2013年4月28日星期日

王の住まい

「お約束も無く、失礼致します」
イリアス・バートランドは、傍に来る颯爽とした歩みも、目の前で行なわれる美しい形の礼も、ファーガスの好む凛然とした佇まいの薔薇のようで、見ているだけで目が和む。
品のある所作の出来ないフェルナーやハワードとは雲泥の差である。VIVID
近頃では、イリアスがシーゼス家の後継であったなら、と思う事しきりだった。その最中のあの事件である。妃の身内とは言え、フェルナーには絶望を通り越した思いしか持てなかった。
「この後は、特に用も無いので構わぬよ。……その薔薇は、お前の好きな所に活けて置きなさい」
鷹揚に挨拶を受け、最後の言葉は侍従に。
「かしこまりました」
下がれ、と手で示すのに三人の侍従は静かに離れていった。
「殿下が薔薇を切られるとは、お珍しい」
ファーガスは切り花を好まない。土に植えられたそのままの姿を愛でるのを見知っているイリアスは、不思議そうな顔をしていた。
「あまりに不快な事があったので、ついな……薔薇には気の毒な事をしてしまった」
「不快……でございますか。侍従に、メイナード公とお話中と伺いましたが……」
「そうだ。あれと話すと不快な事ばかりだ!」
本当に毎度毎度、顔を合わせると碌な事がない。
私室に向かう足が、先程の遣り取りを思い出し、憤りに大きな音を立てた。
「殿下の害としかならない相手ですから……」
少し後ろを歩きながら頷くイリアスに、その通りだと思いながら声を掛ける。
「……それで、用件は何だね?」
ファーガスの姿に、私室の扉の前に立つ、二人の侍従が恭しく礼をする。そして、それぞれが左右の把手を持って扉を開ける。
中に入りソファに身を落ち着けると、正面の席を示したイリアスは、その席に着きながら口を開いた。
「シーゼス家にて何やら事件が起こったのではありませんか?」
「もう、そなたの耳にまで届いているのか?」
苦々しい思いで唇を歪める。メイナードの言った通り、シーゼス家の緘口令など何の役にも立っていない。
ファーガスは、メイナードと取引きしなかった場合を思うと、ぞっとした。
間違いなく、どこかの貴族の口からこの事は兄王の耳に入っただろう。いや、メイナード自身が入れた筈だ。
だが、取引きが成立した今、どれ程の貴族がこの事を知ろうと、明日には皆口を噤む。兄王の耳まで届く事無く、この話題は消えるのだ。
それが、ファーガスが欲して止まない、メイナードの持つ力だ。
「商いをする者として、情報を得る為周囲にはいつも気を配っておりますので……」
肯定の返事に、溜め息が漏れる。
「そうだ。フェルナーの愚か者が、メイナードの庇護する孤児院を荒らした挙句に、視察に来ていた公爵と諍いを起して手傷を負わせたのだ。挙句に、その事で父親と争ったのか、父にまで手を掛けるという……取り返しの付かぬ事を仕出かしたのだ」
そのせいで、渡さぬように守っていた香辛料の交易権をメイナードに渡す事となってしまった。怒りの治めようがない最悪の出来事だった。
「それで……メイナード公とのお話とは……事を荒立てない代わりの条件を殿下に示された、という訳ですね……」
「ああ。その通りだ。シーゼスとリレステルの家は残るが……フェルナーとハワードを望む方法で罰するだけでは飽きたらず、私にまで痛みを強いる。本当に、忌々しい男だ!」
何故あんな、王族虐めが生きがいのような男が同じ時代に存在するのだ。
膝の上で強く握り締めた拳が震えた。
「シーゼス家とリレステル家の後継者への罰……とは、如何様な物なのでしょうか?」
「後継者から降ろし、貴族の地位も剥奪し、一兵士として北の前線送りだ。……幾らなんでも、貴族が貴族の子弟に科す罰とは思えぬ。過酷に過ぎる!」
二人の首をメイナードに差し出して事が収まれば、と思ってはいた。
そして、それを要求されれば、受け入れるつもりだった。
だが、首を差し出すとは、生涯表舞台に立たせぬよう地方に蟄居が妥当な所だと思っていた。
それが、一般の民と同じように扱う上に、いつ死んでもおかしくない場所に送るなど、遣り過ぎとしか思えなかった。
フェルナーが真実父親を殺したと言うならともかく、シーゼス侯爵はなんとか命を取り留めているのだ。そこまでしなくとも事を収められるだろうに、あの男にはメイナードの一族以外への労りが微塵もない。
自分とその一族。そして、謙り味方となる者以外は、人間扱いするつもりなどないのだ。それはもちろん王家たるヴェルルーニに対しても同様である。
今回の事で、つくづくそれを思い知らされた。
「よろしかったではありませんか」
思わぬ言葉が、涼やかな声音にて耳に届いた。
「何がだ? そなたは、私の話を聞いていないのか?」
ファーガスは怪訝に眉を顰め、イリアスの笑みを浮かべた顔を見遣った。
「殿下は常々、あのお二人の行いに頭を悩ませておられたではありませんか。問題を起こすばかりで、有益な事業を任せても潰してしまう。何一つオーサー様の為にならない、と。……オーサー様が戻られた際、あの二人が変わらず王都に在り、そのお傍に付くようになれば、どのような事を起こしてしまうか分かりません。それを公爵に追求されるのに比べれば、遥かに良かったではありませんか。……公爵は、お二人を処罰するだけで、シーゼス家とリレステル家を潰すとまではされなかったのでしょう? 両家が残るのでしたら、殿下にとってはそう悪い事ではないかと。……もし、殿下が、お二人の行動が目に余るとして罰をお与えになれば、両家との間に軋轢が生じますが、公爵がするなら両家は殿下に牙を向けたりはなさらないでしょう。それどころか、殿下は公爵が両家に多大な傷を付けぬよう、ご自身が痛みを負ってお庇いになられたのです。今回の事で、両家は殿下に返しきれぬ大恩を受ける事となりました。……公爵は今頃、交易権を握りしてやったりと思われているでしょうが、それは違います。殿下が、ご自身とオーサー様の害になる者達を、公爵を使って上手く排除なされたのです」
滔々と淀みなく語られるのに、確かに、そう考えればそうなのだ。
しかし、二人が消える事によりその問題行動に悩まされなくなる以上に、香辛料の交易権をメイナードに許す事が悔しくてならないのだ。
「……メイナードの出してきた条件がそれだけならな。過酷な罰も、それで納得出来ようが……来年早々に、私の香辛料の利は半減するだろうな……」
半減で済めば良いが、最悪潰されかねない。
もっとも、王の目がある故、完全に潰すような真似はしてこないだろうが、こちらを気遣った交易をするとはとても思えない。
そして、最大の輸入相手である南の大陸の国々は、こぞってあの男が香辛料の交易に着手する事を望んでいるのだ。話し合いの場を持つ度その事を持ち出されるのに、ファーガスはほとほとウンザリしていた。
自分達も悪い条件で交易しているとは思わない。
それなのに、相手方が望むのはメイナードなのだ。
納得いかないファーガスに、相手方はその理由に関して言葉を濁すが、その端々に伝わってくるのは信用度が違う、という甚だ腹立たしい物である。強力催眠謎幻水
メイナードは香辛料の国外交易をしていない。それなのに、他の品目の交易を見ている商人達は、ファーガスが揃える者よりもメイナードの揃える者達の方が信用出来ると考えているのだ。
そんな中、フェルナーが危機管理を怠り、騙されて会社を潰した。
ますます商人達の目が厳しくなったのは言うまでもない。
そこに、とうとうあの男が一族を率いて参入するのだ。
商人達がどちらに流れるかなど、誰にでも簡単に察せられるという物だ。
他国の商人達に対しても、王族、と言う肩書きなど、メイナードの家名とあの男の交易実績の前では何の役にも立たない。
「その、香辛料の事なのですが……此度の不祥事により存在を消されるフェルナー・シーゼス殿に、今一度事業を任せる事は不可能でございます。ですが、代わりとしてメイナード公だけを新たに推薦するのも、殿下としては納得行かぬ事かと。……よろしければ、そこに私を加えて推薦して頂けないでしょうか? さすれば、必ずや殿下のご恩に報いさせて頂きます」
「ああ……それは良いな。メイナードだけを推薦しなければならない、と言う条件はなかったしな。……だが、あの一族を相手に、そなたであろうと、あまり利は見込めぬだろうな」
王弟の自分でさえ不利なのだ。
残念だが、商才に長けていようと、今はまだ小身のイリアスが太刀打ちできる相手ではない。
「あの一族を相手に、最初から大きな利を得られるなどとは思っておりません。……それに、下手に目立てば潰されます。ゆっくりと警戒されぬよう大きくして行くつもりでございます。……いくら結束の固いメイナードの一族とは言え、隙がまったく無いなど、そのような事は在り得ぬと思いますので」
「そうだな。メイナードにのみ許すのでは苛立ちが治まらぬ。そなたの名も、兄上に伝えておこう」
「ありがとうございます。必ずや、ご期待に沿うてご覧にいれます!」
深々と頭を下げる姿にゆったりと笑う。
この男ともっと早く知り合っていれば、フェルナーに交易権など与えなかった。
そうすれば一ヶ月前、事業を潰したと兄にもメイナードにも煩く言われる事もなかった筈だ。
しかし、フェルナーに交易権を与えた一年前、その当時のイリアスはまだ家督を継いでいなかった。
年老いた父男爵の補佐をしており、誰も名を知らぬような存在だった。
王族のファーガスとの交流など無く、かと言ってメイナードの傘下でもなかった。どちらにも関わらず、静かに慎ましく暮らしていた。その暮らしぶりは、近年その存在が大きな物となりつつある王都の豪商達の方が、遥かに豊かで華やかな物と言える程だった。
とは言え、イリアスは知性ある才能豊かな青年だ。
たとえ、目立たぬようひっそりと暮らしていても、誰かの目に留まり、多少はその名が人々の間に伝わる物だ。
しかし、まったくその存在が誰の口にも上らなかった所を見ると、本人がわざとそうしていたと考えるのが妥当な所だろう。
経歴を調べてみると、最難関の王立大学を首席で卒業していた。
それだけで有名人となっていてもおかしくないと言うのに、イリアスは自己主張など一切せず、影に消えていた。
下手に目立てば潰されるとの本人の言葉どおり、恐らく、爵位を持つまでは自分に誰の目も当たらぬようにしたかったのだろう。
貴族の権威が強いこのリディエマでは、貴族の家の当主たる証の爵位とは、たとえ最下位の男爵であろうと、身を守るのに有ると無いでは大違いの盾となる。
爵位を得るまでは目立たぬと決めていたのならば、わざと成績を落としておいた方が良いのではないかとも思うが、イリアスの生家、バートランド男爵家はまともな領地と言える物も無いような、あまり裕福ではない貴族だ。授業料免除は欲しかったのだろう。
だが、首席を取っても、彼の前年が女性初のカトリーヌ・ダリューであり、後年がルーク・メイナードである。それらの華々しい存在に挟まれた故、目立たぬよう話題から消えるのは容易かったのだろうと思う。

それが半年前、父男爵が亡くなり家督を継いだ途端、変貌を見せた。
爵位を得たイリアスは、それまで父親が小さく行なっていた商いを手広く行なうよう仕組みを変え、それを見事に成功させた。
そして、丁度その頃ファーガスの前に現れたのだ。
夜会の席にて、ファーガスに近しい誰の縁戚でも無い身でありながら、媚び諂う事無く堂々と話しかけてきた。
その姿と佇まいの美しさに、ファーガスは話を聞く気になった。
そして、己の傍に取り立てたのだ。
フェルナーとハワードはイリアスが小身貴族という事で侮り蔑んでいたが、ファーガスは自分にのみ語ったその野心が気に入った。

『メイナード公の下に付けば、彼の勢力は磐石で、我が身の安泰は約束されましょう。ですが、私がメイナード公となる事は叶いません。その逆に、失礼ですが殿下の周囲は脆弱で不安定です。その側に在れば、我が身の安泰など難しいでしょうが……殿下を脅かす者に勝ちさえすれば、私がメイナード公になれます。そうでございますよね。殿下』

メイナードに与しその末端に加わるよりも、自分に付き、より大きな物を手に入れたい。
メイナードが何百年も掛けて積み上げてきた権力を崩す事は難しい。だが、生涯懸けてでもそれを成し遂げ、自分とオーサーを頂点に据え、己がメイナードのような存在となりたい。

耳に心地良い涼やかな声音で語られるイリアスのその野望に、ファーガスはフェルナーやハワードのような口先だけの物を感じなかった。
自分を真っ直ぐに見つめる、強い意思の宿る赤茶色の瞳に、必ず遣り遂げるのだと信じられる物が見えた。

そして、その後、イリアスはファーガスの期待に充分以上に応えてくれている。
イリアスは、真実メイナードのような経営手腕を持つ男だった。その上、ファーガスを崇め利を運んでくれる姿に心を許すのに、そう時間は掛からなかった。
「……今は、そなたの事業の成長が何より楽しみだ。助力は惜しまぬから、励めよ」
現在は、最も大事にしている薔薇の流通事業もイリアスにほぼ任せている。順調に利を伸ばしていく姿に、大変満足していた。
「お言葉、感謝いたします。……では、図々しくも今一つ、お願いをしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「今すぐ、とは申しませんが……必ず、サイラス・カシュクール侯爵をメイナード公と袂を別たせ、殿下の下に取り込んでください。彼の方の人望とカシュクール家の養蚕技術はオーサー様の為に大きな強みとなります。そして、幾らメイナード公といえど、侯爵を失うのは痛手が大きい筈。親友であり、貴族を束ねるのにその人望をかなり利用されておられるようですので」
「それは、私も考えておる……中々色好い返事が貰えぬが、オーサーを戻す前までには何とかするつもりだ」
メイナード家に逆らう貴族など滅多に居ないが、それでも議会に於いて、稀に反対意見が出たりもする。
現当主のルーク・メイナードが、それまでの当主達よりも、貴族の利ではなく民の利を優先する案を通そうとする事が多いからだ。
その行いに、宰相もメイナードの側に付いていても不満の声が上がった場合、宥め役となるのは主にメイナードの長老達なのだが、近年その中に、サイラス・カシュクールが入っている。
そして、彼は長老達よりも遥かに話を纏める術に長けていた。印度神油
彼は不思議な男で、何故かメイナードの親友と知っていても嫌悪の感情が芽生えないのだ。自然とするりと心に入って来て、楽しく語らいの時間を持ってしまう独特の雰囲気を持っている。
しかも、その奥方シンシアが、どの貴族の家の奥方にも愛されている美顔水の製作者である。
サイラスが訪れたとなると、奥方達はシンシアとより懇意になりたいとこぞって丁重に迎えると言うのに、それを当主達がメイナードの親友だからと邪険にしよう物なら、夫婦関係に亀裂が入りかねない。
どの家にも笑顔で招かれるという物だ。
そして、巧みな話術にいつの間にか、メイナードの言葉に反対した貴族達は 『それくらいなら、民に譲歩するか』 と、意見を変えている。その繰り返しだった。
ある意味、ルーク・メイナードよりも恐ろしい男だとファーガスは見ている。
もし、彼がメイナードから離れてこちらに付けば、多くの貴族がこちらを重要視するようになる。
それが確実視出来るほどの有意な男なのだが、彼は貴族の長の地位に何の魅力も感じておらず、どのような場合も必ずメイナードの意見に従い支えるのだ。
カシュクールはメイナードの一族ではないと言うのに、今に限らずいつの時代の当主達も親交は篤い。両家が権力にまつわる争いを起こした事など一度たりとてなかった。
カシュクールとはいつでも次点の地位で満足している変わった一族でもある。
「流石は殿下。……差し出た真似を……失礼致しました」
「いや、同じ思いでいてくれる事、頼もしく思う。これからも、よき話し相手となってくれ」
今回の事でさらに力を削られてしまうファーガスは、より一層カシュクール侯爵を手にしたい、との思いを強めていた。
「身に余る、光栄に存じます」
頭の良い、己に従順な好青年。メイナードもこうならば言う事が無いのに。
自分は、このリディエマを支配する王家の一員なのだ。皆がこの態度で接しなければならない筈なのに、あの男だけが平気で無礼を働き足蹴にする。
オーサーを王位に即けた暁には、その事必ず後悔させてやるのだ。

メイナードが示した罰を、ファーガスは両家に伝えた。
両家はすぐさま、従う旨を返してきた。
本人達は抵抗するだろう。しかし、救いの手など差し伸べるつもりのないファーガスは、二人の事を考えるのはそれで止めた。

丁度その時、兄の方にも出していた使者が戻り、面会許可が下りた事が伝えられる。

政務の終った時間だな、と思いながらファーガスは知らされた場所へと向かった。

王宮宮殿最北。奥の宮と呼ばれる王の私的空間。

幼い時はファーガスもそこで暮らしていたが、今では暮らす事は許されない。
リディエマで最も優雅で美しく、重厚な歴史ある最高の貴人の住まう場所。そこに住まう夢を捨て切れない場所だった。

奥の宮では貴族や有力者を大勢集めた大規模な夜会や舞踏会・晩餐会などといった物は行なわれない。
王が真に親しくしている者しか招かれない場所である。

王宮宮殿は南に正門があり、広大な庭を少し行くと、まず最初に下級官吏が自由に行き来できる政務の為の建物が並んでいる。
そして、仕切りとなる門を通るとその奥が中央宮殿となり、地位や身分によって立ち入りは厳しくなる。
高官の為の政務の部屋。大小様々な会議場、夜会などに人を招く為のこれまた大小数多くの広間、談話室、食事室、演劇や音楽を鑑賞する舞台などなど用途に合わせた部屋がある。
そこから再び庭園を渡り門を通り、さらに奥の一区画。
最も警備が厳しく、立ち入りを制限される兄の奥の宮からは手前になるが、そこにファーガスの宮がある。
本来そこは何も無い広大な庭だったのだが、王宮外で暮らす事にどうしても馴染めなかったファーガスの言葉を聞き入れてくれた兄の命により、数十年前にファーガスの物として建てられた宮である。

リディエマでは王位継承権を持たない男子の王族は、成人を過ぎると王宮より外に城を持つ事となっている。

ファーガスも、この決まりにより成人を迎えた折に王宮から出された。
女子の王族については、それまでに概ね嫁ぐか、未婚であってもいずれはどこかに嫁いで王宮から出るので、特に決まりはない。なので、現在ブリジットは奥の宮の一角に己の宮を持って暮らしている。
ブリジットは降嫁しない事となっているので、何事も無ければ、生涯を奥の宮で過ごす事となる。

政治に関する権限を何も与えられない王族が、国の施政の中枢たる王宮から出るとなれば、権力からさらに遠ざかる事を意味する。
権力の中枢より王族を排除し、力を弱める。
そして、王位争いを起こさせないよう、王位に欲を抱かせないようにとの貴族達の思惑がそれをさせている。
ファーガスは、その貴族達の思い通りに権力から遠ざかる事を、どうしても受け入れられなかった。
屈辱に耐えながら、憎んでいる兄にこの時ばかりは懇願した。
メイナードを始とする貴族達の意向に唯々諾々として従う兄は、この願いを厳しく突っ撥ねるだろうと覚悟していた。
それでも何度でも掛け合おうと思っていた物を、兄はただ一度の懇願で、簡単に受け入れた。
『私も、弟が近くに居てくれる方が良い』 と、何の憂いも無い暢気な笑みを浮かべて。
あっさり受け入れられた事に正直かなり拍子抜けしたが、ヴェルルーニ王家の直系であるのに、必死で願わなければ王宮に留まる事も出来ない自分。
権力から弾かれる事無く、幼い頃から慣れ親しんだ奥の宮にて生涯過ごす事の出来る兄。
その、玉座に安穏と座れる人間が浮かべる余裕に満ち溢れた笑みに、何の力も手に出来ない惨めな己との差をまざまざと見せ付けられ、怒りに腸が煮えくり返りそうだった。

しかし、兄が認めたところで、メイナードも宰相もその決定に容易く従わなかった。
結局、奥の宮で暮らすことは許されず、奥の宮のすぐ側に新たな宮を建造して暮らす事となった。
奥の宮は広大で、空いている宮など幾らでもある (実際、ファーガスが成人まで使っていた宮はそのまま空けてある) と言うのに、王と他の王族を区別する為、メイナードを中心とした貴族達があえてそうしたのだ。
国の統治者たる王族なのに、住む場所一つ思うようにならない。
必要以上に貴族が力を持ち王族を押さえつけている、このリディエマの現状はファーガスには耐え難き物だった。

いつか、貴族の専横を許す情けない兄の上に立ち、王族に従わぬ貴族達は処分し、この場に戻ってくる。

そう、固く誓う奥の宮の一室。
兄の私室にて、ファーガスは政務を終えた兄と二人きりで向き合って座る。
兄はファーガスよりも少し色の濃い金髪に、同じ空色の瞳をしている。背はファーガスよりも高いが、それ以外は良く似た容姿をしていた。
ただ、目に剣を宿す事の多い自分とは異なり、安楽に暮らす兄はいつでもおっとりとし、柔らかく微笑んでいる。
「……フェルナー・シーゼスの失敗を取り戻すのに……その親族を頼みとせず、メイナード公に任せるのか?」
嫌々ながらも、それを理由にルーク・メイナードに交易権を与えるよう推薦すると、兄は意外そうな顔をした。
それもそうだろう。
兄は、ファーガスに香辛料の交易に関することを任せた後、ファーガスが交易権授与者に、一向にメイナードを推薦してこない事を知っている。恐らく、不仲である事も知っているのだろう。
兄の言う通り、フェルナーの失敗は父親そしてその他のシーゼスの者に交易をさらに励ませ、それで利を上げて何とかするつもりだった。メイナードに頼るつもりなどまったく考えもしない事だった。
「交易に関し……リディエマに、彼の右に出る者は居ませんので……香辛料の流通に不備が出れば民の不満が高まりますので、それを起こさぬ為にも、この度彼を推薦する事と致しました」
「そうか。……何があっても、そなたが彼を推薦してくる事だけはないと思っていたのだがな……やはり、メイナードは甘くないな。そなたですら懐柔し、香辛料の利まで手中にするか……」
「兄上?」
溜め息交じりの兄の残念そうな声音に、怪訝に思い少し首を傾げた。
メイナードの言うがままに生きる兄は、てっきりファーガスがメイナードを推薦してこない事に、不満を抱いているとばかり思っていた。
だが、一度王たる者が弟に任せると言った物を撤回するのも外聞が悪いとし、それで何も言わずにいる物だと思っていたのだ。
それが、この口調では何やら違うように感じてならなかった。
通常国王とは、兄弟であろうと妃や息子、娘であろうと 『陛下』 と呼び掛けなければならない存在だ。
だが、兄はそれを厭い、公式以外の場ではファーガスには兄と呼ぶことを許し、妃や娘に対しても同様に、あまり 『陛下』 と呼ばせない珍しい王である。
「出来れば、メイナードに香辛料の交易はさせたくなかったのだがな。……民の不満を高める訳には行かぬ。彼に交易権を与えよう」田七人参
「……意外なお言葉ですね。私は、兄上は彼に早く香辛料の交易をさせたいとばかり思っているのかと……」
疑問を口に乗せてしまうと、兄はファーガスが見た事のない冷めた目で見返してきた。
「何故そう思うのだ? 政務も国営事業も概ね任せきりだから、そう思われてもおかしくはないが……私はメイナードの上に立つ、ヴェルルーニ家の人間だ。メイナード公を信頼していないとは言わぬが、何もかも譲り、彼の一族を我が王家よりも強くする事など望んではおらぬよ。そして、この事はメイナード公も知っておる事だ。だから、メイナードに任せずそなたに任せた香辛料に関しては、彼は強く出ず身を退いていたのだよ。私を悪戯に刺激しないようにとな。……この国の王は私だ。それがたとえ形だけの物だとしても、メイナードではないのだ」
「そんな……」
そんな事など絶対に思っていない、と思っていた兄の口から語られる言葉に、ファーガスは愕然とするばかりだった。
だから、誰もがメイナードに任せるとばかり思っていた香辛料の交易を、メイナードを弾くファーガスに任せていたなど、こうして実際に聞いていても信じられなかった。
「だが、こうしてそなたが推薦してきた。私は、そなたが推薦した者には交易権を与える事としておる。メイナードは当然その事を知っておる。そこを無視して弾けば、そなたの推薦があるのに何故自分の一族だけ弾くのだと堂々と問うて来るだろう。そして、私はそれに返せる強い言葉は持たぬ王だ。もし 『メイナードの一族にこれ以上力を付けさせるのが不愉快だからだ』 などと本心を返せば、あの一族は私を反抗的な王と見做して首を挿げ替えるよう動くだろう。ブリジットが成人を過ぎておるからな。無理に私が王でなくとも構わないと思っている筈だ」
「…………」
「幼き頃より、玉座に座るのだ、とそればかり教育されてきた。だからこうして座っておるが、操りの糸に絡められておるこの座は少しも良い物とは思えぬ。だからと、私には操りの糸は断ち切れそうもない。……出来たのは、メイナードを嫌っているそなたを使って、重要な交易権をわざと与えぬよう少々意地の悪い事をするくらいだ」
苦笑する姿に、いつも馬鹿にしていた兄に利用されていた事を知った。
そして、それをメイナードも知っていた。
自分だけが知らず、そして愚か者に足を引かれてまんまと渡してしまった。香辛料に関する事を任され、蓄財出来ると安易に喜びフェルナーなどを推薦してしまった事を、心の底から後悔した。
「……鉄道事業も、上手く進められる者が他におらず、結局はメイナードを頼る他なかった。そして、今回の事も……こうなっては、そなたがどれ程嫌おうとあの一族に対抗する術は無い。今日までの年月がそうしてしまっているのだと諦め、あの一族は嫌うのではなく、便利な存在と思え」
「便利な存在?」
到底思える筈のない事を言われ、ファーガスは眉間に皺が寄ってしまった。
「国の繁栄と安定を約束してくれる、使い勝手の良い道具と思え。そう思い、少々の不満は堪えなければ、私のみならずそなたも消されてしまうぞ。そなたは私のたった一人の弟だ。失いたくはない。……あの一族はヴェルルーニの排除ではなく、リディエマの繁栄を望む者達だ。我らが必要以上に反抗しなければ、必ず王家に膝を折る。国の安定の為にな」
だから、その不遜な態度に自尊心が痛もうとも堪えろ。と兄は言いたいようだったが、ファーガスにそれは無理な話だった。
もし、自分が王ならば堪えられたかもしれない。
己の目の前にメイナードが膝を折り、敬意を払う姿を見られるのだから。
でも、王の弟の自分には、あの男は絶対に膝など折らない。王以外のヴェルルーニなど、大事に扱うどころか、嘲笑うだけだ。
堪えられる訳などなかった。


イリアス・バートランドにも許可を貰い、ファーガスはその前から下がった。
結局、兄はなんだかんだと言いつつも、メイナードに屈しているのだ。王たる者が、なんと情け無い事だ。
自分は、そんな戦わずして負けを認めるような、気概のない兄とは違う。
メイナードを崩壊させる事を諦めない。 威哥十鞭王

2013年4月25日星期四

精鋭たち

夏の闘技大会は、一回戦までがふるい落としだ。
 年がら年中、足しげくコロッセオに通う中毒者たちは、したり顔でこう語る。
 十六回に分けて行われる、百人規模のバトル・ロワイヤルではまだ甘い。Aを倒したBが、Dと相打つような戦いでは、Cが漁夫の利を得て生き残ることもある。だから、一回戦もふるい落としのうちなのだ。Motivat
 自称『通』の男たちは、遠方からやってきた観光客に向かって、このような弁舌をぶつわけだ。
 彼らは語る。二回戦からが、本当の闘いなのだと。運だけではなく、確かな力を持って勝ち上がってきた八人の男たち。彼らの闘いこそが、純粋な力と力のぶつかり合いなのだと熱く語った。
 それは間違いではなかった。十六人の猛勇たちが、鎬(しのぎ)を削って武を競い合えば、当然の成り行きとして弱者は淘汰される。そして、コロッセオには八人の強者が残るというわけだ。
 そこには運や偶然など存在しない。純化された力。濃縮された魔素。磨き上げられた武技。それらを前にして、万に一つも弱者の勝利はあり得ない。
 東大陸の武芸者たち。その頂を目指す夏の闘技大会は、分かりやすいほどに分かりやすい。
 すなわち、強い者が勝つ。その絶対不変の理の前では、生半可な小細工や小賢しいペテンなど通用するはずもなかった。

