『それでは、卒業生の今後を祝って、乾杯ぃぃぃ!!』
フィナが考えた卒業生の門出を祝うパーティーは、予想を超えた規模になっていた。会場では、在校生の司会者が乾杯の音頭を取っている。WENICKMANペニス増大
規模が大きくなり過ぎて、最終的には学園主催という形に落ち着いた。卒業生は全員参加、在校生である三,四年生が設営や準備を行い、当日は一年生や二年生たちが会場で働いていた。
全員が制服姿で参加しており、飲み物や料理を配る基礎課程の生徒たちだけが上着を脱いでいる形だ。男子と女子の寮の食堂、学園の学食と総出で用意した料理を前に、ルーデルたちも参加している。
「随分な規模だな。学生時にこれだけの物を経験するとは思わなかった」
卒業生や三年生たちに挨拶を済ませたリュークが、ルーデルとイズミに合流する。設営に参加すれば、在校生も参加できる物になり、ルーデルは喜んで設営に参加した。ルーデルに連れられる形で、リューク、ユニアスも参加した設営会場は貴族社会で生きる生徒たちには驚きである。
貴族の生徒も手を抜かないで、順調に準備が進んで今に至るのだ。
「リュークは挨拶は終わったのか?」
ルーデルは、サクヤの面倒をイズミと見ながら会場を見ていた。遠巻きに貴族の生徒が見ているくらいで、挨拶に来たのは基礎課程時代のクラスメイトたちに、五年生の獣人たちだけだった。知人たちにも挨拶を済ませ、残るはフィナに挨拶するだけだが、フィナは話しかける生徒が多くて順番待ちの状態だった。
「あぁ、すでに話はついているからな。有望そうな人材にも声はかけてある。今年は六人も盾騎士を手に入れたからな、私の計画通りに進んでいるよ」
サクヤはリュークが何を言ってるのか理解できなかったが、目の前の料理が美味しい事だけは理解できている。リュークの発言を無視して料理に手を伸ばしていた。
イズミは、リュークの計画を思い出す。盾騎士に新しい価値をつけると言いだして、去年バーガスを無理やりハルバデス家に引き抜いた。ユニアスと揉めた事も思い出し、何もなければいいのに……そう思っていたら、ユニアスが不機嫌な顔で近付いてくる。
「おい! 去年に続いて今年もやってくれたなモヤシ野郎! 去年はバーガスを引き抜いた癖に、今年もめぼしい連中を引き抜くとはどういう事だ!」
怒鳴るようなユニアスに対し、リュークはレナの事でからかわれている借りを返すかのように余裕の表情で言い返す。気分がいいのか、ユニアスとは対照的に笑顔だ。
「ふぅ、ユニアス、彼らが活躍できる場を、私が提供したに過ぎない。変な言いがかりは止めて貰おう。それにだ、お前は去年も同じ事を言ってるぞ。少しは学習したらどうだ?」
物々しい雰囲気の中、ルーデルはバーガスの事を懐かしみ、サクヤは料理に夢中。イズミだけが二人を仲裁する。周りは遠巻きに仲裁するイズミを見ているだけだった。
「二人とも、今日は祝いの席だろう。もう少し仲良く出来ないのか?」
困った顔のイズミに対し、ユニアスは不機嫌に、リュークは笑顔で断言する。
「無理だ!」
「それは出来ない」
断言する二人を見て、ルーデルも口を出す。
「二人は結構仲がいいよね」
ルーデルの言葉にむきになって反論するリュークとユニアスを見て、イズミも仲が良い事は理解した。必死な形相で、ルーデルにいかに自分たちが不仲なのかを説明する二人を暖かく見守るイズミだった。丁度その頃、微笑ましいルーデルたちとは別の場所で、騒ぎが起きる。
「キャァァァ!!」
「ご、ごめんなさいぃ!!」
会場にアレイストと女子生徒の悲鳴が響き渡る。
◇
「い、いったい何をするんだ!」
転んだアレイストの上に覆いかぶさる女子は、青い髪を肩まで伸ばした生徒だった。肌は白く、上着を脱いで会場で飲み物を運んでいた所でアレイストとぶつかったのだ。因みに、キャァァァと叫んだのはアレイストである。procomil spray
何故か、それはぶつかった上に滑って転んだ女子が、アレイストの股間に顔をうずめているからだ。代わりに、女子の下半身はアレイストの目の前……顔の赤くなるアレイストを、友人数名が助けに来る。
「何してんだよアレイスト! 計画はどうなった!」
「セリやジュジュに、ユニアとルクスを折角遠ざけたんだぞ!」
「今がチャンスだったのに……」
「本当にごめんない! ごめんなさい!」
文句を言う友人たちに謝りながら、転んだ女子がアレイストに謝罪する。ただ、格好が不味かった。引き離されるように友人たちに助けられたアレイストに、女子がすがりついている格好だったのだ。運悪く、その現場だけをミリアが目撃する。
表情を引きつらせ、アレイストを見るミリア。見つめ合う二人だが、女子がアレイストのズボンを引っ張り過ぎてずり落ちている。パーティーを利用しての告白を計画していたアレイストたちは、計画の失敗を確信した。
「最低ね」
「ち、違うんだ! これは違うんだよミリアァァァ!!」
「呼び捨てにしないで!」
混乱する場から去るミリアに、アレイストは手を伸ばしたまま固まってしまう。青い髪の女子は『ネイト』という恋愛対象キャラだった。
◇
遠巻きにアレイストの喜劇を見るフィナは、内心で大笑いしていた。ピクピクと誰にも分からない程度に腹筋も動いている。アレイストが、去年に虎族と毎日モフモフしていたという情報を聞いてから、殺意に近い嫉妬を覚えていたのだ。
「あら、大変ですねアレイスト殿も……(ふぁっ! やりやがったなあの野郎! いい気味だ)」
今のフィナは、貴族の子弟とはあらかた話を終えている。気ままに獣人たちと話をしていた。特に、虎族を中心に話をしている。自分もアレイストのように毎日モフモフと鍛えて欲しいと内心で思いながら、まじめな会話をしていたのだ。
亜人との交流も大事だと表向きの理由を使い、フィナは獣人たちとモフモフしている。ネースがルーデルの所に行きたそうにしている姿や、虎族の女子がモジモジしながらルーデルを見ている姿に軽い興奮を覚えている。
虎族の男子たちも、普段とは違ういじらしい同族の女子を見て確信していた。気が強く、男を尻に敷きたがる虎族の女たちを何とかできると……
「兄貴、やっぱりルーデルさんは偉大すっね!」
「見て下さいよ、みんな可愛げを取戻してますよ!」
「あぁ、いいかお前ら、絶対にアレを極めるぞ!」
やけに盛り上がる虎族の男子たちに声をかけたフィナだが、別に虎族だけに声をかけている訳ではない。クルトアでは差別されている亜人たち。彼らは立場が弱く、学園を卒業するとすぐに辺境や小競り合いの続く危険地帯へと送られるのだ。
そこに目を付けたフィナは、将来のために準備をする事にしたのだ……。消耗品程度にしか考えていないクルトアの上層部の目を欺き、フィナの計画は着々と侵攻していた。
無駄に有能なフィナの背中を、護衛である上級騎士のソフィーナは呆れて見ている。計画を聞かされて手伝わされているソフィーナだが、その手腕を国の為に使わない事に不満があった。ただ、己が欲望の為に爆進するフィナは誰にも止められない。
「卒業生しても、皆さんの事は絶体に忘れません(卒業しても、私のモフモフたちは、絶対に逃がさないから、覚悟してねぇぇぇ!!)」西班牙蒼蝿水
◇
パーティーが終わると、卒業生は寮から出る準備をする。卒業生が出ていった部屋は、今度入学する生徒たちが入る事になる。
ルーデルたちにとっては、最終学年である。ルーデルにしてみれば、ドラグーンになれるかなれないかの瀬戸際であり、イズミにしても上級騎士になれるチャンスがあるのはこの一年だった。上級騎士にはいくつかの入団パターンが存在する。騎士として実績がある者、学園で成績優秀だった者……イズミが狙うのは、学園での成績優秀と判断される事だ。
異国で産まれたイズミにとって、卒業してしまうとチャンスは一気に遠のいてしまう。
リュークやユニアスは、実家に戻って家督を継ぐ準備に入る。形式上は国に忠誠を誓うが、二人は広い領地を所有する大公の家系だ。卒業後に自由など無い。
だが、ここで一人だけ進路に悩む者がいた。アレイストである……
本来なら伯爵家の嫡男であるため、実家に戻って領地経営が仕事になるはずだった。しかし、今のアレイストは黒騎士と言うなんとも手の出し難い立ち位置にいた。
アレイスト自身が進路を決められないのではなく、周りがアレイストの進路を決められなかったのだ。ルーデルと違い、成り上がりのハーディ家には、軽々しく口を出せない状態である。
頑張ろうと思ったのに、未だに周りに流されるアレイストは、朝早くにルーデルに会う事にした。仲の良い友人たちに相談しても、答えは出なかった。心配はしてくれるが、国の命令には逆らえないという事を再認識して終わってしまう。
男子寮の中庭で、朝から暑苦しい男子たちが朝練をしている風景を眺めながら二人は話をする。アレイストは中庭にある岩に座り、ルーデルは素振りをしながら相談に乗る事にした。
「それで、どうすればいいか分からないという事か?」
「あ、あぁ……僕には自分の道を選べそうにないんだ。けど、お前なら、ルーデルならどうするかと思ってさ」
悩んでいたアレイストにとって、超えるべき目標だったルーデルに相談するのも変な気分だった。だが、ルーデルは相談を受けるには不向きな人間だ。
「俺がお前の立場でも、俺はドラグーンを目指すぞ」
「いや、僕はドラグーンになりたいとかじゃなくて!」
「分かってる。アレイストはドラグーンになる気はないと知っているよ。だけどな、俺はどんな立場でもドラグーンを目指す。自分のやりたい事をやる」
素振りを止めて汗を拭くルーデルは、空を見上げた。自分に言い聞かせるように、空に向かって呟く。
「これしかない。俺にはこれしか……だから命だってかけられる」
決意の籠った声を聞いて、アレイストは何と言っていいか分からなくなる。前からすれば真剣なアレイストだったが、狂気にも近いルーデルの本気を見たような気がした。
「すまないな、俺には相談に乗る事は出来そうもない。ただ言えるのは、流石に五人と付き合うのはどうかと思うぞ」
下を向いたルーデルが、アレイストに困った顔をして声をかけたらまた素振りを再開した。アレイストは、最後のルーデルの言葉に叫ぶように反論する。
「だから! それは違うんだって! 僕が本当に好きなのは、その五人じゃないんだよぉ!」
「……アレイスト、まだ増やすのか? 流石に普段から優しいイズミでも、お前の行動には腹を立てていたぞ。男の甲斐性も大事かもしれないが、もっと五人を大事にしたらどうだ? まぁ、他人の俺にどうこう言う権利も無いけどな」西班牙蒼蝿水口服液+遅延増大
「いや、お前も物凄く関係してるからね! てか、僕的には恋のライバルでもあるんだよ!」
「お、お前……まさかイズミの事が! なら、なおの事許さん! 付き合うならせめて五人との関係をどうにかしろ! もしも悲しませる行動に出たら、ドラゴンの餌にしてやる!」
いきなり怒気を発するルーデルに、いつの間にか中庭にいた男子たちが退散していた。アレイストは、誤解だと言って泣きながら説明する。だが、ルーデルは何事も無かったかのように平然としていた。
「ふむ、冗談のつもりだったんだが……俺は冗談が下手なのか?」
「いや、本当に笑えないんだけど」
元々、ルーデルはアレイストが好きな人物を知っている。以前に話をした事もあり、アレイストがルーデルの怒気に驚いて狼狽したのだ。
「どの道、これからを考えるなら五人の、いや、六人の事も視野に入れておけよ」
六人と言いなおすルーデルに、アレイストは溜息を吐く。六人目に当たるであろうミリアは、現在パーティーの事が切っ掛けで嫌われているのだ。押し倒されたのはアレイストなのに……少々理不尽を感じるアレイストである。
◇
新学期になると、ルーデルの元に頼んでおいた物が届いた。東方の鍛冶屋に頼んでいた鎧が届いたのだ。実戦を想定し、飾りがほとんどない鎧だ。
アンデッドドラゴンと戦う事を想定した準備だが、今のルーデルは白騎士である。瞬殺される事はないだろうが、勝てるかと言われると答えはいいえ、である。
ドラゴンと人間の戦力差は大きい。戦った事の無いルーデルには、未知の領域だ。本で調べてもいるが、ドラゴンに一人の人間が勝てるなら、その者は英雄と言っていい。
猪の牙を使った鎧は、不思議な輝きを見せている。
寮の自室で、鎧を見ていたルーデルに語りかける存在がいた。剣に入り込んだ猪と鳥だ。
『中々の鎧が出来たようだな』
『確かに……だが、本当に一人で挑むのか?』
ルーデルは、少しだけ間をおいて答える。
「あぁ、この時の為に生きてきたからな」
部屋の扉の外では、ルーデルと二匹の会話をサクヤが聞いていた。黙って聞くしかないサクヤだが、左手に違和感を覚える。自分の左手を見ると、震えていた。簡約痩身美体カプセル
2013年12月29日星期日
2013年12月27日星期五
園遊会当日
見事な晴天が広がっている。太陽は暖かく、吹く風は涼やか。
――これ以上はないほど、絶好の園遊会日和だ。
「紅薔薇様、こちらのセッティングはこれでよろしいでしょうか?」
「えぇと、そうね……こことあそこのテーブルクロス、交換して」簡約痩身美体カプセル
「はい」
「紅薔薇様、焼菓子が出来上がったと厨房から報告が参りました。運ばせてもよろしいでしょうか?」
「クッキーやマドレーヌは良いわよ。ケーキ類はもう少し待つように伝えて。直前に並べた方が美味しく頂けるでしょう」
「畏まりました」
「中央のテーブル、飾り付け終わりました!」
「今行くわ」
それにしても忙しい。采配を命じられたということは、当日の指示は全て『紅薔薇』本人が行わなければならないということで、鬼のような忙しさになることは分かっていたが。日が昇ったと同時に準備を始めて今は昼前。そろそろ焦らなければならない頃だ。
――今回の園遊会準備に当たりディアナは、昼の茶会について事前準備から当日の進行まで、ライアたち三人から徹底的に叩き込まれた。
一つ、会場設営は、開催当日に行うこと(『日常』の場にお客様を招く、という建前からの決まりらしい)。
一つ、用意する食べ物は焼菓子が主。新鮮な果物を使ったフルーツ菓子なども良いが、間違っても『食事』は出さないこと(あくまでも昼食後に、話を楽しみながらお茶を飲む、それが茶会の主旨だそうだ)。
一つ、あらかじめ座席を決め、招待客を案内すること(優雅にお茶と話を楽しむために、椅子は必須なのだとか)。
……総合した感想は、『面倒くさいな』であった。
別に良いじゃないですか、前日に椅子とテーブル運び込むくらい。
お腹すいている人もいるだろうから、簡単なお食事くらい用意しても。
最初から座席決まってるなんて、つまらないのではないかしら?
うっかりそんなことを口走ってしまい、ヨランダからにこにこ叱られた。ディアナ様ももう十七、そろそろホスト側のマナーもしっかり覚えねばなりませんよ、などと言われてしまっては、返す言葉もない。ライアとヨランダは年長者だけあって、タイプは違うがどちらも頼りがいのある『お姉様』だ。
頼れるお姉様お二方と、天然だけども切り口鋭いレティシア。そんな三人が提案した園遊会のコンセプトは、『お花とお菓子をまったり楽しみながら、誰とでも気軽に話せるパーティ風お茶会』だった。
正式な茶会にしてしまえば、椅子を用意することになる。すなわち、招待客は最初に座った席から動くことはなく、例え政敵と相席したとしても、大した衝突は期待できない。大方、天気と庭の話で終わるだろう。それでは困るというわけだ。
陛下に外宮と後宮が繋がっていることを意識させるためには、立場の違う側室同士とお互いの一族が、がっつり絡む必要がある。そのために敢えて正式な茶会の決まりごとをすっ飛ばし、椅子を無くしてカップを置けるテーブルだけ用意し、参加者は庭の中を自由に歩き回ることができるという形式を、彼女たちは考えてくれた。
その案をもとに本格的な準備が始まって、三週間。ディアナは世に言う、『睡眠時間? ナニソレオイシイノ?』状態であった。西班牙蒼蝿水
春庭を秋庭に改装する作業。
必要な物資の調達。
関係各所との連携。
招待状の発送と参加者確認。
当日のメニュー決定。
会場の設置図作成。
……その他、エトセトラエトセトラ。
その総てにおいて、『紅薔薇』が指示を出す必要があったのだ。ライアたちが園遊会の案を作る部分は引き受けてくれたが、それを悟られてはならない。あくまで『紅薔薇』の指示で、準備は怒涛の如く進んだ。女官長が予想外に使えなくて、余計な仕事が増えたのは余談である。
――だが。遂にここまで漕ぎつけた。無理無茶無謀を押し通し走り抜けて、ようやく。園遊会当日まで、やって来れたのだ。あと、もう一息。これでようやく終わる。
中央の大テーブルに飾られたフルーツタワーと、その周囲に置かれたフルーツ菓子。色とりどりの果物を使って作られた様々な菓子が並べられ、華やかさは充分だ。一つ頷いて、了承の意を示す。
「焼菓子、持って来ました!」
「クッキーはそちらとあちら。タルトはこっちね。マドレーヌとフィナンシェは向こう側に置いて」
ディアナの指示で皿を掲げた女官たちが一斉に動く。それぞれ言われた机に焼菓子の乗った皿を置いて角度を調節し、綺麗に整えてくれた。さすがは王宮女官たち、『美』へのこだわりは半端ではない。
今回、机は全て丸テーブルを使用した。中央のフルーツテーブル用に大丸テーブルを一つ、焼菓子を置く中丸テーブルを六つ、休憩用の椅子の側にティーカップが置けるよう、小丸テーブルを十数台。庭の景観を崩さず、華やかさを増すよう絶妙に配置されたそれらの上には、色とりどりのガラス製小瓶が一つずつ置かれ、これまた絶妙に草花が生けられている。小瓶の細工と愛らしい草花がお互いの魅力を引き立たせ合い、場の演出に一役買っているという仕掛けだ。
焼菓子は敢えて種類ごとに分けてテーブルに置き、招待客は嫌でも庭園内を歩き回らねばならない仕様を整えた。王に招かれた園遊会で出されたものを一通り食べないなど不敬極まりなく、無難に過ごそうと思ったら最低、テーブル七つは巡る必要がある。名付けて、『壁の花は許さない、みんなが主役!』作戦。ちなみに名付けたのはレティシアだ。
「ディアナ様、そろそろ用意しませんと……」
庭を見回り仕上がりを確認していたところへ、リタがコソコソ注進してきた。太陽はそろそろ真上を通り過ぎる。このままでは、ディアナ本人が着替える時間がない。
「分かったわ。――あぁミア、ケーキ類はあと半時したら運ばせて。それから、例の仕掛けをよろしくね」procomil spray
「畏まりました」
「そうだ、陛下への連絡は滞りない? そういえば朝、園遊会前に何やらお話があるとか伺ったけれど」
「はい。ですがその後、詳しい時間などの伝達がございません。確認致しますか?」
「お願い。何かあったら、誰でも良いから部屋に直接寄越して。それから、今回側室方はホスト側の扱いだから、遅くても門が開くまでには全員集まって頂けるよう、各部屋付きの女官、侍女に徹底させてね」
「もちろんです」
「あとはえっと……」
「――ディアナ様」
呆れ四割、怒り六割なリタの声。ぎぎぎと振り返ると、目が笑っていない笑顔のリタとご対面した。
「ほどほどになさいませ。『紅薔薇様』の準備が間に合わないなど、それこそ冗談にもなりませんよ」
リタに引きずられるように、ディアナは部屋に引っ込んだ。
とはいったものの、ディアナの準備は前日までに侍女たちが過不足なく整えてくれていたため、ディアナ自身がすることなど、せいぜい着替えと化粧直し程度だ。茶会は、あまり派手な装いをしないのがマナー。ドレスも化粧も、いつもの『紅薔薇様』よりかなり大人しい。
「こんなものですかね」
「そうね、あくまでも茶会だし」
「ディアナ様が一番輝くのはやっぱり、夜の装いですよねぇ。昼の正装でも充分お美しいですけれど、夜のディアナは何と言いますか、オーラが違いますもの」
「……単に、わたくしの顔に一番合うのが、夜会の派手派手しい服装というだけのことでしょう。言われなくても分かっているわよ、夜会仕様の方が三割増しで悪く見えることくらい」
迫力不足かしら? と尋ねると、リタはぶんぶん首を横に振った。「誰よりもお美しいです」と、それは多分に侍女の欲目だろうが。
「あと少し時間ありますけれど、どうなさいます? お茶でも入れましょうか?」
「いいわ。どうせ今から山ほど飲む羽目になるんだし」
「それもそうですね」
うっかりすると、このまま眠ってしまいそうだ。昨日もほとんど寝ていない。
と、そこにノックの音が響いた。「ディアナ様、」とユーリの声がする。
「どうしたの? 入って」
「はい」
入ってきたユーリは、何やら困惑気味だ。
「何かあった?」
「いえ……、表に、お目通りを願っていらっしゃる方が」
「どなた?」
「それが、」
「やっほー、ディアナ! 元気だったぁ!?」
取り次ぎという役目の存在意義を丸無視して、闖入者は飛び込んできた。危うく叫びそうになったが、それより早くユーリが進み出る。WENICKMANペニス増大
「グレイシー様! そちらでお待ちくださいと申し上げたはずです」
「だぁってさぁ、早くしないと時間ないし?」
「そもそもお忙しい紅薔薇様に予めの断りもなく、園遊会前に突然謁見を申し込むなど、迷惑極まりない! 挙げ句、許しもなく入室するなど」
「なんでディアナの部屋に入るのに許しがいるのさ。男を警戒するなら分かるけどボクは女だし、第一ディアナの知り合いだよ?」
「ですからそれを確認できるまでお待ちくださいと!」
……どうします、コレ?
リタが器用に視線だけで問い掛けてくる。ディアナは深々とため息をついた後、立ち上がってユーリの肩をぽんと叩いた。
「ディアナ様、」
「えぇ、分かっています。ごめんね、ユーリ」
この人、本当にわたくしの知り合いなの。
……何だろう、悪いことなど何一つしていないのに、何故か謝罪したくなるこの心境。何か恐ろしいことを聞いたかのように固まってしまったユーリには、真面目に申し訳ない。
「……まさか」
「本当にごめんなさい。わたくしの知り合いは、大半が常識通じない人種だから」
「えー、ひっどーい。ボクだって一応、その気になれば令嬢ぶりっこぐらいできるよ」
これ以上この人物とユーリを接触させておくのは良くないようだ。主にユーリの精神衛生上。
「ユーリ、もうここは良いから、庭園の手伝いをお願い」
「……畏まりました」
ユーリにも気遣いは伝わったのだろう、多くを語らず彼女は下がった。三人きりになった室内で、リタがまず口火を切る。
「……クリス様、ユーリさんは真面目な王宮侍女さんなんです、初対面から素で突撃なさるのは止めてあげてください」
「そりゃ、あんまり会わない人相手なら取り繕うけど。これから毎日一緒にいるわけだし、早めに慣れちゃった方が彼女のためだよ」
ずっとネコ被るなんてボク無理だしー、と笑う彼女は、れっきとした女性だ。品の良い騎士服に身を包んで腰に剣を刺し、赤金色の髪を横で一つに結んでいても、男性には絶対に見えない。背が低いこともあるが体型は女性そのものだし、何より顔が可愛らし過ぎる。
これでディアナより四つも年上とはとても思えない彼女の名は、クリステル・グレイシー。愛称はクリス。現グレイシー男爵の妹で、本人の言うとおり、ディアナとは昵懇の間柄だ。
そのわけは――。
「ひとまずお久しぶりです、クリスお義姉さま。お元気そうで何よりですわ」
――社交界の誰一人として知らないことだが、実は彼女、エドワードの婚約者なのだ。将来の義姉と交流を持つのは、珍しいことでも何でもない。ただ彼女……クリスも事情が特殊で、社交界にはあまり顔を出さないのだが。
「うん、久しぶりー。半年以上ご無沙汰だったよね、シーズン初めの舞踏会は、ディアナ忙しそうだったしさ」
「はい。ご挨拶もできず、申し訳ありませんでした」
「いーのいーの。『紅薔薇様』になっちゃったんだもん、仕方ないよ」
「……それで、どうしてまた、お義姉さまが後宮に? しかも、そのような恰好で」
女性用に仕立ててはあるが、クリスの服はどう見ても騎士のそれだ。剣までつけて、はっきり後宮では浮いている。
ディアナの疑問に、破天荒な義姉は胸を張って答えた。
「ボク、今日から後宮警備を任される女性近衛騎士団の、団長になったんだ!」
「……はぁ?」
何それ初耳なんですけど。
ニコニコ笑うクリスを前に、ディアナは素直に首を傾げたのであった。Xing霸 性霸2000
――これ以上はないほど、絶好の園遊会日和だ。
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「はい」
「紅薔薇様、焼菓子が出来上がったと厨房から報告が参りました。運ばせてもよろしいでしょうか?」
「クッキーやマドレーヌは良いわよ。ケーキ類はもう少し待つように伝えて。直前に並べた方が美味しく頂けるでしょう」
「畏まりました」
「中央のテーブル、飾り付け終わりました!」
「今行くわ」
それにしても忙しい。采配を命じられたということは、当日の指示は全て『紅薔薇』本人が行わなければならないということで、鬼のような忙しさになることは分かっていたが。日が昇ったと同時に準備を始めて今は昼前。そろそろ焦らなければならない頃だ。
――今回の園遊会準備に当たりディアナは、昼の茶会について事前準備から当日の進行まで、ライアたち三人から徹底的に叩き込まれた。
一つ、会場設営は、開催当日に行うこと(『日常』の場にお客様を招く、という建前からの決まりらしい)。
一つ、用意する食べ物は焼菓子が主。新鮮な果物を使ったフルーツ菓子なども良いが、間違っても『食事』は出さないこと(あくまでも昼食後に、話を楽しみながらお茶を飲む、それが茶会の主旨だそうだ)。
一つ、あらかじめ座席を決め、招待客を案内すること(優雅にお茶と話を楽しむために、椅子は必須なのだとか)。
……総合した感想は、『面倒くさいな』であった。
別に良いじゃないですか、前日に椅子とテーブル運び込むくらい。
お腹すいている人もいるだろうから、簡単なお食事くらい用意しても。
最初から座席決まってるなんて、つまらないのではないかしら?
うっかりそんなことを口走ってしまい、ヨランダからにこにこ叱られた。ディアナ様ももう十七、そろそろホスト側のマナーもしっかり覚えねばなりませんよ、などと言われてしまっては、返す言葉もない。ライアとヨランダは年長者だけあって、タイプは違うがどちらも頼りがいのある『お姉様』だ。
頼れるお姉様お二方と、天然だけども切り口鋭いレティシア。そんな三人が提案した園遊会のコンセプトは、『お花とお菓子をまったり楽しみながら、誰とでも気軽に話せるパーティ風お茶会』だった。
正式な茶会にしてしまえば、椅子を用意することになる。すなわち、招待客は最初に座った席から動くことはなく、例え政敵と相席したとしても、大した衝突は期待できない。大方、天気と庭の話で終わるだろう。それでは困るというわけだ。
陛下に外宮と後宮が繋がっていることを意識させるためには、立場の違う側室同士とお互いの一族が、がっつり絡む必要がある。そのために敢えて正式な茶会の決まりごとをすっ飛ばし、椅子を無くしてカップを置けるテーブルだけ用意し、参加者は庭の中を自由に歩き回ることができるという形式を、彼女たちは考えてくれた。
その案をもとに本格的な準備が始まって、三週間。ディアナは世に言う、『睡眠時間? ナニソレオイシイノ?』状態であった。西班牙蒼蝿水
春庭を秋庭に改装する作業。
必要な物資の調達。
関係各所との連携。
招待状の発送と参加者確認。
当日のメニュー決定。
会場の設置図作成。
……その他、エトセトラエトセトラ。
その総てにおいて、『紅薔薇』が指示を出す必要があったのだ。ライアたちが園遊会の案を作る部分は引き受けてくれたが、それを悟られてはならない。あくまで『紅薔薇』の指示で、準備は怒涛の如く進んだ。女官長が予想外に使えなくて、余計な仕事が増えたのは余談である。
――だが。遂にここまで漕ぎつけた。無理無茶無謀を押し通し走り抜けて、ようやく。園遊会当日まで、やって来れたのだ。あと、もう一息。これでようやく終わる。
中央の大テーブルに飾られたフルーツタワーと、その周囲に置かれたフルーツ菓子。色とりどりの果物を使って作られた様々な菓子が並べられ、華やかさは充分だ。一つ頷いて、了承の意を示す。
「焼菓子、持って来ました!」
「クッキーはそちらとあちら。タルトはこっちね。マドレーヌとフィナンシェは向こう側に置いて」
ディアナの指示で皿を掲げた女官たちが一斉に動く。それぞれ言われた机に焼菓子の乗った皿を置いて角度を調節し、綺麗に整えてくれた。さすがは王宮女官たち、『美』へのこだわりは半端ではない。
今回、机は全て丸テーブルを使用した。中央のフルーツテーブル用に大丸テーブルを一つ、焼菓子を置く中丸テーブルを六つ、休憩用の椅子の側にティーカップが置けるよう、小丸テーブルを十数台。庭の景観を崩さず、華やかさを増すよう絶妙に配置されたそれらの上には、色とりどりのガラス製小瓶が一つずつ置かれ、これまた絶妙に草花が生けられている。小瓶の細工と愛らしい草花がお互いの魅力を引き立たせ合い、場の演出に一役買っているという仕掛けだ。
焼菓子は敢えて種類ごとに分けてテーブルに置き、招待客は嫌でも庭園内を歩き回らねばならない仕様を整えた。王に招かれた園遊会で出されたものを一通り食べないなど不敬極まりなく、無難に過ごそうと思ったら最低、テーブル七つは巡る必要がある。名付けて、『壁の花は許さない、みんなが主役!』作戦。ちなみに名付けたのはレティシアだ。
「ディアナ様、そろそろ用意しませんと……」
庭を見回り仕上がりを確認していたところへ、リタがコソコソ注進してきた。太陽はそろそろ真上を通り過ぎる。このままでは、ディアナ本人が着替える時間がない。
「分かったわ。――あぁミア、ケーキ類はあと半時したら運ばせて。それから、例の仕掛けをよろしくね」procomil spray
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「そうだ、陛下への連絡は滞りない? そういえば朝、園遊会前に何やらお話があるとか伺ったけれど」
「はい。ですがその後、詳しい時間などの伝達がございません。確認致しますか?」
「お願い。何かあったら、誰でも良いから部屋に直接寄越して。それから、今回側室方はホスト側の扱いだから、遅くても門が開くまでには全員集まって頂けるよう、各部屋付きの女官、侍女に徹底させてね」
「もちろんです」
「あとはえっと……」
「――ディアナ様」
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リタに引きずられるように、ディアナは部屋に引っ込んだ。
とはいったものの、ディアナの準備は前日までに侍女たちが過不足なく整えてくれていたため、ディアナ自身がすることなど、せいぜい着替えと化粧直し程度だ。茶会は、あまり派手な装いをしないのがマナー。ドレスも化粧も、いつもの『紅薔薇様』よりかなり大人しい。
「こんなものですかね」
「そうね、あくまでも茶会だし」
「ディアナ様が一番輝くのはやっぱり、夜の装いですよねぇ。昼の正装でも充分お美しいですけれど、夜のディアナは何と言いますか、オーラが違いますもの」
「……単に、わたくしの顔に一番合うのが、夜会の派手派手しい服装というだけのことでしょう。言われなくても分かっているわよ、夜会仕様の方が三割増しで悪く見えることくらい」
迫力不足かしら? と尋ねると、リタはぶんぶん首を横に振った。「誰よりもお美しいです」と、それは多分に侍女の欲目だろうが。
「あと少し時間ありますけれど、どうなさいます? お茶でも入れましょうか?」
「いいわ。どうせ今から山ほど飲む羽目になるんだし」
「それもそうですね」
うっかりすると、このまま眠ってしまいそうだ。昨日もほとんど寝ていない。
と、そこにノックの音が響いた。「ディアナ様、」とユーリの声がする。
「どうしたの? 入って」
「はい」
入ってきたユーリは、何やら困惑気味だ。
「何かあった?」
「いえ……、表に、お目通りを願っていらっしゃる方が」
「どなた?」
「それが、」
「やっほー、ディアナ! 元気だったぁ!?」
取り次ぎという役目の存在意義を丸無視して、闖入者は飛び込んできた。危うく叫びそうになったが、それより早くユーリが進み出る。WENICKMANペニス増大
「グレイシー様! そちらでお待ちくださいと申し上げたはずです」
「だぁってさぁ、早くしないと時間ないし?」
「そもそもお忙しい紅薔薇様に予めの断りもなく、園遊会前に突然謁見を申し込むなど、迷惑極まりない! 挙げ句、許しもなく入室するなど」
「なんでディアナの部屋に入るのに許しがいるのさ。男を警戒するなら分かるけどボクは女だし、第一ディアナの知り合いだよ?」
「ですからそれを確認できるまでお待ちくださいと!」
……どうします、コレ?
リタが器用に視線だけで問い掛けてくる。ディアナは深々とため息をついた後、立ち上がってユーリの肩をぽんと叩いた。
「ディアナ様、」
「えぇ、分かっています。ごめんね、ユーリ」
この人、本当にわたくしの知り合いなの。
……何だろう、悪いことなど何一つしていないのに、何故か謝罪したくなるこの心境。何か恐ろしいことを聞いたかのように固まってしまったユーリには、真面目に申し訳ない。
「……まさか」
「本当にごめんなさい。わたくしの知り合いは、大半が常識通じない人種だから」
「えー、ひっどーい。ボクだって一応、その気になれば令嬢ぶりっこぐらいできるよ」
これ以上この人物とユーリを接触させておくのは良くないようだ。主にユーリの精神衛生上。
「ユーリ、もうここは良いから、庭園の手伝いをお願い」
「……畏まりました」
ユーリにも気遣いは伝わったのだろう、多くを語らず彼女は下がった。三人きりになった室内で、リタがまず口火を切る。
「……クリス様、ユーリさんは真面目な王宮侍女さんなんです、初対面から素で突撃なさるのは止めてあげてください」
「そりゃ、あんまり会わない人相手なら取り繕うけど。これから毎日一緒にいるわけだし、早めに慣れちゃった方が彼女のためだよ」
ずっとネコ被るなんてボク無理だしー、と笑う彼女は、れっきとした女性だ。品の良い騎士服に身を包んで腰に剣を刺し、赤金色の髪を横で一つに結んでいても、男性には絶対に見えない。背が低いこともあるが体型は女性そのものだし、何より顔が可愛らし過ぎる。
これでディアナより四つも年上とはとても思えない彼女の名は、クリステル・グレイシー。愛称はクリス。現グレイシー男爵の妹で、本人の言うとおり、ディアナとは昵懇の間柄だ。
そのわけは――。
「ひとまずお久しぶりです、クリスお義姉さま。お元気そうで何よりですわ」
――社交界の誰一人として知らないことだが、実は彼女、エドワードの婚約者なのだ。将来の義姉と交流を持つのは、珍しいことでも何でもない。ただ彼女……クリスも事情が特殊で、社交界にはあまり顔を出さないのだが。
「うん、久しぶりー。半年以上ご無沙汰だったよね、シーズン初めの舞踏会は、ディアナ忙しそうだったしさ」
「はい。ご挨拶もできず、申し訳ありませんでした」
「いーのいーの。『紅薔薇様』になっちゃったんだもん、仕方ないよ」
「……それで、どうしてまた、お義姉さまが後宮に? しかも、そのような恰好で」
女性用に仕立ててはあるが、クリスの服はどう見ても騎士のそれだ。剣までつけて、はっきり後宮では浮いている。
ディアナの疑問に、破天荒な義姉は胸を張って答えた。
「ボク、今日から後宮警備を任される女性近衛騎士団の、団長になったんだ!」
「……はぁ?」
何それ初耳なんですけど。
ニコニコ笑うクリスを前に、ディアナは素直に首を傾げたのであった。Xing霸 性霸2000
2013年12月25日星期三
無理矢理
「君は死にたいのか!」
船長の怒鳴る声とともに、バシンと乾いた音がした。
それまで穏やかだったヤツはおっかない顔になり、あたしの頬に痛みを感じた。
「せっかくご両親から授かった命なんだから、もっと大切にしなさい」 挺三天
乗船して初めてこの人の真顔を見たような気がする。声音も重みを増していて真剣そのものだった。
こんなふうに言われると、さすがのあたしも反論できない。
「わかりました」
しょげて言うと、船長は満面の笑みを浮かべた。
こうしている間にまた船が傾き、あたしと船長は床の上を滑り転がって真っ黒な海の中へと落ちてしまった。
海の中は熱くもなく、冷たくもなかった。救命胴衣と浮き輪のおかげで、海の底に落ちることなくぷかぷかと浮いていた。
海上は荒波が立ち、空と水平線の境目がわからないぐらい暗闇に包まれている。
あたしは激しい波に体を上下させられ、その勢いで海水を飲みこむ。咽喉の奥に引っかかり咳きこんでしまった。
「おい、大丈夫か」
あたしの耳元に息がかかるように声がした。ずうずうしくも船長はあたしの体に、ぴったり密着して寄り添っていた。
「大丈夫です」
押しのけたい衝動を抑えて答えると、船長は波に顔を叩きつけられて折角のハンサム顔が残念なことになっていた。
額には前髪がべったりと貼り付き、目なんかは開けてられない状態で埴輪を彷彿させられる。
思いっきり笑いたいけど、口を空けた瞬間海水が浸入してきて、したくもない塩分補給をする羽目になってしまった。
そのとき、ばりばりっと音とともに船体が沈んでいくのが見えた。
船長は情けない顔のまま、「危機一髪だったな」とクールに気取りやがった。
だけど、あたしたちは大荒れの海に放り出されている。当然、一難去ってまた一難があるわけ。
あたしたち目掛けて大きな波が襲いかかる。咄嗟に船長はあたしの体を抱きしめ、大波が頭上に迫ってきた。
「きゃあ!」
あたしの悲鳴とともにザバァーンと海水が襲いかかる。頭を強打されたうえに、海水を飲みこみ咳き込む。
呼吸を整える暇もなく、船長の「また来るぞ!」と号令通りに次の大波がやってくる。
あたしと船長は何回も大波をかぶり、気を失ってしまった。
穏やかな波の音で目覚めると、嵐は嘘のように収まっていた。
見上げると青空が広がっていて、海も空を反射して青く輝いている。
あたしは白い砂浜の上に打ち上げれており、奥のほうには緑色の木々が立ち並び、森林を形成していた。
熱い砂浜に打ち上げられたせいで、喉がからからに渇いている。喉の渇きを潤そうと、起き上がってみた。
別段、体の不調はなく、この状態なら遠くまで歩けそうな気がする。
五メートル先に白っぽい固まりが見えるが、恐らく船長だろう。
下手に起こして馴れ馴れしくされるのも癪なので、そのまま放っておくことにした。
木々が立ち並ぶところには、きっと真水があるはず。
そんな頼りない理論を思い浮かべ、森の中を散策することにした。
森の中は薄暗くて怖かったけど、喉の渇きには敵わない。
聞いたことのない鳥だか獣の声が木霊して、まるで秘境に足を踏み入れた探検家の気分になった。
せめてバナナとかマンゴーみたいな実のなる樹木があれば助かったが、葉っぱだけが生い茂った木々ばかりで喉を潤せそうもない。
折角、助かった命なのに、餓死してしまうのではないかと不安になっていく。
せめて、あのクソじじいの生死を確認して、アイツを顎でこき使い、真水と食料を持ってこさせればよかったんじゃないかと後悔し始めていた。
アイツなら果物が取れなくても、魚ぐらいは何とかしてくれそうだもの。 VIVID XXL
踏み分けて歩けば歩くほど何にもなく、心細くなり始めたその時――。
目の前にある草むらがザザッと揺れ動いた。
「げっ!」
分け入って出てきたのは、身長は180センチぐらい、腕の筋肉が気持ち悪いぐらい隆起しており、外国の映画スターのようにほりの深い顔立ちをした男だった。
相手の男は魂を抜かれたような目で、あたしの全身を見渡した。
一方、当然あたしはその男の眼差しに、背筋がぞぞぞっと凍りつく。
「おい……」
あたしを視姦しているくせに、威嚇しているような鋭い声。
怖くなったあたしは自然に足が後退していく。そんなあたしを男は捕まえようと、腕を伸ばしてきた。
アブナイ! 危険です。逃げろ!
脳内に警告令が発動し、一目散に逃げ出した。
背後から「おい、待て!」という声が聞こえてきたけれども、体が声に反応して勝手に動いてしまう。
その代償として、藪があたしの腕を、あたしの足を、突き刺していく。
痛みをこらえ走り抜けた先に、大きな池が現われてほっとする。これで、ようやく渇きを潤せる。
早速、水面に自分の顔を映し出すと、顔はすすけて真っ黒で、髪はばさばさになっていた。
そんなみっともない自分を壊し、バシャバシャと水音を立てて顔を洗う。そして、からからの喉の渇きを潤していった。
どうやら、あたしはアイツとともにほぼ無人の島に流れついたらしい。
これから先どうすればいいのだろう?
イカレおじ様も、今さっき会った男も、ハンサムだった。他には住民がいないのだろうか。
「んっ?」
突然、左ふくらはぎに違和感を感じて見ると、十センチぐらいの巨大ヒルが貼り付いていた。ヒルはあたしの血を吸ってどんどん膨らんでいく。
はやく外さなきゃとは思うものの、気持ち悪くて触りたくない。一体、どうすればいいんだろう?
途方に暮れていると、横から細長い指先が見えたかと思うと、素早く透明な液体をあたしのふくらはぎにかけた。
するとコロンとヒルが落ちる。
「失礼」
男の声は丁重さが含まれていて、そのまま屈んでふくらはぎに触れた。
そしてヒルにかまれたところを押し出して、池の水で丁寧に洗ってくれた。
「お嬢さん、これで大丈夫ですよ」
立ち上がりながら、ずれた眼鏡を指で押し上げる。その顔を見て、唖然としてしまった。
神経質、いやナルシストっぽい顔立ちの俺様的イケメンだったから。
さっき森で見かけた男や船長よりはまともそうだけど、眼鏡を押し上げる仕草が気障過ぎて引いてしまう。
しかも、その眼鏡は小さなひびが入っており、滑稽にすら感じた。
滑稽だけどそれでも、脳内から警報装置が作動してすでに逃げ腰になっている。
「あ、ありがとう。あたし行かなくっちゃ!」
もう限界に近かった。行く宛てもないのに、くるりと背を向け走り出すと、「ちょっと!」と背後から声が聞こえてきた。
再び森に入り、道なりに従って駆け抜けると、海岸線が見えてきた。あたしが打ち上げられた浜辺とは、まったく様子が違っていた。
砂浜に下りて歩き出すと、土肌色の尖った山が見えた。山はナイフみたいに鋭く尖っており、その先端からは煙は上がっていない。
たぶん死火山か、ただの山? あたしには地学的な知識は皆無なのでよくわからないけど、どっちかだと思う。
この島の構造は、中央に山がそびえ、その裾野には森林が広がり、海に囲まれているらしい。
森の中に入ると幾分か涼しいけど、浜辺は遮るものがないのでめっちゃ暑い。
その暑い浜辺を歩いていくと、海を眺めている人っぽい姿が見えてきた。
近付くにつれ栗色の髪をした優しい顔立ちで、まるでお姫様のような風貌の子であることがわかった。
あたしは安心してゆっくりと近づいていったが、向こうも気づいたようでにこっと愛らしく微笑みかけた。
「ねえ、知ってる?」
声を発した瞬間ぎょっとし、足を止めた。その声は成人した男性の声そのものだったから。
「どうして、海は青いのかな?」
コイツ、天然? それとも、あたしの気を引こうとしてるの? 福潤宝
頭の中に疑問符がいっぱい浮かんだけど、解答を待ち望んでいる気配が瞳から滲み出ていた。
「そんなの簡単じゃない。空の色が反射して、青く見えてるだけじゃないの」
「そっか。僕ひとつおりこうにになったよ。だって誰も教えてくれないんだもん」
男の子の口調は、寂しさと拗ね半々だった。彼のいう『誰も』は森で会ったワイルド男子と、水辺で会った眼鏡男子のことだろうか。
あれこれ思い巡らせている間に、男の子はあたしのことをじっと見つめていた。
「君って、僕たちと違うね」
あたしに鼻を近づけて匂いを嗅ごうとしたので、一歩退き逃げの体勢に入った。
「ねえ、そこってどうして膨らんでいるの? 何かおいしい物でも隠しているの?」
あたしの胸を指して無邪気に尋ねてきたけど、警告音が鳴り響き出した。
危険! 危険! 早く逃げてください!
「な、何にもないわよ! 女の子の体って、みんなこうなの!」
「ふうん、そうなんだ。ねえ、触ってみてもいい?」
天然少年は思春期真っ盛りの中坊みたいに、興味津々に聞いてきた。
あたしは恐怖のあまり後ずさりながら、腕で胸をおおい隠し、
「ダメッ! 好きでもない人に触らせない!」と強く拒んだ。
「じゃあ、君のことを好きになるよ。だから、君も僕を好きになって」
手を伸ばしてあたしに触れようとしてくる。
脳内の警告音はさらに激しさを増し、ビョン、ビョンとサイレンとともに、「危険! 危険!」を繰り返す。
「無理!」
再度拒絶すると、かわいそうなくらい捨てられた小犬のようにしゅんとなってしまった。その姿を見て少しだけサイレンが弱まる。
彼は年上のお姉様がたに、玩具のようにかわいがられるタイプで、あたしのタイプとは程遠かった。
そこへ突然、さっと人が割りこんできた。
「おい、坊主! 私の許可なくこのお嬢さんに迫っていたな!」
声と姿格好で、げっと思ってしまったわ。だって、よりによってイカレ船長だったから。
「え~。君の許可が要るの? じゃあ、お話してもいいよね?」
別段がっかりするようでもなく、にこにこと船長に話しかけている。くそジジイの背中からは、「う~ん」と苦渋に満ちた声が聞こえてくる。
「おぬし、なかなかやるのう」
全くめげない天然少年相手に、さすがの船長もたじろいでいた。
イカレじいさんとおつむの弱い男の子。気になる対決ではあるけれど、この隙に逃げ出した。
喉は何とか潤しけど、空腹が気になってきた。
難を逃れて走っていたら岩場に到着し、しゃがみ込み何か獲物はないか探す。
カキやサザエ、ウニとか転がってないかなと思ったけど、そんなもの容易くあるわけがない。
だけど今まで出会った男たちは、一応に生きていた。しかも立派ながたいをしている人もいた。 V26 即効ダイエット
あの人たちは、一体何を食べて生きているのだろう。不思議だ。
もしかしたら、今までこの島に流れついた人たちはあの人たちに食べられたのではないだろうか。
昔、ジャングルに迷った探検家が、人食い人種に捕まって熱湯が煮えたぎる大鍋に入れられ、食べられてしまう話を読んだことがあった。
美味しそうに、あたしを食べる三人のイケメン。考えただけでもぞっとし、背筋が凍り身震いしてしまう。
その時、何者かに肩を叩かれ振り向くと、青白くあばら骨が浮き出た貧相な体つきの男が一人立っていた。
「ねえ、君一人なの? 僕と遊ばない?」
姿をよく見ると、太陽に焼けたせいかパサパサの茶髪で、耳にはルビーのピアス、首もとには貧相な体には似合わぬゴールドのネックレスをしていた。
街でよく女の子をナンパして、食べまくっているチャラ男おっぽかった。
「ご、ごめんなさい。あなたと遊んでいる暇はありません!」
脳内に警告音が発生する中、一目散に逃げ出した。
上手くチャラ男をまいて歩き出したその瞬間、あたしの体が弾き飛んだ。
「ごめんなさい。大丈夫っすか」
差し出された腕はど太く、まんべんなく日に焼けて汗が滲み出ていた。
「大丈夫です」
太い腕を頼りに起き上がると、真っ黒に日焼けした精悍な顔立ちで、二重まぶたに、すうっと通った鼻筋、口元は白い歯が浮き出ている。
「ひぃ!」
あたしはびっくりして男を突き飛ばし、再び逃走した。
その後も行く先々で、顔のいい男の子ばかりに出会った。この島全体がイケメンをコレクションしているみたいで、逃げても逃げてもどこかで必ず遭遇してしまう。
あたしの心休まる場所など到底なかった。
あまりにも逃げまわっていたので、空腹感が鈍り始め、足はフラフラになっていた。
そして、あたしはついに一軒の掘建て小屋を発見した。
掘建て小屋から伸びた煙突には、白い煙がもくもくと流れ出ていて、鈍感になってしまった空腹を思い起こさせるいい匂いがした。
あたしはふらふらと匂いにつられるようにして、中に入っていった。
空腹には勝てず、もう、怖いとか、人の家に勝手に入ってはいけないってモラルとか、完全に払拭されていた。
家の中はこざっぱりしていて、テーブルには木製のお皿とスプーンが置かれてた。
白い煙の原因となる暖炉には鍋がかかっており、お芋っぽい物体がごろごろ入ったスープがあった。
これは天の助け! きっと空腹で居場所のない私を導いてくれたんだ。
お皿にスープをよそって恐る恐る口に入れてみた。ひと口でイケルと思い、もうその後は野獣のようにガツガツ食べたわ。
そのスープの味といったらもう……
人生においてベストスリーに入る美味! ブラボー! 拍手喝采!
