2013年5月20日星期一

逃亡劇の幕開け

「燕緋(エンヒ)姉、足が病むのか?」姉の髪を梳(くしけず)り、後ろに結い上げながら胡蝶(コチョウ)は言った。
「どうしてそう思うの」
「足、組んでないから」挺三天
 燕緋は部屋にぽつんと置かれていた古びた椅子に座り、肘掛けに両腕を預けていた。一瞬の沈黙の後、ふっと息をつき、滑らかな動きで右足を左膝の上に乗せた。
「そういう気分じゃなかっただけよ」
(強がっちゃって)
 胡蝶は無言で櫛(くし)を滑らせる。
 椅子に座ると足を組むのが燕緋の癖だが、怪我の後遺症で時折、足が痺(しび)れることがある。その状態で足を組むのは辛いらしい。それでも心配をかけまいと気丈に振る舞っていることを、胡蝶は良くわかっていた。
 妹の心中を読み取ったのか、燕緋は「舞台に影響は無いわ」と付け加えた。
「だけど、あまり長時間立ちっ放しも良くないだろ」そう言って、ちりちり鳴る簪(かんざし)を挿(さ)してやった。
 燕緋は合わせ鏡で髪型の仕上がりを入念にチェックした。鏡越しに見つめる目が、からかうようにきらりと光った。
「貴方こそ振り付けを間違えて、私の歌を台無しにしないよう気を付けなさい」
「心配するなって。そんなこと、今までにあったか?」
 二人は顔を見合わせ、くすくす笑った。胡蝶は足の悪い姉の手を取って支え、薄布の垂れ幕を潜(くぐ)り、客席のある部屋へと入って行った。

 満月が辺りを明るく照らす夜、その草臥(くたび)れた酒場はいつになく賑(にぎ)わっていた。ほろ酔い加減で寛(くつろ)いだ様子の客が、あちこちの席で談笑している。店の隅には板を数枚重ね、椅子を四つ並べただけの簡素な舞台があり、そこに楽師が現れると騒々しさが 囁(ささや)きの波へと変わった。隣の客を肘でつつき、目交(めま)ぜを交わし合う。
旅芸人の一団がこの田舎町にやって来て一週間が経とうとしていた。漢帝国中で評判だという彼らの芸を見ようと足を運ぶ客は、日に日に増えるばかりだ。
 楽師は四人いた。二胡を持っているのは団長で、顎鬚(あごひげ)を蓄(たくわ)え、穏やかで人の良さそうな表情をしている。笛吹きは、青年と少年の二人。青年は鋭(するど)い目付きをしていて近寄り難い雰囲気があり、少年は目をきらきらさせて堂々と前を向いている。その隣に座る少女は琵琶を抱え、はにかみがちに俯 (うつむ)いている。
彼らが奏でる音楽も心地よいものだったが、大半の客の目当ては他にある。奥の部屋から衣擦(きぬず)れの音と共に歌い手と舞い手が現れると、男性客は皆そわそわし始めた。
 歌い手の燕緋は緑の艶(つや)を帯びた黒髪で、瞳は光の射す角度により赤紫に見えたり桃色に見えたりした。甘い毒を秘めた妖艶な笑みを浮かべている。そんな彼女に比べると、舞い手の胡蝶は控え目で清らかに見えるのだが、確かな存在感があり、引けを取らない。大人になりかけた少女で、黒に近い藍色の髪に繊細(せんさい)な顔立ち。猫のように丸く切れ長の目。そして体の内から不思議な光を放っているような高潔さがあった。
 客席がしんと静まり返ると、団長は楽師達に小さく頷(うなず)いた。緩(ゆる)やかな楽の音が零(こぼ)れ出す。胡蝶はゆっくりとした動作で舞い出し、燕緋は一つ息を吸い込んだ。高く艶のある歌声が響き渡る。
  長安  一片の月
  万戸(ばんこ)  衣を擣(う)つ声
  秋風  吹いて尽きず
  総(すべ)て是(こ)れ玉関の情
  何(いず)れの日にか胡虜を平らげて
  良人(りょうにん)  遠征を罷(や)めん
 店中の者はたちまち夢見心地になり、恍惚(うっとり)として胡蝶と燕緋を眺めた。温かな毛布に包まれるような、とろけるような感覚。頭の中に霞(かすみ)が立ち込め、日々の煩(わずら)わしい出来事は全て忘却の海へと流れていく。
主旋律を奏でる二胡と、燕緋の微(かす)かに震える高声が絡(から)み合う。胡蝶は広がった袖を翻(ひるがえ)し、くるりと回った。ふんわり靡(なび)く、空色の裾。長い睫毛(まつげ)を伏せて微笑むその表情が、優雅に袖を振る滑らかな仕草が、少々艶(なまめ)かしすぎる燕緋の歌を柔らかく解(ほぐ)していく。
