2012年7月29日星期日

魔女の狂宴

自分がまったくの無力だとは思わない。
 魔女である自分には他の人間より強い魔力があることは、よく分かっている。
 けれどそれだけで何ができる?V26Ⅲ速效ダイエット
 いくら人より魔力が強いと言っても、私一人にできることなんてたかが知れているのに。

 静かに頷いたヴァノッサは、それからもくもくと料理に手をつけていた。いくら時が経ったといっても食事のマナーはあまり変わってはいないらしく、見ただけで本当に皇族なのだと分かる仕草で料理を嚥下していく。
 そういえばこの人は何も言わずに食べているけれど、料理は口に合っているんだろうか。
 普段から自分やビーの食事しか作らないから、自分好みの味付けしかしていないというのに。
 まぁ、まずいと言ったその瞬間に料理を下げるぐらいのことはするのだけれど。
 ……とりあえずは私の作った料理が今のファルガスタでも食べられていますようにと祈るばかりだ。
 この料理は何だと訊かれたら年月が過ぎたことを嫌でも思い知らされて嫌だったし、何より懐かしい故郷の料理を食べたら国が恋しくなることだろうから。そしてそれは私とビーにとっては歓迎すべきことで。夜風と料理の湯気の両方に頬を撫でられながら、私はそれを確認しようかと考えて止めた。
 そんなことを話すためにわざわざここに来たわけじゃない。
 私が話し出すのを待っているのだろう、あくまでも静かに料理を嚥下するヴァノッサの紅蓮の瞳を一度見やってからついと指先を動かして自分ごと椅子をふわりと浮かせ、リィズネイションが咲く方へと向けた。
 そうしてそんな特に意味のない動作をしてから、ヴァノッサに顔を見られないようにしてようやく声を出した。
「オルド暦四六一年」
「?」
「この年に何が起こったか、貴方は知っていますか?」
 雪とともにファルガスタに地獄が舞い降りたあの冬のことをこの男は知っているのだろうか。いや、史実としてはもちろん知っているだろう……仮にも炎帝を名乗るなら。
 けれど、ほんの一欠片でも想像することができるだろうか。
「原因不明の伝染病に国中が侵され、多くの民が死に絶えました。皮膚の色が変わり激痛に襲われ、最後には狂って死んでいく死の病です」
「……魔女の狂宴か」
 変わりゆく肌の色と激痛に死を感じ怯えながら、それでも生きていた人々のことを。
 大事な人が目の前で死に逝く中、悲しむこともできないぐらい狂っていった民のことを。
 国が滅びなかったのが不思議なぐらい多くの人が、あの冬に死んだ。
 それをこの男はどれだけ理解しているのだろうか。
 集中していないと聞こえないほどの風音にあえて意識を集中させながら、私は微かに声を震わせて努めて静かに言った。
 姉妹月に浮かされてぼうと浮かび上がるテラスに目を細めて、ともすれば泣き出しそうな心を叱咤しながら。
 できることなら思い出したくない、けれど思い出さなければ話なんて進まない。
 椅子の背もたれに深く腰掛け、同時に嗚咽を吐き出すまいと深く深く息を吸う。すると喉の奥でひゅっという音がして、私はそれを悟らせないために微かに身動ぎした。
 そう、あれはまさに狂宴だった。
 決して魔女や魔導師が起こしたことではないのだけれど、そう思われても仕方がないほどに私達には異変がなかったし為す術がない出来事だった。
 誰に責めることができただろう、誰よりも苦痛を味わう人々が何の苦痛も知らない魔女へ怒りをぶつけることを。
 私からすればとんでもないことだったけれど、どうでもいいと思える程度ではあっても強い憎しみに囚われるほどではなかった。
 何より陛下に止められない狂気を私に止められるはずがない。
 辺境から城下へと迫った狂気は、やがて。
「そう。だから人々は、炎帝の傍に侍る氷の魔女を殺せと国中で声を上げた」
「確かに、手紙にも史実書にもそう書いてあった……だがなぜだ? 当時は他にも魔力を持った者が存在したと――」
「もちろんいました。けれど皆とっくに身を隠していましたから、一番目立つ魔女である私に白羽の矢が立ったのです」
 反乱という波となって、城へ……私へと襲いかかった。
 もちろんそれは予想していた通りの流れで、分かりきっていた話なのだけれど。それでも私は身を隠したりはしなかった、というと格好良い言い方だけど別に自己犠牲に酔っていたわけではない。
 見上げた先にある姉妹月がすれ違いそうなほどに近付くのをぼんやりと見ながら、ささやかに甲高い音をさせてヴァノッサが食事を止めた気配を半身に感じた。そうして気配を感じた方の頬に、強い視線が向けられるのも。
 まるで怒っているようなその気配は一体何を言いたいのだろうか。横顔で視線を受け止める私には分からなかったけれど、別に気にする必要はなかったらしい。
 がた、と音がしてそれからすぐに姉妹月が消える。自然と降りた影を見ると、それはやはり怒っていた。
 肩を怒らせてこちらを見る紅蓮の瞳は私に何も伝えない、だが代わりに言葉で怒りを伝えてくる。
「なぜ逃げなかった」
「……」
「他の魔女達とともに身を隠せば、民だって貴女に憎しみをぶつけることはなかった」
「……一つ、勘違いをしているようですが」
 どうして貴方がそんなに怒るのか。
 私としてはその方がずっと問題なのだとこの男は気付いて……いないに違いない。
 刺すような視線に私は呆れ混じりの溜息をつき、首を振る。するとヴァノッサの怪訝そうな瞳とぶつかった。
 確かに普通に考えればそれが正しい。私だって誰かが同じことをしていたら馬鹿にするかもしれない。
 けれどヴァノッサは分かっていない。
「私がここにいるということ。生きているということ。その意味が、貴方になら分かるはずです」
「だが――」
「あの時国中の人が、私の死を確信したでしょう。でも私は生きている……逃げて、ここで生きている」
 遅かれ早かれ私は逃げたのだ。
 なのに逃げなかったことに対して怒られるのは筋違いというもので、なぜ逃げたと言われれば文句は言えないけれど逆は認められない。
 そう言った私の顔は、一体どんな表情をしていたのだろう。ヴァノッサが怯んだように目を逸らし、眉を寄せて苦渋を浮かべたのが見えた。
 影になっているからそれが本当に苦渋なのかは分からないけれど、きっとそうなのだと思う。
 ふわり、と自分の体だけ浮かせてそのままの体勢でテラスの手すりに腰掛ける。体重をかけると何かの拍子に落ちそうだったから、触れるか触れないかという程度にだけど。
 そうして自身の身に纏うワンピース生地を柔らかに揺らしながらヴァノッサを見ると、一変して明るい場所で見えた彼の顔にはやはり苦渋が浮かんでいた。
 複雑そうなその表情を見て、もしかしたらこの男は気付いたのかもしれないと思った。
「貴女を逃がしたのは、先代の炎帝か」
「えぇ」
 気付いた、というよりは確信したというべきか。
 予想はしていても確信するには私自身が認めるしかない。
 搾り出すような声にできる限り平静を保って答えると、その演技がそのまま私の心を平静にする。
 リィズネイションに囲まれて白いテラスの中に佇むヴァノッサはともすれば浮いてしまいそうなその場所で、自然に自己の色を浮かび上がらせる。
 特に欠点のないその姿はまるで一枚の絵画のようで、自分が同じ場所にいるとはとても信じられない。姉妹月に背を向けていなければ、その二つの月ですら絵画の中にすんなりと入れてしまいそうだ。
 美しいというわけではない、確かに幻想的ではあるがそれが理由ではない。ただ異常なまでの強さがすべてを巻き込んで、それがゆえにヴァノッサと世界が溶け込んでいるように見えたから。……これが炎帝と言われる所以だとするならば、やっぱりあの人とこの男は別人なのだと思った。V26即効ダイエット
 見た目はほとんど同じなのに私はあの人にこんな強さを見たことはない。見たいとも思わなかった。
 私がそう思っている間に、ヴァノッサは拳を軽く握りしめてこちらを見る。
 燃えるような瞳は少しの躊躇を持って一度閉じられ、一歩分私へと近付く。自分の歩幅よりもずっと大きな一歩はしかしそれ以上進んでくることはせずに、瞳を開くことで押し止められる。
「それが、救世主を拒む理由か」
「もちろんそれもあります」
 溜息のような問いに肯定と若干の否定を返すと、ヴァノッサはまだあるのかというような顔でこちらを見た。まさかこれだけだと思ったのだろうか、魔女の長い人生を舐めてもらったら困る。
 まぁ……すべてあの冬に起きたことだと考えれば、舐めてかかってこられても仕方がないのかもしれないけれど。
 とりあえず座ってはどうですか? と尋ねればこのままがいい、という返答とともにヴァノッサはもう一歩こちらに近付いてきた。あまり高くはない手すりに腰掛けて、丁度同じ目線になっていることにその時気付く。
 上からでも下からでもなく真正面から見たヴァノッサはやっぱりあの人に似ていて、そのくせ紙一重の差で別人で。
 私は一体この男にどんな顔をすればいいのだろうかと悩みながら。
「一つ、昔話をしましょう」
 少しずつ自分が話したかったことへと近付いていく。
 それは自分が普段思い出すまいとしている記憶との対面だったけれど、何も過去のすべてを事細かに語る必要も思い出す必要もない。ただ、話すべき事柄だけを思い出し話せばいいのだ。なのにどれだけ痛みの少ない記憶を探してもそんなもの見つからなくて、私は痛みに目を閉じた。
 そうして閉じた視界の中で、懐かしいあの国の光景が目に浮かんだ。あぁ、どうして記憶をそのまま見せてあげられる魔法がないんだろうか……あれば思い出すだけで済むのに。
 黙って立ったままのヴァノッサを見えない視界に捕らえながら私は何から話すべきかと思案して。
「病が城下に近付く、ほんの少し前に私は一人の女の子に出会いました」
「……」
「あの頃はまだ場内の者達にしか私の存在は知られていなくて、何も知らないその子は私によく懐いてくれました」
 最後に街に出た日のことを話そうと決めた。
 どうして出会ったのかも分からないたった一人の女の子のことを。 そしてその子が死んだ日のことを。
 意識を集中させて体を浮かせ続けた私は不意にその魔法を解いてゆっくりと手すりに腰掛ける。今もし何かあったら落ちてしまいそうな体勢だったけれど、どうしても何かに触れていたくてその冷たい手すりに指先を這わせた。
 どこか幻想的なこの光景の中で自己を保っているにはそれしかないと思ったから。
「何の話をしていたか覚えていないし、どうして出会ったのかも覚えていないけれど、私もその子のことが好きだったのは覚えています」
 そう、会う度に抱きついてきたあの子の冷たい体を抱きしめるのが好きだった。
 お忍びで城下へ降りてきていた陛下がそれを見て笑うのが好きだった。
 もうすぐ雪が降るなと考えていたのをよく覚えている。
 ……そんな他愛のないことばかりちゃんと覚えている。何を話していたのかとかそういう大事なことは全然覚えていないのに。それが何だかとても悔しくて思わず唇を噛みしめたくなったけれど、そんな姿を目の前の男に見せたくはなくて、寸前で我慢して話を続けた。
「でもあの子も病にかかってしまった。城下の誰より早く、あの子に死が近付いていきました」
 誰もがあの子を遠巻きに見ていた。紫に爛れていく肌を晒したあの子に、誰も手を差し伸べようとはしなかった。
 皆知っていたのだ、それが城下で起こる地獄の始まりだと。
 ただ私だけがあの子に近付いて、何とかできないかとひたすらに薬を調合した。
 魔女がその病にかからないことは、すでに陛下から聞いていたから。
 怪我を治すことができるのに病を治すことができない自分をあの時ほど呪ったことはない。
 手すりに這わせた指先が、そこから冷えていくのを感じながら私は細く深く息を吐いた。平静で、何事もないかのように話していなければならないのにどうしてもそうはできなかった。
 思い出さなければ何てことはないのに、思い出せば後から後から溢れてくる痛みに支配されそうだった。
「毎日毎日、病の対処法に奔走する陛下と一緒に薬を調合し続けました」
「……貴女は」
「でも駄目だった。何度試しても効果がなくて、あの子が痛みに狂うのを見ながら私まで気が狂いそうになりました」
 いくら自分が救世主に向かないことを証明するためとはいえ、自分の無力を語ることがこんなに辛いことだとは知らなかった。
 卑下ならいくらでもできる、それこそ一晩中自分を卑下し続けよう。
 でもそれだけではきっと納得しないことは分かっていたから。確かな理由と過去と持って証明する必要があった。だからこうして話しているのに、いくら覚悟をしてもそれで痛みが和らぐわけではなく、私は死ぬ間際のあの子の言葉を口にした。
「助けて」
「レイアスティ?」
「助けてって……言ってたのに」
 助けて、と何度も何度も繰り返していたのを思い出す。
 あれはどこだったか、場所は覚えていないけれどそれだけはちゃんと覚えていて。そして私は覚えていないだけで、きっと何度も何度も誰かのその言葉を聞いては助けられなかったことに絶望したのだと思う。
 その中でこれは最初の絶望だった。
 息絶えるその瞬間まであの子は私に助けてと言い続けていた。
 それはもしかしたら私が魔女だと気付いたからかもしれないし、そうではないのかもしれない。でもそんなことはどうでもよかった。
 このまま落ちてしまおうか、何とはなしにそう思いながら軽く体を傾け私は続けた。
「私には何もできなかった。誰も助けられなかった。そのくせ一人逃げ出した」
「……貴女はそれを」
「いくら魔女だと言っても、私一人にできることなんてたかが知れています。それなのに貴方は私に救世主を望むのですか」
 ファルガスタも、そこに生きる民も他国のこともどうでもいい。
 そう思うのは激しい憎しみをぶつけられたせいでもあるし、これ以上関わりたくないという想いのせいでもあるし、本当にどうでもいいと思っているせいでもある。
 けれどたとえばここで何とかしたいと想ったとして、私に何ができる?
 何もできずにまた絶望するの? あの冬のように。
 そんなのはごめんだった、絶対に嫌だった。
 そう思い目を開けると、あまりに近くにヴァノッサがいたので思わず手すりから落ちそうになった。だが魔法を使おうとしたところでヴァノッサの腕に支えられたので止める。
 小さく礼の言葉を口にするものの、支える腕が離れないので怪訝に思ってそちらに視線を向ける。すると彼は表情を隠すように口を引き結んでこちらを見ていた。
 不快感を表すものでもない、同情しているわけでもないだろう、ではこれは何?
 不思議に思いじっとその紅蓮の瞳を見つめていると、ヴァノッサは私から腕を離し――え?
「な、何を!」
「――すまない」
 いきなり目の前で跪いた紅蓮と黒の体に、慌てて手すりから降りる。
 腕を伸ばして肩に触れる。そうして立ち上がらせようとした所で放たれた言葉は、見事に私を固まらせた。
 腕が折れている方の肩に熱を感じて思わず指先を離しそうになったのに、それすらできないほどに驚かされた。
 ……どうして。
「どうして貴方が謝るんですか」
「そうしたかったからに決まってるだろう」
 自分が生まれるよりもずっと前の話を聞いて、どうして謝るのだろう。
 そう思い困惑をそのままに声を出すと、響いた声に重なるように即答で返された。自分の声の余韻と重なったそれはひどく綺麗に聞こえる。
 一歩後ずさってその音の余韻に浸っていると、ヴァノッサはそれにと続けた。
「俺はこれから貴女に残酷なことを言うし、願うからだ」
「……っ」
 こちらを見上げる怖いほどに真摯で強い視線を見てこれから言われ、願われる残酷なことが何なのかに気がついて目を見開いた。
 これだけ話したのに、人がせっかく痛みに耐えて自分の過去を晒したのにこの男は、まだ――。
「貴女がどれだけ絶望したか聞いて、それでも俺は貴女に救世主を望む」
 まだ、私に救世主を望むというの?
 あまりのやるせなさに眩暈を感じて、私は手すりに体を預けて跪いたままのヴァノッサを力なく見下ろした。V26Ⅱ即効減肥サプリ
 一体どうしてこの男は、そこまでするのだろうか。
 何もできなかった私にこうして謝罪までして、どうして。
 そう考えているとヴァノッサは苦笑を浮かべながら、疑問に対する答えを返してくれた。
「銀の魔女、最果ての魔女が救世主」
「……? それは確か」
「知っているか、あの物語を。うちの預言者があの物語の通りになると預言したから俺はここに来た」
「でもあれは翡翠の――」
「海のような蒼の瞳を持つ、銀の魔女を指名してきたぞ」
 呆れた。
 確かにそんな姿を持つのは世界にそうそういるものではないだろう、更には最果てという単語までついたとなれば。
 けれどこの男はそんな預言者の言葉を信じて、ただそれだけを信じてここまで来て頭を下げているのか。仮にも皇帝が、そんなにしてまで預言者の言葉を信じて。
 紅蓮の瞳から目を逸らして夜風に揺れる紅い髪を何とはなしに見ながら、馬鹿みたいと呟く。本当に馬鹿みたいだ……ただそれだけのために私は振り回されたのか。その預言者にも腹が立つが何よりヴァノッサに腹が立った。
 はぁ、と息をつくと先ほどの私の言葉が聞こえたのだろう。ヴァノッサが苦笑を深めてそうだな、と同じく呟いた。
「確かに馬鹿みたいだ。だが今は、預言者の言葉抜きで貴女に救世主を望んでいる」
「……どうして」
「人の死に絶望して、更には三百年経った今でも痛みを感じ続ける魔女なんて、聞いたことがないからだな」
「馬鹿にしていませんか?」
「まさか。むしろ申し訳ないと思っている。俺の国の先祖や民が貴女を苦しめ続けているのだから」
 いい加減立ち上がればいいのに、ヴァノッサはやはりその体勢のままただ真摯な瞳でこちらを見ているが少しだけその視線を弱めて笑った。
 緩やかに弧を描いた唇が紡いだのはやはり笑みを含んだ声で。
「貴女は自分一人でできることなんてたかが知れていると言ったな」
「えぇ」
「まずその勘違いを正しておきたいんだが」
 口調は先ほどから変わらないのに、ひどく優しい声が辺りを満たす。
 自分ではきっとどう頑張ったって出せそうにないその声をこの男が出していることが不思議で、私はどことなく自分より年上に見える男から視線が逸らせないでいた。
 顔を若干仰向けて姉妹月の光をいっぱいに浴びた瞳は、次の瞬間微かに曇る。想いを隠そうともしない瞳は、最初に出会った頃とは大違いだと思えるほどに分かりやすかった。
 きっと、故意にそうしているのだろう。
 ここで隠し事をするということがどういうことか分からない男ではないはずだから。
「今、モーリス大陸では俺の国を始め多くの国が地震の被害を受けている」
「……知っています」
「何度家を建て直しても次から次から壊れていく。民はいつまで経っても避難所での生活を強いられているし、何より地震の規模も頻度も大きくなっている」
「そうでしょうね。私もそう感じていますから」
「分かるのか?」
「感覚としてなら。体がかなりだるくなりますけど」
 唐突に切り出された言葉に別段何を言うでもなくただ相槌を打つ。すると私に地震の感覚が分かることに驚いたのか、ヴァノッサは微かに眉を上げてこちらを凝視した。
 けれどそれぐらいで驚かれては困る、私は一応魔女なのだし。
 そうなのか、と呟いたヴァノッサはしかしすぐに表情を引きしめてこちらを射抜くように見た。その表情に徐々に影が出てきたのを感じ、そろそろ姉妹月のうちの片方が消える時間かと内心で呟く。
 ということは、もう結構な時間私達はここで話していたということになる。ついとヴァノッサの横に咲くリィズネイションへと視線を向けて、その花が閉じようとしているのを見て確信する。
 そうしてそんな確信を抱いていると。
「俺は俺の国と民を守りたいし、守るためには何だってやってやる」
「……」
「一人で絶望させるつもりはない、その時は国を失い俺も一緒に絶望する。一人でできることなんてたかが知れてるなら、二人でやればいいだろう。その結果本当に国が救えるかは分からないが、もしできなかったとしてもそれは貴女の責任ではなく貴女を選んだ俺の責任だ。貴女が苦しむことなんて何一つない、その代わりに俺は貴女に限界を超えて力を揮うことを願う」
「そんな、無茶苦茶な――」
「だから」
 無茶苦茶だ。
 大体一人増えたぐらいで変わるものではないし、そういう意味で言ったわけではない。
 なのにヴァノッサは私を責めないと言いつつも私に限界を超えろと無茶を言う。
 そうして真摯な瞳と柔らかい声をそのままに折れていない方の手を差し出した。
 ややごつごつとして見えるその手を困惑気味に見ていると、ヴァノッサは続ける。
「俺と来い、レイアスティ。臣下としてではない、救世主として俺の隣に立て」簡約痩身

