何も苦労を知らずに育ったと、温室で純粋培養の存在だと、皆は言う。
それを否定するつもりはない。わざわざ否定するのが下らないという思いもあるし、己がぬるま湯に浸かっているという自覚もあるからだ。巨人倍増枸杞カプセル
別に自分だけがという訳ではない。大概の人間はぬるま湯のような安穏とした人生に身を浸している。
それは悪いことではない。寧ろそれが【普通】だ。
ある時、「善人も悪人にも差はなく、皆平等に幸せになる資格があるのだ」と何かの宗教信者が言った。
だが、そうだろうか。本当に人間に差はないのだろうか。
(ならば、何故オレたちは捨てられた――?)
【普通】の人間のように人生を謳歌することなんてできない、神の名に縋ることすら虚しくなるような日々。
どうやら神は、親に捨てられたような子供に掛ける慈悲は御持ちではないらしい。
だが、それで良い。
この屈辱を伴う忍従も、いっそ舌を噛み切ってしまいたくなるほどの絶望も憎しみの炎を燃やす為の糧だ。
時が経てば痛みは薄れるだろうが、卑しいこの身には時の安らぎなど必要ではない。
『わたくしに逆らってどうなるというの?』
『………………』
『お前はわたくしに従い、今の生活を守っていれば良いのよ』
(……守る? 今更何を?)
絶望とも知れない苦く冷たいものが胸の奥から込み上げてきた。それと共に奇妙な衝動も一つ。
気付けば、笑っていた。
己を嘲笑うように、下らない人生を莫迦にするように、酷く歪に笑んでいた。
『どうせ守れやしないんだ。本当に大切なものなんて』
この世に存在する全てを価値のないものだと思う努力をした。
全てを客観的に見れば何があっても乱されず、冷静でいられる。何に対しても無情であれば、きっともう傷付かずに済む。全てを無価値だと思う努力をし、自分以外の全てを己の世界から切り取る作業をこなしつつ、暖炉上の壁に飾られていたサーベルを掴む。
『ど、どうして? 綺麗なお洋服を毎日着せているし、美味しい食べ物も、素敵な宝石も与えているわ。何よりもわたくしの愛をあげているのに、お前は何が不満だというの……?』
『オレはあんたの人形じゃない』
尚も人形と称されるならそれでも良い。ならば、自分の進んだ道を【人生】ラヴィなどと大層な名で呼ばずに済む。
そうして――自分以外で初めて害したのは、自分を侍童として買った貴族の女だった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
朝目覚めると頭痛が酷かった。
吐き気と目眩をも伴うそれは何かの病の兆候ではと疑われてしまうが、体調不良というよりは精神的ものからくる病と言った方が良い偏頭痛だ。
夢見が悪く、きちんとした睡眠が取れていなかったからだろう。
そういうこと、にして掛かり付けの医者でかつ従者である男に特に相談せず、午前は大人しく過ごした。
世の中の全てに対して価値を置いてない彼の趣味は少ない。
美しい芸術や花を見ても、素晴らしい演劇や歌を聴いても、麗しい淑女を前にしても、美酒美食で持て成しを受けたとしても、彼の冷たい表情を動かせることはない。
辛うじて趣味と言えるのは読書と、飼い犬たちと戯れること、か。
屋敷には図書室ライブラリーがあり、一生掛かっても読み尽くせないだろう量の蔵書がある。
可愛い挿絵が描かれた絵本から、低俗なロマンス小説、心理学権威の著者、果ては【下界】カノーヴァの遺産とも言える繁栄時代の文献……。習い事のない日は紅茶を傍らに本を読んで過ごす。
彼は暇を見付けては飽くことなく本を読み漁る本の虫だ。
そんな生活ばかりをしているから社交能力が益々欠如するのだと、顔の皮の厚い従者は苦言を漏らすけれど、妙な趣味を持つよりは余程マシだと本人は思っている。
だが、毎日毎日そういった趣味に興じていられもしない。
上に立つ者には上に立つ者の義務――所謂、貴族の責務ノブレス・オブリージュというものがある。だからどんなに苦痛であっても社交場へは出るし、家からも出て行かない。
(……そろそろ行こうか)
誕生日に父から贈られた懐中時計を仕舞い、読み掛けの本を棚へ戻す。
それから銀色のカフスボタンの袖を止め、椅子の背に預けていたフロックコートをウエストコートの上に引っ掛けると、彼は図書室を後にした。
