2015年8月28日星期五

アルフォンソ殿下の華麗にして罪多き計画

 ロムス王国でベストセラーとなっている『王太子妃になんてなりたくない!!』。
 ヴィルヘルム王国筆頭公爵家の令嬢として生まれた主人公リディアナ姫と、同国の王太子フリードリヒ殿下の波瀾万丈の恋模様を描いた、いま最も熱い一大ロマンス小説である。中絶薬RU486
  わたしも愛読しているその本が映画化されることになり、モデルとなった王太子夫妻がいらっしゃるという。
 そして今の王族には若い女性がいないため、わたしが王太子妃殿下の滞在中のお相手役として王城に上がることになった。

 郊外の離宮に密かに設置されているという転移門(いわゆるどこ○もドアだ。なんとあちらの国には魔法があるらしい)の前で、わたしはそわそわと落ち着かない気持ちでヴィルヘルム一行が到着するのを待っていた。これから魔法が見られるのだ、ファンタジー好きの血が騒ぐ。

 前触れなく、転移門がじわじわと発光する。息を呑んで見つめる中、光は強さを増し、その中に魔法陣のようなものが浮かんでいるのが見える。
 一際強く発光して目が眩んだ次の瞬間、門の前には四人の人間が立っていた。
 すでにこの時点でわたしの興奮は最高潮だ。

 ヴィルヘルム御一行の人数は四人。あらかじめ随行の人間の名前も伝わっていたので、どんな人が来るのかは分かっている。
 最初に視線を吸い寄せられたのは、紅一点の王太子妃リディアナ様だ。
 茶色の髪に珍しい紫の瞳をした、年下なのに凛とした雰囲気の女性。絵姿ブロマイドで見るよりも実物は可憐で……細かった。ハロウィンの悪夢が甦り、思わず自分のウェストと見比べてしまう。
 ……もう少し朝食の量を我慢すればよかった。


 その彼女の細い腰が、大きな手にぐいっと引き寄せられる。
 その腕をたどっていくと彼女の隣に立つ男性が視界に入り、わたしは反射的に目を逸らした。
 こわっ……フリードリヒ殿下、美形過ぎてこわっ。

 ヴィルヘルム王家の特徴である鮮やかな金髪碧眼の超絶美形、完全無欠の王太子。
 絵姿ブロマイドでは軍服姿に呑気に見惚れていられたのに、実物は美形過ぎて迫見惚れるどころではない。
 しかもなぜか微笑んでいるのに目が笑っていないように見えて、怖さが倍増している。友好国に友好を深めに来たはずなのに、やたら迫力満点なのはなぜだろう。

 それにしても、ヴィルヘルム御一行様の顔面偏差値の高さは半端ではない。フリードリヒ殿下の圧倒的な存在感は言うまでもないが、随行の面子まで顔で選んだのか思うほど煌びやかだ。
 きれいな銀髪の文官めいた男性は、リディアナ様の兄君のアレクセイ様だろう。いかにも筆頭公爵家の嫡子らしい気品あふれる貴公子で、こんな方の前ではヘタな振る舞いはできない、と背筋が伸びるような高貴な佇まいをされている。

 そして控え目に立っている黒髪の男性も……と視線を巡らせたわたしは、ぴたりと動きを止めた。
 思わず二度見して、それでも足らずに上から下までガン見してしまう。
 濃紺のローブにモノクル、という我が国ではない恰好と事前に渡された資料から、ペジェグリーニ公爵家の嫡子にして魔術師長のウィリアム様と推察される……が。
 職業だけでもファンタジーオタク魂を刺激するというのに……。
 いやいや、ローブって!モノクルって!

「……やばい、萌えるっ」
「フィー?何が燃えるんですか?」

 思わず素に戻って呟くと、ルカに突っ込まれて動揺してしまう。萌えは恋愛とは別ジャンルの感情だが、ルカの目の前で他の男性をガン見してしまったことがうしろめたい。

「ル、ルカ、ごめんなさい、ちょっと萌えただけなの」
「だから何が燃えると……?」

 分かっていないのに、何となく疑わしげなルカの視線に冷や汗が浮かぶ。
 どう誤魔化そうかと考えているうちに、王太子がヴィルヘルム一向を歓迎するように声をかけ、わたし達も口をつぐんで王太子の側に控えた。巨人倍増枸杞カプセル
「よく来たな、フリード。リディアナ殿も、ようこそロムスへ」

 わたしが恐れをなしたフリードリヒ殿下の迫力を前に、意外にも王太子は堂々と向き合っていた。
 それにしても、親しげな挨拶だ。以前、友人だと言っていたのは本当だったらしい。
 が、しかし。

「久しぶりだね、アル。さっそくだけど、このキャスティングいったいどういう事なのか説明してもらえるかな?」

 フリードリヒ殿下のよく通る美声に、一瞬にして場が凍りついた。
 その声は美しいが重々しく、そして背筋を凍らせるような怒気をはらんでいる。
 これが本物の王族の威光というものか。のほほん王と厨二気味の俺様王太子という呑気な王族に慣れきったわたし達には、フリードリヒ殿下の覇気は重すぎる。
 それにしても、キャスティングを説明しろとはどういうことだろう。

「ふっ……よくぞ聞いてくれた。最近民草の間では男の娘やら女装男子やらが流行っていてな。そしてこのルカはドレスを着せたい男ナンバーワンだと言われている。去年から続くヴィルヘルムブームとあわせて、これで大ヒット間違いなしだ!!」

 うちの王太子は何を言い出すのか。
 自国の王太子の口からサブカル用語が連発されるのを聞いたロムス側に、何とも言えない空気が漂った。
 フリードリヒ殿下の前だけに、我が国の王太子の残念具合が辛い。

「……うわ、アルってあの配役表ほんとに送ったんだ。冗談だと思ってたよね、ルカく…ってヤバい、マジギレだ…」

 頭を抱えるラウレンツの声につられて横を見て、ぎょっとする。ルカは無表情で王太子の後頭部を凝視していた。自分に向けられたものではないと分かっていても、寒気がするような危険な表情だ。
 しかし、フリードリヒ殿下の声はそれどころではない極寒だった。

「へえ。女装男子……ねえ。そんなイロモノの流行りに私のリディを題材に使おうって言うんだ?…それで?相手役はアル、お前なわけだね。成程、お前はそこの彼とラブシーンを演じると。それはさぞ後世まで語り継がれる滑稽な見世物になる事だろうね。私たちも随分と馬鹿にされたものだ」

 彼の言葉に何となく話が見えてくる。
 例の映画は王太子が総指揮をとると聞いている。そのキャスティングなどはまだ発表されていなかったが、彼はルカをヒロインに抜擢したらしい。
 ……ありえない。
 確かにルカは綺麗だ。子供の頃はわたしのドレスを着せれば女の子にしか見えなかった。
 しかしもう彼は十八歳。身長だって百八十センチを越えているし、自慢ではないが細身に見えても鍛えていて脱いだらけっこうスゴイ。いや、かなりスゴイ。
 そんなルカが女装なんて面白いことにしかならないではないではないか。
 万が一似合っていても、それはそれで嫌だ。

 フリードリヒ殿下に冷静に指摘されて、王太子は虚を突かれたようだった。

「ルカとラブシーン…?ぬぉっ、盲点だ!そうか、フリードはリディアナ殿を攻めて攻めて攻めまくる超肉食系ではないか!ということは、私がルカを……っく、だが成功のためにはやるしかないか…」
「いや、そうじゃないでしょ。そこは頑張っちゃいけないとこだから!」

 なぜかルカのリディアナ様役を諦めず、別の方向でやる気を出す王太子。
 ちょっと待て、ルカと王太子のラブシーンなんてわたしは絶対嫌だ。

「ルカ、まさか女装なんてするつもり……ルカ?」

 女装なんてするつもりないわよね、と確かめようとしても、返ってくる言葉は無い。ルカがわたしの声に反応しないことは珍しく、彼が色々と限界に達していることを感じさせた。

「…アル、後ろの彼がお前に話があるみたいだよ。先に彼と話すといい。私はその後、ゆっくりとお前の考えとやらを聞かせてもらうことにしよう」VigRx

 ルカの様子を察したフリードリヒ殿下が声をかけると、余所の国の王太子には丁寧に目礼したルカは、自国の王太子をこれ以上なく冷たく見据える。

「お気づかい恐れいります。…殿下、そんなに女装した男とのラブシーンがしたいのなら心当たりがありますから、たっっっぷり堪能させて差し上げますよ。楽しみになさってください……ね?」
「な、なんだ、なぜそんな話に…」
「フリードリヒ殿下、失礼いたしました。この件は私が責任を持って始末をしておきます。無礼のお詫びは殿下自らが償いたいそうなので、煮るなり焼くなりご随意に」

 これ以上話しても無駄、といわんばかりに話を切り上げてフリードリヒ殿下に一礼したルカ。身分社会どこいった、と言いたくなるような無礼っぷりだが、誰もがそれを当然として受け流している。

「そうか。話が分かる人物がいるみたいでなによりだよ。主がコレだとさぞ苦労するだろうけど…さて、アル。辞世の句の準備はできたかい?お前の話を聞こうじゃないか」

 辞世の句、と不吉過ぎる単語を口にするフリードリヒ殿下の背後に、一瞬、青い炎の幻が見えたような気がした。
 ……怖い。怖すぎる。
 フリードリヒ殿下の不興を感じ取り、ラウレンツは無意識に剣の柄にまで手をかけたというのに、王太子はまだピンときていないようだった。
 この空気を全く読めていないところは、逆に尊敬すら感じる。

「フ、フリード?」
「アル、アル、殿下は最初から配役に怒ってらっしゃるんだよ。お妃様がルカ君って無茶すぎ。なんで分からないかなぁ」

 見かねてラウレンツが囁くと、王太子はようやく得心した顔になった。

「なんだと…そうか、ルカが不満なのか。ふむ、仕方ないな、少々気恥ずかしいが私がリディアナ殿役を…」
「ちょっ、黙って!頼むから!」

 なぜそうなる、とこの場にいた全員が心の中で総ツッコミをいれたはずだ。少なくともわたしは彼のみぞおちに裏拳を叩き込みたい気分だった。

「チェザーリ、これ以上は危険です。さっさとソレを仕舞ってきてください。」

 今すぐ廃棄場ごみ捨て場へ、と小さい声で付け加えたルカのほうこそ危険だ。どさくさに紛れて何をしようとしている。
 そんなロムス王国の慌てぶりを、凛と落ち着いた声が静めた。

「……ねえ、フリード。私の役はそちらのレディ・ラ・ローヴェにやってもらえばいいんじゃない?」

 リディアナ様が一言発しただけで、その場の空気が変わった。特にフリードリヒ殿下は、彼女に目を向けただけで空気に甘さが混じり、震え上がるような怒気が薄らいだ気さえする。
 ロムスに救いの神が降臨したのだ。
 王太子を強制的に退場させようと動きかけたラウレンツが、期待を込めてリディアナ様を見る。ルカは少し残念そうな気がしないでもない。

「……彼女に?」
「……そう。女性役なんてほとんど私くらいでしょう。彼女は公爵家の令嬢だし、うまくやってくれると思うの。レディ・ラ・ローヴェ。私が指名しては迷惑かしら?」五便宝

 アメジストの瞳を突然向けられ、ぎょっとした顔をしないでいるだけで精一杯だった。
 無理、演技なんて絶対無理!
 反射的にそう思ったが、わたしは空気を読める元日本人、場を収めてくれようとしているリディアナ様の心遣いを無にするわけにはいかない。
 余裕ぶった淑女の笑みを張り付け、優雅に一礼する。

「光栄ですわ、妃殿下。わたしでよければお引き受けいたします」
「フィーなら大丈夫です。私が相手役としてしっかりサポートしますから」

 ルカが背中に手を当てて微笑んだので、少し気が楽なった。
 彼が相手役ならやりやすい、とほっとしたのもつかの間、この期に及んで王太子が異議を唱えた。

「なにっ、フリード役は私の…」
「殿下はもう黙っていただけますか」

 ルカは王太子の言葉は遮り、一言で黙らせた。
 いや、まあ助かったのだが……本当に、自国の王太子にこれでいいのだろうかと真剣に考えそうになる。
 タイミング良く、リディアナ様が明るい声を上げた。

「夫であるロード・ラ・ローヴェと共演なら何も問題はないわ。私もそれでいいと思うし。……ねえ、フリード、彼女達なら文句はないでしょう?」

 彼女の言葉に、仕方ないな、というようにため息をこぼすフリードリヒ殿下。
 彼女を見下ろす目は愛しさが溢れ、その眼差しだけで彼がどれだけ妃を愛しているか分かる。
 というか彼女に顔を向ける時だけ全く別人、これダレ?のレベルだ。

「……はあ。それがリディの希望なら構わないよ。アル、次はない。私の神剣の餌食になりたいのなら構わないが、脚本もお前だというのならそのあたりはよく考えて作ることだね。特にリディのシーンだ。余計なイベントの追加は絶対にするな。お前がこねくり回すと碌なことにならない」

 リディアナ様の言葉に頷いたものの、王太子に対する怒りはおさまっていないようだ。言葉を重ねて強調するフリードリヒ殿下に、リディアナ様がこちらを気遣って柔らかく諌めた。

「フリード、何もそこまで言わなくても……」
「そこまで言ってもわからないから言っているんだよ。アル、お前は大人しく、通りすがりの町人の役でもやっているといいよ」

 言い足りない、とばかりにきつい嫌味を追加するフリードリヒ殿下。
 これにはさすがに王太子も気付いたようで、驚いたように眉を寄せた。

「私が町人役だと?それにそのいいざま、友とはいえ無礼……いや、そうか。フリードお前、近頃城下で流行りのツンデレというやつだな?」
「アル…それはさすがにポジティブ過ぎるから」

 だからなぜそうなる、とラウレンツは突っ込んでいるが。

 ツ、ツンデレだとう……?
 そもそもフリードリヒ殿下にこんな態度をとれるところからして、二人の友情はわたしには計り知れないほど深いのかもしれない。三便宝
 ルカと王太子やラウレンツも、顔を合わせれば毒を吐き合っているのに妙に仲がいい。男の友情というものは、時に女には理解しがたいものなのだ。
 もしかして、本当にもしかしてだが、フリードリヒ殿下はツンデレというのもあり得るかもしれない。
 このヘビー級のツンの後にデレがくるとでもいうのなら、ぜひ見てみたい。

 密かにフリードリヒ殿下ツンデレ説への期待を高めていると、アレクセイ様が噴き出していた。

「ツンデレ……ぶふっ。すげえ。まさかフリードにツンデレなんて言うやつがいるとは思わなかったぜ」
「ツンデレ?アレク、ツンデレとはいったいなんだ?」

 意味が分からない、という様子の魔術師様。わたしには萌えの塊にしか見えない魔術師様は、サブカル用語に詳しくないらしい。

「ああ、お前は知らないのか。好意を寄せている相手に突き放すような態度をとってしまうやつの事さ」
「はあ?殿下がそれだと?まさか」
「んなわけねえよなあ。本気で切れてるだけだっつーの。それをツンデレとか……向こうの王太子、アルフォンソ殿下だっけ?面白すぎる……」

 アレクセイ様には大いにウケているようだ。
 というか、あのどこのニイチャンかと思う口調が、彼の本来の口調なのか。上品な貴公子然とした見かけとは、ずいぶん違うようだ。
 フリードリヒ殿下の反応はと見ると、彼はデレどころかにこりともしなかった。

「はあ……ほらね、リディ。覚えておくといい、こいつはこういう奴なんだ。……アル、私も言わせてもらうが、無礼というのなら最初にこのキャスティングを出してきたお前の方こそ無礼だよ。さらには人をツンデレだなどと……ふざけるのは大概にしてくれるかな。……いい加減、本気で消すよ?」

 元から不機嫌だった声がさらに一段低くなり、青い目が王太子をきつく見据える。
 だから怖い、怖すぎる。
 だが王太子は「お前の気持ちは分かっているぞ」というような鷹揚な笑みを浮かべている。それがまたフリードリヒ殿下を苛立たせるだろうことに気付かない。
 彼のポジティブな勘違いは、もはや神業だ。

「フ、フリード。落ち着いて……」

 正しく空気の読めるリディアナ様が宥めても、王太子へ向ける冷たい目は弛まない。完全なるツンである。

 ……いや、分かってはいた。きっと王太子の勘違いなのだと。
 だけと、ちょっと見てみたかったのだ、ツンデレフリードリヒ殿下を。

「デレはどこ……?」

 いつまでたってもこないだろうデレに、わたしは虚しく呟いた。
 きっと、友情にも片思いがあるのだと思う。蟻力神

2015年8月26日星期三

シジマ流の伝道者

「あー! アルマさまだー!
 本物? ねえ本物!?」
「ふふ、元気のいい子だ。
 ああ、本物だよ。もっとも、私なんかの偽物がいるかはわからないけどね」

 エルフの間では知らぬ者がいない、伝説の武術家に、セリアが飛びついていく。
 ともすれば十二歳の少女が相手とはいえ、全力のぶちかましとなるそれを、アルマは苦も無く受け止める。SPANISCHE FLIEGE

 父が我が子にするように、豪快に、されど優しく少女を振り回すアルマ。
 めまぐるしく動く視界に、セリアも楽しそうに叫びをあげている。

 少しの間そんな戯れを続け、やがてアルマはセリアを丁寧に地面に着地させる。
 セリアは少しだけ名残惜しそうだったが、それでも嬉しそうにしっかりと地面を踏みしめた。
 ……アルマは前世の私の前では常に敬語だったが……目の前の「アルマ=シジマ」は、凛とした強い口調を操っていた。
 私が死んでからこうなったのか、それとも私の前以外ではこうだったのか……そんなどうでもいいことを考える私の頭は、間違いなく混乱していた。

「さて、少し聞きたいんだけど──その前に、君の名前は?」
「私セリア! アルマさまはどうしてここにいるのー?」
「そうか、セリアと言うのか、いい名前だな。
 なに、少しこの学校に用があってね──ん? もう一人いたのか」

 セリアと微笑ましく話していたアルマが、私の存在に気付く。
 身を屈め、私の顔を覗き込むアルマ。私が一番か二番に見慣れている瞳と目が合うことで、妙な気持ちが私に満ちていた。
 彼女を遺して死んだ気まずさとか、あれだけ色々言っておいて結局生きている──と言っていいのかはわからぬが、とにかく罪悪感のようなものだとか──
 今、私の頭の中は理由のない使命感が支配していた。

 我が娘だけには正体を明かしてはならぬ。
 自分で言うのもなんだが、スラヴァ=シジマに心酔していた彼女のことだ。エルフの少年となった私をまさか本人とは思わぬだろうが……何気ない仕草から気付くやもしれぬ。

 元々、スラヴァ=シジマが死んだのは事実。死者は決して生き返らぬ。
 確かに私の心はスラヴァ=シジマのものだが、今の私はスラヴァ=マーシャルだ。
 で、あるならば今の私はスラヴァ=シジマでもスラヴァ=マーシャルでもないただの武芸家を志す少年という事になる。
 ──三十年も経ったのだ、スラヴァ=シジマはとうに故人である。それは変わらぬ事実で、娘も納得している事だろう。
 正体を明かすと言う選択肢は無かった。何せ私自身が信じられなかったほどの奇縁だ、悪戯に今の世をかき回す事は避けたい。

 ……などとは言うが、本音を言えば、前世の縁は今の私に不要と言ったところか。
 確かにアルマには正体を明かしてやりたい気持ちもあるが、晩年の私は当代最強の武術家などと呼ばれており、面倒な縁がいくらでもあったのだ。
 武術の大会が開かれれば招かれ、勝ちを重ねれば記者が訪れ、未熟な者に挑まれ──正直、晩年は思うように修行の時間をとる事も出来ずに、大分辟易していたように思う。
 ならばアルマにだけ正体を明かせば──と思うかもしれぬが、この子は間違いなく私を祭り上げる。いくらこの子が私を尊敬していたとは言え、多分、それは私の意志とは関係ないだろう。
 晩年のアルマは、どうにかして私の名を表舞台に広めようとしていたからな……せっかく手に入れた身軽な体、今失うのは惜しい。

 しかし、いつ訪れるかは分からぬ話だが──武の頂に手がかかる頃には、彼女に正体を明かしても良いかも知れぬ。
 眼前の愛娘に身を明かしてやりたい気持ちを抑え、私は正体を隠す意思を固める。
 勝手な父を許せアルマ。
 やり直してまで得た時間だ。私は今生こそ、最強と言う幽玄に辿り着かねばならぬ。

 そうと決まれば、是が非でもぼろが出ないようにせねば。
 アルマもまさか私の様な少年を我が父とは思わぬとは思うが──用心に越した事はない。

「む、ええと……初めまして?」

 なので、敢えて自分に意識させるよう「初めまして」という言葉を使う。
 流石のアルマとはいえ、ヒントなしでは夢にも思わなんだろう、アルマは私に微笑みを掛ける。

「ああ、初めまして。セリアのお友達かな?
 名前はなんていうんだい?」

 それでも、私にとって一番困る質問が来るのは避けられぬのだが。
 私の名前は前世の私と同じもの──というか、前世の私から「拝借」して付けられた名なのだ。
 多分アルマにその名前を言えば、苦い記憶を想起させるだろう。いや、それとも師の名が三十年後の今でも残っている事を嬉しく思うだろうか。
 どの道、あまり私を連想させることはしたくない。出来れば偽名の一つでも用意したい所ではあるが──セリアが居るためそれも叶わぬ。

「スラヴァ=マーシャルと言います。
 両親からはアルマ──様のお師匠様から貰った名だと聞いております」

 故に、悩む素振りもなく打ち明ける。
 私の存在を隠すと決めた時から、名前を聞かれたら素直に答えよう、と決めていた。
 娘の名前に様を付けると言うのはやはり凄い違和感で、思わずそのまま呼びそうになってしまったが──なんとか堪えたのは不幸中の幸いだ。

「……そうか、師匠せんせいの名から──」

 さて娘はどう思うか。そんな私の疑問は、悪い方の予測が当たってしまったようだ。
 凛とした笑みに僅かな影を落とし、アルマは俯いた。その目には、僅かな涙が湛えられている。蒼蝿水(FLY D5原液)
 ……三十年も経つと言うに、まだ悲しみを捨てられぬか。長く感じるその三十年という期間も、エルフにとっては長い時ではないので無理もない。私は師匠が逝った時、どれくらいの時間を悲しんで過ごしたか──スラヴァ=シジマは彼女の父親同然の存在だったため、単純には比べれぬが、それでもアルマが悲しみを乗り越えるには三十年では少し足りぬらしい。
 流石に娘の涙を見ては、今すぐにでも私の正体を打ち明けてやりたいという気持ちも生まれるが──どの道信じるかも分からぬ。そう言い訳をし、私はアルマの言を待った。

「良い名前だ。その名前は、史上最も強く、最も偉大な武術家の名前だ。
 名前に見合う、立派な男の子になるんだぞ?」
「は、はい……」

 涙を拭ったアルマは、もう元の調子に戻っていた。
 ……我が娘ながら強い子よ。
 武の頂に辿り着くまで、私は歩みを止めるわけにはいかぬ。
 だが、それを一刻でも早く手に入れようと。私はこの時にそう思った。
 そうして出来るだけ早く、娘に正体を明かそう、と。
 武への思いが一層強くなるのを、私は感じていた。

 しかし、なんだ。
 最も強く、最も偉大とは、いくら親とはいえ買いかぶり過ぎでは無いだろうか。
 他人の視点で自分への評価を聞くなどという、奇異な体験をする事になったが……流石に恥ずかしいのう。
 思えば、前世ではもはや宗教のように私を慕っていた時期もあったな。あの時期にしっかりと私への想いを矯正しておくべきだったか。

