2013年8月29日星期四

識先生再び

白の砂海でも思ったけど、この世界はまだまだ不思議な場所が沢山あるみたいだ。
  流石ファンタジー。
  イオとロナに迎えられた僕らは、数日の道のりを彼らと一緒に進んでいた。
  初日は吹雪いたけど、一日のサイクルは普通で、魔物の襲撃も魔族の皆さんが華麗に撃退してくれた。K-Y
  出てきた魔物はケリュネオンと同じ顔触れもあったから、対処方法を参考に出来ないかと見学してみたりもした。
  驚いたのは二日目の昼頃から。
  まだ昼なのに薄暗くなったと思ったら、そこから一気に空が暗くなった。
  小一時間も進んだときにはもう夜そのもの。
  地面も所々が氷に置き換わっていて、地表を撫でているような感じになった。
  吹雪の勢いも強まってとても人が踏み入る環境じゃないように思えた。
  でもここではそれが普通なのか、魔族側に慌てた様子はなく初日同様に防寒の結界を展開してキビキビ進んでいく。
  恐るべし北国住まい。
  結局、常闇とも言える状況で吹雪の中、氷の野を進む得がたい経験をした。
  三日目。
  朝が来ない。
  二日目の午後からずっとここは夜だ。
  太陽が出ない場所なんてあるのか。そりゃあ寒いわ。
  この日は、って今日の事になるんだけど、魔族に少し慌てた動きがあった。
  魔物の襲来だ。
  それ自体は珍しくもなくなっていたんだけど、どうやら出てきた敵のレベルが予想以上だったみたいだ。
  かなり迫力のある巨躯のライオン。
  体毛真っ白。
  ケリュネオンでも見たという報告は聞かないし、僕も初見だ。
  立派な鬣たてがみをしたオス(だと思う)が何匹か襲ってきた。
  オス(仮定)が狩りをするのかって驚いたね。
  僕らに飛び掛ってきた時、その大きさがはっきりとわかる。
  前に出た魔族の兵が偶然にも煙草の箱の役割をしてくれた。
  大型のワンボックスカー位あった。
  そして疾はやかった。
  慌てて陣形を整えようとした魔族の兵が一瞬で噛み殺された。
  凌いだ人もいたようだけど、僕の前に出た人は駄目だった。
  軽く言葉を交わした位の関係しか兵隊の人とは築いてないけど、残念な気持ちになる。
  供養になるかわからないけどせめてこいつを倒してあげようかと手を動かした時、そこに識の手が当てられた。
  顔を見ると首を横に振られる。
  なんのこっちゃと思ったけど、少し様子を見る事に。
  結局イオとロナも戦線に加わって白いライオンを撃破した。
  その後も想定外の事が何度か起こった。
  これまでとは明らかに強さの違う魔物が出没しては、同行していた兵を傷つけたり殺したりした。
  防寒の結界は維持されているし進行のペースも変わっていないけど、なんとも満身創痍を思わせる日だった。
  振り返ってみても、ちょっと普通じゃない気がする。
  今、ようやくの休憩を得て、僕らは識が用意したテントで休んでいる。
  ロナは僕らの分のテントも用意してくれていたが、それは辞退していた。
  一応こちらで準備するとは伝えてあったんだけど、この辺りの寒さを想定してちゃんと対応できる物を僕らが用意してくるか不安だったのか、万が一の対応として持ってきてくれたんだとか。
 「ここまでの寒さだって識は想定してたの? これすっごい防寒も考えてあるっぽいけど」
 「はい、魔族領は極寒の地ですから。このテントは即座に展開できて大抵の環境に対応出来るように作らせました」
 「助かるよ。でもさ、魔族も一応用意してくれてたみたいだけど断って良かったのかな」
 「ええ、これに劣るとは言え、どうせ夜は亜空に戻って休んでしまうのですから、あちらの好意を受けて差し上げた方が良かったんじゃありません?」
  あ、澪と同じ意見なんだ僕。
  って事は何か問題がありそうだなあ。SPANISCHE FLIEGE D5
  そうか。
  魔族側から借りると何か探りを入れられる可能性がある?
 「あちらはこちらの不備に備えただけの事、それにロナが用意した物になど頼りたくもありませんので」
  やっぱり。
 「とロナがどうのというのは冗談ですが。お互いの立場を考えてロナはこの道中にそういった事は出来ませんから」
  ……。
  やっぱり、って口に出さなくて良かったー。
  ここはどうしてって質問してもいい感じだろうか。
  何となく、躊躇するな。
 「どうしてです?」
  ナイスです澪。
 「こちらは招待された客人で、ロナは魔王の言葉を我らに伝え案内をする役だからですよ。あれもロナは魔王には忠実ですから、その任務を放棄するようなことはせんでしょうな。だから、例え奴の用意したテントを我らが使ったとしても、夜亜空で休んだとて問題は無いのですよ。内部を探る事は彼女にとっては絶対に出来ない事なのです」
 「バレないようにやれば良いだけじゃありませんの?」
 「私がおります。もしも私に気付かれたら。それに若の力も見ていますから半端な事は全て逆効果だとわかっていますよ、あれも」
  識って。
  ロナの事を本当によく知ってるんだな。
  馴染みの仲というよりは犬猿の仲って感じだけど。
 「はぁ、面倒」
  澪は溜息を一つ吐く。
  ここの所、朝と昼はあんまり彼女が満足するような食事じゃないからなあ。
 「で若様。先ほどはお手を止めてしまい申し訳ありませんでした」
  頭を下げられる。
  別に、謝ってもらう事じゃない。
  理由は聞きたいけどね。
 「いや、別に謝らなくていいよ。でも、理由は何? ちょっと手伝おうと思っただけだよ?」
 「ソレです。あれはロナの手です、若様」
 「……え?」
 「数まで予想していたかはわかりませんが、強力な敵に襲撃させて若様から協力を申し出てもらおうとしたのですよ、あの女は」
  いやいや、それは疑いすぎでしょうよ。
  味方も結構酷い目に遭ってるぞ?
 「いやそれは」
 「その証拠に。我々が出なくてもきちんと対処してみせたでしょう? 全部」
  ……。
  白いライオン、雪獅子も氷みたいな鱗の竜、フロストドラゴンも確かに魔族だけで対処しきったけど。
  それ理由になるか?
 「……納得がゆきませんか。彼らはあのような事態でも防寒の結界も切らさず、人手が減ってもすぐに陣形を立て直していました。見事な錬度と評価する事もできますが、私には予め予想していた反応のように見えました」
  防寒の結界はこれまで通り、戦闘中も解かれてない。
  陣形も、すぐに穴を埋めてはいた。
 「そう言えば、戦闘中数名の兵が私達の方をしきりに気にしていましたね。ロナという女はさりげなくしていた程度ですけど」
  全然気付かなかったんですけど。
  暗い中の吹雪で、あんまり周囲に気を配ってなかったなあ。
  反省だ。
 「ええ。魔族からは協力を頼めない。でもこちらから進んで申し出る分には受ける余地はある。こちらの力を少しでも見る事が出来るし、共闘は連帯感も生みますからな」
 「部下が死ぬのも予想していたって事?」
 「死ぬ可能性は考慮していたでしょう。実際には助かる可能性もあったでしょうが。負傷兵で治療を受けているのは助かった方の兵でしょうし」
 「そこまでして、僕らを探ったり引き入れたりしたいもんかねえ」
 「したいのでしょうね。全貌を知るなら何を犠牲にしても。全てを把握していない魔族ですら、まるで国の客を迎えるような厚遇をするほどには」
  それこそ、無駄なのになあ。
 「たかが商会の代表を招く態度にしてはやっぱり度が過ぎてるよね。魔将が二人だもん」
 「ええ。それにイオの自己紹介、ロナの挨拶。気付かれましたか?」
  あれか。
  僕も少しは違和感を感じてた。
  と言っても。
  言われてあれかと思い出す程度に、だけど。
 「うん、何か変だったね。イオの方はまるで初対面みたいだったし、ロナの方は変異体の一件前みたいなフランクな感じだった」
 「その通りです。イオは王都での事は出来ればノーカウントにして欲しい、ロナの方は変異体の一件の前の振舞いが本来の自分ですよ、と言外に伝えているものかと」
  なにそれ。SPANISCHE FLIEGE D6
 「ちょ、調子よくない?」
  でもそうだとすると。
  いや王都で会ったじゃないですか、って返さなくて正解だったのか。
  言ってたらイオの思惑を思いっきり否定しちゃうし。
 「恐らく魔王から何か言われるでしょうが。そのような意図だと思いますよ。つまり」
  識は一度言葉を区切って目を細める。
 「これまでの”不本意な”関係は一度水に流し良き関係を築いていきたい。魔族は本気で若様とクズノハ商会を欲しているようです。この分だと魔族の都に着いたらパレードでもしてもらえるかもしれませんな、くふふ」
  くふふ、じゃないよ。
  巴化してきてないか、識。
  そっちに行かれると僕の心のオアシスが消えてしまう。
  勘弁してくれ。
 「パレード。パーティーならまだ価値もありますが」
 「澪殿、パレードがあってパーティーが無いのはまずありえません。歓迎のランクとして宴は基本ですから」
 「……なら良い事ですね」
  よくなーい。
 「魔族独自の食というと、半分凍った肉をそのまま薄切りにして食べるものや、様々な味の付いた氷を利用した氷料理なるものがありますな。以前に訪れた時にはその程度しか見ませんでしたが、これほど偏った環境ですから他にも色々あるやもしれません」
 「今日には都につくのでしたか?」
 「いえ、今日は集落で一泊すると聞いています。都は明日ですね」
 「早く食べたいですね、若様」
 「えっ、あ、うん。そうだね、楽しみだ氷料理」
  つい反射的に答えちゃったな。
  ……冬に冷たいものか。
  こたつでアイスは鉄板だけど、こっちではどうなんだろう。
  立って外の様子を見る。
  少し先がもう見えない氷の地面。
  星も見えない真っ暗闇に吹き荒れる風と雪。
  強風の音だけが一帯に響いてる。
  今いる場所が場所なだけに、凍った肉とか氷とか言われても今一食欲が湧かない自分がいる……。


 パタンと。
  静かに扉が閉まった。
 「ルト! 貴方ねえ、何なのよいきなりランサーの卵を非常識が砂海を滅茶苦茶におばさんって!!」
  意味不明な言葉と共にそれまでは落ち着き払っていた妙齢の女性が顔を隠すフードを取り去って、部屋の奥にいる人物に向かって詰め寄っていく。
  上着のボタンを外しフード付きのローブを脱ぎ去ると彼女は横にあったソファに投げるように衣服を放った。
 「っと。ご挨拶じゃな砂々波さざなみ。久しぶりの再会じゃというのに、いきなりこれとは」
 「っ!? あ、ごめんなさい。つい……!?」
 「予想通りか。いやー真君なら絶対やってくれると信じてたよ! 砂海あそこは僕でも覗けないエリアだから、こうなると見れないのが心底惜しかった!」
  他には誰もいないと思っていただけに女はソファから立ち上がった人物を見て、謝罪するもすぐに絶句。
  そして奥にいた彼女の目標、ルトは満面の笑みと共に自ら彼女の所へ歩き出した。
 「貴女、蜃!? え、でも少し違うような……」
 「蜃じゃよ。いや蜃だった者というのが正解かの。とあるヒューマンと支配の契約を結んでな、今は彼かの者の従者として忠実、従順に仕えておる」
 「けい、やく? しはいの?」
  考えて話しているのではなく、鸚鵡おうむ返しに返しているような無機質な女の声。
 「おう。よって今は巴と名乗っておる。先だっては帝都にも行ったぞ、主の供でな」
 「あら。寄ってくれたらお茶くらい出したのに、水臭いのね。でも私もちょっと込み入っていたから仕方ないわね。お構いもしないでごめんなさい。折角貴女が荒野から出てきてくれたのに」
  旧知の竜との思いがけない再会に彼女、上位竜砂々波ことグロントは挨拶する巴に応じた。
  やはり、まだ状況が飲み込めていない。SPANISCHE FLIEGE D9
 「くくっ……で、グロント? 僕に何か用なんだろ?」
  ルトは巴の向かいのソファに腰を下ろして立ったままのグロントを見上げる。
 「!! そうです、ルト!! あのヒューマンは何なのですか! ランサーの卵、上位竜の卵ですよ!? それをヒューマンになぞ預けて!!」
 「でも強かったろ?」
 「そ、それはもう」
 「やっぱり僕より?」
 「少なくとも貴方と喧嘩をした時よりは絶望的な気分になりましたね」
 「はぁー、やっぱりかぁ。傷つくなあ、同じ上位竜にもこう言われるんだもんなあ。真君ナニモノになる気かねえ」
  ルトがソファの背もたれに身を投げて天井を見つめる。
  言葉の割に随分と楽しそうだった。
 「まこと? いえ彼はライドウと言っていましたけど」
 「ああ、どっちでもいいよ。真君がライドウだから。ま、あれだよ。僕らみたいに名前が二つあるようなものだ。気にしないで」
 「はぁ。それなら……で済む訳が無いでしょう! きっちりと説明してもらいますよ! あの最終兵器みたいなヒューマンの事、ランサーがどうして卵になっているかって事、何で私がランサーの面倒なんて見ないといけないのかって事!!」
 「……しかしさあ巴。凄いよね、冒険者ギルドの一室に、今上位竜がこんなに揃ってるんだよ? これってちょっとしたサミットだよね。さしづめD……5?」
  グロントは凄い剣幕で巴の隣、ルトの真正面に座ると彼に詰め寄る。
  しかしルトはその険しい表情も涼しく流して巴に話を振った。
 「実質は3じゃろうが」
 「惜しいなあ、グロントがランサー持ってきてくれたら6だったのにさ」
 「発言できんのが増えても何の意味もあるまいよ」
 「集まりが悪い近年では稀な出席率なのに……」
 「ルト!! 何を意味のわからない事を言っているんです! 私は誤魔化されませんよ!!」
  グロントの剣幕はおさまらない。
 「わかってるよ。ランサーの事だろ? 今説明するって……ほら、これ」
 「……は?」
  ルトがテーブルに二つの卵をどこからともなく取り出して置いた。
  グロントの目が点になる。
  その卵が何かわかったからだ。
 「こっちが夜纏でこっちが瀑布。はい、残念。上位竜はここにいる僕ら以外全員狩られちゃいましたー!!」
 「……ええっと、え?」
 「最初が一応御剣、ランサーで、次が瀑布でしょ、その次が夜纏で最後が紅璃。もう次々に殺し回ってくれてね」
 「私、何も聞いてないわよ?」
 「そりゃあ上位竜を的にするんだから、その辺りは良く考えて動いていたんじゃないの?」
 「……っ!! まさかそれをあのヒューマンが!?」
 「へっ? あー、違う違う。彼は事件を収拾してくれた人。犯人を倒してくれたの。それで皆卵になってて、ランサーについては守役もいない子だから近場の君に任せようかと思って真君にお使いを頼んだって訳」
 「……犯人って何者よ」
 「恥ずかしながら僕の血を妙に受け継いだヒューマンとドラゴンの混血が犯人。いやー倒した竜の力を取り込んで結構無茶な感じになっててね。帝国の勇者君なんかも死に掛けたんだよねー。いや、申し訳ない」
 「帝国の勇者。ああ、魅了の。アレがいるから私も若返ってしばらく帝国を留守にしようと思ってたのに……」
  グロントは頭痛を抑えるような苦しげな表情を見せ、手を額に当てる。
 「こんな状況だからそれは勘弁ね。もう少し落ち着いたら別にしてもいいよ。君の場合、記憶を残したまま転生できちゃうからね。その術、是非教えて欲しいもんだよ」
 「転生せずにそうやって生きている貴方には不要でしょう。それで?」
 「なにが?」
 「あのヒューマン、上位竜を四匹も食らって力にした化物を相手にどうやって戦ったの? 貴方も協力したんでしょ?」
 「ん、真正面から力で。僕についてはトドメを譲ってもらった感じ? おかげで彼には人材とか色々都合する羽目になってさ。まあ関わって楽しい子だから別に良いんだけどさ」
  グロントの目がまた点になる。SPANISCHE FLIEGE 

2013年8月28日星期三

崩御

パラティウム邸は名門貴族の私邸が建ち並ぶ第一街区の一部を占有する形で建てられている。
  パラティウム邸が建っていた場所に他の貴族が私邸を建てたという経緯を考えれば『占有しているように見える』が適切だろうか。紅蜘蛛
  かつては人工の堀と堅牢な城壁を備えた城だったらしいが、現在のパラティウム邸は高い塀と四方に円塔を備えた自然石作りの城館である。
  この辺りで広大な庭園と厩舎は珍しくないが、石像が前庭に飾られている屋敷はかなり珍しい。
  剣を掲げる騎士の像はパラティウム家の開祖をモチーフにしたものだ。彼はレオンハルトと同じ神威術の使い手であり、ある戦場で皇帝を守るために神威術の奥義『神威召喚』を使い、光になったと伝えられている。
  『治癒』、『解毒』、『活性』、『祝聖刃』、『神衣』、『光盾』、『神器召喚』、『光壁』……複数の神威術を使いこなせるレオンハルトでも、どうすれば『神威召喚』に到達できるのか予測できない。
 「……少し酔いすぎたか?」
 「レオンハルト様さんま!」
  レオンハルトが酩酊感を楽しみながら前庭を歩いていると、訛りのある口調で名前を呼ぶ者がいた。
  その人物はスカートをたくし上げて走り寄り、本人だけは迫力があると思っている表情でレオンハルトを睨み付けた。
 「待っていてくれたのか、リーラ?」
 「みんな、起きて待ってただよ。こんなに遅くなるなら、オラと爺やさんだけで待ってれば良かっただ」
  レオンハルトが頭を撫でると、リーラは不満そうに下唇を突き出した。
 「……子ども扱いしないでけろ。こう見えても、オラはレオンハルト様より一歳も年上だで」
 「ああ、それはすまなかった」
  レオンハルトは肩を竦め、リーラを見つめた。
  リーラは醜女しこめではないが、舞踏会に参加していた貴族の令嬢に比べて格段に見劣りする容姿をしている。
  八重歯が半ば欠けているため口を開いて笑うと、間が抜けて見えるし、適当に纏めたブラウンの髪が貧乏くさい。
  ふっくらした体型……というのは控え目な表現で胸と尻は無駄に肉づきが良く、ウェストはややたるんでいる。
  仕事はそれなりにこなせるが、訛りが酷く、教養がないため接客には不向きである。
  自分で主張した通り、レオンハルトよりも年上の二十三歳だが、奉公人として引き取られた貧農の娘という出自を考えれば、彼女がレオンハルトに意見するなど許されない行為である。
  だが、レオンハルトは私的な場に限り使用人に自由な発言を許していた。
  レオンハルトとて耳障りの良い言葉を聞きたいが、多くの場合、価値のある情報は妙薬と同じように苦いものなのだ。
  だから、こうして使用人の言葉に耳を慣らしておけば、部下の箴言に耳を傾けることも難しくない。
 「舞踏会は楽しかっただか?」
 「大麦酒ビールを飲んだ記憶しかないな」
  レオンハルトは舞踏会のことを思い出そうとしたが、酒を酌み交わしたことしか思い出せなかった。
 「オラ、酒臭えの嫌いだ」
 「では、離れて歩くとしよう」
  レオンハルトが早足で歩き出すと、リーラは不満そうに下唇を突き出し、体当たりを仕掛けてきた。
  レオンハルトは足を止めて体当たりを受け、恨めしそうに見上げるリーラを無視して前庭を進んだ。
  幾ら酔っていても、レオンハルトはリーラの体当たりでよろけるような柔な鍛え方をしていない。
 「……甘い」
 「レオンハルト様はいけずだ」
  リーラは拗ねたように唇を尖らせ、レオンハルトが着ている軍礼服の袖を握った。
 「酒臭いのは苦手なのだろう?」
 「だから、こうして離れてるだ」
  女という生き物はよく分からんな、とレオンハルトはリーラを引き摺りながら再び歩き始めた。
 「……添い寝はしてやっけど、今日は求めてくるでねえぞ」
 「私から求めたことは一度もないが?」
 「やっぱり、いけずだ」
  事実を指摘すると、リーラは不愉快そうに鼻に皺を寄せた。
  いつか、リーラとも酒を酌み交わしたいものだ、とレオンハルトは苦笑した。

