頭の中が、一瞬完全にフリーズした。あさぎの上に四つん這いになり、彼女の両手首を右手でわしづかみにして、その頭の上で押さえつけている越智の姿は確かに目に映っているのに、何が起きているのか全く理解できない。どうしたらいいのかもわからない。ただただ呆然と立ちすくんでいるうちに、おもむろに越智があさぎの左の耳元に唇を寄せた。挺三天
すると、あさぎの抵抗が止んだ。
「……何だ」
ややあって、打って変わって落ち着いた声が響く。つと手を伸ばすと、彼女は越智の金茶色の髪を優しく撫でた。
「それならそうと、早く言ってくれたらいいのに」
「ごめん」
首をすくめて、越智はベッドに座り直した。
「ちょっと、がっつきすぎちゃって」
「ほーんと」
くすりと笑うと、あさぎも起き上がった。
「越智君じゃなくって、ポチ君って呼んじゃおうかしら」
「ええっ、あさぎさんの意地悪」
不満げに越智は言ったが、その口元は明らかに笑っていた――それはそれは、嬉しそうに。
「ねえ……そしたらさ、寄っかかるだけならいい?」
目一杯甘えた声が、唇から零れた。しかも、あさぎの返事を聞く前に、さっさと頭をもたせかけてしまう――それも、彼女の膝の上に。
「こらこら、それは膝枕でしょ」
「だって……」
笑いながらたしなめたあさぎに再び不満げに訴えると、越智は身体の向きを変え、悠希に背を向ける格好になった。
「何か、疲れちゃったんだもん。先生になるために港山高《ここ》に就職したはずなのに、気がついたらそれ以外のことばっかで手一杯になっちゃってさ。
クソみてえなやつに目はつけられるし、生徒に手ぇ出してるなんて妙な疑いはかけられるし……おまけに、俺の本命があさぎさんだって認識したとたんに、あさぎさんにまでえげつねえことしてきたでしょ、あいつ。もう、ほんと嫌だ。あさぎさんに何かあったら、俺……」
パタパタパタ、と駆け去って行く足音がした。それが聞こえなくなったところで、おもむろに越智は身を起こした。
「……ほんと、水城先生に何かあったら、中先生《ダーリン》に半殺しにされますもん」
さっきまでとは真逆の至極冷静な声音で言い切ると、あさぎの前にひざまずく。
「すみませんでした、失礼な真似をして。手当ても途中でしたよね」
そして、ジャージの上着のポケットから湿布と包帯を取り出し、あさぎの左の足首に巻き始めた。
越智がそれとなく語った通り、田島は、ここ数か月の越智の態度から、越智の本命はあさぎで、悠希のことなど眼中にもないのだと思い込んだようだった。六月の保健室での一件も、女子にありがちな、「先生に片想いしている友人に、何とか想いを遂げさせてやりたくて」という気持ちから、栞が勝手に画策したものだったのだと納得したらしい――もっとも、こちらは当たらずとも遠からずではあるのだが。
ともあれ、そこまでは越智の狙い通りだった。ところが、そのことと、もともとあさぎに対して抱いていた複雑な感情とがあいまったのか、田島は、リレーで越智に負けた鬱憤を、越智本人ではなくあさぎに向けた。記録係として忙しく立ち働いていた彼女に何気ないふりをして足を引っかけ、派手に転ばせたのだ――「文句なら、越智に言うんだな。……何きょとんとしてるんだよ。あいつとデキてんだろ? それとも、これから……かな」という言葉とともに。
そのことを越智が知ったのは、ようやく下痢が治まってトイレから解放されたときだった。転んで足をくじいてしまったあさぎは、桝本の許可を取って、保健室で自分で手当てをすることにした。桝本は生徒たちのことで手一杯だったし、救護所にある薬も、生徒に優先的に使わせるという不文律があったからだ。そんなこんなで、足を引きずりながら一階の廊下を歩いている最中に、トイレから出てきた越智と鉢合わせたのである。
事情を聞いて、越智はすぐさま保健室へ同行することを決めた。歩くのもやっとという状態のあさぎを放っておくことなどできなかったし、ある意味、自分の責任でもあると思ったのだ。その手当ての最中に、たまたま悠希が来合わせた。それで、越智はとっさにあさぎをベッドに組み敷き、一芝居打ったのであった。