2012年7月26日星期四

やっと見た夢

車内に籠もった空気を入れ換えるように、
運転中の航はパワーウィンドウスイッチを片手で押した。
少し冷たさのある夜風が、五センチほど空いた窓の隙間から滑り込み、
佳乃の頬に当たる。韓国痩身1号
泣き腫らし、火照りの残る顔には、その冷たさが心地よかった。
助手席のシートに深く凭れ掛かった佳乃は、窓の外で流れていく夜の景色に
ぼんやりとした視線を向ける。
土曜日の夜らしく、家族連れやカップルの楽しげな姿が多く見える中で
光るネオンや車のテールライトに、眩しそうに目を細める。
風に当たり続けていると、濡れたままの服が冷やされてしまい、
身震いしそうになるが、それでもこの夜風に当たっていたかった。
ふと隣の運転席へと視線を移すと、航もまた、濡れたままの姿で
運転しているのが目に入る。
池の中で散々泣きじゃくった後、佳乃は航の手によって池から引き摺り上げられた。
お互いの手持ちのタオルでとりあえずの水分は取り除くことはできたものの、
二人とも着替えは持っておらず、結局濡れたままで帰る羽目になったのだ。
あの池の中で佳乃が泣き続けていた間、
航はずっと黙ったままで抱き締めてくれていた。
それは、どれぐらいの間だったのかは分からない。
もしかしたら数分のことだったかも知れないし、一時間以上経っていた可能性もある。
それでも航は何も言うことなく、ただ佳乃を胸の中に包み続けていたのだ。
航は車でパークタウンにやって来ていたこともあり、
こうして佳乃を送ってくれることになったのだが、
車の中でも彼は何も話そうとはしなかった。
今、黙々と運転をしている彼の横顔からも、何の感情も読み取ることはできない。
そして佳乃も、何も語る言葉は持っていなかった。
それでも分かるのは、池で抱き締め続けていてくれたことも、
何も話そうとしないのも、佳乃の心を落ち着かせようとする
航の優しさなのだ、ということだ。
彼はいつだって優しかったではないか、と佳乃はこれまで忘れていた、
優しさに対する感受性が蘇ったかのように再確認する。
彼が優しさを目の前で示しても、それを佳乃自身が受け入れるのを
拒否していただけなのだ。
彼の婚約者の存在や、社長である父親の跡を継ぐという彼の責務を
言い訳にはしてきたが、実のところ、
佳乃の心が彼という存在を無理矢理に拒否して続けていただけに過ぎない。
そんな航に対して、優しさには優しさを、
愛情には愛情を返すのが一番良いと知りながら、
その一歩を踏み出すことは、佳乃にとっては勇気の要ることだった。
本当の子ではない自分を育てた父、
そして愛情を持っていなかった自分の代わりに死んだ浩司。
その二人の、己が愛する相手のために殉じるかのような行為に、
佳乃はずっと罪悪感を抱えてきたからだ。
それは航の言うところの、恋愛というゲームの敗北者の成せる業なのだろうか?
より多く好きになってしまった方が負けで、
負けた人間は相手に全てを捧げなくてはいけない、というルールが
そのゲームに存在するならば、佳乃は勝つのも、負けるのも嫌だった。
相手に全てを捧げられたとしても、自分がそれほどの価値のある人間とは思えないし、
そんな価値のない自分が全てを捧げたところで、
相手に何か喜ばしいことが発生するとも思えなかった。
それでも、今ならそんな考えや理屈を抜きにして、
彼に縋れるのかも知れない、と思っていた。
いや違う、私は彼に縋りたいのだ、と髪を風に煽られながら、
佳乃ははっきりと実感する。
池の中でずっと抱き締められていた、あの心地よさは、
身体だけで感じられるものではなかった。
それは佳乃の空っぽだった心をも癒し、温かなもので満たしてくれたのだ。
あの穏やかな温もりをもう一度味わえるなら、と佳乃は航の横顔を見つめ続けていた。
カーナビから杉並区内に入ったことを知らせるアナウンスが流れ、
それに従って航はハンドルを回し、大きな交差点を曲がっていく。
そして通り沿いに進み、佳乃の住むアパートへと車を走らせていった。
アパートの前に車が辿り着くと、航は車を停止させてサイドブレーキを引く。
佳乃はゆっくりと身体を上げて後ろの座席へと手を伸ばし、
そこに置いてあったリュックサックを取り上げ、ドアのロックを外した。
「ありがとうございました」
佳乃は頭を下げるが、航は何も反応せず、
フロントグラスの先を見つめるように正面を向いたままだった。
佳乃はドアを開けて車を降り、もう一度「ありがとうござました」と一礼する。
すると航はやっとこちらを振り向き、「佳乃さん」と声を掛けた。
だが、言葉はそれ以上続かず、航は佳乃を見たままで、
こみあげる感情を必死で堪えるような顔をしている。
佳乃は抱えたリュックサックを強く胸に押しつけながらドアを閉めようとしたが、
心の中にある一つの想いを、このままにしておいていいものか、とも思っていた。
そして航も、そんな佳乃の思いに何となく気づいているのではないか、と。
それでも佳乃は、その想いを振り切るようにドアに掛けた手を押し動かした。
しかし、手からは自然と力が失せていく。
宙ぶらりんな佳乃の心を表すかのように、半開きになったドアを見つめながら、
佳乃は思い切ったように口を引き締め、
手に力を込めて再びドアを開いて車の中を覗き込む。
「樋口さん」
その声に、サイドブレーキのレバーを握っていた航が振り向くと、
佳乃は「あの」と戸惑いがちに声を出す。
「このアパートの裏に、コインパーキングがあるんです」
「え?」
航は何を言われたのか理解できず、素っ頓狂な声を出すと、
佳乃はもじもじしながら言葉を続けた。
「そこに車を停めて、よかったら私の部屋に寄っていきませんか?
 乾燥できる洗濯機があるから、服も洗って乾かして帰れるし」
「佳乃さん」
佳乃の言葉を途切るように航は大きな声を上げると、
航は首を曲げて車の中から顔を覗かせ、佳乃を凝視した。
「それってどう言う意味か、分かってて言ってるの?」
その言葉に、佳乃は思わず身体をびく、と震わせる。
何も答えることができず、リュックサックを抱える腕に力を込めて、
伏せた目で何度も瞬きをした。
怯えが見える佳乃の様子を眺めながら、航は厳しい表情のままでため息をついた。
「俺は佳乃さんを好きなんだよ?
 そんな男を自分の部屋に入れるって、
 どういうことか分かってるかって聞いてんの、俺は!」
ハンドルを平手で叩きつけて、苛立つような言葉を荒っぽく口にすると、
航は佳乃を上目遣いで見つめる。
いつもの穏和な航とは異なる様子に、佳乃は少々恐ろしさを覚えながらも、
こくんと頷いた。
「分かってます」
小さな声で返事をして、次第に頬を赤らめていく佳乃の顔を、
見てはいけないものを見たような気がして、航は思わず目を背ける。
そして「ドア、閉めて」と早口で言った。
佳乃が「え?」と顔を上げると、航は「ドア、閉めてよ、早く」と
正面を向いたままで、サイドブレーキを下げた。
「裏のパーキングに、車置いてくるから」
佳乃はほっとしたように少し硬い微笑みを浮かべ、ドアを閉めると、
車はゆっくりと動き出していった。新一粒神


