2013年5月22日星期三

過去から未来へ

夏休みを終えると、推薦入試が始まる。私には関係ない話だが、合格通知を受けている人を見ると、羨ましいきもちでいっぱいになる。だが、同時に受験だから自分を保てていたのだということも薄々気付いていた。今が高校三年でよかった、と思う。彼が志望校を変えたことも、私の家を出て行ったことも、あっと言う間に広まった。三體牛鞭
 学校も晴実たちと一緒に帰ることになっていた。彼に会う場所はどこにもなかった。そして、十二月の終業式を終えればそれは決定的なものとなる。私と彼の関係はそんなものだった。同居人と同じ学校の生徒ではその距離はあまりに遠かった。
 私は手元にある教科書から視線を窓の外に向ける。もう授業が終わり、多くの生徒が帰宅の途につき、クラス内にいるのは数えるほどだった。
「最近、木原君ってどこか冷たい感じがしない?」
「え? いつもどおり優しいじゃない」
 いつからそんな話をしていたのか、クラスメイトの会話が耳に飛び込んでくる。私はその話をできるだけ聞かないように意識しながら、机の上に置いている教科書に目を向ける。
「そうなんだけど、なんか以前とは違うというかさ」
「受験が大変なんだと思うよ」
「まあ、そうだよね。三年になって急に志望校を変更していたからね」
 否応なしに飛び込んでくる会話をから意識を逸らすために出しっぱなしにしていたシャーペンを指先で転がす。
「そろそろ帰ろうか」
 物音が聞こえ、話し声も止む。
 私がいようといまいと木原君の話をするのは勝手なので、嫌がる権利もない。彼との関係を終わらせようと決めたはずなのに、彼の名前を耳にするたび無関係にしてしまおうと思ってしまう自身が嫌だった。
 私が机に貌を伏せようとして時、明るい声が届く。
「田崎さん、戸締りお願いできる?」
 クラスメイトが鍵の置いてある場所の近くに立っていた。教室内にはいつの間にか二人だけになっていた。
「分かった」
 私は手を振ってくれた彼女に笑顔で応える。彼女が出て行くと、窓の外を眺めることにした。もう彼の話に気付かない振りをする必要もないんだ。そう思うと、心の重荷が取れたようにほっとする。
 肌寒さを感じ、コートを上から羽織る。これからまた一気に気温が下がるんだろう。そのことに気分が重くなりながら、教科書の続きを読もうとしたときだった。教室の扉が開く。扉のところには見慣れた二人の少女がたっていた。
「ごめんね。遅くなっちゃって」
 晴実は軽い足取りで私のところまでやってきた。その後ろを百合がついてくる。二人とも先生に分からないところを聞きたいらしく遅くなると言っていたのだ。
「いいよ。気にしないで」
 私は読んでいたテキストを鞄に片付けようと閉じたとき、晴実の影が私の教科書の裏表紙にかかる。彼女は机の隅に手をかけると、身を乗り出してきた。
「卒業旅行の話だけど、由佳は海か山か遊園地どれがいいか決めた?」
「考えたけど、決められないかな」
 晴実は目を細めると、私の前の席に座る。膝の上に置いた鞄からクリアファイルに入ったものをおおっぴらに取り出す。旅行に関係するものが幾つか入っているのだ。その中で旅行の情報誌を取り出すと、私の机に広げる。先生に見つかったらかなり怒られそうな気がするが、彼女はあまりそうしたことは気にしない。そのとき、百合が遅れて私の席に到着する。彼女は私の隣の野木君の席から椅子だけを引っ張り出すと、私の机の寄せた。
「確かにまずは受験があるからね」
 百合は少し困ったように微笑んだ。
「早めに予約していたほうが安いんだもん。春は日帰りで行って来年の夏休みとかでもいいんだけど。でも、両方でも楽しそうかな」
 晴実らしい言葉に思わず笑みを漏らす。
 受験が終わった後、旅行に行こうと言い出したのは晴実だった。だが、アルバイトなどもしていないことから、そんなにお金はないということで安いプランを練っているみたいだった。交通費を抑えるために一馬さん誘おうという段取りまで決めてしまっていた。女三人に一馬さん一人ではいにくい気がするけど、一馬さんならあまり気にしないような気がしなくもない。それか私のお姉ちゃんに送ってもらってはどうかという話もあった。お姉ちゃんは旅行が好きなので、それが無難な気がしなくもない。姉に相談すると、直前に言ってくれればいいとのことだった。