 繰り返し歌い舞い、終わりに差し掛かる手前のことだ。大きな音を立てて、扉が勢いよく開いた。音楽はぴたりと止み、客は夢から覚めたようにはっとした。外に立っていたのは、体格のいい男達だった。髭(ひげ) や髪が伸び放題で、どこかから剥(は)ぎ取ってきたのかちぐはぐな格好をしている。荒々しさから、賊の集団であることは嫌でもわかる。
「おい、金を返してもらおうか」頭目らしき男が、芸人達に向かって言った。脅すように轟(とどろ)く声に、店内はぴりぴりと緊張した。平和な田舎町に盗賊が姿を見せるなど皆無 (かいむ)に等しく、ほとんどの客がどうしてよいかわからず呆気(あっけ)に取られていた。
 団長が「何の事ですかな」とやんわり尋ねる。
「昨日、お前らに払った金に決まってるだろう。そこの女の歌を聞いたら頭がぼうっとしちまって、帰って気づいてみりゃ、財布の中身がすっからかんだ」
「お頭、こいつらの目と髪の色、普通じゃありませんぜ」
 男達は胡蝶の藍色の髪、瞬(またた)く間に色を変える燕緋の瞳を注視し、楽師の方へ視線を移す。団長の暗い銀の髪とボルドーの瞳、笛吹きの青年の灰色がかった茶の髪と金の瞳、そして少年のクリーム色の髪と青紫の瞳という風変わりな色合いで確信する。
「やはり妖力持ちか。妖術を使って、お頭をたぶらかしたな」
 彼らの目が少年に止まった時、星 (シン)はむっとして下唇を噛み、笛を強く握り締めた。その上に小さな手がそっと置かれる。なだめるように手を重ねる琵琶の少女に、星は力を緩(ゆる)め、彼女に囁(ささや)く。「あんな客、昨日来てたかな。玉兎(ユイト)?」
「ううん。あの人達なら目立つもの。見てたら覚えてる」
 玉兎は真っ直ぐに切り揃えられた前髪を左右に振って答えた。髪も瞳も黒い彼女だけは、漢帝国で一般的な外見をしていた。
 盗賊の言うことは、あながち嘘ではない。燕緋の妖力は歌うことで発揮され、聴く者の心を意のままに操ることができる。しかし舞台上では制御しているため、客が財布の紐を弛(ゆる )めるのは惑わされているからではなく、心からの称賛からであった。そうでなければ妖術を使った詐欺だと捕吏(ほり)が黙っていないだろう。最も、白黒つけ難い事ではあるが。
 舌舐(したな)めずりしそうな顔で、男達は威圧的に仁王立ちしている。被害者のふりをして、逆に稼ぎを横取りしようというのが彼らのやり口だった。妖力持ちが多く、世間から見下された存在である遊芸人は、盗賊にとって恰好(かっこう)の餌食(えじき)なのだ。
 「客人、申し訳ないが――」団長は事を荒立てないよう、しかしきっぱりと断ろうとした。だが、燕緋が途中で遮(さえぎ)った。
「そういうことでしたら致しかねますわ。お代の額は、客人にお任せしておりますの。例え、その場の乗りであったにせよ、一度、私に付けて戴いた価値を下げる訳には参りませんもの」
 眉根を寄せて、黙るよう訴えている団長に対し、この人達に気を遣うだけ無駄よ、と燕緋は薄く笑った。
 彼女の悠々(ゆうゆう)たる態度に苛立った頭目は鼻息も荒く、歩み寄ってくる。一歩一歩近付くのを、全員が目を逸(そ)らすことなくじっと見つめていた。客ははらはらする思いだったが、胡蝶と燕緋は立ったまま身じろぎもせず、背後の楽師は立ち上がろうともしない。しかし彼らの指は、ある物を求めて密(ひそ)かに動いていた。団長は二胡の棹裏(さおうら)に、星は帯の下に、玉兎は腰の鎖飾りに。燕緋はまだ口元に笑みを浮かべる程、冷静だ。胡蝶も息を潜(ひそ)めて待っていた――耳元で別の声が合図してくることを。
「まぁまぁ、お客さん。お止めなさったら」
「うるせぇ!黙ってろ」
 グラスを拭きながらのんびりした口調で言う店主に、男は吼えた。
 一瞬の隙に、胡蝶はひらりと燕緋の前に立ち、庇(かば)うように手を伸ばした。「客人。このお方は鳥は鳥でも高貴な緋(あか)き燕にございます。お手を触れずにご鑑賞下さい」
「何だと?」頭目の片眉がぴくりと動いた。胡蝶は射抜くように見上げ、礼儀正しさをかなぐり捨てた。
「汚い手で触んなって言ったんだよ」
 酒場は恐怖に凍り付いた。燕緋は初めて戸惑った顔をし、「胡蝶………」と掠(かす)れた声を出した。頭目の怒りは見る間に膨れ上がり、目の前の生意気な少女に拳(こぶし)を振りかぶった。
 その時、急に男の表情が強張(こわば)り、体が痙攣(けいれん )し出した。帯に隠した飛刀(フェイタオ)を引き抜く所だった胡蝶は、少し目を見開いて動きを止めた。VIVID XXL
