それから数日。
紫乃は、極力弘晃のことを思い出さないことで平静を保ち、妹たちは見合いの話を姉の前で蒸し返さないことで自分たちの身の安全を確保した。V26Ⅲ速效ダイエット
この間。 紫乃にとって一番厄介なのは自分の母親だった。
彼女は、娘の縁談が決まりそうなので、いつになく浮かれていた。
成り上がりの六条家とは違い、数百年に渡って日本橋の大通りに店を構え、幕府や大名などの御用商人を勤めてきた中村家は、特に体裁を気にする母にとっては、同じ商売人でも商売人の格が違う。
今から結婚式の相談などされても紫乃にとっては鬱陶しいだけだが、かといって邪険にすれば母の不審を招く。
彼女は紫乃がこの縁談に乗り気だと信じているのだ…笑って彼女の話し相手になるしかなかった。
見合いから10日ほどたったある日。
「お嬢さま! ああ、よかった。ようやくお戻りになられた」
いけ花の稽古から帰ってきた紫乃を、女中頭が取りすがらんばかりの勢いで出迎えた。
「どうしたの? そんなに血相を変えて…」
「中村さまです! お見えになっているんです!」
「なんですって?」
紫乃は顔色を変えた。
あの男……、事前に連絡もいれずにいきなり家に押しかけるとは、いったい、どういう了見なのだ?
紫乃はムッとしながら、稽古から持ち帰った花材を束にしたものを抱えたまま、まっすぐに応接間に向かった。
女中頭が後ろから彼女に追いすがりながら、「先ほど奥さまが戻っていらっしゃいましたが、それまでは、お嬢たちがお相手を…」と紫乃に報告する。
その妹たちは、応接間の入り口に群がって中の様子をうかがっていた。
姉を見つけると、彼女たちは、クスクスと笑いながら彼女に道をあけた。
「あなたたち、はしたないわよ。 向こうに行っていなさい」
紫乃は、小さな声で妹たちを追い払った。
去り際に、月子が「素敵な方ね。お姉さま♪」と耳打ちする。
こともあろうに、「お姉さまのお相手が、とても優しそうな方でよかった……」 と、おとなしい夕紀までが、月子に同調した。
『よかった』? あんな男の、どこがよいものか? 全然よくない。
紫乃は、ますます不機嫌になりながら、応接間の扉を開けた。
「やあ、お邪魔していますよ」
紫乃が入ってくるや立ち上がった弘晃が、げんなりするほど晴れやかな笑みを彼女に向けた。
「なにしにっ! ……いらしたのでしょうか?」
母の手前、紫乃は途中で言葉を改めたが既に手遅れ…彼女は母に、「なんという口のききかたをするんです?」と咎められた。V26即効ダイエット
「結婚を前提にお付き合いさせていただくのであれば、紫乃さんのお母さまにもご挨拶しておくべきかと思いまして……」
余計なことにまで気が回る男だ…と紫乃は思ったが、「本当にご丁寧にありがとうございます。 失礼をしたのは、わたくしのほうですのに…」 と、母は、ほんのりと頬を染めながら弘晃に礼を言った。
どうやら、彼は、既に母親を丸め込むことに成功したらしかった。
母と親しげにしている弘晃を紫乃が忌々しく思いながら見ていると、弘晃が、母に向けていた笑顔を、そのままこちらに向けた。
「それから、なによりも、貴女にお会いしたかったので」
「は???」
紫乃の頭は、弘晃の言葉の意味するところを理解することを放棄したようだ。
「なに、言ってるの?」
紫乃は、口をポカンと開けたまま弘晃にたずねた。
「ですから、言葉通りの意味ですよ。貴女にお会いしたくて、ここまで来たんです。 少しばかり、お時間を頂戴できますか? できたら、ふたりだけがいいのですが」
「困ります」
紫乃は即答した。
彼女は、弘晃から逃げるように数歩後ろに下がった。
「困りますか?」
「ええ。とっても」 という紫乃の返事は、「まあまあ、困ったりするわけないじゃないですか。この娘ったら照れているんですわっ!!」という甲高い母の声に打ち消された。
母は紫乃に向き直ると 怖い顔で彼女の耳元に口を寄せた。
「紫乃。 お客様になんて失礼なことを言うのです? 今日のあなた、変よ」
「だって、困ります。 あ、あの。 ほら、持って帰ってきたお花だってね。活けなおさなくてはいけないし…」
紫乃は、まるで自分の身を守るように、持っていた花束を両手で抱えこんだ。
花束から不恰好に突き出た藤の花房が、いやいやするように、母の顔の前で大きく揺れた。
「……で、なんで、こんなことになるのよ……」
数分後。紫乃は、カーペットが敷き詰められた応接間の片隅に正座して花を活けていた。
紫乃の傍らには、 同じく床に敷いた座布団の上に正座をした弘晃が、穏やかな微笑を浮かべながら、彼女のすることを興味深げ眺めている。
母は、すでに席を外していた。
花を活けかえなければならないので弘晃と話す暇はないとごねる娘の主張は、母には通じなかった。
「そうね。では、活けかえておしまいなさい。 弘晃さん。この子の活けた花は、母親のわたくしがいうのもなんですが……」
母は、紫乃の特技を弘晃にアピールする丁度良い機会だと言わんばかりに、女中頭に命じて、活けかえるのに必要な道具や花器を応接間に持ってこさせた。
そして、「では、ごゆっくり」と微笑むと、紫乃と弘晃を残していなくなってしまった。
母は、愛娘をこの男を二人きりにすることについて、何の心配もしていないらしい。
本来は用心深い人なのに、短い間に、よくもそこまでこの男を信用したものだと、紫乃は苦々しい思いをしながらも感心せずにはいられなかった。
「逃げそびれてしまいましたね?」
母がいなくなったのを確認すると、弘晃が、内緒話でもするように紫乃にささやいた。
「べ……別に、逃げようと思ったわけではありませんわ」
紫乃は、弘晃から、つんと顔を背けた。
「そうですか?」
「そうよ。 誰が逃げたりしたりするものですか。 ふ、藤が……」
泳いだ紫乃の目が、紫色の花のところでとまった。
「藤?」
「そう、こ、この藤が」
紫乃は、藤の枝を掴むと、弘晃に突きつけた。
花の重みに耐えかねるかのように藤の蔓が大きくたわんだ。
花の房の動きに合わせて、弘晃の視線が、上から下へ大きく動いた。
「ほらね? 蔓だから花の重みで曲がってしまうのよ。 V26Ⅱ即効減肥サプリ
だから……。だから、後で活け直すことにして、バケツに入れといても良かったのだけど、それでは花を傷めてしまいそうだし…だから、決して逃げようと思ったわけではなくて……」
「なるほど、扱いが難しい花なのですね?」
紫乃の言い訳を、弘晃はニコニコしながら聞いていた。
終始こちらに向けられた微笑といい、やんわりとした話し方といい、紫乃の空威張りなど百も承知だといわんばかりである。
そんな、弘晃の何もかも見透かしたような態度は、紫乃をひどく落ち着かない気分にさせた。
そればかりではない。 この男は、紫乃をわざと怒らせて喜んでいるようなところがある。
紫乃に突きつけられ、まるで、びっくり箱から出てきた人形のように上下に揺れている藤の花を見みながら弘晃が無邪気に言った。
「それにしても……。 この色といい、人の目を引きつかずにはいられない美しさといい、まるで紫乃さんのようですね」
「それは、つまり、私の扱いが難しいっておっしゃりたいんですか?」
たちまち、紫乃の声が尖る。
「違いますよ。 素直に綺麗だなって思っただけですっ!! 紫乃さん。 お願いですから、花鋏をこちらに向けるのは、やめてくれませんか?」
弘晃が、刃物の先端から逃れるように、わずかに身を引いた。
「もう~!! 本当に、いったい何しにいらしたの? 用がないないなら、とっとと帰ってくださいな」
紫乃は、プリプリと怒りながら、弘晃から視線を外し、花器に向き合うと、花を活けることに集中しようとした。
「だから。貴女にお会いしたかったのですよ」
弘晃が答えた。
「嘘ばっかり」
紫乃はにべもない。
「本当ですよ。貴方に、ぜひ伺いたいことがありましてね」
「なんでしょう? なんでも答えて差し上げますから、答えを聞いたらさっさと帰ってくださいな」
「では、遠慮なく」
弘晃が居住まい正した。
「紫乃さんは。 どうして、僕との交際を断らないんですか?」簡約痩身
2013年2月19日星期二
2013年2月7日星期四
期待はずれ
合わせた両手の指先を額に軽くつけるようにして仏壇に向かっていた橘乃が顔を上げた。
「生前、父が、六条さまと大変仲良くしていただいたそうで」D9 催情剤
一応父だということになっている恵庭久志前茅蜩館ホテルオーナーの遺影を、橘乃と一緒に見つめながら、要は礼のつもりで、そう言った。
だが、橘乃は、そのことを知らなかったようだ。
「まあ。そうだったんですか」
座布団からにじり下りると、彼女は、真ん丸にした目を彼に向けた。
「ええ。 六条さまは、今でも、こちらにお参りしてくださいます。 今上げてくださったお線香も、六条さまからいただいたものです」
彼は香立てから、仏壇横に3つばかり積み重ねられた桐の箱に目をやった。
普段は客としてホテルを利用する六条氏がこの部屋を訪れるのは、久志の命日の頃と、春の彼岸の頃と決まっている。
要たちが小さかった頃、六条氏は、線香の他にも玩具なども持ってきてくれた。
それも必ず3人分。 彼らが学生になると土産の玩具は学用品や本になり、成人してからは、もっぱら酒の肴になった。 酒のほうは、八重がふんだんに用意しているからだ。
そんなことを思い出しながら、要が何の気なしに仏壇脇に置かれた一升瓶に視線を移すのを、橘乃は見逃さなかったようだ。
「もしかして、そのお酒もですか?」
同じものを六条氏が家で飲んでいるのを、彼女は見たことがあるという。
「いえ、お酒のほうは、お参りくださったお礼に、こちらからお渡ししているものです」
「それじゃあ、私、『ごちそうさまです』って言わなくちゃいけませんね」
小さく舌を出しながら橘乃が笑う。 彼女の母親がいける口らしく、六条氏は、彼女の部屋で晩酌をすることが、たびたびあるのだという。
「それで、私も、ちょっとだけ御相伴させてもらったことがあるんです。 日本酒は、あまり好きじゃないんですけど、このお酒は、とても美味しく感じられました。 ほら、普通の日本酒って、なんだかベタベタしていて、いかにも男の人が飲むものって感じじゃないですか? でも、これは、飲みやすいというか、後味がスッキリしているように感じました。 あまりお店に出ていない出回らない珍しいものだと聞いたので、余計にそう感じたのかもしれませんけどね」
「いえ、橘乃さんの舌は確かですよ」
酒瓶を引き寄せながら要は笑った。 「この吟醸酒は、特別です。 というよりも、本来は、このお酒のほうを『普通です』と言ったほうがいいのかもしれませんね。 今、市場に多く出回っているお酒には、アルコールや糖分が添加されたものが多いですから」
いわゆる三増酒という、戦中戦後の酒造用米の不足を補うための救済策として作られるようになった合成酒が、まだまだ幅を利かせている時代である。
「あれは甘ったるくてベタベタしているうえに悪酔いしやすいんです。 それで日本酒嫌いになる方も多いんです」
とはいえ、昔から旨い物を知っていた茅蜩館の常連客は、戦後の物不足であろうとなんであろうと、そんな紛い物めいた安酒で我慢する気にはなれなかったらしい。
そのため、当時のオーナーだった久志が、昔ながらやり方で酒造りをしている、あるいは再開してくれる気がある蔵元を苦労して探したのだ。 それどころか、一時期などは、配給される酒米では質量共に物足りないとかで、ホテルは『ヤミ酒米』の栽培にも手を貸していたという。
「ホテルが貸した……というよりも、ホテルのお客様がホテルを通じて貸した、ですね」
この話を要に聞かせてくれた時、六条氏は、『旨い酒を飲むためなら、男は何だってするんだよ』と、笑っていた。
彼は、ここに来るたびに、久志にまつわることを話してくれる。 思い出話だけで出来ている要の父親像の大半を形作ったのは六条氏であるといっても過言ではない。
初対面の時から、六条氏は、要が久志の息子ではないことを見切っていた。
要だけではない。 彼は、他のふたり――浩平も隆文のことも久志の息子だと認めなかった。 それにもかかわらず、六条氏は、3人を3人とも、八重の孫として可愛がってくれた。
「だってよ。 息子ばかりか孫までいなくなっちまったら、八重さんが寂しくてしょうがねえだろ?」
『だから、お前たちは、しっかり八重さんの孫してろ。 手ぇ抜くんじゃねえぞ!』と、この家に来た頃、要は彼から命じられたものだ。
六条氏のあの一言で、要は楽になった。 彼のおかげで、自分も、この家族の一員であるという夢が見られた。
それほど世話になったのだから、今度は要が六条氏に返す番である。
八重に頼まれてやむなくという側面はあるが、 せっかく、六条氏が、自分たちだけでは解決できなくなった茅蜩館の相続問題に介入してくれようというのだ。 巻き添えを食うことになった六条氏の娘が幸せになれるように、要は、彼ができることならなんでもするつもりだ。挺三天
他の男と一緒になって、橘乃を巡って争うなんてとんでもない。 彼を嫌う人々に釘を刺されるまでもなく、要は、『立場が違う』ことを、わきまえているのだ。
(……って、思っているのに、どうして、僕は、戦後の日本酒事情について、橘乃さんに得意げに語っているんだよ!?)
要は、頭を抱えたくなった。
女たちの前で生半可な知識を得意げに大声で語る男たちに食事の給仕をしながら、要たちホテルのスタッフは、何度嗤いをかみ殺してきたことだろう。
それなのに、今の自分は、彼ら……つまり、《好きな女性の気を引くために通ぶってウンチクを披露するアホ男》、そのものではないか?
こんなことをしていてはいけない。 こんなことをしている場合ではない。
わかっているのに、橘乃から向けられる好奇心いっぱいの眼差しを前に、梅宮の舌は、滑らかになる一方である。 しかも、この橘乃という子は、若いくせに八重並みに人に話をさせるのが上手いようだ。
「蔵元によってお酒の味に違いがあるって、面白いですね。 ワインみたい。 このホテルでも、いただけるんですよね? 置いてあるのは、このお酒だけなんですか? それとも」
相槌を打つついでのように、橘乃が、要が話しやすいこと、もっと話したくなるような質問を挟んでくる。
「和食系の店でなら、どこでも召し上がっていただけますし、この酒以外にも、いろいろとご用意しております。 また、吟醸酒以外にも、生もとですとか、女性に好まれそうなシャンパンに似た風味を持つ日本酒などもございますよ」
「わあ、面白そう。 いろいろ試してみたいけど、酔っ払っちゃいそうですね」
「少量からでも、ご注文いただけますよ」
4合瓶からならば、たいていの酒は彼女の部屋に届けることもできる。 だが、親の知らないところで大事な娘を飲んだくれにしたら六条氏に合わせる顔がないので、要は言わないでおいた。
「それぞれの料理長のお勧めの銘柄もあるので、お気軽に試してみてください。 お気に召したものがあれば、お母さまへのお土産になさってもよろしいかもしれませんね。それで、あの……」
まだまた話していたかったが、要は強引に話を打ち切った。
「ええと、その…… あなたさまの、旦那さま、ひいてはこのホテルの次期オーナーを決定する件についてですが」
「自分の気持ちを一番大事にしてくださいね」と、梅宮は言ってくれた。
「ホテルのオーナーとして誰がふさわしいかとか、誰を選べば相続問題が丸く収まるかとか、そういったことにまで、あなたが頭を悩ます必要はありません。 自分が好きになった人を、選べばいいんですよ」とも言ってくれた。
「橘乃さんの旦那さまになる方が、ホテルのことに詳しくなくても、あるいは全く興味がなくても、そこは私たちスタッフがしっかりとフォローします。 誰が選ばれたとしても、異を唱える者が出てくるでしょうが、何があっても私が黙らせてみせます。 だから、橘乃さんは、自分の好きな人と結婚なさってください」
「ありがとうございます」
橘乃は、とりあえず頭を下げた。
梅宮の申し出は、橘乃にとって、ありがたいものだった。
普段の彼女なら、こんなに優しい申し出を受けたら、嬉しさのあまり相手に飛びついて感謝しただろう。 VIVID XXL
だが、なぜだろう。 彼女は素直に喜べなかった。
どうしてなのかはわからないが、梅宮が橘乃から距離を置こうとしているように感じるのだ。
それも、なるべく遠くに。
(もしかして、怒っているのかしら?)
そうかもしれない。
梅宮は、八重の3人孫の中で一番年上に見える。
相続で揉めているとはいえ、順当にいけば、梅宮がホテルを手に入れていたに違いないのだ。
それを、トンビが油揚げをさらうように、橘乃と彼女の父親が彼の鼻先から相続の権利をかっさらってしまった。 梅宮にしてみれば、面白いわけがない。
「ごめんなさい。 梅宮さんを差し置いて、私なんかがホテルを継ぐことになっちゃって……」
傷ついている人がいるのも気が付かずに、憧れていたホテルが手に入ると浮かれていた自分が恥ずかしい。
「橘乃さん、そういうことではなくてですね」
手をついて謝る橘乃を前に、梅宮が慌てたようすをみせた。
橘乃がホテルを継ぐことを、彼は、不満に思っていないという。
「本当に? 気を悪くなさってるわけではないんですね?」
「もちろんです。 私は、六条さまが、この件に介入してくださって、正直ホッとしているんです」
自身なさげにたずねる橘乃に、梅宮が力強く言い放った。
「それならいいのだけど。 でも、怒っているわけでなない……ということは…… あ、わかった!梅宮さんには、既に結婚を決めた女性がいらっしゃるのね?」
そういうことならば、婿選びの候補にされること自体、梅宮にしてみれば迷惑千万なことだろう。 下手をすれば、恋人(もしかしたら、まだ両想いにはなっていないのかもしれないけれども)に誤解されたり嫉妬されたり剣突をくらわされたりするかもしれない。
「そんなことなったら、仲直りするのも骨でしょうし……」
「勝手に話を作らないでください! そんな人はいません!」
仕事場での人あしらいのよさはどこへやら、顔を真っ赤にして梅宮が否定する。
「まあ、いないんですか? 恋人さん?」
「いませんよ」
「そうなんですか。 みなさん見る目がないんですね」
橘乃は素直に自分の感想を口にした。
梅宮だったら容貌も愛想も性格も人並み以上に良いと思うのに、世の中の女性は、どこを見ているのであろう? 思わぬ形で誉められてしまった梅宮は、毒気を抜かれたような顔で、「ありがとうございます」と言った。福潤宝
「あれ? 何の話から、こんな話になったんでしたっけ?」
「梅宮さんが、どうして私と関わり合いになりたくないのか?……という話からですわ」
「そんな話は、していなかったと思いますけれども」
眉間にしわを寄せた梅宮が、冷静に指摘する。
橘乃は拗ねたように視線を逸らした。 彼の言うとおりだ。 そんな話はしていなかった。
でも、橘乃は、そう感じるのだ。 梅宮が自分を避けようとしている。 ホテルなんていらないから、自分と関わり合いになりたくないと思っている。
梅宮がそう思っているのならば、他の男の人だって、きっとそう。 彼を同じように、橘乃を疎ましく思っているに違いないのだ。
だから、いまだに、誰も橘乃に言い寄ってこないのだろう。
やってくるのは、橘乃の顔も知らない変な男ばかり。 少しでも橘乃のことを知っている男たちは、遠巻きに彼女を眺めているだけだ。
「私って、そんなに嫌な女でしょうか?」
橘乃は、思い切って訊いてみた。
「はあ? いきなりなにを……」
思いつめた表情を浮かべている橘乃を見て、梅宮はうろたえているようだった。
「すみません。 こんなこと、梅宮さんに言うことじゃないことぐらい、私だってわかっているんですけど。 なんだかもう、自分が情けなくなってきちゃって……」
頭を下げたまま、橘乃は、うつむいてしまった。
「そりゃあ、私はすごいおしゃべりですよ。 軽薄なところも、いい加減に直さなくっちゃって思います。 それに、姉たちに比べたら、成績だって運動神経だって容姿だってスタイルだって普通すぎるぐらいに普通だし、髪の毛だってクルクルだし…… でも、お金目当ての人さえ寄ってこないほどひどいとは、自分では思ってなかったんですけど」
「ちょっ、ちょっと待ってください。 クルクル? クルクルのどこがいけないんですか?」
ようやく顔を上げた橘乃を見て、梅宮がホッとしたような顔をしながら、自分の髪のひと房に指を絡める。 「それに、私だって、かなり『クルクル』ですけど?」
「……あ」
橘乃は、自分の失言を悔やむように口元に手を当てた。
「ちなみに、私の弟たち――浩平と隆文もくせっ毛ですよ。 ついでに、その写真ではわかりづらいですが、私の父も『クルクル』だったそうです」
父親の遺影に顔を向けながら、『うちの親戚は、くせ毛の人が多いんですよ』と、梅宮が笑う。
「私にも、くせっ毛をからかわれた経験がありますから、橘乃さんが卑下したくなる気持ちはわかります。 けれど、橘乃さんのくるくるした髪は、可愛いですよ」
「変じゃない?」
「ちっとも変じゃありませんよ。 橘乃さんの雰囲気にとても似合っていると思います。 それに、私は、橘乃さんのおしゃべりは嫌いじゃないですよ」
「煩くなかったですか?」
「ええ。 お世辞でもなんでもなく、お話していて楽しいですよ」
目を潤ませる橘乃に、梅宮が微笑んだ。
「じゃあ……どうして?」
「なぜ、あなたに誰もアタックしてこないのかってことですか? 他の者の事情までは、わかりませんが、私の場合は…… 失礼します」V26 即効ダイエット
梅宮が立ち上がった。 横長の茶箪笥の上に置かれた電話が鳴っていた。
「フロントに、お姉さまが、いらしているそうです。 2番目の、森沢さまの奥さまの方の」
振り返った梅宮が橘乃に告げる。
「明子姉さまが?」
「それは、お待たせしてはいけないね」 「うんうん。 すぐに行かなきゃ」
どこからか出てきた八重と、可愛らしい顔をした若い男性が現れて、橘乃に勧めた。
若い男性のほうが、握手を求めるように彼女に手を差し伸べながら、『自分は、竹里浩平である』と名乗った。 先日、父が3人まとめて『松竹梅』呼ばわりしていた八重の孫のひとりである。梅宮が話していた通り、なるほど、彼もくせ毛だった。
「ところで、花嫁さんだけど、無事に式に戻れたよ」
橘乃の手を握りながら、浩平が教えてくれた。
こういう事例の場合、茅蜩館では花婿側――つまり逃げられる側にはギリギリまで事情を話さないでおくことになっているそうで、何も知らない花婿は、幸せそうに花嫁の手を取ったという。
「でもさ、式の当日に自分が花嫁から捨てられるところだったって知ったら、花婿さんは、どうしただろうね?」
『ああ、よかった』と胸を撫で下ろす橘乃に、浩平が意地悪なことを言う。 「僕たちは、花婿が自分のことしか考えられない女と縁を切ることができる、せっかくのチャンスを潰してしまったかもしれないね」
「浩平。 おまえは、また、そういうことを……」
浩平のこうした物言いは珍しいことではないようだった。 梅宮は、八重と一緒になって彼をにらむと、その冷たいまなざしを祖母にも向けた。
「それで、お祖母さまたちは、いつから、僕たちの話を盗み聞きしていたんですか?」
「ごめん。 要が、めったにないほど面白かったから」 「ねえ」
浩平と八重が、顔を見合わせて笑う。
「面白いって……」
「それは後でいいから、橘乃さんを、早くフロントに連れて行っておあげ。 お姉さんがお待ちかねだよ」
文句を言いかけた梅宮を、八重が急き立てた。
浩平が、「橘乃ちゃん、またね」と、手を振りながらウインクをする。 そのまま見送ってくれるのかと思いきや、彼は、フロントに向かう橘乃たちの後についてきた。 OB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ
2013年1月31日星期四
ラヴド・ヴィクティムズ
「休みを?」
「ええ。今日一日、お休みをいただきたいのです」
真剣な面持ちで現れたアリスは、そう言ってじっと主人であるゼロ・ハングマンを見つめた。ゼロは無表情に角砂糖をピラミッド型に積み上げている。D9 催情剤
「何か理由が?」
ゼロは彼女を見ないままに尋ねた。アリスが休暇を願い出たのは、彼女がハングマン城に勤めるようになってから初めてのことである。彼女は少し、俯いた。
「……孤児院に、帰りたいのです」
ゼロの肩が小さく跳ねた。
「孤児院に?」
「ええ。孤児院にいた子供がひとり、亡くなって……追悼のミサに出席したくて」
「…………」
ゼロの視線が一瞬、彼女の手元に動いた。エプロンの前で組んだ彼女の手には、白い便箋が挟まっている。
「なるほど。そうでしたか」
「はい。一日だけ……お願いします」
「わかりました」
ゼロはつぶやいた。アリスがほっと息をつく間もなく、彼は言葉を継ぐ。
「では、わたしも伺いましょう。リデルも連れて行きます」
「え?」
アリスはぽかんと口を開けた。ゼロは山積みになった角砂糖をシュガーポットの中に投げ戻しながら、そのうちのひとつを頬張った。がり、と鈍い音が響く。
「馬車の用意をしますから、少し待っていて下さい」
「え、でも……」
声を上げるアリスにかまわず、ゼロは執事の部屋に繋がる呼び鈴を引いた。そうしてから、ようやくちらりとアリスの顔を見上げる。
「アリスも、出掛ける準備を」
「は、はい」
彼女は思わず素直にうなずき、ゼロの部屋をあとにした。
× × ×
一時間後。アリスはリデルの駆る馬車の中にいた。日ごろは精彩に満ちている彼女の碧い瞳も、今は深く沈み込んでいる。黒い喪服に包まれた肩の上に、ブロンドの巻き毛が零れ落ちていた。
「その子の名前はローザ・カーター。わたしが十歳くらいの時、孤児院の前に捨てられていたんです。寒い冬の日で……まだミルクしか飲めないような、ほんの赤ん坊だった」
「…………」
ゼロは普段と変わらぬ黒づくめの格好をして、アリスの向かいに腰を掛けていた。その静まり返った表情からは、何一つ感情をうかがうことはできない。
「ひと懐こい子でした。だから、彼女が貴族の養子になるって聞いたときも、きっとうまくいくと思った……」
何故ゼロにこんな話をしているのか、アリスにはわからない。そもそも何故彼が自分についてきたのかもよくわからなかった。
「貴族の養子に?」
不意に、ゼロが口を開いた。いつもの猫背ではなく背筋がぴんと伸びていて、瞳は彼女をまっすぐに映している。
「その、ローザという子は誰かの養子になったのですか?」
「え、ええ」
「で、養子に行った先で亡くなった?」
「はい」
「…………」
ゼロは再び背中を丸め、馬車のシートに深く体を埋めた。
「引き取られてからすぐ、彼女は何か重い病気に掛かったらしくて……驚いた孤児院は引き取って看病しようかと申し出たんだそうです。でも、それには及ばないと言われたと……ローザはもう自分たちの娘なのだから、娘のために親である我々が手を尽くす、と言われて」
アリスはすぐに再び口を開いた。――話し続けずにはいられなかった。そうしなければ、思い出してしまう。ローザのくりくりとした愛らしい瞳。その名を体現するかのように、いつも薔薇色に上気していた頬。
「きっと、ローザはしあわせだったんだと思います。少しの間だったけど、優しい親に恵まれたんだから……だから、きっと」
「アリス」
低い声が彼女の名を呼んだ。そして、俯いていた彼女の頭の上に何か固いものが載る。
「…………」
アリスはおそるおそる顔を上げた。彼女の髪に触れていたのは、ゼロの手だった。しかし、彼はすぐに手を引き――そ知らぬ顔で横を向いた。
「もう、着くようですよ」
小さな窓から外を眺め、ゼロは言う。アリスは彼の横顔を見つめ、やがて黙ったままうなずいた。
その孤児院はロンドンの下町に位置しており、敷地内に建つ教会の壁は、周囲の建物と同じようにやや薄汚れていた。急ぎ中に入っていくアリスの後を追うように、ゼロは辺りを見回しながら一歩一歩足を進める。――その歩みが突然、止まった。
「…………」
ゼロの鼻先を石が飛び去り、石塀にあたって音を立てる。ゼロは特に驚いた様子もなく、石の飛来した方向を見遣る。そこにはひとりの少年が立っていた。ぼさぼさに乱れた赤毛、赤銅色の瞳。年齢はまだ十歳になるかならないかといったところだろう。
「ゼロ様?」
気付いたアリスが振り返り、ゼロに駆け寄った。
「おまえのせいだ! おまえのせいでローザがしんだんだ!!」
甲高い叫び声に続いて、投石。
「…………」
ゼロはそれを右手で受け止めた。相変わらずの無表情で、声の主である少年をじっと眺めている。アリスは慌てて声を上げた。
「やめなさい、ルイ!」
その言葉に、少年はぴくりと体を震わせた。
「アリスねえちゃん……?」
「お客様に無礼を働いてはいけないと、シスターにならったでしょう」
アリスはルイの足元にしゃがみこみ、視線を合わせた。顔を逸らそうとする彼の頬を両手で固定し、逃がさない。
「そもそも、ひとに石を投げるなんて、絶対にしてはいけないことよ」
「けど!」
ルイはきっとゼロを睨み上げた。ゼロはコートのポケットに両手を突っ込み、アリスの背後に佇んでいる。ルイには興味などないかの様子で、教会を見上げていた。
「あいつはきぞくだろ。きぞくがローザをつれていっちゃったんだ。つれていったから、しんじゃった!」
「ルイ」
「きぞくなんて、だいきらいだ!」
「ルイ!」
叫ぶ彼をたしなめようとするアリス、だがそんな彼女の側にゼロが並んだ。
「安心なさい」
ゼロは低くつぶやく。
「わたしはあなたがたを連れて行きたいとは思いませんから」
「……ゼロ様?」
「…………」
ゼロは相変わらずルイを見てはいなかったが、ルイはどこか気圧されたかのように押し黙った。
「アリス」
「え? あ、はい!」
「シスターに挨拶をしてきます。あなたは子供たちと一緒にいてください」
「はい。……あの、ゼロ様、お怪我は……」
気遣うアリスに、ゼロは首を横に振った。
「大丈夫です。……では」
ゼロはアリスらに背を向け、その場を立ち去った。
「……アリスねえちゃん?」
黙って彼の背中を見つめていた彼女に、ルイがおそるおそる話し掛ける。
「あのひと……だれ?」
「だれかもわからない相手に石を投げたの?」
「う……」
ルイはうつむいた。アリスは苦笑する。
「後でちゃんと謝りましょうね?」
「う……」
ルイは顔を伏せる。
「わたしも付いていくから」
「……うん」
その返事を聞いたアリスは満足げにうなずき、そしてぽつりとつぶやいた。
「でも、ゼロ様は、どうしてわざわざここに……」挺三天
初老のシスターは、突然現れたゼロとリデルを目の前にして驚いたようだった。
「伯爵様が、一体どのようなご用件で……?」
「うちのメイドについてきただけです」
ゼロは淡々と言う。
「メイド?」
「アリス・ウェーバー。こちらの出身ですね?」
「あ、ああ!」
シスターは顔をぱっとほころばせた。
「そうでしたか。……では、アリスもここに?」
「ええ。今は子供たちと一緒にいますが」
「そうですか」
シスターは慈母のような微笑みを浮かべ、ゼロを見つめる。
「時々アリスが手紙をくれるのですが、あなたのことをよく書いていますわ」
「…………」
ゼロはぎょろりとした瞳でシスターを見つめた。
「本当に良くしていただいていると……自分はしあわせだ、と」
「…………」
黙って身じろぎもしないゼロの横から、リデルが口を出す。
「こちらこそ、本当に良いお嬢さんに来ていただいてありがたく思っております。ここでの教育の賜物でしょう」
「――ところで」
不意に、ゼロが口を開いた。
「ローザ・カーターを養子にした貴族というのは、キース子爵夫妻ですか?」
「な」
シスターは大きく目を見開いた。
「何故、それを……?」
「…………」
ゼロはその問いには答えず、別のことを言った。
「ミサが終わるまで、どこか休む部屋をお借りしてもよろしいでしょうか。リデルとアリスを待ちたいので」
「伯爵様は、ミサには参列されないのですか?」
「ええ」
ゼロはあっさりと答える。シスターは何か言いたげな表情だったが、彼の瞳に浮かぶ拒絶の色を見て取ったのか、結局はひとつ小さなため息を零しただけだった。
「……わかりました。お部屋は用意させていただきます」
「助かります」
ゼロは軽く会釈すると、窓の側へと歩み寄った。中庭ではアリスが数人の子供たちに取り囲まれている。
「リデル」
ゼロは小さな声で言った。シスターには聞こえないほどの、かすかな声だった。
「はい」
「『ボディ』を手に入れろ」
「はい」
「それから――」
ゼロはがり、と爪を噛む。
「ドクター・ロスチャイルドを呼べ」
デミアン・ロスチャイルド。彼はアリスがハングマン城で出迎えた二人目の客だった。ゼロには「変な医者が来ます」としか聞かされていなかったのだが、彼の第一印象はそう妙なものでもなかった。
「はじめまして」
デミアンはそう言い、仕立ての良さそうなシルクハットを脱いで会釈した。ひとつに結わえられたブロンドの長い髪が、背中に沿って脈打つ。眼鏡の奥の薄水色の瞳は、柔らかな笑みの形に細められていた。
「デミアン・ロスチャイルドと申します。以後よろしく」
「は……はい! こちらこそ!」
丁寧な挨拶に慌てたアリスは、深々と礼をした。頭上で低く笑う声が漏れる。
「ゼロ君に取り次いでいただけますか?」
「はい!」
急ぎ奥に向かおうとしたアリスだが、不意に視界を塞がれて足を止めた。──いつの間に現れたのか、彼女の目の前にゼロが立っている。彼からはふわりと石鹸の匂いがして、アリスは思わず目を伏せた。きっと、ゼロは先刻まで……。
「……やあ、久しぶり」
にこやかに笑うデミアンとは対照的に、ゼロは無表情に彼を見返した。
「お久しぶりです。――アリス、お茶を」
「はい」
どことなく、ゼロが緊張しているように見える。何故だろう。そもそも何故、ゼロは医者を呼んだのだろう。体に不調はないはずだが……。不思議に思いながらも、アリスはふたりを遺して部屋を出た。
アリスの運んできたお茶を口にして、デミアンは深く吐息をついた。
「――美味しい。いいメイドを見つけましたね、ゼロ君」
「ええ、まあ」
そっけないゼロには構わず、デミアンはゆったりとソファに背中を預ける。
「ところで、何か僕に用があったのでしょう? 何です?」
「…………」
ゼロはわずかに声を低めた。
「キース子爵夫妻について、あなたが知っていることは?」
「……ああ」
デミアンは程なく声を上げた。
「あの、養子が次々と変死しているという……」
ゼロはうなずく。
「つい先日もひとり、亡くなったのでしたっけ?」
「ええ。どうやらこれで四人目です」
「それはそれは」
デミアンは片眉を上げた。
「偶然、で片付けるには少々」
「あなたもそう思いますか」
「残念ながら、僕は彼らの子供を診察したことがないのでね。何とも言えませんけれど」
「…………」
ゼロは視線を落とした。
「実は、リデルに子供の死体(ボディ)を手に入れてもらったのですが」
「……リデルに何をさせているんですか、君は」
あきれた口調のデミアンには構わず、ゼロは言葉を続ける。