 百合も晴実も私に対して冷たい態度をとることも叱ることもなかった。木原君の話題も出てこない。私のことを気遣ってくれているのだろう。その優しさを見に沁みながら、もうしわけない気持ちでいっぱいになる。他にも状況は少しずつ変わっていた。私に対する悪意の言葉も聞こえてこなくなっていた。ただ、私の耳に届かなくなったのか、悪口自体がなくなったのかは明らかでない。希実とは話をするが、前ほどは話をしなくなった。木原君ともあまり話をしなくなったのは感じていたが、そのことに触れることはできなかった。ただ、同じクラスの中で話をする子として彼女に接していた。
「由佳の誕生日もあるんだから、盛大にしないとね」
「誕生日は私の家にきたら? 受験の後ならケーキや好きなものを作ってあげるけど」
「じゃあ、チーズケーキがいいな」
「あなたの誕生日じゃないんだから。作るのは由佳の好きなケーキだって」
 そんな漫才みたいな会話を繰り広げる二人に思わず笑みを漏らす。さっきまで凝り固まっていた気持ちがほぐれていくのを感じていた。
 そのとき、百合と晴実が顔を合わせる。晴実は立ち上がると、私を見て目を細める。
「折角待っていてもらって悪いけど、もう少し遅くなりそうなんだ。だから先に帰っていていいよ。ごめんね。今度、何かをおごるから」
 晴実が私の前で両手を合わせる。
 もう時刻は五時近くになっていた。あまり家に帰りたくなかったが、待っておくと言うと二人に余計な気を使わせてしまうことになるかもしれないと思い、素直に帰ることにした。
「分かった。気にしないで」
「考えておいてね。これ貸すから時間のあるときにでもみておいてね」
 苦笑いを浮かべると、それを鞄に入れることにした。
 二人はもう一度私に謝ると、慌てて教室を出て行く。
 誰もいなくなった教室で、ほっと息を吐く。そして、すぐ隣にある窓の鍵を開けると、窓を横に引く。窓から入ってきた冷たい風が私の髪の毛をまくし立てていく。目の前のグラウンドではサッカー部が練習をしている。
 こんな時間もあと高校生活で数えるほどなのだと思うと、今の何も対象物もなく観察することさえ、愛しい時間に思えてくるのが不思議だった。
 木原君のことをすぐ意識してあっという間に二年間が過ぎた。だが、彼と別れてからの時間は同じ時間が流れているとは思えないほど緩やかだった。時間があればすぐに彼のことを考えてしまうことに苦笑いを浮かべながら、窓を絞めようとしたとき、窓に人の姿が映っていた。振り返ると、いつの間にか教室内にいた野木君と目が合う。彼は初めて話をしたときよりも一段と落ち着き、今では同じ歳ということも信じがたいくらいだった。
「まだ残っていたんだ」
「いろいろとね。もう帰るなら、一緒に帰ろうか」
「そうだね」
 彼の言葉にうなずき、窓を閉める。狼一号
 私たちは教室の戸締りをすると、帰ることにした。鍵は先に彼が取ってしまい、私は先に教室を出る。廊下はがらんとして、冷たさだけが漂っている。すぐに野木君が出てきた。彼が鍵を閉めるのを確認し、私たちは教室を離れることにした。
 野木君と最近、よく話をするからか、木原君が私の家を出て行ったのは私達がつきあっているからだという噂もあった。もちろん否定し、すぐに立ち消えになったが、よからぬ噂に彼を巻き込んでしまったことが申し訳なかった。
 廊下や階段の電気も落とされ、頼りになるのは窓から入ってくる頼りない光だけだった。私は足元に気をつけながら、階段をくだろうとする。
「北田たちが心配していたよ」
 私は頷き、一段下る。
「心配させないようにしているのにね」
 彼の言葉にいびつな笑顔を返すことしかできなかった。
 木原君が出て行って以降、私の周囲の人が私を気遣っているのが分かる。晴実が積極的に卒業後の話を持ってくるのは私に気を使っているからなのだろう。彼女たちと一緒にいるのも楽しいはずなのに、彼がいなくなった高校に、大学。その世界に現実味はなかった。