「失礼。妹が何か粗相(そそう)でも?血の気の多い奴でして」抑揚のない声がした。
 笛吹きの青年、雄黄(ユウオウ)がいつの間にか横に立っていた。そして、男の肩をそっと押す。空いた手で、柳の葉のように薄く尖った短刀を男の脇腹から引き抜いたのを、胡蝶は見逃さなかった。彼がいつ、飛刀を投げたのか。いや、それ以前に彼が少しでも動いたところを誰が見ていただろう。頭目がどさりと仰向けに倒れた時、すでに雄黄の手に飛刀は無かった。
「お頭!」
「きゃあぁ!」
 客席から悲鳴が上がり、同時に芸人達は舞台を飛び越えた。先端が尖った峨嵋刺(がびし)を両手に持った団長が、器用に回しながら、殴りかかる盗賊の攻撃を封じる。剣を抜いた者は、玉兎の鎖状の鞭であっという間に剣を絡め取られ、矢継ぎ早に繰り出す星の飛刀に痛みと怒りの声を上げた。雄黄は燕緋を抱え上げ、「胡蝶!」と叫ぶ。
「わかってる!」
 騒音に負けないよう叫び返すと、帯の間から煙幕弾を取り出し、客席に投げた。灰色の煙がもくもくと流れ出し、視界が塞がれると客は益々(ますます)混乱に陥(おちい)った。それを合図に、芸人達は窓や扉から散り散りに逃げ出す。
「逃がすな!追え!」手下の数人が慌ただしく外へ飛び出して行った。
 煙が薄くなってきた頃にはもう彼らの姿は無く、床に倒れた頭目の男は手下に助け起こされていた。目を開いたまま、引きつった顔で気絶している。奇妙なことに飛刀が刺さったはずの脇腹は、血が滲む程度の浅い切り傷にしかなっていない。
「だから止めろと言ったんだ」店主は首を横に振り、やれやれと溜め息をついた。
 蝃蝀(テイトウ)芸術団は、異端で有名だった。団員全員が暗器という隠し武器の使い手で、危害を加えようとする者には果敢に立ち向かうのである。
赤い提灯(ちょうちん)が並ぶ通りを避け、芸人達は暗く人気の無い路地に駆けこんだ。風のように速く、軽い身のこなしで追っ手から十分な距離を取る。走りながら、団長が言った。「星(シン)、頼んだぞ」
「任せろ」星は口の端を吊り上げて見せると意識に集中した。「一杯喰わせてやる」
 胡蝶(コチョウ)は軒下の木箱を踏み台にして看板に手を掛け、屋根の上に軽々と登った。柔らかな靴で瓦( かわら)を蹴り、音も無く屋根伝いに走る。
「煙と何とかは高い所が好きと言うがな」不気味な声が皮肉交じりに話し掛けてきた。姿は見えないものの胡蝶にとっては何時(いつ)もの事らしく「ここからなら、盗賊共がどっちに行ったか一目でわかるだろ」と言ってほくそ笑んだ。
 盗賊はというと全く別の方向、村の外れに向かっている。彼らは先を走る胡蝶達を追い掛けているつもりなのだ。それが星の妖術により見せられている幻だとも知らずに。
「あははっ」
 嵌(は)められたと気付いて悪態をつく盗賊達を想像すると可笑(おか)しくて、胡蝶は声を上げて笑った。イヤリングが揺れ、月明かりを受けて淡く輝く。
「そんな事より、またおっかねェ客を挑発しやがって。帰ったら兄貴に大目玉だぞ」
「あたしはお前が教えてくれた通りに動いただけ」しれっと答え胡蝶はふと真顔になる。「あの男、燕緋(エンヒ)姉に手を上げるところだったんだろ?」
「まァな」
「燕緋姉が怪我する位なら、あたしが殴られた方がましだ。それにどっちにしろ、危機察知は雄(ユウ)兄よりあたしの方が上手(うわて)だ」
「お前じゃなくて“俺”だろうが」謎の声はふんと鼻を鳴らし、訂正した。
 入り組んだ路地裏の奥にひっそりと佇(たたず)む宿屋の裏口があり、そこで落ち合うことになっていた。胡蝶は一旦、廂(ひさし)に飛び降り、しなやかに地面に着地した。 蝃蝀(テイトウ)で鍛えられた並外れた運動神経と柔軟な身体があるからこそできる技である。暗い路地を駆け抜けていくと雄黄(ユウオウ)の姿があった。燕緋を担いでいたにも関わらず、真っ先に辿り着いたようだ。苦しそうな息遣いで壁にもたれ掛かっている。燕緋は退屈そうに腕を組み、辺りをきょろきょろしている。
 胡蝶の後ろからは、琵琶を肩に乗せた星と玉兎(ユイト)が息を切らせて駆け込んできた。反対側からは、団長が走ってくる。ゼイゼイ喘(あえ) ぎながら「全員っ………いるな?」と一人一人の顔を確認し、ふーっと長い息をついた。
「また………もめ事、起こしちゃったから……もう、ここには……いられないな」星が途切れ途切れに言い、玉兎の琵琶をそっと下ろした。
