2013年12月9日星期一

一日千秋の彼女 

営業のついでに指輪のカタログを貰ってきたまではよかった。
  それなりに気に入ったデザインのを絞り込んで、目星をつけてから、初めて指輪の作法を知った。RU486
  何でもエンゲージリングとマリッジリングは違うものだそうで、通常プロポーズの時に渡すのが、宝石のついたエンゲージリング。結婚式にて交換するのがマリッジリングだとのこと。なんてややこしい。お揃いの指輪なら問題ないだろうと単純に考えていた俺は、ここで一つ目の壁にぶち当たった。
  しかし二つ目の壁の方がより高かった。――指輪のサイズという奴は意外と細かく定められているものらしい。そして俺は、彼女の指のサイズを知らない。
 「指輪って、プロポーズの後に買ったら駄目なんですかね」
  飲みに行った際、思い切って相談してみたら、サンマの塩焼きをつついていた石田先輩には鼻を鳴らされた。
 「まだ買ってなかったのか? ぼけっとしてるな、お前も」
 「思いのほか考えることが多かったんですよ」
 「この期に及んで何だよ考えることって」
 「……いろいろです」
  指輪にここまで細かくサイズがあったなんて知らなかったんです、とは言いにくい。
  女の人の指なんて、男の指から比べたら誰も彼もそう大差ない気もするのに。彼女の指はどうだったかなと思い出してみるけど、普通としか言いようがない。特別太くも、細くもなかったような気がする。すべすべしているから、手を握ると気持ち良いのは知っている。
 「考えてる暇があったら買ってこい。もう二年過ぎてんだろ」
  ごく当たり前のように答える石田先輩の真向かいで、安井先輩も苦笑している。
 「とっととしないと誰かに掻っ攫われるぞ、あんなに可愛い人なのに」
 「そ、そういう心配は全くしてませんから!」
 「なら何をためらうことがある?」
  口調の割には幸せそうな安井先輩は、ざる豆腐をものすごいスピードで平らげている。ぐうの音も出なくなった俺は冷やし中華を啜ってからビールのジョッキに手を伸ばす。
  俺たち三人はつまみの好みがてんでばらばらで、外に飲みに行く場合の選択肢はメニューの豊富な居酒屋に限られていた。あと某先輩が遠慮会釈なく品性に欠ける話題を口にしたりもするから、ざわざわと喧しい居酒屋の空気はそういう意味でも都合が良かった。
  時は九月。繁忙期を乗り切った解放感で一杯の頃でもあるし、春にやってきた可愛い新人さんが大方の指導を終え、いよいよ営業デビューを控えた頃でもあるし、酷暑が食欲の秋へとちょうど切り替わる頃でもある。毎年この時期になると、三人で揃って飲みに行く機会が増える。もっともここ二年ほどは、居酒屋以外の選択肢として『俺の部屋に彼女を呼んで四人で飲む』機会も着実に増えてきた。ちなみに彼女の手料理なら、たとえ好みぴったりのつまみじゃなかろうと誰も文句を言わない。彼女はいいお嫁さんになる、というのが俺たち三人の共通認識である。とっとと本物の嫁にしろと先輩がたは思っているらしく、俺としてもその辺りに異存はない。
  ただ、いざとなると案外手順が多いものだ。
 「やっぱり高い買い物ですから、慎重には慎重を期したいんです」
  俺がそう言うと、先輩がたは揃ってにやっとした。
 「何言ってんだ、失敗する可能性なんて考えてないくせに」
 「石橋も叩き過ぎると渡る前に壊れるぞ、霧島」
 「ま、まあ、そうなんですけど……」
  ご指摘の通り、俺は彼女――長谷さんへのプロポーズが失敗するとは思っていない。かれこれ二年以上も波風立てずに付き合ってきたし、その過程で結婚に関する話題も何度か話していて、彼女の反応はそう悪くもなかった。結婚を決意したきっかけもまとまった貯金が出来たからと、彼女と毎日一緒にいたいなという気持ちと、あとは繁忙期を無事に終えた九月だからという程度で、それほど大きなきっかけもなければ、気負いもないつもりだった。