屋敷の離れのここへは使用人たちもあまり訪れない。ここはある種の逃げ場所のようなものである。
図書室から続く廊下を進み、ティーサロンに足を運んでみる。するとそこには、ビスクドールのように装飾過多なライラック色のドレスを着た少女と、銀縁眼鏡を掛けた白衣の男がいた。
「――エリーゼ、ジルベール先生」
壁紙から絵画、テーブルとチェスト、長椅子、絨毯、花瓶といった家具・調度品の全てを白と紺青と金の色調で品良く纏められた小広間プチ・サロン。所々に活けられている薔薇はこの屋敷の庭で咲いたものだ。
「お兄様!」
「エリーゼ、寝ていないと駄目だろう」
胸に飛び込んできた小さな身体を受け止めながら、ヴァレンタイン小侯爵――ルイスは紫色の目を眇める。
その視線の先には貴族の邸宅で浮きまくっている、何とも胡散臭い白衣の男がいる。
このサロンの階下を使用人室として使っている男を、ヴァレンタイン家の兄妹は従者としてではなく先生――家庭教師のようなもの――として慕っている。
基本的に主と使用人は必要最低限の会話しか交わしてはならない。それはこの家に限ったことではなく、由緒のある家であればあるほどその規律は厳しい。そうした決まりから、大概の使用人は自分から口を開くことはない。だが、ヴァレンタイン小侯爵付きの従者で主治医でもあるこのジルベール・ブラッドレーという男は他の使用人とは一線を引く存在だった。
病弱故に外の世界をあまり知らないエリーゼはこの気侭な従者のする話を大層好む。
きっとベッドに横になっていることがつまらなくなって抜け出してきたのだろうなと察しつつ、それでも患者を部屋に戻そうともしない医者をルイスは睨まずにはいられない。
「オレも戻るからエリーゼも部屋に戻ろう」
「……お兄様、何処かへ行かれるの?」
ぴたりと胸に張り付いたエリーゼは、フラックの裾を握り締めながらルイスを見上げた。
病に臥せる中で培った観察眼は大したものだ。隠しても無駄だと知るルイスは素直に白状した。
「昔、世話になった人の墓参りだよ」
「わたしも行っちゃ駄目?」
「まだ風邪が治ってないだろう。今日は寒いから家にいるんだ」
頭を撫でてやりながらそれとなく額に手を当てると、まだ熱っぽいことが分かった。
「じゃあ、元気になったら遊んでくれる?」
「薔薇園へ散歩でも、カフェでショコラ・ショーを飲むのでも付き合うよ」
「ピアノの連打も?」
「それこそ易い用だ」
「約束だよ」
「……ああ、約束だ」
白い頬を薔薇色に染めるエリーゼの髪をくしゃりと撫でてやると、ルイスは振り返らずに命じる。
「喉が痛んでいるようだから、蜂蜜を落とした薔薇茶を後で部屋に運んでくれ」
「畏まりました。すぐに用意致します」
一礼するとジルベールは先にサロンを出る。性格に多少の難はあるが、優秀な従者の背を見届けたルイスはドレスの裾が乱れないように注意しながらエリーゼを抱き上げた。
ルイスもあまり身体が強いとは言えない方だが、年下の少女を抱き上げられないほど虚弱な訳でもない。RU486
空気の綺麗な場所で滋養のあるものを食べて、安静に心穏やかに暮らせば、天から与えられた寿命は真っ当できるだろうと医者からは言われている。
けれど、エリーゼは違う。月の半分をベッドの上で過ごさねばならないほどに身体が弱い。
大した距離でもないのにわざわざ抱き上げて運ぶのは彼が過剰な妹想いという訳ではなく、過保護にならざるを得ないからだ。
まるで人形のように大人しく抱かれているエリーゼは羽根のように軽い。
そんな九歳年下の妹にルイスが持つ感情は複雑だ。
『まあ、ルイシス様とエリーシャ様は今日も仲が良くてらっしゃるわね』
『これなら旦那様も安心でしょうね』
今日も下世話な話が聞こえくる。
エリーゼは気にしない性質なのか、それとも純粋さ故に気付いていないのか、何ともない顔をしているが、ルイスは自分の胸の軋む音を聞く。
(エリーゼは何処まで分かっているんだろう……)
血の繋がりのない妹、、、、、、、、、は良く懐いてくれていた。
自分を本当の兄だと思っているのだろうか。いや、そんなことはない。この屋敷にいる者全てがルイスがヴァレンタイン家の本当の子供でないことを知っている。
ルイスは九年前――もうすぐで十年前になる――この家に貰われてきた養子だ。
(オレがあんたたちの幸せを崩しているのを知っているのか?)