 灼熱の太陽光線を弾かんばかりに高まった熱狂は、はっきりと感じ取れる振動となってコロッセオを揺らしていた。
 第二回戦、黒騎士対キリング。一回戦で鮮やかな勝利を収めた黒騎士は、音に聞こえし重戦士、『皆殺しキリング』を倒すことができるのか。
 もしも彼を倒すことができたのならば、黒騎士の実力は本物だ。レベルにして208、重力を自在に操る〈グラビトン・ファイター〉のキリングに、小細工など通用しようはずがない。相手が策を弄せば弄すほど、策ごと叩き潰しにかかる。それが、黒騎士の二回戦目の相手だった。
 だが、真っ向から挑んでキリングを倒せるのならば、黒騎士は『本当の』本物だということになる。混沌龍すら倒してのける、勇者の中の勇者ということになる。
 一回戦でガルディが倒されても、人々の中の疑念は完全には払拭できていなかった。それほどまでに各国で偽物が湧いて出たし、顔を隠した人物はやはり胡散臭いものだった。
 本物の黒騎士という証明は、彼が勝利を手にすることによってなされる。できれば、勝って欲しい。できれば、証明して欲しい。観客たちは疑念を抱えつつも、本物の勇者を見たいという欲求に突き動かされて、黒騎士に惜しみのないエールを送っていた。
(超うるせえ。耳がおかしくなりそうだ)
 しかし、当の黒騎士は――貴大は、頭部を覆った兜の下で顔をしかめるばかり。彼はただ一心に、開始の鐘が鳴るのを待ちわびていた。
 さっさと始めて、さっさと終わらせる。念仏のようにこの一文を頭の中で繰り返し、貴大は対戦相手の巨漢を見つめる。
「てめえも待ちきれねえようだな。オレもだ。オレも待ちきれねえ。体が勝手に動いちまいそうだぜ」
 貴大の視線をどのように勘違いしたのか、キリングは巨大な戦斧を轟々と音を立てて振り回した。
 そのパフォーマンスに、大いに湧き上がる観客席。更に勢いを増し、はち切れんばかりとなった歓声に押されるかのように、運営委員会の者が鐘楼へと登る。
『ルール無用。情け容赦無用。互いに全力を尽くすことを誓いますか?』
「おうっ!」
 ひょろりとした眼鏡の男の確認に、ドンと胸を叩いて応えるキリングと、静かにうなずく黒騎士。
 それを確認した運営委員の男は、魔法の拡声器を再度口元に当て、左手に持った木槌を金色の金に叩きつけた。
『それでは、試合、開始っ!!』
 コロッセオにたまった声の渦を裂いて、高く澄んだ鐘の音が響き渡った。と、同時に、黒騎士の姿がかき消えてしまった。
 達人が見れば、彼がキリングの死角を取るために、弧を描いてコロッセオを駆け抜けたことが分かっただろう。だが、それが見えた者は、決して多くはない。
 一回戦を勝ち残った八人と、一万を超える観客の中の一握り。それ以外の者は、黒騎士が動いたことすら知覚できていなかった。
 仮にキリングもそうであれば、勝敗はここで決していただろう。彼は自分の身に何が起きたのかもわからないまま、一敗地に伏していたのかもしれない。
 だが、彼は〈スカーレット〉の――東大陸最大規模の冒険者グループの元締めだ。その実力や名声は、虚飾や水増しとは無縁のものだった。
「オラアッ!」
 振り向きざまに戦斧を一閃。横薙ぎに払われた鋼鉄の斧は、彼の首元にまとわりつこうとしていた黒い影を吹き散らした。
 大きく飛び退り、コロッセオの壁まで後退した黒騎士。風を巻いて唸ったキリングの剛撃と、まばたきの間に消え、そして現れた黒騎士の姿に、九割超の観客は、ここでようやく、試合はもう始まっているのだということに気がついた。
 試合開始を告げる鐘の音は、まだ余韻にさえも変わっていない。なのに、黒騎士たちはすでに一度目の攻防を終えたという。
 まるでこれが決勝戦のようではないか。そう錯覚させるほどに、刹那の攻防は観客に確かな満足感を与えていた。
 しかし、薪をくべればくべるほどに燃え盛るのが炎というものだ。なまじ燃料を与えた分、観客たちは大いに高揚し、足を踏み鳴らして大声を張り上げる。
「黒騎士っ!! 黒騎士っ!! 黒騎士っ!! 黒騎士っ!!」
「キリングゥゥゥーーーーっ!! 『皆殺しキリング』ゥゥゥーーーー!!」
 刻むような黒騎士コールと、引き伸ばすかのようなキリングコール。
 二つの音が混ざり合い、不思議と調和しているのに対して、名を呼ばれた本人たちは、硬い金属音を鳴らしてぶつかり合っていた。
「本物だ! おめえはやっぱり本物だよ! この強さ、この力強さ、間違いねえ!」
 歯をむき出して笑うキリングは、重力操作によって軽くなった戦斧を振るう。当たった瞬間のみ重さが増すという扱いにくい重力斧を、キリングは自分の体のように動かしてみせる。
 筋肉の鎧をまとった外見から、彼は純粋なパワーファイターだと勘違いされやすい。だが、実際にはレイピアやシャムシールさえも使いこなしてみせるほどの技巧派で、馬鹿正直に敵に大きな獲物を振り下ろす力自慢の戦士とは一線を画していた。
 力一つで頂点に立てるほど、冒険者の山は低くはない。心技体、全てを兼ね備えた者が立てる境地が、大国の冒険者ギルドの長というものだった。levitra
「俺の国の騎士団長でも、まともに打ち合えば数合と保たねえ! それをおめえはやってのけている! 誇れ! そして闘え! もっと! もっとだ!!」
 内に秘めた獰猛な本能を解放して、キリングは加速度的に手数と一撃の重さを増していく。その猛撃を前に防戦一方な黒騎士は――しかし、どこまでも冷静だった。
(この程度か。もっとやれると思ったんだがな)
 仮面の下の冷たい瞳は、客観的にキリングの実力を分析する。
(最初の一撃を防がれるとは思わなかったが、そこまでだったか)
 巨岩のように重たい戦斧をショートソード一本で逸らし、貴大は危なげなくキリングの攻撃を避け続ける。
 焦れたキリングが、力強く、しかし『雑な』一撃を放つまで。貴大は、暴風のような戦斧の乱撃に身をさらし続ける。
(そろそろか。カウンターで首を狩って終わり。それで二回戦突破だ)
 やがてキリングの動きに疲れが見え始めた時、貴大は勝利を確信していた。
 一騎当千の〈グラビトン・ファイター〉。巌のごとく鍛え上げられた剛腕にかかれば、貧弱な防御力しか持たない暗殺者など一たまりもないだろう。それは、レベルを限界値まで上げた貴大であろうと同じこと。彼自身、あの戦斧で二回、三回と斬りつけられれば、倒れるのは自分の方だと考えていた。
 しかし、当たらない。限界まで筋肉を躍動させても、キリングの攻撃は貴大にかすりもしない。
 貴大が必死になって避けているからではない。キリング程度(・・)のレベルでは、そもそも、回避を極めた斥候職を捉えることすら不可能だったのだ。
 紙のような防御力に反し、上位の斥候職は『回避する盾』と呼ばれるほどに生存能力が高い。避けて、躱して、受け流して。貴大は十二分の余裕を持って、『皆殺しキリング』と対峙していた。キリングの攻撃は、毛先ほどもかすっていなかった。

 当たらないのならば、大地ごと爆砕してしまえ。意図と気迫を隠しもせずに気炎を上げたキリングは、大上段に戦斧を振り上げ、燃える瞳で黒騎士を睨みつける。
(ここだ。この大振りを躱して、首を狩る)
 一瞬の隙を突き、速やかに敵を絶命させる。それこそが斥候職のファイトスタイルであり、貴大の最も得意とすることであった。
 避けて、剣を振る。機械的なまでに効率的な動作は、極めて安定した成果を貴大にもたらしていた。だからこそ、鬼と呼ばれた男を前にしながらも、貴大は絶対的な安心感すら覚えていた。
 そこには、致命的なまでの油断があった。
「【グラビトン】!」
「ぐああああっ!?」
 全身にのしかかる重圧に、貴大は今大会において初めて、苦悶の声を上げた。
 同時に、膝を突く貴大。あまりの『重さ』に彼はとても立ってはいられなかった。
 上級スキル【グラビトン】。使用者の半径十メートルを囲む、超重力の檻。十倍にも増した重力は、武器や防具を足かせに変え、空飛ぶ龍ですら地に堕とす。
 貴大ですら、【グラビトン】には抗えない。手が、足が、肉が、骨が、彼を地面へと縛り付ける鎖と化している。そのうえ、正体を隠すために身に着けている全身鎧が彼を苛む。黒く、重たい鎧は、その全てが拘束具へと変わっていた。
「これでトドメだ……!」
 増大した重力の中、キリングは筋肉に血管を浮かばせて、戦斧を持つ手に力を込める。
 戦斧を予め持ち上げていたのも。ことさら隙を強調してみせたのも。疲れた『ふり』をしていたのも。全ては、この一撃のためだったのだ。重力の力を上乗せした、必殺の一撃を確実に叩き込むためだったのだ。
 貴大は、事ここに至って、自分がまんまと術中に陥っていたことを悟った。「脳みそまで筋肉でできている」と侮っていた相手に、いいように手玉に取られていたことを悟った。
 自分の油断と不明を恥じた貴大は、同時に強い焦燥感を覚えた。このままでは、自分は負ける。重戦士の超重撃を受けて、自分は一撃で敗退してしまう。そうなってしまえば、危険な優勝賞品を手にすることが難しくなってしまう。
「これで、しめえだあああああああああああっ!!」
 真っ直ぐに振り下ろされる戦斧。背筋を凍らせる一撃に、迷っている暇などなかった。
「【蜃気ろ」
 貴大の小さな呟きすら呑み込んで、コロッセオが爆音を立てて大きく揺れた。
 重たく巻き上がった土砂が、泥のように地面へと落下した時、そこに黒騎士の姿はなかった。あるのは大きなクレーターだけ。そして立っているのはキリングだけ。
 間違えようもないほどに明確な過程と結果。それを受けて、観客は大きな歓声を上げ、
「……ガハッ」
 血を吐いて倒れたキリングに、言葉を失った。
「………………えっ?」
 倒れて転移の光に包まれたキリングに代わって、一つの影が立ち上がる。
 黒い鎧に、黒い兜。剣まで黒く染めた男の名は、佐山貴大。黒騎士として大衆に知られる人物が――キリングに叩き潰されたはずの人物が、今、勝利を示すかのように剣を掲げた。

「ネズミ、なんだろ?」
 常の歓声ではなく、不思議なざわめきに包まれたコロッセオ。その一室で、黒騎士と一人の少女が向き合っていた。
「グランフェリアを離れていたから、【マーキング】の効果は切れているけど……何となくわかる。お前、タカヒロなんだろ?」
 誰も寄り付かないような掃除用具置き場で、黒騎士を問い詰めているのは、赤毛の少女。
 先ほど、黒騎士に倒されたキリングの娘、アルティ・ブレイブ=スカーレット=カスティーリャだった。
「親父が倒れた時、首から血が噴き出てた。あの時と一緒だ。『憤怒の悪鬼』の時と。だから、なあ、お前なんだろう?」
「……まあ、そうだけどさ」
 三度の問い詰めに、遂に黒騎士は白旗を上げた。上げた両手で兜を外し、貴大はアルティに素顔を晒した。
「やっぱり、お前だったか」
 嬉しそうな、とても嫌そうな、複雑な表情を見せるアルティ。
 最強と信じていた父親が、ネズミと呼んでいた男に倒された。しかし貴大は、自分を二度も救ってくれた恩人であり、自分では及びもつかないような超人だ。
 アルティは、その強さに惹かれ始めている自分を感じていた。キリングを倒してのけるほどの男に、戦士としての魅力を感じていた。K-Y Jelly潤滑剤
 しかし、その相手が貴大では、やはり思うところがあるのだろう。男らしくなく、面倒くさがりで、だらしがなく、ひょろりとしている。
 自身の理想像とはおよそかけ離れている男に、淡い想いを抱いてしまうというジレンマ。アルティの心中は、自分でも説明がつかないほどに困惑を極めていた。
「すまんな、お前の親父を倒しちまった」
「うっ……」
 事もなげに「最強を倒した」と言ってのける貴大に、不覚にもときめいてしまうアルティ。親を倒されて喜んでいるかのような心の動きに、彼女は苦い思いも抱く。
 何を言えばいいのか。何を伝えたらいいのか。文句の一つも言ってやろうかと、自分はここに来たはずだ。「親父の敵はオレがとる。首を洗って待ってろ」と、啖呵を切りに来たはずだ。
 その一言が出てこない。日常茶飯事で口にしている悪態が、この時に限っては出てこない。
 ――いや、本当は、ずっと前からそうだ。
『憤怒の悪鬼』から助けてもらった時から。遺跡で命を救われた時から。そして、本当のレベルを伝えられた時から。アルティは、貴大に対して、一種の『やりづらさ』を感じていた。
 彼に向かい合うと、本調子ではいられなくなる。歯切れが悪くなり、むやみやたらに戸惑ってしまう。そのくせ、彼が気になって、こそこそと後をつけまわしてしまう。
 こんなのは自分じゃないと思いながらも、どうしても止められない。それはどうしてなのか、何度も考えたけれど、しっくりとくる答えはなかった。
 だけど、今なら答えがわかるような気がする。アルティは、胸を押さえながら、その答えにそっと手を伸ばそうとして――止めた。
「お前、負けたら承知しねえからな! ぜってー優勝しろよ!」
 代わりに出てきたのは、可愛げのない誤魔化しの言葉。
 今、本当の気持ちに気がつくのは、何だか怖い気がする。自分はこんなに臆病だったのかと、アルティは愕然としていた。
 そんな赤毛の少女の頭に、貴大はぽんと手をのせてお気楽に笑う。
「まあ、言われなくても優勝するつもりだ」
 そう言って、兜を被った貴大は、部屋から出ていった。
 残されたアルティは、顔を真っ赤にして、胸の中心を右手でぎゅっと握りしめていた。

 準決勝にあたる第三試合。ここまで上がってくるのは、いずれも劣らぬ大豪傑だ。
 大国の騎士団長。冒険者ギルドの長。高名な武家の長男に、異国から流れてきた戦士たち。ここにいるのが当然だという面子が揃うのが、夏の闘技大会の準決勝だ。
 この中の誰が優勝してもおかしくはない。準決勝進出者をもって東大陸四強を決めてもいいほどに、夏の闘技大会に集う戦士は質が高かった。
 しかし、それでもあえて、今大会で誰が一番強いかと予想すれば――。
「カウフマン! 『鉄のカウフマン』だっ!!」
 最強騎士、ジークムント=フォン・カウフマンの名が挙げられることが多かった。
「【アイゼン・シュピース】!」
 長槍を一度突き出しただけで、地面には衝撃波の爪痕が生じ、コロッセオの客席を覆うバリアがビリビリと震える。
 このような武威を示せるのは、『鉄のカウフマン』の他にはいようはずもなかった。
(こいつだけとは当たりたくなかったけど……やっぱり出てきたか)
 銀髪を後ろに撫でつけた、鎧姿の偉丈夫を見つめ、貴大は兜の下で冷たい汗を垂らした。
 機械のように精密な槍さばき。天地を引き裂く膂力。神から授かった長槍に、堅実なバルトロアのスキル。武神に愛されているカウフマンの強さは、貴大が以前味わった時よりも、磨きがかかっていた。
「我が国、我が姫に勝利を捧げる! 黒騎士など、何するものかっ!」
(うわわわわっ!?)
 空間に穴を空けるような、瞬速の連続突き。微塵の狂いもなく急所を狙ってくる連撃に、貴大はたまらず大きく飛び退いた。
「逃がさんっ!」
(もう、勘弁してくれよ!)
 後ろへ、横への何度かのステップ。相手を惑わすその動きに、それでも貼りつくかのように追随する最強騎士。直線的な速さにおいては、貴大にも勝るとも劣らないカウフマンの俊足に、貴大は大いに肝を冷やした。
(倒すつもりで戦えば、勝てると思ったんだが……甘かったか!)
 かつて相対した時は、追いすがるカウフマンを殺さないように気をつけていた。いわば、最強の騎士を相手に手加減をしていたのだ。それでも何とかあしらえていたので、貴大は今回の戦いに自信を持っていた。
 全力を出せば、中途半端に手を抜くよりも簡単に戦えるだろう。そう考えて、貴大は準決勝へと出向いたのだが――。
「そこだっ!」
「ぐあっ!?」
 開始から十分、貴大は押しに押されていた。
 そのうえ、とうとう長槍の先端が貴大の肩を捉え、板金ごと彼の骨肉を刺し貫こうとしていた。
 これはたまらないと、身をよじって切っ先を逸らす貴大。その動きに合わせて、カウフマンの膝蹴りが貴大の胴体へと叩き込まれる。
「ぐふっ!?」
 厚い装甲を貫き、内部の肉体を揺らす衝撃。たまらず体を折る貴大の背中に、今度は肘が振り下ろされる。
「がっ!?」
 体の芯まで響く肘鉄に、剣を取り落して倒れ伏す貴大。間髪入れず、彼の心臓目がけて、長槍が突き出される――!
「【見切り】ぃっ!!」
 決定打となり得た一撃を寸でのところで躱した貴大は、跳ね上がるように起き上がって、素早く体勢を立て直す。
 しかし、神がかった貴大の回避を、カウフマンは意にも介さず攻撃を続行する。先ほどの攻撃が外れることを予想していたかのように、すぐさま槍を地面から引き抜いた騎士は、顔色一つ変えずに突進を開始する。
 鉄の国、バルトロアの民は、からくり仕掛けと揶揄されるほどに精確だとされている。細かなところまで決めておいて、その通りに実行されなければ我慢がならないのだと、他国の人間は彼らを評する。
 その点で言えば、カウフマンこそが、模範的なバルトロア人なのだろう。勝利を得るために必要な戦術を組み立て、組み合わせ、その通りに体を動かす。先ほど、貴大を叩きのめした連撃など、まさしくそうだ。
 一つ一つの動作を的確に実行し、勝利のために淡々と敵を追い詰めていく。それは決まりきった作業にも似ていて、実際に貴大は事務的に処理されそうになった。曲美
 これがバルトロアの怖さだと、貴大は思う。これが武神に愛された所以だと、観客たちは思う。黒騎士さえも圧倒するバルトロアの体現者に、コロッセオに集った者たちは気圧されてしまっていた。
 だが、その中で唯一、貴大だけが笑っていた。『鉄のカウフマン』に追い詰められて、それでも彼は不敵に笑っていた。
「つええな。やっぱりこのおっさんは苦手だわ。でもな……」
 長槍で壁際まで押し込まれながら、眼前に難敵が迫っていながら、それでも彼は笑う。
 兜の下で、くつくつと笑って、彼はカウフマンの長槍を――力づくで、弾いてみせた!
「お前ぐらいの強敵は、ネットにゃゴロゴロいたんだよ!!」
 パリィと呼ばれる防御術で長槍を弾いた貴大は、壁を蹴って大きく飛び上がる。そして、ショートソードを胸の前で横に構え、一つのスキルを発動させる。
「【ミラージュ・ボディ】!」
 途端に、大きなざわめきが観客席で波打った。なんと、剣を構えた黒騎士が、五つの体に分かれたのだ! 
 寸分違わぬ姿の、五人の黒騎士。彼らはてんでバラバラに動きながら、四方八方からカウフマンに襲いかかる。
「うぬ、まやかしかっ!?」
 頭上から飛び込んできた黒騎士を一突き。すると、黒騎士は大きく膨れ上がって、紙切れをまき散らしながら爆裂してしまう。
『残念、ハズレだ』
 耳元で聞こえた声に、カウフマンは鋭く拳を放った。枕を殴るような頼りない手応えと共に、黒騎士はまたもや破裂してしまう。
『まだ三人もいる』
『本物がわかるか?』
『さあ、槍を突き刺せ!』
 舞い散る紙ふぶき。そして反響する黒騎士の言葉に――カウフマンは、冷静な心を取り戻す。
(ガウディ戦での首狩り。キリング戦での透明化。この者はやはり、戦士ではない。影者だ)
 全身を覆う鎧と、『黒騎士』という呼び名。見えるもの、聞こえるものに惑わされ、自分は本質をつかめていなかった。カウフマンはそう思った。
 幻を操る騎士ではなく、影者(かげもの)――暗殺者の類ならば、いくらでも戦いようはある。相手が幻影に隠れるならば、虚実を見切って、本体を叩く。それができるのが、カウフマンという男だった。
『来ないなら、こちらから行くぞ』
(まやかしは『軽い』。存在が希薄で、動作に重さがない)
 これまでの経験と、培ってきた勘から、カウフマンは早くも本体にあたりをつけた。
(一番奥で、ゆったりと構えているのが本体だ。他は紙風船のようなもの)
 そうと決めれば、怒号一閃、カウフマンは強烈な突進を繰り出した。
 一本の槍と化した最強騎士は、行く手を遮る一体の分身を貫いて、そのままの勢いで黒騎士に迫った。
 まさか、いともたやすく見破られるとは思ってもみなかったのだろう。もたつき、初動が遅れた黒騎士は、もはや串刺しにされる運命にあった。
(もらった)
 薄皮一枚まで槍の穂先がめり込んだ時、カウフマンは自分の勝利を確信した。
 だからこそ、本体と信じて疑わなかった黒騎士が、音を立てて破裂した時には――一瞬、動きを止めてしまった。そして、貴大は、その隙を見逃さなかった。
「【首狩り】」
「がっ……!?」
 驚愕に目を見開いたカウフマンは、後ろから聞こえた声に振り返ろうとする。
 しかし、後ろに首を回す前に、彼は転移の光に包まれて消えてしまった。
 結果、その場には、黒騎士だけが残っていた。無数の分身を全て失った黒騎士の『本体』が、剣を左右に払って、付着した血を飛ばしていた。
「【チェンジ・ボディ】。廃人プレイヤーから教わった、俺のとっておきだ」
 黒騎士が高く、剣を掲げた。
 一瞬遅れて、観客から嵐のような拍手と喝さいが巻き起こった。天天素

2013年4月23日星期二

夜の狩り

「優里ちゃん」
「はい」
「糸、できたよ」
「ありがたく、頂戴致します」
寛親が作り出した「力」を撚り合せた、幻の「糸」を受け取る。
きちんと念を込めて保持しなければ、儚く消えてしまう実体のない糸だ。印度神油
これを正しく扱うのも、猟犬の役目だ。
自分は生まれつき、目に見えないものが見え、触れる事が出来た。
この資質があるからこそ、猟犬としての適性を見いだされたのだ。
「見事な糸でございますね」
「ありがとー」
寛親がヘラヘラと笑った。
彼は、狩り用のヒメガミ独自の道具を作り出すのが、本当に巧い。
審神者の五堂や、今は引退したお年寄りの狩人曰く、このような能力を持つヒメガミは稀で、寛親ほどの腕であれば希少な存在なのだという。
だが、彼はそれをひけらかさないし、特に誇る様子もない……。
こんな事しか出来ないからね、と言うばかりだ。
「では、お預かり致します」
儚く、しかし強い力を秘めた糸をそっと手のひらに握りしめる。
魔を縛するのに良い道具だ。
それから、長い麻縄と自分の念とで縒り合わせれば、巨大な空間を封じる為の一助となるだろう。
「あ、あとこれもー」
にっこり笑った寛親に、次は小さな光る板のようなものを手渡された。
寛親の作り出した「札」だ。
これを貼られた存在は、常にヒメガミに場所を特定される事になる。
「ありがとうございます。こちらの一枚はわたくしに貼り、残りは魔に貼る為にお預かり致します」
「うん、足りなかったら早めに言ってね。作るのちょっと、時間かかるから」
「はい」
頭を下げ、札の束をレザージャケットの内ポケットに収めた。
一枚だけ、Tシャツの襟元を引っ張り、胸の谷間に差し込む。
ここなら体に完全に吸収されるまでの間、落ちずに保持出来るだろう。
札の効力は、ひと月ほどだ。ちょうど貼り直しの時期だったので助かった……。
「優里ちゃん、刺激的すぎ」
チカが肩をすくめる。
「申し訳ありません。私の肌ですと、貼ってもすぐに落ちてしまうものですから」
「いや、お礼を言うのはチカの方だけどねぇ……ありがたやありがたや……」
何故か拝まれた。
何となく間が持たず、うつむく。
『人前で気軽に胸元を引っ張るのは止そう……』
「おい、何してんだ」
低い声に我に返る。
「あ、おじさま」
「霜園様」
「おう。今日は俺に出てくれって、おにーちゃんに頼まれてな。よろしく」
寛親が明るい笑顔で言った。
「久しぶりだね、おじさまと狩りに出るの」
「まあ、その辺適当に掃除はしてたけどな……もうおっさんだから、お手柔らかに頼むわ」
軽い口調だったが、鍛え上げた全身から、うっすらと蒼い光が漏れ出しているのが解る。
彼は先代の王、伽倻子の筆頭狩人にして、総一郎の父。
未だに凄まじい力を持つヒメガミの一人だ。
老いによる弛みなど、みじんも見せない。
「総ちゃんは?」
「用事らしいよ。来週、フランスの美術館のお偉いさんが来日するから忙しいんだと」
寛親が頷いた。
自分もまた、頷く。
「さてと」
霜園が両手のひらを打ち合わせた。
「行くか。山ン中に逃げたらしいな。生者に取り憑いた赤橙」
優しげな表情を消し、寛親が頷く。
自分もまた頷いた。
霜園が引き連れて来た、屈強な体格の2人の猟犬がずい、と前に歩み出た。
一瞬自分を見て、関心がないように目をそらす。
己の実力に自信があり、自分に嫉妬心も抱いていないタイプの猟犬だ。
『良かった』
無駄な悪意に足を引っ張られ、つまらないしくじりをしなくて済む。
最後に、少しだけ蟠っていた事を、口に出した。強力催眠謎幻水
「本日は、修二様はおいでではありませんよね」
「ああ、置いて来た。生者相手だからな。じゃ、行くかぁ」
霜園が言い、凄まじい勢いで走り出した。
山へ続く、真っ暗な砂利道を駆け上がる。
自分も同じく後を追う。
『良かった、修二様はおいでじゃない』
道を変え、一人藪をかき分けて走る。
虫が飛び込んで来ないように強く口をつぐんだ。
霜園と同じ道を走っても意味がない。
魔を追い立て、狩人の前に引きずり出さねば。
りん、りん、と、幻の鈴の音が耳に響く。
寛親が魔の気配を感じ取り、知らせて来たのだ。確実に、この藪山に恐ろしい魔が居るのだと……。
糸を手に、気配を殺して目を凝らす。
微かなうめき声のような、笑い声のようなものが、じりじりと耳に忍び込んできた。
手強いかもしれない。
貴重なヒメガミの皆だけは、猟犬の長として、無事に生きて返さねば。
***************
五堂は、ボロ車のドアを思い切り閉め、人の気配のない薄ら寒い山を見上げた。
自分の目には、蒼い札を貼られた3匹の猟犬が見える。
元締めは、佐々木霜園だ。
「おっさんが来てるなら、僕は出番無いんじゃないかねぇ」
運動嫌い。
そう思う。
だが一応、狩人をやれと我が儘王子に命令されたので、仕方がない。
入念にストレッチを始めた。
アラフォー男子がいきなり運動をしたりすると、脚の腱をぶっちりしたり、腰をぐっきりしたりとロクな事がないのだ。
それから心臓にも良くないし……。
グズグズと運動を終える。
だが、まだ狩りは終わらないようだ。
もう少しストレッチが必要かもしれない。
あと、ウォームアップも。
激しい運動の前にアミノ酸のサプリを取るのを忘れた。
家に戻って飲んで来るべきか。
「んー」
まだ狩りが続いているようだ。
魔を追い立てる猟犬の気配、ヒメガミが魔の存在を知らしめるために鳴らす鈴の音が、耳に響き渡る。
……。
やはりアミノ酸は必要だろう。
それからプロテインドリンク。持ってくるのを忘れた。
「あ」
足元を見て気づいた。
この靴、よく考えたらスポーツ用ではなかった。ただの革靴だ。
……。
相変わらず、山からは佐々木霜園の獰猛な気がびんびん伝わって来る。
「まだおわんねーのかよぉ……早くしてよー」
肩をすくめた瞬間、目の前にべちゃり、と音を立てて女の子が落ちて来た。
ボロボロのワンピースを着て、全身に網の目のように血管が浮いている女の子だ。
「……魔に毒され度、67%かな」
小首を傾げて人差し指を立てた瞬間、近くの茂みから優里が飛び出して来た。
相変わらず素晴らしいおっぱいだ。
サラシで潰し、ジャケットの中に押し込めているのが最高に良い。
優里が、蒼い糸を手に、躊躇い無く魔に飛びかかる。
凄まじい力とともに振り回される魔の爪を腕で受け止め、蒼い糸を器用に操り、魔の体に巻き付けた。
魔が、咆哮をあげて糸を引きちぎる。
が、優里は顔色ひとつ、変えなかった。
瞬時に糸を復元し、魔の振り下ろした爪を飛び退いてかわす。
大した女だ。
おっぱいだけじゃない。いやおっぱいは大したものなのだが。VIVID
草むらに立つ魔が、天を仰いで絶叫した。
凄まじい赤橙の光が、体から吹き出す。
『やばいなあ、あの子そろそろ、魔と融合しちゃうなぁ』
ぼりぼりと頭をかいた。
優里が、木の枝から飛び降りて来る。
いつの間にあそこに移動したのだろう。
「破!」
気合いとともに、優里が王賜の短剣を一閃させた。
魔の体を包むぬめりのある燐光が、両断される。
そのまま再び、優里が羽衣のように糸を操って、魔の体に巻き付ける。
そして振りほどく事を許さず、蒼く輝く糸の片端を、形の良い唇に咥えた。
魔は、今度は糸を引きちぎれなかった。
優里の吐く息には、おそらく何らかの念が籠っている。
糸がそれを伝い、魔を凄まじい力で縛しているのだ。
糸の放つ光が強くなる。
優里が大きな目をすがめ、口は離さずに、両手で思い切り糸を引いた。
「ぐぎゃああああああ!」
魔が悲痛な声を上げた。
蒼い糸に縛られた何かが、女の肉体からずるりと離れる。
それは、赤橙に光る、実体のない何かだ。
赤橙の魔が、生者の肉体から強引に切り離されたのだ。
『ひゅ〜!すっげー、何あの技……!』
魔のみを縛り上げ、引きずり出すとは。
ヒメガミでもない人間の猟犬が、あれほどの高度な術を行使するのは見た事がない。
「五堂ふぁんっ!」
怒鳴られ、びしっと背筋を正した。
とっくに見つかっていたらしい。
「この魔を祓って……くらはいっ!わたひじゃ、髄石にれきない……!」
優里が糸を咥えたまま、必死に呻く。
「はーい、オッケー、ハニィ!」
うなずいた。
動かない魔なら、走り回って追いかける必要はない。
優里が糸で縛り上げている、生々しく光る塊に歩み寄り、掴んだ部分をぐしゃりと握りつぶした。
硬い。
だが、これで終わりだ。
人間ほどの大きさだった赤橙の塊が、一瞬のうちに霧散する。
「……えっ?!」
美しい唇を糸から放し、優里が声を上げた。
「やったよん」
可愛い猟犬ちゃんに微笑みかけ、手のひらを開いてみせる。
赤橙の髄石が取れた。
ずいぶん大きくて綺麗な石だ。
気取った仕草で一礼し、いつの間にか緩んで開いていた優里の胸の谷間に、髄石を押し込む。
頑張った猟犬ちゃんには、良いボーナスになるだろう……。
自分にもまた、良いボーナスになった。
あの谷間、ぷるんぷるんの素晴らしい押し心地だったから。
呆然としている優里に、そのまま背を向ける。
車に戻り、急いでポンコツ野郎のエンジンをかけた。
『寒空の下でぼけーっとしてたから冷えた!メッチャ腹痛えええ!』
喫緊のインシデントが発生した。早急に対応しなければ。
『サービスエリアかコンビニあったっけ!畜生このクソ田舎めが!』
やっぱり狩りなんか面倒くさい……。
唇を噛み締め、命がけでアクセルを踏み込んだ。蔵八宝

