しばらく、雨の日が続いていた。
土日を挟んで五日間ほど降っている。梅雨は明けたはずなのに、七月なのに長々と降り続いている。こういうのを戻り梅雨と言うらしい。戻ってこなくていいのに。
雨の日の登下校は憂鬱になる。ハーレーには乗ってこれないし、傘を差さなきゃいけないし、制服にはねが上がると母さんががみがみ言うし、いいことなんて一つもない。SPANISCHE
FLIEGE D9
アイスを食べる為の寄り道だって、出来ない。
いや、節約中なんだけどな。毎日買い食い出来るほどの余裕もないんだけど、あれから放課後になると少し気になって、あの公園を覗いてみたりした。雨の降る帰り道、一人きりで傘を差しながら、公園の前をふらっと通りがかって、それから中にも入ってみた。メタリックグリーンの自転車が停まっていることはなかったし、木陰の青いベンチには誰の姿もなかった。当たり前だけど、雨の日は牧井も寄り道をしないらしい。
俺が一人でいるということは、牧井だって一人でいるはずなのに。どうしているか考えかけて、そこまではわからないよなと苦笑したくなる。
ただ、一人の帰り道でもそんなに寂しがってなければいい。一人なのは牧井だけじゃない。似た者同士、俺だってそうだ。お仲間がいるんだから、そんなに寂しがらないでくれたらいいな、なんて思う。
実は、俺に『戻り梅雨』という言葉を教えてくれたのは牧井だったりする。
「こういう雨が続くことを、戻り梅雨って言うんだって」
「へえ、初めて聞いた。戻ってこなくていいのにな」
「本当だね」
率直に感想を述べたら、牧井はそれがおかしかったらしく、ころころ笑ってみせた。こんな風に時々、短い会話を交わすことが多くなっていた。
雨の日の放課後に会うことはなくなっても、教室ではよく会う。クラスメイトだから当然と言えば当然だ。今までは同じクラスにいても口を利く機会さえなかったけど、接点を持った以上は話しかけない理由もなかった。登校した直後とか休み時間に、ちょくちょく声を掛けていた。
「牧井、彼氏出来た?」
挨拶代わりに尋ねる。すると牧井はかぶりを振って、逆に尋ね返してくる。
「ううん。進藤くんこそ彼女出来た?」
「ぜーんぜん。出会いすらないよ」
こっちの答えはとうに決まっている。目下、彼女の出来そうな気配もない。誰か可愛い女の子とお近づきになれたということもないし、棚からぼたもちみたいに告白されるなんてこともない。
「夏休みに間に合うかな」
ぼやく俺に牧井は言う。
「間に合うといいね、進藤くん」
励ましみたいに言ってくれるから、何となくくすぐったくなったり、照れたくなったりする。牧井はいい子だ。彼氏がいないのが信じられないくらいにいい子だ。きっと見る目のない奴ばっかなんだろうな。
俺も夏休みに間に合えばいいなと思っているけど、でも夏祭りの予定は既に立ってしまったし、間に合わなきゃ間に合わないで別にいいよなとも思い始めていた。夏祭りはしょうがないから大和と黒川と、それから牧井と、四人で行こう。その後の夏休み期間でじっくりと彼女を作る、って計画でどうだろう。それなら焦る必要もない。
でも牧井には、顔を合わせる度に聞いてしまう。
「もう彼氏出来た?」
「さっき聞いたばかりなのに、そんな簡単に出来る訳ないよ」
教室の中でも牧井はよく笑う。俺の他愛ない言葉にもころころ笑ってくれる。特に親しげな会話をしている訳でもないのに、そうやって楽しそうにしてくれる牧井は、やっぱりいい子だ。
「それにしても、戻り梅雨って奴、続くなあ」
教わったばかりの言葉を口にしつつ、教室の窓から外を見る。それほど激しくはない、だけど途切れない雨の毎日。うんざりする。
牧井も一緒になって窓を見てくれた。外の景色を眺めて、やっぱり溜息をついていた。
「早く止んでくれるといいね。買い物に行けなくなっちゃう」
「買い物?」
「うん。夏祭りに備えて、美月と一緒に買い物に行く約束をしてるの。でも雨が降ると荷物になるから、天気のいい日にしたいなって」
