2013年5月31日星期五

知らない世界で俺は

俺が鏡野家にお世話になって早3年、とてもいい暮らしをさせてもらっている。
 
そのきっかけになったのはひとつの運命だったのかもしれない。福源春
 
まだ中学3年生だった俺はある出来事で実家を飛び出した。
 
富裕層と呼ばれる、裕福な家庭に生まれ、何も不自由などはなかった。
 
恵まれた環境に生まれ育つという事が特別な事だと、行く当てもなく、ひとり街をふらついて迷い込んだ“その場所”で俺はようやく“現実”を知ったんだ。
 
「ちっ、金持ちふぜいが調子にのってるんじゃねぇよ。おらっ、死ねよ、おっさん!」
 
繁華街のビルの裏側、人気のない場所で、数人の男に囲まれて殴られ、蹴られている男を見かけたのは偶然だった。
 
身なりの良さから、襲われているのはそれなりの地位にあるものだと一目で分かる。
 
それがまずかったのだ、男は派手すぎるゆえに不逞の輩に取り囲まれ連れ込まれた。
 
今の時代、治安の悪い場所では身なりの良さは“エサ”の目印だ。
 
「き、貴様ら、この私に何を……ぐはっ」
 
「おっさんは黙って死んでろ。はっ、こりゃ、すげぇ。見ろ、こいつの財布の中身。こんなに金を持つエサは久しぶりだぜ」
 
世界不況の中で急激な失業率の悪化、格差社会の拡大が生んだもの、貧富の差が招いた悲劇。
 
いや、それは別に日本が特別な物ではなかった。
 
世界ではそんな現実は昔も今も普通に存在していた。
 
ただ発展途上の国のように、経済豊かな日本でも格差が大きく広がってしまったというだけ。
 
人は生まれた時から歩む人生が決まる、それが今の世界だった。
 
「や、やめてくれ、金ならやる。だから……これ以上は……頼むっ」
 
「うっせぇよ。てめぇら金持ちの言葉なんか聞きたくもない。都合のいい事ばかり言って、反吐が出るんだよ」
 
どの世界の都市にも底辺は存在する。
 
貧民は社会の枠組みから押し出されて、行き場所を失っていく。
 
やがて街のはずれにはそれらの人間が集まる居住区ができ、そこで暮らす極貧層の人間は社会から見放されて人扱いされていない。
 
「……お前ら金持ちは俺達を人間扱いしない。生まれがそんなにすごいのかっての」
 
そう言葉を吐き捨てる彼ら、薄汚れた顔に笑みが浮かんでいる。
 
欲しいモノは奪う、そうしなければ彼らは生きてはいけない。
 
生きるために必死になる、自分に明日があるかどうかは分からないから。
 
この悪循環は止められない、そこから抜け出す事は難しい。
 
無秩序な世界、俺は生まれて初めてその場に足を踏み入れ、その現実を知った。
 
「……それ以上はやめろ」
 
俺は倒れこむ男を見捨てられずに男達に声をかける。
 
足蹴にしたままで彼らの視線がこちらに向いた。
 
「た、助けてくれ……がっ!?」
 
「おっさんは黙っとけ。お前、この辺の人間じゃないな?子供はこんな場所を歩くもんじゃねぇ。他人なんて気にして余計な事をしない方がいい。この世界で優しさは自分を殺すだけなんだよ」
 
「人間なんて日常的にその辺で死んでるぜ?くだらない正義感をふりかざすな」
 
俺を嘲笑う男達、そうなのかもしれない。
 
俺の知らない現実、この世界では普通の事なのかもしれない。
 
そして、社会は見てみぬフリをしている現実がコレなんだろう。
 
「だとしても、目の前で死にかけている人間を放っておきたくはない」
 
「はっ、これだけ忠告してやってるのにお前はバカか。まぁ、てめぇも痛い目を見れば現実ってものが分かるだろ?」
 
数人の男が俺を襲いにかかってくる。
 
俺はまずはひとりをぶちのめすと、次は刃物を持つ相手を蹴り倒す。
 
「……くっ、やるじゃねぇか!?」
 
自分の身は自分で守れるように、と護身術は子供の頃から叩き込まれている。
 
「兄貴、このガキはもしかして……」
 
「あぁ、どうやら俺達はついてるぜ。どこの金持ち育ちか知らないが、親に身代金ぐらい払わせてやればいい金になる。こいつを捕まえろ!」勃動力三体牛鞭
 
相手は4人、下手に突っ込めば不利だ。
 
1対1がベストだが、囲まれたらこちらの状況も悪くなる。
 
俺は危機感を抱きつつも相手と睨みあう。
 
「――子供相手にそんなものをふりかざすとは大人のすることじゃないな?」
 
「……ぐがぁ!?今度は何だっ?」
 
だけど、俺を襲うはずの男達は突然現れたひとりの男に倒された。
 
夜の街に響く男の絶叫、ひとり、またひとりと彼に叩きのめされていく。
 
この人は強い……並大抵の鍛え方はしていなさそう、プロの護身術を身に着けていた。
 
「相手の力量も分からない身の程知らず、じゃないだろう。ここは引きたまえ」
 
「てめぇ……。ちっ……金は手に入れたんだ、引き上げるぞ」
 
男達は身の危険を悟ったのか、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
 
俺を助けた男は口髭のよく似合うおじさんだった。
 
見た目的には30代後半と言った感じ……この人は一体誰なんだ?
 
「キミは大丈夫か?悪漢に立ち向かう勇気は認めるが、危ない事はしない方がいい。キミの人生はまだ長いのだから。しかし、キミの行動がなければ彼を助ける事もできなかった。感謝するよ……立てますか、金崎さん」
 
「あ、あぁ……すまない。少年も助かったよ、ありがとう」
 
倒れていた男の人は怪我をしているようだが、そうひどくはなさそうだ。
 
「待ち合わせ場所にいなかったので、探しましたよ」
 
「私もいきなり襲われるのは予想していなかった。この辺りはまだ治安がいいほうだと思っていたのだがな。腐った連中はゴミのようにわいてくる。さっさと始末せねばならないな、クズどもめ」
 
「それは言っても仕方ない。今の世の中、確実に安心できる場所などありません。とりあえず、商談はあとにして病院で治療をした方がいいでしょう。安城、彼を頼むぞ」
 
「分かりました。金崎様、立てますか?」
 
彼の後ろにいた黒服の男が肩を貸して、男は立ち上がる。
 
こちらに頭を下げて、彼らはその場から去っていった。
 
「さて、キミは見た所、こちら側の人間のようだ?どうしてこんな場所に?」
 
俺はおじさんが差し出してきたハンカチで顔についた泥を拭う。
 
この場所は危ないと繁華街の方に戻りながら俺は言う。
 
「……初めて、来たんです。こんな世界があるのは知らなかった。いいえ、知識として知ってはいても現実を知らなさ過ぎた。これが本当に今の日本なんですか?」
 
衝撃的だった、貧困層の人間が犯罪を日常的に行っているのは聞いていた。
 
だが、これほどひどい世界だとは思っていなかったのだ。
 
「残念ながら、これは現実だよ。ここでは日常的に人は死んでいる。飢えや暴力、薬物など無秩序が撒き散らす悲しみがすぐ身近にある。キミは恵まれた環境にいた、それだけだ。残念ながらこれもひとつの“日本”の姿なのさ」
 
「報道ではもっとマシな感じでしたけどね。こんなにひどいとは……」
 
「しょせん、真実など実際に目にしなければ分からない。特に報道は都合よく作られたものだ。彼らとは住んでいる世界が違う。同じ人間でありながら、人並みの生活をできない人もいるというわけだ」
 
その通りだった、俺は何も知らないただの子供。
 
飢えで道端に倒れこむ人、汚れた服を来てこちらを見上げる意思のない瞳、古びた建物からは物珍しそうな視線もいくつか向けられていた。
 
現実世界から隔離された別の世界、日本には各地にこのような場所が数多もあると言う。
 
彼が案内したのは車道に止まる高級車だった。
 
「今日はもう遅い、キミを家まで送り届けよう」
 
「い、いえ、俺は……」
 
家出してきたばかりの人間、それを言えずにいると彼は事情を理解したのか。
 
「事情がありそうかな?まぁ、とりあえず中へ入ってくれ。僕の商談相手を守ってくれた、その礼くらいはしたいさ。どういう事情があれ、ここはキミが来る場所ではない」
 
俺は無言で頷くと、やがて、彼が運転する車が走り出す。
 
最後に窓から廃墟の街を見つめた。
 
ひとつ道を挟んだ先には俺のよく知る普通の街並み、賑わう人々の光景。
 
先ほどの世界は夢であったかのように思えた……。
 
「俺は……今まで幸せだったんですね。その幸せが当たり前だと思っていました。俺はあそこが嫌だった。金と権力、汚れた世界が嫌で逃げたつもりだった。違う、こんなのは……俺は……俺はどこにいけばいいんだろう」
 
過ぎ去っていく窓からの光景を眺めながら俺は溜息をつく。
 
分からない、俺には何も分からなくなってしまった。
 
俺は自分の立場やおかれている関係、それらが嫌になって家を飛び出した。
 
しかし、現実が甘くないと言う事を身に染みて実感させられた。
 
ただの子供でしかない事を嫌と言うほど思い知らされる。
 
そんな俺におじさんは何かを思い出したかのように、蒼蝿水
 
「キミの事をどこかで見かけたと思っていたんだが、もしや羽瀬家の息子さんかい?」
 
「え、えぇ。そうです、羽瀬有翔と言います。その、今は家を出ていますが」
 
「なるほど、家出中というわけか。キミのような年頃はいろいろと考えてしまう。僕もそうだった。人生についてよく悩んだものさ。そういえば自己紹介をしていなかった。僕は鏡野祥吾、キミには以前、娘が世話になったと聞いているよ」
 
鏡野、その名字に俺は驚きを隠せずにいた。
 
この間のパーティーで怪我をして助けた女の子の父親か。
 
鏡野家といえば、日本でも指折りの大資産家、経済の中心に位置する企業を束ねる。
 
羽瀬家など格が違いすぎる、俺にとっても雲の上のような存在だ。
 
「僕は婿養子なんだ。生まれは貧困層とまではいかないものの、普通の庶民さ。とはいえ、あの頃はまだ今ほど格差もひどくなかったが。両親は“不慮の事故”で死に、独りになった僕は両親の友人であった先代の鏡野の当主に拾われて、今では鏡野家を継いで今の地位がある……。昔はよくいろんな事に悩んでいたよ」
 
「そうなんですか?」
 
「あの頃は自分の立場や地位をどうすれば手に入れられるのか、そんな事ばかり考えていた。キミの言う通り、富裕層の世界は権力と金がうずまくお世辞にも綺麗な世界とは言えない。その中心にいる僕が言える事ではないけどね」
 
苦笑する彼だが、真面目な声で言うんだ。
 
「悩みがあるなら大いに悩むといい。答えを自分で見つけて納得するまで。それはキミを大きく成長させる物になる」
 
俺はどうなんだろう、自分が何に悩んでいるのか、その答えはどこにあるのか……。
 
「人生は思っている以上に長いのさ。常に人は悩み続ける。答えを探して、己を納得させるまで。色々と考えることはいいことだよ。その代わり、ちゃんと最後まで答えに辿り着かなければ意味はない」
 
考えて、考えて、それで何とか答えを見つけ出す事は俺にとって必要なんだろう。
 
「有翔君。よければ僕の家に来ないかい?すぐに実家に戻りたくないのならば、行く当てが必要になる。キミは悩んでいる、その答えを出すまで家にいるといい」
 
結局、俺は祥吾さんの言葉に頷いて彼を頼る事になった。
 
 
 
祥吾さんは俺にとって本当に頭のあがらない存在だった。
 
あれから俺は彼の屋敷でお世話になっている。
 
実家の問題もあったが、それは祥吾さんが色々と父に話をつけてくれたようだ。
 
父からは一言だけ「鏡野家に迷惑はかけるな」と言われた。
 
高校にも通わせてもらい、将来を見据える事もできた。
 
本当にここまでしてもらうと感謝以外の言葉が見つからない。
 
そして、それは俺にとってもうひとつの出会い……。
 
「……有翔、今日のお出かけに付き合ってよね?いいでしょう?」
 
「面倒だって断っていいか?」
 
「断れるものならどうぞ?さぁ、断りなさい。その後、どうなるかは貴方の態度次第よ」
 
「めっちゃ脅して言う台詞じゃないな。付き合えばいいんだろう、はぁ……」
 
祥吾さんの愛娘である鏡野心奏、彼女は俺に懐いているようだ。
 
歳の近い兄妹がいなかったこともあり、俺も妹がいればこんなものかと甘えさせたのが始まり……今ではとんだ我が侭お嬢様に成長していた。
 
だが、我が侭言いたい放題ながらも傍にいればそれなりに楽しい。
 
やかましいぐらいの明るい性格も悪くはない。
 
ただ、俺は自分自身とのけじめをつけるためにある程度の距離をとり続けてた。
 
――俺は彼女を好きになってはいけない。
 
立場が違いすぎる、いくら生まれが富裕層の人間とはいえ鏡野家は違いすぎる。
 
それだけではないのだが……自分の中でずっとラインは引き続けていた。
 
「心奏は自分の世界がどれほど素晴らしいか考えたことがあるか……?」
 
「は?何をわけの分からない事を言ってるの?」
 
「いや、そうだな。何でもないよ」
 
俺はあの夜を忘れてはいない、たった1度踏み込んだ別世界を……。
 
あの時の廃墟の光景は今でも思い出す。
 
自分のいる場所が当たり前ではない事を知った。
 
だからと言って、今の俺が何をできるわけでもない。
 
これから先の事を考えるようになって悩みはよけいに大きくなった。
 
綺麗事だけで世の中は回っていない、それが現実だ。
 
欲望に腐敗しきった富裕層、無秩序が蔓延る貧困層。
 
「……俺はこの世界で何をしたいんだ?」
 
湧き上がる疑問に悩みは尽きず、俺は自分の道について悩む。
 
この社会で何をしていきたいのか。SEX DROPS
 
「その答えはまだ見つかりそうにもないな……」
 
――家を飛び出してから3年、俺はまだ悩み続けている。

2013年5月29日星期三

弟子入り

椅子に座って、奏は対面に座る二人の美女を見つめていた。
 一人はミューラという少女。美しい容姿に似合う尖った耳が、エルフという妖精族である事を示している。紅蜘蛛赤くも催情粉
 今は頬を膨らませ、ぷいっとそっぽを向いている。
 何を考えていたのか、彼女は自分を『レミーア』だと騙った。
 恐らく今は何を聞いても無視されるだけだろうな、と考えた奏は、彼女についてはひとまず置いておく事にした。
 そしてもう一人。
 この場所に来た最大の目的。
 腕を組んで目を閉じているのが、大魔術師・レミーア=サンタクル。
 肩に届くか届かないかと言うところで無造作に切られた髪。そして非常に整った顔立ち。どことなくレミーアはミューラと似ている。耳も尖っているし、姉妹なのだろうか。そう考えればミューラも将来が非常に有望な少女だが、まあ、それも今は些細な事だ。
 レミーアの前には、ギルドマスターからの書簡が置かれている。
 それを明らかに斜め読みと思われる速度で一度だけ目を通した後、彼女はそのまま腕を組んで目を閉じてしまったのだ。
 かれこれ二十分にはなるだろうか。
 追い出されないところをみると、彼女はじっくりと何かを考えているようだ。
 テーブルに置かれている紅茶は既に冷えてしまっているが、それはそれで構わない。
 ここで焦っても仕方が無いのだ。奏は彼女の次の行動をじっと待っている。
 太一はどうしたか?
 テーブルの横の床で、顔面が凹んだ状態で燃え尽きている。
 制裁を加えたのが奏でないのが残念だが、いい気味なので放置プレイを決め込んだ。あれは実に腹立たしかった。因みに制裁を加えた張本人であるミューラ。奏が「太一はスルーでおk」という内容を言ったとき、サムズアップを向けてきた。いずれ彼女とは仲良くなれると思うのは奏だけだろうか。
 ギルドマスターの小さいオッサンが言うには、彼女は魔術に関しては世界最高峰の頭脳の持ち主だと言う。魔術の理論は、世界でも最も難解といわれる学問で、つまり彼女は世界で最も頭がいい存在の一人。
 彼女が一体何を考えているのか。何度かそんな予想をしてみたが、すぐに諦める、を繰り返している。凡人である奏に、天才であるレミーアの考えが分かろうはずが無い、というのがその理由だ。
 待つのが特に苦手ではない奏は、しばしぼーっと視線を宙にさまよわせている。これだけ近いのだから、彼女が動けばすぐに気付くだろう程度には、意識を飛ばさずに。
 紅茶を飲みながらそっぽを向くという、レミーアよりは遥かに動きの多いミューラが、ふと視線をレミーアに向けて固まっている。
 ん?
 何だ?
 そう思ってあえて合わせていなかった焦点をミューラに向ける。彼女は、驚いていた。
 はて。
 何にだろうか。
 ミューラの視線を追っていくと、当然レミーアが視界に映る。ただ腕を組んで目を閉じているだけの彼女にそんな驚くところなんか……。
「zzz……」
 危うく椅子から滑り落ちるところだった。
 寝ている。自由すぎる。
 よく耳を澄ませば、寝息が聞こえて来た。規則正しく胸も上下している。目を閉じたまま……カクンと、舟をこいだ。
「おっ……? おお……それでだな、カナデ」
 誤魔化すか。
 あれだけ堂々と居眠りかましておいて誤魔化すか。
 こちとら二十分以上待っていたのに。
 やたらと威厳たっぷりの表情を浮かべるレミーアだが、垂れた涎が全てを台無しにしている。下着姿から既に普通の服に変わっているが、着替えたばかりの服に涎が垂れて濡らしているのが滑稽である。
 そのあまりの開き直りっぷりに、怒る気も失せてしまった奏。思わず視線をミューラに向けると、彼女は肩を竦めて長いため息をついた。どうやら、常習犯のようだ。
 居眠りしていた事をなかったことにするらしいレミーアに合わせて、奏も居住いを正す。
「お前がフォースマジシャンであるというのは書簡で分かった。ギルドでは、フォースマジシャンについてどんな説明を受けた?」
 耳心地の良いアルトボイス。少し堅い口調も、凛とした雰囲気を纏っている。
「えっと、四つの属性に適正があって、二〇〇万人に一人の逸材だと」
「他には?」
「いえ、それだけです」
「なんだあやつめ。その程度の説明しかせんかったのか。全く無知にも程があるだろう」
 フォースマジシャンという言葉を聞いてミューラが目を丸くしたが、口を挟む気はないようだ。
「では、そもそも属性への適正が何故生まれるか、それについては説明を受けたか?」
「……いえ」
 今度こそ、レミーアは盛大なため息をついた。紅蜘蛛
「……次会ったら文句の一つも言ってやるとするか。この程度は一般常識だろうが」
 一般常識らしい。そうなの? という疑問を視線に乗せてミューラを見ると、彼女は「ううん」と言うかのように首を左右に振った。一般常識ではないのだろう。或いは大分マニアックな言葉が飛び出すのか。
 彼女を偏屈と呼んだギルドマスターの胸中が少しだけ分かった気がする。
「カナデ、お前は魔術については知らなんだな?」
 その通りなので頷く。
 嘲りなどは含まれず、純粋に確認するかのような口調なので、認めやすかったのは確かだ。
「良かろう。説明してやるから、そこで伸びてる少年を起こすといい。同じ事を二度言うのは面倒だ」
 ごもっとも。
 奏は一瞬どう起こそうかと考えて、紅茶を飲む為に用意してあるレモンを手に取った。
 そして太一の半開きの口目掛けて、一〇〇パーセントの生搾りレモン果汁を垂らした……もとい、注ぎ込んだ。
 ミューラが「……えぐっ」と呟いたのは、聞き流す事にする。
「おがっ!?」
 あまりの酸っぱさに目を白黒させて飛び上がる太一。
 先ほどから扱いが散々だが仕方ない。わざとではないとはいえ、これもセクハラをした罰である。
 奏もこのリアクションで気が済んだため、これ以上は何かを言う気は無い。
「ここは?」
「レミーアさんの家。今から魔術について教えてくれるらしいから、席について」
「あ、ああ。分かった」
 困惑気味な太一だが、少し周囲を見渡して状況は何となく察してはいるのだろう。奏に追従して席に着いた。
「さて。あのチビオヤジの手紙は読んだ。お前達を保護しろ、との事で……まあ、私はそれを受け入れようと思う」
 チビオヤジ。
 正に太一と奏がギルドマスターに覚えた第一印象と同じである。
 しかし見た目に反し、あのギルドマスターは人望はあるのだと思う。でなければ、ただの手紙の一通で「人を二人保護しろ」なんて不躾な願いを聞き入れさせるのは難しいだろう。
「念のために確認しておく。お前達が魔術に対して無知なのが原因で、自分の置かれた状況をよく理解できていない。そこに相違は無いな?」
「はい」
「そうですね」
 この人には世話になるため、一応礼儀を尽くす太一と、元から年長者に礼儀を欠かさない奏。根本は違うが、二人は同じ答えを返した。
「では。魔術について説明をしよう。要点だけかいつまんで説明する。聞き逃していいところは一つも無いから心しろ」
 頷く。
「四大属性とユニーク属性。この二つは冒険者ギルドで聞いて言葉は知っていると思う。まずは四大属性だが……さてここでクイズだ。そもそも何故、適正が分かれるのだと思うか?」
 クイズ、という時点で、正解不正解を問うているのではないと分かる。
 思うまま答えてみる事にした。
「遺伝ですか?」
「何かの要素が絡んでるとか」
 前者が太一で、後者が奏。どちらも至極ありえそうなところを選んで答える。
「うむ。どちらも当たりだ。正確には半々、と言ったところだ」
 レミーアは一度紅茶を口に含んだ。
「何故属性が、人によって適正が分かれるか。これはだな、この世界に存在する精霊が絡んでおる」
 精霊。
 魔術があって魔物がいるなら、精霊がいてもおかしくない。某最後の幻想でも、召喚術師なるジョブが存在していたりする。幻獣界なるものが実在しても不思議ではない。この世界では。
「属性は勝手に決まるのではない。精霊が決めるのだ。四つのうちいずれかの精霊が、気に入った者にその属性への適正を与える。精霊に気に入られなければ、適正は持たず、即ち魔力も持たない。遺伝が関係するというのは、例えば親が火の精霊に気に入られたとする。そして気に入った人間に子供が出来たから、子供にも適正を与えよう。精霊がそう判断しているのではないか、という学説が今は主流だな」
 この世界の人口が約五億人。その中で精霊に気に入られる人の数は総勢三億人。約六割が何かしらの属性を持つらしい。
 三億人の中で、生涯で初級魔術が使えるようになる者は一億人まで絞られる。初級魔術を使えるようになれば、魔術師と呼んで差し支えは無いとレミーアは言う。
「複数の属性を持つには、複数の精霊に気に入られる必要がある。精霊は気紛れでな。一つ適正を得たなら他の力はいらないだろう、と判断してしまう。一つ既に持っていても、それでも与えたい、と精霊に思われた者でなければ、複数の適正を持つという珍事は発生しない」
 その理屈からすれば、奏は相当精霊に気に入られた、という事になる。
「察しの通り、フォースマジシャンともなれば猛烈に精霊に気に入られた者だけが得る力なのだ。カナデが何者なのかはとても興味をそそられるところだが……話が逸れるからな。それはまた今度にしよう」
 レミーアは笑った。
「続いて、ユニークマジシャンについてだ。ユニークマジシャンは、四大属性全てに当てはまらないもの。これは良いな?」
 視線を受けて確認されたので、太一は肯定の意を込めて視線を投げ返す。
 レミーアは頷いて続けた。
「これはとても厄介でな。まずどの時代にも存在はするが、その絶対数が圧倒的に少ない。フォースマジシャンもとても珍しいが、ユニークマジシャンとは比べるべくも無い。何故だか想像はつくか?」
 それが分かれば苦労は無い。
 しかしレミーアも答えを期待している様子ではなく、少しだけ間を置いて続けた。
「フォースマジシャンは、一人で四つの属性を扱える稀有な存在。しかし、無碍な言い方をすれば『それだけ』でしかないのもまた事実だ」勃動力三體牛鞭
「それだけ、ですか?」
 自分の危機を細部まで想像してしまい、恐怖に駆られた原因であるフォースマジシャン。それをバッサリと斬り捨てたレミーアに、奏は思わず問いかけた。
「そうだ。フォースマジシャンが扱えるのは四大属性。魔術師を四人集めれば、フォースマジシャンの代替は出来るのだ。フォースマジシャンがいる事によって得る実利といえば、オールマイティな対応力と人件費位のものだよ、実際はな」
 それを珍しい珍しいと、一部の識者気取りの愚か者が囃し立てるから、とんでもなく買い被られる結果になった、とレミーアは苦笑した。
 どのような状況にも対応が出来るし、どのような魔物が相手でも弱点を突いて攻撃が出来る。
 確かに得がたい価値ではある。
 だが神格化するほどのものではない。レミーアはそう言っているのだ。
「一方のユニークマジシャンだが、先に言ったとおり、四大属性は扱えない。その代わり、彼らにしか操れない属性を持つ。その数も圧倒的に少なくてな。私が知る限り、今この時代に生きるユニークマジシャンの数は、五人だ」
「ごっ……」
「一人もいなかった時代もあるから、この時代は恵まれているのだろうな。そして太一、お前で恐らく六人になるだろう」
「……」
 実際に数字で示されると途方も無い。
「具体的には光、闇、時空。後は精霊魔術もユニークマジシャンに数えられるな」
 光属性。闇属性。時空属性。聞くだけでむず痒さを覚えるような単語である。
 それはさておき。
 精霊魔術。また分からない言葉が出てきた。
 思わず口を挟んだ奏に、レミーアは「現代魔術、古代魔術、精霊魔術がある」と分類を示してくれた。
「四大属性を基にした魔術が現代魔術で、光、闇、時空属性は古代魔術だ。大仰な名前に似合った凄まじい効力を持つ属性だよ。因みに、この三つに関しては精霊は関係ない。そもそもその属性の精霊が存在しないからな。何故精霊がいないのにこの属性を持つ者が現れるのか……かつて数多の魔術学者がこの命題に挑み、その半生をそれに捧げても尚、解明には至っておらぬ。文献は星の数ほどあるのだがな……。すまぬが、これについて詳しい説明をする事は出来ん。ただ存在する、という事実しか述べられん」
「そうですか……」
「精霊魔術だが、これも同様だな。術そのものは四大属性の魔術と変わらん。だが、魔術を行使する際の仕組みがまるで異なるのだ。一般的に現代魔術は、適切な呪文を唱える事で、身近にいる精霊から力を借りて事象改変を行う。一方精霊魔術は、特定の精霊と契約を行い、その精霊から力を借りて行う。ここで重要なのは契約の有無だ。契約という強固な絆が、精霊から借りられる力を増幅させる。同じ魔術を使用しても、現代魔術師と精霊魔術師ではその効果に理不尽なほどの差が生まれる。まあ精霊から属性を与えられるに留まらず、契約が可能になるほど気に入られるのだから、当然といえば当然の結果だな」
 ユニークマジシャンについての説明は以上だ、とレミーアは言った。
 と、いうことはだ。
 つまり。
 奏は太一を見やった。
 彼はこれ以上なくうんざりとした顔をしていた。
 面倒な事を嫌う彼にとっては、払えない火の粉が降りかかって来たに等しい。
 魔術を生業とするものにとっては、求めたところで手に入らないものである。さぞ不遜極まりない態度に見えるだろう。
 太一の様子を見て苦笑したレミーアが続ける。
「これについては、タイチ、お前がどの属性なのかを今すぐに判断するのは不可能だ。ユニークマジシャンが持っている属性は調べて分かるものではなく、ある時を境に急に使えるようになるものだからな」
「うええ……。いらねぇ、そんなの……。ずっと出てこなくていいよ、いやマジで」
「それは無理だな。そういった力を持つなら、遅かれ早かれ、必ず発現する。それは明日かもしれんし、一年後かもしれん。しかし五年はかからずに発現するだろう」
「五年、ですか。随分はっきりしていますね」
「ユニークマジシャンがその力を自覚するのは、一五歳から二〇歳の間だ。お前達の歳はその位だろう?」
「ええ。今年十六になります」
「うむ。ではいずれ発現するだろう。覚悟しておくのだな。断言してもいいが、逃げられはしない」
 最後通告を突きつけられ、太一はがっくりとうな垂れた。巨根
「まあ、お前達には明日から魔術の修行を始めてもらうから、どの道無駄な足掻きだぞ」
「へ?」
「聞いてませんよ、そんな事?」
 太一にも奏にも寝耳に水である。
 だがレミーアは「何を今更」という表情だ。
「お前達、タダで私の庇護下に入るつもりか?」
 その一言はとても痛かった。
 反論出来る要素が見当たらない。
「私が何故ここまで魔術に詳しくなったかといえば、ずっとそれを研究してきたからだ。私にとっては目の前にユニークマジシャンとフォースマジシャンという、滅多に出会えない研究対象がいるのだ。私の研究に協力してくれるのなら、対価として私はお前達を責任持って保護しよう」
 それとも、他に何か支払えるものはあるか? と聞かれ、答えが出なかった時点でそれは確定事項となった。
「まあ、とって喰う事は無いから安心するといい。それにだ。どのような経緯でこうなったかはまた別の機会に聞くとして、魔術は使えるようになっておいて困る事は無い。お前達、冒険者なのだろう?」
 それもまた正論だった。
 魔物が存在する世界だし、文明を見る限り、日本よりも治安がいいとは思えない。
 自分の身を守れるならそれに越したことは無いのだ。備えはいくらあっても困らない。
「太一。諦めるしかないわね」
「くそー。仕方ないのか。もう打つ手は無いのか!」
「往生際が悪いわよ」
 ぺし、と頭を叩かれる。
 太一とて理解はしている。ただごねてみただけだ。
 面倒くさい、というのは今も変わっていないのが、彼らしいと言えば彼らしい。
「まあ具体的に何をしていくかは、明日になったら話そう。私の指導を受けたい輩はごまんといるのだ。感謝されてもいいくらいだな」
「そうですか。運がいいと、思うべきなんでしょうね。これからよろしくお願いします。レミーアさん」
「うむ」
「ほら。太一も頭下げなさいよ」
「分かってるよ。……お手柔らかにお願いします」
「ははは。任せておけ。さて、飯にするか。そろそろいい時間だしな」
 見れば窓の外は真っ暗だ。随分長い事話し込んでいたらしい。
 ところで、ずっと疑問に思っていたことを、太一はぶつけてみる事にした。
 彼女の性格と気質から、相当ずけずけと物を言って平気だと踏んだので、真正面から間合いに踏み込んでみる。
「レミーアさんて、何で偏屈なんて呼ばせてるんですか?」
 話を聞く限り、相当に聡明な人物だ。要点だけかいつまんで話が出来た時点で、それは確定している。要点をかいつまめる、という事は、話す事柄について細部まで知り、その上で重要なところも理解している、という事だからだ。
 前評判どおり、否、前評判以上かもしれない。そしてとても出来た人格を持っている。
 太一の問いは素直な疑問。
 それに対し、彼女は愉快そうに笑った。
「その方が面倒事が少なくて済むからな」
 この人は善人。善人だが、やっぱり偏屈かもしれない。太一と奏はそう思った。狼一号