  それでもやっぱり、失敗はしたくない。指輪の購入以外でも慎重に慎重を期して、なるべくいいプロポーズにしたい。彼女の前で格好悪いところは見せたくない。今までに彼女の前で、俺が格好良かったことなんてちっともなくて、最初のきっかけからしてちっともスマートじゃなかった。だから余計に思ってしまう。
 「もっとも、二人で指輪を選びに行くっていうのも悪くはないよな」
  ふと、安井先輩が首を竦める。
 「一緒に指輪を買いに行きませんか、がプロポーズの言葉になっても、それはそれでアリじゃないか」
 「なるほど……いいですね、それ」
  さすがにそのままいただくつもりはないけど、いいアイディアだ。指輪を一緒に選ぶのも俺たちらしい気がする。
 「だよな。所詮霧島のセンスじゃ不安だからな」
  石田先輩はからかう調子で言ってきた。確実にやっかみである。
 「いや、霧島は女の子を見る目だけはあるよ」
  すると安井先輩はそんなことを言い出して、脅すように低く続けた。
 「営業課のアイドルと呼ばれた長谷さんを幸せにしないと、地獄に落ちるぞ」
 「そうだな。俺たちが地獄に落としてやるから覚悟しろ」
 「物騒な言い方を……ちょっとは背中を押すとか温かく激励するとかしてくださいよ!」
  この先輩がたに激励なんてものを期待する俺も俺かもしれない。長谷さんの件については最早今更だ。
  だけど、先輩がたと話していると、確かに彼女を幸せにしなくちゃいけないと強く思う。やっかまれたりからかわれたりするのとは別の意味合いで。プロポーズもせめて、先輩がたに不安がられないよう格好良く済ませたいものだ。
  結局俺は、指輪を用意しなかった。プロポーズの後で一緒に買いに行ってもらおうと決めた。
  肝心の決行日には、レストランに予約を入れた。
 『――展望レストラン、ですか?』
  デートの誘いを持ちかけた電話越し、彼女の声も普段通りに聞こえた。
 「はい。眺めも雰囲気もいい店を教えてもらったんです」
  俺も、せめて口調だけは気負いのないように告げる。
 「ここ一ヶ月ほどはゆっくり会う時間もありませんでしたし、久し振りですから、ちょっと奮発しようかなと」中絶薬
 『別に気を遣わなくてもいいんですよ、霧島さん』
 「いえ、こういう時こそ遣わせてください。久し振りですから」
  デートの間が空いたことを強調したら、やがて彼女もくすっと笑って、弾む声で賛同してくれた。
 『じゃあ……素直にごちそうになっちゃいます』
 「ごちそうします、喜んで」
  まずは誘い出せたことにほっとする。
  こんな気分もそういえば久し振りだな、とふと思う。二年以上の交際期間で、二人で会うのもいつの間にやら当たり前のようになっていたし、土日を互いの為に空けておくのも何も言わないうちから普通のことになっていた。
  俺は電話を持ち替えて、自分の部屋の片付き具合をざっと目で確かめる。九月に入ってからようやく掃除をする余裕が出てきた部屋も、決行日までにはもうちょっときれいにしておきたい。外で会う約束をしても、部屋を片付けておく習慣もまた当たり前になっていた。ここ二年で俺の部屋には彼女の持ち込んだ私物も増えていたし、ふらっと一晩泊まっていけるくらいの備えは常にある。
  だけど繁忙期の間は、部屋では会わないようにするのも当たり前のことになっていた。合鍵は渡していたものの、忙しい時期には彼女も訪ねてこない。掃除していない部屋を見られるのはまだ抵抗があって、そういう気持ちを彼女も理解してくれているらしい。お互い勤めに出ているのは一緒だから、仕事のせいでデートの間が空くくらいどうってこともなかった。
 『その日は、泊まっていってもいいですか』
  長谷さんが尋ねてきたので、俺は素早くこう答えた。
 「頑張って掃除をしておきます」
 『そんな、頑張らなくてもいいですよ。無理はしないでください』
 「無理でも何でもします、長谷さんの為なら」
  久し振りだから、土曜一日だけでは足りない。ましてその日はプロポーズの決行日でもあるのだから、出来る限り長く一緒にいられたらと考えているし、当日も同じように思うはずだ。となるとやっぱり、部屋の掃除が必要だった。
