車を降りると、潮の匂いに包まれた。
目の前に広がるのは、海だ。なだらかな海岸線の向こうでは、街の灯りが暗い空を仄かに染めている。風の冷たさに花が首元のマフラーを巻き直していると、背後でドアのしまる音がしたK-Y 。
「……行っちゃった」
遠ざかるタクシーのテールランプを見つめながら花が呟くと、海岸と車道を区切るアルミフェンスに寄り掛かっていた佐伯が振り返った。
「行っちゃったって、どうせタクシーで帰れるほどの金、残ってないじゃん」
「誰のせいだと思ってるのよ」
佐伯が取り返した金だけでは足りず、花がさらにそのぶんを支払うことになった。おかげで財布が軽い。
「給料日まで5日もあるのに……」
「花の給料、安いの?」
「働きに見合わないんだよ。手のかかる生徒のおかげで、今だって時間外労働だし」
「わあ、それは大変だね」
まったく悪びれない佐伯に、怒りを通り越して脱力する。
「……楽しそうだね、佐伯くん」
「楽しいよ。花の困ってる顔を見るのは」
ケラケラ笑う佐伯は、本当に楽しそうだ。嫌な笑い方だが、いつものつくられたような笑顔よりはましな気がした。
「佐伯くんて性格悪いね」
「ありがと」
「褒めてない!」
花は寒さに手をこすり合せながら、まわりを見回した。近くに時間をつぶせるような店はなさそうだ。
「ここからどうやって帰るつもり?」
「この先に駅があるよ」
「始発まで待てって?」
「ホテルもあるけど」
佐伯が海岸の反対側を指さす。木々の間に派手な電飾の看板が見えた。
「……始発まで待つ」
花は諦めて、フェンスに寄り掛かった。
しばらくマフラーに顔を埋めて海を眺めていると、頬にあたたかいものが触れた。
「貧しい先生におごってあげる」
佐伯が花に差し出したのは、あたたかいコーヒーの缶だった。少し先に自動販売機が見える。どうやらそこで買ったらしい。
「……お礼は言わないから」
受け取ると、指先から伝わる温もりにほっとした。
「ここにはよく来るの?」
となりで缶コーヒーを飲んでいる佐伯に、花は尋ねた。
「たまにね」
「さっきとは正反対の場所だね」
時間帯のせいか、車道を走る車は少ない。聞こえるのは波の音だけだ。
「人間がいない。それだけで最高の場所でしょ?」
「じゃあクラブはどうなの?」
「あそこも最高だよ」
「人がいるのに?」
人がいない海が最高の場所で、人のたくさんいるクラブも最高――佐伯の矛盾した考え方に、花は内心首を傾げた。
「たとえばさ、花があそこにいる女みたいな服着て、知り合いの前に出たとするよね。その知り合いからは、どんな反応が返ってくると思う?」
唐突な質問に、花は戸惑った。
あそこにいる女のような服――スカートをはくだけでめずらしいと言われるくらいなのに、あんな身体の線が露わになるような服を着たりしたら、驚かれるのは間違いない。なにがあったのかと小一時間、問いつめられそうだ。
「……驚くと思う」
「でも花のことを知らない人間なら、別に驚いたりしないよね? だってなんの先入観もないんだから」
佐伯はそう言って、人の悪い笑みを見せる。
「まあ、似合わなくて笑われることはあるかもしれないけど」
「余計なお世話だよ」
「怒らないでよ。とりあえず、そういうことなの」
佐伯は缶を足元に置くと、フェンスの手すりに上り座った。
「あそこでは誰も『僕』を知らない。誰も『僕らしさ』を押しつけてこないし求めない――それだけで、死ぬほど楽」
車道を走る車のライトが、ときおり佐伯の横顔を照らし出す――その表情がひどく大人びていて、花はどきりとした。
「……でも未成年が行く場所じゃない。危ないわ」
未成年でなくても、あまり勧められない場所だ。酒や煙草ならまだいいが、もっと危険な誘惑もあるだろう。
「危険はどこにいたって転がってるよ。クラブも学校も同じさ」
