自分たちで何とかしようというのではなく、他力本願に女神様に縋るとは。それだけ魔王の力が強大だと解釈するべきか、当時の人達が面倒くさがりだったと取るべきか。
何となく後者と思えてしまうのは、魔王の話を聞いたからだと思います。当時の人達も、まさか後世にこんな風に思われるとは予想しなかったでしょうね。WENICKMANペニス増大
「女神様に縋り、彼らは勇者を召喚したのです。これは残っていた禁術の一つでもありました」
どくん、と心臓が大きく跳ね上がった気がしました。勇者……召喚……? 選出でなく?
「召喚? ど、どういうことですの? 勇者様は選出されるものなのでしょう?」
「召喚という事は……」
「それは……どこかから勇者殿を連れてきた……と?」
巨乳ちゃんもちびっ子も、ゴードンさんでさえ、困惑を隠しきれません。それもそうでしょう。今まで教えられて来たのとは、まったく違う事を聞いてるのですから。
勇者は選出されるもの。召喚されるものではありません。少なくとも、私達の常識では……。
「そうです。詳しい事は女神様しか知りませんが、召喚された勇者は、こことはまったく違う世界にいた人物なのだとか」
異世界……召喚……勇者……。何でしょう……頭の奥がしびれるように感じます。頭痛? ううん、それとも違う……。
「異世界? それは、こことはまったく違う場所という事ですか?」
ゴードンさんの声にも、力がありません。私もそうですが、彼にとっても許容量以上の話なんでしょう。
誰だっていきなり『この世界の他に別の世界がある。初代の勇者はそこから来たのだ』なんて言われて、はいそうですかとは信じられませんよ。
大抵の場合は言った相手の神経を疑います。話しているのが大祭司長だから疑いもせず信じるんです。これがそこらの人が言ったら、間違いなく信用なんかしませんよ。
「そうです。我々の世界は女神様がお造りになった世界ですが、その外側には無数の違う世界があるという事です」
無数の違う世界。平行世界ってやつですね。……? 私、どこでそんな事聞いたの? ああ、何だかむかむかする。
「ちょっと、大丈夫? 顔色真っ青よ?」
ちびっ子が心配そうに覗き込んできます。そんなに顔色悪いんでしょうか。自覚ないんですけど。
隣に座るグレアムは、テーブルに置いた私の手をぎゅっと握ってきました。まるで励まされているようなその様子に、少しだけ心が軽くなる気がします。先程までのむかむかがましになった感じです。
「大丈夫ですか? 続けても?」
対面に座る大祭司長から確認されました。ちびっ子のみならず大祭司長にまで言われるなんて。体調でも崩したかしら。この所あれこれあったから。
「大丈夫です」
私は何度か深呼吸をして気分を落ち着け、再び大祭司長の声に耳を傾けました。
「では続けましょう。その勇者は国、そしてこの世界に多くの技術をもたらしたとも言われています。鉄馬車の基本を考えたのも、勇者だそうです。他にも上下水道の事や乗り合い鉄馬車、職人や商人が作る組合やそこが運営する配送代行業、銀行組織も勇者の考えだったとか。他にも実に多くの技術や習慣をもたらしました。今日の生活の利便性が上がったのは、ひとえにこの勇者のおかげと言えるかも知れませんね」
「随分と頭のいい方でしたのね」
感嘆したような巨乳ちゃんの言葉に、大祭司長は首を横に振って否定しました。
「それらは勇者の住んでいた世界では普通にあったものなのだと、そう言っていたそうです」
普通にあったもの。今私達が初代勇者のもたらした技術などを、普通に感じるように、その勇者の世界でもそうだった、と。
大祭司長の話が少し止まったのを見て、ゴードンさんが疑問を投げかけました。
「その、初代勇者殿は魔王を倒したのですよね? では何故今に繋がる魔王と勇者の連鎖が生まれたのですか? 古代王国の時には城を壊し国王一族を殺した事で引き下がった魔王が、憎い血筋が生きているというだけで襲ってきたという事でしたが。なら我々が倒した大魔王は、一体何の為に人を攻撃してきたのですか? しかも攻撃対象は特定の国だけではない。その理由が知りたい」
ゴードンさんの問いに、大祭司長は少しうつむき加減になりました。何かを言いよどんでいるようです。その表情には苦渋が浮かんでいます。話すのが辛い内容なんでしょうか。
「全て話すと決めたのだろう? 遠慮せずに話した方がいい」
声のした方に、全員の視線が集まりました。グレアムです。今まで沈黙していた彼が、ようやく口を開いた途端、まるで大祭司長を責めるような事を言いました。言ってる内容が、ではなく、その口調が、です。
どこか冷たい響きを持った声。抑えた怒りを感じるのは、私だけかも知れません。でも、大祭司長の何に怒っているの?
さすがの巨乳ちゃんも、これには納得がいかないようです。
「勇者様、大祭司長猊下にそのような」
ですが、その巨乳ちゃんを止めたのは、当の大祭司長でした。ちびっ子の時もそうでしたが、やはりこういう立場にある人は、懐も広いんでしょうか。
「いえ、いいのです……彼は間違った事は言っていません」
そう言うと、大祭司長はすっと顔を上げました。決意のまなざし、というのは、こういうのを言うのか思う程、意志のはっきりした視線でした。先程までの様子はみじんも感じられません。
「これから話す事は、おそらくどの歴史書にも記されていないでしょう。消された歴史……この聖地にだけ伝わる、本当の物語です」
大祭司長のその言葉に、私は身構えてしまいました。何か、聞いてはいけないものを聞くような気がしたんです。
神殿だけに伝わる話なんて、私が聞いてもいいんでしょうか。他言はしないとは誓いましたし、それを違えるつもりはありませんけど。
でも、確か私の洗礼名に関わる事だ、って事ですよね? どうしてこんな大きな話になってるんだろう。
「そもそも召喚された勇者は、初代勇者とは違います。召喚されたのは、十六歳の少女だったのです。そして、今現在初代勇者と呼ばれる者は、彼女から勇者の力だけを引き受けた、王国の騎士でした」
勇者が少女だった事。その少女から勇者の力のみを取り出し、他の人間に移した事。あまりにもな内容に、室内はしんと静まりかえりました。
誰も身じろぎもしません。呼吸すら忘れそうな沈黙の中、ようやく動いた人がいました。ゴードンさんです。
「何故そんな……いえ、そんな事が可能なんですか?」
ゴードンさんの疑問は、誰しもが思ったものでしょう。一人の人から力だけを他の人に移すなんて、聞いた事がありません。
「女神様の力を借り、当時まだ残っていた禁術の一つを使ったと伝えられています。理由は召喚された勇者が戦闘を恐れたからです。彼女は平和な場所からいきなりここへと連れてこられた、普通の少女でした。そして彼女の側にいるうちに、彼女を想うようになった一人の騎士が、彼女を苦しませたくない一心で勇者の力を引き受け、代わりに魔王討伐へと向かいます」
それは……そうでしょう。普通に育った十六かそこらの娘さんなら、戦う事を怖がったところで不思議はありません。私だって怖いですよ、そんな事になったら。
それにしても、あんまりな話の内容だからか先程から動悸がすごくて落ち着かない感じです。
当然ですね。これまでの、神殿から教えられていた常識に嘘があったなんて。確かにこれは外で話した所で信じてはもらえないでしょう。せいぜい頭のおかしい人と思われるのがおちですよ。
「そして、魔王は討ち取られた」
ゴードンさんの間の手も、物語の一部のように感じられました。
「そうです。ですが、女神様のお言葉により、魔王の魂だけは持ち帰ったのです。その魂を人に還せるのは勇者として召喚された少女だけだったから」
「何故、その少女だけが魔王の魂を人に還せると?」
勇者の力を失ったはずの、ただの少女が。いえ、違う。魔王に対抗する最後の力はなくしてはいなかった。
「彼女はこの世界の人間ではありません。その為女神様の力を正しくこの世界に発現する事が出来る存在でもあったのです。彼女の身体を通して顕現する女神様の御力で魔王の魂を人へと還そうとなさったのです。この世界の人間では女神様の力を受けられるだけの器がないそうです」
「だから魂を……それで、人には還せたんですか? ……いえ、失敗したからこそ、今も魔王が復活し続ける」
魂を人へと還す。そしてそれに失敗した。違う、出来なかった。そう、だって……。
「そう。人には還せなかった……。何故なら、国王が女神の言葉を無視したのです。魔王討伐の成功を聞いた国王は、勇者として召喚された少女を用無しとみなし、勇者のすり替えを行おうとしたのです。所詮恥知らずな血筋は恥知らずしか生み出さないという事ですね」
まるで吐き捨てるような大祭司長の声です。込められた感情は、憤り。怒りを超えた、怒り。
何故、大祭司長がそんなにも憤っているのか……。この地位にある人にあるまじき暴言ともとれる発言です。
でも、それを心のどこかで肯定している自分がいます。とうとう指先が震えてきました。冷や汗まで出てきています。本当に、一体どうしたの? 私。
先程から自分とは違う意識が入ってくるような。いえ違う。違うんじゃなくて。
「すり替え? 何の為に?」
ゴードンさんがそう聞いた途端、キーンと耳鳴りが起こり、頭の中で誰かの声が響きました。
コレハ王国ノ為ダ、オ前ハソノ贄(ニエ)トナルノダ。力ヲ無クシタノナラ、最後ニコレデ王国ノ役ニ立テ。
聞き覚えのない声……いえ、違う。聞いた覚えがあります。でも誰? っていうか何これ!? どうして頭の中で聞こえるの!
立ち上がって逃げ出したいのを、グレアムに握られた手を渾身の力で握り替えし、何とかそのぬくもりでぎりぎり耐えています。
その私の耳には、大祭司長の怒りを抑えた声だけが響きます。
「国を、世界を救ったのが異界の少女ではなく、自国の騎士ならば、英雄に祭り上げ、自分の御代の誉れともなる。ですがそれが実は女神に縋り、呼び寄せた異界の少女だったと知れたら? そのためには召喚した少女が邪魔になったのです」
「まさか……」
混乱を起こしている私の耳に、みんなの息をのむような声が聞こえました。そこに沈痛な大祭司長の声が重なります。俯いてぎゅっと目を閉じました。それでも脳裏に浮かぶ、見覚えのない情景。恐ろしい、その様子。
「……しかもただ殺したのではありません。戻って来た騎士が、自分達を責めないよう、そして秘密が漏れてもそれを打ち消せるよう、民衆を利用したのです」
「利用?」
誰かのかすれるような声が聞こえました。聞きたくない。やめて。これ以上、もう、嫌だ。
「城で保護していた少女をいきなり放り出し、魔王が討ち取られた事にわき上がる民衆に対し、少女は魔王の手先だ、勇者をたぶらかそうとした、と嘘を吐いたのです。広場に集まっていた民衆は、まさか自分たちの国王が嘘を吐くなどとは思わず、少女を魔王の手先と信じ込み、殺してしまいました」Xing霸
性霸2000
大祭司長のその言葉と共に、細切れに脳裏に浮かんだのは、世にもおぞましい光景でした。
こちらに向かって伸ばされる手、衣服をはぎ取られ、押さえつけられる恐怖。痛みと苦しみ。周囲の醜悪に歪んだ笑み。何これ……どうしてこんな光景が思い浮かぶの!?
がたん! と音を立てて立ち上がりました。自分でも震えているのがわかります。ダメだ、もう耐えられない!
「ど、どうしたんですか? ルイザさん」
「ぐう!」
こみ上げる衝動のまま、私はグレアムの手を振り払って部屋の隅に走りました。苦いものが喉の奥にせり上がってきます。そのまま、私は胃の中のものを戻していました。
「げほっ! げほっ!」
「ルイザ! 大丈夫か?」
「しっかりして! 誰か! 水、冷たい水を!」
グレアムとゴードンさんの声が遠くに聞こえます。どうして、なんで私がこんな思いをしなくちゃいけないの!? あの時だって!
アノ時?
どくん、と心臓の音が聞こえた気がします。一体、いつの事? 混乱と恐怖から、私の中はぐちゃぐちゃです。やがて誰かが洗面器と水と、布を持ってきてくれました。
揃いの法衣を着た人達が、静かにその場を片付けていくのを見ながら、知らぬ間に涙を流していました。
吐くと体力を消耗すると聞きましたが、本当のようです。ぐったりとした体をグレアムに支えられ、私は汚れた口元もそのままに、ぼんやりと一点を見ているだけでした。
意識はあるものの、今は何もしたくない。指一本動かすのでさえ億劫です。
「大丈夫ですか? 具合でも悪かったんですか?」
大きな手で優しく背中をなでるグレアムの脇で、そう聞いてくるゴードンさんに、私は何も言えませんでした。
傍目にはひどい状態でしょう。でも今の私にそれを考える余裕などありません。肩でしていた呼吸がようやく落ち着いてきた所です。
「口をゆすいで。でないとまた嘔吐く。ゆっくりでいいから」
まだうつろな様子の私に、グレアムは優しく勧めてくれます。体全体でテーブルの方から私が見えないようにかばい、醜態が見えにくくなるようにしてくれています。
水の入ったゴブレットを口元まで持ってきてもらい、少しずつですが、何とか水を口に含み、何度かゆすいでようやく口の中の苦みが取れました。
落ち着いたら、今度は涙が止まりません。覗き見てしまった覚えのない記憶。それにまだ精神が引きずられているようです。肩を抱くグレアムにすがりつくようにしてすすり泣きし出した私の前に、いつの間にか大祭司長がいました。
「最初の記憶を……少し思い出しましたか? ……辛く苦しい事でしょうけど、あなたには聞いてもらわなくてはなりません。そして、全てを思い出してもらわなくてはならない」
静かに席を立ち、私の側に膝をついた大祭司長が、私の顔を覗き込むようにしてゆっくりと告げました。私の肩を支えるグレアムの手に力がこもります。
「いい加減にしろ!! ルイザがこんなに苦しんでいるのに!」
「猊下、一体何の事ですか? 思い出すとは」
グレアムとゴードンさんの声すら遠く聞こえます。こんなに近くにいるのに。なのに不思議と大祭司長の声はクリアに聞こえました。
「勇者として召喚された少女、その魂はルイザ、あなたのものです。あなたはその後この世界で転生を続け、その度に勇者と関わりを持った。あなたの転生回数は三回ではありません。六回です。あなたには封じられた三回分の人生の記憶があります。その全てを思い出してもらいたいのです」
私は、声も出ませんでした。みんなも、何も言えないようです。グレアムの隣にいるゴードンさんの動揺だけは、伝わってきました。
でも、グレアムは静かに私の背を撫でているだけです。のろのろと顔を上げると、ひどく苦しそうな彼の顔がありました。どうしてあなたがそんなに苦しそうにしているの? どうして……驚かないの?
大祭司長の言葉は、本当なら何をバカな事を、と一笑に付す所でしょう。ですが私には出来ません。前世三回分の記憶はあるんですから。
それに先程見えた光景の切れ端。あの光景に見覚えはありません。でもまるで見てきたように思い出してしまいました。
それも記憶が封じられているから、と考えれば合点がいきます。何より、耳の奥にこびりつくように残っている、あの時の人々の声。
その娘は魔王の手先だ! あろう事か勇者をたぶらかそうとしていた大罪人だ
魔王が倒された今、今度はこの都を壊滅させようとしておったのだぞ
皆の者、そのような罪人を許せるか?
城門から外へと放り出され、上からそう声を張り上げる国王の声。
殺せ!
魔王の手先だ! 構うことはねえ!
服もはぎ取れ! 何だ? 抵抗するなんざ生意気な
まだ子供みたいなのに! とんだ淫売だよ!
そうだ、淫売には淫売にふさわしいように扱えばいい
そうだな
伸ばされる腕、押さえつけられ、服をはぎ取られ、足を開かされて、何人もの男に……。
何睨んでるんだい! 薄気味悪いねえ!
黒い目だなんて気味の悪い
ならえぐっちまえ
そうだ! そうだ!
頭を押さえつけられ、焼け付くようなひどい痛み。泣き叫んでも、誰も助けてはくれない。誰も止めてはくれない。
なんだ、まだ生きてやがるぞ
ああ、じゃあこいつでどうだ?
はは、魔王様よりぶっといかもなあ?
よし、押さえつけろ
大槌持ってこい
打ち付けろ!
もう、痛みがひどすぎてよく覚えていない。でも何かが体のなかに打ち込まれたのだけは、覚えている……。
その後の事は、もうわかりません。でも私はあそこで死んだんでしょう。
王都での勇者の出立パレード、そして冬の降臨祭の風景が頭で重なります。あの時感じた恐怖は、今考えるとあの時によく似てます。
地元の祭りでは思い出さなかったのに。もしかしたら『王都』というのが、キーワードの一つなのかも知れません。
「召喚された勇者であり、その力を初代勇者に譲った少女、それが聖女ジューン、この第一神殿の守護聖女です。そして城でジューンの世話係として側にいた侍女二人、彼女達はジューンに群がる群衆から彼女を救い出そうと無謀にも挑み、同じように群衆に殺されました。その二人が第二、第三神殿の守護聖女、聖アンジェリアと聖ソフィーなのです。名は知らずとも、犠牲祭の聖女といえば、わかるでしょう。そしてこの聖女達の名が、あなたの洗礼名でもあるんです」
アンジェリア……ソフィー……。おぼろげな記憶の中で、明るい茶色の髪の少女と、赤みの入った金髪の少女が笑っています。ああ、彼女達まで……。
「あなたには思い出したくもない事でしょう。でも、記憶を失ったままでは、魔王を消滅させる事が出来ません」
心配そうに覗き込む、大祭司長の顔。幼いそれは、それでも子供が持つような表情をしていません。小さな、白い手袋に包まれた手が、私の目元に当てられます。白い手袋に、涙のシミが出来ています。
「魔王を……消滅……?」
かすれた、小さな声でした。それでも大祭司長は聞き取ったようです。軽く頷きました。
でも、私が記憶を取り戻すのと、魔王の消滅と、どう関係があるんでしょうか? そう問いたくても、それだけの力が出ません。
「そうです。虚空城にいる魔王は、あなたでなくては、人に還す事はできないのです」
「待ってください! 虚空城に、魔王? ばかな! 先程もそう言っていましたが、大魔王は魔王城にて倒しました! 復活するにしても早すぎる!」
ゴードンさんの怒声が響きます。彼等は辛い旅の果てに大魔王を滅ぼした勇者一行です。これでその魔王がまだ存在しているとなれば、彼等の旅の意味がなくなります。
ですが、大祭司長の口から語られたのは、勇者という存在そのものを揺るがしかねない言葉でした。
「いいえ、あなた方が旅の果てに倒したのは、地上にある魔王の影に過ぎません。これまで魔王とする相手の姿と名前が全て違うのは、形状やその性質をも変えて影を放ってくるからです。勇者の力では魔王は倒せないのです」
「魔王の……影……?」
「ど、どういう事ですの? 何故勇者様の力で魔王が倒せないなどと仰るんですの?」
魔王の影。彼らが苦難の末に倒したのが、そんな存在だなんて。それに魔王を倒せるからこそ、勇者というのではないのですか? なのに、勇者の力では、魔王は倒せないなんて……。
彼らの様子を、大祭司長は痛ましいものを見るような目で見つめていました。そしてその口から続けられた内容は、さらに衝撃的なものでした。
「……初代魔王を倒した勇者は、自分の思い人を殺した国も王も民も許さず、持ち帰った魔王の魂を取り込み、民を殺し都を壊滅に追い込みました。今の魔王は初代勇者の成れの果てです」
今度こそ、部屋の空気が凍り付きました。私も目を見張りました。初代勇者が、今の魔王?
「な!!」
「そ、そんな!! 勇者様が!?」
「ばかな!! そんな事があってたまるか!! 勇者が民衆を……都を壊滅させるなどと!! しかも……勇者が魔王!? あり得ない!!」
みんなの驚愕の声が聞こえます。ああ、でもそれも何だか遠い。ゴードンさんは近場にいるせいか、その声がよく聞こえます。
いつもと違う怒声を発しているゴードンさん。騎士として勇者一行に加わった彼には、許せない事なのでしょう。
じゃあ、勇者自身は? グレアムは、私をその両腕で抱きしめているだけで、何も言おうとしません。
「信じられません……そんな……どの史書にもそのような歴史はありませんわ……」
呆然とした巨乳ちゃんの声が耳に響きます。歴史に詳しい訳ではありませんが、習った限りでは私も知りません。これも神殿側が隠す真実なのでしょうか。
確かに、公表する事など出来ない内容です。混乱が起こるどころの騒ぎではないでしょう。
「消された歴史の部分です。これもまた、神殿が隠す真実の歴史でもあります。でも公表出来る内容ではない事はおわかりいただけるでしょう。魔王を打ち倒したはずの勇者が、魔王の魂を取り込み新たな魔王になったなど……。しかもその原因が時の国王だなどと、言えるはずもありません」
しかもそれが『二度目』だなんて。それも同じ『血筋』から出た王だというのも、口を重くする原因になったのかも知れません。
沈痛な面持ちで大祭司長は続けます。
「勇者が今の魔王を倒せない理由はここにあります。勇者は魔王を倒せても、勇者は倒せない。今の魔王の力は、勇者と同じものなのです。その事から神殿では初代魔王と二代目魔王は別物として扱うのです」絶對高潮
あんまりな話の内容だからでしょうか。先程とは違い、誰も何も口に出そうとはしません。神殿が七百年以上守り続けた秘密は、あまりにも重いものでした。
そして守り続けられた秘密は、これだけではありませんでした。
「そして魔王となった勇者、名をマーカスといいますが、彼はその後選出された勇者の魂をも取り込んでいます。そのせいで彼の力は強大化しているのです。歴代最強とうたわれた今代の勇者でさえ、及ばない程に」
その言葉は、しびれたような私の頭にも響きました。その後選出された勇者? じゃあ……。
「今までの……勇者の魂……?」
私の口から出たのは、自分でも信じられない程震えた声でした。じゃあ、彼等も? でも、彼等は帰ってきたはずなのに。一体いつ?
「そうです。二代目から六代目までの全ての勇者の魂を、もちろんその能力も共に、です」
部屋の中の空気が、どんよりと重たいものに変わっていくのが、感じられました。それはそうでしょう。ただでさえ勇者の力が通じないと言われたばかりなのに、追い打ちをかけるような事を言われたのですから。
「それでは……魔王には誰も、勝てないのですか……?」
「いいえ、リンジー。まだ我々には希望があります。私の言葉を忘れましたか? 魔王を人に還せるただ一人の人物がここにいます」
そう言って、大祭司長は私の方を見ました。『召喚された勇者の魂』を持つ、私。
「魔王を消滅させる為には、魔王の核となっている初代魔王の魂を人に還す必要があります。これはどの勇者でも出来ない事です。召喚された勇者の魂を持つ、あなたでなければ」
部屋中の視線が私に集まったような気がしました。もう床も綺麗に掃除され、私はそこに座りこんでいる状態でした。
話のあまりの内容と、思い出した切れ端の記憶のきつさで、頭がうまく回りません。
「ですが、それにはあなたに記憶の封印を解いてもらわなくてはなりません」
「どうして……」
「先程も言いましたが、あなたの前世の記憶には、女神様による封印が施されています。その封印を解かなければ、魔王の魂を人に還すのに必要な力を得られないからですよ」
「力……」
それを手にする為には記憶の封印を解かなくてはならない……。
封印……女神の……。ダメです、頭がうまく回らない。人の話し声は聞こえてきますが、本当に聞くだけになりそうです。
私の側で、主にゴードンさんと大祭司長の会話が続いていました。
「前世の記憶……。猊下は彼女が六回転生していると仰いましたが」
六回……そう言われてもまだ信じられません。実際三回分の前世は覚えているくせに、おかしな考え方ですよね。我ながら笑いがこみ上げそうです。
でも封印とやらで記憶がない以上、そう考えても仕方ないと思うんです。それにしては先程覚えのない記憶が蘇って、今こんな状態になってますけど。
「そうです。彼女の魂は死んでから約百年ごとに、今まで六回の転生を繰り返しています。ですが前半三回はあまりにも辛すぎる記憶の為、女神様が記憶の封印をなさったそうです。そして、神殿は、転生する彼女を見守りその存在を隠し続ける為に、彼女の洗礼名を秘匿します」
「何故洗礼名の秘匿を?」
「洗礼名は守護する聖女・聖人の名でもありますが、霊的な目印にもなっているのです。すなわち魔王はその洗礼名を頼りに、彼女を捜し出す事が出来るのです。中央神殿が行う秘匿とは、単純に物理的に隠す事だけではありません。霊的にも秘匿するのです。彼女の洗礼名に使われている名は、他の誰にも使われていない名ですから。そして魔王、マーカスはその名に覚えがあります。探し出すのはたやすいでしょう。」
私の洗礼名が秘匿されたのは、魔王に探されないようにするため。でも隠している事で逆に探されたりとかはされないものなんでしょうか。それらも霊的に処理されていたんでしょうか。
「霊的……そんな事が出来るんですか……ならば洗礼名を変える訳にはいかなかったんですか?」
ゴードンさんの疑問で、その方法もあったのかと気づきました。隠すより変える方が楽でしょう。
「洗礼名は神殿が勝手に付ける訳ではありません。そのものの魂に刻まれているのを、神殿側が読み取るだけです。そして彼女は転生一回目からその魂に同じ洗礼名を刻まれています。それを目印に神殿が保護に動くのです」
大祭司長の語る返す答えは、私の予想外のものでした。神殿がつけるんじゃなかったんですか? それに、どうして神殿が保護なんて……。神殿に通常以上に関わられた覚えはないんですが。
「ちょっと待ってください、神殿が見守るのは勇者となる者のはずでは?」
ゴードンさんの言う事ももっともです。どこまで私達の『常識』は神殿によって作られたものなのか。
「……それも真実ではありません。先程も言ったように、魔王の復活と勇者の選出を、神殿は十数年前には把握しています。何故なら、彼女が生まれた時点で全てが決まる事だからです」
今……なんて……。
「ど……どういう事ですの?」
巨乳ちゃんの声も、何だか震えているようです。昨日までの当たり前が、こうも目の前で砕かれるというのは、混乱を招くものなんですね。
「召喚された勇者の魂を持つ娘が生まれれば、その洗礼名から神殿はすぐに察知します。そしてその娘の周囲には、必ず勇者の力の器を受け継いだ者がいます。勇者の力と魂は元は一つ。引き合う性質を持っているのです」
「引き合う……性質……」
大祭司長の最後の一言は、私の中にわずかな引っかかりを残しました。それは、どういう意味でなんでしょうか。物理的に、という事? それとも……。
「召喚された勇者の魂を持つ娘の奪還を目指し、魔王は復活してくるのです。完全復活は娘が十六、七歳になる頃です。それは丁度ジューンがこちらに召喚された年齢と同じです。おかしいとは思いませんでしたか? 魔王の復活にばらつきがある事に。復活には周期があり、それが約百年なのは知られている話ですが、きっかり百年ではありません。それは何故か。答えは簡単です。彼女の転生周期に同期しているからです」
「転生周期……」
確かに。前世で死んでから、次に生まれるまでにおおよそ百年だったのは覚えています。ただし私の記憶にある分だけですが。
「そうです。勇者の魂を持つ娘は、死んでから約百年で転生します。これが意味するところはわかりませんが、これまでの六回全てがそうでした。魔王の影を倒した時期と、娘の死亡時期が一致しない場合ずれが生じます。一番短くて約百十六年、一番長くて直近の百九十年です」
勇者……魔王……転生……洗礼名……。美人豹
「ルイザ!!」
2012年8月30日星期四
2012年8月28日星期二
積み上げられた砂の城、崩れ落ちる白の砂
アスール貝というものがある。暖かい季節、砂浜で稀に取れる貝だ。希少価値はないが、暗闇で青く幻想的に光る事から恋人に贈る男性が多い。この国の結界石が青なのに合わせて、「貴方を守ります」といった意味を込めるのである。V26Ⅳ美白美肌速効
「せおっ」
急いでこちらに駆け寄ってくる彼女を見て頬を緩めつつ、自身も待ち合わせの噴水から離れて彼女との距離を縮める。
「うう……ごめんなさい、またわたしの方が遅かったのです」
「いえ、たまたま私の方が早かっただけですよ。それにお師匠さま、まだ待ち合わせの時間前です」
正確に言うのなら、丁度三分前だった。恐らく彼女はセオドリークを待たせないために五分、もしくは十分前行動を心がけていたのだろうが、叶ってない辺りが実に彼女らしい。なんて事を口に出せば落ち込んでしまうのは目に見えているので思うだけに留め、自然な動作で彼女が持っていた袋を受け取る。息を整えていたエイレンティアは少し遅れて気づき、「あっ!」と抗議の声を上げたが、セオドリークは微笑み返すだけだった。
「あ、ありがとうです。セオ」
「はい」
彼女の手を取り、彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出す。いつセオドリークに声をかけようか虎視眈々とチャンスを狙っていた女性達は、残念そうに散っていった。エイレンティアとセオドリークは二人だけの世界を作っており、とてもではないが声をかけられる雰囲気にはないからだ。
一ヶ月に一度の買い物の日。今日も二人は、いつも通りだった。
「そういえばお師匠さま、今年はアスール貝の輝きが例年より増しているそうですよ」
「わあっ、そうなのです?」
「よければ見に行きませんか。お師匠さま、そういったものお好きでしょう?」
「はいっ好きです!」
屈託なく笑って答えるエイレンティアに、その言葉を自分に向けてくれないだろうか、とそんな思いがセオドリークの心中に芽生える。その願い自体は、望めばすぐに叶うだろう。だがそれは本当に欲しいものとは違う。自分が彼女に恋焦がれているように、彼女にもそうであってほしい。彼女の隣にいるのはこれから先も自分一人でいい。――――これ以上を望む自分は、或いはひどく我侭なのかもしれないけれど。
「とっても楽しみですっ」
「私もです、お師匠さま」
それでもどうしようもない。簡単に捨てられるような想いならば、最初から抱いてないのだから。
◇◇◇
赤と青の二つの月が淡く照らす中、ざあざあと波の音が響く。わざわざ辺境の地を選んでいるのもあって周囲には人影もなく、エイレンティアは子供のようにはしゃぎながら砂浜を踏んだ。その度、彼女のポニーテールも揺れる。
「夜の海も素敵ですねっ」
「そうですね、今日は月も星もよく出ていますから」
やや間を開けて、やわらかな眼差しで彼女を見つめる。他のどんなものよりも、彼女の方が眩しく輝いていた。どんなに美しいものも、彼女を引き立てる飾りでしかない。
「このへんでいいでしょうか? セオもおいでっ」
にこにこと手を振る彼女は、きっと子供を誘っているようなものなんでしょうねえ、と苦い気持ちを覚えつつ、彼女の傍に座り込む。セオドリークもエイレンティアも汚れてもいいように軽装で来たため、服を気にかける必要はなかった。彼女の水着姿が見たかった気がしないでもなかったが。
「そういえば、セオがまだちっちゃかった頃にも海に遊びにきましたね」
エイレンティアは砂を掘り起こして貝を探しながら、懐かしそうに零す。
「覚えておりますよ、お師匠さま」
彼女との思い出を、セオドリークが忘れるわけもない。彼女と同じ行動を取りつつ、記憶を探った。
「子供が家に篭りっぱなしは良くないからと、連れてきてくださったんですよね」
あれは確か、セオドリークが七歳の時の話だ。彼女との暮らしも慣れてきた頃だった。エイレンティアは用がなければ外に出なかったため必然的にセオドリークもそうなり、その状況に気付いたエイレンティアが「このままじゃよくないのです!」と慌ててセオドリークを連れ出したのである。
「でも、もっと早く気づいていればよかったのです。わたしが小さい頃はずっと家にいるように言われて絵描いたりしてたから、それが普通なんだと思ってて……そんなわけはなかったなんて知らなくて」
「私は家にいるのも外に出るのも好きでしたよ。貴方と一緒ならどちらでもいいんです」
場所なんて関係なかった。彼女と一緒にいられるなら、それだけでよかった。あの頃はまだ、今よりずっと穏やかな気持ちだったけれど。
「むう……」
「お師匠さま?」
エイレンティアが不満そうに漏らしたため、セオドリークは思わず聞き返す。
「セオは、わたしにもっと怒るべきなのです!」
「私がお師匠さまに? 何故ですか?」
……怒られるような事ならいくつかありますが。過去に自分がした事はこの際棚に上げて、彼女に尋ねる。
「セオにはセオの自由があるのです。それはわたしが奪っていいものじゃない。なのに主張出来なくしてしまったのは、わたしの落ち度なのです……」
俯く彼女を見て、やはり責任感の強い人なのだと改めて実感する。何の力もない、死にかけた子供なんて放っておけばよかった。帰る場所なんてないと駄々をこねても突き放して孤児院にでも預ければよかった。彼女の名を使えば、容易に行えたはずだ。けれど彼女はどちらも選ばなかった。快く引き取って、実の息子のように弟のように愛情を注いでくれた。そして、今も。――まるでそれ以外の感情は知らないかのように、どこか頑なに。V26Ⅲ速效ダイエット
「お師匠さま、私は……」
自分の人生も全ての幸福も貴方の隣にあるのだと、隣にしかないのだと、どうやったら伝わるのだろうか。誰に強制されるでもなく自分で道を選択したのだと、どうしたら信じてくれるのだろうか。そんな風に思案していると、きら、と光るものが目に入った。
「……手を、出されてください」
「う? こうです?」
不思議そうに差し出された右手に、見つけたばかりのそれを握らせる。
「あ、これ……」
彼女がじっと見つめて確かめている隙に簡単な魔法をかければ、ぽつりぽつりと青い光が二人の周りに浮かび上がっていく。小さな青はやがて他の色を飲み込み、星空の下、蝶々が舞うかのように、海の中、魚が踊るかのように、安らぎで包まれた空間を作り出す。
「わあ……!」
「本来アスール貝の光はほのかなものですが、周囲にある貝全ての光を集めてみました。少し、増幅させてはいますが」
「すごいすごいっ! セオの瞳とおんなじ色できれい!」
エイレンティアは大喜びで視線をあちこちにやりつつ、指でつついたりして遊ぶ。その姿がなんとも可愛らしくて、あっさりと放たれた言葉があまりにも強烈で、セオドリークを惹きつけて止まない。
「あの時も、そう仰っていましたね」
「あのとき?」
「私の瞳の色と似て綺麗だからと、お師匠さまはそう言って貝を下さいました。誉めてもらえたようで、私にはとても嬉しい贈り物だったんですよ」
ですからお返しです、と付け加えれば彼女はきょとん、とした顔をして、しばらくして思い出したのか「ああ!」と納得がいったように声を上げた。
「思い出して頂けましたか?」
「はいっ。あ、ち、ちがうのですっ! 忘れてたわけじゃないです!」
「いえ、いいんですよ。もう五十年近くも前の事ですしね」
つまりそれだけの年月、エイレンティアとセオドリークは一緒にいる。師弟として、家族として、慈しみ合いながら。その現状にエイレンティアが安心しているのも、心の拠り所にしているのも、セオドリークはよく分かっている。関係性が変化すれば、ぎりぎりのラインでなんとか「自分」を保っている彼女を修復不可能なまでに壊しかねない事も。それはすなわち――――……
「ティア」
一呼吸置いて、セオドリークは彼女の名を呼ぶ。ざあ、と波の音が一際大きく響いた。
「貴方を守ると、この貝に誓いましょう。私が生きている限り、ずっと」
心から愛しているのだと、本当は伝えたい。けれど今はまだ出来ない。これから先も彼女達と生きるためには、まだ。
エイレンティアはいつもと違う彼の雰囲気に飲まれてしまったのか言葉に迷っているのか、セオドリークを静かに見つめ返すだけだった。セオドリークがぱちんと指を鳴らすと光が消えていき、我に返ったように口を開く。
「わ、わたしもっ! わたしもセオを守るのです!」
「有難うございます、お師匠さま」
「ぜ、絶対なのです。……絶対に、守ります」
低く囁く彼女の顔は、真剣そのものだった。その表情はどちらかと言えばもう一人の彼女が作るものに近く、セオドリークは一瞬戸惑いを覚える。その間にエイレンティアはぱっと空気を変え、いつものように無邪気な笑みを見せた。
「セオっ。砂のお城つくりましょう!」
「え? あ、はい」
「魔法は使っちゃだめですよ。手で作るのです」
「はい、お師匠さま」
――今の違和感は、なんだったのだろうか。ただの見間違いか、それとも考えすぎか。漠然とした不安を残しつつも、彼女に付き合って砂を盛っていく。時折エイレンティアが不注意で崩してしまう箇所もあったが、セオドリークがしっかりとフォローし、立派な城を作り上げていった。
「ねえ、セオ」
「何でしょう?」
「彼女は……こういった遊びはするのでしょうか?」
この場合の彼女は、交代人格の彼女を指しているのだろう。それはすぐに見当がついたが、しかしセオドリークは返答に悩んだ。交代人格の彼女は基本人格が自分を意識せずに日常を送る事を望んでいる。恐らく今も「起きて」いるし、自分について語られるのを良しとしないはずだ。
「そうですね……。もしこの場にいらっしゃったらきっと、参加されていないと思いますよ」
だが敢えて、セオドリークはごまかさなかった。
「そうなのです? こういう子供っぽいのは嫌なのでしょうか」
「いえ嫌いというよりは、単純に苦手なんだと思います。あまり縁がないといいますか……慣れていらっしゃらないようですから」
「ふむふむっ」
眉を顰めて聞いている彼女を思い浮かべながらも、話題を変える事はしなかった。もう一人の自分を知りたいと思う気持ちも尊重されるべきものだと思ったからだ。
「参加はされないかもしれませんが、見守っては下さると思いますよ」
「わあ、なんだかお母さんみたいなのです! 落ち着いた人なのですね」
「落ち着いた……そうですね」
お母さん――――その単語に笑いを堪えつつ、これは後でお小言を食らうのは間違いないなとセオドリークはこっそり覚悟した。
「でもどうして、話せないのかなあ……。わたしは本当は彼女を受け入れていないのでしょうか」
小さく呟かれた一言には、彼女の切実な想いが詰まっていた。エイレンティアは自分の中にもう一人いるのだと気付いてはいるが、はっきり認識出来ているわけではない。やり取りも出来ないでいれば、交代人格でいる間何をしているのかもほとんど知らないでいる。彼女が言う通り受け入れきれていないせいかもしれないし、そもそも交代人格の彼女が接触を望んでいないせいでもあるのだろう。だが、それを告げるのはためらわれた。
「お師匠さま……」
「あっ、あった!」
嬉しそうに声を張り上げ、丁寧に掘り起こす。そして満面の笑みでセオドリークに手渡した。
「さっきのお返しなのですっ」
彼女の言動ひとつひとつがセオドリークの心をどれだけ揺さぶるのか、きっと彼女は知らないでいるのだろう。愛しさは日々募っていくばかりだ。V26即効ダイエット
「有難うございます。大切にしますね」
「はいっ。わたしも大切にします!」
今はまだ、待ち続ける。いつか彼女が乗り越えるまで。
「できたっ」
しばらくして出来上がったのは、一種の芸術と言っても差し支えないほど精巧に作られた砂の城だった。エイレンティアもセオドリークも手先が器用であり、加えてエイレンティアには芸術的センスがある結果だ。
「お疲れ様です、お師匠さま」
「セオもお疲れ様なのですっ。これ、崩れちゃうのもったいないですね……」
「形を保たたせましょうか?」
「ううん。いいのです。波が来るのは当たり前のことなのですよ」
ね、と笑いかけた後立ち上がり、靴を脱いで海の中に入っていく。
「わっつめたい!」
「お師匠さま、あまり深いところへ行かれないでくださいね」
「わかってます。わたし、泳げませんもん……」
彼女はセオドリークに背を向けてはいたが、頬を膨らませてすねているのだろうとは簡単に想像がついた。
「昔はセオも泳げなかったのにっ」
「泳ぐ環境になかったですからね。お師匠さまも練習さえすれば大丈夫だと思いますよ」
「……ほんとに? しずまなくなる?」
「はい。それにいざとなれば浮き輪がありますよ」
「なぐさめになってません~~……」
「そうですか? そんなつもりはなかったのですが」
「ぬうう……セオわらってるううっ」
うわーん! と涙目になりながら、奥へと進んでいくエイレンティア。勿論、危なくない深さまでだ。そんな彼女を楽しそうに眺めていたセオドリークは、彼女を追って自身も海へ入った。
「どうか機嫌を直されてください、お師匠さま」
「いいんです、どうせわたしはカナヅチですもん……」
「人には誰しも欠点があるものですよ」
「わたしセオの欠点なんてしりませんっ」
「攻撃魔法が全くといっていいほど使えませんよ? 他の魔法を使用しなければ、身を守れるのかも怪しいレベルです」
「あ……でもセオには剣があるのです」
「それですよ、お師匠さま」
うん? と首を傾げた彼女の前に回りこみ、目線を合わせる。
「出来ない事があるのなら、出来る事でフォローすればいいんです。自分では駄目なら、他の誰かでもいい。ですから、貴方が溺れたら……いえ、溺れそうになる前に必ず私が助けます」
諭すようにそう言えば彼女はぱちぱちと瞬きを繰り返して、次には控えめに微笑んだ。
「ありがとう、セオ」
幸せを噛み締めるような、どこか泣きそうな、そんな笑みだった。
「はい、どういたしまして。もう少し遊んでいきましょうか」
「うんっ」
水をかけあって、波がきたら逃げて、二人は久しぶりの海を満喫した。彼女は無理にはしゃいでいる気がしてならなかったが、言及は避けた。触れられたくないと彼女が訴えている気がして、聞けるはずもなかったのだ。
二人が帰る頃には砂の城は波にさらわれ、完全に崩れ落ちてしまっていた。エイレンティアとセオドリークの記憶の中にだけ、形を残して。V26Ⅱ即効減肥サプリ
「せおっ」
急いでこちらに駆け寄ってくる彼女を見て頬を緩めつつ、自身も待ち合わせの噴水から離れて彼女との距離を縮める。
「うう……ごめんなさい、またわたしの方が遅かったのです」
「いえ、たまたま私の方が早かっただけですよ。それにお師匠さま、まだ待ち合わせの時間前です」
正確に言うのなら、丁度三分前だった。恐らく彼女はセオドリークを待たせないために五分、もしくは十分前行動を心がけていたのだろうが、叶ってない辺りが実に彼女らしい。なんて事を口に出せば落ち込んでしまうのは目に見えているので思うだけに留め、自然な動作で彼女が持っていた袋を受け取る。息を整えていたエイレンティアは少し遅れて気づき、「あっ!」と抗議の声を上げたが、セオドリークは微笑み返すだけだった。
「あ、ありがとうです。セオ」
「はい」
彼女の手を取り、彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出す。いつセオドリークに声をかけようか虎視眈々とチャンスを狙っていた女性達は、残念そうに散っていった。エイレンティアとセオドリークは二人だけの世界を作っており、とてもではないが声をかけられる雰囲気にはないからだ。
一ヶ月に一度の買い物の日。今日も二人は、いつも通りだった。
「そういえばお師匠さま、今年はアスール貝の輝きが例年より増しているそうですよ」
「わあっ、そうなのです?」
「よければ見に行きませんか。お師匠さま、そういったものお好きでしょう?」
「はいっ好きです!」
屈託なく笑って答えるエイレンティアに、その言葉を自分に向けてくれないだろうか、とそんな思いがセオドリークの心中に芽生える。その願い自体は、望めばすぐに叶うだろう。だがそれは本当に欲しいものとは違う。自分が彼女に恋焦がれているように、彼女にもそうであってほしい。彼女の隣にいるのはこれから先も自分一人でいい。――――これ以上を望む自分は、或いはひどく我侭なのかもしれないけれど。
「とっても楽しみですっ」
「私もです、お師匠さま」
それでもどうしようもない。簡単に捨てられるような想いならば、最初から抱いてないのだから。
◇◇◇
赤と青の二つの月が淡く照らす中、ざあざあと波の音が響く。わざわざ辺境の地を選んでいるのもあって周囲には人影もなく、エイレンティアは子供のようにはしゃぎながら砂浜を踏んだ。その度、彼女のポニーテールも揺れる。
「夜の海も素敵ですねっ」
「そうですね、今日は月も星もよく出ていますから」
やや間を開けて、やわらかな眼差しで彼女を見つめる。他のどんなものよりも、彼女の方が眩しく輝いていた。どんなに美しいものも、彼女を引き立てる飾りでしかない。
「このへんでいいでしょうか? セオもおいでっ」
にこにこと手を振る彼女は、きっと子供を誘っているようなものなんでしょうねえ、と苦い気持ちを覚えつつ、彼女の傍に座り込む。セオドリークもエイレンティアも汚れてもいいように軽装で来たため、服を気にかける必要はなかった。彼女の水着姿が見たかった気がしないでもなかったが。
「そういえば、セオがまだちっちゃかった頃にも海に遊びにきましたね」
エイレンティアは砂を掘り起こして貝を探しながら、懐かしそうに零す。
「覚えておりますよ、お師匠さま」
彼女との思い出を、セオドリークが忘れるわけもない。彼女と同じ行動を取りつつ、記憶を探った。
「子供が家に篭りっぱなしは良くないからと、連れてきてくださったんですよね」
あれは確か、セオドリークが七歳の時の話だ。彼女との暮らしも慣れてきた頃だった。エイレンティアは用がなければ外に出なかったため必然的にセオドリークもそうなり、その状況に気付いたエイレンティアが「このままじゃよくないのです!」と慌ててセオドリークを連れ出したのである。
「でも、もっと早く気づいていればよかったのです。わたしが小さい頃はずっと家にいるように言われて絵描いたりしてたから、それが普通なんだと思ってて……そんなわけはなかったなんて知らなくて」
「私は家にいるのも外に出るのも好きでしたよ。貴方と一緒ならどちらでもいいんです」
場所なんて関係なかった。彼女と一緒にいられるなら、それだけでよかった。あの頃はまだ、今よりずっと穏やかな気持ちだったけれど。
「むう……」
「お師匠さま?」
エイレンティアが不満そうに漏らしたため、セオドリークは思わず聞き返す。
「セオは、わたしにもっと怒るべきなのです!」
「私がお師匠さまに? 何故ですか?」
……怒られるような事ならいくつかありますが。過去に自分がした事はこの際棚に上げて、彼女に尋ねる。
「セオにはセオの自由があるのです。それはわたしが奪っていいものじゃない。なのに主張出来なくしてしまったのは、わたしの落ち度なのです……」
俯く彼女を見て、やはり責任感の強い人なのだと改めて実感する。何の力もない、死にかけた子供なんて放っておけばよかった。帰る場所なんてないと駄々をこねても突き放して孤児院にでも預ければよかった。彼女の名を使えば、容易に行えたはずだ。けれど彼女はどちらも選ばなかった。快く引き取って、実の息子のように弟のように愛情を注いでくれた。そして、今も。――まるでそれ以外の感情は知らないかのように、どこか頑なに。V26Ⅲ速效ダイエット
「お師匠さま、私は……」
自分の人生も全ての幸福も貴方の隣にあるのだと、隣にしかないのだと、どうやったら伝わるのだろうか。誰に強制されるでもなく自分で道を選択したのだと、どうしたら信じてくれるのだろうか。そんな風に思案していると、きら、と光るものが目に入った。
「……手を、出されてください」
「う? こうです?」
不思議そうに差し出された右手に、見つけたばかりのそれを握らせる。
「あ、これ……」
彼女がじっと見つめて確かめている隙に簡単な魔法をかければ、ぽつりぽつりと青い光が二人の周りに浮かび上がっていく。小さな青はやがて他の色を飲み込み、星空の下、蝶々が舞うかのように、海の中、魚が踊るかのように、安らぎで包まれた空間を作り出す。
「わあ……!」
「本来アスール貝の光はほのかなものですが、周囲にある貝全ての光を集めてみました。少し、増幅させてはいますが」
「すごいすごいっ! セオの瞳とおんなじ色できれい!」
エイレンティアは大喜びで視線をあちこちにやりつつ、指でつついたりして遊ぶ。その姿がなんとも可愛らしくて、あっさりと放たれた言葉があまりにも強烈で、セオドリークを惹きつけて止まない。
「あの時も、そう仰っていましたね」
「あのとき?」
「私の瞳の色と似て綺麗だからと、お師匠さまはそう言って貝を下さいました。誉めてもらえたようで、私にはとても嬉しい贈り物だったんですよ」
ですからお返しです、と付け加えれば彼女はきょとん、とした顔をして、しばらくして思い出したのか「ああ!」と納得がいったように声を上げた。
「思い出して頂けましたか?」
「はいっ。あ、ち、ちがうのですっ! 忘れてたわけじゃないです!」
「いえ、いいんですよ。もう五十年近くも前の事ですしね」
つまりそれだけの年月、エイレンティアとセオドリークは一緒にいる。師弟として、家族として、慈しみ合いながら。その現状にエイレンティアが安心しているのも、心の拠り所にしているのも、セオドリークはよく分かっている。関係性が変化すれば、ぎりぎりのラインでなんとか「自分」を保っている彼女を修復不可能なまでに壊しかねない事も。それはすなわち――――……
「ティア」
一呼吸置いて、セオドリークは彼女の名を呼ぶ。ざあ、と波の音が一際大きく響いた。
「貴方を守ると、この貝に誓いましょう。私が生きている限り、ずっと」
心から愛しているのだと、本当は伝えたい。けれど今はまだ出来ない。これから先も彼女達と生きるためには、まだ。
エイレンティアはいつもと違う彼の雰囲気に飲まれてしまったのか言葉に迷っているのか、セオドリークを静かに見つめ返すだけだった。セオドリークがぱちんと指を鳴らすと光が消えていき、我に返ったように口を開く。
「わ、わたしもっ! わたしもセオを守るのです!」
「有難うございます、お師匠さま」
「ぜ、絶対なのです。……絶対に、守ります」
低く囁く彼女の顔は、真剣そのものだった。その表情はどちらかと言えばもう一人の彼女が作るものに近く、セオドリークは一瞬戸惑いを覚える。その間にエイレンティアはぱっと空気を変え、いつものように無邪気な笑みを見せた。
「セオっ。砂のお城つくりましょう!」
「え? あ、はい」
「魔法は使っちゃだめですよ。手で作るのです」
「はい、お師匠さま」
――今の違和感は、なんだったのだろうか。ただの見間違いか、それとも考えすぎか。漠然とした不安を残しつつも、彼女に付き合って砂を盛っていく。時折エイレンティアが不注意で崩してしまう箇所もあったが、セオドリークがしっかりとフォローし、立派な城を作り上げていった。
「ねえ、セオ」
「何でしょう?」
「彼女は……こういった遊びはするのでしょうか?」
この場合の彼女は、交代人格の彼女を指しているのだろう。それはすぐに見当がついたが、しかしセオドリークは返答に悩んだ。交代人格の彼女は基本人格が自分を意識せずに日常を送る事を望んでいる。恐らく今も「起きて」いるし、自分について語られるのを良しとしないはずだ。
「そうですね……。もしこの場にいらっしゃったらきっと、参加されていないと思いますよ」
だが敢えて、セオドリークはごまかさなかった。
「そうなのです? こういう子供っぽいのは嫌なのでしょうか」
「いえ嫌いというよりは、単純に苦手なんだと思います。あまり縁がないといいますか……慣れていらっしゃらないようですから」
「ふむふむっ」
眉を顰めて聞いている彼女を思い浮かべながらも、話題を変える事はしなかった。もう一人の自分を知りたいと思う気持ちも尊重されるべきものだと思ったからだ。
「参加はされないかもしれませんが、見守っては下さると思いますよ」
「わあ、なんだかお母さんみたいなのです! 落ち着いた人なのですね」
「落ち着いた……そうですね」
お母さん――――その単語に笑いを堪えつつ、これは後でお小言を食らうのは間違いないなとセオドリークはこっそり覚悟した。
「でもどうして、話せないのかなあ……。わたしは本当は彼女を受け入れていないのでしょうか」
小さく呟かれた一言には、彼女の切実な想いが詰まっていた。エイレンティアは自分の中にもう一人いるのだと気付いてはいるが、はっきり認識出来ているわけではない。やり取りも出来ないでいれば、交代人格でいる間何をしているのかもほとんど知らないでいる。彼女が言う通り受け入れきれていないせいかもしれないし、そもそも交代人格の彼女が接触を望んでいないせいでもあるのだろう。だが、それを告げるのはためらわれた。
「お師匠さま……」
「あっ、あった!」
嬉しそうに声を張り上げ、丁寧に掘り起こす。そして満面の笑みでセオドリークに手渡した。
「さっきのお返しなのですっ」
彼女の言動ひとつひとつがセオドリークの心をどれだけ揺さぶるのか、きっと彼女は知らないでいるのだろう。愛しさは日々募っていくばかりだ。V26即効ダイエット
「有難うございます。大切にしますね」
「はいっ。わたしも大切にします!」
今はまだ、待ち続ける。いつか彼女が乗り越えるまで。
「できたっ」
しばらくして出来上がったのは、一種の芸術と言っても差し支えないほど精巧に作られた砂の城だった。エイレンティアもセオドリークも手先が器用であり、加えてエイレンティアには芸術的センスがある結果だ。
「お疲れ様です、お師匠さま」
「セオもお疲れ様なのですっ。これ、崩れちゃうのもったいないですね……」
「形を保たたせましょうか?」
「ううん。いいのです。波が来るのは当たり前のことなのですよ」
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「わっつめたい!」
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「ぬうう……セオわらってるううっ」
うわーん! と涙目になりながら、奥へと進んでいくエイレンティア。勿論、危なくない深さまでだ。そんな彼女を楽しそうに眺めていたセオドリークは、彼女を追って自身も海へ入った。
「どうか機嫌を直されてください、お師匠さま」
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「人には誰しも欠点があるものですよ」
「わたしセオの欠点なんてしりませんっ」
「攻撃魔法が全くといっていいほど使えませんよ? 他の魔法を使用しなければ、身を守れるのかも怪しいレベルです」
「あ……でもセオには剣があるのです」
「それですよ、お師匠さま」
うん? と首を傾げた彼女の前に回りこみ、目線を合わせる。
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諭すようにそう言えば彼女はぱちぱちと瞬きを繰り返して、次には控えめに微笑んだ。
「ありがとう、セオ」
幸せを噛み締めるような、どこか泣きそうな、そんな笑みだった。
「はい、どういたしまして。もう少し遊んでいきましょうか」
「うんっ」
水をかけあって、波がきたら逃げて、二人は久しぶりの海を満喫した。彼女は無理にはしゃいでいる気がしてならなかったが、言及は避けた。触れられたくないと彼女が訴えている気がして、聞けるはずもなかったのだ。
二人が帰る頃には砂の城は波にさらわれ、完全に崩れ落ちてしまっていた。エイレンティアとセオドリークの記憶の中にだけ、形を残して。V26Ⅱ即効減肥サプリ
2012年8月24日星期五
心の在りか
総勢六十騎からなる騎馬隊の、大地を蹴ちらす轟音が、無人の原野を駆けぬける。
晴れ渡った夏空の下、ケネルら一行はレグルス大陸を南下していた。
なめらかに疾走する栗毛の馬上で、エレーンはケネルに寄りかかり、淡々と手綱をさばくその顔を、いつものように見あげていた。しきりに瞬きをくり返す顔は、そろそろ何か言いたげな模様。勃動力三體牛鞭
案の定、ケネルのシャツを、今日もくいくい引っぱった。
「んねえ、ケネルぅ~ん」
何かありそな甘ったれ声。だが、
「なんだ。飯なら食ったばかりだろ」
ケネルの方はけんもほろろ。相変わらず、愛想もへったくれもありはしない。そう、隊長は今、馬の運転で忙しい。
むぅ、とエレーンは言葉につまった。だが、本当に伝えたいことでもあったのか、不満気に口を尖らせている。もっとも、これしきの無視でへこたれてては、今日も日がな一昼夜、無言で過ごす羽目に陥るのは目に見えて明らかだ。
エレーンはにんまり笑みを作った。
「う、うん! いや、あのね、ちょっと喉が──」
「水なら、そこの水筒の中だ。そう言ったろ」
「あ、いや~、そーゆーんじゃなくってね。あ、あのね、ケネル──」
「なんだ」
「あ、あの──あのね──」
ついにケネルが、いかにもうんざり振り向いた。
「なんだ。あんたは、さっきから。少しは落ち着いたら、どうだ」
真正面から直視され、エレーンは上目づかいで口をパクつかせる。
「あ、だって──だってね──え、えっとお──そのぉ──」
ケネルが手綱を、ぐぐっと握った。さすがに苛ついたらしいその額に、むきっ、と青筋が浮きあがる。
「なんだっ!」
「お、おしっこ!」
ケネルが思考停止で固まった。ぱちくり瞬き、両目は、てん。
どよん……と微妙な空気が流れた。闊達にとどろく蹄音が、いやに虚しく、空々しい。
ケネルはのろのろ額に手を置き、深くげんなりと嘆息した。
「──休憩にする」
ケネル隊長、即刻降参。だって、これを言われては、どうにもなるまい。
並走している副長に、手をあげ、停止の指示を出す。
そそくさそっぽを向いたエレーンを、ケネルはしげしげ眺めやった。
そして、不可解に首をひねる。まだ出発したばっかりだ。何があったわけでもない。具合が悪いようでもない。
まったくどうしてこの客は、何かにつけて、馬の足を止めるのだ?