「まあ、あたしは構わないけど……」
何とも言えない表情で、あさぎは応じた。「すみません。いつもみたく、調子合わせてくれませんか」――耳元でそう囁かれて、その通りにはしたものの、どうも釈然とはしなかったのだ。
「あそこまでする必要があったの? ちょっとやりすぎだと思うんだけど」
「じゃあ、抱きしめた方が良かったですか?」
そっちの方が、かえって身体密着しますけど、と付け加えて、越智は包帯の巻き終わりをテープで留めた。
「あのカッコだったら、手首以外には一切触れずに済むでしょ? それでいて、相手に与える視覚的効果は抜群だ――まあ、抜群すぎて、さっさと反転してもらえなかったことだけは想定外でしたけど。おかげで、あんな茶番にまでお付き合いさせることになっちゃって……あれこそ、ちょっと悪乗りしすぎましたよね。ほんと、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げ、立ち上がる。それから、ふっと口角を上げた。
「でも……もう、俺からはこういうお願いはしませんので」
「え?」
聞き返してから、そうか、とあさぎは合点した。
『田島に俺が翠川とデキてるとかヘンな誤解されちゃって、マジで困ってるんですよ。ちらっと聞いたとこじゃ、それネタに俺のこと辞職に追い込むんだ、なんて張り切っちゃってるとか――』
そう言って、越智はカムフラージュへの協力を頼んできたのだ。その田島が、あさぎを越智の彼女、もしくは彼女候補と認定して、攻撃を仕掛けてきた。すなわち、もはやカムフラージュの必要はないということだ。
「あ、だけど……ちょっと待って。そしたら、何で最後の最後であんな真似なんかしたの?」
桝本がいないということで、保健室は基本的にカーテンを閉めたうえで施錠されている。あさぎたちはその鍵を開けてここに入ったが、手当てが終わったらすぐ出るつもりでいたので、カーテンまでは開けていなかった。つまり、越智は明らかにドアの外にいた人間――悠希だけに向けて、あんなことをしたのだ。
「あたしが攻撃を受けた時点で、当初の目的は達成されたはずでしょ? なのに、どうしてあんなダメ押しみたいなことを、よりによってあの子の前で――」
「あいつの前だからこそ、ですよ」
口角を上げたまま、越智は答えた。
「あいつに不用意に俺のまわりをうろうろされて、それが田島の目についたり、噂になって耳に入ったりしたら、元も子もないでしょ?
だから、例えば、ただ喋ってる、とか、怪我の手当をしてる、とかじゃなくって、もっと決定的に、二度と俺に近づきたくなくなるようなシーンをわざと見せたんです。あいつの性格だったら、それを誰かに言うような心配もありませんし」
「ふうん……」
相槌を打ちながら、あさぎは腕を組んだ。
「それで……越智君自身は、いいの?」
あえてもう一度「越智君」と呼んだのは、教員としてではなく、彼個人の本音を知りたかったからだった。
口角は上がっていても、越智は決して本気で笑ってはいなかった。そればかりではない。あさぎの膝枕の上で甘えるようにあれこれ訴えていたそのときも、本当はずっと、今にも泣きそうな顔をしていたのだ。悠希に背を向けていたのも、それを見られたくなかったがゆえだったのだろう。そんな彼が、心の奥底では何を思ってあんなことをしたのかを、何としても確かめたかった――「今度こそ」、手遅れになることなどないように。
だが、越智の表情は変わらなかった。VIVID XXL
「さあ……何のことでしょう」
むしろ、にこやかさに磨きまでかけて、しれっと問い返してくる。ふう、とあさぎはため息をついた。そして、思い切って爆弾をぶち込んだ。
「あたし……ほんとは知ってたよ、キミが誰に助けを求めてたのか。確かに言ってたこと全部は理解できなかったけど、『ヘルプミー』ぐらいは聞き取れたし、呼んでた名前も日本の名前だったもの。