 舞踏会の翌日、クロノはクロフォード邸にある自分のベッドで目を覚ました。
  帰宅するまでの記憶が曖昧だが、気にする必要はないだろう。
  どうやら、昨夜は湯浴みもせずに眠ってしまったらしく、体がベトベトする。
  もう一眠りしようかな?
  そんなことをクロノが考えていると、すぐ近くで何かが動いた。
 「一人で寝たような気がするんだけど?」
  レイラかな? エレナ?
  フェイはないだろうし、マイラは絶対にありえない。
 「やあ、目が覚めたのかい?」
 「お前かっ!」
  リオ・ケイロン伯爵……リオは胸を隠すように俯せになり、まるで情事を交わした後のようにアンニュイな表情を浮かべていた。
 「クロノ、一夜を過ごした相手に酷いことを言うんだね」
 「え、ええっ?」
  いや、リオは思わせぶりな台詞を吐いて、こちらの反応を楽しんでいるに違いない。そもそも、男同士な訳だし……それはそれでとんでもないことをしてしまった感があるのだが、しっかりと現実を受け入れるべきだろう。
 「ふふふ、冗談だよ。昨夜は二人とも大麦酒ビールを飲み過ぎて役立たずになっていたからね。疚しい関係には至らなかったさ、残念ながらね」
  リオは残念そうに言ったが、クロノは心の底から安堵した。
 「疚しい関係になるのはこれからさ」
 「……っ!」
  ギラリと飢えた獣のように瞳を輝かせ、リオはクロノに馬乗りになった。
  クロノに逃げる間も、抵抗する余地も与えない早業である。勃動力三體牛鞭
  舞踏会場で見た通り、リオの体は女性にしては骨太……逆に言えば、男性にしては華奢ということである。
  あの時、わずかに胸が膨らんでいるように感じたが、全裸になっている今も小振りすぎる胸が存在している。
  女の子であることを期待して視線を下ろすと、リオのそこにはクロノと同じものがきちんとあった。
 「ふふふ、見て驚くが良いさ」
 「……っ!」
  リオが膝立ちになると、クロノに存在していない器官が露わになる。
 「驚いたかい?」
 「……かなり驚いたけど、この傷は戦争?」
  クロノは恐る恐るリオの胸に手を伸ばした。
  リオの胸には傷跡があった。
  小さな傷跡が胸の上部と下部に密集し、無数のミミズが蠢いているようにも見える。
  多分、捕虜になって拷問でも受けなければ、こんな傷跡にならないだろう。
 「これは自分で削ぎ落とそうとしたのさ。痛みで気絶してしまって、気が付いたらベッドの上だったけどね」
 「下も?」
 「下もさ」
  傷跡は根本に集中し、見ているだけでクロノは玉が縮こまるような想いだった。
  どうやら、リオは両性具有だったようだ。
 「あまり驚いていないみたいだね?」
 「そりゃ、驚いてるけど」
  エルフやドワーフ、ミノタウルスに、リザードマンがいる世界で、両性具有の何に驚けばいいのか分からない。
 「ボクの両親もクロノみたいに図太ければ、こんなことをしなくても済んだんだけどね」
  リオは傷を見せつけるように手の平で小振りな胸を押し上げた。
 「……ふふふ、訳が分からないって顔をしているね。まあ、君は新貴族だから無理もないけど、旧貴族は多かれ少なかれ『純白神殿』の影響を受けているのさ」
  クロノは言葉の意味を理解できなかったが、ケフェウス帝国が信仰の自由を認めていることに気付き、ようやく理解できた。
  要は宗教……教義が価値感を形成するのに大きな影響を与えているのだ。
  その名の通り、『純白にして秩序を司る神』は秩序を司るとされている。
 「ハーフエルフと同じ?」
 「そうさ! ボクも、ハーフエルフも秩序ルールから外れた存在なのさ!」
  リオは性の象徴を切り落として秩序ルールに自分を合わせようとしたのだ。
 「どうして、僕を選んだの?」
 「ハーフエルフを愛人にしているクロノなら、ボクを受け入れてくれると思ったのさ。そして、たった一晩で予感は確信に変わったよ。だから、ボクを受け入れておくれ」
 「……もし、断ったら?」
  リオは上唇を舐め、
 「うん、ボクが告白したのはクロノが初めてじゃないんだ。いや、勘違いしないで欲しいんだけど、ボクは男性を受け入れたことはないし、女性に受け入れてもらったこともないよ」
 「断った相手はどうなったのかな?」
  クロノが薄ら寒いものを感じながら問い掛けると、リオは悲しげに視線を背けた。
 「うん、初めて告白したのは実家にいた下男で、可哀想に獣の餌になったよ。二人目は近衛騎士になった時の同期で……ボクをバケモノ呼ばわりしたから、決闘を申し込んで、刻み殺してあげたさ」
 「選択の余地がない!」
 「決闘に勝てば問題ないじゃないか」
 「近衛騎士団の団長に勝てるかっ!」
  自分の命がリオに握られているにも関わらず、クロノは叫んだ。
  受け入れてくれなかったから殺したとか、もう立派な殺人鬼である。
 「ハーフエルフは受け入れたのにボクを受け入れてくれないのかい? 君のためなら何でもするよ。近衛騎士団の団員になれるように便宜も図るし、団長の座を譲っても構わないから、お願いだから、ボクを受け入れておくれよ」
  怖い、とクロノは必死に懇願するリオを見上げながら思う。
  告白した相手を殺していることが恐ろしい。
  出会ったばかりの相手に何もかも捧げようとする心が怖くて堪らない。
 「愛人が何人いても、愛人の一人で良いんだ」
  どうして、こんな風に……いや、誰も受け入れなかったからか?
  多分、リオが体の一部を切り落とそうとしたのも、第九近衛騎士団の団長に上り詰めたのも、誰かに受け入れて欲しかったからだろう。もっとも、今のリオを見る限り、目的は果たされなかったようだが。
 「……近衛騎士団に入りたいと思わないし、団長の座にも興味ないよ」
 「どうして! 近衛騎士団は軍のエリートだ! 団長ともなれば新貴族の君には望むべくもない栄誉だ! そんなにボクを受け入れるのが嫌なのかい?」
 「昨夜も言ったけど、友達からじゃダメかな?」
 「ダメさ。ボクは今すぐに結果が欲しいんだよ」
  そうか、とリオは嗜虐的な笑みを浮かべた。
 「まだ、ボクが本気だと理解していないんだね? だったら、ボクの本気を教えてあげるよ。『翠にして流転を司る神』よ!」
  リオが右腕を掲げると、緑色の風がリオの右手首で渦を巻いた。
 「イクよ?」
  緑色の風はリオの宣言と共に分裂し、クロノの上を通り過ぎた。
  痛みとも、痒みともつかない感覚が緑色の風が通りすぎた部分に生じる。
  リオの風が浅く皮膚を切ったのだ。
  リオは薄く滲んだ血を指先に絡め、恍惚とした表情を浮かべてそれを舐めた。
  怖っ! 色っぽい分、余計に怖い!
 「ボクの本気が分かったかい?」
 「痛っ! ああ、紙で切った時みたいにジンジンしてきた!」
 「おや、それは済まなかったね」
  リオは前屈みになってクロノの傷を舐めた。
  恍惚とした表情で血を舐める姿は淫靡極まりない。
  リオは滲んだ血を舐め終えると、再び体を起こした。
  血を舐めて興奮しなくても、とクロノはリオの股間を食い入るように見つめた。
 「答えは決まったかい?」
 「まあ、受け入れろと言われれば受け入れるんだけど」巨根
 「本当かい? いや、君は嘘を吐いてる! 受け入れるつもりがあるなら、最初から受け入れているはずさ!」
  リオは嬉しそうに声を弾ませたが、すぐに頭を振って否定した。
 「……話が物騒な方向に進んじゃったし、この状態で受け入れると自己保身っぽくて格好悪いなぁと」
 「本当に、それだけなのかい?」
 「困ったことに、ね」
  正直、友情を育んでから告白してくれた方がすんなりと受け入れられたような気がするのだが。
 「でも、こんな、簡単に……だったら、今までのボクの人生は何だったのさ」
 「……で、いつまで乗ってるのかな?」
 「え? ……キャッ!」
  実に女の子らしい悲鳴を上げ、リオはクロノから降り、シーツで体を隠した。
 「……シーツを独り占めされると、困ります」
 「ク、クロノ!」
  別に独り占めされても全く困らないが、クロノはリオを裸に剥くためにシーツを引っ張った。
 「や、止めてくれないかな、クロノ?」
 「シーツを独り占めされると、困るのです」
  リオは抵抗したが、最終的にクロノの執念が勝った。
 「も、もう、目的を果たしただろ? ど、どうして、ボクの足を掴んでいるんだい?」
  にっこりとクロノが微笑むと、その意味を理解したのか、リオは四つん這いでベッドから逃げ出そうとした。
 「いやっ! 犯される!」
  クロノがリオの足首を掴んだその時、寝室の扉が開いた。
 「……だ、旦那様! 私がメイド修行にかまけたばかりに旦那様が男色に!」
 「違うんだ、レイラ」
  クロノは悲鳴じみた声を上げるレイラに弁解しようとしたが、おいそれとリオの抱える問題を教えられない以上、弁解のしようがなかった。

「う、口の中が鉄臭い」
  養父と一戦を終えたクロノは口内に広がる鉄臭さに顔を顰めながら地面に腰を下ろした。
  人の口に戸は立てられぬと言うが、噂はレイラからマイラに、マイラから養父に伝わったようだ。
  養父は全く気にしていない様子だったのだが、剣術の訓練でクロノが背後に回り込んだ瞬間、俺の尻をホれると思うな! とクロノの頬に鉄拳をぶち込んだのだった。
 「口の中を切ったのなら、ボクが癒してあげるさ」
 「……父さんに殴られたのはリオのせいもあると思うんだけど」
 「言い掛かりだよ。嫌がるボクを犯そうとしたのはクロノじゃないか」
  リオはクロノに寄り添い、恥ずかしそうに頬を朱に染めて言った。
  ちなみにリオが着ているのはドレスではなく、クロノの普段着である。
 「君の部下は良い動きをしているね」
  リオは養父とフェイの戦いを見ながら、感心したように呟いた。
  クロノが視線を向けると、フェイは養父の攻撃を躱している最中だった。
  今回、フェイは神威術を使わず、純粋な剣技と体術で養父に対抗していた。
  フェイは怒濤のような攻撃を躱し、養父の懐に潜り込もうとする。
  だが、養父はフェイが懐に潜り込もうとする気配を察するや、軽く木剣を振り回して牽制する。
  軽く振り回しているように見えても、養父の恵まれた体格から繰り出される一撃は女の細腕をへし折るくらいの威力を秘めている。
  何処まで養父が手加減をしようと考えているかにもよるが、自分の体で試そうとするヤツは滅多にいない。
 「いつもなら突っ込んで行くんだけどね」
 「……そろそろ、攻めるんじゃないかな?」
  フェイが懐に潜り込もうとすると、養父は軽く木剣を振って牽制する。
  だが、フェイは更に姿勢を低く、スピードを上げた。
  姿が霞んだとしか言いようのないスピードだ。
 「やるね」
  短いながら、リオの言葉が全てを物語っていた。
  フェイは神威術を使わないと養父に思いこませ、その裏を掻いたのだ。
  闇を煙のように立ち上らせたフェイが養父の背後に回り込み、突きを放つ。
  しかし、フェイの突きは空を切った。
  養父が体を捻り、攻撃を躱したのだ。
  フェイが悔しげな表情を浮かべた次の瞬間、養父は木剣の柄でフェイの額を打った。
 「……むはっ!」
 「そこそこに頭を使ってたんじゃねえか? 馬鹿の一つ覚えみたいに懐に潜り込もうとして、こっちの攻撃をパターン化させたのも悪くねえ。まあ、お前が神威術を使えると知らなければ引っ掛かってたかもな」
  養父はフェイの頭を掴み、ぐりぐりと左右に揺らした。
  多分、撫でているつもりなのだろう。
 「じゃ、次はお前が相手をしてやれ」
 「どうして、ボクなんだい?」
  養父が投げた木剣を受け取り、リオは不思議そうに首を傾げた。
 「俺の家を宿代わりにした分、働きやがれ」
 「あまり、剣は得意じゃないのだけれど」
  リオは大仰に肩を竦め、面倒臭そうにフェイと対峙した。
 「よろしくお願いするであります!」
 「……お手柔らかに頼むよ」
  やる気満々でフェイは木剣を中段に構えたが、やる気のなさそうなリオはだらりと木剣の切っ先を地面に向けたままだ。
  当然と言うべきか、先に仕掛けたのはフェイだった。
  フェイは一気に間合いを詰めて突きを放つ。
  リオは木剣を構えもせず、華麗な体捌き……風に揺れる柳か、風に舞う綿毛のように捉え所のない動きでフェイの脇を滑り抜け、全くやる気の感じられない仕草で木剣を振り下ろした。
  やる気こそ感じられないが、リオの体捌きは一流、いや、一流以上のレベルに達している。
  リオが振り下ろした木剣はゆっくりとフェイの肩口に近づき、カーン! という音と共に受け止められていた。狼一号
 「手加減なら無用であります」
 「……別に手加減していたつもりはないんだけど、ねッ!」
  フェイとリオは鍔迫り合いしたまま、獰猛な笑みを浮かべた。
  膠着状態は長く続かなかった。
  フェイが力任せにリオを押し退けたのだ。
  いや、リオがフェイに合わせて跳び退ったと言うべきか。
  五メートルほど距離を取り、ふわりとリオは地面に舞い降りる。
  緑色の光を放つ粒子がリオの体から立ち上る。
 「神威術『神衣』さ」
  ふわりとリオの体が舞い上がり、羽のように地面に舞い降りる。
  どうやら、同じ神威術『神衣』でも『漆黒にして混沌を司る女神』と『翠にして流転を司る神』では効果が異なるようだ。
 「……ビジュアル的に負けてる」
 「ぐぬぬ、そんなことないであります! 神様、お願いするであります! 神威術『神衣』!」
  クロノが突っ込みを入れると、フェイは対抗するように神威術『神衣』を使った。
  闇が煙のように立ち上るフェイに対し、まるで蛍が飛び回っているようなリオ。
  残念ながら、ビジュアル的にフェイの完敗だ。
 「じゃ、イクよ?」
  宣言と同時にリオの姿が掻き消える。
  風が砂や小石を舞い上げる。
  リオは地面スレスレを飛翔し、あっさりとフェイの背後に回り込むと、木剣を振り上げた。
  クロノならば絶対に避けられない一撃をフェイは上体を軽く反らしただけで躱し、虫を踏み潰すように足を振り下ろした。
 「はははっ! 初見で避けて、反撃までしてくるのかい?」
 「……っ!」
  リオが軽く地面に手を突いて飛び上がると、フェイは距離を取らせまいと突進する。
  だが、フェイの攻撃は空を切るばかりだ。
  宙を自由に舞うリオに対して、フェイが繰り出せる攻撃が限られているためだ。
  基本的に剣術は自由に宙を飛び回る敵と戦うように出来ていないのだ。
  まあ、普通はそう考えるし、そう考えてくれると思うものである。
 「剣が届かないのなら!」
 「おやおや、そっちにボクは……っ!」
  リオが絶句する。
  フェイがクロフォード邸の壁を駆け上がったからだ。
 「届かせるだけであります!」
 「これだから、単純馬鹿は!」
  クロフォード邸の二階付近まで駆け上がり、フェイはリオに向かって跳ぶ。
 「でも、残念♪」
  リオは地面に触れることなく、木剣が届かない場所に避難する。
 「刃に祝福を、『祝聖刃』! 伸びるであります!」
  溢れ出した闇が木剣を覆い、更に木剣の四倍はあろうかという闇の刃を形成する。
 「チィッ!」
 「はっ!」
  フェイは闇の刃をリオに叩きつける。
  完全に油断しきっていたリオは地面に叩きつけられ、それでも、勢いを殺すことができずに地面を転がった。
 「勝利であります!」
  最近、負けてばかりだったせいか、フェイは誇らしげに胸を張った。
 「フェイ、残心!」
 「油断してはいけないでありますね!」
  リオ同様、完全に油断していたフェイはクロノの言葉に慌てて木剣を構える。まあ、口元が緩んでいるので残心ができていないような気もするが。
 「……やってくれるじゃないか」
  リオはゆらりと立ち上がり、だらだら流れる鼻血を乱暴に袖で拭った。
 「油断している方が悪いであります」
 「そりゃあ、油断している方が悪いさ」
  リオは木剣を投げ捨て、まるで弓を構えるように左腕をフェイに向け、弦を引き絞るように右腕を動かす。
  次の瞬間、緑色の光が燃え上がるようにリオの左手から吹き出し、弓を、弦を、矢を形成する。
 「……死んじゃいなよ!」
 「クロフォード邸で殺人を起こされては困ります」
  リオが狂気じみた笑みを浮かべると、マイラが冷淡な声で囁いた。
  マイラはリオの背後に立ち、彼女の喉元にキッチンナイフを突き付ける。
 「……無音暗殺術サイレント・キリングっ!」
 「懐かしい響きですが、今の私はクロフォード家のメイドです。もちろん、リオ様がどうしても死にたいと仰るのであれば……二つ名の由来通り、音もなく殺しますが?」
 「いや、止めておくよ」
  リオは矢と弓を消し、大仰に肩を竦めた。
 「それにしても、全く気配を感じなかったよ」
 「故に無音殺人術サイレント・キリングです」
 「あっちの娘こは気づいたんだけど」
  リオが視線を向けた方を見ると、箒を握り締めたレイラがこちらを睨んでいた。
 「……彼女は後継者かい?」
 「ええ、我がメイド道の後継者です」
  マイラは誇らしげに胸を張った。

 それから三日が経ち、エラキス侯爵領に戻る前夜となった。
  一日の仕事を終えたレイラは厨房でマイラと向かい合っていた。
 「……よくぞ、厳しい修行に耐えました。本日を以て、貴方はなんちゃってメイドを卒業します。今日から貴方は見習いメイドです」
  マイラはレイラの肩を優しく叩き、慈母のような笑みを浮かべた。
 「現在、坊ちゃまは禁欲状態MAXです。ええ、エレナ様やリオ様と良い雰囲気になっていたので、しっかり邪魔をしておきました。もちろん、自慰もです。さあ、腰が抜けるくらいヤってしまいなさいっ!」
 「はい、教官殿っ!」
  レイラは力強い足取りで厨房を後にした。
  無音で階段を駆け上がり、クロノの部屋に忍び込むと、クロノは真剣で素振りの真っ最中だった。
 「だ、いえ、クロノ様」
 「レイラ!」
  レイラが呼びかけると、クロノは驚いたように目を見開き、剣を鞘にしまった。三體牛鞭

2013年8月25日星期日

後日談

帝国歴四百三十一年六月中旬、クロノが『死の試練』を乗り越えて二週間が過ぎた。季節は夏……クロノの脳裏を過ぎるのはカド伯爵領のことである。
  これからのことを考えると、港の建設、新型塩田の普及、株式会社の経営は決して疎かにできない。もっとも、クロノは素人なので、関心の大半は進捗状況に向けられてしまうのだが蟻力神
  それらと同じくらいウェイトを占めているものがある。カド伯爵領は海に面した土地である。
  そして、クロノには愛人……レイラ、女将シェーラ、エレナ、リオ、デネブ、アリデッド、ティリア、フェイがいる。
  第九近衛騎士団の団長を務めているリオは無理だとしても、海水浴をしたい! と思っていた。
  愛人を侍らせ、怠惰で退廃的な、何の生産性もない海水浴を楽しみたかった。水を掛け合いながら、濡れた布がピタ~と張り付く光景を目に焼き付けたかった。
  キャッキャ、ウフフと爛れた海水浴を堪能したかった。それなのに今のクロノは自分の領地に戻るどころか、南辺境にある養父の家で療養中という有様である。
  クロノはベッドに横になり、部屋に立ち込める煙を眺めていた。ギシギシと軋む体を起こして煙の発生源を見ると、スーが床に座って薬草を焚いていた。
  スーによると、焚いている薬草には鎮静作用があるらしい。他にも鎮痛効果のあるとされる薬草を煎じた物を飲まされたりしている。
 「……リラックスはするんだけど、それってヤバい草じゃないよね?」
 『大丈夫、安全』
 「『死の試練』を生き延びたのに、麻薬中毒なんて嫌だよ」
  ギチィッ! と筋肉が軋み、クロノはベッドの上で呻いた。下手に動くと痛いし、動かなくても痛い。
  この想像を絶する痛みのせいでクロノは二週間もベッドから離れられずにいた。おまけにふとした瞬間に刻印が起動するのだ。
  それでも、最初の一週間に比べれば大分マシになっている。痛みそのものは和らいでいるし、刻印が勝手に起動することも少なくなった。
  ワイズマン先生から刻印術は色に応じた属性を操れるようになる魔術と教わったが、実際は少し違うようだ。
  刻印術の基本的な機能は身体能力の強化である。いや、物理限界まで身体能力を引き出すと表現すべきだろうか。
  当然、物理限界まで身体能力を引き出せば筋肉は破損する。つまり、二週間もクロノを悩ませる痛みの正体は極度の筋肉痛なのである。
  刻印については今一つそれらしい理屈がつけられないんだよな、とクロノは天井を見上げた。
  帝国の魔術と照らし合わせるのならば刻印は術式に相当するはずだが、薬物を使って脳に刷り込んでも良さそうなものである。
  刻印は単なるプログラムじゃなくてパソコンの周辺機器みたいなものなのかも、とクロノはそれらしい理屈を捻り出す。
  ドライバは刻印とセットになっているのか、クロノが標準ドライバみたいな物を備えていたのか。
  そんなことを考えていると、
 「クロノ様、食事の時間でございます」
 「であります」
  扉を開け、マイラとフェイが入室する。
 「いつもすまないね」
 「それは言わない約束であります」
  フェイの手を借りて体を起こし、フェイに料理を口まで運んで貰う。マイラは少し離れた場所でフェイのサポート役に徹している。
 『オマエ、赤チャン』
 「だ、誰のせいで、こんな目に遭っていると」
  この二週間、フェイはクロノの介護士となっている。理由は二つ、一つはフェイならクロノが刻印を起動させても無傷で切り抜けられそうだから。もう一つはクロノを支えられるくらい身長があるからである。
 『オレ、オマエノ、嫁』
 「まあ、そうだね」
 『オレ、嫁、嫁……嫁』
  嫁という言葉が気に入ったのか、スーは反芻するように繰り返した。
 「他にも八人ばかり愛人がおりまして」
 『……っ!』
  スーは驚いたようにクロノを見つめた。
 『オマエ、甲斐性ナイ』
 「あるよ、甲斐性! 痛っ!」
  ムキになって叫び、クロノは体の痛みに呻いた。
 「クロノ様は甲斐性があるであります」
  フェイは自慢げに胸を張って言った。
 「クロノ様は領地持ちの貴族であります。エレナ殿に聞いた所によれば去年の税収は金貨六万五百枚、カド伯爵領に港が完成すれば……更なる収益が期待できるであります」
 「詳しいね、フェイ」
 「当然であります」
  そういうことに興味がなさそうだったので、意外と言えば意外である。
 「……クロノ様?」
 「何でしょうか、マイラさん」
  マイラは微笑みを浮かべ、軽く首を傾げた。
 「もう一人、愛人を囲う気は?」
 「ま、間に合ってます」
 「そう仰らずに」
 「え、じゃ……奴隷みたいに首輪を付けて、鞭で叩いたり、胸を力一杯揉んだり、お尻の××に××して、●●を△△するけど」
 「ええ、それくらいならば許容範囲です。お尻を××するだけではなく、□□□して頂いても構いませんし、所有物として◇◇に××して頂いても構いませんが? 合意の上ですので、雌として扱って頂きたく」
  女将シェーラをドン引きさせた台詞にアレンジを加えて言うと、マイラは全く動揺する素振りを見せずに淡々と答えた。『雌として』の部分をやや強調していたような気もするが。
 「攻めてるんだか、攻められてるんだか、分からないよ! 痛っ、イダッ!」
  正直、主導権を握るマゾとか訳が分からない。
 「主人を立てるのがメイドとしての役割ではないかと」
 「年下を手の平で転がしたいだけじゃないの?」
  マイラは考え込むように押し黙った。
 「いえ、あくまで主人を立てたいと考えております。もちろん、自分の利益もしっかりと確保しますが」三便宝カプセル
 「しっかりしてるよ」
  まあ、これくらい図太くないと、帝国の動乱期や南辺境の開拓期は乗り越えられなかったんだろう。
 「クロノ様、食事の途中でありますよ?」
 「重ね重ね、すまないね」
  気分は時代劇……貧乏長屋の病弱な父親と孝行娘の気分である。
 「一生懸命、働くであります」
 「頼もしいな~」
  フェイの手を借り、カップに入ったスープを飲む。
 「なので、ムリファイン家の再興に協力して欲しいであります」
 「え?」
 「え? じゃないであります」
  クロノが聞き返すと、フェイは気分を害した様子もなく言った。
 「騎士は主君に忠誠を捧げ、主君は騎士を保護するものであります」
 「い、一生涯、変わらない愛と忠誠を誓って貰ったような気がするんだけど?」
 「愛に代価は求めないでありますが、忠誠に代価は欲しいであります」
  セットじゃなかったのか、とクロノは今更のように後悔した。
 「よくよく考えてみると、フェイが僕の子どもを生んだら相続問題が発生するよね」
 「クロノ様とティリア皇女の間に子どもが生まれても領地と爵位の相続問題は発生するであります。異母兄弟で骨肉の争いをして欲しくないでありますね」
  生々しい表現だな~、とクロノは食事を終える。
 「参考までに聞くけど、フェイにとってムリファイン家の再興……って言うか、具体的な目的って何?」
 「……難しい質問でありますね」
  食器を重ねてマイラに渡すと、フェイは思案するように眉根を寄せた。
 「正直に言えばムリファイン家は立派な家柄じゃないであります。近衛騎士団でそこそこの地位に就ければ元に戻ったと言えるかも知れないであります」
 「レオンハルト殿か、エルナト伯爵にお願いすれば何とかなりそうだけど、フェイに抜けられると困るんだよね。明るい領地計画的に」
  レオンハルトか、エルナト伯爵の部下になればフェイは間違いなくムリファイン家を再興できるだろう。
  だが、フェイに抜けられると、非常に困る。少なくともケインが過労でぶっ倒れるのは間違いない。
 「むむっ、ムリファイン家の再興は息子の代までお預けでありますね」
 「だからと言って、『近衛騎士団に入れてやるから、そこから先は自分で頑張れ』って鬼じゃない?」
  エラキス侯爵領、カド伯爵領、将来はクロフォード男爵領も僕の領地になるとして、とクロノは領地を思い浮かべる。
 「う~ん、飛び地になるクロフォード男爵領を任せるのが順当かな? あ~、でも、ケインだって、いつまでも騎兵隊長って訳にいかないし、士官候補のみんなに領地運営に携わって欲しいんだよね」
  どんなポジションに就けるかよりも、どんな組織にするのかを考えなきゃならない段階なので、具体的なことを何も言えないのだが。
 「士官候補はクロノ様の直臣になるのでありますね」
 「なってくれるかは本人の意思を確認しないと分からないけど、いつまでも兵士をやってられるものでもないからね」
  直臣になってくれなくても、何かやりたいことがあるのなら全面的にバックアップするつもりだ。
 「ちょっと、今は具体的な約束ができないんだけど、最低でも僕とフェイの子どもが近衛騎士団に入れるように全力を尽くす、じゃダメかな?」
 「了解であります」
  要求を拒まれると思っていたのか、フェイは安心したように胸を撫で下ろした。格好良い台詞の一つも吐こうと思ったが、考えている間にフェイとマイラは退室していた。
  視線を傾けると、スーは薬草を煎じていた。
 『飲メ』
 「苦いんだよね、これ」
  どす黒い液体を飲むと、効果はすぐに現れた。まるで熱に浮かされたようになり、クロノの意識は徐々に遠退いていった。