緑の原野に愛馬を放し、頭の後ろで手を組んで、青草の上に寝転がる。
頬傷のある長身の男は、口をくちゃくちゃさせながら、木陰で仲間と話していた。ノースカレリアのある北方を、辟易とした顔で眺めやる。出立してからずいぶん経つが、未だ二日分の行程を消化したかどうかというところだ。
又しても休憩になり、彼らは暇を持て余していた。時間が無駄に余っているから、体を所在なく持て余し、とはいえ行程中は酒色厳禁、そもそも気晴らしに行こうにも、こんな原野では店など皆無だ。
今日もまたダラダラと、時だけが無為に過ぎていく。
迅速、果敢を旨とする彼らには、じれったくも歯がゆい事態だった。苦々しげに頬をゆがめて、彼らは腐り気味に眺めやる。
全ての元凶はあの女だ。領家の正室、エレーン=クレスト。そんな特権階級が、そもそも、どうして群れの中に交じっているのか。統領代理の捜索行に。
そう、あの女こそが曲者だった。やっと走り出したと思うも束の間、すぐに又、ただをこね、馬の足を止めてしまう。そして、なし崩しに休みに入り──と延々それのくり返し。
男の一人が、いかにもうんざり紫煙を吐いた。
「やれやれ。いつまで、こんなことが続くのかねえ」
出発の気配は、未だに、ない。
件の女が副長に連れられ、緑の草原を歩いて行く。黒い頭髪を背まで伸ばした二十代半ばのカレリア人だ。小柄な体に薄桃色のジャケット、中は白いブラウスに、白いスラックス。暗色が占める傭兵の群れで、明るい色彩がひときわ目を引く。
用足しに行くらしく、二人は森に入っていく。小道の入り口を眺めやり、じろりと副長が睥睨した。この無言の圧力は「総員、立入禁止」の厳命だ。
そう、女が森から出てくるまでは、誰も森には入れない。無論、副長の命に逆う者などいるはずもないから、その効果たるや、あたかも結界でも張ったが如く。まったく、迷惑なこと、この上ない。
今も、件の"お姫様"は、髪の長い"従者"を従え、何事か言い合いしながら、森の入り口に向かっている。
一人が苦虫噛み潰した顔で舌打ちした。
「副長にタメ口きくたァ、何様だ、あの女!」
その生意気さが、気に障った。我が物顔のでかい態度も、気に食わない。
そう、あれは女の身の分際で、上官にぞんざいな口をきき、身勝手放題に振りまわす。長に命を預ける傭兵隊は、上下関係が殊の外厳しい。手柄次第で立身出世も望めるが、そうした序列に女の入る余地はない。そう、時と場合によっては戦利品でしかない玩具風情が、一足飛びに上官と並び、いっぱしの口をきくなど、本来あってはならぬこと。今、彼女が平気で小突いている副長は、組織の頂き近くに位置する男だ。
腕力至上主義を奉じる彼らにとって、非力な者は下の下の格付け。まして女が、上位者と対等に口をきくこと自体、凡そ信じがたい光景だ。身分がどれほど高くても、元よりそれは関係ない。彼らはどこの国にも属さず、保護も恩恵もなんら受けずに自力で生き伸びてきたのだから。
草原を横切る彼女を眺め、一人が忌々しげに顔をしかめた。
「ああ、なんでも、あの女、商都にお買い物に行くらしいぜ?」
「こんな時に、商都ってか。旦那が明日をも知れねえってのに、奥方さまは優雅なこった」
出立してからしばらくは、彼女がカードで浮かれるさまを、休憩ごとに目にしていた。声高にわめき散らす、そのやかましい円陣から、そんな話が漏れ聞こえていた。
「つまり、俺らは足代わりって話かよ」
頬傷の男は自嘲混じりに苦笑いした。
「上も上だぜ。いくら同じ方向とはいえ、なんで、あんなのを連れて行くかねえ。あれじゃ、お荷物もいいところだぜ。お陰でちっとも進みやしねえ」
休憩時には、隊の中でも浮いているあの、、特務の連中が適当に相手をしてやっていたが、あいにく群れの大半は、街に住む男のように友好的でも社交的でもない。今回の任務は統領代理の護衛のはずで、この行程の目的は、その代理の捜索のはず。それが、なぜ、あんな女に振り回されねばならないのか。
隊を束ねる彼らの首長も、近ごろ何か様子が変で、首長がふさぎこんでいるお陰で、移動の際にも後方ばかり、部隊同士で密かに張り合う彼らとしては、それも、いささか面白くない。
寝転がった頬傷の男が、組んだ足を大儀そうに組み替えた。
「なあ、どうしてっかな。大将は」
ふと隣の男が振り向いて、心配そうに眉をひそめる。
「手荒に扱われていなけりゃいいんだが」
トラビアのある西の空を、傭兵たちは眺めやった。
護衛の仕事で同行したため、ダドリー=クレストとは懇意だった。寝食を共にし、さばけた人柄に接する内に、打ち解け、連帯感を持っていた。仲間内以外のそうした友は、拒絶されるのが常の遊民には、実に得がたく、珍しい。しかも、彼は庶民などではない。絶大な権力を手中にする領主という名の実力者、本来であれば手の届かぬ雲の上の存在なのだ。そうした意味でも、彼は特別に大事な友だった。
彼とトラビアまで同行した者は、直前で彼に投降され、手痛い迷惑をこうむりもしたが、あの不可解な失態も素人ゆえの小胆さ、と寛大に受け止め、気にしなかった。隣国の屈強な兵士を相手に日々熾烈な闘いをくりひろげ、いく度も死線を潜った彼らだ。あの程度の番狂わせは取るに足りない些事だった。
彼がいきなり投降した際、彼らは包囲網を突き破り、立ち込める戦塵から力づくで脱出していた。騎馬の扱いに長け、戦慣れした彼らには、死守する何者をも持たず我が身一つで逃げていいなら、朝飯前の芸当である。鈍のろ臭く非力なカレリアの軍隊など、戦場を渡り歩く現役傭兵の彼らにすれば、きれいなお飾り人形でしかない。
「どうなっているかな、トラビアは」
「さあな。だが、陥落は時間の問題だろう。ラトキエが進軍しているからな」
一人が忌々しげに舌打ちした。
「亭主の尻に火が点いてるってのに、女房は優雅にお買い物ってか? いい気なもんだぜ!」
「哀れだよなあ、大将も。あんなに嬉しそうに話していたのに」
道中の長丁場で、ダドリーから散々新妻自慢をされたので、そのベタ惚れの度合いは同行者全員の知るところ。
一人が憎々しげに舌打ちした。
「しょせん、メイドあがりだからな、あの女は。一緒になったのは財産目当て。大将の方はオマケだろ」
「とんだ女狐に引っかかったもんだな、大将も」
中だるみした、だらけた空気に、冷え冷えとしたものが入り混じった。
それは急速に浸透し、草原ののどかさとは凡そそぐわぬ剣呑な空気が立ちこめる。
「暇、だよな」
誰かの落とした呟きが、含みありげな余韻で響く。
静まり返った小道を眺め、寝転がった頬傷の男が、何かを狙うように身を起こす。のどかな樹海を顎でさした。
「お誂え向きの"暇潰し"が、そこに服着て歩いているぜ?」
彼らの視線が、頬傷の男に集中した。一同、胡乱に目を眇める。
「"クレスト領家の奥方様"、ね」
鬱憤晴らしの的にするには、"それ"は手頃で丁度よかった。副長という適度に手ごわい障害も、暇潰しに挑むには格好だ。なに、ぶん殴られるくらいは安いもの。己が素行不良は棚にあげ、副長が横槍を入れてくるのは、今に始まった話ではない。
「頂くとするか、あの女」
頬傷の口端でニヤリと笑い、男は仲間に目配せした。
ガムを地面に吐き捨てて、一同、おもむろに立ちあがる。相談は、すぐにまとまった。
【 心の在りか 】
風道を深く入ったところで、木立の脇道に、ひとり分け入る。
風道の道端で待っているファレスは、すぐに背を向け、喫煙を始めるのが常だった。道すがらは文句を言うが、どんなに待たせても、急かしはしない。こちらに背を向けたまま、ああして、ずっと、そこにいる。巨根
今も、ファレスは背を向けて、かったるそうに煙草をくわえ、気難しそうに眉をひそめて喫煙している。馬上で着ている上着は脱いで、今は黒っぽいランニング一枚だ。体格は細身だが、ひ弱ではない。むしろ全体的に筋肉質で、剥き出しの肩や腕は、見るからに敏捷そうに引き締まっている。黒皮のベルトに細い腰、直線的に伸びた長い脚、そして、乾いた泥のこびり付いた、使い込まれた編み上げ靴。頭一つ分は、優に上にある高い背丈。だから、話す時には、いつも、首を曲げて、見上げていなくてはならない──
エレーンはぎくりと肩を震わせ、あわてて彼から目を逸らした。
「も、もう! ケネルのアホが、あんなことして、ふざけるから、変に意識しちゃうじゃないよ……」
真っ赤になって踵を返し、木漏れ日揺れる木立の中を、そそくさ早足で歩き出す。
近くにい過ぎて忘れがちだが、やっぱり、あれも男なのだ。こっちをおちょくる憎たらしい顔が見えないと──あの端整な顔が見えないと、殊更に "彼" なのだと実感する。そう、片脚に重心を預けた無造作な後ろ姿は、紛れもなく男性のものだ。例え、女性のように長い髪でも。どんなに憎まれ口をたたき合っても。
あの衝撃的な晩以来、エレーンはすっかり異性が苦手になっていた。もっとも、当のケネルは別なのだが。
男ばかりのこんな集団にいるのだから、平静を装って話しもするが、一度ああいうことがあったりすると、どうにも、そわそわ落ち着かない。又いつ、突然飛びかかってくるんじゃないかと知らぬ間に警戒してしまう。拳固が知らぬ間に、ぎゅうぅ、と硬く握り締められていたりする。手の平、汗びっしょりで。
長い"尻尾"を引きずって、急ぐ肩越しに振りむき振りむき、エレーンは藪を掻き分けていた。
風道から大分入った適当な場所で、立ち止まる。まったく、用足しにくるにも一苦労だ。周囲の無人を素早く確認、胴の結び目をせっせとほどく。腰縄が巻かれているのだ。前にそのまま散歩に行ったら、胴を結わえ付けられるようになったのだ。逃亡防止ということらしい。
作業をしながら、ブツブツごちる。だが、それは、縄を硬く結び付けたファレスに対する呪詛ではない。文句を言ってるその先は、
「なによお、ケネルってば、やな感じ。あんなに怒んなくたって、いーじゃないよ。そりゃあ、いきなり声かけたあたしだって、ちょっとは悪いかも知んないけどさ、でも、あわてて隠すくらいなら、初めから、あんな所で見なけりゃいいじゃん……」
ケネルが何かの紙を取り出したから、なんの気なしに覗いたら、ぎょっとケネルは飛び上がり、あわてて懐にしまい込んだのだ。そして、実に迷惑そうに「なんでもない!」と隠ぺいした。だが、張り合おうたって無駄なのだ。なにせ、こちとら、"嘘発見器"を内臓し、常にフル稼働している"女"という名の手ごわい生き物。急ごしらえのちゃちな嘘など、逆立ちしたって見破れる。
硬い結び目をなんとかほぐし、大木の根元から生えている若枝の真ん中に、縄の先を結びつけた。ファレスが気紛れを起こして引っ張った時に、少し揺れるくらいがいい。幹の方に結んでは、いささか手応えがあり過ぎる。ファレスは時々縄を引っぱり、本当にいるかどうかを確認する。こっちには、決してやってこない。また逃げるだろう、と分かっていても。
だから、彼をまくのは、とても容易いことだった。
結び終わった枝を離して、エレーンはそっと溜息をついた。
「……そんなに大事なもの、なのかな」
ケネルが見ていた薄青い手紙。
差出人は誰だろう。何が書かれているのだろう。それを見る横顔は、頬をわずかに緩めていた。
「ケネルの、ばか」
枯葉の積もる地面にうつむき、エレーンは軽く石ころを蹴った。こっちにはケネルだけしか、頼れる相手がいないのに。なのにどうして、よそ見なんかするのだ。
そうだ。なんで、そんなに鈍いのだ。なんで、そんなに無神経なのだ。一度それに気づいてしまえば、やることなすこと癇にさわって苛々する。
ケネルはいつでも面倒そうで、途中で話を打ち切ったり、呼んでいるのに無視したり、間違いを教えてあげれば、むっとした顔で黙りこむし、いや、そもそも人の話を聞こうとしない。一生懸命話しても、ケネルは深入りしたがらない。すぐにせっかちに問い質し、話を理詰めでまとめあげ、さっさと片付けようとする。いや、そこからしてズレている。誰も解決してほしいなんて言ってない。ただ話を聞いて欲しいだけ。そばにいて欲しいだけ。なのに、落ちこんだって慰めるどころか、ケネルはそれに気づきもしない。具合が悪くて心細くても、すぐにどこかへ行ってしまう。ケネルは、冷たい。
ケネルはちっとも気づかない。こっちのことを見もしない。
必死で信号を出しているのに。
「……なんか、疲れた」
うなだれた口から、弱音がこぼれた。
周りは粗野な男ばかりで、気が休まる時がない。居場所なんか、どこにもない。誰も彼もが余所者を見る目つき。見世物でも見るように野卑な目つきで、じろじろ、じろじろ。
──一人に、なりたい。
切実な欲求が頭をもたげた。
脇道の奥へと目を向けて、エレーンはそっと足を踏み出す。
森はひっそりと静かだった。
視界を埋め尽くす濃淡の緑。梢の先の、空が青い。
がさがさ、どこかで茂みが鳴った。藪をうごめく何かの気配。たぶんファレスではないだろう。彼ならぞんざいに名を呼ぶし、捜しにくるには早すぎる。どうせ、またウサギかリスだ。
用足しで森に入ると、小さな動物が現れる。それらが木立の奥から顔を出し、遠巻きにしていることがままあった。初めの内こそ驚いたが、何度も遭遇して、もう慣れた。どうやら動物に好かれる質らしい。今も、ばさばさ鳥が集まり、忙しなく首を傾げている。そう、あれも、いつものこと。とはいえ、今日はいやに騒がしい。又、どこかで茂みが鳴る。
静かな森を散策しながら、エレーンはそっと嘆息した。
気がふさいで仕方ない。確かに、今もダドリーがトラビアのどこかで囚われていて、彼の安否が気掛かりだ。だが、何もそれだけが理由でもない。
何かが、ざわざわ鬱屈していた。
切ないような、泣きたいような、大声で叫んでしまいたいような、得体の知れない暗い想い。不意に胸を衝く鋭い痛みも、胸が潰れそうな哀しみも、笑っている時も眠っている時も、それは常にかたわらにあって、ふとした拍子に現れては、心の平穏を脅かす。こんなふうになったのは、いつの頃からだったろう。ディールの奇襲をどうにか乗り越えたあたりだろうか。いや、たぶん、もっと前だ。
心の深い暗がりで、何かが呼び覚まされていた。
それは目をそむけ続けてきた嫌な何か。目を凝らしてみるけれど、その正体はわからない。
梢の先には、青い夏空が広がっていた。
そこに、くっきりと白い、鳥が一羽。翼を広げ、何かを探すように旋回している。
エレーンは足を止め、無意識に握っていた手を開いた。手の平にあるのは、不恰好に欠けた翠石のかけら。夢の石のまがい物。
緑の石が、木漏れ日を弾いてきらめいた。この緑のお守りを事あるごとに握るのが、いつの間にか癖になっていた。悲しい時、苦しい時、つらくて恐くて不安な時──。
ふと気づいて、首をかしげた。
気のせいだろうか。石が、いやに温かい。それに、かすかに震えているような──そう、石がかすかにざわめいて、、、、、いる?
右手の方角が気になった。
強く惹かれる何かがある。馬群は大陸を南下しているから、樹海の先は東の方向。大陸の東西は大海原。
──海が、見たい。
強い欲求が突きあげた。
大空の下、どこまでも広がる青い海原、寄せては返す青い波の情景が脳裏いっぱいに広がった。ごつごつした黒い岩、広々とした無人の浜、遠い空で輝く太陽──見たこともない海だった。なのに、無性になつかしい。
喉が詰まって息苦しい。それを出し抜けに自覚した。そう、つらくて苦しくて仕方なかった。もう、ここには、いられない。すぐにも、どこかへ逃げ出したい。
切なさが胸を締めつけて、せっぱ詰まって足を踏み出す。
気が急いた。
一刻も早く広い場所に出たい。誰もいない開けた場所、そこに辿りつきさえすれば、それだけで息がうまく吸える、そんな気がするのだ。
憑かれたように、がむしゃらに歩いた。
張り出した木の根につまずきながら。足場の悪い地面によろめきながら。だって、ケネルにまで手を払われたら、あたしは一体どうしたらいいの?
足は闇雲に海へと向かった。それでも足りずに、エレーンはもどかしい思いで足を速める。早く──早く行かないと! そこに行けば、楽になれる。
──そこに行くのが正しい、、、のだ。
がさり、と藪が大きく揺れた。
ぐっ、と二の腕がつかまれる。強い力で引っ張り戻され、足を取られて、たたらを踏む。
エレーンは全身を震わせて居すくんだ。腕をぞんざいにつかんでいるのは、節くれ立った無骨な手。
(……誰?)
自分の荒い息づかいを、戻ってきた意識が捉えた。
耳元で、脈が鳴っている。心臓が踊りあがっている。いっぱいに見開いた視界には、生い茂る木立しか写らない。
硬直し、振り向くこともできぬまま、エレーンは唾を飲み下す。
ファレスであれば、罵倒で呼びかけ、走ってくる。ケネルだったら気配でわかる。つまり、これは
知らない、、、、手だ。
胸が、早鐘を打っていた。
体温が、一気に下がった気がする。
とっさに逃げかけ、けれど、足は、凍り付いたように動かない。悲鳴を上げようにも、喉が張り付いて、声が出ない。
頭が痺れて、意識が捉えようもなく膨張していた。ただ、痛い程に分かるのは、"恐い"という感情だけ。
自分でも意外に思う程に、ビクついていた。振り向くことさえ叶わない。縫い止められ、狭まった視界に写るのは、疎らな雑草が長閑(のどか)に揺れる、陽に晒された地面だけ──
エレーンは、怯えわななく唇を、強く強く噛み締めた。
(──ケネルの、バカ!)
あんな悪ふざけ、したりするから。
足がガクガク震えて、言うことを聞かない。肩を掴まれただけなのに、体が竦んで動けない。
誰だろう。
いつから、そこにいたのだろう。上背のある筋肉質な気配を、背中に感じる。ジロジロ見ている、ぞんざいな視線を感じる。
肩を捕えた冷たい手。──その手が一つ、肩を叩いた。
それで、やっと弾みが付いた。
金縛りの呪縛が、解ける。石のような体が、動く。
声にならない悲鳴を上げて、転がり出るようにして前へと逃れ、慌てて、後ろを振り仰ぐ。
「──え?」
エレーンは、瞬いて、首を傾げた。
見上げた視界に写った顔が、──真後ろに立ち、肩を掴んでいたその相手が、思いもかけぬ人物だったからだ。だって、闊達そうな精悍な顔、逞しい褐色の肌に、陽に焼けた茶色の短髪、穏やかで落ち着いた茶色の瞳、そう、だって、この人は──
「バパ、さん?」
ポカンと口を開け、唖然と見返す。
「よ、こんにちは」
気楽な調子で、そう返し、彼は、キョトンと顔を見た。
エレーンは、訳が分からずに、キョロキョロ辺りを見回した。連れは、いない。彼一人だけだ。
この人は、確か、あの群れのリーダー格の一人、"バパ"と呼ばれる、あのおじさんだ。でも、そんな偉い人が、何故、たった一人で、こんな所に……
──ってか、何処から湧いて出たんだ!? このオッサン!?
人の気配なんて、しなかったのに。
アングリと口を開け、エレーンが呆然と見上げていると、短髪の首長は、静かな周囲にさりげなく目をやり、その目を戻して、呆れたように腕を組んだ。
「何処へ行くんだ? この先は、崖だぞ」
「……え、ガケ?」
訝しむような視線を向けられ、エレーンは、はっと我に返った。
「……あ、はあ……いや、あの、なんていうか、……別に、あたしは、崖なんて、そんな……その~……あの、そんなことは……」
しどろもどろになりつつも、相手が納得しそうな適当な理由を、必至で探索。そりゃ、さぞや、挙動不審に写ったことだろう。けれど、とっさのことで、要領を得ない。
バパは、しばらく黙って見ていたが、短髪の頭を掻きながら、さわさわ揺れる緑の木立を、グルリと一周、振り仰いだ。そして、
「ああ、そうか。方向が分からなくなっちまったか」
「え?」
「まあ、不慣れなあんたじゃ、無理もない。ここ 《 影切の森 》 では、そういうことが、まま起こるしな」
「……は、はあ、……いやっ、まあ、あの~……?」
小首を傾げ、誤魔化し笑いを返しながら、エレーンは、密かに、冷や汗を拭く。実に、好意的な解釈だ。
はっはっは──と笑って、闊達に話を収める首長から、小さくなって目を逸らす。この先に、海があるのは、知っている。
エレーンは、コソコソと目を彷徨わせた。このままだと "迷子になった" ことにされてしまうが、訂正しようにも、暴力的なまでに凄まじい、あの異様な衝動は、他人には、ちょっと説明し難い。
一人でモジモジしていると、チラと、バパが目を向けた。「気を付けな」
日焼けした腕をゆっくりと組んで、短髪の首長は、向き直る。狼一号
「この樹海の先の、南の方には、ここより、もっと酷い場所がある。万年、深い霧が立ち込めていて、慣れてる奴でも、そこから抜け出すのに難儀する。悪くすりゃ、そのまま遭難だ。あそこは、磁石さえ利かないからな」
「……は……あ……」
首を項垂れ、エレーンは、神妙に聞いていた。リアクションのしようがない。
バパは、至極、真面目な顔だ。迂闊な者に注意を与える、落ち着いた年長者の声。普段は、愛想良く笑っている人だが、今は、深刻な内容だけに、さすがにヘラヘラしていない。
「で、何してんだ? こんな所で」
ギョッと、エレーンは、飛び上がった。
理由を訊かれたから、ではない。改めて尋ねてきたかと思ったら、いきなり、肩を抱いてき (やがっ) たからだ。
我が身を抱いて一足飛びに飛び退り、ギッと、無礼者を睨め付ける。
不届きな手を宙に浮かせて、バパは、キョトンと停止した。だが、苦笑いで頭を掻くと、取り下げたその手を、腰に差した短剣の柄へと持っていき、──て、え!?
──さりげなく何する気だ!? このオッサン!?
エレーンは、躍り上がって、あわあわ……と逃げ腰。
「どうした?」
精悍な顔で、ふと振り向くと、バパは、鞘ごと引き抜いた自分の得物を、無造作に地面に放り出した。
ガシャンとぞんざいに転がったのは、見るからに使い込まれた鞘入りの剣。これまで数え切れぬほど握り込まれてきたのだろうその柄は、白っぽい地色が、既に薄黒く変色している。そう、実用に供されてきた、、、、、、、、、ことは一目瞭然、この使い込まれようは、単なる装飾品などでは、あり得ない。
「そ、そ、それ──な、な、何を──っ!?」
すっ飛んで木の裏へと避難して、エレーンは、ジタバタ喚いて顔面蒼白。想像したくもない物騒さだ。
けれど、ビクビクと覗き込むへっぴり腰の相手に構わず、バパは、投げ出した短剣の横に脚を折り、大儀そうに、よっこらせ、と腰を下ろした。「──ちょっと休憩」
「はっ?」
「せっかく、こんな可愛らしい話し相手もいることだしな」
「……」
勝手に "憩い仲間" に仕立てられ、エレーンは、己を指差し (あたしィー!?)と凝固した。しかし、その一方で、意識の方は、依然として、物騒この上ない "それ" にいく。
チラと盗み見たエレーンの視線の先を追い、バパは、今しがた自分で投げ出した短剣に目を向け、「ああ、こいつか、」と苦笑いした。
「──すまんな。俺達はなにぶん、他人様ひとさまから恨みを買う商売なもんでね。コイツがないと、いざって時に、自分の身が守れない。──しかし、こんな物は、あいつらだって持ってたろ?」
無論、彼の言う"あいつら"とは、このところ、彼女に張り付いている、無愛想な隊長ケネル、並びに、吊り目の副長のらねこの、件のコンビのことである。そして、バパは、「なんで、俺の時だけ……」とイジケそうな顔をする。
彼我の扱いの差別的な落差に、エレーンは、唐突に気が付いた。
「──あ、──あ、で、でも、あの、ケネルって、ああ見えて、結構ぼうっとしたトコあって、だから、こういうの持ってても、別にあんまり恐そうじゃないし──あ、だってホラ、顔だって別に、そんなに恐い顔って訳でもないし、だから、……だから、その……」
慌てて、オーバー・リアクション。無駄に両手を振り回し、言い訳がましく、あたふたと釈明。
けれど、実のない弁解を続ける内にも、盗み見の視線は、物騒な得物に釘付けだ。自らの置かれた状態に慣れ、気持ちに余裕の出てきたエレーンも、それには、とうに気付いていた。彼らの何れもが、常時、刀剣を携帯している、ということに。でも、正直なところ、そんな物、もう見るのも嫌だった。だって、あれは、鳥獣を狩る為の道具なんかじゃない。
人を、、傷つけ、苦痛を与える為の、、、、、、、、道具だ。
相手の痛みを知った上で、その効果と効率とを計った上で、人が人を傷つける図。──そのドス黒い凄惨さは、想像して余りある。
ヘドモドしながら、エレーンは、必死でフォローを入れる。短髪の首長は、胡座(あぐら)の膝に頬杖を付き、ふーん……と小首を傾げて、マジマジと熱演を眺めていたが、
「あいつが 好き か」
「──はあっ!?」
出し抜けに、何を言い出す!? このオヤジ!?
このつっけんどんな不意打ちには、年長者への表敬も恭謙もすっ飛ばし、エレーンは、端的&不躾この上なく訊き返す。
しかし、短髪の首長は、ヒョイと顔を突き出し、直球勝負。
「だから、ケネルの奴が好きか、って」
「──ち、ち、ち、ち、」
慌てふためき、エレーンは、前にも増して、両手をブンブン振り回し、キッと顔を振り上げた。
「違いま( す )──っ!?」
「膝に、乗ってた」
「──う゛」
一発で、沈められる。バパの勝ち。
シレっと横目で指摘され、エレーンは、前のめりMAXの全力説得体勢で、そのままギクリと氷結した。絶句した額には、嫌な具合に冷や汗タラタラ。どうやら、あの犯行現場を、バッチリ目撃されてたらしいのだ。
さっくり勝ったバパはといえば、白けた顔で、当て付けがましい視線をチラリと送り、
「いいのかよ? どんなに寛容な旦那でも、他の男にあんなことしたら、やっぱり、さすがに怒ると思うぞ?」
「……あ、あれは、……別に、そういうんじゃなくって……」
両手をモジモジ動かして、エレーンは、ドキマギしながら俯いた。
「ただ、ケネルって( 鈍感だから )、あたしが何をしても気にしないし、あんまり喋んないけど、頼り甲斐はあって──あ、別にダドリーが頼りないとか、そういうこと言ってるんじゃないんだけど、……でも、ダドは、あたしより二つも年下で、何考えてるのか、よく分からないところがあって、でも、ケネルは、何でもハッキリ言うから分かり易くて、こっちのいいように計らってくれるし、全部任せておいても、危なっかしくないっていうか、ハラハラしないで済むっていうか、何も考えないで安心して寄りかかっていられるっていうか、だから、気持ちがとっても楽で……ケネルは、なんか親類みたいで、頼りがいのある兄貴みたいで、だから、一緒にいると落ち着いて、だから──」
「やめときな」
「──え?」
「碌なことには、ならねえから」
素っ気なく、そう言い切り、バパは、続けて釘を刺す。「そもそも、奴の方じゃ、そんな風には見ちゃいない」
「──だ、だからっ! それは、違が──っ!?」
真っ赤になって顔を振り上げ、エレーンは、アタフタと訂正の手を振る。だが、動揺しきりの必死な相手を見もせずに、バパは、日に焼けた腕を、無造作に空へと突き伸ばすと、どうでも良さげに欠伸(あくび)した。「ま、そう気張るなって。今からそんなじゃ、保たねえぞ?」
「……は……あ……。って、え──?」
フル稼動に見合わぬ肩透かしを食い、ふと、顔を上げたエレーンは、ギョッと、バパを見返した。
今度は、肩を抱いてきたから、ではない。
突如、ゴロリと、その場に寝転が(りやが)ったからだ 。それにしたって、この人、
(なんで、寝るかな!?)
いきなり、地べたに。
唖然と口を開け、エレーンは、絶句で、足元を見下ろす。理解不能だ。もしかして、
……自由人なのか?
けれど、当のバパは、両手を頭の下に敷き、編み上げ靴の脚を無造作に組むと、気持ち良さそうに目を閉じた。
木漏れ日揺れる、爽やかな森の緑陰である。
頭上では、小鳥がチュンチュン、穏やかに、軽やかに、鳴いている。そして、世話係を撒いて森に分け入り、自由の身となったエレーンが、今、何をしているかといえば、
(なに、この人は~!!!)
突然、昼寝を始めたバパの隣で、ひょんなことから、日向ぼっこする羽目と相なっていたのだった。
決して、望んでこういう状態になっている訳ではないのだが、彼の言葉には、何と言うのか、有無を言わさぬ強制力があるのだ。そう、彼の意向には、逆らえない何かがあるような──。もしや、これが長の威厳とかいうヤツか?
仕方なしに背を丸め、エレーンも体育座りで付き合った。
抱えた膝に、そっと嘆息。確かに、知らない顔ではないけれど、隣で昼寝をされるほど、親しい仲だという訳でもない。
しかし、ゴロリと寝転がった相手の方は、全くこの限りではないらしい。下草の上に寝そべった、その伸び伸びとした態度は、リラックスしてること、この上なし。
「──ああ、いい天気だな。ここは、静かで、気持ちがいい」
呑気というのか何というのか、そんなことを、一人のうのうとのたまいながら、両手を上げて「うーん……」と伸びなんかしたりする。自分だけ憩っているのが、もうアリアリ。──と、ふと、バパが目を開けた。
サワサワ揺れる周囲の木立を、首だけ持ち上げ、不思議そうに見回す。「……なあ? なんか今日、鳥が、やたらと多くねえ?」
「そ、そうですか……?」
エレーンは、エヘラヘラと、お愛想笑い。なんだ? それ。
そんなことより、こっちとしては、勝手に接近されて、大いに困惑しているのだが……。
けれど、当のバパには、遠慮も、躊躇も、微塵もない。ここにいるのが、あの隊長や副長の方だったなら、森を勝手に徘徊してたことがバレた途端に、即刻カミナリ食らって強制連行されること請け合いだが、この短髪の首長は、長閑(のど)やかと言うのか何と言うのか、そうした荒っぽい手段を講じるつもりは、ないらしい。
もっとも、「帰る時には、起こしてくれよ」なんて、気軽に頼んでくれちゃったもんだから、何処にも行くことが出来ないのだが。
思わぬところで足止めを食らい、エレーンは、所在なく膝を抱えた。
遠くで、茂みが鳴っている。ひっきりなしに、ザワザワ、ザワザワ……。兎やリスにしては、音が大きいような気がするけれど、ファレスが捜しにでも来たのだろうか。
……いや、違うだろう。葉擦れの音が、あちこちから聞こえて来るし。
複数方向にある音を、一人で立てられる筈はない。もっとも、あの音の内のどれか一つが、仮にファレスの気配だったとしても、こんな茂みの裏に、隠れんぼでもするみたいに、小さくなって蹲っているのでは、きっと、おいそれとは見つかるまい。もちろん、意図的に隠れている訳ではないけれど、こうして、隣で、ベタっと地面に寝られちまっちゃ、自分だけ突っ立ってるっていうのも、なんか、バランス悪くて不自然だし。
それにしても──と、エレーンは、伸び伸びと寝転がった隣の御仁を、チラと窺う。
バパは、耳を澄ましてでもいるように、静かに目を閉じている。日焼けした精悍な顔立ちだ。彫りの深い端整な造りは、さすがに《 遊民 》と言うべきか。こんな"おじさん"にしては、中々イケてる方だろう。しかし、
(……無視なワケ……?)
チラチラ様子を窺う相手のことになど、とうに気付いているのだろうに、バパは、相も変わらず、一人、目を閉じ、寝転がっているだけだ。この分だと、その内、本当に眠ってしまうかも知れない。自分の方から誘っておいて結構失礼な態度だが、そういや、奴らは、隣人と何も話さなくても、平気でいられる神経の持ち主。それについては、あのケネルが、常日頃から、身を以て実践している。けれど、こんなにシン……と静まり返っていると、なんだか、ちょっと──
エレーンは、気まずくなってきた。三體牛鞭
「え、えっとぉ、バ、バパさんは、何しに?」
まずは、当り障りのない話題を振ってみる。この短髪の首長と、正面切って話をするのは初めてで、だから、改めて話し掛ける際には、さすがに、ちょっとばかり勇気を要する。
緊張気味に呼びかけられて、バパは、「……うん?」と目を開けた。
「──あ、だから! バパさんは、何しに、こんな所まで?」
「あー、俺か? 俺はな、」
おや? 意外と気さくな反応ではないか。
偉いわりに。
そして、短髪の首長は、やはり、いつもと同じように、ニコニコと、愛想良く答えたのだった。「小便」
「……」
そんなこと言うな。トシゴロの娘に。
エレーンは、ガックリと沈没した。まったくもって、論外である。
よく出来た外見とは全く不似合いなデリカシーのなさ。見てくれは良くても、やっぱ、オヤジだ。けれど、まあ、それは、百歩譲って、さて置くとしても、だ。
エレーンは、ソワソワし始めた。あんまり良く知らない人と、こんな人気(ひとけ)のない所で、二人っきりでいる、というのも、ちょっと、どうにもアレなのだが……
なんとはなしに落ち着かず、無人の周囲を、助けでも乞うかのように、キョロキョロ見回す。まあ、そんなことをサラッとのたまう辺り、気さくな人柄なのかも知れないけれど、でも、やっぱり、この二人きりというのが、どうにもネックで──と、ヒョイと目を戻した視界の中に、ふと "それ"を発見した。
エレーンは、目を丸くした。
(へえ? おっしゃれ~。このおじさん、ピアスなんかしてる……)
短く刈り上げた左耳に、小さな赤い石が光っていた。
普段は、相手の頭が高い位置にあるもんだから、今まで全然気付かなかったが──いや、正直に言おう。" おじさん"カテゴリー全般には、皆目興味がないもんだから、全く注目していなかった、というだけの話だ。それにしても、洒落っ気のある若者だというのならばともかく、この年にしてピアスとは。
だって、この人、もう、結構いい年だ。どう贔屓目に見たって、さすがに三十は超えてるだろうし……
ヒョイと、バパが、こっちを見た。
「俺の顔に、何か付いてる?」
小首を傾げて、にーっこりと笑いかける。そして、更に言うことにゃ、
「それとも、俺に見惚れてた?」
「……。い、いえ」
大した自信だ。
エレーンは、おほほ……と引き攣り笑う。案外、この首長、一見、誠実そうに爽やかに見えて、実は、結構な女誑しなのではないか? さっきも、さりげなく肩なんか抱こうとし(やがっ)たし──。
けれど、年上の偉い人を相手に、気安く突っ込みを入れるほど、エレーンだって迂闊ではないのだ。
「あ、あの、バパさんて、お洒落なんですねー。男の人なのに、ピアスしてるしぃー」
薄ら寒い疑惑の空気は、さりげない話題転換で強制排気。こうした日和見主義も、メイド時代に培った自己保身の知恵。
「これか?──これは、な」
装飾品に話を振られ、バパは、小首を傾げて愛想良く笑った。「俺の奥さんのヤツ」
「わあ、もらったんですかあ? 仲いいんですね」
(本当は、どうでも良かったが、)セッセと換気に精を出すべく、ここは、努めて明るく振る舞う。
バパは、照れたように、のたまった。
「いやあ、ちょっと、別の女んとこに行ったらさ、馬乗りになられて、ブスッと、な」
「……は……あ……」
エレーンは、引き攣り黙った。これは、思わぬ展開だ。
仲良しコヨシお手々繋いだ薔薇色イメージから急転直下、この暗黒のフェイントに、エレーンは、片頬をヒクつかせる。浮気を知った彼女から、怒りのピアスをぶっ刺されたらしい。
「い、痛かったでしょう」
たじろいで、又も、あはは……と、薄ら寒く笑う。成す術なし。意外や意外、凄まじい夫婦関係だ。
そして、見るからに精悍そうな短髪の首長は、
「泣いた」
意外にも、素直に、こっくり頷いた。痛かったらしい。
それにしたって、その奥さんという人も、よくも、こんな人を相手に挑みかかったものだ。
日に焼けた逞しい腕を盗み見て、エレーンは、内心、肝を冷やす。だって、いくら気安いったって、そもそも、傭兵をしているような人なのだ。無骨ないでだちに 逞しい体躯。この人が怒ったら、恐そうだ。暴れ出したりしたら、きっと、手に負えやしないだろう。いや、もしかすると、実際、その後、奥さんに手を上げたりなんかして……?
