2013年1月31日星期四

ラヴド・ヴィクティムズ

「休みを?」
「ええ。今日一日、お休みをいただきたいのです」
 真剣な面持ちで現れたアリスは、そう言ってじっと主人であるゼロ・ハングマンを見つめた。ゼロは無表情に角砂糖をピラミッド型に積み上げている。D9 催情剤
「何か理由が?」
 ゼロは彼女を見ないままに尋ねた。アリスが休暇を願い出たのは、彼女がハングマン城に勤めるようになってから初めてのことである。彼女は少し、俯いた。
「……孤児院に、帰りたいのです」
 ゼロの肩が小さく跳ねた。
「孤児院に?」
「ええ。孤児院にいた子供がひとり、亡くなって……追悼のミサに出席したくて」
「…………」
 ゼロの視線が一瞬、彼女の手元に動いた。エプロンの前で組んだ彼女の手には、白い便箋が挟まっている。
「なるほど。そうでしたか」
「はい。一日だけ……お願いします」
「わかりました」
 ゼロはつぶやいた。アリスがほっと息をつく間もなく、彼は言葉を継ぐ。
「では、わたしも伺いましょう。リデルも連れて行きます」
「え?」
 アリスはぽかんと口を開けた。ゼロは山積みになった角砂糖をシュガーポットの中に投げ戻しながら、そのうちのひとつを頬張った。がり、と鈍い音が響く。
「馬車の用意をしますから、少し待っていて下さい」
「え、でも……」
 声を上げるアリスにかまわず、ゼロは執事の部屋に繋がる呼び鈴を引いた。そうしてから、ようやくちらりとアリスの顔を見上げる。
「アリスも、出掛ける準備を」
「は、はい」
 彼女は思わず素直にうなずき、ゼロの部屋をあとにした。

  × × ×

 一時間後。アリスはリデルの駆る馬車の中にいた。日ごろは精彩に満ちている彼女の碧い瞳も、今は深く沈み込んでいる。黒い喪服に包まれた肩の上に、ブロンドの巻き毛が零れ落ちていた。
「その子の名前はローザ・カーター。わたしが十歳くらいの時、孤児院の前に捨てられていたんです。寒い冬の日で……まだミルクしか飲めないような、ほんの赤ん坊だった」
「…………」
 ゼロは普段と変わらぬ黒づくめの格好をして、アリスの向かいに腰を掛けていた。その静まり返った表情からは、何一つ感情をうかがうことはできない。
「ひと懐こい子でした。だから、彼女が貴族の養子になるって聞いたときも、きっとうまくいくと思った……」
 何故ゼロにこんな話をしているのか、アリスにはわからない。そもそも何故彼が自分についてきたのかもよくわからなかった。
「貴族の養子に?」
 不意に、ゼロが口を開いた。いつもの猫背ではなく背筋がぴんと伸びていて、瞳は彼女をまっすぐに映している。
「その、ローザという子は誰かの養子になったのですか?」
「え、ええ」
「で、養子に行った先で亡くなった?」
「はい」
「…………」
 ゼロは再び背中を丸め、馬車のシートに深く体を埋めた。
「引き取られてからすぐ、彼女は何か重い病気に掛かったらしくて……驚いた孤児院は引き取って看病しようかと申し出たんだそうです。でも、それには及ばないと言われたと……ローザはもう自分たちの娘なのだから、娘のために親である我々が手を尽くす、と言われて」
 アリスはすぐに再び口を開いた。――話し続けずにはいられなかった。そうしなければ、思い出してしまう。ローザのくりくりとした愛らしい瞳。その名を体現するかのように、いつも薔薇色に上気していた頬。
「きっと、ローザはしあわせだったんだと思います。少しの間だったけど、優しい親に恵まれたんだから……だから、きっと」
「アリス」
 低い声が彼女の名を呼んだ。そして、俯いていた彼女の頭の上に何か固いものが載る。
「…………」
 アリスはおそるおそる顔を上げた。彼女の髪に触れていたのは、ゼロの手だった。しかし、彼はすぐに手を引き――そ知らぬ顔で横を向いた。
「もう、着くようですよ」
 小さな窓から外を眺め、ゼロは言う。アリスは彼の横顔を見つめ、やがて黙ったままうなずいた。

 その孤児院はロンドンの下町に位置しており、敷地内に建つ教会の壁は、周囲の建物と同じようにやや薄汚れていた。急ぎ中に入っていくアリスの後を追うように、ゼロは辺りを見回しながら一歩一歩足を進める。――その歩みが突然、止まった。
「…………」
 ゼロの鼻先を石が飛び去り、石塀にあたって音を立てる。ゼロは特に驚いた様子もなく、石の飛来した方向を見遣る。そこにはひとりの少年が立っていた。ぼさぼさに乱れた赤毛、赤銅色の瞳。年齢はまだ十歳になるかならないかといったところだろう。
「ゼロ様?」
 気付いたアリスが振り返り、ゼロに駆け寄った。
「おまえのせいだ! おまえのせいでローザがしんだんだ!!」
 甲高い叫び声に続いて、投石。
「…………」
 ゼロはそれを右手で受け止めた。相変わらずの無表情で、声の主である少年をじっと眺めている。アリスは慌てて声を上げた。
「やめなさい、ルイ!」
 その言葉に、少年はぴくりと体を震わせた。
「アリスねえちゃん……?」
「お客様に無礼を働いてはいけないと、シスターにならったでしょう」
 アリスはルイの足元にしゃがみこみ、視線を合わせた。顔を逸らそうとする彼の頬を両手で固定し、逃がさない。
「そもそも、ひとに石を投げるなんて、絶対にしてはいけないことよ」
「けど!」
 ルイはきっとゼロを睨み上げた。ゼロはコートのポケットに両手を突っ込み、アリスの背後に佇んでいる。ルイには興味などないかの様子で、教会を見上げていた。
「あいつはきぞくだろ。きぞくがローザをつれていっちゃったんだ。つれていったから、しんじゃった!」
「ルイ」
「きぞくなんて、だいきらいだ!」
「ルイ!」
 叫ぶ彼をたしなめようとするアリス、だがそんな彼女の側にゼロが並んだ。
「安心なさい」
 ゼロは低くつぶやく。
「わたしはあなたがたを連れて行きたいとは思いませんから」
「……ゼロ様?」
「…………」
 ゼロは相変わらずルイを見てはいなかったが、ルイはどこか気圧されたかのように押し黙った。
「アリス」
「え? あ、はい!」
「シスターに挨拶をしてきます。あなたは子供たちと一緒にいてください」
「はい。……あの、ゼロ様、お怪我は……」
 気遣うアリスに、ゼロは首を横に振った。
「大丈夫です。……では」
 ゼロはアリスらに背を向け、その場を立ち去った。
「……アリスねえちゃん?」
 黙って彼の背中を見つめていた彼女に、ルイがおそるおそる話し掛ける。
「あのひと……だれ?」
「だれかもわからない相手に石を投げたの?」
「う……」
 ルイはうつむいた。アリスは苦笑する。
「後でちゃんと謝りましょうね?」
「う……」
 ルイは顔を伏せる。
「わたしも付いていくから」
「……うん」
 その返事を聞いたアリスは満足げにうなずき、そしてぽつりとつぶやいた。
「でも、ゼロ様は、どうしてわざわざここに……」挺三天

 初老のシスターは、突然現れたゼロとリデルを目の前にして驚いたようだった。
「伯爵様が、一体どのようなご用件で……?」
「うちのメイドについてきただけです」
 ゼロは淡々と言う。
「メイド?」
「アリス・ウェーバー。こちらの出身ですね?」
「あ、ああ!」
 シスターは顔をぱっとほころばせた。
「そうでしたか。……では、アリスもここに?」
「ええ。今は子供たちと一緒にいますが」
「そうですか」
 シスターは慈母のような微笑みを浮かべ、ゼロを見つめる。
「時々アリスが手紙をくれるのですが、あなたのことをよく書いていますわ」
「…………」
 ゼロはぎょろりとした瞳でシスターを見つめた。
「本当に良くしていただいていると……自分はしあわせだ、と」
「…………」
 黙って身じろぎもしないゼロの横から、リデルが口を出す。
「こちらこそ、本当に良いお嬢さんに来ていただいてありがたく思っております。ここでの教育の賜物でしょう」
「――ところで」
 不意に、ゼロが口を開いた。
「ローザ・カーターを養子にした貴族というのは、キース子爵夫妻ですか?」
「な」
 シスターは大きく目を見開いた。
「何故、それを……?」
「…………」
 ゼロはその問いには答えず、別のことを言った。
「ミサが終わるまで、どこか休む部屋をお借りしてもよろしいでしょうか。リデルとアリスを待ちたいので」
「伯爵様は、ミサには参列されないのですか?」
「ええ」
 ゼロはあっさりと答える。シスターは何か言いたげな表情だったが、彼の瞳に浮かぶ拒絶の色を見て取ったのか、結局はひとつ小さなため息を零しただけだった。
「……わかりました。お部屋は用意させていただきます」
「助かります」
 ゼロは軽く会釈すると、窓の側へと歩み寄った。中庭ではアリスが数人の子供たちに取り囲まれている。
「リデル」
 ゼロは小さな声で言った。シスターには聞こえないほどの、かすかな声だった。
「はい」
「『ボディ』を手に入れろ」
「はい」
「それから――」
 ゼロはがり、と爪を噛む。
「ドクター・ロスチャイルドを呼べ」
デミアン・ロスチャイルド。彼はアリスがハングマン城で出迎えた二人目の客だった。ゼロには「変な医者が来ます」としか聞かされていなかったのだが、彼の第一印象はそう妙なものでもなかった。
「はじめまして」
 デミアンはそう言い、仕立ての良さそうなシルクハットを脱いで会釈した。ひとつに結わえられたブロンドの長い髪が、背中に沿って脈打つ。眼鏡の奥の薄水色の瞳は、柔らかな笑みの形に細められていた。
「デミアン・ロスチャイルドと申します。以後よろしく」
「は……はい! こちらこそ!」
 丁寧な挨拶に慌てたアリスは、深々と礼をした。頭上で低く笑う声が漏れる。
「ゼロ君に取り次いでいただけますか?」
「はい!」
 急ぎ奥に向かおうとしたアリスだが、不意に視界を塞がれて足を止めた。──いつの間に現れたのか、彼女の目の前にゼロが立っている。彼からはふわりと石鹸の匂いがして、アリスは思わず目を伏せた。きっと、ゼロは先刻まで……。
「……やあ、久しぶり」
 にこやかに笑うデミアンとは対照的に、ゼロは無表情に彼を見返した。
「お久しぶりです。――アリス、お茶を」
「はい」
 どことなく、ゼロが緊張しているように見える。何故だろう。そもそも何故、ゼロは医者を呼んだのだろう。体に不調はないはずだが……。不思議に思いながらも、アリスはふたりを遺して部屋を出た。

 アリスの運んできたお茶を口にして、デミアンは深く吐息をついた。
「――美味しい。いいメイドを見つけましたね、ゼロ君」
「ええ、まあ」
 そっけないゼロには構わず、デミアンはゆったりとソファに背中を預ける。
「ところで、何か僕に用があったのでしょう? 何です?」
「…………」
 ゼロはわずかに声を低めた。
「キース子爵夫妻について、あなたが知っていることは?」
「……ああ」
 デミアンは程なく声を上げた。
「あの、養子が次々と変死しているという……」
 ゼロはうなずく。
「つい先日もひとり、亡くなったのでしたっけ?」
「ええ。どうやらこれで四人目です」
「それはそれは」
 デミアンは片眉を上げた。
「偶然、で片付けるには少々」
「あなたもそう思いますか」
「残念ながら、僕は彼らの子供を診察したことがないのでね。何とも言えませんけれど」
「…………」
 ゼロは視線を落とした。
「実は、リデルに子供の死体(ボディ)を手に入れてもらったのですが」
「……リデルに何をさせているんですか、君は」
 あきれた口調のデミアンには構わず、ゼロは言葉を続ける。
「全身を調べても、外傷はどこにもありませんでした」
「……ふむ」
「骨折もない。生前からのものと思われるあざのようなものもない。病死……おそらくは肺炎。そうとしか考えられなかった」
「なるほど」
 デミアンは再びお茶をすすった。
「それで、君が僕を呼んだ理由は?」
「…………」
 薄水色の瞳が、冷たくゼロを映す。――笑みを消した彼の表情は、ひどく酷薄なものだった。ゼロはそれを淡々と見返す。
「言わなくともわかるでしょう?」
「…………」
「あなたはロンドン随一の――いえ、ヨーロッパ中で並ぶもののない腕を持つ精神科医だ」
「買いかぶりすぎですよ」
「いいえ」
 苦笑したデミアンに対し、ゼロは小さく、しかしはっきりと言った。
「あなたの元患者が言うのです――間違いありません」
「…………」
 デミアンは口を一文字に引き結んだまま、じっとゼロを見つめた。
「それで……君は僕にキース夫妻を診ろ、というのですか?」
「いいえ。私はただ真実が知りたいのです」
 ゼロはぽつり、とつぶやく。
「何故、子供たちは死んでいったのかを」
「それを、どうやって僕が明らかにできるというのですか」
 デミアンは苦笑した。
「それに……」
 ゼロは背中を丸めてデミアンを見上げる。
「もし彼らが子供たちをどうにかしていたとして――君はどうするのですか? 五人目の犠牲者を出さぬように、何か尽力するとでも?」
「…………」
 ゼロは答えない。デミアンは小さくため息をついた。
「君にももう、大体の想像はついているのでしょう? 何故、キース夫妻の養子が次々に亡くなっていくのか」
「……さあ、どうでしょう」
 ゼロはつぶやいた。VIVID XXL
「四回の死が偶然ではないと証明するのは非常に難しい。けれど、偶然である確率は非常に低い」
「キース夫妻には実子はないのでしたね。たしか、夫人が病弱で、子を産めば己の命が危うくなると言われているのだとか」
 デミアンのつぶやきに、ゼロは唇に奇妙な笑みを湛えた。
「なるほど、子が母を喰らってしまうから、ですね──どこかで聞いたような話だ」
「そうですか?」
 ゼロが、彼を産み落として命を散らせた母親のことを言っていることはすぐにわかった。しかし、デミアンは何の動揺も見せずゼロを真っ直ぐに見つめる。彼がゼロと初めて出会った「あの時」と同じように、その温度のない視線に優しさはなく、色のない瞳には力強さもなかった。ただ、そこに映るものすべてが彼の瞳の中に取り込まれていくようだった。守られるのでもなく、責められるのでもない。まるで、鏡の奥深くに沈んでいくような……。
「ところで」
 不意に、デミアンが視線を窓の向こうに投げた。ゼロはほっと息をつく。
「僕からキース夫妻にコンタクトを取ることは不可能です。橋渡しは君がしてくれるのですか?」
「私も面識はありませんが」
 ゼロは少しだけ口角をあげた。
「亡くなった子供のためにミサを行うんだそうです。そこに行けば会えるのではないかと」
「ミサを、ね」
 デミアンは苦笑した。
「でも、君はミサには出ないでしょう?」
「……ええ、まあ。むしろ私はあなたが出ることの方が不思議です。筋金入りの無神論者の癖に」
 デミアンは笑みを深める。
「信じていないからこそ、ですよ」
「…………」
 ゼロは黙って何も言わない。
「……まあ、あなたのご要望はわかりました。添えるように努力してみます」
 デミアンはコートを腕に掛けた。ソファから立ち上がる彼を、ゼロはその暗い視線で見上げる。
「お願いします」
「…………」
 デミアンはふとゼロを見つめた。穏やかに微笑む。
「きみは、やさしいね」
 ゼロはその言葉を聞こえなかったかのように無視した。

  × × ×

 教会は荘厳な音楽で満たされていた。聖歌隊の奏でる讃美歌は壁を震わせながら天へと立ち上っていく。
 マーガレット・キースは黒いレースのヴェールをかぶり、じっと俯いていた。そのエメラルド色の瞳からは幾筋もの涙が伝って落ちていた。
「マギー」
 夫であるジョージ・キースが彼女の手をとろうとしたが、彼女はさりげなく手を退ける。その指先は黒い手袋に包まれていた。
「そんなに泣くんじゃない。君はよくやっていたよ」
「…………」
 マーガレットは夫の言葉に耳を傾ける様子もなく、ただじっと床を見下ろしていた。
「キース子爵」
 執事の控えめな声に、ジョージは妻から目を逸らした。
「ハングマン伯爵の手紙を携えた使者が」
「ハングマン伯爵だと?」
 ジョージは眉を寄せた。その名は当然知っているが、今まで交流は全くといっていいほどない。あの気味の悪い「首吊りの伯爵」に関わろうとするものなどそうそういるはずもなく、彼も同様であったからだ。
 執事の背後に立つ男が一歩進み出、深々と一礼をした。
「はじめまして、デミアン・ロスチャイルドと申します。『ローザ様のご不幸を謹んでお悔やみ申し上げる』とのメッセージを預かって参りました」
「それはそれは、ご丁寧に」
 困惑を浮かべながらも恐縮するジョージから、隣に佇む妻へとデミアンの視線はうつった。
「奥様もさぞかしご傷心でいらっしゃることでしょう」
「ええ」
 マーガレットは言葉少なに答えた。
「だってローザは、私の子供だったのですから」
「あなたがたのお子様、ですね?」
「いいえ」
 さりげなく言い直したデミアンに、マーガレットははっきりと言った。
「私の子供、です」
「…………」
 ジョージは気まずげに咳払いをする。デミアンは白々しく尋ねた。
「キース子爵のお子様ではない、と?」
「だって、あの子の面倒を見ていたのは私だけですもの」
 マーガレットはにくにくしげな視線を夫に向ける。
「そうでしょう? あなた」
「やめないか、おまえ」
 ジョージは苦虫を噛み潰したような表情で妻を制した。
「なるほど、病床のローザ様に付き添っていたのはほとんどが奥様であった、ということですね」
「ええ。ずっと私でしたわ。ローザだけじゃなくて、ジャックのときも、エレーナのときも、トッドも……」
「おまえが皆を追い出すんだろうが! わたしがローザのためにと雇ったメイドのことも追い払って」
 声を荒げたジョージに、マーガレットは冷ややかにこたえる。
「ローザのためのメイド? 違うでしょう? 愛人を手元に置いておくため。あなたのためよ」
「違う、リリーとは何も……」
「奥様」
 デミアンは静かに彼らを遮った。ふたりははっと彼を見る。デミアンは、微笑(わら)っていなかった。
「実は僕、医業を生業としているものでしてね。今後はどうぞ、僕にご相談ください」
 デミアンは懐から名刺を取り出し、マーガレットに差し出した。
「それから、キース子爵。あなたにも」
 デミアンはジョージにも同じものを渡す。
「私にも?」
 怪訝そうに眉を寄せるキースに、デミアンはうなずいてみせた。
「ええ」
「あなたになら、ローザが治せたとでも? 私はつきっきりで看病していたのよ」
 眼差しを鋭くするマーガレットに、デミアンは微笑する。
「そうですね、僕ならきっと転地療養をお勧めしていたでしょう。たとえば――元の孤児院に返すとか?」
「何ですって?!」
「マーガレット・キース」
 不意に、無機質な声が割り込んだ。デミアンは笑みを浮かべたまま一歩退く。彼の背後から現れたのは――ゼロ・ハングマンだった。
「伯爵?!」
「医師の勧めには従うことですよ」
 ゼロは言い捨て、ジョージに向き直った。
「ローザのいた孤児院の子供たちが、是非このミサに出席したいのだそうです。よろしいですか?」
「え……ええ」
 ジョージがうなずくと、ゼロは軽く右手を上げた。教会の入り口から、アリスに先導された子供たちが入ってくる。誰もが目に涙を浮かべていた。
「…………」
 マーガレットはぼんやりと子供たちを眺める。どの子供たちも健康そのものだ。親はなくとも愛情たっぷりに育てられている。その輝きに、知らず知らずのうちに彼女の視線は吸い寄せられていく――その耳元に、ゼロが囁いた。
「次に死神の犠牲になるのは、どの子供なのでしょうね?」
「なっ……?!」
「でも、次はありませんよ」
 振り返ったマーガレットの瞳を見据え、ゼロは言う。
「ドクター・ロスチャイルドの腕は確かですから」
「な……何をおっしゃりたいのかしら」
 強張った口元を微笑ませて、マーガレットはゼロを睨んだ。
「おっしゃっていることがわからないわ」
「…………」
 ゼロはジョージをじろりと見た。福潤宝
「キース子爵。何故、あなたは自分の子供を城に呼び寄せないのです?」
「え……?」
「数年前に城のメイドとして働いていたスカーレット・シンプソンの生んだ子供――あなたの子供でしょう?」
「…………」 
 マーガレットの蒼白な顔を横目で見ながら、ジョージは汗をぬぐった。
「いや……それは、私の子供では……」
「ほう。それは失礼」
 ゼロはぴたりと追及するのをやめ、彼らに背を向けた。
「しかし、あなたは賢明ですね。……己の子供を死神の手から守っているのだから」
「…………」
「では、ごきげんよう」
 ――教会の天井には、子供たちのすすり泣く声が波のように木霊していた。

  × × ×

「ごめんなさい」
「…………」
 ハングマン家の馬車の前で深々と頭を下げた少年を目の前に、ゼロは目を何度も瞬かせた。そんな彼の表情を見て、アリスは小さく噴き出す。
 ゼロは困惑した表情を彼女に向けた。
「アリス、これは一体……」
「ルイが、謝りたいんですって」
「はい?」
「ゼロ様に石を投げたこと。謝りたいって」
「……はあ」
 ゼロは力なくつぶやいた。
「そんなこと、もうすっかり忘れていましたが……」
「あと!」
 ルイが突然勢い良く顔を上げた。
「ありがとうな、ローザにバイバイさせてくれて」
「…………」
「また、アリスねえちゃんと一緒に遊びに来てくれよ!」
「…………」
 ゼロは答えないまま、馬車の中にするりと滑り込む。
「……まだ怒ってるのかな?」
 不安げにアリスを見上げたルイに、彼女は静かに首を横に振った。
「いえ、そうじゃないと思う」
 ――あの時、一瞬彼が見せた戸惑いと迷い、そして……。
「きっと、おわかりにならなかったのね。どんな表情(かお)をすればいいのか」
 アリスはつぶやく。
「アリス」
 馬車の中から、彼女を呼ぶ声がする。アリスはルイの頭を軽く撫で、それから手を振った。
「じゃあ、行くわ」
「う、うん」
 手を上げて答えるルイに微笑みかけて、アリスは身を翻した。
 ――馬車の中でゼロは、膝を抱えて小さくうずくまっていた。
「ゼロ様?」
「死神は」
 ゼロはつぶやく。
「寂しいのでしょうね」
「……え?」
「…………」
 ゼロは目を伏せる。――おそらく、子供たちを死に追いやっていたのはマーガレット・キースだ。熱心に子供を看病する母を演じることで、寂しさを紛らわせていたのだろう。病の子供は己を必要とする。病の子供を持つ母親に、人々は同情する。子供が亡くなれば、盛大なミサを行って悲劇の母を演じる――夫が自分を顧みなくとも、余所の女に子を産ませても、寂しくないように。
「ゼロ様……」
 アリスは彼の顔を覗き込んだ。考えに沈み込んでいた彼の瞳を、心配そうに見つめる。
「ゼロ様は、お寂しいのですか?」
「……いいえ」
 ゼロは小さく――本当に小さく、微笑む。
「だって、あなたがたがいるでしょう? アリス」
「…………」
 アリスは一瞬のその温度を心に焼き付け、そしてふわりと笑った。
「はい!」
 きっといつか、再び彼と孤児院に遊びに行ける。そんな日が来ると、そう思ったOB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ

2013年1月29日星期二

お迎えにあがりました

「こ……こ?」
 お母さんが書いてくれた簡単な地図と、目の前にある表札を見比べてあたしは声を漏らした。
 表札には「三嶋」と書かれているし、住所も号室も間違ってない。
 本っ当にここに慎がいるんだよね? まさかあのおじさん、別のところに行ってたりしないよね? そうだったらあたしのこの苦労は何なんだ……っ!御秀堂 養顔痩身カプセル
 いや、いくら何でもそこまでひどくはないだろう。
 とにかく居るかどうか確かめないと。
 こくんと唾を飲み込んで、あたしは指を伸ばして、インターフォンのボタンを押した。ピンポーンとありきたりな呼び出し音が鳴る。
『はい?』
「あ……春日です」
『やあ美晴ちゃん、思ったより早かったね』
 そりゃあ、おじさんに倣ってルール違反しましたから。
『千鶴にでも教えてもらったのかな?』
 あ、ばれてる。
「それより慎は……っ!」
『慎なら寝てるけど』
 寝て、る……?
 このおじさん、息子が寝てる間に息子の携帯勝手に触ったのか……っ!
 いくら実の親でもそれは駄目だろう、とこっそりため息をつく。
 でもおじさんはそんなことちっとも気にしてないみたいで、気軽に「入る?」だなんて言ってきた。……入ってやろうじゃないか。取り返しにおいでって言ったのはおじさんなんだし。