2013年4月21日星期日

王子と姫君

「あれが、帝国都市ヴィキュアですか」
 崖の縁から遠方に臨む城壁と、その中から幾筋も微かに立ち上る生活の煙を見つめ、レヴィはほぅ……と溜息を吐いた。
 始まりは何処からか、もう思い出すことはかなわないが。確かに旅の終わりが近付いている気がして、レヴィは何気なく後ろを振り返る。 麻黄
 少し離れた大木に凭れて目を閉じている神父が目に入り、レヴィはもう一度静かに息を吐いた。
「な、長かった……」
 レヴィより長い長い溜息を吐き、げんなりとした声が下方から聞こえて、レヴィは目を瞬かせると視線をそちらへ移した。
 耳をへにゃりと力無く垂らしたロゼが、レヴィの隣でヴィキュアを眺めながら、あぐらをかいて座っている。
「ロゼ、どうしたんですか?疲れちゃいましたか?」
「ああ。疲れちゃいました……つーかソレと言うのも全部、あのクサレ神父が悪いんだけどな」
「え?」
「本当なら馬車で半月で着くところが、何でだかは言いたくないけど朝になると『腰を打ったから』って苦笑いしてしばらく動けないレヴィが居るってコトが日常的に行われてて、気が付けば二月以上経ってやがるぜチクショウ!」
「ロゼ、舌噛まないですか?」
「ああもう!手を変え品を変えオレが妨害しようとすんのに挙げ句の果てには強行しやがるあのクサレ神父にどう報復するか悩んでるオレには、今のレヴィの笑顔はイタイ……」
 隣にあった岩に突っ伏すように倒れ込むロゼに首を傾げると、レヴィは休んでいるゲイルに声を掛けた。
「ゲイルさん、ロゼが長旅で疲れちゃったみたいです」
 閉じていた目を開けてこちらを一瞥すると、ゲイルが気の無い声で返してくる。
「土壇場で踏み込む度胸のない獣に掛ける言葉は無い」
「だからって目の前で強行するヤツがあるかよ!?オレが起きてんのに気付いて傷付くのはレヴィの方なんだぞ!?」
「ほう。あの状況でこいつの心配が出来る程、お前に余裕があったとは知らなかった」
「………ッこの、クサレ神父!!」
「あの、二人ともいったい何の話を…」
「「何でも無い(ナイッ!)」」
 ゲイルとロゼの息の合った返答に、『仲が良いんですね』と盛大なボケをかましつつ、とりあえずロゼの元気が出たみたいで良かったです、と笑顔で頷くレヴィ。
 そんなレヴィの笑顔に閉口したロゼは、乾いた笑みを張り付かせると、暗雲を背負った肩を力無く落とした。

「腕を」
 街門に着く前にゲイルから言葉を掛けられて、レヴィは不思議に思いながら右手を差し出した。
 ゲイルはレヴィの右手首を取ると、絹糸で編まれた腕輪を巻き付けて、固定していく。
 腕輪の中央に通されたターコイズブルーの水晶に写る自分の顔を覗き込みながら、レヴィはぱちぱちと瞳を瞬かせた。
「ゲイルさん。あの、コレは?」
「虫除けだ」
「虫よけ、ですか……?」
 どういう意味か聞こうと思い顔を上げるが、ゲイルは既に街門の方へと歩みを進めていた。
 レヴィはゲイルの後ろ姿を見つめながら、今更ながらに火照り始めた頬を押さえて、心の中で歓声を上げた。
「ゲイルからモノもらうのが、そんなに嬉しいのか?」
 頬が緩みっぱなしのレヴィに、ロゼが呆れたように声を掛けてくる。
 ケッ、とゲイルの背中に悪態を吐くロゼに、レヴィは満面の笑みで頷くと、右手首を空に翳し、水晶を見つめて眩しそうに目を細めた。
「だって、記憶のある中では、初めての贈り物ですもん!」
「……あっそ」
 曇りの無いレヴィの笑顔に、ロゼもそれ以上何を言うことも出来ず、耳隠しの帽子を深く被り直した。



「 ―― ゲイルさん、どういうコトですか!?」
 城門をくぐり、活気付く町並みに瞳を輝かせる間もなく、レヴィは宿の一室に押し込められていた。
 ロゼは背凭れのある椅子に逆向きに跨りながら、不平を漏らすレヴィと一切取り合わない態度のゲイルをぼんやりと眺めている。
「魔族が教会へ行こうと考える事自体が馬鹿げている」
「それは分かります。教会へ行くことはしませんし、近付かないようにしますっ。でも、街にも出ちゃいけないって、どういうコトですか!?」
「体裁だろ」
「え?」
 それまで傍観者として話に加わっていなかったロゼから声が上がり、レヴィがロゼの方を見やった。
 レヴィを一瞥すると、ロゼは視線を外して気の無い声で続ける。
「レヴィ、今までの街とは違うんだ。ヴィキュアは教会の総本山なんだぞ?そこで神父が魔族を連れてたなんて知れた日にゃ、ソイツの立場が危ういだろ?」
 レヴィは虚をつかれたように目を見開くと、にわかにショックを受けたような表情で、恐る恐るゲイルの様子を窺いながら問い掛ける。
「あの、私がゲイルさんと一緒にいると、迷惑ですか?」
「居ない方が都合は良い」
 にべもなく告げられた予想通りのゲイル台詞と、レヴィのあからさまに青褪めた顔色に、ロゼは苦笑した。
 後味は悪いが、コレもレヴィのため……と心を鬼にする。
「……じゃあ、ゲイルさんと顔を合わせないようにしますから。それじゃ、ダメですか?」
 がたこっ、と背後で音がしてレヴィが驚いて振り返ると、ロゼが危ういバランスを保ちながら、椅子からずり落ちた体勢を立て直していた。
「あー……クソッ!レヴィ、いつも聞き分け良いクセに、どーしてたまにそう意固地になるんだよ!?」
「ロゼ?」
「だから、こんな教会の総本山の聖職者がウロウロしてるヤバイとこで、ノコノコ魔族が出歩いてたら、『狩ってください』って言ってるようなモンだろ!?」
「あ」
 合点が言ったというようにぽむ、と手を叩くレヴィに、ロゼが「にぶちん」と拗ねたように呟く。
「あの、ごめんなさいゲイルさん。私待ってますから。どうぞ行って来てください」
 宿への押し込めは、実は心配されていた為だと分かると、レヴィの表情は一変してほわほわとした笑顔に戻る。
 むしろ心配されていた事が嬉しかったのか、頬が上気している様子が傍目にも明らかだった。
 尻尾が付いてたら振り兼ねんばかりのレヴィの喜びように、オレがレヴィのペットだって言うんなら、レヴィはゲイルのペットだよなと、ロゼは心の中で呟いた。
 だがそれがとてつもなく恐ろしく嫌な考えであったコトに気が付くと、頭を掻きむしって脳内中枢全域に前言撤回を申し立てた。
 ロゼの葛藤など無論歯牙の先にも掛けず、ニコニコと機嫌良さげに見送るレヴィを一瞥し、ゲイルは部屋の扉へ手を掛けて口を開く。 D9 催情剤
「もしお前が、どうしても街に出たいと言うのなら」
「あ、いいえ。私ここでおとなしく……」
「二、三日足腰立たないようにしてやっても良いが」
「ここでおとなしく待っていマスっ!」
「とっとと行きやがれこのセクハラ神父ッ!!」
 ロゼの投げた枕は、閉じられた扉へ音を立ててぶつかり落ちた。

 ※

 部屋に備え付けられている本棚から何冊か拝借して読書をしていたレヴィは、ごそごそと身支度を整えるロゼに気付いて顔を上げた。
「ロゼ、どこかへ行くんですか?」
「ん。ちょっとヤボ用」
 寝台から降りようとするレヴィを見て、ロゼはストップ、と言うように手を翳す。
「あ、レヴィは来ちゃダメだからな。ココで大人しくしてるんだぞ」
 ぷぅっ、と膨らんだレヴィの頬をつつきたい衝動に駆られながらも、ロゼは思わず同行を許してしまいそうな自分の心を叱咤する。
「んな可愛い顔しても、ダメなモンはダメっ」
 つんとそっぽを向くロゼに、レヴィは拗ねたように唇を尖らせた。
「どうしてロゼはいいんですか?」
「この街は慣れてるからさ。それにレヴィほどトロくないし、オレ」
「どういう意味ですか!」
「まんま」
 寝台に座っているレヴィは、立ったロゼより頭一つ分低くて、ロゼはポンポンとレヴィの頭を叩くと軽く笑った。
「すぐ帰ってくるから、そんな顔するなよ。おみやげ買って来るからさ」
 笑顔で頷くレヴィに、単純だなぁと吹き出しつつ、ロゼは最後にもう一度レヴィの頭をよしよしと撫でた。
「んじゃ、行ってくる」
「はい、いってらっしゃい」
 ちょっと新婚っぽい会話に一人胸を躍らせながら、ロゼはとっとと面倒なコトは済ませよう、と足早に宿を後にした。


 ゲイルだけでなく、ロゼすら居なくなってしまった宿の一室で、レヴィはふぅと溜息を零す。
 外に出るなとは言われても、眺めるなとは言われてませんし……と心の中で呟きながら読書を中断すると、窓を開けてヴィキュアの街並みを楽しむ事にする。
 ヴィキュアの中心にそびえる宮殿のような建物が、ヴィキュア帝国の教会本部らしい。
 初めは城かと思ったが、ロゼから教会なのだと聞き知って驚いた。
 絵本に出てくるような、自分がイメージしていたお城に良く似た教会を見つめ、レヴィはその場所にいるゲイルを想う。
 こうやってお城を眺めて、王宮の生活や王子様を夢見ていた女の子の物語があったような気がして、レヴィはくすくすと笑った。
 レヴィが窓からヴィキュアの街並みを眺め見ていると、ふと白い鳥が窓枠に降り立ち、羽根を繕い始めた。
 微笑んでその様子を見つめていると、鳥はくるくると咽を鳴らしてレヴィに小首を傾げ、飛び立っていく。
 鳥の軌跡を目で追うと、鳥は大きな弧を描いて宿の前の大通りへ降下していき、一人の男性の横を通り過ぎた。
 再びレヴィのいる窓枠へ戻ってくると、鳥の足に細長い銀の鎖が絡み付いているのに気付いた。
「……ブレスレット?どうしてあなたが持っているんですか?」
 鳥は小首を傾げてレヴィを見上げると、足を小刻みに振り、ブレスレットをその場に残して飛び去った。
「あの、コレ……」
 忘れ物です、と去っていく小鳥に呼び掛けようとして、すぐに無駄である事に気付く。
 レヴィは所在無く置き去られたブレスレットを手に取り、何気無く下の通りを眺めた。
 すると、一人の人物が弱ったように何かを探しながら通りを歩いているのが見える。
 確か、あの鳥が低空を横切った時に、傍にいた男性だった。
「きっとコレを探しているんですよね……」
 持っていたブレスレットを見つめ、もう一度男性へと視線を移す。
 ゲイルが着ていたものより上質そうな、けれど同じ紋章の入った外套を身に纏う男性を見つめ、レヴィは困ったように眉を下げた。
「ゲイルさん達からは、外に出るなって言われてますし……」
 しかも、男性は明らかに教会の関係者の出で立ちである。
「……………」
 レヴィは窓枠にブレスレットを置くと、そっと窓を閉めて部屋の中へ戻った。


「有り難うございます、とても助かったりましたよ。細かい物ですから、落としても見つかり難いと思っていたんです。まさか小鳥の悪戯だったとは」
「いいえ。見つかって良かったですね」
 男性からお礼の言葉を受け取りながら、レヴィは結局届けに来てしまった自分に、心の中でゲイルとロゼに謝罪することで目を瞑ろうと思った。
「それじゃあ、私はこれで」
 宿の扉を開けて戻ろうとしたレヴィの手に、後ろから伸ばされた男性の手が重なる。
「何か、お悩みでもあるのですか?」
「え?」
 振り返ると思いの外近くに男性の顔があり、レヴィが驚くよりも先に、相手が「失礼」と重ねていた手を離して一歩距離を取った。
「私の思い過ごしでなければ、先程窓から教会の方角を見ていらっしゃった方ではありませんか?」
「えーと……」
 見られていたことに頬を赤らめながらレヴィが小さく頷くと、男性は「やっぱり」と、淡く笑みを浮かべた。
「貴女がとても、思い詰めていた様子でしたので。声を掛けようか迷っていたんです。そうしているうちに、小鳥に悪戯されてしまったのですが」
 面目ないと柔和に笑う男性に、レヴィも自然と笑みながら首を振る。
「私、そんなに思い詰めている様子でしたか?」
「ええ。もし何かお悩みがあるのでしたら、何かお力になれないかと思いまして。ああ、申し遅れましたね。私はサイラス=フェビアン。教会で司祭をしています」
「私はレヴィって言います」
 優しく包み込む穏やかな風のような、そんなフェビアンの笑顔に、レヴィは次第に警戒を解いていった。
「レヴィさんですか。素敵な名前ですね。……貴女の悩みを、私が聞くことは叶いませんか?貴女の魂は、ひどく迷っているように見えるのです」
 こちらのお礼も兼ねて、とブレスレットを翳すフェビアンに、レヴィは笑って頷いた。
「では、教会へ参りましょうか」
「え?教会へ、ですか……?」
「ええ。ここでは落ち着きませんし、神のお声も届き難いでしょうから」
「えっと……」
 ぎこちなく笑みを浮かべて後退するレヴィに、「どうかされましたか?」とフェビアンが問う。
「……司祭様。私が教会に足を運んでも、大丈夫でしょうか?」
 じっとフェビアンを穴が開くほど見つめ続けるレヴィに、フェビアンは軽く目を見開くと、何故か小さく吹き出した。 挺三天
「司祭様?」
「ああ、すみません。貴女が余りにも可愛らしかったものですから」
 クスクスと笑い、口元を押さえながらフェビアンは頷いた。
「勿論。迷える魂を抱く方を門前払いするほど、教会も鬼門ではありませんよ」
面倒な仕事だと思う。
 繰り返される単調な作業と、代わり映えしない日常。
 そこに自由があるわけでもなく、自由を望めるはずもなく。
 煉瓦造りの壁に凭れ、目深に被った帽子の隙間から、ロゼは街を行き交う人々を眺めた。
  ―― 『私達も、帰る家のある家族に見えるでしょうか』
 そう言って、同じような風景を眺めた淫魔を思い出し、苦笑した。
「帰る場所……か」
 昔は確かに、存在していたような気がする。
 だが今は、帰る場所だと思っていたものはただの幻想で、実際にはストックのように管理されていただけだと知った。
 家族だと思っていたものは、お互いに材料で、何処が相手で、何処が自分か分からない。
 今までダブるようにせめぎ合っていた意識は、ここ数年形を潜めている。
 自分は、相手を侵蝕して生き残ってしまったのだろうか。
 曖昧だった境界線すら今では見つからなくて、もどかしい気持ちを手のひらに込め、ロゼは弄んでいた石を握り潰した。
「 ―― 報告を」
 凭れていた建物脇の暗がりから、低く端的な声が届く。
「変わらないよ。別に教会に楯突く様子はないし」
 砂になった手の中の石をサラサラと地面へ零し、ロゼは暗がりの声へ向かって事務的な声で返す。
 そう言えばと、もう二月以上前のガーレストキアでのターゲットの行動を思い返す。
「ガーレストキアで、シダー=ガーロンって言う魔術師を捕まえて、教会に連行してた。もう本部には報告が上がってると思うけどさ」
「……………」
 暗がりの相手から苛立った気配と、微かな舌打ちの音が聞こえる。
 常人では聞き取れない音も、聴覚の良いウェアウルフである自分には容易に耳に届いてくる。
 そして同時に、バーサーカーの能力も有している自分は、握力で石を握り潰すこともわけが無くなってしまったのだなと、手に付着した砂を眺めてぼんやりと思った。
「他に報告は」
「ない」
「奴と行動を共にした者がいたら、報告しろと教えたはずだが?」
「……一度、ガーレストキアのエルザに会ってたけど。別に」
「あの淫魔は?」
「 ―― ッ!」
 微かに闇から低い笑い声が聞こえ、周りから不審がられないように神経を張りつめながら、ロゼは声を荒げた。
「アイツは違う!別に、たまたま一緒にいるだけで……ッ」
「ロゼ、お前は面が割れているな」
「え」
「その淫魔にも、なかなか執心しているらしい」
「……………」
「ギュスターヴ以外に不穏分子を置いておく程、教会も甘くは無い。残念だ。気性は荒いが、感情を持つ合成獣(キマイラ)の中で、お前はなかなかの傑作だったのにな」
 闇から手が伸び、ロゼの腕を引いて暗がりへと引きずり込んでいく。
 教会が、ゲイル=ギュスターヴの監視を一人に任せるなんて思う方が間違いだった。
 他の仲間がどんな仕事に就いているかは知らないが、疑り深い教会のこと、監視に監視を付けるのは、考えてみれば当然だったのかも知れない。
 多少強引にでも、さっさとレヴィをゲイルから引き離しておけば良かったと、レヴィの気持ちを考えて躊躇っていた自分に、ロゼは今更ながらに後悔した。
「感情の残ったキマイラ……その感情が徒(あだ)になったか。やはり多少能力に劣っても、キマイラは従順な方が扱いやすい」
 くすぐるように顎を撫でられて、ロゼはかぶりを振って相手の手を突き放した。
「………オレ達は道具じゃない」
「道具だよ。使えなければ、いくらでも補充できる」
 ロゼが睨むと、目の前の教徒は可笑しそうに笑った。
「……レヴィは」
 ざわざわと滾る血の巡りから意識を逸らしながら、ロゼは教徒から視線を外して呟いた。
「大司祭様直々に面会に行かれるらしい。ギュスターヴが珍しく長く連れているからな。それなりの利用価値はあるんだろう」
「 ―― レヴィ!」
 駆け出そうとした首を後ろから捕まれて、首に巻き付けられていた魔力封じの紐が、ブツリと音を立てて切り落とされる。
 全身の血が沸騰するような熱さに、バーサーカーの能力が身の内で暴れ出すのを感じ、ロゼはその場で蹲ると地面を掻いてうめいた。
「ロゼ。お前にはまだ仕事が残っている」
 赤く染まる視界と、朦朧とし始める意識の中、聞くだけで吐き気のする教徒の声が、ねっとりと頭の中に響いていく。
「最後の仕事になるんだ。しっかり働けよ」


 ※       ※       ※


 ……神様 ―― 懺悔します。
 私は、傍にいたい人がいます。
 ずっと、王子様を想ってきたのに。
 王子様は、私のことを待っていてくれているのに。
 それでも私には離れたくない人がいて、王子様の手がかりを見つけたのに、それをひた隠しにしている自分がいるんです。

  ――彼は、貴方を大切にしてくれますか?
 いいえ
  ―― 彼は、貴方を尊重してくれますか?
 いいえ
  ―― 彼は、貴方と対等な立場に在りますか?
 いいえ
  ―― 彼は、貴方に嘘偽り無く接してくれますか?
 いいえ
  ―― 彼は、貴方を愛してくれますか?
 ……………いいえ

 一方的な想いは、お互い苦痛を伴います。
 貴方は、他に目を向けるべきです。
 貴方を必要としてくれている誰かが、いるのではありませんか?
  ―― その、王子様のように。

「 ―― レヴィさん」
「………司祭様……」
「貴女の懺悔が、少し気になりまして」
 レヴィは呆けたように頷くと、フェビアンに手を引かれるまま、懺悔室を後にした。



 かちゃり、と陶器が擦れる音でハッと目を瞬かせ、レヴィは呆けていた意識を取り戻した。
 目の前に置かれたカップに注がれる闇色の液体から、香ばしい香りが漂ってくる。
 いつの間に座っていたのか。しっとりと滑らかに身体を受け止める上等な革張りのソファへ、腰掛けていたことに気が付いた。
 ソファから立ち上がろうとするが、伸びてきた手に肩を軽く押さえられて、レヴィは再びソファにポスンと座り込んだ。
 傍らを見上げると、レヴィを座らせたフェビアンがポットをコルクコースターに置き、柔和に微笑みながら首を傾げている。
「珈琲はお嫌いでしたか?」
「コーヒー……ですか?」
 レヴィの隣に腰掛けると、フェビアンは自分に入れた珈琲を一口啜った。 VIVID XXL
 その様子を眺めながら、レヴィも見よう見まねで目の前のカップを手に取ると、恐る恐る珈琲を口に含む。
 香ばしいと感じたのは一瞬で、口に広がる苦さにレヴィは顔を顰めてむせ込んだ。
「珈琲は初めてですか?」
「はい、紅茶とは違うんですね。にがくてビックリしました」
 素直に感想を述べるレヴィを物珍しそうに眺め、フェビアンが笑みを深くする。
「やはり、貴女はギュスターヴには勿体無いですね」
「え?」
 自然な動作で右手を取られて、ゲイルに贈られた水晶のブレスレットをそっとなぞられる。
「……ギュスターヴは、余程貴女が気に入っているらしい」
「あの、ギュスターヴさんって、どなたですか?」
 レヴィが小首を傾げて見上げると、フェビアンは綺麗に微笑んで頷いた。
「ああ。貴女は確か、ゲイルと呼んでいましたか」
「ゲイル、ギュスターヴ……?」
  ―― ゲイル=ギュスターヴは、世界を壊そうとした、罪人…… ――
 突然意識に上ってきた記憶の断片に、レヴィは息を呑んだ。
 自分は確かに、ゲイル=ギュスターヴと言う名前を耳にしたことがあった。
 だがそれがいつのことなのか、誰からの言葉だったのか思い出せなくて、焦燥を落ち着かせるように、フェビアンに捕らわれていない方の手で、胸元の青いペンダントを握り締める。
 こうすると昔から、悲しい気持ちや不安な気持ちが和らぐからだった。
 君の青い月が輝くようにと、王子様から贈られた、大切な宝物 ―― 。
  ―― 悲しさや寂しさを吸い取ってくれる、魔法の指輪………全て、忘れていく…… ――
 自分の声で語られたはずの言葉の片鱗に触れ、レヴィはぎくりと身を強張らせながら、ペンダントから手を離していく。
 記憶が欠けている。
 どこから、誰から、いつから ―― 解からないまま、ただ警告のように鳴り響く耳鳴りが、レヴィの鼓動を早めていった。
 震えるレヴィの右手を取り、その手首に鎮座する水晶を見つめ、目の前の司祭が軽く溜息を吐いてくる。
「流石、と言うべきか。……聖石一つで、ここまで魔族の気配を消せるとは」
 魔族という言葉に、レヴィはビクリと身体を硬直させると、慌てて右手をフェビアンの手の中から引き戻した。
「あ、あの……っ」
 この世の終わりのように青褪めて身を強張らせるレヴィの様子に、フェビアンが苦笑を零す。
「ああ、そんなに驚かなくても大丈夫ですよ。私以外、貴女の正体に気付いている者はいないようですから」
「え……?」
「その水晶ですよ。聖石、と私達は呼んでいますけれど。その聖石に、魔封じの紋が刻まれている。恐らくギュスターヴが創ったのでしょうね」
「一応、ゲイルさんからもらいましたけど、そんなこと一言も……」
 ふとゲイルの言葉を思い出し、レヴィはぽつりと呟いた。
「……虫よけ」
「『虫除け』?………ギュスターヴが?そんな事を言っていたのですか?」
「えっと、はい」
 レヴィが頷くと、フェビアンはこらえきれないと言うように口元を押さえて、肩を震わせながら笑い出した。
「司祭様?」
「ああ、すみません。ここ暫く彼の姿は見ていませんでしたが、まさかそんなに感情が豊かになっていたとは知りませんでしたよ」
「はあ……」
 フェビアンの笑う理由がいまいちよく分からなくて、レヴィが曖昧に頷いていると、フェビアンはぴたりと笑うのを止めて、「けれど」とレヴィを見つめて呟いた。
「先程の懺悔室でも伝えましたが、貴女にとって辛い選択であっても、ギュスターヴと共に在ることは得策とは言えません」
「どうしてですか?」
「彼は異端者ですから」
「……異端者?」
 フェビアンは頷くと、ゆっくりとレヴィの方へ上体を倒して囁いた。
「彼は創造主を闇へ閉じこめた異端者。神に遣う身でありながら、神を冒涜し、世界の終焉を望む者」
 伸ばされた手が、レヴィの胸元の青い石をそっと撫でてくる。
「彼の側にいては、貴女のルアクが汚れます。せっかく、こんなに澄んだルアクの輝きを持っているのに」
「司祭様は、この石が何なのか分かるんですか……?」
「ええ。これは貴女のルアクの輝き。選ばれた者の証」
「選ばれた者?」
「 ―― 貴女は、王子の花嫁に選ばれたのですよ」 福潤宝
 額に手を当てられたと感じる間もなく、フツリ、とレヴィに意識はそこで途切れていった。