「さてと。それじゃセリア、スラヴァ。
 少し聞きたいんだが、校長先生が居られる部屋は何処かな?」

 調子を取り戻したアルマが、私の顔を覗き込むために屈めていた体勢を正す。
 そういえば、先ほど聞きたい事があると言いかけていたか。
 ふむ、校長室の位置か。伝える事は出来るが、少し伝えづらいな。

「ああ、それでしたら……いや、ご案内しましょう。少し複雑な構造をしているため、上手く伝える自信がありませぬゆえ」
「そうかい? ならお願いしよう」

 少しだけ入り組んだ位置にある校長室へと効率よく案内するため、私は「武術の歴史」をかばんに入れて立ち上がった。
 私の申し出を受け、アルマは顔に喜びの色を浮かばせた。

「わーい、アルマさまと一緒だー!」
「おっとと、元気だなあセリアは」

 立ちあがったアルマへと、嬉しそうに飛びかかるセリア。
 先ほどのようにそれをなんなく受け止めると、アルマはセリアを自らの腕にかける。
 人間で考えると二十歳やそこらになる少女に対して、いくら小柄とはいえど少女一人を片腕で支えるのは軽いとは言えぬ加重であろうが──アルマは、やはり重さなど感じさせない足取りで歩いている。
 すこし眼を凝らせば、非常に滑らかで力強い魔力がアルマを覆っていた。うむ、禅を欠かさずに続けているようだな。
 思わぬ所で弟子の成長の一端を知る事となり、私はつい嬉しくなって頷いた。
 十二歳の少年が分かった顔で頷く事でもないが──それを目撃するものはいなかったのは幸いであろう。






「では皆さん揃いましたので講堂へと移動しましょう」

 アルマの案内を終えたあと、教室へ戻ってうつらうつらとしていた私は、フィンレイ=マクガヴァン教諭の声で我に返った。
 穏やかな顔をした教諭の顔が、クラスを見回す。釣られて視線を横に向けて見れば、今日欠席している男の子を除いた殆どが席に付いていた。

 ふむ。そういえば今日は午後から集会があると言っていたか。
 興味がないためどんな用事だったかは、はて忘れてしまったが。ともあれ肝心な所を忘れてしまったのは戒めるべきか。
 十二歳になったばかりの子供達を集め、引率する教師に付いていく。
 ……何故だか学級を纏める委員長に抜擢されてしまった私は、フィンレイ教諭のま後ろに並ぶ事になっていた。
 委員の仕事として、列になった子供たちの中に居ないものが無いか等を確認していく。

「先生、全員居ります」
「はい、ありがとうございますスラヴァ君。では移動しましょうか。
 皆さんついてきて下さいね」

 今日登校している生徒が全員居る事を確認すると、私はフィンレイ教諭に全員がしっかり揃っている事を伝える。
 私の報告を受けた教諭は、一度自分の眼でさっと列を確認してから、歩きだした。
 まるでひな鳥か何かのよう。教諭の後ろにつく私が歩くと、前の教諭に付いていかんと二十数名の生徒達が歩きだす。

 他のクラスや学年の者達と合流し、同じペースで歩きながら、やがて私達はアルファレイア総合アカデミーの誇る講堂へと到着する。
 魔法的な加護をこれでもかと施した安全性。たとえ天より巨大な石が落ちてきても傷一つ付かない、と教師達は言っていたが、さて実際はいかがなものか。
 それに加え、美しきを好むエルフが力を入れて施した流麗な彫刻。
 どちらも人間の頃に通った学校では見る機会の無かったものだが──エルフにはエルフなりの拘りがあるのだろう。まあその拘りを知った所で、何のためにこさえたものかは分からぬが。

 そんな所へと到着した私達は、私達のクラスに割り当てられた場所へと腰を下ろした。
 千数百人を収容する巨大なスペース、既にその半数以上が収容されているというのに、講堂にはまだ余裕があった。

 ……さて。一体この集会では何を話すのだったか。

 壇上には既に校長が準備万端と言った状態で立っていた。
 エルフの血を流しつつもなお、白髪と白髭でいっぱいになった顔。噂では千歳を超えていると聞いたが──人間の歴史が刻まれ始めてすぐから生きているとは、それはもはや化石ではないのか。
 ……出来る事なら私もあれほどの時間が欲しい物だ。そうすればきっと、武の頂を覗きうるだろう。

「あー、ごほん。みな聞こえるかのう」

 壇上に設置された、拡音の魔石を通し、校長の声が広い講堂の隅々までいきわたる。
 私があの長寿に対して嫉妬を感じている間に、学校中の生徒達が集まり終えていたようだ。 
 気がつけば午後の集会は始まろうとしていた。

「うむうむ、聞こえておるようじゃのう。Motivat
 皆行儀が良くて大変結構。では校長の長い話と馬鹿にされる前に、さっそく本題に入ってしまう事にするかの」

 自らの長い髭を撫ぜながら、エルフの老人は朗らかに笑う。
 ……まあ、確かに言うとおり校長という存在の話はやたらと長い事が多い。百年以上前の話故、おぼろげな記憶だが──人間の頃通っていた学校の校長は、話が長かった気がする。
 あの頃はその話に異議を見出せなかったものだが──きっとそれは今でもそうだろう。学を重ねてきた老人ならともかく、私は強さだけを求めてきた馬鹿だ。多分、話の内容など頭に入らない。

 そういう意味では、校長の判断は英断である。
 この年頃の子どももまた、大いにやんちゃだ。小難しい話など理解できまい。

「うむ──では、入ってくれ」

 校長は生徒達に向けていた視線を、左へと向きなおした。
 講堂の左右は別の入り口から出入りできるようになっているため、私から見て右の方向から誰かが現れるのだろう。
 さて誰が来ると言うのか。私がそう推察しようと頭を動かし始めた瞬間、それはあらわれた。

 ……穏やかな歩調に合わせて揺れる、蒼い長髪。
 先ほど間近で見たばかりのそれが、遠くで揺れる。

 ……嘘じゃろう。

「では、挨拶を。アルマ=シジマ殿」
「承りました。
 ……知っている者もいるかもしれないが、私はアルマ=シジマと言うものだ。
 本日から此方の学校で、君達に武術を指導する事になった。
 ──君達には武術を通じて、身体以上に心を鍛えていって欲しいと思う。
 十年と言う短い間ではあるが、宜しく頼むよ」

 直後、巻き起こる大歓声。知っている者もいるかも──どころではない、これでは知らぬ者など居ないのではないか。
 流石に比喩と思っていた形容が、比喩で無かった事に口が開く。
 ……しかも武術を教える、とは。

 ……十年間、姿を隠しとおすなど出来るのだろうか。
 ただでさえやり辛い修行がさらにやり辛くなった瞬間を悟り、私は大きくため息を吐いた──

武術の授業
「それではスラヴァにシド、お互い準備は良いか?」
「はい」
「はいっ!」

 アルファレイア総合アカデミーの昼下がり。
 時はアルマがこの学校にやって来てから数日。
 私は頑丈に作ってあるこの講堂で、クラスメイトと向き合っていた。
 ……新たに設立された武術の授業。その一環として、練習試合を行うためだ。
 その為の場所として多少無理をしても壊れない講堂を選んだらしいが──まさかこの為に頑丈に作ったわけではあるまいな。

 ──ふむ。練習試合の形とはいえ、私としては久方ぶりに人と対峙する事になるな。
 私と対峙する少年の名はシド=オールダム。
 エルフの国から出て、立派な冒険者として名を残したいと公言する、大志を抱く少年だ。
 活発そうに散らされた緑の短髪に、眼付の悪い、攻撃的な瞳。
 普段の素行はあまりいいとは言えないが、私はこの小僧が嫌いではなかった。

「へへっ、いつも本ばっか読んでる奴には負けないぜ!」

 確かに彼は悪戯も良くするし、口も悪い。勉強の時間だって良く寝ている。
 だがこうして身体を動かす機会には大いにはしゃぎ、意欲的に取り組んでいる。
 特にこの武術の授業に対しては、大層楽しそうに取り組んでいた。

 口が悪いという事は裏を返せば素直であるという事だし、身体を鍛えるのが好きと言うのは目標に近づくためだ。
 良くも悪くも純粋なこの少年は、子供らしさに満ち溢れて気に入っていた。

「では先ほど教えた事をしっかりと守り、正々堂々と勝負するように。
 それでは──構え!」

 強くは当てない。そして眼潰しや金的などは禁止。
 危ないと感じたらすぐに攻撃を止める事。アルマが提示した条件は、大きくこの三つだ。
 十二の子供にこの三つが守れるかは分からぬが、どちらかに一つでも破る意思があると感じた場合は、アルマが戦闘を中止させるという。
 試合の邪魔にならぬ位置にいるアルマだが、今の彼女ならばそれをする事は容易だろう。

「いくぜスラヴァ!」
「──応。遠慮をせずにかかってくるがいい」

 いやしかし──大人げないとは思っていつつも。この少年が気に入っているとは言っても──
 私は背中を地につける気は、まったくと言っていいほど持ち合わせて居なかった。

 幾千幾万と取ってきた構えを取る。先ほど習ったばかりのものとはいえ、習った以上は使っても問題はないだろう、シジマ流基本の構えだ。
 我が偉大なる師、イワオ=シジマが編み出した、受けに優れたこの姿勢。
 私が師匠に師事し始めたころはまだまだ珍妙な構えという扱いだったが──今や幾つもの分流を持つシジマ流。もはやこの構えは全ての武術の基本と言ってもいいものとなっている。
 この構えの起こりからを知る私にとっては随分と感慨深い。旧友に再会したかのような感情を覚え、私は微笑んだ。

 対するシドも、構えは同じモノ。ただそれは動きの本質などまるで理解していないため、見よう見真似で取られた「理」を伴わぬ姿勢に過ぎない。
 弟子を取る度に覚えていた、妙な微笑ましさ。相手が武術の「ぶ」の字も知らぬ少年とは言え、こうして試合の形を通して指導出来る事は嬉しく思える。北冬虫夏草

 さて。後はアルマが試合開始の合図を下すだけなのだが──
 ……何時まで待っても、アルマの凛とした声が発される事は無い。
 疑問に思った私がアルマの方を見ると──アルマは、口をあんぐりと開けて固まっていた。

「おいせんせー、どうしたんだよ? 早く始めようぜー?」
「え、あ──ああ、済まない。
 悪いが、二人とも構えなおしてくれ」

 疑問を感じていたのは私だけではなく、シドも同じくしていたようで──アルマは、呆けていた表情を普段の者へと正す。

「あの構えはまさか……いや、でも完成しすぎている──?」

 私が構えを正し、シドが色々と考えながら間違いだらけの構えを形作っていく最中、アルマは何かを呟いていた。しかし、この距離では流石に聞こえぬ。

「では、用意はいいか?
 ──始めッ」

 だが今はそんな事はどうでもいい。
 ……くつくつ、若い芽と対峙するなど何年ぶりの事か。私は人知れず、喉を鳴らした。
 勘違いをした武芸者見習い共を処理するのとは違い、若い芽を伸ばして行くと言うのは武術家にとってこの上無い楽しみの一つだ。

「でりゃあっ!」

 先ほど苦心して取った構えなど何処に行ったか、まっすぐに距離を詰めて馬鹿正直な拳を繰り出してくるシド。守りの構えから繰り出すには向かぬモノだが、そもそも構えが崩れている以上関係もない。
 ──宜しい、非常に子供らしい屈託のない拳だ。空白で出来た純粋さ、この先何をどれほど詰め込めるのかと思うと思わず笑みが零れる。

 これを受けても、私には欠片程のダメージも生まれぬだろう。
 この程度なら幾千幾万と拳を受け入れても、むしろシドの体力の方が先に尽きる。
 だが私も一介の武術家──子供のころに抱いた「最強」の夢を諦めきれぬ武芸者こどもの一人なのだ。

 前に置いた手を、シドの腕に添えるように動かし、まっすぐな力の向きを複雑に操る。
 力も魔力も殆ど込めず、私はシドの腕を起点として、シドの体勢を崩した。
 迎え撃つのではなく迎え入れるように。シドの力を打ち消すのではなく、飲み込むように利用する。
 体勢を崩されたシドの脚を、私は軽く払った。するとどうか、シドの身体は子供の小柄とは言え、重さを失ったかのように──回転しながら宙に放り投げられる。

 唖然とするアルマと子供達。人が宙に浮くと言う現象に歓声を上げる一部子供達。
 しかし、この場で一番呆けているのはシドだろう。目まぐるしく動く風景に、恐らくは何も考えれぬ筈だ。
 これが力に対し武で当たると言う事。幼き子にそれを示し、私は宙に浮くシドが落下し始めると共に彼の身体を優しく、落下の力を殺すようゆっくりと受け止めた。

「え、あれ? 俺、今──負けたのか?」
「うむ。先ほどアルマ様が言っていたであろう、これが力に頼らぬ理合りあいの「武」だ、シドよ」

 シドの後頭部に手を添え、地面すれすれの所で浮かしている状態。視界に映る天井と私の顔をようやく止まった風景として認識したシドは、夢でも見ていたかのようにそう呟いた。

「す、すっげー! さすがお爺ちゃん!」

 派手な動きに歓声を上げた一部の生徒が叫ぶ。
 それを皮切りに、私は拍手に包まれていた。
 晩年は歓声など煩わしいだけの雑音と感じていたが──純粋な子供達の賛辞と言うのは、中々に微笑ましいものだ。

 ……だが、私はふと違和感を覚える。
 純粋な子供達とは言うが、私も今は年頃を同じくする子供だったか。
 そんな違和感に微かな笑みが浮かび──

 ──直後、固まった。

 ……む?
 少し待て。今私は何をした?
 確かいい感じに気持ち良くシドを投げ飛ばしたような。

 一つ一つ行動を思い返して行く。
 シドの殴打を受け流し、足払いをして──

 自分のしでかした事を理解したとたん、私は顔色を青ざめさせた。
 ……馬鹿か私は。
 当初の予定では、そう。殴打を受け流し、足払いでシドを転倒させるまでが決めていた流れだった。
 だがその後がいけない。
 私が今行ったのは──「映し木の葉」と言われる、シジマ流の技。
 敵の身に木の葉の軽さを映し出す、相手の力と遠心力──と呼ばれる回転の力を利用し、空中で勢いを付けた頭を地面に叩きつけるという、シジマ流の全ての技に通ずる基本技術の粋を集めた応用技だ。

 身体全体が硬直してしまったかのよう。錆びついた扉のようにぎこちない動きで、私はアルマの方を見る。levitra

「スラヴァ……君はその技を、どこで?
 いや、何処で身につけたかはどうでもいい。
 その歳で、どうやってそこまでその技を作り上げた──?」

 ……やってしまった。
 阿呆か私は。己を戒めるものの、湧いてくる戒めが止まる事は無かった。
 何千何百と刷り込んできた技だ、無意識に出てしまったといえばそれまでだが──何もこんな場所で。
 師匠が言っていた。こういった技は休みなく身体に覚えさせ、呼吸のように「こうした動きにはこう動いて当然」と思えるようになっておけと。
 確かにそれは私にとって呼吸の様なものとなっていたようだ。思わぬ愚かに、頭を叩きたくなる。

 しかし、自分を戒めるのは後だ。
 スラヴァ=シジマの技を一番近くで見続けてきたアルマだ。
 その表情は表現しがたい困惑に包まれている。……今はとにかくこの場を切り抜けねば。

「ああ、えと……父がシジマ流を習った事があるらしく……
 全ての基本を集めた「映し木の葉」は物心付きし幼少から教え込まれていた技で──
 ええと、確かに今日武術を学び始めたばかりの初心者に使う技では無かったと、今では反省しています──」

 かえって饒舌過ぎただろうか。
 よくもまあすらすらと。自分でも思うほど「らしい」言い訳を述べた私は、反省しているかのような表情を作り出す。
 この場に同郷の者が居ないのが幸いだった。幼馴染も居る事には居るが、あの子は二つ上の学年であるため、ここには居ない。
 父がシジマ流の者と言うのは真っ赤な嘘だが、私が師匠の一番弟子となった頃──シジマ流が興った当時ならさておき、世界中にシジマの分流がある今ならそう信憑性の無いものでもない筈。

 ……さて、私の精一杯の言い逃れ、どう出るアルマよ。

「幼少のころからその技を……?
 ……何歳から始めたのかな」
「五つの時からです。でも、これ以外の技はやがて教えると言われ、教わっていません」
「ではこの技のみをひたすら磨き上げた……と?」
「は、はい……」

 ……まあ、我ながら演技も板に付いたものだ。
 自賛するのもなんだが、完全に「武術をひけらかしてしまい反省する子供」を演じていると思う。

「……いや、これから私が教える事だ。その辿り着く先を見せたのは──まあ、褒められる事ではないが、これがシジマ流の試合である以上咎める事でもない。
 技を掛けた相手への配慮も完璧だった。これからも励むといい」
「それでは……」
「ああ、完璧な「映し木の葉」だった。君は筋がいいな」

 ややぎこちないものながらも、アルマは笑顔を浮かべた。
 ……な、何とかなったか。
 これに懲りて注意を払う必要があるな。
 全く、馴染ませた動作を意図的に抑えるなど、かえって武術から遠のいてしまいそうだ。だが、とっさにフェイントを入れる時などには生かせるかもしれぬ。
 ひとまず去った危機に胸をなでおろし、私は手に抱えたままのシドを立たせる。

 呆けたシドが覚醒すると同時に、アルマが私達を試合場から出るよう指示する。
 私達が礼をしあい、闘技場から出たのを確認したアルマは、次の二人組を試合場へと上げさせた。

 しかし危なかった。あの子の前でシジマの技を使う時は気をつけねば。
 この武術の授業の厄介さに気付いた私は、汗を拭う。
 すると、いつの間にか隣に座っていたシドが運動着の端をつまんだ。

「……どうかしたかな」 

 その瞳が何かを語りたさげにしていたので、一応は年長の者として促してやる。
 寸止めとはいえ、シジマの技を掛けたのだ。恐怖感でも抱いていないと良いが。

「スラヴァ、すっげえな。どうやったらあんなに強くなれるんだ?」

 そう聞くその表情は、私の予想とは正反対の尊敬の眼差しに変わっていた。
 ……ふむ。どうしたら強くなれるか、か。
 それは私が知りたいところだ──と言いたいが、一つだけ分かっている事を教えてやるとしよう。

「日々の精進あるのみ、だ。
 強い意志を持って長い時間をかければ、シドとていずれ私と同じ場所へと上り詰める事が出来よう」
「精進……? 頑張るってことか!
 よっしゃー、いつかお前を倒してやるからな! 見てろよ!」

 やはり、この年頃の子供と言うのは眩しいものだな。
 自分もその眩しい年頃と同じ歳と言う事も忘れ、私は笑みを作るのであった。

 ──エルフの学校、ミラフィア国立アルファレイア総合アカデミー。
 国中からエルフの子供達が集まる学校で、唯一大人達が集まる部屋──職員室に、絶世の美女と表あらわしても事足りぬ女性が一人唸っていた。

 百六歳という、エルフとしてはまだ若い身ながら、伝説として歴史に名を刻む武術家──アルマ=シジマだ。
 シジマの名を継ぐに相応しい少年や少女を発掘するため、少年少女の育成に力を入れる彼女。
 十年単位で国や学校を渡り歩く彼女は、十年ぶりに訪れた学校で気になる少年を見つけていた。

 手元にはクラス全員の情報を網羅した名簿が開かれていて、開かれたページには、スラヴァ=マーシャル……師と同じ名前を持つ少年の情報が掲載されている。K-Y Jelly潤滑剤

2015年8月24日星期一

月夜のおもい

目の前には反り立つ崖。

 どうやら、ここが終着地らしい。

「イリアさん、ありがとう。とっても楽しかったです」

 本当に楽しかった。何もかもがぶっ飛んでたけど。中絶薬RU486

 そう笑顔でお礼をするが、彼は来た道を戻ろうとしない。そして、私の手を鼻先でぐいぐいと、イリアさんに巻きつけられているベルトを掴むように指示してきた。
 首をかしげながらも、言うとおりに従うと、彼は私がちゃんと掴んでいるのを確認した後、
 ……なぜか、前かがみの体勢をとった。

 そして、勢いをつけて────

 ………あれ?なんだろう……すごく、嫌な予感がしてきた。

「イリアさん…?帰ろうよ…?ね?なんで…崖の上を見ている…の?」


 イリアさんの背中を軽く押して、帰ろうと促すが、彼は崖を見上げたままだ。


 そして、その予感は、すぐに的中する。

「ぎぃぃぁああああ────!!!!」

 イリアさんは重力を無視し、

 ほとんど垂直に反り立つ断崖絶壁を、


 一気に登り始めた。

 崖の頂上に着いた頃には、私は立ち上がる気力もなかった。

 ベルトを解いてすぐ、ふらふらとイリアさんの背から降り、崖のふちにうつ伏せの状態で大の字になる。冷やりとした土の感触が心地良い。バクバクしていた心臓も、少しずつ落ち着いてきた。


「イリアさん、激しすぎるよ………」


 首を横にして、力なくそう呟くと、心配そうに見下ろしている漆黒の瞳と目があう。


「……ふふっ。でも、すっごく楽しかった。なんだか、特別な体験をさせてもらっちゃった」

 そう言って彼に手を伸ばすと、目を細めて喉を鳴らし、私の手に頬をすり寄せてきた。


「ふさふさー………気持ちいい」


 外出してから、ずっと不思議な気分だった。この狼はあの銀髪のイリアさんなのに。

 動物に触れる事で得る、あの安らぎと癒しを、人間の姿にもなる彼に望むのはおかしいのに、気づいたら思わず声をかけている自分がいた。

 彼は狼の姿でも王様なんだから、調子に乗っちゃ駄目だ。そう思いながらも、触れる手を止められない。


 イリアさんの鋭い目を覗き込むように見つめていると、彼もしばらくは目を合わせてくれていたのだが、次第に照れくさくなったのか、彼は慌てるように立ち上がった。

 目線を頭上に移し、もうこちらを見てくれない。

 少し残念に思いながらも、イリアさんと同じ方向を見上げる。すると。

「うわあ…っ!!すごいっ………!!綺麗………」


 うつ伏せの体勢から、ガバッと起き上がる。

 空を見上げると、満天の星空。

 銀河の輝きがあちこちに存在し、時折、流星が現れては線を描いて消えていく。

 まるで、天体ショーを見ているようだ。

 ペンションの露天風呂から毎日見ていた、あの馴染み深い天の川もあった。

 そっと立ち上がって、崖下を見渡すと、私達が通ってきた海岸が遠くに見える。

 あんな遠い所から来たんだ。


 海面に映っている月が、キラキラと宝石のように輝いている。波が揺れるたびに、水面の月が滲む。


「綺麗……」


 もう一度、頭上の満月を見上げる。大きさはこちらの世界の方が若干大きいと感じたが、模様は私の世界と同じで、月の兎が餅をついていた。

「…………月は同じだ」巨人倍増枸杞カプセル

 ぽつり、と 

 自然と口から言葉が零れ落ちた。

 何もかもが違うと思っていた。

 世界が変わって、自分は異質な存在になってしまった。

 知っている人もいない、常識も違う


 取り残されたような

 出口のない、絶望。

 けれど───

 月は同じだった。

 ……───シロと一緒に、毎日見ていた、あの月。

「ふっ……くっ……」

(駄目だ……泣いちゃダメだ。もう散々泣いたんだから。いい加減、覚悟を決めないと)