養子として貰われて一年もしない内に夫妻に子供が産まれた。それが今年で九歳になったエリーゼだ。
口に出して言われはしないが、ルイスは薄々感じている。
実子に家を継がせたいと思うのは当然のことだ。
引き取られただけで有り難く思っているルイスは例え廃嫡にされたとしても文句は言わない。それでもヴァレンタイン夫妻は世間的もあるからルイスに家を継がせるだろう。
だが、古くから続く名家の血を絶やす訳にはいかない。
悪い噂を立てず、またヴァレンタイン家の血を残す為にルイスとエリーゼを結婚させるのではないかという使用人たちの話は常に聞こえてきた。
この世界の法律では、養子になった子供とその家の子供が結婚してはならないということはない。
普通、貴族ならば何の利益にもならない結婚はしない。従兄弟同士や恋愛結婚といった相互利益に繋がらない婚儀は行わない。
だが、ルイスが養子に貰われたことによって――いや、エリーゼが産まれたことによって全ては変わった。
もしも、妹がいなければルイスは普通の貴族の型に則って良家の娘を婚約者に迎えることになっただろう。
愛情と利益は両立しないと分かりながらも偽りの愛を囁き、政治的に結ばれる。そんな貴族の結婚をした。
(……いや、どうだって良い)
他に好きな相手がいる訳でも、またエリーゼが嫌いな訳でもなかった。
異性として愛せるかは別として――まだ九歳の少女で、仮にも妹にそんな感情を抱く方が難しい――家族としての情は一応ある。将来もし子供ができたら、その子がこの家を継げば良いとも思う。自分の立場を養子というよりは入り婿のようなものかと認識すれば、辛くもない。
ルイスは、自分の人生が好き勝手に動かされることを面白くないとは思わなかった。
引き取られた家で上手くいかない子供なんて巨万といる。どんなに厳密な調査が行われ、里親として適していると判断されても、人の心はそう簡単に図れるものではないし、変わらない訳でもない。
(どうなろうが知ったことじゃない)
過去に世界の全てに期待も希望も持たず、自分の感情を自閉しようとする努力をしたことから、ルイスは人間的感情が欠如してしまっていた。
いや、そう言うと機械人間のように取られてしまうか。欠如しているというよりも、酷く薄いのだ。
美しいものを美しいと思えず、美味を美味と感じることができず、何よりも自分自身に価値を置かない。誰もが羨むような白皙の容貌でさえも彼の自信にはならず、寧ろ苦痛のようになっていた。
「じゃあ、オレは行くよ」
「気を付けて行ってきてね!」
後のことを小間使いレディーメイドと自らの従者ヴァレットに任せたルイスは颯爽と踵を返す。
扉が閉じる前に、エリーゼがまた身を乗り出しているのを感じながらも振り返りはしない。
ルイスは基本的には優しい兄だが、敢えて突き放す厳しい部分も持ち合わせている。
容姿が良いだけで世の中全てが思い通りになると思わせては駄目だ。それに、変な期待をされても困る。
二階の長い廊下を歩いて行き、エントランスへ出る。二階に登る大階段を左右に持つ広間は巨大なシャンデリアに照らされ、落ち付いた色調の絨毯が敷き詰められている。
一階グラウンドフロアの玄関ホールの扉の前では、従僕フットマンが既に支度をして控えていた。
そうして階段を早足で降りて行き、一階の床に靴底が触れた時、ふと真横に視線を感じてそちらを見る。
そこにいたエリーゼと同じ淑やかな紅藤色のドレスを纏った妙齢の女性は、ルイスの義理の母親だった。
「ルイシス、今日は習い事はないと思いましたが何処へ行くのです?」
「昔世話になった夫妻の命日なので墓参りへ行こうと思ったのですが……、お母様が不快に思うのでしたら行きません」
