「お約束も無く、失礼致します」
イリアス・バートランドは、傍に来る颯爽とした歩みも、目の前で行なわれる美しい形の礼も、ファーガスの好む凛然とした佇まいの薔薇のようで、見ているだけで目が和む。
品のある所作の出来ないフェルナーやハワードとは雲泥の差である。VIVID
近頃では、イリアスがシーゼス家の後継であったなら、と思う事しきりだった。その最中のあの事件である。妃の身内とは言え、フェルナーには絶望を通り越した思いしか持てなかった。
「この後は、特に用も無いので構わぬよ。……その薔薇は、お前の好きな所に活けて置きなさい」
鷹揚に挨拶を受け、最後の言葉は侍従に。
「かしこまりました」
下がれ、と手で示すのに三人の侍従は静かに離れていった。
「殿下が薔薇を切られるとは、お珍しい」
ファーガスは切り花を好まない。土に植えられたそのままの姿を愛でるのを見知っているイリアスは、不思議そうな顔をしていた。
「あまりに不快な事があったので、ついな……薔薇には気の毒な事をしてしまった」
「不快……でございますか。侍従に、メイナード公とお話中と伺いましたが……」
「そうだ。あれと話すと不快な事ばかりだ!」
本当に毎度毎度、顔を合わせると碌な事がない。
私室に向かう足が、先程の遣り取りを思い出し、憤りに大きな音を立てた。
「殿下の害としかならない相手ですから……」
少し後ろを歩きながら頷くイリアスに、その通りだと思いながら声を掛ける。
「……それで、用件は何だね?」
ファーガスの姿に、私室の扉の前に立つ、二人の侍従が恭しく礼をする。そして、それぞれが左右の把手を持って扉を開ける。
中に入りソファに身を落ち着けると、正面の席を示したイリアスは、その席に着きながら口を開いた。
「シーゼス家にて何やら事件が起こったのではありませんか?」
「もう、そなたの耳にまで届いているのか?」
苦々しい思いで唇を歪める。メイナードの言った通り、シーゼス家の緘口令など何の役にも立っていない。
ファーガスは、メイナードと取引きしなかった場合を思うと、ぞっとした。
間違いなく、どこかの貴族の口からこの事は兄王の耳に入っただろう。いや、メイナード自身が入れた筈だ。
だが、取引きが成立した今、どれ程の貴族がこの事を知ろうと、明日には皆口を噤む。兄王の耳まで届く事無く、この話題は消えるのだ。
それが、ファーガスが欲して止まない、メイナードの持つ力だ。
「商いをする者として、情報を得る為周囲にはいつも気を配っておりますので……」
肯定の返事に、溜め息が漏れる。
「そうだ。フェルナーの愚か者が、メイナードの庇護する孤児院を荒らした挙句に、視察に来ていた公爵と諍いを起して手傷を負わせたのだ。挙句に、その事で父親と争ったのか、父にまで手を掛けるという……取り返しの付かぬ事を仕出かしたのだ」
そのせいで、渡さぬように守っていた香辛料の交易権をメイナードに渡す事となってしまった。怒りの治めようがない最悪の出来事だった。
「それで……メイナード公とのお話とは……事を荒立てない代わりの条件を殿下に示された、という訳ですね……」
「ああ。その通りだ。シーゼスとリレステルの家は残るが……フェルナーとハワードを望む方法で罰するだけでは飽きたらず、私にまで痛みを強いる。本当に、忌々しい男だ!」
何故あんな、王族虐めが生きがいのような男が同じ時代に存在するのだ。
膝の上で強く握り締めた拳が震えた。
「シーゼス家とリレステル家の後継者への罰……とは、如何様な物なのでしょうか?」
「後継者から降ろし、貴族の地位も剥奪し、一兵士として北の前線送りだ。……幾らなんでも、貴族が貴族の子弟に科す罰とは思えぬ。過酷に過ぎる!」
二人の首をメイナードに差し出して事が収まれば、と思ってはいた。
そして、それを要求されれば、受け入れるつもりだった。
だが、首を差し出すとは、生涯表舞台に立たせぬよう地方に蟄居が妥当な所だと思っていた。