そういう話を穏やかに語る牧井。
最近では寂しそうにしている様子もなくて、こっそり安心している。相変わらず大和と黒川は仲が良くて、雨が降ってても一緒に帰ってるけど、教室で見かける牧井は元気そのもの。だからきっと、大分立ち直ったんだろう。よかった。
一方の大和は、俺と牧井が教室で話していると、いつも遠くから視線だけを向けてくる。
「割って入ったら邪魔かと思ってな」
なんて訳知り顔で言っているけど、本当は俺たちに、黒川とのことをからかわれるのが嫌なんだろう。俺と牧井の会話には絶対加わってこない。そのくせ後になってから、からかうようなことを言ってくる。
「颯太、牧井と随分仲良くなったんだな」
意味深な物言いをされたから、鼻で笑ってやった。
お前が言うな。絶対、自分がからかわれる前にこっちをからかおうって魂胆だ。
「あいにくだけど、俺と牧井はお前らと違って、あまーい会話なんてしてないから」
たっぷりと意味深返しをする俺に、大和はぐっと詰まってみせる。
実際、大和が黒川に甘い台詞を囁く姿なんてこれっぽっちも想像出来ないけど――って言うか想像しただけであちこち痒くなるけど、詰まるからにはそういうことも言っちゃってるんだろう。いやー痒い痒い。
「でも、毎日のように話してるだろ」
負けず嫌いの幼馴染みが食い下がってくる。
「珍しいよな、颯太が女子と普通に仲良くしてるなんて。今まではせいぜい喧嘩腰で接してる程度だったのに」
「そりゃあ」
俺からすると、女子の中でも牧井と黒川は別格のいい子だ。話しやすいし気負わなくて済む。他の女子だとなかなかこうはいかない。
「牧井は俺のこと、チビって言わないからな」
口の悪い連中は気にしてることを遠慮なく言ってくるからむかつく。背が伸びても百五十五センチ止まりの俺は、いつも大和と一緒にいるせいか、余分にちっちゃく見えるらしい。小学校時代からチビチビ言われていた。そういう女とは絶対に仲良くしたくないから、こっちもターミネーターばりに喧嘩を買ってやった。お蔭で女の子についてはいい思い出がない。俺の初恋がまだなのも、そういうところに理由があるんだと思う。
牧井や黒川は、俺をチビだとは言わない。牧井なんて『そんなに気にすることないんじゃないかな』とさえ言ってくれた。本当にいい子だ。もし俺よりちっちゃい子だったら、好きになってたかも、なんてな。単純過ぎるか。
「言わないだろうな」
大和は相変わらず、わかった風な口調をする。
「だって牧井って、颯太と同じくらいの背丈だろ?」
「ってか、ぴったり同じ」
「そうだと思ってた。だったらお前の身長をあれこれ言ってくるはずない」
確かに、牧井からすれば俺がチビってことはないもんな。でも牧井はそういう理由じゃなくて、人の嫌がる言葉を口にしない子なんだ。まだちょっとしか話してないけど、わかる。
大和とは、放課後こそ一緒に帰らなくなったものの、昼休みは前と同じように過ごしていた。過ごすと言っても一緒に飯食うってだけだけど。教室の俺の席に、大和が椅子だけを持ってきて、ちっちゃい机を囲んで食べる。俺たちは揃ってコンビニのパン派だ。
「で、颯太は牧井と、どんな話をしてんだよ」
大和がそわそわと尋ねてくる。案の定、自分の話をされてやしないかと気が気じゃないらしい。してるんだけどな。
ともあれ口ではこう答えた。SPANISCHE
FLIEGE
「別に普通の話。授業のこととか、天気のこととか、夏休みのこととか。こないだは『戻り梅雨』って言葉を習った」
「へえ」
なぜか疑わしげな目を向けてくる大和。どうでもいいところで神経質な奴だ。そのくせ無駄に口が堅かったりするし――あ、そうだ。
「それと、夏祭りの話も聞いてた」
俺が例の件を切り出すと、大和もちょうど思い出したみたいに表情を変えた。
「ああ、それな。俺も美月から聞いた。お前も行くって言ってくれたんだってな」
