2012年9月11日星期二

異世界に来ました

太一が最初に感じたのは、ほほを撫でる優しい風。ここ最近は縁遠かった、自然のかおりを含んだものだ。
 特に何か変な事にはなっていないらしい。突如襲ってきた不可思議な現象も、どうやら無事に終わったようだ。絶對高潮
 恐らくあれはドッキリだったんだろうなあ。流石はテレビ、変なとこに金かけやがる。
 太一が現象に対する考察はそんなところだ。一五才の知識と人生経験ではその程度が限界だ。最も、長く生きていれば分かるようなものでも無いのだが。
 ……そんなことを考えられる程度には冷静になってきた思考。そして、掛けられた重さと温もりに気付く。
 それを確かめるべく目を開けると。
 目をぎゅっと強く閉じ、制服を握り締めた奏が、太一に寄りかかっていた。
 何だか良い香りがする。奏って柔らかいんだなー……等と不謹慎な思考に駈られる彼を責めないで欲しい。太一も健全な男子高校生。思春期真っ只中なのだから。
「……奏?」
 太一の声にぴくりと肩を揺らし、恐る恐る目を開ける奏。
 これまでに無い至近距離で視線が交わる。
 不安げだった奏の表情が、少しずつ驚愕に染まり。
「何どさくさに紛れて抱きついてるのよっ!」
「理不尽ッ!?」
 突き飛ばされた。
 視界が空転したおかげ?で、赤く染まった奏の頬に気付かなかったのは、幸か不幸か。いつもならそれに突っ込むイケメンは、側にはいない。
 その違和感に気付いたのは、お互い以外が視界に飛び込んできたからだ。
「……」
 なんだこれは。
 そんな一言すら出てこない光景に、言葉を失う太一と奏。
 晴れた青空は親しみなれた空そのもの。そこにぽっかりと浮かぶ白い雲もまた然り。
 違和感の正体は、三六〇度の大パノラマで広がる光景。
 見渡す限り、地平線まで伸びる大草原。
 日本に住んでいて、地平線など拝む機会があるだろうか。いや無い。
 むしろ、地球上を探したところでこれと同じ光景に出会える地域は一握りだろう。もちろん、太一と奏にはこんな景色に見覚えはない。
 これが旅行なら、想定を上回る壮大さに感動で言葉を奪われるだろう。だが今二人が言葉を失っているのは、予想の斜め上を行く展開に思考がストップしてしまっているからだ。
「なあ奏」
「何」
「俺の顔殴ってくれ。どうやら立ったまま寝てるらしい」
「それなら私の頭を先に叩いて。今すぐ起きたいから」
 普段の何気ないやり取りも、阻むものの一切無い開けた土地に、吸われて消える。
 辺りを一度見渡して気付いてしまっている。ここには、太一と奏しかいないことに。それを認めたら終わりな気がして、二人は再び黙り込んだ。
 呆然としたまま顔を落とせば、地面に生える草は見慣れないものばかり。近所の空き地に生える雑草とは毛色が全く違う。土の色は変わらない。が、掘り起こした土の中から顔を見せたのは、凡そ見たこともない虫だった。
 太一の脳裏に、考えたくない仮定が生まれる。頭から振り払おうにも、こびりついて離れない。
 今の太一は挙動不審そのものだ。いつもならそんな太一にぐだぐだと突っ込みを入れる奏も、気付いていて黙っている。太一の尋常じゃない表情を見てしまったからだろう。
 どれだけ、そうしていただろうか。電波など届くはずの無い携帯の時間は、一八時を回っている。約一時間、こうしていたらしい。
「太一」
「ん?」
 掛けられた声に思った以上に平静に答えられた自分を心の中で褒める太一。
「座ろう? あそこに良さげな石があるよ」
 奏が指す指先を追っていくと、なるほど椅子にするにはちょうど良い石がいくつか。地べたに座っているより余程いいだろう。
 側に転がっている学生鞄を拾って、二人並んで歩く。
 平素の太一と奏からすれば考えられない程に近い距離感だが、いきなり見知らぬ土地に放り出された不安がそうさせるのだ。またそれを茶化す余裕などあるはずがない。
 こんな所でも、一人ではない、というのはかなり頼もしい。二人でいれるからこそ、ここまで落ち着いていられるのだ。
 向き合う形で腰を下ろした太一と奏。少しして、奏が太一の横に座り直した。他にも石はいくつかあるのだから、それは不安の現れと言える。そして、そんな事にすら気付けない二人の心理もまた。
「これ、何だと思う?」
 太一が切り出した問いに、奏は首を左右に振った。
 
「分からない。分かりたくもない……」
「そりゃそうだ」
 努めて出した明るい声が虚しく散る。
「太一は?」
「え?」
「太一は、どうなの?」
「……」
 色々はしょった問い掛けだが、その意図が分からない訳じゃない。
 一度小さく吸って吐く。多分だけど、と前置きし、太一は視線を地面に向けた。
「ここは、地球じゃない」
「……」
 奏からの返事はない。
 それは目を逸らしていた現実。認めてしまえば、もう戻れないような気がして。
 しかし、無知な子供の振りで現実逃避は出来ないくらいには、太一も奏も大人に近かった。
「……どうしよう?」
「人、探してみるか」
「見渡す限り草しかないわよ? 宛が外れたら?」
「そこまで責任取れねえよ。ここで待ってて人が一切通らなかったら?」
「……それも責任取れないわね」
 留まるのも躊躇われ、動くのも躊躇われる。視界に映る景色はどこまで行っても同じ。地図なんてあるはずもないし、運良く持っていたとして。今どちらを向いているのか、どちらに歩けばいいのか、方角すら分からない。
 八方手詰まりである。
 何も出来ないという現実を突きつけられ、途方に暮れる太一と奏。こういう時にかけられるのが追い討ち。所謂泣きっ面に蜂である。
 がさりと草が揺れる音。そして何だが不穏な気配。振り返った二人が見たのは……鋭く長い牙を生やした、人の倍は背の高い馬だった。
ざり、と前足が地面を掻く。踏ん張る場所を作っているかのような動作。
 濃い紫の毛並みはつやつやと太陽の光を反射している。
 彼我の距離は凡そ一〇メートル。まだ多少距離はある。
 逃げるしかない―――
 頭でそう分かっていても、身体が一切言う事をきかない。
 
「何だ、ありゃ……」
「私に聞くな」
「もしかして、結構ヤバげ?」
「いや……もしかしないでしょ、コレは」
 相手からの明らかな害意というものに、太一も奏も今まで触れることなく生きてきた。
 今向けられているのは、殺気。捕食者が獲物を狙う目。とでも言えばいいのだろうか。
 例えるなら、小型のバス程もある巨大な生き物が、鋭い牙を剥いて剣呑な空気を向けてきている。
 そう考えれば、その恐ろしさは少しは伝わるだろう。
 
 ぶるるる―――そんな粗い鼻息が、二人の耳朶を強烈に叩く。
 こんな巨大な生き物が、ここまで近づくのに一切気付かないとは。この見晴らしのいい草原で、一体どれだけ注意散漫だったのだろうか。
 地球で似たような場所を探すとすれば、アフリカのサバンナが筆頭だ。あそこに生息するライオンやハイエナ、ジャッカルなどの肉食動物の名前は、動物に別段詳しくなくても聞いた事くらいはあるだろう。そして、それがどれほど危険なのかも、体験はしていなくとも知識としては知っていた。
 まして、ここは地球じゃない。そういう仮定を否定できなかったはずではないのか。
 このような危機が発生する可能性を、考えてしかるべきではなかったのか。
 太一は、全く周りが見えていなかったことに舌打ちする。
 どう考えてもこれはまずい。
 生き延びるビジョンが一切見えてこない。
 姿は馬。太一が知る限り、馬は人間とは比べ物にならないほどの長距離を、世界最速の人間の倍に達する速さで走る事が出来る。彼らと張り合うなら最低でも原付バイク。この状況で逃げ切るならオフロードバイクや四駆のSUVが欲しい。どう考えても、徒歩で競っていい相手ではない。美人豹
 太一と奏が知る馬よりも明らかに巨大だが、それでも彼らよりは確実に速いだろう。いや、この状況では自分達の常識に囚われるべきではない。
 ちらりと横の奏を見る。
 最悪、彼女だけでも逃がそうか―――
 出た結論は、自分が囮になるという事。
 奏を見知らぬ世界に放り出すことになる。
 もしかしたら、ここで死んでしまったほうが楽なのかもしれない。
 それでも、この親友を死んでも生かす、という気持ちに変わりは無い。
 生きてさえいれば、きっと何か救いはあるはずだ。奏は強い。見る限り、今まで出会ってきた女友達の誰よりも。きっと彼女なら、こんな訳の分からない世界でも生き延びてくれるだろう。そして、彼女だけでも、地球に戻れればいい。
 そのためにも、まずは時間を稼がなければ。一呑みで終わり、なんてことは無いだろう。太一を捕食している間を使えば、奏は逃げられるはずだ。願わくば、ゆっくり喰ってくれれば。
 そこまで考えて、今更ながら身震いした。
 踊り食いした事はあるが、される立場になるとは考えていなかった。どのような苦痛が待っているのか、想像すら出来ない。
 そのまま、にらみ合うこと数瞬。
 太一と奏は動けない。
 紫の馬は動かない。
 そんなこう着状態の中、太一にははっきりと見えた。馬が両足をぐっと畳み、身体中に力を込めるその瞬間を。
 
 ダウッ!
 
 地面を蹴っただけとは思えないほどの音と共に、馬が一気にトップスピードとなって迫ってきた。
 速い。ただの馬とは思えない。
「くそっ!」
 太一の行動は、考えてのものじゃなかった。
 
「うらあああああっ!!」
 
 横で硬直している奏に抱きつき、全ての力を足に込めて思いっきり跳んだ。
 奏の色々やわらかいところが太一に密着し、太一の左手は彼女のお尻を思いっきり掴んでいるのだが、この際それを痴漢と責めるのは筋違いだ。当の太一も、そんな感触を楽しむ気持ちは一切無い。
 間一髪で飛びのいた場所を馬が高速で駆け抜ける。その余波を受けて、太一と奏は三メートル程転がった。
 下が地面で助かった。これがアスファルトだったら……いや、考えるのは止めた。
 二〇メートル程走っていって止まった馬が、ゆっくりとこちらに向き直ったからだ。
 
「た……太一……」
 驚きに染まった顔で太一を見上げる奏。震えてはいないようだ。突然の出来事に驚いた、というのが正しいか。
 
「第一回は凌いだか……さぁて、次はどうするかなぁ?」
 余裕ぶってみたものの。
 打開策などあろうはずがない。ショットガンでもあれば少しは違ったかもしれないが、あんなもの触った事も無いし、ましてや射撃の知識も腕も無い。せいぜいエアーガンでサバイバルゴッコが関の山だ。例え都合よくショットガンを持っていたとして、銃火器の実射経験など持っていない太一に、まともに扱える自信は無い。
 馬がゆっくりと近付いて来る。
 あれだけ隙だらけな歩き方なのに、太一も奏も動く事が出来ない。
 あの馬がどれ程の速度で走れるかを、たった今身をもって知ったばかりなのだ。
 こちらが背を向けて走り出した瞬間に、あの馬も一気にスピードを上げるだろう。自殺行為に等しいとしか思えず、逃げたいのに逃げれない。
 もちろん、ここでただ馬と睨みあっていても事態の好転などありえない。
 ただ死の瞬間を先延ばしにしているだけだ。
 先ほどと同じ程度まで近づいてきた馬が、そこで歩みを止めた。じっと二人を見据える目は、先ほどのように殺気に染まっているばかりではない。
 太一と奏には想像もつかない事だが、馬が抱いているのは嗜虐心。弱いものを虐げて愉悦に浸る、あまり趣味の良いとはいえない感情だ。
 そんな事とは露ほども思い至らない太一たちにとっては、ただ恐怖を上塗りされる地獄の時間が続く。
 ややあって。
 太一は、己の考えを奏に伝えた。
 
「俺が囮になる。奏はその隙に逃げろ」
「え? ダメよ。何言ってんの、死んじゃうじゃない」
「分かってるんなことは。でもこのままじゃ二人とも死んじまうだろ」
「それは……でもダメよ。囮なら私がやる。太一が逃げて」
「それこそダメだっての。お前、ちょっとは男に華持たせろよ」
「嫌」
「いやって子供じゃねえんだから。じゃあどうすんだよ」
「嫌よ!」
 思いのほか強い否定の言葉に、太一は思わず目を見開いて、馬から視線を外した。
 奏が、顔を真っ赤にして怒りに顔を染めていた。
 怒りを視線と表情で訴えるものの……打開策を口に出来るわけでもない。
 ただ精一杯、自分の気持ちを太一に伝える。奏に出来るのはそれだけだ。
 
「……もう、それしかないんだよ」
 分かっている。そんな事は。
 どちらかが囮になることで、二人とも死ぬしかない状況から、どちらかは生き残る可能性が出てくるのだから。
 お互いに譲れない視線が交錯する中。
 ドン、と地面を強く叩く音が、二人の意識をかき乱した。
 思わぬ放置プレイを喰らっていた馬が、自分に意識を向けさせるため、大地を叩いたのだ。
 どうやらイライラしているらしく、鼻息が荒くなっている。
 決断するなら、ここしかない。
「じゃあな、奏」
「あっ」
 未だへたり込んでいる親友の頭をぽふぽふと撫でてから、太一は馬に向かって駆け出した。
 
「こらあ悪趣味な馬野郎! これでも……喰らえっ!!」
 走る途中で見つけた石を素早く拾い上げ、その助走でもって思い切り投げつけた。
 全力で放った石。元来の運動神経とそのセンスのよさで、野球未経験者にしては見事と言うしかない速度とコントロールで石が飛ぶ。
 ガツ、と鈍い音を立てて、石が馬の首元に当たった。
 ストライク。
 この状況で、我ながら見事だ、と褒めずにはいられない成果だ。
 しかし。当然というかなんというか、一切効いた様子は無い。
 ちょっとは効いてくれてもいいじゃないか、とごちる。それでも、馬の意識を太一一人に出来たのは狙う最低限の成果。それを達成できただけでもよしとするべきなのだろう。
 馬の鋭い目が一直線に太一を睨む。もう五メートルと離れていない。今更ながらに、凄まじいプレッシャーを感じる。
 この期に及んで膝が笑っている。
 何だかんだ怖いのは嫌だし、死ぬのはもっと嫌だ。
 それは偽りの無い本音である。
 しかし同時に後悔も無い。
 こうする事で、奏が助かるかもしれない。
 その可能性に至った瞬間、ずっと考えていたのだ。
 後はこいつが、太一をゆっくり味わえばいいだけの話。これ以上は太一の及ぶところでなく、運の要素もかかってくる。SUPER FAT BURNING
 もう犀は投げられた。
 後は野となれ山となれ、の心構えで、太一はやけっぱちになって叫ぶ。
 
「オラどうしたクソ馬! とっとと来いよ! その図体は飾りか!?」
 人間の言葉を理解するとは思わない。
 しかし、言葉のニュアンスからバカにされている事位は理解する知能を持っているのだろう。
 腹立たしげにいなないた馬の眼光が一際鋭くなった。
 命を賭けて挑んだ『生』への執着。
 それが自分のものではなく、大切な親友を想っての行動が幸いしたのか。
 天は、太一と奏を見捨てはしなかった。
 
 ゴバッ!!
 
 轟音と共に襲った強烈な突風に、馬がたたらを踏んだ。
 太一は抗う事すら出来ずに地面を転がる。
 勢力の強い台風の突風が、巨大なトラックを横倒しになぎ払う事故を引き起こすのを太一も知っている。今それに等しい風が馬を襲ったのだ。
 そんな強力な風にちっぽけな人間では抵抗など出来るはずも無く、ごろごろと数メートル転がって太一は止まった。
 
「え……?」
 その風が吹いてきたほうを見る。遥か数十メートル離れたところに、三人の人影。そして、そこから一人が猛烈な速さでこちらに迫ってきていた。
 
「ごらあ! 見つけたぞ馬野郎!!」
 腹の底に響く怒声と共に迫ってきたのは、身長二メートルはあるかという大柄な男。
 全身を覆う筋肉の鎧と、禿げ上がった頭がこれでもかという位の威圧感を放っている。
 一〇秒もかからずに馬の元に辿り着いた大男が、両手で上段に構える巨大な剣を一気に振り下ろす。馬が一歩飛びのくと同時、地面が土を巻き上げて吹き飛んだ。
 
「急に逃げ出したと思ったら、今度は旅人を襲ってるだあ!? どんだけ節操ねぇんだてめえは!!」
 その場に立ったまま、少し離れた場所に立つ馬に向けて剣を振り上げる。その距離では切っ先を精一杯伸ばしても三メートル程届かない。斬撃そのものは目で捉えるのも難しいほどに速く力強いが、無駄ではないか……。
 と思ったが、そうでも無かったらしい。剣閃をなぞるように放たれたのは、風圧。馬の右胴が切り裂かれ、血飛沫が舞う。
 太一の常識を遥かに超越した場所で行われるありえないやり取り。
 驚きすぎてマヌケ面になってしまっているが、本人は気付かない。
 大男が再び馬に飛び掛ったところで、ハッとする。大男が太一をちらりと見て、そして視線を更に右に向けた。その視線を追えば、同じく呆然とへたり込んでいる奏の姿。
 剣を振るだけでカマイタチのような現象を引き起こせる大男と、小型のバスのような巨大な馬の化け物。
 あんなのの闘いに巻き込まれたらひとたまりも無い。思いもよらぬ闖入者に命を救われた太一は、自分の命と引き換えに助けようとした奏の元に近寄る。
 
「奏っ!」
「太一!」
 素早く奏に駆け寄り、その手を引いて立ち上がらせる。そして、二人で大男と化け物馬を見た。
 人間離れしたパワーとスピードで、人外の戦いを繰り広げている。見る限り、大男が若干押しているようにも見える。パワーそのものは馬のほうが強いのだろうが、その巨大な身体が災いしている。大男からすれば、でたらめに剣を振っても射程圏内なら当たるような状況だ。事実、致命傷こそ無いものの、馬の身体あちこちから出血しているのが見て取れる。
 
「誰なの?」
「知らねえよ。でもラッキーだ。離れるぞ、巻き込まれたらヤバい」
 返事の代わりに頷いて、太一と奏は走り出す。
 その先にはいつの間にいたのか、弓に矢を携えた青年が立っていた。あの大男に比べればひょろい印象を受ける。しかしそれは柔和な顔立ちと温厚そうな表情がそうさせているのだろう。鍛えられた腕を見れば、彼がここに酔狂でいるのではないと教えている。
 
「良かった、間に合ったね。もう大丈夫だよ」
「あん……貴方は?」
 思わず警戒してぶしつけな言葉を使おうとしてしまったが、何とかギリギリで訂正する太一。それを見て、青年は気を悪くした様子も無く、むしろ安堵したように頬を緩めた。
 彼にこちらを害す気はなさそうだ。でなければ、矢の先は馬ではなく太一たちを狙っているはずだ。
 何より彼は、あの大男と共にいた三人組のうちの一人なのだから。
 そんな考えは蜂蜜にガムシロップをミックスして砂糖を振りかけるが如く甘いものだが、今の太一と奏にはそれを知る由は無い。
 
「僕はあそこの筋肉だるまの仲間さ。信じて、というのも酷だろうけど、君たちをどうにかするつもりはないよ」
「誰が筋肉だるまだこの優男! 聞こえてねぇとでも思ってんのか!?」
 青年の思いもよらぬ毒舌と、これだけ距離が開いていて、尚普通の会話を聞き止める大男の聴覚に、太一も奏も驚いた。
 愉快げに青年は笑って、弓を引き絞った。
 
「聞こえるように言ったんだよ。 右八!」
「後で覚えてろ! 任せた!」
 詰りながら会話とは器用だな、と思う太一たちの気持ちなど露知らず。青年は少しだけ狙いを定めなおし、矢を放った。
 ひう、と空気を裂く音と共に、鏃が銀糸となって空中に線を描く。
 矢が放たれてから数えて丁度八秒。矢が、馬の右後ろ足を貫いた。
 馬のいななきが、聞いた事も無い悲鳴となった。
 途端に遅くなる馬の動き。隙有りとばかりに大男が剣を何度もたたきつける。刃が何度も当たっているのだが、あの毛皮は思った以上に防御力が高いらしく、打撃攻撃になってしまっている。
 
「やっぱり堅いな黒曜馬は。ミスリルの矢を使って正解だったね」
「こくようば?」
 ああ、と青年が頷いた。
「あの化け馬の名前だよ。この近辺では最も凶暴な魔物なんだ。馬のクセに肉食だしね」
 あの矢高かったから後で回収しないと―――とごちる青年。どうやら彼にとって……いや、この世界の人々にとっては、それは常識らしい。
 しかし。
 太一と奏にとっては、聞き流してはならない単語が聞こえたのは気のせいではない。気のせいだと思いたいというのが本音ではあるのだが。
 彼は確かに「魔物」と言った。
 ゲームや漫画の世界でなら聞きなれた単語。空想の世界に存在する、主人公や物語の世界の人々を虐げる存在。そして時折、人と心を交わして仲良くもなったりする存在。
 総じて人間を遥かに上回る身体能力を持ち、高位になれば様々な術を駆使して主人公を苦しめる典型的な障害となる存在だ。
 
「でも、もう終わりだよ。ほら」
 
 青年の言葉で我に返る。彼の視線は、馬の化け物ではなく―――黒いローブをまとい、杖を掲げている少女へ向いていた。
 彼女はそこでなにやら口を小さく動かし続けている。超級脂肪燃焼弾
 そして、太一と奏は、自分たちがビックリ箱の中に放り込まれたのだと、今更ながらに思い知った。
 少女が杖を天に突き上げると、その先に生まれたのは火の玉。少女の身体ほどもある大きな火の玉はやがて五つに分裂し、そのオレンジ色の輝きを鮮やかに瞬かせている。
 