2013年5月26日星期日

二年目の始まり

カープァ王国女王アウラが、第一子を無事出産したちょうど一ヶ月(二十九日)後の夜。王都カープァは、夜闇を打ち消す炎と、賑やかな喧騒に満ちていた。
 大通りの交差点や公園では大きな篝火が焚かれ、夜の街のあちこちには、松明を持った従者を引き連れた見回り兵士が巡回している。三体牛鞭
 繁華街に目を向ければ、大多数の飲食店も店内で複数の油皿に火を灯し、夜の臨時営業に勤しんでいるのが見える。
 油の値が張る上に、火事の危険も大きい深夜の営業は、通常ほとんどの店舗が行わない物なのだが、今日ばかりは例外だ。
 カープァ王国民の大半が待ち望んでいた吉報。王家の第一男子誕生を祝う、記念すべき夜なのだから。

「アウラ陛下の健康を祝って!」
「カルロス殿下のご生誕に!」
「カープァ王国の未来に!」
「「「乾杯ッ!」」」
 夜の酒場に歓声と、酒の入った木のジョッキをぶつけ合う音が響き渡る。
 酒場の灯りは、四隅にある油皿の火だけなのだが、この場の空気はその薄明かりを『明るい』と錯覚させるほどのものがある。
 今夜は王子誕生を祝う祭りの夜だ。実際に生まれたのは一月前だが、医術が未発達なこの世界では、王族といえども子供が無事に育つ保証はない。そのため、慣習として生誕祭は、実際の誕生日より一カ月後に行うようになっている。
 そして、今夜はその一ヶ月後。王都は不夜城と化す。
 もっとも、この場にいる酔客たちの場合、王子の誕生を祝っているのも間違いはないのだろうが、大半はもっと単純に、『ただ酒』と『ただ飯』に浮かれているというのが実体である。
 そう、この夜を彩る光熱費と飲食費は、原則全て王室持ちだ。
 篝火用の薪と油を手配し、飲食店には事前に銀貨を贈与し、火事や喧嘩が起こらないよう、巡回の兵士を手配する。
 戦災復興中の王室に取っては、決して軽くない負担だが、こうした人気取りを軽んじるわけにはいかない。それに、こうした大盤振る舞いには、副次的な効果として、王都の経済が一時的に活性化することも期待できる。
 いかに王室が『ただ酒』『ただ飯』を振る舞うとは言っても、それは安い果実酒と、大鍋で纏めて作られた、安いスープに限られる。
 それらの酒や飯でも、酔っぱらうことは出来るし、腹も膨れるが、酒が回って気が大きくなれば、多少自腹を切ってでも、もっと美味い酒や美味い飯についつい手を伸ばしてしまう者も出てくる。
 結果、各飲食店は王家からの振る舞い金を除外しても、大幅な黒字を記録することとなる。
「それにしても、ここ最近はめでたい事が続くな。戦争は勝ったし、アウラ陛下はご成婚された。そして、一年後には王子誕生とは、できすぎだぜ」
 店内の椅子に足を広げて腰を下ろしていた三十前後のがっちりとした筋肉質な男は、大きな声でそう言って、カラになったジョッキを勢いよくテーブルに下ろした。木製のジョッキが木製のテーブルにぶつかり、カツンと心地よい音を立てる。
「なに、それまでは長年戦続きで、大変だったんだ。溜まっていた『良いこと』がまとめて来たんだろうよ」
 そう答えたのは、向かいに座る男である。正面に座る男と比べると幾分細身だが、よく見るとその身体は労働で鍛えられた、引き締まったモノである事が分かる。恐らく二人とも、王都で働く肉体労働者なのだろう。
 細身の男は、大きな木の匙で熱々のスープをすくい、口へと運ぶ。
 スープの具は調理用バナナのぶつ切りや安物の葉野菜に、申し訳程度廃竜の肉(年老いて労働力とならなくなった走竜や鈍竜の肉)が入っている程度だが、塩とスパイスで強く味が付けられているため、熱いうちに食べれば十分に美味い。
 塩、スパイス、そして黒砂糖。いずれも、カープァ王国では、特別高値の付く代物ではない。
 暑い最中、スパイスの利いたスープを啜って汗をかき、汗を掻いた分水を飲む。カープァ王国では一般的な酷暑の乗り越え方である。
「まあ、確かにな。あのしんどい戦争の後だ。少しは、良いことが続いても罰は当たらねぇか」
 がたいの良い男は、細身の男の言葉にそう同意を示した。二人とも年の頃は三十代の中盤くらい。よく見るとどちらも、服のはしから除かせる腕や胸元には、刀傷や矢傷らしきものがうっすらと浮かんでいる。先の大戦では、兵士として戦場の泥を舐めた経験があるのだろう。
 そう考えれば、この男達の言葉に、実感が籠もっているのも当然だ。
「そういうことだな。だが、せっかくの振る舞い酒と振る舞い飯なら、昼間からいただきたかったモノだな。半日分、損した気分だ。まあ、こうして夜闇の中での飯も風情はあるけどよ」
 そう言って木のスープ皿に匙を戻した細身の男に、がたいの酔い男が吹き出すように笑い返す。
「はっ! 『風情』とか抜かす面からよ、お前が。まあ、言いたいことは分かるが、子供ってのは授かり物だ。時期を選んで生まれてきてはくれねぇよ」
 通常、王子誕生の祝祭は丸一日行われるものなのだが、生憎今は一年でももっとも暑い時期だ。最高気温四十五度を超える酷暑は、生命活動を脅かす。
 そんな体温より十度以上高い気温の中、街を挙げて飲んで騒げば失神者と死者が続出することになる。酷暑が続くこの時期の日中は、出来るだけ屋内でじっとして体力の消耗をさけ、どうしても外を出歩く必要があるときは、白いフード付き外套で身体を一切直射日光にさらさないようにしなければならない。
 外套は主に、厚手の綿織物が用いられる。麻のような通気性の良い生地が涼しく感じられるのは、気温が体温より低い次元までだ。どれだけ風が服を吹き抜けても、吹き抜ける風が体温より高いのであれば、風が吹けば吹くだけ暑くなるだけだ。
 そう言う意味では、この酒場で歓声を上げている男達が皆、袖無しのシャツと薄手のズボン姿でいられるというのは、やはり夜は『涼しい』ということなのだろう。
 とはいえ、それは昼間の殺人的な酷暑と比べた場合の相対的な評価であり、夜も暑いことは間違いない。男宝
 暑いスープを食べ終えた細身の男は、服の襟元をバサバサとやっていたが、その程度で涼しくなるほど、熱帯夜はかわいげのあるモノではない。
「これは、たまらんな。おい、水をまくぞ。いいか?」
 たまりかねた細身の男は、椅子の上で身体をひねると、後ろの壁に立てかけてあった木のひしゃくを手に取り、酒場中に響き渡る大声でそう言う。
「おう、まけまけ!」
「そうだ、流石に暑い!」
「誰も反対する奴はいねえよ!」
 男の声を受け、酒場で騒いでいた酔客達は、一斉に了承の意を伝えてきた。
「よし、来た」
 店内の客達の同意を得た男は、椅子から立ち上がると長柄の大きなひしゃくを手に持ち、酒場の隅に設置されている、細長い木製の水槽へと歩み寄る。
 店内に水を湛えた水槽を設置して置くのは、この辺りで客商売をやっている店舗ならば、まずどこでもやっているサービスだ。
 こうして店内に水を湛えているだけで多少は室温が下がるし、今男がやろうとしているように、その水を店内の床に打てば、その気化熱で随分と涼が取れる。
 無論、一時的に店内の石畳のへこみに水たまりが生まれ、客の靴やズボンの裾に飛沫は掛かったりもするだろうが、そんなことを気にするような繊細な人間は、ここにはない。
 真夜中でも三十五度を超える高温の前には、その程度の水などあっという間に乾いてしまう。
 それどころか、客の一人が男に言う。
「ああ、まどろっこしいな。いっそ、降らせろ!」
 降らせろ。
 ようは、ちまちま足元にまいていないで、もっと豪快に自分たちの頭上に水をぶちまけろ、と言っているのだ。
 床に水をまいて涼を取るくらいならばともかく、店内で直接頭から水をぶちまけるようなマネは、カープァ王国でも少々品のない行為だ。しかし、ここは場末の酒場。その乱暴な提案は、拍手喝采を持って受け入れられる。
「そうだ、ぶちまけろ!」
「このままじゃ暑くてかなわん!」
「まてまて、料理に蓋をするまで待て!」
 手際よくテーブルの上のスープ皿や薄焼きパンの入れ物に蓋をする辺り、どうやらこうして水を『降らせる』のは、日常化しているようだ。
その証拠に、カウンターの奥で大鍋を見張っている店主も、その褐色の顔に皺を寄せて苦笑いを浮かべるだけで、制止しようとするそぶりも見せない。
 それどころか、
「油皿にはかからないように気をつけてくれよ」
 と言う言葉で、許可を与える。
 その言葉を受け、男は「分かった」と大笑し、ひしゃくの先を四角いすいそうに差し込んだ。そして、
「いいな、行くぞっ、せーのっ!」
 右手一本で、弧を描くように水の入ったひしゃくを振りまわし、夜の酒場に雨を降らせる。
 空中を飛び散る水滴が、四隅に立てかけられている油皿の炎に照らされ、キラキラと輝く。
「うおっ、冷てっ!」
「ひゃあ、生き返るわ」
「けちけちすんな、もっとだ、もっと!」
 酔客達が口々に勝手な事を言う。
「ああ、うるせえな、ちょっと待ってろ」
 男はひしゃくですくった水を、自分の頭にかけて自らも涼を取ると、続いて矢継ぎ早に何度も何度も、ひしゃくを振りまわし、店内に水を降らす。
「ふー、気持ちいい! 女王陛下、万歳!」
「おう、カルロス殿下万歳!」
「カープァ王国万歳!」
 水浴びで気持ちよくなった酔客達は、また景気よく万歳の声を上げる。
「あとついでに、ええと、あれ? 何て言った? ……ああ、とにかく、アウラ陛下の婿さんも万歳だ!」
 どうやら、女王アウラの婿である『善治郎』の知名度は、酒で思考力の濁った場末の庶民達には、その名前がとっさに思い出せないくらい、極めて低いものでしかないようだった。

 夜が明ければ、朝がくる。
 炎と酒で彩られた祭りの夜も、朝日と共に終わりを告げる。
 灼熱の太陽が地平線から顔を出せば、そこからはいつもの日常だ。
 特に今は、一年の中でも一番暑い時期。朝日が登って辺りが明るくなっているのに、まだ気温は本格的に上昇していないこの時間帯は、貴重である。
 白々と夜が明けてきた王都の町並みでは、人々が早速活発に動き出している。
 この時期は、熱射病を避けるため、昼のもっとも気温が上がる頃合いは、屋内で昼寝をして体力の消耗を避ける習慣がある。そのため、朝、夕のうちに出来るだけの事をやっておかないと、時間が足りなくなる。
 慌ただしくも、活発に動き始める王都の朝。そんな王都のど真ん中に位置するのに、唯一その喧噪と無縁の後宮の一室で、善治郎は今日も何時もと変わらないゆったりとした朝を迎えていた。


 異国情緒漂うクラシックな家具と、日本製の多量生産品の電化製品が混在する、一見するとまとまりのない一室で、善治郎は大きく伸びをする。
 窓を閉ざす木戸の隙間から差し込む朝日だけが光源の室内は、もう朝だというのに、薄暗いを通り越して暗い。
「ふう……くぅ……!」
 灰色のTシャツと、ツータックの白い麻のズボンという部屋着姿の善治郎は、両腕を上に伸ばし、グルグルと頭を回しながら、リビングルームの窓を開け放つ。
 精密な彫刻の施された窓を開けば、入って来るのは朝日とは思えないくらいの強い陽光と、蒸し暑い外気だ。
「うわっ!?」
 差し込む強い光と流れ込む攻撃的な熱気に、窓を開けた善治郎は思わず顔を背ける。暗闇に慣れた目に、眩しい朝日が目に沁みるが、それ以上に強烈なのがその熱気だ。
「すごいな、これ。暑いとか気持ち悪いとか言う前に、生命の危機を感じる」
 暑すぎるその空気は、まるで酸素濃度が低いかのように、思い切り深呼吸をしてもなお「息苦しい」と感じてしまう。
 善治郎が日頃暮らしている、このリビングルームと隣のベッドルームは、毎日毎晩氷と扇風機で涼をとり続けている。いくらリビングルームが広く、日本の住宅ほどの機密性がないとはいっても、毎日氷を設置していれば、部屋全体が外気とは隔絶した快適な室温を保つようになる。
 開け放った窓から容赦なく入り込む熱気に顔をしかめた善治郎は、一秒でも早く窓を閉めるために、素早く用事を済ませようと道具を持って来る。男根増長素 
 善治郎がリビングルームの隅から持ってきたのは、デジタル式の置き時計、シャープペンシル、デジタルカメラの三つだ。
「よし、ちょうど良い頃だな」
 善治郎は、四角い置き時計を窓枠の上にのせると、その文字盤表示を見て、小さく頷く。
 その後、善治郎は窓の縦枠が横枠の上に落とす影に目をやり、右手にシャープペンシルを持ったままじっくりとその時を待つ。
 7:00
 置き時計の文字盤がその時刻を表示した瞬間、善治郎は窓枠の影のラインにそってシャープペンシルで線を引いた。
 そしてすかさず、その様をデジカメに写し取る。デジカメ特有のボタンを押してから一拍をおいてシャッターが降りたとき、デジカメの内部時計は7時00分09秒を示していた。
 これが、最近になって善治郎が思いついた朝の日課である。
「うーん、やっぱり少しずつずれてるなあ。問題は、俺の知識じゃこのズレの原因が、『一日が二十四時間ぴったりじゃない』せいか、『一日ごとに日の出日の入りの時刻が変わる』せいなのか、判断が付かない点だよなぁ」
 デジカメの画像を見て善治郎がそうこぼす。この日課を始めてまだ数日だが、毎日同じ時間に同じ影の線を印しているはずなのに、その線は毎日少しずつ横にずれてきている。
 異世界に転移してきてから二年目。アウラに子を産ませるという最大の役割を果たした善治郎は、少しずつこの世界に興味の目を向けるだけの余裕が生まれてきている。これもその一環である。
「まあ、どちらにせよ、地球から持ち込んだ時計が調整なしで、一年後の今も使えてるんだから、一日がほぼ二十四時間なのは間違いないんだけどな」
 善治郎はそう、独り言を呟く。
 そうでなければ、とっくにこちらに持ちこんだ時計は役に立たなくなっているはずだ。例え、一日の長さが一分しか違わなかったとしても、三百六十五日が経過すれば、そのズレは三百六十五分になる。三百六十五分、分かりやすく言えば約六時間である。
 時計が六時間もずれていれば、いかに目安となるものが日の出日の入りのような漠然としたモノしか無くても、絶対に気づく。つまり、元の世界とこの世界の一日の長さの違いは、あったとしても約一年過ごした善治郎が気づくことが出来ない程度のごく短いモノでしかないという推測が成り立つ。しかし、
「ちょうど一年後に影の位置を計れば、日付による誤差を省いた一日の誤差を測定出来るんだろうけど……問題は、一年が三百六十五日である保証すらないって事だよなあ」
 善治郎は、もう一度溜息を漏らした。
 この世界の暦は一月が二十九日の月が六ヶ月、三十日の月が六ヶ月の合計十二ヶ月で回っている。つまり、一年は三百五十四日だ。しかし、それでは明かなずれが生じるため、数年に一度閏月を加え、十三ヶ月の年を造る事で調整しているらしい。
 善治郎が大ざっぱに計算したところでは、この世界の一年もおおよそ三百六十五日になっているように感じられる。
「なんとか、この世界が地球と同じ二十四時間、三百六十五日だという確信が持てれば、少しは役に立つ提言も出来るんだけどなぁ」
 無論、すでに王国民に浸透している現在の暦を、自分の我が儘で変更させるつもりはない。
 ただ、ある程度正確な太陽暦の暦を造る事が出来れば、色々役に立つことも間違いない。
 数年に一度、閏月の入る今の暦では、年によって三十日近いズレが生じるのだ。
 去年の四月一日が、今年の五月一日になると考えれば、この暦に『季節』を計るという役割を期待することがどれほど無意味か、理解できるだろう。少なくとも、種まきや治水工事の時期を定める指標とするには、甚だしく不適切である。
 おかげで、現在カープァ王国で種まきや収穫の時期は、農夫達の経験と勘が全てとなっている。
「まあ、ベテラン農夫の経験則に、蓄積したデータによる推測が勝るには、何十年も時間が必要だろうけどね。この世界、温度計もないし」
 それでも、正しい暦の作製と、それに付随する年間天気データの蓄積は、将来的には何かの役には立つはずだ。
 そう自分に言い聞かせ、窓を閉めた善治郎が六つのLEDスタンドライトのスイッチを入れ、室内を人口の白色光で明るく照らし出した、ちょうどその時だった。
 コンコンと入り口のドアをノックする音が広いリビングルームに響き渡る。
「はい、どうぞ」
 入室を許可する善治郎の言葉に、ドアが開かれる。その向こうに立っていたのは、善治郎の予想通りの人物だ。
「おはよう、ゼンジロウ」
 小さな赤子を宝物のように、しっかりとその豊かな胸元に抱いた大柄な美女が、後ろに二人の侍女を従え、微笑んでいる。
「おはよう、アウラ」
 善治郎は、同質の笑顔で答え、我が子を抱く妻を部屋へと招き入れた。

