総勢六十騎からなる騎馬隊の、大地を蹴ちらす轟音が、無人の原野を駆けぬける。
晴れ渡った夏空の下、ケネルら一行はレグルス大陸を南下していた。
なめらかに疾走する栗毛の馬上で、エレーンはケネルに寄りかかり、淡々と手綱をさばくその顔を、いつものように見あげていた。しきりに瞬きをくり返す顔は、そろそろ何か言いたげな模様。勃動力三體牛鞭
案の定、ケネルのシャツを、今日もくいくい引っぱった。
「んねえ、ケネルぅ~ん」
何かありそな甘ったれ声。だが、
「なんだ。飯なら食ったばかりだろ」
ケネルの方はけんもほろろ。相変わらず、愛想もへったくれもありはしない。そう、隊長は今、馬の運転で忙しい。
むぅ、とエレーンは言葉につまった。だが、本当に伝えたいことでもあったのか、不満気に口を尖らせている。もっとも、これしきの無視でへこたれてては、今日も日がな一昼夜、無言で過ごす羽目に陥るのは目に見えて明らかだ。
エレーンはにんまり笑みを作った。
「う、うん! いや、あのね、ちょっと喉が──」
「水なら、そこの水筒の中だ。そう言ったろ」
「あ、いや~、そーゆーんじゃなくってね。あ、あのね、ケネル──」
「なんだ」
「あ、あの──あのね──」
ついにケネルが、いかにもうんざり振り向いた。
「なんだ。あんたは、さっきから。少しは落ち着いたら、どうだ」
真正面から直視され、エレーンは上目づかいで口をパクつかせる。
「あ、だって──だってね──え、えっとお──そのぉ──」
ケネルが手綱を、ぐぐっと握った。さすがに苛ついたらしいその額に、むきっ、と青筋が浮きあがる。
「なんだっ!」
「お、おしっこ!」
ケネルが思考停止で固まった。ぱちくり瞬き、両目は、てん。
どよん……と微妙な空気が流れた。闊達にとどろく蹄音が、いやに虚しく、空々しい。
ケネルはのろのろ額に手を置き、深くげんなりと嘆息した。
「──休憩にする」
ケネル隊長、即刻降参。だって、これを言われては、どうにもなるまい。
並走している副長に、手をあげ、停止の指示を出す。
そそくさそっぽを向いたエレーンを、ケネルはしげしげ眺めやった。
そして、不可解に首をひねる。まだ出発したばっかりだ。何があったわけでもない。具合が悪いようでもない。
まったくどうしてこの客は、何かにつけて、馬の足を止めるのだ?
緑の原野に愛馬を放し、頭の後ろで手を組んで、青草の上に寝転がる。
頬傷のある長身の男は、口をくちゃくちゃさせながら、木陰で仲間と話していた。ノースカレリアのある北方を、辟易とした顔で眺めやる。出立してからずいぶん経つが、未だ二日分の行程を消化したかどうかというところだ。
又しても休憩になり、彼らは暇を持て余していた。時間が無駄に余っているから、体を所在なく持て余し、とはいえ行程中は酒色厳禁、そもそも気晴らしに行こうにも、こんな原野では店など皆無だ。
今日もまたダラダラと、時だけが無為に過ぎていく。
迅速、果敢を旨とする彼らには、じれったくも歯がゆい事態だった。苦々しげに頬をゆがめて、彼らは腐り気味に眺めやる。
全ての元凶はあの女だ。領家の正室、エレーン=クレスト。そんな特権階級が、そもそも、どうして群れの中に交じっているのか。統領代理の捜索行に。
そう、あの女こそが曲者だった。やっと走り出したと思うも束の間、すぐに又、ただをこね、馬の足を止めてしまう。そして、なし崩しに休みに入り──と延々それのくり返し。
男の一人が、いかにもうんざり紫煙を吐いた。
「やれやれ。いつまで、こんなことが続くのかねえ」
出発の気配は、未だに、ない。
件の女が副長に連れられ、緑の草原を歩いて行く。黒い頭髪を背まで伸ばした二十代半ばのカレリア人だ。小柄な体に薄桃色のジャケット、中は白いブラウスに、白いスラックス。暗色が占める傭兵の群れで、明るい色彩がひときわ目を引く。
用足しに行くらしく、二人は森に入っていく。小道の入り口を眺めやり、じろりと副長が睥睨した。この無言の圧力は「総員、立入禁止」の厳命だ。
そう、女が森から出てくるまでは、誰も森には入れない。無論、副長の命に逆う者などいるはずもないから、その効果たるや、あたかも結界でも張ったが如く。まったく、迷惑なこと、この上ない。
今も、件の"お姫様"は、髪の長い"従者"を従え、何事か言い合いしながら、森の入り口に向かっている。
一人が苦虫噛み潰した顔で舌打ちした。
「副長にタメ口きくたァ、何様だ、あの女!」
その生意気さが、気に障った。我が物顔のでかい態度も、気に食わない。
そう、あれは女の身の分際で、上官にぞんざいな口をきき、身勝手放題に振りまわす。長に命を預ける傭兵隊は、上下関係が殊の外厳しい。手柄次第で立身出世も望めるが、そうした序列に女の入る余地はない。そう、時と場合によっては戦利品でしかない玩具風情が、一足飛びに上官と並び、いっぱしの口をきくなど、本来あってはならぬこと。今、彼女が平気で小突いている副長は、組織の頂き近くに位置する男だ。
腕力至上主義を奉じる彼らにとって、非力な者は下の下の格付け。まして女が、上位者と対等に口をきくこと自体、凡そ信じがたい光景だ。身分がどれほど高くても、元よりそれは関係ない。彼らはどこの国にも属さず、保護も恩恵もなんら受けずに自力で生き伸びてきたのだから。
草原を横切る彼女を眺め、一人が忌々しげに顔をしかめた。
「ああ、なんでも、あの女、商都にお買い物に行くらしいぜ?」
「こんな時に、商都ってか。旦那が明日をも知れねえってのに、奥方さまは優雅なこった」
出立してからしばらくは、彼女がカードで浮かれるさまを、休憩ごとに目にしていた。声高にわめき散らす、そのやかましい円陣から、そんな話が漏れ聞こえていた。
