今はプリムの部屋となっている客間の寝室に、静かに本を読み聞かせる声が響く。
「……そして戦士はお姫様を救うため、怪物たちの住む森の奥深くへ入っていきました」
寝台のそばに椅子を置き、そこに腰掛けながら本を開くローゼ。
読んでいるのは、イヴリルに昔から伝わるの物語だ。掛け布から顔と腕だけを出したプリムがわくわくと、初めての話に耳を傾けていた。房事の神油
眠る前にローゼが本を読んでやるこの時間を、プリムは毎晩楽しみにしてくれている。
今やこの部屋の本棚は、ヴァンが用意してくれた、沢山の子供向けの本で埋め尽くされていた。
「ローゼ、『センシ』って何だ?」
読み聞かせの最中、分からない単語があれば、すぐにこうして質問が返ってくる。
プリムは利発なので、言葉の覚えが早くて非常に助かっている。
既に日常会話だけなら支障のない段階まで達しているものの、こうして本を読んでいると、やはり聞き覚えのない単語も出てくるようだ。
できるだけ簡単な単語を選びながら、プリムに言葉の意味を説明するのは、主にローゼの役目だ。
それでもどうしても分からない時は、サルマーン語でフィーユに説明してもらうようにしていた。
「うん……そうね、戦士は『人のためにたたかう人』のこと、かしら。例えば、ヴァン様みたいな軍人……とか」
「おお、それならヴァンは***なのか」
「え、なあに?」
「エクラム。プリムの国の言葉で、えっと……オオカミ。強いセンシはみんなオオカミの子だ。サルマーンでは、偉いセンシのことをエクラムと呼ぶ」
聞き取れずに首を傾げると、プリムがゆっくりと分かりやすいように発音して、そう教えてくれた。
「ヴァンはショーグンなの?あの子たち、そう言ってた」
「そうよ、ヴァン様は将軍。とっても偉くて立派な……そう、『エクラム』ね」
教えられたばかりの、不思議な響きを持つ異国の言葉のを繰返し、そっとローゼは微笑む。
孤児院の子供たちは、見たこともないヴァンのことを『おじさんしょーぐん』と親しげに呼んで、慕ってくれている。
いつも玩具や贈り物をくれる相手に、会ってみたくて仕方がないようだ。
顔を見せてやれば良いと思うのに、ヴァンは、怖がらせてしまうと言って、子供たちとの対面を避けている。以前フィーユから聞いた通りだ。
ローゼは嫁いでしばらくしてから知ったことだが、どうやら夫は、イヴリルの悪鬼イヴィルと言う、恐ろしげな二つ名で、広くその存在を知られているようだ。
そしてそれは、勇猛果敢な戦いぶりももちろんのこと、顔が怖いと言うのも主な理由であるらしい。
倒れそうになった花嫁を、咄嗟に支えてくれるような優しい人だ。だからかどうかは自分でもよく分からないが、少なくともローゼは、ヴァンの顔を怖いと思ったことなど一度もない。
なので結婚式の前、大聖堂に到着した際に耳にした、街の人々の言っていた意味深な言葉はそう言うことだったのかと、その話を聞いてようやく合点がいったのだ。
ヴァンの身の内から滲み出る威厳や、圧倒的存在感が、周囲に近寄り難い印象を与えてしまっているのかもしれない。
ローゼからすれば、将軍と言う地位に相応しく、また必要不可欠に思えるそれらの要素も、やはり子供の目には恐ろしく映るのだろうか。
朗読を止め、プリムにその疑問をぶつけてみる。
「プリムは、ヴァン様が怖い?」
「ううん。何でそんなこと聞く?」
「ほら、最初の頃……。ヴァン様に何か叫びながら、何度も蹴りかかっていたでしょう。だから、そう思ったの。あれ、何て言っていたの?」
「ああ」
菫色の瞳が気まずげに伏せられ、プリムがその時のことを思い出したように、照れ笑いを浮べる。
そして、ぽそっと呟いた。
「……『出たな大魔王』って言った」
「だい、……」
衝撃の一言に、ローゼはしばし言葉を失う。やはり、夫はいわゆる『怖い顔』であるらしい。