それが、一般の民と同じように扱う上に、いつ死んでもおかしくない場所に送るなど、遣り過ぎとしか思えなかった。
フェルナーが真実父親を殺したと言うならともかく、シーゼス侯爵はなんとか命を取り留めているのだ。そこまでしなくとも事を収められるだろうに、あの男にはメイナードの一族以外への労りが微塵もない。
自分とその一族。そして、謙り味方となる者以外は、人間扱いするつもりなどないのだ。それはもちろん王家たるヴェルルーニに対しても同様である。
今回の事で、つくづくそれを思い知らされた。
「よろしかったではありませんか」
思わぬ言葉が、涼やかな声音にて耳に届いた。
「何がだ? そなたは、私の話を聞いていないのか?」
ファーガスは怪訝に眉を顰め、イリアスの笑みを浮かべた顔を見遣った。
「殿下は常々、あのお二人の行いに頭を悩ませておられたではありませんか。問題を起こすばかりで、有益な事業を任せても潰してしまう。何一つオーサー様の為にならない、と。……オーサー様が戻られた際、あの二人が変わらず王都に在り、そのお傍に付くようになれば、どのような事を起こしてしまうか分かりません。それを公爵に追求されるのに比べれば、遥かに良かったではありませんか。……公爵は、お二人を処罰するだけで、シーゼス家とリレステル家を潰すとまではされなかったのでしょう? 両家が残るのでしたら、殿下にとってはそう悪い事ではないかと。……もし、殿下が、お二人の行動が目に余るとして罰をお与えになれば、両家との間に軋轢が生じますが、公爵がするなら両家は殿下に牙を向けたりはなさらないでしょう。それどころか、殿下は公爵が両家に多大な傷を付けぬよう、ご自身が痛みを負ってお庇いになられたのです。今回の事で、両家は殿下に返しきれぬ大恩を受ける事となりました。……公爵は今頃、交易権を握りしてやったりと思われているでしょうが、それは違います。殿下が、ご自身とオーサー様の害になる者達を、公爵を使って上手く排除なされたのです」
滔々と淀みなく語られるのに、確かに、そう考えればそうなのだ。
しかし、二人が消える事によりその問題行動に悩まされなくなる以上に、香辛料の交易権をメイナードに許す事が悔しくてならないのだ。
「……メイナードの出してきた条件がそれだけならな。過酷な罰も、それで納得出来ようが……来年早々に、私の香辛料の利は半減するだろうな……」
半減で済めば良いが、最悪潰されかねない。
もっとも、王の目がある故、完全に潰すような真似はしてこないだろうが、こちらを気遣った交易をするとはとても思えない。
そして、最大の輸入相手である南の大陸の国々は、こぞってあの男が香辛料の交易に着手する事を望んでいるのだ。話し合いの場を持つ度その事を持ち出されるのに、ファーガスはほとほとウンザリしていた。
自分達も悪い条件で交易しているとは思わない。
それなのに、相手方が望むのはメイナードなのだ。
納得いかないファーガスに、相手方はその理由に関して言葉を濁すが、その端々に伝わってくるのは信用度が違う、という甚だ腹立たしい物である。強力催眠謎幻水
メイナードは香辛料の国外交易をしていない。それなのに、他の品目の交易を見ている商人達は、ファーガスが揃える者よりもメイナードの揃える者達の方が信用出来ると考えているのだ。
そんな中、フェルナーが危機管理を怠り、騙されて会社を潰した。
ますます商人達の目が厳しくなったのは言うまでもない。
そこに、とうとうあの男が一族を率いて参入するのだ。
商人達がどちらに流れるかなど、誰にでも簡単に察せられるという物だ。
他国の商人達に対しても、王族、と言う肩書きなど、メイナードの家名とあの男の交易実績の前では何の役にも立たない。