 唇を固く噛んで涙をこらえる。

「ふっ……切ない…なぁ」

 月の形がどんどんぼやけていく。

 夢のようなこの景色が

 本当に夢だったらいいのに────

 家に帰りたい

 なんで こんなことに

 一体なんのために、どうして──

 突如、ガチガチとした音が横から聞こえてきた。


 隣を見てみると、首にかけていた水筒を地面に降ろして、そして、

 ……いや、さすがにそれは無理なんじゃないかな。

 彼は前足で水筒を固定し、蓋をガチガチと噛んで、必死に開けようとしていた。

「イリアさん、私が、開けましょうか?」

 涙声になりながらも、そう言って手を差し出すと、彼は素直に私に任せてくれた。

 そういえば、水筒を開けられないのに彼はどうやってこの中身を用意したんだろう。

 そんな素朴な疑問を抱きながらも、クルクルと蓋をまわして開ける。

「うわあ、美味しそう…!」

 パカッと蓋を開けると、美味しそうなスープの匂いがあがってきた。

 てっきり飲み物だと思っていたけど、どうやらこれは夕飯だったらしい。

 私が歓喜の声をあげると、イリアさんは満足げに鼻を鳴らした。大きな尻尾がふさふさと揺れている。

 そして、ベルトに結ばれていた巾着を引きちぎると、中からは四角い箱が現れた。早く開けて、と訴えるように、彼は鼻で私の方にそれを差し出してきた。

「え?これ…もしかしてお弁当だったの?」

 水筒にお弁当。

 あれ、でも………


 そっと、四角い箱の蓋を開ける。どうやら、本当にお弁当箱だったらしい。


 しかし、案の定────


「…おお、見事にシャッフルされている」


 お弁当の中身はおにぎり、卵焼きにハンバーグなどのお弁当の定番メニューが………あちらこちらに入り乱れていた。

 そりゃそうだろう。あれだけ落下したり走ったりしたんだから。

 そんな私とは対照的に、イリアさんはその鋭い目を見開いて、思わずといった感じで一歩後ずさった。

 そして、また近寄ってお弁当を見下ろし、うなだれるように耳を垂らしている。さっきまで動いていた尻尾がパタリと止んでいる。

 どうやら、彼にとっては想定外のことだったらしい。


「……ぷっ、イ、イリアさん、そんな落ち込まないで。それに、こんなの、少し考えれば、分かることじゃない…っ」

 声を震わせながら、笑いを堪える。あからさまにショックを受けている彼の姿がなんともかわいくて。VigRx

 けれど、笑い堪えて震える声が、次第に鼻声に変わり、ついには涙がとめどなくあふれ出てきた。

「ふ……っ、ひっく、うぅ……───」


 突然泣き出した私を見てギョッとしたイリアさんは、私がお弁当の様子に落胆して泣いたとでも勘違いしたのか、焦ったようにお弁当を鼻でよけて、大きな体でそれを隠し、破れた巾着入れに戻そうとしている。

「…あっ!ま、待って、戻さないで!食べたい、そのお弁当、欲しい!」

 急いでそのお弁当を死守する。

 すると、イリアさんは、私の泣き顔を見やりながら、困惑げな表情をしている。

「違うの、これ、うれし涙。私、お弁当、嬉しい」

 ゆっくりと区切りながら、ジェスチャーと泣き笑いの顔をつくって必死に訴える。

 どうにかイリアさんに伝わったようだが、そのぐちゃぐちゃのお弁当を差し出すのにためらいがあるのか、

 躊躇しながらも、そっと鼻先で差し出してくれた。

「ふふっ、ありがとう、イリアさん……なんか、不思議な感じ。シロもこんな気持ちで月を見ていたのかなあ」

 そう言って隣のイリアさんを見る。

「…シロともね、よくこうやって一緒に何かを食べながら、毎晩お月見していたんです。あっ、シロっていうのは、あれ、写真立ての、白い狼の」

 そう言って、指で四角い形をつくってみせる。

「狼といっても、私の世界の狼はイリアさんみたいに大きい体じゃなくて、もっと小さくて。子供だったし…体長一メートルもなかったかなー」

 私が何を話しているのか、きっとイリアさんには通じていないのだろう。

 それでも、イリアさんは私の話に耳を傾けてくれる。

「それに、私の国に、野生の狼っていないんです。ずっと前に絶滅しちゃって…。そもそも、白い狼なんて海外にしかいなくて。だから、最初はただの野良犬だと思っていて……ふふっ、そういえば、シロとイリアさんは同じ狼でも、全然似ても似つかないね。イリアさんみたいに狼としての風格なんか全くなくて、本当、そのまんま犬って感じで。シロは、すごい怖がりで、すぐに威嚇するくせに、すごく寂しがり屋で。だけど、とっても頭が良くて、優しい子で……」

 そう言って、シロの最後の寂しげな姿を思い出す。

「……人間の都合で勝手に日本に連れて来られて……虐待されて捨てられたのかな。シロはね、最初死んでいるかと思うくらいにボロボロで、森の中に倒れていたんです。心を開いてくれるまで、少し時間がかかったんですけど、それでもシロは私たちに懐いてくれて。……それなのに、私」

 そこで、言葉に詰まってしまった。

 きっと、シロは裏切った私のことを憎んでいる。あんな最悪な別れ方したんだから当然だろう。だから、一年経っても、姿を現してくれないのだ。


 当たり前だ。人間の都合で傷ついたシロを、また勝手な都合で私は、シロを手放したんだから。それが、たとえシロのためだったとしても。

 黙ってしまった私を心配してか、イリアさんが心配そうな鳴き声を発する。

 そしてすぐ、彼は私の体を覆うように包まった。

 そういえば…こんなこと……前にもあったな…

 王宮から脱走した夜。

 そうだ…。あの時も、傍にいてくれた……。

 私が森で泣いている時も、部屋で泣いている時も、そして、今も。

 いきなり背に乗せられ、部屋から飛び降りた時は度肝を抜かれたけど、

 でも、おかげで、涙は引っ込んで、
 部屋の角でうつむいていた事なんか忘れて、子供の様にはしゃいで、楽しんで。

 今は涙を流しながらも、顔は上を向いているし、部屋でひとり流す涙とは違う。

 ……もしかして、イリアさんはこの景色を見せるめに連れて来てくれたのだろうか。私を心配して。

 イリアさんの横顔をそっとうかがう。五便宝

 イリアさんは私の様子を気にしながらも、泣いている私をじろじろ見てはいけないと気を遣っているのか、頭上を見上げる顔は数秒間隔でこちらをチラ見している。

 どうして───


 どうして、イリアさんは、こんなにも優しいのだろう。

 神帝だから?

 イリアさんには、私が今なにを考えているのか分かってしまうのだろうか。

 それにしては、さっきからそんな素振りは見受けられない。

 ……ううん、神帝だとか神力とかそんなの関係ない。

 きっと、イリアさん自身が優しいんだろう。

 そういえば、私が不安そうな顔になると、ずっと片言ながら、励ましてくれていた。子供のような扱いに、私は引いてたけど。

 でも、泣いてばかりで、右も左も分からない私は、この世界では子供同然、もしくはそれ以下か。

「あったかいなー………」

 目をつぶって彼に体を委ねる。

 言葉もなく、

 言葉ではない、私が何よりも必要としていたものを贈られた気がする。

「……ありがとうね、イリアさん。私、頑張る。頑張って、この世界に慣れて、一日も早く帰れる道を探す。そして、イリアさんやシェインさん達になにか恩返しをする。……うん、よし!もう、覚悟を決める!!一人じゃないし、いい加減、前を向かないとね!だから」

 そう言いながら、再び涙が溢れてきた。

「…だから、最後に、泣いていいですか?」

 そう言ってイリアさんの体に顔を隠し、子供の様に、おもいっきり声をあげて泣いた。

 そんな私を、イリアさんは動かず、尻尾をユラユラと揺らしながら、受け入れてくれた。

 ガイは絶句していた。六年仕えていた主の、初めて知る事実に、空いた口が塞がらない。


「────そんな訳で、彼女がイリアの前に現れたのは、本当に奇跡なんですよ。まあ、イリアと彼女の間にどんな絆があるのかは私には分かりませんけど。当時のイリアが泣き叫んでいた内容と、その状況から勝手に推測しただけですので」


 当時のイリアの胸中を想像しているのか、ガイの表情は暗い。


「………なんだよ、それ。そんなの、罪っていうのかよ……。そんなの、ただの、子供のワガママじゃねぇか」
「そのワガママで自分勝手な思いのせいで、彼女は死んでいたか、もしくはもっと酷い目にあっていたかもしれないんだから当然、罪と言えるでしょう」
「…じゃあ、なんで、あの女は生きているんだよ」
「それをこれから調べるのが、私の側近、兼・神学者としての仕事です。なんせ、前例がまったくない事なので……まあイリアの場合、死なない程度の爆発だったので、私はずっと彼女は生きていると進言していたんです。ですが……くくっ、さすがに、あんなに元気だとは思いませんでしたけど」

 おかしそうに答えると、シェインはふと何かを思い出したのか、声を落とした。


「………ただ、ひとつ問題がありましてね」

 急に真面目な顔になるシェイン。

「反応が新鮮で面白いし、異世界の話も興味深いので、個人的に彼女は好きなんですが……部下としての立場で言えば、神帝の女として、ワコさんは最悪ですね」
「……は?」
「まず、自分の世界の常識でこの世界を計ろうとする。いろいろな反応を試しましたが、彼女は馬鹿なようで中途半端に良識がある。自分の世界について言葉をなぞった程度の浅い知識しかなく、平和ボケしている。そのくせ変に正義感がある。つまり、何も知らないくせに、何もできないくせに、ただ口先だけは立派なことを言う、理想ばかりの、非常に面倒くさい存在ですね」

 はあ、とシェインはため息をつく。

「その上、イリアに与える影響が大き過ぎる。さっきガイも言っていたように、ワコさんの事に関すると周囲が見えなくなってしまう。ワコさんのちょっとした行動で簡単に揺らいでしまう。神力が使えなくてもイリアが神帝としての地位を維持している地盤が、簡単に崩れかねない」
「なっ……!」
「だから、我々としても、ワコさんにイリアとうまくいってもらわないと困るんです。イリアの仕事を見せる訳にはいかないし、何も本当の事も知らせず、イリアの仕事も見せず、さっさとイリアとくっついてもらって、王宮でじっとしてもらいたい」
「……おい、それは大げさじゃないか?いくらなんでも、神帝だって……」三便宝

 ガイがそう言うと、シェインは馬鹿にしたようにフンッと鼻をならした。

「大げさなもんですか。心酔しているガイの夢を壊すようで悪いけれど、イリアは別に冷静沈着なわけじゃない。ただの自分勝手で独占欲が強くて、さびしがり屋で怖がりな男ですよ。冷静なんかじゃない。心が死んでいただけ。神力を使わなかったわけじゃない。使えないだけ。彼女のせいでああなっただけ。死ぬのが怖くないのは当然です。本当は死にたくてしょうがないのに。死の淵から生還したイリアは、彼女を殺したと知った瞬間、すぐに後を追おうとしたんです。それを私が、神帝の責任という鎖でイリアを縛りつけて、無理やり生かしていただけです。別にイリアは世界の平和なんて本当はどうでもいいんですよ、あいつは本来自分勝手な奴ですから。ガイが賞賛していた全ては────イリアの政治の成果は、すべて彼女への償いによるものです。だから世界が安定した以上、神帝候補のカインが神帝としての力量が備わったら、イリアはすぐに死ぬつもりだったと思いますよ」
「………嘘だろ」

 ガイは信じられないといった様子で、バサッと一歩後ろに下がった。

「だから、ガイが彼女を連れてきたとき、私もイリアに会わせるべきか、会わせないで遠方に隠すべきか一晩迷ったんですよ。でも、デメリットよりもメリットの方が大きいでしょう?もしかしたら神力も戻るかもしれないし、神力が戻ったら、太陽の光がないと人型になれないこの先帝の呪いも解けるし───ってあれ?もしかして、イリアに失望しちゃいました?」

 落ち込んだ様子のガイに、シェインがニヤニヤとした表情を向ける。

「なっ!そんな訳ないだろう!俺はあの人に恩がある。尊敬の念は何があったって変わらない!!……もういい!」

 ショックと動揺を隠し切れず、ガイは窓を乱暴に開け、バサッと大きな音をたてて外に飛び出していった。

「……どうしよう。迷った」

 どこを見渡しても、似たような景色。

 完全に迷子である。

 泣いてすっきりした後、突然、尿意を感じた。

 これをイリアさんにどう伝えるべきか。トイレに行きたいと一応言ってはみたが、イリアさんはきょとんとするだけで全然伝わらなかった。だからといってジェスチャーで表現するのもなんか嫌だし。いや、できないし。


 伝わるか分からないが、待って、動かないでね、とだけ言ってイリアさんから離れた。

 しかし、当然。

 泣いていたと思ったらいきなり立ち上がって背後の森に移動しようとした私に、驚いて焦った様子でイリアさんはついて来た。


 それを必死に、お願い、来ないで、と手のひらを出して伝えると、彼はもどかしいように地面を踏み鳴らし、困惑した様子でその場で留まってくれた。


 イリアさんが来ない事を確認して、森の中に入って用を足した後、急いでイリアさんの所に戻ろうとした。

 しかし。


 来た道を戻ったはずなのに、いつまで経っても崖の所に辿り着かない。

「……私って、こんなに方向音痴だったんだ」

 はあ、とため息をつく。

 異世界に迷い込んだ先で、更に迷子になるなんて。

 自嘲気味に笑って歩き続けていると、ふと、開けた場所が現れた。

 半径三メートル程の広さが、森の中に人工的に整地されており、中心に……これはお墓だろうか。

 五角形の大きな石が月光に照らされて、豪華に咲き誇る、沢山の切り花に囲まれていた。

「…やっぱりお墓かな?なんて書いてあるんだろう、これ」

 この世界の文字なのだろう。それが、簡単に一行だけ、石墓に刻まれていた。

 今も誰かが管理しているのか、周囲には雑草もなく、石墓は綺麗に磨かれていた。

 頭上を仰ぐと、

 周囲は樹が生い茂っている中、ポッカリとあいた夜空に、満月がちょうどいい具合に顔を出していた。蟻力神

2015年8月19日星期三

誘惑

月曜日、昨夜の衝撃の営業活動宣言に慄おののいた私は、会社では極力レオンハルトさんに接触しないよう逃げまくった。恥ずかしくて顔が見られないし、声を聞くだけでもなんだか落ち着かなくなる。そうは言っても悲しいかな会長秘書アシスタント、全く顔を合わせないという訳にはいかない。D10 媚薬 催情剤

 あの最後に言われた「明日も努力しよう」って、あれ、あれは一体どういう意味なんだ。
問い詰めたい気もするが、聞いてしまったら最後という気もする。聞いたら、おそらく、もっと居たたまれない気持ちになる。最悪の場合、期待に胸を膨らませてしまうかもしれない・・・。おいおい、しっかりしろっ、私!
 赤くなったり、蒼くなったりする私の様子を見て、レオンハルトさんは笑いを噛み殺している。むかつくっ。

 仕事、仕事に集中しよう!と指示を受ける度に会長室から鉄砲玉のように飛び出してくる私を見て、今年の新人はずいぶんと仕事熱心じゃないかと周囲の評価は上々であった。

 そして夜。拘束なしで眠るには寝相が少々悪過ぎる私は、またもやレオンハルトさんの腕の中に抱きかかえられてしまう。これ以上のお触りは禁止、という傍から見たらそれって意味あるのかという条件付きで。

 レオンハルトさんの大きな腕に抱かれて眠ること自体は、なかなか悪くはなかった。
暖かい人肌に包まれていると子供の頃に返ったような、なんだかくすぐったい気分になる。レオンハルトさんのやんちゃなお手てが悪さをしない限りは・・・。

 おおっと、そんなことを考えては駄目だ!
胸がどきどきして落ち着かなくなってきた。完全にレオンハルトさんの術中にはまってしまっている。
身体で私を虜にして、契約書にサインさせるつもりなんだ。なんてタチの悪い大人だ。
 ここで負けてはダメだ・・・自分に強く言い聞かせていると、レオンハルトさんからベルガモットと柑橘系の大人な香りが漂ってきて、思わず胸に顔を埋めたい衝動にかられてしまう。心頭滅却、心頭滅却・・・私は忍者のように人差し指を合わせて指を組みブツブツと唱えた。

 背後でクスっとレオンハルトさんが笑った。

「どうした、今夜も触って欲しいのか?」
「バ、バカなこと言わないでください、そんな訳ないじゃないですかっ」

 レオンハルトさんは、自分と向き合うように私の身体をころりと転がした。
ニヤニヤとしながら私の顔を眺めている。なんなんですか、と目を据わらせると、「可愛い遥が見たくて」と首を傾げる。
これだけ見目麗しいレオンハルトさんに言われても、白々しい感じがして説得力がまるでない。
 また何か良からぬことを考えているんじゃないかとレオンハルトさんの瞳を恐る恐る覗きこんだ。
レオンハルトさんは整った眉を顰めて、ダメなのか?という顔をしている。
 ああ、この人、どんな時でもどんな表情をしてもなんて美しいんだろうか・・・。

「昨夜は私が悪かった。許可なしにはもう触らない」

 寝る前に遥が見たかっただけだ、と真面目きった顔をして言った。
そして、日中はじっくり見れなかったしな、とすこし不機嫌そうに付け加える。
それはもう、思い切り避けてましたから。ていうか、なんですかその拗ねた感じ。胸がきゅんきゅんしてしまうので、本当にやめて欲しい。

 間近で銀色の瞳に見つめられ、私の顔はあっという間に熱を帯びてしまう。
ホントに触らないんだったら、・・・いや、でも・・・、と困りながら呟いていていると、触らない、約束する、とレオンハルトさんが繰り返した。

 私が信じられないのか?と目を細めてきたので、「え、じゃぁ、ちょっとだけなら・・・」と返事をしてしまう。
その言葉を待っていたかのように、今度は仰向けに転がされた。
 私はびっくりして思わず息を呑んだ。
上からじっくり観察する気なのだろうか・・・。立ち込める暗雲に少しずつ鼓動が速くなり始めた。

 レオンハルトさんは身を起こすと、私の身体に触れないようにしながら馬乗りになった。上から見下ろされ、ただならぬ緊張感に身体が凍りつく。
 そして黙ったまま、私のパジャマのボタンをゆっくりと外していった。
確かに、肌には直接触ってはいませんけど・・・。神様、私は今ここにある危機をどう乗り切ればいいのでしょう。

 パジャマがはだけられ、ブラジャーを付けた胸が露わになった。
普段は寝る時ブラジャーを外す派なのだが、さすがに今夜はマズイだろうと珍しく学習能力を発揮させて付けていたブラジャーは、よりによって・・・

 フロントホックであった。
この神懸かり的な間の悪さときたら! 何か大いなる力が働いているとしか思えない。
 もちろん、プチンっとホックを外され胸までも晒されてしまう。
胸にひんやりとした空気があたって鳥肌が立った。

 満足そうに私の上半身を眺め回したあと、レオンハルトさんは私の耳に顔を近づけた。耳に触れそうなほど近くに唇が寄せられる。
耳の周りを這いまわっていたかすかな吐息は、徐々にと首へと移動していった。
首筋に熱い吐息が吹きかけられ、身体がびくっと反応してしまった。

「触れないから」

 そう低い声で囁いたレオンハルトさんの顔はさらに南下して、浅い呼吸に上下する私の胸の上で止まった。
先端をじっくりと見つめられ、ゆっくりと乳首が立ち上がってしまうのを感じる。
私は目をきつく閉じ、必死にその視線に抗おうとしたが、意思に反して先端はどんどんと固く尖ってしまう。

「やめ・・・てください」

 私は掠れ声で懇願した。心臓はもはや早鐘を打っている。

「見ているだけだ」

 冷たく囁いたレオンハルトさんの吐息が乳首を刺激して身体の芯がジンと熱くなった。

 何度も息を吹きかけられ、胸だけでなく体中が火照ってくる。紅蜘蛛(媚薬催情粉)
手で隠せばいいことにようやく気づいた私は腕を動かしたが、手首を掴まれて頭の上で固定された。
 上から見下ろすレオンハルトさんにささやかな抗議の声を上げる。

「・・・触らないって言いましたよね」
「いちいち細かいな」

 下から睨みつける私に、レオンハルトさんは忌々しげに目を細めた。
「では、触らなくていいように腕を縛り上げればいいのか」

 予想の斜め上からの攻撃に目を見開いて絶句してしまった。
もしや、これが昨夜のマーケティング調査結果によって導き出された戦略なのであろうか・・・。
全身がぞくぞくと痺れた。これから起こることへの恐怖のためか、期待のためか・・・。

 ごくり、と唾を飲み込む私にぎりぎりまで顔を寄せ、レオンハルトさんは意地悪く微笑んだ。

「このまま、朝までこうしていようか」
「む、無理強いは・・・しないって言いましたよね?」
 悪魔のようなセリフに、なんとか抵抗しようと再度口を開く。

 ああ、言ったとも、と小さく笑い、レオンハルトさんは艶を帯びた声音で囁いた。


「だから・・・遥に、ねだられるのを待っている」

 耳元で囁かれた甘い挑発に、ふしだらな欲望が鎌首をもたげた。


 レオンハルトさんは誘うように胸のまわりを熱い吐息で濡らしていく。
全身にぞくぞくした痺れが駆け巡り、わけもなく胸が高鳴って乳房がふるふると震えてしまった。
今にも飛び去って行きそうな理性に必死でしがみつく。

「いつまで・・・我慢できるのか」
囁いたレオンハルトさんの唇が小さな笑みを作った。

 私の反応を愉しむような笑みを浮かべ、試すようにギリギリまで唇を近づけてくる。
長い前髪が時折肌を掠め、その度に私の身体はぴくんと跳ねた。
 自分のすべての神経が皮膚の上に集まり、微かな空気の動きすらぴりぴりと素肌を刺激していく。
甘い誘惑に抵抗しようと、私は瞳をぎゅっと閉じ、必死に唇をかんでこらえた。

「・・・なかなか強情だな」

 心臓の動きが高まるにつれ、浅い呼吸がどんどんと速くなってしまう。
鼓動が頭の中で大きく響き、耳が聞こえなくなる気がした。
まんまと挑発に乗せられてしまう自分が悔しくて堪らない。
この甘美な拷問から救い出して欲しい。胸が苦しくて耐えられない・・・涙が溢れかけた。

 レオンハルトさんは舌を出し、ゆっくりと自分の唇をなぞった。
唾液が唇を濡らしていく淫靡な様に、私の理性はすでに崩壊寸前だ。

 そして、とうとう我慢できず、消え入るような声で哀願してしまった。

「・・・さわっ・・・て、ください」

 そう言った瞬間、私の胸の先端はレオンハルトさんの熱い口内に含まれた。

「は・・ぁっ」

 待ち焦がれていた刺激に思わずため息が漏れてしまう。
乳頭が舌で絡め取られ、押しつぶされた。
レオンハルトさんは右手で私の手首を押さえつけたまま、もう片方の手で乳房を揉みしだいた。

「んっ・・・、ふ・・ぅ」

 私に見せつけるように舌を伸ばし、ゆっくりと舌先で先端を嬲った。
もう一方の乳首は手のひらで円を描くようにこね回される。

 レオンハルトさんの淫らな仕草に肌が粟立ち、全身が震えてしまう。
いやいやをするように私は首を左右に振った。
私を見上げるレオンハルトさんの瞳の奥に情欲の炎が見え、脚の付け根からとろりとした蜜が溢れるのを感じた。

 乳首を舌に絡ませ、何度も吸い上げられる。
私は堪らずに背中を反らせて、小さな啼き声を何度も上げてしまった。
 二つの乳房が執拗に攻め立てられ、下半身が疼いていやらしく腰をくねらせてしまう。
レオンハルトさんは乳首を咥え込んだまま、ショーツの中に左手をするりと侵入させた。