無我夢中で完食してしまうと、逃げ惑っていた疲れと満腹感にほだされ眠くなってしまった。
あくびをしながらテーブル脇にあるベッドにもぐりこむ。もぐった瞬間、獣臭さがちょっと気になったけど、すぐに寝ついた。
夢の中のあたしは、肩丸出しのゴールドのロングドレスを着ていた。
どうやら社交界みたいな高貴な場所にいるみたいで、上品に振舞う男女の姿、ステージには管弦楽団がワルツを奏でている。
みなそれぞれパートナーとともにダンスを楽しんでいるようだった。
誰か一緒に踊ってくれる人はいないかしら?
視線をさまよわせ相手を探し求めると、どこからともなく男性がやってきて慇懃いんぎんに腰を折り曲げ、「お相手頂けませんか」と誘ってくれた。
あたしは顔を確かめずに「お願いいたします」と手を差し出し、相手はすっと腰を伸ばした。
向かいあう彼の顔は、モロあたしのタイプで印象の薄い立ちをしてた。
もう、あたしは喜び勇んで踊った。彼はダンスも上手くて、下手くそなあたしを終始リードしてくれた。 OB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ
船長の怒鳴る声とともに、バシンと乾いた音がした。
それまで穏やかだったヤツはおっかない顔になり、あたしの頬に痛みを感じた。
「せっかくご両親から授かった命なんだから、もっと大切にしなさい」 挺三天
乗船して初めてこの人の真顔を見たような気がする。声音も重みを増していて真剣そのものだった。
こんなふうに言われると、さすがのあたしも反論できない。
「わかりました」
しょげて言うと、船長は満面の笑みを浮かべた。
こうしている間にまた船が傾き、あたしと船長は床の上を滑り転がって真っ黒な海の中へと落ちてしまった。
海の中は熱くもなく、冷たくもなかった。救命胴衣と浮き輪のおかげで、海の底に落ちることなくぷかぷかと浮いていた。
海上は荒波が立ち、空と水平線の境目がわからないぐらい暗闇に包まれている。
あたしは激しい波に体を上下させられ、その勢いで海水を飲みこむ。咽喉の奥に引っかかり咳きこんでしまった。
「おい、大丈夫か」
あたしの耳元に息がかかるように声がした。ずうずうしくも船長はあたしの体に、ぴったり密着して寄り添っていた。
「大丈夫です」
押しのけたい衝動を抑えて答えると、船長は波に顔を叩きつけられて折角のハンサム顔が残念なことになっていた。
額には前髪がべったりと貼り付き、目なんかは開けてられない状態で埴輪を彷彿させられる。
思いっきり笑いたいけど、口を空けた瞬間海水が浸入してきて、したくもない塩分補給をする羽目になってしまった。
そのとき、ばりばりっと音とともに船体が沈んでいくのが見えた。
船長は情けない顔のまま、「危機一髪だったな」とクールに気取りやがった。
だけど、あたしたちは大荒れの海に放り出されている。当然、一難去ってまた一難があるわけ。
あたしたち目掛けて大きな波が襲いかかる。咄嗟に船長はあたしの体を抱きしめ、大波が頭上に迫ってきた。
「きゃあ!」
あたしの悲鳴とともにザバァーンと海水が襲いかかる。頭を強打されたうえに、海水を飲みこみ咳き込む。
呼吸を整える暇もなく、船長の「また来るぞ!」と号令通りに次の大波がやってくる。
あたしと船長は何回も大波をかぶり、気を失ってしまった。
穏やかな波の音で目覚めると、嵐は嘘のように収まっていた。
見上げると青空が広がっていて、海も空を反射して青く輝いている。
あたしは白い砂浜の上に打ち上げれており、奥のほうには緑色の木々が立ち並び、森林を形成していた。
熱い砂浜に打ち上げられたせいで、喉がからからに渇いている。喉の渇きを潤そうと、起き上がってみた。
別段、体の不調はなく、この状態なら遠くまで歩けそうな気がする。
五メートル先に白っぽい固まりが見えるが、恐らく船長だろう。
下手に起こして馴れ馴れしくされるのも癪なので、そのまま放っておくことにした。
木々が立ち並ぶところには、きっと真水があるはず。
そんな頼りない理論を思い浮かべ、森の中を散策することにした。
森の中は薄暗くて怖かったけど、喉の渇きには敵わない。
聞いたことのない鳥だか獣の声が木霊して、まるで秘境に足を踏み入れた探検家の気分になった。
せめてバナナとかマンゴーみたいな実のなる樹木があれば助かったが、葉っぱだけが生い茂った木々ばかりで喉を潤せそうもない。
折角、助かった命なのに、餓死してしまうのではないかと不安になっていく。
せめて、あのクソじじいの生死を確認して、アイツを顎でこき使い、真水と食料を持ってこさせればよかったんじゃないかと後悔し始めていた。
アイツなら果物が取れなくても、魚ぐらいは何とかしてくれそうだもの。 VIVID XXL
踏み分けて歩けば歩くほど何にもなく、心細くなり始めたその時――。
目の前にある草むらがザザッと揺れ動いた。
「げっ!」
分け入って出てきたのは、身長は180センチぐらい、腕の筋肉が気持ち悪いぐらい隆起しており、外国の映画スターのようにほりの深い顔立ちをした男だった。
相手の男は魂を抜かれたような目で、あたしの全身を見渡した。
一方、当然あたしはその男の眼差しに、背筋がぞぞぞっと凍りつく。
「おい……」
あたしを視姦しているくせに、威嚇しているような鋭い声。
怖くなったあたしは自然に足が後退していく。そんなあたしを男は捕まえようと、腕を伸ばしてきた。
アブナイ! 危険です。逃げろ!
脳内に警告令が発動し、一目散に逃げ出した。
背後から「おい、待て!」という声が聞こえてきたけれども、体が声に反応して勝手に動いてしまう。
その代償として、藪があたしの腕を、あたしの足を、突き刺していく。
痛みをこらえ走り抜けた先に、大きな池が現われてほっとする。これで、ようやく渇きを潤せる。
早速、水面に自分の顔を映し出すと、顔はすすけて真っ黒で、髪はばさばさになっていた。
そんなみっともない自分を壊し、バシャバシャと水音を立てて顔を洗う。そして、からからの喉の渇きを潤していった。
どうやら、あたしはアイツとともにほぼ無人の島に流れついたらしい。
これから先どうすればいいのだろう?
イカレおじ様も、今さっき会った男も、ハンサムだった。他には住民がいないのだろうか。
「んっ?」
突然、左ふくらはぎに違和感を感じて見ると、十センチぐらいの巨大ヒルが貼り付いていた。ヒルはあたしの血を吸ってどんどん膨らんでいく。
はやく外さなきゃとは思うものの、気持ち悪くて触りたくない。一体、どうすればいいんだろう?
途方に暮れていると、横から細長い指先が見えたかと思うと、素早く透明な液体をあたしのふくらはぎにかけた。
するとコロンとヒルが落ちる。
「失礼」
男の声は丁重さが含まれていて、そのまま屈んでふくらはぎに触れた。
そしてヒルにかまれたところを押し出して、池の水で丁寧に洗ってくれた。
「お嬢さん、これで大丈夫ですよ」
立ち上がりながら、ずれた眼鏡を指で押し上げる。その顔を見て、唖然としてしまった。
神経質、いやナルシストっぽい顔立ちの俺様的イケメンだったから。
さっき森で見かけた男や船長よりはまともそうだけど、眼鏡を押し上げる仕草が気障過ぎて引いてしまう。
しかも、その眼鏡は小さなひびが入っており、滑稽にすら感じた。
滑稽だけどそれでも、脳内から警報装置が作動してすでに逃げ腰になっている。
「あ、ありがとう。あたし行かなくっちゃ!」
もう限界に近かった。行く宛てもないのに、くるりと背を向け走り出すと、「ちょっと!」と背後から声が聞こえてきた。
再び森に入り、道なりに従って駆け抜けると、海岸線が見えてきた。あたしが打ち上げられた浜辺とは、まったく様子が違っていた。
砂浜に下りて歩き出すと、土肌色の尖った山が見えた。山はナイフみたいに鋭く尖っており、その先端からは煙は上がっていない。
たぶん死火山か、ただの山? あたしには地学的な知識は皆無なのでよくわからないけど、どっちかだと思う。
この島の構造は、中央に山がそびえ、その裾野には森林が広がり、海に囲まれているらしい。
森の中に入ると幾分か涼しいけど、浜辺は遮るものがないのでめっちゃ暑い。
その暑い浜辺を歩いていくと、海を眺めている人っぽい姿が見えてきた。
近付くにつれ栗色の髪をした優しい顔立ちで、まるでお姫様のような風貌の子であることがわかった。
あたしは安心してゆっくりと近づいていったが、向こうも気づいたようでにこっと愛らしく微笑みかけた。
「ねえ、知ってる?」
声を発した瞬間ぎょっとし、足を止めた。その声は成人した男性の声そのものだったから。
「どうして、海は青いのかな?」
コイツ、天然? それとも、あたしの気を引こうとしてるの? 福潤宝
頭の中に疑問符がいっぱい浮かんだけど、解答を待ち望んでいる気配が瞳から滲み出ていた。
「そんなの簡単じゃない。空の色が反射して、青く見えてるだけじゃないの」
「そっか。僕ひとつおりこうにになったよ。だって誰も教えてくれないんだもん」
男の子の口調は、寂しさと拗ね半々だった。彼のいう『誰も』は森で会ったワイルド男子と、水辺で会った眼鏡男子のことだろうか。
あれこれ思い巡らせている間に、男の子はあたしのことをじっと見つめていた。
「君って、僕たちと違うね」
あたしに鼻を近づけて匂いを嗅ごうとしたので、一歩退き逃げの体勢に入った。
「ねえ、そこってどうして膨らんでいるの? 何かおいしい物でも隠しているの?」
あたしの胸を指して無邪気に尋ねてきたけど、警告音が鳴り響き出した。
危険! 危険! 早く逃げてください!
「な、何にもないわよ! 女の子の体って、みんなこうなの!」
「ふうん、そうなんだ。ねえ、触ってみてもいい?」
天然少年は思春期真っ盛りの中坊みたいに、興味津々に聞いてきた。
あたしは恐怖のあまり後ずさりながら、腕で胸をおおい隠し、
「ダメッ! 好きでもない人に触らせない!」と強く拒んだ。
「じゃあ、君のことを好きになるよ。だから、君も僕を好きになって」
手を伸ばしてあたしに触れようとしてくる。
脳内の警告音はさらに激しさを増し、ビョン、ビョンとサイレンとともに、「危険! 危険!」を繰り返す。
「無理!」
再度拒絶すると、かわいそうなくらい捨てられた小犬のようにしゅんとなってしまった。その姿を見て少しだけサイレンが弱まる。
彼は年上のお姉様がたに、玩具のようにかわいがられるタイプで、あたしのタイプとは程遠かった。
そこへ突然、さっと人が割りこんできた。
「おい、坊主! 私の許可なくこのお嬢さんに迫っていたな!」
声と姿格好で、げっと思ってしまったわ。だって、よりによってイカレ船長だったから。
「え~。君の許可が要るの? じゃあ、お話してもいいよね?」
別段がっかりするようでもなく、にこにこと船長に話しかけている。くそジジイの背中からは、「う~ん」と苦渋に満ちた声が聞こえてくる。
「おぬし、なかなかやるのう」
全くめげない天然少年相手に、さすがの船長もたじろいでいた。
イカレじいさんとおつむの弱い男の子。気になる対決ではあるけれど、この隙に逃げ出した。
喉は何とか潤しけど、空腹が気になってきた。
難を逃れて走っていたら岩場に到着し、しゃがみ込み何か獲物はないか探す。
カキやサザエ、ウニとか転がってないかなと思ったけど、そんなもの容易くあるわけがない。
だけど今まで出会った男たちは、一応に生きていた。しかも立派ながたいをしている人もいた。 V26 即効ダイエット
あの人たちは、一体何を食べて生きているのだろう。不思議だ。
もしかしたら、今までこの島に流れついた人たちはあの人たちに食べられたのではないだろうか。
昔、ジャングルに迷った探検家が、人食い人種に捕まって熱湯が煮えたぎる大鍋に入れられ、食べられてしまう話を読んだことがあった。
美味しそうに、あたしを食べる三人のイケメン。考えただけでもぞっとし、背筋が凍り身震いしてしまう。
その時、何者かに肩を叩かれ振り向くと、青白くあばら骨が浮き出た貧相な体つきの男が一人立っていた。
「ねえ、君一人なの? 僕と遊ばない?」
姿をよく見ると、太陽に焼けたせいかパサパサの茶髪で、耳にはルビーのピアス、首もとには貧相な体には似合わぬゴールドのネックレスをしていた。
街でよく女の子をナンパして、食べまくっているチャラ男おっぽかった。
「ご、ごめんなさい。あなたと遊んでいる暇はありません!」
脳内に警告音が発生する中、一目散に逃げ出した。
上手くチャラ男をまいて歩き出したその瞬間、あたしの体が弾き飛んだ。
「ごめんなさい。大丈夫っすか」
差し出された腕はど太く、まんべんなく日に焼けて汗が滲み出ていた。
「大丈夫です」
太い腕を頼りに起き上がると、真っ黒に日焼けした精悍な顔立ちで、二重まぶたに、すうっと通った鼻筋、口元は白い歯が浮き出ている。
「ひぃ!」
あたしはびっくりして男を突き飛ばし、再び逃走した。
その後も行く先々で、顔のいい男の子ばかりに出会った。この島全体がイケメンをコレクションしているみたいで、逃げても逃げてもどこかで必ず遭遇してしまう。
あたしの心休まる場所など到底なかった。
あまりにも逃げまわっていたので、空腹感が鈍り始め、足はフラフラになっていた。
そして、あたしはついに一軒の掘建て小屋を発見した。
掘建て小屋から伸びた煙突には、白い煙がもくもくと流れ出ていて、鈍感になってしまった空腹を思い起こさせるいい匂いがした。
あたしはふらふらと匂いにつられるようにして、中に入っていった。
空腹には勝てず、もう、怖いとか、人の家に勝手に入ってはいけないってモラルとか、完全に払拭されていた。
家の中はこざっぱりしていて、テーブルには木製のお皿とスプーンが置かれてた。
白い煙の原因となる暖炉には鍋がかかっており、お芋っぽい物体がごろごろ入ったスープがあった。
これは天の助け! きっと空腹で居場所のない私を導いてくれたんだ。
お皿にスープをよそって恐る恐る口に入れてみた。ひと口でイケルと思い、もうその後は野獣のようにガツガツ食べたわ。
そのスープの味といったらもう……
人生においてベストスリーに入る美味! ブラボー! 拍手喝采!
無我夢中で完食してしまうと、逃げ惑っていた疲れと満腹感にほだされ眠くなってしまった。
あくびをしながらテーブル脇にあるベッドにもぐりこむ。もぐった瞬間、獣臭さがちょっと気になったけど、すぐに寝ついた。
夢の中のあたしは、肩丸出しのゴールドのロングドレスを着ていた。
どうやら社交界みたいな高貴な場所にいるみたいで、上品に振舞う男女の姿、ステージには管弦楽団がワルツを奏でている。
みなそれぞれパートナーとともにダンスを楽しんでいるようだった。
誰か一緒に踊ってくれる人はいないかしら?
視線をさまよわせ相手を探し求めると、どこからともなく男性がやってきて慇懃いんぎんに腰を折り曲げ、「お相手頂けませんか」と誘ってくれた。
あたしは顔を確かめずに「お願いいたします」と手を差し出し、相手はすっと腰を伸ばした。
向かいあう彼の顔は、モロあたしのタイプで印象の薄い立ちをしてた。
もう、あたしは喜び勇んで踊った。彼はダンスも上手くて、下手くそなあたしを終始リードしてくれた。 OB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ
2013年12月23日星期一
代打、小坂
今日は、いつもと少し違う顔ぶれで飲みに行くことになった。
メンバーは私と、
「小坂さんとは一度、サシ飲みしてみたかったんだよ」
笑顔で語る安井課長と、蟻力神
「先輩、俺もいるんですけど。スルーしないでもらえます?」
なぜかうろんげにしている霧島さんの三人だ。
うちの課の飲み会でも行ったことがある、ごくありふれたタイプの騒がしい居酒屋のボックス席で、私と安井課長が並んで座り、その向かい側に霧島さんが一人で座っている。何だか新鮮と言うか、不思議な感じさえする構図だった。
安井課長はさも今気づいたというように目を瞠る。
「あれ、いたのか霧島。気乗りしないなら帰ってもいいのに」
「何でですか! そもそも俺が誘ったんですよ今日は!」
「やけに浮かない顔をしてるから。奥さんに逃げられてナーバスなのか?」
「逃げられてないです! 滅多なこと言わないでくださいよ!」
むっとした様子で反論した後、霧島さんは眉を顰めた。
「先輩こそ、いいんですか。小坂さんの隣に座っちゃって。石田先輩が来たら間違いなく怒りますよ、血を見るかもしれませんよ」
物騒に聞こえる脅し文句にも安井課長はうろたえない。右隣の私ににっこり笑いかけながら、
「今日の残業は大分かかるって言ってたし、それまでは俺が小坂さん独占してたっていいだろ」
と話すから、私はちょっと反応に困る。
もちろん、今の思わせぶりとも言える発言を本気に取るつもりはない。そして安井課長も霧島さんも見知らぬ相手ではないし、一緒にお酒を飲んだことも、お食事をしたことだって何度もあるから、今更緊張しているわけでもない。
だけどそういう場に石田主任の姿がないのは初めてだった。
おかげでこうして座っていても、ずっと不思議な感じがしている。
寂しいような、待ち遠しいような、主任がいなかったらこのお二人とのご縁もなかったんだって、つくづく実感するような――私の人生にいろんな新鮮さや、楽しみや、幸せをくれたかけがえのない人、って言ったらさすがに気恥ずかしいけど、でも決して間違いじゃない。
今日の私は、そんな石田主任のピンチヒッターを務めることになっている。
そもそもどうしてこのメンバーでの飲み会が催されたのかと言えば、先にもご本人が話していたように、まず霧島さんが安井課長、石田主任を誘ったのだそうだ。
霧島さんの奥さん、ゆきのさんは今日から二日間、有給を取って法要の為にご実家へ帰省しているらしい。そこで霧島さんは今日と明日のご飯をどうするか、という大切な問題に直面することになった。一応、霧島さんにも一人暮らしをしていた期間があり、家事が全くできないというわけではないらしいのだけど、主任が言うには『あいつは放っておいたら中華麺だけ茹でて、具なし冷やし中華で三食済ますぞ』とのことなので、ゆきのさんもそれはそれは心配らしく、そのくらいなら外食してお野菜食べてください、と言い残していったのだとか。まさに美しき夫婦愛だ。
奥様からの愛の指令を背負い、霧島さんは外食のお誘いを仲良しのお二人に持ちかけた。以上が、私が説明を受けた前情報になる。
そしてここからが、私がその場に居合わせて聞いたいきさつになるのだけど――約束をした当日の午後になって、石田主任には不意の仕事が入ってしまった。客先から、どうにかして急ぎでお願いできませんかと必死で頼み込まれたようで、日頃お世話になっている相手だからしょうがなく引き受けたと話していた。
「――そういうわけだから、今日は行けたら行く。悪い」
終業後、営業課まで迎えに来た安井課長に対し、石田主任は申し訳なさそうに謝罪していた。きっと早めに仕事を切り上げてきたんだろう、課長は既に帰り支度を済ませていたし、霧島さんも準備はできていたようだった。
「仕事が入ったんじゃしょうがないな」
そう応じつつも、安井課長は非常に残念そうだった。ちらっと霧島さんの方を見てから溜息をつく。
「ってことは霧島と二人きりか……分が悪いな……」
「分って何ですか先輩。勝負事でもないのに」
「今日は独身に戻ったお前を、石田と二人でからかってやるつもりでいたんだよ」
「戻ってないですから。誤解されるようなこと言わないでください!」
もうからかわれ始めている霧島さんは、それでも石田主任のことが心配なようだ。主任の机の上に積まれた書類を気遣わしげに見やった。
「今日中に終わりそうですか?」
「少なく見積もってもまだ三時間はかかるな」
石田主任は苦笑いで答える。それからわざと追い払うように手を振って、
「俺のことなんか気にしなくていいから。ちゃんと奥さんの言いつけ守るんだぞ、霧島」
いつもより柔らかい言い方で皆の心配を払拭しようとしていた。
その一連のやり取りを見守りつつ、私も密かに気を揉んでいた。幸いにも私の今日の仕事は一段落ついていたから、もしよければ主任のお手伝いをしようかと考えていた。普段ならそう申し出てもなかなか手伝わせてはもらえないのだけど、今日の主任には先約があったのだし、きっと心中ではどうにか間に合わせて霧島さんたちと合流したいと願っているに違いない。だから今日ばかりは私にも、微力ながらもお手伝いができるんじゃないかなと思ってみる。
そんな風に考えていた折も折、少し残念そうに営業課を出て行こうとした安井課長がこちらを見た。私が机の上の整頓を始めているのを目に留めてか、すぐに尋ねてくる。芳香劑
「小坂さん、もう上がり?」
「はい。いつもより早く仕事が片付きまして」
言いながら私は横目で主任を見る。私はすごく暇ですので、お手伝いならいくらでもできます。猫の手も借りたいくらいでしたら是非とも私を使ってください! というアピールのつもりで――あいにくと主任は私の視線に気づかず、熱心にお仕事を再開していたけど。
「そっか……」
安井課長はそこで、どういうわけか愉快そうな顔をした。傍で立ち止まった霧島さんが訝しそうにしていても構うことなく、私に向かって続ける。
「だったら小坂さん、これから暇?」
「もちろんです!」
私は力一杯頷いた。
きっと安井課長は次にこう言うだろう。小坂さん、それなら石田の仕事をちょっと手伝ってやってくれないか、みたいに。先程からの残念そうなそぶりからもわかるように、安井課長は何だかんだで主任のことをいつもすごく心配している、とても優しい人だった。
だから私は、次の言葉にも思いっきり頷くつもりでいたのに、
「よかったら今夜、俺たちと飲みに行かないか? 石田の代わりに」
かけられた誘いは予想だにしないものだったから、一瞬混乱した。
「えっ? 主任の代わりに……ですか?」
「そう。仕事が入っちゃった石田のピンチヒッターで」
いかにもナイスアイディアだというふうに微笑む安井課長は、その後で霧島さんの方を振り返る。
「な、霧島も異論ないだろ? 小坂さんが一緒ならきっと楽しいし」
「俺はありませんけど」
霧島さんはあっさりと答え、やっぱり軽く笑んだ。
「でも、いいんですかね。小坂さんを誘ったりしたら、誰かさんがやきもきして仕事が手につかなくなったり……なんてことになりません?」
「かえってモチベーションになるんじゃないか? 仕事を頑張って俺たちに合流できたら、そこに小坂さんが待ってるんだから」
首を竦めながら安井課長は語る。
「そういうわけだから、小坂さん連れてっていいよな、石田?」
急な話の進み具合に戸惑っていたのは私だけじゃなく、石田主任も同じようだった。たちまち不機嫌な顔になる。
「お前、俺の目の前で堂々と小坂誘ってんじゃない」
「今となっちゃ俺と小坂さんも、石田を介さなくてもいいくらいの間柄だろ」
「いつからだよ! 霧島がいなかったら断固反対してるとこだぞ」
主任は安井課長に対しては嫌そうな態度を取りつつも、私にはやむを得なさそうに言った。
「まあ、おっさんとおっさん予備軍のサシ飲みってのも絵的に哀れで虚しいからな。お前が嫌じゃないなら俺の代打で行ってやってくれ、小坂」
「わ、わかりました。じゃあ……」
「……もちろん俺は後で駆けつけるが、それまでの短い時間ですら俺がいないのが嫌なら、そこは嫌ですってはっきり言ってもいいんだからな、遠慮なんてすんなずばっと言ったれ」
別に嫌ではちっともないんだけど、主任は私に飲みに行って欲しいのか、欲しくないのか、どっちだったんだろう。
そんなこんなで、いつもと趣の違う飲み会は始まった。
飲み会と言ってもメインの目的は霧島さんにお野菜を食べてもらうことだ。それで私たちのテーブルには一通りのサラダメニューが続々と運ばれてきた。シーザーサラダに大根サラダ、豆腐サラダにアボカドとエビのサラダ――おかげですっかりグリーンを基調とした目にも身体にも優しい食卓になった。傍に寄り添うビールの中ジョッキが、何だか肩身狭そうに見えてしまう。
「何事にも限度ってものがあると思うんですよね」
卓上を占めるサラダシリーズに霧島さんは呆れ顔だ。サラダを注文した当の安井課長は嬉々としていたけど。情愛芳香劑
「このくらい大げさにやらないとお前の奥さんが心配するだろ。ほら、証拠写真でも撮っといたらどうだ」
「そんなものなくても、彼女は俺を信用してくれますから」
霧島さんがきっぱり断言する。いいなあ、すごく格好いい言い方だ。
「はいはい、ご馳走様です」
感動する私とは対照的に、安井課長は投げやりにぼやいた。それから隣に座る私を見やって、ふと苦笑いを浮かべる。
「しかし、信用されてるって言ったら小坂さんもだな。石田があんなにあっさり許可を出すとは思わなかったよ」
「そうですか?」
「うん、もっとごねると思ってた。と言うかそっちを期待してた」
期待してたんだ……。
でも私も、主任の不在を埋めるピンチヒッターとして招かれたんだろうし、後からでも主任が合流するってことじゃなければ来てなかっただろうと思う。霧島さんも安井課長もとてもいい人で大好きだけど、石田主任のいないところでお会いするっていうのは、ちょっと違う気がするから。
そういう意味でも、今のこの時間はちょっとレアだ。やっぱり不思議な感じ。
「何か悔しいから、石田に脅迫メールでも送ってやろう」
心なしかはしゃいでいるような安井課長は、携帯電話を取り出してメールを打ち始めた。文面をゆっくりと読み上げながら、
「『お前の可愛い部下は預かった。早く来ないと俺が何をするかわからないぞ』と……」
「やめましょうよ。石田先輩は残業中なんですから、邪魔しちゃ悪いですよ」
霧島さんが取り成すように言うと、安井課長は一度手を止め視線を上げる。直に携帯のディスプレイへ目を戻し、更に続きを打ち始める。
「『お前の、全く可愛げのない部下も預かった』……」
「いや、俺のことはいいですって。先輩も釣られないと思いますし」
「そうだな。やっぱり人質は小坂さんじゃないと」
いつの間にか私、人質扱いになってる。確か主任のピンチヒッターで、という話だったはずなんだけど。
そして結構物騒な話題ばかりだ。男の人同士の会話って、いつもこんな調子なのかな。
「主任なら大丈夫ですよ。ちゃんと後で来るって約束してくれましたし」
だから私が保証すると、安井課長はそれには答えずににやりとした。
「もう終業後だし、遠慮なく『隆宏さん』って呼んでもいいんだよ、小坂さん」
「あ! あのっ、……すみません、終業直後だけに気持ちの切り替えができてなくて……っ」
まさかそこを突かれるとは思ってもみなくて、私はしどろもどろになる。おかげでお二人ににやにやされてしまった。
明らかに経験不足、力量不足の私に、石田主任――隆宏さんの代打は、果たして勤まるだろうか。
結局、安井課長はその脅迫めいたメールを送信してしまった。
石田ならきっとすぐに返事を寄越すだろ、そう言って課長は笑っていたけど、直後に鳴ったのは私の携帯電話だった。
「あっ、ちょっと失礼します」
一言断ってから確認すれば、受信メールが一通――送り主は予想通りと言うか何と言うか、石田主任だ。
『どうせ貰うならお前からの励ましメールがいい』
メールの本文は簡潔にその一行だけだった。それだけでも私はなぜだかにやけてしまって、そして私の様子に気づいた安井課長がこちらを覗き込んでくる。
「石田の奴、俺からの激励じゃ不満だって言うのか」
激励、にしてはさっきのメールは物騒な文面だったような気もするけど、でもそう話す安井課長の方がまるで不満げだったのはおかしかった。私と目が合えば悔しそうに、
「しかも俺には返信なしだぞ。不公平じゃないか、なあ小坂さん」
と同意を求めてくる。
私は笑いながら応じた。
「きっと主任も、どう返事をしようか迷っちゃったんですよ」
「それはないな。あいつはこっちが一つ言えば三つ返してくるような男だよ」
「じゃあ後ででもお返事来るといいですね」
「……いや、そこまで返事欲しいってわけでもないんだ」
課長は軽く苦笑しつつ、照れてもいるようだった。
「そういう素直な言い方されると困るな。俺は君ほど石田を待ち焦がれてるわけじゃないから」
そんな風に釘を刺すってことは、何だかんだで安井課長も、なるべく早く主任に来て欲しいって思ってるんだろう。素直じゃないなあ。三體牛鞭
よし、私からも主任へエールを送っておこう。何て書こうかな。
「どこが激励ですか。普通に脅迫でしたよ」
遅れてツッコミを入れてきた霧島さんも携帯電話を手にしていた。画面をこちらへ向けて腕を伸ばし、私と安井課長へ見せてくる。画面上には一通の受信メールが開かれていて、そこには石田主任からのメッセージが記されていた。
『安井が小坂に不届きな行動を取ったら、その時はお前が安井を切り捨てろ!』
先程の脅迫メールに負けず劣らず物騒な返信だった。
「あの人、俺を鉄砲玉にする気ですよ」
呆れる霧島さんに、安井課長が声を立てて笑う。
「そんなこと言ってる暇あったら仕事片せって送ってやれ」
「先に煽ったの誰でしたっけ……? まあ、送りますけど」
「ついでに『俺と小坂さんがちょっといい雰囲気』って書いといて」
「嫌ですよ。次に何を指示されるかわかったもんじゃないですし」
霧島さんはどうやらものすごく簡潔なメールを送ったらしい。ものの数秒で送信まで全部終えてしまって、すぐに携帯を置くと、大根サラダをばりばりと食べ始めた。合間にビールを一口飲むと、途端に微妙な顔をする。
「生の大根とビールって相性凄まじいですね。この辛味と苦味のハーモニー」
「奥さんのありがたみがわかったろ、霧島」
「そうですね、本当に……」
安井課長にからかわれて真面目に答えた霧島さんは、私たちに向かって発破をかけてくる。
「ほら、早いとこサラダのノルマクリアしましょう。石田先輩が来たらもうちょっとビールに合うものを注文したいです」
ノルマ扱いなのは笑ったけど、ビールに合うものを食べたいのは私も同じだ。ここは是非とも消費に貢献しよう――と、その前に主任にメールを送ってしまおう。
お二人の前でいつものような文面を考える余裕はなかったので、私も簡潔に用件だけ書いて送った。霧島さんも安井課長も、もちろん私も待ってますから、もし来れたら来てください。お仕事頑張ってください……ここまで打って、ちょっと無難と言うか、寂しい文章のような気もしてきたので、もう一言付け足しておく。
――私たち、気づいたら隆宏さんのお話ばかりしています。
それから一時間ほど経つと、さしものサラダ軍勢も大方片づいてきた。追加注文では各々、サラダよりはビールに合うメニューをオーダーして、お酒も少しずつだけど進んできた。
そうなっても私たちの話題の中心は、ほぼずっと石田主任についてだった。
「大体、何であいつだけいい目見てるんだか。こんなに若くて可愛い部下ができたと思ったらそのまま彼女にまでしてしまうなんて、全くもってけしからん。そして羨ましい!」
アルコールが回ったからなのか、安井課長はそんな言い方をしてくる。私としては反応に困る。
「あの、それほどでもないです……」
「いやそれほどでもあるね。同い年の奴が七つ下の子と付き合ってるってだけで何だか腹が立つ」
「男の嫉妬は醜いですよ、先輩」
霧島さんは念願の冷やし中華を食べながら冷静に応じた。
ふん、と安井課長が鼻を鳴らす。
「嫉妬もするだろ。あいつがどんな善行を積んで可愛い彼女を手に入れたっていうんだ」
「善行っていう考え方が既に間違ってると思います」
「じゃあ何だ、運か。運の問題か」
「まあ、ぶっちゃけて言えばそうでしょうけど」
「お前が結婚できたのも運がよかったからか」
「それはどうですかね。俺の場合は日頃の行いのよさかもしれません」
笑顔の霧島さんを見て、安井課長は面白くなさそうな顔をしていた。
「どうして俺だけ寂しい思いをしてなきゃならないんだ。納得がいかない!」
むくれたようにビールを呷る姿を見て、確かに不思議だなあと私も思う。安井課長も素敵な人だし、口ではあれこれ言いつつも優しい人だし、歌も上手いから社内には憧れてる女子社員もちらほらいるって小耳に挟んだことがある。だからお付き合いしてる人がいないのは意外だった。
「小坂さんも、石田について不満とかない?」
その安井課長が私に水を向けてくる。考えがよそに飛んでいたのもあって、私は慌ててかぶりを振った。
「えっ、ないですよそんなの。主任もとっても優しい方ですし」
「そうは言っても、付き合ってたら不満の一つや二つくらい出てくるものだろ? むしろあいつは優しすぎて駄目になるタイプだしな。何ならここで洗いざらい喋っちゃってもいいんだよ」
優しすぎてよくないことなんてあるのかな。人間、できるだけ他人に優しい方がいいように思うけど、今の言葉には安井課長なりの懸念、あるいは心配みたいなものがそこはかとなく窺えた。
そして石田主任という人は皆にはもちろん、私に対しても本当に優しくて気配り上手な人だ。一緒にいて辛いことなんてないし、幸せなことばかりだった。
だから不満なんてちっともないんだけど、現状に百パーセント満足しているかと言えばそうでもないのかもしれない。だって、こうしてお付き合いを始めて数ヶ月経った今でも『慣れた』という実感はまるでないし、未だに二人でいる時はすごくどきどきするし、緊張もする。一緒にいる時間が長くなればなるほど、浮つきがちだった気持ちも落ち着いていくんじゃないかって思っていたのに、落ち着くどころか心臓の休まる時がないくらいだった。中華牛鞭
メンバーは私と、
「小坂さんとは一度、サシ飲みしてみたかったんだよ」
笑顔で語る安井課長と、蟻力神
「先輩、俺もいるんですけど。スルーしないでもらえます?」
なぜかうろんげにしている霧島さんの三人だ。
うちの課の飲み会でも行ったことがある、ごくありふれたタイプの騒がしい居酒屋のボックス席で、私と安井課長が並んで座り、その向かい側に霧島さんが一人で座っている。何だか新鮮と言うか、不思議な感じさえする構図だった。
安井課長はさも今気づいたというように目を瞠る。
「あれ、いたのか霧島。気乗りしないなら帰ってもいいのに」
「何でですか! そもそも俺が誘ったんですよ今日は!」
「やけに浮かない顔をしてるから。奥さんに逃げられてナーバスなのか?」
「逃げられてないです! 滅多なこと言わないでくださいよ!」
むっとした様子で反論した後、霧島さんは眉を顰めた。
「先輩こそ、いいんですか。小坂さんの隣に座っちゃって。石田先輩が来たら間違いなく怒りますよ、血を見るかもしれませんよ」
物騒に聞こえる脅し文句にも安井課長はうろたえない。右隣の私ににっこり笑いかけながら、
「今日の残業は大分かかるって言ってたし、それまでは俺が小坂さん独占してたっていいだろ」
と話すから、私はちょっと反応に困る。
もちろん、今の思わせぶりとも言える発言を本気に取るつもりはない。そして安井課長も霧島さんも見知らぬ相手ではないし、一緒にお酒を飲んだことも、お食事をしたことだって何度もあるから、今更緊張しているわけでもない。
だけどそういう場に石田主任の姿がないのは初めてだった。
おかげでこうして座っていても、ずっと不思議な感じがしている。
寂しいような、待ち遠しいような、主任がいなかったらこのお二人とのご縁もなかったんだって、つくづく実感するような――私の人生にいろんな新鮮さや、楽しみや、幸せをくれたかけがえのない人、って言ったらさすがに気恥ずかしいけど、でも決して間違いじゃない。
今日の私は、そんな石田主任のピンチヒッターを務めることになっている。
そもそもどうしてこのメンバーでの飲み会が催されたのかと言えば、先にもご本人が話していたように、まず霧島さんが安井課長、石田主任を誘ったのだそうだ。
霧島さんの奥さん、ゆきのさんは今日から二日間、有給を取って法要の為にご実家へ帰省しているらしい。そこで霧島さんは今日と明日のご飯をどうするか、という大切な問題に直面することになった。一応、霧島さんにも一人暮らしをしていた期間があり、家事が全くできないというわけではないらしいのだけど、主任が言うには『あいつは放っておいたら中華麺だけ茹でて、具なし冷やし中華で三食済ますぞ』とのことなので、ゆきのさんもそれはそれは心配らしく、そのくらいなら外食してお野菜食べてください、と言い残していったのだとか。まさに美しき夫婦愛だ。
奥様からの愛の指令を背負い、霧島さんは外食のお誘いを仲良しのお二人に持ちかけた。以上が、私が説明を受けた前情報になる。
そしてここからが、私がその場に居合わせて聞いたいきさつになるのだけど――約束をした当日の午後になって、石田主任には不意の仕事が入ってしまった。客先から、どうにかして急ぎでお願いできませんかと必死で頼み込まれたようで、日頃お世話になっている相手だからしょうがなく引き受けたと話していた。
「――そういうわけだから、今日は行けたら行く。悪い」
終業後、営業課まで迎えに来た安井課長に対し、石田主任は申し訳なさそうに謝罪していた。きっと早めに仕事を切り上げてきたんだろう、課長は既に帰り支度を済ませていたし、霧島さんも準備はできていたようだった。
「仕事が入ったんじゃしょうがないな」
そう応じつつも、安井課長は非常に残念そうだった。ちらっと霧島さんの方を見てから溜息をつく。
「ってことは霧島と二人きりか……分が悪いな……」
「分って何ですか先輩。勝負事でもないのに」
「今日は独身に戻ったお前を、石田と二人でからかってやるつもりでいたんだよ」
「戻ってないですから。誤解されるようなこと言わないでください!」
もうからかわれ始めている霧島さんは、それでも石田主任のことが心配なようだ。主任の机の上に積まれた書類を気遣わしげに見やった。
「今日中に終わりそうですか?」
「少なく見積もってもまだ三時間はかかるな」
石田主任は苦笑いで答える。それからわざと追い払うように手を振って、
「俺のことなんか気にしなくていいから。ちゃんと奥さんの言いつけ守るんだぞ、霧島」
いつもより柔らかい言い方で皆の心配を払拭しようとしていた。
その一連のやり取りを見守りつつ、私も密かに気を揉んでいた。幸いにも私の今日の仕事は一段落ついていたから、もしよければ主任のお手伝いをしようかと考えていた。普段ならそう申し出てもなかなか手伝わせてはもらえないのだけど、今日の主任には先約があったのだし、きっと心中ではどうにか間に合わせて霧島さんたちと合流したいと願っているに違いない。だから今日ばかりは私にも、微力ながらもお手伝いができるんじゃないかなと思ってみる。
そんな風に考えていた折も折、少し残念そうに営業課を出て行こうとした安井課長がこちらを見た。私が机の上の整頓を始めているのを目に留めてか、すぐに尋ねてくる。芳香劑
「小坂さん、もう上がり?」
「はい。いつもより早く仕事が片付きまして」
言いながら私は横目で主任を見る。私はすごく暇ですので、お手伝いならいくらでもできます。猫の手も借りたいくらいでしたら是非とも私を使ってください! というアピールのつもりで――あいにくと主任は私の視線に気づかず、熱心にお仕事を再開していたけど。
「そっか……」
安井課長はそこで、どういうわけか愉快そうな顔をした。傍で立ち止まった霧島さんが訝しそうにしていても構うことなく、私に向かって続ける。
「だったら小坂さん、これから暇?」
「もちろんです!」
私は力一杯頷いた。
きっと安井課長は次にこう言うだろう。小坂さん、それなら石田の仕事をちょっと手伝ってやってくれないか、みたいに。先程からの残念そうなそぶりからもわかるように、安井課長は何だかんだで主任のことをいつもすごく心配している、とても優しい人だった。
だから私は、次の言葉にも思いっきり頷くつもりでいたのに、
「よかったら今夜、俺たちと飲みに行かないか? 石田の代わりに」
かけられた誘いは予想だにしないものだったから、一瞬混乱した。
「えっ? 主任の代わりに……ですか?」
「そう。仕事が入っちゃった石田のピンチヒッターで」
いかにもナイスアイディアだというふうに微笑む安井課長は、その後で霧島さんの方を振り返る。
「な、霧島も異論ないだろ? 小坂さんが一緒ならきっと楽しいし」
「俺はありませんけど」
霧島さんはあっさりと答え、やっぱり軽く笑んだ。
「でも、いいんですかね。小坂さんを誘ったりしたら、誰かさんがやきもきして仕事が手につかなくなったり……なんてことになりません?」
「かえってモチベーションになるんじゃないか? 仕事を頑張って俺たちに合流できたら、そこに小坂さんが待ってるんだから」
首を竦めながら安井課長は語る。
「そういうわけだから、小坂さん連れてっていいよな、石田?」
急な話の進み具合に戸惑っていたのは私だけじゃなく、石田主任も同じようだった。たちまち不機嫌な顔になる。
「お前、俺の目の前で堂々と小坂誘ってんじゃない」
「今となっちゃ俺と小坂さんも、石田を介さなくてもいいくらいの間柄だろ」
「いつからだよ! 霧島がいなかったら断固反対してるとこだぞ」
主任は安井課長に対しては嫌そうな態度を取りつつも、私にはやむを得なさそうに言った。
「まあ、おっさんとおっさん予備軍のサシ飲みってのも絵的に哀れで虚しいからな。お前が嫌じゃないなら俺の代打で行ってやってくれ、小坂」
「わ、わかりました。じゃあ……」
「……もちろん俺は後で駆けつけるが、それまでの短い時間ですら俺がいないのが嫌なら、そこは嫌ですってはっきり言ってもいいんだからな、遠慮なんてすんなずばっと言ったれ」
別に嫌ではちっともないんだけど、主任は私に飲みに行って欲しいのか、欲しくないのか、どっちだったんだろう。
そんなこんなで、いつもと趣の違う飲み会は始まった。
飲み会と言ってもメインの目的は霧島さんにお野菜を食べてもらうことだ。それで私たちのテーブルには一通りのサラダメニューが続々と運ばれてきた。シーザーサラダに大根サラダ、豆腐サラダにアボカドとエビのサラダ――おかげですっかりグリーンを基調とした目にも身体にも優しい食卓になった。傍に寄り添うビールの中ジョッキが、何だか肩身狭そうに見えてしまう。
「何事にも限度ってものがあると思うんですよね」
卓上を占めるサラダシリーズに霧島さんは呆れ顔だ。サラダを注文した当の安井課長は嬉々としていたけど。情愛芳香劑
「このくらい大げさにやらないとお前の奥さんが心配するだろ。ほら、証拠写真でも撮っといたらどうだ」
「そんなものなくても、彼女は俺を信用してくれますから」
霧島さんがきっぱり断言する。いいなあ、すごく格好いい言い方だ。
「はいはい、ご馳走様です」
感動する私とは対照的に、安井課長は投げやりにぼやいた。それから隣に座る私を見やって、ふと苦笑いを浮かべる。
「しかし、信用されてるって言ったら小坂さんもだな。石田があんなにあっさり許可を出すとは思わなかったよ」
「そうですか?」
「うん、もっとごねると思ってた。と言うかそっちを期待してた」
期待してたんだ……。
でも私も、主任の不在を埋めるピンチヒッターとして招かれたんだろうし、後からでも主任が合流するってことじゃなければ来てなかっただろうと思う。霧島さんも安井課長もとてもいい人で大好きだけど、石田主任のいないところでお会いするっていうのは、ちょっと違う気がするから。
そういう意味でも、今のこの時間はちょっとレアだ。やっぱり不思議な感じ。
「何か悔しいから、石田に脅迫メールでも送ってやろう」
心なしかはしゃいでいるような安井課長は、携帯電話を取り出してメールを打ち始めた。文面をゆっくりと読み上げながら、
「『お前の可愛い部下は預かった。早く来ないと俺が何をするかわからないぞ』と……」
「やめましょうよ。石田先輩は残業中なんですから、邪魔しちゃ悪いですよ」
霧島さんが取り成すように言うと、安井課長は一度手を止め視線を上げる。直に携帯のディスプレイへ目を戻し、更に続きを打ち始める。
「『お前の、全く可愛げのない部下も預かった』……」
「いや、俺のことはいいですって。先輩も釣られないと思いますし」
「そうだな。やっぱり人質は小坂さんじゃないと」
いつの間にか私、人質扱いになってる。確か主任のピンチヒッターで、という話だったはずなんだけど。
そして結構物騒な話題ばかりだ。男の人同士の会話って、いつもこんな調子なのかな。
「主任なら大丈夫ですよ。ちゃんと後で来るって約束してくれましたし」
だから私が保証すると、安井課長はそれには答えずににやりとした。
「もう終業後だし、遠慮なく『隆宏さん』って呼んでもいいんだよ、小坂さん」
「あ! あのっ、……すみません、終業直後だけに気持ちの切り替えができてなくて……っ」
まさかそこを突かれるとは思ってもみなくて、私はしどろもどろになる。おかげでお二人ににやにやされてしまった。
明らかに経験不足、力量不足の私に、石田主任――隆宏さんの代打は、果たして勤まるだろうか。
結局、安井課長はその脅迫めいたメールを送信してしまった。
石田ならきっとすぐに返事を寄越すだろ、そう言って課長は笑っていたけど、直後に鳴ったのは私の携帯電話だった。
「あっ、ちょっと失礼します」
一言断ってから確認すれば、受信メールが一通――送り主は予想通りと言うか何と言うか、石田主任だ。
『どうせ貰うならお前からの励ましメールがいい』
メールの本文は簡潔にその一行だけだった。それだけでも私はなぜだかにやけてしまって、そして私の様子に気づいた安井課長がこちらを覗き込んでくる。
「石田の奴、俺からの激励じゃ不満だって言うのか」
激励、にしてはさっきのメールは物騒な文面だったような気もするけど、でもそう話す安井課長の方がまるで不満げだったのはおかしかった。私と目が合えば悔しそうに、
「しかも俺には返信なしだぞ。不公平じゃないか、なあ小坂さん」
と同意を求めてくる。
私は笑いながら応じた。
「きっと主任も、どう返事をしようか迷っちゃったんですよ」
「それはないな。あいつはこっちが一つ言えば三つ返してくるような男だよ」
「じゃあ後ででもお返事来るといいですね」
「……いや、そこまで返事欲しいってわけでもないんだ」
課長は軽く苦笑しつつ、照れてもいるようだった。
「そういう素直な言い方されると困るな。俺は君ほど石田を待ち焦がれてるわけじゃないから」
そんな風に釘を刺すってことは、何だかんだで安井課長も、なるべく早く主任に来て欲しいって思ってるんだろう。素直じゃないなあ。三體牛鞭
よし、私からも主任へエールを送っておこう。何て書こうかな。
「どこが激励ですか。普通に脅迫でしたよ」
遅れてツッコミを入れてきた霧島さんも携帯電話を手にしていた。画面をこちらへ向けて腕を伸ばし、私と安井課長へ見せてくる。画面上には一通の受信メールが開かれていて、そこには石田主任からのメッセージが記されていた。
『安井が小坂に不届きな行動を取ったら、その時はお前が安井を切り捨てろ!』
先程の脅迫メールに負けず劣らず物騒な返信だった。
「あの人、俺を鉄砲玉にする気ですよ」
呆れる霧島さんに、安井課長が声を立てて笑う。
「そんなこと言ってる暇あったら仕事片せって送ってやれ」
「先に煽ったの誰でしたっけ……? まあ、送りますけど」
「ついでに『俺と小坂さんがちょっといい雰囲気』って書いといて」
「嫌ですよ。次に何を指示されるかわかったもんじゃないですし」
霧島さんはどうやらものすごく簡潔なメールを送ったらしい。ものの数秒で送信まで全部終えてしまって、すぐに携帯を置くと、大根サラダをばりばりと食べ始めた。合間にビールを一口飲むと、途端に微妙な顔をする。
「生の大根とビールって相性凄まじいですね。この辛味と苦味のハーモニー」
「奥さんのありがたみがわかったろ、霧島」
「そうですね、本当に……」
安井課長にからかわれて真面目に答えた霧島さんは、私たちに向かって発破をかけてくる。
「ほら、早いとこサラダのノルマクリアしましょう。石田先輩が来たらもうちょっとビールに合うものを注文したいです」
ノルマ扱いなのは笑ったけど、ビールに合うものを食べたいのは私も同じだ。ここは是非とも消費に貢献しよう――と、その前に主任にメールを送ってしまおう。
お二人の前でいつものような文面を考える余裕はなかったので、私も簡潔に用件だけ書いて送った。霧島さんも安井課長も、もちろん私も待ってますから、もし来れたら来てください。お仕事頑張ってください……ここまで打って、ちょっと無難と言うか、寂しい文章のような気もしてきたので、もう一言付け足しておく。
――私たち、気づいたら隆宏さんのお話ばかりしています。
それから一時間ほど経つと、さしものサラダ軍勢も大方片づいてきた。追加注文では各々、サラダよりはビールに合うメニューをオーダーして、お酒も少しずつだけど進んできた。
そうなっても私たちの話題の中心は、ほぼずっと石田主任についてだった。
「大体、何であいつだけいい目見てるんだか。こんなに若くて可愛い部下ができたと思ったらそのまま彼女にまでしてしまうなんて、全くもってけしからん。そして羨ましい!」
アルコールが回ったからなのか、安井課長はそんな言い方をしてくる。私としては反応に困る。
「あの、それほどでもないです……」
「いやそれほどでもあるね。同い年の奴が七つ下の子と付き合ってるってだけで何だか腹が立つ」
「男の嫉妬は醜いですよ、先輩」
霧島さんは念願の冷やし中華を食べながら冷静に応じた。
ふん、と安井課長が鼻を鳴らす。
「嫉妬もするだろ。あいつがどんな善行を積んで可愛い彼女を手に入れたっていうんだ」
「善行っていう考え方が既に間違ってると思います」
「じゃあ何だ、運か。運の問題か」
「まあ、ぶっちゃけて言えばそうでしょうけど」
「お前が結婚できたのも運がよかったからか」
「それはどうですかね。俺の場合は日頃の行いのよさかもしれません」
笑顔の霧島さんを見て、安井課長は面白くなさそうな顔をしていた。
「どうして俺だけ寂しい思いをしてなきゃならないんだ。納得がいかない!」
むくれたようにビールを呷る姿を見て、確かに不思議だなあと私も思う。安井課長も素敵な人だし、口ではあれこれ言いつつも優しい人だし、歌も上手いから社内には憧れてる女子社員もちらほらいるって小耳に挟んだことがある。だからお付き合いしてる人がいないのは意外だった。
「小坂さんも、石田について不満とかない?」
その安井課長が私に水を向けてくる。考えがよそに飛んでいたのもあって、私は慌ててかぶりを振った。
「えっ、ないですよそんなの。主任もとっても優しい方ですし」
「そうは言っても、付き合ってたら不満の一つや二つくらい出てくるものだろ? むしろあいつは優しすぎて駄目になるタイプだしな。何ならここで洗いざらい喋っちゃってもいいんだよ」
優しすぎてよくないことなんてあるのかな。人間、できるだけ他人に優しい方がいいように思うけど、今の言葉には安井課長なりの懸念、あるいは心配みたいなものがそこはかとなく窺えた。
そして石田主任という人は皆にはもちろん、私に対しても本当に優しくて気配り上手な人だ。一緒にいて辛いことなんてないし、幸せなことばかりだった。
だから不満なんてちっともないんだけど、現状に百パーセント満足しているかと言えばそうでもないのかもしれない。だって、こうしてお付き合いを始めて数ヶ月経った今でも『慣れた』という実感はまるでないし、未だに二人でいる時はすごくどきどきするし、緊張もする。一緒にいる時間が長くなればなるほど、浮つきがちだった気持ちも落ち着いていくんじゃないかって思っていたのに、落ち着くどころか心臓の休まる時がないくらいだった。中華牛鞭
2013年12月20日星期五
とまどい
「バドミントンは久し振りです」
しみじみそう言って、温海さんはあたしの使い古したラケットを興味深そうに見つめていた。新しい方を使ってください、と言ったけれど、断られた。
「温海さん、経験あるんですか?」玉露嬌 Virgin Vapour
そうじゃない、とは思っていたけど聞いてみる。するとすぐに微笑が返された。
「いえ、友人と遊びでやっていた程度ですよ。一生懸命やっているひかりさんにお話するのもおこがましいくらいです」
やっぱりバドミントンって言ったら、皆そう言うものって言うんだよね。あたしはいつものように思いつつも、温海さんの昔を懐かしむような表情はじっと見つめておいた。
「楽しい競技ですよね」
「はい、あたしもそう思います」
それには完全同意。温海さんにも、バドミントンにまつわるいい思い出があるなら、それが遊びでやったものだろうと何だろうと、うれしいかなぁ。
風のあまりない日だった。外で打ち合いするにはちょうどいい。
部活に行くまでのあと小一時間、バドミントンしませんか、と温海さんはあたしに言った。
気を遣ってくれたんだろうな、きっと。あたしがあんまりしょげてたから。そう言う気持ちはうれしい。温海さんと一緒にバドミントンができるのもうれしい。
風間さん家の広いお庭で、スコアを気にせずラリーを楽しむことにした。
「サービス権、どうぞ」
あたしはシャトルを温海さんに差し出す。羽がぼろぼろになった古い奴でちょっと恥ずかしかったけど、温海さんはにっこり笑顔で受け取った。
「ありがとう。では、行きますよ」
「はい!」
温海さんの手にしたラケットは、アンダーハンドからシャトルを打った。
ぽうん、と跳ね上がったシャトルは、勢いよくこちらへ落ちて来る。
すかさずオーバーヘッドのストロークで打ち返す。試合の時はラインぎりぎりを狙ってもっと力一杯打つけど、今はそんなことしない。競い合ってる訳じゃないもん。ここにはラインもネットもないし、スコアボードもない。あるのはただ、ライン代わりの垣根と、観客代わりのあの松の木だけ。
ラケットがシャトルを弾くいい音と、軽快なラリーがしばらく続いた。
思っていた以上に温海さんは上手だった。風にシャトルを飛ばされることも何度かあったけど、それ以外はほとんどノーミスでラリーが続いた。
「何だか、風流ですね」
長い腕でラケットを軽々振りながら、温海さんが言う。
「風流?」
思わず聞き返すと、飛んで行ったシャトル越しに温海さんの微笑が見えた。
「お正月に羽根つき。いかにも、と言う感じがしませんか?」
「あ、なるほど」
羽根つき。確かにバドミントンだって羽根つきだ。羽子板でやるよりちょっとはハードかもしれないけど、お正月っぽいスポーツかもしれない。
「墨と筆も用意しとけばよかったですね」
あたしが言うと、温海さんはまた笑った。
「そうしたら真っ黒になるのは僕の方ですね」
「そんなことないです、温海さんもお上手ですよ」
「ありがとうございます、ひかりさんにお褒めいただけるとは光栄です」
温海さんはラリーの合間に言って小首を傾げたけれど、実際本当に上手いと思っていた。もし墨と筆を用意してたら、あたしも大分真っ黒になってたかも。温海さんなら、その辺りは手加減してくれそうだけど。
何か、スポーツやってたのかなぁ。本当に敏捷だ。
そう言う雰囲気には見えなかったから――って言うかどう見ても文化系だと思ってた。最初、ラケットの構え方はぎこちなかったけど、すぐに勘を取り戻したようにシャトルを打って来た。その動作は控えめで、ほんの軽く見えた。その割にショットは力強くて、後半、あたしがついて行くのがやっとだったくらいだ。
ぽんぽんといい音を立ててシャトルをラリーする。
回数をカウントするのを忘れて、延々と続く打ち合いを楽しんでいた。
「やはり、楽しいものですね」lADY Spanish
三十分ほど打ち合いをやってから、あたしたちは休憩を取った。縁側に腰を下ろした温海さんは、額の汗を拭いながら大きく息を吐く。呼吸がほとんど乱れていないなんて、びっくり。
「温海さん、何かスポーツされてるんですか?」
呼吸を整えつつあたしが尋ねると、悪戯っぽい表情で答えが返る。
「ええ、学生は身体が資本ですから」
「本当にそうですよね」
あたしも思わず頷いて、それからふと、明日にはもう始業式なんだってことを改めて思い出す。
もう、ここに――風間さんの家とこの広いお庭に来ることもないんだ。
温海さんと肩を並べて座っていることも、もうないんだ。
一月の寒気に急速に冷えて行く身体、と同時に心の奥底も、きゅうっと痛むように冷え込んだ。
「ひかりさん」
「――は、はいっ」
急に名前呼ばれたから、どきっとした。声も裏返っちゃった。
ちらと見れば斜め上、温海さんの真剣な横顔があった。じっとお庭の松の木を見つめている。そのまま、あたしに言って来た。
「宜しければ、連絡先を教えていただけませんか?」
え。
それは――あたしの、ってこと? ……だよね、どう考えても。でも、何か、そう言うのって、ちょっとどきどきする。別に深い意味なんてないんだろうけど、でも。
「もう少しだけ、探してみたいんです」
「え?」
「タイムカプセルです。見つけられるような気がしているんです」
ほら、深い意味なんてなかった。
なぜかがっかりもしつつ、だけどあたしは温海さんの表情に、確信めいた表情を見つけて。
見つけて貰えるなら、それはやっぱりうれしいけど、でも。
「自信が、あるんですか?」
あたしはそっと尋ね、温海さんはすぐに深く頷く。
「ええ。ですから見つけた時の為に、あなたの連絡先を聞いておきたくて」
温海さんの自信。それって、一体どんなことなんだろう?