知ってたのか。まあそれは別にいいけど、知ってたんだったらとっとと言え。あれきり大和からは何も言われなくて、どうなったんだろうと首を捻ってた。牧井とはちょこちょこ夏祭りについての話もしてたし、本決まりになったみたいだなとも思っていたけど。
そしたら、言いにくそうに付け加えられた。
「けどほら、何つーかその、うっかり忘れてた」
がっくりした。
「忘れんなよ! 大分前からそっちで勝手に決めてたくせに!」
「悪い」
俺が声を上げると、大和は手を合わせて、済まなそうに続けた。
「実は迷ってた。美月に、牧井も誘いたいって言われて、一緒にお前を誘うかどうか」
「嘘つけ。誘う気満々だったくせに」
牧井から聞いてるんだからな。大和が変な気の回し方をしたこと。
突っ込んでやるつもりで言い返したら、何だか複雑そうな顔をされた。
「嘘じゃない。そりゃ誘う気はあったけどな、これでも迷ったんだ。颯太には申し訳ない誘いだよなと」
「まったまた心にもないことを」
「馬鹿」
軽くいなした後で大和が言った。
「とにかく、颯太が牧井と仲良くなってくれて助かった」
俺も、結局はその言葉に同意した。
「まあな。四人で行くのもやぶさかでもないって感じ」
正直言ってこのメンツなら悪くない。何だかんだで結構楽しいはずだと思う。大和と黒川と牧井と、四人で行く夏祭りを、俺は割と楽しみにさえしていた。
「そう言ってくれるとありがたい」
大和が胸を撫で下ろす。それから教室の窓に目を向ける。
昼休みの時間だってのに、空の色はどんより暗い。戻り梅雨はまだ続いている。早く止んでくれないと、牧井たちの買い物が夏祭りに間に合わなくなりそうだ。まだ一週間以上はあるんだけど、それでもだ。
「近いうちに、リハーサルでもするか」
不意に大和はそう呟いた。
リハーサルって何だ、そう聞き返す前に苦笑された。
「だから夏祭りのだよ。四人で出かけるのがどんなもんか、慣れときたいし」
何だか、こいつが一番気負ってるみたいな口ぶりだった。
リハーサルと言うのはつまり、四人で出かけることだったらしい。
夏祭りに備えて、黒川と牧井が買い物に行くと聞いていた。雨の日は荷物がかさばるから、行くなら晴れの日になるだろうと。牧井がほのぼのと予定を語っていたから、久し振りに友達同士で出かけるのかな、牧井もきっとうれしいだろうな、と思っていた。
だけどその買い物に、なぜか大和と俺まで同行する羽目になった。
戻り梅雨もようやく一段落した日の放課後、俺たちは連れ立って学校を出ようとしている。
「男の子の意見も聞いてみたかったから」
と、黒川はどこか恥ずかしそうに理由を述べる。
「どういうのがいいか、アドバイスを貰えたらうれしいな」
「どういうのって言われても、そもそも何を買うんだ?」
例によって俺には事前情報が皆無だった。
朝、登校する際に会った大和は、いきなり『放課後空けとけ』とだけ言ってきた。てっきり、久々に二人でどっか行こうって話だと思ってたのに、放課後になったら四人で出かけることになってた。
今は生徒玄関で靴を履き替えているところ。黒川だけが別のクラスだからか、さっさと外靴に替えて戻ってきた。俺と大和と牧井は、まだ靴を履いている。
ここに来てもまだ、俺はどこへ何を買いに行くかを全く知らない。アドバイスが必要なものって何だろう。
「言ってなかったっけ」
しれっと言う大和。悪びれないそぶりに睨みつけてやりたくなった。
「聞いてない。お前、『放課後空けとけ』しか言ってないだろ」
「前から話してたような気がしてたんだよ。気のせいだったか」
ぎこちない大和の言葉。それを聞いた牧井がなぜかくすくす笑う。その後で教えてくれた。
「進藤くん。今日は浴衣を買いに行くんだよ」
「――浴衣!?」
思わず声が裏返った。
なるほど浴衣か。そうだよな、夏祭りと言えば浴衣だ。女の子の浴衣はいい。嫌いな奴はそうそういないと思うけど、ご多分に漏れず俺も大好きだ。何たって女の子が着ると、皆お行儀のいい、おりこうさんに見えるのがいい。普段は口の悪い子でも浴衣を着るとしっとり落ち着いて見えて、いつもこうならいいのになあと思えてくるし、もちろん普段からおりこうさんな子が着てたってすごくいい。と言うか黒川も牧井も絶対浴衣が似合うと思う。きっと可愛いに違いない。