ドア一枚隔てたところにある、洗濯機の回る音が微かに聞こえていたものの、
シャワーの音で全て打ち消されていく。
そして前に立ちはだかった航に壁に押しつけられ、
唇をこじ開けられるキスをされてしまえば、
この世の全ての音も景色も消え去っていく。
今、佳乃の前に存在しているのは、航だけだ。
その航が自分に愛しげな視線を向け、身体に触れてくれるだけで、
この世にあるもの全ての代わりになる。
そう思いながら、佳乃は航の乱暴なキスにのめり込み、
必死で航の舌に自分の舌を絡ませていく。
躊躇うことなく航の首に手を回し、時折苦しげに息を漏らしながらも、
航が佳乃の舌を吸い上げる度に、目を潤ませて身体を跳ね上げた。
「すごいな。何もしていないのに、もうぐちょぐちょだ」
佳乃の股間に滑り込ませた指で秘部を触りながら、航は真剣な表情で言う。
いつものようなからかいの色が見られないその言葉に、
佳乃は仄かな恥ずかしさを感じながらも、
そんな自分の欲情の証拠を隠す気にはならなかった。
これが今の自分の、航に対する気持ちを表しているとしか思えなかったからだ。
止めどなく愛液を垂れ流す襞の入口を、
焦らすようにそっと撫でる航の指の動きがもどかしく、
すぐにでも身体を繋げて、ずっと抱き締めてほしいとひたすら願っていた。
航と共にアパートの部屋へと帰ってきた佳乃は、
部屋のドアを閉めたと同時に、航とキスをした。
航の強い力に縛られるように、ドアに押し付けられて長いキスを続け、
それが終わると二人で雪崩れ込むようにサニタリーへと向かい、
脱いだ服を全て洗濯機の中に放り投げ、バスルームへと滑り込んだのだ。
そして二人でシャワーを浴びながらも、佳乃の皮膚の奥には、
池の中で航に抱き締められていた時の安心感と心地よさが、
洗い流されることなく、はっきりと残っている。
それがもっと欲しくて、佳乃は赤子のように航に手を伸ばし、抱いて、とせがむ。
逆上せたように顔を赤らめて瞳を滲ませた
いつもの冷たさの欠片もない幼い表情の佳乃を、
航は優しく目を細めて見つめると、彼女の肩に顎を乗せるようにして抱き締めた。
直接触れる航のしなやかな肌の感触が愛おしくて、
佳乃は航の背中に回した腕に力を込め、隙間もないほどに身体を密着させていく。
そんな佳乃の情熱に答えるように、航は数え切れないほどのキスを
佳乃の首筋に落とした。
熱い唇の感触はシャワーの水滴と混じり合い、佳乃の肌を刺激して、
湿った吐息を佳乃の口から吐き出させる。
ずっと待ち焦がれていた航の強い抱擁を、このまま味わい続けていたいと
佳乃は思っていたが、意地悪にも航の腕は佳乃から離れてしまう。
そして彼女の胸や股間へと伸ばされ、そこにある敏感な部分を強く刺激していった。
胸の先端と秘部にある突起を同時に弄られれば、佳乃は
腰を崩しそうになるほどに快感で震え、甘えたように「やぁん」と声を上げる。
その声の聞きたさだけで、航は何度も同じような愛撫を繰り返すと、
あっ、あん、と短い嬌声を、佳乃は絶えず喉を弾ませるように繰り出していく。
これまでの航との行為では、あまり喘ぎ声を出すことのなかった
佳乃の無垢な悦びの声に、航は嬉しさを感じて、
より大きな声を聞こうと、必死で佳乃の秘部を弄った。
股間の敏感な突起を指先で弾くと、
激しい快感を表すように何度も身体を張り詰めさせていく。
そして高い声を上げる彼女の襞の入口へと指を忍び込ませると、
内襞の動きと共に腰をくねらせ、譫言のように、
やぁ、だめ、あぁん、と叫び、涙を溜めた瞳で甘えるように航を見つめていた。
そんな航の指には、佳乃の快感を示す粘液が滴るほどに絡み付き、
彼女の太股に幾筋にもなって垂れ始めていた。
それにも佳乃は恥ずかしさを感じず、より自分の淫らさを引き出そうと、
航の指の、次なる動きを待ちかまえているかのようだった。
航はそんな佳乃の姿にいつも以上に心を擽られながらしゃがみ込み、
背中にシャワーの滴を浴びながら、佳乃の黒い茂みに唇を付けた。
そして佳乃の片足を持ち上げ、首を捻って、
太股にある愛液の流れた跡に舌を這わせる。
秘部を直接刺激している訳でもないのに、佳乃は顎を上げて苦しげに何度も喘ぎ、
ビクビクと身体を震わせた。
そして更に愛液の量を増やし、航を誘うような匂いを漂わせ始める。
お互いの火照った身体を冷ますべく、浴室を出て、
航に抱き抱えられてベッドに連れていかれると、
佳乃は寝そべったまま、航に行為の続きを求めるように腰を擦りつける。
その官能的な動きに、航も我慢ができず、仰向けになった佳乃の脚を開かせ、
急ぐように中へと昂りを挿入した。
襞の入口に減り込んできた硬い感触に、佳乃は、ぶる、と身体を震わせ、
もっと奥まで入れてほしくて、腰を動かす。
その動きに、航は嬉しそうに、ニヤ、と笑い、
焦らすように挿入のスピードを落としていく。
佳乃は何度も首を振り、早く早く、と急くように航の身体に手を伸ばした。
だが航は、挿入を半ばで止め、顔を上げて佳乃に微笑む。
意地悪そうなその顔に、佳乃は急にこみ上げてきた涙を抑えきれず、首を振った。
「ちゃんと、して」
「何が?」
航の問い掛けに、佳乃は子供のような口調で答える。
「奥まで、ちゃんと、ちょうだい」
その言葉を聞いた瞬間、昂りが一層張り詰めていくのを感じながらも、
航は佳乃の中から一旦昂りを引き抜いた。
名残惜しそうに食らいつく内襞の抵抗を感じながら昂りを引き擦り出すと、
航はベッドの上に膝を立てて座る。
恨めしそうな顔を見せる佳乃の視線にも航は悦びを感じながら、
横たわったままの佳乃の腕を持ち、上体を起こさせた。
「欲しいなら、自分で入れてみてよ」
そう言いながら佳乃を膝立ちにさせて招き、自分の股間の上を跨がせた。
熱り立つ航の昂りを目の前にして、佳乃は一瞬戸惑ったものの、
覚悟を決めたように航の昂りをそっと手で押さえ、自分の中へと誘うように
ゆっくりと腰を落としていく。
溢れる愛液で何度か滑りながらも、佳乃の入口へと昂りの先端が入ると、
後は簡単で、何の抵抗もなく佳乃の中へと埋め込まれていく。
佳乃の最奥にまで昂りが到達すると、佳乃は、はぁ、と熱い吐息を吐き出した。
自分の中を埋め尽くす彼の硬いものの感触を感じ、
悦ぶかのように包み込む佳乃の内襞が蠢く。
そこから痺れに似た快感が伝わって、
佳乃は全身の皮膚がぴくぴくと動くのを感じていた。
そんな昂りの圧迫感だけで恍惚の表情を浮かべる佳乃に、
航はいたずらっぽく笑いながら、腰を一回、強く上へと突き上げた。
これまで感じたことのない深い突き上げに、佳乃の身体が大げさなほどに揺れ、
佳乃はしがみつくように航の首に腕を巻き付ける。
それでも更なる快感を求めるように、ああん、やぁ、と声を上げながら、
無意識で腰を上下させる姿は、いつもの佳乃からは考えられないほど淫らに見えた。
ベッドサイドにあるスタンドが照らす薄暗い部屋で、
白い佳乃の曲線的な身体が浮かび上がり、
それが航の昂りの刺激を欲して揺らめいている。
そんな艶めかしい姿に刺激され、欲望を吐き出しそうになるものの、
航は歯を食い縛って何とか堪えた。
そして彼女の身体をもっと味わうかのように、
目の前に突き出された佳乃の胸の先端を口で啄む。
既に硬く凝り、真っ赤に染まったそこを優しく舐め、
唇で吸い上げ、時には優しく歯を立てると、佳乃は耐えきれなくなり、
航を押し倒すように体重をかけてくる。
それに耐えるべく、航は佳乃を抱き締めていた手を、佳乃のヒップへと動かした。
そして柔らかな肉に指を食い込ませて押さえつけると、
下から何度も突き上げた。
すると、佳乃の中が昂りの動きと一緒になって生き物のように蠢き、
口からは甘ったるい声が溢れさせていく。
「んぁ、やぁ、ん」
それと共に、彼女の動きに合わせて、二人の繋がった部分からは、
ぐちゅん、といやらしい音が響いてきた。蔵八宝
佳乃の奥へと強く叩きつけるようにストロークを長くして、
航は勢いよく昂りを突きつける。
佳乃は胸を突き出すように弓なりに仰け反り、その反動で再び強く航に凭れ掛かる。
航はその勢いを借りて、そのまま後ろへと倒れ、ベッドに寝そべると、
繋がったままの佳乃を上に乗せて、更に突き上げた。
佳乃は航の腹に手を突き、自分の感じる部分を探すように、
滑らかに腰を動かし、航を熱っぽい目で見つめていた。
そして内襞で航の昂りをきつく締め上げたかと思うと、
急に力を無くしたように佳乃は身体を倒し、航に覆い被さった。
重なった身体を括り付けるように、佳乃は航の身体とベッドの隙間から
手を入れ、航を抱き締めた。
そして小さな声で「お願い」と呟く。
「お願い、抱き締めて」
その言葉に応じて、航は佳乃の背中に手を回した。
掌を汗で濡れた肌の上に滑らせ、宥めるように佳乃の背中を撫でる。
航の胸元に佳乃の顔があり、彼女の深く焼けるような吐息がそこにかかると、
胸の奥まで焦がされてしまいそうだった。
その吐息の合間に、佳乃は再び小さな囁きを口にする。
「ずっとずっと、抱き締めていて」
その佳乃の願いに、航は悲しげな微笑みを浮かべながら、
彼女の背中に回した腕に力を込める。
するとお互いの湿った肌が張り付き、境目がなくなりそうになるのを感じてしまう。
そんな二人の身体が一つになるかのような幻想の中で、航は「佳乃さん」と、
佳乃の汗の匂いを感じながら呟いた。
「佳乃さんは、俺を好きになった?」
いつも通りのふざけるような口調の航に、佳乃は何故か
安心したような気持ちになり、顔を上げる。
しかしそこにあったのは、言葉とは裏腹な、これまで見たこともないような
航の悲しそうな顔だった。
今日、池で見た表情よりも、もっと深い悲しみを湛えた航の表情に、
佳乃はまた、幼い頃に見た父の顔を重ね合わせていく。
「俺は佳乃さんが好きだよ、ずっと」
航が口にした言葉は、とても情熱的で、嬉しいものであるにもかかわらず、
そんな悲しげな表情で言われては、佳乃はそれを素直に受け取ることができなかった。
自分が口にした「ずっと」という言葉と、航の言う「ずっと」が、
どちらも本当の意味としては
二人の間には存在しないような気がしていたからだ。
「ずっと」とは、いつまでのことなのか、
そしてその「ずっと」が果たされることがあるのか。
佳乃はそう考えていたが、彼の悲痛な顔を見つめていると、
これ以上彼の悲しみを深めることはしたくはない、とその考えを振り払う。
だが、こうして彼の優しい抱擁の中に居ることで、
佳乃は一つの想いに辿り着きそうだった。
幼い頃に池に落ちてしまい、それを助けてくれた父が見せた、
あの悲しげな表情は何だったのか、とずっと思い続けていた。
自分の子ではないと知っていたからこそ見せた顔ではないか、と
ずっと思い続けていたが、きっと違う。
こうして彼の胸の上で、彼の鼓動を聞いている今ならば、
あの表情の意味が分かるような気がするのだ。
航が言ってくれた言葉と、今の表情を心に沁みこませるように
彼の胸に顔を当てて、佳乃は話し出した。
「私ね、分かったことがあるの」
「何が?」
航が尋ねると、佳乃はて恥ずかしそうに笑う。
「昔、私が小さい頃に見た父の顔が、今日のあなたの顔にそっくりだった」
「それって、どういうこと?」
眉を顰めて訊く航に、佳乃は照れ笑いをしながら「内緒」と呟く。
「何だよ、教えてよ」
「いや」
航の胸に顔を擦り付けるようにして首を振ると、佳乃は目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶ、父のあの時の表情も、航の今日の顔も、
どちらも悲しげに見えたのは、
本物の「悲しさ」が生んだものではないだろう。
父は父で、あの時の佳乃を「自分の子ではない可哀想な子」といった
感情で見ていた訳ではないだろう。
航だって、単なる悲壮感から、佳乃にこんな悲しい顔を向けている訳ではない。
彼の言葉や態度からは、ちゃんと佳乃に対する愛情が感じられる。
父だって、父親としての愛情を、絶えず佳乃に惜しみなく向けてくれているではないか。
きっとこんな愛しさから生まれる、悲しみもあるのだ。
それは佳乃の行く末を案じるような、深い慈悲のような愛情だ。
それさえ分かれば、十分だった。
それさえ分かれば、自分も、そんな航の愛情に応えることができるだろう、と。
その後、佳乃は繋がったままの航から再び昂りで突き上げられ、
絶頂を迎えたのかも分からない混沌の中で、航とひたすら繋がっていた。
そして知らぬ間に航の胸の中で眠りについてしまうと、佳乃は不思議な夢を見た。
夢の中で、佳乃があの「最後の森」を、一人で歩いているのだ。
薄暗い「森」の奥には、あの池が見える。
そこを目指して足を進めていくと、その畔に人影が見えた。
誰か居るのか、と佳乃は目を凝らしながら池へと近づいていく。
ぼんやりとしていた姿がはっきりと目の前に現れると、それが浩司であると分かった。
ずっと会いたいと願っていた、夢の中での浩司の姿に佳乃は驚き、
思わず歩みを止めて立ち竦んでいると、浩司は生前のままのにこやかな顔で、
ゆっくりと佳乃へと歩み寄って来る。
浩司が佳乃の前で立ち止まると、佳乃は一歩足を進め、
ずっと言いたかった謝罪の言葉を口にしようとした。
しかし、浩司はこちらの心を読むかのように、それは不要、と
言わんばかりに首を振る。
そして一言、「よかったね」と呟いた。
その優しげな言葉が響いた瞬間、VIVID
指輪を填めた佳乃の右手の薬指の辺りが、突然軽くなる。
指だけでなく全身までも、重力を無くしたかのように
ふわりと浮いていきそうになった。
そんな佳乃を見て、浩司は心から嬉しそうに笑う。
「君が人を愛することができるようになって、本当によかった」
佳乃は何とか浩司に笑い返そうとしたが、上手くいかず、
戸惑いながら顔を俯けていると、「顔を上げて」と優しく浩司が言う。
それに応えて佳乃が顔を上げると、浩司は嬉しそうににっこりと笑った。
「君もいつか分かる日が来るよ、僕の気持ちが」
そう言い終えると、浩司はこちらに背を向け、森の奥へとゆっくりと足を進めていく。
佳乃は彼を追い掛けようと、前のめりになりながら駆け出した。
「浩司さん!」
声を上げるが、浩司は振り返らない。
浩司の歩みは遅いはずなのに、どんなに佳乃が必死で走っても追いつく気配がない。
どこまでも続く「森」の中を走り続けたが、
佳乃は脚の疲れを感じてとうとう立ち止まり、息を切らしながら前を見る。
次第に離れ、小さくなる浩司の後ろ姿に向かって、佳乃は声を振り絞った。
「浩司さん!」
それでも彼は振り返らず、真っ直ぐに木々の中を進んでいく。
佳乃はもう一度、大きな声で叫んだ。
「ごめんなさい!」
浩司がこちらを向いてはくれないことを知りながら、佳乃は叫び続けた。
「ありがとう!」
その言葉が森の中に響いた瞬間、浩司の姿は消えていった。