ちっともわからないけど、本当に何かを確信しているみたいだ。口元に浮かぶ笑みは控えめなのに、とても力強い。綺麗なこの人がそう言う風に笑うと、すごく頼もしく見える。年上のお兄さん、素敵だなって思う。
本当に温海さんが、あたしのお兄さんだったらよかったのに。そしたら、もう会えなくなるなんて寂しい思いもしないのに――連絡先を教えたら、もしかするとまた、会えるかもしれないけど。
絶対また会いたい。
これでお別れなんて、やっぱり寂しい。
「わかりました」
あたしは縋るような思いで、だけどそれは顔に出さずに、温海さんに家の電話番号を教えた。温海さんはメモに丁寧に書き留めて、それからまた笑った。
「僕にもタイムリミットがありますから、結果がどうあれ、必ずご連絡します。でも、見つけてみせますよ」
離れたくない。
温海さんの笑う顔、ずっと見ていたい。
そう思ったけど、口にすることはできなくて。そう思うことさえ気取られたくなくて。
「じゃあ、あの、あたし部活に――」
弾かれたように立ち上がると、あたしは挨拶もそこそこに風間さん家をおいとました。
背負ったラケットバッグがいやに重くて、足元がふらついた。
久し振りの部活は、事前のウォーミングアップが十分だったにもかかわらず、全く身が入らなかった。
お蔭で散々、顧問の先生や先輩方にどやされた。反省。
こんなこと、今までだって滅多になかったんだけどな。――って言うか初めてのような気がする。何かもやもやっとしていて、上手く集中できなくて、気が付いたらシャトルが足元に落ちてたりとかして。
温海さんと打ち合いやってた時は、もっと集中してたのに。
温海さん。
本当に連絡くれるのかな。VIVID XXL
ぐだぐだのままバドミントン部の練習が終わり、日の暮れた帰り道、ひとり家への道を辿りながらあたしは考えていた。
ぼんやりと、あの人のことを。
温海さん、連絡するって言ってくれたけど、でもそれってやっぱりタイムカプセルのことがあるからなんだよね。見つかるにせよ――温海さんは随分自信たっぷりだったけど、本当に見つかるんだろうか。今のところ手掛かりだってほとんどないのに――見つからないにせよ、それが済んだらもう本当に。
会えなくなる。
相変わらずずしりと重たいラケットバッグが、肩に食い込み微かに痛んだ。
そんなの、嫌だ。離れたくない。
あの人はすごく優しくて、温かで、姿勢がよくて、とても綺麗で、ずっとずっと傍にいたくなる陽だまりのような人。あの人と過ごしたのはほんの三日のことなのに、古い付き合いみたいに感じられて本当に楽しかった。冬休み最後の三日間は、ただタイムカプセル探しをしただけなのに、とても満ち足りていた。いいお正月だった、いい冬休みだったって、たった三日の思い出だけで思う。
離れたくない。
会えなくなるなんて、嫌。
だけど、どうしたら離れずに済むのか、どうしたら明日からもまた会えるのかなんてわからない。あの人はずっとあのお家にいる訳じゃないんだ。大学へは下宿先から通っていると言っていた。あの人に電話番号は教えたけど、あたしはあの人の電話番号も、住所も、通っている大学も、そもそもフルネームさえも知らないままだ。
嫌だ。そんなの――寂しいよ。
ふと気付くと、三日の間ずっと駆け抜けたあの道へと差し掛かっていた。 ゴンの小屋があった庭、磨り減ったマンホール、風見鶏のお家の建っていた辺りを抜けて、あの松の木のある家へ――。
宵闇の中、風間さんのお家にはぼんやり明かりが灯っていた。
風情ある和風建築。低い垣根に囲まれた、あの家。縁側は雨戸が閉められていて、僅かに漏れる隙間明かり以外、中の様子はよくわからない。松の木は相変わらずすっくと立っていて、一方向に張り出した枝を、冬の夜風で揺らしている。
温海さん、いるよね。
まだお邪魔すれば、会えるかな。
こんな時間に行ったら失礼だってわかっているけど――あたし、どうしても。
会いたい。
温海さんに、会いたい。
多分あたし、あの人のことが好きなんだ。
うん、好きなんだ。
それもね、今日とか昨日とか一昨日とかに好きになったんじゃない。
もっとずっとずっと前からあの人のことが好きだった。あたし、どこかで温海さんと会ってる。とっても昔に、絶対会ってる。その時も、その頃もあたしは温海さんが好きで、『好き』って言う気持ちを、ようやく思い出せたんだ。
悔しいことに、いつあの人と会ったのかが思い出せないんだけれど――。
これって、ただのデジャヴなのかな。それとも。
あたしは、風間さん家の玄関前に立っていた。
引き戸の横にある呼び鈴を、躊躇せず鳴らしていた。じぃっと、セミの鳴くような低い音がした。
近付いて来る足音はとても静かだった。
「どちら様でしょう?」
温海さんの声は、とても穏やかだった。
あたしはすうと息を吸い込んで、
「――ひかりです」
と告げる。
一瞬の間があってから、
「えっ、……あ、少しお待ちいただけますか?」
慌てたような声の後、今度はぱたぱた遠ざかる足音が聞こえた。
着替えかな。この時間ならもう、温海さんはパジャマでもおかしくないし。そう思うと少しだけ笑えた。夜狼神
何て言おう。こんな時間の来訪理由。
部活帰りにちょっと通り掛って、立ち寄ってみたんです――って言うのはやっぱり、おかしいかな。でも本当の理由を言うのは、抵抗がある。だって『前にお会いしましたよね』なんて、いつ、どこで会ったかも思い出せてないのに言えるはずがない。温海さんだってあたしのことを憶えていたら、きっと言ってくれるだろうし。
それともどこかで会ってたとしても、憶えててなんてくれないかな。ずっと幼いあたしのことは。
そしてこれから、また会わなくなったら、温海さんには忘れられちゃうのかな……。それでなくても忘れっぽい人なのに。
ラケットバッグの重さが肩に響き、きゅうっと痛んだ時、再び足音が近付いて来て、引き戸が勢いよく開いた。
「お待たせしました」
と言った温海さんは、ちゃんと普通の服を着ていた。
眼鏡越しに瞳を細めて、
「ちょうどよかった。今、連絡差し上げようと思っていたんですよ」
「――え? あ、あたしにですか?」
心臓が大きく跳ね上がる。
温海さんが小さく頷く動作。
「ええ。見つかりましたよ、タイムカプセル」
「……え?」
――あ。
いや、うん、そうだよね。
あたしに連絡するってことはそう言うことでしかないんだ、わかってるけど、でもちょっと期待しちゃったって言うか――だけど、だけど、とりあえずは見つかったの? 本当に、あれが?
「あ、あのっ」
あたしは上手く次の言葉が言えずに、喉を詰まらせた。がっかり気分の後に訪れた驚きは、喜びも一緒に連れて来てくれた。
ずっと探し求めていたあのタイムカプセル。
みっちゃんとあたしの思い出のものが見つかった、って。
もう諦めてたのに。みっちゃんがどうでもいいって言うから、あたしもどうでもいいやって、無理に思おうとしてた。やっぱりちっとも諦められなかった――忘れられなかった。
それを、温海さんは本当に探し出してくれたんだ! 本当に、本当に見つけてくれたんだ! 諦めなくても、忘れなくてもいいよって、教えてくれた!
「約束した手前、見つけない訳には行きませんでしたからね」
胸を張る仕種だけはどうにも似合わない温海さん。でもカッコいい。
思わず三秒ほど見惚れてから、あたしはようやく言った。
「あの、ありがとうございます。でも、その、どこに、どうやって見つけたんですか?」
気になる。膨大な量のアルバムにも松の木の植え替えに関する手掛かりは見つけられなかったし、見つけた写真にも埋めた場所を特定するヒントは見出せなかったのに。
すると。
「それはですね」
なぜかちょっとだけ気まずげな顔で、目を逸らして。
悪戯っぽい笑みを浮かべた温海さんは、引き戸を大きく開いてくれた。
「中でお話しましょう。外は冷えますよ」頂点3000
しみじみそう言って、温海さんはあたしの使い古したラケットを興味深そうに見つめていた。新しい方を使ってください、と言ったけれど、断られた。
「温海さん、経験あるんですか?」玉露嬌 Virgin Vapour
そうじゃない、とは思っていたけど聞いてみる。するとすぐに微笑が返された。
「いえ、友人と遊びでやっていた程度ですよ。一生懸命やっているひかりさんにお話するのもおこがましいくらいです」
やっぱりバドミントンって言ったら、皆そう言うものって言うんだよね。あたしはいつものように思いつつも、温海さんの昔を懐かしむような表情はじっと見つめておいた。
「楽しい競技ですよね」
「はい、あたしもそう思います」
それには完全同意。温海さんにも、バドミントンにまつわるいい思い出があるなら、それが遊びでやったものだろうと何だろうと、うれしいかなぁ。
風のあまりない日だった。外で打ち合いするにはちょうどいい。
部活に行くまでのあと小一時間、バドミントンしませんか、と温海さんはあたしに言った。
気を遣ってくれたんだろうな、きっと。あたしがあんまりしょげてたから。そう言う気持ちはうれしい。温海さんと一緒にバドミントンができるのもうれしい。
風間さん家の広いお庭で、スコアを気にせずラリーを楽しむことにした。
「サービス権、どうぞ」
あたしはシャトルを温海さんに差し出す。羽がぼろぼろになった古い奴でちょっと恥ずかしかったけど、温海さんはにっこり笑顔で受け取った。
「ありがとう。では、行きますよ」
「はい!」
温海さんの手にしたラケットは、アンダーハンドからシャトルを打った。
ぽうん、と跳ね上がったシャトルは、勢いよくこちらへ落ちて来る。
すかさずオーバーヘッドのストロークで打ち返す。試合の時はラインぎりぎりを狙ってもっと力一杯打つけど、今はそんなことしない。競い合ってる訳じゃないもん。ここにはラインもネットもないし、スコアボードもない。あるのはただ、ライン代わりの垣根と、観客代わりのあの松の木だけ。
ラケットがシャトルを弾くいい音と、軽快なラリーがしばらく続いた。
思っていた以上に温海さんは上手だった。風にシャトルを飛ばされることも何度かあったけど、それ以外はほとんどノーミスでラリーが続いた。
「何だか、風流ですね」
長い腕でラケットを軽々振りながら、温海さんが言う。
「風流?」
思わず聞き返すと、飛んで行ったシャトル越しに温海さんの微笑が見えた。
「お正月に羽根つき。いかにも、と言う感じがしませんか?」
「あ、なるほど」
羽根つき。確かにバドミントンだって羽根つきだ。羽子板でやるよりちょっとはハードかもしれないけど、お正月っぽいスポーツかもしれない。
「墨と筆も用意しとけばよかったですね」
あたしが言うと、温海さんはまた笑った。
「そうしたら真っ黒になるのは僕の方ですね」
「そんなことないです、温海さんもお上手ですよ」
「ありがとうございます、ひかりさんにお褒めいただけるとは光栄です」
温海さんはラリーの合間に言って小首を傾げたけれど、実際本当に上手いと思っていた。もし墨と筆を用意してたら、あたしも大分真っ黒になってたかも。温海さんなら、その辺りは手加減してくれそうだけど。
何か、スポーツやってたのかなぁ。本当に敏捷だ。
そう言う雰囲気には見えなかったから――って言うかどう見ても文化系だと思ってた。最初、ラケットの構え方はぎこちなかったけど、すぐに勘を取り戻したようにシャトルを打って来た。その動作は控えめで、ほんの軽く見えた。その割にショットは力強くて、後半、あたしがついて行くのがやっとだったくらいだ。
ぽんぽんといい音を立ててシャトルをラリーする。
回数をカウントするのを忘れて、延々と続く打ち合いを楽しんでいた。
「やはり、楽しいものですね」lADY Spanish
三十分ほど打ち合いをやってから、あたしたちは休憩を取った。縁側に腰を下ろした温海さんは、額の汗を拭いながら大きく息を吐く。呼吸がほとんど乱れていないなんて、びっくり。
「温海さん、何かスポーツされてるんですか?」
呼吸を整えつつあたしが尋ねると、悪戯っぽい表情で答えが返る。
「ええ、学生は身体が資本ですから」
「本当にそうですよね」
あたしも思わず頷いて、それからふと、明日にはもう始業式なんだってことを改めて思い出す。
もう、ここに――風間さんの家とこの広いお庭に来ることもないんだ。
温海さんと肩を並べて座っていることも、もうないんだ。
一月の寒気に急速に冷えて行く身体、と同時に心の奥底も、きゅうっと痛むように冷え込んだ。
「ひかりさん」
「――は、はいっ」
急に名前呼ばれたから、どきっとした。声も裏返っちゃった。
ちらと見れば斜め上、温海さんの真剣な横顔があった。じっとお庭の松の木を見つめている。そのまま、あたしに言って来た。
「宜しければ、連絡先を教えていただけませんか?」
え。
それは――あたしの、ってこと? ……だよね、どう考えても。でも、何か、そう言うのって、ちょっとどきどきする。別に深い意味なんてないんだろうけど、でも。
「もう少しだけ、探してみたいんです」
「え?」
「タイムカプセルです。見つけられるような気がしているんです」
ほら、深い意味なんてなかった。
なぜかがっかりもしつつ、だけどあたしは温海さんの表情に、確信めいた表情を見つけて。
見つけて貰えるなら、それはやっぱりうれしいけど、でも。
「自信が、あるんですか?」
あたしはそっと尋ね、温海さんはすぐに深く頷く。
「ええ。ですから見つけた時の為に、あなたの連絡先を聞いておきたくて」
温海さんの自信。それって、一体どんなことなんだろう?
ちっともわからないけど、本当に何かを確信しているみたいだ。口元に浮かぶ笑みは控えめなのに、とても力強い。綺麗なこの人がそう言う風に笑うと、すごく頼もしく見える。年上のお兄さん、素敵だなって思う。
本当に温海さんが、あたしのお兄さんだったらよかったのに。そしたら、もう会えなくなるなんて寂しい思いもしないのに――連絡先を教えたら、もしかするとまた、会えるかもしれないけど。
絶対また会いたい。
これでお別れなんて、やっぱり寂しい。
「わかりました」
あたしは縋るような思いで、だけどそれは顔に出さずに、温海さんに家の電話番号を教えた。温海さんはメモに丁寧に書き留めて、それからまた笑った。
「僕にもタイムリミットがありますから、結果がどうあれ、必ずご連絡します。でも、見つけてみせますよ」
離れたくない。
温海さんの笑う顔、ずっと見ていたい。
そう思ったけど、口にすることはできなくて。そう思うことさえ気取られたくなくて。
「じゃあ、あの、あたし部活に――」
弾かれたように立ち上がると、あたしは挨拶もそこそこに風間さん家をおいとました。
背負ったラケットバッグがいやに重くて、足元がふらついた。
久し振りの部活は、事前のウォーミングアップが十分だったにもかかわらず、全く身が入らなかった。
お蔭で散々、顧問の先生や先輩方にどやされた。反省。
こんなこと、今までだって滅多になかったんだけどな。――って言うか初めてのような気がする。何かもやもやっとしていて、上手く集中できなくて、気が付いたらシャトルが足元に落ちてたりとかして。
温海さんと打ち合いやってた時は、もっと集中してたのに。
温海さん。
本当に連絡くれるのかな。VIVID XXL
ぐだぐだのままバドミントン部の練習が終わり、日の暮れた帰り道、ひとり家への道を辿りながらあたしは考えていた。
ぼんやりと、あの人のことを。
温海さん、連絡するって言ってくれたけど、でもそれってやっぱりタイムカプセルのことがあるからなんだよね。見つかるにせよ――温海さんは随分自信たっぷりだったけど、本当に見つかるんだろうか。今のところ手掛かりだってほとんどないのに――見つからないにせよ、それが済んだらもう本当に。
会えなくなる。
相変わらずずしりと重たいラケットバッグが、肩に食い込み微かに痛んだ。
そんなの、嫌だ。離れたくない。
あの人はすごく優しくて、温かで、姿勢がよくて、とても綺麗で、ずっとずっと傍にいたくなる陽だまりのような人。あの人と過ごしたのはほんの三日のことなのに、古い付き合いみたいに感じられて本当に楽しかった。冬休み最後の三日間は、ただタイムカプセル探しをしただけなのに、とても満ち足りていた。いいお正月だった、いい冬休みだったって、たった三日の思い出だけで思う。
離れたくない。
会えなくなるなんて、嫌。
だけど、どうしたら離れずに済むのか、どうしたら明日からもまた会えるのかなんてわからない。あの人はずっとあのお家にいる訳じゃないんだ。大学へは下宿先から通っていると言っていた。あの人に電話番号は教えたけど、あたしはあの人の電話番号も、住所も、通っている大学も、そもそもフルネームさえも知らないままだ。
嫌だ。そんなの――寂しいよ。
ふと気付くと、三日の間ずっと駆け抜けたあの道へと差し掛かっていた。 ゴンの小屋があった庭、磨り減ったマンホール、風見鶏のお家の建っていた辺りを抜けて、あの松の木のある家へ――。
宵闇の中、風間さんのお家にはぼんやり明かりが灯っていた。
風情ある和風建築。低い垣根に囲まれた、あの家。縁側は雨戸が閉められていて、僅かに漏れる隙間明かり以外、中の様子はよくわからない。松の木は相変わらずすっくと立っていて、一方向に張り出した枝を、冬の夜風で揺らしている。
温海さん、いるよね。
まだお邪魔すれば、会えるかな。
こんな時間に行ったら失礼だってわかっているけど――あたし、どうしても。
会いたい。
温海さんに、会いたい。
多分あたし、あの人のことが好きなんだ。
うん、好きなんだ。
それもね、今日とか昨日とか一昨日とかに好きになったんじゃない。
もっとずっとずっと前からあの人のことが好きだった。あたし、どこかで温海さんと会ってる。とっても昔に、絶対会ってる。その時も、その頃もあたしは温海さんが好きで、『好き』って言う気持ちを、ようやく思い出せたんだ。
悔しいことに、いつあの人と会ったのかが思い出せないんだけれど――。
これって、ただのデジャヴなのかな。それとも。
あたしは、風間さん家の玄関前に立っていた。
引き戸の横にある呼び鈴を、躊躇せず鳴らしていた。じぃっと、セミの鳴くような低い音がした。
近付いて来る足音はとても静かだった。
「どちら様でしょう?」
温海さんの声は、とても穏やかだった。
あたしはすうと息を吸い込んで、
「――ひかりです」
と告げる。
一瞬の間があってから、
「えっ、……あ、少しお待ちいただけますか?」
慌てたような声の後、今度はぱたぱた遠ざかる足音が聞こえた。
着替えかな。この時間ならもう、温海さんはパジャマでもおかしくないし。そう思うと少しだけ笑えた。夜狼神
何て言おう。こんな時間の来訪理由。
部活帰りにちょっと通り掛って、立ち寄ってみたんです――って言うのはやっぱり、おかしいかな。でも本当の理由を言うのは、抵抗がある。だって『前にお会いしましたよね』なんて、いつ、どこで会ったかも思い出せてないのに言えるはずがない。温海さんだってあたしのことを憶えていたら、きっと言ってくれるだろうし。
それともどこかで会ってたとしても、憶えててなんてくれないかな。ずっと幼いあたしのことは。
そしてこれから、また会わなくなったら、温海さんには忘れられちゃうのかな……。それでなくても忘れっぽい人なのに。
ラケットバッグの重さが肩に響き、きゅうっと痛んだ時、再び足音が近付いて来て、引き戸が勢いよく開いた。
「お待たせしました」
と言った温海さんは、ちゃんと普通の服を着ていた。
眼鏡越しに瞳を細めて、
「ちょうどよかった。今、連絡差し上げようと思っていたんですよ」
「――え? あ、あたしにですか?」
心臓が大きく跳ね上がる。
温海さんが小さく頷く動作。
「ええ。見つかりましたよ、タイムカプセル」
「……え?」
――あ。
いや、うん、そうだよね。
あたしに連絡するってことはそう言うことでしかないんだ、わかってるけど、でもちょっと期待しちゃったって言うか――だけど、だけど、とりあえずは見つかったの? 本当に、あれが?
「あ、あのっ」
あたしは上手く次の言葉が言えずに、喉を詰まらせた。がっかり気分の後に訪れた驚きは、喜びも一緒に連れて来てくれた。
ずっと探し求めていたあのタイムカプセル。
みっちゃんとあたしの思い出のものが見つかった、って。
もう諦めてたのに。みっちゃんがどうでもいいって言うから、あたしもどうでもいいやって、無理に思おうとしてた。やっぱりちっとも諦められなかった――忘れられなかった。
それを、温海さんは本当に探し出してくれたんだ! 本当に、本当に見つけてくれたんだ! 諦めなくても、忘れなくてもいいよって、教えてくれた!
「約束した手前、見つけない訳には行きませんでしたからね」
胸を張る仕種だけはどうにも似合わない温海さん。でもカッコいい。
思わず三秒ほど見惚れてから、あたしはようやく言った。
「あの、ありがとうございます。でも、その、どこに、どうやって見つけたんですか?」
気になる。膨大な量のアルバムにも松の木の植え替えに関する手掛かりは見つけられなかったし、見つけた写真にも埋めた場所を特定するヒントは見出せなかったのに。
すると。
「それはですね」
なぜかちょっとだけ気まずげな顔で、目を逸らして。
悪戯っぽい笑みを浮かべた温海さんは、引き戸を大きく開いてくれた。
「中でお話しましょう。外は冷えますよ」頂点3000
2013年12月13日星期五
時刻
二月二十四日、午後一時。
一般入試の合格者発表が大学のサイト上で行われた。
当該ページでも事前に説明があったけど、発表時刻の前後はアクセスが集中したのか繋がりにくく、私は自宅のパソコン前でやきもきしながら表示されるのを待った。早く見たい、でも見るのは怖い、相反する気持ちを結局消化しきれないまま待つこと数分。やがて当たりを引き当てたようだ。ディスプレイにじわじわ広がるように、合格者番号が連なるページが表示される。新一粒神
私はその番号をゆっくりと確かめた。
手元に置いた受験票と照らし合わせて、二度、三度と確かめた。
深呼吸を一つ。
それから、携帯電話に手を伸ばして先輩に電話をかける。
鳴海先輩も待っていてくれたのだろうか、コール音が二回鳴るか鳴らないうちに電話は繋がり、先輩の声が耳元から聞こえた。
『雛子か、どうした?』
心なしか、先輩の声もいつもと違っていた。今日ばかりは淡々としていない、どこか急くような声をしていた。
とは言え私の方こそまともに話せる状態ではなかった。ずっとパソコンにかじりついていたくせに、マラソンを終えた後みたいな絶え絶えの呼吸で告げた。
「今から飛んでいきます、先輩!」
『……わかった。気をつけて来るように』
詳しくは話さなかったのに、随分と明るく言ってもらった。
私は慌しく支度を済ませてすぐに家を出た。
駅に着き、改札を抜けてホームまで上がると、屋根のひさし越しに一面真っ青な空が見えた。雲一つない晴天に眩しい太陽が輝いていて、日差しの暖かさに冬の終わりを予感する。それでも放射冷却のせいか風はまだ冷たく、私は首を竦めながら電車が来るのを待っていた。待つ間、両親や兄や友人たちに報告メールを送った。
マフラーを巻いてくるのを忘れたことに気づいたのは、電車に乗り込んでからだった。
どうやら私はすっかり気もそぞろのようだ。いつもなら鞄にお気に入りの文庫本でも入れておくのに、今日に限って長い車中をやり過ごす道具が何もない。もっとも、本を開いたところでかけらも頭に入ってこないだろうけど。
それでいて電車は遅い。いつもの十倍は遅い。普段、通学する時だって読書をするには半端な時間しかかからないはずなのに。先輩と会った日の帰り、二人で一緒に電車に乗る時はそれこそあっという間に着いてしまうのに。
私は車窓の景色をじれったい思いで眺め、ガラスにうっすらと映る自分の顔がそれでも緩みきっているのを発見して、慌てて引き締める。
早く、先輩に会いたかった。
電車を降り、駅を出てからの記憶は抜け落ちたように曖昧だった。
通い慣れた道を無意識のうちに辿り、先輩の暮らすアパートに到着する。相変わらずひっそりと静かな佇まいを見つけた瞬間、足が自然と駆け出していた。
重たいドアの前に立ち、また深呼吸を一つする。それから前髪の乱れを直し、唇の乾燥に今頃気づいて内心焦り、でももう着いてしまったのだからとインターホンに手を伸ばす。
ところが、私がチャイムを鳴らすよりも早く、玄関のドアノブが音を立てて回った。
ドアが軋みながら開く。ノブを握る先輩の手とそこから連なる腕が見える。すぐに先輩の姿も見えた。差し込む眩しい日差しのせいか、目を眇めてこちらを窺っていた。口元は固く引き結ばれていて、私の最初の言葉を待っているようだった。
私は、開いたドアの向こうに飛び込んだ。
もう言葉もなかった。いろんな感情が胸の中でぐるぐると渦巻き、整理のつかないうちに込み上げてくる。言いたいことはたくさんあるはずなのにどれ一つとしてまともな形にはならず、私は何も言えないまま、目の前の先輩に勢いよく抱きついた。
痩せた体躯の先輩は、意外にも私をしっかりと受け止めた。もしかしたら私の行動すらお見通しだったのかもしれない。さすがに私と重いドアの両方を支えることはできなかったようで、突っ張っていた片腕がふっと緩み、背後でドアが軋みながら閉まると、小さな玄関から日の光が逃げていく。辺りは一転して暗闇に閉ざされる。私は先輩の背中に腕を回し、より強く縋りつく。
頭上では微かな溜息が聞こえ、やがて先輩も私を抱き締め返してくれた。
お互いに一言も発さなければ、ここは本当に静かだった。時折、思い出したように傍の道路を車が走り抜けていく他は物音一つ聞こえない。代わりに私の耳には先輩の心臓の音が聞こえてくる。規則正しく鳴り響き続けるその音が、まるでメトロノームみたいに私の呼吸も整えていく。
思い切って顔を上げたら、少し曇ったレンズの向こうに先輩の顔を見つけた。目を逸らさずに真っ直ぐ私を見下ろしている。表情はわずかに硬く、まだ確信を得ていないように映った。まだ、私の言葉を待っているのだろう。
「先輩……」
ようやく発した私の声は、自分でもおかしいくらい涙交じりだった。
でも、感情が昂っているのだろう。涙腺が呆気ないほど脆くて、簡単に泣けてしまった。もう眼鏡の曇りが引いたところで関係なく、視界が滲んでぼやけていく。
「どうして泣くんだ」
先輩の声がする。
「どうしてって、そんなの……」
決まっている。
一人の時は嬉しさや、幸せな気持ちくらいでは泣けないのに、先輩の前では不思議と涙が零れた。自分がこんなに涙脆い人間だとは思っていなかった。でも好きな人に対して素直でいられるのは幸いなことだとも思うし、それを受け止めてもらえるのも、本当に、素晴らしいことだ。蔵八宝
「雛子」
先輩は宥めるように私を呼んだ。
そして、溜息と同時に言った。
「気持ちはわかるが、早く、はっきり言ってくれないか」
その口調がいかにも痺れを切らした様子で、それでいてとても優しかったから、私は泣きながら笑った。
もちろんすぐに打ち明けた。
「受かってました」
涙が止まらない。
でも、嬉しい。すごく嬉しい。今までの努力が認められたこと、皆に胸を張って報告ができること、長い受験生活に終わりを告げられること、春から大学生になれること。
鳴海先輩と、また同じ学校に通えること。
「合格してたんです、私。よかった、本当によかった……!」
先輩を追い駆けていこうにも、その実力がなくて門前払いではどうしようもない。でもそんな心配ももうなかった。
「おめでとう」
先輩が私の髪や背中を撫でる。泣き止ませようとする仕種にも思えた。
「よかったな。お前の頑張りが報われた結果だ」
微かに笑いを含んだ声で言われて、私はますます泣けてきた。今日みたいな日は思いきり泣いてもいいと思う。でも、ずっと泣いてばかりというのももったいない気がする。せっかくいい知らせを持ってここへ来たのに。
せっかく、先輩と会えたのに。
「とりあえず、靴を脱いで上がったらどうだ」
鳴海先輩にもそう言われた。そして抱きつく私の身体をそっと引き離そうとしたけど、私はまだ離れたくない気分だった。しつこくしがみついていたら、先輩は困惑したようだ。
「ずっとこのままというわけにもいかない。ほら、一旦離れろ」
促されたので仕方なく、私は先輩から身を引いた。ようやく収まってきた涙を手の甲で拭うと、先輩がわざわざタオルを持ってきてくれた。
「まず顔を拭け。こんな日に泣く必要はないだろう」
私はありがたくタオルを借りて、眼鏡を外し、散々泣いてしまった後の目元を拭いた。そうして視界がクリアになると、玄関に立ち尽くしたままで泣いているのが今更のように恥ずかしくなってきた。かけ直した眼鏡のレンズを通して、呆れたように笑んでいる先輩の顔も見えた。
「すみません」
私が恥じ入りながら詫びると、先輩は一度顎を引いた。それからこちらへと手を差し伸べる。
「こっちへ来い、雛子。部屋の中の方が暖かい」
「……はい、先輩」
差し出された手を借りて、私は玄関でブーツを脱いだ。その後、屈んで靴の向きを揃える間、先輩は腕を伸ばして玄関に鍵をかけていた。
何となく見上げてみたら、先輩もちょうど私を見ていた。ただ目が合うと、早口気味に確かめてきた。
「今日は早く帰るのか?」
「いえ、夕方くらいまでは大丈夫です」
両親が帰ってくるのもそのくらいだ。それまでに戻ればいいだろう。きっとお祝いのパーティをしようと言い出すだろうから、それはそれで楽しみだ。
だけど今は、先輩といたかった。
「それなら少し、ゆっくりしていくといい」
安堵の表情を浮かべた先輩も、そう言ってくれた。
泣き止んだ私は、それでも冷静とは言いがたい心境にあった。
むしろ涙の嵐が過ぎ去った後は春のような浮かれ気分が訪れて、もうじき始まる大学生活への期待も膨らんでいくばかりだった。
「私、大学に入ったらやりたいことがたくさんあるんです」
二人でストーブの前に並んで座り、入れてもらった紅茶を飲みながら、私は先輩にあれこれと話した。先輩の部屋は今日も暖かくて静かで穏やかで、窓の外から柔らかく日が差し込んでいるのもあって、とても居心地がよかった。
「まず、先輩と一緒に登校したいです」
そう切り出すと先輩は眉を顰め、
「やりたいことと言うから何かと思えば……。勉強に関する内容じゃないのか」
「も、もちろん勉強だってしますけど!」
私は慌てて弁解しつつ、これは譲れないとばかりに語る。
「でも高校時代は一度もできなかったことですから。時間の合う時だけでいいので、先輩と待ち合わせて一緒に登校したいんです。駄目ですか?」
大学の登校時間は高校と違い、取っている授業によって違うと言うし、実際にそんなことができる機会はそう多くないのかもしれない。大学でもやはり、鳴海先輩は私より早く卒業してしまうだろうし、どれほど一緒にいられるかはわからない。
それでも密かに憧れだった。
「時間が合えばな」
先輩が前向きな返答をくれたので、私は更に踏み込んでみる。
「是非検討してください。それと帰りも、時間が合ったら一緒に帰りましょう」
「それは俺の高校時代にだってやっていたはずだ」
「あんなのカウントに入りません」
私は口を尖らせて、先輩の反論を封じた。鳴海先輩は不可解だという顔をする。
「あんなの、という言い方はないだろう」VIVID
「だって当時の先輩は随分と早足で、私と並んで歩いてくれませんでした」
まだ先輩が東高校の文芸部にいた頃、何度か一緒に帰ったことはあった。当時の私たちのディスコミュニケーションぶりといったら私自身が関係のありようを見失うほどで、それからしばらくの間、男女交際とは何か、恋愛とは何かと悩まされる羽目になった。もっとも、悩んでいたのは鳴海先輩も同様のようなので、過去を責めたり悔いたりするつもりはない。
大切なのは今、そしてこれから先の未来についてだ。
「だから大学に入ったら、先輩と、昔はできなかったいろんなことをしたいんです。一緒に登下校したり、一緒にお昼ご飯を食べたり、一緒のサークルに入って楽しく過ごしたり――そういう楽しいこと、全部です!」
叶わなかった夢はこれから叶えればいい。
私たちは再びその機会を得た。少し遅くなってしまったけど、ささやかでありふれた青春風景を過ごすのに、遅すぎるということはないだろう。
「お前は何をしに大学へ来るんだ」
鳴海先輩は心底呆れたという様子で私に言った。私の頬に軽く触れ、さっきまであったはずの涙の後を辿るように撫でながら。
「大体、はしゃぎすぎだ。さっきまで泣いていたくせに」
「泣くくらい嬉しかったんですから、はしゃぐのも当然でしょう?」
恥ずかしい指摘に私が反論すると、先輩は微かに笑い声を立てる。
「浮かれるのはいいが、入試だけで燃え尽きたなどと言うなよ」
「もちろんです。私の本分はやはり勉強ですから!」
あくまでも私は言い張る。
そう、これは偶然と言うか運命と言うか、とにかく幸運なことに私の志望校に鳴海先輩がいたというだけの話だ。私だってなんの考えもなく先輩のいる大学を受験したわけではなく、志望学科や学費、学内の環境、及び実家からの通学というあらゆる観点を考慮した上で決めた。
――という詭弁も、そろそろ不要かもしれない。誰がどう見たって私が鳴海先輩を追い駆けていくように見えるだろうし、それは紛れもない事実だった。ただ私はその事実をちゃんと叶えるだけの努力ができたというだけの話だ。そして鳴海先輩がいる以上、また同じ学校へと通う以上は、入学した途端に気が緩んで堕落するような怠惰な大学生活を送ることなどできはしない。
私の主張を先輩はどう聞いたのだろう。しばらくの間、眼光鋭く睨まれていた。だけどやがて緊張を解くように、軽く息をついてみせる。
「まあ、こんな日に説教というのも無粋だな」
そう言ってから先輩は目元だけ微笑ませるように細めた。
「正直に言えば、俺も嬉しい。単純にお前と会う機会が増えるからな」
「先輩だって、私と同じようなこと言うんですね」
「お互い好きで一緒にいるんだ、考える内容も似通って当然じゃないか」
私の言葉は咎める割に、先輩はためらいもなくそんなことを口走る。
思わず私が息を止めると、目を細めたままの先輩はしばらく私の顔を見た。自分で言うのも何だけど、とても大切な、いとおしいものを見るような眼差しだった。いや、私がそう思いたいだけかもしれなくて、先輩にはもっと別の意図があるのかもしれないけど、とにかくそう見えたような気がした途端、心拍数が一気に上がってしまった。
どちらにしても鳴海先輩は、本当に嬉しそうだった。
「……な、何ですか」
どもり気味に尋ねたら、先輩は一度目を瞠ってから、何気ない口調で答える。
「いや。考えていただけだ、お前のいる大学生活がどんなものかを」
そう言われると気になる。先輩の想像の中で、私はどんな大学生になっているのだろう。
「私、ちゃんと勉強してましたか?」
「どうだろうな。そういう想像はしなかった」
「じゃあ一体どんな想像をしたんですか」
「いちいち言うまでの話でもない。そのうち全部、現実になるだろうからな」
何て思わせぶりな言葉だろう。
だけどそれが先輩の望む大学生活だというなら、私は是非叶えたいと思う。
お互いに理想的で、幸せで、ささやかだけど満ち足りた日々を送れたらいい。高校時代には得られなかったありふれた青春風景を、遅まきながらも二人で手に入れられたらいい。
「先輩にも喜んでもらえて嬉しいです」
私もしみじみと呟く。
「受験中も大変お世話にもなりましたし……今度じっくり、お礼をさせてください」
「大したことはしていない」
先輩はきっぱり言ってから、軽く肩を竦めた。
「だが更に正直に言うなら、俺はお前が受験生ではなくなったのも嬉しい」
「あ、それは私もです」
ちょうど飲んでいたティーカップが空になり、私はそれを傍の座卓に置いた。それから両腕を高く上げて伸びをしてみる。今日の開放感はひとしおだった。
「もう、受験生活が長くて長くて。飽きが来ていたところだったんです」
受験生として過ごした期間は窮屈で息苦しかった。両親を始め、周囲の人たちにはいろんな点で気を遣わせてしまったし、私自身も気を引き締めてばかりの日々を送り続けてくたびれていた。そろそろ少しくらい羽を伸ばしても罰は当たらないだろう。
「そうだな。長かった」
先輩も万感込めて頷いていた。きっと鳴海先輩にも思うところがあるのだろうと、私は申し訳ない気持ちになる。
「先輩にもご迷惑をおかけしました」
「迷惑でもない。あまり気にするな」
「でも、私に会えなくて寂しかったですよね」
「ああ」
半ば冗談のつもりで言ったことにも素直に頷かれ、私が墓穴を掘った気分でいると、先輩はその虚を突くように私の唇に自らの唇で触れた。
柔らかい。少し温い。でも今日も味はわからなくて、顔が離れた時、唇の端に吐息がかかったのがくすぐったかった。
唐突な行動に出た先輩を、私は多分、目を丸くして見つめていることだろう。
先輩は私の顔を見て、さもありなんという表情を取った。強力催眠謎幻水
「雛子」
そして先輩は固まる私の名前を呼び、一度溜息をつく。ためらったのか、呆れているのか、緊張しているのかはわからない。住まいを正してから、にこりともせずに続けた。
「こんな日にこういうことを言うのも、それこそ無粋かもしれない」
改まったような物言いに、私も背筋を伸ばしたくなった。
一体、何の話だろう。
「だがお前に、どうしても頼みたいことがある」
「頼み、ですか? 私にできることなら……」
何だか重そうな話だ。私は思わず身構えたけど、先輩はそれを制するように口を開いた。
「そう構えないでくれ。お前にはきちんと断る権利がある」
その後、熱っぽい口調で告げられた。
「お前が、欲しい」
慎重に、問いかけるように、重々しく告げられた。
はっきり言って、予想もしていなかった頼みだった。たちまち私の体温が急上昇して、心臓がばくばくとうるさい音を立て始める。それ自体は先日、バレンタインデーにも聞いていた。額面以上の意味がありそうな、そもそも額面からしてどうとでも解釈できるような言葉だった。
それなら今日のは、一体どういう意味だろう。
「先輩……えっと、それって」
「その、お前が嫌じゃなければだ」
蒸発しそうな勢いで発熱する私に気づいてか、先輩も真っ赤になって慌てふためく。
「こんなことを無理強いするつもりはないし、それでお前に愛想を尽かされるくらいならもう言わない。こんなことをしなくてもお前の気持ちは確かめるまでもなくわかっている。拒まれたからと言ってそれを疑う気だってない」
まくし立てるような弁解を、私はどんな態度で聞いていればいいのだろう。
鳴海先輩はこれでも、至って、驚くほど真剣なのだから。
「俺も、お前が好きだ」
真面目な顔つきで言った後、先輩は私を真っ直ぐに見る。
「だが好きだという気持ちから、そういうものを切り離すことができなかった」
少し、苦しげな告白に聞こえた。
「これは、以前も話したな。俺はいっそお前を精神的にだけ愛せたらと思っていたが、俺のような未熟な人間には到底不可能だった」
前に、聞いていた。
先輩が、その身体すら不要だと思い詰めていた時のことだ。
私は先輩にそこまで思い詰めて欲しくなかった。寂しい思いもして欲しくなかった。だからあの日、あの時は――。
「むしろ不可能だとわかったあの日から、そういった衝動はより一層エスカレートしたように思う。あれからお前と会う度に、いつも淡い期待を抱いていた。お前をいとおしいとと思うのと同時に、お前に触れたいという気持ちも燻り続けていた」
そして薄い唇を噛み締めるようにして一瞬黙った後、更に言った。
「お前が受験生のうちはもう黙っていようと思っていた。だからと言って今日、こうして切り出すのも現金と言うか、厚かましいことこの上ないだろうが……やはりお前といると考えてしまう。今日のお前は特別可愛いから、余計にな」
先輩はとんでもないことをさらりと言った。ただし口調の割に表情は追い詰められた人のように硬く、余裕もなく、やはり真面目だった。正座の姿勢から少しだけ身を乗り出し、隣に座る私の両手をぎゅっと握った。痛くもない程度の力ではあったけど、私は、答えるまでは逃げられないような予感を抱いた。
「限界が来る前に、お前の気持ちを尋ねておこうと思う。聞かせてくれ」
「な……」
当然のことながら、私は答えに詰まった。
嫌だとか嫌ではないとかいうそれ以前の問題で、こんなに答えにくい問いなんてあるだろうか。何だかとてつもない事柄の決断を委ねられたような気がしてならない。
「そういうこと、そもそも、どうして聞くんですか」
急な体温上昇のせいか、私の声はからからに干からびていた。それでも問い返さずにはいられない。そうでなければ先輩の言葉にも答えられない。
なのに先輩はその疑問が不思議だという様子で目を見開く。
「お前が言ったんだろう。『次そう思った時は、私に聞いてみてください』と」
――そうだった。言っていた。
なぜそんなことを言ったのか。もちろん、私も先輩のことが好きだからだ。
そういうことで先輩には思い詰めたり悩んだり、自分自身が私にとって有害だなどと思って欲しくなかったからだ。
私にとって鳴海先輩は、三年の高校生活の間ずっと追い駆け続けた相手であり、憧れであり、理想であり、可愛い人でも大好きな人でもある。
そしてこれからまた、大学まで追い駆けていこうとしている人に対して、心にもない答えは告げたくなかった。
ただ、何と答えるか、その具体的な文脈には少し悩んだ。印度神油
次からはもういっそ聞かないでください、とも言いたいところだけど、そうすると鳴海先輩は、それはそれで素直に実行しそうな予感がするので困る。
一般入試の合格者発表が大学のサイト上で行われた。
当該ページでも事前に説明があったけど、発表時刻の前後はアクセスが集中したのか繋がりにくく、私は自宅のパソコン前でやきもきしながら表示されるのを待った。早く見たい、でも見るのは怖い、相反する気持ちを結局消化しきれないまま待つこと数分。やがて当たりを引き当てたようだ。ディスプレイにじわじわ広がるように、合格者番号が連なるページが表示される。新一粒神
私はその番号をゆっくりと確かめた。
手元に置いた受験票と照らし合わせて、二度、三度と確かめた。
深呼吸を一つ。
それから、携帯電話に手を伸ばして先輩に電話をかける。
鳴海先輩も待っていてくれたのだろうか、コール音が二回鳴るか鳴らないうちに電話は繋がり、先輩の声が耳元から聞こえた。
『雛子か、どうした?』
心なしか、先輩の声もいつもと違っていた。今日ばかりは淡々としていない、どこか急くような声をしていた。
とは言え私の方こそまともに話せる状態ではなかった。ずっとパソコンにかじりついていたくせに、マラソンを終えた後みたいな絶え絶えの呼吸で告げた。
「今から飛んでいきます、先輩!」
『……わかった。気をつけて来るように』
詳しくは話さなかったのに、随分と明るく言ってもらった。
私は慌しく支度を済ませてすぐに家を出た。
駅に着き、改札を抜けてホームまで上がると、屋根のひさし越しに一面真っ青な空が見えた。雲一つない晴天に眩しい太陽が輝いていて、日差しの暖かさに冬の終わりを予感する。それでも放射冷却のせいか風はまだ冷たく、私は首を竦めながら電車が来るのを待っていた。待つ間、両親や兄や友人たちに報告メールを送った。
マフラーを巻いてくるのを忘れたことに気づいたのは、電車に乗り込んでからだった。
どうやら私はすっかり気もそぞろのようだ。いつもなら鞄にお気に入りの文庫本でも入れておくのに、今日に限って長い車中をやり過ごす道具が何もない。もっとも、本を開いたところでかけらも頭に入ってこないだろうけど。