 『私はちょっとくらい散らかってても気にしないです』
  小さく笑った後で、長谷さんは柔らかく言い添えてきた。
 『でも楽しみにしてます。本当に、久し振りって感じがしますね』
  彼女の言い方は幸せそうでも、甘えるようでもあった。電話越しではなくて、直に耳元で聞いていたい声でもあった。
  俺たちの言う久し振りとはたかだか一ヶ月超の長さで、その間も全く顔を見ていない訳でもない。顔が見たいだけなら受付に行けばいくらでも見られるし、電話やメールでやり取りもしている。良く出来た彼女の長谷さんは、時々残業する俺の為にお弁当を作って、手渡してくれたりもした。この一ヶ月超ですら繋がり自体は途絶えていなかったのに、本当に長い間会っていなかったような気がするから不思議だ。約束の土曜日が急速に待ち遠しくなってきて、一瞬、プロポーズについても指輪の件も遠くへ吹っ飛びかけた。まずい。
  デート自体が楽しみなのも事実ではある。あるけども、『久し振り』を失くす為の約束をしに行くのだと思えば、肝心のことも忘れずに済むだろう。どうってことない、なんていうのも所詮は男の痩せ我慢に過ぎない訳だから。
 「俺も、楽しみにしてます」
  万感の思いを込めて応じると、彼女はもう一度笑ってから予告してきた。
 『じゃあ私、ノースリーブのワンピースを着ていきますから』
 「――是非お願いします。大変楽しみにしてます!」
  我ながら食いつきの良過ぎる答えだと思った。でも久し振りなんだし、好きなんだから仕方ない。
  彼女との通話を終えてから、俺はもう一度自分の部屋を目で確かめた。
  忙しくなると途端に荒れ出す室内。今は先月よりはいくらかましだ。でも結婚するということは、繁忙期の生活態度を彼女に晒すということでもあるんだろう。
  プロポーズが上手くいかない可能性は考えていないけど、実際に結婚するまでに生活態度の方は改めておこう。
  結婚に至るまでの手順は案外多いものだ。時間が掛かるのもしょうがない。
彼女との待ち合わせ場所は、利用する交通手段によって異なる。
  バスで出掛ける時は彼女のマンションの近くにある、歩道橋下のバス停で待ち合わせる。電車の時は俺の部屋まで来てもらって、そこから駅まで二人で行く。彼女の部屋から駅へ向かう道の途中に俺のアパートがあるからだ。今日は電車なので、俺は狭い玄関で靴を履いたまま、彼女がチャイムを鳴らすのを待つ。
  こういう時、車を持っていたら便利なんだろう。先輩がたからもよく『お前の為じゃない、長谷さんの為に買え』とせっつかれるし、俺もあった方がいいのかなと時々思ったりする。だけど業務でさんざん乗っているから、休みの日は運転したくないというのが正直なところだ。休日くらいは営業の仕事も忘れていたい。威哥王三鞭粒
  もっとも、今日は仕事のことなんて思い出している余裕もなさそうだ。いつもよりも早く支度が済んで、靴を履いた頃から少々緊張してきた。まだ九月の下旬だからスーツは暑い。狭い玄関は蒸していて、そんな中でじっと座り込んでいる自分がいささか滑稽に思える。
  チャイムが鳴ったのは待ち合わせ時間の五分前だった。すかさず立ち上がってドアを開けたら、真正面に立っていた彼女が大きく目を瞠った。
 「わ、びっくりした」
  それからおかしそうに微笑んで、
 「早いですね、霧島さん」
 「待ってました、玄関で」
  俺の正直な告白に、更に肩を揺すってみせた。狭い玄関の蒸した空気がたちまち清涼なものに変わったような気がした。
  予告通りワンピースを着ていた。涼しげな薄いグリーン、その上に同系色のカーディガンを羽織っている。緑が似合うのは彼女の、一向に失われない瑞々しさのせいだろう。一応同期で同い年のはずなのに、ここ二年で俺だけが歳を食って、彼女はまるで変わらないように見える。
  その服装に見とれていれば、長谷さんは可愛らしく小首を傾げた。
 「おかしくないですか?」
 「ちっともおかしくないです。素敵ですよ」