「全身を調べても、外傷はどこにもありませんでした」
「……ふむ」
「骨折もない。生前からのものと思われるあざのようなものもない。病死……おそらくは肺炎。そうとしか考えられなかった」
「なるほど」
デミアンは再びお茶をすすった。
「それで、君が僕を呼んだ理由は?」
「…………」
薄水色の瞳が、冷たくゼロを映す。――笑みを消した彼の表情は、ひどく酷薄なものだった。ゼロはそれを淡々と見返す。
「言わなくともわかるでしょう?」
「…………」
「あなたはロンドン随一の――いえ、ヨーロッパ中で並ぶもののない腕を持つ精神科医だ」
「買いかぶりすぎですよ」
「いいえ」
苦笑したデミアンに対し、ゼロは小さく、しかしはっきりと言った。
「あなたの元患者が言うのです――間違いありません」
「…………」
デミアンは口を一文字に引き結んだまま、じっとゼロを見つめた。
「それで……君は僕にキース夫妻を診ろ、というのですか?」
「いいえ。私はただ真実が知りたいのです」
ゼロはぽつり、とつぶやく。
「何故、子供たちは死んでいったのかを」
「それを、どうやって僕が明らかにできるというのですか」
デミアンは苦笑した。
「それに……」
ゼロは背中を丸めてデミアンを見上げる。
「もし彼らが子供たちをどうにかしていたとして――君はどうするのですか? 五人目の犠牲者を出さぬように、何か尽力するとでも?」
「…………」
ゼロは答えない。デミアンは小さくため息をついた。
「君にももう、大体の想像はついているのでしょう? 何故、キース夫妻の養子が次々に亡くなっていくのか」
「……さあ、どうでしょう」
ゼロはつぶやいた。VIVID XXL
「四回の死が偶然ではないと証明するのは非常に難しい。けれど、偶然である確率は非常に低い」
「キース夫妻には実子はないのでしたね。たしか、夫人が病弱で、子を産めば己の命が危うくなると言われているのだとか」
デミアンのつぶやきに、ゼロは唇に奇妙な笑みを湛えた。
「なるほど、子が母を喰らってしまうから、ですね──どこかで聞いたような話だ」
「そうですか?」
ゼロが、彼を産み落として命を散らせた母親のことを言っていることはすぐにわかった。しかし、デミアンは何の動揺も見せずゼロを真っ直ぐに見つめる。彼がゼロと初めて出会った「あの時」と同じように、その温度のない視線に優しさはなく、色のない瞳には力強さもなかった。ただ、そこに映るものすべてが彼の瞳の中に取り込まれていくようだった。守られるのでもなく、責められるのでもない。まるで、鏡の奥深くに沈んでいくような……。
「ところで」
不意に、デミアンが視線を窓の向こうに投げた。ゼロはほっと息をつく。
「僕からキース夫妻にコンタクトを取ることは不可能です。橋渡しは君がしてくれるのですか?」
「私も面識はありませんが」
ゼロは少しだけ口角をあげた。
「亡くなった子供のためにミサを行うんだそうです。そこに行けば会えるのではないかと」
「ミサを、ね」
デミアンは苦笑した。
「でも、君はミサには出ないでしょう?」
「……ええ、まあ。むしろ私はあなたが出ることの方が不思議です。筋金入りの無神論者の癖に」
デミアンは笑みを深める。
「信じていないからこそ、ですよ」
「…………」
ゼロは黙って何も言わない。
「……まあ、あなたのご要望はわかりました。添えるように努力してみます」
デミアンはコートを腕に掛けた。ソファから立ち上がる彼を、ゼロはその暗い視線で見上げる。
「お願いします」
「…………」
デミアンはふとゼロを見つめた。穏やかに微笑む。
「きみは、やさしいね」
ゼロはその言葉を聞こえなかったかのように無視した。
× × ×
教会は荘厳な音楽で満たされていた。聖歌隊の奏でる讃美歌は壁を震わせながら天へと立ち上っていく。
マーガレット・キースは黒いレースのヴェールをかぶり、じっと俯いていた。そのエメラルド色の瞳からは幾筋もの涙が伝って落ちていた。
「マギー」
夫であるジョージ・キースが彼女の手をとろうとしたが、彼女はさりげなく手を退ける。その指先は黒い手袋に包まれていた。
「そんなに泣くんじゃない。君はよくやっていたよ」
「…………」
マーガレットは夫の言葉に耳を傾ける様子もなく、ただじっと床を見下ろしていた。
「キース子爵」
執事の控えめな声に、ジョージは妻から目を逸らした。
「ハングマン伯爵の手紙を携えた使者が」
「ハングマン伯爵だと?」
ジョージは眉を寄せた。その名は当然知っているが、今まで交流は全くといっていいほどない。あの気味の悪い「首吊りの伯爵」に関わろうとするものなどそうそういるはずもなく、彼も同様であったからだ。
執事の背後に立つ男が一歩進み出、深々と一礼をした。
「はじめまして、デミアン・ロスチャイルドと申します。『ローザ様のご不幸を謹んでお悔やみ申し上げる』とのメッセージを預かって参りました」
「それはそれは、ご丁寧に」
困惑を浮かべながらも恐縮するジョージから、隣に佇む妻へとデミアンの視線はうつった。
「奥様もさぞかしご傷心でいらっしゃることでしょう」
「ええ」
マーガレットは言葉少なに答えた。
「だってローザは、私の子供だったのですから」
「あなたがたのお子様、ですね?」
「いいえ」
さりげなく言い直したデミアンに、マーガレットははっきりと言った。
「私の子供、です」
「…………」
ジョージは気まずげに咳払いをする。デミアンは白々しく尋ねた。
「キース子爵のお子様ではない、と?」
「だって、あの子の面倒を見ていたのは私だけですもの」
マーガレットはにくにくしげな視線を夫に向ける。
「そうでしょう? あなた」
「やめないか、おまえ」
ジョージは苦虫を噛み潰したような表情で妻を制した。
「なるほど、病床のローザ様に付き添っていたのはほとんどが奥様であった、ということですね」
「ええ。ずっと私でしたわ。ローザだけじゃなくて、ジャックのときも、エレーナのときも、トッドも……」
「おまえが皆を追い出すんだろうが! わたしがローザのためにと雇ったメイドのことも追い払って」
声を荒げたジョージに、マーガレットは冷ややかにこたえる。
「ローザのためのメイド? 違うでしょう? 愛人を手元に置いておくため。あなたのためよ」
「違う、リリーとは何も……」
「奥様」
デミアンは静かに彼らを遮った。ふたりははっと彼を見る。デミアンは、微笑(わら)っていなかった。
「実は僕、医業を生業としているものでしてね。今後はどうぞ、僕にご相談ください」
デミアンは懐から名刺を取り出し、マーガレットに差し出した。
「それから、キース子爵。あなたにも」
デミアンはジョージにも同じものを渡す。
「私にも?」
怪訝そうに眉を寄せるキースに、デミアンはうなずいてみせた。
「ええ」
「あなたになら、ローザが治せたとでも? 私はつきっきりで看病していたのよ」
眼差しを鋭くするマーガレットに、デミアンは微笑する。
「そうですね、僕ならきっと転地療養をお勧めしていたでしょう。たとえば――元の孤児院に返すとか?」
「何ですって?!」
「マーガレット・キース」
不意に、無機質な声が割り込んだ。デミアンは笑みを浮かべたまま一歩退く。彼の背後から現れたのは――ゼロ・ハングマンだった。
「伯爵?!」
「医師の勧めには従うことですよ」
ゼロは言い捨て、ジョージに向き直った。
「ローザのいた孤児院の子供たちが、是非このミサに出席したいのだそうです。よろしいですか?」
「え……ええ」
ジョージがうなずくと、ゼロは軽く右手を上げた。教会の入り口から、アリスに先導された子供たちが入ってくる。誰もが目に涙を浮かべていた。
「…………」
マーガレットはぼんやりと子供たちを眺める。どの子供たちも健康そのものだ。親はなくとも愛情たっぷりに育てられている。その輝きに、知らず知らずのうちに彼女の視線は吸い寄せられていく――その耳元に、ゼロが囁いた。
「次に死神の犠牲になるのは、どの子供なのでしょうね?」
「なっ……?!」
「でも、次はありませんよ」
振り返ったマーガレットの瞳を見据え、ゼロは言う。
「ドクター・ロスチャイルドの腕は確かですから」
「な……何をおっしゃりたいのかしら」
強張った口元を微笑ませて、マーガレットはゼロを睨んだ。
「おっしゃっていることがわからないわ」
「…………」
ゼロはジョージをじろりと見た。福潤宝
「キース子爵。何故、あなたは自分の子供を城に呼び寄せないのです?」
「え……?」
「数年前に城のメイドとして働いていたスカーレット・シンプソンの生んだ子供――あなたの子供でしょう?」
「…………」
マーガレットの蒼白な顔を横目で見ながら、ジョージは汗をぬぐった。
「いや……それは、私の子供では……」
「ほう。それは失礼」
ゼロはぴたりと追及するのをやめ、彼らに背を向けた。
「しかし、あなたは賢明ですね。……己の子供を死神の手から守っているのだから」
「…………」
「では、ごきげんよう」
――教会の天井には、子供たちのすすり泣く声が波のように木霊していた。
× × ×
「ごめんなさい」
「…………」
ハングマン家の馬車の前で深々と頭を下げた少年を目の前に、ゼロは目を何度も瞬かせた。そんな彼の表情を見て、アリスは小さく噴き出す。
ゼロは困惑した表情を彼女に向けた。
「アリス、これは一体……」
「ルイが、謝りたいんですって」
「はい?」
「ゼロ様に石を投げたこと。謝りたいって」
「……はあ」
ゼロは力なくつぶやいた。
「そんなこと、もうすっかり忘れていましたが……」
「あと!」
ルイが突然勢い良く顔を上げた。
「ありがとうな、ローザにバイバイさせてくれて」
「…………」
「また、アリスねえちゃんと一緒に遊びに来てくれよ!」
「…………」
ゼロは答えないまま、馬車の中にするりと滑り込む。
「……まだ怒ってるのかな?」
不安げにアリスを見上げたルイに、彼女は静かに首を横に振った。
「いえ、そうじゃないと思う」
――あの時、一瞬彼が見せた戸惑いと迷い、そして……。
「きっと、おわかりにならなかったのね。どんな表情(かお)をすればいいのか」
アリスはつぶやく。
「アリス」
馬車の中から、彼女を呼ぶ声がする。アリスはルイの頭を軽く撫で、それから手を振った。
「じゃあ、行くわ」
「う、うん」
手を上げて答えるルイに微笑みかけて、アリスは身を翻した。
――馬車の中でゼロは、膝を抱えて小さくうずくまっていた。
「ゼロ様?」
「死神は」
ゼロはつぶやく。
「寂しいのでしょうね」
「……え?」
「…………」
ゼロは目を伏せる。――おそらく、子供たちを死に追いやっていたのはマーガレット・キースだ。熱心に子供を看病する母を演じることで、寂しさを紛らわせていたのだろう。病の子供は己を必要とする。病の子供を持つ母親に、人々は同情する。子供が亡くなれば、盛大なミサを行って悲劇の母を演じる――夫が自分を顧みなくとも、余所の女に子を産ませても、寂しくないように。
「ゼロ様……」
アリスは彼の顔を覗き込んだ。考えに沈み込んでいた彼の瞳を、心配そうに見つめる。
「ゼロ様は、お寂しいのですか?」
「……いいえ」
ゼロは小さく――本当に小さく、微笑む。
「だって、あなたがたがいるでしょう? アリス」
「…………」
アリスは一瞬のその温度を心に焼き付け、そしてふわりと笑った。
「はい!」
きっといつか、再び彼と孤児院に遊びに行ける。そんな日が来ると、そう思ったOB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ 。
「ええ。今日一日、お休みをいただきたいのです」
真剣な面持ちで現れたアリスは、そう言ってじっと主人であるゼロ・ハングマンを見つめた。ゼロは無表情に角砂糖をピラミッド型に積み上げている。D9 催情剤
「何か理由が?」
ゼロは彼女を見ないままに尋ねた。アリスが休暇を願い出たのは、彼女がハングマン城に勤めるようになってから初めてのことである。彼女は少し、俯いた。
「……孤児院に、帰りたいのです」
ゼロの肩が小さく跳ねた。
「孤児院に?」
「ええ。孤児院にいた子供がひとり、亡くなって……追悼のミサに出席したくて」
「…………」
ゼロの視線が一瞬、彼女の手元に動いた。エプロンの前で組んだ彼女の手には、白い便箋が挟まっている。
「なるほど。そうでしたか」
「はい。一日だけ……お願いします」
「わかりました」
ゼロはつぶやいた。アリスがほっと息をつく間もなく、彼は言葉を継ぐ。
「では、わたしも伺いましょう。リデルも連れて行きます」
「え?」
アリスはぽかんと口を開けた。ゼロは山積みになった角砂糖をシュガーポットの中に投げ戻しながら、そのうちのひとつを頬張った。がり、と鈍い音が響く。
「馬車の用意をしますから、少し待っていて下さい」
「え、でも……」
声を上げるアリスにかまわず、ゼロは執事の部屋に繋がる呼び鈴を引いた。そうしてから、ようやくちらりとアリスの顔を見上げる。
「アリスも、出掛ける準備を」
「は、はい」
彼女は思わず素直にうなずき、ゼロの部屋をあとにした。
× × ×
一時間後。アリスはリデルの駆る馬車の中にいた。日ごろは精彩に満ちている彼女の碧い瞳も、今は深く沈み込んでいる。黒い喪服に包まれた肩の上に、ブロンドの巻き毛が零れ落ちていた。
「その子の名前はローザ・カーター。わたしが十歳くらいの時、孤児院の前に捨てられていたんです。寒い冬の日で……まだミルクしか飲めないような、ほんの赤ん坊だった」
「…………」
ゼロは普段と変わらぬ黒づくめの格好をして、アリスの向かいに腰を掛けていた。その静まり返った表情からは、何一つ感情をうかがうことはできない。
「ひと懐こい子でした。だから、彼女が貴族の養子になるって聞いたときも、きっとうまくいくと思った……」
何故ゼロにこんな話をしているのか、アリスにはわからない。そもそも何故彼が自分についてきたのかもよくわからなかった。
「貴族の養子に?」
不意に、ゼロが口を開いた。いつもの猫背ではなく背筋がぴんと伸びていて、瞳は彼女をまっすぐに映している。
「その、ローザという子は誰かの養子になったのですか?」
「え、ええ」
「で、養子に行った先で亡くなった?」
「はい」
「…………」
ゼロは再び背中を丸め、馬車のシートに深く体を埋めた。
「引き取られてからすぐ、彼女は何か重い病気に掛かったらしくて……驚いた孤児院は引き取って看病しようかと申し出たんだそうです。でも、それには及ばないと言われたと……ローザはもう自分たちの娘なのだから、娘のために親である我々が手を尽くす、と言われて」
アリスはすぐに再び口を開いた。――話し続けずにはいられなかった。そうしなければ、思い出してしまう。ローザのくりくりとした愛らしい瞳。その名を体現するかのように、いつも薔薇色に上気していた頬。
「きっと、ローザはしあわせだったんだと思います。少しの間だったけど、優しい親に恵まれたんだから……だから、きっと」
「アリス」
低い声が彼女の名を呼んだ。そして、俯いていた彼女の頭の上に何か固いものが載る。
「…………」
アリスはおそるおそる顔を上げた。彼女の髪に触れていたのは、ゼロの手だった。しかし、彼はすぐに手を引き――そ知らぬ顔で横を向いた。
「もう、着くようですよ」
小さな窓から外を眺め、ゼロは言う。アリスは彼の横顔を見つめ、やがて黙ったままうなずいた。
その孤児院はロンドンの下町に位置しており、敷地内に建つ教会の壁は、周囲の建物と同じようにやや薄汚れていた。急ぎ中に入っていくアリスの後を追うように、ゼロは辺りを見回しながら一歩一歩足を進める。――その歩みが突然、止まった。
「…………」
ゼロの鼻先を石が飛び去り、石塀にあたって音を立てる。ゼロは特に驚いた様子もなく、石の飛来した方向を見遣る。そこにはひとりの少年が立っていた。ぼさぼさに乱れた赤毛、赤銅色の瞳。年齢はまだ十歳になるかならないかといったところだろう。
「ゼロ様?」
気付いたアリスが振り返り、ゼロに駆け寄った。
「おまえのせいだ! おまえのせいでローザがしんだんだ!!」
甲高い叫び声に続いて、投石。
「…………」
ゼロはそれを右手で受け止めた。相変わらずの無表情で、声の主である少年をじっと眺めている。アリスは慌てて声を上げた。
「やめなさい、ルイ!」
その言葉に、少年はぴくりと体を震わせた。
「アリスねえちゃん……?」
「お客様に無礼を働いてはいけないと、シスターにならったでしょう」
アリスはルイの足元にしゃがみこみ、視線を合わせた。顔を逸らそうとする彼の頬を両手で固定し、逃がさない。
「そもそも、ひとに石を投げるなんて、絶対にしてはいけないことよ」
「けど!」
ルイはきっとゼロを睨み上げた。ゼロはコートのポケットに両手を突っ込み、アリスの背後に佇んでいる。ルイには興味などないかの様子で、教会を見上げていた。
「あいつはきぞくだろ。きぞくがローザをつれていっちゃったんだ。つれていったから、しんじゃった!」
「ルイ」
「きぞくなんて、だいきらいだ!」
「ルイ!」
叫ぶ彼をたしなめようとするアリス、だがそんな彼女の側にゼロが並んだ。
「安心なさい」
ゼロは低くつぶやく。
「わたしはあなたがたを連れて行きたいとは思いませんから」
「……ゼロ様?」
「…………」
ゼロは相変わらずルイを見てはいなかったが、ルイはどこか気圧されたかのように押し黙った。
「アリス」
「え? あ、はい!」
「シスターに挨拶をしてきます。あなたは子供たちと一緒にいてください」
「はい。……あの、ゼロ様、お怪我は……」
気遣うアリスに、ゼロは首を横に振った。
「大丈夫です。……では」
ゼロはアリスらに背を向け、その場を立ち去った。
「……アリスねえちゃん?」
黙って彼の背中を見つめていた彼女に、ルイがおそるおそる話し掛ける。
「あのひと……だれ?」
「だれかもわからない相手に石を投げたの?」
「う……」
ルイはうつむいた。アリスは苦笑する。
「後でちゃんと謝りましょうね?」
「う……」
ルイは顔を伏せる。
「わたしも付いていくから」
「……うん」
その返事を聞いたアリスは満足げにうなずき、そしてぽつりとつぶやいた。
「でも、ゼロ様は、どうしてわざわざここに……」挺三天
初老のシスターは、突然現れたゼロとリデルを目の前にして驚いたようだった。
「伯爵様が、一体どのようなご用件で……?」
「うちのメイドについてきただけです」
ゼロは淡々と言う。
「メイド?」
「アリス・ウェーバー。こちらの出身ですね?」
「あ、ああ!」
シスターは顔をぱっとほころばせた。
「そうでしたか。……では、アリスもここに?」
「ええ。今は子供たちと一緒にいますが」
「そうですか」
シスターは慈母のような微笑みを浮かべ、ゼロを見つめる。
「時々アリスが手紙をくれるのですが、あなたのことをよく書いていますわ」
「…………」
ゼロはぎょろりとした瞳でシスターを見つめた。
「本当に良くしていただいていると……自分はしあわせだ、と」
「…………」
黙って身じろぎもしないゼロの横から、リデルが口を出す。
「こちらこそ、本当に良いお嬢さんに来ていただいてありがたく思っております。ここでの教育の賜物でしょう」
「――ところで」
不意に、ゼロが口を開いた。
「ローザ・カーターを養子にした貴族というのは、キース子爵夫妻ですか?」
「な」
シスターは大きく目を見開いた。
「何故、それを……?」
「…………」
ゼロはその問いには答えず、別のことを言った。
「ミサが終わるまで、どこか休む部屋をお借りしてもよろしいでしょうか。リデルとアリスを待ちたいので」
「伯爵様は、ミサには参列されないのですか?」
「ええ」
ゼロはあっさりと答える。シスターは何か言いたげな表情だったが、彼の瞳に浮かぶ拒絶の色を見て取ったのか、結局はひとつ小さなため息を零しただけだった。
「……わかりました。お部屋は用意させていただきます」
「助かります」
ゼロは軽く会釈すると、窓の側へと歩み寄った。中庭ではアリスが数人の子供たちに取り囲まれている。
「リデル」
ゼロは小さな声で言った。シスターには聞こえないほどの、かすかな声だった。
「はい」
「『ボディ』を手に入れろ」
「はい」
「それから――」
ゼロはがり、と爪を噛む。
「ドクター・ロスチャイルドを呼べ」
デミアン・ロスチャイルド。彼はアリスがハングマン城で出迎えた二人目の客だった。ゼロには「変な医者が来ます」としか聞かされていなかったのだが、彼の第一印象はそう妙なものでもなかった。
「はじめまして」
デミアンはそう言い、仕立ての良さそうなシルクハットを脱いで会釈した。ひとつに結わえられたブロンドの長い髪が、背中に沿って脈打つ。眼鏡の奥の薄水色の瞳は、柔らかな笑みの形に細められていた。
「デミアン・ロスチャイルドと申します。以後よろしく」
「は……はい! こちらこそ!」
丁寧な挨拶に慌てたアリスは、深々と礼をした。頭上で低く笑う声が漏れる。
「ゼロ君に取り次いでいただけますか?」
「はい!」
急ぎ奥に向かおうとしたアリスだが、不意に視界を塞がれて足を止めた。──いつの間に現れたのか、彼女の目の前にゼロが立っている。彼からはふわりと石鹸の匂いがして、アリスは思わず目を伏せた。きっと、ゼロは先刻まで……。
「……やあ、久しぶり」
にこやかに笑うデミアンとは対照的に、ゼロは無表情に彼を見返した。
「お久しぶりです。――アリス、お茶を」
「はい」
どことなく、ゼロが緊張しているように見える。何故だろう。そもそも何故、ゼロは医者を呼んだのだろう。体に不調はないはずだが……。不思議に思いながらも、アリスはふたりを遺して部屋を出た。
アリスの運んできたお茶を口にして、デミアンは深く吐息をついた。
「――美味しい。いいメイドを見つけましたね、ゼロ君」
「ええ、まあ」
そっけないゼロには構わず、デミアンはゆったりとソファに背中を預ける。
「ところで、何か僕に用があったのでしょう? 何です?」
「…………」
ゼロはわずかに声を低めた。
「キース子爵夫妻について、あなたが知っていることは?」
「……ああ」
デミアンは程なく声を上げた。
「あの、養子が次々と変死しているという……」
ゼロはうなずく。
「つい先日もひとり、亡くなったのでしたっけ?」
「ええ。どうやらこれで四人目です」
「それはそれは」
デミアンは片眉を上げた。
「偶然、で片付けるには少々」
「あなたもそう思いますか」
「残念ながら、僕は彼らの子供を診察したことがないのでね。何とも言えませんけれど」
「…………」
ゼロは視線を落とした。
「実は、リデルに子供の死体(ボディ)を手に入れてもらったのですが」
「……リデルに何をさせているんですか、君は」
あきれた口調のデミアンには構わず、ゼロは言葉を続ける。
「全身を調べても、外傷はどこにもありませんでした」
「……ふむ」
「骨折もない。生前からのものと思われるあざのようなものもない。病死……おそらくは肺炎。そうとしか考えられなかった」
「なるほど」
デミアンは再びお茶をすすった。
「それで、君が僕を呼んだ理由は?」
「…………」
薄水色の瞳が、冷たくゼロを映す。――笑みを消した彼の表情は、ひどく酷薄なものだった。ゼロはそれを淡々と見返す。
「言わなくともわかるでしょう?」
「…………」
「あなたはロンドン随一の――いえ、ヨーロッパ中で並ぶもののない腕を持つ精神科医だ」
「買いかぶりすぎですよ」
「いいえ」
苦笑したデミアンに対し、ゼロは小さく、しかしはっきりと言った。
「あなたの元患者が言うのです――間違いありません」
「…………」
デミアンは口を一文字に引き結んだまま、じっとゼロを見つめた。
「それで……君は僕にキース夫妻を診ろ、というのですか?」
「いいえ。私はただ真実が知りたいのです」
ゼロはぽつり、とつぶやく。
「何故、子供たちは死んでいったのかを」
「それを、どうやって僕が明らかにできるというのですか」
デミアンは苦笑した。
「それに……」
ゼロは背中を丸めてデミアンを見上げる。
「もし彼らが子供たちをどうにかしていたとして――君はどうするのですか? 五人目の犠牲者を出さぬように、何か尽力するとでも?」
「…………」
ゼロは答えない。デミアンは小さくため息をついた。
「君にももう、大体の想像はついているのでしょう? 何故、キース夫妻の養子が次々に亡くなっていくのか」
「……さあ、どうでしょう」
ゼロはつぶやいた。VIVID XXL
「四回の死が偶然ではないと証明するのは非常に難しい。けれど、偶然である確率は非常に低い」
「キース夫妻には実子はないのでしたね。たしか、夫人が病弱で、子を産めば己の命が危うくなると言われているのだとか」
デミアンのつぶやきに、ゼロは唇に奇妙な笑みを湛えた。
「なるほど、子が母を喰らってしまうから、ですね──どこかで聞いたような話だ」
「そうですか?」
ゼロが、彼を産み落として命を散らせた母親のことを言っていることはすぐにわかった。しかし、デミアンは何の動揺も見せずゼロを真っ直ぐに見つめる。彼がゼロと初めて出会った「あの時」と同じように、その温度のない視線に優しさはなく、色のない瞳には力強さもなかった。ただ、そこに映るものすべてが彼の瞳の中に取り込まれていくようだった。守られるのでもなく、責められるのでもない。まるで、鏡の奥深くに沈んでいくような……。
「ところで」
不意に、デミアンが視線を窓の向こうに投げた。ゼロはほっと息をつく。
「僕からキース夫妻にコンタクトを取ることは不可能です。橋渡しは君がしてくれるのですか?」
「私も面識はありませんが」
ゼロは少しだけ口角をあげた。
「亡くなった子供のためにミサを行うんだそうです。そこに行けば会えるのではないかと」
「ミサを、ね」
デミアンは苦笑した。
「でも、君はミサには出ないでしょう?」
「……ええ、まあ。むしろ私はあなたが出ることの方が不思議です。筋金入りの無神論者の癖に」
デミアンは笑みを深める。
「信じていないからこそ、ですよ」
「…………」
ゼロは黙って何も言わない。
「……まあ、あなたのご要望はわかりました。添えるように努力してみます」
デミアンはコートを腕に掛けた。ソファから立ち上がる彼を、ゼロはその暗い視線で見上げる。
「お願いします」
「…………」
デミアンはふとゼロを見つめた。穏やかに微笑む。
「きみは、やさしいね」
ゼロはその言葉を聞こえなかったかのように無視した。
× × ×
教会は荘厳な音楽で満たされていた。聖歌隊の奏でる讃美歌は壁を震わせながら天へと立ち上っていく。
マーガレット・キースは黒いレースのヴェールをかぶり、じっと俯いていた。そのエメラルド色の瞳からは幾筋もの涙が伝って落ちていた。
「マギー」
夫であるジョージ・キースが彼女の手をとろうとしたが、彼女はさりげなく手を退ける。その指先は黒い手袋に包まれていた。
「そんなに泣くんじゃない。君はよくやっていたよ」
「…………」
マーガレットは夫の言葉に耳を傾ける様子もなく、ただじっと床を見下ろしていた。
「キース子爵」
執事の控えめな声に、ジョージは妻から目を逸らした。
「ハングマン伯爵の手紙を携えた使者が」
「ハングマン伯爵だと?」
ジョージは眉を寄せた。その名は当然知っているが、今まで交流は全くといっていいほどない。あの気味の悪い「首吊りの伯爵」に関わろうとするものなどそうそういるはずもなく、彼も同様であったからだ。
執事の背後に立つ男が一歩進み出、深々と一礼をした。
「はじめまして、デミアン・ロスチャイルドと申します。『ローザ様のご不幸を謹んでお悔やみ申し上げる』とのメッセージを預かって参りました」
「それはそれは、ご丁寧に」
困惑を浮かべながらも恐縮するジョージから、隣に佇む妻へとデミアンの視線はうつった。
「奥様もさぞかしご傷心でいらっしゃることでしょう」
「ええ」
マーガレットは言葉少なに答えた。
「だってローザは、私の子供だったのですから」
「あなたがたのお子様、ですね?」
「いいえ」
さりげなく言い直したデミアンに、マーガレットははっきりと言った。
「私の子供、です」
「…………」
ジョージは気まずげに咳払いをする。デミアンは白々しく尋ねた。
「キース子爵のお子様ではない、と?」
「だって、あの子の面倒を見ていたのは私だけですもの」
マーガレットはにくにくしげな視線を夫に向ける。
「そうでしょう? あなた」
「やめないか、おまえ」
ジョージは苦虫を噛み潰したような表情で妻を制した。
「なるほど、病床のローザ様に付き添っていたのはほとんどが奥様であった、ということですね」
「ええ。ずっと私でしたわ。ローザだけじゃなくて、ジャックのときも、エレーナのときも、トッドも……」
「おまえが皆を追い出すんだろうが! わたしがローザのためにと雇ったメイドのことも追い払って」
声を荒げたジョージに、マーガレットは冷ややかにこたえる。
「ローザのためのメイド? 違うでしょう? 愛人を手元に置いておくため。あなたのためよ」
「違う、リリーとは何も……」
「奥様」
デミアンは静かに彼らを遮った。ふたりははっと彼を見る。デミアンは、微笑(わら)っていなかった。
「実は僕、医業を生業としているものでしてね。今後はどうぞ、僕にご相談ください」
デミアンは懐から名刺を取り出し、マーガレットに差し出した。
「それから、キース子爵。あなたにも」
デミアンはジョージにも同じものを渡す。
「私にも?」
怪訝そうに眉を寄せるキースに、デミアンはうなずいてみせた。
「ええ」
「あなたになら、ローザが治せたとでも? 私はつきっきりで看病していたのよ」
眼差しを鋭くするマーガレットに、デミアンは微笑する。
「そうですね、僕ならきっと転地療養をお勧めしていたでしょう。たとえば――元の孤児院に返すとか?」
「何ですって?!」
「マーガレット・キース」
不意に、無機質な声が割り込んだ。デミアンは笑みを浮かべたまま一歩退く。彼の背後から現れたのは――ゼロ・ハングマンだった。
「伯爵?!」
「医師の勧めには従うことですよ」
ゼロは言い捨て、ジョージに向き直った。
「ローザのいた孤児院の子供たちが、是非このミサに出席したいのだそうです。よろしいですか?」
「え……ええ」
ジョージがうなずくと、ゼロは軽く右手を上げた。教会の入り口から、アリスに先導された子供たちが入ってくる。誰もが目に涙を浮かべていた。
「…………」
マーガレットはぼんやりと子供たちを眺める。どの子供たちも健康そのものだ。親はなくとも愛情たっぷりに育てられている。その輝きに、知らず知らずのうちに彼女の視線は吸い寄せられていく――その耳元に、ゼロが囁いた。
「次に死神の犠牲になるのは、どの子供なのでしょうね?」
「なっ……?!」
「でも、次はありませんよ」
振り返ったマーガレットの瞳を見据え、ゼロは言う。
「ドクター・ロスチャイルドの腕は確かですから」
「な……何をおっしゃりたいのかしら」
強張った口元を微笑ませて、マーガレットはゼロを睨んだ。
「おっしゃっていることがわからないわ」
「…………」
ゼロはジョージをじろりと見た。福潤宝
「キース子爵。何故、あなたは自分の子供を城に呼び寄せないのです?」
「え……?」
「数年前に城のメイドとして働いていたスカーレット・シンプソンの生んだ子供――あなたの子供でしょう?」
「…………」
マーガレットの蒼白な顔を横目で見ながら、ジョージは汗をぬぐった。
「いや……それは、私の子供では……」
「ほう。それは失礼」
ゼロはぴたりと追及するのをやめ、彼らに背を向けた。
「しかし、あなたは賢明ですね。……己の子供を死神の手から守っているのだから」
「…………」
「では、ごきげんよう」
――教会の天井には、子供たちのすすり泣く声が波のように木霊していた。
× × ×
「ごめんなさい」
「…………」
ハングマン家の馬車の前で深々と頭を下げた少年を目の前に、ゼロは目を何度も瞬かせた。そんな彼の表情を見て、アリスは小さく噴き出す。
ゼロは困惑した表情を彼女に向けた。
「アリス、これは一体……」
「ルイが、謝りたいんですって」
「はい?」
「ゼロ様に石を投げたこと。謝りたいって」
「……はあ」
ゼロは力なくつぶやいた。
「そんなこと、もうすっかり忘れていましたが……」
「あと!」
ルイが突然勢い良く顔を上げた。
「ありがとうな、ローザにバイバイさせてくれて」
「…………」
「また、アリスねえちゃんと一緒に遊びに来てくれよ!」
「…………」
ゼロは答えないまま、馬車の中にするりと滑り込む。
「……まだ怒ってるのかな?」
不安げにアリスを見上げたルイに、彼女は静かに首を横に振った。
「いえ、そうじゃないと思う」
――あの時、一瞬彼が見せた戸惑いと迷い、そして……。
「きっと、おわかりにならなかったのね。どんな表情(かお)をすればいいのか」
アリスはつぶやく。
「アリス」
馬車の中から、彼女を呼ぶ声がする。アリスはルイの頭を軽く撫で、それから手を振った。
「じゃあ、行くわ」
「う、うん」
手を上げて答えるルイに微笑みかけて、アリスは身を翻した。
――馬車の中でゼロは、膝を抱えて小さくうずくまっていた。
「ゼロ様?」
「死神は」
ゼロはつぶやく。
「寂しいのでしょうね」
「……え?」
「…………」
ゼロは目を伏せる。――おそらく、子供たちを死に追いやっていたのはマーガレット・キースだ。熱心に子供を看病する母を演じることで、寂しさを紛らわせていたのだろう。病の子供は己を必要とする。病の子供を持つ母親に、人々は同情する。子供が亡くなれば、盛大なミサを行って悲劇の母を演じる――夫が自分を顧みなくとも、余所の女に子を産ませても、寂しくないように。
「ゼロ様……」
アリスは彼の顔を覗き込んだ。考えに沈み込んでいた彼の瞳を、心配そうに見つめる。
「ゼロ様は、お寂しいのですか?」
「……いいえ」
ゼロは小さく――本当に小さく、微笑む。
「だって、あなたがたがいるでしょう? アリス」
「…………」
アリスは一瞬のその温度を心に焼き付け、そしてふわりと笑った。
「はい!」
きっといつか、再び彼と孤児院に遊びに行ける。そんな日が来ると、そう思ったOB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ 。
2013年1月29日星期二
お迎えにあがりました
「こ……こ?」
お母さんが書いてくれた簡単な地図と、目の前にある表札を見比べてあたしは声を漏らした。
表札には「三嶋」と書かれているし、住所も号室も間違ってない。
本っ当にここに慎がいるんだよね? まさかあのおじさん、別のところに行ってたりしないよね? そうだったらあたしのこの苦労は何なんだ……っ!御秀堂 養顔痩身カプセル
いや、いくら何でもそこまでひどくはないだろう。
とにかく居るかどうか確かめないと。
こくんと唾を飲み込んで、あたしは指を伸ばして、インターフォンのボタンを押した。ピンポーンとありきたりな呼び出し音が鳴る。
『はい?』
「あ……春日です」
『やあ美晴ちゃん、思ったより早かったね』
そりゃあ、おじさんに倣ってルール違反しましたから。
『千鶴にでも教えてもらったのかな?』
あ、ばれてる。
「それより慎は……っ!」
『慎なら寝てるけど』
寝て、る……?