「つまり、俺らは足代わりって話かよ」
頬傷の男は自嘲混じりに苦笑いした。
「上も上だぜ。いくら同じ方向とはいえ、なんで、あんなのを連れて行くかねえ。あれじゃ、お荷物もいいところだぜ。お陰でちっとも進みやしねえ」
休憩時には、隊の中でも浮いているあの、、特務の連中が適当に相手をしてやっていたが、あいにく群れの大半は、街に住む男のように友好的でも社交的でもない。今回の任務は統領代理の護衛のはずで、この行程の目的は、その代理の捜索のはず。それが、なぜ、あんな女に振り回されねばならないのか。
隊を束ねる彼らの首長も、近ごろ何か様子が変で、首長がふさぎこんでいるお陰で、移動の際にも後方ばかり、部隊同士で密かに張り合う彼らとしては、それも、いささか面白くない。
寝転がった頬傷の男が、組んだ足を大儀そうに組み替えた。
「なあ、どうしてっかな。大将は」
ふと隣の男が振り向いて、心配そうに眉をひそめる。
「手荒に扱われていなけりゃいいんだが」
トラビアのある西の空を、傭兵たちは眺めやった。
護衛の仕事で同行したため、ダドリー=クレストとは懇意だった。寝食を共にし、さばけた人柄に接する内に、打ち解け、連帯感を持っていた。仲間内以外のそうした友は、拒絶されるのが常の遊民には、実に得がたく、珍しい。しかも、彼は庶民などではない。絶大な権力を手中にする領主という名の実力者、本来であれば手の届かぬ雲の上の存在なのだ。そうした意味でも、彼は特別に大事な友だった。
彼とトラビアまで同行した者は、直前で彼に投降され、手痛い迷惑をこうむりもしたが、あの不可解な失態も素人ゆえの小胆さ、と寛大に受け止め、気にしなかった。隣国の屈強な兵士を相手に日々熾烈な闘いをくりひろげ、いく度も死線を潜った彼らだ。あの程度の番狂わせは取るに足りない些事だった。
彼がいきなり投降した際、彼らは包囲網を突き破り、立ち込める戦塵から力づくで脱出していた。騎馬の扱いに長け、戦慣れした彼らには、死守する何者をも持たず我が身一つで逃げていいなら、朝飯前の芸当である。鈍のろ臭く非力なカレリアの軍隊など、戦場を渡り歩く現役傭兵の彼らにすれば、きれいなお飾り人形でしかない。
「どうなっているかな、トラビアは」
「さあな。だが、陥落は時間の問題だろう。ラトキエが進軍しているからな」
一人が忌々しげに舌打ちした。
「亭主の尻に火が点いてるってのに、女房は優雅にお買い物ってか? いい気なもんだぜ!」
「哀れだよなあ、大将も。あんなに嬉しそうに話していたのに」
道中の長丁場で、ダドリーから散々新妻自慢をされたので、そのベタ惚れの度合いは同行者全員の知るところ。
一人が憎々しげに舌打ちした。
「しょせん、メイドあがりだからな、あの女は。一緒になったのは財産目当て。大将の方はオマケだろ」
「とんだ女狐に引っかかったもんだな、大将も」
中だるみした、だらけた空気に、冷え冷えとしたものが入り混じった。
それは急速に浸透し、草原ののどかさとは凡そそぐわぬ剣呑な空気が立ちこめる。
「暇、だよな」
誰かの落とした呟きが、含みありげな余韻で響く。
静まり返った小道を眺め、寝転がった頬傷の男が、何かを狙うように身を起こす。のどかな樹海を顎でさした。
「お誂え向きの"暇潰し"が、そこに服着て歩いているぜ?」
彼らの視線が、頬傷の男に集中した。一同、胡乱に目を眇める。
「"クレスト領家の奥方様"、ね」
鬱憤晴らしの的にするには、"それ"は手頃で丁度よかった。副長という適度に手ごわい障害も、暇潰しに挑むには格好だ。なに、ぶん殴られるくらいは安いもの。己が素行不良は棚にあげ、副長が横槍を入れてくるのは、今に始まった話ではない。
「頂くとするか、あの女」
頬傷の口端でニヤリと笑い、男は仲間に目配せした。
ガムを地面に吐き捨てて、一同、おもむろに立ちあがる。相談は、すぐにまとまった。
【 心の在りか 】
風道を深く入ったところで、木立の脇道に、ひとり分け入る。
風道の道端で待っているファレスは、すぐに背を向け、喫煙を始めるのが常だった。道すがらは文句を言うが、どんなに待たせても、急かしはしない。こちらに背を向けたまま、ああして、ずっと、そこにいる。巨根
今も、ファレスは背を向けて、かったるそうに煙草をくわえ、気難しそうに眉をひそめて喫煙している。馬上で着ている上着は脱いで、今は黒っぽいランニング一枚だ。体格は細身だが、ひ弱ではない。むしろ全体的に筋肉質で、剥き出しの肩や腕は、見るからに敏捷そうに引き締まっている。黒皮のベルトに細い腰、直線的に伸びた長い脚、そして、乾いた泥のこびり付いた、使い込まれた編み上げ靴。頭一つ分は、優に上にある高い背丈。だから、話す時には、いつも、首を曲げて、見上げていなくてはならない──
エレーンはぎくりと肩を震わせ、あわてて彼から目を逸らした。
「も、もう! ケネルのアホが、あんなことして、ふざけるから、変に意識しちゃうじゃないよ……」
真っ赤になって踵を返し、木漏れ日揺れる木立の中を、そそくさ早足で歩き出す。
近くにい過ぎて忘れがちだが、やっぱり、あれも男なのだ。こっちをおちょくる憎たらしい顔が見えないと──あの端整な顔が見えないと、殊更に "彼" なのだと実感する。そう、片脚に重心を預けた無造作な後ろ姿は、紛れもなく男性のものだ。例え、女性のように長い髪でも。どんなに憎まれ口をたたき合っても。
あの衝撃的な晩以来、エレーンはすっかり異性が苦手になっていた。もっとも、当のケネルは別なのだが。
男ばかりのこんな集団にいるのだから、平静を装って話しもするが、一度ああいうことがあったりすると、どうにも、そわそわ落ち着かない。又いつ、突然飛びかかってくるんじゃないかと知らぬ間に警戒してしまう。拳固が知らぬ間に、ぎゅうぅ、と硬く握り締められていたりする。手の平、汗びっしょりで。