「おれ、この町……けっこう気に入ってたのに………。うるさい捕吏(ほり)も、変な客もいなくてさ………」
「昨日までは、ね………」玉兎は苦笑いし、顔に掛かった髪を掻(か)き上げた。
「丸一週間居られたんだから、今回は長いほうよ」皆、息が乱れてまともに話せない中、自分の足で走っていない燕緋はすらすらと言葉を紡ぐ。
 団長は小脇に抱えた愛用の二胡に傷が無いか確かめ、裏に返した。よく見るとホルダーが付いており、彼はそこに先程、活躍した鉄製の武器を固定した。ぱっと見はごく普通の楽器で、暗器を仕込んでいるとはわからないだろう。玉兎は鎖状の鞭を腰に巻き直した。朱塗りで細やかな牡丹の花が彫刻され、これまた装飾品にしか見えない。
「それ、重くないか?」
「慣れれば何ともないわ」玉兎は朗(ほが)らかに答えた。
 胡蝶の言い方に、気遣いだけでなく興味を聞き取った星は「また新しい戦法、習得しようとしてる?」と呆れた。
「これ付けたまま踊れるなら便利だよな。隠す必要が無いし、いざって時にすぐ使える。もうちょっと軽ければなぁ」胡蝶は残念そうにうーんと唸り、星の方を向いて言った。
 その横顔、やや紅潮した頬に黒光りする雫(しずく)があることに、玉兎は気付いた。「胡蝶姉、怪我してる」
 胡蝶はきょとんとし、左の頬に触ってみた。すると大した量ではないが、生温かいものがその手を濡らした。「あ、本当だ」
 酒場での騒ぎで、剣の先か何かが掠(かす)ったのだろう。
「火球(カキュウ)、頼む」
 呟(つぶや)いた途端、頬の赤黒い一滴一滴がビチビチと躍った。掲(かか) げるように差し出した手の平に付いた血も宙に飛び上がり、傷口に吸い込まれていく。痕(あと)も残さず、傷は塞がった。
 胡蝶を見下ろす雄黄の視線がじわじわと厳しくなった。
「お前はもう少し大人しくしていろ。柄の悪い客を追い払うのは俺の役目だ」
「雄兄が遅いからだろ」胡蝶は鼻でせせら笑い、つんとそっぽを向いた。
 次姉の大胆な行動に、星と玉兎は冷や汗を流しつつも尊敬の眼差しを送った。自他共に厳しく強面(こわもて)の雄黄に対して露骨に反抗的な態度を取れるのは、弟妹(ていまい)達の中では胡蝶だけだった。
「それに」と彼女は悪戯っぽく続ける。「あいつらが燕緋姉の方ばっかり見てるもんだから、こっち向かせたくなったんだよ」
 勿論、冗談だ。本気で思っているのなら後が怖い。案の定、燕緋が「私より注目されようだなんて、十年早いわよ」と白く細長い指先で胡蝶の顎(あご)に触れ、視線を合わせた。瞳の色が緋(あか)に変わる。獲物を狩る鷹(たか)の目付き。
(冗談でも言うんじゃなかった)
 内心、後悔しながら胡蝶は満面の笑みを顔に貼り付け、半(なか)ば面倒臭そうに答えた。「ええ。その通りですよ、姉さん」
 二人を睨(にら)み付け、雄黄が何か言おうとしたが、その前に団長が一声放った。「ほらほら。その辺にして部屋に戻るぞ。极光(チーコウ)と薔薇(ショウビ)を待たせちまってるからな」
 団長は戸口に立っていた。すぐに扉が開き「典馭(テンユ)、お疲れだったね」と初老の男が顔を出した。この気前の良い宿屋の主人は裏口からの出入りを許してくれたばかりか、誰にも居所を知られないようにと隠し階段を使わせてくれていた。
「おう。済まねえな」団長は扉を大きく開けた。
「行こう、玉兎」琵琶を担ぎ、星が言った。受け取ろうと手を伸ばした彼女に、おれが持つよ、とにっこりする。
 益々(ますます)険(けわ)しい表情でむっつり黙る雄黄の前を、燕緋が通り過ぎる。 擦(す)れ違い様、横目でじろりと見ながら声を落として言った。
「雄、あの子を盾にさせるようなことはしないで頂戴(ちょうだい)。切り傷なら火球が治せるからまだ良いとして、痣(あざ)なんかできたらどうするの?踊り子は顔も大事なのよ」
「わかっている」
 雄黄はうんざりした。妹に説教をかわされ、仕舞いには姉に叱られるといういつものパターンであった。
 兄と二人だけになると、胡蝶は「ところでさ、あの客…」とやや不安気に訊(き)いた。それは毎度のことなので、雄黄は質問の意味をすぐに悟った。 蝃蝀(テイトウ)で使う飛刀(フェイタオ)の刀身には一筋の血が滲(にじ)む程度の傷を付けるだけで全身に回る毒薬を塗り、焼き入れてある。決まって睡眠薬など害の無いものを使う胡蝶に対し、彼は危険な毒も使うことがあった。