2013年4月18日星期四

岐路

頭の中が、一瞬完全にフリーズした。あさぎの上に四つん這いになり、彼女の両手首を右手でわしづかみにして、その頭の上で押さえつけている越智の姿は確かに目に映っているのに、何が起きているのか全く理解できない。どうしたらいいのかもわからない。ただただ呆然と立ちすくんでいるうちに、おもむろに越智があさぎの左の耳元に唇を寄せた。挺三天
 すると、あさぎの抵抗が止んだ。
「……何だ」
 ややあって、打って変わって落ち着いた声が響く。つと手を伸ばすと、彼女は越智の金茶色の髪を優しく撫でた。
「それならそうと、早く言ってくれたらいいのに」
「ごめん」
 首をすくめて、越智はベッドに座り直した。
「ちょっと、がっつきすぎちゃって」
「ほーんと」
 くすりと笑うと、あさぎも起き上がった。
「越智君じゃなくって、ポチ君って呼んじゃおうかしら」
「ええっ、あさぎさんの意地悪」
 不満げに越智は言ったが、その口元は明らかに笑っていた――それはそれは、嬉しそうに。
「ねえ……そしたらさ、寄っかかるだけならいい?」
 目一杯甘えた声が、唇から零れた。しかも、あさぎの返事を聞く前に、さっさと頭をもたせかけてしまう――それも、彼女の膝の上に。
「こらこら、それは膝枕でしょ」
「だって……」
 笑いながらたしなめたあさぎに再び不満げに訴えると、越智は身体の向きを変え、悠希に背を向ける格好になった。
「何か、疲れちゃったんだもん。先生になるために港山高《ここ》に就職したはずなのに、気がついたらそれ以外のことばっかで手一杯になっちゃってさ。
 クソみてえなやつに目はつけられるし、生徒に手ぇ出してるなんて妙な疑いはかけられるし……おまけに、俺の本命があさぎさんだって認識したとたんに、あさぎさんにまでえげつねえことしてきたでしょ、あいつ。もう、ほんと嫌だ。あさぎさんに何かあったら、俺……」


 パタパタパタ、と駆け去って行く足音がした。それが聞こえなくなったところで、おもむろに越智は身を起こした。
「……ほんと、水城先生に何かあったら、中先生《ダーリン》に半殺しにされますもん」
 さっきまでとは真逆の至極冷静な声音で言い切ると、あさぎの前にひざまずく。
「すみませんでした、失礼な真似をして。手当ても途中でしたよね」
 そして、ジャージの上着のポケットから湿布と包帯を取り出し、あさぎの左の足首に巻き始めた。
 越智がそれとなく語った通り、田島は、ここ数か月の越智の態度から、越智の本命はあさぎで、悠希のことなど眼中にもないのだと思い込んだようだった。六月の保健室での一件も、女子にありがちな、「先生に片想いしている友人に、何とか想いを遂げさせてやりたくて」という気持ちから、栞が勝手に画策したものだったのだと納得したらしい――もっとも、こちらは当たらずとも遠からずではあるのだが。
 ともあれ、そこまでは越智の狙い通りだった。ところが、そのことと、もともとあさぎに対して抱いていた複雑な感情とがあいまったのか、田島は、リレーで越智に負けた鬱憤を、越智本人ではなくあさぎに向けた。記録係として忙しく立ち働いていた彼女に何気ないふりをして足を引っかけ、派手に転ばせたのだ――「文句なら、越智に言うんだな。……何きょとんとしてるんだよ。あいつとデキてんだろ? それとも、これから……かな」という言葉とともに。
 そのことを越智が知ったのは、ようやく下痢が治まってトイレから解放されたときだった。転んで足をくじいてしまったあさぎは、桝本の許可を取って、保健室で自分で手当てをすることにした。桝本は生徒たちのことで手一杯だったし、救護所にある薬も、生徒に優先的に使わせるという不文律があったからだ。そんなこんなで、足を引きずりながら一階の廊下を歩いている最中に、トイレから出てきた越智と鉢合わせたのである。
 事情を聞いて、越智はすぐさま保健室へ同行することを決めた。歩くのもやっとという状態のあさぎを放っておくことなどできなかったし、ある意味、自分の責任でもあると思ったのだ。その手当ての最中に、たまたま悠希が来合わせた。それで、越智はとっさにあさぎをベッドに組み敷き、一芝居打ったのであった。
「まあ、あたしは構わないけど……」
 何とも言えない表情で、あさぎは応じた。「すみません。いつもみたく、調子合わせてくれませんか」――耳元でそう囁かれて、その通りにはしたものの、どうも釈然とはしなかったのだ。
「あそこまでする必要があったの? ちょっとやりすぎだと思うんだけど」
「じゃあ、抱きしめた方が良かったですか?」
 そっちの方が、かえって身体密着しますけど、と付け加えて、越智は包帯の巻き終わりをテープで留めた。
「あのカッコだったら、手首以外には一切触れずに済むでしょ? それでいて、相手に与える視覚的効果は抜群だ――まあ、抜群すぎて、さっさと反転してもらえなかったことだけは想定外でしたけど。おかげで、あんな茶番にまでお付き合いさせることになっちゃって……あれこそ、ちょっと悪乗りしすぎましたよね。ほんと、申し訳ありませんでした」
 深々と頭を下げ、立ち上がる。それから、ふっと口角を上げた。
「でも……もう、俺からはこういうお願いはしませんので」
「え?」
 聞き返してから、そうか、とあさぎは合点した。
『田島に俺が翠川とデキてるとかヘンな誤解されちゃって、マジで困ってるんですよ。ちらっと聞いたとこじゃ、それネタに俺のこと辞職に追い込むんだ、なんて張り切っちゃってるとか――』
 そう言って、越智はカムフラージュへの協力を頼んできたのだ。その田島が、あさぎを越智の彼女、もしくは彼女候補と認定して、攻撃を仕掛けてきた。すなわち、もはやカムフラージュの必要はないということだ。
「あ、だけど……ちょっと待って。そしたら、何で最後の最後であんな真似なんかしたの?」
 桝本がいないということで、保健室は基本的にカーテンを閉めたうえで施錠されている。あさぎたちはその鍵を開けてここに入ったが、手当てが終わったらすぐ出るつもりでいたので、カーテンまでは開けていなかった。つまり、越智は明らかにドアの外にいた人間――悠希だけに向けて、あんなことをしたのだ。
「あたしが攻撃を受けた時点で、当初の目的は達成されたはずでしょ? なのに、どうしてあんなダメ押しみたいなことを、よりによってあの子の前で――」
「あいつの前だからこそ、ですよ」
 口角を上げたまま、越智は答えた。
「あいつに不用意に俺のまわりをうろうろされて、それが田島の目についたり、噂になって耳に入ったりしたら、元も子もないでしょ?
 だから、例えば、ただ喋ってる、とか、怪我の手当をしてる、とかじゃなくって、もっと決定的に、二度と俺に近づきたくなくなるようなシーンをわざと見せたんです。あいつの性格だったら、それを誰かに言うような心配もありませんし」
「ふうん……」
 相槌を打ちながら、あさぎは腕を組んだ。
「それで……越智君自身は、いいの?」
 あえてもう一度「越智君」と呼んだのは、教員としてではなく、彼個人の本音を知りたかったからだった。
 口角は上がっていても、越智は決して本気で笑ってはいなかった。そればかりではない。あさぎの膝枕の上で甘えるようにあれこれ訴えていたそのときも、本当はずっと、今にも泣きそうな顔をしていたのだ。悠希に背を向けていたのも、それを見られたくなかったがゆえだったのだろう。そんな彼が、心の奥底では何を思ってあんなことをしたのかを、何としても確かめたかった――「今度こそ」、手遅れになることなどないように。
 だが、越智の表情は変わらなかった。VIVID XXL
「さあ……何のことでしょう」
 むしろ、にこやかさに磨きまでかけて、しれっと問い返してくる。ふう、とあさぎはため息をついた。そして、思い切って爆弾をぶち込んだ。
「あたし……ほんとは知ってたよ、キミが誰に助けを求めてたのか。確かに言ってたこと全部は理解できなかったけど、『ヘルプミー』ぐらいは聞き取れたし、呼んでた名前も日本の名前だったもの。
 おまけに、その直後にあんなお願いなんかされたから……申し訳ないけど、臼井先生と、それに先生を通じて翠川佐和さんからも、キミたちのこれまでのことを少し詳しく聞かせていただいたの。返事が遅れたのはそのせいで、最終的にイエスの返事をしたのも、その話を聞いたうえで、キミが本当はどういう思いでそんなことを頼んできたのかが理解できたから――あたしなりに、だけど」
 初めて、越智は少しだけ表情を揺らした。さすがにこれは予測していなかったらしい。頭の中を整理するようにしばし視線をさまよわせ、やがて皮肉っぽくフンと鼻を鳴らす。
「なるほどね。それで俺に同情して、心配して下さってるわけですか。それはどうも――」
「そうやってまぜっ返してごまかさないの!」
 ぴしりとあさぎは遮った。
「それに、あたしが同情してるのは、あの子の方。かわいそうよね、そこまで信用されてないなんて。
 さしずめ『俺が守ってやらなきゃダメなんだ』みたいに思ってるんでしょ、キミは。だからこそ、自分の本音を押し殺してまで、こんな、気持ちとは真逆のことばっかり……
 でもね、それが、そもそも間違いなの。女はね、何にも知らずに男にぬくぬく守られてることなんか望んでない。何もかもを分かち合って、一緒に闘うことをこそ望んでるんだから!」
 越智の眉根が、訝しげに寄った。明らかに一般論とは一線を画す何かが、あさぎの口調には含まれていたのだ。
「あの、水城先生……ダーリンと、何かありました?」 
「ああ……ごめん。確かに私情が入っちゃったね。これじゃ、説得力も何もあったもんじゃないわ」
 素直に認めて、あさぎは首をすくめた。そして、さらりと続けた。
「別れたの」
「へっ?」
 越智の声が裏返った。
越智の言葉が、何度も何度も脳内で再生されていた。今までに聞いたこともないほど弱々しく、切なげな声音が。
『何か、疲れちゃったんだもん。先生になるために港山高《ここ》に就職したはずなのに、気がついたらそれ以外のことばっかで手一杯になっちゃってさ』
『生徒に手ぇ出してるなんて妙な疑いはかけられるし』
『あさぎさんに何かあったら、俺……』
(やっぱり、先生、迷惑してたんだ)
 六月のあのときのように、悠希の知らないところで、越智は、あんなにもくたびれ果てるほど神経をすり減らしていたのだ。噂にならないように、そのせいで問題にならないように――そして、そんな彼の心を癒してくれたのが、一番身近にいたあさぎだったのに違いない。
(カムフラージュなんかじゃ、なかったんだ)
 カムフラージュというのは、できるだけ多くの人の目に触れるようにするものだ。でも、あのとき、保健室はカーテンがすべて閉まっていて、外からは中の様子が見えなかった。ドアは開いていたものの、二人ともこちらなど見てもいなかったから、たぶん悠希がいることには気づいていなかったのだろう。そんな状況で出てきた言葉なのだ、きっと掛け値なしの真実に決まっている……
「……かわ。翠川! どこ行くんだよ!」
 不意に、腕がぐいっとつかまれ、後ろに引き戻された。
「は……な、しま……?」
 夢から覚めたように呟いたのと、目の前を轟音を立ててトラックが通過したのとが、ほぼ同時だった。いつの間にか、ふらふらと学校の外へ出てしまっていたのだ。
「バカ、おまえ……」
 それだけ言うと、花島は、はあっと大きく息をついた。かなり慌てて追いかけてきたのだろう、眼鏡が微妙にずれている。
 それが目に入った瞬間、何故かフッと気が抜けた。
「……っ、ううっ……」
 必死に歯を食いしばったのに、勝手に嗚咽が漏れて出る。花島が、一瞬驚いた顔になった。が、すぐに表情を和らげ、この前のように、そっと悠希の頭を抱き寄せる。
 これが、とどめになった。
「う……う……うわぁぁ……っ……!」
 不器用に泣き声を上げると、悠希は相手の胸元にすがりついた。


 完璧に、越智は混乱していた。青天の霹靂とはこのことだった。別れた? あさぎが、中《あたり》と……?
「だけど……だって、夏には旅行に――」
「実はそのときに、みたいな?」
 苦笑いして、あさぎはあとを引き取った。
「あたしは暢気に普通の旅行だと思ってたんだけど、あっちは最初っからそのつもりだったみたい。宿に着くなり、いきなり土下座して……何もかも、ぶっちゃけたの。田島との間に何があったのかも、キミに何をしたのかも」
 越智の双眸が、愕然と見開かれた。せわしなく視線が動き、口がかすかに開いたり閉じたりを繰り返す。けれど、結局言葉にはならなかった。
「だから、あのときキミは何にも話してくれなかったんだね。ありがとうね、ずっとあのひとをかばってくれてて」
 そんな越智を見やって、しみじみとあさぎは言った。
「それでね、あのひと、『すまなかった、ほんとにすまなかった』って、何度も何度も頭下げて、『自分みたいなしょうもない男にキミを幸せにできるはずはないから、別れてくれ』って……たぶん、もう限界だったのね。そうやってひとりで抱え込んでるのが。
 そうそう、越智君に途中まで送ってもらったじゃない? あれにも、あのひとなりの思惑があったみたいよ。早い話が、『縁結び』的な? 越智君にだったら、あたしのことももっとちゃんと守れるかもしれない、とか何とか言っちゃって。もちろん、越智君は、あたしにとっては弟みたいなもんだし、越智君にしても、あたしのことはウザい姉ちゃんぐらいにしか思ってないんだから、絶対にそういうことはあり得ないってソッコー言い切ってやったけどね」
「それ、で……」
 やっとのことで、越智は喉の奥から声を引っ張り出した。
「承知、したんですか? 別れること」
「するしかないでしょ」
 さばさばと、あさぎは言い切った。
「追いすがったって、余計に苦しめるだけだし……それに、あのひとは、あたしを盾にされて田島のイヌになってたんだよ? だったら、あたしとの関係が切れれば自動的に解放してあげられるじゃない。
 ただね、悔しかった。何で何も言ってくれなかったのか、そこまで自分は信頼されてなかったのかって。まあ、あたし自身が、所詮はそれだけの女だったってことなのかもしれないけど」
 ちらりと、その横顔に影が走る。しかし、即座に彼女はそれを消し、笑って見せた。
「とまあ、こんなわけでね、キミたちのことも、なぁんとなく他人事に思えなくって。それに、すべてを知ったときに、あの子がどんなふうに思うのかってことも予測がついちゃったんで、ちょっとお節介言わせてもらっちゃったの。まあ、あたしらとキミたちとでは抱えてる事情が違うから、一概にすべてが当てはまるわけじゃないだろうし、全面的に後押ししてあげるわけにも行かないけど」
 越智は目を伏せた。が、ややあって口から出てきたのは、相手に対する返事ではなかった。
「……そろそろ、行きましょうか。あんまり持ち場空けっぱなしっていうのもアレですし」


 花島に校内まで連れてきてもらい、昇降口とは反対側にある職員用出入口の傍の水道でもう一度ざぶざぶと顔を洗って、ようやく悠希は落ち着いた。
「……で、どうしたの」
 彼女が顔を拭き終わるのを待って、花島がおもむろに口を開いた。
「里中から、オーを捜しに行ったんだって聞いたけど……何か言われたの? あいつに」
「うん……」
 こくりとうなずくと、悠希はぽつりぽつりと語った。保健室で、越智とあさぎを見かけたこと。越智が、あさぎに甘えるように愚痴を零していたこと――さすがに、彼女をベッドに組み敷いていたことまでは言えなかったけれど。
「それでね、生徒との関係を疑われたりして疲れた、もう嫌だって、すごく迷惑そうに言ってて……それって、きっとあたしの――」
「そっか。それは……ちょっとキツかったな」
 悠希の気持ちを、優しく花島は掬い取った。今になってずれているのに気づいたのか、少しはにかんだ顔つきになって眼鏡の位置を直し、考え考え言いかける。
「でもさ、それって例によってカムフラージュ――」
「違う、そんなんじゃない!」
 大きくかぶりを振って、悠希は反駁した。
「誰も見てないとこで言ったんだよ? 絶対そんなことあり得ない!
 っていうか、最初っからカムフラージュなんかじゃなかったんだよ。夏休みのあのときから、あの二人は本気で……! だから、もうそんなことなんか言わないで。そんな気休め、もうたくさん……!」
 半ば叫ぶように言ってしまってから、それが明らかに失言だったことに気づく。
「……ごめん」
 ため息とともに、悠希は顔を覆った。福潤宝 
「あたし、ハナシマに甘えてばっかだ。ハナシマの気持ちには全然応えようとしないくせに、こういうときばっかり、その気持ちに甘えて……挙句の果てに、こんな八つ当たりまでするなんて。ほんと、ズルいよね。どんだけ嫌な――」
 そこで、彼女は言葉を呑んだ。 
「……そんなこと、俺は思ってない」
 悠希をしっかりと抱きしめて、花島は囁いた。 
「たとえそうだとしても……それでも、俺は構わない」
 熱を帯びた吐息が耳朶にかかり、もっと熱い唇が落ちてきた。
 廊下を歩いていた越智の足が、ぴたりと止まった。
「どうしたの――」
 怪訝に尋ねかけて、あさぎも目を瞠った。
 職員用出入口のガラスの向こうに、花島と悠希がいた。誰も来ないとでも思ったのだろうか、しっかりと抱き合い、唇を重ね合って。二人とも初めてなのだろう、傍目にもはっきりわかるほど何もかもがたどたどしいのだが、それだけに、必死に互いを求め、相手に応えようとしているのが、痛々しいまでに伝わってくる。
「なぁんだ。水城先生の考えすぎだったじゃないっすか」
 やけに明るい声が、頭上から降ってきた。
「越智君――」
「いいんですよ。あれこそが、『あるべき姿』だ」
 あさぎを制して、越智はにかっと笑った。
「ただ、TPOだけは一応わきまえてもらわないとね。何せ、ウチのクラスのツートップですし。ってことで、ちょっと指導行ってきます。ナンだったら、先行っててもいいっすよ」
 言うが早いか、さっさと彼はそちらの方へ走って行った――まるで、それ以上の追及をされまいとしているかのように。
ガラリとガラス戸が開いた。
「こーらおまえら! まだ体育祭は終わってねえぞ」
 ばね仕掛けの人形のように、パッと二人は離れた。悠希の顔が、みるみるうちに紅潮して行く。
(見られた……先生に、見られちゃった……!)
 思ってしまってから、いけない、と顔をしかめる。
 そんなことを気にする必要などないはずだった。花島に耳たぶにキスをされたときに、決めたのだから――もう昔は振り返らない。前だけを見て進もう、と。花島となら、それができると思った。顔を見ただけで安心できて、いつも傍で見守ってくれていて……何よりも、悠希の至らないところまで含めて「それでも構わない」と断言してくれた彼となら。
 だから、そのキスが額に移り、頬を通って唇に落ちてきたときも、目を閉じたまま相手にすべてをゆだねたのだった。初めて触れた唇は、決して甘くもなく、恋愛小説などでよく描写されるような痺れや切なさももたらさなかったけれど、花島の印象そのままに、温かくて心地良かった。ああ、これならきっと大丈夫だ――反射的にそう思い、そう思えたことが本当に嬉しかった。それなのに……
(あー、何やってんだろ、あたし)
 これでは、まるで未練たらたらだと自ら宣伝しているようなものだ。花島にだって、あまりにも失礼すぎる。実際、それが伝わってしまったのだろう、花島は、今にも飛びかかりそうな目をして越智を睨みつけている。
 ところが、花島の口が動く前に、事態が動いた。
「っつーか、遅え、花島」
「え?」
「おまえよ、『かっさらう』っつーのは『ソッコーさらってく』っつーことじゃねえか。なのに、宣言してからここまで来んのに、なーに半年近くもかかってんだよ」
 揶揄するように言うと、越智は花島の肩をトン、と軽く拳で突いた。
「でもまあ、これでようやくひと安心だわ。副担としても、『おにーちゃん』としても」
 ハッと悠希は越智を見直していた。視線がぶつかる。越智は、深く、しっかりとうなずいてみせた。
(ああ……そうか)
 すとん、と何もかもが腑に落ちた。越智にとって、悠希はあくまでも一生徒。仮にそれ以上の思い入れがあったとしても、文字通り「兄」のそれにすぎないのだ。だから、悠希と噂になってしまえば普通に困るし、悠希が花島と付き合ってくれれば、それにこしたことはない――つまりは、そういうことなのだろう。
 ……ならば。
「でっしょぉ?」
 大げさなぐらいに明るく言うと、悠希は自分から花島の腕を取った。今度は花島がかあっと赤面したが、構わず、にっこりと最上の笑顔を越智に向ける。
「だから、おにーちゃんもさっさと落ち着きなさいよね。まあ、保健室でいちゃついてるほど仲良しなんだから、余計なお世話かもしれないけど?」
 そして、足早にグラウンドへ足を向けた。これで、良かったんだよね――心中で、そっとそう呟いて。


「うっわぁ、手痛いしっぺ返し食らったわね」
 後ろから、あさぎの声がした。
「やっぱり、あんな教員にあるまじき行動なんかに走ったから、バチが当たったんじゃないの?」
 苦り切って、越智は振り返った。
「先行ってていいって言ったのに」
「そんなことしたら、今頃ひとりで泣いちゃってたでしょ?」
「なっ……」
 そんな失礼な、と反駁しようとした刹那、そっと手を取られる。
「ほら。やっぱり傷がついてる」
 ゆっくりと越智の握った拳を開いて行きながら、あさぎは静かに言った。その言葉の通り、手のひらの、ちょうど爪が当たっていた位置が何か所か切れて、うっすらと血がにじんでいた。
「これは……爪がちょっと伸びすぎてたからで」
「だからって、ただ握ってただけならこんなふうにはならないわよ」
 あっさりと、あさぎは切り返した。それから、両方の手をふんわりと重ね、越智の傷ついた手を包み込む。
「ダメだよ、ひとりで全部背負い込んだりしたら。そんなことしてるから、過呼吸にだってなっちゃうんじゃないの」
「やめて下さいよ、こんなところで」
 ますます苦い顔になって、越智はあさぎの手を振りほどいた。額面通りの理由もさることながら、彼女の指摘が、腹が立つほど的を得ていたからでもあった。
「それに、だからって水城先生が癒してくれるわけでもないでしょ?」
 早々に話を終わりにしたくて、お決まりのセリフを口にする。ところが、返ってきた答えは、お決まりのそれとは違っていた。
「いいわよ。別に誰に遠慮が要るでもなし」
 まじまじと、越智は相手を凝視した。
(ったく……どこまでド天然なんだよ)
 それがどれほど思わせぶりな発言なのか、わかって口にしているのだろうか?
(いや、わかってねえだろうな)
 だからこそ、あの田島につけ入られるようなことにだってなったのだろう。
「……ねえ、先生」
 くしくし、と指で額をこすって、越智は牽制球を投げた。
「言っとくけど、俺、ダーリンほど紳士じゃないっすよ?
 思い出すのも嫌なんで詳しくは語りませんけど、早い話が荒れた家庭で育ちましてね。そのせいで、思春期に突入する頃には、かなり女性不信っつーか、恋愛不信っつーか、そんなふうになってて。さすがに教採(教員採用試験)受けるって決めてからは自粛しましたけど、それまでなんか、『どうせ女なんてヤれりゃいいんだ』みたいな感じで、そりゃあもう取っかえ引っかえ――」
「あら、それってかえって好都合じゃない」
「へ?」
「要は、何もかも一夜限りのことにできるってことでしょ?」V26 即効ダイエット
 虚を衝かれた越智に向かって、にっこり笑ってあさぎは続けた。
「お互い想う相手は別にいるんだもん、それぐらいの方が後腐れがなくっていいじゃない。パーッと飲んで、パーッと騒いで、明日の朝にはスパッと何もかも忘れちゃお? よし、けってーい!」
「え、ちょ……」
 慌てて越智は制しかけたが、そこで口をつぐんだ。笑っているはずのあさぎの瞳が、うっすらと潤んでいるのに気づいたのだ。
「……なるほどね。ギブアンドテイクってやつっすか」
 本当に「癒し」を必要としているのは、あさぎ自身なのかもしれない。
『(承知)するしかないでしょ。追いすがったって、余計に苦しめるだけだし』
 口ではそう言っていても、決して心の底から吹っ切れていたわけではなかったのだろう。
「だったら、いいっすよ」
 あさぎに一方的に世話になるというのならば、断固御免こうむりたかった。が、男の性《さが》とでも言うべきか、こうして暗に助けを求められてみれば、意外にも悪い気はしなかった。それに、彼女の言う通り、「スパッと何もかも忘れる」ことも、今の自分には必要なのかもしれない――もはや、悠希と行く道が重なることは永遠にあり得ないのだろうから。
「昔のバイト先で、ここの教員《メンツ》の行くとことは絶対ブッキングしない店があるんで、とりあえずそこ行きましょ。詳しいことは、あとでまたメールしますよ」
「うん、了解」
 一度目を閉じて涙を抑え込むと、あさぎは再びにっこりした。
「でも、その前に、おんぶ」
「はい?」
「だって、さっきからずうっと立ちっぱなしで話してたんだもん」
 少しだけ口をとがらせ、上目づかいに越智を見上げてあさぎは訴えた。
「ひねったとこ、また痛くなってきちゃった」
「……はいはい」
 苦笑すると、越智は相手に背を向けてしゃがんだ。


