昨日より今日と、影が長く伸びゆく時節。
たまには普段と違う道を使ってみようか。
そんな思いつきで、家路を急ぐ人波から外れ、私は脇道へと足を踏み入れた。
家で妻が私の帰りを待っている事は知っていた。けれど、時にはこういう土産話も悪くはあるまい。韓国痩身1号
それほど期待していたわけではないが、大通りから少し道をそれただけで、街の様相は大きく変わっていた。
鉄筋コンクリートのビル群から立ち並ぶ木造の古民家。そんな景観の急激な変化を戸惑いとともに楽しみ、どんな風に妻に話して聞かせようか、そんなことを考えていた。
そうしてブラブラ歩いていた時、私はその骨董屋を見つけたのだった。
明の時代に作られたという青磁に魅入られて以来、古美術にハマってしまった私は迷うことなくその店に足を踏み入れた。
ちりんちりん。涼やかな鈴の音が耳朶を揺らす。
「いらっしゃい。どうぞ、見ていってやってくださいな」
古式蒼然とした家屋と同様、風鈴の音にこちらを見やった店主の佇まいも着流しに煙管と、まるで往時から抜け出してきたようだった。
いかにも怠惰げな若い店主は私に一声かけた後、煙管をぷかりとふかして、それっきりこちらに目線をやろうともしなかった。
私としてもそちらの方が好ましいので、遠慮なく店内を見て回る事にした。
店内は決して狭いわけではないのだが、入口と店主が座る奥座敷への入り口らしき部分を結ぶ通路以外の場所に雑然と品々が積み上げられていて、外からの見た目からは予想できないほどの圧迫感があった。
また、この店の品揃えは私が期待していたものとはまるで違っていた。
『飾ったら死にます』と手書きのメモが添えられた5号サイズの仏像画。何の変哲もないビニール傘には、やはり手書きの『持って歩くと必ず晴れます。ただし、下痢が止まりません』というメモが添付されていた。
他にも茶色いシミのついた和箪笥、『中古注意!』のポップが付けられた櫛・かんざしコーナー、など。
私ははたと気づいた。ここはいわゆるサブカルチャー――オカルト専門の骨董屋、というより悪ふざけの店、なのだろうか。
骨董品が好きと言いながら鑑定眼が全く身につかない私は何度か贋作を掴まされたりもしたが、さすがにこれらのものに手を出そうとは思わない。
店主に軽く挨拶して退出しようとした時だった。
私の視線がとらえたのは、やはり、骨董品というより悪ふざけの産物というべきもの――ミイラ化した腕だった。
いつかテレビで見た河童や、鬼の腕のようにからからに干からびた肘から先のそれには3本しか指はなく、『願い事かなえてくれます!』とあの店主が書いたとは思えないほど可愛らしい丸文字のメモがついていた。
日本だけでなく世界各地には妖怪・怪物のミイラが存在するが、それらは様々な生物をつぎはぎして作った偽物だらけなのだそうだ。
これもおそらく、というか間違いなく偽物だろう。それは分かっている。分かっているのだが――私は、その干からびた腕から目を話せないでいた。
「ああ、そいつを気に入っちまいましたか」
物憂げな声にはっと私は顔を上げる。
卓の上に片肘をついた店主は煙管をふかし、
「そいつはね、『猿の指』って呼ばれてるもんです」
「『猿の指』?」
「ええ。以前に英国に仕入れに行った時に見つけたもんなんですが、元はインドの行者が作ったものなんだそうで」
「『願いを叶えてくれる』と……ここには書いてあるが……」
「ええ。なんでもその行者が法力だか魔力だかを込めたもんらしく、指の数だけ願いを叶えてくれるんだそうですよ」
私は先程数えたにもかかわらず、再びその腕の指を見やる。
3本。つまりこの腕は3回願いを叶える法力――魔力?――を備えているということか。
「元々は6本ほど指があったとか。願いをかなえるたびに指が落ちるんだそうで」
馬鹿馬鹿しい。願いを叶える指だと。そんな子供だまし、中学生ならともかく、すでに不惑をむかえた私のようないい大人が引っ掛かるわけもあるまい。
そう思っているにも関わらず、私は『猿の指』から視線をひきはがす事が出来ない。
「で、お客さん、お金持ってます? うちは一応、現金払いが基本でして。質に入れられるもんを持ってらしたら、それで相殺ということも可能ですが」
私がそれを買うという前提で店主は面倒くさそうに言う。
いや、私は買うつもりはない……そう応えようとしたのだが、いつのまにやら私は財布を取り出し、
「いくらかね?」
そう応えていた。