「その、香辛料の事なのですが……此度の不祥事により存在を消されるフェルナー・シーゼス殿に、今一度事業を任せる事は不可能でございます。ですが、代わりとしてメイナード公だけを新たに推薦するのも、殿下としては納得行かぬ事かと。……よろしければ、そこに私を加えて推薦して頂けないでしょうか? さすれば、必ずや殿下のご恩に報いさせて頂きます」
「ああ……それは良いな。メイナードだけを推薦しなければならない、と言う条件はなかったしな。……だが、あの一族を相手に、そなたであろうと、あまり利は見込めぬだろうな」
王弟の自分でさえ不利なのだ。
残念だが、商才に長けていようと、今はまだ小身のイリアスが太刀打ちできる相手ではない。
「あの一族を相手に、最初から大きな利を得られるなどとは思っておりません。……それに、下手に目立てば潰されます。ゆっくりと警戒されぬよう大きくして行くつもりでございます。……いくら結束の固いメイナードの一族とは言え、隙がまったく無いなど、そのような事は在り得ぬと思いますので」
「そうだな。メイナードにのみ許すのでは苛立ちが治まらぬ。そなたの名も、兄上に伝えておこう」
「ありがとうございます。必ずや、ご期待に沿うてご覧にいれます!」
深々と頭を下げる姿にゆったりと笑う。
この男ともっと早く知り合っていれば、フェルナーに交易権など与えなかった。
そうすれば一ヶ月前、事業を潰したと兄にもメイナードにも煩く言われる事もなかった筈だ。
しかし、フェルナーに交易権を与えた一年前、その当時のイリアスはまだ家督を継いでいなかった。
年老いた父男爵の補佐をしており、誰も名を知らぬような存在だった。
王族のファーガスとの交流など無く、かと言ってメイナードの傘下でもなかった。どちらにも関わらず、静かに慎ましく暮らしていた。その暮らしぶりは、近年その存在が大きな物となりつつある王都の豪商達の方が、遥かに豊かで華やかな物と言える程だった。
とは言え、イリアスは知性ある才能豊かな青年だ。
たとえ、目立たぬようひっそりと暮らしていても、誰かの目に留まり、多少はその名が人々の間に伝わる物だ。
しかし、まったくその存在が誰の口にも上らなかった所を見ると、本人がわざとそうしていたと考えるのが妥当な所だろう。
経歴を調べてみると、最難関の王立大学を首席で卒業していた。
それだけで有名人となっていてもおかしくないと言うのに、イリアスは自己主張など一切せず、影に消えていた。
下手に目立てば潰されるとの本人の言葉どおり、恐らく、爵位を持つまでは自分に誰の目も当たらぬようにしたかったのだろう。
貴族の権威が強いこのリディエマでは、貴族の家の当主たる証の爵位とは、たとえ最下位の男爵であろうと、身を守るのに有ると無いでは大違いの盾となる。
爵位を得るまでは目立たぬと決めていたのならば、わざと成績を落としておいた方が良いのではないかとも思うが、イリアスの生家、バートランド男爵家はまともな領地と言える物も無いような、あまり裕福ではない貴族だ。授業料免除は欲しかったのだろう。
だが、首席を取っても、彼の前年が女性初のカトリーヌ・ダリューであり、後年がルーク・メイナードである。それらの華々しい存在に挟まれた故、目立たぬよう話題から消えるのは容易かったのだろうと思う。
それが半年前、父男爵が亡くなり家督を継いだ途端、変貌を見せた。
爵位を得たイリアスは、それまで父親が小さく行なっていた商いを手広く行なうよう仕組みを変え、それを見事に成功させた。
そして、丁度その頃ファーガスの前に現れたのだ。
夜会の席にて、ファーガスに近しい誰の縁戚でも無い身でありながら、媚び諂う事無く堂々と話しかけてきた。
その姿と佇まいの美しさに、ファーガスは話を聞く気になった。
そして、己の傍に取り立てたのだ。
フェルナーとハワードはイリアスが小身貴族という事で侮り蔑んでいたが、ファーガスは自分にのみ語ったその野心が気に入った。