それでいて電車は遅い。いつもの十倍は遅い。普段、通学する時だって読書をするには半端な時間しかかからないはずなのに。先輩と会った日の帰り、二人で一緒に電車に乗る時はそれこそあっという間に着いてしまうのに。
私は車窓の景色をじれったい思いで眺め、ガラスにうっすらと映る自分の顔がそれでも緩みきっているのを発見して、慌てて引き締める。
早く、先輩に会いたかった。
電車を降り、駅を出てからの記憶は抜け落ちたように曖昧だった。
通い慣れた道を無意識のうちに辿り、先輩の暮らすアパートに到着する。相変わらずひっそりと静かな佇まいを見つけた瞬間、足が自然と駆け出していた。
重たいドアの前に立ち、また深呼吸を一つする。それから前髪の乱れを直し、唇の乾燥に今頃気づいて内心焦り、でももう着いてしまったのだからとインターホンに手を伸ばす。
ところが、私がチャイムを鳴らすよりも早く、玄関のドアノブが音を立てて回った。
ドアが軋みながら開く。ノブを握る先輩の手とそこから連なる腕が見える。すぐに先輩の姿も見えた。差し込む眩しい日差しのせいか、目を眇めてこちらを窺っていた。口元は固く引き結ばれていて、私の最初の言葉を待っているようだった。
私は、開いたドアの向こうに飛び込んだ。
もう言葉もなかった。いろんな感情が胸の中でぐるぐると渦巻き、整理のつかないうちに込み上げてくる。言いたいことはたくさんあるはずなのにどれ一つとしてまともな形にはならず、私は何も言えないまま、目の前の先輩に勢いよく抱きついた。
痩せた体躯の先輩は、意外にも私をしっかりと受け止めた。もしかしたら私の行動すらお見通しだったのかもしれない。さすがに私と重いドアの両方を支えることはできなかったようで、突っ張っていた片腕がふっと緩み、背後でドアが軋みながら閉まると、小さな玄関から日の光が逃げていく。辺りは一転して暗闇に閉ざされる。私は先輩の背中に腕を回し、より強く縋りつく。
頭上では微かな溜息が聞こえ、やがて先輩も私を抱き締め返してくれた。
お互いに一言も発さなければ、ここは本当に静かだった。時折、思い出したように傍の道路を車が走り抜けていく他は物音一つ聞こえない。代わりに私の耳には先輩の心臓の音が聞こえてくる。規則正しく鳴り響き続けるその音が、まるでメトロノームみたいに私の呼吸も整えていく。
思い切って顔を上げたら、少し曇ったレンズの向こうに先輩の顔を見つけた。目を逸らさずに真っ直ぐ私を見下ろしている。表情はわずかに硬く、まだ確信を得ていないように映った。まだ、私の言葉を待っているのだろう。
「先輩……」
ようやく発した私の声は、自分でもおかしいくらい涙交じりだった。
でも、感情が昂っているのだろう。涙腺が呆気ないほど脆くて、簡単に泣けてしまった。もう眼鏡の曇りが引いたところで関係なく、視界が滲んでぼやけていく。
「どうして泣くんだ」
先輩の声がする。
「どうしてって、そんなの……」
決まっている。
一人の時は嬉しさや、幸せな気持ちくらいでは泣けないのに、先輩の前では不思議と涙が零れた。自分がこんなに涙脆い人間だとは思っていなかった。でも好きな人に対して素直でいられるのは幸いなことだとも思うし、それを受け止めてもらえるのも、本当に、素晴らしいことだ。蔵八宝
「雛子」
先輩は宥めるように私を呼んだ。
そして、溜息と同時に言った。
「気持ちはわかるが、早く、はっきり言ってくれないか」
その口調がいかにも痺れを切らした様子で、それでいてとても優しかったから、私は泣きながら笑った。
もちろんすぐに打ち明けた。
「受かってました」
涙が止まらない。
でも、嬉しい。すごく嬉しい。今までの努力が認められたこと、皆に胸を張って報告ができること、長い受験生活に終わりを告げられること、春から大学生になれること。
鳴海先輩と、また同じ学校に通えること。
「合格してたんです、私。よかった、本当によかった……!」
先輩を追い駆けていこうにも、その実力がなくて門前払いではどうしようもない。でもそんな心配ももうなかった。
「おめでとう」
先輩が私の髪や背中を撫でる。泣き止ませようとする仕種にも思えた。
「よかったな。お前の頑張りが報われた結果だ」
微かに笑いを含んだ声で言われて、私はますます泣けてきた。今日みたいな日は思いきり泣いてもいいと思う。でも、ずっと泣いてばかりというのももったいない気がする。せっかくいい知らせを持ってここへ来たのに。
せっかく、先輩と会えたのに。
「とりあえず、靴を脱いで上がったらどうだ」
鳴海先輩にもそう言われた。そして抱きつく私の身体をそっと引き離そうとしたけど、私はまだ離れたくない気分だった。しつこくしがみついていたら、先輩は困惑したようだ。
「ずっとこのままというわけにもいかない。ほら、一旦離れろ」
促されたので仕方なく、私は先輩から身を引いた。ようやく収まってきた涙を手の甲で拭うと、先輩がわざわざタオルを持ってきてくれた。
「まず顔を拭け。こんな日に泣く必要はないだろう」
私はありがたくタオルを借りて、眼鏡を外し、散々泣いてしまった後の目元を拭いた。そうして視界がクリアになると、玄関に立ち尽くしたままで泣いているのが今更のように恥ずかしくなってきた。かけ直した眼鏡のレンズを通して、呆れたように笑んでいる先輩の顔も見えた。
「すみません」
私が恥じ入りながら詫びると、先輩は一度顎を引いた。それからこちらへと手を差し伸べる。
「こっちへ来い、雛子。部屋の中の方が暖かい」
「……はい、先輩」
差し出された手を借りて、私は玄関でブーツを脱いだ。その後、屈んで靴の向きを揃える間、先輩は腕を伸ばして玄関に鍵をかけていた。
何となく見上げてみたら、先輩もちょうど私を見ていた。ただ目が合うと、早口気味に確かめてきた。
「今日は早く帰るのか?」
「いえ、夕方くらいまでは大丈夫です」
両親が帰ってくるのもそのくらいだ。それまでに戻ればいいだろう。きっとお祝いのパーティをしようと言い出すだろうから、それはそれで楽しみだ。
だけど今は、先輩といたかった。
「それなら少し、ゆっくりしていくといい」
安堵の表情を浮かべた先輩も、そう言ってくれた。
泣き止んだ私は、それでも冷静とは言いがたい心境にあった。
むしろ涙の嵐が過ぎ去った後は春のような浮かれ気分が訪れて、もうじき始まる大学生活への期待も膨らんでいくばかりだった。
「私、大学に入ったらやりたいことがたくさんあるんです」
二人でストーブの前に並んで座り、入れてもらった紅茶を飲みながら、私は先輩にあれこれと話した。先輩の部屋は今日も暖かくて静かで穏やかで、窓の外から柔らかく日が差し込んでいるのもあって、とても居心地がよかった。
「まず、先輩と一緒に登校したいです」
そう切り出すと先輩は眉を顰め、
「やりたいことと言うから何かと思えば……。勉強に関する内容じゃないのか」
「も、もちろん勉強だってしますけど!」
私は慌てて弁解しつつ、これは譲れないとばかりに語る。
「でも高校時代は一度もできなかったことですから。時間の合う時だけでいいので、先輩と待ち合わせて一緒に登校したいんです。駄目ですか?」
大学の登校時間は高校と違い、取っている授業によって違うと言うし、実際にそんなことができる機会はそう多くないのかもしれない。大学でもやはり、鳴海先輩は私より早く卒業してしまうだろうし、どれほど一緒にいられるかはわからない。
それでも密かに憧れだった。
「時間が合えばな」
先輩が前向きな返答をくれたので、私は更に踏み込んでみる。
「是非検討してください。それと帰りも、時間が合ったら一緒に帰りましょう」
「それは俺の高校時代にだってやっていたはずだ」
「あんなのカウントに入りません」
私は口を尖らせて、先輩の反論を封じた。鳴海先輩は不可解だという顔をする。
「あんなの、という言い方はないだろう」VIVID
「だって当時の先輩は随分と早足で、私と並んで歩いてくれませんでした」
まだ先輩が東高校の文芸部にいた頃、何度か一緒に帰ったことはあった。当時の私たちのディスコミュニケーションぶりといったら私自身が関係のありようを見失うほどで、それからしばらくの間、男女交際とは何か、恋愛とは何かと悩まされる羽目になった。もっとも、悩んでいたのは鳴海先輩も同様のようなので、過去を責めたり悔いたりするつもりはない。
大切なのは今、そしてこれから先の未来についてだ。
「だから大学に入ったら、先輩と、昔はできなかったいろんなことをしたいんです。一緒に登下校したり、一緒にお昼ご飯を食べたり、一緒のサークルに入って楽しく過ごしたり――そういう楽しいこと、全部です!」
叶わなかった夢はこれから叶えればいい。
私たちは再びその機会を得た。少し遅くなってしまったけど、ささやかでありふれた青春風景を過ごすのに、遅すぎるということはないだろう。
「お前は何をしに大学へ来るんだ」
鳴海先輩は心底呆れたという様子で私に言った。私の頬に軽く触れ、さっきまであったはずの涙の後を辿るように撫でながら。
「大体、はしゃぎすぎだ。さっきまで泣いていたくせに」
「泣くくらい嬉しかったんですから、はしゃぐのも当然でしょう?」
恥ずかしい指摘に私が反論すると、先輩は微かに笑い声を立てる。
「浮かれるのはいいが、入試だけで燃え尽きたなどと言うなよ」
「もちろんです。私の本分はやはり勉強ですから!」
あくまでも私は言い張る。
そう、これは偶然と言うか運命と言うか、とにかく幸運なことに私の志望校に鳴海先輩がいたというだけの話だ。私だってなんの考えもなく先輩のいる大学を受験したわけではなく、志望学科や学費、学内の環境、及び実家からの通学というあらゆる観点を考慮した上で決めた。
――という詭弁も、そろそろ不要かもしれない。誰がどう見たって私が鳴海先輩を追い駆けていくように見えるだろうし、それは紛れもない事実だった。ただ私はその事実をちゃんと叶えるだけの努力ができたというだけの話だ。そして鳴海先輩がいる以上、また同じ学校へと通う以上は、入学した途端に気が緩んで堕落するような怠惰な大学生活を送ることなどできはしない。
私の主張を先輩はどう聞いたのだろう。しばらくの間、眼光鋭く睨まれていた。だけどやがて緊張を解くように、軽く息をついてみせる。
「まあ、こんな日に説教というのも無粋だな」
そう言ってから先輩は目元だけ微笑ませるように細めた。
「正直に言えば、俺も嬉しい。単純にお前と会う機会が増えるからな」
「先輩だって、私と同じようなこと言うんですね」
「お互い好きで一緒にいるんだ、考える内容も似通って当然じゃないか」
私の言葉は咎める割に、先輩はためらいもなくそんなことを口走る。
思わず私が息を止めると、目を細めたままの先輩はしばらく私の顔を見た。自分で言うのも何だけど、とても大切な、いとおしいものを見るような眼差しだった。いや、私がそう思いたいだけかもしれなくて、先輩にはもっと別の意図があるのかもしれないけど、とにかくそう見えたような気がした途端、心拍数が一気に上がってしまった。
どちらにしても鳴海先輩は、本当に嬉しそうだった。
「……な、何ですか」
どもり気味に尋ねたら、先輩は一度目を瞠ってから、何気ない口調で答える。
「いや。考えていただけだ、お前のいる大学生活がどんなものかを」
そう言われると気になる。先輩の想像の中で、私はどんな大学生になっているのだろう。
「私、ちゃんと勉強してましたか?」
「どうだろうな。そういう想像はしなかった」
「じゃあ一体どんな想像をしたんですか」
「いちいち言うまでの話でもない。そのうち全部、現実になるだろうからな」
何て思わせぶりな言葉だろう。
だけどそれが先輩の望む大学生活だというなら、私は是非叶えたいと思う。
お互いに理想的で、幸せで、ささやかだけど満ち足りた日々を送れたらいい。高校時代には得られなかったありふれた青春風景を、遅まきながらも二人で手に入れられたらいい。
「先輩にも喜んでもらえて嬉しいです」
私もしみじみと呟く。
「受験中も大変お世話にもなりましたし……今度じっくり、お礼をさせてください」
「大したことはしていない」
先輩はきっぱり言ってから、軽く肩を竦めた。
「だが更に正直に言うなら、俺はお前が受験生ではなくなったのも嬉しい」
「あ、それは私もです」
ちょうど飲んでいたティーカップが空になり、私はそれを傍の座卓に置いた。それから両腕を高く上げて伸びをしてみる。今日の開放感はひとしおだった。
「もう、受験生活が長くて長くて。飽きが来ていたところだったんです」
受験生として過ごした期間は窮屈で息苦しかった。両親を始め、周囲の人たちにはいろんな点で気を遣わせてしまったし、私自身も気を引き締めてばかりの日々を送り続けてくたびれていた。そろそろ少しくらい羽を伸ばしても罰は当たらないだろう。
「そうだな。長かった」
先輩も万感込めて頷いていた。きっと鳴海先輩にも思うところがあるのだろうと、私は申し訳ない気持ちになる。
「先輩にもご迷惑をおかけしました」
「迷惑でもない。あまり気にするな」
「でも、私に会えなくて寂しかったですよね」
「ああ」
半ば冗談のつもりで言ったことにも素直に頷かれ、私が墓穴を掘った気分でいると、先輩はその虚を突くように私の唇に自らの唇で触れた。
柔らかい。少し温い。でも今日も味はわからなくて、顔が離れた時、唇の端に吐息がかかったのがくすぐったかった。
唐突な行動に出た先輩を、私は多分、目を丸くして見つめていることだろう。
先輩は私の顔を見て、さもありなんという表情を取った。強力催眠謎幻水
「雛子」
そして先輩は固まる私の名前を呼び、一度溜息をつく。ためらったのか、呆れているのか、緊張しているのかはわからない。住まいを正してから、にこりともせずに続けた。
「こんな日にこういうことを言うのも、それこそ無粋かもしれない」
改まったような物言いに、私も背筋を伸ばしたくなった。
一体、何の話だろう。
「だがお前に、どうしても頼みたいことがある」
「頼み、ですか? 私にできることなら……」
何だか重そうな話だ。私は思わず身構えたけど、先輩はそれを制するように口を開いた。
「そう構えないでくれ。お前にはきちんと断る権利がある」
その後、熱っぽい口調で告げられた。
「お前が、欲しい」
慎重に、問いかけるように、重々しく告げられた。
はっきり言って、予想もしていなかった頼みだった。たちまち私の体温が急上昇して、心臓がばくばくとうるさい音を立て始める。それ自体は先日、バレンタインデーにも聞いていた。額面以上の意味がありそうな、そもそも額面からしてどうとでも解釈できるような言葉だった。
それなら今日のは、一体どういう意味だろう。
「先輩……えっと、それって」
「その、お前が嫌じゃなければだ」
蒸発しそうな勢いで発熱する私に気づいてか、先輩も真っ赤になって慌てふためく。
「こんなことを無理強いするつもりはないし、それでお前に愛想を尽かされるくらいならもう言わない。こんなことをしなくてもお前の気持ちは確かめるまでもなくわかっている。拒まれたからと言ってそれを疑う気だってない」
まくし立てるような弁解を、私はどんな態度で聞いていればいいのだろう。
鳴海先輩はこれでも、至って、驚くほど真剣なのだから。
「俺も、お前が好きだ」
真面目な顔つきで言った後、先輩は私を真っ直ぐに見る。
「だが好きだという気持ちから、そういうものを切り離すことができなかった」
少し、苦しげな告白に聞こえた。
「これは、以前も話したな。俺はいっそお前を精神的にだけ愛せたらと思っていたが、俺のような未熟な人間には到底不可能だった」
前に、聞いていた。
先輩が、その身体すら不要だと思い詰めていた時のことだ。
私は先輩にそこまで思い詰めて欲しくなかった。寂しい思いもして欲しくなかった。だからあの日、あの時は――。
「むしろ不可能だとわかったあの日から、そういった衝動はより一層エスカレートしたように思う。あれからお前と会う度に、いつも淡い期待を抱いていた。お前をいとおしいとと思うのと同時に、お前に触れたいという気持ちも燻り続けていた」
そして薄い唇を噛み締めるようにして一瞬黙った後、更に言った。
「お前が受験生のうちはもう黙っていようと思っていた。だからと言って今日、こうして切り出すのも現金と言うか、厚かましいことこの上ないだろうが……やはりお前といると考えてしまう。今日のお前は特別可愛いから、余計にな」
先輩はとんでもないことをさらりと言った。ただし口調の割に表情は追い詰められた人のように硬く、余裕もなく、やはり真面目だった。正座の姿勢から少しだけ身を乗り出し、隣に座る私の両手をぎゅっと握った。痛くもない程度の力ではあったけど、私は、答えるまでは逃げられないような予感を抱いた。
「限界が来る前に、お前の気持ちを尋ねておこうと思う。聞かせてくれ」
「な……」
当然のことながら、私は答えに詰まった。
嫌だとか嫌ではないとかいうそれ以前の問題で、こんなに答えにくい問いなんてあるだろうか。何だかとてつもない事柄の決断を委ねられたような気がしてならない。
「そういうこと、そもそも、どうして聞くんですか」
急な体温上昇のせいか、私の声はからからに干からびていた。それでも問い返さずにはいられない。そうでなければ先輩の言葉にも答えられない。
なのに先輩はその疑問が不思議だという様子で目を見開く。
「お前が言ったんだろう。『次そう思った時は、私に聞いてみてください』と」
――そうだった。言っていた。
なぜそんなことを言ったのか。もちろん、私も先輩のことが好きだからだ。
そういうことで先輩には思い詰めたり悩んだり、自分自身が私にとって有害だなどと思って欲しくなかったからだ。
私にとって鳴海先輩は、三年の高校生活の間ずっと追い駆け続けた相手であり、憧れであり、理想であり、可愛い人でも大好きな人でもある。
そしてこれからまた、大学まで追い駆けていこうとしている人に対して、心にもない答えは告げたくなかった。
ただ、何と答えるか、その具体的な文脈には少し悩んだ。印度神油
次からはもういっそ聞かないでください、とも言いたいところだけど、そうすると鳴海先輩は、それはそれで素直に実行しそうな予感がするので困る。
2013年12月11日星期三
そのときはこの心臓を喰らって
まあ、お部屋が真っ暗。
明かりを全て消してしまうだなんて、あなたも意地悪ですのね。
お蔭で何も見えませんもの。困ってしまいます。懐中電灯を取ってこようにも、ろうそくを捜そうにも、この暗さでは……ねえあなた、電気を点けてくださらない?簡約痩身美体カプセル
駄目かしら? 私のお願いでもいけません?
……そう。それなら、せめて手を握っていてくださいます? 私、暗いところはあまり好きではないのです。あなたといれば、怖いというほどではありませんけど。
あなたは時々、子どもじみたふるまいをなさいますのね。ええ、歳だけ言えば私の方がずっと下ですけれど、あなたのおっしゃることやなさることはたまに子どものようで、おかしいくらいです。そういうところももちろん、好ましいと思っておりますのよ。
ただ、このことだけは……ねえ、どうしても明かりを消してしまわなければいけません? 全部消してしまったら本当に何も見えませんのに。一つだけ、台所の電気で構いませんから、点けていただきたいのですけど。
あら、信じてくださいませんのね。私が、あなたの見せたくないものを、明かりが点いたらすぐに見てしまうだろうとお思いですのね? 大丈夫です、いいと言われるまで見ないことにいたします。私が見たい見たいとあんまりしつこくしたのもいけなかったんですものね。
だって、あなたのくださった手紙、とっても読みたかったんですもの。私に読まれることをどうしても嫌がっていらしたでしょう。読まないで欲しい、捨てて欲しいの一点張りで、何と書いてくださったのかさえ教えてくださらないし。あなたがそこまでして見せたがらない手紙には、一体どんなことが書いてあるのか。私、気になってしまってしょうがなかったんですもの。
でももう言うのは止めましょうか。あなたがそこまでかたくなになっていらっしゃるのに、見たいと言ったらますますへそを曲げてしまいますでしょう? あなたって本当に、時々子どもに戻ってしまいますのね。
ほら、そうして拗ねた顔をなさるところも。
子どものようだと言うなら、私だってそんなに変わりませんのよ。
私、子どもの頃からずっと、今に至るまで暗いところが好きではないんです。こうしてあなたに手を握っていて貰って、ようやく怖くないと言えるくらいにです。暗いのを怖がるだなんて、全く子どものようでしょう?
実は昔、私の実家でかくれんぼをしたことがありましたの。あれは――そうですわね、お盆に親戚が一堂に会して、その時に私と年の近い子どもも大勢いたので、かくれんぼをして遊ぶことにしたんです。私、案外とおてんばでしたでしょう?
あなたもご存知でしょうけど、私の実家は広くて、隠れるところがたくさんありますもの。捜し回るのが大変なくらいだったんですもの。だから私も鬼より隠れる役の方がうれしくて、ついついいろんなところへ身を潜めては、親戚の子たちを驚かせるのを楽しんでいましたの。
そのうちに、ありふれた隠れ場所にも飽きて、絶対に見つからないようなところへ隠れようって思いつきましたの。ええ、とんだ悪戯っ子だったでしょう。ほうぼうを探してようやく見つけたのが、お納戸でしたの。
うちのお納戸は広いつくりになっていて、中には明かり取りの窓が一つあるきりで、隠れるには最適な場所でした。おまけにお納戸にはお客様がいらした時に敷くお布団がしまってありましたの。おてんば盛りの小さな娘が一人、鬼が探しに来るまでお布団の陰で潜んでいる姿、あなたにも想像出来ますでしょう? しまう前にお日様に当てて干したお布団が、とってもよい匂いがすることもご存知でしょう? ええ、まさにその日がお客様のいらしている日でしたから、母が前の日にお布団を干しておいたんですの。お納戸の中はとてもよい匂いでいっぱいになっていて、ふかふかのお布団に寄りかかっているうちに――私、うとうととうたた寝をしてしまいましたのよ。
ふと目が覚めたら、お納戸の中は真っ暗でした。いつの間にやら夜になっていたのです。日が暮れてしまっては明かり取りの窓から明かりは取れませんし、お納戸にも電灯はありましたけど、小さな私の背では届きませんでした。それに何より目を開けても真っ暗で、辺りを見回しても何も見えなくて、とても怖かったのです。私は大声を上げて泣き出してしまいました。
結局、その時の恥も外聞もない私の泣き声で、皆が気付いてくれたと言う訳です。ちょうどその頃、私を一向に見つけられなかった子どもたちが親たちに報告していて、親戚一同総出で私を捜していたところだったんですって。もう少しでお巡りさんを呼ぶところだったって、父には大目玉を食らってしまいました。
そういったこともあって、私は長らく暗いところが苦手でしたの。お納戸の騒ぎの後、半年ほどは、部屋の明かりを消して寝ることが出来なかったくらいなんですもの。どれほどに強い記憶だったか、おわかりになりますでしょう。
このお話は、私の両親と親戚の他には、誰にも話していなかったのです。あまりにみっともなくて、恥ずかしくて、その上今でも暗いところが苦手だなんて、たいそう子どもじみているんですもの。
でも、あなたにはお話しようと思いましたの。ええ、ついさっき思いついて、あなたになら構わないと考えたのです。なぜだと思います?
それはあなたが、私の話を笑わずに聞いてくださるって、わかっていたからです。
間が抜けていて、面白おかしい話でしょう。小さな娘のしでかしたことはいかにも滑稽で、笑ってしまう人がいたっておかしくはないでしょう。だけど私にはそれが嫌で、恥ずかしくてしょうがなかったのです。父も母も、親戚の皆も、度々その話をしていました。最後には小さな娘の失敗を笑って、おかしそうにしていました。その度に私は顔から火が出たようになって、耳を塞いでしまいたいくらいに恥ずかしかったんですの。西班牙蒼蝿水口服液+遅延増大
あなたは違いました。思っていたとおり、あなたは笑わずに聞いてくださいましたものね? まだお部屋は暗いですけど、目が慣れてきましたから、あなたの表情は確かにわかります。あなたが優しい旦那様であることはよく存じておりますけど、今は一段とそう思います。私のことを愛してくださって、大切にしてくださっていることも、度々実感しております。あなたは私が嫌だと思うことをなさらないですし、私を喜ばせたり、幸せにしようと気を配ってくださる、とても優しい方です。今も私の手を離さずに、ずっと握り続けてくださっていますし。
ですから、私もあなたが嫌だと思うことはしたくはありません。
あなたがどうしても、この手紙を――出張先から送ってきてくださった、三通目の手紙を私に読ませたくないとお思いでしたら、もう私はあなたのお言葉に従うことにいたします。
ただ、これだけは知っておいてくださいませ。私はあなたと同じように、大切な人の失敗や、恥ずかしいことを笑ったりはいたしません。たとえあなたがとても風変わりなことを手紙に認めていらしても、或いはとても甘い、お砂糖のような言葉を綴っていらしても、私はおかしくなんて思いませんわ。あんなところへの出張はさぞ辛かったでしょうし、そんな状況で普通の神経で手紙を書くなんてこと、きっと難しいに違いありませんもの。私だって暗いお納戸の中で目を覚ました時は、子どもの頃の話とはいえ、普通ではいられませんでしたもの。
私はあなたを笑ったりはしません。必ず、必ずです。その上で、この手紙はあなたにお返しします。ええ、もう見たいなんてわがままを言いませんわ。もし、あなたが私に見せてもよいと、いつかそう思うようになりましたら、その時こそ見せていただきたく思います。それまではどうぞ、あなたが預かっていてください。
……え? まあ、私が搦め手に出たとお思いですの? そんなことありませんわ、信じていただきたいです。
先ほどお話したことは、もちろん本当の気持ちです。私は必ず、あなたの手紙を笑ったりはしません。だってラブレターですもの。想う方からのラブレターを笑うなんてこと、出来やしませんわ。ましてその方が日頃から私に優しい方なら、尚のことです。
手紙、いただいてもよろしいのですか?
ありがとうございます、あなた。四通とも、大切にしますわね。
まあ、眩しい。電灯の明かりってこんなにも眩しいんですのね。
普段点けている分には、明るいだけで、眩しいという気はしないのに――まるであなたみたいですわね。出張が終わって、こうして私たちの家へ帰ってきてくださって、向こうで出された手紙が届き始めた今、私は改めてそう思います。
お疲れ様でした、あなた。
子どもの頃、雨の日が好きでした。
それもざあざあ降りというほどではない、煙るような雨の日が好きでした。
細かく降りしきる雨が街中の景色をしっとりと塗り替えていくのが好きでした。道の色を変え、家々の屋根の色を変えていくのが好きでした。微かな雨音で辺り一帯が包まれて、かえってしんと静かなように思える、雨の日が好きでした。あちらこちらに立ち込める雨の匂いが、好きでした。
これは僕だけではないと思うのですが、傘を差すよりも雨合羽を着込んで走り回るのが好きでした。傘は子どもには少々重いものですし、その点合羽は気楽です。ゴム長と揃いの合羽を母が誂えてくれて、それで雨の日は意気揚々と闊歩したものでした。
しかし、ざあざあ降りの日に走り回るのはさすがに良い顔をされませんでした。当たり前ですね。酷い降りの日に子どもに、傘も差させずに遊ばせておく親がどこにいるでしょう。うちの母親はこと気を回す人でしたから、そうして遊ばせてもらえるのは降りの穏やかな、煙るような雨の日だけでした。
雨の日の街は、まるで夢のような世界でした。普段見ている景色とは、色も、音も、匂いも違う情景がそこにはあります。
晴れた日には陽光の下で何もかもがきらめいて見えるのに、雨の日にはのっぺりと濃く色づいているだけで、それがかえって奇妙な、行ったこともない異国に似た雰囲気を漂わせているように見えたものでした。普段は見通しの良い通りの向こうが雨の日には霞んで見えず、灰がかったようになっているのも愉快でした。あの向こうには何があるのだろうと、わかり切っているくせに想像を巡らせるのが楽しかったのです。道にはいくつもいくつも水溜りが出来、そこへも尚、雨がしとしと降り注いではさざなみだっていくのを見て、その美しさに溜息をついたものでした。
雨の日の音をご存知ですか。あれは案外と複雑に折り重なっているものでして、例えば木陰で雨宿りをするとわかります。雨が木の葉を打つ音、木の葉に溜まった雫が木を揺らして起こる葉擦れの音、木の幹を雨が伝い落ちていく音、木の根が張った大地を、生まれたばかりの小さな川が流れていく音――これだけの音を、僕らは一本の木の下で聞くことが出来るのです。目を閉じて、耳を澄ませば、幾重にも織り込まれ、積み上げられていく音の調和がわかります。それを聴くだけでも本当に楽しくて、聴き入っては時間を忘れてしまうほどでした。
雨の匂いは、少々変わっています。僕は雨の匂いがとても好きでしたが、どうしても好きになれないと言った友人もおりました。その気持ちもよくわかるのです。むっとこもるような匂いで、ふわりと軽いものではありません。一度嗅ぎつけるとしばらくまとわりついているような、重い匂いです。かといって鼻をつくほど強い匂いという訳ではなく、晴れた日にはそれを思い出すことも出来ないような、その程度のものでした。僕が雨の匂いを好きになったのも、実はその匂いがよい、悪いということではないようです。ただ雨の降りそうな頃にその匂いを嗅ぎつけ、それが雨の匂いであることを思い出した時、もうじき雨が降るのだと察せられるからだったようです。この匂いは、雨の降る前触れのような匂いだと、子ども心に察していたからだったのでしょう。西班牙蒼蝿水
子どもというのはなかなかに酔狂で、しかし感性豊かな生き物です。雨一つで気分を弾ませて、はしゃぎ回ったり、笑ったり、時に難しく考え込んだり、一丁前に物寂しさを感じたりするのです。
子どもの感性は大人の目からすれば侮れないものであることも、たまにはあります。見慣れた街に異国の姿を思い巡らせる、その時の想像力。たくさんの雨音を聞き分け、更にその調和を楽しむ情緒性。雨の匂いに心を躍らせ、それだけではしゃぐことの出来る無邪気さ、欲のなさ。或いは水溜りを跳び越えたり、跳び込んだりする冒険心。ゴム長を片足だけ履いてどこまで行けるかを競い合う探究心、――全くもって、やんちゃな子どももいたものでした、ええ。
しかしそういった感性は、時と共に失われてしまうのです。大人になるまで持っていられるような人はほとんどいません。いても、周りの大人たちに、似通ったような子ども時代を過ごしながらもそのことをすっかり忘れてしまった大人たちに、酔狂だ、変わり者だと指を差されて、無理矢理忘れてしまわなくてはならなくなります。大抵の人は指を差されるまでもなく、夢から覚めた後のように忘れてしまいます。
そして大人になると、雨の日があまり好きではなくなります。雨の日の色、雨の日の音、雨の日の匂い、全てがとても忌々しいもののように思えて、仕方がなくなります。現に、外を歩いている時に雨が降り出すと、誰しもが鼻の頭に皺を寄せてしまいます。僕などは、あまり品のよろしいことではありませんが、舌打ちしたくなってしまいます。そうして子どもの頃の雨を楽しむ気持ちを忘れて、まるで初めから大人であったようにふるまうのです。雨を忌々しく思い、せめて自分の出かける時には降らないでいてくれればいいものを、と思ってしまうようになります。
僕もそうでした。ずっと、長らく、子どもだった頃のことを忘れていました。自分でも時々驚いてしまうのですが、僕自身の子どもの頃の記憶が大変希薄な時があります。それも僕に限ったことではないようで、親はしっかりと記憶しているのに、本人がまるで覚えていないというのもよくある話でしょう。言われて初めて思い出し、そして決まりの悪い思いをするのです。今はもう大人なのだから、子どもの頃の話を持ち出されたところで、子どもに戻れる訳でもないと、言い聞かすように思うのです。
ただ、今日僕が、こうして子どもの頃のことを思い出したのは、人に言われたからではありません。父や母が話して聞かせてくれた、ということはありません。
なぜか、不思議と思い出したのです。傘を持ってきてくれた、あなたの姿を見た時に。
雨が降っているのはお役所の中からも見えていましたから、帰りはどうしようかと悩んでおりました。朝はあんなに晴れていたのにと鼻の頭に皺を寄せたくなりましたし、すっかり気が滅入って舌打ちもしてしまいました。品がありません。お役所には誰でも使えるようにと置き傘も用意してあるのですが、あいにく大変な倍率でした。突然の雨では競い合う気も起きず、こうなったらいっそ濡れて帰ろうとほぞを固めていました。
あなたが傘を持って迎えに来てくれて、本当に助かりました。あなただってこの雨では寒かったでしょうに、僕の為にと足を運んでくれたこと、うれしく思います。お役所の前で傘を抱えるあなたの姿を見た時、僕の心がどれほどに震えたか、あなたにわかるでしょうか。しみじみとあなたのありがたみ、温かさを覚えました。
そして、その時に思ったのです。――大人になるというのは、傘を持ち、或いは傘を差しかけてくれる誰かと共に生きることなのではないかと。
子どもの自由奔放な感性に、重い傘は邪魔でしょう。必要ありません。合羽とゴム長と、後は親の許しさえあれば、好きなように遊び回れるのです。想像を巡らせることも雨音に聴き入ることも、雨の匂いを味わうことだって出来ます。
ですが、僕らはそうはいきません。僕らには傘が必要です。僕らにはあの頃着ていた合羽もゴム長もありませんから、新たに誂えるか、或いは傘を持つようになるかです。そして傘を持つようになると、合羽の布地越しに雨を感じることが出来なくなります。雨音も、雨の匂いも遠ざかってしまいます。そうして僕らは、子どもの心を忘れてしまうのかもしれません。
忘れてしまったものをおぼろげに思い出すことは出来ても、そっくりそのまま取り戻すことは出来ません。代わりに手に入れたものを思えば、取り戻そうという気も起こりません。
大人になるというのも悪いことではありません。雨を忌々しく思うようになってしまっても、こうして傘を持って来てくれる人へのいとしさを、しみじみ実感することは出来ます。雨の中を並んで歩き、敷き詰められた静寂の中で、そっと打ち明け話をすることだって出来ます。
傘の下で、こんな風にこっそり手を繋いでいることも、雨の日だから叶うことです。晴れの日では気恥ずかしくて、お互いにためらってしまいますからね。あなたのほっそりとした手を取ることの出来る今は、とても幸いです。procomil spray
大人になった今、僕は雨の日が、昔ほど好きではありません。
でも、煙るようなこんな雨の日に、あなたと二人で歩くのは好きです。傘を差しかけてくれる人を得られて、それがあなたで、この上なく幸いです。子どもの頃のように雨を楽しめなくても、僕は大人になってよかったと、心から思います。
あなたと共にいられてよかったと、真に、真にそう思います。
一筆申し上げます。
この手紙を読んでいらっしゃる時、あなたはどんなお顔をしているでしょう。きっと面映そうにしていらっしゃるでしょうね。
私もあれから手紙の書き方を習って、ようやくちゃんとしたラブレターを綴っているところです。前に差し上げた四通の手紙は、まるで走り書きのような酷い出来でしたもの。あなたがそれを後生大事にしてくださっているのは存じておりますけれど、もっとよい出来のものを贈ることが叶えば、とずっと思っていたのです。
ところで、あなたはお気付きでしょうか。私が今日のこの日に、この手紙を綴り、あなたへとお贈りする意味を。帰宅したあなたの目に留まるよう、書斎の机の上に置いておいた意味を、ご存知でいるでしょうか。きっと、今日は特別な日ではありません。まだ終わってもおりませんけれど、恐らくごく平凡で、穏やかな日のままで終わってしまうだろうと思います。だけどこの手紙は、今日お贈りしなければならなかったのです。なぜだか、おわかりになりまして?
答えは、手紙の最後に記しておきます。でも几帳面なあなたのことですから、もうご存知かもしれませんわね。もしおわかりにならないようでしたら、読みながらゆっくりと考えていただけたら、と思います。
私は以前からずっと、思っておりましたの。お見合い結婚って、なんて難しくて、ややこしくて、大変なものなんだろうって。
もちろん、お見合い結婚と恋愛結婚の間に優劣なんてないことは存じております。どちらにもそのよさがあって、どちらであろうとも相手の方のことを想えば、そして二人で互いに想い合えば、必ず幸せになれるものだと理解しておりますもの。どちらがよいという訳ではなくて、きっと、どちらもよいのです。大切なのは結婚をするということだけではなくて、所帯を持つ、日々の暮らしを共にするということだと、私は思っております。あなたは大変優しい方で、私のことを大切にしてくださいますし、幸せにもしてくださってます。結婚相手としては申し分ないどころか、過分なくらいです。今までさしたる苦労もなく、あなたの妻である幸いを噛み締めて来ることが出来ました。
でも、やっぱり、思ってしまうんです。あなたとはお見合いではなくて、先に恋愛をして、それから結婚をした方がよかったんじゃないかって、どうしても思ってしまうんです。私はお見合い結婚には向いていなかったのだと思うのです。あなたと出会うなら、もっと違う形がよかったと、思えてきて仕方がないのです。
結婚よりも先に恋愛をする場合の利点は、何と言ってもより長い年月を、共にいられることだと思いますの。同じ家に住む前から相手の方を知ることが出来ますもの。じっくりと時間を掛けて一緒にいて、その方と暮らしを、ひいては人生を共にしてもよいのかどうか、見極めることが出来ますもの。私にはその必要はありませんでしたけど、それでもあなたと、より長い年月を、以前から共にして来られたならと思わずにはいられないのです。
お見合い結婚の難しくて不便なところは、あれよあれよという間に二人の暮らしが始まってしまうところです。だって、端から結婚をするつもりでお見合いをするんですもの。それがお互いに了承したなら、恋愛をさせていただく暇も貰えないのです。あとは結納を済ませて籍を入れて、式を挙げて、初泊まりに行って、と全くめまぐるしい流れの速さでした。もしかすると私たちの時だけそうだったのかもしれませんけど、もう少しのんびりしていられると思った私は、本当に夢でも見ているようでしたのよ。大急ぎで花嫁修業をおさらいして、あなたのところへ嫁いで参りましたけど、私の主婦としての出来があまりよろしくなかったのはあなたもとうにご存知でしたわね。自分の不甲斐なさを棚に上げて、もう少し時間があればと何度も思いましたの。
それに、もう少し時間があれば、あなたのことだってわかっていたでしょうに。私と来たら、あなたのことをしばらく誤解しておりましたの。これも十分にご存知でしょう? あなたがどういうお気持ちでいつもにこにことしていらしたのか、私に繰り返し繰り返し言葉を掛けてくださっていたのか、所帯を持ってからしばらく経つまでまるで気付けませんでした。それも時間があれば、お見合いで出会ったのでなければ、もっと早くに気付けたのかもしれませんのに。
何よりも、私は思うのです。あなたとお見合いで結婚したのでなければ、あなたと共にあることに、もっと慣れていたでしょうに。今よりもずっと、慣れることが出来ていたはずなのです。
恥を忍んでお話しすると、私はいまだに、あなたと二人で暮らしている日々に、慣れた気がしておりません。今でも、朝、目を覚ました時に、隣にあなたがいらっしゃるという光景に、不思議な感じがいたしますの。あなたをお見送りする時も、お帰りになられたのをお迎えする時も、食卓を囲んで一緒にご飯を食べている時も、本当に不慣れで、毎日初めてのことをしているようで、何だか落ち着かないのです。WENICKMANペニス増大
もう、一年にもなりますのにね。私は一向にあなたとの暮らしに慣れていないようなのです。
慣れないどころか、お恥ずかしいのですけれど、始終心臓がどぎまぎいたします。あなたといると、何をするにも胸が苦しくて、締めつけられるようなのです。常に気持ちが落ち着かなくて、目が合うだけで頬が熱くなってしまったり、その熱がのどもとまで移ってきて口の中が渇いたりします。この間の雨の日のようにひとたび手を繋いだなら、その場で跳ね上がりたくなってしまいます。食卓を挟んで向き合っているだけでも居た堪れなくて、心臓がどきどきと喧しいようで、どうしてよいのかまるでわからなくなってしまうのです。少女のような心持、と言ったら、あなたはお笑いになるかしら。いえ、きっと真面目な顔をしてそのまま受け取ってくださるでしょうね。まさしくそのような心持でいるのです。
明かりを全て消してしまうだなんて、あなたも意地悪ですのね。
お蔭で何も見えませんもの。困ってしまいます。懐中電灯を取ってこようにも、ろうそくを捜そうにも、この暗さでは……ねえあなた、電気を点けてくださらない?簡約痩身美体カプセル
駄目かしら? 私のお願いでもいけません?
……そう。それなら、せめて手を握っていてくださいます? 私、暗いところはあまり好きではないのです。あなたといれば、怖いというほどではありませんけど。
あなたは時々、子どもじみたふるまいをなさいますのね。ええ、歳だけ言えば私の方がずっと下ですけれど、あなたのおっしゃることやなさることはたまに子どものようで、おかしいくらいです。そういうところももちろん、好ましいと思っておりますのよ。
ただ、このことだけは……ねえ、どうしても明かりを消してしまわなければいけません? 全部消してしまったら本当に何も見えませんのに。一つだけ、台所の電気で構いませんから、点けていただきたいのですけど。
あら、信じてくださいませんのね。私が、あなたの見せたくないものを、明かりが点いたらすぐに見てしまうだろうとお思いですのね? 大丈夫です、いいと言われるまで見ないことにいたします。私が見たい見たいとあんまりしつこくしたのもいけなかったんですものね。
だって、あなたのくださった手紙、とっても読みたかったんですもの。私に読まれることをどうしても嫌がっていらしたでしょう。読まないで欲しい、捨てて欲しいの一点張りで、何と書いてくださったのかさえ教えてくださらないし。あなたがそこまでして見せたがらない手紙には、一体どんなことが書いてあるのか。私、気になってしまってしょうがなかったんですもの。
でももう言うのは止めましょうか。あなたがそこまでかたくなになっていらっしゃるのに、見たいと言ったらますますへそを曲げてしまいますでしょう? あなたって本当に、時々子どもに戻ってしまいますのね。
ほら、そうして拗ねた顔をなさるところも。
子どものようだと言うなら、私だってそんなに変わりませんのよ。
私、子どもの頃からずっと、今に至るまで暗いところが好きではないんです。こうしてあなたに手を握っていて貰って、ようやく怖くないと言えるくらいにです。暗いのを怖がるだなんて、全く子どものようでしょう?
実は昔、私の実家でかくれんぼをしたことがありましたの。あれは――そうですわね、お盆に親戚が一堂に会して、その時に私と年の近い子どもも大勢いたので、かくれんぼをして遊ぶことにしたんです。私、案外とおてんばでしたでしょう?