私の――私たち夫婦の自宅は駅から30分ほど歩いたところにある新興住宅街だった。つい先ごろ、20年ローンで思いきって購入した。
「ただいま」
「あなた、おかえりなさい」
小柄で30を過ぎてもいまだに女学生のような雰囲気のままの妻が、笑顔で私を出迎えてくれる。
10以上も年上の私をいつも甲斐甲斐しく世話してくれる妻は、
「あら? あなた、それは?」
私が小脇に抱えた桐の箱に気づき、それを覗き込むように首をかしげた。
意外にも、といったら失礼かもしれないが、店主は『猿の指』を立派な桐の箱に納めてくれた。値段は私が想定していたよりもはるかに安かった。
「ああ、これはね……」
そこまでいいかけて、どう説明したものかと悩む。出来た妻の事だ、私を責めはすまいがあきれ果てはしないだろうか。
立ちつくす私の腕に妻がそっと触れる。
「夕飯の準備はできていますから、まずは着替えてきてくださいな」
「ああ、そうだな」
台所に向かう妻の背を見送り、私は寝室でワイシャツを着替える。新一粒神
やはり、ありのままに説明するしかあるまい。
『腕の部分を両手で握り、願いを3回繰り返す。簡単でしょ』
『その……願いをかなえる代わりに、代償のようなものが必要という事はないのかね』
『ああ、ねえです、ねえです。そういうのはインドの行者さんが支払い済みなんで』
『そうか……』
『ただ、願い事はよくよく考えて選んで下さいな。前の持ち主はそこで失敗して、こいつを手放したらしいんで。あ、何があったかは知りませんので、あしからず』
夕食後、店主の説明や、私がどうしてこれほどまでに『猿の指』が気になったのか自分でもわからないという事まで、すべてを包み隠さず話すと妻は鈴を鳴らすように笑った。私が贋作品を掴まされた時と同じ笑い方だった。
私は安堵の息をついた。
「開けてみてもいいですか?」
「ああ」
眼鏡ケースほどの桐箱を妻はひらき、枯死した枝のような『猿の指』を物怖じする様子もなく手に取った。
「あ、私こういうのテレビで見たことあります」
「河童のミイラだろう」
「ええ、そうです」
笑い、妻はそっと『猿の指』の腕の部分を両手で握った。
「あなた、1つ目の願い事は私が使ってもいいですか?」
「うん?」
妻のいつにない積極さに少し驚いたが、私はすぐに頷いた。
「ああ、いいよ」
「ありがとう、あなた。きちんと考えた願い事ですから、心配しないでくださいね」
「ああ」
聡明な妻の事だ。おかしな願い事はするまい。それに……実は私には妻が何を願うか想像がついていた。
『猿の指』を両手で包んだまま、妻は瞳を閉じた。
「『猿の指』さん、『猿の指』さん、どうか、私たち夫婦に子供を授けて下さい」
静かな声で妻は繰り返す。
その姿を見つめている私はどんな表情をしているだろう。
悲しげでなければ良いのだが。
私たち夫婦は結婚して5年になるが、子供はいない。 元々子供好きだった妻は結婚当初から子供を望んでいたが、2年過ぎても私たちは子宝に恵まれる事はなかった。
当初は年齢的に自分を疑ったのだが、病院で検査を受けたところ、どうやら妻の方が妊娠しづらい体質らしく、自然妊娠は難しいだろうということだった。
そこで私たちは子供を諦める事も出来た。
だが、弟夫婦の娘を見つめる妻の視線があまりにも物悲しげで、それを見過ごすことは私にはできなかった。
私たちは不妊治療を行うことにした。不妊治療は妻の身体に大きな負担をかけたが、妻は決して泣き言は言わなかった。ただ、検査の結果がおもわしくなかった時は私に詫びながら涙を流した。
不妊治療を始めて2年。私たちは話し合った末、治療を中止する事にした。
妻は離婚を切り出してきたが、私は頑としてそれをはねのけた。
2人で暮らしていくための家を購入し、私たちはそこに移り住んだ。
それから子供の話を妻の方から切り出してくる事はなかったのだが、やはり、未練なのだろう。
目を開いた妻は、私の方を見やり、穏やかにほほ笑んだ。
「願いがかなったら、指が落ちるんですよね」
「ああ、そう店主は言っていた」
じっと妻は『猿の指』を見つめ、
「落ちませんね」
「すぐに、とはいかないだろう」
「そうですね」
「まあ、願いを叶えるというのも眉唾ものだしな。大方、店主が適当にでっちあげたものだろう」
「あら、だったらこれは、あなたの書斎の『贋作コーナー』に飾っておかないといけませんね」
耳に痛い事を言って、ふわりと笑う。そんな妻が愛おしくて、今度は私がほほ笑んだ。