 拍子抜けしちゃうくらい簡単におじさんはあたしを家に上げてくれて、あたしは前を歩くおじさんを警戒しながら廊下を歩いてリビングに入れてもらった。
 何て言うか……びっくりするくらいに、生活感のない家だった。アットホームな雰囲気だらけのうちとは大違いだ。
「慎!?」
 リビングにはソファがあって、そこで寝ているのが慎だということが分かってあたしは思わず声をあげてしまった。
 朝見たままの姿で、慎がソファで座ったまま、寝てる。倒れちゃわないのかな、と思ったけど、上手い具合に肘掛けと背もたれに支えられていて倒れる気配は全くなかった。かけられているブランケットは、おじさんのなんだろうか。
 すーすーと寝息を立ててる慎を見るのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。
 慎はほとんど平日は毎日あたしを起こしに来てくれてるけど、あたしが慎を起こしたことはない。悲しいかな、これが寝起きの良さの違いだ。慎は人に起こしてもらわなくても、自力で起きようと思った時間ぴったりに起きることができているから。
 初めて見た慎の寝顔。
 あ、やっぱり寝てる時でも慎ってお母さんに似てるんだなあ。
 おじさんと並べて見ても、ちっとも似てない。
「美晴ちゃん、何か飲みものでも?」
「あ……いえ、お構いなく」
 何となくこのおじさんと二人で何か飲み物をすするのは気が重い気がしたから、断っておいた。一番最初におじさんと話をしたのも、飲み物を飲みながらだったし。まああの時は慎がとんでもないやり方で話を中断させたんだけど……。
 ――あれ?
 ちょっとした、違和感。
 そう言えばあたしは、知らないことが多すぎる。
 どうしてお母さんとおじさんが離婚したのか知らない。
 どうしてお母さんが慎の親権を持つことになったかも知らない。
 親権はお母さんにあるのに、どうして慎が未だにあたしのお父さんとの養子縁組をしないのかも知らない。
 それから、どうして今になっておじさんが慎を家に連れ戻そうとしてるかも、知らない。
 本当に知らないことだらけだ。
 あたし、これで慎の……か、彼女だって、胸張って言うことができるのかなあ。
 あれー? これはちょっと……なんて言うか、ぐさっときたぞー?
 勝手に勘ぐって勝手に落ち込むあたしを見て何を考えたのかは分からないけど、おじさんはあたしを手招きしてソファに座らせた。慎のことを気にしたあたしだったけど、結局促されるまま座ることになる。……寝てる慎の、隣に。
 あたしと慎の向かいに座ったおじさんは、にこにこと笑ってあたしを見た。
 おじさんの本性を知らないあたしだったら愛想笑いくらいしてみせただろうけど、あたしはもうおじさんが見かけ通りの人じゃないって知ってるから、ここで愛想笑いができるほど大人じゃない。だから目をそらさずに、にこにこ笑ってあたしを見てるおじさんを見つめ返した。あたしの中でおじさんは「敵」に分類されてるから、きっとその時のあたしの目つきは剣道の試合中と同じくらいだっただろう。
「――良いね、その目」
「へ?」
「『あんたなんかに負けるもんか』……目がそう言ってるよ、美晴ちゃん。さしずめ僕は恋の邪魔者というところかな?」
「……おじさん、一つだけ訊いても良いですか?」
 あえておじさんのふざけた言葉には答えずに、あたしは不躾に質問をぶつけた。
 おじさんは年齢に似合わず、可愛らしく目をぱちぱちとした後で、口元に笑みを浮かべた。
「どうぞ?」
 あたしは知らないことが多すぎる。
 全部知りたいけど……でも、今は、これだけは訊いておかないと、という質問だけを口にすることにした。
「どうして、慎を連れ戻そうとするんですか?」
 こういう言い方は悪いかもしれないけど、慎はもう高校生だ。幼稚園児や小学生ならともかく、今更父親と暮らし始めたって、特に何も変わるところはないと思う。高校生の息子とかって、父親には素っ気ないものなんじゃないのかな?御秀堂養顔痩身カプセル第3代
 またしてもあたしの不躾な質問にも、おじさんは笑顔を変えなかった。
「単純な、理由だよ」
 にこ、と笑って。
 それから、ぴたりと笑うのをやめてあたしをじっと凝視した。
「……な、何ですか……?」
「君は……どうして僕と千鶴が離婚したと思う?」
 そんなの、知らない。
 それはお母さんとおじさんの個人的な問題だ。確かに慎はそれに関係があるかもしれないけど、お母さんの再婚相手の娘であるあたしには、そこまで立ち入る権利はないと思う。もしあたしだったら……いや、離婚とかではなく。そんな大きな問題でなくとも、自分っていう個人的な領域にまで踏み込まれるのは嫌だ。
「美晴ちゃん、たった五歳の子供が、両親のいない家で夜を過ごすのをどう思う?」
 にこりともしないまま、おじさんが淡々とあたしに訊く。
 おじさんの質問を頭の中で繰り返して、あたしは黙り込んだ。
 たった五歳の子供。
 そう言ったって、あたしだってそれくらいの時にはもう本当のお母さんは亡くなってたから、お父さんと二人きりだった。弁護士だったお父さんは、その前からも、忙しい依頼が舞い込んだら事務所に泊まり込んで帰ってこないことも多かった。だからあたしも小学生の頃は、家に一人だった。お父さんはあたしを心配してよく電話をかけてきたけど、あたしはそれがそんなに辛いとは思わなかった。少し、寂しかっただけ。
「僕はね、千鶴に仕事を辞めて欲しかったんだ。……僕は自分の仕事を辞めたくない。千鶴もカメラマンとしてのプライドがある。結局そうやってお互いが譲らなかったから、慎はいつも家に一人だった」
 ちらりと眠ったままの慎におじさんとあたしは視線を向ける。
 優しくて、暴力的なところなんてどこにもないし、気遣ってくれる、童話の中の王子様みたいな人。
 料理だってあたしなんかよりよっぽど上手かったから、小さい頃から自分で作ってたんだろう。
 あたしがもし慎の母親だったら、慎に注意することなんて一つもなかったかもしれない。
「……昔から奇妙なくらい物わかりの良い子だったよ、慎は」
 成績だっていつも良いから、先生に成績のことで怒られることも、素行について注意されることもなかった。
 女の子には優しいから好かれるし、スポーツが出来て、冗談言ったり面白いところもあるから、男の子の友達だって多い。
 でも。でも……それは。
「一度、慎に訊いたことがあった。『父さんと母さんが家に居た方が良いかい?』ってね。そしたら何て答えたと思う?」
 どう思う、って。
 さっきから何度もおじさんはあたしにそう言ってるけど。
 あたしはそれに答えられなくて。
「七歳の子供が。まだ小学校の低学年だった子供が、『大丈夫だから、ぼくより仕事を優先して良いよ』って、笑って言ったんだ」
 ぼすっとソファの背もたれに沈み込んで、おじさんは天井を見上げた。
「大人は、大人の勝手で物事を考えてるって思われがちだけど、違うんだ。僕も、千鶴も、慎が可愛くなかった訳じゃない。ただ……ただ、物わかりの良すぎる慎に甘えて、子供の気持ちを考えてあげられなかった」
 自分を責めるようなおじさんお言葉を聞いていると、慎がものすごく可哀相に思えてくる。
 でもそれって、本当にそうなのかな?
 確かに慎は物わかりは良い気がするけど……でも、何も百パーセントおじさんとお母さんのせいだとは思えない。
「それから、僕と千鶴はたびたび口論するようになった。……慎のことでね。カッとなって千鶴に手を上げたことがあって……慎が、怒った。あの子の怒ったところを見たのは、それが初めてだったよ。あの子は、口論の本当の理由を知らないから、きっと僕が千鶴に暴力を振るったから離婚したんだと、今でも思ってるだろう」
 よくこれだけ第三者が話してる横で眠られるな、と慎の顔を見る。
 あたしも、慎が本気で怒ったところはちょっとしか見たことがない。
 当の本人が眠ってる間にこんなに聞いちゃって良いんだろうか。
 あたし……こういうのは、何か嫌だな。
 ちょっと、後ろめたい。
「離婚した時、慎は千鶴についていくと言った。離婚後も、慎は僕が千鶴に近づくのを許さなかった。……まあ、手を上げたのは、僕だからね。だけど僕は――――」

「――べらべら喋りすぎです、あなたは」
「!」
 あたしがびっくりしてもう一度慎の顔を見ると、慎がうっすらと目を開けるところだった。
 眠たそうに目を擦って、首を動かす。
「やあおはよう、慎」
 さっきまでちっとも笑わなかったくせに、慎を見ておじさんはにっこりと笑った。
「慎、いつから起きてたの!?」
「ちょっと前……。だいたいこんな話し声の中で寝ていられる訳が……。…………まさかとは思いますが、俺に変な物飲ませたりしてませんよね?」
「何のことかな? 言った通り、毒なんて入れてないよ?」
「ふざけないで下さい。……あなたが入れた紅茶を飲んでから……眠くて……」
 慎らしくなく、まだ眠たそうに何度も瞬きをする。
「おじさん!?」
 あたしはキッとおじさんを睨み付けた。
 おかしいと、思ってた。
 だって慎は、ちゃんと睡眠を取ってるから、こんな風に寝ちゃったりしない。
「僕不眠症でねー。大丈夫、問題はない筈だよ。医者に処方してもらったものだから。……だって君、こうでもしないと僕の話聞かずにさっさと帰ったでしょ?」
「……あなたって人は……患者はあなたであって俺じゃない」
「まあまあ良いじゃないか。そのおかげで美晴ちゃんがこうやって迎えに来てくれたんだから」
「あ……そう言えば美晴、何でここに?」
 今気付いた、という顔で慎があたしを見た。
 あたしは思わずそっと視線をずらしてしまった。だって、勝手にこんなところまで来て、慎の小さい頃の話聞いたなんて、何か、ちょっと……。御秀堂養顔痩身カプセル第2代
「僕が呼びだしたんだ。慎を返して欲しいなら取り返しにおいで、ってね。そのついでに色々話していた訳さ」
 おーじーさーーん!
 何でそうさくっとばらすかな!
「あ、いや、えっと……その、ちょっと、心配で」
 しどろもどろになりながらそう言い訳する。
 慎が今どんな顔をしてるのか見るのが何だか怖くて、あたしは視線を逸らしたままだった。同じ家で暮らし始めた頃と違って、最近の慎は色んな表情を見せてくる。熱っぽい表情とか、怒った表情とか。もしかしたら今、怒ってるかもしれない。
 そーっと、視線を戻して。
 慎を見たら。
「……普通、お迎えにあがるのは俺の役目なのに」
 ――そう言って笑った慎が、少し照れくさそうで。それでいて、嬉しそうで。
 あたしとおじさんは、不覚にもその笑顔を見て固まってしまった。
 慎はいつも大抵優しい笑顔だけど、こんなに嬉しそうに笑うことは少ない。嬉しそうな笑顔を見せてくれた原因が、あたしの言葉だって思ったら、その途端にドキドキが止まらなくなって、あたしまで嬉しくなった。
 余計なお節介かもしれないと思ってたのに、慎が笑ってくれた。余計なお節介なんかじゃない。もう少し立ち入っても良いって、言われたみたいだ。
 もう一歩。慎の、心の中に。
 ただ同じ家で暮らしてるだけの家族じゃ、絶対に立ち入れないところまで。

「僕は……負けた、のかな?」
 くすくすとおじさんが面白そうに笑った。あたしをからかってる時のような笑い方じゃなくて、ずっと浮かべてるだけの偽物っぽい笑い方でもなくて。
 はーっと長いため息を漏らすおじさんに、立ち上がりながら慎が声をかける。
「……あなたのやり方は好きじゃない。何年も前から……あなた、俺に構い過ぎです。俺はもうそんなに子供じゃないんですから、子離れして下さい」
 言い方はただ単調に話しているみたいだったけど。
 それでも、初めてあたしがおじさんに会った日みたいに、刺々しいところはなくて。
「だけど僕は……僕は、君が好きで仕方なかったんだ」
 さっき言いかけて慎に止められた言葉を言ってるのかな。
 おでこに手を当ててそう言ったおじさんは、何だか満足げだった。
 慎の方に視線を向けると、慎と目が合う。
 あたしはそんなに物言いたげな顔はしてなかった筈だけど、慎は「分かったから」とでも言いたげにふっと肩の力を抜いて。
「……たまになら、食事くらい、付き合っても良いですけど。……『父さん』」
 照れくさいのか、ちょっととがった口調でそう言った。
「慎ーっ!」
 顔を上げたおじさんが嬉しそうな笑顔でがばっと慎に抱きつこうとする。それをするりと避けて、慎はほっぺたを少し赤くして叫んだ。
「だから、俺はあなたのそういう所も嫌いなんです! ちょっとは反省して下さい! 美晴、もう帰ろうっ!」
「え、良いの?」
「良いよ、どうせ、父さん開き直りと立ち直りにかけては人一倍早いんだから」
 ぷいと顔を背ける慎は、いつもの大人びた慎と違って、可愛いかもしれない。
 慎に繋がれた自分の手を見て、あたしは思わず吹き出して笑ってしまった。
「何?」
 ずんずんと廊下を進みながら、慎が肩越しにあたしを見る。
「……何かちょっと、おじさんが慎を構いたがる気持ちが分かったかも」
 笑い続けるあたしを見て、慎は不可解そうに眉をひそめた。
「美晴ちゃん、慎が嫌いになったらいつでも連絡して。僕が傷心の慎を連れ去るから」
 そう、リビングの方からおじさんの声がして。
 あたしと慎は顔を見合わせて、同じタイミングでおじさんに返事をした。
「「しません!」」
 靴を履いて玄関から外に出てドアが閉まるその直前に、おじさんの楽しそうな笑い声が聞こえた。韓国痩身一号

2013年1月27日星期日

カフェ・デート

初夏を迎えた。
 ミレが王宮に上がりだいぶ日も経って、そろそろ家が恋しくなってきたある日の午後――予告なく、アーティスが部屋を訪ねてきた。
 ミレはちょうどユアンのもとへ赴くために身支度を済ませたところで、ビスカは後片付けの最中、闇騎士と聖職者は待機、あとの者は不在だ。VIVID XXL
「こんにちは、ミレ殿」
 相変わらず、胡散臭い愛想のよさでアーティスが入室してくる。
 貴族服ではない。平服だ。
 さすがに生地や縫製は上等だが見ためはかなり地味だ。髪型もラフで、装飾物はおろか、剣も帯びていない。そのためか、いつもよりだいぶ若く見える。
「……」
「……こらこら、そんな珍品でも見るような眼で見るんじゃない」
「……」
「なんだ、なにが言いたい?」
「地味です」
「お忍びで出かけるんだ。控えめなくらいでちょうどよかろう。それともなにか? 君はこんな地味な男の隣を歩くのは嫌だというのかね?」
 なんで私の意見が必要なのだろう?
 そう疑問に思いながらもミレは正直に感想を述べた。
「地味ですがシンプルでいいと思います。いつもの華美な恰好より好きです」
 するとアーティスはなぜか少し焦ったように顔を上気させた。
「そ、そうか、好きか。なるほど、君はシンプルな装いを好むのか」
 ミレの服装の好みなどどうでもいいだろうに、アーティスはまじめくさった調子でブツブツ言っている。たまりかねて訊く。
「なんの用ですか」
「デートの誘いに」
「誰を」
「君を」
「お断りします」
 速攻辞退すると、眼の前で、ピクリとアーティスの頬の筋肉がひきつった。眼に剣呑な光が射す。一段低い声が地を這う。
 危険な微笑を浮かべながらアーティスが言った。
「……そう言うと思ったよ。じゃあ選びなさい。気絶するまでキスして欲しいか、それとも私と一緒に虹パフェを試しに行くか」
「……虹パフェ?」
 今度はミレの頬の筋肉がピクリと反応した。
 アーティスが声に弾みをつけて、身振り手振りをまじえて、説明する。
「七種類のアイスクリームを盛ってたっぷりの生クリームをしぼり、その上に飴がけし、生チョコレートを添えてウェーハスとフルーツを飾った大きなパフェだ。ゆうに二人前はあるらしい」
 ミレはゴクリと生唾を呑んだ。
 想像して、ときめく。
 それまで黙って二人の会話を聞いていた闇騎士が呆れ顔で呟く。
「……たかが菓子で姫の気を惹くとは策(て)が幼稚すぎやしねぇか?」
「なんとでも言え」
 アーティスは「フン」と鼻を鳴らしてミレとの距離を詰めた。
「キスかデートか。私は前者でもまったくかまわないが」
 と、アーティスがおもむろにミレの顎に指をかけ、頬を傾けてきた。
 うっとりと虹パフェを空想していたミレはハッと我に返った。
「デートに行きます」
「早くそう言えばいいのに」
 ぬけぬけと言ってアーティスが笑い、ミレの手をすくって、指先に軽くキスを落とした。
「……デートの誘いを受けてくれて嬉しいよ。少しは私に気があると思ってもいいのかね?」
「いいえ、まったくありません」
 ミレが大きく首を振って断固否定すると、なんと、アーティスにパクッと指を齧られた。
「い、痛い」
 甘噛みではない。
 振りほどこうにも、振りほどけない。
「……っ」
 
 痛くて、じわっと泣けてくる。
 悲鳴を上げる寸前、解放された。
「……あーあ、歯型がついてしまったね。かわいそうに」
 自分で噛んでおきながらなにを言っているんだ。
 涙目でミレがアーティスをキッと睨むと、アーティスはニヤリと口角を吊り上げて顔を寄せてきた。
「悪かった。つい、君がイジワルを言うものだから苛めてしまった……」
 涙を舌で舐めとられる。
 さすがにびっくりして胸を押し退けようとしたものの、逆に抱きこまれる。暴れても、アーティスはびくともしない。
 ミレの抵抗をやすやすと封じながら、ちらりと背後に眼をやった。くぐもった声で、なにかひとりごちている。
「……ふぅん。私がここまでしても止めないところをみると求婚者とは表向きか……となると、やはり……」
 疲れて、ミレは虚脱した。
 ここにシャレムがいれば撃退してもらうのだが、あいにく一昨日から姿の見えない芸術家を探しにいって留守なのだ。
 唐突に解放される。息が楽になった。
 礼儀正しく腕を差し出されて戸惑っていると、
「行こう。もうだいぶ時間をムダにした。間に合わなくなるぞ」
 なにに?
 ミレは内心そう突っ込んだものの、アーティスの強引さに負けるかたちで拉致された。 
馬車に乗せられ、ミレが連れていかれた先はバールワンズ大講堂だった。
「間に合ったな」
 こんなところへ来る理由がわからない。
 人員整理をしていた係の者がアーティスを見るなりスッと寄って来た。
「お客様、お席にご案内いたします」
「来い、ミレ。なにをしている」
 ぼうっとしていると手首を掴まれ、引っ張られた。
 大講堂は満員御礼、空席は中央前列四番目の二席しか残されていない。
 まさにそこへ着席したところで、開演を知らせる鐘が鳴った。
 同時に大扉が開き、颯爽と現れた人物を見てミレは眼を輝かせた。
 ダリアン博士だ。
 シーズディリ・ダリアン・ルケイン博士は壇上に上がるなり口火を切った。
「これより私、シーズディリ・ダリアン・ルケインによる特別講義、キージェレクト法則とマリナーの定理に関する考察をはじめる。ご来場の方々には静粛なる聴講をお願いするものである。尚、質問等は最後に受け付けする。まずは――」
 ダリアンの眼がミレを見つけて一瞬止まったものの、それだけで、さっそく講義に移る。
 それから二時間かけてダリアンは鋭い論法と式をもって自説を展開し、最後に聴講者たちとの間で活発な質疑応答が制限時間いっぱいまで取り交わされた。福潤宝
 カーン、カーン、カーン。
 と、終了の鐘が鳴るとダリアンは熱心な聴講者にわっと囲まれたが、ミレが近づくと「ミレ!」と大きく声を張り上げて手招いてくれた。
「すばらしい講義でした、博士」
「ありがとう。だが、まだまださ。算数術は奥が深く果てがない――私も君もひたすら勉学の道を精進あるのみだ」
「はい」
 素直なミレにダリアンは相好を崩し、愛弟子の頭をクシャッと撫ぜた。
「それはそうと、私はこれから学会の理事たちと会食の約束があって行かなければならないんだ。また今度ゆっくり会おう」
「はい、ぜひ。楽しみにしています」
 
 ダリアンの手がミレの肩にのる。コソッと、耳打ちされた。
「……王子殿下とデートとは、やるじゃないか。君も隅におけないな」
 
 ニヤリと笑い、ダリアンが去ると、ついでミレが取り囲まれた。
「失礼ですが、シーズディリ・ミレ博士ではありませんか?」
「はい」
「やはり!」
 騒然と場が湧く。
 大勢がミレをしげしげと眺めて、「おー!」とか「へぇー」とか「ううむ」とか感嘆の声を口々に漏らしている。
「お噂はかねがね。シーズディリ・ダリアン博士の秘蔵の愛弟子であるあなたに一度お目にかかりたいと思っておりました。ぜひフェリウルの方程式の――」
「しかし驚いたなあ! あなたがこんなに若くてこれほどお美しいとは!」
「まったくだ。ここで会えたのもなにかの縁。いかがでしょう、私とお食事など」
「あっ、こら、ぬけがけはずるいぞ。俺だって誘いたい」
 
 なぜか、ミレの争奪戦がはじまった。
 大勢に包囲されただけでも窮屈なのに、ダリアンは行ってしまうし、前も後ろもふさがれ、声高に騒がれてミレは閉口した。
 そこへ、
「あいにくだが、彼女は私の連れだ」
 
 しびれを切らしたのだろう。
 アーティスがゆっくりと階段を下りて来る。眼が尖っている。どうも不機嫌きわまりない。
「……」
 
 辺りを威嚇する鋭い眼つき。気圧されたようにミレを取り巻いていた面々が道を開ける。
「私たちはデート中でね。邪魔をしないでもらおうか」
 わざわざそんなことを公言しなくてもいいだろうに。
 案の定、ざわついた。そしてアーティスの身分に気づいたものが出はじめる。
「……アーティス殿下?」
「まさか」
「いや、そうだ。まちがいない。アーティス殿下だ!」
 雄叫びとも悲鳴とも怒号ともつかないどよめきが奔って、ミレを除いた全員が礼をした。
 そんな中、アーティスがミレの前を素通りし、扉に向かう。
「ミレ、来なさい」
「はい」
 
 逆らわず、トコトコ追いかける。
 そのまま大講堂をあとにし、ひとでにぎわう参道へ出たところで、アーティスが背中を向けたまま言った。
「……ずいぶんモテるじゃないか。いつもあんなふうなのかね?」
「はい」
「『はい』だと?」
 振り向かれ、ギロリとすごい眼で睨まれる。
 ミレは肩を竦めた。
「ダリアン博士の弟子は私ひとりなので、皆、博士に紹介して欲しいのでしょう」
 
 ダリアンは老若男女問わず、絶大な人気がある。
 すこぶる頭脳明晰で、威勢のいい啖呵(たんか)と気風(きっぷ)のよさ、さっぱりとした気性と女性とは思えない豪快さが好かれているのだ。
「それだけではないだろう」
「それだけだと思います」
「いーや。あからさまに君に気のある男もいたぞ。もっと慎重になりたまえ。だいたいだな、君は普段から人目を気にしなさすぎだ。もっと周囲から自分がどう見られているか意識しなさい。そっけないくせに無防備でそんなふうだから――」
 小言がはじまった。
 ミレはわざと足を遅らせてアーティスと距離をおきながら、キョロキョロした。
 街に出るのは久しぶりだ。このところ、王宮に引きこもり生活だったので、賑やかな雑踏に埋もれるのも悪くない。
 軒を連ねる店々やドーナツ売りのワゴンなどについつい眼を奪われる。
「うひょーっ。かっわいいー! なあ、お嬢さんひとり? 俺たちと遊ばない?」
 いきなり通りすがりの男性二人連れに声をかけられた。
 ミレが返事をするより前に、記録的な速さで駆けつけたアーティスが間に割り込んで、男たちを冷たく睥睨(へいげい)した。
「ひとりじゃないし、遊ばない。貴様らの遊び相手は別にいる」
「は? あんただれ? 俺たちはこっちのお嬢さんに用が――え?」
 
 二人連れの肩をポン、と叩いたのは闇騎士と聖職者だ。
 どちらも冷酷無情な眼をしている。
「連れて行け」
 
 アーティスが非情な声で告げると闇騎士と聖職者は金切り声を上げて暴れる二人の男を押さえこみ、問答無用で連れ去った。
 ミレは一応、訊いてみた。
「……釈放は?」
「するとも。少々傷めつけたあとでな」
 平然と仕置きすると言いきったアーティスに無造作に肩を抱かれる。
 歩きにくいなあ、と不平をいだきつつも我慢して口にしないでいると、苛々した声の叱咤を浴びた。
「君は隙が多すぎる。やたらと男に口説かれるんじゃない」
「声をかけられただけです」
「ついて行く気はなかったというのか」
「はい」
「だが、甘いものでも食べに行こうと誘われたらどうだ? ついて行っただろう」
「……」
 行ったかもしれない。
 だが本音を漏らせばまた怒られるので、ミレは反対のことを言った。
「そんなこと、ありません」
「いま間があったぞ」
 
 きつい一瞥を向けられてミレは眼を泳がせた。見抜かれていたようだ。
 アーティスの眼が吊り上がる。眉間に皺が寄る。そしてまたクドクドと説教される。今度は肩を押さえられているから離れたくとも離れられない。V26 即効ダイエット
「そもそも、男というものは総じて下心のあるイキモノだ。おまけに勘違いしやすいし衝動のまま行為に及ぶこともある。まして夏は理性のタガが外れやすい季節だ、煽るような振る舞いは慎むべきで――なっ、なにをしている!」
 ギョッ、とアーティスが眼を剥いた。
 ミレはキョトンとした。
「なにって……暑苦しいので」
 少し胸元をはだけて手で煽っただけだ。
 だがアーティスはおかしいくらいおおげさに動揺している。慌てて胸元を掻き合わされ、猛烈な剣幕で怒鳴りつけられた。
「……っ。そういう君の無防備さが男を煽ると言っているんだ。いいか、他の男の前で絶対にいまのようなみだらな真似をするんじゃないぞ。そんな白い胸元をさらけるなんて眼の毒だ。悩ましいにもほどがある。私以外の奴の眼に触れたら八つ裂きにしてくれる……!」
 本当にやりかねない。
 薄々察してはいたが、さっきのことといい、発言の狂暴さといい、アーティスは敵にまわしては恐ろしい人間だ。
 怖いひとには、逆らわない。
 アーティスに執着される理由はよくわからないが、できるだけそうしようとミレはあらためて肝に銘じた。
「喉が渇いたな」
「虹パフェが食べたいです」
 
 率直に伝えると、アーティスはクッと笑った。
「よし、虹パフェを食べに行こう」
カフェ・ゲランは裏参道にある老舗のカフェのひとつで、店外には黒いパラソルと焦げ茶の上品なテーブル席、店内にはワゴン式ショーケースがあり、中には生ケーキやタルト、チョコレート、ティラミス、ビスコッティなどが並んでいる。
 他にはレースやリボンでパッケージされたコンフェッティが銀器に盛られ、焼き菓子などと一緒に売られていた。
 ミレはショーケースに張り付いた。
 どれもすごくおいしそうで、目移りする。
 眼福だ。
 と、ミレがうっとり見惚れていたところ、アーティスがさっさと空いている席についてミレを呼ぶ。
「こらこら、そんなところでもの欲しそうにするんじゃない。心配しなくても、好きなだけ頼めばいい」
「本当ですか」
「本当だとも」
 
