2012年8月22日星期三

優恋慕

「そうか。よかった、よかった。母さんに報告してこよう。しばらくふたりで話したらいい。久しぶりに会ったことだし、積もる話もあるだろう」
 淳介は満足至極に何度もうなずいて徐(おもむろ)に立ちあがると、優歌たちを残して和室を後にした。蔵八宝
 積もる話……って。
 優歌は途方にくれた。話題を探すのさえたいへんだというのに。
 淳介の背を縋(すが)るように追った優歌は、目のやり場に困ってしまう。そのすえ、視線をそのままにして、源氏物語をモチーフとした襖(ふすま)の絵を馬鹿みたいに見つめた。
 ずっと着物でいる苦しさと、へんに沈黙した和室の重厚感に押し潰されそうだ。
 気絶できるなら気絶してこの場を逃れたい。呼吸さえ覚束(おぼつか)なくなるほど気は張り詰めている。
 この場を凌(しの)げるような話題を探すのに、優歌の思考力は空回りして役に立たない。絶好の題材である“卒業”のことさえ思い浮かばないでいた。
 優歌が無駄に足掻(あが)いているなか、さきに口を開いたのは匠だった。
「立場を考えて、ああ答えてしまったけど、優歌ちゃんから断ってくれても、おれはかまわない」
 どういう思考回路をたどったのか、淳介からなぜ結婚という形で身売りをさせられるのかがわからなければ、ゆっくりと切りだした匠が云う立場も優歌にはまったくわからない。
 ただ、断ってくれてもかまわない、という曖昧な言葉に傷ついた。優歌は襖から目を離してうつむくと、くちびるが白くなるくらいに強くかんだ。
「誤解しないでほしい。どうでもいいと思ってるんじゃないし、断るように仕向けてるわけでもなくて、むしろ、結婚から始まる関係でもいいんじゃないかと思ってる。けど、おれは嫌われてるようだし」
 優歌はその言葉に驚いて顔をあげた。匠はまっすぐにこっちを向いていて、ごくごく真剣に続ける。
「だから、無理強いは――」
「違います! 嫌いじゃありません!」
 優歌は自分で云ってびっくりした。まるではじめて会ったときの感覚が繰り返されている。
 表情に乏しい匠もさすがに驚いたようで、目をほんの少し見開いて言葉を切った。あの時と同じ笑みが匠の口もとに還る。
「なら……優歌ちゃんに特別好きな奴がいなければ、これからおれと始めてみないか?」
 柔らかくなった匠の表情に断る理由なんて見いだせない。
 はじめて会ってまもない頃、苦手な人はたくさんいたのに、匠を苦手の部類に入れた瞬間、ほかの人と違ったところはもう一つあった。
 悲しい、と思ったこと。
 自分のことなのに、その意味がいまでも優歌はわからない。
 いまわかったのは、匠が冷たく見えてもけっして冷たいわけではなく、いまみたいに実直であること。
「はい!」
 思考回路が筋の通った結論を見いだすまえに、優歌の口から返事が飛びだした。恥ずかしいくらい張りきった声で、熱が出たみたいに躰中を駆け廻る血液の温度が上がった。
 匠は小さく笑みを零した。
「じゃ、これからよろしく」
 座卓越しに伸びてきた匠の手は大きくてきれいで、戸惑ったけれど、優歌も手を伸ばした。
 四年前に優歌の頬を包んだ手がそうだったように、匠の手はいまも温かく優歌の手をつかむ。
 匠に対する苦手意識を払拭(ふっしょく)したのは、その瞬間の匠自身の温かい手だった。

 結婚が決まった昨日、出張中だった姉の優美はまだ婚約のことを知らないはずだ。昨日の夜遅く、優美は卒業祝いの電話をくれたけれど、優歌は混乱していたし、事が事だけに対面して伝えたいと思った。
 金曜日はいつも遅くなるのに今日は六時半と、優美はいつもより早めに帰ってきた。優美はリビングに寄ることなく、まっすぐ自分の部屋に向かう。優歌はあとを追って二階にあがるとドアをノックした。
 いいよ、と云う軽快な声が聞こえる。