「何……あれ……」
 奏がやっとの思いで声を振り絞る。
 それに対し、青年が不思議そうな顔をした。
 
「え? 何って魔術だよ。……ああそうか。彼女ほどの魔術師には早々出会えるものでもないからね」
 
 いや、そういう事ではない。
 二の句が告げずに唖然とする。
 魔物に魔術。
 自分達が置かれている状況があまりといえばあまりな事に、もう言葉も無い。
 ファンタジーな世界にいるという事実を受け入れきれていない太一と奏のリアクションを、初めて見た強力な魔術に驚いているのだと勘違いした青年が、解説をしてくれた。
 
「彼女はこの地域では五本の指に入る実力派の魔術師だよ。あ、そうそう。彼女に向かって小さいとかそういう言葉は厳禁だよ。あれでも二五歳だからね」
 どうみても小学生にしか見えない。が、もう驚かない。
 これまでに突きつけられた事実が想定外過ぎて、見た目と年齢が合致しない、という程度は些細にしか思えなかったからだ。
 
「……聞こえてる」
「聞こえるように言ったからね」
 可憐な声と共にキッと少女……もとい女性が青年を睨むが、彼は肩を竦めてニコニコと受け流すばかりだ。
 
「黒曜馬の後は……貴方を焼く。こんがり」
「僕を焼いても美味しくないよ。それにホラ。彼らを巻き込んじゃうよ?」
「……ずるい」
「いいから仕事してね」
 もう一度青年を睨むと、少女は視線を黒曜馬に戻した。その視線は驚くほど冷徹で、太一と奏はごくりと唾を飲んだ。
 
『フレイムランス!!』
 反響する声と共に、五つの火の玉が槍へと姿を変えた。少女の声を聞いて、大男が思いっきり後ろに跳ぶ。
 炎の槍は先ほどの矢に近い速さで飛び……ミスリルの矢で機動力を大幅に削られ、大男の攻撃で体力も奪われていた黒曜馬には避ける術も無かった。
 炎の槍は五本とも見事に化け馬の胴に突き刺さり、そして轟音と共に爆発した。
 熱をともなった突風が、周囲の草を焼きながら太一と奏を襲った。あまりの威力に唖然とする二人。爆発の余波だけで並の人間なら火傷で死んでしまう。が、そうはならなかった。
 青年がどこからか取り出した布で彼らを素早く包むと、その中では驚くほどに熱を感じない。周囲の草を焼くほどの熱なのに、何故なのか。
 少し考えて、これは魔法の道具ではないかと思い至る。RPGゲームでも、炎のダメージ軽減や、最高級品では炎のダメージを吸収などの効果がある装備品があった。魔法や魔物がいるこの世界ならば、そんな道具があっても特に不思議ではない。
 布をはためかせていた風が収束し、青年が布を取り払った。そこには、消し炭となった化け馬の遺骸と、それを中心に焦げた大地。
 太一と奏、後ろの青年を中心にそこだけ残った草から、どれほどの威力だったのかは推して知るべしだ。
 炎を防ぐ布に包まれていたのは太一と奏の二人だけだったから、青年はあの熱風をまともに受けたはずだ。それなのに汗ひとつ掻かずに平然としている青年が、ニコニコと笑みを湛えているのが、とても印象的だった。

2012年9月7日星期五

チラリズム

ベルンハルト三世は書類の山に印を押し続けていた。
 さもなくば国家運営に支障をきたすものばかりだった。
 貴族同士の揉め事の調停、堤防作りの許可、関税をめぐってのホルディアとの交渉……国王の判断が必要な案件に小さいものなどないが、最近で一番大きいものは国賓魔術師マリウス=トゥーバンに関する事だった。
 文章では様々な表現を用いているが、早くお披露目をやれと強硬的な色が強い国が多かった。
(ワイバーンの群れを蹴散らしたなど、半信半疑なのであろうな)
 
  伝説の英雄と語り継がれている者達に匹敵する実力者。
 人間の歴史とは不思議なもので、数百年に一度くらいの割合でそういった者は登場している。
 その事を知らぬ者は各国の上層部にいるはずがないのに、いざ自分達の番となったら誰も簡単には信じようとしないのだ。Motivator
 そんな人のあり方に滑稽さを感じつつも、ベルンハルト三世は無理からぬ事だとも考えていた。
 彼自身、実際に目で見ていなければ信じていたとは思えない。
 他国の外交戦略ではないかと疑っていた可能性の方が遥かに高かった。
 規格外の存在は滅多に現れないから規格外なのだが、滅多に現れないからなかなか信じられないのだ。
 しかしマリウスというカードはフィラートにとって両刃の剣に等しい。
 諸外国への牽制になる反面、手を組む為の要因にもなり得る。
 気をつけねばマリウスだけ生き残ってフィラートは滅ぶ、という事にもなりかねない。
 ベルンハルト三世はその事を充分考慮した上でマリウスの取り込みを図ったのだ。
 マリウスを有効利用する為の一番は娘、ロヴィーサとの婚姻である。
 幸いにもマリウスは「ロヴィーサが気に入ったらしい」とエマから報告を受けているし、彼自身同意見だった。
 最悪の可能性はこの国を貪り尽くす寄生虫と変貌する事であったが、今のところそんな素振りは見られない。
 そしてロヴィーサへの態度を見れば一目瞭然と言えた。
 本人は隠せているつもりのようだし、今の段階だと大貴族がうるさいので迂闊に口に出来ないが。
 ベルンハルト三世は印を押し続けながらうるさい大貴族について考える。
 隣国のランレオと違い、立派な功績をあげれば誰でも貴族になれるのがこの国の習わしである。
 しかしクーパー公爵家のように伝統と歴史と血統を重んじる、と言うよりも固執する大貴族はいくつか存在する。
 この手の家に限って豊富な財力と人脈を持っているので厄介だった。
 だが一番面倒なのは、この連中の愛国心が本物だという事だ。
 何かにつけて伝統や血統について口にし、場合によっては王家にも異を唱える事は辞さない輩の集まりだが、フィラートという国への想いは誰にも負けていない。
 彼らは建国王初代ベルンハルトを心の底から敬慕しているし、自分達の祖先がその助けをした事を何より誇りに思っている。
 敵対国であるランレオはフィラートと違ってアドラー家当主以外は血統を重んじる国風だから、彼らのような人間は上手くやれただろうに。
 
(全く、世の中とはままならぬものだ)
 ため息をこぼしつつ印を押す。
 マリウスというカードを効果的に切る機会について考える。
 アイテム袋の再開発に挑戦したいと言ってると聞いたので許可を出しておいたが、そんな簡単に出来るものなのだろうか。
 一瞬浮かんだ考えをすぐに打ち消した。
 ワイバーンの群れとて簡単に倒せる存在ではないし、ルーカス、ニルソンだって人間ならば簡単に勝てる相手ではないはずだ。
(マリウスにはあらゆる常識は通じんと見ておいた方がいい……)
 そう思ってはいても何かにつけて常識的な考えが浮かんでしまうのが、人間という生き物の悲しさなのかもしれない。
 と考えていると扉を遠慮がちに叩く音が聞こえた。
「入れ」
 単調な作業の繰り返しにいささか飽きがきていたので、ベルンハルト三世は気分転換になる事を期待して即座に入室許可を出した。
 
「失礼いたします」
 一礼して入室してきたのは侍従の一人と、アイテム袋開発に取り組んでいるはずのマリウスだった。
(何事だ? まさかもう成功したのか?)
 ベルンハルト三世にとってはそれが一番非常識な事だった。
 一礼して去る侍従を尻目に早速問い質すと、何とヌンガロに魔法を込めたら破砕してしまうという。
 あまりにも信じがたい事だったが、目の前で実際に見せられると信じるしかなかった。
(あ、ありえんだろう……)
 ヌンガロを破壊するのは不可能でないと歴史が証明している。
 しかし、それはあくまでも破壊する為の攻撃魔法を浴びたらのはずだ。
 その前提条件を根本から覆す存在が目の前にいた。
「レイモンド殿からうかがったのですが、ヌーグというものの製造を国家事業で行っているとか」
 製造に携わりたいという申し出にベルンハルト三世は考え込んだが、それはほんの二秒程度の事だった。
 ヌーグ製造は国家事業の柱の一つであるが、だからこそマリウスの参加には意義が見い出せると判断したのだ。
「許可しよう。マリウス殿が作るなら一際丈夫なヌンガロが出来るかもしれぬ」
 ヌーグは約一か月をかけてじっくり魔法をしみこませ、ヌンガロへと仕上げていく。 
 この工程で生地の魔法抵抗力は落ちてしまうのだが、その分魔法を付加させやすくなるのだ。
 マリウスの超常的な魔法威力なら一日程度にまで短縮出来るかもしれないし、より丈夫なものが出来るかもしれない。蒼蝿水(FLY D5原液)
 そうなると利益も大きくなる。
 ヌーグすら破砕してしまうのであればお手上げなので、若干の不安は残るのだが。
「ありがとうございます」
「仮にしくじったところで問題はあるまい。ヌーグすら破砕してしまうのはさすがに困るがな」
 ヌーグはその性質故に対魔法防御素材として重宝され、フィラートの特産品の一つに数えられる。
 例えマリウスには効果がないにせよ。
「気をつけます」
 
 とマリウスは冗談と受け取れないような事を言ってから退出しようとした。
 ベルンハルト三世はそこを呼び止め、気になっていた点について尋ねた。 
「マリウス殿、婦人達からお誘いでもあったかな」
 マリウスの体からわずかではあるが、複数の香水の匂いが漂っている事をベルンハルト三世は気づいていたのだ。
 マリウスは頷くと簡単に事態の説明をした。
「なるほど、離間の計にしては稚拙すぎるが、それでもそんな狙いを持った者達がいるのは理解した」
 危うく引っかかるところでした、と苦笑するマリウスにベルンハルト三世は不安を覚えた。
 散々注意したはずなのに、という思いはぐっと堪えた。
「マリウス殿が知らぬのは無理ないが、一度に複数の女性に親愛表現を返すのは最悪の一手だぞ。貴族階級相手では特にな」
 予想外の言葉にマリウスは目を白黒させる。
 ボロを出さぬようにあまり人と接触してこなかったし、エマとロヴィーサはそういう事を教えるのは後回しにしてきたのだろう。
 それらが裏目に出た事にマリウスは気づいたのだ。
 そんな様子を見た国王は小さく唸った。
(マリウスがこの国の風習をまだ十全に理解してないと見ての手。となるとバーナードやアシュトンではあるまい。恐らくはウィルスンあたりか)
 貴族娘達は何も知らず、マリウスという男と親交を持てたら将来は明るいと吹き込まれただけだろう。
 何一つ嘘は言っていない。
 ベルンハルト三世が知っている限り、ウィルスンとはそういう男である。
「気をつけていても知識がなければ対処出来ない。そんな攻め方をしてくるとみるべきであろうな」
「とすると下手したら、先程のは私がどの程度風習を理解しているか、様子見にすぎないという可能性も?」
「その通りだ。むしろそちらの方が可能性が高いな」
 頭の回転は遅くないのだな、と思いながらベルンハルト三世は頷いた。
 沈黙が二人の間を訪れる。
 ターリアント語の習得が遅れていれば、それはそれでマリウスが侮られる事になっていたのは火を見るより明らかだ。
(どうするか……風習に関する説明を急がせるか?)
 急いで詰め込んだところでどの程度覚えられるか不明だが、そこは二週間前後でターリアント語を習得したマリウスの能力にかけるしかないか。
 そう結論を出す直前、マリウスがふと提案してきた。
「あの、遠慮しなくていいのならば、何とかなるかもしれませんが」
「遠慮……? どういう意味かな?」
 マリウスが周囲に遠慮した生活をしているのは百も承知だが、どういう意図で言い出したのかとっさに把握出来なかった。
「魔法を使えば相手の狙いなどを読めるのですよ。ご婦人方などでしたら、こっそりと発動させれば」
「ま、まさか……」
 ベルンハルト三世は自身の声が震えるのを自覚した。
 心臓の鼓動が大きくなり、悪寒が走る。
 それなのに汗は止まらない。
 マリウスが言いたい事を理解したが為に。
「まさか……まさか、使えるのか? サイコメトリーを……」
 最早伝説の彼方に消えたとされる精神系魔法「サイコメトリー」。
 かのクラウス=アドラーさえ使えなかったという、ある意味で禁断の魔法。
 ベルンハルト三世は何度も生唾を飲み込みながら、恐る恐ると切り出した。
 
「ええ。後、リードシンクもです。言う機会がなかったので黙っていたのですが」
 サイコメトリーは物体はもちろん、人の過去さえ探れる恐るべきの魔法だ。levitra
 同等の効果を持つ「月女神の涙」を所有しているからこそ、ベルンハルト三世はその凶悪な威力を知悉している。
 そして特級魔法「リードシンク」は人間ではかの「賢者」メリンダ=ギルフォードしか使えなかったという、伝説を超えた神話クラスの魔法。
 相手の思考を読み取れるという、まさに神の力のような魔法だった。
 魔法は術者の力量で効力は変わる。
 すなわち、マリウスがその気になれば誰も隠し事は出来ないという事だ。
 マリウスが嘘をついているという風にはとても見えない。
 何をそんなに驚いているのか、という顔をしているからだ。
 だが、一国の王の矜持として他人の言葉を丸呑みにする訳にもいかない。
「マリウス殿、もしよければ余が何を考えているのか試しに読んではくれぬか」
 出来ればあまり強力な効果がなければいいという、ベルンハルト三世のささやかな願いは一瞬で潰えた。
「えと。私を上手い具合に利用して、大貴族の力を削ぐ。出来ればロヴィーサ様と結婚して欲しい。強硬姿勢を取ってきている諸外国への対抗にもなってもらえればありがたい。それから……」
「もういい!」
 ほとんど悲鳴に近い絶叫で、続きを制止する。
 ベルンハルト三世はマリウスがいかにこちらに気を遣っていて、仲よくしようとする意志を持っていたのかを思い知った。
 上手い具合に利用していこうという野心は木端微塵に砕け散り、是が非でも仲よくしてもらわねば、と哀願する気持ちでいっぱいになっていた。
 「リードシンク」ならば別にマリウスに悪意も敵意も持っていない事も分かったはずだ、というのがベルンハルト三世にとっての救いだった。
 マリウスの態度が魔法を使う前と少しも変わっていないのを見てとり、自分の考えが間違えてはいないと確信した。
 荒くなった息を必死で整えようとする。
 そしてそんな一国の王をマリウスは半ば同情を込めて見ていた。
(やっぱり精神系魔法を使えるって言ったのは失敗だったかな。でも他に対策なんて思いつかんし、いつかはバレていただろうし……)
 精神魔法はどちらかと言えばおまけ扱いに近くて、ゲームでもあまり人気はなかった。
 そうでなくても自分の過去を見通せる魔法など、薄気味悪いという認識でもおかしくない。
 
(洗脳魔法も使えるって言ったら心臓麻痺起こしそうだな)
 マリウスは冗談抜きにして思った。
「マリウス殿。出来れば自衛行為以外で使用するのは慎んでいただきたいのだが……」
 恐る恐る、懇願するような目で見てきた王を安心させようと大きく頷いた。
「元よりそのつもりです。仲よく出来そうな方には使う必要を感じません」
 露骨に胸をなでおろした王に一礼し、マリウスは退出した。
 ある程度の信頼関係は築けているのだった。福源春