翌日、残業中の休憩がてら、部下たちに変な骨董屋を見つけたという話――無論、私が買った『猿の指』の事はのぞいてだが――をしていた時だった。
私の携帯に、弟夫婦が水難事故に遭ったと妻から連絡があったのは。
ダイビングショップを経営し、インストラクターもしていた弟夫婦はシーズンを前に近隣のスポットに潜っていたらしい。
普段であれば、姪が小学校から帰宅する頃には弟か義妹のどちらかが家に戻っているそうなのだが、その日はいつまでたってもどちらも帰ってこなかったのだそうだ。
姪から相談された妻が夕方になっても連絡がつかないことから警察に連絡し、沖合に漂う無人のボートが見つかったことで、遭難が発覚した。
結局、弟夫婦の死体は一部しか見つからなかった。
捜索開始から3日目。弟夫婦のものと思われる手首だけが浜辺に打ち上げられた。サメか何かに食いちぎられたものらしい。
これによって弟夫婦は死亡認定され、その手首だけが、荼毘に付された。
私の両親は既になく、義妹の両親は高齢だった為、たった一人残された姪は、私たち夫婦が引き取り育てることとなった。
弟の捜索が行われている間、妻がそばにいて面倒を看ていた事もあり、姪自身もすんなりとこれを了承した。
姪は弟に似ず、中学生1年生にしては聡い子で、すぐに私たちの家での生活に慣れた。
2人だけだった家に姪が来たという、ただそれだけのことで家の中の空気は大きく変わった。
弟夫婦の事を思えば薄情のそしりを受けても甘んじるしかないが、私も妻も、どこか浮かれ気分で、姪には何が必要か、どういう風に育ててあげればいいだろうか、というのを姪が寝静まった夜に2人で顔を寄せて話し合った。
互いにこぼれんばかりの笑みを浮かべている事に気づき、ばつの悪い思いをして、けれどすぐにまたほほ笑む。
亡き弟夫婦の為にも、私たちが姪を立派に育て上げてやらなければならないと思う。
だが、私の胸にはどうにも無視することのできない、真っ黒なしこりのようなものがある。
両親の夢を見て泣く姪をなだめに向かう妻の背を見送ったあと、私は自分の書斎の収集品を眺めている事が多くなった。
さまよう私の視線は、いつも小さな桐の箱の上で止まる。
もしかしたら――
『猿の指』が私たちの願いを叶えたのではないだろうか。蔵八宝
弟夫婦が死に、私たちは姪を得た。
そんな馬鹿な、と私の中の常識は告げる。
だが、あまりにもタイミングが良すぎたように感じるのだ。
そんなわけはない。ミイラが願いを叶えてくれるなんて、どう考えてもおとぎ話の中にしかないだろう。
だが――私は自分の疑いを払拭できない。
確かめるのは簡単だ。
この桐の箱を開けてみればいい。
『猿の指』が3本残っている事を確認すればいい。
そして、ああ、やっぱり騙された、と箱を放ればいい。
ただそれだけのことだ。
なのに、私の手は動かない。
そもそも確かめる必要などない。このままあの骨董屋に――いや、燃えるゴミにでも出してしまえばいい。
なのに、そうしようという気になれない。どうしてもなれない。
胸の奥にくすぶる、小さな罪の意識がそうさせない。
だから私は、桐の箱の蓋を――
――開けた。
「そんな……馬鹿な……」
『猿の指』は、2本になっていた。
落ちた指の形跡すら箱の中のどこにも見当たらない。
そんなわけがない。そんなわけがないはずだ。
そう、こんな乾燥した状態だ。指は自然に落ち、飛散した。そうに違いない。
動悸をおさえるように胸を当て、私は深い呼吸を繰り返した。
これから私がすべきことは、もはや自明だ。
とにもかくにも、この『猿の指』は、処分しなければならない。
何があろうと妻の目にこれを触れさせる事があってはならない。
燃やす? いや、あの店主に返すのが一番いいだろう。この期に及んでは、家に置いておいたり、自分で処理しようとするよりも、そちらの方がいいはずだ。
桐の箱に『猿の指』を納め、書斎の隅に箱をしまおうとした時――
「あなた……?」
不意に背後から響いてきた妻の声に、私はびくりと身を震わせた。
「ああ……どうかしたのかい? あの子は……もう寝ついたのかい?」
反射的に言葉を返しながら、やはり無意識のままに桐箱を私は胸元に隠す。
「ええ……あの子は寝つきました」
「そうか、それはよかった。これからも、こういう事はあると思うが、私たちが支えていってやらねばな」
空々しく落とした私の言葉に妻は反応しない。私も、妻に背を向けたまま微動だにしない。できない。