 体育祭同様、好天に恵まれた翌週末、「みなと祭・文化の部」が開催された。
 1年C組の催し物は喫茶店だった――と言っても、学校の教室でするものだし、衛生面について保健所からあれこれうるさく言われていることもあって、せいぜい飲み物と出来合いのサンドイッチやケーキ、お湯を掛けて作る焼きそばやパスタぐらいしか出せないのだが。
 ただ、出来合いとはいえ、サンドイッチとケーキは栞の肝煎りで「リストランテ・サトナカ」の品を使っていたので、じきに噂が噂を呼び、一時間もしないうちに店はてんてこ舞いになった。
 特にお昼時は戦争状態だった。その時間帯、悠希は裏方で、家庭科室で沸かしたお湯をポットに入れて運んでくる係を受け持っていたのだが、お湯は飲み物にも食べ物にも使うので、何往復しても、すぐに足りなくなった。まさか、お湯如きのせいで足がパンパンになるとは思ってもみなかった。明日には、腕も筋肉痛になっているかもしれない。
 そして、裏方の担当時間が終わると、休む間もなく今度は接客係にチェンジする。
「えーっと、ご注文は……アイスコーヒーと、オレンジジュースと、チョコレートケーキ――」
「チーズケーキです」
「え? あ、申し訳ありません!」
 アルバイトの経験もないうえに、外食自体にもあまり縁がなかったのが災いして、自分でもがっかりするような要領の悪さだ。自己嫌悪に駆られつつ、オーダー伝票を持って奥に引っ込もうとすると、ひときわ明るくはきはきした声が響いた。
「ご注文繰り返します。ツナサンドひとつとタマゴサンドひとつ、お飲み物はコーヒーとウーロン茶がひとつずつですね? かしこまりました。では、しばらくお待ち下さーい!」
 栞だった。やはり親の背中を見て育ったというのは大きいのか、すべてが堂に入っている。オーダーを伝えに来るついでに、ほかのテーブルからササッと空いた食器を下げて来るあたりも、いかにも手慣れた感じだ。
「あたしも、バイトとかした方がいいのかなぁ」
 すれ違ったついでに、ふとそう呟いてみると、さりげなく即答を避けられた。
「ま、人間、誰でも向き不向きがあるからね」
 ……すなわち、よほど向いていないということなのだろう。
 二時近くなると、少しずつ店内も落ち着いてきた。
「あと十分ぐらいでシフト終わりだね。このあとユーキは?」
「うん。写真部の方の受付もあるから……」
「うわ、忙しいねぇ!」
 栞とそんな会話を交わしたところで、厨房係から「ホットコーヒー二つ、お待ち!」と声が掛かった。
「あ、これ出したとこで上がったら?」
「うん、そうする」
 栞の提案にうなずくと、悠希はトレーを持って、オーダー伝票に書かれた番号のテーブルに向かった。
 その足が、突然凍りついたように止まった。そこには、越智とあさぎが座っていた。しかも、息が掛かりそうなほど顔を近づけて、ひそひそと何か喋っている。
(何、話してるんだろ……)
 どうにも気になって、わざと死角の側からそっと近づいてみた。それが、最大の失敗だった。
「ええっ、絶対打掛(うちかけ)だって。せっかく『ニッポン女子』に生まれたんだし」
「そうぉ? でも、あたし、締めつけられるのって嫌いなのよねぇ」
「あー、それは俺もわかる! 羽織袴とか死んでも嫌《や》だもん。まあ、この顔じゃそもそも似合わないっつー噂も高いんだけど」
 それから、どうやって二人に給仕をしたのか、悠希は全く覚えていなかった。覚えていたのは、ただただ、衝撃ばかりだった。
(先生、カンペキにタメグチになってる……)
 この前も甘えてタメグチはきいていたけれど、どこか遠慮がちで、ここまでくだけた雰囲気ではなかった。おまけに、どう考えても、あれは結婚式の衣装の話に決まっている。ということは、まさか……OB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ

2013年4月16日星期二

馬牧場の戦い

帰ってからラフな格好に着替えると、サティもこの前エリザベスと買った服に着替えてきていた。
 肩のあたりが剥き出しのワンピースで、ひらひらしたレースとかもついててとても可愛くて似合っている。心臓がどくどくしてきた。新一粒神
 いつも通り読み書きの勉強をするが、落ち着かない。サティもそわそわして集中できないようだ。それにいつもより少し離れて座って、体が触れるたびにぴくっぴくっと反応する。
 これはだめだな。今日はもうやめておこう。
「サティ、プリン取ってきて。休憩にしよう」
「は、はい。すいません」
 サティも集中できてないのが自分でわかっていたのだろう。しょんぼりしてプリンを取りに行った。
 さてどうしよう。夜には時間があるし、どこかに遊びに行こうにもこの町には娯楽があまりない。王都のほうにいけば劇場とかがあるらしいが。冒険者なら酒場にでも繰り出すところだろうが、生憎とそういう趣味もない。最近は暇なときは本を読んでるんだけど、今日は集中できそうにないしなあ。
 お風呂でも入るか。毎日お風呂に入るようにしてから、浄化しても汗とかが気になるようになってきた。やっぱり清潔なほうがいいしね。
「お風呂でも入ろうか?」
 今日こそサティに全身洗ってもらってもいいんではなかろうか。アンジェラとエリザベスもやってもらって好評だったみたいだし、ぜひ体験したい。
 浴槽にお湯を張り脱衣所に戻るとサティはすでに服を脱いで全裸状態だった。よし、落ち着けおれ。これから致すんだし許容範囲内だ。
 サティの裸身をじっくり鑑賞させてもらう。やはり以前と比べてふっくらとしているように見える。まだまだ細いけど、運動もさせてるおかげか引き締まった体にすべすべの肌。とても綺麗だ。胸も思ったよりある。小さいけど。
「あの、変じゃないでしょうか・・・」
 あ、じーっと見過ぎたか。
「ああ、うん。綺麗だよ」
 今すぐ襲いかかりたいくらいだ。
「じゃあ入ろうか」

 サティの全身洗いは絶品だった。エリザベスが欲しいと言った気持ちがわかる。でもおれのだからね?そしてお返しに洗い返してあげた。

 2人で浴槽に浸かる。サティを後ろから抱っこした状態だ。
「ずっと……ずっとマサル様といっしょにいたいです」
 腕をぎゅっと掴んで不意にサティが言った。
 ずっとか。20年経って日本に帰るとして、サティのことどうしようか……日本に連れて帰る?伊藤神が許すだろうか。こちらに残る?だめだ。やっぱり帰りたい。帰れると思うからこそ耐えられているんだ。もしこのまま異世界で骨を埋めることが確定したら、耐え切れないかもしれない。
「あの……だめですか?」
 おれが黙ったままでいるとサティが言う。
「そう……そうだな。今からいうことは誰にも内緒だよ?」
「はい」
「おれの故郷はとても遠くでね。転移魔法みたいなのでここに送り込まれたんだ。だから今は帰れないんだけど、20年経ったら迎えにきてくれるって約束なんだ」
「20年……」
「そう。だから少なくとも20年はサティの側にいられるよ。でもその先のことはわからない。故郷に帰るかもしれないし、ここに残りたいって思うかもしれない」
「私も一緒に……」
「わからないんだ。その転移魔法がどういうものか。でも連れていけるなら絶対一緒に連れて行くよ。約束する」
「はい、マサル様」
 サティはそれで満足したようだ。力を抜いて体をもたれかからせてきた。
 20年か。20年生き延びないと。でも世界の破滅ってなんなんだろう。魔王でも復活するのだろうか。司祭様にでも聞いたら何かわかるだろうか。

 お風呂からあがって部屋に移動した。サティは買った時のあのぴらっぴらの貫頭衣を着ていた。
「これ、マサル様に最初に会った時のです」
 奴隷商でサティを見た時のことがフラッシュバックする。半ば騙されて買ったみたいなものだったけど、今はすごく感謝してる。
「うん、懐かしいね。あの時サティに会えてほんとうによかって思うよ」
「マサル様……」

 そのあとは2人でしっぽりと楽しんだ。サティはちょっと痛がったけど、回復魔法って便利だね。あとおねーさん、一体サティに何を教えたんだ。ありがとうございます。

「そろそろ夕食の用意を」と、サティがベッドから体を起こして言った。
「今日はお弁当にしようか」と、アイテムから出す。
 最初にサティに出したお弁当を出してやる。こっちも懐かしいだろう?
「これって……」
 サティの前に2個並べてやる。蔵八宝
「野うさぎの串焼きもあるぞ」
「あ、ありがとうごじゃいます……」
 サティはぐずぐずと泣きながらおいしいです、おいしいですと言い食べていった。

 食べたあと?もちろん再開したさ。
 その日は夜遅くまで楽しみ、ぐっすりと昼前まで眠った。

 スキルには精力絶倫とか性技なんてのもある。今のところ取らないけどね。あんまり強くするとサティが耐えられそうにない。
 その他にも例えば魅了とか精神支配系のスキルもあってポイント消費はでかいものの取ることはできる。だがこっちではそういうものを禁止する法がある。隷属紋での支配とかと同列で無許可でやると重犯罪である。逮捕なのである。
 例えば魅了でハーレムなんか作ったとしても、ティリカちゃんのようなのに探られたら、はいギルティ。おまわりさんこの人です!ってなる。自分の力でなんとかするしかない。異世界も案外厳しいものである。

 翌朝は寝坊した。もう昼も近かったので、ギルドにはそれほど人はいなかった。
 ギルドホールを抜けて訓練場に行こうとすると、男が一人息せき切って駆け込んできた。
「た、大変だ!西門の馬牧場がハーピーの集団に襲われている!助けてくれ!」
「落ち着け。ハーピーはどれくらいいた?」
「わからん。20か30くらいはいた。今、門の兵士が戦ってる」

「マサル様、馬牧場って……」
「ああ、馬乳卸してるとこだな」
「た、大変じゃないですか!助けにいきましょうよ!」
 そりゃ馬乳がなかったらプリンが食べられなくなるけど、ちょっと必死すぎません?

「冒険者の諸君!」と、副ギルド長が声を張り上げる。
「討伐報酬は倍だ!すぐに救援に向かってくれ!」
 おおおう!と冒険者達が声をあげる。
「よし、サティ。絶対おれから離れるなよ?」
「はい、マサル様」
 ハーピーくらいなら数がいたとしても、そんなに危ないことにはならないだろう。サティに経験値を稼がせるチャンスだ。
 2人で他の冒険者の後を追って走りながらサティのメニューを開き、弓と剣をレベル3に上げる。これでサティのポイントはなくなった。
 くそっ、昨日覚えた魔法の練習もしとくんだった。もう今日のところは火魔法使うしかないな。

 カーンカーンカーンとどこから鐘の音が響く。避難をする町の住人とすれ違い、西門を抜ける。西門を抜けて森のほうへ少しいけば、町の外壁沿いに馬牧場がある。
 牧場は木の柵で囲われているが、空からのモンスターにはもちろん関係ない。馬が既に数頭やられていて、ハーピーにたかられている。厩舎のほうを見ると大量のハーピーが内部に侵入しようとしており、数人の兵士が正面の扉を背に戦っていた。ハーピーは2,30どころじゃなく、数がわからないほどだ。救援に向かおうにも近寄れそうにない。
「うおおおおおおおおおおお!」
 先頭の冒険者が雄叫びを上げた。こっちに引きつけようって腹か。
「サティ、こっちに」
 サティの手を引き、木の影に隠れる。厩舎には魔法は届きそうにない。冒険者に気がついたハーピーが一部、冒険者の方へと向かっていく。アイテムから大岩を出し、盾にする。
「ここから狙えるか?」
「やってみます」
「戦っている冒険者に当たらないように、上のほうのやつを狙うんだ」
「はい」
 サティはきりきりと弓を引き絞り、そして放つ。矢は上空にいたハーピーの1匹に命中し、地面に落下する。じたばたともがくハーピーを剣をもった冒険者がとどめを刺す。
「いいぞ、サティ。その調子だ。どんどん撃て」
「はい」
 よし、おれもやるぞ。【火槍】詠唱!岩の後ろに隠れながら魔法を放つ。
 サティの矢とおれの魔法でハーピーがぽとぽとと落下していく。こっちに向かってくるやつがいても飛んでくる途中で撃ち落とす。
 厩舎のほうにいた大量のハーピーが冒険者を手強いとみてどんどんとこっちにやってきた。
 数匹こっちにも流れてきた。だが、俺達が援護してくれてると気がついた冒険者達が数人、盾になるようにハーピーとの間に割り込んでくれる。
 冒険者達は必死に戦ったが劣勢だった。ハーピーの数が多すぎる。何人かは既にやられてた。ぽつぽつと増援の冒険者も来てくれてるが全然足りない。
 やばいな。ここままだとこっちまでやられるぞ……何かないか?
 サティのメニューを開く。2つレベルが上がっていた。弓をレベル4にして、アイテムから追加の矢を渡す。
 でかい火魔法を使うか?でも爆発や火嵐じゃ冒険者を巻き込みそうだ。
 そうだ!ちょうどいいのがある。
 【豪火】詠唱開始――
「今からでかい火魔法を使う!」と、冒険者達に告げる。――長い詠唱が終わった。
「ヘル!ファイアー!!」と叫び、魔法を解き放つ。狙いは厩舎と冒険者達の間だ。


 ドウンッと30mにもなろうという巨大な火柱が立ち上る。2,3匹のハーピーがそれに巻き込まれ燃え尽きた。
 それを見たハーピー達が浮き足立つ。よし、びびれびびれ。多くのハーピーたちは警戒して距離を取った。だが逃げる気はないらしい。VIVID
 しかしとりあえずは一息つけた。今ので逃げてくれれば楽だったんだが。危険だが仕方ない。やつらに魔法をぶち込んでやる。
「サティはここにいろ」
 そう言い残して、俺たちを守ってくれている冒険者のほうに近寄る。【大爆発】詠唱開始――
 不意に1匹のハーピーが大きな叫びを上げ、周りのハーピーが一斉にこちらに向かってきた。
「!?」
 なんだ?魔法の詠唱を察知されたのか?やばい、詠唱全然終わってないぞ!?
 近くの冒険者が守ろうと動いてくれるが、数が圧倒的に足りない。半数ほどのハーピーがこっちにきた。背中の剣を抜き構える。おれの後ろにはサティがいるんだ!守らないと!
 最初にかかって来た1匹のハーピーを剣で切り払った。だが、次に数匹が一気にかかってきた。さらに1匹を切って捨てるが他のハーピー達の攻撃を食らう。小さな盾で身を守ろうとしたが、ハーピーの手数が多い。足の爪で何度も蹴りつけられる。防具の上からだが、恐ろしい衝撃だ。ハーピーに囲まれてまともに剣も振れない。
 よろめいたところに1匹のハーピーに抱きつかれ倒れてしまった。
「どけっ、こいつっ!こいつっ!」
 ハーピーの口が大きく開かれ、おれの首に噛み付こうとしている。
「マサル様!!」
 サティの矢でおれにのしかかっていたハーピーが倒れた。だが起き上がろうとしたところを別のハーピーの体当たりを食らって吹き飛ばされた。意識が遠くなる……
 地面に倒れ、起き上がろうとするが体に力が入らない。全身が痛い。息が苦しい。ハーピーが数匹こちらを狙って向かってくるのが見える。
 もうダメなのか……くそっ。やっと脱童貞したばっかなのに、こんなところで死んじまうのか……サティ!?
 飛び出してきたサティがショートソードを構え、ハーピーとの間に立ち塞がる。
「だめだサティ……逃げろ……」
 かすれたような声しかでない。だがそれが聞こえているはずのサティは動こうとしない。数匹のハーピーが襲いかかって来た。必死に戦うサティ。ハーピー達は容赦なくサティの体を削っていく。
 回復魔法を使おうとするが、意識が朦朧として魔力が集中できない。体中が痛く、起き上がることもできない。メニューを開きアイテムを取り出そうとするが、うまく操作できない。ポーション……ポーションはどこだ……
 そしてとうとう、サティが倒れた。
「サティ……サティ!」
「う、う……マサル様……」


 もうダメか……そう思った時、冒険者達から歓声があがった。
 なんだ?おれとサティを襲おうとしたハーピーもおれ達を放置してどこかへ行ってしまう。
「神殿騎士団だ!神殿騎士団が来てくれたぞーーー!」
 牧場の入口を見れば、神殿騎士団が隊伍を組んで、鬨の声を上げながら突入してきた。
 ハーピーたちが新たな敵に向かっていく。だが重装備の神殿騎士団はそれをものともせず牧場の中央に進出し、陣を作る。
 剣で槍で弓で魔法で、ハーピーたちを蹴散らしていく。
 助かったのか……
「マサル様!マサル様!!」
 サティが倒れたおれを引きずって、岩の後ろまで連れて行ってくれた。
「サティ」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ここにいろって言われたのに。わたし弓でがんばって撃ったんだけど数が多くて、それで、それで」
「泣くな。大丈夫だ、サティ。よくやってくれた」
 やっとアイテムから初心者用ポーションを取り出せて飲む。
 ようやく頭がはっきりしてきた。痛い。呼吸が苦しい。アバラでも折れてそうだ。
 自分とサティに回復魔法をかける。
「サティ、痛いところはもうないか?」
「はい、大丈夫です」
 見ればもうハーピーの数はずいぶん減らされており、全てのハーピーが倒されるのも時間の問題のように見えた。冒険者達の増援も続々とやって来ている。
 神殿騎士団つええな。命拾いした……
 体の痛みがもうないのを確認して立ち上がる。戦況はこちらが圧倒的だ。おれ達が戦う必要はないだろう。もう今日は危険は懲り懲りだ。
「サティ、ついてこい。もしこっちに来るハーピーがいたら撃ち落せ」
「はい!」
 サティのメニューを確認した。また2つレベルがあがっている。弓をレベル5にした。
 自分のを確認するとこれも1つレベルアップしている。

 警戒しつつ、牧場の入口のほうへと向かう。そこには人が集まってきており、何人もの冒険者が倒れ呻いている。
 さっきまで俺たちをガードしてくれていた冒険者達もいた。ここに退避していたらしい。
「回復魔法が使えます。治療を」
「助かる!こいつを、こいつを助けてやってくれ」
 見れば肩からお腹にかけて切り裂かれ血だらけだ。間に合うか?【エクストラヒール】詠唱開始――
「もう少しがんばれ!いま治癒術士が治してくれるからな」
 詠唱が長い。先にヒールしておくべきだったか?だが、この傷。生半可なヒールじゃ何回やっても足りるか。
 ――詠唱完了。エクストラヒールを発動する。みるみる傷が塞がっていく。苦しそうな冒険者の顔が楽になっていく。強力催眠謎幻水
「すげえ……これだけの傷を一発で……」
「次を」
「あ、ああ」
 もう一人、重傷者がいたのでそれもエクストラヒールで治す。あとはそれほど酷いのはいなかったので順番にヒールで治していった。
 壁にもたれるように2人、倒れてるのがいたのでそっちへ向かおうとすると止められた。
「そいつらはもう……」
 2人も死んだのか。もし神殿騎士団が間に合わなかったらおれとサティもきっと。そう血だらけでボロ雑巾にようになって死んでいる冒険者2人を見て思った。

 牧場のほうはと見ると残り少ないハーピーが冒険者と神殿騎士団に駆逐されていっている。戦闘は続いているが、大半のハーピーが逃げ出しにかかっていた。
「おい、あんた。治癒術士なのか?こっちにきてくれ。厩舎のほうに重傷者がいるんだ!」
「わかった。急ごう」

 厩舎を守っていた兵士達は満身創痍だった。2人の冒険者がヒールをかけていた。
「治癒術士を連れてきたぞ」
「おお、助かった。俺たちじゃこれだけの傷は治せないんだ」
 もちろんポーションも使い切っている。
 こちらも3人ほど傷が深いのがいた。幸い、怪我をしたものは屋内に退避できたので死人は出なかったらしい。
 順番に治療していく。終わった頃に神殿騎士団の一隊がやってきた。
「怪我人はいるか?我々が治療しよう」
「ああ、ありがとう。だがこの治癒術士殿が全部やってくれたんだ」
「そうか。む、マサル殿ではないか」
「ああ、テシアンさんでしたか。面を被っていたんでわかりませんでした」
「ここはマサル殿がやってくれたと言うなら他を見てこよう。では失礼する、マサル殿」
 そう言って立ち去ろうとする。
「テシアンさん!」
 テシアンさんが立ち止まってこちらを見る。
「ありがとうございます。命を拾いました」と、頭を下げる。
 テシアンさんは手を振ると歩いていった。
「あんたも。ありがとう、助かった」と、兵士達に礼を言われる。
「いえ。お互い生き延びられてほんとうによかったですね」
「ああ、そうだな。本当にそうだ。神殿騎士団さまさまだ」

 最初のハーピーはほんの数匹だったらしい。牧場主達が応戦し追い払い、兵士達に知らせた。続いて数十匹。さらに追加でどんどんとやってきた。
 軍曹どのの話では、あのドラゴンに森から追い立てられたのが、こちらまで流れてきたのではないかということだった。
 ハーピーの襲撃は狙いすましたように冒険者が一番少ない昼時だった。もし朝か夕方ならもっと多くの冒険者が動員されこれほどの苦戦はなかっただろう。
 後日聞いた話では、その日は4人の冒険者が命を落としていた。印度神油