このおじさん、息子が寝てる間に息子の携帯勝手に触ったのか……っ!
いくら実の親でもそれは駄目だろう、とこっそりため息をつく。
でもおじさんはそんなことちっとも気にしてないみたいで、気軽に「入る?」だなんて言ってきた。……入ってやろうじゃないか。取り返しにおいでって言ったのはおじさんなんだし。
拍子抜けしちゃうくらい簡単におじさんはあたしを家に上げてくれて、あたしは前を歩くおじさんを警戒しながら廊下を歩いてリビングに入れてもらった。
何て言うか……びっくりするくらいに、生活感のない家だった。アットホームな雰囲気だらけのうちとは大違いだ。
「慎!?」
リビングにはソファがあって、そこで寝ているのが慎だということが分かってあたしは思わず声をあげてしまった。
朝見たままの姿で、慎がソファで座ったまま、寝てる。倒れちゃわないのかな、と思ったけど、上手い具合に肘掛けと背もたれに支えられていて倒れる気配は全くなかった。かけられているブランケットは、おじさんのなんだろうか。
すーすーと寝息を立ててる慎を見るのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。
慎はほとんど平日は毎日あたしを起こしに来てくれてるけど、あたしが慎を起こしたことはない。悲しいかな、これが寝起きの良さの違いだ。慎は人に起こしてもらわなくても、自力で起きようと思った時間ぴったりに起きることができているから。
初めて見た慎の寝顔。
あ、やっぱり寝てる時でも慎ってお母さんに似てるんだなあ。
おじさんと並べて見ても、ちっとも似てない。
「美晴ちゃん、何か飲みものでも?」
「あ……いえ、お構いなく」
何となくこのおじさんと二人で何か飲み物をすするのは気が重い気がしたから、断っておいた。一番最初におじさんと話をしたのも、飲み物を飲みながらだったし。まああの時は慎がとんでもないやり方で話を中断させたんだけど……。
――あれ?
ちょっとした、違和感。
そう言えばあたしは、知らないことが多すぎる。
どうしてお母さんとおじさんが離婚したのか知らない。
どうしてお母さんが慎の親権を持つことになったかも知らない。
親権はお母さんにあるのに、どうして慎が未だにあたしのお父さんとの養子縁組をしないのかも知らない。
それから、どうして今になっておじさんが慎を家に連れ戻そうとしてるかも、知らない。
本当に知らないことだらけだ。
あたし、これで慎の……か、彼女だって、胸張って言うことができるのかなあ。
あれー? これはちょっと……なんて言うか、ぐさっときたぞー?
勝手に勘ぐって勝手に落ち込むあたしを見て何を考えたのかは分からないけど、おじさんはあたしを手招きしてソファに座らせた。慎のことを気にしたあたしだったけど、結局促されるまま座ることになる。……寝てる慎の、隣に。
あたしと慎の向かいに座ったおじさんは、にこにこと笑ってあたしを見た。
おじさんの本性を知らないあたしだったら愛想笑いくらいしてみせただろうけど、あたしはもうおじさんが見かけ通りの人じゃないって知ってるから、ここで愛想笑いができるほど大人じゃない。だから目をそらさずに、にこにこ笑ってあたしを見てるおじさんを見つめ返した。あたしの中でおじさんは「敵」に分類されてるから、きっとその時のあたしの目つきは剣道の試合中と同じくらいだっただろう。
「――良いね、その目」
「へ?」
「『あんたなんかに負けるもんか』……目がそう言ってるよ、美晴ちゃん。さしずめ僕は恋の邪魔者というところかな?」
「……おじさん、一つだけ訊いても良いですか?」
あえておじさんのふざけた言葉には答えずに、あたしは不躾に質問をぶつけた。
おじさんは年齢に似合わず、可愛らしく目をぱちぱちとした後で、口元に笑みを浮かべた。
「どうぞ?」
あたしは知らないことが多すぎる。
全部知りたいけど……でも、今は、これだけは訊いておかないと、という質問だけを口にすることにした。
「どうして、慎を連れ戻そうとするんですか?」
こういう言い方は悪いかもしれないけど、慎はもう高校生だ。幼稚園児や小学生ならともかく、今更父親と暮らし始めたって、特に何も変わるところはないと思う。高校生の息子とかって、父親には素っ気ないものなんじゃないのかな?御秀堂養顔痩身カプセル第3代
またしてもあたしの不躾な質問にも、おじさんは笑顔を変えなかった。
「単純な、理由だよ」
にこ、と笑って。
それから、ぴたりと笑うのをやめてあたしをじっと凝視した。
「……な、何ですか……?」
「君は……どうして僕と千鶴が離婚したと思う?」
そんなの、知らない。
それはお母さんとおじさんの個人的な問題だ。確かに慎はそれに関係があるかもしれないけど、お母さんの再婚相手の娘であるあたしには、そこまで立ち入る権利はないと思う。もしあたしだったら……いや、離婚とかではなく。そんな大きな問題でなくとも、自分っていう個人的な領域にまで踏み込まれるのは嫌だ。
「美晴ちゃん、たった五歳の子供が、両親のいない家で夜を過ごすのをどう思う?」
にこりともしないまま、おじさんが淡々とあたしに訊く。
おじさんの質問を頭の中で繰り返して、あたしは黙り込んだ。
たった五歳の子供。
そう言ったって、あたしだってそれくらいの時にはもう本当のお母さんは亡くなってたから、お父さんと二人きりだった。弁護士だったお父さんは、その前からも、忙しい依頼が舞い込んだら事務所に泊まり込んで帰ってこないことも多かった。だからあたしも小学生の頃は、家に一人だった。お父さんはあたしを心配してよく電話をかけてきたけど、あたしはそれがそんなに辛いとは思わなかった。少し、寂しかっただけ。
「僕はね、千鶴に仕事を辞めて欲しかったんだ。……僕は自分の仕事を辞めたくない。千鶴もカメラマンとしてのプライドがある。結局そうやってお互いが譲らなかったから、慎はいつも家に一人だった」
ちらりと眠ったままの慎におじさんとあたしは視線を向ける。
優しくて、暴力的なところなんてどこにもないし、気遣ってくれる、童話の中の王子様みたいな人。
料理だってあたしなんかよりよっぽど上手かったから、小さい頃から自分で作ってたんだろう。
あたしがもし慎の母親だったら、慎に注意することなんて一つもなかったかもしれない。
「……昔から奇妙なくらい物わかりの良い子だったよ、慎は」
成績だっていつも良いから、先生に成績のことで怒られることも、素行について注意されることもなかった。
女の子には優しいから好かれるし、スポーツが出来て、冗談言ったり面白いところもあるから、男の子の友達だって多い。
でも。でも……それは。
「一度、慎に訊いたことがあった。『父さんと母さんが家に居た方が良いかい?』ってね。そしたら何て答えたと思う?」
どう思う、って。
さっきから何度もおじさんはあたしにそう言ってるけど。
あたしはそれに答えられなくて。
「七歳の子供が。まだ小学校の低学年だった子供が、『大丈夫だから、ぼくより仕事を優先して良いよ』って、笑って言ったんだ」
ぼすっとソファの背もたれに沈み込んで、おじさんは天井を見上げた。
「大人は、大人の勝手で物事を考えてるって思われがちだけど、違うんだ。僕も、千鶴も、慎が可愛くなかった訳じゃない。ただ……ただ、物わかりの良すぎる慎に甘えて、子供の気持ちを考えてあげられなかった」
自分を責めるようなおじさんお言葉を聞いていると、慎がものすごく可哀相に思えてくる。
でもそれって、本当にそうなのかな?
確かに慎は物わかりは良い気がするけど……でも、何も百パーセントおじさんとお母さんのせいだとは思えない。
「それから、僕と千鶴はたびたび口論するようになった。……慎のことでね。カッとなって千鶴に手を上げたことがあって……慎が、怒った。あの子の怒ったところを見たのは、それが初めてだったよ。あの子は、口論の本当の理由を知らないから、きっと僕が千鶴に暴力を振るったから離婚したんだと、今でも思ってるだろう」
よくこれだけ第三者が話してる横で眠られるな、と慎の顔を見る。
あたしも、慎が本気で怒ったところはちょっとしか見たことがない。
当の本人が眠ってる間にこんなに聞いちゃって良いんだろうか。
あたし……こういうのは、何か嫌だな。
ちょっと、後ろめたい。
「離婚した時、慎は千鶴についていくと言った。離婚後も、慎は僕が千鶴に近づくのを許さなかった。……まあ、手を上げたのは、僕だからね。だけど僕は――――」
「――べらべら喋りすぎです、あなたは」
「!」
あたしがびっくりしてもう一度慎の顔を見ると、慎がうっすらと目を開けるところだった。
眠たそうに目を擦って、首を動かす。
「やあおはよう、慎」
さっきまでちっとも笑わなかったくせに、慎を見ておじさんはにっこりと笑った。
「慎、いつから起きてたの!?」
「ちょっと前……。だいたいこんな話し声の中で寝ていられる訳が……。…………まさかとは思いますが、俺に変な物飲ませたりしてませんよね?」
「何のことかな? 言った通り、毒なんて入れてないよ?」
「ふざけないで下さい。……あなたが入れた紅茶を飲んでから……眠くて……」
慎らしくなく、まだ眠たそうに何度も瞬きをする。
「おじさん!?」
あたしはキッとおじさんを睨み付けた。
おかしいと、思ってた。
だって慎は、ちゃんと睡眠を取ってるから、こんな風に寝ちゃったりしない。
「僕不眠症でねー。大丈夫、問題はない筈だよ。医者に処方してもらったものだから。……だって君、こうでもしないと僕の話聞かずにさっさと帰ったでしょ?」
「……あなたって人は……患者はあなたであって俺じゃない」
「まあまあ良いじゃないか。そのおかげで美晴ちゃんがこうやって迎えに来てくれたんだから」
「あ……そう言えば美晴、何でここに?」
今気付いた、という顔で慎があたしを見た。
あたしは思わずそっと視線をずらしてしまった。だって、勝手にこんなところまで来て、慎の小さい頃の話聞いたなんて、何か、ちょっと……。御秀堂養顔痩身カプセル第2代
「僕が呼びだしたんだ。慎を返して欲しいなら取り返しにおいで、ってね。そのついでに色々話していた訳さ」
おーじーさーーん!
何でそうさくっとばらすかな!
「あ、いや、えっと……その、ちょっと、心配で」
しどろもどろになりながらそう言い訳する。
慎が今どんな顔をしてるのか見るのが何だか怖くて、あたしは視線を逸らしたままだった。同じ家で暮らし始めた頃と違って、最近の慎は色んな表情を見せてくる。熱っぽい表情とか、怒った表情とか。もしかしたら今、怒ってるかもしれない。
そーっと、視線を戻して。
慎を見たら。
「……普通、お迎えにあがるのは俺の役目なのに」
――そう言って笑った慎が、少し照れくさそうで。それでいて、嬉しそうで。
あたしとおじさんは、不覚にもその笑顔を見て固まってしまった。
慎はいつも大抵優しい笑顔だけど、こんなに嬉しそうに笑うことは少ない。嬉しそうな笑顔を見せてくれた原因が、あたしの言葉だって思ったら、その途端にドキドキが止まらなくなって、あたしまで嬉しくなった。
余計なお節介かもしれないと思ってたのに、慎が笑ってくれた。余計なお節介なんかじゃない。もう少し立ち入っても良いって、言われたみたいだ。
もう一歩。慎の、心の中に。
ただ同じ家で暮らしてるだけの家族じゃ、絶対に立ち入れないところまで。
「僕は……負けた、のかな?」
くすくすとおじさんが面白そうに笑った。あたしをからかってる時のような笑い方じゃなくて、ずっと浮かべてるだけの偽物っぽい笑い方でもなくて。
はーっと長いため息を漏らすおじさんに、立ち上がりながら慎が声をかける。
「……あなたのやり方は好きじゃない。何年も前から……あなた、俺に構い過ぎです。俺はもうそんなに子供じゃないんですから、子離れして下さい」
言い方はただ単調に話しているみたいだったけど。
それでも、初めてあたしがおじさんに会った日みたいに、刺々しいところはなくて。
「だけど僕は……僕は、君が好きで仕方なかったんだ」
さっき言いかけて慎に止められた言葉を言ってるのかな。
おでこに手を当ててそう言ったおじさんは、何だか満足げだった。
慎の方に視線を向けると、慎と目が合う。
あたしはそんなに物言いたげな顔はしてなかった筈だけど、慎は「分かったから」とでも言いたげにふっと肩の力を抜いて。
「……たまになら、食事くらい、付き合っても良いですけど。……『父さん』」
照れくさいのか、ちょっととがった口調でそう言った。
「慎ーっ!」
顔を上げたおじさんが嬉しそうな笑顔でがばっと慎に抱きつこうとする。それをするりと避けて、慎はほっぺたを少し赤くして叫んだ。
「だから、俺はあなたのそういう所も嫌いなんです! ちょっとは反省して下さい! 美晴、もう帰ろうっ!」
「え、良いの?」
「良いよ、どうせ、父さん開き直りと立ち直りにかけては人一倍早いんだから」
ぷいと顔を背ける慎は、いつもの大人びた慎と違って、可愛いかもしれない。
慎に繋がれた自分の手を見て、あたしは思わず吹き出して笑ってしまった。
「何?」
ずんずんと廊下を進みながら、慎が肩越しにあたしを見る。
「……何かちょっと、おじさんが慎を構いたがる気持ちが分かったかも」
笑い続けるあたしを見て、慎は不可解そうに眉をひそめた。
「美晴ちゃん、慎が嫌いになったらいつでも連絡して。僕が傷心の慎を連れ去るから」
そう、リビングの方からおじさんの声がして。
あたしと慎は顔を見合わせて、同じタイミングでおじさんに返事をした。
「「しません!」」
靴を履いて玄関から外に出てドアが閉まるその直前に、おじさんの楽しそうな笑い声が聞こえた。韓国痩身一号
お母さんが書いてくれた簡単な地図と、目の前にある表札を見比べてあたしは声を漏らした。
表札には「三嶋」と書かれているし、住所も号室も間違ってない。
本っ当にここに慎がいるんだよね? まさかあのおじさん、別のところに行ってたりしないよね? そうだったらあたしのこの苦労は何なんだ……っ!御秀堂 養顔痩身カプセル
いや、いくら何でもそこまでひどくはないだろう。
とにかく居るかどうか確かめないと。
こくんと唾を飲み込んで、あたしは指を伸ばして、インターフォンのボタンを押した。ピンポーンとありきたりな呼び出し音が鳴る。
『はい?』
「あ……春日です」
『やあ美晴ちゃん、思ったより早かったね』
そりゃあ、おじさんに倣ってルール違反しましたから。
『千鶴にでも教えてもらったのかな?』
あ、ばれてる。
「それより慎は……っ!」
『慎なら寝てるけど』
寝て、る……?
このおじさん、息子が寝てる間に息子の携帯勝手に触ったのか……っ!
いくら実の親でもそれは駄目だろう、とこっそりため息をつく。
でもおじさんはそんなことちっとも気にしてないみたいで、気軽に「入る?」だなんて言ってきた。……入ってやろうじゃないか。取り返しにおいでって言ったのはおじさんなんだし。
拍子抜けしちゃうくらい簡単におじさんはあたしを家に上げてくれて、あたしは前を歩くおじさんを警戒しながら廊下を歩いてリビングに入れてもらった。
何て言うか……びっくりするくらいに、生活感のない家だった。アットホームな雰囲気だらけのうちとは大違いだ。
「慎!?」
リビングにはソファがあって、そこで寝ているのが慎だということが分かってあたしは思わず声をあげてしまった。
朝見たままの姿で、慎がソファで座ったまま、寝てる。倒れちゃわないのかな、と思ったけど、上手い具合に肘掛けと背もたれに支えられていて倒れる気配は全くなかった。かけられているブランケットは、おじさんのなんだろうか。
すーすーと寝息を立ててる慎を見るのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。
慎はほとんど平日は毎日あたしを起こしに来てくれてるけど、あたしが慎を起こしたことはない。悲しいかな、これが寝起きの良さの違いだ。慎は人に起こしてもらわなくても、自力で起きようと思った時間ぴったりに起きることができているから。
初めて見た慎の寝顔。
あ、やっぱり寝てる時でも慎ってお母さんに似てるんだなあ。
おじさんと並べて見ても、ちっとも似てない。
「美晴ちゃん、何か飲みものでも?」
「あ……いえ、お構いなく」
何となくこのおじさんと二人で何か飲み物をすするのは気が重い気がしたから、断っておいた。一番最初におじさんと話をしたのも、飲み物を飲みながらだったし。まああの時は慎がとんでもないやり方で話を中断させたんだけど……。
――あれ?
ちょっとした、違和感。
そう言えばあたしは、知らないことが多すぎる。
どうしてお母さんとおじさんが離婚したのか知らない。
どうしてお母さんが慎の親権を持つことになったかも知らない。
親権はお母さんにあるのに、どうして慎が未だにあたしのお父さんとの養子縁組をしないのかも知らない。
それから、どうして今になっておじさんが慎を家に連れ戻そうとしてるかも、知らない。
本当に知らないことだらけだ。
あたし、これで慎の……か、彼女だって、胸張って言うことができるのかなあ。
あれー? これはちょっと……なんて言うか、ぐさっときたぞー?
勝手に勘ぐって勝手に落ち込むあたしを見て何を考えたのかは分からないけど、おじさんはあたしを手招きしてソファに座らせた。慎のことを気にしたあたしだったけど、結局促されるまま座ることになる。……寝てる慎の、隣に。
あたしと慎の向かいに座ったおじさんは、にこにこと笑ってあたしを見た。
おじさんの本性を知らないあたしだったら愛想笑いくらいしてみせただろうけど、あたしはもうおじさんが見かけ通りの人じゃないって知ってるから、ここで愛想笑いができるほど大人じゃない。だから目をそらさずに、にこにこ笑ってあたしを見てるおじさんを見つめ返した。あたしの中でおじさんは「敵」に分類されてるから、きっとその時のあたしの目つきは剣道の試合中と同じくらいだっただろう。
「――良いね、その目」
「へ?」
「『あんたなんかに負けるもんか』……目がそう言ってるよ、美晴ちゃん。さしずめ僕は恋の邪魔者というところかな?」
「……おじさん、一つだけ訊いても良いですか?」
あえておじさんのふざけた言葉には答えずに、あたしは不躾に質問をぶつけた。
おじさんは年齢に似合わず、可愛らしく目をぱちぱちとした後で、口元に笑みを浮かべた。
「どうぞ?」
あたしは知らないことが多すぎる。
全部知りたいけど……でも、今は、これだけは訊いておかないと、という質問だけを口にすることにした。
「どうして、慎を連れ戻そうとするんですか?」
こういう言い方は悪いかもしれないけど、慎はもう高校生だ。幼稚園児や小学生ならともかく、今更父親と暮らし始めたって、特に何も変わるところはないと思う。高校生の息子とかって、父親には素っ気ないものなんじゃないのかな?御秀堂養顔痩身カプセル第3代
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「単純な、理由だよ」
にこ、と笑って。
それから、ぴたりと笑うのをやめてあたしをじっと凝視した。
「……な、何ですか……?」
「君は……どうして僕と千鶴が離婚したと思う?」
そんなの、知らない。
それはお母さんとおじさんの個人的な問題だ。確かに慎はそれに関係があるかもしれないけど、お母さんの再婚相手の娘であるあたしには、そこまで立ち入る権利はないと思う。もしあたしだったら……いや、離婚とかではなく。そんな大きな問題でなくとも、自分っていう個人的な領域にまで踏み込まれるのは嫌だ。
「美晴ちゃん、たった五歳の子供が、両親のいない家で夜を過ごすのをどう思う?」
にこりともしないまま、おじさんが淡々とあたしに訊く。
おじさんの質問を頭の中で繰り返して、あたしは黙り込んだ。
たった五歳の子供。
そう言ったって、あたしだってそれくらいの時にはもう本当のお母さんは亡くなってたから、お父さんと二人きりだった。弁護士だったお父さんは、その前からも、忙しい依頼が舞い込んだら事務所に泊まり込んで帰ってこないことも多かった。だからあたしも小学生の頃は、家に一人だった。お父さんはあたしを心配してよく電話をかけてきたけど、あたしはそれがそんなに辛いとは思わなかった。少し、寂しかっただけ。
「僕はね、千鶴に仕事を辞めて欲しかったんだ。……僕は自分の仕事を辞めたくない。千鶴もカメラマンとしてのプライドがある。結局そうやってお互いが譲らなかったから、慎はいつも家に一人だった」
ちらりと眠ったままの慎におじさんとあたしは視線を向ける。
優しくて、暴力的なところなんてどこにもないし、気遣ってくれる、童話の中の王子様みたいな人。
料理だってあたしなんかよりよっぽど上手かったから、小さい頃から自分で作ってたんだろう。
あたしがもし慎の母親だったら、慎に注意することなんて一つもなかったかもしれない。
「……昔から奇妙なくらい物わかりの良い子だったよ、慎は」
成績だっていつも良いから、先生に成績のことで怒られることも、素行について注意されることもなかった。
女の子には優しいから好かれるし、スポーツが出来て、冗談言ったり面白いところもあるから、男の子の友達だって多い。
でも。でも……それは。
「一度、慎に訊いたことがあった。『父さんと母さんが家に居た方が良いかい?』ってね。そしたら何て答えたと思う?」
どう思う、って。
さっきから何度もおじさんはあたしにそう言ってるけど。
あたしはそれに答えられなくて。
「七歳の子供が。まだ小学校の低学年だった子供が、『大丈夫だから、ぼくより仕事を優先して良いよ』って、笑って言ったんだ」
ぼすっとソファの背もたれに沈み込んで、おじさんは天井を見上げた。
「大人は、大人の勝手で物事を考えてるって思われがちだけど、違うんだ。僕も、千鶴も、慎が可愛くなかった訳じゃない。ただ……ただ、物わかりの良すぎる慎に甘えて、子供の気持ちを考えてあげられなかった」
自分を責めるようなおじさんお言葉を聞いていると、慎がものすごく可哀相に思えてくる。
でもそれって、本当にそうなのかな?
確かに慎は物わかりは良い気がするけど……でも、何も百パーセントおじさんとお母さんのせいだとは思えない。
「それから、僕と千鶴はたびたび口論するようになった。……慎のことでね。カッとなって千鶴に手を上げたことがあって……慎が、怒った。あの子の怒ったところを見たのは、それが初めてだったよ。あの子は、口論の本当の理由を知らないから、きっと僕が千鶴に暴力を振るったから離婚したんだと、今でも思ってるだろう」
よくこれだけ第三者が話してる横で眠られるな、と慎の顔を見る。
あたしも、慎が本気で怒ったところはちょっとしか見たことがない。
当の本人が眠ってる間にこんなに聞いちゃって良いんだろうか。
あたし……こういうのは、何か嫌だな。
ちょっと、後ろめたい。
「離婚した時、慎は千鶴についていくと言った。離婚後も、慎は僕が千鶴に近づくのを許さなかった。……まあ、手を上げたのは、僕だからね。だけど僕は――――」
「――べらべら喋りすぎです、あなたは」
「!」
あたしがびっくりしてもう一度慎の顔を見ると、慎がうっすらと目を開けるところだった。
眠たそうに目を擦って、首を動かす。
「やあおはよう、慎」
さっきまでちっとも笑わなかったくせに、慎を見ておじさんはにっこりと笑った。
「慎、いつから起きてたの!?」
「ちょっと前……。だいたいこんな話し声の中で寝ていられる訳が……。…………まさかとは思いますが、俺に変な物飲ませたりしてませんよね?」
「何のことかな? 言った通り、毒なんて入れてないよ?」
「ふざけないで下さい。……あなたが入れた紅茶を飲んでから……眠くて……」
慎らしくなく、まだ眠たそうに何度も瞬きをする。
「おじさん!?」
あたしはキッとおじさんを睨み付けた。
おかしいと、思ってた。
だって慎は、ちゃんと睡眠を取ってるから、こんな風に寝ちゃったりしない。
「僕不眠症でねー。大丈夫、問題はない筈だよ。医者に処方してもらったものだから。……だって君、こうでもしないと僕の話聞かずにさっさと帰ったでしょ?」
「……あなたって人は……患者はあなたであって俺じゃない」
「まあまあ良いじゃないか。そのおかげで美晴ちゃんがこうやって迎えに来てくれたんだから」
「あ……そう言えば美晴、何でここに?」
今気付いた、という顔で慎があたしを見た。
あたしは思わずそっと視線をずらしてしまった。だって、勝手にこんなところまで来て、慎の小さい頃の話聞いたなんて、何か、ちょっと……。御秀堂養顔痩身カプセル第2代
「僕が呼びだしたんだ。慎を返して欲しいなら取り返しにおいで、ってね。そのついでに色々話していた訳さ」
おーじーさーーん!