2012年9月5日星期三

ステラ、決する

「なん、だと!?」
一度下がった剣士が輝きを纏って戻ってきた。
牽制でイオが放った一撃を明らかに先程までとは違う速度を持ってかわし、そのまま走りがけに脇腹にその剣が走る。SPANISCHE FLIEGE D6
腹筋を締め、何度も弾いたようにやり過ごす筈の一撃は、しかし鮮やかに巨人の身を斬り裂き、血を流させた。
「斬れる!」
「ナバール、どんな魔法よそれ!私も後ろ行ってもらってくる!」
「ははは、響それは無理だ。これには特殊な触媒がいるからな!ここは大人しく私の援護をしておけ!」
響が後ろに行こうとするのをナバールは止める。
「うううう、そんな奥の手があるなら早く使いなさいよ!!キラキラしてて何か綺麗だし~」
「どんどん行くぞイオ!」
元々、速さではナバールが圧倒している。流麗な体術で硬質化された身を自在に使うのがイオの戦法とは言え、サイズの違うヒューマンで速さも優れる彼女が相手では完全な回避など出来ない。攻撃が確実にダメージに繋がるならこれまでの図式は反転する。
付かず離れずの距離を保って徹底的に魔将イオにまとわりつきながら次々に斬りつける一方的な展開だった。
響にまで手が回らず彼女は攻撃し放題、ナバールを追うもそのスピードに翻弄されて何度となく斬りつけられていた。
治っていくよりも、傷が深く残っていく。但しこのままでは致命傷には至らない。最初につけた脇腹はもう癒えてしまっているし、狙うとしたら失血による戦闘力低下までになる。流石に首や胸、腹などは中々狙わせてもらえない。
響の攻撃も両手持ちで浅く引き斬る、筋肉で止められない攻撃に切り替えている。裂くことを目的にして先の二の舞にならないよう留意している。
だがその展開の中、攻撃をパリィすることも受け止めることもほぼ無くなった騎士が一人、呆然とした顔で戦況を見ていた。
「……あれは、ローズサイン?嘘だろう?どうして、彼女にあんな……」
何かに気付いたのかベルダは後方のウーディを振り返る。
彼の王子たる地位を知るウーディは問い詰めるようなベルダの行動に目を逸らすことしか出来なかった。
ウーディ以外の仲間は知らない、ベルダの王子たる地位。それ故に彼は普通の人の知らない特殊な情報に触れる機会も多い。その中に今、有利を作り出しているナバールの変化の原因があった。
薔薇の欠片(ローズサイン)。
見た目はコイン程度の大きさの土くれ。実際には凄まじい効力を持つマジックアイテムの一つ。
使い捨てで、使用すると首筋に真紅の薔薇を模した紋様が浮かぶ。名前の由来でもある。
効果は単純。生命の根源を糧にして力を無理矢理に引き出す。生まれてから死ぬまでにゆっくりと消耗していく、決して回復しない力を貪るように食い散らかし、使用者に限界を超えた力を与える。
効果時間はその者が死ぬまで。決して長い時間ではない。つまり、使用者は決して現状で得られない力を得る代わりに死を決定付けられる。
「あんなもの、策だって?ナバール、貴女は……」
純粋な剣士である彼女に発動させることは出来ない。ベルダにはそこまでわかっている。ウーディかチヤが協力したのだということにも考えが至る。
(恐らくはウーディ。チヤだったらあんなにはしゃいで応援はしないだろう。あいつ、響殿と俺を守る為とでも言う心算か!?)
確かに状況は誰の犠牲も無く乗り切れる局面では無かった。
だが責任全てを一人に背負わせて死を強制するなどベルダには到底容認できない。地位を偽り騎士として一行に加わる彼は、王族として持つべき考え方をまだ完全に身につけてはいない。犠牲は時に必要になるという事実は政治において避けては通れないもの。
実際、ローズサインの効果は絶大だ。現状においてもあれだけ苦戦していたイオも防戦一方になったし、かつては四倍の祝福をハンデにして一騎打ちに勝った逸話まである。
「あ、ナバール!駄目、その攻撃はっ」
響の注意が彼女に届いたかどうか。空中に跳ね上がったナバールが剣を真っ直ぐ振り下ろし魔将の腕を捕らえ、そして剣は腕の半ばまで進んで、止まる。
「もらったぞ!」
イオが剣を食い込ませた腕を締め、反対の腕で強烈なアッパーをナバールに放つ。
「まだだ!!」
空中で右手で振った剣の背に左腕を置き身を預けるように力を加える。一度は半ばで止まった剣がイオの体を蹴って加速した彼女の勢いを加えられ骨を、残りの肉を断ち切った。
迫る下からのアッパーに、何と拳に足をかけて加えられた力の方向に自ら飛んで威力を殺すナバール。
腕を飛ばされて悲鳴一つあげず、拳も止めなかったイオ。しかしながら見てわかる程に汗を流していて、地に落ちた己が腕を見てようやく表情を歪ませる。
これまでで一番の血飛沫が起きる。
「恐ろしいな、白い女。ナバールと言ったか。攻撃が来るとわかって、それでも貪欲に腕を取りにくるとは。しかも私の拳を蹴って威力を殺す。剣の鬼か、お前は」
「魔将に鬼と呼ばれるか。悪くないな。腕の斬り方はわかった。防ぐ腕が無くなれば首も撥ね易い」
不敵に笑い、血の付いた剣を払う。最早剣まで淡い輝きが包み、彼女が内から放つ白いオーラはどんどん強くなっていく。輝くオーラは端々で鱗粉が舞い散るように消えていく。
「人の世にも私の知らぬ魔法があるのだな。正直、心底驚いている」
「何、私も驚いているよ。こうまでしても圧倒は出来ない貴様の力にな。流石は四つの腕の巨人族。私達でいう天才か」
「……私は元々二つの腕しかない普通のギガントだよ。お前が今落としたのは本来の私の腕ではないのさ」
イオはナバールからの賞賛に語って返す。
「蜘蛛に襲われた時、私は親友を救えなかった。満身創痍で撃退した後、残った奴の腕を持ち帰り、私は自分に移植した。上手く動くようになるまでも相当な時間を要したがな」
「それは、失礼。済まないが終わりにさせてもらうぞ、お前の他に女狐とかもいるんだろう?四人の魔将最弱で貴様なんだ。手間取っていられん」
ナバールの体から出る光がピークを超えて少しずつ弱まっている。
自覚があるのか無いのか、彼女は再び攻撃を始める。
「私が最弱?ふむ、君達はどうも妙な固定観念でもあるようだな。どうして弱い将軍から戦線に出るのだ。私は戦闘であれば魔将で最強だ。一対一で私に勝てる魔将などいない」
ナバールの猛攻に、イオは防御する場所を限定して硬質化を高めたのか傷を少しずつ浅く済ませている。そこら中から血が吹き出る光景は、イオの劣勢が続くかに見えるが現状は少し彼が立て直しつつある。SPANISCHE FLIEGE D5
「それは、朗報だな!貴様を討てば我らは大きく前進できる!!」
最強の言葉に怯むことも無い。ナバールは全力で魔将イオを討ちにかかる。
拳の連撃を捌きながら、剣を手にした腕に力を込めて少しずつ全力の一撃に適した間合いに体を移動させていく。
その作業の最中、ナバールは一度ステップで身を翻す。約束組手の如く、イオの目論見通りに動かされている感覚を覚え、嫌ったからだった。
(いけない!ナバールは、気づいていない!?)
その一連の攻防を複雑な気持ちで見ていたベルダはナバールの様子から次の魔将の攻撃に彼女が対応できないかもしれないと危惧する。
ベルダは攻撃を受ける機会が多いからか、相手の呼吸を読む事に優れていた。
今回はナバールが流れを嫌って下がることまでイオが含んで動いていた。
「っ、蹴り!?」
そう。イオはこれまでで一度も使ってこなかった蹴りを攻撃に入れてきた。
拳よりも間合いは広く、ナバールがいる場所は安全圏ではない。射程圏内である。
間合いの外に逃れたという意識の空白に巨体に似合わない十分に速度の乗った蹴り。回避は無理だ。
「油断はいかんな!」
「まったくだ!」
放たれた蹴りに横から突っ込む影が一つ。
イオの思惑に気付いたベルダがフォローに動いた。真正面からでは防御は危険な一撃だが、蹴り足を横から攻撃してずらす位なら何とか叶う。ベルダの判断は正しかった。
思わぬ障害に蹴りの方向がずれ、当然体全体もバランスを崩してしまう。ナバールの目が攻め時に輝く。
「殺った!!」
イオの足と入れ替わりに彼に迫るナバール。光の粉を散らしながらの所作は全てが舞いの如く美しい。
彼女の狙いを正確に読み取ったイオは体を支える手を残したまま二つの腕で首を守る。
「邪魔はさせない!今なら反撃も出来ないでしょう!?」
響がその腕の一つに強引に切りつけて体ごと叩きつけて動かす。切り落とすまで至らなくとも首を守る腕を一つ減らす事は可能だった。
「響、ありがとう!!」
残る一つの腕を掻い潜って、ナバールの剣がイオの首を突く。
「ぬううう!ぐっ!!」
撥ねることは出来なかった。腕を掻い潜って突きを放つのが精一杯だった。
だが彼女の剣は首を確かに貫いた。剣までも包んでいた白い輝きは既にナバールの身を薄く守るのみ。
残る力で首を裂こうと横方向に力を入れる白い女剣士。
動かない。
首を貫いた剣が微塵も動かなかった。
「見事。まさかこれほどまでにやるとは。つくづく君たちを侮った非礼を詫びよう」
「……貴様、その身体は」
イオの薄紫の皮膚が、真っ黒に染まっていた。
「この戦いで、まさか私の全力を見せる相手に会えるなど思いもしなかった」
黒の巨人の言葉にナバールは背筋を走る悪寒を感じる。両手で無理に力を加えて確かに喉元を貫いた剣を横に払う。剣が、折れた。
構わずに響とベルダに目配せしてイオから距離を取る。追撃は無い。
首に刃を残したまま、巨人は立ち上がる。
「……冗談でしょう?ここから第二段階だ、なんて言う?」
響の言葉が掠れている。今までで十分実力の及ばない相手が、更に強力になる。これだけ絶望を誘う状況も無い。
「馬鹿な、あの状態のナバールを全力を出さずに相手にするなんて」
ベルダの言葉も悔しげで、絶望を孕んだものだった。
「すまぬな」
静かに構えるイオ。
「ウーディ!!!!!!!」
イオの言葉をナバールの絶叫が打ち消して一帯に響き渡る。
はっと我に返ったウーディが用意していた術を素早く展開する。
「チヤ、高速移動します。フォローを!」
「は、はい!」
前に突き出して開いた手を手前に戻すと同時にぐっと握り込む。その目は響とベルダを捉えていた。ナバールの姿は見ていない。
「えっ」
「うあっ」
響、ベルダ両名が何かに引っ張られるようにウーディの元へ引き寄せられる。
彼は目を閉じる。決意の為に。
敵に予想外の事態は起きたが、彼女との念話で既に予測していた未来を受け入れる。
見開かれたウーディの瞳はただグリトニアの英雄が通った道を見据えていた。多少は兵が戻り塞いでいるとはいえ、一番防御の薄い場所に違いない。
杖を掲げる。
「ちょ、ウーディ?」
響の言葉を無視する。
それどころか術を発動させてチヤの支援をも加え、かつてないレベルの高速で戦場を突き進み離脱していく。
「え、ウ、ウーディさん!ナバールさんがまだ!」
「チヤ、絶対に支援を切らせてはいけませんよ」
「ウーディ!何をしてるの!」
「ベルダ様、勇者殿を押えていて下さい。少しの間で構いません」
誰の意見も聞かず。
ウーディはナバールとの約束を守ってパーティを戦闘区域から離脱させるべく全力で魔法を行使した。パーティを包む優しい緑色のエリアに触れた魔族の兵たちは切り刻まれ、悲鳴と一緒に倒れ行くそれは本当に全力で。響を迎えようと前線に出てきつつあった王国の残軍と合流して尚、半ばまでその勢いを衰えさせることは無く。
術が解けた瞬間に彼は言葉も発する事無く無言で気絶してしまった。
一方。
ナバールの絶叫の意味を悟ったイオは追撃を命じた。だが相当なスピードで戦線を越えていくパーティに対してはきわめて難しい命令で、忠実に命令に従った者は無惨に膾(なます)にされ、放たれた弓は折られ、魔法は避けられたり防がれた。
「ウーディ殿、本当に感謝する」
「これはお前の作戦か」Motivator
苦渋に満ちた顔でイオは目の前に残ったヒューマンの女に問いかけた。
「ああ、そうだ。私の切り札は少し物騒なのでな」
言うと同じくしてナバールは折れた剣を構える。身体から満ちていた輝きはもう虚ろにその残りカスを散らすだけになっていた。
「最早戦えるようには見えないが、それでも続けるのか」
巨人の言葉は嘆息として場に響く。
「当然だ。まだ全てを出し切っていないのだからな!」
ナバールの目はむしろこの状況でも輝きを強めている。折れた剣を握り締めてイオまでの距離を駆け進む。
「玉砕を願うか!」
「私の命など、どの道戦場で無慈悲に無価値に散るだけしかなかったのだ!!その私が死ぬ場所を決め、死ぬ意味を得て、何より気の置けない友の記憶に残って逝ける!剣の鬼が死ぬには勿体無い程の晴れ舞台だよ!!」
「なっ」
イオは、真っ直ぐ放った拳をナバールが回避して懐に入り込んでくると考えていた。その予測が完全に裏切られた事に思わず声を出す。
彼女は、魔将の拳に身を貫かれた。誰の目にも致命傷とわかる勝負を決める一撃。背から拳を生やしたナバールにこれ以上何が出来るのか。
血を吐いた女の口が口角を上げる。
「来たれ死炎」
「っ!?」
絶命の直前、ナバールの呟きはイオの耳に届かなかったが。
一瞬で周囲に広がった青い炎が彼の視界を覆う。徐々にナバールと彼を囲むように収束していく炎は全てを塵に変えていった。
目が覚める鮮やかな空の青、では無い。
黄昏の後に見る、暗く淀んだ蒼色だ。
「これは、これはっ!?」
命を犠牲にする系統の魔法だと、イオは思い至る。彼女が剣士であったから意識から抜けていた可能性だった。魔法を扱う二人がいなくなった以上、ナバールの選択肢に魔法は無いとどこかで決め付けていた。
極めて密度の高い蒼色の炎球がナバールの骸と、黒の巨人を包み込む。
今にも弾けそうに表面を張りつめさせながら大きさを縮め、場にはイオの絶叫だけが響く。ひときわ大きくなった彼の叫びに呼応したのか、蒼炎は変化した。
大きく輝いたかと思うと、次の瞬間一気に大爆発を引き起こしたのだ。
爆発は広範囲に及び、周囲の魔族や撤退を目指すヒューマンをも巻き込んでいく。
一帯を支配する轟音と戦場を焼く炎。
二つが消えた時、焦げた大地には一つの黒い塊が残っていた。
イオ、であった物。
蹲るような形で溶けた肉体は大きな石のようにも見える。
その石にどこからか現れた青い肌の女性が手を触れた。
魔族、であろうがその顔には特徴的であるはずの角が無い。ほっそりとした外見に最低限の部位を隠す過激な衣装。
つまらなそうな目で黒い塊を見ている。
「イオ、起きなさいよ。死んでないんでしょ?」
「……」
「こっちは”奈落”の補修もあるんだからさっさとしてよ。あまりにもキレイに決まったとは言え、手入れはしっかりしないと。ほら、起きろ!」
彼の生存を微塵も疑わない様子で黒い石を蹴り飛ばす魔族の女性。機嫌が悪いようだ。
智樹に焼かれた腕が響の目の前で再生したあの光景が、全身で再現された。
「やってくれおったわ、あの女」
「……やっぱり生きてた。貴方を殺すのも相当の手間ね。……帰りましょう、色々と報告もあるし」
「ああ、先に行っていてくれ」
「あ、そう。じゃ歩いてきなさい。せっかく迎えに来てあげたのにつれないこと」
「……ナバール、か。その名、覚えておこう」
一人のヒューマンを貫いた腕を感慨深く見つめるイオ。彼女の姿は何処にも無い。肉体は愚か剣も防具も、全て塵になった。
「あ、そうそう。リミア王国への電撃作戦は失敗よ」
「何!?」
予想外の言葉にイオが言葉を荒げる。ナバールという女の行動には予想外もあったが、全体の作戦としてはほぼ上手く進行していた筈だった。
一番確実だと思っていた部分の失敗に声を出してしまうのは無理からぬことだ。
「貴方が不細工な石になってる間に予想外の事が幾つかあったのよ。で、向こうは失敗。後で把握出来ている範囲で教えてあげる」
「あの化け物どもが失敗か?」
「そう、今なら私と貴方で殺せるレベルに弱ってるわ。一体何があったのか、私もあっちに同行してたら見れたのに」
「信じられん」
「世の中何が起こるかなんてわからないってことじゃない? 私だって最後の最後でこれじゃあ、面白くないわよ。こんな事になるならグリトニアの勇者、殺しておけば良かった。あっちは指輪の効果が覿面。一気に雑魚になっていたのよね」
既に空を飛んでいた彼女も不機嫌を隠さず顔に出して、やや投げやりにイオの独白のような言葉に答えた。その後は先の言葉どおり、一人でステラ砦に戻っていく。
まだ完全ではないのか身体を引き摺りながら、兵に連絡を出してヒューマンの残党始末を命じイオは女性の後を追って砦に戻る。K-Y
こうして、今回のステラ砦の攻略戦は終わった。
ヒューマンに大きな傷跡を残して。
世界が少しずつ、動き出していく。

