営業課に、新しいプリンタがやってきた。
正確にはスキャナーにファクシミリ機能もついた複合機なんだけど、これがもう本当におろしたてほやほやの新品だった。まだそこはかとなく家電量販店の化学的な匂いがする。くすみ一つないオフホワイトの筐体は石膏細工のようで、指先でそっと触れるのもためらわれるほどきれいだ。足元には外したばかりとおぼしきビニールが折り畳まれた状態で置かれていて、まるで美しい芸術品のお披露目式みたいだと私は思う。日本秀身堂救急箱
「待ってたぜ……! 我が営業課のニューアイドル!」
石田主任のテンションは早朝とは思えないほど非常に高く、プリンタの全身を嬉しそうに眺め回っている。プリンタが人間だったら恥ずかしがるんじゃないかというほどためつすがめつした後で、ほうっと深く息をつく。
「いいな、写真で見るよりずっと美人だ」
そんな言葉までかけられていて、私はプリンタに羨ましささえ覚えてしまう。
やきもちを焼く対象にしていいのかどうか微妙なところではあるけど……でもちょっと、いいなあ、なんて。
主任はこのプリンタがやって来るのを心待ちにしていたそうで、一週間前には既に取扱説明書をメーカーのサイトからダウンロードして読み始めていたという。デジモノ好きの人らしい気合の入りようだった。納品されたのは昨夕だったから、今朝は誰よりも早く出勤してきてセットアップを済ませたと聞いている。
すっかり上機嫌の主任は『見せてやるからちょっと早めに来い』と私、そして霧島さんに連絡をくれ、私たち三人は始業の一時間半も前から営業課に集まっていた。
「いいんですか、ここでそんなこと言っちゃって」
霧島さんが肩を竦める。さっきから主任のテンションには呆れているそぶりだったけど、言葉の後で私を見た目はどこか気遣わしげだった。
「うちの現アイドルが悲しみますよ。先輩がすっかり新しい子に夢中だって」
「え!? い、いえまさかそんなっ、そんなんじゃないです!」
羨ましがってるのを言い当てられて私は慌てたけど、霧島さんは毅然とかぶりを振る。
「ここはずばっと言ってやりましょう。この浮気者、そこまで言うならプリンタと結婚しろ! と」
いえいえそんなそこまでは全然思ってないですし!
と言うか私がアイドルだなんて畏れ多いしもったいない。今の私はもうルーキーでもないし、新しさ美しさで言ったらこちらのプリンタの方が圧倒的に勝っている。そして別に、主任をこんなに夢中にさせてるとは言え、人間ですらない無機物に嫉妬してしまうほどでは――胸の辺りが何となくもやもやするし、多少なくはないのかもだけど。
「馬鹿言うな、浮気じゃないよ」
主任は軽く笑った後、急に真面目な顔になって続ける。
「それに、小坂は皆のアイドルじゃない。俺のかわいこちゃんだ」
「え、えええ!?」
思わず声が裏返る。いきなり何を言うんですか主任!
「俺は小坂を大勢で共有する気はないからな。そこんとこ、誤解なきよう」
相変わらず、さらりとこっちが困るような言葉を口にする人だ。あまりのストレートな発言内容に呼吸困難すら起こしかけた私の傍ら、霧島さんまでそわそわ落ち着かない様子になっていた。
「朝っぱらからしかも職場で、よく憚りもなくそんなこと言えますね」
「いいだろ、他に誰も来てないんだし。他の奴らがいたら俺だって自重する」
そうは言っても、この場に三人しかいなくたって、私を安心させようとする心遣いの表れだとしても、今の台詞は途轍もなく心臓によろしくない。今日はこれから普通に仕事もあるのに、どぎまぎしすぎていろいろ手につかなくなりそう。どこかで気持ち切り替えないと。
当の主任は気持ちの切り替えなんて必要ないのかもしれない。顔色一つ変えず、やはりさらりと話を続けた。
「そういうことだから、早速うちの課のアイドルの初仕事といこう」
大きな手で白く美しいプリンタを指し示す。
このご時勢ならどこの会社もそんなものかもしれないけど、我が社の備品は決して新しい品ばかりじゃない。