おまけに、その直後にあんなお願いなんかされたから……申し訳ないけど、臼井先生と、それに先生を通じて翠川佐和さんからも、キミたちのこれまでのことを少し詳しく聞かせていただいたの。返事が遅れたのはそのせいで、最終的にイエスの返事をしたのも、その話を聞いたうえで、キミが本当はどういう思いでそんなことを頼んできたのかが理解できたから――あたしなりに、だけど」
初めて、越智は少しだけ表情を揺らした。さすがにこれは予測していなかったらしい。頭の中を整理するようにしばし視線をさまよわせ、やがて皮肉っぽくフンと鼻を鳴らす。
「なるほどね。それで俺に同情して、心配して下さってるわけですか。それはどうも――」
「そうやってまぜっ返してごまかさないの!」
ぴしりとあさぎは遮った。
「それに、あたしが同情してるのは、あの子の方。かわいそうよね、そこまで信用されてないなんて。
さしずめ『俺が守ってやらなきゃダメなんだ』みたいに思ってるんでしょ、キミは。だからこそ、自分の本音を押し殺してまで、こんな、気持ちとは真逆のことばっかり……
でもね、それが、そもそも間違いなの。女はね、何にも知らずに男にぬくぬく守られてることなんか望んでない。何もかもを分かち合って、一緒に闘うことをこそ望んでるんだから!」
越智の眉根が、訝しげに寄った。明らかに一般論とは一線を画す何かが、あさぎの口調には含まれていたのだ。
「あの、水城先生……ダーリンと、何かありました?」
「ああ……ごめん。確かに私情が入っちゃったね。これじゃ、説得力も何もあったもんじゃないわ」
素直に認めて、あさぎは首をすくめた。そして、さらりと続けた。
「別れたの」
「へっ?」
越智の声が裏返った。
越智の言葉が、何度も何度も脳内で再生されていた。今までに聞いたこともないほど弱々しく、切なげな声音が。
『何か、疲れちゃったんだもん。先生になるために港山高《ここ》に就職したはずなのに、気がついたらそれ以外のことばっかで手一杯になっちゃってさ』
『生徒に手ぇ出してるなんて妙な疑いはかけられるし』
『あさぎさんに何かあったら、俺……』
(やっぱり、先生、迷惑してたんだ)
六月のあのときのように、悠希の知らないところで、越智は、あんなにもくたびれ果てるほど神経をすり減らしていたのだ。噂にならないように、そのせいで問題にならないように――そして、そんな彼の心を癒してくれたのが、一番身近にいたあさぎだったのに違いない。
(カムフラージュなんかじゃ、なかったんだ)
カムフラージュというのは、できるだけ多くの人の目に触れるようにするものだ。でも、あのとき、保健室はカーテンがすべて閉まっていて、外からは中の様子が見えなかった。ドアは開いていたものの、二人ともこちらなど見てもいなかったから、たぶん悠希がいることには気づいていなかったのだろう。そんな状況で出てきた言葉なのだ、きっと掛け値なしの真実に決まっている……
「……かわ。翠川! どこ行くんだよ!」
不意に、腕がぐいっとつかまれ、後ろに引き戻された。
「は……な、しま……?」
夢から覚めたように呟いたのと、目の前を轟音を立ててトラックが通過したのとが、ほぼ同時だった。いつの間にか、ふらふらと学校の外へ出てしまっていたのだ。
「バカ、おまえ……」
それだけ言うと、花島は、はあっと大きく息をついた。かなり慌てて追いかけてきたのだろう、眼鏡が微妙にずれている。
それが目に入った瞬間、何故かフッと気が抜けた。
「……っ、ううっ……」
必死に歯を食いしばったのに、勝手に嗚咽が漏れて出る。花島が、一瞬驚いた顔になった。が、すぐに表情を和らげ、この前のように、そっと悠希の頭を抱き寄せる。
これが、とどめになった。
「う……う……うわぁぁ……っ……!」
不器用に泣き声を上げると、悠希は相手の胸元にすがりついた。
完璧に、越智は混乱していた。青天の霹靂とはこのことだった。別れた? あさぎが、中《あたり》と……?