 なんていいひとなのだろう。
 
 ミレはおとなしくアーティスの前の席にちょこんと座った。テーブル席は半分ほどが埋まっており、闇騎士と聖職者も二人から少し離れた席に腰を落ち着けている。
「ご注文をお伺いします」
 ウェイトレスがメニューを持って来た。アーティスがそれに眼を通し、
「私と向こうの二人にボンズ・ビールを、こちらのお嬢さんにはあのショーケースの中身全部と虹パフェをひとつ」
 ウェイトレスはポカンとした。
「ショーケースの中身を全部ですか」
「そうだ。虹パフェも大盛りで頼む」
「は、はいっ。畏まりました!」
 
 ウェイトレスが厨房にすっ飛んで行く。
 ミレがワクワクしながら待っていると、テーブルに片肘をついてアーティスが話しかけてきた。
「ドナの世話は慣れたかね」
「最近、つつかれることが少なくなりました」
 ドナはアーティスの飼い鳥だ。大きな美しいオウムで、やや癇癪が激しいものの、非常にかわいい。ミレが面倒をみるようになってだいぶ日が経っている。
「十回に一回は呼べば返事をしてくれます」
「そうか」
「いまは私の名前を憶えさせている最中です」
「ドナに、君の名前を?」
「いけませんでしたか」
 
 図々しかっただろうか。
 ミレが意気消沈すると、アーティスは慌ててかぶりを振った。
「いや、それはかまわない。まったくかまわないのだが……しかしドナが君の名前を連呼するようになれば、まるで私が君に夢中のようだな……」
 
 アーティスはなぜか表情をゆるませてブツブツ言っている。
 やはり不都合があるのだろうかと思い、問い質してみる。
「なんですか」
「なんでもない」
「そうですか」
 
 ミレの返答が気に食わなかったのか、アーティスがドン、とテーブルを叩く。
「そう淡泊にかまえないで、もう少し物事を追求したまえ! 君ときたらいつもあっさりと張り合いのない……せっかくのデートだ。相互理解を深める機会だろう。なにか、そう、私に訊ねたいことや知りたいことはないのかね」
 ミレはちょっと考え、ズバリと言った。
「殿下は王位継承権をユアン殿下に譲られるおつもりなのですか」
 アーティスが息を呑んで絶句する。
 空気が一瞬にして緊張したそこへ、不意に男が飛び込んできた。
「覚悟!」
 
 男の手に白刃が閃く。狙われたのはアーティスだ。
 だが覚悟が必要だったのは男の方だったろう。
 刃が届く前に、男の背中に二本の矢が命中し、眉間とのどは聖職者のナイフと闇騎士の短剣が貫いて、吐血しながら男はどうっと倒れた
 あっけない襲撃者の最期だ。どこかからソーヴェと他一名が現れて男を回収し、店員が石畳に水をまいて血を洗い流した。
 なにごともなかったかのように、喧騒が戻る。OB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ

「殿下」
「なんだ」
「いまのようなことは頻繁(ひんぱん)にあるのですか」
「まあそれなりに」
「悠長にデートなんてしている場合ですか」
「暗殺が怖くて王子なんてやってられるか」
「そういうものですか」
「そうだ。だから容易に私から逃げられると思うんじゃない」
 誰もそんなことは言ってない。
 
 しかし急に不機嫌になったアーティスはミレを睨んで言った。
「デートは続ける」
「はい」
「相手が私でつまらなかろうが、がまんしなさい」
「はい」
「『はい』と言うな! むなしくなるだろう」
 いったいどうしろというのか。
 面倒くさいひとだなあ、とミレが内心嘆息すると、すかさず見透かされた。
「いま、面倒くさい男だと思っただろう」
 ギクリとして冷汗が噴き出る。
 ミレがいいわけしようとしたところへ、ウェイトレスが「お待たせしましたぁ」とワゴンを押して登場し、ミレの眼の前に特大のパフェを置いた。
 ミレは自分でも眼がキラキラと輝くのがわかった。
「いただいてもよろしいのですか」
「どうぞ」
 アーティスに勧められ、さっそく柄の長い銀のスプーンを持ち、ミレは食べはじめた。
「おいしいです」
「そうか」
「幸せです」
「よかったな」
 
 他愛のないやりとりに、ミレはアーティスト見つめ、にこっと笑いかけた。
 にわかに、アーティスは固まってしまった。
 ミレは放っておいて食べることに専念した。
「……君は本当においしそうに食べるな」
「おいしいので」
 
 なにがおかしいのか、アーティスは楽しそうに、嬉しそうに、ミレがパフェと格闘するさまを、相好を崩して眺めている。
 ふと思いついて、ミレはスプーンでアイスクリームと生クリームをすくい、アーティスに差し出した。
「どうぞ」
「え?」
「味見されてみてはいかがですか」
「……」
 ややうろたえつつ、アーティスがおずおずとスプーンを口に含む。
「どうですか」
「……味がしない」
 
 そんなばかな。
「チョコレート味ですよ」
 アーティスは横を向いて口元を押さえ、沈黙している。顔が真っ赤だ。
「君は普段からこんなことを……いや、なんでもない」
 
 それきり、また押し黙ってしまう。だが甘いもので機嫌が直ったらしく、にやけていて、とてもしまりのない表情を浮かべている。
 ミレがパフェを完食し、ひとつめのケーキを半分胃におさめたところで、ようやく平常心を取り戻したらしいアーティスが口を切った。
「さっきの質問についてだが、君は誰からその情報を得たのだね」強効痩

2013年1月23日星期三

全ての結末

 アーキッドとアデルトルートが、銅牙騎士団に奪われたテレスターレを撃破するときより、多少時間はさかのぼる。

 最後の1機となったテレスターレの操縦席で、銅牙騎士団員は己の体の震えを止める術を知らず、喉の奥がひりつくような焦燥を覚えていた。花痴
 この場で立って動くものは彼と、敵である朱兎騎士団の機体だけである。もはやこの場に彼の味方はいない。
 彼は額を流れるねばつく汗を拭い、震える手足を叱咤しながらこけおどしの気勢を張る。その努力に反するように操縦桿を通して機体へと伝わったかすかな震えが、テレスターレの手脚を僅かに泳がせていた。
 互角と思われていた戦いの均衡が崩れ去ったのは、一体いつのことだったのか。
 自問する間でもなく、彼はその答えをわかっている。それは戦場に“蒼い死神”が現れた、あの時に他ならない。

 銅牙騎士団の長である、ケルヒルトと数名の部下が襲撃の主目的たる新型機の奪取に成功してカザドシュ砦から離脱した後も、それ以外の銅牙騎士団員達はその場に残り、戦い続けていた。
 彼らと相対するのは朱兎騎士団が操るカルダトア部隊。
 そのどれもが自分達の拠点を荒らしまわる襲撃者への怒りに煮えたぎり、強い殲滅の意志を持って攻めかかってくる。
 それらに対して背を向けるなど自殺行為も同然だ、たちまち背中に無数の剣が突き立つことだろう。彼らに応戦以外の選択肢はなかった。
 彼らと朱兎騎士団との戦いは、意外なことにほとんど互角の状態となった。
 銅牙騎士団が朱兎騎士団の勢いに抗することが出来たのは、言うまでもなくこの場に残った2機の新型機のおかげだ。
 操りづらいことこの上ない機体だが、その性能の高さは欠点を補ってあまりあるほどのものだった。駻馬(かんば)はよく走るというやつである。
 それもつい先ほどまでのことだった。
 変化は一瞬のこと、全く前触れなく戦場に現れた蒼い死神が、凄まじい勢いで銅牙騎士団へと致命的な攻撃をくわえていったのだ。
 ある機体は脚を壊され、ある機体は頭部を壊された。動きを止められ、あるいは視界を失った機体は酷くたやすく朱兎騎士団に討ち倒されてゆく。元々ギリギリの均衡の上にあった戦場である、一度傾いたバランスが元に戻ることは無かった。
 この場に残るは、彼とテレスターレが1機だけだ。

 彼の機体を包囲するように布陣する朱兎騎士団のうち、一際大柄な機体――騎士団長専用機・ハイマウォートに乗るモルテン・フレドホルムが奇妙にゆっくりと響く、唸りのように低い声で投げやりに告げた。
「もう諦めたらどうだ?」
 それは降伏勧告とは少し毛色が異なっている。もう無駄だ、という厳然たる事実を伝えるだけの確認作業と言える。
 テレスターレはその言葉には反応しなかった。団員は操縦席で震えを押さえながら、ただ“その時”に対して身構え続ける。
 朱兎騎士団のカルダトアに包囲されたテレスターレ。それに乗る彼は朱兎騎士団と言う“わかりやすい”脅威に怯えているわけではない。
 単にこの戦いに敗れるのならば、彼は悔やみ怒ることはしても恐れることはしない、最後まで抵抗するだけだろう。
 彼が恐れるのは、抗うことすら許されない、蒼い刃。
 瞬く間に彼らのカルダトアを沈め、もう1機のテレスターレすら行動不能とした死神。
 いつか来るその攻撃に備え、彼は小さく震える手脚に、それでも力をこめているのだ。

 そして蒼い死神こと幻晶甲冑(シルエットギア)・モートルビートとエルネスティは、当然のように既に最後の獲物へと手をかけていた。
 死角である頭上から、暗闇に湧き出すように現れたモートルビートが、大気衝撃吸収(エアサスペンション)を駆使してテレスターレの肩へと柔らかく着地する。
「こんばんは、賊の方。貴方が、最後の一人ですよ」
 緊張と警戒の極みにいた団員は突然、幻像投影機(ホロモニター)に大写しになった鎧の騎士の姿に、身も蓋もない絶叫をあげた。
 炎の照り返しでも塗りつぶせない蒼い装甲と、歪なバランスの手脚を持つ死神騎士が、逆さまに覗き込むようにして映っている。つまり、既に死神の刃は彼の喉元に添えられていると言う事だ。
 もはや彼は自身が何を叫んでいるのかを理解していない。ただ視界にうつる死神を排除すべく、本能的な行動で機体の腕を振り上げていた。
 人間の5倍以上の大きさを持つ巨人の鋼の拳が死神へと辿り着く前に、大写しになった死神の手のひらがホロモニターを埋め尽くす。
 幻晶騎士(シルエットナイト)にとって頭部とは、視覚を得るための装置である眼球水晶を設置、保護するための部位であるといっていい。当然、兜と面覆いと言った装甲によって、それは厳重に守られている。
 しかし現実に、モートルビートは眼球水晶に触れんばかりの位置へと手を伸ばしている。
 幻晶甲冑の大きさは幻晶騎士(シルエットナイト)より遥かに小さい。勿論その腕もだ。モートルビートは幻晶騎士の瞳を守るべき面覆いの隙間から内部へと手を伸ばし、眼球水晶に直接手を向けると言う荒業に出ていた。
 焦点が合わないほど近づけられ、ぼやけた手のひらに魔法現象に特有の淡い輝きが起こる。顕現するは炎の魔法、爆炎砲撃(フレイムストライク)。爆炎球(ファイヤボール)と同じ中級魔法でありながら火力でそれを凌ぐ、高威力の魔法である。
 いかに幻晶騎士が強固な鎧を身に纏っているとは言え、その内部を直に攻撃されてはひとたまりもなかった。
 紅蓮に渦巻く炎が一瞬、視界の全てを埋め尽くし、それを最期にホロモニターが光を失う。眼球水晶が破壊されたのだ。光源を失い、密閉された操縦席は即座に闇に包まれていった。
 戦いにおいて極めて重要な要素である視界を失い、銅牙騎士団員の表情が絶望に染まる。
 直後に頭部に伸ばされた機体の拳には何の手ごたえもなかった。死神は健在で、自分はもはや相手の姿が見えない。
 手元も見えない闇の中で、俄かに恐慌状態に陥った彼は、とにかく纏わりつく死神を振り払うべくがむしゃらに機体を暴れさせる。
 やはり手ごたえは無い。
 もはや半ば以上自棄を起こし、彼は背面武装(バックウェポン)を起動する。狙いも何もあったものではないが、とにかく闇雲にでもどこかを攻撃することしか、彼にできることは残っていなかった。

 暴れる機体をいなしながら、トドメの方法に悩んでいた死神(エルネスティ)は、テレスターレの背面武装が展開されてゆくのを見てにんまりとした笑みを浮かべていた。
 縋りつくような団員の祈りも空しく、ここに居るのはテレスターレの発案者にして誰よりもその機能・構造に詳しい者である。それを逆手に取る方法などいくらでも思いついてしまう。
 エルは器用にバランスを取りながら素早く肩へ移動すると、魔導兵装(シルエットアームズ)を保持する補助腕(サブアーム)へと取りついた。
 補助腕の“手”にあたる部分だけ破壊し、内部の銀線神経(シルバーナーヴ)をつなげたまま魔導兵装を引っ張り上げる。
 エルはモートルビートを器用に操りながら、幻晶甲冑の全高を越える長さを持つ魔導兵装を全力でぐるりと振り回した。
 その切っ先が残るもう一本の魔導兵装と接するようにして、そのまま固定する。
 機体の上で大惨事が用意されているなど、視界を失った銅牙騎士団員にわかろうはずもなく。
 背面武装を展開した彼は、胸中の焦燥が命ずるままに、迷うことなく操縦桿のトリガーを押し込んだ。
 十分な魔力(マナ)の供給を受けた魔導兵装が、その先端部に戦術級魔法(オーバード・スペル)を発現させる。
 死神(エルネスティ)によって先端を接触させられたそれは、当然すぐさま爆裂し、自身を粉微塵に破壊するとともに周囲に強烈な衝撃波を撒き散らす破目になった。
 眼前で大爆発を起こしたテレスターレはその反動で殴り飛ばされるようにぶっ飛んで行き、地面に突っ込んだ後、動きを止めた。
「たーまやー」
 その肩にいたはずの死神は、愉しげな感想を漏らしながら華麗に宙返りを決め、何事も無かったかのように地面へと着地していた。

 モルテンは襲撃者に奪われた最後のテレスターレが倒れてゆく様を眺めながら、多量の呆れを含んだ吐息を抑えることができないでいた。
 自分達は、あの機体を相手にてこずっていたはずなのだ。それが冗談のような気安さで、無茶苦茶な方法で倒されていく。しかも見た事も無い小型の幻晶騎士モドキに、だ。
 それを馬鹿馬鹿しいと思わずしてどうしようか。彼には他に適当な言葉を思い浮かべることができなかった。
 そうしてギリギリでなんとか耐えていたモルテンだが、蒼い鎧の下から出てきた人物を見たときついに盛大に天を仰ぐことになる。
「……エルネスティ、だったな」
 モルテンは、声に呆れを含めないために随分と気合を入れる破目になっていた。
 幻晶甲冑・モートルビートの装甲を展開したエルネスティ・エチェバルリアは、恐ろしいことに、実に恐ろしいことに、炎の照り返しを受けて赤みの差す顔に、一仕事を終えた満足の表情を浮かべていた。
「はい、騎士団長殿。助勢遅くなり申し訳ありません。機体の調達に手間取ってしまいまして」
 問題はそこじゃない、と喉までせり上がって来た言葉を、モルテンは精神力だけで飲み込む。
「……いや、まずは厄介な敵への助力、感謝しよう。色々と聞きたい事はあるが、それは後回しにする。
 ともあれ、ここが片付いたからには逃げた輩を追わねばならんが、悔しいが間に合わぬかも知れんなぁ」
 綺麗に刈りそろえた、自慢の髭を撫でさすりながらモルテンが腕を組んだ。
 賊の一部が逃走してから結構な時間が経過している。既に手の届かないところまで逃げていると考えるのが自然だろう。
「それについて、騎士団長殿にお伝えしたいことがあります。福源春
 先ほどライヒアラよりやってきた学生が偶然、逃走したテレスターレと遭遇したそうです。彼らが不審に思って誰何したところ攻撃され、そのまま交戦状態に入ったとか。
 そこでかなりの時間を食っているはず、賊らはまだ十分に離れていない可能性があります」
 エルからは見えないが、モルテンは再び猛獣のごとく獰猛な笑みを取り戻していた。それは正しく、獲物を追い詰める狩人のものだ。
 ハイマウォートが、残るカルダトアへと振り向く。
「聞いての通りだ、俺はこれより逃げた賊を追う。
 だがこれだけの被害を受けた砦を放置するわけにはいかん、お前達はここに残っての防衛を命ずる」
 最大で3個中隊を保持していた朱兎騎士団の戦力は、もはや2割程度しか残っていなかった。敵の撃破が自軍の戦力を減らすことになる、襲撃者の策のもっとも嫌らしい部分がこれだ。
 この場に残る数少ない、しかも損傷を負ったカルダトアでは戦力的に不安が残る。ならばそれを砦の防護に回し、最大戦力であるハイマウォートが追撃に当たる。彼らにも余裕がない。
「さてエルネスティ、見ての通りこちらは人手不足でな。その妙ちきりんな鎧と共に、案内を頼もうか」
「ええ勿論、ご案内も助力もいたしますとも」
 敬礼を返すカルダトアにこの場を任せ、恐るべき勢いでハイマウォートとモートルビートが街道へと走り出していった。

 遠くより微かに響いていた、鋼を打ち合うような音が止んだ。
 ディートリヒ・クーニッツは、心にわきあがる不安と期待が半ばで混じった感情に押されて、僅かにその端正な眉を吊り上げていた。
 彼はより強く鐙(あぶみ)を踏み込み、グゥエールの走る速度をさらに上げた。月明かりを頼りにしている行動としては、ほとんど自殺行為のような速度を緩めることなく、彼は走り続ける。
 鋼の巨人が打ち鳴らす足音に、時折歪んだ装甲が引っ掻きあう、悲鳴じみた音が混じっている。
 よく見れば紅の鎧はあちこちが歪んでおり、動くたび擦れあった装甲が火花を散らす部分すらある有様だった。
 森へと入る前、彼と彼が操る幻晶騎士グゥエールは襲撃者の一人が操るテレスターレによる捨て身の行動で、大きく足止めをくらっていた。
 出力的にはほぼ互角の機体であるテレスターレに組み付かれたグゥエールは、それを振り払うことが出来ずに押さえ込まれてしまったのだ。
 業を煮やしたディートリヒは、自らのダメージも覚悟した上で背面武装を使用して、一度は自由を得ることに成功する。その時点でテレスターレは半壊状態だったはずだが、呆れたことに敵はそれでもグゥエールへの足止めを止めなかった。
 死に体でありながらなお果敢に向かってくるテレスターレの執念に、グゥエールは予想以上の手間を取られることになる。損傷自体はたいした事はないが、その時間の浪費を考えるとしてやられた格好だ。
 てこずりながらも完全にテレスターレを行動不能にした後、彼は逃げたテレスターレとそれを追うアールカンバーの追跡にとりかかっていた。
 アキュアールの森の所々には幻晶騎士が移動し、たまに剣を交えたと思しき荒れた跡が残っており、追跡はそう難しくはない。彼はただひたすらに道を急いでいた。

 そうして走り続けていたグゥエールが、唐突に森の中にぽっかりと広がった空間へと飛び出した。
 いや、よく見れば元から広がっていた空間ではない。木には斬られた跡があり、あちこちで折れ倒れている様はここで激しい戦闘があったことを示していた。
 背中を這い上がる嫌な予感を振り払いながら、ディートリヒは素早く周囲へ首を巡らせる。
 そこにあるのは暗い色合いの木々、斑な色合いの下草、それらを順に見回していると夜の色に満ちたホロモニターの映像の中に、森の中では場違いな純白が映りこんだ。
 この場にある純白、その意味合いは一つしかない。
「エドガー! 探したぞ、テレスターレはどうなっ……」
 色の持ち主に近づく、ディートリヒの言葉が尻すぼみに小さくなる。
 木にもたれかかるような格好で動きを止める巨大な人影、幻晶騎士アールカンバーの姿を確認した途端、彼は思わず息を飲んでいた。
 汚れ一つなかった純白の装甲は、激しい戦いにより歪み、くすんで鈍い色合いになっている。
 それだけではなく、肩口から斬撃を叩き込まれたのだろう、その右腕は根元からなくなっており、周囲の胸の装甲も一部が削り取られていた。
 力なく下げられた左腕には爆発や斬撃の跡が大きく残った盾がひっかかり、今もゆらゆらと揺れている。
 その中でいくらかの損傷はあれど、形を残した両脚は無事と言ってもいい。それはつまり、アールカンバーが最後まで立って抵抗していたことの証左だ。
 しかし、機体腹部を貫き、その身を木に縫い付けている剣が、何よりも雄弁にアールカンバーが敗北したことを物語っていた。
 恐らくは相打ちに近い形になったのだろう。その腹部を刺し貫く剣には、肘の辺りから断ち斬られたテレスターレのものと思しき腕部が、握ったままの格好でぶら下がっていた。
 耳を澄ませば、微動だにしない機体からはカラカラと不規則な回転音が漏れだしているのが聞こえる。魔力転換炉(エーテルリアクタ)は正常とはいえないが、完全に機能を停止したわけではないようだ。
 微動だにしないアールカンバーを見て、ディートリヒが焦りを隠せないまま駆け寄る。
「……ッ!? エドガー!! 返事をしろ! 無事か!?」
 ディートリヒの心中を、形容しがたい感情が這いずりまわる。
 幻晶騎士と騎操士(ナイトランナー)のダメージは必ずしも連動しない。しかし幻晶騎士の持つ“ヒトガタ”という形が、どうしても騎操士自身にも同様の被害を連想させてしまう。
 ディートリヒの絶叫に反応してか、いくらかの間を空けて、錆び付いたようなぎこちない動きでアールカンバーの首がゆっくりと動いた。
 頭部を保護する面覆いは半ばまでひしゃげ、暗く開いた眼窩の奥から眼球水晶の視線が揺らめくように覗いている。
「…………う、ディー、か? すまない、テレスターレには逃げられてしまった……」
「あ、ああ、そうか。それよりも無事なのか!? 待っていろ、今砦へと運んで……」
「ディー! 俺は大丈夫だ……ディー、アールカンバーは炉を酷くやられて動けないが、即自壊するわけじゃない。
 少し打ち身があるが、俺自身も大丈夫だ。それよりもまだそう時間はたっていないはずだ、お前はテレスターレを追ってくれ……!!」
 束の間、ディートリヒの心中で葛藤が膨れ上がる。
 明らかに重大な損傷を負ったアールカンバーを捨て置いて、このまま行ってしまっても大丈夫なのか。エドガーは無事だと言っているが、本当に無事である保証などないのだ。
 騎操士学科において長く互いに競い合ってきた友の苦境が、ディートリヒにテレスターレの追撃を、いやその場を離れることを躊躇させていた。
「ディー、ここまできて逃がすわけにはいかない。頼む!」
「……わかった、任せたまえ!!」
 彼を決意させたのは、やはり友の言葉だった。そこに篭もる強い意志を感じ、ディートリヒは迷いを振り払う。
 アールカンバーが大破するまで戦い抜いたエドガーの意志を、無駄にすることなどできない。そして彼の友は未だ戦うことを諦めていないのだ。エドガーが諦めていないものを、ディートリヒが諦められるわけが無かった。
 彼は一度、グゥエールを深く頷かせると、すぐさま振り向いて再びテレスターレを追って森の中へと分け入っていった。

 遠ざかるグゥエールの足音を聞きながら、エドガーは苦しげな表情の中に無理矢理、笑みを浮かべる。
 歪んだ景色を映すホロモニターは既に視界に入っておらず、彼は徐々に小さくなる足音に耳を澄ませながら、走る友の背中を幻視していた。
「頼んだぞ、ディー。俺は、もう少し、休む……」
 吐息を漏らして呻き声をかみ殺したエドガーは、ゆっくりと体の力を抜く。
 額に流れ落ちる紅い雫を拭う暇すらなく、彼の意識は再び闇の底へと沈んでいった。

 薄暗い森の中を、風の化身と化した紅い幻晶騎士が疾駆する。
 湧き上がる焦りを怒りで抑え、ディートリヒは愛機を急きたてるように前進させていた。
 グゥエールの両手には既に剣が抜き放たれ、背面武装すら展開した必殺の構えをとっている。テレスターレを見つけた瞬間、怒りに赤熱した刃は嬉々として敵に引導を渡すだろう。
 彼は走りながらも、森の所々に残る痕跡からテレスターレの状態が極めて悪いものであることを読み取っていた。やはりアールカンバーがテレスターレに与えたダメージは少ないものではない。グゥエールは敵に王手をかけうる位置に居る。
「この損傷なら、そう遠くまでは……! どこだっ!!」
 そうして走り続けていると、戦いの中で研ぎ澄まされたディートリヒの感覚が何物かの気配を感じ取った。
 森に残された痕跡が続く先、暗がりの中に蠢く影がある。
「あれは……違う、テレスターレではないのか!?」
 その気配は彼が望む敵のものではない、直感はそう訴えていた。彼はその場所にもっと別の……さらには“数多くの”気配を感じ取っていた。
 それらもグゥエールの接近に気付いたようで、低い唸り声を上げながら、闇の覆いの下からのそりと這い出してくる。
 ――魔獣、だ。
 その大きさから、間違いなく決闘級(幻晶騎士1機に匹敵)以上の魔獣であった。それも群れというべき規模である。
 テレスターレが逃げた痕跡は、その魔獣の群れの真っ只中へと、消え入るように続いていた。
「なんだ……なんだ、なんだこれはっ!?」
 あろうことか、彼が追うべき痕跡は蠢く魔獣に踏み荒らされ、すでに判別が困難な有様となっている。限りなく王手に近づいた一手は、慮外の伏兵により一歩、届かなかった。
 ディートリヒは目眩のするような怒りに、視界が赤く染まるような錯覚を覚えていた。
 感情が頂点を越えた彼は気付いていない、その状況の不自然さに。
 そこにいるのは多くの、それも“複数の種類”の魔獣である。“魔獣”とはただの総称であり、そこには実に多くの種類がある。本来、それらが集まって行動することなどほとんど考えられない。何故ならそれらには縄張りや巣と言ったものがあるからだ。
 彼の道をふさいだのは、極め付きの“異常事態”なのである。勃動力三体牛鞭