アパートの二階にある佳乃の部屋に灯る、ベッドサイドのスタンドの明かりが、
カーテンを通して、窓ガラス越しに外からでもよく見える。
その窓が一番見えやすい場所に停められた黒塗りの車の中で、
携帯電話の着信音が鳴り響く。
ダッシュボードの上に置いてあった携帯電話を、小島は手に取り、
液晶画面を確認した。
電話の主は、病院の医師だった。
娘の病気が治らず、入退院を繰り返していた頃は、病院からの電話に
何事か起こったのと逐一怯えていたものだったが、
またもやこんな心境に陥る日が来るとは。
小島は受話ボタンを押し、医師から簡単な状況説明を聞くと、素早く電話を切った。
そして携帯電話を元の位置に戻すと、疲れたように運転席のシートに凭れ掛かる。
どうしても今日は一人で行動したい、という航の運転する車を
パークタウンから尾行して、
佳乃のアパートに辿り着き、五時間ほどが経とうとしている。
このまま朝まで彼女の部屋から航が出て来ないようであれば、
航は彼女に本気で溺れていると思っていいだろう。
そうなれば、早めに手を打たなければいけない。
先ほどの医師から聞いた状況を頭で整理し、繰り返しながら、
小島は必死で自分に言い聞かせる。
残された時間は、あと僅かなのだ、と。強力催眠謎幻水

2012年7月24日星期二

心配娘と子どものお世話

「カオルちゃ~ん、タカヒロちゃんが困ってるみたいよ~? うりうり、どうするの?」
 タカヒロが下級区のブライト孤児院の世話を任されてニ日目、お母さんが私をつつきながら変な事を言い出した。V26Ⅳ美白美肌速効
「困ってるって……なにが?」
 子どものお世話は大変だと思うけど、しっかり者のユミィちゃんも付いているんだ。それに、孤児院に住んでいるクルちゃんもお手伝いしているはずだ。よっぽどのことがない限り、困ったことにはならないはずなんじゃ……?
「それがね、お母さん、さっき朝市で大荷物抱えたタカヒロちゃんと出会ってね。もう、びっくり! ブライト孤児院なんだけど、子どもが十九人もいるんだって!」
「ええっ!?」
 そんなにいたの!? クルちゃんしか見たことないから、いても十人ぐらいだと……十九人って、大家族どころの人数じゃないよ!
「タカヒロちゃんもね、なんだかぐったりしてて……誰か助けてくれないかな~、って言ってたよ」
「タカヒロが……」
 気だるげなのはいつものことだけど、十九人の子どもたちのお世話となると、本当に疲れているんだろう。お爺ちゃんのところにいたころは、叔父さんの子どもたちの面倒をみていたからよく分かる。タカヒロとユミィちゃんだけでどうにかなるとは思えない。
「わ、私、ちょっと見てくるね!」
「は~い、行ってらっしゃ~い」
 にやにやにと笑うお母さんをそのままに、居ても立ってもいられなくなった私は家を飛び出していった。

(きっと、ご飯なんて適当に済ませちゃってるんだ。洗濯はしてるのかな。掃除だってしなくちゃいけないのに……)
 自分のこともままならないタカヒロが十九人もの子どものお世話をするなんて、正直、不安でたまらない。しっかり者のユミィちゃんがいるから大丈夫だとは思うけど、あの子だってまだまだ小さい子どもだ。一人じゃ面倒を見切れないだろう。
(なんでそんな依頼受けるかな~……)
 これだけ大きな仕事だ。従業員のユミィちゃんじゃなくて、店主であるタカヒロが直々に受けたものだろう。ユミィちゃんは、受けた仕事はきっちりこなすタイプだ。タカヒロが持ってきた仕事を、断るに断れなかったに違いない。こういう時は、素直に頼ってくれてもいいのに……。
(えっと、ここを曲がればすぐだよね)
 ブライト孤児院は、どうやら下級区ではそれなりに有名らしく、屋台のおじさんたちに話を聞いて歩くだけですぐに辿り着くことができそうだった。大通りから外れ、今いる住宅街の通りの中ほどを曲がれば、孤児院はすぐそこだという。
 それにしても、下級区は中級区よりもゴミゴミとしているイメージがあったのだけど、そんなことは全然ない。今も、小太りなおじさんがドブをさらっては綺麗にしている。漁港が近いからか、磯臭さや魚臭さは少しばかり強めだけど、私だって下町の人間だ。そんなに気にはならない。
(思ってたほど酷くはないのね)
 この街に越してきて一年も経っていないからあまりよくは知らなかったけど、下級区って言っても話に聞くスラムみたいなものじゃないんだ。クルちゃんたちはそんな所に住んでて大丈夫かな、って思っていたけれど、これなら心配ないだろう。
 ここに住んでいる子どもたちが笑いながら走り去っていく。おばさんたちがおしゃべりしながらたむろしている。どこからともなくピッ、ピッって、規則正しい笛の音が聞こえてくる。きっと、港に届いた魚をどこかへ運んでいるんだ。こんな雰囲気、私、好きだな。
 なんだか焦っていた心が穏やかになっていく。そうだ、こんな場所なら、みんな助け合って生活しているだろう。きっと、タカヒロたちも大丈夫。
 そう思って、孤児院へ続く曲がり角を曲がった。すると、私の眼には、和やかな孤児院の風景が……。


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
「……ケビン、手が止まっていますよ」
「はい……」(ガタガタ)
 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
「……ニーナ、もっと丁寧に」
「は、はいっ!」(ビクッ!)
 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。
「……タウ、手間取っていますね。手伝いましょうか?」
「だ、大丈夫!」(ブンブン)
 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。


「あ、あれ?」
 目の前に広がった孤児院の前庭は、魚やイカを吊り下げた物干し台がずらりと並んでいた。奥では、肉も干しているようだ。子どもたちが、一糸乱れぬ動きで干物とするものを並べていく光景は壮観と言える。
 で、でも、何だか、子どもたちの目が死んだ魚のような……?
「……こんにちは、カオルさん」
「ひゃっ!? あ、あぁ、ユミィちゃんね、こんにちは」
 いつの間に傍に来たのか……首からホイッスルを下げたユミィちゃんが、相変わらずの無表情で立っていた。
「え、えっと、ユミィちゃん、これ、何やってるの?」
「……はい、冬の仕事の保存食作りです。ブライト孤児院において、十より上の子どもは、全員この作業に従事する決まりだそうです」
「そうなの……」
 私はてっきり、強制労働の現場かと……言われてみれば、十九人もの人数を抱えた孤児院だもの。肉や魚が安い内に買い込んで、冬に干しておくのはそう間違ったことじゃない。お爺ちゃん家にいた頃は、私だってドライフルーツ作りを手伝っていた。でも……。
「保存食作りって、もうちょっと楽しくやるもんじゃないの?」
 仕事じゃなくて、家庭での保存食作りは、おしゃべりしながらわいわいと作るもののはず……だよね? ここ、工場とかじゃないよね? 目の前の光景に、いまいち自信を持って断言できない私に、ユミィちゃんはこう言う。
「……それが理想的なのでしょう。ですが、いつまで経っても作業が進まないので、遺憾ながら私が指導役となりました。その結果、作業効率は四倍まで上がりました。これで保存食には当分困りません。素早くやり終えれば、空けることができた時間で楽しく遊ぶこともできるので、子どもたちも満足だと思います……ですよね?」
「「「はい、ユミエルさん!」」」
「……と、いうわけです」
「え、あ、う、うん……いや、ダメだよ!?」
 妙な説得力に流されそうになるけど、ここは否定しておくべきだ。ちっちゃい子相手に、効率なんて求めるものじゃない。長い目で成長を見守ってあげなくちゃ。
「……ダメ、ですか? 一体何が……?」
 ユミィちゃんは悪気のなさそうな顔をしている……いや、いつも同じ表情だけどさ! それでも、悪意を持って子どもと接しているようには思えない。きっと、本当によかれと思ってやっているのだろう。
「いい、ユミィちゃん。まだ子どもばっかりだもの。楽しくおしゃべりでもしながらやった方が、この子たちのやる気も上がると思うよ? 無理やりやらせたらそりゃあはかどると思うけど、それじゃあダメなの。きっと、お手伝いが嫌いな子になっちゃうよ」
「……なんと」男根増長素
「確かに、所々でビシッと注意してあげるのは必要だと思うけど、ずっとその調子じゃあ気疲れしちゃうよ。だよね?」
 ぶんぶんと首を縦に振る子どもたち。それを見て、ユミィちゃんは僅かに目を見開く。
「……そう、だったのですか。それならもっと早く言ってくれればよかったのに」
 あぁ、子どもたちの顔が引きつってる……「怖くて言えなかったんだよ!」って言葉が伝わってくるようだ。ユミィちゃん、仕事の時は厳しいからねえ……。
「さって、みんな、おしゃべりぐらいならしててもいいよ? でも、お手伝いはちゃんと終わらせること! いい?」
「「「は~い!」」」
 そして、呪縛が解けたように砕けた様子で、思い思いの場所へと移動していく子どもたち。うん、しゃべりながらもお手伝いをしようとしている。これなら大丈夫だろう。
「……カオルさん、教えてくださってありがとうございます。私はどうにも一般常識に疎くて」
「ううん、しょうがないよ」
 奴隷だったんだから、という言葉は言わない。本人にしてみたら言われなくても分かっていることだし、今のユミィちゃんはタカヒロの家族だ。常識が足りていないのも、これからゆっくり覚えていけばいい。
 それが言葉にしなくても伝わるように、小柄なこの子の頭を優しく撫でてあげる。
「……なんですか?」
「ううん、なんでも。そうだ、タカヒロって、今、どこにいるの?」
「……ご主人さまですか。それなら、一階のリビングで小さい子たちの面倒を見ておられます。玄関から入って突き当たりです」
「そっか、ありがと」
 最後に一度、なでなでしてあげてから玄関へ向かう。一階突き当たりね、よーし! きっと、タカヒロはちっちゃい子のお世話にあたふたしていることだろう。早く行って助けてあげよう。どこか頼りない感じがするからなぁ、タカヒロって。

