今日は、いつもと少し違う顔ぶれで飲みに行くことになった。
メンバーは私と、
「小坂さんとは一度、サシ飲みしてみたかったんだよ」
笑顔で語る安井課長と、蟻力神
「先輩、俺もいるんですけど。スルーしないでもらえます?」
なぜかうろんげにしている霧島さんの三人だ。
うちの課の飲み会でも行ったことがある、ごくありふれたタイプの騒がしい居酒屋のボックス席で、私と安井課長が並んで座り、その向かい側に霧島さんが一人で座っている。何だか新鮮と言うか、不思議な感じさえする構図だった。
安井課長はさも今気づいたというように目を瞠る。
「あれ、いたのか霧島。気乗りしないなら帰ってもいいのに」
「何でですか! そもそも俺が誘ったんですよ今日は!」
「やけに浮かない顔をしてるから。奥さんに逃げられてナーバスなのか?」
「逃げられてないです! 滅多なこと言わないでくださいよ!」
むっとした様子で反論した後、霧島さんは眉を顰めた。
「先輩こそ、いいんですか。小坂さんの隣に座っちゃって。石田先輩が来たら間違いなく怒りますよ、血を見るかもしれませんよ」
物騒に聞こえる脅し文句にも安井課長はうろたえない。右隣の私ににっこり笑いかけながら、
「今日の残業は大分かかるって言ってたし、それまでは俺が小坂さん独占してたっていいだろ」
と話すから、私はちょっと反応に困る。
もちろん、今の思わせぶりとも言える発言を本気に取るつもりはない。そして安井課長も霧島さんも見知らぬ相手ではないし、一緒にお酒を飲んだことも、お食事をしたことだって何度もあるから、今更緊張しているわけでもない。
だけどそういう場に石田主任の姿がないのは初めてだった。
おかげでこうして座っていても、ずっと不思議な感じがしている。
寂しいような、待ち遠しいような、主任がいなかったらこのお二人とのご縁もなかったんだって、つくづく実感するような――私の人生にいろんな新鮮さや、楽しみや、幸せをくれたかけがえのない人、って言ったらさすがに気恥ずかしいけど、でも決して間違いじゃない。
今日の私は、そんな石田主任のピンチヒッターを務めることになっている。
そもそもどうしてこのメンバーでの飲み会が催されたのかと言えば、先にもご本人が話していたように、まず霧島さんが安井課長、石田主任を誘ったのだそうだ。
霧島さんの奥さん、ゆきのさんは今日から二日間、有給を取って法要の為にご実家へ帰省しているらしい。そこで霧島さんは今日と明日のご飯をどうするか、という大切な問題に直面することになった。一応、霧島さんにも一人暮らしをしていた期間があり、家事が全くできないというわけではないらしいのだけど、主任が言うには『あいつは放っておいたら中華麺だけ茹でて、具なし冷やし中華で三食済ますぞ』とのことなので、ゆきのさんもそれはそれは心配らしく、そのくらいなら外食してお野菜食べてください、と言い残していったのだとか。まさに美しき夫婦愛だ。
奥様からの愛の指令を背負い、霧島さんは外食のお誘いを仲良しのお二人に持ちかけた。以上が、私が説明を受けた前情報になる。
そしてここからが、私がその場に居合わせて聞いたいきさつになるのだけど――約束をした当日の午後になって、石田主任には不意の仕事が入ってしまった。客先から、どうにかして急ぎでお願いできませんかと必死で頼み込まれたようで、日頃お世話になっている相手だからしょうがなく引き受けたと話していた。
「――そういうわけだから、今日は行けたら行く。悪い」
終業後、営業課まで迎えに来た安井課長に対し、石田主任は申し訳なさそうに謝罪していた。きっと早めに仕事を切り上げてきたんだろう、課長は既に帰り支度を済ませていたし、霧島さんも準備はできていたようだった。
「仕事が入ったんじゃしょうがないな」
そう応じつつも、安井課長は非常に残念そうだった。ちらっと霧島さんの方を見てから溜息をつく。
「ってことは霧島と二人きりか……分が悪いな……」
「分って何ですか先輩。勝負事でもないのに」
「今日は独身に戻ったお前を、石田と二人でからかってやるつもりでいたんだよ」
「戻ってないですから。誤解されるようなこと言わないでください!」
もうからかわれ始めている霧島さんは、それでも石田主任のことが心配なようだ。主任の机の上に積まれた書類を気遣わしげに見やった。
「今日中に終わりそうですか?」
「少なく見積もってもまだ三時間はかかるな」
石田主任は苦笑いで答える。それからわざと追い払うように手を振って、
「俺のことなんか気にしなくていいから。ちゃんと奥さんの言いつけ守るんだぞ、霧島」