 数匹の魔獣が、身を低くしてグゥエールを威嚇する。
 それらはただ集まっているだけではなく、どれもが異様に興奮し、牙を剥き出しにして互いを威嚇している個体もいる。
 そこに、怒りに染まった気配を放つ巨人が近づけばどうなるか。獣は周囲の気配には敏感だ。本能のままそれに反応した魔獣は、怒りと混乱に束の間立ち尽くした巨人を敵と見定め、狂ったように走り出していた。
 ディートリヒは、致命的な隙を見せた自身の失敗を奥歯でかみ殺しながら、向かってきた魔獣へと構えを取った。
 一瞬沸騰し頭の中を駆け巡った血は、今は少しばかり落ち着いている。彼の中に残った状況を把握するだけの冷静さが、滑らかに怒りを攻撃行動へと転化していった。
 既に完璧な戦闘態勢を取っていたグゥエールは、十全にその戦闘能力を見せ付けていた。
 力に満ちた斬撃が、踊りかかってきた炎舞虎の首を刈り取り絶命せしめ、少し遅れてやってきたもう1匹は風の刃(カマサ)からの法弾の餌食となる。
 魔獣に止めを刺しながら、彼はある事実へとたどりつき、顔をくしゃくしゃに歪めていた。
 ただでさえ逃げるテレスターレを追いかけているこの状況で、この多数の魔獣を相手にするだけの余裕はない。その上頼みの綱である痕跡は、すでに踏み荒らされ薄れてしまっている。仮に群れを無理矢理突破しても、その先で追いつける可能性は低いだろう。
 ではこの群れを迂回して進めばどうか。数が多い分、魔獣は広い範囲をうろついている。これに見つからないためには一体どれほどの回り道を強いられるか、想像するのも馬鹿馬鹿しいほどだ。
 さらには魔獣との戦闘は避けられたとしても、そこに追跡の手がかりは無いのである。この広大な森を当てもなく彷徨って、都合よく目的のものに出会えると思うほど、彼は楽天家ではなかった。
 ――逃げられたのか。
 ディートリヒの心中を、酷く冷めた認識が過ぎる。同時に彼は、胸のうちをささくれ立った何物かが這い回るような感覚を味わっていた。
 この場面で、よりにもよって魔獣の群れに邪魔されるという“偶然”を、彼は心の底から呪った。

 いくら頭に血の上ったディートリヒと言えども、いきなり魔獣の群れに突っ込むような真似はしなかったが、状況は勝手に前へと進み始めていた。
 彼が立ち尽くしている間に、先ほど倒した魔獣から流れ出た血の匂いが周囲へと広がってゆく。他の魔獣たちにも届いた匂いは、それらを更なる興奮状態へと誘っていた。
 それらは血の匂いを辿り、動く。結果としてその先にいるのは紅の騎士だ。
 森の奥から次々に現れはじめた魔獣の姿に、ディートリヒは呪詛に満ちた呻き声を上げた。
 彼は悔しさに歯噛みしながらもグゥエールを後退させるが、それは遅きに失した行動だった。もはや選択肢は失われている。
 鎧熊が、炎舞虎がグゥエールに迫り来る。
 逃げ切れない。どこかで戦わねばならないが数が多い、一度に襲われてはいかな新型グゥエールとて危険である。彼は後退を続けながら、慎重に迎撃のタイミングを計っていた。
 グゥエールよりも四足で走る魔獣のほうが動きが素早く、ついにはその間合いへと捕らえられる。背後から襲い掛かられそうになったところでグゥエールは脚を止め、そのまま竜巻のように回転しながら斬撃を繰り出した。
 新型機の特徴たる溢れるほどのパワーが、斬撃の一つ一つを致命的な威力へと昇華する。跳ね飛ばされるように空中で打ち落とされた炎舞虎を一顧だにせず、グゥエールはそのまま風の刃(カマサ)を撃ち込み、後続の動きを牽制する。
 衝撃の中でもつれ合い、魔獣が混乱しだしたのを見たグゥエールは、再び後退へと転じ余裕を稼ごうとしていた。
 しかし突如として強烈な力で腕を引っ張られ、その行動を中止させられる。見れば、横合いから近づいていた鈍竜がその左腕に噛み付いていた。パワーだけならば並みの幻晶騎士では打ち勝てない、強力(ごうりき)の魔獣である。グゥエールは力負けこそしなかったが、その場で動きを止められるのは避けられなかった。
 痛恨の失態。その間にも、立ち直った魔獣が迫ってくる。
 ディートリヒは昔に戻ったように気難しげな唸り声を上げた。接近されるまでに何匹を魔導兵装で倒せるか、彼は悩む。ついた吐息は、諦めよりも戦意が勝っていた。
 その時、何かが高速で飛翔する唸りが、連続してグゥエールの頭上を通り過ぎた。
 狙いよりも、数こそが力なのだと言わんばかりに続々と飛来する槍のような大型の矢(ボルト)が、迫り来る魔獣の顔面に突き立ち、ついでその脚を縫いとめてゆく。
 数匹の魔獣が悶絶しながら倒れてゆくのを見たディートリヒは、その隙に左腕に噛み付く鈍竜の首を斬り飛ばしていた。
 危ないところで自由を取り戻したグゥエールは、僅かな余裕の間に木の上にいる大柄な鎧を発見する。
 そこにいるのは2機の幻晶甲冑。彼の記憶では、それをまともに操ることができるのは3人しかおらず、彼と共に来たのはそのうち2人だ。
「ディーさん! 援護すっから一旦下がって!!」
「どうしてこんなに魔獣がいるのよ! あーもう邪魔!」
 その2人、キッドとアディの双子は、集り来る魔獣の多さにうんざりした様子を隠しもせず、構えた携行型攻城弩砲から盛大に槍矢をばら撒いていた。
 “槍矢襖(やりぶすま)”に頭から突っ込む事になった魔獣が、苦悶の叫びを上げて倒れてゆく。魔獣の群れは算を乱し、グゥエールは黄金よりも貴重な束の間の余裕を得ていた。
「あー、ディーさん、ごめん。今ので“売り切れ”だ。この間に逃げてくれ」
「……十分だ、助かったよ。君らこそ先に下がりたまえ」
 ここに至るまでに、テレスターレとの戦いで大盤振る舞いを見せていた彼らの物資は残り少なく、最後の活躍を見せて底を突いていた。
 ディートリヒはゆっくりと、大きく深呼吸する。後輩からの援護は、彼の度を越えて熱くなった気持ちを今度こそ冷却し、状況を俯瞰するだけの冷静さを呼び戻していた。
 グゥエールが油断なく後退を再開する。それは、キッドからはさほど急いでいるようには見えなかった。
「もっと急がないと、追いつかれるぜ!」
「ああ、そうなのだけどね。困った事に、この先でエドガーが倒れていることを思い出してね。戻りすぎると彼を巻き込んでしまう。
 どうやら、その手前でこれを倒さないといけないようだね」
「エドガーさんが!? ちょっと、そんなの駄目よ! 私たちも手伝うわ!!」
 意気込むが、彼らに残された武器はツーハンデッドソードだけだ。キッド機に至っては、ワイヤーアンカーすら壊れている。どちらにせよ、数多ひしめく魔獣の群れを相手にしては、彼らがいても焼け石に水だろう。
「矢は切れたのだろう? 君たちのおかげで魔獣はかなりバラけている。私だけでもなんとか、するさ」
 だからこそディートリヒは落ち着いて答えていた。そこには焦りも無ければ、激情的な感情も伺えない。
 なかなか、簡単に逃げてしまうわけにはいかないらしい。どの道この魔獣どもは賊の追跡を阻んだ憎き障害物である。戦うしかなくなり、悩む必要がなくなったと言うものだ。彼は、いっそさばさばとした心境でいたのだった。
「だから君達はエドガーをつれて、下がってくれ。なに、ここは任せ……」
「では、代わりにここは僕がお供いたしましょう」
 苦しげな表情の双子が口を開く前に、全く予想外の方向から返答が返って来た。直後に、彼らの頭上を飛び越えるようにして答えを返した本体が現れる。
 襲い来る魔獣の群れの真正面に、躊躇無く立ちふさがった蒼い影。見覚えのある姿、その正体に気付いた瞬間、ディートリヒの脳裏から湿気った感傷が一気に吹き飛んだ。
 彼は口元がひきつるのを止められない。上空では、キッドとアディが二人で手を叩いて歓喜の声を上げている。
 背後より飛来した者――蒼い幻晶甲冑・モートルビートに乗ったエルネスティは、地響きを上げて迫り来る魔獣の群れを見て、不敵な笑みを浮かべていた。
「ついでに説明もお願いできますか? 逃げた獲も……エホン、テレスターレはどこに行ってこの獲も……ゲフン、魔獣の群れは一体なんですか?」
 現れた瞬間からやる気に満ち溢れすぎたその姿に、ディートリヒの視界にかつての記憶が重なる。この少年は、誰もが絶望を抱く巨大な魔獣にすら嬉々として突撃したのだ。きっとこの場でも好き放題に暴れるのだろうし、この程度の魔獣では止められまい。
 いつに間にか、彼は苦笑を浮かべていた。
「テレスターレを追っていたら、この群れに遭遇した。足跡はこの先に続いているが……もう踏み荒らされて判別出来ないね。
 魔獣がなぜいるのかは知らないよ。テレスターレの足跡を踏み消した、ムカツクやつらだ。ちなみに後ろにエドガーが倒れているから、ここで食い止めたいところだね」
「なるほど。つまりまずはこれらに八つ当たりすればいいのですね?」
「ああうん、ひとまずそれでいいかな。陸皇亀(ベヘモス)の時のように、全力でお願いするよ」
「承知いたしました」
 迫り来る魔獣の重圧を物ともせず、モートルビートが迷い無く駆け出してゆく。進む先は群れの真っ只中。
 幻晶甲冑に比べて、決闘級魔獣の大きさはいかにも巨大だ。それが群れた様は、さながら津波のようである。比べるべくも無いほど小さな蒼い鎧は、なすすべもなくそれに飲み込まれるかに見えた。蒼蝿水
 足音に炸裂音が重なり、モートルビートが急加速する。弾丸のごとき勢いを持ったそれは、魔獣同士の間隙へと滑り込むように突入してゆく。勿論ただ突入するだけではない、すれ違いざまに魔法の光が煌き、発生した炎弾が魔獣の顔面を狙い撃ちにしてゆく。鼻っ面を焼かれた魔獣が身悶えしながら暴れまわり、群れは瞬くほどの間に混乱の坩堝に叩き込まれていた。
 余裕が無いのをわかっていながら、ディートリヒは手を額に当てて、天を仰ぎたい気分だった。やると思っていた、そのとおりに酷い有様だ。
 その中で、彼はある事実に気がついていた。確かにモートルビートは縦横無尽に群れを引っ掻き回している。しかし裏を返せば引っ掻き回すので精々、決闘級ほどの規模の魔獣を倒しうるだけの攻撃力は持っていないのだ。
 背面武装をたたき起こし、グゥエールが2本の剣を構える。ならばここで止めを刺すのは、彼の役目だ。この機会を逃すわけにはいかない。
 混乱を抜け出た数匹の魔獣が、紅の騎士めがけて走る。それを迎え撃たんとした彼の横を、轟風が突き抜けた。
「ぬぅぅぅぅぅえいりゃ!!!!!!」
 爆音じみた音を引き連れて振るわれた金属の塊が、猛獣の咆哮のような叫びと共に魔獣に叩き込まれる。
 単にパワーだけではない、質量と勢いを重ねた必殺の一撃が、突っ込んできた魔獣をトマトを叩いたかのように潰しながら、元居た場所に送り返した。
 唖然とするディートリヒを尻目に、豪快な風斬り音を伴ないながら、今しも魔獣を吹き飛ばしたハイマウォートが再びハンマーを構える。
 直後にやってきた後続の魔獣は、同様の手順を経て仲良く挽き肉と化した。
「ふうむ、新型機を操るのは学生と聞いていたが、これだけの魔獣を前に一歩も退かんとはな!
 その意気や見事なり。微力ながら加勢しよう!」
 そう、世間話のような気軽さで話しながらも、ハイマウォートが操るハンマーが順調に魔獣を挽き肉に変えてゆく。
 新型機ではないものの、ハイマウォートの堅固な装甲は乱戦じみたこの状況において非常に有効なものだ。重装ゆえの、新型機にも迫るパワーが魔獣を蹴散らす。
 強力な助っ人の登場を横目に、グゥエールも呆けていたわけではない。ハイマウォートの暴風圏を盾として利用しながら、遊撃的な動きで魔獣を屠ってゆく。
 この時の魔獣の群れは数十匹を数え、ダリエ村を襲った災害を上回る規模にのぼった。
 それを意にも介せず、エルとキッド、アディが操る幻晶甲冑が縦横に撹乱し、分断した小集団をハイマウォートとグゥエールが倒してゆく。
 彼らの勢いを止めることは誰にも出来なかったが、さすがにこれだけの数を屠るには相当な時間を要した。
 この戦いが終わる頃には、東の空がうっすらと白み始めていたのだった。

 モートルビートの装甲を開き、エルは周囲を見回す。戦場となった森の中は、凄惨たる有様だった。
 木々は折れ倒れ、地面は荒れ、そこかしこに巨大な獣の死骸がある。数多の獣を倒したハイマウォートも、グゥエールも、全身の装甲から装備に至るまで、限界近い消耗を強いられていた。
「……砦に、戻りましょう」
 エルは、その状態ですらいまだ戦闘状態を解かないグゥエールに向かって、静かに終わりを告げる。
「……やはり、無理なのか」
「追いかけるにも、時間を食いすぎました。それにこの惨状、賊が逃げた方向など到底わかりません。
 僕たちの疲労もかなりのものですし、今から追いかけて見つけるのは至難の業でしょう」
「悔しいが、では他のところに助けを呼んで……」
 どこか縋るようなディートリヒの言葉にも、エルは首を振る。
「カザドシュ自体の被害も甚大ですし、即座に十分な手配が出来るかどうか。
 しかもこれだけの手を重ねた賊が、ただ逃げるだけとは思えません。なんらかの偽装工作を施されるとなると、もはや手に負えない。
 手配は頼んでみますが、確実とは……」
 その言葉に、ディートリヒは強張った手を操縦桿から引き剥がすと、静かにそれを傾けた。
 悲しげな調べを奏でながら、グゥエールの背面武装が格納されてゆく。紅の騎士は両手に持つ剣も仕舞い、ゆっくりとした足取りで砦に向かって歩き始めた。

 騒乱と激動の一夜を越え、夜明けが訪れる。
 射し込む光が森から闇を吹き払い、それに伴ってアキュアールの森の各所には、残された破壊の跡が露となっていた。
 事件に関わったものは例外なく疲れ果て、残ったのは壊滅状態の砦と、多大なる犠牲だけだ。
 カザドシュ砦では僅かに残った数機のカルダトアが、疲弊の極みにある体に鞭打って作業を行っている。
 一時は炎に包まれたカザドシュ砦は、砦自体は石造りであったことも幸いし、内部まで炎が届くことは無くある程度の機能が残されていた。
 だが戦力は壊滅だ。人、幻晶騎士、そのどちらもが限界まで損耗している。
 クヌート・ディクスゴード公爵は、上級作戦会議室で椅子に腰掛け、老いてもなお鋭さを失わない表情に皺を増やしていた。
 夜を越える事件のために、彼を含めカザドシュ砦にいるものの大半は一睡もしていない。
 そろそろ壮年を越え老境に差し掛かりかけている彼にとって、夜を徹しての作業は些か以上に負担が大きいはずだが、その様子、声にも全く弱弱しいところは感じられなかった。
「砦自体の被害は、城門も含め2割程度。人的被害もかなりのところだが、幻晶騎士が全滅寸前と言うのが一番の問題だな」
 部下の報告をまとめ、砦の被害状況を確認していたクヌートは溜息を抑えることが出来ない様子だ。
 たった一晩で、砦は事実上壊滅状態へと追い込まれていた。
「(……“賊”か。どこの手のものかは知らんが、忌々しい限り……。しかし油断があったのは我らのほうか)」
 クヌートが知る限り、フレメヴィーラ王国において幻晶騎士を投入しての砦攻めなど、ここ百年以上はなかったことだ。
 それはなんの益も無いからと言う以外に、オービニエ山地という地理的条件が盾となり、他国からの干渉がほとんどなかったと言うのも大きい。
 政治的な意味では国内は安定しており、騒乱の気配など全くない。そのため、近年はどの領地もひたすらに魔獣の対策に力を割いてきたのである。
 今回の事件ではその経験の薄さが油断となり、仇となった。人の知恵は時に魔獣よりも恐ろしい。得た教訓に対して、支払った代価もまた、大きなものとなってしまったのだ。

 ノックと共に、モルテンが部屋へと入ってくる。そのまま無言で簡単に敬礼すると、彼は前置き抜きに話し始めた。
「略式で失礼します、閣下。新型機についてですが……奪われたうち4機までは奪還、もしくは破壊しましたが、1機が我々の追撃を振り切って姿を消しました」
「……逃がしてしまったか」
「追撃には、諸事情から合流したライヒアラの学生も参加していましたが……しかし途中、奇妙な点が」
「なんだ?」
「魔獣です。逃げ切った1機、その逃走路上に複数の魔獣が現れ、おかげで追跡を断念せざるを得なくなりました」
 クヌートの表情に、一本ことさらに深い皺が増える。SEX DROPS
 魔獣がいること自体は不思議ではない。だがそんなに都合よく障害物になるだろうか。魔獣とは気まぐれさはあれど、彼らなりのルールに従って活動している。クヌートには、早々都合よくいくとは到底思えなかった。

2013年1月21日星期一

完敗

小雨が降り始めた中、涼の車は二宮果樹園へ向かう坂を上っている。
 いつも看板前に車を停めさせてもらっているのだが、今日はそこに赤い傘をさす女性が立っている。今日も農婦スタイルの珠里だった。
「あちらが、果樹園の?」御秀堂養顔痩身カプセル第3代
「そうだ。カネコさんのお孫さんの嫁さん。いまは、栽培はカネコさんが、若い彼女が果樹園を管理している」
 男主人は三代逝去していることも、彼女たちが畑を守っていることも梶原には説明済み。だが『同級生だった』ことは、未だに言えずにいた。
 車を停めると、珠里から運転席まで迎えてくれる。
「いらっしゃい。真鍋君」
「今日はよろしく」
 噂の果樹園の若女将とも言うべき珠里が、親しげに涼を呼んだことに梶原も気がついたようだった。
「あの……」
 小雨の中、赤い傘から涼の顔を伺う彼女。
「どうかしたのか」
「急で申し訳ないけれど、実は……」
 彼女が告げたことに、涼も驚くしかなかった。