あなたもご存知でしょうけど、私の実家は広くて、隠れるところがたくさんありますもの。捜し回るのが大変なくらいだったんですもの。だから私も鬼より隠れる役の方がうれしくて、ついついいろんなところへ身を潜めては、親戚の子たちを驚かせるのを楽しんでいましたの。
そのうちに、ありふれた隠れ場所にも飽きて、絶対に見つからないようなところへ隠れようって思いつきましたの。ええ、とんだ悪戯っ子だったでしょう。ほうぼうを探してようやく見つけたのが、お納戸でしたの。
うちのお納戸は広いつくりになっていて、中には明かり取りの窓が一つあるきりで、隠れるには最適な場所でした。おまけにお納戸にはお客様がいらした時に敷くお布団がしまってありましたの。おてんば盛りの小さな娘が一人、鬼が探しに来るまでお布団の陰で潜んでいる姿、あなたにも想像出来ますでしょう? しまう前にお日様に当てて干したお布団が、とってもよい匂いがすることもご存知でしょう? ええ、まさにその日がお客様のいらしている日でしたから、母が前の日にお布団を干しておいたんですの。お納戸の中はとてもよい匂いでいっぱいになっていて、ふかふかのお布団に寄りかかっているうちに――私、うとうととうたた寝をしてしまいましたのよ。
ふと目が覚めたら、お納戸の中は真っ暗でした。いつの間にやら夜になっていたのです。日が暮れてしまっては明かり取りの窓から明かりは取れませんし、お納戸にも電灯はありましたけど、小さな私の背では届きませんでした。それに何より目を開けても真っ暗で、辺りを見回しても何も見えなくて、とても怖かったのです。私は大声を上げて泣き出してしまいました。
結局、その時の恥も外聞もない私の泣き声で、皆が気付いてくれたと言う訳です。ちょうどその頃、私を一向に見つけられなかった子どもたちが親たちに報告していて、親戚一同総出で私を捜していたところだったんですって。もう少しでお巡りさんを呼ぶところだったって、父には大目玉を食らってしまいました。
そういったこともあって、私は長らく暗いところが苦手でしたの。お納戸の騒ぎの後、半年ほどは、部屋の明かりを消して寝ることが出来なかったくらいなんですもの。どれほどに強い記憶だったか、おわかりになりますでしょう。
このお話は、私の両親と親戚の他には、誰にも話していなかったのです。あまりにみっともなくて、恥ずかしくて、その上今でも暗いところが苦手だなんて、たいそう子どもじみているんですもの。
でも、あなたにはお話しようと思いましたの。ええ、ついさっき思いついて、あなたになら構わないと考えたのです。なぜだと思います?
それはあなたが、私の話を笑わずに聞いてくださるって、わかっていたからです。
間が抜けていて、面白おかしい話でしょう。小さな娘のしでかしたことはいかにも滑稽で、笑ってしまう人がいたっておかしくはないでしょう。だけど私にはそれが嫌で、恥ずかしくてしょうがなかったのです。父も母も、親戚の皆も、度々その話をしていました。最後には小さな娘の失敗を笑って、おかしそうにしていました。その度に私は顔から火が出たようになって、耳を塞いでしまいたいくらいに恥ずかしかったんですの。西班牙蒼蝿水口服液+遅延増大
あなたは違いました。思っていたとおり、あなたは笑わずに聞いてくださいましたものね? まだお部屋は暗いですけど、目が慣れてきましたから、あなたの表情は確かにわかります。あなたが優しい旦那様であることはよく存じておりますけど、今は一段とそう思います。私のことを愛してくださって、大切にしてくださっていることも、度々実感しております。あなたは私が嫌だと思うことをなさらないですし、私を喜ばせたり、幸せにしようと気を配ってくださる、とても優しい方です。今も私の手を離さずに、ずっと握り続けてくださっていますし。
ですから、私もあなたが嫌だと思うことはしたくはありません。
あなたがどうしても、この手紙を――出張先から送ってきてくださった、三通目の手紙を私に読ませたくないとお思いでしたら、もう私はあなたのお言葉に従うことにいたします。
ただ、これだけは知っておいてくださいませ。私はあなたと同じように、大切な人の失敗や、恥ずかしいことを笑ったりはいたしません。たとえあなたがとても風変わりなことを手紙に認めていらしても、或いはとても甘い、お砂糖のような言葉を綴っていらしても、私はおかしくなんて思いませんわ。あんなところへの出張はさぞ辛かったでしょうし、そんな状況で普通の神経で手紙を書くなんてこと、きっと難しいに違いありませんもの。私だって暗いお納戸の中で目を覚ました時は、子どもの頃の話とはいえ、普通ではいられませんでしたもの。
私はあなたを笑ったりはしません。必ず、必ずです。その上で、この手紙はあなたにお返しします。ええ、もう見たいなんてわがままを言いませんわ。もし、あなたが私に見せてもよいと、いつかそう思うようになりましたら、その時こそ見せていただきたく思います。それまではどうぞ、あなたが預かっていてください。
……え? まあ、私が搦め手に出たとお思いですの? そんなことありませんわ、信じていただきたいです。
先ほどお話したことは、もちろん本当の気持ちです。私は必ず、あなたの手紙を笑ったりはしません。だってラブレターですもの。想う方からのラブレターを笑うなんてこと、出来やしませんわ。ましてその方が日頃から私に優しい方なら、尚のことです。
手紙、いただいてもよろしいのですか?
ありがとうございます、あなた。四通とも、大切にしますわね。
まあ、眩しい。電灯の明かりってこんなにも眩しいんですのね。
普段点けている分には、明るいだけで、眩しいという気はしないのに――まるであなたみたいですわね。出張が終わって、こうして私たちの家へ帰ってきてくださって、向こうで出された手紙が届き始めた今、私は改めてそう思います。
お疲れ様でした、あなた。
子どもの頃、雨の日が好きでした。
それもざあざあ降りというほどではない、煙るような雨の日が好きでした。
細かく降りしきる雨が街中の景色をしっとりと塗り替えていくのが好きでした。道の色を変え、家々の屋根の色を変えていくのが好きでした。微かな雨音で辺り一帯が包まれて、かえってしんと静かなように思える、雨の日が好きでした。あちらこちらに立ち込める雨の匂いが、好きでした。
これは僕だけではないと思うのですが、傘を差すよりも雨合羽を着込んで走り回るのが好きでした。傘は子どもには少々重いものですし、その点合羽は気楽です。ゴム長と揃いの合羽を母が誂えてくれて、それで雨の日は意気揚々と闊歩したものでした。
しかし、ざあざあ降りの日に走り回るのはさすがに良い顔をされませんでした。当たり前ですね。酷い降りの日に子どもに、傘も差させずに遊ばせておく親がどこにいるでしょう。うちの母親はこと気を回す人でしたから、そうして遊ばせてもらえるのは降りの穏やかな、煙るような雨の日だけでした。
雨の日の街は、まるで夢のような世界でした。普段見ている景色とは、色も、音も、匂いも違う情景がそこにはあります。
晴れた日には陽光の下で何もかもがきらめいて見えるのに、雨の日にはのっぺりと濃く色づいているだけで、それがかえって奇妙な、行ったこともない異国に似た雰囲気を漂わせているように見えたものでした。普段は見通しの良い通りの向こうが雨の日には霞んで見えず、灰がかったようになっているのも愉快でした。あの向こうには何があるのだろうと、わかり切っているくせに想像を巡らせるのが楽しかったのです。道にはいくつもいくつも水溜りが出来、そこへも尚、雨がしとしと降り注いではさざなみだっていくのを見て、その美しさに溜息をついたものでした。
雨の日の音をご存知ですか。あれは案外と複雑に折り重なっているものでして、例えば木陰で雨宿りをするとわかります。雨が木の葉を打つ音、木の葉に溜まった雫が木を揺らして起こる葉擦れの音、木の幹を雨が伝い落ちていく音、木の根が張った大地を、生まれたばかりの小さな川が流れていく音――これだけの音を、僕らは一本の木の下で聞くことが出来るのです。目を閉じて、耳を澄ませば、幾重にも織り込まれ、積み上げられていく音の調和がわかります。それを聴くだけでも本当に楽しくて、聴き入っては時間を忘れてしまうほどでした。
雨の匂いは、少々変わっています。僕は雨の匂いがとても好きでしたが、どうしても好きになれないと言った友人もおりました。その気持ちもよくわかるのです。むっとこもるような匂いで、ふわりと軽いものではありません。一度嗅ぎつけるとしばらくまとわりついているような、重い匂いです。かといって鼻をつくほど強い匂いという訳ではなく、晴れた日にはそれを思い出すことも出来ないような、その程度のものでした。僕が雨の匂いを好きになったのも、実はその匂いがよい、悪いということではないようです。ただ雨の降りそうな頃にその匂いを嗅ぎつけ、それが雨の匂いであることを思い出した時、もうじき雨が降るのだと察せられるからだったようです。この匂いは、雨の降る前触れのような匂いだと、子ども心に察していたからだったのでしょう。西班牙蒼蝿水
子どもというのはなかなかに酔狂で、しかし感性豊かな生き物です。雨一つで気分を弾ませて、はしゃぎ回ったり、笑ったり、時に難しく考え込んだり、一丁前に物寂しさを感じたりするのです。
子どもの感性は大人の目からすれば侮れないものであることも、たまにはあります。見慣れた街に異国の姿を思い巡らせる、その時の想像力。たくさんの雨音を聞き分け、更にその調和を楽しむ情緒性。雨の匂いに心を躍らせ、それだけではしゃぐことの出来る無邪気さ、欲のなさ。或いは水溜りを跳び越えたり、跳び込んだりする冒険心。ゴム長を片足だけ履いてどこまで行けるかを競い合う探究心、――全くもって、やんちゃな子どももいたものでした、ええ。
しかしそういった感性は、時と共に失われてしまうのです。大人になるまで持っていられるような人はほとんどいません。いても、周りの大人たちに、似通ったような子ども時代を過ごしながらもそのことをすっかり忘れてしまった大人たちに、酔狂だ、変わり者だと指を差されて、無理矢理忘れてしまわなくてはならなくなります。大抵の人は指を差されるまでもなく、夢から覚めた後のように忘れてしまいます。
そして大人になると、雨の日があまり好きではなくなります。雨の日の色、雨の日の音、雨の日の匂い、全てがとても忌々しいもののように思えて、仕方がなくなります。現に、外を歩いている時に雨が降り出すと、誰しもが鼻の頭に皺を寄せてしまいます。僕などは、あまり品のよろしいことではありませんが、舌打ちしたくなってしまいます。そうして子どもの頃の雨を楽しむ気持ちを忘れて、まるで初めから大人であったようにふるまうのです。雨を忌々しく思い、せめて自分の出かける時には降らないでいてくれればいいものを、と思ってしまうようになります。
僕もそうでした。ずっと、長らく、子どもだった頃のことを忘れていました。自分でも時々驚いてしまうのですが、僕自身の子どもの頃の記憶が大変希薄な時があります。それも僕に限ったことではないようで、親はしっかりと記憶しているのに、本人がまるで覚えていないというのもよくある話でしょう。言われて初めて思い出し、そして決まりの悪い思いをするのです。今はもう大人なのだから、子どもの頃の話を持ち出されたところで、子どもに戻れる訳でもないと、言い聞かすように思うのです。
ただ、今日僕が、こうして子どもの頃のことを思い出したのは、人に言われたからではありません。父や母が話して聞かせてくれた、ということはありません。
なぜか、不思議と思い出したのです。傘を持ってきてくれた、あなたの姿を見た時に。
雨が降っているのはお役所の中からも見えていましたから、帰りはどうしようかと悩んでおりました。朝はあんなに晴れていたのにと鼻の頭に皺を寄せたくなりましたし、すっかり気が滅入って舌打ちもしてしまいました。品がありません。お役所には誰でも使えるようにと置き傘も用意してあるのですが、あいにく大変な倍率でした。突然の雨では競い合う気も起きず、こうなったらいっそ濡れて帰ろうとほぞを固めていました。
あなたが傘を持って迎えに来てくれて、本当に助かりました。あなただってこの雨では寒かったでしょうに、僕の為にと足を運んでくれたこと、うれしく思います。お役所の前で傘を抱えるあなたの姿を見た時、僕の心がどれほどに震えたか、あなたにわかるでしょうか。しみじみとあなたのありがたみ、温かさを覚えました。
そして、その時に思ったのです。――大人になるというのは、傘を持ち、或いは傘を差しかけてくれる誰かと共に生きることなのではないかと。
子どもの自由奔放な感性に、重い傘は邪魔でしょう。必要ありません。合羽とゴム長と、後は親の許しさえあれば、好きなように遊び回れるのです。想像を巡らせることも雨音に聴き入ることも、雨の匂いを味わうことだって出来ます。
ですが、僕らはそうはいきません。僕らには傘が必要です。僕らにはあの頃着ていた合羽もゴム長もありませんから、新たに誂えるか、或いは傘を持つようになるかです。そして傘を持つようになると、合羽の布地越しに雨を感じることが出来なくなります。雨音も、雨の匂いも遠ざかってしまいます。そうして僕らは、子どもの心を忘れてしまうのかもしれません。
忘れてしまったものをおぼろげに思い出すことは出来ても、そっくりそのまま取り戻すことは出来ません。代わりに手に入れたものを思えば、取り戻そうという気も起こりません。
大人になるというのも悪いことではありません。雨を忌々しく思うようになってしまっても、こうして傘を持って来てくれる人へのいとしさを、しみじみ実感することは出来ます。雨の中を並んで歩き、敷き詰められた静寂の中で、そっと打ち明け話をすることだって出来ます。
傘の下で、こんな風にこっそり手を繋いでいることも、雨の日だから叶うことです。晴れの日では気恥ずかしくて、お互いにためらってしまいますからね。あなたのほっそりとした手を取ることの出来る今は、とても幸いです。procomil spray
大人になった今、僕は雨の日が、昔ほど好きではありません。
でも、煙るようなこんな雨の日に、あなたと二人で歩くのは好きです。傘を差しかけてくれる人を得られて、それがあなたで、この上なく幸いです。子どもの頃のように雨を楽しめなくても、僕は大人になってよかったと、心から思います。
あなたと共にいられてよかったと、真に、真にそう思います。
一筆申し上げます。
この手紙を読んでいらっしゃる時、あなたはどんなお顔をしているでしょう。きっと面映そうにしていらっしゃるでしょうね。
私もあれから手紙の書き方を習って、ようやくちゃんとしたラブレターを綴っているところです。前に差し上げた四通の手紙は、まるで走り書きのような酷い出来でしたもの。あなたがそれを後生大事にしてくださっているのは存じておりますけれど、もっとよい出来のものを贈ることが叶えば、とずっと思っていたのです。
ところで、あなたはお気付きでしょうか。私が今日のこの日に、この手紙を綴り、あなたへとお贈りする意味を。帰宅したあなたの目に留まるよう、書斎の机の上に置いておいた意味を、ご存知でいるでしょうか。きっと、今日は特別な日ではありません。まだ終わってもおりませんけれど、恐らくごく平凡で、穏やかな日のままで終わってしまうだろうと思います。だけどこの手紙は、今日お贈りしなければならなかったのです。なぜだか、おわかりになりまして?
答えは、手紙の最後に記しておきます。でも几帳面なあなたのことですから、もうご存知かもしれませんわね。もしおわかりにならないようでしたら、読みながらゆっくりと考えていただけたら、と思います。
私は以前からずっと、思っておりましたの。お見合い結婚って、なんて難しくて、ややこしくて、大変なものなんだろうって。
もちろん、お見合い結婚と恋愛結婚の間に優劣なんてないことは存じております。どちらにもそのよさがあって、どちらであろうとも相手の方のことを想えば、そして二人で互いに想い合えば、必ず幸せになれるものだと理解しておりますもの。どちらがよいという訳ではなくて、きっと、どちらもよいのです。大切なのは結婚をするということだけではなくて、所帯を持つ、日々の暮らしを共にするということだと、私は思っております。あなたは大変優しい方で、私のことを大切にしてくださいますし、幸せにもしてくださってます。結婚相手としては申し分ないどころか、過分なくらいです。今までさしたる苦労もなく、あなたの妻である幸いを噛み締めて来ることが出来ました。
でも、やっぱり、思ってしまうんです。あなたとはお見合いではなくて、先に恋愛をして、それから結婚をした方がよかったんじゃないかって、どうしても思ってしまうんです。私はお見合い結婚には向いていなかったのだと思うのです。あなたと出会うなら、もっと違う形がよかったと、思えてきて仕方がないのです。
結婚よりも先に恋愛をする場合の利点は、何と言ってもより長い年月を、共にいられることだと思いますの。同じ家に住む前から相手の方を知ることが出来ますもの。じっくりと時間を掛けて一緒にいて、その方と暮らしを、ひいては人生を共にしてもよいのかどうか、見極めることが出来ますもの。私にはその必要はありませんでしたけど、それでもあなたと、より長い年月を、以前から共にして来られたならと思わずにはいられないのです。
お見合い結婚の難しくて不便なところは、あれよあれよという間に二人の暮らしが始まってしまうところです。だって、端から結婚をするつもりでお見合いをするんですもの。それがお互いに了承したなら、恋愛をさせていただく暇も貰えないのです。あとは結納を済ませて籍を入れて、式を挙げて、初泊まりに行って、と全くめまぐるしい流れの速さでした。もしかすると私たちの時だけそうだったのかもしれませんけど、もう少しのんびりしていられると思った私は、本当に夢でも見ているようでしたのよ。大急ぎで花嫁修業をおさらいして、あなたのところへ嫁いで参りましたけど、私の主婦としての出来があまりよろしくなかったのはあなたもとうにご存知でしたわね。自分の不甲斐なさを棚に上げて、もう少し時間があればと何度も思いましたの。
それに、もう少し時間があれば、あなたのことだってわかっていたでしょうに。私と来たら、あなたのことをしばらく誤解しておりましたの。これも十分にご存知でしょう? あなたがどういうお気持ちでいつもにこにことしていらしたのか、私に繰り返し繰り返し言葉を掛けてくださっていたのか、所帯を持ってからしばらく経つまでまるで気付けませんでした。それも時間があれば、お見合いで出会ったのでなければ、もっと早くに気付けたのかもしれませんのに。
何よりも、私は思うのです。あなたとお見合いで結婚したのでなければ、あなたと共にあることに、もっと慣れていたでしょうに。今よりもずっと、慣れることが出来ていたはずなのです。
恥を忍んでお話しすると、私はいまだに、あなたと二人で暮らしている日々に、慣れた気がしておりません。今でも、朝、目を覚ました時に、隣にあなたがいらっしゃるという光景に、不思議な感じがいたしますの。あなたをお見送りする時も、お帰りになられたのをお迎えする時も、食卓を囲んで一緒にご飯を食べている時も、本当に不慣れで、毎日初めてのことをしているようで、何だか落ち着かないのです。WENICKMANペニス増大
もう、一年にもなりますのにね。私は一向にあなたとの暮らしに慣れていないようなのです。
慣れないどころか、お恥ずかしいのですけれど、始終心臓がどぎまぎいたします。あなたといると、何をするにも胸が苦しくて、締めつけられるようなのです。常に気持ちが落ち着かなくて、目が合うだけで頬が熱くなってしまったり、その熱がのどもとまで移ってきて口の中が渇いたりします。この間の雨の日のようにひとたび手を繋いだなら、その場で跳ね上がりたくなってしまいます。食卓を挟んで向き合っているだけでも居た堪れなくて、心臓がどきどきと喧しいようで、どうしてよいのかまるでわからなくなってしまうのです。少女のような心持、と言ったら、あなたはお笑いになるかしら。いえ、きっと真面目な顔をしてそのまま受け取ってくださるでしょうね。まさしくそのような心持でいるのです。
2013年12月9日星期一
一日千秋の彼女
営業のついでに指輪のカタログを貰ってきたまではよかった。
それなりに気に入ったデザインのを絞り込んで、目星をつけてから、初めて指輪の作法を知った。RU486
何でもエンゲージリングとマリッジリングは違うものだそうで、通常プロポーズの時に渡すのが、宝石のついたエンゲージリング。結婚式にて交換するのがマリッジリングだとのこと。なんてややこしい。お揃いの指輪なら問題ないだろうと単純に考えていた俺は、ここで一つ目の壁にぶち当たった。
しかし二つ目の壁の方がより高かった。――指輪のサイズという奴は意外と細かく定められているものらしい。そして俺は、彼女の指のサイズを知らない。
「指輪って、プロポーズの後に買ったら駄目なんですかね」
飲みに行った際、思い切って相談してみたら、サンマの塩焼きをつついていた石田先輩には鼻を鳴らされた。
「まだ買ってなかったのか? ぼけっとしてるな、お前も」
「思いのほか考えることが多かったんですよ」
「この期に及んで何だよ考えることって」
「……いろいろです」
指輪にここまで細かくサイズがあったなんて知らなかったんです、とは言いにくい。
女の人の指なんて、男の指から比べたら誰も彼もそう大差ない気もするのに。彼女の指はどうだったかなと思い出してみるけど、普通としか言いようがない。特別太くも、細くもなかったような気がする。すべすべしているから、手を握ると気持ち良いのは知っている。
「考えてる暇があったら買ってこい。もう二年過ぎてんだろ」
ごく当たり前のように答える石田先輩の真向かいで、安井先輩も苦笑している。
「とっととしないと誰かに掻っ攫われるぞ、あんなに可愛い人なのに」
「そ、そういう心配は全くしてませんから!」
「なら何をためらうことがある?」
口調の割には幸せそうな安井先輩は、ざる豆腐をものすごいスピードで平らげている。ぐうの音も出なくなった俺は冷やし中華を啜ってからビールのジョッキに手を伸ばす。
俺たち三人はつまみの好みがてんでばらばらで、外に飲みに行く場合の選択肢はメニューの豊富な居酒屋に限られていた。あと某先輩が遠慮会釈なく品性に欠ける話題を口にしたりもするから、ざわざわと喧しい居酒屋の空気はそういう意味でも都合が良かった。
時は九月。繁忙期を乗り切った解放感で一杯の頃でもあるし、春にやってきた可愛い新人さんが大方の指導を終え、いよいよ営業デビューを控えた頃でもあるし、酷暑が食欲の秋へとちょうど切り替わる頃でもある。毎年この時期になると、三人で揃って飲みに行く機会が増える。もっともここ二年ほどは、居酒屋以外の選択肢として『俺の部屋に彼女を呼んで四人で飲む』機会も着実に増えてきた。ちなみに彼女の手料理なら、たとえ好みぴったりのつまみじゃなかろうと誰も文句を言わない。彼女はいいお嫁さんになる、というのが俺たち三人の共通認識である。とっとと本物の嫁にしろと先輩がたは思っているらしく、俺としてもその辺りに異存はない。
ただ、いざとなると案外手順が多いものだ。
「やっぱり高い買い物ですから、慎重には慎重を期したいんです」
俺がそう言うと、先輩がたは揃ってにやっとした。
「何言ってんだ、失敗する可能性なんて考えてないくせに」
「石橋も叩き過ぎると渡る前に壊れるぞ、霧島」
「ま、まあ、そうなんですけど……」
ご指摘の通り、俺は彼女――長谷さんへのプロポーズが失敗するとは思っていない。かれこれ二年以上も波風立てずに付き合ってきたし、その過程で結婚に関する話題も何度か話していて、彼女の反応はそう悪くもなかった。結婚を決意したきっかけもまとまった貯金が出来たからと、彼女と毎日一緒にいたいなという気持ちと、あとは繁忙期を無事に終えた九月だからという程度で、それほど大きなきっかけもなければ、気負いもないつもりだった。
それでもやっぱり、失敗はしたくない。指輪の購入以外でも慎重に慎重を期して、なるべくいいプロポーズにしたい。彼女の前で格好悪いところは見せたくない。今までに彼女の前で、俺が格好良かったことなんてちっともなくて、最初のきっかけからしてちっともスマートじゃなかった。だから余計に思ってしまう。
「もっとも、二人で指輪を選びに行くっていうのも悪くはないよな」
ふと、安井先輩が首を竦める。
「一緒に指輪を買いに行きませんか、がプロポーズの言葉になっても、それはそれでアリじゃないか」
「なるほど……いいですね、それ」
さすがにそのままいただくつもりはないけど、いいアイディアだ。指輪を一緒に選ぶのも俺たちらしい気がする。
「だよな。所詮霧島のセンスじゃ不安だからな」
石田先輩はからかう調子で言ってきた。確実にやっかみである。
「いや、霧島は女の子を見る目だけはあるよ」
すると安井先輩はそんなことを言い出して、脅すように低く続けた。
「営業課のアイドルと呼ばれた長谷さんを幸せにしないと、地獄に落ちるぞ」
「そうだな。俺たちが地獄に落としてやるから覚悟しろ」
「物騒な言い方を……ちょっとは背中を押すとか温かく激励するとかしてくださいよ!」
この先輩がたに激励なんてものを期待する俺も俺かもしれない。長谷さんの件については最早今更だ。
だけど、先輩がたと話していると、確かに彼女を幸せにしなくちゃいけないと強く思う。やっかまれたりからかわれたりするのとは別の意味合いで。プロポーズもせめて、先輩がたに不安がられないよう格好良く済ませたいものだ。
結局俺は、指輪を用意しなかった。プロポーズの後で一緒に買いに行ってもらおうと決めた。
肝心の決行日には、レストランに予約を入れた。
『――展望レストラン、ですか?』
デートの誘いを持ちかけた電話越し、彼女の声も普段通りに聞こえた。
「はい。眺めも雰囲気もいい店を教えてもらったんです」
俺も、せめて口調だけは気負いのないように告げる。
「ここ一ヶ月ほどはゆっくり会う時間もありませんでしたし、久し振りですから、ちょっと奮発しようかなと」中絶薬
『別に気を遣わなくてもいいんですよ、霧島さん』
「いえ、こういう時こそ遣わせてください。久し振りですから」
デートの間が空いたことを強調したら、やがて彼女もくすっと笑って、弾む声で賛同してくれた。
『じゃあ……素直にごちそうになっちゃいます』
「ごちそうします、喜んで」
まずは誘い出せたことにほっとする。
こんな気分もそういえば久し振りだな、とふと思う。二年以上の交際期間で、二人で会うのもいつの間にやら当たり前のようになっていたし、土日を互いの為に空けておくのも何も言わないうちから普通のことになっていた。
俺は電話を持ち替えて、自分の部屋の片付き具合をざっと目で確かめる。九月に入ってからようやく掃除をする余裕が出てきた部屋も、決行日までにはもうちょっときれいにしておきたい。外で会う約束をしても、部屋を片付けておく習慣もまた当たり前になっていた。ここ二年で俺の部屋には彼女の持ち込んだ私物も増えていたし、ふらっと一晩泊まっていけるくらいの備えは常にある。
だけど繁忙期の間は、部屋では会わないようにするのも当たり前のことになっていた。合鍵は渡していたものの、忙しい時期には彼女も訪ねてこない。掃除していない部屋を見られるのはまだ抵抗があって、そういう気持ちを彼女も理解してくれているらしい。お互い勤めに出ているのは一緒だから、仕事のせいでデートの間が空くくらいどうってこともなかった。
『その日は、泊まっていってもいいですか』
長谷さんが尋ねてきたので、俺は素早くこう答えた。
「頑張って掃除をしておきます」
『そんな、頑張らなくてもいいですよ。無理はしないでください』
「無理でも何でもします、長谷さんの為なら」
久し振りだから、土曜一日だけでは足りない。ましてその日はプロポーズの決行日でもあるのだから、出来る限り長く一緒にいられたらと考えているし、当日も同じように思うはずだ。となるとやっぱり、部屋の掃除が必要だった。
『私はちょっとくらい散らかってても気にしないです』
小さく笑った後で、長谷さんは柔らかく言い添えてきた。
『でも楽しみにしてます。本当に、久し振りって感じがしますね』
彼女の言い方は幸せそうでも、甘えるようでもあった。電話越しではなくて、直に耳元で聞いていたい声でもあった。
俺たちの言う久し振りとはたかだか一ヶ月超の長さで、その間も全く顔を見ていない訳でもない。顔が見たいだけなら受付に行けばいくらでも見られるし、電話やメールでやり取りもしている。良く出来た彼女の長谷さんは、時々残業する俺の為にお弁当を作って、手渡してくれたりもした。この一ヶ月超ですら繋がり自体は途絶えていなかったのに、本当に長い間会っていなかったような気がするから不思議だ。約束の土曜日が急速に待ち遠しくなってきて、一瞬、プロポーズについても指輪の件も遠くへ吹っ飛びかけた。まずい。
デート自体が楽しみなのも事実ではある。あるけども、『久し振り』を失くす為の約束をしに行くのだと思えば、肝心のことも忘れずに済むだろう。どうってことない、なんていうのも所詮は男の痩せ我慢に過ぎない訳だから。
「俺も、楽しみにしてます」
万感の思いを込めて応じると、彼女はもう一度笑ってから予告してきた。
『じゃあ私、ノースリーブのワンピースを着ていきますから』
「――是非お願いします。大変楽しみにしてます!」
我ながら食いつきの良過ぎる答えだと思った。でも久し振りなんだし、好きなんだから仕方ない。
彼女との通話を終えてから、俺はもう一度自分の部屋を目で確かめた。
忙しくなると途端に荒れ出す室内。今は先月よりはいくらかましだ。でも結婚するということは、繁忙期の生活態度を彼女に晒すということでもあるんだろう。
プロポーズが上手くいかない可能性は考えていないけど、実際に結婚するまでに生活態度の方は改めておこう。
結婚に至るまでの手順は案外多いものだ。時間が掛かるのもしょうがない。
彼女との待ち合わせ場所は、利用する交通手段によって異なる。
バスで出掛ける時は彼女のマンションの近くにある、歩道橋下のバス停で待ち合わせる。電車の時は俺の部屋まで来てもらって、そこから駅まで二人で行く。彼女の部屋から駅へ向かう道の途中に俺のアパートがあるからだ。今日は電車なので、俺は狭い玄関で靴を履いたまま、彼女がチャイムを鳴らすのを待つ。
こういう時、車を持っていたら便利なんだろう。先輩がたからもよく『お前の為じゃない、長谷さんの為に買え』とせっつかれるし、俺もあった方がいいのかなと時々思ったりする。だけど業務でさんざん乗っているから、休みの日は運転したくないというのが正直なところだ。休日くらいは営業の仕事も忘れていたい。威哥王三鞭粒
もっとも、今日は仕事のことなんて思い出している余裕もなさそうだ。いつもよりも早く支度が済んで、靴を履いた頃から少々緊張してきた。まだ九月の下旬だからスーツは暑い。狭い玄関は蒸していて、そんな中でじっと座り込んでいる自分がいささか滑稽に思える。
チャイムが鳴ったのは待ち合わせ時間の五分前だった。すかさず立ち上がってドアを開けたら、真正面に立っていた彼女が大きく目を瞠った。
「わ、びっくりした」
それからおかしそうに微笑んで、
「早いですね、霧島さん」
「待ってました、玄関で」
俺の正直な告白に、更に肩を揺すってみせた。狭い玄関の蒸した空気がたちまち清涼なものに変わったような気がした。
予告通りワンピースを着ていた。涼しげな薄いグリーン、その上に同系色のカーディガンを羽織っている。緑が似合うのは彼女の、一向に失われない瑞々しさのせいだろう。一応同期で同い年のはずなのに、ここ二年で俺だけが歳を食って、彼女はまるで変わらないように見える。
その服装に見とれていれば、長谷さんは可愛らしく小首を傾げた。
「おかしくないですか?」
「ちっともおかしくないです。素敵ですよ」
俺は力一杯答える。そうしたら首を竦めて、くすぐったそうにされた。
「ありがとうございます。霧島さんも決まってますね」
「いや、それほどでは……俺はいつもと似たような格好ですし」
建前上はレストランへ行くからという理由で、本当のところはもっと別の理由から、着ていく服をスーツに決めた。普段との違いがあるのかどうか怪しいものだけど、彼女は前向きな誉め言葉をくれる。
「私には、いつもとは違って見えます。表情が勤務中よりも柔らかくて、くつろいでいる感じに」
くつろげるほどの余裕は、むしろ彼女の言葉によってようやく得られたみたいだ。二年も一緒にいればさすがに、久し振りに会った休日でも落ち着いていられるようになっただろうか。俺は照れ笑いと衝動を噛み殺そうとして、衝動にだけは僅差で負けて、玄関にいるうちから彼女の手を取る。
「あっ」
声を上げ、目を瞠る彼女。すべすべした手を握ると、やがて滲むように笑われた。
「久し振り、ですね。手を繋ぐのも」
二年も一緒にいれば、こういう時に長谷さんがどう感じているかもわかる。うろたえると口数が少なくなるのが彼女だ。うろたえさせているのが他でもない俺なのだと思うと、こっちの心拍数まで上がってくる。
「ええ、あの……やっぱり顔を見るだけじゃ物足りないですから」
玄関の室温も上がる。頭が眩んでしまう前に、レストランがどうでもよくなってしまう前に、外へ出なければならない。急いで語を継ぐ。
「じゃあ、行きましょうか」
彼女もはにかむ顔つきで頷いた。
「はい」
眺めのいいレストランということで、本来はディナーにすべきだったのかもしれない。
俺がランチで予約を入れた理由は、食事とプロポーズを終えたその足で指輪を買いに行こうと考えていたからだった。でもガラス張りのエレベーターに乗り込んだ時、夜景も良かったかもなとちょっと悔やんだ。昼間の景色に情緒はない。これはこれで悪くもないんだけど。
ホテルの最上階にあるレストランは、この辺り一帯を網羅出来そうな眺望が売りだ。絶好の秋晴れの日、大きな窓からはひたすら高い青空と、陽射しを浴びた街並みとが見渡せた。席に案内されて早々、長谷さんははしゃいだ声を上げていた。
「わあ、いい眺め。山に来たみたいです」
なるほど、そういう感想もあるのか。情緒がないと決めつけるのは尚早だったかもしれない。
「行楽の秋と食欲の秋がいっぺんに楽しめますね」
むしろ俺の反応の方が情緒に欠けていたかもしれない。
彼女はうれしそうな顔をして、
「それは最高の組み合わせだと思います」
と言ってくれたものの、もう少し気の利いたことを言うべきだったと思ってしまう。気が利かないのは今に始まった話じゃない、でも今日は特別な日だ。その瞬間までに気分を盛り上げておかなくてはならない。
そもそも、いつ切り出すべきなんだろう。
食前か食後か。食べている間でもいいんだろうか。美味しい食事ですね、ところで結婚しませんか、なんてあんまりスムーズな流れじゃない。でも帰り際までには言わないと、指輪を買いに行くタイミングが外れてしまいそうだしな。難しいな。
俺があれこれ考えている真正面、白いクロスの映えるテーブルを挟んだ向こう側で、ふと彼女がカーディガンを脱いだ。線のきれいな二の腕と、剥き出しのつるりとした肩に落ちた丸い光とにいとも容易く目を奪われる。女性のパーツのどこが一番魅力的かという話題についても俺と石田先輩と安井先輩の意見が合致することはなかったけど、先輩がたがどう言おうと俺は絶対に二の腕だと思う。そして長谷さんはノースリーブが世界一似合う。三鞭粒
こちらの反応に気付いてか、彼女はちらっといたずらっ子みたいな表情をひらめかせた。
「霧島さんが喜んでくれるから、着てきました」
はい、もう、本当に喜びます。最高です。一生俺の為にノースリーブを着ていてください。――という言葉を慌てて飲み込む。
駄目だ、いくらなんでもそんなプロポーズは駄目だ。こういう時こそ格好良く決めなければ、いつ決めるというのか。
グラスの水を一口飲む。冷たさが喉を下って胃まで落ち、ようやく頭が冴えてくる。眼鏡の傾きを直すと、レンズと白いテーブル越しに彼女の笑顔と向かい合う。いつも我が社のエントランスで浮かべているのと同じ笑顔。
ジンクスを信じて失敗したことは一度もなかった。何でも上手くいった。
今こそ、改めて信じるべきだ。
「長谷さん」
意を決して呼び掛ける。
彼女は怪訝そうに瞬きをした。が、直後に視線を横へずらした。ちょうど前菜が運ばれてきたところだったからだ。お蔭で俺は配膳が終わるまで待たなくてはならず、肩に力が入った状態でしばらく、気まずい思いをしていた。間の悪さも相変わらずだった。
皿を並べ終えたウェイターが立ち去ってから、彼女がそっと反応を返してきた。
「霧島さん?」
そうやって呼ばれるのは好きだった。恋人同士なのにいつまで名字で呼び合う気だと石田先輩辺りは言うけど、俺にとってはこの呼び方も貴い。何せ営業課の面々の中、一番に名を覚えてもらったのが俺だという事実がある。他の課員を差し置いて長谷さんに呼んでもらえるという幸せがこの二年間、俺を支えてきたといっても過言ではない。
もっとも、それだけではないからこうして、切り出そうとしている。更に幸せになる為に。
「お願いがあります」
ジンクスを信じて、告げる。
「俺と、結婚してください」
ここで怯むのは最も格好悪いから、誤魔化しようも翻しようもない言い方をした。
だけどそのせいだろうか、長谷さんはかなり驚いたようだ。初めに虚を突かれたような顔をして、それからしきりに瞬きをした。何を言われたのかわからない様子にも見えたから、答えを待つこっちの方がはらはらしていた。あったはずの自信が消え失せてしまった数秒間。生きた心地がしなかった。
しばらくしてからようやく飲み込めたのか頬を赤らめて、喉のつかえが取れたみたいに息をつきながら言ってきた。
「……はい」
そして、どぎまぎしているのがよくわかる口調で、続けた。
「あの、私でよければ、是非」
実はそれからが大変だった。プロポーズの返事を、しかもOKを貰えたというのに、俺はものすごく無様ににやけてきてしまって、どうにかして真面目な顔を作っていようと必死だった。だけど無理だ、口元が緩んでしまってしょうがない。表情どころか身体ごと全部溶けてしまうんじゃないかとさえ思えた。
心配はしてなかったとは言え、ジンクスを信じていたからちっとも不安なんてなかったものの――やっぱり、非常にほっとした。うれしかった。どうしよう俺、今夜は寝られないかもしれない。いや寝なくてもいいか、彼女を連れて帰るんだから。
どうにか笑いを噛み殺したところで、お礼を言った。
「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそです」
長谷さんまでなぜか頭を下げてくる。その後で、はにかみながらふと、
「でもびっくりしました。今日言われるとは思ってなかったから……」
まだうろたえている声で言われた。よほどびっくりさせてしまったんだろうか。可愛いな、十分知ってたけど。
「いつだと思っていたんですか」
ちょっと余裕の出てきた俺は、調子に乗って尋ねてみた。
返ってきたのは恥ずかしそうな答えだ。
「もうじき霧島さんの誕生日があるから、その頃かなって……。それかクリスマス頃じゃないかなと、私はそう思ってました」
言われて初めてそれら節目の存在を思い出してしまう、情緒のない俺。そういえばそうだった。誕生日も十二月二十三日も、改まってのプロポーズをするにはいい日だったのかもしれない。むしろそういう口実を存分に利用しなければならない頃もあったんだなと、つい三年前のことを懐かしく思ってしまう。天天素
「どうして、今日にしたんですか」
逆に長谷さんから問われて、俺は一瞬答えに窮したものの、正直に言うことにした。
「特別きっかけはないんですが、強いて言うなら、久し振りに会ったからです」
「……そうなんですか?」
今日一番びっくりしたらしい彼女の、丸くなった瞳。そこへ向かって打ち明けておく。
「実を言うと、指輪のカタログはずっと前から貰ってきてたんです」
「霧島さんらしいですね」
なぜか、おかしそうにされてしまった。
彼女の言う俺らしさってどういう点なんだろうな。例によっていまいち決まらなかったプロポーズの後、俺も少々の気恥ずかしさは味わっていた。
それでも安堵の方がより大きくて、運ばれてきた食事の味も存分に堪能出来た。
結婚のきっかけってものがはっきりしていたら格好良かったのかもしれない。
よく映画にあるような、九死に一生を得た後で結婚を決意するとかそんな理由があれば――なんて、そもそも普通に生活していたら、九死に一生を得る機会すらそうはないはずだった。
俺はごく平穏な日々しか送っていないから、決意のタイミングもごく平穏に訪れてしまったのだろう。仕事に追われる日々を過ごすうち、何となく、じわじわと彼女のいる生活を求めただけ。もっと言えば彼女について欲が出てきただけだ。最初は受付で見かけて、笑いかけてもらえたら幸せな気持ちになれた。それが帰り道で偶然出会って、運良く五分間だけ一緒に帰れるようになった。そのうちにだんだん長い時間一緒にいたくなってきて、休日を二人で過ごすだけでも足りなくなってきて、やがて辿り着いた答えが結婚だった。
その答えもすぐに出せた訳ではなく、先輩がたに急き立てられ、呆れられつつものんびりしてきて、今日に至る。おまけにプロポーズに最適だったであろう記念日の存在を頭からすっ飛ばしていて、何の縁もゆかりもない日に切り出して、彼女をびっくりさせてしまった。決まってないことこの上ない。
「長谷さんは、ご都合は平気ですか」
食事をしながら聞いてみると、彼女には怪訝な顔をされてしまった。言葉足らずだったかなと慌てて付け足す。
「結婚についてです。時期は長谷さんの希望に合わせます」
「私はいつでもいいですよ」
小さく笑った彼女が、グラスに口をつける。水を飲んだ後に唇をつけた場所を拭うのが、色っぽくていいなと思う。俺がそんな不埒なことを考えている間に、彼女は微かに息をついた。
「私の方こそ、霧島さんの都合に合わせますから。お仕事が落ち着いてからでもいいですし、忙しい時期だからこそ私を頼ってくれるってことなら、それでもいいです」
今度は多分、俺の方が怪訝そうにしていたと思う。
頼る?
彼女を?