『メイナード公の下に付けば、彼の勢力は磐石で、我が身の安泰は約束されましょう。ですが、私がメイナード公となる事は叶いません。その逆に、失礼ですが殿下の周囲は脆弱で不安定です。その側に在れば、我が身の安泰など難しいでしょうが……殿下を脅かす者に勝ちさえすれば、私がメイナード公になれます。そうでございますよね。殿下』
メイナードに与しその末端に加わるよりも、自分に付き、より大きな物を手に入れたい。
メイナードが何百年も掛けて積み上げてきた権力を崩す事は難しい。だが、生涯懸けてでもそれを成し遂げ、自分とオーサーを頂点に据え、己がメイナードのような存在となりたい。
耳に心地良い涼やかな声音で語られるイリアスのその野望に、ファーガスはフェルナーやハワードのような口先だけの物を感じなかった。
自分を真っ直ぐに見つめる、強い意思の宿る赤茶色の瞳に、必ず遣り遂げるのだと信じられる物が見えた。
そして、その後、イリアスはファーガスの期待に充分以上に応えてくれている。
イリアスは、真実メイナードのような経営手腕を持つ男だった。その上、ファーガスを崇め利を運んでくれる姿に心を許すのに、そう時間は掛からなかった。
「……今は、そなたの事業の成長が何より楽しみだ。助力は惜しまぬから、励めよ」
現在は、最も大事にしている薔薇の流通事業もイリアスにほぼ任せている。順調に利を伸ばしていく姿に、大変満足していた。
「お言葉、感謝いたします。……では、図々しくも今一つ、お願いをしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「今すぐ、とは申しませんが……必ず、サイラス・カシュクール侯爵をメイナード公と袂を別たせ、殿下の下に取り込んでください。彼の方の人望とカシュクール家の養蚕技術はオーサー様の為に大きな強みとなります。そして、幾らメイナード公といえど、侯爵を失うのは痛手が大きい筈。親友であり、貴族を束ねるのにその人望をかなり利用されておられるようですので」
「それは、私も考えておる……中々色好い返事が貰えぬが、オーサーを戻す前までには何とかするつもりだ」
メイナード家に逆らう貴族など滅多に居ないが、それでも議会に於いて、稀に反対意見が出たりもする。
現当主のルーク・メイナードが、それまでの当主達よりも、貴族の利ではなく民の利を優先する案を通そうとする事が多いからだ。
その行いに、宰相もメイナードの側に付いていても不満の声が上がった場合、宥め役となるのは主にメイナードの長老達なのだが、近年その中に、サイラス・カシュクールが入っている。
そして、彼は長老達よりも遥かに話を纏める術に長けていた。印度神油
彼は不思議な男で、何故かメイナードの親友と知っていても嫌悪の感情が芽生えないのだ。自然とするりと心に入って来て、楽しく語らいの時間を持ってしまう独特の雰囲気を持っている。
しかも、その奥方シンシアが、どの貴族の家の奥方にも愛されている美顔水の製作者である。
サイラスが訪れたとなると、奥方達はシンシアとより懇意になりたいとこぞって丁重に迎えると言うのに、それを当主達がメイナードの親友だからと邪険にしよう物なら、夫婦関係に亀裂が入りかねない。
どの家にも笑顔で招かれるという物だ。
そして、巧みな話術にいつの間にか、メイナードの言葉に反対した貴族達は 『それくらいなら、民に譲歩するか』 と、意見を変えている。その繰り返しだった。
ある意味、ルーク・メイナードよりも恐ろしい男だとファーガスは見ている。
もし、彼がメイナードから離れてこちらに付けば、多くの貴族がこちらを重要視するようになる。
それが確実視出来るほどの有意な男なのだが、彼は貴族の長の地位に何の魅力も感じておらず、どのような場合も必ずメイナードの意見に従い支えるのだ。
カシュクールはメイナードの一族ではないと言うのに、今に限らずいつの時代の当主達も親交は篤い。両家が権力にまつわる争いを起こした事など一度たりとてなかった。