――――このことは、ヴァン様には教えないほうが良いはず……。
ああ見えて彼は、繊細な人だ。
この間、道端でおばあさんに道を聞かれ、振り向いた瞬間逃げ出されて落ち込んでいたと、フィーユが嬉しそうに語っていたことを思い出す。
「そうだったの……」
「ん。ヴァンは、イカツイ悪人顔だ。あの時は、ローゼ襲われるかと思って蹴った」
「厳つい悪人顔って……プリム。……そんな言葉、誰に習ったの?」
「フィーユだ!」
新しい言葉を覚えたのを褒められたと思ったらしく、プリムは掛け布の中で胸を張っているようだ。
語彙が豊富になるのは嬉しいことだ。しかしながら、フィーユが教える言葉は、妙な方向に偏ったものばかりに思えるのだが、気にしすぎだろうか。
これは一度フィーユと、プリムの言語教育について話し合うべきかもしれないと、ローゼは子を持つ母親のような気持ちになった。
「ヴァン怖くない。プリムとローゼに優しい。けど、フィーユにちょっとだけ怖い」
「まあ」
的を射たプリムの言葉に、ローゼはよく見ているものだと、くすくす笑い声を上げた。
確かにヴァンは優しいが、幼馴染であるフィーユに対しては遠慮会釈なしなところがある。
本の読み聞かせを再開しようと、また本なや目を落とすと、ふあぁ……と欠伸の音がした。プリムが眠そうに目を擦っている。
どうやら今夜は、これでおしまいのようま。
「ランプ、点けたままにしておく?」中絶薬ru486
本を閉じ、とろんとした表情に問いかけると、こくりと頷いた。
掛け布を肩まで引き上げて整え、頭を撫でてやる。
プリムはうつらうつらとしながら、大切な内緒話をするように、小さな声で囁いた。
「あのねローゼ……。ヴァン、ちょこっとだけ兄上に似てる」
初めて聞く、プリムの身の上に関する情報に、ローゼは軽く目を見開いた。
プリムが拐われてきた孤児であることを考えると、恐らく既にこの世の人間ではないのだろうが……兄がいるなど初耳だ。
「兄上?プリム、お兄さまがいたの?」
「うん、プリム可愛がって……くれた……。……兄上も、ヴァンみたいに赤い目してて……。オオカミ……エクラム……一緒」
「プリム?」
「二人、……大きくて……やさし……から……リムは、ヴァン……くない……」
むにゃむにゃと呟きながら、小さな少女は眠りに落ちた。
見計らったかのように、静かに扉を開く音が聞こえる。
「――――ローゼ、プリムは……」
「今、眠ったところです」
風呂上りらしきヴァンはバスローブ姿で、首にタオルを巻いていた。
プリムがこの家に来てからと言うもの、彼との夜の茶会は中断してしまっている。
それを少し残念に思うが、ベッドに近づきプリムの寝顔を見て、穏やかに目を細める夫のを見るのも、ローゼは嫌いではない。
それに子供が屋敷にいることで二人の会話の幅も広がり、むしろ以前より夫との交流が増え、心の距離が縮まったようにも思う。
「今日は少し疲れていたようだな」
「ええ、孤児院で子供たちと走り回っていましたから。とても楽しそうでした。プリムは、木になった果物を、石を投げて落とすのがすごく上手なんですよ。それに足が早いから、追いかけっこで誰も敵わないんです」
初めは躊躇っていたプリムだが、一緒に遊んでいる内に子供たちと随分仲良くなり、帰りの馬車の中では「また行きたい」と何度もせがんでいた。
あれだけ嫌がっていたのが嘘のように、次の孤児院訪問を楽しみにしている。
「しっかりしているとは言え、この子もまだ子供だからな。楽しめたなら良かった」
呟くヴァンの瞳は、正しく保護者のそれだった。
初対面での印象はあまり良くなかったかもしれないが、あれから数日経った今では、プリムもすっかりヴァンに懐いている。
あどけない声で『ヴァン』と呼び、何かと付き纏いたがるプリムに、ヴァンも満更ではなさそうだ。