「やめてくれぇぇ~……!」
「きゃはは! へんな顔~!」
「おうまさん、ちゃんとはしって!」
「わんわん!」
「クルミア、おまえデカイんだから、のっかるなよ~!」
「ゴルディとどっちがはやいかきょうそうだ~」
「わん!」
「助けてぇ……!」

 あぁ、うん。
 想像以上に混沌としてた。
 総勢九人(+ゴルディ)ものちっちゃい子たちに纏わりつかれたタカヒロが、木張りの床に転がっている。その顔をわんこたちがぺろぺろと舐めまわし、四肢や胴には子どもたちがしがみついたりのっかったりして動くに動けない状況だ。
「あ、カオル、助けてくれ!」
 仰向けのまま、私へと視線を向けるタカヒロ。どうしようもなく情けない顔をしている。まったく、もう……。
「はいは~い、あなた達、ちょっとどきなさ~い」
 一人一人、タカヒロにしがみついたちびっ子たちを抱え上げて外していく。クルちゃん以外は初対面だ。きょとんとして、見慣れない私を見上げている。
「ふ~、助かったわ……」
 やがて、むくりと起き上るタカヒロ。ボサボサの髪を更に乱れさせ、顔中よだれでべとべとだ。
「も~、なにやってるの」
 見てはいられず、ぴょこぴょことはねた髪を撫でつけてあげ、ハンカチで顔を拭ってあげる。タカヒロは「いいよ、これぐらい」と逃げようとするけれど、子どもたちの前だ。あんまりだらしがない姿は見せるべきじゃないと思う。
「はい、おしまい」
 ささっと、見苦しくない程度に整えてあげた。うん、これなら大丈夫かな……ん? 狐みたいな耳の女の子が、服の裾を引っ張ってくる。何だろう?
「ね~ね~、お姉ちゃん、お兄ちゃんのおよめさん?」
「なっ!?」
「およめさん」って、あの「お嫁さん」!? おにいちゃんってタカヒロのこと!?
「ち、違うよっ!」
「え~、だって、仲いいでしょ?」
「タカ、ケッコンしてたんだ~!」
「わぅ!? わんわん!」
 やいのやいのと騒ぎ出す子どもたち。私が否定すればするほど、面白がってからかってくる。タカヒロも、「あ~、違うぞ、お前ら」と言ってはいるけど、誰も聞いていない。
 わいわいと、思い思いに考えたことをそのまま口にする子どもたち。この騒ぎは彼らが飽きるまで、ずいぶんと長いこと続いた。
 あ~、なんだか妙に焦っちゃった……ふぅ。
「で、朝ごはんはちゃんと食べさせてあげたの?」
 ここから、本来の目的の始まりだ。ちゃんとお世話はできているんだろうか……心配だ。しっかり確認しなくては。
「あぁ、ユミィとガキどもが、雑穀のポリッジ作ってた。あっ、俺は昨日ちゃんと飯作ったからな! ホントだぞ? な~?」
「な~?」
 膝の上に乗せた、七歳の男の子(テオって名前だそうだ)が嬉しそうに頷いているところから、本当のことなんだろう。
「じゃあ、洗濯は?」
「さっき済ませた」
「掃除は?」
「ユミィたちが済ませた」
「むむむ……」
 なんだ、案外ちゃんとやってるみたいだ。これなら、私が来た意味が……。なんだか、拍子抜けしちゃった。
「は~、じゃあ、お昼の準備もできているよね?」
 これだけきっちりやっているなら、当然、出来ているんだろう。もう、帰ろうかな……。
「昼……? やべっ、もうこんな時間か!?」
「ん?」
 昼、と聞いたタカヒロの顔が、段々青くなっていく……あれ? もしかして?
「ガキどもに弄ばれて、全然準備してねえ……や、やべえ、ユミィに殺される……! た、助けてカオルも~ん!」
 テオを脇にどけて平伏するタカヒロ。あぁ、やっぱりこの人はどこか抜けているなぁ。いざという所で頼りないというか……うん、しょうがない。元々そのつもりで来たし、助けてあげよう!
「はいはい、さっさとご飯作るわよ」
「あ、あれ? ホントに手伝ってくれるのか? 店は?」
「お母さんが、さっき【コール】で、今日はタカヒロを手伝ってやれって……」
「マジでか! うおお! ケイトさん大好きー!!」
「むっ、手伝ってあげるのは私なのに……」
「おお、カオルもありがとうな!」
 なーんか適当なお礼……まぁ、いつものことか。さっ、料理だ、料理!
 場所を移して、ここは孤児院の台所。大人数の食事を賄うためか、まんぷく亭の台所よりも広い。これは、料理のし甲斐がありそうだ。
「それで? 何を作るつもりなの? 買い物は済ませてるんでしょ?」
「あ~、市場でやっすい貝やら魚やら買ってきたけど、まだ何も考えてねえわ」
 「冷えるんボックス」の中を覗くと、確かに海産物が所狭しと詰まってはいるけど……何を作ろうと思って買い揃えたのかいまいちよく分からない組み合わせだ。サバやアンコウ、ホタテでどんな料理を作るつもりだったんだろう。男宝  
 お母さんが、「主婦は何を作るかだいたい考えてから買い物するけど、男はその時の気分で買い物するから無駄が多いの」って言ってたのは本当のことだったんだ。うん、やっぱり任せておけない。
「決まり! タカヒロはお湯を沸かして、野菜の下ごしらえをしてて! 魚と貝は私が捌いとくから!」
「お~、了解。まあ、任せるわ」
 さて、料理屋の娘の腕前、見せてあげる!

「おいしい~!」
「わぅ~……」
「ダメよ、クルちゃん、野菜も食べなきゃ」
「おかわりー!」
「ああ、ホタテは一人一個だからね」
「パンも……?」
「パンはたくさんあるからね~」
 わ~、やっぱり、十九人もいたら、お昼ご飯を食べるのも一苦労だ。さっき私が作ったのは、「ホタテの醤油バター焼き」と、「人参とスナップエンドウの塩茹で」、それと魚のアラで作ったスープとライ麦パンだ。
 幸い好評なようだけど、お皿をひっくり返したり、スープにむせたりと、私がご飯を食べる暇もなくドタバタとしている。
 子どもたちは元気なもので、ご飯が終わったら外で駆け回って、疲れ果てて戻ってきたと思ったらお昼寝だ。干物や洗濯物を孤児院の中に取り込んで、夕ご飯の下ごしらえをしていたら、「ケガしたー」って泣きながら飛びこんで来たりもした。
 夜は豪勢に、羊肉を焼いたものと玉ねぎやレタス、トマトと一緒にパンに挟んだものを食べたんだけど、ここでも、上手に食べれない子や、野菜をこっそり抜こうとする子のお世話に駆け回った。
 そして、お腹一杯になって一息ついたら、今度はお風呂だ。男の子たちはタカヒロに任せて、ユミィちゃんと一緒に女の子をお風呂に入れてあげる。私やユミィちゃんも含めて十人ぐらいの人数でいっぱいになっちゃうような埋め込み式の浴槽で、ちびっ子たちをあっためさせる。
 木の枠で囲まれた直径20cmほどの金属球、【ウォーム】が込められたマジックアイテム・「テキオーン」(開発者直々のネーミングだそうだ)はうまく働いているようで、子どもも嫌がらないちょうどいい温度だ。
 ほどよくあったまったら、どこでもはしゃごうとする子どもたちをふんづかまえて石鹸で体や髪を洗わせる。クルちゃんが洗いっこを始めたことによって子どもたちがまたはしゃぎだして、みんな泡だらけになってしまったけど、まぁ、結果オーライということで……。
 そして、お風呂上がりの子どもたちの体をタオルで拭いてあげ、牛乳を飲ませていたらもう夜の八時だ。あ、あっという間だった……!
「じゃあ、そろそろ帰るね」
 そう言って、帰る準備を始める。何だかんだで夜もお店を休んじゃった。今から帰ったら、片付けと明日の仕込みぐらいは手伝えるだろう。そう考えて手早く手荷物をまとめていると、子どもたちが縋りついてきた。
「え~、やだやだ! もっといてよ~!」
「くぅん、くんくん」
「え、でも……」
 困ったな……どうしよう。背中にお腹にと抱きついてくる子どもたちを引き離すのは簡単だけど、どうにも保護欲をくすぐられる。
「ねぇ~、泊まってってよ~」
「そうだよ、そうしてよ~」
「ううん……そう、ね……ね、タカヒロ、どうしよう?」
 タカヒロに助け船を求めてみる。すると、彼は両手をパンと合わせて、頭を下げてきた。
「すまん、カオル! 今晩だけでいいから、こいつらの面倒、一緒に見てやってくれ。昨日もなかなか寝なくてな……ユミィとニ人じゃ大変だったんだ」
「そうなの……」
 確かに、これだけいたら何をするにも一苦労だと思う。眠ってしまっても、トイレに起きてくる子もいないことはないはずだ。その付き添いで、ろくに眠れなかったんじゃないだろうか。……よし、しょうがない! 最後まで手伝ってあげよう!
「うん、わかった。じゃあ、今晩は私も泊まっていくね」
「おぉ、ありがと!」
「「「やった~!」」」
 ふふ、あんなに喜ばれると、満更でもない気分。それに、保存食作りで「指導」を受けた年長組も、ユミィちゃんをチラチラ見ながら懸命に「もっといてよ!」と頼んでいるしね……ユミィちゃん、「指導」はほどほどにね……。
 そんなこんなで、ブライト孤児院にお泊まりすることとなった私。あれよあれよと事が進み、今はちっちゃい子用の大部屋で、タカヒロやユミィちゃんと一緒に子どもたちを寝かしつけている。
「ねぇ、もっとおはなしして?」
「う~ん、もう寝なきゃダメだよ」
「もっと聞きたい~」
 半分くらいの子どもたちはもう寝ているんだけど、お話し好きな子たちがもっともっととせがんでくる。でも、もうすぐ夜十時だ。子どもはもう寝なくちゃいけない。ここは少し、脅かしてみようか。
「早く寝ないと、お化けが来るんだよー」
 う、う~ん、我ながら捻りがない……ほら、子どもたちだって笑ってる。
「おかあさんが、いい子はかみさまが見ていてくれるからおばけなんて大丈夫、って言ってたよ」三体牛鞭
「だいたい、お化けなんていないよ!」
 だ、ダメだ。私の話じゃあ、子どもたちを怖がらせることもできない。ちっちゃい頃に聞いたお爺ちゃんの怪談話は怖かったんだけどなぁ……それを聞いただけで怖くなって、布団かぶって一生懸命寝ようとした覚えがあるのに。そうだ、あの話をしてみよう。
「それがね、いるんだよ~。ウブメっていう、いつまで経っても寝ない子どもをさらっちゃうこわ~いお化けがいるのよ」
「う、うぶめ?」
「そう、ウブメ。黒髪の痩せた女の人のお化けでね。悪い子をひゅ~、ってさらっちゃうの」
 聞き慣れない響きにちょっぴり怖くなったのか、布団をぎゅっとつかんで互いに身を寄せ合う子どもたち。特に、先ほどまで話を催促していたバルド君なんか、顔を青ざめさせて微動だにしていない。ちょっと驚かせすぎたかな?
「ねぇ、お姉ちゃん……ウブメって、黒い髪の女の人……?」
「え? え、えぇ、そうよ」
 そんなに気になるのかな? 確認するかのような口調で、問いかけてくるバルド君。
「それって、あの人みたいな……?」
「え? 誰のこと?」
 あれ? 私のことじゃないよね? バルド君は、私の右後ろを指差している。
 んん? そっちには窓しかないのに……? 何気なく振り返ってみる。うん、やっぱりカーテンがかけられた窓だ。ちょっとだけカーテンに隙間ができている。直しとこっと。
 そう思って、窓に近づいて……気づいてしまった。
 いる。
 窓の外に何かが。
 それは黒髪の女性だ。病的に白い肌に緩やかに波打つ髪を垂らし、ガラスに掌を張り付けて、部屋の中を伺っている。ギョロギョロと動く眼球は、焦点を結んでいないように思える。
 やがてソレは、窓の脇に立つ私に気づいたのか、ギン、と睨みつけてきた!
「きゃああああ~~~~~!?!?」
「「「ああああ~~~~~!!」」」
 そこからは大変だった……幽霊、いや、エルゥさんだったんだけど、彼女に気づいた子どもたちが、私の悲鳴に呼応するかのように泣き出してしまい、それを収めるのだけで小一時間ほどかかってしまった。
 騒ぎを聞きつけて、孤児院のみんながやってくるわ、それでまた騒ぎになるわでほんっとーに大変だった……。
 今はタカヒロが、「『@wiki』を読みにだね……いや、ブライト孤児院まで読みに来いって君が……」と弁解するエルゥさんを連れ出して説教している。
 「時間を考えろ!」だの、「【コール】で事前連絡しろ!」だのときつく叱っている声が聞こえてくる。あちらは、彼に任せよう。
 問題はこっちだ。泣き疲れて眠る子たちが、私やユミィちゃんにしがみついて離れない。無表情に横になるユミィちゃんの、両脇、お腹、頭に子どもたちがくっついてて、とってもシュール。いや、私も同じような状態なんだけどね。
 これじゃあ、下手に見動きできないよ……寝る前にトイレ行こうと思ってたのに……。
 やっぱり、子どものお世話って大変だ~……。SEX DROPS