「あぁっ・・・」

 秘所に指を滑らせ、私が恥ずかしいほど愛液を滴らせているのを確認したレオンハルトさんは、ゾクリとするような冷たい笑みを見せた。
 そのままゆっくりと柔らかな割れ目にそって指を往復する。
わたしは腰をびくつかせながら、その動きに合わせるように揺らしてしまっていた。
 レオンハルトさんの長い指が蜜壺の入り口で止まると、中指がゆっくりと中へと押し込まれていった。

「ふぅっ・・・はっ・・・あぁっ」鹿茸腎宝

 まだ固い内壁を少しずつ押し広げるように、指が挿入されていく。
奥まで差し込み、ゆるやかに肉壁を擦りながら引き抜く動作が繰り返された。何度も、何度も。
 鈍い疼きとともに、少しずつ甘やかな愉悦が私を支配し始める。
下肢が熱く痺れてしまって腰から力が抜けていき、熱い吐息ばかりが漏れてしまう。

 やがてレオンハルトさんの指が敏感な襞を探り当て、腰がびくんと跳ね上がってしまった。

「見つけた」

 嗜虐的な笑みを浮かべたレオンハルトさんは、指に力を込めてその内壁を執拗に擦り上げ始めた。
身体の底からせり上がってくる感覚に翻弄され、私は助けを求めるようにレオンハルトさんの首に縋りついた。

「あぁっ、はぁっ・・・ああぁっ」

 ぐちゅぐちゅと中指で肉壁を擦りながら、同時に親指で敏感な花心を押しつぶされる。
指の動きにあわせるように、強弱をつけて肉粒を嬲られた。
 乳首に舌を絡ませ扱かれ、蜜壺の指の抽送が速められ、私は浅い呼吸を繰り返しながらヒクついた腰をどんどん浮き上がらせてしまう。

「あ、あ、あ、あ・・・ふぅっんんんんんっ」

 堪えきれないほどの快感にガクガクと腰を揺らしながら、今夜も私は絶頂へと押し上げられてしまった。

面接
 火曜日、私は方針を変えてみることにした。
今までは二人きりで外出するのを頑なに避けてきたが、周囲に人がいればレオンハルトさんもエロモードをそう簡単には発動できないはず。そう考えて夕食のお誘いに承諾した。

 連れて行かれたのは、六本木にあるNYのミシュランシェフが経営するフュージョン・キュイジーヌのレストランだった。
 こぢんまりとした店内の壁やカウンター席には黄褐色の大理石が使われており、同色系のレザーのスツールが並んでいた。低めの照明と相まってすごくスタイリッシュな雰囲気だ。

「あれ・・・お客さん他にいませんね?」
「当たり前だ、今夜は貸し切りにしている」

 ・・・この人が桁外れのお金持ちであることをすっかり失念していた。
周囲の目を盾に身を守ろう作戦が使えないとは・・・。私はレオンハルトさんに気づかれないよう舌打ちした。
ほら、何をしている、と先を歩くレオンハルトさんの後にしぶしぶ続く。

 注目されるのは嫌いだから、と言いながら、レオンハルトさんはお店の人にジャケットを手渡した。
 だから今夜はサングラスをかけていたのか。夜だってのに変な人だな、ぐらいにしか思っていなかった。いつも人から見られることに慣れてる人だと思ってたけど。意外と繊細なところがあるんだろうか。
 そう考えて、私はレオンハルトさんの性格的な部分をほとんど知らないことに気付いた。

 レオンハルトさんを改めて眺める。この姿を広告にしたら売上がきっと倍増するに違いない。そんなことを考えながら、サングラスをかけたレオンハルトさんが珍しくてつい見入ってしまった。

 私の視線に気付くと、遥は特別だから見たいだけ見てもいい、と微笑みながらサングラスを外した。自分でも顔がぶわっと赤くなったのが分かり、ぱっと俯いてしまう。
 なんだ、見ないのか?と意地悪な顔で覗きこまれた。・・・絶対にからかわれている。特別ってどういう意味ですか?とレオンハルトさんの胸ぐらを掴みたい衝動にかられた。

 一階のシェフのお料理を見ながらお食事できるカウンター席に座るのかと思いきや、通されたのは二階の奥の隠れ家風の個室だった。
 個室を予約しているならレストラン全部を貸し切りにすることなんてないのに・・・お金持ちのすることは全くもって理解不能だ。

 ワインメニューを眺めていたレオンハルトさんに、ワインは何が好きかと聞かれたが、分からないのでお任せすることにした。
レオンハルトさんは「ヴェッツォーリのプロセッコを」とソムリエさんに注文する。

 乾杯、と二人で背の高い華奢なグラスをカチンと合わせた。
グラスの中で、ゴールドにきらめく液体の底からコポコポと立ち上がる気泡にわけもなく乙女心が浮足立ってしまう。

「わ、フルーティで飲みやすい・・・」
「イタリアのスパークリングワインだ。若い女性に好まれる」

 レオンハルトさんがソムリエさんに頷いた。

「では、ご用がございましたらこちらでお知らせください」紅蜘蛛

 テーブルの上にクリスタルの呼び鈴を置き、ソムリエさんは個室から退出してしまった。いきなり二人きりにされ、緊張して身体が硬くなった。
 いや、でもコース料理だから、お料理ごとにちょこちょこ人が入ってくるはず・・・そんな私の考えを見透かしたように、私が呼ばなければ誰も入って来ない、と言われた。

「これで、二人だけの時間が楽しめる」

 なんですか、その意味深発言。やたらと慣れている感じに私は眉をひそめた。
この人はやはり天性のタラシなのか?欧米版だからプレイボーイと呼ぶべきか。
このシルバーブルーの妖しい瞳に見つめられて、魔法にかからない女性はきっとほとんどいない。

 ネットの画像検索で表示された、レオンハルトさんの隣で微笑むミューズのような女性達を思い出した。やっぱりああいう人達と一緒にディナーに行ったりしてたんだろう。なんだか気に食わない。

「あくまで興味本位なんですけど、女性を連れてよくこういう場所に食事に来るんですか?」
 お腹にふつふつと湧き上がる正体不明の感情を吐き出すように質問していた。

「どうした、私に興味が出てきたか?」
 レオンハルトさんは、これは面白い、というように眉を上げた。
聞いちゃいけませんか?とふてくされた表情をする私をしげしげと眺めている。
以前、女性にはあまり興味はないと説明したはずだが・・・と前置きしてからレオンハルトさんが口を開いた。

「女性を伴ってこのような場所に二人で来たことは確かにある。ただし、自分の意思で連れてきたことはない。今回を例外としては」

 遥は特別だからね。と微笑んで、優雅にグラスを傾けた。

「特別、特別って・・・一体どういう意味ですか」
今度は胸のもやもやをぶつけてみる。レオンハルトさんは私のことを興味深げに見つめ、ゆっくりと口を開いた。

「私の事情を理解し、協力してくれる、特別なパートナー」
 失礼、協力を願っている、だな、と日本語を訂正した。

 レオンハルトさんの言葉が、お腹の中で大きな塊になってずしんと落ちた。
なにこれ・・・。ショックを受けている自分に愕然とした。言葉が出てこない。

 協力してもらいたいから、あの手この手を使って私にうんと言わせようとしてるのは初めから分かっていたはずだ。もしかして・・・私は・・・がっかりしてる?さっきまで感じていた空腹感はものの見事になくなっていた。

 席を立って、今すぐこの場から立ち去りたかった。
具合が悪くなったと言って帰ってしまおうか。思いを巡らせているうちにレオンハルトさんが呼び鈴を鳴らして、第一のコース料理が運ばれてしまった。

 卵の殻を器に使った、こぼれ落ちそうなほどキャビアが盛られた前菜だった。
今夜はレオンハルトさんがお店を貸し切りにしているから、私達だけのために作られたお料理だ。それを戴かずして帰るというのは・・・礼儀としてダメだろう。
 食欲は・・・まったくないけど、意地でも食べるしかない。サクッと食べて帰るのだ。よりによって8品も出るコース料理だけど・・・そして帰ってもレオンハルトさんと同じ寝室だけど・・・。
最悪だ・・・。
ため息をついて小さなスプーンで中身をすくう。キャビアの下にはとろっとろの卵のムースが隠れていた。

 仕方なく食事を始めると、お料理の品数が多いことに救われた。
次々と運ばれるお料理に、わ、なにこれ!おいしー、トリュフって初めて食べるー、へーこんな味だったんだー、とかなんとかコメントしていれば間が持ったので。
 ミシュランシェフのお料理はやはりどれも絶品で、メインコースが終わる頃には美味しいお店に連れてきてくれたレオンハルトさんに感謝すらしていた。

 最後のデザートはチョコレートの焼き菓子だった。
シンプルにカットされたケーキの隣には生クリームと飴細工が飾られている。
甘みを極限に押さえた濃厚なチョコレートケーキは口に含むとシャンパンの風味がして、お気に入りのスイーツ屋のケーキとはまったく異なる次元のデザートだった。

「うわっ、大人な味がする。でも美味しー・・・」
素直に感動してケーキの感想を口にしていると、小さなカップでエスプレッソを飲んでいたレオンハルトさんにくすっと笑われた。勃動力三體牛鞭

「遥は食べながらよく喋る」

 え、普通じゃないですか?と聞き返すと「少なくとも私の周囲にはいない」とレオンハルトさんは肩をすくめた。

「美味しかったし、初めて食べる食材が多かったから珍しくて、つい・・・」
これはもしかして欧米マナー的にはNGだったのだろうか、と心配になり、すみません、と謝る。

「私は単に感想を述べただけで、君の謝罪が欲しかったわけではない」
 レオンハルトさんは真っ直ぐな視線を私に向けた。

「日本には周囲と調和を図るためにすぐ謝る文化があるようだが、自分が本当に悪いことをしたと思わない限り謝る必要は全くない。
欧米ではたとえ自分が悪いと自覚している場合であっても、自ら非を認めないことはよくある。弱みを握られないように」

 なんだか叱られている気がして、すみませんと言ってしまってすみません、と謝ってしまい、レオンハルトさんは片手で目を覆った。
首を振って深いため息をついてから、レオンハルトさんは続けた。

「それから、日本人はノーと断ることを苦手としているが、嫌なものは嫌だ、と言うべきだ」

 嫌だと言っても無理矢理いろいろしたクセに・・・ぼそっと私が呟くと、「私はノーと言われることに慣れていない」と平然と返され、思わず呆気にとられる。この人、完全に矛盾してるのが分かっているのか?それともこれは計算なのか?
 それはともかく・・・とレオンハルトさんは落ち着いた口調で話し始めた。

「遙も、私に協力するのがどうしても嫌ならば、遠慮無く断ってくれて構わない」
 今夜の食事に同意したのもこの話し合いをしたかったからだろう?レオンハルトさんの瞳が銀色に光った。表情からは感情が読み取れない。何もかもお見通しだ、と言われているような感じがした。

「本気ですか?」
「本気だ。なぜならば、心から同意してもらえない限り、この件の遂行は不可能であるから」

 何か不満があれば申し出て欲しいし、確認したいことがあれば遠慮無く聞いて欲しい。納得がいくまで説明するし、君に不都合な条件があれば改善を検討する、と言われる。
 珍しくまともなレオンハルトさんの発言に、何か裏があるのではないかと疑心暗鬼になってしまうほどだ。

「えっと・・・、この件で、私が一番引っかかるのは、金銭が、発生することだと思います」
 私はしばらく考えこんでから口を開いた。

「理由は」
「・・・ああいうことに対して報酬をもらう・・・というのに抵抗があるといいますか」
「しかし労働の対価として報酬が発生するのは当然のことだと私は考える」
 ろ、労働?確かに肉体労働ですけども。それも多分かなりハードな。

「だとしても、報酬はいただきたくないです。これは自分の倫理観が許さないというか」
 もしやるのであれば、ですけど、と付け加える。

「大変興味深い。では、報酬なしで君が私に協力するというのは、どのような状況下においてなのか教えて欲しい」
 レオンハルトさんはそう言って、テーブルに両肘をついて組んだ長い指の上に軽く顎をのせた。
「仮定の話で」

 鋭い視線に貫かれ、わけもなく落ち着かなくなる。
レオンハルトさんに面接されているようだ。そして、これは、これまでに受けたどの面接よりも手強い。
 この結果次第で自分の今後が決定してしまうかもしれない。頼れるのは自分だけだった。

 ひとつひとつ、慎重に言葉を選ぶ。

「・・・私が、・・・レオンハルトさんを・・・好きになったら、・・・でしょうか」
 無理矢理告白を強要されているような気分になった。なんだか落ち着かなくて、身体がそわそわしてしまう。

「その件はもう知っている。淫らな行為は好意を持った人としかできない、だったな」

 だったら何が聞きたいんだろうか。レオンハルトさんの質問の意図がよく理解できない。
それが分かっているのなら、聞く必要がないじゃないか。・・・しかし、この人、細かいことまでよく覚えてるな。

 レオンハルトさんはテーブルからいったん肘を離し、足を組みかえた。片肘を付き直して親指で顎を撫でている。困惑している私を観察して愉しんでいるようだった。

「では聞こう。君が私と同居以来、私の寝室でおこなった行為をなんと呼ぶか」
「え・・・あ、あれは私の意思とは関係・・・ないじゃないですか・・・」
「しかし君は受け入れた」

 そう言われた瞬間、私の頭は真っ白になった。

「この事実に関して、何か反論は?」

 目を細めて口元に笑みを浮かべるレオンハルトさんの表情がこう語っていた。

「チェックメイト」狼一号

2015年8月17日星期一

お嬢様と朝

あぁ、暖かい。こんなにベッドがふかふかなんて…。アリアが布団を干してくれてたのかな。すごくいい香りがする…。
 あまりのベッドの気持ちよさに暖かい気持ちで微睡んだままゆっくり瞼を持ち上げると、ベッドには朝日が射し込んでいる。何だかこういうのいいな。なんて思いながら起き上がろうとしたが何かに阻まれていてそれができない。procomil spray
 働かない頭で何故だろうかとぼんやり考えてみる。
 昨日、そういえば夜会に行ったんだっけ。そこでご飯これでもかってくらい食べて…シャンパン飲んで、ワイン飲んで…。あ、ワインが美味しいのを初めて知ったんだ。
 それからそれから…それか…ら…ん?

 目の前にあるのは誰かの胸板だと気付き、ゆっくり視線を上げると軽く寝癖のついたアプリコットの髪の隙間からアメジストの瞳がこちらを見て目を細めている。
「おはようブリトニー」

 ブリトニーって誰だ?…あ、そう言えばそう名乗った…それよりこの目の前の男は…
 思わず目を見開いた。

「ラ…ランスロット…王子!」
「よかった。酔っぱらってたから覚えてないかと思った。」
 満足そうに微笑むランスロットに背筋が凍る。ブリトニーと呼ぶと言うことはバレていない?それとも解っていてわざと呼ぶのか?
 この性悪男ならあり得る。反応を楽しんでいるとかありそう!
 何と返事すべきか躊躇していると、腰へ回された腕に引き寄せられる。
「んっんん…っ」
 離れようと胸板を思い切り押すがびくともしない。昨日、力で勝てなかったのはお酒のせいではなかったらしい。…情けない。
 息が苦しくなるほど口付けされ、もう酸欠、と言うところで肩をばしばしと叩いて訴えるとやっと解放される。
 必死で酸素を取り込もうと肩で息をしているとランスロットはくつくつと笑う。

「俺にキスされて逃げようとする女は初めてだな」
「そ、そんな事より今!今何時ですか?!」
 腹立たしいが今のでしっかり目が覚めた。今日は仕事の日だ。こんな奴の相手している場合ではない。多少の遅れは騎士団長の特権で適当に言い訳出来るが昼前には第四王子に会って一日の流れに変更が無いか等話さなければならない。
 騎士団長と言っても毎日朝から晩まで剣の稽古をしている訳ではない。
 勢力を広めたこのクレイモア王国に刃向かう国なんて無く、騎士なんて言い方名ばかりで、防衛と言うより警護と言う方がしっくり来る。
 平和すぎて侍従の様な事までやらされている。

「今…九時前だな」
「くっ…?!」
 今から帰って着替えて王宮に行って甲冑に着替えて…。よし、すぐ帰って急げばギリギリ間に合う。もうお風呂は空いた時間に官舎で軽く済ませよう。
「あ、あの!私用事があるので帰ります!」
 気が緩んでいるランスロットの腕を払い退け、ドレスを拾おうとするがすぐに腕を掴まれ引き戻される。
「それって俺より大事な用事か?」
「え?…はい」
 第三王子の貴方じゃなく、第四王子付きなんだから優先するのは勿論第四王子だ。
 それより遅刻しそうだから離して。

「送ってやる」
 掴んだ腕に優しく唇を落としたランスロットは思い立った様に起き上がり、服を着始める。
 起き上がろうとしたら押さえ付けたり、無理矢理キスしたり、腕を掴んだと思えば軽くキスして送ってやる?
 ランスロットが何をしたいのか解らず、困惑しながらドレスを着ると手を差し出される。

「…何?」
「腰、痛いだろ?馴れないヒールはキツいんじゃないか?」
「な…何で馴れてないって…」
 やっぱり正体がバレてるんじゃないかと血の気が引いていく。
 バレてたらクビだよね?王宮の仕事が無くなったらあの衝動買いをぎりぎりで賄えるような仕事探さなきゃ…でも女で騎士クラスのお給金貰えるとこなんてあるんだろうか…。
 母と仕事とお金の事で頭が一杯になっているとランスロットは笑みを崩さず言った。
「ヒールの踵が削れてないし、足、靴擦れしてんだろ。新しい靴は馴れるまで辛いよな。」
「え…あ…そうです…。」
 ヒールを新調して履いてたからと思われたのか…。いや、普段ヒールなんて履かないから間違っては無いけど。房事の神油
 そういえば友人達は夜会に行く度ドレスや装飾品を新調してたっけ。

 ランスロットがヒールを拾うと差し出された手にそっと手を重ねる。
 腕の力だけで引っ張られ、あっと言う間に立たされて目を丸くする。放蕩王子の癖にどこにそんな力があるんだ?
 驚いたか?なんて顔しながらに手を回され、思わず体が強張る。なんかこの人触り方がいちいちエロい。
 しかしいざ立ち上がってみるとランスロットが言う通り腰が痛く、奥歯を噛み締める。

「ほら、掴まっとけよ」
「え?あっ!!」
 ふわりと体が浮いたと思えばランスロットは軽々と私の体を横抱きに抱え、昨晩昇ってきた階段を軽快に降り、重そうな顔も一切せずにホールを横切り馬車に乗せられた。
 男に横抱きになんてされたことが無く、あっと言う間の出来事だった。本当に、どこにそんな力が?

 家はストリア家かと聞かれ、思わずはいと答えてしまった。
 でもどこかで適当に降ろしてもらっても家に徒歩で向かうよりは断然早い。第四王子は時間に煩いから遅れるのだけは本当に避けたい。



 しばらく馬車を走らせると我が家が見える。
「俺の弟の、コンラッドの騎士がブリジット=ストリアなんだ。血縁か?」
「ブリジットは…あ、姉です。」
 それ。私です。
 なんて言える訳もなく、家まで来てしまっているし悩み抜いて苦い作り話をする。

 やっと家の前で馬車が止まり、そそくさをドレスの裾を持って降りようとするとまた腕を掴まれた。
「また会えるか?」
「王宮へは行けませんから…」
「ブリジットに用だと言って来れば良い。」

 それ、私に妹が居ても困るから。
 何かもっとマシな案出そうよ。

「仕事中の姉様に迷惑は掛けたくありませんから…。」
「そうか…」
 ランスロットが何か良いかけたが、お礼だけ言い腕を振り払い馬車を降りる。
 背後からは何だか哀愁の籠った声でまたな。と聞こえた。
 ランスロットは毎晩後宮の女と寝るといつもこうやって腕を掴んで名残惜しそうにするんだろうか。今みたいに名残惜しそうな声でまたな、なんて言うんだろうか。
 執心している女なら喜ぶだろうな。いや、それがランスロット王子の作戦なんだろう…。
 でも昨日も今日も、いつも見るランスロットとは違い、やたら優しくてなんだかくすぐったい気持ちで調子が狂う。

「…あ、仕事!」
 急いで家へ入っていく。

女騎士団長とお勉強2
 今、絶句している。

 コンラッド王子の部屋を開けるとカウチに正座する王子。隣に座るのはにやにやしながらクッキーを食べているリオネル第二騎士団長。そしてコンラッド王子の前で手を腰に当て仁王立ちしている黒髪の女…の子?