「失礼します。この位置でよろしいでしょうか?」
 この一年ですっかり手慣れた侍女が、冷蔵庫の金だらいから大きな氷を取りだし、善治郎達が座るソファーの横にそえる。後ろで回る扇風機がちょうど良い角度でソファーに座る善治郎に冷風を届けてくれる。
 向かいのソファーに座るアウラには、その余波しか届いてないが、今はそれでよい。アウラの胸には、生後一ヶ月の赤子が抱かれているのだ。赤子の柔肌に、直接冷風を吹き付けるのは、あまり良くない。
「うむ。ご苦労だったな。下がって良い」
「はい、失礼します」
 視線を胸に抱いた赤子に落としたままそう言う女王の言葉を受け、氷と扇風機を設置した二人の侍女は、ペコリと小さく頭を下げた後、退室していった。
 バタンと音を立てて、ドアが閉まったリビングルームには、一組の男女と一人の赤子だけが残される。
 我が子を抱く母と、その母を見守る夫。世間一般ではありふれた構図だが、善治郎達の場合はそうではない。
「普段ならもう朝議が始まってる時間だと思うけど、今日はどうしたの?」
 侍女が退室したリビングルームで、善治郎は対面に座る妻にそう問いかける。
 カープァ王国でも特に暑さが厳しいこの時期は、王宮でも身の安全の為、昼に長時間の休息を取る。その遅れを少しでも取り戻すため、今時分の朝議は早めに始まるのだ。
 善治郎の言うとおり、今はすでに、アウラがこうしてゆっくりしていられる時間ではない。
 だが、アウラは両腕で抱く我が子をゆらしながら、
「ああ、今日の朝議の議題はガジール辺境伯の議題だからな。肝心のガジール辺境伯の到着が遅れているので、朝議の開始が延びたのだ」
 そう、嬉しそうに言葉を返す。
「あ、そうなんだ。それは良かった。って言って良いのかな?」
「あまり良くはないだろうな。議題が解決したわけではなくて、後ろにずれ込んだだけなのだから、むしろ困った事態だ。だが、せっかく生まれた空き時間だ。有効活用しなければ損だろう、なあ、カルロス?」V26Ⅳ美白美肌速効
 アウラはそう言って、腕の中の我が子の顔をのぞき込む。
「あー、あー!」
 生後一ヶ月の赤子――カルロスは母親の顔を見上げ、楽しげに笑う。
 生まれたての頃善治郎が『貧相な猿みたいだ』と思った面影はどこへやら、母と乳母の乳を吸い、すくすくと育った幼い王子は、ほっぺたも、ベビー服の袖から覗かせる手も、プクプクと丸みを帯びており、思わず突きたくなるような、愛くるしさにあふれている。
 艶やかな焦げ茶色の巻き毛。大きなクリクリと動く、黒い双眼。褐色と黄色の中間のような肌。親の欲目を抜きにして、これ以上愛くるしい生き物は地上に存在しないのではないか? 善治郎は本気でそう思っているが、わざわざ「親の欲目抜きで」と断る辺り、これ以上ないくらいに欲目が入りまくっている事実に、当人だけが全く気づいていない。
「カルロス~? ほれ、ベロベロ……バア!」
「ああ? キャッキャッ!」
 向かいのソファーから、おどけてベロベロバーをする父の顔を見た乳児は、一瞬キョトンとした後、楽しげに甲高い笑い声を上げる。
 息子の反応に気をよくしたのか、善治郎はその後、何度も何度も繰り返す。
「おっ、笑った。面白いか? ほれ、ベロベロ……バア! ベーロベロベロベロ、バアア!」
「キャッキャ、キャッキャ!」
 赤子は楽しげに笑い続けるが、苦笑混じりに文句を付けたのは、赤子を胸に抱く母親だ。
「ゼンジロウ。カルロスを笑わせたいのは分かるが、あまりそう『変顔』を連発しないでくれ。子の母としてはともかく、そなたの妻としては少々切ない気持ちになってくる」
「む……むう」
 一瞬、「今更格好付ける間柄か」と反論したくなった善治郎であるが、立場を逆にして考えればアウラの言いたいことも少し分かる。
 いくら、二つの世界を跨るもっとも愛らしい生命体――カルロスを笑わせるためであっても、愛妻に唇をビロビロ震わせたり、鼻とあご先を舐める勢いで舌をレロレロされたりしたら、確かに善治郎もやめてくれ、と要求するだろう。
 親しき仲にも礼儀あり。
 今は家族でも、元は他人である『夫婦』という関係を、長期にわたって円満に継続させるのに、忘れてはならない格言だ。
 渋々ながらも『変顔』をやめてくれた夫に、女王は我が子に向けるのとは異なる親愛の笑みを向けると、少しからかうような口調で言う。
「それに、その呼び方もどうにかならぬか? この子の名は『カルロス』だけではないのだ。『もう一つの名』を正しい発音で呼んでやれるのはそなただけなのだから、そなたはそちらの名で呼んでやるべきなのではないかな?」
 妻の言葉に、善治郎は少し虚を突かれた表情を浮かべ、頷く。
「あー、うん、そうだね」
 確かに、この子にはもう一つの名前がある。善治郎が付けた、日本風の名前だ。『カルロス』という名前と比べると世間の認知度は段違いに低いが、だからこそ善治郎は積極的にその名を呼んでやるべきだろう。その名も、この子の一部であることは間違いないのだから。
「……善吉」
 大きく息を吸い込んだ善治郎は、胸一杯の空気を少しだけ吐き出すように、小さな声でその名前を呼ぶ。
 善吉。
 それが、色々と考えた結果、善治郎が我が子に送ったもう一つの名前だ。
 分かりやすく、自分の名前の文字を一つ混ぜると言うことで、最初は善彦《よしひこ》や、善人《よしと》といった比較的無難な名前を提案した善治郎であったが、『表意文字』という文化を知らないアウラ達カープァ王国人に、善《ゼン》と善《ヨシ》が同じ字であると説明するのはかなり難しい。
 結局、善治郎が我が子に送る名は、善吉《ぜんきち》になった。
『カルロス・善吉・カープァ』。それがこの赤子、カープァ王国第一王子の正式名称だ。
 カルロスと言う名は、カープァ王国では比較的良くある名前である。歴代王冠を被った者だけでも過去二人、王にならなかった王族を含めれば、家系図に残っている範囲だけでも十人近い同名の者がいるため、その二つの名前を縮めて『カルロ・ゼン』殿下と呼んでいる者もいる。
 ひょっとすると将来、彼が玉座に着いた際には『カルロ・ゼン』王と呼ばれるようになるかも知れない。もっとも、一般庶民にはもっぱら『カルロス殿下』で通じているので、単に『カルロス三世』と呼ばれる可能性も十分にあるが。
 そうしているうちに、小さな王子様は突然、さっきまでの笑顔を一転、むずがるように泣き出す。
「ふぁ……ふぁ……ふぇええ……」
「あれ、どうしたのかな? 善吉? カルロス? カルロ? どうしたのかな?」
 心配そうにソファーから腰を浮かせて声を掛ける善治郎に、我が子を抱く妻は、
「いや、大丈夫だ、ゼンジロウ。この泣き方は、オッパイの時間だな」
 そう、動揺することなく答える。
「あ、そうなんだ」
 妻の言葉に、ホッと安堵の息を漏らした善治郎は、ふと気づいたような口調で問いかける。
「あれ? でも、よく分かったね、アウラ。ひょっとして、泣き方で、オッパイなのか、おしめなのか区別してる?」
 夫の問いに、女王はこくりと頷き、
「ああ。この間、カサンドラに習った。もっとも彼女のように、うんちとおしっこの違いまで泣き声で区別出来たりはしないがな」
 日頃、我が子の世話を一任している、乳母の名前を口にした。
 赤子の世話というのは、女王の激務と兼任することは不可能な大仕事である。なにせ、赤子は一日中、周りの迷惑などお構いなしに、乳をほしがり、大小をだれ流し、その欲求が満たされないと泣きわめく。女王の責務を果たしつつ、赤子を自分の手で育てたりすれば、タフなアウラでも五日でダウンすることは疑いない。
 もっとも、三人の子を持つカサンドラに言わせると、カルロスの世話は驚くほど楽なのだという。V26Ⅲ速效ダイエット  

2013年5月24日星期五

踊る者、踊らされるもの

窓から見えたミカと庭師キースの二人の姿に苦い思いを抱きつつも、私は王城への出仕の準備をした。
 騎士団で叩きあげられているので、出仕の準備は普段は侍女の手をかりずにさっと終える。
 王城に出仕する際に着る騎士服は、実戦用と違い華美にできている。sex drops 小情人
 近衛騎士団に許される白を基調とした騎士服は、金ボタンと金糸の房飾りで肩と胸を装飾されている。首周りと腕回りは銀糸で細かく刺繍が施され、日の光の加減できらきらと輝くようになっていた。
 ……この装飾が戦いの何の役に立つというのか…
と、ため息をつく豪華さだが、王城を守るということは国内はもとより各国からの注目も浴びているということ。貧相な姿をさらすわけにはいかないのだった。
 カフスの留め具を留め終えたところで、執事を呼んで今日の午後から夜の食事とスケジュールの指示をだす。
 それとともに、ミカの様子も確認する。
「ミカ様の家庭教師がおつきです。」
「あぁ、今日はダンスか…」
「左様で」
 私の返事に執事のグールドは頷いた。
 私が生まれる前から、この館に仕えてくれているグールドは、ミカの話す古語も理解する。
 有能な執事は、王侯貴族がたしなむ教養をあらかた理解しておかないと対応できないのだ。決してその知識があることを自らは言わないものだが。
 ミカがダンスのレッスンを受けると聞くと、私の心に少しイタズラ心が出てきた。
 先ほどの、バラ園のミカとキースの姿に心の片隅で苛立っていたせいもある。
「出仕の時間まで、少し間がある。ミカのところに寄ったのち、出仕する」
 私がそう告げて部屋をでると、グールドは一礼した。

**************

 広間の方から、弦楽器の音色と拍子をとる手を打ち鳴らす音が聞こえてきた。
 そっと広間のドアをあけると、弟のリードのダンスの手習いの時に通ってきていたダンスの女教師が手拍子をとっていた。
「そこはもっと首を傾けて。そう!」
 ミカは鏡の前で一人でまずステップの練習をしていた。
 横には楽器を抱えた数人が、合図を待っている。おそらくダンス教師が連れてきた楽師だろう。
「右足が遅れています、もっと軽やかに」
 教師の注意を受けて、眉をよせつつミカは足を動かしている。
 一生懸命ステップを踏もうとしているが、眉をよせて、手足はこわばったようで、少し離れて見ている私からも、到底ダンスを楽しんでいるとは言い難い姿だった。
 私は女教師とミカに歩み寄りながら声をかける。
「励んでいますね」
 さっと女教師は姿勢を整え、私に頭を垂れて軽く膝をおって礼の仕草をした。ミカもステップの姿勢から、こちらに向き一礼する。
 ミカは先ほど私の居室に来たときとはドレスが変わっていた。
 ダンスで足をさばきやすいように少し足首の見える丈のクリーム色のドレス。練習用のドレスなので、装飾はほとんどないがシンプルなデザインが、ミカの気性には合っている気がする。
 だが練習用とはいえ、実際の夜会用ドレスを意識してデザインされているので、普段の昼間に着用するドレスに比べて露出している部分は多い。胸元は開き気味で袖も短い。しかも夜会で女性は髪を結いあげるのが基本なので、今のミカも髪をゆるくだが結いあげて、細いうなじをさらしていた。曲美
 少し汗ばんでいるのか、ミカの黒髪がふた筋ほどほつれた髪が首元に張り付いているのが…妙に魅惑的で、私はすっと眼をそらした。
「どこまで上達したのか…少し相手をしましょう」
 私がそういって、ダンスを誘うために片手をミカに差し出す。
 その行動をみた女教師は嬉々とした顔をして、
「ミカ様、なんていう素晴らしい機会でしょう!アラン様と踊れるなんて!」
と、ミカの背を押すように私のそばまで連れてくる。
 ミカの表情は少しばかり強張っていた。
 以前、ダンスのレッスン中のミカを誘って踊ったときに、彼女はなんども私の足を踏んでしまい、普段強気なミカが何度もすまなさそうな顔をした。
「ヒールじゃ痛かったよね?」
「騎士のお仕事にさわりないかな?」
 おずおずとうかがうようにあやまってくるのが、こちらの顔をうかがってくる小動物のようで、ついかまいたくなったのを思い出す。

「頼ってくれて大丈夫ですよ。ダンスは男性がリードするものですから」
と、言いながら私がほほ笑むと、横から女教師が、
「アラン様!甘やかしてはいけませんわ!どんなに下手でリズム感のない男性と踊ることになっても、美しく踊り終える貴婦人に成長していただかないといけませんからね!」
と口をはさむ。
 やれやれ、弟のダンスを鍛え上げたときからスパルタだったが、白髪となった今も厳しい練習をするらしい。
 ……だからこそ、短期集中で上達する必要のあるミカの教師にと選んだのだが。
「では、甘やかさず、貴婦人として・・・一曲お相手願います、婚約者殿?」
 私がミカの手をとり、その甲に口づけながら、正式なダンスを誘う時の所作をすると、ミカはこわばっていた表情から、少し怒りをにじませた顔色にかえた。
「婚約者って…」
「事実でしょう?」
「…わかりました。」
 ちょっと怒ったツンとした表情のまま、ミカは私の身体に自分の腕をそわせた。私はミカの腰に片手をまわし、左手はミカの手とからめる。
「ミカ様!麗しき近衛騎士団の団長アラン様が、騎士団正装でダンスを踊られるなんて、これほどまでに誉れ高いことはありませんのよ」
「はあ」
 女教師の言葉に気の入っていない返事をしたミカに、
「夜会で婚約者アランさまと踊られるとなれば、もう皆の視線はその相手に釘付けですのよ。練習とはいえ、気合いをいれてくださいませね!」
と喝をいれてから、教師は楽師たちに合図して、軽やかな演奏がはじまった。
……
 私が一歩を踏み出すと、ミカは合わせるようにステップを刻む。
 メロディにあわせて、広間をステップで進んでいく。
 少し乱れたミカの髪が、風に揺れる。
 流れるように、ステップをそろえる。
 腰から下は、すきまなく添わせて、曲にあわせて足をうごかす。
 上半身はメロディにのるようにゆったりと傾きをかけると、ミカは私の意をくみ、美しくターンする……。
 驚いた。
 ダンスの途中、ミカの耳元に声をかけた。
「うまくなりましたね…」
 思っていたよりも、ミカの動きはスムーズで踊りやすい相手になっていた。
 もう足が踏まれることもない。
 私の言葉に、ミカは返事しない。
「とても綺麗に踊っていますよ」
 重ねて声をかけると、ミカはすこし腕をふるわせた。
「…声を…かけないで…」
「…なぜ?」
 つれないミカの返事に追うようにたずねると、
「…必死なのよ、ステップ!」
 小声だがあせるように返事がくる。K-Y
 その切羽詰まったような声音がかわいらしくて、私はついついイタズラ心に火をつけてしまう。
 ……ふうっ
「んっ!きゃっ!」
 可愛い声をあげて、ミカはダンス中だというのにキュッと肩をすくめた。
 私はさっと手をからめて、リズムのずれをなおしてミカをターンさせると、怒った眼でミカはこちらをにらんでくる。
 どうやら息を吹きかけた耳は…弱いらしい。覚えておこう。
 その後は、まるで警戒した猫のようにこちらをみてくるので、いたずらせずに曲の終りまで踊りあげた。
 曲が終わると、女教師は拍手して私とミカのそばにたつ。
「なかなかでしたよ。アラン様は相変わらずそつのない踊り方でございますこと…」
 にっこりと笑顔を返すと、
「ですが、ダンス中にイタズラはおやめくださいませね?ミカ様はこれでも私の大事な弟子でございますから」
 やはり気付かれていたか。
 教師からは背中の影になるようにしながら、ミカの耳に息を吹きかけたというのに。横ではミカが「私って…弟子なの!?」と驚いている。
「もちろんでございます。私は弟子以外にはお教えしません…。ではミカ様、今の最後のターンは軸が崩れていましたから、これから軸を鍛える基礎体操をお教えします」
 あっと言うまに女教師は私のもとからミカを奪い去って、鏡の前に立たせて姿勢のレッスンをはじめている。
 あれは、だいぶ気にいっているな…。
 ミカに基礎の動きを再度教えたあと、女教師だけが眺めている私のところに戻ってきた。
「ミカは、上達したね。驚いた。この短期間でここまで高めてくれた、感謝する」
 私が言うと、女教師は驚いたように私を見つめる。
「アラン様…そのようなお言葉…。ミカ様は…努力家です。それに…昔、なにか舞踊にかかわるものをなさっていたのかもしれませんわ」
「舞踊?」
「えぇ。男女が組むダンス以外にも、世界にはさまざまな踊りがございます。ミカ様は異国からこのフレア国以外のご出身とお聞きしておりますから…。何か、一人で踊るようなものをなさっていたのかもしれませんわ。とても飲み込みが速いですから」
「そうか」
「でも、ダンスの上達は、なによりもミカ様の努力のたまものです。アラン様のおみ足をもう踏みたくないと、何度も呟いておられましたもの」
「……ミカが?」
「そうですわ」
 もし…ミカが、また私と踊ることを考えていてくれたなら…それはとてもうれしいことだと思う。
「そなたも、ミカが気にいっているようだね」
 私が言うと、女教師はふっと笑みを浮かべた。
 それは、老いた母親が我が娘に浮かべるような慈しみに満ちた笑みだった。
「あの子は、がさつで要領がわるいところもありますが、一生懸命です。それは、私のような老婆にとっては、時にいじらしくうつりますわ」
「……我が婚約者は、多くのものに愛されるものだ」
 私がぽつっと呟くと、女教師は私をちらっと見た。
「まぁアラン様…坊ちゃま。やきもちはたいがいになさいませ?嫌われますよ?」
「……」
「では、私はこれで」
 女教師はふふふと笑いながら、またミカの元へと戻っていった。
 私は、ため息をつく。
 やきもちか…。
 まぁ、そうだな。
 今日は、あのミカの細い腰を支えて、かろやかに踊れたことでよしとしよう。彼女の努力のたまものの上達したダンスに敬意をささげよう。
 だがいつか、あの距離で…睦言を交わせる日がくるといい。
 私はそう思いながら、ミカの感触を振りきるように出仕の旨を伝令につたえて、歩き出したSPANISCHE FLIEGE D5