「おかえり。早かったんだね」
 部屋に入ると、優美は上着を脱いでいるところだった。ベッドの傍にボストンバッグと仕事用のトートバッグがある。業平に入社して丸三年になる優美は仕事への自信が出てきたようで、いつも充実感にあふれている。
 それに比べて優歌は就職活動もすることなく短大を卒業したいま、怠惰な生活が始まった。
 業平を受けてみればという父の助言は就職活動まえの段階で蹴った。優美はいま証明されているように期待に応えられる資質を充分に持っているけれど、消極的な優歌には荷が重すぎる。業平での活躍はまず見込めないし、それどころか淳介の顔に泥を塗ってしまいそうだ。
 いざ優歌が普通に就職活動をするときになって、両親がともに家のことをやっててくれればいいと云いだした。
 優歌はもともと仕事をするということに積極的ではなく、つい両親の言葉に乗って家事手伝いなんていう、どうでもいい立場に甘んじた。もとい、積極的になれることが優歌にあるのかすら怪しい。
 そういうなかで、いつ淳介は優歌と匠の結婚ということを考え始めたのだろう。
「うん……ちょっとね」
 さっきの軽快さはどこへやら、そう答えた優美はいつもの率直さが消えて、めずらしく何かをためらった様子だ。優歌が問いかけるように顔を傾けると、優美は答える気がなさそうに首をすくめた。
「お姉ちゃん、あのね……」
 戸惑いがちに云いだして、優歌はいったん言葉を切った。
「どうしたの、相談事?」
「ううん、そうじゃなくて……えっと、わたし、上戸さんと結婚することになったの!」
 優美はスーツの上着をハンガーにかけていた手を止めた。
「もう決めたの?」
「うん!」
 優歌は云ってしまうとほっとして、優美の質問に大きくうなずいた。
「そっか」
 優美は微笑んで相づちを打った。それからハンガーラックに上着を吊るすと、今度はベッド脇にかがんでボストンバッグを開けた。
 優美のあまりの反応のなさに、優歌は首をひねった。
「お姉ちゃん……もしかして知ってた?」
「帰ってくるまえにお父さんのところに顔を出したから」
「あ、そうなんだ。驚くのを見たかったのに」
「驚いてるよ。優歌は上戸さんのことが苦手だと思ってたから」
「うん。そうなんだけど、昨日はなんとなく、上戸さんとならって思った」
 優美はベッドの上にボストンバックから取りだした荷物を広げてしまうと、ゆっくり立ちあがって優歌を向いた。
「なんとなく? 優歌らしいね。じゃ、着替えるから出てってくれる?」
「……うん。いまから上戸さんに会いにいくの。食事しようって」
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
 優美が優歌に向けた微笑みはどこかぎこちなく見えた。それは予測していた反応とは違っていて、優歌は何かが足りない感じがした。

 匠と約束した七時半まであと十分というときに業平商事に着いた。外はすっかり暗い。それでも業平商事が面した通りは、会社に帰る人、会社から帰る人がまだ多くいる。見上げた業平商事のビルも、灯りの漏れる窓がいくつもある。
 匠に云われたとおり、優歌は業平ビルの中に入ると待合ブースの椅子に座って待った。観葉植物が囲っているだけで仕切りのない待合ブースは、玄関先からその正面奥のエスカレーターまでほとんどを見渡せる。
 優美のことが気にかかって、優歌は何気なくここまでやって来たけれど、懐かしい光景だと感慨にふけったのもつかの間、エスカレーターの上に人が現れるたびに鼓動がびくんと震え、いまになって現実が迫る。昨日いきなりでふたりの関係は婚約に発展したわけで、だんだんと優歌は落ち着きなくそわそわしだした。
 食事をするのは匠が云いだしたことだ。短大卒業の話からお祝いをしようと、昨日の帰り際に誘われて、優歌は結婚を承諾した勢いのままにうなずいた。