何でそうさくっとばらすかな!
「あ、いや、えっと……その、ちょっと、心配で」
しどろもどろになりながらそう言い訳する。
慎が今どんな顔をしてるのか見るのが何だか怖くて、あたしは視線を逸らしたままだった。同じ家で暮らし始めた頃と違って、最近の慎は色んな表情を見せてくる。熱っぽい表情とか、怒った表情とか。もしかしたら今、怒ってるかもしれない。
そーっと、視線を戻して。
慎を見たら。
「……普通、お迎えにあがるのは俺の役目なのに」
――そう言って笑った慎が、少し照れくさそうで。それでいて、嬉しそうで。
あたしとおじさんは、不覚にもその笑顔を見て固まってしまった。
慎はいつも大抵優しい笑顔だけど、こんなに嬉しそうに笑うことは少ない。嬉しそうな笑顔を見せてくれた原因が、あたしの言葉だって思ったら、その途端にドキドキが止まらなくなって、あたしまで嬉しくなった。
余計なお節介かもしれないと思ってたのに、慎が笑ってくれた。余計なお節介なんかじゃない。もう少し立ち入っても良いって、言われたみたいだ。
もう一歩。慎の、心の中に。
ただ同じ家で暮らしてるだけの家族じゃ、絶対に立ち入れないところまで。
「僕は……負けた、のかな?」
くすくすとおじさんが面白そうに笑った。あたしをからかってる時のような笑い方じゃなくて、ずっと浮かべてるだけの偽物っぽい笑い方でもなくて。
はーっと長いため息を漏らすおじさんに、立ち上がりながら慎が声をかける。
「……あなたのやり方は好きじゃない。何年も前から……あなた、俺に構い過ぎです。俺はもうそんなに子供じゃないんですから、子離れして下さい」
言い方はただ単調に話しているみたいだったけど。
それでも、初めてあたしがおじさんに会った日みたいに、刺々しいところはなくて。
「だけど僕は……僕は、君が好きで仕方なかったんだ」
さっき言いかけて慎に止められた言葉を言ってるのかな。
おでこに手を当ててそう言ったおじさんは、何だか満足げだった。
慎の方に視線を向けると、慎と目が合う。
あたしはそんなに物言いたげな顔はしてなかった筈だけど、慎は「分かったから」とでも言いたげにふっと肩の力を抜いて。
「……たまになら、食事くらい、付き合っても良いですけど。……『父さん』」
照れくさいのか、ちょっととがった口調でそう言った。
「慎ーっ!」
顔を上げたおじさんが嬉しそうな笑顔でがばっと慎に抱きつこうとする。それをするりと避けて、慎はほっぺたを少し赤くして叫んだ。
「だから、俺はあなたのそういう所も嫌いなんです! ちょっとは反省して下さい! 美晴、もう帰ろうっ!」
「え、良いの?」
「良いよ、どうせ、父さん開き直りと立ち直りにかけては人一倍早いんだから」
ぷいと顔を背ける慎は、いつもの大人びた慎と違って、可愛いかもしれない。
慎に繋がれた自分の手を見て、あたしは思わず吹き出して笑ってしまった。
「何?」
ずんずんと廊下を進みながら、慎が肩越しにあたしを見る。
「……何かちょっと、おじさんが慎を構いたがる気持ちが分かったかも」
笑い続けるあたしを見て、慎は不可解そうに眉をひそめた。
「美晴ちゃん、慎が嫌いになったらいつでも連絡して。僕が傷心の慎を連れ去るから」
そう、リビングの方からおじさんの声がして。
あたしと慎は顔を見合わせて、同じタイミングでおじさんに返事をした。
「「しません!」」
靴を履いて玄関から外に出てドアが閉まるその直前に、おじさんの楽しそうな笑い声が聞こえた。韓国痩身一号
2013年1月27日星期日
カフェ・デート
初夏を迎えた。
ミレが王宮に上がりだいぶ日も経って、そろそろ家が恋しくなってきたある日の午後――予告なく、アーティスが部屋を訪ねてきた。
ミレはちょうどユアンのもとへ赴くために身支度を済ませたところで、ビスカは後片付けの最中、闇騎士と聖職者は待機、あとの者は不在だ。VIVID XXL
「こんにちは、ミレ殿」
相変わらず、胡散臭い愛想のよさでアーティスが入室してくる。
貴族服ではない。平服だ。
さすがに生地や縫製は上等だが見ためはかなり地味だ。髪型もラフで、装飾物はおろか、剣も帯びていない。そのためか、いつもよりだいぶ若く見える。
「……」
「……こらこら、そんな珍品でも見るような眼で見るんじゃない」
「……」
「なんだ、なにが言いたい?」
「地味です」
「お忍びで出かけるんだ。控えめなくらいでちょうどよかろう。それともなにか? 君はこんな地味な男の隣を歩くのは嫌だというのかね?」
なんで私の意見が必要なのだろう?
そう疑問に思いながらもミレは正直に感想を述べた。
「地味ですがシンプルでいいと思います。いつもの華美な恰好より好きです」
するとアーティスはなぜか少し焦ったように顔を上気させた。
「そ、そうか、好きか。なるほど、君はシンプルな装いを好むのか」
ミレの服装の好みなどどうでもいいだろうに、アーティスはまじめくさった調子でブツブツ言っている。たまりかねて訊く。
「なんの用ですか」
「デートの誘いに」
「誰を」
「君を」
「お断りします」
速攻辞退すると、眼の前で、ピクリとアーティスの頬の筋肉がひきつった。眼に剣呑な光が射す。一段低い声が地を這う。
危険な微笑を浮かべながらアーティスが言った。
「……そう言うと思ったよ。じゃあ選びなさい。気絶するまでキスして欲しいか、それとも私と一緒に虹パフェを試しに行くか」
「……虹パフェ?」
今度はミレの頬の筋肉がピクリと反応した。
アーティスが声に弾みをつけて、身振り手振りをまじえて、説明する。
「七種類のアイスクリームを盛ってたっぷりの生クリームをしぼり、その上に飴がけし、生チョコレートを添えてウェーハスとフルーツを飾った大きなパフェだ。ゆうに二人前はあるらしい」
ミレはゴクリと生唾を呑んだ。
想像して、ときめく。
それまで黙って二人の会話を聞いていた闇騎士が呆れ顔で呟く。
「……たかが菓子で姫の気を惹くとは策(て)が幼稚すぎやしねぇか?」
「なんとでも言え」
アーティスは「フン」と鼻を鳴らしてミレとの距離を詰めた。
「キスかデートか。私は前者でもまったくかまわないが」
と、アーティスがおもむろにミレの顎に指をかけ、頬を傾けてきた。
うっとりと虹パフェを空想していたミレはハッと我に返った。
「デートに行きます」
「早くそう言えばいいのに」
ぬけぬけと言ってアーティスが笑い、ミレの手をすくって、指先に軽くキスを落とした。
「……デートの誘いを受けてくれて嬉しいよ。少しは私に気があると思ってもいいのかね?」
「いいえ、まったくありません」
ミレが大きく首を振って断固否定すると、なんと、アーティスにパクッと指を齧られた。
「い、痛い」
甘噛みではない。
振りほどこうにも、振りほどけない。
「……っ」
痛くて、じわっと泣けてくる。
悲鳴を上げる寸前、解放された。
「……あーあ、歯型がついてしまったね。かわいそうに」
自分で噛んでおきながらなにを言っているんだ。
涙目でミレがアーティスをキッと睨むと、アーティスはニヤリと口角を吊り上げて顔を寄せてきた。
「悪かった。つい、君がイジワルを言うものだから苛めてしまった……」
涙を舌で舐めとられる。
さすがにびっくりして胸を押し退けようとしたものの、逆に抱きこまれる。暴れても、アーティスはびくともしない。
ミレの抵抗をやすやすと封じながら、ちらりと背後に眼をやった。くぐもった声で、なにかひとりごちている。
「……ふぅん。私がここまでしても止めないところをみると求婚者とは表向きか……となると、やはり……」
疲れて、ミレは虚脱した。
ここにシャレムがいれば撃退してもらうのだが、あいにく一昨日から姿の見えない芸術家を探しにいって留守なのだ。
唐突に解放される。息が楽になった。
礼儀正しく腕を差し出されて戸惑っていると、
「行こう。もうだいぶ時間をムダにした。間に合わなくなるぞ」
なにに?
ミレは内心そう突っ込んだものの、アーティスの強引さに負けるかたちで拉致された。
馬車に乗せられ、ミレが連れていかれた先はバールワンズ大講堂だった。
「間に合ったな」
こんなところへ来る理由がわからない。
人員整理をしていた係の者がアーティスを見るなりスッと寄って来た。
「お客様、お席にご案内いたします」
「来い、ミレ。なにをしている」
ぼうっとしていると手首を掴まれ、引っ張られた。
大講堂は満員御礼、空席は中央前列四番目の二席しか残されていない。
まさにそこへ着席したところで、開演を知らせる鐘が鳴った。
同時に大扉が開き、颯爽と現れた人物を見てミレは眼を輝かせた。
ダリアン博士だ。
シーズディリ・ダリアン・ルケイン博士は壇上に上がるなり口火を切った。
「これより私、シーズディリ・ダリアン・ルケインによる特別講義、キージェレクト法則とマリナーの定理に関する考察をはじめる。ご来場の方々には静粛なる聴講をお願いするものである。尚、質問等は最後に受け付けする。まずは――」
ダリアンの眼がミレを見つけて一瞬止まったものの、それだけで、さっそく講義に移る。
それから二時間かけてダリアンは鋭い論法と式をもって自説を展開し、最後に聴講者たちとの間で活発な質疑応答が制限時間いっぱいまで取り交わされた。福潤宝
カーン、カーン、カーン。
と、終了の鐘が鳴るとダリアンは熱心な聴講者にわっと囲まれたが、ミレが近づくと「ミレ!」と大きく声を張り上げて手招いてくれた。
「すばらしい講義でした、博士」
「ありがとう。だが、まだまださ。算数術は奥が深く果てがない――私も君もひたすら勉学の道を精進あるのみだ」
「はい」
素直なミレにダリアンは相好を崩し、愛弟子の頭をクシャッと撫ぜた。
「それはそうと、私はこれから学会の理事たちと会食の約束があって行かなければならないんだ。また今度ゆっくり会おう」
「はい、ぜひ。楽しみにしています」
ダリアンの手がミレの肩にのる。コソッと、耳打ちされた。
「……王子殿下とデートとは、やるじゃないか。君も隅におけないな」
ニヤリと笑い、ダリアンが去ると、ついでミレが取り囲まれた。
「失礼ですが、シーズディリ・ミレ博士ではありませんか?」
「はい」
「やはり!」
騒然と場が湧く。
大勢がミレをしげしげと眺めて、「おー!」とか「へぇー」とか「ううむ」とか感嘆の声を口々に漏らしている。
「お噂はかねがね。シーズディリ・ダリアン博士の秘蔵の愛弟子であるあなたに一度お目にかかりたいと思っておりました。ぜひフェリウルの方程式の――」
「しかし驚いたなあ! あなたがこんなに若くてこれほどお美しいとは!」
「まったくだ。ここで会えたのもなにかの縁。いかがでしょう、私とお食事など」
「あっ、こら、ぬけがけはずるいぞ。俺だって誘いたい」
なぜか、ミレの争奪戦がはじまった。
大勢に包囲されただけでも窮屈なのに、ダリアンは行ってしまうし、前も後ろもふさがれ、声高に騒がれてミレは閉口した。
そこへ、
「あいにくだが、彼女は私の連れだ」
しびれを切らしたのだろう。
アーティスがゆっくりと階段を下りて来る。眼が尖っている。どうも不機嫌きわまりない。
「……」
辺りを威嚇する鋭い眼つき。気圧されたようにミレを取り巻いていた面々が道を開ける。
「私たちはデート中でね。邪魔をしないでもらおうか」
わざわざそんなことを公言しなくてもいいだろうに。
案の定、ざわついた。そしてアーティスの身分に気づいたものが出はじめる。
「……アーティス殿下?」
「まさか」
「いや、そうだ。まちがいない。アーティス殿下だ!」
雄叫びとも悲鳴とも怒号ともつかないどよめきが奔って、ミレを除いた全員が礼をした。
そんな中、アーティスがミレの前を素通りし、扉に向かう。
「ミレ、来なさい」
「はい」
逆らわず、トコトコ追いかける。
そのまま大講堂をあとにし、ひとでにぎわう参道へ出たところで、アーティスが背中を向けたまま言った。
「……ずいぶんモテるじゃないか。いつもあんなふうなのかね?」
「はい」
「『はい』だと?」
振り向かれ、ギロリとすごい眼で睨まれる。
ミレは肩を竦めた。
「ダリアン博士の弟子は私ひとりなので、皆、博士に紹介して欲しいのでしょう」
ダリアンは老若男女問わず、絶大な人気がある。
すこぶる頭脳明晰で、威勢のいい啖呵(たんか)と気風(きっぷ)のよさ、さっぱりとした気性と女性とは思えない豪快さが好かれているのだ。
「それだけではないだろう」
「それだけだと思います」
「いーや。あからさまに君に気のある男もいたぞ。もっと慎重になりたまえ。だいたいだな、君は普段から人目を気にしなさすぎだ。もっと周囲から自分がどう見られているか意識しなさい。そっけないくせに無防備でそんなふうだから――」
小言がはじまった。
ミレはわざと足を遅らせてアーティスと距離をおきながら、キョロキョロした。
街に出るのは久しぶりだ。このところ、王宮に引きこもり生活だったので、賑やかな雑踏に埋もれるのも悪くない。
軒を連ねる店々やドーナツ売りのワゴンなどについつい眼を奪われる。
「うひょーっ。かっわいいー! なあ、お嬢さんひとり? 俺たちと遊ばない?」
いきなり通りすがりの男性二人連れに声をかけられた。
ミレが返事をするより前に、記録的な速さで駆けつけたアーティスが間に割り込んで、男たちを冷たく睥睨(へいげい)した。
「ひとりじゃないし、遊ばない。貴様らの遊び相手は別にいる」
「は? あんただれ? 俺たちはこっちのお嬢さんに用が――え?」
二人連れの肩をポン、と叩いたのは闇騎士と聖職者だ。
どちらも冷酷無情な眼をしている。
「連れて行け」
アーティスが非情な声で告げると闇騎士と聖職者は金切り声を上げて暴れる二人の男を押さえこみ、問答無用で連れ去った。
ミレは一応、訊いてみた。
「……釈放は?」
「するとも。少々傷めつけたあとでな」
平然と仕置きすると言いきったアーティスに無造作に肩を抱かれる。
歩きにくいなあ、と不平をいだきつつも我慢して口にしないでいると、苛々した声の叱咤を浴びた。
「君は隙が多すぎる。やたらと男に口説かれるんじゃない」
「声をかけられただけです」
「ついて行く気はなかったというのか」
「はい」
「だが、甘いものでも食べに行こうと誘われたらどうだ? ついて行っただろう」
「……」
行ったかもしれない。
だが本音を漏らせばまた怒られるので、ミレは反対のことを言った。
「そんなこと、ありません」
「いま間があったぞ」
きつい一瞥を向けられてミレは眼を泳がせた。見抜かれていたようだ。
アーティスの眼が吊り上がる。眉間に皺が寄る。そしてまたクドクドと説教される。今度は肩を押さえられているから離れたくとも離れられない。V26 即効ダイエット
「そもそも、男というものは総じて下心のあるイキモノだ。おまけに勘違いしやすいし衝動のまま行為に及ぶこともある。まして夏は理性のタガが外れやすい季節だ、煽るような振る舞いは慎むべきで――なっ、なにをしている!」
ギョッ、とアーティスが眼を剥いた。
ミレはキョトンとした。
「なにって……暑苦しいので」
少し胸元をはだけて手で煽っただけだ。
だがアーティスはおかしいくらいおおげさに動揺している。慌てて胸元を掻き合わされ、猛烈な剣幕で怒鳴りつけられた。
「……っ。そういう君の無防備さが男を煽ると言っているんだ。いいか、他の男の前で絶対にいまのようなみだらな真似をするんじゃないぞ。そんな白い胸元をさらけるなんて眼の毒だ。悩ましいにもほどがある。私以外の奴の眼に触れたら八つ裂きにしてくれる……!」
本当にやりかねない。
薄々察してはいたが、さっきのことといい、発言の狂暴さといい、アーティスは敵にまわしては恐ろしい人間だ。
怖いひとには、逆らわない。
アーティスに執着される理由はよくわからないが、できるだけそうしようとミレはあらためて肝に銘じた。
「喉が渇いたな」
「虹パフェが食べたいです」
率直に伝えると、アーティスはクッと笑った。
「よし、虹パフェを食べに行こう」
カフェ・ゲランは裏参道にある老舗のカフェのひとつで、店外には黒いパラソルと焦げ茶の上品なテーブル席、店内にはワゴン式ショーケースがあり、中には生ケーキやタルト、チョコレート、ティラミス、ビスコッティなどが並んでいる。
他にはレースやリボンでパッケージされたコンフェッティが銀器に盛られ、焼き菓子などと一緒に売られていた。
ミレはショーケースに張り付いた。
どれもすごくおいしそうで、目移りする。
眼福だ。
と、ミレがうっとり見惚れていたところ、アーティスがさっさと空いている席についてミレを呼ぶ。
「こらこら、そんなところでもの欲しそうにするんじゃない。心配しなくても、好きなだけ頼めばいい」
「本当ですか」
「本当だとも」
なんていいひとなのだろう。
ミレはおとなしくアーティスの前の席にちょこんと座った。テーブル席は半分ほどが埋まっており、闇騎士と聖職者も二人から少し離れた席に腰を落ち着けている。
「ご注文をお伺いします」
ウェイトレスがメニューを持って来た。アーティスがそれに眼を通し、
「私と向こうの二人にボンズ・ビールを、こちらのお嬢さんにはあのショーケースの中身全部と虹パフェをひとつ」
ウェイトレスはポカンとした。
「ショーケースの中身を全部ですか」
「そうだ。虹パフェも大盛りで頼む」
「は、はいっ。畏まりました!」
ウェイトレスが厨房にすっ飛んで行く。
ミレがワクワクしながら待っていると、テーブルに片肘をついてアーティスが話しかけてきた。
「ドナの世話は慣れたかね」
「最近、つつかれることが少なくなりました」
ドナはアーティスの飼い鳥だ。大きな美しいオウムで、やや癇癪が激しいものの、非常にかわいい。ミレが面倒をみるようになってだいぶ日が経っている。
「十回に一回は呼べば返事をしてくれます」
「そうか」
「いまは私の名前を憶えさせている最中です」
「ドナに、君の名前を?」
「いけませんでしたか」
図々しかっただろうか。
ミレが意気消沈すると、アーティスは慌ててかぶりを振った。
「いや、それはかまわない。まったくかまわないのだが……しかしドナが君の名前を連呼するようになれば、まるで私が君に夢中のようだな……」
アーティスはなぜか表情をゆるませてブツブツ言っている。
やはり不都合があるのだろうかと思い、問い質してみる。
「なんですか」
「なんでもない」
「そうですか」
ミレの返答が気に食わなかったのか、アーティスがドン、とテーブルを叩く。
「そう淡泊にかまえないで、もう少し物事を追求したまえ! 君ときたらいつもあっさりと張り合いのない……せっかくのデートだ。相互理解を深める機会だろう。なにか、そう、私に訊ねたいことや知りたいことはないのかね」
ミレはちょっと考え、ズバリと言った。
「殿下は王位継承権をユアン殿下に譲られるおつもりなのですか」
アーティスが息を呑んで絶句する。
空気が一瞬にして緊張したそこへ、不意に男が飛び込んできた。
「覚悟!」
男の手に白刃が閃く。狙われたのはアーティスだ。
だが覚悟が必要だったのは男の方だったろう。
刃が届く前に、男の背中に二本の矢が命中し、眉間とのどは聖職者のナイフと闇騎士の短剣が貫いて、吐血しながら男はどうっと倒れた
あっけない襲撃者の最期だ。どこかからソーヴェと他一名が現れて男を回収し、店員が石畳に水をまいて血を洗い流した。
なにごともなかったかのように、喧騒が戻る。OB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ
「殿下」
「なんだ」
「いまのようなことは頻繁(ひんぱん)にあるのですか」
「まあそれなりに」
「悠長にデートなんてしている場合ですか」
「暗殺が怖くて王子なんてやってられるか」
「そういうものですか」
「そうだ。だから容易に私から逃げられると思うんじゃない」
誰もそんなことは言ってない。
しかし急に不機嫌になったアーティスはミレを睨んで言った。
「デートは続ける」
「はい」
「相手が私でつまらなかろうが、がまんしなさい」
「はい」
「『はい』と言うな! むなしくなるだろう」
いったいどうしろというのか。
面倒くさいひとだなあ、とミレが内心嘆息すると、すかさず見透かされた。
「いま、面倒くさい男だと思っただろう」
ギクリとして冷汗が噴き出る。
ミレがいいわけしようとしたところへ、ウェイトレスが「お待たせしましたぁ」とワゴンを押して登場し、ミレの眼の前に特大のパフェを置いた。
ミレは自分でも眼がキラキラと輝くのがわかった。
「いただいてもよろしいのですか」
「どうぞ」
アーティスに勧められ、さっそく柄の長い銀のスプーンを持ち、ミレは食べはじめた。
「おいしいです」
「そうか」
「幸せです」
「よかったな」
他愛のないやりとりに、ミレはアーティスト見つめ、にこっと笑いかけた。
にわかに、アーティスは固まってしまった。
ミレは放っておいて食べることに専念した。
「……君は本当においしそうに食べるな」
「おいしいので」
なにがおかしいのか、アーティスは楽しそうに、嬉しそうに、ミレがパフェと格闘するさまを、相好を崩して眺めている。
ふと思いついて、ミレはスプーンでアイスクリームと生クリームをすくい、アーティスに差し出した。
「どうぞ」
「え?」
「味見されてみてはいかがですか」
「……」
ややうろたえつつ、アーティスがおずおずとスプーンを口に含む。
「どうですか」
「……味がしない」
そんなばかな。
「チョコレート味ですよ」
アーティスは横を向いて口元を押さえ、沈黙している。顔が真っ赤だ。
「君は普段からこんなことを……いや、なんでもない」
それきり、また押し黙ってしまう。だが甘いもので機嫌が直ったらしく、にやけていて、とてもしまりのない表情を浮かべている。
ミレがパフェを完食し、ひとつめのケーキを半分胃におさめたところで、ようやく平常心を取り戻したらしいアーティスが口を切った。
「さっきの質問についてだが、君は誰からその情報を得たのだね」強効痩
ミレが王宮に上がりだいぶ日も経って、そろそろ家が恋しくなってきたある日の午後――予告なく、アーティスが部屋を訪ねてきた。
ミレはちょうどユアンのもとへ赴くために身支度を済ませたところで、ビスカは後片付けの最中、闇騎士と聖職者は待機、あとの者は不在だ。VIVID XXL
「こんにちは、ミレ殿」
相変わらず、胡散臭い愛想のよさでアーティスが入室してくる。
貴族服ではない。平服だ。
さすがに生地や縫製は上等だが見ためはかなり地味だ。髪型もラフで、装飾物はおろか、剣も帯びていない。そのためか、いつもよりだいぶ若く見える。
「……」
「……こらこら、そんな珍品でも見るような眼で見るんじゃない」
「……」
「なんだ、なにが言いたい?」
「地味です」
「お忍びで出かけるんだ。控えめなくらいでちょうどよかろう。それともなにか? 君はこんな地味な男の隣を歩くのは嫌だというのかね?」
なんで私の意見が必要なのだろう?
そう疑問に思いながらもミレは正直に感想を述べた。
「地味ですがシンプルでいいと思います。いつもの華美な恰好より好きです」
するとアーティスはなぜか少し焦ったように顔を上気させた。
「そ、そうか、好きか。なるほど、君はシンプルな装いを好むのか」
ミレの服装の好みなどどうでもいいだろうに、アーティスはまじめくさった調子でブツブツ言っている。たまりかねて訊く。
「なんの用ですか」
「デートの誘いに」
「誰を」
「君を」
「お断りします」
速攻辞退すると、眼の前で、ピクリとアーティスの頬の筋肉がひきつった。眼に剣呑な光が射す。一段低い声が地を這う。
危険な微笑を浮かべながらアーティスが言った。
「……そう言うと思ったよ。じゃあ選びなさい。気絶するまでキスして欲しいか、それとも私と一緒に虹パフェを試しに行くか」
「……虹パフェ?」
今度はミレの頬の筋肉がピクリと反応した。
アーティスが声に弾みをつけて、身振り手振りをまじえて、説明する。
「七種類のアイスクリームを盛ってたっぷりの生クリームをしぼり、その上に飴がけし、生チョコレートを添えてウェーハスとフルーツを飾った大きなパフェだ。ゆうに二人前はあるらしい」
ミレはゴクリと生唾を呑んだ。
想像して、ときめく。
それまで黙って二人の会話を聞いていた闇騎士が呆れ顔で呟く。
「……たかが菓子で姫の気を惹くとは策(て)が幼稚すぎやしねぇか?」
「なんとでも言え」
アーティスは「フン」と鼻を鳴らしてミレとの距離を詰めた。
「キスかデートか。私は前者でもまったくかまわないが」
と、アーティスがおもむろにミレの顎に指をかけ、頬を傾けてきた。
うっとりと虹パフェを空想していたミレはハッと我に返った。
「デートに行きます」
「早くそう言えばいいのに」
ぬけぬけと言ってアーティスが笑い、ミレの手をすくって、指先に軽くキスを落とした。
「……デートの誘いを受けてくれて嬉しいよ。少しは私に気があると思ってもいいのかね?」
「いいえ、まったくありません」
ミレが大きく首を振って断固否定すると、なんと、アーティスにパクッと指を齧られた。
「い、痛い」
甘噛みではない。
振りほどこうにも、振りほどけない。
「……っ」
痛くて、じわっと泣けてくる。
悲鳴を上げる寸前、解放された。
「……あーあ、歯型がついてしまったね。かわいそうに」
自分で噛んでおきながらなにを言っているんだ。
涙目でミレがアーティスをキッと睨むと、アーティスはニヤリと口角を吊り上げて顔を寄せてきた。
「悪かった。つい、君がイジワルを言うものだから苛めてしまった……」
涙を舌で舐めとられる。
さすがにびっくりして胸を押し退けようとしたものの、逆に抱きこまれる。暴れても、アーティスはびくともしない。
ミレの抵抗をやすやすと封じながら、ちらりと背後に眼をやった。くぐもった声で、なにかひとりごちている。
「……ふぅん。私がここまでしても止めないところをみると求婚者とは表向きか……となると、やはり……」
疲れて、ミレは虚脱した。
ここにシャレムがいれば撃退してもらうのだが、あいにく一昨日から姿の見えない芸術家を探しにいって留守なのだ。
唐突に解放される。息が楽になった。
礼儀正しく腕を差し出されて戸惑っていると、
「行こう。もうだいぶ時間をムダにした。間に合わなくなるぞ」
なにに?