2012年7月20日星期五

写真の中の微笑み

6月も下旬を迎えて、ここ数日ジメジメとした梅雨空が続いている。紫色のアジサイが庭先を華やかに彩り、梅雨らしい季節を感じさせてくれた。
 オレが「ハイツ一期一会」を訪れて、早くも二週間ほど過ぎていた。東京での生活に戸惑いを感じつつも、管理人の仕事にも慣れてきたし、住人たちとも仲良くしてもらって、それなりに快適な生活を送っている。威哥王三鞭粒
 そんなオレはいつも通り、アパートの掃除に励んでいる。玄関から始めて一階の各所を巡り、オレはニ階へと足を運んでいた。
「さてと、今日はいよいよここだな。」
 オレは、空き部屋の前で立ち止まる。
 空き部屋も二週間に一回は清掃するよう、じいちゃんから授かったノートに書かれているため、ここを無視し続けるわけにはいかない。
 オレはマスターキーをドアの鍵穴へ差し込み、ゆっくりと回してみる。思いのほか、シリンダー錠は滑らかに回った。
「失礼しまーす。」
 ドアを開けて室内を覗き込むオレ。備え付けの洋服ダンスとベッドだけがひっそりと佇んでいて、人の気配のない殺風景な部屋だった。
 オレは締まりっ放しだった窓を開放する。すると、しばらく掃除していなかったせいか、吹き込んできた風で、ほこりが軽やかに宙を舞った。
「よーし、やるか。」
 モップをしっかりと握り締めて、オレは床を磨き始める。部屋の四隅から始めて、中央まで満遍なく磨き、そして、最後にベッドの下へとモップを滑らせた。
 ベッドの下はさほど汚れていないだろうと、オレはモップで数回撫で回してから、これで終わりとばかりに勢いよくモップを引っ張り出した。
「あれ。」
 モップのヘッド部分に、ちりやほこりとは違う物が絡みついていた。オレはそっと、その絡みついた物を手にしてみた。
「これ、写真か。」
 それは一枚の写真だった。よく見ると、このアパートの住人たちが微笑ましい笑顔で写っていた。住人だけではなく、じいちゃんもちゃっかり写っている。背景からして、このアパートの玄関前で撮ったもので、みんなの姿を見る限り、そんなに古い写真ではないとわかった。
「ん?この人誰だろう。」
 その写真には、オレの知らない短髪の女性が写っていた。カメラの性能なのかピントが合っておらず、その女性の顔までハッキリとはわからなかった。
「あれぇ?マサ、こんなとこで何してんのぉ?」
 オレに声を掛けたのは、ピンク色のジャージ姿の潤だった。彼女は不思議そうな顔をしながら、空き部屋へと入ってきた。
「あ、潤か。今、空き部屋の掃除をしてたんだよ。そうしたら、こんな写真が出てきたんだ。」
 潤は寝ぼけ眼を擦りながら、オレの手にある写真を覗き込んだ。
「あー、この写真懐かしい。一年ぐらい前に、みんなで撮ったんだよぉ。」
 一緒に写っている潤だったら、この女性のことを知っているだろう。オレは興味本位でこの女性のことを尋ねてみると、彼女はさらりと答えてくれた。
「この子ねぇ、奈都美だよ。六平奈都美(むだいらなつみ)っていうの。」
 その奈都美という女性は、昔、この部屋の住人で、丁度一年くらい前に引っ越してしまった。この写真は、彼女が引っ越すことが決まった後、記念にみんなで撮ったものだと、潤は記憶を辿りながら話してくれた。
「ということは、この写真、その奈都美さんの忘れ物ってことかな。」
「うん、そうだろうねぇ。ここにあったんだから、間違いないと思うよ。」
「それなら、大切な記念の写真だし、彼女に渡してあげたいな。」
 オレがそう言うと、潤も相づちを打つようにうなづいた。しかし、彼女はなぜか、悩ましい表情をしていた。
「でもねぇ、奈都美が今どこにいるか、わかんないんだぁ。あの子、引越し先が決まったら、あたしに連絡するって言っててさぁ。結局、今日まで連絡ないんだよね。」
 そう言いながら、お手上げのポーズをする潤。
「でもさ、携帯電話の番号とか、メールアドレスぐらいわかるんじゃないの?」
「それがさぁ、奈都美、機械音痴だからって、ケータイ持ってなかったんだぁ。あたしには考えられないよねぇ、ケータイなしで生きるなんてさ。あの子、あたしと同じ年なんだけど、今時の女の子って感じじゃなかったもん。」
 潤の言う通り、オレたちぐらいの年代で、携帯電話を持っていないのは珍しいケースだろう。つい先日、携帯電話をなくして大騒ぎした彼女にしてみたら、とても想像できないといったところか。
「そうか、それじゃあ、こっちから連絡が取れないわけか。困ったな。」
 電話番号やメールアドレスが存在せず、ましてや現住所も不明では、オレから連絡を取る手段がない。八方塞がりとはまさにこのことだ。
 オレが頭を悩ませていると、何かを思い出したような口振りで、潤が声を張り上げた。
「そうだぁ、ハッちゃんなら何か知ってるかも。」
「え、ハッちゃんって、オレのじいちゃんのこと?」
 潤はうなづきながら話を続ける。
「奈都美さ、ハッちゃんのこと気に入っててねぇ。ここに住んでた頃、あの子、管理人室へ行っては、ハッちゃんの話し相手になったりぃ、肩とか揉んだりしてたんだぁ。」
 潤の話では、奈都美という女性は、幼少の頃に両親が離婚したせいで、長い間、祖父に面倒を見てもらっていたそうだ。その時の印象が残っているので、オレのじいちゃんを本当の祖父のように慕っていたのではないか、とのことだった。
「そうか、それじゃあ見舞いついでに、じいちゃんに聞いてみるか。」
 潤は大きなあくびをしながら、ハッちゃんによろしくね、とだけ告げて、空き部屋から去っていった。
「・・・たまには、じいちゃんの見舞いに行ってやれ。まったくもう。」
 そうと決まれば即時に実行とばかりに、オレは空き部屋の掃除を手短に済ませた。じいちゃんが、奈都美さんの居場所を知っていると願いつつ、オレは写真を手にしたまま空き部屋のドアを施錠した。

 正午を過ぎた頃、オレはじいちゃんが入院している「胡蝶蘭総合病院」へ来ていた。
 病院は、アパートから歩いて25分ほどの場所にあるので、オレはウォーキングがてら、毎回徒歩でお見舞いに来ている。今日は天気が不安だったので、ビニール傘を持参しての訪問である。
 病院は今日も、いつものように混雑していた。診察待ちなのか、それとも薬の処方待ちなのか、ロビーは多数の人々で埋め尽くされていた。
「あ、エレベーターが開いてる、チャンスだ。」
 丁度よく、停止していたエレベーターへと乗り込んだオレ。すると、車椅子の老人と付き添いの看護婦がすでに乗り込んでいた。そんな二人に会釈して、オレは五階のボタンを押した。
 エレベーターが目的のフロアへ辿り着くまでの間、二人は楽しそうに、他愛もない世間話をしている。そのやり取りを見て、オレは何となく穏やかな気分になった。
「それでは失礼します。」
 エレベーターが五階に到着したので、オレは二人に挨拶しながら廊下へと降りる。そして、じいちゃんの病室である512号室を目指した。
 廊下を歩いていると、点滴スタンドを押しながら歩いている患者と出会った。すれ違いざま、その患者がオレに向かってニッコリと笑ったので、オレも微笑みながら、その患者に小さく頭を下げた。
「お邪魔しまーす。じいちゃん、いる?」
 オレが512号室を訪れると、じいちゃんはふて腐れたような顔をしていた。機嫌を損ねる出来事でもあったのだろうか。
「どうかしたの、じいちゃん。何か機嫌悪そうだけど、何かあったの?」
 じいちゃんは顔を紅潮させながら、わめくように恨み節を口にしていた。
「どうもこうもないわ。看護婦さんがわしの楽しみのペッパーサラミを取り上げてしまったんじゃ。サラミは余分な脂肪が多いからとか何とか言いながら。わしは、担当のお医者さんからは、食事の制限はないと聞いておったんじゃぞ。それなのに、それなのに。」
 じいちゃんは、語るごとに涙目になっていく。わがままというか、大人気ないというか、オレはじいちゃんの振る舞いに困惑していた。
「それよりマサ、お土産はどうした?」
「ないよ。この前来た時にさ、看護婦さんから注意されたんだよ。余計な食べ物を与えるなって。」
「余計な食べ物を与えるなだと?わしは野生動物じゃないわい!」
 オレが健康管理に重要なことだと諭しても、じいちゃんは拗ねる一方で、オレに背中を向けっ放しだった。三鞭粒
「そんなことよりさ、今日はじいちゃんに聞きたいことがあって来たんだよ。」
 そっぽを向いているじいちゃんに、オレはここまでやってきた目的について触れてみた。
「じいちゃん、昔、アパートに住んでた奈都美さんって人、憶えてる?」
 じいちゃんはピクッと体を震わせた。
「マサ、奈都美って、・・・奈っちゃんのことか?」
「あだ名までは知らないけど、たぶんその人のことだよ。」
 頼んでもいないのに、じいちゃんは奈都美さんとの思い出話を語り始めた。
「奈っちゃん懐かしいなぁ。あの子は本当にいい子じゃった。わしの茶菓子を買ってきてくれたり、一緒にお茶を飲みながらおしゃべりしたり。いやぁ、どこかの誰かさんと違って、あの子は最高にかわいい娘さんじゃったよ。」
「・・・ねぇ、その誰かさんって、もしかしてオレ?」
 目を潤ませながら、いろいろな思い出に浸っているじいちゃん。
「で、その奈っちゃんがどうかしたのか?」
「二階の空き部屋でこの写真を見つけたんだ。潤に聞いたら、その空き部屋に住んでたのが、その奈都美さんだったらしいね。」
 じいちゃんは老眼鏡を掛けて、オレから受け取った写真を見つめる。写っている自分や住人たちに気付くと、じいちゃんは撮影時のことを思い出してくれた。
「そうじゃ、奈っちゃんの引越しが決まってな、住人のみなさんと思い出を残そうって、アパートの前で撮った写真じゃよ。奈っちゃんは案外涙もろくてな、撮った後にうるうる泣いてしまって、みなさんに慰められていたことを思い出すなぁ。」
「この写真、きっと奈都美さんが置き忘れてしまったと思うんだ。こんな素敵な思い出が詰まった写真だもん。できれば、奈都美さんに渡してあげたいんだよね。」
 オレはじいちゃんに、奈都美さんの居場所を知っているかどうか尋ねてみた。しかし、じいちゃんはじっと目を閉じて、唸り声を上げるばかりだった。
「う~ん、わからんなぁ。」
 残念なことに、じいちゃんは思い当たらないようだ。顎を指でいじりながら、記憶の断片を回想するじいちゃんだったが、結局、奈都美さんの居場所について語られることはなかった。
「何か手掛かりになるようなヒントみたいなものもないかな?がんばって思い出して。」
「う~ん、ヒントかぁ。」
 また唸り声を上げて、じいちゃんはしばらく考え込んでしまった。
 祈るような気持ちで、オレはじいちゃんからの返答を期待した。今の段階では、じいちゃんの記憶だけが頼りだったからだ。
 焦らすこと数十秒後、じいちゃんがようやく口を開いた。
「そういえば、もう数ヶ月前じゃったかな。奈っちゃんからお手紙が届いた気がするなぁ。住人のみんなによろしくって感じで。」
「手紙って、郵便で来たの?」
「そうじゃ、あのお手紙、郵便屋さんから受け取ったよ。」
 奈都美さんの居場所を突き止める有力な情報だった。郵送されているとしたら、どこから送られているかわかる可能性が高い。住所や電話番号も記載されているかも知れないからだ。
「で、その手紙はどこにあるの?」
「う~ん、あの手紙は確か、わしが読んでから・・・。」
 またまた、じいちゃんは唸り声を上げながら考え込んでしまった。待ちぼうけにうんざりしつつ、オレはじいちゃんの返答を待ち続けた。
 またまた焦らすこと数十秒後、今度はいきなり、じいちゃんは意味もなく笑い出してしまった。ついにボケてしまったかと、オレは慌ててじいちゃんに呼びかけた。
「ひゃっひゃっひゃ、思い出したよ。奈っちゃんからのお手紙は、わしが読んだ後、住人のみなさんへ見せようと思ってな、本棚にいったん片付けたんじゃよ。その後、集金やら宅急便やらで、その手紙のことすっかり忘れちゃって。だから、まだ本棚にしまってあるよ。いやぁ、思い出せてよかったのう。」
「・・・ってことは、じいちゃん、奈都美さんからの手紙、住人たちに見せてないの?」
 悪びれる様子もなく、じいちゃんはひたすら笑っている。じいちゃんの物忘れにも困ったものだと、オレは頭を抱えながら嘆いていた。
「マサ、すまんな。お手紙見つけたら、住人のみなさんに渡してくれ。」
 詫びながらそう言うと、じいちゃんはオレに写真を返してくれた。その時、この写真を奈都美さんに届けてほしいと、じいちゃんからそんな願いが伝わった気がした。
 そういうわけで、オレはアパートまでとんぼ返りする羽目となった。じいちゃんが思い出してくれた、奈都美さんからの手紙を何としても見つけるために。