「あ、あのぉ~、やっぱ、バパさんも、その後、仕返しとか、したりして……?」
上目遣いで恐る恐る見やって、その後の顛末を、訊いてみる。
バパは、瞬いて、首を傾げた。「まさか。だって、相手は、女だぞ?」
何を言われているのか分からない、といった顔。
「あ、あの、でもぉ~、やっぱ、そんなこと、されたらぁ~……」と、エレーンがモジモジしていると、如何にも不本意そうに、憮然とした口調で付け足した。
「女を叩くなんざ、男じゃねえよ。男は、強い奴しか相手にしないものだ」
「あ、バパさんて、強いんだ?」
思わず、突っ込む。エレーンは、チロリンと疑いの眼差し。
「そりゃあ、もちろん」
バパは、即答。自信満々、胸を張る。
エレーンは、頷き難く氷結した。だって、つい今しがたの自己申告によれば、ここにいるのは、ピアス(如き)で泣いちゃった男だ。
相手の不審が伝わったのか、バパは、肩を竦めて、ツラツラ続けた。
「だって、女を殴ったって、仕方がないだろ。男の力が女よりも強いってのは、当たり前の話だ。男と女じゃ、体の作りが違うからな。──男には、暗黙の了解ってのがある。男は、基本的に、男しか相手にしない。競争の相手は、常に男だ。女と張り合おうとする奴なんてのは、まず、いない。男と女は、全く違う生き物だからな。ああ、動物は、植物と張り合おうとはしないだろ? それと一緒だ」
「……(しょくぶつ……?)」
あまりにも極端な譬(たと)え話に、エレーンは、眉根を寄せて、首を傾げる。(まったく、男どもは、こういうところが排他的なのだ──!)と、このところ、何かと言っちゃあ、あの二人(ケネルとファレス)から仲間外れにされる花の乙女エレーンは思うのだが、そんな不満などはものともせずに、異性を勝手に"植物"呼ばわりした短髪の首長の(独断と偏見に満ち満ちた)話は、いい調子で続く。
「拳の向かう先は、関心の在りかだ。焦点が合っているということは、そいつのレベルは、そこだということ。逆にいえば、拳を下ろしたその時点で、レベルが確定しちまうと言ってもいい」
「……(イヤ、そーゆーのは、別にどーでもいいんですけど。関係ないし)」
あんまり興味はないのだが、おじさんは、己に酔っているようだ。
一人、陶然と語られてしまい、エレーンは、口を挟めず聞いていた。あのアドにしても、そうなのだが、どうも、この年代のおじさんは、"○○とは、かくあるべし!"と、熱く持論を語りたがる傾向がある。そして、本日のお題は、言わずもがなの「男とは──」。
「強い奴ってのは、ただ黙って立ってるだけで、周り中から吹っかけられるもんなんだ。男ってのは、常に上を目指す生き物だから、出来るだけ強い奴と当って、自分の程度を見極めたい。しかし、時間も体力も、無限にはないから、そいつが相手を出来る範囲は、自ずと限られてくる。上限が決まれば、下限も決まる。つまり、下限が何処にあるかで、そいつの程度も、だいたい分かる。大抵、自分よりも上の奴には関心があっても、下の方にはないからな。だから、見た目がどんなに強そうでも、弱い奴ばかりを相手にするようなら、所詮は、その程度のレベルだと自ら白状しちまってるようなもんだ。そして、そういう偽者に名を騙られちゃ、日々体を張ってる俺達は、それこそ、いい迷惑ってもんだ。そういうのを "男の風上にも置けない" という」
「へ、へえ~? そうなんだ!」
息継ぎの切れ目を見つけて、やっと、何とか合いの手を入れる。会話には極力参加したい質である。
しかし、ヒョイと振り向いたバパの応えは、
「うん、多分な」
適当そのもの。
エレーンは、絶句で引き攣り笑った。いい調子で語っていたから拝聴したが、この男、意外といい加減なのではないか?
どうも、インチキ臭い。この誠実そうな、闊達な穏やかさは、看板倒れ、というヤツか?
女誑しだし。
一頻り語って満足したのか、(どうも胡散臭い) 短髪の首長は、大口開けて欠伸(あくび)した。「──ま、男とは呼べんような臆病者には、始めから縁のない話だな」
「でも、男じゃなかったら、そういう人達は、なんていうの?」
突っ込み所を発見し、エレーンは、内心ホクホクと、意地悪チックに訊いてやる。
「そういうのはな、」
バパは、にっこり笑って、振り向いた。
「"負け犬"ってんだ」
片目を閉じて、素早くウィンク。
エレーンは、パッと目を逸らした。おじさんのくせに、意外にも魅惑的だ。
顔にポッと火が点いて、不覚にも、動揺。だって、何やら妙に色気があるのだ。けれど、若い男のように、変にギラギラしていない。それは、ごくごく自然で柔らかい。肩肘張った硬さがなくて、屈託がなくフランクで、円熟したまろみがあるのだ。そして、随分、手慣れてる。
海千山千の余裕のバパは、してやったりと、ニコニコ顔で眺めている。うっかり、真正面から受け止めてしまい、ドキドキと動揺しているエレーンが、(こういう人は、きっと、女性をリードするのも上手なんだろうなあ…… ) などと、熱烈ラブ・ロマンス&落花流水系の想像を、一人逞しくしていると、
「ケネルだって、あんたが、どれだけ我がまま言っても、あんたを叩こうとはしないだろ?」
その名で、エレーンは、ふと、我に返った。
上目遣いの腕組みで、ふ~む、と、それについて考えてみる。
「う~ん、ケネルの方は、そうだけど……あ、でも、女男の方は、時々、殴りたそうな顔してるけどね。──あー、そっか。やっぱ、ああいう(=女みたいな) 顔だから?」
野良猫にアッカンベされた、これまでの非礼の数々を、う~む……と頭の中から捻り出し、エレーンが密かにムカついていると、バパは、顔を綻ばせて苦笑いした。
「……あいつが何をしているのか、、、、、、、、、あんたは、本当に知らないんだな」
「はい?」
エレーンは、パチクリと瞬いた。いやに、思わせ振りな発言ではないか。
何かあると嫌なので、早速、根拠を問い詰める。だが、バパは、惚けるばかりで口を割らず、結局、それ以上は、何も答えはしなかった。
仕方なく肩を竦めて、エレーンは、話を仕切り直す。
「なんだー、バパさんて、気さくなんだー。あたし、もっと恐い人なのかと思ってたわ」
「"恐い"?」
エレーンの感想を復唱し、バパは、怪訝な顔で訊き返した。
そうした形容は、言われ慣れていないようで、唖然と絶句した後、困ったように笑いながら、寝そべった体を引き起こす。
「──おやおや、これはショックだな。──参ったな。あんたみたいな若い娘に、そんなことを言われたのは、初めてだ」
モソモソと座り直して、陽に焼けた項(うなじ)をゆっくりと撫でる。
何を考えているものか、バパは、しばらく、そうしていたが、改めて片膝を立てると、その上に、日に焼けた腕を、おもむろに置いた。頬に浮かんでいた笑みを消し、その目をエレーンに振り向ける。
「何故、そう思ったんだ?」
答えを強いる、真っ直ぐな視線。
「──え? だ、だって、」
唐突に、鋭い視線に射抜かれて、エレーンは、ギクリと居竦んだ。
目を逸らして、思わず、俯く。
「だって、皆がゲルに集まった晩も、バパさんが来るまで待ってたし、馬で走る時なんかも、いつも先頭走ってるし、──あ、ほら、先頭ってあれ、一番強い人がやるものなんでしょ? だから、あたし、──」男宝
晴れ渡った夏空の下、ケネルら一行はレグルス大陸を南下していた。
なめらかに疾走する栗毛の馬上で、エレーンはケネルに寄りかかり、淡々と手綱をさばくその顔を、いつものように見あげていた。しきりに瞬きをくり返す顔は、そろそろ何か言いたげな模様。勃動力三體牛鞭
案の定、ケネルのシャツを、今日もくいくい引っぱった。
「んねえ、ケネルぅ~ん」
何かありそな甘ったれ声。だが、
「なんだ。飯なら食ったばかりだろ」
ケネルの方はけんもほろろ。相変わらず、愛想もへったくれもありはしない。そう、隊長は今、馬の運転で忙しい。
むぅ、とエレーンは言葉につまった。だが、本当に伝えたいことでもあったのか、不満気に口を尖らせている。もっとも、これしきの無視でへこたれてては、今日も日がな一昼夜、無言で過ごす羽目に陥るのは目に見えて明らかだ。
エレーンはにんまり笑みを作った。
「う、うん! いや、あのね、ちょっと喉が──」
「水なら、そこの水筒の中だ。そう言ったろ」
「あ、いや~、そーゆーんじゃなくってね。あ、あのね、ケネル──」
「なんだ」
「あ、あの──あのね──」
ついにケネルが、いかにもうんざり振り向いた。
「なんだ。あんたは、さっきから。少しは落ち着いたら、どうだ」
真正面から直視され、エレーンは上目づかいで口をパクつかせる。
「あ、だって──だってね──え、えっとお──そのぉ──」
ケネルが手綱を、ぐぐっと握った。さすがに苛ついたらしいその額に、むきっ、と青筋が浮きあがる。
「なんだっ!」
「お、おしっこ!」
ケネルが思考停止で固まった。ぱちくり瞬き、両目は、てん。
どよん……と微妙な空気が流れた。闊達にとどろく蹄音が、いやに虚しく、空々しい。
ケネルはのろのろ額に手を置き、深くげんなりと嘆息した。
「──休憩にする」
ケネル隊長、即刻降参。だって、これを言われては、どうにもなるまい。
並走している副長に、手をあげ、停止の指示を出す。
そそくさそっぽを向いたエレーンを、ケネルはしげしげ眺めやった。
そして、不可解に首をひねる。まだ出発したばっかりだ。何があったわけでもない。具合が悪いようでもない。
まったくどうしてこの客は、何かにつけて、馬の足を止めるのだ?
緑の原野に愛馬を放し、頭の後ろで手を組んで、青草の上に寝転がる。
頬傷のある長身の男は、口をくちゃくちゃさせながら、木陰で仲間と話していた。ノースカレリアのある北方を、辟易とした顔で眺めやる。出立してからずいぶん経つが、未だ二日分の行程を消化したかどうかというところだ。
又しても休憩になり、彼らは暇を持て余していた。時間が無駄に余っているから、体を所在なく持て余し、とはいえ行程中は酒色厳禁、そもそも気晴らしに行こうにも、こんな原野では店など皆無だ。
今日もまたダラダラと、時だけが無為に過ぎていく。
迅速、果敢を旨とする彼らには、じれったくも歯がゆい事態だった。苦々しげに頬をゆがめて、彼らは腐り気味に眺めやる。
全ての元凶はあの女だ。領家の正室、エレーン=クレスト。そんな特権階級が、そもそも、どうして群れの中に交じっているのか。統領代理の捜索行に。
そう、あの女こそが曲者だった。やっと走り出したと思うも束の間、すぐに又、ただをこね、馬の足を止めてしまう。そして、なし崩しに休みに入り──と延々それのくり返し。
男の一人が、いかにもうんざり紫煙を吐いた。
「やれやれ。いつまで、こんなことが続くのかねえ」
出発の気配は、未だに、ない。
件の女が副長に連れられ、緑の草原を歩いて行く。黒い頭髪を背まで伸ばした二十代半ばのカレリア人だ。小柄な体に薄桃色のジャケット、中は白いブラウスに、白いスラックス。暗色が占める傭兵の群れで、明るい色彩がひときわ目を引く。
用足しに行くらしく、二人は森に入っていく。小道の入り口を眺めやり、じろりと副長が睥睨した。この無言の圧力は「総員、立入禁止」の厳命だ。
そう、女が森から出てくるまでは、誰も森には入れない。無論、副長の命に逆う者などいるはずもないから、その効果たるや、あたかも結界でも張ったが如く。まったく、迷惑なこと、この上ない。
今も、件の"お姫様"は、髪の長い"従者"を従え、何事か言い合いしながら、森の入り口に向かっている。
一人が苦虫噛み潰した顔で舌打ちした。
「副長にタメ口きくたァ、何様だ、あの女!」
その生意気さが、気に障った。我が物顔のでかい態度も、気に食わない。
そう、あれは女の身の分際で、上官にぞんざいな口をきき、身勝手放題に振りまわす。長に命を預ける傭兵隊は、上下関係が殊の外厳しい。手柄次第で立身出世も望めるが、そうした序列に女の入る余地はない。そう、時と場合によっては戦利品でしかない玩具風情が、一足飛びに上官と並び、いっぱしの口をきくなど、本来あってはならぬこと。今、彼女が平気で小突いている副長は、組織の頂き近くに位置する男だ。
腕力至上主義を奉じる彼らにとって、非力な者は下の下の格付け。まして女が、上位者と対等に口をきくこと自体、凡そ信じがたい光景だ。身分がどれほど高くても、元よりそれは関係ない。彼らはどこの国にも属さず、保護も恩恵もなんら受けずに自力で生き伸びてきたのだから。
草原を横切る彼女を眺め、一人が忌々しげに顔をしかめた。
「ああ、なんでも、あの女、商都にお買い物に行くらしいぜ?」
「こんな時に、商都ってか。旦那が明日をも知れねえってのに、奥方さまは優雅なこった」
出立してからしばらくは、彼女がカードで浮かれるさまを、休憩ごとに目にしていた。声高にわめき散らす、そのやかましい円陣から、そんな話が漏れ聞こえていた。
「つまり、俺らは足代わりって話かよ」
頬傷の男は自嘲混じりに苦笑いした。
「上も上だぜ。いくら同じ方向とはいえ、なんで、あんなのを連れて行くかねえ。あれじゃ、お荷物もいいところだぜ。お陰でちっとも進みやしねえ」
休憩時には、隊の中でも浮いているあの、、特務の連中が適当に相手をしてやっていたが、あいにく群れの大半は、街に住む男のように友好的でも社交的でもない。今回の任務は統領代理の護衛のはずで、この行程の目的は、その代理の捜索のはず。それが、なぜ、あんな女に振り回されねばならないのか。
隊を束ねる彼らの首長も、近ごろ何か様子が変で、首長がふさぎこんでいるお陰で、移動の際にも後方ばかり、部隊同士で密かに張り合う彼らとしては、それも、いささか面白くない。
寝転がった頬傷の男が、組んだ足を大儀そうに組み替えた。
「なあ、どうしてっかな。大将は」
ふと隣の男が振り向いて、心配そうに眉をひそめる。
「手荒に扱われていなけりゃいいんだが」
トラビアのある西の空を、傭兵たちは眺めやった。
護衛の仕事で同行したため、ダドリー=クレストとは懇意だった。寝食を共にし、さばけた人柄に接する内に、打ち解け、連帯感を持っていた。仲間内以外のそうした友は、拒絶されるのが常の遊民には、実に得がたく、珍しい。しかも、彼は庶民などではない。絶大な権力を手中にする領主という名の実力者、本来であれば手の届かぬ雲の上の存在なのだ。そうした意味でも、彼は特別に大事な友だった。
彼とトラビアまで同行した者は、直前で彼に投降され、手痛い迷惑をこうむりもしたが、あの不可解な失態も素人ゆえの小胆さ、と寛大に受け止め、気にしなかった。隣国の屈強な兵士を相手に日々熾烈な闘いをくりひろげ、いく度も死線を潜った彼らだ。あの程度の番狂わせは取るに足りない些事だった。
彼がいきなり投降した際、彼らは包囲網を突き破り、立ち込める戦塵から力づくで脱出していた。騎馬の扱いに長け、戦慣れした彼らには、死守する何者をも持たず我が身一つで逃げていいなら、朝飯前の芸当である。鈍のろ臭く非力なカレリアの軍隊など、戦場を渡り歩く現役傭兵の彼らにすれば、きれいなお飾り人形でしかない。
「どうなっているかな、トラビアは」
「さあな。だが、陥落は時間の問題だろう。ラトキエが進軍しているからな」
一人が忌々しげに舌打ちした。
「亭主の尻に火が点いてるってのに、女房は優雅にお買い物ってか? いい気なもんだぜ!」
「哀れだよなあ、大将も。あんなに嬉しそうに話していたのに」
道中の長丁場で、ダドリーから散々新妻自慢をされたので、そのベタ惚れの度合いは同行者全員の知るところ。
一人が憎々しげに舌打ちした。
「しょせん、メイドあがりだからな、あの女は。一緒になったのは財産目当て。大将の方はオマケだろ」
「とんだ女狐に引っかかったもんだな、大将も」
中だるみした、だらけた空気に、冷え冷えとしたものが入り混じった。
それは急速に浸透し、草原ののどかさとは凡そそぐわぬ剣呑な空気が立ちこめる。
「暇、だよな」
誰かの落とした呟きが、含みありげな余韻で響く。
静まり返った小道を眺め、寝転がった頬傷の男が、何かを狙うように身を起こす。のどかな樹海を顎でさした。
「お誂え向きの"暇潰し"が、そこに服着て歩いているぜ?」
彼らの視線が、頬傷の男に集中した。一同、胡乱に目を眇める。
「"クレスト領家の奥方様"、ね」
鬱憤晴らしの的にするには、"それ"は手頃で丁度よかった。副長という適度に手ごわい障害も、暇潰しに挑むには格好だ。なに、ぶん殴られるくらいは安いもの。己が素行不良は棚にあげ、副長が横槍を入れてくるのは、今に始まった話ではない。
「頂くとするか、あの女」
頬傷の口端でニヤリと笑い、男は仲間に目配せした。
ガムを地面に吐き捨てて、一同、おもむろに立ちあがる。相談は、すぐにまとまった。
【 心の在りか 】
風道を深く入ったところで、木立の脇道に、ひとり分け入る。
風道の道端で待っているファレスは、すぐに背を向け、喫煙を始めるのが常だった。道すがらは文句を言うが、どんなに待たせても、急かしはしない。こちらに背を向けたまま、ああして、ずっと、そこにいる。巨根
今も、ファレスは背を向けて、かったるそうに煙草をくわえ、気難しそうに眉をひそめて喫煙している。馬上で着ている上着は脱いで、今は黒っぽいランニング一枚だ。体格は細身だが、ひ弱ではない。むしろ全体的に筋肉質で、剥き出しの肩や腕は、見るからに敏捷そうに引き締まっている。黒皮のベルトに細い腰、直線的に伸びた長い脚、そして、乾いた泥のこびり付いた、使い込まれた編み上げ靴。頭一つ分は、優に上にある高い背丈。だから、話す時には、いつも、首を曲げて、見上げていなくてはならない──
エレーンはぎくりと肩を震わせ、あわてて彼から目を逸らした。
「も、もう! ケネルのアホが、あんなことして、ふざけるから、変に意識しちゃうじゃないよ……」
真っ赤になって踵を返し、木漏れ日揺れる木立の中を、そそくさ早足で歩き出す。
近くにい過ぎて忘れがちだが、やっぱり、あれも男なのだ。こっちをおちょくる憎たらしい顔が見えないと──あの端整な顔が見えないと、殊更に "彼" なのだと実感する。そう、片脚に重心を預けた無造作な後ろ姿は、紛れもなく男性のものだ。例え、女性のように長い髪でも。どんなに憎まれ口をたたき合っても。
あの衝撃的な晩以来、エレーンはすっかり異性が苦手になっていた。もっとも、当のケネルは別なのだが。
男ばかりのこんな集団にいるのだから、平静を装って話しもするが、一度ああいうことがあったりすると、どうにも、そわそわ落ち着かない。又いつ、突然飛びかかってくるんじゃないかと知らぬ間に警戒してしまう。拳固が知らぬ間に、ぎゅうぅ、と硬く握り締められていたりする。手の平、汗びっしょりで。
長い"尻尾"を引きずって、急ぐ肩越しに振りむき振りむき、エレーンは藪を掻き分けていた。
風道から大分入った適当な場所で、立ち止まる。まったく、用足しにくるにも一苦労だ。周囲の無人を素早く確認、胴の結び目をせっせとほどく。腰縄が巻かれているのだ。前にそのまま散歩に行ったら、胴を結わえ付けられるようになったのだ。逃亡防止ということらしい。
作業をしながら、ブツブツごちる。だが、それは、縄を硬く結び付けたファレスに対する呪詛ではない。文句を言ってるその先は、
「なによお、ケネルってば、やな感じ。あんなに怒んなくたって、いーじゃないよ。そりゃあ、いきなり声かけたあたしだって、ちょっとは悪いかも知んないけどさ、でも、あわてて隠すくらいなら、初めから、あんな所で見なけりゃいいじゃん……」
ケネルが何かの紙を取り出したから、なんの気なしに覗いたら、ぎょっとケネルは飛び上がり、あわてて懐にしまい込んだのだ。そして、実に迷惑そうに「なんでもない!」と隠ぺいした。だが、張り合おうたって無駄なのだ。なにせ、こちとら、"嘘発見器"を内臓し、常にフル稼働している"女"という名の手ごわい生き物。急ごしらえのちゃちな嘘など、逆立ちしたって見破れる。
硬い結び目をなんとかほぐし、大木の根元から生えている若枝の真ん中に、縄の先を結びつけた。ファレスが気紛れを起こして引っ張った時に、少し揺れるくらいがいい。幹の方に結んでは、いささか手応えがあり過ぎる。ファレスは時々縄を引っぱり、本当にいるかどうかを確認する。こっちには、決してやってこない。また逃げるだろう、と分かっていても。
だから、彼をまくのは、とても容易いことだった。
結び終わった枝を離して、エレーンはそっと溜息をついた。
「……そんなに大事なもの、なのかな」
ケネルが見ていた薄青い手紙。
差出人は誰だろう。何が書かれているのだろう。それを見る横顔は、頬をわずかに緩めていた。
「ケネルの、ばか」
枯葉の積もる地面にうつむき、エレーンは軽く石ころを蹴った。こっちにはケネルだけしか、頼れる相手がいないのに。なのにどうして、よそ見なんかするのだ。
そうだ。なんで、そんなに鈍いのだ。なんで、そんなに無神経なのだ。一度それに気づいてしまえば、やることなすこと癇にさわって苛々する。
ケネルはいつでも面倒そうで、途中で話を打ち切ったり、呼んでいるのに無視したり、間違いを教えてあげれば、むっとした顔で黙りこむし、いや、そもそも人の話を聞こうとしない。一生懸命話しても、ケネルは深入りしたがらない。すぐにせっかちに問い質し、話を理詰めでまとめあげ、さっさと片付けようとする。いや、そこからしてズレている。誰も解決してほしいなんて言ってない。ただ話を聞いて欲しいだけ。そばにいて欲しいだけ。なのに、落ちこんだって慰めるどころか、ケネルはそれに気づきもしない。具合が悪くて心細くても、すぐにどこかへ行ってしまう。ケネルは、冷たい。
ケネルはちっとも気づかない。こっちのことを見もしない。
必死で信号を出しているのに。
「……なんか、疲れた」
うなだれた口から、弱音がこぼれた。
周りは粗野な男ばかりで、気が休まる時がない。居場所なんか、どこにもない。誰も彼もが余所者を見る目つき。見世物でも見るように野卑な目つきで、じろじろ、じろじろ。
──一人に、なりたい。
切実な欲求が頭をもたげた。
脇道の奥へと目を向けて、エレーンはそっと足を踏み出す。
森はひっそりと静かだった。
視界を埋め尽くす濃淡の緑。梢の先の、空が青い。
がさがさ、どこかで茂みが鳴った。藪をうごめく何かの気配。たぶんファレスではないだろう。彼ならぞんざいに名を呼ぶし、捜しにくるには早すぎる。どうせ、またウサギかリスだ。
用足しで森に入ると、小さな動物が現れる。それらが木立の奥から顔を出し、遠巻きにしていることがままあった。初めの内こそ驚いたが、何度も遭遇して、もう慣れた。どうやら動物に好かれる質らしい。今も、ばさばさ鳥が集まり、忙しなく首を傾げている。そう、あれも、いつものこと。とはいえ、今日はいやに騒がしい。又、どこかで茂みが鳴る。
静かな森を散策しながら、エレーンはそっと嘆息した。
気がふさいで仕方ない。確かに、今もダドリーがトラビアのどこかで囚われていて、彼の安否が気掛かりだ。だが、何もそれだけが理由でもない。
何かが、ざわざわ鬱屈していた。
切ないような、泣きたいような、大声で叫んでしまいたいような、得体の知れない暗い想い。不意に胸を衝く鋭い痛みも、胸が潰れそうな哀しみも、笑っている時も眠っている時も、それは常にかたわらにあって、ふとした拍子に現れては、心の平穏を脅かす。こんなふうになったのは、いつの頃からだったろう。ディールの奇襲をどうにか乗り越えたあたりだろうか。いや、たぶん、もっと前だ。
心の深い暗がりで、何かが呼び覚まされていた。
それは目をそむけ続けてきた嫌な何か。目を凝らしてみるけれど、その正体はわからない。
梢の先には、青い夏空が広がっていた。
そこに、くっきりと白い、鳥が一羽。翼を広げ、何かを探すように旋回している。
エレーンは足を止め、無意識に握っていた手を開いた。手の平にあるのは、不恰好に欠けた翠石のかけら。夢の石のまがい物。
緑の石が、木漏れ日を弾いてきらめいた。この緑のお守りを事あるごとに握るのが、いつの間にか癖になっていた。悲しい時、苦しい時、つらくて恐くて不安な時──。
ふと気づいて、首をかしげた。
気のせいだろうか。石が、いやに温かい。それに、かすかに震えているような──そう、石がかすかにざわめいて、、、、、いる?
右手の方角が気になった。
強く惹かれる何かがある。馬群は大陸を南下しているから、樹海の先は東の方向。大陸の東西は大海原。
──海が、見たい。
強い欲求が突きあげた。
大空の下、どこまでも広がる青い海原、寄せては返す青い波の情景が脳裏いっぱいに広がった。ごつごつした黒い岩、広々とした無人の浜、遠い空で輝く太陽──見たこともない海だった。なのに、無性になつかしい。
喉が詰まって息苦しい。それを出し抜けに自覚した。そう、つらくて苦しくて仕方なかった。もう、ここには、いられない。すぐにも、どこかへ逃げ出したい。
切なさが胸を締めつけて、せっぱ詰まって足を踏み出す。
気が急いた。
一刻も早く広い場所に出たい。誰もいない開けた場所、そこに辿りつきさえすれば、それだけで息がうまく吸える、そんな気がするのだ。
憑かれたように、がむしゃらに歩いた。
張り出した木の根につまずきながら。足場の悪い地面によろめきながら。だって、ケネルにまで手を払われたら、あたしは一体どうしたらいいの?
足は闇雲に海へと向かった。それでも足りずに、エレーンはもどかしい思いで足を速める。早く──早く行かないと! そこに行けば、楽になれる。
──そこに行くのが正しい、、、のだ。
がさり、と藪が大きく揺れた。
ぐっ、と二の腕がつかまれる。強い力で引っ張り戻され、足を取られて、たたらを踏む。
エレーンは全身を震わせて居すくんだ。腕をぞんざいにつかんでいるのは、節くれ立った無骨な手。
(……誰?)
自分の荒い息づかいを、戻ってきた意識が捉えた。
耳元で、脈が鳴っている。心臓が踊りあがっている。いっぱいに見開いた視界には、生い茂る木立しか写らない。
硬直し、振り向くこともできぬまま、エレーンは唾を飲み下す。
ファレスであれば、罵倒で呼びかけ、走ってくる。ケネルだったら気配でわかる。つまり、これは
知らない、、、、手だ。
胸が、早鐘を打っていた。
体温が、一気に下がった気がする。
とっさに逃げかけ、けれど、足は、凍り付いたように動かない。悲鳴を上げようにも、喉が張り付いて、声が出ない。
頭が痺れて、意識が捉えようもなく膨張していた。ただ、痛い程に分かるのは、"恐い"という感情だけ。
自分でも意外に思う程に、ビクついていた。振り向くことさえ叶わない。縫い止められ、狭まった視界に写るのは、疎らな雑草が長閑(のどか)に揺れる、陽に晒された地面だけ──
エレーンは、怯えわななく唇を、強く強く噛み締めた。
(──ケネルの、バカ!)
あんな悪ふざけ、したりするから。
足がガクガク震えて、言うことを聞かない。肩を掴まれただけなのに、体が竦んで動けない。
誰だろう。
いつから、そこにいたのだろう。上背のある筋肉質な気配を、背中に感じる。ジロジロ見ている、ぞんざいな視線を感じる。
肩を捕えた冷たい手。──その手が一つ、肩を叩いた。
それで、やっと弾みが付いた。
金縛りの呪縛が、解ける。石のような体が、動く。
声にならない悲鳴を上げて、転がり出るようにして前へと逃れ、慌てて、後ろを振り仰ぐ。
「──え?」
エレーンは、瞬いて、首を傾げた。
見上げた視界に写った顔が、──真後ろに立ち、肩を掴んでいたその相手が、思いもかけぬ人物だったからだ。だって、闊達そうな精悍な顔、逞しい褐色の肌に、陽に焼けた茶色の短髪、穏やかで落ち着いた茶色の瞳、そう、だって、この人は──
「バパ、さん?」
ポカンと口を開け、唖然と見返す。
「よ、こんにちは」
気楽な調子で、そう返し、彼は、キョトンと顔を見た。
エレーンは、訳が分からずに、キョロキョロ辺りを見回した。連れは、いない。彼一人だけだ。
この人は、確か、あの群れのリーダー格の一人、"バパ"と呼ばれる、あのおじさんだ。でも、そんな偉い人が、何故、たった一人で、こんな所に……
──ってか、何処から湧いて出たんだ!? このオッサン!?
人の気配なんて、しなかったのに。
アングリと口を開け、エレーンが呆然と見上げていると、短髪の首長は、静かな周囲にさりげなく目をやり、その目を戻して、呆れたように腕を組んだ。
「何処へ行くんだ? この先は、崖だぞ」
「……え、ガケ?」
訝しむような視線を向けられ、エレーンは、はっと我に返った。
「……あ、はあ……いや、あの、なんていうか、……別に、あたしは、崖なんて、そんな……その~……あの、そんなことは……」
しどろもどろになりつつも、相手が納得しそうな適当な理由を、必至で探索。そりゃ、さぞや、挙動不審に写ったことだろう。けれど、とっさのことで、要領を得ない。
バパは、しばらく黙って見ていたが、短髪の頭を掻きながら、さわさわ揺れる緑の木立を、グルリと一周、振り仰いだ。そして、
「ああ、そうか。方向が分からなくなっちまったか」
「え?」
「まあ、不慣れなあんたじゃ、無理もない。ここ 《 影切の森 》 では、そういうことが、まま起こるしな」
「……は、はあ、……いやっ、まあ、あの~……?」
小首を傾げ、誤魔化し笑いを返しながら、エレーンは、密かに、冷や汗を拭く。実に、好意的な解釈だ。
はっはっは──と笑って、闊達に話を収める首長から、小さくなって目を逸らす。この先に、海があるのは、知っている。
エレーンは、コソコソと目を彷徨わせた。このままだと "迷子になった" ことにされてしまうが、訂正しようにも、暴力的なまでに凄まじい、あの異様な衝動は、他人には、ちょっと説明し難い。
一人でモジモジしていると、チラと、バパが目を向けた。「気を付けな」
日焼けした腕をゆっくりと組んで、短髪の首長は、向き直る。狼一号
「この樹海の先の、南の方には、ここより、もっと酷い場所がある。万年、深い霧が立ち込めていて、慣れてる奴でも、そこから抜け出すのに難儀する。悪くすりゃ、そのまま遭難だ。あそこは、磁石さえ利かないからな」
「……は……あ……」
首を項垂れ、エレーンは、神妙に聞いていた。リアクションのしようがない。
バパは、至極、真面目な顔だ。迂闊な者に注意を与える、落ち着いた年長者の声。普段は、愛想良く笑っている人だが、今は、深刻な内容だけに、さすがにヘラヘラしていない。
「で、何してんだ? こんな所で」
ギョッと、エレーンは、飛び上がった。
理由を訊かれたから、ではない。改めて尋ねてきたかと思ったら、いきなり、肩を抱いてき (やがっ) たからだ。
我が身を抱いて一足飛びに飛び退り、ギッと、無礼者を睨め付ける。
不届きな手を宙に浮かせて、バパは、キョトンと停止した。だが、苦笑いで頭を掻くと、取り下げたその手を、腰に差した短剣の柄へと持っていき、──て、え!?
──さりげなく何する気だ!? このオッサン!?
エレーンは、躍り上がって、あわあわ……と逃げ腰。
「どうした?」
精悍な顔で、ふと振り向くと、バパは、鞘ごと引き抜いた自分の得物を、無造作に地面に放り出した。
ガシャンとぞんざいに転がったのは、見るからに使い込まれた鞘入りの剣。これまで数え切れぬほど握り込まれてきたのだろうその柄は、白っぽい地色が、既に薄黒く変色している。そう、実用に供されてきた、、、、、、、、、ことは一目瞭然、この使い込まれようは、単なる装飾品などでは、あり得ない。
「そ、そ、それ──な、な、何を──っ!?」
すっ飛んで木の裏へと避難して、エレーンは、ジタバタ喚いて顔面蒼白。想像したくもない物騒さだ。
けれど、ビクビクと覗き込むへっぴり腰の相手に構わず、バパは、投げ出した短剣の横に脚を折り、大儀そうに、よっこらせ、と腰を下ろした。「──ちょっと休憩」
「はっ?」
「せっかく、こんな可愛らしい話し相手もいることだしな」
「……」
勝手に "憩い仲間" に仕立てられ、エレーンは、己を指差し (あたしィー!?)と凝固した。しかし、その一方で、意識の方は、依然として、物騒この上ない "それ" にいく。
チラと盗み見たエレーンの視線の先を追い、バパは、今しがた自分で投げ出した短剣に目を向け、「ああ、こいつか、」と苦笑いした。
「──すまんな。俺達はなにぶん、他人様ひとさまから恨みを買う商売なもんでね。コイツがないと、いざって時に、自分の身が守れない。──しかし、こんな物は、あいつらだって持ってたろ?」
無論、彼の言う"あいつら"とは、このところ、彼女に張り付いている、無愛想な隊長ケネル、並びに、吊り目の副長のらねこの、件のコンビのことである。そして、バパは、「なんで、俺の時だけ……」とイジケそうな顔をする。
彼我の扱いの差別的な落差に、エレーンは、唐突に気が付いた。
「──あ、──あ、で、でも、あの、ケネルって、ああ見えて、結構ぼうっとしたトコあって、だから、こういうの持ってても、別にあんまり恐そうじゃないし──あ、だってホラ、顔だって別に、そんなに恐い顔って訳でもないし、だから、……だから、その……」
慌てて、オーバー・リアクション。無駄に両手を振り回し、言い訳がましく、あたふたと釈明。
けれど、実のない弁解を続ける内にも、盗み見の視線は、物騒な得物に釘付けだ。自らの置かれた状態に慣れ、気持ちに余裕の出てきたエレーンも、それには、とうに気付いていた。彼らの何れもが、常時、刀剣を携帯している、ということに。でも、正直なところ、そんな物、もう見るのも嫌だった。だって、あれは、鳥獣を狩る為の道具なんかじゃない。
人を、、傷つけ、苦痛を与える為の、、、、、、、、道具だ。
相手の痛みを知った上で、その効果と効率とを計った上で、人が人を傷つける図。──そのドス黒い凄惨さは、想像して余りある。
ヘドモドしながら、エレーンは、必死でフォローを入れる。短髪の首長は、胡座(あぐら)の膝に頬杖を付き、ふーん……と小首を傾げて、マジマジと熱演を眺めていたが、
「あいつが 好き か」
「──はあっ!?」
出し抜けに、何を言い出す!? このオヤジ!?
このつっけんどんな不意打ちには、年長者への表敬も恭謙もすっ飛ばし、エレーンは、端的&不躾この上なく訊き返す。
しかし、短髪の首長は、ヒョイと顔を突き出し、直球勝負。
「だから、ケネルの奴が好きか、って」
「──ち、ち、ち、ち、」
慌てふためき、エレーンは、前にも増して、両手をブンブン振り回し、キッと顔を振り上げた。
「違いま( す )──っ!?」
「膝に、乗ってた」
「──う゛」
一発で、沈められる。バパの勝ち。
シレっと横目で指摘され、エレーンは、前のめりMAXの全力説得体勢で、そのままギクリと氷結した。絶句した額には、嫌な具合に冷や汗タラタラ。どうやら、あの犯行現場を、バッチリ目撃されてたらしいのだ。
さっくり勝ったバパはといえば、白けた顔で、当て付けがましい視線をチラリと送り、
「いいのかよ? どんなに寛容な旦那でも、他の男にあんなことしたら、やっぱり、さすがに怒ると思うぞ?」
「……あ、あれは、……別に、そういうんじゃなくって……」
両手をモジモジ動かして、エレーンは、ドキマギしながら俯いた。
「ただ、ケネルって( 鈍感だから )、あたしが何をしても気にしないし、あんまり喋んないけど、頼り甲斐はあって──あ、別にダドリーが頼りないとか、そういうこと言ってるんじゃないんだけど、……でも、ダドは、あたしより二つも年下で、何考えてるのか、よく分からないところがあって、でも、ケネルは、何でもハッキリ言うから分かり易くて、こっちのいいように計らってくれるし、全部任せておいても、危なっかしくないっていうか、ハラハラしないで済むっていうか、何も考えないで安心して寄りかかっていられるっていうか、だから、気持ちがとっても楽で……ケネルは、なんか親類みたいで、頼りがいのある兄貴みたいで、だから、一緒にいると落ち着いて、だから──」
「やめときな」
「──え?」
「碌なことには、ならねえから」
素っ気なく、そう言い切り、バパは、続けて釘を刺す。「そもそも、奴の方じゃ、そんな風には見ちゃいない」
「──だ、だからっ! それは、違が──っ!?」
真っ赤になって顔を振り上げ、エレーンは、アタフタと訂正の手を振る。だが、動揺しきりの必死な相手を見もせずに、バパは、日に焼けた腕を、無造作に空へと突き伸ばすと、どうでも良さげに欠伸(あくび)した。「ま、そう気張るなって。今からそんなじゃ、保たねえぞ?」
「……は……あ……。って、え──?」
フル稼動に見合わぬ肩透かしを食い、ふと、顔を上げたエレーンは、ギョッと、バパを見返した。
今度は、肩を抱いてきたから、ではない。
突如、ゴロリと、その場に寝転が(りやが)ったからだ 。それにしたって、この人、
(なんで、寝るかな!?)
いきなり、地べたに。
唖然と口を開け、エレーンは、絶句で、足元を見下ろす。理解不能だ。もしかして、
……自由人なのか?
けれど、当のバパは、両手を頭の下に敷き、編み上げ靴の脚を無造作に組むと、気持ち良さそうに目を閉じた。
木漏れ日揺れる、爽やかな森の緑陰である。
頭上では、小鳥がチュンチュン、穏やかに、軽やかに、鳴いている。そして、世話係を撒いて森に分け入り、自由の身となったエレーンが、今、何をしているかといえば、
(なに、この人は~!!!)
突然、昼寝を始めたバパの隣で、ひょんなことから、日向ぼっこする羽目と相なっていたのだった。
決して、望んでこういう状態になっている訳ではないのだが、彼の言葉には、何と言うのか、有無を言わさぬ強制力があるのだ。そう、彼の意向には、逆らえない何かがあるような──。もしや、これが長の威厳とかいうヤツか?
仕方なしに背を丸め、エレーンも体育座りで付き合った。
抱えた膝に、そっと嘆息。確かに、知らない顔ではないけれど、隣で昼寝をされるほど、親しい仲だという訳でもない。
しかし、ゴロリと寝転がった相手の方は、全くこの限りではないらしい。下草の上に寝そべった、その伸び伸びとした態度は、リラックスしてること、この上なし。
「──ああ、いい天気だな。ここは、静かで、気持ちがいい」
呑気というのか何というのか、そんなことを、一人のうのうとのたまいながら、両手を上げて「うーん……」と伸びなんかしたりする。自分だけ憩っているのが、もうアリアリ。──と、ふと、バパが目を開けた。
サワサワ揺れる周囲の木立を、首だけ持ち上げ、不思議そうに見回す。「……なあ? なんか今日、鳥が、やたらと多くねえ?」
「そ、そうですか……?」
エレーンは、エヘラヘラと、お愛想笑い。なんだ? それ。
そんなことより、こっちとしては、勝手に接近されて、大いに困惑しているのだが……。
けれど、当のバパには、遠慮も、躊躇も、微塵もない。ここにいるのが、あの隊長や副長の方だったなら、森を勝手に徘徊してたことがバレた途端に、即刻カミナリ食らって強制連行されること請け合いだが、この短髪の首長は、長閑(のど)やかと言うのか何と言うのか、そうした荒っぽい手段を講じるつもりは、ないらしい。
もっとも、「帰る時には、起こしてくれよ」なんて、気軽に頼んでくれちゃったもんだから、何処にも行くことが出来ないのだが。
思わぬところで足止めを食らい、エレーンは、所在なく膝を抱えた。
遠くで、茂みが鳴っている。ひっきりなしに、ザワザワ、ザワザワ……。兎やリスにしては、音が大きいような気がするけれど、ファレスが捜しにでも来たのだろうか。
……いや、違うだろう。葉擦れの音が、あちこちから聞こえて来るし。
複数方向にある音を、一人で立てられる筈はない。もっとも、あの音の内のどれか一つが、仮にファレスの気配だったとしても、こんな茂みの裏に、隠れんぼでもするみたいに、小さくなって蹲っているのでは、きっと、おいそれとは見つかるまい。もちろん、意図的に隠れている訳ではないけれど、こうして、隣で、ベタっと地面に寝られちまっちゃ、自分だけ突っ立ってるっていうのも、なんか、バランス悪くて不自然だし。
それにしても──と、エレーンは、伸び伸びと寝転がった隣の御仁を、チラと窺う。
バパは、耳を澄ましてでもいるように、静かに目を閉じている。日焼けした精悍な顔立ちだ。彫りの深い端整な造りは、さすがに《 遊民 》と言うべきか。こんな"おじさん"にしては、中々イケてる方だろう。しかし、
(……無視なワケ……?)
チラチラ様子を窺う相手のことになど、とうに気付いているのだろうに、バパは、相も変わらず、一人、目を閉じ、寝転がっているだけだ。この分だと、その内、本当に眠ってしまうかも知れない。自分の方から誘っておいて結構失礼な態度だが、そういや、奴らは、隣人と何も話さなくても、平気でいられる神経の持ち主。それについては、あのケネルが、常日頃から、身を以て実践している。けれど、こんなにシン……と静まり返っていると、なんだか、ちょっと──
エレーンは、気まずくなってきた。三體牛鞭
「え、えっとぉ、バ、バパさんは、何しに?」
まずは、当り障りのない話題を振ってみる。この短髪の首長と、正面切って話をするのは初めてで、だから、改めて話し掛ける際には、さすがに、ちょっとばかり勇気を要する。
緊張気味に呼びかけられて、バパは、「……うん?」と目を開けた。
「──あ、だから! バパさんは、何しに、こんな所まで?」
「あー、俺か? 俺はな、」
おや? 意外と気さくな反応ではないか。
偉いわりに。
そして、短髪の首長は、やはり、いつもと同じように、ニコニコと、愛想良く答えたのだった。「小便」
「……」
そんなこと言うな。トシゴロの娘に。
エレーンは、ガックリと沈没した。まったくもって、論外である。
よく出来た外見とは全く不似合いなデリカシーのなさ。見てくれは良くても、やっぱ、オヤジだ。けれど、まあ、それは、百歩譲って、さて置くとしても、だ。
エレーンは、ソワソワし始めた。あんまり良く知らない人と、こんな人気(ひとけ)のない所で、二人っきりでいる、というのも、ちょっと、どうにもアレなのだが……
なんとはなしに落ち着かず、無人の周囲を、助けでも乞うかのように、キョロキョロ見回す。まあ、そんなことをサラッとのたまう辺り、気さくな人柄なのかも知れないけれど、でも、やっぱり、この二人きりというのが、どうにもネックで──と、ヒョイと目を戻した視界の中に、ふと "それ"を発見した。
エレーンは、目を丸くした。
(へえ? おっしゃれ~。このおじさん、ピアスなんかしてる……)
短く刈り上げた左耳に、小さな赤い石が光っていた。
普段は、相手の頭が高い位置にあるもんだから、今まで全然気付かなかったが──いや、正直に言おう。" おじさん"カテゴリー全般には、皆目興味がないもんだから、全く注目していなかった、というだけの話だ。それにしても、洒落っ気のある若者だというのならばともかく、この年にしてピアスとは。
だって、この人、もう、結構いい年だ。どう贔屓目に見たって、さすがに三十は超えてるだろうし……
ヒョイと、バパが、こっちを見た。
「俺の顔に、何か付いてる?」
小首を傾げて、にーっこりと笑いかける。そして、更に言うことにゃ、
「それとも、俺に見惚れてた?」
「……。い、いえ」
大した自信だ。
エレーンは、おほほ……と引き攣り笑う。案外、この首長、一見、誠実そうに爽やかに見えて、実は、結構な女誑しなのではないか? さっきも、さりげなく肩なんか抱こうとし(やがっ)たし──。
けれど、年上の偉い人を相手に、気安く突っ込みを入れるほど、エレーンだって迂闊ではないのだ。
「あ、あの、バパさんて、お洒落なんですねー。男の人なのに、ピアスしてるしぃー」
薄ら寒い疑惑の空気は、さりげない話題転換で強制排気。こうした日和見主義も、メイド時代に培った自己保身の知恵。
「これか?──これは、な」
装飾品に話を振られ、バパは、小首を傾げて愛想良く笑った。「俺の奥さんのヤツ」
「わあ、もらったんですかあ? 仲いいんですね」
(本当は、どうでも良かったが、)セッセと換気に精を出すべく、ここは、努めて明るく振る舞う。
バパは、照れたように、のたまった。
「いやあ、ちょっと、別の女んとこに行ったらさ、馬乗りになられて、ブスッと、な」
「……は……あ……」
エレーンは、引き攣り黙った。これは、思わぬ展開だ。
仲良しコヨシお手々繋いだ薔薇色イメージから急転直下、この暗黒のフェイントに、エレーンは、片頬をヒクつかせる。浮気を知った彼女から、怒りのピアスをぶっ刺されたらしい。
「い、痛かったでしょう」
たじろいで、又も、あはは……と、薄ら寒く笑う。成す術なし。意外や意外、凄まじい夫婦関係だ。
そして、見るからに精悍そうな短髪の首長は、
「泣いた」
意外にも、素直に、こっくり頷いた。痛かったらしい。
それにしたって、その奥さんという人も、よくも、こんな人を相手に挑みかかったものだ。
日に焼けた逞しい腕を盗み見て、エレーンは、内心、肝を冷やす。だって、いくら気安いったって、そもそも、傭兵をしているような人なのだ。無骨ないでだちに 逞しい体躯。この人が怒ったら、恐そうだ。暴れ出したりしたら、きっと、手に負えやしないだろう。いや、もしかすると、実際、その後、奥さんに手を上げたりなんかして……?
「あ、あのぉ~、やっぱ、バパさんも、その後、仕返しとか、したりして……?」
上目遣いで恐る恐る見やって、その後の顛末を、訊いてみる。
バパは、瞬いて、首を傾げた。「まさか。だって、相手は、女だぞ?」
何を言われているのか分からない、といった顔。
「あ、あの、でもぉ~、やっぱ、そんなこと、されたらぁ~……」と、エレーンがモジモジしていると、如何にも不本意そうに、憮然とした口調で付け足した。
「女を叩くなんざ、男じゃねえよ。男は、強い奴しか相手にしないものだ」
「あ、バパさんて、強いんだ?」
思わず、突っ込む。エレーンは、チロリンと疑いの眼差し。
「そりゃあ、もちろん」
バパは、即答。自信満々、胸を張る。
エレーンは、頷き難く氷結した。だって、つい今しがたの自己申告によれば、ここにいるのは、ピアス(如き)で泣いちゃった男だ。
相手の不審が伝わったのか、バパは、肩を竦めて、ツラツラ続けた。
「だって、女を殴ったって、仕方がないだろ。男の力が女よりも強いってのは、当たり前の話だ。男と女じゃ、体の作りが違うからな。──男には、暗黙の了解ってのがある。男は、基本的に、男しか相手にしない。競争の相手は、常に男だ。女と張り合おうとする奴なんてのは、まず、いない。男と女は、全く違う生き物だからな。ああ、動物は、植物と張り合おうとはしないだろ? それと一緒だ」
「……(しょくぶつ……?)」
あまりにも極端な譬(たと)え話に、エレーンは、眉根を寄せて、首を傾げる。(まったく、男どもは、こういうところが排他的なのだ──!)と、このところ、何かと言っちゃあ、あの二人(ケネルとファレス)から仲間外れにされる花の乙女エレーンは思うのだが、そんな不満などはものともせずに、異性を勝手に"植物"呼ばわりした短髪の首長の(独断と偏見に満ち満ちた)話は、いい調子で続く。
「拳の向かう先は、関心の在りかだ。焦点が合っているということは、そいつのレベルは、そこだということ。逆にいえば、拳を下ろしたその時点で、レベルが確定しちまうと言ってもいい」
「……(イヤ、そーゆーのは、別にどーでもいいんですけど。関係ないし)」
あんまり興味はないのだが、おじさんは、己に酔っているようだ。
一人、陶然と語られてしまい、エレーンは、口を挟めず聞いていた。あのアドにしても、そうなのだが、どうも、この年代のおじさんは、"○○とは、かくあるべし!"と、熱く持論を語りたがる傾向がある。そして、本日のお題は、言わずもがなの「男とは──」。
「強い奴ってのは、ただ黙って立ってるだけで、周り中から吹っかけられるもんなんだ。男ってのは、常に上を目指す生き物だから、出来るだけ強い奴と当って、自分の程度を見極めたい。しかし、時間も体力も、無限にはないから、そいつが相手を出来る範囲は、自ずと限られてくる。上限が決まれば、下限も決まる。つまり、下限が何処にあるかで、そいつの程度も、だいたい分かる。大抵、自分よりも上の奴には関心があっても、下の方にはないからな。だから、見た目がどんなに強そうでも、弱い奴ばかりを相手にするようなら、所詮は、その程度のレベルだと自ら白状しちまってるようなもんだ。そして、そういう偽者に名を騙られちゃ、日々体を張ってる俺達は、それこそ、いい迷惑ってもんだ。そういうのを "男の風上にも置けない" という」
「へ、へえ~? そうなんだ!」
息継ぎの切れ目を見つけて、やっと、何とか合いの手を入れる。会話には極力参加したい質である。
しかし、ヒョイと振り向いたバパの応えは、
「うん、多分な」
適当そのもの。
エレーンは、絶句で引き攣り笑った。いい調子で語っていたから拝聴したが、この男、意外といい加減なのではないか?