  俺は力一杯答える。そうしたら首を竦めて、くすぐったそうにされた。
 「ありがとうございます。霧島さんも決まってますね」
 「いや、それほどでは……俺はいつもと似たような格好ですし」
  建前上はレストランへ行くからという理由で、本当のところはもっと別の理由から、着ていく服をスーツに決めた。普段との違いがあるのかどうか怪しいものだけど、彼女は前向きな誉め言葉をくれる。
 「私には、いつもとは違って見えます。表情が勤務中よりも柔らかくて、くつろいでいる感じに」
  くつろげるほどの余裕は、むしろ彼女の言葉によってようやく得られたみたいだ。二年も一緒にいればさすがに、久し振りに会った休日でも落ち着いていられるようになっただろうか。俺は照れ笑いと衝動を噛み殺そうとして、衝動にだけは僅差で負けて、玄関にいるうちから彼女の手を取る。
 「あっ」
  声を上げ、目を瞠る彼女。すべすべした手を握ると、やがて滲むように笑われた。
 「久し振り、ですね。手を繋ぐのも」
  二年も一緒にいれば、こういう時に長谷さんがどう感じているかもわかる。うろたえると口数が少なくなるのが彼女だ。うろたえさせているのが他でもない俺なのだと思うと、こっちの心拍数まで上がってくる。
 「ええ、あの……やっぱり顔を見るだけじゃ物足りないですから」
  玄関の室温も上がる。頭が眩んでしまう前に、レストランがどうでもよくなってしまう前に、外へ出なければならない。急いで語を継ぐ。
 「じゃあ、行きましょうか」
  彼女もはにかむ顔つきで頷いた。
 「はい」
  眺めのいいレストランということで、本来はディナーにすべきだったのかもしれない。
  俺がランチで予約を入れた理由は、食事とプロポーズを終えたその足で指輪を買いに行こうと考えていたからだった。でもガラス張りのエレベーターに乗り込んだ時、夜景も良かったかもなとちょっと悔やんだ。昼間の景色に情緒はない。これはこれで悪くもないんだけど。
  ホテルの最上階にあるレストランは、この辺り一帯を網羅出来そうな眺望が売りだ。絶好の秋晴れの日、大きな窓からはひたすら高い青空と、陽射しを浴びた街並みとが見渡せた。席に案内されて早々、長谷さんははしゃいだ声を上げていた。
 「わあ、いい眺め。山に来たみたいです」
  なるほど、そういう感想もあるのか。情緒がないと決めつけるのは尚早だったかもしれない。
 「行楽の秋と食欲の秋がいっぺんに楽しめますね」
  むしろ俺の反応の方が情緒に欠けていたかもしれない。
  彼女はうれしそうな顔をして、
 「それは最高の組み合わせだと思います」
  と言ってくれたものの、もう少し気の利いたことを言うべきだったと思ってしまう。気が利かないのは今に始まった話じゃない、でも今日は特別な日だ。その瞬間までに気分を盛り上げておかなくてはならない。
  そもそも、いつ切り出すべきなんだろう。
  食前か食後か。食べている間でもいいんだろうか。美味しい食事ですね、ところで結婚しませんか、なんてあんまりスムーズな流れじゃない。でも帰り際までには言わないと、指輪を買いに行くタイミングが外れてしまいそうだしな。難しいな。
  俺があれこれ考えている真正面、白いクロスの映えるテーブルを挟んだ向こう側で、ふと彼女がカーディガンを脱いだ。線のきれいな二の腕と、剥き出しのつるりとした肩に落ちた丸い光とにいとも容易く目を奪われる。女性のパーツのどこが一番魅力的かという話題についても俺と石田先輩と安井先輩の意見が合致することはなかったけど、先輩がたがどう言おうと俺は絶対に二の腕だと思う。そして長谷さんはノースリーブが世界一似合う。三鞭粒
  こちらの反応に気付いてか、彼女はちらっといたずらっ子みたいな表情をひらめかせた。
 「霧島さんが喜んでくれるから、着てきました」
  はい、もう、本当に喜びます。最高です。一生俺の為にノースリーブを着ていてください。――という言葉を慌てて飲み込む。
  駄目だ、いくらなんでもそんなプロポーズは駄目だ。こういう時こそ格好良く決めなければ、いつ決めるというのか。