 目を覚ますと、部屋に漂う煙は薄まっていた。髪と首筋が汗で塗れ、クロノは不快感から顔を顰めた。
  気になって床を見ると、スーは布にくるまって眠っていた。
 「……無理すれば動けるかな?」
  歯を食い縛り、クロノはベッドから離れた。ギシギシと体が軋むが、壁伝いでなら何とか歩けそうだ。
  トイレ、トイレと繰り返す。部下で、愛人でも、他所様フェイにトイレまで連れて行って貰ったり、服を着替えさせて貰ったりするのは気が引けるのだ。
 「騎士の仕事じゃないもんね」
  ズリズリと壁伝いに扉まで移動し、ドアノブに手を伸ばす。だが、クロノがドアノブを掴むよりも早く、扉が開いた。
 「元気そうで何よりだ」
 「……ガウル隊長、今日は何の用で?」
  ふむ、とガウルは腕を組んだ。
 「蛮族の、いや、ルー族の件で相談したいことがあってな。勝手だとは思ったが、族長を交えて会議を開くことに決めた」
 「……いつ?」
 「今日だ。ああ、勘違いするな。表向きは親交を深めるための食事会ということになっている。まあ、あれだ。政治というヤツだ」
  要は帝国に余計な介入をされる前に当事者同士で詰められる所を詰めるつもりなのだろう。
  現実はどうであれ、帝国を蛮族の脅威から解き放ったのは事実である。その功績を譲ればガウルもルー族のために力を割いてくれるんじゃないだろうか。
 「実は……お願いが二つ」
 「構わんぞ」
 「すみません。トイレに連れて行って下さい」
  断られるかと思いきや、ガウルはトイレに連れて行ってくれた。流石に苦虫を噛み潰したような顔をしていたが。
  クロノがトイレから出てもガウルはその表情を維持していた。
 「貴様は……大物なのか、単なるバカなのか分からんな」
 「一人でトイレに行こうとしていたのに話し掛けるから」
 「で、もう一つのお願いはなんだ?」
 「功績を譲るから、ルー族に有利なように……せめて、不利にならないようにして欲しいなと」
  む、とガウルはクロノを見つめて唸った。
 「貴様は、バカなのか? 命を賭けて説得しながら、その功績を俺に譲り、蛮族どもを守れと」五便宝
 「自分のことも、まあ、考えてるけど……功績を譲る代わりにガウル隊長を矢面に立たせちゃうし」
  ガウルは理解できないとでも言うように髪を掻き毟った。
 「それで貴様が得るものは何だ?」
 「自己満足……族長のオッパイを指の跡が残るくらい強く揉むこと、それからハーレム要員」
  ガウルは呆れ果てたように溜息を吐いた。
 「貴様は……族長の、お、オッパイを揉み、愛人を作るために命を賭けたのか?」
 「無理にオッパイとか言わなくても……まあ、結果的には」
  ガウルに功績を譲ればクロノに残されるのは守って貰えるかも判らない約束と嫁さん(スー)だけである。
 「その話を真に受けて、俺は貴様に弱みを握られる訳か?」
 「そういう言い方は好きじゃないな」
  ニヤリとガウルが笑みを浮かべ、クロノは大仰に肩を竦めた。クロノはガウルを心から信用していないし、ガウルもそれは同じだろう。
 「事実だろう。貴様の提案にはそれなりに旨味がありそうだが、苦労も背負う羽目になりそうだ。少なくとも今以上の苦労を、だ」
 「今以上とは?」
 「貴様が寝ている間、俺は怠けていた訳ではない。ルー族の集落に行き、今日のために話し合いを続けていたんだ」
  ますます愚息らしくない、とクロノはガウルを見つめた。
 「族長がよく話を聞いてくれたね」
 「最初は話を聞いてくれなくてな。仕方がないから、ルー族の女と手合わせをしていた」
 「どうして?」
 「俺は負けていない」
  クロノが尋ねると、ガウルは憮然とした表情を浮かべて答えた。
  どうやら、ガウルは何度もルー族にやられたことを根に持っていたらしい。
 「で、貴様に聞きたいんだが……貴様、ララに何をした?」
 「ああ、なるほど」
  ガウルが手合わせしたルー族の女とはララのことらしい。彼女は割と直情的な性格なので、ありえそうである。
 「……ララとリリを誘惑してルー族を内部分裂させようとしたんだけど、スーのせいで大失敗して……正直に本心を明かしてみました」
 「ろくでなしか、貴様は」
  ガウルは間髪入れずに言った。
 「……いやいや、自分だって手柄を立てるためにルー族を討伐しようとしたじゃん!」
  僕はろくでなしなのかも知れない、とクロノは一瞬だけ認めそうになったが、思い直してガウルに反論した。
  ガウルはガウルで手柄を立てるためにルー族を討伐……殺そうとしていたのだから、クロノを責める資格はないはずである。
 「俺は父上に認めて貰うために、帝国を脅威から解き放つために戦ったのだ。貴様のように恥知らずなマネはしていない」
 「一応、被害を最小限に留めたい気持ちもあったんだけど」
 「動機がどうであれ、貴族が取るべき行動ではない」
  評価を改めて貰うのは無理そうだ、とクロノはガウルの説得を諦めた。
 「で、僕の提案は受け入れてくれるの?」
 「ああ、受け入れよう。少なくとも連中は帝国に歩み寄ろうとしているからな。ドラド王国の侵攻に備えられると言えば、帝都のヤツらもルー族を無碍に扱わんだろう」
 「ドラド王国って、帝国の南にある国だっけ?」
  どうして、ドラド王国が関係あるんだろう? とクロノが首を傾げると、ガウルは呆れたように肩を落とした。
 「帝国とドラド王国は敵対している訳ではないが、友好的な関係でもない。ならば敵対した時に備えるのは当然だろう」
 「ルー族はアレオス山地を知り尽くしているけど……ようやくルー族と友好的な関係を結んだのに次の戦争の話?」
 「その戦争の話がなければルー族は無碍に扱われるぞ」
  帝都と交渉するカードのつもりなのかな? とクロノはガウルを見上げた。
 「無論、俺とてルー族を矢面に立たせるつもりはない。ルー族が帝国にとって有用な存在だとアピールすることで有利な条件を勝ち取るつもりだ」
  思わず、クロノはガウルに拍手を送った。たった二週間でもっともらしい理屈をでっち上げたものである。
 「もっとも、全てが上手く運んでもルー族は滅びを免れんがな。戦って滅びるか、戦わずに滅びるか、帝国に取り込まれて滅びるか、過程が違うだけだ」
 「そうだけど、過程が違えば結果も少しは変わるんじゃないかな」
  いずれは帝国に取り込まれて消えてしまうかも知れないが、ルー族は次の世代に血や文化を託す機会を得た。
  滅びて忘れ去られてしまうことに比べれば遙かにマシな終わり方ではないだろうか、とクロノは首飾りを握り締めた。
 「うん、まあ、結局は自己満足なんだけど」
 「……俺は貴様の方法を認められん」
  ガウルが呟いたので、クロノは反射的に彼を見上げた。
 「だが、貴様の信念は認めてやっても良いような気がする。勘違いするな。あくまで貴様の信念だけだ」
 「……」
  この世界の人間はツンデレばっかりか、とクロノはちょっと吹き出しそうになった。勘違いするな、という台詞を吐く輩が全てツンデレキャラならば、あるボクシング漫画の会長や世界的に有名な格闘アニメのライバルキャラもツンデレキャラだ。
 「……プッ」
 「何故、笑う?」
 「いや、別に」
  ガウルは窓に視線を移し、
 「もう食事会の時間だ。行くぞ」
 「僕も参加するの?」
 「主賓の貴様が参加せずに誰が参加すると言うのだ?」
 「まだ、体が動かないんですが?」
  仕方のないヤツだ、とガウルはクロノを抱き上げた。
  お姫様だっこで。
  クロノの叫びを無視してガウルは猛然と走り出した。

 庭に到着したクロノとガウルは冷ややかな視線で迎えられた。地面に下ろされたクロノは羞恥心に耐えきれずに顔を覆った。VigRx
  ポンと慰めるようにクロノの肩を叩いたのはフェイだった。
 「……ガウル隊長と」
 「誰がするか!」
  慰めるつもりはないようだった。
 「しかし、『痛い、痛い! もっと、優しく』と悲鳴が聞こえたであります」
 「思いっきり揺するから痛かったんだよ!」
 「何だか、卑猥な表現でありますね」
 「卑猥じゃないよ!」
 「あ~、何だ」
  養父が気まずそうに首を掻きながらクロノに歩み寄った。
 「戦場暮らしが長いと、男色に走っちまうことが」
 「誰も父さんの体験談を聞きたいなんて言ってないよ!」
 「……俺の記憶違いでなけりゃ、お前は第九近衛騎士団の団長を愛人にしてただろ?」
 「そりゃ、まあ、そうなんですけど」
  デネブとアリデッドに異世界なんだからホモになることもあると言ったような記憶もあるのだが、リオは半分女というか、精神的にはともかく、クロノは肉体的に『攻め』なのだ。
 「……クロノ様」
 「レイラ」
  そっとレイラがクロノの服の袖を握る。刻印術を施されて以来、制御ができるようになるまで近づかないように命令していたのだ。
 「私はクロノ様を信じてます」
 「それ、不信感の表れのように聞こえるんですけど?」
 「……信じてます」
  ギュッとレイラがクロノの服の袖を強く握り締める。
 『……我々ハ何時マデ立ッテイレバ良イノダ、婿殿?』
  族長はララとリリを左右に侍らせ、悠然とクロノに歩み寄る。死の淵に追いやった相手を婿殿とか良い根性してるよね、とクロノは思ったが、黙っておくことにした。
 「それじゃ、食堂にでも」
 「今日は食堂を利用しませんが?」
  クロノが言うと、マイラが口を挟んだ。
 「庭でバーベキューでもするの?」
 「言葉の意味はよく分かりませんが、庭で豚を焼きます」
  まあ、そういうのも有りなのかな? とクロノは思った。ルー族は手掴みで食事をしていたので、食器を使い分けるような食事よりも豪快な料理の方が良いのかも知れない。
 「さ~て、ちゃっちゃと料理の準備をしちまうよ!」
  女将シェーラの声が響き、タイガ達が煉瓦と木の棒を運ぶ。煉瓦で竃が、木の棒……かなり貧弱な丸太か、かなり立派な木の棒と言った風である……を組み合わせて支えが造られ、下拵えの済んだ豚が運ばれてくる。
  和やかな食事会になると良いな~、とクロノは思ったが、それは祈りにも似た儚い想いでしかなかった。
  肉の焼ける匂いが漂い、脂が滴り落ちて炎の勢いが強まる。その様子を眺める養父、マイラ、ガウル、族長、ララ、リリは無言だ。
  特に養父とマイラ、ルー族の面々の間にはピリピリとした空気が漂っている。
 「一触即発と言った雰囲気でありますね」
 「それが分かっているんなら、場を和ませて」
 「むむ、難しいでありますね」
  フェイは思案するように眉根を寄せた。巨人倍増

2013年8月22日星期四

善治郎の失敗

(それにしても。急病とか言ってごまかせばいいのに、直接会って謝るなんてよっぽど馬鹿正直なのか、頭が固いのかと思ったけど。これ、ひょっとして、ただ単に予想以上に『イってる趣味人』なだけなのかも、この子)紅蜘蛛
  善治郎は、『結婚指輪』『ビーズ』『日本の硬貨』を前にして、目を爛々と輝かせるボナ王女を目の当たりにして、そんな感想を抱いていた。
  あの後、極当然の流れとして「そういうわけで、誠に勝手ながら本日の会談は中止させて下さい」という話になると予想していたのだが、ボナ王女は真っ赤になってうつむきながらも上目遣いにこちらを見て、「そういうわけで、お許しを戴けるのでしたら、このままお話をお伺いしたいんですが、よろしいでしょうか?」と宣ったのだ。
 「え? あ、はい。いいです」
  と答えた善治郎の答えは、白状すれば予想外すぎる言葉を理解しきれずに、半ば反射的に口から出たものだった。
  首から下は几帳面に薄手のノースリーブドレスを着こなし、髪型だけはぼさぼさのひっつめ髪という違和感という言葉を具現化したような姿で、ボナ王女はテーブルの上に広げられた指輪やビーズに見入っている。
 「凄い。この透明な粒もよく見ると大きさと形がほぼ均一。しかも真ん中の穴、なんて小ささ……」
  一般女性が宝石を見るキラキラした眼とは明らかに違う、職人の眼をテーブル上のビーズに向けるボナ王女を、対面に座る善治郎は黙って見つめる。
  ボナ王女はテーブルの上に視線を向けているため、必然的に善治郎にはボナ王女の頭頂部が見える。
 (ふーん、髪型は滅茶苦茶だけど、いつも通り髪全体に銀粉を塗しているんだな。キラキラ光ってる。まあ、当たり前か。途中で誘惑に負けただけで、ちゃんと出迎えの準備は整えてたんだもんな。ん、あれ?)
  ボナ王女の髪に塗された銀粉の中に、粉と呼ぶには大きすぎる銀の塊を見つける。細長くて、クルクルとねじれているそれは、言うならば彫刻刀で彫ったときにできる木くずのような形をしている。
 (ん? 彫刻刀の削り屑? 確か、ボナ王女は直前まで彫金をやっていたんだよね? ひょっとして……)
  銀粉と一緒に、髪にひっついている彫刻刀の削り屑のような形の銀屑。
  それに気付いた善治郎は、連鎖的に思考を巡らせる。
  そういえば、普段のボナ王女はいつも髪に銀粉を塗していた。その上ヘアスタイルは、真ん中ぐらいまでストレートでそこから緩やかなウェーブを描く独特の形。
  そのストレートとウェーブの境目が、ちょうどこの『ひっつめ髪の縛り目』あたりに見えるのは気のせいではなさそうだ。
 (ひょっとして、いつもの「銀粉を塗した半分ストレートで半分ウェーブのヘアスタイル」って、「彫金の銀屑と、ひっつめ髪で取れなくなった癖毛」ってオチ?)
  さすがにそこまで露骨に残念な真実はないだろうが、いざというとき銀屑が着いていたり、髪の癖を直さなくてもいいように、わざとそういうヘアスタイルにしている可能性は十分ありそうだ。
  思い出してみれば、ボナ王女の髪型は常に同じ――銀粉を塗した上半分ストレートで下半分がウェーブ――だった。
  常に同じ髪型というのは、おかしいとまでは言わないが、この年頃の貴族の娘ならば、出席するパーティの趣旨やその日のドレスに合わせて髪型を変えてくる方が一般的である。
  そう考えると、善治郎の思いつきにも信憑性が感じられる。
 「凄い、この硬貨も大きさから形まで完全に同じだ。ゼンジロウ陛下、詳しいお話をお聞かせ願えますか?」
  ただ目で見て堪能するだけでは飽き足らなくなったのか、いつの間にか顔を上げていたボナ王女が真っ直ぐこちらの目を見て、そう懇願する。
 (うん、ヘアスタイルに関しては、追求しても誰の幸せにもつながらなさそうだね)
 「ええ、私で分かる範囲でしたら。ただ、以前にも言ったとおり、宝飾に関しては私は完全な門外漢ですので、ご期待に応えられるとはとうてい思えないのですが」
 「いいえ、ありがとうございますッ。どんなちょっとした事でも、そこから発想が広がっていくことがあるんです」
  そう悟った善治郎は、ヘアスタイルに関する情報には意図的に目をつむり、適当に話をあわせるのだった。

  ボナ王女のヘアスタイルに目を向けなければ、その後の会談は順調であった。
 「なるほど、金剛石を磨くのに金剛石を用いるのですか。ものすごく単純な話ですが、その発想はなかったですね。勃動力三體牛鞭
  屑金剛石をどうやって粉末状にするか、その粉末をどうやって付着させて、ヤスリ状にするか。問題点は多々ありますけど、うまくいけば魔法に頼らずに金剛石の加工が可能になるかもしれません」
  ウキウキ、ワクワク。そんな擬音が聞こえてきそうなボナ王女の笑顔に、つられた善治郎も笑い返す。
 「お役に立てたならば、幸いです。しかし、ボナ殿下は魔法で金剛石の加工はできないのですか? 優れた土魔法の使い手ならば、金剛石を魔法で磨くことも可能だと聞いたのですが」
  善治郎の無知な問いに、ボナ王女は苦笑を返す。
 「それは無理です。私も土魔法の精密使用には自信はあるのですが、金剛石に魔法で干渉するには私の魔力では、力不足なのです。
  逆に金剛石に干渉できるほどの魔力の持ち主は、精密な魔力操作に難がある傾向がありますから、結果として金剛石を魔法で磨く事ができるのは、その矛盾する条件を満たす一部の天才魔法使いだけなのです。
  実際にやった事はないはずですけれど、ひょっとしたらフランチェスコ殿下ならばできるかもしれませんね」
 「へえ、それは凄いですね」
  予想以上に高いフランチェスコ王子の評価に、善治郎は演技ではない本気の驚きを示す。
  ボナ王女でも魔力不足だというのならば、善治郎の知る限り、それを可能とする可能性がある人材は女王アウラと、宮廷筆頭魔法使いエスピリディオンの両名だけだ。しかし、エスピリディオンとアウラとの魔力差は結構なものがあるし、そのアウラでも、フランチェスコ王子と比べれば明らかに魔力量は落ちる。しかも、アウラは典型的な精密な魔力操作に難がある大魔力保有者である。
  現実問題としては、カープァ王国には金剛石を魔法で磨くことができる人材は、現状一人もいない可能性が高い。
  そう考えると、フランチェスコ王子は、本当に魔法使いとしては突出している事が分かる。
  ボナ王女は、複雑な思いを隠しきれずに、
 「まあ、あの通り色々とその問題の多い方ですが、こと魔法の使い手としては間違いなく一流です。精密操作では私が一枚勝っている自信がありますが、魔力量では勝負にならないくらいに負けています。
  むしろ、フランチェスコ殿下ほどの莫大な魔力の持ち主が、私より若干劣る程度の精密操作が可能というのは、驚嘆に値します」
  そう、自国の王嫡孫を称した。
  もっとも本人に自覚はないが、程度の大小はあれ、その賞賛はボナ王女にも当てはまる。
 『血統魔法』の使い手であるボナ王女は、王族の基準で見れば最底辺レベルの魔力量だが、世間一般の魔法使いと比べれば、十分大魔力保有者なのだ。
  それでいながら、精密操作が得意と言い切るのだから、その能力は卓越した物がある。
  自己評価が不当に低いのか、はたまた慢心を戒めるためにわざとそう言い聞かせているのか、あくまで低い自己評価を下したボナ王女は、話を変えるようにテーブル上からビーズを取り上げる。
 「それにしても、このビーズという物も面白いですね。小さな粒を糸でつなげて細工物にする。同じような発想は私の国の民芸細工にもありますけれど、あれは穴を空けた色石をつかうものですから、形も不揃いですし、同じ色の物も二つと存在しない。大体こんなにちいさくないから、大ざっぱな腕輪や首飾りくらいにしか使えません。
  それに比べてこれは、大きさと形が全く同じ物が多数存在しますから、非常に美しい形に仕上がりますね」
 「ええ、熟練者ならば、指輪、ブローチ、ブレスレットなど、いろいろな物を作るのですよ。設計図もいくつかありますから、良かったらボナ殿下も挑戦してみてはいかがですか?」
  ビーズ細工で最近一番多いのは、携帯ストラップなのだが、これは説明が難しいので善治郎はあえて省く。
 「よろしいのですか!? ありがとうございます!」
  会話は和やかに、まるで段々と互いの距離を狭めながら続いていた。