『親鳥を追うひな鳥』とフィーユがその様子を揶揄していたが、まさにその通りだと思う。
恐らく知らない人間が見れば、二人が血のつながった父娘と思うに違いない。
「プリムのお兄様、ヴァン様に少し似ているんだそうです」
「俺が、プリムの兄に……?この子は、兄弟がいたのか」
「はい。戦士で、ヴァン様と目の色が同じだと言っていました」
「戦士……エクラムか」
「ご存知なのですか?」
ローゼは目を瞬いた。
珍しい銀髪に赤茶の瞳と言う外見的特徴から、彼はサルマーン系の血を引いているのではないか……。
そうフィーユは言っていたが、赤子の頃に捨てられたヴァンに、親や生まれた場所に関する記憶があるはずもなく、彼はサルマーン語を話せない。
そのため、ヴァンがなぜ『エクラム』と言う言葉を知っているのか、ローゼは不思議に思ったのだった。
「サルマーン建国にまつわる神話を、聞いた事がある。人間の巫女と神狼の間に生まれた戦士が、部族同士の争いを収め、初代サルマーン国王になったと言う話だ。彼かの国において、力の強い戦士は、その神狼の血を引く末裔と呼ばれるらしい」
「そんな神話があるのですね。狼の子と言うのは、そう言う意味だったのですか。でも……初めてでした。この子が、故郷の……家族の話をしてくれるのなんて。少しはわたしのこと、信頼してくれているのでしょうか」
プリムが、できるだけ寂しい思いをしないよう、心穏やかに過ごせるように。
そう心がけて接してはいるものの、やはり本当の家族との思い出は、簡単に忘れられるようなものではない。故郷の夢でも見るのか、プリムがうなされながら泣くことが、時折あった。
それを見ていながら何もしてやれないことが、ローゼにはとても歯痒く、辛いのだ。
「お前はよくやっている。プリムもそれは分かっているだろう。この子は、お前の事が好きみたいだからな」
だからこそ、飾り気のない慰めが落ち込んだ心に、深く染みた。
よくやっている……、そうだろうか。自分では、もっと出来ることがあるのではないかと思い悩んでいるため、良く分からない。けれど夫がそう言ってくれるのだから、信じるべきなのだろう。
「でしたら、嬉しいです。あぁ、それで思い出しました。プリムったら、今日は孤児院で子供たち相手に延々と、『おじさんしょーぐん』の優しさについて、語っていたんです。ヴァン様のことが大好きみたいで、とても生き生きとしていました」
「それは嬉しいが……そのおじさん将軍と言う呼び方が、俺は少し不満だ」
「あ……ごめんなさい」
子供たちがそう呼んでいたので、ついそのまま口にしてしまったが、どうやらヴァンはこの愛称がお気に召さないらしい。
まだ十歳前後の子供たちにとって、三十五歳と言えばおじさんになるのかもしれないが、一般的にはその年齢は微妙な境目とも言える。華佗生精丸
ローゼは『おねえさん』と呼ばれているのだし、ヴァンはその『おねえさん』の夫なのだ。そう考えると、やはり彼が『おじさん』と呼ばれるのはおかしいのかもしれない。
「――――あの、今度は『お兄さん将軍』と呼ぶように言い聞かせておきますから」
「いや、もう良い」
余計に虚しくなる、と聞こえた気がした。気のせいだろうか。
落ちた気まずい沈黙に、どうやって取り成せば良いかも分からず、頭の中であれこれ次の言葉を考えたローゼだったが、先に口を開いたのはヴァンのほうだった。
「……子供たちはどうだった」
「仮面を喜んでおりました。シスター・ラトリンも大層感激なさった様子で、何度もお礼を仰っておられましたわ」
「祭りは、明日だからな」
ヴァンが、窓の外に目をやる。
今は夜なので見えないが、明日になればあちらこちらに篝火が焚かれ、国中が明るく賑やかな雰囲気に包まれる事だろう。