 さすがに今日は、あの日みたいにメモを残して帰るわけにはいかない。そう思ったら、自然といまだに財布の中に潜んでいる名刺のことが脳裡に浮かんだ。もらった日のお礼を云った瞬間と同じように、昨日の笑顔というには控えめすぎる笑った顔がまた見られるのなら、逃げるよりは落ち着かなくてもどきどきしているほうがいい。
 受付の上にある時計が七時三〇分を差し、それからエスカレーターと時計を交互に見ていると三十五分になって匠が現れた。
 黒いダレスバッグを片手にグリーン系の黒っぽいスーツという格好は、シャープな印象を与える端整な顔立ちと背の高さが相俟(あいま)って目立っている。
 苦手ながらもつい見てしまう。これまでもそういうことが多かった。最初に会ったときもそうで、怖さと見紛(みまが)うような印象を受けるのに、それを圧倒する匠自身のオーラみたいなものに引き寄せられたのかもしれない。それほど、同じビジネスマンたちの中にいても、ほかに紛らせない存在感がある。
 優歌は待合ブースからちょっと出てみた。同時に匠の視線が優歌に向いた。エスカレーターから降りて、まっすぐに優歌のところへとやって来る。
「終わりました?」
「ああ。待たせた」
「まだ五分しか過ぎてませんよ。お疲れさまでした」
 大きすぎず細くない切れ長の目を少し狭めて、匠はふっとかすかに笑みを漏らした。
 よかった。
 柔らかくなった匠の表情は昨日から持続している。来て早々、笑った顔が見られると優歌はうれしくなった。
「コート着て。外は寒い」
 匠は優歌が腕にかけているイエローグリーンの薄手のコートを指差した。
 コートを着ている間、匠にじっと見られているのがわかり、優歌は焦ってしまってちょっと手間取った。
「匠!」
 優歌がカールした長い髪をコートから払うように出したその時、女性の声が匠の名を呼んだ。匠が声のしたほうを振り向くと、その脇から女性が小走りに近づいてくるのが目に入る。VIVID
 その女性が、職場見学のときに匠の前にいた女性であることはすぐにわかった。
 顔を覚えられない優歌が覚えているほど、立花はすこぶる美人だった。あれから四年近くたつけれど、ますますきれいさに磨きがかかっている。大人で、優歌にない女性としての艶があり、顔を縁取るボブヘアがまえよりもっと活動的に見えて際(きわ)やかだ。
「いま帰り?」
「ああ」
「食事でも、と思ったけど……先約あるみたいね」
 立花は云いかけて、明らかに匠の“連れ”という距離にいる優歌にちらりと目を向けた。
「あ……こんばんは」
 立花が覚えているかどうかもわからないまま、優歌は戸惑いながら会釈した。立花は優歌を上から下まで見てから、ふと思い当たったような表情をした。
「あ! もしかして、じゃなくてもしかしなくても本部長の娘さんね! えっと……」
「優歌ちゃん」
 立花が思いだせずにいると、匠が云い添えた。
「そうそう! ……え、もしかして付き合ってるの?!」
 立花から頓狂(とんきょう)な声で訊ねられ、優歌は困惑に顔を火照(ほて)らせた。
「結婚する」
 匠の一言に立花の表情は驚きに止まり、優歌は気後れを感じ、その場に微妙な空気が漂った。
「……結婚? 匠が? 優歌ちゃんと?」
 今度の繰り返し問う立花の云い方は、驚くよりは疑うような口調だ。
「ああ」
 駄目押しの問いかけに匠は気に障ったような声で肯定した。
 匠がどう答えるのだろうと思っていた優歌は、立花が疑念を抱いていることを気にするよりも、そのまえのストレートな返事に安堵した。
 結婚という約束をしたにもかかわらず位置は不安定だ。建て前だけがしっかりしていて、ふたりのそれぞれの気持ちは置いてけぼりのような感覚がある。