2012年8月30日星期四

勇者の末路

自分たちで何とかしようというのではなく、他力本願に女神様に縋るとは。それだけ魔王の力が強大だと解釈するべきか、当時の人達が面倒くさがりだったと取るべきか。
 何となく後者と思えてしまうのは、魔王の話を聞いたからだと思います。当時の人達も、まさか後世にこんな風に思われるとは予想しなかったでしょうね。WENICKMANペニス増大
「女神様に縋り、彼らは勇者を召喚したのです。これは残っていた禁術の一つでもありました」
 どくん、と心臓が大きく跳ね上がった気がしました。勇者……召喚……? 選出でなく?
「召喚? ど、どういうことですの? 勇者様は選出されるものなのでしょう?」
「召喚という事は……」
「それは……どこかから勇者殿を連れてきた……と?」
 巨乳ちゃんもちびっ子も、ゴードンさんでさえ、困惑を隠しきれません。それもそうでしょう。今まで教えられて来たのとは、まったく違う事を聞いてるのですから。
 勇者は選出されるもの。召喚されるものではありません。少なくとも、私達の常識では……。
「そうです。詳しい事は女神様しか知りませんが、召喚された勇者は、こことはまったく違う世界にいた人物なのだとか」
 異世界……召喚……勇者……。何でしょう……頭の奥がしびれるように感じます。頭痛? ううん、それとも違う……。
「異世界? それは、こことはまったく違う場所という事ですか?」
 ゴードンさんの声にも、力がありません。私もそうですが、彼にとっても許容量以上の話なんでしょう。
 誰だっていきなり『この世界の他に別の世界がある。初代の勇者はそこから来たのだ』なんて言われて、はいそうですかとは信じられませんよ。
 大抵の場合は言った相手の神経を疑います。話しているのが大祭司長だから疑いもせず信じるんです。これがそこらの人が言ったら、間違いなく信用なんかしませんよ。
「そうです。我々の世界は女神様がお造りになった世界ですが、その外側には無数の違う世界があるという事です」
 無数の違う世界。平行世界ってやつですね。……? 私、どこでそんな事聞いたの? ああ、何だかむかむかする。
「ちょっと、大丈夫? 顔色真っ青よ?」
 ちびっ子が心配そうに覗き込んできます。そんなに顔色悪いんでしょうか。自覚ないんですけど。
 隣に座るグレアムは、テーブルに置いた私の手をぎゅっと握ってきました。まるで励まされているようなその様子に、少しだけ心が軽くなる気がします。先程までのむかむかがましになった感じです。
「大丈夫ですか? 続けても?」
 対面に座る大祭司長から確認されました。ちびっ子のみならず大祭司長にまで言われるなんて。体調でも崩したかしら。この所あれこれあったから。
「大丈夫です」
 私は何度か深呼吸をして気分を落ち着け、再び大祭司長の声に耳を傾けました。
「では続けましょう。その勇者は国、そしてこの世界に多くの技術をもたらしたとも言われています。鉄馬車の基本を考えたのも、勇者だそうです。他にも上下水道の事や乗り合い鉄馬車、職人や商人が作る組合やそこが運営する配送代行業、銀行組織も勇者の考えだったとか。他にも実に多くの技術や習慣をもたらしました。今日の生活の利便性が上がったのは、ひとえにこの勇者のおかげと言えるかも知れませんね」
「随分と頭のいい方でしたのね」
 感嘆したような巨乳ちゃんの言葉に、大祭司長は首を横に振って否定しました。
「それらは勇者の住んでいた世界では普通にあったものなのだと、そう言っていたそうです」
 普通にあったもの。今私達が初代勇者のもたらした技術などを、普通に感じるように、その勇者の世界でもそうだった、と。
 大祭司長の話が少し止まったのを見て、ゴードンさんが疑問を投げかけました。
「その、初代勇者殿は魔王を倒したのですよね? では何故今に繋がる魔王と勇者の連鎖が生まれたのですか? 古代王国の時には城を壊し国王一族を殺した事で引き下がった魔王が、憎い血筋が生きているというだけで襲ってきたという事でしたが。なら我々が倒した大魔王は、一体何の為に人を攻撃してきたのですか? しかも攻撃対象は特定の国だけではない。その理由が知りたい」
 ゴードンさんの問いに、大祭司長は少しうつむき加減になりました。何かを言いよどんでいるようです。その表情には苦渋が浮かんでいます。話すのが辛い内容なんでしょうか。
「全て話すと決めたのだろう? 遠慮せずに話した方がいい」
 声のした方に、全員の視線が集まりました。グレアムです。今まで沈黙していた彼が、ようやく口を開いた途端、まるで大祭司長を責めるような事を言いました。言ってる内容が、ではなく、その口調が、です。
 どこか冷たい響きを持った声。抑えた怒りを感じるのは、私だけかも知れません。でも、大祭司長の何に怒っているの?
 さすがの巨乳ちゃんも、これには納得がいかないようです。
「勇者様、大祭司長猊下にそのような」
 ですが、その巨乳ちゃんを止めたのは、当の大祭司長でした。ちびっ子の時もそうでしたが、やはりこういう立場にある人は、懐も広いんでしょうか。
「いえ、いいのです……彼は間違った事は言っていません」
 そう言うと、大祭司長はすっと顔を上げました。決意のまなざし、というのは、こういうのを言うのか思う程、意志のはっきりした視線でした。先程までの様子はみじんも感じられません。
「これから話す事は、おそらくどの歴史書にも記されていないでしょう。消された歴史……この聖地にだけ伝わる、本当の物語です」
 大祭司長のその言葉に、私は身構えてしまいました。何か、聞いてはいけないものを聞くような気がしたんです。
 神殿だけに伝わる話なんて、私が聞いてもいいんでしょうか。他言はしないとは誓いましたし、それを違えるつもりはありませんけど。
 でも、確か私の洗礼名に関わる事だ、って事ですよね? どうしてこんな大きな話になってるんだろう。
「そもそも召喚された勇者は、初代勇者とは違います。召喚されたのは、十六歳の少女だったのです。そして、今現在初代勇者と呼ばれる者は、彼女から勇者の力だけを引き受けた、王国の騎士でした」
 勇者が少女だった事。その少女から勇者の力のみを取り出し、他の人間に移した事。あまりにもな内容に、室内はしんと静まりかえりました。
 誰も身じろぎもしません。呼吸すら忘れそうな沈黙の中、ようやく動いた人がいました。ゴードンさんです。
「何故そんな……いえ、そんな事が可能なんですか?」
 ゴードンさんの疑問は、誰しもが思ったものでしょう。一人の人から力だけを他の人に移すなんて、聞いた事がありません。
「女神様の力を借り、当時まだ残っていた禁術の一つを使ったと伝えられています。理由は召喚された勇者が戦闘を恐れたからです。彼女は平和な場所からいきなりここへと連れてこられた、普通の少女でした。そして彼女の側にいるうちに、彼女を想うようになった一人の騎士が、彼女を苦しませたくない一心で勇者の力を引き受け、代わりに魔王討伐へと向かいます」
 それは……そうでしょう。普通に育った十六かそこらの娘さんなら、戦う事を怖がったところで不思議はありません。私だって怖いですよ、そんな事になったら。
 それにしても、あんまりな話の内容だからか先程から動悸がすごくて落ち着かない感じです。
 当然ですね。これまでの、神殿から教えられていた常識に嘘があったなんて。確かにこれは外で話した所で信じてはもらえないでしょう。せいぜい頭のおかしい人と思われるのがおちですよ。
「そして、魔王は討ち取られた」
 ゴードンさんの間の手も、物語の一部のように感じられました。
「そうです。ですが、女神様のお言葉により、魔王の魂だけは持ち帰ったのです。その魂を人に還せるのは勇者として召喚された少女だけだったから」
「何故、その少女だけが魔王の魂を人に還せると?」
 勇者の力を失ったはずの、ただの少女が。いえ、違う。魔王に対抗する最後の力はなくしてはいなかった。
「彼女はこの世界の人間ではありません。その為女神様の力を正しくこの世界に発現する事が出来る存在でもあったのです。彼女の身体を通して顕現する女神様の御力で魔王の魂を人へと還そうとなさったのです。この世界の人間では女神様の力を受けられるだけの器がないそうです」
「だから魂を……それで、人には還せたんですか? ……いえ、失敗したからこそ、今も魔王が復活し続ける」
 魂を人へと還す。そしてそれに失敗した。違う、出来なかった。そう、だって……。
「そう。人には還せなかった……。何故なら、国王が女神の言葉を無視したのです。魔王討伐の成功を聞いた国王は、勇者として召喚された少女を用無しとみなし、勇者のすり替えを行おうとしたのです。所詮恥知らずな血筋は恥知らずしか生み出さないという事ですね」
 まるで吐き捨てるような大祭司長の声です。込められた感情は、憤り。怒りを超えた、怒り。
 何故、大祭司長がそんなにも憤っているのか……。この地位にある人にあるまじき暴言ともとれる発言です。
 でも、それを心のどこかで肯定している自分がいます。とうとう指先が震えてきました。冷や汗まで出てきています。本当に、一体どうしたの? 私。
 先程から自分とは違う意識が入ってくるような。いえ違う。違うんじゃなくて。
「すり替え? 何の為に?」
 ゴードンさんがそう聞いた途端、キーンと耳鳴りが起こり、頭の中で誰かの声が響きました。
 コレハ王国ノ為ダ、オ前ハソノ贄(ニエ)トナルノダ。力ヲ無クシタノナラ、最後ニコレデ王国ノ役ニ立テ。
 聞き覚えのない声……いえ、違う。聞いた覚えがあります。でも誰? っていうか何これ!? どうして頭の中で聞こえるの!
 立ち上がって逃げ出したいのを、グレアムに握られた手を渾身の力で握り替えし、何とかそのぬくもりでぎりぎり耐えています。
 その私の耳には、大祭司長の怒りを抑えた声だけが響きます。
「国を、世界を救ったのが異界の少女ではなく、自国の騎士ならば、英雄に祭り上げ、自分の御代の誉れともなる。ですがそれが実は女神に縋り、呼び寄せた異界の少女だったと知れたら? そのためには召喚した少女が邪魔になったのです」
「まさか……」
 混乱を起こしている私の耳に、みんなの息をのむような声が聞こえました。そこに沈痛な大祭司長の声が重なります。俯いてぎゅっと目を閉じました。それでも脳裏に浮かぶ、見覚えのない情景。恐ろしい、その様子。
「……しかもただ殺したのではありません。戻って来た騎士が、自分達を責めないよう、そして秘密が漏れてもそれを打ち消せるよう、民衆を利用したのです」
「利用?」
 誰かのかすれるような声が聞こえました。聞きたくない。やめて。これ以上、もう、嫌だ。
「城で保護していた少女をいきなり放り出し、魔王が討ち取られた事にわき上がる民衆に対し、少女は魔王の手先だ、勇者をたぶらかそうとした、と嘘を吐いたのです。広場に集まっていた民衆は、まさか自分たちの国王が嘘を吐くなどとは思わず、少女を魔王の手先と信じ込み、殺してしまいました」Xing霸 性霸2000
 大祭司長のその言葉と共に、細切れに脳裏に浮かんだのは、世にもおぞましい光景でした。
 こちらに向かって伸ばされる手、衣服をはぎ取られ、押さえつけられる恐怖。痛みと苦しみ。周囲の醜悪に歪んだ笑み。何これ……どうしてこんな光景が思い浮かぶの!?
 がたん! と音を立てて立ち上がりました。自分でも震えているのがわかります。ダメだ、もう耐えられない!
「ど、どうしたんですか? ルイザさん」
「ぐう!」
 こみ上げる衝動のまま、私はグレアムの手を振り払って部屋の隅に走りました。苦いものが喉の奥にせり上がってきます。そのまま、私は胃の中のものを戻していました。
「げほっ! げほっ!」
「ルイザ! 大丈夫か?」
「しっかりして! 誰か! 水、冷たい水を!」
 グレアムとゴードンさんの声が遠くに聞こえます。どうして、なんで私がこんな思いをしなくちゃいけないの!? あの時だって!
 アノ時?
 どくん、と心臓の音が聞こえた気がします。一体、いつの事? 混乱と恐怖から、私の中はぐちゃぐちゃです。やがて誰かが洗面器と水と、布を持ってきてくれました。
 揃いの法衣を着た人達が、静かにその場を片付けていくのを見ながら、知らぬ間に涙を流していました。
 吐くと体力を消耗すると聞きましたが、本当のようです。ぐったりとした体をグレアムに支えられ、私は汚れた口元もそのままに、ぼんやりと一点を見ているだけでした。
 意識はあるものの、今は何もしたくない。指一本動かすのでさえ億劫です。
「大丈夫ですか? 具合でも悪かったんですか?」
 大きな手で優しく背中をなでるグレアムの脇で、そう聞いてくるゴードンさんに、私は何も言えませんでした。
 傍目にはひどい状態でしょう。でも今の私にそれを考える余裕などありません。肩でしていた呼吸がようやく落ち着いてきた所です。
「口をゆすいで。でないとまた嘔吐く。ゆっくりでいいから」
 まだうつろな様子の私に、グレアムは優しく勧めてくれます。体全体でテーブルの方から私が見えないようにかばい、醜態が見えにくくなるようにしてくれています。
 水の入ったゴブレットを口元まで持ってきてもらい、少しずつですが、何とか水を口に含み、何度かゆすいでようやく口の中の苦みが取れました。
 落ち着いたら、今度は涙が止まりません。覗き見てしまった覚えのない記憶。それにまだ精神が引きずられているようです。肩を抱くグレアムにすがりつくようにしてすすり泣きし出した私の前に、いつの間にか大祭司長がいました。
「最初の記憶を……少し思い出しましたか? ……辛く苦しい事でしょうけど、あなたには聞いてもらわなくてはなりません。そして、全てを思い出してもらわなくてはならない」
 静かに席を立ち、私の側に膝をついた大祭司長が、私の顔を覗き込むようにしてゆっくりと告げました。私の肩を支えるグレアムの手に力がこもります。
「いい加減にしろ!! ルイザがこんなに苦しんでいるのに!」
「猊下、一体何の事ですか? 思い出すとは」
 グレアムとゴードンさんの声すら遠く聞こえます。こんなに近くにいるのに。なのに不思議と大祭司長の声はクリアに聞こえました。
「勇者として召喚された少女、その魂はルイザ、あなたのものです。あなたはその後この世界で転生を続け、その度に勇者と関わりを持った。あなたの転生回数は三回ではありません。六回です。あなたには封じられた三回分の人生の記憶があります。その全てを思い出してもらいたいのです」
 私は、声も出ませんでした。みんなも、何も言えないようです。グレアムの隣にいるゴードンさんの動揺だけは、伝わってきました。
 でも、グレアムは静かに私の背を撫でているだけです。のろのろと顔を上げると、ひどく苦しそうな彼の顔がありました。どうしてあなたがそんなに苦しそうにしているの? どうして……驚かないの?
 大祭司長の言葉は、本当なら何をバカな事を、と一笑に付す所でしょう。ですが私には出来ません。前世三回分の記憶はあるんですから。
 それに先程見えた光景の切れ端。あの光景に見覚えはありません。でもまるで見てきたように思い出してしまいました。
 それも記憶が封じられているから、と考えれば合点がいきます。何より、耳の奥にこびりつくように残っている、あの時の人々の声。
 その娘は魔王の手先だ! あろう事か勇者をたぶらかそうとしていた大罪人だ
 魔王が倒された今、今度はこの都を壊滅させようとしておったのだぞ
 皆の者、そのような罪人を許せるか?
 城門から外へと放り出され、上からそう声を張り上げる国王の声。
 殺せ!
 魔王の手先だ! 構うことはねえ!
 服もはぎ取れ! 何だ? 抵抗するなんざ生意気な
 まだ子供みたいなのに! とんだ淫売だよ!
 そうだ、淫売には淫売にふさわしいように扱えばいい
 そうだな
 伸ばされる腕、押さえつけられ、服をはぎ取られ、足を開かされて、何人もの男に……。
 何睨んでるんだい! 薄気味悪いねえ!
 黒い目だなんて気味の悪い
 ならえぐっちまえ
 そうだ! そうだ!
 頭を押さえつけられ、焼け付くようなひどい痛み。泣き叫んでも、誰も助けてはくれない。誰も止めてはくれない。
 なんだ、まだ生きてやがるぞ
 ああ、じゃあこいつでどうだ?
 はは、魔王様よりぶっといかもなあ?
 よし、押さえつけろ
 大槌持ってこい
 打ち付けろ!
 もう、痛みがひどすぎてよく覚えていない。でも何かが体のなかに打ち込まれたのだけは、覚えている……。
 その後の事は、もうわかりません。でも私はあそこで死んだんでしょう。
 王都での勇者の出立パレード、そして冬の降臨祭の風景が頭で重なります。あの時感じた恐怖は、今考えるとあの時によく似てます。
 地元の祭りでは思い出さなかったのに。もしかしたら『王都』というのが、キーワードの一つなのかも知れません。
「召喚された勇者であり、その力を初代勇者に譲った少女、それが聖女ジューン、この第一神殿の守護聖女です。そして城でジューンの世話係として側にいた侍女二人、彼女達はジューンに群がる群衆から彼女を救い出そうと無謀にも挑み、同じように群衆に殺されました。その二人が第二、第三神殿の守護聖女、聖アンジェリアと聖ソフィーなのです。名は知らずとも、犠牲祭の聖女といえば、わかるでしょう。そしてこの聖女達の名が、あなたの洗礼名でもあるんです」
 アンジェリア……ソフィー……。おぼろげな記憶の中で、明るい茶色の髪の少女と、赤みの入った金髪の少女が笑っています。ああ、彼女達まで……。
「あなたには思い出したくもない事でしょう。でも、記憶を失ったままでは、魔王を消滅させる事が出来ません」
 心配そうに覗き込む、大祭司長の顔。幼いそれは、それでも子供が持つような表情をしていません。小さな、白い手袋に包まれた手が、私の目元に当てられます。白い手袋に、涙のシミが出来ています。
「魔王を……消滅……?」
 かすれた、小さな声でした。それでも大祭司長は聞き取ったようです。軽く頷きました。
 でも、私が記憶を取り戻すのと、魔王の消滅と、どう関係があるんでしょうか? そう問いたくても、それだけの力が出ません。
「そうです。虚空城にいる魔王は、あなたでなくては、人に還す事はできないのです」
「待ってください! 虚空城に、魔王? ばかな! 先程もそう言っていましたが、大魔王は魔王城にて倒しました! 復活するにしても早すぎる!」
 ゴードンさんの怒声が響きます。彼等は辛い旅の果てに大魔王を滅ぼした勇者一行です。これでその魔王がまだ存在しているとなれば、彼等の旅の意味がなくなります。
 ですが、大祭司長の口から語られたのは、勇者という存在そのものを揺るがしかねない言葉でした。
「いいえ、あなた方が旅の果てに倒したのは、地上にある魔王の影に過ぎません。これまで魔王とする相手の姿と名前が全て違うのは、形状やその性質をも変えて影を放ってくるからです。勇者の力では魔王は倒せないのです」
「魔王の……影……?」
「ど、どういう事ですの? 何故勇者様の力で魔王が倒せないなどと仰るんですの?」
 魔王の影。彼らが苦難の末に倒したのが、そんな存在だなんて。それに魔王を倒せるからこそ、勇者というのではないのですか? なのに、勇者の力では、魔王は倒せないなんて……。
 彼らの様子を、大祭司長は痛ましいものを見るような目で見つめていました。そしてその口から続けられた内容は、さらに衝撃的なものでした。
「……初代魔王を倒した勇者は、自分の思い人を殺した国も王も民も許さず、持ち帰った魔王の魂を取り込み、民を殺し都を壊滅に追い込みました。今の魔王は初代勇者の成れの果てです」
 今度こそ、部屋の空気が凍り付きました。私も目を見張りました。初代勇者が、今の魔王?
「な!!」
「そ、そんな!! 勇者様が!?」
「ばかな!! そんな事があってたまるか!! 勇者が民衆を……都を壊滅させるなどと!! しかも……勇者が魔王!? あり得ない!!」
 みんなの驚愕の声が聞こえます。ああ、でもそれも何だか遠い。ゴードンさんは近場にいるせいか、その声がよく聞こえます。
 いつもと違う怒声を発しているゴードンさん。騎士として勇者一行に加わった彼には、許せない事なのでしょう。
 じゃあ、勇者自身は? グレアムは、私をその両腕で抱きしめているだけで、何も言おうとしません。
「信じられません……そんな……どの史書にもそのような歴史はありませんわ……」
 呆然とした巨乳ちゃんの声が耳に響きます。歴史に詳しい訳ではありませんが、習った限りでは私も知りません。これも神殿側が隠す真実なのでしょうか。
 確かに、公表する事など出来ない内容です。混乱が起こるどころの騒ぎではないでしょう。
「消された歴史の部分です。これもまた、神殿が隠す真実の歴史でもあります。でも公表出来る内容ではない事はおわかりいただけるでしょう。魔王を打ち倒したはずの勇者が、魔王の魂を取り込み新たな魔王になったなど……。しかもその原因が時の国王だなどと、言えるはずもありません」
 しかもそれが『二度目』だなんて。それも同じ『血筋』から出た王だというのも、口を重くする原因になったのかも知れません。
 沈痛な面持ちで大祭司長は続けます。
「勇者が今の魔王を倒せない理由はここにあります。勇者は魔王を倒せても、勇者は倒せない。今の魔王の力は、勇者と同じものなのです。その事から神殿では初代魔王と二代目魔王は別物として扱うのです」絶對高潮
 あんまりな話の内容だからでしょうか。先程とは違い、誰も何も口に出そうとはしません。神殿が七百年以上守り続けた秘密は、あまりにも重いものでした。
 そして守り続けられた秘密は、これだけではありませんでした。
「そして魔王となった勇者、名をマーカスといいますが、彼はその後選出された勇者の魂をも取り込んでいます。そのせいで彼の力は強大化しているのです。歴代最強とうたわれた今代の勇者でさえ、及ばない程に」
 その言葉は、しびれたような私の頭にも響きました。その後選出された勇者? じゃあ……。
「今までの……勇者の魂……?」
 私の口から出たのは、自分でも信じられない程震えた声でした。じゃあ、彼等も? でも、彼等は帰ってきたはずなのに。一体いつ?
「そうです。二代目から六代目までの全ての勇者の魂を、もちろんその能力も共に、です」
 部屋の中の空気が、どんよりと重たいものに変わっていくのが、感じられました。それはそうでしょう。ただでさえ勇者の力が通じないと言われたばかりなのに、追い打ちをかけるような事を言われたのですから。
「それでは……魔王には誰も、勝てないのですか……?」
「いいえ、リンジー。まだ我々には希望があります。私の言葉を忘れましたか? 魔王を人に還せるただ一人の人物がここにいます」
 そう言って、大祭司長は私の方を見ました。『召喚された勇者の魂』を持つ、私。
「魔王を消滅させる為には、魔王の核となっている初代魔王の魂を人に還す必要があります。これはどの勇者でも出来ない事です。召喚された勇者の魂を持つ、あなたでなければ」
 部屋中の視線が私に集まったような気がしました。もう床も綺麗に掃除され、私はそこに座りこんでいる状態でした。
 話のあまりの内容と、思い出した切れ端の記憶のきつさで、頭がうまく回りません。
「ですが、それにはあなたに記憶の封印を解いてもらわなくてはなりません」
「どうして……」
「先程も言いましたが、あなたの前世の記憶には、女神様による封印が施されています。その封印を解かなければ、魔王の魂を人に還すのに必要な力を得られないからですよ」
「力……」
 それを手にする為には記憶の封印を解かなくてはならない……。
 封印……女神の……。ダメです、頭がうまく回らない。人の話し声は聞こえてきますが、本当に聞くだけになりそうです。
 私の側で、主にゴードンさんと大祭司長の会話が続いていました。
「前世の記憶……。猊下は彼女が六回転生していると仰いましたが」
 六回……そう言われてもまだ信じられません。実際三回分の前世は覚えているくせに、おかしな考え方ですよね。我ながら笑いがこみ上げそうです。
 でも封印とやらで記憶がない以上、そう考えても仕方ないと思うんです。それにしては先程覚えのない記憶が蘇って、今こんな状態になってますけど。
「そうです。彼女の魂は死んでから約百年ごとに、今まで六回の転生を繰り返しています。ですが前半三回はあまりにも辛すぎる記憶の為、女神様が記憶の封印をなさったそうです。そして、神殿は、転生する彼女を見守りその存在を隠し続ける為に、彼女の洗礼名を秘匿します」
「何故洗礼名の秘匿を?」
「洗礼名は守護する聖女・聖人の名でもありますが、霊的な目印にもなっているのです。すなわち魔王はその洗礼名を頼りに、彼女を捜し出す事が出来るのです。中央神殿が行う秘匿とは、単純に物理的に隠す事だけではありません。霊的にも秘匿するのです。彼女の洗礼名に使われている名は、他の誰にも使われていない名ですから。そして魔王、マーカスはその名に覚えがあります。探し出すのはたやすいでしょう。」
 私の洗礼名が秘匿されたのは、魔王に探されないようにするため。でも隠している事で逆に探されたりとかはされないものなんでしょうか。それらも霊的に処理されていたんでしょうか。
「霊的……そんな事が出来るんですか……ならば洗礼名を変える訳にはいかなかったんですか?」
 ゴードンさんの疑問で、その方法もあったのかと気づきました。隠すより変える方が楽でしょう。
「洗礼名は神殿が勝手に付ける訳ではありません。そのものの魂に刻まれているのを、神殿側が読み取るだけです。そして彼女は転生一回目からその魂に同じ洗礼名を刻まれています。それを目印に神殿が保護に動くのです」
 大祭司長の語る返す答えは、私の予想外のものでした。神殿がつけるんじゃなかったんですか? それに、どうして神殿が保護なんて……。神殿に通常以上に関わられた覚えはないんですが。
「ちょっと待ってください、神殿が見守るのは勇者となる者のはずでは?」
 ゴードンさんの言う事ももっともです。どこまで私達の『常識』は神殿によって作られたものなのか。
「……それも真実ではありません。先程も言ったように、魔王の復活と勇者の選出を、神殿は十数年前には把握しています。何故なら、彼女が生まれた時点で全てが決まる事だからです」
 今……なんて……。
「ど……どういう事ですの?」
 巨乳ちゃんの声も、何だか震えているようです。昨日までの当たり前が、こうも目の前で砕かれるというのは、混乱を招くものなんですね。
「召喚された勇者の魂を持つ娘が生まれれば、その洗礼名から神殿はすぐに察知します。そしてその娘の周囲には、必ず勇者の力の器を受け継いだ者がいます。勇者の力と魂は元は一つ。引き合う性質を持っているのです」
「引き合う……性質……」
 大祭司長の最後の一言は、私の中にわずかな引っかかりを残しました。それは、どういう意味でなんでしょうか。物理的に、という事? それとも……。
「召喚された勇者の魂を持つ娘の奪還を目指し、魔王は復活してくるのです。完全復活は娘が十六、七歳になる頃です。それは丁度ジューンがこちらに召喚された年齢と同じです。おかしいとは思いませんでしたか? 魔王の復活にばらつきがある事に。復活には周期があり、それが約百年なのは知られている話ですが、きっかり百年ではありません。それは何故か。答えは簡単です。彼女の転生周期に同期しているからです」
「転生周期……」
 確かに。前世で死んでから、次に生まれるまでにおおよそ百年だったのは覚えています。ただし私の記憶にある分だけですが。
「そうです。勇者の魂を持つ娘は、死んでから約百年で転生します。これが意味するところはわかりませんが、これまでの六回全てがそうでした。魔王の影を倒した時期と、娘の死亡時期が一致しない場合ずれが生じます。一番短くて約百十六年、一番長くて直近の百九十年です」
 勇者……魔王……転生……洗礼名……。美人豹
「ルイザ!!」