 長い階段をくだり、やっと踊り場に到達する。そのときなんとなしに近くにある窓ガラスを見ると、自分の顔を確認できた。自分の顔をこうやってみたのも久しぶりだった。あまり昔と変わらないが、少しだけ頬の辺りが痩せたかもしれない。
「あれから雅哉とほとんど話をしていないんだよな」
「家を出て行っちゃったし、きっかけもないしね」
 私が話しかければ話をしてくれるかもしれないが、今更合わせる顔もなかった。それに彼が私と話をしたくないと思っている可能性だってある。
「鍵は返しておくから、靴でも履いていろよ」
 私は彼の言葉にうなずき、自分の靴を履きかえる。いつの間にか古くなったローファーを見て、息を吐いた。
「帰ろうか」
 声をかけられ、振り返るといつの間にか野木君が立っていた。足元を見ると、もう既に靴も履き替えている。
 昇降口を出ると、冷たい風が流れてきた。私はマフラーを結び直す。もうすぐクリスマスだ。いい加減木原君のために買ったセーターを捨てないといけない。もう彼にあげることもないんだから。
「旅行先、決まった?」
「うんん。まだ。私に決めろって言われちゃった」
 野木君は私の言葉に笑っていた。いつの間にか彼の髪の毛も風により乱されていた。彼の首には黒のマフラーが巻かれている。
「楽しい旅行になるといいな」
「でも、夏のほうがいい気がするんだよね。晴実は引越しもあるのに」
「春に片付けておきたいことがあるんじゃない」
「旅行を?」
 彼は首を横に振る。彼の言っていることの意味が分からなかった。晴実達から何か聞いているのだろうか。
 部活動のない生徒は帰宅を終えたのか、門のところに向かう人はほとんどいなかった。辺りはもう暗い色が包み込みつつある。その暗闇が人の声だけを飲み込んでしまったように、辺りは静まり返り、私達の足音と、風の流れだけが響いていた。
「君は」
 野木君がそう言って声を出して私を見た。だが、彼の言葉の続きがいくら待っても聞こえてくることはなかった。不思議に思い彼を見ると、彼の視線は私ではなく背後に向いていたのだ。振り返り、彼が言葉を失った理由に気づく。木にまぎれるように私の視界に先に入ってきたのは男の人と、女の人。女の人は後姿しか見えず、誰だかわからない。だが、男の人の姿は今までに何百回も見てきた人だった。彼は困惑した表情で、目に前に立ちすくむ少女を見つめていた。
「私、先輩のことがずっと好きだったんです。だから受験が終わってからでいいからつきあってほしいんです」
 少女の震える声を聞きながらも彼は困った表情を崩さない。彼の表情を見ていたら断るつもりなのだと分かった。もう関係ないはずなのに、彼のそんな表情を見ると安心する。安心している自分の心に罪悪感を覚えていた。
「ごめん。君とは付き合えない」
「大学に行くまででも、一日だけでもいいんです」
「ごめん」
 彼は首を横に振る。
「田崎先輩とつきあっていたという噂は本当なんですか?」
 そのとき、彼の困った顔が一瞬だけゆがむのが分かった。
「そんなことはないよ。俺と彼女は関係ないから」
 彼は軽く頭を下げると、それ以上は彼女の話を聞く気にはならなかったのか踵を返しその場を後にした。木原君は振り返ることもしない。彼の向かう先には裏門がある。そこから帰るのだろう。女の子は木原君の後姿を目で追っているのか、動こうとも、言葉をかけようともしなかった。
 彼が私との関係を否定したことは、彼との時間をすべてなくなったものにされているような気がし、思わず唇を噛んでいた。学校でつきあっていることを隠してほしいとも、彼との関係をゼロにしようとしたのも私なのに、身勝手さが嫌になる。
 肩を軽く叩かれ、顔をあげるとかすむ視界の中に野木君がいた。
「あの子と目が合ったら気まずいだろうから、先に帰ろうか」
 女の子は相変わらずその場に立ち尽くしていた。先ほどまで握られている拳の位置が上がっていることに気付き、胸が痛んだ。ここで私達が聞いていたことを知ったら、彼女はもっと傷つくかもしれない。私達は足早に門をくぐると、言葉を交わさずにしばらく歩いていた。