 珠里が告げたこと。
 ――『真田さんが、先日、持ってきてくれた新作をカメリアさんにも食べて欲しいと持ってきている。意にそぐわないなら持って帰ると言っているんだけど』と。
 どういうつもりなのか、あの社長は……と思いきや。『真田の新作』を持ち込んできたのは社長ではなく――。
「娘の真田美々です」
 二宮のスイーツキッチンに、キラキラしたギャルぽい風貌の茶髪女性。農婦姿の珠里とは対照的に、挑発的な黒ファッション。黒いミニスカートに、肩が丸出しのレイヤードトップスに、そしてヒールが高いロングブーツ。
 え、あの社長の娘? ノーブルで品の良いファッションスタイルだった親父さんとも対照的。『私、おもいっきり世間に反抗しています』と言わんばかりの。
 涼の横にいる梶原も唖然としていた。『え、彼女が真田の担当? あの真田社長の娘?』と、しかも『なんで、今ここにいるんだよ』と。抑えてきた緊張と勢いをかき乱されそうな予感でもあるのか、眉間に不安を物語るシワが寄っていた。
「本日はぶしつけに申し訳ありません。父には『やめろ』と怒鳴られましたが、どうしてもそちらのドルチェも確かめたかったものですから」
 なのに。そこは丁寧に頭を下げ、挨拶をしてくれる。そして珠里も割って入ってきた。
「実は。こちらの美々さんが、うちの果樹園に最初に来てくださって。あのマーマレードを試食して『絶対に沢山の人に食べてもらうべき』と、お父様の真田社長に持ち込んでくださったんです」
 ――なんだって。
 それを知り、涼は驚きながら美々を見た。あのヒット商品が全国的に知れるようになった『発見、発信者』は、この彼女? 親父の真田社長の目利きで企画されたわけではなかったのだと!
「では、こちらの真田社長のお嬢さんが、あのマーマレードを見つけたということなのですね」
 涼が改めて尋ねると、派手な金茶毛ロングヘアの彼女が、まつげばさばさの大きな目を伏せながらこっくりと頷いてくれた。
「だから。今度の島レモンスイーツの商品化も、絶対に『真田珈琲』で出したいんです。それが……、珠里さんがカメリアさんのスイーツにも心を動かされていると知って……」
 マーマレードを見いだした本人だからこそ、『島レモン』に思い入れがある。誰にも譲れない。そんな彼女の眼差しは、父親の真田社長にそっくり。『素材にも愛情がある』と言い切ったあの眼と一緒だった。
『どうします?』
 横で戸惑う梶原が、涼に尋ねる。そこは先輩として現役チーフとして頼ってくれたのが判る。勿論、涼の返答は決まっている。
「こちらからもお願いしたいくらいです。本日の新作、是非、真田さんにも試して頂きたい」
 堂々とする。それを連れてきた梶原にも『どんなことが起きても、こうだ』と見せておきたかった。……そりゃ本心、涼だって『なんだこの状況』とテンパッているのだが。そこは涼本人のみぞ知る心情として押し殺す。
 美々のそばにいる珠里も戸惑っている様子が見て取れた。『この状況、止められなかった』と思っているのだろうか。相変わらず、淡々としているがちょっとだけ眉尻が下がって困っているように見えてしまったのも気のせいか。
「珠里ちゃん、カメリアさんは来たん?」
 食器棚の横にある室内ドアが開いた。
 おそらく本宅と繋げているドア。そこから、農婦姿の老女が顔を出した。
 その老女を見て、涼は固まる。いや『やっと会えた!』と言うべきか。
「ばあちゃん、カメリアさん来たよ。お願いします」
「そうなん。じゃあ、お邪魔しようかね」
 珠里が呼ぶ『おばあちゃん』。レモンの作り手、マーマレードの作り手の本人である『カネコおばあちゃん』だった。
「こんにちは。カネコです。今日は、よろしくね」
 スーツ姿の男ふたり、こちらに向けて、穏やかな笑顔でお辞儀をしてくれる。イメージ通り、ころころしたちっちゃなお婆ちゃん。珠里と同じく、農業割烹着と絣のもんぺ、そしてゴム長靴という典型的な農家のお婆ちゃんだった。
「今日は、ばあちゃんにも試食してもらいます。管理人である私だけが食べるより、やはりレモンの作り手であるばあちゃんに決めてもらおうと思います。よろしいですよね」
「勿論です。カネコさんのレモンで作る菓子ですから」
 涼は梶原と一緒に、珠里に頷いた。
 当然の流れだと思うが、涼には少しだけ違う思いが。『同級生だという先入観を拭うため?』。公正なものにするために。
 そんな時、珠里のあの黒目の眼差しと、涼の視線が重なった。
 ――これで、いいよね。真鍋君。
 そんな声が聞こえてきそうで、涼は密かに彼女に頷く。
 なにを言い合いたいのか通じたのか? 彼女も小さくこっくり頷いてくれた。
 不思議な感覚だった。
 だが、互いのこの仕事へのスタンス。もう、わかっている。
 同級生のよしみで獲れた仕事になんて、涼もしたくない。そしてそれは珠里も同じなのだろう。その為の『公正な審査員、カネコさん』なのだと。
 そんなカネコおばあちゃんのところへ、涼から出向く。お馴染みのご挨拶をするために。
「初めまして。カメリア珈琲、企画営業部の真鍋と申します。初めてお電話の時は、こちらからの訪問の申し入れを快く受けてくださいまして有り難うございました」
 胸ポケットから名刺を差し出す。それをカネコさんがにっこりと受け取ってくれる。
「同じく。カメリア珈琲、企画営業部の梶原と申します。本日はよろしくお願い致します」
 涼に遅れまいと、梶原もやや緊張した面持ちで、カネコおばあちゃんに名刺を差し出した。
「やっぱり大手さんの男の子はビシッとしていて、かっこええねえ」御秀堂養顔痩身カプセル第2代
 眼鏡姿の涼と、さらに今どきのアラサー男子である梶原を見て、おばあちゃんがにこにこ。
「カネコさんのマーマレード。真田さんから出ている物も大変美味しくいただきました。ですが、先日、珠里さんからいただきました、このキッチンで、カネコさん自らの手で作られたマーマレード。優しい甘みでまた美味しかったです。母にも持っていきましたが、とても感動しておりました」
 初対面の挨拶はもちろんのことだが、まずそこはあれこれ味を比べる前には伝えておきたかった涼。
「珠里ちゃんから聞きました。訪ねてきたカメリアの営業さんが、偶然、昔いた真鍋先生の息子さんで、珠里ちゃんの同級生だったと」
 カネコさんの返答に、隣にいる梶原が『えっ』と漏らした。機を見て『まったくの偶然だった』と説明しておこうと思ったが、こうなったら仕方があるまい。『まあ、そういうことでもあったんだよ』と梶原には目配せをしておき、説明は後ほどと待ってもらう。そこは只今営業中の梶原も、プライベートのことは後回しと堪えてくれたよう。
 梶原が驚いたなら、あちらの真田嬢もと思ったが。あちらはもう珠里か父親から聞いてるのかどうか? ジッと黙って控えてくれている。それに眼、本当に目つきが父親にそっくりすぎる。
 その眼が『挨拶はほどほどにして早く先に進めて』と急かすような迫力を感じてしまうのが、これまた父親譲りに見えてしまう。
「では。早速ですが、弊社で考案した『島レモンスイーツ』を召し上がってください」
 梶原と目を合わせ、頷き合う。
 クーラーボックスをキッチン台の上に梶原が置き蓋を開ける。そして涼も持ってきたアタッシュケースを開け、自社で扱ってる食器を準備。
 主役は菓子。だが菓子だけじゃない。デコレーションに、食器まで。そこまでが『食べること』。それがカメリアのこだわり。パティシエの感性だった。
 ネクタイスーツ姿の男ふたり。ジャケットを脱いで、ワイシャツの袖をまくる。黒いシンプルなエプロンまで、ネクタイの上に。
「男の子のエプロン姿、ええねえ」
 涼と梶原が調理を始めた正面に、カネコさん、珠里、真田嬢の女性三人が並んで腰をかける。カメリアの男ふたりが支度をするのをにっこり眺めている。真田嬢の食い入るような目は変わらないが。
 本当にそこに真田社長がいるよう。涼の肌にピリピリと刺さるような空気を彼女は送り込んでくる。だが涼はそんな彼女の始終真剣な顔を見て思った。
 親父に違わぬ『愛好家』だと。菓子にうるさそうな目つき。梶原もある程度手慣れているから良いが、それでもクーラーボックスから落とさずに、きちんとキッチン台に置けるのか。落とさないでよ。美味しいお菓子は丁寧に扱ってよ。なんて、そんなことを言い出しそうな様子を醸し出していて、涼も気が気でない。
 クーラーボックスから出てきたのは、白い薄紙に筒状に包まれたショコラ。
「それ。ショコラ?」
 目ざとい美々の質問に、手に持っている梶原が『はい』と答える。
 梶原がカッティングボードに置いたショコラ。小さな薄いナイフを手にした涼は、薄紙を剥いだショコラにそっとナイフをあて目を懲らしカットする。
「あら、カメリアのチーフさん。手慣れているねえ」
 口元を真一文字に引き結び、綺麗に棒状のショコラを輪切りにしていると、カネコさんが小さく拍手をしてくれ、涼も思わずにっこり。
「真鍋さん。もしかして、自分で料理するの」
 美々にも尋ねられる。
「このような仕事ですから。たまに自分で菓子も焼きますよ」
「えー、さすがですね!」
 あの生意気そうなお嬢さんが、急に涼を尊敬するようにキラキラとした目に。なんだ、そういう可愛い顔できるじゃんか――と思うほど。
 珠里とはまた違うが、なんともぶすっとした不機嫌そうな顔つきだったものだから。本当にあの親父の娘だ、と思ったが、こちらは気を抜けば愛嬌もあるらしい。
 それに比べて、珠里はやはりあの冷めた顔のまま。
 棒状のショコラをカットし、次は果物ナイフでカネコさんのレモンをカット。レモンの輪切りと、筒状からカットされコイン型になったショコラ。それを白い皿の上にショコラ、レモン、ショコラ、レモンと交互に重ね扇状に並べる。彩りのグリーンを添え、最後は。
「三枝、小鍋を貸してもらえるか」
「うん、いいわよ」
 なんて、すっかり慣れた同級生気分でうっかり。
 目の前の美々がちょっと驚いた顔をして、隣の梶原も目を丸くしていた。ただカネコさんだけが。
「本当に同級生だったんだね。珠里ちゃんのこと、旧姓で呼ぶなんて」
「す、すみません。うっかりしておりました。そう、今は二宮さんでしたね」
「べつに、かまんよ。ええんじゃないの」
 けらけらと優しくおばあちゃんが笑ってくれる。
 笑われた珠里も『ついうっかり』という顔で恥ずかしそうにしている。その彼女が小鍋を持ってきてくれる。
「手伝うことある?」
「いや、もう終わるから」
 そのやり取りさえも。目の前の美々とカネコおばあちゃんがニンマリとした笑みで見ている。ついには隣の梶原まで。
「なんすか。この状況。後で教えてくださいよ」
「わ、わかってる。いまは皿に集中しろよ」
 そうして梶原も元の真剣さを取り戻し、白い皿の盛りつけを仕上げていく。
 最後、涼が小鍋でゆっくり温めたのは『レモンジャム』。このショコラに添えるために、パティシエが緩く柔らかく煮詰めたもの。ジャムほど粘りと堅さはなく、ソースと呼ぶには液状でもなくジュレぐらいの質感がある。それを温め、白い陶器のミルクピッチャーに注いだ。
「出来上がりです」
 丸形カットのショコラとレモンの輪切り。まるでフランス料理のような飾りつけ。これがカメリアの真骨頂。
 その皿を女性三人それぞれに梶原が配り、最後に涼が人肌ほどに温めたレモンジャムをそばに添える。
 そして、ついにその時を迎える。
「梶原」
 彼を正面に押し、涼は一歩下がる。梶原が頷き、女性達に向かう。
「クラシック・ショコラ・レモンです」
 わけのわからないフランス料理が出てきたかのように、女性三人それぞれが『クラシック・ショコラ?』と皿を様々な角度から眺めている。
 特に美々は、皿を手に持ち自分の目線に持ってきて、ものすごく食い入るように眺めている。
「そういえば。ここのところ『隠れた名品』として、パティシエが一本一本手作りで作る『昔ながらのショコラ』があると聞いたことがある。手作りだから、向こう半年予約でいっぱいだという知る人ぞ知る名品だって」韓国痩身一号
 彼女の言葉に、梶原がとてつもなく驚いた顔をしたのを涼は見逃さなかった。
 そしてやはり、真田美々は『あなどれない愛好家』だと確信せざる得ない。梶原がやっと掴んだ情報を、彼女ももう知っていたのだから。
 ――動揺するな。
 後ろにいた涼はそっと彼に耳打ちを。それだけで、梶原もグッと堪え毅然とした顔を保とうとした。
「そうです。『元来のチョコレートはこうしてつくり、食べられてきた』、パティシエが電子器具を使わず、ココアパウダーから手と木べらだけで混ぜ合わせ練ったもの。厳選素材と丁寧な手作り、『貴女のために、手でつくられた』がコンセプトです」
 梶原が足を使って、または懸命な情報収集でやっと見つけた『まだ知られていない、でも都会の愛好家はもう既に取り合っている名品』だったという。
 本当に、その国で作られている『昔ながらのチョコレートのレシピ』で作られた物。厳選されたカカオとバターと生クリーム、そしてナッツにフルーツピール、そして香り付けの洋酒。本当に一からパティシエが作った『チョコレートはこうして生まれた』と言いたい一品だった。
 それは昔ながらといいながらも、手間暇かけた丁寧な作りと厳選されたシンプルな素材に贅沢感があった。
 形成も素朴。型を使わず、トリュフのように小分けにせず。とにかくボウル一個分、パティシエの手で筒状に固めた物。そこに温かみと、手作りの贅沢さもある。
「ふーん、さすがカメリアさん。このショコラの重厚感、エレガントな盛りつけ。それに……これ、なにこの温かいミルクピッチャーは」
「温かいうちに、そのレモンジャムを是非」
 梶原の勧めに、女性達がやっとフォークを手にする。
 冷たく固めたチョコレートに、温めたレモンジャム。それをかけた彼女たちがフォークにチョコレートをとって口に運んだ。
 すると、カネコさんが途端に笑顔いっぱいに。
「おいしいねえ!」
 一番言ってほしい人からのその言葉に、やっと梶原もホッとした微笑みをみせた。それを後ろで見守っていた涼も、ホッと胸をなで下ろす。
 そして思った。本当はこういうことなんだよな……と。数字とかいろいろ必要だけれど。基本『俺達』は、『美味しい』と笑顔になって欲しくて、この仕事を選んだのではないか。この後輩も、ここまで辿り着くのに必死に走り回って情報をかき集め、何度も企画を無にされ、でも諦めず……。自分だってそうだったじゃないか。なのに、いつの間にか、この後輩と『狭い企画室』だけで目の敵にして争っていただけの……。
「うん、いい。ショコラにレモンの輪切りの香りがほんのり移って、ホットジャムのところが程よく溶けて、フォンダン・ショコラみたい。ショコラの中にはブランデー漬けにしたレモンピール。まさに『レモン・チョコ』だね」
 真田嬢は、スイーツを目の前にすると目つきが変わる。涼も既に、彼女のその目には緊張する。娘でこれだ。もし、今日……あの社長がここにいて、このショコラを食べたならば。どのような顔で、どう言ったのだろうか。
 そして涼は、珠里も確かめる。彼女はひたすらあの顔に固まったまま、始終無言だった。美味しかったのか、気に入ってくれたのかも解らない。
「三枝、どうかな」
 果樹園管理人の意見も聞きたい。だが珠里は。
「うん、カメリアさんらしい」
 美味しいとは言ってくれない。それだけだった。涼にはそこがひっかかった。
 ――もしや。先攻だった真田のレモンスイーツの方が美味かったのか?
 急に胸に不安が広がる。
 その不安を確かめたかのように、ひととおり味わった美々が席を立った。
「では。先日、カネコおばあちゃんと珠里さんに試して頂いた真田の新作を見てもらおうかな」
 彼女もテーブルの上に置いていたクーラーボックスの前へ。蓋を開け、彼女はこの家の食器棚にある普通の小皿のうえに、その菓子を並べた。
 その菓子を見て、涼は驚き、梶原も『信じられない』という顔に固まっていた。
 小皿に、無造作に彼女が置いたのは。『レモン色のマカロン』。
 涼から尋ねた。
「レモン味の、マカロン……ということですか」
「そうです。レモン味のマカロン。それだけです」
 美々の平然とした返答にも、涼は余計に不安に煽られた。その動じない様子が、逆に『真田の自信』にも見えたから。
 いまさら、マカロン? もう出回って何年にもなる。しかも見たところ、なんのひねりもない、見たままそのまま『マカロン』。それがころっと小皿にひとつ。
「どうぞ」
 真田美々の笑みなき、ひたむきな眼差し。揺るがない自信。
 彼女の眼に気圧されながらも、涼は前に置かれた小皿から、そのマカロンを手に取る。隣の梶原も続いて手に取り、ふたりで一口。
 それだけで、涼は『あっ』と言わされる。
 どこでも見かけられるようになった『マカロン』。なのにこれは『レモンそのもの』!
 隣の梶原も絶句している。この後輩も菓子は食べ尽くしている故に、きっと涼と同じ感覚になっているはず。
「レモンだ。レモンを食べているみたいだ」
「そのとおりっすね。レモン……だ」
 マカロンのかじった所を涼は眺める。そこにはレモンマーマレード、そして『つぶ塩』。
「塩とレモン?」韓国痩身1号
 気がついた涼に、やっと美々が悠然と微笑んだ。
「そう。『塩レモンマカロン』。レモンは瀬戸内の島レモン、塩は瀬戸内の塩」
 塩スイーツも出回って久しい。既存の、もう誰もが知っているような組み合わせながらも、これは……新しいというより『絶妙の組み合わせ』、そしてまさに『レモン』。
 こちらはカメリアよりもっとシンプル。だけれど素晴らしく鮮烈。ひとくちで『レモン!』とガツンとやってくれる。しかもだからってレモンレモンじゃないところは、マカロンの外はさっくり中はしっとりとした甘いアーモンド生地がレモンに変化を添えている。
 これに比べたら、どんなに手作りクラシック、シンプルだと謳っても、カメリアのひと皿はあまりにも『小手先が過ぎる』と感じる。
「たった一口なのに。レモンのテイストがジューシーだ、すごく……レモン」
 梶原もその鮮烈さに驚愕している。つまりそれは……俺達自ら……。
 そして真田美々は、そんなカメリアの男ふたりを見て、もう勝ち誇った笑みを浮かべている。涼と梶原の驚きの顔、変哲もないマカロンを食べたその顔で、確信を得たのだろう。
 だから彼女から切り出した。
「おばあちゃん、どうでしたか。どちらかお決め頂ければと思います」
 美々からの催促に、カネコさんがカメリアの皿を見て唸る。
 俺達にまだチャンスはあるのかも。まだカネコさんが答を言わぬうちは、その望みがある。涼は梶原と顔を見合わせ固唾を呑む。
 そんなおばあちゃんが、涼と梶原を見てにっこり笑った。
「どっちも美味しかったよ。どっちもお店に出して欲しいんやけどね。ごめんね」
 カメリアの男ふたりを見て『ごめんね』。涼は目をつむり、梶原は俯いてしまった。
「本当なら、どちらさんにもレモンをつこうてほしいんやけど、両店のお客さんに行き渡るほどは、ばあちゃんもレモンを作ってはおらんし。他のお得意さんもいるけん。今回は『真田さん』にお任せしようと思います」
 ――負けた。
 涼も後輩と一緒に項垂れた。
 しかも、一口食べただけで判った。『完敗』だった。悔しいけれど、納得できる。
「……わ、わかりました。チャンスをくださり、有り難うございました」
 唇を噛みしめ動かなくなってしまった後輩の代わりに、礼をする。そうすると、梶原も涙を呑むように涼の横で頭を下げた。
 勝負あり。そして涼は噛みしめる。あの社長の言葉が頭に巡った。
『素材にも、地元の顧客にも、故郷にも愛がある』。
 島のレモン、瀬戸内の塩。それを如何に調和させるか。そこに確かに『愛』を感じた。
 おそらく、自分には今ないものだと痛感させられた。
 
「まって!」
 
 敗北に項垂れる男達のせいで、しんみりしてしまったキッチンにそんな声が響いた。
 それまでジッと黙っていた珠里が立ち上がっていた。新一粒神

2013年1月17日星期四

天魔迷宮プライマルフォレスト

ケット・シーの案内通りに飛び回ると、予想以上に早く半数の種子を確保する事ができた。
 予定よりも早く終わりそうだと、ミラは気分良く、軽やかなステップで木々の間を抜けていく。
「危険ですにゃ。危険な気配が漂ってますにゃ……」VIVID
 六個目の始祖の種子を嗅ぎつけ、そこへ向かう途中。それらは上の方から降ってきた。
 警戒心を剥き出しにしたケット・シーは、鋭い目で牽制するように睨みつける。ミラの肩から首の裏に回りこみながら。
「現れおったか」
 ミラは、そう呟くと立ち塞がる魔物を一瞥する。
 大きな森には樹木人と呼ばれる種類の魔物が出現する。身体は全て木で作られており、人に近い姿をしている魔物だ。だが、ここは天魔迷宮と呼ばれる特殊な場所であり、そこに出現する魔物は全てが亜種という特徴を持っている。
 ミラの前に現れた魔物は、樹木人の亜種だ。表面は樹皮、骨格は木。そしてそれらを蠢く蔦が筋肉の代わりに繋ぎ合わせ、不恰好な人の形と成している。その名は、ニルドレント。通常の樹木人とは比べ物にならないほどに不気味な容姿をしている魔物である。
 間接部分から覗く蔦は絶え間なく蠢き、徐々に獲物との距離を詰めていく。軋む様な音を響かせ迫るその魔物は、槍の様に鋭く尖った手をミラへと向けた。
「少し大人しくしておれよ」
 そう言うとミラはケット・シーの首を抓み上げ、そのまま空いた手でワンピースの胸元を開くと、そこへ放り込む。
「了解ですにゃ!」
 ミラのワンピースの中で、もぞもぞと体勢を整えたケット・シーは襟元から顔だけを出すと、敬礼のポーズを取り尻尾をピンと立てる。
「ぬ……。返事は良いから尻尾を立てるでない。くすぐったいわい」
 そう言いながら、ミラはケット・シーの頭を抑える様にして身を捩じらす。ふさふさの尻尾が、ミラの柔肌を撫で回していたのだ。
「はいですにゃ」
 そう答えたケット・シーが、くるりと尻尾を丸めると、次の瞬間に状況が大きく動いた。敵対するニルドレントは三体。その内の一体が高く跳躍して、ミラへと襲い掛かったのだ。
 即座に相手の位置を確認すると、ミラは姿勢を整え切れていないケット・シーを身体に押し付ける様に抱き、背面へと跳躍する。直後、ただ敵を狩る事を目的としたニルドレントは的確な動作で、最短距離を穿つ。その槍の様な手が地面に突き刺さる。
 初撃を躱された魔物は、獲物を再認識しようと顔を上げるも、その手は二度と抜ける事は無かった。そのニルドレントの背後から蜃気楼の様に現れた黒い腕が、漆黒の剣を振り落としたからだ。
 衝撃により樹皮と木片と蔓が、どろりとした緑の液体と共に周辺に飛び散った。
(威力は、遜色無しのようじゃな)
 それは、正しくダークナイトの一撃。実戦で初の部分召喚は、見事にその有用性を示して見せた。
 しかし、ミラが考察していたのも束の間。仲間だったモノの残骸を蹴散らし、硬質な音をかき鳴らしながら、人とは似ても似つかない動きで二体のニルドレントが駆ける。不気味に歪む四肢をしならせ、一体が高く跳躍する。
 しかしそれは、最初の一体目と同じ轍を踏む事になった。上下からの同時攻撃を狙っての行動だったが、攻撃の姿勢に入る前に白く大きな盾に激突し、がくりと姿勢を崩す。
 【仙術・地:紅蓮一握】
 正面から突進していったニルドレントは、仲間の援護を受けられず絶望的な戦いを強いられた。狙い澄ました突きは虚空を抉るばかりか、白く小さな手に捕らわれ、そのまま灼熱の地獄へと連れ去られる。
 人に似た形をした何かが真っ黒な炭となり、ミラの前に横たわった。ホーリーナイトの盾に全身を打ち付けた最後のニルドレントは、ぎこちない動きで起き上がると脳天から二つに裂かれ、糸が切れたかのように地面に崩れ落ち、地面に大きな緑の染みを広げる。執行者の黒い腕は、それを見届ける前に姿を消していた。
(これは、便利じゃな……)
 出現はほんの一瞬ながら、汎用性の高さに研究心が疼きだすミラ。すぐに消える為、広さを必要としない。現状の様に足場が限られている場所での運用には、特に適しているだろうと思考する。
「流石は団長ですにゃー」
 敵意が無くなったのを確認すると、ケット・シーがミラの胸元から飛び出す。プラカードには [これも生きる為] と書かれている。
「さて、次はどっちだったかのぅ?」
 始祖の種子を探している途中での襲撃。周囲は規則性無く絡まる枝と蔓の森だ。ミラは案内役のケット・シーに六個目の在りかを問いかけると、当の団員一号はニルドレントの残骸を漁っていた。
 ミラは何をしているのかと、そう口にしようとした時、ケット・シーは残骸から器用にあるものを取り出した。
「ゲットだにゃー」
 そう言い掲げたケット・シーの両手には、蔦が複雑に絡まった塊があった。
「ほう、戦利品の回収もできるのか」
 ケット・シーが手にしているものは、ニルドレントから採取できる固有アイテム、ニルドの心核だ。それは、ニルドレントの心臓ともいえるもの。身体を動かすための魔力と、それを送る樹液が詰まっており、素材に分類されるアイテムである。
 ケット・シーは、ニルドの心核を捧げ物の様にミラへと謙譲すると、次の残骸へと走り寄る。
 結果、炭にしてしまったニルドレントからは採取できず、心核二個を回収した。思いの他、働き者なケット・シーを肩に乗せると、ミラは次の種子の場所へ向けて駆け出して行く。

 天魔迷宮プライマルフォレストに入って一時間と少し。ミラの小腹が空き始めた頃には、ソロモンに頼まれた始祖の種子を十個確保し終わっていた。何もかもケット・シーの大活躍のお陰だ。
 何十匹目になるか分からないニルドレントを蹴散らしたミラは、部分召喚の感覚を確認するように脳内で反芻する。その周囲には、黒い染みが無数にへばり付いていた。ニルドレントが投げてきた毒の実が潰れた痕だ。
 樹木人の亜種ニルドレントには、大きく分けて三種類存在している。手が槍の様に鋭いもの。毒の実などを投げつけるもの。毒を持つ針葉を撃ち出してくるもの等だ。
 ケット・シーがニルドレントの残骸から心核を取り出しミラに差し出す。既に手馴れた様子だ。
 現在、ミラが居る場所は、天魔迷宮プライマルフォレストの外縁である。中心部へ入れば入るほど、貴重なアイテムが眠っているが、その分魔物も強力になる。最深部では、九賢者の実力でも手こずる難易度だ。一人でなら、の話だが。とはいえ、そもそもの目的である始祖の種子は迷宮全域に落ちているので、わざわざ奥へ向かう必要は無い。
「用事も済んだ事じゃし、そろそろ帰るとするかのぅ」強力催眠謎幻水
「はいですにゃ」
 ミラの身体をよじ登り定位置に着いたケット・シーが返事をする。入り口と出口は別々の為、出口を探す必要があるが、周囲は秩序無く広がる枝の森。常人では、あっという間に方角を見失う、正に迷宮だ。
 だが、ミラは何度か訪れた事のある場所なので、出口を見つける方法を知っている。
 ミラは目を凝らし周辺を一望し、目印を探す。
「むぅ……、見当たらん。団員一号よ、青い花がどこかに見えぬか?」
「青い花ですにゃ? 探してみますにゃ」
 自分の目では確認できないと、ケット・シーに託したミラ。言葉を受けて、団員一号は瞳を丸く見開いて注意深く、[検索中] と書かれたプラカードを手に、枝の先、葉の裏、蔓に隠れた奥の方へと視線を巡らせる。
「ありましたにゃ。向こうですにゃー」
 ミラの頭の上から、導きの光が放たれ方向を指し示す。「でかした」とケット・シーの喉を撫でながら、ミラは示された方角へと飛び出した。
 幾つかの足場の枝を越えた先に、その青い花はあった。掌ほどの青い四枚の花弁は一際太い蔓からその花を咲かせている。この花さえ見つけられれば、出口に着くのは時間の問題だ。独特な甘い香りを漂わせる青い花は等間隔で、まるで導く様に咲いていた。そう、この花を辿った先に出口があるのだ。
 目配せしたミラの目は、既に左右の同じ距離に青い花を確認する。鳥瞰から青い花の位置を印すと、水滴の様な形になる。頂点が出口であり、右と左どちらを辿っても出口には着けるが、どこを始点にするかで大きく距離が変わる構図だ。
(まあ、どちらでも良いか)
 どの道が早いか考えたところで、それを確認する術は無い。それよりも進んだ方が早い。ミラは特に考えず、いつも通りに左側の花を辿り始める。
 目に見える範囲に並ぶ青い花を幾つも辿り、途中で遭遇するニルドレントを部分召喚の実験体にしつつ進み続け、どれだけ経っただろうか。ミラが数十本目の枝に着地した時、枝先に古めかしい箱が置いてあった。
「団長、お宝ですにゃ!」
「うむ、宝箱じゃな」
 瞳を輝かせるケット・シーが振り回す手には、[秘境に隠された古い箱。果たしてそれは希望か絶望か] と煽り文句が書かれたプラカードが握られている。
 ミラは、宝箱を前に術士組合長レオニールの言葉を思い出した。天魔迷宮プライマルフォレスト。この場所が、なぜ禁域とされ封じられたかについてだ。
 その原因が目の前の箱である。中身を入手しても、再び出現する不可思議な宝箱。ゲームとしては、宝箱の再配置など当然の仕様ではあるが、現実となれば別だ。
 するとミラは、徐に掌を箱に向ける。
 【仙術・天:衝波】
 仙術の発動と共に、ミラの手から咆哮にも似た風の唸りが撃ち出された。それは、瞬間も待たずに宝箱に直撃すると、表面に無数の傷痕を刻んで霧散する。
「大丈夫そうじゃな」
「団長は、荒っぽいにゃー」
 若干の緊張を解いたミラに、ケット・シーはぴょこんと飛び降りると、着地の衝撃で両足を痺れさせ、結局ぱたりと倒れる。
「宝箱の判別にゃらば、任せてくださいですにゃ……」
 ケット・シーは、かろうじて上半身を持ち上げ、目から赤い光を放ち宝箱を睨み付けた。杖の様に身体を支えるプラカードには [ここが正念場] の文字。
「問題にゃいですにゃ!」
「そうじゃな。先程、試したからのぅ」
 どうにか回復し自信満々に振り返り、ミラを見上げて宣言したケット・シーは、返された言葉に崩れ落ちる。プラカードには、そんな心境を表した効果線が描かれていた。
「そうでしたにゃ……」
「まあ、箱の見分けがつけられるという事じゃな。前には、そんな技能無かったと思うが、すごいのぅ」
「三十年に及ぶ修行の成果ですにゃ!」
 項垂れるケット・シーだったが、ミラの言葉に勢いを取り戻すと [進化が止まらない] と書かれたプラカードを振り回しながら、宝箱へと駆け寄っていく。 
 天魔迷宮の宝箱には、二種類ある。宝か魔物かだ。見分ける方法は極めて単純。ミラがしたように攻撃を加えればいいだけだ。宝箱なら何も起きず、魔物ならば正体を現し襲い掛かってくる。今回は反応が無かったので、普通の宝箱だという事だ。
「ふむ、これは何の木片じゃろう」
 宝箱を開け中身を取り出すと次の瞬間、入れ物の方は砂となって跡形も無く消える。だがミラは、その事は特に気にせず、拳程度の大きさの木片を手の上に乗せて転がす。
「にゃにゃにゃにゃ……これは……。世界樹の欠片のようですにゃ」
 ミラの肩まで登り、その木片を覗き込んだケット・シーが、そう進言する。
「ほう、分かるのか」
「図鑑で見た事があるですにゃ」
 ケット・シーの言う通り、それはミラの記憶にも一致した。
 世界樹の欠片。強力な回復薬の原料となる他、装備品の作成に使う事で治癒力を高めたり、毒や麻痺、呪いといった害を退ける力を秘めた武具が出来上がる。それ故に、上級冒険者の間では高値で取引されている一品だ。
(世界樹……か。そういえば、ルミナリアが触媒として世界樹の炭を欲しがっておったな。これを燃やせば炭になるのじゃろうか……)
 ミラは前にスキルブックとの交換条件として、ルミナリアから魔術習得の触媒を見つけるという依頼を受けた。その一つが世界樹の炭というアイテムだ。その名の通りの品ではあるが、ミラは木片を燃やせば炭に成るかどうかは試した事が無いので判断がつかない。
(まあ、見せてみるとするかのぅ)
 本人に見せて判断しよう。そう結論すると、ミラは木片をアイテムボックスへ放り込んだ。不可能では無いかもしれないが、流石に何の情報も無く試してみる気にもならないので、今は保留する事にしたのだ。
 その後、宝箱は特に見つからずニルドレントと数戦交えて、ミラはようやく出口へと辿り着いた。
「この様な場所に人が来るとは珍しい。探し物かな」
「しゃべったですにゃ!」
 青い花を辿り行き着いた場所は、岩の壁に開いた大きな穴。その奥に進むと、土壁に囲まれた空間に出る。光を放つ無数の蔓が天井を埋め尽くし、そこは昼の様に明るい。小さな湖が脇で揺らめいており、湖面には蓮に似た葉が浮かんでいた。迷宮に入ってからずっと視界に映っていた木の枝は見当たらず、代わりに草花が彩りを添えその隙間を埋めている。
 そんな部屋の中心に、天魔迷宮プライマルフォレストを出る為のものが存在していた。
「ここを出たいんじゃ」
 ミラはそう答えると、目の前に聳える出口までの案内人を見上げる。ケット・シーはミラの肩の上で、ぽかりと口を開けたままそれを見つめていた。
 そこにあったのは、巨大な青い花だった。家ほどもある大輪は空よりも鮮やかで、空間はハーブのように透き通った香りに包まれている。蔓から落ちる光の筋に浮かび上がるその花は、美しくも雄雄しく存在を主張していた。
「そうかそうか。それならば私が役に立てそうだ。力の源を持って来れば、私が出口へ送ってやろう」
 ミラの数倍はある太い茎で支えられた青い花は、ゆらゆらと花弁を揺らしてそう言った。声は地の底から響いてくるようで、部屋全体に反響する。その言葉にあった力の源。これもまた天魔迷宮の共通点の一つだ。印度神油
 入り口と出口が違う他にも、出る為にはアイテムが必要となる。だが、それは決して難しい物ではない。天魔迷宮で戦えるだけの力を持っていれば、難なく入手できる物だ。
「これで良いのじゃろう」
 ミラは、ニルドの心核を取り出すと、それを掲げる。天魔迷宮の魔物の落とすアイテムが、脱出用アイテムも兼ねているのだ。
「結構。それを、そこの湖に沈めるのだ。さすれば、出口まで送ろう」
 ミラは、ケット・シーを再びワンピースの中に放り込むと、言われた通りに心核を湖に投げ入れる。波紋が広がり、ゆっくりと沈んでいく心核が淡く光りを放ち始めた。
「確かに受け取った。では行くぞ」
 その声と同時に、大きく茎をしならせた青い大花が、その花弁でミラを喰らう様に包み込む。
「にゃんですにゃーー!」
「心配せずとも良い。出口まで連れて行ってもらうだけじゃ」
 突然視界が真っ暗になり慌てた様子のケット・シーは、必死になって手近なもの、ブラジャーにしがみ付く。対してミラは、既に経験済みなので平然と身を任せながら、胸元のずれた感覚に、何か落ち着かない違和感を受ける。だが結局は直ぐに外す事になるから構わないかと、この先を思い出す。
 部屋全体が音を立てて揺れる。水面が波立ち、差し込む光が振動に合わせて乱れると、ミラを咥え込んだ青い大花は、ずるりと地面に吸い込まれた。
 いや、正確には潜ったのだ。青い大花は、ミラを内包したまま地面の中を突き進んで行く。そして激しい振動と、急激な遠心力で大いに揺さぶった後、ようやく停止する。
 吐き出すように投げ出されたミラは、固い岩の地面に尻を打ち付けた。
「もう少し丁寧に扱わぬか」
 尻を擦りながら立ち上がると、早々に愚痴をぶつけるミラ。青い大花は、そ知らぬ素振りで、
「その川を抜ければ外だ。ではな、珍しき客人よ」
 そう告げて、地を響かせながら帰っていった。
 ミラが連れて来られた場所は、小さな岩の小部屋だ。中央には川が流れており、そのすぐ先に光が覗いている。所々に光源となる苔が生えており、薄暗く小部屋を照らしていた。
「これで冒険も終わりですかにゃー。名残惜しいですにゃー」
 ミラの胸元から飛び降りたケット・シーが、川の先を覗き込みながら言う。その手に持ったプラカードには [帰るまでが冒険] と書かれていた。
「また今度があるじゃろう。その時は、頼むぞ」
「はいですにゃ!」
 ミラの言葉に、ケット・シーは飛び上がり喜ぶ。[冒険、それは理想郷へと続く道] と書かれたプラカードを振り回す姿は、心底嬉しそうであった。
 そんなケット・シーの可愛い姿に和みながら、ミラは服を脱ぎ始めた。
 コートを外し、続いてワンピース、下着も全て脱ぐと、まとめてアイテムボックスへ入れる。
 白い肌を一切隠す事無く晒し出したミラは、
「では、行くぞ。団員一号」
「どこまでもですにゃー」
 そう言って、一人と一匹は川に飛び込んだ。