長い"尻尾"を引きずって、急ぐ肩越しに振りむき振りむき、エレーンは藪を掻き分けていた。
風道から大分入った適当な場所で、立ち止まる。まったく、用足しにくるにも一苦労だ。周囲の無人を素早く確認、胴の結び目をせっせとほどく。腰縄が巻かれているのだ。前にそのまま散歩に行ったら、胴を結わえ付けられるようになったのだ。逃亡防止ということらしい。
作業をしながら、ブツブツごちる。だが、それは、縄を硬く結び付けたファレスに対する呪詛ではない。文句を言ってるその先は、
「なによお、ケネルってば、やな感じ。あんなに怒んなくたって、いーじゃないよ。そりゃあ、いきなり声かけたあたしだって、ちょっとは悪いかも知んないけどさ、でも、あわてて隠すくらいなら、初めから、あんな所で見なけりゃいいじゃん……」
ケネルが何かの紙を取り出したから、なんの気なしに覗いたら、ぎょっとケネルは飛び上がり、あわてて懐にしまい込んだのだ。そして、実に迷惑そうに「なんでもない!」と隠ぺいした。だが、張り合おうたって無駄なのだ。なにせ、こちとら、"嘘発見器"を内臓し、常にフル稼働している"女"という名の手ごわい生き物。急ごしらえのちゃちな嘘など、逆立ちしたって見破れる。
硬い結び目をなんとかほぐし、大木の根元から生えている若枝の真ん中に、縄の先を結びつけた。ファレスが気紛れを起こして引っ張った時に、少し揺れるくらいがいい。幹の方に結んでは、いささか手応えがあり過ぎる。ファレスは時々縄を引っぱり、本当にいるかどうかを確認する。こっちには、決してやってこない。また逃げるだろう、と分かっていても。
だから、彼をまくのは、とても容易いことだった。
結び終わった枝を離して、エレーンはそっと溜息をついた。
「……そんなに大事なもの、なのかな」
ケネルが見ていた薄青い手紙。
差出人は誰だろう。何が書かれているのだろう。それを見る横顔は、頬をわずかに緩めていた。
「ケネルの、ばか」
枯葉の積もる地面にうつむき、エレーンは軽く石ころを蹴った。こっちにはケネルだけしか、頼れる相手がいないのに。なのにどうして、よそ見なんかするのだ。
そうだ。なんで、そんなに鈍いのだ。なんで、そんなに無神経なのだ。一度それに気づいてしまえば、やることなすこと癇にさわって苛々する。
ケネルはいつでも面倒そうで、途中で話を打ち切ったり、呼んでいるのに無視したり、間違いを教えてあげれば、むっとした顔で黙りこむし、いや、そもそも人の話を聞こうとしない。一生懸命話しても、ケネルは深入りしたがらない。すぐにせっかちに問い質し、話を理詰めでまとめあげ、さっさと片付けようとする。いや、そこからしてズレている。誰も解決してほしいなんて言ってない。ただ話を聞いて欲しいだけ。そばにいて欲しいだけ。なのに、落ちこんだって慰めるどころか、ケネルはそれに気づきもしない。具合が悪くて心細くても、すぐにどこかへ行ってしまう。ケネルは、冷たい。
ケネルはちっとも気づかない。こっちのことを見もしない。
必死で信号を出しているのに。
「……なんか、疲れた」
うなだれた口から、弱音がこぼれた。
周りは粗野な男ばかりで、気が休まる時がない。居場所なんか、どこにもない。誰も彼もが余所者を見る目つき。見世物でも見るように野卑な目つきで、じろじろ、じろじろ。
──一人に、なりたい。
切実な欲求が頭をもたげた。
脇道の奥へと目を向けて、エレーンはそっと足を踏み出す。
森はひっそりと静かだった。
視界を埋め尽くす濃淡の緑。梢の先の、空が青い。
がさがさ、どこかで茂みが鳴った。藪をうごめく何かの気配。たぶんファレスではないだろう。彼ならぞんざいに名を呼ぶし、捜しにくるには早すぎる。どうせ、またウサギかリスだ。
用足しで森に入ると、小さな動物が現れる。それらが木立の奥から顔を出し、遠巻きにしていることがままあった。初めの内こそ驚いたが、何度も遭遇して、もう慣れた。どうやら動物に好かれる質らしい。今も、ばさばさ鳥が集まり、忙しなく首を傾げている。そう、あれも、いつものこと。とはいえ、今日はいやに騒がしい。又、どこかで茂みが鳴る。
静かな森を散策しながら、エレーンはそっと嘆息した。
気がふさいで仕方ない。確かに、今もダドリーがトラビアのどこかで囚われていて、彼の安否が気掛かりだ。だが、何もそれだけが理由でもない。
何かが、ざわざわ鬱屈していた。
切ないような、泣きたいような、大声で叫んでしまいたいような、得体の知れない暗い想い。不意に胸を衝く鋭い痛みも、胸が潰れそうな哀しみも、笑っている時も眠っている時も、それは常にかたわらにあって、ふとした拍子に現れては、心の平穏を脅かす。こんなふうになったのは、いつの頃からだったろう。ディールの奇襲をどうにか乗り越えたあたりだろうか。いや、たぶん、もっと前だ。
心の深い暗がりで、何かが呼び覚まされていた。
それは目をそむけ続けてきた嫌な何か。目を凝らしてみるけれど、その正体はわからない。
梢の先には、青い夏空が広がっていた。
そこに、くっきりと白い、鳥が一羽。翼を広げ、何かを探すように旋回している。
エレーンは足を止め、無意識に握っていた手を開いた。手の平にあるのは、不恰好に欠けた翠石のかけら。夢の石のまがい物。
緑の石が、木漏れ日を弾いてきらめいた。この緑のお守りを事あるごとに握るのが、いつの間にか癖になっていた。悲しい時、苦しい時、つらくて恐くて不安な時──。
ふと気づいて、首をかしげた。
気のせいだろうか。石が、いやに温かい。それに、かすかに震えているような──そう、石がかすかにざわめいて、、、、、いる?