「不快だなんてそんなことはありません。アデルバート様とエレン様は貴方を立派に育てて下さった方ですもの。わたくしやお父様に遠慮などせず、いってらっしゃい」
「有難う御座います、お母様」
淡く微笑む侯爵夫人の前で、ルイスも夫人と似た極淡い笑みを浮かべる。
一見すると何とも仲の良い親子だ。
しかし、ルイスのアマランサスの瞳の焦点は侯爵夫人のハイドランジアの瞳と合わさっていなかった。
「では、お花を用意させなければなりませんね」
「いえ、街の花屋で調達して行きますので」
今から用意をさせれば時間が掛かるし、何よりも気取った花束になってしまうだろう。
以前の両親が愛したささやかな花を供えたいと思っているルイスはやんわりと断る。すると侯爵夫人は瞳を曇らせ、悲しい顔をした。
「私はお父様とお母様に貰われて、今こうして生かして貰えているだけで感謝し足りないほどに感謝しているんです。だから、どうかお気遣いなく」
エリーゼと同じ紫陽花色の瞳を直視することができない。
指先が凍え、きりきりと胃が痛んだ。
……大事な時ではなく、こういう時にこそ意識を失えたら良いのに。
そんな不誠実なことを願いながら沈黙に耐えていると、白百合の香水がすぐ近くで香った。
初めて会った時は目上にあった顔が今は目下にある。ルイスは目蓋を伏せ、吐息を震わせた。
「気を付けて行ってらっしゃい。陽が暮れる前に帰ってくるのですよ」
侯爵夫人はそうして肩にそっと手を置く。敢えて何も言わないことが、義母ヴィオレーヌの優しさだった。
「はい、分かりました」
短く応え、従僕から外套とトップハットを受け取ったルイスは屋敷を出た。
貴族といっても成り上がり者に等しいルイスは外出の際、従者を従えて歩くようなことはしない。彼は日常生活の一通りのことは自分ででき、また己が身を守る術も身に付けていた。
(また酷いことを言ってしまった……)
淡々と告げはしたが、酷いことを言ったという自覚は本人にあった。
あんなに優しくしてくれるのに、ルイスはヴァレンタイン侯爵夫妻を本当の両親とは思えない。ここへ引き取られてもう十年近くが経つのに、ルイスにとって侯爵夫人は【義母】ではなく、【侯爵夫人】だ。
本当の両親はここへくる前に世話になった夫妻だけだった。
「アデルバート様、エレン様……」
両親が――取り分け母が好きだったカーネーション。母はささやかな花が好きな人だった。
侯爵夫人は白百合スノークイーンやダリアスノーボールといった艶やかな花を好み、また自身も雅であるので正反対だ。
どちらも身寄りのない自分を引き取ってくれた優しい人たちである。
それなのに比較をしてしまうような自分にうんざりしながらルイスは墓前に佇んでいた。
ルイスを施設から引き取ってくれたのは、上層部【レミュザ】に暮らす裕福な夫妻だ。
子供ができなかった訳ではないらしい。ただ、上層部の【組織】に属するという危うい立場から、【守るべき存在】――弱みとも言う――を作らない為に子供を持たなかった夫妻だと聞いた。中絶薬
そんな夫妻が何故ルイスを引き取ったのか。それは、施設に顔を出す度に皆の輪から外れて二人でいる兄弟に情が移ってしまったからだ。
母は哀れみや同情ではなく、「家族は大勢の方が楽しい」なんて気楽なことを言ってルイスとその兄に手を差し伸べた。父は温厚な人で、弾けたところのある母に押されがちだったけれど、いざという時には固い信念を垣間見せる強い人だった。
自分は常に一歩下がったところから皆を見守っているような大人の男。そんな父をルイスは尊敬していた。
いつまでも続くと思われた平和な時。
それが崩れたのは十一月も終わりに近付いた、とても寒い日だった。