 以前にアウラが懸念していた事だが、善治郎とボナ王女の相性は確かに良い。
  現代日本の一般家庭出身でありながら、ひょんな事から王配という地位に就いた善治郎と、下級貴族の生まれながら、隔世遺伝的に『付与魔法』の素質に目覚めたことで王族として迎えられたボナ王女。
  その上でどちらも、本質的に真面目で自分の立場を理解するだけの頭を持ち、立場に相応しい言動を取るだけの理性を兼ね備えている。
  ようは二人とも、多少の違いはあるにせよ、「生まれより高い身分に着いてしまい四苦八苦している」、という点に関してシンパシーを感じているのだ。
 「え? それではボナ殿下は、十歳までは生家で過ごされたのですか?」
 「はい。私が王族として迎えられたのは、十歳の時です。それまでは、下級貴族の次女として普通に暮らしていました。
  もっとも下級貴族の娘としては破格の魔力を持っていましたので、両親の期待が随分大きかったのは確かですけど」
 「なるほど。では、王族と認められたときはさぞ驚いたでしょう?」
 「それは、もう。現実だと認められるまで何日もかかりました。私も、当時の私の家族達も」
  聞けば双王国では、高位貴族の家に王族に匹敵する魔力の持ち主が生まれた場合は、どちらかの『血統魔法』が使えないか、物心がついた時点で調べられるらしいのだが、ボナ王女の場合は家格が低すぎた。巨根
  そのせいで、十歳になるまで発見されなかったのだという。
  ちなみに、ボナ王女の一件で「ひょっとしてうちの子も」という淡い期待を抱いた中級以下の貴族が続出したが、あいにくと二匹目のドジョウはいなかったそうだ。
 「では、ボナ殿下は『付与魔法』を六年で身につけたのですか? ひょっとして、宝飾加工の技も?」
  感嘆の声を上げる善治郎に、ボナ王女は謙遜と自負の混ざった照れ笑いで答える。
 「ええ、それも苦労しました。でも、言葉遣いや立ち振る舞いを身につける方が、ずっと大変でしたね。下級貴族の娘と末端とは言えば王族では、礼法が全く違いますから」
  正直、まだ冷や汗ものですと、ボナ王女は首をすくめる。
 「分かります」
  思わず実感のこもった同意を示す善治郎である。
 「それに比べると、『付与魔法』や宝飾加工の習得は、大変だったのは確かですが、凄く面白くて充実感がありました。もちろん、まだまだ未熟な身ですけれど」
  十歳から学び始めて現在十六歳。六年で、一人前の技術を身につけたというのは、十分賞賛に値するだろう。
  シャロワ王家の分家筋には、もっと若くして一人前の付与術士、宝飾職人、武防具職人となった人物もいるが、彼らは物心ついた頃から、その手の修行を積んでいるのだ。ボナ王女とはスタートが違う。
  そこまで考えたところで、善治郎は一つ気になる点を思いつく。
 「ということは、フランチェスコ殿下は?」
 「ええ。あの方は、十二歳の時に一人前の付与術士として認められています。しかも宝飾も、武器も両方こなすのですから、間違いなくこちらの分野に関しては、超一流の才の持ち主ですね」
  若干の嫉妬の混じった苦笑を浮かべるボナ王女であったが、今の善治郎にそれに気付く余裕はない。
 (やっぱり! ということは、フランチェスコ王子は最初から、直系王族なのに分家王族の教育を受けていたってことになる)
  分家王族と違い、直系王族は『血統魔法』である付与魔法はたたき込まれても、宝飾加工技術や武防具作成技術を強制的に学ばされることはない。
  魔法の習得も一朝一夕ではできないが、宝飾加工や武防具作成技術習得に必要な時間は、その比ではない。
  鉄や銀とにらめっこする日々を年単位で過ごして、初めて身につく技術なのだ。
  国家の中枢を担うべき直系王族にそこまで学ばせる時間があるはずはない。そんな事に割く時間があるのならば、もっと別に学ぶべき事がある。
  だが、現にフランチェスコ王子は若くして付与魔法だけでなく、宝飾加工も武防具作成もこなしているという。ならば、フランチェスコ王子が非常識なくらいの天才でない限り、物心がついた頃からそちらの修行をやらされていた、という結論が出る。
 (つまり、フランチェスコ王子は最低でも物心がついた時点で、将来の王位継承者から外れていたって事だよね? ってことは、フランチェスコ王子に王位継承権が与えられない理由は、『馬鹿だから』じゃないことが確定したわけだ)
  物心がついたばかりの子供を、『頭が悪い』という理由で見切りをつける人間がいたとしたら、その方がよっぽど頭が悪い。
  フランチェスコ王子の出生に、何か秘密があることは間違いなさそうだ。
 (この件に関しては、後でアウラに報告しておこう)
 「本当に、一芸に秀でている方なのですね、フランチェスコ殿下は」
そう頭の隅に記憶をとどめつつ、善治郎は口では適当にボナ王女の言葉に相づちを打つ。
  思考をよそに向けながらの生返事に近い対応であったが、幸いにもボナ王女に気取られることはなかったようだ。
 「ええ、本当に魔道具制作者としてのフランチェスコ殿下は、私の目標です。
  それにしても、やはり一番目を引くのはこの指輪ですね。本当に見れば見るほど見事な作り……完全に均一な作りをしている三粒の金剛石はもちろん、台座の金細工の精密なこと。いったいどうやってこんなに細かな模様を描くのでしょう」
  再び結婚指輪に意識を向けるボナ王女に、善治郎はこれ幸いと便乗する。
 「しかもその連続している網目模様の数は、実は全て同じなのですよ」
  ジュエリーショップの店員から聞いた知識をそのまま繰り返しただけだったのだが、その言葉にボナ王女は驚きを露わにする。
 「本当ですか? 1.2.3……」
  ボナ王女は右手の親指と中指で指輪をつまみ、顔の近くに寄せて一生懸命台座の網模様を数え始める。
  とはいえ、指輪の網目模様は間違っても人間が肉眼で数えられるような代物ではない。
  それでも、一生懸命数えようとしているボナ王女を見て、善治郎はいらぬ親切心を刺激される。
  そのとき、善治郎の視界に『テーブルにおいた硬貨』が入っていたのが、ボナ王女にとっては幸い、善治郎にとっては不幸だった。狼一号
 (ああ、そうだ)
  日頃の警戒心や緊張が極端に薄れていた善治郎は、その場で思いついたことを全く吟味せずに行動に移す。
 「ちょっと失礼」
  そう一言断った善治郎は左手で、テーブルの上から五円玉を取り上げると、右手の小指の先に水差しの水を一滴付け、そっと五円玉の穴にその水を垂らす。
 「ん、駄目だ。凹レンズになった。もう一回……よし、今度はうまくいった」
  何度か失敗した後、もくろみ通り水滴は五円玉の穴を丸くふさぎ、小さな『凸レンズ』を形成する。
 「ん、よし、うまくいった。ボナ殿下、これをお使い下さい。少しは見やすくなるかと。そっと手に持ってその硬貨の真ん中の穴からみたい部分をのぞき見る感じで」
 「え、はい」
  それまで必死に指輪の網目模様を数えていたボナ王女は、善治郎のすすめに素直に従い、五円玉を受け取ると今度はその穴ごしに、指輪を見る。
  反応は劇的だった。
 「え? ええ!? なんですか、これ!?」
  初めて見る凸レンズごしの世界に、ボナ王女は驚きの声を上げる。
  予想通りの反応に、善治郎は嬉しくなったのか、少し調子に乗って答える。
 「水レンズ。光の屈折現象を利用して、物を大きく見えるようにしているんです。ほら、澄んだ水面を上から見たら川底が歪んで見えたりするじゃないですか? あれの応用です」
 「ええ? 水を通して見るだけでこんなに大きく見えるんですか?」
 「いえ、ただの水じゃなくて。形が重要なんです。こう、真ん中が膨らんでいて、端に行くに従って徐々に薄くなっていく円盤状の形というか」
  善治郎の拙い説明を食い入るように聞いたボナ王女は、興奮で少し息を乱しながら、その場で突如呪文を唱える。
 「ええと……こんな感じでしょうか? 『器の中の水は我が指先に止まり、しばし我が望む形をなせ。その代償として我は水霊に魔力三百五十六を捧げる』」
 「ええっ!?」
  今度は、善治郎が驚きの声を上げる番だった。
  水差しの水面に人差し指をつけたボナ王女がスラスラと呪文を唱えると、水の一部がまるでスライムのようにうねり、あっという間にその指先で虫眼鏡ほどの大きさのレンズと化す。
 「あ、本当だ。凄い、これは凄いですよ、ゼンジロウ陛下!」
  自分の水魔法で作った簡易水レンズの効果を確かめたボナ王女は、礼法も忘れて無邪気な声を上げる。
 「…………」
  一方善治郎は、その声に応える余裕もない。
 (まずい。とんでもないことをやらかした……!)
  今更ながら、自分の失態に気付いた善治郎は、背中にびっしょりと冷や汗をかくが完全に後の祭りである。
  そんな善治郎の形相に気付くこともなく、興奮状態のボナ王女は水レンズで、テーブルの木目を拡大して見ていた途中で、魔法の効果が途切れた。
 「あっ」
  呪力の途切れた水レンズは唐突にその形を失い、バシャリとテーブルの上に落ちる。
 「申し訳ありません、不作法をいたしました。
  やっぱり、通常の魔法は効果時間が短くて、駄目ですね。それに『水自在変化』では魔力の消費量が多すぎますし、専用の魔法を作ってそれを魔道具化できれば……。
  ゼンジロウ陛下、本当にありがとうございますッ!」
  善治郎が恐れていた方法をボナ王女はごく当たり前に思いつく。
  水をレンズ状にする魔法を生み出し、その魔法を魔道具化する。それは、レンズという重要技術を双王国に独占されることを意味する。
 (まずいッ。これは本当に大失態だ。素直にアウラに白状して、対策を練らないと)
 「いえ、お役に立てたならば幸いです」三體牛鞭
  かつてない失敗に動揺する善治郎は、そうして無難な言葉を返すだけで精一杯だった。

2013年8月20日星期二

チョコレートホリック

あれから、半月が経った。
 私は携帯電話を買い替え、電話番号もメールアドレスも変更した。これで、もう私からも舞からも連絡を取ることは出来なくなる。こうでもしないと、吹っ切れそうになかったから。
 私と舞は、本当にあれでさよなら。さよならをしなくちゃいけない。印度神油
 でも、あのブレスレットをまだ大切に仕舞ってある。もう身につけることはできない。私はもう、舞の親友じゃないんだから。
 だけど、どうしても捨てられなかった。せめて、最後の思い出に――だって、舞は私の初恋の人なんだもん。
「ねえ、稲葉。今日ちょっと付き合ってよ」
 舞が転校してから、舞がインフルエンザで休んでいた時のように、放課後は稲葉と二人で教室に残って喋るようになった。
「なんで、どこに」
 唐突に切り出した私に、稲葉が不審そうに眉を歪める。
 クリスマスに偶然出会ってしまった以外は、本当に校外で一緒に行動することなんてなかったから。私も稲葉に突然こんなことを言われたら同じような顔をしただろう。
「今日は二月十三日! 明日はバレンタインデー! というわけで、一緒にチョコレートを作ろう!」
 グッと拳を握りしめて、正拳突きのように稲葉に繰り出す。
「…………別に、いいけど」
 殴られるとでも思ったのか身を引いて背中を椅子の背もたれに押しつけるが、すんなり頷いてくれる。
 最近の稲葉は、いつもより優しさ増量中な気がする。バレンタインなんて「誰にあげるんだよ」かとか、「なんで俺がそんなのに付き合わされるんだ?」とか言われそうな気がしてたのに。
「じゃあ、決まり。私の家でつくろう。私の家、今日は誰もいないの」
 最後の言葉。男女間で言うにはちょっと妙なニュアンスがあるけれど、稲葉が気にする素振りはない。
「じゃあ行こう」
「ああ」
 珍しく、二人揃って教室を出た。
「そのまま家来る? いったん荷物置いてくる?」
「面倒くせぇし、篠塚がいいならこのまま行く。親には、ダチん家行くってメールしときゃ平気だろ」
 校門を抜けて、二人仲良く並び私の通学路を逆走する。
「じゃあ、途中でコンビニ寄ってこう。道具はあるんだけど、肝心要のチョコレートをまだ買ってないんだよねぇ」
 制服姿の男女である、私と稲葉。きっと傍目にはかわいらしい中学生カップルに見えるんだろう。
「ねえ、稲葉。手ぇつながない?」
 夕日に照らされる二つの影に、舞と一緒に帰っていた日々を思い出す。稲葉の影は、舞よりも長い。
「何だよそれ。迷子防止?」
 稲葉は可笑しそうに笑って、私の手を掴んだ。
「うん……そうかな」
 私は稲葉の手を握り返して、少し俯き奥歯を噛みしめる。少し、泣きそうな気分だった。本当に迷子になってしまいそう。
 稲葉が私の手を引いて歩く。
「ていうか、チョコレート作ろうって誘っといて、なんでチョコがないんだよ」
「し、仕方がないでしょ! 昨日の夜、寝る前に思いついたんだから」
 私の様子に気づいているのかいないのか、稲葉は笑いながら話しかけてくる。
 握った稲葉の手が暖かい。私は少しはなをすする。
 二月は一番冷え込む季節だ。今日は、一段と寒い。
「この辺ってあんまり来ないんだよ。コンビニなんかあったんだな」
「稲葉の家、反対方向だもんね」
 握りしめた稲葉の手が温かい。その温もりがじんわりと伝わって、心臓を捕えた。
「あ、稲葉。こっちだよ」
 十字路にさしかかり、私は稲葉の手を引いて右に曲がる。稲葉の手を引っ張って、ズンズン歩いていく。
「稲葉、どのラッピングがいいと思う?」
 コンビニ内にあるバレンタインコーナー。その棚に飾られたラッピングセットの前に立ち、稲葉に問いかける。
「いや……俺に聞かれても」
 据わりが悪そうに、きょろきょろと辺りを見渡してバレンタインコーナーから目をそらす。
「恥ずかしがってんのよ。別に下着売り場にいるわけでもないのに」強力催眠謎幻水
「しっ、下着……!」
 一瞬にして、稲葉の耳が真っ赤になった。
 レジのすぐ近くだったのが災いして、レジのバイトがくすくすと笑う。
「じゃあ、コレとコレとコレとコレん中だったら、どれがいい?」
 仕方なく、少しでも稲葉が選びやすいように対象を絞って問う。私が指差したのはどれもボックスタイプで少し他のよりも値の張る、いわゆる本命チョコ用のラッピングだ。
「え~っと……じゃあ、これ」
 ラッピングに本命用とか義理用とかがあることを知らないのか、稲葉はなんの疑問も口にせず選び取った。それとも、ただ単にバレンタインコーナーから離れたいのか。
「これね」
 稲葉からラッピングセットを受け取ると、パッケージに書かれた完成予想図を確認する。
 ホワイトペーパーで箱を包んで、ピンクのくしゅっとした不織紙とリボンで飾る、ちょっぴりゴージャスで可愛いラッピングだ。
「結構、いいセンスしてんのね」
 私は稲葉の選んだラッピングセットと、香坂さんたちにあげる友チョコ用のレース模様の小さな袋を買いにレジに向かう。
「篠塚、チョコは?」
「いけない!」
 肝心のチョコレートを忘れるところだった。板チョコをごっそりといただく。
「どんなチョコつくるんだ? トリュフとか?」
「ううん。溶かして型に入れるだけの簡単なの。稲葉、あんまり手先が器用じゃなさそうだからね」
「は?」
 不思議そうに首を傾げる稲葉は、まだ私の策略に気が付いていない。
「ふふふっ」
 家に連れ込んでしまえば、後はこっちのものだ。決して、逃がしはしないよ。
「お願いしまーす」
 私は上機嫌で、レジに向かった。
「稲葉。ちょっと顔貸して」
 朝のホームルームも始まる前、教室で篠塚にそう言われた時の俺は、きっと引きつった顔をていただろう。
 なぜなら今日はバレンタインデー。女子が男子を呼び出せば、その理由はただ一つとなってしまう日だ。その理由とはチョコレートを渡すためで、すなわち愛の告白だ。
 実際がどうであれ、本人及び周囲の人間はそれを予感してしまう。
 篠塚が愛の告白をするために俺を教室から連れ出そうとしているとは思えないから、そう感じるのは周囲の人間のみに限られるわけだけど。
「ヒューヒュー」
 案の定、口笛の吹けない水無瀬が、口笛の音を声で真似してまで冷やかしてくる。
 朝練を終えた水無瀬が教室に戻ってきているのにも関わらず、青山の姿は教室になかった。きっと、朝練を応援しに来た女の子たちにつかまっているのだろう。
 今ここに、青山がいないことが俺にとって幸運なのか不幸なのか、よくわからない。
「おまえ、どういうつもりなんだよ」
 水無瀬から逃げるように教室を出て、篠塚の後を歩きながらその後頭部を睨みつける。俺と篠塚が付き合っているという噂話を、篠塚も知っている。なのに、わざわざ教室の中で俺の事を呼びつけた。それが許せない。
「稲葉が悪いんでしょ。これを置いてったりするから!」
 篠塚に連れて行かれたのは、人気のない特別教室棟。その三階の美術室の前で、ようやく篠塚は立ち止まった。振り返った篠塚は、俺と同じように怒っている。
 篠塚が『これ』と言って取り出したのは、俺が昨日コンビニで選んだラッピングの箱で、中身はチョコレートだ。しかも、ハート型の。そして恐ろしいことに、そのチョコレートの製作者は俺――稲葉圭一だった。
「置いてくに決まってるだろ! 手伝いとか言って、騙しやがって。最初っから、そのつもりだったんだろ? こんなもん……青山に渡せるわけねぇだろうが!」
 最初は、篠塚の手伝いのつもりで作ったチョコレートだった。
 これだけ他のと違って俺一人に全部やらせるから、変だとは思ってたんだ。でも、まさかこんな無茶なことを言い出すとは思わなかった。
 俺がチョコレートを綺麗にラッピングし終えた時、篠塚はこれが青山へのチョコレートだと言った。そして、俺に明日渡せと。
 マジであり得ねぇ。どんな顔して渡せってんだ。三笠に玉砕してへこんでるだろうからって、優しくしてやるんじゃなかった。
 俺が青山へ渡すために作らされたチョコレートを持って帰れるわけがない。
 チョコレートを押しつける篠塚を振り切って、俺は家に走って帰った。
 俺がチョコを刻んで溶かして型に流して固めてデコレーションして箱に入れてラッピングして……こんなチョコレートを俺の手から青山に渡すだなんて、愛の告白じゃないか。VIVID
「なにも、自分で直接渡せっていうじゃないんだよ? 机にこっそり入れちゃうとか、誰かに頼まれたとか言ってさ……」
 なるほど、その手があったか。
 ポン、と心の中で手を叩いた自分もいる。けど、そういう問題じゃないだろ。
「意味がない。こんなことして、なんになるんだよ!」
 先がない。未来がない。なんもない。
 俺の青山への思いは無意味だ。チョコレートを渡したところで、なにがどうなるっていうんだ。
 どうにもならないんだよ、どうしようもないんだよ。
 だって青山には、他に好きな女がいるんだから。
「でもっ……!」
 篠塚は泣きそうな顔で、俺のチョコレートを胸に抱く。壊さないように優しく、でも力強く。
 俺に、訴えてくる。
「お願い……本当に嫌なら、捨てちゃってもいいから。とにかく今は、受け取って。青山へのチョコレート、稲葉が持っていて。お願い!」
 頭を下げてチョコレートを差し出してくる篠塚は、まるで俺に愛の告白をしているみたいだった。
「よっ、色男! どうだった」
 教室に戻ると、待ち構えていたように水無瀬が冷やかしにかかってくる。
「残念、チョコじゃ無かったよ」
 表情を取り繕い、両手をひらひら振って手ぶらであることをアピールする。
「つまんねーの。やっぱり、今年もキングオブチョコレートは青山か」
「なんだよ、そのキングオブチョコレートって……」
 水無瀬の言葉に苦笑する青山は、机の上にこぼれ落ちんばかりのチョコレートを積み上げていた。
「スゲッ……」
 去年よりも増えている気がする。
 色とりどりのラッピングが施されたチョコレートの数々。いかにも手作りっぽい形崩れした蝶々結びや、一寸の隙もない有名ブランドの包装まで見えている。
 贈り物はチョコレートだけに留まらないらしく、部活に使う手ぬぐいや、気合の入った手編みのマフラーまで混ざっていた。
「青山。一個貰うな~」
 呆気にとられていると、山積みのチョコレートに腹を空かせた水無瀬の魔の手が伸びる。
「いいわけないだろ。くれた子に失礼だ」
 パシリと水無瀬の手が叩かれた。
 授業が始まる前でこれだけたくさんのチョコレートを貰っているんだ。昼休みや放課後になったら、もっともっと増えてしまうだろう。それを全部、自分一人で食べきるつもりなんだろうか。
 俺は甘いものが好きな方だと思うけど、さすがにこの量はげんなりする。でも、青山ならきっと食べるんだろう。この山のようなチョコレートを女の子たちの気持ちごと、食べてしまうんだろう。
「青山って、いい奴だよなぁ」
「な、なんだよ、圭一! 照れるだろ」
 思わず口をついて出た言葉に、青山が顔を真っ赤にする。
「あははっ、照れてる照れてる~」
 水無瀬の笑い声を聞きながら、俺は考えていた。
 こっそり、このチョコレートの山の中に俺の作ったチョコレートを紛れ込ませることは出来るだろうか。もしそれが出来たなら、青山は俺の気持ちも食べてくれるのだろうか。
 青山に俺の気持ちごとチョコレートを食べてもらって、この気持ちが消化されてどこかへ消えてしまえばいいのに。
「青山、これ使えよ。カバンに入りきらないだろ?」
「おお、ありがとう」
 技術の道具を持ってきた紙袋を青山に差し出す。
「なんでオマエ、紙袋なんか持ってんだよ。さては、自分もたくさんチョコもらえると思って準備してきたな!」
「なにバカ言ってんだよ」
 俺は笑いながら、篠塚からチョコレートを受け取らなかったことを後悔していた。
「稲葉!」
 ホームルームが終わり、帰ろうと立ち上がった俺のコートが誰かに引っ張られる。振り返ると案の定、篠塚だった。
「ねえ、本当にいいの? 青山、部活に行っちゃうよ」
 声をひそめて話しかけてくる。
 青山の方を見ると、紙袋にも入りきらなかったチョコレートを服のポケットに入れたり、カバンの隙間に押し込んだりしてどうにか運ぼうと苦戦していた。
「なんなら、私が渡そうか? 友達に頼まれたとかって言って……絶対に、稲葉の名前は出さないから!」
 まただ。また泣き出しそうな目で俺を見てくる。どうして篠塚はそんな目で俺を見るんだろう。
「いい」
「稲葉……」
 俺の言葉に篠塚の手が震えた。すがりつくような眼差しは不安定で、今にも壊れてしまいそうに見える。
「いい。自分で渡すから」
「稲葉ぁ!」
 そんな表情から一変して、花が咲いたようになる。今度は、嬉し泣きでもしそうな勢いだ。
 なんで篠塚がこんな必死になるんだろう。理由はわからないけれど、篠塚のこの必死さに動かされたところがあるのは事実で、少し嬉しかった。蔵八宝
 篠塚のおかげで、青山にチョコレートを渡す決心がついた。自分一人じゃ、絶対にこんなことしようと思わなかっただろう。
 これがいいことなのか悪いことはわからないけど、いいじゃないか。俺の青山への気持ちがバレないんなら、俺だってバレンタインデーの浮ついた空気を楽しんでも。
 だって、青山が好きなのは俺の正直な気持ちなんだ。好きになった相手が、たまたま同性だったってだけだ。
「でも、俺からだとは絶対言わねぇからな! 頼まれたって言って渡す」
「うん。それでいいよ!」
 俺は、篠塚からチョコレートを受け取った。
さっき食べたチョコレートの甘さが口の中にまとわりつく。
 香坂さんたち仲のいいクラスメイトと交換した友チョコ。
 去年は舞ともチョコレートを交換したけど、舞のは友チョコで私のは本命チョコだった。今年も同じだと思ってたけど、舞はいなくなってしまった。
 舞の転校は仕方がないことだし、舞に告白したことも後悔していない。
 でもやっぱり、寂しさはぬぐえない。
『……ねえ、知ってる?』
 さっき香坂さんたちと交わした会話を思い出していた。
『チョコレートって、媚薬なんだよ』
 前になにかのテレビで言っていた、チョコレートの秘密。
『人が恋に落ちると分泌される脳内物質が含まれているんだって』
 どうして好きな人にチョコレートを贈るのか。
『ほんの少しだけど』
 どうして、稲葉にチョコレートを贈らせたいのか。
 少し、最近の私はおかしい気がする。妙にハイテンションというか、カラ元気というか、そのくせ感情の起伏が激しくてすぐに泣きたくなってしまう。
 原因は考えなくてもわかる。舞とお別れしたからだ。だから、稲葉を騙して青山へのチョコレートをつくらせたりした。私の代わりに。
 チョコレートは中毒になる。チョコレートの中に含まれるテオブロミンは常習性のある劇薬らしい。
「青山。水谷先生が呼んでる」
 チョコレートを制服の下に隠して、稲葉が青山を連れ出す。
「こっち」と言って青山を人気のない方へ誘導するその後を、私は追いかけていた。
 見つかったら物凄く怒られるとわかっていても、心配で気になってどうしようもない。
 廊下の角や柱の陰に隠れながら後をつけていくと、稲葉は青山を特別教室棟に続く渡り廊下まで連れて行き、そこで足を止めた。渡り廊下と普通の廊下を仕切る引き戸の陰に隠れ、窓部分から顔をのぞかせる。
 渡り廊下の真ん中で二人は立ち止まり、なにやら話をしているようだった。そして、稲葉が不自然に膨らんだ制服のポケットからあのチョコレートを取り出す。
 どんな顔をしてチョコを差し出したのか、その表情はこちらからは見えなかった。けれど、青山の表情はバッチリ見える。何事か稲葉と話していると思ったら耳まで真っ赤になって、口元が緩んでいるのがわかる。あれだけチョコレートを貰っておきながらいちいちあんなに照れるなんて、なんだか可愛い。
 青山が口を開いて何かを喋っていたけれど、扉で区切られた私の耳には入らない。せめてこの扉の真ん前で話してくれたら聞こえたかもしれないけど、それだと覗いてるのもバレてしまう。
 なんとか声を拾えないか窓ガラスに額を押しつけると、青山が稲葉のチョコレートを受け取った。
「やった……あっ!」
 思わず声を上げてしまい、窓ガラスが私の吐息で曇る。声が聞こえてしまったのか青山が顔を上げて、一瞬目が合った気がした。
「ヤバッ!」
 慌てて頭を引っ込め、その場にうずくまる。
 続きが気になるけれど、再び覗く勇気はなかった。
 心臓がバクバクする。見つかりそうになったせいじゃない。青山が、稲葉のチョコレートを受け取ったから。
 やった、やった、やったぁ……!
 声に出せない嬉しさを、心の中で絶叫する。
 そして、突然アルミ戸が開かれた。
「篠塚……!」
 その声は、稲葉の物だった。
「えへへへへ」
 私は青山だけでなく、稲葉にまで見つかってしまった。
 笑ってごまかせるとは思わなかったけれど、稲葉にまで見つかってしまっては笑うしかなかった。
「ご、ごめんね! でも、どうだっ」
「悪い。今……俺に話しかけんな」
 立ち上がって稲葉に伸ばした手が、無惨にも振り払われる。
 強く払われた手が、ジンと痛んだ。
 覗き見していたことを怒られるとは思った。でも、これは怒ってるんじゃない。
 拒絶、だ。
「稲、葉……?」
 突然のことに思考する停止。
「どうしたの? ねえ……!」
 再び手を伸ばす。でも、稲葉は私を無視して背を向けた。
「篠塚さん。チョコレート、ありがとう」
 稲葉を追いかけようとした私の腕がつかまれる。
「青山……」
 私の手をつかんだのは、稲葉のチョコレートを持った青山だった。
 稲葉の足音が、どんどん遠ざかって行った。
 いったい、なにが起きてるの?
「悪い、青山。水谷先生が呼んでるっての嘘なんだ」
 青山を連れて、渡り廊下の真ん中まで来たときに俺は立ち止まり、隣に立つ青山に顔を向ける。新一粒神