そう言うと、佐伯はひらりとフェンスから砂浜に飛び降りた。驚いたのは花だ。
「佐伯くん、どこに行くの?」
「ちょっと海に入ってこようかなって」曲美
その言葉にぎょっとした。こんな寒いなか海に入るなど、自殺行為だ。
フェンスを飛び越えるのは無理なので、花は砂浜におりる階段を探し、佐伯のあとを追いかけた。
「待ちなさい、佐伯くん!」
「やだよー」
佐伯は後ろ向きで走りながら、花が追いつきそうなところでスピードを上げる。不毛な追いかけっこを続けているうちに花は砂に足を取られ、前のめりに倒れ込んだ。
「見事な転びっぷり。かかとのある靴で砂浜走ると危ないよ」
佐伯が花の前にしゃがみ、顔を覗き込んでくる。
「……佐伯くんが海に入るとか言うからでしょう」
「冗談に決まってるじゃん」
「冗談なら、もっと笑える冗談を言って」
立ち上がると、髪やコートからパラパラと砂が落ちる。それを見た佐伯が、噴き出した。
「あはは、灰かぶりならぬ砂かぶりだ」
「笑い事じゃないよ」
花は今日何度目になるかわからないため息をついた。
そのとき、佐伯が小さなくしゃみをした。よく見れば、佐伯はTシャツにフードがついたダウンジャケットを羽織っているだけ――寒いはずだ。
「この寒いのにそんな薄着じゃ風邪ひくよ」
「平気だよ。風邪ひくのは体調管理ができない馬鹿だけだ」
花は自分のマフラーをはずし、可愛げのない言葉を吐く佐伯の首に強引に巻きつけた。
「オッサンくさいマフラー」
佐伯は花のマフラーをまじまじと見つめ、呟く。深緑に黒のラインが入ったマフラーは、若い女が持つには確かに地味かもしれない。
「文句言うなら返して」
「あったかいから我慢する」
佐伯はそう言って、花に背を向ける。
花はすっかり寒くなってしまった首元を守るようコートの襟を立て、佐伯のあとについて暗い海岸線をゆっくりと歩いた。
「――37度8分」
体温計を見た葉が、ベッドに横たわっている花を見おろして、そう言った。
「さがってないね。食欲は?」
「ない」
熱のせいか、身体の節々が痛く、頭痛もひどい。薄手のパジャマに男物のフリースのパジャマを重ねて着ているが、寒気は一向におさまらなかった。
「なにか胃に入れてから、薬飲んだ方がいいんだけど……もう少し後にする?」
「うん」
葉が冷却シートのセロハンを剥がし、花の額に貼る。冷たさに一瞬ぞわりと悪寒が走るが、それが過ぎると気持ちいい。
「とりあえず、仕事が休みでよかったわね」
「んー」
葉の言うとおり、今日が土曜日だったのは不幸中の幸いだ。とりあえず病院でもらった薬を飲んで大人しく寝ていれば、月曜にはなんとか仕事に行けるだろう。
「まったく、わたしに黙って朝帰りなんかするから罰があたったのよ」
「朝帰りって言い方やめて」
「事実でしょう? 誰とどこにいたのか気になるなあ」
葉の探るような視線から逃げるように花は布団にもぐりこんだ。
「もう少ししたら夕飯の買い物に行こうと思うんだけど、なにか欲しいものある?」
「……とくにない」
「わかった。ゆっくり休んでね」
葉は花の体調を気遣ってか深く追求することはなく、静かに部屋を出て行った。
今朝、始発でマンションに帰ってから、花は熱を出した。
電車にのっているときから気だるさを感じていたが、そのときはただの睡眠不足だと思っていた。
「馬鹿はわたしか……」
花は寝返りを打った。
朝まで佐伯と一緒にいたが、あまり話はできなかった。話をして佐伯を知るどころか、さらにわからなくなった、というのが正直な感想だ。
とりあえず、クラブ通いと誰もいない夜の海に行く習慣は、止めさせたい。佐伯は最高の場所だと言ったが、どちらもいい影響を及ぼしていると思えない。しかし花が止めろと言ったところで、佐伯は止めないだろう。どうすればいいか解決方法を考えてみるが、堂々巡りだ。