「今日の毒は少々強いが、問題無い。後遺症も出ないだろう」
(良かった)
 胡蝶はほっとして灰色の瞳を和(やわ)らげた。無論、優しくするのが苦手な彼は素知らぬふりをして先に行ってしまったが。
 薄暗い階段は、うんと気を付けても足元がキイキイ軋(きし)んだ。上がりきると引き戸があり、先頭の団長が慎重に開けた。そこは廊下だった。温かなオレンジ色の灯(あかり)が並んでいる。他の泊まり客がいないか確認し、全員を廊下に出した。最後に引き戸を閉めると壁の装飾と一体化し、見分けがつかなくなった。
 手前から二番目の部屋から、微(かす)かな琴の音と歌が聞こえてくる。部屋の戸を二回叩くか叩かないかのうちに音楽は止み、ぱたぱたという小さな足音がして「おかえりなさい!」と少女が開けてくれた。
「おう。ただいま、薔薇。こんな時間まで起きていたのか?」
「はい。极(チー)母さんと歌の練習をしてました」
 薔薇は嬉しそうに目尻を下げ、脇に除(よ)けて団長を中へ入れた。
「薔薇ぃ。ただいま」胡蝶は猫撫(ねこな)で声を出した。両横でお団子にしたピンクブラウンの髪と、ボルドーの垂れ目。末の妹にはいつもメロメロになってしまう。薔薇もとたとた駆け寄って、彼女の腕に抱き付いた。「おかえりなさい。胡蝶姉っ」
 その横を雄黄はさっさと通り抜け、他の三人も苦笑いしながら感動の再会を邪魔しないよう中へ入ることにした。福潤宝
 部屋の真ん中に古筝(こしょう)が置かれ、その前に极光(チーコウ)が座っていた。
「お疲れ様」彼女は立ち上がり、おずおずと微笑む。
 団長が「どうした?浮かない顔だな」と明るく声を掛けると、极光は迷ったものの、結局話し出した。「さっき、花鳥使が来たのよ」
 すぐさま反応したのは燕緋だった。椅子に座ろうと背もたれに手を掛けたまま、ぴくっと肩を震わせて立ち竦(すく)む。
 団長の眉間(みけん)に皺(しわ)が寄った。「ここに泊まっていることがばれたのか?」
「それは無いと思うわ。会ったのは夕方、外に出ていた時でしたから」
「なら安心だ。実はこっちも、居所を知られるとまずい相手ができちまってな」団長は頭を掻(か)いた。
「それで、彼らは何と?」
「また燕緋姉を連れ戻すってか?」胡蝶は舌打ちしそうになった。
 花鳥使とは皇帝が派遣する使いで、国中を巡(めぐ)って美女、特に歌や踊りが上手であれば身分を問わず集めるのが仕事だ。後宮に仕える女性を増やすことで世継ぎを絶やさないようにすることを目的としているらしいが、とうの昔に廃止された職だった―― 十数年前に、現皇帝が取り入れるまでは。
 それ以来、玄武(ゲンブ)帝は政治を顧(かえり)みなくなり、国民の不満は募(つの)るばかりだ。治安も乱れる訳である。
 燕緋もかつて花鳥使の目に止まった、宮廷専属の踊り子だった。足の怪我で踊れなくなったせいで芸団に帰され、今に至(いた)る。その後歌姫に転じ、有名になった彼女を皇帝が連れ戻したがっているに違いない。誰もがそう思ったのだが。
「いいえ」极光は短く否定し、黙り込んでしまった。続きを、胡蝶の腕にしがみついたままの薔薇が言った。「お声がかかったのは胡蝶姉です」
(…………え?)
(…………えぇ?!)
 胡蝶は自分の顔を指差し、暫(しばら)く口をぱくぱくさせてからようやく上擦(うわず)った声を出した。「あたしが?!」
 极光は躊躇(ためら)いがちに頷(うなず)く。「胡蝶ちゃんの評判が皇帝の耳にも入って、とても興味を持たれているそうなの。でも………」
「すげぇじゃん。胡蝶姉」
「もう。喜んでる場合じゃないでしょう」玉兎がたしなめるように星を肘(ひじ)でつついた。
「だって宮廷に仕えれば、ものすごい報酬がもらえるんだぜ。しかもひょっとしたら皇帝の妃候補になれるかも――」
 玉兎が、しっと人差し指を口に当てたので、彼は慌てて言葉を切った。燕緋の前でその類(たぐい)の話はしないことが暗黙の了解なのだ。恐々(こわごわ)、彼女を見ると自分を抱き締めるように腕を組み、遠い目で壁を見つめていた。皇帝に仕えていた頃を思い出しているかのように。
「願ってもない幸運ではあるが………どうする?」燕緋を気にしながら、団長は胡蝶に問う。
「皇帝直々(じきじき)のお召しなら断れないだろう」雄黄が唸った。
(まずい。絶対、まずいって!)