  グラスの水を一口飲む。冷たさが喉を下って胃まで落ち、ようやく頭が冴えてくる。眼鏡の傾きを直すと、レンズと白いテーブル越しに彼女の笑顔と向かい合う。いつも我が社のエントランスで浮かべているのと同じ笑顔。
  ジンクスを信じて失敗したことは一度もなかった。何でも上手くいった。
  今こそ、改めて信じるべきだ。
 「長谷さん」
  意を決して呼び掛ける。
  彼女は怪訝そうに瞬きをした。が、直後に視線を横へずらした。ちょうど前菜が運ばれてきたところだったからだ。お蔭で俺は配膳が終わるまで待たなくてはならず、肩に力が入った状態でしばらく、気まずい思いをしていた。間の悪さも相変わらずだった。
  皿を並べ終えたウェイターが立ち去ってから、彼女がそっと反応を返してきた。
 「霧島さん?」
  そうやって呼ばれるのは好きだった。恋人同士なのにいつまで名字で呼び合う気だと石田先輩辺りは言うけど、俺にとってはこの呼び方も貴い。何せ営業課の面々の中、一番に名を覚えてもらったのが俺だという事実がある。他の課員を差し置いて長谷さんに呼んでもらえるという幸せがこの二年間、俺を支えてきたといっても過言ではない。
  もっとも、それだけではないからこうして、切り出そうとしている。更に幸せになる為に。
 「お願いがあります」
  ジンクスを信じて、告げる。
 「俺と、結婚してください」
  ここで怯むのは最も格好悪いから、誤魔化しようも翻しようもない言い方をした。
  だけどそのせいだろうか、長谷さんはかなり驚いたようだ。初めに虚を突かれたような顔をして、それからしきりに瞬きをした。何を言われたのかわからない様子にも見えたから、答えを待つこっちの方がはらはらしていた。あったはずの自信が消え失せてしまった数秒間。生きた心地がしなかった。
  しばらくしてからようやく飲み込めたのか頬を赤らめて、喉のつかえが取れたみたいに息をつきながら言ってきた。
 「……はい」
  そして、どぎまぎしているのがよくわかる口調で、続けた。
 「あの、私でよければ、是非」
  実はそれからが大変だった。プロポーズの返事を、しかもOKを貰えたというのに、俺はものすごく無様ににやけてきてしまって、どうにかして真面目な顔を作っていようと必死だった。だけど無理だ、口元が緩んでしまってしょうがない。表情どころか身体ごと全部溶けてしまうんじゃないかとさえ思えた。
  心配はしてなかったとは言え、ジンクスを信じていたからちっとも不安なんてなかったものの――やっぱり、非常にほっとした。うれしかった。どうしよう俺、今夜は寝られないかもしれない。いや寝なくてもいいか、彼女を連れて帰るんだから。
  どうにか笑いを噛み殺したところで、お礼を言った。
 「ありがとうございます」
 「いえ、こちらこそです」
  長谷さんまでなぜか頭を下げてくる。その後で、はにかみながらふと、
 「でもびっくりしました。今日言われるとは思ってなかったから……」
  まだうろたえている声で言われた。よほどびっくりさせてしまったんだろうか。可愛いな、十分知ってたけど。
 「いつだと思っていたんですか」
  ちょっと余裕の出てきた俺は、調子に乗って尋ねてみた。
  返ってきたのは恥ずかしそうな答えだ。
 「もうじき霧島さんの誕生日があるから、その頃かなって……。それかクリスマス頃じゃないかなと、私はそう思ってました」
  言われて初めてそれら節目の存在を思い出してしまう、情緒のない俺。そういえばそうだった。誕生日も十二月二十三日も、改まってのプロポーズをするにはいい日だったのかもしれない。むしろそういう口実を存分に利用しなければならない頃もあったんだなと、つい三年前のことを懐かしく思ってしまう。天天素
 「どうして、今日にしたんですか」
  逆に長谷さんから問われて、俺は一瞬答えに窮したものの、正直に言うことにした。
 「特別きっかけはないんですが、強いて言うなら、久し振りに会ったからです」
 「……そうなんですか?」