ミレは内心そう突っ込んだものの、アーティスの強引さに負けるかたちで拉致された。
馬車に乗せられ、ミレが連れていかれた先はバールワンズ大講堂だった。
「間に合ったな」
こんなところへ来る理由がわからない。
人員整理をしていた係の者がアーティスを見るなりスッと寄って来た。
「お客様、お席にご案内いたします」
「来い、ミレ。なにをしている」
ぼうっとしていると手首を掴まれ、引っ張られた。
大講堂は満員御礼、空席は中央前列四番目の二席しか残されていない。
まさにそこへ着席したところで、開演を知らせる鐘が鳴った。
同時に大扉が開き、颯爽と現れた人物を見てミレは眼を輝かせた。
ダリアン博士だ。
シーズディリ・ダリアン・ルケイン博士は壇上に上がるなり口火を切った。
「これより私、シーズディリ・ダリアン・ルケインによる特別講義、キージェレクト法則とマリナーの定理に関する考察をはじめる。ご来場の方々には静粛なる聴講をお願いするものである。尚、質問等は最後に受け付けする。まずは――」
ダリアンの眼がミレを見つけて一瞬止まったものの、それだけで、さっそく講義に移る。
それから二時間かけてダリアンは鋭い論法と式をもって自説を展開し、最後に聴講者たちとの間で活発な質疑応答が制限時間いっぱいまで取り交わされた。福潤宝
カーン、カーン、カーン。
と、終了の鐘が鳴るとダリアンは熱心な聴講者にわっと囲まれたが、ミレが近づくと「ミレ!」と大きく声を張り上げて手招いてくれた。
「すばらしい講義でした、博士」
「ありがとう。だが、まだまださ。算数術は奥が深く果てがない――私も君もひたすら勉学の道を精進あるのみだ」
「はい」
素直なミレにダリアンは相好を崩し、愛弟子の頭をクシャッと撫ぜた。
「それはそうと、私はこれから学会の理事たちと会食の約束があって行かなければならないんだ。また今度ゆっくり会おう」
「はい、ぜひ。楽しみにしています」
ダリアンの手がミレの肩にのる。コソッと、耳打ちされた。
「……王子殿下とデートとは、やるじゃないか。君も隅におけないな」
ニヤリと笑い、ダリアンが去ると、ついでミレが取り囲まれた。
「失礼ですが、シーズディリ・ミレ博士ではありませんか?」
「はい」
「やはり!」
騒然と場が湧く。
大勢がミレをしげしげと眺めて、「おー!」とか「へぇー」とか「ううむ」とか感嘆の声を口々に漏らしている。
「お噂はかねがね。シーズディリ・ダリアン博士の秘蔵の愛弟子であるあなたに一度お目にかかりたいと思っておりました。ぜひフェリウルの方程式の――」
「しかし驚いたなあ! あなたがこんなに若くてこれほどお美しいとは!」
「まったくだ。ここで会えたのもなにかの縁。いかがでしょう、私とお食事など」
「あっ、こら、ぬけがけはずるいぞ。俺だって誘いたい」
なぜか、ミレの争奪戦がはじまった。
大勢に包囲されただけでも窮屈なのに、ダリアンは行ってしまうし、前も後ろもふさがれ、声高に騒がれてミレは閉口した。
そこへ、
「あいにくだが、彼女は私の連れだ」
しびれを切らしたのだろう。
アーティスがゆっくりと階段を下りて来る。眼が尖っている。どうも不機嫌きわまりない。
「……」
辺りを威嚇する鋭い眼つき。気圧されたようにミレを取り巻いていた面々が道を開ける。
「私たちはデート中でね。邪魔をしないでもらおうか」
わざわざそんなことを公言しなくてもいいだろうに。
案の定、ざわついた。そしてアーティスの身分に気づいたものが出はじめる。
「……アーティス殿下?」
「まさか」
「いや、そうだ。まちがいない。アーティス殿下だ!」
雄叫びとも悲鳴とも怒号ともつかないどよめきが奔って、ミレを除いた全員が礼をした。
そんな中、アーティスがミレの前を素通りし、扉に向かう。
「ミレ、来なさい」
「はい」
逆らわず、トコトコ追いかける。
そのまま大講堂をあとにし、ひとでにぎわう参道へ出たところで、アーティスが背中を向けたまま言った。
「……ずいぶんモテるじゃないか。いつもあんなふうなのかね?」
「はい」
「『はい』だと?」
振り向かれ、ギロリとすごい眼で睨まれる。
ミレは肩を竦めた。
「ダリアン博士の弟子は私ひとりなので、皆、博士に紹介して欲しいのでしょう」
ダリアンは老若男女問わず、絶大な人気がある。
すこぶる頭脳明晰で、威勢のいい啖呵(たんか)と気風(きっぷ)のよさ、さっぱりとした気性と女性とは思えない豪快さが好かれているのだ。
「それだけではないだろう」
「それだけだと思います」
「いーや。あからさまに君に気のある男もいたぞ。もっと慎重になりたまえ。だいたいだな、君は普段から人目を気にしなさすぎだ。もっと周囲から自分がどう見られているか意識しなさい。そっけないくせに無防備でそんなふうだから――」
小言がはじまった。
ミレはわざと足を遅らせてアーティスと距離をおきながら、キョロキョロした。
街に出るのは久しぶりだ。このところ、王宮に引きこもり生活だったので、賑やかな雑踏に埋もれるのも悪くない。
軒を連ねる店々やドーナツ売りのワゴンなどについつい眼を奪われる。
「うひょーっ。かっわいいー! なあ、お嬢さんひとり? 俺たちと遊ばない?」
いきなり通りすがりの男性二人連れに声をかけられた。
ミレが返事をするより前に、記録的な速さで駆けつけたアーティスが間に割り込んで、男たちを冷たく睥睨(へいげい)した。
「ひとりじゃないし、遊ばない。貴様らの遊び相手は別にいる」
「は? あんただれ? 俺たちはこっちのお嬢さんに用が――え?」
二人連れの肩をポン、と叩いたのは闇騎士と聖職者だ。
どちらも冷酷無情な眼をしている。
「連れて行け」
アーティスが非情な声で告げると闇騎士と聖職者は金切り声を上げて暴れる二人の男を押さえこみ、問答無用で連れ去った。
ミレは一応、訊いてみた。
「……釈放は?」
「するとも。少々傷めつけたあとでな」
平然と仕置きすると言いきったアーティスに無造作に肩を抱かれる。
歩きにくいなあ、と不平をいだきつつも我慢して口にしないでいると、苛々した声の叱咤を浴びた。
「君は隙が多すぎる。やたらと男に口説かれるんじゃない」
「声をかけられただけです」
「ついて行く気はなかったというのか」
「はい」
「だが、甘いものでも食べに行こうと誘われたらどうだ? ついて行っただろう」
「……」
行ったかもしれない。
だが本音を漏らせばまた怒られるので、ミレは反対のことを言った。
「そんなこと、ありません」
「いま間があったぞ」
きつい一瞥を向けられてミレは眼を泳がせた。見抜かれていたようだ。
アーティスの眼が吊り上がる。眉間に皺が寄る。そしてまたクドクドと説教される。今度は肩を押さえられているから離れたくとも離れられない。V26 即効ダイエット
「そもそも、男というものは総じて下心のあるイキモノだ。おまけに勘違いしやすいし衝動のまま行為に及ぶこともある。まして夏は理性のタガが外れやすい季節だ、煽るような振る舞いは慎むべきで――なっ、なにをしている!」
ギョッ、とアーティスが眼を剥いた。
ミレはキョトンとした。
「なにって……暑苦しいので」
少し胸元をはだけて手で煽っただけだ。
だがアーティスはおかしいくらいおおげさに動揺している。慌てて胸元を掻き合わされ、猛烈な剣幕で怒鳴りつけられた。
「……っ。そういう君の無防備さが男を煽ると言っているんだ。いいか、他の男の前で絶対にいまのようなみだらな真似をするんじゃないぞ。そんな白い胸元をさらけるなんて眼の毒だ。悩ましいにもほどがある。私以外の奴の眼に触れたら八つ裂きにしてくれる……!」
本当にやりかねない。
薄々察してはいたが、さっきのことといい、発言の狂暴さといい、アーティスは敵にまわしては恐ろしい人間だ。
怖いひとには、逆らわない。
アーティスに執着される理由はよくわからないが、できるだけそうしようとミレはあらためて肝に銘じた。
「喉が渇いたな」
「虹パフェが食べたいです」
率直に伝えると、アーティスはクッと笑った。
「よし、虹パフェを食べに行こう」
カフェ・ゲランは裏参道にある老舗のカフェのひとつで、店外には黒いパラソルと焦げ茶の上品なテーブル席、店内にはワゴン式ショーケースがあり、中には生ケーキやタルト、チョコレート、ティラミス、ビスコッティなどが並んでいる。
他にはレースやリボンでパッケージされたコンフェッティが銀器に盛られ、焼き菓子などと一緒に売られていた。
ミレはショーケースに張り付いた。
どれもすごくおいしそうで、目移りする。
眼福だ。
と、ミレがうっとり見惚れていたところ、アーティスがさっさと空いている席についてミレを呼ぶ。
「こらこら、そんなところでもの欲しそうにするんじゃない。心配しなくても、好きなだけ頼めばいい」
「本当ですか」
「本当だとも」
なんていいひとなのだろう。
ミレはおとなしくアーティスの前の席にちょこんと座った。テーブル席は半分ほどが埋まっており、闇騎士と聖職者も二人から少し離れた席に腰を落ち着けている。
「ご注文をお伺いします」
ウェイトレスがメニューを持って来た。アーティスがそれに眼を通し、
「私と向こうの二人にボンズ・ビールを、こちらのお嬢さんにはあのショーケースの中身全部と虹パフェをひとつ」
ウェイトレスはポカンとした。
「ショーケースの中身を全部ですか」
「そうだ。虹パフェも大盛りで頼む」
「は、はいっ。畏まりました!」
ウェイトレスが厨房にすっ飛んで行く。
ミレがワクワクしながら待っていると、テーブルに片肘をついてアーティスが話しかけてきた。
「ドナの世話は慣れたかね」
「最近、つつかれることが少なくなりました」
ドナはアーティスの飼い鳥だ。大きな美しいオウムで、やや癇癪が激しいものの、非常にかわいい。ミレが面倒をみるようになってだいぶ日が経っている。
「十回に一回は呼べば返事をしてくれます」
「そうか」
「いまは私の名前を憶えさせている最中です」
「ドナに、君の名前を?」
「いけませんでしたか」
図々しかっただろうか。
ミレが意気消沈すると、アーティスは慌ててかぶりを振った。
「いや、それはかまわない。まったくかまわないのだが……しかしドナが君の名前を連呼するようになれば、まるで私が君に夢中のようだな……」
アーティスはなぜか表情をゆるませてブツブツ言っている。
やはり不都合があるのだろうかと思い、問い質してみる。
「なんですか」
「なんでもない」
「そうですか」
ミレの返答が気に食わなかったのか、アーティスがドン、とテーブルを叩く。
「そう淡泊にかまえないで、もう少し物事を追求したまえ! 君ときたらいつもあっさりと張り合いのない……せっかくのデートだ。相互理解を深める機会だろう。なにか、そう、私に訊ねたいことや知りたいことはないのかね」
ミレはちょっと考え、ズバリと言った。
「殿下は王位継承権をユアン殿下に譲られるおつもりなのですか」
アーティスが息を呑んで絶句する。
空気が一瞬にして緊張したそこへ、不意に男が飛び込んできた。
「覚悟!」
男の手に白刃が閃く。狙われたのはアーティスだ。
だが覚悟が必要だったのは男の方だったろう。
刃が届く前に、男の背中に二本の矢が命中し、眉間とのどは聖職者のナイフと闇騎士の短剣が貫いて、吐血しながら男はどうっと倒れた
あっけない襲撃者の最期だ。どこかからソーヴェと他一名が現れて男を回収し、店員が石畳に水をまいて血を洗い流した。
なにごともなかったかのように、喧騒が戻る。OB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ
「殿下」
「なんだ」
「いまのようなことは頻繁(ひんぱん)にあるのですか」
「まあそれなりに」
「悠長にデートなんてしている場合ですか」
「暗殺が怖くて王子なんてやってられるか」
「そういうものですか」
「そうだ。だから容易に私から逃げられると思うんじゃない」
誰もそんなことは言ってない。
しかし急に不機嫌になったアーティスはミレを睨んで言った。
「デートは続ける」
「はい」
「相手が私でつまらなかろうが、がまんしなさい」
「はい」
「『はい』と言うな! むなしくなるだろう」
いったいどうしろというのか。
面倒くさいひとだなあ、とミレが内心嘆息すると、すかさず見透かされた。
「いま、面倒くさい男だと思っただろう」
ギクリとして冷汗が噴き出る。
ミレがいいわけしようとしたところへ、ウェイトレスが「お待たせしましたぁ」とワゴンを押して登場し、ミレの眼の前に特大のパフェを置いた。
ミレは自分でも眼がキラキラと輝くのがわかった。
「いただいてもよろしいのですか」
「どうぞ」
アーティスに勧められ、さっそく柄の長い銀のスプーンを持ち、ミレは食べはじめた。
「おいしいです」
「そうか」
「幸せです」
「よかったな」
他愛のないやりとりに、ミレはアーティスト見つめ、にこっと笑いかけた。
にわかに、アーティスは固まってしまった。
ミレは放っておいて食べることに専念した。
「……君は本当においしそうに食べるな」
「おいしいので」
なにがおかしいのか、アーティスは楽しそうに、嬉しそうに、ミレがパフェと格闘するさまを、相好を崩して眺めている。
ふと思いついて、ミレはスプーンでアイスクリームと生クリームをすくい、アーティスに差し出した。
「どうぞ」
「え?」
「味見されてみてはいかがですか」
「……」
ややうろたえつつ、アーティスがおずおずとスプーンを口に含む。
「どうですか」
「……味がしない」
そんなばかな。
「チョコレート味ですよ」
アーティスは横を向いて口元を押さえ、沈黙している。顔が真っ赤だ。
「君は普段からこんなことを……いや、なんでもない」
それきり、また押し黙ってしまう。だが甘いもので機嫌が直ったらしく、にやけていて、とてもしまりのない表情を浮かべている。
ミレがパフェを完食し、ひとつめのケーキを半分胃におさめたところで、ようやく平常心を取り戻したらしいアーティスが口を切った。
「さっきの質問についてだが、君は誰からその情報を得たのだね」強効痩
2013年1月23日星期三
全ての結末
アーキッドとアデルトルートが、銅牙騎士団に奪われたテレスターレを撃破するときより、多少時間はさかのぼる。
最後の1機となったテレスターレの操縦席で、銅牙騎士団員は己の体の震えを止める術を知らず、喉の奥がひりつくような焦燥を覚えていた。花痴
この場で立って動くものは彼と、敵である朱兎騎士団の機体だけである。もはやこの場に彼の味方はいない。
彼は額を流れるねばつく汗を拭い、震える手足を叱咤しながらこけおどしの気勢を張る。その努力に反するように操縦桿を通して機体へと伝わったかすかな震えが、テレスターレの手脚を僅かに泳がせていた。
互角と思われていた戦いの均衡が崩れ去ったのは、一体いつのことだったのか。
自問する間でもなく、彼はその答えをわかっている。それは戦場に“蒼い死神”が現れた、あの時に他ならない。
銅牙騎士団の長である、ケルヒルトと数名の部下が襲撃の主目的たる新型機の奪取に成功してカザドシュ砦から離脱した後も、それ以外の銅牙騎士団員達はその場に残り、戦い続けていた。
彼らと相対するのは朱兎騎士団が操るカルダトア部隊。
そのどれもが自分達の拠点を荒らしまわる襲撃者への怒りに煮えたぎり、強い殲滅の意志を持って攻めかかってくる。
それらに対して背を向けるなど自殺行為も同然だ、たちまち背中に無数の剣が突き立つことだろう。彼らに応戦以外の選択肢はなかった。
彼らと朱兎騎士団との戦いは、意外なことにほとんど互角の状態となった。
銅牙騎士団が朱兎騎士団の勢いに抗することが出来たのは、言うまでもなくこの場に残った2機の新型機のおかげだ。
操りづらいことこの上ない機体だが、その性能の高さは欠点を補ってあまりあるほどのものだった。駻馬(かんば)はよく走るというやつである。
それもつい先ほどまでのことだった。
変化は一瞬のこと、全く前触れなく戦場に現れた蒼い死神が、凄まじい勢いで銅牙騎士団へと致命的な攻撃をくわえていったのだ。
ある機体は脚を壊され、ある機体は頭部を壊された。動きを止められ、あるいは視界を失った機体は酷くたやすく朱兎騎士団に討ち倒されてゆく。元々ギリギリの均衡の上にあった戦場である、一度傾いたバランスが元に戻ることは無かった。
この場に残るは、彼とテレスターレが1機だけだ。
彼の機体を包囲するように布陣する朱兎騎士団のうち、一際大柄な機体――騎士団長専用機・ハイマウォートに乗るモルテン・フレドホルムが奇妙にゆっくりと響く、唸りのように低い声で投げやりに告げた。
「もう諦めたらどうだ?」
それは降伏勧告とは少し毛色が異なっている。もう無駄だ、という厳然たる事実を伝えるだけの確認作業と言える。
テレスターレはその言葉には反応しなかった。団員は操縦席で震えを押さえながら、ただ“その時”に対して身構え続ける。
朱兎騎士団のカルダトアに包囲されたテレスターレ。それに乗る彼は朱兎騎士団と言う“わかりやすい”脅威に怯えているわけではない。
単にこの戦いに敗れるのならば、彼は悔やみ怒ることはしても恐れることはしない、最後まで抵抗するだけだろう。
彼が恐れるのは、抗うことすら許されない、蒼い刃。
瞬く間に彼らのカルダトアを沈め、もう1機のテレスターレすら行動不能とした死神。
いつか来るその攻撃に備え、彼は小さく震える手脚に、それでも力をこめているのだ。
そして蒼い死神こと幻晶甲冑(シルエットギア)・モートルビートとエルネスティは、当然のように既に最後の獲物へと手をかけていた。
死角である頭上から、暗闇に湧き出すように現れたモートルビートが、大気衝撃吸収(エアサスペンション)を駆使してテレスターレの肩へと柔らかく着地する。
「こんばんは、賊の方。貴方が、最後の一人ですよ」
緊張と警戒の極みにいた団員は突然、幻像投影機(ホロモニター)に大写しになった鎧の騎士の姿に、身も蓋もない絶叫をあげた。
炎の照り返しでも塗りつぶせない蒼い装甲と、歪なバランスの手脚を持つ死神騎士が、逆さまに覗き込むようにして映っている。つまり、既に死神の刃は彼の喉元に添えられていると言う事だ。
もはや彼は自身が何を叫んでいるのかを理解していない。ただ視界にうつる死神を排除すべく、本能的な行動で機体の腕を振り上げていた。
人間の5倍以上の大きさを持つ巨人の鋼の拳が死神へと辿り着く前に、大写しになった死神の手のひらがホロモニターを埋め尽くす。
幻晶騎士(シルエットナイト)にとって頭部とは、視覚を得るための装置である眼球水晶を設置、保護するための部位であるといっていい。当然、兜と面覆いと言った装甲によって、それは厳重に守られている。
しかし現実に、モートルビートは眼球水晶に触れんばかりの位置へと手を伸ばしている。
幻晶甲冑の大きさは幻晶騎士(シルエットナイト)より遥かに小さい。勿論その腕もだ。モートルビートは幻晶騎士の瞳を守るべき面覆いの隙間から内部へと手を伸ばし、眼球水晶に直接手を向けると言う荒業に出ていた。
焦点が合わないほど近づけられ、ぼやけた手のひらに魔法現象に特有の淡い輝きが起こる。顕現するは炎の魔法、爆炎砲撃(フレイムストライク)。爆炎球(ファイヤボール)と同じ中級魔法でありながら火力でそれを凌ぐ、高威力の魔法である。
いかに幻晶騎士が強固な鎧を身に纏っているとは言え、その内部を直に攻撃されてはひとたまりもなかった。
紅蓮に渦巻く炎が一瞬、視界の全てを埋め尽くし、それを最期にホロモニターが光を失う。眼球水晶が破壊されたのだ。光源を失い、密閉された操縦席は即座に闇に包まれていった。
戦いにおいて極めて重要な要素である視界を失い、銅牙騎士団員の表情が絶望に染まる。
直後に頭部に伸ばされた機体の拳には何の手ごたえもなかった。死神は健在で、自分はもはや相手の姿が見えない。
手元も見えない闇の中で、俄かに恐慌状態に陥った彼は、とにかく纏わりつく死神を振り払うべくがむしゃらに機体を暴れさせる。
やはり手ごたえは無い。
もはや半ば以上自棄を起こし、彼は背面武装(バックウェポン)を起動する。狙いも何もあったものではないが、とにかく闇雲にでもどこかを攻撃することしか、彼にできることは残っていなかった。
暴れる機体をいなしながら、トドメの方法に悩んでいた死神(エルネスティ)は、テレスターレの背面武装が展開されてゆくのを見てにんまりとした笑みを浮かべていた。
縋りつくような団員の祈りも空しく、ここに居るのはテレスターレの発案者にして誰よりもその機能・構造に詳しい者である。それを逆手に取る方法などいくらでも思いついてしまう。
エルは器用にバランスを取りながら素早く肩へ移動すると、魔導兵装(シルエットアームズ)を保持する補助腕(サブアーム)へと取りついた。
補助腕の“手”にあたる部分だけ破壊し、内部の銀線神経(シルバーナーヴ)をつなげたまま魔導兵装を引っ張り上げる。
エルはモートルビートを器用に操りながら、幻晶甲冑の全高を越える長さを持つ魔導兵装を全力でぐるりと振り回した。
その切っ先が残るもう一本の魔導兵装と接するようにして、そのまま固定する。
機体の上で大惨事が用意されているなど、視界を失った銅牙騎士団員にわかろうはずもなく。
背面武装を展開した彼は、胸中の焦燥が命ずるままに、迷うことなく操縦桿のトリガーを押し込んだ。
十分な魔力(マナ)の供給を受けた魔導兵装が、その先端部に戦術級魔法(オーバード・スペル)を発現させる。
死神(エルネスティ)によって先端を接触させられたそれは、当然すぐさま爆裂し、自身を粉微塵に破壊するとともに周囲に強烈な衝撃波を撒き散らす破目になった。
眼前で大爆発を起こしたテレスターレはその反動で殴り飛ばされるようにぶっ飛んで行き、地面に突っ込んだ後、動きを止めた。
「たーまやー」
その肩にいたはずの死神は、愉しげな感想を漏らしながら華麗に宙返りを決め、何事も無かったかのように地面へと着地していた。
モルテンは襲撃者に奪われた最後のテレスターレが倒れてゆく様を眺めながら、多量の呆れを含んだ吐息を抑えることができないでいた。
自分達は、あの機体を相手にてこずっていたはずなのだ。それが冗談のような気安さで、無茶苦茶な方法で倒されていく。しかも見た事も無い小型の幻晶騎士モドキに、だ。
それを馬鹿馬鹿しいと思わずしてどうしようか。彼には他に適当な言葉を思い浮かべることができなかった。
そうしてギリギリでなんとか耐えていたモルテンだが、蒼い鎧の下から出てきた人物を見たときついに盛大に天を仰ぐことになる。
「……エルネスティ、だったな」
モルテンは、声に呆れを含めないために随分と気合を入れる破目になっていた。
幻晶甲冑・モートルビートの装甲を展開したエルネスティ・エチェバルリアは、恐ろしいことに、実に恐ろしいことに、炎の照り返しを受けて赤みの差す顔に、一仕事を終えた満足の表情を浮かべていた。
「はい、騎士団長殿。助勢遅くなり申し訳ありません。機体の調達に手間取ってしまいまして」
問題はそこじゃない、と喉までせり上がって来た言葉を、モルテンは精神力だけで飲み込む。
「……いや、まずは厄介な敵への助力、感謝しよう。色々と聞きたい事はあるが、それは後回しにする。
ともあれ、ここが片付いたからには逃げた輩を追わねばならんが、悔しいが間に合わぬかも知れんなぁ」
綺麗に刈りそろえた、自慢の髭を撫でさすりながらモルテンが腕を組んだ。
賊の一部が逃走してから結構な時間が経過している。既に手の届かないところまで逃げていると考えるのが自然だろう。
「それについて、騎士団長殿にお伝えしたいことがあります。福源春
先ほどライヒアラよりやってきた学生が偶然、逃走したテレスターレと遭遇したそうです。彼らが不審に思って誰何したところ攻撃され、そのまま交戦状態に入ったとか。
そこでかなりの時間を食っているはず、賊らはまだ十分に離れていない可能性があります」
エルからは見えないが、モルテンは再び猛獣のごとく獰猛な笑みを取り戻していた。それは正しく、獲物を追い詰める狩人のものだ。
ハイマウォートが、残るカルダトアへと振り向く。
「聞いての通りだ、俺はこれより逃げた賊を追う。
だがこれだけの被害を受けた砦を放置するわけにはいかん、お前達はここに残っての防衛を命ずる」
最大で3個中隊を保持していた朱兎騎士団の戦力は、もはや2割程度しか残っていなかった。敵の撃破が自軍の戦力を減らすことになる、襲撃者の策のもっとも嫌らしい部分がこれだ。
この場に残る数少ない、しかも損傷を負ったカルダトアでは戦力的に不安が残る。ならばそれを砦の防護に回し、最大戦力であるハイマウォートが追撃に当たる。彼らにも余裕がない。
「さてエルネスティ、見ての通りこちらは人手不足でな。その妙ちきりんな鎧と共に、案内を頼もうか」
「ええ勿論、ご案内も助力もいたしますとも」
敬礼を返すカルダトアにこの場を任せ、恐るべき勢いでハイマウォートとモートルビートが街道へと走り出していった。
遠くより微かに響いていた、鋼を打ち合うような音が止んだ。
ディートリヒ・クーニッツは、心にわきあがる不安と期待が半ばで混じった感情に押されて、僅かにその端正な眉を吊り上げていた。
彼はより強く鐙(あぶみ)を踏み込み、グゥエールの走る速度をさらに上げた。月明かりを頼りにしている行動としては、ほとんど自殺行為のような速度を緩めることなく、彼は走り続ける。
鋼の巨人が打ち鳴らす足音に、時折歪んだ装甲が引っ掻きあう、悲鳴じみた音が混じっている。
よく見れば紅の鎧はあちこちが歪んでおり、動くたび擦れあった装甲が火花を散らす部分すらある有様だった。
森へと入る前、彼と彼が操る幻晶騎士グゥエールは襲撃者の一人が操るテレスターレによる捨て身の行動で、大きく足止めをくらっていた。
出力的にはほぼ互角の機体であるテレスターレに組み付かれたグゥエールは、それを振り払うことが出来ずに押さえ込まれてしまったのだ。
業を煮やしたディートリヒは、自らのダメージも覚悟した上で背面武装を使用して、一度は自由を得ることに成功する。その時点でテレスターレは半壊状態だったはずだが、呆れたことに敵はそれでもグゥエールへの足止めを止めなかった。
死に体でありながらなお果敢に向かってくるテレスターレの執念に、グゥエールは予想以上の手間を取られることになる。損傷自体はたいした事はないが、その時間の浪費を考えるとしてやられた格好だ。
てこずりながらも完全にテレスターレを行動不能にした後、彼は逃げたテレスターレとそれを追うアールカンバーの追跡にとりかかっていた。
アキュアールの森の所々には幻晶騎士が移動し、たまに剣を交えたと思しき荒れた跡が残っており、追跡はそう難しくはない。彼はただひたすらに道を急いでいた。
そうして走り続けていたグゥエールが、唐突に森の中にぽっかりと広がった空間へと飛び出した。
いや、よく見れば元から広がっていた空間ではない。木には斬られた跡があり、あちこちで折れ倒れている様はここで激しい戦闘があったことを示していた。
背中を這い上がる嫌な予感を振り払いながら、ディートリヒは素早く周囲へ首を巡らせる。
そこにあるのは暗い色合いの木々、斑な色合いの下草、それらを順に見回していると夜の色に満ちたホロモニターの映像の中に、森の中では場違いな純白が映りこんだ。
この場にある純白、その意味合いは一つしかない。
「エドガー! 探したぞ、テレスターレはどうなっ……」
色の持ち主に近づく、ディートリヒの言葉が尻すぼみに小さくなる。
木にもたれかかるような格好で動きを止める巨大な人影、幻晶騎士アールカンバーの姿を確認した途端、彼は思わず息を飲んでいた。
汚れ一つなかった純白の装甲は、激しい戦いにより歪み、くすんで鈍い色合いになっている。
それだけではなく、肩口から斬撃を叩き込まれたのだろう、その右腕は根元からなくなっており、周囲の胸の装甲も一部が削り取られていた。
力なく下げられた左腕には爆発や斬撃の跡が大きく残った盾がひっかかり、今もゆらゆらと揺れている。
その中でいくらかの損傷はあれど、形を残した両脚は無事と言ってもいい。それはつまり、アールカンバーが最後まで立って抵抗していたことの証左だ。
しかし、機体腹部を貫き、その身を木に縫い付けている剣が、何よりも雄弁にアールカンバーが敗北したことを物語っていた。
恐らくは相打ちに近い形になったのだろう。その腹部を刺し貫く剣には、肘の辺りから断ち斬られたテレスターレのものと思しき腕部が、握ったままの格好でぶら下がっていた。
耳を澄ませば、微動だにしない機体からはカラカラと不規則な回転音が漏れだしているのが聞こえる。魔力転換炉(エーテルリアクタ)は正常とはいえないが、完全に機能を停止したわけではないようだ。
微動だにしないアールカンバーを見て、ディートリヒが焦りを隠せないまま駆け寄る。
「……ッ!? エドガー!! 返事をしろ! 無事か!?」
ディートリヒの心中を、形容しがたい感情が這いずりまわる。
幻晶騎士と騎操士(ナイトランナー)のダメージは必ずしも連動しない。しかし幻晶騎士の持つ“ヒトガタ”という形が、どうしても騎操士自身にも同様の被害を連想させてしまう。
ディートリヒの絶叫に反応してか、いくらかの間を空けて、錆び付いたようなぎこちない動きでアールカンバーの首がゆっくりと動いた。
頭部を保護する面覆いは半ばまでひしゃげ、暗く開いた眼窩の奥から眼球水晶の視線が揺らめくように覗いている。
「…………う、ディー、か? すまない、テレスターレには逃げられてしまった……」
「あ、ああ、そうか。それよりも無事なのか!? 待っていろ、今砦へと運んで……」
「ディー! 俺は大丈夫だ……ディー、アールカンバーは炉を酷くやられて動けないが、即自壊するわけじゃない。
少し打ち身があるが、俺自身も大丈夫だ。それよりもまだそう時間はたっていないはずだ、お前はテレスターレを追ってくれ……!!」
束の間、ディートリヒの心中で葛藤が膨れ上がる。
明らかに重大な損傷を負ったアールカンバーを捨て置いて、このまま行ってしまっても大丈夫なのか。エドガーは無事だと言っているが、本当に無事である保証などないのだ。
騎操士学科において長く互いに競い合ってきた友の苦境が、ディートリヒにテレスターレの追撃を、いやその場を離れることを躊躇させていた。
「ディー、ここまできて逃がすわけにはいかない。頼む!」
「……わかった、任せたまえ!!」
彼を決意させたのは、やはり友の言葉だった。そこに篭もる強い意志を感じ、ディートリヒは迷いを振り払う。
アールカンバーが大破するまで戦い抜いたエドガーの意志を、無駄にすることなどできない。そして彼の友は未だ戦うことを諦めていないのだ。エドガーが諦めていないものを、ディートリヒが諦められるわけが無かった。
彼は一度、グゥエールを深く頷かせると、すぐさま振り向いて再びテレスターレを追って森の中へと分け入っていった。
遠ざかるグゥエールの足音を聞きながら、エドガーは苦しげな表情の中に無理矢理、笑みを浮かべる。
歪んだ景色を映すホロモニターは既に視界に入っておらず、彼は徐々に小さくなる足音に耳を澄ませながら、走る友の背中を幻視していた。
「頼んだぞ、ディー。俺は、もう少し、休む……」
吐息を漏らして呻き声をかみ殺したエドガーは、ゆっくりと体の力を抜く。
額に流れ落ちる紅い雫を拭う暇すらなく、彼の意識は再び闇の底へと沈んでいった。
薄暗い森の中を、風の化身と化した紅い幻晶騎士が疾駆する。
湧き上がる焦りを怒りで抑え、ディートリヒは愛機を急きたてるように前進させていた。
グゥエールの両手には既に剣が抜き放たれ、背面武装すら展開した必殺の構えをとっている。テレスターレを見つけた瞬間、怒りに赤熱した刃は嬉々として敵に引導を渡すだろう。
彼は走りながらも、森の所々に残る痕跡からテレスターレの状態が極めて悪いものであることを読み取っていた。やはりアールカンバーがテレスターレに与えたダメージは少ないものではない。グゥエールは敵に王手をかけうる位置に居る。
「この損傷なら、そう遠くまでは……! どこだっ!!」
そうして走り続けていると、戦いの中で研ぎ澄まされたディートリヒの感覚が何物かの気配を感じ取った。
森に残された痕跡が続く先、暗がりの中に蠢く影がある。
「あれは……違う、テレスターレではないのか!?」
その気配は彼が望む敵のものではない、直感はそう訴えていた。彼はその場所にもっと別の……さらには“数多くの”気配を感じ取っていた。
それらもグゥエールの接近に気付いたようで、低い唸り声を上げながら、闇の覆いの下からのそりと這い出してくる。
――魔獣、だ。
その大きさから、間違いなく決闘級(幻晶騎士1機に匹敵)以上の魔獣であった。それも群れというべき規模である。
テレスターレが逃げた痕跡は、その魔獣の群れの真っ只中へと、消え入るように続いていた。
「なんだ……なんだ、なんだこれはっ!?」
あろうことか、彼が追うべき痕跡は蠢く魔獣に踏み荒らされ、すでに判別が困難な有様となっている。限りなく王手に近づいた一手は、慮外の伏兵により一歩、届かなかった。
ディートリヒは目眩のするような怒りに、視界が赤く染まるような錯覚を覚えていた。
感情が頂点を越えた彼は気付いていない、その状況の不自然さに。
そこにいるのは多くの、それも“複数の種類”の魔獣である。“魔獣”とはただの総称であり、そこには実に多くの種類がある。本来、それらが集まって行動することなどほとんど考えられない。何故ならそれらには縄張りや巣と言ったものがあるからだ。
彼の道をふさいだのは、極め付きの“異常事態”なのである。勃動力三体牛鞭
数匹の魔獣が、身を低くしてグゥエールを威嚇する。
それらはただ集まっているだけではなく、どれもが異様に興奮し、牙を剥き出しにして互いを威嚇している個体もいる。
そこに、怒りに染まった気配を放つ巨人が近づけばどうなるか。獣は周囲の気配には敏感だ。本能のままそれに反応した魔獣は、怒りと混乱に束の間立ち尽くした巨人を敵と見定め、狂ったように走り出していた。