「せっかくだから、明日の夕刻、日が沈んだ頃に屋敷を出発し、街の傍に馬車を付けておこう。ルアンヌの祭りは盛大だ。もちろん、都には及ばないが」
「よろしいのですか?ヴァン様、賑やかな場所はお嫌いかと……」
数週間前に届いていた、宮廷で開かれる仮面舞踏会マスカレードの招待状は、開く前に捨てられていた。
レンシーに聞くと、ヴァンは華やかな場所や騒がしい催しを嫌うらしく、何かと理由をつけては、いつも宮廷での晩餐会や舞踏会は欠席しているらしい。祭りの日には使用人たちだけ外に送り出し、自分は一人、家に篭っているのが常だと。
だから、てっきり今年もそうするつもりなのかとローゼは思い込んでいたのだが、いきなりどうしたのだろう。
すると、くぐもった声で答えが返ってきた。
「……喜ぶかと思って」
あぁ、と納得したようにローゼは声を上げた。
そうだ、今年はプリムがいる。子供のために、苦手であるにも関わらず、祭りへ行く事にしたのだろう。何と思いやりのある方なのかと、頬が自然と緩んだ。
「子供はお祭り好きですものね」
「違う」
けれど、その考えはどうやら間違っていたらしい。否定され、まっすぐな目で見つめ返された。
「お前が、好きだと言っていたから」
「え……」
思いがけない言葉に、以前ヴァンとの間で交わされた会話が、ふっと思い出される。
『ローゼは祭りが好きか?』
『ええ、とても。あの独特の明るい雰囲気が好きで、いつもその時期になるとわくわくしていました』
確かに二週間前、そんな話をした覚えがある。
だけど、あんな他愛もない会話を覚えていてくれただなんて、思いもしなかった。
その時からずっと彼は、祭りに行くつもりでいたのだろうか。
喜びと、信じられない思いとでヴァンを見ると、ローゼをまっすぐに見つめていた瞳が、すぐに気まずそうに逸らされた。
「……祭りに行けば、お前が喜ぶかと思った」
――――わたしの、ため?
ローゼが喜ぶから、祭りに行くのだと。言葉通りに受け取っても、良いのだろうか。
「ありがとうございます。とても……とても楽しみです」
甘く疼く胸元を押さえながらそう言えば、ヴァンが「ああ」とぶっきらぼうに頷いて、頭を撫でてくれた。
調子に乗ってはいけないと分かっているのに、嬉しいと思う気持ちを止めることができないのはどうしてだろう。
……嬉しいの、胸が痛むのはどうしてなのだろう。
今のローゼには、いくら考えてもその理由が分からなかった。
篝火の夜に渦巻く思い
いつもは静かに地上を照らしてくれている美しい月や星々も、今日ばかりは地上で燃え盛る赤い炎に、すっかりとその役目を奪われてしまっている。
ルアンヌの街は数え切れないほどの松明により赤々と照らし出され、遠くから見れば、大規模な火事でも起こっているのかと思うほどだった。
馬車の窓からそれを眺めていたプリムが、まっさきに飛び出していく。
「わぁ!見てローゼ!!お店があんなにいっぱい!」
「走ったら駄目よ、プリム。人ごみではぐれてしまうわ」
すぐさま捕まえに行くローゼは、すっかり母親のようだ。
ヴァンは、フィーユと並んで二人の後をついていく。
通りの両端に並ぶのは、立っていても食べられるような簡単な料理に、異国の小物などを取り扱う露店や出店。威哥十鞭王
人々はみな猫の仮面を付け、顔を分からないようにして祭りを楽しんでいる。
もちろんヴァンたちも慣例に則り、予め馬車の中で仮面を身に着けていた。
「ヴァン様、グラニータの甘露煮ってどんなものですか?」
「ああ、グラニータは……」
と説明しながらも、ヴァンは妻の仮面姿に釘付けだ。
『お洒落な子猫ちゃん』と言うテーマを聞いた時は、心底ルーディスのその軽薄な思いつきを馬鹿にしたものだが、悔しい事にその猫の仮面はローゼによく似合っている。……眼福だ。