2013年4月14日星期日

キミを知る

付き合いだしてから初めての金曜日。
 今日も変わらず、わたしたちはダーツバーでダーツを投げている。
 稜也くんが構えている横で順番を待っていると、稜也くんに問いかけられる。
「明日、暇?」新一粒神
 答えるより先にダーツが的に刺さる。
 相変わらず狙いは正確で、このゲームもわたしの負け必至かな。
 けれど目先のゲームの勝敗のことよりも、稜也くんからの問いかけのほうに意識が向いてしまう。
 一緒に飲もうよーと言う沙紀ちゃんのことを笑顔で稜也くんが振り切り、いつもどおりの金曜日。
 どこか現実的ではない一週間の終わりを迎えたけれど、その現実とは思えない時間はまだまだ終わりそうにない。
「部屋の掃除とか、買い物とかしようかなと思っていたけれど特に用事は無いかな」
 本当はこっそりバレンタインのプレゼントを探しに行こうと思っていたのだけれど。
 それを口に出してしまったら、こっそりにはならないので黙っておく。
「なら良かった。デートしよう」
 さらっと言った彼に、わたしだけがドギマギしてしまう。
 どうしてこんなにドキドキさせられるのだろう。
 何か特別な一言を言われたわけじゃないのに。
「うん」
 そう答えるのが精一杯なわたしの髪を稜也くんが撫でる。
 愛おしいと思っているのだと、その指先から伝わってくる。
 これが外じゃなかったらキスの一つもされたのではないかと思うほどに甘くて優しい。
 まるであのカクテルのように甘いから、自然と頬が緩んできてしまう。
 緩んだ目元に、稜也くんの唇がほんの少しだけ掠めるように落ちてきて、あっと思う間もなく離れていく。
 その唇を見つめてしまうと、稜也くんがくすりと笑う。
「このゲーム終わったら帰ろうか。今日は本当は帰してあげるつもりだったんだけれどな」
「え。今なんて言ったの?」
 丁度有線で流れている曲のサビ部分で音が大きくなったのもあって、後半部分がよく聞き取れなかった。
 くすりと笑った稜也くんが、耳元で囁く。
「これが終わったら帰ろう。今日はどっちの家がいい?」
 至近距離で囁かれると、その声と息遣いにぞくりと肌が粟立つ。
 身を捩って少しだけ稜也くんから離れると、にんまりと稜也くんが笑う。
「明日、待ち合わせデートのほうがいい? それとも一緒に出かけるほうがいい?」
 意地悪な笑みを浮かべた稜也くんは完全にわたしの反応で楽しんでいる。
 恥ずかしくってどっちがいいとか言えないよ。
 待ち合わせは待ち合わせでドキドキするし、でも一緒に出かけるっていうのは、その、毎日会社行く時と同じで、どちらかの家に泊まってって事でしょ。
 一緒にいたい気持ちはあるけれど、ただ一緒にいるだけじゃ稜也くんは済ませてくれないし。
「……稜也くんは、どっちがいいの?」
 答えに窮して問いかけると、くしゃりと髪を撫でられ、稜也くんがわたしから視線を外す。
「どっちでも」
 言ってからダーツを投げ、見事に高得点の場所に当たったダーツの矢を引き抜いて戻ってくる。
「はい」
 手の中にはダーツの矢。
 わたしに決めろっていう事なのかな。
 ダーツの矢と、稜也くんの顔を交互に見つめる。やっぱりわたしの答を待っているみたいだ。
 テーブルに載ったカクテルを手に取って飲むと、稜也くんも同じようにカクテルを手に取り、残り半分になっていたそれを一気に飲み干す。
 カクテルの度数とかよくわからないけれど、でもそれなりに強いんじゃ……。
「大丈夫?」
 問いかけには首を横に振るだけ。
 本当にわたしが決めないといけないらしい。
 覚悟を決めて、ぐいっと稜也くんがしたみたいにカクテルを飲み干す。
 ロンググラスのカクテルだから、そんなに強いものじゃない。
 ダーツを的に向かって投げる。けれど稜也くんみたいに上手くは投げられず、かろうじて点数が入ったって感じ。
 その矢を取りにいかず、横に立つ稜也くんを見上げる。
 何も言わないでわたしを見つめたままで、その視線に緊張してしまう。
「あの……」
「ん?」
 すごく優しい声に、少しだけ緊張がほぐれる。
「着替えとか、色々困るから」
「うん」
 苦笑するかのような笑みを浮かべる稜也くんに手を伸ばして、そのスーツを握る。
「けど」
「けど?」
 緊張でばくばくと耳元で大きな音がして、恥ずかしさで俯いてしまう。でも、言わなきゃ。
「もう、帰っちゃうの?」
 意を決した問いかけに稜也くんが破顔する。
「一緒にいたい?」
「いたい」
 聞き返された問いに即答すると、スーツを掴んでいた手を握られる。
「俺も一緒にいたいよ」
 ポンっと頭を一度軽く撫でられたかと思うと、稜也くんがダーツの矢を取りに行く。
「このゲームだけは終わらせようか」
「うん」
 そして今日もまたなし崩しでずっと一緒にいることになるなんて、その時には思いもしなかった。
 けれど心のどこかでそれを望んでいたのかもしれない。
 翌朝、わたしの部屋のベッドで目覚めた稜也くんは、軽い朝食を済ませると自宅へと帰っていった。
 待ち合わせの時間と場所を言い残して。
 稜也くんがいなくなった自宅は、なんだかものすごく広く感じる。
 先週の今頃は一人でいた部屋の中なのに、どうしてそんな風に感じるのだろう。
 稜也くんが入れてくれて、もう冷めてしまったコーヒーを飲みながらテレビの電源をつける。
 普段の週末ならばまだ寝ている時間。
 いつも金曜日はレンタルDVDを借りてきて、何となく夜更かしするのが習慣だった。
 そして寝坊する土曜日。
 なんとなく部屋の片付けだとか溜まった洗濯だとかして、借りてきたDVD見て適当にご飯食べて。気が付いたら夕方になって。
 それに何も不満なんてなかった。
 だけれど、そんな日常がどこか物足りなく感じる。
 テレビの電源を消して、コーヒーカップを手にとってシンクへと向かう。
 何かしてないと落ち着かない。
 ワクワクするような、ドキドキが持続していて。
 食器洗って、洗濯して、シャワーして。
 指定された時間までは結構あるようで、微妙に足りない気がする。
 何からやろうかとキッチンに目を向けると、そこに稜也くんが使ったマグカップと二人で食べた朝食の食器が置かれている。
 すっごくキャーって叫びたい気分になったけれど、口を押さえて我慢する。そのまましゃがみ込んで、急に込み上げてきた恥ずかしさに一人悶える。
 どこか気持ちがフワフワとして落ち着かない。
 部屋の中を見渡せば、ありとあらゆるところに稜也くんの痕跡が残っている。
 稜也くん用の新しく買ったルームウェアや、彼が持ち込んだ会社用のYシャツ。
 洗面所には髭剃りやハブラシがあるし、シンクには今までには無かった彼用のカトラリー。
「夢じゃないんだ」
 毎日ずっと一緒にいたんだから当たり前だけれど、本当にわたし、稜也くんと付き合ってるんだ。
 傍にいないと一気に現実感が無くなるけど、急にはっきり意識してしまって、頬が熱くなる。
 鏡の中の自分を覗くと、真っ赤な茹蛸みたいな顔をしている。
 よくよく見たら前髪には寝癖がついているし、顔はすっぴんのまま。
 こんな醜態を晒しているのかと思ったら、なんだかどうしようもなく居たたまれない気持ちになってくる。蔵八宝
「あ」
 鏡の向こうの自分を見て、どきっと胸が鳴る。
 普段髪の毛を下ろしていて気が付かない首筋に、赤い痕。
 寝起きで食事を作るのに邪魔だからと髪をまとめていたからあらわになっているけれど、今まで全然気が付かなかった。
 いつこんなの付けたんだろう。
 彼のいた痕跡を自分の指でなぞり、鏡から視線を逸らす。
「デートの準備しなきゃ」
 口に出してみて、自分のクローゼットに絶望した。
 デートに着ていくような服が無い。
待ち合わせに指定されたのは稜也くんの最寄り駅。
 うちからだと電車で三十分弱の距離。
 遅れるわけにはいかないからと出てきたけれど、行きの電車の中で既に泣きたい気分。
 全然デートっぽい格好じゃないんだもん。
 気を抜きすぎって感じのラフな服装しか持ってなくて、クローゼットの前で顔面蒼白状態。
 前に休みの日に石川さんと出かけた時には最初から体を動かす前提だったからデニムでも問題無かったけれど、私服で人に見せられるようなスカート持ってないって。
 女子力低すぎでしょ、わたし。
 仕事の時はスーツかそれに準じた服装だからスカートくらい持ってるけれど、それじゃ私服じゃないし。
 会社に行くわけでもないのにカッチリした格好っていうのも。
 今まで休みの日に出かけるっていっても、せいぜいヒロトと映画見に行くくらいで、ヒロも映画見る時に足組むならスカート履くなとかって煩いから必然的にパンツスタイルばかりになってたし。
 ああ。もう泣きたい……。
 もうちょっと普段からお洒落に気を使えば良かった。
 そうやって悶々としつつも、ちゃんと目的地には着いてしまう。
 目的の駅で降り、溜息交じりに階段を降りていくと改札のあたりに稜也くんの姿が見える。
 ちゃんと稜也くんは私服もカッコイイのに、わたしって。
 どよーんとした空気を纏いつつ、あれ? っていうような顔をした稜也くんに手を振ると、にっこりといつものように笑みを浮かべて手を振り替えしてくれる。
 あっという間に目の前には稜也くん。
 目の前に手を差し出すので、稜也くんと手を何度か見返して、それからゆっくり手を重ねる。
 きゅっと握られた手から伝わってくる体温に、心の棘が少し解けていく。
 でも今日のわたし、全然デートっぽくない。
「優実、普段はそういう格好なんだね」
 ああっ。いきなり突っ込まれた。そこには触れて欲しくないのに。
「うん。デートなのにこんな格好でごめんなさい」
 思わず謝ったわたしにくすくすっと稜也くんが笑い声をあげる。
 笑うほど酷いのかな。
 ショックでちょっと視界がぼやけてきたかも。
「何でそこでそういう顔になるかな。俺は別にそういう格好が悪いなんて言ってないよ」
「え?」
 立ち止まった稜也くんがわたしの前髪に触れる。
 指で開けた視界の向こう側には困り顔の稜也くん。
「優実はそういう格好が好きなんでしょ?」
「……うん」
「それでいいじゃん。今日はキミを知る日なんだ。だから今まで知らなかった優実を知れて嬉しいよ。だからそういう顔しないで」
 指先が目の下をなぞっていく。
 繋がっていないほうの手で稜也くんのコートを掴む。
 いつもの黒色のコートじゃなくって、綺麗な色のカジュアルなもの。
 稜也くんらしくてよく似合っている。
「あのね」
「うん」
「ちゃんともっとデートっぽい服装しなきゃって思ったんだけれど、全然そういうの持ってなくって。だからがっかりしてない?」
 ははっと稜也くんが笑い声をあげる。
「がっかりなんてしないよ。別に服装一つで嫌いになったりしないし。優実は俺が超変な格好で現れたら逃げる?」
「逃げない」
「でしょ。だから気にしないでいいから。そういうことはさ。寧ろ」
 何かを言いかけたところで、次の電車が来るというアナウンスが流れる。
 行こうと促され、ホームに上がり、結局何を言いたいのかはわからずじまいになってしまった。
 けど、どうしようもなく恥ずかしくて情けなかった気持ちは、ほんの少し軽くなった。
 次の時までに洋服買っておこうと心に決めていることは口に出さずに。
 繁華街まで出てきて、これといった目的も無く歩くのもということで、とりあえず少し早めのランチにする事にする。
 一人暮らしをしているせいもあり、お互い凝ったものを普段作らないから、和食を食べる事に決める。
 まだピークの時間ではないので、店内はまばらにしかお客さんが入っていない。
 日替わりランチを二つ頼んで、セットのアイスコーヒーを飲む。
 コーヒーはブラックのままで、ガムシロップとミルクはテーブルに二セット置かれたまま。
「行きたいところとかある?」
「ううん。これといって」
 ストローでアイスコーヒーの中の氷を掻き混ぜながら答える。
 カランと氷がグラスにぶつかる音が響く。
「普段はどういうことしてる?」
「うーん。実家帰ったり、弟のヒロトと時間が合えば映画見に行ったりかな。稜也くんは?」
「俺? 俺はホームで試合があればだけれど、土曜日はサッカー見に行く事が多いよ」
「ホーム?」
 全くといっていいほどサッカーのことがわからないので説明してもらうと、稜也くんはJリーグのあるチームが好きで、そのチームの試合がホームゲームという本拠地でやる試合だと、試合を見に行くということらしい。
 ホームとかアウェイとか聞いた事無い? って聞かれたけれど、ワールドカップの時くらいしかサッカー見ないからよくわからなくて。
「どうしてサッカーの、そのチームが好きなの?」
「昔の知り合いがそのチームでプレーしてるんだ。だからかな」
「えーっすごいっ。プロの選手が知り合いなんだっ」
「子どもの頃サッカーやってた時に同じチームだっただけだよ。そんなすごくない」
 淡々と否定するけれど、普通プロに知り合いなんていないよね。すごいなあ。
「稜也くんもサッカー上手いの?」
「上手くは無いよ。現に普通のサラリーマンだし。今は見るのが専門。それで満足してる」
「じゃあ今日も試合あるの? 見に行かなくていいの?」
 苦笑して稜也くんがコーヒーを一口飲む。
「いいよ。今日は優実と過ごすって決めてるんだから」
 でも好きな試合、見に行きたくないのかな。
 わたしと一緒にいるからって我慢してるんじゃないのかな。
 嬉しいけれど、嬉しくないかも。
「今日はどうやって今の加山優実が出来たか知りたいんだ。どんな事が好きで、どういう風にしたら喜んでくれるかとか」
「稜也くん」
「上辺だけの付き合いをしたいわけじゃないからね」
 舞い上がるほど嬉しい。
 本気でそういう風に思ってくれているっていうのは視線から伝わってくる。
「でも、わたしだって知りたいよ。稜也くんが何を思って、何が好きでどういうことしたら喜んでくれるのか。だから」
「だから?」
「今日はサッカー見に行こう」
「優実。話聞いてる?」
 ふーっと溜息を吐き出した稜也くんは、ほんの少し不機嫌そう。
 だけれど一方的に知って欲しいわけじゃない。わたしだってすごく知りたい。
 本当に何が好きなのか。
「聞いてるよ。今日はわたしが稜也くんの事を知る日にして欲しいの」
 暫く視線がぶつかり、稜也くんが手元に目線を落とす。
「まあ、焦ることは無いか。じゃあ今日はサッカー。明日は映画っていうのはどうでしょうか、優実さん」
「それでお願いします」
 稜也くんにつられて敬語で話すと、ぷっと稜也くんがふきだす。
「意外に頑固だよね、優実って」
 楽しそうに言う稜也くんの様子に恥ずかしさが込み上げてきて頬が熱くなる。
「そんな事無いです。全然無いです。からかわないでっ」VIVID
「で、可愛いよね」
「もーっ」
 居たたまれなくなったところに、店員さんが冷静な声で「日替わりランチお待たせしました」と料理を運んでくる。
 この気まずさ、どこにぶつければいいのだろう。
 目の前に置かれた食事をじとーっと見つめるようにしていると、稜也くんがぽんっと頭を撫でる。
 その手に促されるように顔をあげると、稜也くんが少し腰を浮かせてわたしの頭を撫でている。ぐしゃっと掻き回すように撫でて、稜也くんの手が離れていく。
「ご飯、食べよう」
 促して割り箸を割る稜也くんと同じように割り箸を割って、目の前の出来立ての日替わりランチに箸を伸ばす。
 わたしばっかり振り回されっぱなしで悔しい。
 悔しいから、何か言い返してやろうと思ったけれど気のきいた言葉が出てこない。
 今まで知っていた稜也くんは笑顔が可愛くて、それでいつもニコニコしてて、優しかった。
 こんな風に意地悪な事言ったりもしないし、からかったりすることも無かった。
 けど、今の稜也くんといるほうがずっと居心地が良い。そう思うのは、少し彼の今までとは違った一面を垣間見ているせいなのかもしれない。
バレンタイン当日。
 稜也くんは取引先との打ち合わせがある為外出している。
 直帰だから先に帰ってていいからねと言われているので、定時に上がって自宅に帰る。
 出かける前にお局からチョコレートケーキのホールを差し出されていたけれど、あれ、どうなったんだろう。
 お局のケーキはともかくとして、沢山貰ってくるのかな。
 沙紀ちゃんがチョコを買いに行く時に一緒にチョコ買ったけれど、甘いものなんて見たくないくらい、きっと貰っているよね。
「はー」
 思いっきり溜息が漏れる。
 本当に少し前まで、全くこんな事思っても無かったのに、一体この気持ちはどこからやってきたんだろう。
 自分だけを見て欲しいとか、稜也くんが他の人を好きになったらどうしようっていう不安とか。
 独占欲。
 こんな日にと思うけれど、こんな日だからこそ、余計に感じるのかもしれない。
「ただいま」
 わたしの顔を見て、稜也くんがごく普通に言う。
「おかえり?」
 素直に言えなくて疑問形になったのを、稜也くんがくすっと笑う。
「腹減った。何か食べに行く?」
 玄関から上がった稜也くんがスーツを脱ぎながらクローゼットを開くので、その手首を掴む。
「……今日はっ。うちで、食べよう」
 声が裏返った。しまった。恥ずかしい。
 俯いたわたしの頭の上に、稜也くんの手が降ってくる。
「仕事だったのに作ってくれたんだ」
 声が裏返ったのを笑われるかなと恐る恐る顔をあげると、すっごく優しい目をした稜也くんと視線が合う。
「ありがとう」
「うん」
 頭に置かれた手が髪を撫でて後頭部を通り背中へと到達すると、ぎゅっと稜也くんの掌に力が篭る。
 その力の赴くままに稜也くんに体重を預けると、腕の中に閉じ込められる。
 ちゅっという音を立てておでこに落とされたキスに促されて顔をあげると、ふんわりと唇が重なる。
 柔らかくて啄ばむようなキスをして、稜也くんが腕の力を弱める。
「優実のご飯、楽しみだな。準備、時間掛かる?」
「焼いたりするから、ちょっと掛かるかな」
「楽しみに待ってるよ」
 そう言うと稜也くんはルームウェアを手にとって洗面所へと消えていく。
 思わずクローゼットの傍に置いてある稜也くんの仕事用の鞄に目線を落とす。
 チョコ、いっぱい貰ったのかな? あとお局のケーキはどうしたんだろう。
 シャワーから出てきた稜也くんがローテーブルに座ったのを見計らって、夕食のメニューをテーブルに並べる。
 サラダとシチューとハンバーグ。
 結局ありきたりなメニューになっちゃったけれど、それでも目の前に並べられたお皿を稜也くんが目を細めて見つめる。
「すごいね。仕事上がってからこれ全部作ったの?」
「シチューは市販のルー使ったり、サラダはちぎっただけだし、ハンバーグは捏ねただけだから」
 稜也くんは和食も好きだけれど、ランチによくから揚げとかハンバーグとかを選んでいるのを見てたから、きっとこういうの好きかなと思って作ってみたけれど、正解だったかな。
「それでも作ってくれた事が嬉しい。食べよっか」
「うん」
 小さなローテーブルに向かい合わせで座って食べ始める。
 味はどうだろう。美味しいかな。
 ついつい稜也くんの箸の動きに注目してしまって、自分が食べるどころではない。
「あれ?」
 ハンバーグを口に入れた稜也くんが不思議そうに顔をあげる。
「これ中に何か入ってる?」
「うん。チーズ。あれ? 普通は入れないものなのかな。うちの母がいつも入れてたから、ついつい入れちゃったんだけれど」
「加山家の家庭の味なんだ。美味しいよ。家でチーズインハンバーグって普通に作れるんだね」
「うん。ピザに乗せるとろけるチーズを中に入れてるの。あの、美味しいかな?」
「美味しいよ。だから優実も食べよ」
 稜也くんに促されて食べてみると、自分で思っていたよりもずっと美味しく出来ていた。
 ぱくぱくと食べてくれて、残ったら明日の朝ご飯にしようかなと思っていたハンバーグもシチューも稜也くんがおかわりして食べてくれた。
 細い体のどこにそんなに入るのだろうと思うくらいの勢いで、また作ろうって心の中のメモに書き記す。
 食事のお皿を片付けにシンクに持っていき、入れ替わりにボトルワインと沙紀ちゃんと一緒に買ったチョコを一緒に稜也くんの前に差し出す。
「飲む?」
 ピンクのラベルのスパークリングワインは、バレンタイン用のものらしく、ハートマークがあしらってある。
 チョコだってバレンタイン用のラッピングだから、見ればそれだとわかるだろう。
 改まってバレンタインのって渡すのは気恥ずかしいから、素っ気無く差し出したそれを、稜也くんは微笑みながら受け取る。
「おなかいっぱいだけれど、これは別腹だね。一緒に飲もう」
「うん、グラス取ってくるね」
「待ってて。俺が取ってくるよ」
 入れ替わりにキッチンへと行った稜也くんが、グラスと紙袋をもって戻ってくる。
 何だろう。あの紙袋。
 そう思ったら、中からゴロゴロと明らかにバレンタイン用のチョコレートだとわかるそれが出てくる。
「義理チョコ沢山貰ったから、優実にあげる。俺は優実のだけで他はいらないから」
 一担の派遣からってことで、きうちゃんと二人で一担の社員さんに配ったものも中には混ざっている。
 あと、一体誰にもらったんだろう。こんなに。
 ざっと見繕っても十個以上あるだろうと思うチョコを前に、くれそうな人を考えるけれど、本当に全部義理?
「まさか優実からチョコ貰えるなんて思ってなかった。いつ買いに行ってたの?」
「こないだ、沙紀ちゃんと」
「ああ。鹿島さんとお茶してから帰るって言ってたとき?」
「そう」
「全然気付かなかった。食べていい?」強力催眠謎幻水
「う。うん。どうぞ」
 嬉しそうにラッピングを開ける稜也くんとは対照的に、わたしは貰ったチョコのパッケージを開けることすら出来ずにいる。
 だってもしかしたら本当は本命が混ざってたりとかしない?
 稜也くんモテるし……。
 チョコのパッケージを眺めていると、稜也くんの指先が顎に触れる。
 あっと思った時には、口の中に甘いチョコの味が広がっていく。
 ちゅっと音を立てて離れた稜也くんが頬を撫でる。
「何難しい顔してるの」
「うーんと」
 言いたくないなあ。これ誰から貰ったの? とか。
 醜い嫉妬してるって気付かれたくないし。
「どれから食べようかなと思って」
 いい答えだと思ったのに、視線が泳ぐ。
 嘘だって丸わかりなくらいに。
「全部優実に上げたんだから、好きに食べたらいいよ。でもこんなに義理チョコ貰うと、お返しが面倒くさいね。今度買い物付き合ってくれる?」
「うん」
 微妙な気持ちを濁しながら頷くと、稜也くんがわたしのあげたチョコを一つ摘む。
「その代わりこっちはあげないから。これは全部俺の」
 子どもっぽい言い分に思わず笑みが漏れる。
「チョコなんて、食べたかったらいつでも買ってくるのに」
「そうじゃない。わかってないな。優実は」
「何を?」
「特別だって、思っても構わない?」
「……えっと?」
 言っている意味がイマイチ把握できなくて首を傾げると、昼間にきうちゃんと一緒に配ったチョコを目の前に差し出される。
「これとこれは同じ意味?」
「ううん」
「じゃあ今俺が食べてるのは、特別に俺だけにしかあげないんでしょ」
 真っ直ぐに見つめられて恥ずかしくなって視線を逸らすと、稜也くんが笑い声をあげる。
「あー。良かった。全く同じ意味で義理であげたって言われたら、俺、確実に死ねるとこだった」
「まさかっ。何でそんな事言うの? わたし、すっごく悩んだんだよ。何が良いかわからなくって」
 腕を引き寄せられて抱きしめられ、耳元に囁くような稜也くんの声が聞こえる。
「うん。わかってる。それでもさ、好きな娘からチョコ貰ったら舞い上がるんだって。それに多少不安だったし」
 思いかけない不安という単語に、稜也くんの胸元に埋めていた顔をあげる。
「どうして?」
 少し困ったような顔をして、稜也くんがわたしを見下ろす。
「俺が勢いで押し切った感があるから、優実が本当は俺のこと好きじゃないって思ってたらどうしようかなーとかさ」
「そんな事無いのに」
「うん。わかったからもういいんだ。ごめん。変なこと言って」
「ううん。不安なのは稜也くんだけじゃないよ。わたしだって不安だよ」
「そっか」
 そう言うと稜也くんがチュっとキスを唇に落とす。
「もう少し、好きってアピール必要?」
「どんな?」
「まー。それはありきたりな方法だよね」
 言葉を紡ぎながら重なった唇の振動に、どきっと胸が高鳴る。
 ふんわりと重なったそれは、息もつかせぬようなものになり、ぎゅっと稜也くんの背中を掴む。
「こういう事したいっていうのが優実だけだってわかって貰う為に」
 その真っ直ぐな視線に見据えられると、言葉なんて無くなってしまう。ただただ、彼の情熱に翻弄されるばかりで。

「りょーちゃーん」
 一担のミーティングが終わって席に戻ろうと歩いていると、稜也くんにお局から声が掛かる。
 うふふふふと笑い声をあげながら手に持っているのは、昨日差し出していたホールケーキ。
 たまたま稜也くんが立ち止まった場所がコピーブースの傍だったので、沙紀ちゃんが面白そうに目を輝かせている。
「これっ。私の気持ちっ」
 うふんと語尾につけ恥らう姿に、ある意味尊敬する。
 すごい。永遠の二十五歳。
 一緒に足を止めたきうちゃんと互いに顔を見合わせて、それから稜也くんとお局に目を戻す。
「今晩、これを一緒に食べない?」
 ぷぷっと石川さんがふきだし、信田さんが苦笑を浮かべたのが見え、沙紀ちゃんはおなかを抱えて笑い出すのを堪えている。
 再びきうちゃんに目を戻すと、唖然呆然といった表情で成り行きを見守っている。
 そんな中、稜也くんがどういう顔をしているのかは、背中しか見えないからわからない。
 営業課の室内は、しーんと音が途絶え、二人の成り行きに注目している。
「二人で食べるには大きすぎますね。折角なので担当のみんなと分けたほうが美味しく食べられると思いますよ。こんな立派なケーキを僕一人が頂くのは申し訳ないので」
「りょーちゃん。あのね、これは義理チョコじゃないの」
 上手く交わした稜也くんに対し、噛んで含めるかのようにお局が説き始める。
 こ、公然告白?
 今までもお局は恋心を隠していなかったし、暗黙の了解だったけれど、こんな会社の中でする!?
「特別な、気持ちが篭められているの。だから」
「ありがとうございます。そこまで日頃の業務を労って下さるなんて嬉しいです。折角なので丁度オヤツ時ですし、みんなで頂きませんか? 伊藤さん、いいでしょうか」
 お局の言葉を遮って、あくまでも義理チョコであるというスタンスの下で話を進めてしまう。
 どうやらお局の愛の告白はここで聞くことは無くなるらしい。
 押し切られた格好で曖昧に頷いた伊藤さんは、頭をかきながら苦笑する。
 真っ赤な顔のお局は、怒りからなのか恥ずかしさからなのか、その表情から伺うことが難しい。
「いつも美味しいケーキ、ありがとうございます」
 お局からケーキを受け取り、稜也くんは元いたミーティングスペースのほうへと足を進める。
 悔しそうな、けれど目がハートのお局は、再び腰をふりふり振りながら稜也くんの後に続いていく。印度神油
 これで、一件落着なのかな?
 相変わらず稜也くんはお局転がすの上手いなあ。

2013年4月11日星期四

夫婦になったらナニをする?