2012年8月28日星期二

積み上げられた砂の城、崩れ落ちる白の砂

アスール貝というものがある。暖かい季節、砂浜で稀に取れる貝だ。希少価値はないが、暗闇で青く幻想的に光る事から恋人に贈る男性が多い。この国の結界石が青なのに合わせて、「貴方を守ります」といった意味を込めるのである。V26Ⅳ美白美肌速効
「せおっ」
急いでこちらに駆け寄ってくる彼女を見て頬を緩めつつ、自身も待ち合わせの噴水から離れて彼女との距離を縮める。
「うう……ごめんなさい、またわたしの方が遅かったのです」
「いえ、たまたま私の方が早かっただけですよ。それにお師匠さま、まだ待ち合わせの時間前です」
正確に言うのなら、丁度三分前だった。恐らく彼女はセオドリークを待たせないために五分、もしくは十分前行動を心がけていたのだろうが、叶ってない辺りが実に彼女らしい。なんて事を口に出せば落ち込んでしまうのは目に見えているので思うだけに留め、自然な動作で彼女が持っていた袋を受け取る。息を整えていたエイレンティアは少し遅れて気づき、「あっ!」と抗議の声を上げたが、セオドリークは微笑み返すだけだった。
「あ、ありがとうです。セオ」
「はい」
彼女の手を取り、彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出す。いつセオドリークに声をかけようか虎視眈々とチャンスを狙っていた女性達は、残念そうに散っていった。エイレンティアとセオドリークは二人だけの世界を作っており、とてもではないが声をかけられる雰囲気にはないからだ。
一ヶ月に一度の買い物の日。今日も二人は、いつも通りだった。
「そういえばお師匠さま、今年はアスール貝の輝きが例年より増しているそうですよ」
「わあっ、そうなのです?」
「よければ見に行きませんか。お師匠さま、そういったものお好きでしょう?」
「はいっ好きです!」
屈託なく笑って答えるエイレンティアに、その言葉を自分に向けてくれないだろうか、とそんな思いがセオドリークの心中に芽生える。その願い自体は、望めばすぐに叶うだろう。だがそれは本当に欲しいものとは違う。自分が彼女に恋焦がれているように、彼女にもそうであってほしい。彼女の隣にいるのはこれから先も自分一人でいい。――――これ以上を望む自分は、或いはひどく我侭なのかもしれないけれど。
「とっても楽しみですっ」
「私もです、お師匠さま」
それでもどうしようもない。簡単に捨てられるような想いならば、最初から抱いてないのだから。
◇◇◇
赤と青の二つの月が淡く照らす中、ざあざあと波の音が響く。わざわざ辺境の地を選んでいるのもあって周囲には人影もなく、エイレンティアは子供のようにはしゃぎながら砂浜を踏んだ。その度、彼女のポニーテールも揺れる。
「夜の海も素敵ですねっ」
「そうですね、今日は月も星もよく出ていますから」
やや間を開けて、やわらかな眼差しで彼女を見つめる。他のどんなものよりも、彼女の方が眩しく輝いていた。どんなに美しいものも、彼女を引き立てる飾りでしかない。
「このへんでいいでしょうか? セオもおいでっ」
にこにこと手を振る彼女は、きっと子供を誘っているようなものなんでしょうねえ、と苦い気持ちを覚えつつ、彼女の傍に座り込む。セオドリークもエイレンティアも汚れてもいいように軽装で来たため、服を気にかける必要はなかった。彼女の水着姿が見たかった気がしないでもなかったが。
「そういえば、セオがまだちっちゃかった頃にも海に遊びにきましたね」
エイレンティアは砂を掘り起こして貝を探しながら、懐かしそうに零す。
「覚えておりますよ、お師匠さま」
彼女との思い出を、セオドリークが忘れるわけもない。彼女と同じ行動を取りつつ、記憶を探った。
「子供が家に篭りっぱなしは良くないからと、連れてきてくださったんですよね」
あれは確か、セオドリークが七歳の時の話だ。彼女との暮らしも慣れてきた頃だった。エイレンティアは用がなければ外に出なかったため必然的にセオドリークもそうなり、その状況に気付いたエイレンティアが「このままじゃよくないのです!」と慌ててセオドリークを連れ出したのである。
「でも、もっと早く気づいていればよかったのです。わたしが小さい頃はずっと家にいるように言われて絵描いたりしてたから、それが普通なんだと思ってて……そんなわけはなかったなんて知らなくて」
「私は家にいるのも外に出るのも好きでしたよ。貴方と一緒ならどちらでもいいんです」
場所なんて関係なかった。彼女と一緒にいられるなら、それだけでよかった。あの頃はまだ、今よりずっと穏やかな気持ちだったけれど。
「むう……」
「お師匠さま?」
エイレンティアが不満そうに漏らしたため、セオドリークは思わず聞き返す。
「セオは、わたしにもっと怒るべきなのです!」
「私がお師匠さまに? 何故ですか?」
……怒られるような事ならいくつかありますが。過去に自分がした事はこの際棚に上げて、彼女に尋ねる。
「セオにはセオの自由があるのです。それはわたしが奪っていいものじゃない。なのに主張出来なくしてしまったのは、わたしの落ち度なのです……」
俯く彼女を見て、やはり責任感の強い人なのだと改めて実感する。何の力もない、死にかけた子供なんて放っておけばよかった。帰る場所なんてないと駄々をこねても突き放して孤児院にでも預ければよかった。彼女の名を使えば、容易に行えたはずだ。けれど彼女はどちらも選ばなかった。快く引き取って、実の息子のように弟のように愛情を注いでくれた。そして、今も。――まるでそれ以外の感情は知らないかのように、どこか頑なに。V26Ⅲ速效ダイエット
「お師匠さま、私は……」
自分の人生も全ての幸福も貴方の隣にあるのだと、隣にしかないのだと、どうやったら伝わるのだろうか。誰に強制されるでもなく自分で道を選択したのだと、どうしたら信じてくれるのだろうか。そんな風に思案していると、きら、と光るものが目に入った。
「……手を、出されてください」
「う? こうです?」
不思議そうに差し出された右手に、見つけたばかりのそれを握らせる。
「あ、これ……」
彼女がじっと見つめて確かめている隙に簡単な魔法をかければ、ぽつりぽつりと青い光が二人の周りに浮かび上がっていく。小さな青はやがて他の色を飲み込み、星空の下、蝶々が舞うかのように、海の中、魚が踊るかのように、安らぎで包まれた空間を作り出す。
「わあ……!」
「本来アスール貝の光はほのかなものですが、周囲にある貝全ての光を集めてみました。少し、増幅させてはいますが」
「すごいすごいっ! セオの瞳とおんなじ色できれい!」
エイレンティアは大喜びで視線をあちこちにやりつつ、指でつついたりして遊ぶ。その姿がなんとも可愛らしくて、あっさりと放たれた言葉があまりにも強烈で、セオドリークを惹きつけて止まない。
「あの時も、そう仰っていましたね」
「あのとき?」
「私の瞳の色と似て綺麗だからと、お師匠さまはそう言って貝を下さいました。誉めてもらえたようで、私にはとても嬉しい贈り物だったんですよ」
ですからお返しです、と付け加えれば彼女はきょとん、とした顔をして、しばらくして思い出したのか「ああ!」と納得がいったように声を上げた。
「思い出して頂けましたか?」
「はいっ。あ、ち、ちがうのですっ! 忘れてたわけじゃないです!」
「いえ、いいんですよ。もう五十年近くも前の事ですしね」
つまりそれだけの年月、エイレンティアとセオドリークは一緒にいる。師弟として、家族として、慈しみ合いながら。その現状にエイレンティアが安心しているのも、心の拠り所にしているのも、セオドリークはよく分かっている。関係性が変化すれば、ぎりぎりのラインでなんとか「自分」を保っている彼女を修復不可能なまでに壊しかねない事も。それはすなわち――――……
「ティア」
一呼吸置いて、セオドリークは彼女の名を呼ぶ。ざあ、と波の音が一際大きく響いた。
「貴方を守ると、この貝に誓いましょう。私が生きている限り、ずっと」
心から愛しているのだと、本当は伝えたい。けれど今はまだ出来ない。これから先も彼女達と生きるためには、まだ。
エイレンティアはいつもと違う彼の雰囲気に飲まれてしまったのか言葉に迷っているのか、セオドリークを静かに見つめ返すだけだった。セオドリークがぱちんと指を鳴らすと光が消えていき、我に返ったように口を開く。
「わ、わたしもっ! わたしもセオを守るのです!」
「有難うございます、お師匠さま」
「ぜ、絶対なのです。……絶対に、守ります」
低く囁く彼女の顔は、真剣そのものだった。その表情はどちらかと言えばもう一人の彼女が作るものに近く、セオドリークは一瞬戸惑いを覚える。その間にエイレンティアはぱっと空気を変え、いつものように無邪気な笑みを見せた。
「セオっ。砂のお城つくりましょう!」
「え? あ、はい」
「魔法は使っちゃだめですよ。手で作るのです」
「はい、お師匠さま」
――今の違和感は、なんだったのだろうか。ただの見間違いか、それとも考えすぎか。漠然とした不安を残しつつも、彼女に付き合って砂を盛っていく。時折エイレンティアが不注意で崩してしまう箇所もあったが、セオドリークがしっかりとフォローし、立派な城を作り上げていった。
「ねえ、セオ」
「何でしょう?」
「彼女は……こういった遊びはするのでしょうか?」
この場合の彼女は、交代人格の彼女を指しているのだろう。それはすぐに見当がついたが、しかしセオドリークは返答に悩んだ。交代人格の彼女は基本人格が自分を意識せずに日常を送る事を望んでいる。恐らく今も「起きて」いるし、自分について語られるのを良しとしないはずだ。
「そうですね……。もしこの場にいらっしゃったらきっと、参加されていないと思いますよ」
だが敢えて、セオドリークはごまかさなかった。
「そうなのです? こういう子供っぽいのは嫌なのでしょうか」
「いえ嫌いというよりは、単純に苦手なんだと思います。あまり縁がないといいますか……慣れていらっしゃらないようですから」
「ふむふむっ」
眉を顰めて聞いている彼女を思い浮かべながらも、話題を変える事はしなかった。もう一人の自分を知りたいと思う気持ちも尊重されるべきものだと思ったからだ。
「参加はされないかもしれませんが、見守っては下さると思いますよ」
「わあ、なんだかお母さんみたいなのです! 落ち着いた人なのですね」
「落ち着いた……そうですね」
お母さん――――その単語に笑いを堪えつつ、これは後でお小言を食らうのは間違いないなとセオドリークはこっそり覚悟した。
「でもどうして、話せないのかなあ……。わたしは本当は彼女を受け入れていないのでしょうか」
小さく呟かれた一言には、彼女の切実な想いが詰まっていた。エイレンティアは自分の中にもう一人いるのだと気付いてはいるが、はっきり認識出来ているわけではない。やり取りも出来ないでいれば、交代人格でいる間何をしているのかもほとんど知らないでいる。彼女が言う通り受け入れきれていないせいかもしれないし、そもそも交代人格の彼女が接触を望んでいないせいでもあるのだろう。だが、それを告げるのはためらわれた。
「お師匠さま……」
「あっ、あった!」
嬉しそうに声を張り上げ、丁寧に掘り起こす。そして満面の笑みでセオドリークに手渡した。
「さっきのお返しなのですっ」
彼女の言動ひとつひとつがセオドリークの心をどれだけ揺さぶるのか、きっと彼女は知らないでいるのだろう。愛しさは日々募っていくばかりだ。V26即効ダイエット
「有難うございます。大切にしますね」
「はいっ。わたしも大切にします!」
今はまだ、待ち続ける。いつか彼女が乗り越えるまで。
「できたっ」
しばらくして出来上がったのは、一種の芸術と言っても差し支えないほど精巧に作られた砂の城だった。エイレンティアもセオドリークも手先が器用であり、加えてエイレンティアには芸術的センスがある結果だ。
「お疲れ様です、お師匠さま」
「セオもお疲れ様なのですっ。これ、崩れちゃうのもったいないですね……」
「形を保たたせましょうか?」
「ううん。いいのです。波が来るのは当たり前のことなのですよ」
ね、と笑いかけた後立ち上がり、靴を脱いで海の中に入っていく。
「わっつめたい!」
「お師匠さま、あまり深いところへ行かれないでくださいね」
「わかってます。わたし、泳げませんもん……」
彼女はセオドリークに背を向けてはいたが、頬を膨らませてすねているのだろうとは簡単に想像がついた。
「昔はセオも泳げなかったのにっ」
「泳ぐ環境になかったですからね。お師匠さまも練習さえすれば大丈夫だと思いますよ」
「……ほんとに? しずまなくなる?」
「はい。それにいざとなれば浮き輪がありますよ」
「なぐさめになってません~~……」
「そうですか? そんなつもりはなかったのですが」
「ぬうう……セオわらってるううっ」
うわーん! と涙目になりながら、奥へと進んでいくエイレンティア。勿論、危なくない深さまでだ。そんな彼女を楽しそうに眺めていたセオドリークは、彼女を追って自身も海へ入った。
「どうか機嫌を直されてください、お師匠さま」
「いいんです、どうせわたしはカナヅチですもん……」
「人には誰しも欠点があるものですよ」
「わたしセオの欠点なんてしりませんっ」
「攻撃魔法が全くといっていいほど使えませんよ? 他の魔法を使用しなければ、身を守れるのかも怪しいレベルです」
「あ……でもセオには剣があるのです」
「それですよ、お師匠さま」
うん? と首を傾げた彼女の前に回りこみ、目線を合わせる。
「出来ない事があるのなら、出来る事でフォローすればいいんです。自分では駄目なら、他の誰かでもいい。ですから、貴方が溺れたら……いえ、溺れそうになる前に必ず私が助けます」
諭すようにそう言えば彼女はぱちぱちと瞬きを繰り返して、次には控えめに微笑んだ。
「ありがとう、セオ」
幸せを噛み締めるような、どこか泣きそうな、そんな笑みだった。
「はい、どういたしまして。もう少し遊んでいきましょうか」
「うんっ」
水をかけあって、波がきたら逃げて、二人は久しぶりの海を満喫した。彼女は無理にはしゃいでいる気がしてならなかったが、言及は避けた。触れられたくないと彼女が訴えている気がして、聞けるはずもなかったのだ。

二人が帰る頃には砂の城は波にさらわれ、完全に崩れ落ちてしまっていた。エイレンティアとセオドリークの記憶の中にだけ、形を残して。V26Ⅱ即効減肥サプリ

2012年8月24日星期五

心の在りか

総勢六十騎からなる騎馬隊の、大地を蹴ちらす轟音が、無人の原野を駆けぬける。
 晴れ渡った夏空の下、ケネルら一行はレグルス大陸を南下していた。
 なめらかに疾走する栗毛の馬上で、エレーンはケネルに寄りかかり、淡々と手綱をさばくその顔を、いつものように見あげていた。しきりに瞬きをくり返す顔は、そろそろ何か言いたげな模様。勃動力三體牛鞭
 案の定、ケネルのシャツを、今日もくいくい引っぱった。
「んねえ、ケネルぅ~ん」
 何かありそな甘ったれ声。だが、
「なんだ。飯なら食ったばかりだろ」
 ケネルの方はけんもほろろ。相変わらず、愛想もへったくれもありはしない。そう、隊長は今、馬の運転で忙しい。
 むぅ、とエレーンは言葉につまった。だが、本当に伝えたいことでもあったのか、不満気に口を尖らせている。もっとも、これしきの無視でへこたれてては、今日も日がな一昼夜、無言で過ごす羽目に陥るのは目に見えて明らかだ。
 エレーンはにんまり笑みを作った。
「う、うん! いや、あのね、ちょっと喉が──」
「水なら、そこの水筒の中だ。そう言ったろ」
「あ、いや~、そーゆーんじゃなくってね。あ、あのね、ケネル──」
「なんだ」
「あ、あの──あのね──」
 ついにケネルが、いかにもうんざり振り向いた。
「なんだ。あんたは、さっきから。少しは落ち着いたら、どうだ」
 真正面から直視され、エレーンは上目づかいで口をパクつかせる。
「あ、だって──だってね──え、えっとお──そのぉ──」
 ケネルが手綱を、ぐぐっと握った。さすがに苛ついたらしいその額に、むきっ、と青筋が浮きあがる。
「なんだっ!」
「お、おしっこ!」
 ケネルが思考停止で固まった。ぱちくり瞬き、両目は、てん。
 どよん……と微妙な空気が流れた。闊達にとどろく蹄音が、いやに虚しく、空々しい。
 ケネルはのろのろ額に手を置き、深くげんなりと嘆息した。
「──休憩にする」
 ケネル隊長、即刻降参。だって、これを言われては、どうにもなるまい。
 並走している副長に、手をあげ、停止の指示を出す。
 そそくさそっぽを向いたエレーンを、ケネルはしげしげ眺めやった。
 そして、不可解に首をひねる。まだ出発したばっかりだ。何があったわけでもない。具合が悪いようでもない。
 まったくどうしてこの客は、何かにつけて、馬の足を止めるのだ?
 
 
 緑の原野に愛馬を放し、頭の後ろで手を組んで、青草の上に寝転がる。
 頬傷のある長身の男は、口をくちゃくちゃさせながら、木陰で仲間と話していた。ノースカレリアのある北方を、辟易とした顔で眺めやる。出立してからずいぶん経つが、未だ二日分の行程を消化したかどうかというところだ。
 又しても休憩になり、彼らは暇を持て余していた。時間が無駄に余っているから、体を所在なく持て余し、とはいえ行程中は酒色厳禁、そもそも気晴らしに行こうにも、こんな原野では店など皆無だ。
 今日もまたダラダラと、時だけが無為に過ぎていく。
 迅速、果敢を旨とする彼らには、じれったくも歯がゆい事態だった。苦々しげに頬をゆがめて、彼らは腐り気味に眺めやる。
 全ての元凶はあの女だ。領家の正室、エレーン=クレスト。そんな特権階級が、そもそも、どうして群れの中に交じっているのか。統領代理の捜索行に。
 そう、あの女こそが曲者だった。やっと走り出したと思うも束の間、すぐに又、ただをこね、馬の足を止めてしまう。そして、なし崩しに休みに入り──と延々それのくり返し。
 男の一人が、いかにもうんざり紫煙を吐いた。
「やれやれ。いつまで、こんなことが続くのかねえ」
 出発の気配は、未だに、ない。
 件の女が副長に連れられ、緑の草原を歩いて行く。黒い頭髪を背まで伸ばした二十代半ばのカレリア人だ。小柄な体に薄桃色のジャケット、中は白いブラウスに、白いスラックス。暗色が占める傭兵の群れで、明るい色彩がひときわ目を引く。
 用足しに行くらしく、二人は森に入っていく。小道の入り口を眺めやり、じろりと副長が睥睨した。この無言の圧力は「総員、立入禁止」の厳命だ。
 そう、女が森から出てくるまでは、誰も森には入れない。無論、副長の命に逆う者などいるはずもないから、その効果たるや、あたかも結界でも張ったが如く。まったく、迷惑なこと、この上ない。
 今も、件の"お姫様"は、髪の長い"従者"を従え、何事か言い合いしながら、森の入り口に向かっている。
 一人が苦虫噛み潰した顔で舌打ちした。
「副長にタメ口きくたァ、何様だ、あの女!」
 その生意気さが、気に障った。我が物顔のでかい態度も、気に食わない。
 そう、あれは女の身の分際で、上官にぞんざいな口をきき、身勝手放題に振りまわす。長に命を預ける傭兵隊は、上下関係が殊の外厳しい。手柄次第で立身出世も望めるが、そうした序列に女の入る余地はない。そう、時と場合によっては戦利品でしかない玩具風情が、一足飛びに上官と並び、いっぱしの口をきくなど、本来あってはならぬこと。今、彼女が平気で小突いている副長は、組織の頂き近くに位置する男だ。
 腕力至上主義を奉じる彼らにとって、非力な者は下の下の格付け。まして女が、上位者と対等に口をきくこと自体、凡そ信じがたい光景だ。身分がどれほど高くても、元よりそれは関係ない。彼らはどこの国にも属さず、保護も恩恵もなんら受けずに自力で生き伸びてきたのだから。
 草原を横切る彼女を眺め、一人が忌々しげに顔をしかめた。
「ああ、なんでも、あの女、商都にお買い物に行くらしいぜ?」
「こんな時に、商都ってか。旦那が明日をも知れねえってのに、奥方さまは優雅なこった」
 出立してからしばらくは、彼女がカードで浮かれるさまを、休憩ごとに目にしていた。声高にわめき散らす、そのやかましい円陣から、そんな話が漏れ聞こえていた。
「つまり、俺らは足代わりって話かよ」
 頬傷の男は自嘲混じりに苦笑いした。
「上も上だぜ。いくら同じ方向とはいえ、なんで、あんなのを連れて行くかねえ。あれじゃ、お荷物もいいところだぜ。お陰でちっとも進みやしねえ」
 休憩時には、隊の中でも浮いているあの、、特務の連中が適当に相手をしてやっていたが、あいにく群れの大半は、街に住む男のように友好的でも社交的でもない。今回の任務は統領代理の護衛のはずで、この行程の目的は、その代理の捜索のはず。それが、なぜ、あんな女に振り回されねばならないのか。
 隊を束ねる彼らの首長も、近ごろ何か様子が変で、首長がふさぎこんでいるお陰で、移動の際にも後方ばかり、部隊同士で密かに張り合う彼らとしては、それも、いささか面白くない。
 寝転がった頬傷の男が、組んだ足を大儀そうに組み替えた。
「なあ、どうしてっかな。大将は」
 ふと隣の男が振り向いて、心配そうに眉をひそめる。
「手荒に扱われていなけりゃいいんだが」
 トラビアのある西の空を、傭兵たちは眺めやった。
 護衛の仕事で同行したため、ダドリー=クレストとは懇意だった。寝食を共にし、さばけた人柄に接する内に、打ち解け、連帯感を持っていた。仲間内以外のそうした友は、拒絶されるのが常の遊民には、実に得がたく、珍しい。しかも、彼は庶民などではない。絶大な権力を手中にする領主という名の実力者、本来であれば手の届かぬ雲の上の存在なのだ。そうした意味でも、彼は特別に大事な友だった。
 彼とトラビアまで同行した者は、直前で彼に投降され、手痛い迷惑をこうむりもしたが、あの不可解な失態も素人ゆえの小胆さ、と寛大に受け止め、気にしなかった。隣国の屈強な兵士を相手に日々熾烈な闘いをくりひろげ、いく度も死線を潜った彼らだ。あの程度の番狂わせは取るに足りない些事だった。
 彼がいきなり投降した際、彼らは包囲網を突き破り、立ち込める戦塵から力づくで脱出していた。騎馬の扱いに長け、戦慣れした彼らには、死守する何者をも持たず我が身一つで逃げていいなら、朝飯前の芸当である。鈍のろ臭く非力なカレリアの軍隊など、戦場を渡り歩く現役傭兵の彼らにすれば、きれいなお飾り人形でしかない。
「どうなっているかな、トラビアは」
「さあな。だが、陥落は時間の問題だろう。ラトキエが進軍しているからな」
 一人が忌々しげに舌打ちした。
「亭主の尻に火が点いてるってのに、女房は優雅にお買い物ってか? いい気なもんだぜ!」
「哀れだよなあ、大将も。あんなに嬉しそうに話していたのに」
 道中の長丁場で、ダドリーから散々新妻自慢をされたので、そのベタ惚れの度合いは同行者全員の知るところ。
 一人が憎々しげに舌打ちした。
「しょせん、メイドあがりだからな、あの女は。一緒になったのは財産目当て。大将の方はオマケだろ」
「とんだ女狐に引っかかったもんだな、大将も」
 中だるみした、だらけた空気に、冷え冷えとしたものが入り混じった。
 それは急速に浸透し、草原ののどかさとは凡そそぐわぬ剣呑な空気が立ちこめる。
「暇、だよな」
 誰かの落とした呟きが、含みありげな余韻で響く。
 静まり返った小道を眺め、寝転がった頬傷の男が、何かを狙うように身を起こす。のどかな樹海を顎でさした。
「お誂え向きの"暇潰し"が、そこに服着て歩いているぜ?」
 彼らの視線が、頬傷の男に集中した。一同、胡乱に目を眇める。
「"クレスト領家の奥方様"、ね」
 鬱憤晴らしの的にするには、"それ"は手頃で丁度よかった。副長という適度に手ごわい障害も、暇潰しに挑むには格好だ。なに、ぶん殴られるくらいは安いもの。己が素行不良は棚にあげ、副長が横槍を入れてくるのは、今に始まった話ではない。
「頂くとするか、あの女」
 頬傷の口端でニヤリと笑い、男は仲間に目配せした。
 ガムを地面に吐き捨てて、一同、おもむろに立ちあがる。相談は、すぐにまとまった。
 
 
 
【 心の在りか 】
 
 
 