2013年8月18日星期日

つぶてにはつぶてを

アブリルの退院から一週間後、輪廻とヴァージニアは宿舎に作られた臨時の隊長室に呼び出された。

 「女王陛下暗殺未遂事件は帝国の差金と判断して間違いねえだろう」
 二人が隊長室のドアを閉めるなり、アブリルはそう切り出した。OB蛋白痩身素(3代)
 「賊の中に王国軍の警備責任者が混ざってただろ? オレの昔の知り合いに、防諜が専門のやつがいてな。そいつに連絡をとって、裏切り者の身辺調査をやらせたんだが――」
 「そんな知り合いがいるんですか…」
 「まあな。昔、作戦で一緒になったことがあってな」
 驚く輪廻に、アブリルは得意げに答えた。
 「王国軍にそんな部隊があるなんて知りませんでした」
ヴァージニアも不思議そうに質問する。
 「まあ王国はそれほど情報戦に力を入れてるわけじゃないしな。帝国はそれ専門の機関まであるらしいが」

 王国軍には独立した情報機関があるわけではなく、前線の各部隊の中で必要に応じてその役割をを担う者を隊長クラスが任じていた。
つまり組織として、法律として、諜報員の存在が明確に規定されているわけではなかった。

 「かなり前に、うちの総司令が各部隊の密偵や工作が上手い奴ばかりを集めて実験部隊を作ったんだ。結局うまく運用できなくて、今までほとんど遊ばせてる状態だったんだがな。こっちから仕事を頼みに行ったら張り切って引き受けてくれたぜ」

 (だからわたしたちは劣勢なのよ…)
 輪廻は内心の呆れを表に出さないようにするのに苦労した。
 輪廻は決して用兵に明るいわけではなかったが、物量で勝るはずの王国軍が帝国軍に対して劣勢である理由にはいくつも思い当たる節があった。
 豊富な金属資源を抱え、ほぼ無尽蔵に武器を生産でき、人口でも帝国を上回るのだ。
おまけに王国は雷の魔女の力を、ほぼ自由に使うことができる。列車砲がその最たる例である。
 普通に戦えば帝国にここまで遅れをとるはずがない。
 (なんとまあ…もどかしい話ね)

 「女王陛下がリルムウッドの訪問を決めたのがだいたいひと月くらい前だって話だから、黒幕が暗殺計画を立てたのはそれ以降として、そいつはどうにかして実行部隊のハスケルに連絡を取ったはずなんだ。で、ここ最近ハスケル宛てに届いた手紙は一通だけだった。差出人の名前は故郷の両親になってたらしいが、オレが調査を頼んだそいつは何かあると踏んで、その手紙の経路をずっと追いかけたらしい。そしたら――」
 「差出人は帝国軍ですか?」
 肝心なところをヴァージニアがかっさらって言う。
アブリルは少し勢いを削がれた調子で「ああ」と答えた。
 「帝国の情報局の人間らしい。前に話したことがあったと思うが、例の千里眼の男だ」
 「えーと、ハルコンネン、でしたっけ」
 「ティモ・ハンニカイネンだ馬鹿め」
 「なるほど……。それで、今日はそのことを教えるために僕たちを呼んだんですか?」
 「もちろんそれもあるが、それ以外もある」
 「! 何かの作戦ですか?」
ヴァージニアが勢いづいて言う。
 退屈を持て余していたのは輪廻だけではなかった。いやむしろ、真面目で血気盛んなヴァージニアの方が、より退屈を苦痛に感じていたのだ。

アブリルは、静かな調子で作戦を発表した。
 「女王陛下暗殺未遂の報復として、ハンニカイネンを拉致する」
しばらく、輪廻もヴァージニアも、何も言わなかった。
 「…何だその顔は。言いたいことがあるなら聞いてやるぞ」
 「あの、僕には、その情報局のハンニカイネンって人を、前線におびき出す方法がまったく想像できないのですが」
 「あのな、情報局の役人が戦場なんかに出てくるわけないだろ」
 「僕もそう思います」
 「だったらこっちから出向くしかないだろうが」
 「つまり…帝国領に侵攻するということですか?」
ヴァージニアが声を上げた。
 今の混乱しきったリルムウッド駐屯軍に、黒の森に敷かれた帝国の防御を突破する能力があるとは、まともな戦術眼のある人間なら誰も思わないだろう。
しかし、アブリルはヴァージニアの言葉に首を振った。数字減肥
 「侵攻する、ってのは違うな。正確には潜入する、だ。あいつらがしてきたように、こっちも姿を隠してこっそりと入るぜ。『つぶてにはつぶてを』――ってな」

 戦場で英雄が、敵の兵士が投げたつぶてが目に当たり失明した。
 英雄はすぐさま片眼の状態でつぶてを投げ返すと、それは相手にも同じように当たり、敵の兵士は英雄と同じく片目を失った。
かつて、ラディ・ダールトンの父が幼い輪廻に話して聞かせたことのある昔話だった。

 「実はもう準備は始めてるんだ。スパイに頼んで、ニセの身分はなんとか用立てられそうって話だし。後は、帝国に駐在している王国の大使に手引きしてもらえれば、王国とは無関係な国の貴族にでもなって帝国に堂々と入れる」
 「しかし、ただの旅行者がどうやって情報局の幹部に近づけるのですか?」
 「その点も考えてあるぜ」
ヴァージニアの疑問を、アブリルはすぐに解決した。
 「今度、アンアディール要塞で戦勝パーティをやるらしい。帝国貴族やら、共和国の大使やらを呼んで盛大にやるそうだ。黒の森の土地自体に価値はほとんどないからな、せめて最大限政治的に利用してやろうって腹だろう。ムカつく話だが、そのおかげでオレたちは身分さえ借りれば簡単に中に入れるってことだ」
しかし問題はどうやって外に出るか、ということだ。
 輪廻は、前世に更場武術団で活動していたころの経験から、侵入よりも脱出の方がよっぽど難しいことを知っていた。
 「細かいところはアドリブでどうにかするしかない。だから、この作戦は少数精鋭で行く。この命令に関してはお前たちに拒否権を与える。どうするか、明日返事を聞かせてもらう」
アブリルはそう言って話を締めくくった。

 輪廻もヴァージニアも、翌日を待たずに、任務の承諾をその場でアブリルに伝えた。



輪廻は墓に花を供えていた。
 輪廻以外の人間には、それが墓だとはわからないかもしれない。
 墓石の表面に無理やり刻みつけた「わぬる」の文字は、輪廻の故郷の文字だった。

 輪廻はワヌルの死体を憲兵に明け渡さなかった。
 彼のことは、アブリルにも報告していない。
 特に口止めをしたわけではなかったが、ヴァージニアも黙っていてくれた。
 戦士として死んだ彼を、せめてもの慰めとして、自分の手で葬ってやりたかった。
それが、彼を殺した者として自然な行為だと思ったのだ。
きっと彼が殺す方だったとしても、殺した自分に対して同じ事をしただろうと思う。

 哀しみと、同情。

そういう生き方しかできなかった戦士の成れの果て。
 自分もいつかはそうなるのだろうか。いや、そうなっていたはずだと、輪廻は墓の前で考えていた。

きっと誰よりも、自分が彼のことを理解していて、彼こそは自分のことを理解してくれたのではないかと、そんな想像があった。
 剣を合わせていた瞬間が、今にして思えばどんなに健やかな時間だったか。
 斧原一心。
ワヌル。
 輪廻の同類たちに花を供える。
 死んだ人間に慰めもないだろうと、冷めた心で考えつつ。

 「お兄ちゃん!」
 誰かの声が聞こえて輪廻は我に返った。
 墓石の前でずっと物思いに耽っていたらしい。
 輪廻を呼んだのは、クリスティナだった。
 「ああ………クリス」
 「お兄ちゃん、こんなところで何してるの?」
 「まあちょっと、考え事を」
 「ふーん」
クリスティナは納得した様子ではなかったが、深く追求はしなかった。
 花の供えられた輪廻手製の墓に目をやった。玉露嬌 Virgin Vapour
 「……誰かのお墓?」
 「まあ、ね」
 「大切な人?」
 「僕に似た人だよ」
 「あたしも祈っていい?」
 「もちろん」
 死んだワヌルが文句を言うはずもなし。生きていたって、きっと文句は言わないだろう。
クリスティナは輪廻の隣に並ぶと、目を閉じて黙祷した。
 輪廻は幼馴染の横顔を盗み見る。
ただ善意によって死者に祈る彼女は、無垢な僧侶のように見えた。

 「それで、どうしたの? 僕を探してたんだろ?」
 「うん。…………あたし、村に帰ろうと思うの」
その一瞬だけ。
 輪廻は、強烈な質量の孤独を感じた。
すぐに平常の心を取り戻す。引き止めたくなるのを我慢した。
 「そう…。僕を連れ戻すのは、諦めたんだ?」
 「そういうわけじゃないけど……こっちに来てずいぶん経つし、お金だってもうあんまりないし」
 「だったら――」
 「何?」
 「いや、なんでもない。僕の両親によろしく」
 「お兄ちゃん、あんまり無茶はしないでね。お兄ちゃんは強いかもしれないけど、お兄ちゃんのまわりの人は強くないんだから」
 「うん。肝に銘じる」
 「……もう行っちゃうから言うけどね。あたし、お兄ちゃんのこと、いつもよく分からなかったの」
クリスティナは輪廻ではなく、墓石の花を眺めて言った。
 「だってお兄ちゃん、いつもあたしたちじゃなくて、遠くを見てる気がしたんだもん。……お兄ちゃんがずっと見てたのは、ここだったんだね」
 (どうだろう。分からない。だけどあの村が自分の居場所だと思えなかったのは本当だった)
 「……そんなことはないよ。僕の故郷はあの村だ」
 「お兄ちゃん。あたしと初めて会ったときのこと、覚えてる?」
 覚えているはずがなかった。
 他人の人生を生きていた輪廻は、同じ村に住んでいた同じ年頃の子供のことなど、まるで興味がなかった。
 「もちろん」
 「やっぱりね」
クリスティナは悲しげな表情で答える。
すべてを見透かされていると、輪廻は思った。

――こうしてクリスティナは、リルムウッドから去った。



帝国領への潜入作戦の準備は着々と進められていた。
 偽造の身分証の用意に、要塞周辺の地図入手と警備状況の調査などである。
これらの準備には帝国に駐在している大使の強力があった。帝国領内にスパイ網を持たない王国では、大使にその役割を期待するしかないのである(もちろん帝国側の大使もそういった側面をまったく持たないわけではないが)。

 数日後、輪廻とヴァージニアは再び宿舎の隊長室に呼び出された。
アブリルは、潜入のための準備が整ったことを簡潔に二人に伝える。
 「それじゃあ僕たちは、パーティに招待された公国のとある貴族のふりをして、要塞に入るわけですね」
 「あー、そのー、それなんだが、ちょっと問題があってだな…」
 腕を組んだアブリルの眉間には珍しく皺が寄っていた。
 輪廻とヴァージニアは、机の上に広げられた潜入用の様々な書類の中に、アンアディール要塞から発送された招待状を見つけた。
 最初に気づいたのはヴァージニアだった。
 「隊長。これ、招待状には、"リップフェルトの三姉妹を招待"となっているのですが」
 「ああ、……オレたちが化けるのは、公国の三人姉妹の貴族だ」
ヴァージニアが絶句した。
 輪廻は、何が問題なのかすぐにはピンと来なかった。
 「それの何が――ああ、そう、確かに問題ですね」
すぐに気づいて、慌てて言い繕った。
つまり、輪廻は男なのである。

ヴァージニアがアブリルに異議を唱えた。lADY Spanish
 「他の人間を探すわけにはいきませんか」
 「時間がかかる。ぐずぐずしてたら戦勝パーティが終わっちまう。それに三人組で、帝国軍に顔が割れてなくて、かつパーティを欠席してるやつなんざ、そうそう簡単には見つからねえだろう」
 「では……」
 「ああ。ダールトン、お前女装しろ」
アブリルはやや捨て鉢に言った。
 「女物の貴族の服と、化粧道具は用意した。……つらいだろうが、これも任務のためだ。我慢してくれ」
 「はあ。まあ、僕は一向に構いませんが」
 「リンネ……ごめん」
なぜかヴァージニアも謝っていた。


それからアブリルとヴァージニアは輪廻を別室に連れて行き、三面鏡の前に座らせた。
 女装のための予行演習。
 試しに輪廻に化粧をしてみよう、ということになったのだ。

が、アブリルは幼い頃から剣の道で生きてきた人間である。
 上手な化粧の仕方など分からない。
 最初から指揮を放棄して、この件(女装)に関してはヴァージニアに全権を委ねてしまった。
しかしヴァージニアの方も、化粧をした経験がまったくないというわけではなかったが、彼女ほどの身分の貴族は自分で化粧などするはずもなく、化粧をするときはすべてメイド任せである。

ヴァージニアは少し迷ってから、白い粉状の化粧品をパフにつけて、いきなり輪廻の頬に塗りたくろうとした。
 「あ、ちょっと待って。その前に、下地を作ってからの方が…」
 「下地?」
 「ほら、この瓶の、クリームのやつ」
 輪廻は手を伸ばして、白い瓶の化粧品をヴァージニアに渡した。
 「これを塗るのか?」
 「そう。薄く、ムラがないようにね。そのあとに、こっちの粉のやつを付けるんだよ。ただし、目とか口の周りは薄くね」
 「なぜだ?」
 「このあたりはよく動くから、化粧が崩れやすいんだよ」
 「ダールトン、こっちの紅はどうするんだ?」
 「まずは輪郭をとってから、次に中を塗ってください。あ、口紅は最後ですよ」
 「……お前、なぜ化粧に詳しい?」
 「え、と。ほ、本で読んだから…」
 輪廻は苦し紛れに答えた。
 女性二人の冷たい視線が痛かった。

 数十分後。
ヴァージニアとアブリルは、輪廻の化粧の出来栄えにため息を漏らした。
 「うむ……これは………」
 「すげえ……どう見ても女だ………っていうかお前……」
 「こんな感じですか?」
 輪廻は鏡に向かって微笑んだ。
 後ろにいる二人が「はうっ」と悩ましげな声を上げた。
 「な、何ですか、その反応……」
 「……ダールトンお前、なぜそんなに女装に慣れている?」
 「え、っと……慣れてないですよ。別に」
 実際、輪廻は化粧には慣れていた。
 江戸で盗賊をやっていたころ、色目を使って標的の屋敷に忍び込むのには必須の技術だった。
 化粧の匂いで輪廻が思い出すのは、血の色と殺戮の手応えである。
それは決して色っぽい思い出ではない。

 「……おいリンネ。お前、なぜ女の化粧に詳しい。一体誰の化粧を見て覚えたんだ? 答えてもらおうか」
そしてなぜか今にも爆発寸前のヴァージニアである。
 助けを求めてアブリルに視線をやったが、こちらも同様の調子だった。
 (まったく……なんて言い訳したものかな)
いまひとつ化粧の乗りの悪い、ラディ・ダールトンの顔をもう一度見た。CROWN 3000
 江戸にいたころの輪廻には数段劣るが、これなら男のひとりやふたりは引っ掛けられそうではある。

2013年8月15日星期四

髪型

跳ね橋の前まで近づいて見ると、想像以上に立派な城であった。
  まさに古(いにしえ)の騎士道物語に出てくる聖杯城そのものだ。
  周囲を堀で隔てた崖の上ぐるりと城壁が守る。V26Ⅲ速效ダイエット
  その中に、塔や館が大きさのバランスよく配置されている。近くで見ると、真っ白というよりは、どれもが時代を感じさせる象牙色をしていた。
  城門は一段低いところにある。
  門をくぐると奥に石の階段。上段の居住部へと繋がっているらしい。
  上の方は森の木々から頭が飛び出している。麓(ふもと)の町から見ることのできるのは、その辺りだろう。
  門の前には番人の影すらなかった。
 (どうやって中に入るんだ)
  と、ダリオスが首をかしげている横で、ユルシュルが大声を上げた。
 「シャトー・ブランカ! 今帰ったわ。オーベール様の言いつけどおり、お客さまをお連れしたの!」
  すると、
 「おかえり」
  とでも言わんばかりに、ひとりでに跳ね橋が下り始めたではないか。
  ぎぎ、ぎぎ――。と鈍い音をまとわりつかせ、ゆっくりと、勢いを殺して下りてくる。
  同時に城門が上がった。
 「ついてきて」
  ユルシュルに導かれるままにダリオスは橋を渡り、門をくぐった。
  三人が中に入ってしまうと、またひとりでに跳ね橋が上り、門は閉じた。
  内側は意外と狭い。
  石の壁に囲まれただけの空間である。右手には門番の詰所らしき小さな建物(必要があるのか不明だが)。左手には城門の裾に据えられた高楼の塔。
  そして奥には、上の居住部へ続く階段。
  右の詰所から、誰か出てくる気配がした。
  戸を開けて、姿を現したのを見てダリオスはぎょっと肝を潰した。
  牡鹿が服着て二足で歩いている。ように見えたのだ。執事のルネである。
  ローブ風のゆったりとした衣服を着けたルネが、こちらに歩み寄ってくる。頭は鹿だが、足はまるで猛禽だった。ごつごつして、三股に分かれた爪が長い。
  なんだか合成獣(キメラ)のような輩である。
  すっ、と差し出した右手は人間のものだ。
 「ようこそ、ヴルスクル家へ」
  ルネは手を胸元に引き寄せ、ダリオスに一礼した。
 「当家の執事にございます。ご到着をお待ちしておりました」
 「あ、これはどうも、ご丁寧に」
  慇懃にされると、ダリオスの方が恐縮してしまう。
 「ユルシュルもおかえり」
 「ただいま、ルネ様。この娘(こ)が熱を出してる娘よ」
 「どれ、上に運ぶのは私が代わろう。おまえは先に旦那様のところへ戻っておいで」
 「うん」
  ルネは、半獣の背からマリアを引き受けた。
  包まっているマントごと、横抱きに抱える。マリアは間近に迫ったルネの容貌に、
 (ひえっ)
  と、驚いたらしいが、大きな反応を見せる元気はないようだ。
  身軽になったユルシュルは、奥の階段をぴょんぴょん駆け上って行ってしまった。
 「驚かれましたでしょう。何しろ、これで」
  ルネは自分の外見を指して苦笑いしている。
  ダリオスも、変に気を遣うのは却って失礼かと思って、素直に笑顔を返した。
 「ええ、少しだけ」
 「ここまでの長旅、お疲れ様でございました」
 「あの、どうして俺たちを城の中に入れていただけたのか――」
 「それは後で主人から申し上げます」
  二人は階段を登り始めた。
 「執事さん、重くありませんか。俺が代わりましょうか」
  と、ダリオスがマリアのことを言うと、
 「こらー」
  ルネの腕の中から、弱々しくも訴える声がする。
 「誰が重いですって……」
 「ははは、それを言う元気があれば大丈夫だ」
  牡鹿の面が笑み崩れた。
 「羽根のように軽い、とまでは言わないが。十分スリムだよ、娘さん。まあ、しかし」
  とダリオスを見て、意味ありげな顔つきになる。
 「代わった方がよければ代わりますよ」
 「――いえ、別に結構です」
 (ひょっとしてこの人も見てたのか、夕べのを)
  まさか城にいる全員が見てたっていうんじゃないだろうな。
  それはちょっと、恥ずかしすぎる。
  ダリオスは、
 「それにしても、遠目にも美しかったですが、近くで見るとより、立派な城です」
  と、話題をそらした。
 「ありがとうございます。そう言っていただけると、城も喜びますでしょう」
 (城が喜ぶ?)
  奇妙な表現をする。
  階段を登りきり、中庭に出た。
 「こちらへ」
  執事のルネに案内されて、連れてこられたのは主人の居館らしい
 カフェラテと同じ色の屋根をした、華奢な外観の洋館である。
  貴婦人の骨を組んで造ったような――。つまり、柱や窓の周りに装飾を施して縦の線を強調したり、透かし彫りを入れてわざと細い印象を持たせている。
  ここだけ最近建て替えられたのか、壁が新しかった。
  両手がふさがっているルネのために、ダリオスが玄関を開けた。
  彼を先に通し、後に続く。
  パタンと扉が閉まる音と時を違わずして、新しい声が迎えてくれた。
 「ようこそ、我が城へ」
  入ってすぐが赤い絨毯のホールになっている。
  正面に二階へ至る幅広の階段がある。腕組みしながらその手すりにもたれて、こちらに顔を向けているのが、声の主のようだ。V26即効ダイエット
  一見、年齢はダリオスとそう変わらないように見える。