 五分ほど歩いたとき、野木君が足を止めた。彼につられるように足をとめ、彼を見る。
 彼は息を吐くと、天を仰いでいた。
「あいつはまだ君のことを思っていると思うよ」
「そんなこと。さっきだって無関係だって言っていたし」
「それは君が学校では黙っておいてくれと言ったからだよ。あいつとはつきあいが長いから、見ていたら分かる。家を出て行ってもいつも君のことを気にしていたから」
 その言葉に今まで必死に忘れようとしていた恋心が震えるのが分かった。必死にその言葉を心の中を打ち消そうとする。
「嘘だよ。目を合わせようともしなかったから」
「嘘じゃないって。俺がそういう嘘をついてメリットとかあると思う?」
 突然、私の手を彼が掴んでいた。力強く大きな手だった。そのときの彼の瞳は私の苦手なものだった。
「野村に夏前に言われたんだ。本当に好きなら、力になってやってくれってさ。別の人を好きになれれば、君が笑ってくれるかもしれないからって。今日も気分転換に俺に一緒に帰ってやれっていうくらいだから。 自分のことは気にしないでいいからって」
 今日の百合と晴実のことを思い出し、胸が痛んだ。晴実の気持ちがまだ彼にあることを知っていたからだ。巨根
「正直言うと、俺を見てくれる可能性があるなら、それでもいいって思っていた。でも、ここ何ヶ月君たちを見ていたら分かったよ。俺じゃだめなんだってさ。そんな期待するだけも無駄なんだって」
 私は何をするでもなくただ彼に見入っていた。彼に好きだといわれたのも一度だけで、それ以来それっぽい態度を取ることはなかった。だからもう私のことなんて忘れたのだと思っていた。
「どうしてそんなことを言うの?」
 彼の落ち着いた声は、心の弱い部分を刺激する。つい甘えたくなる。そんな情けない声を出させているのは先ほどまで眠っていた木原君を好きな気持ちだった。
「それは君だって分かっているんじゃない。君が雅哉をずっと目で追っているのと同じ理由だと思うよ」
 彼はそう寂しそうに笑っていた。
 忘れたいのに忘れられないから。どうしてこんなに弱くて情けない私を好きでいてくれるんだろう。私はみんなに甘えて、助けられて迷惑をかけてばかりだったのに。今でも過剰に人に心配をさせているのに。
「私は木原君のことなんてなんとも思ってない」
「じゃあ、試しに俺と付き合う?」
 私は彼を見た。
 彼は真っ直ぐ私を見据えていた。
 その言葉に私の心が震える。だが、その疼きはすぐに収まっていた。これは木原君を好きな気持ちとは違うのだと気づく。
 彼のことは好きだった。木原君よりは話も合うし、傍にいてくれる。私の気持ちを言わないでも分かってくれる。晴実のこともあったが、それだけではない。私の恋心は今でも木原君で満たされ続けていることに気づいてしまったからだ。私の気持ちが届かないことも、このままでは彼に二度と会えなくなることも分かっている。それでも彼が好きだった。
「ごめん」
 熱くなった目頭から涙が落ちないように注意を払い、何とか声を絞り出す。
 彼の手が私の腕を放し、頬に触れた。その手は大きく、私の頬をすっぽりと覆い隠す。
「初めて会ったときさ、君のことなんてバカな子なんだろうって思った」
「コンタクトの話?」
「そ。授業に遅刻してまで、見知らぬ奴のものを必死に探して。その後、遅刻の罰で用具の後片付けをさせられると分かっていたはずなのに」
「困っていたから。コンタクトは高いし。別に体育に遅刻しても怒られるだけですむけど、壊れたら困るから。もっとも探していたときは体育のことさえすっかり忘れていたんだけどね」
 そんなの誰が考えても分かるほど、簡単なことだった。
「君は自分が満足するなら遅刻しようがお構いなしだし。北田のこともまあよくやるなとは思ったよ。他にも君の噂はいろいろ聞いたことある。やっぱり君はバカだし、それにおせっかいだと思うよ」
 そう言われると、恥ずかしい過去の断片を表に出された気がして顔が赤くなるのが分かった。
