2013年5月5日星期日

失われた希望

モリガンは、焦っていた。
ヴァンパイア公爵から与えられた策―自我を残した《生きた骸》達に、光の剣を奪わせる。
だが、それはヴァルスの予想外の反撃に因って失敗に終わってしまった。麻黄
―そして、現在。
王女を連れた一行はベオール山を囲む聖なる森を抜け、聖クラウド神殿の目前迄来ていた。
このまま神殿に逃げ込まれれば、最早モリガンの力で王女を捕らえる事は不可能となる。
使命の失敗は、公爵の多大な怒りを買う事になるだろう。
愛する美しき公爵の役に立てないばかりか、役立たずの能無しと見限られるやも知れない。
となれば、モリガンに残された選択肢は唯一つ。
―どんな手を使ってでも、神殿に着く前に王女を捕らえる事。
召還した下級悪魔達を総動員して、モリガンは王女達一行に襲撃を仕掛けた。
だが、彼等は逸早く悪魔の気配に気付いたファルシオンの御陰で襲撃から免れて逃走し。
モリガンは無数の悪魔達を従え、一行を追撃していた。
―その胸に、唯一つの想いを抱いて。

思わず零れる、苦渋の声。
背後から迫るのは、大群となった悪魔達。
恐らくはクレアを神殿に辿り着かせたく無いのだろう、今迄に無い規模の襲撃である。
ファルシオンが察してくれた事で辛うじて囲まれずには済んだが、追撃の手は緩む事が無く
普通の騎馬は素より、一角獣であるファルシオンでさえ振り切れないまま。
既に、聖クラウド神殿は目と鼻の先に迫っていた。
このままでは、神殿に悪魔の大群を引き連れて行く事となってしまう。
幾ら結界に守られた神殿とは言え、この数の悪魔に襲撃されて無傷で防げるとは思えない。
―神殿に着く前に、食い止めなければ。
これ以上、無為な犠牲を増やさない為に……クレアの心を、傷付けない為に。
ヴァルスは羽織っていたマントを外し、クレアの身体に巻き付けて鞍の把手に縛り付けた。
突然のヴァルスの行動に、クレアが驚いた表情を浮かべて顔を向ける。
握っていた手綱を把手を掴むクレアの手共括って、ヴァルスは小さく微笑んだ。
「良いですか、ファルシオンを信じて確り掴まっていて下さい。」
「ヴァルス?」
「姫を頼んだぞ、ファルシオン。」
そう言って首筋を軽く撫でるヴァルスに、ファルシオンが応える様に小さく嘶く。
困惑した眼差しで見つめて来るクレア、その頬にそっと口付けて。
ヴァルスは走るファルシオンの上から一人、飛び降りた。
「ヴァルス!?ヴァルスッ!!」
見る間に遠ざかって行くヴァルスの姿を振り返り、必死で叫ぶクレア。
「お願い、止まって!!ファルシオン!!」
しかし、ファルシオンはクレアの声等全く無視して速度を緩める事無く走り続ける。
本来、ヴァルス以外には鬣に触れる事すら許さないファルシオンである。
幾ら背に乗る事を許したとは言え、ヴァルスの言葉に逆らう様な頼みを聞く筈も無い。
落ちない様に身体を固定された状態では、飛び降りる事もままならず。
ファルシオンの背の上で、クレアは泣きながらヴァルスの名を叫び続けた。
「ヴァルスッ!?」
驚いたのは、仲間の騎士達も同様だった。
思わず馬の踵を返そうとする、ルークブレート。
しかし、それを遮ったのはジーニスの一喝だった。
「駄目だ。儂等は先ず、姫君が無事に神殿へ辿り着く迄護衛せねば。」
「……っ!!」
「姫君を想うヴァルスの行為、無駄にしてはならん。」
上官であり、他ならぬヴァルスの養父でもあるジーニスの言葉に逆らえる筈も無く。
ルークブレートは薄く奥歯を噛み締め、神殿へ顔を向けると馬の鐙を蹴った。