どうも、インチキ臭い。この誠実そうな、闊達な穏やかさは、看板倒れ、というヤツか?
女誑しだし。
一頻り語って満足したのか、(どうも胡散臭い) 短髪の首長は、大口開けて欠伸(あくび)した。「──ま、男とは呼べんような臆病者には、始めから縁のない話だな」
「でも、男じゃなかったら、そういう人達は、なんていうの?」
突っ込み所を発見し、エレーンは、内心ホクホクと、意地悪チックに訊いてやる。
「そういうのはな、」
バパは、にっこり笑って、振り向いた。
「"負け犬"ってんだ」
片目を閉じて、素早くウィンク。
エレーンは、パッと目を逸らした。おじさんのくせに、意外にも魅惑的だ。
顔にポッと火が点いて、不覚にも、動揺。だって、何やら妙に色気があるのだ。けれど、若い男のように、変にギラギラしていない。それは、ごくごく自然で柔らかい。肩肘張った硬さがなくて、屈託がなくフランクで、円熟したまろみがあるのだ。そして、随分、手慣れてる。
海千山千の余裕のバパは、してやったりと、ニコニコ顔で眺めている。うっかり、真正面から受け止めてしまい、ドキドキと動揺しているエレーンが、(こういう人は、きっと、女性をリードするのも上手なんだろうなあ…… ) などと、熱烈ラブ・ロマンス&落花流水系の想像を、一人逞しくしていると、
「ケネルだって、あんたが、どれだけ我がまま言っても、あんたを叩こうとはしないだろ?」
その名で、エレーンは、ふと、我に返った。
上目遣いの腕組みで、ふ~む、と、それについて考えてみる。
「う~ん、ケネルの方は、そうだけど……あ、でも、女男の方は、時々、殴りたそうな顔してるけどね。──あー、そっか。やっぱ、ああいう(=女みたいな) 顔だから?」
野良猫にアッカンベされた、これまでの非礼の数々を、う~む……と頭の中から捻り出し、エレーンが密かにムカついていると、バパは、顔を綻ばせて苦笑いした。
「……あいつが何をしているのか、、、、、、、、、あんたは、本当に知らないんだな」
「はい?」
エレーンは、パチクリと瞬いた。いやに、思わせ振りな発言ではないか。
何かあると嫌なので、早速、根拠を問い詰める。だが、バパは、惚けるばかりで口を割らず、結局、それ以上は、何も答えはしなかった。
仕方なく肩を竦めて、エレーンは、話を仕切り直す。
「なんだー、バパさんて、気さくなんだー。あたし、もっと恐い人なのかと思ってたわ」
「"恐い"?」
エレーンの感想を復唱し、バパは、怪訝な顔で訊き返した。
そうした形容は、言われ慣れていないようで、唖然と絶句した後、困ったように笑いながら、寝そべった体を引き起こす。
「──おやおや、これはショックだな。──参ったな。あんたみたいな若い娘に、そんなことを言われたのは、初めてだ」
モソモソと座り直して、陽に焼けた項(うなじ)をゆっくりと撫でる。
何を考えているものか、バパは、しばらく、そうしていたが、改めて片膝を立てると、その上に、日に焼けた腕を、おもむろに置いた。頬に浮かんでいた笑みを消し、その目をエレーンに振り向ける。
「何故、そう思ったんだ?」
答えを強いる、真っ直ぐな視線。
「──え? だ、だって、」
唐突に、鋭い視線に射抜かれて、エレーンは、ギクリと居竦んだ。
目を逸らして、思わず、俯く。
「だって、皆がゲルに集まった晩も、バパさんが来るまで待ってたし、馬で走る時なんかも、いつも先頭走ってるし、──あ、ほら、先頭ってあれ、一番強い人がやるものなんでしょ? だから、あたし、──」男宝
2012年8月22日星期三
優恋慕
「そうか。よかった、よかった。母さんに報告してこよう。しばらくふたりで話したらいい。久しぶりに会ったことだし、積もる話もあるだろう」
淳介は満足至極に何度もうなずいて徐(おもむろ)に立ちあがると、優歌たちを残して和室を後にした。蔵八宝
積もる話……って。
優歌は途方にくれた。話題を探すのさえたいへんだというのに。
淳介の背を縋(すが)るように追った優歌は、目のやり場に困ってしまう。そのすえ、視線をそのままにして、源氏物語をモチーフとした襖(ふすま)の絵を馬鹿みたいに見つめた。
ずっと着物でいる苦しさと、へんに沈黙した和室の重厚感に押し潰されそうだ。
気絶できるなら気絶してこの場を逃れたい。呼吸さえ覚束(おぼつか)なくなるほど気は張り詰めている。
この場を凌(しの)げるような話題を探すのに、優歌の思考力は空回りして役に立たない。絶好の題材である“卒業”のことさえ思い浮かばないでいた。
優歌が無駄に足掻(あが)いているなか、さきに口を開いたのは匠だった。
「立場を考えて、ああ答えてしまったけど、優歌ちゃんから断ってくれても、おれはかまわない」
どういう思考回路をたどったのか、淳介からなぜ結婚という形で身売りをさせられるのかがわからなければ、ゆっくりと切りだした匠が云う立場も優歌にはまったくわからない。
ただ、断ってくれてもかまわない、という曖昧な言葉に傷ついた。優歌は襖から目を離してうつむくと、くちびるが白くなるくらいに強くかんだ。
「誤解しないでほしい。どうでもいいと思ってるんじゃないし、断るように仕向けてるわけでもなくて、むしろ、結婚から始まる関係でもいいんじゃないかと思ってる。けど、おれは嫌われてるようだし」
優歌はその言葉に驚いて顔をあげた。匠はまっすぐにこっちを向いていて、ごくごく真剣に続ける。
「だから、無理強いは――」
「違います! 嫌いじゃありません!」
優歌は自分で云ってびっくりした。まるではじめて会ったときの感覚が繰り返されている。
表情に乏しい匠もさすがに驚いたようで、目をほんの少し見開いて言葉を切った。あの時と同じ笑みが匠の口もとに還る。
「なら……優歌ちゃんに特別好きな奴がいなければ、これからおれと始めてみないか?」
柔らかくなった匠の表情に断る理由なんて見いだせない。
はじめて会ってまもない頃、苦手な人はたくさんいたのに、匠を苦手の部類に入れた瞬間、ほかの人と違ったところはもう一つあった。
悲しい、と思ったこと。
自分のことなのに、その意味がいまでも優歌はわからない。
いまわかったのは、匠が冷たく見えてもけっして冷たいわけではなく、いまみたいに実直であること。
「はい!」
思考回路が筋の通った結論を見いだすまえに、優歌の口から返事が飛びだした。恥ずかしいくらい張りきった声で、熱が出たみたいに躰中を駆け廻る血液の温度が上がった。
匠は小さく笑みを零した。
「じゃ、これからよろしく」
座卓越しに伸びてきた匠の手は大きくてきれいで、戸惑ったけれど、優歌も手を伸ばした。
四年前に優歌の頬を包んだ手がそうだったように、匠の手はいまも温かく優歌の手をつかむ。
匠に対する苦手意識を払拭(ふっしょく)したのは、その瞬間の匠自身の温かい手だった。
結婚が決まった昨日、出張中だった姉の優美はまだ婚約のことを知らないはずだ。昨日の夜遅く、優美は卒業祝いの電話をくれたけれど、優歌は混乱していたし、事が事だけに対面して伝えたいと思った。
金曜日はいつも遅くなるのに今日は六時半と、優美はいつもより早めに帰ってきた。優美はリビングに寄ることなく、まっすぐ自分の部屋に向かう。優歌はあとを追って二階にあがるとドアをノックした。
いいよ、と云う軽快な声が聞こえる。
「おかえり。早かったんだね」
部屋に入ると、優美は上着を脱いでいるところだった。ベッドの傍にボストンバッグと仕事用のトートバッグがある。業平に入社して丸三年になる優美は仕事への自信が出てきたようで、いつも充実感にあふれている。
それに比べて優歌は就職活動もすることなく短大を卒業したいま、怠惰な生活が始まった。
業平を受けてみればという父の助言は就職活動まえの段階で蹴った。優美はいま証明されているように期待に応えられる資質を充分に持っているけれど、消極的な優歌には荷が重すぎる。業平での活躍はまず見込めないし、それどころか淳介の顔に泥を塗ってしまいそうだ。
いざ優歌が普通に就職活動をするときになって、両親がともに家のことをやっててくれればいいと云いだした。
優歌はもともと仕事をするということに積極的ではなく、つい両親の言葉に乗って家事手伝いなんていう、どうでもいい立場に甘んじた。もとい、積極的になれることが優歌にあるのかすら怪しい。
そういうなかで、いつ淳介は優歌と匠の結婚ということを考え始めたのだろう。
「うん……ちょっとね」
さっきの軽快さはどこへやら、そう答えた優美はいつもの率直さが消えて、めずらしく何かをためらった様子だ。優歌が問いかけるように顔を傾けると、優美は答える気がなさそうに首をすくめた。
「お姉ちゃん、あのね……」
戸惑いがちに云いだして、優歌はいったん言葉を切った。
「どうしたの、相談事?」
「ううん、そうじゃなくて……えっと、わたし、上戸さんと結婚することになったの!」
優美はスーツの上着をハンガーにかけていた手を止めた。
「もう決めたの?」
「うん!」
優歌は云ってしまうとほっとして、優美の質問に大きくうなずいた。
「そっか」
優美は微笑んで相づちを打った。それからハンガーラックに上着を吊るすと、今度はベッド脇にかがんでボストンバッグを開けた。
優美のあまりの反応のなさに、優歌は首をひねった。
「お姉ちゃん……もしかして知ってた?」
「帰ってくるまえにお父さんのところに顔を出したから」
「あ、そうなんだ。驚くのを見たかったのに」
「驚いてるよ。優歌は上戸さんのことが苦手だと思ってたから」
「うん。そうなんだけど、昨日はなんとなく、上戸さんとならって思った」
優美はベッドの上にボストンバックから取りだした荷物を広げてしまうと、ゆっくり立ちあがって優歌を向いた。
「なんとなく? 優歌らしいね。じゃ、着替えるから出てってくれる?」
「……うん。いまから上戸さんに会いにいくの。食事しようって」
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
優美が優歌に向けた微笑みはどこかぎこちなく見えた。それは予測していた反応とは違っていて、優歌は何かが足りない感じがした。
匠と約束した七時半まであと十分というときに業平商事に着いた。外はすっかり暗い。それでも業平商事が面した通りは、会社に帰る人、会社から帰る人がまだ多くいる。見上げた業平商事のビルも、灯りの漏れる窓がいくつもある。
匠に云われたとおり、優歌は業平ビルの中に入ると待合ブースの椅子に座って待った。観葉植物が囲っているだけで仕切りのない待合ブースは、玄関先からその正面奥のエスカレーターまでほとんどを見渡せる。
優美のことが気にかかって、優歌は何気なくここまでやって来たけれど、懐かしい光景だと感慨にふけったのもつかの間、エスカレーターの上に人が現れるたびに鼓動がびくんと震え、いまになって現実が迫る。昨日いきなりでふたりの関係は婚約に発展したわけで、だんだんと優歌は落ち着きなくそわそわしだした。
食事をするのは匠が云いだしたことだ。短大卒業の話からお祝いをしようと、昨日の帰り際に誘われて、優歌は結婚を承諾した勢いのままにうなずいた。
さすがに今日は、あの日みたいにメモを残して帰るわけにはいかない。そう思ったら、自然といまだに財布の中に潜んでいる名刺のことが脳裡に浮かんだ。もらった日のお礼を云った瞬間と同じように、昨日の笑顔というには控えめすぎる笑った顔がまた見られるのなら、逃げるよりは落ち着かなくてもどきどきしているほうがいい。
受付の上にある時計が七時三〇分を差し、それからエスカレーターと時計を交互に見ていると三十五分になって匠が現れた。
黒いダレスバッグを片手にグリーン系の黒っぽいスーツという格好は、シャープな印象を与える端整な顔立ちと背の高さが相俟(あいま)って目立っている。
苦手ながらもつい見てしまう。これまでもそういうことが多かった。最初に会ったときもそうで、怖さと見紛(みまが)うような印象を受けるのに、それを圧倒する匠自身のオーラみたいなものに引き寄せられたのかもしれない。それほど、同じビジネスマンたちの中にいても、ほかに紛らせない存在感がある。
優歌は待合ブースからちょっと出てみた。同時に匠の視線が優歌に向いた。エスカレーターから降りて、まっすぐに優歌のところへとやって来る。
「終わりました?」
「ああ。待たせた」
「まだ五分しか過ぎてませんよ。お疲れさまでした」
大きすぎず細くない切れ長の目を少し狭めて、匠はふっとかすかに笑みを漏らした。
よかった。
柔らかくなった匠の表情は昨日から持続している。来て早々、笑った顔が見られると優歌はうれしくなった。
「コート着て。外は寒い」
匠は優歌が腕にかけているイエローグリーンの薄手のコートを指差した。
コートを着ている間、匠にじっと見られているのがわかり、優歌は焦ってしまってちょっと手間取った。
「匠!」
優歌がカールした長い髪をコートから払うように出したその時、女性の声が匠の名を呼んだ。匠が声のしたほうを振り向くと、その脇から女性が小走りに近づいてくるのが目に入る。VIVID
その女性が、職場見学のときに匠の前にいた女性であることはすぐにわかった。
顔を覚えられない優歌が覚えているほど、立花はすこぶる美人だった。あれから四年近くたつけれど、ますますきれいさに磨きがかかっている。大人で、優歌にない女性としての艶があり、顔を縁取るボブヘアがまえよりもっと活動的に見えて際(きわ)やかだ。
「いま帰り?」
「ああ」
「食事でも、と思ったけど……先約あるみたいね」
立花は云いかけて、明らかに匠の“連れ”という距離にいる優歌にちらりと目を向けた。
「あ……こんばんは」
立花が覚えているかどうかもわからないまま、優歌は戸惑いながら会釈した。立花は優歌を上から下まで見てから、ふと思い当たったような表情をした。
「あ! もしかして、じゃなくてもしかしなくても本部長の娘さんね! えっと……」
「優歌ちゃん」
立花が思いだせずにいると、匠が云い添えた。
「そうそう! ……え、もしかして付き合ってるの?!」
立花から頓狂(とんきょう)な声で訊ねられ、優歌は困惑に顔を火照(ほて)らせた。
「結婚する」
匠の一言に立花の表情は驚きに止まり、優歌は気後れを感じ、その場に微妙な空気が漂った。
「……結婚? 匠が? 優歌ちゃんと?」
今度の繰り返し問う立花の云い方は、驚くよりは疑うような口調だ。
「ああ」
駄目押しの問いかけに匠は気に障ったような声で肯定した。
匠がどう答えるのだろうと思っていた優歌は、立花が疑念を抱いていることを気にするよりも、そのまえのストレートな返事に安堵した。
結婚という約束をしたにもかかわらず位置は不安定だ。建て前だけがしっかりしていて、ふたりのそれぞれの気持ちは置いてけぼりのような感覚がある。
ふたりの結婚の経緯が、今時の世間の発展の仕方と逆行しているのは確かなこと。
結婚から始まる未来にあるのはなんだろう。一抹の不安……じゃなく、いま始まったばかりで不安だらけだ。
「……そうなんだ」
立花はうなずきながら匠を物云いたげに見て、それから視線を優歌に移した。
「おめでとう。優歌ちゃん、匠みたいな男はなかなかいないし、うまいことやったわね」
お礼を云う間もなく、どう捉えていいのか、立花は優歌が素直に喜べないようなことを口にした。
「立花」
「あ、そっか。うまいことやったのは匠もだよね」
立花は自分を諌(いさ)めた匠に向かい、性懲(しょうこ)りもなく付け加えた。
優歌は困惑しながら隣に立つ匠を見上げた。そこには目を細めて怖いくらいの表情があった。
立花は悪びれていないどころか、おどけたように笑う。
「ごめん。匠が結婚するとか思ってなかったし、ちょっとからかっただけ。とにかく、おめでとう。中国の話を聞きたかったんだけどデートってことなら邪魔しちゃ悪いし、食事はまた今度ね!」
そう云って立花は玄関口に向かった。
「立花は昔から知ってる奴で遠慮がないんだ。悪かった」
「謝ることないですよ? それより、おめでとうって云われてびっくりしました」
「びっくり?」
匠は優歌の言葉尻を聞き留め、コートを着るときに預かっていたバッグを渡しながら訊ねた。
「……うれしい感じです」
少しためらってから優歌が云い直すと、さっきから不機嫌そうだった匠の表情が柔らかく戻った。
業平を出てから電車で移動すると、ふたりは駅から近いイタリア料理専門のレストランに入った。店内は暖色の照明で落ち着いた雰囲気だ。予約していたらしく、匠が名乗ると給仕がテーブルに案内した。
匠が料理まで予約していたと知ると、優歌はほっとした。男の人と二人きりで食事という経験がないことに、今更になって気づいた。
ここに来てからまた優歌の緊張は復活していて、メニューを見せられたところで決められなかったかもしれない。友だちならいつものことと割りきってくれるけれど、匠は苛々(いらいら)してしまうだろう。
「緊張してる?」
匠が不意に声をかけた。そわそわと周りを見回していた優歌は顔が赤くなった気がした。幸いにも照明の色がそれを隠した。
「……はい」
「ありがとう」
その言葉はどこかずれていて、優歌は思わず伏せていた目を上げた。匠は至って真面目な顔だ。
「……あの……」
戸惑った優歌に匠はうなずいてみせた。
「正直に云ってくれたほうがいいんだ。結婚は決めたけど、おれたちはお互いに知らないことのほうが多い。我慢してしまうとすれ違うこともあるから、つまらないと思うことでもできる限り話してほしい」
それはもったいないくらい誠実に優歌の中へと浸透した。声はいつもと変わらず淡々としているのに、匠の手と同じくらい温かく聞こえた。
「はい!」
勢いこんだ返事に匠が笑みを浮かべた。
「まずは卒業おめでとう」
「はい、ありがとうございます」
お祝いの乾杯から始まった食事は、お世辞にも会話が弾むとはいえないけれど、居心地自体は悪くなかった。悪くないという云い方は控えめかもしれない。食事が終わる頃になって気づいたのは、匠が食べる速さを合わせてくれたこと。優歌が無理することはなかった。
帰り道、駅から水辺家まで歩いて送る間も、匠の歩調は優歌のペースに合わせるようにゆっくりしている。九時をとっくに過ぎて人通りはあまりなく、足音を立てるにもちょっと気が引けるくらい静かだ。黙りがちで歩きながら、ふと匠の左手が目に入った。
「明日、昼から出かけないか?」
「え?」
馬鹿げた衝動に駆られたときの不意打ちで、優歌は必要以上にびっくりした声を出した。匠が半歩後ろを歩く優歌を見下ろした。外灯が影を作ってその表情はよく見えない。
「午前中は仕事に出るけど、昼からは休み取れるし」
匠は問いかけるように首をひねった。
「……わたしは仕事してませんから……」
「じゃ、電話入れてから迎えにいく」
優歌が回りくどい返事をしても、匠は気にしていないようだ。云ってしまってからもっとはっきり伝えなくちゃと焦っただけに、優歌はほっとした。
次の日、土曜日は昼食の準備を手伝っているときに匠から電話があった。
『車でもいい?』
「……いいですよ?」
一時に行くと云ったあと、とうとつに訊ねた匠の口調はなぜか気遣うように聞こえ、優歌は疑問符の付いた返事をした。
『いや、車酔いするんならと思ったんだ』
「え?」
『金城が三半規管弱いって云ってた気がするし』
躰は弱くても三半規管が弱いという心当たりはない。優歌はどうしてそんなふうに考えたんだろうかと急いで思い廻った。程なく金城を思い浮かべてみて気づいた。
「あ、大丈夫です。あれは金城さんがいつもふざけるから止める口実にしていただけで……」
ずっとまえのことをよく覚えているなと思いつつ、優歌は云い訳をした。
『そういうことか。じゃ、あとで』
匠は電話の向こうで呆れたようにため息をつくと、電話は端的にすまされて切れた。
「上戸さん?」
優歌が携帯を閉じると、リビングで雑誌を見ていた優美が顔を上げて訊ねた。
「うん。車で出かけるんだって」
「そ」
優美は短く相づちを打った。愛想なく聞こえる。昨日、匠と食事をして帰ったあと優美に声をかけたけれど、そのときからなんとなく話ができない感じだ。
相談したいことも話したいこともあるのに。
「お姉ちゃん、どうかした?」
「優歌はお気楽でいいなって思って」
そう云われればぐうの音も出ない。いつもなら笑い飛ばせるセリフも、いまの優美の声には棘(とげ)を感じた。強力催眠謎幻水
何かあったんだろうか。
そう思いながら携帯をダイニングテーブルに置いて、優歌はまたキッチンに入った。
佐織はさっきの短いやりとりを聞いていたようで、何か云いたげに優歌を見たけれど、結局は云わないまま料理に取りかかった。優美がすぐそこにいる以上、むやみに佐織に訊くわけにもいかず、優歌は気落ちした。
昼食になると優美は普段に戻っていて、出張の話題が上り、専ら、淳介を相手におもしろ可笑しく話した。その様子から少なくとも出張で何かあったわけではないらしい。
だれだって、そうそういつもポジティブでいられるわけはなくて、いままでも優美が不機嫌なときはあった。
別に急ぐことでもなく、優歌は機会をあらためることにした。
匠は時間どおりにやって来た。
玄関を開けると、優歌の急(せ)いた鼓動は驚きが加わってリズムを乱す。
いつもスーツ姿の匠は、砕けてもジャケットを脱ぐくらいだ。今日のジーンズにTシャツ、そしてカジュアルなジャケットという格好は想像したこともなかった。それどころか、てっきりスーツで来るとイメージしていた。考えてみれば家にいるときにスーツなわけはない。ラフな姿も様になっていて、自分の平凡な容姿と比べた優歌は気後れしてしまった。気にしてもどうしようもないことであり、とにかくスーツよりは近づきやすい雰囲気で、優歌でも釣り合って見えるかもしれない。
匠は家に寄ることなく、玄関先で両親に挨拶をすませただけで優歌を連れだした。
門の前には光沢を放つブルーグレーの車が止まっている。
「上戸さん、車持ってたんですか?」
「レンタル。実家のほうと違って東京じゃ、買うほど車は必要じゃないから」
「上戸さんの実家って、福岡ですよね?」
「ああ」
「わたし、明太子好きなんです」
優歌が云うと匠は息を漏らした。
「それは催促なのか?」
「いえ、そうじゃなくって……」
見上げた匠はおもしろがるような眼差しで見下ろしている。ひょっとしてさっきは吹きだしたんだろうか。優歌が困ったように首をかしげると匠が背中を軽く押した。
「乗って。行こう」
触れられることに慣れていない優歌は、さりげないしぐさにもどきどきして、匠がドアを開けてくれた助手席に乗りこんだ。
いざ車に乗ると、本当にふたりきりという空間に気づいて、昨日のレストランよりもあわてた。けれど、車を出してまもなく、ドライヴは好きかという匠の質問から始まって、好き嫌いの話をしているうちに沈黙も気にならなくなっていった。
一時間もすると道沿いに海が見え始める。それからまもなく、匠は広い駐車場に車を乗り入れた。敷地内にある建物の前に、巨大なイルカのオブジェが見るまでもなく目に入った。匠が連れて来たのは水族館だ。
「水族館て久しぶりです。すごく立派になってますね」
チケットを出して奥に行くと、入り口のアーケードは水槽になっていて、頭の上を魚が泳いでいる。天井を振り仰いだ優歌が少し視線をおろすと匠の目と合った。
「おれのほうがもっと久しぶりだ。小学生んとき以来だからな」
「……上戸さんて……」
優歌は云いかけてやめた。訊こうとしたことは不躾(ぶしつけ)な質問だと気づいた。
「何?」
「いえ。大したことじゃなくて……へんなこと云いそうになりました」
「昨日、つまらないことでも話してくれって頼んだばかりなんだけどな」
匠はしかめた声で、いまにもため息をつきそうだ。
「……あの……いままでデートでこういうとこに来なかったのかなって思っただけです。上戸さんてモテそうだし、お父さんが急に云いだして……中国から帰ったばかりだとしても、よく……その……いま彼女がいなかったなと思って……っていうのは真由の意見……です」
優歌が云い訳っぽく付け加えると、匠は一転して可笑しそうにした。
「こういうのはタイミングらしいからな」
「タイミング?」
「知ってるかな。金城、彼女と同棲始めるらしい」
「ホントに?!」
「社内間でグループ交際やってたけど、そのうちの一人と。今日、彼女が引っ越してるんじゃないかな。金城はすぐ結婚するつもりらしい」
「そうなんですね。グループ交際のことは聞いてたけど、その中に特定の彼女がいるってことは知らなかったからびっくりです」
「“彼女”になったのは一週間前だってさ」
優歌は目を丸くして匠を見上げた。匠は首をちょっと傾けた。
「タイミング、だろ? まぁ、おれたちのほうがもっと驚かれるのは間違いない」
匠のちょっとおどけた感じにびっくりしながら、何気なく出た『おれたち』という言葉の響きをうれしいと思った。そして、その“うれしい”という気持ちに優歌は戸惑う。
「真由も驚いてました」
「西尾さんはどうしてる?」
「真由は大学に行ってます。わたしと違って上昇志向百パーセントだから」
「優歌ちゃんと西尾さんて正反対って感じがするけど、相変わらず仲がいいんだな」
「真由はずばずば云ってくれるから、わたしはかえってラクなんです。真由のほうはわたしにイライラしてるかもしれないけど」
「かもしれないってことは、西尾さんがそんな態度は見せてないってことだろ? ずばずば云うっていうなら、そういうイライラとかも我慢することはないだろうし、つまりはお互いにうまくいってるってことだ」
匠が指摘すると、優歌は真由とのことをいろいろ考え廻ってみた。高校卒業と同時に会う時間は極端に少なくなったけれど、自然と離れてしまった友だちがいるなかで、真由とは互いの連絡が途切れることはない。
「……上戸さんに云われて、真由のこと、もっと好きになりました」
見上げた匠は口の端で小さく笑った。
「デートに関しては、いままでこういうところが好きそうな、もしくは似合う子がいなかったせいかもしれない」
「……どういう意味ですか」
優歌が思わず訊いてしまうと、匠は答える気がなさそうにかすかに首を動かした。
ちらりと見回した館内では親子連れ、つまり子供が目立つ。優歌が子供っぽいということだろうか。
そう考えると、匠がどれくらいの女性たちと付き合ってきたのか気になってしまった。優歌はこういうことになるまで近づけなかったけれど、絶対に放っておかれるタイプじゃない。あの立花という女性は食事しようって云っていた。立花の容姿を思い浮かべたとたんに落ちこんだ。
「こういうデートらしいデートははじめてかもしれない」
館内を歩きながら、しばらくして匠が云った。変わらず曖昧な云い方だ。
家に来る淳介の部下たちは上司の前というのに、遠慮なく彼女の話題で盛りあがる。匠に関してそう云った話は人伝(ひとづて)でも聞いたことがない。けれど常識で考えればはじめてのはずはない。
それなのに『はじめて』という言葉に、ちょっとだけ優歌の気分は浮上した。並行して、匠の言動でいちいちうれしいと感じたり、反対に落ちこんだりするのがどうしてなのかわからずに、自分を持て余した。最初に会ったときからそうだ。
最大の理由は自分にまったく自信がないせいだろうか。変わらず人見知りはしても、どうにか相手を不快にさせない程度には克服した。成長はちょっとずつしかできなくても止まっているわけではないはずだ。それでも自信には程遠くて人の意見に左右されやすい。
気づかれない程度にため息をついたその時、優歌は下半身に軽く体当たりされた。よろけたはずみに目の前の匠の腕をつかんだ。足もとを見下ろすと小さな男の子が頭を掻(か)いている。
「すみません」
母親が男の子を捕まえて優歌に謝った。
「いえ、大丈夫ですよ」
優歌が答えると、母親は男の子にもごめんなさいと謝らせて連れていった。
「大丈夫か?」
「全然平気です。脚だったから転びそうになっただけで……」
ふと、腕につかまったままであることが気になって優歌は手を離した。匠はうなずいてまた歩きだす。
半歩前を行く匠の左手は空いていて……。
匠のことはずっと苦手だったのに、いまは信じられないほど親密な距離にいる。その手を見ているうち、昨日の帰り道のときと同じように自分が自分をそそのかした。
たまには勇気の延長で積極的になっても……。
ためらったせいで優歌がつかんだのは匠の小指だ。握ってしまってから、自分でもちょっと間抜けだったかもしれないと思った。
匠が立ち止まって優歌を見下ろした。
「なんでこういう握り方なんだ?」
暗がりで匠の表情はよく見えないものの、おもしろがっていそうな声に聞こえる。
優歌は素早く理由を考え廻らせたすえ、すぐ先にある巨大水槽の中を優雅に泳いでいるエイが目に入った。
「……あの……海のエイちゃん見てたら、なんとなく長い尻尾をつかみたいなって思って……」
「海のエイちゃん?」
今度ははっきり可笑しそうな声が訊ね返した。
「お父さんが陸の永ちゃんファンなんです」
優歌がそう答えると、匠はこもった音を短く漏らした。
「そういや、本部長に聴けって勧められたことがある。優歌ちゃんて意外におもしろいな」
「どこか抜けてるだけです。上戸さん、きっとわたしと結婚したらたいへんですよ」
「お互いさまだ」印度神油
冗談なのか真剣なのかわからなかったけれど、とりあえず手が振りほどかれることもなく、優歌の肩から力が抜けた。互いがお喋りではなく、そのぶん手を繋いでいることで緊張ぎみの沈黙も和らいだ。
次の日、日曜日も午後から匠に誘われて、淳介と佐織はうれしそうに優歌を送りだした。
さすがに会うのが三日も続くと、いや、結婚が決まった日を入れると四日続けて匠に会ったことになるけれど、ふたりでいることに馴染んできた。かまえた気持ちが払拭された気がする。
昨日の好き嫌いの話から絵を見ることが共通して好きだということがわかり、美術館へ行った。
鑑賞しながらたまに感想を云い合っているうちに、ふたりとも好みとする絵に偏りがなく、その時の感性に頼っているという共通点も発見した。全部ではなくても、好きな絵が同じだと安心度が増す。
夕食まで一緒にして、家に帰ったのは九時を過ぎた。
優歌は車を降りると、玄関に向かおうとした匠を引き止めた。九時というのは二十才を過ぎたいま、けっして遅い時間ではなく、わざわざ挨拶する必要はない。
「上戸さん、ここでいいです。明日は仕事ですよね。また昨日みたいにお父さんが引き止めたら帰れなくなります」
昨日は車だったからこそお酒は勧めなかったものの、匠は淳介から二時間も引き止められて、家を出たのは十一時を過ぎていた。
「けど――」
「もう学生じゃないですよ」
からかうように優歌が云うと、外灯の下で匠は肩をすくめた。
「じゃ、行って。入るまで見てる」
「はい。じゃあ、また」
「ああ」
後ろ姿を見られているかと思うと、優歌は歩き方を意識してしまって転びそうになった。玄関の戸まで来て後ろを振り向くと、云ったとおり門柱の間で見守っていた匠が軽く手を上げた。
優歌も手を振り返し、家の中に入って戸を閉めた。
とたん、リビングからこもった、それでいて大きな声が聞こえてきた。穏やかな感じではない。優歌はパンプスを脱いでそっと上がってみた。
『…………もう決まったことだ』
『いまの時代に信じられない』
『優歌も上戸くんも気持ちが固まって――』
『優歌はともかく、お父さんから頼まれて上戸さんが断れるわけないじゃない?』
『上戸くんはそういう――』
『お母さんだって酷いよ。わたしがどう思うかわかってたよね?!』
『優美……』
三人の会話――というよりは云い争いに一瞬、優歌は立ちすくんだ。すぐに聞かなかったことにしたほうがいいと思った。優歌はいったん玄関に戻り、そっと戸を開けて外を覗いた。匠の車がないことを確認すると、安堵の息を吐いた。それから優歌はわざと音を立てて玄関を閉めた。
「ただいまぁ」
優歌は心持ち声を大きくした。リビングの声は止んでいる。優歌がリビングのドアにたどり着くまえに優美が中から出てきて、そっぽを向いたまま二階へと階段を上がっていった。
「お姉ちゃん、ただいま!」
返ってきたのはむっつりした小さな声だった。優歌はそれだけでも良しとした。
リビングに入ると、なんとなくばつの悪そうな両親の顔に合う。優歌は気づかないふりをして、匠と美術館で観賞した絵のことを掻い摘(つま)んで話した。そのうちに落ち着いたらしい両親は逆に根掘り葉掘り訊いてきた。さすがに閉口して、優歌は明日の朝の準備を理由になんとか質問攻めから逃れた。
あとは寝るだけと部屋に入ると、透視できるわけもないのに、優歌と優美の部屋を隔てた壁を見つめた。下にいる間、隣の部屋から優美が出てくることはなかった。優歌はベッドに腰かけて肩を落とした。
リビングでのことは否定しようもなく、自分と匠のこと。
断れるわけない。
たしかにそう。
淳介は上司で匠は部下。あのとき、匠が云った『立場』はそういうことだったのだ。
今更になって思い当たるってわたしはやっぱり配慮がなさすぎる。
断ってくれてもかまわない。
匠はそのあとフォローしたけれど、あれは究極の社交辞令で本当は断ってほしかったのかもしれない。せっかく近づけたと思ったこの数日間が、全部ふりだしに戻った気がした。
いや、それ以下だ。
うつむいて、見るともなしに見ていた自分の手の甲に雫が落ちた。
わたし……どうして泣いているんだろう。田七人参
淳介は満足至極に何度もうなずいて徐(おもむろ)に立ちあがると、優歌たちを残して和室を後にした。蔵八宝
積もる話……って。
優歌は途方にくれた。話題を探すのさえたいへんだというのに。
淳介の背を縋(すが)るように追った優歌は、目のやり場に困ってしまう。そのすえ、視線をそのままにして、源氏物語をモチーフとした襖(ふすま)の絵を馬鹿みたいに見つめた。
ずっと着物でいる苦しさと、へんに沈黙した和室の重厚感に押し潰されそうだ。
気絶できるなら気絶してこの場を逃れたい。呼吸さえ覚束(おぼつか)なくなるほど気は張り詰めている。
この場を凌(しの)げるような話題を探すのに、優歌の思考力は空回りして役に立たない。絶好の題材である“卒業”のことさえ思い浮かばないでいた。
優歌が無駄に足掻(あが)いているなか、さきに口を開いたのは匠だった。
「立場を考えて、ああ答えてしまったけど、優歌ちゃんから断ってくれても、おれはかまわない」
どういう思考回路をたどったのか、淳介からなぜ結婚という形で身売りをさせられるのかがわからなければ、ゆっくりと切りだした匠が云う立場も優歌にはまったくわからない。
ただ、断ってくれてもかまわない、という曖昧な言葉に傷ついた。優歌は襖から目を離してうつむくと、くちびるが白くなるくらいに強くかんだ。
「誤解しないでほしい。どうでもいいと思ってるんじゃないし、断るように仕向けてるわけでもなくて、むしろ、結婚から始まる関係でもいいんじゃないかと思ってる。けど、おれは嫌われてるようだし」
優歌はその言葉に驚いて顔をあげた。匠はまっすぐにこっちを向いていて、ごくごく真剣に続ける。
「だから、無理強いは――」
「違います! 嫌いじゃありません!」
優歌は自分で云ってびっくりした。まるではじめて会ったときの感覚が繰り返されている。
表情に乏しい匠もさすがに驚いたようで、目をほんの少し見開いて言葉を切った。あの時と同じ笑みが匠の口もとに還る。
「なら……優歌ちゃんに特別好きな奴がいなければ、これからおれと始めてみないか?」
柔らかくなった匠の表情に断る理由なんて見いだせない。
はじめて会ってまもない頃、苦手な人はたくさんいたのに、匠を苦手の部類に入れた瞬間、ほかの人と違ったところはもう一つあった。
悲しい、と思ったこと。
自分のことなのに、その意味がいまでも優歌はわからない。
いまわかったのは、匠が冷たく見えてもけっして冷たいわけではなく、いまみたいに実直であること。
「はい!」
思考回路が筋の通った結論を見いだすまえに、優歌の口から返事が飛びだした。恥ずかしいくらい張りきった声で、熱が出たみたいに躰中を駆け廻る血液の温度が上がった。
匠は小さく笑みを零した。
「じゃ、これからよろしく」
座卓越しに伸びてきた匠の手は大きくてきれいで、戸惑ったけれど、優歌も手を伸ばした。
四年前に優歌の頬を包んだ手がそうだったように、匠の手はいまも温かく優歌の手をつかむ。
匠に対する苦手意識を払拭(ふっしょく)したのは、その瞬間の匠自身の温かい手だった。
結婚が決まった昨日、出張中だった姉の優美はまだ婚約のことを知らないはずだ。昨日の夜遅く、優美は卒業祝いの電話をくれたけれど、優歌は混乱していたし、事が事だけに対面して伝えたいと思った。
金曜日はいつも遅くなるのに今日は六時半と、優美はいつもより早めに帰ってきた。優美はリビングに寄ることなく、まっすぐ自分の部屋に向かう。優歌はあとを追って二階にあがるとドアをノックした。
いいよ、と云う軽快な声が聞こえる。
「おかえり。早かったんだね」
部屋に入ると、優美は上着を脱いでいるところだった。ベッドの傍にボストンバッグと仕事用のトートバッグがある。業平に入社して丸三年になる優美は仕事への自信が出てきたようで、いつも充実感にあふれている。
それに比べて優歌は就職活動もすることなく短大を卒業したいま、怠惰な生活が始まった。
業平を受けてみればという父の助言は就職活動まえの段階で蹴った。優美はいま証明されているように期待に応えられる資質を充分に持っているけれど、消極的な優歌には荷が重すぎる。業平での活躍はまず見込めないし、それどころか淳介の顔に泥を塗ってしまいそうだ。
いざ優歌が普通に就職活動をするときになって、両親がともに家のことをやっててくれればいいと云いだした。
優歌はもともと仕事をするということに積極的ではなく、つい両親の言葉に乗って家事手伝いなんていう、どうでもいい立場に甘んじた。もとい、積極的になれることが優歌にあるのかすら怪しい。
そういうなかで、いつ淳介は優歌と匠の結婚ということを考え始めたのだろう。
「うん……ちょっとね」
さっきの軽快さはどこへやら、そう答えた優美はいつもの率直さが消えて、めずらしく何かをためらった様子だ。優歌が問いかけるように顔を傾けると、優美は答える気がなさそうに首をすくめた。
「お姉ちゃん、あのね……」
戸惑いがちに云いだして、優歌はいったん言葉を切った。
「どうしたの、相談事?」
「ううん、そうじゃなくて……えっと、わたし、上戸さんと結婚することになったの!」
優美はスーツの上着をハンガーにかけていた手を止めた。
「もう決めたの?」
「うん!」
優歌は云ってしまうとほっとして、優美の質問に大きくうなずいた。
「そっか」
優美は微笑んで相づちを打った。それからハンガーラックに上着を吊るすと、今度はベッド脇にかがんでボストンバッグを開けた。
優美のあまりの反応のなさに、優歌は首をひねった。
「お姉ちゃん……もしかして知ってた?」
「帰ってくるまえにお父さんのところに顔を出したから」
「あ、そうなんだ。驚くのを見たかったのに」
「驚いてるよ。優歌は上戸さんのことが苦手だと思ってたから」
「うん。そうなんだけど、昨日はなんとなく、上戸さんとならって思った」
優美はベッドの上にボストンバックから取りだした荷物を広げてしまうと、ゆっくり立ちあがって優歌を向いた。
「なんとなく? 優歌らしいね。じゃ、着替えるから出てってくれる?」
「……うん。いまから上戸さんに会いにいくの。食事しようって」
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
優美が優歌に向けた微笑みはどこかぎこちなく見えた。それは予測していた反応とは違っていて、優歌は何かが足りない感じがした。
匠と約束した七時半まであと十分というときに業平商事に着いた。外はすっかり暗い。それでも業平商事が面した通りは、会社に帰る人、会社から帰る人がまだ多くいる。見上げた業平商事のビルも、灯りの漏れる窓がいくつもある。
匠に云われたとおり、優歌は業平ビルの中に入ると待合ブースの椅子に座って待った。観葉植物が囲っているだけで仕切りのない待合ブースは、玄関先からその正面奥のエスカレーターまでほとんどを見渡せる。
優美のことが気にかかって、優歌は何気なくここまでやって来たけれど、懐かしい光景だと感慨にふけったのもつかの間、エスカレーターの上に人が現れるたびに鼓動がびくんと震え、いまになって現実が迫る。昨日いきなりでふたりの関係は婚約に発展したわけで、だんだんと優歌は落ち着きなくそわそわしだした。
食事をするのは匠が云いだしたことだ。短大卒業の話からお祝いをしようと、昨日の帰り際に誘われて、優歌は結婚を承諾した勢いのままにうなずいた。
さすがに今日は、あの日みたいにメモを残して帰るわけにはいかない。そう思ったら、自然といまだに財布の中に潜んでいる名刺のことが脳裡に浮かんだ。もらった日のお礼を云った瞬間と同じように、昨日の笑顔というには控えめすぎる笑った顔がまた見られるのなら、逃げるよりは落ち着かなくてもどきどきしているほうがいい。
受付の上にある時計が七時三〇分を差し、それからエスカレーターと時計を交互に見ていると三十五分になって匠が現れた。
黒いダレスバッグを片手にグリーン系の黒っぽいスーツという格好は、シャープな印象を与える端整な顔立ちと背の高さが相俟(あいま)って目立っている。
苦手ながらもつい見てしまう。これまでもそういうことが多かった。最初に会ったときもそうで、怖さと見紛(みまが)うような印象を受けるのに、それを圧倒する匠自身のオーラみたいなものに引き寄せられたのかもしれない。それほど、同じビジネスマンたちの中にいても、ほかに紛らせない存在感がある。
優歌は待合ブースからちょっと出てみた。同時に匠の視線が優歌に向いた。エスカレーターから降りて、まっすぐに優歌のところへとやって来る。
「終わりました?」
「ああ。待たせた」
「まだ五分しか過ぎてませんよ。お疲れさまでした」
大きすぎず細くない切れ長の目を少し狭めて、匠はふっとかすかに笑みを漏らした。
よかった。
柔らかくなった匠の表情は昨日から持続している。来て早々、笑った顔が見られると優歌はうれしくなった。
「コート着て。外は寒い」
匠は優歌が腕にかけているイエローグリーンの薄手のコートを指差した。
コートを着ている間、匠にじっと見られているのがわかり、優歌は焦ってしまってちょっと手間取った。
「匠!」
優歌がカールした長い髪をコートから払うように出したその時、女性の声が匠の名を呼んだ。匠が声のしたほうを振り向くと、その脇から女性が小走りに近づいてくるのが目に入る。VIVID
その女性が、職場見学のときに匠の前にいた女性であることはすぐにわかった。
顔を覚えられない優歌が覚えているほど、立花はすこぶる美人だった。あれから四年近くたつけれど、ますますきれいさに磨きがかかっている。大人で、優歌にない女性としての艶があり、顔を縁取るボブヘアがまえよりもっと活動的に見えて際(きわ)やかだ。
「いま帰り?」
「ああ」
「食事でも、と思ったけど……先約あるみたいね」
立花は云いかけて、明らかに匠の“連れ”という距離にいる優歌にちらりと目を向けた。
「あ……こんばんは」
立花が覚えているかどうかもわからないまま、優歌は戸惑いながら会釈した。立花は優歌を上から下まで見てから、ふと思い当たったような表情をした。
「あ! もしかして、じゃなくてもしかしなくても本部長の娘さんね! えっと……」
「優歌ちゃん」
立花が思いだせずにいると、匠が云い添えた。
「そうそう! ……え、もしかして付き合ってるの?!」
立花から頓狂(とんきょう)な声で訊ねられ、優歌は困惑に顔を火照(ほて)らせた。
「結婚する」
匠の一言に立花の表情は驚きに止まり、優歌は気後れを感じ、その場に微妙な空気が漂った。
「……結婚? 匠が? 優歌ちゃんと?」
今度の繰り返し問う立花の云い方は、驚くよりは疑うような口調だ。
「ああ」
駄目押しの問いかけに匠は気に障ったような声で肯定した。
匠がどう答えるのだろうと思っていた優歌は、立花が疑念を抱いていることを気にするよりも、そのまえのストレートな返事に安堵した。
結婚という約束をしたにもかかわらず位置は不安定だ。建て前だけがしっかりしていて、ふたりのそれぞれの気持ちは置いてけぼりのような感覚がある。
ふたりの結婚の経緯が、今時の世間の発展の仕方と逆行しているのは確かなこと。
結婚から始まる未来にあるのはなんだろう。一抹の不安……じゃなく、いま始まったばかりで不安だらけだ。
「……そうなんだ」
立花はうなずきながら匠を物云いたげに見て、それから視線を優歌に移した。
「おめでとう。優歌ちゃん、匠みたいな男はなかなかいないし、うまいことやったわね」
お礼を云う間もなく、どう捉えていいのか、立花は優歌が素直に喜べないようなことを口にした。
「立花」
「あ、そっか。うまいことやったのは匠もだよね」
立花は自分を諌(いさ)めた匠に向かい、性懲(しょうこ)りもなく付け加えた。