「あの…?」
 これはどういう状況なんだろうか。どうしよう。コンラッド王子が飼い主に怒られている犬に見えてしまう。
 持ってきたティーセットを落としそうになりながら一度扉を閉めようとしたが目が合ったリオネルが私を呼び、手招きするので仕方なく入室する。
「ええと…初めまして。第四騎士団長のブリジット=ストリアと申します。」
 冑を取って挨拶するが黒髪の女の子は明らかに私より年下に見える。
 それにしても、目がくりっとしていて美少女だ。前髪はきりそろえられていてお人形みたい。
 美少女はこちらを凝視してにこっと微笑む。か、可愛い。蔵秘回春丹
「初めまして。私はアーネストの所に住まわして貰っとるアヤメって言います。私、可愛い女の子は大好きなんよ!仲良くしてね!」
 可愛い笑顔で握手してくるアヤメに私はポカンとした。
 アヤメ?珍しい名前だな…。それに何だか喋り方が独特だし、アーネスト王子の所に住んでいるってどういう事だろうか?
 リオネルを一瞥するがただ微笑んでいるだけで表情を崩さない。
「まぁええけ、もっとちゃんと考えんさいよ!」
「……わかった」
 アヤメは鋭い眼光をまたコンラッド王子へ向けて厳しく言う。やはり何だか喋り方が独特…。
 コンラッド王子はうんざりした顔で大きくため息をつく。するとリオネルが立ち上がり、アヤメを捕まえてまたねと手を振り出ていった。

「…あの…大丈夫ですか?」
 なんだか台風一過のような気分。しかし、アヤメとは何者なんだろうか?そういえばまた女の子って言われた。
 リオネルが付いているから大丈夫なんだろうけど。
「何なんだあのチビ。」
「さぁ…初めて見ました。」
 カウチに座り直したコンラッド王子は頭を掻いてまた大きくため息をついた。

「王子、今忙しいですか?」
「いや。どうした?」
 気を取り直して疲れている王子にアルファルファのハーブティーを淹れると改めて向き合い、深々と頭を下げた。
「…何が言いたいんだ」
 いつもの口調で言うコンラッド王子は解せないといった顔をする。
「頂いたオイルやクリーム…うちのメイドや厨房のおばちゃんの手がカサカサだったから少しでも良くなればと思って…いくつかあげてしまったんです…。沢山あるから、と使わないものをくれたのかなと思ってたんですが…ずっと私に渡そうと思って取り寄せてくれていたものだって聞いて…本当にすみません。」
 どうしよう。凄く申し訳なくて泣きたくなる。
「誰から聞いた」
 怒られるだろうと身構えていたがコンラッド王子の関心は違うところへ向いていた。
「え?…ワイアットさんです。」
「…あのジジイ…」
 眉間に皺を寄せてハーブティーを飲む王子に首を捻った。ワイアットさんがどうしたんだろう?
「二年以上近くで見てるんだ。お前がそういう事をするくらい予想はついていた。お前にやったんだから使うも捨てるも好きにすれば良い。」
 流石に捨てたりはしないけど。
 空になったティーカップを置いてコンラッド王子は私の手を取る。
「俺が本当に渡したかったのはこれだからな。」
 私の手にはコンラッド王子から贈られたガントレット。指先に添えられた大きな手が慈しむように革の生地の上から私の指を撫でられる。
「また、擦り切れたら言えよ」
「あ、いえ、今度はちゃんと自分で用意しますから」
 いいから、と強く言う王子の頬は少し赤に染まっている。
「…ありがとうございます。」
 昨日から急にコンラッド王子が優しくなったものだから何だかくすぐったい気持ちになってしまう。
 正直、勿体ないから使わずにいたいくらいだ。でも着けているところを見たときのコンラッド王子の嬉しそうな顔が何だか可愛くて、使わせてもらっている。

「侍従の仕事、そんなに重く考えるな。」
 思わず「え?」と口から言葉が零れた。突然そんなことを言われても何の事だか解らない。目を泳がせると視界に入ったのは昼も積み上げられていた分厚い本の山。
 よく、見れば所々から顔を覗かせている付箋に見覚えがある。男用99神油
 ワイアットさんの本だ。
「もしかして、王子もお勉強を?」
「まぁ…な」
 ばつが悪そうに少し目線を逸らす王子を見て嬉しさと申し訳なさが入り交じる。
 私が困らないよう、質問しなくても良いように自ら勉強しているんだ。
「すみません。私…頼りなくて…。」
 俯くと王子は慌てたように立ち上がる。
「この勉強はワイアットが退職する日が決まる前からやっている。お前が頼りないなんて思ってはいないから気にするな!」
「王子は…お優しいですね」
 感謝の気持ちを込めて言ったのに王子はただ目を逸らしただけだった。



 王子の読み終わった本を持ち、ワイアットさんの部屋に帰り質問の続きをある程度終えた頃だった。
 背後から扉の開く際の重厚な音が聞こえ、コンラッド王子かと思い振り返ろうとしたが後頭部を掴まれ制止される。
「ワイアット。ちょっといいか。人事の話がしたい。」
 その声に目を剥く。この声は…ランスロット…。
「ブリジットちゃん、ちょっと待っててくれるかの?」
「は…はい」
 後頭部を掴む手はワイアットさんと共に離れて行った。
 掴まれた時は心底驚いたし、ちょっと痛かった…けど、顔を見られたく無いのを察しての行為としか言いようがない。もやもやする…。
 掻き消すように温くなってしまった紅茶を飲み干したが消える筈もない。
 これ、前にもしたな。

 ワイアットさんを待つ間、コンラッド王子の借りていた本をぱらぱらと捲ってみると難しすぎて頭が痛くなってしまう。
 だが間に挟まれた紙や付箋にはワイアットさんの細かい助言などが書かれていて、それを元に読んでいけば少しは解りやすくなる。
 手に取った本は作物に関するものだった。
 この二十年でどれだけ収穫が増えたか、収穫に対する国内消費量、輸出量の推移、何年かに一度くる干ばつでどれだけ蓄えが必要であるか等、事細かに記されている。
 …頭いたい。騎士になる時ですらこんなに勉強した覚えは無い。
 こんなのを涼しい顔で読むコンラッド王子には本当に頭が下がる。
 甘い物ばっかり食べてる糖尿ランスロットに爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
 そういえば、人事の話だと言っていたけど、やはりクラウスは昇格になるのだろうか?あんなやつ。追放されてしまえば良いのに。とは言え、私よりも剣の腕も歴もある。もっと、剣が強ければな。


 大きく伸びをして動かしすぎてぼんやりしてきた頭を振る。男根増長素
 そうだ。私には他を考えている暇は無い。質問に答えてもらった内容を見返しもう一度理解するまでまた分厚い本のページを捲っていく。
 復習したところで、近くにあった違う本を手に取りぱらぱらと捲っていくと今まで王宮で起こった事件や事故の事が書かれている。
 日付を見ながら適当に目を通していくと手が止まる。
「…ライナス……軍務…」
 父の名だと思い手を止めたのに続きを読もうとしたところで、本を取り上げられ、また頭を押さえつけられる。
「第三王子、それ、案外痛いんですよ。」
「騎士だろ。我慢しろ。」
 なんだそれ。まぁそもそも冑を脱いでいた自分が悪いわけだが。
「お前、次の休みまであと何勤だ?」
「確か…五連勤です。」
 そうか、と冷たい声が降ってくると頭を押さえる手が離れた。
「あの。」
「何だよ」
 つい声を掛けるとやけにぶっきらぼうな返事が返る。
「…私って子供っぽいですか?」
 ワイアットさんにもアヤメにも女の子呼ばわりされた。流石に二十歳で女の子は無い。そんなに幼く見えるんだろうかとかなり気になってしまう。
「子供っぽいも何も…俺お前の顔見たことねぇよ」
「……ですよね」
 そうだった。ブリトニーで会ってるからつい聞いてしまった。
「…コンラッドのバルコニーで鳩にパンやりながらそのパンかじってる所は子供っぽいっつーか無邪気だよな。」
「…っ見て…!!」
朝、コンラッド王子が朝食を食べているとバルコニーに鳩が止まった。パンでもやれよ、と言われ一つロールパンを渡されたのでちぎって餌やりをしていたが一口分くらい残ってしまったので顎当を外して食べたんだ。まさか…見られていたとは…。
「いいんじゃないか?お前らしくて」
 急に優しく頭を撫でられ、驚いたがやはりこの手が心地よく、頬が熱くなる。
「声が笑ってます…」
 不貞腐れたように言うとランスロットは鼻で笑い、またな、と頭から手を離す。
 あ。そういえばカーニバル…。まぁいいか。元々あっちが勝手に押し付けてきた予定。ブリトニーはブリジットが休みじゃないと出られない設定だし。


 先程まで読んでいた本が見当たらず、仕方なくまた、違う本を読み耽る。とりあえず、今までの政策や近隣国の傾向を頭に入れておけば少しはマシかもしれない。
 また一つページを捲る。男宝

2015年8月14日星期五

猫的屈辱生活

まだ、猫的屈辱(?)生活が続いています。

「ほら」

スプーンを口元に突き出される。
目の前には豪華な朝食のお皿が並べてある。焼きたてのパン、新鮮なサラダと果物。
そして温かな美味しそうなスープ。印度神油
それを口にする。ポタージュスープだ。
美味しい…。けど。

あの後。
喉元に足を突き入れ、グフッと咽を鳴らして、レトを仰向けに倒した後。
控えめに扉をノックする音があった。 

「王よ、そろそろ用意をしませんと閣議に間に合いません」
「ラサドか、入れ」

仰向けに倒れたまま、返事をするレト。
そう言って王の寝室に入って来たのは初老の男性だった。

「カリノ、侍従長のラサドだ。前に紹介したマーシャの夫だ」

咽をさすりながら起き上がり、レトが紹介する。マーシャ…いつだったか着替えの手伝いをしてくれた人だ。
レトの回復が早い。肉球足の蹴りでは効果はやはりないのだろうか。

「ラサド、カリノだ」

ラサドという執事のような男性が、ベッドに端にちょこんと座った猫に対して、膝をついた。
初老のきっちりした黒の詰襟長衣を着込んだ素適な男性に礼を取られて少し焦る。

「カリノ様も獣王の血を継いでおられるので?」

私の目を見ながら王に聞く。
起き上がって身支度を整えている王が答える。

「いや、一時的なものだ」
「…成る程。ラサドです。お見知りおきを」

そう言って私の右手を持ち上げて口を寄せた。

「ナー(うわーーー)」

何かちょっと、お姫様気分だ。頬が少し熱くなる。嬉しい、得した気分になる。ジリアンやレト(は足の裏だったし)の時と違って。
瞬間、背筋が寒くなった。
着替え終わったレトに抱き上げられる。

「朝食を取ろう」

そして現在の屈辱的状況に陥る。





広い食堂に細長いテーブル。
その奥に椅子が二つ。
いわゆる主人席な所にレトが座り、その斜め前の椅子にちょこんと座っている。
テラスから少し高くなった朝日が差し込んでいて、丁度いい季節になったな、と思いながら、テーブルに並べられていく湯気の立ったスープ、ほかほかの焼きたてのパンを眺めて幸せに浸っていた。

椅子の上に立ち上がってテーブルに身を乗り出して。
気を利かせた若い給仕の男性が椅子を近づけてくれた。
パンをかじる。柔らかくて美味しい。それから、レトが森の家で獣型の時に食べていたように両手でカップを傾けてフルーツジュースを飲む。甘酸っぱさが咽にうれしい。
爪でフォークを挟んで、卵のオムレツのようなものを口元に持って行く。
そうしたら、金属と爪の相性が悪くてつるっと滑って。

カラン、と音を立ててフォークが床に落ちた。

若い給仕の男性と女性が慌ててこちらに来て、新しいフォークを持って来てくれて。

「よかったら手伝いましょう」

そう言って、給仕の男性が、オムレツをのせたフォークを口元に持って来てくれる。
美味しい。さらにもう一口。
あーんと口を開けた時。
すでに気持ちは口に蕩けるような卵を味わっていた。が入って来ない。

「代わろう、お前達はさがっていい」

低い声が頭上で聞こえたかと思うと、体が持ち上がり、椅子に腰掛けたレトの膝に腰を下ろすことになっていた。

そして食べさせられている。
誰も見ていないのがせめてもに救いだ。
スープを飲ませられる。スープはマグカップに入れ直してくれれば自分で飲めるのに。
パンも自分でかじれるのに、一口サイズにちぎったものを口にさし出される。時折自分の口にも放り込んでいる。
食べながら背後にいるレトを見上げる。

「なんだ、次は何が食べたい?」

口元についたパン屑を指で払われながら聞かれる。

<自分で食べられるよ>
「フォークを落としただろう?」
<慣れれば大丈夫だし、パンとカップに入ったものは大丈夫だから>
「給仕の男からは嬉しそうに食べようとしていたではないか」

そう言って、フォークにのせたオムレツを口元に近づけてくる。
思わず口を開ける。とろっとした卵が入ってくる。美味しいなあ。思わず目を閉じて味わう。
気がつくとオムレツがまた差し出されている。食べる。スプーンに掬われたポタージュスープが匂いを誘う。飲む。強力催眠謎幻水
気がついたら差し出されたものをすかさず食べる、啜る、飲む。
だめだこりゃ。美味しい匂いと味に、ついつい口を開けてしまう。

私はもうダメだ。餌付けされた動物だ。人としての誇りが消えた…。

「腹一杯食べたか?」

お腹を丸く撫でられる。そして屈み込んで来たレトに口端を舐められる。
手で頬をぐいっとやると嬉しそうに目を細める。

「お前、ずっとそのままでもいいな」

そう言ってぺろりと頬を舐められた。
顔を背けたら、耳にそれが繰り返されようとした時。

ノックが響く。

「陛下、そろそろ閣議の間へ」

ラサドさんの声がかかる。

「そうだな」

そう言い、立ち上がった。
するっとレトの腕から抜け出し床に降りる。

<行ってらっしゃーい!>

今日はせっかくだから猫の一日を満喫しよう。路地裏を歩いて、ひなたぼっこして、お腹すいたら綺麗なお姉さんにごはんを貰って撫でて貰って、昼寝などしてのんびりと…。

ピョーンとテラスに出ようと床を蹴った所で首根っこをつかまれた。
レトの目前でビヨーンとぶら下げられている。

「いい機会だ。お前を皆に紹介しよう」
<嫌ー!>

やめてー!
こんな姿だし。
実は全裸だし。
絶対やだあ!!

両腕でしっかりと抱きかかえられて、転移した。

ご紹介されました
非常に居心地が悪い。
こんなに気まずい気持ちになったのは初めてではないだろうか。
いたたまれないというか。
向けられる視線が痛い。

広いテーブルを十人程の男達が囲っている。ぐるりと見渡すと、見知った顔がちらほら。
右側に宰相ジリアン様、じーっと人の顔、もとい猫の顔を食い入るように見るのはやめてもらいたい。
その隣にセインさん、私を見ていきなり口を手で押さえて小さくプッと吹き出すのは失礼だ。
しかし、姿形すがたかたちが変化しても分かる人には分かるものなんだな。例の魔力の大きさとか色とか質で視みるのだろうか。

少し離れた所に癒し系のケルンさんがいる。せっかく黒騎士試験対応に色々教えてもらったのに、お礼言ってなかったな。そのケルンさんの隣に紅一点の女性が座っている。黒騎士のようだ。この場には女性一人しかいない。女性の社会進出が遅れている国なのか。
左側に赤騎士ジャディス隊長と女性に大人気の副隊長、ラムジールさん。騎士団幹部と、白い長衣の上位神官の方々。
しかし、黒騎士隊長の王弟ロシュフォールと私の先導者ということになっている白騎士副隊長モンフィス様がいない。

レトが現れた瞬間、皆が席を立ち、深く腰を折る。レトが上座に着くと、皆が静かに席に着く。
レトの膝に座らされた私は痛い程の視線を浴びていた。その視線に堪えつつも、周りの人間を一人づつ見ていく。

頭に大きな手が置かれる。

「紹介しよう。我が妃きさきになるものだ」

いきなり…!
ぎょっとする。頭上を見上げると、レトが恐ろしく美しい顔で口端だけ僅かに上げて微笑んでいる。

「異論はないな」

「ナー(ある!)」
「…そのお方は獣王の血をひいておられるので?」

私の声は完全に無視され、乾いた低い声が被かぶさった。

最も遠い席のご老人から声が掛かる。最高位の神官のようだ。

「ひいていない。血の契約をした故ゆえ、一時的な姿だ」

息を呑む音。老人達のざわめき。その中で、私を刺す様に見る目がいくつか。ジリアン様もセイン様もラムジールさんも…。
体中視線で刺されて血だらけの気分だ。痛い痛い。
赤騎士隊長だけが太い腕を組んで考え込む様に目を閉じている。まさか、寝てないよね…。

「血の契約とはまた急な。家柄は…」
「関係無い。我が認めたのだ。さらに言うならば魔力の交換もしている。完全に契約は成なっている」

あまりに低く冷たい声に静寂が降りる。
独裁政治の王様のようだ…。怖いよ、レト。
ところで血と魔力の交換とか契約って何の事かな。
そこに少し柔らかい声が入る。

「身元のしっかりした女性ですよ。私が後見人です」

ジリアン様のそんな優しい声音、滅多に聞いた事がありません。そして貴方は私の後見人でしたか…。そういえば、そう言う事にする、と見習い騎士の時に言われたような気がするけれど。後見人なら、後見人らしいところをもっと見せてください。蔵秘雄精

「宰相殿のお墨付きならば異論はありませんよ」

にっこりとケルンさんが私に笑いかける。あ、この人も気づいたな。
自分の姿を見下ろし、全裸なのを思い出して、レトが肩からかけていたマントの影に隠れる。そして首だけひょっこり出す。
マントの上から大きな手で体の側面を撫でられて、思わず頭を上げ、睨みつける。
見下ろして私の目を見ながら告げる。琥珀の色が濃くなっていて、蕩とろけそうな色気を醸し出しながら。

「これが20になったら正式に立后し国事とするが、それまでも身分は同様とする」

周囲の顔を見渡すと、皆、驚愕している。王の言った内容か、その表情の所為せいか。

「これに害を与える者、反する者は、我が意に反有りとして、我自ら対応する、よいな」

しばらくの間が有り、

「…御意」

と皆、唱える。
レトが恐い、恐い。

「人型の時に再度ご紹介くださいませ」

ケルンさんの隣の女性が言う。女性の優しい声に少し和む。
そりゃそうだ。誰だかわからないしね。
レトを再び見上げると、私の頬を指で撫でながら、片方の手で頬付き、考えあぐねている。
何故だ。

「そのうちにな」

やっと発っせられた言葉。人の私を紹介するのは嫌なのですか。
次の質問が飛ぶ。

「王弟殿下はご存知で?」
「ああ、知っている」

さらにご老人達の質問が続く。

「年齢は」
「名前は」
「家柄は」

依然、頬を撫でる指は優しいが、背後の大男が質問に答えるのが面倒臭くなってきているのが分かる。
それ以上の質問は止めた方が。きっと室内の温度が下がる。

「…その者は、私のセカンドでもありますので。それでよいでしょう」

もう一人、厄介な感情型温度調整人間がいた。右側から冷気が漂って来ているような…。紫の目がガラスのように透明感があって冷やかだ。

「宰相殿をセカンド…」誰かの呟きが聞こえる。
「どれほどの姫…」囁かれる声。
姫って…。
お。ジャディス隊長、起きていたか。そして私を見ている。
じーっと見てくるのでじーっと見返していると。
ぐいっと顎を掴まれて顔の向きを変えられた。
屈み込こみ、耳元で低く呟かれる。

「他の男をそんな目で見るな」

どんな目だ、そりゃ。
そして、ひきます、そんな台詞!
怖々(こわごわ)皆の反応を伺う。よかった。聞こえてないようだ。
あ、ジリアン様、目を閉じたこめかみが引き攣つっています。
隣のセイン、口をまた片手で塞ぎ、横を向いた。あれは聞こえた。そしてジリアン様の反応を楽しんだな…。

「では、ご正妃の初見お披露目はその位にしまして、本日の本題に入りましょう」

ケルンさんが言う。

はたして私はまだこの場にいていいのだろうか。

正騎士初日
あやうく初日の出勤から遅刻してしまうところだった。

慌ただしく指定された一室に滑り込む。額にうっすらと浮かんだ汗を手の甲で拭い席に着く。
なんとか、時間内に滑り込めた。

今日から通う所は王城内にある一画で、城のすぐ側に聳え立つ白騎士塔と言われる館だ。
塔、と言われるだけあって隣に聳え立つ城の最上階より少し低い位で、よくぞここまで石で作った、と感心せざるを得ない。五夜神
入り口から一階はホールで広い空間があり、中心が吹き抜けになっていて回りを螺旋階段が囲っている。その脇に小部屋が幾つか配置してある。
最上階が白騎士隊長あるいは白魔導士長と言われるジリアンの執務室である。普段は王城の執務室にいることが多いらしいが。
その塔の2階の比較的広い一室に新人の正騎士が集められている。

白騎士が赤騎士や黒騎士と大きく異なる点は術に長けている事だ。
それ故、白騎士は白魔導士とも呼ばれる。
その者の特質、特性により、得意な術の分野が分かれる。

1、攻撃的な術
火や水、風、光など、どの現象が得意か

2、防御的な術、防護壁を作るなど

3、治癒術

4、結界、転移が出来るか

5、術式(道具に掛ける)

他、医術、薬学(魔力が少ないものは強制的に勉強させられる傾向がある)


今日の初回の講義では自分の得意分野をしかと見極め、その部分を伸ばすことと、術式の基礎と応用の重要性を説かれている。

新たに正白騎士になったのは5名。
皆、優秀だ。見習い騎士の時に一緒に学んだから知っている。
私が皆より秀でている点は結界が張れる、その一点だけだ。後は魔力が小さいため、防御壁など短時間しか出来ないし、転移は私に取っては命がけの術である。術式も簡単なものしか理解していない。

ちなみに赤騎士には即戦力としての力が必要とされているらしい。人並み外れた体力、高い戦闘能力が必要とされていて有事の際には百人隊長として兵士を率いて戦わなければならない。
それを聞いていれば赤騎士は初めから無理だと悟っていた。

黒騎士には、白騎士と赤騎士双方の力を持っていることを前提に政治中枢に関わっていくか、文官として学術専門家になっていく。

説明を受けつつ、ノートにペンを走らせる。
ペンを持つ右手の甲に、まだ残っている歯形が目に入った。



<カリノ、会いに来たよ!>

微睡んでいた所、宙から飛び込んで来たのは黒い大型犬(狼)、ロシュフォールだ。
空中から現れたロシュフォールはベッドの足元の方にドスンと音を立てて着地する。ベッドが軋む音を立ててヒヤリとする。
それから私の上半身へ向かってジャンプして来た。
条件反射で受け止めなきゃ、と思い両腕を空中に差し出した所、触れるか触れないかの所で黒い大型犬が、霧散した。
跡形も無く消えた。
空中で腕をだらんとさせて、あれ?とぼんやりと思った所、その腕に金色のフワフワなレトが飛び込んで来て、顔を舐めようとしてきたので、思わず手で頬を押さえて避けたら、カプリとその手を噛まれた。

「なんで怒ってるの」

目が吊り上がっていて、未だ右手をガジガジと噛んでいる。本気で牙を立てているのでは無いのは分かっているが。
それからレトの顔が手から手首へ、腕へと移り布地越しに噛んでいる。歯形が大きな水玉のように付けられている気がする。
痛くは無いのだけれど。

「ロシュはどうしたの」
<自分の部屋に戻った>

消し飛んだように見えたのは気のせいか…。
噛まれていても眠い。今日も疲れた。
眠くって瞼を閉じてしまって、最後に首を噛まれた記憶だけある。



朝、温かいけど、重くて目が覚めた。
重いけど、そんなに嫌じゃない重さって不思議だなと思ったら。
自分の仰向けになった体にフワフワで温かいものがのっかっている。
レトがうつ伏せになって眠っていて、少し湿った鼻を私の首筋に擦り付けている。
そして特に柔かい毛に包まれた温かいお腹が私のお腹に貼り付いていて。
寝間着が捲れていて、お腹だけ直接レトの体温を感じている。
被っていた毛布はどこかに行ってしまったけれど、とても温かい。重いけど心地良い…。
両腕は肩にのばして置かれていて、両足までしっかり、腿を挟んで眠っている。
小さい子供が母親に縋って眠っているみたいだ。少し口が開いている寝顔もかわいい。

足元まで温かいと思ったら。VIVID
足の甲に大きな黒い塊が乗っかっていた。
私の足の甲を枕に眠っている黒い大きな犬がいる。

その頭は時折、関節を伸ばしているレトの足に蹴られている。
しかし、どちらもまだ眠っているようだった。
不思議な兄弟の寝姿だな、とぼんやり思った。

それを眺めていて遅刻しそうになったのだった。




「カリノ、こちらへ」

声をかけられる。新人には先輩の白魔導士が先導者として一人ついて一対一で指導される。学びつつその先導者である先輩騎士の仕事の手伝いをこなさなければならない。それぞれの新人に先輩魔導士が紹介される。20代後半位の先輩が紹介されているのだが。
私の前にずいっと現れたのは。

「よろしゅうな」

立派な顎髭を撫でながら告げる老魔導士の魔導士モンフィス、どう若く見積もっても70歳以上だった。
試験の時くらいしか顔を見たことがない。
皆、目を見開いている。

「儂についてこい」

共に室外に出る。他の新人騎士に驚かれつつ背を見送られた。
モンフィスが螺旋階段を見上げながら言う。

「儂の部屋は上から2番目の部屋じゃ。転移を使うか浮遊術を使うか、あの道具を使うか」

モンフィスが顎で指した所を見ると、遥か上から垂れているロープを握って上に上がって行く人の姿だった。井戸の水汲みのように垂れ下がっているロープは天井に滑車が付けられて回っているようだ。
ロープを掴んでいた男は適当な所で螺旋階段の手摺りに飛び乗っている。あれは、足を滑らせたら骨を折るだけで済まないのでは…。

「まあお前さんは若いし足腰強そうだから階段を駆ければいいかの」

そう言って、手摺りの無い部分から、すっと下のホールに舞い降りる。慌てて階段を駆け下り、入り口で待つモンフィスに追いつく。
息を切らして言う。

「早く浮遊術を教えてください」
「まあ、急くな。こっちだ」

道すがら幾人かの人が立ち止まり礼をするのを、片手をあげて答える老魔導士。確かこの人は副隊長じゃなかったかな。そんな人が私の先導者になってくれたのだろうか。
白騎士塔を出て歩く事、数十分。王城内にこんなに木々に囲まれた所があったのかと驚く所に、こじんまりとした畑と小さな小屋が在った。

「薬草を作る畑でな。前任者が高齢で田舎に帰ってしまったのじゃ。最近の者は魔力が強くて、なんというか上に上にと登りつめようだの、より力を得ようだの、そういう輩ばっかりじゃったが…いい所にお前さんが現れよった」