2013年5月22日星期三

過去から未来へ

夏休みを終えると、推薦入試が始まる。私には関係ない話だが、合格通知を受けている人を見ると、羨ましいきもちでいっぱいになる。だが、同時に受験だから自分を保てていたのだということも薄々気付いていた。今が高校三年でよかった、と思う。彼が志望校を変えたことも、私の家を出て行ったことも、あっと言う間に広まった。三體牛鞭
 学校も晴実たちと一緒に帰ることになっていた。彼に会う場所はどこにもなかった。そして、十二月の終業式を終えればそれは決定的なものとなる。私と彼の関係はそんなものだった。同居人と同じ学校の生徒ではその距離はあまりに遠かった。
 私は手元にある教科書から視線を窓の外に向ける。もう授業が終わり、多くの生徒が帰宅の途につき、クラス内にいるのは数えるほどだった。
「最近、木原君ってどこか冷たい感じがしない?」
「え? いつもどおり優しいじゃない」
 いつからそんな話をしていたのか、クラスメイトの会話が耳に飛び込んでくる。私はその話をできるだけ聞かないように意識しながら、机の上に置いている教科書に目を向ける。
「そうなんだけど、なんか以前とは違うというかさ」
「受験が大変なんだと思うよ」
「まあ、そうだよね。三年になって急に志望校を変更していたからね」
 否応なしに飛び込んでくる会話をから意識を逸らすために出しっぱなしにしていたシャーペンを指先で転がす。
「そろそろ帰ろうか」
 物音が聞こえ、話し声も止む。
 私がいようといまいと木原君の話をするのは勝手なので、嫌がる権利もない。彼との関係を終わらせようと決めたはずなのに、彼の名前を耳にするたび無関係にしてしまおうと思ってしまう自身が嫌だった。
 私が机に貌を伏せようとして時、明るい声が届く。
「田崎さん、戸締りお願いできる?」
 クラスメイトが鍵の置いてある場所の近くに立っていた。教室内にはいつの間にか二人だけになっていた。
「分かった」
 私は手を振ってくれた彼女に笑顔で応える。彼女が出て行くと、窓の外を眺めることにした。もう彼の話に気付かない振りをする必要もないんだ。そう思うと、心の重荷が取れたようにほっとする。
 肌寒さを感じ、コートを上から羽織る。これからまた一気に気温が下がるんだろう。そのことに気分が重くなりながら、教科書の続きを読もうとしたときだった。教室の扉が開く。扉のところには見慣れた二人の少女がたっていた。
「ごめんね。遅くなっちゃって」
 晴実は軽い足取りで私のところまでやってきた。その後ろを百合がついてくる。二人とも先生に分からないところを聞きたいらしく遅くなると言っていたのだ。
「いいよ。気にしないで」
 私は読んでいたテキストを鞄に片付けようと閉じたとき、晴実の影が私の教科書の裏表紙にかかる。彼女は机の隅に手をかけると、身を乗り出してきた。
「卒業旅行の話だけど、由佳は海か山か遊園地どれがいいか決めた?」
「考えたけど、決められないかな」
 晴実は目を細めると、私の前の席に座る。膝の上に置いた鞄からクリアファイルに入ったものをおおっぴらに取り出す。旅行に関係するものが幾つか入っているのだ。その中で旅行の情報誌を取り出すと、私の机に広げる。先生に見つかったらかなり怒られそうな気がするが、彼女はあまりそうしたことは気にしない。そのとき、百合が遅れて私の席に到着する。彼女は私の隣の野木君の席から椅子だけを引っ張り出すと、私の机の寄せた。
「確かにまずは受験があるからね」
 百合は少し困ったように微笑んだ。
「早めに予約していたほうが安いんだもん。春は日帰りで行って来年の夏休みとかでもいいんだけど。でも、両方でも楽しそうかな」
 晴実らしい言葉に思わず笑みを漏らす。
 受験が終わった後、旅行に行こうと言い出したのは晴実だった。だが、アルバイトなどもしていないことから、そんなにお金はないということで安いプランを練っているみたいだった。交通費を抑えるために一馬さん誘おうという段取りまで決めてしまっていた。女三人に一馬さん一人ではいにくい気がするけど、一馬さんならあまり気にしないような気がしなくもない。それか私のお姉ちゃんに送ってもらってはどうかという話もあった。お姉ちゃんは旅行が好きなので、それが無難な気がしなくもない。姉に相談すると、直前に言ってくれればいいとのことだった。
 百合も晴実も私に対して冷たい態度をとることも叱ることもなかった。木原君の話題も出てこない。私のことを気遣ってくれているのだろう。その優しさを見に沁みながら、もうしわけない気持ちでいっぱいになる。他にも状況は少しずつ変わっていた。私に対する悪意の言葉も聞こえてこなくなっていた。ただ、私の耳に届かなくなったのか、悪口自体がなくなったのかは明らかでない。希実とは話をするが、前ほどは話をしなくなった。木原君ともあまり話をしなくなったのは感じていたが、そのことに触れることはできなかった。ただ、同じクラスの中で話をする子として彼女に接していた。
「由佳の誕生日もあるんだから、盛大にしないとね」
「誕生日は私の家にきたら? 受験の後ならケーキや好きなものを作ってあげるけど」
「じゃあ、チーズケーキがいいな」
「あなたの誕生日じゃないんだから。作るのは由佳の好きなケーキだって」
 そんな漫才みたいな会話を繰り広げる二人に思わず笑みを漏らす。さっきまで凝り固まっていた気持ちがほぐれていくのを感じていた。
 そのとき、百合と晴実が顔を合わせる。晴実は立ち上がると、私を見て目を細める。
「折角待っていてもらって悪いけど、もう少し遅くなりそうなんだ。だから先に帰っていていいよ。ごめんね。今度、何かをおごるから」
 晴実が私の前で両手を合わせる。
 もう時刻は五時近くになっていた。あまり家に帰りたくなかったが、待っておくと言うと二人に余計な気を使わせてしまうことになるかもしれないと思い、素直に帰ることにした。
「分かった。気にしないで」
「考えておいてね。これ貸すから時間のあるときにでもみておいてね」
 苦笑いを浮かべると、それを鞄に入れることにした。
 二人はもう一度私に謝ると、慌てて教室を出て行く。
 誰もいなくなった教室で、ほっと息を吐く。そして、すぐ隣にある窓の鍵を開けると、窓を横に引く。窓から入ってきた冷たい風が私の髪の毛をまくし立てていく。目の前のグラウンドではサッカー部が練習をしている。
 こんな時間もあと高校生活で数えるほどなのだと思うと、今の何も対象物もなく観察することさえ、愛しい時間に思えてくるのが不思議だった。
 木原君のことをすぐ意識してあっという間に二年間が過ぎた。だが、彼と別れてからの時間は同じ時間が流れているとは思えないほど緩やかだった。時間があればすぐに彼のことを考えてしまうことに苦笑いを浮かべながら、窓を絞めようとしたとき、窓に人の姿が映っていた。振り返ると、いつの間にか教室内にいた野木君と目が合う。彼は初めて話をしたときよりも一段と落ち着き、今では同じ歳ということも信じがたいくらいだった。
「まだ残っていたんだ」
「いろいろとね。もう帰るなら、一緒に帰ろうか」
「そうだね」
 彼の言葉にうなずき、窓を閉める。狼一号
 私たちは教室の戸締りをすると、帰ることにした。鍵は先に彼が取ってしまい、私は先に教室を出る。廊下はがらんとして、冷たさだけが漂っている。すぐに野木君が出てきた。彼が鍵を閉めるのを確認し、私たちは教室を離れることにした。
 野木君と最近、よく話をするからか、木原君が私の家を出て行ったのは私達がつきあっているからだという噂もあった。もちろん否定し、すぐに立ち消えになったが、よからぬ噂に彼を巻き込んでしまったことが申し訳なかった。
 廊下や階段の電気も落とされ、頼りになるのは窓から入ってくる頼りない光だけだった。私は足元に気をつけながら、階段をくだろうとする。
「北田たちが心配していたよ」
 私は頷き、一段下る。
「心配させないようにしているのにね」
 彼の言葉にいびつな笑顔を返すことしかできなかった。
 木原君が出て行って以降、私の周囲の人が私を気遣っているのが分かる。晴実が積極的に卒業後の話を持ってくるのは私に気を使っているからなのだろう。彼女たちと一緒にいるのも楽しいはずなのに、彼がいなくなった高校に、大学。その世界に現実味はなかった。
 長い階段をくだり、やっと踊り場に到達する。そのときなんとなしに近くにある窓ガラスを見ると、自分の顔を確認できた。自分の顔をこうやってみたのも久しぶりだった。あまり昔と変わらないが、少しだけ頬の辺りが痩せたかもしれない。
「あれから雅哉とほとんど話をしていないんだよな」
「家を出て行っちゃったし、きっかけもないしね」
 私が話しかければ話をしてくれるかもしれないが、今更合わせる顔もなかった。それに彼が私と話をしたくないと思っている可能性だってある。
「鍵は返しておくから、靴でも履いていろよ」
 私は彼の言葉にうなずき、自分の靴を履きかえる。いつの間にか古くなったローファーを見て、息を吐いた。
「帰ろうか」
 声をかけられ、振り返るといつの間にか野木君が立っていた。足元を見ると、もう既に靴も履き替えている。
 昇降口を出ると、冷たい風が流れてきた。私はマフラーを結び直す。もうすぐクリスマスだ。いい加減木原君のために買ったセーターを捨てないといけない。もう彼にあげることもないんだから。
「旅行先、決まった?」
「うんん。まだ。私に決めろって言われちゃった」
 野木君は私の言葉に笑っていた。いつの間にか彼の髪の毛も風により乱されていた。彼の首には黒のマフラーが巻かれている。
「楽しい旅行になるといいな」
「でも、夏のほうがいい気がするんだよね。晴実は引越しもあるのに」
「春に片付けておきたいことがあるんじゃない」
「旅行を?」
 彼は首を横に振る。彼の言っていることの意味が分からなかった。晴実達から何か聞いているのだろうか。
 部活動のない生徒は帰宅を終えたのか、門のところに向かう人はほとんどいなかった。辺りはもう暗い色が包み込みつつある。その暗闇が人の声だけを飲み込んでしまったように、辺りは静まり返り、私達の足音と、風の流れだけが響いていた。
「君は」
 野木君がそう言って声を出して私を見た。だが、彼の言葉の続きがいくら待っても聞こえてくることはなかった。不思議に思い彼を見ると、彼の視線は私ではなく背後に向いていたのだ。振り返り、彼が言葉を失った理由に気づく。木にまぎれるように私の視界に先に入ってきたのは男の人と、女の人。女の人は後姿しか見えず、誰だかわからない。だが、男の人の姿は今までに何百回も見てきた人だった。彼は困惑した表情で、目に前に立ちすくむ少女を見つめていた。
「私、先輩のことがずっと好きだったんです。だから受験が終わってからでいいからつきあってほしいんです」
 少女の震える声を聞きながらも彼は困った表情を崩さない。彼の表情を見ていたら断るつもりなのだと分かった。もう関係ないはずなのに、彼のそんな表情を見ると安心する。安心している自分の心に罪悪感を覚えていた。
「ごめん。君とは付き合えない」
「大学に行くまででも、一日だけでもいいんです」
「ごめん」
 彼は首を横に振る。
「田崎先輩とつきあっていたという噂は本当なんですか?」
 そのとき、彼の困った顔が一瞬だけゆがむのが分かった。
「そんなことはないよ。俺と彼女は関係ないから」
 彼は軽く頭を下げると、それ以上は彼女の話を聞く気にはならなかったのか踵を返しその場を後にした。木原君は振り返ることもしない。彼の向かう先には裏門がある。そこから帰るのだろう。女の子は木原君の後姿を目で追っているのか、動こうとも、言葉をかけようともしなかった。
 彼が私との関係を否定したことは、彼との時間をすべてなくなったものにされているような気がし、思わず唇を噛んでいた。学校でつきあっていることを隠してほしいとも、彼との関係をゼロにしようとしたのも私なのに、身勝手さが嫌になる。
 肩を軽く叩かれ、顔をあげるとかすむ視界の中に野木君がいた。
「あの子と目が合ったら気まずいだろうから、先に帰ろうか」
 女の子は相変わらずその場に立ち尽くしていた。先ほどまで握られている拳の位置が上がっていることに気付き、胸が痛んだ。ここで私達が聞いていたことを知ったら、彼女はもっと傷つくかもしれない。私達は足早に門をくぐると、言葉を交わさずにしばらく歩いていた。
 五分ほど歩いたとき、野木君が足を止めた。彼につられるように足をとめ、彼を見る。
 彼は息を吐くと、天を仰いでいた。
「あいつはまだ君のことを思っていると思うよ」
「そんなこと。さっきだって無関係だって言っていたし」
「それは君が学校では黙っておいてくれと言ったからだよ。あいつとはつきあいが長いから、見ていたら分かる。家を出て行ってもいつも君のことを気にしていたから」
 その言葉に今まで必死に忘れようとしていた恋心が震えるのが分かった。必死にその言葉を心の中を打ち消そうとする。
「嘘だよ。目を合わせようともしなかったから」
「嘘じゃないって。俺がそういう嘘をついてメリットとかあると思う?」
 突然、私の手を彼が掴んでいた。力強く大きな手だった。そのときの彼の瞳は私の苦手なものだった。
「野村に夏前に言われたんだ。本当に好きなら、力になってやってくれってさ。別の人を好きになれれば、君が笑ってくれるかもしれないからって。今日も気分転換に俺に一緒に帰ってやれっていうくらいだから。 自分のことは気にしないでいいからって」
 今日の百合と晴実のことを思い出し、胸が痛んだ。晴実の気持ちがまだ彼にあることを知っていたからだ。巨根
「正直言うと、俺を見てくれる可能性があるなら、それでもいいって思っていた。でも、ここ何ヶ月君たちを見ていたら分かったよ。俺じゃだめなんだってさ。そんな期待するだけも無駄なんだって」
 私は何をするでもなくただ彼に見入っていた。彼に好きだといわれたのも一度だけで、それ以来それっぽい態度を取ることはなかった。だからもう私のことなんて忘れたのだと思っていた。
「どうしてそんなことを言うの?」
 彼の落ち着いた声は、心の弱い部分を刺激する。つい甘えたくなる。そんな情けない声を出させているのは先ほどまで眠っていた木原君を好きな気持ちだった。
「それは君だって分かっているんじゃない。君が雅哉をずっと目で追っているのと同じ理由だと思うよ」
 彼はそう寂しそうに笑っていた。
 忘れたいのに忘れられないから。どうしてこんなに弱くて情けない私を好きでいてくれるんだろう。私はみんなに甘えて、助けられて迷惑をかけてばかりだったのに。今でも過剰に人に心配をさせているのに。
「私は木原君のことなんてなんとも思ってない」
「じゃあ、試しに俺と付き合う?」
 私は彼を見た。
 彼は真っ直ぐ私を見据えていた。
 その言葉に私の心が震える。だが、その疼きはすぐに収まっていた。これは木原君を好きな気持ちとは違うのだと気づく。
 彼のことは好きだった。木原君よりは話も合うし、傍にいてくれる。私の気持ちを言わないでも分かってくれる。晴実のこともあったが、それだけではない。私の恋心は今でも木原君で満たされ続けていることに気づいてしまったからだ。私の気持ちが届かないことも、このままでは彼に二度と会えなくなることも分かっている。それでも彼が好きだった。
「ごめん」
 熱くなった目頭から涙が落ちないように注意を払い、何とか声を絞り出す。
 彼の手が私の腕を放し、頬に触れた。その手は大きく、私の頬をすっぽりと覆い隠す。
「初めて会ったときさ、君のことなんてバカな子なんだろうって思った」
「コンタクトの話?」
「そ。授業に遅刻してまで、見知らぬ奴のものを必死に探して。その後、遅刻の罰で用具の後片付けをさせられると分かっていたはずなのに」
「困っていたから。コンタクトは高いし。別に体育に遅刻しても怒られるだけですむけど、壊れたら困るから。もっとも探していたときは体育のことさえすっかり忘れていたんだけどね」
 そんなの誰が考えても分かるほど、簡単なことだった。
「君は自分が満足するなら遅刻しようがお構いなしだし。北田のこともまあよくやるなとは思ったよ。他にも君の噂はいろいろ聞いたことある。やっぱり君はバカだし、それにおせっかいだと思うよ」
 そう言われると、恥ずかしい過去の断片を表に出された気がして顔が赤くなるのが分かった。
「でも、そういう君だから好きになったんだと思うよ。だから、そんなに自嘲的にならなくて、自分の素直な気持ちを受け入れて、雅哉に伝えたいいんじゃないかって。不安ならそういえばいいし、行かないでほしいならそういえばいい」
「でも、そんなことを言ったら困らせてしまうから。木原君が悲しい顔をするから」
「好きだから、そんな顔を見たくないんだろう?」
 彼の問いかけに反す言葉もなかった。彼の言葉が嫌なほど当たっていたからだ。
 彼は私に触れていた手を離す。
「俺もその気持ちは分かるよ。雅哉のそんな顔も見たくないけど、君のそんな顔も見たくない。俺は君の笑った顔が好きだったんだから」
 彼はそこまで言うと、ゆっくりと歩き出す。私は彼の姿を追うことにした。彼の足音が夕日にとけていくように静かに響く。その彼の足音に少し遅れ歩いていく。
「それはきっと雅哉も同じで、どんなわがままを言われるよりも堪えたんだろうなって思う。自分のせいで相手にそんな暗い顔をさせていることは分かっていたと思うからさ」
 彼はそこで一度言葉を切る。
「君が雅哉とのことを終わらせたくないなら、言いたいことを今のうちに何でも言ったほうがいいと思うよ。君がどんなにわがままを言っても、困ることはあっても君を嫌うことはないと思うよ。君の正直な気持ちを分からないままでいるほうが辛いんじゃないかと思うから」
 その言葉に視界がにじむ。
 ずっと前、彼は木原君のことを頼むと言っていた。そして、私に自信を持てとも言っていた。私は彼との約束を何一つ守れなかったのに、こうして優しい言葉をかけてくれている。
「さっき、私に自分の気持ちを自覚させるためにわざとそういうことを言ったの?」
 私の言葉に彼は「さあな」というと曖昧な笑みを浮かべていた。
 彼は遠回りなのに私の家の前まで送ってくれた。家の前で彼を見送り、家に入る。家の中には誰もいなかった。ひっそりと静まり返った階段をのぼり、二階に行く。だが、いつもなら目をあわせようとしない隣の部屋の扉を確認し、ノブにかけていた手を離す。
 半年振りに冷たいノブに手をかけると、その冷たさが手の熱を奪っていく。それでも気持ちを引き締め、木原君の部屋に入る。殺風景な部屋が目に飛び込んできた。木原君の使っていた頃の部屋を思い出し、目頭が熱くなる。
 私が木原君に自分の気持ちや考えていることを素直に伝えられないことが全ての要因だった。もっと勇気を出して彼に気持ちを伝えれていればこんな結果にはならなかったかもしれない。だが、いまさらという気持ちがぬぐえない。彼の気持ちの所在も分からないのに。
 私は床に座る。そして、木原君と一緒に勉強をしたテーブルに触れる。
「木原君」
 私は今はもう使われていない机に顔を伏せていた。
 暗闇の中に電話の音が響く。顔をあげると、あたりは真っ暗になっていた。いつの間にか眠ってしまっていようだ。私は音を頼りに鞄から携帯を取り出すと、光に照らされた名前を確認する。彼の名前をこうしてみるのも久しぶりだった。
「急だけど、明日ちょっとだけ出かけない?」
 彼は単刀直入に話を切り出してきた。
「え? でも」
「たまには俺のわがままにつきあって」
 私に有無を言わせないタイミングでそう切り出してきた。彼にそういわれると断りにくかった。
 彼は明日の八時に駅でというと電話を切ってしまった。朝の八時というとかなりの早い時間だった。買い物に行くにいしてもお店なども開いていない。何をするんだろうと思ったが、明日になれば分かると思い、深くは考えなかった。
翌朝、彼は駅に行くと、黒のブルゾンにジーンズという格好で迎えてくれた。一馬さんに会うのは久しぶりだった。彼はそんな時間の空白を感じさせないほど、慣れ親しんだ笑顔を浮かべていた。
「どこに行くんですか?」
 私が切符を買おうとすると、目の前に切符を差し出す。そこに記されていたのは私の祖母の住んでいた場所の近くの駅名だった。
 嫌な予感を抱えながら彼に問いかける。
「何しに行くんですか?」
「昔話をしに行くだけだよ」
「話なら、私の家でしましょうよ」
 彼は自信に満ちた笑みで私の顔を覗き込む。
「由佳ちゃんって、俺の母親にあれこれ喋ったらしいね」
 その言葉に返す言葉もない。戸惑いながら彼を見ても、まったく動じた様子もない。彼は是が非にでも私を電車に乗せようとしているんだろう。勃動力三體牛鞭
「分かりました」
 私たちは改札口をくぐると、その足でちょうど入ってきた電車に乗る。電車の中は早い時間であるからか、席もまばらにしか埋まっておらず閑散としていた。そのことにほっとし、席を決めようとしていたとき、電車の扉が蒸気音と共にしまる。
「さっきの続きだけどさ。感謝しているから。本当に」
「そんなこと早く言ってくださいよ」
 絶対彼はわざとこのタイミングで間をとったはずだ。
 私は頬を膨らませ、彼を睨んだ。
「だからせめてもの恩返しがしたかったんだ」
 彼はそう笑顔で返す。彼にそんな笑顔を浮かべられるとやっぱり弱い。
 彼は私と木原君がどうなうことを望んでいるのだろうか。
 電車が揺れ、動き出す。もう今更帰りたいとも言い出せずに、半ば諦めて一番手前の四人で座ることのできるタイプの席に座ることにした。一馬さんは私の斜め向い側に腰を下ろす。私は流れる景色を見ながら口を開く。
「一馬さんは私と木原君がよりを戻して欲しいとでも思っていますか?」
「まあね。あいつも君のことも好きだから」
「私が他の人を好きになったら怒りますか?」
 そんな気になったことはない。昨日のことがあったからか聞いてみたくなった。
 彼はゆっくりと首を横に振る。
「別に怒らないよ。それで由佳ちゃんが幸せならね」
 一馬さんはそう言うと、笑っていた。彼もまたわかっているのだ。私の幸せに彼が欠かせなくなっていることを。
 私は熱くなる目頭を押さえることしかできなかった。
 駅を出ると、人気がなく閑散としていた。ここは昔とほとんど変わらない。
 私に声をかけ、歩き出した一馬さんの後を追う。だが、すぐに彼の歩いた道筋は、木原君と一緒に来たときに歩いたものだと気づいた。電車の中でも感じていた嫌な予感が形になるのを実感しながら、彼の後をついていくことにした。彼の足はある家の前で止まった。それは私の予感を具体化したものだった。
「木原君の両親に会えとか言わないですよね?」
 彼はキーホルダーのついていない銀色の私に鍵を見せた。
「今日は出かけてもらっているから大丈夫だよ」
 私は胸を撫で下ろす。
 一馬さんは鍵を開け、木原君の家の中に入る。私もその後に続いた。家の中もあれから一年以上経つのが分からないほかわらなかった。彼はリビングには入らずに、階段をあがっていく。私もその後をついていく。階段をあがり終えたところで、彼に問いかける。
「どこに行くんですか?」
「雅哉の部屋」
「人の部屋に勝手に入っていいの?」
「親の許可を得ているから大丈夫」
 一馬さんはそう言うと、三番目の部屋を開けた。そこは部屋というよりは荷物置き場といったほうが正しいかもしれない。学習机や本棚、ベッドなどが置いてあり、今でも使える状態にはなっているが、その脇にはダンボールなどが積み重ねてあったのだ。中には送付状がついたままになっているものもあった。木原君の部屋に入ったのは初めてだった。ここで彼は幼い日々を過ごしていたんだと思うと、いいようのない郷愁に似た気持ちが芽生えてきた。
「昨日、敦から電話がかかってきてさ。いろいろ頼まれたんだ」
「野木君から? でも、面識があったんですか?」
「何度か会ったことあるよ。百合に連れられてね。百合っていうよりは晴実ちゃんのほうが正しいような気がするけど」
 私が理由を聞く前に、彼は箱からまるめられた画用紙を取り出した。その端は少しよれており、新しいものではないことが分かった。それを広げると、私に渡す。それは線と点で描かれた女の子と男の子の絵だった。髪の毛の長さや背格好から子供ではないかと直感的に思っていたのだ。
「これって何?」
「母の日に雅哉が描いた絵」
「母の日?」
 母の日といえば、お母さんの絵を画用紙に描いた記憶がある。だが、子どもの絵だからか、女の子らしい子は母親には見えなかった。むしろ、男の子と同じ背丈のようにみえる。
「お母さんには見えないですね。奈々さんを描いたんですか?」
「それは君と雅哉だよ」
 意外な答えに一馬さんを見ていた。彼は笑顔を浮かべていた。
「あいつの母親が出て行って、すぐに幼稚園の母の日があったんだ。幼稚園の先生は父親の絵を描けばいいと言おうとしたんだけど、その前にあいつが描いたのがこの絵。自分にはお母さんがいないから、お母さんができるようにお願いしたときの絵を描いたって言っていたよ」
 私の脳裏に恥ずかしい記憶が蘇る。
「適当なことを言ってしまって悪かったと思っています」
 子供の絵空事ではすまずに、形としてここに残ってしまっていたことに申し訳ない気持ちでいっぱいになってくる。私は本当にいろいろかき乱してばかりだった。
「実際そんなわけじゃないみたいだよ」
 私は意味が分からずに一馬さんを見た。
「雅哉は知らないだろうけど、この絵の話を聞いて、あいつの今のお母さんがお父さんとの再婚を決めたって聞いたことあるから」
「そうなの?」
「らしいよ。あいつが自分のお母さんがいないから、と言ったのがショックだったみたいだからさ。それだけではないと思うけどさ、いいきっかけにはなったんじゃないかな」
「それって私のせいってことなんじゃ」
 一馬さんは私の頭を軽く叩く。
「そうやってすぐ君は気にする。今、奈々さんが幸せならそれでよかったんだよ」
 その言葉をあの夏の日に木原君のお母さんから聞いたことがあった。その言葉に助けられた気がして、ほっと息を吐く。
 一馬さんは腰を落とすと、私と目線を合わせてくれた。彼の優しい瞳が私の姿を捉えている。
「雅哉は君に会って変わったよ。母親のことに限らず泣き虫だったけど、あいつはあまり泣かなくなった。さすがに君との約束は果たせないと小学校に入るくらいには気づいたみたいだけど、、君には会いたいと思っていたと思うよ」
「でも、あんないい加減なことを言ったのに」
「あのときの君は心からそう望んだのだろう?」
 私は頷く。そのときは素直な本心だった。
「建前じゃない本心ってすぐに分かるから。その気持ちが嬉しかったんだと思うよ。でも、君に再会できて、あのときのことを話すかと思ったらなかなか打ち明けられないし。だから、奈々さんに頼んで、アルバムを君の家におくってもらったんだ」
「あれって一馬さんがそうさせたの?」
 一馬さんは頷いた。
「気づくかもしれないかって思ってね。由佳ちゃんが雅哉以上に鈍いことに驚いたけど」
「ごめんなさい」
「君らしくていいと思うよ」
 私らしくと言われてもものすごく情けない気持ちでいっぱいになってきてしまった。
 私は彼の台詞からひっかかる部分を思い出す。
「木原君のお母さんも知っているの?」
「お母さんどころか、お父さんもね。なにせ幼稚園のときだからね。それが田崎さんの娘ということは知らなかったみたいだけど」
 一馬さんは話を続ける。
「雅哉は君が自分のことをなんとも思っていないって思っているみたいだけど、そういうわけではないよね。君も雅哉も不器用だから、言いたいことを言えずにすれ違ったんだろうなってずっと思っていたんだ。君がこのままでいいと思っているなら、深くは追求しないけど。君が知りたいことで、俺が知っていることなら教えるよ。他の人には言わないから」
 彼にそう言われると意地を張ろうとする気持ちも起きてこない。いつも優しく接してくれた彼に私の中に疑惑が生まれた二つのことを素直に聞いてみたくなった。
「木原君は昔からチョコレートとか断っていたの?」
「明らかな義理以外は断っていたと思うよ。最近は義理でも受け取らないようにしていたみたいだけど」
「今年のバレンタインにチョコを受け取っていたの。他の子のチョコは受け取らなかったのに一つだけ。どうしても義理には思えなくて」
「篠崎って子からもらったってやつ?」紅蜘蛛
 彼が知っていることに戸惑いながらもうなずいていた。
「それは君にも責任があるんだけどさ」

2013年5月20日星期一

逃亡劇の幕開け

「燕緋(エンヒ)姉、足が病むのか?」姉の髪を梳(くしけず)り、後ろに結い上げながら胡蝶(コチョウ)は言った。
「どうしてそう思うの」
「足、組んでないから」挺三天
 燕緋は部屋にぽつんと置かれていた古びた椅子に座り、肘掛けに両腕を預けていた。一瞬の沈黙の後、ふっと息をつき、滑らかな動きで右足を左膝の上に乗せた。
「そういう気分じゃなかっただけよ」
(強がっちゃって)
 胡蝶は無言で櫛(くし)を滑らせる。
 椅子に座ると足を組むのが燕緋の癖だが、怪我の後遺症で時折、足が痺(しび)れることがある。その状態で足を組むのは辛いらしい。それでも心配をかけまいと気丈に振る舞っていることを、胡蝶は良くわかっていた。
 妹の心中を読み取ったのか、燕緋は「舞台に影響は無いわ」と付け加えた。
「だけど、あまり長時間立ちっ放しも良くないだろ」そう言って、ちりちり鳴る簪(かんざし)を挿(さ)してやった。
 燕緋は合わせ鏡で髪型の仕上がりを入念にチェックした。鏡越しに見つめる目が、からかうようにきらりと光った。
「貴方こそ振り付けを間違えて、私の歌を台無しにしないよう気を付けなさい」
「心配するなって。そんなこと、今までにあったか?」
 二人は顔を見合わせ、くすくす笑った。胡蝶は足の悪い姉の手を取って支え、薄布の垂れ幕を潜(くぐ)り、客席のある部屋へと入って行った。