「い……いえいえそんな、今でも十分頼ってますから、これ以上は」
合点がいってからは大急ぎで否定した。彼女がいいお嫁さんになるであろうことは先輩がたに言われるまでもなくわかっていたことだけど、だからと言って彼女に家事全般を押し付けるつもりもなかった。長谷さんが作るご飯は美味しいし、繁忙期に疎かになりがちな洗濯や掃除を手伝ってもらえたらそれは大層ありがたい。だけどそれだけの為に結婚したい訳じゃない。むしろいつも受付で浮かべているような笑顔で、俺が帰る部屋にいて、出迎えてくれるだけでいい。土日と言わず年中傍にいてくれたらいい。
「俺は、結婚を機に生活態度を改めようと思っているんです」
「今まで、改めなくちゃいけないような生活態度だったんですか?」
俺が述べた決意を、長谷さんはくすくす笑いで受け止める。その辺りはもう十分伝わっているところだとばかり考えていたので、詳しく説明するのも気が引けた。
「まあ、その……繁忙期なんかは、決して誉められるような暮らしぶりではないはずです」
忙しい時期に彼女と会わないのは、つまりそういう理由だ。普通に考えれば合鍵を渡していて、彼女の私物もたくさんある部屋に、彼女を立ち入らせない期間があるのはおかしい。鍵を渡した以上はいつでもお越しくださいと言うべきだろう。俺はその理由を仕事のせいにしてきたけど、ただの口実であるのは言わずもがな。曲美
それなりに気に入ったデザインのを絞り込んで、目星をつけてから、初めて指輪の作法を知った。RU486
何でもエンゲージリングとマリッジリングは違うものだそうで、通常プロポーズの時に渡すのが、宝石のついたエンゲージリング。結婚式にて交換するのがマリッジリングだとのこと。なんてややこしい。お揃いの指輪なら問題ないだろうと単純に考えていた俺は、ここで一つ目の壁にぶち当たった。
しかし二つ目の壁の方がより高かった。――指輪のサイズという奴は意外と細かく定められているものらしい。そして俺は、彼女の指のサイズを知らない。
「指輪って、プロポーズの後に買ったら駄目なんですかね」
飲みに行った際、思い切って相談してみたら、サンマの塩焼きをつついていた石田先輩には鼻を鳴らされた。
「まだ買ってなかったのか? ぼけっとしてるな、お前も」
「思いのほか考えることが多かったんですよ」
「この期に及んで何だよ考えることって」
「……いろいろです」
指輪にここまで細かくサイズがあったなんて知らなかったんです、とは言いにくい。
女の人の指なんて、男の指から比べたら誰も彼もそう大差ない気もするのに。彼女の指はどうだったかなと思い出してみるけど、普通としか言いようがない。特別太くも、細くもなかったような気がする。すべすべしているから、手を握ると気持ち良いのは知っている。
「考えてる暇があったら買ってこい。もう二年過ぎてんだろ」
ごく当たり前のように答える石田先輩の真向かいで、安井先輩も苦笑している。
「とっととしないと誰かに掻っ攫われるぞ、あんなに可愛い人なのに」
「そ、そういう心配は全くしてませんから!」
「なら何をためらうことがある?」
口調の割には幸せそうな安井先輩は、ざる豆腐をものすごいスピードで平らげている。ぐうの音も出なくなった俺は冷やし中華を啜ってからビールのジョッキに手を伸ばす。
俺たち三人はつまみの好みがてんでばらばらで、外に飲みに行く場合の選択肢はメニューの豊富な居酒屋に限られていた。あと某先輩が遠慮会釈なく品性に欠ける話題を口にしたりもするから、ざわざわと喧しい居酒屋の空気はそういう意味でも都合が良かった。
時は九月。繁忙期を乗り切った解放感で一杯の頃でもあるし、春にやってきた可愛い新人さんが大方の指導を終え、いよいよ営業デビューを控えた頃でもあるし、酷暑が食欲の秋へとちょうど切り替わる頃でもある。毎年この時期になると、三人で揃って飲みに行く機会が増える。もっともここ二年ほどは、居酒屋以外の選択肢として『俺の部屋に彼女を呼んで四人で飲む』機会も着実に増えてきた。ちなみに彼女の手料理なら、たとえ好みぴったりのつまみじゃなかろうと誰も文句を言わない。彼女はいいお嫁さんになる、というのが俺たち三人の共通認識である。とっとと本物の嫁にしろと先輩がたは思っているらしく、俺としてもその辺りに異存はない。
ただ、いざとなると案外手順が多いものだ。
「やっぱり高い買い物ですから、慎重には慎重を期したいんです」
俺がそう言うと、先輩がたは揃ってにやっとした。
「何言ってんだ、失敗する可能性なんて考えてないくせに」
「石橋も叩き過ぎると渡る前に壊れるぞ、霧島」
「ま、まあ、そうなんですけど……」
ご指摘の通り、俺は彼女――長谷さんへのプロポーズが失敗するとは思っていない。かれこれ二年以上も波風立てずに付き合ってきたし、その過程で結婚に関する話題も何度か話していて、彼女の反応はそう悪くもなかった。結婚を決意したきっかけもまとまった貯金が出来たからと、彼女と毎日一緒にいたいなという気持ちと、あとは繁忙期を無事に終えた九月だからという程度で、それほど大きなきっかけもなければ、気負いもないつもりだった。
それでもやっぱり、失敗はしたくない。指輪の購入以外でも慎重に慎重を期して、なるべくいいプロポーズにしたい。彼女の前で格好悪いところは見せたくない。今までに彼女の前で、俺が格好良かったことなんてちっともなくて、最初のきっかけからしてちっともスマートじゃなかった。だから余計に思ってしまう。
「もっとも、二人で指輪を選びに行くっていうのも悪くはないよな」
ふと、安井先輩が首を竦める。
「一緒に指輪を買いに行きませんか、がプロポーズの言葉になっても、それはそれでアリじゃないか」
「なるほど……いいですね、それ」
さすがにそのままいただくつもりはないけど、いいアイディアだ。指輪を一緒に選ぶのも俺たちらしい気がする。
「だよな。所詮霧島のセンスじゃ不安だからな」
石田先輩はからかう調子で言ってきた。確実にやっかみである。
「いや、霧島は女の子を見る目だけはあるよ」
すると安井先輩はそんなことを言い出して、脅すように低く続けた。
「営業課のアイドルと呼ばれた長谷さんを幸せにしないと、地獄に落ちるぞ」
「そうだな。俺たちが地獄に落としてやるから覚悟しろ」
「物騒な言い方を……ちょっとは背中を押すとか温かく激励するとかしてくださいよ!」
この先輩がたに激励なんてものを期待する俺も俺かもしれない。長谷さんの件については最早今更だ。
だけど、先輩がたと話していると、確かに彼女を幸せにしなくちゃいけないと強く思う。やっかまれたりからかわれたりするのとは別の意味合いで。プロポーズもせめて、先輩がたに不安がられないよう格好良く済ませたいものだ。
結局俺は、指輪を用意しなかった。プロポーズの後で一緒に買いに行ってもらおうと決めた。
肝心の決行日には、レストランに予約を入れた。
『――展望レストラン、ですか?』
デートの誘いを持ちかけた電話越し、彼女の声も普段通りに聞こえた。
「はい。眺めも雰囲気もいい店を教えてもらったんです」
俺も、せめて口調だけは気負いのないように告げる。
「ここ一ヶ月ほどはゆっくり会う時間もありませんでしたし、久し振りですから、ちょっと奮発しようかなと」中絶薬
『別に気を遣わなくてもいいんですよ、霧島さん』
「いえ、こういう時こそ遣わせてください。久し振りですから」
デートの間が空いたことを強調したら、やがて彼女もくすっと笑って、弾む声で賛同してくれた。
『じゃあ……素直にごちそうになっちゃいます』
「ごちそうします、喜んで」
まずは誘い出せたことにほっとする。
こんな気分もそういえば久し振りだな、とふと思う。二年以上の交際期間で、二人で会うのもいつの間にやら当たり前のようになっていたし、土日を互いの為に空けておくのも何も言わないうちから普通のことになっていた。
俺は電話を持ち替えて、自分の部屋の片付き具合をざっと目で確かめる。九月に入ってからようやく掃除をする余裕が出てきた部屋も、決行日までにはもうちょっときれいにしておきたい。外で会う約束をしても、部屋を片付けておく習慣もまた当たり前になっていた。ここ二年で俺の部屋には彼女の持ち込んだ私物も増えていたし、ふらっと一晩泊まっていけるくらいの備えは常にある。
だけど繁忙期の間は、部屋では会わないようにするのも当たり前のことになっていた。合鍵は渡していたものの、忙しい時期には彼女も訪ねてこない。掃除していない部屋を見られるのはまだ抵抗があって、そういう気持ちを彼女も理解してくれているらしい。お互い勤めに出ているのは一緒だから、仕事のせいでデートの間が空くくらいどうってこともなかった。
『その日は、泊まっていってもいいですか』
長谷さんが尋ねてきたので、俺は素早くこう答えた。
「頑張って掃除をしておきます」
『そんな、頑張らなくてもいいですよ。無理はしないでください』
「無理でも何でもします、長谷さんの為なら」
久し振りだから、土曜一日だけでは足りない。ましてその日はプロポーズの決行日でもあるのだから、出来る限り長く一緒にいられたらと考えているし、当日も同じように思うはずだ。となるとやっぱり、部屋の掃除が必要だった。
『私はちょっとくらい散らかってても気にしないです』
小さく笑った後で、長谷さんは柔らかく言い添えてきた。
『でも楽しみにしてます。本当に、久し振りって感じがしますね』
彼女の言い方は幸せそうでも、甘えるようでもあった。電話越しではなくて、直に耳元で聞いていたい声でもあった。
俺たちの言う久し振りとはたかだか一ヶ月超の長さで、その間も全く顔を見ていない訳でもない。顔が見たいだけなら受付に行けばいくらでも見られるし、電話やメールでやり取りもしている。良く出来た彼女の長谷さんは、時々残業する俺の為にお弁当を作って、手渡してくれたりもした。この一ヶ月超ですら繋がり自体は途絶えていなかったのに、本当に長い間会っていなかったような気がするから不思議だ。約束の土曜日が急速に待ち遠しくなってきて、一瞬、プロポーズについても指輪の件も遠くへ吹っ飛びかけた。まずい。
デート自体が楽しみなのも事実ではある。あるけども、『久し振り』を失くす為の約束をしに行くのだと思えば、肝心のことも忘れずに済むだろう。どうってことない、なんていうのも所詮は男の痩せ我慢に過ぎない訳だから。
「俺も、楽しみにしてます」
万感の思いを込めて応じると、彼女はもう一度笑ってから予告してきた。
『じゃあ私、ノースリーブのワンピースを着ていきますから』
「――是非お願いします。大変楽しみにしてます!」
我ながら食いつきの良過ぎる答えだと思った。でも久し振りなんだし、好きなんだから仕方ない。
彼女との通話を終えてから、俺はもう一度自分の部屋を目で確かめた。
忙しくなると途端に荒れ出す室内。今は先月よりはいくらかましだ。でも結婚するということは、繁忙期の生活態度を彼女に晒すということでもあるんだろう。
プロポーズが上手くいかない可能性は考えていないけど、実際に結婚するまでに生活態度の方は改めておこう。
結婚に至るまでの手順は案外多いものだ。時間が掛かるのもしょうがない。
彼女との待ち合わせ場所は、利用する交通手段によって異なる。
バスで出掛ける時は彼女のマンションの近くにある、歩道橋下のバス停で待ち合わせる。電車の時は俺の部屋まで来てもらって、そこから駅まで二人で行く。彼女の部屋から駅へ向かう道の途中に俺のアパートがあるからだ。今日は電車なので、俺は狭い玄関で靴を履いたまま、彼女がチャイムを鳴らすのを待つ。
こういう時、車を持っていたら便利なんだろう。先輩がたからもよく『お前の為じゃない、長谷さんの為に買え』とせっつかれるし、俺もあった方がいいのかなと時々思ったりする。だけど業務でさんざん乗っているから、休みの日は運転したくないというのが正直なところだ。休日くらいは営業の仕事も忘れていたい。威哥王三鞭粒
もっとも、今日は仕事のことなんて思い出している余裕もなさそうだ。いつもよりも早く支度が済んで、靴を履いた頃から少々緊張してきた。まだ九月の下旬だからスーツは暑い。狭い玄関は蒸していて、そんな中でじっと座り込んでいる自分がいささか滑稽に思える。
チャイムが鳴ったのは待ち合わせ時間の五分前だった。すかさず立ち上がってドアを開けたら、真正面に立っていた彼女が大きく目を瞠った。
「わ、びっくりした」
それからおかしそうに微笑んで、
「早いですね、霧島さん」
「待ってました、玄関で」
俺の正直な告白に、更に肩を揺すってみせた。狭い玄関の蒸した空気がたちまち清涼なものに変わったような気がした。
予告通りワンピースを着ていた。涼しげな薄いグリーン、その上に同系色のカーディガンを羽織っている。緑が似合うのは彼女の、一向に失われない瑞々しさのせいだろう。一応同期で同い年のはずなのに、ここ二年で俺だけが歳を食って、彼女はまるで変わらないように見える。
その服装に見とれていれば、長谷さんは可愛らしく小首を傾げた。
「おかしくないですか?」
「ちっともおかしくないです。素敵ですよ」
俺は力一杯答える。そうしたら首を竦めて、くすぐったそうにされた。
「ありがとうございます。霧島さんも決まってますね」
「いや、それほどでは……俺はいつもと似たような格好ですし」
建前上はレストランへ行くからという理由で、本当のところはもっと別の理由から、着ていく服をスーツに決めた。普段との違いがあるのかどうか怪しいものだけど、彼女は前向きな誉め言葉をくれる。
「私には、いつもとは違って見えます。表情が勤務中よりも柔らかくて、くつろいでいる感じに」
くつろげるほどの余裕は、むしろ彼女の言葉によってようやく得られたみたいだ。二年も一緒にいればさすがに、久し振りに会った休日でも落ち着いていられるようになっただろうか。俺は照れ笑いと衝動を噛み殺そうとして、衝動にだけは僅差で負けて、玄関にいるうちから彼女の手を取る。
「あっ」
声を上げ、目を瞠る彼女。すべすべした手を握ると、やがて滲むように笑われた。
「久し振り、ですね。手を繋ぐのも」
二年も一緒にいれば、こういう時に長谷さんがどう感じているかもわかる。うろたえると口数が少なくなるのが彼女だ。うろたえさせているのが他でもない俺なのだと思うと、こっちの心拍数まで上がってくる。
「ええ、あの……やっぱり顔を見るだけじゃ物足りないですから」
玄関の室温も上がる。頭が眩んでしまう前に、レストランがどうでもよくなってしまう前に、外へ出なければならない。急いで語を継ぐ。
「じゃあ、行きましょうか」
彼女もはにかむ顔つきで頷いた。
「はい」
眺めのいいレストランということで、本来はディナーにすべきだったのかもしれない。
俺がランチで予約を入れた理由は、食事とプロポーズを終えたその足で指輪を買いに行こうと考えていたからだった。でもガラス張りのエレベーターに乗り込んだ時、夜景も良かったかもなとちょっと悔やんだ。昼間の景色に情緒はない。これはこれで悪くもないんだけど。
ホテルの最上階にあるレストランは、この辺り一帯を網羅出来そうな眺望が売りだ。絶好の秋晴れの日、大きな窓からはひたすら高い青空と、陽射しを浴びた街並みとが見渡せた。席に案内されて早々、長谷さんははしゃいだ声を上げていた。
「わあ、いい眺め。山に来たみたいです」
なるほど、そういう感想もあるのか。情緒がないと決めつけるのは尚早だったかもしれない。
「行楽の秋と食欲の秋がいっぺんに楽しめますね」
むしろ俺の反応の方が情緒に欠けていたかもしれない。
彼女はうれしそうな顔をして、
「それは最高の組み合わせだと思います」
と言ってくれたものの、もう少し気の利いたことを言うべきだったと思ってしまう。気が利かないのは今に始まった話じゃない、でも今日は特別な日だ。その瞬間までに気分を盛り上げておかなくてはならない。
そもそも、いつ切り出すべきなんだろう。
食前か食後か。食べている間でもいいんだろうか。美味しい食事ですね、ところで結婚しませんか、なんてあんまりスムーズな流れじゃない。でも帰り際までには言わないと、指輪を買いに行くタイミングが外れてしまいそうだしな。難しいな。
俺があれこれ考えている真正面、白いクロスの映えるテーブルを挟んだ向こう側で、ふと彼女がカーディガンを脱いだ。線のきれいな二の腕と、剥き出しのつるりとした肩に落ちた丸い光とにいとも容易く目を奪われる。女性のパーツのどこが一番魅力的かという話題についても俺と石田先輩と安井先輩の意見が合致することはなかったけど、先輩がたがどう言おうと俺は絶対に二の腕だと思う。そして長谷さんはノースリーブが世界一似合う。三鞭粒
こちらの反応に気付いてか、彼女はちらっといたずらっ子みたいな表情をひらめかせた。
「霧島さんが喜んでくれるから、着てきました」
はい、もう、本当に喜びます。最高です。一生俺の為にノースリーブを着ていてください。――という言葉を慌てて飲み込む。
駄目だ、いくらなんでもそんなプロポーズは駄目だ。こういう時こそ格好良く決めなければ、いつ決めるというのか。
グラスの水を一口飲む。冷たさが喉を下って胃まで落ち、ようやく頭が冴えてくる。眼鏡の傾きを直すと、レンズと白いテーブル越しに彼女の笑顔と向かい合う。いつも我が社のエントランスで浮かべているのと同じ笑顔。
ジンクスを信じて失敗したことは一度もなかった。何でも上手くいった。
今こそ、改めて信じるべきだ。
「長谷さん」
意を決して呼び掛ける。
彼女は怪訝そうに瞬きをした。が、直後に視線を横へずらした。ちょうど前菜が運ばれてきたところだったからだ。お蔭で俺は配膳が終わるまで待たなくてはならず、肩に力が入った状態でしばらく、気まずい思いをしていた。間の悪さも相変わらずだった。
皿を並べ終えたウェイターが立ち去ってから、彼女がそっと反応を返してきた。
「霧島さん?」
そうやって呼ばれるのは好きだった。恋人同士なのにいつまで名字で呼び合う気だと石田先輩辺りは言うけど、俺にとってはこの呼び方も貴い。何せ営業課の面々の中、一番に名を覚えてもらったのが俺だという事実がある。他の課員を差し置いて長谷さんに呼んでもらえるという幸せがこの二年間、俺を支えてきたといっても過言ではない。
もっとも、それだけではないからこうして、切り出そうとしている。更に幸せになる為に。
「お願いがあります」
ジンクスを信じて、告げる。
「俺と、結婚してください」
ここで怯むのは最も格好悪いから、誤魔化しようも翻しようもない言い方をした。
だけどそのせいだろうか、長谷さんはかなり驚いたようだ。初めに虚を突かれたような顔をして、それからしきりに瞬きをした。何を言われたのかわからない様子にも見えたから、答えを待つこっちの方がはらはらしていた。あったはずの自信が消え失せてしまった数秒間。生きた心地がしなかった。
しばらくしてからようやく飲み込めたのか頬を赤らめて、喉のつかえが取れたみたいに息をつきながら言ってきた。
「……はい」
そして、どぎまぎしているのがよくわかる口調で、続けた。
「あの、私でよければ、是非」
実はそれからが大変だった。プロポーズの返事を、しかもOKを貰えたというのに、俺はものすごく無様ににやけてきてしまって、どうにかして真面目な顔を作っていようと必死だった。だけど無理だ、口元が緩んでしまってしょうがない。表情どころか身体ごと全部溶けてしまうんじゃないかとさえ思えた。
心配はしてなかったとは言え、ジンクスを信じていたからちっとも不安なんてなかったものの――やっぱり、非常にほっとした。うれしかった。どうしよう俺、今夜は寝られないかもしれない。いや寝なくてもいいか、彼女を連れて帰るんだから。
どうにか笑いを噛み殺したところで、お礼を言った。
「ありがとうございます」
「いえ、こちらこそです」
長谷さんまでなぜか頭を下げてくる。その後で、はにかみながらふと、
「でもびっくりしました。今日言われるとは思ってなかったから……」
まだうろたえている声で言われた。よほどびっくりさせてしまったんだろうか。可愛いな、十分知ってたけど。
「いつだと思っていたんですか」
ちょっと余裕の出てきた俺は、調子に乗って尋ねてみた。
返ってきたのは恥ずかしそうな答えだ。
「もうじき霧島さんの誕生日があるから、その頃かなって……。それかクリスマス頃じゃないかなと、私はそう思ってました」
言われて初めてそれら節目の存在を思い出してしまう、情緒のない俺。そういえばそうだった。誕生日も十二月二十三日も、改まってのプロポーズをするにはいい日だったのかもしれない。むしろそういう口実を存分に利用しなければならない頃もあったんだなと、つい三年前のことを懐かしく思ってしまう。天天素
「どうして、今日にしたんですか」
逆に長谷さんから問われて、俺は一瞬答えに窮したものの、正直に言うことにした。
「特別きっかけはないんですが、強いて言うなら、久し振りに会ったからです」
「……そうなんですか?」
今日一番びっくりしたらしい彼女の、丸くなった瞳。そこへ向かって打ち明けておく。
「実を言うと、指輪のカタログはずっと前から貰ってきてたんです」
「霧島さんらしいですね」
なぜか、おかしそうにされてしまった。
彼女の言う俺らしさってどういう点なんだろうな。例によっていまいち決まらなかったプロポーズの後、俺も少々の気恥ずかしさは味わっていた。
それでも安堵の方がより大きくて、運ばれてきた食事の味も存分に堪能出来た。
結婚のきっかけってものがはっきりしていたら格好良かったのかもしれない。
よく映画にあるような、九死に一生を得た後で結婚を決意するとかそんな理由があれば――なんて、そもそも普通に生活していたら、九死に一生を得る機会すらそうはないはずだった。
俺はごく平穏な日々しか送っていないから、決意のタイミングもごく平穏に訪れてしまったのだろう。仕事に追われる日々を過ごすうち、何となく、じわじわと彼女のいる生活を求めただけ。もっと言えば彼女について欲が出てきただけだ。最初は受付で見かけて、笑いかけてもらえたら幸せな気持ちになれた。それが帰り道で偶然出会って、運良く五分間だけ一緒に帰れるようになった。そのうちにだんだん長い時間一緒にいたくなってきて、休日を二人で過ごすだけでも足りなくなってきて、やがて辿り着いた答えが結婚だった。
その答えもすぐに出せた訳ではなく、先輩がたに急き立てられ、呆れられつつものんびりしてきて、今日に至る。おまけにプロポーズに最適だったであろう記念日の存在を頭からすっ飛ばしていて、何の縁もゆかりもない日に切り出して、彼女をびっくりさせてしまった。決まってないことこの上ない。
「長谷さんは、ご都合は平気ですか」
食事をしながら聞いてみると、彼女には怪訝な顔をされてしまった。言葉足らずだったかなと慌てて付け足す。
「結婚についてです。時期は長谷さんの希望に合わせます」
「私はいつでもいいですよ」
小さく笑った彼女が、グラスに口をつける。水を飲んだ後に唇をつけた場所を拭うのが、色っぽくていいなと思う。俺がそんな不埒なことを考えている間に、彼女は微かに息をついた。
「私の方こそ、霧島さんの都合に合わせますから。お仕事が落ち着いてからでもいいですし、忙しい時期だからこそ私を頼ってくれるってことなら、それでもいいです」
今度は多分、俺の方が怪訝そうにしていたと思う。
頼る?
彼女を?
「い……いえいえそんな、今でも十分頼ってますから、これ以上は」
合点がいってからは大急ぎで否定した。彼女がいいお嫁さんになるであろうことは先輩がたに言われるまでもなくわかっていたことだけど、だからと言って彼女に家事全般を押し付けるつもりもなかった。長谷さんが作るご飯は美味しいし、繁忙期に疎かになりがちな洗濯や掃除を手伝ってもらえたらそれは大層ありがたい。だけどそれだけの為に結婚したい訳じゃない。むしろいつも受付で浮かべているような笑顔で、俺が帰る部屋にいて、出迎えてくれるだけでいい。土日と言わず年中傍にいてくれたらいい。
「俺は、結婚を機に生活態度を改めようと思っているんです」
「今まで、改めなくちゃいけないような生活態度だったんですか?」
俺が述べた決意を、長谷さんはくすくす笑いで受け止める。その辺りはもう十分伝わっているところだとばかり考えていたので、詳しく説明するのも気が引けた。
「まあ、その……繁忙期なんかは、決して誉められるような暮らしぶりではないはずです」
忙しい時期に彼女と会わないのは、つまりそういう理由だ。普通に考えれば合鍵を渡していて、彼女の私物もたくさんある部屋に、彼女を立ち入らせない期間があるのはおかしい。鍵を渡した以上はいつでもお越しくださいと言うべきだろう。俺はその理由を仕事のせいにしてきたけど、ただの口実であるのは言わずもがな。曲美
2013年12月6日星期五
慎重
翌日、火曜日。
昼の休憩に入ってすぐ、俺は秘書課まで清水を迎えに行った。彼女は昨日と同じように、机に向かって書類を片付けていた。
「清水、行こう」
声を掛けると、彼女が頷く。SPANISCHE FLIEGE D6
「うん」
即答して席を立ったところを見るに、ちょうど休憩に入るところだったらしい。内心ほっとしつつ、廊下で彼女が出てくるのを待つ。
秘書課を出てきた清水は、心なしかそわそわした様子だった。弁当がそんなに楽しみなんだろうか。彼女らしい健啖家ぶりだな、とこっそり思う。
俺は俺で、やはりどうしても落ち着かない。廊下を歩く足も自然と早くなっていたようだ。清水は俺の数歩後ろからついてきた。時々それを振り返り、気が逸っているのを自覚する。
肩を並べて歩いていたら、もっと緊張していたかもしれない。なるべくポジティブに考えることにして、彼女を先導しつつ社員食堂へ向かう。
混み合う食堂の隅の方、俺たちはようやく並んで座った。
そこで俺は、持参した弁当箱を彼女へ差し出す。清水の可愛いコレクションとは違い、俺の使う弁当箱はいかにも色気のない、アルマイトのつるりとした奴。それを二つ持ってきた。中身は分量が違うだけで、品目は全く同じだ。
「今日も自信作?」
彼女が楽しげに尋ねてきたから、当然胸を張っておく。
「もちろん、美味いよ」
不味いはずがない。そこだけはめちゃくちゃ自信がある。
それで清水はいそいそと蓋を開け、俺はその様子を隣から眺める。弁当の中身を一目見て、彼女がにんまりするのがわかった。どうやら見た目はお気に召したらしい。
ちなみに本日のメニューはハンバーグ、これは以前好評だった照り焼きソースにした。それからうちの母さん推薦のほうれん草のオムレツ。栄養を考えて、とにかく野菜の入るメニューを心がけたつもりだ。同じ理由からアスパラのベーコン巻きも作った。それからコーンサラダも、これは甘党の彼女を意識した箸休めの一品。
「美味しそう!」
清水はぱちぱち手を叩く。そういう仕種がまた可愛くて堪らず、ついつい声を立てて笑ってしまう。でも『美味しそう』は違うな。美味しいに決まっている。何せ俺が、清水の為に作った料理なんだから。
「だから、美味いって。食べてみれば?」
俺が促すと、彼女は早速箸を取り、手を合わせた。
「そうする。いただきまーす」
「どうぞ」
余程お腹が空いていたんだろう、清水が猛然と弁当を食べ始めた。食べながらいかにも幸せそうな顔をしている。見ていて飽きない。
全てのおかずを一通りローテーションした後、ようやく彼女が息をついた。
「さっすが播上、とびきり美味しいよ」
「そっか。よかった」
何だかんだ言っても、その言葉にはほっとした。どれだけ自信があろうとも、彼女からの称賛は欲しいものだった。それから俺も、ようやく自分の弁当に手をつけ始める。
弁当の出来には自信があった。だが――実のところ、食欲はあまりなかった。
気分が落ち着かなくて、そわそわしていて、とてもじゃないが悠長に食事なんてしていられない。頭の中は一つの考えだけではち切れそうだった。
いつ、彼女に切り出そうか。
料理は言葉よりも雄弁だ、しかし言葉なしではその意味合いすら曖昧なままだ。はっきりと告げなくてはならないし、そうすべく脳内シミュレーションも重ねてきた。あとはタイミングだ。
食べながら聞いてもらうのがいいか、それとも食べ終えて一息ついて方の方がいいか。俺は横目で清水をうかがいながら、そのタイミングを見計らっていた。お蔭でこっちの食事は全く進まない。
だが、
「ところで、播上さあ」
完全に箸の止まっていたところへ、清水の声が聞こえてきた。
「ん?」
はっとして面を上げる。すぐに隣を見ると、彼女はおかしそうに少し笑った。それから首を傾げた。
「どうして私に、お弁当を作ってくる気になったの?」
直球の質問だった。
これだって予想の範囲内ではある。弁当のおかず交換は普通にしていたし、相手に料理を作ったことだってお互い、今までにも何度かあった。だが今日は弁当そのものを彼女に贈っている。初めてのことだし、彼女が疑問を抱くのも無理はない。
ただ、ストレートに問われると動揺した。SPANISCHE FLIEGE D9
もうじきそれを、ちゃんと告げようと思っていたのに。
どう答えようか、そのことすら一気に考えられなくなった。呼吸ごと何もかもをかき乱されて、俺は手元へ視線を落とす。ほとんど手のついていない弁当がある。彼女と、俺の為に作ったものだ。今日の日の為に用意をしてきたものだ。
ためらってはいけない。今日でなければいけない。五年目の今日でなければ、これまでにもこれからもチャンスはないのだと思う。
無駄にはしない。今日までの用意、今日の為の決意、そして昼休みのこの時間。
「播上?」
清水が、俺を呼んだ。
俺は彼女の方は見ず、ああ、と短く答えた。それから賑々しい食堂に紛れるほどの、彼女の耳にだけ届く声量で、
「――清水」
名前を呼び返した。
「何?」
彼女の怪訝そうな声。深呼吸の後に語を継ぐ。
「俺、さ。清水には、早めに言っとこうと思ったんだけど」
まず、事実を口にした。
「……俺、辞めるんだ。この仕事」
その直後も、少し間を置いてからも、彼女は特に反応しなかった。
昼の社員食堂はざわめきに満ちている。その中でも俺たちだけがやけに静かだ。ほんの短い間だが、お互い全く口を利かなかった。俺は続きの言葉を組み立てる為に、彼女は――多分、驚きのせいで。
驚きはするだろうと思う。それは仕方ない。五年も勤め上げた職場を離れるなら、相応の理由があってしかるべきだ。そして俺には理由がある。
清水なら俺の真意は酌んでくれるはずだし、ここから連なる言葉もしっかり聞いていてくれる。そう信じて、更に続けた。
「年度末で辞めることになってる。辞表も出してきた」
なるべく穏やかに打ち明けようと思った。
「ずっと迷ってたんだけどな。この仕事も楽しいし、悪くなかったけど」
迷いと言うなら、それこそずっと前から迷っていた。この仕事に慣れる前から。入社してすぐの頃から。家業を継ぐ覚悟がなくて、父さんと母さんの積み上げてきたものを壊してしまうのが嫌で、今の仕事にしがみついてきた。辛いことがあっても、苦しい時があっても、俺にはこれしかないんだと言い聞かせてきた。
でも、気が変わった。
「やっぱり……他にやりたいこともあったからさ」
誤魔化すのは止めようと思った。自分の気持ちを。やりたいことを。小さな頃から抱き続けてきた夢を、誤魔化さずに叶えようと思った。
「仕事辞めて、店、継ぐつもりなんだ」
その夢をはっきりと告げる。
彼女にも共有してもらえたらいい。そしてこれからもずっと、一緒にいられたらいい。夢も願いも全て叶えたかった。
「清水にはいろいろ世話になっただろ? まだ皆には言ってないけど、お前には言っとこうと思って」
そこまで言ってようやく、俺は清水の顔を見た。
彼女はまだ驚いているのか、ぽかんと素の表情をしている。俺はまた笑いそうになって、慌てて堪えた。でも堪え切れなかった。
「上には話通ってるけど、皆にはまだ黙っててくれ」
そう言った時は、多分、ぎこちない笑顔になっていたと思う。
直にそれも打ち消さなければならなくなったが――清水が、いつまで経っても黙っていたから。
彼女の表情は硬かった。強張っていた。
じっと向けてくる眼差しは鋭く、それでいて不安げにも見えた。知らなかったことを改めて思い知らされたような、愕然とした顔つきにも映る。彼女の内心を推し測るのは難しかったが、どちらにしても予想だにしない反応だった。
笑ってくれると思っていた。驚いたとしても、すぐに理解してくれるだろうと踏んでいた。これからも一緒にいたいと望んでくれているのなら、俺はそれを叶えてやれる。それだけの気持ちがあればよかった。他の感情が今はなくても、一緒にいればいつかは必ず――そう思っていたから、不安はなかった。
だが今になって急に不安を覚えた。彼女の反応が予想通りではなかったことと、彼女の方もまた、不安そうにしていることに。
彼女はまだ黙っている。
どうして何も言ってくれないのか、だんだんわからなくなってきた。ただ驚いているだけではないのだろうと、おぼろげに察した。それなら一体、どうしてなのか。
待っているのも辛くなり、結局俺は尋ねてしまった。
「清水? 怒ってるのか?」
すると彼女は僅かにだけかぶりを振った。事実、その時の表情は怒りの色には見えなかった。SPANISCHE FLIEGE
むしろ泣き出しそうに見えた。
彼女の、そんな顔を目にするのは初めてだ。五年の付き合いでも初めてだった。何かあっても泣くような性格とは思えない。入社当初の一番辛そうな頃だって、仕事に追われていた頃だって、絶対にこんな顔はしなかった。負けず嫌いで気が強くて、でも気配りにも長けている清水が、こういう時に泣きそうなそぶりをするなんて、本当に予想がつかなかった。
狼狽のあまり喉が鳴る。どうしよう、どうにかしなければ。俺が慌て出した時、彼女がやっと、動いた。
隠すように置いていた紙袋、そこから何かを取り出した。
「播上、これ、あげる」
グラシン紙に包まれた、何か。
お菓子だろうか。俺が手を出せずにいれば、清水は弱々しく言い添えてくる。
「バレンタインデーのチョコ。少し、早いけど」
今度は俺が驚かされた。
二月十四日よりも少し早かったから、だけじゃない。彼女からチョコレートを貰ったことなんて、今までなかった。一度もなかった。彼女は義理チョコを配らない主義だと何年も前に聞いていたから、こちらから催促したこともなかった。義理で貰うくらいなら、別に貰わなくてもいいと思っていた。
前例のない、催促だってしていない、初めて貰ったバレンタインのチョコレート。
――だから、だからつまり、その意味するところは。
彼女の細い手から、それを慎重に受け取る。
「開けてもいいのか?」
俺が問うと確かに頷いてくれた。
包みを解く。中から現れたのはチョコブラウニーだった。手作りなのだとすぐにわかった。しっとり、美味しそうな色をしている。
すぐ隣にいる、影の落ちた横顔をちらと見た。彼女は何も言わない。いつもみたいに負けず嫌いの台詞さえ告がない。
俺は貰ったばかりのお菓子を一切れ掴む。素早く口に運ぶ。どっしりと重い生地は甘く、そしてほろ苦く、ほのかにブランデーの風味もしていた。
その方が好みだと、前に俺が言ったから。そうなのだと思う。
彼女も覚えていてくれた。俺と同じように、食べてもらう相手の好みを。
「美味しい」
すぐに伝えた。こういう時、口下手なのが実に悔やまれた。
たった一言だけでは伝えきれないくらいのことを、胸のうちでは思っている。
この期に及んで、俺は清水の内心を読み誤っていたらしい。長い付き合いだから、五年の年月は伊達じゃないから、彼女の気持ちくらいわかっていると思っていた。彼女は俺をメシ友としか思っていなくて、それでも驚くほどの純粋な好意と友情を抱いてくれていて、この先も一緒にいたいと願っていて、一緒にいることについて何の疑いも持っていない――俺の読みはこうだった。
なのに、違った。肝心なところを外していた。俺の清水への想いが五年の間に変化したように、彼女の内心もまた移り変わっていたようだ。気づけなかったのは多分、彼女自身が気づいていなかったからなんだろう。
どうして彼女は、初めてのチョコレートを作ってきてくれたのか。
どうして彼女は、俺の言葉に泣きそうな顔をしているのか。
思い知らされるまでにお互い、五年掛かった。
喜びよりも強く、打ちのめされた気分になった。
五年の付き合いは伊達じゃない、俺はその間、彼女に対してさまざまなことを思い、そして想ってきた。でも彼女の全ては見抜けなかった。肝心なところに今の今まで気づけなかった。彼女について知らないことはまだまだ多いようだ。
清水だって恐らく同じだろう。お互いの言動に驚かされる余地もある。彼女は俺のことをわかっていないに違いない。俺がどうして、この会社を辞める話をこういう形で切り出したのか。この後、何を告げようとしているのか。まだ知らないだろうし、予想も出来ていないはずだ。
俺たちにとっての五年は、全くもって短すぎた。
五年ぽっちじゃちっとも足りない、これからもずっとずっと一緒にいたい。
言いたいことはたくさんあった。たった一言では伝えきれないくらいたくさんあった。
その時、夢から覚めた顔をして、清水がふと笑んだ。
「チョコのお返しに、連絡先教えて」
無理のある、精一杯だとわかる笑顔と口調。Motivator
「お店、絶対行くから」
胸が詰まる。
そんな顔をさせる為に打ち明けた訳でも、弁当を作ってきた訳でもない。いつだって清水には幸せな、美味しそうな顔をしていて欲しかった。
「清水、お前さ」
先の言葉には答えず、俺は彼女に呼びかけた。
「……何?」
抑揚のない問い返し。心苦しさに気が逸る。
「女将になる気、ない?」
そのせいか俺も、いつになく重い物言いになった。
少し気まずい。もっと軽く、器用に言いたかったのに。改まった告白は出来そうにないから、せめてするりと告げたかったのに。
「女将?」
清水が寝惚けた声を上げた。知らない単語を発音してみたように、腑に落ちない顔をしている。
視線を彼女から外し、俺は告白を重ねる。
「今、すぐじゃないけど」
俺は年度末でこの会社を辞める。故郷へ戻ったら今度は別の用意を終えて、必ず清水を迎えに来る。その時まで待っていてくれたらうれしい。
そう思って、続けた。
「……いつか、一緒に店、やれたらなって」
およそスマートではない言い方になった。でも、そんなものは端から諦めておくべきだったのかもしれない。不器用なのは言葉だけじゃない。彼女を見る目もまた曇っていた。今となってはもう、彼女の答えさえ予測出来ない。
ただ、彼女の気持ちはもうわかっている。
待ち時間が随分と長く感じられた。数分が過ぎた頃、深呼吸が聞こえて、彼女からの答えがあった。
「か、考えとく。前向きに」
らしくもない、裏返った声だった。
隣へと視線を戻せば、清水の目も泳いでいた。ぎくしゃく俺を見たものの、表情は硬く、前髪の下で眉を顰めている。口元はきゅっと引き結ばれていて、頬はほんのり赤い。目が潤んでいるのはさっき、泣きそうになっていたから、だろうか。彼女の言う『前向きに』がどの程度の確率なのか、顔からは察しがつかなかった。
わかるはずもない。
五年の付き合いだって言うのに、今ようやく知ったほどだ。――あの清水でも、プロポーズらしい言葉を告げられる局面ではうろたえることがあるらしい。俺の不器用な告白でも、彼女をどぎまぎさせるくらいは出来るらしい。知らなかった。
急に笑いが込み上げてきた。
狼狽する清水が可愛かった。前々から可愛いのは知っていたが、新たな魅力を発見した。うれしかった。
そうしたら彼女も俺を見て、つられるように笑ってくれた。笑う顔はもっと可愛い。何もかも吹き飛んだ後のとびきりの笑みだったから、余計に。
それから俺たちは弁当と、チョコブラウニーを食べた。
清水はいつも通りに食欲旺盛だった。彼女ならいつ何時でもばりばり食べるのかもしれない。隣から眺めていると幸せな気分になれる食べっぷり。
「お弁当、美味しいよ」
しきりにそう言ってくれるのも本当に、うれしい。
俺も負けじと食べた。そして誉めた。
「ブラウニーも美味いよ。すごくいい出来だ」
「そりゃそうだよ、本気で作ったもん」
彼女は得意げに胸を張ってから、ふっと肩を竦めた。
「でもまさか、本命チョコになっちゃうとは思ってなかったな。自分でも不思議な感じ」
「バレンタインはまだ先なのにな」
「そうだよね。虫の知らせって奴だったのかな」
呟く横顔を眺めてみる。彼女は、恋愛するだけの余裕を見つけたんだろうか。それとも、そんなのはまるで関係なく、ある瞬間に『落っこちて』しまったんだろうか。どちらなのか、いつか聞いてみたい。蒼蝿水(FLY D5原液)
昼の休憩に入ってすぐ、俺は秘書課まで清水を迎えに行った。彼女は昨日と同じように、机に向かって書類を片付けていた。
「清水、行こう」
声を掛けると、彼女が頷く。SPANISCHE FLIEGE D6
「うん」
即答して席を立ったところを見るに、ちょうど休憩に入るところだったらしい。内心ほっとしつつ、廊下で彼女が出てくるのを待つ。
秘書課を出てきた清水は、心なしかそわそわした様子だった。弁当がそんなに楽しみなんだろうか。彼女らしい健啖家ぶりだな、とこっそり思う。
俺は俺で、やはりどうしても落ち着かない。廊下を歩く足も自然と早くなっていたようだ。清水は俺の数歩後ろからついてきた。時々それを振り返り、気が逸っているのを自覚する。
肩を並べて歩いていたら、もっと緊張していたかもしれない。なるべくポジティブに考えることにして、彼女を先導しつつ社員食堂へ向かう。
混み合う食堂の隅の方、俺たちはようやく並んで座った。
そこで俺は、持参した弁当箱を彼女へ差し出す。清水の可愛いコレクションとは違い、俺の使う弁当箱はいかにも色気のない、アルマイトのつるりとした奴。それを二つ持ってきた。中身は分量が違うだけで、品目は全く同じだ。
「今日も自信作?」
彼女が楽しげに尋ねてきたから、当然胸を張っておく。
「もちろん、美味いよ」
不味いはずがない。そこだけはめちゃくちゃ自信がある。
それで清水はいそいそと蓋を開け、俺はその様子を隣から眺める。弁当の中身を一目見て、彼女がにんまりするのがわかった。どうやら見た目はお気に召したらしい。
ちなみに本日のメニューはハンバーグ、これは以前好評だった照り焼きソースにした。それからうちの母さん推薦のほうれん草のオムレツ。栄養を考えて、とにかく野菜の入るメニューを心がけたつもりだ。同じ理由からアスパラのベーコン巻きも作った。それからコーンサラダも、これは甘党の彼女を意識した箸休めの一品。
「美味しそう!」
清水はぱちぱち手を叩く。そういう仕種がまた可愛くて堪らず、ついつい声を立てて笑ってしまう。でも『美味しそう』は違うな。美味しいに決まっている。何せ俺が、清水の為に作った料理なんだから。
「だから、美味いって。食べてみれば?」
俺が促すと、彼女は早速箸を取り、手を合わせた。
「そうする。いただきまーす」
「どうぞ」
余程お腹が空いていたんだろう、清水が猛然と弁当を食べ始めた。食べながらいかにも幸せそうな顔をしている。見ていて飽きない。
全てのおかずを一通りローテーションした後、ようやく彼女が息をついた。
「さっすが播上、とびきり美味しいよ」
「そっか。よかった」
何だかんだ言っても、その言葉にはほっとした。どれだけ自信があろうとも、彼女からの称賛は欲しいものだった。それから俺も、ようやく自分の弁当に手をつけ始める。
弁当の出来には自信があった。だが――実のところ、食欲はあまりなかった。
気分が落ち着かなくて、そわそわしていて、とてもじゃないが悠長に食事なんてしていられない。頭の中は一つの考えだけではち切れそうだった。
いつ、彼女に切り出そうか。
料理は言葉よりも雄弁だ、しかし言葉なしではその意味合いすら曖昧なままだ。はっきりと告げなくてはならないし、そうすべく脳内シミュレーションも重ねてきた。あとはタイミングだ。
食べながら聞いてもらうのがいいか、それとも食べ終えて一息ついて方の方がいいか。俺は横目で清水をうかがいながら、そのタイミングを見計らっていた。お蔭でこっちの食事は全く進まない。
だが、
「ところで、播上さあ」
完全に箸の止まっていたところへ、清水の声が聞こえてきた。
「ん?」
はっとして面を上げる。すぐに隣を見ると、彼女はおかしそうに少し笑った。それから首を傾げた。
「どうして私に、お弁当を作ってくる気になったの?」
直球の質問だった。
これだって予想の範囲内ではある。弁当のおかず交換は普通にしていたし、相手に料理を作ったことだってお互い、今までにも何度かあった。だが今日は弁当そのものを彼女に贈っている。初めてのことだし、彼女が疑問を抱くのも無理はない。
ただ、ストレートに問われると動揺した。SPANISCHE FLIEGE D9
もうじきそれを、ちゃんと告げようと思っていたのに。
どう答えようか、そのことすら一気に考えられなくなった。呼吸ごと何もかもをかき乱されて、俺は手元へ視線を落とす。ほとんど手のついていない弁当がある。彼女と、俺の為に作ったものだ。今日の日の為に用意をしてきたものだ。
ためらってはいけない。今日でなければいけない。五年目の今日でなければ、これまでにもこれからもチャンスはないのだと思う。
無駄にはしない。今日までの用意、今日の為の決意、そして昼休みのこの時間。
「播上?」
清水が、俺を呼んだ。
俺は彼女の方は見ず、ああ、と短く答えた。それから賑々しい食堂に紛れるほどの、彼女の耳にだけ届く声量で、
「――清水」
名前を呼び返した。
「何?」
彼女の怪訝そうな声。深呼吸の後に語を継ぐ。
「俺、さ。清水には、早めに言っとこうと思ったんだけど」
まず、事実を口にした。
「……俺、辞めるんだ。この仕事」
その直後も、少し間を置いてからも、彼女は特に反応しなかった。
昼の社員食堂はざわめきに満ちている。その中でも俺たちだけがやけに静かだ。ほんの短い間だが、お互い全く口を利かなかった。俺は続きの言葉を組み立てる為に、彼女は――多分、驚きのせいで。
驚きはするだろうと思う。それは仕方ない。五年も勤め上げた職場を離れるなら、相応の理由があってしかるべきだ。そして俺には理由がある。
清水なら俺の真意は酌んでくれるはずだし、ここから連なる言葉もしっかり聞いていてくれる。そう信じて、更に続けた。
「年度末で辞めることになってる。辞表も出してきた」
なるべく穏やかに打ち明けようと思った。
「ずっと迷ってたんだけどな。この仕事も楽しいし、悪くなかったけど」
迷いと言うなら、それこそずっと前から迷っていた。この仕事に慣れる前から。入社してすぐの頃から。家業を継ぐ覚悟がなくて、父さんと母さんの積み上げてきたものを壊してしまうのが嫌で、今の仕事にしがみついてきた。辛いことがあっても、苦しい時があっても、俺にはこれしかないんだと言い聞かせてきた。
でも、気が変わった。
「やっぱり……他にやりたいこともあったからさ」
誤魔化すのは止めようと思った。自分の気持ちを。やりたいことを。小さな頃から抱き続けてきた夢を、誤魔化さずに叶えようと思った。
「仕事辞めて、店、継ぐつもりなんだ」
その夢をはっきりと告げる。
彼女にも共有してもらえたらいい。そしてこれからもずっと、一緒にいられたらいい。夢も願いも全て叶えたかった。
「清水にはいろいろ世話になっただろ? まだ皆には言ってないけど、お前には言っとこうと思って」
そこまで言ってようやく、俺は清水の顔を見た。
彼女はまだ驚いているのか、ぽかんと素の表情をしている。俺はまた笑いそうになって、慌てて堪えた。でも堪え切れなかった。
「上には話通ってるけど、皆にはまだ黙っててくれ」
そう言った時は、多分、ぎこちない笑顔になっていたと思う。
直にそれも打ち消さなければならなくなったが――清水が、いつまで経っても黙っていたから。
彼女の表情は硬かった。強張っていた。
じっと向けてくる眼差しは鋭く、それでいて不安げにも見えた。知らなかったことを改めて思い知らされたような、愕然とした顔つきにも映る。彼女の内心を推し測るのは難しかったが、どちらにしても予想だにしない反応だった。
笑ってくれると思っていた。驚いたとしても、すぐに理解してくれるだろうと踏んでいた。これからも一緒にいたいと望んでくれているのなら、俺はそれを叶えてやれる。それだけの気持ちがあればよかった。他の感情が今はなくても、一緒にいればいつかは必ず――そう思っていたから、不安はなかった。
だが今になって急に不安を覚えた。彼女の反応が予想通りではなかったことと、彼女の方もまた、不安そうにしていることに。
彼女はまだ黙っている。
どうして何も言ってくれないのか、だんだんわからなくなってきた。ただ驚いているだけではないのだろうと、おぼろげに察した。それなら一体、どうしてなのか。
待っているのも辛くなり、結局俺は尋ねてしまった。
「清水? 怒ってるのか?」
すると彼女は僅かにだけかぶりを振った。事実、その時の表情は怒りの色には見えなかった。SPANISCHE FLIEGE
むしろ泣き出しそうに見えた。
彼女の、そんな顔を目にするのは初めてだ。五年の付き合いでも初めてだった。何かあっても泣くような性格とは思えない。入社当初の一番辛そうな頃だって、仕事に追われていた頃だって、絶対にこんな顔はしなかった。負けず嫌いで気が強くて、でも気配りにも長けている清水が、こういう時に泣きそうなそぶりをするなんて、本当に予想がつかなかった。
狼狽のあまり喉が鳴る。どうしよう、どうにかしなければ。俺が慌て出した時、彼女がやっと、動いた。
隠すように置いていた紙袋、そこから何かを取り出した。
「播上、これ、あげる」
グラシン紙に包まれた、何か。
お菓子だろうか。俺が手を出せずにいれば、清水は弱々しく言い添えてくる。
「バレンタインデーのチョコ。少し、早いけど」
今度は俺が驚かされた。
二月十四日よりも少し早かったから、だけじゃない。彼女からチョコレートを貰ったことなんて、今までなかった。一度もなかった。彼女は義理チョコを配らない主義だと何年も前に聞いていたから、こちらから催促したこともなかった。義理で貰うくらいなら、別に貰わなくてもいいと思っていた。
前例のない、催促だってしていない、初めて貰ったバレンタインのチョコレート。
――だから、だからつまり、その意味するところは。
彼女の細い手から、それを慎重に受け取る。
「開けてもいいのか?」
俺が問うと確かに頷いてくれた。
包みを解く。中から現れたのはチョコブラウニーだった。手作りなのだとすぐにわかった。しっとり、美味しそうな色をしている。
すぐ隣にいる、影の落ちた横顔をちらと見た。彼女は何も言わない。いつもみたいに負けず嫌いの台詞さえ告がない。