どうして、妻の顔を真正面から見る事が出来るだろう。
私が、妻をそそのかしたというのに。
あの店主から『猿の指』の話を聞いた時、真っ先に浮かんだのは妻のことだった。妻ならこう願うだろう。私は知っていた。『子供が欲しい』と、そう願うだろうという事を。
私が願えば妻は自分を責める。だから……
「指……落ちていたのですね」
妻の言葉に私ははっと顔を上げる。
「……見ていたのか」
「はい……ごめんなさい」
「……そうか」
書斎の入口に立つ妻にかける言葉が、私にはない。なんと声をかける事が出来ただろう。
「罪深いことを……」
居心地の悪い沈黙の後、妻はか細い声で呟いた。
「なんと罪深い事を……してしまったのでしょう……」
自分たちの子供欲しさに、弟夫婦の命を、私たちは奪った。
「いや……この『猿の指』は関係ない……弟たちは……」
「仮にそうだとしても、両親は自分の不注意で亡くなっただけなのだと、あなたはあの子に言えるのですか? 『猿の指』に子供を願った私たちが、胸をはって、そう言えるのですか?」
「それは……」
妻の言葉に反駁する術を私は持たない。なぜなら……私自身が、今、胸の奥で、無視できないほどに育った罪の意識に押しつぶされそうになっているからだ。
「あの子に……」
胸の前で握り合わせた手をぶるぶると震えさせながら、妻は言う。
「あの子に……両親を返してあげましょう。『猿の指』が叶えてくれる願いはまだ残っているのでしょう?」
「いや、それは……」
妻の言葉に異を唱えたのは、何も、やっと手に入れた『子供』を失いたくないという感情からではない。
全ては偶然。偶然なのだ。たまたま、私たちは子を願い、たまたま、弟夫婦が事故に遭った。妻は一時的にナーバスになっているだけで、もっと落ち着いてから、我々の罪の意識について考えるべきだ。
それに――もし、万が一、『猿の指』が本物だったとして、その願いの叶え方はひどく現実的で、無慈悲だ。機械的といってもいい。
子供が欲しい。その願いを叶える為ならば、妻を妊娠させる。それが普通だ。だが、『猿の指』は弟夫婦を殺し、姪を私たちに与えた。
ならば、『姪の両親を蘇らせてくれ』と願ったとして、それは、果たして妻が思うような形になるだろうか。
水難事故で死んだ、そのままの姿で姪の元に返ってくるのではないだろうか。手首を失い、ぶよぶよにふやけた、そんな姿で。
「待て。少し話し合おう」
そう言った時には既に遅く、妻は私の腕から『猿の指』をとりあげ、VIVID
「『猿の指』さん、『猿の指』さん、どうか、あの子の両親を生き返らせて下さい」
と、早口で繰り返していたのだった。
「そんなことを……」
したって何の意味もない。これは偽物なのだから。自分の中の言葉にできない焦燥、そういったものを誤魔化すために、諭そうとした私の目の前で、『猿の指』の残り2本のうちの1本が落ちた。
ぺきり、と根元から折れ、砂の塊のように端から崩れていく。
こんなことが……ありえるのか。
妻から『猿の指』をひったくるように奪い返し、私は残る1本の指を無理やりにでも折ろうとしたが、それはびくともしなかった。まるで鉄の棒のようで、どれだけ力を込めようとも果たせそうになかった。
そういうことなのか。
弟夫婦が海難事故で死んだのは、それによって姪が私たちの所へ来たのは、やはり、すべて『猿の指』の仕業――いや、私たちがそれを願ったせいだというのか。
私は――弟夫婦を生贄に捧げて子供を得たというのか。
私は……罪深い。なんて罪深い事を……
胸中で繰り返した私の眼前で、妻はその場にすとんと腰を落とした。茫然自失、まるで魂が抜け落ちたかのようなその表情を見やって、私は思う。
妻は――妻も、おそらくは『猿の指』の信憑性などという事は信じていなかったのだと思う。先程の行動は、一種のヒステリーだったのだろう。
だが、私たちは見てしまった。
目の前で見てしまった。
私たちは自覚しなければならない。
私たちの罪を。
「あなた……」
それから、どれくらいの時間が経っただろう。
呆けていた私は、妻のか細い声に我を取り戻した。
「……なんだ」
「私たちは……」
妻は両手で自らの顔を覆う。
「私たちは……許されるのでしょうか……」
指の隙間から嗚咽を漏らす妻。私は小さく首を振りながら、妻の肩に手を置いた。
「わからない……私たちには、きっと、わからない……」
泣き崩れる妻を寝室に促そうとした時だった。
だん!