「だけど……だって、夏には旅行に――」
「実はそのときに、みたいな?」
苦笑いして、あさぎはあとを引き取った。
「あたしは暢気に普通の旅行だと思ってたんだけど、あっちは最初っからそのつもりだったみたい。宿に着くなり、いきなり土下座して……何もかも、ぶっちゃけたの。田島との間に何があったのかも、キミに何をしたのかも」
越智の双眸が、愕然と見開かれた。せわしなく視線が動き、口がかすかに開いたり閉じたりを繰り返す。けれど、結局言葉にはならなかった。
「だから、あのときキミは何にも話してくれなかったんだね。ありがとうね、ずっとあのひとをかばってくれてて」
そんな越智を見やって、しみじみとあさぎは言った。
「それでね、あのひと、『すまなかった、ほんとにすまなかった』って、何度も何度も頭下げて、『自分みたいなしょうもない男にキミを幸せにできるはずはないから、別れてくれ』って……たぶん、もう限界だったのね。そうやってひとりで抱え込んでるのが。
そうそう、越智君に途中まで送ってもらったじゃない? あれにも、あのひとなりの思惑があったみたいよ。早い話が、『縁結び』的な? 越智君にだったら、あたしのことももっとちゃんと守れるかもしれない、とか何とか言っちゃって。もちろん、越智君は、あたしにとっては弟みたいなもんだし、越智君にしても、あたしのことはウザい姉ちゃんぐらいにしか思ってないんだから、絶対にそういうことはあり得ないってソッコー言い切ってやったけどね」
「それ、で……」
やっとのことで、越智は喉の奥から声を引っ張り出した。
「承知、したんですか? 別れること」
「するしかないでしょ」
さばさばと、あさぎは言い切った。
「追いすがったって、余計に苦しめるだけだし……それに、あのひとは、あたしを盾にされて田島のイヌになってたんだよ? だったら、あたしとの関係が切れれば自動的に解放してあげられるじゃない。
ただね、悔しかった。何で何も言ってくれなかったのか、そこまで自分は信頼されてなかったのかって。まあ、あたし自身が、所詮はそれだけの女だったってことなのかもしれないけど」
ちらりと、その横顔に影が走る。しかし、即座に彼女はそれを消し、笑って見せた。
「とまあ、こんなわけでね、キミたちのことも、なぁんとなく他人事に思えなくって。それに、すべてを知ったときに、あの子がどんなふうに思うのかってことも予測がついちゃったんで、ちょっとお節介言わせてもらっちゃったの。まあ、あたしらとキミたちとでは抱えてる事情が違うから、一概にすべてが当てはまるわけじゃないだろうし、全面的に後押ししてあげるわけにも行かないけど」
越智は目を伏せた。が、ややあって口から出てきたのは、相手に対する返事ではなかった。
「……そろそろ、行きましょうか。あんまり持ち場空けっぱなしっていうのもアレですし」
花島に校内まで連れてきてもらい、昇降口とは反対側にある職員用出入口の傍の水道でもう一度ざぶざぶと顔を洗って、ようやく悠希は落ち着いた。
「……で、どうしたの」
彼女が顔を拭き終わるのを待って、花島がおもむろに口を開いた。
「里中から、オーを捜しに行ったんだって聞いたけど……何か言われたの? あいつに」
「うん……」
こくりとうなずくと、悠希はぽつりぽつりと語った。保健室で、越智とあさぎを見かけたこと。越智が、あさぎに甘えるように愚痴を零していたこと――さすがに、彼女をベッドに組み敷いていたことまでは言えなかったけれど。
「それでね、生徒との関係を疑われたりして疲れた、もう嫌だって、すごく迷惑そうに言ってて……それって、きっとあたしの――」
「そっか。それは……ちょっとキツかったな」
悠希の気持ちを、優しく花島は掬い取った。今になってずれているのに気づいたのか、少しはにかんだ顔つきになって眼鏡の位置を直し、考え考え言いかける。
「でもさ、それって例によってカムフラージュ――」
「違う、そんなんじゃない!」
大きくかぶりを振って、悠希は反駁した。
「誰も見てないとこで言ったんだよ? 絶対そんなことあり得ない!