 ふたりの結婚の経緯が、今時の世間の発展の仕方と逆行しているのは確かなこと。
 結婚から始まる未来にあるのはなんだろう。一抹の不安……じゃなく、いま始まったばかりで不安だらけだ。
「……そうなんだ」
 立花はうなずきながら匠を物云いたげに見て、それから視線を優歌に移した。
「おめでとう。優歌ちゃん、匠みたいな男はなかなかいないし、うまいことやったわね」
 お礼を云う間もなく、どう捉えていいのか、立花は優歌が素直に喜べないようなことを口にした。
「立花」
「あ、そっか。うまいことやったのは匠もだよね」
 立花は自分を諌(いさ)めた匠に向かい、性懲(しょうこ)りもなく付け加えた。
 優歌は困惑しながら隣に立つ匠を見上げた。そこには目を細めて怖いくらいの表情があった。
 立花は悪びれていないどころか、おどけたように笑う。
「ごめん。匠が結婚するとか思ってなかったし、ちょっとからかっただけ。とにかく、おめでとう。中国の話を聞きたかったんだけどデートってことなら邪魔しちゃ悪いし、食事はまた今度ね!」
 そう云って立花は玄関口に向かった。
「立花は昔から知ってる奴で遠慮がないんだ。悪かった」
「謝ることないですよ? それより、おめでとうって云われてびっくりしました」
「びっくり?」
 匠は優歌の言葉尻を聞き留め、コートを着るときに預かっていたバッグを渡しながら訊ねた。
「……うれしい感じです」
 少しためらってから優歌が云い直すと、さっきから不機嫌そうだった匠の表情が柔らかく戻った。
業平を出てから電車で移動すると、ふたりは駅から近いイタリア料理専門のレストランに入った。店内は暖色の照明で落ち着いた雰囲気だ。予約していたらしく、匠が名乗ると給仕がテーブルに案内した。
 匠が料理まで予約していたと知ると、優歌はほっとした。男の人と二人きりで食事という経験がないことに、今更になって気づいた。
 ここに来てからまた優歌の緊張は復活していて、メニューを見せられたところで決められなかったかもしれない。友だちならいつものことと割りきってくれるけれど、匠は苛々(いらいら)してしまうだろう。
「緊張してる?」
 匠が不意に声をかけた。そわそわと周りを見回していた優歌は顔が赤くなった気がした。幸いにも照明の色がそれを隠した。
「……はい」
「ありがとう」
 その言葉はどこかずれていて、優歌は思わず伏せていた目を上げた。匠は至って真面目な顔だ。
「……あの……」
 戸惑った優歌に匠はうなずいてみせた。
「正直に云ってくれたほうがいいんだ。結婚は決めたけど、おれたちはお互いに知らないことのほうが多い。我慢してしまうとすれ違うこともあるから、つまらないと思うことでもできる限り話してほしい」
 それはもったいないくらい誠実に優歌の中へと浸透した。声はいつもと変わらず淡々としているのに、匠の手と同じくらい温かく聞こえた。
「はい!」
 勢いこんだ返事に匠が笑みを浮かべた。
「まずは卒業おめでとう」
「はい、ありがとうございます」
 お祝いの乾杯から始まった食事は、お世辞にも会話が弾むとはいえないけれど、居心地自体は悪くなかった。悪くないという云い方は控えめかもしれない。食事が終わる頃になって気づいたのは、匠が食べる速さを合わせてくれたこと。優歌が無理することはなかった。
 帰り道、駅から水辺家まで歩いて送る間も、匠の歩調は優歌のペースに合わせるようにゆっくりしている。九時をとっくに過ぎて人通りはあまりなく、足音を立てるにもちょっと気が引けるくらい静かだ。黙りがちで歩きながら、ふと匠の左手が目に入った。
「明日、昼から出かけないか?」
「え?」
 馬鹿げた衝動に駆られたときの不意打ちで、優歌は必要以上にびっくりした声を出した。匠が半歩後ろを歩く優歌を見下ろした。外灯が影を作ってその表情はよく見えない。