白髭のお爺さん魔導士、中々失礼な御仁のようだ。

「えーっと、私も少しは強くなって術を覚えようとしてますよ」
「そうか、そうか。ま、薬草にも強くなってくれ」

そう言って、小屋の戸を開ける。小屋自体は一間だが、小ぎれいに片付けられている。土間があり、農作業に必要な一式、道具が置いてある。 

一段高くなった床の上にはテーブルと椅子が向かい合わせに一脚づつ、そしてロッキングチェアが窓際に置かれている。快適な一室だ。ベッドがあれば住み込むことも出来るくらいに。簡易的なキッチンまでついている。
書棚には薬草や植物に関係する本がぎっしりと詰まっているところが唯一の白魔導士らしい部屋のところか。

「その日誌と薬学の本を全て読んどいてくれ」
机に積まれた数十冊の本を指して言う。それから書棚に向かい、本の背に節くれ立った指をかける。蔵八宝

2015年8月12日星期三

ご主人様の怪我

 どれくらいか閉じていた目を開けたルーリィは自分が生きている事を知った。

何故ならそこにはあの世にいるはずのない人がいたからだ。

「ヒューゴ様!?」

「怪我は」

 いつも通りむっつりとした表情で言ったヒューゴに、ルーリィは自分が彼の上にいた事を知って慌てて飛び退いた。MMC BOKIN V8

「え?あ、……ああっ!足を怪我してます!」

「なんだと!?」

「大変ですっ、大丈夫ですかヒューゴ様!?」

「は?」

 尻餅をついたような格好のヒューゴの伸ばされた足に目をやれば、彼が穿いているズボンが斜めに破れそこから赤い傷口がはっきりと見える。

ヒューゴもそれを見下ろし、はっと短く息を吐き出す。

「お前の事を聞いているんだ」

「それどころじゃないですよ!どうしたら……あっ、ちょっと待ってて下さいね!」

 ルーリィはその場を駆け出して辺りを見回し、近くの木の根元に生えていた薬草をむんずと掴んで葉をごっそりと引き抜いた。

葉に付いているトゲがぶつぶつと音がしそうなほど突き刺さったが、それに構わず全てを手の平で擦る。

そしてヒューゴの所に戻ったルーリィはすみませんと言い置いてからスカートの裾を力任せに破って、葉と共に彼の傷口に巻き漸く一息ついた。

「さっき見つけたんです。兎の子にもこれで手当てをし…………あの子は!?」

「さっきからそこにいる」

 彼の言葉に視線をずらせば、子兎はヒューゴの横でじっとこちらを見上げている。

「ああ~、よかったです。ぁいてっ」

「おい、どうした!」

「はは、今頃痛みが」

 やっと自分の姿を見下ろしてみれば、先程のトゲで手は血だらけで右足は擦り傷で皮が剥けていた。

落ちた時に所々打ち付けたのか、腰や腕がズキズキと痛む。

「大丈夫です、全然。それよりヒューゴ様、いつこちらに?それにあの狼は?」

 すると「逃げた」という言葉と共にどっしりと重たい溜息をつかれ、それに釣られてルーリィの肩が下がる。

「申し訳ありません。助けて下さったんですよね」

「お前、これを追って森の中に入ったんじゃないだろうな」

「お、仰る通りで、申し訳ありません」

 今更ながら、ヒューゴからは森の中には入るなと言われていたのを思い出す。

再び大きくつかれた溜息に小さく身を縮み込ませた。

すると兎を手に立ち上がったヒューゴにルーリィはぎょっとして声を上げる。

「駄目ですよ、座っていないと!」

「こんなものは数時間もすれば治る、すでに痛みも感じない」

「そんな馬鹿な……」

 ロボ相手ならまだ納得出来たかもしれない理屈だが、幾らよく効く薬草とはいえ数時間で傷が治る訳もない。

しかしルーリィの言葉を気にも留めていないようなヒューゴは、ひょいと首の後ろを摘んで持ち上げた兎をルーリィのエプロンのポケットの中に突っ込んだ。

小さな兎はぷるぷると顔を振りながらも大人しく中に入ったままヒューゴを見上げている。

「あの?……うわあ!?」

「もういい。大人しくしていろ」

「ああああああおおおおお下ろして下さいいいいい!傷が痛みますからー!」

 彼はルーリィを持ち上げたかと思うと、背に負ぶってさっさと森の中を歩き出してしまう。

「どこが痛む?」

「いえ私じゃなくてヒューゴ様が!」

「すでに痛みはないと言ったはずだ」

「……まさかヒューゴ様って」

「俺をあのポンコツと一緒にするな」

 どうやらからくりではなさそうだ、それに近いものがあるかもしれないと思いながらも。

ふと後ろを振り返ってみれば、足を踏み込んだ場所はルーリィの背の高さの倍はありそうな崖になっていた。威哥王三鞭粒

もしタイミングよくヒューゴが抱えてくれなかったらのなら、骨折をしていたかもしれない。

「ヒューゴ様、助けて下さってありがとうございます。それから、本当に申し訳ありませんでした」

「いいと言った。素人のお前を雇ったのは俺だ」

 ヒューゴの背の上でルーリィはがくんと項垂れた。

勿論使用人として教育を受けている人に敵うはずもないが、言い付け一つ守れず主人に要らぬ迷惑をかけている自分に失望する。

「それでも」

 彼は言う。

「お前は、それなりに、よくやっている、と思う」

 そしてルーリィも言った。

「どこがですか?」

「雰囲気で察せ!」

「全然わかりません!……料理だって、ロボさんの方が美味しかったはずです」

 丘を上がりながらヒューゴが息をついたのがわかる。

「お前は、いつも何を考えて作っている?今日のスープに関してもだ」

「え、と。あれは、ヒューゴ様とラル様が昨夜から召し上がっていらっしゃらないと聞いたので、お腹の負担にならないような物をと」

「上の白いのは特に要らなかっただろう」

 メレンゲの事を言っているらしい。

「口当たりもいいし、見た目も可愛い……かなあ、なんて」

「そういう事をあれは出来ない。本来からくりは統計上の結果だけ採取をし、それに基いて一部を応用する。それ以上にもそれ以下にもならない」

「え……ええと?」

「つまり、見た目がどうのという理由や気分であの白い物を乗せる事はないという事だ」

「ヒューゴ様」

 ルーリィは彼の肩に置いた手をぎこちなく彷徨わせてから、服を無意識にぎゅっと握る。

「スープ、褒めて下さってますか?」

 ヒューゴは答えずにただ足の速度を速めるだけだった。

けれど暫く歩いてから、彼がほんの僅かに頷いたのは、見間違いではないと思った。

「あの」

「……なんだ」

 ルーリィは少し顔を上げて言う。

「ヒューゴ様の背中、凄く大きいですね。ぎゃっ」

 ヒューゴが何かに蹴躓いた拍子にルーリィはその大きな背中に鼻をぶつけた。

 負ぶわれたまま戻ったブラッドレイ邸で、ルーリィは出迎えた人物に思わず口を開けたまま絶句した。

そしてその隣でぴたりと固まったまま停止している彼にも。

「こんにちは、レディー様っ」

 何度下りると言っても手を放す様子を見せないヒューゴの背の上でルーリィが頭を下げた。

「何故貴女がここに?」

 ヒューゴの問いにレディーはふんと鼻を鳴らし片眉を吊り上げる。

「ルーリィにいい物を持って来てやったんだが、これが喧しくて話にならんのでな。黙らせておいた」

「黙らせておいたって……ロボさん?ロボさーん!?」

 ルーリィが手を伸ばしてひらひらと手を振るも、ロボはいつになく切羽詰り何かを言いかけたような表情のまま玄関口で本当にぴたりと止まってしまっていた。

まるで彼の中の時自体が止まってしまっているようだ。

「あの、レディー様、これは一体……」

「一時停止スイッチだよ。ところで、お前達こそ一体どうしたんだい?」

 にやりと笑んだレディーに対しヒューゴは弾かれたように背筋を伸ばしてルーリィを背負い直すと、そのまま彼女の脇を通り過ぎて家の中へと入ってしまう。

慌ててルーリィが声を上げたものの、彼は耳にも入っていないかのようにずんずんと廊下を進みルーリィの部屋に入ってやっとその背から体を下ろした。

「ここにいろ、今度は動くなよ」

 今度はと言われてしまえば今日のところはルーリィに反論の余地もない。威哥王
レディーにお茶の一つも淹れなくてはと思うが、まず泥だらけになった服を着替えなくてはならないし、血だらけの手もどうにかしなくてはならない。

そして戻って来たヒューゴの姿を改めて見ても一大事だった。

「すみません、私の血で汚れてしまって!ヒューゴ様、着替えを」

「ウルサイ、黙れ、大人しくしろ」

「…………ハイ」

 三段重ねをぎっちりと落とされ、ルーリィは促されるままベッドに腰を下ろす。

するとヒューゴは手に持っていたタオルでルーリィのあちこちの傷を拭い、懐から取り出した小さな瓶の液体を擦り込んでいく。

「あの……」

「ウルサイ、黙れ、大人しくしろ」

「…………ハイ。いえ、ヒューゴ様の傷も、きちんと手当てをしなければ」

 ルーリィの言葉に立ち上がったヒューゴは、おもむろに足に巻かれていたワンピースの切れ端を解く。

晒された傷口を見てルーリィは絶句したまま彼を見上げた。

「これで納得しただろう。今日はもう寝ろ。いいか、森の中には二度と一人で入るな」

 見た時には確かに開いていた傷口からは赤い血が滲んでいたはずだった。

しかし今はその傷の痕跡が見られる程度で、すっかり塞がってしまっている。

絶句したままやっとの思いで礼を言いヒューゴの言葉に頷いたルーリィは、出て行く彼の姿をぽかんと見送った。

何度見間違いかと思っても、目には先程の光景が焼き付いている。

「ヒューゴ様って……何?」

「ルーリィ」

「ぅわっ、はいです!」

 ノックの後顔を覗かせたシエルに慌てて立ち上がろうとしたが、中に入って来た彼は片手でそれを制した。

「さっき話は聞いたんだけど、大変だったね」

「いえ、私がいけなかったんです、一人で森へ入るなと言われていたのに」

「ああ、その子?」

「え?あ、はい。迷子になったみたいで……あれ」

 シエルの視線にルーリィがポケットから兎を出そうとすると、手が触れるよりも先に兎がそこから飛び出してルーリィの後ろに隠れてしまう。

ヒューゴの前でもずっと大人しかったはずの兎の行動にルーリィは首を捻った。

「ああ、気にしなくていいよ。その子は分別があるだけだから。小さいのに偉いね」

 シエルはそう言って微笑むと、目の前に小さな袋を差し出してきた。

思わずそれを受け取りルーリィは首を捻る。

「なんですか?」

「差し入れ。どうせヒューゴから出て来るなって言われたんだろう?」

「流石によくご存知ですね」

「あれの行動パターンがわかりやすいだけだけどね。レディー先生も今日はこのまま帰るそうだから」

「そうだ、ロボさんはどうされました?」

 すると楽しそうにシエルはくすくす笑う。

「今日一日は止めておくってさ。今の内に顔に落書きでもしておこう」

 全く実に楽しそうだ。

「ルーリィもする?」

「いいですいいですっ」

「先生に聞いたんだけどスイッチの場所教えてもらえなかったよ」

 そして心底残念そうだ。MaxMan

「今日は予定通り休んで、明日の朝食期待してるよ」

「はい、頑張ります!」

「うん。……ねえ、ルーリィ」

 なんでしょうかと顔を上げると、シエルはじっとルーリィを見下ろしている。

「なんでもない」

「ええ?」

「いい夢を見られますように」

「ぎゃわ!」

 ルーリィの手を引いてそこに口付けたシエルは笑いながら出て行ってしまった。

今更ながらブラッドレイの双子が似て見えるのが疑問に思えてくる。

「少しはよくなりました?傷が治ったら、お家に帰りましょう」

 ぴょんと膝の上に跳ねてきた兎を抱き上げて、ルーリィはそう言った。

そして、今はもうなくなってしまった、自分の帰る家を少し思い出す。

 翌朝滞りなく朝食を済ませたルーリィは、テーブルの皿をワゴンに乗せた後に言った。

「シエル様っ」

「何?愛の告は――……ヒューゴ、ロボ、食事が終わったからってフォークは人に投げていいものじゃないんだよ」

 双方から投げられたフォークの柄をあっさりと受け止めたシエルはルーリィにそれを手渡す。

「何が人だ、化け物め」

「貴方に比べれば私の方が余程人間に近いと言えるでしょうね」

「引き篭もりとガラクタに言われたくないんだけどなあ」

「あああああああの!シエル様、昨日頂いたサンドイッチ、大変美味しかったです!ありがとうございましたっ」

 割り込んだルーリィが慌てて言うと、シエルはそれににっこりと微笑んで頷いた。

昨日彼に手渡された袋に入っていたサンドイッチは一言で言うには惜しいと思うほどに美味しかった。

厚いベーコンと野菜が挟まれているというシンプルなものだったが、それに掛けられていたソースが絶品と呼ぶ外ない。

「あのソース、本当に美味しかったです」

「そうか。それじゃあ作った甲斐があってよかった」

「シエル様がお作りになったんですか!?」

 事もなげに頷くシエルを見てルーリィはぽかんとする。

どう思い返してもあれは暫く熟成させた味だった、そして合成出来るようなソースをルーリィは作っていない。

「知りたければ後で教えてあげる。授業料は高いけどね」

 微笑んで食堂から出て行ったシエルを見送り、謎は深まるばかりだと感嘆さえした。

全く誰一人として底知れぬ何かを隠し持っているように見えるから、ふと自分を見下ろして如何に経験が浅いかという気になってしまう。

しかし底なし沼と水溜りを比べる事自体が愚考なのだと言い聞かせてみた。

「ルーリィ様、先にワゴンを下げて参ります」

「よろしくお願いします」

 いいえと言ってワゴンを押して出て行くロボを見送ると、次いで席を立ったヒューゴに目を向ける。

そして彼が食堂を出て行く間際、ふと覚えた違和感にルーリィは首を捻った。

 何かがおかしい。

ヒューゴが黙々と食事を平らげ出て行くのはいつもの事のはずだが、何かが妙に引っ掛かる。中絶薬

出て行ってしまった彼の姿を思い浮かべても、特に変哲はなかった。

髪が乱れている訳でも服装がおかしな訳でもなく、ましてや愛想笑いを浮かべてもいやしない。

相変わらずの仏頂面である佇まいだ。

「ニャ、ニャ」

「いえ、お粗末さまです。……はい?」

 歩み寄って来たラルが黒い肉球のついた前足をルーリィに向かって上げてみせる。

するとその足をまた床につけずりずりと擦った。

それに散々首を捻った後、ぽんと両手を叩いて頷く。

「そうです、足ですっ。流石ラル様、洞察力にも優れていらっしゃる!」

 ぱっと頬を高潮させたルーリィは次の瞬間上から下に青くなった。

ラルが示したようにヒューゴは片足を少し引き摺っているようだった、それが違和感の原因だ。

長い足を大きく振って歩くいつもの姿と比べてみれば、差は歴然としているほどで。

そしてルーリィが次に思い出したのは昨日傷を負ったヒューゴの足だった。

「でも傷は確かに塞がっていて……そうだ、どこかに打ったのかも」

 骨に異常があれば流石に傷と同じ速度で治る訳がない。

自分の考えにルーリィが今度は真っ白になった。

「ニャー」

「大変です……大変です!一大事です!!」

 大きく叫ぶなりルーリィは礼儀も忘れて廊下を駆け抜け、ぶち破る勢いでヒューゴの仕事部屋のドアを開けた。

「な、なんだ!?」

「大変ですヒューゴ様!ヒューゴ様の足が!大丈夫ですかヒューゴ様!」

「訳がわからん!そ、そう名前を連呼するなっ」

「キャー!なんか微妙にお顔が赤いような気がしなくもないですよヒューゴ様!きっと熱が出てきたんです、だから昨日ちゃんと手当てをすればよかったんですよっ」

「これは別にだなっ」

「あああああもうとにかく寝て下さい!ヒューゴ様こそ今日のお仕事は駄目絶対ですよ!?」

「ちょっ、待――」

「寝ーてーくーだーさーいーっ」

 ルーリィは力任せにぐいぐいとヒューゴの背中を押して廊下を歩き、彼を寝室に押し込めると支度を整えベッドに押し付けてからその場を後にする。

ヒューゴはごちゃごちゃと言っていたが、この際耳を貸す気はなかった。

最初に聞いていた通り、彼こそ全く無茶をする人なのだ。

昨日の自分の失態も一因とあっては何としてでも休ませなければならない。RU486


2015年8月10日星期一

漆黒の剣

アラムは自宅の薄暗い倉庫の中、しゃがみ込んで、頑丈な箱の中に宝物のように収められた一振りの大剣を見つめていた。

紅玉や青石が象篏され、意匠を凝らした黄金の柄に、同じく宝石を散りばめた見事な漆黒の鞘。鞘の中央には文字が刻まれているが、アラムには読めなかった。おそらく古代文字だろう。三体牛鞭

「まったく読めねぇ」

アラムは大剣を手にした。鞘から剣を引き抜こうとしてみる。

「しかも抜けねぇ」

そこでアラムは肩を揺らして笑った。

「錆びてんのかな。それとも、やっぱり家宝はもとから抜けない造りなのか……」

しかし、幼い頃に夢と希望をどれだけ貰った事か。

「これ、アラム!家宝に触るんじゃない!」

倉庫の入り口で、アラムの祖母が怒鳴った。背も曲がり、杖を着いてはいるが、声にはまだ張りがある。

「何度言ったらわかるんだい。急いで御飯を食べな、出仕に遅れるよ」

「へーい、わかったわかった」

アラムは剣を仕舞い、立ち上がった。



朝食を急いで済ませると、アラムは家を後にした。家から少し行くと、そこには市が立ち、露店には人が大勢集っていた。祭典の最中と言う事で、いつにも増して賑わっている。アラムは西方将軍アルガスの部下となった直後、もともと住んでいた辺境の地から、帝都アルタイン・シュベクに祖母を引き連れて移り住んだのだった。

アラムは大通りの少し先にそびえ建つ、吸い込まれそうな青い空を背景に、くっきりと白い輝きを放つ壮麗な城を見上げた。王城にはフィエナがまだ滞在している。

「このやかましさ、多分城の中まで聞こえてるだろうな……」

外に出たいだろうな、と思ったその時。見上げてばかりいたので人にぶつかってしまった。

「あ……だ、大丈夫ですか?」

アラムの胸に突っ伏したのは女性らしかった。頭から足先まで黒い衣に身を包んでいる。

ややあって、女性は顔を上げた。

「あ」


声を出したのは二人同時だった。

見開かれた群青色の瞳に、アラムは次の言葉が出なかった。

「アラム!」

いるはずの無いフィエナが目の前にいる。

「――なんで……ここにいるんだよ。しかも一人で」

「だって、楽しそうな声が聞こえてくるから……気になるじゃない」

「自分の立場わかってんのか!?騒ぎになるぞ――それに」

アラムは声を潜めた。

「外の空気はお前の体に良くない」

フィエナの体はとても清浄に出来ているらしい。ベリウス・アルタインの空気ですら毒であり、皇帝は愛する娘のために、澄み切った大気の人工惑星を造ったほどだ。

わかってはいるが、聞きたくない、とでも言いたげにフィエナは歩き出した。SEX DROPS

「おい、待てよ」

アラムは慌てて後を追った。

人工惑星や城壁の中で育ったフィエナには、市場が珍しいようだった。きょろきょろと露店を見回しながら、興味を持った店に駆け寄る。

「ねぇ、アラム、来て」

興奮したフィエナが指差したのは、露店に並んだ装飾品の数々だった。

「きれいな宝石!こんなの見た事もないわ」

地面に敷物を敷いて座り込んでいる店主の老人は、フィエナの類まれなる美貌にしばらく呆けていたが、お安くしとくよ、旦那、とアラムに笑顔で声をかけてきた。

店に並んだ装飾品は、アラムにさえも真鍮に質の悪い貴石をはめこんだ安物だとわかった。

「お前が城で身につけてたやつのほうが凄いよ」

言って、アラムはまずい、と後悔した。ここで彼女の正体を知られては。

「女官さんかね。どうりで天人みたいだと思った」

店主は感心したように、目の前にしゃがみ込んで装飾品を手に取るフィエナを眺めた。アラムは内心胸をなでおろした。城に仕える者すら、城の外の者にとっては雲の上の存在だ。ましてや皇女など、こんな場所にいようはずもない。


「アラム、私これ欲しい」

フィエナがアラムにねだったのは、深く青い貴石の嵌め込まれた指輪だった。フィエナの瞳の色に似ている。

「よし、それ買ってやるよ」

「ありがとう。今日の日の記念にするわ」

無邪気に笑みながら、フィエナはその指輪をはめた。あつらえたように彼女の薬指にぴったりだった。

フィエナの笑顔はまるで花がほころぶようだった。つられてアラムも店主も笑った。この笑顔を守りたい、とアラムは一瞬、切に思った。

アラムの心に暖かいものが満ちた、その時。

「お探し申し上げましたよ」

突然その場に出現したかのように、アラムの背後から唐突に声がした。アラムと向かい合っていたフィエナの笑顔が一瞬で凍りつく。

「ユリ……」

さすがにまずいと判断したのだろう、フィエナは名を呼ぶのをやめた。アラムが振り向くと、そこには灰色の外套を羽織り、フードを目深にかぶっているが、紛れもなく東方将軍ユリウスその人がいた。

「ごめんなさい、私……」

「お話は後で。早く城へ戻りましょう」

いつもフィエナと話をする時と打って変わって、ユリウスは厳しい表情だった。心なしか青ざめてさえいる。

「君がそそのかしたのか」

問い詰めるようにアラムに向けた碧色の瞳は、今にも敵を射殺さんばかりの鋭い矢のようだった。

「アラムは全然悪くないのよ、私が一人で――」

「問答無用です。――アラムとか言ったな、戻ったら覚悟しておきたまえ」

フィエナと会ったのはまったくの偶然だったが、自分に非がないわけでは無い。すぐにフィエナを連れ戻そうとしなかった。アラムは厳罰に処される覚悟を決めた。蒼蝿水

決着
「ちくしょう……」

薄暗い鉄格子の中でうずくまり、アラムは呟いた。まだユリウスに殴られた頬が疼く。

「あの野郎……思いっきり殴りやがったな。細腕の割に効いたぜ」

単身で城を抜け出したフィエナとばったり出くわしたアラムは、その場面を東方将軍ユリウスに発見され、激しい叱責を受け、城に帰るなり殴られ、そして牢に入れられたのだった。