 絶句していると、耳の奥でからからとせせら笑いが聞こえた。
(笑い事じゃないっての!)
 唇を固く結び、心の中で怒鳴り付けると笑い声は治まった。
 彼らが戸惑うことには理由があった。宮中に入る、それは今までのようにあらゆる土地を渡り歩けなくなることを意味していた。胡蝶には一か所に留(とど)まっていられない事情があるのだった。
 薔薇が心配そうに、口を利けずにいる姉を見上げ、遠慮がちに衣装の袖を引っ張った。我に返った胡蝶はそっと妹の頭を撫(な)で、優しく微笑む。心を決め、真っ直ぐに団長の顔を見て言った。
「団長。今まで世話になった。あたしはここを抜けるよ」
コンコン。入り口の戸を叩く音。中年の女主人は宿泊客のリストから顔を上げた。壁の時計は夜の九時を回ったところだ。彼女は気怠(けだ)るそうに机を立ち、掛金を外して扉を細く開けた。
 闇に溶ける色のマントを着た小柄な人物が立っていた。フードを目深(まぶか)に被(かぶ)り、ランプの明かりだけでは男か女か判別できない。
「一晩泊めてほしい」その人は言った。低い、男の声である。「食事は要らない。朝には発つ」
 宿の主人は自分でも何故かはわからないが、男に嫌悪感を抱いた。「悪いけどね、こんな時間に客を泊める気はないよ。他を当たっておくれ」
「部屋に空きは無いのか?」
「無いことはないけど…」彼女は探るように男をじろじろと見て、続けた。「なら、顔を見せてくれたら泊めるよ。ここ数日、捕吏(ほり)がうるさくてね。泊まり客を把握しておくよう言われているんだよ。こっちはごたごたに巻き込まれたくないからね」
 するとフードの下からぎょろりと赤い目玉が覗(のぞ)いた。蛇のような縦長の瞳孔。女主人の心臓は貫かれたように一瞬止まり、すぐに激しく脈打ち出した。
「捕吏が探しているというのは、踊り子の女だろう。俺と何の関係がある?」
 突然、男が凄んだ。その声はぞっとする程に冷たく、背筋が凍り付くようだ。女主人は鳥肌が立つのを感じた。本当にこの男が喋っているのだろか。地の底から湧いてくるような、まるで悪魔に話し掛けられているような気分だった。
 恐怖で口が塞(ふさ)がり、彼女は男を勘定場(フロント)へ通した。客が名を記(しる)す間、震える手で空き部屋の鍵を選んだ。二階の南向きの部屋。
 彼女は恐ろしい瞳に釘付けになり、鍵を受け取ろうと伸びてきた手が、華奢(きゃしゃ)でほんのり桜色をしていたことには全く気が付かなかった。
 客が階段を上がっていく。遠ざかる足音に、女主人は緊張が解け、蒼い顔でへなへなと座り込んでしまった。まだ全身の震えが治まらない。
 勘定台(カウンター)の端にしがみ付いた手が花瓶に触れ、ゴトリと倒れた。花の隙間から水が流れ、勘定台(カウンター)の上を走り、宿泊客のリストに届く。乾ききっていないインクが水と混ざり、男の名はあっという間に読めなくなった。
 部屋の戸に鍵を掛け、客はフードを下ろした。長い藍色の髪が艶(つや)やかに流れ落ちる。ぱっちりした暗い灰色の目をやや伏せ、澄んだ鈴を鳴らす声で言った。「ちょっとやりすぎだったかな、火球(カキュウ)?」
 途端、彼女の周りから黒い煙が吹き出し、血のように赤い目をした竜の姿になった。枝分かれした二本の角と尖った耳。手足は無く、体は煙と一体化している。ニタニタ笑いながら、宿の主人と話した時の不気味な声が言う。
「ああしなきゃ、女だとバレるところだったぞ。胡蝶(コチョウ)」
「今は蘭(ラン)って呼べよ。興行中じゃないんだから」
 彼女は胡蝶とは別人みたいだった。赤いバンダナを頭に巻き、顔周りの髪をすっきりさせている。ターコイズブルーのホルターネックTシャツに、薄茶色のショートパンツ。目鼻立ちが整っていることに変わりはないが化粧気はない。
 蘭は話を戻す。「可哀想だけどあの女主人(ひと)、しばらく震えが止まらないだろうな。お前の目をまともに見ちゃったから」
「悪魔に免疫のある人間なんて、そうそういねェからな」火球は無情にも面白がった。
 悪魔が人間の前に現れることは少なく、存在自体を疑う者もいる程だ。もし望まずにその姿を見てしまうことがあれば彼らの邪気に負け、不安と絶望に駆られたり、体の震えや吐き気を覚えることもある。人間自らが悪魔との契約を望んだ場合でさえ、時が経(た)つにつれ心身を蝕(むしば)まれ、仕舞いには魂を喰われ支配されてしまうと言われている。
 蘭は火球と契約を交わした。敵の多い遊芸人として生き延びる為に、悪意や害意を持って近付く者を瞬時に察する力が欲しかった彼女は、引き換えに全身を駆け廻る血の全てを火球に渡した。お陰で怪我をしても、一滴の血も失いたくない火球が傷を塞いでくれるし、危険が迫れば脈拍の変化で知らせてくれる。