いつもより柔らかい言い方で皆の心配を払拭しようとしていた。
その一連のやり取りを見守りつつ、私も密かに気を揉んでいた。幸いにも私の今日の仕事は一段落ついていたから、もしよければ主任のお手伝いをしようかと考えていた。普段ならそう申し出てもなかなか手伝わせてはもらえないのだけど、今日の主任には先約があったのだし、きっと心中ではどうにか間に合わせて霧島さんたちと合流したいと願っているに違いない。だから今日ばかりは私にも、微力ながらもお手伝いができるんじゃないかなと思ってみる。
そんな風に考えていた折も折、少し残念そうに営業課を出て行こうとした安井課長がこちらを見た。私が机の上の整頓を始めているのを目に留めてか、すぐに尋ねてくる。芳香劑
「小坂さん、もう上がり?」
「はい。いつもより早く仕事が片付きまして」
言いながら私は横目で主任を見る。私はすごく暇ですので、お手伝いならいくらでもできます。猫の手も借りたいくらいでしたら是非とも私を使ってください! というアピールのつもりで――あいにくと主任は私の視線に気づかず、熱心にお仕事を再開していたけど。
「そっか……」
安井課長はそこで、どういうわけか愉快そうな顔をした。傍で立ち止まった霧島さんが訝しそうにしていても構うことなく、私に向かって続ける。
「だったら小坂さん、これから暇?」
「もちろんです!」
私は力一杯頷いた。
きっと安井課長は次にこう言うだろう。小坂さん、それなら石田の仕事をちょっと手伝ってやってくれないか、みたいに。先程からの残念そうなそぶりからもわかるように、安井課長は何だかんだで主任のことをいつもすごく心配している、とても優しい人だった。
だから私は、次の言葉にも思いっきり頷くつもりでいたのに、
「よかったら今夜、俺たちと飲みに行かないか? 石田の代わりに」
かけられた誘いは予想だにしないものだったから、一瞬混乱した。
「えっ? 主任の代わりに……ですか?」
「そう。仕事が入っちゃった石田のピンチヒッターで」
いかにもナイスアイディアだというふうに微笑む安井課長は、その後で霧島さんの方を振り返る。
「な、霧島も異論ないだろ? 小坂さんが一緒ならきっと楽しいし」
「俺はありませんけど」
霧島さんはあっさりと答え、やっぱり軽く笑んだ。
「でも、いいんですかね。小坂さんを誘ったりしたら、誰かさんがやきもきして仕事が手につかなくなったり……なんてことになりません?」
「かえってモチベーションになるんじゃないか? 仕事を頑張って俺たちに合流できたら、そこに小坂さんが待ってるんだから」
首を竦めながら安井課長は語る。
「そういうわけだから、小坂さん連れてっていいよな、石田?」
急な話の進み具合に戸惑っていたのは私だけじゃなく、石田主任も同じようだった。たちまち不機嫌な顔になる。
「お前、俺の目の前で堂々と小坂誘ってんじゃない」
「今となっちゃ俺と小坂さんも、石田を介さなくてもいいくらいの間柄だろ」
「いつからだよ! 霧島がいなかったら断固反対してるとこだぞ」
主任は安井課長に対しては嫌そうな態度を取りつつも、私にはやむを得なさそうに言った。
「まあ、おっさんとおっさん予備軍のサシ飲みってのも絵的に哀れで虚しいからな。お前が嫌じゃないなら俺の代打で行ってやってくれ、小坂」
「わ、わかりました。じゃあ……」
「……もちろん俺は後で駆けつけるが、それまでの短い時間ですら俺がいないのが嫌なら、そこは嫌ですってはっきり言ってもいいんだからな、遠慮なんてすんなずばっと言ったれ」
別に嫌ではちっともないんだけど、主任は私に飲みに行って欲しいのか、欲しくないのか、どっちだったんだろう。
そんなこんなで、いつもと趣の違う飲み会は始まった。
飲み会と言ってもメインの目的は霧島さんにお野菜を食べてもらうことだ。それで私たちのテーブルには一通りのサラダメニューが続々と運ばれてきた。シーザーサラダに大根サラダ、豆腐サラダにアボカドとエビのサラダ――おかげですっかりグリーンを基調とした目にも身体にも優しい食卓になった。傍に寄り添うビールの中ジョッキが、何だか肩身狭そうに見えてしまう。
「何事にも限度ってものがあると思うんですよね」
卓上を占めるサラダシリーズに霧島さんは呆れ顔だ。サラダを注文した当の安井課長は嬉々としていたけど。情愛芳香劑
「このくらい大げさにやらないとお前の奥さんが心配するだろ。ほら、証拠写真でも撮っといたらどうだ」
「そんなものなくても、彼女は俺を信用してくれますから」
霧島さんがきっぱり断言する。いいなあ、すごく格好いい言い方だ。