とそこまで考えた時、黒川も笑い声を立てた。
「進藤くんは浴衣、好き?」
「もちろん!」
全力で答える。夏祭りも黒川と牧井が浴衣で来るのかと思うと、俄然テンション上がってくる。楽しみ過ぎる。
「そっか、よかった」
黒川は一旦胸を撫で下ろしてから、ちらと大和の方を見る。恐る恐るといった調子で水を向けた。
「あの……飯塚くんは、どうかな」
わかりやすいくらいに聞き方が違う。
いやいいんだけど、むしろこっちが本題なんだから、俺に寄り道しないでとっとと大和にだけ聞けばいいのに。
聞かれた方もあからさまにうろたえてるから面白い。
「俺も、嫌いじゃない」
ぎくしゃく答える大和の姿が新鮮で、こっそり笑ってやろうと思った。だけど器用な真似も出来ないくらいおかしくて、つい盛大に吹き出してしまった。
そしたら睨み返された。
「笑うな」
「わ、悪い。面白くってさ」
大和だって浴衣、大好きなくせに。嫌いじゃないって何だ。はっきり言えよなあこういう時こそ。彼女が期待してるんだから。Motivator
「よかった」
それでも黒川はにこにこしている。頬っぺたを少し赤くして、俺たちに向かって笑いかけてきた。
「二人とも、アドバイスよろしくね」
まあでも要するに、黒川としては愛しのダーリンの好みが聞けたらいい訳であって、俺は完全なるおまけ扱いだよな。だったら二人きりで行けばいいのにとも思うけど、きっと二人で行くのは気恥ずかしかったんだろう。
大和だって、今日の買い物の内容は事前に知ってたらしいのに、俺にははっきり教えてくれなかった。照れてたんだろうな。ああもうこいつらってば想像するだけでくすぐったい。
「楽しみだね、美月」
牧井が優しく声を掛けると、黒川はうん、とうれしげに頷く。
そういえば牧井と黒川が一緒にいるところを見るのは初めてだ。そのせいか新鮮な感じもしたし、短い会話だけでも仲が良さそうだ、とも思った。顔を見合わせただけで笑っていた。
降り続いていた雨もようやく止み、今日は朝からからっと晴れていた。
空にはぽつぽつと雲が浮かんでいたけど、雨の降る心配はないらしい。代わりに気温がむちゃくちゃ上がっている。道に残った水たまりもそのうちに干からびて、消えてしまうだろう。
俺は久々にハーレーを出したし、大和も自転車で来ていた。女の子たちは二人揃って徒歩で来たのだそうだ。俺たちが愛車を駐輪場から出す間、のんびり待っていてくれた。
「買い物ってどこですんの?」
ハーレーに跨りつつ尋ねると、黒川が答えてくれた。
「駅前のデパートで。今ね、浴衣フェアやってるんだって」
「ふうん」
そういう時期だもんな。夏祭りの為に準備をするのは、何も黒川たちに限ったことじゃない。
「進藤くんと飯塚くんは先に行ってて。私たちもなるべく早く行くから」
黒川がそう言ったからか、大和も自分の自転車に乗った。俺の方をじろっと見て、短く促す。
「じゃあ行くぞ、颯太」
「おう。――後でな、二人とも」
それで俺は黒川と牧井に手を振って、二人も一緒になって振り返してくれた。大和は愛想すら見せずにさっさと漕ぎ出してしまったけど、間違いなく照れていたんだろう。しょうがない奴だ。
俺の黒いハーレーと、大和の銀フレームの自転車とは、校門を抜けた辺りでぐんぐんと加速を始める。ここからは下り坂で楽に行ける。大して漕がなくてもものすごいスピードが出る。真正面から風が吹き始めた。温くて、微かに雨の匂いがする風。
二人で帰る時はいつも、大和が先頭で俺がしんがりだった。リーチが違うから漕ぐ速さだって違うのは当たり前で、上りはともかく下り坂だとその差がより顕著に表れる。
先を行く大和の短い髪が、風にふわふわ浮いている。俺はその頭に向かって、ふと声を掛けてみた。