プロポーズ、挨拶、それから……。
 夫婦になるということは、結婚式をして、婚姻届を出して、名字が変わって……段階を踏んでいくというのは分かってる。
 でも、今まで通りここに暮らしているわけだし、今の今は変わったことといえば、空き部屋を二人の寝室に改装したぐらい――。OB蛋白痩身素(3代)
 一体、夫婦になったから変わることってなんだろう?
「それを今聞くのか? 風呂もあがって、ふたりきりの寝室で」
「ひゃっ。聞こえてたの」
 この間購入したばかりのベッドに座っていた私のところへ、千賀さんはバスローブ姿のままやってきて、私の隣に腰をおろす。ふわっとさわやかな香りがした。
 ああ、そのちら見えな胸板といい相変わらず色っぽさ全開。
 私は……というと子供っぽいパジャマで。せめてルームウエアぐらいにすればいいのかな。
「そりゃあ色々改革を考えたよ。これまでの関係を変えていこうってな。でもまさか、今夜おまえから誘われるとは思わなかったな」
 獰猛な視線が突き刺さる。
 じりじりと迫られてあっという間に手首をがしりと両手で拘束。
「ち、ちがっ……」
 素朴な疑問だったのに、ぼすんっとマウントポジションとられちゃいました。
 その上、甘ったるい瞳で見つめたりするから困る。
 だって千賀さん人が変わったように……なんていうか甘やかし方が半端ないんだもん。それに加えて意地悪っていうか……それに感じちゃう私も私だけど。
「まあ、俺もそのつもりだったけど?」
 まだ半端に濡れたままの髪からぽたっと雫が流れて、大袈裟なぐらいビクッとすると、千賀さんは企んだように口の端を曲げた。
「さっきから意識してくれてるんだよな。心の準備はできてたんだろ?」
「で、でも、きょ、今日じゃなくても……」
 もちろん、いつかはそういう日が来るんだと思ってたけど。
「こーいうのは、構えてするもんじゃない」
「で、でもっ……下着の上下だってべつに揃ってないし、あ、こんな色気のないパジャマだしっ」
「気にしねぇよ。おまえの身体に触れたい。いまさら初夜まで待って……はさすがに聞いてやれそうにない」
 ああ、余計なこと言って刺激しちゃった。
「千賀さん、でも、まって、お、重たいよ……」
 もがいていたらくるりと体勢が変わって、千賀さんの上に乗っかってしまった。
「……あ、……」
 どうしてそんな欲情した瞳で見るの。私どうしていいか分からなくて目を瞑るしかないじゃん。そしたら私のうなじなんてあっというまに押さえつけられていて。やわらかい唇が重なって、食み合うような口づけは次第に深くなり、その甘い感触にゆったりと浸っていたくなる。
 やがて割り入ってきた舌が、慣れない私の舌を捕まえて、やさしく撫でるようにしたり、吸いついたり、時々、上顎をくすぐったりして、口腔内にこんなに感じるところがあるんだって思うぐらいきもちいい。
「藍、もうすこし離れて」
 パジャマの上から胸のあたりを触られて、恥ずかしくて千賀さんの顔が見れない。 
「少しずつ慣らしていこう。さすがの俺も、お預けくらってばっかりいると、暴走しそうだ」
 パジャマのボタンを外され脱がされていく。いちきゅーで買ったブラジャーじゃなくって、もうちょっとお洒落なのにしておけばよかった。
「暴走って、もうとっくにしてたよ……っ」
 今だってそう。私の腰の下に腕を回しながら、肩からパジャマを引き抜いて、そしてするすると下のズボンまでおろそうとする。
「あれはまだ序の口だぞ」
 顔を強張らせると、千賀さんはぷっと破顔した。
「怖がるなよ。俺がおまえを欲しいって思ってる証拠なんだから」
「……私のこと、欲しい?」
「ああ、欲しいよ。可愛い下着お披露目は……また今度でいい。今は……とにかくおまえに触れたい」
 背中のホックを外されて、胸があらわになる。恥ずかしくて胸を隠そうとすると、その手は頭上にあげさせられて、ドキドキと忙しく鼓動を打つ胸の上に千賀さんの硬い胸板が重なる。
「俺に触られるのイヤか?」
 私は首を横に振る。
 ……いやじゃないよ。ただ、ドキドキしすぎてどうにかなりそうなの。その言葉さえうまく出てこない。
 無言の返事はキスと引き換えになる。
 それからまたゆっくりと唇が交わり、キスの濃度があがっていく。
 いくつかキスを重ねたら、いつもそこで終わっていた。千賀さんなりにこの間のこと反省しているみたい。
 でも、今夜は違う。キスがどんどん深くなって、千賀さんの手が私の身体のラインを確かめるように背や、腰や、太腿に触れ、それから直接、胸を触った。
「……あっ」
 ビクっと震えた私の胸を、千賀さんはやさしく捏ねまわして、濃密なキスをつづける。
 千賀さんの熱い手と節張った指で、私の乳房はさっきよりも大きくいやらしく形が変わっていく。
 恥ずかしいのと不思議な気持ちで、私は、千賀さんの顔を見つめた。
 男の人ってやっぱり胸を触ると気持ちいいの? 
 分からないけど私は、千賀さんにそうやって触られると気持ちいいよ。
「感じてるのか? ここが勃ってきた」
 くにくにと先端を指の腹で押しつぶされる。指と指で挟んで擦られると、くすぐったいより切ない。V26 即効ダイエット
「……あ、っ……」
 胸を揉まれて、先端を弄られて、舌で舐められて、時々ちゅっと激しく吸われて、気がおかしくなりそうなくらい気持ちよくて、頭の中までとろけだしそうだ。
 ここがこんなに敏感な場所だなんて知らなかった。
 濡れた舌が、何度も、何度も、私を追いつめてきて。もっとこの先があるとしたら一体どうなってしまうのか、不安と好奇心と不思議な感覚が私を襲う。
「あ、ンっ……」
 舌先で頂を転がすように舐められて、時々甘く噛まれたり、激しく吸われたりして戦慄くと、そうされているのとは別のところに、何故かトロリと熱く流れるものを感じていた。
 身体の奥が熱い。息があがって、苦しい。
 心細くなって、千賀さんの頬に手を伸ばした。その私の指先までも、千賀さんの唇はやさしく食んで、今しがた胸にしていたように舐める。
「んっ……」
 ぞくんと震えが走る。舌を舐めながら、おろそかになった胸の尖りを指の腹で擦られて、私の口からはしたない喘ぎが次々に零れた。
「あ、……、っン、……」
 どんどん自分が自分じゃなくなりそうになっていくみたいで、やるせなくなる。
「そんな蕩けた瞳して。なぁ、どうされるのが気持ちいい?」
 いつになく甘ったるい声。こんな千賀さんは初めて。
「……わかんな……いよ。でも……」
「でも、なんだ? 言えよ」
 千賀さんの、その欲情した視線にすら、感じてしまう。
「もっと、して……ほしくなっちゃう……の」
 ため息だけが甘くなる。
 千賀さんが私を欲しがってくれるのが嬉しくて。
「いやらしいな」
「やら、しくなんか……ないっ」
 そうさせてるのは千賀さんなの……。
 ぼうっと琥珀色に染められたライトの真下で、私の胸の先端が赤々と濡れてる。千賀さんにそうされてるんだって思ったら、すごく恥ずかしいのに……でも、もっとして欲しいって感じるのは、はしたないことなのかな。
 私の身体に残された最後の砦……下着の中に千賀さんの指が入ってくる。茂みの先の粒を探り当て、その先の窪みを上下に擦る。
「ひゃっ……あっ……」
 さっき胸の先に感じたものよりも激しい快感が走り、びくりと腰が浮いた。
「いやらしいよ。こんなに濡らして。誰に教わったわけでもないのに」
 私のそこ濡れてるの? 千賀さんの指がぬるぬる動いてる。
 千賀さんの視線がついとこちらに向けられて、私はどうしていいか分からなかった。
「そ、そうだよ。だから、千賀さんが、教えてくれなきゃ……わかんない」
「今、教えてやるよ。たっぷりこれから色々な」
「で、でも、そんな、擦るのっ……ダメ」
 手で押さえようとすると、邪魔だといわんばかりにどけられてしまう。
「なんでダメなんだ。俺を感じてこうなるんだろ。正直なのがおまえのいいところだ」
 だってクチュ、とか音が鳴ってるのって、それって……。
「はずかしい、よっ……」
 だってそんなところ、自分でも触ったことないし、じっくり見たことないよ。
 長い指が柔らかい襞をたしかめるようになぞる。不思議な違和感に腰を浮かすと、千賀さんは私の下着をずるりと脱がせた。
「あ、っ……」
 私の膝を立たせて、二つに折るような格好にしたあと、膝を左右に開いて、そこを見下ろす。
「やぁっ……そんなじっくり見ないでっ」
「毛も生えてなかったんだよなぁ、とか」
 ……信じられないっそういうこと言うっ!?
「いや、バカバカぁっ」
 腰を振って足を閉じようとするけれど、千賀さんの力強い手がそうさせてくれない。
「わかったわかった。ごめん、悪かったよ。イイ子だから、見せてくれよ」
「どうして、そんなところ見るの。やだぁ」
「大事な過程なんだよ。ここに俺を迎えてもらうために必要なことなんだ」
 さっき指で弄られたところに、れろ、と舌が這い、突起を嬲る。
「ひっぁっ」
 腰を浮かせるとぐいと引き寄せられて、熱い舌が濡れそぼった花びらにヌルりと埋まる。
「あっ……やぁっ……」
 逃げようとしても逃げられない。
 熱く、激しい感覚。焼けつくような、快感。
 のけ反るたび、生温かい舌が這って、私をおかしくさせる。
「は、ぁっ……ん、……あっ……」
 ベッドの上。はしたなく広げられた私の足。膝のうらをもちあげられたまま、恥ずかしくて拒みたいのに、勝手に力が抜けていくから、どう応戦しようもない。
 さっきまでのじゃれ合いは静まり返って、私の口からは聞いたことのない甘い喘ぎが断続的に溢れ、千賀さんの息遣いと舌が動く音が、私の五感をますます刺激して、そこをはしたなく濡らしていた。
「……っ……あっ」
 あたたかい舌が、上下左右に余すことなく動くと、頂点に触れたとき電流のような甘い疼きがびりっと走った。
「……ンっ……」
 千賀さんがそこに舌を伸ばして舐める度、お腹の奥からじわっと溢れるものを感じて、とてもじっとなんてしていられない。
 溢れる蜜をすくった千賀さんの太い指が、割れ目をたしかめてゆっくりと入ってくる。
「ひゃ、あんっ……」
 千賀さんの指が、私から溢れる蜜で濡れていた。
「声、我慢するな……聞かせろよ」
「やぁ、……っ」
 千賀さんの息が熱い。舌がうねうねと動くたび、疼きをかんじて、千賀さんの指が内襞を擦るたび、はしたないって分かっていても、口をついて出てしまいそうになる。福潤宝
「ふぁっ……あんっ……きもち、……」
「きもちいいか」
 私の声を聞いて、ますます千賀さんの舌の動きが激しくなる。先端の尖りから割れ目までの短い距離を上下左右にそうされて、奥から何かが駆け上がってくる。
「で、でもっ……あ、怖いよっ……なんか、わかんないの。何かくるっ……あンっ……あぁっ」
 じわじわ甘い痺れの間隔はだんだん緊迫してきていた。
 千賀さんの吐息がかかるだけで、先端でぶるぶると今にも弾けそうになっている花芯を、急にじゅっと吸われて、たまらず仰け反る。
「は、……あっ……やだぁっ……それ、しないで」
 ダメ、イヤ、と言うそこを、執拗に舐る。千賀さんは私の腰をぐいっと引き寄せて、唇をそこから離さない。滴る中に、別の感覚がずぶりと入ってくる。
「ひゃ……あっ……ン」
千賀さんの長い指先が私の中の柔らかい襞を掻き回すように撫ぜてくる。そして突起を執拗に舐め回した。
「ん、おねが、……まって、……あ、っ……ヘン、なのっ」
「……いいからそのまま感じてろ」
 ひく、ひく、と喉にまで震えが走って、全身がざわっと粟立った。
「あぁっ……っ……やぁっ……も、だめぇっ……」
 いやいやと暴れる私の手をやさしく握ってくれる千賀さん。でも、あそこへの愛撫はやめてくれない。じわじわ這い上がってくる快感がついに大きく弾けた。
「…ひっ……あああっ!」
 腹部が波のようにうねり、頭の中が真っ白に染められ、ビクンビクンと身体が大きく打ち震えた。
 ――一体、何が起きたんだろう。
 私のどこもかしこも張りつめている。耳鳴りはするしなんか靄がかっている。酸欠になった脳内がぼうっとして、息を逃すので精一杯。さっきまでいじられていた快感の粒はまだひどく疼いていて、背に触れるシーツにすら、感じてしまう。
「……っ……はぁっ……あ、……はぁっ」
 ようやく千賀さんはそこから離れて、私のすぐ目の前に戻ってきた。
「……こわ、かったよっ」
「ああ、ごめん……。これでも手加減したつもりなんだけどな」
「ちっとも、手加減なんて感じなかったよ」
「あんな可愛い顔が見れるなら、いくら責められてもいい」
 困ったように眉を下げて、千賀さんは笑う。
 千賀さんの手が、汗でびっしょりの私の髪を撫でてくれる。だけどそのやさしさは、次に起こることの前触れだった。
「少し、待ってろ」
 千賀さんはそう言い、ベッドサイドに手を伸ばして、正方形の形のプラスチックの何かを掴んだ。それっていうのは……。
「初めてって痛いん、だよね?」
「さあな。やってみなくちゃ分からないけど、まあ、痛いだろうな」
 さくっと言われて、顔面硬直。
 その間にも千賀さんは慣れたようにピッと開けて、脈々と昂ぶったそこにゆっくりと装着する。私はその一部始終をじっと見てしまった。
「あんまりじっくり見てるもんじゃねーぞ」
 指摘されて顔が熱くなる。
 だって、どうしていいか分からないんだもん。
 千賀さんは私の腰の下に腕をすっと入れて、抱き起こすと枕の上にクッションを重ね直した。そしてゆっくり脚を開いて、ぴたりと張り付くように狙いを定めた。
 さっき愛されたばかりのそこがひくひくと震えてるのが分かる。表面同士が触れたのも。
 千賀さんが、私を欲しがってそうなってくれてる、と思うと、嬉しい。でも怖い。
「そんな怯えた顔するなよ。おまえがほしい……。俺を受け入れてくれ」
「……千賀さんの特別になれるんだよね……」
 言い聞かせるように身構えていたら、千賀さんの手がやさしく頭を撫でた。
「そんな儀式的なもんじゃない。おまえが俺を好きで、俺がおまえを好きで、そういう自然の中でしたくなるもんなんだよ」 
 千賀さんの昂ぶった熱が、濡れた秘裂にあてがわれ、私の身体にぎゅっと力が入った。
「私のこと、好き……?」
「あぁ、好きだよ。この間のお預けから、どれだけ我慢してたか……やっとおまえを抱ける」
 ぬるぬると先端が動く。
 そこに入ってくるの? そんなにおっきいのに、私のあそこに本当に入るの?
「……千賀、さ、……」
 怖い。ぎゅうっと目を瞑った。
「無理はしない。痛かったら爪を立ててもいい。しんどかったら蹴り倒せ……」
「できない、よぉっ……」
「じゃあ、俺にしがみついてろ。ゆっくりするから、イイ子だから力だけは抜いてくれ」
「……だって……でも、やっぱり怖いっ」
「藍、触ってみろ」
 手を引っ張られて、まだ先端しか入っていない千賀さんのあそこを触らせられた。誇張したそこは、脈々と熱を打っている、もう一つの心臓だ。VIVID XXL
「あ……」
「おまえが好きでこうなってるんだから、ひどいことをするわけがないだろ」
「私を好きで……?」
「ああ、好きで……好きで、どうしようもない」
 千賀さんの手が私の顎をあげさせ、うっとりとするような甘いくちづけが重なる。やさしく髪を梳いて、いとおしそうに指を絡める仕草を感じながら、ぐっと中に入ってくる千賀さんの分身を、私はゆっくり受け入れていく。
「―――……っ」
 想像していた以上の痛みに身体が強張る。
 何か、掴まるものっ……私は必死に手を伸ばして、千賀さんの逞しい腕と、シーツと、クッションと、枕と、たぐり寄せた。
 その間にも、今までに感じたことのない、焼けつくような鋭利な痛みと、生理が来る予兆みたいな鈍い痛みと、それらが同時に迫って突き進んでくる。
 ひどいことしないって言ったのにうそつき。
「……っ……ぁっ……っ」
「もう少しだけ、辛いだろうが力を抜いてくれ。食いちぎられそうだ」
 うそつき、うそつき……痛いよ。
 だけど、私だけじゃない、千賀さんも辛いんだ。
 千賀さんの眉間にきゅっと皺が寄る。
 ゆっくりその先を進める度、千賀さんは、私の頬や肩や胸をやさしく触りながら、中へ侵入してくる。抉じ開けられていく感覚がだんだんと深くなってきて、私は息をついた。
「あと少しだ」
 やさしく胸を撫でて、敏感になった乳首を指の腹で撫でながら、もう一方でさっき舐めていた花芯を転がしながら、突き進んだ道を一度戻ってまた挿入して、また抜いて挿れてを繰り返す。
 その緩やかな波がだんだん迫ってくると、理由のつけられない切なさが押し寄せ、涙が溢れだしそうになる。
 ……私の中に、千賀さんがいる……一つになっていくんだ。
 千賀さんの唇から吐息が零れて、そのあまりにも色っぽい声にゾクリと戦慄き……、身体全部で、千賀さんを欲していた。
「俺の形を……これから憶えるんだぞ」
 千賀さんの、形……その容積は、易々と入るようなものではなく、力を入れないようにしても知らずに強張ってしまう。
「……あっ……っ」
 千賀さんが私の中にどんどん入ってくる。痛みとか恐怖心よりも切なさで胸が震えた。
 これからは特別になれる。千賀さんのことが欲しい。私の全部をもらって欲しい。
 だから……。
「はっ……あ、ぁ……」
 背中はさっきよりもぐっしょりと汗を掻いていて、千賀さんの額も汗ばんでいた。密着した肌と肌は燃えるように熱く、もどかしさを埋めるように唇と唇が交わり、半身では無茶にできない分、舌と舌が荒々しく激しく絡まりあう。
 その刹那、ズンと奥を突きあげられて、思わず唇を離した。
「ひゃ、あっんっ……」
 じわ、と鈍い痛みが広がり、異物感を得たまま、密着した私と千賀さんの距離がそこで止まる。浅い茂みが交わるそこは、融点を迎えていた。挺三天

2013年4月10日星期三

単調な日々

しばらく、雨の日が続いていた。
 土日を挟んで五日間ほど降っている。梅雨は明けたはずなのに、七月なのに長々と降り続いている。こういうのを戻り梅雨と言うらしい。戻ってこなくていいのに。
 雨の日の登下校は憂鬱になる。ハーレーには乗ってこれないし、傘を差さなきゃいけないし、制服にはねが上がると母さんががみがみ言うし、いいことなんて一つもない。SPANISCHE FLIEGE D9
 アイスを食べる為の寄り道だって、出来ない。
 いや、節約中なんだけどな。毎日買い食い出来るほどの余裕もないんだけど、あれから放課後になると少し気になって、あの公園を覗いてみたりした。雨の降る帰り道、一人きりで傘を差しながら、公園の前をふらっと通りがかって、それから中にも入ってみた。メタリックグリーンの自転車が停まっていることはなかったし、木陰の青いベンチには誰の姿もなかった。当たり前だけど、雨の日は牧井も寄り道をしないらしい。
 俺が一人でいるということは、牧井だって一人でいるはずなのに。どうしているか考えかけて、そこまではわからないよなと苦笑したくなる。
 ただ、一人の帰り道でもそんなに寂しがってなければいい。一人なのは牧井だけじゃない。似た者同士、俺だってそうだ。お仲間がいるんだから、そんなに寂しがらないでくれたらいいな、なんて思う。
 実は、俺に『戻り梅雨』という言葉を教えてくれたのは牧井だったりする。
「こういう雨が続くことを、戻り梅雨って言うんだって」
「へえ、初めて聞いた。戻ってこなくていいのにな」
「本当だね」
 率直に感想を述べたら、牧井はそれがおかしかったらしく、ころころ笑ってみせた。こんな風に時々、短い会話を交わすことが多くなっていた。
 雨の日の放課後に会うことはなくなっても、教室ではよく会う。クラスメイトだから当然と言えば当然だ。今までは同じクラスにいても口を利く機会さえなかったけど、接点を持った以上は話しかけない理由もなかった。登校した直後とか休み時間に、ちょくちょく声を掛けていた。
「牧井、彼氏出来た?」
 挨拶代わりに尋ねる。すると牧井はかぶりを振って、逆に尋ね返してくる。
「ううん。進藤くんこそ彼女出来た?」
「ぜーんぜん。出会いすらないよ」
 こっちの答えはとうに決まっている。目下、彼女の出来そうな気配もない。誰か可愛い女の子とお近づきになれたということもないし、棚からぼたもちみたいに告白されるなんてこともない。
「夏休みに間に合うかな」
 ぼやく俺に牧井は言う。
「間に合うといいね、進藤くん」
 励ましみたいに言ってくれるから、何となくくすぐったくなったり、照れたくなったりする。牧井はいい子だ。彼氏がいないのが信じられないくらいにいい子だ。きっと見る目のない奴ばっかなんだろうな。
 俺も夏休みに間に合えばいいなと思っているけど、でも夏祭りの予定は既に立ってしまったし、間に合わなきゃ間に合わないで別にいいよなとも思い始めていた。夏祭りはしょうがないから大和と黒川と、それから牧井と、四人で行こう。その後の夏休み期間でじっくりと彼女を作る、って計画でどうだろう。それなら焦る必要もない。
 でも牧井には、顔を合わせる度に聞いてしまう。
「もう彼氏出来た?」
「さっき聞いたばかりなのに、そんな簡単に出来る訳ないよ」
 教室の中でも牧井はよく笑う。俺の他愛ない言葉にもころころ笑ってくれる。特に親しげな会話をしている訳でもないのに、そうやって楽しそうにしてくれる牧井は、やっぱりいい子だ。
「それにしても、戻り梅雨って奴、続くなあ」
 教わったばかりの言葉を口にしつつ、教室の窓から外を見る。それほど激しくはない、だけど途切れない雨の毎日。うんざりする。
 牧井も一緒になって窓を見てくれた。外の景色を眺めて、やっぱり溜息をついていた。
「早く止んでくれるといいね。買い物に行けなくなっちゃう」
「買い物?」
「うん。夏祭りに備えて、美月と一緒に買い物に行く約束をしてるの。でも雨が降ると荷物になるから、天気のいい日にしたいなって」
 そういう話を穏やかに語る牧井。
 最近では寂しそうにしている様子もなくて、こっそり安心している。相変わらず大和と黒川は仲が良くて、雨が降ってても一緒に帰ってるけど、教室で見かける牧井は元気そのもの。だからきっと、大分立ち直ったんだろう。よかった。
 一方の大和は、俺と牧井が教室で話していると、いつも遠くから視線だけを向けてくる。
「割って入ったら邪魔かと思ってな」
 なんて訳知り顔で言っているけど、本当は俺たちに、黒川とのことをからかわれるのが嫌なんだろう。俺と牧井の会話には絶対加わってこない。そのくせ後になってから、からかうようなことを言ってくる。
「颯太、牧井と随分仲良くなったんだな」
 意味深な物言いをされたから、鼻で笑ってやった。
 お前が言うな。絶対、自分がからかわれる前にこっちをからかおうって魂胆だ。
「あいにくだけど、俺と牧井はお前らと違って、あまーい会話なんてしてないから」
 たっぷりと意味深返しをする俺に、大和はぐっと詰まってみせる。
 実際、大和が黒川に甘い台詞を囁く姿なんてこれっぽっちも想像出来ないけど――って言うか想像しただけであちこち痒くなるけど、詰まるからにはそういうことも言っちゃってるんだろう。いやー痒い痒い。
「でも、毎日のように話してるだろ」
 負けず嫌いの幼馴染みが食い下がってくる。
「珍しいよな、颯太が女子と普通に仲良くしてるなんて。今まではせいぜい喧嘩腰で接してる程度だったのに」
「そりゃあ」
 俺からすると、女子の中でも牧井と黒川は別格のいい子だ。話しやすいし気負わなくて済む。他の女子だとなかなかこうはいかない。
「牧井は俺のこと、チビって言わないからな」
 口の悪い連中は気にしてることを遠慮なく言ってくるからむかつく。背が伸びても百五十五センチ止まりの俺は、いつも大和と一緒にいるせいか、余分にちっちゃく見えるらしい。小学校時代からチビチビ言われていた。そういう女とは絶対に仲良くしたくないから、こっちもターミネーターばりに喧嘩を買ってやった。お蔭で女の子についてはいい思い出がない。俺の初恋がまだなのも、そういうところに理由があるんだと思う。
 牧井や黒川は、俺をチビだとは言わない。牧井なんて『そんなに気にすることないんじゃないかな』とさえ言ってくれた。本当にいい子だ。もし俺よりちっちゃい子だったら、好きになってたかも、なんてな。単純過ぎるか。
「言わないだろうな」
 大和は相変わらず、わかった風な口調をする。
「だって牧井って、颯太と同じくらいの背丈だろ?」
「ってか、ぴったり同じ」
「そうだと思ってた。だったらお前の身長をあれこれ言ってくるはずない」
 確かに、牧井からすれば俺がチビってことはないもんな。でも牧井はそういう理由じゃなくて、人の嫌がる言葉を口にしない子なんだ。まだちょっとしか話してないけど、わかる。
 大和とは、放課後こそ一緒に帰らなくなったものの、昼休みは前と同じように過ごしていた。過ごすと言っても一緒に飯食うってだけだけど。教室の俺の席に、大和が椅子だけを持ってきて、ちっちゃい机を囲んで食べる。俺たちは揃ってコンビニのパン派だ。
「で、颯太は牧井と、どんな話をしてんだよ」
 大和がそわそわと尋ねてくる。案の定、自分の話をされてやしないかと気が気じゃないらしい。してるんだけどな。
 ともあれ口ではこう答えた。SPANISCHE FLIEGE
「別に普通の話。授業のこととか、天気のこととか、夏休みのこととか。こないだは『戻り梅雨』って言葉を習った」
「へえ」
 なぜか疑わしげな目を向けてくる大和。どうでもいいところで神経質な奴だ。そのくせ無駄に口が堅かったりするし――あ、そうだ。
「それと、夏祭りの話も聞いてた」
 俺が例の件を切り出すと、大和もちょうど思い出したみたいに表情を変えた。
「ああ、それな。俺も美月から聞いた。お前も行くって言ってくれたんだってな」
 知ってたのか。まあそれは別にいいけど、知ってたんだったらとっとと言え。あれきり大和からは何も言われなくて、どうなったんだろうと首を捻ってた。牧井とはちょこちょこ夏祭りについての話もしてたし、本決まりになったみたいだなとも思っていたけど。
 そしたら、言いにくそうに付け加えられた。
「けどほら、何つーかその、うっかり忘れてた」
 がっくりした。
「忘れんなよ! 大分前からそっちで勝手に決めてたくせに!」
「悪い」
 俺が声を上げると、大和は手を合わせて、済まなそうに続けた。
「実は迷ってた。美月に、牧井も誘いたいって言われて、一緒にお前を誘うかどうか」
「嘘つけ。誘う気満々だったくせに」
 牧井から聞いてるんだからな。大和が変な気の回し方をしたこと。
 突っ込んでやるつもりで言い返したら、何だか複雑そうな顔をされた。
「嘘じゃない。そりゃ誘う気はあったけどな、これでも迷ったんだ。颯太には申し訳ない誘いだよなと」
「まったまた心にもないことを」
「馬鹿」
 軽くいなした後で大和が言った。
「とにかく、颯太が牧井と仲良くなってくれて助かった」
 俺も、結局はその言葉に同意した。
「まあな。四人で行くのもやぶさかでもないって感じ」
 正直言ってこのメンツなら悪くない。何だかんだで結構楽しいはずだと思う。大和と黒川と牧井と、四人で行く夏祭りを、俺は割と楽しみにさえしていた。
「そう言ってくれるとありがたい」
 大和が胸を撫で下ろす。それから教室の窓に目を向ける。
 昼休みの時間だってのに、空の色はどんより暗い。戻り梅雨はまだ続いている。早く止んでくれないと、牧井たちの買い物が夏祭りに間に合わなくなりそうだ。まだ一週間以上はあるんだけど、それでもだ。
「近いうちに、リハーサルでもするか」
 不意に大和はそう呟いた。
 リハーサルって何だ、そう聞き返す前に苦笑された。
「だから夏祭りのだよ。四人で出かけるのがどんなもんか、慣れときたいし」
 何だか、こいつが一番気負ってるみたいな口ぶりだった。
リハーサルと言うのはつまり、四人で出かけることだったらしい。
 夏祭りに備えて、黒川と牧井が買い物に行くと聞いていた。雨の日は荷物がかさばるから、行くなら晴れの日になるだろうと。牧井がほのぼのと予定を語っていたから、久し振りに友達同士で出かけるのかな、牧井もきっとうれしいだろうな、と思っていた。
 だけどその買い物に、なぜか大和と俺まで同行する羽目になった。
 戻り梅雨もようやく一段落した日の放課後、俺たちは連れ立って学校を出ようとしている。
「男の子の意見も聞いてみたかったから」
 と、黒川はどこか恥ずかしそうに理由を述べる。
「どういうのがいいか、アドバイスを貰えたらうれしいな」
「どういうのって言われても、そもそも何を買うんだ?」
 例によって俺には事前情報が皆無だった。
 朝、登校する際に会った大和は、いきなり『放課後空けとけ』とだけ言ってきた。てっきり、久々に二人でどっか行こうって話だと思ってたのに、放課後になったら四人で出かけることになってた。
 今は生徒玄関で靴を履き替えているところ。黒川だけが別のクラスだからか、さっさと外靴に替えて戻ってきた。俺と大和と牧井は、まだ靴を履いている。
 ここに来てもまだ、俺はどこへ何を買いに行くかを全く知らない。アドバイスが必要なものって何だろう。
「言ってなかったっけ」
 しれっと言う大和。悪びれないそぶりに睨みつけてやりたくなった。
「聞いてない。お前、『放課後空けとけ』しか言ってないだろ」
「前から話してたような気がしてたんだよ。気のせいだったか」
 ぎこちない大和の言葉。それを聞いた牧井がなぜかくすくす笑う。その後で教えてくれた。
「進藤くん。今日は浴衣を買いに行くんだよ」
「――浴衣!?」
 思わず声が裏返った。
 なるほど浴衣か。そうだよな、夏祭りと言えば浴衣だ。女の子の浴衣はいい。嫌いな奴はそうそういないと思うけど、ご多分に漏れず俺も大好きだ。何たって女の子が着ると、皆お行儀のいい、おりこうさんに見えるのがいい。普段は口の悪い子でも浴衣を着るとしっとり落ち着いて見えて、いつもこうならいいのになあと思えてくるし、もちろん普段からおりこうさんな子が着てたってすごくいい。と言うか黒川も牧井も絶対浴衣が似合うと思う。きっと可愛いに違いない。
 とそこまで考えた時、黒川も笑い声を立てた。
「進藤くんは浴衣、好き?」
「もちろん!」
 全力で答える。夏祭りも黒川と牧井が浴衣で来るのかと思うと、俄然テンション上がってくる。楽しみ過ぎる。
「そっか、よかった」
 黒川は一旦胸を撫で下ろしてから、ちらと大和の方を見る。恐る恐るといった調子で水を向けた。
「あの……飯塚くんは、どうかな」
 わかりやすいくらいに聞き方が違う。
 いやいいんだけど、むしろこっちが本題なんだから、俺に寄り道しないでとっとと大和にだけ聞けばいいのに。
 聞かれた方もあからさまにうろたえてるから面白い。
「俺も、嫌いじゃない」
 ぎくしゃく答える大和の姿が新鮮で、こっそり笑ってやろうと思った。だけど器用な真似も出来ないくらいおかしくて、つい盛大に吹き出してしまった。
 そしたら睨み返された。
「笑うな」
「わ、悪い。面白くってさ」
 大和だって浴衣、大好きなくせに。嫌いじゃないって何だ。はっきり言えよなあこういう時こそ。彼女が期待してるんだから。Motivator
「よかった」
 それでも黒川はにこにこしている。頬っぺたを少し赤くして、俺たちに向かって笑いかけてきた。
「二人とも、アドバイスよろしくね」
 まあでも要するに、黒川としては愛しのダーリンの好みが聞けたらいい訳であって、俺は完全なるおまけ扱いだよな。だったら二人きりで行けばいいのにとも思うけど、きっと二人で行くのは気恥ずかしかったんだろう。
 大和だって、今日の買い物の内容は事前に知ってたらしいのに、俺にははっきり教えてくれなかった。照れてたんだろうな。ああもうこいつらってば想像するだけでくすぐったい。
「楽しみだね、美月」
 牧井が優しく声を掛けると、黒川はうん、とうれしげに頷く。
 そういえば牧井と黒川が一緒にいるところを見るのは初めてだ。そのせいか新鮮な感じもしたし、短い会話だけでも仲が良さそうだ、とも思った。顔を見合わせただけで笑っていた。
 降り続いていた雨もようやく止み、今日は朝からからっと晴れていた。
 空にはぽつぽつと雲が浮かんでいたけど、雨の降る心配はないらしい。代わりに気温がむちゃくちゃ上がっている。道に残った水たまりもそのうちに干からびて、消えてしまうだろう。
 俺は久々にハーレーを出したし、大和も自転車で来ていた。女の子たちは二人揃って徒歩で来たのだそうだ。俺たちが愛車を駐輪場から出す間、のんびり待っていてくれた。
「買い物ってどこですんの?」
 ハーレーに跨りつつ尋ねると、黒川が答えてくれた。
「駅前のデパートで。今ね、浴衣フェアやってるんだって」
「ふうん」
 そういう時期だもんな。夏祭りの為に準備をするのは、何も黒川たちに限ったことじゃない。
「進藤くんと飯塚くんは先に行ってて。私たちもなるべく早く行くから」
 黒川がそう言ったからか、大和も自分の自転車に乗った。俺の方をじろっと見て、短く促す。
「じゃあ行くぞ、颯太」
「おう。――後でな、二人とも」
 それで俺は黒川と牧井に手を振って、二人も一緒になって振り返してくれた。大和は愛想すら見せずにさっさと漕ぎ出してしまったけど、間違いなく照れていたんだろう。しょうがない奴だ。
 俺の黒いハーレーと、大和の銀フレームの自転車とは、校門を抜けた辺りでぐんぐんと加速を始める。ここからは下り坂で楽に行ける。大して漕がなくてもものすごいスピードが出る。真正面から風が吹き始めた。温くて、微かに雨の匂いがする風。
 二人で帰る時はいつも、大和が先頭で俺がしんがりだった。リーチが違うから漕ぐ速さだって違うのは当たり前で、上りはともかく下り坂だとその差がより顕著に表れる。
 先を行く大和の短い髪が、風にふわふわ浮いている。俺はその頭に向かって、ふと声を掛けてみた。
「大和ってさあ!」
「何だよ!」
 振り向かずに返ってくる大和の声。妙な懐かしさを覚えて、にやっとしたくなる。ついでにその懐かしさの原因を突き止めたくなる。
「黒川の、どこが好きで付き合うことにしたのか、教えて!」
 尋ねた後、ハーレーのハンドルを握り直す。もしもの時は急ブレーキを掛けられるように。前方、大和の両肩が目に見えて動揺したのに気付いたから。
「馬鹿颯太!」
 大和は、だけどブレーキを掛けなかった。振り向きもしなかった。
 坂道を直滑降の速度で下りながら、俺を見ずに、俺に返事を寄越してきた。
「そんなこと大声で聞くな!」
 そう怒鳴った幼馴染みがどんな顔をしていたのか、見てみたかった。でも並走するのは難儀だから、代わりに後ろを振り向いておく。すっかり遠くなってしまった坂道のてっぺん、黒川と牧井の姿はまだない。校舎も既に見えなくなっていた。
「でもさあ、気になるんだよな」
 真正面に視線を戻して、今度は普通の声で言ってみた。
「牧井から聞いたんだけど、黒川は牧井に、大和の話をしてるんだって」
 背を向けている大和は無言だ。でも肩が動いた。明らかに動揺してる。
「でも大和は俺に、黒川の話とかしないよな。何で?」
 気になる。聞いてみたい。
 俺たちは付き合いの長い幼馴染みだけど、恋愛の話をしたことはなかった。せいぜいクラスでどの子が可愛いとか、テレビに出てるアイドルのどの子が好みかなんて話くらいで、明確に好きな子がいるかどうかの話をしたことは一度もなかった。大和のあの性格と、俺が初恋もまだしてないって事実を踏まえれば、それも当然だったのかもしれない。
 今も大和は答えない。外だから、黒川に聞かれると困るから、だけじゃないと思う。
 だったら質問を変えてみよう。
「大和の初恋って、いつ?」
 もうじき下り坂が終わる。そこからはなだらかな道になって、駅前の商店街へと続いていく。本日の目的地であるデパートは駅前通りに面したところに建っている。
 俺の質問に大和が答えたのは、坂をすっかり下りきってからのことだった。
「保育園の時!」
「――早っ!」
 思わず突っ込んでしまう。
 初恋が保育園児の頃なんておませさんにも程がある。相手は誰だ、保育士さんかそれとも園児か。気になるなあ。俺は幼稚園行ってたから、大和の初恋の相手を察することは出来そうにない。ああ悔しい。
「馬鹿、颯太が遅いんだよ!」
 ようやく振り向いた大和は、してやったりという顔をして笑っていた。こっちまでつられて笑いたくなる。悔しいのに、おかしなもんだ。
「颯太にも彼女が出来たら、同じようにからかってやるからな」
 なだらかな道の途中、横断歩道の前で二台が並ぶと、大和が強気に言い放った。
 十センチ以上も高い位置にある見慣れた顔、見慣れない表情。照れと幸せと自信に満ち溢れている。
「やれるもんならやってみろ」
 俺も精一杯胸を張って、その顔を見上げた。
 だけど、からかってもらう機会があるかな、とも思う。ずっとなかったらそれはそれで寂しい。年齢一桁の頃には好きな子がいたらしい大和と、未だに好きな子なんていたことのない俺。
 幼馴染みなのにどうしてこうも違うんだろうな。
黒川たちとの待ち合わせ場所はデパートの、ちょっと古びたエントランス。
 最近見なくなった、緑色の公衆電話の前に突っ立っていたら、やがて白いセーラーの二人組が駆け込んできた。俺たちより十五分遅れだ。徒歩ならまあこんなもんだろう。
「ごめんねー、待たせちゃって!」
 駆け寄ってくる黒川に、牧井が控えめな笑顔でついてくる。
「いいよいいよ、全然待ってないし」
 出迎える俺が愛想よくしてても、大和は一人で照れているから台無しだ。いかにもらしいけど。
「おい、大和も何か言えよ」
 肘で突いてやったら、ようやく、何事かもごもご口にしていた。俺にはちっとも聞こえなかったけど、黒川にはちゃんと伝わったみたいだ。
「進藤くんも、飯塚くんもありがとう」
 そう言って、たちまち笑顔になっていた。
 合流してからはすぐに浴衣売り場を目指した。
 二階、婦人服売り場のサマーセール特設会場では、透明ビニールに包まれた浴衣がずらっとハンガーに掛けられて、さあ選べとばかりに陳列されていた。四角く畳んである浴衣は、浴衣って言うよりむしろ、のれん売り場って感じに見える。柄もそれっぽいし。
 冷房の効いた売り場はしんと静かで、学校帰りの高校生四人は場違いな感じもしていた。デパートって制服だと浮く気がする。いわゆるセレブな奥様ばかりの客層で、照明とか床とかもちょっと上等な感じがしていて。仮に俺たちが大騒ぎしたら、即座に黒服のガードマンがやってきて、ひょいとつまみ出されそうなイメージ。さすがにそれは大げさか。
 でもやっぱり落ち着かない。婦人服売り場だから、かもしれない。
「どういうのがいいかなあ」
 早速、黒川が浴衣を選び始めた。真っ先に手に取ったのは、フラミンゴみたいなピンクのやつだ。朝顔っぽい花の模様が描かれている。
 黒川はそれを、模様がよく見えるように持ち上げて、それから牧井に水を向けた。
「八重ちゃん、ピンクってどう?」
「うーん」
 名前で呼ばれた牧井は、黒川の手にした浴衣に見入った。顎に手を当てて、真剣な顔で考え込む。
 聞かれてないけど俺も考えてみる。ピンクの浴衣ってあんまり見たことない気がするな、気のせいか。黒川みたいな可愛い子なら、女の子らしい色も似合いそうだよな。ただ、祭りがあるのは夕方からで、鮮やかな色だと人目を引くんじゃないだろうか。迷子にはなんないだろうけどさ、デートだとほら、いろいろとな。蒼蝿水(FLY D5原液)
 しばらくしてから牧井も答えた。
「夜に着るにはちょっと目立つかもしれないね」
「目立つ? そっか、派手かな」
 残念そうにする黒川。それでもピンクの浴衣に未練があるのか、ちらちらと裏返して眺めたりしている。
 そこで牧井が、意味深に笑った。短い前髪の下、視線がすっと移動する。
「美月があんまり人目を引いちゃうと、飯塚くんが気が気じゃないかも」
「え? 俺が?」
 さして鋭い物言いではなかったけど、大和は目に見えて動揺していた。自分に飛び火するとは思ってなかったんだろう。油断大敵とはこのことだ。
 うろたえる大和に、黒川ははにかみながら尋ねる。
「飯塚くんは……どう? ピンクの浴衣って好き?」
「嫌いじゃない、けど……」
「うん」
「俺はもうちょい、地味な色の方がいいな」
 どうやら気が気じゃないらしい。大和は照れ全開で答えていた。
 その回答を聞いた黒川はくすぐったそうに首を竦め、
「飯塚くんがそう言うなら違うのにしようかな」
 なんて、聞いてる方が身悶えしたくなるようなことを言っている。可愛い彼女だよなちくしょう。
 すかさず俺は、思いっきりにやにやしてやる。
「何、にやついてんだよ」
 大和がこっちを見咎めて、軽く睨んできた。でも面白いんだからしょうがない。嫌いじゃないけどとか、そう言いつつ自分の好みを訴えてるところとか、我が幼馴染みながらぶきっちょだよなと思う訳で。そんな不器用さ加減を笑うなって言うのが無理な話。
「べっつにー。俺がにやにやしてるのは自由だろ」
「颯太め……。とにかく、むかつくから止めろよな」
「はいはい」
 幼馴染みの噛みつきにはわざといい加減に答えた。いいだろ、そっちは彼女もいて幸せ一杯なんだからさ。弄られるのも運命ってもんだ。
 俺たちがそんな会話を交わしている間にも、女の子たちはひとまずの結論を導き出したようだ。
「じゃあ、もっと地味なの探そっか?」
 牧井が水を向け、黒川が元気よく頷く。
「うんっ」
 かくして例の、ピンクの浴衣は売り場に戻されて、黒川たちは他の浴衣を検分し始める。幸いにしてこの特設会場はめちゃくちゃ品揃えが豊富だった。いかにも大和の好きそうな、地味な色味の浴衣もいっぱいあった。
「藍色って無難過ぎるかな? この模様、好きなんだけど」
「きれいでいいと思うよ。でも、こっちのも涼しげでいいかも」
「わあ、水色もいいね。いい色が多くて目移りしちゃうな」
「あとは彼氏の意見も聞いてみないとね、美月」
 牧井の言葉に、黒川はぱっと頬っぺたを赤くする。そして牧井の肩を軽く叩いた。
「も、もう、八重ちゃんったら! からかわないで!」
 女の子たちのやり取りは見ていても何だか和む。いいよなあ、とほのぼのする。黒川と牧井は、背丈だけなら黒川の方が上なのに、話しているのを聞けば牧井の方がお姉さんみたいに聞こえた。そういうのも何かいいよなと思う。
 中学の頃からの付き合いって言ったっけ。この二人は気も合ってるし、きっと出会ってすぐに意気投合しちゃったんだろうな。目に浮かぶようだ。
 そんな風に、三十分ほど浴衣売り場を回って歩いた。
 黒川と牧井が選び、大和が意見を言い、俺が大和を冷やかして牧井は黒川を冷やかす――なんていうパターンを何度か続けてから、遂に目当ての浴衣が見つかったようだ。
「これにする!」
 嬉々として手に取ったのは、藍色の生地に色とりどりの鞠があちこち跳んでいる模様の浴衣。大和が赤い顔でゴーサインを出したので、黒川としても迷いが吹っ切れたみたいだ。早速、牧井のセーラーの袖を引いていた。
「お会計するから、八重ちゃん、ついてきて」
 それで牧井はにこっと笑って、
「私じゃなくて、飯塚くんと行ったら?」
 と言い出したから、あれっと思う。
 俺と同じく黒川だって戸惑ったみたいだ。慌てたように言い返していた。
「そんな、八重ちゃん……意地悪言わないでよ」
「意地悪じゃないよ。せっかく飯塚くんに来てもらったんだから、少しくらい二人でいてもいいんじゃない?」
 牧井は満面の笑みで言うと、俺の方をちらと見た。
 真っ直ぐに目が合って、聞かれた。
「ね、進藤くんもそう思うよね?」
 いきなり話を振られてびっくりしたのも事実だ。でも、今の発言自体には全くもって異論はなかった。ってな訳で、俺も上機嫌で答えておく。
「思う思う。二人っきりで行ってこいよ、レジまで」
「それだと四人で来た意味がないだろ」
 大和は大和でそんな馬鹿みたいなことを言い出したものの、あえて強く反論はせず、目配せ一つで応じておく。それで大和も結局は諦めたようだ。黒川に向き直って、こう言った。
「美月、行こう」
「う、うん……」
 まだ戸惑う様子の黒川。それでも、藍色の浴衣を大和の手に渡した後は、恥ずかしそうに念を押す。
「すぐ戻るから待っててね。先に帰っちゃったりしないでよ?」
「わかってる」
 牧井が頷く。もう一度、俺の方を見て続ける。
「進藤くんも一緒だから大丈夫だよ。どこかその辺で待ってるから、探しに来て」
 隙のない物言いだと、何となく思った。
 黒川はそれで納得したらしい。頷いてから、おずおずと大和を促した。
「じゃあ、行こうか、飯塚くん」
「ああ。……変なこと考えるなよ、颯太」
 どういう意味だか知らないが、大和も俺に釘を刺してきた。
 そして二人は売り場の奥へと歩き出す。並ぶと背の高さがちょうど十五センチくらい、後ろ姿だけでもお似合いだとわかる。一緒に歩く時の距離は程好く置かれていて、俺たちの視線を意識してか手を繋いだりはしていない。
 キャッシャーの位置は天井からぶら下がった看板に描いてある。きっと迷うことはないだろう。
 初々しいカップルの姿が大分離れてから、ぽつりと牧井が言った。
「本当は、隠れてようかと思ったんだけどな」
 一緒に残った俺に、こっそり囁きかけてくる。
「置いて帰ってもいいかなって。だけど釘を刺されちゃったからね」
「あ、俺も思った!」
 即座に同意する俺。って言うかむしろそういう意味での念押しかと思っちゃったよ。やるなって言われると是が非でもやりたくなるのは人の性ってな奴で。levitra
 同意されたことに気をよくしてか、牧井はほっとしたような顔をする。
「それじゃあ、帰ったと言われない程度に移動してようか」
 その言葉にも、俺は即刻同意した。