 満月が辺りを明るく照らす夜、その草臥(くたび)れた酒場はいつになく賑(にぎ)わっていた。ほろ酔い加減で寛(くつろ)いだ様子の客が、あちこちの席で談笑している。店の隅には板を数枚重ね、椅子を四つ並べただけの簡素な舞台があり、そこに楽師が現れると騒々しさが 囁(ささや)きの波へと変わった。隣の客を肘でつつき、目交(めま)ぜを交わし合う。
旅芸人の一団がこの田舎町にやって来て一週間が経とうとしていた。漢帝国中で評判だという彼らの芸を見ようと足を運ぶ客は、日に日に増えるばかりだ。
 楽師は四人いた。二胡を持っているのは団長で、顎鬚(あごひげ)を蓄(たくわ)え、穏やかで人の良さそうな表情をしている。笛吹きは、青年と少年の二人。青年は鋭(するど)い目付きをしていて近寄り難い雰囲気があり、少年は目をきらきらさせて堂々と前を向いている。その隣に座る少女は琵琶を抱え、はにかみがちに俯 (うつむ)いている。
彼らが奏でる音楽も心地よいものだったが、大半の客の目当ては他にある。奥の部屋から衣擦(きぬず)れの音と共に歌い手と舞い手が現れると、男性客は皆そわそわし始めた。
 歌い手の燕緋は緑の艶(つや)を帯びた黒髪で、瞳は光の射す角度により赤紫に見えたり桃色に見えたりした。甘い毒を秘めた妖艶な笑みを浮かべている。そんな彼女に比べると、舞い手の胡蝶は控え目で清らかに見えるのだが、確かな存在感があり、引けを取らない。大人になりかけた少女で、黒に近い藍色の髪に繊細(せんさい)な顔立ち。猫のように丸く切れ長の目。そして体の内から不思議な光を放っているような高潔さがあった。
 客席がしんと静まり返ると、団長は楽師達に小さく頷(うなず)いた。緩(ゆる)やかな楽の音が零(こぼ)れ出す。胡蝶はゆっくりとした動作で舞い出し、燕緋は一つ息を吸い込んだ。高く艶のある歌声が響き渡る。
  長安  一片の月
  万戸(ばんこ)  衣を擣(う)つ声
  秋風  吹いて尽きず
  総(すべ)て是(こ)れ玉関の情
  何(いず)れの日にか胡虜を平らげて
  良人(りょうにん)  遠征を罷(や)めん
 店中の者はたちまち夢見心地になり、恍惚(うっとり)として胡蝶と燕緋を眺めた。温かな毛布に包まれるような、とろけるような感覚。頭の中に霞(かすみ)が立ち込め、日々の煩(わずら)わしい出来事は全て忘却の海へと流れていく。
主旋律を奏でる二胡と、燕緋の微(かす)かに震える高声が絡(から)み合う。胡蝶は広がった袖を翻(ひるがえ)し、くるりと回った。ふんわり靡(なび)く、空色の裾。長い睫毛(まつげ)を伏せて微笑むその表情が、優雅に袖を振る滑らかな仕草が、少々艶(なまめ)かしすぎる燕緋の歌を柔らかく解(ほぐ)していく。
 繰り返し歌い舞い、終わりに差し掛かる手前のことだ。大きな音を立てて、扉が勢いよく開いた。音楽はぴたりと止み、客は夢から覚めたようにはっとした。外に立っていたのは、体格のいい男達だった。髭(ひげ) や髪が伸び放題で、どこかから剥(は)ぎ取ってきたのかちぐはぐな格好をしている。荒々しさから、賊の集団であることは嫌でもわかる。
「おい、金を返してもらおうか」頭目らしき男が、芸人達に向かって言った。脅すように轟(とどろ)く声に、店内はぴりぴりと緊張した。平和な田舎町に盗賊が姿を見せるなど皆無 (かいむ)に等しく、ほとんどの客がどうしてよいかわからず呆気(あっけ)に取られていた。
 団長が「何の事ですかな」とやんわり尋ねる。
「昨日、お前らに払った金に決まってるだろう。そこの女の歌を聞いたら頭がぼうっとしちまって、帰って気づいてみりゃ、財布の中身がすっからかんだ」
「お頭、こいつらの目と髪の色、普通じゃありませんぜ」
 男達は胡蝶の藍色の髪、瞬(またた)く間に色を変える燕緋の瞳を注視し、楽師の方へ視線を移す。団長の暗い銀の髪とボルドーの瞳、笛吹きの青年の灰色がかった茶の髪と金の瞳、そして少年のクリーム色の髪と青紫の瞳という風変わりな色合いで確信する。
「やはり妖力持ちか。妖術を使って、お頭をたぶらかしたな」
 彼らの目が少年に止まった時、星 (シン)はむっとして下唇を噛み、笛を強く握り締めた。その上に小さな手がそっと置かれる。なだめるように手を重ねる琵琶の少女に、星は力を緩(ゆる)め、彼女に囁(ささや)く。「あんな客、昨日来てたかな。玉兎(ユイト)?」
「ううん。あの人達なら目立つもの。見てたら覚えてる」
 玉兎は真っ直ぐに切り揃えられた前髪を左右に振って答えた。髪も瞳も黒い彼女だけは、漢帝国で一般的な外見をしていた。
 盗賊の言うことは、あながち嘘ではない。燕緋の妖力は歌うことで発揮され、聴く者の心を意のままに操ることができる。しかし舞台上では制御しているため、客が財布の紐を弛(ゆる )めるのは惑わされているからではなく、心からの称賛からであった。そうでなければ妖術を使った詐欺だと捕吏(ほり)が黙っていないだろう。最も、白黒つけ難い事ではあるが。
 舌舐(したな)めずりしそうな顔で、男達は威圧的に仁王立ちしている。被害者のふりをして、逆に稼ぎを横取りしようというのが彼らのやり口だった。妖力持ちが多く、世間から見下された存在である遊芸人は、盗賊にとって恰好(かっこう)の餌食(えじき)なのだ。
 「客人、申し訳ないが――」団長は事を荒立てないよう、しかしきっぱりと断ろうとした。だが、燕緋が途中で遮(さえぎ)った。
「そういうことでしたら致しかねますわ。お代の額は、客人にお任せしておりますの。例え、その場の乗りであったにせよ、一度、私に付けて戴いた価値を下げる訳には参りませんもの」
 眉根を寄せて、黙るよう訴えている団長に対し、この人達に気を遣うだけ無駄よ、と燕緋は薄く笑った。
 彼女の悠々(ゆうゆう)たる態度に苛立った頭目は鼻息も荒く、歩み寄ってくる。一歩一歩近付くのを、全員が目を逸(そ)らすことなくじっと見つめていた。客ははらはらする思いだったが、胡蝶と燕緋は立ったまま身じろぎもせず、背後の楽師は立ち上がろうともしない。しかし彼らの指は、ある物を求めて密(ひそ)かに動いていた。団長は二胡の棹裏(さおうら)に、星は帯の下に、玉兎は腰の鎖飾りに。燕緋はまだ口元に笑みを浮かべる程、冷静だ。胡蝶も息を潜(ひそ)めて待っていた――耳元で別の声が合図してくることを。
「まぁまぁ、お客さん。お止めなさったら」
「うるせぇ!黙ってろ」
 グラスを拭きながらのんびりした口調で言う店主に、男は吼えた。
 一瞬の隙に、胡蝶はひらりと燕緋の前に立ち、庇(かば)うように手を伸ばした。「客人。このお方は鳥は鳥でも高貴な緋(あか)き燕にございます。お手を触れずにご鑑賞下さい」
「何だと?」頭目の片眉がぴくりと動いた。胡蝶は射抜くように見上げ、礼儀正しさをかなぐり捨てた。
「汚い手で触んなって言ったんだよ」
 酒場は恐怖に凍り付いた。燕緋は初めて戸惑った顔をし、「胡蝶………」と掠(かす)れた声を出した。頭目の怒りは見る間に膨れ上がり、目の前の生意気な少女に拳(こぶし)を振りかぶった。
 その時、急に男の表情が強張(こわば)り、体が痙攣(けいれん )し出した。帯に隠した飛刀(フェイタオ)を引き抜く所だった胡蝶は、少し目を見開いて動きを止めた。VIVID XXL
「失礼。妹が何か粗相(そそう)でも?血の気の多い奴でして」抑揚のない声がした。
 笛吹きの青年、雄黄(ユウオウ)がいつの間にか横に立っていた。そして、男の肩をそっと押す。空いた手で、柳の葉のように薄く尖った短刀を男の脇腹から引き抜いたのを、胡蝶は見逃さなかった。彼がいつ、飛刀を投げたのか。いや、それ以前に彼が少しでも動いたところを誰が見ていただろう。頭目がどさりと仰向けに倒れた時、すでに雄黄の手に飛刀は無かった。
「お頭!」
「きゃあぁ!」
 客席から悲鳴が上がり、同時に芸人達は舞台を飛び越えた。先端が尖った峨嵋刺(がびし)を両手に持った団長が、器用に回しながら、殴りかかる盗賊の攻撃を封じる。剣を抜いた者は、玉兎の鎖状の鞭であっという間に剣を絡め取られ、矢継ぎ早に繰り出す星の飛刀に痛みと怒りの声を上げた。雄黄は燕緋を抱え上げ、「胡蝶!」と叫ぶ。
「わかってる!」
 騒音に負けないよう叫び返すと、帯の間から煙幕弾を取り出し、客席に投げた。灰色の煙がもくもくと流れ出し、視界が塞がれると客は益々(ますます)混乱に陥(おちい)った。それを合図に、芸人達は窓や扉から散り散りに逃げ出す。
「逃がすな!追え!」手下の数人が慌ただしく外へ飛び出して行った。
 煙が薄くなってきた頃にはもう彼らの姿は無く、床に倒れた頭目の男は手下に助け起こされていた。目を開いたまま、引きつった顔で気絶している。奇妙なことに飛刀が刺さったはずの脇腹は、血が滲む程度の浅い切り傷にしかなっていない。
「だから止めろと言ったんだ」店主は首を横に振り、やれやれと溜め息をついた。
 蝃蝀(テイトウ)芸術団は、異端で有名だった。団員全員が暗器という隠し武器の使い手で、危害を加えようとする者には果敢に立ち向かうのである。
赤い提灯(ちょうちん)が並ぶ通りを避け、芸人達は暗く人気の無い路地に駆けこんだ。風のように速く、軽い身のこなしで追っ手から十分な距離を取る。走りながら、団長が言った。「星(シン)、頼んだぞ」
「任せろ」星は口の端を吊り上げて見せると意識に集中した。「一杯喰わせてやる」
 胡蝶(コチョウ)は軒下の木箱を踏み台にして看板に手を掛け、屋根の上に軽々と登った。柔らかな靴で瓦( かわら)を蹴り、音も無く屋根伝いに走る。
「煙と何とかは高い所が好きと言うがな」不気味な声が皮肉交じりに話し掛けてきた。姿は見えないものの胡蝶にとっては何時(いつ)もの事らしく「ここからなら、盗賊共がどっちに行ったか一目でわかるだろ」と言ってほくそ笑んだ。
 盗賊はというと全く別の方向、村の外れに向かっている。彼らは先を走る胡蝶達を追い掛けているつもりなのだ。それが星の妖術により見せられている幻だとも知らずに。
「あははっ」
 嵌(は)められたと気付いて悪態をつく盗賊達を想像すると可笑(おか)しくて、胡蝶は声を上げて笑った。イヤリングが揺れ、月明かりを受けて淡く輝く。
「そんな事より、またおっかねェ客を挑発しやがって。帰ったら兄貴に大目玉だぞ」
「あたしはお前が教えてくれた通りに動いただけ」しれっと答え胡蝶はふと真顔になる。「あの男、燕緋(エンヒ)姉に手を上げるところだったんだろ?」
「まァな」
「燕緋姉が怪我する位なら、あたしが殴られた方がましだ。それにどっちにしろ、危機察知は雄(ユウ)兄よりあたしの方が上手(うわて)だ」
「お前じゃなくて“俺”だろうが」謎の声はふんと鼻を鳴らし、訂正した。
 入り組んだ路地裏の奥にひっそりと佇(たたず)む宿屋の裏口があり、そこで落ち合うことになっていた。胡蝶は一旦、廂(ひさし)に飛び降り、しなやかに地面に着地した。 蝃蝀(テイトウ)で鍛えられた並外れた運動神経と柔軟な身体があるからこそできる技である。暗い路地を駆け抜けていくと雄黄(ユウオウ)の姿があった。燕緋を担いでいたにも関わらず、真っ先に辿り着いたようだ。苦しそうな息遣いで壁にもたれ掛かっている。燕緋は退屈そうに腕を組み、辺りをきょろきょろしている。
 胡蝶の後ろからは、琵琶を肩に乗せた星と玉兎(ユイト)が息を切らせて駆け込んできた。反対側からは、団長が走ってくる。ゼイゼイ喘(あえ) ぎながら「全員っ………いるな?」と一人一人の顔を確認し、ふーっと長い息をついた。
「また………もめ事、起こしちゃったから……もう、ここには……いられないな」星が途切れ途切れに言い、玉兎の琵琶をそっと下ろした。
「おれ、この町……けっこう気に入ってたのに………。うるさい捕吏(ほり)も、変な客もいなくてさ………」
「昨日までは、ね………」玉兎は苦笑いし、顔に掛かった髪を掻(か)き上げた。
「丸一週間居られたんだから、今回は長いほうよ」皆、息が乱れてまともに話せない中、自分の足で走っていない燕緋はすらすらと言葉を紡ぐ。
 団長は小脇に抱えた愛用の二胡に傷が無いか確かめ、裏に返した。よく見るとホルダーが付いており、彼はそこに先程、活躍した鉄製の武器を固定した。ぱっと見はごく普通の楽器で、暗器を仕込んでいるとはわからないだろう。玉兎は鎖状の鞭を腰に巻き直した。朱塗りで細やかな牡丹の花が彫刻され、これまた装飾品にしか見えない。
「それ、重くないか?」
「慣れれば何ともないわ」玉兎は朗(ほが)らかに答えた。
 胡蝶の言い方に、気遣いだけでなく興味を聞き取った星は「また新しい戦法、習得しようとしてる?」と呆れた。
「これ付けたまま踊れるなら便利だよな。隠す必要が無いし、いざって時にすぐ使える。もうちょっと軽ければなぁ」胡蝶は残念そうにうーんと唸り、星の方を向いて言った。
 その横顔、やや紅潮した頬に黒光りする雫(しずく)があることに、玉兎は気付いた。「胡蝶姉、怪我してる」
 胡蝶はきょとんとし、左の頬に触ってみた。すると大した量ではないが、生温かいものがその手を濡らした。「あ、本当だ」
 酒場での騒ぎで、剣の先か何かが掠(かす)ったのだろう。
「火球(カキュウ)、頼む」
 呟(つぶや)いた途端、頬の赤黒い一滴一滴がビチビチと躍った。掲(かか) げるように差し出した手の平に付いた血も宙に飛び上がり、傷口に吸い込まれていく。痕(あと)も残さず、傷は塞がった。
 胡蝶を見下ろす雄黄の視線がじわじわと厳しくなった。
「お前はもう少し大人しくしていろ。柄の悪い客を追い払うのは俺の役目だ」
「雄兄が遅いからだろ」胡蝶は鼻でせせら笑い、つんとそっぽを向いた。
 次姉の大胆な行動に、星と玉兎は冷や汗を流しつつも尊敬の眼差しを送った。自他共に厳しく強面(こわもて)の雄黄に対して露骨に反抗的な態度を取れるのは、弟妹(ていまい)達の中では胡蝶だけだった。
「それに」と彼女は悪戯っぽく続ける。「あいつらが燕緋姉の方ばっかり見てるもんだから、こっち向かせたくなったんだよ」
 勿論、冗談だ。本気で思っているのなら後が怖い。案の定、燕緋が「私より注目されようだなんて、十年早いわよ」と白く細長い指先で胡蝶の顎(あご)に触れ、視線を合わせた。瞳の色が緋(あか)に変わる。獲物を狩る鷹(たか)の目付き。
(冗談でも言うんじゃなかった)
 内心、後悔しながら胡蝶は満面の笑みを顔に貼り付け、半(なか)ば面倒臭そうに答えた。「ええ。その通りですよ、姉さん」
 二人を睨(にら)み付け、雄黄が何か言おうとしたが、その前に団長が一声放った。「ほらほら。その辺にして部屋に戻るぞ。极光(チーコウ)と薔薇(ショウビ)を待たせちまってるからな」
 団長は戸口に立っていた。すぐに扉が開き「典馭(テンユ)、お疲れだったね」と初老の男が顔を出した。この気前の良い宿屋の主人は裏口からの出入りを許してくれたばかりか、誰にも居所を知られないようにと隠し階段を使わせてくれていた。
「おう。済まねえな」団長は扉を大きく開けた。
「行こう、玉兎」琵琶を担ぎ、星が言った。受け取ろうと手を伸ばした彼女に、おれが持つよ、とにっこりする。
 益々(ますます)険(けわ)しい表情でむっつり黙る雄黄の前を、燕緋が通り過ぎる。 擦(す)れ違い様、横目でじろりと見ながら声を落として言った。
「雄、あの子を盾にさせるようなことはしないで頂戴(ちょうだい)。切り傷なら火球が治せるからまだ良いとして、痣(あざ)なんかできたらどうするの?踊り子は顔も大事なのよ」
「わかっている」
 雄黄はうんざりした。妹に説教をかわされ、仕舞いには姉に叱られるといういつものパターンであった。
 兄と二人だけになると、胡蝶は「ところでさ、あの客…」とやや不安気に訊(き)いた。それは毎度のことなので、雄黄は質問の意味をすぐに悟った。 蝃蝀(テイトウ)で使う飛刀(フェイタオ)の刀身には一筋の血が滲(にじ)む程度の傷を付けるだけで全身に回る毒薬を塗り、焼き入れてある。決まって睡眠薬など害の無いものを使う胡蝶に対し、彼は危険な毒も使うことがあった。
「今日の毒は少々強いが、問題無い。後遺症も出ないだろう」
(良かった)
 胡蝶はほっとして灰色の瞳を和(やわ)らげた。無論、優しくするのが苦手な彼は素知らぬふりをして先に行ってしまったが。
 薄暗い階段は、うんと気を付けても足元がキイキイ軋(きし)んだ。上がりきると引き戸があり、先頭の団長が慎重に開けた。そこは廊下だった。温かなオレンジ色の灯(あかり)が並んでいる。他の泊まり客がいないか確認し、全員を廊下に出した。最後に引き戸を閉めると壁の装飾と一体化し、見分けがつかなくなった。
 手前から二番目の部屋から、微(かす)かな琴の音と歌が聞こえてくる。部屋の戸を二回叩くか叩かないかのうちに音楽は止み、ぱたぱたという小さな足音がして「おかえりなさい!」と少女が開けてくれた。
「おう。ただいま、薔薇。こんな時間まで起きていたのか?」
「はい。极(チー)母さんと歌の練習をしてました」
 薔薇は嬉しそうに目尻を下げ、脇に除(よ)けて団長を中へ入れた。
「薔薇ぃ。ただいま」胡蝶は猫撫(ねこな)で声を出した。両横でお団子にしたピンクブラウンの髪と、ボルドーの垂れ目。末の妹にはいつもメロメロになってしまう。薔薇もとたとた駆け寄って、彼女の腕に抱き付いた。「おかえりなさい。胡蝶姉っ」
 その横を雄黄はさっさと通り抜け、他の三人も苦笑いしながら感動の再会を邪魔しないよう中へ入ることにした。福潤宝
 部屋の真ん中に古筝(こしょう)が置かれ、その前に极光(チーコウ)が座っていた。
「お疲れ様」彼女は立ち上がり、おずおずと微笑む。
 団長が「どうした?浮かない顔だな」と明るく声を掛けると、极光は迷ったものの、結局話し出した。「さっき、花鳥使が来たのよ」
 すぐさま反応したのは燕緋だった。椅子に座ろうと背もたれに手を掛けたまま、ぴくっと肩を震わせて立ち竦(すく)む。
 団長の眉間(みけん)に皺(しわ)が寄った。「ここに泊まっていることがばれたのか?」
「それは無いと思うわ。会ったのは夕方、外に出ていた時でしたから」
「なら安心だ。実はこっちも、居所を知られるとまずい相手ができちまってな」団長は頭を掻(か)いた。
「それで、彼らは何と?」
「また燕緋姉を連れ戻すってか?」胡蝶は舌打ちしそうになった。
 花鳥使とは皇帝が派遣する使いで、国中を巡(めぐ)って美女、特に歌や踊りが上手であれば身分を問わず集めるのが仕事だ。後宮に仕える女性を増やすことで世継ぎを絶やさないようにすることを目的としているらしいが、とうの昔に廃止された職だった―― 十数年前に、現皇帝が取り入れるまでは。
 それ以来、玄武(ゲンブ)帝は政治を顧(かえり)みなくなり、国民の不満は募(つの)るばかりだ。治安も乱れる訳である。
 燕緋もかつて花鳥使の目に止まった、宮廷専属の踊り子だった。足の怪我で踊れなくなったせいで芸団に帰され、今に至(いた)る。その後歌姫に転じ、有名になった彼女を皇帝が連れ戻したがっているに違いない。誰もがそう思ったのだが。
「いいえ」极光は短く否定し、黙り込んでしまった。続きを、胡蝶の腕にしがみついたままの薔薇が言った。「お声がかかったのは胡蝶姉です」
(…………え?)
(…………えぇ?!)
 胡蝶は自分の顔を指差し、暫(しばら)く口をぱくぱくさせてからようやく上擦(うわず)った声を出した。「あたしが?!」
 极光は躊躇(ためら)いがちに頷(うなず)く。「胡蝶ちゃんの評判が皇帝の耳にも入って、とても興味を持たれているそうなの。でも………」
「すげぇじゃん。胡蝶姉」
「もう。喜んでる場合じゃないでしょう」玉兎がたしなめるように星を肘(ひじ)でつついた。
「だって宮廷に仕えれば、ものすごい報酬がもらえるんだぜ。しかもひょっとしたら皇帝の妃候補になれるかも――」
 玉兎が、しっと人差し指を口に当てたので、彼は慌てて言葉を切った。燕緋の前でその類(たぐい)の話はしないことが暗黙の了解なのだ。恐々(こわごわ)、彼女を見ると自分を抱き締めるように腕を組み、遠い目で壁を見つめていた。皇帝に仕えていた頃を思い出しているかのように。
「願ってもない幸運ではあるが………どうする?」燕緋を気にしながら、団長は胡蝶に問う。
「皇帝直々(じきじき)のお召しなら断れないだろう」雄黄が唸った。
(まずい。絶対、まずいって!)
 絶句していると、耳の奥でからからとせせら笑いが聞こえた。
(笑い事じゃないっての!)
 唇を固く結び、心の中で怒鳴り付けると笑い声は治まった。
 彼らが戸惑うことには理由があった。宮中に入る、それは今までのようにあらゆる土地を渡り歩けなくなることを意味していた。胡蝶には一か所に留(とど)まっていられない事情があるのだった。
 薔薇が心配そうに、口を利けずにいる姉を見上げ、遠慮がちに衣装の袖を引っ張った。我に返った胡蝶はそっと妹の頭を撫(な)で、優しく微笑む。心を決め、真っ直ぐに団長の顔を見て言った。
「団長。今まで世話になった。あたしはここを抜けるよ」
コンコン。入り口の戸を叩く音。中年の女主人は宿泊客のリストから顔を上げた。壁の時計は夜の九時を回ったところだ。彼女は気怠(けだ)るそうに机を立ち、掛金を外して扉を細く開けた。
 闇に溶ける色のマントを着た小柄な人物が立っていた。フードを目深(まぶか)に被(かぶ)り、ランプの明かりだけでは男か女か判別できない。
「一晩泊めてほしい」その人は言った。低い、男の声である。「食事は要らない。朝には発つ」
 宿の主人は自分でも何故かはわからないが、男に嫌悪感を抱いた。「悪いけどね、こんな時間に客を泊める気はないよ。他を当たっておくれ」
「部屋に空きは無いのか?」
「無いことはないけど…」彼女は探るように男をじろじろと見て、続けた。「なら、顔を見せてくれたら泊めるよ。ここ数日、捕吏(ほり)がうるさくてね。泊まり客を把握しておくよう言われているんだよ。こっちはごたごたに巻き込まれたくないからね」
 するとフードの下からぎょろりと赤い目玉が覗(のぞ)いた。蛇のような縦長の瞳孔。女主人の心臓は貫かれたように一瞬止まり、すぐに激しく脈打ち出した。
「捕吏が探しているというのは、踊り子の女だろう。俺と何の関係がある?」
 突然、男が凄んだ。その声はぞっとする程に冷たく、背筋が凍り付くようだ。女主人は鳥肌が立つのを感じた。本当にこの男が喋っているのだろか。地の底から湧いてくるような、まるで悪魔に話し掛けられているような気分だった。
 恐怖で口が塞(ふさ)がり、彼女は男を勘定場(フロント)へ通した。客が名を記(しる)す間、震える手で空き部屋の鍵を選んだ。二階の南向きの部屋。
 彼女は恐ろしい瞳に釘付けになり、鍵を受け取ろうと伸びてきた手が、華奢(きゃしゃ)でほんのり桜色をしていたことには全く気が付かなかった。
 客が階段を上がっていく。遠ざかる足音に、女主人は緊張が解け、蒼い顔でへなへなと座り込んでしまった。まだ全身の震えが治まらない。
 勘定台(カウンター)の端にしがみ付いた手が花瓶に触れ、ゴトリと倒れた。花の隙間から水が流れ、勘定台(カウンター)の上を走り、宿泊客のリストに届く。乾ききっていないインクが水と混ざり、男の名はあっという間に読めなくなった。
 部屋の戸に鍵を掛け、客はフードを下ろした。長い藍色の髪が艶(つや)やかに流れ落ちる。ぱっちりした暗い灰色の目をやや伏せ、澄んだ鈴を鳴らす声で言った。「ちょっとやりすぎだったかな、火球(カキュウ)?」
 途端、彼女の周りから黒い煙が吹き出し、血のように赤い目をした竜の姿になった。枝分かれした二本の角と尖った耳。手足は無く、体は煙と一体化している。ニタニタ笑いながら、宿の主人と話した時の不気味な声が言う。
「ああしなきゃ、女だとバレるところだったぞ。胡蝶(コチョウ)」
「今は蘭(ラン)って呼べよ。興行中じゃないんだから」
 彼女は胡蝶とは別人みたいだった。赤いバンダナを頭に巻き、顔周りの髪をすっきりさせている。ターコイズブルーのホルターネックTシャツに、薄茶色のショートパンツ。目鼻立ちが整っていることに変わりはないが化粧気はない。
 蘭は話を戻す。「可哀想だけどあの女主人(ひと)、しばらく震えが止まらないだろうな。お前の目をまともに見ちゃったから」
「悪魔に免疫のある人間なんて、そうそういねェからな」火球は無情にも面白がった。
 悪魔が人間の前に現れることは少なく、存在自体を疑う者もいる程だ。もし望まずにその姿を見てしまうことがあれば彼らの邪気に負け、不安と絶望に駆られたり、体の震えや吐き気を覚えることもある。人間自らが悪魔との契約を望んだ場合でさえ、時が経(た)つにつれ心身を蝕(むしば)まれ、仕舞いには魂を喰われ支配されてしまうと言われている。
 蘭は火球と契約を交わした。敵の多い遊芸人として生き延びる為に、悪意や害意を持って近付く者を瞬時に察する力が欲しかった彼女は、引き換えに全身を駆け廻る血の全てを火球に渡した。お陰で怪我をしても、一滴の血も失いたくない火球が傷を塞いでくれるし、危険が迫れば脈拍の変化で知らせてくれる。
 彼にとって契約は絶対だが、どんな契約にも抜け道はある。そこを掻い潜らせないように常に気を張らなければならないことと、粘っこい物言いに耐(た)えることを除けば、火球は心強いとさえ思えた。
「ところでよゥ、いつまでここにいる気だ?もたもたしてるとすぐ捕まっちまうぜ」
「うん。だけど次の町まで結構、距離がある。何も無い平地が続いているし」
「あそこには匈奴(キョウド)がいるなァ」
(う………)
 蘭は息詰まった。
 糸路(シルクロード)に入り、いくつもの町を経由した。旅費を稼ぐため胡蝶として舞う度に花鳥使に付き纏(まと)われ、宥(なだ)めすかされ、手に負えないとわかると本来は治安維持を役目とするはずの捕吏とも追いかけっこする羽目になった。それでも何とか敦煌(ドゥンファン)までは来た。この先が問題だった。山に囲まれた荒野が続くそこは、匈奴という遊牧騎馬民族の土地。その昔、攻め入られることを恐れた皇帝が城壁を築かせた程、戦闘に長けている。今は漢と友好関係を保ち、君主同士の交流もあるという。つまり彼らは玄武(ゲンブ)帝と接触する機会が多い。あまり関わり合いたくない相手だ。
「匈奴だけじゃねェ。盗賊もいるだろうなァ」
「…………」
 蘭はベッドの端に腰掛けた。そのまま、こてんと横になる。
「だがな」火球はいよいよニタニタ笑いを広げた。「そろそろ腹括(くく)らないとヤバいぜ――ほら、来たぞ」
 蘭は耳を欹(そばだ)てた。
 忍び足で近付く気配。部屋の戸を打ち破り、捕吏が三人転がり込んで来た。剣の柄に手を掛け、ベッドに歩み寄る。盛り上がった毛布をランプの光が照らす。
 追い詰めたぞ、と一気に引き剥(は)がした。だがそこにあったのは、積み重ねた枕の山。捕頭が怒り狂う声が夜の町に谺(こだま)する。
 蘭は、くすりと笑う。「夕方まではあたしがあの部屋に泊まっていたことを、突き止められただけ合格だな」
 彼女は今、襲撃された部屋からそう遠くない宿にいた。起き上がって窓の前に屈(かが)み、カーテンを抓(つま)んで外を覗(のぞ)くと例の部屋には人影がちらついている。何処かに胡蝶が隠れているはずだ、と部屋中の物を引っ繰り返しているような慌ただしい動き方だ。
「か弱い女一人捕まえるためだけに、捕吏まで出してくるなんて。やりたい放題もいいところだよな、皇帝も」吐き捨てるように言い、カーテンをしっかり閉じた。
「誰が、か弱いって?」と火球が混ぜ返す。V26 即効ダイエット
 蘭はそれを無視して考えを巡らせ、すぐに結論を出した。「火球、明日は高昌(トルファン)を目指す。先を急いだ方が良さそうだ」
 火球は、ひゅうっと口笛を吹いた。「匈奴は?」
「明日、考えるさ」
 悩んでいても始まらない。彼女は割り切って明るく答え、ランプを消してベッドに潜り込んだ。
 翌朝早く、蘭は宿を抜け出した。あと一時間もすれば女主人が起き、勘定台(カウンター)にきっちり置かれた一人分の宿泊代金に気付くだろう。直後、昨晩の出来事を思い出し、身震いすることだろう。
 町外れまで来ると、慌涼たる大地が果てしなく広がっていた。緑の目立たぬ地面の茶色と、空の青。
「とは言ったものの、ここからは徒歩じゃ危険だな。隊商(キャラバン)に頼んで連れて行ってもらうか」
 数十頭の駱駝(らくだ)の列を点検し出発しようとしている商人達を見ながら、蘭は言った。
「隊商(キャラバン)ねェ。色々売り歩くよな。絹とか香辛料とか、“人間”とか。指名手配中の踊り子なら高く売れそうだ、って喜んで駱駝に積んでくれると思うぜ」
 流石(さすが)に煩(わずら)わしくなってきた。蘭は口をへの字に曲げ、「安全に次の町まで送ってくれるような信頼できる隊商(キャラバン)を探してくれ。あっ、男ばっかりなのはパスだぞ」と言い、しっしっと手を振って促した。
 主(あるじ)に逆らえない悪魔はぶつぶつ不平を洩(も)らしながら、彼女の先を飛んで行く。
「ヘイヘイ。ったく、注文多いぜ。こんな所に女連れなんて、いると本気で思ってやがンのかよ」
 火球は周りを見た。駱駝の長い列。白いマントに身を包んだ商人達。男ばかりである。だが彼は驚くべき速さで、注文通りの物を捉えた。
「おっ。鴨発見」
「鴨呼ばわりするな」蘭は呆れた。
「いいから、あれ見ろよ」
 火球は鉤爪(かぎづめ)のある手を煙の胴から突き出し、すぐに引っ込めた。彼が指差した先には、車が一台停まっていた。4WD。明るい緑のはずの車体は砂と泥で汚れきっている。その前で男と女が現地の人と話している。いや、その人が一方的に捲(まく)し立てていると言った方が正しいかもしれない。朱(あか)い髪の毛をつんつん立たせた男は、懸命に身振り手振りで何か言っている。
「あ゛~っ!共通語の発達した時代に、何で母国語しか話せないのよぉ、この人は!」金髪の女が頭を抱えた。
 見兼ねた蘭は彼らの元へ向かい「どうしました?」と尋ねた。女は、ぱっと振り返った。蘭は息を呑んだ。透き通った空色の瞳。恐らく西の国の出身だろう。その目が驚きに大きく見開かれ、蘭の姿を映すと安堵(あんど)の光が射した。
「ああ………えっと、この人がわたし達に何か伝えようとしてるんだけど言葉が通じなくて」
 現地の男性は相変わらず、怒っているのかと思う位の勢いで喋っている。慣れ親しんだ漢の言語ではあるが、訛(なまり)が入って聞き取りづらい。
 彼はこう繰り返していた。「案内人(ガイド)も付けずにこの先へ入っちゃいかん。迷うに決まっている。危ないから止めなさい」
(そう言いたくなるのも当然か。人の事は言えないけど)
 と、蘭は思った。二人共、自分と同じ年頃だし、どう見ても外国人旅行者だ。土地に精通しているとは思えない。
 蘭はその人の言葉を二人に伝えた。話が通じたとわかると、彼は釘を刺すような一瞥(いちべつ)を投げ、去って行った。その背中を唖然として見送った男と女は肩の力を抜き、蘭に礼を言った。
「このあたりに住んでる人…じゃないよな。キミも旅行者?」
 髪とお揃(そろ)いの目を蘭のリュックに向け、男が言った。
「まぁね」蘭は彼を仰ぎ見た。男は背が高く、蘭とは頭一つ半位の差がある。
「もしかして一人旅なの?」女は信じられないとばかりに素頓狂(すっとんきょう)な声を出した。
 蘭は平然と肩を竦(すく)めた。「ここからは、そうはいかないけどね。足を探してるところだ」
 じゃあ、と蘭は立ち去ろうとした。すると男が呼び止める。「キミさ、ルートはわかる?高昌(トルファン)までのルート」
「高昌?」蘭は振り返った。そこは彼女のとりあえずの目的地である。
「わかるよ」
「案内できる?」
「出来る、と思う」
 火球が教えてくれるからだけど、と心の中で付け加えた。
「よし。んじゃ、一緒に乗ってけよ。ラクダより速いぜ」と男は親指で車を差した。
「そうね。それがいいわ」ぽんと両手を叩き、女も同意する。
「えっ。でも――」
「いいから、いいから。ねぇ、案内人(ガイド)さん追加するから、席詰めて」女は車内の仲間に聞こえる様に叫び、蘭の荷物を強引に引っ手繰(たく)ってトランクに積んだ。
(案内人(ガイド)って言われる程じゃないんだけど………。その前にこの人達、信用出来るのか?)
 蘭は火球と顔を見合わせた。火球はずっと側にいたが、他の人間には見えないのだ。彼は黒い牙を見せただけで蘭の体に吸い込まれるように消えてしまった。悪意のある人達であれば知らせてくるはずだ。有(あ)り難(がた)くお言葉に甘えることにしよう。
 後部座席に乗り込むと煙草(たばこ)の匂いが鼻を突いた。蘭は煙草が苦手だった。思わず顔をしかめていると、助手席の男と目が合った。彼はすぐに焦げ茶の瞳を逸らし、「名乗ったのか?」とハンドルを握った男に訊いた。
「おっと。いけね」
 朱(あか)髪の男は振り向き、人懐っこい笑顔で言う。「オレはアロド。アロド・ジェイ・スタインカーン」
 左隣に座った女が、空色の片目をつぶって見せた。「フィーリア・ラズウェルよ。リアって呼んで」
「ぼく、ルミエル・エキュレル。言いにくいけど本名だよ」フィーリアの向こう側に座っている少年が、身を乗り出して言った。十一、二歳――蘭の末の妹、薔薇(ショウビ)と同じ位の年だ。
「斎部柾(いんべまさき)」助手席の男はそれだけ言った。
(いんべ?どこかで聞いたような名前………)
 蘭は記憶を辿(たど)った。確かに聞き覚えがあるのに何処で聞いたのかは全く思いだせなかった。
「で、キミは?」とアロドに促され、全員の自己紹介が終わっていることに蘭は気付いた。
「あー………」
 本名を言っていいものか迷った。火球は相変わらず引っ込んだままで、特に警告しない。言っても大丈夫だという合図と受け取り、本名を名乗ることにした。OB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ
「蘭だ。宜しく」