「大変……ですにゃっ……! 泳げなかった……ですにゃー!」
 川の終着点から光の中へと飛び出ると、そこは入り口近くの湖の小さな滝だった。重力に引かれて直ぐ下の湖に着水すると、ケット・シーがプラカードにしがみ付きながら喚く。そのプラカードには [要救助者一名] と書かれている。
 湖自体はそれほど深くは無く、ミラの顔ががどうにか出るくらいだ。
「ほれ、慌てるでない」
 ミラは、ケット・シーの首を抓むと頭に乗せて、よじ登る様に湖から這い出した。
 空は日が沈み始めており、僅かな闇が森に広がりつつある時間。湖の畔に佇む全裸の少女は、濡れた髪を絞る様にして水を切る。その姿はどこか蟲惑的であり、幻想的でもあった。
 ミラは、アイテムボックスから大きなカバンを取り出す。それは衣料関係が詰められたカバンだ。
 そして、そこからタオルを取り出そうとした時、僅かな物音に気付くと、ミラは生体感知により岩山の上に一つの反応を確認する。森には無数の動物達であろう反応はあるが、岩山の上にはその一つだけ。じっと身を潜める様に動きが無い。
「そこに居るのは何者じゃ?」
 ミラが岩山の上を睨み付け言うと、それは観念したのか姿を現し一足で飛び降りる。その者は、夜の闇に近い漆黒のマントを羽織った男だった。
 鍛えられた腕は引き締まり、手には黒い布が幾重にも巻かれている。横長の眼鏡と、顔は下半分が覆面で覆われ、一見すると忍者に近い姿だ。その男は警戒して後ろ手に何かを握ったまま、見定める様な鋭い目付きでミラを睨むと、不意に脇に転がるカバンへと視線を向ける。
「……お前は……精霊じゃない……のか?」田七人参
「精霊じゃと? どこをどう見ればそうなるんじゃ」
「そうだにゃ。団長は団長だにゃ!」
 男は少し警戒を解くと、ミラの足元から顔だけを覗かせているケット・シーを睨む。
「そいつは、猫妖精か……?」
「わしの召喚術の一つじゃよ。わしは召喚術士じゃからな」
「そうだにゃ。団長は、とてもとても強い召喚術士なんだにゃ!」
 ミラの言葉に男は完全に構えを解くと、バツが悪そうに目を逸らした。
「そうか、失礼した。精霊の様に美しかったのでな、勘違いしてしまった」
「ほう、そうじゃったか。じゃが、精霊と勘違いしたのなら尚更。何ゆえ警戒した? あ奴らは害の無い存在じゃろう」
「そうだにゃ。団長と違い、精霊さん達は優しいにゃ!」
 精霊の様に美しいと褒められ、この身の魅力が分かるとは見る目のある奴だと、内心気を良くしながらも、男から胡散臭さを感じ取ったミラは、少しだけ踏み込んだ質問を投げかけた。
 男が気付かない程度に眉を上げる。だが、それは一瞬。即座に表情から感情を消すと、
「いや、それが前に少し気の立っていた精霊の縄張りに入ってしまった事があってな。それで追い回された事があるんだ」
 そう言い、あの時は大変だったとポーズを取る。ミラはその答えに頷きながら、カバンからタオルを取り出す。、
「ふむ、そうじゃったか。ならば仕方が無いのぅ」
「そうだにゃ。お間抜けな奴ですにゃ!」
「お主は、少し静かにしておれ」
「はいですにゃ……」
 ミラは、タオルで身体を軽く拭った後、そのタオルをケット・シーに被せる。
(精霊は自由じゃ。縄張りなど無い。子供だと思うて適当な言い訳をしておるようじゃな。何を隠しておるのか)
「して、お主はこの様な場所で何をしておったのじゃ?」
「ちょっと薬草やら木の実の採取をな。そろそろ帰るところだったんだ」
 そう答える男は、何かが入った腰の袋を軽く叩いてみせた。
「ふむ、そうじゃったか。こんな奥まで入り込んだのならば、良い物が多く採れたじゃろう」
「ああ、そりゃあ色々とな。それとついでなんだが、この近くで精霊を見た事は無いか?」
「いや、無いのぅ。どうしてじゃ?」
「近くに居るならそこを避けないといけないからな」
 当然の様に男は言う。言動からして、精霊を気にしている様子が窺えた。
「さて、俺は近くの村に帰る事にする。じゃあな」
 言い終わるが早いか、男は踵を返し森の中へと走り去っていく。男の後ろ姿。背後の腰の位置に、不可思議な紋様の浮かんだ短刀が差してあった。
 男は、何もかもが怪しかった。姿もそうだが、精霊に対する警戒に嘘の言い訳。そしてなにより……、
「ふむ、これは調べてみた方がいいかもしれんのぅ」
 生体感知で行動を追っていると、男は突如進路をまったく別の方へと変え、速度を上げていった。ミラはそれを確認すると、「では、またな」とケット・シーを送還する。タオルに包まれたままで、ケット・シーのやるせない声が響いた。威哥十鞭王

2013年1月15日星期二

お迎え=強制連行

さて、ルドルフ達の誤解も解けた。
 という訳で!
 一月ぶりにイルフェナに帰ります!

 魔王様の説教あるだろうけど。

 アル達に無駄に引っ付かれそうだけど。韓国痩身1号

 まあ、今回ばかりは心配させた自覚があるので大人しくしていよう。
 だって、やっちゃったものは取り消せませんからね!
 砦イベントを筆頭に商人さん達が涙ながらの報告をしてると思います。
 さすがの狸様も絶句しているだろうと推測。
 と言ってもセシル達は物凄く面白がっていたのですが。
 レックバリ侯爵……貴方のセシル像は一体幾つで止まっているんだ?
 一年でここまで逞しくなったとは思えないぞ?
 その点に関して『私の悪影響』で済ますのはやめてくれ。私は無実だ。
 
「じゃあ、帰るね。セシル達の武器ありがと」
「おう、気にするな。一般的なものだからゼブレストが関与を疑われる事も無い筈だ」
「それを徹底的に強化したから伝説の武器くらいにはなってるかも」
「はは、『絶対に折れない・切れ味が落ちない』だったか?」
「うん。折れても新しい武器を入手できるか判らないしね」

 セシル達の武器は私によって魔改造が施されている。
 セシルの剣は強度や切れ味を上げてあるし、エマの短剣も同様。
 足止めする程度の怪我なら外交問題になることもないだろう。自己防衛の為であることに加え、セシルは王族なので向かってきた相手の方が不敬罪でヤバい。
 エマはナイフ投げもするみたいなので私の魔血石付きのナイフも数本作って渡してみた。
 大型の魔物とかにはこのナイフを接点に魔法を展開するという攻撃方法がとれます。かなり小さい魔血石だしナイフにも強度が無いので完全に使い捨てになるけど、備えあれば憂いなし。
 余談だが私はナイフ投げができない。ダーツ程度ならまだしもナイフになると無理だった。思い通りに飛ばないし上手く刺さらないよ、あれ。
 現実は甘くないですね、もう魔法一本で行こうと思います。

「ミヅキ様! これをお持ちください」

 若干遠い目になった私にリュカが短剣を差し出してくる。

「ごめん、私、武器使えない」
「いえ、お持ちくださるだけでいいんです! 何かの時に役に立てば」

 はて、一体どういうことだろう?
 訝しむ私にリュカはやや伏目がちに告げる。

「これは俺の父親の形見なんです。十年前、親父は志願兵として戦に参加し亡くなりました」
「形見なら持っていた方がいいんじゃない?」
「……親父はルドルフ様の代になれば必ずゼブレストが持ち直すと信じていたんです。「あの方が居るならこの国は守る価値がある」と。今だからこそ俺はそれが正しかったと思います」

 なるほど。
 ルドルフは幼い頃から愚かな父親に見切りをつけ色々とやってきたと聞いている。
 先代は全く期待されていなかったが、ルドルフは国の未来を託せるほどに信頼を得ていたのか。
 それがリュカが騎士に拘った理由だろう。
 騎士という職業に憧れたのではなく、父親の想いを継ぎルドルフを守る側になることが望みだったのか。

「俺はミヅキ様に騎士となる切っ掛けを与えて貰いました。今、俺の忠誠はルドルフ様に捧げられています。ですが、ミヅキ様もルドルフ様に準じて尊敬しております。お仕え出来ない分、どうぞこれをお持ちください」
「いいの?」
「はい! 何かの助けになれば本望です。親父も貴女様の役に立てるならば喜ぶでしょう」

 短剣は柄の部分にゼブレスト王家の紋章が浮き彫りにされていた。
 恐らくは志願兵達に配られた支給品だったのだろう。それが遺品としてリュカの手に残ったのか。 

「ありがと。じゃあ、遠慮なく。代わりにこれ持ってなさい」

 短剣を受け取ると代わりに万能結界付加のペンダントを渡す。
 本来はセシル達が『何も出来ないお姫様と侍女』だった場合に渡す筈だった物だ。今は彼女達が守られるだけではないと知っているのでヴァルハラの腕輪を渡してある。
 魔術の複数付加を施したアイテムは信頼できる相手にしか渡さないようにしているが、二人ならば大丈夫だろう。
 ……戦闘になったら私以上に突撃しそうな性格をしているんだもん。最初から装備を整えておきますよ。
 性能の素晴らしさ以上に『ミヅキと御揃いか!』とはしゃいでいたので単なる友情アイテム扱いかもしれないが。
 ルドルフや魔王様達も持っているので『異世界人製・信頼の証』とでも思っておくれ。私の愛情は効果付き。

「ペンダント、ですか?」
「服の下に付けてなさい。それ、万能結界を組み込んであるから。シンプルだから問題ないでしょ」
「ちょ、ミヅキ様!? それ、物凄く高価な魔道具じゃないですか」

 慌てるリュカに笑って先程の彼と似たような言葉を返す。

「私は常にルドルフの傍に居るわけじゃない。私の代わりにルドルフを守りなさい。必要ならば盾となれ」
「……っ! ……はい! はい、必ずや盾となり御守りいたします!」

 自分勝手な事を言っているがリュカにとっては最上級の信頼を見せた形になる。
 それが伝わったのかリュカは感極まるとばかりに跪き頭を垂れた。
 ルドルフの敵は未だ多い。だが、リュカなら期待通りの働きをするだろう。
 何せリュカの忠誠は『ゼブレスト王』ではなく、『ルドルフ』という個人に捧げられているのだから。
 貴族の柵の無いリュカはルドルフにとっても有効且つ信頼できる駒だろう。本人も駒となる事を当然と考える性格をしている。
 『敵を倒す事』は身分的な問題もあり近衛などの仕事だろうが『盾となる者』は多い方がいい。

「一応こちらでもキヴェラの動向には気を配っておく。ただ、追っ手に関しては何も出来ないが……」
「大丈夫。保護者の目が無いからって羽目を外し過ぎたりしないから」
「うん、お前はそういう奴だよな。もう少し悲壮感とか緊迫感はないのか?」
「無い。弄ぶ未来にわくわくが止まりませんね!」
「ああ、うん……とりあえず死なない程度に頑張れ」
「勿論! どっちかといえばイルフェナでの説教が怖い」
「よく判った! 納得した!」

 ルドルフだけでなく宰相様まで深く頷き納得している。そうか、同意するのかい。
 ……魔王様、貴方は一体外交で何をやってらっしゃるのですか?
 いえ、間違いなく報告後は説教ですけどね!?

「では、そろそろ行こうか。セシルにエマ……」
「……」
「……」
「……。二人とも? カエルと戯れるのは今度にしなさい」
「む? わかった」
「残念ですわ」

 タマちゃん他カエル達と戯れているのは実に微笑ましいのですが。
 君達、本っ当〜に危機感ねえな? やっぱり一年間ストレス溜まりまくってたのか!?
 キヴェラを出てから晴れ晴れとした表情なのは気の所為じゃなかったようです。
 追っ手と交戦する可能性を話しつつ武器を渡した際、妙に目が輝いていたので二人とも殺る気なのだろうか。

「随分と懐かれていますね。確かに彼女達はカエル達を嫌悪しないのですが」

 『八つ当たりとストレス解消を兼ねて交戦上等』という可能性を考えていた私に二人の様子を眺めていたセイルが微妙な表情で言う。
 ……うん、言いたい事は判る。誰もが口に出さないだけだよね。


 姫様方よ……君達、カエルを食料扱いしてなかった? 
 祖国に戻ってからの食糧事情は大丈夫ですか?

「お帰り、ミヅキ」

 転移方陣を抜けた先には笑みを湛えた魔王様。
 お迎えに来るなんて聞いてませんよ。いえ、城のすぐ近くなんですけどね?
 ル〜ド〜ル〜フ〜? 魔王様に直接連絡入れやがったな、何を言った!?

「じゃ、行こうか。とても心配だったから早く話が聞きたくてね」

 ……。
 なるほど、それほど心配させたわけですね。

 『さっさと行くぞ、この問題児。問題行動が多過ぎて生きた心地がしなかったと商人達から聞いている。やらかした事を洗い浚い吐け』(意訳)

 本音はこんな感じでしょうか、魔王様。
 笑顔が何だか怖いです。
 
「随分心配されているな。すまない、我々の為に」
「とても危険ですもの。本来ならば反対するのが当然ですわ」

 セシル、エマ。
 方向性は間違ってないけど、そんなに一般的な感覚の持ち主なら『魔王』なんて呼ばれない。

「ミヅキ?」
「……帰って来れたという実感が湧きまして」
「そう」

 色々な意味でな。
 ところで魔王様。小さな子にするみたく手を引くのは逃げないようにする為ですよね?
 ……。
 親猫様ぁぁぁっ! 少しはアホな子猫を見逃してくださいぃぃぃっ!
 品がよく、おりこうな血統書付きではなく本能で生きる雑種です。感情で生きる珍獣なんです!

「ああ、二人はレックバリ侯爵の所へ行ってあげてくれ。随分と心配していたから」

 フォロー要員まで遠ざけられたー!!
 せ……先生に期待しよう。あの人も今回は共犯だ。



 そんなわけで現在、騎士寮の食堂です。
 ここに居る人達は事情を知っているということだろう。白黒騎士は全員居るみたいですが。
 王族である魔王様が居るので仕事扱いです。サボリに非ず。

「で。随分と色々やったみたいだね?」
「えー、向こうが冗談みたいな状況でして。多分、王太子とその後宮に働く連中のみですが」
「ほう」

 うん、それ以外言えませんねー。誰だって信じないよ、あの後宮の実態。
 さすがに王太子が残念な奴だとは知っていたみたいだけど、予想の斜め上を行く事実に誰もが言葉も無い。
 ちなみに人数分コピーされた報告書が全員の手元にある。全部読んでも俄かには信じられないだろうな、あれは。
 ……ああ、やっぱり皆微妙な表情になっている。エリート騎士だもんね、君達。

「キヴェラ王は何をやっていたんだろうね」
「あ、国の上層部はまともっぽかったです。単にこれまでの伝統とか今後継承権争いが起こる事を想定して動けなかっただけかと」
「弟二人はまともな筈だけど」
「いえ、次の代だけじゃなくて今後。あと、王太子を『一途な王子様』に仕立て上げているから民からの反発も予想されます」
「なるほど。誰もが納得する廃嫡の決定打が無かったわけか」

 さすが王族、一応そこら辺に理解はあるらしい。
 尤もイルフェナではそんな真似が許されないので自害か廃嫡・幽閉させられそうだ。
 公爵家以上に王族の責任は重いだろう。

「よく神殿へ侵入できたね?」
「警備兵が居ませんでした。横領の証拠を見るかぎり警備費をケチってたみたいです」
「後宮へは……」
「侍女の案内で普通に抜け道から入れました。姫が与えられてた部屋って物置に見せかけた隠し通路の入り口だったみたいです。家具が殆ど無いのも入り口発見に繋がったと思います」
「じゃあ、冷遇の証拠入手はどうやった?」
「侍女服着て顔が正しく判別できなくなる魔道具装備したら普通に仕事に混じれました」
「民へは証拠映像を流しただけかい?」
「噂話に混じりつつ、王太子黒幕説を流して批難を王太子に向くように情報操作しましたが」
「……」

 イルフェナではありえない実態の数々に魔王様は頭を抱え沈黙した。
 『いや、ちょっと待って、それありえないから! つか、おかしくね!?』という感じでしょうか。 
 気持ちは判りますよー、魔王様。誰もが通る道ですからね、それ。イルフェナでやらかしてもキヴェラと同じ事態にはならないだろう。

「ミヅキ、貴女の事をキヴェラが問い合わせてきたのですが」
「ああ、それ。逃亡した姫を探して騎士達がうろついてたから『王太子妃の予算の横領の可能性』を教えてあげたの。上層部が王太子妃への異様な冷遇に気付かない可能性ってそれしかないでしょ」
「なるほど。一般人はそんな考えを持ちませんからね。で、目的は?」
「迂闊に指摘する私を『未熟な魔術師』と印象付ける為、問い合わせさせて確実に疑いの目を逸らす為、そして周囲の人達に『諸悪の根源は王太子』と認識させつつ噂を更に広める為かな」

 アルの質問にも淀み無く答えますよ。全部計算してやってましたからね!

「で、お前はそれを何処でやった?」
「人の多い酒場。情報収集してる人達が沢山居たからよく広まったと思うよ?」

 にやり、と笑ってクラウスの問いに答えるとアル共々苦笑した。どうやら『問い合わせ』が来た時点で何か派手な事をしたと思っていたらしい。
 ああ、ついでだからこれについて聞いておこう。

「クラウス。この『誓約』って解除したら術者にバレたりする?」

 ぴら、と差し出すのはセシルと王太子の婚姻の誓約書。セシルの名前は抜いたけど紙には未だ魔力が篭っている。
 クラウスは受け取ると暫し内容を確認し……何故か顔を顰めた。

「おい、これ変だぞ。姫の名前が無い」
「あ、セシルの名前は抜いちゃった。誓約に縛られちゃうんでしょ?」
「はぁ!?」

 さらっと言ったらクラウスだけではなく黒騎士全員が驚愕の表情になった。
 あれ? 何かマズイことでも?

「抜いた、だと……? どうやって?」
「え、転移の応用でサインを他の紙に移した。文字じゃなくインクと捉えれば可能でしょ?」
「……。普通は無理だ」
「え、そうなの!?」

 意外な事実判明です。悪戯の技術が黒騎士にもできないとな!?

「いいか、こういった魔術が掛けられている物は重要なものばかりだ」
「うん、それは聞いた」
「だからこそ『簡単に解けるようにはできていない』。いや、『解呪せずに無力化する術が無い』んだ。解けば術者には判るようになっている」

 おお! 言われてみれば確かに! あったら困るな、そりゃ。
 ぽん、と手を打って納得すればクラウスは深々と溜息を吐いた。
 でも手は誓約書をしっかり握っています。お前達の玩具じゃないからな、それ。

「私の世界だと不可能とは言い切れないから気付かなかった! それ、ゼブレストで悪戯の為に開発したんだよ」
「悪戯……」
「うん。偽物の手紙製作に使った。そっか、誓約そのものを解除するわけじゃないから『術はそのまま、名前が消えた人だけ誓約から免れる』って状態なんだ」

 随分と器用なことをやらかしていたみたいです。
 重要だったんだ……サイン消した、くらいにしか思わんかったぞ。

「ちなみに誓約のやり方って?」
「基本的には『行動の制限』の魔術に条件を組み込む。その段階で対象者の血を一滴認識させる。これで個人が特定される」

 DNA判定みたいなものだろうか。よく判らんが。
 でも確かにこれなら偽造は出来ないね。

「次にその魔術を紙に定着させる。これで誓約書の完成だ。後は認識させた人物に承諾のサインをさせればいい」蔵八宝
「紙に魔力があるんじゃなくて紙に魔術を定着させてたのか。それは承諾のサインがあって初めて完成?」
「ああ。二度手間だが確実に本人を特定する為には仕方ない。別人がサインすれば拒否されるからな」

 あれですか、婚姻拒否の家出でもされて本人が居ない時の替え玉阻止か。
 確かに誓約は『絶対に逃げられない状況のみ』使われるものみたいに聞いたけど。
 ここまでされると逃げられんよなぁ、普通。セシルが助けを求めたのも理解できるぞ。

「マジで呪いじゃん……解呪するしか破棄できないでしょ、それ」
「そういうことだ。おそらく宮廷魔術師が関わっているだろうから誓約は解けていないと思われているだろう」

 ほほう、良い事聞いた。つまりこのまま持っていれば誓約書が見付からなくても誓約の効果ありと思ってくれるわけか。
 つまり『一度は完成してるから術はそのまま続行・セシルは誓約から除外された状態』ってことですね。

 よっしゃ! あいつはコルベラに姫が現れるまで絶対に王太子のままだ!

 誓約がそのままな以上、有効な駒をキヴェラ上層部が手放すとは思えん。元凶という事も含めパシリに使われるぞ、絶対。
 寧ろそれしか使い道が無ぇ! 
 もうセシルに対して効果が無い事を知っているだけに大笑いな展開ですね……!

「お前が規格外だとは思っていたが、技術だけでなく発想も非常識だな」

 深々と溜息を吐くクラウスに黒騎士達は深く同意する。
 褒めてるのか貶してるのか判らないぞ、職人ども。
 ……だから誓約書を手放せ、懐に仕舞おうとするな、帰ってからなら幾らでも実演してやるから!