「貴様か、光の剣を操る騎士……。」
忌々し気に舌を打ち、立ち塞がるヴァルスを見据えるモリガン。
―この男さえ、居なければ。
あの非力な人間の王女を捕らえる等と言う使命は、容易く終わる筈だったのだ。
そうすれば、ヴァンパイア公爵にあの様な冷ややかな眼差しを向けられる事も無かった。
全て、目の前の男の所為だと思うと腸が煮え繰り返る様な怒りが沸き上がる。
モリガンの血の様な紅の唇に、艶絶な笑みが浮かんだ。
「唯一人で我等を食い止めようとは、愚かな……その無謀さに免じて、存分に嬲り尽くして
 思い付く限り、最高に無惨な姿で殺してくれる。」
長い爪の生えた白く細い指が、スラリとヴァルスに向けられる。
それを合図に、襲い掛かって来る無数の悪魔達。
ヴァルスは腰の剣を抜き放つと、迫る悪魔の群れを真っ直ぐに睨み付けた。
「……光よ!!」
声と共に、剣の刀身が強い白光を帯びて輝き出す。
その放たれた光だけで、弱い使い魔達は吹き飛ばされ消滅してしまう。
次々と薙ぎ倒されて行く悪魔達、その様子をモリガンは充分に距離を取った場所から無言で
見つめていた。
―どんなに強い力を秘めた剣でも、使い手は所詮只の人間。
この圧倒的な数の差で戦い続ければ、そう時を待たずに疲弊するのは目に見えている。
疲れ果て、剣を振るう力も失せた所で止めを刺せば良い。
その間に王女は神殿に逃げ込んでしまうだろう、だが既にモリガンには如何でも良かった。
―この男が、憎い。
心酔するヴァンパイア公爵の信頼を失い、侮蔑の眼差しを向けられた絶望と屈辱。
それを自分に味わわせた、この男が心底から憎らしい。
最早モリガンには、彼を八つ裂きにする事しか念頭に無かった。
その為に何百、何千の悪魔達を失おうと構わない。
ヴァルスが疲れ果てて膝を付く、その瞬間をモリガンは狂気に満ちた表情で待ち続けた。

漸く神殿に到着したジーニス・アニアス・ルークブレートの三人は、先に神殿へ辿り着いた
ファルシオンの背を見て、目を瞬いた。
「ヴァルスの奴、姫様に何と言う事を……!」
苦々しい呟きを零しながら、アニアスがクレアの身体に括られていた手綱とマントを外して
戒めから解放する。
ジーニスがファルシオンの背からクレアを降ろすと、それを待っていた様にファルシオンは
踵を返し、全速力で神殿の外へ走り去って行った。
「待って!!ファルシオン、私も連れて行って!!」
後を追って駆け出そうとするクレアを、ジーニスが慌てて背後から抱き止める。
しかし、クレアは捕まえる腕を引き剥がそうと必死に抵抗した。
「離してっ!!ヴァルス!!ヴァルスッッ!!!」D9 催情剤
暴れるクレアの身体を必死に捕まえるジーニス、その正面にルークブレートが歩み寄る。

ドスッ!!

鈍い音がすると同時に、力無く崩れ落ちるクレア。
その身体を、ジーニスが確りと抱え上げる。
「ルークブレート!!貴様、姫様を拳で殴る等!!」
「鳩尾に軽く一発入れて気絶させただけだ、そんなに怒るな。」
「魔法で眠らせるとか出来ないのか、この能無しが!!」
「感情の昂ってる相手には、精神魔法は効き難いんだよ。」
目角を立てるアニアスをあしらいながら、ルークブレートがジーニスに顔を向けた。
「ヴァルスが心配です、俺達も早くファルシオンを追いましょう。」
「うむ。アニアス、神殿の者達と共に姫君を休ませて差し上げてくれ。」
「は……はい。」
気を失ったクレアを、駆け付けて来た神殿の者達に託し。
数人の神殿騎士達を共に、再び来た道に馬を駆るジーニスとルークブレート。
その後ろ姿を、見送りながら。
二人がどれ程にヴァルスの身を案じていたかを察したアニアスは一人、唇を噛み締めた。