カシュクールとはいつでも次点の地位で満足している変わった一族でもある。
「流石は殿下。……差し出た真似を……失礼致しました」
「いや、同じ思いでいてくれる事、頼もしく思う。これからも、よき話し相手となってくれ」
今回の事でさらに力を削られてしまうファーガスは、より一層カシュクール侯爵を手にしたい、との思いを強めていた。
「身に余る、光栄に存じます」
頭の良い、己に従順な好青年。メイナードもこうならば言う事が無いのに。
自分は、このリディエマを支配する王家の一員なのだ。皆がこの態度で接しなければならない筈なのに、あの男だけが平気で無礼を働き足蹴にする。
オーサーを王位に即けた暁には、その事必ず後悔させてやるのだ。
メイナードが示した罰を、ファーガスは両家に伝えた。
両家はすぐさま、従う旨を返してきた。
本人達は抵抗するだろう。しかし、救いの手など差し伸べるつもりのないファーガスは、二人の事を考えるのはそれで止めた。
丁度その時、兄の方にも出していた使者が戻り、面会許可が下りた事が伝えられる。
政務の終った時間だな、と思いながらファーガスは知らされた場所へと向かった。
王宮宮殿最北。奥の宮と呼ばれる王の私的空間。
幼い時はファーガスもそこで暮らしていたが、今では暮らす事は許されない。
リディエマで最も優雅で美しく、重厚な歴史ある最高の貴人の住まう場所。そこに住まう夢を捨て切れない場所だった。
奥の宮では貴族や有力者を大勢集めた大規模な夜会や舞踏会・晩餐会などといった物は行なわれない。
王が真に親しくしている者しか招かれない場所である。
王宮宮殿は南に正門があり、広大な庭を少し行くと、まず最初に下級官吏が自由に行き来できる政務の為の建物が並んでいる。
そして、仕切りとなる門を通るとその奥が中央宮殿となり、地位や身分によって立ち入りは厳しくなる。
高官の為の政務の部屋。大小様々な会議場、夜会などに人を招く為のこれまた大小数多くの広間、談話室、食事室、演劇や音楽を鑑賞する舞台などなど用途に合わせた部屋がある。
そこから再び庭園を渡り門を通り、さらに奥の一区画。
最も警備が厳しく、立ち入りを制限される兄の奥の宮からは手前になるが、そこにファーガスの宮がある。
本来そこは何も無い広大な庭だったのだが、王宮外で暮らす事にどうしても馴染めなかったファーガスの言葉を聞き入れてくれた兄の命により、数十年前にファーガスの物として建てられた宮である。
リディエマでは王位継承権を持たない男子の王族は、成人を過ぎると王宮より外に城を持つ事となっている。
ファーガスも、この決まりにより成人を迎えた折に王宮から出された。
女子の王族については、それまでに概ね嫁ぐか、未婚であってもいずれはどこかに嫁いで王宮から出るので、特に決まりはない。なので、現在ブリジットは奥の宮の一角に己の宮を持って暮らしている。
ブリジットは降嫁しない事となっているので、何事も無ければ、生涯を奥の宮で過ごす事となる。
政治に関する権限を何も与えられない王族が、国の施政の中枢たる王宮から出るとなれば、権力からさらに遠ざかる事を意味する。
権力の中枢より王族を排除し、力を弱める。
そして、王位争いを起こさせないよう、王位に欲を抱かせないようにとの貴族達の思惑がそれをさせている。
ファーガスは、その貴族達の思い通りに権力から遠ざかる事を、どうしても受け入れられなかった。
屈辱に耐えながら、憎んでいる兄にこの時ばかりは懇願した。
メイナードを始とする貴族達の意向に唯々諾々として従う兄は、この願いを厳しく突っ撥ねるだろうと覚悟していた。
それでも何度でも掛け合おうと思っていた物を、兄はただ一度の懇願で、簡単に受け入れた。
『私も、弟が近くに居てくれる方が良い』 と、何の憂いも無い暢気な笑みを浮かべて。