ディートリヒは、致命的な隙を見せた自身の失敗を奥歯でかみ殺しながら、向かってきた魔獣へと構えを取った。
一瞬沸騰し頭の中を駆け巡った血は、今は少しばかり落ち着いている。彼の中に残った状況を把握するだけの冷静さが、滑らかに怒りを攻撃行動へと転化していった。
既に完璧な戦闘態勢を取っていたグゥエールは、十全にその戦闘能力を見せ付けていた。
力に満ちた斬撃が、踊りかかってきた炎舞虎の首を刈り取り絶命せしめ、少し遅れてやってきたもう1匹は風の刃(カマサ)からの法弾の餌食となる。
魔獣に止めを刺しながら、彼はある事実へとたどりつき、顔をくしゃくしゃに歪めていた。
ただでさえ逃げるテレスターレを追いかけているこの状況で、この多数の魔獣を相手にするだけの余裕はない。その上頼みの綱である痕跡は、すでに踏み荒らされ薄れてしまっている。仮に群れを無理矢理突破しても、その先で追いつける可能性は低いだろう。
ではこの群れを迂回して進めばどうか。数が多い分、魔獣は広い範囲をうろついている。これに見つからないためには一体どれほどの回り道を強いられるか、想像するのも馬鹿馬鹿しいほどだ。
さらには魔獣との戦闘は避けられたとしても、そこに追跡の手がかりは無いのである。この広大な森を当てもなく彷徨って、都合よく目的のものに出会えると思うほど、彼は楽天家ではなかった。
――逃げられたのか。
ディートリヒの心中を、酷く冷めた認識が過ぎる。同時に彼は、胸のうちをささくれ立った何物かが這い回るような感覚を味わっていた。
この場面で、よりにもよって魔獣の群れに邪魔されるという“偶然”を、彼は心の底から呪った。
いくら頭に血の上ったディートリヒと言えども、いきなり魔獣の群れに突っ込むような真似はしなかったが、状況は勝手に前へと進み始めていた。
彼が立ち尽くしている間に、先ほど倒した魔獣から流れ出た血の匂いが周囲へと広がってゆく。他の魔獣たちにも届いた匂いは、それらを更なる興奮状態へと誘っていた。
それらは血の匂いを辿り、動く。結果としてその先にいるのは紅の騎士だ。
森の奥から次々に現れはじめた魔獣の姿に、ディートリヒは呪詛に満ちた呻き声を上げた。
彼は悔しさに歯噛みしながらもグゥエールを後退させるが、それは遅きに失した行動だった。もはや選択肢は失われている。
鎧熊が、炎舞虎がグゥエールに迫り来る。
逃げ切れない。どこかで戦わねばならないが数が多い、一度に襲われてはいかな新型グゥエールとて危険である。彼は後退を続けながら、慎重に迎撃のタイミングを計っていた。
グゥエールよりも四足で走る魔獣のほうが動きが素早く、ついにはその間合いへと捕らえられる。背後から襲い掛かられそうになったところでグゥエールは脚を止め、そのまま竜巻のように回転しながら斬撃を繰り出した。
新型機の特徴たる溢れるほどのパワーが、斬撃の一つ一つを致命的な威力へと昇華する。跳ね飛ばされるように空中で打ち落とされた炎舞虎を一顧だにせず、グゥエールはそのまま風の刃(カマサ)を撃ち込み、後続の動きを牽制する。
衝撃の中でもつれ合い、魔獣が混乱しだしたのを見たグゥエールは、再び後退へと転じ余裕を稼ごうとしていた。
しかし突如として強烈な力で腕を引っ張られ、その行動を中止させられる。見れば、横合いから近づいていた鈍竜がその左腕に噛み付いていた。パワーだけならば並みの幻晶騎士では打ち勝てない、強力(ごうりき)の魔獣である。グゥエールは力負けこそしなかったが、その場で動きを止められるのは避けられなかった。
痛恨の失態。その間にも、立ち直った魔獣が迫ってくる。
ディートリヒは昔に戻ったように気難しげな唸り声を上げた。接近されるまでに何匹を魔導兵装で倒せるか、彼は悩む。ついた吐息は、諦めよりも戦意が勝っていた。
その時、何かが高速で飛翔する唸りが、連続してグゥエールの頭上を通り過ぎた。
狙いよりも、数こそが力なのだと言わんばかりに続々と飛来する槍のような大型の矢(ボルト)が、迫り来る魔獣の顔面に突き立ち、ついでその脚を縫いとめてゆく。
数匹の魔獣が悶絶しながら倒れてゆくのを見たディートリヒは、その隙に左腕に噛み付く鈍竜の首を斬り飛ばしていた。
危ないところで自由を取り戻したグゥエールは、僅かな余裕の間に木の上にいる大柄な鎧を発見する。
そこにいるのは2機の幻晶甲冑。彼の記憶では、それをまともに操ることができるのは3人しかおらず、彼と共に来たのはそのうち2人だ。
「ディーさん! 援護すっから一旦下がって!!」
「どうしてこんなに魔獣がいるのよ! あーもう邪魔!」
その2人、キッドとアディの双子は、集り来る魔獣の多さにうんざりした様子を隠しもせず、構えた携行型攻城弩砲から盛大に槍矢をばら撒いていた。
“槍矢襖(やりぶすま)”に頭から突っ込む事になった魔獣が、苦悶の叫びを上げて倒れてゆく。魔獣の群れは算を乱し、グゥエールは黄金よりも貴重な束の間の余裕を得ていた。
「あー、ディーさん、ごめん。今ので“売り切れ”だ。この間に逃げてくれ」
「……十分だ、助かったよ。君らこそ先に下がりたまえ」
ここに至るまでに、テレスターレとの戦いで大盤振る舞いを見せていた彼らの物資は残り少なく、最後の活躍を見せて底を突いていた。
ディートリヒはゆっくりと、大きく深呼吸する。後輩からの援護は、彼の度を越えて熱くなった気持ちを今度こそ冷却し、状況を俯瞰するだけの冷静さを呼び戻していた。
グゥエールが油断なく後退を再開する。それは、キッドからはさほど急いでいるようには見えなかった。
「もっと急がないと、追いつかれるぜ!」
「ああ、そうなのだけどね。困った事に、この先でエドガーが倒れていることを思い出してね。戻りすぎると彼を巻き込んでしまう。
どうやら、その手前でこれを倒さないといけないようだね」
「エドガーさんが!? ちょっと、そんなの駄目よ! 私たちも手伝うわ!!」
意気込むが、彼らに残された武器はツーハンデッドソードだけだ。キッド機に至っては、ワイヤーアンカーすら壊れている。どちらにせよ、数多ひしめく魔獣の群れを相手にしては、彼らがいても焼け石に水だろう。
「矢は切れたのだろう? 君たちのおかげで魔獣はかなりバラけている。私だけでもなんとか、するさ」
だからこそディートリヒは落ち着いて答えていた。そこには焦りも無ければ、激情的な感情も伺えない。
なかなか、簡単に逃げてしまうわけにはいかないらしい。どの道この魔獣どもは賊の追跡を阻んだ憎き障害物である。戦うしかなくなり、悩む必要がなくなったと言うものだ。彼は、いっそさばさばとした心境でいたのだった。
「だから君達はエドガーをつれて、下がってくれ。なに、ここは任せ……」
「では、代わりにここは僕がお供いたしましょう」
苦しげな表情の双子が口を開く前に、全く予想外の方向から返答が返って来た。直後に、彼らの頭上を飛び越えるようにして答えを返した本体が現れる。
襲い来る魔獣の群れの真正面に、躊躇無く立ちふさがった蒼い影。見覚えのある姿、その正体に気付いた瞬間、ディートリヒの脳裏から湿気った感傷が一気に吹き飛んだ。
彼は口元がひきつるのを止められない。上空では、キッドとアディが二人で手を叩いて歓喜の声を上げている。
背後より飛来した者――蒼い幻晶甲冑・モートルビートに乗ったエルネスティは、地響きを上げて迫り来る魔獣の群れを見て、不敵な笑みを浮かべていた。
「ついでに説明もお願いできますか? 逃げた獲も……エホン、テレスターレはどこに行ってこの獲も……ゲフン、魔獣の群れは一体なんですか?」
現れた瞬間からやる気に満ち溢れすぎたその姿に、ディートリヒの視界にかつての記憶が重なる。この少年は、誰もが絶望を抱く巨大な魔獣にすら嬉々として突撃したのだ。きっとこの場でも好き放題に暴れるのだろうし、この程度の魔獣では止められまい。
いつに間にか、彼は苦笑を浮かべていた。
「テレスターレを追っていたら、この群れに遭遇した。足跡はこの先に続いているが……もう踏み荒らされて判別出来ないね。
魔獣がなぜいるのかは知らないよ。テレスターレの足跡を踏み消した、ムカツクやつらだ。ちなみに後ろにエドガーが倒れているから、ここで食い止めたいところだね」
「なるほど。つまりまずはこれらに八つ当たりすればいいのですね?」
「ああうん、ひとまずそれでいいかな。陸皇亀(ベヘモス)の時のように、全力でお願いするよ」
「承知いたしました」
迫り来る魔獣の重圧を物ともせず、モートルビートが迷い無く駆け出してゆく。進む先は群れの真っ只中。
幻晶甲冑に比べて、決闘級魔獣の大きさはいかにも巨大だ。それが群れた様は、さながら津波のようである。比べるべくも無いほど小さな蒼い鎧は、なすすべもなくそれに飲み込まれるかに見えた。蒼蝿水
足音に炸裂音が重なり、モートルビートが急加速する。弾丸のごとき勢いを持ったそれは、魔獣同士の間隙へと滑り込むように突入してゆく。勿論ただ突入するだけではない、すれ違いざまに魔法の光が煌き、発生した炎弾が魔獣の顔面を狙い撃ちにしてゆく。鼻っ面を焼かれた魔獣が身悶えしながら暴れまわり、群れは瞬くほどの間に混乱の坩堝に叩き込まれていた。
余裕が無いのをわかっていながら、ディートリヒは手を額に当てて、天を仰ぎたい気分だった。やると思っていた、そのとおりに酷い有様だ。
その中で、彼はある事実に気がついていた。確かにモートルビートは縦横無尽に群れを引っ掻き回している。しかし裏を返せば引っ掻き回すので精々、決闘級ほどの規模の魔獣を倒しうるだけの攻撃力は持っていないのだ。
背面武装をたたき起こし、グゥエールが2本の剣を構える。ならばここで止めを刺すのは、彼の役目だ。この機会を逃すわけにはいかない。
混乱を抜け出た数匹の魔獣が、紅の騎士めがけて走る。それを迎え撃たんとした彼の横を、轟風が突き抜けた。
「ぬぅぅぅぅぅえいりゃ!!!!!!」
爆音じみた音を引き連れて振るわれた金属の塊が、猛獣の咆哮のような叫びと共に魔獣に叩き込まれる。
単にパワーだけではない、質量と勢いを重ねた必殺の一撃が、突っ込んできた魔獣をトマトを叩いたかのように潰しながら、元居た場所に送り返した。
唖然とするディートリヒを尻目に、豪快な風斬り音を伴ないながら、今しも魔獣を吹き飛ばしたハイマウォートが再びハンマーを構える。
直後にやってきた後続の魔獣は、同様の手順を経て仲良く挽き肉と化した。
「ふうむ、新型機を操るのは学生と聞いていたが、これだけの魔獣を前に一歩も退かんとはな!
その意気や見事なり。微力ながら加勢しよう!」
そう、世間話のような気軽さで話しながらも、ハイマウォートが操るハンマーが順調に魔獣を挽き肉に変えてゆく。
新型機ではないものの、ハイマウォートの堅固な装甲は乱戦じみたこの状況において非常に有効なものだ。重装ゆえの、新型機にも迫るパワーが魔獣を蹴散らす。
強力な助っ人の登場を横目に、グゥエールも呆けていたわけではない。ハイマウォートの暴風圏を盾として利用しながら、遊撃的な動きで魔獣を屠ってゆく。
この時の魔獣の群れは数十匹を数え、ダリエ村を襲った災害を上回る規模にのぼった。
それを意にも介せず、エルとキッド、アディが操る幻晶甲冑が縦横に撹乱し、分断した小集団をハイマウォートとグゥエールが倒してゆく。
彼らの勢いを止めることは誰にも出来なかったが、さすがにこれだけの数を屠るには相当な時間を要した。
この戦いが終わる頃には、東の空がうっすらと白み始めていたのだった。
モートルビートの装甲を開き、エルは周囲を見回す。戦場となった森の中は、凄惨たる有様だった。
木々は折れ倒れ、地面は荒れ、そこかしこに巨大な獣の死骸がある。数多の獣を倒したハイマウォートも、グゥエールも、全身の装甲から装備に至るまで、限界近い消耗を強いられていた。
「……砦に、戻りましょう」
エルは、その状態ですらいまだ戦闘状態を解かないグゥエールに向かって、静かに終わりを告げる。
「……やはり、無理なのか」
「追いかけるにも、時間を食いすぎました。それにこの惨状、賊が逃げた方向など到底わかりません。
僕たちの疲労もかなりのものですし、今から追いかけて見つけるのは至難の業でしょう」
「悔しいが、では他のところに助けを呼んで……」
どこか縋るようなディートリヒの言葉にも、エルは首を振る。
「カザドシュ自体の被害も甚大ですし、即座に十分な手配が出来るかどうか。
しかもこれだけの手を重ねた賊が、ただ逃げるだけとは思えません。なんらかの偽装工作を施されるとなると、もはや手に負えない。
手配は頼んでみますが、確実とは……」
その言葉に、ディートリヒは強張った手を操縦桿から引き剥がすと、静かにそれを傾けた。
悲しげな調べを奏でながら、グゥエールの背面武装が格納されてゆく。紅の騎士は両手に持つ剣も仕舞い、ゆっくりとした足取りで砦に向かって歩き始めた。
騒乱と激動の一夜を越え、夜明けが訪れる。
射し込む光が森から闇を吹き払い、それに伴ってアキュアールの森の各所には、残された破壊の跡が露となっていた。
事件に関わったものは例外なく疲れ果て、残ったのは壊滅状態の砦と、多大なる犠牲だけだ。
カザドシュ砦では僅かに残った数機のカルダトアが、疲弊の極みにある体に鞭打って作業を行っている。
一時は炎に包まれたカザドシュ砦は、砦自体は石造りであったことも幸いし、内部まで炎が届くことは無くある程度の機能が残されていた。
だが戦力は壊滅だ。人、幻晶騎士、そのどちらもが限界まで損耗している。
クヌート・ディクスゴード公爵は、上級作戦会議室で椅子に腰掛け、老いてもなお鋭さを失わない表情に皺を増やしていた。
夜を越える事件のために、彼を含めカザドシュ砦にいるものの大半は一睡もしていない。
そろそろ壮年を越え老境に差し掛かりかけている彼にとって、夜を徹しての作業は些か以上に負担が大きいはずだが、その様子、声にも全く弱弱しいところは感じられなかった。
「砦自体の被害は、城門も含め2割程度。人的被害もかなりのところだが、幻晶騎士が全滅寸前と言うのが一番の問題だな」
部下の報告をまとめ、砦の被害状況を確認していたクヌートは溜息を抑えることが出来ない様子だ。
たった一晩で、砦は事実上壊滅状態へと追い込まれていた。
「(……“賊”か。どこの手のものかは知らんが、忌々しい限り……。しかし油断があったのは我らのほうか)」
クヌートが知る限り、フレメヴィーラ王国において幻晶騎士を投入しての砦攻めなど、ここ百年以上はなかったことだ。
それはなんの益も無いからと言う以外に、オービニエ山地という地理的条件が盾となり、他国からの干渉がほとんどなかったと言うのも大きい。
政治的な意味では国内は安定しており、騒乱の気配など全くない。そのため、近年はどの領地もひたすらに魔獣の対策に力を割いてきたのである。
今回の事件ではその経験の薄さが油断となり、仇となった。人の知恵は時に魔獣よりも恐ろしい。得た教訓に対して、支払った代価もまた、大きなものとなってしまったのだ。
ノックと共に、モルテンが部屋へと入ってくる。そのまま無言で簡単に敬礼すると、彼は前置き抜きに話し始めた。
「略式で失礼します、閣下。新型機についてですが……奪われたうち4機までは奪還、もしくは破壊しましたが、1機が我々の追撃を振り切って姿を消しました」
「……逃がしてしまったか」
「追撃には、諸事情から合流したライヒアラの学生も参加していましたが……しかし途中、奇妙な点が」
「なんだ?」
「魔獣です。逃げ切った1機、その逃走路上に複数の魔獣が現れ、おかげで追跡を断念せざるを得なくなりました」
クヌートの表情に、一本ことさらに深い皺が増える。SEX DROPS
魔獣がいること自体は不思議ではない。だがそんなに都合よく障害物になるだろうか。魔獣とは気まぐれさはあれど、彼らなりのルールに従って活動している。クヌートには、早々都合よくいくとは到底思えなかった。
最後の1機となったテレスターレの操縦席で、銅牙騎士団員は己の体の震えを止める術を知らず、喉の奥がひりつくような焦燥を覚えていた。花痴
この場で立って動くものは彼と、敵である朱兎騎士団の機体だけである。もはやこの場に彼の味方はいない。
彼は額を流れるねばつく汗を拭い、震える手足を叱咤しながらこけおどしの気勢を張る。その努力に反するように操縦桿を通して機体へと伝わったかすかな震えが、テレスターレの手脚を僅かに泳がせていた。
互角と思われていた戦いの均衡が崩れ去ったのは、一体いつのことだったのか。
自問する間でもなく、彼はその答えをわかっている。それは戦場に“蒼い死神”が現れた、あの時に他ならない。
銅牙騎士団の長である、ケルヒルトと数名の部下が襲撃の主目的たる新型機の奪取に成功してカザドシュ砦から離脱した後も、それ以外の銅牙騎士団員達はその場に残り、戦い続けていた。
彼らと相対するのは朱兎騎士団が操るカルダトア部隊。
そのどれもが自分達の拠点を荒らしまわる襲撃者への怒りに煮えたぎり、強い殲滅の意志を持って攻めかかってくる。
それらに対して背を向けるなど自殺行為も同然だ、たちまち背中に無数の剣が突き立つことだろう。彼らに応戦以外の選択肢はなかった。
彼らと朱兎騎士団との戦いは、意外なことにほとんど互角の状態となった。
銅牙騎士団が朱兎騎士団の勢いに抗することが出来たのは、言うまでもなくこの場に残った2機の新型機のおかげだ。
操りづらいことこの上ない機体だが、その性能の高さは欠点を補ってあまりあるほどのものだった。駻馬(かんば)はよく走るというやつである。
それもつい先ほどまでのことだった。
変化は一瞬のこと、全く前触れなく戦場に現れた蒼い死神が、凄まじい勢いで銅牙騎士団へと致命的な攻撃をくわえていったのだ。
ある機体は脚を壊され、ある機体は頭部を壊された。動きを止められ、あるいは視界を失った機体は酷くたやすく朱兎騎士団に討ち倒されてゆく。元々ギリギリの均衡の上にあった戦場である、一度傾いたバランスが元に戻ることは無かった。
この場に残るは、彼とテレスターレが1機だけだ。
彼の機体を包囲するように布陣する朱兎騎士団のうち、一際大柄な機体――騎士団長専用機・ハイマウォートに乗るモルテン・フレドホルムが奇妙にゆっくりと響く、唸りのように低い声で投げやりに告げた。
「もう諦めたらどうだ?」
それは降伏勧告とは少し毛色が異なっている。もう無駄だ、という厳然たる事実を伝えるだけの確認作業と言える。
テレスターレはその言葉には反応しなかった。団員は操縦席で震えを押さえながら、ただ“その時”に対して身構え続ける。
朱兎騎士団のカルダトアに包囲されたテレスターレ。それに乗る彼は朱兎騎士団と言う“わかりやすい”脅威に怯えているわけではない。
単にこの戦いに敗れるのならば、彼は悔やみ怒ることはしても恐れることはしない、最後まで抵抗するだけだろう。
彼が恐れるのは、抗うことすら許されない、蒼い刃。
瞬く間に彼らのカルダトアを沈め、もう1機のテレスターレすら行動不能とした死神。
いつか来るその攻撃に備え、彼は小さく震える手脚に、それでも力をこめているのだ。
そして蒼い死神こと幻晶甲冑(シルエットギア)・モートルビートとエルネスティは、当然のように既に最後の獲物へと手をかけていた。
死角である頭上から、暗闇に湧き出すように現れたモートルビートが、大気衝撃吸収(エアサスペンション)を駆使してテレスターレの肩へと柔らかく着地する。
「こんばんは、賊の方。貴方が、最後の一人ですよ」
緊張と警戒の極みにいた団員は突然、幻像投影機(ホロモニター)に大写しになった鎧の騎士の姿に、身も蓋もない絶叫をあげた。
炎の照り返しでも塗りつぶせない蒼い装甲と、歪なバランスの手脚を持つ死神騎士が、逆さまに覗き込むようにして映っている。つまり、既に死神の刃は彼の喉元に添えられていると言う事だ。
もはや彼は自身が何を叫んでいるのかを理解していない。ただ視界にうつる死神を排除すべく、本能的な行動で機体の腕を振り上げていた。
人間の5倍以上の大きさを持つ巨人の鋼の拳が死神へと辿り着く前に、大写しになった死神の手のひらがホロモニターを埋め尽くす。
幻晶騎士(シルエットナイト)にとって頭部とは、視覚を得るための装置である眼球水晶を設置、保護するための部位であるといっていい。当然、兜と面覆いと言った装甲によって、それは厳重に守られている。
しかし現実に、モートルビートは眼球水晶に触れんばかりの位置へと手を伸ばしている。
幻晶甲冑の大きさは幻晶騎士(シルエットナイト)より遥かに小さい。勿論その腕もだ。モートルビートは幻晶騎士の瞳を守るべき面覆いの隙間から内部へと手を伸ばし、眼球水晶に直接手を向けると言う荒業に出ていた。
焦点が合わないほど近づけられ、ぼやけた手のひらに魔法現象に特有の淡い輝きが起こる。顕現するは炎の魔法、爆炎砲撃(フレイムストライク)。爆炎球(ファイヤボール)と同じ中級魔法でありながら火力でそれを凌ぐ、高威力の魔法である。
いかに幻晶騎士が強固な鎧を身に纏っているとは言え、その内部を直に攻撃されてはひとたまりもなかった。
紅蓮に渦巻く炎が一瞬、視界の全てを埋め尽くし、それを最期にホロモニターが光を失う。眼球水晶が破壊されたのだ。光源を失い、密閉された操縦席は即座に闇に包まれていった。
戦いにおいて極めて重要な要素である視界を失い、銅牙騎士団員の表情が絶望に染まる。
直後に頭部に伸ばされた機体の拳には何の手ごたえもなかった。死神は健在で、自分はもはや相手の姿が見えない。
手元も見えない闇の中で、俄かに恐慌状態に陥った彼は、とにかく纏わりつく死神を振り払うべくがむしゃらに機体を暴れさせる。
やはり手ごたえは無い。
もはや半ば以上自棄を起こし、彼は背面武装(バックウェポン)を起動する。狙いも何もあったものではないが、とにかく闇雲にでもどこかを攻撃することしか、彼にできることは残っていなかった。
暴れる機体をいなしながら、トドメの方法に悩んでいた死神(エルネスティ)は、テレスターレの背面武装が展開されてゆくのを見てにんまりとした笑みを浮かべていた。
縋りつくような団員の祈りも空しく、ここに居るのはテレスターレの発案者にして誰よりもその機能・構造に詳しい者である。それを逆手に取る方法などいくらでも思いついてしまう。
エルは器用にバランスを取りながら素早く肩へ移動すると、魔導兵装(シルエットアームズ)を保持する補助腕(サブアーム)へと取りついた。
補助腕の“手”にあたる部分だけ破壊し、内部の銀線神経(シルバーナーヴ)をつなげたまま魔導兵装を引っ張り上げる。
エルはモートルビートを器用に操りながら、幻晶甲冑の全高を越える長さを持つ魔導兵装を全力でぐるりと振り回した。
その切っ先が残るもう一本の魔導兵装と接するようにして、そのまま固定する。
機体の上で大惨事が用意されているなど、視界を失った銅牙騎士団員にわかろうはずもなく。
背面武装を展開した彼は、胸中の焦燥が命ずるままに、迷うことなく操縦桿のトリガーを押し込んだ。
十分な魔力(マナ)の供給を受けた魔導兵装が、その先端部に戦術級魔法(オーバード・スペル)を発現させる。
死神(エルネスティ)によって先端を接触させられたそれは、当然すぐさま爆裂し、自身を粉微塵に破壊するとともに周囲に強烈な衝撃波を撒き散らす破目になった。
眼前で大爆発を起こしたテレスターレはその反動で殴り飛ばされるようにぶっ飛んで行き、地面に突っ込んだ後、動きを止めた。
「たーまやー」
その肩にいたはずの死神は、愉しげな感想を漏らしながら華麗に宙返りを決め、何事も無かったかのように地面へと着地していた。
モルテンは襲撃者に奪われた最後のテレスターレが倒れてゆく様を眺めながら、多量の呆れを含んだ吐息を抑えることができないでいた。
自分達は、あの機体を相手にてこずっていたはずなのだ。それが冗談のような気安さで、無茶苦茶な方法で倒されていく。しかも見た事も無い小型の幻晶騎士モドキに、だ。
それを馬鹿馬鹿しいと思わずしてどうしようか。彼には他に適当な言葉を思い浮かべることができなかった。
そうしてギリギリでなんとか耐えていたモルテンだが、蒼い鎧の下から出てきた人物を見たときついに盛大に天を仰ぐことになる。
「……エルネスティ、だったな」
モルテンは、声に呆れを含めないために随分と気合を入れる破目になっていた。
幻晶甲冑・モートルビートの装甲を展開したエルネスティ・エチェバルリアは、恐ろしいことに、実に恐ろしいことに、炎の照り返しを受けて赤みの差す顔に、一仕事を終えた満足の表情を浮かべていた。
「はい、騎士団長殿。助勢遅くなり申し訳ありません。機体の調達に手間取ってしまいまして」
問題はそこじゃない、と喉までせり上がって来た言葉を、モルテンは精神力だけで飲み込む。
「……いや、まずは厄介な敵への助力、感謝しよう。色々と聞きたい事はあるが、それは後回しにする。
ともあれ、ここが片付いたからには逃げた輩を追わねばならんが、悔しいが間に合わぬかも知れんなぁ」
綺麗に刈りそろえた、自慢の髭を撫でさすりながらモルテンが腕を組んだ。
賊の一部が逃走してから結構な時間が経過している。既に手の届かないところまで逃げていると考えるのが自然だろう。
「それについて、騎士団長殿にお伝えしたいことがあります。福源春
先ほどライヒアラよりやってきた学生が偶然、逃走したテレスターレと遭遇したそうです。彼らが不審に思って誰何したところ攻撃され、そのまま交戦状態に入ったとか。
そこでかなりの時間を食っているはず、賊らはまだ十分に離れていない可能性があります」
エルからは見えないが、モルテンは再び猛獣のごとく獰猛な笑みを取り戻していた。それは正しく、獲物を追い詰める狩人のものだ。
ハイマウォートが、残るカルダトアへと振り向く。
「聞いての通りだ、俺はこれより逃げた賊を追う。
だがこれだけの被害を受けた砦を放置するわけにはいかん、お前達はここに残っての防衛を命ずる」
最大で3個中隊を保持していた朱兎騎士団の戦力は、もはや2割程度しか残っていなかった。敵の撃破が自軍の戦力を減らすことになる、襲撃者の策のもっとも嫌らしい部分がこれだ。
この場に残る数少ない、しかも損傷を負ったカルダトアでは戦力的に不安が残る。ならばそれを砦の防護に回し、最大戦力であるハイマウォートが追撃に当たる。彼らにも余裕がない。
「さてエルネスティ、見ての通りこちらは人手不足でな。その妙ちきりんな鎧と共に、案内を頼もうか」
「ええ勿論、ご案内も助力もいたしますとも」
敬礼を返すカルダトアにこの場を任せ、恐るべき勢いでハイマウォートとモートルビートが街道へと走り出していった。
遠くより微かに響いていた、鋼を打ち合うような音が止んだ。
ディートリヒ・クーニッツは、心にわきあがる不安と期待が半ばで混じった感情に押されて、僅かにその端正な眉を吊り上げていた。
彼はより強く鐙(あぶみ)を踏み込み、グゥエールの走る速度をさらに上げた。月明かりを頼りにしている行動としては、ほとんど自殺行為のような速度を緩めることなく、彼は走り続ける。
鋼の巨人が打ち鳴らす足音に、時折歪んだ装甲が引っ掻きあう、悲鳴じみた音が混じっている。
よく見れば紅の鎧はあちこちが歪んでおり、動くたび擦れあった装甲が火花を散らす部分すらある有様だった。
森へと入る前、彼と彼が操る幻晶騎士グゥエールは襲撃者の一人が操るテレスターレによる捨て身の行動で、大きく足止めをくらっていた。
出力的にはほぼ互角の機体であるテレスターレに組み付かれたグゥエールは、それを振り払うことが出来ずに押さえ込まれてしまったのだ。
業を煮やしたディートリヒは、自らのダメージも覚悟した上で背面武装を使用して、一度は自由を得ることに成功する。その時点でテレスターレは半壊状態だったはずだが、呆れたことに敵はそれでもグゥエールへの足止めを止めなかった。
死に体でありながらなお果敢に向かってくるテレスターレの執念に、グゥエールは予想以上の手間を取られることになる。損傷自体はたいした事はないが、その時間の浪費を考えるとしてやられた格好だ。
てこずりながらも完全にテレスターレを行動不能にした後、彼は逃げたテレスターレとそれを追うアールカンバーの追跡にとりかかっていた。
アキュアールの森の所々には幻晶騎士が移動し、たまに剣を交えたと思しき荒れた跡が残っており、追跡はそう難しくはない。彼はただひたすらに道を急いでいた。
そうして走り続けていたグゥエールが、唐突に森の中にぽっかりと広がった空間へと飛び出した。
いや、よく見れば元から広がっていた空間ではない。木には斬られた跡があり、あちこちで折れ倒れている様はここで激しい戦闘があったことを示していた。
背中を這い上がる嫌な予感を振り払いながら、ディートリヒは素早く周囲へ首を巡らせる。
そこにあるのは暗い色合いの木々、斑な色合いの下草、それらを順に見回していると夜の色に満ちたホロモニターの映像の中に、森の中では場違いな純白が映りこんだ。
この場にある純白、その意味合いは一つしかない。
「エドガー! 探したぞ、テレスターレはどうなっ……」
色の持ち主に近づく、ディートリヒの言葉が尻すぼみに小さくなる。
木にもたれかかるような格好で動きを止める巨大な人影、幻晶騎士アールカンバーの姿を確認した途端、彼は思わず息を飲んでいた。
汚れ一つなかった純白の装甲は、激しい戦いにより歪み、くすんで鈍い色合いになっている。
それだけではなく、肩口から斬撃を叩き込まれたのだろう、その右腕は根元からなくなっており、周囲の胸の装甲も一部が削り取られていた。
力なく下げられた左腕には爆発や斬撃の跡が大きく残った盾がひっかかり、今もゆらゆらと揺れている。
その中でいくらかの損傷はあれど、形を残した両脚は無事と言ってもいい。それはつまり、アールカンバーが最後まで立って抵抗していたことの証左だ。
しかし、機体腹部を貫き、その身を木に縫い付けている剣が、何よりも雄弁にアールカンバーが敗北したことを物語っていた。
恐らくは相打ちに近い形になったのだろう。その腹部を刺し貫く剣には、肘の辺りから断ち斬られたテレスターレのものと思しき腕部が、握ったままの格好でぶら下がっていた。
耳を澄ませば、微動だにしない機体からはカラカラと不規則な回転音が漏れだしているのが聞こえる。魔力転換炉(エーテルリアクタ)は正常とはいえないが、完全に機能を停止したわけではないようだ。
微動だにしないアールカンバーを見て、ディートリヒが焦りを隠せないまま駆け寄る。
「……ッ!? エドガー!! 返事をしろ! 無事か!?」
ディートリヒの心中を、形容しがたい感情が這いずりまわる。
幻晶騎士と騎操士(ナイトランナー)のダメージは必ずしも連動しない。しかし幻晶騎士の持つ“ヒトガタ”という形が、どうしても騎操士自身にも同様の被害を連想させてしまう。
ディートリヒの絶叫に反応してか、いくらかの間を空けて、錆び付いたようなぎこちない動きでアールカンバーの首がゆっくりと動いた。
頭部を保護する面覆いは半ばまでひしゃげ、暗く開いた眼窩の奥から眼球水晶の視線が揺らめくように覗いている。
「…………う、ディー、か? すまない、テレスターレには逃げられてしまった……」
「あ、ああ、そうか。それよりも無事なのか!? 待っていろ、今砦へと運んで……」
「ディー! 俺は大丈夫だ……ディー、アールカンバーは炉を酷くやられて動けないが、即自壊するわけじゃない。
少し打ち身があるが、俺自身も大丈夫だ。それよりもまだそう時間はたっていないはずだ、お前はテレスターレを追ってくれ……!!」
束の間、ディートリヒの心中で葛藤が膨れ上がる。
明らかに重大な損傷を負ったアールカンバーを捨て置いて、このまま行ってしまっても大丈夫なのか。エドガーは無事だと言っているが、本当に無事である保証などないのだ。
騎操士学科において長く互いに競い合ってきた友の苦境が、ディートリヒにテレスターレの追撃を、いやその場を離れることを躊躇させていた。
「ディー、ここまできて逃がすわけにはいかない。頼む!」
「……わかった、任せたまえ!!」
彼を決意させたのは、やはり友の言葉だった。そこに篭もる強い意志を感じ、ディートリヒは迷いを振り払う。
アールカンバーが大破するまで戦い抜いたエドガーの意志を、無駄にすることなどできない。そして彼の友は未だ戦うことを諦めていないのだ。エドガーが諦めていないものを、ディートリヒが諦められるわけが無かった。
彼は一度、グゥエールを深く頷かせると、すぐさま振り向いて再びテレスターレを追って森の中へと分け入っていった。
遠ざかるグゥエールの足音を聞きながら、エドガーは苦しげな表情の中に無理矢理、笑みを浮かべる。
歪んだ景色を映すホロモニターは既に視界に入っておらず、彼は徐々に小さくなる足音に耳を澄ませながら、走る友の背中を幻視していた。
「頼んだぞ、ディー。俺は、もう少し、休む……」
吐息を漏らして呻き声をかみ殺したエドガーは、ゆっくりと体の力を抜く。
額に流れ落ちる紅い雫を拭う暇すらなく、彼の意識は再び闇の底へと沈んでいった。
薄暗い森の中を、風の化身と化した紅い幻晶騎士が疾駆する。
湧き上がる焦りを怒りで抑え、ディートリヒは愛機を急きたてるように前進させていた。
グゥエールの両手には既に剣が抜き放たれ、背面武装すら展開した必殺の構えをとっている。テレスターレを見つけた瞬間、怒りに赤熱した刃は嬉々として敵に引導を渡すだろう。
彼は走りながらも、森の所々に残る痕跡からテレスターレの状態が極めて悪いものであることを読み取っていた。やはりアールカンバーがテレスターレに与えたダメージは少ないものではない。グゥエールは敵に王手をかけうる位置に居る。
「この損傷なら、そう遠くまでは……! どこだっ!!」
そうして走り続けていると、戦いの中で研ぎ澄まされたディートリヒの感覚が何物かの気配を感じ取った。
森に残された痕跡が続く先、暗がりの中に蠢く影がある。