と、無遠慮な騒音が鼓膜を叩いた。
「……あなた……」
「ああ……」
妻と顔を見合わせる。
音がしたのは玄関の方だ。来客のある時刻でもないし、そもそもその予定もない。
だん! だん! だん!
私たちの不安をよそに、打撃音はやまない。
だん! だん! だんだんだんだん!
断続的だったものが、苛立ちを表すかのように連続して続く。
「……あなた……ああ、あなた……あれはきっと……」
「2階のあの子のところへ行きなさい。私が呼ぶまで、決して部屋から出ないように」
「でも……あなた……」
「いいから、早く行きなさい!」
私の声に、びくりと身を震わせた妻は、視線を左右に泳がせてから立ち上がった。書斎の入口でこちらを振り返る妻に頷いて見せると、妻は不安げな眼差しを残して消えていった。
たったったっ、という妻が階段を上る音を聞きながら、私は再び『猿の指』を桐の箱から取り出していた。
だんだんだんだんだん!
音は、玄関から、ドアを粉砕せんばかりに響いていた。
また、それだけでなく、
ずり……ずり……
何者かが、何かが、足を引きずりながら庭を歩きまわっている。
各所の戸締りは問題ないから『彼ら』が家の中に侵入してくる事はないだろう。
私は右手に『猿の指』を握りしめ、極力足音を立てないようにしながら、玄関へと向かった。
だんだんだんだんだん!
ノックよりもドア自体を破壊する事を目的としているかのようなその轟音。
私にはわかる。
この向こうにいるのは弟だ。
私たちの身勝手によって命を失った弟だ。間違いなく。
私は……私は、どうすればよいのだろう。
鍵を開けて弟を、弟夫婦を迎え入れる事は簡単だ。
だが……
このドアの向こうにいる弟は、果たして、私の知っている弟なのだろうか。
この感情は、懐疑ではない。
恐怖だ。
だんだんだんだんだん!
ずり……ずり……
私は罪を認める。
私たちは、弟夫婦から、子供を奪った。
それは、許されざるものだ。
だが……だが、罪人の戯言と嗤ってくれてもいいが、姪には、何の罪もない。
私たちが犯した罪によって、姪が不幸になるなどという事は、決してあってはならない。
全てをなかった事にする。私がすべき事は、それだけだろう。
だから、私は、『猿の指』を眼前に掲げ――
――願った。
煙管をくゆらせながら、今日も店主は滅多に来ない客を待つ。
先刻まで暇つぶしに店主が読んでいた色褪せた新聞紙の地域面。そこにはこんな記事が載っていた。
『放火か? 不審火により家屋全焼。生存者は――』
「店長! お客さんがいないならこっちの整理手伝って下さい!」
奥から聞こえてくる声を一顧だにすることなく、店主はぷかりと煙を吐いた。
「店長! 蔵の中身、めちゃくちゃですよ?!」
最近仕方なく雇ったバイトは、雇用主を罵倒するにも躊躇がない。中学生をバイトに使っているとなったら色々差し障りがあるので強く出る事は難しいし、施設入所者となればなおさらだ。
「へえへえ」
投げやりに返して店主は着流しのまま立ち上がった。
どうせ客は来ないだろうから、今日はこのまま閉店にしてもいいだろう。
「それにしたって、責任なんてこっちが負うもんでもねえでしょうに。我ながら、お人よし過ぎでしょ」
入口の札を『本日閉店』にひっくり返し、店主は小さく呟いた。
「あの……店長」
不意に背後から聞こえてきた少女の声に、店主はひょうひょうと応じる。
「んん? なんでしょ?」
「これなんですけど……」
青いエプロンを身に付けた少女の手に握られていたのは――
3本指の、からからに乾いたミイラの腕。強力催眠謎幻水
「そこの廊下に転がってたんですけど……なんです、この気持ち悪いの?」
困惑気な少女の言葉に、店主は小さな笑みを返した。
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