右手の方角が気になった。
強く惹かれる何かがある。馬群は大陸を南下しているから、樹海の先は東の方向。大陸の東西は大海原。
──海が、見たい。
強い欲求が突きあげた。
大空の下、どこまでも広がる青い海原、寄せては返す青い波の情景が脳裏いっぱいに広がった。ごつごつした黒い岩、広々とした無人の浜、遠い空で輝く太陽──見たこともない海だった。なのに、無性になつかしい。
喉が詰まって息苦しい。それを出し抜けに自覚した。そう、つらくて苦しくて仕方なかった。もう、ここには、いられない。すぐにも、どこかへ逃げ出したい。
切なさが胸を締めつけて、せっぱ詰まって足を踏み出す。
気が急いた。
一刻も早く広い場所に出たい。誰もいない開けた場所、そこに辿りつきさえすれば、それだけで息がうまく吸える、そんな気がするのだ。
憑かれたように、がむしゃらに歩いた。
張り出した木の根につまずきながら。足場の悪い地面によろめきながら。だって、ケネルにまで手を払われたら、あたしは一体どうしたらいいの?
足は闇雲に海へと向かった。それでも足りずに、エレーンはもどかしい思いで足を速める。早く──早く行かないと! そこに行けば、楽になれる。
──そこに行くのが正しい、、、のだ。
がさり、と藪が大きく揺れた。
ぐっ、と二の腕がつかまれる。強い力で引っ張り戻され、足を取られて、たたらを踏む。
エレーンは全身を震わせて居すくんだ。腕をぞんざいにつかんでいるのは、節くれ立った無骨な手。
(……誰?)
自分の荒い息づかいを、戻ってきた意識が捉えた。
耳元で、脈が鳴っている。心臓が踊りあがっている。いっぱいに見開いた視界には、生い茂る木立しか写らない。
硬直し、振り向くこともできぬまま、エレーンは唾を飲み下す。
ファレスであれば、罵倒で呼びかけ、走ってくる。ケネルだったら気配でわかる。つまり、これは
知らない、、、、手だ。
胸が、早鐘を打っていた。
体温が、一気に下がった気がする。
とっさに逃げかけ、けれど、足は、凍り付いたように動かない。悲鳴を上げようにも、喉が張り付いて、声が出ない。
頭が痺れて、意識が捉えようもなく膨張していた。ただ、痛い程に分かるのは、"恐い"という感情だけ。
自分でも意外に思う程に、ビクついていた。振り向くことさえ叶わない。縫い止められ、狭まった視界に写るのは、疎らな雑草が長閑(のどか)に揺れる、陽に晒された地面だけ──
エレーンは、怯えわななく唇を、強く強く噛み締めた。
(──ケネルの、バカ!)
あんな悪ふざけ、したりするから。
足がガクガク震えて、言うことを聞かない。肩を掴まれただけなのに、体が竦んで動けない。
誰だろう。
いつから、そこにいたのだろう。上背のある筋肉質な気配を、背中に感じる。ジロジロ見ている、ぞんざいな視線を感じる。
肩を捕えた冷たい手。──その手が一つ、肩を叩いた。
それで、やっと弾みが付いた。
金縛りの呪縛が、解ける。石のような体が、動く。
声にならない悲鳴を上げて、転がり出るようにして前へと逃れ、慌てて、後ろを振り仰ぐ。
「──え?」
エレーンは、瞬いて、首を傾げた。
見上げた視界に写った顔が、──真後ろに立ち、肩を掴んでいたその相手が、思いもかけぬ人物だったからだ。だって、闊達そうな精悍な顔、逞しい褐色の肌に、陽に焼けた茶色の短髪、穏やかで落ち着いた茶色の瞳、そう、だって、この人は──
「バパ、さん?」
ポカンと口を開け、唖然と見返す。
「よ、こんにちは」
気楽な調子で、そう返し、彼は、キョトンと顔を見た。
エレーンは、訳が分からずに、キョロキョロ辺りを見回した。連れは、いない。彼一人だけだ。
この人は、確か、あの群れのリーダー格の一人、"バパ"と呼ばれる、あのおじさんだ。でも、そんな偉い人が、何故、たった一人で、こんな所に……
──ってか、何処から湧いて出たんだ!? このオッサン!?