 彼にとって契約は絶対だが、どんな契約にも抜け道はある。そこを掻い潜らせないように常に気を張らなければならないことと、粘っこい物言いに耐(た)えることを除けば、火球は心強いとさえ思えた。
「ところでよゥ、いつまでここにいる気だ?もたもたしてるとすぐ捕まっちまうぜ」
「うん。だけど次の町まで結構、距離がある。何も無い平地が続いているし」
「あそこには匈奴(キョウド)がいるなァ」
(う………)
 蘭は息詰まった。
 糸路(シルクロード)に入り、いくつもの町を経由した。旅費を稼ぐため胡蝶として舞う度に花鳥使に付き纏(まと)われ、宥(なだ)めすかされ、手に負えないとわかると本来は治安維持を役目とするはずの捕吏とも追いかけっこする羽目になった。それでも何とか敦煌(ドゥンファン)までは来た。この先が問題だった。山に囲まれた荒野が続くそこは、匈奴という遊牧騎馬民族の土地。その昔、攻め入られることを恐れた皇帝が城壁を築かせた程、戦闘に長けている。今は漢と友好関係を保ち、君主同士の交流もあるという。つまり彼らは玄武(ゲンブ)帝と接触する機会が多い。あまり関わり合いたくない相手だ。
「匈奴だけじゃねェ。盗賊もいるだろうなァ」
「…………」
 蘭はベッドの端に腰掛けた。そのまま、こてんと横になる。
「だがな」火球はいよいよニタニタ笑いを広げた。「そろそろ腹括(くく)らないとヤバいぜ――ほら、来たぞ」
 蘭は耳を欹(そばだ)てた。
 忍び足で近付く気配。部屋の戸を打ち破り、捕吏が三人転がり込んで来た。剣の柄に手を掛け、ベッドに歩み寄る。盛り上がった毛布をランプの光が照らす。
 追い詰めたぞ、と一気に引き剥(は)がした。だがそこにあったのは、積み重ねた枕の山。捕頭が怒り狂う声が夜の町に谺(こだま)する。
 蘭は、くすりと笑う。「夕方まではあたしがあの部屋に泊まっていたことを、突き止められただけ合格だな」
 彼女は今、襲撃された部屋からそう遠くない宿にいた。起き上がって窓の前に屈(かが)み、カーテンを抓(つま)んで外を覗(のぞ)くと例の部屋には人影がちらついている。何処かに胡蝶が隠れているはずだ、と部屋中の物を引っ繰り返しているような慌ただしい動き方だ。
「か弱い女一人捕まえるためだけに、捕吏まで出してくるなんて。やりたい放題もいいところだよな、皇帝も」吐き捨てるように言い、カーテンをしっかり閉じた。
「誰が、か弱いって?」と火球が混ぜ返す。V26 即効ダイエット
 蘭はそれを無視して考えを巡らせ、すぐに結論を出した。「火球、明日は高昌(トルファン)を目指す。先を急いだ方が良さそうだ」
 火球は、ひゅうっと口笛を吹いた。「匈奴は?」
「明日、考えるさ」
 悩んでいても始まらない。彼女は割り切って明るく答え、ランプを消してベッドに潜り込んだ。
 翌朝早く、蘭は宿を抜け出した。あと一時間もすれば女主人が起き、勘定台(カウンター)にきっちり置かれた一人分の宿泊代金に気付くだろう。直後、昨晩の出来事を思い出し、身震いすることだろう。
 町外れまで来ると、慌涼たる大地が果てしなく広がっていた。緑の目立たぬ地面の茶色と、空の青。
「とは言ったものの、ここからは徒歩じゃ危険だな。隊商(キャラバン)に頼んで連れて行ってもらうか」
 数十頭の駱駝(らくだ)の列を点検し出発しようとしている商人達を見ながら、蘭は言った。
「隊商(キャラバン)ねェ。色々売り歩くよな。絹とか香辛料とか、“人間”とか。指名手配中の踊り子なら高く売れそうだ、って喜んで駱駝に積んでくれると思うぜ」
 流石(さすが)に煩(わずら)わしくなってきた。蘭は口をへの字に曲げ、「安全に次の町まで送ってくれるような信頼できる隊商(キャラバン)を探してくれ。あっ、男ばっかりなのはパスだぞ」と言い、しっしっと手を振って促した。
 主(あるじ)に逆らえない悪魔はぶつぶつ不平を洩(も)らしながら、彼女の先を飛んで行く。
「ヘイヘイ。ったく、注文多いぜ。こんな所に女連れなんて、いると本気で思ってやがンのかよ」
 火球は周りを見た。駱駝の長い列。白いマントに身を包んだ商人達。男ばかりである。だが彼は驚くべき速さで、注文通りの物を捉えた。
「おっ。鴨発見」
「鴨呼ばわりするな」蘭は呆れた。
「いいから、あれ見ろよ」