 男は手すりから体を離した。
 「お待ち申し上げていた。私は当城の主、オーベール=ヴルスクル」
  胸に手を当てダリオスに一礼したその所作が、嫌味でなく、板についている。
  容姿は――マリアが元気だったら、見惚れてたことだろうな。という風である。
  同性のダリオスでさえ、見入ってしまった。
  童話の白雪姫がもし、男になったらこんな感じだろう。
  色白で細面、鼻筋が真っ直ぐで、目元が深い。オリーブグリーンの瞳は大きくて、橄欖石(かんらんせき)の欠片に見つめられているみたいだ。
  自然が真心込めて作り上げた、完全な均整である。
  また、老いなど忘れてしまったような瑞々しさ。
  高い窓から照らす日差しに艶やかな、濡れ羽色の髪にはきっちり櫛が入っている。が、ほんの一筋だけ乱れて目に掛かっていた。
  それが似合ってしまうから、腹が立つくらいである。
  ダリオスがぼけっと突っ立っているので、オーベールの方から近づいてきた。
 「お客人?」
  と口を開いた拍子に、尖った犬歯がちらっと覗く。
  その白さがダリオスを我に返した。
 「サー・ヴルスクル――お会いできて光栄です。ダリオス=ジュオーです」
 「こちらこそ会えて嬉しい。が、まあ話は後にしよう。まずはこの娘さんの介抱を」
  執事の腕の中を覗き込む。
 「お嬢さん、お名前は」
 「マリア」
  と、マリアが答え、さらにダリオスが付け加えた。
 「本名はマリアンヌ=デュフォールです」
 「そうか。マリア、私のところにはいい医者がいる。すぐに楽になるよ」
  オーベールは、寝室が用意してあると言って、その部屋に案内してくれた。
  藍色のシャツに黒のベストを重ねた吸血鬼の背中が先頭、ルネが最後尾。その間に挟まれて行きながら、ダリオスは廊下の様子を眺めた。
  ひと言で言えば上品だった。例えば、壁紙と、樫のドアと、鍍金(めっき)の蝶つがいの色合い。先ほどのオーベールの一礼同様、嫌味でない。
  通された寝室には、セミダブルくらいのベッドが据えてあった。これがまた、宮や脚に華やかな装飾のされた品だ。
  そもそも部屋自体、ゲストルームには広すぎるくらいである。
  アンティーク風の家具に壁の絵画まで、そこらの宿屋に置いてあるのとは値段がフタ桁くらい違いそうだ。
  ベッドのそばで、ワンピース姿の若い女が一人、控えて待っていた。
  オーベールが紹介してくれる。
 「彼女はオデット。家政婦兼祐筆(クラーク)だ。オデット、お待ちかねの騎士殿だ。名前はダリオス=ジュオー君。こっちのお嬢さんはマリア」
 「はじめまして。よろしくお見知りおきのほどを」
  オデットはにこっと微笑み、スカートを軽く持ち上げて膝を曲げた。
 (可愛い娘(こ)だな)
  ダリオスはつい、余計なことを考えて、気が散った。
  偶然かどうか、ルネの胸元でマリアの右足がぴくんと跳ねる。ブーツの底がダリオスの腕を蹴っ飛ばした。
 「いてっ」
 (こいつ、またいつぞやみたいに人の心を読んだんじゃ)
  そういう人間離れしたことをするなと言うのに。
  マリアはベッドに寝かされ、オデットが医者を呼びに行った。
  じきに連れて戻ってきた。
  もしかして医者も普通じゃないのでは――と思っていたが、やっぱり普通ではない。
  純白のローブはまあいいとしよう。問題は、その衣の裾という裾、袖、襟ぐり、どこからも一切の肌が露出していないことである。
  足はともかく、手には子山羊の革手袋、頭には頭巾。ご丁寧に顔まで仮面で全部隠している。
  石膏像かと思うような、目鼻の凹凸に生気のない顔が怖い。
  しかも、赤いのだ。その仮面は。真紅である。一体どういう趣味をしているのだ。
  ダリオスが圧倒されているうちに、オーベールはさっさと紹介してくれた。
 「彼が医者のシモン。イカレたやつが来たと思ってるだろうが、その見解でおおむね正しい。気は触れているが、ま医術の腕は確かだから安心しなさい」
 「そこまで仰いますか、旦那様」
  医者シモンが、床で診察鞄を広げながら口を尖らせている、らしい。仮面の下のことはよくわからない。
 「そこまで言うさ。何だ、そのおぞましく不気味極まりない面は」
 「失礼な。僕はお客人がご到着と聞いて、秘蔵の一等美麗な仮面を着けてきたのですよ」
 「どこが美麗だ」
 「紅顔の美青年」
  いけしゃあしゃあと言ってのけると聴診器を首に掛け、マリアの上に屈んだ。
  オーベールは肩をすくめている。
 「ああいうやつだよ」
 「さて――」
  シモンは手袋のままマリアの額を触った。
  マリアが、気味の悪い仮面に(ひええ……)と辟易して眉をしかめる。
 「熱が高いね。お嬢さん、森でメビウス川にでも落ちたのかい」
  マリアは頷く。
 「そう。寒い時節だからね。気をつけないとだめだよ」
  言いつつ、聴診器を耳(と思しき場所)に頭巾の上から着ける。
 「オデット、手伝っておくれ。この娘(こ)の胸元を――」
 「はーい先生。ほら殿方の皆さんはあっち向いてらして」
  ダリオス、オーベール、ルネは入り口の方を向いた。
  ごそごそとシャツをまくり上げる音がする。
  重ねてマリアが咳き込んだ。
 「おい、大丈夫か?」
  ベッドに向き直ったオーベールの顔に、オデットがベッドサイドから聖書を投げつけた。
  顔面を表紙が直撃した。
 「レディーの肌を覗くとは何事ですかっ」
 「だからって、主人に物を投げるとは何事だ」
  オーベールは、やれやれと聖書を拾って元の向きに戻る。
  隣りのダリオスにこっそりささやいた。V26Ⅱ即効減肥サプリ
 「結構、ふくよかだな、彼女」
 (この野郎、しっかり見てるんじゃないか)
  というか、はなから見たくて振り返ったのかもしれない。案外油断のできないバンパイアである。

「ま、大したことはないでしょう。体が冷えて体力が落ちてるんです。下手をして肺でも病めば厄介ですが、今のところはその心配もなさそうですしね」
 「だが熱が高いんだろう。下げてやらねば」
  オーベールが、さっき聖書がぶつかって赤くなった鼻筋を押さえて言った。
 「ええ」
 「インドゥルゲンティアを使おうか?」
 「なに、聖杯を持ち出すほどのことではありません」
  二人が何気なく口に出した言葉にダリオスは興を引かれた。
 (インドゥルゲンティア――聖杯)
  にわかに精神(こころ)の高揚してくるものがある。
  あの予言者アスタロトに、探せと言われて導かれたサングリアルが、もうすぐ近くにある。
  それが本物のサングリアルかどうか、自分の目で見て納得したい一心だけで、ここまで来たのだから。
 「旦那様のお顔こそ、聖杯に癒してもらってはいかがです。麗しい面立ちが台無しです。それでは彼女は口説けませんよ」
  と、シモンがマリアを指す。
  オデットが不潔なものでも見るように、主人に流し目をくれる。
 「やだー、オーベール様ったら、やっぱりそういうおつもり?」
 「何のことかね」
 「この娘(こ)、どう見てもまだ二十歳くらいですよ。五百八十歳も年下の娘に変なお考え起こさないでくださいませ」
 「わかってるわかってる。いつものことながら、おまえは私の姉か何かか? 口うるさいやつだ」
 (本当にわかってるのかな)
  ダリオスは、はたで聞いていて不安になってきた。
  本当にこの城に来てよかったのだろうか。
 「いつもそうやって、わかってるって言いながら、お手をお出しになるじゃない」
 「私が出してるんじゃない。むこうから惚れてくるんだからいいじゃないか」
  何だかやっぱり、来ない方がよかったかもしれない。
 (マリアは惚れませんように)
  心中祈っているダリオスの横に、赤い仮面の医者が身を寄せた。話し掛けてくる。
 「患者が寝ていると言うのに、騒がしい方たちですよねぇ」
 「ええと、シモン先生でしたか」
 「シモンで結構ですよ。何か」
 「マリアの具合は、長引きそうですか」
 「魔法薬を出しますので、それを飲んでひと眠りすれば熱は下がるでしょう。あとは、美味しい物でも食べて、元気をつけることです」
 「ならよかった」
 「あのオデット、ああ見えて料理の腕はいいんですよ。食事の方はお楽しみに」
 「それから、もう一つ」
  と、さらに尋ねる。
 「失礼かとは思うんですが、どうしても気になって……そのお召し物は、ご趣味で」
 「ああ、いや。実は僕これでして」
  笑いながら、シモンは右手の手袋を外して中身を見せた。
 「うっ」
  ダリオスは思わず唸るほど、度肝を抜かれた。
  慌てて口を押さえる。
 「し、失礼」
 「いえいえ、いつも驚かれます。お気になさらず」
  彼の右手は、正確に言うと『手』ではなかった。
  ローブの袖から、十数本の肉色の触手が顔を出し、うねうね蠢いていた。
 「まあというわけで、肌を見せないようにしているのですよ。――あ、仮面も取って見せましょうか?」
  ダリオスをからかい始めたシモンを、ルネがたしなめた。
 「先生、およしなさい。悪趣味な」
  陽気な触手医者は、手袋をはめ直している。
 「これぐらい思いっきり驚いてくれると、見せた甲斐あったってもんです」
 「ジュオー様、どうも申し訳ありません。先生も悪意があってやっているわけではないので、お許しを」
 「いえ、俺もいきなり見せられてびっくりしただけで。魔族の方の中には、そうやって人型を保っていることがあるのは知っていました」
 「ほう、他にもお会いになったことが?」
 「ええ以前、北のガシュテ公国の貴族に」
  半年前、マリアと出会ったばかりのころの話である。
  ダリオスが剣を合わせたボル=マグダという男がいる。彼の本体は、黒い靄(もや)の塊であった。普段はそれが服を着て、人間のような格好をしている。
  彼は仮面は着けていなかったが。
  頭部は靄が兜の内に納まっているだけで、目や口など一切なかった。それでもちゃんと視線を感じ、声が聞けたのだから不思議なものだ。
 「それじゃ、僕は薬を取りに行きます」
  と、触手医者は部屋を出て行った。
 「ジュオー君」
  オーベールが、横たわるマリアの上に屈みながら呼んだ。
 「はい」
 「今度は君の話も聞こうか。ここではなんだから、私の書斎にでも移ろう」
  なぜか彼の手はマリアの顔に伸びていく。
 「熱を見るだけだ」
  何をされるのかと怪訝な表情しているマリアに断ってから、耳の下辺りをなでた。
  向かいでオデットが腕組み仁王立ちしている。
 「オーベール様、それより下をお触りになったら今晩は夕食抜きです」
 「私もよほど信用がないらしい」
  オーベールは、マリアの顔をつぶさに眺め、
 「――薬を飲んだらゆっくりお眠り。その間、ジュオー君は借りていくよ。心配しなくても、取って喰ったりはしない」
  それだけ囁いて、手を離した。

 オーベールの書斎は、おびただしい数の本と、膨大な量の覚書きに埋もれた乱雑な部屋だった。
  ただ、その乱雑さの中には、主にしかわからない秩序があるらしい。
 「この部屋は家政婦に掃除をさせないから、散らかっていて申し訳ないが」
  主の玉座らしき古い机の椅子に、オーベールは掛けている。机上も本や紙切れでいっぱいだ。
  壁一面の本棚はむろん満員。あぶれて床にまで積まれている有り様である。
  ダリオスはオーベールに対面して座りながら、興味深そうにそれらの文献を眺めていた。
 「これだけの本をよくお集めに。しかも珍しい物がいくつも。『富の精神』『自然科学と魔術に関する一考察』『赤兎』『栄枯論』、全て初版で――」
 「君もずい分読書家らしい。目利きだな」日本秀身堂救急箱
  そこへオデットがお茶を運んできた。
 「どうぞ」
 「ありがとう」
  ダリオス、オーベールの順に、ティーカップの乗ったソーサーを受け取る。
 「そういえば、あなたは何の種族でいらっしゃるのです?」
  ダリオスが尋ねると、オデットは含み笑いを返してきた。
  代わりに、オーベールが教えてくれた。
 「それは人魚だ」
 「しかし、脚が」
 「二本足で地に上がった人魚姫だよ。気をつけた方がいい。歩くことを覚えたついでに、地上の男を誘惑することも覚えている」
 「オーベール様ったら、さっきのこと根に持っていらっしゃるのね」
  意地わる。
  と、捨てゼリフを残し、人魚姫は場を辞した。
  先に紅茶のカップから口を離したのはダリオスの方だった。
  カチン――と小さな音を立て、ソーサーにカップを置いた。
 「なんだかまだ実感が湧かなくて」
 「何がだね」
 「この城にたどり着くことができたことが」
 「ふふ」
  薄く笑う。
 「麓の町では、滅多なことで来れぬ場所だと教えられたね?」
 「ええ。違うのですか」
 「違いはない。ただ、町の皆が思っているほど、何人(なんぴと)も来られない場所でもない。まあここ百年くらいは、確かに客を迎えなかったが」
  昔は、五十年に一度くらいは来客があったのだと言う。
 「割といたんだよ、昔は。君たちのように、世間にわだかまるところのない者が」
 (わだかまるところのない?)
  それってつまり、途方もないのん気者、ということだろうか。
 「もとよりここへ来ようとする者は、九割九分聖杯目当てだ。その中にさまざまな為人(ひととなり)の輩がいる。強欲な者、無欲な者、尊大な者、心優しい者、誠実な者、臆病な者――」
 「それをサー・ヴルスクルは見極めて、ここへ招くかどうかお決めになると」
 「見極める?」
  吸血鬼は牙を見せて笑った。
 「そんなことができるものか。一目で結婚相手を決めろと言われて、君は決められるか? 交際してみなければ相手の本質などわかるまいよ」
 「ではなぜ、俺とマリアをここに」
 「訳なんて言えるか」
 「え?」
 「生命はそもそもが不思議である。どうして生きて自我を持っているかもわからないのに、自分のやること全てに理屈や思慮分別があってたまるか」
  変わったことを言う男である。
 「あえて言うなら、だから、君たちには世間にわだかまるようなところがなさそうだと思ったから」
 「それはつまり、俺たちが暢気(のんき)そうだということで?」
 「のんきものんきじゃないか。夕べはよく、マリアに手を出さなかったな」
 「――ご覧でしたか」
  そうだろうとは思ったが。あの半獣人のユルシュルでさえ見てたって言うんだから。
 「ひょっとして女に興味が無いのか?」
 「いえそういうわけでは」
 「じゃあ男の機能に問題があるのか? それならシモンに診てもらうといいが」
 「別に、悪いところもありません」
 「ということは、本当は抱きたかったんだな?」
  にやにや頬をゆるめて、目を覗き込んでくる。「彼女を腕に抱いてどんな気持ちだった?」と、オーベールは意地悪なことを尋ねた。
  ダリオスも、こうなったら観念した方が得策、と思ったらしい。
 「気持ちがよかったですよ。胸も腰つきも太ももも柔らかくて」
 「そうこなくては。夕べ、君が指一本でも妙な仕草をしたら森の外に追い出すつもりだった。実によく耐えた」
  私だったら耐えられんが。笑顔で付け加えた。
  紅茶をひと口傾ける。
 「それだけのことで、俺たちを招いてくださったので」
 「理屈や思慮分別ではないと言っただろう。理由の一つとして、夕べのを見ていて君に好意を感じたのは確かだがね。今どきこんな暢気な男がいるのかと思った。一度話をしてみたいと思ったよ」
 「――よろしければ他の理由も、あるのならお教え願えませんか」
 「マリアンヌが」
 「マリアが?」
 「彼女が亡くなった母になんとなく似ていたから」
  オーベールは、机の端に置かれていた写真立てを取って、ダリオスに見せた。
  白黒でたいそう年代物の写真に、二十代後半と思しきセミロングの髪の女性が映っていた。
  マリアに似ている、というのは言い過ぎかもしれないが――
「これが母君でいらっしゃる――そうですね、髪型と表情の雰囲気が少し……」
 「それに、私の母も人間だった。混血(ハーフ)なんだ、私は」
  父は純血のバンパイアだった。それが人間の娘に惚れ、愛して、生まれてきたのがオーベールだそうだ。簡約痩身
 「母が亡くなったのはずい分前のことだが、マリアの顔を見ていると懐かしくなってしまってな」
  美貌のダンピール(混血の吸血鬼)は、涼やかな橄欖石の目元を細めて囁くのだった。

2013年8月13日星期二

全てメイドの仕業

三十分ばかり経って、警部はベールの部屋に呼ばれた。
 「何かいいお考えが?」
  東方王ベールといえば、人間にあらゆるものを見通す力を与えることができる大悪魔である。あるいは透明になる力を与えるとも言われる。どちらにしろ、ただのさえない中年男ではないはずだ。との思いが警部にはある。levitra
  ベールは窓から中庭を眺めたまま言った。
 「警部」
 「はい」
 「メルランの家に人をやって、彼が帰宅しているかどうか確認してもらいたい」
 「それは」
 「この盗難事件、外部犯と考えるには不自然な点が目立つ」
  ベールは静かに眉をひそめる。
 「では犯人は、門の鍵の異変に気づき、禁書室を調べた者の中にいると仮定する。さらに、犯行に及んだのは今日、その門の鍵の異変以降と考えよう」
 「そう考えなければ、やはり不自然が目立つからですか」
 「そうだ。彼らにレメゲトンを盗むチャンスがあったのはいつか」
 「禁書室に入ったときでは」
 「違う。彼らはお互いを見張り合っていた。誰もあの本を持ち出せない」
 「ですが、そのときにはすでにレメゲトンは消えていたのでしょう」
 「消えていたのは書棚からだけだ」
  警部も眉をひそめ、ベールに一歩近寄った。
 「それはどういう意味です」
 「彼らが見たのは、書棚からレメゲトンがなくなっている光景だけだ。後で警察が調べたように、本当に禁書室から紛失していることをいちいち確かめたわけではない。もっとも、そこまでは確認できなかったはずだ」
 「つまり、そのときはまだレメゲトンは盗まれてはいなかったと」
 「ひとまずどこか、他の書物の陰にでも隠しておいたのだ」
 「ではいつ、それを持ち出したとおっしゃるのです。その後も彼らはずっと一緒にいて、一人抜け駆けて禁書室に忍び込む隙などなかったはず」
 「いや、あった」
 「いつですか」
 「警部が、事情聴取とボディチェックを終えて家に帰した後だ」
 「えっ」
  ベールは、ゆっくりした動作で机に向かい、椅子に腰を下ろした。深く身を沈めると、長い脚を悠々と組んだ。
 「ここへ呼ばれてきた警察官の制服は一種類に統一され、帽子をかぶっている者もいる。禁書室で見た様子では、彼らはお互いの行動に注意を払っているようには見受けられなかった」
 「―――」
 「犯人が同じ制服を着、帽子をかぶってまぎれ込んでも、気づく者はいまい。そこで証拠品を持ち出すような素振りでレメゲトンをまんまと盗んだのだ。このため、わざわざ事件を起こし、警官を大勢呼び込んでおく必要があった」
  これが犯人の手口だとすると、と語を継ぎ、
 「犯人の可能性が一番高いのはメルランだ。門の鍵がおかしいと言って入ってきたのは、禁書室を開けさせるためだ。禁書室の鍵にはさすがに手が出せなかったんだろう」
 「禁書室で、レメゲトンがないことに気づいたのも彼――」
 「警察を呼べと言ったのもだ。真っ先に警部の聴取を受け、出て行ったのも」
 「証拠は」
 「ない。ないが、外部犯と考えるより合理的だ。メルランの家に行ってみて彼が帰っていなければ、まず間違いあるまい」
 「すぐ、向かわせます」
  警部は部屋を出た。じきに戻ってきて、
 「庭師の家に部下をやりました――が、彼の動機は何です」
 「さて、私もそれがわからない」
 「金目当てでしょうか」
 「そういう性格には見えなかったが、まあ見かけによらないということもある」
 「どちらにしろ、庭師が捕まればはっきりすることですな」
 「それはそうだ」
  しかし、メルランは捕まらなかった。どこをどう逃げたものか、足取りが全くと言っていいほどつかめず、捜査は難航の色を見せ始めた。
  その際ベールが向かったのが、悪魔ビフロンスの元である。
  ビフロンスは人間に占星術の知識などを与えると言われる悪魔である。自身も占術をたしなむ。彼にメルランの居所を占わせた。
  結果は、かんばしいものではなかった。
 「見えませんな」
  と、ビフロンスはペンデュラムから顔を上げ、言った。
 「見えないとは」
 「見えないとは見えないということです。何もわかりません」
 「なぜ。おまえの占術の腕はその程度のものか」
 「私の腕がというより、何者かが魔力をもってメルランの姿を隠してしまっているのでしょう」
 「それ以外の可能性は」
 「でなければ、私の腕です」
  それはつまり、メルランを手助けしている者がいるという意味であった。