課内に設置されてるスチール棚は引き戸が時々つっかかるし、会議で使うOHPは私が生まれるはるか前に作られたものだというし、私が仕事用に借り受けているラップトップも結構な年代物で、起動する度に不気味な音を立てるようになっていた。減価償却されまくって今やどれほど価値が残っているかも怪しい備品ばかりの中、待望されて颯爽と現われたプリンタはまさにアイドル的ポジションと言ってもいい。
前任のプリンタも私が入社した当時からがたがた音をさせていたから、今回めでたく予算が下りて買い替えが決まったのは本当によかった。主任がはしゃぐのもわかるし、私としてもこれで仕事が捗るなら言うことなしだ。
「これ、もう動かせるんですか?」
霧島さんがプリンタに近づきながら尋ねる。
「ああ。セットアップ済んだって言ったろ、もう何だって印刷できるぞ」
「じゃあ試しに何かやってみます? 俺も触ってみたいですし」
そう言って液晶パネルに触れようとした霧島さんの手を、石田主任はやんわり押し留めた。
「待て待て霧島、お前ちゃんと取説読んだか?」
「いえ、読んでないですけど」
答えた後で霧島さんは笑い、
「読まなくても大丈夫ですって。そんな難しいもんじゃないでしょう」
と続ければ、すかさず主任が眉を顰める。
「触るなら読んでからにしろよ。適当なボタン押されて壊されちゃ敵わん」
「壊しませんよ。プリンタの操作なんてどれも似たようなものじゃないですか」
「これだからアナログ人間は! いいか、デジモノの技術進化なんて日進月歩なんだぞ」
主任は大仰な身振りを交えて語り始めた。
「お前がぼさっと過ごしてる間にも日本のものづくり技術は日々成長を続けてんだよ。どれも似たようなものだなんて軽々しく言うな。畏れ多くもこちらのアイドル様は、カラー原稿ですら毎分六十枚以上でコピーしてくださる働き者だぞ? 両面スキャンにも対応してくださってるし、両面ADFだって搭載なさってる! 俺たちの今後の業務を大いに助けてくださる、言わば勝利の女神様だぞ!」
「まあ、前のプリンタが年代物でしたからね。隔世の感すらありますけど」
ここでやっと霧島さんが口を挟む。主任はますます勢いを増して、更に訴える。
「それをわかってんだったらなぜマニュアルを読まない? 時代に取り残されたお前が最新のプリンタを使いこなせるとでも思ってんのか? それは思い上がりじゃないのか霧島」
「なぜ俺だけが取り残された風に言うんですか。大体、先輩はどうなんですか」
「俺は熟読したからな! 一週間前からそれはもう愛読書のようにみっちりと!」
主任はものすごく得意げな顔をする。そして自分のデスクからタブレット端末を拾い上げると、それを霧島さんに見せるように差し出した。
「今からでも目通しとけ。あ、PDFの見方はわかるよな?」
「いくら俺でもそこまで酷くないです」
霧島さんは苦笑したけど、マニュアルにはやはり興味が薄いようだった。一ページめくって『はじめにお読みください』を通読した後、私の方を向く。
「俺、こういうのはほとんど読まない方なんですよね。小坂さんはどうですか」
「私もあんまり……。いつも、わからないことがあって初めて開く感じです」
わからないまま弄って壊すよりは、ちゃんと取説読んでおく方が正しい。でも日進月歩の電子機器はだんだんとアナログ人間にも優しくなっているみたいで、手探り状態から始めても割かしどうにか使えてしまうものだった。携帯電話の取説なんて、いつも機種変するまでに二、三度開くかどうかという感じだし、このプリンタだって習うより慣れろですぐ覚えてしまうような気もする。
「小坂、お前もか。お前もアナログ人間なのか」簡約痩身美体カプセル
石田主任がどこかからかうような口調で言う。私は照れ笑いで誤魔化した。
「すみません、そうなんです。でもすぐに慣れちゃうと思います」
「しょうがねえなあ。じゃ、俺が使ってみせるから、よくよく見物しとけよ」
宣言するなり主任はプリンタの液晶パネルへ向き合う。
だけどそこへ、今度は霧島さんが口を挟んだ。
「先輩、こういうのは後輩優先で使わせてくれるものじゃないですか」
たちまち振り向いた主任が、訝しそうな顔をする。
「は? マニュアルも読まない人間が何を言う」
「だって、こんな朝早くから俺と小坂さんを呼んどいて、まさか見せるだけってことないですよね?」