 じいちゃんに別れを告げたオレは、病院五階の廊下を小走りで駆け抜けていた。
 その途中、年配の看護婦とすれ違い、廊下ではお静かにと注意されたオレ。すいませんと反省しつつ、オレは急ぎ足を緩めてしまった。
 足音を響かせないよう気を付けながら、オレはエレベーター付近までやってきた。すると、エレベーターの先の廊下で、女の子が一人しゃがみ込んでいる姿が見えた。
「ん、あの女の子、どうしたんだろう。」
 肩を小さく揺らして、両手で顔を押さえながら、その女の子は泣き声を漏らしている。迷子にでもなってしまったのだろうか、それとも、転んで怪我でもしてしまったのだろうか。
「どうしようかなぁ。」
 一向に泣き止まない女の子のために、オレは救いを求めようと前後左右を見渡した。ところが、付近にはオレと女の子以外誰もいない。あの女の子の小さな泣き声だけが、静かな廊下に響いていた。
 このまま放っておくわけにもいかないので、オレは泣きじゃくる女の子のそばへと歩み寄った。
「おやおや、キミ、どうしたんだい?」
 オレが女の子へ声を掛けようとした瞬間だった。その女の子のもとへ、白衣をなびかせた男性が駆けつけた。思わずびっくりして、オレはその場に立ち止まってしまった。
「あれ、あの人・・・!」
 よく見ると、オレはその男性に見覚えがあった。つい先日、じいちゃんのお見舞いに来た時に、ちょうどここの廊下で肩がぶつかったあの男性だった。この前の不機嫌そうな表情から一転、今日はとてもにこやかな顔をしていた。
 まるで我が子をあやすかのように、男性は女の子に親身になって接している。その優しさに包まれて、ぐずっていた女の子が少しずつ泣き止んでいった。
「よーし、それじゃあ、先生と一緒に病室へ戻ろうか。」
「うん、ありがとう、せんせい。」
 あの男性がやってきたおかげで、女の子はすっかり笑顔を取り戻していた。
 女の子と仲良く手をつないで、男性は小児科病棟の方へと歩いていく。二人の会話からして、あの男性は小児科の医師だったようだ。
 小児科病棟に消えていく二人を横目で見届けながら、オレは一階へ向かうエレベーターへと乗り込んだ。

 病院を後にするや否や、オレは逸る思いでアパートまで戻ってきていた。
 管理人室はこの上ないほど蒸し暑く、オレの背中はにじむ汗で湿っていく。タオルで額から流れる汗を拭いながら、オレはエアコンのスイッチを入れた。
「えーと、奈都美さんからの手紙があるのは、確か本棚だったな。」
 その手紙には、奈都美さんの居場所を特定する何かがあるはずだ。たとえ特定できなかったとしても、居場所にまつわるヒントぐらいは見つかるだろう。期待に胸を膨らませながら、オレはじいちゃんの言っていた本棚を探す。
 今更ながら、ここ管理人室は異様なほど殺風景である。古風な机と椅子が一つずつ、木目調のテーブルと洋服タンスがあるぐらいなので、探していた本棚はあっさりと見つかった。
「これか、じいちゃんの本棚は。」
 机のそばにあった小さな本棚には、十冊ほどの書籍が詰め込まれていた。
 ”盆栽の賢い育て方”や、”全国植木市自慢”といった趣味の本や、”益虫と害虫の見分け方”や、”腐葉土の微生物ノウハウ”といったマニアックな本など、じいちゃん愛用の書籍ばかりだった。
 その書籍の山をすべて抜き取って、オレは手紙が挟まっていないか調べてみた。
「まったく、何で大事な手紙を本棚になんか片付けたんだ?後から、見つかりにくくなるだけじゃん。」
 そうぼやきながら、オレは一冊一冊書籍を手にして、パラパラとページをめくっていく。すると、しおり代わりにしていたのか、書籍の中に真っ白なハガキが差し込んであった。
「あ、このハガキは!」
 オレは唖然とした。なんとそのハガキとは、オレが昨年末にじいちゃん宛てに送った年賀状だったのだ。
 まさか、こんな形でオレの年賀状が再利用されていたとは。でも放っておかれて、気付かぬうちに捨てられるよりはマシかも知れないと、オレは気を取り直して手紙の捜索を続けた。
「おかしいなぁ、見当たらないぞ。じいちゃん、やっぱりボケちゃったかな。」
 書籍を一冊一冊調べ終えるたびに、オレの期待感がにわかに薄らいでいく。簡単に見つかるだろうという予想は、どうやらオレの浅知恵だったようだ。
「・・・これが最後の一冊か。」
 いよいよ、最後の書籍へ手を触れたオレ。じいちゃんの言ったことが正しければ、この書籍の中に必ず手紙があるはずだ。
 書籍を手にして、オレは一ページずつ丁寧にめくっていく。百は超えるであろうそのページを、オレは見落としがないよう慎重にめくってみたが、無情にも、手紙らしきものは見つからないまま、巻末まで辿り着いてしまった。
 首を傾げつつ、オレは今一度、すべての書籍を簡単に調べてみたが、やはり、手紙のようなものは見つからなかった。しおり代わりのオレの年賀状を除いては。
「やっぱり見つからないな。もう一回、じいちゃんに聞きに行かなくちゃ。」
 溜め息を一つこぼして、オレは散らばった書籍を本棚へと片付け始めた。何の収穫もなかったせいか、この片付けがとんでもなく面倒くさかった。
 すべての書籍を本棚へ並べ終えると、気疲れもあったせいか、オレは仰向けに寝転がってしまった。このまま目を閉じてしまうと、深い夢の中へ誘われてしまいそうだった。男根増長素
「ちょっとだけ寝ちゃおう。ふわぁ、おやすみ~。」
 休憩がてら仮眠を取ろうと、オレは仰向けの体を横にしてゆっくりと目を閉じる。
「・・・あれ?」
 目を閉じる瞬間に見えた何かが、残像として蘇ってきた。それを確かめようと、オレはゆっくりと目を開けてみた。
「あ、テーブルの下に本がある。」
 木目調のテーブルの下に隠れて、一冊の書籍が放置されていた。
 這いつくばったまま、その書籍を手にしてみたオレ。表紙には”簡単!マジック入門”と書かれていた。じいちゃんは、どうもマジックにも興味を持っていたらしい。
「あれ、何か挟まってるぞ。」
 その書籍には、厚手の紙のようなものが挟まっている。手触りからして、誰かの年賀状ではないようだ。
 ページをめくりながら、その紙が挟まっているところを辿っていくと、その正体は、折り目の糊がはがされた開封済みの封筒だった。
「じいちゃんの言っていた手紙って、きっとこれだ!」
 その封筒の表側には、このアパートの郵便番号と住所が書かれている。宛名にも、”管理人 八戸居太郎様/住人の皆様”と記されていた。
 間違いなく、これが奈都美さんからの手紙と確信し、オレはすぐさま封筒の裏側を見てみた。
「・・・あ!」
 オレの期待とは裏腹に、封筒の裏側は何も書かれていない。汚れ一つないほど真っ白であった。
 失礼とは思いつつ、管理人代行の特権を活かして、オレは封筒から一枚の便箋を取り出した。二つ折りの便箋を広げて、オレは黒い文字で書かれている文章を読んでみた。
「前略。管理人のおじいちゃんお久しぶりです。六平奈都美です。お元気ですか?会えなくなって、早十ヶ月が経過しました。早いものですね。住人のみんなは元気ですか?一人一人に挨拶すると、だらだらと長くなってしまうので、みんなには、おじいちゃんからあたしが元気でやってること伝えてくださいね。そうそう、あたしの住まいまだ決まってないんで、教えられないんだけど、所属先の住所ならこの紙に書いてあるから。近いうちに遊びに行ければと思っています。それでは、お体に気を付けて。草々。」
 その便箋には、奈都美さんの近況が綴られていた。引っ越した後にこういう手紙を送っているところから、彼女はじいちゃんや住人たちとそれだけ親しかったのだろう。
 引っ越してから十ヶ月経過しているとなると、この手紙は今から二ヶ月前に届いたということだ。ということは、それほど昔ではないということか。
 文面にあった所属先の住所を確かめようと、オレは便箋をくまなく調べてみた。すると、便箋の下の方に住所らしい表記が見つかった。
「あ、これかな。所属先の住所って。えーと、東京多摩FC・・・。これって勤務先かな。住所は、東京都多摩市・・・。」
 ありがたいことに、便箋には会社名と思われる「東京多摩FC」の電話番号が表記されていた。
「よし、この番号に電話してみようかな。奈都美さんと話ができるかも知れない。」
 管理人室から出ていくと、オレはリビングルームのそばにある電話機のもとへと向かう。
 電話機のそばに到着するなり、オレは受話器を握り締めて番号ボタンをプッシュする。受話器を耳に宛がい、オレは緊張しながらコール音に聞き耳を立てた。
「あ、もしもし?」
 数回のコール音がした後、受話器の先から女性の声が聞こえた。その女性は、便箋に書かれた「東京多摩FC」を名乗った。
「失礼ですけど、お伺いしたいことがありまして。そちらに、六平奈都美さんはいらっしゃいますか?」
 電話口の女性に、奈都美さんに代わってもらおうとお願いをしたオレ。ところが、その女性から予想もしない回答が返ってきた。
「あいにくですが、六平奈都美さんは先日、自己都合により契約解除のため退団いたしました。」
「え!」
 契約解除で退団とは、いったいどういうことだろう。奈都美さんは、この会社の契約社員か何かだったのだろうか。聞き慣れない単語が頭を巡って、オレは動揺を隠し切れなかった。
「あの、すみません。奈都美さんの現住所とかご存知ないでしょうか?」
「申し訳ございませんが、プライバシー上、当社の所属ではない方のそのような情報は把握しておりません。」
 電話口の女性は冷静沈着に、事務的な口調でそう述べた。
 これ以上詮索したとしても、この応対具合では余計に警戒されるだろう。無念ながらも、オレは諦めるという選択肢しかなかった。
「・・・どうも、ありがとうございました。」
 歯がゆい思いを噛み殺し、オレはそっと受話器を置いた。
 オレは黙ったまま、電話機の前で立ち尽くす。手紙に書かれた勤務先に、奈都美さんはすでにいなかった。たった一つの手掛かりが、こんな形であっけなく消えていくとは。奈都美さんへとつながる線が完全に途切れてしまった。
「せめて会えなくても、何とか、この写真だけは奈都美さんに届けたいな。」
 ポケットから取り出した写真をじっくりと眺めるオレ。ピンボケ気味の写真には、奈都美さんの優しい微笑みが輝いていた。蒼蝿水(FLY D5原液)