「大和ってさあ!」
「何だよ!」
振り向かずに返ってくる大和の声。妙な懐かしさを覚えて、にやっとしたくなる。ついでにその懐かしさの原因を突き止めたくなる。
「黒川の、どこが好きで付き合うことにしたのか、教えて!」
尋ねた後、ハーレーのハンドルを握り直す。もしもの時は急ブレーキを掛けられるように。前方、大和の両肩が目に見えて動揺したのに気付いたから。
「馬鹿颯太!」
大和は、だけどブレーキを掛けなかった。振り向きもしなかった。
坂道を直滑降の速度で下りながら、俺を見ずに、俺に返事を寄越してきた。
「そんなこと大声で聞くな!」
そう怒鳴った幼馴染みがどんな顔をしていたのか、見てみたかった。でも並走するのは難儀だから、代わりに後ろを振り向いておく。すっかり遠くなってしまった坂道のてっぺん、黒川と牧井の姿はまだない。校舎も既に見えなくなっていた。
「でもさあ、気になるんだよな」
真正面に視線を戻して、今度は普通の声で言ってみた。
「牧井から聞いたんだけど、黒川は牧井に、大和の話をしてるんだって」
背を向けている大和は無言だ。でも肩が動いた。明らかに動揺してる。
「でも大和は俺に、黒川の話とかしないよな。何で?」
気になる。聞いてみたい。
俺たちは付き合いの長い幼馴染みだけど、恋愛の話をしたことはなかった。せいぜいクラスでどの子が可愛いとか、テレビに出てるアイドルのどの子が好みかなんて話くらいで、明確に好きな子がいるかどうかの話をしたことは一度もなかった。大和のあの性格と、俺が初恋もまだしてないって事実を踏まえれば、それも当然だったのかもしれない。
今も大和は答えない。外だから、黒川に聞かれると困るから、だけじゃないと思う。
だったら質問を変えてみよう。
「大和の初恋って、いつ?」
もうじき下り坂が終わる。そこからはなだらかな道になって、駅前の商店街へと続いていく。本日の目的地であるデパートは駅前通りに面したところに建っている。
俺の質問に大和が答えたのは、坂をすっかり下りきってからのことだった。
「保育園の時!」
「――早っ!」
思わず突っ込んでしまう。
初恋が保育園児の頃なんておませさんにも程がある。相手は誰だ、保育士さんかそれとも園児か。気になるなあ。俺は幼稚園行ってたから、大和の初恋の相手を察することは出来そうにない。ああ悔しい。
「馬鹿、颯太が遅いんだよ!」
ようやく振り向いた大和は、してやったりという顔をして笑っていた。こっちまでつられて笑いたくなる。悔しいのに、おかしなもんだ。
「颯太にも彼女が出来たら、同じようにからかってやるからな」
なだらかな道の途中、横断歩道の前で二台が並ぶと、大和が強気に言い放った。
十センチ以上も高い位置にある見慣れた顔、見慣れない表情。照れと幸せと自信に満ち溢れている。
「やれるもんならやってみろ」
俺も精一杯胸を張って、その顔を見上げた。
だけど、からかってもらう機会があるかな、とも思う。ずっとなかったらそれはそれで寂しい。年齢一桁の頃には好きな子がいたらしい大和と、未だに好きな子なんていたことのない俺。
幼馴染みなのにどうしてこうも違うんだろうな。
黒川たちとの待ち合わせ場所はデパートの、ちょっと古びたエントランス。
最近見なくなった、緑色の公衆電話の前に突っ立っていたら、やがて白いセーラーの二人組が駆け込んできた。俺たちより十五分遅れだ。徒歩ならまあこんなもんだろう。
「ごめんねー、待たせちゃって!」
駆け寄ってくる黒川に、牧井が控えめな笑顔でついてくる。
「いいよいいよ、全然待ってないし」
出迎える俺が愛想よくしてても、大和は一人で照れているから台無しだ。いかにもらしいけど。
「おい、大和も何か言えよ」
肘で突いてやったら、ようやく、何事かもごもご口にしていた。俺にはちっとも聞こえなかったけど、黒川にはちゃんと伝わったみたいだ。
「進藤くんも、飯塚くんもありがとう」
そう言って、たちまち笑顔になっていた。