身体は睡眠を欲しがっていたが、なかなか眠ることができなかった。頭痛をやり過ごしながらうつらうつらとしていると、遠くでインターホンの音が聞こえた。
「――花、起きてる?」
しばらくして、部屋のドアがノックされた。sex drops
小情人
「起きてるよー」
「お客さんよ。通していい?」
「お客……?」
花が返事をする前に、待ちきれないといったようにドアが開いた。
「――こんにちは、花先生」
葉の向こうから顔を出したのは、佐伯だった。
「なっ、なんでここに!」
体調が悪いことも忘れ、花は勢いよく飛び起きた。
「借りてたマフラーを返しにきたんです。そうしたら風邪ひいてるって、花先生のお姉さんが……大丈夫ですか?」
心配そうに花を見る佐伯は、今朝別れたときとは違い、オフホワイトのダッフルコートを着ていた。明るい髪色と相まって砂糖菓子のような雰囲気を醸し出している佐伯は、どこをどう見ても礼儀正しく愛らしい少年だ。隣で佐伯をさりげなく観察している葉の機嫌がどんどん上昇しているのが、花の目にもわかった。
「まだ熱が高いのよ。食欲ないって言うから、薬も飲めてなくて」
言葉を失っている花のかわりに、葉が答える。それを聞いた佐伯は葉に向き直り、頭を下げた。
「花先生が風邪をひいたのは僕のせいです。すみません」
佐伯の言葉に驚いたのは葉だけではない、花もだ。
「あなたのせい?」
「昨日の夜、僕が花先生を海に連れて行ったりしたから――」
「ちょ、ちょっと、佐伯くん!」
止めようとしたが、遅かった。葉の口元に意味深な笑みが浮かぶのを見て、花は絶望的な気持ちになる。
「なんだ、そういうことだったのね」
葉は花と佐伯の顔を交互に見て、納得したように頷いた。
「葉、違うの。わたしたち、葉が考えてるような関係じゃないから!」
「いいのよ、言い訳しなくても。姉妹なのに水くさいわね」
花は「そうじゃない!」と叫ぼうとして、咳き込んでしまった。いつの間にかそばにいた佐伯が、花の背中をいたわるように撫でる。その行動が、さらに葉の誤解に拍車をかけていることは間違いなかった。
「わたしは買い物に行ってくるから、佐伯くんはゆっくりしていってね」
葉は佐伯にそう言うと、弾むような足取りで部屋から出て行った。
「……完全に誤解された」
玄関から葉が出ていく音を聞きながら、花はがくりと肩を落とした。
「あたりまえじゃん。あれだけ慌てれば、誰だって怪しむと思うよ」
佐伯は花の背中から手を離すと、持っていた紙袋を机に置いて、コートを脱いだ。淡いピンクのセーターにグレーのジーンズ。今朝一緒にいた佐伯が悪魔なら、今の佐伯は天使だ――外見だけの話だが。
「葉さんだっけ。花とぜんぜん似てないね」
はじめて葉を見た人はみんなそう言う――聞き飽きた台詞だというのに、今日はなぜか花の心に食い込んだ。風邪をひいて、身体だけではなく心まで弱っているせいかもしれない。
「……どうしてここに来たの?」
「誰かさん、今朝調子悪そうだったから、風邪でもひいてるんじゃないかなーって思ってさ。偵察しに来たの」
花はひどく疲れた気分になり、ベッドに横になった。色々言いたいことはあるが、なにぶん体調が悪すぎる。
佐伯は紙袋からガラスのカップを取り出すと、それを持ってベッドの脇に腰をおろした。
「……なにそれ」
「みかんとヨーグルトのゼリー。冷たくて美味しいよ」
乳白色のゼリーの上に透明のクラッシュゼリーがのっている。確かに美味しそうだ。
「……いらない」
食べたら負けだ――花はそう思い、ゼリーから目を背けた。
「薬飲まなきゃダメなんじゃないの?」
「あとで飲むから」
「無理やり口にねじ込まれたいの?」
花は口もとに差し出されたスプーンと佐伯の顔を見比べる――佐伯ならやりかねない。