息が、荒く上がって行く。
幾ら斬れども、薙ぎ払えども、尽きる事無く襲い来る悪魔達の群れ。
戦い始めて、どれ程の時間が経過したのか。
剣を握る手は既に痺れて感覚を失い、振るう腕にも最早殆ど力は入っていない。
―クレアは、無事に神殿へ辿り着いただろうか。
ふと、脳裏を過った考えに気を取られた瞬間。
一匹の悪魔が仕掛けて来た体当たり、その衝撃に握っていた剣が弾き飛ばされる。
「しまっ……!!」
瞬く間に、周りを取り囲む悪魔達。
手を離れて光を失った剣は忽ち砕かれ、無惨な鉄屑と化して地面に散らばった。
悪魔達に手足を拘束され、抵抗する力も尽きたヴァルスの身体が地に押さえ付けられる。
その目の前に、勝ち誇った顔でヴァルスを見下したモリガンが悠々と歩み寄った。
「さぁ……これから、その身に死ぬより辛い苦痛をたっぷりと刻んでやろう。」
狂気に満ちた深紅の瞳が、笑みと共に細められる。
振り上げられる長く伸びた鋭い爪、その光景をヴァルスは何処か他人事の様に眺めていた。

ザンッ……!!

爪が風を切る、鋭い音。
しかし、その残虐な凶器がヴァルスを裂く事は無かった。
「……ファルシオン?」
目の前に散る、真紅の血飛沫。
首筋から吹き出す鮮血が、純白の体毛を見る間に染めて行く。
カラリと乾いた音を立てて地面に落ちる、長い角。
視界を塞いだ身体が崩れ落ち地面に倒れ伏す、その光景を。
ヴァルスの双眸は、瞬き一つせずに映し続けていた。
「ちっ……一角獣か、愚かな真似を。」
忌々し気に呟く、モリガンの声。
ひくり、とヴァルスの喉が鳴った。
虚ろだった瞳が、大きく見開かれる。
「は……。」
発された、息を吐き出す様な微かな声に。
ヴァルスを押さえていた下級悪魔達が、思わずビクリと身を竦ませた。

声に成らない、絶叫。
それは、全てを食らい尽くす凶暴な光の洪水と成って爆発した。
「ギャアァアァァーーーーーッッ!!!」
響き渡る、モリガンの断末魔。
消し飛んで行く、悪魔達。
やがて、溢れた光が完全に消えた時。
押し寄せていた悪魔の大群は、塵一つ残さず消滅していた。
唯一人、生き残ったモリガンが身体を痙攣させながら顔を上げる。
その姿は全身の皮膚が醜く崩れ落ち、最早自力で動く事も出来ない無惨な状態であった。
「馬鹿、な……その力は、剣では、無く……貴様、自身の……?」
溶けた顔から零れ落ちそうな眼球が、肩で息をしているヴァルスの姿を凝視する。
「おのれ……光の、騎士め……貴様、だけは……!」
モリガンは最期の力を振り絞ると、長い爪の生えた手で自らの首を掻き切った。
切り離された首が、大きく裂けた口を開いてヴァルスに襲い掛かる。
「っ……!!」
力を使い果たし蹲っていたヴァルスに、突然の攻撃を避ける術は無く。
首筋に深々と突き刺さる、モリガンの牙。
「これで……貴様は、公爵殿下の操り人形……呪われるが良い……ヒャハハハッ……!!」
狂気じみた笑い声を残し、モリガンの首は砂の様に崩れ落ちた。
ヴァルスの手が、鈍々と首筋に伸びる。
右の首筋に刻まれた牙の痕、その場所が瞬く間に醜く腫れ上がって行く。
―《生きた骸》と化した人々の、それと同じ様に。
力の入らない身体に鞭打って、ヴァルスは立ち上がった。
「ヴァルスッ!!」
神殿の方から響く、名を呼ぶ声と蹄の音。
ルークブレートとジーニス、そして神殿の騎士だろう鎧姿が数人、馬に乗って駆けて来る。
「無事だったか、ヴァ……!」
「来るなっっ!!!」
喉から絞り出す様な、ヴァルスの叫び声に。
駆け寄ろうとしたルークブレートとジーニスは、思わず足を止めた。
「ヴァルス?」
「来るな……俺は……!!」
蒼白な顔で、背後の森へと後ずさるヴァルス。
明らかに普通では無い息子の様子に、眉を顰めるジーニス。
その首筋を押さえる青白い手に、ジーニスは彼の身に起こった事を察して愕然とした。
「お前、まさか……《生きた骸》に……。」
呟かれた言葉に、傍のルークブレートがヴァルスを凝視する。
ヴァルスは力無い表情で、薄く微笑った。
「頼む……このまま、行かせてくれ……俺が、人間で在る内に……。」
背を向けると、木々に凭れる様にして覚束無い足取りで歩き出すヴァルス。
そのまま森の奥深くへ消えて行く後ろ姿を、ルークブレートとジーニスは黙って見送るより
他に無かった。