 火球は鉤爪(かぎづめ)のある手を煙の胴から突き出し、すぐに引っ込めた。彼が指差した先には、車が一台停まっていた。4WD。明るい緑のはずの車体は砂と泥で汚れきっている。その前で男と女が現地の人と話している。いや、その人が一方的に捲(まく)し立てていると言った方が正しいかもしれない。朱(あか)い髪の毛をつんつん立たせた男は、懸命に身振り手振りで何か言っている。
「あ゛~っ!共通語の発達した時代に、何で母国語しか話せないのよぉ、この人は!」金髪の女が頭を抱えた。
 見兼ねた蘭は彼らの元へ向かい「どうしました?」と尋ねた。女は、ぱっと振り返った。蘭は息を呑んだ。透き通った空色の瞳。恐らく西の国の出身だろう。その目が驚きに大きく見開かれ、蘭の姿を映すと安堵(あんど)の光が射した。
「ああ………えっと、この人がわたし達に何か伝えようとしてるんだけど言葉が通じなくて」
 現地の男性は相変わらず、怒っているのかと思う位の勢いで喋っている。慣れ親しんだ漢の言語ではあるが、訛(なまり)が入って聞き取りづらい。
 彼はこう繰り返していた。「案内人(ガイド)も付けずにこの先へ入っちゃいかん。迷うに決まっている。危ないから止めなさい」
(そう言いたくなるのも当然か。人の事は言えないけど)
 と、蘭は思った。二人共、自分と同じ年頃だし、どう見ても外国人旅行者だ。土地に精通しているとは思えない。
 蘭はその人の言葉を二人に伝えた。話が通じたとわかると、彼は釘を刺すような一瞥(いちべつ)を投げ、去って行った。その背中を唖然として見送った男と女は肩の力を抜き、蘭に礼を言った。
「このあたりに住んでる人…じゃないよな。キミも旅行者?」
 髪とお揃(そろ)いの目を蘭のリュックに向け、男が言った。
「まぁね」蘭は彼を仰ぎ見た。男は背が高く、蘭とは頭一つ半位の差がある。
「もしかして一人旅なの?」女は信じられないとばかりに素頓狂(すっとんきょう)な声を出した。
 蘭は平然と肩を竦(すく)めた。「ここからは、そうはいかないけどね。足を探してるところだ」
 じゃあ、と蘭は立ち去ろうとした。すると男が呼び止める。「キミさ、ルートはわかる?高昌(トルファン)までのルート」
「高昌?」蘭は振り返った。そこは彼女のとりあえずの目的地である。
「わかるよ」
「案内できる?」
「出来る、と思う」
 火球が教えてくれるからだけど、と心の中で付け加えた。
「よし。んじゃ、一緒に乗ってけよ。ラクダより速いぜ」と男は親指で車を差した。
「そうね。それがいいわ」ぽんと両手を叩き、女も同意する。
「えっ。でも――」
「いいから、いいから。ねぇ、案内人(ガイド)さん追加するから、席詰めて」女は車内の仲間に聞こえる様に叫び、蘭の荷物を強引に引っ手繰(たく)ってトランクに積んだ。
(案内人(ガイド)って言われる程じゃないんだけど………。その前にこの人達、信用出来るのか?)
 蘭は火球と顔を見合わせた。火球はずっと側にいたが、他の人間には見えないのだ。彼は黒い牙を見せただけで蘭の体に吸い込まれるように消えてしまった。悪意のある人達であれば知らせてくるはずだ。有(あ)り難(がた)くお言葉に甘えることにしよう。
 後部座席に乗り込むと煙草(たばこ)の匂いが鼻を突いた。蘭は煙草が苦手だった。思わず顔をしかめていると、助手席の男と目が合った。彼はすぐに焦げ茶の瞳を逸らし、「名乗ったのか?」とハンドルを握った男に訊いた。
「おっと。いけね」
 朱(あか)髪の男は振り向き、人懐っこい笑顔で言う。「オレはアロド。アロド・ジェイ・スタインカーン」
 左隣に座った女が、空色の片目をつぶって見せた。「フィーリア・ラズウェルよ。リアって呼んで」
「ぼく、ルミエル・エキュレル。言いにくいけど本名だよ」フィーリアの向こう側に座っている少年が、身を乗り出して言った。十一、二歳――蘭の末の妹、薔薇(ショウビ)と同じ位の年だ。
「斎部柾(いんべまさき)」助手席の男はそれだけ言った。
(いんべ?どこかで聞いたような名前………)
 蘭は記憶を辿(たど)った。確かに聞き覚えがあるのに何処で聞いたのかは全く思いだせなかった。
「で、キミは?」とアロドに促され、全員の自己紹介が終わっていることに蘭は気付いた。
「あー………」
 本名を言っていいものか迷った。火球は相変わらず引っ込んだままで、特に警告しない。言っても大丈夫だという合図と受け取り、本名を名乗ることにした。OB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ
「蘭だ。宜しく」

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