「如何したんだ?そんな所で。」
道端のガードレール脇に座り込んでいた私は、背後から掛かる声に振り向いた。
背の高い茶髪の青年が、こちらを見降ろして立っている。SPANISCHE FLIEGE
「具合でも、悪いのか?」
「ううん、違うの。猫が―。」
ガードレールの下を指差した私に、青年が歩み寄って来て眼下を覗き込む。
断崖になっている岩場の中腹、一匹の猫が身動き取れずに頼り無く鳴いていた。
「落ちたのか?」
「うん。先刻、車を避けた時に勢い余ったみたいで。」
「見てたの?」
「偶然。このまま、放って行けないし……如何しようと思って……。」
「そうだな……よし。」
青年は不意に立ち上がると、差していた傘を折り畳む。
そして、皮製のジャケットを脱ぐとガードレールの足に一方の袖を縛り付けた。
「ちょっと……何するつもり?」
「俺が降りて、あの猫を拾って来る。」
「そんな、危ないよ!雨も降ってるのに……!」
「けど、見過ごせないだろ?」
そう言って、ニコリと笑う青年に。
私は、それ以上何も言えなくなってしまった。
ガードレールに結んだジャケットを手掛かりに、断崖を降りて行く。
雨で滑る岩場は、足場にするには余りにも不安定で頼り無い。
降りた距離は、1メートル位だろうか。
だが一歩間違えば、その下は10メートル近くありそうだ。
自らの危険も顧みずに猫を助けようとする青年に、私はハラハラしながら見守る事しか出来なかった。
「大丈夫か?ほら、おいで。」
ジャケットから片手を離し、猫に差し伸べる。
猫は顔を上げて一声鳴くが、その場から動かない。
「動けないのか……ちょっと待ってろ。」
青年は岩場に片方の足を引っ掛け、猫のいる断崖に身体を近付ける。
「良し……もう、大丈夫だぞ。」
蹲っていた猫を抱え上げて、青年がほっ……と一息付いた、その時。
ガクンッ!!
掛けていた足が岩場から滑り、青年の身体が大きくバランスを崩した。
「うわあっ!!」
「ちょっと貴方!!大丈夫っ!?」
「あ、ああ……何とか。」
眼下の光景に目を遣り、流石の青年も冷汗を流しながら呟いた。
「済まないけど、引き上げてくれないか?片腕だと、身動きが取れないんだ。」
片腕に猫を抱いた青年に頷いて、私はジャケットを掴んだ。
しかし……重い。
考えてみれば、女性一人の力で立派な体躯の成人男性を引き上げるなんて相当に無理のある話で。
けど、他に頼れる相手も居ないし、何より発端は自分にあるのだ。
そう思い、両腕にありったけの力を込める。
如何にか彼の手がガードレールの足を掴める所迄は、引き上げる事が出来た。
「頼む、先にこの子を受け取ってくれ。」
差し伸べられた猫を受け取ると、彼は漸く空いた片手で軽々と上に登った。
「大丈夫?怪我とか無かった?」
「如何も、足を怪我してるみたいなんだ。俺が良く世話になってる医者が居るから、連れて行こう!」SPANISCHE FLIEGE D9
青年はそう言って猫を抱えると、雨の中を走り出した。
―聞いたのは、猫の事では無かったのに。
折り畳んだまま置き去られた彼の傘を手に取り、私は後を追って駆け出した。
光の加減で金色にも見える茶色の髪、すらりと高い背、整った顔。
擦れ違う女の子の視線が思わず釘付けになる、そんな格好良い青年。
なのに……何だろう、この人は。
雨の中を傘も差さずに、泥だらけの顔で、伸びたジャケットを羽織り。
猫一匹の為に危険すら顧みずに身を投げ出してしまう、そんな人。
外見と中身の、余りのギャップが可笑しくて。
そんな彼の背中を追いながら、私はずっと考えていた。
―私……この人の事、知っている様な気がする……。
「先生!!済みません、急患なんですけど!」
「……何だ、また拾って来たのか。」
駆け込んだ獣医で、彼の声に振り向いた医者は呆れながら苦笑した。
「で、今日のは?」
「足を、怪我してるみたいなんです。崖から、落ちたらしくて―。」
随分と馴染んだ口調で言葉を交わす医者と青年の姿に、私は呆気に取られて目の前の光景を眺めていた。
「じゃ、この子は診察して治療しておくから。君は、顔だけでも拭きなさい。」
そう言ってタオルを手渡す医者に、青年は照れ臭そうに苦笑した。