俺は貰ったばかりのお菓子を一切れ掴む。素早く口に運ぶ。どっしりと重い生地は甘く、そしてほろ苦く、ほのかにブランデーの風味もしていた。
その方が好みだと、前に俺が言ったから。そうなのだと思う。
彼女も覚えていてくれた。俺と同じように、食べてもらう相手の好みを。
「美味しい」
すぐに伝えた。こういう時、口下手なのが実に悔やまれた。
たった一言だけでは伝えきれないくらいのことを、胸のうちでは思っている。
この期に及んで、俺は清水の内心を読み誤っていたらしい。長い付き合いだから、五年の年月は伊達じゃないから、彼女の気持ちくらいわかっていると思っていた。彼女は俺をメシ友としか思っていなくて、それでも驚くほどの純粋な好意と友情を抱いてくれていて、この先も一緒にいたいと願っていて、一緒にいることについて何の疑いも持っていない――俺の読みはこうだった。
なのに、違った。肝心なところを外していた。俺の清水への想いが五年の間に変化したように、彼女の内心もまた移り変わっていたようだ。気づけなかったのは多分、彼女自身が気づいていなかったからなんだろう。
どうして彼女は、初めてのチョコレートを作ってきてくれたのか。
どうして彼女は、俺の言葉に泣きそうな顔をしているのか。
思い知らされるまでにお互い、五年掛かった。
喜びよりも強く、打ちのめされた気分になった。
五年の付き合いは伊達じゃない、俺はその間、彼女に対してさまざまなことを思い、そして想ってきた。でも彼女の全ては見抜けなかった。肝心なところに今の今まで気づけなかった。彼女について知らないことはまだまだ多いようだ。
清水だって恐らく同じだろう。お互いの言動に驚かされる余地もある。彼女は俺のことをわかっていないに違いない。俺がどうして、この会社を辞める話をこういう形で切り出したのか。この後、何を告げようとしているのか。まだ知らないだろうし、予想も出来ていないはずだ。
俺たちにとっての五年は、全くもって短すぎた。
五年ぽっちじゃちっとも足りない、これからもずっとずっと一緒にいたい。
言いたいことはたくさんあった。たった一言では伝えきれないくらいたくさんあった。
その時、夢から覚めた顔をして、清水がふと笑んだ。
「チョコのお返しに、連絡先教えて」
無理のある、精一杯だとわかる笑顔と口調。Motivator
「お店、絶対行くから」
胸が詰まる。
そんな顔をさせる為に打ち明けた訳でも、弁当を作ってきた訳でもない。いつだって清水には幸せな、美味しそうな顔をしていて欲しかった。
「清水、お前さ」
先の言葉には答えず、俺は彼女に呼びかけた。
「……何?」
抑揚のない問い返し。心苦しさに気が逸る。
「女将になる気、ない?」
そのせいか俺も、いつになく重い物言いになった。
少し気まずい。もっと軽く、器用に言いたかったのに。改まった告白は出来そうにないから、せめてするりと告げたかったのに。
「女将?」
清水が寝惚けた声を上げた。知らない単語を発音してみたように、腑に落ちない顔をしている。
視線を彼女から外し、俺は告白を重ねる。
「今、すぐじゃないけど」
俺は年度末でこの会社を辞める。故郷へ戻ったら今度は別の用意を終えて、必ず清水を迎えに来る。その時まで待っていてくれたらうれしい。
そう思って、続けた。
「……いつか、一緒に店、やれたらなって」
およそスマートではない言い方になった。でも、そんなものは端から諦めておくべきだったのかもしれない。不器用なのは言葉だけじゃない。彼女を見る目もまた曇っていた。今となってはもう、彼女の答えさえ予測出来ない。
ただ、彼女の気持ちはもうわかっている。
待ち時間が随分と長く感じられた。数分が過ぎた頃、深呼吸が聞こえて、彼女からの答えがあった。
「か、考えとく。前向きに」
らしくもない、裏返った声だった。
隣へと視線を戻せば、清水の目も泳いでいた。ぎくしゃく俺を見たものの、表情は硬く、前髪の下で眉を顰めている。口元はきゅっと引き結ばれていて、頬はほんのり赤い。目が潤んでいるのはさっき、泣きそうになっていたから、だろうか。彼女の言う『前向きに』がどの程度の確率なのか、顔からは察しがつかなかった。
わかるはずもない。
五年の付き合いだって言うのに、今ようやく知ったほどだ。――あの清水でも、プロポーズらしい言葉を告げられる局面ではうろたえることがあるらしい。俺の不器用な告白でも、彼女をどぎまぎさせるくらいは出来るらしい。知らなかった。
急に笑いが込み上げてきた。
狼狽する清水が可愛かった。前々から可愛いのは知っていたが、新たな魅力を発見した。うれしかった。
そうしたら彼女も俺を見て、つられるように笑ってくれた。笑う顔はもっと可愛い。何もかも吹き飛んだ後のとびきりの笑みだったから、余計に。
それから俺たちは弁当と、チョコブラウニーを食べた。
清水はいつも通りに食欲旺盛だった。彼女ならいつ何時でもばりばり食べるのかもしれない。隣から眺めていると幸せな気分になれる食べっぷり。
「お弁当、美味しいよ」
しきりにそう言ってくれるのも本当に、うれしい。
俺も負けじと食べた。そして誉めた。
「ブラウニーも美味いよ。すごくいい出来だ」
「そりゃそうだよ、本気で作ったもん」
彼女は得意げに胸を張ってから、ふっと肩を竦めた。
「でもまさか、本命チョコになっちゃうとは思ってなかったな。自分でも不思議な感じ」
「バレンタインはまだ先なのにな」
「そうだよね。虫の知らせって奴だったのかな」
呟く横顔を眺めてみる。彼女は、恋愛するだけの余裕を見つけたんだろうか。それとも、そんなのはまるで関係なく、ある瞬間に『落っこちて』しまったんだろうか。どちらなのか、いつか聞いてみたい。蒼蝿水(FLY D5原液)
2013年12月4日星期三
壊しつくすひと
その日の昼前、電話が鳴った。
営業課で仕事をしつつもものすごくそわそわしていた俺は、小坂からかなと思ってすぐに飛びついた。もっとも、態度はいかにも落ち着き払って感じを最大限装った。そうしたらディスプレイに表示された名前が小坂の社用電話ではなく、得意先の――それも小坂が今日、立ち寄る予定の一件だったから、今度は自然と高揚が冷めた。簡約痩身美体カプセル
嫌な予感がした。
『ああ、主任さん? いつもお世話になっておりますー』
電話の相手は、笑っていた。苦笑いにも、吹き出すのを堪えているようにも聞こえた。
『実はさっき御社の新人さん、小坂さんが来てったんですけどね』
やっぱりか。
何をやった小坂。いや、まだやらかしたと決まったわけじゃない。でかい失敗じゃないといい、祈るような気持ちで俺は次の言葉を待つ。
『何か、携帯電話忘れてっちゃったみたいなんだわ』
「電話ですか? うわ……すみません、とんだご迷惑を」
何やってんだ小坂。それは一番忘れてっちゃ駄目なもんだろ。
『いやいいのいいの、こっちでちゃんと預かってますから。小坂さん帰った後に忘れてったの気づいてね、慌てて追い駆けたんですけどもう車出ちゃった後でね』
追い駆けてくれたのか……悪いことした。そうまで聞くともういてもたってもいられない。小坂は気づいてるんだろうか、早く取りに戻らせなければ。
「申し訳ないです、そこまでしていただいて」
『いいんですって! ただ小坂さんに連絡しようにもね、電話うちにあるからどうしようかって……』
相手がそこまで話した時、電話の向こうではおかしそうな複数の笑い声がした。他社の新人がやらかしたうっかりミスを、先方は上手いこと笑い飛ばしてくれているようだ。小坂に対する印象自体は悪くもないらしい。
だがこっちは笑い飛ばすこともできまい。
「大変ご迷惑をおかけしました。至急小坂に取りに伺わせます」
俺はそう言った後で、当の小坂と連絡を取る手段がないことに気づく。
いや、たった今言われたばかりだったよな。俺も結構うろたえてるのか。ああもう何だよこれ、八方ふさがりじゃないか。
「ああっと、じゃあその、小坂と連絡が取れ次第すぐに――」
『大丈夫ですよ、うちの業務時間内ならいつでも来ていただければ、すぐお渡しできますから』
「お忙しいところを申し訳ありません。間に合わなければ私が伺いますので」
『そんなに謝らなくても……迷惑でも何でもないですからあんまりお気になさらず!』
先方はあくまでも明るい声で続ける。
『小坂さん、礼儀正しくていい子じゃないですか。こういうミスは誰にでもあるものですし、まして営業初日でしょ? 緊張もしますって。だからほら、主任さんもね、ね?』
はっきりとは言われなかったが、多分、叱らないでやってということなんだろう。俺の声からそういう気配を察したか、あるいは先方でも、新人が同じことやらかしたらやっぱり叱るだろうしと思っているのか。そりゃ何も言わないわけにはいかない。何か、言ってやらなければならない。叱るなと頼まれたって、駄目だ。
ともあれ俺は平謝りに平謝りを重ねて、新人の失態を詫びた。
それから――打つ手もないまま、ひたすら小坂からの連絡を待つ。
小坂からは、午後二時になろうかという頃にようやく連絡があった。
それまで俺が抱いていた行き詰まり感と言ったら半端なかった。こちらから連絡は取れないわ、忘れ物が重大すぎるわ、向こうはいつでもいいと言ってくれたものの待たせていることに変わりはないわでとにかく、焦れていた。
大体あいつだって、電話もなしに営業回るなんて無鉄砲な真似をする。すぐ気がついてくれればいいのに。一縷の望みは出がけに告げた、『途中で一回は連絡寄越せ』という言葉だけだった。それだって電話が手元になけりゃどうにもなんないわけだ。いっそ営業に出てる辺りを探しに行こうかとすら思ったが、行き違いになったらあまりにもお粗末だ。
だから電話が鳴った瞬間、さっきよりも素早く飛びついた。
昼飯も食わずに待ち続けた電話から、緊張を孕んだ声がまず聞こえた。
『あの、主任! 私、小坂です』
フィルターを通したような曇った音。妙に遠く感じる。
「小坂か? ようやっと連絡寄越しやがったな」
溜息が出た。遅いよ、もっと早く掛けてこい。
「お前、今どこから掛けてる」
『公衆電話です、あの実は私――』
「さっき連絡があったぞ。お前が携帯忘れてったって、取引先からな」
問いを遮るように告げると、小坂が息を呑むのがわかった。
次に大きく息をつき、
『よかった……』
気の抜けた呟きが聞こえる。
あんまりにも場違いな言葉で、こっちは頭を抱えたくなる。
もしかすると、電話のないことには早くから気づいていたのかもしれない。それであちこち探し回って、もしかしたら取引先のどこかへ忘れてきたのかと察したものの、電話がないから問い合わせもできずに右往左往していたのかもしれない。公衆電話だって昨今数が減ってしまったからそうそう見つかりもしなかっただろう。小坂は小坂できっと大変だった、それはわかる。
だが、安心していられる場合じゃない。西班牙蒼蝿水
「よくない。あんな大事なものを忘れてくるなんて、何してるんだ」
俺がそう言った時、居合わせた課内の連中が揃ってこちらを振り向いた。
優しい口調にはできなかった。自覚はある。
「たまたまよその会社に置いてきたからまだましだったものの、これが外に落としてたらえらいことになってたぞ。いくら初日で緊張してたからって、不注意にも程がある。しっかりしろ、小坂」
そもそも優しく言ってやるようなことでもない。これは言わなくちゃいけない注意だし、叱らなくちゃいけない失態だ。そうは思っていても――。
『すみません、今すぐ引き取りに伺ってきます』
小坂の声はたちまち萎れた。落ち込んでいるだけではなく、急いているのもよくわかる言い方だった。内心でも焦っていることだろう、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになりながら真面目な奴なりに、責任の取り方まで考えていることだろう。
こういう奴の、こんな時の考え方は手に取るようにわかってしまう。
「当たり前だ。行ったらきっちり頭下げて来い。先方だって就業時間中なのに、お前の忘れてった電話の面倒まで見てくれてるんだからな」
優しい相手でよかったし、見つけてもらえたのも本当によかった。だからこそ小坂にはちゃんと詫びと、お礼とを言ってきて欲しかった。何よりもまずそれからだ。
『本当にすみません、主任』
なのに小坂は俺に謝ってくる。
しゅんと項垂れた姿が目の前にいなくたって頭に浮かぶ。他人事みたいに、かわいそうだな、とは思わなくもない。思ったってどうしようもないが。
相手が違うだろ、馬鹿。
「俺に謝ってどうする」
『……はい』
振り絞るように小坂は答えた。
「こっちも言いたいことは山ほどあるけどな、とりあえず電話を引き取って来い」
『はい』
「詫びも忘れるなよ。お仕事中にご迷惑をお掛けしましたってちゃんと言えよ」
『はい』
「得意先に手間取らせるなんて、営業の人間として一番やっちゃいけないことだ。それ念頭に置いてしっかり謝れ」
『はい』
返事だけはしっかりしていたが、いつもの元気のよさは全く失われていた。
俺は受話器を置くと思わず舌打ちする。もう既に酷くくたびれていた。これからもっと気の重い、やらなくちゃいけないことがあるのに。
それから面を上げれば、課内に居合わせた連中は物問いたげな、そして何か言いたげな顔でこっちを見ていた。実際、いろいろ言われるんだろうなと思った。
わかってる。
誰にでもあるようなミスだ、小坂に限った話じゃない。叱るな、と宥めてくる人間の言い分もわかる。
でも誰でも犯しかねないうっかりミスだからこそ、日頃から気を配って、なるべくやらないようにって心がけるべきだ。ルーキーのうちに、責任の重くならないうちに、ここできっちり注意でもしておけば、次から気をつけるようになってくれるはず。真面目な奴だからな。
でも、真面目な奴だからこそ何が悪かったかはもう理解しているはずだ。そういう奴にわざわざ傷跡を抉るような注意をするのはかえってよくないんじゃないか。俺に言われたら小坂はきっと落ち込むだろう。あいつの真面目さがこういう時にどこまで強く作用するか、俺はまだ測りかねている。もし、俺が叱ったことで責任を感じるあまり、立ち直れないなんてことになったら――。
でも。やはり、言わないわけにはいかない。迷惑を被ったのが俺ならまだしも、取引先とあってはケアレスミスなんて単語だけでは片づけられない。まして携帯電話なんて失くせば悪用されかねないものを落としてくるなんて。procomil spray
一人で、いろんなことを考えた。
いくら考えても、小坂に対して取るべき最善の態度は思いつけなかった。
ただ違う意味での結論は出た。俺はこういうのは向いてない。そもそもこんな適当かつ不真面目な人間に新社会人の指導をさせるのが間違ってる。叱る方がまるで模範的じゃないのに、叱られる奴の方がずっとずっと真面目で熱心と来てるのに。
相変わらず、誉めることしか考えてない――安井の言葉がふと脳裏を翳めて、やっぱそういう意味で言ったのかなと今更思った。
小坂が帰社したのは午後四時近くだった。予定時間を大幅にはみ出しての初営業は、笑顔どころか手がつけられないくらいの沈んだ顔で終わったようだった。
それでも俺は小坂に話をしなければならない。営業課の連中が息を詰める中、俺は戻ってきたばかりの彼女を呼ぶ。彼女はのこのこと俺の席まで歩いてくる。責任に押し潰されそうに見えた。
叱らなきゃいけないのか、俺が。
投げやりに覚悟を決める。口を開く。
「気をつけろ、小坂」
見上げる先、姿勢よく直立する小坂が倒れるような勢いで頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
だから、謝る相手が違うってさっき言った。わかってないのか。
「俺に謝ることじゃないって言っただろ」
「でも――」
顔を上げた小坂が反論しようとする。思わずむっとしたのが顔に出たか、小坂は一度口を噤んだ。
しかし反論自体は引っ込めることもできなかったらしく、少ししてから意外と強気に言い返してきた。
「先方に、伺いました。主任が私の分までお詫びしてくださったって。私のことで主任にまでご面倒をお掛けしたのは事実です、だから」
「そんなのは当然だ」
こっちも語気を強めて、言葉を遮ってやる。
「これも言ったはずだがな、お前の失敗は俺の責任だ。今のお前はそういう身分なんだ。だからお前がよそに迷惑を掛けたら俺が謝るのは当然だし、お前がそれを気に病む必要もない」
責任を負うこと自体は何にも辛くない。当たり前だと思ってる。
俺はこういう性分だから引きずることもなければ落ち込み続けることもない。立ち直りも切り替えも早い方だと自負している。だから俺が他人に何を言われようが、叱られようが、頭下げ続けることになろうが別にいい。
問題は、立ち直りも切り替えも早くない、引きずりがちな真面目な奴への対処法を、未だに持ち得ていないということだ。もう何年も経つのに。
小坂はじっと俺を見ている。面持ちは今にも『申し訳ありません』と言い出しそうなほど沈痛だった。唇をぐっと結んでいるのだって、もう謝らないように心がけているせいかもしれない。間違いなく、自分が怒られたことよりも、俺までもが先方に頭を下げたことの方が堪えているはずだ。これだけ顔を合わせてれば見当もつく。
「強いて言うなら、二度と同じミスはするな」
そろそろ締めくくろうと思って、俺はそう言った。
「お前が上の人間に頭下げさせて悪いって思うなら、二度と失敗しなきゃいいだけの話だ。以後気をつけろ」
「……はい」
苦しげに、小坂は答えた。
肩が少し震えていた。そのうち泣き出すんじゃないかとこっちが気がかりだったが、結局泣きはしなかった。
「それと、得意先には迷惑を掛けるな。これだけは今後も絶対に守れ」
「はい」
小坂がもう一度、重々しくも頷いたから、俺は戻っていいと告げた。それで小坂はとぼとぼと自分の席まで戻って行き、書類に取りかかり始めた。
いつも、小坂のいる営業課は明かりが点いてるみたいに華があった。
だが今日ばかりは全体的に暗く沈んでいて、こんなに静かだったっけと驚かされるほどだった。
小坂に話しかける奴もちらほらいた。代わる代わる励ますような声を掛けて、その度に彼女は割かし気丈に、礼儀正しく接していたようだ。俺はその光景を横目で見ていた。
俺は、小坂が帰ってくる前からいろいろ言われていた。『あんまり怒らないでやって』とか、『大目に見てあげなよ』とか、『災難みたいなミスだよ、かわいそうじゃない』とか――言いたいことはわかるし、俺もこういう立場でなければ同じことを言ってたはずだ。
でも、こういう立場だから思う。
叱るのも仕事のうちなんだから、しょうがないだろ。
小坂はその日、六時過ぎに上がった。
帰り際の挨拶は普通に見えた。わざわざ俺のところまで来て、お先に失礼します、と言ってくれた。だが目を合わせてくれなかったどころか顔さえ見てもくれず、プラマイゼロ、むしろマイナスだと思った。こっち来てくれた時は元気になったかと期待してしまったから、かえってへこんだ。
そうなると俺も何事もなかったようになんて振る舞えない。お疲れ、と短く返して、帰っていく小坂の背をこっそり目で追った。いつも以上にちっちゃく見える姿がドアの向こうに消えてしまってから、今日は駄目だな、と思ってしまう。WENICKMANペニス増大
朝からずっと仕事が手につかなかったし、昼頃からは別の意味でつかなくなってしまった。そういえば昼飯だってまだだ。食欲もあんまりないが、食べないわけにもいかない。こんな日はとっとと帰って、スーパーで半額の刺身でも買って、適当に酒でも飲んでからふて寝を決め込むのが一番いい。こういう時、独身生活って侘しいなとつくづく思う。炊飯器のスイッチだって自分で入れなきゃならない。めんどいから刺身じゃなくて寿司にすっかな。今なら海苔巻きでもいいや。
今日の出来事から逃げるようにタイムカードをスキャンして、自分の机でぼちぼち帰り支度を始める。
すると、
「先輩、帰るんですか?」
近づいてくる気配と共に霧島の声がした。
そちらに視線を向けると、奴はすかさず何か続けたそうな顔になる。気遣わしげだがどことなく、言いたいことがあるんだと主張している表情。そういう顔はもう今日一日でうんざりするほど見てきたから、霧島にまで言われたかないと俺は機先を制しておく。
「小坂の話なら明日にしろ」
「え?」
「今日はもう、聞き飽きた」
正直に打ち明ける。
霧島はそこで力のない笑い方をした。
「先輩の考えてるようなことじゃないですよ」
「……本当か? なら、聞いてやっても」
「小坂さんの気持ち、俺にはわかるような気がするんです」
ほらやっぱりあいつの話じゃないか。俺は鼻の頭に皺を寄せてやったが、霧島は気にしたそぶりもなくさらりと続けた。
「叱られておいてよかったって、後からでも思ってくれますよ」
どういう風の吹き回しか、今日は妙に優しく取り成された。
「小坂さんにとっては多分、先輩にも頭下げさせちゃったっていうのが一番きつかったんだと思います。でも結構、何だかんだでタフな子ですから。先輩に叱られた以上、次は叱られないようにって逆に奮起してくれるはずですよ」
「だといいんだがな」
俺は肩を竦める。あいつが心身ともに案外タフだっていうのは霧島に言われるまでもなく知っていたし、プライドの高さも今日また思い知らされた。それらがいい方向に働けば間違いなく奮起してくれるだろう。
よくない方向に働かなきゃいいんだが。
「だから、先輩も元気出してくださいよ。明日には立ち直ってないと、また小坂さんまでへこんじゃいます。『主任が元気ないの、自分のせいなんだ』って思っちゃいますよ」
霧島に励まされると複雑な気分になる。お前その余裕はなんだ、一山越えた男の自信てやつか。
「俺は別に元気だって」
「嘘つくならもうちょい虚勢張りましょうよ、先輩」
「……張れてたらとっくに張ってるっての」
そう言い返しつつもちょっと笑えてきた。
後輩に気遣われてるのも情けないし、やっちゃったもんはもうどうしようもないし。明日に備えて気持ち切り替えないとってようやく思えてきた。
よし決めた。明日には普通に挨拶をしよう。小坂が目を合わせてくれなくても、こっちは穴の開くほどじーっと見つめてやろう。叱ったのは俺だ。でもその俺が今日のミスを、明日慰めてやってもいいはずだ。アフターフォローまでできてこそ営業課員ってものだ。
そして今日言い忘れた――例のご褒美について、多分あいつもそれどころじゃなくて放ったらかしにしてそうだから、改めて言おう。もう開けていいって。あれは本当は、こういう時にこそ必要なものだったのかもしれない。今言っても遅いが、それなら明日は必ず言う。
もしかしたら、気づいてくれてるかもしれないし。
「先輩も、よかったら食べます? 飴」
急に霧島がスーツのポケットから個包装のキャンディを取り出す。どこの焼肉屋だよと俺は吹いた。Xing霸 性霸2000
営業課で仕事をしつつもものすごくそわそわしていた俺は、小坂からかなと思ってすぐに飛びついた。もっとも、態度はいかにも落ち着き払って感じを最大限装った。そうしたらディスプレイに表示された名前が小坂の社用電話ではなく、得意先の――それも小坂が今日、立ち寄る予定の一件だったから、今度は自然と高揚が冷めた。簡約痩身美体カプセル
嫌な予感がした。
『ああ、主任さん? いつもお世話になっておりますー』
電話の相手は、笑っていた。苦笑いにも、吹き出すのを堪えているようにも聞こえた。
『実はさっき御社の新人さん、小坂さんが来てったんですけどね』
やっぱりか。
何をやった小坂。いや、まだやらかしたと決まったわけじゃない。でかい失敗じゃないといい、祈るような気持ちで俺は次の言葉を待つ。
『何か、携帯電話忘れてっちゃったみたいなんだわ』
「電話ですか? うわ……すみません、とんだご迷惑を」
何やってんだ小坂。それは一番忘れてっちゃ駄目なもんだろ。
『いやいいのいいの、こっちでちゃんと預かってますから。小坂さん帰った後に忘れてったの気づいてね、慌てて追い駆けたんですけどもう車出ちゃった後でね』
追い駆けてくれたのか……悪いことした。そうまで聞くともういてもたってもいられない。小坂は気づいてるんだろうか、早く取りに戻らせなければ。
「申し訳ないです、そこまでしていただいて」
『いいんですって! ただ小坂さんに連絡しようにもね、電話うちにあるからどうしようかって……』
相手がそこまで話した時、電話の向こうではおかしそうな複数の笑い声がした。他社の新人がやらかしたうっかりミスを、先方は上手いこと笑い飛ばしてくれているようだ。小坂に対する印象自体は悪くもないらしい。
だがこっちは笑い飛ばすこともできまい。
「大変ご迷惑をおかけしました。至急小坂に取りに伺わせます」
俺はそう言った後で、当の小坂と連絡を取る手段がないことに気づく。
いや、たった今言われたばかりだったよな。俺も結構うろたえてるのか。ああもう何だよこれ、八方ふさがりじゃないか。
「ああっと、じゃあその、小坂と連絡が取れ次第すぐに――」
『大丈夫ですよ、うちの業務時間内ならいつでも来ていただければ、すぐお渡しできますから』
「お忙しいところを申し訳ありません。間に合わなければ私が伺いますので」
『そんなに謝らなくても……迷惑でも何でもないですからあんまりお気になさらず!』
先方はあくまでも明るい声で続ける。
『小坂さん、礼儀正しくていい子じゃないですか。こういうミスは誰にでもあるものですし、まして営業初日でしょ? 緊張もしますって。だからほら、主任さんもね、ね?』
はっきりとは言われなかったが、多分、叱らないでやってということなんだろう。俺の声からそういう気配を察したか、あるいは先方でも、新人が同じことやらかしたらやっぱり叱るだろうしと思っているのか。そりゃ何も言わないわけにはいかない。何か、言ってやらなければならない。叱るなと頼まれたって、駄目だ。
ともあれ俺は平謝りに平謝りを重ねて、新人の失態を詫びた。
それから――打つ手もないまま、ひたすら小坂からの連絡を待つ。
小坂からは、午後二時になろうかという頃にようやく連絡があった。
それまで俺が抱いていた行き詰まり感と言ったら半端なかった。こちらから連絡は取れないわ、忘れ物が重大すぎるわ、向こうはいつでもいいと言ってくれたものの待たせていることに変わりはないわでとにかく、焦れていた。
大体あいつだって、電話もなしに営業回るなんて無鉄砲な真似をする。すぐ気がついてくれればいいのに。一縷の望みは出がけに告げた、『途中で一回は連絡寄越せ』という言葉だけだった。それだって電話が手元になけりゃどうにもなんないわけだ。いっそ営業に出てる辺りを探しに行こうかとすら思ったが、行き違いになったらあまりにもお粗末だ。
だから電話が鳴った瞬間、さっきよりも素早く飛びついた。
昼飯も食わずに待ち続けた電話から、緊張を孕んだ声がまず聞こえた。
『あの、主任! 私、小坂です』
フィルターを通したような曇った音。妙に遠く感じる。
「小坂か? ようやっと連絡寄越しやがったな」
溜息が出た。遅いよ、もっと早く掛けてこい。
「お前、今どこから掛けてる」
『公衆電話です、あの実は私――』
「さっき連絡があったぞ。お前が携帯忘れてったって、取引先からな」
問いを遮るように告げると、小坂が息を呑むのがわかった。
次に大きく息をつき、
『よかった……』
気の抜けた呟きが聞こえる。
あんまりにも場違いな言葉で、こっちは頭を抱えたくなる。
もしかすると、電話のないことには早くから気づいていたのかもしれない。それであちこち探し回って、もしかしたら取引先のどこかへ忘れてきたのかと察したものの、電話がないから問い合わせもできずに右往左往していたのかもしれない。公衆電話だって昨今数が減ってしまったからそうそう見つかりもしなかっただろう。小坂は小坂できっと大変だった、それはわかる。
だが、安心していられる場合じゃない。西班牙蒼蝿水
「よくない。あんな大事なものを忘れてくるなんて、何してるんだ」
俺がそう言った時、居合わせた課内の連中が揃ってこちらを振り向いた。
優しい口調にはできなかった。自覚はある。
「たまたまよその会社に置いてきたからまだましだったものの、これが外に落としてたらえらいことになってたぞ。いくら初日で緊張してたからって、不注意にも程がある。しっかりしろ、小坂」
そもそも優しく言ってやるようなことでもない。これは言わなくちゃいけない注意だし、叱らなくちゃいけない失態だ。そうは思っていても――。
『すみません、今すぐ引き取りに伺ってきます』
小坂の声はたちまち萎れた。落ち込んでいるだけではなく、急いているのもよくわかる言い方だった。内心でも焦っていることだろう、後悔と罪悪感に押しつぶされそうになりながら真面目な奴なりに、責任の取り方まで考えていることだろう。
こういう奴の、こんな時の考え方は手に取るようにわかってしまう。
「当たり前だ。行ったらきっちり頭下げて来い。先方だって就業時間中なのに、お前の忘れてった電話の面倒まで見てくれてるんだからな」
優しい相手でよかったし、見つけてもらえたのも本当によかった。だからこそ小坂にはちゃんと詫びと、お礼とを言ってきて欲しかった。何よりもまずそれからだ。
『本当にすみません、主任』
なのに小坂は俺に謝ってくる。
しゅんと項垂れた姿が目の前にいなくたって頭に浮かぶ。他人事みたいに、かわいそうだな、とは思わなくもない。思ったってどうしようもないが。
相手が違うだろ、馬鹿。
「俺に謝ってどうする」
『……はい』
振り絞るように小坂は答えた。
「こっちも言いたいことは山ほどあるけどな、とりあえず電話を引き取って来い」
『はい』
「詫びも忘れるなよ。お仕事中にご迷惑をお掛けしましたってちゃんと言えよ」
『はい』
「得意先に手間取らせるなんて、営業の人間として一番やっちゃいけないことだ。それ念頭に置いてしっかり謝れ」
『はい』
返事だけはしっかりしていたが、いつもの元気のよさは全く失われていた。
俺は受話器を置くと思わず舌打ちする。もう既に酷くくたびれていた。これからもっと気の重い、やらなくちゃいけないことがあるのに。
それから面を上げれば、課内に居合わせた連中は物問いたげな、そして何か言いたげな顔でこっちを見ていた。実際、いろいろ言われるんだろうなと思った。
わかってる。
誰にでもあるようなミスだ、小坂に限った話じゃない。叱るな、と宥めてくる人間の言い分もわかる。
でも誰でも犯しかねないうっかりミスだからこそ、日頃から気を配って、なるべくやらないようにって心がけるべきだ。ルーキーのうちに、責任の重くならないうちに、ここできっちり注意でもしておけば、次から気をつけるようになってくれるはず。真面目な奴だからな。
でも、真面目な奴だからこそ何が悪かったかはもう理解しているはずだ。そういう奴にわざわざ傷跡を抉るような注意をするのはかえってよくないんじゃないか。俺に言われたら小坂はきっと落ち込むだろう。あいつの真面目さがこういう時にどこまで強く作用するか、俺はまだ測りかねている。もし、俺が叱ったことで責任を感じるあまり、立ち直れないなんてことになったら――。
でも。やはり、言わないわけにはいかない。迷惑を被ったのが俺ならまだしも、取引先とあってはケアレスミスなんて単語だけでは片づけられない。まして携帯電話なんて失くせば悪用されかねないものを落としてくるなんて。procomil spray
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いくら考えても、小坂に対して取るべき最善の態度は思いつけなかった。
ただ違う意味での結論は出た。俺はこういうのは向いてない。そもそもこんな適当かつ不真面目な人間に新社会人の指導をさせるのが間違ってる。叱る方がまるで模範的じゃないのに、叱られる奴の方がずっとずっと真面目で熱心と来てるのに。
相変わらず、誉めることしか考えてない――安井の言葉がふと脳裏を翳めて、やっぱそういう意味で言ったのかなと今更思った。
小坂が帰社したのは午後四時近くだった。予定時間を大幅にはみ出しての初営業は、笑顔どころか手がつけられないくらいの沈んだ顔で終わったようだった。
それでも俺は小坂に話をしなければならない。営業課の連中が息を詰める中、俺は戻ってきたばかりの彼女を呼ぶ。彼女はのこのこと俺の席まで歩いてくる。責任に押し潰されそうに見えた。
叱らなきゃいけないのか、俺が。
投げやりに覚悟を決める。口を開く。
「気をつけろ、小坂」
見上げる先、姿勢よく直立する小坂が倒れるような勢いで頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
だから、謝る相手が違うってさっき言った。わかってないのか。
「俺に謝ることじゃないって言っただろ」
「でも――」
顔を上げた小坂が反論しようとする。思わずむっとしたのが顔に出たか、小坂は一度口を噤んだ。
しかし反論自体は引っ込めることもできなかったらしく、少ししてから意外と強気に言い返してきた。
「先方に、伺いました。主任が私の分までお詫びしてくださったって。私のことで主任にまでご面倒をお掛けしたのは事実です、だから」
「そんなのは当然だ」
こっちも語気を強めて、言葉を遮ってやる。
「これも言ったはずだがな、お前の失敗は俺の責任だ。今のお前はそういう身分なんだ。だからお前がよそに迷惑を掛けたら俺が謝るのは当然だし、お前がそれを気に病む必要もない」
責任を負うこと自体は何にも辛くない。当たり前だと思ってる。
俺はこういう性分だから引きずることもなければ落ち込み続けることもない。立ち直りも切り替えも早い方だと自負している。だから俺が他人に何を言われようが、叱られようが、頭下げ続けることになろうが別にいい。
問題は、立ち直りも切り替えも早くない、引きずりがちな真面目な奴への対処法を、未だに持ち得ていないということだ。もう何年も経つのに。
小坂はじっと俺を見ている。面持ちは今にも『申し訳ありません』と言い出しそうなほど沈痛だった。唇をぐっと結んでいるのだって、もう謝らないように心がけているせいかもしれない。間違いなく、自分が怒られたことよりも、俺までもが先方に頭を下げたことの方が堪えているはずだ。これだけ顔を合わせてれば見当もつく。
「強いて言うなら、二度と同じミスはするな」
そろそろ締めくくろうと思って、俺はそう言った。
「お前が上の人間に頭下げさせて悪いって思うなら、二度と失敗しなきゃいいだけの話だ。以後気をつけろ」
「……はい」
苦しげに、小坂は答えた。
肩が少し震えていた。そのうち泣き出すんじゃないかとこっちが気がかりだったが、結局泣きはしなかった。
「それと、得意先には迷惑を掛けるな。これだけは今後も絶対に守れ」
「はい」
小坂がもう一度、重々しくも頷いたから、俺は戻っていいと告げた。それで小坂はとぼとぼと自分の席まで戻って行き、書類に取りかかり始めた。
いつも、小坂のいる営業課は明かりが点いてるみたいに華があった。
だが今日ばかりは全体的に暗く沈んでいて、こんなに静かだったっけと驚かされるほどだった。
小坂に話しかける奴もちらほらいた。代わる代わる励ますような声を掛けて、その度に彼女は割かし気丈に、礼儀正しく接していたようだ。俺はその光景を横目で見ていた。
俺は、小坂が帰ってくる前からいろいろ言われていた。『あんまり怒らないでやって』とか、『大目に見てあげなよ』とか、『災難みたいなミスだよ、かわいそうじゃない』とか――言いたいことはわかるし、俺もこういう立場でなければ同じことを言ってたはずだ。
でも、こういう立場だから思う。
叱るのも仕事のうちなんだから、しょうがないだろ。
小坂はその日、六時過ぎに上がった。
帰り際の挨拶は普通に見えた。わざわざ俺のところまで来て、お先に失礼します、と言ってくれた。だが目を合わせてくれなかったどころか顔さえ見てもくれず、プラマイゼロ、むしろマイナスだと思った。こっち来てくれた時は元気になったかと期待してしまったから、かえってへこんだ。
そうなると俺も何事もなかったようになんて振る舞えない。お疲れ、と短く返して、帰っていく小坂の背をこっそり目で追った。いつも以上にちっちゃく見える姿がドアの向こうに消えてしまってから、今日は駄目だな、と思ってしまう。WENICKMANペニス増大
朝からずっと仕事が手につかなかったし、昼頃からは別の意味でつかなくなってしまった。そういえば昼飯だってまだだ。食欲もあんまりないが、食べないわけにもいかない。こんな日はとっとと帰って、スーパーで半額の刺身でも買って、適当に酒でも飲んでからふて寝を決め込むのが一番いい。こういう時、独身生活って侘しいなとつくづく思う。炊飯器のスイッチだって自分で入れなきゃならない。めんどいから刺身じゃなくて寿司にすっかな。今なら海苔巻きでもいいや。
今日の出来事から逃げるようにタイムカードをスキャンして、自分の机でぼちぼち帰り支度を始める。
すると、
「先輩、帰るんですか?」
近づいてくる気配と共に霧島の声がした。
そちらに視線を向けると、奴はすかさず何か続けたそうな顔になる。気遣わしげだがどことなく、言いたいことがあるんだと主張している表情。そういう顔はもう今日一日でうんざりするほど見てきたから、霧島にまで言われたかないと俺は機先を制しておく。
「小坂の話なら明日にしろ」
「え?」
「今日はもう、聞き飽きた」
正直に打ち明ける。
霧島はそこで力のない笑い方をした。
「先輩の考えてるようなことじゃないですよ」
「……本当か? なら、聞いてやっても」
「小坂さんの気持ち、俺にはわかるような気がするんです」
ほらやっぱりあいつの話じゃないか。俺は鼻の頭に皺を寄せてやったが、霧島は気にしたそぶりもなくさらりと続けた。
「叱られておいてよかったって、後からでも思ってくれますよ」
どういう風の吹き回しか、今日は妙に優しく取り成された。
「小坂さんにとっては多分、先輩にも頭下げさせちゃったっていうのが一番きつかったんだと思います。でも結構、何だかんだでタフな子ですから。先輩に叱られた以上、次は叱られないようにって逆に奮起してくれるはずですよ」
「だといいんだがな」
俺は肩を竦める。あいつが心身ともに案外タフだっていうのは霧島に言われるまでもなく知っていたし、プライドの高さも今日また思い知らされた。それらがいい方向に働けば間違いなく奮起してくれるだろう。
よくない方向に働かなきゃいいんだが。
「だから、先輩も元気出してくださいよ。明日には立ち直ってないと、また小坂さんまでへこんじゃいます。『主任が元気ないの、自分のせいなんだ』って思っちゃいますよ」
霧島に励まされると複雑な気分になる。お前その余裕はなんだ、一山越えた男の自信てやつか。
「俺は別に元気だって」
「嘘つくならもうちょい虚勢張りましょうよ、先輩」
「……張れてたらとっくに張ってるっての」
そう言い返しつつもちょっと笑えてきた。
後輩に気遣われてるのも情けないし、やっちゃったもんはもうどうしようもないし。明日に備えて気持ち切り替えないとってようやく思えてきた。
よし決めた。明日には普通に挨拶をしよう。小坂が目を合わせてくれなくても、こっちは穴の開くほどじーっと見つめてやろう。叱ったのは俺だ。でもその俺が今日のミスを、明日慰めてやってもいいはずだ。アフターフォローまでできてこそ営業課員ってものだ。
そして今日言い忘れた――例のご褒美について、多分あいつもそれどころじゃなくて放ったらかしにしてそうだから、改めて言おう。もう開けていいって。あれは本当は、こういう時にこそ必要なものだったのかもしれない。今言っても遅いが、それなら明日は必ず言う。
もしかしたら、気づいてくれてるかもしれないし。
「先輩も、よかったら食べます? 飴」
急に霧島がスーツのポケットから個包装のキャンディを取り出す。どこの焼肉屋だよと俺は吹いた。Xing霸 性霸2000
2013年12月2日星期一
白い羽
卒業式の日からしばらくの間、鷲津は連絡を寄越さなかった。
予告されていた通りとは言え、不安にはなった。ホテルに行ってから一週間が過ぎ、二週間が終わろうとする頃になると、さすがにそわそわしてしまった。こちらから連絡しては駄目だろうか、家まで押し掛けたら怒られるだろうかと、まるでストーカーじみたことを考え始めた。三週間目には他のことがまるで手につかなくなって、日々をだらだらと過ごすようになっていた。Motivat
それでも、ストーカーじみた行為を実際にすることはなかった。なぜかと言えば、まさに彼も言っていた通り、私も暇ではなくなったからだ。
四月になると、大学生活が始まった。ドラマのような華やかなキャンパスライフを夢見た訳ではないけれど、想像以上に静かな幕開けとなった。私が頭の中を鷲津でいっぱいにしていようがいまいが関係なく、入学式が済み、講義も始まり、そうしてぽつぽつと友人が出来た。今のところ、当たり障りのない付き合いをしている。
高校時代とあまり変わらない過ごし方を、大学でもしていた。違うのは学び舎の広さと、制服を着ていないことくらい。それとここに、鷲津がいないことと――私の心は既に、彼に拘束されている。
入学式を終えたら連絡する、と言っていた鷲津は、けれどなかなか電話をくれなかった。四月も中旬に入ったというのに、一向に電話を鳴らしてくれない。代わりに新しい友人からの連絡が入るようになったけど、あからさまにがっかりしてしまわぬよう、気を遣うのが大変だった。
鷲津はどうしているだろう。進学先で楽しくやっているんだろうか。まさか入学早々に可愛い女の子とめぐり合い、そのまま男女交際……などということは、さすがに鷲津の性格に限ってはないだろうと思う。思うけど、それにしても、不安になる。
大体、あれほどの魅力的かつ誘惑的な鷲津を見て、私以外の女の子が好きにならないと断言出来るだろうか。あの白い首筋や、赤らみがちな頬や、煽るように睨みつけてくる双眸や、華奢と言っても差し支えない身体つきは、大変に魅力的かつ誘惑的かつ美味しそうなものだ。いや、実際大変に美味しかった。その魅力を進学先の大学でも振り撒いていたとしたらどうだろう。私以外の女の子にも告白されたり、押し倒されたり、ホテルに誘われたりしていたらどうだろう。彼は拒んでくれるだろうか。むしろ、拒んでもらう必要があるのだろうか。私は彼女でもないのに。ただ、利用されているだけの身なのに。
不安以上に嫉妬に駆られた。こんなことなら鷲津と同じ進学先を選んでおくんだった。悔やんでも時既に遅し。私は悶々としながら、気だるい四月を尚も寂しく過ごしていた。
そんな折だ。
私の携帯電話に、見知らぬ番号の不在着信が残されたのは。
それは、携帯電話の番号だった。鷲津の家の電話番号ではない。だけど予感がしていた。
鷲津かもしれない。鷲津に違いない。きっと携帯電話を新しく購入して、その番号で連絡をくれたんだ。根拠もないのにそう確信した。思い込んだ私はすかさず、その番号へと掛け直した。ちょうど自分の部屋にいたから、油断があった。直情的に行動した。
コール音の後、すぐに繋がる。それでも声がするまでにはほんの僅かな間があった。その間に私はベッドに座り、彼の声を待った。鷲津の声がするのを。
『……もしもし』
声を聞いた途端、落胆した。
鷲津の声ではなかった。男の人の声。
「あ……」
今更ながら私は不用意さを恥じた。見覚えのない番号に掛けるだなんて、普段なら考えもしないような行動だった。鷲津のこととなると判断力すらなくなっている自分に、いささか呆れる。
「ごめんなさい、間違えました」
電話の向こうの人にそう告げ、私は通話を終えようとした。
だけどその時、
『待ってくれ! 久我原だろ?』
逆に相手に制され、しかも名前を呼ばれた。
さすがにぎょっとする。知らない番号だし、相手が誰なのか心当たりもなかった。聞いたことのあるような、ないような声。
「……誰?」
恐る恐る尋ねると、間を作りながら向こうは答える。
『俺……あの、佐山だけど。覚えてる……よな?』
「佐山?」
覚えてはいる。高校時代のクラスメイト。卒業式の日のやり取りだってまだ覚えていた。望んだ訳でもないけど。
彼の電話越しの声を聞くのは初めてだ。先程までの馬鹿みたいに浮かれた気持ちがすうっと冷めて、一気に警戒の域にまで達した。私は声を尖らせる。
「さっき私に、電話を掛けた?」
『掛けた』
彼はあっさりと認めた。警戒レベルが上昇する。levitra
「私、佐山に電話番号を教えた記憶ないんだけど。どうして知ってるの?」
この間までだって、私と佐山は仲が良かった訳じゃない。あくまでも一クラスメイトとして当たり障りのない付き合いしかしてこなかった。だから、彼が私の携帯電話の番号を知っているのはおかしい。
こちらの警戒を察してか、佐山も慌てたように応じる。
『違うんだ、その、教えてもらってさ。どうしてもって頼んだんだ。俺、もう一度久我原と話したかったから』
「……ふうん」
呆れた理由だ、と思う。どういう用件があるのかは知らないけど、こんなやり方は強引だ。
もっとも、鷲津に対して執着している私が言えた義理でもないだろうけど。こっそり首を竦めて、更に聞いた。
「誰に聞いたの?」
『え?』
佐山の声が揺らいだ。
「だから、私の電話番号。誰から聞いたのか教えて」
促す。この件についての心当たりは数人。直に切れる縁とは言え、友人だった人間の電話番号を気安く渡すなんて、裏切りもいいところだ。それには少し不快感を覚えた。
「誰なの?」
私は重ねて問う。
『久我原、ごめん。怒ってるよな?』
不安げな佐山は、的外れなことを問い返す。溜息が出た。
「怒ってるって訳じゃないけど……そりゃあ、自分の電話番号を勝手に言い触らされたりしたら、誰だっていい気分はしないでしょう?」
『違うんだ。言い触らしたとかじゃない。俺が頼み込んで、無理を言って教えてもらっただけなんだ。その子は悪くない』
そういう物言いで、佐山はその子を庇った。と同時に、その子が誰なのか口を割るつもりもないと知らせてきた。こちらは気分が悪かったけど、どうしようもない。
『本当にごめん。もう掛けないから、今だけ話をさせて欲しい』
「……話って何?」
やむを得ず私は、彼に言葉の続きを求めた。だけど決して、聞きたい訳ではなかった。打ち切れるものなら打ち切りたい。佐山のことも、彼に私の電話番号を渡した誰かのことも、何もかも。
電話の向こうから、深呼吸が聞こえてくる。
『あの、久我原』
「なあに?」
『卒業式の日のことだけど……。あの日、デートだったっていうのは本当なのか?』
佐山がそう言い、私はまた首を竦める。見えもしないのに。
「本当だけど、どうして?」
『いや、断りにくくてそういう風に言ったのかって、思ったから』
今の言葉から察するに、佐山は私の言い分を信じていないらしい。そんなにデートと無縁そうに見えるんだろうか。
ちゃんと、本当なのに。
あの日は確かに鷲津とデートしていた。ラブホテルで。
「本当だよ」
繰り返して告げる。
「私ね、好きな人がいるの。あの日は本当にデートだった。……がっかりした?」
笑った私とは対照的に、佐山は黙った。答えない。
それで私も、この通話を打ち切る気になれた。
「そういう用件だって言うなら、もう掛けてこないで」
『久我原』
彼が私を呼ぶ。どこか咎める口調にも聞こえた。
「何? そういう用件だったんでしょう?」
冷たく突き放すと、佐山はまた黙る。ノイズだけになる。
沈黙を肯定と受け取り、私は挨拶もせずに電話を切った。そのまま、携帯電話をベッドに放り、自分もぱたりと倒れ込む。
馬鹿みたい。
佐山は、私なんかのどこが好きだったんだろう。――鷲津の言っていた『私を好きだという男子』は、多分佐山のことなんだろうな、と思っている。だけど高校在学中だって、別に仲が良かった訳じゃないのに。好きになってもらう理由なんて、なかったように思うのに。福源春
でも、それは鷲津にとっての私も、同じなのかもしれない。鷲津からすれば同じ思いで、私を見ているのかもしれない。私の鷲津に対する恋情は、まさに一目惚れと言うに他ならないものだ。だけど一目惚れなんて他人に言われたなら最も信用ならない恋の理由だろう。自分で口にするなら、これほど確かな理由もないというのに。
馬鹿みたいだ。私も、佐山も。
決してきれいとは言えないやり方で好きな人に近づこうとしている。
私はその後ろ暗さ、罪悪感をも吹っ切って、鷲津のものになろうとした。二度も、抱かれた。佐山はどうだろう。後ろ暗さも罪悪感も吹っ切って、きれいじゃない手段を用いる気になるだろうか。多分、そうはしない。親しくなかったクラスメイトの僅かな情報だけでもわかる。佐山は、そういうことをする人ではない。電話番号の件だって、きっと気の迷いがあったのだろう――もしかすると頼み込んだというのも嘘で、誰かに私の電話番号を、強引に押し付けられたのかもしれない。お節介焼きはどこにでもいるものだから。
それきり、あの見知らぬ番号から電話が掛かってくることはなかった。
代わりに見覚えのある番号から連絡があった。佐山とのやり取りから二日後、ようやく、鷲津が電話をくれた。
『……久し振り』
一ヶ月ぶりだというのに、鷲津の声は素っ気なかった。
それでも私は顔が緩むのを抑え切れない。つい、浮かれた声で応じてしまう。
「本当だね。連絡、ちっともくれないんだもの」
拗ねようとする口調さえ上手くいかない。恋人同士でもないっていうのに、はしゃぎ過ぎだと自分でも思う。
だけど、ずっと、この声が聞きたかった。
『しばらく忙しいって言ったはずだけどな』
むしろ鷲津の方が、どこか拗ねたように聞こえた。
『久我原だって、ずっと暇だったって訳じゃないんだろ?』
「まあね。それなりに」
『だったらいちいち文句言うなよ。こっちの事情だってわかってくれ』
久し振りだというのに、彼はあまり変わっていないように思う。記憶の中にある声や口調と違いが見当たらない。進学先でも相変わらず、彼らしい虚勢の張り方をしているんだろうか。
ふと、微かに胸が痛んだ。
だけど言葉では、違うことを告げてみた。
「誰か可愛い女の子と出会って、私のことなんて必要なくなっちゃったのかと思ってた」
一応冗談めかして言ったのだけど、彼には鼻で笑われてしまった。
『そんな上手い話があるか。女の方だって相手を選ぶ権利があるんだぞ』
鷲津自身には選ぶ権利もないような物言いだ。
「でも一人は確実にいるじゃない。鷲津を選んだ、可愛い子が」
『誰が可愛いって? 鏡見たことないのか、お前』
冷たく突き放されても、こんな会話が甘いと思えてしまう。幸せだった。私はやはり彼が好きなのだと、しみじみ噛み締める。
声が聞きたかった。会いたかった。連絡が欲しかった。
私を必要としてくれている、その意思を、確かめたかった。
可愛くはないかもしれないけど、私は真面目な、いい子に違いない。ちゃんと鷲津の言いつけを守っていた。ストーカー行為には走らなかった。自分で自分が偉いと思う。