2013年5月16日星期四

生かさず殺さず

ちら、とアンディに視線を向ける。……もう何も言い返す気力はないようだ。
 一番最初の暴言といい、彼の態度は客としてのものではない。はっきり言うなら彼は明らかにディーボルト子爵家を見下している。Xing霸 性霸2000
 考えられる要因としてはディーボルト子爵より身分が上、というのが最有力だろう。
 尤も彼の実家が、ということであり本人は近衛騎士なんだろうけどね。
 目には目を。歯には歯を。
 身分を重要視するアンディ君には最も効果的な報復だったろう。自分で公爵子息に暴言吐いたんだから。
 『知らなかった』なんて言い分は通りませんよ? 公爵家の権力というものが想像つかないので、どうなるかは知らんがな。
 まあ、アメリア嬢よりは現実が理解できているようで何よりだ。
 あの子は相変らず私に敵意の視線を向けてるもんなぁ。 何でも自分の思い通りになると考えている御子様って性質が悪いわ。現実が見えてないもの。
 個人的な感想を言うならアル達が君を選んだらロリコンだからな?
 元の世界なら奴等は社会人の年齢、対してアメリア嬢は中学生。犯罪です。
 特殊な趣味でもない限り社会人が中学生を選ぶ状況はあまり無いと思う。選んだ場合、お姉さんは今とは別の意味で守護役どもにドン引きだ。
 悲嘆に暮れるどころか変態と離れられることを喜ぶあまり泣くかもしれん。私は自分の身が可愛い。
「もう確認は宜しいですか? グランキン子爵殿?」
「……ああ、十分だ」
 セイルの言葉に苦々しく頷くグランキン子爵。目には一層、殺意と敵意と怒りが宿っている。
 だが、罵倒する事は無い。逃げ道を知ってるようだ。
『この状況下での逃げ道』――それはグランキン子爵自身が暴言を吐いていない事。
 料理の愚痴は私個人に対するものだし、『個人の味覚の違い』で誤魔化そうと思えば誤魔化せる。
 赤毛は捨てるとして、アメリアは『子供の我侭』扱いして親が謝罪しつつ宥めてしまえば強く怒れない。実際にアメリアはデビュタントさえしていないのだから、そんな子供相手にむきになる方が大人気ないだろう。
 妻も同じく。叱って謝罪させてしまえば『よく知られていない異世界人のことだから』ということで片がつく。
 一言で言うなら未だグランキン子爵は決定的な失態を犯していないのだ。
 王族の不興はかうかもしれないが元々重要な役には就いていなさそうだし。
「我が妻と娘が御迷惑をお掛けしました。どうか許していただきたい」
「嫌です」
「……」
「嫌です♪」
『……』
 『空気読め!』と味方以外から無言の圧力が来ましたが気にしません。
 え、許す・許さないって被害者が自由に選択できるよね?
 許すわけ無いじゃありませんか、逃げるなんて!
「ミヅキ殿、貴女に言っているわけでは……」
 ないのですが、と顔を引き攣らせながら続けようとした言葉は守護役どもに阻まれた。
「この場の決定権は彼女にありますよ?」
「ミヅキが許すというなら仕方ないだろうな」
「我々だけでなくルドルフ様も宰相もミヅキには甘いですからね……」
 『重要なのは彼女です』と暗に言い切る彼等にグランキン子爵は歯軋りせんばかりだ。
 嘘は言っていないが事実でも無い。元から共犯者の上、魔王様の命令なので許すという選択肢は無いのだ。
 それに。
 この場は私がグランキン子爵に敵認定されることが目的なのです、ちくちくちくちく甚振ってやろう。
 つーか、グランキン子爵よ……自国の王子様の性格くらい把握しとけ?
 守護役達は御丁寧にも魔王様だけ省いたじゃないか、今。
 つまり私が許しても国からのお仕置きはなくならないよ、ということ。今この場で私が許しても魔王様の決定には逆らえませんから!
 安堵させておいてデビュタント後に一気にくるわけですね? えげつないですよ、魔王様。
 逃げ道の先は檻の中。追い立ててるのは私ですが。WENICKMANペニス増大
「呼ばれもしないのに嫌がらせする為に押しかけた挙句、全ての物に嫌味全開な人を野放しになんてできる筈ありませんよ」
「私達はクリスティーナの誕生祝に」
「招待されていなかったのに無理矢理ねじ込んだんですよね? あと、祝いの言葉なんて一言も口にしてないじゃないですか」
「ぐ……そんなことは」
「言ってませんよね、門からずっと張り付いていたのに耳にしませんでしたから! ああ、それからアメリア嬢がパートナー略奪を楽しみにしていた事も聞いていました。本当に最低!」
 『最低!』のところは良い笑顔で言うのがポイントです。ほれ、何とか言え! 
「貴女も相当性格が悪いようですな……!」
「あら、性根の腐った生き物に好意的な態度で接する必要があるかしら?」
「どんな事情があろうとも、もう少し可愛げがあった方がよいでしょうな!」
「世界を違えてさえ揺るがぬ鬼畜評価の私に一体何を期待してるんだ、お前は」
「は……? 鬼畜……?」
 いかん、つい本音が。
「ミヅキは変わる必要なんてありませんよ。そもそも何故貴方に合わせなければいけないのでしょう?」
 腹黒鬼畜な将軍様が無害そうな笑みを浮かべて言うとグランキン子爵はあっさり黙った。
 将軍というだけでなくクレストの者という認識が勝った模様。権力に弱いようです。
 セイルには堂々と『鬼畜のままでいてくださいね』と言われたように聞こえるけどな。
 それにしても。
 ……この程度でアル達が動けなかっただと? どうも腑に落ちない。
 小賢しさはあっても権力行使すればあっさり撃沈するだろう。だとすると考えられる可能性は一つ。
 ――こいつの背後に誰か居る。公爵『子息』では強行できない立場の人が。
 まあ、今は気にしても仕方ない。怒らせるだけ怒らせておくか。
 私にはデビュタント時の余興として生贄を献上する役目があるのです、ここで潰す事は出来ません。
 だから手っ取り早く泣いてもらってこの場から去って貰おうと思います! 
 赤毛の謎も気になるし。……いや、気になるんだよ。実力者の国だから特に。
「そうそう、貴方がディーボルト子爵家を異様に敵視する理由がありましたよねぇ? 元伯爵令嬢にしてディーボルト子爵夫人のアリエル様。彼女が原因だそうじゃないですか」
「な……何を……」
 明らかに顔色が変わったグランキン子爵は夫人を気にしているようだ。夫人も怪訝そうに夫を見ている。
 おや? 夫人や娘は知らなかったのかな?
 そうか、そうか、じゃあ是非とも暴露してあげよう! 素敵な愛の物語だぞ?
「引く手数多のアリエル様はディーボルト子爵を選んで恋愛結婚したとか。貴方は全く相手にされないどころか嫌われていたそうですね。……負け犬どころか選考外なんて無様ですね」
 ざくっ! という音が聞こえたような気がしたけど気の所為です。
「御存知でしたか? アリエル様はとても人気のある方だけあって『下心のある人』には絶対近づかなかったそうですよ。そりゃあ、伯爵家の後ろ盾狙いの顔も頭も性格も悪い男なんて選びませんよね!」
 ……さらに『ざくざく』聞こえたような? 幻聴ですよね、幻聴(棒読み) 
 グランキン子爵、人の口に戸は立てられぬものなのです。奥方どころか奥方の実家にも伝わると思った方がいいですよ?
 少なくとも白黒騎士達は知っています。噂をばら撒く手際も素晴らしいと思います。
 私に抜かりはありません。手加減も遠慮も無いです。
「そのとおりですが手厳しいですね、ミヅキは。我々も気をつけねば」
「あら、選ぶのは男性だけじゃないわよ? 女にだって選ぶ権利があるもの」
「そうだな、政略結婚でも無い限り拒絶はするだろう」
「そ、そんなこと、は……」
 アルとクラウスもグランキン子爵のダメージを労わることなく、更に突き落とす。グランキン子爵に対する評価も否定していないあたりが素敵。
 公爵子息が納得してる以上、きっぱり否定できないよね。ひたすら耐えろ。
「黒い噂が絶えず功績がなければ爵位剥奪の泥舟なんて乗りませんよね! だって……」
 ちら、と顔面蒼白のグランキン子爵に視線を向け。
 冷や汗をかいているグランキン子爵は顔色を変えつつも私の視線に気付き睨みつけてきた。
 はっは、随分と余裕が無いようで。今夜は夫婦喧嘩勃発ですか? 楽しそうですね。
「魅力的な縁談ならアリエル様が断った時点で名乗りを上げる人が絶対いるもの。いくら財力があっても御免ですよ」procomil spray
「き……貴様は! どこまで私を馬鹿にすれば気が済む!?」
「え、そんなことないですよ? 奥方の愛は素晴らしいと賞賛してます。そんな人に嫁ぐなんて愛がなければできませんよね?」
「……!」
 ふふ、反論できまい? 
 さあ! 自分を選んで反論するか? それとも奥方を立てて頷くか?
 後の無い子爵にとって奥方の実家は簡単に蔑ろにはできなかろう。
 どちらにしても『グランキン子爵家』の評判は変わらないから気にすんな? 最低より下は存在しない!
「……そのお話は一体何処でお聞きになられたの?」
 顔色をなくした夫人が静かな声で尋ねてくる。おや、『異世界人の小娘』扱いだった筈なのに言葉遣いが変わっています。
 私に対する敵意を忘れている所を見ると彼女も色々と余裕が無いらしい。
 そっかー、確かに気になるよね。勿論、教えてあげますとも!
「ブロンデル公爵夫人ですよ。アリエル様の親友の」
「そ……そう」
 情報元は公爵夫人。嘘吐き呼ばわりできませんねー、これは。
 まあ、調べれば判ることだしね? 隠してる様子も無かったから知ってる人は多いんじゃないのかな?
 ……ということをついでに教えてみたら完全に沈黙なさいました。トドメになってしまったようです。
「夫婦喧嘩は壮絶かな♪」
「いいのか、あの程度で」
「逃げられても困るし、この騒動を面白おかしく話せばルドルフは許してくれると思うよ? 国に迷惑が掛からないようにしなきゃね?」
 国に対する報告というより限りなく娯楽方向で受け取られることだろう。
 宰相様あたりは私達の玩具と化した事を哀れむかもしれない。 

 ――その後。
「今夜はこれで失礼させてもらう」
 と悔しそうに言い放ち、グランキン子爵達は帰っていった。
 去り際に「覚えていろ小娘……!」と呟いていたのでめでたく敵認定されたみたい。
 捨て台詞まで『お約束』ですよ! どこまで悪役街道突っ走ってくれるか大変楽しみです。
 またねー! グランキン子爵。裏工作頑張ってねー、こっちもやるから。
 なお、アメリア嬢はまだ未練がましく守護役に視線を送り、それ以上に私を睨み付ける事も忘れなかったので彼女も仕掛けてくる可能性がありそうだ。
 構わないけど次は泣くどころじゃ済まないんだけどな?

 そんな感じで悪役御一行は退場していった。勿論、アンディもだ。
 ちらちらと未練がましく見てくるから
「貴方はそちら側の人でしょう?」
 と言い切ってやった。反論は認めん。
 寧ろ近衛騎士としても認めたくないので追い討ちとして馴染みの近衛騎士達に伝えておこうと思います。
 近衛騎士の在り方を憂う故の行動であって告げ口じゃありませんとも、ええ。 西班牙蒼蝿水

2013年5月15日星期三

始まりは盛大に

その日。
 キヴェラはかつてない混乱に見舞われることとなった。

「い……一大事でございます……!」
 躾の行き届いている筈の文官が息を切らせながら駆け込んで来る姿に部屋に集っていた者達は呆気にとられた。精力剤
 キヴェラは大国ゆえに滅多な事では余裕を失わない。重要な案件であれば慎重に審議するし、多少の混乱が起きても人材・物資共にゆとりがあるので冷静に対処できるのだ。
 勿論、それには人脈や他国との繋がりも含まれている。常に優位に立つ側だからこそ、打つ手に不自由はしなのだ。
 それが何故この有様なのだろうか。同僚の姿に危機感よりも驚きが勝るのも仕方ないと言えよう。
「へ……陛下、に……側近の皆様も……お集まりいただきたく……」
「おいおい、落ち着け。集まって頂こうにも内容が判らなければ連絡しようが無いだろうが」
 近くに居た人物が水を差し出すと、男は一気に飲み干し息を整える。その顔は息が切れるほど激しい運動をしたにも関わらず何故か色を無くしていた。
「王太子殿下が……」
「王太子殿下? コルベラに謝罪に赴いているはずだろう?」
「王太子殿下がコルベラにて魔導師に宣戦布告をしたと」
『な!?』
 その内容は誰もが絶句するに十分だった。魔導師はある意味災厄だと認識されている。それを知らぬは余程の無知か、自分に自信を持つ余り思い上がった愚か者だけだろう。
 つまりはそういう存在だと認識される程度の傷跡を歴史に刻んでいる、ということだ。
「何故そんなことに!? いや、それ以前にどうしてコルベラに魔導師が居るのだ!」
「姫の逃亡に一役買ったそうです。ですが、問題はそれだけではありません!」
 半ば悲鳴のような声を上げる男に周囲は息を飲む。魔導師を敵にするだけでも頭が痛いというのに、まだ何かあるのかと。誰もが血の気の引いた顔で次の言葉を待つ。
「コルベラは……他国から今回の件について問合わせをされていたようです。それを収める意味で王太子殿下直々の謝罪の場に他国からの使者を同席させたらしいのですが……」
「ふむ、それは仕方ないとも言えるな。小国の言い分よりも事実を其々の目で見てもらう方が真実を伝えられる」
 実際、それで得をするのはキヴェラだろう。大国の王太子が直々に謝罪する場を見れば今回の事に関して他国は何も言えなくなる。
 コルベラが自己保身の為にキヴェラに有利な場を整えたと言えなくも無い。……誓約がある限り、王女は謝罪を受け入れるしかないのだから。
「その場で冷遇が事実であったと、明確な証拠と……王太子殿下の証言により証明されたそうです」
「は!? どういうことだ!」
「冷遇映像については見取り図を描き起こし確かに後宮内部だと示し、誓約は王太子妃様のサインが無かったそうです」
「……っ……宮廷魔術師に使いを! 未だ解けておらぬと言っていたはずだぞ!」
「冷遇の証明も誓約の無効化も……全ては王太子妃様の逃亡に手を貸した魔導師によって行なわれたと書かれています。あまりな姫の惨状に見かねて手を貸したのだと。王太子殿下は感情のままに失言を繰り返し挙句にキヴェラに対する侮辱だと魔導師に宣戦布告をしたと」
「……他国の者達の目の前でか」
「……おそらく」
 全員が何とも言えない表情のままに溜息を吐く。魔導師の存在はともかく、あの王太子殿下ならばやりかねないとは共通の認識だった。
 そもそも魔導師は力技で脅迫したわけではないらしい。話を聞く限りでは事実を明らかにした上でキヴェラの誠意を見極めようとしただけではないのか。被害は特に書かれていないのだから。
 力ずくの脅迫ならば『魔導師は災厄であり悪なのだ』と他国の抗議を突っ撥ねる事ができる。だが、今回それは無理というものだろう。謝罪の場において誠意を見せず愚かな真似をしたのはキヴェラなのだ。
「コルベラは今回の事に対し抗議するそうです。ですが、婚姻が成立していなかった以上は滞在した姫の待遇についてという事になるでしょう。それから謝罪の場に居合わせたイルフェナのエルシュオン殿下とゼブレストの宰相殿は魔導師と懇意らしく、条件次第で取り成すと言っています」
「イルフェナの魔王殿下とゼブレストの冷徹宰相が? 何故その場に居たのだ?」
「キヴェラの噂が広がり過ぎた為ではないかと。我が国の王太子妃の逃亡となれば無関心ではいられますまい。特にカルロッサとアルベルダは追っ手に迷惑を掛けられていますし」
「……厄介な相手に借りを作ることになりそうだな。その魔導師がキヴェラをどうするかにも因るだろうが」
 深々と溜息を吐く。良い方向に捉えるならば魔導師を抑える術があるということだろう。だが、相手はキヴェラが常に狙っている国。間違っても友好的な態度で交渉に臨んでくれるとは思えなかった。
「……陛下に通達を。もはや我々が扱うべき問題ではない」
 そう、下手をすれば国の滅亡が待っている。王太子妃様を……いや、コルベラの王女を解放した手腕といい、魔導師を名乗っている以上は間違いなく実力者なのだ。