6
 そこまで聞いてから、アスタロトが口を出した。
 「で」
 「で、とは」
 「で、おまえは俺に何を協力しろと言うんだ。今の話じゃ、もう犯人はわかっているらしいじゃないか。あとは捕まえるばかりだろう」
 「まあ最後まで聞け」
 「聞いている。早く話せ」
 「メルランの居所は、占いですらわからなかったが――」
 「うん」
 「もう一つビフロンスに占わせてみた物がある」
  ベールは上着の胸ポケットから折り畳まれたハンカチを取り出した。それを手の上で開いて見せる。
  中に、小さな青玉のイヤリングが片方、包まれている。
 「これだ」
 「それは?」
 「私が事件当夜、館の周りをうろついている際、中庭で拾った」
 「それを占わせたのか」
 「そうだ。すると、詳しいことはやはりわからないが、ビフロンスは一つだけ断言した」
  ビフロンスは、イヤリングに目が着くほど顔を近づけ、いろんな角度からまじまじと見ていた。魔方陣の描かれた巻物を取り出し、その上にペンデュラムをかざしたりしてから、Motivator
 「あなた様の奥方様にお話をお聞きになるとよろしいでしょう」
  と、ぽつりと言ったのである。
  ベールは、じろりとアスタロトの目をのぞき込んだ。
 「どうやらおまえに所縁のある代物のようだということだ」
 「ふん――」
  アスタロトは、ベールからハンカチごとイヤリングを受け取った。
 「どうだ、見覚えがあるか」
 「別に」
 「おまえが嘘をつけないのは、私が一番よく知っている」
  ベールはアスタロトの腕をつかんで引き寄せた。顎(あご)に手を当ててこちらを向かせる。
 「見覚えがあるらしいな、アスタルテ」
 「知らんな」
 「なぜメルランをかばう。レメゲトンが盗まれれば心安らかでいられないのはおまえも同じだろう。また人間のいいように使われたいとは思うまい」
 「俺はメルランなどというやつは知らん。会ったこともない」
 「嘘をつくな」
 「嘘じゃない」
  アスタロトはベールの目をまっすぐに見返す。
 「では何を知っている」
 「知らん――」
 「言え!」
  ベールの苛(いら)立ちに同調したように、窓の外で雷鳴がとどろいた。アスタロトの顎をつかむ手に力がこもる。
  アスタロトは、のどの奥でくぐもったうなり声を上げた。
 「このイヤリングの持ち主を知っているだけだ」
 「それは誰だ?」
 「言えない」
 「どうして」
 「どうしてもだ」
  アスタロトは語気を荒くした。
 「レメゲトンは俺が取り返してやる。それでいいだろう」
 「よくはない。メルランを捕まえなくてはな」
 「そいつも警察に突き出してやろう」
 「共犯者がいるはずだ」
 「ベール、おまえそのことを誰かに話したのか」
  と尋ねると、ベールは、なぜそんなことを聞くのかといぶかしげに顔をしかめ、
 「いや、まだだが」
 「だったら誰にも言うな。ビフロンスにも口止めしろ。共犯者なんていなかった。メルランが一人でやったことだ」
  ベールは、ははあ、と合点がいったらしい。口の片端をつり上げて意地の悪い笑みを浮かべた。
 「なるほど確かに、今回の事件としては、メルランを探し出し、レメゲトンさえ取り戻せれば解決と言って差し支えない。だがアスタルテ、おまえただで私の口が封じられると思ってはいないだろうな?」
 「―――」
  何が望みだ、とアスタロトはささやいた。
  ベールの手が腰へと回ってくる。抱き寄せられると、アスタロトの体は自然と柔らかな曲線を描く女性体へ変化した。
  ベールはアスタロトの白く華奢(きゃしゃ)な首筋に口元を近づけ、
 「我が妻よ、聞くまでもないことだろう」
  と、ささやき返す。
 「おまえが隣にいない閨(ねや)は寂しいものだ」
 「―――」
 「目覚めたとき手を伸ばせばおまえがいる。そんな朝が恋しいのだ。夜の間、私の手で乱れに乱れたおまえが、疲れ果てて子どものように眠っている様は何より美しい」
  アスタロトの滑らかな頬の輪郭をなで、有無を言わせず唇を奪った。
  ところが、十も数えないうちにベールは自分から身を引いた。
 「うっ!」
  口を押さえ、うめく。舌の上で鉄臭い味がした。アスタロトに噛まれたのだ。
  アスタロトは唇に付いた血を指でぬぐうと、
 「ふん」
  とベールをにらみつけて凄(すご)んだ。その顔つきはいつの間にか男性に戻っている。
 「ベール、貴様まだわかっていないらしいな。俺がこんな姿になった理由が」
 「何が言いたい」
 「俺は貴様の所有物でも、付属物(オマケ)でもない。ましてや貴様のダッチワイフでいるのには飽き飽きした」
  くるりときびすを返す。一人で禁書室を出て行こうとする背中に、ベールは釘を刺した。
 「アスタルテ、おまえが私の元へ帰ってこなければどうなるか――」
 「わかっている!」
 アスタロトは振り向かずに怒鳴った。

7
 アスタロトはメイドのヴィヴィアンとの約束を守り、夕食の前には帰宅した。
 「おかえりなさいませ」
  執事とヴィヴィアンがそろって出迎えた。
 「ああ、今帰った」
  アスタロトは外套を脱いで執事に渡すと、
 「ヴィヴィアン、ちょっと来なさい」
  と、メイドだけ連れて自室へ引っ込んでしまった。
  主人の後から部屋に入ったヴィヴィアンはいたずらっぽく小首をかしげている。
 「旦那様、何か御用で? それともお夕食の前にあたくしをお食べになるおつもりですの?」
 「メルラン、というのはフランス語名だ」
  唐突にアスタロトは言った。
 「英語名では『マーリン』。言わずと知れた希代の大魔法使いだな」
 「それが、何か?」
 「まったく」
  上着のポケットから青玉のイヤリングを取り出す。それをヴィヴィアンの右耳に着けてやった。そうして両耳にそろった石の控えめな輝きが上品であり、メイドの衣裳にも似合っている。
 「おまえの恋人の名だろう」
 「さようでございますわね」
  ヴィヴィアンは何を考えているものか、穏やかに微笑んでいる。SPANISCHE FLIEGE D9
 「ヴィヴィアン」
 「はい、旦那様」
 「どうしておまえがレメゲトンを欲しがるんだ?」
  ヴィヴィアンは、目を細めて、常人の男なら腰がくだけてしまうような魅惑的な笑顔を見せた。
 「それとも、地上での恋人に再会したうれしさに、とびきり難しい物をねだってみただけか」
 「旦那様、あたくしは、湖の女王とまで呼ばれた妖精ですのよ」
 「ああ」
 「あの偉大な魔法使いマーリンですら、あたくしの虜。どうあがいても、あたくしからは逃れられませんでした」
 「おまえの悪い癖だ。そうやって男の自由を奪いたがる。かのアーサー王までも魅入らせた魔力は恐ろしいな」
 「でも、あたくしの力をもってしても、虜にできない方がいらっしゃるのですわ」
 「ほう、誰かね」
 「レメゲトンの力を使わなければ、自由にできないお方――」
  ヴィヴィアンの白魚のような指が、アスタロトの頬に触れた。
 「――俺の周りにはこんなのばっかりだな」
  とアスタロトはぼやいた。
 「ヴィヴィアン、あきらめなさい」
 「レメゲトンを?」
 「そうだ」
 「そんな」
 「あれはおまえには――まあ扱えないことはないかもしれんが、一度(ひとたび)あれに書かれた秘法を行ったが最後、ベールに抹殺されるぞ」
 「あたくしの身を案じてくだいますの?」
 「おまえと一緒に俺も殺されかねん」
 「あら旦那様、それならあたくしは本望です」
 「冗談はよせ」
  アスタロトはヴィヴィアンを抱き寄せ、優しく髪をなでてやった。
 「これからは、おまえにあまり寂しい思いをさせないようにする」
  ヴィヴィアンはふくれ面をして、
 「そんなお言葉を鵜呑みにするほどうぶな娘じゃございません。どうせ三日もすれば地獄を抜け出して、地上で乙女をたぶらかしてお遊びになるのでしょう」
 「おまえだってメルランにちょっかいを出したくせに」
 「妬(や)けますか?」
 「少しはな。おまえは俺だけを見てるのかと思っていたよ」
  ヴィヴィアンの耳に触れ、青玉のイヤリングを親指でいじる。ベールにそれを拾われなければ、アスタロトだってヴィヴィアンの仕業だとは気がつかなかっただろう。
 「それにしてもイヤリングを落としてくるなんて失敗をするとは、おまえにしては珍しい」
 「失敗ではありません」
 「なに?」
 「落とし物の一つもしておけば、いずれこうして旦那様の知るところとなるはずだと。あたくしとマーリンとのことを知ったときに、あなた様がどんなお顔をなさるのか、見てみたかっただけのことです」
 「女は恐ろしい」
  アスタロトはもはや苦笑いするしかない。ヴィヴィアンから手を離した。
 「女が恐ろしいわけではありませんわ。あたくしは恐ろしい女ですけれど」
 「自分で言うな。おまえのおかげで、俺はどうやらベールの夜のオモチャに逆戻りしなくちゃならん」
 「え?」
  ヴィヴィアンの表情が曇った。しかし、アスタロトから事情を聞くと、じき元のように妖艶に微笑する。
 「そのようなこと、お気に病まずとも、すべてこのヴィヴィアンにお任せくださいませ、旦那様――」
  一体このメイド、何をたくらんでいるものやら。

8
「旦那様、お電話です」
  執事に呼ばれ、電話機の前に立って差し出された受話器を取った。
 「もしもし?」
 『アスタルテ、おまえ何をした!?』
  途端に受話口からベールの怒声が響いた。慌てて受話器を耳から離す。
 「何の話だベール」
 『何の話だと! おまえ――ことをして、地獄を壊滅させ――つもりか!?』
  ベールの声はかすれたり切れ切れになったりしていた。やけにノイズが多い。
 「よくわからんが、それより俺のそっちへの引越しはいつにすればいいんだ?」
 『それどころじゃない!! 自殺を志願するのでなければ当分自分の領地で大人しくしていろ。間違っても私の前に姿を見せるなよ!』
  受話口から聞こえてきた爆発音と共に、通話は切れてしまった。
  チン、
  と受話器を置いて、アスタロトは長椅子でしどけなく寝そべっているヴィヴィアンを振り返った。
 「どうやった」
 「東方王様の妹君にお会いして参りました」
 「アナトにか」
 「ええ。旦那様が東方王様とヨリをお戻しになるつもりだとお話したら、あっという間に兄君の元へ飛んでいかれて。今ごろは、旦那様を探し出して息の根を止めんとばかりに、東方王様の領地中を焼き払っていらっしゃるでしょう」
 「相変わらず、あいつの嫉妬は世界規模だな」
 「それだけ兄君を愛していらっしゃるということです」
 「俺には理解しかねる」
  アスタロトはヴィヴィアンのいる長椅子に腰を下ろした。甘えてくる彼女の頭を膝に乗せ、
 「さあ、そろそろメルランの居場所とレメゲトンの在り処(ありか)を教えなさい」
  ヴィヴィアンは胸に提げていた金のペンダントを襟の下から取り出した。細い鎖に小さなロケットが付いたものである。
  アスタロトはロケットのふたを開け、中に入っていた似姿を見てため息をついた。
 「やれやれ、女になってベールとヨリを戻すのだけはご免だが、男になったらなったで、そのうちおまえにこうやって閉じ込められてしまいそうだな。俺はただ自由でいたいだけなのに」
  レメゲトンを携えたメルランがそこにいた。ロケットにしまわれた似姿の内側から、半泣きでこちらに助けを求めているのだった。
アスタロトはメイドの手を借り、悠々とした動作で外套(がいとう)をまとった。
 「旦那様、お帰りはいつ?」
 「ま、そうだな、夕食には間に合わせよう」
 「約束してくださいます?」
 「約束する」
 「きっとでございますよ」
 「ああ、きっとだ」
  アスタロトはメイドの右手を取った。その甲にキスをする。
  メイドの名はヴィヴィアンといった。ヴィヴィアンは、美しい目元を弦月のように細めて微笑んだ。
 「あらうれしい」
 「ふふ」
  アスタロトはいたずらっぽく笑い、ヴィヴィアンの手を離した。ふと彼女の顔を見て、おやと気づいた。
 「ヴィヴィアン、もう片方のイヤリングはどうしたんだ」
  ヴィヴィアンの左耳では小さな青玉が光っているが、右の方には見当たらない。
 「なくしたのかね」
 「ええ、ちょっと」
 「ふうん、今度新しいのを見つくろってきてやろう」
 「まあ、旦那様、あたくしのために」
 「おまえは有能で実によく働いてくれる、当家の大切なメイドだからな」
 「まあ」
  ヴィヴィアンは期待が外れたのか、すねたように、ぷっと頬をふくらませた。SPANISCHE FLIEGE D6
  アスタロトは苦笑し、肩をすくめて玄関を出て行った。館の門の外で馬車が待っている。ベールが寄越したものだろう。近寄ると、馭者(ぎょしゃ)がうやうやしく一礼し、
 「お待ち申し上げておりました」
 「おまえは東方王の?」
 「はい。アスタルテ王妃――」
  と言いかけたら、アスタロトに射殺さんばかりの目つきでにらまれたので、慌てて言い直した。
 「ア、アスタロト大公爵閣下を禁書室へお連れいたすようにと申しつけられて参りました」
 「ではとっとと出発しよう」
  アスタロトは勝手に車の戸を開けて乗り込んだ。
  馭者が一鞭くれれば漆黒の馬たちは静かに走り出す。いななく声はおろか足音すら聞こえない。
  光という光の届かない黒々した地獄の空には、今日は緑色の月が昇っている。あれは悪魔の君主サタンの右目だ。足元さえ危うい薄暗闇を、馬たちは難なく駆けていく。アスタロトの広大な所領を出て東へ、東へ。
  地獄の東側一帯を治めるのは東方王ベールである。その領地の広さといったら、アスタロトの所領が小さな庭に見えてしまうほど。ベールが悪魔の中でもトップクラスの実力者であることは言を待たない。
  馬車に揺られて連れて行かれた先は、陰気な雰囲気のする館であった。黒い格子門の内も外もひっそりと静まり返り、妖魔の子一匹歩いていない。ここもベールの財産の一つである。
 「いつもはこのように閑散としてはおりませんが」
  馭者がアスタロトを中へ案内しながら説明してくれる。
 「ここ数日、東方王様が付近を封鎖なさっております」
 「ベールは俺に何の用があるというんだ?」
 「それは直接東方王様の口からお聞きくださいませ」
  と、先方を見れば、長くほの暗い廊下の奥から当のベールが姿を現した。四十を過ぎたくらいの、ひょろりと背が高いばかりでさえない男の格好をしているが、目つきだけは威圧感があって鋭い。
  アスタロトはあからさまに、
 (いやなやつが出てきた)
  とでも言いたそうに眉をひそめた。
  ベールはこちらへ歩み寄ってきた。
 「やあ大公爵、ご機嫌うるわしゅう」
 「たった今、すべてが、うるわしくなくなった!」
 「君は怒った顔も魅力的だ、男でさえなければな」
  馭者を下がらせ、アスタロトと二人きりになった。
 「どうだね、妻よ、久しぶりに我が家へ帰った気分は」
 「なにが我が家だ。俺には我が君から拝領した土地も財産もある。いつまでもおまえに従っていると思うなよ」
 「おまえは私と正式に別れたわけではない。裁判は凍結されたままのはずだ」
 「それだ。なぜいつまで経っても再開されない?」
 「――おまえが、気まぐれに男になってしまったからだろうが」
  ベールは白い目でアスタロトを見た。
  たとえば、十七世紀、ミルトンによって書かれた叙情詩「失楽園」においては、アスタロトはベールの妻アスタルテとして登場し、女性として描かれている。ただし気の赴くままに、男性、女性、どちらの性(あるいは両方)にでもなれる、とも言われる。
  さらに悪魔アスタロトの起源をさかのぼると、紀元前に地中海周辺地域で信仰された豊穣多産の女神アスタルテへとたどり着く。のちのベールも豊穣神バアルとして崇拝されていた。二人はこのころから夫婦である。ウガリットやカナンの神話において、切っても切れない仲であった。
 「誰のせいで俺は男になったと思ってるんだ」
  と、アスタロトはベールをにらみ返した。
 「誰のせいだ」
 「貴様のせいだ貴様の」
 「なぜ」
 「――俺は、その理由をこれまでに八百六十九回は説明したはずだが」
 「嫌なことはすぐに忘れる主義だ」
  アスタロトは、怒りのあまりに体が爆発しそうになった。決して比喩(ひゆ)ではない。悪魔にとって人間の姿をした肉体なんて所詮かりそめのもの。怒り狂って本性を現せば、何が起こるかわからない。
 「貴様は昔からそうだ! 俺がまだ地中海で女神をやっていたときだって」
 「何かしたかな」
  全く記憶にございません。と言わんばかりに、ベールは首をかしげる。
 「貴様妻のある身で! あろうことか! 自分の妹と関係を持っただろうが!!」
  ウガリット神話におけるバアルには、美しい妹アナトがいるとされる。アナトは戦いの女神で非常に攻撃的な性格の反面、兄バアルに対してはとても従順で熱烈な愛情を抱いていた。アスタルテとともにバアルに密接な関係のある女神である。
 「ああ、アナトのことか」
  と、ベールはやっと思い出したように言った。
  ところで、ベールを怒鳴りつけているアスタロトの容貌に変化が起こり始めている。
  見る見るうちに、アスタロトの顔や首筋の輪郭がほっそりと滑らかなラインを描くように変わっていく。体型についても、肩は華奢に、胸と腰の周りは逆にふっくらとしてきた。
 「確かにそんなこともあったが、過ぎたことだ。アスタルテ、おまえには悪いことをした」
 「その言葉を何回聞いたと思ってる!」
  と言う声も、さっきまでの男の声から一オクターブ高くなっている。
  アスタロトは自分の声を聞いてようやく体の変化に気がついたらしい。まず手足を見て、次に胸元を見て、最後にのどを触った。あるべき突起がそこにない。
 「ベール貴様、何をした」
 「アスタルテ、私は何もしていないさ。おまえが心を高ぶらせて、自分で勝手に女に戻ったのだよ」
 「忌々しい」
 「しばらくそのままでいてはどうだね。久しぶりに美しき我が妻の顔を見ることができてうれしいものだ」
 「断じて断る!」
  アスタロトがぱちんと指を鳴らす。すると一瞬にして男性の姿に戻った。苦虫を噛みつぶしたような顔をして言った。
 「もういい、ベール、本題に入れ」
  ベールは肩をすくめ、アスタロトの先に立って歩き出した。
 「ついて来い」

2
 連れて行かれたのは館の北側に位置する禁書室と呼ばれる書庫である。
  ここには、地上で書かれた本の中で、教会によって発禁・焚書処分となったものが集められている。道徳観念を狂わせたり、神の存在を疑わせるような奇書や悪書。または悪魔を召還するための書、グリモワールの類など。処分されたそれらの本から一冊ずつ保存されているのである。
  中には悪魔が人間を堕落させるために書いた本も混じっているし、まれな才能の人間が書いた物もある。SPANISCHE FLIEGE D5