『ほら、暖かくして行きなさい』
『有難う、母さん』
マフラーを肩に掛けてくれる母の優しさに胸が暖かくなりながら家を出る。
庭に出ると、こんな寒空だというのに兄と父がキャッチボールをしていた。二人はすぐにルイスに気付く。
『ルイ! 今日もヴァイオリンだっけ?』
『うん。あと、図書館でも見てこようかと思って』
身体が弱い弟と違って兄は健康体だった。
ルイスも兄のように外を駆け回りたいと思いはするものの、妬んだことはない。
兄は兄、自分は自分という思いがあるからだ。
双子は二人で一つのような認識を持たれることが多いけれど、当人からすれば不本意極まりない。心外だ。
だから、兄と自分が対照的であって構わないとルイスは思っていた。
『そういえば例のやつだけど……、適当な時間になったら図書館にきてくれないかな』
『分かってるって! そうだなあ……、三時間くらいしたらライブラリーカフェの入り口で』
『くれぐれも父さんに感付かれないでよ。兄さん、嘘下手なんだから』
ボールを取りに行っていた父はこそこそと内緒話をする双子を疑問に思い、やってくる。
長身の影がすぐ近くに射したことで二人は慌てて離れた。
『二人とも、何の相談をしてるんだい?』
『父さんには内緒』
『父さんには秘密』
『ふうん……?』
深い森の奥で滾々と湧く泉のように深く澄みきった琥珀色の瞳。その双眸に見つめられると心を見透かされているようで、隠し事をする罪悪感が出てきてしまう。
けれど、今回は折れる訳にはいかない。
来月の一日は両親の結婚記念日だ。
引き取られて三年が経ち、すっかり夫妻の本当の子供のようになった二人は両親に贈り物をしようと密かに考えていた。
甘いものを好むということ以外、これといった共通点がない二人が共に出掛ければ聡い父は何かに気付くかもしれない。幼いながらに知恵を巡らせた二人はそうしてばらばらに外出をすることにした。
『あ……、遅刻するからもう行くね』
『ああ、そうだね。先生に私が宜しく言っていたと伝えてくれ』
『うん、分かった』
家族皆に送り出されて、父の懇意である音楽家にヴァイオリンを教えて貰う。そうして三時間後、図書館に併設されたカフェへルイスは向かった。
兄は幾ら待ってもやってこなかった。
ずぼらな兄だ。また道草をしているのだろうと思い、三十分は待つ心のゆとりがあった。
だが、一時間が経っても兄はこない。連絡を入れても反応がない。
流石に可笑しいと帰宅したルイスが見たものは、惨殺された両親や使用人と、辛うじて息のある兄。
一面真っ赤だった。それ以外のことをルイスはあまり覚えていない。
いや、覚えていないというのは語弊があるか。その記憶は確かにあるが、まるで他人事みたいなのだ。
あの悲劇の内容を思い出し、他人に話す時でさえルイスはあまり悲しくは思わない。他人の映った写真を見ているような奇妙な違和感しか感じない。
ジルベールにそのことを相談すると、過剰適応の一種で心が防衛の為にそうしているのだと言われた。
(オレがあの時、壊れたからじゃないのか……)
あの事件の後、色々とあった。ルイスはその中で自分が壊れていくのを静かに感じていた。
無感動になったのも、心を押し込めたのも全ては自分で望んだこと。
たった十年前のことだというのに、両親の墓前に立っても涙一つ流せない自分を【人形】だと思った。
「――――――」
首筋に、冷たい視線を感じた。
その瞬間、恐怖に弾かれたように殆ど本能的に思い切り後ろを振り返った。
目に入ったのは金髪の若者。人間を誑かす為に作られたような整い過ぎた顔には微笑がある。
「やあ、お久し振り」
