廊下の角や柱の陰に隠れながら後をつけていくと、稲葉は青山を特別教室棟に続く渡り廊下まで連れて行き、そこで足を止めた。渡り廊下と普通の廊下を仕切る引き戸の陰に隠れ、窓部分から顔をのぞかせる。
渡り廊下の真ん中で二人は立ち止まり、なにやら話をしているようだった。そして、稲葉が不自然に膨らんだ制服のポケットからあのチョコレートを取り出す。
どんな顔をしてチョコを差し出したのか、その表情はこちらからは見えなかった。けれど、青山の表情はバッチリ見える。何事か稲葉と話していると思ったら耳まで真っ赤になって、口元が緩んでいるのがわかる。あれだけチョコレートを貰っておきながらいちいちあんなに照れるなんて、なんだか可愛い。
青山が口を開いて何かを喋っていたけれど、扉で区切られた私の耳には入らない。せめてこの扉の真ん前で話してくれたら聞こえたかもしれないけど、それだと覗いてるのもバレてしまう。
なんとか声を拾えないか窓ガラスに額を押しつけると、青山が稲葉のチョコレートを受け取った。
「やった……あっ!」
思わず声を上げてしまい、窓ガラスが私の吐息で曇る。声が聞こえてしまったのか青山が顔を上げて、一瞬目が合った気がした。
「ヤバッ!」
慌てて頭を引っ込め、その場にうずくまる。
続きが気になるけれど、再び覗く勇気はなかった。
心臓がバクバクする。見つかりそうになったせいじゃない。青山が、稲葉のチョコレートを受け取ったから。
やった、やった、やったぁ……!
声に出せない嬉しさを、心の中で絶叫する。
そして、突然アルミ戸が開かれた。
「篠塚……!」
その声は、稲葉の物だった。
「えへへへへ」
私は青山だけでなく、稲葉にまで見つかってしまった。
笑ってごまかせるとは思わなかったけれど、稲葉にまで見つかってしまっては笑うしかなかった。
「ご、ごめんね! でも、どうだっ」
「悪い。今……俺に話しかけんな」
立ち上がって稲葉に伸ばした手が、無惨にも振り払われる。
強く払われた手が、ジンと痛んだ。
覗き見していたことを怒られるとは思った。でも、これは怒ってるんじゃない。
拒絶、だ。
「稲、葉……?」
突然のことに思考する停止。
「どうしたの? ねえ……!」
再び手を伸ばす。でも、稲葉は私を無視して背を向けた。
「篠塚さん。チョコレート、ありがとう」
稲葉を追いかけようとした私の腕がつかまれる。
「青山……」
私の手をつかんだのは、稲葉のチョコレートを持った青山だった。
稲葉の足音が、どんどん遠ざかって行った。
いったい、なにが起きてるの?
「悪い、青山。水谷先生が呼んでるっての嘘なんだ」
青山を連れて、渡り廊下の真ん中まで来たときに俺は立ち止まり、隣に立つ青山に顔を向ける。新一粒神
私は携帯電話を買い替え、電話番号もメールアドレスも変更した。これで、もう私からも舞からも連絡を取ることは出来なくなる。こうでもしないと、吹っ切れそうになかったから。
私と舞は、本当にあれでさよなら。さよならをしなくちゃいけない。印度神油
でも、あのブレスレットをまだ大切に仕舞ってある。もう身につけることはできない。私はもう、舞の親友じゃないんだから。
だけど、どうしても捨てられなかった。せめて、最後の思い出に――だって、舞は私の初恋の人なんだもん。
「ねえ、稲葉。今日ちょっと付き合ってよ」
舞が転校してから、舞がインフルエンザで休んでいた時のように、放課後は稲葉と二人で教室に残って喋るようになった。
「なんで、どこに」
唐突に切り出した私に、稲葉が不審そうに眉を歪める。
クリスマスに偶然出会ってしまった以外は、本当に校外で一緒に行動することなんてなかったから。私も稲葉に突然こんなことを言われたら同じような顔をしただろう。
「今日は二月十三日! 明日はバレンタインデー! というわけで、一緒にチョコレートを作ろう!」
グッと拳を握りしめて、正拳突きのように稲葉に繰り出す。
「…………別に、いいけど」
殴られるとでも思ったのか身を引いて背中を椅子の背もたれに押しつけるが、すんなり頷いてくれる。
最近の稲葉は、いつもより優しさ増量中な気がする。バレンタインなんて「誰にあげるんだよ」かとか、「なんで俺がそんなのに付き合わされるんだ?」とか言われそうな気がしてたのに。
「じゃあ、決まり。私の家でつくろう。私の家、今日は誰もいないの」
最後の言葉。男女間で言うにはちょっと妙なニュアンスがあるけれど、稲葉が気にする素振りはない。
「じゃあ行こう」
「ああ」
珍しく、二人揃って教室を出た。
「そのまま家来る? いったん荷物置いてくる?」
「面倒くせぇし、篠塚がいいならこのまま行く。親には、ダチん家行くってメールしときゃ平気だろ」
校門を抜けて、二人仲良く並び私の通学路を逆走する。
「じゃあ、途中でコンビニ寄ってこう。道具はあるんだけど、肝心要のチョコレートをまだ買ってないんだよねぇ」
制服姿の男女である、私と稲葉。きっと傍目にはかわいらしい中学生カップルに見えるんだろう。
「ねえ、稲葉。手ぇつながない?」
夕日に照らされる二つの影に、舞と一緒に帰っていた日々を思い出す。稲葉の影は、舞よりも長い。
「何だよそれ。迷子防止?」
稲葉は可笑しそうに笑って、私の手を掴んだ。
「うん……そうかな」
私は稲葉の手を握り返して、少し俯き奥歯を噛みしめる。少し、泣きそうな気分だった。本当に迷子になってしまいそう。
稲葉が私の手を引いて歩く。
「ていうか、チョコレート作ろうって誘っといて、なんでチョコがないんだよ」
「し、仕方がないでしょ! 昨日の夜、寝る前に思いついたんだから」
私の様子に気づいているのかいないのか、稲葉は笑いながら話しかけてくる。
握った稲葉の手が暖かい。私は少しはなをすする。
二月は一番冷え込む季節だ。今日は、一段と寒い。
「この辺ってあんまり来ないんだよ。コンビニなんかあったんだな」
「稲葉の家、反対方向だもんね」
握りしめた稲葉の手が温かい。その温もりがじんわりと伝わって、心臓を捕えた。
「あ、稲葉。こっちだよ」
十字路にさしかかり、私は稲葉の手を引いて右に曲がる。稲葉の手を引っ張って、ズンズン歩いていく。
「稲葉、どのラッピングがいいと思う?」
コンビニ内にあるバレンタインコーナー。その棚に飾られたラッピングセットの前に立ち、稲葉に問いかける。
「いや……俺に聞かれても」
据わりが悪そうに、きょろきょろと辺りを見渡してバレンタインコーナーから目をそらす。
「恥ずかしがってんのよ。別に下着売り場にいるわけでもないのに」強力催眠謎幻水
「しっ、下着……!」
一瞬にして、稲葉の耳が真っ赤になった。
レジのすぐ近くだったのが災いして、レジのバイトがくすくすと笑う。
「じゃあ、コレとコレとコレとコレん中だったら、どれがいい?」
仕方なく、少しでも稲葉が選びやすいように対象を絞って問う。私が指差したのはどれもボックスタイプで少し他のよりも値の張る、いわゆる本命チョコ用のラッピングだ。
「え~っと……じゃあ、これ」
ラッピングに本命用とか義理用とかがあることを知らないのか、稲葉はなんの疑問も口にせず選び取った。それとも、ただ単にバレンタインコーナーから離れたいのか。
「これね」
稲葉からラッピングセットを受け取ると、パッケージに書かれた完成予想図を確認する。
ホワイトペーパーで箱を包んで、ピンクのくしゅっとした不織紙とリボンで飾る、ちょっぴりゴージャスで可愛いラッピングだ。
「結構、いいセンスしてんのね」
私は稲葉の選んだラッピングセットと、香坂さんたちにあげる友チョコ用のレース模様の小さな袋を買いにレジに向かう。
「篠塚、チョコは?」
「いけない!」
肝心のチョコレートを忘れるところだった。板チョコをごっそりといただく。
「どんなチョコつくるんだ? トリュフとか?」
「ううん。溶かして型に入れるだけの簡単なの。稲葉、あんまり手先が器用じゃなさそうだからね」
「は?」
不思議そうに首を傾げる稲葉は、まだ私の策略に気が付いていない。
「ふふふっ」
家に連れ込んでしまえば、後はこっちのものだ。決して、逃がしはしないよ。
「お願いしまーす」
私は上機嫌で、レジに向かった。
「稲葉。ちょっと顔貸して」
朝のホームルームも始まる前、教室で篠塚にそう言われた時の俺は、きっと引きつった顔をていただろう。
なぜなら今日はバレンタインデー。女子が男子を呼び出せば、その理由はただ一つとなってしまう日だ。その理由とはチョコレートを渡すためで、すなわち愛の告白だ。
実際がどうであれ、本人及び周囲の人間はそれを予感してしまう。
篠塚が愛の告白をするために俺を教室から連れ出そうとしているとは思えないから、そう感じるのは周囲の人間のみに限られるわけだけど。
「ヒューヒュー」
案の定、口笛の吹けない水無瀬が、口笛の音を声で真似してまで冷やかしてくる。
朝練を終えた水無瀬が教室に戻ってきているのにも関わらず、青山の姿は教室になかった。きっと、朝練を応援しに来た女の子たちにつかまっているのだろう。
今ここに、青山がいないことが俺にとって幸運なのか不幸なのか、よくわからない。
「おまえ、どういうつもりなんだよ」
水無瀬から逃げるように教室を出て、篠塚の後を歩きながらその後頭部を睨みつける。俺と篠塚が付き合っているという噂話を、篠塚も知っている。なのに、わざわざ教室の中で俺の事を呼びつけた。それが許せない。
「稲葉が悪いんでしょ。これを置いてったりするから!」
篠塚に連れて行かれたのは、人気のない特別教室棟。その三階の美術室の前で、ようやく篠塚は立ち止まった。振り返った篠塚は、俺と同じように怒っている。
篠塚が『これ』と言って取り出したのは、俺が昨日コンビニで選んだラッピングの箱で、中身はチョコレートだ。しかも、ハート型の。そして恐ろしいことに、そのチョコレートの製作者は俺――稲葉圭一だった。
「置いてくに決まってるだろ! 手伝いとか言って、騙しやがって。最初っから、そのつもりだったんだろ? こんなもん……青山に渡せるわけねぇだろうが!」
最初は、篠塚の手伝いのつもりで作ったチョコレートだった。
これだけ他のと違って俺一人に全部やらせるから、変だとは思ってたんだ。でも、まさかこんな無茶なことを言い出すとは思わなかった。
俺がチョコレートを綺麗にラッピングし終えた時、篠塚はこれが青山へのチョコレートだと言った。そして、俺に明日渡せと。
マジであり得ねぇ。どんな顔して渡せってんだ。三笠に玉砕してへこんでるだろうからって、優しくしてやるんじゃなかった。
俺が青山へ渡すために作らされたチョコレートを持って帰れるわけがない。
チョコレートを押しつける篠塚を振り切って、俺は家に走って帰った。
俺がチョコを刻んで溶かして型に流して固めてデコレーションして箱に入れてラッピングして……こんなチョコレートを俺の手から青山に渡すだなんて、愛の告白じゃないか。VIVID
「なにも、自分で直接渡せっていうじゃないんだよ? 机にこっそり入れちゃうとか、誰かに頼まれたとか言ってさ……」
なるほど、その手があったか。
ポン、と心の中で手を叩いた自分もいる。けど、そういう問題じゃないだろ。
「意味がない。こんなことして、なんになるんだよ!」
先がない。未来がない。なんもない。
俺の青山への思いは無意味だ。チョコレートを渡したところで、なにがどうなるっていうんだ。
どうにもならないんだよ、どうしようもないんだよ。
だって青山には、他に好きな女がいるんだから。
「でもっ……!」
篠塚は泣きそうな顔で、俺のチョコレートを胸に抱く。壊さないように優しく、でも力強く。
俺に、訴えてくる。
「お願い……本当に嫌なら、捨てちゃってもいいから。とにかく今は、受け取って。青山へのチョコレート、稲葉が持っていて。お願い!」
頭を下げてチョコレートを差し出してくる篠塚は、まるで俺に愛の告白をしているみたいだった。
「よっ、色男! どうだった」
教室に戻ると、待ち構えていたように水無瀬が冷やかしにかかってくる。
「残念、チョコじゃ無かったよ」
表情を取り繕い、両手をひらひら振って手ぶらであることをアピールする。
「つまんねーの。やっぱり、今年もキングオブチョコレートは青山か」
「なんだよ、そのキングオブチョコレートって……」
水無瀬の言葉に苦笑する青山は、机の上にこぼれ落ちんばかりのチョコレートを積み上げていた。
「スゲッ……」
去年よりも増えている気がする。
色とりどりのラッピングが施されたチョコレートの数々。いかにも手作りっぽい形崩れした蝶々結びや、一寸の隙もない有名ブランドの包装まで見えている。
贈り物はチョコレートだけに留まらないらしく、部活に使う手ぬぐいや、気合の入った手編みのマフラーまで混ざっていた。
「青山。一個貰うな~」
呆気にとられていると、山積みのチョコレートに腹を空かせた水無瀬の魔の手が伸びる。
「いいわけないだろ。くれた子に失礼だ」
パシリと水無瀬の手が叩かれた。
授業が始まる前でこれだけたくさんのチョコレートを貰っているんだ。昼休みや放課後になったら、もっともっと増えてしまうだろう。それを全部、自分一人で食べきるつもりなんだろうか。
俺は甘いものが好きな方だと思うけど、さすがにこの量はげんなりする。でも、青山ならきっと食べるんだろう。この山のようなチョコレートを女の子たちの気持ちごと、食べてしまうんだろう。
「青山って、いい奴だよなぁ」
「な、なんだよ、圭一! 照れるだろ」
思わず口をついて出た言葉に、青山が顔を真っ赤にする。
「あははっ、照れてる照れてる~」
水無瀬の笑い声を聞きながら、俺は考えていた。
こっそり、このチョコレートの山の中に俺の作ったチョコレートを紛れ込ませることは出来るだろうか。もしそれが出来たなら、青山は俺の気持ちも食べてくれるのだろうか。
青山に俺の気持ちごとチョコレートを食べてもらって、この気持ちが消化されてどこかへ消えてしまえばいいのに。
「青山、これ使えよ。カバンに入りきらないだろ?」
「おお、ありがとう」
技術の道具を持ってきた紙袋を青山に差し出す。
「なんでオマエ、紙袋なんか持ってんだよ。さては、自分もたくさんチョコもらえると思って準備してきたな!」
「なにバカ言ってんだよ」
俺は笑いながら、篠塚からチョコレートを受け取らなかったことを後悔していた。
「稲葉!」
ホームルームが終わり、帰ろうと立ち上がった俺のコートが誰かに引っ張られる。振り返ると案の定、篠塚だった。
「ねえ、本当にいいの? 青山、部活に行っちゃうよ」
声をひそめて話しかけてくる。
青山の方を見ると、紙袋にも入りきらなかったチョコレートを服のポケットに入れたり、カバンの隙間に押し込んだりしてどうにか運ぼうと苦戦していた。
「なんなら、私が渡そうか? 友達に頼まれたとかって言って……絶対に、稲葉の名前は出さないから!」
まただ。また泣き出しそうな目で俺を見てくる。どうして篠塚はそんな目で俺を見るんだろう。
「いい」
「稲葉……」
俺の言葉に篠塚の手が震えた。すがりつくような眼差しは不安定で、今にも壊れてしまいそうに見える。
「いい。自分で渡すから」
「稲葉ぁ!」
そんな表情から一変して、花が咲いたようになる。今度は、嬉し泣きでもしそうな勢いだ。
なんで篠塚がこんな必死になるんだろう。理由はわからないけれど、篠塚のこの必死さに動かされたところがあるのは事実で、少し嬉しかった。蔵八宝
篠塚のおかげで、青山にチョコレートを渡す決心がついた。自分一人じゃ、絶対にこんなことしようと思わなかっただろう。
これがいいことなのか悪いことはわからないけど、いいじゃないか。俺の青山への気持ちがバレないんなら、俺だってバレンタインデーの浮ついた空気を楽しんでも。
だって、青山が好きなのは俺の正直な気持ちなんだ。好きになった相手が、たまたま同性だったってだけだ。
「でも、俺からだとは絶対言わねぇからな! 頼まれたって言って渡す」
「うん。それでいいよ!」
俺は、篠塚からチョコレートを受け取った。
さっき食べたチョコレートの甘さが口の中にまとわりつく。
香坂さんたち仲のいいクラスメイトと交換した友チョコ。
去年は舞ともチョコレートを交換したけど、舞のは友チョコで私のは本命チョコだった。今年も同じだと思ってたけど、舞はいなくなってしまった。
舞の転校は仕方がないことだし、舞に告白したことも後悔していない。
でもやっぱり、寂しさはぬぐえない。
『……ねえ、知ってる?』
さっき香坂さんたちと交わした会話を思い出していた。
『チョコレートって、媚薬なんだよ』
前になにかのテレビで言っていた、チョコレートの秘密。
『人が恋に落ちると分泌される脳内物質が含まれているんだって』
どうして好きな人にチョコレートを贈るのか。
『ほんの少しだけど』
どうして、稲葉にチョコレートを贈らせたいのか。
少し、最近の私はおかしい気がする。妙にハイテンションというか、カラ元気というか、そのくせ感情の起伏が激しくてすぐに泣きたくなってしまう。
原因は考えなくてもわかる。舞とお別れしたからだ。だから、稲葉を騙して青山へのチョコレートをつくらせたりした。私の代わりに。
チョコレートは中毒になる。チョコレートの中に含まれるテオブロミンは常習性のある劇薬らしい。
「青山。水谷先生が呼んでる」
チョコレートを制服の下に隠して、稲葉が青山を連れ出す。
「こっち」と言って青山を人気のない方へ誘導するその後を、私は追いかけていた。
見つかったら物凄く怒られるとわかっていても、心配で気になってどうしようもない。
廊下の角や柱の陰に隠れながら後をつけていくと、稲葉は青山を特別教室棟に続く渡り廊下まで連れて行き、そこで足を止めた。渡り廊下と普通の廊下を仕切る引き戸の陰に隠れ、窓部分から顔をのぞかせる。
渡り廊下の真ん中で二人は立ち止まり、なにやら話をしているようだった。そして、稲葉が不自然に膨らんだ制服のポケットからあのチョコレートを取り出す。
どんな顔をしてチョコを差し出したのか、その表情はこちらからは見えなかった。けれど、青山の表情はバッチリ見える。何事か稲葉と話していると思ったら耳まで真っ赤になって、口元が緩んでいるのがわかる。あれだけチョコレートを貰っておきながらいちいちあんなに照れるなんて、なんだか可愛い。
青山が口を開いて何かを喋っていたけれど、扉で区切られた私の耳には入らない。せめてこの扉の真ん前で話してくれたら聞こえたかもしれないけど、それだと覗いてるのもバレてしまう。
なんとか声を拾えないか窓ガラスに額を押しつけると、青山が稲葉のチョコレートを受け取った。
「やった……あっ!」
思わず声を上げてしまい、窓ガラスが私の吐息で曇る。声が聞こえてしまったのか青山が顔を上げて、一瞬目が合った気がした。
「ヤバッ!」
慌てて頭を引っ込め、その場にうずくまる。
続きが気になるけれど、再び覗く勇気はなかった。
心臓がバクバクする。見つかりそうになったせいじゃない。青山が、稲葉のチョコレートを受け取ったから。
やった、やった、やったぁ……!
声に出せない嬉しさを、心の中で絶叫する。
そして、突然アルミ戸が開かれた。
「篠塚……!」
その声は、稲葉の物だった。
「えへへへへ」
私は青山だけでなく、稲葉にまで見つかってしまった。
笑ってごまかせるとは思わなかったけれど、稲葉にまで見つかってしまっては笑うしかなかった。
「ご、ごめんね! でも、どうだっ」
「悪い。今……俺に話しかけんな」
立ち上がって稲葉に伸ばした手が、無惨にも振り払われる。
強く払われた手が、ジンと痛んだ。
覗き見していたことを怒られるとは思った。でも、これは怒ってるんじゃない。
拒絶、だ。
「稲、葉……?」
突然のことに思考する停止。
「どうしたの? ねえ……!」
再び手を伸ばす。でも、稲葉は私を無視して背を向けた。
「篠塚さん。チョコレート、ありがとう」
稲葉を追いかけようとした私の腕がつかまれる。
「青山……」
私の手をつかんだのは、稲葉のチョコレートを持った青山だった。
稲葉の足音が、どんどん遠ざかって行った。
いったい、なにが起きてるの?