「しかし、妙ですね。国が揺らいでいるからといってキヴェラ王にしては動くのが遅過ぎます」
「追っ手のこと?」
「ええ。旅人全てを拘束する事はしないでしょうが、騒動の犯人を容易く逃すとは思えません。他国に要請も出ていないとは」
「砦を落とされた事実がバレることを警戒してるからだと思うよ?」
「……え?」

 難しい顔をしていたアルは一瞬呆けたような表情になり。

「うわ!?」

 即座に私を捕らえて自分の膝の上に確保した。隣に居たからって素早過ぎだぞ、アル。
 背凭れの無い簡易の椅子なので猫を抱き抱える如く、ひょいっといきました。
 一気に拘束モードです。……覚悟してたけどね、うん。

「ミヅキ、素直に答えてくださいね? 何が、あったのですって?」
「ゼブレスト国境付近の砦が数人の復讐者によって落ちた」
「……で。事実はどういったものでしょう?」

 信じてねぇな! 当たり前だけど。
 若干引き攣った笑みが怖いですよ、アル。
 何時の間にか魔王様や騎士達も無言でこちらをガン見してるし。

「えーと……先生との共同作戦で追っ手の質と数を落とす為に」
「落とす為に?」
「キヴェラへの復讐者を装って砦を無力化してみました。重傷者・死者共に無し、しかも今後他の砦を狙う事を仄めかしてあるから国の上層部が対応に追われていると思われます」

 ね、と傍に控えていた先生に視線を向ければ『うむ! よくやった!』とばかりに頷き親指を立てる。
 師弟の共同作戦ですよ。罠を追加するって事前に言ってたじゃないか。

「ちなみに通称・砦イベント。証拠映像を見た姫達にも大受けしました」
「砦……いべんと?」
「映像編集技術に感激される娯楽です。楽しく砦を無力化」

『娯楽って何!? 砦陥落は娯楽じゃねぇっ!!』

 絶句した皆(一部除く)の心の声がハモった気がします。でも私がやったのは『裏方』『演出』『役者』なので娯楽で間違ってません。それに砦の兵士の皆さんも役者さんですが、何か?
 まあ、見て貰った方が早いので冷遇の証拠映像から一通り流してみるか。

「では、キヴェラで起きたセレスティナ姫への冷遇の実態から砦イベントまでを御覧下さい。詳しくはお手元の解説書(パンフレット)に明記されています。質問は終了後にどうぞ」

 言葉と共に固まったアルの腕から脱け出し魔道具その他を準備する。
 この食堂、寮に生活するのが白黒騎士だけなのでちょっとした説明会にも使われるのだ。つまり大型スクリーンもどきがあったりする。
 若干透けていようが大画面って良いですね! 迫力が違いますよ!

 ……そんなわけで一通り妙なタイトル付きの証拠映像を見た皆様は。

 ある者は絶句し、ある者は頭を抱え、ある者は遠い目となり。
 さらに約一名は『でかした! それでこそ私の弟子だ!』と大絶賛。期待に応えられて何よりです、先生。
 気持ち的には大真面目に復讐者対策をしているだろうキヴェラの上層部を『あっさり引っ掛かってやがる! ざまあっ!』と嘲笑いたい心境ですね!

「……ゴードン? 君は知っていたのかい?」
「ええ。ミヅキも『罠を追加する』と言っていたではありませんか」
「だからって……だからってねぇ……! 止めなさい、幾ら何でも」
「死者も重傷者も居ませんよ、魔王様ー。目が覚めるまで一日放置されてただろうから風邪くらいひいてるかもしれませんが」
「兵士なのだからそんな軟弱者などいないだろう。気にせんでいいと思うぞ?」
「なら弄んだだけですね。問題無しです、先生」
「うむ!」
「いや、大有りでしょう!?」
「お前、出かける前に楽しそうに計画してたのはこれなのか!?」
「うん」
「「お前は一体何しに行ったんだよ!?」」

 煩いぞ、騎士s。絶句から復活したら即突っ込みかい。
 魔王様もいつもの天使の笑みを忘れて焦り・呆れ・脱力と大変忙しそうですね。
 やだなぁ、理由はちゃんと説明してあるじゃないですか……個人的な感情が多分に含まれてますが。
 それにしても今回は珍しいもの見たな。後でルドルフに教えてやろうっと。

「あの手紙が来た時点で諌めておくべきでしたね」
「諌めたくらいで聞くのか、こいつが」
「少なくとも我々の心境的にまだ救いはあったかと」
「ああ、自分に対する言い訳か」

 アルやクラウスも諦めモードで話している。
 二人とも、過去は変わらないんだぞ? 少しは前向きにだなぁ……

「その原因の君が言うんじゃないっ!」
「痛っ!?」

 ぺしっ! と魔王様に問答無用で頭を叩かれ威圧と共にお説教が開始され。
 妙に怖い笑みのアルに逃亡阻止の意味で膝の上に固定され。
 クラウスに呆れと諦めと技術に対する期待の篭った視線を向けられ。
 騎士sや白黒騎士達が頭を抱えていようとも。



 私は反省なんて全然、全く、これっぽっちもしていなかった。
 目指せ、キヴェラの災厄! 歴史に残る魔導師!VIVID
 偉大なる魔導師の先輩方、私は遣り遂げてみせますよ!



 ――一方その頃、レックバリ侯爵邸では――

「……」
「……」
「いや、物凄く見事だったのですよ。ミヅキの手腕は」
「あれほど簡単に脱出できるとは思ってもみませんでしたわね」

 騎士寮で繰り広げられる阿鼻叫喚の地獄絵図――心理的なもので体に被害は無いのだがダメージがでかい――の縮小版ともいうべきことが起きていた。
 取り乱していないように見えるのは映像を見ている二人が侯爵と長年付き従った執事という年齢的に枯れた二人だからである。
 単に若さが無いだけだ。

「な……何と大胆な……」
「これは……その、予想外といいますか、予想以上と申しますか……」

 ある程度の事には表情に出す事なく受け流せる二人が絶句。
 姫の冷遇やキヴェラの騒動もそれなりに唖然としたが、まさか逃亡の為と個人的な感情から砦を落とすなど誰が予想するだろう。
 発想からして普通ではないと知っていても物には限度というものがある。しかも娯楽扱い。
 解説書を見る限りその理由というか考えの深さが知れるが、何故ここまで凝るのだろうか。
 普通に考えて『娯楽が本命』と言われても仕方あるまい。現に姫達は物凄く楽しげだ。

「姫……随分と楽しそうですな」

 呆れと疲れを滲ませつつレックバリ侯爵が言葉をかければ、侍女と顔を見合わせ楽しげに笑う。

「この一年、王族の勤めと割り切っても自分で思っていた以上に辛かったようだ。今だからこそ思うことだが」
「私達は報復などするわけには参りません。ですから、ミヅキの起こす騒動は胸がすく思いなのです。こう言っては何ですが、彼女が我等の為に怒ってくれた事がとても嬉しいのですわ」
「そう、か」
「ああ。個人的な目的の為だけならあれほど派手な事はしないだろう。今こうして笑っていられるのもミヅキのお陰だ」

 王族の姫があのような冷遇をされ続けるなど屈辱以外の何者でも無い。それはそのままコルベラという国への見下しに繋がるからだ。
 気楽に暮らしていたと言っても怒りは募っていたのだろう。そう侯爵と執事は結論付け、改めて二人の境遇を痛ましく思った。
 そのまま国へ戻ればそれらの感情は国へ伝染しただろう。滅亡覚悟でキヴェラに一矢報いようとするほどコルベラという国は民と王族の距離が近いのだ。
 姫の婚姻も最終的には納得したが、姫本人が説得したに違いないと思っている。
 だが、と侯爵は楽しげな二人を見てその予想を否定する。
 今の二人を見る限りその心配は無いだろう。逃亡生活とはいえ『楽しい』という感情は事実、しかも既に十分な報復は成されているのだ。

「そういえば……ミヅキ様は『この世界で傍に居てくれる人以上に大切なものなんてない』と仰っていましたね。もしや姫様方やコルベラの民の反応を見越してくださったのでしょうか」
「確かにその可能性はあるの。やっている事は随分と派手だが、それら全てに納得のできる理由がある。現にキヴェラも未だ身動きが取れぬようじゃからな」
「『ゼブレストの血塗れ姫』と呼ばれるのも親友であるルドルフ王の策に協力なさった故。あの方は友の為ならば御自分の評価など気になさらないのでしょう」

 しみじみと頷き合う侯爵と執事にセシルとエマは首を傾げる。

「『血塗れ姫』? ミヅキが、か?」
「正直、想像つきませんね。確か砦の兵士も死者や重傷者はいなかった筈ですが」
「うむ……少々意味が異なるのじゃよ。殺戮を好むのではなく『己が策の果てにどれほど処罰される者がいようとも容赦せぬ』という方針でな」
「ゼブレストでの粛清騒動に関わっているのです。かなりの数の家が粛清対象になりましたから」
「恐らく今回は王太子だけでなく国に責任を取らせるつもりなのじゃろう。殺すだけなら王都で魔法を連発すれば済むからの。その実力もあるじゃろう、あの娘には」

 なるほどと納得する二人にミヅキに対する嫌悪や恐怖は感じられない。それだけ立場というものを理解しているのだろう。
 尤も今回は『責任を取らせる』という対象が国である以上、キヴェラにとっては少なくない被害が出るのだが。
 溜息一つで言葉を飲み込みレックバリ侯爵はひっそりと目を伏せる。

「二人とも。……ミヅキの良き友であれ。それが唯一にして何よりの礼となろう」

 ――あれでは敵も多かろう。護り手は多い方がいい――

 本音を胸の内で呟く侯爵に二人は躊躇わず頷く。

「勿論ですわ。私達もそう望むのですから」
「小国といえども王族だ。ルドルフ王やエルシュオン殿下ほどの力はなくとも国が関わらぬ限り味方でいよう」

 そう淀み無く口にする二人に侯爵は笑みを浮かべると、執事に合図を送りやや冷めた茶を新しいものと取り替えさせた。

「そうか。……さて、久しぶりに茶を楽しもうではないか」
 
 漂う香りはかつて侯爵の友が好んだもの。茶葉はこの一時がこれからの逃亡生活の慰めとなってくれればいいと用意されたものだ。
 目の前の姫が尊敬を向ける先代コルベラ王もこういった時間を好んでいたと思い出し、侯爵は暫し過ぎし日に想いを馳せる。

「そういえば、まだ言っていなかったな。お久しぶりです、『もう一人の御爺様』」
「御無沙汰しておりますわ、『先生』」

(この笑顔を守ってやれたのなら、あの娘のやる事全てを支持してやろう。親猫達が煩そうじゃがな)

 そんな決意は誰にも悟られる事無く。おそらくは説教をされているだろうミヅキを思い、レックバリ侯爵は笑みを深めた。強力催眠謎幻水

2013年1月14日星期一

出会い

今日も雨が降る。
今はそうした季節なのだから仕方がない。
それを言われてしまえばそれまでなのだが、外を散策するのが好きなルイーザにとって、雨の日は退屈で憂鬱な一日となる。MaxMan
屋敷を取り囲むようにある常緑樹の森を、広く一望できる窓辺に座って、ついついぼんやりとしてしまう。
少々の雨などルイーザは気にしないのだが、出掛けると晴れの日の数倍は周りが煩くなるのだ。それが煩わしく、ルイーザは雨の日は大人しく部屋に篭もっていた。
「……あら? 何かしら?」
不意に、雨に霞む緑の景色が一瞬崩れた。
横合いから、何かの力を加えられて空間が歪められたのだ。そして、そのまま左右にゆらゆらと、空間は異常な動きを示し始めた。
風?
いや。そんな動きではない。自然に起こりえる動き方ではなかった。
しかし、ルイーザは恐れることなく、異常現象の起こっている正面を見据え続けた。伊達に日々、人外のモノ達と会話を交わしている訳ではない。恐怖よりも好奇心が先に立っていた。
空間の異常な動きはすぐに収まった。
だが、通常の空間に戻ったそこには、それまでは存在しなかった黒い物体が現れていた。その物体は、見る間に存在感を増した。人為らざるモノが人型を取っているのだと分かる。
ルイーザの目の前で、ついに人型となった真紅の瞳を持つ人外の青年が、ベランダの手摺に腰掛け、軽く辺りを見回した。
ルイーザは、人型を取った人為らざるモノを見たのは、これが初めてだった。
ますますじっくりと見つめてしまう。
今更、目の前の 『彼』 が 『自分は人間だ』 と名乗っても、ルイーザは絶対に信じない。
「……人間界とは、こんなに明るいのか……鏡で視るだけでは分からなかったな」
「明るい?」
青年の発した第一声は、まったく思いも寄らないものだった。妙に人間味がある、穏やかで心地良い声音だったが、その内容には首を傾げてしまう。
この場が明るい筈がないのだ。
今は雨が降っていて、どんよりとした雨雲が空を覆い、普段よりかなり暗いのだから。
「ああ。我が世界より明るい。少し目が痛いな……」
冗談を言っているようには見えなかった。青年は二、三度ぱちぱちと眼をしばたいて、手で軽く光を遮るかのように日陰を作ったのだ。陽など照ってもいないのに。
「余程、暗い所から来たのですね」
「……いや、そんなに暗くはない。人間界が異常に明るいだけだ。ヴェルリーテの生活に不自由はない。……それより君は、私に驚かないのだな。突然現れたというのに、私の事が恐くないのか?」
「恐くないですよ。何かの精霊なのでしょう? あなたのように、完璧な人型を取れる精霊は初めて見ましたが、怖くはありませんよ。あなたには恐ろしい物を感じませんから」
ヴェルリーテ、とは精霊世界の名なのだろうか。綺麗な響きだと思いながらルイーザは微笑んだ。
「やはり、精霊が見えるのだな。凄い人間だなルイーザは」
「どうして私の名前……あ、も、もしかして私を迎えに来て下さったのですか?」
感心した様子で名乗った覚えのない己の名を呼ばれるのに、ルイーザは望みが叶うのかと、目を輝かせた。
「え?」
「母の言葉なのです。それに精霊達も。……誰かが私を生かすために迎えに来てくれると。……あなたがその迎えの方なのですか?」
不思議そうにこちらを見ている人外の青年に、ルイーザは期待を込めて問いかけた。
どんな存在か知りもしないのに、彼なら良いなと自然と思ってしまっていた。
「???」
「……違うのですか。そうですよね。そんなおとぎ話のような、都合の良い事がある訳ないですよね。……あなたは、私がこれまで見てきた存在の中で、一番立派で力が強そうだったから、つい期待してしまいました……」
はっきりしない青年の態度に、青年に非は無いと分かっていても、ルイーザはがっかりした。
「ずいぶん残念そうだが……では、連れて行くと言ったら、ルイーザはどこなりと私に付いてくるのか? 私が誰かも知らないというのに、この手を取って構わないのか?」
「連れて行って下さるのですかっ!」中絶薬
肩を落として諦めていた所に声が掛かり、ルイーザは勢い良く顔を上げて、青年を見つめた。
母の言っていた迎えが、目の前の青年だったら良い。
ルイーザは、突然訪れた青年に、恐怖を感じるどころか、激しく心惹かれていた。
「君が、本当に後悔しないなら……」
にっこりと微笑みが返る。
その柔らかく優しげな笑みに、ルイーザはぽうっと見惚れた。

ルイーザの消沈した姿を見ていたくなくて、ニールは勢いに任せて口にしてしまっていた。
ゆっくりと時間を掛けて観察してから決めるつもりだったのだが、ニールの言葉に一喜一憂するルイーザは事の他可愛らしくて、本人が望むなら己の世界に連れて行こうと気持ちは固まった。
彼女なら、運命の相手として妃に迎えても良い。
その姿に、不思議と初めて恋をしたアイリス以上に惹かれる物を感じ、もう恋はしないだろうと思っていただけに、こんな事もあるのだなと我が事ながら驚いていた。
しかし、これは性急に決めて良い事ではない。
ニールはもう一度訊いて考えさせる事にした。
「ルイーザが……心からこの世界に未練が無いのなら、私の世界に連れて行くよ」
「ありません! 母が亡くなったから、本当にないのです!」
すぐさま返った、躊躇いのない言葉に、ニールの心は踊った。
「そうかい? でも、もう少し考えると良い。私は、一度私の世界にルイーザを連れて行ったら、どんなにルイーザが嫌がっても、二度とこの世界には戻さない。……永遠に私の傍で暮らしてもらうよ。それでも良いかい?」
絶対に自分の傍から離さない。
ニールは、ルイーザに本心を告げる。嘘は吐きたくなかった。
「…………」
二度と戻れない。やはりその言葉が引っ掛かったのだろう。ルイーザが息を呑む。その様子に、ニールは微笑んだ。
「考えが纏まったら呼ぶと良い。ゆっくり考えるので、構わない。私は、いつまででも君を待っているから」
無言になってしまったルイーザに、ニールは柔らかく告げる。
ニールに待つのを厭う気持ちはない。ルイーザがたとえ老女になって死んでも構わないのだ。
ルイーザが人間界で死んでも、その魂を手に入れて、ヴェルリーテの住民として誕生させれば良いだけの話なのだ。
特殊な術だが、ニールはこの術を操る事ができる。
「呼ぶ……とは?」
「私の名を呼べば良い。それだけですぐに私の元まで届く」
「名前?」
きょとんと首を傾げたルイーザに、ニールはそうだったと気付く。
「すまない。まだ名乗ってなかったな。私の名前は、ニール・グランディスという」
ニールの方はルイーザの名は 『鏡』 で覗いた時に情報として頭に入っていたが、自分の名を名乗る事は失念していた。
「ニール様ですね」
「様、は要らない」
「……ですが、高貴な精霊のように感じるので……呼び捨て、と言うのは申し訳なく思います」
困り顔をして眉を下げるのに、首を横に振った。
「私は精霊ではないし、ルイーザに畏まられる方が嫌だ。様、を付けるなら絶対に連れて行かない、と言ったらどうする?」
意地悪く笑って見せると、ルイーザは慌てた様子で頷いた。
「ニール! ニールですね。そう呼ばせて頂きます!」RU486
琥珀の瞳が必死でこちらを見ているのが可愛くて、頬が緩んで仕方がなかった。
「良い子だ。……それにしても、ヴェルリーテの言語と人間界の言語にあまり差がなくて良かった。会話が楽に出来るのは良いことだ」
「はい。ニールが何者でも、言葉に不自由が無いのは良い事ですね」
「ああ。良い事だ。……誰か来たようだから、今日の所はこれで帰るとする」
扉の外に感じる気分の悪くなる気配に、ニールはちらりと視線を流した。
同時に、扉が叩かれる。
甲高い女の声がルイーザを呼んだ。
耳障りな声に、ニールは顔を顰めた。
「鏡で見たとおり、ずいぶんな所に暮らしているようだな」
ルイーザの傍に寄り、優しくその頭を撫でた。
「ニール?」
「何かあれば、遠慮せずに私を呼ぶと良い。我慢は駄目だ。こんな所で我慢など続ければ、ルイーザの心が壊れるからな」
「心が壊れるなんて……そんな、大げさな……」
ニールが頭を撫でるのに、嫌がる素振りなく心地良さそうに笑いながらも、言葉は否定するルイーザにニールは首を振った。
「大げさではない。この家に関係している人間は、ルイーザをそうする」
「…………」
「すまない。怖がらせる為に言ったのではないんだ。何も怖がらなくて良い。ルイーザが呼べばすぐに私はここに来る。何があろうと助ける。怖い事など何も無い」
不安げに瞳を揺らせているルイーザの肩に手を置いて、ニールは優しく優しく心を込めて微笑みかけた。
「ニールは、とても優しいのですね。ありがとうございます」
「私は君には誰よりも優しくする。そう決めたのだ」
微笑みに、信頼の笑みを返してくれた艶やかな桜色の唇に、ニールはそっと己の唇で触れて、偽りの無い気持ちを囁きかけた。
「に、ニールっ!」
突然の行いに、首まで真っ赤になって口元を押さえて狼狽えるルイーザに、ニールは悪びれずに笑った。
「すまないな。どうしても触れてみたくてね。私の大事な運命さんに……」
「運命?」
「そうだ。ルイーザは私の運命の相手だ。私達が結ばれて幸せになる事は、すでに決まっている事なんだ。だから、二人で必ず幸せになろう。……それでは、気軽に呼ぶのだよ」
目を見張って首を傾げるルイーザに、もう一度にっこりと微笑みかけてから、ニールは一瞬でその場より姿を消した。
呆然と佇むルイーザを残して。巨人倍増枸杞カプセル

2013年1月9日星期三

クズノハは羊にあらず

「良かった、神殿は金ピカとかじゃないんだな」
 女神の印象は光り輝く部屋と傲慢、それに尽きる。これまで寄り付きもしなかった神殿の区画に到着して程なく、僕は見えてきた目的の建物が大きな建築物としての威容はあっても純金製だとかではなかった事に安心する。もしそんなのだったらすぐにでも立ち去りたい所だよ。
「ライドウ様? どうかなさいましたか?」強力催眠謎幻水
 識が、立ち止まって神殿を見上げている僕を案じて振り返る。
「いや女神を奉る神殿にしては普通? いや荘厳な見栄えかな、と」
「女神と言葉を交わしたライドウ様ですと、神の個性と結び付けてお考えになるんですね。私など大きさこそ違えど、どれも同じような物に見えます」
 確かに。神社や仏閣を神様のイメージと合わせて考えた事は僕も無いな。ついでに建築様式を気にした事も無い。
 そうか、神様に実際に接触したからこその感想なのか。途中で横目に見てきた精霊を祭る神殿(と言っていいのか、別の呼び方があるかはわからないけど)はどれも同じような物に見えたし特に感慨も無かった。
「個性かあ。女神は確か唯一の神であり気高く清廉、そして全てのヒューマンを寵愛する純潔の母、だったっけ?」
「概ねそのような解釈で間違いございません。他にも勇敢な軍神、学芸の守護神など。万能と信じられておりますので賛辞であればどれも当てはまるかと」
 嘘みたいな言葉だけど……図書館で調べた女神の神としての性格と言うか、特性と言うか調べた時も本当に識の言ったような感じだった。そして軍神とか、厳しい側面が紹介される時は大体亜人やら魔物やらが酷い目に会う。
 ここまでやるかと呆れる程に万能な神様像。完全な偶像なら許されるんだろう、でも実在して何かすれば間違いなく矛盾が出るレベルだ。
 僕の中では既に完全に矛盾している。僕にとっては黒いアレと言われた方が、イメージはいっそ近い。
 