「はいはい、ご馳走様です」
感動する私とは対照的に、安井課長は投げやりにぼやいた。それから隣に座る私を見やって、ふと苦笑いを浮かべる。
「しかし、信用されてるって言ったら小坂さんもだな。石田があんなにあっさり許可を出すとは思わなかったよ」
「そうですか?」
「うん、もっとごねると思ってた。と言うかそっちを期待してた」
期待してたんだ……。
でも私も、主任の不在を埋めるピンチヒッターとして招かれたんだろうし、後からでも主任が合流するってことじゃなければ来てなかっただろうと思う。霧島さんも安井課長もとてもいい人で大好きだけど、石田主任のいないところでお会いするっていうのは、ちょっと違う気がするから。
そういう意味でも、今のこの時間はちょっとレアだ。やっぱり不思議な感じ。
「何か悔しいから、石田に脅迫メールでも送ってやろう」
心なしかはしゃいでいるような安井課長は、携帯電話を取り出してメールを打ち始めた。文面をゆっくりと読み上げながら、
「『お前の可愛い部下は預かった。早く来ないと俺が何をするかわからないぞ』と……」
「やめましょうよ。石田先輩は残業中なんですから、邪魔しちゃ悪いですよ」
霧島さんが取り成すように言うと、安井課長は一度手を止め視線を上げる。直に携帯のディスプレイへ目を戻し、更に続きを打ち始める。
「『お前の、全く可愛げのない部下も預かった』……」
「いや、俺のことはいいですって。先輩も釣られないと思いますし」
「そうだな。やっぱり人質は小坂さんじゃないと」
いつの間にか私、人質扱いになってる。確か主任のピンチヒッターで、という話だったはずなんだけど。
そして結構物騒な話題ばかりだ。男の人同士の会話って、いつもこんな調子なのかな。
「主任なら大丈夫ですよ。ちゃんと後で来るって約束してくれましたし」
だから私が保証すると、安井課長はそれには答えずににやりとした。
「もう終業後だし、遠慮なく『隆宏さん』って呼んでもいいんだよ、小坂さん」
「あ! あのっ、……すみません、終業直後だけに気持ちの切り替えができてなくて……っ」
まさかそこを突かれるとは思ってもみなくて、私はしどろもどろになる。おかげでお二人ににやにやされてしまった。
明らかに経験不足、力量不足の私に、石田主任――隆宏さんの代打は、果たして勤まるだろうか。
結局、安井課長はその脅迫めいたメールを送信してしまった。
石田ならきっとすぐに返事を寄越すだろ、そう言って課長は笑っていたけど、直後に鳴ったのは私の携帯電話だった。
「あっ、ちょっと失礼します」
一言断ってから確認すれば、受信メールが一通――送り主は予想通りと言うか何と言うか、石田主任だ。
『どうせ貰うならお前からの励ましメールがいい』
メールの本文は簡潔にその一行だけだった。それだけでも私はなぜだかにやけてしまって、そして私の様子に気づいた安井課長がこちらを覗き込んでくる。
「石田の奴、俺からの激励じゃ不満だって言うのか」
激励、にしてはさっきのメールは物騒な文面だったような気もするけど、でもそう話す安井課長の方がまるで不満げだったのはおかしかった。私と目が合えば悔しそうに、
「しかも俺には返信なしだぞ。不公平じゃないか、なあ小坂さん」
と同意を求めてくる。
私は笑いながら応じた。
「きっと主任も、どう返事をしようか迷っちゃったんですよ」
「それはないな。あいつはこっちが一つ言えば三つ返してくるような男だよ」
「じゃあ後ででもお返事来るといいですね」
「……いや、そこまで返事欲しいってわけでもないんだ」
課長は軽く苦笑しつつ、照れてもいるようだった。
「そういう素直な言い方されると困るな。俺は君ほど石田を待ち焦がれてるわけじゃないから」
そんな風に釘を刺すってことは、何だかんだで安井課長も、なるべく早く主任に来て欲しいって思ってるんだろう。素直じゃないなあ。三體牛鞭
よし、私からも主任へエールを送っておこう。何て書こうかな。
「どこが激励ですか。普通に脅迫でしたよ」
遅れてツッコミを入れてきた霧島さんも携帯電話を手にしていた。画面をこちらへ向けて腕を伸ばし、私と安井課長へ見せてくる。画面上には一通の受信メールが開かれていて、そこには石田主任からのメッセージが記されていた。
『安井が小坂に不届きな行動を取ったら、その時はお前が安井を切り捨てろ!』
先程の脅迫メールに負けず劣らず物騒な返信だった。
「あの人、俺を鉄砲玉にする気ですよ」
呆れる霧島さんに、安井課長が声を立てて笑う。
「そんなこと言ってる暇あったら仕事片せって送ってやれ」