「悪い、青山。水谷先生が呼んでるっての嘘なんだ」
青山を連れて、渡り廊下の真ん中まで来たときに俺は立ち止まり、隣に立つ青山に顔を向ける。新一粒神
2013年8月18日星期日
つぶてにはつぶてを
アブリルの退院から一週間後、輪廻とヴァージニアは宿舎に作られた臨時の隊長室に呼び出された。
「女王陛下暗殺未遂事件は帝国の差金と判断して間違いねえだろう」
二人が隊長室のドアを閉めるなり、アブリルはそう切り出した。OB蛋白痩身素(3代)
「賊の中に王国軍の警備責任者が混ざってただろ? オレの昔の知り合いに、防諜が専門のやつがいてな。そいつに連絡をとって、裏切り者の身辺調査をやらせたんだが――」
「そんな知り合いがいるんですか…」
「まあな。昔、作戦で一緒になったことがあってな」
驚く輪廻に、アブリルは得意げに答えた。
「王国軍にそんな部隊があるなんて知りませんでした」
ヴァージニアも不思議そうに質問する。
「まあ王国はそれほど情報戦に力を入れてるわけじゃないしな。帝国はそれ専門の機関まであるらしいが」
王国軍には独立した情報機関があるわけではなく、前線の各部隊の中で必要に応じてその役割をを担う者を隊長クラスが任じていた。
つまり組織として、法律として、諜報員の存在が明確に規定されているわけではなかった。
「かなり前に、うちの総司令が各部隊の密偵や工作が上手い奴ばかりを集めて実験部隊を作ったんだ。結局うまく運用できなくて、今までほとんど遊ばせてる状態だったんだがな。こっちから仕事を頼みに行ったら張り切って引き受けてくれたぜ」
(だからわたしたちは劣勢なのよ…)
輪廻は内心の呆れを表に出さないようにするのに苦労した。
輪廻は決して用兵に明るいわけではなかったが、物量で勝るはずの王国軍が帝国軍に対して劣勢である理由にはいくつも思い当たる節があった。
豊富な金属資源を抱え、ほぼ無尽蔵に武器を生産でき、人口でも帝国を上回るのだ。
おまけに王国は雷の魔女の力を、ほぼ自由に使うことができる。列車砲がその最たる例である。
普通に戦えば帝国にここまで遅れをとるはずがない。
(なんとまあ…もどかしい話ね)
「女王陛下がリルムウッドの訪問を決めたのがだいたいひと月くらい前だって話だから、黒幕が暗殺計画を立てたのはそれ以降として、そいつはどうにかして実行部隊のハスケルに連絡を取ったはずなんだ。で、ここ最近ハスケル宛てに届いた手紙は一通だけだった。差出人の名前は故郷の両親になってたらしいが、オレが調査を頼んだそいつは何かあると踏んで、その手紙の経路をずっと追いかけたらしい。そしたら――」
「差出人は帝国軍ですか?」
肝心なところをヴァージニアがかっさらって言う。
アブリルは少し勢いを削がれた調子で「ああ」と答えた。
「帝国の情報局の人間らしい。前に話したことがあったと思うが、例の千里眼の男だ」
「えーと、ハルコンネン、でしたっけ」
「ティモ・ハンニカイネンだ馬鹿め」
「なるほど……。それで、今日はそのことを教えるために僕たちを呼んだんですか?」
「もちろんそれもあるが、それ以外もある」
「! 何かの作戦ですか?」
ヴァージニアが勢いづいて言う。
退屈を持て余していたのは輪廻だけではなかった。いやむしろ、真面目で血気盛んなヴァージニアの方が、より退屈を苦痛に感じていたのだ。
アブリルは、静かな調子で作戦を発表した。
「女王陛下暗殺未遂の報復として、ハンニカイネンを拉致する」
しばらく、輪廻もヴァージニアも、何も言わなかった。
「…何だその顔は。言いたいことがあるなら聞いてやるぞ」
「あの、僕には、その情報局のハンニカイネンって人を、前線におびき出す方法がまったく想像できないのですが」
「あのな、情報局の役人が戦場なんかに出てくるわけないだろ」
「僕もそう思います」
「だったらこっちから出向くしかないだろうが」
「つまり…帝国領に侵攻するということですか?」
ヴァージニアが声を上げた。
今の混乱しきったリルムウッド駐屯軍に、黒の森に敷かれた帝国の防御を突破する能力があるとは、まともな戦術眼のある人間なら誰も思わないだろう。
しかし、アブリルはヴァージニアの言葉に首を振った。数字減肥
「侵攻する、ってのは違うな。正確には潜入する、だ。あいつらがしてきたように、こっちも姿を隠してこっそりと入るぜ。『つぶてにはつぶてを』――ってな」
戦場で英雄が、敵の兵士が投げたつぶてが目に当たり失明した。
英雄はすぐさま片眼の状態でつぶてを投げ返すと、それは相手にも同じように当たり、敵の兵士は英雄と同じく片目を失った。
かつて、ラディ・ダールトンの父が幼い輪廻に話して聞かせたことのある昔話だった。
「実はもう準備は始めてるんだ。スパイに頼んで、ニセの身分はなんとか用立てられそうって話だし。後は、帝国に駐在している王国の大使に手引きしてもらえれば、王国とは無関係な国の貴族にでもなって帝国に堂々と入れる」
「しかし、ただの旅行者がどうやって情報局の幹部に近づけるのですか?」
「その点も考えてあるぜ」
ヴァージニアの疑問を、アブリルはすぐに解決した。
「今度、アンアディール要塞で戦勝パーティをやるらしい。帝国貴族やら、共和国の大使やらを呼んで盛大にやるそうだ。黒の森の土地自体に価値はほとんどないからな、せめて最大限政治的に利用してやろうって腹だろう。ムカつく話だが、そのおかげでオレたちは身分さえ借りれば簡単に中に入れるってことだ」
しかし問題はどうやって外に出るか、ということだ。
輪廻は、前世に更場武術団で活動していたころの経験から、侵入よりも脱出の方がよっぽど難しいことを知っていた。
「細かいところはアドリブでどうにかするしかない。だから、この作戦は少数精鋭で行く。この命令に関してはお前たちに拒否権を与える。どうするか、明日返事を聞かせてもらう」
アブリルはそう言って話を締めくくった。
輪廻もヴァージニアも、翌日を待たずに、任務の承諾をその場でアブリルに伝えた。
◇
輪廻は墓に花を供えていた。
輪廻以外の人間には、それが墓だとはわからないかもしれない。
墓石の表面に無理やり刻みつけた「わぬる」の文字は、輪廻の故郷の文字だった。
輪廻はワヌルの死体を憲兵に明け渡さなかった。
彼のことは、アブリルにも報告していない。
特に口止めをしたわけではなかったが、ヴァージニアも黙っていてくれた。
戦士として死んだ彼を、せめてもの慰めとして、自分の手で葬ってやりたかった。
それが、彼を殺した者として自然な行為だと思ったのだ。
きっと彼が殺す方だったとしても、殺した自分に対して同じ事をしただろうと思う。
哀しみと、同情。
そういう生き方しかできなかった戦士の成れの果て。
自分もいつかはそうなるのだろうか。いや、そうなっていたはずだと、輪廻は墓の前で考えていた。
きっと誰よりも、自分が彼のことを理解していて、彼こそは自分のことを理解してくれたのではないかと、そんな想像があった。
剣を合わせていた瞬間が、今にして思えばどんなに健やかな時間だったか。
斧原一心。
ワヌル。
輪廻の同類たちに花を供える。
死んだ人間に慰めもないだろうと、冷めた心で考えつつ。
「お兄ちゃん!」
誰かの声が聞こえて輪廻は我に返った。
墓石の前でずっと物思いに耽っていたらしい。
輪廻を呼んだのは、クリスティナだった。
「ああ………クリス」
「お兄ちゃん、こんなところで何してるの?」
「まあちょっと、考え事を」
「ふーん」
クリスティナは納得した様子ではなかったが、深く追求はしなかった。
花の供えられた輪廻手製の墓に目をやった。玉露嬌 Virgin Vapour
「……誰かのお墓?」
「まあ、ね」
「大切な人?」
「僕に似た人だよ」
「あたしも祈っていい?」
「もちろん」
死んだワヌルが文句を言うはずもなし。生きていたって、きっと文句は言わないだろう。
クリスティナは輪廻の隣に並ぶと、目を閉じて黙祷した。
輪廻は幼馴染の横顔を盗み見る。
ただ善意によって死者に祈る彼女は、無垢な僧侶のように見えた。
「それで、どうしたの? 僕を探してたんだろ?」
「うん。…………あたし、村に帰ろうと思うの」
その一瞬だけ。
輪廻は、強烈な質量の孤独を感じた。
すぐに平常の心を取り戻す。引き止めたくなるのを我慢した。
「そう…。僕を連れ戻すのは、諦めたんだ?」
「そういうわけじゃないけど……こっちに来てずいぶん経つし、お金だってもうあんまりないし」
「だったら――」
「何?」
「いや、なんでもない。僕の両親によろしく」
「お兄ちゃん、あんまり無茶はしないでね。お兄ちゃんは強いかもしれないけど、お兄ちゃんのまわりの人は強くないんだから」
「うん。肝に銘じる」
「……もう行っちゃうから言うけどね。あたし、お兄ちゃんのこと、いつもよく分からなかったの」
クリスティナは輪廻ではなく、墓石の花を眺めて言った。
「だってお兄ちゃん、いつもあたしたちじゃなくて、遠くを見てる気がしたんだもん。……お兄ちゃんがずっと見てたのは、ここだったんだね」
(どうだろう。分からない。だけどあの村が自分の居場所だと思えなかったのは本当だった)
「……そんなことはないよ。僕の故郷はあの村だ」
「お兄ちゃん。あたしと初めて会ったときのこと、覚えてる?」
覚えているはずがなかった。
他人の人生を生きていた輪廻は、同じ村に住んでいた同じ年頃の子供のことなど、まるで興味がなかった。
「もちろん」
「やっぱりね」
クリスティナは悲しげな表情で答える。
すべてを見透かされていると、輪廻は思った。
――こうしてクリスティナは、リルムウッドから去った。
◇
帝国領への潜入作戦の準備は着々と進められていた。
偽造の身分証の用意に、要塞周辺の地図入手と警備状況の調査などである。
これらの準備には帝国に駐在している大使の強力があった。帝国領内にスパイ網を持たない王国では、大使にその役割を期待するしかないのである(もちろん帝国側の大使もそういった側面をまったく持たないわけではないが)。
数日後、輪廻とヴァージニアは再び宿舎の隊長室に呼び出された。
アブリルは、潜入のための準備が整ったことを簡潔に二人に伝える。
「それじゃあ僕たちは、パーティに招待された公国のとある貴族のふりをして、要塞に入るわけですね」
「あー、そのー、それなんだが、ちょっと問題があってだな…」
腕を組んだアブリルの眉間には珍しく皺が寄っていた。
輪廻とヴァージニアは、机の上に広げられた潜入用の様々な書類の中に、アンアディール要塞から発送された招待状を見つけた。
最初に気づいたのはヴァージニアだった。
「隊長。これ、招待状には、"リップフェルトの三姉妹を招待"となっているのですが」
「ああ、……オレたちが化けるのは、公国の三人姉妹の貴族だ」
ヴァージニアが絶句した。
輪廻は、何が問題なのかすぐにはピンと来なかった。
「それの何が――ああ、そう、確かに問題ですね」
すぐに気づいて、慌てて言い繕った。
つまり、輪廻は男なのである。
ヴァージニアがアブリルに異議を唱えた。lADY Spanish
「他の人間を探すわけにはいきませんか」
「時間がかかる。ぐずぐずしてたら戦勝パーティが終わっちまう。それに三人組で、帝国軍に顔が割れてなくて、かつパーティを欠席してるやつなんざ、そうそう簡単には見つからねえだろう」
「では……」
「ああ。ダールトン、お前女装しろ」
アブリルはやや捨て鉢に言った。
「女物の貴族の服と、化粧道具は用意した。……つらいだろうが、これも任務のためだ。我慢してくれ」
「はあ。まあ、僕は一向に構いませんが」
「リンネ……ごめん」
なぜかヴァージニアも謝っていた。
それからアブリルとヴァージニアは輪廻を別室に連れて行き、三面鏡の前に座らせた。
女装のための予行演習。
試しに輪廻に化粧をしてみよう、ということになったのだ。
が、アブリルは幼い頃から剣の道で生きてきた人間である。
上手な化粧の仕方など分からない。
最初から指揮を放棄して、この件(女装)に関してはヴァージニアに全権を委ねてしまった。
しかしヴァージニアの方も、化粧をした経験がまったくないというわけではなかったが、彼女ほどの身分の貴族は自分で化粧などするはずもなく、化粧をするときはすべてメイド任せである。
ヴァージニアは少し迷ってから、白い粉状の化粧品をパフにつけて、いきなり輪廻の頬に塗りたくろうとした。
「あ、ちょっと待って。その前に、下地を作ってからの方が…」
「下地?」
「ほら、この瓶の、クリームのやつ」
輪廻は手を伸ばして、白い瓶の化粧品をヴァージニアに渡した。
「これを塗るのか?」
「そう。薄く、ムラがないようにね。そのあとに、こっちの粉のやつを付けるんだよ。ただし、目とか口の周りは薄くね」
「なぜだ?」
「このあたりはよく動くから、化粧が崩れやすいんだよ」
「ダールトン、こっちの紅はどうするんだ?」
「まずは輪郭をとってから、次に中を塗ってください。あ、口紅は最後ですよ」
「……お前、なぜ化粧に詳しい?」
「え、と。ほ、本で読んだから…」
輪廻は苦し紛れに答えた。
女性二人の冷たい視線が痛かった。
数十分後。
ヴァージニアとアブリルは、輪廻の化粧の出来栄えにため息を漏らした。
「うむ……これは………」
「すげえ……どう見ても女だ………っていうかお前……」
「こんな感じですか?」
輪廻は鏡に向かって微笑んだ。
後ろにいる二人が「はうっ」と悩ましげな声を上げた。
「な、何ですか、その反応……」
「……ダールトンお前、なぜそんなに女装に慣れている?」
「え、っと……慣れてないですよ。別に」
実際、輪廻は化粧には慣れていた。
江戸で盗賊をやっていたころ、色目を使って標的の屋敷に忍び込むのには必須の技術だった。
化粧の匂いで輪廻が思い出すのは、血の色と殺戮の手応えである。
それは決して色っぽい思い出ではない。
「……おいリンネ。お前、なぜ女の化粧に詳しい。一体誰の化粧を見て覚えたんだ? 答えてもらおうか」
そしてなぜか今にも爆発寸前のヴァージニアである。
助けを求めてアブリルに視線をやったが、こちらも同様の調子だった。
(まったく……なんて言い訳したものかな)
いまひとつ化粧の乗りの悪い、ラディ・ダールトンの顔をもう一度見た。CROWN 3000
江戸にいたころの輪廻には数段劣るが、これなら男のひとりやふたりは引っ掛けられそうではある。
「女王陛下暗殺未遂事件は帝国の差金と判断して間違いねえだろう」
二人が隊長室のドアを閉めるなり、アブリルはそう切り出した。OB蛋白痩身素(3代)
「賊の中に王国軍の警備責任者が混ざってただろ? オレの昔の知り合いに、防諜が専門のやつがいてな。そいつに連絡をとって、裏切り者の身辺調査をやらせたんだが――」
「そんな知り合いがいるんですか…」
「まあな。昔、作戦で一緒になったことがあってな」
驚く輪廻に、アブリルは得意げに答えた。
「王国軍にそんな部隊があるなんて知りませんでした」
ヴァージニアも不思議そうに質問する。
「まあ王国はそれほど情報戦に力を入れてるわけじゃないしな。帝国はそれ専門の機関まであるらしいが」
王国軍には独立した情報機関があるわけではなく、前線の各部隊の中で必要に応じてその役割をを担う者を隊長クラスが任じていた。
つまり組織として、法律として、諜報員の存在が明確に規定されているわけではなかった。
「かなり前に、うちの総司令が各部隊の密偵や工作が上手い奴ばかりを集めて実験部隊を作ったんだ。結局うまく運用できなくて、今までほとんど遊ばせてる状態だったんだがな。こっちから仕事を頼みに行ったら張り切って引き受けてくれたぜ」
(だからわたしたちは劣勢なのよ…)
輪廻は内心の呆れを表に出さないようにするのに苦労した。
輪廻は決して用兵に明るいわけではなかったが、物量で勝るはずの王国軍が帝国軍に対して劣勢である理由にはいくつも思い当たる節があった。
豊富な金属資源を抱え、ほぼ無尽蔵に武器を生産でき、人口でも帝国を上回るのだ。
おまけに王国は雷の魔女の力を、ほぼ自由に使うことができる。列車砲がその最たる例である。
普通に戦えば帝国にここまで遅れをとるはずがない。
(なんとまあ…もどかしい話ね)
「女王陛下がリルムウッドの訪問を決めたのがだいたいひと月くらい前だって話だから、黒幕が暗殺計画を立てたのはそれ以降として、そいつはどうにかして実行部隊のハスケルに連絡を取ったはずなんだ。で、ここ最近ハスケル宛てに届いた手紙は一通だけだった。差出人の名前は故郷の両親になってたらしいが、オレが調査を頼んだそいつは何かあると踏んで、その手紙の経路をずっと追いかけたらしい。そしたら――」
「差出人は帝国軍ですか?」
肝心なところをヴァージニアがかっさらって言う。
アブリルは少し勢いを削がれた調子で「ああ」と答えた。
「帝国の情報局の人間らしい。前に話したことがあったと思うが、例の千里眼の男だ」
「えーと、ハルコンネン、でしたっけ」
「ティモ・ハンニカイネンだ馬鹿め」
「なるほど……。それで、今日はそのことを教えるために僕たちを呼んだんですか?」
「もちろんそれもあるが、それ以外もある」
「! 何かの作戦ですか?」
ヴァージニアが勢いづいて言う。
退屈を持て余していたのは輪廻だけではなかった。いやむしろ、真面目で血気盛んなヴァージニアの方が、より退屈を苦痛に感じていたのだ。
アブリルは、静かな調子で作戦を発表した。
「女王陛下暗殺未遂の報復として、ハンニカイネンを拉致する」
しばらく、輪廻もヴァージニアも、何も言わなかった。
「…何だその顔は。言いたいことがあるなら聞いてやるぞ」
「あの、僕には、その情報局のハンニカイネンって人を、前線におびき出す方法がまったく想像できないのですが」
「あのな、情報局の役人が戦場なんかに出てくるわけないだろ」
「僕もそう思います」
「だったらこっちから出向くしかないだろうが」
「つまり…帝国領に侵攻するということですか?」
ヴァージニアが声を上げた。
今の混乱しきったリルムウッド駐屯軍に、黒の森に敷かれた帝国の防御を突破する能力があるとは、まともな戦術眼のある人間なら誰も思わないだろう。
しかし、アブリルはヴァージニアの言葉に首を振った。数字減肥
「侵攻する、ってのは違うな。正確には潜入する、だ。あいつらがしてきたように、こっちも姿を隠してこっそりと入るぜ。『つぶてにはつぶてを』――ってな」
戦場で英雄が、敵の兵士が投げたつぶてが目に当たり失明した。
英雄はすぐさま片眼の状態でつぶてを投げ返すと、それは相手にも同じように当たり、敵の兵士は英雄と同じく片目を失った。
かつて、ラディ・ダールトンの父が幼い輪廻に話して聞かせたことのある昔話だった。
「実はもう準備は始めてるんだ。スパイに頼んで、ニセの身分はなんとか用立てられそうって話だし。後は、帝国に駐在している王国の大使に手引きしてもらえれば、王国とは無関係な国の貴族にでもなって帝国に堂々と入れる」
「しかし、ただの旅行者がどうやって情報局の幹部に近づけるのですか?」
「その点も考えてあるぜ」
ヴァージニアの疑問を、アブリルはすぐに解決した。
「今度、アンアディール要塞で戦勝パーティをやるらしい。帝国貴族やら、共和国の大使やらを呼んで盛大にやるそうだ。黒の森の土地自体に価値はほとんどないからな、せめて最大限政治的に利用してやろうって腹だろう。ムカつく話だが、そのおかげでオレたちは身分さえ借りれば簡単に中に入れるってことだ」
しかし問題はどうやって外に出るか、ということだ。
輪廻は、前世に更場武術団で活動していたころの経験から、侵入よりも脱出の方がよっぽど難しいことを知っていた。
「細かいところはアドリブでどうにかするしかない。だから、この作戦は少数精鋭で行く。この命令に関してはお前たちに拒否権を与える。どうするか、明日返事を聞かせてもらう」
アブリルはそう言って話を締めくくった。
輪廻もヴァージニアも、翌日を待たずに、任務の承諾をその場でアブリルに伝えた。
◇
輪廻は墓に花を供えていた。
輪廻以外の人間には、それが墓だとはわからないかもしれない。
墓石の表面に無理やり刻みつけた「わぬる」の文字は、輪廻の故郷の文字だった。
輪廻はワヌルの死体を憲兵に明け渡さなかった。
彼のことは、アブリルにも報告していない。
特に口止めをしたわけではなかったが、ヴァージニアも黙っていてくれた。
戦士として死んだ彼を、せめてもの慰めとして、自分の手で葬ってやりたかった。
それが、彼を殺した者として自然な行為だと思ったのだ。
きっと彼が殺す方だったとしても、殺した自分に対して同じ事をしただろうと思う。
哀しみと、同情。
そういう生き方しかできなかった戦士の成れの果て。
自分もいつかはそうなるのだろうか。いや、そうなっていたはずだと、輪廻は墓の前で考えていた。
きっと誰よりも、自分が彼のことを理解していて、彼こそは自分のことを理解してくれたのではないかと、そんな想像があった。
剣を合わせていた瞬間が、今にして思えばどんなに健やかな時間だったか。
斧原一心。
ワヌル。
輪廻の同類たちに花を供える。
死んだ人間に慰めもないだろうと、冷めた心で考えつつ。
「お兄ちゃん!」
誰かの声が聞こえて輪廻は我に返った。
墓石の前でずっと物思いに耽っていたらしい。
輪廻を呼んだのは、クリスティナだった。
「ああ………クリス」
「お兄ちゃん、こんなところで何してるの?」
「まあちょっと、考え事を」
「ふーん」
クリスティナは納得した様子ではなかったが、深く追求はしなかった。
花の供えられた輪廻手製の墓に目をやった。玉露嬌 Virgin Vapour
「……誰かのお墓?」
「まあ、ね」
「大切な人?」
「僕に似た人だよ」
「あたしも祈っていい?」
「もちろん」
死んだワヌルが文句を言うはずもなし。生きていたって、きっと文句は言わないだろう。
クリスティナは輪廻の隣に並ぶと、目を閉じて黙祷した。
輪廻は幼馴染の横顔を盗み見る。
ただ善意によって死者に祈る彼女は、無垢な僧侶のように見えた。
「それで、どうしたの? 僕を探してたんだろ?」
「うん。…………あたし、村に帰ろうと思うの」
その一瞬だけ。
輪廻は、強烈な質量の孤独を感じた。
すぐに平常の心を取り戻す。引き止めたくなるのを我慢した。
「そう…。僕を連れ戻すのは、諦めたんだ?」
「そういうわけじゃないけど……こっちに来てずいぶん経つし、お金だってもうあんまりないし」
「だったら――」
「何?」
「いや、なんでもない。僕の両親によろしく」
「お兄ちゃん、あんまり無茶はしないでね。お兄ちゃんは強いかもしれないけど、お兄ちゃんのまわりの人は強くないんだから」
「うん。肝に銘じる」
「……もう行っちゃうから言うけどね。あたし、お兄ちゃんのこと、いつもよく分からなかったの」
クリスティナは輪廻ではなく、墓石の花を眺めて言った。
「だってお兄ちゃん、いつもあたしたちじゃなくて、遠くを見てる気がしたんだもん。……お兄ちゃんがずっと見てたのは、ここだったんだね」
(どうだろう。分からない。だけどあの村が自分の居場所だと思えなかったのは本当だった)
「……そんなことはないよ。僕の故郷はあの村だ」
「お兄ちゃん。あたしと初めて会ったときのこと、覚えてる?」
覚えているはずがなかった。
他人の人生を生きていた輪廻は、同じ村に住んでいた同じ年頃の子供のことなど、まるで興味がなかった。
「もちろん」
「やっぱりね」
クリスティナは悲しげな表情で答える。
すべてを見透かされていると、輪廻は思った。
――こうしてクリスティナは、リルムウッドから去った。
◇
帝国領への潜入作戦の準備は着々と進められていた。
偽造の身分証の用意に、要塞周辺の地図入手と警備状況の調査などである。
これらの準備には帝国に駐在している大使の強力があった。帝国領内にスパイ網を持たない王国では、大使にその役割を期待するしかないのである(もちろん帝国側の大使もそういった側面をまったく持たないわけではないが)。
数日後、輪廻とヴァージニアは再び宿舎の隊長室に呼び出された。
アブリルは、潜入のための準備が整ったことを簡潔に二人に伝える。
「それじゃあ僕たちは、パーティに招待された公国のとある貴族のふりをして、要塞に入るわけですね」
「あー、そのー、それなんだが、ちょっと問題があってだな…」
腕を組んだアブリルの眉間には珍しく皺が寄っていた。
輪廻とヴァージニアは、机の上に広げられた潜入用の様々な書類の中に、アンアディール要塞から発送された招待状を見つけた。
最初に気づいたのはヴァージニアだった。
「隊長。これ、招待状には、"リップフェルトの三姉妹を招待"となっているのですが」
「ああ、……オレたちが化けるのは、公国の三人姉妹の貴族だ」
ヴァージニアが絶句した。
輪廻は、何が問題なのかすぐにはピンと来なかった。
「それの何が――ああ、そう、確かに問題ですね」
すぐに気づいて、慌てて言い繕った。
つまり、輪廻は男なのである。
ヴァージニアがアブリルに異議を唱えた。lADY Spanish
「他の人間を探すわけにはいきませんか」
「時間がかかる。ぐずぐずしてたら戦勝パーティが終わっちまう。それに三人組で、帝国軍に顔が割れてなくて、かつパーティを欠席してるやつなんざ、そうそう簡単には見つからねえだろう」
「では……」
「ああ。ダールトン、お前女装しろ」
アブリルはやや捨て鉢に言った。
「女物の貴族の服と、化粧道具は用意した。……つらいだろうが、これも任務のためだ。我慢してくれ」
「はあ。まあ、僕は一向に構いませんが」
「リンネ……ごめん」
なぜかヴァージニアも謝っていた。
それからアブリルとヴァージニアは輪廻を別室に連れて行き、三面鏡の前に座らせた。
女装のための予行演習。
試しに輪廻に化粧をしてみよう、ということになったのだ。
が、アブリルは幼い頃から剣の道で生きてきた人間である。
上手な化粧の仕方など分からない。
最初から指揮を放棄して、この件(女装)に関してはヴァージニアに全権を委ねてしまった。
しかしヴァージニアの方も、化粧をした経験がまったくないというわけではなかったが、彼女ほどの身分の貴族は自分で化粧などするはずもなく、化粧をするときはすべてメイド任せである。
ヴァージニアは少し迷ってから、白い粉状の化粧品をパフにつけて、いきなり輪廻の頬に塗りたくろうとした。
「あ、ちょっと待って。その前に、下地を作ってからの方が…」
「下地?」
「ほら、この瓶の、クリームのやつ」
輪廻は手を伸ばして、白い瓶の化粧品をヴァージニアに渡した。
「これを塗るのか?」
「そう。薄く、ムラがないようにね。そのあとに、こっちの粉のやつを付けるんだよ。ただし、目とか口の周りは薄くね」
「なぜだ?」
「このあたりはよく動くから、化粧が崩れやすいんだよ」
「ダールトン、こっちの紅はどうするんだ?」
「まずは輪郭をとってから、次に中を塗ってください。あ、口紅は最後ですよ」
「……お前、なぜ化粧に詳しい?」
「え、と。ほ、本で読んだから…」
輪廻は苦し紛れに答えた。
女性二人の冷たい視線が痛かった。
数十分後。
ヴァージニアとアブリルは、輪廻の化粧の出来栄えにため息を漏らした。
「うむ……これは………」
「すげえ……どう見ても女だ………っていうかお前……」
「こんな感じですか?」
輪廻は鏡に向かって微笑んだ。
後ろにいる二人が「はうっ」と悩ましげな声を上げた。
「な、何ですか、その反応……」
「……ダールトンお前、なぜそんなに女装に慣れている?」
「え、っと……慣れてないですよ。別に」
実際、輪廻は化粧には慣れていた。
江戸で盗賊をやっていたころ、色目を使って標的の屋敷に忍び込むのには必須の技術だった。
化粧の匂いで輪廻が思い出すのは、血の色と殺戮の手応えである。
それは決して色っぽい思い出ではない。
「……おいリンネ。お前、なぜ女の化粧に詳しい。一体誰の化粧を見て覚えたんだ? 答えてもらおうか」
そしてなぜか今にも爆発寸前のヴァージニアである。
助けを求めてアブリルに視線をやったが、こちらも同様の調子だった。
(まったく……なんて言い訳したものかな)
いまひとつ化粧の乗りの悪い、ラディ・ダールトンの顔をもう一度見た。CROWN 3000
江戸にいたころの輪廻には数段劣るが、これなら男のひとりやふたりは引っ掛けられそうではある。
2013年8月15日星期四
髪型
跳ね橋の前まで近づいて見ると、想像以上に立派な城であった。
まさに古(いにしえ)の騎士道物語に出てくる聖杯城そのものだ。
周囲を堀で隔てた崖の上ぐるりと城壁が守る。V26Ⅲ速效ダイエット
その中に、塔や館が大きさのバランスよく配置されている。近くで見ると、真っ白というよりは、どれもが時代を感じさせる象牙色をしていた。
城門は一段低いところにある。
門をくぐると奥に石の階段。上段の居住部へと繋がっているらしい。
上の方は森の木々から頭が飛び出している。麓(ふもと)の町から見ることのできるのは、その辺りだろう。
門の前には番人の影すらなかった。
(どうやって中に入るんだ)
と、ダリオスが首をかしげている横で、ユルシュルが大声を上げた。
「シャトー・ブランカ! 今帰ったわ。オーベール様の言いつけどおり、お客さまをお連れしたの!」
すると、
「おかえり」
とでも言わんばかりに、ひとりでに跳ね橋が下り始めたではないか。
ぎぎ、ぎぎ――。と鈍い音をまとわりつかせ、ゆっくりと、勢いを殺して下りてくる。
同時に城門が上がった。
「ついてきて」
ユルシュルに導かれるままにダリオスは橋を渡り、門をくぐった。
三人が中に入ってしまうと、またひとりでに跳ね橋が上り、門は閉じた。
内側は意外と狭い。
石の壁に囲まれただけの空間である。右手には門番の詰所らしき小さな建物(必要があるのか不明だが)。左手には城門の裾に据えられた高楼の塔。
そして奥には、上の居住部へ続く階段。
右の詰所から、誰か出てくる気配がした。
戸を開けて、姿を現したのを見てダリオスはぎょっと肝を潰した。
牡鹿が服着て二足で歩いている。ように見えたのだ。執事のルネである。
ローブ風のゆったりとした衣服を着けたルネが、こちらに歩み寄ってくる。頭は鹿だが、足はまるで猛禽だった。ごつごつして、三股に分かれた爪が長い。
なんだか合成獣(キメラ)のような輩である。
すっ、と差し出した右手は人間のものだ。
「ようこそ、ヴルスクル家へ」
ルネは手を胸元に引き寄せ、ダリオスに一礼した。
「当家の執事にございます。ご到着をお待ちしておりました」
「あ、これはどうも、ご丁寧に」
慇懃にされると、ダリオスの方が恐縮してしまう。
「ユルシュルもおかえり」
「ただいま、ルネ様。この娘(こ)が熱を出してる娘よ」
「どれ、上に運ぶのは私が代わろう。おまえは先に旦那様のところへ戻っておいで」
「うん」
ルネは、半獣の背からマリアを引き受けた。
包まっているマントごと、横抱きに抱える。マリアは間近に迫ったルネの容貌に、
(ひえっ)
と、驚いたらしいが、大きな反応を見せる元気はないようだ。
身軽になったユルシュルは、奥の階段をぴょんぴょん駆け上って行ってしまった。
「驚かれましたでしょう。何しろ、これで」
ルネは自分の外見を指して苦笑いしている。
ダリオスも、変に気を遣うのは却って失礼かと思って、素直に笑顔を返した。
「ええ、少しだけ」
「ここまでの長旅、お疲れ様でございました」
「あの、どうして俺たちを城の中に入れていただけたのか――」
「それは後で主人から申し上げます」
二人は階段を登り始めた。
「執事さん、重くありませんか。俺が代わりましょうか」
と、ダリオスがマリアのことを言うと、
「こらー」
ルネの腕の中から、弱々しくも訴える声がする。
「誰が重いですって……」
「ははは、それを言う元気があれば大丈夫だ」
牡鹿の面が笑み崩れた。
「羽根のように軽い、とまでは言わないが。十分スリムだよ、娘さん。まあ、しかし」
とダリオスを見て、意味ありげな顔つきになる。
「代わった方がよければ代わりますよ」
「――いえ、別に結構です」
(ひょっとしてこの人も見てたのか、夕べのを)
まさか城にいる全員が見てたっていうんじゃないだろうな。
それはちょっと、恥ずかしすぎる。
ダリオスは、
「それにしても、遠目にも美しかったですが、近くで見るとより、立派な城です」
と、話題をそらした。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、城も喜びますでしょう」
(城が喜ぶ?)