「見せるっつうか、見せびらかしたくて呼んだ」
「先輩の私物じゃないんですから……。自分で言ったんでしょう、うちの課のアイドルって」
気心の知れた相手だからか、霧島さんは強気に食い下がる。
「だったら俺たちにも試させてくださいよ。こういうのは使ってみなくちゃ覚えられないですよ」
「ええー。一番は俺がいい」
その提案を、石田主任は子供っぽく拒んだ。むっとした口調がちょっと可愛い。
可愛いと思ったのはどうやら私だけのようで、霧島さんは何とも言えない半笑いだったけど。
「子供みたいなこと言いますね、先輩」
「だってセットアップしたの俺だしー。お前らより更に早く出勤してきてるしー」
「今の口調、気色悪いんでやめてください」
「あと俺、主任だしー。こういうのはやっぱ序列順だと思うんですけどー?」
「だからやめてくださいってば。しかも権力を笠に着ますか」
「当然だろ。せっかく主任にまでなったんだ、この権力をここで使わずいつ使う!」
ぐっと拳を握り固める石田主任は、まるで今日の為に主任になったと言わんばかりだった。
人並み以上に日々努力して勝ち取ったであろうその権力を、こういうことに使いたがるのはいかにもこの人らしいなあと微笑ましく思う。そこまでしなくても、こうして早朝出勤してセットアップを引き受けたと言うだけでも十分、一番乗りの権利はあるんじゃないかなとも思うけど。
「どうしてもって言うんなら考えてやってもいいが」
そして主任はやけに楽しそうに切り出した。顎に手を当て、少し考えるようなそぶりの後で、
「そうだな……時間もあるし、三人で軽く勝負でもするか。勝った奴が一番にプリンタ動かすってことでどうだ?」
いたずらっ子の表情で持ちかけてくる。
三人、と言うともちろん私もカウントされていることになる。私としては一番じゃなくてもいいし、主任を労う意味でも順番を譲りたいところだったけど、霧島さんは乗り気のようで意気揚々と頷いていた。
「いいでしょう。何で勝負します?」
「俺が決めていいのか? ……じゃあ」
そこで石田主任は、何とも意味ありげににやっとした。
「しりとりでどうだ」
「は? しりとりですか?」
霧島さんが眼鏡の奥の瞳を丸くする。
「何だ、霧島はしりとり苦手か? だったら尚更都合がいいな」
「いえ苦手ってほどでは……と言うか得手不得手って観点で捉えたことなかったですよ」
「俺はこう見えてもしりとり得意なんだよ。な、小坂?」
主任から同意を求められ、私は思わず視線を外した。
「そ、そうでしたね……。覚えていらっしゃるとは思わなかったですけど」
「忘れられるわけないだろ、あの時のことは」
いっそ、さらっと忘れてくれててもよかったのに。
私と石田主任はかつて、二人でしりとり勝負をしたことがある。
得意と言うだけあって主任は実際、強かった。私を『ず攻め』にするという力ずくのプレイスタイルで難なく勝利を収めてみせた。あの時は手も足も出なくて、本当に悔しかったな。
ただ、その、問題はそこじゃなくて――しりとりの話題で私が主任の顔を直視できなくなるのには別の理由がある。
すなわち私が、いつ、どういうシチュエーションで、主任としりとりをしたかという点。
それは先程、主任が口にしてのけたストレートな発言以上に、職場に持ち込んではいけない類の内容だと思う。うっかり思い出すと仕事が手につかなくなりそう。なので、何と言うか……思い出させないで欲しかったなあ、と私は密かにうろたえた。
霧島さんは私と主任の顔を見比べ、眉を顰める。
「何で、しりとりの話題が出ただけで居たたまれない空気醸し出してるんですか?」
「気のせいだろ。しりとりくらい、どこのカップルだってやってる」
「そうですかね……。そこまで言うなら、先輩の強さとやらを拝見したいものですが」
「よし、乗り気になったか」
主任はぱっと表情を輝かせて、
「言っとくが俺は手加減はしないぞ、アイドル争奪戦だからな!」
明るい声で宣言する。
対して霧島さんもどこか自信ありげに微笑んだ。
「いいですよ。たかがしりとり、先輩に負ける気なんてさらさらありません。プリンタ一番乗りはいただきます」
二人とも、どうしてかものすごく楽しそう……!