「今日は厄日かよ。まったく……それにしても、なんか俺、あいつから目の敵にされてないか……?」

アラムを殴りつける彼の碧色の目は、まるで憎悪を宿しいるのかと思われるほど苛烈だった。

「あいつ、やっぱりフィエナが好きなのかな?」

 それだったら合点がいく。だが、フィエナは皇女。雲の上の存在だ。四天王といっても手の届かない相手なのだ。

「立場は同じ、だよな。……俺の事、厳罰に処すとか言ってたけど…まさか死刑じゃねぇだろうな……」

 ――ありえる。俺を殺しかねない目だった。

 アラムが肩をすくめたその時。

「とんだ災難だったな」

 地上へ上がる階段の方から低い声がした。牢の壁に取り付けられた松明の明かりに、地下に降りて来た男の白い外套が反射する。

「兄貴」

 アラムの直属の上司、西方将軍アルガスだった。口元にはからかうような笑みを湛えている。

「助けに来てやったぜ。有難く思いな、馬鹿野郎」

「馬鹿野郎って……」

 不可抗力なんだよ、とアラムは言おうとしたが、殴られてうまく喋れない。

「姫さんから陛下に事情を話してもらった。お前はお咎めなしだ。おまけに姫さんを保護したと言う名目で褒賞をいただいている」

「――要するに、兄貴がうまく立ち回ってくれたって事だよな」

「まあそう言う事だ。早く出ろ」

 アルガスは牢の鍵をアラムに投げてよこした。

「恩に着るぜ」

 アラムは鍵を拾うと立ち上がり、急いで牢の外側に手を回して解錠した。

「しかし派手にやられたなぁ……」

 アルガスは牢の外で腕を組み、気だるそうに壁にもたれながら言った。のんきな目が常日頃より多少鋭い。

「あの貴公子様は女みてぇな細腕してんのに、力が相当あるみてえだった。強いのか?」

「強いさ。戦において一度の敗北も無く、あるのは圧倒的勝利のみときてる。『千暁王』の異名はダテじゃねえぜ」勃動力三体牛鞭

「ふーん。どうりで拳が凄い威力のはずだ。さて、晴れて自由の身だ」

 牢から出て、アラムは伸びをした。

「帰りに褒賞の金子で剣でも新調したらどうだ?安モンだったろ?」

「褒賞、そんなにあるのかよ。やったぜ!――そうだ、剣で思い出した。兄貴は学があるから古代文字読めんだろ?」

 今朝、家の倉庫で眺めていた鞘から抜けない黒い剣の事をアラムは思い出した。鞘には古代文字とおぼしきいくつかの文字が彫られていた。

「ま、少しはな。剣と何の関係があるんだ?」

「俺んちの家宝の剣の鞘にさ、古代文字みたいなのが刻んであるんだよ」

「ほう」

「えーと、こんな文字だ」

アラムは壁に指で文字を書いてみせた。

「兄貴、意味わかるか?」

 アルガスはアラムの指の動きを目で追った後、しばし沈黙し、顎に手をやり、首を傾げ、しまいには苦く笑ったのだった。

「……そりゃお前、家宝にしちゃ、タチの悪い偽物だなァ」

「結構立派なんだぜ、剣は抜けねぇけどよ……」

 言いながら、アラムの声は落胆で声が沈んでいった。言わなければ良かった。

「お前の家にあるはずはあるまいよ。それは『アドゥン・ディクソス』って書いてあんだよ。恐れ多くもやんごとなき御方のみはかし(剣)の銘じゃねぇか」

「アドゥン…ディクソス……」

「破壊の狂王って意味だ」

「なんか物騒な銘だなぁ」

「全てを破壊せずにはいられねぇ、狂える神、アドゥンがその漆黒の刀身には宿ってる。並の人間には到底手に負えん代物だ。剣の持つ破壊衝動に魂を呑まれてしまうからな」

「そんな物騒なもんを……やんごとなき御方って、皇帝陛下だろ?」

「ま、そうだな。その資格があれば」

 アルガスは意味深な笑いを浮かべた。

「え?」

「気にするな――とにかく、そのご大層な剣は王宮の宝物殿に厳重に保管されているはずだ。お前んちなんかの家宝であるはずがねぇだろ、馬鹿が」

 さすがにアラムは不満の吐息をもらした。

「馬鹿馬鹿って……馬鹿にすんなよなっ」




 帰宅し、アラムは再び倉庫に入り、家宝のしまわれた箱を開けた。黄金の柄に漆黒の鞘、象嵌された赤と青の宝石の煌き。

「アドゥン……ディクソス……贋作か……けど、お前にしっくりくる銘だな」

 ――まるで……呼べば応えるかのように。三體牛寶






 帝都アルタイン・シュベクのはるか上空、雲海の上に漂流する、ごくごく小さな浮島『タゲース』に、陽光に白い外套を眩しいほどに輝かせた大男、西方将軍アルガスの姿があった。常に口元に湛えている笑みが、消えている。

挿絵(By みてみん)

 そしていま一人、アルガスと対峙する男の姿がある。東方将軍、ユリウスである。遮る雲の無い、燦燦と照りつける光の下、彼の美しい面は心なしか青ざめていた。

「お前さんは一度ならず、二度、俺を怒らせた。だからこうする事にした」

「異論は無いよ。僕が君だとしても、この方法を取るだろうから」

 浮島『タゲース』には、対峙する二人以外に、兵士が四人、対峙する二人から離れたところに立って、四角形の島の四方を見張っている。他には何もない更地だった。だがその小さな更地の島には役割がある。『タゲース』はアルタイン・シュベクの中にある唯一の無法地帯であり、騎士階級の者が自分の誇りを汚された時などに利用する私的な決闘場であった。決闘を見張る兵士達は、『タゲース』で起こった事は何一つ口外しない。決闘して倒れた者を介抱、または遺体を秘密裏に片付けるだけだ。

「さ、剣を抜きな。もうすぐ合図の時刻だ」

 静寂の中、アルガスが抜刀を促した。二人は共に腰に佩いた剣を抜いた。二つの白刃が鋭い輝きを放つ。アルガスの剣は幅広の大剣、ユリウスのものは細身の剣だった。

 四方に立つ兵士が同時に決闘の開始を告げた。

 白と青を纏う双方が、猛烈な闘気を放ちながら、互いの接点へ向けて走り出した。アルガスの剣からまるで雷のような破裂音が鳴り響く。

 一瞬、だった。アルガスは一迅の風のようにユリウスを通り過ぎた。ユリウスの青い外套に覆われていたアルガスの手元が完全に現れた時、アルガスはすでに己の剣を鞘に収めるところだった。電流の走る剣を鞘に収まるまでに、ユリウスは脇腹を押さえながら地面に片膝を付いた。

「その剣、稲妻か……?凄まじい衝撃だ…さすがは雷神……と言っておこう。君の『ヴァルカヌス』は……この僕に初めて…傷を付けた」

「感謝しな。人目に触れねぇ場所だからよ、まだまだ『千暁王』の通り名は捨てねぇで済むぜ」

「内臓が……飛び出して…しまっている……が…?」

 ユリウスは激しく血を吐きながらとうとう地に伏した。

「再生処置が早ければ、の話だ。命を失えば元も子もねえけどな。そんじゃあな。また会える事を祈ってるぜ」

 呑気に言いながら、後ろを振り返りもせず、アルガスは『タゲース』を去った。外套を風になびかせて。孤高の男に白ほど相応しい色は無い。

「君と言う男は…四天王で一番……だ」

 駆け寄って来た兵士達に介抱されながら瀕死のユリウスは呟いた。そしてとうとう、白目を剥いて意識を失ったのだった。それから数日の間、東方将軍ユリウスは、体調が思わしくないと言う理由で王城への出仕を控える事になった。花痴

2015年8月7日星期五

狼の末裔

今はプリムの部屋となっている客間の寝室に、静かに本を読み聞かせる声が響く。
「……そして戦士はお姫様を救うため、怪物たちの住む森の奥深くへ入っていきました」
 寝台のそばに椅子を置き、そこに腰掛けながら本を開くローゼ。
読んでいるのは、イヴリルに昔から伝わるの物語だ。掛け布から顔と腕だけを出したプリムがわくわくと、初めての話に耳を傾けていた。房事の神油
 眠る前にローゼが本を読んでやるこの時間を、プリムは毎晩楽しみにしてくれている。
今やこの部屋の本棚は、ヴァンが用意してくれた、沢山の子供向けの本で埋め尽くされていた。
「ローゼ、『センシ』って何だ?」
 読み聞かせの最中、分からない単語があれば、すぐにこうして質問が返ってくる。
プリムは利発なので、言葉の覚えが早くて非常に助かっている。
 既に日常会話だけなら支障のない段階まで達しているものの、こうして本を読んでいると、やはり聞き覚えのない単語も出てくるようだ。
 できるだけ簡単な単語を選びながら、プリムに言葉の意味を説明するのは、主にローゼの役目だ。
それでもどうしても分からない時は、サルマーン語でフィーユに説明してもらうようにしていた。
「うん……そうね、戦士は『人のためにたたかう人』のこと、かしら。例えば、ヴァン様みたいな軍人……とか」
「おお、それならヴァンは***なのか」
「え、なあに?」
「エクラム。プリムの国の言葉で、えっと……オオカミ。強いセンシはみんなオオカミの子だ。サルマーンでは、偉いセンシのことをエクラムと呼ぶ」
 聞き取れずに首を傾げると、プリムがゆっくりと分かりやすいように発音して、そう教えてくれた。
「ヴァンはショーグンなの?あの子たち、そう言ってた」
「そうよ、ヴァン様は将軍。とっても偉くて立派な……そう、『エクラム』ね」
 教えられたばかりの、不思議な響きを持つ異国の言葉のを繰返し、そっとローゼは微笑む。
 孤児院の子供たちは、見たこともないヴァンのことを『おじさんしょーぐん』と親しげに呼んで、慕ってくれている。
いつも玩具や贈り物をくれる相手に、会ってみたくて仕方がないようだ。
 顔を見せてやれば良いと思うのに、ヴァンは、怖がらせてしまうと言って、子供たちとの対面を避けている。以前フィーユから聞いた通りだ。
 ローゼは嫁いでしばらくしてから知ったことだが、どうやら夫は、イヴリルの悪鬼イヴィルと言う、恐ろしげな二つ名で、広くその存在を知られているようだ。
 そしてそれは、勇猛果敢な戦いぶりももちろんのこと、顔が怖いと言うのも主な理由であるらしい。
 倒れそうになった花嫁を、咄嗟に支えてくれるような優しい人だ。だからかどうかは自分でもよく分からないが、少なくともローゼは、ヴァンの顔を怖いと思ったことなど一度もない。
 なので結婚式の前、大聖堂に到着した際に耳にした、街の人々の言っていた意味深な言葉はそう言うことだったのかと、その話を聞いてようやく合点がいったのだ。
 ヴァンの身の内から滲み出る威厳や、圧倒的存在感が、周囲に近寄り難い印象を与えてしまっているのかもしれない。
 ローゼからすれば、将軍と言う地位に相応しく、また必要不可欠に思えるそれらの要素も、やはり子供の目には恐ろしく映るのだろうか。
 朗読を止め、プリムにその疑問をぶつけてみる。
「プリムは、ヴァン様が怖い?」
「ううん。何でそんなこと聞く?」
「ほら、最初の頃……。ヴァン様に何か叫びながら、何度も蹴りかかっていたでしょう。だから、そう思ったの。あれ、何て言っていたの?」
「ああ」
 菫色の瞳が気まずげに伏せられ、プリムがその時のことを思い出したように、照れ笑いを浮べる。
 そして、ぽそっと呟いた。
「……『出たな大魔王』って言った」
「だい、……」
 衝撃の一言に、ローゼはしばし言葉を失う。やはり、夫はいわゆる『怖い顔』であるらしい。
 ――――このことは、ヴァン様には教えないほうが良いはず……。
 ああ見えて彼は、繊細な人だ。
この間、道端でおばあさんに道を聞かれ、振り向いた瞬間逃げ出されて落ち込んでいたと、フィーユが嬉しそうに語っていたことを思い出す。
「そうだったの……」
「ん。ヴァンは、イカツイ悪人顔だ。あの時は、ローゼ襲われるかと思って蹴った」
「厳つい悪人顔って……プリム。……そんな言葉、誰に習ったの?」
「フィーユだ!」
 新しい言葉を覚えたのを褒められたと思ったらしく、プリムは掛け布の中で胸を張っているようだ。
語彙が豊富になるのは嬉しいことだ。しかしながら、フィーユが教える言葉は、妙な方向に偏ったものばかりに思えるのだが、気にしすぎだろうか。
 これは一度フィーユと、プリムの言語教育について話し合うべきかもしれないと、ローゼは子を持つ母親のような気持ちになった。
「ヴァン怖くない。プリムとローゼに優しい。けど、フィーユにちょっとだけ怖い」
「まあ」
 的を射たプリムの言葉に、ローゼはよく見ているものだと、くすくす笑い声を上げた。
確かにヴァンは優しいが、幼馴染であるフィーユに対しては遠慮会釈なしなところがある。
 本の読み聞かせを再開しようと、また本なや目を落とすと、ふあぁ……と欠伸の音がした。プリムが眠そうに目を擦っている。
 どうやら今夜は、これでおしまいのようま。
「ランプ、点けたままにしておく?」中絶薬ru486
 本を閉じ、とろんとした表情に問いかけると、こくりと頷いた。
掛け布を肩まで引き上げて整え、頭を撫でてやる。
プリムはうつらうつらとしながら、大切な内緒話をするように、小さな声で囁いた。
「あのねローゼ……。ヴァン、ちょこっとだけ兄上に似てる」
 初めて聞く、プリムの身の上に関する情報に、ローゼは軽く目を見開いた。
プリムが拐われてきた孤児であることを考えると、恐らく既にこの世の人間ではないのだろうが……兄がいるなど初耳だ。
「兄上?プリム、お兄さまがいたの?」
「うん、プリム可愛がって……くれた……。……兄上も、ヴァンみたいに赤い目してて……。オオカミ……エクラム……一緒」
「プリム?」
「二人、……大きくて……やさし……から……リムは、ヴァン……くない……」
 むにゃむにゃと呟きながら、小さな少女は眠りに落ちた。
見計らったかのように、静かに扉を開く音が聞こえる。
「――――ローゼ、プリムは……」
「今、眠ったところです」
 風呂上りらしきヴァンはバスローブ姿で、首にタオルを巻いていた。
プリムがこの家に来てからと言うもの、彼との夜の茶会は中断してしまっている。
 それを少し残念に思うが、ベッドに近づきプリムの寝顔を見て、穏やかに目を細める夫のを見るのも、ローゼは嫌いではない。
 それに子供が屋敷にいることで二人の会話の幅も広がり、むしろ以前より夫との交流が増え、心の距離が縮まったようにも思う。
「今日は少し疲れていたようだな」
「ええ、孤児院で子供たちと走り回っていましたから。とても楽しそうでした。プリムは、木になった果物を、石を投げて落とすのがすごく上手なんですよ。それに足が早いから、追いかけっこで誰も敵わないんです」
 初めは躊躇っていたプリムだが、一緒に遊んでいる内に子供たちと随分仲良くなり、帰りの馬車の中では「また行きたい」と何度もせがんでいた。
 あれだけ嫌がっていたのが嘘のように、次の孤児院訪問を楽しみにしている。
「しっかりしているとは言え、この子もまだ子供だからな。楽しめたなら良かった」
 呟くヴァンの瞳は、正しく保護者のそれだった。
 初対面での印象はあまり良くなかったかもしれないが、あれから数日経った今では、プリムもすっかりヴァンに懐いている。
あどけない声で『ヴァン』と呼び、何かと付き纏いたがるプリムに、ヴァンも満更ではなさそうだ。
『親鳥を追うひな鳥』とフィーユがその様子を揶揄していたが、まさにその通りだと思う。
恐らく知らない人間が見れば、二人が血のつながった父娘と思うに違いない。
「プリムのお兄様、ヴァン様に少し似ているんだそうです」
「俺が、プリムの兄に……?この子は、兄弟がいたのか」
「はい。戦士で、ヴァン様と目の色が同じだと言っていました」
「戦士……エクラムか」
「ご存知なのですか?」
 ローゼは目を瞬いた。
 珍しい銀髪に赤茶の瞳と言う外見的特徴から、彼はサルマーン系の血を引いているのではないか……。
そうフィーユは言っていたが、赤子の頃に捨てられたヴァンに、親や生まれた場所に関する記憶があるはずもなく、彼はサルマーン語を話せない。
 そのため、ヴァンがなぜ『エクラム』と言う言葉を知っているのか、ローゼは不思議に思ったのだった。
「サルマーン建国にまつわる神話を、聞いた事がある。人間の巫女と神狼の間に生まれた戦士が、部族同士の争いを収め、初代サルマーン国王になったと言う話だ。彼かの国において、力の強い戦士は、その神狼の血を引く末裔と呼ばれるらしい」
「そんな神話があるのですね。狼の子と言うのは、そう言う意味だったのですか。でも……初めてでした。この子が、故郷の……家族の話をしてくれるのなんて。少しはわたしのこと、信頼してくれているのでしょうか」
 プリムが、できるだけ寂しい思いをしないよう、心穏やかに過ごせるように。
そう心がけて接してはいるものの、やはり本当の家族との思い出は、簡単に忘れられるようなものではない。故郷の夢でも見るのか、プリムがうなされながら泣くことが、時折あった。
 それを見ていながら何もしてやれないことが、ローゼにはとても歯痒く、辛いのだ。
「お前はよくやっている。プリムもそれは分かっているだろう。この子は、お前の事が好きみたいだからな」
 だからこそ、飾り気のない慰めが落ち込んだ心に、深く染みた。
よくやっている……、そうだろうか。自分では、もっと出来ることがあるのではないかと思い悩んでいるため、良く分からない。けれど夫がそう言ってくれるのだから、信じるべきなのだろう。
「でしたら、嬉しいです。あぁ、それで思い出しました。プリムったら、今日は孤児院で子供たち相手に延々と、『おじさんしょーぐん』の優しさについて、語っていたんです。ヴァン様のことが大好きみたいで、とても生き生きとしていました」
「それは嬉しいが……そのおじさん将軍と言う呼び方が、俺は少し不満だ」
「あ……ごめんなさい」
 子供たちがそう呼んでいたので、ついそのまま口にしてしまったが、どうやらヴァンはこの愛称がお気に召さないらしい。
 まだ十歳前後の子供たちにとって、三十五歳と言えばおじさんになるのかもしれないが、一般的にはその年齢は微妙な境目とも言える。華佗生精丸
 ローゼは『おねえさん』と呼ばれているのだし、ヴァンはその『おねえさん』の夫なのだ。そう考えると、やはり彼が『おじさん』と呼ばれるのはおかしいのかもしれない。
「――――あの、今度は『お兄さん将軍』と呼ぶように言い聞かせておきますから」
「いや、もう良い」
 余計に虚しくなる、と聞こえた気がした。気のせいだろうか。
落ちた気まずい沈黙に、どうやって取り成せば良いかも分からず、頭の中であれこれ次の言葉を考えたローゼだったが、先に口を開いたのはヴァンのほうだった。
「……子供たちはどうだった」
「仮面を喜んでおりました。シスター・ラトリンも大層感激なさった様子で、何度もお礼を仰っておられましたわ」
「祭りは、明日だからな」
 ヴァンが、窓の外に目をやる。
今は夜なので見えないが、明日になればあちらこちらに篝火が焚かれ、国中が明るく賑やかな雰囲気に包まれる事だろう。
「せっかくだから、明日の夕刻、日が沈んだ頃に屋敷を出発し、街の傍に馬車を付けておこう。ルアンヌの祭りは盛大だ。もちろん、都には及ばないが」
「よろしいのですか?ヴァン様、賑やかな場所はお嫌いかと……」
 数週間前に届いていた、宮廷で開かれる仮面舞踏会マスカレードの招待状は、開く前に捨てられていた。
 レンシーに聞くと、ヴァンは華やかな場所や騒がしい催しを嫌うらしく、何かと理由をつけては、いつも宮廷での晩餐会や舞踏会は欠席しているらしい。祭りの日には使用人たちだけ外に送り出し、自分は一人、家に篭っているのが常だと。
 だから、てっきり今年もそうするつもりなのかとローゼは思い込んでいたのだが、いきなりどうしたのだろう。
 すると、くぐもった声で答えが返ってきた。
「……喜ぶかと思って」
 あぁ、と納得したようにローゼは声を上げた。
そうだ、今年はプリムがいる。子供のために、苦手であるにも関わらず、祭りへ行く事にしたのだろう。何と思いやりのある方なのかと、頬が自然と緩んだ。
「子供はお祭り好きですものね」
「違う」
 けれど、その考えはどうやら間違っていたらしい。否定され、まっすぐな目で見つめ返された。
「お前が、好きだと言っていたから」
「え……」
 思いがけない言葉に、以前ヴァンとの間で交わされた会話が、ふっと思い出される。

 『ローゼは祭りが好きか?』
 『ええ、とても。あの独特の明るい雰囲気が好きで、いつもその時期になるとわくわくしていました』

 確かに二週間前、そんな話をした覚えがある。
だけど、あんな他愛もない会話を覚えていてくれただなんて、思いもしなかった。
 その時からずっと彼は、祭りに行くつもりでいたのだろうか。
 喜びと、信じられない思いとでヴァンを見ると、ローゼをまっすぐに見つめていた瞳が、すぐに気まずそうに逸らされた。
「……祭りに行けば、お前が喜ぶかと思った」
 ――――わたしの、ため?
 ローゼが喜ぶから、祭りに行くのだと。言葉通りに受け取っても、良いのだろうか。
「ありがとうございます。とても……とても楽しみです」
 甘く疼く胸元を押さえながらそう言えば、ヴァンが「ああ」とぶっきらぼうに頷いて、頭を撫でてくれた。
 調子に乗ってはいけないと分かっているのに、嬉しいと思う気持ちを止めることができないのはどうしてだろう。
 ……嬉しいの、胸が痛むのはどうしてなのだろう。
今のローゼには、いくら考えてもその理由が分からなかった。