奇妙な表現をする。
階段を登りきり、中庭に出た。
「こちらへ」
執事のルネに案内されて、連れてこられたのは主人の居館らしい
カフェラテと同じ色の屋根をした、華奢な外観の洋館である。
貴婦人の骨を組んで造ったような――。つまり、柱や窓の周りに装飾を施して縦の線を強調したり、透かし彫りを入れてわざと細い印象を持たせている。
ここだけ最近建て替えられたのか、壁が新しかった。
両手がふさがっているルネのために、ダリオスが玄関を開けた。
彼を先に通し、後に続く。
パタンと扉が閉まる音と時を違わずして、新しい声が迎えてくれた。
「ようこそ、我が城へ」
入ってすぐが赤い絨毯のホールになっている。
正面に二階へ至る幅広の階段がある。腕組みしながらその手すりにもたれて、こちらに顔を向けているのが、声の主のようだ。V26即効ダイエット
一見、年齢はダリオスとそう変わらないように見える。
男は手すりから体を離した。
「お待ち申し上げていた。私は当城の主、オーベール=ヴルスクル」
胸に手を当てダリオスに一礼したその所作が、嫌味でなく、板についている。
容姿は――マリアが元気だったら、見惚れてたことだろうな。という風である。
同性のダリオスでさえ、見入ってしまった。
童話の白雪姫がもし、男になったらこんな感じだろう。
色白で細面、鼻筋が真っ直ぐで、目元が深い。オリーブグリーンの瞳は大きくて、橄欖石(かんらんせき)の欠片に見つめられているみたいだ。
自然が真心込めて作り上げた、完全な均整である。
また、老いなど忘れてしまったような瑞々しさ。
高い窓から照らす日差しに艶やかな、濡れ羽色の髪にはきっちり櫛が入っている。が、ほんの一筋だけ乱れて目に掛かっていた。
それが似合ってしまうから、腹が立つくらいである。
ダリオスがぼけっと突っ立っているので、オーベールの方から近づいてきた。
「お客人?」
と口を開いた拍子に、尖った犬歯がちらっと覗く。
その白さがダリオスを我に返した。
「サー・ヴルスクル――お会いできて光栄です。ダリオス=ジュオーです」
「こちらこそ会えて嬉しい。が、まあ話は後にしよう。まずはこの娘さんの介抱を」
執事の腕の中を覗き込む。
「お嬢さん、お名前は」
「マリア」
と、マリアが答え、さらにダリオスが付け加えた。
「本名はマリアンヌ=デュフォールです」
「そうか。マリア、私のところにはいい医者がいる。すぐに楽になるよ」
オーベールは、寝室が用意してあると言って、その部屋に案内してくれた。
藍色のシャツに黒のベストを重ねた吸血鬼の背中が先頭、ルネが最後尾。その間に挟まれて行きながら、ダリオスは廊下の様子を眺めた。
ひと言で言えば上品だった。例えば、壁紙と、樫のドアと、鍍金(めっき)の蝶つがいの色合い。先ほどのオーベールの一礼同様、嫌味でない。
通された寝室には、セミダブルくらいのベッドが据えてあった。これがまた、宮や脚に華やかな装飾のされた品だ。
そもそも部屋自体、ゲストルームには広すぎるくらいである。
アンティーク風の家具に壁の絵画まで、そこらの宿屋に置いてあるのとは値段がフタ桁くらい違いそうだ。
ベッドのそばで、ワンピース姿の若い女が一人、控えて待っていた。
オーベールが紹介してくれる。
「彼女はオデット。家政婦兼祐筆(クラーク)だ。オデット、お待ちかねの騎士殿だ。名前はダリオス=ジュオー君。こっちのお嬢さんはマリア」
「はじめまして。よろしくお見知りおきのほどを」
オデットはにこっと微笑み、スカートを軽く持ち上げて膝を曲げた。
(可愛い娘(こ)だな)
ダリオスはつい、余計なことを考えて、気が散った。
偶然かどうか、ルネの胸元でマリアの右足がぴくんと跳ねる。ブーツの底がダリオスの腕を蹴っ飛ばした。
「いてっ」
(こいつ、またいつぞやみたいに人の心を読んだんじゃ)
そういう人間離れしたことをするなと言うのに。
マリアはベッドに寝かされ、オデットが医者を呼びに行った。
じきに連れて戻ってきた。
もしかして医者も普通じゃないのでは――と思っていたが、やっぱり普通ではない。
純白のローブはまあいいとしよう。問題は、その衣の裾という裾、袖、襟ぐり、どこからも一切の肌が露出していないことである。
足はともかく、手には子山羊の革手袋、頭には頭巾。ご丁寧に顔まで仮面で全部隠している。
石膏像かと思うような、目鼻の凹凸に生気のない顔が怖い。
しかも、赤いのだ。その仮面は。真紅である。一体どういう趣味をしているのだ。
ダリオスが圧倒されているうちに、オーベールはさっさと紹介してくれた。
「彼が医者のシモン。イカレたやつが来たと思ってるだろうが、その見解でおおむね正しい。気は触れているが、ま医術の腕は確かだから安心しなさい」
「そこまで仰いますか、旦那様」
医者シモンが、床で診察鞄を広げながら口を尖らせている、らしい。仮面の下のことはよくわからない。
「そこまで言うさ。何だ、そのおぞましく不気味極まりない面は」
「失礼な。僕はお客人がご到着と聞いて、秘蔵の一等美麗な仮面を着けてきたのですよ」
「どこが美麗だ」
「紅顔の美青年」
いけしゃあしゃあと言ってのけると聴診器を首に掛け、マリアの上に屈んだ。
オーベールは肩をすくめている。
「ああいうやつだよ」
「さて――」
シモンは手袋のままマリアの額を触った。
マリアが、気味の悪い仮面に(ひええ……)と辟易して眉をしかめる。
「熱が高いね。お嬢さん、森でメビウス川にでも落ちたのかい」
マリアは頷く。
「そう。寒い時節だからね。気をつけないとだめだよ」
言いつつ、聴診器を耳(と思しき場所)に頭巾の上から着ける。
「オデット、手伝っておくれ。この娘(こ)の胸元を――」
「はーい先生。ほら殿方の皆さんはあっち向いてらして」
ダリオス、オーベール、ルネは入り口の方を向いた。
ごそごそとシャツをまくり上げる音がする。
重ねてマリアが咳き込んだ。
「おい、大丈夫か?」
ベッドに向き直ったオーベールの顔に、オデットがベッドサイドから聖書を投げつけた。
顔面を表紙が直撃した。
「レディーの肌を覗くとは何事ですかっ」
「だからって、主人に物を投げるとは何事だ」
オーベールは、やれやれと聖書を拾って元の向きに戻る。
隣りのダリオスにこっそりささやいた。V26Ⅱ即効減肥サプリ
「結構、ふくよかだな、彼女」
(この野郎、しっかり見てるんじゃないか)
というか、はなから見たくて振り返ったのかもしれない。案外油断のできないバンパイアである。
「ま、大したことはないでしょう。体が冷えて体力が落ちてるんです。下手をして肺でも病めば厄介ですが、今のところはその心配もなさそうですしね」
「だが熱が高いんだろう。下げてやらねば」
オーベールが、さっき聖書がぶつかって赤くなった鼻筋を押さえて言った。
「ええ」
「インドゥルゲンティアを使おうか?」
「なに、聖杯を持ち出すほどのことではありません」
二人が何気なく口に出した言葉にダリオスは興を引かれた。
(インドゥルゲンティア――聖杯)
にわかに精神(こころ)の高揚してくるものがある。
あの予言者アスタロトに、探せと言われて導かれたサングリアルが、もうすぐ近くにある。
それが本物のサングリアルかどうか、自分の目で見て納得したい一心だけで、ここまで来たのだから。
「旦那様のお顔こそ、聖杯に癒してもらってはいかがです。麗しい面立ちが台無しです。それでは彼女は口説けませんよ」
と、シモンがマリアを指す。
オデットが不潔なものでも見るように、主人に流し目をくれる。
「やだー、オーベール様ったら、やっぱりそういうおつもり?」
「何のことかね」
「この娘(こ)、どう見てもまだ二十歳くらいですよ。五百八十歳も年下の娘に変なお考え起こさないでくださいませ」
「わかってるわかってる。いつものことながら、おまえは私の姉か何かか? 口うるさいやつだ」
(本当にわかってるのかな)
ダリオスは、はたで聞いていて不安になってきた。
本当にこの城に来てよかったのだろうか。
「いつもそうやって、わかってるって言いながら、お手をお出しになるじゃない」
「私が出してるんじゃない。むこうから惚れてくるんだからいいじゃないか」
何だかやっぱり、来ない方がよかったかもしれない。
(マリアは惚れませんように)
心中祈っているダリオスの横に、赤い仮面の医者が身を寄せた。話し掛けてくる。
「患者が寝ていると言うのに、騒がしい方たちですよねぇ」
「ええと、シモン先生でしたか」
「シモンで結構ですよ。何か」
「マリアの具合は、長引きそうですか」
「魔法薬を出しますので、それを飲んでひと眠りすれば熱は下がるでしょう。あとは、美味しい物でも食べて、元気をつけることです」
「ならよかった」
「あのオデット、ああ見えて料理の腕はいいんですよ。食事の方はお楽しみに」
「それから、もう一つ」
と、さらに尋ねる。
「失礼かとは思うんですが、どうしても気になって……そのお召し物は、ご趣味で」
「ああ、いや。実は僕これでして」
笑いながら、シモンは右手の手袋を外して中身を見せた。
「うっ」
ダリオスは思わず唸るほど、度肝を抜かれた。
慌てて口を押さえる。
「し、失礼」
「いえいえ、いつも驚かれます。お気になさらず」
彼の右手は、正確に言うと『手』ではなかった。
ローブの袖から、十数本の肉色の触手が顔を出し、うねうね蠢いていた。
「まあというわけで、肌を見せないようにしているのですよ。――あ、仮面も取って見せましょうか?」
ダリオスをからかい始めたシモンを、ルネがたしなめた。
「先生、およしなさい。悪趣味な」
陽気な触手医者は、手袋をはめ直している。
「これぐらい思いっきり驚いてくれると、見せた甲斐あったってもんです」
「ジュオー様、どうも申し訳ありません。先生も悪意があってやっているわけではないので、お許しを」
「いえ、俺もいきなり見せられてびっくりしただけで。魔族の方の中には、そうやって人型を保っていることがあるのは知っていました」
「ほう、他にもお会いになったことが?」
「ええ以前、北のガシュテ公国の貴族に」
半年前、マリアと出会ったばかりのころの話である。
ダリオスが剣を合わせたボル=マグダという男がいる。彼の本体は、黒い靄(もや)の塊であった。普段はそれが服を着て、人間のような格好をしている。
彼は仮面は着けていなかったが。
頭部は靄が兜の内に納まっているだけで、目や口など一切なかった。それでもちゃんと視線を感じ、声が聞けたのだから不思議なものだ。
「それじゃ、僕は薬を取りに行きます」
と、触手医者は部屋を出て行った。
「ジュオー君」
オーベールが、横たわるマリアの上に屈みながら呼んだ。
「はい」
「今度は君の話も聞こうか。ここではなんだから、私の書斎にでも移ろう」
なぜか彼の手はマリアの顔に伸びていく。
「熱を見るだけだ」
何をされるのかと怪訝な表情しているマリアに断ってから、耳の下辺りをなでた。
向かいでオデットが腕組み仁王立ちしている。
「オーベール様、それより下をお触りになったら今晩は夕食抜きです」
「私もよほど信用がないらしい」
オーベールは、マリアの顔をつぶさに眺め、
「――薬を飲んだらゆっくりお眠り。その間、ジュオー君は借りていくよ。心配しなくても、取って喰ったりはしない」
それだけ囁いて、手を離した。
オーベールの書斎は、おびただしい数の本と、膨大な量の覚書きに埋もれた乱雑な部屋だった。
ただ、その乱雑さの中には、主にしかわからない秩序があるらしい。
「この部屋は家政婦に掃除をさせないから、散らかっていて申し訳ないが」
主の玉座らしき古い机の椅子に、オーベールは掛けている。机上も本や紙切れでいっぱいだ。
壁一面の本棚はむろん満員。あぶれて床にまで積まれている有り様である。
ダリオスはオーベールに対面して座りながら、興味深そうにそれらの文献を眺めていた。
「これだけの本をよくお集めに。しかも珍しい物がいくつも。『富の精神』『自然科学と魔術に関する一考察』『赤兎』『栄枯論』、全て初版で――」
「君もずい分読書家らしい。目利きだな」日本秀身堂救急箱
そこへオデットがお茶を運んできた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ダリオス、オーベールの順に、ティーカップの乗ったソーサーを受け取る。
「そういえば、あなたは何の種族でいらっしゃるのです?」
ダリオスが尋ねると、オデットは含み笑いを返してきた。
代わりに、オーベールが教えてくれた。
「それは人魚だ」
「しかし、脚が」
「二本足で地に上がった人魚姫だよ。気をつけた方がいい。歩くことを覚えたついでに、地上の男を誘惑することも覚えている」
「オーベール様ったら、さっきのこと根に持っていらっしゃるのね」
意地わる。
と、捨てゼリフを残し、人魚姫は場を辞した。
先に紅茶のカップから口を離したのはダリオスの方だった。
カチン――と小さな音を立て、ソーサーにカップを置いた。
「なんだかまだ実感が湧かなくて」
「何がだね」
「この城にたどり着くことができたことが」
「ふふ」
薄く笑う。
「麓の町では、滅多なことで来れぬ場所だと教えられたね?」
「ええ。違うのですか」
「違いはない。ただ、町の皆が思っているほど、何人(なんぴと)も来られない場所でもない。まあここ百年くらいは、確かに客を迎えなかったが」
昔は、五十年に一度くらいは来客があったのだと言う。
「割といたんだよ、昔は。君たちのように、世間にわだかまるところのない者が」
(わだかまるところのない?)