2013年4月7日星期日

発熱

車を降りると、潮の匂いに包まれた。

目の前に広がるのは、海だ。なだらかな海岸線の向こうでは、街の灯りが暗い空を仄かに染めている。風の冷たさに花が首元のマフラーを巻き直していると、背後でドアのしまる音がしたK-Y
「……行っちゃった」
遠ざかるタクシーのテールランプを見つめながら花が呟くと、海岸と車道を区切るアルミフェンスに寄り掛かっていた佐伯が振り返った。
「行っちゃったって、どうせタクシーで帰れるほどの金、残ってないじゃん」
「誰のせいだと思ってるのよ」
佐伯が取り返した金だけでは足りず、花がさらにそのぶんを支払うことになった。おかげで財布が軽い。
「給料日まで5日もあるのに……」
「花の給料、安いの?」
「働きに見合わないんだよ。手のかかる生徒のおかげで、今だって時間外労働だし」
「わあ、それは大変だね」
まったく悪びれない佐伯に、怒りを通り越して脱力する。
「……楽しそうだね、佐伯くん」
「楽しいよ。花の困ってる顔を見るのは」
ケラケラ笑う佐伯は、本当に楽しそうだ。嫌な笑い方だが、いつものつくられたような笑顔よりはましな気がした。
「佐伯くんて性格悪いね」
「ありがと」
「褒めてない!」
花は寒さに手をこすり合せながら、まわりを見回した。近くに時間をつぶせるような店はなさそうだ。
「ここからどうやって帰るつもり?」
「この先に駅があるよ」
「始発まで待てって?」
「ホテルもあるけど」
佐伯が海岸の反対側を指さす。木々の間に派手な電飾の看板が見えた。
「……始発まで待つ」
花は諦めて、フェンスに寄り掛かった。
しばらくマフラーに顔を埋めて海を眺めていると、頬にあたたかいものが触れた。
「貧しい先生におごってあげる」
佐伯が花に差し出したのは、あたたかいコーヒーの缶だった。少し先に自動販売機が見える。どうやらそこで買ったらしい。
「……お礼は言わないから」
受け取ると、指先から伝わる温もりにほっとした。
「ここにはよく来るの?」
となりで缶コーヒーを飲んでいる佐伯に、花は尋ねた。
「たまにね」
「さっきとは正反対の場所だね」
時間帯のせいか、車道を走る車は少ない。聞こえるのは波の音だけだ。
「人間がいない。それだけで最高の場所でしょ?」
「じゃあクラブはどうなの?」
「あそこも最高だよ」
「人がいるのに?」
人がいない海が最高の場所で、人のたくさんいるクラブも最高――佐伯の矛盾した考え方に、花は内心首を傾げた。
「たとえばさ、花があそこにいる女みたいな服着て、知り合いの前に出たとするよね。その知り合いからは、どんな反応が返ってくると思う?」
唐突な質問に、花は戸惑った。
あそこにいる女のような服――スカートをはくだけでめずらしいと言われるくらいなのに、あんな身体の線が露わになるような服を着たりしたら、驚かれるのは間違いない。なにがあったのかと小一時間、問いつめられそうだ。
「……驚くと思う」
「でも花のことを知らない人間なら、別に驚いたりしないよね? だってなんの先入観もないんだから」
佐伯はそう言って、人の悪い笑みを見せる。
「まあ、似合わなくて笑われることはあるかもしれないけど」
「余計なお世話だよ」
「怒らないでよ。とりあえず、そういうことなの」
佐伯は缶を足元に置くと、フェンスの手すりに上り座った。
「あそこでは誰も『僕』を知らない。誰も『僕らしさ』を押しつけてこないし求めない――それだけで、死ぬほど楽」
車道を走る車のライトが、ときおり佐伯の横顔を照らし出す――その表情がひどく大人びていて、花はどきりとした。
「……でも未成年が行く場所じゃない。危ないわ」
未成年でなくても、あまり勧められない場所だ。酒や煙草ならまだいいが、もっと危険な誘惑もあるだろう。
「危険はどこにいたって転がってるよ。クラブも学校も同じさ」
そう言うと、佐伯はひらりとフェンスから砂浜に飛び降りた。驚いたのは花だ。
「佐伯くん、どこに行くの?」
「ちょっと海に入ってこようかなって」曲美
その言葉にぎょっとした。こんな寒いなか海に入るなど、自殺行為だ。
フェンスを飛び越えるのは無理なので、花は砂浜におりる階段を探し、佐伯のあとを追いかけた。
「待ちなさい、佐伯くん!」
「やだよー」
佐伯は後ろ向きで走りながら、花が追いつきそうなところでスピードを上げる。不毛な追いかけっこを続けているうちに花は砂に足を取られ、前のめりに倒れ込んだ。
「見事な転びっぷり。かかとのある靴で砂浜走ると危ないよ」
佐伯が花の前にしゃがみ、顔を覗き込んでくる。
「……佐伯くんが海に入るとか言うからでしょう」
「冗談に決まってるじゃん」
「冗談なら、もっと笑える冗談を言って」
立ち上がると、髪やコートからパラパラと砂が落ちる。それを見た佐伯が、噴き出した。
「あはは、灰かぶりならぬ砂かぶりだ」
「笑い事じゃないよ」
花は今日何度目になるかわからないため息をついた。
そのとき、佐伯が小さなくしゃみをした。よく見れば、佐伯はTシャツにフードがついたダウンジャケットを羽織っているだけ――寒いはずだ。
「この寒いのにそんな薄着じゃ風邪ひくよ」
「平気だよ。風邪ひくのは体調管理ができない馬鹿だけだ」
花は自分のマフラーをはずし、可愛げのない言葉を吐く佐伯の首に強引に巻きつけた。
「オッサンくさいマフラー」
佐伯は花のマフラーをまじまじと見つめ、呟く。深緑に黒のラインが入ったマフラーは、若い女が持つには確かに地味かもしれない。
「文句言うなら返して」
「あったかいから我慢する」
佐伯はそう言って、花に背を向ける。
花はすっかり寒くなってしまった首元を守るようコートの襟を立て、佐伯のあとについて暗い海岸線をゆっくりと歩いた。

「――37度8分」

体温計を見た葉が、ベッドに横たわっている花を見おろして、そう言った。
「さがってないね。食欲は?」
「ない」
熱のせいか、身体の節々が痛く、頭痛もひどい。薄手のパジャマに男物のフリースのパジャマを重ねて着ているが、寒気は一向におさまらなかった。
「なにか胃に入れてから、薬飲んだ方がいいんだけど……もう少し後にする?」
「うん」
葉が冷却シートのセロハンを剥がし、花の額に貼る。冷たさに一瞬ぞわりと悪寒が走るが、それが過ぎると気持ちいい。
「とりあえず、仕事が休みでよかったわね」
「んー」
葉の言うとおり、今日が土曜日だったのは不幸中の幸いだ。とりあえず病院でもらった薬を飲んで大人しく寝ていれば、月曜にはなんとか仕事に行けるだろう。
「まったく、わたしに黙って朝帰りなんかするから罰があたったのよ」
「朝帰りって言い方やめて」
「事実でしょう? 誰とどこにいたのか気になるなあ」
葉の探るような視線から逃げるように花は布団にもぐりこんだ。
「もう少ししたら夕飯の買い物に行こうと思うんだけど、なにか欲しいものある?」
「……とくにない」
「わかった。ゆっくり休んでね」
葉は花の体調を気遣ってか深く追求することはなく、静かに部屋を出て行った。

今朝、始発でマンションに帰ってから、花は熱を出した。
電車にのっているときから気だるさを感じていたが、そのときはただの睡眠不足だと思っていた。

「馬鹿はわたしか……」

花は寝返りを打った。
朝まで佐伯と一緒にいたが、あまり話はできなかった。話をして佐伯を知るどころか、さらにわからなくなった、というのが正直な感想だ。
とりあえず、クラブ通いと誰もいない夜の海に行く習慣は、止めさせたい。佐伯は最高の場所だと言ったが、どちらもいい影響を及ぼしていると思えない。しかし花が止めろと言ったところで、佐伯は止めないだろう。どうすればいいか解決方法を考えてみるが、堂々巡りだ。

身体は睡眠を欲しがっていたが、なかなか眠ることができなかった。頭痛をやり過ごしながらうつらうつらとしていると、遠くでインターホンの音が聞こえた。
「――花、起きてる?」
しばらくして、部屋のドアがノックされた。sex drops 小情人
「起きてるよー」
「お客さんよ。通していい?」
「お客……?」
花が返事をする前に、待ちきれないといったようにドアが開いた。

「――こんにちは、花先生」

葉の向こうから顔を出したのは、佐伯だった。
「なっ、なんでここに!」
体調が悪いことも忘れ、花は勢いよく飛び起きた。
「借りてたマフラーを返しにきたんです。そうしたら風邪ひいてるって、花先生のお姉さんが……大丈夫ですか?」
心配そうに花を見る佐伯は、今朝別れたときとは違い、オフホワイトのダッフルコートを着ていた。明るい髪色と相まって砂糖菓子のような雰囲気を醸し出している佐伯は、どこをどう見ても礼儀正しく愛らしい少年だ。隣で佐伯をさりげなく観察している葉の機嫌がどんどん上昇しているのが、花の目にもわかった。
「まだ熱が高いのよ。食欲ないって言うから、薬も飲めてなくて」
言葉を失っている花のかわりに、葉が答える。それを聞いた佐伯は葉に向き直り、頭を下げた。
「花先生が風邪をひいたのは僕のせいです。すみません」
佐伯の言葉に驚いたのは葉だけではない、花もだ。
「あなたのせい?」
「昨日の夜、僕が花先生を海に連れて行ったりしたから――」
「ちょ、ちょっと、佐伯くん!」
止めようとしたが、遅かった。葉の口元に意味深な笑みが浮かぶのを見て、花は絶望的な気持ちになる。
「なんだ、そういうことだったのね」
葉は花と佐伯の顔を交互に見て、納得したように頷いた。
「葉、違うの。わたしたち、葉が考えてるような関係じゃないから!」
「いいのよ、言い訳しなくても。姉妹なのに水くさいわね」
花は「そうじゃない!」と叫ぼうとして、咳き込んでしまった。いつの間にかそばにいた佐伯が、花の背中をいたわるように撫でる。その行動が、さらに葉の誤解に拍車をかけていることは間違いなかった。
「わたしは買い物に行ってくるから、佐伯くんはゆっくりしていってね」
葉は佐伯にそう言うと、弾むような足取りで部屋から出て行った。
「……完全に誤解された」
玄関から葉が出ていく音を聞きながら、花はがくりと肩を落とした。
「あたりまえじゃん。あれだけ慌てれば、誰だって怪しむと思うよ」
佐伯は花の背中から手を離すと、持っていた紙袋を机に置いて、コートを脱いだ。淡いピンクのセーターにグレーのジーンズ。今朝一緒にいた佐伯が悪魔なら、今の佐伯は天使だ――外見だけの話だが。
「葉さんだっけ。花とぜんぜん似てないね」
はじめて葉を見た人はみんなそう言う――聞き飽きた台詞だというのに、今日はなぜか花の心に食い込んだ。風邪をひいて、身体だけではなく心まで弱っているせいかもしれない。
「……どうしてここに来たの?」
「誰かさん、今朝調子悪そうだったから、風邪でもひいてるんじゃないかなーって思ってさ。偵察しに来たの」
花はひどく疲れた気分になり、ベッドに横になった。色々言いたいことはあるが、なにぶん体調が悪すぎる。
佐伯は紙袋からガラスのカップを取り出すと、それを持ってベッドの脇に腰をおろした。
「……なにそれ」
「みかんとヨーグルトのゼリー。冷たくて美味しいよ」
乳白色のゼリーの上に透明のクラッシュゼリーがのっている。確かに美味しそうだ。
「……いらない」
食べたら負けだ――花はそう思い、ゼリーから目を背けた。
「薬飲まなきゃダメなんじゃないの?」
「あとで飲むから」
「無理やり口にねじ込まれたいの?」
花は口もとに差し出されたスプーンと佐伯の顔を見比べる――佐伯ならやりかねない。
「はい、あーん」
花は諦めて口を開けた。自分で食べると言う気力も残っていなかった。
ゼリーはするすると喉を通った。冷たい甘さとほのかな酸味が、じんわりと熱のある体に溶けていく。お菓子の味は、つくった人間の性格をあらわさない――花は思ったが、報復が怖いので口には出さなかった。
ゼリーをほぼ食べ終わると、佐伯がサイドテーブルに置いてあった薬と水をとった。粉薬は苦手だが、我慢して飲む。
水の入ったグラスを空にすると、花はぐったりとベッドに沈みこんだ。
「おいしい?」
「……おいしいわけがないでしょう」
「くちなおしする?」
佐伯は少し残していたゼリーをスプーンですくい、花の口に入れた。粉薬の苦さが、ゼリーの甘さで打ち消される。
「……佐伯くん、風邪がうつるといけないから、もう帰って」
「うつらないよ。僕は花と違って馬鹿じゃないから――あ」
佐伯はなにかに気づいたように、身体を屈める。顔が近いと思った瞬間、口元を濡れた感触が這った。舐められた――それを理解するまでに時間がかかったのは、熱で頭がぼんやりしていたせいかもしれない。
「……っなにするの!」
「ゼリーがついてたから」
「教えてくれたら自分でとるよ!」
舐められた部分を拭おうとした手を、とられた。VVK

「――キスしたのは、僕がはじめて?」

からかうでもなく淡々と事実を確認する口調に、花は慄いた。
そうだ――はじめてのキスだった。好きな人とするものだと、この年まで信じて疑っていなかった。
「……違うよ」
「嘘ヘタすぎ、花」
佐伯は低く笑い、花の唇を指の腹で撫でる。
「花のくちびるって、なにもつけてないから美味しいね。昨日の夜、僕にキスしてきた女は口紅がベタベタしてすごく気持ち悪かった」
「佐伯く――」
「くちなおしさせて」
はじめてのときと同じ強引さで、唇が合わさった。
覆いかぶさる佐伯の身体を押し返そうとしたが、手に力が入らない。ぱたりとシーツの上に落ちた手に、佐伯の手が重なる。
熱のせいだ――花はぼんやりと思う。自分が思うように抵抗できないのも、佐伯の冷たい唇や手を心地よく思うのも、すべて熱のせいだと。
ふやけるほど花の唇を啄ばんでから、佐伯は離れた。
閉じていた目をゆっくりと開ける。涙で霞む視界に、赤い唇をぺろりと舐める佐伯が映った。

「……佐伯くんなんか、わたしの風邪がうつって寝込めばいいんだよ」

吐き出した息が熱い。熱が上がったのかもしれない。
「教師の言う言葉とは思えないな」
「教師だなんて思ってないくせに」
佐伯の行為は、花の教師としての矜持を曲げようとするものだ。花を教師という肩書から引きずりおろし、ただの女にするゲーム。だから先生とは呼ばない。それが一番傷つくと、佐伯はわかっているからだ。
「ただいまー」
玄関の方で声がした――葉だ。
佐伯はベッドから立ち上がると、無言で椅子にかけていたダッフルコートを羽織る。
「あら、もう帰るの?」
葉が部屋に入ってきたとき、佐伯は既に優等生の顔に戻っていた。
「はい。突然お邪魔して、すみませんでした」
「夕飯食べてってもらおうと思ったのに。お茶だけでも飲んでいかない?」
葉は残念そうな顔をした。その反応はまるで、はじめて彼氏を連れてきた娘の母親だ。
「ありがとうございます。でも用があるので……これ、僕がつくったゼリーです。花先生はもう食べたので、よかったら葉さんもどうぞ」
「手づくりなの? ありがとうー」
佐伯は葉に紙袋を渡し、花を振り返る。

「――また学校で、花先生」

ドアが閉まり、二人の足音が遠のいていく。
それとともに花の意識も、眠りの淵に誘われるように薄らいでいった。男宝