「万能な唯一神様の神殿と考えれば、うん確かに厳かな気持ちにならなくもない。さて人も増えて来たし筆談に戻すかな」
「立ち止まって眺めていても不審に思われるでしょうし、中に入りましょうか」
 識の先導に従って神殿内部に入る。ひんやりとした空気が顔を撫でていく。空調を行なっているのか、よくやるなあ。まだ残暑、暑い日が続く事もある。それでもこの世界で空調なんて魔法でやるしかない。魔法を使う、つまりは人力だ。入り口開けっ放しの空間でも範囲指定だけで便利に温度を操作できる反面、ある程度の人員が必要になるし度数単位で設定できるでもない。あくまで術者やそこで過ごす人の感覚頼りになる。我が家では男は父さんと僕だけ、対して女は三人。リビングは夏でもそんなに涼しく感じなかった記憶がある。女性の方が寒がりなのかと、何となく感じた事を思い出す。
 科学のエアコンが魔法の人力エアコンになった所で、発言力の強い人間に左右される温度難民はいなくならないんだなとしみじみ思う。個人で常時周囲を空調するとなると結構な実力と労力が求められる。仕事と並行してはやれないだろうしな。
「準司祭のシナイ殿と約束しておりますクズノハ商会の識と主のライドウです」
 識が寄ってきた神殿勤めの女性に来た理由を伝えている。彼女は白い服を着ていた。でも神殿で着る事が決まっている制服はこれだけじゃないみたいだ。ちらちら見ているだけでも白は統一されているけど意匠は結構パターンがある。意外だ。男性と女性で違う位で後は同じなのかと思っていた。長袖、足首までを覆うような露出の少ない服装を想像していたけど、それも人によって異なる。色以外の規則は無いのかな。
「シナイ様と……はい、伺っております。どうぞこちらへ」
 わかるようにしておく。その言葉に嘘は無かったみたいだ。学生のアルバイト巫女さんでも見ているような年齢に思える若い女性がそのまま案内してくれるらしく、僕らの歩く速度を見ながら先を歩いてくれる。外から見ても大きかったけど、やはり中も相当な広さがあるようだ。だと言うのに、内部全体に独特な香りが漂っている。これは多分魔法じゃない。大量の香料が撒かれているんだろう。学園でもサロンみたいな所だと香料を使っているから馴染みはある。少し範囲の桁が違うようだけどね。
 歩くうちに大勢の白い人達とすれ違う。見るたびに違う服装を目にするような。まさか全部違うとか、そんな事はないよな?
 識を手で招き寄せて小さく耳打ちする。前を歩く人と筆談とか面倒だからな。識は僕から言われた内容を彼女に尋ねてくれるようだ。
「失礼。こちらにお勤めの方は皆衣服に拘っておいでなのですね。皆さん非常に凝った意匠の服を着こなしておられて驚きました」
「あら、そうですか? あ、クズノハ商会様は確か、ツィーゲから学園都市に出てこられたんでしたね。それでしたら驚かれるかもしれません。この地では礼装や正装以外の常時着用する服については色以外の指定は無く皆思い思いの意匠を施しています。皆決まった服装でお仕えするよりも、各々に似合った服装でご奉仕した方が良いだろうと言う考えなのです」
 何だかなあ。同じ制服だと素材の差が引き立つのは確かだけど、ここの人らはそんな事気にするレベルじゃないだろうし。それに皆バラバラってのは違和感があるな。それに似合った服でご奉仕とか、他意は無いんだろうけど何かヤダ。聞いたのは僕だけどさ。識に小さく頷いて合図する。意図を察してくれた識はその後も何気ない世間話を繋げながら会話を終わりにしてくれる。
 ん、目的の場所は地下か。地下フロアなんてあるんだな。どうも店の地下施設を想像する所為もあって良いイメージは無い。
 香りの種類も変わった。最初の時に疑ったけど、特に悪い作用のある香料でも無さそう。フロアや部屋である程度の種類があるのかもしれないな。
「こちらで準司祭はお待ちです。それでは私はこれで失礼します」
「ありがとうございます」
[ありがとうございます]
 僕と識に待つように言うと、左手先に見える比較的大きな扉の前で彼女は何事か小声で呟く。短いやりとりがあって扉が開き、彼女が戻ってきた。そしてシナイさんがそこにいる事を伝えてくれると頭を下げて通り過ぎていった。客人に対してだからだろうと思うけど、終始にこやかで好感の持てる子だった。ここまでの道中でも、内部の人から妙な視線は感じなかった。良く訓練されていると言うべきか。これまでで一番キツイ視線が向けられるのを覚悟していただけに少し拍子抜けでもある。
「クズノハ商会の者です。失礼致します」
「入りなさい」
 僕は無言で識の後に続く。一通りの挨拶の後で僕も続けば良いだろう。話せないしね。
 中にいるのは、シナイさんと、他にも二、三……五人ほどいる。広さは八畳、もう少しあるかな。地下だから余計にそう感じるのか薄暗い室内だ。
「良く来てくれたライドウ殿。そちらが錬金術師かな、名は識殿で良かったか」
[はい、シナイ様。彼は私が一番頼りにしている従業員で側近の一人、識です。今回おねが]
「今日は神殿への技術公開を申し出てくれて感謝している。君達への感謝を少しでも示したくてな。上司に報告した所、一言お言葉を下さると言う事になった。まだこちらに来られて間が無いが当地の信仰を纏める司教様が直々にこの場に見えている」
 司教。ああ、暗殺された奴の後釜か。シナイさんが立っている場所から考えると他の四人は下っ端みたいなんだよな。となるとあれがそうか。髪が長い。顔は何やら頭に乗っけたフードのような物で隠れているけど、女の人? そうか、女神を信仰しているんだから偉い人に女性がいても不思議じゃない。スタイルを伺おうにも随分と余裕のある、ダブついた露出の少ない服装をしているから本当は長髪の男性なのかもしれない。喋れば見当もつくかな。
 それにシナイさんが人の言葉を遮ったのも気になる。まさか僕が自発的に申し出たって報告しているのか? うちに来たのも誰かの指示っぽかったけど……。
[身に余る光栄であります]
 正しい所作かはわからなかったけど膝を突いて頭を下げる。識もそれに倣う。だけど識の場合、僕がそうしたから同じ動作をしただけかもしれない。後でどう振舞うべきだったか確認しておこう。
「まだ小さな店でありながら非凡な薬を扱っていると聞きます。そしてその幾つかを明らかにしてくれるとのこと。その信仰に感謝します。神殿は貴方の店への妄言を打ち払うと約束しましょう」
 ハスキーボイス、しかも艶のある大人の女性の声。煙草やお酒を嗜むイメージを抱いた。心地よく体に響く。司教は女性か。
[ご配慮感謝します]
「聞けば言葉を呪病に奪われたとか。そちらも我々が尽力して解決策を講じましょう。どこまで力になれるかわかりませんから、安心なさいとは申せませんが」
 頼んでもいないのに、随分と親切な。言葉通りに受け取って良いものか、悩む所だな。
「司教様、お時間が」印度神油
「ん、そうですか。それではライドウ、またお会いしましょう。後はシナイ、任せましたよ」
「わかりました。貴重なお時間を割いて頂きありがとうございます」
 黙していた四人の内一人がそっと司教さんに近付いて言葉を放つ。まあ、忙しいんだろうな。
 僕に一言掛けると司教は出て行った。シナイさんは九十度近く頭を下げている。しまった頭下げ忘れた。
「感心しないなライドウ殿。司教様には最大の敬意を払わなければならない。まだ着任されて間が無いとは言え、それでかの方への無礼が許されるのでも無い」
[田舎者でして。無作法をお詫びします]
「……。まあ、良い。それで今日は君の店の薬の製法を示してもらう訳だが、用意は当然してきているね」
[勿論です]
 識が僕の言葉を聞いて前に出る。彼は今日製薬に使う材料、それに道具を一式持ってきている。大きな道具を扱う製法では無いから出来た事だ。
「なるほど、そちらの術師殿が全て用意済みか。それなら話は早い。正直私には製薬知識は無い。ライドウ殿にはこちらで幾つか話をさせてもらいたい。なに、世間話のようなものだよ」
 おっと。これは少し予想外だったな。てっきり僕も解説の手伝いでもするものなのかと。
[わかりました。私などでよろしければ]
「ではこちらの椅子を使ってくれ。術師殿はそちらの者たちと、そこに用意した机で製薬を解説付きで見せてやって欲しい」
「承りました。それでは皆様こちらへどうぞ」
 識が幾つかの製薬道具が置かれた大きな机に近付いて、その上に荷物を広げた。用意してきた薬の材料を一つ一つ説明していく所から丁寧にやるようだ。あの分なら、製薬終了まで一時間かかるかどうかといった所かな。
 製薬に入った従者の様子を横目で確認して僕もシナイさんの向かいに座る。間にある小さな丸机には何も乗っていない。お茶くらい出してくれてもいいのに。僕は一応善意の協力者なんだけど?
「さて、ライドウ殿。こうして落ち着いて話すのは初めてになるな。私は前も名乗ったが準司祭のシナイだ。よろしく頼む」
[商人ギルド所属、クズノハ商会のライドウです。神殿の方と知り合えて嬉しいです。以後お見知り置き頂けましたらお力になれる事もあろうかと思っております]
「ふふふ、どこまで本心か。だが商人と神の僕(しもべ)、間柄を考えれば初対面などこんなものだな。まだ随分とお若いようだが商売を始めてからはどれ程になる?」
[まだ三年経ちません。駆け出しの新米ですね]
 嘘は言ってない。三日だろうと二年だろうと三年経ってないんだしね。
「それでもう既に二つの街に店を持つか。相当な強運か、それともどこか大きな後ろ盾があるのかな?」
[後ろ盾ではありませんが、ツィーゲのレンブラント商会には良くして頂いております]
「レンブラント……。ほお、あの」
 シナイさんは何か考え込む様にレンブラントの名を呟く。知り合いでは無さそうだけど、何かしらの事前情報は得ているのかも。
[お知り会いですか? 彼は伝手の無かった私に軒先を貸してくれたばかりか、商売のイロハも教えてくれた恩人なのですよ]
「彼がか。どうも、我々の知るレンブラント氏の印象とは少し異なるようだな。彼がもう少し協力的であればかの地での布教も、また先に広がる荒野への展望も拓けるんだがね」
 そういう事か。レンブラントさんは奥さんと娘さんの一件以来、殆ど神殿にも行っていないようだからな。
 恐らく最初は女神を頼ったんだろうが、駄目だったんだ。それで自力で解決しようとして、僕と会った時には諦めかけていた。あの一件の前と同じ信仰を彼に求めるのは無茶だろう。だって実際に彼を救ったのは彼自身がギルドに出した依頼が切っ掛けなんだから。
[私は荒野の出身で、神殿の教えやレンブラント氏と神殿の関係までは考えが及びませんが。少なくとも私には彼は誠実に対応してくれました。今でも氏には感謝の念が絶えません]
「立場が違えばそういうものなのかもな。しかし、良くわかった。レンブラント氏のご息女二人が学園で君に厄介になっているのはそんな背景もあってか」
 あれ、何か色々調査されている? 学園で臨時講師をしている事は把握されているのか。それに講義を受けている生徒も。
 荒野の出身だと言う事も多分知っているんだろうな。そうでなければ、もう少し反応もありそうなものだし。
[はい、氏からはそれとなく娘の事を気に掛けてやって欲しいと頼まれています]
 下手に追求しなくてもこの人は多分自分から話すだろう。そう考えて娘に講義をしている事にだけ触れる。
「娘想いな父親か。少し彼への印象も改めるべきだな。部下から報告される言葉だけだとレンブラント氏は信仰心の薄い守銭奴のようにしか思えなかった。全く、怠けず様々な立場の者から話を聞かねば多くの誤解を生む、良い例になってしまったな」
 反省しなければ、と頭をかくシナイさん。所々高慢さも見えるけど、根は純粋なのかもな。何となくエリートっぽさを感じる。エヴァさんの言葉にもあったけど、学園都市の神殿関係者はそれなりの出世街道を進んでいるらしいから遠からず、かな。
 その後も何かと根堀り葉掘り聞かれながら、識が二度製薬を実演して仕事を終えるまで、僕はライドウの経歴を彼に説明していくのだった。


◇◆◇◆◇◆◇◆


 真と識が帰った後。
 製薬器材を片付ける二人をよそに、残る二人とシナイは隣の部屋に入った。
 先ほど「お時間が」と司教を促した女性が扉を閉める。室内には司教その人と数人のヒューマンが着席して彼らを待っていた。
「帰ったの?」
 司教が口を開く。真に話した時と同じ色気のある掠れた声。
「先程神殿を出ました。一応、足取りを確認させています」
「そう。無駄な事をしたわね」
「?」
「無駄だと言ったの。貴方はクズノハ商会を利用する心算でいるのかもしれないけど、もしかしたらとんでもない相手かもしれない。今後は慎重に、私に了承を取ってから動きなさい」
「……どういう事でしょうか? 聞き取りの様子も特に問題無い物だったと思いますが」
 シナイは司教の難しい表情に困惑する。彼にしてみれば、今日の話の内容も彼らの態度も好意的に見えた。友好的な協力者になり得ると考えていた。
「教えてあげて」
 一つ溜息をついて赤い髪の司教は気だるそうに肘を突くと、短く呟いた。司教の名に似合わない仕草。真と対した時と同じ声色ながら、その振る舞いはまるで違った。
 司教の言葉に促されて控えていた一人が口を開く。
「彼らの思考と魔力、それに干渉する存在がいないか詳細に調べました。識と言う従業員については多少の事がわかりました。しかし主のライドウについてはまるでわかりませんでした」
「どういう事です? 思考窃視と魔力調査が失敗したのですか?」
「……。まず識ですが、少なくとも宮廷筆頭クラスの魔術師数人を超える魔力量を確認しました。思考は対策されていたのか読めません。ライドウについては思考どころか魔力自体を計測出来ませんでした」
 何も分からなかったに近い報告だった。シナイはそんな馬鹿なと狼狽する。望めばどこの国でも重用される力量を持つ魔術師が、吹けば飛ぶような規模の店で子供に仕えて従業員をしているなど、誰が想像するのかと叫びたく気持ちを彼は抱く。
 それに神殿が誇る思考窃視が通用しないばかりか魔力を測れないなど、悪夢にしか思えない言葉だ。
「馬鹿な、まさかライドウは識をも超える程の魔力を持っているとでも……」
「どうかしらね。普通に考えるなら、頼られていて側近だと言うならライドウは識よりも弱いかもしれない。でも裏をかいてライドウが強い可能性もある。少なくとも識については学園で臨時講師をしているライドウの側近で桁外れの魔術師って事ね。それと彼の魔力だけどね、まるでわからないのよ。測りきれないんじゃないの。彼の周りだけまるで塗り潰したみたいに全く魔力を感じないんだそうよ」
 司教の言葉に調査を担当した係が重く頷いた。シナイは信じられない事の連続に混乱する。
「つまり魔力と思考を隠蔽していた訳ですか」
「そういう事になるわね。そんな仕業を何気なくする連中、下働きの者に尾行できる訳ないでしょう? だから無駄だって言ったの。製薬についても怪しいものね。一体どうなったのか、報告をくれる?」
 シナイの頭越しに司教の言葉が製薬風景を一から十まで見ていた二人に掛けられる。
「……はっきり申しまして、素晴らしい製法でした。手順は整然としていて説明も明朗、使う材料も手に入らぬような物はございません」
「へぇ。それは意外。では貴方たちにも作れるのね?」
「恐らくは。識殿は製法に一切の隠蔽なく全てを明らかにしてくれたと思います。しかし」
 言い難そうにしかしと言葉を繋ぐ男。司教は促すでもなく彼の口が開かれるのを待った。
「値段につきましてはクズノハ商会を大きく上回る事になるかと思われます」
「……成功率?」
「それもございます。クズノハ商会では失敗は殆ど無いそうなのですが、我々の技量では五割までが精々かと思われます。彼らは荒野で得られる材料を二種用いておりますがそれもこの近場で代用できる物を教えて頂き、実際に製薬も行なってもらいました。鑑定の結果、事前に手に入れて置いた薬と相違無い物が出来ていて嘘もありませんでした」田七人参
「親切な事ねえ。で? それもって事は他にも理由があるのね。言いなさい」
「原価でございます」
「原価? 材料費の事?」
「それに更に成功率を高める為の実力ある術師を雇う人件費もですが、今回の場合その部分はあまり問題ではありません。識殿から持ち込まれた材料を流通している市場などで仕入れるとそれだけでクズノハ商会の薬の値段を凄まじく大きく超えてしまいます。荒野から取り寄せるにしても、代用として紹介して頂いた二種の薬草を取り寄せるにしても間に冒険者への依頼が間違いなくなされる事になり危険手当も原料費に入ってしまい、原材料を揃えるだけで既にクズノハ商会で売られている薬の完成品が数十個手に入る値段になってしまいます。神殿で作って各地で売り出すのならば値段は百倍にでもしなければ利益は出ません。もし今後彼らが地方に店舗を広げた場合、神殿への信用に悪影響を与える恐れさえあるかもしれません」
「百倍、だと? 馬鹿な、実際にクズノハ商会ではその値で売られているのだろう?」
「彼らは全ての材料を自分達で採取調達していて市場を通さずに入手しています。流通には自信があると申しておりましたし、信じられない事ですが、商品として扱っている以上、あの値で利益を出しているのでしょう」
「ありえない……」
 シナイが会話に割って入る。それでは他の高価な薬と対して変わらない。いくら効果があろうと、驚く者がいない値段になってしまう。
「やっぱりね。つまりライドウは無垢な子供を装ったナニカ、と見て間違い無いわ。気軽に利用している内に喉元には冷たい輝きが、なんて事になるかもしれない。今日は同席して良かったわね」
「司教様……」
「シナイも目のつけ所は悪くなかったと思うわ。でも、しばらく干渉は止めておきなさい。それと、他の派閥に情報を流すのもね。接し方によっては今後私達の切り札の一枚になる可能性もあるわ。亜人ばかりを雇用する変わり者のヒューマン、か。皆にそれとなく伝えておきなさい。クズノハ商会の名前を聞いたら、少しだけ耳を傾けなさいってね。当面、少なくとも他の司教やリミアの連中がこの街を離れるまでは私達の彼らへの関心を悟られないようお願いね。それから値段は取り合えず考えなくて良いから傷薬については百程作って見て頂戴。何もここで無理に彼らに張り合って売らなくても、利用価値はありそうな品だしね。同志がいる別の街でなら。戦争の前線なら。場所を変えるだけで扱い様は幾らでも見出せそう」
『はい』
 準司祭を含めた全ての者が女司教の言葉に神妙な顔で頷いた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


 そっと、耳を澄ます。
 聞こえてくるあまり控えめではない声量の会話。この時間、お客さんは多くない。有難い事に殆どの商品が売り切れるからだ。少し離れた裏通りの娼館に勤める遅番のお姉さんが、栄養ドリンクを買い出しに顔を出す程度か。最早常連になった彼女達の代表に取り置いた十数本のドリンクを渡すのは定番の光景でもある。武器の修繕も最近は受ける事があるけど受け取りは明るい時間に来られる事が多い。飛び込みのお客さんには申し訳無いけれど、辺りが暗くなりだす時間にウチの店にあるのは風邪薬か栄養ドリンクくらい。早くお前達も人気になるんだよ。
 何が言いたいかと申せば、サボりやすい時間だって事だ。
 通用口から戻って店内を伺うと、案の定ちっこい森鬼と話好きの若いエルドワが誰かと話している。全く、店員がお客様相手とは言えそんな大声でお喋りしてるんじゃないよ。反省のはの字も見えないな、あいつは。
 呆れた表情で様子を見守るアクアが、会計のテーブルからふと後ろを向く。つまり僕と識を見つける。一瞬大きく目を大きく見開き、それから口を手で押さえる。今回、止めなかったけどアクアはサボってもいない。まあノットギルティとしよう。
 手招きして彼女をこちらに呼ぶ。
「ただいま。随分と楽しそうだね」
「我々が不在の時はいつもこうなのか、アクア」
 識も普段より声が低い。勿論小声だから、では無い。
「お、おかえりなさいませ……」
「お客様は……ってジン達か。あいつらもまあ、暇人だな」
「弛んでいますなあ。少し引き締めてやりますか、学園祭に出れなくなるかもしれませんが」
 目を細める助手、識。流石にそこまでは酷だ。それに乗せられて調子に乗って話しているうちの従業員が一番の問題な訳だし。
 アクアは比較的まともで会話に参加しないのか、それとも偶然そうだったか。視線の泳ぎ方から察すると怪しい。
「それはやりすぎ。でアクア、いつからあの様(ざま)?」
「え、ええと、ついさきほ」
「正直に答えると真面目に働いてくれているご褒美にバナナの新メニューを味見できるんだけど」
「二時間くらい前です。今日は早めにフルーツが出てしまいまして、傷薬と解毒薬もその頃には在庫が無くなって手が空きましたので」
 僕らが出て行ってそんなに経ってない時間からか。何と言う……。これで巷では接客や技術を褒められているから余計に調子に乗る。見る人が見たら店の評判が下がるでしょうが阿呆店員に悪質な常連め。
 そして何と言う自白効果。目がキラキラしてるよアクア。
 エリス、そして若きエルドワよ。残念だ、君達には罰が必要だね。未だに気がついてないし。
 ご褒美を待つワンコ、いやアクアを連れて僕らは厨房に行く。厨房とは名ばかりで簡単な設備しか無いんだけど本格的に料理をするので無ければこれで結構事足りる。
「識、アレは冷やしてある?」
「はい、こちらに」
 識が奥の保冷庫から白い液体の入った瓶と一房のバナナ。それに琥珀色の物体が入った小瓶を持ってきてくれた。流石は識さん、新メニューと聞いて何を作るのかわかったらしい。巴と澪、それに識とコモエちゃんには味見してもらっているからな。
 ちなみに逆から並べるとお気に入り順になる。やはりバナナ、一番お気に入りになったのはコモエちゃんだった。
 アクアはキラキラを通し越して爛々とした目で動向を見つめている。手元に物凄い視線感じる。
 まあ大した物を作る訳じゃない。ただバナナをカットして潰して全部混ぜるだけ。
 琥珀色のは蜜。樹木から取れる蜜で亜空産じゃなく普通にこの辺りで流通している品。メープルシロップのように、独特な風味がついていて甘味を足す目的よりも風味をつける為に少量混ぜる。
 白い液体はミルク。こっちは亜空産。濃い目。牛乳、の筈なんだけどやたらと濃くて美味い。直接飲んでお腹は大丈夫か不安は感じたけど、死ぬ事は無いだろうと飲んで以来、特に健康に問題は無い。他の皆も問題無く受け入れられたようで亜空でも市民権を獲得している。
 はい、出来上がったのはバナナミルク。
 黄みがかった白い液体を作るのに使った大きな容器から三つのグラスに注ぐ。識はうんうんと頷いている。アクアは息を呑んで注がれる様を見ていた。
「ほら、飲んでみて」
 識とアクアにグラスを差し出す。二人が手に取ったのを確認して僕が自分の分を口に運ぶ。一口。濃厚なバナナの甘みに異世界産のシロップの香りが口に広がる。最後に良く冷えたミルクが生クリームに近い十分過ぎるコクを残してくれる。全体的にトロミがあるデザートとも言える一品。僕もたまに飲むなら大好きだ。一旦グラスを置いて、僕が飲むのを確認して口に運んだ識、そしてその後に両手で大事にグラスを持ったアクアがバナナミルクを口にするのを見る。
 識は一度飲んでいるので味を確認してにこやかに、本当に良い笑顔で一気飲みした。この甘味男子め。
 アクアは一口飲んで全身を震わせた。雷に打たれたような、とでも形容しようか。実際見たことは無いんだけど。
 その後は一気にいくかと思えば、一口、また一口とビクビクしながら飲んでいく。ホント、好きなんだなあ。思わず苦笑いしてしまう。
「は、ああ、いっそ溺れたい……」
 じっくりと味わって飲み干したアクアが半開きの両目と口、そして頬を染めて感想を述べる。美味しいとか通り過ぎている言葉なのが何ともまた。
 妄想しているのはバナナミルク風呂か? 僕なら絶対御免だな。恍惚とした顔で言われても一切頷けない。
「良いお味でした」
「喜んでもらえて良かったよ。それじゃ、お説教に行きますかね。ん、どうしたのアクア?」
「……」
 じっと見る先は、ああ、僕が一口だけ飲んだグラス。
 飲みたいんだな。ただ見ているだけなのに全てが察せる。
「アクア、それもあげるから。取りあえずおいで」
「は、はい!」
 骨をくわえたワンコ、いやグラスを抱いたアクアを連れて店内へ。
「凄え! それじゃあエリスさんはアオトカゲさんにも勝てるんですか!?」威哥十鞭王
「当然。それくらい出来なきゃここの店員は務まらない。夜遅くてもここは安全、だって私がいるから」
「流石です! それに移動しながらの詠唱もこの間見せてくれましたよね、あんな風に斥候みたいに跳び回りながらどうやって詠唱するんですか?」
「あれも基本。詠唱は共通語よりも魔術専用の古語なんかから自分に合うのをまず選ぶ。それから移動を繰り返す中で使う術の詠唱を分割して素早く完成させるだけ」
「うーん、やっぱり共通語での詠唱は中堅以上にいくには難しいのかなあ。だからこそあの詠唱を身に着ければ僕の次の切り札にも出来そうだけど……」
「切り札は隠す。若から教えてもらった筈。奥の手は殺す相手にしか見せないのが基本。ちなみに若と識様は殺せないから見せても大丈夫、あれは別格」
「でもボク尊敬しちゃうな、あのアオトカゲ君に勝てるなんて。あんな綺麗な鱗のリザードマン、一体どこで戦ったんですかぁ?」
「ん、彼らは荒野の奥地に住んでいた。今は若が修練の時に戦わせてくれる」
「荒野の奥地、へぇ、そうなんですか。水と風、二つの属性を持つかなり高位の魔物なんですよね?」
「当然、だって彼らミス――!?」
『っ!?』
 お馬鹿。
 エリスは本当にお馬鹿だ。どこまで天狗になる気なのか。すっかり真面目になったモンドを見習って、少しは変なものの受信を止めて自分を省みなさい。
 上手に乗せられて情報をぺらぺらと。亜空の事までは口にしてないけど、本当に危ないな。脅威にもならない子供とは言え、情報は拡散するものなんだから気を付けないと。
 会計のテーブルで僕とアクアが様子を見る中、話に夢中になっていたエリスがまずい事まで話し出そうとした所で識が介入。
 猫を抓みあげる様に、エリスの特徴的なパーカーの首後ろの部分を抓んで持ち上げる。彼女は体格通り軽いが、それでも楽に片手で持ち上げられるかと言えばそうでもない。識が意外な力持ちだと学生も学んだだろう。いや、今日は識も怒ると怖いよ、と学ぶ日かな。エルドワの方も数名の学生相手に武器談義をしていたけど、こちらは特に問題になる内容は無かった。内容は、ね。彼の説教はエルドワの職人さんと長老に任せよう。正直、僕より遥かに厳しいから合掌する結果になるだろう。
「エリス、随分と偉くなりましたねえ? いつから人に物を教えるだけの技術を修めたなどと言う驕りをもつようになったのか。少々お話が要りますね?」
「し、識様!? あっま、若も!?」
 ま、ってエリス。真って言っちゃう感じだったか? かなり挙動不審になっているな。
[ふう、頑張る筈のエリス、何をしているの?]
「は、謀ったなアクアぁ……ああ!? 何を飲んでる!?」
 謀ったなってお前……。
 それに識に持ち上げられて僕がいる事にも気付いたのに、それでもアクアの飲み物に注意が向くかね。
「……バナナミルク。ご褒美だ」
「やっぱり! バナナの匂いがした! アクアは親友だと思っていたのにまさか食べ物で友情が裂かれるだなんて心外、これからは仇同士か」
「……後で半分あげる。若様に許してもらえたらね」
「アクア、私達はやっぱり死線を共に乗り越えた親友。若、エリスは心を取り替えた。大丈夫、もう忠誠は揺るがない、そして調子にも乗らない。だから今回はお奉行様の慈悲が是非欲しい」
 識が重苦しい溜息を漏らす。全く同意。心は取り替え可能なのかこいつは。何て頼りにならない忠誠なんだ。
[つい数日前死ぬまで忠誠を尽くすとか何とか言ってもらったばかりだけど?]
「……」
[もう一回キャンプに戻るか。コモエちゃんに会ってくる?]
「!?!?!? それは駄目、姫成分はもう十分足りてる。しばらくは会わなくても平気、元気。そ、そうだ。死後も忠誠を誓う。うん、これで大丈夫」
[死後って、随分思い切るな。アンデッドにでもなる気か?]
「そう、夏は快適のひんやりを提供できる」
 あ、頭が悪くなってくる。恐るべしエリス、状態異常には耐性がある筈の僕をここまで疲れさせるとは。
 師匠のモンドを呼んでお説教を交代してもらうか。当面は識に怒ってもらうとして、もうどう怒れば良いのかわからなくなってきた。
[識、後は任せる。戻る。それからジン、他の奴もそうだがカンニングしたいならもう講義は来なくていいから。実に色々と馬鹿らしい]
 ったく。
 ただでさえ神殿では妙な視線に変な干渉、シナイさんには尾行までつけられて帰ってきたと言うのに。まあ、僕は今界を気配を察するんじゃなく周囲の魔力を隠す使い方をしているから識に店に入る時に教えてもらったんだけどさ。
 それまでは全く気付かなかった。
 
「さて、ではエリス。そして皆さん。随分と時間があるようですから、今日は少し鍛えてあげましょう」
 誰の返事も待たずして店内から複数の人の気配が消えた。一気に様子が変われば今の僕にも背越しに状況はわかる。
 アクア、バナナミルクを分ける気だったようだけど、識の扱きが終わるまで我慢が続くかな。まあ飲んでしまったとしても彼女を責められないな。相当気に入っていたみたいだから。
 亜空に帰ろ。うん、他の森鬼にもバナナミルクを紹介してあげよう。澪に言って食材を用意してもらわないとな。老虎油