それってつまり、途方もないのん気者、ということだろうか。
「もとよりここへ来ようとする者は、九割九分聖杯目当てだ。その中にさまざまな為人(ひととなり)の輩がいる。強欲な者、無欲な者、尊大な者、心優しい者、誠実な者、臆病な者――」
「それをサー・ヴルスクルは見極めて、ここへ招くかどうかお決めになると」
「見極める?」
吸血鬼は牙を見せて笑った。
「そんなことができるものか。一目で結婚相手を決めろと言われて、君は決められるか? 交際してみなければ相手の本質などわかるまいよ」
「ではなぜ、俺とマリアをここに」
「訳なんて言えるか」
「え?」
「生命はそもそもが不思議である。どうして生きて自我を持っているかもわからないのに、自分のやること全てに理屈や思慮分別があってたまるか」
変わったことを言う男である。
「あえて言うなら、だから、君たちには世間にわだかまるようなところがなさそうだと思ったから」
「それはつまり、俺たちが暢気(のんき)そうだということで?」
「のんきものんきじゃないか。夕べはよく、マリアに手を出さなかったな」
「――ご覧でしたか」
そうだろうとは思ったが。あの半獣人のユルシュルでさえ見てたって言うんだから。
「ひょっとして女に興味が無いのか?」
「いえそういうわけでは」
「じゃあ男の機能に問題があるのか? それならシモンに診てもらうといいが」
「別に、悪いところもありません」
「ということは、本当は抱きたかったんだな?」
にやにや頬をゆるめて、目を覗き込んでくる。「彼女を腕に抱いてどんな気持ちだった?」と、オーベールは意地悪なことを尋ねた。
ダリオスも、こうなったら観念した方が得策、と思ったらしい。
「気持ちがよかったですよ。胸も腰つきも太ももも柔らかくて」
「そうこなくては。夕べ、君が指一本でも妙な仕草をしたら森の外に追い出すつもりだった。実によく耐えた」
私だったら耐えられんが。笑顔で付け加えた。
紅茶をひと口傾ける。
「それだけのことで、俺たちを招いてくださったので」
「理屈や思慮分別ではないと言っただろう。理由の一つとして、夕べのを見ていて君に好意を感じたのは確かだがね。今どきこんな暢気な男がいるのかと思った。一度話をしてみたいと思ったよ」
「――よろしければ他の理由も、あるのならお教え願えませんか」
「マリアンヌが」
「マリアが?」
「彼女が亡くなった母になんとなく似ていたから」
オーベールは、机の端に置かれていた写真立てを取って、ダリオスに見せた。
白黒でたいそう年代物の写真に、二十代後半と思しきセミロングの髪の女性が映っていた。
マリアに似ている、というのは言い過ぎかもしれないが――
「これが母君でいらっしゃる――そうですね、髪型と表情の雰囲気が少し……」
「それに、私の母も人間だった。混血(ハーフ)なんだ、私は」
父は純血のバンパイアだった。それが人間の娘に惚れ、愛して、生まれてきたのがオーベールだそうだ。簡約痩身
「母が亡くなったのはずい分前のことだが、マリアの顔を見ていると懐かしくなってしまってな」
美貌のダンピール(混血の吸血鬼)は、涼やかな橄欖石の目元を細めて囁くのだった。
まさに古(いにしえ)の騎士道物語に出てくる聖杯城そのものだ。
周囲を堀で隔てた崖の上ぐるりと城壁が守る。V26Ⅲ速效ダイエット
その中に、塔や館が大きさのバランスよく配置されている。近くで見ると、真っ白というよりは、どれもが時代を感じさせる象牙色をしていた。
城門は一段低いところにある。
門をくぐると奥に石の階段。上段の居住部へと繋がっているらしい。
上の方は森の木々から頭が飛び出している。麓(ふもと)の町から見ることのできるのは、その辺りだろう。
門の前には番人の影すらなかった。
(どうやって中に入るんだ)
と、ダリオスが首をかしげている横で、ユルシュルが大声を上げた。
「シャトー・ブランカ! 今帰ったわ。オーベール様の言いつけどおり、お客さまをお連れしたの!」
すると、
「おかえり」
とでも言わんばかりに、ひとりでに跳ね橋が下り始めたではないか。
ぎぎ、ぎぎ――。と鈍い音をまとわりつかせ、ゆっくりと、勢いを殺して下りてくる。
同時に城門が上がった。
「ついてきて」
ユルシュルに導かれるままにダリオスは橋を渡り、門をくぐった。
三人が中に入ってしまうと、またひとりでに跳ね橋が上り、門は閉じた。
内側は意外と狭い。
石の壁に囲まれただけの空間である。右手には門番の詰所らしき小さな建物(必要があるのか不明だが)。左手には城門の裾に据えられた高楼の塔。
そして奥には、上の居住部へ続く階段。
右の詰所から、誰か出てくる気配がした。
戸を開けて、姿を現したのを見てダリオスはぎょっと肝を潰した。
牡鹿が服着て二足で歩いている。ように見えたのだ。執事のルネである。
ローブ風のゆったりとした衣服を着けたルネが、こちらに歩み寄ってくる。頭は鹿だが、足はまるで猛禽だった。ごつごつして、三股に分かれた爪が長い。
なんだか合成獣(キメラ)のような輩である。
すっ、と差し出した右手は人間のものだ。
「ようこそ、ヴルスクル家へ」
ルネは手を胸元に引き寄せ、ダリオスに一礼した。
「当家の執事にございます。ご到着をお待ちしておりました」
「あ、これはどうも、ご丁寧に」
慇懃にされると、ダリオスの方が恐縮してしまう。
「ユルシュルもおかえり」
「ただいま、ルネ様。この娘(こ)が熱を出してる娘よ」
「どれ、上に運ぶのは私が代わろう。おまえは先に旦那様のところへ戻っておいで」
「うん」
ルネは、半獣の背からマリアを引き受けた。
包まっているマントごと、横抱きに抱える。マリアは間近に迫ったルネの容貌に、
(ひえっ)
と、驚いたらしいが、大きな反応を見せる元気はないようだ。
身軽になったユルシュルは、奥の階段をぴょんぴょん駆け上って行ってしまった。
「驚かれましたでしょう。何しろ、これで」
ルネは自分の外見を指して苦笑いしている。
ダリオスも、変に気を遣うのは却って失礼かと思って、素直に笑顔を返した。
「ええ、少しだけ」
「ここまでの長旅、お疲れ様でございました」
「あの、どうして俺たちを城の中に入れていただけたのか――」
「それは後で主人から申し上げます」
二人は階段を登り始めた。
「執事さん、重くありませんか。俺が代わりましょうか」
と、ダリオスがマリアのことを言うと、
「こらー」
ルネの腕の中から、弱々しくも訴える声がする。
「誰が重いですって……」
「ははは、それを言う元気があれば大丈夫だ」
牡鹿の面が笑み崩れた。
「羽根のように軽い、とまでは言わないが。十分スリムだよ、娘さん。まあ、しかし」
とダリオスを見て、意味ありげな顔つきになる。
「代わった方がよければ代わりますよ」
「――いえ、別に結構です」
(ひょっとしてこの人も見てたのか、夕べのを)
まさか城にいる全員が見てたっていうんじゃないだろうな。
それはちょっと、恥ずかしすぎる。
ダリオスは、
「それにしても、遠目にも美しかったですが、近くで見るとより、立派な城です」
と、話題をそらした。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、城も喜びますでしょう」
(城が喜ぶ?)
奇妙な表現をする。
階段を登りきり、中庭に出た。
「こちらへ」
執事のルネに案内されて、連れてこられたのは主人の居館らしい
カフェラテと同じ色の屋根をした、華奢な外観の洋館である。
貴婦人の骨を組んで造ったような――。つまり、柱や窓の周りに装飾を施して縦の線を強調したり、透かし彫りを入れてわざと細い印象を持たせている。
ここだけ最近建て替えられたのか、壁が新しかった。
両手がふさがっているルネのために、ダリオスが玄関を開けた。
彼を先に通し、後に続く。
パタンと扉が閉まる音と時を違わずして、新しい声が迎えてくれた。
「ようこそ、我が城へ」
入ってすぐが赤い絨毯のホールになっている。
正面に二階へ至る幅広の階段がある。腕組みしながらその手すりにもたれて、こちらに顔を向けているのが、声の主のようだ。V26即効ダイエット
一見、年齢はダリオスとそう変わらないように見える。
男は手すりから体を離した。
「お待ち申し上げていた。私は当城の主、オーベール=ヴルスクル」
胸に手を当てダリオスに一礼したその所作が、嫌味でなく、板についている。
容姿は――マリアが元気だったら、見惚れてたことだろうな。という風である。
同性のダリオスでさえ、見入ってしまった。
童話の白雪姫がもし、男になったらこんな感じだろう。
色白で細面、鼻筋が真っ直ぐで、目元が深い。オリーブグリーンの瞳は大きくて、橄欖石(かんらんせき)の欠片に見つめられているみたいだ。
自然が真心込めて作り上げた、完全な均整である。
また、老いなど忘れてしまったような瑞々しさ。
高い窓から照らす日差しに艶やかな、濡れ羽色の髪にはきっちり櫛が入っている。が、ほんの一筋だけ乱れて目に掛かっていた。
それが似合ってしまうから、腹が立つくらいである。
ダリオスがぼけっと突っ立っているので、オーベールの方から近づいてきた。
「お客人?」
と口を開いた拍子に、尖った犬歯がちらっと覗く。
その白さがダリオスを我に返した。
「サー・ヴルスクル――お会いできて光栄です。ダリオス=ジュオーです」
「こちらこそ会えて嬉しい。が、まあ話は後にしよう。まずはこの娘さんの介抱を」
執事の腕の中を覗き込む。
「お嬢さん、お名前は」
「マリア」
と、マリアが答え、さらにダリオスが付け加えた。
「本名はマリアンヌ=デュフォールです」
「そうか。マリア、私のところにはいい医者がいる。すぐに楽になるよ」
オーベールは、寝室が用意してあると言って、その部屋に案内してくれた。
藍色のシャツに黒のベストを重ねた吸血鬼の背中が先頭、ルネが最後尾。その間に挟まれて行きながら、ダリオスは廊下の様子を眺めた。
ひと言で言えば上品だった。例えば、壁紙と、樫のドアと、鍍金(めっき)の蝶つがいの色合い。先ほどのオーベールの一礼同様、嫌味でない。
通された寝室には、セミダブルくらいのベッドが据えてあった。これがまた、宮や脚に華やかな装飾のされた品だ。
そもそも部屋自体、ゲストルームには広すぎるくらいである。
アンティーク風の家具に壁の絵画まで、そこらの宿屋に置いてあるのとは値段がフタ桁くらい違いそうだ。
ベッドのそばで、ワンピース姿の若い女が一人、控えて待っていた。
オーベールが紹介してくれる。
「彼女はオデット。家政婦兼祐筆(クラーク)だ。オデット、お待ちかねの騎士殿だ。名前はダリオス=ジュオー君。こっちのお嬢さんはマリア」
「はじめまして。よろしくお見知りおきのほどを」
オデットはにこっと微笑み、スカートを軽く持ち上げて膝を曲げた。
(可愛い娘(こ)だな)
ダリオスはつい、余計なことを考えて、気が散った。
偶然かどうか、ルネの胸元でマリアの右足がぴくんと跳ねる。ブーツの底がダリオスの腕を蹴っ飛ばした。
「いてっ」
(こいつ、またいつぞやみたいに人の心を読んだんじゃ)
そういう人間離れしたことをするなと言うのに。
マリアはベッドに寝かされ、オデットが医者を呼びに行った。
じきに連れて戻ってきた。
もしかして医者も普通じゃないのでは――と思っていたが、やっぱり普通ではない。
純白のローブはまあいいとしよう。問題は、その衣の裾という裾、袖、襟ぐり、どこからも一切の肌が露出していないことである。
足はともかく、手には子山羊の革手袋、頭には頭巾。ご丁寧に顔まで仮面で全部隠している。
石膏像かと思うような、目鼻の凹凸に生気のない顔が怖い。
しかも、赤いのだ。その仮面は。真紅である。一体どういう趣味をしているのだ。
ダリオスが圧倒されているうちに、オーベールはさっさと紹介してくれた。
「彼が医者のシモン。イカレたやつが来たと思ってるだろうが、その見解でおおむね正しい。気は触れているが、ま医術の腕は確かだから安心しなさい」
「そこまで仰いますか、旦那様」
医者シモンが、床で診察鞄を広げながら口を尖らせている、らしい。仮面の下のことはよくわからない。
「そこまで言うさ。何だ、そのおぞましく不気味極まりない面は」
「失礼な。僕はお客人がご到着と聞いて、秘蔵の一等美麗な仮面を着けてきたのですよ」
「どこが美麗だ」
「紅顔の美青年」
いけしゃあしゃあと言ってのけると聴診器を首に掛け、マリアの上に屈んだ。
オーベールは肩をすくめている。
「ああいうやつだよ」
「さて――」
シモンは手袋のままマリアの額を触った。
マリアが、気味の悪い仮面に(ひええ……)と辟易して眉をしかめる。
「熱が高いね。お嬢さん、森でメビウス川にでも落ちたのかい」
マリアは頷く。
「そう。寒い時節だからね。気をつけないとだめだよ」
言いつつ、聴診器を耳(と思しき場所)に頭巾の上から着ける。
「オデット、手伝っておくれ。この娘(こ)の胸元を――」
「はーい先生。ほら殿方の皆さんはあっち向いてらして」
ダリオス、オーベール、ルネは入り口の方を向いた。
ごそごそとシャツをまくり上げる音がする。
重ねてマリアが咳き込んだ。
「おい、大丈夫か?」
ベッドに向き直ったオーベールの顔に、オデットがベッドサイドから聖書を投げつけた。
顔面を表紙が直撃した。
「レディーの肌を覗くとは何事ですかっ」
「だからって、主人に物を投げるとは何事だ」
オーベールは、やれやれと聖書を拾って元の向きに戻る。
隣りのダリオスにこっそりささやいた。V26Ⅱ即効減肥サプリ
「結構、ふくよかだな、彼女」
(この野郎、しっかり見てるんじゃないか)
というか、はなから見たくて振り返ったのかもしれない。案外油断のできないバンパイアである。
「ま、大したことはないでしょう。体が冷えて体力が落ちてるんです。下手をして肺でも病めば厄介ですが、今のところはその心配もなさそうですしね」
「だが熱が高いんだろう。下げてやらねば」
オーベールが、さっき聖書がぶつかって赤くなった鼻筋を押さえて言った。
「ええ」
「インドゥルゲンティアを使おうか?」
「なに、聖杯を持ち出すほどのことではありません」
二人が何気なく口に出した言葉にダリオスは興を引かれた。
(インドゥルゲンティア――聖杯)
にわかに精神(こころ)の高揚してくるものがある。
あの予言者アスタロトに、探せと言われて導かれたサングリアルが、もうすぐ近くにある。
それが本物のサングリアルかどうか、自分の目で見て納得したい一心だけで、ここまで来たのだから。
「旦那様のお顔こそ、聖杯に癒してもらってはいかがです。麗しい面立ちが台無しです。それでは彼女は口説けませんよ」
と、シモンがマリアを指す。
オデットが不潔なものでも見るように、主人に流し目をくれる。
「やだー、オーベール様ったら、やっぱりそういうおつもり?」
「何のことかね」
「この娘(こ)、どう見てもまだ二十歳くらいですよ。五百八十歳も年下の娘に変なお考え起こさないでくださいませ」
「わかってるわかってる。いつものことながら、おまえは私の姉か何かか? 口うるさいやつだ」
(本当にわかってるのかな)
ダリオスは、はたで聞いていて不安になってきた。
本当にこの城に来てよかったのだろうか。
「いつもそうやって、わかってるって言いながら、お手をお出しになるじゃない」
「私が出してるんじゃない。むこうから惚れてくるんだからいいじゃないか」
何だかやっぱり、来ない方がよかったかもしれない。
(マリアは惚れませんように)
心中祈っているダリオスの横に、赤い仮面の医者が身を寄せた。話し掛けてくる。
「患者が寝ていると言うのに、騒がしい方たちですよねぇ」
「ええと、シモン先生でしたか」
「シモンで結構ですよ。何か」
「マリアの具合は、長引きそうですか」
「魔法薬を出しますので、それを飲んでひと眠りすれば熱は下がるでしょう。あとは、美味しい物でも食べて、元気をつけることです」
「ならよかった」
「あのオデット、ああ見えて料理の腕はいいんですよ。食事の方はお楽しみに」
「それから、もう一つ」
と、さらに尋ねる。
「失礼かとは思うんですが、どうしても気になって……そのお召し物は、ご趣味で」
「ああ、いや。実は僕これでして」
笑いながら、シモンは右手の手袋を外して中身を見せた。
「うっ」
ダリオスは思わず唸るほど、度肝を抜かれた。
慌てて口を押さえる。
「し、失礼」
「いえいえ、いつも驚かれます。お気になさらず」
彼の右手は、正確に言うと『手』ではなかった。
ローブの袖から、十数本の肉色の触手が顔を出し、うねうね蠢いていた。
「まあというわけで、肌を見せないようにしているのですよ。――あ、仮面も取って見せましょうか?」
ダリオスをからかい始めたシモンを、ルネがたしなめた。
「先生、およしなさい。悪趣味な」
陽気な触手医者は、手袋をはめ直している。
「これぐらい思いっきり驚いてくれると、見せた甲斐あったってもんです」
「ジュオー様、どうも申し訳ありません。先生も悪意があってやっているわけではないので、お許しを」
「いえ、俺もいきなり見せられてびっくりしただけで。魔族の方の中には、そうやって人型を保っていることがあるのは知っていました」
「ほう、他にもお会いになったことが?」
「ええ以前、北のガシュテ公国の貴族に」
半年前、マリアと出会ったばかりのころの話である。
ダリオスが剣を合わせたボル=マグダという男がいる。彼の本体は、黒い靄(もや)の塊であった。普段はそれが服を着て、人間のような格好をしている。
彼は仮面は着けていなかったが。
頭部は靄が兜の内に納まっているだけで、目や口など一切なかった。それでもちゃんと視線を感じ、声が聞けたのだから不思議なものだ。
「それじゃ、僕は薬を取りに行きます」
と、触手医者は部屋を出て行った。
「ジュオー君」
オーベールが、横たわるマリアの上に屈みながら呼んだ。
「はい」
「今度は君の話も聞こうか。ここではなんだから、私の書斎にでも移ろう」
なぜか彼の手はマリアの顔に伸びていく。
「熱を見るだけだ」
何をされるのかと怪訝な表情しているマリアに断ってから、耳の下辺りをなでた。
向かいでオデットが腕組み仁王立ちしている。
「オーベール様、それより下をお触りになったら今晩は夕食抜きです」
「私もよほど信用がないらしい」
オーベールは、マリアの顔をつぶさに眺め、
「――薬を飲んだらゆっくりお眠り。その間、ジュオー君は借りていくよ。心配しなくても、取って喰ったりはしない」
それだけ囁いて、手を離した。
オーベールの書斎は、おびただしい数の本と、膨大な量の覚書きに埋もれた乱雑な部屋だった。
ただ、その乱雑さの中には、主にしかわからない秩序があるらしい。
「この部屋は家政婦に掃除をさせないから、散らかっていて申し訳ないが」
主の玉座らしき古い机の椅子に、オーベールは掛けている。机上も本や紙切れでいっぱいだ。
壁一面の本棚はむろん満員。あぶれて床にまで積まれている有り様である。
ダリオスはオーベールに対面して座りながら、興味深そうにそれらの文献を眺めていた。
「これだけの本をよくお集めに。しかも珍しい物がいくつも。『富の精神』『自然科学と魔術に関する一考察』『赤兎』『栄枯論』、全て初版で――」
「君もずい分読書家らしい。目利きだな」日本秀身堂救急箱
そこへオデットがお茶を運んできた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ダリオス、オーベールの順に、ティーカップの乗ったソーサーを受け取る。
「そういえば、あなたは何の種族でいらっしゃるのです?」
ダリオスが尋ねると、オデットは含み笑いを返してきた。
代わりに、オーベールが教えてくれた。
「それは人魚だ」
「しかし、脚が」
「二本足で地に上がった人魚姫だよ。気をつけた方がいい。歩くことを覚えたついでに、地上の男を誘惑することも覚えている」
「オーベール様ったら、さっきのこと根に持っていらっしゃるのね」
意地わる。
と、捨てゼリフを残し、人魚姫は場を辞した。
先に紅茶のカップから口を離したのはダリオスの方だった。
カチン――と小さな音を立て、ソーサーにカップを置いた。
「なんだかまだ実感が湧かなくて」
「何がだね」
「この城にたどり着くことができたことが」
「ふふ」
薄く笑う。
「麓の町では、滅多なことで来れぬ場所だと教えられたね?」
「ええ。違うのですか」
「違いはない。ただ、町の皆が思っているほど、何人(なんぴと)も来られない場所でもない。まあここ百年くらいは、確かに客を迎えなかったが」
昔は、五十年に一度くらいは来客があったのだと言う。
「割といたんだよ、昔は。君たちのように、世間にわだかまるところのない者が」
(わだかまるところのない?)