合流してからはすぐに浴衣売り場を目指した。
二階、婦人服売り場のサマーセール特設会場では、透明ビニールに包まれた浴衣がずらっとハンガーに掛けられて、さあ選べとばかりに陳列されていた。四角く畳んである浴衣は、浴衣って言うよりむしろ、のれん売り場って感じに見える。柄もそれっぽいし。
冷房の効いた売り場はしんと静かで、学校帰りの高校生四人は場違いな感じもしていた。デパートって制服だと浮く気がする。いわゆるセレブな奥様ばかりの客層で、照明とか床とかもちょっと上等な感じがしていて。仮に俺たちが大騒ぎしたら、即座に黒服のガードマンがやってきて、ひょいとつまみ出されそうなイメージ。さすがにそれは大げさか。
でもやっぱり落ち着かない。婦人服売り場だから、かもしれない。
「どういうのがいいかなあ」
早速、黒川が浴衣を選び始めた。真っ先に手に取ったのは、フラミンゴみたいなピンクのやつだ。朝顔っぽい花の模様が描かれている。
黒川はそれを、模様がよく見えるように持ち上げて、それから牧井に水を向けた。
「八重ちゃん、ピンクってどう?」
「うーん」
名前で呼ばれた牧井は、黒川の手にした浴衣に見入った。顎に手を当てて、真剣な顔で考え込む。
聞かれてないけど俺も考えてみる。ピンクの浴衣ってあんまり見たことない気がするな、気のせいか。黒川みたいな可愛い子なら、女の子らしい色も似合いそうだよな。ただ、祭りがあるのは夕方からで、鮮やかな色だと人目を引くんじゃないだろうか。迷子にはなんないだろうけどさ、デートだとほら、いろいろとな。蒼蝿水(FLY
D5原液)
しばらくしてから牧井も答えた。
「夜に着るにはちょっと目立つかもしれないね」
「目立つ? そっか、派手かな」
残念そうにする黒川。それでもピンクの浴衣に未練があるのか、ちらちらと裏返して眺めたりしている。
そこで牧井が、意味深に笑った。短い前髪の下、視線がすっと移動する。
「美月があんまり人目を引いちゃうと、飯塚くんが気が気じゃないかも」
「え? 俺が?」
さして鋭い物言いではなかったけど、大和は目に見えて動揺していた。自分に飛び火するとは思ってなかったんだろう。油断大敵とはこのことだ。
うろたえる大和に、黒川ははにかみながら尋ねる。
「飯塚くんは……どう? ピンクの浴衣って好き?」
「嫌いじゃない、けど……」
「うん」
「俺はもうちょい、地味な色の方がいいな」
どうやら気が気じゃないらしい。大和は照れ全開で答えていた。
その回答を聞いた黒川はくすぐったそうに首を竦め、
「飯塚くんがそう言うなら違うのにしようかな」
なんて、聞いてる方が身悶えしたくなるようなことを言っている。可愛い彼女だよなちくしょう。
すかさず俺は、思いっきりにやにやしてやる。
「何、にやついてんだよ」
大和がこっちを見咎めて、軽く睨んできた。でも面白いんだからしょうがない。嫌いじゃないけどとか、そう言いつつ自分の好みを訴えてるところとか、我が幼馴染みながらぶきっちょだよなと思う訳で。そんな不器用さ加減を笑うなって言うのが無理な話。
「べっつにー。俺がにやにやしてるのは自由だろ」
「颯太め……。とにかく、むかつくから止めろよな」
「はいはい」
幼馴染みの噛みつきにはわざといい加減に答えた。いいだろ、そっちは彼女もいて幸せ一杯なんだからさ。弄られるのも運命ってもんだ。
俺たちがそんな会話を交わしている間にも、女の子たちはひとまずの結論を導き出したようだ。
「じゃあ、もっと地味なの探そっか?」
牧井が水を向け、黒川が元気よく頷く。
「うんっ」
かくして例の、ピンクの浴衣は売り場に戻されて、黒川たちは他の浴衣を検分し始める。幸いにしてこの特設会場はめちゃくちゃ品揃えが豊富だった。いかにも大和の好きそうな、地味な色味の浴衣もいっぱいあった。
「藍色って無難過ぎるかな? この模様、好きなんだけど」
「きれいでいいと思うよ。でも、こっちのも涼しげでいいかも」
「わあ、水色もいいね。いい色が多くて目移りしちゃうな」