『お前は?』
ふと、鷲津が語尾を上げた。
それが問いだとはすぐにわからず、私はとっさに尋ね返す。
「何が?」
『いや、だから……よそにもう少しましな男でもいて、気が変わることはなかったのかって、聞いてるんだ』
彼の言い方は、まるでそうなるのが普通なのだと訴えているようでもあった。もちろん、普通であるはずがない。今度は私が笑っておいた。
「あるはずないでしょう? 私は鷲津が好きなんだから」
『そっか、お前、変態趣味だもんな』
自虐的にも響く呟きの後で、だけど鷲津はこう続ける。
『でも、本当にお前を好きでいてくれる奴がいたら、そいつといる方が、お前にとってはいいのかもしれない』
「え……?」
急に、何を言うんだろう。彼らしくもない。
瞬きの間に、更に告げられた。K-Y Jelly潤滑剤
『後戻りするんだったら今のうちだぞ、久我原』
嫌な台詞だった。はしゃぎたい心に冷水を浴びせかけられたような。
私は唇を噛み、しばらくの間返答に迷う。
それは恐らく本人の意図を超えて、二重の意味で私の胸に突き刺さった。――今の私たちの関係を、彼は肯定せず、執着もしていないのだということ。それから、鷲津自身は私を、まだ好きでいてくれてはいないのだということ。
自覚はしていたはずだけど、久し振りの会話でまざまざと見せ付けられると、さしもの恋心も軋んだ。久し振りなのに、痛かった。
どうして急にそんなことを言い出したんだろう。ちらと二日前の、佐山とのやり取りがよみがえる。まさか、知ってる? 佐山が私に電話をしてきたこと、私が佐山の気持ちに薄々感づいたことを、鷲津も知ってるの? まさか、そんなはずがない。絶対に。
佐山には、これっぽっちも惹かれない。他の誰だって駄目だ。むしろ不快感だけが込み上げてくる。私は鷲津といる方がいい。よっぽどいい。こんな風に惹かれたのは、今まででたった一人、彼だけだもの。
へこみかけた心を奮い立たせて、私は切り返す。
「後戻りなんて出来るはずないよ。少なくとも私には、そんなつもりないから」
『へえ』
抑揚のない相槌が聞こえてくる。
それでこちらも、挑発してやる気になれた。
「鷲津こそ、私に会いたいから、こうして連絡くれたんでしょう?」
電話の向こうで、彼が沈黙する。
その沈黙も肯定だと思いたかった。続けた。
「ずっと会ってなかったから、私が恋しくなったんじゃない? 好きになってはくれなくても、多少なりとも情が湧いたりしたんじゃない? 違う?」
私はまた笑んだ。さっきまでとは少し違う笑いだった。いとおしさの陰で、嗜虐的な感情が頭をもたげてくる。
『……お前って』
鷲津が、私の笑いには気付かずに嘆息した。
『やっぱり、可愛くはないよな』
「そう?」
自覚はある。私はどうしたって可愛いタイプではない。可愛がってもらえるような女の子ではない。
可愛がるのは私の方だから。
「鷲津は、可愛い女の子の方が好き?」
一応尋ねてみると、意外な答えが返ってきた。
『そうでもない』
「……ふうん」
『何だよ』
もっと強烈な言葉で否定するのかと思っていたけど、違うんだ。私は更に挑発してみた。
「私が好きとは言ってくれないんだなあって思ったの」
『言う訳ないだろ、馬鹿』
やはり素っ気なく鷲津は言う。でも、声の端が動揺しているのをこの耳で拾ってしまった。可愛い。
『ところで、土曜日、空いてるか』
動揺を隠し切れてない声で彼が尋ねてくる。
「空いてるよ」
私は予定も確かめずに答える。たとえ空いてなくたって、無理矢理にでも空ける気でいる。
『じゃあ、俺の家に来い。会ってやるから』
わざとらしい虚勢を張った口調もいとおしい。とても、彼らしい。
ようやくの約束に心が再びはしゃぎ出す。待ってた。ずっと、待ってた。
「何時に行けばいい?」
『何時でもいい。朝から空いてる』
「いいの? そう言われたら私、八時とかに押し掛けちゃうよ?」
『八時くらいならいい。それ以前は勘弁してくれ』
そう言って、彼は呆れたように付け加える。
『だけど、そんなに早くから会ってどうするんだよ。暇を持て余すぞ、絶対』
「どうするって、何にもしない訳じゃないでしょう?」
私が聞き返したら、黙ってしまったけど。
「暇になるはずないよ。二人でなら、することはたくさんあるもの」
いっぱいある。暇になることなんてあり得ないくらい。休む暇すらあげたくないくらいいっぱいあるんだから。曲美
それをわかっているはずの鷲津が、ぽつりと零す。
『……変態』
「今に始まったことじゃないよ。知ってるくせに」
知ってるくせにね。身をもって。
予告されていた通りとは言え、不安にはなった。ホテルに行ってから一週間が過ぎ、二週間が終わろうとする頃になると、さすがにそわそわしてしまった。こちらから連絡しては駄目だろうか、家まで押し掛けたら怒られるだろうかと、まるでストーカーじみたことを考え始めた。三週間目には他のことがまるで手につかなくなって、日々をだらだらと過ごすようになっていた。Motivat
それでも、ストーカーじみた行為を実際にすることはなかった。なぜかと言えば、まさに彼も言っていた通り、私も暇ではなくなったからだ。
四月になると、大学生活が始まった。ドラマのような華やかなキャンパスライフを夢見た訳ではないけれど、想像以上に静かな幕開けとなった。私が頭の中を鷲津でいっぱいにしていようがいまいが関係なく、入学式が済み、講義も始まり、そうしてぽつぽつと友人が出来た。今のところ、当たり障りのない付き合いをしている。
高校時代とあまり変わらない過ごし方を、大学でもしていた。違うのは学び舎の広さと、制服を着ていないことくらい。それとここに、鷲津がいないことと――私の心は既に、彼に拘束されている。
入学式を終えたら連絡する、と言っていた鷲津は、けれどなかなか電話をくれなかった。四月も中旬に入ったというのに、一向に電話を鳴らしてくれない。代わりに新しい友人からの連絡が入るようになったけど、あからさまにがっかりしてしまわぬよう、気を遣うのが大変だった。
鷲津はどうしているだろう。進学先で楽しくやっているんだろうか。まさか入学早々に可愛い女の子とめぐり合い、そのまま男女交際……などということは、さすがに鷲津の性格に限ってはないだろうと思う。思うけど、それにしても、不安になる。
大体、あれほどの魅力的かつ誘惑的な鷲津を見て、私以外の女の子が好きにならないと断言出来るだろうか。あの白い首筋や、赤らみがちな頬や、煽るように睨みつけてくる双眸や、華奢と言っても差し支えない身体つきは、大変に魅力的かつ誘惑的かつ美味しそうなものだ。いや、実際大変に美味しかった。その魅力を進学先の大学でも振り撒いていたとしたらどうだろう。私以外の女の子にも告白されたり、押し倒されたり、ホテルに誘われたりしていたらどうだろう。彼は拒んでくれるだろうか。むしろ、拒んでもらう必要があるのだろうか。私は彼女でもないのに。ただ、利用されているだけの身なのに。
不安以上に嫉妬に駆られた。こんなことなら鷲津と同じ進学先を選んでおくんだった。悔やんでも時既に遅し。私は悶々としながら、気だるい四月を尚も寂しく過ごしていた。
そんな折だ。
私の携帯電話に、見知らぬ番号の不在着信が残されたのは。
それは、携帯電話の番号だった。鷲津の家の電話番号ではない。だけど予感がしていた。
鷲津かもしれない。鷲津に違いない。きっと携帯電話を新しく購入して、その番号で連絡をくれたんだ。根拠もないのにそう確信した。思い込んだ私はすかさず、その番号へと掛け直した。ちょうど自分の部屋にいたから、油断があった。直情的に行動した。
コール音の後、すぐに繋がる。それでも声がするまでにはほんの僅かな間があった。その間に私はベッドに座り、彼の声を待った。鷲津の声がするのを。
『……もしもし』
声を聞いた途端、落胆した。
鷲津の声ではなかった。男の人の声。
「あ……」
今更ながら私は不用意さを恥じた。見覚えのない番号に掛けるだなんて、普段なら考えもしないような行動だった。鷲津のこととなると判断力すらなくなっている自分に、いささか呆れる。
「ごめんなさい、間違えました」
電話の向こうの人にそう告げ、私は通話を終えようとした。
だけどその時、
『待ってくれ! 久我原だろ?』
逆に相手に制され、しかも名前を呼ばれた。
さすがにぎょっとする。知らない番号だし、相手が誰なのか心当たりもなかった。聞いたことのあるような、ないような声。
「……誰?」
恐る恐る尋ねると、間を作りながら向こうは答える。
『俺……あの、佐山だけど。覚えてる……よな?』
「佐山?」
覚えてはいる。高校時代のクラスメイト。卒業式の日のやり取りだってまだ覚えていた。望んだ訳でもないけど。
彼の電話越しの声を聞くのは初めてだ。先程までの馬鹿みたいに浮かれた気持ちがすうっと冷めて、一気に警戒の域にまで達した。私は声を尖らせる。
「さっき私に、電話を掛けた?」
『掛けた』
彼はあっさりと認めた。警戒レベルが上昇する。levitra
「私、佐山に電話番号を教えた記憶ないんだけど。どうして知ってるの?」
この間までだって、私と佐山は仲が良かった訳じゃない。あくまでも一クラスメイトとして当たり障りのない付き合いしかしてこなかった。だから、彼が私の携帯電話の番号を知っているのはおかしい。
こちらの警戒を察してか、佐山も慌てたように応じる。
『違うんだ、その、教えてもらってさ。どうしてもって頼んだんだ。俺、もう一度久我原と話したかったから』
「……ふうん」
呆れた理由だ、と思う。どういう用件があるのかは知らないけど、こんなやり方は強引だ。
もっとも、鷲津に対して執着している私が言えた義理でもないだろうけど。こっそり首を竦めて、更に聞いた。
「誰に聞いたの?」
『え?』
佐山の声が揺らいだ。
「だから、私の電話番号。誰から聞いたのか教えて」
促す。この件についての心当たりは数人。直に切れる縁とは言え、友人だった人間の電話番号を気安く渡すなんて、裏切りもいいところだ。それには少し不快感を覚えた。
「誰なの?」
私は重ねて問う。
『久我原、ごめん。怒ってるよな?』
不安げな佐山は、的外れなことを問い返す。溜息が出た。
「怒ってるって訳じゃないけど……そりゃあ、自分の電話番号を勝手に言い触らされたりしたら、誰だっていい気分はしないでしょう?」
『違うんだ。言い触らしたとかじゃない。俺が頼み込んで、無理を言って教えてもらっただけなんだ。その子は悪くない』
そういう物言いで、佐山はその子を庇った。と同時に、その子が誰なのか口を割るつもりもないと知らせてきた。こちらは気分が悪かったけど、どうしようもない。
『本当にごめん。もう掛けないから、今だけ話をさせて欲しい』
「……話って何?」
やむを得ず私は、彼に言葉の続きを求めた。だけど決して、聞きたい訳ではなかった。打ち切れるものなら打ち切りたい。佐山のことも、彼に私の電話番号を渡した誰かのことも、何もかも。
電話の向こうから、深呼吸が聞こえてくる。
『あの、久我原』
「なあに?」
『卒業式の日のことだけど……。あの日、デートだったっていうのは本当なのか?』
佐山がそう言い、私はまた首を竦める。見えもしないのに。
「本当だけど、どうして?」
『いや、断りにくくてそういう風に言ったのかって、思ったから』
今の言葉から察するに、佐山は私の言い分を信じていないらしい。そんなにデートと無縁そうに見えるんだろうか。
ちゃんと、本当なのに。
あの日は確かに鷲津とデートしていた。ラブホテルで。
「本当だよ」
繰り返して告げる。
「私ね、好きな人がいるの。あの日は本当にデートだった。……がっかりした?」
笑った私とは対照的に、佐山は黙った。答えない。
それで私も、この通話を打ち切る気になれた。
「そういう用件だって言うなら、もう掛けてこないで」
『久我原』
彼が私を呼ぶ。どこか咎める口調にも聞こえた。
「何? そういう用件だったんでしょう?」
冷たく突き放すと、佐山はまた黙る。ノイズだけになる。
沈黙を肯定と受け取り、私は挨拶もせずに電話を切った。そのまま、携帯電話をベッドに放り、自分もぱたりと倒れ込む。
馬鹿みたい。
佐山は、私なんかのどこが好きだったんだろう。――鷲津の言っていた『私を好きだという男子』は、多分佐山のことなんだろうな、と思っている。だけど高校在学中だって、別に仲が良かった訳じゃないのに。好きになってもらう理由なんて、なかったように思うのに。福源春
でも、それは鷲津にとっての私も、同じなのかもしれない。鷲津からすれば同じ思いで、私を見ているのかもしれない。私の鷲津に対する恋情は、まさに一目惚れと言うに他ならないものだ。だけど一目惚れなんて他人に言われたなら最も信用ならない恋の理由だろう。自分で口にするなら、これほど確かな理由もないというのに。
馬鹿みたいだ。私も、佐山も。
決してきれいとは言えないやり方で好きな人に近づこうとしている。
私はその後ろ暗さ、罪悪感をも吹っ切って、鷲津のものになろうとした。二度も、抱かれた。佐山はどうだろう。後ろ暗さも罪悪感も吹っ切って、きれいじゃない手段を用いる気になるだろうか。多分、そうはしない。親しくなかったクラスメイトの僅かな情報だけでもわかる。佐山は、そういうことをする人ではない。電話番号の件だって、きっと気の迷いがあったのだろう――もしかすると頼み込んだというのも嘘で、誰かに私の電話番号を、強引に押し付けられたのかもしれない。お節介焼きはどこにでもいるものだから。
それきり、あの見知らぬ番号から電話が掛かってくることはなかった。
代わりに見覚えのある番号から連絡があった。佐山とのやり取りから二日後、ようやく、鷲津が電話をくれた。
『……久し振り』
一ヶ月ぶりだというのに、鷲津の声は素っ気なかった。
それでも私は顔が緩むのを抑え切れない。つい、浮かれた声で応じてしまう。
「本当だね。連絡、ちっともくれないんだもの」
拗ねようとする口調さえ上手くいかない。恋人同士でもないっていうのに、はしゃぎ過ぎだと自分でも思う。
だけど、ずっと、この声が聞きたかった。
『しばらく忙しいって言ったはずだけどな』
むしろ鷲津の方が、どこか拗ねたように聞こえた。
『久我原だって、ずっと暇だったって訳じゃないんだろ?』
「まあね。それなりに」
『だったらいちいち文句言うなよ。こっちの事情だってわかってくれ』
久し振りだというのに、彼はあまり変わっていないように思う。記憶の中にある声や口調と違いが見当たらない。進学先でも相変わらず、彼らしい虚勢の張り方をしているんだろうか。
ふと、微かに胸が痛んだ。
だけど言葉では、違うことを告げてみた。
「誰か可愛い女の子と出会って、私のことなんて必要なくなっちゃったのかと思ってた」
一応冗談めかして言ったのだけど、彼には鼻で笑われてしまった。
『そんな上手い話があるか。女の方だって相手を選ぶ権利があるんだぞ』
鷲津自身には選ぶ権利もないような物言いだ。
「でも一人は確実にいるじゃない。鷲津を選んだ、可愛い子が」
『誰が可愛いって? 鏡見たことないのか、お前』
冷たく突き放されても、こんな会話が甘いと思えてしまう。幸せだった。私はやはり彼が好きなのだと、しみじみ噛み締める。
声が聞きたかった。会いたかった。連絡が欲しかった。
私を必要としてくれている、その意思を、確かめたかった。
可愛くはないかもしれないけど、私は真面目な、いい子に違いない。ちゃんと鷲津の言いつけを守っていた。ストーカー行為には走らなかった。自分で自分が偉いと思う。
『お前は?』
ふと、鷲津が語尾を上げた。
それが問いだとはすぐにわからず、私はとっさに尋ね返す。
「何が?」
『いや、だから……よそにもう少しましな男でもいて、気が変わることはなかったのかって、聞いてるんだ』
彼の言い方は、まるでそうなるのが普通なのだと訴えているようでもあった。もちろん、普通であるはずがない。今度は私が笑っておいた。
「あるはずないでしょう? 私は鷲津が好きなんだから」
『そっか、お前、変態趣味だもんな』
自虐的にも響く呟きの後で、だけど鷲津はこう続ける。
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「え……?」
急に、何を言うんだろう。彼らしくもない。
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自覚はしていたはずだけど、久し振りの会話でまざまざと見せ付けられると、さしもの恋心も軋んだ。久し振りなのに、痛かった。
どうして急にそんなことを言い出したんだろう。ちらと二日前の、佐山とのやり取りがよみがえる。まさか、知ってる? 佐山が私に電話をしてきたこと、私が佐山の気持ちに薄々感づいたことを、鷲津も知ってるの? まさか、そんなはずがない。絶対に。
佐山には、これっぽっちも惹かれない。他の誰だって駄目だ。むしろ不快感だけが込み上げてくる。私は鷲津といる方がいい。よっぽどいい。こんな風に惹かれたのは、今まででたった一人、彼だけだもの。
へこみかけた心を奮い立たせて、私は切り返す。
「後戻りなんて出来るはずないよ。少なくとも私には、そんなつもりないから」
『へえ』
抑揚のない相槌が聞こえてくる。
それでこちらも、挑発してやる気になれた。
「鷲津こそ、私に会いたいから、こうして連絡くれたんでしょう?」
電話の向こうで、彼が沈黙する。
その沈黙も肯定だと思いたかった。続けた。
「ずっと会ってなかったから、私が恋しくなったんじゃない? 好きになってはくれなくても、多少なりとも情が湧いたりしたんじゃない? 違う?」
私はまた笑んだ。さっきまでとは少し違う笑いだった。いとおしさの陰で、嗜虐的な感情が頭をもたげてくる。
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『やっぱり、可愛くはないよな』
「そう?」
自覚はある。私はどうしたって可愛いタイプではない。可愛がってもらえるような女の子ではない。
可愛がるのは私の方だから。
「鷲津は、可愛い女の子の方が好き?」
一応尋ねてみると、意外な答えが返ってきた。
『そうでもない』
「……ふうん」
『何だよ』
もっと強烈な言葉で否定するのかと思っていたけど、違うんだ。私は更に挑発してみた。
「私が好きとは言ってくれないんだなあって思ったの」
『言う訳ないだろ、馬鹿』
やはり素っ気なく鷲津は言う。でも、声の端が動揺しているのをこの耳で拾ってしまった。可愛い。
『ところで、土曜日、空いてるか』
動揺を隠し切れてない声で彼が尋ねてくる。
「空いてるよ」
私は予定も確かめずに答える。たとえ空いてなくたって、無理矢理にでも空ける気でいる。
『じゃあ、俺の家に来い。会ってやるから』
わざとらしい虚勢を張った口調もいとおしい。とても、彼らしい。
ようやくの約束に心が再びはしゃぎ出す。待ってた。ずっと、待ってた。
「何時に行けばいい?」
『何時でもいい。朝から空いてる』
「いいの? そう言われたら私、八時とかに押し掛けちゃうよ?」
『八時くらいならいい。それ以前は勘弁してくれ』
そう言って、彼は呆れたように付け加える。
『だけど、そんなに早くから会ってどうするんだよ。暇を持て余すぞ、絶対』
「どうするって、何にもしない訳じゃないでしょう?」
私が聞き返したら、黙ってしまったけど。
「暇になるはずないよ。二人でなら、することはたくさんあるもの」
いっぱいある。暇になることなんてあり得ないくらい。休む暇すらあげたくないくらいいっぱいあるんだから。曲美
それをわかっているはずの鷲津が、ぽつりと零す。
『……変態』
「今に始まったことじゃないよ。知ってるくせに」
知ってるくせにね。身をもって。
2013年11月29日星期五
セクシーボイス
氷見の声が好き過ぎる。
私の夢は、氷見に世界最高の名台詞を用意することだった。
彼は、たった二人しかいない演劇部の看板俳優だ。見た目は男の子にしてはやや可愛い系で、眼鏡の似合う、おりこうさんの顔立ちだった。RU486
だけど声はすごい。変声期を過ぎた男の人の声、しかも大層男前の声をしている。低くて、甘くて、少しかすれたような話し方で、私は氷見の声が好きだった。どんな台詞を言わせても、氷見の声ならしっくりきた。私の用意した台詞を読み上げる氷見の声を聞く度、無性にぞくぞくして、胸が高鳴って堪らなかった。
私は、この演劇部の専属作家だ。――もっとも二人きりの部活で、専属も何もないものだけど。三年生の先輩たちが揃って引退してしまった年明け後、残っているのは二年生の私と、一年生の氷見だけだった。
今は二人きりだから、私は氷見の為に台本を書き、台詞を用意する。氷見の声で聴いてみたい、言わせたい台詞はたくさんある。私は彼の声が好きだった。演技中の彼の声を聞くと、何だかとても素晴らしい瞬間に居合わせているような気がした。
氷見はきっと、いい役者さんになる。声で女の子たちを殺せるような、素敵な俳優さんになれる。私は脚本家になって、氷見の為に、世界最高の名台詞を捧げたい。こんな片田舎の高校の、小さな小さな演劇部にいて、何て大それた夢だと思うだろうか。でも本心だった。氷見にはそれだけの資質があると思ったし、私は氷見の為なら努力したいと心から思った。
だけど、本人の反応は冷たい。
「声で人が殺せるんですか」
素っ気ない口調でそれとなく抗議の意思を示す氷見。後輩なのに、時々生意気だった。
「殺せるんだよ、氷見の声は、女の子相手ならね」
私が思いっ切り頷いてあげると、やれやれ、とでも言いたげにかぶりを振る。眼鏡の奥の瞳が、呆れたようにこちらを見た。
「長嶺先輩の言うことは、たまにぶっ飛んでるんですよね」
「そんなことないったら。私は真面目に言ってるの」
「どうだか」
生意気な一年生が嘆息する。そのため息混じりの声もぞくぞくするほど素敵なのに、どうしてか本人はそれをわかっていない。私の言葉を聞き入れずに、胡散臭そうな目で見てくる。
「絶対だってば。近い将来、『声殺しの氷見』って呼ばれるようになるよ」
「止めてくださいよ、そんな物騒な二つ名」
本当に嫌そうな顔を氷見がしたので、私は渋々口を噤んだ。
我が演劇部の看板俳優は、何かとわがままでノリが悪い。演劇部に入ったからには演技をやりたいんだろうけど、先輩方の前ではとにかく一歩引いた、地味な役ばかりをやりたがった。声だけじゃなく演技力もそこそこあるのに、去年の文化祭でも宛がわれたのは町人A役とガヤの声だけ。心底もったいないと思った。
先輩方が引退してしまってからは、寂しい二人きりの部活動。だけどそうなったからにはこれまで目立てなかった氷見にもいろいろやらせてみようと、短いシーンを書いたり、台詞を読み上げさせてみたりしてるんだけど、……氷見の反応はひたすら淡々としていて、冷たい。
「ね、短いの書いてみたんだけど、ちょっとやってみてくれない」
そう言って、私はルーズリーフに書き留めたワンシーンを差し出す。放課後の部室は二人で過ごすには広過ぎて、紙が空を切る音さえよく響いた。だけど静かな方が、氷見の声がよりはっきり聞こえるからいい。
氷見は眉を顰めながらルーズリーフを受け取る。そして眼鏡のレンズ越しに内容を確かめて、途端にうんざりした表情になった。中絶薬
「何ですか、これ」
「だから、脚本。氷見の為に書き下ろしたんだよ」
「そりゃわかってますよ。そうじゃなくてこの中身……」
何か言いかけて、すぐに氷見は口を閉ざした。私は笑みを噛み殺しながら促す。
「読み上げてみてよ」
「嫌です。お断り」
「せっかく書いたのに。ね、お願い。ちょこっとだけでいいから!」
「――先輩」
私の頼みにも氷見はにこりともせず、手にしたルーズリーフを突っ返そうとしてきた。
「最近の先輩は、こういう路線ばっかりですよね」
「こういう路線って?」
「鼻につく、気障な台詞ばかりってことです。非現実的だし、第一俺のキャラじゃない」
「気障だっていいでしょ。だって氷見に言わせてみたいんだもん」
だって、氷見の声には甘い甘い台詞の方が似合うんだ。絶対にそう。王子様が紆余曲折を経てお姫様とめぐりあえて、そうして万感の思いで口にする愛の言葉のような、蜂蜜漬けの台詞が似合うんだから。
きっと誰もがそう思うはず。あの声で、甘い台詞を囁かれてみたい。あの声で口説かれたら簡単に篭絡されちゃうに違いないもの。――あ、そうなると案外、悪役とかもいいかもしれない。美貌と智略とで次々と女性を落としていく傾国の青年、なんてのはどうだろう。現状だとどうしても一人芝居にせざるを得ないんだけど、それでも氷見の声なら映えるだろう。ようし、次はそれで行こうっと。
そんなことを熱心に考えていたら、
「先輩、長嶺先輩」
いきなり目の前で手を振られて、ぎょっとする。
見れば氷見が、気遣わしげに私の顔を覗き込んでいた。
「ん、んん? 何か言った、氷見」
「何ぼうっとしてるんですか。さっきから呼び掛けてるのに、なかなか返事をしないし」
「ちょっと、考え事をね」
「どうせまたろくでもない考え事ですよね」
ああもう、生意気なんだから。でもこの声で言われると怒るに怒れない。つい口元が緩んでしまう。
「とにかくね、氷見。ちょっと試しに読み上げてみてよ」
私は返されそうになっているルーズリーフを受け取らず、氷見に向かって言ってみた。
たちまち氷見の顔がしかめっ面になる。
「嫌ですってば。読んで欲しいならもうちょっとまともな本書いてくださいよ」
「何をう。私の書くものにケチつける気?」
「まともになってくれるまでは毎日、そのつもりです。声殺しなんて言われても、こっちは実感も何もあったもんじゃないですし」
笑いを含まない声で言った氷見は、事実毎日のように部に顔を出していた。私が脚本を書いている最中でも、部室に来て私の作業を見守ったり、一人で発声練習に励んでいたりしていた。二人しかいない部だから、別に毎日通わなくてもいいんだよと言ったら、『先輩に駄目出しする人間がいなくちゃやばいですからね』と言い返された。生意気。
でも、悪い子じゃないんだ。それはわかってる。それに練習熱心だし、演劇への熱意だってちゃんと持っている。声はもちろん素晴らしくいい。ただ、地味で普遍的な役柄と台詞ばかりを好んでるってだけで――だから私は、氷見の要望と自分の欲求の間で折り合いをつけつつ、氷見の声のよさを生かした台詞を書けるようになりたいと思うんだ。大抵、欲求の方が若干勝ってしまうって、気障な台詞になってしまうんだけど。
「ちょっとでいいから読んでみて。おかしかったら、それはもう没にするから」
欲求の方に強く背を押されて、私は更に促した。
「本当ですか? まあそう言っても、先輩の書くものなんていつも同じですけどね」
「いつも素晴らしくロマンチックでしょ?」
「いつも素晴らしく非現実的で気障過ぎるんです」
可愛くないことを言いながらも、氷見は眼鏡の奥の眼差しをふと和らげた。ちらと微かに笑って、こう語を継ぐ。
「じゃあ、条件付きでならやってみてもいいですよ」
「条件って?」
何だろう。ジュース奢れとかかな。まあそのくらいなら先輩だし、やってあげなくもない。そう思い掛けた私に、氷見は答えた。威哥王三鞭粒
「先輩が、相手役をやってくれるならです」
「え……わ、私が!?」
すぐに声を上げてしまった。
だって私は、本書き専門だ。これまでモブか、照明や大道具の手伝いくらいで、演技はほとんどやってこなかった。いきなり相手をやれと言われても困る。
私の驚きように、氷見がまた笑った。おかしそうに。
「そんなにびっくりしなくてもいいんじゃないですか。演劇部員なんだから」
「だって……私、演技なんてほとんど出来ないよ?」
「いいんですよ、どうせ名演技なんて期待してません」
と言って氷見は皮肉っぽく首を竦めた。
「ただ、こういう台詞は相手がいることを想定した方がやり易いものですから。先輩は黙って、聞いていてくれるだけでいいんです」
「それならまあ……いいけど」
私は腑に落ちないままで頷く。そんなもんかなあ。いつもは相手がいなくてもちゃんと――嫌々ながらも、どんな役でもこなせる氷見なんだけどな。
でも、考えようによってはいい機会かもしれない。これまでは第三者として聴いてきた氷見の声を、直に向けられる側として聴いてみるチャンス。実際に台詞を言って貰えば、いろいろ気付けることもあるかもしれない。
二人で使うには広過ぎる、演劇部の部室。
その窓際に、私と氷見は向かい合って立つ。間の距離は三十センチほど。氷見の方が少しだけ背が高く、私の目を覗き込んでくる。
真剣な顔。真一文字に結ばれた唇。思案するように、眼鏡の奥の瞳がちらちらと動く。眼鏡のフレームが冬の曇り空の下、鈍く光を放っていた。
氷見は、こんな時、何を考えているんだろう。役に入り込もうとしながら、どんなことを思うんだろう。想定された『相手』のことを思うんだろうか。その声でどう殺してしまおうか、考えを巡らせることはあるんだろうか。
私は、氷見の声が好きだ。大好きだ。だけど氷見の顔をこんな風に間近で見つめたことはなかった。どうしてか、妙に緊張した。観客のいない舞台で、私に与えられた役柄はただ存在しているだけの、台詞もない『相手役』なのに。どうしてこんなにぞくぞくして、胸を高鳴らせているんだろう。もうすぐ氷見の声が間近で聴けるから? それとも。
「――ようやく、時が訪れた」
氷見が唇を解いた。ゆっくりと、私が用意した台詞を口にした。
「玻璃細工の姫。私はあなたに、この胸中を打ち明ける為にここまでやってきたのだ。全ては、この時の為に」
ああ、やっぱりいい声。甘い甘い、蜂蜜漬けの台詞がよく似合う。本当に素敵で、誰もを魅了してやまない王子様の声だ。
もっとも、お姫様役の方はぱっとしないけど――こればかりはしょうがないか。むしろ傍でこんなにロマンチックな声を聴ける役得を、存分に堪能しておくとしよう。
「あなたの為ならばどんな困難も乗り越えてこられた。あなたに胸の内を伝えるまでは、決して挫けるつもりもなかった。あなたが我が心にあればこそ、あなたの微笑みが我が胸に、明かりを灯してくれたからこそ」
ここはもう少し甘めの台詞でもよかったかな。言葉の使い方がまだまだ未熟だ。反省しなくちゃ。
でも氷見は、やっぱりすごい。私の用意した台詞を心を込めて演じてくれている。そこにどんな意味と、どんな心情を忍ばせているのかをちゃんと考えて演じてくれる。まるで全ての言葉が氷見のものになってしまったみたいだ。氷見の声が、私の心にあった台詞たちを掬い取ってくれたみたいだ。
「――でも、どんな言葉を重ねても、あなたを想う気持ちは表し切れそうにない」
あれ? こんな台詞、書いたっけ。
私が瞬きをする間にも、氷見は眼鏡越しにじっと私を見下ろしながら、言葉を続ける。
「俺があなたをどれだけ想っているか。それは単に甘いだけの言葉や、気障ったらしい台詞ばかりじゃ伝え切れそうにないんだ」
違うよ、氷見、王子様の一人称は『私』だってば。というかこんな台詞は書いてないよね……アドリブ? それにしては何か変だ。
「あんたは俺の声が、人を殺せる声だと言った」
氷見は微かに笑んで、続けた。私の用意していない台詞を。
「なら、その言葉が本当か、確かめさせて貰うよ。本当に、あんたを殺せるかどうか」
「え……?」
思わず私が声を漏らした時、ひやりと冷たい何かが、私の首筋に触れた。
氷見の、手だ。私の髪を避けて、そっと首筋に触れてくる。冷たい手。冬の寒さのせいか、氷見の指先は冷たくて、身体中がぞわっとした。三鞭粒
いつの間にか、氷見の顔も近づいていた。額がくっつきそうなほど近い。眼鏡のフレームの鈍い輝きが、驚くほど傍にあった。レンズの向こう側の真剣な眼差しも。
「――映子」
氷見が私の名前を呼んだ。お姫様のじゃなく、私の名前を。普段も一度として呼んだことがなかった、先輩であるはずの私の名前を。
「好きだ、映子」
私に対して、そう言った。
冷たい手が首からゆっくりと這い上がり、頬を伝って、耳に触れる。髪を掬い、耳に掛けるようにした後で、氷見はそっと唇を寄せてきた。
「愛してる」
その間、私は何の身動きも取れなかった。全身がぞくぞくして、震え上がりたいくらいなのに、身震い一つ出来なかった。ぼうっとする頭に氷見の手の冷たさは心地良い。あの声が耳元で響いている。シンプルで飾らない、だけど嘘みたいな愛の言葉を。
きっと喜ぶべき瞬間だ。氷見の声が氷見の言葉で愛を伝えようとしている。私はたった一人、それを間近で聴く権利を得ている。
なのにちっとも喜べなかった。はしゃげなかった。心臓がどきどきし過ぎて、逃げたくて、苦しくて堪らなかった。いつもみたいにうっとりと聴き入ることが出来たらよかったのに、何も出来なかった。ただ、されるがままでいた。
「無抵抗だな」
氷見の声が笑う。柔らかいものが耳たぶに触れる。上げようとした声は詰まって、そして次の瞬間、柔らかいものが私の唇に重なった。
冷たい、乾いた唇。――氷見の声はそこで途切れて、その時逆に、私は自分を取り戻した。ようやく、正気に返った。
何されたのか、わかった。しかも氷見に。声が好きで、だけど生意気だとばかり思っていた後輩に。
「な……にを!」
身を引いて、引き攣る声で怒鳴る。自覚したくなかったけど、声も足も震えてしまった。
これは、何なの。流されてしまった私が悪いの? でも同意の上じゃない。というか、同意を求められてすらいなかった。さっきのは……告白? 本気で? 氷見のアドリブのような悪ふざけじゃなくて? 本当は私をからかおうとして――。
「何って、別に難しいことじゃないと思うけど」
氷見は笑っていた。少し赤い頬で、でも私よりもずっと落ち着いていた。
「俺の声で本当に殺せるかどうか、試してみたかったんだ。多分、あんたの飾り立てた言葉より、単純な言葉の方が効果的だと思ってさ。けど、どうやら」
ちらと眼鏡の奥、瞳が細められる。おりこうさんの顔はしていなかった。
「上手く殺されかけたみたいだな。可愛かったよ、先輩」
――こいつ、やっぱり悪役だ。それも性質の悪い、素人じゃ手に負えないタイプの悪役。
私は悔しくて堪らず、歯噛みした。恥ずかしさと後悔で頬が熱くて、ここから逃げ出したくてしょうがなかった。流されていいようにされた挙句、まるで見下されてからかわれてるんだから当たり前だ。
だけど何とか踏み止まって、悔し紛れに言ってやった。
「み、見てなさい。それならこっちは、この次、もっと恥ずかしい台詞を言わせてやるんだから。あんたが読み上げるのも抵抗あるくらい甘々でロマンチックな台詞を用意してやる!」
すると氷見は首を竦めて、いつものあのいい声で、私に向かって言ってきた。
「別にいいけど。どんな台詞を持ってきたって、口説く相手は先輩一人って決まってるんだから」
つまり、私は私が口説かれる為の台詞を、自分で用意することになるって? そんな馬鹿な。
「世界最高の名台詞でお願いしますね、長嶺先輩」
生意気そうな後輩の口調で言った氷見を、私は恨めしい思いで睨みつける。危うく殺されかけた、『声殺しの氷見』の微笑みを。天天素
私に、氷見の為の世界最高の名台詞、書けるだろうか。口説かれる覚悟が出来ないうちは多分、無理だ。あの声でもう一度、愛の言葉を囁かれたら、次こそ確実に殺されてしまうもの。
私の夢は、氷見に世界最高の名台詞を用意することだった。
彼は、たった二人しかいない演劇部の看板俳優だ。見た目は男の子にしてはやや可愛い系で、眼鏡の似合う、おりこうさんの顔立ちだった。RU486
だけど声はすごい。変声期を過ぎた男の人の声、しかも大層男前の声をしている。低くて、甘くて、少しかすれたような話し方で、私は氷見の声が好きだった。どんな台詞を言わせても、氷見の声ならしっくりきた。私の用意した台詞を読み上げる氷見の声を聞く度、無性にぞくぞくして、胸が高鳴って堪らなかった。
私は、この演劇部の専属作家だ。――もっとも二人きりの部活で、専属も何もないものだけど。三年生の先輩たちが揃って引退してしまった年明け後、残っているのは二年生の私と、一年生の氷見だけだった。
今は二人きりだから、私は氷見の為に台本を書き、台詞を用意する。氷見の声で聴いてみたい、言わせたい台詞はたくさんある。私は彼の声が好きだった。演技中の彼の声を聞くと、何だかとても素晴らしい瞬間に居合わせているような気がした。
氷見はきっと、いい役者さんになる。声で女の子たちを殺せるような、素敵な俳優さんになれる。私は脚本家になって、氷見の為に、世界最高の名台詞を捧げたい。こんな片田舎の高校の、小さな小さな演劇部にいて、何て大それた夢だと思うだろうか。でも本心だった。氷見にはそれだけの資質があると思ったし、私は氷見の為なら努力したいと心から思った。
だけど、本人の反応は冷たい。
「声で人が殺せるんですか」
素っ気ない口調でそれとなく抗議の意思を示す氷見。後輩なのに、時々生意気だった。
「殺せるんだよ、氷見の声は、女の子相手ならね」
私が思いっ切り頷いてあげると、やれやれ、とでも言いたげにかぶりを振る。眼鏡の奥の瞳が、呆れたようにこちらを見た。
「長嶺先輩の言うことは、たまにぶっ飛んでるんですよね」
「そんなことないったら。私は真面目に言ってるの」
「どうだか」
生意気な一年生が嘆息する。そのため息混じりの声もぞくぞくするほど素敵なのに、どうしてか本人はそれをわかっていない。私の言葉を聞き入れずに、胡散臭そうな目で見てくる。
「絶対だってば。近い将来、『声殺しの氷見』って呼ばれるようになるよ」
「止めてくださいよ、そんな物騒な二つ名」
本当に嫌そうな顔を氷見がしたので、私は渋々口を噤んだ。
我が演劇部の看板俳優は、何かとわがままでノリが悪い。演劇部に入ったからには演技をやりたいんだろうけど、先輩方の前ではとにかく一歩引いた、地味な役ばかりをやりたがった。声だけじゃなく演技力もそこそこあるのに、去年の文化祭でも宛がわれたのは町人A役とガヤの声だけ。心底もったいないと思った。
先輩方が引退してしまってからは、寂しい二人きりの部活動。だけどそうなったからにはこれまで目立てなかった氷見にもいろいろやらせてみようと、短いシーンを書いたり、台詞を読み上げさせてみたりしてるんだけど、……氷見の反応はひたすら淡々としていて、冷たい。
「ね、短いの書いてみたんだけど、ちょっとやってみてくれない」
そう言って、私はルーズリーフに書き留めたワンシーンを差し出す。放課後の部室は二人で過ごすには広過ぎて、紙が空を切る音さえよく響いた。だけど静かな方が、氷見の声がよりはっきり聞こえるからいい。
氷見は眉を顰めながらルーズリーフを受け取る。そして眼鏡のレンズ越しに内容を確かめて、途端にうんざりした表情になった。中絶薬
「何ですか、これ」
「だから、脚本。氷見の為に書き下ろしたんだよ」
「そりゃわかってますよ。そうじゃなくてこの中身……」
何か言いかけて、すぐに氷見は口を閉ざした。私は笑みを噛み殺しながら促す。
「読み上げてみてよ」
「嫌です。お断り」
「せっかく書いたのに。ね、お願い。ちょこっとだけでいいから!」
「――先輩」
私の頼みにも氷見はにこりともせず、手にしたルーズリーフを突っ返そうとしてきた。
「最近の先輩は、こういう路線ばっかりですよね」
「こういう路線って?」
「鼻につく、気障な台詞ばかりってことです。非現実的だし、第一俺のキャラじゃない」
「気障だっていいでしょ。だって氷見に言わせてみたいんだもん」
だって、氷見の声には甘い甘い台詞の方が似合うんだ。絶対にそう。王子様が紆余曲折を経てお姫様とめぐりあえて、そうして万感の思いで口にする愛の言葉のような、蜂蜜漬けの台詞が似合うんだから。
きっと誰もがそう思うはず。あの声で、甘い台詞を囁かれてみたい。あの声で口説かれたら簡単に篭絡されちゃうに違いないもの。――あ、そうなると案外、悪役とかもいいかもしれない。美貌と智略とで次々と女性を落としていく傾国の青年、なんてのはどうだろう。現状だとどうしても一人芝居にせざるを得ないんだけど、それでも氷見の声なら映えるだろう。ようし、次はそれで行こうっと。
そんなことを熱心に考えていたら、
「先輩、長嶺先輩」
いきなり目の前で手を振られて、ぎょっとする。
見れば氷見が、気遣わしげに私の顔を覗き込んでいた。
「ん、んん? 何か言った、氷見」
「何ぼうっとしてるんですか。さっきから呼び掛けてるのに、なかなか返事をしないし」
「ちょっと、考え事をね」
「どうせまたろくでもない考え事ですよね」
ああもう、生意気なんだから。でもこの声で言われると怒るに怒れない。つい口元が緩んでしまう。
「とにかくね、氷見。ちょっと試しに読み上げてみてよ」
私は返されそうになっているルーズリーフを受け取らず、氷見に向かって言ってみた。
たちまち氷見の顔がしかめっ面になる。
「嫌ですってば。読んで欲しいならもうちょっとまともな本書いてくださいよ」
「何をう。私の書くものにケチつける気?」
「まともになってくれるまでは毎日、そのつもりです。声殺しなんて言われても、こっちは実感も何もあったもんじゃないですし」
笑いを含まない声で言った氷見は、事実毎日のように部に顔を出していた。私が脚本を書いている最中でも、部室に来て私の作業を見守ったり、一人で発声練習に励んでいたりしていた。二人しかいない部だから、別に毎日通わなくてもいいんだよと言ったら、『先輩に駄目出しする人間がいなくちゃやばいですからね』と言い返された。生意気。
でも、悪い子じゃないんだ。それはわかってる。それに練習熱心だし、演劇への熱意だってちゃんと持っている。声はもちろん素晴らしくいい。ただ、地味で普遍的な役柄と台詞ばかりを好んでるってだけで――だから私は、氷見の要望と自分の欲求の間で折り合いをつけつつ、氷見の声のよさを生かした台詞を書けるようになりたいと思うんだ。大抵、欲求の方が若干勝ってしまうって、気障な台詞になってしまうんだけど。
「ちょっとでいいから読んでみて。おかしかったら、それはもう没にするから」
欲求の方に強く背を押されて、私は更に促した。
「本当ですか? まあそう言っても、先輩の書くものなんていつも同じですけどね」
「いつも素晴らしくロマンチックでしょ?」
「いつも素晴らしく非現実的で気障過ぎるんです」
可愛くないことを言いながらも、氷見は眼鏡の奥の眼差しをふと和らげた。ちらと微かに笑って、こう語を継ぐ。
「じゃあ、条件付きでならやってみてもいいですよ」
「条件って?」
何だろう。ジュース奢れとかかな。まあそのくらいなら先輩だし、やってあげなくもない。そう思い掛けた私に、氷見は答えた。威哥王三鞭粒
「先輩が、相手役をやってくれるならです」
「え……わ、私が!?」
すぐに声を上げてしまった。
だって私は、本書き専門だ。これまでモブか、照明や大道具の手伝いくらいで、演技はほとんどやってこなかった。いきなり相手をやれと言われても困る。
私の驚きように、氷見がまた笑った。おかしそうに。
「そんなにびっくりしなくてもいいんじゃないですか。演劇部員なんだから」
「だって……私、演技なんてほとんど出来ないよ?」
「いいんですよ、どうせ名演技なんて期待してません」
と言って氷見は皮肉っぽく首を竦めた。
「ただ、こういう台詞は相手がいることを想定した方がやり易いものですから。先輩は黙って、聞いていてくれるだけでいいんです」
「それならまあ……いいけど」
私は腑に落ちないままで頷く。そんなもんかなあ。いつもは相手がいなくてもちゃんと――嫌々ながらも、どんな役でもこなせる氷見なんだけどな。
でも、考えようによってはいい機会かもしれない。これまでは第三者として聴いてきた氷見の声を、直に向けられる側として聴いてみるチャンス。実際に台詞を言って貰えば、いろいろ気付けることもあるかもしれない。
二人で使うには広過ぎる、演劇部の部室。
その窓際に、私と氷見は向かい合って立つ。間の距離は三十センチほど。氷見の方が少しだけ背が高く、私の目を覗き込んでくる。
真剣な顔。真一文字に結ばれた唇。思案するように、眼鏡の奥の瞳がちらちらと動く。眼鏡のフレームが冬の曇り空の下、鈍く光を放っていた。
氷見は、こんな時、何を考えているんだろう。役に入り込もうとしながら、どんなことを思うんだろう。想定された『相手』のことを思うんだろうか。その声でどう殺してしまおうか、考えを巡らせることはあるんだろうか。
私は、氷見の声が好きだ。大好きだ。だけど氷見の顔をこんな風に間近で見つめたことはなかった。どうしてか、妙に緊張した。観客のいない舞台で、私に与えられた役柄はただ存在しているだけの、台詞もない『相手役』なのに。どうしてこんなにぞくぞくして、胸を高鳴らせているんだろう。もうすぐ氷見の声が間近で聴けるから? それとも。
「――ようやく、時が訪れた」
氷見が唇を解いた。ゆっくりと、私が用意した台詞を口にした。
「玻璃細工の姫。私はあなたに、この胸中を打ち明ける為にここまでやってきたのだ。全ては、この時の為に」
ああ、やっぱりいい声。甘い甘い、蜂蜜漬けの台詞がよく似合う。本当に素敵で、誰もを魅了してやまない王子様の声だ。
もっとも、お姫様役の方はぱっとしないけど――こればかりはしょうがないか。むしろ傍でこんなにロマンチックな声を聴ける役得を、存分に堪能しておくとしよう。
「あなたの為ならばどんな困難も乗り越えてこられた。あなたに胸の内を伝えるまでは、決して挫けるつもりもなかった。あなたが我が心にあればこそ、あなたの微笑みが我が胸に、明かりを灯してくれたからこそ」
ここはもう少し甘めの台詞でもよかったかな。言葉の使い方がまだまだ未熟だ。反省しなくちゃ。
でも氷見は、やっぱりすごい。私の用意した台詞を心を込めて演じてくれている。そこにどんな意味と、どんな心情を忍ばせているのかをちゃんと考えて演じてくれる。まるで全ての言葉が氷見のものになってしまったみたいだ。氷見の声が、私の心にあった台詞たちを掬い取ってくれたみたいだ。
「――でも、どんな言葉を重ねても、あなたを想う気持ちは表し切れそうにない」
あれ? こんな台詞、書いたっけ。
私が瞬きをする間にも、氷見は眼鏡越しにじっと私を見下ろしながら、言葉を続ける。
「俺があなたをどれだけ想っているか。それは単に甘いだけの言葉や、気障ったらしい台詞ばかりじゃ伝え切れそうにないんだ」
違うよ、氷見、王子様の一人称は『私』だってば。というかこんな台詞は書いてないよね……アドリブ? それにしては何か変だ。
「あんたは俺の声が、人を殺せる声だと言った」
氷見は微かに笑んで、続けた。私の用意していない台詞を。
「なら、その言葉が本当か、確かめさせて貰うよ。本当に、あんたを殺せるかどうか」
「え……?」
思わず私が声を漏らした時、ひやりと冷たい何かが、私の首筋に触れた。
氷見の、手だ。私の髪を避けて、そっと首筋に触れてくる。冷たい手。冬の寒さのせいか、氷見の指先は冷たくて、身体中がぞわっとした。三鞭粒
いつの間にか、氷見の顔も近づいていた。額がくっつきそうなほど近い。眼鏡のフレームの鈍い輝きが、驚くほど傍にあった。レンズの向こう側の真剣な眼差しも。
「――映子」
氷見が私の名前を呼んだ。お姫様のじゃなく、私の名前を。普段も一度として呼んだことがなかった、先輩であるはずの私の名前を。
「好きだ、映子」
私に対して、そう言った。
冷たい手が首からゆっくりと這い上がり、頬を伝って、耳に触れる。髪を掬い、耳に掛けるようにした後で、氷見はそっと唇を寄せてきた。
「愛してる」
その間、私は何の身動きも取れなかった。全身がぞくぞくして、震え上がりたいくらいなのに、身震い一つ出来なかった。ぼうっとする頭に氷見の手の冷たさは心地良い。あの声が耳元で響いている。シンプルで飾らない、だけど嘘みたいな愛の言葉を。
きっと喜ぶべき瞬間だ。氷見の声が氷見の言葉で愛を伝えようとしている。私はたった一人、それを間近で聴く権利を得ている。
なのにちっとも喜べなかった。はしゃげなかった。心臓がどきどきし過ぎて、逃げたくて、苦しくて堪らなかった。いつもみたいにうっとりと聴き入ることが出来たらよかったのに、何も出来なかった。ただ、されるがままでいた。
「無抵抗だな」
氷見の声が笑う。柔らかいものが耳たぶに触れる。上げようとした声は詰まって、そして次の瞬間、柔らかいものが私の唇に重なった。
冷たい、乾いた唇。――氷見の声はそこで途切れて、その時逆に、私は自分を取り戻した。ようやく、正気に返った。
何されたのか、わかった。しかも氷見に。声が好きで、だけど生意気だとばかり思っていた後輩に。
「な……にを!」
身を引いて、引き攣る声で怒鳴る。自覚したくなかったけど、声も足も震えてしまった。
これは、何なの。流されてしまった私が悪いの? でも同意の上じゃない。というか、同意を求められてすらいなかった。さっきのは……告白? 本気で? 氷見のアドリブのような悪ふざけじゃなくて? 本当は私をからかおうとして――。
「何って、別に難しいことじゃないと思うけど」
氷見は笑っていた。少し赤い頬で、でも私よりもずっと落ち着いていた。
「俺の声で本当に殺せるかどうか、試してみたかったんだ。多分、あんたの飾り立てた言葉より、単純な言葉の方が効果的だと思ってさ。けど、どうやら」
ちらと眼鏡の奥、瞳が細められる。おりこうさんの顔はしていなかった。
「上手く殺されかけたみたいだな。可愛かったよ、先輩」
――こいつ、やっぱり悪役だ。それも性質の悪い、素人じゃ手に負えないタイプの悪役。
私は悔しくて堪らず、歯噛みした。恥ずかしさと後悔で頬が熱くて、ここから逃げ出したくてしょうがなかった。流されていいようにされた挙句、まるで見下されてからかわれてるんだから当たり前だ。
だけど何とか踏み止まって、悔し紛れに言ってやった。
「み、見てなさい。それならこっちは、この次、もっと恥ずかしい台詞を言わせてやるんだから。あんたが読み上げるのも抵抗あるくらい甘々でロマンチックな台詞を用意してやる!」
すると氷見は首を竦めて、いつものあのいい声で、私に向かって言ってきた。
「別にいいけど。どんな台詞を持ってきたって、口説く相手は先輩一人って決まってるんだから」
つまり、私は私が口説かれる為の台詞を、自分で用意することになるって? そんな馬鹿な。
「世界最高の名台詞でお願いしますね、長嶺先輩」
生意気そうな後輩の口調で言った氷見を、私は恨めしい思いで睨みつける。危うく殺されかけた、『声殺しの氷見』の微笑みを。天天素
私に、氷見の為の世界最高の名台詞、書けるだろうか。口説かれる覚悟が出来ないうちは多分、無理だ。あの声でもう一度、愛の言葉を囁かれたら、次こそ確実に殺されてしまうもの。
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