意識を取り戻したクレアの視界に映ったのは、見慣れない模様の描かれた天蓋。
王宮の自室にあった物にも劣らない豪奢なベッドの上に、クレアは横たわっていた。
「ここは……。」
「御気付きになれましたか、姫様。」
聞き馴染んだ声と共に、傍へと歩み寄る気配に顔を向ける。
「アニアス。」
「この部屋は、王族が聖クラウド神殿を訪れる際に使われる専用の客室だそうです。」
「聖クラウド神殿……。」
そう、確かに自分達はこの神殿を目指していた。
悪魔達に襲われ、追われながらも如何にか無事に辿り着いたのだ。
ここに至る迄の経緯を思い出したクレアは、同時に弾かれた様に身を起こした。
「ヴァルス!!アニアス、ヴァルスは何処!?」
「……………。」
「アニアス……何故、黙っているの?答えて、ヴァルスは……っ!!」
「ヴァルスは、消息不明です。」
躊躇い無く答えを告げた声にアニアスが振り返れば、そこには扉を開けて部屋に入って来る
ルークブレートとジーニスの姿。
「ルークブレートッ!!貴様、姫様の前で!!」
「ここで隠して如何する、直ぐに分かっちまう事だろ。」
「消息不明、って……如何言う事?」挺三天
震える声で問い掛ける、クレア。
ジーニスは彼女の傍に歩み寄ると、肩に手を置いて真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「姫君……ヴァルスの事は、諦めて頂きたい。」
「ジーニス、伯父さま……?」
「我々が駆け付けた時、悪魔の歯牙に掛かったヴァルスは我々を拒絶して姿を消しました。
 恐らくは《生きた骸》と化して人間を襲う前に、自ら命を絶ったでしょう。」
「……嘘。」
「どちらにせよ、我々の知るヴァルスは二度と戻りますまい……ですから、姫君にはさぞや
 辛い事かと思いますが、どうか御諦めを……。」
「嘘……嘘、嘘っ、嘘っっ!!!」
拒絶する様に、悲鳴の様に叫びながら大きく頭を振るクレア。
「ヴァルス、約束したもの!!ずっと、守ってくれるって……側に居てくれるって!!」
そのまま、両手で顔を覆い悲痛な声を上げて泣きじゃくる彼女の姿に。
三人の騎士は、沈痛な面持ちで顔を見合わせた。
無理も無い。
唐突に王と王妃を喪った王女にとって、ヴァルスの存在は唯一の心の支えだったのだ。
それすら奪われたクレアの哀しみと絶望を慰める術等、ある筈も無く。
彼等には、その姿を痛まし気に見つめる事しか出来なかった。