優歌は困惑しながら隣に立つ匠を見上げた。そこには目を細めて怖いくらいの表情があった。
立花は悪びれていないどころか、おどけたように笑う。
「ごめん。匠が結婚するとか思ってなかったし、ちょっとからかっただけ。とにかく、おめでとう。中国の話を聞きたかったんだけどデートってことなら邪魔しちゃ悪いし、食事はまた今度ね!」
そう云って立花は玄関口に向かった。
「立花は昔から知ってる奴で遠慮がないんだ。悪かった」
「謝ることないですよ? それより、おめでとうって云われてびっくりしました」
「びっくり?」
匠は優歌の言葉尻を聞き留め、コートを着るときに預かっていたバッグを渡しながら訊ねた。
「……うれしい感じです」
少しためらってから優歌が云い直すと、さっきから不機嫌そうだった匠の表情が柔らかく戻った。
業平を出てから電車で移動すると、ふたりは駅から近いイタリア料理専門のレストランに入った。店内は暖色の照明で落ち着いた雰囲気だ。予約していたらしく、匠が名乗ると給仕がテーブルに案内した。
匠が料理まで予約していたと知ると、優歌はほっとした。男の人と二人きりで食事という経験がないことに、今更になって気づいた。
ここに来てからまた優歌の緊張は復活していて、メニューを見せられたところで決められなかったかもしれない。友だちならいつものことと割りきってくれるけれど、匠は苛々(いらいら)してしまうだろう。
「緊張してる?」
匠が不意に声をかけた。そわそわと周りを見回していた優歌は顔が赤くなった気がした。幸いにも照明の色がそれを隠した。
「……はい」
「ありがとう」
その言葉はどこかずれていて、優歌は思わず伏せていた目を上げた。匠は至って真面目な顔だ。
「……あの……」
戸惑った優歌に匠はうなずいてみせた。
「正直に云ってくれたほうがいいんだ。結婚は決めたけど、おれたちはお互いに知らないことのほうが多い。我慢してしまうとすれ違うこともあるから、つまらないと思うことでもできる限り話してほしい」
それはもったいないくらい誠実に優歌の中へと浸透した。声はいつもと変わらず淡々としているのに、匠の手と同じくらい温かく聞こえた。
「はい!」
勢いこんだ返事に匠が笑みを浮かべた。
「まずは卒業おめでとう」
「はい、ありがとうございます」
お祝いの乾杯から始まった食事は、お世辞にも会話が弾むとはいえないけれど、居心地自体は悪くなかった。悪くないという云い方は控えめかもしれない。食事が終わる頃になって気づいたのは、匠が食べる速さを合わせてくれたこと。優歌が無理することはなかった。
帰り道、駅から水辺家まで歩いて送る間も、匠の歩調は優歌のペースに合わせるようにゆっくりしている。九時をとっくに過ぎて人通りはあまりなく、足音を立てるにもちょっと気が引けるくらい静かだ。黙りがちで歩きながら、ふと匠の左手が目に入った。
「明日、昼から出かけないか?」
「え?」
馬鹿げた衝動に駆られたときの不意打ちで、優歌は必要以上にびっくりした声を出した。匠が半歩後ろを歩く優歌を見下ろした。外灯が影を作ってその表情はよく見えない。
「午前中は仕事に出るけど、昼からは休み取れるし」
匠は問いかけるように首をひねった。
「……わたしは仕事してませんから……」
「じゃ、電話入れてから迎えにいく」
優歌が回りくどい返事をしても、匠は気にしていないようだ。云ってしまってからもっとはっきり伝えなくちゃと焦っただけに、優歌はほっとした。
次の日、土曜日は昼食の準備を手伝っているときに匠から電話があった。
『車でもいい?』
「……いいですよ?」
一時に行くと云ったあと、とうとつに訊ねた匠の口調はなぜか気遣うように聞こえ、優歌は疑問符の付いた返事をした。
『いや、車酔いするんならと思ったんだ』
「え?」
『金城が三半規管弱いって云ってた気がするし』
躰は弱くても三半規管が弱いという心当たりはない。優歌はどうしてそんなふうに考えたんだろうかと急いで思い廻った。程なく金城を思い浮かべてみて気づいた。
「あ、大丈夫です。あれは金城さんがいつもふざけるから止める口実にしていただけで……」
ずっとまえのことをよく覚えているなと思いつつ、優歌は云い訳をした。
『そういうことか。じゃ、あとで』
匠は電話の向こうで呆れたようにため息をつくと、電話は端的にすまされて切れた。
「上戸さん?」
優歌が携帯を閉じると、リビングで雑誌を見ていた優美が顔を上げて訊ねた。
「うん。車で出かけるんだって」
「そ」
優美は短く相づちを打った。愛想なく聞こえる。昨日、匠と食事をして帰ったあと優美に声をかけたけれど、そのときからなんとなく話ができない感じだ。
相談したいことも話したいこともあるのに。
「お姉ちゃん、どうかした?」
「優歌はお気楽でいいなって思って」
そう云われればぐうの音も出ない。いつもなら笑い飛ばせるセリフも、いまの優美の声には棘(とげ)を感じた。強力催眠謎幻水
何かあったんだろうか。
そう思いながら携帯をダイニングテーブルに置いて、優歌はまたキッチンに入った。
佐織はさっきの短いやりとりを聞いていたようで、何か云いたげに優歌を見たけれど、結局は云わないまま料理に取りかかった。優美がすぐそこにいる以上、むやみに佐織に訊くわけにもいかず、優歌は気落ちした。
昼食になると優美は普段に戻っていて、出張の話題が上り、専ら、淳介を相手におもしろ可笑しく話した。その様子から少なくとも出張で何かあったわけではないらしい。
だれだって、そうそういつもポジティブでいられるわけはなくて、いままでも優美が不機嫌なときはあった。
別に急ぐことでもなく、優歌は機会をあらためることにした。
匠は時間どおりにやって来た。
玄関を開けると、優歌の急(せ)いた鼓動は驚きが加わってリズムを乱す。
いつもスーツ姿の匠は、砕けてもジャケットを脱ぐくらいだ。今日のジーンズにTシャツ、そしてカジュアルなジャケットという格好は想像したこともなかった。それどころか、てっきりスーツで来るとイメージしていた。考えてみれば家にいるときにスーツなわけはない。ラフな姿も様になっていて、自分の平凡な容姿と比べた優歌は気後れしてしまった。気にしてもどうしようもないことであり、とにかくスーツよりは近づきやすい雰囲気で、優歌でも釣り合って見えるかもしれない。
匠は家に寄ることなく、玄関先で両親に挨拶をすませただけで優歌を連れだした。
門の前には光沢を放つブルーグレーの車が止まっている。
「上戸さん、車持ってたんですか?」
「レンタル。実家のほうと違って東京じゃ、買うほど車は必要じゃないから」
「上戸さんの実家って、福岡ですよね?」
「ああ」
「わたし、明太子好きなんです」
優歌が云うと匠は息を漏らした。
「それは催促なのか?」
「いえ、そうじゃなくって……」
見上げた匠はおもしろがるような眼差しで見下ろしている。ひょっとしてさっきは吹きだしたんだろうか。優歌が困ったように首をかしげると匠が背中を軽く押した。
「乗って。行こう」
触れられることに慣れていない優歌は、さりげないしぐさにもどきどきして、匠がドアを開けてくれた助手席に乗りこんだ。
いざ車に乗ると、本当にふたりきりという空間に気づいて、昨日のレストランよりもあわてた。けれど、車を出してまもなく、ドライヴは好きかという匠の質問から始まって、好き嫌いの話をしているうちに沈黙も気にならなくなっていった。
一時間もすると道沿いに海が見え始める。それからまもなく、匠は広い駐車場に車を乗り入れた。敷地内にある建物の前に、巨大なイルカのオブジェが見るまでもなく目に入った。匠が連れて来たのは水族館だ。
「水族館て久しぶりです。すごく立派になってますね」
チケットを出して奥に行くと、入り口のアーケードは水槽になっていて、頭の上を魚が泳いでいる。天井を振り仰いだ優歌が少し視線をおろすと匠の目と合った。
「おれのほうがもっと久しぶりだ。小学生んとき以来だからな」
「……上戸さんて……」
優歌は云いかけてやめた。訊こうとしたことは不躾(ぶしつけ)な質問だと気づいた。
「何?」
「いえ。大したことじゃなくて……へんなこと云いそうになりました」
「昨日、つまらないことでも話してくれって頼んだばかりなんだけどな」
匠はしかめた声で、いまにもため息をつきそうだ。
「……あの……いままでデートでこういうとこに来なかったのかなって思っただけです。上戸さんてモテそうだし、お父さんが急に云いだして……中国から帰ったばかりだとしても、よく……その……いま彼女がいなかったなと思って……っていうのは真由の意見……です」
優歌が云い訳っぽく付け加えると、匠は一転して可笑しそうにした。
「こういうのはタイミングらしいからな」
「タイミング?」
「知ってるかな。金城、彼女と同棲始めるらしい」
「ホントに?!」
「社内間でグループ交際やってたけど、そのうちの一人と。今日、彼女が引っ越してるんじゃないかな。金城はすぐ結婚するつもりらしい」
「そうなんですね。グループ交際のことは聞いてたけど、その中に特定の彼女がいるってことは知らなかったからびっくりです」
「“彼女”になったのは一週間前だってさ」
優歌は目を丸くして匠を見上げた。匠は首をちょっと傾けた。
「タイミング、だろ? まぁ、おれたちのほうがもっと驚かれるのは間違いない」
匠のちょっとおどけた感じにびっくりしながら、何気なく出た『おれたち』という言葉の響きをうれしいと思った。そして、その“うれしい”という気持ちに優歌は戸惑う。
「真由も驚いてました」
「西尾さんはどうしてる?」
「真由は大学に行ってます。わたしと違って上昇志向百パーセントだから」
「優歌ちゃんと西尾さんて正反対って感じがするけど、相変わらず仲がいいんだな」
「真由はずばずば云ってくれるから、わたしはかえってラクなんです。真由のほうはわたしにイライラしてるかもしれないけど」
「かもしれないってことは、西尾さんがそんな態度は見せてないってことだろ? ずばずば云うっていうなら、そういうイライラとかも我慢することはないだろうし、つまりはお互いにうまくいってるってことだ」
匠が指摘すると、優歌は真由とのことをいろいろ考え廻ってみた。高校卒業と同時に会う時間は極端に少なくなったけれど、自然と離れてしまった友だちがいるなかで、真由とは互いの連絡が途切れることはない。
「……上戸さんに云われて、真由のこと、もっと好きになりました」
見上げた匠は口の端で小さく笑った。
「デートに関しては、いままでこういうところが好きそうな、もしくは似合う子がいなかったせいかもしれない」
「……どういう意味ですか」
優歌が思わず訊いてしまうと、匠は答える気がなさそうにかすかに首を動かした。
ちらりと見回した館内では親子連れ、つまり子供が目立つ。優歌が子供っぽいということだろうか。
そう考えると、匠がどれくらいの女性たちと付き合ってきたのか気になってしまった。優歌はこういうことになるまで近づけなかったけれど、絶対に放っておかれるタイプじゃない。あの立花という女性は食事しようって云っていた。立花の容姿を思い浮かべたとたんに落ちこんだ。
「こういうデートらしいデートははじめてかもしれない」
館内を歩きながら、しばらくして匠が云った。変わらず曖昧な云い方だ。
家に来る淳介の部下たちは上司の前というのに、遠慮なく彼女の話題で盛りあがる。匠に関してそう云った話は人伝(ひとづて)でも聞いたことがない。けれど常識で考えればはじめてのはずはない。
それなのに『はじめて』という言葉に、ちょっとだけ優歌の気分は浮上した。並行して、匠の言動でいちいちうれしいと感じたり、反対に落ちこんだりするのがどうしてなのかわからずに、自分を持て余した。最初に会ったときからそうだ。
最大の理由は自分にまったく自信がないせいだろうか。変わらず人見知りはしても、どうにか相手を不快にさせない程度には克服した。成長はちょっとずつしかできなくても止まっているわけではないはずだ。それでも自信には程遠くて人の意見に左右されやすい。
気づかれない程度にため息をついたその時、優歌は下半身に軽く体当たりされた。よろけたはずみに目の前の匠の腕をつかんだ。足もとを見下ろすと小さな男の子が頭を掻(か)いている。
「すみません」
母親が男の子を捕まえて優歌に謝った。
「いえ、大丈夫ですよ」
優歌が答えると、母親は男の子にもごめんなさいと謝らせて連れていった。
「大丈夫か?」
「全然平気です。脚だったから転びそうになっただけで……」
ふと、腕につかまったままであることが気になって優歌は手を離した。匠はうなずいてまた歩きだす。
半歩前を行く匠の左手は空いていて……。
匠のことはずっと苦手だったのに、いまは信じられないほど親密な距離にいる。その手を見ているうち、昨日の帰り道のときと同じように自分が自分をそそのかした。
たまには勇気の延長で積極的になっても……。
ためらったせいで優歌がつかんだのは匠の小指だ。握ってしまってから、自分でもちょっと間抜けだったかもしれないと思った。
匠が立ち止まって優歌を見下ろした。
「なんでこういう握り方なんだ?」
暗がりで匠の表情はよく見えないものの、おもしろがっていそうな声に聞こえる。
優歌は素早く理由を考え廻らせたすえ、すぐ先にある巨大水槽の中を優雅に泳いでいるエイが目に入った。
「……あの……海のエイちゃん見てたら、なんとなく長い尻尾をつかみたいなって思って……」
「海のエイちゃん?」
今度ははっきり可笑しそうな声が訊ね返した。
「お父さんが陸の永ちゃんファンなんです」
優歌がそう答えると、匠はこもった音を短く漏らした。
「そういや、本部長に聴けって勧められたことがある。優歌ちゃんて意外におもしろいな」
「どこか抜けてるだけです。上戸さん、きっとわたしと結婚したらたいへんですよ」
「お互いさまだ」印度神油
冗談なのか真剣なのかわからなかったけれど、とりあえず手が振りほどかれることもなく、優歌の肩から力が抜けた。互いがお喋りではなく、そのぶん手を繋いでいることで緊張ぎみの沈黙も和らいだ。
次の日、日曜日も午後から匠に誘われて、淳介と佐織はうれしそうに優歌を送りだした。
さすがに会うのが三日も続くと、いや、結婚が決まった日を入れると四日続けて匠に会ったことになるけれど、ふたりでいることに馴染んできた。かまえた気持ちが払拭された気がする。
昨日の好き嫌いの話から絵を見ることが共通して好きだということがわかり、美術館へ行った。
鑑賞しながらたまに感想を云い合っているうちに、ふたりとも好みとする絵に偏りがなく、その時の感性に頼っているという共通点も発見した。全部ではなくても、好きな絵が同じだと安心度が増す。
夕食まで一緒にして、家に帰ったのは九時を過ぎた。
優歌は車を降りると、玄関に向かおうとした匠を引き止めた。九時というのは二十才を過ぎたいま、けっして遅い時間ではなく、わざわざ挨拶する必要はない。
「上戸さん、ここでいいです。明日は仕事ですよね。また昨日みたいにお父さんが引き止めたら帰れなくなります」
昨日は車だったからこそお酒は勧めなかったものの、匠は淳介から二時間も引き止められて、家を出たのは十一時を過ぎていた。
「けど――」
「もう学生じゃないですよ」
からかうように優歌が云うと、外灯の下で匠は肩をすくめた。
「じゃ、行って。入るまで見てる」
「はい。じゃあ、また」
「ああ」
後ろ姿を見られているかと思うと、優歌は歩き方を意識してしまって転びそうになった。玄関の戸まで来て後ろを振り向くと、云ったとおり門柱の間で見守っていた匠が軽く手を上げた。
優歌も手を振り返し、家の中に入って戸を閉めた。
とたん、リビングからこもった、それでいて大きな声が聞こえてきた。穏やかな感じではない。優歌はパンプスを脱いでそっと上がってみた。
『…………もう決まったことだ』
『いまの時代に信じられない』
『優歌も上戸くんも気持ちが固まって――』
『優歌はともかく、お父さんから頼まれて上戸さんが断れるわけないじゃない?』
『上戸くんはそういう――』
『お母さんだって酷いよ。わたしがどう思うかわかってたよね?!』
『優美……』
三人の会話――というよりは云い争いに一瞬、優歌は立ちすくんだ。すぐに聞かなかったことにしたほうがいいと思った。優歌はいったん玄関に戻り、そっと戸を開けて外を覗いた。匠の車がないことを確認すると、安堵の息を吐いた。それから優歌はわざと音を立てて玄関を閉めた。
「ただいまぁ」
優歌は心持ち声を大きくした。リビングの声は止んでいる。優歌がリビングのドアにたどり着くまえに優美が中から出てきて、そっぽを向いたまま二階へと階段を上がっていった。
「お姉ちゃん、ただいま!」
返ってきたのはむっつりした小さな声だった。優歌はそれだけでも良しとした。
リビングに入ると、なんとなくばつの悪そうな両親の顔に合う。優歌は気づかないふりをして、匠と美術館で観賞した絵のことを掻い摘(つま)んで話した。そのうちに落ち着いたらしい両親は逆に根掘り葉掘り訊いてきた。さすがに閉口して、優歌は明日の朝の準備を理由になんとか質問攻めから逃れた。
あとは寝るだけと部屋に入ると、透視できるわけもないのに、優歌と優美の部屋を隔てた壁を見つめた。下にいる間、隣の部屋から優美が出てくることはなかった。優歌はベッドに腰かけて肩を落とした。
リビングでのことは否定しようもなく、自分と匠のこと。
断れるわけない。
たしかにそう。
淳介は上司で匠は部下。あのとき、匠が云った『立場』はそういうことだったのだ。
今更になって思い当たるってわたしはやっぱり配慮がなさすぎる。
断ってくれてもかまわない。
匠はそのあとフォローしたけれど、あれは究極の社交辞令で本当は断ってほしかったのかもしれない。せっかく近づけたと思ったこの数日間が、全部ふりだしに戻った気がした。
いや、それ以下だ。
うつむいて、見るともなしに見ていた自分の手の甲に雫が落ちた。
わたし……どうして泣いているんだろう。田七人参
2012年8月20日星期一
雨が降りやんでも~夏夜のおとぎ話~
あたしはキラ。
ずっと腕を捜している。腕以外のことはなにも覚えていない。覚えているのは潰されそうなくらいに抱いてくれた腕。
あたしはその腕を“ママ”と名づけた。
どうしてママを捜しているのか。SPANISCHE FLIEGE D6
その自分の気持ちの意味さえわからない。
もう老いたあたしはママを恋しがる年でもないのに。
「キラ、来いよ」
雨が続いているある日、ベッドの上に寝転がった同居人、紘斗が手もとを叩いてあたしを呼んだ。
いつもより遅く帰ってきた紘斗がお風呂に入ったり、明日の準備をしたりと寝るまでの間、ずっとあたしは近づかず、遠巻きに動きを見守っていた。
日付が変わるくらいに遅く帰ってくるときはお酒の付き合いか、もしくはメスと一緒だったか。
あたしをベッドに呼んだということは、今日の付き合いは前者のほうだったんだろう。
紘斗はメスと交尾した夜は絶対にあたしを呼ばない。
呼ぶときと呼ばないときがあると気づいたのはいつだったか忘れた。
どんな違いがあるのだろう。
そう思ってあたしはその違いを探してみた。
呼ばれるまで今日みたいに遠巻きに見ていたあたしだったけれど、試しに近づいてみた。
あたしの鼻は利く。
お酒を飲んだ日に近づくと、なんだか躰がカッとしそうなニオイがした。嫌いじゃない。普通の日には絶対にしてくれないチュウがあたしを酔わせる。
気づいたら大の字に寝てたりして、ちょっと恥ずかしい。紘斗に気づかれることもあって、そんなときはあまりの体裁の悪さにあたしは飛び退(の)く。
それを見て、ヘンな奴、とつぶやく紘斗の歪んだ笑い方が好き。
ベッドに呼ばない日は。
好きじゃない、ううん、はっきり嫌いなニオイがした。鼻をつく、ママとは全然違うメスのニオイがした。つくりもののニオイ。
紘斗はときどきメスを連れてくる。
同じメスじゃない。というより、紘斗は同じメスを二度と連れてきたことはない。
それなのに、どれも鼻をつく。
あたしは近づけない。
部屋の隅(すみ)っこでじっと紘斗とメスを追っている。
紘斗はそうしているあたしを見返すけれど、絶対にあたしを呼ばない。
あたしの視線のせいなのか、紘斗は長居させることもなく、メスを連れだす。
ほとんどのメスはあたしを無視する。もしくはあまりにも隅っこに置き物のごとく座っているせいで、気づかないのかもしれない。だってメスはそれどころじゃなく、盛りのついた“なんとか”みたいに紘斗を追ってる。
『なんとか』っていうのは『なんとか』。それをはっきり口にしたらあたしのプライドが許さない。あたしは盛りなんてつかないし……まあ、それは置いといて。
たまに余裕のあるメスがいて、あたしに近づいてくる。来ないでって云うのに、あたしの言葉はメスに通じない。
つい最近、機敏さがなくなってきたせいで逃げきれず、あたしを捕まえたメスがいる。名前はミハルって云っていた気がする。
そのとたんにあたしはバカみたいに暴れて爪を立てたんだった。
このメスじゃない。
ママの腕を忘れそうで怖かった。
あたしは紘斗を守ろうとしてた。
なんのために、なぜ、なにから?
ここでもあたしは答えを出せない。
紘斗と出会ったのがいつだったのか。
やっぱりあたしの脳みそは役に立たない。
いまは箱の中に住んでいるけれど、ちょっと昔はもっと柔らかい香りのなかにいた。
家の屋根裏でチュウチュウ――紘斗のとは違う種類のチュウと鳴く、すばしっこい丸々としたのを追いかけたり。やたらと毛のない尻尾が長くて、一度だけ踏んづけたことがあるけれど気持ち悪かった。それ以来、捕まえるのはやめて脅すだけにした。だって紘斗のじぃちゃんとばぁちゃんがせっかく作ったごはんの“もと”を食べ荒らしてしまうから。
外に出て気紛(きまぐ)れに散歩しながら、緑と風の中で眠ったり、時間の流れが穏やかだった。
たまにうるさいほど追い払っても追い払っても近づいてくるオスがいたけれど、あたしは独りでよかった。
独りでというよりは紘斗がいるなら、友だちがいなくてもよかった。
「キラ、おまえ、いっつも独りだな。似てるよな……」
いつだったか一緒に寝転がった緑の上で紘斗がつぶやいた。
そういう紘斗も独りでいることが多い。
たまに紘斗のパパが来るけれど、ほとんど口をきかない。
でも似てるって?
あたしと紘斗は似てる。でもいま紘斗が云った似てるというのはそういうことじゃないとわかった。
「おまえ見てると、だんだん心配になってくる」
普段からあまり語らない紘斗はそう云ってかすかに笑った。
箱の中に移り住んだのは八年前。
ここに来て以来、暑いということ、寒いということを忘れてしまった。いつも同じ温度で、心地よい紘斗のニオイに満ちている。
あたしの仲間は住処(すみか)が変わったらストレスで頭がおかしくなると、まるで自分のことのように嘆いて忠告してくれたけれどなんてことなかった。
あたしは家のニオイより、紘斗のニオイに執着しているのかもしれない。
紘斗はたまに公園に連れていく。そこはどんな場所とも違う空気があった。紘斗が決まって座る池の周りにあるベンチは、苦手な寒い冬でも温かい。
外に出るときにいつも紘斗が纏っている棘(とげ)もそこでは柔らかく身を潜める。
こっちに来て二年くらいすると、紘斗はヘンなニオイのするものを吸いはじめた。あたしが嫌がっているのを知って、紘斗はわざと口を窄(すぼ)めてニオイを吹きかける。
思わずくしゃみをしたくなるようなニオイは部屋から抜けることなく、逃げ回っていたあたしもいつのまにか慣れてしまった。それは紘斗のさみしいという表現なのかもしれないと思うようになった。
紘斗から呼ばれるままにあたしがベッドに飛びあがると、紘斗はあたしを持ちあげて仰向けになり、自分の胸に載せた。
紘斗はいつになくジッとあたしを見つめる。
「おまえと……会ったんだ」
紘斗は意味不明のことをつぶやいた。
「なんでだろうな……接点なんてゼロに近いのに……なんで似てるんだ?」
紘斗の声にはいままでにない響きがあった。さみしさと疑問と腹を立てているような、いろんな響きがごちゃ混ぜになっている。
あたしにはわからないとあきらめ、紘斗の上で丸くなると、躰を撫でられているうちに気持ちよくなって眠りに沈んだ。
それからときどき、紘斗からいままでとは違うニオイがした。
そのうち、紘斗の棘が少しずつ抜けていること、ニオイがだれのものか、ということに気づいた。
八月も盆を過ぎたが、残暑という挨拶には違和を感じる。ビルの谷間を抜ける風も不快な熱を撒(ま)き散らすだけで、涼しいとは程遠い。営業に行く先々でだれもが、暑いですね、と口を開く。
今日の交渉は思いがけずすんなりと進んで、上司への報告も簡潔にすみ、めずらしく六時には会社を出た。SPANISCHE FLIEGE D5
会社へ戻ってきたときの天気とは打って変わって、黒い雲が押し寄せ、風の流れも速くなっている。
雨が降らないうちにと急いで駅に向かった。
八つ目の駅で降りると、そこはビジネス街の殺風景さとは違い、だれもを歓迎しそうな空気感がある。商店街から会社、民家と入り混じった通りを足早に進む。低い建物が多いなか、一つだけ群を抜いた赤い煉瓦の建物を目指した。
もう少しというところで雨が落ちはじめる。マンションの玄関前の軒下に入りこむ寸前、一粒だった雨がラインになった。
中に入るまえに頭を振って水滴を払う。
「紘斗!」
自動ドアを通り抜けようとした矢先、うるさいほどの雨音を掻(か)きわけるようにかぼそく声が届いた。振り向いたと同時にずぶ濡れに近い躰が走りこんできた。ぶつかる寸前、肩をつかんで受け止める。
「こんなとこでなにやってる?」
「電車の中で紘斗を見かけて……あとをつけてきた」
「ストーカーだ」
紘斗が顔をしかめて云うと、姫良は気にするふうでもなく、雫が入るのを防ぐように目を瞬(しばた)きながら肩をすくめた。
「雨、止むかな」
「夕立だからすぐに止む」
「タクシー、呼んでくれる? こっち、はじめて来て、なんて説明したらいいかわかんないし」
紘斗は返事をしないまま、しばらく姫良を見下ろした。濡れた髪の先から、胸もとでバックを抱えこんだ姫良の腕にぽたぽたと雫が落ちている。
「そのまんまじゃ、タクシーも嫌がるだろ。乾燥機あるから、乾かしていけばいい」
「え……」
「下心なんてない。それを心配してるなら。それにうちには番犬ならぬ、番猫がいる。行くぞ」
困惑した姫良を置いて、紘斗はさっさと自動ドアを抜けた。姫良は慌てて後を追う。
「猫、いるの?」
「ああ」
「意外。動物を飼ってるなんて」
「……おまえは?」
何気なく聞こえる質問に姫良はわずかに顔を曇らせた。
「わたし? まえは……猫を飼ってた。三年前に死んじゃったの」
「……ふーん」
その返事はなにか裏があるような気がした。訊ねる間もなく、エレベーターが七階に止まり、姫良は訊きそびれてしまった。
玄関から金属の音が聞こえると、あたしはわくわくしてその姿を待った。いつもより早い気がする。
あたしは絶対に迎えにはいかない。じっと部屋の隅で待つ。
ドアが開いたとたん、あのニオイがした。
あたしが覚えていたのは腕だけじゃない。ママの香りもちゃんと覚えていた。
足音が香りを運んでくる。
紘斗の後ろから入ってきたママはなにかを探すように部屋を見回し、その瞳が背筋をピンと伸ばしたあたしを見つけだして止まった。
「すごい、真っ白! なんだか気取ってるけど可愛い。名前は?」
「……さあな」
『キラ』
紘斗の声とあたしの声が重なった。
『どうして教えないの?』
紘斗は不満そうに云ったあたしをちらりと見る。
「名前も付けてないの?」
ママは呆れたように云うとバッグをソファの横に置いて、部屋の隅にいるあたしに近づいてくる。
「紘斗、抱いていい?」
「人馴れしてないから気をつけろよ。このまえ、そいつ抱こうとして噛みつかれた奴いるから」
ママが手を差し伸べた。
「大丈夫だよ。怖がってる感じしないし。きれいな猫ちゃんだね。おいで」
あたしは迷わずその腕に委(ゆだ)ねた。香りがあたしを包みこむ。
やっぱり捜していた腕だった。
「ゴロゴロ云ってる。わたし、濡れてるのに気持ちいいのかな」
そう云って耳の傍で笑うママの振動が躰越しに伝わった。
ママの背後で、紘斗がかすかに驚いた表情を見せてあたしたちを見比べている。
「ちょっと待ってろ」
すぐに肩を小さくすくめ、紘斗はリビングを出ていった。
覚えているよりやさしくなった腕に抱かれたまま、躰を撫でられるたびにあたしは『ママ』とつぶやいた。
「姫良」
「うん?」
『うん?』
え?
紘斗の呼びかけに、あたしとママは同時に返事をした。
ママはまったく気づいていないけれど、紘斗がくちびるを歪めてかすかに苦笑いしている。
あたしの名前は……ママと同じ。
「Tシャツ、貸してやるから早く着替えたほうがいい。夏といっても風邪ひかないとは限らないし。タオルはバスルームの棚に新しいのが入ってる。乾燥機の使い方、わかるか?」
「うちにもあるから、たぶん。ありがとう」
ママ――姫良はあたしを放して頭を撫でると、ふわりと笑って部屋を出ていった。
『どういうこと?』
「やっぱ似てる。おまえの甘えた声も、姫良の笑う顔も……」
紘斗は当然のようにあたしの問いには答えず、そうつぶやいた。
しばらくして、ぶかぶかのTシャツを着た姫良が戻ってきた。
紘斗の横で座って待っていたあたしを見て、
「紘斗、猫ちゃんの写真、撮っていい?」
と訊ねながら、返事を聞くまでもなく姫良はバッグを探っている。
「かまわない」
紘斗は立ちあがって対面式のキッチンへ入り、セットしていたコーヒーを取りにいった。
紘斗が戻ってくるまで、姫良は携帯をかざして、あたしの写真を何枚か撮った。
「見て。ほら、きれいに凛々(りり)しく撮れてるよ」
姫良はそう云ってあたしに画面を見せてくれた。覗きこんだあたしの頭を姫良の手が撫でる。
「紘斗、猫ちゃん、人馴れしてないって云ったけど人懐(なつ)っこいよ。ね?」
紘斗は答えないまま、コーヒーをテーブルに置いた。
「……もしかして……噛みつかれたのって彼女? だから番猫なんだぁ。偉いねぇ。あたしは二番目だから噛みつかないでくれるのかな」
姫良は妙に納得して可笑しそうに紘斗を見やった。
「二番目ってなんだ? ハーレムじゃあるまいし。おれは認めてない」
紘斗が顔をしかめてあっさりと姫良に返した。
「でもちゃんと相手してくれるし、あたしはそれでいいんだから二番目でいいんじゃない? あ、猫ちゃんが一番目だから、あたしは三番目だね」
姫良が笑う。
はじめて見た自分の姿はママとは全然違った。
でもあたしとママは似てる。
紘斗の云った意味がいまの姫良を見てわかった気がした。
それからあたしはだんだんと眠っていることが多くなった。もう目が覚めることはないんじゃないかと思うくらい深い眠りの中に入る。食べることも億劫(おっくう)で、眠っていることのほうが気持ちいい。
ただひとつ。
ママの腕を捜していた理由。
それが見つからないと、眠りの中に委ねきることができない。
ママにもう一度会いたい。そうしたらわかる気がする。
「キラ、姫良に会いたいか?」K-Y
気づけばなにか云いたげにあたしを見ていた紘斗が、ある朝、躰を撫でながら云った。
『うん』
「わかった」
紘斗が出かける直前に呼び出された姫良がまにあった。
「……かなり弱ってるから、おれが帰るまで看ててほしい」
話しながらふたりがリビングに入ってくる。
『ママ』
「なんだかうれしそう」
弱々しくも呼びかけると、心配ながらも姫良もうれしそうな顔をして、座布団の上に丸くなったあたしの横に座った。
「じゃ、頼む。好き勝手にやっていいから」
「うん。いってらっしゃい」
「……ああ」
ここでも姫良は気づいていないけれど、云われ慣れていない紘斗は一瞬、見たことのない戸惑ったような表情になった。
理由の糸口が見えた。
紘斗が出かけると姫良はあたしを膝の上に抱いた。
「わたしも猫を飼ってたことがあるの。名前がね、笑わないでよ。ヒロト、っていうんだ」
そう云った本人がくすくすと笑っている。
その傍らで、あたしの中に、黒斑(くろぶち)の姿が不意に現れた。
ヒロト……って名前もらったんだ……じゃあ、キラって名前をもらったあたしは……。
「ヒロトって名前の子、何人か知ってるけどなにが違うのかな……紘斗をはじめて見たとたんになんだか……声かけちゃったの。名前を聞きだしたらびっくり。それでなんとなく他人じゃない気がしてくっついて回ってる。ヒロトを飼ったきっかけって覚えてなくて……気づいたらいたんだよね。病気で記憶が飛んじゃってるから。ヒロトって普通、人の名前だし、猫ちゃんにつけないのに……あ、紘斗には内緒ね。プライド、傷つけちゃいそうだし」
時間は穏やかに流れ、姫良のお喋りの音が心地よい。
「紘斗の彼女、きれいなんだよ。わたしが絶対に持てない自信が見えるの。いいなぁ……違うの。紘斗の彼女になりたいんじゃなくって……あんな女性(ひと)になりたいなって」
独りで質問を想定して答えている姫良の声に、たまに泣きたくなるような心が表れる。それを消すように姫良のくちびるに笑みが宿る。
意地っ張り。
独りでいい。
でもあたしがいることを忘れないで。
気づいて。
似てる。
ときどきでも紘斗がかまってくれるのなら。
あたしがずっと紘斗を見ているように、姫良は紘斗のまえに現れる。
理由が見えてくるにつれ、あたしのまえで光の扉が開いていく。
「大丈夫だよ。紘斗が帰ってくるまでもうちょっとだからね」
光に気づいているのか、姫良がやさしく囁く。
それとともに姫良の心があたしの頭に降ってきた。
温かい雨。
雨に触れた耳がピクリと動き、その既視感があたしの記憶を呼んだ。
――さみしくないですよね?
紘斗を守ろうとした理由。
なんのために、なぜ、なにから。
姫良のために、姫良のかわりに、さみしさから。
あたしは姫良に廻り合った。
捜していた理由。
そうだったんだ……。
バトンタッチ。
今度こそ、姫良が紘斗を守るばんだよ。そうできるのは姫良だけなんだから。
どれくらい待ったのか時間はわからない。
玄関が開いて夜のニオイを紘斗が持ち帰る。
「キラ、ありがとう」
姫良の心とともに紘斗の言葉があたしの中に満ちた。
『紘斗』
姫良の膝の上にいるあたしの躰を紘斗の手が撫でる。
光に身を委ねた。
「姫良、悪かったな、付き合わせて。ありがとう」
紘斗の腕が姫良の背に回った。
あたしには見えなかったけれど、心に映った。
雨が降りやむまでその腕は離れない。
ううん、降りやんでも。
さみしくないよね――きっと。曲美
ずっと腕を捜している。腕以外のことはなにも覚えていない。覚えているのは潰されそうなくらいに抱いてくれた腕。
あたしはその腕を“ママ”と名づけた。
どうしてママを捜しているのか。SPANISCHE FLIEGE D6
その自分の気持ちの意味さえわからない。
もう老いたあたしはママを恋しがる年でもないのに。
「キラ、来いよ」
雨が続いているある日、ベッドの上に寝転がった同居人、紘斗が手もとを叩いてあたしを呼んだ。
いつもより遅く帰ってきた紘斗がお風呂に入ったり、明日の準備をしたりと寝るまでの間、ずっとあたしは近づかず、遠巻きに動きを見守っていた。
日付が変わるくらいに遅く帰ってくるときはお酒の付き合いか、もしくはメスと一緒だったか。
あたしをベッドに呼んだということは、今日の付き合いは前者のほうだったんだろう。
紘斗はメスと交尾した夜は絶対にあたしを呼ばない。
呼ぶときと呼ばないときがあると気づいたのはいつだったか忘れた。
どんな違いがあるのだろう。
そう思ってあたしはその違いを探してみた。
呼ばれるまで今日みたいに遠巻きに見ていたあたしだったけれど、試しに近づいてみた。
あたしの鼻は利く。
お酒を飲んだ日に近づくと、なんだか躰がカッとしそうなニオイがした。嫌いじゃない。普通の日には絶対にしてくれないチュウがあたしを酔わせる。
気づいたら大の字に寝てたりして、ちょっと恥ずかしい。紘斗に気づかれることもあって、そんなときはあまりの体裁の悪さにあたしは飛び退(の)く。
それを見て、ヘンな奴、とつぶやく紘斗の歪んだ笑い方が好き。
ベッドに呼ばない日は。
好きじゃない、ううん、はっきり嫌いなニオイがした。鼻をつく、ママとは全然違うメスのニオイがした。つくりもののニオイ。
紘斗はときどきメスを連れてくる。
同じメスじゃない。というより、紘斗は同じメスを二度と連れてきたことはない。
それなのに、どれも鼻をつく。
あたしは近づけない。
部屋の隅(すみ)っこでじっと紘斗とメスを追っている。
紘斗はそうしているあたしを見返すけれど、絶対にあたしを呼ばない。
あたしの視線のせいなのか、紘斗は長居させることもなく、メスを連れだす。
ほとんどのメスはあたしを無視する。もしくはあまりにも隅っこに置き物のごとく座っているせいで、気づかないのかもしれない。だってメスはそれどころじゃなく、盛りのついた“なんとか”みたいに紘斗を追ってる。
『なんとか』っていうのは『なんとか』。それをはっきり口にしたらあたしのプライドが許さない。あたしは盛りなんてつかないし……まあ、それは置いといて。
たまに余裕のあるメスがいて、あたしに近づいてくる。来ないでって云うのに、あたしの言葉はメスに通じない。
つい最近、機敏さがなくなってきたせいで逃げきれず、あたしを捕まえたメスがいる。名前はミハルって云っていた気がする。
そのとたんにあたしはバカみたいに暴れて爪を立てたんだった。
このメスじゃない。
ママの腕を忘れそうで怖かった。
あたしは紘斗を守ろうとしてた。
なんのために、なぜ、なにから?
ここでもあたしは答えを出せない。
紘斗と出会ったのがいつだったのか。
やっぱりあたしの脳みそは役に立たない。
いまは箱の中に住んでいるけれど、ちょっと昔はもっと柔らかい香りのなかにいた。
家の屋根裏でチュウチュウ――紘斗のとは違う種類のチュウと鳴く、すばしっこい丸々としたのを追いかけたり。やたらと毛のない尻尾が長くて、一度だけ踏んづけたことがあるけれど気持ち悪かった。それ以来、捕まえるのはやめて脅すだけにした。だって紘斗のじぃちゃんとばぁちゃんがせっかく作ったごはんの“もと”を食べ荒らしてしまうから。
外に出て気紛(きまぐ)れに散歩しながら、緑と風の中で眠ったり、時間の流れが穏やかだった。
たまにうるさいほど追い払っても追い払っても近づいてくるオスがいたけれど、あたしは独りでよかった。
独りでというよりは紘斗がいるなら、友だちがいなくてもよかった。
「キラ、おまえ、いっつも独りだな。似てるよな……」
いつだったか一緒に寝転がった緑の上で紘斗がつぶやいた。
そういう紘斗も独りでいることが多い。
たまに紘斗のパパが来るけれど、ほとんど口をきかない。
でも似てるって?
あたしと紘斗は似てる。でもいま紘斗が云った似てるというのはそういうことじゃないとわかった。
「おまえ見てると、だんだん心配になってくる」
普段からあまり語らない紘斗はそう云ってかすかに笑った。
箱の中に移り住んだのは八年前。
ここに来て以来、暑いということ、寒いということを忘れてしまった。いつも同じ温度で、心地よい紘斗のニオイに満ちている。
あたしの仲間は住処(すみか)が変わったらストレスで頭がおかしくなると、まるで自分のことのように嘆いて忠告してくれたけれどなんてことなかった。
あたしは家のニオイより、紘斗のニオイに執着しているのかもしれない。
紘斗はたまに公園に連れていく。そこはどんな場所とも違う空気があった。紘斗が決まって座る池の周りにあるベンチは、苦手な寒い冬でも温かい。
外に出るときにいつも紘斗が纏っている棘(とげ)もそこでは柔らかく身を潜める。
こっちに来て二年くらいすると、紘斗はヘンなニオイのするものを吸いはじめた。あたしが嫌がっているのを知って、紘斗はわざと口を窄(すぼ)めてニオイを吹きかける。
思わずくしゃみをしたくなるようなニオイは部屋から抜けることなく、逃げ回っていたあたしもいつのまにか慣れてしまった。それは紘斗のさみしいという表現なのかもしれないと思うようになった。
紘斗から呼ばれるままにあたしがベッドに飛びあがると、紘斗はあたしを持ちあげて仰向けになり、自分の胸に載せた。
紘斗はいつになくジッとあたしを見つめる。
「おまえと……会ったんだ」
紘斗は意味不明のことをつぶやいた。
「なんでだろうな……接点なんてゼロに近いのに……なんで似てるんだ?」
紘斗の声にはいままでにない響きがあった。さみしさと疑問と腹を立てているような、いろんな響きがごちゃ混ぜになっている。
あたしにはわからないとあきらめ、紘斗の上で丸くなると、躰を撫でられているうちに気持ちよくなって眠りに沈んだ。
それからときどき、紘斗からいままでとは違うニオイがした。
そのうち、紘斗の棘が少しずつ抜けていること、ニオイがだれのものか、ということに気づいた。
八月も盆を過ぎたが、残暑という挨拶には違和を感じる。ビルの谷間を抜ける風も不快な熱を撒(ま)き散らすだけで、涼しいとは程遠い。営業に行く先々でだれもが、暑いですね、と口を開く。
今日の交渉は思いがけずすんなりと進んで、上司への報告も簡潔にすみ、めずらしく六時には会社を出た。SPANISCHE FLIEGE D5
会社へ戻ってきたときの天気とは打って変わって、黒い雲が押し寄せ、風の流れも速くなっている。
雨が降らないうちにと急いで駅に向かった。
八つ目の駅で降りると、そこはビジネス街の殺風景さとは違い、だれもを歓迎しそうな空気感がある。商店街から会社、民家と入り混じった通りを足早に進む。低い建物が多いなか、一つだけ群を抜いた赤い煉瓦の建物を目指した。
もう少しというところで雨が落ちはじめる。マンションの玄関前の軒下に入りこむ寸前、一粒だった雨がラインになった。
中に入るまえに頭を振って水滴を払う。
「紘斗!」
自動ドアを通り抜けようとした矢先、うるさいほどの雨音を掻(か)きわけるようにかぼそく声が届いた。振り向いたと同時にずぶ濡れに近い躰が走りこんできた。ぶつかる寸前、肩をつかんで受け止める。
「こんなとこでなにやってる?」
「電車の中で紘斗を見かけて……あとをつけてきた」
「ストーカーだ」
紘斗が顔をしかめて云うと、姫良は気にするふうでもなく、雫が入るのを防ぐように目を瞬(しばた)きながら肩をすくめた。
「雨、止むかな」
「夕立だからすぐに止む」
「タクシー、呼んでくれる? こっち、はじめて来て、なんて説明したらいいかわかんないし」
紘斗は返事をしないまま、しばらく姫良を見下ろした。濡れた髪の先から、胸もとでバックを抱えこんだ姫良の腕にぽたぽたと雫が落ちている。
「そのまんまじゃ、タクシーも嫌がるだろ。乾燥機あるから、乾かしていけばいい」
「え……」
「下心なんてない。それを心配してるなら。それにうちには番犬ならぬ、番猫がいる。行くぞ」
困惑した姫良を置いて、紘斗はさっさと自動ドアを抜けた。姫良は慌てて後を追う。
「猫、いるの?」
「ああ」
「意外。動物を飼ってるなんて」
「……おまえは?」
何気なく聞こえる質問に姫良はわずかに顔を曇らせた。
「わたし? まえは……猫を飼ってた。三年前に死んじゃったの」
「……ふーん」
その返事はなにか裏があるような気がした。訊ねる間もなく、エレベーターが七階に止まり、姫良は訊きそびれてしまった。
玄関から金属の音が聞こえると、あたしはわくわくしてその姿を待った。いつもより早い気がする。
あたしは絶対に迎えにはいかない。じっと部屋の隅で待つ。
ドアが開いたとたん、あのニオイがした。
あたしが覚えていたのは腕だけじゃない。ママの香りもちゃんと覚えていた。
足音が香りを運んでくる。
紘斗の後ろから入ってきたママはなにかを探すように部屋を見回し、その瞳が背筋をピンと伸ばしたあたしを見つけだして止まった。
「すごい、真っ白! なんだか気取ってるけど可愛い。名前は?」
「……さあな」
『キラ』
紘斗の声とあたしの声が重なった。
『どうして教えないの?』
紘斗は不満そうに云ったあたしをちらりと見る。
「名前も付けてないの?」
ママは呆れたように云うとバッグをソファの横に置いて、部屋の隅にいるあたしに近づいてくる。
「紘斗、抱いていい?」
「人馴れしてないから気をつけろよ。このまえ、そいつ抱こうとして噛みつかれた奴いるから」
ママが手を差し伸べた。
「大丈夫だよ。怖がってる感じしないし。きれいな猫ちゃんだね。おいで」
あたしは迷わずその腕に委(ゆだ)ねた。香りがあたしを包みこむ。
やっぱり捜していた腕だった。
「ゴロゴロ云ってる。わたし、濡れてるのに気持ちいいのかな」
そう云って耳の傍で笑うママの振動が躰越しに伝わった。
ママの背後で、紘斗がかすかに驚いた表情を見せてあたしたちを見比べている。
「ちょっと待ってろ」
すぐに肩を小さくすくめ、紘斗はリビングを出ていった。
覚えているよりやさしくなった腕に抱かれたまま、躰を撫でられるたびにあたしは『ママ』とつぶやいた。
「姫良」
「うん?」
『うん?』
え?