「はい、あーん」
花は諦めて口を開けた。自分で食べると言う気力も残っていなかった。
ゼリーはするすると喉を通った。冷たい甘さとほのかな酸味が、じんわりと熱のある体に溶けていく。お菓子の味は、つくった人間の性格をあらわさない――花は思ったが、報復が怖いので口には出さなかった。
ゼリーをほぼ食べ終わると、佐伯がサイドテーブルに置いてあった薬と水をとった。粉薬は苦手だが、我慢して飲む。
水の入ったグラスを空にすると、花はぐったりとベッドに沈みこんだ。
「おいしい?」
「……おいしいわけがないでしょう」
「くちなおしする?」
佐伯は少し残していたゼリーをスプーンですくい、花の口に入れた。粉薬の苦さが、ゼリーの甘さで打ち消される。
「……佐伯くん、風邪がうつるといけないから、もう帰って」
「うつらないよ。僕は花と違って馬鹿じゃないから――あ」
佐伯はなにかに気づいたように、身体を屈める。顔が近いと思った瞬間、口元を濡れた感触が這った。舐められた――それを理解するまでに時間がかかったのは、熱で頭がぼんやりしていたせいかもしれない。
「……っなにするの!」
「ゼリーがついてたから」
「教えてくれたら自分でとるよ!」
舐められた部分を拭おうとした手を、とられた。VVK
「――キスしたのは、僕がはじめて?」
からかうでもなく淡々と事実を確認する口調に、花は慄いた。
そうだ――はじめてのキスだった。好きな人とするものだと、この年まで信じて疑っていなかった。
「……違うよ」
「嘘ヘタすぎ、花」
佐伯は低く笑い、花の唇を指の腹で撫でる。
「花のくちびるって、なにもつけてないから美味しいね。昨日の夜、僕にキスしてきた女は口紅がベタベタしてすごく気持ち悪かった」
「佐伯く――」
「くちなおしさせて」
はじめてのときと同じ強引さで、唇が合わさった。
覆いかぶさる佐伯の身体を押し返そうとしたが、手に力が入らない。ぱたりとシーツの上に落ちた手に、佐伯の手が重なる。
熱のせいだ――花はぼんやりと思う。自分が思うように抵抗できないのも、佐伯の冷たい唇や手を心地よく思うのも、すべて熱のせいだと。
ふやけるほど花の唇を啄ばんでから、佐伯は離れた。
閉じていた目をゆっくりと開ける。涙で霞む視界に、赤い唇をぺろりと舐める佐伯が映った。
「……佐伯くんなんか、わたしの風邪がうつって寝込めばいいんだよ」
吐き出した息が熱い。熱が上がったのかもしれない。
「教師の言う言葉とは思えないな」
「教師だなんて思ってないくせに」
佐伯の行為は、花の教師としての矜持を曲げようとするものだ。花を教師という肩書から引きずりおろし、ただの女にするゲーム。だから先生とは呼ばない。それが一番傷つくと、佐伯はわかっているからだ。
「ただいまー」
玄関の方で声がした――葉だ。
佐伯はベッドから立ち上がると、無言で椅子にかけていたダッフルコートを羽織る。
「あら、もう帰るの?」
葉が部屋に入ってきたとき、佐伯は既に優等生の顔に戻っていた。
「はい。突然お邪魔して、すみませんでした」
「夕飯食べてってもらおうと思ったのに。お茶だけでも飲んでいかない?」
葉は残念そうな顔をした。その反応はまるで、はじめて彼氏を連れてきた娘の母親だ。
「ありがとうございます。でも用があるので……これ、僕がつくったゼリーです。花先生はもう食べたので、よかったら葉さんもどうぞ」
「手づくりなの? ありがとうー」
佐伯は葉に紙袋を渡し、花を振り返る。
「――また学校で、花先生」
ドアが閉まり、二人の足音が遠のいていく。
それとともに花の意識も、眠りの淵に誘われるように薄らいでいった。男宝
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