  今日一番びっくりしたらしい彼女の、丸くなった瞳。そこへ向かって打ち明けておく。
 「実を言うと、指輪のカタログはずっと前から貰ってきてたんです」
 「霧島さんらしいですね」
  なぜか、おかしそうにされてしまった。
  彼女の言う俺らしさってどういう点なんだろうな。例によっていまいち決まらなかったプロポーズの後、俺も少々の気恥ずかしさは味わっていた。
  それでも安堵の方がより大きくて、運ばれてきた食事の味も存分に堪能出来た。
結婚のきっかけってものがはっきりしていたら格好良かったのかもしれない。
  よく映画にあるような、九死に一生を得た後で結婚を決意するとかそんな理由があれば――なんて、そもそも普通に生活していたら、九死に一生を得る機会すらそうはないはずだった。
  俺はごく平穏な日々しか送っていないから、決意のタイミングもごく平穏に訪れてしまったのだろう。仕事に追われる日々を過ごすうち、何となく、じわじわと彼女のいる生活を求めただけ。もっと言えば彼女について欲が出てきただけだ。最初は受付で見かけて、笑いかけてもらえたら幸せな気持ちになれた。それが帰り道で偶然出会って、運良く五分間だけ一緒に帰れるようになった。そのうちにだんだん長い時間一緒にいたくなってきて、休日を二人で過ごすだけでも足りなくなってきて、やがて辿り着いた答えが結婚だった。
  その答えもすぐに出せた訳ではなく、先輩がたに急き立てられ、呆れられつつものんびりしてきて、今日に至る。おまけにプロポーズに最適だったであろう記念日の存在を頭からすっ飛ばしていて、何の縁もゆかりもない日に切り出して、彼女をびっくりさせてしまった。決まってないことこの上ない。
 「長谷さんは、ご都合は平気ですか」
  食事をしながら聞いてみると、彼女には怪訝な顔をされてしまった。言葉足らずだったかなと慌てて付け足す。
 「結婚についてです。時期は長谷さんの希望に合わせます」
 「私はいつでもいいですよ」
  小さく笑った彼女が、グラスに口をつける。水を飲んだ後に唇をつけた場所を拭うのが、色っぽくていいなと思う。俺がそんな不埒なことを考えている間に、彼女は微かに息をついた。
 「私の方こそ、霧島さんの都合に合わせますから。お仕事が落ち着いてからでもいいですし、忙しい時期だからこそ私を頼ってくれるってことなら、それでもいいです」
  今度は多分、俺の方が怪訝そうにしていたと思う。
  頼る?
  彼女を?
 「い……いえいえそんな、今でも十分頼ってますから、これ以上は」
  合点がいってからは大急ぎで否定した。彼女がいいお嫁さんになるであろうことは先輩がたに言われるまでもなくわかっていたことだけど、だからと言って彼女に家事全般を押し付けるつもりもなかった。長谷さんが作るご飯は美味しいし、繁忙期に疎かになりがちな洗濯や掃除を手伝ってもらえたらそれは大層ありがたい。だけどそれだけの為に結婚したい訳じゃない。むしろいつも受付で浮かべているような笑顔で、俺が帰る部屋にいて、出迎えてくれるだけでいい。土日と言わず年中傍にいてくれたらいい。
 「俺は、結婚を機に生活態度を改めようと思っているんです」
 「今まで、改めなくちゃいけないような生活態度だったんですか?」
  俺が述べた決意を、長谷さんはくすくす笑いで受け止める。その辺りはもう十分伝わっているところだとばかり考えていたので、詳しく説明するのも気が引けた。
 「まあ、その……繁忙期なんかは、決して誉められるような暮らしぶりではないはずです」
  忙しい時期に彼女と会わないのは、つまりそういう理由だ。普通に考えれば合鍵を渡していて、彼女の私物もたくさんある部屋に、彼女を立ち入らせない期間があるのはおかしい。鍵を渡した以上はいつでもお越しくださいと言うべきだろう。俺はその理由を仕事のせいにしてきたけど、ただの口実であるのは言わずもがな。曲美

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