人の気配なんて、しなかったのに。
アングリと口を開け、エレーンが呆然と見上げていると、短髪の首長は、静かな周囲にさりげなく目をやり、その目を戻して、呆れたように腕を組んだ。
「何処へ行くんだ? この先は、崖だぞ」
「……え、ガケ?」
訝しむような視線を向けられ、エレーンは、はっと我に返った。
「……あ、はあ……いや、あの、なんていうか、……別に、あたしは、崖なんて、そんな……その~……あの、そんなことは……」
しどろもどろになりつつも、相手が納得しそうな適当な理由を、必至で探索。そりゃ、さぞや、挙動不審に写ったことだろう。けれど、とっさのことで、要領を得ない。
バパは、しばらく黙って見ていたが、短髪の頭を掻きながら、さわさわ揺れる緑の木立を、グルリと一周、振り仰いだ。そして、
「ああ、そうか。方向が分からなくなっちまったか」
「え?」
「まあ、不慣れなあんたじゃ、無理もない。ここ 《 影切の森 》 では、そういうことが、まま起こるしな」
「……は、はあ、……いやっ、まあ、あの~……?」
小首を傾げ、誤魔化し笑いを返しながら、エレーンは、密かに、冷や汗を拭く。実に、好意的な解釈だ。
はっはっは──と笑って、闊達に話を収める首長から、小さくなって目を逸らす。この先に、海があるのは、知っている。
エレーンは、コソコソと目を彷徨わせた。このままだと "迷子になった" ことにされてしまうが、訂正しようにも、暴力的なまでに凄まじい、あの異様な衝動は、他人には、ちょっと説明し難い。
一人でモジモジしていると、チラと、バパが目を向けた。「気を付けな」
日焼けした腕をゆっくりと組んで、短髪の首長は、向き直る。狼一号
「この樹海の先の、南の方には、ここより、もっと酷い場所がある。万年、深い霧が立ち込めていて、慣れてる奴でも、そこから抜け出すのに難儀する。悪くすりゃ、そのまま遭難だ。あそこは、磁石さえ利かないからな」
「……は……あ……」
首を項垂れ、エレーンは、神妙に聞いていた。リアクションのしようがない。
バパは、至極、真面目な顔だ。迂闊な者に注意を与える、落ち着いた年長者の声。普段は、愛想良く笑っている人だが、今は、深刻な内容だけに、さすがにヘラヘラしていない。
「で、何してんだ? こんな所で」
ギョッと、エレーンは、飛び上がった。
理由を訊かれたから、ではない。改めて尋ねてきたかと思ったら、いきなり、肩を抱いてき (やがっ) たからだ。
我が身を抱いて一足飛びに飛び退り、ギッと、無礼者を睨め付ける。
不届きな手を宙に浮かせて、バパは、キョトンと停止した。だが、苦笑いで頭を掻くと、取り下げたその手を、腰に差した短剣の柄へと持っていき、──て、え!?
──さりげなく何する気だ!? このオッサン!?
エレーンは、躍り上がって、あわあわ……と逃げ腰。
「どうした?」
精悍な顔で、ふと振り向くと、バパは、鞘ごと引き抜いた自分の得物を、無造作に地面に放り出した。
ガシャンとぞんざいに転がったのは、見るからに使い込まれた鞘入りの剣。これまで数え切れぬほど握り込まれてきたのだろうその柄は、白っぽい地色が、既に薄黒く変色している。そう、実用に供されてきた、、、、、、、、、ことは一目瞭然、この使い込まれようは、単なる装飾品などでは、あり得ない。
「そ、そ、それ──な、な、何を──っ!?」
すっ飛んで木の裏へと避難して、エレーンは、ジタバタ喚いて顔面蒼白。想像したくもない物騒さだ。
けれど、ビクビクと覗き込むへっぴり腰の相手に構わず、バパは、投げ出した短剣の横に脚を折り、大儀そうに、よっこらせ、と腰を下ろした。「──ちょっと休憩」
「はっ?」
「せっかく、こんな可愛らしい話し相手もいることだしな」
「……」
勝手に "憩い仲間" に仕立てられ、エレーンは、己を指差し (あたしィー!?)と凝固した。しかし、その一方で、意識の方は、依然として、物騒この上ない "それ" にいく。
チラと盗み見たエレーンの視線の先を追い、バパは、今しがた自分で投げ出した短剣に目を向け、「ああ、こいつか、」と苦笑いした。
「──すまんな。俺達はなにぶん、他人様ひとさまから恨みを買う商売なもんでね。コイツがないと、いざって時に、自分の身が守れない。──しかし、こんな物は、あいつらだって持ってたろ?」
無論、彼の言う"あいつら"とは、このところ、彼女に張り付いている、無愛想な隊長ケネル、並びに、吊り目の副長のらねこの、件のコンビのことである。そして、バパは、「なんで、俺の時だけ……」とイジケそうな顔をする。
彼我の扱いの差別的な落差に、エレーンは、唐突に気が付いた。
「──あ、──あ、で、でも、あの、ケネルって、ああ見えて、結構ぼうっとしたトコあって、だから、こういうの持ってても、別にあんまり恐そうじゃないし──あ、だってホラ、顔だって別に、そんなに恐い顔って訳でもないし、だから、……だから、その……」
慌てて、オーバー・リアクション。無駄に両手を振り回し、言い訳がましく、あたふたと釈明。
けれど、実のない弁解を続ける内にも、盗み見の視線は、物騒な得物に釘付けだ。自らの置かれた状態に慣れ、気持ちに余裕の出てきたエレーンも、それには、とうに気付いていた。彼らの何れもが、常時、刀剣を携帯している、ということに。でも、正直なところ、そんな物、もう見るのも嫌だった。だって、あれは、鳥獣を狩る為の道具なんかじゃない。
人を、、傷つけ、苦痛を与える為の、、、、、、、、道具だ。
相手の痛みを知った上で、その効果と効率とを計った上で、人が人を傷つける図。──そのドス黒い凄惨さは、想像して余りある。
ヘドモドしながら、エレーンは、必死でフォローを入れる。短髪の首長は、胡座(あぐら)の膝に頬杖を付き、ふーん……と小首を傾げて、マジマジと熱演を眺めていたが、
「あいつが 好き か」
「──はあっ!?」
出し抜けに、何を言い出す!? このオヤジ!?