あっさり受け入れられた事に正直かなり拍子抜けしたが、ヴェルルーニ王家の直系であるのに、必死で願わなければ王宮に留まる事も出来ない自分。
権力から弾かれる事無く、幼い頃から慣れ親しんだ奥の宮にて生涯過ごす事の出来る兄。
その、玉座に安穏と座れる人間が浮かべる余裕に満ち溢れた笑みに、何の力も手に出来ない惨めな己との差をまざまざと見せ付けられ、怒りに腸が煮えくり返りそうだった。
しかし、兄が認めたところで、メイナードも宰相もその決定に容易く従わなかった。
結局、奥の宮で暮らすことは許されず、奥の宮のすぐ側に新たな宮を建造して暮らす事となった。
奥の宮は広大で、空いている宮など幾らでもある (実際、ファーガスが成人まで使っていた宮はそのまま空けてある) と言うのに、王と他の王族を区別する為、メイナードを中心とした貴族達があえてそうしたのだ。
国の統治者たる王族なのに、住む場所一つ思うようにならない。
必要以上に貴族が力を持ち王族を押さえつけている、このリディエマの現状はファーガスには耐え難き物だった。
いつか、貴族の専横を許す情けない兄の上に立ち、王族に従わぬ貴族達は処分し、この場に戻ってくる。
そう、固く誓う奥の宮の一室。
兄の私室にて、ファーガスは政務を終えた兄と二人きりで向き合って座る。
兄はファーガスよりも少し色の濃い金髪に、同じ空色の瞳をしている。背はファーガスよりも高いが、それ以外は良く似た容姿をしていた。
ただ、目に剣を宿す事の多い自分とは異なり、安楽に暮らす兄はいつでもおっとりとし、柔らかく微笑んでいる。
「……フェルナー・シーゼスの失敗を取り戻すのに……その親族を頼みとせず、メイナード公に任せるのか?」
嫌々ながらも、それを理由にルーク・メイナードに交易権を与えるよう推薦すると、兄は意外そうな顔をした。
それもそうだろう。
兄は、ファーガスに香辛料の交易に関することを任せた後、ファーガスが交易権授与者に、一向にメイナードを推薦してこない事を知っている。恐らく、不仲である事も知っているのだろう。
兄の言う通り、フェルナーの失敗は父親そしてその他のシーゼスの者に交易をさらに励ませ、それで利を上げて何とかするつもりだった。メイナードに頼るつもりなどまったく考えもしない事だった。
「交易に関し……リディエマに、彼の右に出る者は居ませんので……香辛料の流通に不備が出れば民の不満が高まりますので、それを起こさぬ為にも、この度彼を推薦する事と致しました」
「そうか。……何があっても、そなたが彼を推薦してくる事だけはないと思っていたのだがな……やはり、メイナードは甘くないな。そなたですら懐柔し、香辛料の利まで手中にするか……」
「兄上?」
溜め息交じりの兄の残念そうな声音に、怪訝に思い少し首を傾げた。
メイナードの言うがままに生きる兄は、てっきりファーガスがメイナードを推薦してこない事に、不満を抱いているとばかり思っていた。
だが、一度王たる者が弟に任せると言った物を撤回するのも外聞が悪いとし、それで何も言わずにいる物だと思っていたのだ。
それが、この口調では何やら違うように感じてならなかった。
通常国王とは、兄弟であろうと妃や息子、娘であろうと 『陛下』 と呼び掛けなければならない存在だ。
だが、兄はそれを厭い、公式以外の場ではファーガスには兄と呼ぶことを許し、妃や娘に対しても同様に、あまり 『陛下』 と呼ばせない珍しい王である。
「出来れば、メイナードに香辛料の交易はさせたくなかったのだがな。……民の不満を高める訳には行かぬ。彼に交易権を与えよう」田七人参
「……意外なお言葉ですね。私は、兄上は彼に早く香辛料の交易をさせたいとばかり思っているのかと……」
疑問を口に乗せてしまうと、兄はファーガスが見た事のない冷めた目で見返してきた。