それってつまり、途方もないのん気者、ということだろうか。
「もとよりここへ来ようとする者は、九割九分聖杯目当てだ。その中にさまざまな為人(ひととなり)の輩がいる。強欲な者、無欲な者、尊大な者、心優しい者、誠実な者、臆病な者――」
「それをサー・ヴルスクルは見極めて、ここへ招くかどうかお決めになると」
「見極める?」
吸血鬼は牙を見せて笑った。
「そんなことができるものか。一目で結婚相手を決めろと言われて、君は決められるか? 交際してみなければ相手の本質などわかるまいよ」
「ではなぜ、俺とマリアをここに」
「訳なんて言えるか」
「え?」
「生命はそもそもが不思議である。どうして生きて自我を持っているかもわからないのに、自分のやること全てに理屈や思慮分別があってたまるか」
変わったことを言う男である。
「あえて言うなら、だから、君たちには世間にわだかまるようなところがなさそうだと思ったから」
「それはつまり、俺たちが暢気(のんき)そうだということで?」
「のんきものんきじゃないか。夕べはよく、マリアに手を出さなかったな」
「――ご覧でしたか」
そうだろうとは思ったが。あの半獣人のユルシュルでさえ見てたって言うんだから。
「ひょっとして女に興味が無いのか?」
「いえそういうわけでは」
「じゃあ男の機能に問題があるのか? それならシモンに診てもらうといいが」
「別に、悪いところもありません」
「ということは、本当は抱きたかったんだな?」
にやにや頬をゆるめて、目を覗き込んでくる。「彼女を腕に抱いてどんな気持ちだった?」と、オーベールは意地悪なことを尋ねた。
ダリオスも、こうなったら観念した方が得策、と思ったらしい。
「気持ちがよかったですよ。胸も腰つきも太ももも柔らかくて」
「そうこなくては。夕べ、君が指一本でも妙な仕草をしたら森の外に追い出すつもりだった。実によく耐えた」
私だったら耐えられんが。笑顔で付け加えた。
紅茶をひと口傾ける。
「それだけのことで、俺たちを招いてくださったので」
「理屈や思慮分別ではないと言っただろう。理由の一つとして、夕べのを見ていて君に好意を感じたのは確かだがね。今どきこんな暢気な男がいるのかと思った。一度話をしてみたいと思ったよ」
「――よろしければ他の理由も、あるのならお教え願えませんか」
「マリアンヌが」
「マリアが?」
「彼女が亡くなった母になんとなく似ていたから」
オーベールは、机の端に置かれていた写真立てを取って、ダリオスに見せた。
白黒でたいそう年代物の写真に、二十代後半と思しきセミロングの髪の女性が映っていた。
マリアに似ている、というのは言い過ぎかもしれないが――
「これが母君でいらっしゃる――そうですね、髪型と表情の雰囲気が少し……」
「それに、私の母も人間だった。混血(ハーフ)なんだ、私は」
父は純血のバンパイアだった。それが人間の娘に惚れ、愛して、生まれてきたのがオーベールだそうだ。簡約痩身
「母が亡くなったのはずい分前のことだが、マリアの顔を見ていると懐かしくなってしまってな」
美貌のダンピール(混血の吸血鬼)は、涼やかな橄欖石の目元を細めて囁くのだった。
2013年8月13日星期二
全てメイドの仕業
三十分ばかり経って、警部はベールの部屋に呼ばれた。
「何かいいお考えが?」
東方王ベールといえば、人間にあらゆるものを見通す力を与えることができる大悪魔である。あるいは透明になる力を与えるとも言われる。どちらにしろ、ただのさえない中年男ではないはずだ。との思いが警部にはある。levitra
ベールは窓から中庭を眺めたまま言った。
「警部」
「はい」
「メルランの家に人をやって、彼が帰宅しているかどうか確認してもらいたい」
「それは」
「この盗難事件、外部犯と考えるには不自然な点が目立つ」
ベールは静かに眉をひそめる。
「では犯人は、門の鍵の異変に気づき、禁書室を調べた者の中にいると仮定する。さらに、犯行に及んだのは今日、その門の鍵の異変以降と考えよう」
「そう考えなければ、やはり不自然が目立つからですか」
「そうだ。彼らにレメゲトンを盗むチャンスがあったのはいつか」
「禁書室に入ったときでは」
「違う。彼らはお互いを見張り合っていた。誰もあの本を持ち出せない」
「ですが、そのときにはすでにレメゲトンは消えていたのでしょう」
「消えていたのは書棚からだけだ」
警部も眉をひそめ、ベールに一歩近寄った。
「それはどういう意味です」
「彼らが見たのは、書棚からレメゲトンがなくなっている光景だけだ。後で警察が調べたように、本当に禁書室から紛失していることをいちいち確かめたわけではない。もっとも、そこまでは確認できなかったはずだ」
「つまり、そのときはまだレメゲトンは盗まれてはいなかったと」
「ひとまずどこか、他の書物の陰にでも隠しておいたのだ」
「ではいつ、それを持ち出したとおっしゃるのです。その後も彼らはずっと一緒にいて、一人抜け駆けて禁書室に忍び込む隙などなかったはず」
「いや、あった」
「いつですか」
「警部が、事情聴取とボディチェックを終えて家に帰した後だ」
「えっ」
ベールは、ゆっくりした動作で机に向かい、椅子に腰を下ろした。深く身を沈めると、長い脚を悠々と組んだ。
「ここへ呼ばれてきた警察官の制服は一種類に統一され、帽子をかぶっている者もいる。禁書室で見た様子では、彼らはお互いの行動に注意を払っているようには見受けられなかった」
「―――」
「犯人が同じ制服を着、帽子をかぶってまぎれ込んでも、気づく者はいまい。そこで証拠品を持ち出すような素振りでレメゲトンをまんまと盗んだのだ。このため、わざわざ事件を起こし、警官を大勢呼び込んでおく必要があった」
これが犯人の手口だとすると、と語を継ぎ、
「犯人の可能性が一番高いのはメルランだ。門の鍵がおかしいと言って入ってきたのは、禁書室を開けさせるためだ。禁書室の鍵にはさすがに手が出せなかったんだろう」
「禁書室で、レメゲトンがないことに気づいたのも彼――」
「警察を呼べと言ったのもだ。真っ先に警部の聴取を受け、出て行ったのも」
「証拠は」
「ない。ないが、外部犯と考えるより合理的だ。メルランの家に行ってみて彼が帰っていなければ、まず間違いあるまい」
「すぐ、向かわせます」
警部は部屋を出た。じきに戻ってきて、
「庭師の家に部下をやりました――が、彼の動機は何です」
「さて、私もそれがわからない」
「金目当てでしょうか」
「そういう性格には見えなかったが、まあ見かけによらないということもある」
「どちらにしろ、庭師が捕まればはっきりすることですな」
「それはそうだ」
しかし、メルランは捕まらなかった。どこをどう逃げたものか、足取りが全くと言っていいほどつかめず、捜査は難航の色を見せ始めた。
その際ベールが向かったのが、悪魔ビフロンスの元である。
ビフロンスは人間に占星術の知識などを与えると言われる悪魔である。自身も占術をたしなむ。彼にメルランの居所を占わせた。
結果は、かんばしいものではなかった。
「見えませんな」
と、ビフロンスはペンデュラムから顔を上げ、言った。
「見えないとは」
「見えないとは見えないということです。何もわかりません」
「なぜ。おまえの占術の腕はその程度のものか」
「私の腕がというより、何者かが魔力をもってメルランの姿を隠してしまっているのでしょう」
「それ以外の可能性は」
「でなければ、私の腕です」
それはつまり、メルランを手助けしている者がいるという意味であった。
6
そこまで聞いてから、アスタロトが口を出した。
「で」
「で、とは」
「で、おまえは俺に何を協力しろと言うんだ。今の話じゃ、もう犯人はわかっているらしいじゃないか。あとは捕まえるばかりだろう」
「まあ最後まで聞け」
「聞いている。早く話せ」
「メルランの居所は、占いですらわからなかったが――」
「うん」
「もう一つビフロンスに占わせてみた物がある」
ベールは上着の胸ポケットから折り畳まれたハンカチを取り出した。それを手の上で開いて見せる。
中に、小さな青玉のイヤリングが片方、包まれている。
「これだ」
「それは?」
「私が事件当夜、館の周りをうろついている際、中庭で拾った」
「それを占わせたのか」
「そうだ。すると、詳しいことはやはりわからないが、ビフロンスは一つだけ断言した」
ビフロンスは、イヤリングに目が着くほど顔を近づけ、いろんな角度からまじまじと見ていた。魔方陣の描かれた巻物を取り出し、その上にペンデュラムをかざしたりしてから、Motivator
「あなた様の奥方様にお話をお聞きになるとよろしいでしょう」
と、ぽつりと言ったのである。
ベールは、じろりとアスタロトの目をのぞき込んだ。
「どうやらおまえに所縁のある代物のようだということだ」
「ふん――」
アスタロトは、ベールからハンカチごとイヤリングを受け取った。
「どうだ、見覚えがあるか」
「別に」
「おまえが嘘をつけないのは、私が一番よく知っている」
ベールはアスタロトの腕をつかんで引き寄せた。顎(あご)に手を当ててこちらを向かせる。
「見覚えがあるらしいな、アスタルテ」
「知らんな」
「なぜメルランをかばう。レメゲトンが盗まれれば心安らかでいられないのはおまえも同じだろう。また人間のいいように使われたいとは思うまい」
「俺はメルランなどというやつは知らん。会ったこともない」
「嘘をつくな」
「嘘じゃない」
アスタロトはベールの目をまっすぐに見返す。
「では何を知っている」
「知らん――」
「言え!」
ベールの苛(いら)立ちに同調したように、窓の外で雷鳴がとどろいた。アスタロトの顎をつかむ手に力がこもる。
アスタロトは、のどの奥でくぐもったうなり声を上げた。
「このイヤリングの持ち主を知っているだけだ」
「それは誰だ?」
「言えない」
「どうして」
「どうしてもだ」
アスタロトは語気を荒くした。
「レメゲトンは俺が取り返してやる。それでいいだろう」
「よくはない。メルランを捕まえなくてはな」
「そいつも警察に突き出してやろう」
「共犯者がいるはずだ」
「ベール、おまえそのことを誰かに話したのか」
と尋ねると、ベールは、なぜそんなことを聞くのかといぶかしげに顔をしかめ、
「いや、まだだが」
「だったら誰にも言うな。ビフロンスにも口止めしろ。共犯者なんていなかった。メルランが一人でやったことだ」
ベールは、ははあ、と合点がいったらしい。口の片端をつり上げて意地の悪い笑みを浮かべた。
「なるほど確かに、今回の事件としては、メルランを探し出し、レメゲトンさえ取り戻せれば解決と言って差し支えない。だがアスタルテ、おまえただで私の口が封じられると思ってはいないだろうな?」
「―――」
何が望みだ、とアスタロトはささやいた。
ベールの手が腰へと回ってくる。抱き寄せられると、アスタロトの体は自然と柔らかな曲線を描く女性体へ変化した。
ベールはアスタロトの白く華奢(きゃしゃ)な首筋に口元を近づけ、
「我が妻よ、聞くまでもないことだろう」
と、ささやき返す。
「おまえが隣にいない閨(ねや)は寂しいものだ」
「―――」
「目覚めたとき手を伸ばせばおまえがいる。そんな朝が恋しいのだ。夜の間、私の手で乱れに乱れたおまえが、疲れ果てて子どものように眠っている様は何より美しい」
アスタロトの滑らかな頬の輪郭をなで、有無を言わせず唇を奪った。
ところが、十も数えないうちにベールは自分から身を引いた。
「うっ!」
口を押さえ、うめく。舌の上で鉄臭い味がした。アスタロトに噛まれたのだ。
アスタロトは唇に付いた血を指でぬぐうと、
「ふん」
とベールをにらみつけて凄(すご)んだ。その顔つきはいつの間にか男性に戻っている。
「ベール、貴様まだわかっていないらしいな。俺がこんな姿になった理由が」
「何が言いたい」
「俺は貴様の所有物でも、付属物(オマケ)でもない。ましてや貴様のダッチワイフでいるのには飽き飽きした」
くるりときびすを返す。一人で禁書室を出て行こうとする背中に、ベールは釘を刺した。
「アスタルテ、おまえが私の元へ帰ってこなければどうなるか――」
「わかっている!」
アスタロトは振り向かずに怒鳴った。
7
アスタロトはメイドのヴィヴィアンとの約束を守り、夕食の前には帰宅した。
「おかえりなさいませ」
執事とヴィヴィアンがそろって出迎えた。
「ああ、今帰った」
アスタロトは外套を脱いで執事に渡すと、
「ヴィヴィアン、ちょっと来なさい」
と、メイドだけ連れて自室へ引っ込んでしまった。
主人の後から部屋に入ったヴィヴィアンはいたずらっぽく小首をかしげている。
「旦那様、何か御用で? それともお夕食の前にあたくしをお食べになるおつもりですの?」
「メルラン、というのはフランス語名だ」
唐突にアスタロトは言った。
「英語名では『マーリン』。言わずと知れた希代の大魔法使いだな」
「それが、何か?」
「まったく」
上着のポケットから青玉のイヤリングを取り出す。それをヴィヴィアンの右耳に着けてやった。そうして両耳にそろった石の控えめな輝きが上品であり、メイドの衣裳にも似合っている。
「おまえの恋人の名だろう」
「さようでございますわね」
ヴィヴィアンは何を考えているものか、穏やかに微笑んでいる。SPANISCHE FLIEGE D9
「ヴィヴィアン」
「はい、旦那様」
「どうしておまえがレメゲトンを欲しがるんだ?」
ヴィヴィアンは、目を細めて、常人の男なら腰がくだけてしまうような魅惑的な笑顔を見せた。
「それとも、地上での恋人に再会したうれしさに、とびきり難しい物をねだってみただけか」
「旦那様、あたくしは、湖の女王とまで呼ばれた妖精ですのよ」
「ああ」
「あの偉大な魔法使いマーリンですら、あたくしの虜。どうあがいても、あたくしからは逃れられませんでした」
「おまえの悪い癖だ。そうやって男の自由を奪いたがる。かのアーサー王までも魅入らせた魔力は恐ろしいな」
「でも、あたくしの力をもってしても、虜にできない方がいらっしゃるのですわ」
「ほう、誰かね」
「レメゲトンの力を使わなければ、自由にできないお方――」
ヴィヴィアンの白魚のような指が、アスタロトの頬に触れた。
「――俺の周りにはこんなのばっかりだな」
とアスタロトはぼやいた。
「ヴィヴィアン、あきらめなさい」
「レメゲトンを?」
「そうだ」
「そんな」
「あれはおまえには――まあ扱えないことはないかもしれんが、一度(ひとたび)あれに書かれた秘法を行ったが最後、ベールに抹殺されるぞ」
「あたくしの身を案じてくだいますの?」
「おまえと一緒に俺も殺されかねん」
「あら旦那様、それならあたくしは本望です」
「冗談はよせ」
アスタロトはヴィヴィアンを抱き寄せ、優しく髪をなでてやった。
「これからは、おまえにあまり寂しい思いをさせないようにする」
ヴィヴィアンはふくれ面をして、
「そんなお言葉を鵜呑みにするほどうぶな娘じゃございません。どうせ三日もすれば地獄を抜け出して、地上で乙女をたぶらかしてお遊びになるのでしょう」
「おまえだってメルランにちょっかいを出したくせに」
「妬(や)けますか?」
「少しはな。おまえは俺だけを見てるのかと思っていたよ」
ヴィヴィアンの耳に触れ、青玉のイヤリングを親指でいじる。ベールにそれを拾われなければ、アスタロトだってヴィヴィアンの仕業だとは気がつかなかっただろう。
「それにしてもイヤリングを落としてくるなんて失敗をするとは、おまえにしては珍しい」
「失敗ではありません」
「なに?」
「落とし物の一つもしておけば、いずれこうして旦那様の知るところとなるはずだと。あたくしとマーリンとのことを知ったときに、あなた様がどんなお顔をなさるのか、見てみたかっただけのことです」
「女は恐ろしい」
アスタロトはもはや苦笑いするしかない。ヴィヴィアンから手を離した。
「女が恐ろしいわけではありませんわ。あたくしは恐ろしい女ですけれど」
「自分で言うな。おまえのおかげで、俺はどうやらベールの夜のオモチャに逆戻りしなくちゃならん」
「え?」
ヴィヴィアンの表情が曇った。しかし、アスタロトから事情を聞くと、じき元のように妖艶に微笑する。
「そのようなこと、お気に病まずとも、すべてこのヴィヴィアンにお任せくださいませ、旦那様――」
一体このメイド、何をたくらんでいるものやら。
8
「旦那様、お電話です」
執事に呼ばれ、電話機の前に立って差し出された受話器を取った。
「もしもし?」
『アスタルテ、おまえ何をした!?』
途端に受話口からベールの怒声が響いた。慌てて受話器を耳から離す。
「何の話だベール」
『何の話だと! おまえ――ことをして、地獄を壊滅させ――つもりか!?』
ベールの声はかすれたり切れ切れになったりしていた。やけにノイズが多い。
「よくわからんが、それより俺のそっちへの引越しはいつにすればいいんだ?」
『それどころじゃない!! 自殺を志願するのでなければ当分自分の領地で大人しくしていろ。間違っても私の前に姿を見せるなよ!』
受話口から聞こえてきた爆発音と共に、通話は切れてしまった。
チン、
と受話器を置いて、アスタロトは長椅子でしどけなく寝そべっているヴィヴィアンを振り返った。
「どうやった」
「東方王様の妹君にお会いして参りました」
「アナトにか」
「ええ。旦那様が東方王様とヨリをお戻しになるつもりだとお話したら、あっという間に兄君の元へ飛んでいかれて。今ごろは、旦那様を探し出して息の根を止めんとばかりに、東方王様の領地中を焼き払っていらっしゃるでしょう」
「相変わらず、あいつの嫉妬は世界規模だな」
「それだけ兄君を愛していらっしゃるということです」
「俺には理解しかねる」
アスタロトはヴィヴィアンのいる長椅子に腰を下ろした。甘えてくる彼女の頭を膝に乗せ、
「さあ、そろそろメルランの居場所とレメゲトンの在り処(ありか)を教えなさい」
ヴィヴィアンは胸に提げていた金のペンダントを襟の下から取り出した。細い鎖に小さなロケットが付いたものである。
アスタロトはロケットのふたを開け、中に入っていた似姿を見てため息をついた。
「やれやれ、女になってベールとヨリを戻すのだけはご免だが、男になったらなったで、そのうちおまえにこうやって閉じ込められてしまいそうだな。俺はただ自由でいたいだけなのに」
レメゲトンを携えたメルランがそこにいた。ロケットにしまわれた似姿の内側から、半泣きでこちらに助けを求めているのだった。
アスタロトはメイドの手を借り、悠々とした動作で外套(がいとう)をまとった。
「旦那様、お帰りはいつ?」
「ま、そうだな、夕食には間に合わせよう」
「約束してくださいます?」
「約束する」
「きっとでございますよ」
「ああ、きっとだ」
アスタロトはメイドの右手を取った。その甲にキスをする。
メイドの名はヴィヴィアンといった。ヴィヴィアンは、美しい目元を弦月のように細めて微笑んだ。
「あらうれしい」
「ふふ」
アスタロトはいたずらっぽく笑い、ヴィヴィアンの手を離した。ふと彼女の顔を見て、おやと気づいた。
「ヴィヴィアン、もう片方のイヤリングはどうしたんだ」
ヴィヴィアンの左耳では小さな青玉が光っているが、右の方には見当たらない。
「なくしたのかね」
「ええ、ちょっと」
「ふうん、今度新しいのを見つくろってきてやろう」
「まあ、旦那様、あたくしのために」
「おまえは有能で実によく働いてくれる、当家の大切なメイドだからな」
「まあ」
ヴィヴィアンは期待が外れたのか、すねたように、ぷっと頬をふくらませた。SPANISCHE FLIEGE D6
アスタロトは苦笑し、肩をすくめて玄関を出て行った。館の門の外で馬車が待っている。ベールが寄越したものだろう。近寄ると、馭者(ぎょしゃ)がうやうやしく一礼し、
「お待ち申し上げておりました」
「おまえは東方王の?」
「はい。アスタルテ王妃――」
と言いかけたら、アスタロトに射殺さんばかりの目つきでにらまれたので、慌てて言い直した。
「ア、アスタロト大公爵閣下を禁書室へお連れいたすようにと申しつけられて参りました」
「ではとっとと出発しよう」
アスタロトは勝手に車の戸を開けて乗り込んだ。
馭者が一鞭くれれば漆黒の馬たちは静かに走り出す。いななく声はおろか足音すら聞こえない。
光という光の届かない黒々した地獄の空には、今日は緑色の月が昇っている。あれは悪魔の君主サタンの右目だ。足元さえ危うい薄暗闇を、馬たちは難なく駆けていく。アスタロトの広大な所領を出て東へ、東へ。
地獄の東側一帯を治めるのは東方王ベールである。その領地の広さといったら、アスタロトの所領が小さな庭に見えてしまうほど。ベールが悪魔の中でもトップクラスの実力者であることは言を待たない。
馬車に揺られて連れて行かれた先は、陰気な雰囲気のする館であった。黒い格子門の内も外もひっそりと静まり返り、妖魔の子一匹歩いていない。ここもベールの財産の一つである。
「いつもはこのように閑散としてはおりませんが」
馭者がアスタロトを中へ案内しながら説明してくれる。
「ここ数日、東方王様が付近を封鎖なさっております」
「ベールは俺に何の用があるというんだ?」
「それは直接東方王様の口からお聞きくださいませ」
と、先方を見れば、長くほの暗い廊下の奥から当のベールが姿を現した。四十を過ぎたくらいの、ひょろりと背が高いばかりでさえない男の格好をしているが、目つきだけは威圧感があって鋭い。
アスタロトはあからさまに、
(いやなやつが出てきた)
とでも言いたそうに眉をひそめた。
ベールはこちらへ歩み寄ってきた。
「やあ大公爵、ご機嫌うるわしゅう」
「たった今、すべてが、うるわしくなくなった!」
「君は怒った顔も魅力的だ、男でさえなければな」
馭者を下がらせ、アスタロトと二人きりになった。
「どうだね、妻よ、久しぶりに我が家へ帰った気分は」
「なにが我が家だ。俺には我が君から拝領した土地も財産もある。いつまでもおまえに従っていると思うなよ」
「おまえは私と正式に別れたわけではない。裁判は凍結されたままのはずだ」
「それだ。なぜいつまで経っても再開されない?」
「――おまえが、気まぐれに男になってしまったからだろうが」
ベールは白い目でアスタロトを見た。
たとえば、十七世紀、ミルトンによって書かれた叙情詩「失楽園」においては、アスタロトはベールの妻アスタルテとして登場し、女性として描かれている。ただし気の赴くままに、男性、女性、どちらの性(あるいは両方)にでもなれる、とも言われる。
さらに悪魔アスタロトの起源をさかのぼると、紀元前に地中海周辺地域で信仰された豊穣多産の女神アスタルテへとたどり着く。のちのベールも豊穣神バアルとして崇拝されていた。二人はこのころから夫婦である。ウガリットやカナンの神話において、切っても切れない仲であった。
「誰のせいで俺は男になったと思ってるんだ」
と、アスタロトはベールをにらみ返した。
「誰のせいだ」
「貴様のせいだ貴様の」
「なぜ」
「――俺は、その理由をこれまでに八百六十九回は説明したはずだが」
「嫌なことはすぐに忘れる主義だ」
アスタロトは、怒りのあまりに体が爆発しそうになった。決して比喩(ひゆ)ではない。悪魔にとって人間の姿をした肉体なんて所詮かりそめのもの。怒り狂って本性を現せば、何が起こるかわからない。
「貴様は昔からそうだ! 俺がまだ地中海で女神をやっていたときだって」
「何かしたかな」
全く記憶にございません。と言わんばかりに、ベールは首をかしげる。
「貴様妻のある身で! あろうことか! 自分の妹と関係を持っただろうが!!」
ウガリット神話におけるバアルには、美しい妹アナトがいるとされる。アナトは戦いの女神で非常に攻撃的な性格の反面、兄バアルに対してはとても従順で熱烈な愛情を抱いていた。アスタルテとともにバアルに密接な関係のある女神である。
「ああ、アナトのことか」
と、ベールはやっと思い出したように言った。
ところで、ベールを怒鳴りつけているアスタロトの容貌に変化が起こり始めている。
見る見るうちに、アスタロトの顔や首筋の輪郭がほっそりと滑らかなラインを描くように変わっていく。体型についても、肩は華奢に、胸と腰の周りは逆にふっくらとしてきた。
「確かにそんなこともあったが、過ぎたことだ。アスタルテ、おまえには悪いことをした」
「その言葉を何回聞いたと思ってる!」
と言う声も、さっきまでの男の声から一オクターブ高くなっている。
アスタロトは自分の声を聞いてようやく体の変化に気がついたらしい。まず手足を見て、次に胸元を見て、最後にのどを触った。あるべき突起がそこにない。
「ベール貴様、何をした」
「アスタルテ、私は何もしていないさ。おまえが心を高ぶらせて、自分で勝手に女に戻ったのだよ」
「忌々しい」
「しばらくそのままでいてはどうだね。久しぶりに美しき我が妻の顔を見ることができてうれしいものだ」
「断じて断る!」
アスタロトがぱちんと指を鳴らす。すると一瞬にして男性の姿に戻った。苦虫を噛みつぶしたような顔をして言った。
「もういい、ベール、本題に入れ」
ベールは肩をすくめ、アスタロトの先に立って歩き出した。
「ついて来い」
2
連れて行かれたのは館の北側に位置する禁書室と呼ばれる書庫である。