このつっけんどんな不意打ちには、年長者への表敬も恭謙もすっ飛ばし、エレーンは、端的&不躾この上なく訊き返す。
しかし、短髪の首長は、ヒョイと顔を突き出し、直球勝負。
「だから、ケネルの奴が好きか、って」
「──ち、ち、ち、ち、」
慌てふためき、エレーンは、前にも増して、両手をブンブン振り回し、キッと顔を振り上げた。
「違いま( す )──っ!?」
「膝に、乗ってた」
「──う゛」
一発で、沈められる。バパの勝ち。
シレっと横目で指摘され、エレーンは、前のめりMAXの全力説得体勢で、そのままギクリと氷結した。絶句した額には、嫌な具合に冷や汗タラタラ。どうやら、あの犯行現場を、バッチリ目撃されてたらしいのだ。
さっくり勝ったバパはといえば、白けた顔で、当て付けがましい視線をチラリと送り、
「いいのかよ? どんなに寛容な旦那でも、他の男にあんなことしたら、やっぱり、さすがに怒ると思うぞ?」
「……あ、あれは、……別に、そういうんじゃなくって……」
両手をモジモジ動かして、エレーンは、ドキマギしながら俯いた。
「ただ、ケネルって( 鈍感だから )、あたしが何をしても気にしないし、あんまり喋んないけど、頼り甲斐はあって──あ、別にダドリーが頼りないとか、そういうこと言ってるんじゃないんだけど、……でも、ダドは、あたしより二つも年下で、何考えてるのか、よく分からないところがあって、でも、ケネルは、何でもハッキリ言うから分かり易くて、こっちのいいように計らってくれるし、全部任せておいても、危なっかしくないっていうか、ハラハラしないで済むっていうか、何も考えないで安心して寄りかかっていられるっていうか、だから、気持ちがとっても楽で……ケネルは、なんか親類みたいで、頼りがいのある兄貴みたいで、だから、一緒にいると落ち着いて、だから──」
「やめときな」
「──え?」
「碌なことには、ならねえから」
素っ気なく、そう言い切り、バパは、続けて釘を刺す。「そもそも、奴の方じゃ、そんな風には見ちゃいない」
「──だ、だからっ! それは、違が──っ!?」
真っ赤になって顔を振り上げ、エレーンは、アタフタと訂正の手を振る。だが、動揺しきりの必死な相手を見もせずに、バパは、日に焼けた腕を、無造作に空へと突き伸ばすと、どうでも良さげに欠伸(あくび)した。「ま、そう気張るなって。今からそんなじゃ、保たねえぞ?」
「……は……あ……。って、え──?」
フル稼動に見合わぬ肩透かしを食い、ふと、顔を上げたエレーンは、ギョッと、バパを見返した。
今度は、肩を抱いてきたから、ではない。
突如、ゴロリと、その場に寝転が(りやが)ったからだ 。それにしたって、この人、
(なんで、寝るかな!?)
いきなり、地べたに。
唖然と口を開け、エレーンは、絶句で、足元を見下ろす。理解不能だ。もしかして、
……自由人なのか?
けれど、当のバパは、両手を頭の下に敷き、編み上げ靴の脚を無造作に組むと、気持ち良さそうに目を閉じた。
木漏れ日揺れる、爽やかな森の緑陰である。
頭上では、小鳥がチュンチュン、穏やかに、軽やかに、鳴いている。そして、世話係を撒いて森に分け入り、自由の身となったエレーンが、今、何をしているかといえば、
(なに、この人は~!!!)
突然、昼寝を始めたバパの隣で、ひょんなことから、日向ぼっこする羽目と相なっていたのだった。
決して、望んでこういう状態になっている訳ではないのだが、彼の言葉には、何と言うのか、有無を言わさぬ強制力があるのだ。そう、彼の意向には、逆らえない何かがあるような──。もしや、これが長の威厳とかいうヤツか?
仕方なしに背を丸め、エレーンも体育座りで付き合った。
抱えた膝に、そっと嘆息。確かに、知らない顔ではないけれど、隣で昼寝をされるほど、親しい仲だという訳でもない。
しかし、ゴロリと寝転がった相手の方は、全くこの限りではないらしい。下草の上に寝そべった、その伸び伸びとした態度は、リラックスしてること、この上なし。
「──ああ、いい天気だな。ここは、静かで、気持ちがいい」
呑気というのか何というのか、そんなことを、一人のうのうとのたまいながら、両手を上げて「うーん……」と伸びなんかしたりする。自分だけ憩っているのが、もうアリアリ。──と、ふと、バパが目を開けた。
サワサワ揺れる周囲の木立を、首だけ持ち上げ、不思議そうに見回す。「……なあ? なんか今日、鳥が、やたらと多くねえ?」
「そ、そうですか……?」
エレーンは、エヘラヘラと、お愛想笑い。なんだ? それ。
そんなことより、こっちとしては、勝手に接近されて、大いに困惑しているのだが……。
けれど、当のバパには、遠慮も、躊躇も、微塵もない。ここにいるのが、あの隊長や副長の方だったなら、森を勝手に徘徊してたことがバレた途端に、即刻カミナリ食らって強制連行されること請け合いだが、この短髪の首長は、長閑(のど)やかと言うのか何と言うのか、そうした荒っぽい手段を講じるつもりは、ないらしい。
もっとも、「帰る時には、起こしてくれよ」なんて、気軽に頼んでくれちゃったもんだから、何処にも行くことが出来ないのだが。
思わぬところで足止めを食らい、エレーンは、所在なく膝を抱えた。
遠くで、茂みが鳴っている。ひっきりなしに、ザワザワ、ザワザワ……。兎やリスにしては、音が大きいような気がするけれど、ファレスが捜しにでも来たのだろうか。
……いや、違うだろう。葉擦れの音が、あちこちから聞こえて来るし。
複数方向にある音を、一人で立てられる筈はない。もっとも、あの音の内のどれか一つが、仮にファレスの気配だったとしても、こんな茂みの裏に、隠れんぼでもするみたいに、小さくなって蹲っているのでは、きっと、おいそれとは見つかるまい。もちろん、意図的に隠れている訳ではないけれど、こうして、隣で、ベタっと地面に寝られちまっちゃ、自分だけ突っ立ってるっていうのも、なんか、バランス悪くて不自然だし。
それにしても──と、エレーンは、伸び伸びと寝転がった隣の御仁を、チラと窺う。
バパは、耳を澄ましてでもいるように、静かに目を閉じている。日焼けした精悍な顔立ちだ。彫りの深い端整な造りは、さすがに《 遊民 》と言うべきか。こんな"おじさん"にしては、中々イケてる方だろう。しかし、
(……無視なワケ……?)