「でも、そういう君だから好きになったんだと思うよ。だから、そんなに自嘲的にならなくて、自分の素直な気持ちを受け入れて、雅哉に伝えたいいんじゃないかって。不安ならそういえばいいし、行かないでほしいならそういえばいい」
「でも、そんなことを言ったら困らせてしまうから。木原君が悲しい顔をするから」
「好きだから、そんな顔を見たくないんだろう?」
 彼の問いかけに反す言葉もなかった。彼の言葉が嫌なほど当たっていたからだ。
 彼は私に触れていた手を離す。
「俺もその気持ちは分かるよ。雅哉のそんな顔も見たくないけど、君のそんな顔も見たくない。俺は君の笑った顔が好きだったんだから」
 彼はそこまで言うと、ゆっくりと歩き出す。私は彼の姿を追うことにした。彼の足音が夕日にとけていくように静かに響く。その彼の足音に少し遅れ歩いていく。
「それはきっと雅哉も同じで、どんなわがままを言われるよりも堪えたんだろうなって思う。自分のせいで相手にそんな暗い顔をさせていることは分かっていたと思うからさ」
 彼はそこで一度言葉を切る。
「君が雅哉とのことを終わらせたくないなら、言いたいことを今のうちに何でも言ったほうがいいと思うよ。君がどんなにわがままを言っても、困ることはあっても君を嫌うことはないと思うよ。君の正直な気持ちを分からないままでいるほうが辛いんじゃないかと思うから」
 その言葉に視界がにじむ。
 ずっと前、彼は木原君のことを頼むと言っていた。そして、私に自信を持てとも言っていた。私は彼との約束を何一つ守れなかったのに、こうして優しい言葉をかけてくれている。
「さっき、私に自分の気持ちを自覚させるためにわざとそういうことを言ったの?」
 私の言葉に彼は「さあな」というと曖昧な笑みを浮かべていた。
 彼は遠回りなのに私の家の前まで送ってくれた。家の前で彼を見送り、家に入る。家の中には誰もいなかった。ひっそりと静まり返った階段をのぼり、二階に行く。だが、いつもなら目をあわせようとしない隣の部屋の扉を確認し、ノブにかけていた手を離す。
 半年振りに冷たいノブに手をかけると、その冷たさが手の熱を奪っていく。それでも気持ちを引き締め、木原君の部屋に入る。殺風景な部屋が目に飛び込んできた。木原君の使っていた頃の部屋を思い出し、目頭が熱くなる。
 私が木原君に自分の気持ちや考えていることを素直に伝えられないことが全ての要因だった。もっと勇気を出して彼に気持ちを伝えれていればこんな結果にはならなかったかもしれない。だが、いまさらという気持ちがぬぐえない。彼の気持ちの所在も分からないのに。
 私は床に座る。そして、木原君と一緒に勉強をしたテーブルに触れる。
「木原君」
 私は今はもう使われていない机に顔を伏せていた。
 暗闇の中に電話の音が響く。顔をあげると、あたりは真っ暗になっていた。いつの間にか眠ってしまっていようだ。私は音を頼りに鞄から携帯を取り出すと、光に照らされた名前を確認する。彼の名前をこうしてみるのも久しぶりだった。
「急だけど、明日ちょっとだけ出かけない?」
 彼は単刀直入に話を切り出してきた。
「え? でも」
「たまには俺のわがままにつきあって」
 私に有無を言わせないタイミングでそう切り出してきた。彼にそういわれると断りにくかった。
 彼は明日の八時に駅でというと電話を切ってしまった。朝の八時というとかなりの早い時間だった。買い物に行くにいしてもお店なども開いていない。何をするんだろうと思ったが、明日になれば分かると思い、深くは考えなかった。
翌朝、彼は駅に行くと、黒のブルゾンにジーンズという格好で迎えてくれた。一馬さんに会うのは久しぶりだった。彼はそんな時間の空白を感じさせないほど、慣れ親しんだ笑顔を浮かべていた。
「どこに行くんですか?」
 私が切符を買おうとすると、目の前に切符を差し出す。そこに記されていたのは私の祖母の住んでいた場所の近くの駅名だった。
 嫌な予感を抱えながら彼に問いかける。
「何しに行くんですか?」
「昔話をしに行くだけだよ」
「話なら、私の家でしましょうよ」
 彼は自信に満ちた笑みで私の顔を覗き込む。