紘斗の呼びかけに、あたしとママは同時に返事をした。
ママはまったく気づいていないけれど、紘斗がくちびるを歪めてかすかに苦笑いしている。
あたしの名前は……ママと同じ。
「Tシャツ、貸してやるから早く着替えたほうがいい。夏といっても風邪ひかないとは限らないし。タオルはバスルームの棚に新しいのが入ってる。乾燥機の使い方、わかるか?」
「うちにもあるから、たぶん。ありがとう」
ママ――姫良はあたしを放して頭を撫でると、ふわりと笑って部屋を出ていった。
『どういうこと?』
「やっぱ似てる。おまえの甘えた声も、姫良の笑う顔も……」
紘斗は当然のようにあたしの問いには答えず、そうつぶやいた。
しばらくして、ぶかぶかのTシャツを着た姫良が戻ってきた。
紘斗の横で座って待っていたあたしを見て、
「紘斗、猫ちゃんの写真、撮っていい?」
と訊ねながら、返事を聞くまでもなく姫良はバッグを探っている。
「かまわない」
紘斗は立ちあがって対面式のキッチンへ入り、セットしていたコーヒーを取りにいった。
紘斗が戻ってくるまで、姫良は携帯をかざして、あたしの写真を何枚か撮った。
「見て。ほら、きれいに凛々(りり)しく撮れてるよ」
姫良はそう云ってあたしに画面を見せてくれた。覗きこんだあたしの頭を姫良の手が撫でる。
「紘斗、猫ちゃん、人馴れしてないって云ったけど人懐(なつ)っこいよ。ね?」
紘斗は答えないまま、コーヒーをテーブルに置いた。
「……もしかして……噛みつかれたのって彼女? だから番猫なんだぁ。偉いねぇ。あたしは二番目だから噛みつかないでくれるのかな」
姫良は妙に納得して可笑しそうに紘斗を見やった。
「二番目ってなんだ? ハーレムじゃあるまいし。おれは認めてない」
紘斗が顔をしかめてあっさりと姫良に返した。
「でもちゃんと相手してくれるし、あたしはそれでいいんだから二番目でいいんじゃない? あ、猫ちゃんが一番目だから、あたしは三番目だね」
姫良が笑う。
はじめて見た自分の姿はママとは全然違った。
でもあたしとママは似てる。
紘斗の云った意味がいまの姫良を見てわかった気がした。
それからあたしはだんだんと眠っていることが多くなった。もう目が覚めることはないんじゃないかと思うくらい深い眠りの中に入る。食べることも億劫(おっくう)で、眠っていることのほうが気持ちいい。
ただひとつ。
ママの腕を捜していた理由。
それが見つからないと、眠りの中に委ねきることができない。
ママにもう一度会いたい。そうしたらわかる気がする。
「キラ、姫良に会いたいか?」K-Y
気づけばなにか云いたげにあたしを見ていた紘斗が、ある朝、躰を撫でながら云った。
『うん』
「わかった」
紘斗が出かける直前に呼び出された姫良がまにあった。
「……かなり弱ってるから、おれが帰るまで看ててほしい」
話しながらふたりがリビングに入ってくる。
『ママ』
「なんだかうれしそう」
弱々しくも呼びかけると、心配ながらも姫良もうれしそうな顔をして、座布団の上に丸くなったあたしの横に座った。
「じゃ、頼む。好き勝手にやっていいから」
「うん。いってらっしゃい」
「……ああ」
ここでも姫良は気づいていないけれど、云われ慣れていない紘斗は一瞬、見たことのない戸惑ったような表情になった。
理由の糸口が見えた。
紘斗が出かけると姫良はあたしを膝の上に抱いた。
「わたしも猫を飼ってたことがあるの。名前がね、笑わないでよ。ヒロト、っていうんだ」
そう云った本人がくすくすと笑っている。
その傍らで、あたしの中に、黒斑(くろぶち)の姿が不意に現れた。
ヒロト……って名前もらったんだ……じゃあ、キラって名前をもらったあたしは……。
「ヒロトって名前の子、何人か知ってるけどなにが違うのかな……紘斗をはじめて見たとたんになんだか……声かけちゃったの。名前を聞きだしたらびっくり。それでなんとなく他人じゃない気がしてくっついて回ってる。ヒロトを飼ったきっかけって覚えてなくて……気づいたらいたんだよね。病気で記憶が飛んじゃってるから。ヒロトって普通、人の名前だし、猫ちゃんにつけないのに……あ、紘斗には内緒ね。プライド、傷つけちゃいそうだし」
時間は穏やかに流れ、姫良のお喋りの音が心地よい。
「紘斗の彼女、きれいなんだよ。わたしが絶対に持てない自信が見えるの。いいなぁ……違うの。紘斗の彼女になりたいんじゃなくって……あんな女性(ひと)になりたいなって」
独りで質問を想定して答えている姫良の声に、たまに泣きたくなるような心が表れる。それを消すように姫良のくちびるに笑みが宿る。
意地っ張り。
独りでいい。
でもあたしがいることを忘れないで。
気づいて。
似てる。
ときどきでも紘斗がかまってくれるのなら。
あたしがずっと紘斗を見ているように、姫良は紘斗のまえに現れる。
理由が見えてくるにつれ、あたしのまえで光の扉が開いていく。
「大丈夫だよ。紘斗が帰ってくるまでもうちょっとだからね」
光に気づいているのか、姫良がやさしく囁く。
それとともに姫良の心があたしの頭に降ってきた。
温かい雨。
雨に触れた耳がピクリと動き、その既視感があたしの記憶を呼んだ。
――さみしくないですよね?
紘斗を守ろうとした理由。
なんのために、なぜ、なにから。
姫良のために、姫良のかわりに、さみしさから。
あたしは姫良に廻り合った。
捜していた理由。
そうだったんだ……。
バトンタッチ。
今度こそ、姫良が紘斗を守るばんだよ。そうできるのは姫良だけなんだから。
どれくらい待ったのか時間はわからない。
玄関が開いて夜のニオイを紘斗が持ち帰る。
「キラ、ありがとう」
姫良の心とともに紘斗の言葉があたしの中に満ちた。
『紘斗』
姫良の膝の上にいるあたしの躰を紘斗の手が撫でる。
光に身を委ねた。
「姫良、悪かったな、付き合わせて。ありがとう」
紘斗の腕が姫良の背に回った。
あたしには見えなかったけれど、心に映った。
雨が降りやむまでその腕は離れない。
ううん、降りやんでも。
さみしくないよね――きっと。曲美
2012年8月16日星期四
セカンド・インパクト
風邪をひいてせっかくのクリスマスデートはつぶれちゃった。
でも、彼と一緒にクリスマスを過ごせたので悪くはない。
それから数日後、風邪も治して完全復活した私は貴雅と2度目のデートを楽しんでいた。
今日は駅前の繁華街でのショッピングを中心にしたデート。蒼蝿水
「にゃー、ここはどこ?私は誰?」
……の、はずだったんだけど、まさかの迷子になってしまった。
さっきまでは仲良く買い物をしていたんだけど、私がちょっと駅のトイレに言ってる間に貴雅が行方不明に……というか、私がはぐれたんだけどね。
荷物は彼に預けてたので携帯電話も持っていない。
「はぅ、どうしよう、どうしよう~っ」
辺りを見渡しても貴雅の姿はなく、ジッとしている事もできず。
「ちょっと待っていて、と別れた場所はここのはずなんだけど」
場所を間違えて慌てて戻ってきた時には貴雅はいなっかった。
ぐるぐる、ぐるぐると同じ場所を回ってもいないし。
「せっかくのデートなのに、こんなミスしちゃうなんて……」
ぐすっ、と私はへこんでいると、前から歩いてくる小夜子を見つけた。
なんてタイミングでお友達と会うんだろう、ラッキー。
「あ、小夜子だ。小夜子~っ!」
「ん?あら、美結じゃない。どうしたの、ひとりで泣きそうな顔して」
「うえぇーん。助けて、今、ちょっとピンチなの」
こういう時に小夜子はとても頼りになるから、助かるんだ。
私は事情を話すと、小夜子は呆れた声で私を笑う。
「美結らしいわね。そう言うことなら、私が連絡してあげるわ。自分の携帯電話の番号くらい覚えておいて、公衆電話でかければよかったのに」
「あっ、その手もあった……って、今時、公衆電話を探す方が大変じゃない」
「ここは駅なので探せばすぐに見つかるはずよ。そんな事にも気づかないほど不安だったのかしら?本当に可愛いわね、美結って……(バカっぽいのが見ていて楽しい)」
はぅ、ちょっと迷子になったことに動揺してた。
こんな不安な気持ちって誰でもあるよね?
というわけで、小夜子は貴雅の携帯電話に電話をかけてくれる。
「やっほ、貴雅クン。そうよ、私。目の前に何か泣いている猫を見つけたの。そう、猫ちゃん。飼い主のキミが引き取りに来なさい。お姉さんがただいま保護中よ」
「誰が猫だよ、にゃー」
迷子の小猫ちゃん扱いですか、うぅ……。
子ども扱いされてばかりいる私だって、怒る時はあるんだぞ?
「アンタよ、アンタ。迷子の子猫ちゃん、大人しくしておきなさい。え?分かったわ。ほら、貴雅クンが電話に代わって欲しいって……別れの電話かしら?」
彼女から携帯電話を借りると、貴雅の声が聞こえた。
その声に迷子の子供が親にあえたように不安が消えていく。
『おぅ、みゆ先輩。今どこにいるんだ?さっきから待ってるんだが、全然来ないし』
「え?どこって駅の裏口だよ。貴雅はどこにいるの?」
『裏口って北側だよな?俺がみゆ先輩を待ってるのは東側だぞ?』
「嘘だぁ。だって、目印も……あ、そうか。ここじゃなかったの。私、勘違いしていたかも。目印にしていたお店って前はこっちじゃなくて、東口にあったんだよね」
私が勘違いしたのは洋服のお店、以前はこちら側ではなく東口にあったの。
その店舗の見た目が以前と変わっていないからつい勘違いしてしまったらしい。
隣の小夜子は「方向を間違える時点でドジすぎ」とからかう。
うるさいなぁ、ちょっとしたミスじゃんか。
『まぁ、みゆ先輩のドジ属性は今さらだから責めはしない。さっさと戻ってこい。ちゃんと小夜子さんにお礼を言うんだぞ』
「はーい。じゃ、すぐに行くから動いちゃダメだよ」
『――俺は最初から一歩も動いてねぇよ』
そうでした、私のせいだったよね、ごめんなさい。
私は気を取り直して、電話を切ると小夜子に返す。SEX DROPS
「ありがとう、小夜子。助かったよ」
「連絡ついてよかったわね。それにしても、貴雅クンも美結につき合わされて大変じゃない。彼が優しい良い男でよかったわ。そうじゃなければすぐに別れてる」
「ふぎゅっ!?わ、別れるって私と貴雅はそんな危機ないもんっ」
いきなりの小夜子の言葉に私は新たな不安を抱える。
今まで貴雅に甘えてばかりで、彼にしてみれば私と付き合ってよかったと想ってくれているのかなって……。
「ネガティブ思考してもしょうがない。そう、私は彼に愛されているの。だから、大丈夫……だと思う。うん、彼の家族とも仲がいいし……問題はないっ、はず」
「だんだん自信がなくなってるみたいだけど?彼に甘えるのもいいけど、少しは好かれる努力もしなさい。貴雅クンの前にそれっぽい可愛い子でも現れたら、あっという間に愛想を付かされて、破局なんて展開に……」
「うにゃー。そんなの聞きたくない~っ。もうっ、小夜子が意地悪する」
私は拗ねて唇を尖らせると、小夜子は微笑していた。
この友達は頼りになるけど、すぐに私で遊ぶから困る。
「私はもういくから。じゃぁね、小夜子」
「えぇ。デートを楽しんでらっしゃい」
小夜子と別れた私は早足で駅の構内を歩いて目的の東口へと向かう。
すぐに出口を出ると私は貴雅が待っている場所にたどり着けた。
……たどりつけたんだけど、そこで私は予想外の光景を目にする。
「やだぁ、ホントにそう思う?だとしたら、嬉しいっ」
「ホントだ。俺は今日の髪型の方が似合うと思うよ」
うぇ、何か嫌な場面に出てきたかも。
貴雅は私を待っているはずなのに、なぜか他の女の子と雑談中。
「……誰?美人さんと会話なんて珍しい」
はっ、これはいわゆるナンパという奴では?
私が迷っている間に他の女の子にちょっかいだすなんて……。
「貴雅、待たせたわね。あら、そちらの女の子は誰かな?」
どういう事情かは分からないけど、私は見ていられずに彼に声をかける。
自分の彼氏がそんなひどい人間だとは思いたくない。
「どこまで行ってたんだよ。まぁ、いい。おかえり」
「……そちらの子は誰なの?誰?誰?」
私が彼に詰め寄ると私の前にその子は間近に近づいてくる。
私は威嚇するように相手にムッとした顔を見せた。
「本物だぁ。ねぇ、これって本物のみゆ先輩だよね?」
「俺は他にこんなロリ先輩を知らないぞ」
「めっちゃ失礼な事を言わないでよ」
彼女は興味津々と言った風に私を見つめてくる。
「あの、一緒に写メ撮ってもいいですか?」
「え?あ、別にいいけど?」
私が?マークを頭に浮かべるのをよそに彼女は私と一緒に携帯電話で写真を撮る。
何が楽しいのか、笑顔を見せる女の子。
結構な美人の子だ、貴雅の知り合いだとしたら、年下かな?
「ふぅ、いいじゃない。これで私の美少女コレクションもひとつ増えたわ」
「……相変わらずのようだな、華奈」
「まぁね。でも、貴雅ちゃん。こんなにも可愛い子が恋人の貴方なんて羨ましい」
私を無視して会話を続けるふたり。
あのぅ、無視されると寂しいから仲間に入れてよぉ。
「っと、そうだ。紹介するよ、みゆ先輩。俺の幼馴染の宗田華奈(むねだ かな)。俺達と同じ高校に通ってる、俺と同い年だ。偶然、そこで会って話をしていた」
「ふーん。幼馴染がいたんだ、可愛い子だね」
「あははっ、可愛い?当然ですけど、そう言ってもらえると嬉しいです」
よほど自分を褒められると嬉しいようだ、しかもちょっとナルシスト系?
私が妙な視線を向けると、彼女はすっと私に手を差し出した。
「みゆ先輩、初めまして。貴雅ちゃんの幼馴染で、心の恋人の華奈です。学園で噂のみゆ先輩に出会えて光栄ですよ」
「こ、心の恋人?何なの、それ?」三体牛鞭
思わぬ単語に動揺する私、だって恋人って……え?え?
心の恋人って何なのよ?
「おい、華奈。余計な事は言うな。別に変な関係じゃない」
貴雅は否定するけど、彼女は私にこう言ったんだ。
「本当の事でしょう。私たちが昔、こ……むぐっ」
いきなり彼は慌てた様子で華奈さんの口をふさいだの。
「何でもないから。ホントに、気にする事じゃない。それよりも、こんな場所で迷子になるとはどんなお子様なんだ?」
「違うもんっ、迷子じゃないくて、迷っただけ!」
「……どこに違いがあるのか分からない。小夜子先輩がいなかったら、今日のデートはこれで終わってたかもしれないな。ほら、荷物を返すぞ」
私にバッグを返してくれる貴雅。
聞きたい事はあったけど、誤魔化されてしまった感じ。
「みゆ先輩と貴雅ちゃん、ふたりはデートの途中だったの?」
「あぁ。この先輩がこんな所で迷子になってな。待ちぼうけしてたんだ」
「だから、迷子言うなぁ。少し場所を間違えただけじゃない」
うぅ、貴雅がいつものように意地悪する。
けれど、隣にいた華奈さんは笑って言うんだ。
「貴雅ちゃんって昔から好きな子とか気に入った子にはよく意地悪していたクセがあったけど、まだ治っていないんだ?私もよくされてたもの。好きな子いじめ、少しはやめてあげてよね」
「うっさい。そんな昔の事は忘れてくれ」
うにゅぅ、私のこと、やっぱり貴雅は気に入ってくれているんだ。
意地悪は照れ隠しで、好きな子ほど意地悪しちゃうタイプなのかな……って、“私も”?
何かが引っかかる物言い、何だろう……幼馴染ってこんなに親密なものだっけ?
「あっ、もうこんな時間。私も待ち合わせがあるから行くわ」
「おぅ、また今度な」
彼女は貴雅に挨拶して私にも「それじゃ、さよなら。先輩」と頭をさげる。
「――ふふっ。みゆ先輩だけが彼の“特別”ではない、それを忘れずに」
その去り際、彼女は私の耳元ににそんな意味深な言葉を囁いたの。
その後、何もなかったかのように去ってしまう、華奈さん……。
彼女は一体、貴雅の何なのよ!?
何だか新たな波乱の予感、これっていわゆる幼馴染ライバルの登場なわけ!?
んにゃー、私ってこんなのばっかりじゃない……どうしよう。男宝
でも、彼と一緒にクリスマスを過ごせたので悪くはない。
それから数日後、風邪も治して完全復活した私は貴雅と2度目のデートを楽しんでいた。
今日は駅前の繁華街でのショッピングを中心にしたデート。蒼蝿水
「にゃー、ここはどこ?私は誰?」
……の、はずだったんだけど、まさかの迷子になってしまった。
さっきまでは仲良く買い物をしていたんだけど、私がちょっと駅のトイレに言ってる間に貴雅が行方不明に……というか、私がはぐれたんだけどね。
荷物は彼に預けてたので携帯電話も持っていない。
「はぅ、どうしよう、どうしよう~っ」
辺りを見渡しても貴雅の姿はなく、ジッとしている事もできず。
「ちょっと待っていて、と別れた場所はここのはずなんだけど」
場所を間違えて慌てて戻ってきた時には貴雅はいなっかった。
ぐるぐる、ぐるぐると同じ場所を回ってもいないし。
「せっかくのデートなのに、こんなミスしちゃうなんて……」
ぐすっ、と私はへこんでいると、前から歩いてくる小夜子を見つけた。
なんてタイミングでお友達と会うんだろう、ラッキー。
「あ、小夜子だ。小夜子~っ!」
「ん?あら、美結じゃない。どうしたの、ひとりで泣きそうな顔して」
「うえぇーん。助けて、今、ちょっとピンチなの」
こういう時に小夜子はとても頼りになるから、助かるんだ。
私は事情を話すと、小夜子は呆れた声で私を笑う。
「美結らしいわね。そう言うことなら、私が連絡してあげるわ。自分の携帯電話の番号くらい覚えておいて、公衆電話でかければよかったのに」
「あっ、その手もあった……って、今時、公衆電話を探す方が大変じゃない」
「ここは駅なので探せばすぐに見つかるはずよ。そんな事にも気づかないほど不安だったのかしら?本当に可愛いわね、美結って……(バカっぽいのが見ていて楽しい)」
はぅ、ちょっと迷子になったことに動揺してた。
こんな不安な気持ちって誰でもあるよね?
というわけで、小夜子は貴雅の携帯電話に電話をかけてくれる。
「やっほ、貴雅クン。そうよ、私。目の前に何か泣いている猫を見つけたの。そう、猫ちゃん。飼い主のキミが引き取りに来なさい。お姉さんがただいま保護中よ」
「誰が猫だよ、にゃー」
迷子の小猫ちゃん扱いですか、うぅ……。
子ども扱いされてばかりいる私だって、怒る時はあるんだぞ?
「アンタよ、アンタ。迷子の子猫ちゃん、大人しくしておきなさい。え?分かったわ。ほら、貴雅クンが電話に代わって欲しいって……別れの電話かしら?」
彼女から携帯電話を借りると、貴雅の声が聞こえた。
その声に迷子の子供が親にあえたように不安が消えていく。
『おぅ、みゆ先輩。今どこにいるんだ?さっきから待ってるんだが、全然来ないし』
「え?どこって駅の裏口だよ。貴雅はどこにいるの?」
『裏口って北側だよな?俺がみゆ先輩を待ってるのは東側だぞ?』
「嘘だぁ。だって、目印も……あ、そうか。ここじゃなかったの。私、勘違いしていたかも。目印にしていたお店って前はこっちじゃなくて、東口にあったんだよね」
私が勘違いしたのは洋服のお店、以前はこちら側ではなく東口にあったの。
その店舗の見た目が以前と変わっていないからつい勘違いしてしまったらしい。
隣の小夜子は「方向を間違える時点でドジすぎ」とからかう。
うるさいなぁ、ちょっとしたミスじゃんか。
『まぁ、みゆ先輩のドジ属性は今さらだから責めはしない。さっさと戻ってこい。ちゃんと小夜子さんにお礼を言うんだぞ』
「はーい。じゃ、すぐに行くから動いちゃダメだよ」
『――俺は最初から一歩も動いてねぇよ』
そうでした、私のせいだったよね、ごめんなさい。
私は気を取り直して、電話を切ると小夜子に返す。SEX DROPS
「ありがとう、小夜子。助かったよ」
「連絡ついてよかったわね。それにしても、貴雅クンも美結につき合わされて大変じゃない。彼が優しい良い男でよかったわ。そうじゃなければすぐに別れてる」
「ふぎゅっ!?わ、別れるって私と貴雅はそんな危機ないもんっ」
いきなりの小夜子の言葉に私は新たな不安を抱える。
今まで貴雅に甘えてばかりで、彼にしてみれば私と付き合ってよかったと想ってくれているのかなって……。
「ネガティブ思考してもしょうがない。そう、私は彼に愛されているの。だから、大丈夫……だと思う。うん、彼の家族とも仲がいいし……問題はないっ、はず」
「だんだん自信がなくなってるみたいだけど?彼に甘えるのもいいけど、少しは好かれる努力もしなさい。貴雅クンの前にそれっぽい可愛い子でも現れたら、あっという間に愛想を付かされて、破局なんて展開に……」
「うにゃー。そんなの聞きたくない~っ。もうっ、小夜子が意地悪する」
私は拗ねて唇を尖らせると、小夜子は微笑していた。
この友達は頼りになるけど、すぐに私で遊ぶから困る。
「私はもういくから。じゃぁね、小夜子」
「えぇ。デートを楽しんでらっしゃい」
小夜子と別れた私は早足で駅の構内を歩いて目的の東口へと向かう。
すぐに出口を出ると私は貴雅が待っている場所にたどり着けた。
……たどりつけたんだけど、そこで私は予想外の光景を目にする。
「やだぁ、ホントにそう思う?だとしたら、嬉しいっ」
「ホントだ。俺は今日の髪型の方が似合うと思うよ」
うぇ、何か嫌な場面に出てきたかも。
貴雅は私を待っているはずなのに、なぜか他の女の子と雑談中。
「……誰?美人さんと会話なんて珍しい」
はっ、これはいわゆるナンパという奴では?
私が迷っている間に他の女の子にちょっかいだすなんて……。
「貴雅、待たせたわね。あら、そちらの女の子は誰かな?」
どういう事情かは分からないけど、私は見ていられずに彼に声をかける。
自分の彼氏がそんなひどい人間だとは思いたくない。
「どこまで行ってたんだよ。まぁ、いい。おかえり」
「……そちらの子は誰なの?誰?誰?」
私が彼に詰め寄ると私の前にその子は間近に近づいてくる。
私は威嚇するように相手にムッとした顔を見せた。
「本物だぁ。ねぇ、これって本物のみゆ先輩だよね?」
「俺は他にこんなロリ先輩を知らないぞ」
「めっちゃ失礼な事を言わないでよ」
彼女は興味津々と言った風に私を見つめてくる。
「あの、一緒に写メ撮ってもいいですか?」
「え?あ、別にいいけど?」
私が?マークを頭に浮かべるのをよそに彼女は私と一緒に携帯電話で写真を撮る。
何が楽しいのか、笑顔を見せる女の子。
結構な美人の子だ、貴雅の知り合いだとしたら、年下かな?
「ふぅ、いいじゃない。これで私の美少女コレクションもひとつ増えたわ」
「……相変わらずのようだな、華奈」
「まぁね。でも、貴雅ちゃん。こんなにも可愛い子が恋人の貴方なんて羨ましい」
私を無視して会話を続けるふたり。
あのぅ、無視されると寂しいから仲間に入れてよぉ。
「っと、そうだ。紹介するよ、みゆ先輩。俺の幼馴染の宗田華奈(むねだ かな)。俺達と同じ高校に通ってる、俺と同い年だ。偶然、そこで会って話をしていた」
「ふーん。幼馴染がいたんだ、可愛い子だね」
「あははっ、可愛い?当然ですけど、そう言ってもらえると嬉しいです」
よほど自分を褒められると嬉しいようだ、しかもちょっとナルシスト系?
私が妙な視線を向けると、彼女はすっと私に手を差し出した。
「みゆ先輩、初めまして。貴雅ちゃんの幼馴染で、心の恋人の華奈です。学園で噂のみゆ先輩に出会えて光栄ですよ」
「こ、心の恋人?何なの、それ?」三体牛鞭
思わぬ単語に動揺する私、だって恋人って……え?え?
心の恋人って何なのよ?
「おい、華奈。余計な事は言うな。別に変な関係じゃない」
貴雅は否定するけど、彼女は私にこう言ったんだ。
「本当の事でしょう。私たちが昔、こ……むぐっ」
いきなり彼は慌てた様子で華奈さんの口をふさいだの。
「何でもないから。ホントに、気にする事じゃない。それよりも、こんな場所で迷子になるとはどんなお子様なんだ?」
「違うもんっ、迷子じゃないくて、迷っただけ!」
「……どこに違いがあるのか分からない。小夜子先輩がいなかったら、今日のデートはこれで終わってたかもしれないな。ほら、荷物を返すぞ」
私にバッグを返してくれる貴雅。
聞きたい事はあったけど、誤魔化されてしまった感じ。
「みゆ先輩と貴雅ちゃん、ふたりはデートの途中だったの?」
「あぁ。この先輩がこんな所で迷子になってな。待ちぼうけしてたんだ」
「だから、迷子言うなぁ。少し場所を間違えただけじゃない」
うぅ、貴雅がいつものように意地悪する。
けれど、隣にいた華奈さんは笑って言うんだ。
「貴雅ちゃんって昔から好きな子とか気に入った子にはよく意地悪していたクセがあったけど、まだ治っていないんだ?私もよくされてたもの。好きな子いじめ、少しはやめてあげてよね」
「うっさい。そんな昔の事は忘れてくれ」
うにゅぅ、私のこと、やっぱり貴雅は気に入ってくれているんだ。
意地悪は照れ隠しで、好きな子ほど意地悪しちゃうタイプなのかな……って、“私も”?
何かが引っかかる物言い、何だろう……幼馴染ってこんなに親密なものだっけ?
「あっ、もうこんな時間。私も待ち合わせがあるから行くわ」
「おぅ、また今度な」
彼女は貴雅に挨拶して私にも「それじゃ、さよなら。先輩」と頭をさげる。
「――ふふっ。みゆ先輩だけが彼の“特別”ではない、それを忘れずに」
その去り際、彼女は私の耳元ににそんな意味深な言葉を囁いたの。
その後、何もなかったかのように去ってしまう、華奈さん……。
彼女は一体、貴雅の何なのよ!?
何だか新たな波乱の予感、これっていわゆる幼馴染ライバルの登場なわけ!?
んにゃー、私ってこんなのばっかりじゃない……どうしよう。男宝
2012年8月14日星期二
二人の転校生
4月の新学期が始まってまだ間もないというのに、転校生が、しかも一度に二人もこのクラスに入ってくるとは、誰も思わなかった。
噂すら立たず、それは突然に、学校にぱっとその朝、降って湧いたごとくやって来た。
担任の後に続いて教室に入ってきた転校生。
ざわめいていた教室が一瞬にシンと静まり返る。簡約痩身
誰もが目の前の光景に信じられないとばかり目を見開いた。
「今日からこのクラスに入ることになった、トイラとキースだ」
なんと二人は外国人。
この高校始まって以来の海外留学生だった。
クラス中、鳩が豆鉄砲を食ったようになっていた。
ただ一人、春日ユキだけは冷静だった。というより、冷めた目でちらりと見てはため息を小さく吐いて、窓の外の空に目をやった。
まるで転校生二人を毛嫌い しているようだった。
これには彼女なりの訳があった ──。
クラス中が転校生に注目する中、一人だけそっぽを向くユキのしぐさは、転校生二人の関心をひいた。
二人は慎重な面持ちでユキを見つめる。
「見ての通り、彼らは外国人だ。日本にはまだ慣れていない。それじゃ自己紹介を一応してくれるか。Please introduce yourself」
このクラスの担任の村上先生は英語担当。
二人も留学生が入ってきたのも、担任がまず英語を理解できるというのが考慮されたのだろうか。
そうしてもう一人 都 合のいい生徒がいる。
それが春日ユキ──。
春日ユキは直感で感じ取っていた。
自分がこの二人の面倒を押し付けられるということを。
そしてそれが自分にとても都合の悪いことだった。
その瞬間、鼓動 が不規則に波打ち、不安という振動を発生させ、神経を伝わって体の隅々までそれがいきわたる。
空気がないくらい息苦しい状態に陥った。
ユキは無意識に膝元 で強くスカートの裾を握り締める。
「I am Toyler」
転校生の一人が『俺はトイラだ!』とでもぶっきらぼうに叫ぶ。
すらりとした長身。
黒髪。
肌は日に焼けたような小麦色。
目は 宝石のような緑の光が漏れる。
まさにエメラルドの輝き。
美しいがそれは清涼さと非情さを同時に持ち合わせていた。
冷たく悪びれた態度でクラスに挑戦するよ うに鋭く睨みを利かす。
まるで野獣にでも睨まれているかのごとく、クラス中緊張に包まれた。
自分の名前だけ冷然に言うと、後は面倒くさそうにプイっと首を横に一振りした。誰も近寄るなと警告している様だった。
「この子はトイラという。出身はカナダだ」
先生は顔を引きつらせ、気を遣ってフォローをいれる。
これは先がやっかいだとでも言わんばかりに苦笑いしながら、もう一人に手を差し出して自己紹介を促 した。
「ボク …… ハ キース デス。カナダ カラ キタ。 ヨロシク」
キースはたどたどしいながらも日本語が話せた。
トイラと違ってにこやかで笑顔を振りまいている。
その笑顔はうらうらと温かい陽をふりまいてるようだった。
こちらも背は高く、髪は少し長めの金髪、白い肌、目はブルーといった王子 様のような風貌。
女子生徒はあっという間にその美しさに魅了され、目はとろんとしては口元がほころび、キースの笑顔につられて笑みを浮かべてい た。
トイラはキースのその媚びた態度が気に入らなさそうに、隣で鼻をフンっと鳴らしていた。
そして春日ユキをちらりと一瞥する。
冷たいはずの緑の目は、そのとき、懐かしいものを見るかのように優しい眼差しとなっていた。
張り詰めていた気持ちが突然緩み、トイラの足が前に出る。
キースは手を差し伸べダメだと知らせる。
はっとして、トイラは下唇を少し噛んでうつむいた。
それは注意されて鬱陶しがっているようにも、心から湧き出る感情を必死で押さえつけ、耐えてるようにもみえた。
春日ユキは二人の自己紹介など聞いてもおらず、どんよりと暗く、ここに居たくないと頭を垂れて、机の上をおぼろげに見つめている。
先生が授業をしていた ときなら注意されるくらい、完全にその場に参加していない失礼な態度だった。
「日本語はそのうちなんとかなるだろう。それまで皆も手助けしてやってくれ。特に春日、お前この二人を宜しく頼むぞ。二人にも何かわからないことがあった らお前に聞けといってあるから、手伝ってやってくれ。なんせお前は帰国子女だしな」
春日ユキはこれを恐れていた。
『帰国子女』とこの言葉を聞く度に耳をふさぎたくなる。
その言葉と同時に冷たい視線が放射線状に体に突き刺さるのを感じていた。
ひそひそと話し声が聞こえると、自分のことを悪く言われているようでさらに被害妄想も強まる。
最悪の瞬間だった。
帰国子女 ──どれだけ違った目で見られたことだろう。
春日ユキの脳裏には嫌なことが次々と映し出される。
英語を話してみろとからかわれ、『アメリカでは…… 』と話始めれば、知ったかぶりの生意気とはやし立てられ、アメリカと日本を常に比べるお高い奴とまで言われる始末。
挙句の果てに、はっきりと自分の意見を言えば、生意気でアメリカナイズされた態度が鼻につくと虐められる毎日。
そこへ二人の留学生の面倒。
またクラスの反感を買うことが目に見えていた。
これが二人の転校生を歓迎できない理由だった。
また虐めの種が増えることを懸 念していたのだった。
案の定、キースを狙っている女子生徒達からは、もうすでに挑戦状を叩きつけられているのか、鋭い視線を受けていた。
先生が教室の後ろに座るユキの席を指差している。
ユキはそのとき初めて自分の両隣が空いていることに気がついた。
どうしてそんなに上手いことその場所が 空いているのだろうとユキは突然首をかしげた。
前日まではこんな席だっただろうかと、思い出せないくらい奇妙な感覚が走った。
そんなことをゆっくりと考える時間も与えられぬまま、ユキの左側ちょうど外が眺められる窓際の一番角の席、そこにはトイラが座り、反対の右側に はキースが座った。
「ユキ …… ヨロシク」
キースが様子を伺いながら、笑顔で親しみを込めて話しかける。
ユキは適当に愛想笑いを返した。そのユキの態度はキースには物足りないのか、がっかりとし た表情を浮かべた。
だが仕方ないと諦 めたように、首を縦に振ってはうんうんと一人で納得するように頷いていた。
その態度でユキのキースの第一印象は『変な人』だった。
苦手なタイプかもしれないと、ユキは顔を背けた。
次にトイラに視線を移した。
一応、義理でも挨拶すべきだろうかと、目だけでも合わせておこうと顔を覗き込んでみた。
左側の窓際に座ったトイラはユキを完全に無視しようとしているのか、全くユキに視線をむけなかった。V26即効ダイエット
しかしそれはどこか不自然だった。
妙にユキを意識して、本当は見たい気持ちを抑え、我慢するかのように葛藤していた。
トイラは机に手を置くと、苛立ってるのか、 爪を立てて引っ掻くしぐさをした。
正反対の性格の二人。
ユキにはまるでトイラが気まま な猫で、キースが人懐こい犬に見えた。
ユキは怖いもの見たさなのか、暫くトイラから目が離せない。
焦点も合わさずに前をじっと見つめるトイラ。
その時、彼の緑の目がユキの記憶をつつくように刺激する。はっとして、ユキの肩がかすかに びくっと動いた。
美しい目の色はどこかで見た草原の輝きを思い起こさせ、埋もれていた記憶の中からバブルのように何かがぷわんと浮かびあがる。
その中で、風がやわらかく体を包み込み、ユキはそれを抱くように胸で手を抱き合わせている。
草木をすり抜けた一陣の風と共に黒いものが現れ、それはユキの頬を愛しく触れた。
その記憶の中の人物のビジョンがはっきりでてこない。
漠然としたイメージの中、視界を不透明なフィルムで隠されたようだった。
ユキはどうしても思い出し たかった。
このままでは中途半端で脳が不完全燃焼を起して掻き毟りたいほどに気持ち悪い。
トイラの緑の目に一層釘づけになって、体ごと前にのめり込んでい た。
突然トイラが睨みをきかせてユキに視線を合わせた。
その時恐ろしいほど近くに緑の目を感じた。
ユキは知らずとトイラの顔の側まで迫っていた。
ユキは触ら れたカタツムリのように慌てて体を引っ込める。
何をしてたんだと、自分でも急に恥ずかしくなり、その後ずっともじもじと下を向いていた。
トイラは窓に顔を向け、ユキに気づかれないようにひっそりとため息をついた。
二人の転校生の噂はあっという間に学校中に広まり、2年A組の教室は休み時間になる度に、見世物小屋となった。
見物料でもとりたくなるほどだった。
「また来たわ。次々と来るもんだわ。外国人なんて今の時代珍しくもないのに」と、ユキは冷めた目で少し馬鹿にした。
自分は違う人間だとでも主張したかったのか、見物人の目の前で得意げについ英語を話してしまう。
「Say, Kieth. Why did you come to Japan? Moreover, it's a very boring place」
(ねぇ、キース、あなた達なぜ日本に来たの。しかもこんなつまらないところに)
「ユキ、ニホンゴ デ ダイジョウブ。ニホンゴ デ ハナシテ。ベンキョシタイ」
キースは典型的な外国人訛りの日本語だったが、その訛りが却って作り物のように聞こえるくらい、日本語は上手に話せるようだった。
「キース、日本語上手いんだね。ねぇ、トイラも話せるの?」
「トイラ ニ チョクセツ キイテミテ」
なぜかキースはクククと愉快とでもいうように声を押し殺して笑っていた。
この笑いに何か意味でもあるのだろうか。
ユキは言われるままにトイラに質問してみた。
トイラは面倒くさそうに振り向くと、やはりまたユキを睨んでいた。
「Toyler, please don't give me a mean look. Do you hate me?」
(トイラ、お願い、私を睨むのはやめて。私のことが嫌いなの)
ユキは咄嗟に英語で話していた。
やはりここでもキースは肩を震わせて笑いを堪えていた。
ユキには何がおかしいのか全くわからない。
それよりもトイラのこの意地悪そうな性格にはうんざりだった。
「あら、春日さん、さすが帰国子女ね。英語でペラペラと見せ付けてくれること」
そう言って現れたのは、このクラスでもちょっと突っ張ってる矢鍋マリだった。
先頭に立ってユキをいじめるリーダー的存在である。
「ヤア、キミ ハ ダレ?」
キースがにっこりと白い歯をみせて話しかけた。
「あっ、私はマリ。あの…… その…… 」
矢鍋マリは答えにつまった。
キースの心に沁みるようなやさしい笑顔が、ピーンと突っ張っているきついマリの性格をも変えた。
マリは小魚のように口をパクパクしながら慌てている。
気の強い、弱みなど見せぬ女だが、やはりこの手の王子様には弱いらしい。
いわゆるツンデレタイプなんだろう。
キースの魅了させる笑顔は、魔法をかけたようにマリを恥じらいのある乙女に変身させた。キースはマリから言葉を巧みなく引き出す。
それに乗せられてマリは上機嫌にキースとの会話に声を弾ませていた。
ユキはほっとした。
このマリほど陰険でユキを面と向かって虐めるものはいない。
ここでキースが入り込んでくれて、ワンクッションの役割をしてくれたことに深く感謝した。
矢鍋マリがキースと楽しそうに話している中、周りに自然と女子がそれにあやかろうと集まってきた。
キースは集まってきた女の子全員に愛想を振りまいている。自分がモテルことをよく知っているかのようだ。
しかしそれを鼻にかけることはなく、あくまでも優しい気の遣う男として振舞っている。
ユキはキースのその態度をみると、何か意図があるように思えてならなかった。
そしてまたトイラに視線を向けた。
「ねぇ、トイラ、さっきの続きだけど、私のことそんなに嫌い?」
今度は日本語で問いかけてみた。
トイラは深い湖の底に神秘的な何かが沈んでいるような目をしてユキをじっと見つめていた。
先ほどの冷酷さは感じられず、優雅な光を発している。
──美しい緑、まるで宝石のエメラルドのよう。
『エメラルド』と例えたその時、ユキのずれてたピントが合った。
──私、この目を知っている。どこかで見たことがある。
その時トイラが口を開いた。
「オマエ ノ コト キライ デハ ナイ。 オレ ハ コウイウ オトコ ダ」
トイラも日本語が話せる。
やはりその訛りは典型的な外国人アクセント。
でもどこか変に聞こえた。
一度うつむいて表情をリセットしたのか、再び顔をあげたとき、また仏頂面になってきつく睨み返してくる。
嫌いではないのに、この極端な態度は何だ。
ユキの口はただぽかんと開いていた。
放課後、整理に困るほどの女子生徒が押し寄せるように窓や戸口でひしめきあっていた。
キースは「ハーイ」と手を振って愛想良く構っている。
その度に『キャー』と歓喜が湧き上がっていた。
もうアイドルであった。
「さてと、あなた達ちゃんと家まで帰れるよね? それじゃ あまた明日ね」
やっと離れられると思ったのもつかの間、次の瞬間ユキの顔が引きつった。
「マッテ ユキ、イッショニ カエロウ。 トイラ、 オマエも カエルゾ」
キースの声で、トイラは命令を受けたロボットのように立ち上がった。
そして二人はユキの後をついていく。
その後にも、女子生徒達がぞろぞろついてきた。
先頭を歩くユキは観光で案内する添乗員の気分だった。
学校の門を出たところでキースが振り返り「バイバイ」と手を振ると、女子生徒たちはこれ以上ついて来るなと察知したのか、その場で名残惜しそうに手を振って見送っていた。
静かに3人で歩いているときだった。V26Ⅲ速效ダイエット
「ふー疲れた。日本語話せないフリするのもしんどいな」
「えっ、フリ?どういうこと」
突然溝に足を取られたようにがくんと体が傾きながら、ユキは顔をしかめて振り返った。
なんとキースは普通の日本人と変わらぬほどの発音で日本語を話している。
いや、もうそれは日本人そのものだった。
「まあね、僕達は言葉には困らないってことさ、なあトイラ」
キースに言葉を振られたが、そんなことどうでもいいというようにトイラは無言のままだった。
「ということは、トイラもフリをしているってこと?」
ユキは珍種の動物を見つけたような驚きの顔でトイラを見つめた。
「そっ、そういうこと」
キースがトイラの変わりに答えてやった。
「どうして、そんなことする必要があるの? 話せるんだったら普通にすればいいじゃない」
「だから、こっちにも訳があるってこと。それに皆だって僕達が日本語ペラペラだって思ったらつまんないだろう。ちょっとした演出さ」
ユキは顎をがくっと落とすように呆れた。
この二人はどうも何かをたくらんでいる。
自分は巻き込まれたくない。
本能的に逃げるスイッチが体に入った。
「そう、わかったわ。好きにすればいい。私も聞かなかったことにするから。それじゃ私こっちだから」
走りさろうとしたユキ。キースは狙った獲物を逃がさないかのごとく、素早くユキの腕をつかんだ。
その動作0.01秒。
「ちょっと待ってくれよ。僕達同じ方向なんだから。しかも同じ場所に行くのに、一人だけ走って帰ることないだろ」
ユキは耳を疑った。
ソフトに笑っているキースの顔が却って不気味にみえた。
「あの、同じ場所って、近所ってこと」
恐る恐るユキは聞いた。
「近所じゃないよ」とキース。
「近所じゃないのに、同じ場所?どこそこ?」
「ユキの家」トイラがぼそっと言った。
「えーーーーーーー、嘘でしょ。どうして私の家? なんで」
「あれ、博士から聞いてないの。僕達ユキの家でお世話になるって」
キースはクスクスと笑っていた。
博士と言えば、ユキの父親、生物学者なのでそう呼ばれている。
ユキが海外で過ごしたのもこの父親が海外の大学で働いていたからだった。
「聞いてません!」
ユキは蕁麻疹が出る勢いで体中ぞわぞわした。
突然降って湧いた二人の転校生。
しかも一緒に住むなんて、そんなことがあってたまるものかと、何かの間違いだとお経をつぶやくように 何度も繰り返していた。
「ユキ、俺達のこと、嫌いか?」
トイラがぼそっと言った。
トイラのその質問は意外だった。
あんなに人を睨んでおいてこの質問は信じられない。
「ちょっと、そういう問題じゃ、それにどうしてあんた達日本に来たわけ? 何の目的で?」
「それはそのうち嫌がおうでもわかるさ」
さっきまでクスクス笑っていたキースが突然影を落としたように暗く沈んでいる。
二人とも態度にギャップがありすぎる。
これは何を意味しているのだろうか。
質問してもはっきりと答えるわけもなくはぐらかされる。
一体どんな訳があるのだろうと、ユキは帰ったら父親をとっちめる気分でいた。
自然と鞄を持つ手に力が入り、蟹股でどしどしと闊歩していた。
「へぇ、ここがユキの家か。なかなか大きいな」
キースがここに住むことをわくわくするように見上げていた。
遠くに山が重なるように屹立し、周りは畑や更地が広がり、その間を砂利の混じる道がタンポポや雑草に飾られながら通っていた。
家がポツポツと広い田園で小さな島が浮いてるようにところどころに建っていた。
ユキの家は小高い丘の上に小山を背にしてどんと構えていた。
純日本風の二階建て、庭が広く、周りは低木で囲ってあった。
玄関の鍵を開け、ドアをスライドしてユキは家の中に入った。
二人は玄関でまず首だけつっこんだ。
入るなともいえず、手招きでカモーンと合図すると、いそ いそと土足のままあがりこんでしまった。
「ちょっと、靴、靴脱いで。日本は家の中で靴履かないの」
二人は顔を見合わせて靴を脱ぐ。
家にあがれば、体を低く構えて、鼻をヒクヒクと動かし、匂いを確かめるように辺りをキョロキョロしていた。
その行動は見 知らぬところを警戒している犬や猫を連想させた。
「日本の家が珍しいのね」
ユキが一通り家の中を案内してやった。
掛け軸を床の間に飾った畳の部屋で、トイラとキースの動きが止まる。
畳の匂いが心地いいのか、目を瞑って、鼻で深く息を吸い込んでいた。
「森の匂いに似ている」
トイラが小さく呟いた。
案内が終わると、居間のソファーに二人は大人しく腰掛け、暫くじっとしていた。日本風の家でありながら、モダンを取り入れて居間は洋風の作りになっている。
ダイニングキッチンがアルファベットのLの字型に居間と続いていた。
二人は被告人が判決を待つようにこの後どうなるかハラハラしていた。
ユキはどうすべきかと、二人を目の前に腕組をして仁王立ちをしている。
「僕達、迷惑かけないから。安心して」と懇願の目でキースが言った。
トイラは黙ってじっとユキを見つめていた。
「とにかく、この状況をパパに説明してもらわないと、私だって何をすべきなのかわからないわ。パパどこにいるのかしら?」
「博士なら、今日僕達と入れ違いにカナダに行ったよ」とまたキースが言った。
「えっーーーーー、嘘! 聞いてない」
ユキの素っ頓狂な声で家が揺れる勢いだった。
「突然だったんだ。でも俺達がユキのことちゃんと守るように頼まれたから、だから心配しなくていい」トイラがなだめるように言った。
「昨日までパパは何も言わなかったわ。こんな大事なことどうして黙っているのよ」
ユキは納得できなかった。
しかも連絡先もわからない。
この二人はなぜここに来ないといけなかったのか。
訳を知っている父が居ない今、ユキは力が急に抜けてへなへなと床に座り込んでしまった。
「大丈夫かい、ユキ」
突然側に駆け寄り、心配してユキの体を支えようとしたのはトイラだった。
ユキの体がふわっと持ち上がったかと思うとトイラはお姫様抱っこしてソファーに座 らせてやった。
キースが肩を震わせて笑っている。
そしてまた急にプイッと顔をそらしてトイラは冷たい態度になった。
ただ訳がわからず放心状態のユキだった。
一体これから何が始まるのだというのだろうか。
それは毛糸が絡んでしまって一本の糸になれず、困りながら何度も引っ張ってイライラする感情に似ていた。V26Ⅳ美白美肌速効
解こうにも解けない。
一層のことハサミでざくざく切って捨てたらどんなに気持ちがいいだろうと、ごっそりと目の前の二人をもちあげて、玄関から投げ捨てたくてたまらない衝動にかられた。
「なあ、ユキ、お腹空いた」
キースは子犬のように目をウルウルさせ、まるで尻尾を振っているように甘えた声を出していた。
ユキは父親と二人暮し。
母親は物心ついた時にはもうこの世に居なかった。
父娘でずっと暮らしてきて、家事は殆どユキがやっている。
料理を作るのは苦では ない。
だが、この二人は何を食べるのかさっぱり分からなかった。
とにかく家にあるもので料理をこしらえてやった。
「いい、食べるときは、日本では両手を合わせて『いただきます』というのよ」
言われたとおりにする、トイラとキース。
その動作がかわいい。
素直に言うことを聞く二人に驚きつつも、ユキは母性本能をくすぐられた。
暫し二人を見つめ てほんわかな気分が漂う。
次の瞬間、我に返って恥ずかしさがこみ上げ、自分の頬を両手でぴしゃりと叩き、その感情を否定した。
この二人に飲み込まれてはだめと、気を取り直してユキも箸を持った。
ご飯と、味噌汁、焼き魚に、煮物、そういったものが食卓に並んでいる。
トイラとキースはもの珍しそうに眺めている。
「これ、何? 食べられるの。たまねぎ入ってないよね。僕もトイラも玉葱は嫌いなんだ」
キースは柔らかな物腰のくせに、小さなことをいちいち気にしそうな細かさが目に付く。
しかしトイラは何も言わず黙々と食べだした。箸も結構上手く持っている。ユキの作った料理を一心不乱に食べていた。
その食べっぷりはユキは見ていて気持ちよかった。
「玉葱が食べられないって、二人とも子供ね、私なんて玉葱大好きよ」
「へぇ、魚って結構おいしい。これって猫の食べ物だと思ってたよ」とまたキースが言った。
ユキはその一言で欧米の食生活を振り返った。
確かに魚を食べる人は少なく、肉が主食だというくらい肉ばっかりだったと自然と頷いていた。
その間にトイラは骨まで食べたのか、あっと言う間に魚の姿が消えていた。
「やだ、トイラ、魚の骨まで食べたの。よく食べられたわね」
キースはそれを聞いてまたクスクスと肩を震わせていた。
キースはよく喋る。
人懐こい。
子犬が遊んで欲しいのか、自ら玩具を差し出すように会話がぽんぽん出てくる。
それとは対照的に口数少ないトイラ。
何もかも自 分のペースを乱さず我が道を行っていた。
「ねぇ、二人は友達なの? だから一緒に留学してきたの?」
ユキはまだ二人のことについて何一つわからない。いろんなことを聞き出したくてたまらない。
「俺が、こいつと友達?まさか」
そういったのはトイラだった。
「おいおい、僕達友達じゃないか。付き合いも長いし、まあ特別仲がいいって訳でもないけど、知らない仲でもないだろう」
キースはおどけて言った。
「ちょっと、待って、じゃあ二人がここに居るのは偶然って事なの?」
ユキは二人のやりとりが飲み込めない。
英語が母国語なのに二人で流暢に日本語で話しているのも不思議だった。
「話せば長くなる」とあたかも面倒くさいとでも言うようにトイラが答えた。
「だからそのうちわかるって。それまでこのままで楽しもう。こういう感じ、願わくば、しばらくこの状態が続いて欲しいよ、なあ、トイラ」
いちいち引っかかるような言葉をキースは使う。
ユキは首をかしげていた。
この二人にはついていけないと軽くめまいがするほどお手上げだった。
夕食の後、洗い物を手伝ってくれたのはトイラだった。
何も言わず黙々と片付けている。時折視線を感じてユキが振り向けば、慌ててプイッと顔をそらす。トイラは 何 を考えているかユキには全く理解不能だった。
キースがそれを見ては肩を震わせるように笑っているのも不可解だった。
──この二人は一体何者?