「午前中は仕事に出るけど、昼からは休み取れるし」
 匠は問いかけるように首をひねった。
「……わたしは仕事してませんから……」
「じゃ、電話入れてから迎えにいく」
 優歌が回りくどい返事をしても、匠は気にしていないようだ。云ってしまってからもっとはっきり伝えなくちゃと焦っただけに、優歌はほっとした。

 次の日、土曜日は昼食の準備を手伝っているときに匠から電話があった。
『車でもいい?』
「……いいですよ?」
 一時に行くと云ったあと、とうとつに訊ねた匠の口調はなぜか気遣うように聞こえ、優歌は疑問符の付いた返事をした。
『いや、車酔いするんならと思ったんだ』
「え?」
『金城が三半規管弱いって云ってた気がするし』
 躰は弱くても三半規管が弱いという心当たりはない。優歌はどうしてそんなふうに考えたんだろうかと急いで思い廻った。程なく金城を思い浮かべてみて気づいた。
「あ、大丈夫です。あれは金城さんがいつもふざけるから止める口実にしていただけで……」
 ずっとまえのことをよく覚えているなと思いつつ、優歌は云い訳をした。
『そういうことか。じゃ、あとで』
 匠は電話の向こうで呆れたようにため息をつくと、電話は端的にすまされて切れた。
「上戸さん?」
 優歌が携帯を閉じると、リビングで雑誌を見ていた優美が顔を上げて訊ねた。
「うん。車で出かけるんだって」
「そ」
 優美は短く相づちを打った。愛想なく聞こえる。昨日、匠と食事をして帰ったあと優美に声をかけたけれど、そのときからなんとなく話ができない感じだ。
 相談したいことも話したいこともあるのに。
「お姉ちゃん、どうかした?」
「優歌はお気楽でいいなって思って」
 そう云われればぐうの音も出ない。いつもなら笑い飛ばせるセリフも、いまの優美の声には棘(とげ)を感じた。強力催眠謎幻水
 何かあったんだろうか。
 そう思いながら携帯をダイニングテーブルに置いて、優歌はまたキッチンに入った。
 佐織はさっきの短いやりとりを聞いていたようで、何か云いたげに優歌を見たけれど、結局は云わないまま料理に取りかかった。優美がすぐそこにいる以上、むやみに佐織に訊くわけにもいかず、優歌は気落ちした。
 昼食になると優美は普段に戻っていて、出張の話題が上り、専ら、淳介を相手におもしろ可笑しく話した。その様子から少なくとも出張で何かあったわけではないらしい。
 だれだって、そうそういつもポジティブでいられるわけはなくて、いままでも優美が不機嫌なときはあった。
 別に急ぐことでもなく、優歌は機会をあらためることにした。

 匠は時間どおりにやって来た。
 玄関を開けると、優歌の急(せ)いた鼓動は驚きが加わってリズムを乱す。
 いつもスーツ姿の匠は、砕けてもジャケットを脱ぐくらいだ。今日のジーンズにTシャツ、そしてカジュアルなジャケットという格好は想像したこともなかった。それどころか、てっきりスーツで来るとイメージしていた。考えてみれば家にいるときにスーツなわけはない。ラフな姿も様になっていて、自分の平凡な容姿と比べた優歌は気後れしてしまった。気にしてもどうしようもないことであり、とにかくスーツよりは近づきやすい雰囲気で、優歌でも釣り合って見えるかもしれない。
 匠は家に寄ることなく、玄関先で両親に挨拶をすませただけで優歌を連れだした。
 門の前には光沢を放つブルーグレーの車が止まっている。
「上戸さん、車持ってたんですか?」
「レンタル。実家のほうと違って東京じゃ、買うほど車は必要じゃないから」
「上戸さんの実家って、福岡ですよね?」
「ああ」
「わたし、明太子好きなんです」
 優歌が云うと匠は息を漏らした。
「それは催促なのか?」
「いえ、そうじゃなくって……」