チラチラ様子を窺う相手のことになど、とうに気付いているのだろうに、バパは、相も変わらず、一人、目を閉じ、寝転がっているだけだ。この分だと、その内、本当に眠ってしまうかも知れない。自分の方から誘っておいて結構失礼な態度だが、そういや、奴らは、隣人と何も話さなくても、平気でいられる神経の持ち主。それについては、あのケネルが、常日頃から、身を以て実践している。けれど、こんなにシン……と静まり返っていると、なんだか、ちょっと──
エレーンは、気まずくなってきた。三體牛鞭
「え、えっとぉ、バ、バパさんは、何しに?」
まずは、当り障りのない話題を振ってみる。この短髪の首長と、正面切って話をするのは初めてで、だから、改めて話し掛ける際には、さすがに、ちょっとばかり勇気を要する。
緊張気味に呼びかけられて、バパは、「……うん?」と目を開けた。
「──あ、だから! バパさんは、何しに、こんな所まで?」
「あー、俺か? 俺はな、」
おや? 意外と気さくな反応ではないか。
偉いわりに。
そして、短髪の首長は、やはり、いつもと同じように、ニコニコと、愛想良く答えたのだった。「小便」
「……」
そんなこと言うな。トシゴロの娘に。
エレーンは、ガックリと沈没した。まったくもって、論外である。
よく出来た外見とは全く不似合いなデリカシーのなさ。見てくれは良くても、やっぱ、オヤジだ。けれど、まあ、それは、百歩譲って、さて置くとしても、だ。
エレーンは、ソワソワし始めた。あんまり良く知らない人と、こんな人気(ひとけ)のない所で、二人っきりでいる、というのも、ちょっと、どうにもアレなのだが……
なんとはなしに落ち着かず、無人の周囲を、助けでも乞うかのように、キョロキョロ見回す。まあ、そんなことをサラッとのたまう辺り、気さくな人柄なのかも知れないけれど、でも、やっぱり、この二人きりというのが、どうにもネックで──と、ヒョイと目を戻した視界の中に、ふと "それ"を発見した。
エレーンは、目を丸くした。
(へえ? おっしゃれ~。このおじさん、ピアスなんかしてる……)
短く刈り上げた左耳に、小さな赤い石が光っていた。
普段は、相手の頭が高い位置にあるもんだから、今まで全然気付かなかったが──いや、正直に言おう。" おじさん"カテゴリー全般には、皆目興味がないもんだから、全く注目していなかった、というだけの話だ。それにしても、洒落っ気のある若者だというのならばともかく、この年にしてピアスとは。
だって、この人、もう、結構いい年だ。どう贔屓目に見たって、さすがに三十は超えてるだろうし……
ヒョイと、バパが、こっちを見た。
「俺の顔に、何か付いてる?」
小首を傾げて、にーっこりと笑いかける。そして、更に言うことにゃ、
「それとも、俺に見惚れてた?」
「……。い、いえ」
大した自信だ。
エレーンは、おほほ……と引き攣り笑う。案外、この首長、一見、誠実そうに爽やかに見えて、実は、結構な女誑しなのではないか? さっきも、さりげなく肩なんか抱こうとし(やがっ)たし──。
けれど、年上の偉い人を相手に、気安く突っ込みを入れるほど、エレーンだって迂闊ではないのだ。
「あ、あの、バパさんて、お洒落なんですねー。男の人なのに、ピアスしてるしぃー」
薄ら寒い疑惑の空気は、さりげない話題転換で強制排気。こうした日和見主義も、メイド時代に培った自己保身の知恵。
「これか?──これは、な」
装飾品に話を振られ、バパは、小首を傾げて愛想良く笑った。「俺の奥さんのヤツ」
「わあ、もらったんですかあ? 仲いいんですね」
(本当は、どうでも良かったが、)セッセと換気に精を出すべく、ここは、努めて明るく振る舞う。
バパは、照れたように、のたまった。
「いやあ、ちょっと、別の女んとこに行ったらさ、馬乗りになられて、ブスッと、な」
「……は……あ……」
エレーンは、引き攣り黙った。これは、思わぬ展開だ。
仲良しコヨシお手々繋いだ薔薇色イメージから急転直下、この暗黒のフェイントに、エレーンは、片頬をヒクつかせる。浮気を知った彼女から、怒りのピアスをぶっ刺されたらしい。
「い、痛かったでしょう」
たじろいで、又も、あはは……と、薄ら寒く笑う。成す術なし。意外や意外、凄まじい夫婦関係だ。
そして、見るからに精悍そうな短髪の首長は、
「泣いた」
意外にも、素直に、こっくり頷いた。痛かったらしい。
それにしたって、その奥さんという人も、よくも、こんな人を相手に挑みかかったものだ。
日に焼けた逞しい腕を盗み見て、エレーンは、内心、肝を冷やす。だって、いくら気安いったって、そもそも、傭兵をしているような人なのだ。無骨ないでだちに 逞しい体躯。この人が怒ったら、恐そうだ。暴れ出したりしたら、きっと、手に負えやしないだろう。いや、もしかすると、実際、その後、奥さんに手を上げたりなんかして……?