まるで格闘技の試合前みたいに睨みを利かせ合う姿は、もうプリンタの試し刷りなんてのは二の次で、二人で真剣勝負がしたいだけなんじゃないか、とすら思える入れ込みようだった。仲良しなんだから。
そうかと思えば石田主任は私にも水を向けてくる。
「小坂ももちろんやるよな? 以前のリターンマッチを果たさないと、だもんな?」
「私ですか? えっと……」
率直に言えば、もう既に思い出し赤面をしてる私としては、遠慮したい勝負だった。主任も『以前の』とわざわざ言ってくる辺りが、ちょっと意地悪だ。主任のことだからきっとわざと言ってるんだと思う。それもまた弄ばれてるみたいで悔しい。
それとも、これも石田主任のプレイスタイルなんだろうか。試合前の心理戦から既に勝負は始まってる、とか……。ありうる。何せ主任は私を『ず攻め』にして勝利を収めた人だ。今日も私を動揺させて打ち負かす気でいるのかもしれない。
だとしたら、受けないわけにはいかない。私にだって負けず嫌いの精神くらいある。
「じゃあ、私もやります。リベンジしますよ、主任」
狼狽が面に出ないよう、私もあえて強気に応じてみた。
主任はそれを面白そうな目つきで受け止める。西班牙蒼蝿水口服液+遅延増大
「お、小坂も言うようになったな。返り討ちにしてやろう」
更に率直なところを言えば、私は別にプリンタを一番に動かしたいとは、そこまで思っていなかったりするんだけど――。
でも、しりとり勝負に挑む石田主任と霧島さんがすごく楽しそうだったから、交ざりたくなってしまったのもある。
それに、リベンジしたかったのだって本当だ。あの時の私は雰囲気と言うか、空気に呑まれまくりで酷い状態だったから、そういう自分を乗り越える意味でも今日こそは勝ちたかった。勝って気持ちを切り替えて、晴れやかに今日の仕事を始めたい。
そうでもないと今日一日、思い出し赤面と思い出しうろたえを引きずりまくって酷いことになりそうだから――って言ってる傍からちょっと思い出してきてしまって、私は大きくかぶりを振る。ああもう、こんなので私、主任に勝てるかな。
ともあれ朝も早くから、営業課のアイドルを賭けてのしりとり勝負が幕を開けた。
しりとりの順番はじゃんけんで決めた。
その結果、一番手は石田主任、二番が霧島さん、三番目が私の順に回すこととなった。
まさか職場でしりとり勝負をする日が来るなんて、入社当初は考えもしなかった。ルーキー時代の、今よりもずっと石頭だった私は、職場をもっと神聖な場所だと考えていたからだ。既にルーキーではない私は以前よりかは柔軟な頭になれてると思う。
こうなったら意地でも主任に勝ってみせたい。
「よし、順番も決まったしさっさと始めるぞ」
主任の音頭を皮切りに、三人でのしりとり勝負が始まった。
「まず俺からな。しりとりの『り』から、リール」
「『る』ですね。ルーレット」
霧島さんが難なく続ける。私もすぐさま繋いでいく。
「『と』……とんぼ!」
一巡目は全員、特に考え込む必要もなかったようだ。頭に戻って、また主任から。
「ボール」
「また『る』ですか? ……ルビー」
「『い』でいいんですよね? じゃあ、イカ」
「カップヌードル」
三巡目に入ったところで、いち早く霧島さんは察したようだ。途端に眉を吊り上げた。
「先輩、さっきから俺に『る』ばっかり回してません?」
どうやら今回の主任は『る』攻め作戦でいくみたいです。考えてみたら、『る』も『ず』と同じで、なかなか該当する単語が見つけにくい頭文字ではあるし、実に巧妙な作戦だ。
「お、さすがは霧島。小坂より気づくの早かったな」
感心したように笑む石田主任を、霧島さんは呆れ顔で睨む。
「やっぱりわざとですか……」
「一文字攻めは俺のしりとりでの基本プレイスタイルだ」
「しりとり如きでプレイスタイルとか! 大人げないな先輩!」
床に穴が開くんじゃないかというほど深い溜息をついた霧島さんが、その後で思い当たったように顔を顰めた。
「って言うか小坂さんが相手の時でもやってるんですか、この卑怯な戦法」
「そうなんです。前回はそれで惨敗しました」
私は恥ずかしながらも打ち明ける。その上さっき主任も言ってたけど、『ず攻め』されていることにしばらく経つまで気づけなかった。もちろんそれはあの時、ばりばりに緊張していたからというのもあるだろうけど――いやいや、思い出さない思い出さない。