 見上げた匠はおもしろがるような眼差しで見下ろしている。ひょっとしてさっきは吹きだしたんだろうか。優歌が困ったように首をかしげると匠が背中を軽く押した。
「乗って。行こう」
 触れられることに慣れていない優歌は、さりげないしぐさにもどきどきして、匠がドアを開けてくれた助手席に乗りこんだ。
 いざ車に乗ると、本当にふたりきりという空間に気づいて、昨日のレストランよりもあわてた。けれど、車を出してまもなく、ドライヴは好きかという匠の質問から始まって、好き嫌いの話をしているうちに沈黙も気にならなくなっていった。
 一時間もすると道沿いに海が見え始める。それからまもなく、匠は広い駐車場に車を乗り入れた。敷地内にある建物の前に、巨大なイルカのオブジェが見るまでもなく目に入った。匠が連れて来たのは水族館だ。
「水族館て久しぶりです。すごく立派になってますね」
 チケットを出して奥に行くと、入り口のアーケードは水槽になっていて、頭の上を魚が泳いでいる。天井を振り仰いだ優歌が少し視線をおろすと匠の目と合った。
「おれのほうがもっと久しぶりだ。小学生んとき以来だからな」
「……上戸さんて……」
 優歌は云いかけてやめた。訊こうとしたことは不躾(ぶしつけ)な質問だと気づいた。
「何?」
「いえ。大したことじゃなくて……へんなこと云いそうになりました」
「昨日、つまらないことでも話してくれって頼んだばかりなんだけどな」
 匠はしかめた声で、いまにもため息をつきそうだ。
「……あの……いままでデートでこういうとこに来なかったのかなって思っただけです。上戸さんてモテそうだし、お父さんが急に云いだして……中国から帰ったばかりだとしても、よく……その……いま彼女がいなかったなと思って……っていうのは真由の意見……です」
 優歌が云い訳っぽく付け加えると、匠は一転して可笑しそうにした。
「こういうのはタイミングらしいからな」
「タイミング?」
「知ってるかな。金城、彼女と同棲始めるらしい」
「ホントに?!」
「社内間でグループ交際やってたけど、そのうちの一人と。今日、彼女が引っ越してるんじゃないかな。金城はすぐ結婚するつもりらしい」
「そうなんですね。グループ交際のことは聞いてたけど、その中に特定の彼女がいるってことは知らなかったからびっくりです」
「“彼女”になったのは一週間前だってさ」
 優歌は目を丸くして匠を見上げた。匠は首をちょっと傾けた。
「タイミング、だろ? まぁ、おれたちのほうがもっと驚かれるのは間違いない」
 匠のちょっとおどけた感じにびっくりしながら、何気なく出た『おれたち』という言葉の響きをうれしいと思った。そして、その“うれしい”という気持ちに優歌は戸惑う。
「真由も驚いてました」
「西尾さんはどうしてる?」
「真由は大学に行ってます。わたしと違って上昇志向百パーセントだから」
「優歌ちゃんと西尾さんて正反対って感じがするけど、相変わらず仲がいいんだな」
「真由はずばずば云ってくれるから、わたしはかえってラクなんです。真由のほうはわたしにイライラしてるかもしれないけど」
「かもしれないってことは、西尾さんがそんな態度は見せてないってことだろ? ずばずば云うっていうなら、そういうイライラとかも我慢することはないだろうし、つまりはお互いにうまくいってるってことだ」
 匠が指摘すると、優歌は真由とのことをいろいろ考え廻ってみた。高校卒業と同時に会う時間は極端に少なくなったけれど、自然と離れてしまった友だちがいるなかで、真由とは互いの連絡が途切れることはない。
「……上戸さんに云われて、真由のこと、もっと好きになりました」
 見上げた匠は口の端で小さく笑った。
「デートに関しては、いままでこういうところが好きそうな、もしくは似合う子がいなかったせいかもしれない」
「……どういう意味ですか」