 風道を深く入ったところで、木立の脇道に、ひとり分け入る。
 風道の道端で待っているファレスは、すぐに背を向け、喫煙を始めるのが常だった。道すがらは文句を言うが、どんなに待たせても、急かしはしない。こちらに背を向けたまま、ああして、ずっと、そこにいる。巨根
 今も、ファレスは背を向けて、かったるそうに煙草をくわえ、気難しそうに眉をひそめて喫煙している。馬上で着ている上着は脱いで、今は黒っぽいランニング一枚だ。体格は細身だが、ひ弱ではない。むしろ全体的に筋肉質で、剥き出しの肩や腕は、見るからに敏捷そうに引き締まっている。黒皮のベルトに細い腰、直線的に伸びた長い脚、そして、乾いた泥のこびり付いた、使い込まれた編み上げ靴。頭一つ分は、優に上にある高い背丈。だから、話す時には、いつも、首を曲げて、見上げていなくてはならない──
 エレーンはぎくりと肩を震わせ、あわてて彼から目を逸らした。
「も、もう! ケネルのアホが、あんなことして、ふざけるから、変に意識しちゃうじゃないよ……」
 真っ赤になって踵を返し、木漏れ日揺れる木立の中を、そそくさ早足で歩き出す。
 近くにい過ぎて忘れがちだが、やっぱり、あれも男なのだ。こっちをおちょくる憎たらしい顔が見えないと──あの端整な顔が見えないと、殊更に "彼" なのだと実感する。そう、片脚に重心を預けた無造作な後ろ姿は、紛れもなく男性のものだ。例え、女性のように長い髪でも。どんなに憎まれ口をたたき合っても。
 あの衝撃的な晩以来、エレーンはすっかり異性が苦手になっていた。もっとも、当のケネルは別なのだが。
 男ばかりのこんな集団にいるのだから、平静を装って話しもするが、一度ああいうことがあったりすると、どうにも、そわそわ落ち着かない。又いつ、突然飛びかかってくるんじゃないかと知らぬ間に警戒してしまう。拳固が知らぬ間に、ぎゅうぅ、と硬く握り締められていたりする。手の平、汗びっしょりで。
 長い"尻尾"を引きずって、急ぐ肩越しに振りむき振りむき、エレーンは藪を掻き分けていた。
 風道から大分入った適当な場所で、立ち止まる。まったく、用足しにくるにも一苦労だ。周囲の無人を素早く確認、胴の結び目をせっせとほどく。腰縄が巻かれているのだ。前にそのまま散歩に行ったら、胴を結わえ付けられるようになったのだ。逃亡防止ということらしい。
 作業をしながら、ブツブツごちる。だが、それは、縄を硬く結び付けたファレスに対する呪詛ではない。文句を言ってるその先は、
「なによお、ケネルってば、やな感じ。あんなに怒んなくたって、いーじゃないよ。そりゃあ、いきなり声かけたあたしだって、ちょっとは悪いかも知んないけどさ、でも、あわてて隠すくらいなら、初めから、あんな所で見なけりゃいいじゃん……」
 ケネルが何かの紙を取り出したから、なんの気なしに覗いたら、ぎょっとケネルは飛び上がり、あわてて懐にしまい込んだのだ。そして、実に迷惑そうに「なんでもない!」と隠ぺいした。だが、張り合おうたって無駄なのだ。なにせ、こちとら、"嘘発見器"を内臓し、常にフル稼働している"女"という名の手ごわい生き物。急ごしらえのちゃちな嘘など、逆立ちしたって見破れる。
 硬い結び目をなんとかほぐし、大木の根元から生えている若枝の真ん中に、縄の先を結びつけた。ファレスが気紛れを起こして引っ張った時に、少し揺れるくらいがいい。幹の方に結んでは、いささか手応えがあり過ぎる。ファレスは時々縄を引っぱり、本当にいるかどうかを確認する。こっちには、決してやってこない。また逃げるだろう、と分かっていても。
 だから、彼をまくのは、とても容易いことだった。
 結び終わった枝を離して、エレーンはそっと溜息をついた。
「……そんなに大事なもの、なのかな」
 ケネルが見ていた薄青い手紙。
 差出人は誰だろう。何が書かれているのだろう。それを見る横顔は、頬をわずかに緩めていた。
「ケネルの、ばか」
 枯葉の積もる地面にうつむき、エレーンは軽く石ころを蹴った。こっちにはケネルだけしか、頼れる相手がいないのに。なのにどうして、よそ見なんかするのだ。
 そうだ。なんで、そんなに鈍いのだ。なんで、そんなに無神経なのだ。一度それに気づいてしまえば、やることなすこと癇にさわって苛々する。
 ケネルはいつでも面倒そうで、途中で話を打ち切ったり、呼んでいるのに無視したり、間違いを教えてあげれば、むっとした顔で黙りこむし、いや、そもそも人の話を聞こうとしない。一生懸命話しても、ケネルは深入りしたがらない。すぐにせっかちに問い質し、話を理詰めでまとめあげ、さっさと片付けようとする。いや、そこからしてズレている。誰も解決してほしいなんて言ってない。ただ話を聞いて欲しいだけ。そばにいて欲しいだけ。なのに、落ちこんだって慰めるどころか、ケネルはそれに気づきもしない。具合が悪くて心細くても、すぐにどこかへ行ってしまう。ケネルは、冷たい。
 ケネルはちっとも気づかない。こっちのことを見もしない。
 必死で信号を出しているのに。
「……なんか、疲れた」
 うなだれた口から、弱音がこぼれた。
 周りは粗野な男ばかりで、気が休まる時がない。居場所なんか、どこにもない。誰も彼もが余所者を見る目つき。見世物でも見るように野卑な目つきで、じろじろ、じろじろ。
 ──一人に、なりたい。
 切実な欲求が頭をもたげた。
 脇道の奥へと目を向けて、エレーンはそっと足を踏み出す。
 森はひっそりと静かだった。
 視界を埋め尽くす濃淡の緑。梢の先の、空が青い。
 がさがさ、どこかで茂みが鳴った。藪をうごめく何かの気配。たぶんファレスではないだろう。彼ならぞんざいに名を呼ぶし、捜しにくるには早すぎる。どうせ、またウサギかリスだ。
 用足しで森に入ると、小さな動物が現れる。それらが木立の奥から顔を出し、遠巻きにしていることがままあった。初めの内こそ驚いたが、何度も遭遇して、もう慣れた。どうやら動物に好かれる質らしい。今も、ばさばさ鳥が集まり、忙しなく首を傾げている。そう、あれも、いつものこと。とはいえ、今日はいやに騒がしい。又、どこかで茂みが鳴る。 
 静かな森を散策しながら、エレーンはそっと嘆息した。
 気がふさいで仕方ない。確かに、今もダドリーがトラビアのどこかで囚われていて、彼の安否が気掛かりだ。だが、何もそれだけが理由でもない。
 何かが、ざわざわ鬱屈していた。
 切ないような、泣きたいような、大声で叫んでしまいたいような、得体の知れない暗い想い。不意に胸を衝く鋭い痛みも、胸が潰れそうな哀しみも、笑っている時も眠っている時も、それは常にかたわらにあって、ふとした拍子に現れては、心の平穏を脅かす。こんなふうになったのは、いつの頃からだったろう。ディールの奇襲をどうにか乗り越えたあたりだろうか。いや、たぶん、もっと前だ。
 心の深い暗がりで、何かが呼び覚まされていた。
 それは目をそむけ続けてきた嫌な何か。目を凝らしてみるけれど、その正体はわからない。
 梢の先には、青い夏空が広がっていた。
 そこに、くっきりと白い、鳥が一羽。翼を広げ、何かを探すように旋回している。
 エレーンは足を止め、無意識に握っていた手を開いた。手の平にあるのは、不恰好に欠けた翠石のかけら。夢の石のまがい物。
 緑の石が、木漏れ日を弾いてきらめいた。この緑のお守りを事あるごとに握るのが、いつの間にか癖になっていた。悲しい時、苦しい時、つらくて恐くて不安な時──。
 ふと気づいて、首をかしげた。
 気のせいだろうか。石が、いやに温かい。それに、かすかに震えているような──そう、石がかすかにざわめいて、、、、、いる?
 右手の方角が気になった。
 強く惹かれる何かがある。馬群は大陸を南下しているから、樹海の先は東の方向。大陸の東西は大海原。
 ──海が、見たい。
 強い欲求が突きあげた。
 大空の下、どこまでも広がる青い海原、寄せては返す青い波の情景が脳裏いっぱいに広がった。ごつごつした黒い岩、広々とした無人の浜、遠い空で輝く太陽──見たこともない海だった。なのに、無性になつかしい。
 喉が詰まって息苦しい。それを出し抜けに自覚した。そう、つらくて苦しくて仕方なかった。もう、ここには、いられない。すぐにも、どこかへ逃げ出したい。
 切なさが胸を締めつけて、せっぱ詰まって足を踏み出す。
 気が急いた。
 一刻も早く広い場所に出たい。誰もいない開けた場所、そこに辿りつきさえすれば、それだけで息がうまく吸える、そんな気がするのだ。
 憑かれたように、がむしゃらに歩いた。
 張り出した木の根につまずきながら。足場の悪い地面によろめきながら。だって、ケネルにまで手を払われたら、あたしは一体どうしたらいいの?
 足は闇雲に海へと向かった。それでも足りずに、エレーンはもどかしい思いで足を速める。早く──早く行かないと! そこに行けば、楽になれる。
 ──そこに行くのが正しい、、、のだ。
 がさり、と藪が大きく揺れた。
 ぐっ、と二の腕がつかまれる。強い力で引っ張り戻され、足を取られて、たたらを踏む。
 エレーンは全身を震わせて居すくんだ。腕をぞんざいにつかんでいるのは、節くれ立った無骨な手。
(……誰?)
 自分の荒い息づかいを、戻ってきた意識が捉えた。
 耳元で、脈が鳴っている。心臓が踊りあがっている。いっぱいに見開いた視界には、生い茂る木立しか写らない。
 硬直し、振り向くこともできぬまま、エレーンは唾を飲み下す。
 ファレスであれば、罵倒で呼びかけ、走ってくる。ケネルだったら気配でわかる。つまり、これは
 知らない、、、、手だ。
胸が、早鐘を打っていた。
 体温が、一気に下がった気がする。
 とっさに逃げかけ、けれど、足は、凍り付いたように動かない。悲鳴を上げようにも、喉が張り付いて、声が出ない。
 頭が痺れて、意識が捉えようもなく膨張していた。ただ、痛い程に分かるのは、"恐い"という感情だけ。
 自分でも意外に思う程に、ビクついていた。振り向くことさえ叶わない。縫い止められ、狭まった視界に写るのは、疎らな雑草が長閑(のどか)に揺れる、陽に晒された地面だけ──
 エレーンは、怯えわななく唇を、強く強く噛み締めた。
(──ケネルの、バカ!)
 あんな悪ふざけ、したりするから。
 足がガクガク震えて、言うことを聞かない。肩を掴まれただけなのに、体が竦んで動けない。
 誰だろう。
 いつから、そこにいたのだろう。上背のある筋肉質な気配を、背中に感じる。ジロジロ見ている、ぞんざいな視線を感じる。
 肩を捕えた冷たい手。──その手が一つ、肩を叩いた。
 それで、やっと弾みが付いた。
 金縛りの呪縛が、解ける。石のような体が、動く。
 声にならない悲鳴を上げて、転がり出るようにして前へと逃れ、慌てて、後ろを振り仰ぐ。
「──え?」
 エレーンは、瞬いて、首を傾げた。
 見上げた視界に写った顔が、──真後ろに立ち、肩を掴んでいたその相手が、思いもかけぬ人物だったからだ。だって、闊達そうな精悍な顔、逞しい褐色の肌に、陽に焼けた茶色の短髪、穏やかで落ち着いた茶色の瞳、そう、だって、この人は──
「バパ、さん?」
 ポカンと口を開け、唖然と見返す。
「よ、こんにちは」
 気楽な調子で、そう返し、彼は、キョトンと顔を見た。
 エレーンは、訳が分からずに、キョロキョロ辺りを見回した。連れは、いない。彼一人だけだ。
 この人は、確か、あの群れのリーダー格の一人、"バパ"と呼ばれる、あのおじさんだ。でも、そんな偉い人が、何故、たった一人で、こんな所に……
 
 ──ってか、何処から湧いて出たんだ!? このオッサン!?
 
 人の気配なんて、しなかったのに。
 アングリと口を開け、エレーンが呆然と見上げていると、短髪の首長は、静かな周囲にさりげなく目をやり、その目を戻して、呆れたように腕を組んだ。
「何処へ行くんだ? この先は、崖だぞ」
「……え、ガケ?」
 訝しむような視線を向けられ、エレーンは、はっと我に返った。
「……あ、はあ……いや、あの、なんていうか、……別に、あたしは、崖なんて、そんな……その~……あの、そんなことは……」
 しどろもどろになりつつも、相手が納得しそうな適当な理由を、必至で探索。そりゃ、さぞや、挙動不審に写ったことだろう。けれど、とっさのことで、要領を得ない。
 バパは、しばらく黙って見ていたが、短髪の頭を掻きながら、さわさわ揺れる緑の木立を、グルリと一周、振り仰いだ。そして、
「ああ、そうか。方向が分からなくなっちまったか」
「え?」
「まあ、不慣れなあんたじゃ、無理もない。ここ 《 影切の森 》 では、そういうことが、まま起こるしな」
「……は、はあ、……いやっ、まあ、あの~……?」
 小首を傾げ、誤魔化し笑いを返しながら、エレーンは、密かに、冷や汗を拭く。実に、好意的な解釈だ。
 はっはっは──と笑って、闊達に話を収める首長から、小さくなって目を逸らす。この先に、海があるのは、知っている。
 エレーンは、コソコソと目を彷徨わせた。このままだと "迷子になった" ことにされてしまうが、訂正しようにも、暴力的なまでに凄まじい、あの異様な衝動は、他人には、ちょっと説明し難い。
 一人でモジモジしていると、チラと、バパが目を向けた。「気を付けな」
 日焼けした腕をゆっくりと組んで、短髪の首長は、向き直る。狼一号
「この樹海の先の、南の方には、ここより、もっと酷い場所がある。万年、深い霧が立ち込めていて、慣れてる奴でも、そこから抜け出すのに難儀する。悪くすりゃ、そのまま遭難だ。あそこは、磁石さえ利かないからな」
「……は……あ……」
 首を項垂れ、エレーンは、神妙に聞いていた。リアクションのしようがない。
 バパは、至極、真面目な顔だ。迂闊な者に注意を与える、落ち着いた年長者の声。普段は、愛想良く笑っている人だが、今は、深刻な内容だけに、さすがにヘラヘラしていない。
「で、何してんだ? こんな所で」
 ギョッと、エレーンは、飛び上がった。
 理由を訊かれたから、ではない。改めて尋ねてきたかと思ったら、いきなり、肩を抱いてき (やがっ) たからだ。
 我が身を抱いて一足飛びに飛び退り、ギッと、無礼者を睨め付ける。
 不届きな手を宙に浮かせて、バパは、キョトンと停止した。だが、苦笑いで頭を掻くと、取り下げたその手を、腰に差した短剣の柄へと持っていき、──て、え!?
 
 ──さりげなく何する気だ!? このオッサン!?
 
 エレーンは、躍り上がって、あわあわ……と逃げ腰。
「どうした?」
 精悍な顔で、ふと振り向くと、バパは、鞘ごと引き抜いた自分の得物を、無造作に地面に放り出した。
 ガシャンとぞんざいに転がったのは、見るからに使い込まれた鞘入りの剣。これまで数え切れぬほど握り込まれてきたのだろうその柄は、白っぽい地色が、既に薄黒く変色している。そう、実用に供されてきた、、、、、、、、、ことは一目瞭然、この使い込まれようは、単なる装飾品などでは、あり得ない。
「そ、そ、それ──な、な、何を──っ!?」
 すっ飛んで木の裏へと避難して、エレーンは、ジタバタ喚いて顔面蒼白。想像したくもない物騒さだ。
 けれど、ビクビクと覗き込むへっぴり腰の相手に構わず、バパは、投げ出した短剣の横に脚を折り、大儀そうに、よっこらせ、と腰を下ろした。「──ちょっと休憩」
「はっ?」
「せっかく、こんな可愛らしい話し相手もいることだしな」
「……」
 勝手に "憩い仲間" に仕立てられ、エレーンは、己を指差し (あたしィー!?)と凝固した。しかし、その一方で、意識の方は、依然として、物騒この上ない "それ" にいく。
 チラと盗み見たエレーンの視線の先を追い、バパは、今しがた自分で投げ出した短剣に目を向け、「ああ、こいつか、」と苦笑いした。
「──すまんな。俺達はなにぶん、他人様ひとさまから恨みを買う商売なもんでね。コイツがないと、いざって時に、自分の身が守れない。──しかし、こんな物は、あいつらだって持ってたろ?」
 無論、彼の言う"あいつら"とは、このところ、彼女に張り付いている、無愛想な隊長ケネル、並びに、吊り目の副長のらねこの、件のコンビのことである。そして、バパは、「なんで、俺の時だけ……」とイジケそうな顔をする。
 彼我の扱いの差別的な落差に、エレーンは、唐突に気が付いた。
「──あ、──あ、で、でも、あの、ケネルって、ああ見えて、結構ぼうっとしたトコあって、だから、こういうの持ってても、別にあんまり恐そうじゃないし──あ、だってホラ、顔だって別に、そんなに恐い顔って訳でもないし、だから、……だから、その……」
 慌てて、オーバー・リアクション。無駄に両手を振り回し、言い訳がましく、あたふたと釈明。
 けれど、実のない弁解を続ける内にも、盗み見の視線は、物騒な得物に釘付けだ。自らの置かれた状態に慣れ、気持ちに余裕の出てきたエレーンも、それには、とうに気付いていた。彼らの何れもが、常時、刀剣を携帯している、ということに。でも、正直なところ、そんな物、もう見るのも嫌だった。だって、あれは、鳥獣を狩る為の道具なんかじゃない。
 
 人を、、傷つけ、苦痛を与える為の、、、、、、、、道具だ。
 
 相手の痛みを知った上で、その効果と効率とを計った上で、人が人を傷つける図。──そのドス黒い凄惨さは、想像して余りある。
 ヘドモドしながら、エレーンは、必死でフォローを入れる。短髪の首長は、胡座(あぐら)の膝に頬杖を付き、ふーん……と小首を傾げて、マジマジと熱演を眺めていたが、
「あいつが 好き か」
「──はあっ!?」
 
 出し抜けに、何を言い出す!? このオヤジ!?
 
 このつっけんどんな不意打ちには、年長者への表敬も恭謙もすっ飛ばし、エレーンは、端的&不躾この上なく訊き返す。
 しかし、短髪の首長は、ヒョイと顔を突き出し、直球勝負。
「だから、ケネルの奴が好きか、って」
「──ち、ち、ち、ち、」
 慌てふためき、エレーンは、前にも増して、両手をブンブン振り回し、キッと顔を振り上げた。
「違いま( す )──っ!?」
「膝に、乗ってた」
「──う゛」
 一発で、沈められる。バパの勝ち。
 シレっと横目で指摘され、エレーンは、前のめりMAXの全力説得体勢で、そのままギクリと氷結した。絶句した額には、嫌な具合に冷や汗タラタラ。どうやら、あの犯行現場を、バッチリ目撃されてたらしいのだ。
 さっくり勝ったバパはといえば、白けた顔で、当て付けがましい視線をチラリと送り、
「いいのかよ? どんなに寛容な旦那でも、他の男にあんなことしたら、やっぱり、さすがに怒ると思うぞ?」
「……あ、あれは、……別に、そういうんじゃなくって……」
 両手をモジモジ動かして、エレーンは、ドキマギしながら俯いた。
「ただ、ケネルって( 鈍感だから )、あたしが何をしても気にしないし、あんまり喋んないけど、頼り甲斐はあって──あ、別にダドリーが頼りないとか、そういうこと言ってるんじゃないんだけど、……でも、ダドは、あたしより二つも年下で、何考えてるのか、よく分からないところがあって、でも、ケネルは、何でもハッキリ言うから分かり易くて、こっちのいいように計らってくれるし、全部任せておいても、危なっかしくないっていうか、ハラハラしないで済むっていうか、何も考えないで安心して寄りかかっていられるっていうか、だから、気持ちがとっても楽で……ケネルは、なんか親類みたいで、頼りがいのある兄貴みたいで、だから、一緒にいると落ち着いて、だから──」
「やめときな」
「──え?」
「碌なことには、ならねえから」
 素っ気なく、そう言い切り、バパは、続けて釘を刺す。「そもそも、奴の方じゃ、そんな風には見ちゃいない」
「──だ、だからっ! それは、違が──っ!?」
 真っ赤になって顔を振り上げ、エレーンは、アタフタと訂正の手を振る。だが、動揺しきりの必死な相手を見もせずに、バパは、日に焼けた腕を、無造作に空へと突き伸ばすと、どうでも良さげに欠伸(あくび)した。「ま、そう気張るなって。今からそんなじゃ、保たねえぞ?」
「……は……あ……。って、え──?」
 フル稼動に見合わぬ肩透かしを食い、ふと、顔を上げたエレーンは、ギョッと、バパを見返した。
 今度は、肩を抱いてきたから、ではない。
 突如、ゴロリと、その場に寝転が(りやが)ったからだ 。それにしたって、この人、
(なんで、寝るかな!?)
 いきなり、地べたに。
 唖然と口を開け、エレーンは、絶句で、足元を見下ろす。理解不能だ。もしかして、
 ……自由人なのか?
 けれど、当のバパは、両手を頭の下に敷き、編み上げ靴の脚を無造作に組むと、気持ち良さそうに目を閉じた。
 
 
 木漏れ日揺れる、爽やかな森の緑陰である。
 頭上では、小鳥がチュンチュン、穏やかに、軽やかに、鳴いている。そして、世話係を撒いて森に分け入り、自由の身となったエレーンが、今、何をしているかといえば、
(なに、この人は~!!!)
 突然、昼寝を始めたバパの隣で、ひょんなことから、日向ぼっこする羽目と相なっていたのだった。
 決して、望んでこういう状態になっている訳ではないのだが、彼の言葉には、何と言うのか、有無を言わさぬ強制力があるのだ。そう、彼の意向には、逆らえない何かがあるような──。もしや、これが長の威厳とかいうヤツか?
 仕方なしに背を丸め、エレーンも体育座りで付き合った。
 抱えた膝に、そっと嘆息。確かに、知らない顔ではないけれど、隣で昼寝をされるほど、親しい仲だという訳でもない。
 しかし、ゴロリと寝転がった相手の方は、全くこの限りではないらしい。下草の上に寝そべった、その伸び伸びとした態度は、リラックスしてること、この上なし。
「──ああ、いい天気だな。ここは、静かで、気持ちがいい」
 呑気というのか何というのか、そんなことを、一人のうのうとのたまいながら、両手を上げて「うーん……」と伸びなんかしたりする。自分だけ憩っているのが、もうアリアリ。──と、ふと、バパが目を開けた。
 サワサワ揺れる周囲の木立を、首だけ持ち上げ、不思議そうに見回す。「……なあ? なんか今日、鳥が、やたらと多くねえ?」
「そ、そうですか……?」
 エレーンは、エヘラヘラと、お愛想笑い。なんだ? それ。
 そんなことより、こっちとしては、勝手に接近されて、大いに困惑しているのだが……。
 けれど、当のバパには、遠慮も、躊躇も、微塵もない。ここにいるのが、あの隊長や副長の方だったなら、森を勝手に徘徊してたことがバレた途端に、即刻カミナリ食らって強制連行されること請け合いだが、この短髪の首長は、長閑(のど)やかと言うのか何と言うのか、そうした荒っぽい手段を講じるつもりは、ないらしい。
 もっとも、「帰る時には、起こしてくれよ」なんて、気軽に頼んでくれちゃったもんだから、何処にも行くことが出来ないのだが。
 