光の無い、漆黒の闇に包まれた部屋。
静寂の中で微かに聞こえるのは、啜り泣く少女の哀し気な声。
騎士達が成す術の無いまま部屋を出て行った後も、クレアは横たわったベッドの枕に伏して
泣き続けていた。
『姫……聖王の血を引きし、人間の姫よ……。』
闇の中に響く、声。
人の物とは思えない程の、澄んだ鈴の音の様な声色にクレアが顔を上げる。
泣き腫らして真っ赤になった目を擦り見上げたそこには、美しい女性が宙に浮いていた。
―輝く黄金色の髪と、人には有り得ない濃い青を宿した瞳。
その容姿は、何処かヴァルスに似ている気がした。
「貴女……は?」
『私は、聖霊族の女王……人間の姫よ、私と共においでなさい。』
「……………。」
『そなたの求める者が、そなたの力を必要としています。時間がありません、さあ……。』
差し伸べられる、白い腕。
クレアは吸い寄せられる様に、その手に自分の手を重ねた。
一瞬、宙に浮く様な奇妙な感覚に襲われて思わず目を閉じる。
―そして。
再び目を開けた時、そこは先刻迄居た暗い部屋とは全く別の場所だった。
辺りを見回せば生い茂る木々と草花、頭上を見れば木の葉の間から覗く星空。
夜である筈なのに、今居る場所は酷く明るい。
まるで空間そのものが光り輝いているかの様に、そこは眩い明るさに包まれていた。
「ここは……。」
『我等、聖霊族が住まう森の聖地です……先ずは、その服を。』
女王がフワリと腕を翳せば、クレアの着ていた服が純白の薄いローブへと形を変える。
『この地に、人間の穢れを入れるのは本意ではありませんが……此度は、止むを得ません。
 さ、おいでなさい。』
付いて来る様に促す女王の後を追って、歩き出すクレア。
程無く視界が開け、目の前に小さな湖が現れる。
その中央……一際強い輝きを放つ光の柱の中、祭壇に横たわる人影があった。
「……ヴァルスッ!!」
『御待ちなさい。』
諌める女王の声に、駆け寄ろうとしたクレアが途惑った表情を浮かべて振り返る。
『あの子は、その身に酷い穢れを受けています……我等の力でも浄化出来ない程の、邪悪な
 力に因る呪わしき穢れを。』
「そんな……。」
『今は聖地の封印に因って辛うじて人の身を保ってはいますが、長くは持たないでしょう。
 程無くその身は《生きた骸》と化し、意志を持たぬ悪魔の傀儡と成り果てる。』
「何か、方法は……ヴァルスを助ける方法は、無いんですか!?」
必死の形相で縋る様な眼差しを向けて来る、クレアに。
女王は目を細め、白い手でクレアの胸元を指差した。
『そなたに宿った、聖王の力……その力ならば、あの子の穢れを浄化出来るでしょう。』
「私の、力……?」
『しかし、あの子は既に全身を穢れに侵された身。その上、一度は自らその身を刃で貫いて
 命を絶とうとした。』
「自分で、命を……如何して!?」
『大切な者を傷付ける事が、耐えられなかったのでしょう……しかし、既に《生きた骸》と
 化しつつあった身は、死ねなかった。今のあの子にそなたの浄化の力を使えば、あの子は
 そのまま、消滅するでしょう。』
「……………。」
『あの子に、生きようとする強い意志を取り戻させる事……出来ますか?人間の姫よ。』
問い掛ける女王の言葉に、クレアが蒼白な顔で唇を噛み締める。
ヴァルスを助けたい……しかし、自分の力がヴァルスを消滅させてしまうかも知れない。
何よりも大切な最愛の人をこの手で消す事になる等、想像するだけでも恐ろしかった。
『もう、時間がありません……このまま時が過ぎれば、あの子は人としての生を失います。
 そなたは何もしないまま、変わり果てて行くあの子を眺めているだけで良いのですか?』
女王の透き通った声が、冷たく響き渡る。
再び、横たわるヴァルスへと顔を向けるクレア。
―助けたい。
このまま失う事等、耐えられる筈が無い。
初めて出会った幼い日から、ヴァルスの存在はクレアの全てだった。