「しかし、今日は連れがいるんだね?珍しい……恋人かい?」
「え?いや……彼女が、その子の第一発見者。」
濡れた髪を拭きながら青年が振り向いて、ニコリと笑う。
「そう言えば、未だ名前を聞いて無かったな。」
「私?日向、葵。」
「葵……綺麗な名前だね。俺は―。」
「桐生暁君!この子、今日は如何するんだい?」
狙った様に医者に名前を呼ばれ、彼は渋い顔をして振り向いた。
「大丈夫そうなら、連れて帰りますよ!入院費も馬鹿にならない。」
「そうかい、少しは私の苦労も分かる様になった様だね。」
楽しそうに笑う医者に、青年は酷い仏頂面で頭を掻いた。
「暁、って言うんだ。名前。」
「……全く……名前位、自分で名乗らせてくれよ。」
深々と溜息を付く暁に、私は思わず笑い出してしまった。
「ふぅん……じゃ、良くあのお医者さんの所に猫を連れて行くんだ?」
「ああ。余りに年中連れて行くもんだから、遂には呆れられてさ。最近は、只で診察してくれてるんだ。
御陰で、助かってるけど。」
獣医からの帰り道。
雨上がりの道を、並んで歩きながら。
暁は腕に抱いた猫を撫でながら、そんな話をしてくれた。
「それじゃ暁さんの家、猫で一杯なんじゃないの?」
「いや、飼いたいんだけど親父が大の猫嫌いで。だから、何時も知り合いに預かって貰って里親探し。」
「そっか……私の家で飼えれば良いんだけど、昼間は誰も居ないから世話してあげられないし。」
「一人暮らし、なのか?」
「ううん、お母さんと二人暮らし。だから、お母さん昼間は仕事に出てるの。」
「そうなのか……それで君も、バイト―。」
「え?」
思わず振り向いた私に、暁がしまったと言わんばかりに口を押さえ目を逸らす。
「成程……どうも、何処かで会った事ある気がしてたんだよね。」
「……………。」
「貴方、私がバイトをしてる喫茶店に常連で来てる人でしょ?同僚の女の子達が良く噂してる。」
「噂に、なってるのか?」
「何時も窓際に座って物憂気に外を眺めてる格好良い人、って。」
「何か……偉く、美化されて無いか?それ。」
「そうだね、本人がこんな人だって知ったら皆、どんな顔するかな?」
照れ臭そうに顔を赤らめ頬を掻く暁にクスクス笑いながら、伸びたジャケットの袖を軽く掴み取る。SPANISCHE FLIEGE D6
「このジャケット、もう着られないね。」
「そうだな……結構、気に入ってたんだけど。」
「良かったら、私が新しいのプレゼントしようか?」
「え?いや、いいよ……母親と二人暮らしで、色々と大変なんだろ?」
「けど、今日の件は私が巻き込んだ様な物だし。それに……。」
暁の一歩前に進み出て、くるりと振り返る。
「また、こうやって暁さんと話したいな……って、思って。」
驚いた様に、目を瞬く暁。
その表情は直ぐに、綻ぶ様な笑顔に変わった。
「じゃ、金は自分で出すから。一緒に、選びに行ってくれないか?」
「いいの?それで。」
「ああ。今度、葵のバイトが休みの日にでも出掛けよう。」
「次の休みは確か、今週の金曜日かな。何処で、待ち合わせればいい?」
「そうだな、俺の行き付けの喫茶店とか?」
「行き付けの……って、それ私のバイト先じゃない!!」
思わず、真っ赤になって怒鳴った私に。
暁が、声を立てて楽し気に笑った。
「お前には、感謝しなきゃならないな。」
葵と別れた後。
俺は抱えた猫を預けに、一人暮らしの友人宅に向かっていた。
余りに何時もの事なので、向こうも既に諦め半分で承知してくれる。
申し訳無いとは思うが、他に頼れる宛も無い。
いずれ、何らかの形で埋め合わせはするとしよう。
何にせよ、今日は気分が良い。
気に入っていたコートが伸びたのも、全く気にはならなかった。
―ずっと、気になっていた理想の少女。
何気無く入った喫茶店で見掛けて、一目惚れして以来。
その店の常連となって、通い続けていた。
―今日、彼女と出会ったのは全くの偶然。
けど、これが切っ掛けで彼女と知り合えたのは紛れも無い事実で。
次に会う約束迄出来たのは、我ながら幸運だと思った。
「お前にも、いい里親を探してやるからな?」
喉をゴロゴロと鳴らす猫に、俺は上機嫌で顎を撫でてやったSPANISCHE FLIEGE D5。
没有评论:
发表评论