 思わぬところで足止めを食らい、エレーンは、所在なく膝を抱えた。
 遠くで、茂みが鳴っている。ひっきりなしに、ザワザワ、ザワザワ……。兎やリスにしては、音が大きいような気がするけれど、ファレスが捜しにでも来たのだろうか。
 ……いや、違うだろう。葉擦れの音が、あちこちから聞こえて来るし。
 複数方向にある音を、一人で立てられる筈はない。もっとも、あの音の内のどれか一つが、仮にファレスの気配だったとしても、こんな茂みの裏に、隠れんぼでもするみたいに、小さくなって蹲っているのでは、きっと、おいそれとは見つかるまい。もちろん、意図的に隠れている訳ではないけれど、こうして、隣で、ベタっと地面に寝られちまっちゃ、自分だけ突っ立ってるっていうのも、なんか、バランス悪くて不自然だし。
 それにしても──と、エレーンは、伸び伸びと寝転がった隣の御仁を、チラと窺う。
 バパは、耳を澄ましてでもいるように、静かに目を閉じている。日焼けした精悍な顔立ちだ。彫りの深い端整な造りは、さすがに《 遊民 》と言うべきか。こんな"おじさん"にしては、中々イケてる方だろう。しかし、
(……無視なワケ……?)
 チラチラ様子を窺う相手のことになど、とうに気付いているのだろうに、バパは、相も変わらず、一人、目を閉じ、寝転がっているだけだ。この分だと、その内、本当に眠ってしまうかも知れない。自分の方から誘っておいて結構失礼な態度だが、そういや、奴らは、隣人と何も話さなくても、平気でいられる神経の持ち主。それについては、あのケネルが、常日頃から、身を以て実践している。けれど、こんなにシン……と静まり返っていると、なんだか、ちょっと──
 エレーンは、気まずくなってきた。三體牛鞭
「え、えっとぉ、バ、バパさんは、何しに?」
 まずは、当り障りのない話題を振ってみる。この短髪の首長と、正面切って話をするのは初めてで、だから、改めて話し掛ける際には、さすがに、ちょっとばかり勇気を要する。
 緊張気味に呼びかけられて、バパは、「……うん?」と目を開けた。
「──あ、だから! バパさんは、何しに、こんな所まで?」
「あー、俺か? 俺はな、」
 おや? 意外と気さくな反応ではないか。
 偉いわりに。
 そして、短髪の首長は、やはり、いつもと同じように、ニコニコと、愛想良く答えたのだった。「小便」
「……」
 そんなこと言うな。トシゴロの娘に。
 エレーンは、ガックリと沈没した。まったくもって、論外である。
 よく出来た外見とは全く不似合いなデリカシーのなさ。見てくれは良くても、やっぱ、オヤジだ。けれど、まあ、それは、百歩譲って、さて置くとしても、だ。
 エレーンは、ソワソワし始めた。あんまり良く知らない人と、こんな人気(ひとけ)のない所で、二人っきりでいる、というのも、ちょっと、どうにもアレなのだが……
 なんとはなしに落ち着かず、無人の周囲を、助けでも乞うかのように、キョロキョロ見回す。まあ、そんなことをサラッとのたまう辺り、気さくな人柄なのかも知れないけれど、でも、やっぱり、この二人きりというのが、どうにもネックで──と、ヒョイと目を戻した視界の中に、ふと "それ"を発見した。
 エレーンは、目を丸くした。
(へえ? おっしゃれ~。このおじさん、ピアスなんかしてる……)
 短く刈り上げた左耳に、小さな赤い石が光っていた。
 普段は、相手の頭が高い位置にあるもんだから、今まで全然気付かなかったが──いや、正直に言おう。" おじさん"カテゴリー全般には、皆目興味がないもんだから、全く注目していなかった、というだけの話だ。それにしても、洒落っ気のある若者だというのならばともかく、この年にしてピアスとは。
 だって、この人、もう、結構いい年だ。どう贔屓目に見たって、さすがに三十は超えてるだろうし……
 ヒョイと、バパが、こっちを見た。
「俺の顔に、何か付いてる?」
 小首を傾げて、にーっこりと笑いかける。そして、更に言うことにゃ、
「それとも、俺に見惚れてた?」
「……。い、いえ」
 大した自信だ。
 エレーンは、おほほ……と引き攣り笑う。案外、この首長、一見、誠実そうに爽やかに見えて、実は、結構な女誑しなのではないか? さっきも、さりげなく肩なんか抱こうとし(やがっ)たし──。
 けれど、年上の偉い人を相手に、気安く突っ込みを入れるほど、エレーンだって迂闊ではないのだ。
「あ、あの、バパさんて、お洒落なんですねー。男の人なのに、ピアスしてるしぃー」
 薄ら寒い疑惑の空気は、さりげない話題転換で強制排気。こうした日和見主義も、メイド時代に培った自己保身の知恵。
「これか?──これは、な」
 装飾品に話を振られ、バパは、小首を傾げて愛想良く笑った。「俺の奥さんのヤツ」
「わあ、もらったんですかあ? 仲いいんですね」
(本当は、どうでも良かったが、)セッセと換気に精を出すべく、ここは、努めて明るく振る舞う。
 バパは、照れたように、のたまった。
「いやあ、ちょっと、別の女んとこに行ったらさ、馬乗りになられて、ブスッと、な」
「……は……あ……」
 エレーンは、引き攣り黙った。これは、思わぬ展開だ。
 仲良しコヨシお手々繋いだ薔薇色イメージから急転直下、この暗黒のフェイントに、エレーンは、片頬をヒクつかせる。浮気を知った彼女から、怒りのピアスをぶっ刺されたらしい。
「い、痛かったでしょう」
 たじろいで、又も、あはは……と、薄ら寒く笑う。成す術なし。意外や意外、凄まじい夫婦関係だ。
 そして、見るからに精悍そうな短髪の首長は、
「泣いた」
 意外にも、素直に、こっくり頷いた。痛かったらしい。
 それにしたって、その奥さんという人も、よくも、こんな人を相手に挑みかかったものだ。
 日に焼けた逞しい腕を盗み見て、エレーンは、内心、肝を冷やす。だって、いくら気安いったって、そもそも、傭兵をしているような人なのだ。無骨ないでだちに 逞しい体躯。この人が怒ったら、恐そうだ。暴れ出したりしたら、きっと、手に負えやしないだろう。いや、もしかすると、実際、その後、奥さんに手を上げたりなんかして……?
「あ、あのぉ~、やっぱ、バパさんも、その後、仕返しとか、したりして……?」
 上目遣いで恐る恐る見やって、その後の顛末を、訊いてみる。
 バパは、瞬いて、首を傾げた。「まさか。だって、相手は、女だぞ?」
 何を言われているのか分からない、といった顔。
「あ、あの、でもぉ~、やっぱ、そんなこと、されたらぁ~……」と、エレーンがモジモジしていると、如何にも不本意そうに、憮然とした口調で付け足した。
「女を叩くなんざ、男じゃねえよ。男は、強い奴しか相手にしないものだ」
「あ、バパさんて、強いんだ?」
 思わず、突っ込む。エレーンは、チロリンと疑いの眼差し。
「そりゃあ、もちろん」
 バパは、即答。自信満々、胸を張る。
 エレーンは、頷き難く氷結した。だって、つい今しがたの自己申告によれば、ここにいるのは、ピアス(如き)で泣いちゃった男だ。
 相手の不審が伝わったのか、バパは、肩を竦めて、ツラツラ続けた。
「だって、女を殴ったって、仕方がないだろ。男の力が女よりも強いってのは、当たり前の話だ。男と女じゃ、体の作りが違うからな。──男には、暗黙の了解ってのがある。男は、基本的に、男しか相手にしない。競争の相手は、常に男だ。女と張り合おうとする奴なんてのは、まず、いない。男と女は、全く違う生き物だからな。ああ、動物は、植物と張り合おうとはしないだろ? それと一緒だ」
「……(しょくぶつ……?)」
 あまりにも極端な譬(たと)え話に、エレーンは、眉根を寄せて、首を傾げる。(まったく、男どもは、こういうところが排他的なのだ──!)と、このところ、何かと言っちゃあ、あの二人(ケネルとファレス)から仲間外れにされる花の乙女エレーンは思うのだが、そんな不満などはものともせずに、異性を勝手に"植物"呼ばわりした短髪の首長の(独断と偏見に満ち満ちた)話は、いい調子で続く。
「拳の向かう先は、関心の在りかだ。焦点が合っているということは、そいつのレベルは、そこだということ。逆にいえば、拳を下ろしたその時点で、レベルが確定しちまうと言ってもいい」
「……(イヤ、そーゆーのは、別にどーでもいいんですけど。関係ないし)」
 あんまり興味はないのだが、おじさんは、己に酔っているようだ。
 一人、陶然と語られてしまい、エレーンは、口を挟めず聞いていた。あのアドにしても、そうなのだが、どうも、この年代のおじさんは、"○○とは、かくあるべし!"と、熱く持論を語りたがる傾向がある。そして、本日のお題は、言わずもがなの「男とは──」。
「強い奴ってのは、ただ黙って立ってるだけで、周り中から吹っかけられるもんなんだ。男ってのは、常に上を目指す生き物だから、出来るだけ強い奴と当って、自分の程度を見極めたい。しかし、時間も体力も、無限にはないから、そいつが相手を出来る範囲は、自ずと限られてくる。上限が決まれば、下限も決まる。つまり、下限が何処にあるかで、そいつの程度も、だいたい分かる。大抵、自分よりも上の奴には関心があっても、下の方にはないからな。だから、見た目がどんなに強そうでも、弱い奴ばかりを相手にするようなら、所詮は、その程度のレベルだと自ら白状しちまってるようなもんだ。そして、そういう偽者に名を騙られちゃ、日々体を張ってる俺達は、それこそ、いい迷惑ってもんだ。そういうのを "男の風上にも置けない" という」
「へ、へえ~? そうなんだ!」
 息継ぎの切れ目を見つけて、やっと、何とか合いの手を入れる。会話には極力参加したい質である。
 しかし、ヒョイと振り向いたバパの応えは、
「うん、多分な」
 適当そのもの。
 エレーンは、絶句で引き攣り笑った。いい調子で語っていたから拝聴したが、この男、意外といい加減なのではないか?
 どうも、インチキ臭い。この誠実そうな、闊達な穏やかさは、看板倒れ、というヤツか?
 女誑しだし。
 一頻り語って満足したのか、(どうも胡散臭い) 短髪の首長は、大口開けて欠伸(あくび)した。「──ま、男とは呼べんような臆病者には、始めから縁のない話だな」
「でも、男じゃなかったら、そういう人達は、なんていうの?」
 突っ込み所を発見し、エレーンは、内心ホクホクと、意地悪チックに訊いてやる。
「そういうのはな、」
 バパは、にっこり笑って、振り向いた。
「"負け犬"ってんだ」
 片目を閉じて、素早くウィンク。
 エレーンは、パッと目を逸らした。おじさんのくせに、意外にも魅惑的だ。
 顔にポッと火が点いて、不覚にも、動揺。だって、何やら妙に色気があるのだ。けれど、若い男のように、変にギラギラしていない。それは、ごくごく自然で柔らかい。肩肘張った硬さがなくて、屈託がなくフランクで、円熟したまろみがあるのだ。そして、随分、手慣れてる。
 海千山千の余裕のバパは、してやったりと、ニコニコ顔で眺めている。うっかり、真正面から受け止めてしまい、ドキドキと動揺しているエレーンが、(こういう人は、きっと、女性をリードするのも上手なんだろうなあ…… ) などと、熱烈ラブ・ロマンス&落花流水系の想像を、一人逞しくしていると、
「ケネルだって、あんたが、どれだけ我がまま言っても、あんたを叩こうとはしないだろ?」
 その名で、エレーンは、ふと、我に返った。
 上目遣いの腕組みで、ふ~む、と、それについて考えてみる。
「う~ん、ケネルの方は、そうだけど……あ、でも、女男の方は、時々、殴りたそうな顔してるけどね。──あー、そっか。やっぱ、ああいう(=女みたいな) 顔だから?」
 野良猫にアッカンベされた、これまでの非礼の数々を、う~む……と頭の中から捻り出し、エレーンが密かにムカついていると、バパは、顔を綻ばせて苦笑いした。
「……あいつが何をしているのか、、、、、、、、、あんたは、本当に知らないんだな」
「はい?」
 エレーンは、パチクリと瞬いた。いやに、思わせ振りな発言ではないか。
 何かあると嫌なので、早速、根拠を問い詰める。だが、バパは、惚けるばかりで口を割らず、結局、それ以上は、何も答えはしなかった。
 仕方なく肩を竦めて、エレーンは、話を仕切り直す。
「なんだー、バパさんて、気さくなんだー。あたし、もっと恐い人なのかと思ってたわ」
「"恐い"?」
 エレーンの感想を復唱し、バパは、怪訝な顔で訊き返した。
 そうした形容は、言われ慣れていないようで、唖然と絶句した後、困ったように笑いながら、寝そべった体を引き起こす。
「──おやおや、これはショックだな。──参ったな。あんたみたいな若い娘に、そんなことを言われたのは、初めてだ」
 モソモソと座り直して、陽に焼けた項(うなじ)をゆっくりと撫でる。
 何を考えているものか、バパは、しばらく、そうしていたが、改めて片膝を立てると、その上に、日に焼けた腕を、おもむろに置いた。頬に浮かんでいた笑みを消し、その目をエレーンに振り向ける。
「何故、そう思ったんだ?」
 答えを強いる、真っ直ぐな視線。
「──え? だ、だって、」
 唐突に、鋭い視線に射抜かれて、エレーンは、ギクリと居竦んだ。
 目を逸らして、思わず、俯く。
「だって、皆がゲルに集まった晩も、バパさんが来るまで待ってたし、馬で走る時なんかも、いつも先頭走ってるし、──あ、ほら、先頭ってあれ、一番強い人がやるものなんでしょ? だから、あたし、──」男宝

2012年8月22日星期三

優恋慕

「そうか。よかった、よかった。母さんに報告してこよう。しばらくふたりで話したらいい。久しぶりに会ったことだし、積もる話もあるだろう」
 淳介は満足至極に何度もうなずいて徐(おもむろ)に立ちあがると、優歌たちを残して和室を後にした。蔵八宝
 積もる話……って。
 優歌は途方にくれた。話題を探すのさえたいへんだというのに。
 淳介の背を縋(すが)るように追った優歌は、目のやり場に困ってしまう。そのすえ、視線をそのままにして、源氏物語をモチーフとした襖(ふすま)の絵を馬鹿みたいに見つめた。
 ずっと着物でいる苦しさと、へんに沈黙した和室の重厚感に押し潰されそうだ。
 気絶できるなら気絶してこの場を逃れたい。呼吸さえ覚束(おぼつか)なくなるほど気は張り詰めている。
 この場を凌(しの)げるような話題を探すのに、優歌の思考力は空回りして役に立たない。絶好の題材である“卒業”のことさえ思い浮かばないでいた。
 優歌が無駄に足掻(あが)いているなか、さきに口を開いたのは匠だった。
「立場を考えて、ああ答えてしまったけど、優歌ちゃんから断ってくれても、おれはかまわない」
 どういう思考回路をたどったのか、淳介からなぜ結婚という形で身売りをさせられるのかがわからなければ、ゆっくりと切りだした匠が云う立場も優歌にはまったくわからない。
 ただ、断ってくれてもかまわない、という曖昧な言葉に傷ついた。優歌は襖から目を離してうつむくと、くちびるが白くなるくらいに強くかんだ。
「誤解しないでほしい。どうでもいいと思ってるんじゃないし、断るように仕向けてるわけでもなくて、むしろ、結婚から始まる関係でもいいんじゃないかと思ってる。けど、おれは嫌われてるようだし」
 優歌はその言葉に驚いて顔をあげた。匠はまっすぐにこっちを向いていて、ごくごく真剣に続ける。
「だから、無理強いは――」
「違います! 嫌いじゃありません!」
 優歌は自分で云ってびっくりした。まるではじめて会ったときの感覚が繰り返されている。
 表情に乏しい匠もさすがに驚いたようで、目をほんの少し見開いて言葉を切った。あの時と同じ笑みが匠の口もとに還る。
「なら……優歌ちゃんに特別好きな奴がいなければ、これからおれと始めてみないか?」
 柔らかくなった匠の表情に断る理由なんて見いだせない。
 はじめて会ってまもない頃、苦手な人はたくさんいたのに、匠を苦手の部類に入れた瞬間、ほかの人と違ったところはもう一つあった。
 悲しい、と思ったこと。
 自分のことなのに、その意味がいまでも優歌はわからない。
 いまわかったのは、匠が冷たく見えてもけっして冷たいわけではなく、いまみたいに実直であること。
「はい!」
 思考回路が筋の通った結論を見いだすまえに、優歌の口から返事が飛びだした。恥ずかしいくらい張りきった声で、熱が出たみたいに躰中を駆け廻る血液の温度が上がった。
 匠は小さく笑みを零した。
「じゃ、これからよろしく」
 座卓越しに伸びてきた匠の手は大きくてきれいで、戸惑ったけれど、優歌も手を伸ばした。
 四年前に優歌の頬を包んだ手がそうだったように、匠の手はいまも温かく優歌の手をつかむ。
 匠に対する苦手意識を払拭(ふっしょく)したのは、その瞬間の匠自身の温かい手だった。

 結婚が決まった昨日、出張中だった姉の優美はまだ婚約のことを知らないはずだ。昨日の夜遅く、優美は卒業祝いの電話をくれたけれど、優歌は混乱していたし、事が事だけに対面して伝えたいと思った。
 金曜日はいつも遅くなるのに今日は六時半と、優美はいつもより早めに帰ってきた。優美はリビングに寄ることなく、まっすぐ自分の部屋に向かう。優歌はあとを追って二階にあがるとドアをノックした。
 いいよ、と云う軽快な声が聞こえる。
「おかえり。早かったんだね」
 部屋に入ると、優美は上着を脱いでいるところだった。ベッドの傍にボストンバッグと仕事用のトートバッグがある。業平に入社して丸三年になる優美は仕事への自信が出てきたようで、いつも充実感にあふれている。
 それに比べて優歌は就職活動もすることなく短大を卒業したいま、怠惰な生活が始まった。
 業平を受けてみればという父の助言は就職活動まえの段階で蹴った。優美はいま証明されているように期待に応えられる資質を充分に持っているけれど、消極的な優歌には荷が重すぎる。業平での活躍はまず見込めないし、それどころか淳介の顔に泥を塗ってしまいそうだ。
 いざ優歌が普通に就職活動をするときになって、両親がともに家のことをやっててくれればいいと云いだした。
 優歌はもともと仕事をするということに積極的ではなく、つい両親の言葉に乗って家事手伝いなんていう、どうでもいい立場に甘んじた。もとい、積極的になれることが優歌にあるのかすら怪しい。
 そういうなかで、いつ淳介は優歌と匠の結婚ということを考え始めたのだろう。
「うん……ちょっとね」
 さっきの軽快さはどこへやら、そう答えた優美はいつもの率直さが消えて、めずらしく何かをためらった様子だ。優歌が問いかけるように顔を傾けると、優美は答える気がなさそうに首をすくめた。
「お姉ちゃん、あのね……」
 戸惑いがちに云いだして、優歌はいったん言葉を切った。
「どうしたの、相談事?」
「ううん、そうじゃなくて……えっと、わたし、上戸さんと結婚することになったの!」
 優美はスーツの上着をハンガーにかけていた手を止めた。
「もう決めたの?」
「うん!」
 優歌は云ってしまうとほっとして、優美の質問に大きくうなずいた。
「そっか」
 優美は微笑んで相づちを打った。それからハンガーラックに上着を吊るすと、今度はベッド脇にかがんでボストンバッグを開けた。
 優美のあまりの反応のなさに、優歌は首をひねった。
「お姉ちゃん……もしかして知ってた?」
「帰ってくるまえにお父さんのところに顔を出したから」
「あ、そうなんだ。驚くのを見たかったのに」
「驚いてるよ。優歌は上戸さんのことが苦手だと思ってたから」
「うん。そうなんだけど、昨日はなんとなく、上戸さんとならって思った」
 優美はベッドの上にボストンバックから取りだした荷物を広げてしまうと、ゆっくり立ちあがって優歌を向いた。
「なんとなく? 優歌らしいね。じゃ、着替えるから出てってくれる?」
「……うん。いまから上戸さんに会いにいくの。食事しようって」
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
 優美が優歌に向けた微笑みはどこかぎこちなく見えた。それは予測していた反応とは違っていて、優歌は何かが足りない感じがした。