「何故そう思うのだ? 政務も国営事業も概ね任せきりだから、そう思われてもおかしくはないが……私はメイナードの上に立つ、ヴェルルーニ家の人間だ。メイナード公を信頼していないとは言わぬが、何もかも譲り、彼の一族を我が王家よりも強くする事など望んではおらぬよ。そして、この事はメイナード公も知っておる事だ。だから、メイナードに任せずそなたに任せた香辛料に関しては、彼は強く出ず身を退いていたのだよ。私を悪戯に刺激しないようにとな。……この国の王は私だ。それがたとえ形だけの物だとしても、メイナードではないのだ」
「そんな……」
そんな事など絶対に思っていない、と思っていた兄の口から語られる言葉に、ファーガスは愕然とするばかりだった。
だから、誰もがメイナードに任せるとばかり思っていた香辛料の交易を、メイナードを弾くファーガスに任せていたなど、こうして実際に聞いていても信じられなかった。
「だが、こうしてそなたが推薦してきた。私は、そなたが推薦した者には交易権を与える事としておる。メイナードは当然その事を知っておる。そこを無視して弾けば、そなたの推薦があるのに何故自分の一族だけ弾くのだと堂々と問うて来るだろう。そして、私はそれに返せる強い言葉は持たぬ王だ。もし 『メイナードの一族にこれ以上力を付けさせるのが不愉快だからだ』 などと本心を返せば、あの一族は私を反抗的な王と見做して首を挿げ替えるよう動くだろう。ブリジットが成人を過ぎておるからな。無理に私が王でなくとも構わないと思っている筈だ」
「…………」
「幼き頃より、玉座に座るのだ、とそればかり教育されてきた。だからこうして座っておるが、操りの糸に絡められておるこの座は少しも良い物とは思えぬ。だからと、私には操りの糸は断ち切れそうもない。……出来たのは、メイナードを嫌っているそなたを使って、重要な交易権をわざと与えぬよう少々意地の悪い事をするくらいだ」
苦笑する姿に、いつも馬鹿にしていた兄に利用されていた事を知った。
そして、それをメイナードも知っていた。
自分だけが知らず、そして愚か者に足を引かれてまんまと渡してしまった。香辛料に関する事を任され、蓄財出来ると安易に喜びフェルナーなどを推薦してしまった事を、心の底から後悔した。
「……鉄道事業も、上手く進められる者が他におらず、結局はメイナードを頼る他なかった。そして、今回の事も……こうなっては、そなたがどれ程嫌おうとあの一族に対抗する術は無い。今日までの年月がそうしてしまっているのだと諦め、あの一族は嫌うのではなく、便利な存在と思え」
「便利な存在?」
到底思える筈のない事を言われ、ファーガスは眉間に皺が寄ってしまった。
「国の繁栄と安定を約束してくれる、使い勝手の良い道具と思え。そう思い、少々の不満は堪えなければ、私のみならずそなたも消されてしまうぞ。そなたは私のたった一人の弟だ。失いたくはない。……あの一族はヴェルルーニの排除ではなく、リディエマの繁栄を望む者達だ。我らが必要以上に反抗しなければ、必ず王家に膝を折る。国の安定の為にな」
だから、その不遜な態度に自尊心が痛もうとも堪えろ。と兄は言いたいようだったが、ファーガスにそれは無理な話だった。
もし、自分が王ならば堪えられたかもしれない。
己の目の前にメイナードが膝を折り、敬意を払う姿を見られるのだから。
でも、王の弟の自分には、あの男は絶対に膝など折らない。王以外のヴェルルーニなど、大事に扱うどころか、嘲笑うだけだ。
堪えられる訳などなかった。
イリアス・バートランドにも許可を貰い、ファーガスはその前から下がった。
結局、兄はなんだかんだと言いつつも、メイナードに屈しているのだ。王たる者が、なんと情け無い事だ。
自分は、そんな戦わずして負けを認めるような、気概のない兄とは違う。
メイナードを崩壊させる事を諦めない。
威哥十鞭王
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