ここには、地上で書かれた本の中で、教会によって発禁・焚書処分となったものが集められている。道徳観念を狂わせたり、神の存在を疑わせるような奇書や悪書。または悪魔を召還するための書、グリモワールの類など。処分されたそれらの本から一冊ずつ保存されているのである。
中には悪魔が人間を堕落させるために書いた本も混じっているし、まれな才能の人間が書いた物もある。SPANISCHE FLIEGE D5
「何かいいお考えが?」
東方王ベールといえば、人間にあらゆるものを見通す力を与えることができる大悪魔である。あるいは透明になる力を与えるとも言われる。どちらにしろ、ただのさえない中年男ではないはずだ。との思いが警部にはある。levitra
ベールは窓から中庭を眺めたまま言った。
「警部」
「はい」
「メルランの家に人をやって、彼が帰宅しているかどうか確認してもらいたい」
「それは」
「この盗難事件、外部犯と考えるには不自然な点が目立つ」
ベールは静かに眉をひそめる。
「では犯人は、門の鍵の異変に気づき、禁書室を調べた者の中にいると仮定する。さらに、犯行に及んだのは今日、その門の鍵の異変以降と考えよう」
「そう考えなければ、やはり不自然が目立つからですか」
「そうだ。彼らにレメゲトンを盗むチャンスがあったのはいつか」
「禁書室に入ったときでは」
「違う。彼らはお互いを見張り合っていた。誰もあの本を持ち出せない」
「ですが、そのときにはすでにレメゲトンは消えていたのでしょう」
「消えていたのは書棚からだけだ」
警部も眉をひそめ、ベールに一歩近寄った。
「それはどういう意味です」
「彼らが見たのは、書棚からレメゲトンがなくなっている光景だけだ。後で警察が調べたように、本当に禁書室から紛失していることをいちいち確かめたわけではない。もっとも、そこまでは確認できなかったはずだ」
「つまり、そのときはまだレメゲトンは盗まれてはいなかったと」
「ひとまずどこか、他の書物の陰にでも隠しておいたのだ」
「ではいつ、それを持ち出したとおっしゃるのです。その後も彼らはずっと一緒にいて、一人抜け駆けて禁書室に忍び込む隙などなかったはず」
「いや、あった」
「いつですか」
「警部が、事情聴取とボディチェックを終えて家に帰した後だ」
「えっ」
ベールは、ゆっくりした動作で机に向かい、椅子に腰を下ろした。深く身を沈めると、長い脚を悠々と組んだ。
「ここへ呼ばれてきた警察官の制服は一種類に統一され、帽子をかぶっている者もいる。禁書室で見た様子では、彼らはお互いの行動に注意を払っているようには見受けられなかった」
「―――」
「犯人が同じ制服を着、帽子をかぶってまぎれ込んでも、気づく者はいまい。そこで証拠品を持ち出すような素振りでレメゲトンをまんまと盗んだのだ。このため、わざわざ事件を起こし、警官を大勢呼び込んでおく必要があった」
これが犯人の手口だとすると、と語を継ぎ、
「犯人の可能性が一番高いのはメルランだ。門の鍵がおかしいと言って入ってきたのは、禁書室を開けさせるためだ。禁書室の鍵にはさすがに手が出せなかったんだろう」
「禁書室で、レメゲトンがないことに気づいたのも彼――」
「警察を呼べと言ったのもだ。真っ先に警部の聴取を受け、出て行ったのも」
「証拠は」
「ない。ないが、外部犯と考えるより合理的だ。メルランの家に行ってみて彼が帰っていなければ、まず間違いあるまい」
「すぐ、向かわせます」
警部は部屋を出た。じきに戻ってきて、
「庭師の家に部下をやりました――が、彼の動機は何です」
「さて、私もそれがわからない」
「金目当てでしょうか」
「そういう性格には見えなかったが、まあ見かけによらないということもある」
「どちらにしろ、庭師が捕まればはっきりすることですな」
「それはそうだ」
しかし、メルランは捕まらなかった。どこをどう逃げたものか、足取りが全くと言っていいほどつかめず、捜査は難航の色を見せ始めた。
その際ベールが向かったのが、悪魔ビフロンスの元である。
ビフロンスは人間に占星術の知識などを与えると言われる悪魔である。自身も占術をたしなむ。彼にメルランの居所を占わせた。
結果は、かんばしいものではなかった。
「見えませんな」
と、ビフロンスはペンデュラムから顔を上げ、言った。
「見えないとは」
「見えないとは見えないということです。何もわかりません」
「なぜ。おまえの占術の腕はその程度のものか」
「私の腕がというより、何者かが魔力をもってメルランの姿を隠してしまっているのでしょう」
「それ以外の可能性は」
「でなければ、私の腕です」
それはつまり、メルランを手助けしている者がいるという意味であった。
6
そこまで聞いてから、アスタロトが口を出した。
「で」
「で、とは」
「で、おまえは俺に何を協力しろと言うんだ。今の話じゃ、もう犯人はわかっているらしいじゃないか。あとは捕まえるばかりだろう」
「まあ最後まで聞け」
「聞いている。早く話せ」
「メルランの居所は、占いですらわからなかったが――」
「うん」
「もう一つビフロンスに占わせてみた物がある」
ベールは上着の胸ポケットから折り畳まれたハンカチを取り出した。それを手の上で開いて見せる。
中に、小さな青玉のイヤリングが片方、包まれている。
「これだ」
「それは?」
「私が事件当夜、館の周りをうろついている際、中庭で拾った」
「それを占わせたのか」
「そうだ。すると、詳しいことはやはりわからないが、ビフロンスは一つだけ断言した」
ビフロンスは、イヤリングに目が着くほど顔を近づけ、いろんな角度からまじまじと見ていた。魔方陣の描かれた巻物を取り出し、その上にペンデュラムをかざしたりしてから、Motivator
「あなた様の奥方様にお話をお聞きになるとよろしいでしょう」
と、ぽつりと言ったのである。
ベールは、じろりとアスタロトの目をのぞき込んだ。
「どうやらおまえに所縁のある代物のようだということだ」
「ふん――」
アスタロトは、ベールからハンカチごとイヤリングを受け取った。
「どうだ、見覚えがあるか」
「別に」
「おまえが嘘をつけないのは、私が一番よく知っている」
ベールはアスタロトの腕をつかんで引き寄せた。顎(あご)に手を当ててこちらを向かせる。
「見覚えがあるらしいな、アスタルテ」
「知らんな」
「なぜメルランをかばう。レメゲトンが盗まれれば心安らかでいられないのはおまえも同じだろう。また人間のいいように使われたいとは思うまい」
「俺はメルランなどというやつは知らん。会ったこともない」
「嘘をつくな」
「嘘じゃない」
アスタロトはベールの目をまっすぐに見返す。
「では何を知っている」
「知らん――」
「言え!」
ベールの苛(いら)立ちに同調したように、窓の外で雷鳴がとどろいた。アスタロトの顎をつかむ手に力がこもる。
アスタロトは、のどの奥でくぐもったうなり声を上げた。
「このイヤリングの持ち主を知っているだけだ」
「それは誰だ?」
「言えない」
「どうして」
「どうしてもだ」
アスタロトは語気を荒くした。
「レメゲトンは俺が取り返してやる。それでいいだろう」
「よくはない。メルランを捕まえなくてはな」
「そいつも警察に突き出してやろう」
「共犯者がいるはずだ」
「ベール、おまえそのことを誰かに話したのか」
と尋ねると、ベールは、なぜそんなことを聞くのかといぶかしげに顔をしかめ、
「いや、まだだが」
「だったら誰にも言うな。ビフロンスにも口止めしろ。共犯者なんていなかった。メルランが一人でやったことだ」
ベールは、ははあ、と合点がいったらしい。口の片端をつり上げて意地の悪い笑みを浮かべた。
「なるほど確かに、今回の事件としては、メルランを探し出し、レメゲトンさえ取り戻せれば解決と言って差し支えない。だがアスタルテ、おまえただで私の口が封じられると思ってはいないだろうな?」
「―――」
何が望みだ、とアスタロトはささやいた。
ベールの手が腰へと回ってくる。抱き寄せられると、アスタロトの体は自然と柔らかな曲線を描く女性体へ変化した。
ベールはアスタロトの白く華奢(きゃしゃ)な首筋に口元を近づけ、
「我が妻よ、聞くまでもないことだろう」
と、ささやき返す。
「おまえが隣にいない閨(ねや)は寂しいものだ」
「―――」
「目覚めたとき手を伸ばせばおまえがいる。そんな朝が恋しいのだ。夜の間、私の手で乱れに乱れたおまえが、疲れ果てて子どものように眠っている様は何より美しい」
アスタロトの滑らかな頬の輪郭をなで、有無を言わせず唇を奪った。
ところが、十も数えないうちにベールは自分から身を引いた。
「うっ!」
口を押さえ、うめく。舌の上で鉄臭い味がした。アスタロトに噛まれたのだ。
アスタロトは唇に付いた血を指でぬぐうと、
「ふん」
とベールをにらみつけて凄(すご)んだ。その顔つきはいつの間にか男性に戻っている。
「ベール、貴様まだわかっていないらしいな。俺がこんな姿になった理由が」
「何が言いたい」
「俺は貴様の所有物でも、付属物(オマケ)でもない。ましてや貴様のダッチワイフでいるのには飽き飽きした」
くるりときびすを返す。一人で禁書室を出て行こうとする背中に、ベールは釘を刺した。
「アスタルテ、おまえが私の元へ帰ってこなければどうなるか――」
「わかっている!」
アスタロトは振り向かずに怒鳴った。
7
アスタロトはメイドのヴィヴィアンとの約束を守り、夕食の前には帰宅した。
「おかえりなさいませ」
執事とヴィヴィアンがそろって出迎えた。
「ああ、今帰った」
アスタロトは外套を脱いで執事に渡すと、
「ヴィヴィアン、ちょっと来なさい」
と、メイドだけ連れて自室へ引っ込んでしまった。
主人の後から部屋に入ったヴィヴィアンはいたずらっぽく小首をかしげている。
「旦那様、何か御用で? それともお夕食の前にあたくしをお食べになるおつもりですの?」
「メルラン、というのはフランス語名だ」
唐突にアスタロトは言った。
「英語名では『マーリン』。言わずと知れた希代の大魔法使いだな」
「それが、何か?」
「まったく」
上着のポケットから青玉のイヤリングを取り出す。それをヴィヴィアンの右耳に着けてやった。そうして両耳にそろった石の控えめな輝きが上品であり、メイドの衣裳にも似合っている。
「おまえの恋人の名だろう」
「さようでございますわね」
ヴィヴィアンは何を考えているものか、穏やかに微笑んでいる。SPANISCHE FLIEGE D9
「ヴィヴィアン」
「はい、旦那様」
「どうしておまえがレメゲトンを欲しがるんだ?」
ヴィヴィアンは、目を細めて、常人の男なら腰がくだけてしまうような魅惑的な笑顔を見せた。
「それとも、地上での恋人に再会したうれしさに、とびきり難しい物をねだってみただけか」
「旦那様、あたくしは、湖の女王とまで呼ばれた妖精ですのよ」
「ああ」
「あの偉大な魔法使いマーリンですら、あたくしの虜。どうあがいても、あたくしからは逃れられませんでした」
「おまえの悪い癖だ。そうやって男の自由を奪いたがる。かのアーサー王までも魅入らせた魔力は恐ろしいな」
「でも、あたくしの力をもってしても、虜にできない方がいらっしゃるのですわ」
「ほう、誰かね」
「レメゲトンの力を使わなければ、自由にできないお方――」
ヴィヴィアンの白魚のような指が、アスタロトの頬に触れた。
「――俺の周りにはこんなのばっかりだな」
とアスタロトはぼやいた。
「ヴィヴィアン、あきらめなさい」
「レメゲトンを?」
「そうだ」
「そんな」
「あれはおまえには――まあ扱えないことはないかもしれんが、一度(ひとたび)あれに書かれた秘法を行ったが最後、ベールに抹殺されるぞ」
「あたくしの身を案じてくだいますの?」
「おまえと一緒に俺も殺されかねん」
「あら旦那様、それならあたくしは本望です」
「冗談はよせ」
アスタロトはヴィヴィアンを抱き寄せ、優しく髪をなでてやった。
「これからは、おまえにあまり寂しい思いをさせないようにする」
ヴィヴィアンはふくれ面をして、
「そんなお言葉を鵜呑みにするほどうぶな娘じゃございません。どうせ三日もすれば地獄を抜け出して、地上で乙女をたぶらかしてお遊びになるのでしょう」
「おまえだってメルランにちょっかいを出したくせに」
「妬(や)けますか?」
「少しはな。おまえは俺だけを見てるのかと思っていたよ」
ヴィヴィアンの耳に触れ、青玉のイヤリングを親指でいじる。ベールにそれを拾われなければ、アスタロトだってヴィヴィアンの仕業だとは気がつかなかっただろう。
「それにしてもイヤリングを落としてくるなんて失敗をするとは、おまえにしては珍しい」
「失敗ではありません」
「なに?」
「落とし物の一つもしておけば、いずれこうして旦那様の知るところとなるはずだと。あたくしとマーリンとのことを知ったときに、あなた様がどんなお顔をなさるのか、見てみたかっただけのことです」
「女は恐ろしい」
アスタロトはもはや苦笑いするしかない。ヴィヴィアンから手を離した。
「女が恐ろしいわけではありませんわ。あたくしは恐ろしい女ですけれど」
「自分で言うな。おまえのおかげで、俺はどうやらベールの夜のオモチャに逆戻りしなくちゃならん」
「え?」
ヴィヴィアンの表情が曇った。しかし、アスタロトから事情を聞くと、じき元のように妖艶に微笑する。
「そのようなこと、お気に病まずとも、すべてこのヴィヴィアンにお任せくださいませ、旦那様――」
一体このメイド、何をたくらんでいるものやら。
8
「旦那様、お電話です」
執事に呼ばれ、電話機の前に立って差し出された受話器を取った。
「もしもし?」
『アスタルテ、おまえ何をした!?』
途端に受話口からベールの怒声が響いた。慌てて受話器を耳から離す。
「何の話だベール」
『何の話だと! おまえ――ことをして、地獄を壊滅させ――つもりか!?』
ベールの声はかすれたり切れ切れになったりしていた。やけにノイズが多い。
「よくわからんが、それより俺のそっちへの引越しはいつにすればいいんだ?」
『それどころじゃない!! 自殺を志願するのでなければ当分自分の領地で大人しくしていろ。間違っても私の前に姿を見せるなよ!』
受話口から聞こえてきた爆発音と共に、通話は切れてしまった。
チン、
と受話器を置いて、アスタロトは長椅子でしどけなく寝そべっているヴィヴィアンを振り返った。
「どうやった」
「東方王様の妹君にお会いして参りました」
「アナトにか」
「ええ。旦那様が東方王様とヨリをお戻しになるつもりだとお話したら、あっという間に兄君の元へ飛んでいかれて。今ごろは、旦那様を探し出して息の根を止めんとばかりに、東方王様の領地中を焼き払っていらっしゃるでしょう」
「相変わらず、あいつの嫉妬は世界規模だな」
「それだけ兄君を愛していらっしゃるということです」
「俺には理解しかねる」
アスタロトはヴィヴィアンのいる長椅子に腰を下ろした。甘えてくる彼女の頭を膝に乗せ、
「さあ、そろそろメルランの居場所とレメゲトンの在り処(ありか)を教えなさい」
ヴィヴィアンは胸に提げていた金のペンダントを襟の下から取り出した。細い鎖に小さなロケットが付いたものである。
アスタロトはロケットのふたを開け、中に入っていた似姿を見てため息をついた。
「やれやれ、女になってベールとヨリを戻すのだけはご免だが、男になったらなったで、そのうちおまえにこうやって閉じ込められてしまいそうだな。俺はただ自由でいたいだけなのに」
レメゲトンを携えたメルランがそこにいた。ロケットにしまわれた似姿の内側から、半泣きでこちらに助けを求めているのだった。
アスタロトはメイドの手を借り、悠々とした動作で外套(がいとう)をまとった。
「旦那様、お帰りはいつ?」
「ま、そうだな、夕食には間に合わせよう」
「約束してくださいます?」
「約束する」
「きっとでございますよ」
「ああ、きっとだ」
アスタロトはメイドの右手を取った。その甲にキスをする。
メイドの名はヴィヴィアンといった。ヴィヴィアンは、美しい目元を弦月のように細めて微笑んだ。
「あらうれしい」
「ふふ」
アスタロトはいたずらっぽく笑い、ヴィヴィアンの手を離した。ふと彼女の顔を見て、おやと気づいた。
「ヴィヴィアン、もう片方のイヤリングはどうしたんだ」
ヴィヴィアンの左耳では小さな青玉が光っているが、右の方には見当たらない。
「なくしたのかね」
「ええ、ちょっと」
「ふうん、今度新しいのを見つくろってきてやろう」
「まあ、旦那様、あたくしのために」
「おまえは有能で実によく働いてくれる、当家の大切なメイドだからな」
「まあ」
ヴィヴィアンは期待が外れたのか、すねたように、ぷっと頬をふくらませた。SPANISCHE FLIEGE D6
アスタロトは苦笑し、肩をすくめて玄関を出て行った。館の門の外で馬車が待っている。ベールが寄越したものだろう。近寄ると、馭者(ぎょしゃ)がうやうやしく一礼し、
「お待ち申し上げておりました」
「おまえは東方王の?」
「はい。アスタルテ王妃――」
と言いかけたら、アスタロトに射殺さんばかりの目つきでにらまれたので、慌てて言い直した。
「ア、アスタロト大公爵閣下を禁書室へお連れいたすようにと申しつけられて参りました」
「ではとっとと出発しよう」
アスタロトは勝手に車の戸を開けて乗り込んだ。
馭者が一鞭くれれば漆黒の馬たちは静かに走り出す。いななく声はおろか足音すら聞こえない。
光という光の届かない黒々した地獄の空には、今日は緑色の月が昇っている。あれは悪魔の君主サタンの右目だ。足元さえ危うい薄暗闇を、馬たちは難なく駆けていく。アスタロトの広大な所領を出て東へ、東へ。
地獄の東側一帯を治めるのは東方王ベールである。その領地の広さといったら、アスタロトの所領が小さな庭に見えてしまうほど。ベールが悪魔の中でもトップクラスの実力者であることは言を待たない。
馬車に揺られて連れて行かれた先は、陰気な雰囲気のする館であった。黒い格子門の内も外もひっそりと静まり返り、妖魔の子一匹歩いていない。ここもベールの財産の一つである。
「いつもはこのように閑散としてはおりませんが」
馭者がアスタロトを中へ案内しながら説明してくれる。
「ここ数日、東方王様が付近を封鎖なさっております」
「ベールは俺に何の用があるというんだ?」
「それは直接東方王様の口からお聞きくださいませ」
と、先方を見れば、長くほの暗い廊下の奥から当のベールが姿を現した。四十を過ぎたくらいの、ひょろりと背が高いばかりでさえない男の格好をしているが、目つきだけは威圧感があって鋭い。
アスタロトはあからさまに、
(いやなやつが出てきた)
とでも言いたそうに眉をひそめた。
ベールはこちらへ歩み寄ってきた。
「やあ大公爵、ご機嫌うるわしゅう」
「たった今、すべてが、うるわしくなくなった!」
「君は怒った顔も魅力的だ、男でさえなければな」
馭者を下がらせ、アスタロトと二人きりになった。
「どうだね、妻よ、久しぶりに我が家へ帰った気分は」
「なにが我が家だ。俺には我が君から拝領した土地も財産もある。いつまでもおまえに従っていると思うなよ」
「おまえは私と正式に別れたわけではない。裁判は凍結されたままのはずだ」
「それだ。なぜいつまで経っても再開されない?」
「――おまえが、気まぐれに男になってしまったからだろうが」
ベールは白い目でアスタロトを見た。
たとえば、十七世紀、ミルトンによって書かれた叙情詩「失楽園」においては、アスタロトはベールの妻アスタルテとして登場し、女性として描かれている。ただし気の赴くままに、男性、女性、どちらの性(あるいは両方)にでもなれる、とも言われる。
さらに悪魔アスタロトの起源をさかのぼると、紀元前に地中海周辺地域で信仰された豊穣多産の女神アスタルテへとたどり着く。のちのベールも豊穣神バアルとして崇拝されていた。二人はこのころから夫婦である。ウガリットやカナンの神話において、切っても切れない仲であった。
「誰のせいで俺は男になったと思ってるんだ」
と、アスタロトはベールをにらみ返した。
「誰のせいだ」
「貴様のせいだ貴様の」
「なぜ」
「――俺は、その理由をこれまでに八百六十九回は説明したはずだが」
「嫌なことはすぐに忘れる主義だ」
アスタロトは、怒りのあまりに体が爆発しそうになった。決して比喩(ひゆ)ではない。悪魔にとって人間の姿をした肉体なんて所詮かりそめのもの。怒り狂って本性を現せば、何が起こるかわからない。
「貴様は昔からそうだ! 俺がまだ地中海で女神をやっていたときだって」
「何かしたかな」
全く記憶にございません。と言わんばかりに、ベールは首をかしげる。
「貴様妻のある身で! あろうことか! 自分の妹と関係を持っただろうが!!」
ウガリット神話におけるバアルには、美しい妹アナトがいるとされる。アナトは戦いの女神で非常に攻撃的な性格の反面、兄バアルに対してはとても従順で熱烈な愛情を抱いていた。アスタルテとともにバアルに密接な関係のある女神である。
「ああ、アナトのことか」
と、ベールはやっと思い出したように言った。
ところで、ベールを怒鳴りつけているアスタロトの容貌に変化が起こり始めている。
見る見るうちに、アスタロトの顔や首筋の輪郭がほっそりと滑らかなラインを描くように変わっていく。体型についても、肩は華奢に、胸と腰の周りは逆にふっくらとしてきた。
「確かにそんなこともあったが、過ぎたことだ。アスタルテ、おまえには悪いことをした」
「その言葉を何回聞いたと思ってる!」
と言う声も、さっきまでの男の声から一オクターブ高くなっている。
アスタロトは自分の声を聞いてようやく体の変化に気がついたらしい。まず手足を見て、次に胸元を見て、最後にのどを触った。あるべき突起がそこにない。
「ベール貴様、何をした」
「アスタルテ、私は何もしていないさ。おまえが心を高ぶらせて、自分で勝手に女に戻ったのだよ」
「忌々しい」
「しばらくそのままでいてはどうだね。久しぶりに美しき我が妻の顔を見ることができてうれしいものだ」
「断じて断る!」
アスタロトがぱちんと指を鳴らす。すると一瞬にして男性の姿に戻った。苦虫を噛みつぶしたような顔をして言った。
「もういい、ベール、本題に入れ」
ベールは肩をすくめ、アスタロトの先に立って歩き出した。
「ついて来い」
2
連れて行かれたのは館の北側に位置する禁書室と呼ばれる書庫である。
ここには、地上で書かれた本の中で、教会によって発禁・焚書処分となったものが集められている。道徳観念を狂わせたり、神の存在を疑わせるような奇書や悪書。または悪魔を召還するための書、グリモワールの類など。処分されたそれらの本から一冊ずつ保存されているのである。
中には悪魔が人間を堕落させるために書いた本も混じっているし、まれな才能の人間が書いた物もある。SPANISCHE FLIEGE D5
2013年8月12日星期一
再訪
一度ベイルの迷宮で探索をした後、ベイルの町の冒険者ギルドに出た。
迷宮に入ったのはアイテムを溜め込むためだ。
ギルドでの売却には三割アップが有効なので、十万ナールの黄魔結晶は十三万ナールで売れるだろう。lADY Spanish
さすがに何もなく三万ナールも増えると、ギルドの職員が不審に思う可能性があるのではないだろうか。
金貨が十三枚だろうから見ればすぐに分かる。
なるべく不審を抱かれないようにするには、たくさんのアイテムを一気に売り払うのが得策だろう。
あとは売る場所も考えなければならない。
今回は初めて魔結晶を売却するので問題はないが、次からは魔結晶のできるスピードに不審を持たれる可能性もある。
俺には結晶化促進三十二倍のスキルがあるから、他人の三十二倍の速さで魔力がたまる。
人の多いところでドサクサにまぎれて売ってしまうのがいいだろう。
「魔結晶って冒険者ギルドでも売れるのか」
「はい。どこのギルドでも可能だと思います」
ロクサーヌに確認する。
冒険者ギルドに売れるのなら、帝都およびクーラタルにある探索者ギルドと冒険者ギルドだけで四箇所の売却先ができる。
四箇所のローテーションでもそれなりに少なく見せることができるだろう。
ときおりは他の町も織り交ぜてやれば完璧だ。
ベイルの冒険者ギルドのカウンターでトレーの上に黄魔結晶を置いた。
黄魔結晶を覆い隠すように、他のドロップアイテムを盛りつける。
「買取を頼む」
「かしこまりました」
受付のアラサー女性がトレーを持って奥に消えた。
少しどきどきしながら待つ。
戻ってきたのは、いつもと同じくらいの時間だろうか。いつもより時間がかかっただろうか。
トレーの上に金貨が十三枚あるのをいち早く目で数える。
受付の女性が不審に思っている様子はない。
大丈夫そうだ。
金貨をアイテムボックスにすばやく入れた。
銀貨と銅貨は巾着袋に入れ、カウンターから離れる。
「では行くか」
「はい」
カウンターの職員は基本的に買取金額を云々することはないようだ。
探索者や冒険者にとっては収入源だから、あまり触れないようにしているのだろう。
詮索されれば生活レベルなども分かってしまう。
触れないだけで、実際にはきっちり把握されているのかもしれないが。
外に出て、しばらくぶりにベイルの町を歩いた。
特に変わったところはないようだ。
「店主にお会いしたい」
奴隷商人の商館に着き、出てきた男に告げる。
店主の名前は、忘れた。
「こちらへどうぞ」
一度引っ込んだ男が案内する。
奥の部屋に通された。
あれ?