尖った耳の片方には、誰が付けたのか、黄色いリボンがちょこんと結ばれている。鼻までを仮面で覆われ、その下から、ピンク色の唇だけが覗いているのが何とも色っぽい。
そして目の切れ込みの部分からは、水色の瞳が隠しきれない興奮を伝えていた。プリムと同じくらい、ローゼは祭りを喜んでくれているらしい。
それでこそ、わざわざ苦手な祭りに繰り出した甲斐があったと言うものだ。妻の喜ぶ顔を見たい、ただそれだけの理由で、ヴァンは祭りへ行くことを決めたのだから。
「あれは?」とか「じゃあこれは?」と質問しながら、ローゼはふわふわと踊るように、店から店を渡り歩いていた。
仮面で顔を隠していても、人ごみに紛れていても、彼女は周囲の人間より一際輝いている。
――――きっと、同じ仮面を着けた人間が何人いようと、自分は真っ先にローゼを見つけ出すだろう。
どこかうっとりとしながら妻の動向を見つめていると、横にいたフィーユから、いきなり背中を殴りつけられた。
突然のことだったので身構えることもできず、頭ががくんと揺れる。
「毎回毎回、何なんだ貴様は!俺をぎっくり腰にさせたいのか!!」
「気持ち悪いから、おっさんが一人でニヤニヤしてんじゃないですよ」
「おっ……、おっさんだと!」
実は、妻と年齢が離れていることを地味に気にしているだけに、その一言が妙にぐさりと突き刺さる。
十二歳の年の差。それは二人が政略結婚夫婦であることを考えれば、さほど珍しいことでもない。けれど、やはり……傍から見ると……年のいったオヤジが、若い娘を誑かしたように見えるのだろうか。
そんな風にいじけるヴァンは、当然ながらローゼの実年齢が、思っているより更に六つも若いことなど知らない。
「若い女性を見てデレデレするなんて、おっさんそのものじゃないですか。変態扱いされて警備隊にしょっぴかれても、僕は知りませんからね」
「なっ!俺は、ローゼのお、夫だぞ」
自分を勇気付けるように、『夫』と言う言葉をことさら強調して、ヴァンは反論する。
けれど噛んでしまったせいか、どうも説得力に乏しくなってしまったようだ。フィーユがやれやれと、頭を横に振る。
「何どもってるのか知りませんけどね、その初恋を覚えたばかりの少年みたいなあまーい顔やめてくれませんか、砂吐きそうです」
「別に俺はそんな顔をしてなど……」
「あー、はいはい。言い訳は結構。そんなことより、ベルニア奥様がさっそく口説かれようとしてますよ」
そばにいなくて良いんですか、と言う言葉に驚いてローゼを見れば、少し目を離した隙に、一人の男が今にも声をかけようとしているところだった。
たちまちヴァンは目付きを鋭くした。
――――俺のローゼに触るな!!
男はローゼに触れるどころか、まだ声すら掛けていないのだが、そんなことはヴァンにとって些末な問題だ。
怨念のような雰囲気を体中から立ち上らせる主に、フィーユが「あー……」と額を押さえる。
「ねえ、そこの君……ヒィッ!!」
歩幅を大きくして近づく異様な雰囲気の大男に気付き、今正にローゼの肩を叩こうとしていた男が、絞り出すような悲鳴を上げた。
幸いにも、ローゼは出店に夢中で、男の接近に気付いていないようだ。
丁度良い。妻が勘付く前に、邪魔な虫けらは撃退してしまおう。
ヴァンは自分の着けていた仮面を頭の上へと押し上げ、隠していた顔面を相手に晒した。
あまり嬉しくはないが、己の顔は、こう言うときだけは非常に役立つ。
思ったとおり、仮面の下から凶悪な目つきが現れた途端に、相手の目の色が変わった。
「ラ……ッ、しょ……!!」
ほとんど音にならない声で、自分を呼ぶ男に、ヴァンは口の端を歪めて笑った。
「ふん、俺が誰だか知っていると言うことは、軍の関係者のようだな」
ならば尚更都合が良い。
冷徹な悪魔の笑みに、相手はもう殆ど失禁寸前だ。