それにしても、本当に霧島さんはすごいな。主任と付き合い長いだけはある。
「かわいそうに……。ぶっちゃけ、女性相手にこのやり方は男としてどうかと思います」
霧島さんの指摘にも石田主任はどこ吹く風だ。
「何言ってんだ。男女平等が謳われて久しいこのご時勢、女だからって手ぇ抜いたらかえって失礼だろ」
それも一理ある。一人前として見てもらえない辛さも、女性だからというだけで待遇が違うなんてことも社会人になってからそれなりに味わってきた。だからこういう真剣勝負の場で手加減されないのって、一人前扱いみたいで嬉しいかもしれない。
ただ、喜んでばかりもいられない。しりとりは知的で高度な言葉遊び。語彙力がそのまま強さとなって表れる。ボキャブラリーのなさは戦いが長引けば長引くほど響いてくるだろうから、日頃から表現力豊かな主任が相手ならなるべく短期決戦に持ち込んだ方がいいだろう。
その為にも、私も何がしかの作戦を考えないと――何だかだんだんと燃えてきている自分に気づいて、今更ながらちょっと照れたけど、楽しいんだからいいよね。
「そんな汚い手を使って、小坂さんに幻滅されないといいですけどね」
「ないない。それどころか『知略を巡らして勝利を収める隆宏さんって素敵!』って惚れ直すはずだ」
自信たっぷりに言い切った主任は私を見て、
「な、小坂?」
と同意を求めてくる。
もちろん主任は素敵な人だけど、その魅力が一番表れているのはしりとりに全力を注ぎ込んで楽しむという性格だと思っている。だから惚れ直すというならいつも、事あるごとに惚れ直しているんじゃないかなって……そんなこと、口に出しては言えないけど。
口に出すのはもっと違う言葉にしておく。
「今回は私が勝っちゃうかもしれませんけど、主任が負けたからって幻滅したりはしませんよ」
ちょっと大胆に、挑発に出てみる。
石田主任は一瞬驚いたようだった。でもすぐに、嬉しげににやっとして、
「言ったな。そこまで大見得切ったからには、一抜けなんかするなよ」
「もちろんです。私、頑張ります!」
「……何か小坂さん、先輩に影響されつつありません?」
どうしてか心配そうにしている霧島さんから、しりとり再開。
さすがに三巡目ともなると少し悩んでしまうようで、
「る、る……。ええと……ルアー」
数十秒かけてからようやく言って、ほっとしたように肩を竦めた。
「『あ』ですよね? アイス」
私がすかさず続けると、石田主任も間髪を入れずに繰り出してくる。
「スケジュール」
「またですか! 何て卑劣な人だ」
霧島さんが愚痴を零した。もちろん聞き逃すような主任じゃなく、途端にたまらなく嬉しそうな顔をしてみせる。西班牙蒼蝿水
「何なら白旗揚げてもいいんだぞ、霧島」
「嫌です、まだ行けます! る……る……」
唇を真一文字に結び、霧島さんは尚も考える。眼鏡のつるを指先で持ち上げ、思索に耽る面持ちは真剣そのものだった。写真に収めて奥様に見せたいくらい格好いい表情だったけど、さすがにゆきのさんにだって『この写真、しりとり勝負の真っ最中なんですよ!』とは説明しにくい、かな。やめておこう。
二分近く考えた結果、何か閃いたらしい。そこで霧島さんの顔色にわかに明るくなり、叫ぶように言った。
「ありました! 『ルーツ』!」
「わあ、すごい! やりましたね霧島さん!」
まるで我が事のように嬉しくなって、私は拍手で霧島さんを労う。
「ここで詰まってる時点で、もう後がなさそうだがな」
一方、主任は悪役みたいな台詞を口にしていた。おかげで霧島さんはげんなりした様子だ。
「小坂さんはともかく、先輩にだけは負けたくないな……」
私も霧島さんとだったら普通の勝負になりそうでいいかなと思う。主任は手強すぎるから、この先の為にもどうにかして打ち勝つ方法を見つけ出しておかなければならない。
ともあれ、次は私の番だ。
「『つ』、と言えば……鶴!」
声に出してからふと気づく。――あ、次が『る』だ。
もちろん石田主任も、そして霧島さんもすぐに察したようだった。二人揃って含んだような笑みを浮かべた。
「小坂も『る攻め』で来るとはな。学習したな」
「けど先に卑怯なことしたのは先輩ですし、責められないですよね」
「責める気なんか端からない。むしろ面白くなってきたとこだ」