謎ばかりが膨らみ、はがゆい憤懣も比例するように益々募る。
疑惑の目つきでトイラとキースを交互に見ていた。 男根増長素
噂すら立たず、それは突然に、学校にぱっとその朝、降って湧いたごとくやって来た。
担任の後に続いて教室に入ってきた転校生。
ざわめいていた教室が一瞬にシンと静まり返る。簡約痩身
誰もが目の前の光景に信じられないとばかり目を見開いた。
「今日からこのクラスに入ることになった、トイラとキースだ」
なんと二人は外国人。
この高校始まって以来の海外留学生だった。
クラス中、鳩が豆鉄砲を食ったようになっていた。
ただ一人、春日ユキだけは冷静だった。というより、冷めた目でちらりと見てはため息を小さく吐いて、窓の外の空に目をやった。
まるで転校生二人を毛嫌い しているようだった。
これには彼女なりの訳があった ──。
クラス中が転校生に注目する中、一人だけそっぽを向くユキのしぐさは、転校生二人の関心をひいた。
二人は慎重な面持ちでユキを見つめる。
「見ての通り、彼らは外国人だ。日本にはまだ慣れていない。それじゃ自己紹介を一応してくれるか。Please introduce yourself」
このクラスの担任の村上先生は英語担当。
二人も留学生が入ってきたのも、担任がまず英語を理解できるというのが考慮されたのだろうか。
そうしてもう一人 都 合のいい生徒がいる。
それが春日ユキ──。
春日ユキは直感で感じ取っていた。
自分がこの二人の面倒を押し付けられるということを。
そしてそれが自分にとても都合の悪いことだった。
その瞬間、鼓動 が不規則に波打ち、不安という振動を発生させ、神経を伝わって体の隅々までそれがいきわたる。
空気がないくらい息苦しい状態に陥った。
ユキは無意識に膝元 で強くスカートの裾を握り締める。
「I am Toyler」
転校生の一人が『俺はトイラだ!』とでもぶっきらぼうに叫ぶ。
すらりとした長身。
黒髪。
肌は日に焼けたような小麦色。
目は 宝石のような緑の光が漏れる。
まさにエメラルドの輝き。
美しいがそれは清涼さと非情さを同時に持ち合わせていた。
冷たく悪びれた態度でクラスに挑戦するよ うに鋭く睨みを利かす。
まるで野獣にでも睨まれているかのごとく、クラス中緊張に包まれた。
自分の名前だけ冷然に言うと、後は面倒くさそうにプイっと首を横に一振りした。誰も近寄るなと警告している様だった。
「この子はトイラという。出身はカナダだ」
先生は顔を引きつらせ、気を遣ってフォローをいれる。
これは先がやっかいだとでも言わんばかりに苦笑いしながら、もう一人に手を差し出して自己紹介を促 した。
「ボク …… ハ キース デス。カナダ カラ キタ。 ヨロシク」
キースはたどたどしいながらも日本語が話せた。
トイラと違ってにこやかで笑顔を振りまいている。
その笑顔はうらうらと温かい陽をふりまいてるようだった。
こちらも背は高く、髪は少し長めの金髪、白い肌、目はブルーといった王子 様のような風貌。
女子生徒はあっという間にその美しさに魅了され、目はとろんとしては口元がほころび、キースの笑顔につられて笑みを浮かべてい た。
トイラはキースのその媚びた態度が気に入らなさそうに、隣で鼻をフンっと鳴らしていた。
そして春日ユキをちらりと一瞥する。
冷たいはずの緑の目は、そのとき、懐かしいものを見るかのように優しい眼差しとなっていた。
張り詰めていた気持ちが突然緩み、トイラの足が前に出る。
キースは手を差し伸べダメだと知らせる。
はっとして、トイラは下唇を少し噛んでうつむいた。
それは注意されて鬱陶しがっているようにも、心から湧き出る感情を必死で押さえつけ、耐えてるようにもみえた。
春日ユキは二人の自己紹介など聞いてもおらず、どんよりと暗く、ここに居たくないと頭を垂れて、机の上をおぼろげに見つめている。
先生が授業をしていた ときなら注意されるくらい、完全にその場に参加していない失礼な態度だった。
「日本語はそのうちなんとかなるだろう。それまで皆も手助けしてやってくれ。特に春日、お前この二人を宜しく頼むぞ。二人にも何かわからないことがあった らお前に聞けといってあるから、手伝ってやってくれ。なんせお前は帰国子女だしな」
春日ユキはこれを恐れていた。
『帰国子女』とこの言葉を聞く度に耳をふさぎたくなる。
その言葉と同時に冷たい視線が放射線状に体に突き刺さるのを感じていた。
ひそひそと話し声が聞こえると、自分のことを悪く言われているようでさらに被害妄想も強まる。
最悪の瞬間だった。
帰国子女 ──どれだけ違った目で見られたことだろう。
春日ユキの脳裏には嫌なことが次々と映し出される。
英語を話してみろとからかわれ、『アメリカでは…… 』と話始めれば、知ったかぶりの生意気とはやし立てられ、アメリカと日本を常に比べるお高い奴とまで言われる始末。
挙句の果てに、はっきりと自分の意見を言えば、生意気でアメリカナイズされた態度が鼻につくと虐められる毎日。
そこへ二人の留学生の面倒。
またクラスの反感を買うことが目に見えていた。
これが二人の転校生を歓迎できない理由だった。
また虐めの種が増えることを懸 念していたのだった。
案の定、キースを狙っている女子生徒達からは、もうすでに挑戦状を叩きつけられているのか、鋭い視線を受けていた。
先生が教室の後ろに座るユキの席を指差している。
ユキはそのとき初めて自分の両隣が空いていることに気がついた。
どうしてそんなに上手いことその場所が 空いているのだろうとユキは突然首をかしげた。
前日まではこんな席だっただろうかと、思い出せないくらい奇妙な感覚が走った。
そんなことをゆっくりと考える時間も与えられぬまま、ユキの左側ちょうど外が眺められる窓際の一番角の席、そこにはトイラが座り、反対の右側に はキースが座った。
「ユキ …… ヨロシク」
キースが様子を伺いながら、笑顔で親しみを込めて話しかける。
ユキは適当に愛想笑いを返した。そのユキの態度はキースには物足りないのか、がっかりとし た表情を浮かべた。
だが仕方ないと諦 めたように、首を縦に振ってはうんうんと一人で納得するように頷いていた。
その態度でユキのキースの第一印象は『変な人』だった。
苦手なタイプかもしれないと、ユキは顔を背けた。
次にトイラに視線を移した。
一応、義理でも挨拶すべきだろうかと、目だけでも合わせておこうと顔を覗き込んでみた。
左側の窓際に座ったトイラはユキを完全に無視しようとしているのか、全くユキに視線をむけなかった。V26即効ダイエット
しかしそれはどこか不自然だった。
妙にユキを意識して、本当は見たい気持ちを抑え、我慢するかのように葛藤していた。
トイラは机に手を置くと、苛立ってるのか、 爪を立てて引っ掻くしぐさをした。
正反対の性格の二人。
ユキにはまるでトイラが気まま な猫で、キースが人懐こい犬に見えた。
ユキは怖いもの見たさなのか、暫くトイラから目が離せない。
焦点も合わさずに前をじっと見つめるトイラ。
その時、彼の緑の目がユキの記憶をつつくように刺激する。はっとして、ユキの肩がかすかに びくっと動いた。
美しい目の色はどこかで見た草原の輝きを思い起こさせ、埋もれていた記憶の中からバブルのように何かがぷわんと浮かびあがる。
その中で、風がやわらかく体を包み込み、ユキはそれを抱くように胸で手を抱き合わせている。
草木をすり抜けた一陣の風と共に黒いものが現れ、それはユキの頬を愛しく触れた。
その記憶の中の人物のビジョンがはっきりでてこない。
漠然としたイメージの中、視界を不透明なフィルムで隠されたようだった。
ユキはどうしても思い出し たかった。
このままでは中途半端で脳が不完全燃焼を起して掻き毟りたいほどに気持ち悪い。
トイラの緑の目に一層釘づけになって、体ごと前にのめり込んでい た。
突然トイラが睨みをきかせてユキに視線を合わせた。
その時恐ろしいほど近くに緑の目を感じた。
ユキは知らずとトイラの顔の側まで迫っていた。
ユキは触ら れたカタツムリのように慌てて体を引っ込める。
何をしてたんだと、自分でも急に恥ずかしくなり、その後ずっともじもじと下を向いていた。
トイラは窓に顔を向け、ユキに気づかれないようにひっそりとため息をついた。
二人の転校生の噂はあっという間に学校中に広まり、2年A組の教室は休み時間になる度に、見世物小屋となった。
見物料でもとりたくなるほどだった。
「また来たわ。次々と来るもんだわ。外国人なんて今の時代珍しくもないのに」と、ユキは冷めた目で少し馬鹿にした。
自分は違う人間だとでも主張したかったのか、見物人の目の前で得意げについ英語を話してしまう。
「Say, Kieth. Why did you come to Japan? Moreover, it's a very boring place」
(ねぇ、キース、あなた達なぜ日本に来たの。しかもこんなつまらないところに)
「ユキ、ニホンゴ デ ダイジョウブ。ニホンゴ デ ハナシテ。ベンキョシタイ」
キースは典型的な外国人訛りの日本語だったが、その訛りが却って作り物のように聞こえるくらい、日本語は上手に話せるようだった。
「キース、日本語上手いんだね。ねぇ、トイラも話せるの?」
「トイラ ニ チョクセツ キイテミテ」
なぜかキースはクククと愉快とでもいうように声を押し殺して笑っていた。
この笑いに何か意味でもあるのだろうか。
ユキは言われるままにトイラに質問してみた。
トイラは面倒くさそうに振り向くと、やはりまたユキを睨んでいた。
「Toyler, please don't give me a mean look. Do you hate me?」
(トイラ、お願い、私を睨むのはやめて。私のことが嫌いなの)
ユキは咄嗟に英語で話していた。
やはりここでもキースは肩を震わせて笑いを堪えていた。
ユキには何がおかしいのか全くわからない。
それよりもトイラのこの意地悪そうな性格にはうんざりだった。
「あら、春日さん、さすが帰国子女ね。英語でペラペラと見せ付けてくれること」
そう言って現れたのは、このクラスでもちょっと突っ張ってる矢鍋マリだった。
先頭に立ってユキをいじめるリーダー的存在である。
「ヤア、キミ ハ ダレ?」
キースがにっこりと白い歯をみせて話しかけた。
「あっ、私はマリ。あの…… その…… 」
矢鍋マリは答えにつまった。
キースの心に沁みるようなやさしい笑顔が、ピーンと突っ張っているきついマリの性格をも変えた。
マリは小魚のように口をパクパクしながら慌てている。
気の強い、弱みなど見せぬ女だが、やはりこの手の王子様には弱いらしい。
いわゆるツンデレタイプなんだろう。
キースの魅了させる笑顔は、魔法をかけたようにマリを恥じらいのある乙女に変身させた。キースはマリから言葉を巧みなく引き出す。
それに乗せられてマリは上機嫌にキースとの会話に声を弾ませていた。
ユキはほっとした。
このマリほど陰険でユキを面と向かって虐めるものはいない。
ここでキースが入り込んでくれて、ワンクッションの役割をしてくれたことに深く感謝した。
矢鍋マリがキースと楽しそうに話している中、周りに自然と女子がそれにあやかろうと集まってきた。
キースは集まってきた女の子全員に愛想を振りまいている。自分がモテルことをよく知っているかのようだ。
しかしそれを鼻にかけることはなく、あくまでも優しい気の遣う男として振舞っている。
ユキはキースのその態度をみると、何か意図があるように思えてならなかった。
そしてまたトイラに視線を向けた。
「ねぇ、トイラ、さっきの続きだけど、私のことそんなに嫌い?」
今度は日本語で問いかけてみた。
トイラは深い湖の底に神秘的な何かが沈んでいるような目をしてユキをじっと見つめていた。
先ほどの冷酷さは感じられず、優雅な光を発している。
──美しい緑、まるで宝石のエメラルドのよう。
『エメラルド』と例えたその時、ユキのずれてたピントが合った。
──私、この目を知っている。どこかで見たことがある。
その時トイラが口を開いた。
「オマエ ノ コト キライ デハ ナイ。 オレ ハ コウイウ オトコ ダ」
トイラも日本語が話せる。
やはりその訛りは典型的な外国人アクセント。
でもどこか変に聞こえた。
一度うつむいて表情をリセットしたのか、再び顔をあげたとき、また仏頂面になってきつく睨み返してくる。
嫌いではないのに、この極端な態度は何だ。
ユキの口はただぽかんと開いていた。
放課後、整理に困るほどの女子生徒が押し寄せるように窓や戸口でひしめきあっていた。
キースは「ハーイ」と手を振って愛想良く構っている。
その度に『キャー』と歓喜が湧き上がっていた。
もうアイドルであった。
「さてと、あなた達ちゃんと家まで帰れるよね? それじゃ あまた明日ね」
やっと離れられると思ったのもつかの間、次の瞬間ユキの顔が引きつった。
「マッテ ユキ、イッショニ カエロウ。 トイラ、 オマエも カエルゾ」
キースの声で、トイラは命令を受けたロボットのように立ち上がった。
そして二人はユキの後をついていく。
その後にも、女子生徒達がぞろぞろついてきた。
先頭を歩くユキは観光で案内する添乗員の気分だった。
学校の門を出たところでキースが振り返り「バイバイ」と手を振ると、女子生徒たちはこれ以上ついて来るなと察知したのか、その場で名残惜しそうに手を振って見送っていた。
静かに3人で歩いているときだった。V26Ⅲ速效ダイエット
「ふー疲れた。日本語話せないフリするのもしんどいな」
「えっ、フリ?どういうこと」
突然溝に足を取られたようにがくんと体が傾きながら、ユキは顔をしかめて振り返った。
なんとキースは普通の日本人と変わらぬほどの発音で日本語を話している。
いや、もうそれは日本人そのものだった。
「まあね、僕達は言葉には困らないってことさ、なあトイラ」
キースに言葉を振られたが、そんなことどうでもいいというようにトイラは無言のままだった。
「ということは、トイラもフリをしているってこと?」
ユキは珍種の動物を見つけたような驚きの顔でトイラを見つめた。
「そっ、そういうこと」
キースがトイラの変わりに答えてやった。
「どうして、そんなことする必要があるの? 話せるんだったら普通にすればいいじゃない」
「だから、こっちにも訳があるってこと。それに皆だって僕達が日本語ペラペラだって思ったらつまんないだろう。ちょっとした演出さ」
ユキは顎をがくっと落とすように呆れた。
この二人はどうも何かをたくらんでいる。
自分は巻き込まれたくない。
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「そう、わかったわ。好きにすればいい。私も聞かなかったことにするから。それじゃ私こっちだから」
走りさろうとしたユキ。キースは狙った獲物を逃がさないかのごとく、素早くユキの腕をつかんだ。
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ユキは耳を疑った。
ソフトに笑っているキースの顔が却って不気味にみえた。
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恐る恐るユキは聞いた。
「近所じゃないよ」とキース。
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「ユキの家」トイラがぼそっと言った。
「えーーーーーーー、嘘でしょ。どうして私の家? なんで」
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ユキが海外で過ごしたのもこの父親が海外の大学で働いていたからだった。
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トイラがぼそっと言った。
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さっきまでクスクス笑っていたキースが突然影を落としたように暗く沈んでいる。
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「へぇ、ここがユキの家か。なかなか大きいな」
キースがここに住むことをわくわくするように見上げていた。
遠くに山が重なるように屹立し、周りは畑や更地が広がり、その間を砂利の混じる道がタンポポや雑草に飾られながら通っていた。
家がポツポツと広い田園で小さな島が浮いてるようにところどころに建っていた。
ユキの家は小高い丘の上に小山を背にしてどんと構えていた。
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「ちょっと、靴、靴脱いで。日本は家の中で靴履かないの」
二人は顔を見合わせて靴を脱ぐ。
家にあがれば、体を低く構えて、鼻をヒクヒクと動かし、匂いを確かめるように辺りをキョロキョロしていた。
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「日本の家が珍しいのね」
ユキが一通り家の中を案内してやった。
掛け軸を床の間に飾った畳の部屋で、トイラとキースの動きが止まる。
畳の匂いが心地いいのか、目を瞑って、鼻で深く息を吸い込んでいた。
「森の匂いに似ている」
トイラが小さく呟いた。
案内が終わると、居間のソファーに二人は大人しく腰掛け、暫くじっとしていた。日本風の家でありながら、モダンを取り入れて居間は洋風の作りになっている。
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二人は被告人が判決を待つようにこの後どうなるかハラハラしていた。
ユキはどうすべきかと、二人を目の前に腕組をして仁王立ちをしている。
「僕達、迷惑かけないから。安心して」と懇願の目でキースが言った。
トイラは黙ってじっとユキを見つめていた。
「とにかく、この状況をパパに説明してもらわないと、私だって何をすべきなのかわからないわ。パパどこにいるのかしら?」
「博士なら、今日僕達と入れ違いにカナダに行ったよ」とまたキースが言った。
「えっーーーーー、嘘! 聞いてない」
ユキの素っ頓狂な声で家が揺れる勢いだった。
「突然だったんだ。でも俺達がユキのことちゃんと守るように頼まれたから、だから心配しなくていい」トイラがなだめるように言った。
「昨日までパパは何も言わなかったわ。こんな大事なことどうして黙っているのよ」
ユキは納得できなかった。
しかも連絡先もわからない。
この二人はなぜここに来ないといけなかったのか。
訳を知っている父が居ない今、ユキは力が急に抜けてへなへなと床に座り込んでしまった。
「大丈夫かい、ユキ」
突然側に駆け寄り、心配してユキの体を支えようとしたのはトイラだった。
ユキの体がふわっと持ち上がったかと思うとトイラはお姫様抱っこしてソファーに座 らせてやった。
キースが肩を震わせて笑っている。
そしてまた急にプイッと顔をそらしてトイラは冷たい態度になった。
ただ訳がわからず放心状態のユキだった。
一体これから何が始まるのだというのだろうか。
それは毛糸が絡んでしまって一本の糸になれず、困りながら何度も引っ張ってイライラする感情に似ていた。V26Ⅳ美白美肌速効
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一層のことハサミでざくざく切って捨てたらどんなに気持ちがいいだろうと、ごっそりと目の前の二人をもちあげて、玄関から投げ捨てたくてたまらない衝動にかられた。
「なあ、ユキ、お腹空いた」
キースは子犬のように目をウルウルさせ、まるで尻尾を振っているように甘えた声を出していた。
ユキは父親と二人暮し。
母親は物心ついた時にはもうこの世に居なかった。
父娘でずっと暮らしてきて、家事は殆どユキがやっている。
料理を作るのは苦では ない。
だが、この二人は何を食べるのかさっぱり分からなかった。
とにかく家にあるもので料理をこしらえてやった。
「いい、食べるときは、日本では両手を合わせて『いただきます』というのよ」
言われたとおりにする、トイラとキース。
その動作がかわいい。
素直に言うことを聞く二人に驚きつつも、ユキは母性本能をくすぐられた。
暫し二人を見つめ てほんわかな気分が漂う。
次の瞬間、我に返って恥ずかしさがこみ上げ、自分の頬を両手でぴしゃりと叩き、その感情を否定した。
この二人に飲み込まれてはだめと、気を取り直してユキも箸を持った。
ご飯と、味噌汁、焼き魚に、煮物、そういったものが食卓に並んでいる。
トイラとキースはもの珍しそうに眺めている。
「これ、何? 食べられるの。たまねぎ入ってないよね。僕もトイラも玉葱は嫌いなんだ」
キースは柔らかな物腰のくせに、小さなことをいちいち気にしそうな細かさが目に付く。
しかしトイラは何も言わず黙々と食べだした。箸も結構上手く持っている。ユキの作った料理を一心不乱に食べていた。
その食べっぷりはユキは見ていて気持ちよかった。
「玉葱が食べられないって、二人とも子供ね、私なんて玉葱大好きよ」
「へぇ、魚って結構おいしい。これって猫の食べ物だと思ってたよ」とまたキースが言った。
ユキはその一言で欧米の食生活を振り返った。
確かに魚を食べる人は少なく、肉が主食だというくらい肉ばっかりだったと自然と頷いていた。
その間にトイラは骨まで食べたのか、あっと言う間に魚の姿が消えていた。
「やだ、トイラ、魚の骨まで食べたの。よく食べられたわね」
キースはそれを聞いてまたクスクスと肩を震わせていた。
キースはよく喋る。
人懐こい。
子犬が遊んで欲しいのか、自ら玩具を差し出すように会話がぽんぽん出てくる。
それとは対照的に口数少ないトイラ。
何もかも自 分のペースを乱さず我が道を行っていた。
「ねぇ、二人は友達なの? だから一緒に留学してきたの?」
ユキはまだ二人のことについて何一つわからない。いろんなことを聞き出したくてたまらない。
「俺が、こいつと友達?まさか」
そういったのはトイラだった。
「おいおい、僕達友達じゃないか。付き合いも長いし、まあ特別仲がいいって訳でもないけど、知らない仲でもないだろう」
キースはおどけて言った。
「ちょっと、待って、じゃあ二人がここに居るのは偶然って事なの?」
ユキは二人のやりとりが飲み込めない。
英語が母国語なのに二人で流暢に日本語で話しているのも不思議だった。
「話せば長くなる」とあたかも面倒くさいとでも言うようにトイラが答えた。
「だからそのうちわかるって。それまでこのままで楽しもう。こういう感じ、願わくば、しばらくこの状態が続いて欲しいよ、なあ、トイラ」
いちいち引っかかるような言葉をキースは使う。
ユキは首をかしげていた。
この二人にはついていけないと軽くめまいがするほどお手上げだった。
夕食の後、洗い物を手伝ってくれたのはトイラだった。
何も言わず黙々と片付けている。時折視線を感じてユキが振り向けば、慌ててプイッと顔をそらす。トイラは 何 を考えているかユキには全く理解不能だった。
キースがそれを見ては肩を震わせるように笑っているのも不可解だった。
──この二人は一体何者?
謎ばかりが膨らみ、はがゆい憤懣も比例するように益々募る。
疑惑の目つきでトイラとキースを交互に見ていた。 男根増長素
2012年8月10日星期五
聖なる王国
揺れる、揺れる、揺れる。
何度も慣れようと思ったけけれど、この独特の揺れには全然慣れることが無い。むしろ、悪化する一方だ。
それに、この息苦しさと蒸し暑さと言ったら――。
「よし、そろそろいいだろう」RU486
ゼノンの声と共に揺れが収まる。同時に体がふわりと浮いた。
「悪かったな。もっといい方法があれば良かったんだが」
目の前に大きな穴が開けられ、そこから青空がのぞく。メイは穴を目指して全力で頭を外へと突き出した。
「も、もうダメ……。気持ちわる……」
汗だくで青い顔をしたメイを見て、ゼノンが袋の中に手を突っ込み、持ち上げるようにして外へと出してくれた。
数時間ぶりに自由の身となったメイは、草原の上に寝転がりながら何度も深呼吸を繰り返した。
(頭が、頭がグラグラするわ……)
「姉さん、大丈夫?」
ぐわんぐわんと歪む青空の端から、カミュの頭が現れた。
「ほら、これ飲んで」
カミュが頭を抱え上げ、水を飲ませてくれる。
冷たい水が喉を通る感覚に、酷い吐き気も少し和らいだ気がした。
「少し、ここで休んでいくか。この辺りは酪農地帯だから、誰かに見られたとしても牛か山羊だ。安心していい」
心地よい風が、草原を駆け抜ける。
メイは「休憩」の言葉を聞いてすぐ、ぐったりと目を閉じた。
メイたちはゼノンの案内によって、無事にシェルジア王国入りを果たした。
どういう経緯で入国したのかというと、話は昨日にさかのぼる。
「入国できないってどういうことだ! 話が違う!」
ゼノンに掴みかかろうとする弟を止めようと、メイが間に割って入る。
「カミュ、落ち着いて……!」
シェルジアへと向かうことを決意した二人はゼノンの用意した馬に乗り、街道を避け小道を使いながら一気に国境まで駆け抜けた。馬にすら乗ったことが無かったメイはカミュに乗せてもらい、しがみつくようにしてなんとかここまでやって来たのだ。
ヴィアーサはかなりシェルジアへと侵攻していたらしく、数年前までシェルジア領だった土地にはヴィアーサの旗が立てられていた。そこかしこに国境付近を警戒するヴィアーサ軍の駐屯地があり、燃え盛る火の数が兵の多さを物語っていた。
メイたち三人はヴィアーサ軍が陣を敷く平原地帯を避けるために迂回し、道の無い荒れ地を進んだ。時間帯が明け方だったことと、敢えて歩くのも困難な道を選んだおかげで、一行は人に見つかることもなく正午には現在の国境線となる砦近くの高台に到着したのだった。
『このまま入国することはできない』
シェルジアを目と鼻の先にした所でゼノンが言った言葉は、二人に衝撃を与えた。決死の覚悟でついてきただけに、彼を信用していないカミュの怒りは大きい。睨みあう二人の間に入ってみたものの、メイも正直不安だった。
「入れない、とは言っていない。ただ、今のままでは駄目だ、ということだ」
冷静なゼノンは怒りをあらわにするカミュに動じることなく、眼下にそびえ立つ砦を指差した。
「見ろ」
言われて二人は、ゼノンが指差す方角を見る。
国境防衛の要となる砦には、臨戦状態だけに武装した兵がわんさかいる。砦の両脇は黒々とした岩ばかりの高い崖がそびえ立っており、他からの侵入を拒んでいる。山岳部の谷間に造られた砦の中心にはぶ厚い鉄板でできた大門があり、そこから兵たちは国境を行き来しているようだった。
メイは生まれて初めて砦というものを目にしたのだが、威圧的な外観と時折り聞こえる兵士の号令、そしてピリピリとした雰囲気に、すっかり怯えきっていた。
(こ、こわい……)
闇の中を馬に乗せられ猛スピードで走るのも寿命が縮まるほどに怖かったが、この砦を通って行くのだと思うとその比ではない。砦の前に出ただけで絶対捕まるに決まっている。元より、あの中を歩ける気がしなかった。
「師団長クラスの奴らがごろごろいる。半端な誤魔化しでは通用しないということだ」
砦の様子を食い入るように見ていたカミュは起き上がると、ゼノンを睨みつけた。
「……俺に、どうしろと?」
シェルジアの黒騎士は、挑戦的ににやりと笑った。
「わかってるじゃないか、小僧」
最後の一言を聞いた瞬間、カミュが剣を抜いた。
「俺は小僧じゃない」
「や、やめて!」
緊迫した雰囲気に輪をかけるようにして殺気が広がり、メイの顔が青ざめる。
カミュはゼノンを殺気に満ちた目で睨みながら剣を収めた。
「他に呼びようがなかったからな。別に悪気はない」
言いつつカミュよりもずっと大人の男は、少し笑っている。こんな状況でよく冗談が言えるものだ。メイの心は不安で締め付けられ、今にも息絶えそうだった。
「俺はカミュ。ギルドで傭兵をしている。……あんたは何者だ」
メイは二人とも知っているが、彼らはお互い昨夜顔を合わせたばかりの初対面だ。初顔合わせの時から斬りあいをし、今もこうして睨みあっている。到底仲良くなどなれそうにないのが目に見えてわかる。
「俺はシェルジア王国黒騎士団近衛隊所属、ゼノン・ウルティエ・コルアノ・セルーダ。一応、君たちの味方だ」
ゼノンが差し出した手を、カミュは無視した。
「一応、か。言っておくけど、俺はあんたを信用してない。姉さんとどれほど親しいか知らないが、あんたら貴族のもめ事に巻き込まれるのはご免だ。あんたの力を借りるのは、シェルジアを出るまでだ。少しでも姉さんに危険が及ぶようなら……あんたを殺す」
暗褐色の瞳が鋭さを増してゼノンを見据える。
――カミュは、本気だ。
殺伐とし過ぎていて、メイは男たちの会話に入ることもできない。ただ殺気を放つ二人の男を見上げながら、石のように固まっていた。
「それで、俺はどうすればいいんだ? こんなところにいつまでもいる気はないんだ。さっさと説明してくれ」
少しだけ殺気が緩和された間に、メイは深呼吸をする。空気が重すぎて、今まで息をしている感覚が無かったからだ。
「ああ、わかっている。……お前には、注意を引きつける囮(おとり)になってもらう」
ゼノンは二人に背を向けると、砦とは反対方向の平原を指差した。
「ヴィアーサの連中は、シェルジアが仕掛けてくるんじゃないかと近距離に陣を張っている。シェルジアもシェルジアで、無駄に兵を揃えて砦を警備している。何か事が起きれば、すぐにでも両軍が動き出すような状況だ。……この意味が、わかるか?」
自分にきかれているとは思っていなかったが、メイは心の中で「全然わかりません」と答えていた。
「俺がヴィアーサを撹乱させ、シェルジアの奴らを砦から出す。二つの軍をぶつからせて、その隙にあんたが姉さんを連れて国境を超える。……だろ?」
カミュの回答に、ゼノンは意味深に笑った。
「まあ、大方そんなところだ。頼んだぞ、小僧」
「てっめぇ!」
今度は明らかにわざとだ。
青筋を浮き立たせる弟をなだめながら、メイはゼノンの言った作戦をなんとか理解しようと試みていた。
(カミュが囮になるって……危険なことじゃないわよね?)
不安丸出しのメイを見たゼノンは、頭の上にぽんと手を乗せ、言った。
「心配するな。君は俺に任せてくれればいい」
彼の声には魔道か何かの効果があるのだろうか。
不安と緊張で締め付けられていた心が、和らいでいく。大きくて温かな手の主を見上げると、彼はふ、と微笑んだ。
その瞬間、メイはいきなりぐいっと腕を引っ張られた。
「きゃっ」
「姉さんに触るな!」
危うく転びそうになったところをカミュに抱きとめられる。
「カ、カミュ……?」
鬼の形相のカミュが、メイの肩を抱えたままゼノンを睨みつける。
メイはなんだかとっても作戦がうまくいくような気がしなかった。
(ふ、不安だわ……)
こうして幸先不安な越境作戦の幕が切って落とされたのだった。
辺りが暗くなってきたのを見計らって、布でぐるぐる巻きにされた上に袋に詰められたメイは、他の荷物と同じように馬車に積みこまれた。中絶薬
「それでは、後を頼む」
「お任せを」
二人の男が最後に交わした言葉を合図に、馬車がゆっくりと歩き出す。厚手の布でコーティングされているメイは身動きを取ることすらできず、息苦しさと暑苦しさですでに気を失いそうになっていた。さらに最悪なことに荷運び用の馬車だからなのか、思いのほか揺れが酷い。葉巻状態のメイは、何の抵抗もできずごろごろと荷と荷の間を転がるしかない。
(うぅ、気持ち悪い……)
どのくらいの間これを耐えなければならないのかわからないメイは、転がりながらげんなりしているのだった。
カミュがヴィアーサ軍の元へ向かったあと、メイは懐かしい顔と再会した。
ゼノンの執事、ファンデルである。
ファンデルは相変わらずメイに対しても低い物腰で接し、国王暗殺容疑がかけられていることなどまるで知らぬような素振りをしてくれた。穏やかな笑みを浮かべながら、ファンデルはメイを隠し、砦を抜ける準備を整える。そこには、迷いも疑いも何もなかった。あるのは、ゼノンへの絶対的な忠誠。それだけだった。
今思えば、ゼノンはこうなることがわかっていて、全て事前に準備を整えていたということになる。恐ろしく頭の切れる男だということを、メイは改めて目の当たりにしていた。
「おい、止まれ!」
不意に聞こえてきた大声に、メイの心臓が口から出そうなほどに飛び跳ねる。
とうとう、あの大門の前までやって来たのだ。
「このような時刻に何用だ。答えろ」
武装した兵が馬車の周囲を取り囲む、重い足音が聞こえる。
気持ち悪さも吹っ飛ぶほど、メイは緊張していた。
「無礼者。この紋章が見えぬか」
「――こ、これは……! し、失礼致しました! おい、門を開けてお通ししろ!」
何がどうなっているのか外の様子はわからないが、どうやら物凄い家系の紋章が、この馬車には付いているようである。名前を使えば国境を通れるというゼノンの話は、本当だったのだ。
「待て」
ほっとしたのも束の間、別の男の登場で、一気に雲行きが怪しくなってくる。
「陛下の事件があってから、厳戒態勢が敷かれている。身分の差なく、シェルジア入りする者は調べろとの指示がある。従って、伯爵家の馬車といえど、調べぬわけにはいかぬ」
馬車の後ろの扉が開かれた音がした。
つづいて誰かが乗り込んでくる、音。
メイは両目を固く閉じ、ガタガタ震えながら精霊に祈った。
(精霊ザイドよ。どうか、どうかお守りください……!)
「積み荷は全て、コルアノ・セルーダ様の私物にございます。手荒な扱いは、致しませぬよう」
ファンデルの声は冷静だ。
だが、メイは冷静でなどいられなかった。
すぐ隣にあった荷が持ち上げられ、外へ運び出されたからだ。
「これはなんだ」
「ヴィアーサのバルトガー男爵から火災時の救済の礼として贈られた品々にございます」
心臓の音で、ファンデルの声も聞こえなくなりそうだ。
「よし、次――」
「ルギーレ師団長!」
絶妙のタイミングで、事態は動き出した。
「ヴィアーサの陣営が、炎上してます!!」
「なんだと!?」
数人の兵士が、馬車の横を走り去っていく。
「一体、どういうことだ。事故か何かか?」
「わかりません。ですが、ヴィアーサは一度バルトガー邸炎上の際に我々に疑いをかけています。今回も、我々の仕業と考えなければ良いのですが」
馬車を調べる指揮官の男が、うーむと唸る声が聞こえた。
(ど、どうなっているのかしら。ヴィアーサ軍が燃えてるって……カミュがやったのかな)
外の様子どころか、今現在何が起きているのかもわからない。作戦を聞いても意味が理解できなかったメイは、何も知らないシェルジア兵と同じくらいに動揺していた。
「た、大変です! 白騎士の軍勢が、砦を目指して進撃してきます!」
「くっ、まだ休戦中なのだぞ! ここで戦を始めるわけにはいかん。門を開けろ! 頭の鈍いヴィル人に、話をつけねばならん。行くぞ!」
「は!!」
馬の嘶きと大勢の人間が走り回る音で、メイにも騎士たちがこれから出撃するのだということがわかった。
「そこをどけ! 出撃の邪魔だ!」
偉そうな男の一括で、馬車は再び動き出す。直後に大門を動かす歯車の回る音と、ぶ厚い鉄板の動く重苦しい音が鳴り始める。
大門が開いたのだ。
「ルギーレ師団、マウデル師団、出撃!」
男たちの大喝が砦全体に鳴り響く。角笛が吹き鳴らされ、大地が揺れるほどの音を立てて騎士たちが砦から走り去っていく。恐怖で震えあがっていたメイだったが、その音を聞いてはっと我に返った。
(やったわ……!! わたし、シェルジアに入れるんだわ!)
ぐるぐる巻きの文字通りお荷物の状態ではあったが、メイは見事、ザイド大陸北東部の聖なる王国、シェルジア入りを果たしたのだった。
「姉さんはうまく中へ入ったみたいだな……。良かった」
ゼノンの用意した油をヴィアーサ軍の陣営に撒きながら歩き回り、兵のふりをして身を潜ませ火を点ける。以前大陸南部の王国、アンバーナの軍隊に潜入し諜報員として数か月を生き抜いたことのあるカミュにとっては朝飯前の仕事だ。
当然、火を点けているのを誰かに見られるようなヘマも、逃走時に見つかるような失敗も侵さない。予想以上の大火となったおかげで混乱は大きく、逃げるのも簡単だった。慌てふためくヴィアーサ兵と夜の闇に紛れて移動し、ゼノンとの合流地点へとやって来た。
ほどなくして、岩陰からゼノンが現れる。
「……これを着ろ」
ゼノンはやってくるなり夜の闇に溶け込むような漆黒の布を投げてよこした。
「おい、これは――!」
「それを着たら、俺の後についてこい。……ヴィルもシェルも愚かだということを見せてやる」
赤く燃えたぎる炎に似た怒りを、カミュは見た気がした。
月明かりの下、平原に壁のようにずらりと並ぶ騎馬。白黒両極に別れた双方から、指揮官だけが前へと出る。
「休戦中であるにもかかわらず夜襲を仕掛けるとは、シェル人とはよほど下卑た手を好むものとみえる。腹いせに館を燃やしただけでは飽き足らず、くだらん復讐でもしに来たか」
白騎士の大将が憎々しげに言い放った。
ヴィアーサ側は、完全にシェルジアが火計(かけい)を行ったと思っているようだった。
「口のきき方には気をつけろ。我ら黒騎士はシェルジアの名を傷つけるような不名誉はせぬわ。休戦の誓約を遵守し、仇(かたき)である貴様らを討ち取ることをせずにいるというものを」
黒騎士の大将も負けてはいない。
互いに一歩も譲らず、睨みあいを続ける。
「火計を謀り、シェルジアを攻める口実を作ったのではあるまいな?」
「笑止。それは貴様らのことであろう」
すでにヴィアーサ陣営を襲った火は消し止められており、大将の合図一つで出撃できるよう、兵が隊列を成していた。
今まさに、戦が始まろうとしている。
かつて数え切れないほどの死闘が行われた戦場で、再び同じ歴史が繰り返されようとしていた。――その時だった。
騎馬の列の端が、隊列を乱して騒ぎ始めた。
「何事だ!」
その波は中心へと迫り来る。
号令前に戦が始まったか、はたまた敵の仕掛けた罠か。
双方に緊張が走った。
「あれは――黒騎士!?」
白黒真っ二つに分かれた壁の間を突き進んで走る、二騎の黒騎士。
先頭の黒騎士の姿を見て、シェルジアの大将は度肝を抜かれた。
「コルアノ・セルーダ!?」
指揮官たちの前でゼノンが馬を止めると、周囲をぐるりと槍の矛先を向けた白騎士に囲まれた。もう一人のマントのフードを被った黒騎士も、白騎士に囲まれ動きを止める。
「俺は、ここに殺し合いをしに来たのではない」
ゼノンは言うなり馬を下りて、腰に帯びていた二振りの剣を地面に置いた。
「なぜ貴公がここにいる、セルーダ卿。それに、一体これは何のつもりだ」
黒騎士たちも対抗するように白騎士に刃を向ける。
一人だけ丸腰のゼノンは、両手を上にあげながら指揮官たちに歩み寄る。
「事件の詳細を報告せよとの命令で帰還するところだ。それに……何のつもりだは俺の台詞だ、ルギーレ卿。これから何を始める気だ」
ゼノンの青い瞳が馬上のルギーレを見据える。ルギーレは見下ろしているはずが、完全にゼノンに押されていた。
「妙な言いがかりはよせ。私は戦を起こそうなどという気は毛頭ない。私は戦を止めに参ったのだ」
ルギーレの言い訳を聞いた白騎士の大将は、それを鼻で笑った。
「ふん。おかしなことを言う。私には、貴様が戦を仕掛けにここへ来たようにしか見えなんだが。……まあもっとも、コルアノ・セルーダ、貴様がこの場に来たことで全てが繋がったわ」
白騎士たちの殺意が、ゼノンに集中する。
「バルトガー邸といい、我が陣営といい、火計を仕掛けたのは貴様だな? 戦をする気でないと申して、聖なる白騎士を欺(あざむ)こうとは恐れ入った」
「貴様! それ以上我らを愚弄してみろ。次に口を開く時には、その首が飛ぶぞ!」
黒騎士がゼノンに刃を向ける白騎士を威嚇する。MaxMan
男たちの目が、ぎらりと光った。
「そうだ、セルーダ卿。貴公もこのような者達にむざむざと殺されに来たわけではなかろう。……もはや、話し合いは無用。勝利のみが正義を示すのだ!」
上がる咆哮。
解放された殺気。
燃え盛る松明(たいまつ)は、投げ捨てられた。
瞬間。
「やめろ!!」
ゼノンの怒声が、戦場の時を止める。
殺し合いが始まる一歩手前で、男たちは動きを止めた。
「戦をし、殺し合えばそれで気が済むのか! 殺し合うことでしかシェルもヴィルも正義を示せんのか!」
シェル人もヴィル人も、互いに刃を向けあったままゼノンの言葉に耳を傾ける。
ゼノンの言葉はシェル人のものでも黒騎士としてのものでも無かった。
彼の言葉には、国を隔てる色が無かった。
「ならば殺せばいい。俺を戦の元凶と言うのなら、俺を殺すことで正義が示せるというのならば、俺の命などくれてやる」
ゼノンは軍服を脱ぐと、地面に叩きつけた。
「さあ殺せ。俺は逃げも隠れもしない。俺を殺すならば、殺してみろ!」
「斬ってみろ」と言わんばかりに傷跡だらけの上半身をむき出しにしたゼノンは、無防備でありながらも覇気で戦場を圧倒していた。
彼の捨て身の行動に、誰一人として、動けない。
戦場に一陣の風が吹き抜けた。
「……戻るぞ」
最初に口火を切ったのはヴィアーサの白騎士だった。大将が剣を収めると、騎士たちもそれに倣い武器を下ろす。
危機は、去った。
「今回の件は、これで治めてやろう。しかしだ、コルアノ・セルーダ。次に会った時は容赦なく貴様を殺す。……覚えておくことだ」
「ああ、覚えておこう」
松明の炎に照らし出されたゼノンの表情は、先程の覇気が嘘のように哀愁を帯びていた。危機が去って安堵しているわけでもなく、緊張感から解放された後の放心でもなく。ゼノンの背は、大きな影を背負っていた。
「さすがだな、コルアノ・セルーダ。見事だ」
陣へと戻っていくヴィアーサ軍の後姿を眺めながら、ルギーレは満足そうにゼノンの肩を叩いた。王族の判断なしであわや開戦、というところで戦いを回避できたルギーレはご機嫌だった。
「さあ、我らも戻るぞ! 大戦で奴らを叩きのめすために、今は力をつけなくてはな!」
先陣を切るルギーレの後に続き、黒騎士も砦へと戻り始める。
ゼノンは地面に叩きつけた軍服を拾い上げると、肩に引っ掛けるようにして羽織った。
「これ、あんたのだろ?」
事の成り行きを見ていた黒騎士が、二振りの剣をゼノンに差し出す。
「ああ、悪いな」
ゼノンはそれを受け取ると、再び剣帯に装着した。
「あんた、よほどの派手好きか、もしくは頭のイカレた奴だな。普通、自分で火を放っておいてそれを自分だと言いに行くようなことはしない。それに、わざわざあんたが行かなくても戦にはならなかっただろ」
白騎士たちが去ったあとの草原で、二人並んでヴィアーサの陣を眺める。
騒動の前より見張りの数は増え、警戒色は強まってはいるが攻撃を受けたことへの報復を行うような動きは無い。火災があった後にしては、静かだった。
「俺は、自分の尻拭いは自分でする。……それに、今回の件で死人は出したくなかった」
「はっ、よく言うぜ」
フードを被った黒騎士は吐き捨てるようにして言った。
「不法入国させるために火計を使ったのは、あんたじゃないか。そのあんたが、死人は出したくないだと?」
「ああ、そうだ」
「戦にはならなかったものの、あれほどの大火だ。死人の一人や二人は出てるだろ」
「いや、それはない」
やけにきっぱりと否定するので、フードの下でむっとした顔をする。
このゼノンという男、自信家で腕が立ち、おまけにいい男ときている。身分も高く、洗練された言動には人を動かす迫力さえ備わっている。……なんだか、面白くなかった。
(シェルジアをとっとと脱出して、早くこいつと離れよう)
彼の本能が、この男を危険だと言っていた。
「セルーダ様、そろそろ我らも引きましょう」
「ああ、そうだな」
ゼノンのために馬を引いてきた黒騎士は、隣にいるフードを被った騎士を指差して尋ねた。
「この者は?」
黒騎士の軍服を着ているが、中身はヴィル人の、騎士でもなんでもないカミュである。
微動だにしていないように見えるが、内心ぎくりとするカミュ。ひっそり入国するのかと思いきや、さんざん目立った揚げ句に今は黒騎士の群れの中にいる。ばれれば命が危ういだけでなく、姉の命も危険にさらされるのだ。
「……ああ」
ところがこの大胆不敵なコルアノ・セルーダは、にこやかに笑うのだった。
「騎士に成り立ての新米小僧だよ。ヴィアーサの連中にビビってしまったもんだから、俺が国に連れて帰ってやるところさ」
どっと沸き上がる、男たちの笑い声。
カミュは血管がぶちぎれそうなほどに怒り狂っていた。
(こ、殺す……! こいつ、絶対殺す!!)