「あれは……違う、テレスターレではないのか!?」
その気配は彼が望む敵のものではない、直感はそう訴えていた。彼はその場所にもっと別の……さらには“数多くの”気配を感じ取っていた。
それらもグゥエールの接近に気付いたようで、低い唸り声を上げながら、闇の覆いの下からのそりと這い出してくる。
――魔獣、だ。
その大きさから、間違いなく決闘級(幻晶騎士1機に匹敵)以上の魔獣であった。それも群れというべき規模である。
テレスターレが逃げた痕跡は、その魔獣の群れの真っ只中へと、消え入るように続いていた。
「なんだ……なんだ、なんだこれはっ!?」
あろうことか、彼が追うべき痕跡は蠢く魔獣に踏み荒らされ、すでに判別が困難な有様となっている。限りなく王手に近づいた一手は、慮外の伏兵により一歩、届かなかった。
ディートリヒは目眩のするような怒りに、視界が赤く染まるような錯覚を覚えていた。
感情が頂点を越えた彼は気付いていない、その状況の不自然さに。
そこにいるのは多くの、それも“複数の種類”の魔獣である。“魔獣”とはただの総称であり、そこには実に多くの種類がある。本来、それらが集まって行動することなどほとんど考えられない。何故ならそれらには縄張りや巣と言ったものがあるからだ。
彼の道をふさいだのは、極め付きの“異常事態”なのである。勃動力三体牛鞭
数匹の魔獣が、身を低くしてグゥエールを威嚇する。
それらはただ集まっているだけではなく、どれもが異様に興奮し、牙を剥き出しにして互いを威嚇している個体もいる。
そこに、怒りに染まった気配を放つ巨人が近づけばどうなるか。獣は周囲の気配には敏感だ。本能のままそれに反応した魔獣は、怒りと混乱に束の間立ち尽くした巨人を敵と見定め、狂ったように走り出していた。
ディートリヒは、致命的な隙を見せた自身の失敗を奥歯でかみ殺しながら、向かってきた魔獣へと構えを取った。
一瞬沸騰し頭の中を駆け巡った血は、今は少しばかり落ち着いている。彼の中に残った状況を把握するだけの冷静さが、滑らかに怒りを攻撃行動へと転化していった。
既に完璧な戦闘態勢を取っていたグゥエールは、十全にその戦闘能力を見せ付けていた。
力に満ちた斬撃が、踊りかかってきた炎舞虎の首を刈り取り絶命せしめ、少し遅れてやってきたもう1匹は風の刃(カマサ)からの法弾の餌食となる。
魔獣に止めを刺しながら、彼はある事実へとたどりつき、顔をくしゃくしゃに歪めていた。
ただでさえ逃げるテレスターレを追いかけているこの状況で、この多数の魔獣を相手にするだけの余裕はない。その上頼みの綱である痕跡は、すでに踏み荒らされ薄れてしまっている。仮に群れを無理矢理突破しても、その先で追いつける可能性は低いだろう。
ではこの群れを迂回して進めばどうか。数が多い分、魔獣は広い範囲をうろついている。これに見つからないためには一体どれほどの回り道を強いられるか、想像するのも馬鹿馬鹿しいほどだ。
さらには魔獣との戦闘は避けられたとしても、そこに追跡の手がかりは無いのである。この広大な森を当てもなく彷徨って、都合よく目的のものに出会えると思うほど、彼は楽天家ではなかった。
――逃げられたのか。
ディートリヒの心中を、酷く冷めた認識が過ぎる。同時に彼は、胸のうちをささくれ立った何物かが這い回るような感覚を味わっていた。
この場面で、よりにもよって魔獣の群れに邪魔されるという“偶然”を、彼は心の底から呪った。
いくら頭に血の上ったディートリヒと言えども、いきなり魔獣の群れに突っ込むような真似はしなかったが、状況は勝手に前へと進み始めていた。
彼が立ち尽くしている間に、先ほど倒した魔獣から流れ出た血の匂いが周囲へと広がってゆく。他の魔獣たちにも届いた匂いは、それらを更なる興奮状態へと誘っていた。
それらは血の匂いを辿り、動く。結果としてその先にいるのは紅の騎士だ。
森の奥から次々に現れはじめた魔獣の姿に、ディートリヒは呪詛に満ちた呻き声を上げた。
彼は悔しさに歯噛みしながらもグゥエールを後退させるが、それは遅きに失した行動だった。もはや選択肢は失われている。
鎧熊が、炎舞虎がグゥエールに迫り来る。
逃げ切れない。どこかで戦わねばならないが数が多い、一度に襲われてはいかな新型グゥエールとて危険である。彼は後退を続けながら、慎重に迎撃のタイミングを計っていた。
グゥエールよりも四足で走る魔獣のほうが動きが素早く、ついにはその間合いへと捕らえられる。背後から襲い掛かられそうになったところでグゥエールは脚を止め、そのまま竜巻のように回転しながら斬撃を繰り出した。
新型機の特徴たる溢れるほどのパワーが、斬撃の一つ一つを致命的な威力へと昇華する。跳ね飛ばされるように空中で打ち落とされた炎舞虎を一顧だにせず、グゥエールはそのまま風の刃(カマサ)を撃ち込み、後続の動きを牽制する。
衝撃の中でもつれ合い、魔獣が混乱しだしたのを見たグゥエールは、再び後退へと転じ余裕を稼ごうとしていた。
しかし突如として強烈な力で腕を引っ張られ、その行動を中止させられる。見れば、横合いから近づいていた鈍竜がその左腕に噛み付いていた。パワーだけならば並みの幻晶騎士では打ち勝てない、強力(ごうりき)の魔獣である。グゥエールは力負けこそしなかったが、その場で動きを止められるのは避けられなかった。
痛恨の失態。その間にも、立ち直った魔獣が迫ってくる。
ディートリヒは昔に戻ったように気難しげな唸り声を上げた。接近されるまでに何匹を魔導兵装で倒せるか、彼は悩む。ついた吐息は、諦めよりも戦意が勝っていた。
その時、何かが高速で飛翔する唸りが、連続してグゥエールの頭上を通り過ぎた。
狙いよりも、数こそが力なのだと言わんばかりに続々と飛来する槍のような大型の矢(ボルト)が、迫り来る魔獣の顔面に突き立ち、ついでその脚を縫いとめてゆく。
数匹の魔獣が悶絶しながら倒れてゆくのを見たディートリヒは、その隙に左腕に噛み付く鈍竜の首を斬り飛ばしていた。
危ないところで自由を取り戻したグゥエールは、僅かな余裕の間に木の上にいる大柄な鎧を発見する。
そこにいるのは2機の幻晶甲冑。彼の記憶では、それをまともに操ることができるのは3人しかおらず、彼と共に来たのはそのうち2人だ。
「ディーさん! 援護すっから一旦下がって!!」
「どうしてこんなに魔獣がいるのよ! あーもう邪魔!」
その2人、キッドとアディの双子は、集り来る魔獣の多さにうんざりした様子を隠しもせず、構えた携行型攻城弩砲から盛大に槍矢をばら撒いていた。
“槍矢襖(やりぶすま)”に頭から突っ込む事になった魔獣が、苦悶の叫びを上げて倒れてゆく。魔獣の群れは算を乱し、グゥエールは黄金よりも貴重な束の間の余裕を得ていた。
「あー、ディーさん、ごめん。今ので“売り切れ”だ。この間に逃げてくれ」
「……十分だ、助かったよ。君らこそ先に下がりたまえ」
ここに至るまでに、テレスターレとの戦いで大盤振る舞いを見せていた彼らの物資は残り少なく、最後の活躍を見せて底を突いていた。
ディートリヒはゆっくりと、大きく深呼吸する。後輩からの援護は、彼の度を越えて熱くなった気持ちを今度こそ冷却し、状況を俯瞰するだけの冷静さを呼び戻していた。
グゥエールが油断なく後退を再開する。それは、キッドからはさほど急いでいるようには見えなかった。
「もっと急がないと、追いつかれるぜ!」
「ああ、そうなのだけどね。困った事に、この先でエドガーが倒れていることを思い出してね。戻りすぎると彼を巻き込んでしまう。
どうやら、その手前でこれを倒さないといけないようだね」
「エドガーさんが!? ちょっと、そんなの駄目よ! 私たちも手伝うわ!!」
意気込むが、彼らに残された武器はツーハンデッドソードだけだ。キッド機に至っては、ワイヤーアンカーすら壊れている。どちらにせよ、数多ひしめく魔獣の群れを相手にしては、彼らがいても焼け石に水だろう。
「矢は切れたのだろう? 君たちのおかげで魔獣はかなりバラけている。私だけでもなんとか、するさ」
だからこそディートリヒは落ち着いて答えていた。そこには焦りも無ければ、激情的な感情も伺えない。
なかなか、簡単に逃げてしまうわけにはいかないらしい。どの道この魔獣どもは賊の追跡を阻んだ憎き障害物である。戦うしかなくなり、悩む必要がなくなったと言うものだ。彼は、いっそさばさばとした心境でいたのだった。
「だから君達はエドガーをつれて、下がってくれ。なに、ここは任せ……」
「では、代わりにここは僕がお供いたしましょう」
苦しげな表情の双子が口を開く前に、全く予想外の方向から返答が返って来た。直後に、彼らの頭上を飛び越えるようにして答えを返した本体が現れる。
襲い来る魔獣の群れの真正面に、躊躇無く立ちふさがった蒼い影。見覚えのある姿、その正体に気付いた瞬間、ディートリヒの脳裏から湿気った感傷が一気に吹き飛んだ。
彼は口元がひきつるのを止められない。上空では、キッドとアディが二人で手を叩いて歓喜の声を上げている。
背後より飛来した者――蒼い幻晶甲冑・モートルビートに乗ったエルネスティは、地響きを上げて迫り来る魔獣の群れを見て、不敵な笑みを浮かべていた。
「ついでに説明もお願いできますか? 逃げた獲も……エホン、テレスターレはどこに行ってこの獲も……ゲフン、魔獣の群れは一体なんですか?」
現れた瞬間からやる気に満ち溢れすぎたその姿に、ディートリヒの視界にかつての記憶が重なる。この少年は、誰もが絶望を抱く巨大な魔獣にすら嬉々として突撃したのだ。きっとこの場でも好き放題に暴れるのだろうし、この程度の魔獣では止められまい。
いつに間にか、彼は苦笑を浮かべていた。
「テレスターレを追っていたら、この群れに遭遇した。足跡はこの先に続いているが……もう踏み荒らされて判別出来ないね。
魔獣がなぜいるのかは知らないよ。テレスターレの足跡を踏み消した、ムカツクやつらだ。ちなみに後ろにエドガーが倒れているから、ここで食い止めたいところだね」
「なるほど。つまりまずはこれらに八つ当たりすればいいのですね?」
「ああうん、ひとまずそれでいいかな。陸皇亀(ベヘモス)の時のように、全力でお願いするよ」
「承知いたしました」
迫り来る魔獣の重圧を物ともせず、モートルビートが迷い無く駆け出してゆく。進む先は群れの真っ只中。
幻晶甲冑に比べて、決闘級魔獣の大きさはいかにも巨大だ。それが群れた様は、さながら津波のようである。比べるべくも無いほど小さな蒼い鎧は、なすすべもなくそれに飲み込まれるかに見えた。蒼蝿水
足音に炸裂音が重なり、モートルビートが急加速する。弾丸のごとき勢いを持ったそれは、魔獣同士の間隙へと滑り込むように突入してゆく。勿論ただ突入するだけではない、すれ違いざまに魔法の光が煌き、発生した炎弾が魔獣の顔面を狙い撃ちにしてゆく。鼻っ面を焼かれた魔獣が身悶えしながら暴れまわり、群れは瞬くほどの間に混乱の坩堝に叩き込まれていた。
余裕が無いのをわかっていながら、ディートリヒは手を額に当てて、天を仰ぎたい気分だった。やると思っていた、そのとおりに酷い有様だ。
その中で、彼はある事実に気がついていた。確かにモートルビートは縦横無尽に群れを引っ掻き回している。しかし裏を返せば引っ掻き回すので精々、決闘級ほどの規模の魔獣を倒しうるだけの攻撃力は持っていないのだ。
背面武装をたたき起こし、グゥエールが2本の剣を構える。ならばここで止めを刺すのは、彼の役目だ。この機会を逃すわけにはいかない。
混乱を抜け出た数匹の魔獣が、紅の騎士めがけて走る。それを迎え撃たんとした彼の横を、轟風が突き抜けた。
「ぬぅぅぅぅぅえいりゃ!!!!!!」
爆音じみた音を引き連れて振るわれた金属の塊が、猛獣の咆哮のような叫びと共に魔獣に叩き込まれる。
単にパワーだけではない、質量と勢いを重ねた必殺の一撃が、突っ込んできた魔獣をトマトを叩いたかのように潰しながら、元居た場所に送り返した。
唖然とするディートリヒを尻目に、豪快な風斬り音を伴ないながら、今しも魔獣を吹き飛ばしたハイマウォートが再びハンマーを構える。
直後にやってきた後続の魔獣は、同様の手順を経て仲良く挽き肉と化した。
「ふうむ、新型機を操るのは学生と聞いていたが、これだけの魔獣を前に一歩も退かんとはな!
その意気や見事なり。微力ながら加勢しよう!」
そう、世間話のような気軽さで話しながらも、ハイマウォートが操るハンマーが順調に魔獣を挽き肉に変えてゆく。
新型機ではないものの、ハイマウォートの堅固な装甲は乱戦じみたこの状況において非常に有効なものだ。重装ゆえの、新型機にも迫るパワーが魔獣を蹴散らす。
強力な助っ人の登場を横目に、グゥエールも呆けていたわけではない。ハイマウォートの暴風圏を盾として利用しながら、遊撃的な動きで魔獣を屠ってゆく。
この時の魔獣の群れは数十匹を数え、ダリエ村を襲った災害を上回る規模にのぼった。
それを意にも介せず、エルとキッド、アディが操る幻晶甲冑が縦横に撹乱し、分断した小集団をハイマウォートとグゥエールが倒してゆく。
彼らの勢いを止めることは誰にも出来なかったが、さすがにこれだけの数を屠るには相当な時間を要した。
この戦いが終わる頃には、東の空がうっすらと白み始めていたのだった。
モートルビートの装甲を開き、エルは周囲を見回す。戦場となった森の中は、凄惨たる有様だった。
木々は折れ倒れ、地面は荒れ、そこかしこに巨大な獣の死骸がある。数多の獣を倒したハイマウォートも、グゥエールも、全身の装甲から装備に至るまで、限界近い消耗を強いられていた。
「……砦に、戻りましょう」
エルは、その状態ですらいまだ戦闘状態を解かないグゥエールに向かって、静かに終わりを告げる。
「……やはり、無理なのか」
「追いかけるにも、時間を食いすぎました。それにこの惨状、賊が逃げた方向など到底わかりません。
僕たちの疲労もかなりのものですし、今から追いかけて見つけるのは至難の業でしょう」
「悔しいが、では他のところに助けを呼んで……」
どこか縋るようなディートリヒの言葉にも、エルは首を振る。
「カザドシュ自体の被害も甚大ですし、即座に十分な手配が出来るかどうか。
しかもこれだけの手を重ねた賊が、ただ逃げるだけとは思えません。なんらかの偽装工作を施されるとなると、もはや手に負えない。
手配は頼んでみますが、確実とは……」
その言葉に、ディートリヒは強張った手を操縦桿から引き剥がすと、静かにそれを傾けた。
悲しげな調べを奏でながら、グゥエールの背面武装が格納されてゆく。紅の騎士は両手に持つ剣も仕舞い、ゆっくりとした足取りで砦に向かって歩き始めた。
騒乱と激動の一夜を越え、夜明けが訪れる。
射し込む光が森から闇を吹き払い、それに伴ってアキュアールの森の各所には、残された破壊の跡が露となっていた。
事件に関わったものは例外なく疲れ果て、残ったのは壊滅状態の砦と、多大なる犠牲だけだ。
カザドシュ砦では僅かに残った数機のカルダトアが、疲弊の極みにある体に鞭打って作業を行っている。
一時は炎に包まれたカザドシュ砦は、砦自体は石造りであったことも幸いし、内部まで炎が届くことは無くある程度の機能が残されていた。
だが戦力は壊滅だ。人、幻晶騎士、そのどちらもが限界まで損耗している。
クヌート・ディクスゴード公爵は、上級作戦会議室で椅子に腰掛け、老いてもなお鋭さを失わない表情に皺を増やしていた。
夜を越える事件のために、彼を含めカザドシュ砦にいるものの大半は一睡もしていない。
そろそろ壮年を越え老境に差し掛かりかけている彼にとって、夜を徹しての作業は些か以上に負担が大きいはずだが、その様子、声にも全く弱弱しいところは感じられなかった。
「砦自体の被害は、城門も含め2割程度。人的被害もかなりのところだが、幻晶騎士が全滅寸前と言うのが一番の問題だな」
部下の報告をまとめ、砦の被害状況を確認していたクヌートは溜息を抑えることが出来ない様子だ。
たった一晩で、砦は事実上壊滅状態へと追い込まれていた。
「(……“賊”か。どこの手のものかは知らんが、忌々しい限り……。しかし油断があったのは我らのほうか)」
クヌートが知る限り、フレメヴィーラ王国において幻晶騎士を投入しての砦攻めなど、ここ百年以上はなかったことだ。
それはなんの益も無いからと言う以外に、オービニエ山地という地理的条件が盾となり、他国からの干渉がほとんどなかったと言うのも大きい。
政治的な意味では国内は安定しており、騒乱の気配など全くない。そのため、近年はどの領地もひたすらに魔獣の対策に力を割いてきたのである。
今回の事件ではその経験の薄さが油断となり、仇となった。人の知恵は時に魔獣よりも恐ろしい。得た教訓に対して、支払った代価もまた、大きなものとなってしまったのだ。
ノックと共に、モルテンが部屋へと入ってくる。そのまま無言で簡単に敬礼すると、彼は前置き抜きに話し始めた。
「略式で失礼します、閣下。新型機についてですが……奪われたうち4機までは奪還、もしくは破壊しましたが、1機が我々の追撃を振り切って姿を消しました」
「……逃がしてしまったか」
「追撃には、諸事情から合流したライヒアラの学生も参加していましたが……しかし途中、奇妙な点が」
「なんだ?」
「魔獣です。逃げ切った1機、その逃走路上に複数の魔獣が現れ、おかげで追跡を断念せざるを得なくなりました」
クヌートの表情に、一本ことさらに深い皺が増える。SEX DROPS
魔獣がいること自体は不思議ではない。だがそんなに都合よく障害物になるだろうか。魔獣とは気まぐれさはあれど、彼らなりのルールに従って活動している。クヌートには、早々都合よくいくとは到底思えなかった。
2013年1月21日星期一
完敗
小雨が降り始めた中、涼の車は二宮果樹園へ向かう坂を上っている。
いつも看板前に車を停めさせてもらっているのだが、今日はそこに赤い傘をさす女性が立っている。今日も農婦スタイルの珠里だった。
「あちらが、果樹園の?」御秀堂養顔痩身カプセル第3代
「そうだ。カネコさんのお孫さんの嫁さん。いまは、栽培はカネコさんが、若い彼女が果樹園を管理している」
男主人は三代逝去していることも、彼女たちが畑を守っていることも梶原には説明済み。だが『同級生だった』ことは、未だに言えずにいた。
車を停めると、珠里から運転席まで迎えてくれる。
「いらっしゃい。真鍋君」
「今日はよろしく」
噂の果樹園の若女将とも言うべき珠里が、親しげに涼を呼んだことに梶原も気がついたようだった。
「あの……」
小雨の中、赤い傘から涼の顔を伺う彼女。
「どうかしたのか」
「急で申し訳ないけれど、実は……」
彼女が告げたことに、涼も驚くしかなかった。
珠里が告げたこと。
――『真田さんが、先日、持ってきてくれた新作をカメリアさんにも食べて欲しいと持ってきている。意にそぐわないなら持って帰ると言っているんだけど』と。
どういうつもりなのか、あの社長は……と思いきや。『真田の新作』を持ち込んできたのは社長ではなく――。
「娘の真田美々です」
二宮のスイーツキッチンに、キラキラしたギャルぽい風貌の茶髪女性。農婦姿の珠里とは対照的に、挑発的な黒ファッション。黒いミニスカートに、肩が丸出しのレイヤードトップスに、そしてヒールが高いロングブーツ。
え、あの社長の娘? ノーブルで品の良いファッションスタイルだった親父さんとも対照的。『私、おもいっきり世間に反抗しています』と言わんばかりの。
涼の横にいる梶原も唖然としていた。『え、彼女が真田の担当? あの真田社長の娘?』と、しかも『なんで、今ここにいるんだよ』と。抑えてきた緊張と勢いをかき乱されそうな予感でもあるのか、眉間に不安を物語るシワが寄っていた。
「本日はぶしつけに申し訳ありません。父には『やめろ』と怒鳴られましたが、どうしてもそちらのドルチェも確かめたかったものですから」
なのに。そこは丁寧に頭を下げ、挨拶をしてくれる。そして珠里も割って入ってきた。
「実は。こちらの美々さんが、うちの果樹園に最初に来てくださって。あのマーマレードを試食して『絶対に沢山の人に食べてもらうべき』と、お父様の真田社長に持ち込んでくださったんです」
――なんだって。
それを知り、涼は驚きながら美々を見た。あのヒット商品が全国的に知れるようになった『発見、発信者』は、この彼女? 親父の真田社長の目利きで企画されたわけではなかったのだと!
「では、こちらの真田社長のお嬢さんが、あのマーマレードを見つけたということなのですね」
涼が改めて尋ねると、派手な金茶毛ロングヘアの彼女が、まつげばさばさの大きな目を伏せながらこっくりと頷いてくれた。
「だから。今度の島レモンスイーツの商品化も、絶対に『真田珈琲』で出したいんです。それが……、珠里さんがカメリアさんのスイーツにも心を動かされていると知って……」
マーマレードを見いだした本人だからこそ、『島レモン』に思い入れがある。誰にも譲れない。そんな彼女の眼差しは、父親の真田社長にそっくり。『素材にも愛情がある』と言い切ったあの眼と一緒だった。
『どうします?』
横で戸惑う梶原が、涼に尋ねる。そこは先輩として現役チーフとして頼ってくれたのが判る。勿論、涼の返答は決まっている。
「こちらからもお願いしたいくらいです。本日の新作、是非、真田さんにも試して頂きたい」
堂々とする。それを連れてきた梶原にも『どんなことが起きても、こうだ』と見せておきたかった。……そりゃ本心、涼だって『なんだこの状況』とテンパッているのだが。そこは涼本人のみぞ知る心情として押し殺す。
美々のそばにいる珠里も戸惑っている様子が見て取れた。『この状況、止められなかった』と思っているのだろうか。相変わらず、淡々としているがちょっとだけ眉尻が下がって困っているように見えてしまったのも気のせいか。
「珠里ちゃん、カメリアさんは来たん?」
食器棚の横にある室内ドアが開いた。
おそらく本宅と繋げているドア。そこから、農婦姿の老女が顔を出した。
その老女を見て、涼は固まる。いや『やっと会えた!』と言うべきか。
「ばあちゃん、カメリアさん来たよ。お願いします」
「そうなん。じゃあ、お邪魔しようかね」
珠里が呼ぶ『おばあちゃん』。レモンの作り手、マーマレードの作り手の本人である『カネコおばあちゃん』だった。
「こんにちは。カネコです。今日は、よろしくね」
スーツ姿の男ふたり、こちらに向けて、穏やかな笑顔でお辞儀をしてくれる。イメージ通り、ころころしたちっちゃなお婆ちゃん。珠里と同じく、農業割烹着と絣のもんぺ、そしてゴム長靴という典型的な農家のお婆ちゃんだった。
「今日は、ばあちゃんにも試食してもらいます。管理人である私だけが食べるより、やはりレモンの作り手であるばあちゃんに決めてもらおうと思います。よろしいですよね」
「勿論です。カネコさんのレモンで作る菓子ですから」
涼は梶原と一緒に、珠里に頷いた。
当然の流れだと思うが、涼には少しだけ違う思いが。『同級生だという先入観を拭うため?』。公正なものにするために。
そんな時、珠里のあの黒目の眼差しと、涼の視線が重なった。
――これで、いいよね。真鍋君。
そんな声が聞こえてきそうで、涼は密かに彼女に頷く。
なにを言い合いたいのか通じたのか? 彼女も小さくこっくり頷いてくれた。
不思議な感覚だった。
だが、互いのこの仕事へのスタンス。もう、わかっている。
同級生のよしみで獲れた仕事になんて、涼もしたくない。そしてそれは珠里も同じなのだろう。その為の『公正な審査員、カネコさん』なのだと。
そんなカネコおばあちゃんのところへ、涼から出向く。お馴染みのご挨拶をするために。
「初めまして。カメリア珈琲、企画営業部の真鍋と申します。初めてお電話の時は、こちらからの訪問の申し入れを快く受けてくださいまして有り難うございました」
胸ポケットから名刺を差し出す。それをカネコさんがにっこりと受け取ってくれる。
「同じく。カメリア珈琲、企画営業部の梶原と申します。本日はよろしくお願い致します」
涼に遅れまいと、梶原もやや緊張した面持ちで、カネコおばあちゃんに名刺を差し出した。
「やっぱり大手さんの男の子はビシッとしていて、かっこええねえ」御秀堂養顔痩身カプセル第2代
眼鏡姿の涼と、さらに今どきのアラサー男子である梶原を見て、おばあちゃんがにこにこ。
「カネコさんのマーマレード。真田さんから出ている物も大変美味しくいただきました。ですが、先日、珠里さんからいただきました、このキッチンで、カネコさん自らの手で作られたマーマレード。優しい甘みでまた美味しかったです。母にも持っていきましたが、とても感動しておりました」
初対面の挨拶はもちろんのことだが、まずそこはあれこれ味を比べる前には伝えておきたかった涼。
「珠里ちゃんから聞きました。訪ねてきたカメリアの営業さんが、偶然、昔いた真鍋先生の息子さんで、珠里ちゃんの同級生だったと」
カネコさんの返答に、隣にいる梶原が『えっ』と漏らした。機を見て『まったくの偶然だった』と説明しておこうと思ったが、こうなったら仕方があるまい。『まあ、そういうことでもあったんだよ』と梶原には目配せをしておき、説明は後ほどと待ってもらう。そこは只今営業中の梶原も、プライベートのことは後回しと堪えてくれたよう。
梶原が驚いたなら、あちらの真田嬢もと思ったが。あちらはもう珠里か父親から聞いてるのかどうか? ジッと黙って控えてくれている。それに眼、本当に目つきが父親にそっくりすぎる。
その眼が『挨拶はほどほどにして早く先に進めて』と急かすような迫力を感じてしまうのが、これまた父親譲りに見えてしまう。
「では。早速ですが、弊社で考案した『島レモンスイーツ』を召し上がってください」
梶原と目を合わせ、頷き合う。
クーラーボックスをキッチン台の上に梶原が置き蓋を開ける。そして涼も持ってきたアタッシュケースを開け、自社で扱ってる食器を準備。
主役は菓子。だが菓子だけじゃない。デコレーションに、食器まで。そこまでが『食べること』。それがカメリアのこだわり。パティシエの感性だった。
ネクタイスーツ姿の男ふたり。ジャケットを脱いで、ワイシャツの袖をまくる。黒いシンプルなエプロンまで、ネクタイの上に。
「男の子のエプロン姿、ええねえ」
涼と梶原が調理を始めた正面に、カネコさん、珠里、真田嬢の女性三人が並んで腰をかける。カメリアの男ふたりが支度をするのをにっこり眺めている。真田嬢の食い入るような目は変わらないが。
本当にそこに真田社長がいるよう。涼の肌にピリピリと刺さるような空気を彼女は送り込んでくる。だが涼はそんな彼女の始終真剣な顔を見て思った。
親父に違わぬ『愛好家』だと。菓子にうるさそうな目つき。梶原もある程度手慣れているから良いが、それでもクーラーボックスから落とさずに、きちんとキッチン台に置けるのか。落とさないでよ。美味しいお菓子は丁寧に扱ってよ。なんて、そんなことを言い出しそうな様子を醸し出していて、涼も気が気でない。
クーラーボックスから出てきたのは、白い薄紙に筒状に包まれたショコラ。
「それ。ショコラ?」
目ざとい美々の質問に、手に持っている梶原が『はい』と答える。
梶原がカッティングボードに置いたショコラ。小さな薄いナイフを手にした涼は、薄紙を剥いだショコラにそっとナイフをあて目を懲らしカットする。
「あら、カメリアのチーフさん。手慣れているねえ」
口元を真一文字に引き結び、綺麗に棒状のショコラを輪切りにしていると、カネコさんが小さく拍手をしてくれ、涼も思わずにっこり。
「真鍋さん。もしかして、自分で料理するの」
美々にも尋ねられる。
「このような仕事ですから。たまに自分で菓子も焼きますよ」
「えー、さすがですね!」
あの生意気そうなお嬢さんが、急に涼を尊敬するようにキラキラとした目に。なんだ、そういう可愛い顔できるじゃんか――と思うほど。
珠里とはまた違うが、なんともぶすっとした不機嫌そうな顔つきだったものだから。本当にあの親父の娘だ、と思ったが、こちらは気を抜けば愛嬌もあるらしい。
それに比べて、珠里はやはりあの冷めた顔のまま。
棒状のショコラをカットし、次は果物ナイフでカネコさんのレモンをカット。レモンの輪切りと、筒状からカットされコイン型になったショコラ。それを白い皿の上にショコラ、レモン、ショコラ、レモンと交互に重ね扇状に並べる。彩りのグリーンを添え、最後は。
「三枝、小鍋を貸してもらえるか」
「うん、いいわよ」
なんて、すっかり慣れた同級生気分でうっかり。
目の前の美々がちょっと驚いた顔をして、隣の梶原も目を丸くしていた。ただカネコさんだけが。
「本当に同級生だったんだね。珠里ちゃんのこと、旧姓で呼ぶなんて」
「す、すみません。うっかりしておりました。そう、今は二宮さんでしたね」
「べつに、かまんよ。ええんじゃないの」
けらけらと優しくおばあちゃんが笑ってくれる。
笑われた珠里も『ついうっかり』という顔で恥ずかしそうにしている。その彼女が小鍋を持ってきてくれる。
「手伝うことある?」
「いや、もう終わるから」
そのやり取りさえも。目の前の美々とカネコおばあちゃんがニンマリとした笑みで見ている。ついには隣の梶原まで。
「なんすか。この状況。後で教えてくださいよ」
「わ、わかってる。いまは皿に集中しろよ」
そうして梶原も元の真剣さを取り戻し、白い皿の盛りつけを仕上げていく。
最後、涼が小鍋でゆっくり温めたのは『レモンジャム』。このショコラに添えるために、パティシエが緩く柔らかく煮詰めたもの。ジャムほど粘りと堅さはなく、ソースと呼ぶには液状でもなくジュレぐらいの質感がある。それを温め、白い陶器のミルクピッチャーに注いだ。
「出来上がりです」
丸形カットのショコラとレモンの輪切り。まるでフランス料理のような飾りつけ。これがカメリアの真骨頂。
その皿を女性三人それぞれに梶原が配り、最後に涼が人肌ほどに温めたレモンジャムをそばに添える。
そして、ついにその時を迎える。
「梶原」
彼を正面に押し、涼は一歩下がる。梶原が頷き、女性達に向かう。
「クラシック・ショコラ・レモンです」
わけのわからないフランス料理が出てきたかのように、女性三人それぞれが『クラシック・ショコラ?』と皿を様々な角度から眺めている。
特に美々は、皿を手に持ち自分の目線に持ってきて、ものすごく食い入るように眺めている。
「そういえば。ここのところ『隠れた名品』として、パティシエが一本一本手作りで作る『昔ながらのショコラ』があると聞いたことがある。手作りだから、向こう半年予約でいっぱいだという知る人ぞ知る名品だって」韓国痩身一号
彼女の言葉に、梶原がとてつもなく驚いた顔をしたのを涼は見逃さなかった。
そしてやはり、真田美々は『あなどれない愛好家』だと確信せざる得ない。梶原がやっと掴んだ情報を、彼女ももう知っていたのだから。
――動揺するな。
後ろにいた涼はそっと彼に耳打ちを。それだけで、梶原もグッと堪え毅然とした顔を保とうとした。
「そうです。『元来のチョコレートはこうしてつくり、食べられてきた』、パティシエが電子器具を使わず、ココアパウダーから手と木べらだけで混ぜ合わせ練ったもの。厳選素材と丁寧な手作り、『貴女のために、手でつくられた』がコンセプトです」
梶原が足を使って、または懸命な情報収集でやっと見つけた『まだ知られていない、でも都会の愛好家はもう既に取り合っている名品』だったという。
本当に、その国で作られている『昔ながらのチョコレートのレシピ』で作られた物。厳選されたカカオとバターと生クリーム、そしてナッツにフルーツピール、そして香り付けの洋酒。本当に一からパティシエが作った『チョコレートはこうして生まれた』と言いたい一品だった。
それは昔ながらといいながらも、手間暇かけた丁寧な作りと厳選されたシンプルな素材に贅沢感があった。
形成も素朴。型を使わず、トリュフのように小分けにせず。とにかくボウル一個分、パティシエの手で筒状に固めた物。そこに温かみと、手作りの贅沢さもある。
「ふーん、さすがカメリアさん。このショコラの重厚感、エレガントな盛りつけ。それに……これ、なにこの温かいミルクピッチャーは」
「温かいうちに、そのレモンジャムを是非」
梶原の勧めに、女性達がやっとフォークを手にする。
冷たく固めたチョコレートに、温めたレモンジャム。それをかけた彼女たちがフォークにチョコレートをとって口に運んだ。
すると、カネコさんが途端に笑顔いっぱいに。
「おいしいねえ!」
一番言ってほしい人からのその言葉に、やっと梶原もホッとした微笑みをみせた。それを後ろで見守っていた涼も、ホッと胸をなで下ろす。
そして思った。本当はこういうことなんだよな……と。数字とかいろいろ必要だけれど。基本『俺達』は、『美味しい』と笑顔になって欲しくて、この仕事を選んだのではないか。この後輩も、ここまで辿り着くのに必死に走り回って情報をかき集め、何度も企画を無にされ、でも諦めず……。自分だってそうだったじゃないか。なのに、いつの間にか、この後輩と『狭い企画室』だけで目の敵にして争っていただけの……。
「うん、いい。ショコラにレモンの輪切りの香りがほんのり移って、ホットジャムのところが程よく溶けて、フォンダン・ショコラみたい。ショコラの中にはブランデー漬けにしたレモンピール。まさに『レモン・チョコ』だね」
真田嬢は、スイーツを目の前にすると目つきが変わる。涼も既に、彼女のその目には緊張する。娘でこれだ。もし、今日……あの社長がここにいて、このショコラを食べたならば。どのような顔で、どう言ったのだろうか。
そして涼は、珠里も確かめる。彼女はひたすらあの顔に固まったまま、始終無言だった。美味しかったのか、気に入ってくれたのかも解らない。
「三枝、どうかな」
果樹園管理人の意見も聞きたい。だが珠里は。
「うん、カメリアさんらしい」
美味しいとは言ってくれない。それだけだった。涼にはそこがひっかかった。
――もしや。先攻だった真田のレモンスイーツの方が美味かったのか?