いきなり奥の部屋に通されたのは、盗みを働いて奴隷に落とされた村の人を売りに来た最初のときだけだ。
ロクサーヌを売りに来たと思われてないか。
ちらりとロクサーヌの方を見るが、表情に変化はない。
昔自分がいた奴隷商館でも大丈夫のようだ。
俺は座ったが、ロクサーヌは控えて立っている。
どうなんだろうか。
こういうときは横に座らせない方がいいのだろうか。
「立ってる?」
「はい。その方がいいと思います」
何も知らない俺よりもロクサーヌの判断の方が妥当だろう。
俺はうなずいてそのままにさせた。
「ようこそいらっしゃいました、ミチオ様」
すぐに奴隷商人が部屋に来る。
鑑定で名前を確認した。CROWN 3000
そうだ。アランだった。
「急にきてすまないな、アラン殿」
「いえいえ。いつでもお越しください。さあ、どうぞ」
立って挨拶すると、あらためてソファーを勧められる。
使用人がハーブティーを二つ持ってきて、俺と奴隷商人の前に置いた。
ロクサーヌの分はないらしい。
奴隷だと分かっているからなのか、売りに来たと思われているのか。
「ロクサーヌは非常によくやってくれている。よい戦士を紹介してくれたと感謝しているところだ」
とりあえず、売りに来たのではないと釘を刺しておく。
変な風に思われて、変な対応をされても困る。
「さようでございますか。私どもとしても面目をほどこせます」
「店主が勧めてくれたとおりだった」
「何か不都合な点はございませんでしょうか」
「何もないな」
どうせ本人がいるのだから、めったなことは言えない。
それは奴隷商人もよく分かっているだろう。
「ようございました」
「ロクサーヌもよく働いてくれるのでな。そろそろ次のパーティーメンバーをと考えている」
「なによりのことでございます」
「少し尋ねたいが、鍛冶師の奴隷を買うことはできるか」
こちらの手をさらすみたいで問題かもしれないが、しょうがない。
素直に訊いてみる。
雑談の中で巧く聞き出すとか、俺には無理だ。
「鍛冶師をですか?」
「そうだ」
「そうですね……。不可能ではありませんが、なかなか難しくはございます」
店主は少しだけ考えて答えた。
やはり特定のジョブとなると難しいのだろう。
「そんなものか」
「モンスターカードの融合は失敗することが多いのはご存知でしょうか」
「知っている」
「奴隷の鍛冶師であってもそれは変わりません。失敗が続くとやがて所有者は奴隷を疑うようになります。専用の鍛冶師を抱えたがる貴族のかたなどは多いのですが、あまり双方が幸福な結果に終わった話はないようです」
直接依頼するのと同じ問題があるわけか。
奴隷がモンスターカードをちょろまかしても捌けるかどうかは不明だが。
まあ、命令してやらせたのに失敗続きでは怒りたくもなるだろう。
「なるほど」
「ドワーフの方でもそれが分かっておりますから、奴隷になる際には鍛冶師のジョブを変更してからなることが行われています」
「となると、鍛冶師の奴隷はいないのか」
「まったくいないわけではございませんが、価格の方がどうしても高くなってしまいます」
なり手が少ないから値段が上がるということか。
しかし高い金を出して買ったのに失敗続きではますます腹が立つだろう。
なんか、負のスパイラルに入っているような気がする。
評判が悪いからなり手が減る。
供給が少ないから値段が上がる。
安ければあきらめもつくが、せっかく高い金を出して買ったのにうまくいかなければもっと腹が立つ。
怒りにまかせて鍛冶師である奴隷につらくあたるから、悪い評判が広まってさらになり手が減ってしまう。
「まあそこまでして鍛冶師がほしいわけではない。鍛冶師でない他のドワーフはどうだろう。前衛として役に立ちそうだが」
鍛冶師の奴隷を買うのは難しいらしい。
しかし、元々それでもよかった。
ジョブを指定してこのジョブの奴隷をといって求めれば、鍛冶師でなくとも高くなるだろう。
俺の場合、パーティージョブ設定が使えるのだから、ジョブを指定することに意味はない。
鍛冶師のジョブを獲得できるドワーフであれば、問題ないはずだ。
「ドワーフは力強さを持つ種族ですから、前衛として役に立ちましょう」
「やはりそうか」
この手の話も多少はロクサーヌから聞いた。
あくまで雑談に留まる範囲で。VIVID XXL
ドワーフの奴隷が買えそうかとか、深い部分は尋ねていない。
そういうことをロクサーヌに訊くのはちょっと憚られる。
ドワーフや、ロクサーヌのような獣人、竜人は力が強く前衛に向くそうだ。
というか、人間が非力すぎじゃね?
「しかしながら、残念なことに当館には現在ドワーフが一人しかおりません。彼女は性格的にあまり荒事には向いていないかと思います」
「残念だな」
彼女ということは女性だが、ここで飛びつくわけにはいかないだろう。
足元を見られる。
平静に。
「もしもドワーフがよろしければ、他の店に紹介状を書くこともできます。それを持って、他の店をあたってみてはいかがでしょうか」
「そんなことをしてもらってよいのか?」
「かまいません」
「商売敵なのに」
俺はいらない客なんだろうか。
あの客は安く買い叩くからいらない、とか。
具体的には三割引きで。
「この商売、買っていただくお客様にはあまりこと欠きません。むしろ大変なのは仕入れでございます。私どもも独自の仕入れルートを持っております。ベイル一帯と、南側にかけての平原が私どもの商圏です。仕入れる地域が異なる店は必ずしも商売敵ではありません。必要なときには融通しあうこともございます」
「そういうものなのか」
商売するものがものだけに、特別な事情があるようだ。
「帝都にある私どもと仲のよい商館を紹介いたしましょう。今の時期ですと、数がそろっていることはないかと思いますが」
「そうなのか?」
「春は農繁期でもありますから」
忙しいなら需要があるのでは、と思ったが、そうでもないのか。
忙しい間は働き手を売りに出したりはしないだろう。
口減らしに売るとしたら、農作業が一段落ついてからだ。
買う側にしても、忙しいからとあわてて買うようでは駄目に違いない。
必要なだけの奴隷は前もって準備しておかなければならない。
その程度の才覚もないようでは、奴隷を買えるほどの身分になることは難しいだろう。
「なるほど、な」
勝手に解釈して独りで納得する。
違っていたとしても不都合はない。
問題は、供給がないから相場が高いのか、取引が活発でないから相場が安いのかだ。
「紹介させていただく帝都の商館も間違いのない商売をする店でございます。満足のいただける取引ができるかと思います」
「そう願いたい」
「その前に、一応、うちにいるドワーフと、他に前衛を務めることのできる者もおりますれば、ご覧いただけますでしょうか」
「そうだな。そうしよう」
自然な形で向こうの提案に乗った。
上出来だ。
がっつくよりいいだろう。
奴隷商人も商売だから、できれば見て買ってほしいと考えているはずだ。
「ミチオ様には一度見ていただいた者もおります。その者たちは除外いたしましょうか」
「そうしてもらおうか」
ロクサーヌを紹介されたときに、女性の奴隷はあらかた見たのだった。
あの中に特によいと思える人材はいなかった。
「そうすると、男性ばかりになってしまいますが」
「やむをえないだろう」
しょうがない。
やっぱり前衛はおっさんでしょうがないのか。
まあ、どうしてもドワーフがいいといって断ることもできる。
「ありがとうございます」
「ん? ドワーフには会っていないと思うが」
言ってから、しまったと反省した。
ドワーフが女性であることに注目していたのがばれてしまう。
「彼女は最近来たばかりですので」
「そうか」
「いえ。ここへ来てから日も浅いですが、物覚えもよく、すでにブラヒム語も習得しております。教育の行き届かないところはないと思います」
しかし、あわてたのは奴隷商人の方だった。
少しあせったようにあたふたとフォローする。
なるほど。まだ教育ができていないだろうと言えば、ウィークポイントにはなるわけか。
彼女の売り材料を知ることができたので、プラマイゼロだ。
ロクサーヌはブラヒム語と主人に対する礼儀作法をここで教わったらしい。
それができていない奴隷は困る。
奴隷商人は準備をしてくると言って消えた。夜狼神
ロクサーヌを座らせ、手をつけなかったハーブティーを渡す。
飲まなかったのはたまたまで、ロクサーヌを引き取りに来たときのように変な薬が入っているのを疑ったわけではない。
結果からいえば、あの奴隷商人のお薦めは正解だった。
信用できる商人だと考えてもいいだろう。
「前衛について何か希望はあるか」
「ご主人様のお好きなようになされればよいと思います」
好きにしろというのが一番困るのだが。
ロクサーヌといろいろ話していると、奴隷商人が戻ってきた。
「ではまず男性の候補者から見ていただきたいと思います。失礼ながら、彼女にはここで待っていてもらえますか。男性ばかりですので」
「そうだな。ロクサーヌのような美人が現れたら、どうなるか分からないな」
「……あ、あの」
「ロクサーヌは待っていてくれ」
「かしこまりました」
男の奴隷の前に彼女を連れて行ったのでは刺激が大きすぎるのだろう。
奴隷身分に落とされて。商館に長いこと閉じ込められて。突然ロクサーヌのような美人が目の前に現れたら、俺なら謀叛を考える。
殿中でござる。
奴隷商人に案内されて、二階に上った。
部屋に入る。
……えっと。
ここはどこの組事務所でしょうか?
思わずそう尋ねたくなるようなつらがまえの面々が。
確かに前衛向きではあるのでしょうが。
怖い。
というか、無理。
こいつらに命令していうことをきかせるとか、難易度高すぎだろう。
中に入った俺をジロリと睨みつけるその視線だけで殺されそうだ。
今この場で反乱を起こしかねないと思うのだが、大丈夫なんだろうか。
ロクサーヌを連れてこなくてよかった、というかむしろ、護衛に必要だったかもしれない。
飛びかかれば俺の腰に差した銅の剣をすぐにも抜けるだろう。
置いてくればよかった。
殿中でござる。
ご乱心なさるな、殿中でござる。
吟味もそこそこに逃げ出した。
圧迫面接というのは聞いたことがあるが、試験官が圧迫される面接というのは初めてだ。
俺のことを買うよな、と凄まれたら思わずうなずきそうだ。
部屋の中にいた何人かは候補者ではなく、店側のボディーガードだったようだが、何の慰めにもなりゃしない。
取り締まる側のマル暴の刑事も暴力団員と変わらない凶暴な顔つきになる、という話を聞いたことがあるが、それと同じ感じだろう。
奴隷を持つということを、俺はなめていた。
俺があんな奴隷を持ったら、数日のうちに下克上が発生するに違いない。
奴隷を持つものにも才覚が必要なのだ。
「いかがでしたしょうか」
部屋の外に出ると、奴隷商人が訊いてくる。
いかがもくそもあるかと言いたい。
無理だから。
不可能だから。
ありえないから。
「彼らを使うには、俺自身の才覚が足らぬようだ」
謙遜ではなく本気でそう思う。
「個別に話を聞きたい奴隷がいれば、呼び出しますが」
呼び出さなくていい。
この商人はやり手のように見えて何も考えていないに違いない。
よく確認すれば、ひょっとしたら気のよさそうな人もいたのかもしれない。
しかし、暴力団の組事務所に連れて行かれて、居並ぶ組員の中から怖くなさそうな鉄砲玉を選べと言われても無理な相談だ。
怖くなさそうなやつがいたとしても、前衛としてどうかという問題がある。
俺が前衛の務まる人物をと注文したから、こうなったのだろうし。
前衛として有用なら目をつぶるべきなのか。頂点3000
前途は多難なようだ。
迷宮に入ったのはアイテムを溜め込むためだ。
ギルドでの売却には三割アップが有効なので、十万ナールの黄魔結晶は十三万ナールで売れるだろう。lADY Spanish
さすがに何もなく三万ナールも増えると、ギルドの職員が不審に思う可能性があるのではないだろうか。
金貨が十三枚だろうから見ればすぐに分かる。
なるべく不審を抱かれないようにするには、たくさんのアイテムを一気に売り払うのが得策だろう。
あとは売る場所も考えなければならない。
今回は初めて魔結晶を売却するので問題はないが、次からは魔結晶のできるスピードに不審を持たれる可能性もある。
俺には結晶化促進三十二倍のスキルがあるから、他人の三十二倍の速さで魔力がたまる。
人の多いところでドサクサにまぎれて売ってしまうのがいいだろう。
「魔結晶って冒険者ギルドでも売れるのか」
「はい。どこのギルドでも可能だと思います」
ロクサーヌに確認する。
冒険者ギルドに売れるのなら、帝都およびクーラタルにある探索者ギルドと冒険者ギルドだけで四箇所の売却先ができる。
四箇所のローテーションでもそれなりに少なく見せることができるだろう。
ときおりは他の町も織り交ぜてやれば完璧だ。
ベイルの冒険者ギルドのカウンターでトレーの上に黄魔結晶を置いた。
黄魔結晶を覆い隠すように、他のドロップアイテムを盛りつける。
「買取を頼む」
「かしこまりました」
受付のアラサー女性がトレーを持って奥に消えた。
少しどきどきしながら待つ。
戻ってきたのは、いつもと同じくらいの時間だろうか。いつもより時間がかかっただろうか。
トレーの上に金貨が十三枚あるのをいち早く目で数える。
受付の女性が不審に思っている様子はない。
大丈夫そうだ。
金貨をアイテムボックスにすばやく入れた。
銀貨と銅貨は巾着袋に入れ、カウンターから離れる。
「では行くか」
「はい」
カウンターの職員は基本的に買取金額を云々することはないようだ。
探索者や冒険者にとっては収入源だから、あまり触れないようにしているのだろう。
詮索されれば生活レベルなども分かってしまう。
触れないだけで、実際にはきっちり把握されているのかもしれないが。
外に出て、しばらくぶりにベイルの町を歩いた。
特に変わったところはないようだ。
「店主にお会いしたい」
奴隷商人の商館に着き、出てきた男に告げる。
店主の名前は、忘れた。
「こちらへどうぞ」
一度引っ込んだ男が案内する。
奥の部屋に通された。
あれ?
いきなり奥の部屋に通されたのは、盗みを働いて奴隷に落とされた村の人を売りに来た最初のときだけだ。
ロクサーヌを売りに来たと思われてないか。
ちらりとロクサーヌの方を見るが、表情に変化はない。
昔自分がいた奴隷商館でも大丈夫のようだ。
俺は座ったが、ロクサーヌは控えて立っている。
どうなんだろうか。
こういうときは横に座らせない方がいいのだろうか。
「立ってる?」
「はい。その方がいいと思います」
何も知らない俺よりもロクサーヌの判断の方が妥当だろう。
俺はうなずいてそのままにさせた。
「ようこそいらっしゃいました、ミチオ様」
すぐに奴隷商人が部屋に来る。
鑑定で名前を確認した。CROWN 3000
そうだ。アランだった。
「急にきてすまないな、アラン殿」
「いえいえ。いつでもお越しください。さあ、どうぞ」
立って挨拶すると、あらためてソファーを勧められる。
使用人がハーブティーを二つ持ってきて、俺と奴隷商人の前に置いた。
ロクサーヌの分はないらしい。
奴隷だと分かっているからなのか、売りに来たと思われているのか。
「ロクサーヌは非常によくやってくれている。よい戦士を紹介してくれたと感謝しているところだ」
とりあえず、売りに来たのではないと釘を刺しておく。
変な風に思われて、変な対応をされても困る。
「さようでございますか。私どもとしても面目をほどこせます」
「店主が勧めてくれたとおりだった」
「何か不都合な点はございませんでしょうか」
「何もないな」
どうせ本人がいるのだから、めったなことは言えない。
それは奴隷商人もよく分かっているだろう。
「ようございました」
「ロクサーヌもよく働いてくれるのでな。そろそろ次のパーティーメンバーをと考えている」
「なによりのことでございます」
「少し尋ねたいが、鍛冶師の奴隷を買うことはできるか」
こちらの手をさらすみたいで問題かもしれないが、しょうがない。
素直に訊いてみる。
雑談の中で巧く聞き出すとか、俺には無理だ。
「鍛冶師をですか?」
「そうだ」
「そうですね……。不可能ではありませんが、なかなか難しくはございます」
店主は少しだけ考えて答えた。
やはり特定のジョブとなると難しいのだろう。
「そんなものか」
「モンスターカードの融合は失敗することが多いのはご存知でしょうか」
「知っている」
「奴隷の鍛冶師であってもそれは変わりません。失敗が続くとやがて所有者は奴隷を疑うようになります。専用の鍛冶師を抱えたがる貴族のかたなどは多いのですが、あまり双方が幸福な結果に終わった話はないようです」
直接依頼するのと同じ問題があるわけか。
奴隷がモンスターカードをちょろまかしても捌けるかどうかは不明だが。
まあ、命令してやらせたのに失敗続きでは怒りたくもなるだろう。
「なるほど」
「ドワーフの方でもそれが分かっておりますから、奴隷になる際には鍛冶師のジョブを変更してからなることが行われています」
「となると、鍛冶師の奴隷はいないのか」
「まったくいないわけではございませんが、価格の方がどうしても高くなってしまいます」
なり手が少ないから値段が上がるということか。
しかし高い金を出して買ったのに失敗続きではますます腹が立つだろう。
なんか、負のスパイラルに入っているような気がする。
評判が悪いからなり手が減る。
供給が少ないから値段が上がる。
安ければあきらめもつくが、せっかく高い金を出して買ったのにうまくいかなければもっと腹が立つ。
怒りにまかせて鍛冶師である奴隷につらくあたるから、悪い評判が広まってさらになり手が減ってしまう。
「まあそこまでして鍛冶師がほしいわけではない。鍛冶師でない他のドワーフはどうだろう。前衛として役に立ちそうだが」
鍛冶師の奴隷を買うのは難しいらしい。
しかし、元々それでもよかった。
ジョブを指定してこのジョブの奴隷をといって求めれば、鍛冶師でなくとも高くなるだろう。
俺の場合、パーティージョブ設定が使えるのだから、ジョブを指定することに意味はない。
鍛冶師のジョブを獲得できるドワーフであれば、問題ないはずだ。
「ドワーフは力強さを持つ種族ですから、前衛として役に立ちましょう」
「やはりそうか」
この手の話も多少はロクサーヌから聞いた。
あくまで雑談に留まる範囲で。VIVID XXL
ドワーフの奴隷が買えそうかとか、深い部分は尋ねていない。
そういうことをロクサーヌに訊くのはちょっと憚られる。
ドワーフや、ロクサーヌのような獣人、竜人は力が強く前衛に向くそうだ。
というか、人間が非力すぎじゃね?
「しかしながら、残念なことに当館には現在ドワーフが一人しかおりません。彼女は性格的にあまり荒事には向いていないかと思います」
「残念だな」
彼女ということは女性だが、ここで飛びつくわけにはいかないだろう。
足元を見られる。
平静に。
「もしもドワーフがよろしければ、他の店に紹介状を書くこともできます。それを持って、他の店をあたってみてはいかがでしょうか」
「そんなことをしてもらってよいのか?」
「かまいません」
「商売敵なのに」
俺はいらない客なんだろうか。
あの客は安く買い叩くからいらない、とか。
具体的には三割引きで。
「この商売、買っていただくお客様にはあまりこと欠きません。むしろ大変なのは仕入れでございます。私どもも独自の仕入れルートを持っております。ベイル一帯と、南側にかけての平原が私どもの商圏です。仕入れる地域が異なる店は必ずしも商売敵ではありません。必要なときには融通しあうこともございます」
「そういうものなのか」
商売するものがものだけに、特別な事情があるようだ。
「帝都にある私どもと仲のよい商館を紹介いたしましょう。今の時期ですと、数がそろっていることはないかと思いますが」
「そうなのか?」
「春は農繁期でもありますから」
忙しいなら需要があるのでは、と思ったが、そうでもないのか。
忙しい間は働き手を売りに出したりはしないだろう。
口減らしに売るとしたら、農作業が一段落ついてからだ。
買う側にしても、忙しいからとあわてて買うようでは駄目に違いない。
必要なだけの奴隷は前もって準備しておかなければならない。
その程度の才覚もないようでは、奴隷を買えるほどの身分になることは難しいだろう。
「なるほど、な」
勝手に解釈して独りで納得する。
違っていたとしても不都合はない。
問題は、供給がないから相場が高いのか、取引が活発でないから相場が安いのかだ。
「紹介させていただく帝都の商館も間違いのない商売をする店でございます。満足のいただける取引ができるかと思います」
「そう願いたい」
「その前に、一応、うちにいるドワーフと、他に前衛を務めることのできる者もおりますれば、ご覧いただけますでしょうか」
「そうだな。そうしよう」
自然な形で向こうの提案に乗った。
上出来だ。
がっつくよりいいだろう。
奴隷商人も商売だから、できれば見て買ってほしいと考えているはずだ。
「ミチオ様には一度見ていただいた者もおります。その者たちは除外いたしましょうか」
「そうしてもらおうか」
ロクサーヌを紹介されたときに、女性の奴隷はあらかた見たのだった。
あの中に特によいと思える人材はいなかった。
「そうすると、男性ばかりになってしまいますが」
「やむをえないだろう」
しょうがない。
やっぱり前衛はおっさんでしょうがないのか。
まあ、どうしてもドワーフがいいといって断ることもできる。
「ありがとうございます」
「ん? ドワーフには会っていないと思うが」
言ってから、しまったと反省した。
ドワーフが女性であることに注目していたのがばれてしまう。
「彼女は最近来たばかりですので」
「そうか」
「いえ。ここへ来てから日も浅いですが、物覚えもよく、すでにブラヒム語も習得しております。教育の行き届かないところはないと思います」
しかし、あわてたのは奴隷商人の方だった。
少しあせったようにあたふたとフォローする。
なるほど。まだ教育ができていないだろうと言えば、ウィークポイントにはなるわけか。
彼女の売り材料を知ることができたので、プラマイゼロだ。
ロクサーヌはブラヒム語と主人に対する礼儀作法をここで教わったらしい。
それができていない奴隷は困る。
奴隷商人は準備をしてくると言って消えた。夜狼神
ロクサーヌを座らせ、手をつけなかったハーブティーを渡す。
飲まなかったのはたまたまで、ロクサーヌを引き取りに来たときのように変な薬が入っているのを疑ったわけではない。
結果からいえば、あの奴隷商人のお薦めは正解だった。
信用できる商人だと考えてもいいだろう。
「前衛について何か希望はあるか」
「ご主人様のお好きなようになされればよいと思います」
好きにしろというのが一番困るのだが。
ロクサーヌといろいろ話していると、奴隷商人が戻ってきた。
「ではまず男性の候補者から見ていただきたいと思います。失礼ながら、彼女にはここで待っていてもらえますか。男性ばかりですので」
「そうだな。ロクサーヌのような美人が現れたら、どうなるか分からないな」
「……あ、あの」
「ロクサーヌは待っていてくれ」
「かしこまりました」
男の奴隷の前に彼女を連れて行ったのでは刺激が大きすぎるのだろう。
奴隷身分に落とされて。商館に長いこと閉じ込められて。突然ロクサーヌのような美人が目の前に現れたら、俺なら謀叛を考える。
殿中でござる。
奴隷商人に案内されて、二階に上った。
部屋に入る。
……えっと。
ここはどこの組事務所でしょうか?