っていうか、最初っからカムフラージュなんかじゃなかったんだよ。夏休みのあのときから、あの二人は本気で……! だから、もうそんなことなんか言わないで。そんな気休め、もうたくさん……!」
半ば叫ぶように言ってしまってから、それが明らかに失言だったことに気づく。
「……ごめん」
ため息とともに、悠希は顔を覆った。福潤宝
「あたし、ハナシマに甘えてばっかだ。ハナシマの気持ちには全然応えようとしないくせに、こういうときばっかり、その気持ちに甘えて……挙句の果てに、こんな八つ当たりまでするなんて。ほんと、ズルいよね。どんだけ嫌な――」
そこで、彼女は言葉を呑んだ。
「……そんなこと、俺は思ってない」
悠希をしっかりと抱きしめて、花島は囁いた。
「たとえそうだとしても……それでも、俺は構わない」
熱を帯びた吐息が耳朶にかかり、もっと熱い唇が落ちてきた。
廊下を歩いていた越智の足が、ぴたりと止まった。
「どうしたの――」
怪訝に尋ねかけて、あさぎも目を瞠った。
職員用出入口のガラスの向こうに、花島と悠希がいた。誰も来ないとでも思ったのだろうか、しっかりと抱き合い、唇を重ね合って。二人とも初めてなのだろう、傍目にもはっきりわかるほど何もかもがたどたどしいのだが、それだけに、必死に互いを求め、相手に応えようとしているのが、痛々しいまでに伝わってくる。
「なぁんだ。水城先生の考えすぎだったじゃないっすか」
やけに明るい声が、頭上から降ってきた。
「越智君――」
「いいんですよ。あれこそが、『あるべき姿』だ」
あさぎを制して、越智はにかっと笑った。
「ただ、TPOだけは一応わきまえてもらわないとね。何せ、ウチのクラスのツートップですし。ってことで、ちょっと指導行ってきます。ナンだったら、先行っててもいいっすよ」
言うが早いか、さっさと彼はそちらの方へ走って行った――まるで、それ以上の追及をされまいとしているかのように。
ガラリとガラス戸が開いた。
「こーらおまえら! まだ体育祭は終わってねえぞ」
ばね仕掛けの人形のように、パッと二人は離れた。悠希の顔が、みるみるうちに紅潮して行く。
(見られた……先生に、見られちゃった……!)
思ってしまってから、いけない、と顔をしかめる。
そんなことを気にする必要などないはずだった。花島に耳たぶにキスをされたときに、決めたのだから――もう昔は振り返らない。前だけを見て進もう、と。花島となら、それができると思った。顔を見ただけで安心できて、いつも傍で見守ってくれていて……何よりも、悠希の至らないところまで含めて「それでも構わない」と断言してくれた彼となら。
だから、そのキスが額に移り、頬を通って唇に落ちてきたときも、目を閉じたまま相手にすべてをゆだねたのだった。初めて触れた唇は、決して甘くもなく、恋愛小説などでよく描写されるような痺れや切なさももたらさなかったけれど、花島の印象そのままに、温かくて心地良かった。ああ、これならきっと大丈夫だ――反射的にそう思い、そう思えたことが本当に嬉しかった。それなのに……
(あー、何やってんだろ、あたし)
これでは、まるで未練たらたらだと自ら宣伝しているようなものだ。花島にだって、あまりにも失礼すぎる。実際、それが伝わってしまったのだろう、花島は、今にも飛びかかりそうな目をして越智を睨みつけている。
ところが、花島の口が動く前に、事態が動いた。
「っつーか、遅え、花島」
「え?」
「おまえよ、『かっさらう』っつーのは『ソッコーさらってく』っつーことじゃねえか。なのに、宣言してからここまで来んのに、なーに半年近くもかかってんだよ」
揶揄するように言うと、越智は花島の肩をトン、と軽く拳で突いた。
「でもまあ、これでようやくひと安心だわ。副担としても、『おにーちゃん』としても」
ハッと悠希は越智を見直していた。視線がぶつかる。越智は、深く、しっかりとうなずいてみせた。
(ああ……そうか)
すとん、と何もかもが腑に落ちた。越智にとって、悠希はあくまでも一生徒。仮にそれ以上の思い入れがあったとしても、文字通り「兄」のそれにすぎないのだ。だから、悠希と噂になってしまえば普通に困るし、悠希が花島と付き合ってくれれば、それにこしたことはない――つまりは、そういうことなのだろう。
……ならば。
「でっしょぉ?」