 優歌が思わず訊いてしまうと、匠は答える気がなさそうにかすかに首を動かした。
 ちらりと見回した館内では親子連れ、つまり子供が目立つ。優歌が子供っぽいということだろうか。
 そう考えると、匠がどれくらいの女性たちと付き合ってきたのか気になってしまった。優歌はこういうことになるまで近づけなかったけれど、絶対に放っておかれるタイプじゃない。あの立花という女性は食事しようって云っていた。立花の容姿を思い浮かべたとたんに落ちこんだ。
「こういうデートらしいデートははじめてかもしれない」
 館内を歩きながら、しばらくして匠が云った。変わらず曖昧な云い方だ。
 家に来る淳介の部下たちは上司の前というのに、遠慮なく彼女の話題で盛りあがる。匠に関してそう云った話は人伝(ひとづて)でも聞いたことがない。けれど常識で考えればはじめてのはずはない。
 それなのに『はじめて』という言葉に、ちょっとだけ優歌の気分は浮上した。並行して、匠の言動でいちいちうれしいと感じたり、反対に落ちこんだりするのがどうしてなのかわからずに、自分を持て余した。最初に会ったときからそうだ。
 最大の理由は自分にまったく自信がないせいだろうか。変わらず人見知りはしても、どうにか相手を不快にさせない程度には克服した。成長はちょっとずつしかできなくても止まっているわけではないはずだ。それでも自信には程遠くて人の意見に左右されやすい。
 気づかれない程度にため息をついたその時、優歌は下半身に軽く体当たりされた。よろけたはずみに目の前の匠の腕をつかんだ。足もとを見下ろすと小さな男の子が頭を掻(か)いている。
「すみません」
 母親が男の子を捕まえて優歌に謝った。
「いえ、大丈夫ですよ」
 優歌が答えると、母親は男の子にもごめんなさいと謝らせて連れていった。
「大丈夫か?」
「全然平気です。脚だったから転びそうになっただけで……」
 ふと、腕につかまったままであることが気になって優歌は手を離した。匠はうなずいてまた歩きだす。
 半歩前を行く匠の左手は空いていて……。
 匠のことはずっと苦手だったのに、いまは信じられないほど親密な距離にいる。その手を見ているうち、昨日の帰り道のときと同じように自分が自分をそそのかした。
 たまには勇気の延長で積極的になっても……。
 ためらったせいで優歌がつかんだのは匠の小指だ。握ってしまってから、自分でもちょっと間抜けだったかもしれないと思った。
 匠が立ち止まって優歌を見下ろした。
「なんでこういう握り方なんだ?」
 暗がりで匠の表情はよく見えないものの、おもしろがっていそうな声に聞こえる。
 優歌は素早く理由を考え廻らせたすえ、すぐ先にある巨大水槽の中を優雅に泳いでいるエイが目に入った。
「……あの……海のエイちゃん見てたら、なんとなく長い尻尾をつかみたいなって思って……」
「海のエイちゃん?」
 今度ははっきり可笑しそうな声が訊ね返した。
「お父さんが陸の永ちゃんファンなんです」
 優歌がそう答えると、匠はこもった音を短く漏らした。
「そういや、本部長に聴けって勧められたことがある。優歌ちゃんて意外におもしろいな」
「どこか抜けてるだけです。上戸さん、きっとわたしと結婚したらたいへんですよ」
「お互いさまだ」印度神油
 冗談なのか真剣なのかわからなかったけれど、とりあえず手が振りほどかれることもなく、優歌の肩から力が抜けた。互いがお喋りではなく、そのぶん手を繋いでいることで緊張ぎみの沈黙も和らいだ。

 次の日、日曜日も午後から匠に誘われて、淳介と佐織はうれしそうに優歌を送りだした。
 さすがに会うのが三日も続くと、いや、結婚が決まった日を入れると四日続けて匠に会ったことになるけれど、ふたりでいることに馴染んできた。かまえた気持ちが払拭された気がする。