「しょしょしょ将軍閣下、なななな、何かじじ自分に、ごごっ、御用でありますか」
「貴様こそ……俺の妻に何か用か」
唸るような超重低音で問いかけると、男がガタガタと震える。
もちろんその声は祭りの喧騒に掻き消され、至近距離にいる男にしか聞こえていない。
「つ、つつつつつま?」
「身の程知らずな貴様が、たった今声をかけようとしている、そこの可憐で美しい娘のことだ。彼女に何をするつもりだ」
「ひっ、ひぃぃぃ!なな、何をするだなんてそんな、滅相もない!たたた単なる出来心ですっ。一人でちょっとさ、寂しいなー、話し相手が欲しいなー……って思っただけで、かか閣下の奥方様だとは露知らず!!」福潤宝
「そうか。失せろ」
「はっ、はひぃぃぃ」
短い命令に、律儀に敬礼までして。
男は強盗にでも遭遇したかのように、大慌てで走り去っていった。
慌てすぎて、途中で石に躓いて転げている。
くっくっく、と邪悪な笑いを漏らすヴァンに気付き、振り向いたプリムが思いっきり妙な顔をした。
「ヴァン?どうかしたのか」
「あぁいや、少し大きな害虫がいたのでな。それよりも、何か欲しいものでもあったか」
仮面を元に戻したヴァンのシャツの裾を、プリムがぐいぐいと引っ張った。
「これ見てたんだ。面白そうだ」
「石を投げて、あの箱の中に入ったら、景品がもらえるそうです」
「景品?」
看板には『一等、マルス地方への湯治の旅へご招待』と、赤い文字で大仰に書かれている。
見れば、棚の上にいくつも箱が並べてあり、そこまでの距離の長短によって景品が決まっているようだった。
箱の表面には小さな穴が開いており、そこに石を入れる……と言うことなのだろう。
食べ物や飲み物、小物などを売るのが主流の祭りでは、珍しい試みだ。
「おじょうちゃん、興味あるの?」
店の中から顔をのぞかせる女に、プリムがこっくりと頷いて見せた。
「俺がやろうか?」
提案すれば、プリムは首を横に振り、「自分でやる」と進み出た。
さきほどから、じっと景品の置いてある棚を眺めていたプリムは、どうやら欲しい物があるらしい。
景品は、どれも買えば済むようなものばかりだが、祭りでそれを言うのは無粋だ。
銅貨一枚につき、五回の挑戦。
背が低く子供のプリムより、ヴァンが挑戦したほうが命中する確立は高くなるだろうが……。
高いものでもなし、まぐれで一つでも景品が貰えれば良いほうだろう。
プリムがやってみたいのならと、ヴァンは小さな掌に銅貨をのせた。
「あら、おじょうちゃん。やってみる?」
「ん」
「じゃあ、特別に六回投げさせたげるわね」
銅貨を受け取った店の女が、気前良く六粒の丸く白い石をプリムに渡す。
「この線を踏まないようにして投げてね」
「分かった」
箱の置いてある棚から少し離れた場所――――子供用の立ち位置を告げる円の上に立ったプリムが、立て続けに六つ、全ての石を放り投げた。
すとん、すとん、と。やけにあっさりとした音を立て、石は吸い込まれるように箱に開けられた穴に中に落ちていった。
信じられないほど的確な狙いに、ヴァンとローゼも目を見開く。
プリムの手付きは、見事としか言いようがなかった。
六つ全てが、一番離れた場所にある、一番上の棚の、一番小さな箱の中に落ちたのだ。
『一等賞おめでとう』の鐘を鳴らすのも忘れ、ぽかんと立ち尽くす店の女に、プリムが小首を傾げて見せた。
「そこのそれを二つくれ」
湯治の旅ではなく、安物の指輪の入った箱を指差したプリムに、女が驚いたような顔をした。
「え、でも、一等賞は旅行への招待で……」
「リョこー?が何かは知らないが、プリムは赤い石のついた指輪がほしい。そこのそれと、そっちのヤツを一つずつくれ」
困ったような顔をしていた女だったが、安上がりな景品ですむと考えたのか、すぐに指定された指輪を二つ、取り出して渡す。