大げさなぐらいに明るく言うと、悠希は自分から花島の腕を取った。今度は花島がかあっと赤面したが、構わず、にっこりと最上の笑顔を越智に向ける。
「だから、おにーちゃんもさっさと落ち着きなさいよね。まあ、保健室でいちゃついてるほど仲良しなんだから、余計なお世話かもしれないけど?」
そして、足早にグラウンドへ足を向けた。これで、良かったんだよね――心中で、そっとそう呟いて。
「うっわぁ、手痛いしっぺ返し食らったわね」
後ろから、あさぎの声がした。
「やっぱり、あんな教員にあるまじき行動なんかに走ったから、バチが当たったんじゃないの?」
苦り切って、越智は振り返った。
「先行ってていいって言ったのに」
「そんなことしたら、今頃ひとりで泣いちゃってたでしょ?」
「なっ……」
そんな失礼な、と反駁しようとした刹那、そっと手を取られる。
「ほら。やっぱり傷がついてる」
ゆっくりと越智の握った拳を開いて行きながら、あさぎは静かに言った。その言葉の通り、手のひらの、ちょうど爪が当たっていた位置が何か所か切れて、うっすらと血がにじんでいた。
「これは……爪がちょっと伸びすぎてたからで」
「だからって、ただ握ってただけならこんなふうにはならないわよ」
あっさりと、あさぎは切り返した。それから、両方の手をふんわりと重ね、越智の傷ついた手を包み込む。
「ダメだよ、ひとりで全部背負い込んだりしたら。そんなことしてるから、過呼吸にだってなっちゃうんじゃないの」
「やめて下さいよ、こんなところで」
ますます苦い顔になって、越智はあさぎの手を振りほどいた。額面通りの理由もさることながら、彼女の指摘が、腹が立つほど的を得ていたからでもあった。
「それに、だからって水城先生が癒してくれるわけでもないでしょ?」
早々に話を終わりにしたくて、お決まりのセリフを口にする。ところが、返ってきた答えは、お決まりのそれとは違っていた。
「いいわよ。別に誰に遠慮が要るでもなし」
まじまじと、越智は相手を凝視した。
(ったく……どこまでド天然なんだよ)
それがどれほど思わせぶりな発言なのか、わかって口にしているのだろうか?
(いや、わかってねえだろうな)
だからこそ、あの田島につけ入られるようなことにだってなったのだろう。
「……ねえ、先生」
くしくし、と指で額をこすって、越智は牽制球を投げた。
「言っとくけど、俺、ダーリンほど紳士じゃないっすよ?
思い出すのも嫌なんで詳しくは語りませんけど、早い話が荒れた家庭で育ちましてね。そのせいで、思春期に突入する頃には、かなり女性不信っつーか、恋愛不信っつーか、そんなふうになってて。さすがに教採(教員採用試験)受けるって決めてからは自粛しましたけど、それまでなんか、『どうせ女なんてヤれりゃいいんだ』みたいな感じで、そりゃあもう取っかえ引っかえ――」
「あら、それってかえって好都合じゃない」
「へ?」
「要は、何もかも一夜限りのことにできるってことでしょ?」V26
即効ダイエット
虚を衝かれた越智に向かって、にっこり笑ってあさぎは続けた。
「お互い想う相手は別にいるんだもん、それぐらいの方が後腐れがなくっていいじゃない。パーッと飲んで、パーッと騒いで、明日の朝にはスパッと何もかも忘れちゃお? よし、けってーい!」
「え、ちょ……」
慌てて越智は制しかけたが、そこで口をつぐんだ。笑っているはずのあさぎの瞳が、うっすらと潤んでいるのに気づいたのだ。
「……なるほどね。ギブアンドテイクってやつっすか」
本当に「癒し」を必要としているのは、あさぎ自身なのかもしれない。
『(承知)するしかないでしょ。追いすがったって、余計に苦しめるだけだし』
口ではそう言っていても、決して心の底から吹っ切れていたわけではなかったのだろう。
「だったら、いいっすよ」
あさぎに一方的に世話になるというのならば、断固御免こうむりたかった。が、男の性《さが》とでも言うべきか、こうして暗に助けを求められてみれば、意外にも悪い気はしなかった。それに、彼女の言う通り、「スパッと何もかも忘れる」ことも、今の自分には必要なのかもしれない――もはや、悠希と行く道が重なることは永遠にあり得ないのだろうから。
「昔のバイト先で、ここの教員《メンツ》の行くとことは絶対ブッキングしない店があるんで、とりあえずそこ行きましょ。詳しいことは、あとでまたメールしますよ」