立派な大人達に囲まれ大切に守られ育った彼女にとって、唯一人の同年代の少年。
笑ってくれる事、名前を呼んでくれる事、一緒に居られる事……何もかもが、嬉しくて。
ずっと、一緒に居られると思っていた。
何時かは然るべき相手と結婚する事になるのだと、分かっていてさえも。
ヴァルスと離れるなんて事は、絶対に考えられなかった。
両親も、故郷も、全て喪って尚こうして立って歩いて来られたのは、ヴァルスが居たから。
そう……彼の存在は、こんなにも自分を支えてくれていたのだ。
―ならば。
クレアがゆっくりと、湖に足を踏み入れる。
今度は、女王も止めなかった。
腰迄浸かる透明な水を掻く様にして、ヴァルスに歩み寄るクレア。
その水音に気付いたのか、閉じられていた瞼が開いて蒼石の瞳がクレアに向けられた。
「……クレア。」
「ヴァルス……!」
「来るなっ!!」
振り絞る様な声で発された、鋭い拒絶の言葉に。VIVID XXL 
ビクリと肩を竦ませ、湖の直中に立ち尽くすクレア。
「来るな、クレア……俺はもう、生きた人間じゃ無い……。」
醜く腫れ上がった牙の痕を左手で覆いながら、鈍々と身体を起こすヴァルス。
身に纏う聖霊族の簡素な白い服から覗く、最早完全に血の気が失われた青白い肌。
開けた胸元の左側には、自分の手で貫いたと言う刃の傷痕が生々しく刻まれている。
荒い息を付く痛々しい姿に、クレアは唇を噛み締めて再び歩を進め始めた。
「駄目だっ!!来るな、クレア……俺は、お前を……お前を、手に掛けたく無いっ!!」
「だから……一人で、逝ってしまうの?」
怯えた様に身を引くヴァルス、その首筋に腕を回して冷たい身体を抱き寄せるクレア。
「なら、せめて……最期迄、一緒に居させて。その後、私も貴方を追って行くから。」
「クレアッ……!?」
「貴方の居ない世界で、生きる意味なんて無いもの……だから、一緒に逝くわ。」
「……………。」
「好きよ、ヴァルス……貴方が、好き。」
耳元で囁かれた、甘く優しい声に。
目を見開いたヴァルス、その手がクレアの身体を抱き締める様に回され……しかし、実際に
触れる事無く、押し止められる。
「……………駄目だ。」
「ヴァルス。」
「お前は、生きろ……お前は、ラスティアの王女だ。一介の騎士なんかの為に、死んで良い
 身分じゃ無い。」
「私の命は、私の物よ。如何するかは、私が決めるわ。」
「クレアッ!!」
「如何しても、私に生きろと言うなら……貴方も、生きて。」
「な……。」
「どんな姿になっても良いの、貴方さえ生きて側に居てくれるなら……私は、何があっても
 生きて行ける。」
「クレア……。」
「貴方は、私の全て……だからお願い、生きて!!ヴァルス―!!」
ヴァルスの身体を確りと抱き締めるクレア、その全身が淡く光を纏う。
発される光は瞬く間に輝きを増し、湖一帯を飲み込む光の柱となって天を貫いた―。

気が付けば、そこは光の無い漆黒の闇に包まれた部屋の中だった。
ベッドの上で暫し茫然と座り込んでいたクレアは、ふと我に返って辺りを見回す。
「……ヴァルス?」
身に纏うのは神殿で目覚めた時に着ていた夜着では無く、白地の薄いローブ。
夢では無い―クレアは、確かにその手で触れていた筈の愛しい者の姿を求めて立ち上がる。
しかし、静まり返った部屋の中に自分以外の人の気配は無く。
窓を開けてバルコニーへ出れば、眼下には黒々とした広大な森が広がっていた。
「ヴァルス……。」
バルコニーの手摺に手を掛けたまま、力を失った様に座り込む。
無意識の内に、双眸からボロボロと零れ落ちる涙。
愛しい青年が如何なったのか、最早クレアに知る術は無く。
先刻迄居た筈の森を虚ろに見つめ、彼女はただ声も無く泣き続ける事しか出来なかった福潤宝

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