「由佳ちゃんって、俺の母親にあれこれ喋ったらしいね」
 その言葉に返す言葉もない。戸惑いながら彼を見ても、まったく動じた様子もない。彼は是が非にでも私を電車に乗せようとしているんだろう。勃動力三體牛鞭
「分かりました」
 私たちは改札口をくぐると、その足でちょうど入ってきた電車に乗る。電車の中は早い時間であるからか、席もまばらにしか埋まっておらず閑散としていた。そのことにほっとし、席を決めようとしていたとき、電車の扉が蒸気音と共にしまる。
「さっきの続きだけどさ。感謝しているから。本当に」
「そんなこと早く言ってくださいよ」
 絶対彼はわざとこのタイミングで間をとったはずだ。
 私は頬を膨らませ、彼を睨んだ。
「だからせめてもの恩返しがしたかったんだ」
 彼はそう笑顔で返す。彼にそんな笑顔を浮かべられるとやっぱり弱い。
 彼は私と木原君がどうなうことを望んでいるのだろうか。
 電車が揺れ、動き出す。もう今更帰りたいとも言い出せずに、半ば諦めて一番手前の四人で座ることのできるタイプの席に座ることにした。一馬さんは私の斜め向い側に腰を下ろす。私は流れる景色を見ながら口を開く。
「一馬さんは私と木原君がよりを戻して欲しいとでも思っていますか?」
「まあね。あいつも君のことも好きだから」
「私が他の人を好きになったら怒りますか?」
 そんな気になったことはない。昨日のことがあったからか聞いてみたくなった。
 彼はゆっくりと首を横に振る。
「別に怒らないよ。それで由佳ちゃんが幸せならね」
 一馬さんはそう言うと、笑っていた。彼もまたわかっているのだ。私の幸せに彼が欠かせなくなっていることを。
 私は熱くなる目頭を押さえることしかできなかった。
 駅を出ると、人気がなく閑散としていた。ここは昔とほとんど変わらない。
 私に声をかけ、歩き出した一馬さんの後を追う。だが、すぐに彼の歩いた道筋は、木原君と一緒に来たときに歩いたものだと気づいた。電車の中でも感じていた嫌な予感が形になるのを実感しながら、彼の後をついていくことにした。彼の足はある家の前で止まった。それは私の予感を具体化したものだった。
「木原君の両親に会えとか言わないですよね?」
 彼はキーホルダーのついていない銀色の私に鍵を見せた。
「今日は出かけてもらっているから大丈夫だよ」
 私は胸を撫で下ろす。
 一馬さんは鍵を開け、木原君の家の中に入る。私もその後に続いた。家の中もあれから一年以上経つのが分からないほかわらなかった。彼はリビングには入らずに、階段をあがっていく。私もその後をついていく。階段をあがり終えたところで、彼に問いかける。
「どこに行くんですか?」
「雅哉の部屋」
「人の部屋に勝手に入っていいの?」
「親の許可を得ているから大丈夫」
 一馬さんはそう言うと、三番目の部屋を開けた。そこは部屋というよりは荷物置き場といったほうが正しいかもしれない。学習机や本棚、ベッドなどが置いてあり、今でも使える状態にはなっているが、その脇にはダンボールなどが積み重ねてあったのだ。中には送付状がついたままになっているものもあった。木原君の部屋に入ったのは初めてだった。ここで彼は幼い日々を過ごしていたんだと思うと、いいようのない郷愁に似た気持ちが芽生えてきた。
「昨日、敦から電話がかかってきてさ。いろいろ頼まれたんだ」
「野木君から? でも、面識があったんですか?」
「何度か会ったことあるよ。百合に連れられてね。百合っていうよりは晴実ちゃんのほうが正しいような気がするけど」
 私が理由を聞く前に、彼は箱からまるめられた画用紙を取り出した。その端は少しよれており、新しいものではないことが分かった。それを広げると、私に渡す。それは線と点で描かれた女の子と男の子の絵だった。髪の毛の長さや背格好から子供ではないかと直感的に思っていたのだ。
「これって何?」
「母の日に雅哉が描いた絵」
「母の日?」
 母の日といえば、お母さんの絵を画用紙に描いた記憶がある。だが、子どもの絵だからか、女の子らしい子は母親には見えなかった。むしろ、男の子と同じ背丈のようにみえる。