 何故なら……周囲が魔導師であると認めた上で行動を起こしているのだから。

 これが魔術師程度ならば他国とて『少々賢い』くらいの扱いで『キヴェラを相手にするとは何と無謀な』とばかりに遠巻きに眺めていた事だろう。
 だが、彼等は行動を起こした。それは『勝てる要素があるから』だ。
 『愚かな王太子』
 身分ゆえに決して口にできない言葉が全員の頭の中を過ぎる。期待をしていたといえば嘘になるだろう。だが、それでも彼とて国を背負う者。国を滅ぼすような選択はすまいと無意識に思っていた……下の者が軌道修正すればお飾りでも良いのだと。
 そんな思いを抱きこうなった今だからこそ思う。彼をそのままにしていた我々も『愚かな臣下』なのだろう、と。
※※※※※※※※※
 ふふ……ついに来たぜ。キヴェラよ、再び!
 まあ、コルベラでも色々あったんだけどね。一番の予想外はセシルが私の守護役になったことだろうか。勿論、これは私の為ではなくセシル側の事情なのだが。
「セレスティナ姫を君の守護役の一人にしなさい。暫くは注目されるだろうからね」
 これ、魔王様の御言葉。キヴェラの事があったから最悪一生独身――あくまで建前上――と思いきや、魔導師との繋がりという意味で利用される可能性があるんだそうな。今後、魔導師の守護があるのだと匂わせた方がセシルもコルベラも安全らしい。
「セレスティナ姫は君と……キヴェラを出し抜く魔導師と懇意なんだよ? 政略結婚を強制される事態は回避したいんだろう?」媚薬
「お前にも同性の友人が必要だろうしな。落ち着くまでは守護役に加えておいた方がいい。強行手段をとられてお前が暴れるよりも穏便な方法だろう」
「強行手段って?」
「誘拐でもされて既成事実を作られれば王家の名を落とさぬ為にも嫁ぐしかないだろう」
 宰相様、ぶっちゃけ過ぎだ。でもその可能性があるわけですか。あ~……私に対する人質みたいになっちゃうってことか。
 魔王様だけじゃなく宰相様もセシルの守護役加入を推進する裏事情ですな。どうも放っておけばセシルは魔導師を味方につける駒扱いをされるらしい。で、その結果私が暴れて被害が出る事を未然に防ぎたいんだそうな。
 そういや守護役って性別関係なかったね。期間限定とはいえ、これもある意味保護に該当するのか。
 それに守護役は立場上男性が多いだけで女性が居ないわけではないらしい。通常は同性の守護役が一人は必ず居るんだと。私に居なかったのは守護役連中が早々に婚姻前提発言かました事と未婚の該当者が居なかった事が原因だとか。
 ……。
 魔導師を押さえ込める女性が居なかっただけじゃなく『他の守護役に恋心を抱く・もしくは繋がりを作ろうとする奴は論外』って感じで弾かれたな、多分。それでも何の不自由も無かったけどさ。
 魔導師ゆえにこの状況だったようです、でも話を聞く限り他の候補者は潰されているような。
 初耳だな、おい。守護役どもよ、裏で一体何をやっていた?
 なお、セシルは私とこれまでと変わらぬ関係でいられることを非常に喜んだ。
 異世界人であろうとも王族と対等な関係でいられる筈は無い、けれど守護役ならばこれまで通り気安い間柄で過ごせるのだと大変乗り気だった。
 ……侍女達の『道ならぬ関係でも魔導師様と姫様ならば応援しますわ!』との言葉が気になるが。セシル、やっぱり仲良しアピールの仕方が間違ってたんじゃね?
 ちなみに守護役連中も歓迎派だ。
「女性の友人も必要ですし、セレスティナ姫ならば我々の良き理解者になってくださると思います。姉上達と仲良くなられるより数倍マシです」
「お前に喧嘩を売ってくる貴族令嬢への最高の牽制になるだろう。まずセレスティナ姫に目が行くだろうしな、王族に喧嘩を売る馬鹿は居まい」
「今後女性の集まりに引っ張り出される可能性もあるんです。王族でしかも女性など最高の味方では?」
 ……という理解の方向が私に傾いている素敵な回答と共に『是非!』とばかりに歓迎された。彼等は全員公爵子息、これまでの経験から思うところがあるのだろう。
 完全に先手を打った形だが、これでセシルは守られると見て間違い無い。手を出したら他の守護役を出している国だけでなく、狸様と私が手を取り合って報復することは確実だ。
 予想外の展開だけど、結果的にコルベラは後ろ盾を得られたのだから喜ぶべきことだろう。
「ところで……君の手がキヴェラに防がれる可能性は?」
 城への馬車の中でセシル兄が尋ねてくる。聞いては来ないが同行している全員の疑問なのだろう。
「可能性は……無しです!」
 胸を張って言い切っちゃうぞ? 絶対に防げないから。
「その根拠は? キヴェラだって優秀な魔術師を抱えていると思うよ?」
「魔術師だから、でしょうか? この世界の常識があるからこそ、私の行動が予測不可能なのですよ」
 実際、この世界において異世界人が強い理由はそれだと思う。知らないからこそ対策の取りようがない、ということなのだから。
 私は娯楽に溢れた世界出身の魔導師だからこそ強いのだ。
 だからって手加減しないけどな、博愛主義者じゃないんだし。
 この世界における私の最高の武器は自分の知識や経験なのだ、それを利用して何が悪い? 
 そもそも私は善人じゃないから大切なのは極一部なんて当然でしょ?
「そろそろ着きます。皆様、準備は宜しいですか?」
 そんな声が聞こえてきた。同時に私は笑みを浮かべる。
 うふふ……暫くぶりのキヴェラ王都ですよ。今回は堂々とラスボスの城に乗り込みます!
 ラスボス様よ、覚悟しやがれ? お前の息子が撃沈した今となっては私の獲物……もとい最終目標はキヴェラ上層部、もしくは王。
「どうして悪役にしか見えないんだろうねぇ……」
「行動と結果はともかく動機が個人的過ぎるからでは?」
 親猫様と宰相様、結果良ければ全て良しって言葉を知りません? 
 細けぇことはいいんだよ。周囲の評価なんて気にしない!
※※※※※※※※※
 謁見の間には王と王妃、それに側近達の他には側室も王妃の背後に控えていた。本来ならば彼女達はこういった場にいるべきではないが、場合によっては王妃になる可能性もある。加えて言うなら今にも倒れそうな王妃に対する配慮だろう。
 大変だねー、原因が正妃の子だと。王妃は気を失うことすら許されないか。
 なお、王太子は蓑虫のままヴァージル君によって運ばれこの場に居る。私の足元に転がってるけどさ。
「よく来たな、魔導師」
 言葉だけなら歓迎しているようだが、状況的には殺意と敵意の集中砲火を浴びとります。まあ、それも仕方なかろう。では私もそれに見合った対応を。
「出迎え御苦労! 宣戦布告されたから来てあげたわ、感謝なさい」
『……』
 足元の王太子を踏み付けつつ、にやりと笑いながら返す。場の空気が微妙になろうと一度言ってみたかったこの台詞、これほど馬鹿にした対応もあるまい。
 でも大丈夫、魔導師だから。そういうものです、魔導師は。
「無礼な!」
「あら、私からしたら貴方達は敵だもの。いきなり殺さないだけマシじゃない?」
「な……」
「これまでキヴェラが滅ぼしてきた国はどんな対応をされたんだっけ? それとも王様一人で王族貴族を皆殺しにしたとでも? 身分を重視するならば王族を手にかけるのは王族でなければならないよね?」
 激怒する近衛騎士に対し全く余裕を失わずに応えてやる。お前達こそ今まで『敵』に対してどういう扱いをしてきたのかと。性欲剤
 近衛騎士は漸くキヴェラと私の関係が敵対だと悟ったのか沈黙した。これまでキヴェラがしてきた事を振り返れば私の態度に文句など言えるはずは無いと自覚して。
 その様子を眺めていたキヴェラ王は溜息を吐くと視線をセシル兄に向ける。
「先にコルベラからの訴えを聞こう。先程、書状に添えられていた婚姻の誓約書を確認した。確かに姫のサインは無い……『滞在していたセレスティナ姫』への不敬は儂がこの場で詫びよう。すまなかった」
 そう言って頭を下げる。その様子に私は瞳を眇めて内心キヴェラ王を賞賛した。
 凄いな、この人。先に頭を下げる事でコルベラからの抗議を潰したよ。この場合、一番確実で誰も文句が言えない対応だ。
 婚姻の事実は無かったというコルベラの言い分を受け入れ、大国の王自らが頭を下げる。ここまですればコルベラは振り上げた拳を収めるしかないだろう。
 コルベラの言い分を受け入れた事=姫の解放を承諾。
 王が不敬を詫びる=この件についてコルベラが不利になるような事はしない。
 直接言葉にすればキヴェラ(大国)がコルベラ(小国)に屈したように受け取られる可能性もあるが、この言い方なら誠実さをアピールするだけだろう。
 魔王様達が居ることも踏まえて王太子とは違うのだと見せつけるつもりか。
「……貴方の謝罪を受け取りましょう。そうそう、王女の持ち物を返していただきたいのですが」
「無論だ。全て保管してある。……誰か!」
「はっ」
 声と共にセシル兄の前にテーブルが用意され、その上に装飾品が並べられていく。これも言い出すことを予測していたのか随分と手際がいい。
「こちらでも確認してあるが、一応そちらでも見てもらえないだろうか」
「感謝いたします。……ところでこれらは今まで誰が所持していたのでしょうか?」
「話は聞いているだろう? 全て寵姫エレーナが所持しておった」
 やはり寵姫が持っていたらしい。数と物を確認するコルベラ勢は暫くすると頷いた。
「はい、確かに。全て揃っているようですし、保管状態も問題ありません」
「そうか、それは良かった」
「お気遣い感謝します」
 ……? はい? 『全部』? 
「ちょーっと待った! ……本当に全部あるんですか? 姫が身に着けていた物まで?」
「ああ。国から持って来た一覧と照らし合わせても欠けている物は無いよ」
 私の勢いにやや驚きながらもセシル兄は答えてくれた。一方、キヴェラ勢は何か不手際でもあるのかとややざわめいている。
「……。寵姫をここへ呼んでもらえるかな。確認したい事ができた」
「寵姫を? 構わぬが……本人に確認でも取りたいのか?」
「そんなとこね」
 黙って見ていた私の突然の発言に怪訝そうになりながらもキヴェラ王は承諾し、傍仕えに寵姫を連れて来るよう言いつけた。即座に行動する辺り彼等は何も不審に思わなかったらしい。
 ……いや、セシル達の状況を知らないからこそ何故不審がるのか判らないというべきか。
 セシル兄が何か言いたげにこちらを見るけど説明するなら寵姫が来てからの方がいい。ごめんよ、セシル兄。公の場だから気になってもすぐ私に聞けないんだよね。
「連れて参りました」
 そんな声に揃って視線を向けると侍女を連れた女性が騎士によって連れて来られていた。装飾品こそ着けていないが、シンプルなドレスに化粧までしているところを見ると監視対象程度だったのだろう。
 セシルの話を聞く限り彼女は馬鹿どものとばっちりを受けた形になる。彼女の行動を咎めるならば代々後宮で暮らした女の殆どがアウトだしな、さすがに咎められなかったのだろう。
 彼女は王太子の姿に何とも思わないのか、それとも失望し興味を無くしたのか。
 王太子の姿を目にしている筈なのに表情を動かす事もせず、感情の揺らぎも感じられない姿は聞いていた姿と違い過ぎて違和感を覚える。王太子もそんな姿を始めて見たのか戸惑っているようだった。
「エレーナ、魔導師が聞きたい事があるそうだぞ」
「……魔導師様、私に一体何の御用でしょうか」
 王の声と周囲の視線に震える事無く彼女は私を見つめ返す。彼女の傍に控えている男性は顔立ちと年齢的に父親だろうか? 王太子の廃嫡により王族との繋がりが潰える筈の彼もまた随分と落ち着いているように見えるのだが。
「これは貴女がセレスティナ姫から取り上げた物よね?」
「はい」
「……。どうして後宮に無い筈の物まで貴女が持っているの?」
 ざわり、と周囲に動揺が走る。それはそうだろう、姫の持ち物が後宮に無いなど意味が判らないに違いない。
「セレスティナ姫と侍女エメリナは食事さえ満足に与えられない状況だったと言ったわ。だから身に着けていた装飾品を売って糧を得ていたと。どうして売った物が買い戻されているの?」
「な、そこまで酷い状況だったのですか!?」
「侍女がまともに仕事をしないのにどうやって生きていけるの? だいたい、食事だけでも運ばれていたら今頃『私はできることをしていました!』って責任逃れの言い訳にしているでしょう?」
「た……確かに」
 声を上げた側近の一人らしき男性は問題の侍女達を知っているのか納得したようだ。
 さすがにこれには顔色を悪くする人が続出している。逃亡していなければ命の危機と言われても否定できまい。女性用媚薬
 だが、寵姫は相変らず平然として私の質問にも淡々と答えるのみ。
「これはセレスティナ姫様の為に用意されたもの。私如きが手にして良い物ではございません。姫様の身を御守りする為に取り上げましたが、いずれお返しするつもりでございました」
「それはどういう意味?」
「貴族達は姫様が贈り物を断れぬと知っているからこそ、様々な悪意を忍ばせました。ですが、私が取り上げると知れば迂闊な事はしないでしょう。姫様の手に渡る前に処分したこともございます」
 エレーナの言葉に嘘は感じられない。実際、セシルも彼女からの言葉を表面的なものじゃないかと言っていた。
「……そちらはコルベラの王族の方でいらっしゃいますか?」
「ああ」
 エレーナはセシル兄に向き直ると跪き頭を垂れる。
「いくら御守りする為とはいえ、数々の所業が許される筈はございません。何より私が許せません。本来ならば直々に謝罪したく思いますが、そのような我侭が叶う筈はないと思っております。……申し訳ございませんでした。どうぞ、セレスティナ姫様にお伝えくださいませ」
「君は寵姫なのだろう? 何故セレスを庇うんだ?」
 誰もが思うセシル兄の言葉にエレーナは顔を上げて微笑む。それはとても優しく誇らしげな笑み。
「私は寵姫ではありますが、それ以上にアディンセル一族の者だからです。ブリジアスの忠臣にして祖国の復讐を誓う誇り高き一族は祖国の為に己を犠牲にできる尊い方を陥れるほど恥知らずではございません!」
『な!? ブリジアスの復讐だと!?』
 キヴェラ勢がざわめく中、私は『同志』を歓迎すべく彼女に微笑みかける。その気配を察したのかエレーナがこちらを向き、一層笑みを深めた。
 王太子の最愛の寵姫が復讐者ね……随分と面白い展開だ。キヴェラにおいて王太子妃を守り、私達の手助けをしてくれた『味方』もしくは『共犯者』。
 しかもここが公の場であり、どんな状況かを知った上で真実を告げた。その後の動揺を狙った上での暴露にキヴェラ勢は王でさえ表情を変えている。
 やるじゃないか! 彼女はたった今、牙を剥いてみせたのだ!
 ならば私は貴女の為にもキヴェラを貶めよう。これ以上のパフォーマンスをしなければ災厄の名が廃る。 
 盛大に復讐劇を終らせようじゃないか。
 キヴェラ史上、最高にして最悪の舞台はたった今幕を開けたのだから。中絶薬

2013年5月13日星期一

頑張っているデカラビア

そいつらと出会ったのは偶然とは言えない。
 アウラニース様は戦って楽しい相手を求めていたし、俺達魔を目の敵にする奴らにしてみれば、アウラニース様は敵の首魁となる。老虎油
「お前が魔王アウラニースだな」
 そう言ったのは人間族の若い女だった。
 一緒にいるのは竜人族の戦士、エルフ、ドワーフ、人間の年寄りだ。
「そうだ。お前達は?」
 アウラニース様はつまらなさそうな顔で、義務的に質問する。
 この方にしてみれば人間達なんて、吹けば消し飛ぶ存在でしかないからだろう。
「私はメリンダという。お前達を討ちに来た」
「へえ?」
 アウラニース様はそこで初めて興味を持ち、奴らをじろじろと見る。
 そして一つ頷いた。
「なるほど。最近各地で魔王がやられているらしいが、それはお前達の仕業だな?」
 その言葉にアイリス様、ソフィア様を始め、俺達に緊張が走る。
 アウラニース様と同格扱いは出来ないけど、魔王と呼ばれる方々が何人も倒されたり封印されているという話は聞いた事があった。
 それをこいつらが……?
「そうだ。そしてお前という存在にとうとう行き着いた」
 メリンダと名乗った女は、杖を構える。
 他の奴らもそれに呼応するかのように、一斉に戦闘態勢に移った。
 俺やザガンは慌てて身構えたけど、アウラニース様はのほほんとしている。
「ふん。魔王を倒せるなら、弱い者いじめにはならんな」
 そう言うと前に出る。
「遊び相手が欲しかった事だし、相手してやるよ」
 メリンダはそれを聞いても表情を動かさなかったが、ドワーフが不愉快そうに言う。
「ずいぶんと舐められたもんだな。最強の魔王らしいが、俺達だって魔王を倒しているんだぜ?」
「侮ってもらった方がありがたいですけどね」
 エルフがドワーフに向けてそう言う。
 そりゃそうだな。
 油断しているところに必殺の一撃をずとんと叩き込む、それが一番安全で確実な戦法だ。
 でも、アウラニース様には通用しないと思うよ。
 この人、勘だけで避けるからなぁ。
「【ラディウス】」
 メリンダが不意打ちで魔法を唱える。
 目が潰れそうなくらい眩しい光が周囲一帯を覆う。
「メテオバーン」
 アウラニース様がいた地点にエルフが矢を放つ。
 閃光のような速さで到達し、大きく爆発した。
 見事な先制攻撃だと思う。
 俺だったら二、三回は死んだんじゃないだろうか。
 だけど、生憎アウラニース様なんだ。
 砂塵が晴れた時、アウラニース様は無傷で立っていた。
 エルフが射かけたであろう矢を掴んだままで。
「そ、そんな……」
「馬鹿な」
 メリンダ達は驚きを隠せないでいる。
 あんな不意打ちで倒されるくらいなら、誰も苦労しないのにな。
 と思ったけど、よく見たらアウラニース様は薄い魔力の壁を展開していた。
 アウラニース様が防御しなきゃいけない攻撃を出すなんて、こいつら凄いんだな。
「まさかと思うが、もう終わりか?」
 アウラニース様は不意打ちをされて怒るどころか、後続の攻撃が来なかった事に不満そうだった。
 さすがとしか言いようがない。
「大魔王などと呼ばれるだけはある。魔王の中でも別格だというわけだ」
 竜人が苦々しげに言う。
 そりゃそうだろう。
 ダントツで最強だから大魔王なんて呼ばれたりするんだよ。
「考え方を変えれば、こいつを倒せるなら他の奴も倒せる」
 ドワーフがそう意気込む。
 それもそうだと思うけど、何も一番強い存在に向かわなくても、弱い順に狙っていけばいいんじゃないかな。
 もっともそれをやられると俺が真っ先に狙われてしまうんだけど。
「お前ら、手を出すなよ」
 アウラニース様は俺達にそう釘を刺したけど、誰も手を出す気はなかったと思う。
 アウラニース様が負けるなんて考えられないし、変に手を出したら殺されるだろうし。
 もっとも、本当に危なくなったらアイリス様とソフィア様は加勢すると思うけどね。
 当然俺もだ。
 アウラニース様を窮地に陥れるような奴相手じゃ何も出来ないだろうが、見殺しにするつもりはない。
 が、少なくともこいつら相手にそんな展開はならないだろうな。
 多分だけど、こいつらならアウラニース様は真の姿に戻る必要さえないだろう。
 竜人が勝機と見たのか、大剣で斬りかかる。麻黄
 一瞬で距離を詰めたのは凄いけど、アウラニース様は振り向きもせずに片手で止めてしまう。
「直線的すぎるから零点だな」
 採点する余裕を見せつけて。
 連中はもう驚かなかった。
「【コンゲラーティオ】」
「アグラべーションインパクト」
「ミーティアス」
 そこへ襲いかかる氷結魔法、ドワーフの戦槌攻撃、エルフの射撃。
 凄まじい音が轟き、暴風に俺とザガンは後ろに飛ばされる。
 これは強烈だな。
 魔王が倒されたのも納得だよ。
 アウラニース様じゃなかったら、死んでいるんじゃ?
 連中は今度は攻撃を止めようとせず、更に波状攻撃をしかけてくる。
 が、暴風が発生し、連中は吹っ飛んでいく。
「つまらん。飽きた」
 そんな声が聞こえてくる。
 言うまでもなくアウラニース様だろう。
 何と服がぼろぼろになっただけで、傷一つ負っているようには見えなかった。
 さすがにこれには俺もびっくりだわ。
 傷の一つや二つくらい、負っているとばかり思っていた。
 メリンダ達も同様で、信じられないものを見るような目でアウラニース様を見ている。
 いやだってアウラニース様だし、と俺なんかは思うが、彼らはそう割り切れたりはしないんだろうな。
「な、何なんだこいつ……」
 ドワーフがうめく。
 他の面子も顔色が蒼白になっている。
「まさかこれほどまでに差があるなんて」
 メリンダが悔しそうに唇をかむ。
 どうやら打ち止めらしいな。
「もう終わりか?」
 アウラニース様ががっかりしたといった表情で声をかけると、奴らは一斉に体を震わせる。
「命乞いはしない。殺すなら殺せ」
 メリンダが覚悟を決めた顔でそう言い放つ。
 他の面子もそれに倣った態度を見せる。
 恐らくこいつらは殺されないと思うけど。
「ほう? その潔さ、少し気に入ったぞ」
 ほら、凄く嬉しそうな声を出しているよ。
 アウラニース様、強くて潔い奴が大好きだからな。
「今度会う時まで、今より強くなってこい。オレを倒せるくらいにな。この場は見逃してやるよ」
「何だと。そんな情けがいるものか」
 竜人が怒る。
 そしてそれをメリンダが止める。
「よせ、ガノフ。我々は恥辱を味わうかどうか、選ぶ権利すらないんだ」
「くっ」
 悔しそうにしている竜人、割り切っているメリンダ、どこかほっとしているエルフ、ドワーフと表情は様々だ。
「ここは言葉に甘えてひかせてもらう。きっと見逃した事を後悔させてみせるよ」
「うむ。またの挑戦、待っているぞ」
 アウラニース様は、敵意に燃えるまなざしと言葉を心地よさそうに受け止める。
 メリンダ達は撤退して行った。
 彼らが去った後、ザガンが話しかける。
「アウラニース様、もしあいつらが強くなっていなければ?」
「ん? 強くなれない奴になんて興味ないな。人間だから成長の余地はまだまだあると思うんだがな。あいつら、全員若かったし」
 アウラニース様は、一目見れば大体年齢や強さ、成長の可能性が分かってしまうらしい。
 俺やザガンはそれで拾われたようだ。
 もっともあくまでも「大体」との事だが。
 ただ、アウラニース様の「興味がない」は、「横取りしていい」と同じ意味なので、あいつらの命は保障されなくなっちゃうなあ。
 強くなっていればいいだけなんだけど。
 そしてそれは俺達にも言える事だ。
 俺達は成長が頭打ちになったからと言って殺されはしないが、見捨てられてしまう。
 「仲間」と言える奴らは結構いたのに、今も残っているのはザガンを含めても数名だけ。
 俺も無関係じゃないんだよな。
 頑張って魔人にはなれたけど、それじゃダメだ。
 だってまだアウラニース様に名前で呼ばれた事がないんだから。
 当面の目標は、アウラニース様に名前を呼んでもらう事だ。
 頑張らなきゃ。
「さて、暇になったな」
 アウラニース様がそうつぶやく。
 アイリス様とソフィア様を除く面子に緊張が走る。
 さて、今度は何が飛び出す?
 個人的には海のモンスターを狩れとか、ドラゴンの巣に特攻しろってのは勘弁してもらいたいなあ。
「じゃあお前ら、ドラゴンを狩ってこい」
 石を拾って来いなんて言うような気軽さで命令が下される。
 失敗したり出来なくても殺されたりはしないが、やる前から拒否すると殺される。
 「臆病者はいらん」と言って始末されちゃった奴はいるのだ。
「どこにいるか分かりますか?」
 そう言ったのはザガンだった。D9 催情剤
 そうだよな、俺達は全部で四匹だけど、命令を果たすにはドラゴンが四頭必要である。
 アウラニース様は質問を予期していたのか、怒りはせず
「あっち、こっち、そっち、むこうにいる。気がする」
 勘を示してくれた。
 知らない奴にしてみればいい加減すぎるんだろうけど、これまでに外れた事がないからなぁ。
 俺達はそれぞれの方向に赴く。
 俺の相手はどんなドラゴンだろ。
 ブルードラゴン系統は勘弁して欲しいけど。
 前に戦った時も大変だったし。
 水や氷はスライムな俺と相性が悪いんだ。
 皆は飛んだりしているけど、俺だけ地面を転がっていく。
 俺はラーニングというスキルを持っている反面、ラーニングしたものしか使えないという問題点を抱えている。
 例外はスライムなら誰でも使える体当たりくらいだろうか。
 アウラニース様が示した方角に向かって進んでいくと、山が見えてくる。
 何だか嫌な予感がしてきたな。
 山に住んでいるドラゴンって、レッドドラゴンだと思うが……。
 上位個体とかじゃないよな? 
 アウラニース様が選んだ相手だから、勝ち目はあると信じたいところだが。
 思い直せば、きつい敵が多かったからなあ。
 転がりながら山に侵入すると、どこをどう見ても火山だった。
 火山を縄張りにしているドラゴンで一番弱いのはレッドドラゴンである。
 こいつは動きも鈍重だし、攻撃も単調だから魔人となった俺にとっては強敵ではありえない。
 問題はサラマンダーやファイアドレイクなんだけど……目の前で威嚇の唸り声を上げているのは、大きな四枚の翼を持ち、背が上に向けて伸びている真紅の鱗を持ったドラゴン。
 どう見てもファイアドレイクだった。
 俺、生きて帰れるだろうか?
「スライムの魔人が我の縄張りに何の用だ?」
 迫力と威厳があって怖い。
 でも、戦わずに逃げ帰ったら間違いなく殺される。
 アウラニース様とファイアドレイク、どっちと戦う方が生き残れる可能性があるかだなんて、考えるまでもない事だ。
「恨みはないが俺の為に死んでくれ」
 そう言うと目の前の溶岩ドラゴンは笑った。
「雑魚魔人風情が生意気な」
 吹きつけてくる威圧感は一層重厚なものになる。
 ファイアドレイクは口を大きく開き、ブレスを吐いてきた。
 やばい、あれは「ヴォルケーノブレス」じゃないか。
 転がって必死に避ける。
 その横を灼熱の液体が凄い勢いで通過していった。
 俺は氷や水が苦手だが、最も苦手なのが「高熱の液体」である。
 そんな事が出来る奴って意外といないのだが、目の前のドラゴンはその少ない例外と言えた。
「ほう、避けたか」
 響く笑い声には嘲弄がこもっている。 
 せいぜい油断していてくれ。
 俺は「ワープ」を使って背後を取り、「コールドブレス」をお見舞いする。
「ぬがあああ」
 まともに浴びたファイアドレイクは苦悶の声を上げた。
 そして「ライフドレイン」を発動させる。
「ぬうう」
 尻尾を振り回してきたので「ワープ」で避けた。
 そして死角からコールドブレスを浴びせる。
 続けて「ライフドレイン」のコンボ攻撃。
 ただのレッドドラゴンなら、これでかなりダメージを与えられるのだが。
「おのれ」
 ファイアドレイクは怒って飛び上がった。
 やばいな、空に逃げられると。挺三天
「死ね」
 ヴォルケーノブレスの砲弾を雨の如く撃ってきた。
 逃げ場がない。
 「ワープ」で避けても空中じゃ狙い撃ちにされるだけだ。
 一箇所だけ例外はあるが……のるかそるかだ、やってみよう。
 俺はファイアドレイクの背にワープした。
「な、何だと」
 驚き慌てるファイアドレイクに向かって「コールドブレス」撃ち、「ライフドレイン」を使う。
 面倒だがスキルを同時に発動させる事は出来ないのだ。
 いつか出来るようになりたいとは思う。
 ファイアドレイクは必死に俺を振り落とそうとするが、ワープを小刻みに使ってそれを阻止する。
 魔力の消耗が激しいが、それは「ライフドレイン」で補えていた。
 他の攻撃はまだしも「ヴォルケーノブレス」は一発でも食らうと死にかねないので、俺だって必死である。
 ちまちまと体力を削り続け、何とか倒しきった時、俺もへろへろだった。
「か、勝った?」
 上位のドラゴンは知能も高く、死んだふりする場合もある。
 万が一に備え、「ライフドレイン」を発動させてみた。
 うん、効果がないところをみると本当に死んだな。
 俺はアウラニース様に戦勝報告をするべく、転がり始める。 
 山の外に出ると、太陽が空から顔を出しているところだった。
 半日くらい戦っていたらしい。
 ファイアドレイク、強かったもんな。
 ライフドレインで回復出来なかったら、死んでいたかも。
 ワープを使えなくても死んでいたな。
 無事、アウラニース様達の下に帰るとザガンだけがいた。
 俺がありのままを報告すると、
「ブレスをラーニングしないと意味ないだろうがっ!」
 アウラニース様に怒られた。
 いや、ラーニングしようとしていたら死んでいたと思うんですが。
「アウラニース様。彼の実力ではまだ、それは無理でしょう」
 ソフィア様がとりなしてくれた。
 おかげで何とか命拾いしました。
 そしてザガン以外は失敗して殺されたらしい。
 とても残念だ。
 これから寂しくなっちゃうなぁ。
 一緒に頑張って来たのに。
 あいつらも魔人だったのに殺しまくるとか、上級ドラゴンっておっかないな。
 バジリスクとかヴリドラとかだっけ。VIVID XXL