2013年8月12日星期一

再訪

一度ベイルの迷宮で探索をした後、ベイルの町の冒険者ギルドに出た。
  迷宮に入ったのはアイテムを溜め込むためだ。
  ギルドでの売却には三割アップが有効なので、十万ナールの黄魔結晶は十三万ナールで売れるだろう。lADY Spanish
  さすがに何もなく三万ナールも増えると、ギルドの職員が不審に思う可能性があるのではないだろうか。
  金貨が十三枚だろうから見ればすぐに分かる。
  なるべく不審を抱かれないようにするには、たくさんのアイテムを一気に売り払うのが得策だろう。
  あとは売る場所も考えなければならない。
  今回は初めて魔結晶を売却するので問題はないが、次からは魔結晶のできるスピードに不審を持たれる可能性もある。
  俺には結晶化促進三十二倍のスキルがあるから、他人の三十二倍の速さで魔力がたまる。
  人の多いところでドサクサにまぎれて売ってしまうのがいいだろう。
 「魔結晶って冒険者ギルドでも売れるのか」
 「はい。どこのギルドでも可能だと思います」
  ロクサーヌに確認する。
  冒険者ギルドに売れるのなら、帝都およびクーラタルにある探索者ギルドと冒険者ギルドだけで四箇所の売却先ができる。
  四箇所のローテーションでもそれなりに少なく見せることができるだろう。
  ときおりは他の町も織り交ぜてやれば完璧だ。
  ベイルの冒険者ギルドのカウンターでトレーの上に黄魔結晶を置いた。
  黄魔結晶を覆い隠すように、他のドロップアイテムを盛りつける。
 「買取を頼む」
 「かしこまりました」
  受付のアラサー女性がトレーを持って奥に消えた。
  少しどきどきしながら待つ。
  戻ってきたのは、いつもと同じくらいの時間だろうか。いつもより時間がかかっただろうか。
  トレーの上に金貨が十三枚あるのをいち早く目で数える。
  受付の女性が不審に思っている様子はない。
  大丈夫そうだ。
  金貨をアイテムボックスにすばやく入れた。
  銀貨と銅貨は巾着袋に入れ、カウンターから離れる。
 「では行くか」
 「はい」
  カウンターの職員は基本的に買取金額を云々することはないようだ。
  探索者や冒険者にとっては収入源だから、あまり触れないようにしているのだろう。
  詮索されれば生活レベルなども分かってしまう。
  触れないだけで、実際にはきっちり把握されているのかもしれないが。
  外に出て、しばらくぶりにベイルの町を歩いた。
  特に変わったところはないようだ。
 「店主にお会いしたい」
  奴隷商人の商館に着き、出てきた男に告げる。
  店主の名前は、忘れた。
 「こちらへどうぞ」
  一度引っ込んだ男が案内する。
  奥の部屋に通された。
  あれ?
  いきなり奥の部屋に通されたのは、盗みを働いて奴隷に落とされた村の人を売りに来た最初のときだけだ。
  ロクサーヌを売りに来たと思われてないか。
  ちらりとロクサーヌの方を見るが、表情に変化はない。
  昔自分がいた奴隷商館でも大丈夫のようだ。
  俺は座ったが、ロクサーヌは控えて立っている。
  どうなんだろうか。
  こういうときは横に座らせない方がいいのだろうか。
 「立ってる?」
 「はい。その方がいいと思います」
  何も知らない俺よりもロクサーヌの判断の方が妥当だろう。
  俺はうなずいてそのままにさせた。
 「ようこそいらっしゃいました、ミチオ様」
  すぐに奴隷商人が部屋に来る。
  鑑定で名前を確認した。CROWN 3000
  そうだ。アランだった。
 「急にきてすまないな、アラン殿」
 「いえいえ。いつでもお越しください。さあ、どうぞ」
  立って挨拶すると、あらためてソファーを勧められる。
  使用人がハーブティーを二つ持ってきて、俺と奴隷商人の前に置いた。
  ロクサーヌの分はないらしい。
  奴隷だと分かっているからなのか、売りに来たと思われているのか。
 「ロクサーヌは非常によくやってくれている。よい戦士を紹介してくれたと感謝しているところだ」
  とりあえず、売りに来たのではないと釘を刺しておく。
  変な風に思われて、変な対応をされても困る。
 「さようでございますか。私どもとしても面目をほどこせます」
 「店主が勧めてくれたとおりだった」
 「何か不都合な点はございませんでしょうか」
 「何もないな」
  どうせ本人がいるのだから、めったなことは言えない。
  それは奴隷商人もよく分かっているだろう。
 「ようございました」
 「ロクサーヌもよく働いてくれるのでな。そろそろ次のパーティーメンバーをと考えている」
 「なによりのことでございます」
 「少し尋ねたいが、鍛冶師の奴隷を買うことはできるか」
  こちらの手をさらすみたいで問題かもしれないが、しょうがない。
  素直に訊いてみる。
  雑談の中で巧く聞き出すとか、俺には無理だ。
 「鍛冶師をですか?」
 「そうだ」
 「そうですね……。不可能ではありませんが、なかなか難しくはございます」
  店主は少しだけ考えて答えた。
  やはり特定のジョブとなると難しいのだろう。
 「そんなものか」
 「モンスターカードの融合は失敗することが多いのはご存知でしょうか」
 「知っている」
 「奴隷の鍛冶師であってもそれは変わりません。失敗が続くとやがて所有者は奴隷を疑うようになります。専用の鍛冶師を抱えたがる貴族のかたなどは多いのですが、あまり双方が幸福な結果に終わった話はないようです」
  直接依頼するのと同じ問題があるわけか。
  奴隷がモンスターカードをちょろまかしても捌けるかどうかは不明だが。
  まあ、命令してやらせたのに失敗続きでは怒りたくもなるだろう。
 「なるほど」
 「ドワーフの方でもそれが分かっておりますから、奴隷になる際には鍛冶師のジョブを変更してからなることが行われています」
 「となると、鍛冶師の奴隷はいないのか」
 「まったくいないわけではございませんが、価格の方がどうしても高くなってしまいます」
  なり手が少ないから値段が上がるということか。
  しかし高い金を出して買ったのに失敗続きではますます腹が立つだろう。
  なんか、負のスパイラルに入っているような気がする。
  評判が悪いからなり手が減る。
  供給が少ないから値段が上がる。
  安ければあきらめもつくが、せっかく高い金を出して買ったのにうまくいかなければもっと腹が立つ。
  怒りにまかせて鍛冶師である奴隷につらくあたるから、悪い評判が広まってさらになり手が減ってしまう。
 「まあそこまでして鍛冶師がほしいわけではない。鍛冶師でない他のドワーフはどうだろう。前衛として役に立ちそうだが」
  鍛冶師の奴隷を買うのは難しいらしい。
  しかし、元々それでもよかった。
  ジョブを指定してこのジョブの奴隷をといって求めれば、鍛冶師でなくとも高くなるだろう。
  俺の場合、パーティージョブ設定が使えるのだから、ジョブを指定することに意味はない。
  鍛冶師のジョブを獲得できるドワーフであれば、問題ないはずだ。
 「ドワーフは力強さを持つ種族ですから、前衛として役に立ちましょう」
 「やはりそうか」
  この手の話も多少はロクサーヌから聞いた。
  あくまで雑談に留まる範囲で。VIVID XXL
  ドワーフの奴隷が買えそうかとか、深い部分は尋ねていない。
  そういうことをロクサーヌに訊くのはちょっと憚られる。
  ドワーフや、ロクサーヌのような獣人、竜人は力が強く前衛に向くそうだ。
  というか、人間が非力すぎじゃね?
 「しかしながら、残念なことに当館には現在ドワーフが一人しかおりません。彼女は性格的にあまり荒事には向いていないかと思います」
 「残念だな」
  彼女ということは女性だが、ここで飛びつくわけにはいかないだろう。
  足元を見られる。
  平静に。
 「もしもドワーフがよろしければ、他の店に紹介状を書くこともできます。それを持って、他の店をあたってみてはいかがでしょうか」
 「そんなことをしてもらってよいのか?」
 「かまいません」
 「商売敵なのに」
  俺はいらない客なんだろうか。
  あの客は安く買い叩くからいらない、とか。
  具体的には三割引きで。
 「この商売、買っていただくお客様にはあまりこと欠きません。むしろ大変なのは仕入れでございます。私どもも独自の仕入れルートを持っております。ベイル一帯と、南側にかけての平原が私どもの商圏です。仕入れる地域が異なる店は必ずしも商売敵ではありません。必要なときには融通しあうこともございます」
 「そういうものなのか」
  商売するものがものだけに、特別な事情があるようだ。
 「帝都にある私どもと仲のよい商館を紹介いたしましょう。今の時期ですと、数がそろっていることはないかと思いますが」
 「そうなのか?」
 「春は農繁期でもありますから」
  忙しいなら需要があるのでは、と思ったが、そうでもないのか。
  忙しい間は働き手を売りに出したりはしないだろう。
  口減らしに売るとしたら、農作業が一段落ついてからだ。
  買う側にしても、忙しいからとあわてて買うようでは駄目に違いない。
  必要なだけの奴隷は前もって準備しておかなければならない。
  その程度の才覚もないようでは、奴隷を買えるほどの身分になることは難しいだろう。
 「なるほど、な」
  勝手に解釈して独りで納得する。
  違っていたとしても不都合はない。
  問題は、供給がないから相場が高いのか、取引が活発でないから相場が安いのかだ。
 「紹介させていただく帝都の商館も間違いのない商売をする店でございます。満足のいただける取引ができるかと思います」
 「そう願いたい」
 「その前に、一応、うちにいるドワーフと、他に前衛を務めることのできる者もおりますれば、ご覧いただけますでしょうか」
 「そうだな。そうしよう」
  自然な形で向こうの提案に乗った。
  上出来だ。
  がっつくよりいいだろう。
  奴隷商人も商売だから、できれば見て買ってほしいと考えているはずだ。
 「ミチオ様には一度見ていただいた者もおります。その者たちは除外いたしましょうか」
 「そうしてもらおうか」
  ロクサーヌを紹介されたときに、女性の奴隷はあらかた見たのだった。
  あの中に特によいと思える人材はいなかった。
 「そうすると、男性ばかりになってしまいますが」
 「やむをえないだろう」
  しょうがない。
  やっぱり前衛はおっさんでしょうがないのか。
  まあ、どうしてもドワーフがいいといって断ることもできる。
 「ありがとうございます」
 「ん? ドワーフには会っていないと思うが」
  言ってから、しまったと反省した。
  ドワーフが女性であることに注目していたのがばれてしまう。
 「彼女は最近来たばかりですので」
 「そうか」
 「いえ。ここへ来てから日も浅いですが、物覚えもよく、すでにブラヒム語も習得しております。教育の行き届かないところはないと思います」
  しかし、あわてたのは奴隷商人の方だった。
  少しあせったようにあたふたとフォローする。
  なるほど。まだ教育ができていないだろうと言えば、ウィークポイントにはなるわけか。
  彼女の売り材料を知ることができたので、プラマイゼロだ。
  ロクサーヌはブラヒム語と主人に対する礼儀作法をここで教わったらしい。
  それができていない奴隷は困る。
  奴隷商人は準備をしてくると言って消えた。夜狼神
  ロクサーヌを座らせ、手をつけなかったハーブティーを渡す。
  飲まなかったのはたまたまで、ロクサーヌを引き取りに来たときのように変な薬が入っているのを疑ったわけではない。
  結果からいえば、あの奴隷商人のお薦めは正解だった。
  信用できる商人だと考えてもいいだろう。
 「前衛について何か希望はあるか」
 「ご主人様のお好きなようになされればよいと思います」
  好きにしろというのが一番困るのだが。
  ロクサーヌといろいろ話していると、奴隷商人が戻ってきた。
 「ではまず男性の候補者から見ていただきたいと思います。失礼ながら、彼女にはここで待っていてもらえますか。男性ばかりですので」
 「そうだな。ロクサーヌのような美人が現れたら、どうなるか分からないな」
 「……あ、あの」
 「ロクサーヌは待っていてくれ」
 「かしこまりました」
  男の奴隷の前に彼女を連れて行ったのでは刺激が大きすぎるのだろう。
  奴隷身分に落とされて。商館に長いこと閉じ込められて。突然ロクサーヌのような美人が目の前に現れたら、俺なら謀叛を考える。
  殿中でござる。
  奴隷商人に案内されて、二階に上った。
  部屋に入る。

  ……えっと。

  ここはどこの組事務所でしょうか?
  思わずそう尋ねたくなるようなつらがまえの面々が。
  確かに前衛向きではあるのでしょうが。
  怖い。
  というか、無理。
  こいつらに命令していうことをきかせるとか、難易度高すぎだろう。
  中に入った俺をジロリと睨みつけるその視線だけで殺されそうだ。
  今この場で反乱を起こしかねないと思うのだが、大丈夫なんだろうか。
  ロクサーヌを連れてこなくてよかった、というかむしろ、護衛に必要だったかもしれない。
  飛びかかれば俺の腰に差した銅の剣をすぐにも抜けるだろう。
  置いてくればよかった。
  殿中でござる。
  ご乱心なさるな、殿中でござる。
  吟味もそこそこに逃げ出した。
  圧迫面接というのは聞いたことがあるが、試験官が圧迫される面接というのは初めてだ。
  俺のことを買うよな、と凄まれたら思わずうなずきそうだ。
  部屋の中にいた何人かは候補者ではなく、店側のボディーガードだったようだが、何の慰めにもなりゃしない。
  取り締まる側のマル暴の刑事も暴力団員と変わらない凶暴な顔つきになる、という話を聞いたことがあるが、それと同じ感じだろう。
  奴隷を持つということを、俺はなめていた。
  俺があんな奴隷を持ったら、数日のうちに下克上が発生するに違いない。
  奴隷を持つものにも才覚が必要なのだ。
 「いかがでしたしょうか」
  部屋の外に出ると、奴隷商人が訊いてくる。
  いかがもくそもあるかと言いたい。
  無理だから。
  不可能だから。
  ありえないから。
 「彼らを使うには、俺自身の才覚が足らぬようだ」
  謙遜ではなく本気でそう思う。
 「個別に話を聞きたい奴隷がいれば、呼び出しますが」
  呼び出さなくていい。
  この商人はやり手のように見えて何も考えていないに違いない。
  よく確認すれば、ひょっとしたら気のよさそうな人もいたのかもしれない。
  しかし、暴力団の組事務所に連れて行かれて、居並ぶ組員の中から怖くなさそうな鉄砲玉を選べと言われても無理な相談だ。
  怖くなさそうなやつがいたとしても、前衛としてどうかという問題がある。
  俺が前衛の務まる人物をと注文したから、こうなったのだろうし。
  前衛として有用なら目をつぶるべきなのか。頂点3000
  前途は多難なようだ。

2013年8月8日星期四

石像

石化とクリティカルで、戦いは多少楽になった。
  とりわけ、石化が発生すれば戦闘は半分終わったようなものだ。
  気を抜いてはいけないが。SEX DROPS
  元々数匹しかないない団体の魔物のうち一匹が戦えなくなるのだ。
  戦局が大きく傾く。
  そこにクリティカルまで加われば鬼に金棒だ。
  ロクサーヌとミリアたちはうまく連携して、後で倒す方の魔物をミリアが担当できるように動いている。
  ただし、石化はあまり発生することはない。
  クリティカル率上昇をセットしている俺のクリティカルで魔法の数が減ることよりも少ない。
  そこは、ミリアが戦士Lv30になって暗殺者のジョブを取得することに期待しよう。
  どちらも運頼みというのが、一つ問題点ではある。
  階層の最大数である五匹の魔物が出てきたときに、石化もクリティカルも発生しなかったらどうなるか。
  二十階層では問題はないが、石化とクリティカルを頼みに上まで進んでいったときに起こったら、ピンチになるかもしれない。
  クリティカル率上昇は五パーセントまでで留めておく所以である。
  ボーナスポイントを使う以上、クリティカル率上昇はいつもいつもずっとつけられるわけではない。
  今はもう少し伸ばすこともできないではないが、はずしたときとのギャップは小さい方がいいだろう。
 「ご主人様、ルーク氏からの伝言メモが残っています。コボルトのモンスターカードを落札したようですね」
 「コボルトか。なら明日でいいか」
  夕方、探索を終えて家に帰ってくると、ルークからのメモが残っていた。
  次の強化は、ヤギのモンスターカード待ちだろうか。
  早く落札できればいいのに。
  別に戦闘がつらくなってきているわけでもないが。
  コボルトのモンスターカードはすぐに使う予定もないので、受け取りに行くのは明日の朝にする。
  夕食に取りかかった。
  とんかつだ。
  パン粉を作るのも肉を切るのもベスタにやってもらう。
 「パン粉ができました」
 「ありがとう。ベスタが手伝ってくれるので楽だ。ベスタがうちに来てくれて本当によかった」
 「こちらこそありがとうございます。何を作っておられるのですか?」
  ベスタに手伝ってもらって暇なので、俺はその間にクレープを作ってみた。
  牛乳、小麦粉、砂糖、卵を適当に混ぜる。
  クレープなんか作ったことはないが、多分牛乳少し多めの柔らかいくらいの感じでいいだろう。
 「ちょっとしたテストだ。見ておけ」
 「はい」
  生地を落とし、フライパンに薄く延ばした。
  実験なので作ったのは一枚分だ。
  生地を全部投入する。
  フライパンの上をとろとろと流れていった。
  こころもち柔らかすぎたか。
  牛乳はもうちょっと少なめでいいだろう。
  失敗というほどでもないが。
  フライパンはきっちり温めていたので、すぐに固まっていく。
  クレープ屋の店頭で焼いていたのもこんな感じだったような気もする。
  初めてなのにここまでできれば十分だろう。
  後は折りたたんで……。
  あ。失敗した。
  焼けたクレープをフライパンからはがそうとするとき、うまくはがれず、くしゃくしゃになってしまった。
  もっと慎重にやらないといけないのか。
  あるいは、フライパンの上で折りたたんでから取り出すのがいいか。
  今日のところはテストだからこれでいい。三体牛鞭
  クレープを適当に五つに切る。
  最初の一切れを口の中に入れてみた。
  お。クレープだ。
  普通にクレープができている。
  磯辺焼きは無理だが、クレープはできた。
  柔らかさは似たようなもんかもしれない。
 「試しに作ったものだ。みんなも一切れずつ食べてくれ」
  他の四人にも勧める。
 「ご主人様がお作りになったものなら、楽しみです」
  ロクサーヌが真っ先に次の一切れを取った。
  順番が大切らしい。
  適当に切ったから、大きさも違うと思うしな。
  五等分は大変だ。
 「あくまでテストだからな。次はもう少し本格的に作る」
  期待されてハードルが上がっても困るが。
 「これは、すごいです。さすがご主人様です」
 「柔らかくて、甘くて、美味しいです」
 「すごい、です」
 「美味しいです。こんなにふわふわしていて、こんなにもっちりしていて、こんなに美味しいものがこの世にあるなんて知りませんでした」
  セリーとミリア、ベスタも順番に一切れずつ取って食べた。
  四人とも喜んでくれるようだ。
  普通にちゃんとクレープができたしな。
  とりわけベスタに好評だった。
 「ベスタはこういうの食べたことなかったのか」
 「はい。こんなに美味しいものを食べられる日が来るとは思ってもみませんでした。いつもいつもありがとうございます。ご主人様にはどれだけ感謝しても感謝しきれません」
  ベスタには刺激が強すぎたらしい。
  まだとんかつもあるのだが。
  ベスタは、とんかつにも感激していたが、クレープほどではなかったようだ。
  同じ感激では同じに感じなくなってしまうだけかもしれない。
  同じ感謝では同じに感じなくなってしまったのかもしれない。
  感謝は行為で見せてもらった。
  ベスタははじめから積極的ではあったが、最近ではそれに加えて徐々にねっとりとするようにもなってきたと思う。
  いい傾向だ。

  コボルトのモンスターカードは翌朝受け取った。
  予備用で使い道はないのですぐ迷宮に入る。
  入った直後、ハルバー二十階層のボス部屋に到着した。
  探索は順調に進んでいたらしい。
  現れたのは、ハットバットとボスのパットバットだ。
  煙が集まって魔物が二匹現れる。
  早速雑魚から片づけようと駆け寄った。
  と、ハットバットの正面にベスタが立ちふさがる。
  何故邪魔をする、と思ったが、ボス戦ではそうするように言ったのだ。
  忘れてた。
  ありがたいが、微妙にありがたくない。
  ちょこまかと飛び回るハットバットの場合、誰かが相手にしているところを横からぶん殴るのも大変ではあるんだよな。
  相打ち上等で正面からやりあった方が多分早く倒せる。
  どうせデュランダルを持っているのだからダメージはHP吸収でカバーできるし。
  まあしょうがない。
  何が出てくるか判断してから指示を出して動かすのもワンテンポ遅れるだけだろう。
  横から殴ればあまり攻撃はされないから楽ではある。
  文句を言ってはいけない。
  ハットバットがベスタを攻撃する。
  ベスタが剣を当ててこれを受け流し、魔物は右から左に抜けた。
  俺はその外側をさらに大回りで追いかけていく。
  ハットバットが空中で体勢を整えたところになんとか間に合い、スラッシュを叩き込んだ。
  魔物は再度ベスタに体当たりを敢行し、俺とは反対側の左に抜ける。
  嫌な方へと動きやがる。
  絶対わざとだろう。
  というか、当然そう動くか。
  あわてて追いかけたが、スラッシュは間に合わない。
  次の突撃には予め一歩踏み出し、ベスタがかわしたところにデュランダルをぶち当てた。
  おっと。
  手ごたえがよかったので、今のはクリティカルになったらしい。
  バランスを崩したハットバットが立てなおしたところにもう一撃浴びせる。
  魔物がベスタを攻撃した。
  ベスタが弾き返したところにデュランダルをぶち当て、さらにもう一発スラッシュを放つ。
  ハットバットが墜落した。
  ようやく倒せたか。
  ハットバットに振り回され、多少時間がかかってしまった。
  ここで一息入れることもできず、ボスの囲みに加わる。
  ボス蝙蝠は、攻撃をすべてロクサーヌが盾で弾き返したので、それほど動き回られることなく、始末した。男宝
  さすがはロクサーヌだ。
 「途中で素晴らしい一撃が出ていました。さすがご主人様です」
  ボスを倒すと、ロクサーヌが褒めてくれる。
 「ありがとう」
 「さすが、です」
 「私のは竜騎士のジョブが持つ特性らしいですが、同じことがおできになられるなんてすごいです」
  そしてロクサーヌに騙される面々。
  パットバット相手には、二回クリティカルが出た。
  ベスタもクリティカルを出している。
  それなのにミリアの石化は出なかったのか。
 「セリー、ボスは状態異常にならないのか?」
 「なったという報告はあります。ただし、頻度が大きく下がるようです」
 「そうなのか」
  唯一人ロクサーヌに騙されないセリーに訊くと、答えが返ってきた。
  ボスは状態異常になりにくいのか。
  やはりボスだけのことはある。
  というか、そういうときこそ状態異常耐性ダウンの出番ではないだろうか。
  今はシックススジョブまでつけているので、博徒と剣士を同時に使える。
  だからクリティカルも出た。
  次は試してみよう。
 「ハルバー二十一階層の魔物は、ロートルトロールです」
  セリーの話を聞いて、二十一階層に移動する。
  ロートルトロールか。
  マーブリームは最後の二十二階層ということになる。
 「午前中はこのまま二十一階層の探索をやろう。昼に休んだ後、クーラタルの迷宮に行く。二十階層の突破と、その後で十七階層へ行こう。な、ミリア」
 「はい、です」
  マーブリームが最後でも、ミリアはそんなに残念そうにはしていない。
  どうせ次に行くことになるわけだし。
  問題があるとすれば、二十二階層を突破するときか。
  二十二階層の次の階層には行きたくないかもしれない。
  いや。二十二階層ではトロが残るまでボスを狩るのか。
  二十三階層でもマーブリームは出るしな。
  うまいことできている。
  先に進みたくなくなるのは二十三階層を突破するときだな。
 「尾頭付きを二個取って、明日の夕食だ。今回はミリアに調理をまかせる」
 「はい、です」
  ミリアを鼓舞して、迷宮を進んだ。
  別に鼓舞しようがしまいが石化の確率に変わりはないだろうが。
  進んでいくと、ロートルトロールが三匹とラブシュラブ一匹が現れる。
  ファイヤーストームを浴びせた。
  十八階層のフライトラップと十九階層のラブシュラブはロートルトロールと同じく火魔法が弱点だ。
  マーブリームを間にはさむより、ロートルトロールは二十一階層に出てきてくれた方がありがたい。
  火魔法を撃ちながら、魔物を待ち受ける。
  ロートルトロールは割と大柄だが、ラブシュラブ一匹を含めた四匹全部で最前線に並んだ。
  並んで迫ってくる姿には迫力がある。
  前衛陣が斬りつけると、お返しに殴りかかってきた。
  威力のあるパンチだ。
  ロクサーヌが軽くそらし、ミリアが避け、ベスタが剣で受け流す。
  ロクサーヌは続くフライトラップの挟み込みも上半身を巧みにそらしてかわしている。
  フライトラップが間に入ったので、ミリアもロートルトロールを相手にするようだ。
  毒持ちのフライトラップの方が厄介といえば厄介だが、ロートルトロールの攻撃も厳しい。
  石化してくれるならどちらでもありがたいところだろう。
  結局、石化は発動せず、火魔法だけで四匹を同時に倒した。
  魔法を放った回数は順当に増えているので、クリティカルは発生しなかったと思う。
  クリティカルが発生してなおこの回数だったという可能性もあるが。
  クリティカルがあると正確な回数が計りにくいという問題点はあるな。
  最初だけ博徒をはずすか。男根増長素
  別にそこまですることもないか。
  クリティカルがなくても石化が発生して狂うこともあるだろうしな。
  クリティカルもそんなにたくさん発生するわけではない。
  最悪で一割くらい戦闘時間が延びることもある、と考えておけばいいだろう。
  次の相手は、ロートルトロール一匹にハットバット二匹だ。
  ウォーターストームで迎え撃つ。
  今は二匹と一匹だからいいが、一匹ずつだったらどっちを先に倒すべきか。
  麻痺攻撃があるロートルトロールが先だろうか。
  ハットバットの突撃をベスタが弾いた。
  ベスタもかなり慣れ、ハットバットの攻撃にも対処できるようになってきている。
  やはりロートルトロールが先だろう。
  そのロートルトロールが拳を振り上げる。
  こっちの重い一撃の方が大変そうだ。
  と、腕を振り上げたところで、ロートルトロールの動きが突然止まった。
 「お」
 「やった、です」
  石化したようだ。
  腕を振り上げたまま、固まっている。
  二本足だと何かの石像のようにも見えるな。
  振り上げた腕が恐ろしい。
  今にも襲ってきそうだ。
  実際、襲ってきていたわけだし。
  世の彫刻家が見れば口惜しがるくらいのできだろう。
  ラオコーンより写実的だ。
  ゴリアテを殴ろうとするトロール像。
  サモトラケのトロール。
  考えるご老体。
  別に考えてはいないか。
  どっちかというと、運慶・快慶の方が近いだろうか。
  金剛トロール像。
  仏像というなら、トロール苦行像か。
  あれは歳をとっているわけではないが。
  水魔法でハットバットを倒した後、ファイヤーボールで石像も片づけた。
  ロートルトロールはすぐに煙になる。
  石化してもちゃんと火魔法が弱点というところが、いじましい。V26Ⅳ美白美肌速効