思わずそう尋ねたくなるようなつらがまえの面々が。
確かに前衛向きではあるのでしょうが。
怖い。
というか、無理。
こいつらに命令していうことをきかせるとか、難易度高すぎだろう。
中に入った俺をジロリと睨みつけるその視線だけで殺されそうだ。
今この場で反乱を起こしかねないと思うのだが、大丈夫なんだろうか。
ロクサーヌを連れてこなくてよかった、というかむしろ、護衛に必要だったかもしれない。
飛びかかれば俺の腰に差した銅の剣をすぐにも抜けるだろう。
置いてくればよかった。
殿中でござる。
ご乱心なさるな、殿中でござる。
吟味もそこそこに逃げ出した。
圧迫面接というのは聞いたことがあるが、試験官が圧迫される面接というのは初めてだ。
俺のことを買うよな、と凄まれたら思わずうなずきそうだ。
部屋の中にいた何人かは候補者ではなく、店側のボディーガードだったようだが、何の慰めにもなりゃしない。
取り締まる側のマル暴の刑事も暴力団員と変わらない凶暴な顔つきになる、という話を聞いたことがあるが、それと同じ感じだろう。
奴隷を持つということを、俺はなめていた。
俺があんな奴隷を持ったら、数日のうちに下克上が発生するに違いない。
奴隷を持つものにも才覚が必要なのだ。
「いかがでしたしょうか」
部屋の外に出ると、奴隷商人が訊いてくる。
いかがもくそもあるかと言いたい。
無理だから。
不可能だから。
ありえないから。
「彼らを使うには、俺自身の才覚が足らぬようだ」
謙遜ではなく本気でそう思う。
「個別に話を聞きたい奴隷がいれば、呼び出しますが」
呼び出さなくていい。
この商人はやり手のように見えて何も考えていないに違いない。
よく確認すれば、ひょっとしたら気のよさそうな人もいたのかもしれない。
しかし、暴力団の組事務所に連れて行かれて、居並ぶ組員の中から怖くなさそうな鉄砲玉を選べと言われても無理な相談だ。
怖くなさそうなやつがいたとしても、前衛としてどうかという問題がある。
俺が前衛の務まる人物をと注文したから、こうなったのだろうし。
前衛として有用なら目をつぶるべきなのか。頂点3000
前途は多難なようだ。
2013年8月8日星期四
石像
石化とクリティカルで、戦いは多少楽になった。
とりわけ、石化が発生すれば戦闘は半分終わったようなものだ。
気を抜いてはいけないが。SEX DROPS
元々数匹しかないない団体の魔物のうち一匹が戦えなくなるのだ。
戦局が大きく傾く。
そこにクリティカルまで加われば鬼に金棒だ。
ロクサーヌとミリアたちはうまく連携して、後で倒す方の魔物をミリアが担当できるように動いている。
ただし、石化はあまり発生することはない。
クリティカル率上昇をセットしている俺のクリティカルで魔法の数が減ることよりも少ない。
そこは、ミリアが戦士Lv30になって暗殺者のジョブを取得することに期待しよう。
どちらも運頼みというのが、一つ問題点ではある。
階層の最大数である五匹の魔物が出てきたときに、石化もクリティカルも発生しなかったらどうなるか。
二十階層では問題はないが、石化とクリティカルを頼みに上まで進んでいったときに起こったら、ピンチになるかもしれない。
クリティカル率上昇は五パーセントまでで留めておく所以である。
ボーナスポイントを使う以上、クリティカル率上昇はいつもいつもずっとつけられるわけではない。
今はもう少し伸ばすこともできないではないが、はずしたときとのギャップは小さい方がいいだろう。
「ご主人様、ルーク氏からの伝言メモが残っています。コボルトのモンスターカードを落札したようですね」
「コボルトか。なら明日でいいか」
夕方、探索を終えて家に帰ってくると、ルークからのメモが残っていた。
次の強化は、ヤギのモンスターカード待ちだろうか。
早く落札できればいいのに。
別に戦闘がつらくなってきているわけでもないが。
コボルトのモンスターカードはすぐに使う予定もないので、受け取りに行くのは明日の朝にする。
夕食に取りかかった。
とんかつだ。
パン粉を作るのも肉を切るのもベスタにやってもらう。
「パン粉ができました」
「ありがとう。ベスタが手伝ってくれるので楽だ。ベスタがうちに来てくれて本当によかった」
「こちらこそありがとうございます。何を作っておられるのですか?」
ベスタに手伝ってもらって暇なので、俺はその間にクレープを作ってみた。
牛乳、小麦粉、砂糖、卵を適当に混ぜる。
クレープなんか作ったことはないが、多分牛乳少し多めの柔らかいくらいの感じでいいだろう。
「ちょっとしたテストだ。見ておけ」
「はい」
生地を落とし、フライパンに薄く延ばした。
実験なので作ったのは一枚分だ。
生地を全部投入する。
フライパンの上をとろとろと流れていった。
こころもち柔らかすぎたか。
牛乳はもうちょっと少なめでいいだろう。
失敗というほどでもないが。
フライパンはきっちり温めていたので、すぐに固まっていく。
クレープ屋の店頭で焼いていたのもこんな感じだったような気もする。
初めてなのにここまでできれば十分だろう。
後は折りたたんで……。
あ。失敗した。
焼けたクレープをフライパンからはがそうとするとき、うまくはがれず、くしゃくしゃになってしまった。
もっと慎重にやらないといけないのか。
あるいは、フライパンの上で折りたたんでから取り出すのがいいか。
今日のところはテストだからこれでいい。三体牛鞭
クレープを適当に五つに切る。
最初の一切れを口の中に入れてみた。
お。クレープだ。
普通にクレープができている。
磯辺焼きは無理だが、クレープはできた。
柔らかさは似たようなもんかもしれない。
「試しに作ったものだ。みんなも一切れずつ食べてくれ」
他の四人にも勧める。
「ご主人様がお作りになったものなら、楽しみです」
ロクサーヌが真っ先に次の一切れを取った。
順番が大切らしい。
適当に切ったから、大きさも違うと思うしな。
五等分は大変だ。
「あくまでテストだからな。次はもう少し本格的に作る」
期待されてハードルが上がっても困るが。
「これは、すごいです。さすがご主人様です」
「柔らかくて、甘くて、美味しいです」
「すごい、です」
「美味しいです。こんなにふわふわしていて、こんなにもっちりしていて、こんなに美味しいものがこの世にあるなんて知りませんでした」
セリーとミリア、ベスタも順番に一切れずつ取って食べた。
四人とも喜んでくれるようだ。
普通にちゃんとクレープができたしな。
とりわけベスタに好評だった。
「ベスタはこういうの食べたことなかったのか」
「はい。こんなに美味しいものを食べられる日が来るとは思ってもみませんでした。いつもいつもありがとうございます。ご主人様にはどれだけ感謝しても感謝しきれません」
ベスタには刺激が強すぎたらしい。
まだとんかつもあるのだが。
ベスタは、とんかつにも感激していたが、クレープほどではなかったようだ。
同じ感激では同じに感じなくなってしまうだけかもしれない。
同じ感謝では同じに感じなくなってしまったのかもしれない。
感謝は行為で見せてもらった。
ベスタははじめから積極的ではあったが、最近ではそれに加えて徐々にねっとりとするようにもなってきたと思う。
いい傾向だ。
コボルトのモンスターカードは翌朝受け取った。
予備用で使い道はないのですぐ迷宮に入る。
入った直後、ハルバー二十階層のボス部屋に到着した。
探索は順調に進んでいたらしい。
現れたのは、ハットバットとボスのパットバットだ。
煙が集まって魔物が二匹現れる。
早速雑魚から片づけようと駆け寄った。
と、ハットバットの正面にベスタが立ちふさがる。
何故邪魔をする、と思ったが、ボス戦ではそうするように言ったのだ。
忘れてた。
ありがたいが、微妙にありがたくない。
ちょこまかと飛び回るハットバットの場合、誰かが相手にしているところを横からぶん殴るのも大変ではあるんだよな。
相打ち上等で正面からやりあった方が多分早く倒せる。
どうせデュランダルを持っているのだからダメージはHP吸収でカバーできるし。
まあしょうがない。
何が出てくるか判断してから指示を出して動かすのもワンテンポ遅れるだけだろう。
横から殴ればあまり攻撃はされないから楽ではある。
文句を言ってはいけない。
ハットバットがベスタを攻撃する。
ベスタが剣を当ててこれを受け流し、魔物は右から左に抜けた。
俺はその外側をさらに大回りで追いかけていく。
ハットバットが空中で体勢を整えたところになんとか間に合い、スラッシュを叩き込んだ。
魔物は再度ベスタに体当たりを敢行し、俺とは反対側の左に抜ける。
嫌な方へと動きやがる。
絶対わざとだろう。
というか、当然そう動くか。
あわてて追いかけたが、スラッシュは間に合わない。
次の突撃には予め一歩踏み出し、ベスタがかわしたところにデュランダルをぶち当てた。
おっと。
手ごたえがよかったので、今のはクリティカルになったらしい。
バランスを崩したハットバットが立てなおしたところにもう一撃浴びせる。
魔物がベスタを攻撃した。
ベスタが弾き返したところにデュランダルをぶち当て、さらにもう一発スラッシュを放つ。
ハットバットが墜落した。
ようやく倒せたか。
ハットバットに振り回され、多少時間がかかってしまった。
ここで一息入れることもできず、ボスの囲みに加わる。
ボス蝙蝠は、攻撃をすべてロクサーヌが盾で弾き返したので、それほど動き回られることなく、始末した。男宝
さすがはロクサーヌだ。
「途中で素晴らしい一撃が出ていました。さすがご主人様です」
ボスを倒すと、ロクサーヌが褒めてくれる。
「ありがとう」
「さすが、です」
「私のは竜騎士のジョブが持つ特性らしいですが、同じことがおできになられるなんてすごいです」
そしてロクサーヌに騙される面々。
パットバット相手には、二回クリティカルが出た。
ベスタもクリティカルを出している。
それなのにミリアの石化は出なかったのか。
「セリー、ボスは状態異常にならないのか?」
「なったという報告はあります。ただし、頻度が大きく下がるようです」
「そうなのか」
唯一人ロクサーヌに騙されないセリーに訊くと、答えが返ってきた。
ボスは状態異常になりにくいのか。
やはりボスだけのことはある。
というか、そういうときこそ状態異常耐性ダウンの出番ではないだろうか。
今はシックススジョブまでつけているので、博徒と剣士を同時に使える。
だからクリティカルも出た。
次は試してみよう。
「ハルバー二十一階層の魔物は、ロートルトロールです」
セリーの話を聞いて、二十一階層に移動する。
ロートルトロールか。
マーブリームは最後の二十二階層ということになる。
「午前中はこのまま二十一階層の探索をやろう。昼に休んだ後、クーラタルの迷宮に行く。二十階層の突破と、その後で十七階層へ行こう。な、ミリア」
「はい、です」
マーブリームが最後でも、ミリアはそんなに残念そうにはしていない。
どうせ次に行くことになるわけだし。
問題があるとすれば、二十二階層を突破するときか。
二十二階層の次の階層には行きたくないかもしれない。
いや。二十二階層ではトロが残るまでボスを狩るのか。
二十三階層でもマーブリームは出るしな。
うまいことできている。
先に進みたくなくなるのは二十三階層を突破するときだな。
「尾頭付きを二個取って、明日の夕食だ。今回はミリアに調理をまかせる」
「はい、です」
ミリアを鼓舞して、迷宮を進んだ。
別に鼓舞しようがしまいが石化の確率に変わりはないだろうが。
進んでいくと、ロートルトロールが三匹とラブシュラブ一匹が現れる。
ファイヤーストームを浴びせた。
十八階層のフライトラップと十九階層のラブシュラブはロートルトロールと同じく火魔法が弱点だ。
マーブリームを間にはさむより、ロートルトロールは二十一階層に出てきてくれた方がありがたい。
火魔法を撃ちながら、魔物を待ち受ける。
ロートルトロールは割と大柄だが、ラブシュラブ一匹を含めた四匹全部で最前線に並んだ。
並んで迫ってくる姿には迫力がある。
前衛陣が斬りつけると、お返しに殴りかかってきた。
威力のあるパンチだ。
ロクサーヌが軽くそらし、ミリアが避け、ベスタが剣で受け流す。
ロクサーヌは続くフライトラップの挟み込みも上半身を巧みにそらしてかわしている。
フライトラップが間に入ったので、ミリアもロートルトロールを相手にするようだ。
毒持ちのフライトラップの方が厄介といえば厄介だが、ロートルトロールの攻撃も厳しい。
石化してくれるならどちらでもありがたいところだろう。
結局、石化は発動せず、火魔法だけで四匹を同時に倒した。
魔法を放った回数は順当に増えているので、クリティカルは発生しなかったと思う。
クリティカルが発生してなおこの回数だったという可能性もあるが。
クリティカルがあると正確な回数が計りにくいという問題点はあるな。
最初だけ博徒をはずすか。男根増長素
別にそこまですることもないか。
クリティカルがなくても石化が発生して狂うこともあるだろうしな。
クリティカルもそんなにたくさん発生するわけではない。
最悪で一割くらい戦闘時間が延びることもある、と考えておけばいいだろう。
次の相手は、ロートルトロール一匹にハットバット二匹だ。
ウォーターストームで迎え撃つ。
今は二匹と一匹だからいいが、一匹ずつだったらどっちを先に倒すべきか。
麻痺攻撃があるロートルトロールが先だろうか。
ハットバットの突撃をベスタが弾いた。
ベスタもかなり慣れ、ハットバットの攻撃にも対処できるようになってきている。
やはりロートルトロールが先だろう。
そのロートルトロールが拳を振り上げる。
こっちの重い一撃の方が大変そうだ。
と、腕を振り上げたところで、ロートルトロールの動きが突然止まった。
「お」
「やった、です」
石化したようだ。
腕を振り上げたまま、固まっている。
二本足だと何かの石像のようにも見えるな。
振り上げた腕が恐ろしい。
今にも襲ってきそうだ。
実際、襲ってきていたわけだし。
世の彫刻家が見れば口惜しがるくらいのできだろう。
ラオコーンより写実的だ。
ゴリアテを殴ろうとするトロール像。
サモトラケのトロール。
考えるご老体。
別に考えてはいないか。
どっちかというと、運慶・快慶の方が近いだろうか。
金剛トロール像。
仏像というなら、トロール苦行像か。
あれは歳をとっているわけではないが。
水魔法でハットバットを倒した後、ファイヤーボールで石像も片づけた。
ロートルトロールはすぐに煙になる。
石化してもちゃんと火魔法が弱点というところが、いじましい。V26Ⅳ美白美肌速効
とりわけ、石化が発生すれば戦闘は半分終わったようなものだ。
気を抜いてはいけないが。SEX DROPS
元々数匹しかないない団体の魔物のうち一匹が戦えなくなるのだ。
戦局が大きく傾く。
そこにクリティカルまで加われば鬼に金棒だ。
ロクサーヌとミリアたちはうまく連携して、後で倒す方の魔物をミリアが担当できるように動いている。
ただし、石化はあまり発生することはない。
クリティカル率上昇をセットしている俺のクリティカルで魔法の数が減ることよりも少ない。
そこは、ミリアが戦士Lv30になって暗殺者のジョブを取得することに期待しよう。
どちらも運頼みというのが、一つ問題点ではある。
階層の最大数である五匹の魔物が出てきたときに、石化もクリティカルも発生しなかったらどうなるか。
二十階層では問題はないが、石化とクリティカルを頼みに上まで進んでいったときに起こったら、ピンチになるかもしれない。
クリティカル率上昇は五パーセントまでで留めておく所以である。
ボーナスポイントを使う以上、クリティカル率上昇はいつもいつもずっとつけられるわけではない。
今はもう少し伸ばすこともできないではないが、はずしたときとのギャップは小さい方がいいだろう。
「ご主人様、ルーク氏からの伝言メモが残っています。コボルトのモンスターカードを落札したようですね」
「コボルトか。なら明日でいいか」
夕方、探索を終えて家に帰ってくると、ルークからのメモが残っていた。
次の強化は、ヤギのモンスターカード待ちだろうか。
早く落札できればいいのに。
別に戦闘がつらくなってきているわけでもないが。
コボルトのモンスターカードはすぐに使う予定もないので、受け取りに行くのは明日の朝にする。
夕食に取りかかった。
とんかつだ。
パン粉を作るのも肉を切るのもベスタにやってもらう。
「パン粉ができました」
「ありがとう。ベスタが手伝ってくれるので楽だ。ベスタがうちに来てくれて本当によかった」
「こちらこそありがとうございます。何を作っておられるのですか?」
ベスタに手伝ってもらって暇なので、俺はその間にクレープを作ってみた。
牛乳、小麦粉、砂糖、卵を適当に混ぜる。
クレープなんか作ったことはないが、多分牛乳少し多めの柔らかいくらいの感じでいいだろう。
「ちょっとしたテストだ。見ておけ」
「はい」
生地を落とし、フライパンに薄く延ばした。
実験なので作ったのは一枚分だ。
生地を全部投入する。
フライパンの上をとろとろと流れていった。
こころもち柔らかすぎたか。
牛乳はもうちょっと少なめでいいだろう。
失敗というほどでもないが。
フライパンはきっちり温めていたので、すぐに固まっていく。
クレープ屋の店頭で焼いていたのもこんな感じだったような気もする。
初めてなのにここまでできれば十分だろう。
後は折りたたんで……。
あ。失敗した。
焼けたクレープをフライパンからはがそうとするとき、うまくはがれず、くしゃくしゃになってしまった。
もっと慎重にやらないといけないのか。
あるいは、フライパンの上で折りたたんでから取り出すのがいいか。
今日のところはテストだからこれでいい。三体牛鞭
クレープを適当に五つに切る。
最初の一切れを口の中に入れてみた。
お。クレープだ。
普通にクレープができている。
磯辺焼きは無理だが、クレープはできた。
柔らかさは似たようなもんかもしれない。
「試しに作ったものだ。みんなも一切れずつ食べてくれ」
他の四人にも勧める。
「ご主人様がお作りになったものなら、楽しみです」
ロクサーヌが真っ先に次の一切れを取った。
順番が大切らしい。
適当に切ったから、大きさも違うと思うしな。
五等分は大変だ。
「あくまでテストだからな。次はもう少し本格的に作る」
期待されてハードルが上がっても困るが。
「これは、すごいです。さすがご主人様です」
「柔らかくて、甘くて、美味しいです」
「すごい、です」
「美味しいです。こんなにふわふわしていて、こんなにもっちりしていて、こんなに美味しいものがこの世にあるなんて知りませんでした」
セリーとミリア、ベスタも順番に一切れずつ取って食べた。
四人とも喜んでくれるようだ。
普通にちゃんとクレープができたしな。
とりわけベスタに好評だった。
「ベスタはこういうの食べたことなかったのか」
「はい。こんなに美味しいものを食べられる日が来るとは思ってもみませんでした。いつもいつもありがとうございます。ご主人様にはどれだけ感謝しても感謝しきれません」
ベスタには刺激が強すぎたらしい。
まだとんかつもあるのだが。
ベスタは、とんかつにも感激していたが、クレープほどではなかったようだ。
同じ感激では同じに感じなくなってしまうだけかもしれない。
同じ感謝では同じに感じなくなってしまったのかもしれない。
感謝は行為で見せてもらった。
ベスタははじめから積極的ではあったが、最近ではそれに加えて徐々にねっとりとするようにもなってきたと思う。
いい傾向だ。
コボルトのモンスターカードは翌朝受け取った。
予備用で使い道はないのですぐ迷宮に入る。
入った直後、ハルバー二十階層のボス部屋に到着した。
探索は順調に進んでいたらしい。
現れたのは、ハットバットとボスのパットバットだ。
煙が集まって魔物が二匹現れる。
早速雑魚から片づけようと駆け寄った。
と、ハットバットの正面にベスタが立ちふさがる。
何故邪魔をする、と思ったが、ボス戦ではそうするように言ったのだ。
忘れてた。
ありがたいが、微妙にありがたくない。
ちょこまかと飛び回るハットバットの場合、誰かが相手にしているところを横からぶん殴るのも大変ではあるんだよな。
相打ち上等で正面からやりあった方が多分早く倒せる。
どうせデュランダルを持っているのだからダメージはHP吸収でカバーできるし。
まあしょうがない。
何が出てくるか判断してから指示を出して動かすのもワンテンポ遅れるだけだろう。
横から殴ればあまり攻撃はされないから楽ではある。
文句を言ってはいけない。
ハットバットがベスタを攻撃する。
ベスタが剣を当ててこれを受け流し、魔物は右から左に抜けた。
俺はその外側をさらに大回りで追いかけていく。
ハットバットが空中で体勢を整えたところになんとか間に合い、スラッシュを叩き込んだ。
魔物は再度ベスタに体当たりを敢行し、俺とは反対側の左に抜ける。
嫌な方へと動きやがる。
絶対わざとだろう。
というか、当然そう動くか。
あわてて追いかけたが、スラッシュは間に合わない。
次の突撃には予め一歩踏み出し、ベスタがかわしたところにデュランダルをぶち当てた。
おっと。
手ごたえがよかったので、今のはクリティカルになったらしい。
バランスを崩したハットバットが立てなおしたところにもう一撃浴びせる。
魔物がベスタを攻撃した。
ベスタが弾き返したところにデュランダルをぶち当て、さらにもう一発スラッシュを放つ。
ハットバットが墜落した。
ようやく倒せたか。
ハットバットに振り回され、多少時間がかかってしまった。
ここで一息入れることもできず、ボスの囲みに加わる。
ボス蝙蝠は、攻撃をすべてロクサーヌが盾で弾き返したので、それほど動き回られることなく、始末した。男宝
さすがはロクサーヌだ。
「途中で素晴らしい一撃が出ていました。さすがご主人様です」
ボスを倒すと、ロクサーヌが褒めてくれる。
「ありがとう」
「さすが、です」
「私のは竜騎士のジョブが持つ特性らしいですが、同じことがおできになられるなんてすごいです」
そしてロクサーヌに騙される面々。
パットバット相手には、二回クリティカルが出た。
ベスタもクリティカルを出している。
それなのにミリアの石化は出なかったのか。
「セリー、ボスは状態異常にならないのか?」
「なったという報告はあります。ただし、頻度が大きく下がるようです」
「そうなのか」
唯一人ロクサーヌに騙されないセリーに訊くと、答えが返ってきた。
ボスは状態異常になりにくいのか。
やはりボスだけのことはある。
というか、そういうときこそ状態異常耐性ダウンの出番ではないだろうか。
今はシックススジョブまでつけているので、博徒と剣士を同時に使える。
だからクリティカルも出た。
次は試してみよう。
「ハルバー二十一階層の魔物は、ロートルトロールです」
セリーの話を聞いて、二十一階層に移動する。
ロートルトロールか。
マーブリームは最後の二十二階層ということになる。
「午前中はこのまま二十一階層の探索をやろう。昼に休んだ後、クーラタルの迷宮に行く。二十階層の突破と、その後で十七階層へ行こう。な、ミリア」
「はい、です」
マーブリームが最後でも、ミリアはそんなに残念そうにはしていない。
どうせ次に行くことになるわけだし。
問題があるとすれば、二十二階層を突破するときか。
二十二階層の次の階層には行きたくないかもしれない。
いや。二十二階層ではトロが残るまでボスを狩るのか。
二十三階層でもマーブリームは出るしな。
うまいことできている。
先に進みたくなくなるのは二十三階層を突破するときだな。
「尾頭付きを二個取って、明日の夕食だ。今回はミリアに調理をまかせる」
「はい、です」
ミリアを鼓舞して、迷宮を進んだ。
別に鼓舞しようがしまいが石化の確率に変わりはないだろうが。
進んでいくと、ロートルトロールが三匹とラブシュラブ一匹が現れる。
ファイヤーストームを浴びせた。
十八階層のフライトラップと十九階層のラブシュラブはロートルトロールと同じく火魔法が弱点だ。
マーブリームを間にはさむより、ロートルトロールは二十一階層に出てきてくれた方がありがたい。
火魔法を撃ちながら、魔物を待ち受ける。
ロートルトロールは割と大柄だが、ラブシュラブ一匹を含めた四匹全部で最前線に並んだ。
並んで迫ってくる姿には迫力がある。
前衛陣が斬りつけると、お返しに殴りかかってきた。
威力のあるパンチだ。
ロクサーヌが軽くそらし、ミリアが避け、ベスタが剣で受け流す。
ロクサーヌは続くフライトラップの挟み込みも上半身を巧みにそらしてかわしている。
フライトラップが間に入ったので、ミリアもロートルトロールを相手にするようだ。
毒持ちのフライトラップの方が厄介といえば厄介だが、ロートルトロールの攻撃も厳しい。
石化してくれるならどちらでもありがたいところだろう。
結局、石化は発動せず、火魔法だけで四匹を同時に倒した。
魔法を放った回数は順当に増えているので、クリティカルは発生しなかったと思う。
クリティカルが発生してなおこの回数だったという可能性もあるが。
クリティカルがあると正確な回数が計りにくいという問題点はあるな。
最初だけ博徒をはずすか。男根増長素
別にそこまですることもないか。
クリティカルがなくても石化が発生して狂うこともあるだろうしな。
クリティカルもそんなにたくさん発生するわけではない。
最悪で一割くらい戦闘時間が延びることもある、と考えておけばいいだろう。
次の相手は、ロートルトロール一匹にハットバット二匹だ。
ウォーターストームで迎え撃つ。
今は二匹と一匹だからいいが、一匹ずつだったらどっちを先に倒すべきか。
麻痺攻撃があるロートルトロールが先だろうか。
ハットバットの突撃をベスタが弾いた。
ベスタもかなり慣れ、ハットバットの攻撃にも対処できるようになってきている。
やはりロートルトロールが先だろう。
そのロートルトロールが拳を振り上げる。
こっちの重い一撃の方が大変そうだ。
と、腕を振り上げたところで、ロートルトロールの動きが突然止まった。
「お」
「やった、です」
石化したようだ。
腕を振り上げたまま、固まっている。
二本足だと何かの石像のようにも見えるな。
振り上げた腕が恐ろしい。
今にも襲ってきそうだ。
実際、襲ってきていたわけだし。
世の彫刻家が見れば口惜しがるくらいのできだろう。
ラオコーンより写実的だ。
ゴリアテを殴ろうとするトロール像。
サモトラケのトロール。
考えるご老体。
別に考えてはいないか。
どっちかというと、運慶・快慶の方が近いだろうか。
金剛トロール像。
仏像というなら、トロール苦行像か。
あれは歳をとっているわけではないが。
水魔法でハットバットを倒した後、ファイヤーボールで石像も片づけた。
ロートルトロールはすぐに煙になる。
石化してもちゃんと火魔法が弱点というところが、いじましい。V26Ⅳ美白美肌速効
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