 昨日の好き嫌いの話から絵を見ることが共通して好きだということがわかり、美術館へ行った。
 鑑賞しながらたまに感想を云い合っているうちに、ふたりとも好みとする絵に偏りがなく、その時の感性に頼っているという共通点も発見した。全部ではなくても、好きな絵が同じだと安心度が増す。
 夕食まで一緒にして、家に帰ったのは九時を過ぎた。
 優歌は車を降りると、玄関に向かおうとした匠を引き止めた。九時というのは二十才を過ぎたいま、けっして遅い時間ではなく、わざわざ挨拶する必要はない。
「上戸さん、ここでいいです。明日は仕事ですよね。また昨日みたいにお父さんが引き止めたら帰れなくなります」
 昨日は車だったからこそお酒は勧めなかったものの、匠は淳介から二時間も引き止められて、家を出たのは十一時を過ぎていた。
「けど――」
「もう学生じゃないですよ」
 からかうように優歌が云うと、外灯の下で匠は肩をすくめた。
「じゃ、行って。入るまで見てる」
「はい。じゃあ、また」
「ああ」
 後ろ姿を見られているかと思うと、優歌は歩き方を意識してしまって転びそうになった。玄関の戸まで来て後ろを振り向くと、云ったとおり門柱の間で見守っていた匠が軽く手を上げた。
 優歌も手を振り返し、家の中に入って戸を閉めた。
 とたん、リビングからこもった、それでいて大きな声が聞こえてきた。穏やかな感じではない。優歌はパンプスを脱いでそっと上がってみた。
『…………もう決まったことだ』
『いまの時代に信じられない』
『優歌も上戸くんも気持ちが固まって――』
『優歌はともかく、お父さんから頼まれて上戸さんが断れるわけないじゃない?』
『上戸くんはそういう――』
『お母さんだって酷いよ。わたしがどう思うかわかってたよね?!』
『優美……』
 三人の会話――というよりは云い争いに一瞬、優歌は立ちすくんだ。すぐに聞かなかったことにしたほうがいいと思った。優歌はいったん玄関に戻り、そっと戸を開けて外を覗いた。匠の車がないことを確認すると、安堵の息を吐いた。それから優歌はわざと音を立てて玄関を閉めた。
「ただいまぁ」
 優歌は心持ち声を大きくした。リビングの声は止んでいる。優歌がリビングのドアにたどり着くまえに優美が中から出てきて、そっぽを向いたまま二階へと階段を上がっていった。
「お姉ちゃん、ただいま!」
 返ってきたのはむっつりした小さな声だった。優歌はそれだけでも良しとした。
 リビングに入ると、なんとなくばつの悪そうな両親の顔に合う。優歌は気づかないふりをして、匠と美術館で観賞した絵のことを掻い摘(つま)んで話した。そのうちに落ち着いたらしい両親は逆に根掘り葉掘り訊いてきた。さすがに閉口して、優歌は明日の朝の準備を理由になんとか質問攻めから逃れた。
 あとは寝るだけと部屋に入ると、透視できるわけもないのに、優歌と優美の部屋を隔てた壁を見つめた。下にいる間、隣の部屋から優美が出てくることはなかった。優歌はベッドに腰かけて肩を落とした。
 リビングでのことは否定しようもなく、自分と匠のこと。
 断れるわけない。
 たしかにそう。
 淳介は上司で匠は部下。あのとき、匠が云った『立場』はそういうことだったのだ。
 今更になって思い当たるってわたしはやっぱり配慮がなさすぎる。
 断ってくれてもかまわない。
 匠はそのあとフォローしたけれど、あれは究極の社交辞令で本当は断ってほしかったのかもしれない。せっかく近づけたと思ったこの数日間が、全部ふりだしに戻った気がした。
 いや、それ以下だ。
 うつむいて、見るともなしに見ていた自分の手の甲に雫が落ちた。
 わたし……どうして泣いているんだろう。田七人参

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