「ほら、いくぞ、小僧。シェルジアに戻って鍛え直さないとな」
ひらりと馬に乗ると、爽やかな笑顔を残して走り去っていく。威哥王
カミュはその大きな背中を、殺意の塊となって追いかけて行くのだった。
何度も慣れようと思ったけけれど、この独特の揺れには全然慣れることが無い。むしろ、悪化する一方だ。
それに、この息苦しさと蒸し暑さと言ったら――。
「よし、そろそろいいだろう」RU486
ゼノンの声と共に揺れが収まる。同時に体がふわりと浮いた。
「悪かったな。もっといい方法があれば良かったんだが」
目の前に大きな穴が開けられ、そこから青空がのぞく。メイは穴を目指して全力で頭を外へと突き出した。
「も、もうダメ……。気持ちわる……」
汗だくで青い顔をしたメイを見て、ゼノンが袋の中に手を突っ込み、持ち上げるようにして外へと出してくれた。
数時間ぶりに自由の身となったメイは、草原の上に寝転がりながら何度も深呼吸を繰り返した。
(頭が、頭がグラグラするわ……)
「姉さん、大丈夫?」
ぐわんぐわんと歪む青空の端から、カミュの頭が現れた。
「ほら、これ飲んで」
カミュが頭を抱え上げ、水を飲ませてくれる。
冷たい水が喉を通る感覚に、酷い吐き気も少し和らいだ気がした。
「少し、ここで休んでいくか。この辺りは酪農地帯だから、誰かに見られたとしても牛か山羊だ。安心していい」
心地よい風が、草原を駆け抜ける。
メイは「休憩」の言葉を聞いてすぐ、ぐったりと目を閉じた。
メイたちはゼノンの案内によって、無事にシェルジア王国入りを果たした。
どういう経緯で入国したのかというと、話は昨日にさかのぼる。
「入国できないってどういうことだ! 話が違う!」
ゼノンに掴みかかろうとする弟を止めようと、メイが間に割って入る。
「カミュ、落ち着いて……!」
シェルジアへと向かうことを決意した二人はゼノンの用意した馬に乗り、街道を避け小道を使いながら一気に国境まで駆け抜けた。馬にすら乗ったことが無かったメイはカミュに乗せてもらい、しがみつくようにしてなんとかここまでやって来たのだ。
ヴィアーサはかなりシェルジアへと侵攻していたらしく、数年前までシェルジア領だった土地にはヴィアーサの旗が立てられていた。そこかしこに国境付近を警戒するヴィアーサ軍の駐屯地があり、燃え盛る火の数が兵の多さを物語っていた。
メイたち三人はヴィアーサ軍が陣を敷く平原地帯を避けるために迂回し、道の無い荒れ地を進んだ。時間帯が明け方だったことと、敢えて歩くのも困難な道を選んだおかげで、一行は人に見つかることもなく正午には現在の国境線となる砦近くの高台に到着したのだった。
『このまま入国することはできない』
シェルジアを目と鼻の先にした所でゼノンが言った言葉は、二人に衝撃を与えた。決死の覚悟でついてきただけに、彼を信用していないカミュの怒りは大きい。睨みあう二人の間に入ってみたものの、メイも正直不安だった。
「入れない、とは言っていない。ただ、今のままでは駄目だ、ということだ」
冷静なゼノンは怒りをあらわにするカミュに動じることなく、眼下にそびえ立つ砦を指差した。
「見ろ」
言われて二人は、ゼノンが指差す方角を見る。
国境防衛の要となる砦には、臨戦状態だけに武装した兵がわんさかいる。砦の両脇は黒々とした岩ばかりの高い崖がそびえ立っており、他からの侵入を拒んでいる。山岳部の谷間に造られた砦の中心にはぶ厚い鉄板でできた大門があり、そこから兵たちは国境を行き来しているようだった。
メイは生まれて初めて砦というものを目にしたのだが、威圧的な外観と時折り聞こえる兵士の号令、そしてピリピリとした雰囲気に、すっかり怯えきっていた。
(こ、こわい……)
闇の中を馬に乗せられ猛スピードで走るのも寿命が縮まるほどに怖かったが、この砦を通って行くのだと思うとその比ではない。砦の前に出ただけで絶対捕まるに決まっている。元より、あの中を歩ける気がしなかった。
「師団長クラスの奴らがごろごろいる。半端な誤魔化しでは通用しないということだ」
砦の様子を食い入るように見ていたカミュは起き上がると、ゼノンを睨みつけた。
「……俺に、どうしろと?」
シェルジアの黒騎士は、挑戦的ににやりと笑った。
「わかってるじゃないか、小僧」
最後の一言を聞いた瞬間、カミュが剣を抜いた。
「俺は小僧じゃない」
「や、やめて!」
緊迫した雰囲気に輪をかけるようにして殺気が広がり、メイの顔が青ざめる。
カミュはゼノンを殺気に満ちた目で睨みながら剣を収めた。
「他に呼びようがなかったからな。別に悪気はない」
言いつつカミュよりもずっと大人の男は、少し笑っている。こんな状況でよく冗談が言えるものだ。メイの心は不安で締め付けられ、今にも息絶えそうだった。
「俺はカミュ。ギルドで傭兵をしている。……あんたは何者だ」
メイは二人とも知っているが、彼らはお互い昨夜顔を合わせたばかりの初対面だ。初顔合わせの時から斬りあいをし、今もこうして睨みあっている。到底仲良くなどなれそうにないのが目に見えてわかる。
「俺はシェルジア王国黒騎士団近衛隊所属、ゼノン・ウルティエ・コルアノ・セルーダ。一応、君たちの味方だ」
ゼノンが差し出した手を、カミュは無視した。
「一応、か。言っておくけど、俺はあんたを信用してない。姉さんとどれほど親しいか知らないが、あんたら貴族のもめ事に巻き込まれるのはご免だ。あんたの力を借りるのは、シェルジアを出るまでだ。少しでも姉さんに危険が及ぶようなら……あんたを殺す」
暗褐色の瞳が鋭さを増してゼノンを見据える。
――カミュは、本気だ。
殺伐とし過ぎていて、メイは男たちの会話に入ることもできない。ただ殺気を放つ二人の男を見上げながら、石のように固まっていた。
「それで、俺はどうすればいいんだ? こんなところにいつまでもいる気はないんだ。さっさと説明してくれ」
少しだけ殺気が緩和された間に、メイは深呼吸をする。空気が重すぎて、今まで息をしている感覚が無かったからだ。
「ああ、わかっている。……お前には、注意を引きつける囮(おとり)になってもらう」
ゼノンは二人に背を向けると、砦とは反対方向の平原を指差した。
「ヴィアーサの連中は、シェルジアが仕掛けてくるんじゃないかと近距離に陣を張っている。シェルジアもシェルジアで、無駄に兵を揃えて砦を警備している。何か事が起きれば、すぐにでも両軍が動き出すような状況だ。……この意味が、わかるか?」
自分にきかれているとは思っていなかったが、メイは心の中で「全然わかりません」と答えていた。
「俺がヴィアーサを撹乱させ、シェルジアの奴らを砦から出す。二つの軍をぶつからせて、その隙にあんたが姉さんを連れて国境を超える。……だろ?」
カミュの回答に、ゼノンは意味深に笑った。
「まあ、大方そんなところだ。頼んだぞ、小僧」
「てっめぇ!」
今度は明らかにわざとだ。
青筋を浮き立たせる弟をなだめながら、メイはゼノンの言った作戦をなんとか理解しようと試みていた。
(カミュが囮になるって……危険なことじゃないわよね?)
不安丸出しのメイを見たゼノンは、頭の上にぽんと手を乗せ、言った。
「心配するな。君は俺に任せてくれればいい」
彼の声には魔道か何かの効果があるのだろうか。
不安と緊張で締め付けられていた心が、和らいでいく。大きくて温かな手の主を見上げると、彼はふ、と微笑んだ。
その瞬間、メイはいきなりぐいっと腕を引っ張られた。
「きゃっ」
「姉さんに触るな!」
危うく転びそうになったところをカミュに抱きとめられる。
「カ、カミュ……?」
鬼の形相のカミュが、メイの肩を抱えたままゼノンを睨みつける。
メイはなんだかとっても作戦がうまくいくような気がしなかった。
(ふ、不安だわ……)
こうして幸先不安な越境作戦の幕が切って落とされたのだった。
辺りが暗くなってきたのを見計らって、布でぐるぐる巻きにされた上に袋に詰められたメイは、他の荷物と同じように馬車に積みこまれた。中絶薬
「それでは、後を頼む」
「お任せを」
二人の男が最後に交わした言葉を合図に、馬車がゆっくりと歩き出す。厚手の布でコーティングされているメイは身動きを取ることすらできず、息苦しさと暑苦しさですでに気を失いそうになっていた。さらに最悪なことに荷運び用の馬車だからなのか、思いのほか揺れが酷い。葉巻状態のメイは、何の抵抗もできずごろごろと荷と荷の間を転がるしかない。
(うぅ、気持ち悪い……)
どのくらいの間これを耐えなければならないのかわからないメイは、転がりながらげんなりしているのだった。
カミュがヴィアーサ軍の元へ向かったあと、メイは懐かしい顔と再会した。
ゼノンの執事、ファンデルである。
ファンデルは相変わらずメイに対しても低い物腰で接し、国王暗殺容疑がかけられていることなどまるで知らぬような素振りをしてくれた。穏やかな笑みを浮かべながら、ファンデルはメイを隠し、砦を抜ける準備を整える。そこには、迷いも疑いも何もなかった。あるのは、ゼノンへの絶対的な忠誠。それだけだった。
今思えば、ゼノンはこうなることがわかっていて、全て事前に準備を整えていたということになる。恐ろしく頭の切れる男だということを、メイは改めて目の当たりにしていた。
「おい、止まれ!」
不意に聞こえてきた大声に、メイの心臓が口から出そうなほどに飛び跳ねる。
とうとう、あの大門の前までやって来たのだ。
「このような時刻に何用だ。答えろ」
武装した兵が馬車の周囲を取り囲む、重い足音が聞こえる。
気持ち悪さも吹っ飛ぶほど、メイは緊張していた。
「無礼者。この紋章が見えぬか」
「――こ、これは……! し、失礼致しました! おい、門を開けてお通ししろ!」
何がどうなっているのか外の様子はわからないが、どうやら物凄い家系の紋章が、この馬車には付いているようである。名前を使えば国境を通れるというゼノンの話は、本当だったのだ。
「待て」
ほっとしたのも束の間、別の男の登場で、一気に雲行きが怪しくなってくる。
「陛下の事件があってから、厳戒態勢が敷かれている。身分の差なく、シェルジア入りする者は調べろとの指示がある。従って、伯爵家の馬車といえど、調べぬわけにはいかぬ」
馬車の後ろの扉が開かれた音がした。
つづいて誰かが乗り込んでくる、音。
メイは両目を固く閉じ、ガタガタ震えながら精霊に祈った。
(精霊ザイドよ。どうか、どうかお守りください……!)
「積み荷は全て、コルアノ・セルーダ様の私物にございます。手荒な扱いは、致しませぬよう」
ファンデルの声は冷静だ。
だが、メイは冷静でなどいられなかった。
すぐ隣にあった荷が持ち上げられ、外へ運び出されたからだ。
「これはなんだ」
「ヴィアーサのバルトガー男爵から火災時の救済の礼として贈られた品々にございます」
心臓の音で、ファンデルの声も聞こえなくなりそうだ。
「よし、次――」
「ルギーレ師団長!」
絶妙のタイミングで、事態は動き出した。
「ヴィアーサの陣営が、炎上してます!!」
「なんだと!?」
数人の兵士が、馬車の横を走り去っていく。
「一体、どういうことだ。事故か何かか?」
「わかりません。ですが、ヴィアーサは一度バルトガー邸炎上の際に我々に疑いをかけています。今回も、我々の仕業と考えなければ良いのですが」
馬車を調べる指揮官の男が、うーむと唸る声が聞こえた。
(ど、どうなっているのかしら。ヴィアーサ軍が燃えてるって……カミュがやったのかな)
外の様子どころか、今現在何が起きているのかもわからない。作戦を聞いても意味が理解できなかったメイは、何も知らないシェルジア兵と同じくらいに動揺していた。
「た、大変です! 白騎士の軍勢が、砦を目指して進撃してきます!」
「くっ、まだ休戦中なのだぞ! ここで戦を始めるわけにはいかん。門を開けろ! 頭の鈍いヴィル人に、話をつけねばならん。行くぞ!」
「は!!」
馬の嘶きと大勢の人間が走り回る音で、メイにも騎士たちがこれから出撃するのだということがわかった。
「そこをどけ! 出撃の邪魔だ!」
偉そうな男の一括で、馬車は再び動き出す。直後に大門を動かす歯車の回る音と、ぶ厚い鉄板の動く重苦しい音が鳴り始める。
大門が開いたのだ。
「ルギーレ師団、マウデル師団、出撃!」
男たちの大喝が砦全体に鳴り響く。角笛が吹き鳴らされ、大地が揺れるほどの音を立てて騎士たちが砦から走り去っていく。恐怖で震えあがっていたメイだったが、その音を聞いてはっと我に返った。
(やったわ……!! わたし、シェルジアに入れるんだわ!)
ぐるぐる巻きの文字通りお荷物の状態ではあったが、メイは見事、ザイド大陸北東部の聖なる王国、シェルジア入りを果たしたのだった。
「姉さんはうまく中へ入ったみたいだな……。良かった」
ゼノンの用意した油をヴィアーサ軍の陣営に撒きながら歩き回り、兵のふりをして身を潜ませ火を点ける。以前大陸南部の王国、アンバーナの軍隊に潜入し諜報員として数か月を生き抜いたことのあるカミュにとっては朝飯前の仕事だ。
当然、火を点けているのを誰かに見られるようなヘマも、逃走時に見つかるような失敗も侵さない。予想以上の大火となったおかげで混乱は大きく、逃げるのも簡単だった。慌てふためくヴィアーサ兵と夜の闇に紛れて移動し、ゼノンとの合流地点へとやって来た。
ほどなくして、岩陰からゼノンが現れる。
「……これを着ろ」
ゼノンはやってくるなり夜の闇に溶け込むような漆黒の布を投げてよこした。
「おい、これは――!」
「それを着たら、俺の後についてこい。……ヴィルもシェルも愚かだということを見せてやる」
赤く燃えたぎる炎に似た怒りを、カミュは見た気がした。
月明かりの下、平原に壁のようにずらりと並ぶ騎馬。白黒両極に別れた双方から、指揮官だけが前へと出る。
「休戦中であるにもかかわらず夜襲を仕掛けるとは、シェル人とはよほど下卑た手を好むものとみえる。腹いせに館を燃やしただけでは飽き足らず、くだらん復讐でもしに来たか」
白騎士の大将が憎々しげに言い放った。
ヴィアーサ側は、完全にシェルジアが火計(かけい)を行ったと思っているようだった。
「口のきき方には気をつけろ。我ら黒騎士はシェルジアの名を傷つけるような不名誉はせぬわ。休戦の誓約を遵守し、仇(かたき)である貴様らを討ち取ることをせずにいるというものを」
黒騎士の大将も負けてはいない。
互いに一歩も譲らず、睨みあいを続ける。
「火計を謀り、シェルジアを攻める口実を作ったのではあるまいな?」
「笑止。それは貴様らのことであろう」
すでにヴィアーサ陣営を襲った火は消し止められており、大将の合図一つで出撃できるよう、兵が隊列を成していた。
今まさに、戦が始まろうとしている。
かつて数え切れないほどの死闘が行われた戦場で、再び同じ歴史が繰り返されようとしていた。――その時だった。
騎馬の列の端が、隊列を乱して騒ぎ始めた。
「何事だ!」
その波は中心へと迫り来る。
号令前に戦が始まったか、はたまた敵の仕掛けた罠か。
双方に緊張が走った。
「あれは――黒騎士!?」
白黒真っ二つに分かれた壁の間を突き進んで走る、二騎の黒騎士。
先頭の黒騎士の姿を見て、シェルジアの大将は度肝を抜かれた。
「コルアノ・セルーダ!?」
指揮官たちの前でゼノンが馬を止めると、周囲をぐるりと槍の矛先を向けた白騎士に囲まれた。もう一人のマントのフードを被った黒騎士も、白騎士に囲まれ動きを止める。
「俺は、ここに殺し合いをしに来たのではない」
ゼノンは言うなり馬を下りて、腰に帯びていた二振りの剣を地面に置いた。
「なぜ貴公がここにいる、セルーダ卿。それに、一体これは何のつもりだ」
黒騎士たちも対抗するように白騎士に刃を向ける。
一人だけ丸腰のゼノンは、両手を上にあげながら指揮官たちに歩み寄る。
「事件の詳細を報告せよとの命令で帰還するところだ。それに……何のつもりだは俺の台詞だ、ルギーレ卿。これから何を始める気だ」
ゼノンの青い瞳が馬上のルギーレを見据える。ルギーレは見下ろしているはずが、完全にゼノンに押されていた。
「妙な言いがかりはよせ。私は戦を起こそうなどという気は毛頭ない。私は戦を止めに参ったのだ」
ルギーレの言い訳を聞いた白騎士の大将は、それを鼻で笑った。
「ふん。おかしなことを言う。私には、貴様が戦を仕掛けにここへ来たようにしか見えなんだが。……まあもっとも、コルアノ・セルーダ、貴様がこの場に来たことで全てが繋がったわ」
白騎士たちの殺意が、ゼノンに集中する。
「バルトガー邸といい、我が陣営といい、火計を仕掛けたのは貴様だな? 戦をする気でないと申して、聖なる白騎士を欺(あざむ)こうとは恐れ入った」
「貴様! それ以上我らを愚弄してみろ。次に口を開く時には、その首が飛ぶぞ!」
黒騎士がゼノンに刃を向ける白騎士を威嚇する。MaxMan
男たちの目が、ぎらりと光った。
「そうだ、セルーダ卿。貴公もこのような者達にむざむざと殺されに来たわけではなかろう。……もはや、話し合いは無用。勝利のみが正義を示すのだ!」
上がる咆哮。
解放された殺気。
燃え盛る松明(たいまつ)は、投げ捨てられた。
瞬間。
「やめろ!!」
ゼノンの怒声が、戦場の時を止める。
殺し合いが始まる一歩手前で、男たちは動きを止めた。
「戦をし、殺し合えばそれで気が済むのか! 殺し合うことでしかシェルもヴィルも正義を示せんのか!」
シェル人もヴィル人も、互いに刃を向けあったままゼノンの言葉に耳を傾ける。
ゼノンの言葉はシェル人のものでも黒騎士としてのものでも無かった。
彼の言葉には、国を隔てる色が無かった。
「ならば殺せばいい。俺を戦の元凶と言うのなら、俺を殺すことで正義が示せるというのならば、俺の命などくれてやる」
ゼノンは軍服を脱ぐと、地面に叩きつけた。
「さあ殺せ。俺は逃げも隠れもしない。俺を殺すならば、殺してみろ!」
「斬ってみろ」と言わんばかりに傷跡だらけの上半身をむき出しにしたゼノンは、無防備でありながらも覇気で戦場を圧倒していた。
彼の捨て身の行動に、誰一人として、動けない。
戦場に一陣の風が吹き抜けた。
「……戻るぞ」
最初に口火を切ったのはヴィアーサの白騎士だった。大将が剣を収めると、騎士たちもそれに倣い武器を下ろす。
危機は、去った。
「今回の件は、これで治めてやろう。しかしだ、コルアノ・セルーダ。次に会った時は容赦なく貴様を殺す。……覚えておくことだ」
「ああ、覚えておこう」
松明の炎に照らし出されたゼノンの表情は、先程の覇気が嘘のように哀愁を帯びていた。危機が去って安堵しているわけでもなく、緊張感から解放された後の放心でもなく。ゼノンの背は、大きな影を背負っていた。
「さすがだな、コルアノ・セルーダ。見事だ」
陣へと戻っていくヴィアーサ軍の後姿を眺めながら、ルギーレは満足そうにゼノンの肩を叩いた。王族の判断なしであわや開戦、というところで戦いを回避できたルギーレはご機嫌だった。
「さあ、我らも戻るぞ! 大戦で奴らを叩きのめすために、今は力をつけなくてはな!」
先陣を切るルギーレの後に続き、黒騎士も砦へと戻り始める。
ゼノンは地面に叩きつけた軍服を拾い上げると、肩に引っ掛けるようにして羽織った。
「これ、あんたのだろ?」
事の成り行きを見ていた黒騎士が、二振りの剣をゼノンに差し出す。
「ああ、悪いな」
ゼノンはそれを受け取ると、再び剣帯に装着した。
「あんた、よほどの派手好きか、もしくは頭のイカレた奴だな。普通、自分で火を放っておいてそれを自分だと言いに行くようなことはしない。それに、わざわざあんたが行かなくても戦にはならなかっただろ」
白騎士たちが去ったあとの草原で、二人並んでヴィアーサの陣を眺める。
騒動の前より見張りの数は増え、警戒色は強まってはいるが攻撃を受けたことへの報復を行うような動きは無い。火災があった後にしては、静かだった。
「俺は、自分の尻拭いは自分でする。……それに、今回の件で死人は出したくなかった」
「はっ、よく言うぜ」
フードを被った黒騎士は吐き捨てるようにして言った。
「不法入国させるために火計を使ったのは、あんたじゃないか。そのあんたが、死人は出したくないだと?」
「ああ、そうだ」
「戦にはならなかったものの、あれほどの大火だ。死人の一人や二人は出てるだろ」
「いや、それはない」
やけにきっぱりと否定するので、フードの下でむっとした顔をする。
このゼノンという男、自信家で腕が立ち、おまけにいい男ときている。身分も高く、洗練された言動には人を動かす迫力さえ備わっている。……なんだか、面白くなかった。
(シェルジアをとっとと脱出して、早くこいつと離れよう)
彼の本能が、この男を危険だと言っていた。
「セルーダ様、そろそろ我らも引きましょう」
「ああ、そうだな」
ゼノンのために馬を引いてきた黒騎士は、隣にいるフードを被った騎士を指差して尋ねた。
「この者は?」
黒騎士の軍服を着ているが、中身はヴィル人の、騎士でもなんでもないカミュである。
微動だにしていないように見えるが、内心ぎくりとするカミュ。ひっそり入国するのかと思いきや、さんざん目立った揚げ句に今は黒騎士の群れの中にいる。ばれれば命が危ういだけでなく、姉の命も危険にさらされるのだ。
「……ああ」
ところがこの大胆不敵なコルアノ・セルーダは、にこやかに笑うのだった。
「騎士に成り立ての新米小僧だよ。ヴィアーサの連中にビビってしまったもんだから、俺が国に連れて帰ってやるところさ」
どっと沸き上がる、男たちの笑い声。
カミュは血管がぶちぎれそうなほどに怒り狂っていた。
(こ、殺す……! こいつ、絶対殺す!!)
「ほら、いくぞ、小僧。シェルジアに戻って鍛え直さないとな」
ひらりと馬に乗ると、爽やかな笑顔を残して走り去っていく。威哥王
カミュはその大きな背中を、殺意の塊となって追いかけて行くのだった。
2012年8月8日星期三
役に立たない念書のご利益
「……え、えーと、そういうわけだから。紫乃さんを、しばらくの間こちらで預からせていただけるように、六条さんには、僕から電話でお願いしますよ」
首にしがみついている紫乃を優しく引き剥がしながら、弘晃が言った。蒼蝿水
「あんな人、放っておけば、いいんです」
自分は家出してきたのだから父には心配させておけばいい。
紫乃はそう言い張ったのだが、弘晃は承知しなかった。
「いけません。貴女との結婚のお許しをいただく前に、六条さんに、へそを曲げられては困りますから」
弘晃にそんなふうに言われてしまえば、紫乃も、それ以上反対する気にはなれない。
「そんな♪ 結婚のお許しだなんて♪」……と、頬も自然に緩んでくるというものである。
「あ、そうだ。 外に和臣がいますの。 電話するよりも、あの子に伝言を頼みましょう」
弟の存在をようやく思い出した紫乃が提案した。
紫乃が和臣を呼びにいくと、和臣は、「弘晃さんに夢中で、僕のことなんか、すっかり忘れられているかと思った」と、疲れた顔で嫌味を言った。
「入ってくれば良かったのに」
「嫌ですよ。 お邪魔虫にはなりたくありません。 それより、今まで2人で何やってたの?」
和臣が、不思議そうな顔をしながら、紫乃の額より少し上のほうを見ながら、彼女の髪や肩のあたりを手で払った。
紫乃の髪についていた念書の欠片が数枚、ヒラヒラと床に落ちていった。
「なにこれ?」
和臣が、腰を曲げて落ちた紙片を拾うと、なんだろうというように顔を寄せた。
「あ……それは」
「これ? 念書の欠片? 破いちゃったんですか?!」
「あ、あの、ごめんなさいね」
驚いた顔をする弟に、紫乃は慌てて謝った。 「悪用されないうちに、処分したほうがいいって言われたから、その……」
先が続かなくなった紫乃は、助けを求めるように弘晃のほうに顔を向けた。
「なるほど。 弘晃さんが、念書を破棄するように、姉さんに勧めたんですね?」
紫乃の視線の先と、起き上がった弘晃の手元に置かれた洗面器の中の紙くずを見て、和臣が納得したように呟いた。
和臣と弘晃は、初対面である。
外面のよさでは紫乃に引けをとらない和臣だが、この時ばかりは、彼は『はじめまして』の挨拶もないまま、弘晃に刺すような眼差しを向けた。
「あのね。和臣……」
「姉さんも、こっちに来てください」
なんとか場を取り繕おうとする紫乃の腕を強く引っ張ると、和臣は弘晃に近づいた。
「弘晃さん」
厳しい表情のまま弘晃の目の前に立った和臣が呼びかけた。
和臣は弘晃を責めるつもりなのか、それとも、酷い嫌味でも言うつもりなのか。
どちらにせよ、2人の仲が険悪になる前に和臣を宥めなければ……と、紫乃は思ったが、次に和臣が取った行動は、彼女の予測を良い意味で裏切るものだった。
「大変ふつつかな姉で、これからも、ご迷惑のかけっぱなしになるかと思いますが、どうぞ、よろしくお願いします」
和臣は、自分が頭を下げたばかりではなく、「ほら、姉さんも頭を下げる!」 と、紫乃の頭も鷲づかみにしながら強引に頭を下げさせた。
「あ、いえいえ、こちらこそ」
弘晃が、恐縮しながら、ベッドの上で正座しようとした。
「な、なに? 怒ってないの?」
乱れた髪を手櫛で直し、弘晃を横にならせながら、紫乃が和臣にたずねた。
「怒れるわけがないじゃないか」
和臣が紫乃に呆れ果てたような視線を投げ、それから、弘晃にたずねた。
「さきほど、お見舞いにいらした方ですけど。 ひとりは中村エンジニアリングの初代会長ですよね? もうひとりは、何代目か前の東栄銀行の頭取の……」
「はい。 奥さんです」
弘晃が微笑みながら肯定した。
「え? 東栄銀行って、中村グループ系列の銀行でしたっけ?」
「……。こら」
「銀行の名前に『中村』が付いてないことからもわかるように、 あの銀行の成り立ちは、 いささか複雑なので……」
和臣は、紫乃の無知をあからさまに馬鹿にし、弘晃は、さり気なく彼女を庇ってくれた。
「病院に入ってすぐに、中村四家を代表するような大御所ふたりの登場でしょう? 正直、ヒヤヒヤしましたよ。 それなのに、姉さんは、大声出しながら念書を振り回すし、その上、あの2人から、ちょっと嫌味を言われたぐらいで、ブチ切れるし…… 僕は、生きた心地がしませんでした。 ああ、怖かった」
頭と心臓が痛いのか、和臣は、拳でこめかみをグリグリと押しながら、もう一方の手で胸を押さえた。SEX DROPS
「え? 紫乃さん、あのふたりと喧嘩したんですか?」
「喧嘩ってほどのことではないんですよ。 ただ、ちょっと……」
真っ青になった弘晃へ言い訳をする紫乃の声が先細りになる。
弘晃の見舞いに来た者たちと争ってはいけないことぐらい紫乃にもわかっていたが、彼らの嫌味には聞き捨てならないものがあったのだ。
「まあ、いいですよ」
和臣が、話を切り上げた。
「姉さんの鼻っ柱の強さを、あのふたりは気に入ってくれたみたいですから、終わり良ければ全て良しということにしましょう。それに、念書も、破棄してもらえましたしね」
「あなた、念書を破ってほしかったの?」
「あたりまえじゃないですか。 こんな物騒な念書を姉さんに持たせるのは、狂人に刃物を持たせることと同じです」
「じゃあ、なんで持たせりしたのよ?」
「弘晃さんが、その念書をどうするのか、興味があったから」
ムッとする紫乃に、さらりと和臣が答えた。
紫乃に同行した一番の目的もそのためだったと紫乃に告白すると、和臣は弘晃に向き直った。
「念書を持ってきた姉の口車に乗せられて、あなたが小躍りするようなら、僕は、父が何と言おうと姉を連れて帰るつもりでした」
「じゃあ、僕は、とりあえず合格ってことなのかな?」
弘晃がたずねると、「予想以上です」と、和臣が歳相応の少年らしい笑みを見せた。
「僕としては、あなたが念書を破棄せずとも、使う気がないという意志さえ示していだだければ、それで良かったんです。 まさか、破いてくださるなんて思いもよらなかった。 この姉を、よくも納得させることができましたね? 怒って暴れたりしませんでしたか?」
「彼女は、僕の話に、すんなり納得してくれましたよ」
「そうよ。 和臣やお母さまたちには申し訳ないと思ったけど、弘晃さんの言うとおり、とても危険な書類だとわかったから、私が破くことに決めたのよ。 それに、暴れてもいないわ」
紫乃が、弘晃の言葉に同調するようにして反論すると、弟は、「こんな短時間のうちに、頭に血が上っている姉さんを納得させたことこそが神業なんですよ」と、減らず口を叩いた。
「僕は、心配だったんです」
和臣は弘晃に言った。
「姉は、そこそこ器量が良くて、それなりに頭が回るし、人との付き合いにしてもそつがない。 弟の僕が言うのもなんですが、一見、とても、できた女性です。 でも、この人は、時々、後先考えずに、とんでもないことしようとするでしょう? だから、僕や父に代わる存在として、姉の良さを認めながら上手にフォローしてくれるような人が旦那さんになってくれるといいな……と、僕は望んでいたんです」
まるで、今までは自分が姉の暴走を止めていたかのような偉そうな口ぶりで、和臣が言った。
「そういう人じゃないど、姉は不幸になると思うんです。 姉よりも馬鹿で器量の小さい男では、姉が満足できないでしょうし、夫となった人にしても、初めは才色兼備の妻をもらったことを得意に思ってくれるかもしれませんが、そのうちに頑固に正論ばかり吐く姉を疎ましく思うようになるかもしれない。 そうかといって、姉のやることなら何でも認めて、姉の暴走まで許してしまうような夫では、もっと困る。 それならば、姉よりも優れた男ならいいかを言えば、それだけでは足りない。 『黙って俺について来い』みたいな俺様タイプの夫の言うことを、姉が素直に聞くとは思えない。夫婦の間には争いが絶えなくなるでしょう。 この姉は、うちの姉妹の中で一番適応力があるように見えて、実は、一番面倒くさい女なんです」
「『面倒くさい女』って…… 随分と、ひどいことを言ってくれるわね」
「誰と結婚しても、 姉さんは旦那さんの文句ばっかり言うことになるだろうって言っているだけですよ」
文句を言う紫乃に、和臣が言い返した。
「妹たちなら相手を愛せるかどうかが一番重要かもしれないけど、姉さんが幸せになるためには、『相手を尊敬できる』だけじゃなくて、『自分のことを尊重してくれる』、そして『暴走した姉さんを止められる。あるいは後始末がつけられる』という条件も不可欠なんです。 なかなか見つかるものじゃありませんよ。 こんな人」
和臣が、弘晃に尊敬の眼差しを向けた。
「あなたになら、安心して姉を任せられそうです。 ところで、その紙。 僕が、いただいて帰ってもいいですか?」
和臣が、洗面器の中に溜まった念書の残骸を示して、弘晃にたずねた。
「そうだね。 破いたとはいえ、ここのゴミ箱に捨てるよりも、和臣くんに処理してもらったほうが安全だろう」
「家に帰って、ちゃんと捨てるなり燃やすなりするんでしょうね? あなた、まさか、それを張り合わせて悪用するつもりじゃ……」
紫乃が弟に疑惑の眼差しを向けると、彼はムッとした顔をした。
「そんな面倒なことはしませんよ。 持って帰って父に見せようと思うんです」
父に見せたあとの念書は、暖炉にくべるつもりだと和臣が言った。
「お父さまに見せる?」
「ええ。 弘晃さんが元気になるまで、姉さんは、父さんに、おとなしくしていてもらいたいんでしょう?」
和臣が、彼が何かを企んでいる時に見せる含みのある笑みを浮かべた。
なまじ綺麗な顔をしているだけに、彼がそんな顔をすると、姉の目から見ても、妙な凄みが出て怖い。
「何をする気なの?」
「今日、ここであったことを、父さんに話すだけだよ。 だって、この念書を破ってもらえて一番ホッとする人間が誰かといえば、父さんだろう? あの人はかなり単純だから、弘晃さんが念書を破棄してくれたって知ったら、大感激して、これ以上中村物産に迷惑をかけるような真似もしないだけでなく、弘晃さんのためなら、なんでもしてくれるんじゃないかな。 それにね。これ見て」
和臣は、紫乃の髪にくっついていた小さな紙切れを摘み上げると、人差し指の上に乗せて紫乃に見せた。
およそ2ミリ四方の紙には、カタカナの『ヒ』の字が読み取れた。
「これ、紫乃の『紫』の一部だよね? 他の紙切れよりも、ずっと細かく破ってある」
「それは……弘晃さんが……」
弘晃が、嫌になるほど念入りに破っていたところだ。
「やっぱり」
和臣が嬉しそうに弘晃を見た。
「ありがとうございます。 姉のこと、本当に大切に想ってくださっているんですね」
その言葉に、弘晃が照れたように微笑んだ。
「え……?」
「『なんで?』って聞いたら、今度こそ怒りますよ」
紫乃に忠告する和臣の顔は、既に怒っていた。
どうせ、説明してやらないと紫乃には分かるまいと頭から馬鹿にしているのだろう。 「つまりね」 と、和臣が続けた。
「つまり、もしも、この念書が破棄されないまま姉さんの手を離れて、誰かに使われることになったとするよね? その時、真っ先に利用される可能性が高いのは、誰だと思う?」
「えーと…… 私?」
「正解。 念書の中で、お母さんたちの株の全部を好きにできると名指しされているのが、姉さんだからね。 だから、もしも、こんな念書を野放しにしておいたら、姉さんは、悪い人に簡単に騙されて利用されまくったかもしれなかったって訳。 つまり、この念書が使われたときに、最終的に一番損するのは父さんだけど、一番傷つくのは姉さんってことになる。 だから……」
「そっか。 だから……」三体牛鞭
紫乃は、目の前で小言を言い続ける弟を無視して横を向くと、弘晃に感謝の眼差しを向けた。
(そうか、だから、弘晃さんは、私の名前の書かれているところばかりを探して、細かく破いてくれていたんだ)
この念書のために、紫乃が誰かに利用されたり傷つけられたりするようなことが絶対にないようにと、念には念を入れて……
(そうだったんだ……)
「やっぱり、わかってなかったんだね?」
弘晃のほうに顔を向けて、しまりのない笑みを浮かべ始めた紫乃を見て、和臣が、咎めるような視線を彼女に向けた。
「紫乃さんは、まっすぐな気性の方だから、 こういった策謀めいた考え事に慣れていないんですよ。 ね、紫乃さん?」
和臣に馬鹿にされ続ける紫乃を見かねた弘晃が、庇ってくれた。
それでも、和臣は紫乃に対して容赦がなかった。
「それにしたって、アホすぎますよ。 弘晃さん。 こんな馬鹿を嫁にもらっても、後悔するだけかもしれませんよ。 ご迷惑でしたら、念書と一緒に、この馬鹿も引き取って帰りますけど?」
紙くずと化した念書の切れ端を、『中村物産』のロゴ入りの水色でマチのあるヒモ付きの封筒の中に回収しながら、和臣が弘晃にたずねた。
「いいえ。 どうか、このまま、ここに置いていってやってください」
姉のことを宛先不明の小包か何かのように言う和臣に憤慨している紫乃の顔を見てクスクスと笑いながら、弘晃が言った。
「僕には、どうしても必要な人です。 僕にとって、彼女は、かけがえのない人ですから」
「弘晃さんも、もの好きですね」
未来の義兄にまで憎まれ口を叩きながらも、和臣は嬉しそうだった。
「では、姉共々、今後とも、六条との末永いお付き合いをお願い申し上げます」
和臣は、破棄された念書を集めた封筒を小脇に抱えながら優雅に一礼すると、病室を出て行った。男宝
首にしがみついている紫乃を優しく引き剥がしながら、弘晃が言った。蒼蝿水
「あんな人、放っておけば、いいんです」
自分は家出してきたのだから父には心配させておけばいい。
紫乃はそう言い張ったのだが、弘晃は承知しなかった。
「いけません。貴女との結婚のお許しをいただく前に、六条さんに、へそを曲げられては困りますから」
弘晃にそんなふうに言われてしまえば、紫乃も、それ以上反対する気にはなれない。
「そんな♪ 結婚のお許しだなんて♪」……と、頬も自然に緩んでくるというものである。
「あ、そうだ。 外に和臣がいますの。 電話するよりも、あの子に伝言を頼みましょう」
弟の存在をようやく思い出した紫乃が提案した。
紫乃が和臣を呼びにいくと、和臣は、「弘晃さんに夢中で、僕のことなんか、すっかり忘れられているかと思った」と、疲れた顔で嫌味を言った。
「入ってくれば良かったのに」
「嫌ですよ。 お邪魔虫にはなりたくありません。 それより、今まで2人で何やってたの?」
和臣が、不思議そうな顔をしながら、紫乃の額より少し上のほうを見ながら、彼女の髪や肩のあたりを手で払った。
紫乃の髪についていた念書の欠片が数枚、ヒラヒラと床に落ちていった。
「なにこれ?」
和臣が、腰を曲げて落ちた紙片を拾うと、なんだろうというように顔を寄せた。
「あ……それは」
「これ? 念書の欠片? 破いちゃったんですか?!」
「あ、あの、ごめんなさいね」
驚いた顔をする弟に、紫乃は慌てて謝った。 「悪用されないうちに、処分したほうがいいって言われたから、その……」
先が続かなくなった紫乃は、助けを求めるように弘晃のほうに顔を向けた。
「なるほど。 弘晃さんが、念書を破棄するように、姉さんに勧めたんですね?」
紫乃の視線の先と、起き上がった弘晃の手元に置かれた洗面器の中の紙くずを見て、和臣が納得したように呟いた。
和臣と弘晃は、初対面である。
外面のよさでは紫乃に引けをとらない和臣だが、この時ばかりは、彼は『はじめまして』の挨拶もないまま、弘晃に刺すような眼差しを向けた。
「あのね。和臣……」
「姉さんも、こっちに来てください」
なんとか場を取り繕おうとする紫乃の腕を強く引っ張ると、和臣は弘晃に近づいた。
「弘晃さん」
厳しい表情のまま弘晃の目の前に立った和臣が呼びかけた。
和臣は弘晃を責めるつもりなのか、それとも、酷い嫌味でも言うつもりなのか。
どちらにせよ、2人の仲が険悪になる前に和臣を宥めなければ……と、紫乃は思ったが、次に和臣が取った行動は、彼女の予測を良い意味で裏切るものだった。
「大変ふつつかな姉で、これからも、ご迷惑のかけっぱなしになるかと思いますが、どうぞ、よろしくお願いします」
和臣は、自分が頭を下げたばかりではなく、「ほら、姉さんも頭を下げる!」 と、紫乃の頭も鷲づかみにしながら強引に頭を下げさせた。
「あ、いえいえ、こちらこそ」
弘晃が、恐縮しながら、ベッドの上で正座しようとした。
「な、なに? 怒ってないの?」
乱れた髪を手櫛で直し、弘晃を横にならせながら、紫乃が和臣にたずねた。
「怒れるわけがないじゃないか」
和臣が紫乃に呆れ果てたような視線を投げ、それから、弘晃にたずねた。
「さきほど、お見舞いにいらした方ですけど。 ひとりは中村エンジニアリングの初代会長ですよね? もうひとりは、何代目か前の東栄銀行の頭取の……」
「はい。 奥さんです」
弘晃が微笑みながら肯定した。
「え? 東栄銀行って、中村グループ系列の銀行でしたっけ?」
「……。こら」
「銀行の名前に『中村』が付いてないことからもわかるように、 あの銀行の成り立ちは、 いささか複雑なので……」
和臣は、紫乃の無知をあからさまに馬鹿にし、弘晃は、さり気なく彼女を庇ってくれた。
「病院に入ってすぐに、中村四家を代表するような大御所ふたりの登場でしょう? 正直、ヒヤヒヤしましたよ。 それなのに、姉さんは、大声出しながら念書を振り回すし、その上、あの2人から、ちょっと嫌味を言われたぐらいで、ブチ切れるし…… 僕は、生きた心地がしませんでした。 ああ、怖かった」
頭と心臓が痛いのか、和臣は、拳でこめかみをグリグリと押しながら、もう一方の手で胸を押さえた。SEX DROPS
「え? 紫乃さん、あのふたりと喧嘩したんですか?」
「喧嘩ってほどのことではないんですよ。 ただ、ちょっと……」
真っ青になった弘晃へ言い訳をする紫乃の声が先細りになる。
弘晃の見舞いに来た者たちと争ってはいけないことぐらい紫乃にもわかっていたが、彼らの嫌味には聞き捨てならないものがあったのだ。
「まあ、いいですよ」
和臣が、話を切り上げた。
「姉さんの鼻っ柱の強さを、あのふたりは気に入ってくれたみたいですから、終わり良ければ全て良しということにしましょう。それに、念書も、破棄してもらえましたしね」
「あなた、念書を破ってほしかったの?」
「あたりまえじゃないですか。 こんな物騒な念書を姉さんに持たせるのは、狂人に刃物を持たせることと同じです」
「じゃあ、なんで持たせりしたのよ?」
「弘晃さんが、その念書をどうするのか、興味があったから」
ムッとする紫乃に、さらりと和臣が答えた。
紫乃に同行した一番の目的もそのためだったと紫乃に告白すると、和臣は弘晃に向き直った。
「念書を持ってきた姉の口車に乗せられて、あなたが小躍りするようなら、僕は、父が何と言おうと姉を連れて帰るつもりでした」
「じゃあ、僕は、とりあえず合格ってことなのかな?」
弘晃がたずねると、「予想以上です」と、和臣が歳相応の少年らしい笑みを見せた。
「僕としては、あなたが念書を破棄せずとも、使う気がないという意志さえ示していだだければ、それで良かったんです。 まさか、破いてくださるなんて思いもよらなかった。 この姉を、よくも納得させることができましたね? 怒って暴れたりしませんでしたか?」
「彼女は、僕の話に、すんなり納得してくれましたよ」
「そうよ。 和臣やお母さまたちには申し訳ないと思ったけど、弘晃さんの言うとおり、とても危険な書類だとわかったから、私が破くことに決めたのよ。 それに、暴れてもいないわ」
紫乃が、弘晃の言葉に同調するようにして反論すると、弟は、「こんな短時間のうちに、頭に血が上っている姉さんを納得させたことこそが神業なんですよ」と、減らず口を叩いた。
「僕は、心配だったんです」
和臣は弘晃に言った。
「姉は、そこそこ器量が良くて、それなりに頭が回るし、人との付き合いにしてもそつがない。 弟の僕が言うのもなんですが、一見、とても、できた女性です。 でも、この人は、時々、後先考えずに、とんでもないことしようとするでしょう? だから、僕や父に代わる存在として、姉の良さを認めながら上手にフォローしてくれるような人が旦那さんになってくれるといいな……と、僕は望んでいたんです」
まるで、今までは自分が姉の暴走を止めていたかのような偉そうな口ぶりで、和臣が言った。
「そういう人じゃないど、姉は不幸になると思うんです。 姉よりも馬鹿で器量の小さい男では、姉が満足できないでしょうし、夫となった人にしても、初めは才色兼備の妻をもらったことを得意に思ってくれるかもしれませんが、そのうちに頑固に正論ばかり吐く姉を疎ましく思うようになるかもしれない。 そうかといって、姉のやることなら何でも認めて、姉の暴走まで許してしまうような夫では、もっと困る。 それならば、姉よりも優れた男ならいいかを言えば、それだけでは足りない。 『黙って俺について来い』みたいな俺様タイプの夫の言うことを、姉が素直に聞くとは思えない。夫婦の間には争いが絶えなくなるでしょう。 この姉は、うちの姉妹の中で一番適応力があるように見えて、実は、一番面倒くさい女なんです」
「『面倒くさい女』って…… 随分と、ひどいことを言ってくれるわね」
「誰と結婚しても、 姉さんは旦那さんの文句ばっかり言うことになるだろうって言っているだけですよ」
文句を言う紫乃に、和臣が言い返した。
「妹たちなら相手を愛せるかどうかが一番重要かもしれないけど、姉さんが幸せになるためには、『相手を尊敬できる』だけじゃなくて、『自分のことを尊重してくれる』、そして『暴走した姉さんを止められる。あるいは後始末がつけられる』という条件も不可欠なんです。 なかなか見つかるものじゃありませんよ。 こんな人」
和臣が、弘晃に尊敬の眼差しを向けた。
「あなたになら、安心して姉を任せられそうです。 ところで、その紙。 僕が、いただいて帰ってもいいですか?」
和臣が、洗面器の中に溜まった念書の残骸を示して、弘晃にたずねた。
「そうだね。 破いたとはいえ、ここのゴミ箱に捨てるよりも、和臣くんに処理してもらったほうが安全だろう」
「家に帰って、ちゃんと捨てるなり燃やすなりするんでしょうね? あなた、まさか、それを張り合わせて悪用するつもりじゃ……」
紫乃が弟に疑惑の眼差しを向けると、彼はムッとした顔をした。
「そんな面倒なことはしませんよ。 持って帰って父に見せようと思うんです」
父に見せたあとの念書は、暖炉にくべるつもりだと和臣が言った。
「お父さまに見せる?」
「ええ。 弘晃さんが元気になるまで、姉さんは、父さんに、おとなしくしていてもらいたいんでしょう?」
和臣が、彼が何かを企んでいる時に見せる含みのある笑みを浮かべた。
なまじ綺麗な顔をしているだけに、彼がそんな顔をすると、姉の目から見ても、妙な凄みが出て怖い。
「何をする気なの?」
「今日、ここであったことを、父さんに話すだけだよ。 だって、この念書を破ってもらえて一番ホッとする人間が誰かといえば、父さんだろう? あの人はかなり単純だから、弘晃さんが念書を破棄してくれたって知ったら、大感激して、これ以上中村物産に迷惑をかけるような真似もしないだけでなく、弘晃さんのためなら、なんでもしてくれるんじゃないかな。 それにね。これ見て」
和臣は、紫乃の髪にくっついていた小さな紙切れを摘み上げると、人差し指の上に乗せて紫乃に見せた。
およそ2ミリ四方の紙には、カタカナの『ヒ』の字が読み取れた。
「これ、紫乃の『紫』の一部だよね? 他の紙切れよりも、ずっと細かく破ってある」
「それは……弘晃さんが……」
弘晃が、嫌になるほど念入りに破っていたところだ。
「やっぱり」
和臣が嬉しそうに弘晃を見た。
「ありがとうございます。 姉のこと、本当に大切に想ってくださっているんですね」
その言葉に、弘晃が照れたように微笑んだ。
「え……?」
「『なんで?』って聞いたら、今度こそ怒りますよ」
紫乃に忠告する和臣の顔は、既に怒っていた。
どうせ、説明してやらないと紫乃には分かるまいと頭から馬鹿にしているのだろう。 「つまりね」 と、和臣が続けた。
「つまり、もしも、この念書が破棄されないまま姉さんの手を離れて、誰かに使われることになったとするよね? その時、真っ先に利用される可能性が高いのは、誰だと思う?」
「えーと…… 私?」
「正解。 念書の中で、お母さんたちの株の全部を好きにできると名指しされているのが、姉さんだからね。 だから、もしも、こんな念書を野放しにしておいたら、姉さんは、悪い人に簡単に騙されて利用されまくったかもしれなかったって訳。 つまり、この念書が使われたときに、最終的に一番損するのは父さんだけど、一番傷つくのは姉さんってことになる。 だから……」
「そっか。 だから……」三体牛鞭
紫乃は、目の前で小言を言い続ける弟を無視して横を向くと、弘晃に感謝の眼差しを向けた。
(そうか、だから、弘晃さんは、私の名前の書かれているところばかりを探して、細かく破いてくれていたんだ)
この念書のために、紫乃が誰かに利用されたり傷つけられたりするようなことが絶対にないようにと、念には念を入れて……
(そうだったんだ……)
「やっぱり、わかってなかったんだね?」
弘晃のほうに顔を向けて、しまりのない笑みを浮かべ始めた紫乃を見て、和臣が、咎めるような視線を彼女に向けた。
「紫乃さんは、まっすぐな気性の方だから、 こういった策謀めいた考え事に慣れていないんですよ。 ね、紫乃さん?」
和臣に馬鹿にされ続ける紫乃を見かねた弘晃が、庇ってくれた。
それでも、和臣は紫乃に対して容赦がなかった。
「それにしたって、アホすぎますよ。 弘晃さん。 こんな馬鹿を嫁にもらっても、後悔するだけかもしれませんよ。 ご迷惑でしたら、念書と一緒に、この馬鹿も引き取って帰りますけど?」
紙くずと化した念書の切れ端を、『中村物産』のロゴ入りの水色でマチのあるヒモ付きの封筒の中に回収しながら、和臣が弘晃にたずねた。
「いいえ。 どうか、このまま、ここに置いていってやってください」
姉のことを宛先不明の小包か何かのように言う和臣に憤慨している紫乃の顔を見てクスクスと笑いながら、弘晃が言った。
「僕には、どうしても必要な人です。 僕にとって、彼女は、かけがえのない人ですから」
「弘晃さんも、もの好きですね」
未来の義兄にまで憎まれ口を叩きながらも、和臣は嬉しそうだった。
「では、姉共々、今後とも、六条との末永いお付き合いをお願い申し上げます」
和臣は、破棄された念書を集めた封筒を小脇に抱えながら優雅に一礼すると、病室を出て行った。男宝
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