2013年5月9日星期四

道中にて

魔演祭──一言で言うならば、各国の魔法使い自慢大会だ。
 各国の王によって選出された者達が力を見せ、それで各国の力を類推する材料の一つとする。
 優れた魔法使いならば国力を大きく向上させる事も可能だからだ。超級脂肪燃焼弾
 もっとも、必ず強い魔法使いを出さなければならないという規則はない。
 侮られて諸交渉で不利になる覚悟があるのならば手を抜いてもいいし、好成績を出せば国力が高いと認められる訳でもない。
 大陸三強と言われるのはフィラートのルーカス、ランレオのフィリップ、セラエノのヘムルートだが、だからと言って三人の所属国が三強だという訳ではない。
 三強と言うのならばフィラート、ホルディア、ランレオであろうか。
 この国々は互いに隣接している上に、他にも隣接している国がいるのでどこか一国に戦力を集中して叩くのは困難になっている。
 ホルディアの先の狂的出兵も、国力の均衡が容易に崩せない焦りからではないか、という見方が強まっている。
 そしてマリウスは王家一行とルーカス、それに多数の護衛、侍女達と一緒に魔演祭の開催国であるボルトナー王国の王都、ボルトンに向かっている途中であった。
 ボルトナー王国の王都ボルトンはフィラートスからは馬車で約十日かかる。
 直線距離だともっと短いのだが、両国の間には「大陸一の険」と言われるシャローム山脈がそびえている。
 飛行能力のあるものしか生きていけないとまで言われる過酷な場所で、両国に行きたい者はランレオを通過するのが常だった。
 今日はランレオで一泊する。
 今回は公式行事である為、他国にも勢威を見せる必要があり、ワイバーンに襲われた時のように「最低限の数で」という訳にはいかなかった。
 ちなみに護衛の最高責任者は前大将軍、グランフェルトだ。
 マリウスとルーカスは、護衛の騎士二人と同室だった。
 これは警備上の兼ね合いではあるが、マリウスにしてみれば己が三人を守るつもりでいる。
「それにしても今回は、出場者二名とはね」
 ボルトナー側からの通知が来た時、誰もが意外さを隠せていなかったので、マリウスには疑問が浮かんでいたのだ。
「もしかして私のせいでしょうか。ルーカス殿と並べ比較するような?」
「恐らくは。競技内容はくじとは言え、ある程度開催国の思惑が通るのが普通です」
 今回は各国の出場者は二名、競技種目は三つとの事だ。
 素直に考えれば開催国ボルトナーにとって有利な内容であるはずだ、とルーカスは述べた。
「我が国とは友好関係にありますから、こちらが心配する事はないでしょうがね」
「そういうものですか? 力関係が変わると態度も変わるとか、国同士だと珍しくないでしょう?」
 マリウスの疑問にルーカスと騎士達はやや苦笑を浮かべた。
「弱かった国が強くなるとそうかもしれませんが、元から我が国はボルトナーよりも数段強いですから」
 あまりにも行き過ぎると逆効果もしれません、と続いた。 
 この期に及んで行き過ぎた話をするという事は、遠回しにやりすぎるなと釘を刺されているのではないだろうか。
 ロヴィーサに唆された事は黙っているべきか。
 迷ったが、結局マリウスは何も言わなかった。
 どれくらいの力を出せるのか、まだ分からない。
  マリウスとルーカスの世話役として、獣人の侍女が二人ついていた。
 うち一人は王宮内で何度か見かけた事がある、黒髪の少女だった。
「アイナと申します。よろしくお願いいたします」
 初めて挨拶を交わした時、どこかおどおどとしながら頭をぺこりと下げる少女にマリウスは愛想よく笑いかけた。
「そんなに固くならなくても、私は優しい方だから」
「い、いえ。国賓魔術師たる方に粗相があっては、一族全員の首が飛ぶとヘルカさんが」
(ヘルカーッ!)
 思わず叫びそうになったが、辛うじて堪えた。
 久しぶりに存在感を出したと思ったら一体何を吹き込んだのか。
 今ではアイナともう一人、赤髪のレミカはすっかり打ち解けてくれたのだがそれを見たルーカスが、
「マリウス殿、意外と女性に強いのですな」
 と奇妙な感心をするという一幕もあった。終極痩身
 羨ましそうな気配を察知したマリウスは何も言い訳せずにニヤリと笑うという返し方を選択し、ルーカスを悔しがらせるという結果を得た。
 今、二人の侍女が護衛を含め四人分のお茶を淹れる。
 ランレオの名産の一つがレモンで、これを使ったレモン茶は絶品だというのがターリアントの通説である。
 それが偽りでも誇張でもない事をマリウスは自身の舌で知った。
「美味い」
 マリウスとルーカスの声が重なる。
 それを見てアイナが顔を綻ばせた。
 二人のレモン茶を淹れたのは彼女であった。
「よかったです。エマさんに教わった通り出来たみたいで」
「エマ殿やヘルカ殿とは親しいのかな」
 この問いを発したのはむろんマリウスである。
「は、はい。私とレミカは見習い時代にヘルカさんとエマさんに面倒を見てもらいまして……」
 エマはともかくヘルカが後輩の面倒を見るなんて、とても想像出来ないマリウスだったが、言葉にするのは止めた。
「スコーンです、お試し下さい」
 そう言ってレミカが差し出してきたものを一つ取る。
 レミカは食道楽らしく、様々な味のジャムやクリームを作ってはスコーンと合わせていて、今日のジャムはイチゴだった。
「うん、美味しい」
 マリウスとルーカスは舌鼓を打ちながら、侍女達にもすすめる。
 侍女達もすすめに応じ、自分達の仕事が及第点な事に口元を緩めた。
 護衛の騎士達はこの間、部屋の外で立ち番をしている。
 彼らの身分や格は残念ながらも侍女達よりも下で、マリウス達がお茶を楽しみ、侍女が相伴に預かっても、護衛も加わる事はない。
「果物王国だけあっていいものが用意出来ます」
 と、レミカは語った。
 果物王国とは言うまでもなくランレオの別称だ。
 特産品はレモンだが、他の果物もかなり有名だという。
(その割にはエマさんのものよりは落ちるかも……)
 もっとも、優秀な者ほど身分の高い人間につけられる傾向があるようだから、エマと比べるのは酷かもしれない。
 エマより優秀な人間なんてマリウスには想像出来ないが。
 それにヘルカには勝っている気がする。
 そう言って褒めると二人は目を丸くしてマリウスに礼を言った。
「ヘルカさんより優秀だなんて……」
「あ、ありがとうございます」
 マリウスの中ではどうであれ、二人にとっては優秀な先輩らしかった。
 その間、ルーカスは言葉を発せず黙々とお茶をしていた。
 マリウスと侍女達の交流を見守っているかのようであった。
 侍女達にしてもどこかルーカスに対しても遠慮している印象である。
 そんな雰囲気を察しながらもマリウスはルーカスに話題を振った。
「ランレオってフィラート、ホルディアに次ぐ大国との事ですが、どんな国なのですか」
 マリウスが期待したのは魔演祭でどんな人間が来るのか、という情報だった。
 ルーカスは一瞬迷ったが、隠すような事はないと判断して答えた。
「建国以来我が国を敵視している国でして」
 フィラートに負けたら地位を追われるといった事をマリウスは初めて聞いた。
 ホルディアと迂闊に開戦出来ない大きな理由の一つであるとも。
「マリウス殿の全面的な協力をいただければ、ホルディア、ランレオと同時に戦って負ける事はありますまいが」
 だからと言ってわざわざ複数の国と同時に戦おうと考えるのは愚かである。
 ただでさえ国はダメージを受けているのだ。
「果物は美味しいですが、フィラート人としては面白くない相手です」
 レミカが顔をしかめる。
 「美味しいもの作る国は素晴らしい」と笑顔で語った彼女が、いい顔をしないくらいだから、相当ライバル心を持たれているのだろう、とマリウスは想像した。
「実質的な被害はほとんどないのですが、何かにつけてランレオはフィラートより上と喧伝されては……」
 アイナが困惑気味に答える。
 プライドの高い上流貴族などは、険悪化したホルディアよりも更にランレオの方が嫌いだという。御秀堂 養顔痩身カプセル
 ルーカスが知っている情報の一部を明かす。
 諜報部からの情報で、ランレオはワイバーンの討伐に成功し、「マリウスなど恐れるに足らず」と息巻いているそうだ。
 「ただし精鋭が何人も死んだ」と苦笑交じりに付け加え、それを聞いたルーカスも「相変わらずか」と苦笑したのだが。
 この事をマリウスに教えると、マリウスは目を丸くし、口も大きな丸を作った。
「え……? ちょっと何を言っているのか、分かりませんが」
 ワイバーン一頭倒すのに精鋭が何人も死んでいるのに、自分が怖くないなどどういう思考回路をしているのか、さっぱり理解出来なかった。
 別に恐れられたいわけではないが、ついていけないものを感じたのだ。
「そんな感じでとにかく我が国を敵視するのがランレオです。この時期は例の暗黙の了解のおかげで、何事もなく通過出来ますがね。こういう集まりに国威を見せておいてランレオを大人しくさせておく必要はあります」
 アイナとレミカもやや不快げに頷く。
 ルーカスを含め三人ともマリウスと同じく、ランレオの発想にはついていけないのだ。
 そしてホルディアと全面対決となれば、大喜びで乱入してくるという見方が国内では圧倒的だった。
 ルーカスはホルディアとランレオと同時に戦うとなれば、マリウスの全面的な協力を得られても五分だと見ている。
 マリウスの火力は空前絶後でも、移動時間というものが必要だからだ。
 バルデラ砦を始め国境は一通り巡り終えたので、防衛戦には苦労しないであろうが……。
「もしかしてホルディアはそのへんも見越していたのでしょうか?」
 マリウスの疑問にルーカスは即座に頷いた。
「結果論ではありますが、ただの狂行ではなく裏にいくつもの理由がある、狂気の知恵のようなものだと考えます」
 「月女神の涙」の力を封じるかのような動きからも予測出来る。
 マリウスにとって実に忌々しい連中であった。
 自信満々に自分の敵意を買ったのにはきちんとした理由があったのだ。
 ホルディアを攻撃しながらランレオから守るのは距離の問題があってマリウスにも困難だ。
(やっぱり魔演祭とやらで目にものを見せてやるのが一番か)
 ボルトナーがあくまでもフィラートに好意的ならば、自国に有利な競技内容にしつつもマリウスが力を発揮出来る環境を用意するであろう。
 いくらホルディアに利口者がいるとしても、マリウスの力の底まで見抜いているはずがない。
(俺の賢者補正みたいなものでも持ってるなら話は別だが)
 上位職ともなれば補正スキルがつくし、ゲームの世界ではないのだから生まれつき持っている人間だっているかもしれない。
 恐らくエマあたりも持っているはずだ、とマリウスは見当をつけていた。
 ただ、ホルディアの連中が持っているとは思えなかった。
 持っているならば皆が「狂行」「狂気」と口を揃えるような行動はしないであろうから。
 何を考えているか分からないという勢力では魔人達もそうであった。
(今、何してるんだろう?)
 マリウスは内心首をかしげた。
 普通に考えれば、今回のような事態は襲撃の好機である。
 各国の王や主力が一同に会するし、半月以上も国を留守にするのだ。
 どちらかを狙えば人類国家は間違いなく混乱するだろう。
 第一回より開催が中断された事はないというから、この時期を狙った襲撃はないのだろうが、それが逆に変だった。
 何か他に企みがあるというのならば魔人を捕まえるなり、死体に「サイコメトリー」を使うなりする必要があるかもしれない。
(国の為に働くって大変なんだな)
 お茶を終えて余ったスコーンを護衛達に差し入れに行った侍女達の背を見ながら、マリウスはしみじみと思った。御秀堂養顔痩身カプセル第3代

2013年5月7日星期二

ギルドはかくして生まれた

「まず、僕は正真正銘冒険者ギルドのマスターだよ。と言うか、僕がギルドを創設したんだよ。千年位前にね」
「ええっ!?」
「なんと……」
 ルトは真顔で冒険者ギルドの創設について明かす。僕と巴は驚きを口にしたけど、澪は興味が無いのか特に反応は無かった。狼一号
「真君と同じ異世界人に概念を教わってね。まあ、多少の意図を含めてだけど僕が女神に提案して責任者になったんだ。彼女はギルドをヒューマンが強くなる為のシステムだと至極単純に考えてくれてね、反対はされなかった」
 多少の意図。何だか気になる言葉だな。それに異世界人。やっぱり、僕と勇者二人があの女神の最初の犠牲者じゃなかったんだなあ。
 千年前って言うと。日本は平安か? 藤原道長とかの時代かな。ん? 何か引っかかる。何だろう?
「当時は僕も精力的にギルドの仕組みを考えていて、概念を教わった異世界人、まあ僕の最初の旦那様なんだけど。彼にも色々と話を聞かせてもらって、楽しみながら制度を組んでいった。そうだね、心境を例えるなら今の巴のような状態かな。とにかく彼の概念を知り、学び、再現するのが楽しくて仕方なかった」
 ああ、納得。例が側にいるからか妙にわかる。
 つまりルトは巴が時代劇にハマってしまったように冒険者ギルド作りに没頭したわけか。それで、世界に広がり、基本的には国家の干渉を受けない、ある意味危険な組織が出来たと。女神の後押しとトップの上位竜の手があればヒューマンの反対も最小限だったんだろうな。何せ女神様だし。
「僕の夫になった異世界人は当時エリュシオンで英雄と称えられた剣士でね、僕はその妻であり相棒。女神にも協力を得られたから、一度システムを作ってしまうとヒューマンの社会への浸透は実に早かった。その後、僕は姿を変えながら歴代のギルドマスターで有り続けたって訳だね」
 初代マスターで、現代でもマスターか。それはまた。
「初代マスターはルトの夫じゃなかったのか?」
 旦那さんの方が主導権を持っていそうなのに。彼はマスターになろうとしなかったんだろうか。
「彼はそんな事よりも酒と女に目が無くてね。英雄としての実績を作ってからは仕事らしい仕事はしていなかったな。まあ英雄なんて、その偶像に意味があるのであって、本人は仕事などしようとしない方が特に戦乱を経た後の世の中には都合が良いのかもしれないね」
 平時に英雄は不要と言う事かな。確かに、考えてみると僕が学んだ地球の歴史でも、戦時に活躍した英雄のその後は余り知らない。探せばいるんだろうけど、中にはジャンヌ=ダルクみたいな人もいる。戦後の権力を求める勢力には、人心を集める英雄は邪魔な存在になるのかも。
 そしてルトはもうこの頃から性に奔放らしい。旦那が他の女と関係していて何とも思わないんだな。ん、もしかしてその頃からもう一夫多妻が当たり前なのか?
 聞いても斜め上の答えが返ってきそうだったので、質問は止めておく。大人しく話を聞いていよう。
「世界中に存在して、コミュニティの問題解決に一定に役割を果たす。そして、所属する者にレベルを表示する他多くの機能を持ったカード状のギルド証を与える。……ねえ真君、不思議だと思わなかった?」
「え?」
「下手な魔道具を越える性能のギルドカードにレベルなんて言葉。これらは君の世界ではゲームの中に登場する概念じゃない? どうして、そんな組織を簡単に受け入れる事が出来たの?」
「そ、それは……」
 ゲームみたいな世界だとは確かに思った。でもその前に僕は魔法にも触れているし、レベルや職業と言った用語も聞いている。そんな前提もあって異世界なんだからと、考えてみるとおかしな理由で納得していた。
「異世界だから、とか思ったんじゃない? だから完全に規格外の、言ってしまえば木造建築の中に高層ビルが建っているような状況も、冒険者ギルドなんて言葉一つで納得してしまった」
「……ああ」
「そうなんだよね、何故か異世界から来る真君や他の人は、このギルドの存在を比較的あっさりと受け入れてくれる。君達がいた世界には当然、存在しない組織なのにだ。面白いものだと思うよ」
 うんうんと。ルトは興味深げに何度も頷いている。
「どうも、わからぬ。聞いていれば、お前は異世界人に聞いた情報を基盤にしてギルドのシステムを作ったらしいが、ギルドの運営がしたかった風でも無く、それに冒険者をやりたがっているようにも聞こえん。暇潰しに作るには冒険者ギルドという組織とシステムは些(いささ)か手が込み過ぎているぞ?」
 巴が口を挟む。そうか、言われてみればルトはギルドをこんな風にしたいとか、冒険者になりたかったなど、そんな事まるで言ってない。暇潰しのレベルにしては度が過ぎると思うのは自然だ。
「いや、殆どは単なる楽しみ。暇潰しだよ。僕は凝り性だからね。どうやってギルドを成立させるか、一つ一つを試すだけでも実に有意義だった」
 無駄にスペック高いよな。凝り性で暇潰しになるからってよくもやれるものだ。羨ましいよ。
「じゃが、先程意図と言った。それは何じゃ?」
「耳聡いね。真君に嫌われそうで話したくないんだけど」
 何かえぐい事を考えているんだろうなあ。大体、話したくないとか言う割には話す気満々の顔してる。むしろ僕の反応が見たいんだろうか。
「どうせ話す気なら一度に吐け。後、若を見るな。汚れる」
 巴、ルトは一応お前にとって元は同僚、いや上司みたいな存在なんじゃないのか? それを早くも汚物扱いか。いいぞ、もっとやってくれ。
「はいはい。まあ、そんなに複雑な話でも無いよ。ずっと昔から女神はヒューマンを寵愛していた。だけど、僕は世界を大事にしていた。それだけなんだよ」
「意味がわからん。簡潔に話せ。お前は昔から人に謎掛けのような言葉を掛ける。今は不要じゃ」
「……他者との対話において聞き手に己自身での理解を促すのは非常に有意義なんだけどな。まあ、了解。つまりね、女神の寵愛が過ぎて、ヒューマンが増えるわ驕るわで世界のバランスが崩れる可能性が当時から容易く予見できたんだ。だからその牽制の一つとして作ったんだよ。さっきも言ったけど半分以上は趣味だけど」紅蜘蛛
「ヒューマンが増える事への牽制? でもギルドはヒューマンの成長を促すんだろう? むしろ助長している気がするんだけど」
「それは木を見て森を、って奴だよ。良いかい? ギルドに登録するとカードがもらえる。それには自分のレベルやランクが記載されているわけだけど、本来はただの現状を示すだけの数値でも、階級や数字として示されるとヒューマンって言うのは上を目指したがるんだよね。人間を基にしただけあって欲の強い種族だし」
「……」
 悪かったね、欲が強くて。
「レベルが上がれば強くなる。もちろん、そんな数字は知らなくても魔物を倒したり戦争したりしていれば見えないだけで実は変動はしている。だけど分かりやすい数字になるって言うだけで意気込みがあがるんだよ、彼らは。僕もその意気込みを加速させる為に世界のシステムに干渉してちょっとした仕込みをした。ギルドに登録すると成長速度が上がるようにしてみたんだ。他者から奪った力の吸収効率を上げるというものだけどね。真君に分かりやすく言えば経験値の倍率を上げる、って感じかな」
 数字が出るとやる気が出ると言うのは、確かにあると思う。否定できない。努力が続かない理由には、成果が見えにくいから心が折れると言う場合もある。でも、ルトの言っている事は人の成長の応援であって、そこに何の牽制効果があるんだろう。
「なるほどな、そう言う意図か。迂遠な事をする」
 でも僕の疑問とは別に巴はルトの言いたい事がわかったようだ。人と竜の違い、なのか?
「そうすると、ヒューマンは余計にレベルやランクに固執する傾向が出てくる。レベルは自身の強さを、ランクはギルドが個人に与える恩恵を高めるからね。当然、冒険者の中に高レベルになり名前が売れる者も出てきて、彼らに憧れる若者もギルドに登録するようになる。彼らの中には騎士や王になって繁栄を築いた者もいたね。」
 良い話だよな。努力して、成功する。僕もギルドカードの機能拡張狙いでランクを上げようとか思った事もあるしなあ。レベルが一向に一つも上がらないし、商人稼業に精を出すようになって少し熱も冷めてきているけどさ。
「……素直なんだね、真君は。ちょっと自分の小賢しさが恥ずかしくなるよ。努力の末の成功は良い事だって顔してる」
「悪いか。誰だってそう思う筈だろう?」
「ふふ、続けるね。功名心を煽られ、出世を望み、元手もさして必要無く腕っ節だけで魔力だけで始められる、そんな夢のある冒険者を目指す者は増えた。より強く、より偉く、より豊かにってね。そんな連中、冒険者ギルドが無ければ良く言って何でも屋、ならず者。悪く言えば賊の予備軍。元手が少ないのは生命の危険を背負うからだって事を都合良く解釈し過ぎだ」
「だが、ならず者とてある一定の数をギルドで冒険者として囲えば、性根の悪い連中も過ぎた悪事もやりにくくなるし、多少の治安向上にもなるかもしれぬではないか」
 良い事だよね。話の結論が見えないな。
「そんな効果も少しはあったかもね。ギルドには規則も一応あるから。でも大事なのはね、先ばかりを見たヒューマンが自動的に間引かれていくって事だよ」
 間引、かれる? それってどう言う。物騒な言葉だけど。
「過ぎた欲は身を滅ぼす。ならず者も、何でも屋も、夢見る若者も。成功を目指して強くなり、そしてどこかで階段を踏み外す。レベルだランクだ報酬だと、ギルドの依頼で死にに行く冒険者は実に多い。千年経ってもさして大局的な変化は無いね。中には運良くとか並外れた才覚で上り詰める者もいた。それが成功者だね。彼らの存在は宣伝塔になり、さらなる人々を呼び込んでいく。成功者が失敗者よりも多いなんて事はある程度以上の社会では有り得ないからね、彼らの足元には数え切れない程の骸が転がっている事になる。綺麗に言えば夢の残骸がね」
「そりゃあ、勢い余って失敗する人もいるだろうけど、でも次に活かせばバランスは身につけるし人を間引くなんて効果が本当にあるのか? だって今も世界はヒューマンの国で溢れているじゃないか」
「次、が極端に少ないのが冒険者なんだよね。一度の失敗でそのまま死ぬ事も多々ある。今も世界に魔族をはじめとしてヒューマンに敵対する亜人が存在している事が間引きの効果がある証明だね。何だかんだと言っても数は力。冒険者ギルドが無ければ、今頃世界はもっと平和だったんじゃないかな、ヒューマンと従属する亜人しかいなくなる代わりに」
「だけど、誰もが欲に狂うなんて。彼らだって引き時は弁えるんじゃ」
「そういう判断が出来る者は、成功者だよ。真君。王にならなくともね。ギルドのシステムを上手に利用して、後の収入を確保できて辞めると言うなら十分な成功だ。信じる信じないは勝手だけど、もう少し後少しで判断を誤るのがヒューマンだ。現に冒険者の数は毎日のように登録者がいるのにそんなに増えてはいないんだよ。女神が沈黙している間で言えば、むしろ減っていたくらいだ。荒野だ迷宮だ一攫千金だと夢ばかりを見て面白いように死んでいくのさ」
 そんな。冒険者を支援する体で存在する冒険者ギルドが、実は彼らを煽って間引く意味も持っていた?
「ただ、勘違いはして欲しくない。誰もが真君の言うように、引き時を弁えて自らの成長と将来に謙虚であればギルドはヒューマンに貢献し、違う意味で世界は平和になっていたかもしれない。現実はそうはならず、しかもヒューマン以外の種族まで加入したいと言い出したり予想外の展開も幾つかあったんだけどね。冒険者ギルドは、端的に言ってしまえば、良くも悪くも人の欲望を支援する組織だ。幸い、人の社会に問題が無くなる事は無く、依頼も尽きない。冒険者にならず別の道で身を立てている者だって、目的の為に危険を冒す必要が生じれば、お金で結果を買おうとする事もある。それを冒険者ギルドが請け負う。実に良く出来ているだろう? 間引く、なんて狙いが実現できているのは冒険者がギルドの使い方を誤っているに過ぎないよ」
 少し違うけど、力はただ力だから、使い手がどう在るかが問題だって事かな。結果、千年もの永い間ルトの思惑に乗って数多の冒険者が吸い寄せられては焼かれたんだろう。
「……そうか。世界のシステムに干渉とは、増えた冒険者を利用して冒険者全体と世界の間で簡易かつ変則的な契約を結ぶ事か。つまり成長の上昇速度が本格的に機能するのは冒険者になってしばらく経ってから」
「巴、結構頭良くなったんだ。そうだよ、僕は契約関係にも精通しているからね。少し弄らせてもらったんだ。慣れた頃に成長も順調になるんじゃないかな。その時分が死にやすくもあるから面白いものだよね」
「つまり、レベルが上がると基礎的な力が上昇するわけか。技量や経験、それに才能による補正はレベルには関係無い部分だと。ち、澪の奴に負けておるのは癪じゃが、そんなものなら別に苦労して上げる程のものでも無かったわ」紅蜘蛛赤くも催情粉
「まあ、そうなるね。種族によっても異なるからレベルが上だから勝てないなんて事は無いんじゃない? 単に世界から送られる強者へのご褒美みたいなものだし。善人でも凶悪な魔物でも、同じ力量なら殺せば同等の力が手に入るしね。女神の祝福みたいなどんでん返しもあるから妄信はしない方が良いよ。才能や直感なんて言葉に絶望されて消極的になられてもメリットが無いからレベルに応じてジョブ、なんてシステムも導入したり、ランク上昇によるカード機能の限定解除やカスタマイズと中々頑張ってはいるんだけどねえ。ま、今のところレベルが限界に達したって事は無いから。まだまだ僕の掌の上って訳。ちなみにレベルの最高値は六万五千五百三十五。何でも浪漫がどうとかって旦那が熱弁していたからそうしてみたんだ」
 全部納得出来るかは別にして。ルトのやっている事と言っている事は大体理解できた。今も巴と何か専門用語っぽい意味不明の単語を投げあいながら議論しているみたいだけど、そっちは殆どわからない。
 自制して冒険者出来るなら、普通に応援してくれる場所。
 欲望に忠実に行くと、余程運か才能に恵まれない限り墓場への案内所。
 と言う事らしい。考えて見れば荒野なんて正にそんな感じだったな。あそこに行く時点で間違いなく後者の人種なんだろうが。
 しかし、まあ。言われてみれば実にその通りだよなあ。この世界観に冒険者ギルドは馴染んでいるようにも見えるし、実際に千年も続いている。下手な国家よりも古い。日本に平安時代から延々と姿を残して存在する斡旋組織とか企業は存在しないと思うから、冒険者ギルドが相当な組織だってのは想像出来る。木造建築の中に高層ビル、ね。言い得て妙だなあ。
 例えば商人ギルドでの情報伝達速度は日々工夫されているとは言え、冒険者ギルドのそれには全く及ばない。元々、冒険者ギルドを見た商人の一人が自分たちの互助組織として作り上げたのが商人ギルドだって読んだ覚えがある。確かに、国やら街やら有力者やらに影響を受け癒着なんかもある商人ギルドの方が、組織として人の作った”らしさ”があると思う。
 冒険者ギルドの情報伝達の異常なまでの速さは本当にメールがあるんじゃないかと疑ったくらいだ。荒野の出張所で無ければ巴と澪の存在は数日で世界に広まっていただろう。ツィーゲは、レンブラントさんが裏で動いてくれたんだよな。奥さんや娘さんが大変な時だったって言うのに、本当に頭が下がる。その後の冒険者ギルドでも、巴と澪はその活躍振りから支部長さんの実績にも大きく貢献し、かつ荒野の依頼をも難なくこなす二人の重要性から、きっちりこちらの要求通りに情報を殆ど外に漏らさないでいてくれるようだ。多分、この目の前の竜は巴や澪、それに僕のレベルもきっちりと把握していると思うけどね。まったく、僕のいた世界の情報も普通に知っているかのように話すし、彼は一体どれだけの異世界人と会ってきたんだろうね……? ん? 
 あああああああああああ!!
 そこだ!! そこがさっき引っかかったんだ!!
「ルト!」
「ん、何だい真君。僕とも契約したくなった? 嬉しいなあ」
「違う! お前の最初の旦那の事! 千年前だって言ったよな」
「ああ、言ったね。それがどうしたの?」
「どうしてそんな大昔の人間が冒険者ギルドなんて知っているんだよ! ゲームは愚か、そんな物語だって当時には存在していない筈だ!」
 平安とか藤原道長とか自分で考えておいてどうしてそこに気付かなかったかな、僕は!
「ふむ、そこが気になったの? 説明しても良いんだけど、簡単に浦島太郎っぽく考えておけば楽だしそうしておかない?」
「ぽくって何だよ。結構僕にとって大事な事だから詳細に頼む!」
「ルト、若が望まれておる。説明しても良いと言うなら一から言え」
 もしかしたら、もしかしたらと考えていた可能性の一つが消えるかもしれない瀬戸際なんだ。ここで浦島っぽいのか、で納得できる訳がない!
「うーん。そこまで言うなら……。巴、お前も頼んだんだからちょっと黒板みたいの出してよ。わかる、黒板?」
「馬鹿にするでないわ。ようは説明用に書ける板と筆記具があればいいんじゃろ? しばし待て」
「よろしく。どちらか一人でも良いから最後まで聞いてよ? もし二人とも脱落したら僕はもう真君を襲うからね。約束だよ?」
 何と恐ろしい事を言うのか。しかし二人とは見くびってくれる。ウチには直感担当ではあるが澪と言う第三の天才が……。
 寝てやがりました。道理でさっきから一言も話してないと思ったよ。気持ち良さそうに寝息を立てている澪を見て嘆息する。
 既に一人脱落か。
 最悪、難しい話をしていた巴に投げれば問題は無いだろう。識だって戻ってくるかもしれない。
 巴を待つ間、ルトがお茶と果物を褒めてくれたりしながらの雑談を交わし、僕は彼のするであろう時間の矛盾の話を待った。紅蜘蛛 II(水剤+粉剤)