「お母さんには見えないですね。奈々さんを描いたんですか?」
「それは君と雅哉だよ」
 意外な答えに一馬さんを見ていた。彼は笑顔を浮かべていた。
「あいつの母親が出て行って、すぐに幼稚園の母の日があったんだ。幼稚園の先生は父親の絵を描けばいいと言おうとしたんだけど、その前にあいつが描いたのがこの絵。自分にはお母さんがいないから、お母さんができるようにお願いしたときの絵を描いたって言っていたよ」
 私の脳裏に恥ずかしい記憶が蘇る。
「適当なことを言ってしまって悪かったと思っています」
 子供の絵空事ではすまずに、形としてここに残ってしまっていたことに申し訳ない気持ちでいっぱいになってくる。私は本当にいろいろかき乱してばかりだった。
「実際そんなわけじゃないみたいだよ」
 私は意味が分からずに一馬さんを見た。
「雅哉は知らないだろうけど、この絵の話を聞いて、あいつの今のお母さんがお父さんとの再婚を決めたって聞いたことあるから」
「そうなの?」
「らしいよ。あいつが自分のお母さんがいないから、と言ったのがショックだったみたいだからさ。それだけではないと思うけどさ、いいきっかけにはなったんじゃないかな」
「それって私のせいってことなんじゃ」
 一馬さんは私の頭を軽く叩く。
「そうやってすぐ君は気にする。今、奈々さんが幸せならそれでよかったんだよ」
 その言葉をあの夏の日に木原君のお母さんから聞いたことがあった。その言葉に助けられた気がして、ほっと息を吐く。
 一馬さんは腰を落とすと、私と目線を合わせてくれた。彼の優しい瞳が私の姿を捉えている。
「雅哉は君に会って変わったよ。母親のことに限らず泣き虫だったけど、あいつはあまり泣かなくなった。さすがに君との約束は果たせないと小学校に入るくらいには気づいたみたいだけど、、君には会いたいと思っていたと思うよ」
「でも、あんないい加減なことを言ったのに」
「あのときの君は心からそう望んだのだろう?」
 私は頷く。そのときは素直な本心だった。
「建前じゃない本心ってすぐに分かるから。その気持ちが嬉しかったんだと思うよ。でも、君に再会できて、あのときのことを話すかと思ったらなかなか打ち明けられないし。だから、奈々さんに頼んで、アルバムを君の家におくってもらったんだ」
「あれって一馬さんがそうさせたの?」
 一馬さんは頷いた。
「気づくかもしれないかって思ってね。由佳ちゃんが雅哉以上に鈍いことに驚いたけど」
「ごめんなさい」
「君らしくていいと思うよ」
 私らしくと言われてもものすごく情けない気持ちでいっぱいになってきてしまった。
 私は彼の台詞からひっかかる部分を思い出す。
「木原君のお母さんも知っているの?」
「お母さんどころか、お父さんもね。なにせ幼稚園のときだからね。それが田崎さんの娘ということは知らなかったみたいだけど」
 一馬さんは話を続ける。
「雅哉は君が自分のことをなんとも思っていないって思っているみたいだけど、そういうわけではないよね。君も雅哉も不器用だから、言いたいことを言えずにすれ違ったんだろうなってずっと思っていたんだ。君がこのままでいいと思っているなら、深くは追求しないけど。君が知りたいことで、俺が知っていることなら教えるよ。他の人には言わないから」
 彼にそう言われると意地を張ろうとする気持ちも起きてこない。いつも優しく接してくれた彼に私の中に疑惑が生まれた二つのことを素直に聞いてみたくなった。
「木原君は昔からチョコレートとか断っていたの?」
「明らかな義理以外は断っていたと思うよ。最近は義理でも受け取らないようにしていたみたいだけど」
「今年のバレンタインにチョコを受け取っていたの。他の子のチョコは受け取らなかったのに一つだけ。どうしても義理には思えなくて」
「篠崎って子からもらったってやつ?」紅蜘蛛
 彼が知っていることに戸惑いながらもうなずいていた。
「それは君にも責任があるんだけどさ」

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