「先に煽ったの誰でしたっけ……? まあ、送りますけど」
「ついでに『俺と小坂さんがちょっといい雰囲気』って書いといて」
「嫌ですよ。次に何を指示されるかわかったもんじゃないですし」
霧島さんはどうやらものすごく簡潔なメールを送ったらしい。ものの数秒で送信まで全部終えてしまって、すぐに携帯を置くと、大根サラダをばりばりと食べ始めた。合間にビールを一口飲むと、途端に微妙な顔をする。
「生の大根とビールって相性凄まじいですね。この辛味と苦味のハーモニー」
「奥さんのありがたみがわかったろ、霧島」
「そうですね、本当に……」
安井課長にからかわれて真面目に答えた霧島さんは、私たちに向かって発破をかけてくる。
「ほら、早いとこサラダのノルマクリアしましょう。石田先輩が来たらもうちょっとビールに合うものを注文したいです」
ノルマ扱いなのは笑ったけど、ビールに合うものを食べたいのは私も同じだ。ここは是非とも消費に貢献しよう――と、その前に主任にメールを送ってしまおう。
お二人の前でいつものような文面を考える余裕はなかったので、私も簡潔に用件だけ書いて送った。霧島さんも安井課長も、もちろん私も待ってますから、もし来れたら来てください。お仕事頑張ってください……ここまで打って、ちょっと無難と言うか、寂しい文章のような気もしてきたので、もう一言付け足しておく。
――私たち、気づいたら隆宏さんのお話ばかりしています。
それから一時間ほど経つと、さしものサラダ軍勢も大方片づいてきた。追加注文では各々、サラダよりはビールに合うメニューをオーダーして、お酒も少しずつだけど進んできた。
そうなっても私たちの話題の中心は、ほぼずっと石田主任についてだった。
「大体、何であいつだけいい目見てるんだか。こんなに若くて可愛い部下ができたと思ったらそのまま彼女にまでしてしまうなんて、全くもってけしからん。そして羨ましい!」
アルコールが回ったからなのか、安井課長はそんな言い方をしてくる。私としては反応に困る。
「あの、それほどでもないです……」
「いやそれほどでもあるね。同い年の奴が七つ下の子と付き合ってるってだけで何だか腹が立つ」
「男の嫉妬は醜いですよ、先輩」
霧島さんは念願の冷やし中華を食べながら冷静に応じた。
ふん、と安井課長が鼻を鳴らす。
「嫉妬もするだろ。あいつがどんな善行を積んで可愛い彼女を手に入れたっていうんだ」
「善行っていう考え方が既に間違ってると思います」
「じゃあ何だ、運か。運の問題か」
「まあ、ぶっちゃけて言えばそうでしょうけど」
「お前が結婚できたのも運がよかったからか」
「それはどうですかね。俺の場合は日頃の行いのよさかもしれません」
笑顔の霧島さんを見て、安井課長は面白くなさそうな顔をしていた。
「どうして俺だけ寂しい思いをしてなきゃならないんだ。納得がいかない!」
むくれたようにビールを呷る姿を見て、確かに不思議だなあと私も思う。安井課長も素敵な人だし、口ではあれこれ言いつつも優しい人だし、歌も上手いから社内には憧れてる女子社員もちらほらいるって小耳に挟んだことがある。だからお付き合いしてる人がいないのは意外だった。
「小坂さんも、石田について不満とかない?」
その安井課長が私に水を向けてくる。考えがよそに飛んでいたのもあって、私は慌ててかぶりを振った。
「えっ、ないですよそんなの。主任もとっても優しい方ですし」
「そうは言っても、付き合ってたら不満の一つや二つくらい出てくるものだろ? むしろあいつは優しすぎて駄目になるタイプだしな。何ならここで洗いざらい喋っちゃってもいいんだよ」
優しすぎてよくないことなんてあるのかな。人間、できるだけ他人に優しい方がいいように思うけど、今の言葉には安井課長なりの懸念、あるいは心配みたいなものがそこはかとなく窺えた。
そして石田主任という人は皆にはもちろん、私に対しても本当に優しくて気配り上手な人だ。一緒にいて辛いことなんてないし、幸せなことばかりだった。
だから不満なんてちっともないんだけど、現状に百パーセント満足しているかと言えばそうでもないのかもしれない。だって、こうしてお付き合いを始めて数ヶ月経った今でも『慣れた』という実感はまるでないし、未だに二人でいる時はすごくどきどきするし、緊張もする。一緒にいる時間が長くなればなるほど、浮つきがちだった気持ちも落ち着いていくんじゃないかって思っていたのに、落ち着くどころか心臓の休まる時がないくらいだった。中華牛鞭
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