「……ヴィンセント・ローゼンハイン」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
それでも尚、頭半分ほど上にある顔には笑みが浮かんでいる。ルイスは金髪の悪魔――ヴィンセント・ローゼンハインを睨んだ。
珍しいことに、金髪の悪魔は年若い少女を連れていた。
蜂蜜色の長い髪をポニーテールにしている。眉を隠すように伸ばされた長めの前髪から覗くのは極淡い空色の双眸。ホワイトブラウスに黒襟がベルベットの紅茶色のベストとタイトスカートを合わせている姿はいかにも給仕といった風だ。
ヴィンセントの女の趣味は知らないし興味もないが、らしくないと思った。
派手で自信に満ち溢れた男が連れ歩く女にしては少女は影が薄く、地味だった。これではアクセサリー代わりにもならないだろう。もしや引き立て役として連れているのか。
毒を吐きながら、ルイスは少女を突き飛ばした。
この金髪の悪魔は長らく封じ込められていた激情を呼び起こしてくれる貴重な存在だ。普段温厚なルイスもヴィンセントを前にすると抑えきれない嫌悪から毒を吐きたくなる。
レヴェリーがこないだろうことは知っていた。それでもヴィンセントから指摘されると癪で仕方がない。
ルイスは可能な限りの安い毒を吐くと、金髪の悪魔と少女に背を向けた。
最悪の墓参りだった。
ルイスは確かにヴァレンタインの人間だ。周囲の認知だけでなく、戸籍上でもそれは事実である。
だが、本人の心まではそうはいかない。ルイスはヴァレンタインに自分の居場所が見付けられないでいた。
前の夫妻と過ごした三年の倍以上の月日を過ごしながらも、ヴァレンタイン夫妻に心を開けない。
人間は年を取ると色々と考えてしまうようになる。それは世間体だったり自らの保身だったり。必ずしもそれだけではないのだが、ルイスは今の両親に寄り掛かることができなかった。
家庭教師を屋敷へ招き学ぶことが貴族の一般とされる中でルイスがわざわざ下町へ学びに行くのは、自分が高尚な立場ではないという自覚があるからと、屋敷から離れたいという思いがあるからだ。
ヴァレンタインの皆は良くしてくれる。実際、自分は恵まれているとルイスは思う。
けれど、息苦しくて堪らなくなる。
逃げてばかりで停滞していても向上はないと理解していた。
それでも胸が潰れてしまいそうでルイスは逃げた。
習い事で出掛けた日は決まって寄り道をした。陽が暮れ、空に星々が輝く頃に帰った。
流石にヴァレンタイン夫妻も気付いているだろうが、何も言われないのでルイスは依然と不良をやっている。そんな中で何故か【不良仲間】ができた。
「こんな公園の景色を見ていて楽しいのか?」
「楽しいですよ。今日は空の色が綺麗です」
嫌味を言うでもなく、ただ純粋に。
涙で編んだような空と例えても良さそうな極々淡い空を、勿忘草色の双眸が飽くことなく見つめている。
世間知らずという訳ではないが何処かぼんやりとしていて、押しが弱くて、人に利用され易そうなこのクロエという少女は、ヴィンセントとレヴェリーがいる喫茶店【Jardin Secret】で働いているらしい。
……いや、働かされている、だろうか。
自主的に働いているというよりも寧ろ、弱みを握られて扱き使われていそうな節がある。
文句や不満は何一つ零さないもののクロエは疲れきっているように見えた。
「ヴァレンタインさんはヴァイオリンをお弾きになるんですよね?」
「嫌だ」
「ま、まだ何も言ってませんよ!?」
「キミの言いそうなことは大体分かった。弾けとか言うんだろ?」
「そうですけど……」威哥王
「だから嫌だと言った。大道芸人じゃあるまいし公衆の面前で弾くなんて御免だ」