篝火の夜に渦巻く思い

  いつもは静かに地上を照らしてくれている美しい月や星々も、今日ばかりは地上で燃え盛る赤い炎に、すっかりとその役目を奪われてしまっている。
 ルアンヌの街は数え切れないほどの松明により赤々と照らし出され、遠くから見れば、大規模な火事でも起こっているのかと思うほどだった。
 馬車の窓からそれを眺めていたプリムが、まっさきに飛び出していく。
「わぁ!見てローゼ!!お店があんなにいっぱい!」
「走ったら駄目よ、プリム。人ごみではぐれてしまうわ」
 すぐさま捕まえに行くローゼは、すっかり母親のようだ。
ヴァンは、フィーユと並んで二人の後をついていく。
 通りの両端に並ぶのは、立っていても食べられるような簡単な料理に、異国の小物などを取り扱う露店や出店。威哥十鞭王
 人々はみな猫の仮面を付け、顔を分からないようにして祭りを楽しんでいる。
 もちろんヴァンたちも慣例に則り、予め馬車の中で仮面を身に着けていた。
「ヴァン様、グラニータの甘露煮ってどんなものですか?」
「ああ、グラニータは……」
 と説明しながらも、ヴァンは妻の仮面姿に釘付けだ。
『お洒落な子猫ちゃん』と言うテーマを聞いた時は、心底ルーディスのその軽薄な思いつきを馬鹿にしたものだが、悔しい事にその猫の仮面はローゼによく似合っている。……眼福だ。
 尖った耳の片方には、誰が付けたのか、黄色いリボンがちょこんと結ばれている。鼻までを仮面で覆われ、その下から、ピンク色の唇だけが覗いているのが何とも色っぽい。
 そして目の切れ込みの部分からは、水色の瞳が隠しきれない興奮を伝えていた。プリムと同じくらい、ローゼは祭りを喜んでくれているらしい。
 それでこそ、わざわざ苦手な祭りに繰り出した甲斐があったと言うものだ。妻の喜ぶ顔を見たい、ただそれだけの理由で、ヴァンは祭りへ行くことを決めたのだから。
 「あれは?」とか「じゃあこれは?」と質問しながら、ローゼはふわふわと踊るように、店から店を渡り歩いていた。
 仮面で顔を隠していても、人ごみに紛れていても、彼女は周囲の人間より一際輝いている。
 ――――きっと、同じ仮面を着けた人間が何人いようと、自分は真っ先にローゼを見つけ出すだろう。
 どこかうっとりとしながら妻の動向を見つめていると、横にいたフィーユから、いきなり背中を殴りつけられた。
 突然のことだったので身構えることもできず、頭ががくんと揺れる。
「毎回毎回、何なんだ貴様は!俺をぎっくり腰にさせたいのか!!」
「気持ち悪いから、おっさんが一人でニヤニヤしてんじゃないですよ」
「おっ……、おっさんだと!」
 実は、妻と年齢が離れていることを地味に気にしているだけに、その一言が妙にぐさりと突き刺さる。
 十二歳の年の差。それは二人が政略結婚夫婦であることを考えれば、さほど珍しいことでもない。けれど、やはり……傍から見ると……年のいったオヤジが、若い娘を誑かしたように見えるのだろうか。
 そんな風にいじけるヴァンは、当然ながらローゼの実年齢が、思っているより更に六つも若いことなど知らない。
「若い女性を見てデレデレするなんて、おっさんそのものじゃないですか。変態扱いされて警備隊にしょっぴかれても、僕は知りませんからね」
「なっ!俺は、ローゼのお、夫だぞ」
 自分を勇気付けるように、『夫』と言う言葉をことさら強調して、ヴァンは反論する。
 けれど噛んでしまったせいか、どうも説得力に乏しくなってしまったようだ。フィーユがやれやれと、頭を横に振る。
「何どもってるのか知りませんけどね、その初恋を覚えたばかりの少年みたいなあまーい顔やめてくれませんか、砂吐きそうです」
「別に俺はそんな顔をしてなど……」
「あー、はいはい。言い訳は結構。そんなことより、ベルニア奥様がさっそく口説かれようとしてますよ」
 そばにいなくて良いんですか、と言う言葉に驚いてローゼを見れば、少し目を離した隙に、一人の男が今にも声をかけようとしているところだった。
 たちまちヴァンは目付きを鋭くした。
 ――――俺のローゼに触るな!!
 男はローゼに触れるどころか、まだ声すら掛けていないのだが、そんなことはヴァンにとって些末な問題だ。
 怨念のような雰囲気を体中から立ち上らせる主に、フィーユが「あー……」と額を押さえる。
「ねえ、そこの君……ヒィッ!!」
 歩幅を大きくして近づく異様な雰囲気の大男に気付き、今正にローゼの肩を叩こうとしていた男が、絞り出すような悲鳴を上げた。
 幸いにも、ローゼは出店に夢中で、男の接近に気付いていないようだ。
丁度良い。妻が勘付く前に、邪魔な虫けらは撃退してしまおう。
 ヴァンは自分の着けていた仮面を頭の上へと押し上げ、隠していた顔面を相手に晒した。
 あまり嬉しくはないが、己の顔は、こう言うときだけは非常に役立つ。
思ったとおり、仮面の下から凶悪な目つきが現れた途端に、相手の目の色が変わった。
「ラ……ッ、しょ……!!」
 ほとんど音にならない声で、自分を呼ぶ男に、ヴァンは口の端を歪めて笑った。
「ふん、俺が誰だか知っていると言うことは、軍の関係者のようだな」
 ならば尚更都合が良い。
冷徹な悪魔の笑みに、相手はもう殆ど失禁寸前だ。
「しょしょしょ将軍閣下、なななな、何かじじ自分に、ごごっ、御用でありますか」
「貴様こそ……俺の妻に何か用か」
 唸るような超重低音で問いかけると、男がガタガタと震える。
もちろんその声は祭りの喧騒に掻き消され、至近距離にいる男にしか聞こえていない。
「つ、つつつつつま?」
「身の程知らずな貴様が、たった今声をかけようとしている、そこの可憐で美しい娘のことだ。彼女に何をするつもりだ」
「ひっ、ひぃぃぃ!なな、何をするだなんてそんな、滅相もない!たたた単なる出来心ですっ。一人でちょっとさ、寂しいなー、話し相手が欲しいなー……って思っただけで、かか閣下の奥方様だとは露知らず!!」福潤宝
「そうか。失せろ」
「はっ、はひぃぃぃ」
 短い命令に、律儀に敬礼までして。
男は強盗にでも遭遇したかのように、大慌てで走り去っていった。
慌てすぎて、途中で石に躓いて転げている。
 くっくっく、と邪悪な笑いを漏らすヴァンに気付き、振り向いたプリムが思いっきり妙な顔をした。
「ヴァン?どうかしたのか」
「あぁいや、少し大きな害虫がいたのでな。それよりも、何か欲しいものでもあったか」
 仮面を元に戻したヴァンのシャツの裾を、プリムがぐいぐいと引っ張った。
「これ見てたんだ。面白そうだ」
「石を投げて、あの箱の中に入ったら、景品がもらえるそうです」
「景品?」
 看板には『一等、マルス地方への湯治の旅へご招待』と、赤い文字で大仰に書かれている。
見れば、棚の上にいくつも箱が並べてあり、そこまでの距離の長短によって景品が決まっているようだった。
 箱の表面には小さな穴が開いており、そこに石を入れる……と言うことなのだろう。
 食べ物や飲み物、小物などを売るのが主流の祭りでは、珍しい試みだ。
「おじょうちゃん、興味あるの?」
 店の中から顔をのぞかせる女に、プリムがこっくりと頷いて見せた。
「俺がやろうか?」
 提案すれば、プリムは首を横に振り、「自分でやる」と進み出た。
さきほどから、じっと景品の置いてある棚を眺めていたプリムは、どうやら欲しい物があるらしい。
 景品は、どれも買えば済むようなものばかりだが、祭りでそれを言うのは無粋だ。
 銅貨一枚につき、五回の挑戦。
背が低く子供のプリムより、ヴァンが挑戦したほうが命中する確立は高くなるだろうが……。
 高いものでもなし、まぐれで一つでも景品が貰えれば良いほうだろう。
プリムがやってみたいのならと、ヴァンは小さな掌に銅貨をのせた。
「あら、おじょうちゃん。やってみる?」
「ん」
「じゃあ、特別に六回投げさせたげるわね」
 銅貨を受け取った店の女が、気前良く六粒の丸く白い石をプリムに渡す。
「この線を踏まないようにして投げてね」 
「分かった」
 箱の置いてある棚から少し離れた場所――――子供用の立ち位置を告げる円の上に立ったプリムが、立て続けに六つ、全ての石を放り投げた。
 すとん、すとん、と。やけにあっさりとした音を立て、石は吸い込まれるように箱に開けられた穴に中に落ちていった。
 信じられないほど的確な狙いに、ヴァンとローゼも目を見開く。
プリムの手付きは、見事としか言いようがなかった。
六つ全てが、一番離れた場所にある、一番上の棚の、一番小さな箱の中に落ちたのだ。
『一等賞おめでとう』の鐘を鳴らすのも忘れ、ぽかんと立ち尽くす店の女に、プリムが小首を傾げて見せた。
「そこのそれを二つくれ」
 湯治の旅ではなく、安物の指輪の入った箱を指差したプリムに、女が驚いたような顔をした。
「え、でも、一等賞は旅行への招待で……」
「リョこー?が何かは知らないが、プリムは赤い石のついた指輪がほしい。そこのそれと、そっちのヤツを一つずつくれ」
 困ったような顔をしていた女だったが、安上がりな景品ですむと考えたのか、すぐに指定された指輪を二つ、取り出して渡す。
 プリムは、それを嬉しそうに摘んで、松明の火にかざして眺めていた。
お洒落に目覚めたのだろうか。
年齢を考えればおかしくはないが、てっきり、熊のぬいぐるみか玩具でも欲しいのかと思いこんでいただけに、その選択は意外だった。
「良かったわね、プリム。とりあえず、失くさないようにポケットにしまっておく?」
「うん」
 そんな会話をする二人を眺めていると、店の女が不意に話しかけてきた。
「仲の良い御家族ですね。お父さん」
「おと……!?いや、俺は」
 突然慣れぬ呼ばれ方をされ、一瞬、自分に話しかけられているのだと気づけなかった。
「お若い奥さんと可愛いお子さんで、うらやましいです」
 思いがけない誤解に、仮面の向こうでヴァンはうろたえる。
いや、あの子は自分の子供ではなくて、と言うかまだローゼと子供なんて、と言い訳しようとして口篭った。
 今日のヴァンとローゼは、誰がどう見ても子連れで祭りを訪れた夫婦だ。
それに顔の半分以上は仮面で隠れているため、親子にしては年が近すぎると言うのにも、誰も気づかないだろう。
 心底楽しそうに笑いあう妻とプリムを、少し離れた場所でぼんやりと眺めていると、ふと錯覚してしまいそうになる。
 自分との間に生まれた娘を、ローゼが可愛がっているかのような、どこか不思議で夢のような……。
それは、松明の柔らかな火に照らされてぼんやりと揺らぐ、幻想的で非日常的な祭りの空気がそうさせるのか。
 それとも『お父さん』と言う言葉に、ふと、先日のローゼとのやりとりを思い出したからだろうか。『俺の子供がいれば可愛いと思うか』と言う問いに、迷う事なく頷いてくれた、彼女の微笑みを。
 いつか……いずれは、自分と彼女の間にも。
 ――――何を馬鹿げたことを。
浮かびかけた考えに、自嘲気味にヴァンは首を振る。
最初に手酷く傷付けたせいで触れることもできず、いつか彼女に拒絶される未来を想像し、臆病に怯えているくせに。
 無意識に、掌を強く握りこむ。
それはローゼに触れなくなってから、いつの間にかついてしまった癖だ。
彼女と向かい合う時、抱きしめる時、ヴァンはいつもそうして、手を硬く握り締める。
 彼女に二度と酷い仕打ちをしないと言う、強固な意思を表すように。
 だが、もうそろそろその我慢も、限界を迎えつつあった。
ヴァンは今、ぎりぎりのところで踏み止まっているに過ぎない。理性も精神力も、既に崩壊寸前なのだ。
 ――――ローゼが欲しい
 この腕の中に閉じ込めて、未だ聞いた事のない、蕩ける様な甘い声を聞きたい。
滑らかな肌の全てを、味わい尽くしたい。
 ――――何を躊躇う?
 嫌われてはいない。信頼もされている。
それに今は、恐怖も薄れてきているはずだ。
ローゼの態度が、何よりそれらを物語る証拠となった。
 ――――だが、出来ない。
彼女の優しさが中途半端な期待となり、余計にヴァンを苦しめているのだ。
 怖がらせることだけはしたくないのに、少しでも気を抜くと、彼女を欲しいままに犯すことばかり考えている。
  欲しくて、触れたくて、欲望のままに貪りたい……それなのに、同じくらい大切にしたい。
 渦のようにぐるぐると頭を支配するそれらの思考は、出口のない堂々巡りだ。
 まさか自分が、こんなことで悩むようになるとは思わなかった。
昔であれば下らないと一蹴したようなことで、悩むようになるとは。
 そんなヴァンの醜い思いなど知るはずもなく、ローゼが無邪気に手を振っている。
 振り返した手を、また強く拳の形に握りしめた。
 ――――いつになったら、俺はお前を抱ける?
 このままだと、頭がおかしくなりそうだ。三體牛寶
身勝手なその問いへの回答を、示す者はいない。 
それでもヴァンは、無意味な自問を繰り返すのを止められなかった。

2015年8月5日星期三

ギリギリ及第点という所でしょうか?

「ここだ」

いくつかの垣根を越え、廊下や庭を通りぬけ、人の気配を感じては身を隠し、そうやって歩き続けてどれ位経っただろうか?

どう考えても、正規のルートではない道を何か所も通ったせいで、自分のいる区画が何処なのかすら見当がつかなくなってきた頃、やっとホムラ様の足が止まった。D8媚薬

ちなみに、私はその間、ずっとホムラ様の腕の中。

何度も降ろしてくれと小声で頼んでみたが、「足音を立てられると困る」「逃げるかもしれない」「動きが鈍くて見つかるかもしれない」等の理由によって、却下された。


「ここ……ですか?」

ホムラ様が立ち止まったのは、蔦が絡まる古びた塀の前。

そこには、その奥に進む為の小さな木の扉があり、パッと見た感じ、それはしっかりと鍵が掛けられているようだった。

何気なく視線を扉の上に向けると、そこには花の文様が彫られていた。


家紋……じゃないよね?

というか、ここは王宮だし、彫られているとしたら、家紋ではなく、王族に関する何かか、単純にデザイン的なものだろう。


「……何の花だろう?」

「中に入ればわかる」

独り言のように呟いた私の言葉を拾って、ホムラ様が答える。

「中に入れば?」

「ああ」

「でも、ここ、鍵が掛かってるんじゃ?」

まだ確かめてみたわけではないけれど、ピッタリと閉ざされている扉は、動きそうな感じが全くせず、如何にも「関係者以外お断り。とっとと帰れ!」というオーラを醸し出している。


「掛かっているだろうな。……まぁ、鍵はここにあるんだが」

ニヤッと悪戯が成功した時の子供のような笑みを私に向け、ホムラ様は私を抱えたまま、器用に自分の帯に紐で吊るしてあった鍵を取り出し、私に手渡した。

「え!?何でこんな物持ってるんですか?」

「機密事項につき黙秘する。いいからさっさと開けろ。さすがに俺も腕が疲れてきた」

私の質問に首を振って回答拒否した後、彼は一歩前に進み、私が少し手を伸ばせば鍵を開けられそうな位置へと移動し、私の体を軽く揺らす事で、解錠を促した。


……これ、鍵を開けたら、鍵泥棒の共犯って事になったりしないよね?

出どころ不明の鍵と、ホムラ様の顔を見比べる。

鍵は答えてくれないし、ホムラ様は……私が鍵を開けるのを何処かわくわくした様子で待っている。

困った顔をホムラ様に向けてみても、鍵がここにある事情を説明してくれる気配はないし、ここでこうしてずっと立ち止まっているわけにもいかず、渋々大きめの鍵穴に手にした鉄製の丸みを帯びた鍵を差し込む。

野ざらしになっていたせいか、鍵穴が若干錆ついており、回すのに意外と力がいる。

ホムラ様の腕の中という不安定な体勢で、なんとか力を込めて鍵を回すと、ガチャリッという金属がかみ合う音が響いた。

「よし、開いたな」

私が鍵を鍵穴から抜き取るのを確認して、ホムラ様が足で扉を押して中へと歩を進めた。

今まで壁だった視界が一気に開ける。

それと同時に、まるで私達を待ち構えていたかのように、突風が吹いた。

咄嗟に目を瞑ると、若草の香りに混ざって、何処か懐かしい、甘い香りが鼻を擽る。

風が私達の許を通り過ぎ、再び空気が穏やかになったのを感じ取って、ゆっくりと瞼を開けると、そこには、月光に照らされ、闇に薄らと薄紅色が浮かび上がっていた。魔鬼天使性欲粉

一瞬、幻かと思った。

こちらの世界に来てから1度として目にする事がなかった、懐かしい故郷の花。

二度と見る事は出来ないだろうと思っていた、その花がそこにはあった。


「サクラ?」

茫然とその花を見つめる私をゆっくりと地面に降ろし、扉を閉めていたホムラ様が、私の口から洩れた掠れた声に反応して首を傾げた。


「あっ」

思わず口にしてしまった花の名前。

慌てて、指先で唇を覆う。

……しまった。

例え、こちらの世界に同じ花があったとしても、名前まで同じとは限らない。

むしろ、違う可能性の方が高い。


「いえ、綺麗だと思いまして」

慌てて「そんな事言ってませんよ~」というオーラ全開で誤魔化せば、ホムラ様は私の称賛の言葉に、気分を良くしたのか、満足げな笑みを浮かべて頷いた。

「そうだろう?この花は、ちょっと特別な花なんだ。特殊な条件が揃わないと育たないし、花が見れる期間も極端に短い。全ての蕾が示し合わせたかのように一斉に咲き誇り、やっと咲いたと思ったら、次の日には、もう散り始めてしまうんだ」

「……そう……なんですか」

ホムラ様の言葉に、再びその花を見つめる。

何とか取り繕えて良かったと思ってる一方で、私の心は、まだその衝撃から立ち直れていなかった。



見た目は桜にそっくりなのに、異なる特性を持つその花。

厳密に言えば、桜ではないのかもしれないけれど、その花は記憶の奥底にソッと静かに横たわらせてあるはずの、故郷や家族への思いを揺さぶり起こす。


何度も家族で行ったお花見。

入学式等の、特別な区切りの時期には、いつもこの花が彩りを添えてくれていた。

あのまま、何事もなく日本で普通に生活出来ていれば、きっと次の春には小学校を卒業し、桜並木の下を、中学校の制服を着て歩いていた事だろう。

入学式にはお父さんやお母さんが来てくれて、一緒に写真だって撮っていたかもしれない。


そんな、あったはずの……けれど、迎える事の出来なかった未来に思いを馳せた途端、まるでパンドラの箱を開けてしまったかのように、胸に様々な思いが押し寄せて来た。

キュゥゥッと胸が苦しくなる。



また、この花を見れて……


……嬉しい。

……懐かしい。



…………切ない。


母様と出会い、こちらで生きていく為の術と拠り所を与えてもらった今の自分を、決して不幸だとは思わない。CROWN 3000

思いたくない。

ここでしか出会えなかった人、出来なかった経験や喜びが確かにあるし、それを捨ててでも別の未来を選びたかったかと尋ねられれば、すぐに「うん」と頷くことは出来ない。

けれど、だからといって、12歳まで家族の中で、平和に楽しく暮らしていた私も、私の中には確かに存在していて、それをなかった事にも出来ない。


……こちらで生きていくしかないって思った時に、折り合いはつけたつもりだったんだけどな。


「……カゲツ?」

桜を凝視したまま、瞬きもせずに立ち尽くす私を、ホムラ様が心配そうに、そして、何処か不安げに覗き込んで来る気配がした。

でも、私は言葉を発する事が出来なかった。

何か言葉を口にすれば、全てが泣き事になってしまいそうで、そんな自分が情けなく思えて、必死で唇を噛み締めた。



「……おい、お前、泣いているのか?」

「ッ……」

ホムラ様の指摘に、初めて自分の頬が濡れている事に気付いた。

気付いた途端、一気に新しい涙が溢れてくる。

まるで、堪えようと思った言葉の代わりのように。


「ッ……ち、違うんです。……これは、えっと……何て言うか……」

誤魔化したいのに、上手い言葉が出て来ない。

嗚咽混じりの弁解は、更に見苦しいものになる。

突然、目の前で泣き始められても、ホムラ様だって困るだろうに。

わかっているのに、どうする事も出来ない。


こんな私は、『カゲツ』じゃない。

『カゲツ』は黒蝶楼の芸妓なんだから。

御客様の前では、常に気高くあるように心掛けないといけない。

みっともない姿なんて決して、晒してはいけない。


涙なんて、商売道具として以外は流してはいけないのに……。



「……もしかして、嫌だったか?」

泣き顔を隠そうと顔を覆った私の手を、ホムラ様が掴んでゆっくりと引き離していく。

強引ではないのに、拒否を許さない力で、私の情けない泣き顔を晒させる。VIVID XXL


「っ……」

すぐ目の前にある、ダークグレーの瞳が、私を気遣うように細められた。

その瞳から目を離せなかった。

ボロボロと涙が溢れる目を見開き、そうではないという意味を込めて、小さく首を振る。


「……そうか」

ホムラ様が何処かホッとしたように、優しい笑みを見せる。

こんな穏やかな表情も出来る人なんだって、正直ちょっと驚いた。

「カゲツ、来い」

「っ!?ホムッ……」

言葉と共に、ホムラ様の手が私の体を引き寄せる。

まるで、全ての防具を奪われたかのように、無防備な状態の私は、ただその行動に従順に従うだけだった。

本当は抗うべきなんだろうけど、今はその気力もない。

されるがままになっていると、顔にホムラ様の硬いくて温かい胸板が触れる。

その胸板を覆い隠す質の良い布地が、私の目から零れ落ちた雫をスゥッと綺麗に吸い上げてくれる。

「あ~、何だかよくわからんが……というか、きっと俺にはお前の気持ちの全てを理解してやる事は出来ないんだろうが……今は出せるもんは出しておけ。手巾か布団の代わり位にはなってやる」

そういって、彼はこの庭園に来た時同様、ヒョイッと私を軽がる抱きあげ、近くにあった東屋へと連れて行ってくれた。

そして、そこにあった長椅子にどっかりと座ると、私をその足の上に座らせ、頭をガシガシと少し乱暴に撫でた後、無言でゆっくりと背中を撫でてくれる。

まるで、ぐずった幼子をあやすかのようなその仕草は、ホムラ様らしく、何処か不器用さは否めないけれど、子供の頃を思い出す、とても温かいものだった。


なんでだろう?

ホムラ様に……男の人に抱きかかえられてるっていうのに、妙に落ち着く。

仕事柄、男性に抱き締められたり、触れられたりする事は少なくない。

それ以上を求められれば、当然拒絶するし、増長させない為に窘める事はするけれど、仕事だと割り切っている為、そこまで強烈な拒否感はない。

ただ、それは慣れてしまっているというだけで、それを心地よいと感じた事は1度もない。

「仕方ない」、「そういうものだ」と折り合いを付けているだけで、その状態のままでいたいと思った事はないのだ。


でも……


今は、ちょっとだけ心が弱ってて、まだ子供だった頃の事を思い出して、少し甘えたい気分になっているせいか、もうちょっとだけだったら、ここにいてもいいような気がする。


「……重くないですか?」

照れ隠しに、ホムラ様の胸元に顔を押しつけたまま尋ねると、「いや」と低く柔らかい声が、触れている胸の振動と共に、上から落ちてくる。

「手巾にして良いという事でしたけど、鼻もかんでも良いですか?」

ホムラ様の何処か甘さを含んだ声に余計恥しくなり、それを誤魔化そうと、わざとふざけてそんな事を言ってみる。

もちろん、一流芸妓を目指す身として……という以前に、女としてそれはダメだろうという事はわかっているから、実行する気は更々ない。アフリカ蟻

「……構わんが、服の弁償代分は体で払ってもらうぞ?」
「お断りします」

私の返答を予想していたのか、ホムラ様は特にムッとする様子も見せず、喉の奥で「ククク……」と低く笑っていた。

「……涙は良くて、鼻をかむのはダメなんですね。同じ体液なのに」

「もっと別の体液で汚してくれるのは大歓迎だが?」


背中を撫でていた手が下がり、明確な意図をもって、私の臀部を撫でた。

ちょっと!!どさくさに紛れて何処触ってんの!!

というか、別の体液って何!?ナニなの!?

いや、やっぱり答えなくても良いです。むしろ、絶対に答えないで下さい!!


「……ホムラ様の血液で汚せば良いですか?」

「わかってんだろ?」

ぺシッ!

触れられている事で、何処にあるか見なくても明確だったその手を、勢いよく叩き落とした。

そんな私の行動にも、ホムラ様は動じず、可笑しそうに笑っている。

そして、ホムラ様は私が叩き落としたその手を、今度は私の後頭部に回し、そのまま私の頭を抱え込むように抱き寄せた。


「いいから、落ち着くまで黙ってろ」

フッと空気が揺れるのを旋毛で感じた。

それと、ほぼ同時に頭に何か温かいものが押し当てられる。

それが、彼の唇である事に、気付くのにそう時間はかからなかった。


……なんなのよ、このセクハラ変態魔神。

心の中で悪態をついてはみたものの、心の何処かにいるもう1人の絶賛弱って幼児化中の私が、その甘やかすような行為を心地良いと感じてしまっているから性質が悪い。


今だけ。

今だけだから……。

自分に言い訳しながら、温かくてちょっと危ない毛布兼手巾に、嫌々を装って顔を押しつける。

自然と流れ続ける涙は、明確な理由や目的を持ったものではないけれど、流す度に少しずつ、知らず知らずの内に、今まで自分の中に溜まっていた淀みを薄めてくれる気がした。


恋愛初心者のくせに、ホムラ様のくせに、生意気。


でも……この手巾兼毛布と、『桜』の贈り物は、ギリギリ及第点にしてあげてもいいかもしれない。

粗は多少あるけれど、それ位には、私の心を揺さぶる良いサプライズだった。夜狼神