 匠と約束した七時半まであと十分というときに業平商事に着いた。外はすっかり暗い。それでも業平商事が面した通りは、会社に帰る人、会社から帰る人がまだ多くいる。見上げた業平商事のビルも、灯りの漏れる窓がいくつもある。
 匠に云われたとおり、優歌は業平ビルの中に入ると待合ブースの椅子に座って待った。観葉植物が囲っているだけで仕切りのない待合ブースは、玄関先からその正面奥のエスカレーターまでほとんどを見渡せる。
 優美のことが気にかかって、優歌は何気なくここまでやって来たけれど、懐かしい光景だと感慨にふけったのもつかの間、エスカレーターの上に人が現れるたびに鼓動がびくんと震え、いまになって現実が迫る。昨日いきなりでふたりの関係は婚約に発展したわけで、だんだんと優歌は落ち着きなくそわそわしだした。
 食事をするのは匠が云いだしたことだ。短大卒業の話からお祝いをしようと、昨日の帰り際に誘われて、優歌は結婚を承諾した勢いのままにうなずいた。
 さすがに今日は、あの日みたいにメモを残して帰るわけにはいかない。そう思ったら、自然といまだに財布の中に潜んでいる名刺のことが脳裡に浮かんだ。もらった日のお礼を云った瞬間と同じように、昨日の笑顔というには控えめすぎる笑った顔がまた見られるのなら、逃げるよりは落ち着かなくてもどきどきしているほうがいい。
 受付の上にある時計が七時三〇分を差し、それからエスカレーターと時計を交互に見ていると三十五分になって匠が現れた。
 黒いダレスバッグを片手にグリーン系の黒っぽいスーツという格好は、シャープな印象を与える端整な顔立ちと背の高さが相俟(あいま)って目立っている。
 苦手ながらもつい見てしまう。これまでもそういうことが多かった。最初に会ったときもそうで、怖さと見紛(みまが)うような印象を受けるのに、それを圧倒する匠自身のオーラみたいなものに引き寄せられたのかもしれない。それほど、同じビジネスマンたちの中にいても、ほかに紛らせない存在感がある。
 優歌は待合ブースからちょっと出てみた。同時に匠の視線が優歌に向いた。エスカレーターから降りて、まっすぐに優歌のところへとやって来る。
「終わりました?」
「ああ。待たせた」
「まだ五分しか過ぎてませんよ。お疲れさまでした」
 大きすぎず細くない切れ長の目を少し狭めて、匠はふっとかすかに笑みを漏らした。
 よかった。
 柔らかくなった匠の表情は昨日から持続している。来て早々、笑った顔が見られると優歌はうれしくなった。
「コート着て。外は寒い」
 匠は優歌が腕にかけているイエローグリーンの薄手のコートを指差した。
 コートを着ている間、匠にじっと見られているのがわかり、優歌は焦ってしまってちょっと手間取った。
「匠!」
 優歌がカールした長い髪をコートから払うように出したその時、女性の声が匠の名を呼んだ。匠が声のしたほうを振り向くと、その脇から女性が小走りに近づいてくるのが目に入る。VIVID
 その女性が、職場見学のときに匠の前にいた女性であることはすぐにわかった。
 顔を覚えられない優歌が覚えているほど、立花はすこぶる美人だった。あれから四年近くたつけれど、ますますきれいさに磨きがかかっている。大人で、優歌にない女性としての艶があり、顔を縁取るボブヘアがまえよりもっと活動的に見えて際(きわ)やかだ。
「いま帰り?」
「ああ」
「食事でも、と思ったけど……先約あるみたいね」
 立花は云いかけて、明らかに匠の“連れ”という距離にいる優歌にちらりと目を向けた。
「あ……こんばんは」
 立花が覚えているかどうかもわからないまま、優歌は戸惑いながら会釈した。立花は優歌を上から下まで見てから、ふと思い当たったような表情をした。
「あ! もしかして、じゃなくてもしかしなくても本部長の娘さんね! えっと……」
「優歌ちゃん」
 立花が思いだせずにいると、匠が云い添えた。
「そうそう! ……え、もしかして付き合ってるの?!」
 立花から頓狂(とんきょう)な声で訊ねられ、優歌は困惑に顔を火照(ほて)らせた。
「結婚する」
 匠の一言に立花の表情は驚きに止まり、優歌は気後れを感じ、その場に微妙な空気が漂った。
「……結婚? 匠が? 優歌ちゃんと?」
 今度の繰り返し問う立花の云い方は、驚くよりは疑うような口調だ。
「ああ」
 駄目押しの問いかけに匠は気に障ったような声で肯定した。
 匠がどう答えるのだろうと思っていた優歌は、立花が疑念を抱いていることを気にするよりも、そのまえのストレートな返事に安堵した。
 結婚という約束をしたにもかかわらず位置は不安定だ。建て前だけがしっかりしていて、ふたりのそれぞれの気持ちは置いてけぼりのような感覚がある。
 ふたりの結婚の経緯が、今時の世間の発展の仕方と逆行しているのは確かなこと。
 結婚から始まる未来にあるのはなんだろう。一抹の不安……じゃなく、いま始まったばかりで不安だらけだ。
「……そうなんだ」
 立花はうなずきながら匠を物云いたげに見て、それから視線を優歌に移した。
「おめでとう。優歌ちゃん、匠みたいな男はなかなかいないし、うまいことやったわね」
 お礼を云う間もなく、どう捉えていいのか、立花は優歌が素直に喜べないようなことを口にした。
「立花」
「あ、そっか。うまいことやったのは匠もだよね」
 立花は自分を諌(いさ)めた匠に向かい、性懲(しょうこ)りもなく付け加えた。
 優歌は困惑しながら隣に立つ匠を見上げた。そこには目を細めて怖いくらいの表情があった。
 立花は悪びれていないどころか、おどけたように笑う。
「ごめん。匠が結婚するとか思ってなかったし、ちょっとからかっただけ。とにかく、おめでとう。中国の話を聞きたかったんだけどデートってことなら邪魔しちゃ悪いし、食事はまた今度ね!」
 そう云って立花は玄関口に向かった。
「立花は昔から知ってる奴で遠慮がないんだ。悪かった」
「謝ることないですよ? それより、おめでとうって云われてびっくりしました」
「びっくり?」
 匠は優歌の言葉尻を聞き留め、コートを着るときに預かっていたバッグを渡しながら訊ねた。
「……うれしい感じです」
 少しためらってから優歌が云い直すと、さっきから不機嫌そうだった匠の表情が柔らかく戻った。
業平を出てから電車で移動すると、ふたりは駅から近いイタリア料理専門のレストランに入った。店内は暖色の照明で落ち着いた雰囲気だ。予約していたらしく、匠が名乗ると給仕がテーブルに案内した。
 匠が料理まで予約していたと知ると、優歌はほっとした。男の人と二人きりで食事という経験がないことに、今更になって気づいた。
 ここに来てからまた優歌の緊張は復活していて、メニューを見せられたところで決められなかったかもしれない。友だちならいつものことと割りきってくれるけれど、匠は苛々(いらいら)してしまうだろう。
「緊張してる?」
 匠が不意に声をかけた。そわそわと周りを見回していた優歌は顔が赤くなった気がした。幸いにも照明の色がそれを隠した。
「……はい」
「ありがとう」
 その言葉はどこかずれていて、優歌は思わず伏せていた目を上げた。匠は至って真面目な顔だ。
「……あの……」
 戸惑った優歌に匠はうなずいてみせた。
「正直に云ってくれたほうがいいんだ。結婚は決めたけど、おれたちはお互いに知らないことのほうが多い。我慢してしまうとすれ違うこともあるから、つまらないと思うことでもできる限り話してほしい」
 それはもったいないくらい誠実に優歌の中へと浸透した。声はいつもと変わらず淡々としているのに、匠の手と同じくらい温かく聞こえた。
「はい!」
 勢いこんだ返事に匠が笑みを浮かべた。
「まずは卒業おめでとう」
「はい、ありがとうございます」
 お祝いの乾杯から始まった食事は、お世辞にも会話が弾むとはいえないけれど、居心地自体は悪くなかった。悪くないという云い方は控えめかもしれない。食事が終わる頃になって気づいたのは、匠が食べる速さを合わせてくれたこと。優歌が無理することはなかった。
 帰り道、駅から水辺家まで歩いて送る間も、匠の歩調は優歌のペースに合わせるようにゆっくりしている。九時をとっくに過ぎて人通りはあまりなく、足音を立てるにもちょっと気が引けるくらい静かだ。黙りがちで歩きながら、ふと匠の左手が目に入った。
「明日、昼から出かけないか?」
「え?」
 馬鹿げた衝動に駆られたときの不意打ちで、優歌は必要以上にびっくりした声を出した。匠が半歩後ろを歩く優歌を見下ろした。外灯が影を作ってその表情はよく見えない。
「午前中は仕事に出るけど、昼からは休み取れるし」
 匠は問いかけるように首をひねった。
「……わたしは仕事してませんから……」
「じゃ、電話入れてから迎えにいく」
 優歌が回りくどい返事をしても、匠は気にしていないようだ。云ってしまってからもっとはっきり伝えなくちゃと焦っただけに、優歌はほっとした。

 次の日、土曜日は昼食の準備を手伝っているときに匠から電話があった。
『車でもいい?』
「……いいですよ?」
 一時に行くと云ったあと、とうとつに訊ねた匠の口調はなぜか気遣うように聞こえ、優歌は疑問符の付いた返事をした。
『いや、車酔いするんならと思ったんだ』
「え?」
『金城が三半規管弱いって云ってた気がするし』
 躰は弱くても三半規管が弱いという心当たりはない。優歌はどうしてそんなふうに考えたんだろうかと急いで思い廻った。程なく金城を思い浮かべてみて気づいた。
「あ、大丈夫です。あれは金城さんがいつもふざけるから止める口実にしていただけで……」
 ずっとまえのことをよく覚えているなと思いつつ、優歌は云い訳をした。
『そういうことか。じゃ、あとで』
 匠は電話の向こうで呆れたようにため息をつくと、電話は端的にすまされて切れた。
「上戸さん?」
 優歌が携帯を閉じると、リビングで雑誌を見ていた優美が顔を上げて訊ねた。
「うん。車で出かけるんだって」
「そ」
 優美は短く相づちを打った。愛想なく聞こえる。昨日、匠と食事をして帰ったあと優美に声をかけたけれど、そのときからなんとなく話ができない感じだ。
 相談したいことも話したいこともあるのに。
「お姉ちゃん、どうかした?」
「優歌はお気楽でいいなって思って」
 そう云われればぐうの音も出ない。いつもなら笑い飛ばせるセリフも、いまの優美の声には棘(とげ)を感じた。強力催眠謎幻水
 何かあったんだろうか。
 そう思いながら携帯をダイニングテーブルに置いて、優歌はまたキッチンに入った。
 佐織はさっきの短いやりとりを聞いていたようで、何か云いたげに優歌を見たけれど、結局は云わないまま料理に取りかかった。優美がすぐそこにいる以上、むやみに佐織に訊くわけにもいかず、優歌は気落ちした。
 昼食になると優美は普段に戻っていて、出張の話題が上り、専ら、淳介を相手におもしろ可笑しく話した。その様子から少なくとも出張で何かあったわけではないらしい。
 だれだって、そうそういつもポジティブでいられるわけはなくて、いままでも優美が不機嫌なときはあった。
 別に急ぐことでもなく、優歌は機会をあらためることにした。

 匠は時間どおりにやって来た。
 玄関を開けると、優歌の急(せ)いた鼓動は驚きが加わってリズムを乱す。
 いつもスーツ姿の匠は、砕けてもジャケットを脱ぐくらいだ。今日のジーンズにTシャツ、そしてカジュアルなジャケットという格好は想像したこともなかった。それどころか、てっきりスーツで来るとイメージしていた。考えてみれば家にいるときにスーツなわけはない。ラフな姿も様になっていて、自分の平凡な容姿と比べた優歌は気後れしてしまった。気にしてもどうしようもないことであり、とにかくスーツよりは近づきやすい雰囲気で、優歌でも釣り合って見えるかもしれない。
 匠は家に寄ることなく、玄関先で両親に挨拶をすませただけで優歌を連れだした。
 門の前には光沢を放つブルーグレーの車が止まっている。
「上戸さん、車持ってたんですか?」
「レンタル。実家のほうと違って東京じゃ、買うほど車は必要じゃないから」
「上戸さんの実家って、福岡ですよね?」
「ああ」
「わたし、明太子好きなんです」
 優歌が云うと匠は息を漏らした。
「それは催促なのか?」
「いえ、そうじゃなくって……」
 見上げた匠はおもしろがるような眼差しで見下ろしている。ひょっとしてさっきは吹きだしたんだろうか。優歌が困ったように首をかしげると匠が背中を軽く押した。
「乗って。行こう」
 触れられることに慣れていない優歌は、さりげないしぐさにもどきどきして、匠がドアを開けてくれた助手席に乗りこんだ。
 いざ車に乗ると、本当にふたりきりという空間に気づいて、昨日のレストランよりもあわてた。けれど、車を出してまもなく、ドライヴは好きかという匠の質問から始まって、好き嫌いの話をしているうちに沈黙も気にならなくなっていった。
 一時間もすると道沿いに海が見え始める。それからまもなく、匠は広い駐車場に車を乗り入れた。敷地内にある建物の前に、巨大なイルカのオブジェが見るまでもなく目に入った。匠が連れて来たのは水族館だ。
「水族館て久しぶりです。すごく立派になってますね」
 チケットを出して奥に行くと、入り口のアーケードは水槽になっていて、頭の上を魚が泳いでいる。天井を振り仰いだ優歌が少し視線をおろすと匠の目と合った。
「おれのほうがもっと久しぶりだ。小学生んとき以来だからな」
「……上戸さんて……」
 優歌は云いかけてやめた。訊こうとしたことは不躾(ぶしつけ)な質問だと気づいた。
「何?」
「いえ。大したことじゃなくて……へんなこと云いそうになりました」
「昨日、つまらないことでも話してくれって頼んだばかりなんだけどな」
 匠はしかめた声で、いまにもため息をつきそうだ。
「……あの……いままでデートでこういうとこに来なかったのかなって思っただけです。上戸さんてモテそうだし、お父さんが急に云いだして……中国から帰ったばかりだとしても、よく……その……いま彼女がいなかったなと思って……っていうのは真由の意見……です」
 優歌が云い訳っぽく付け加えると、匠は一転して可笑しそうにした。
「こういうのはタイミングらしいからな」
「タイミング?」
「知ってるかな。金城、彼女と同棲始めるらしい」
「ホントに?!」
「社内間でグループ交際やってたけど、そのうちの一人と。今日、彼女が引っ越してるんじゃないかな。金城はすぐ結婚するつもりらしい」
「そうなんですね。グループ交際のことは聞いてたけど、その中に特定の彼女がいるってことは知らなかったからびっくりです」
「“彼女”になったのは一週間前だってさ」
 優歌は目を丸くして匠を見上げた。匠は首をちょっと傾けた。
「タイミング、だろ? まぁ、おれたちのほうがもっと驚かれるのは間違いない」
 匠のちょっとおどけた感じにびっくりしながら、何気なく出た『おれたち』という言葉の響きをうれしいと思った。そして、その“うれしい”という気持ちに優歌は戸惑う。
「真由も驚いてました」
「西尾さんはどうしてる?」
「真由は大学に行ってます。わたしと違って上昇志向百パーセントだから」
「優歌ちゃんと西尾さんて正反対って感じがするけど、相変わらず仲がいいんだな」
「真由はずばずば云ってくれるから、わたしはかえってラクなんです。真由のほうはわたしにイライラしてるかもしれないけど」
「かもしれないってことは、西尾さんがそんな態度は見せてないってことだろ? ずばずば云うっていうなら、そういうイライラとかも我慢することはないだろうし、つまりはお互いにうまくいってるってことだ」
 匠が指摘すると、優歌は真由とのことをいろいろ考え廻ってみた。高校卒業と同時に会う時間は極端に少なくなったけれど、自然と離れてしまった友だちがいるなかで、真由とは互いの連絡が途切れることはない。
「……上戸さんに云われて、真由のこと、もっと好きになりました」
 見上げた匠は口の端で小さく笑った。
「デートに関しては、いままでこういうところが好きそうな、もしくは似合う子がいなかったせいかもしれない」
「……どういう意味ですか」
 優歌が思わず訊いてしまうと、匠は答える気がなさそうにかすかに首を動かした。
 ちらりと見回した館内では親子連れ、つまり子供が目立つ。優歌が子供っぽいということだろうか。
 そう考えると、匠がどれくらいの女性たちと付き合ってきたのか気になってしまった。優歌はこういうことになるまで近づけなかったけれど、絶対に放っておかれるタイプじゃない。あの立花という女性は食事しようって云っていた。立花の容姿を思い浮かべたとたんに落ちこんだ。
「こういうデートらしいデートははじめてかもしれない」
 館内を歩きながら、しばらくして匠が云った。変わらず曖昧な云い方だ。
 家に来る淳介の部下たちは上司の前というのに、遠慮なく彼女の話題で盛りあがる。匠に関してそう云った話は人伝(ひとづて)でも聞いたことがない。けれど常識で考えればはじめてのはずはない。
 それなのに『はじめて』という言葉に、ちょっとだけ優歌の気分は浮上した。並行して、匠の言動でいちいちうれしいと感じたり、反対に落ちこんだりするのがどうしてなのかわからずに、自分を持て余した。最初に会ったときからそうだ。
 最大の理由は自分にまったく自信がないせいだろうか。変わらず人見知りはしても、どうにか相手を不快にさせない程度には克服した。成長はちょっとずつしかできなくても止まっているわけではないはずだ。それでも自信には程遠くて人の意見に左右されやすい。
 気づかれない程度にため息をついたその時、優歌は下半身に軽く体当たりされた。よろけたはずみに目の前の匠の腕をつかんだ。足もとを見下ろすと小さな男の子が頭を掻(か)いている。
「すみません」
 母親が男の子を捕まえて優歌に謝った。
「いえ、大丈夫ですよ」
 優歌が答えると、母親は男の子にもごめんなさいと謝らせて連れていった。
「大丈夫か?」
「全然平気です。脚だったから転びそうになっただけで……」
 ふと、腕につかまったままであることが気になって優歌は手を離した。匠はうなずいてまた歩きだす。
 半歩前を行く匠の左手は空いていて……。
 匠のことはずっと苦手だったのに、いまは信じられないほど親密な距離にいる。その手を見ているうち、昨日の帰り道のときと同じように自分が自分をそそのかした。
 たまには勇気の延長で積極的になっても……。
 ためらったせいで優歌がつかんだのは匠の小指だ。握ってしまってから、自分でもちょっと間抜けだったかもしれないと思った。
 匠が立ち止まって優歌を見下ろした。
「なんでこういう握り方なんだ?」
 暗がりで匠の表情はよく見えないものの、おもしろがっていそうな声に聞こえる。
 優歌は素早く理由を考え廻らせたすえ、すぐ先にある巨大水槽の中を優雅に泳いでいるエイが目に入った。
「……あの……海のエイちゃん見てたら、なんとなく長い尻尾をつかみたいなって思って……」
「海のエイちゃん?」
 今度ははっきり可笑しそうな声が訊ね返した。
「お父さんが陸の永ちゃんファンなんです」
 優歌がそう答えると、匠はこもった音を短く漏らした。
「そういや、本部長に聴けって勧められたことがある。優歌ちゃんて意外におもしろいな」
「どこか抜けてるだけです。上戸さん、きっとわたしと結婚したらたいへんですよ」
「お互いさまだ」印度神油
 冗談なのか真剣なのかわからなかったけれど、とりあえず手が振りほどかれることもなく、優歌の肩から力が抜けた。互いがお喋りではなく、そのぶん手を繋いでいることで緊張ぎみの沈黙も和らいだ。

 次の日、日曜日も午後から匠に誘われて、淳介と佐織はうれしそうに優歌を送りだした。
 さすがに会うのが三日も続くと、いや、結婚が決まった日を入れると四日続けて匠に会ったことになるけれど、ふたりでいることに馴染んできた。かまえた気持ちが払拭された気がする。
 昨日の好き嫌いの話から絵を見ることが共通して好きだということがわかり、美術館へ行った。
 鑑賞しながらたまに感想を云い合っているうちに、ふたりとも好みとする絵に偏りがなく、その時の感性に頼っているという共通点も発見した。全部ではなくても、好きな絵が同じだと安心度が増す。
 夕食まで一緒にして、家に帰ったのは九時を過ぎた。
 優歌は車を降りると、玄関に向かおうとした匠を引き止めた。九時というのは二十才を過ぎたいま、けっして遅い時間ではなく、わざわざ挨拶する必要はない。
「上戸さん、ここでいいです。明日は仕事ですよね。また昨日みたいにお父さんが引き止めたら帰れなくなります」
 昨日は車だったからこそお酒は勧めなかったものの、匠は淳介から二時間も引き止められて、家を出たのは十一時を過ぎていた。
「けど――」
「もう学生じゃないですよ」
 からかうように優歌が云うと、外灯の下で匠は肩をすくめた。
「じゃ、行って。入るまで見てる」
「はい。じゃあ、また」
「ああ」
 後ろ姿を見られているかと思うと、優歌は歩き方を意識してしまって転びそうになった。玄関の戸まで来て後ろを振り向くと、云ったとおり門柱の間で見守っていた匠が軽く手を上げた。
 優歌も手を振り返し、家の中に入って戸を閉めた。
 とたん、リビングからこもった、それでいて大きな声が聞こえてきた。穏やかな感じではない。優歌はパンプスを脱いでそっと上がってみた。
『…………もう決まったことだ』
『いまの時代に信じられない』
『優歌も上戸くんも気持ちが固まって――』
『優歌はともかく、お父さんから頼まれて上戸さんが断れるわけないじゃない?』
『上戸くんはそういう――』
『お母さんだって酷いよ。わたしがどう思うかわかってたよね?!』
『優美……』
 三人の会話――というよりは云い争いに一瞬、優歌は立ちすくんだ。すぐに聞かなかったことにしたほうがいいと思った。優歌はいったん玄関に戻り、そっと戸を開けて外を覗いた。匠の車がないことを確認すると、安堵の息を吐いた。それから優歌はわざと音を立てて玄関を閉めた。
「ただいまぁ」
 優歌は心持ち声を大きくした。リビングの声は止んでいる。優歌がリビングのドアにたどり着くまえに優美が中から出てきて、そっぽを向いたまま二階へと階段を上がっていった。
「お姉ちゃん、ただいま!」
 返ってきたのはむっつりした小さな声だった。優歌はそれだけでも良しとした。
 リビングに入ると、なんとなくばつの悪そうな両親の顔に合う。優歌は気づかないふりをして、匠と美術館で観賞した絵のことを掻い摘(つま)んで話した。そのうちに落ち着いたらしい両親は逆に根掘り葉掘り訊いてきた。さすがに閉口して、優歌は明日の朝の準備を理由になんとか質問攻めから逃れた。
 あとは寝るだけと部屋に入ると、透視できるわけもないのに、優歌と優美の部屋を隔てた壁を見つめた。下にいる間、隣の部屋から優美が出てくることはなかった。優歌はベッドに腰かけて肩を落とした。
 リビングでのことは否定しようもなく、自分と匠のこと。
 断れるわけない。
 たしかにそう。
 淳介は上司で匠は部下。あのとき、匠が云った『立場』はそういうことだったのだ。
 今更になって思い当たるってわたしはやっぱり配慮がなさすぎる。
 断ってくれてもかまわない。
 匠はそのあとフォローしたけれど、あれは究極の社交辞令で本当は断ってほしかったのかもしれない。せっかく近づけたと思ったこの数日間が、全部ふりだしに戻った気がした。
 いや、それ以下だ。
 うつむいて、見るともなしに見ていた自分の手の甲に雫が落ちた。
 わたし……どうして泣いているんだろう。田七人参