プリムは、それを嬉しそうに摘んで、松明の火にかざして眺めていた。
お洒落に目覚めたのだろうか。
年齢を考えればおかしくはないが、てっきり、熊のぬいぐるみか玩具でも欲しいのかと思いこんでいただけに、その選択は意外だった。
「良かったわね、プリム。とりあえず、失くさないようにポケットにしまっておく?」
「うん」
そんな会話をする二人を眺めていると、店の女が不意に話しかけてきた。
「仲の良い御家族ですね。お父さん」
「おと……!?いや、俺は」
突然慣れぬ呼ばれ方をされ、一瞬、自分に話しかけられているのだと気づけなかった。
「お若い奥さんと可愛いお子さんで、うらやましいです」
思いがけない誤解に、仮面の向こうでヴァンはうろたえる。
いや、あの子は自分の子供ではなくて、と言うかまだローゼと子供なんて、と言い訳しようとして口篭った。
今日のヴァンとローゼは、誰がどう見ても子連れで祭りを訪れた夫婦だ。
それに顔の半分以上は仮面で隠れているため、親子にしては年が近すぎると言うのにも、誰も気づかないだろう。
心底楽しそうに笑いあう妻とプリムを、少し離れた場所でぼんやりと眺めていると、ふと錯覚してしまいそうになる。
自分との間に生まれた娘を、ローゼが可愛がっているかのような、どこか不思議で夢のような……。
それは、松明の柔らかな火に照らされてぼんやりと揺らぐ、幻想的で非日常的な祭りの空気がそうさせるのか。
それとも『お父さん』と言う言葉に、ふと、先日のローゼとのやりとりを思い出したからだろうか。『俺の子供がいれば可愛いと思うか』と言う問いに、迷う事なく頷いてくれた、彼女の微笑みを。
いつか……いずれは、自分と彼女の間にも。
――――何を馬鹿げたことを。
浮かびかけた考えに、自嘲気味にヴァンは首を振る。
最初に手酷く傷付けたせいで触れることもできず、いつか彼女に拒絶される未来を想像し、臆病に怯えているくせに。
無意識に、掌を強く握りこむ。
それはローゼに触れなくなってから、いつの間にかついてしまった癖だ。
彼女と向かい合う時、抱きしめる時、ヴァンはいつもそうして、手を硬く握り締める。
彼女に二度と酷い仕打ちをしないと言う、強固な意思を表すように。
だが、もうそろそろその我慢も、限界を迎えつつあった。
ヴァンは今、ぎりぎりのところで踏み止まっているに過ぎない。理性も精神力も、既に崩壊寸前なのだ。
――――ローゼが欲しい
この腕の中に閉じ込めて、未だ聞いた事のない、蕩ける様な甘い声を聞きたい。
滑らかな肌の全てを、味わい尽くしたい。
――――何を躊躇う?
嫌われてはいない。信頼もされている。
それに今は、恐怖も薄れてきているはずだ。
ローゼの態度が、何よりそれらを物語る証拠となった。
――――だが、出来ない。
彼女の優しさが中途半端な期待となり、余計にヴァンを苦しめているのだ。
怖がらせることだけはしたくないのに、少しでも気を抜くと、彼女を欲しいままに犯すことばかり考えている。
欲しくて、触れたくて、欲望のままに貪りたい……それなのに、同じくらい大切にしたい。
渦のようにぐるぐると頭を支配するそれらの思考は、出口のない堂々巡りだ。
まさか自分が、こんなことで悩むようになるとは思わなかった。
昔であれば下らないと一蹴したようなことで、悩むようになるとは。
そんなヴァンの醜い思いなど知るはずもなく、ローゼが無邪気に手を振っている。
振り返した手を、また強く拳の形に握りしめた。
――――いつになったら、俺はお前を抱ける?
このままだと、頭がおかしくなりそうだ。三體牛寶
身勝手なその問いへの回答を、示す者はいない。
それでもヴァンは、無意味な自問を繰り返すのを止められなかった。
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