「あ、あのぉ~、やっぱ、バパさんも、その後、仕返しとか、したりして……?」
上目遣いで恐る恐る見やって、その後の顛末を、訊いてみる。
バパは、瞬いて、首を傾げた。「まさか。だって、相手は、女だぞ?」
何を言われているのか分からない、といった顔。
「あ、あの、でもぉ~、やっぱ、そんなこと、されたらぁ~……」と、エレーンがモジモジしていると、如何にも不本意そうに、憮然とした口調で付け足した。
「女を叩くなんざ、男じゃねえよ。男は、強い奴しか相手にしないものだ」
「あ、バパさんて、強いんだ?」
思わず、突っ込む。エレーンは、チロリンと疑いの眼差し。
「そりゃあ、もちろん」
バパは、即答。自信満々、胸を張る。
エレーンは、頷き難く氷結した。だって、つい今しがたの自己申告によれば、ここにいるのは、ピアス(如き)で泣いちゃった男だ。
相手の不審が伝わったのか、バパは、肩を竦めて、ツラツラ続けた。
「だって、女を殴ったって、仕方がないだろ。男の力が女よりも強いってのは、当たり前の話だ。男と女じゃ、体の作りが違うからな。──男には、暗黙の了解ってのがある。男は、基本的に、男しか相手にしない。競争の相手は、常に男だ。女と張り合おうとする奴なんてのは、まず、いない。男と女は、全く違う生き物だからな。ああ、動物は、植物と張り合おうとはしないだろ? それと一緒だ」
「……(しょくぶつ……?)」
あまりにも極端な譬(たと)え話に、エレーンは、眉根を寄せて、首を傾げる。(まったく、男どもは、こういうところが排他的なのだ──!)と、このところ、何かと言っちゃあ、あの二人(ケネルとファレス)から仲間外れにされる花の乙女エレーンは思うのだが、そんな不満などはものともせずに、異性を勝手に"植物"呼ばわりした短髪の首長の(独断と偏見に満ち満ちた)話は、いい調子で続く。
「拳の向かう先は、関心の在りかだ。焦点が合っているということは、そいつのレベルは、そこだということ。逆にいえば、拳を下ろしたその時点で、レベルが確定しちまうと言ってもいい」
「……(イヤ、そーゆーのは、別にどーでもいいんですけど。関係ないし)」
あんまり興味はないのだが、おじさんは、己に酔っているようだ。
一人、陶然と語られてしまい、エレーンは、口を挟めず聞いていた。あのアドにしても、そうなのだが、どうも、この年代のおじさんは、"○○とは、かくあるべし!"と、熱く持論を語りたがる傾向がある。そして、本日のお題は、言わずもがなの「男とは──」。
「強い奴ってのは、ただ黙って立ってるだけで、周り中から吹っかけられるもんなんだ。男ってのは、常に上を目指す生き物だから、出来るだけ強い奴と当って、自分の程度を見極めたい。しかし、時間も体力も、無限にはないから、そいつが相手を出来る範囲は、自ずと限られてくる。上限が決まれば、下限も決まる。つまり、下限が何処にあるかで、そいつの程度も、だいたい分かる。大抵、自分よりも上の奴には関心があっても、下の方にはないからな。だから、見た目がどんなに強そうでも、弱い奴ばかりを相手にするようなら、所詮は、その程度のレベルだと自ら白状しちまってるようなもんだ。そして、そういう偽者に名を騙られちゃ、日々体を張ってる俺達は、それこそ、いい迷惑ってもんだ。そういうのを "男の風上にも置けない" という」
「へ、へえ~? そうなんだ!」
息継ぎの切れ目を見つけて、やっと、何とか合いの手を入れる。会話には極力参加したい質である。
しかし、ヒョイと振り向いたバパの応えは、
「うん、多分な」
適当そのもの。
エレーンは、絶句で引き攣り笑った。いい調子で語っていたから拝聴したが、この男、意外といい加減なのではないか?
どうも、インチキ臭い。この誠実そうな、闊達な穏やかさは、看板倒れ、というヤツか?
女誑しだし。
一頻り語って満足したのか、(どうも胡散臭い) 短髪の首長は、大口開けて欠伸(あくび)した。「──ま、男とは呼べんような臆病者には、始めから縁のない話だな」
「でも、男じゃなかったら、そういう人達は、なんていうの?」
突っ込み所を発見し、エレーンは、内心ホクホクと、意地悪チックに訊いてやる。
「そういうのはな、」
バパは、にっこり笑って、振り向いた。
「"負け犬"ってんだ」
片目を閉じて、素早くウィンク。
エレーンは、パッと目を逸らした。おじさんのくせに、意外にも魅惑的だ。
顔にポッと火が点いて、不覚にも、動揺。だって、何やら妙に色気があるのだ。けれど、若い男のように、変にギラギラしていない。それは、ごくごく自然で柔らかい。肩肘張った硬さがなくて、屈託がなくフランクで、円熟したまろみがあるのだ。そして、随分、手慣れてる。
海千山千の余裕のバパは、してやったりと、ニコニコ顔で眺めている。うっかり、真正面から受け止めてしまい、ドキドキと動揺しているエレーンが、(こういう人は、きっと、女性をリードするのも上手なんだろうなあ…… ) などと、熱烈ラブ・ロマンス&落花流水系の想像を、一人逞しくしていると、
「ケネルだって、あんたが、どれだけ我がまま言っても、あんたを叩こうとはしないだろ?」
その名で、エレーンは、ふと、我に返った。
上目遣いの腕組みで、ふ~む、と、それについて考えてみる。
「う~ん、ケネルの方は、そうだけど……あ、でも、女男の方は、時々、殴りたそうな顔してるけどね。──あー、そっか。やっぱ、ああいう(=女みたいな) 顔だから?」
野良猫にアッカンベされた、これまでの非礼の数々を、う~む……と頭の中から捻り出し、エレーンが密かにムカついていると、バパは、顔を綻ばせて苦笑いした。
「……あいつが何をしているのか、、、、、、、、、あんたは、本当に知らないんだな」
「はい?」
エレーンは、パチクリと瞬いた。いやに、思わせ振りな発言ではないか。
何かあると嫌なので、早速、根拠を問い詰める。だが、バパは、惚けるばかりで口を割らず、結局、それ以上は、何も答えはしなかった。
仕方なく肩を竦めて、エレーンは、話を仕切り直す。
「なんだー、バパさんて、気さくなんだー。あたし、もっと恐い人なのかと思ってたわ」
「"恐い"?」
エレーンの感想を復唱し、バパは、怪訝な顔で訊き返した。
そうした形容は、言われ慣れていないようで、唖然と絶句した後、困ったように笑いながら、寝そべった体を引き起こす。
「──おやおや、これはショックだな。──参ったな。あんたみたいな若い娘に、そんなことを言われたのは、初めてだ」
モソモソと座り直して、陽に焼けた項(うなじ)をゆっくりと撫でる。
何を考えているものか、バパは、しばらく、そうしていたが、改めて片膝を立てると、その上に、日に焼けた腕を、おもむろに置いた。頬に浮かんでいた笑みを消し、その目をエレーンに振り向ける。
「何故、そう思ったんだ?」
答えを強いる、真っ直ぐな視線。
「──え? だ、だって、」
唐突に、鋭い視線に射抜かれて、エレーンは、ギクリと居竦んだ。
目を逸らして、思わず、俯く。
「だって、皆がゲルに集まった晩も、バパさんが来るまで待ってたし、馬で走る時なんかも、いつも先頭走ってるし、──あ、ほら、先頭ってあれ、一番強い人がやるものなんでしょ? だから、あたし、──」男宝
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