主任に『る』が回って、さてどう応えるんだろう。固唾を呑んで出方をうかがう私の前で、主任は間を置かず次の言葉を放つ。
「ルール」
「うわ……っ、まだあるのか!」
霧島さんが自らの額を押さえ、蹲る。その頭上では石田主任がこれ以上ないほどの得意満面で胸を張っていた。
「どうした霧島。降参か?」
「ちがっ、まだです! 何か……何か『る』のつく単語があるはずです!」
そう言って霧島さんは単語を探し始めたようだ。目に見えて焦っているそぶりだった。
私も一度経験しているからわかるけど、こうして追い詰められると思考力が著しく低下してしまうものだ。代わりに浮かぶのはしりとりに使っちゃいけない単語ばかり。
「留守番、ルーチン、ルサンチマン……しまった、いよいよ浮かばない……!」
霧島さんもいつぞやの私と同じ状態になっている。ぶつぶつといくつかの禁止ワードを呟き、苦しげに何度か息をついた後、よろけながら立ち上がった。
そして肩を落として、一言。
「……俺、一抜けでいいです」
投了宣言だった。
「よっしゃあ! まず霧島を倒したぜ!」
片腕を振り上げて喜ぶ石田主任を、霧島さんは恨めしげに見ている。その後、私に向かって必死に訴えてきた。
「小坂さん、是非とも石田先輩を倒してください! 俺の仇を討ってください!」
そう言われたら張り切らないわけにはいかない。
「任せてください! 頑張りますから!」
私は大きく頷く。
それを聞いていた主任は、煽るように指招きをしながら言った。
「残るは小坂一人だな。来るなら全力で、もしくは色仕掛けで来い!」
「私に色仕掛けとか期待されても困ります……えっと、全力で行く方でお願いします!」
「何だ、残念だな」
あながち冗談でもない口調の主任は首を竦め、
「霧島が抜けたから、次は小坂の番な。ルールの『る』だぞ」
と促してくる。
恐らくだけど主任は、『る攻め』路線を継承してくるだろう。
私も今のうちはまだ『る』のつく単語がいくつか浮かんでいるけど、主任のボキャブラリーを踏まえて考えるならそれだっていつか尽きると思うべきだ。追い込まれたら不利になるのは日頃から落ち着きのない私の方だし、正攻法じゃこの人にはまず勝てない。
そうなると何か、何がしかの作戦が必要だ。
私は考える。石田主任の勝つ為の方法。いつぞやのリベンジ、そしてあの時敗北した自分自身を乗り越える為の――。
そしてふと、ひらめいた。
「じゃあ、行きます」
目には目を、歯には歯を。『一文字攻め』には『一文字攻め』を!
「ルミノール!」
私が叫んだ単語に、
「おおっ」
霧島さんは声を上げ、石田主任は静かにつり目がちな瞳を丸くした。それも長くは続かず、すぐ興味深げに笑んでみせたけど。
「そう来るか。どうやら俺たちは既に似た者夫婦らしいな、小坂」
「わあ、な、何を言うんですか。動揺させようったってそうはいきませんから!」
「今のは別に作戦じゃないんだがな」
何と言われたって動揺しない。うろたえたらその隙を突かれてしまう。常に相手の先を行く思考を持てなくちゃ勝てっこないだろう。
「『る』だな。ルクソール」
今回も主任はほぼ即答だった。だけど私だってそのくらいは予想済みだ。
「では、ルノワール!」
「また『る』か! る……ルーブル!」
一瞬だけ、主任が顔を顰めた。少しだけ次の言葉を考えてしまったのかもしれない。
ここが攻め時とばかりに私はやり返す。
「ル・アーヴル!」
「何だと……ルゴール!」
「ルナール!」
「ん? 何だそれは」
「ジュール・ルナール、『にんじん』の作者です。ご存じないですか」
「タイトルしか知らん。やるな小坂」
苦々しく応じた主任は、いよいよ険しい顔つきになって熟考を始めた。『る』で始まって『る』で終わる言葉を探しているんだろう。語彙力においても人生経験においても、とっさの判断力においても私よりはるかに勝る石田主任は、だけどこの時初めて苦悩の色を見せた。
私はその悩む姿をじっと見つめていた。私の方もそろそろ単語のストックが心許なくなってきたところだ。これ以上長引いたら作戦を変更しなければならなくなる。だから主任がどう出るか、身じろぎもせず見守った。procomil spray
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