急に胸に不安が広がる。
その不安を確かめたかのように、ひととおり味わった美々が席を立った。
「では。先日、カネコおばあちゃんと珠里さんに試して頂いた真田の新作を見てもらおうかな」
彼女もテーブルの上に置いていたクーラーボックスの前へ。蓋を開け、彼女はこの家の食器棚にある普通の小皿のうえに、その菓子を並べた。
その菓子を見て、涼は驚き、梶原も『信じられない』という顔に固まっていた。
小皿に、無造作に彼女が置いたのは。『レモン色のマカロン』。
涼から尋ねた。
「レモン味の、マカロン……ということですか」
「そうです。レモン味のマカロン。それだけです」
美々の平然とした返答にも、涼は余計に不安に煽られた。その動じない様子が、逆に『真田の自信』にも見えたから。
いまさら、マカロン? もう出回って何年にもなる。しかも見たところ、なんのひねりもない、見たままそのまま『マカロン』。それがころっと小皿にひとつ。
「どうぞ」
真田美々の笑みなき、ひたむきな眼差し。揺るがない自信。
彼女の眼に気圧されながらも、涼は前に置かれた小皿から、そのマカロンを手に取る。隣の梶原も続いて手に取り、ふたりで一口。
それだけで、涼は『あっ』と言わされる。
どこでも見かけられるようになった『マカロン』。なのにこれは『レモンそのもの』!
隣の梶原も絶句している。この後輩も菓子は食べ尽くしている故に、きっと涼と同じ感覚になっているはず。
「レモンだ。レモンを食べているみたいだ」
「そのとおりっすね。レモン……だ」
マカロンのかじった所を涼は眺める。そこにはレモンマーマレード、そして『つぶ塩』。
「塩とレモン?」韓国痩身1号
気がついた涼に、やっと美々が悠然と微笑んだ。
「そう。『塩レモンマカロン』。レモンは瀬戸内の島レモン、塩は瀬戸内の塩」
塩スイーツも出回って久しい。既存の、もう誰もが知っているような組み合わせながらも、これは……新しいというより『絶妙の組み合わせ』、そしてまさに『レモン』。
こちらはカメリアよりもっとシンプル。だけれど素晴らしく鮮烈。ひとくちで『レモン!』とガツンとやってくれる。しかもだからってレモンレモンじゃないところは、マカロンの外はさっくり中はしっとりとした甘いアーモンド生地がレモンに変化を添えている。
これに比べたら、どんなに手作りクラシック、シンプルだと謳っても、カメリアのひと皿はあまりにも『小手先が過ぎる』と感じる。
「たった一口なのに。レモンのテイストがジューシーだ、すごく……レモン」
梶原もその鮮烈さに驚愕している。つまりそれは……俺達自ら……。
そして真田美々は、そんなカメリアの男ふたりを見て、もう勝ち誇った笑みを浮かべている。涼と梶原の驚きの顔、変哲もないマカロンを食べたその顔で、確信を得たのだろう。
だから彼女から切り出した。
「おばあちゃん、どうでしたか。どちらかお決め頂ければと思います」
美々からの催促に、カネコさんがカメリアの皿を見て唸る。
俺達にまだチャンスはあるのかも。まだカネコさんが答を言わぬうちは、その望みがある。涼は梶原と顔を見合わせ固唾を呑む。
そんなおばあちゃんが、涼と梶原を見てにっこり笑った。
「どっちも美味しかったよ。どっちもお店に出して欲しいんやけどね。ごめんね」
カメリアの男ふたりを見て『ごめんね』。涼は目をつむり、梶原は俯いてしまった。
「本当なら、どちらさんにもレモンをつこうてほしいんやけど、両店のお客さんに行き渡るほどは、ばあちゃんもレモンを作ってはおらんし。他のお得意さんもいるけん。今回は『真田さん』にお任せしようと思います」
――負けた。
涼も後輩と一緒に項垂れた。
しかも、一口食べただけで判った。『完敗』だった。悔しいけれど、納得できる。
「……わ、わかりました。チャンスをくださり、有り難うございました」
唇を噛みしめ動かなくなってしまった後輩の代わりに、礼をする。そうすると、梶原も涙を呑むように涼の横で頭を下げた。
勝負あり。そして涼は噛みしめる。あの社長の言葉が頭に巡った。
『素材にも、地元の顧客にも、故郷にも愛がある』。
島のレモン、瀬戸内の塩。それを如何に調和させるか。そこに確かに『愛』を感じた。
おそらく、自分には今ないものだと痛感させられた。
「まって!」
敗北に項垂れる男達のせいで、しんみりしてしまったキッチンにそんな声が響いた。
それまでジッと黙っていた珠里が立ち上がっていた。新一粒神
いつも看板前に車を停めさせてもらっているのだが、今日はそこに赤い傘をさす女性が立っている。今日も農婦スタイルの珠里だった。
「あちらが、果樹園の?」御秀堂養顔痩身カプセル第3代
「そうだ。カネコさんのお孫さんの嫁さん。いまは、栽培はカネコさんが、若い彼女が果樹園を管理している」
男主人は三代逝去していることも、彼女たちが畑を守っていることも梶原には説明済み。だが『同級生だった』ことは、未だに言えずにいた。
車を停めると、珠里から運転席まで迎えてくれる。
「いらっしゃい。真鍋君」
「今日はよろしく」
噂の果樹園の若女将とも言うべき珠里が、親しげに涼を呼んだことに梶原も気がついたようだった。
「あの……」
小雨の中、赤い傘から涼の顔を伺う彼女。
「どうかしたのか」
「急で申し訳ないけれど、実は……」
彼女が告げたことに、涼も驚くしかなかった。
珠里が告げたこと。
――『真田さんが、先日、持ってきてくれた新作をカメリアさんにも食べて欲しいと持ってきている。意にそぐわないなら持って帰ると言っているんだけど』と。
どういうつもりなのか、あの社長は……と思いきや。『真田の新作』を持ち込んできたのは社長ではなく――。
「娘の真田美々です」
二宮のスイーツキッチンに、キラキラしたギャルぽい風貌の茶髪女性。農婦姿の珠里とは対照的に、挑発的な黒ファッション。黒いミニスカートに、肩が丸出しのレイヤードトップスに、そしてヒールが高いロングブーツ。
え、あの社長の娘? ノーブルで品の良いファッションスタイルだった親父さんとも対照的。『私、おもいっきり世間に反抗しています』と言わんばかりの。
涼の横にいる梶原も唖然としていた。『え、彼女が真田の担当? あの真田社長の娘?』と、しかも『なんで、今ここにいるんだよ』と。抑えてきた緊張と勢いをかき乱されそうな予感でもあるのか、眉間に不安を物語るシワが寄っていた。
「本日はぶしつけに申し訳ありません。父には『やめろ』と怒鳴られましたが、どうしてもそちらのドルチェも確かめたかったものですから」
なのに。そこは丁寧に頭を下げ、挨拶をしてくれる。そして珠里も割って入ってきた。
「実は。こちらの美々さんが、うちの果樹園に最初に来てくださって。あのマーマレードを試食して『絶対に沢山の人に食べてもらうべき』と、お父様の真田社長に持ち込んでくださったんです」
――なんだって。
それを知り、涼は驚きながら美々を見た。あのヒット商品が全国的に知れるようになった『発見、発信者』は、この彼女? 親父の真田社長の目利きで企画されたわけではなかったのだと!
「では、こちらの真田社長のお嬢さんが、あのマーマレードを見つけたということなのですね」
涼が改めて尋ねると、派手な金茶毛ロングヘアの彼女が、まつげばさばさの大きな目を伏せながらこっくりと頷いてくれた。
「だから。今度の島レモンスイーツの商品化も、絶対に『真田珈琲』で出したいんです。それが……、珠里さんがカメリアさんのスイーツにも心を動かされていると知って……」
マーマレードを見いだした本人だからこそ、『島レモン』に思い入れがある。誰にも譲れない。そんな彼女の眼差しは、父親の真田社長にそっくり。『素材にも愛情がある』と言い切ったあの眼と一緒だった。
『どうします?』
横で戸惑う梶原が、涼に尋ねる。そこは先輩として現役チーフとして頼ってくれたのが判る。勿論、涼の返答は決まっている。
「こちらからもお願いしたいくらいです。本日の新作、是非、真田さんにも試して頂きたい」
堂々とする。それを連れてきた梶原にも『どんなことが起きても、こうだ』と見せておきたかった。……そりゃ本心、涼だって『なんだこの状況』とテンパッているのだが。そこは涼本人のみぞ知る心情として押し殺す。
美々のそばにいる珠里も戸惑っている様子が見て取れた。『この状況、止められなかった』と思っているのだろうか。相変わらず、淡々としているがちょっとだけ眉尻が下がって困っているように見えてしまったのも気のせいか。
「珠里ちゃん、カメリアさんは来たん?」
食器棚の横にある室内ドアが開いた。
おそらく本宅と繋げているドア。そこから、農婦姿の老女が顔を出した。
その老女を見て、涼は固まる。いや『やっと会えた!』と言うべきか。
「ばあちゃん、カメリアさん来たよ。お願いします」
「そうなん。じゃあ、お邪魔しようかね」
珠里が呼ぶ『おばあちゃん』。レモンの作り手、マーマレードの作り手の本人である『カネコおばあちゃん』だった。
「こんにちは。カネコです。今日は、よろしくね」
スーツ姿の男ふたり、こちらに向けて、穏やかな笑顔でお辞儀をしてくれる。イメージ通り、ころころしたちっちゃなお婆ちゃん。珠里と同じく、農業割烹着と絣のもんぺ、そしてゴム長靴という典型的な農家のお婆ちゃんだった。
「今日は、ばあちゃんにも試食してもらいます。管理人である私だけが食べるより、やはりレモンの作り手であるばあちゃんに決めてもらおうと思います。よろしいですよね」
「勿論です。カネコさんのレモンで作る菓子ですから」
涼は梶原と一緒に、珠里に頷いた。
当然の流れだと思うが、涼には少しだけ違う思いが。『同級生だという先入観を拭うため?』。公正なものにするために。
そんな時、珠里のあの黒目の眼差しと、涼の視線が重なった。
――これで、いいよね。真鍋君。
そんな声が聞こえてきそうで、涼は密かに彼女に頷く。
なにを言い合いたいのか通じたのか? 彼女も小さくこっくり頷いてくれた。
不思議な感覚だった。
だが、互いのこの仕事へのスタンス。もう、わかっている。
同級生のよしみで獲れた仕事になんて、涼もしたくない。そしてそれは珠里も同じなのだろう。その為の『公正な審査員、カネコさん』なのだと。
そんなカネコおばあちゃんのところへ、涼から出向く。お馴染みのご挨拶をするために。
「初めまして。カメリア珈琲、企画営業部の真鍋と申します。初めてお電話の時は、こちらからの訪問の申し入れを快く受けてくださいまして有り難うございました」
胸ポケットから名刺を差し出す。それをカネコさんがにっこりと受け取ってくれる。
「同じく。カメリア珈琲、企画営業部の梶原と申します。本日はよろしくお願い致します」
涼に遅れまいと、梶原もやや緊張した面持ちで、カネコおばあちゃんに名刺を差し出した。
「やっぱり大手さんの男の子はビシッとしていて、かっこええねえ」御秀堂養顔痩身カプセル第2代
眼鏡姿の涼と、さらに今どきのアラサー男子である梶原を見て、おばあちゃんがにこにこ。
「カネコさんのマーマレード。真田さんから出ている物も大変美味しくいただきました。ですが、先日、珠里さんからいただきました、このキッチンで、カネコさん自らの手で作られたマーマレード。優しい甘みでまた美味しかったです。母にも持っていきましたが、とても感動しておりました」
初対面の挨拶はもちろんのことだが、まずそこはあれこれ味を比べる前には伝えておきたかった涼。
「珠里ちゃんから聞きました。訪ねてきたカメリアの営業さんが、偶然、昔いた真鍋先生の息子さんで、珠里ちゃんの同級生だったと」
カネコさんの返答に、隣にいる梶原が『えっ』と漏らした。機を見て『まったくの偶然だった』と説明しておこうと思ったが、こうなったら仕方があるまい。『まあ、そういうことでもあったんだよ』と梶原には目配せをしておき、説明は後ほどと待ってもらう。そこは只今営業中の梶原も、プライベートのことは後回しと堪えてくれたよう。
梶原が驚いたなら、あちらの真田嬢もと思ったが。あちらはもう珠里か父親から聞いてるのかどうか? ジッと黙って控えてくれている。それに眼、本当に目つきが父親にそっくりすぎる。
その眼が『挨拶はほどほどにして早く先に進めて』と急かすような迫力を感じてしまうのが、これまた父親譲りに見えてしまう。
「では。早速ですが、弊社で考案した『島レモンスイーツ』を召し上がってください」
梶原と目を合わせ、頷き合う。
クーラーボックスをキッチン台の上に梶原が置き蓋を開ける。そして涼も持ってきたアタッシュケースを開け、自社で扱ってる食器を準備。
主役は菓子。だが菓子だけじゃない。デコレーションに、食器まで。そこまでが『食べること』。それがカメリアのこだわり。パティシエの感性だった。
ネクタイスーツ姿の男ふたり。ジャケットを脱いで、ワイシャツの袖をまくる。黒いシンプルなエプロンまで、ネクタイの上に。
「男の子のエプロン姿、ええねえ」
涼と梶原が調理を始めた正面に、カネコさん、珠里、真田嬢の女性三人が並んで腰をかける。カメリアの男ふたりが支度をするのをにっこり眺めている。真田嬢の食い入るような目は変わらないが。
本当にそこに真田社長がいるよう。涼の肌にピリピリと刺さるような空気を彼女は送り込んでくる。だが涼はそんな彼女の始終真剣な顔を見て思った。
親父に違わぬ『愛好家』だと。菓子にうるさそうな目つき。梶原もある程度手慣れているから良いが、それでもクーラーボックスから落とさずに、きちんとキッチン台に置けるのか。落とさないでよ。美味しいお菓子は丁寧に扱ってよ。なんて、そんなことを言い出しそうな様子を醸し出していて、涼も気が気でない。
クーラーボックスから出てきたのは、白い薄紙に筒状に包まれたショコラ。
「それ。ショコラ?」
目ざとい美々の質問に、手に持っている梶原が『はい』と答える。
梶原がカッティングボードに置いたショコラ。小さな薄いナイフを手にした涼は、薄紙を剥いだショコラにそっとナイフをあて目を懲らしカットする。
「あら、カメリアのチーフさん。手慣れているねえ」
口元を真一文字に引き結び、綺麗に棒状のショコラを輪切りにしていると、カネコさんが小さく拍手をしてくれ、涼も思わずにっこり。
「真鍋さん。もしかして、自分で料理するの」
美々にも尋ねられる。
「このような仕事ですから。たまに自分で菓子も焼きますよ」
「えー、さすがですね!」
あの生意気そうなお嬢さんが、急に涼を尊敬するようにキラキラとした目に。なんだ、そういう可愛い顔できるじゃんか――と思うほど。
珠里とはまた違うが、なんともぶすっとした不機嫌そうな顔つきだったものだから。本当にあの親父の娘だ、と思ったが、こちらは気を抜けば愛嬌もあるらしい。
それに比べて、珠里はやはりあの冷めた顔のまま。
棒状のショコラをカットし、次は果物ナイフでカネコさんのレモンをカット。レモンの輪切りと、筒状からカットされコイン型になったショコラ。それを白い皿の上にショコラ、レモン、ショコラ、レモンと交互に重ね扇状に並べる。彩りのグリーンを添え、最後は。
「三枝、小鍋を貸してもらえるか」
「うん、いいわよ」
なんて、すっかり慣れた同級生気分でうっかり。
目の前の美々がちょっと驚いた顔をして、隣の梶原も目を丸くしていた。ただカネコさんだけが。
「本当に同級生だったんだね。珠里ちゃんのこと、旧姓で呼ぶなんて」
「す、すみません。うっかりしておりました。そう、今は二宮さんでしたね」
「べつに、かまんよ。ええんじゃないの」
けらけらと優しくおばあちゃんが笑ってくれる。
笑われた珠里も『ついうっかり』という顔で恥ずかしそうにしている。その彼女が小鍋を持ってきてくれる。
「手伝うことある?」
「いや、もう終わるから」
そのやり取りさえも。目の前の美々とカネコおばあちゃんがニンマリとした笑みで見ている。ついには隣の梶原まで。
「なんすか。この状況。後で教えてくださいよ」
「わ、わかってる。いまは皿に集中しろよ」
そうして梶原も元の真剣さを取り戻し、白い皿の盛りつけを仕上げていく。
最後、涼が小鍋でゆっくり温めたのは『レモンジャム』。このショコラに添えるために、パティシエが緩く柔らかく煮詰めたもの。ジャムほど粘りと堅さはなく、ソースと呼ぶには液状でもなくジュレぐらいの質感がある。それを温め、白い陶器のミルクピッチャーに注いだ。
「出来上がりです」
丸形カットのショコラとレモンの輪切り。まるでフランス料理のような飾りつけ。これがカメリアの真骨頂。
その皿を女性三人それぞれに梶原が配り、最後に涼が人肌ほどに温めたレモンジャムをそばに添える。
そして、ついにその時を迎える。
「梶原」
彼を正面に押し、涼は一歩下がる。梶原が頷き、女性達に向かう。
「クラシック・ショコラ・レモンです」
わけのわからないフランス料理が出てきたかのように、女性三人それぞれが『クラシック・ショコラ?』と皿を様々な角度から眺めている。
特に美々は、皿を手に持ち自分の目線に持ってきて、ものすごく食い入るように眺めている。
「そういえば。ここのところ『隠れた名品』として、パティシエが一本一本手作りで作る『昔ながらのショコラ』があると聞いたことがある。手作りだから、向こう半年予約でいっぱいだという知る人ぞ知る名品だって」韓国痩身一号
彼女の言葉に、梶原がとてつもなく驚いた顔をしたのを涼は見逃さなかった。
そしてやはり、真田美々は『あなどれない愛好家』だと確信せざる得ない。梶原がやっと掴んだ情報を、彼女ももう知っていたのだから。
――動揺するな。
後ろにいた涼はそっと彼に耳打ちを。それだけで、梶原もグッと堪え毅然とした顔を保とうとした。
「そうです。『元来のチョコレートはこうしてつくり、食べられてきた』、パティシエが電子器具を使わず、ココアパウダーから手と木べらだけで混ぜ合わせ練ったもの。厳選素材と丁寧な手作り、『貴女のために、手でつくられた』がコンセプトです」
梶原が足を使って、または懸命な情報収集でやっと見つけた『まだ知られていない、でも都会の愛好家はもう既に取り合っている名品』だったという。
本当に、その国で作られている『昔ながらのチョコレートのレシピ』で作られた物。厳選されたカカオとバターと生クリーム、そしてナッツにフルーツピール、そして香り付けの洋酒。本当に一からパティシエが作った『チョコレートはこうして生まれた』と言いたい一品だった。
それは昔ながらといいながらも、手間暇かけた丁寧な作りと厳選されたシンプルな素材に贅沢感があった。
形成も素朴。型を使わず、トリュフのように小分けにせず。とにかくボウル一個分、パティシエの手で筒状に固めた物。そこに温かみと、手作りの贅沢さもある。
「ふーん、さすがカメリアさん。このショコラの重厚感、エレガントな盛りつけ。それに……これ、なにこの温かいミルクピッチャーは」
「温かいうちに、そのレモンジャムを是非」
梶原の勧めに、女性達がやっとフォークを手にする。
冷たく固めたチョコレートに、温めたレモンジャム。それをかけた彼女たちがフォークにチョコレートをとって口に運んだ。
すると、カネコさんが途端に笑顔いっぱいに。
「おいしいねえ!」
一番言ってほしい人からのその言葉に、やっと梶原もホッとした微笑みをみせた。それを後ろで見守っていた涼も、ホッと胸をなで下ろす。
そして思った。本当はこういうことなんだよな……と。数字とかいろいろ必要だけれど。基本『俺達』は、『美味しい』と笑顔になって欲しくて、この仕事を選んだのではないか。この後輩も、ここまで辿り着くのに必死に走り回って情報をかき集め、何度も企画を無にされ、でも諦めず……。自分だってそうだったじゃないか。なのに、いつの間にか、この後輩と『狭い企画室』だけで目の敵にして争っていただけの……。
「うん、いい。ショコラにレモンの輪切りの香りがほんのり移って、ホットジャムのところが程よく溶けて、フォンダン・ショコラみたい。ショコラの中にはブランデー漬けにしたレモンピール。まさに『レモン・チョコ』だね」
真田嬢は、スイーツを目の前にすると目つきが変わる。涼も既に、彼女のその目には緊張する。娘でこれだ。もし、今日……あの社長がここにいて、このショコラを食べたならば。どのような顔で、どう言ったのだろうか。
そして涼は、珠里も確かめる。彼女はひたすらあの顔に固まったまま、始終無言だった。美味しかったのか、気に入ってくれたのかも解らない。
「三枝、どうかな」
果樹園管理人の意見も聞きたい。だが珠里は。
「うん、カメリアさんらしい」
美味しいとは言ってくれない。それだけだった。涼にはそこがひっかかった。
――もしや。先攻だった真田のレモンスイーツの方が美味かったのか?
急に胸に不安が広がる。
その不安を確かめたかのように、ひととおり味わった美々が席を立った。
「では。先日、カネコおばあちゃんと珠里さんに試して頂いた真田の新作を見てもらおうかな」
彼女もテーブルの上に置いていたクーラーボックスの前へ。蓋を開け、彼女はこの家の食器棚にある普通の小皿のうえに、その菓子を並べた。
その菓子を見て、涼は驚き、梶原も『信じられない』という顔に固まっていた。
小皿に、無造作に彼女が置いたのは。『レモン色のマカロン』。
涼から尋ねた。
「レモン味の、マカロン……ということですか」
「そうです。レモン味のマカロン。それだけです」
美々の平然とした返答にも、涼は余計に不安に煽られた。その動じない様子が、逆に『真田の自信』にも見えたから。
いまさら、マカロン? もう出回って何年にもなる。しかも見たところ、なんのひねりもない、見たままそのまま『マカロン』。それがころっと小皿にひとつ。
「どうぞ」
真田美々の笑みなき、ひたむきな眼差し。揺るがない自信。
彼女の眼に気圧されながらも、涼は前に置かれた小皿から、そのマカロンを手に取る。隣の梶原も続いて手に取り、ふたりで一口。
それだけで、涼は『あっ』と言わされる。
どこでも見かけられるようになった『マカロン』。なのにこれは『レモンそのもの』!
隣の梶原も絶句している。この後輩も菓子は食べ尽くしている故に、きっと涼と同じ感覚になっているはず。
「レモンだ。レモンを食べているみたいだ」
「そのとおりっすね。レモン……だ」
マカロンのかじった所を涼は眺める。そこにはレモンマーマレード、そして『つぶ塩』。
「塩とレモン?」韓国痩身1号
気がついた涼に、やっと美々が悠然と微笑んだ。
「そう。『塩レモンマカロン』。レモンは瀬戸内の島レモン、塩は瀬戸内の塩」
塩スイーツも出回って久しい。既存の、もう誰もが知っているような組み合わせながらも、これは……新しいというより『絶妙の組み合わせ』、そしてまさに『レモン』。
こちらはカメリアよりもっとシンプル。だけれど素晴らしく鮮烈。ひとくちで『レモン!』とガツンとやってくれる。しかもだからってレモンレモンじゃないところは、マカロンの外はさっくり中はしっとりとした甘いアーモンド生地がレモンに変化を添えている。
これに比べたら、どんなに手作りクラシック、シンプルだと謳っても、カメリアのひと皿はあまりにも『小手先が過ぎる』と感じる。
「たった一口なのに。レモンのテイストがジューシーだ、すごく……レモン」
梶原もその鮮烈さに驚愕している。つまりそれは……俺達自ら……。
そして真田美々は、そんなカメリアの男ふたりを見て、もう勝ち誇った笑みを浮かべている。涼と梶原の驚きの顔、変哲もないマカロンを食べたその顔で、確信を得たのだろう。
だから彼女から切り出した。
「おばあちゃん、どうでしたか。どちらかお決め頂ければと思います」
美々からの催促に、カネコさんがカメリアの皿を見て唸る。
俺達にまだチャンスはあるのかも。まだカネコさんが答を言わぬうちは、その望みがある。涼は梶原と顔を見合わせ固唾を呑む。
そんなおばあちゃんが、涼と梶原を見てにっこり笑った。
「どっちも美味しかったよ。どっちもお店に出して欲しいんやけどね。ごめんね」
カメリアの男ふたりを見て『ごめんね』。涼は目をつむり、梶原は俯いてしまった。
「本当なら、どちらさんにもレモンをつこうてほしいんやけど、両店のお客さんに行き渡るほどは、ばあちゃんもレモンを作ってはおらんし。他のお得意さんもいるけん。今回は『真田さん』にお任せしようと思います」
――負けた。
涼も後輩と一緒に項垂れた。
しかも、一口食べただけで判った。『完敗』だった。悔しいけれど、納得できる。
「……わ、わかりました。チャンスをくださり、有り難うございました」
唇を噛みしめ動かなくなってしまった後輩の代わりに、礼をする。そうすると、梶原も涙を呑むように涼の横で頭を下げた。
勝負あり。そして涼は噛みしめる。あの社長の言葉が頭に巡った。
『素材にも、地元の顧客にも、故郷にも愛がある』。
島のレモン、瀬戸内の塩。それを如何に調和させるか。そこに確かに『愛』を感じた。
おそらく、自分には今ないものだと痛感させられた。
「まって!」
敗北に項垂れる男達のせいで、しんみりしてしまったキッチンにそんな声が響いた。
それまでジッと黙っていた珠里が立ち上がっていた。新一粒神
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