「あとは彼氏の意見も聞いてみないとね、美月」
牧井の言葉に、黒川はぱっと頬っぺたを赤くする。そして牧井の肩を軽く叩いた。
「も、もう、八重ちゃんったら! からかわないで!」
女の子たちのやり取りは見ていても何だか和む。いいよなあ、とほのぼのする。黒川と牧井は、背丈だけなら黒川の方が上なのに、話しているのを聞けば牧井の方がお姉さんみたいに聞こえた。そういうのも何かいいよなと思う。
中学の頃からの付き合いって言ったっけ。この二人は気も合ってるし、きっと出会ってすぐに意気投合しちゃったんだろうな。目に浮かぶようだ。
そんな風に、三十分ほど浴衣売り場を回って歩いた。
黒川と牧井が選び、大和が意見を言い、俺が大和を冷やかして牧井は黒川を冷やかす――なんていうパターンを何度か続けてから、遂に目当ての浴衣が見つかったようだ。
「これにする!」
嬉々として手に取ったのは、藍色の生地に色とりどりの鞠があちこち跳んでいる模様の浴衣。大和が赤い顔でゴーサインを出したので、黒川としても迷いが吹っ切れたみたいだ。早速、牧井のセーラーの袖を引いていた。
「お会計するから、八重ちゃん、ついてきて」
それで牧井はにこっと笑って、
「私じゃなくて、飯塚くんと行ったら?」
と言い出したから、あれっと思う。
俺と同じく黒川だって戸惑ったみたいだ。慌てたように言い返していた。
「そんな、八重ちゃん……意地悪言わないでよ」
「意地悪じゃないよ。せっかく飯塚くんに来てもらったんだから、少しくらい二人でいてもいいんじゃない?」
牧井は満面の笑みで言うと、俺の方をちらと見た。
真っ直ぐに目が合って、聞かれた。
「ね、進藤くんもそう思うよね?」
いきなり話を振られてびっくりしたのも事実だ。でも、今の発言自体には全くもって異論はなかった。ってな訳で、俺も上機嫌で答えておく。
「思う思う。二人っきりで行ってこいよ、レジまで」
「それだと四人で来た意味がないだろ」
大和は大和でそんな馬鹿みたいなことを言い出したものの、あえて強く反論はせず、目配せ一つで応じておく。それで大和も結局は諦めたようだ。黒川に向き直って、こう言った。
「美月、行こう」
「う、うん……」
まだ戸惑う様子の黒川。それでも、藍色の浴衣を大和の手に渡した後は、恥ずかしそうに念を押す。
「すぐ戻るから待っててね。先に帰っちゃったりしないでよ?」
「わかってる」
牧井が頷く。もう一度、俺の方を見て続ける。
「進藤くんも一緒だから大丈夫だよ。どこかその辺で待ってるから、探しに来て」
隙のない物言いだと、何となく思った。
黒川はそれで納得したらしい。頷いてから、おずおずと大和を促した。
「じゃあ、行こうか、飯塚くん」
「ああ。……変なこと考えるなよ、颯太」
どういう意味だか知らないが、大和も俺に釘を刺してきた。
そして二人は売り場の奥へと歩き出す。並ぶと背の高さがちょうど十五センチくらい、後ろ姿だけでもお似合いだとわかる。一緒に歩く時の距離は程好く置かれていて、俺たちの視線を意識してか手を繋いだりはしていない。
キャッシャーの位置は天井からぶら下がった看板に描いてある。きっと迷うことはないだろう。
初々しいカップルの姿が大分離れてから、ぽつりと牧井が言った。
「本当は、隠れてようかと思ったんだけどな」
一緒に残った俺に、こっそり囁きかけてくる。
「置いて帰ってもいいかなって。だけど釘を刺されちゃったからね」
「あ、俺も思った!」
即座に同意する俺。って言うかむしろそういう意味での念押しかと思っちゃったよ。やるなって言われると是が非でもやりたくなるのは人の性ってな奴で。levitra
同意されたことに気をよくしてか、牧井はほっとしたような顔をする。
「それじゃあ、帰ったと言われない程度に移動してようか」
その言葉にも、俺は即刻同意した。
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