「……済みません……」
言葉のぎこちなさも相俟ってきつい言い方をするルイスに、クロエは思わず首を竦める。
普段からジルベールという理屈をこねくり回して人の神経を逆撫でるような男を相手にしているルイスは口が悪い。苛烈な気性というかは防衛本能のようなもので、必要以上に人を突き放してしまう癖がある。
暴言を吐く相手があの金髪の悪魔ならば微塵も罪悪感を感じない。
しかし、自分と同じか若しくは年下かもしれない気が弱い少女が相手だと、流石に調子が狂う。
「聴かせるほど上手い訳でもないんだ」
「趣味ではないんですか?」
「趣味というか……貴族の嗜みの一つみたいなものかな」
芸術を美しいと感じないルイスにとって当然音楽も色褪せたものにしか映らない。
あの事件が起きるまでは趣味の一つではあった。休みの日は良く両親と合奏した記憶がある。
あの日、出掛けなければ。
そうすれば無様に生き残るなんてことはしなかっただろうと、良く考える。
ヴァレンタイン夫妻は知らないが、ルイスにとってヴァイオリンを奏でるのは過去を反芻するということだ。
ルイスは自分だけが傷も負わずに生き残ったことに自責を覚えている。
虚無的ニヒリズムだと言われるかもしれないが、あの日【自分】は死んだもののようだと思っていた。
「体面とか仕来りとか責務とか。貴族は面倒臭い」
「でも、貴族じゃなくても体面は気にしますよね」
「そうだね。大人はそんなものだよ」
「大人……。あの、失礼ですがお幾つですか?」
「十八だけど。キミは?」
「…………ご想像にお任せします」
ミステリアスな雰囲気を作る為にそう言ったのではなく、本当に年齢を言いたくなさそうな顔色だった。
前髪に隠されるようにした睫毛が震えている。
(訊き返すのは不味かったかな……)
女性に年齢を訊ねるのはやはり不味かったか。己の配慮のなさを呪いながらルイスは瞼を伏せる。
二人はそれほど仲が良い訳ではない。寧ろ世間的に見れば、冷えきっている方だと思う。
迷い犬の飼い主を探し、こうして数度話しただけで友情が芽生える訳がない。二人の関係は【友人】ではないのだから、【知人】と例えるべきだろうか。
会話が途切れることなど始終だ。そんな気まずさを味わいながらもこうしていたのは、互いに【同族】という存在に慰められていたからか。
「そろそろ帰ったら?」
「そうですね」
味気ないけれど、クロエらしい――受動的人物らしい返事。
過剰な馴れ合いを好かないルイスはその答えを寧ろ好ましく思いながら、席を立つ。
この調子だとどちらかが席を立つまでずっとこうしているだろうから、いつも自分が率先して去る。
「さよならサリュ」
「お気を付けてフェット・ザタンシオン」
普段はジャイルズ人の言葉を使っているはずだった。それなのに返ってきたのはシューリス語だ。
思わずきょとんとするルイスの珍しい反応を見て、クロエは不安そうに訊ねる。
「……あの、もしかして間違ってましたか?」
「いや、合ってる。――キミも気を付けてヴー・ゾスィ」
自分の話す言葉を理解してくれるということに快い衝撃を受けながらも、それはおくびにも出さずに返した。
【クレベル】と【ロートレック】を分かつ検問をいつものように抜けながらルイスは考える。
自負心の強いシューリス人の気質を嫌う者が多いというのにクロエは珍しい人物だ。
正確にはルイスもシューリス人ではないが、貴族以外の相手から皮肉もなく返された言葉には衝撃を受けた……というよりも、そんな些細なことで動く心がまだ存在したことに驚いたのだ威哥王三鞭粒。
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