「うん、了解」
一度目を閉じて涙を抑え込むと、あさぎは再びにっこりした。
「でも、その前に、おんぶ」
「はい?」
「だって、さっきからずうっと立ちっぱなしで話してたんだもん」
少しだけ口をとがらせ、上目づかいに越智を見上げてあさぎは訴えた。
「ひねったとこ、また痛くなってきちゃった」
「……はいはい」
苦笑すると、越智は相手に背を向けてしゃがんだ。
体育祭同様、好天に恵まれた翌週末、「みなと祭・文化の部」が開催された。
1年C組の催し物は喫茶店だった――と言っても、学校の教室でするものだし、衛生面について保健所からあれこれうるさく言われていることもあって、せいぜい飲み物と出来合いのサンドイッチやケーキ、お湯を掛けて作る焼きそばやパスタぐらいしか出せないのだが。
ただ、出来合いとはいえ、サンドイッチとケーキは栞の肝煎りで「リストランテ・サトナカ」の品を使っていたので、じきに噂が噂を呼び、一時間もしないうちに店はてんてこ舞いになった。
特にお昼時は戦争状態だった。その時間帯、悠希は裏方で、家庭科室で沸かしたお湯をポットに入れて運んでくる係を受け持っていたのだが、お湯は飲み物にも食べ物にも使うので、何往復しても、すぐに足りなくなった。まさか、お湯如きのせいで足がパンパンになるとは思ってもみなかった。明日には、腕も筋肉痛になっているかもしれない。
そして、裏方の担当時間が終わると、休む間もなく今度は接客係にチェンジする。
「えーっと、ご注文は……アイスコーヒーと、オレンジジュースと、チョコレートケーキ――」
「チーズケーキです」
「え? あ、申し訳ありません!」
アルバイトの経験もないうえに、外食自体にもあまり縁がなかったのが災いして、自分でもがっかりするような要領の悪さだ。自己嫌悪に駆られつつ、オーダー伝票を持って奥に引っ込もうとすると、ひときわ明るくはきはきした声が響いた。
「ご注文繰り返します。ツナサンドひとつとタマゴサンドひとつ、お飲み物はコーヒーとウーロン茶がひとつずつですね? かしこまりました。では、しばらくお待ち下さーい!」
栞だった。やはり親の背中を見て育ったというのは大きいのか、すべてが堂に入っている。オーダーを伝えに来るついでに、ほかのテーブルからササッと空いた食器を下げて来るあたりも、いかにも手慣れた感じだ。
「あたしも、バイトとかした方がいいのかなぁ」
すれ違ったついでに、ふとそう呟いてみると、さりげなく即答を避けられた。
「ま、人間、誰でも向き不向きがあるからね」
……すなわち、よほど向いていないということなのだろう。
二時近くなると、少しずつ店内も落ち着いてきた。
「あと十分ぐらいでシフト終わりだね。このあとユーキは?」
「うん。写真部の方の受付もあるから……」
「うわ、忙しいねぇ!」
栞とそんな会話を交わしたところで、厨房係から「ホットコーヒー二つ、お待ち!」と声が掛かった。
「あ、これ出したとこで上がったら?」
「うん、そうする」
栞の提案にうなずくと、悠希はトレーを持って、オーダー伝票に書かれた番号のテーブルに向かった。
その足が、突然凍りついたように止まった。そこには、越智とあさぎが座っていた。しかも、息が掛かりそうなほど顔を近づけて、ひそひそと何か喋っている。
(何、話してるんだろ……)
どうにも気になって、わざと死角の側からそっと近づいてみた。それが、最大の失敗だった。
「ええっ、絶対打掛(うちかけ)だって。せっかく『ニッポン女子』に生まれたんだし」
「そうぉ? でも、あたし、締めつけられるのって嫌いなのよねぇ」
「あー、それは俺もわかる! 羽織袴とか死んでも嫌《や》だもん。まあ、この顔じゃそもそも似合わないっつー噂も高いんだけど」
それから、どうやって二人に給仕をしたのか、悠希は全く覚えていなかった。覚えていたのは、ただただ、衝撃ばかりだった。
(先生、カンペキにタメグチになってる……)
この前も甘えてタメグチはきいていたけれど、どこか遠慮がちで、ここまでくだけた雰囲気ではなかった。おまけに、どう考えても、あれは結婚式の衣装の話に決まっている。ということは、まさか……OB蛋白の繊型曲痩
Ⅲ
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