2012年7月18日星期三

梅雨明けの街

じめじめとした長い雨が上がり、本格的な夏のシーズンの到来を予感させるようにカラッと晴れ上がったその日の夕方、プールの授業で疲れた体を休めるため居間のソファで真咲がまどろんでいると、庭先からがさがさと物音が聞こえた。花痴
 慌てて飛び起きると、庭に植えられたプラムの横にいつの間にか脚立が置いてあり、その実を何者かがもぎ取ってはバケツへと放り込んでいた。驚いて思わず声を上げてしまいそうになったが、よくよく見ると、その果実泥棒は叔父の忠晴に似ている――というか忠晴本人だった。
 掃き出し窓をガラリと開けて、庭へ出る。つっかけのサンダルを履いて脚立に近寄ると、叔父は真咲を見下ろして「おお」と破顔した。
「真咲、今年のプラムは当たりだぞ」
 そう言って赤い実をひとつ採って真咲に手渡した。「食べてみろ」と言われたので皮を剥いて歯をあてがう。ほんのりと酸味の漂う甘い果汁が口の中いっぱいに拡がり、寝起きのだるい体にしみこんでいくのが分かった。
 何か手伝うことはないか、と聞くと、実を拭いて並べるように言われた。台所へ一旦戻りキッチンペーパーを何枚か持ち出し、縁側に座って作業にとりかかった。
 拭きながら熟した実とまだ青さが残ってる実を分けていく。脚立を移動し黙々とプラムをつみ取っている叔父は、会社帰りで疲れ果てていたってよさそうなものなのに、実にいきいきとして見えた。
 母より7~8歳若い叔父は、「ジョージョー企業」に勤める「エリート社員」なのだと誰かから聞いたことがある。背が高く彫りの深い顔立ちで、「小さい頃から女の子の影が絶えなかった」とは母の弁である。それなのに未だに独身で、早く落ち着いてくれればいいのに、と母はことあるごとに愚痴っていた。  
 叔父自身はマンション暮らしをしているが、庭いじりをするため、月に2~3度は真咲の家へ草刈りや肥料捲きをしに現れる。放置気味だったプラムの樹が見事結実するまでになったのも、叔父の世話があってである。(もともとこの家は祖父母のものだったが、「年寄りに階段は堪える」とのことで、二人は現在公団暮らしをしている。一軒家をもてあましていたところに、娘と孫である真咲たちが収まったという格好だ。)
 真咲にしてみれば自分をからかってくるところが少々苦手だったが、度々会っているうちにそれも馴れてきた。親しくなれば、気さくでいい人間なのだ。
「ねー、おじさん」
 叔父が振り返りもせずに「なんだ」と答える。
「今日も、家に帰っちゃうの?」
「……ああ。仕事がまだあるから。帰るよ」
「だったら、いっそのことうちに引っ越してくればいいのに」
 叔父は真咲の言葉に一瞬手を止めたが、「バカなこと言ってんな」と言うとすぐにプラムの採取を再開した。
 しかし、今家には使っていない部屋があるし、ここに住めば庭だって好きなだけいじれる。わざわざ別に暮らしているのが無駄なんじゃないか……と真咲は思うのだ。
 真咲は「えー、でも」と付け加えてから、反論に出た。
「きっと、ガリレオだってその方が喜ぶよ」
 叔父の飼っている犬のことを持ち出す。狭いマンションではきっと十分に走り回ることもできないに違いない。叔父もあまり散歩に連れて行けないようだし、もし一緒に暮らしていたら、自分が遊んでやることもできるだろう。
 すると叔父は苦笑いをして答えた。
「いい歳こいた男が親とか兄弟と住むのも変だろ」
「でもさ、うちお母さんいないこと多いしさ。いてくれたら嬉しいんだけど」
 それは真咲の本音だった。最近本格的に仕事に復帰した母は、夜勤などで長時間家を開けることも多い。
 寂しい、と泣く歳でもないが、誰かが一緒にいてくれるのならその方がいい。ずっといい。
 脚立から真咲を見下ろしていた叔父は、ぽんと地上に降り立つと、プラムのぎっしりつまった重そうなバケツを持って真咲に歩み寄った。
「なんだ? お前がそんなこと言うなんて珍しいじゃないか。やっと俺の良さがわかったか」
 はぐらかされて真咲はふてくされた。そんな彼女に構うことなく、叔父は予め用意していたらしいビニール袋へプラムを詰め始める。
 縁側に並べられたプラムをあらかた詰め終わると、それを指し示しながら真咲に言った。
「これはあとでじーさんとばーさんの方に持ってってくれ」
 明日は母と祖父母の家で週一恒例となっている食事会の予定だ。その時に一緒に持っていけばいいだろう。
 しかしプラムの実はまだバケツいっぱいに残っている。叔父がその上のほうから「それじゃ、俺はこれぐらい」と3,4個だけ手に取ったので、
「残りは?」
 そう真咲が尋ねると、叔父はさも当然というように、
「お前とかーちゃんの分だろ」
 真咲の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
 ふたたびバケツの中へと目を落とす。プラムは今にもこぼれんばかりに赤く熟したもの、まだ青く固そうなもの。さまざまな色合いのものがあったが、見えているのはごく一部で、一体この中に何個あるのか真咲には見当も付かなかった。
「二人じゃこんなに食べられないよ」
 きっと母と自分だけでは食べきる前に腐らせてしまう。せっかく収穫したのに無駄にしてしまうのは可哀想だ。
 叔父にもっと持って行け、という意味を込めて言ったはずの台詞は、またもや飄々とした調子ではぐらかされた。
「じゃぁお前の友達にでも持ってけば。喜ぶと思うよ」
「友達……」
 言われても思い浮かばない。こんな庭先で採れた果実を学校の知り合いに押しつけたところで、迷惑がられるだけな気がする。
 叔父が「いい仕事をした」とばかりに大きく伸びをした。夕陽を受けて庭の地面に落ちた長い手足の影が、ある人物のそれを彷彿とさせた。
(あの人だったら、よろこんでくれるかな)
 プラムの入ったバケツを台所に運ぶと、そのうちの10個ほど、あまり傷の付いてない見栄えのいいものを選んで紙袋に詰めた。

 自分の部屋に駆け上がると、クローゼットを開け、誰にも見えないように置いてあったビニール傘を取り出した。
 突然の雨に降られたあの日、再会した親切な青年から借りた傘。
 「やるよ」と言われたが、いつか返しに行こうと思っていた。だけど、手放してしまったら今度こそ本当に縁が切れてしまいそうで行けなかった。
(これのお礼です、って言えば、また少しはお話できるかな)
 ビニール傘の柄をぎゅっと握りしめる。先日見たことわざ辞典に載っていた「思い立ったが吉日」という言葉を思い出した。
 この気持ちが何なのかは分からない。だけれど、あの男の人と一緒にいると、ホッとするし、楽しい。遠足の前の日みたいにわくわくする気分。ずっと続いてほしくて、時計が止まってしまえばいいって本気で思った。
 プラムの酸味のある甘い味が、口の中に蘇ってきた気がした。
数週間前の記憶をたどって、くたびれたモルタル造りのアパートの前までやって来た。
 一旦家に帰ったからランドセルはない。体のラインを隠すようにパーカを羽織って、手には以前借りたビニール傘と、袋いっぱいにつめられたプラムの実だけを持っていた。
 扉の横のチャイムは「♪」のマークが薄汚れて消えかかっていた。繋がっているかどうか分からないそれを恐る恐る押してみると、中から「キンコン」というような古めかしい音が聞こえてきた。
 しかし、扉の内側からはそれ以来一切物音がしない。
「……やっぱいないか」
 ため息をついて俯いた。やはり大学生といえど、平日のまだ陽も沈みきってないこの時間に家に居ることはなかったようだ。
 扉に背を向けて寄りかかる。行成の住んでいるアパートは幸いなことに大通りから外れた静かな住宅街にあり、その前を通る道路は交通量が少なく、たまに買い物帰りの主婦や散歩をする老人が歩いて横切る程度である。真咲は「お腹が空くまで待って来なかったら帰ろう」と決めて、そのまま部屋の前に座り込んだ。福源春
 向かいの家の垣根から、空に向かって真っ直ぐ伸びるタチアオイの木が見えた。その中心に沿って絡みつくように連なって咲いている赤い花は真夏の太陽に似ていて、これから来る季節を真咲に嫌が応でも思い起こさせた。
 本でも持ってくれば良かったな、と思いつつ行成を待つ。チリ……チリ……とどこかで揺られている風鈴の音だけに耳を澄ませていた。
 そのうち西の空にたなびく雲が次第に赤みを増してきた。そういえば、往来を行く人の中にも、会社帰りとおぼしき人の姿がちらほら混じりだしている。時計を持っていないので時間は分からないが、もう1時間以上は経っている気がする。
 道を歩いていたひとりの老婆が、アパートの前で動かない真咲の姿を見て、不審げに振り返った。もしかしたらずっと真咲がここに居ることに気づいたのかもしれない。
(……変に思われたかな)
 そう思うと途端に焦ってくる。お巡りさんでも呼ばれたら大変だ。早く帰らなきゃ、と腰を上げた瞬間だった。
 突如、部屋の中からがちゃがちゃと金属が擦れるような物音が聞こえた。
 咄嗟のことで身を強ばらせていると、それまで自分がもたれ掛かっていた扉が出し抜けに開いた。
「あっ!」
 玄関を開いた人物は、すぐ外に立っていた真咲を見て飛び退いた。
「お前、ずっと待ってたの?」
 真咲は行成の問いに頷くこともできず、
「えーと、さっきチャイム鳴らしたんだけど、出てこなったから」
 と、言い訳がましく答えた。
 行成はうろたえたように口元を歪めた。以前会った時よりも表情に乏しく、顎や鼻の下には点々と髭が生え、疲れているのか目の下は落ち窪んでいた。縒れた半端な袖丈のTシャツにスウェット地のハーフパンツという出で立ちで、まるでさっき起きたばっかりです、と言うような格好だった。
 ……いや、本当に今の今まで寝ていたのかもしれない。
 ああ、悪い、と行成は頭を掻くと、真咲の顔をじっと見つめた。その体からは、ほんのりと酒の匂いがした。 
「これ、ありがとうございました」
 しどろもどろになって傘を差し出すと、行成は戸惑ったように顔を俯けた。
「そっか。そんなの玄関の前に置いてってくれればよかったのに」
「あ、あと、この前のお礼に、これ持ってきたから」
「なんだこれ。梅? 桃?」
 行成は真咲に渡された紙袋を開け、視線を落とす。
「プラム、だよ。うちの庭先で採れたんだ」
 ふーん、と頷く。玄関の扉が再び閉じられていく。やはり突然押しかけたのは迷惑だったかと後悔していると、狭くなったドアの隙間から、行成の急いたような声がした。
「とりあえず中入れば」
「えっ?」
「食ってくだろ?」
 あまりにも当たり前の様な態度に、真咲は多少面食らいつつも、遠慮がちに答えた。
「でも、ユキナリに持ってきた分だし」
「いや、こういうのってひとりで食っても美味くねーじゃん。一緒に食おうぜ」
 長年連れ添った友達のように気安い物言い。それに行成の顔色が悪いのも少し心配になり、真咲は再びアパートの玄関を跨いだ。
 実は家で飽きるほど食べた、というのは内緒にしておくことにした。
部屋の中へ入ると、酒の香りがより一層濃く漂った。
 それもそのはず。テーブルの周りにはビールの空き缶がいくつも転がっており、さきいかやかまぼこなどの包み紙も散乱していた。以前訪れたときも整頓されているとは言い難い部屋だったが、今回のそれは明らかに「汚部屋」と言っていい有様だった。
「うわー……、こりゃひどいな」
 自室惨状を改めて目の当たりにし、行成が呻く。
「何かあったの?」
「いや、まぁ……、大人にはいろいろあるんだよ」
 バツが悪そうに顔をしかめると、行成はテーブルの上に開きっぱなしだった白い紙と封筒をぐちゃりと握りつぶし、食べ散らかしもろとも部屋の隅にあったゴミ箱へと放り込んだ。
 この部屋の状況を見ても、だらしない人間だ、とは思わない。彼の言うとおり、いろいろと子供には分からない事情というものがあるのだろう。真咲は彼に倣って、空き缶などを適当に分別してビニール袋に詰めていく。
 あらかた片づくと、行成はプラムを切り分けるために台所へと向かった。
 手持ち無沙汰になった真咲は、ついでに部屋中に散乱していた本を本棚に並べ直した。余計なお世話かな、と思いつつ脱ぎっぱなしだった衣類を畳んで、ぐちゃぐちゃになった布団もきちんと皺を伸ばした。
 皮を剥いたプラムを手にした行成が部屋の中に戻ってくると、「うわ、すげぇキレイになってる」と驚嘆の声を上げた。
 
 冷えた麦茶と、剥きたてのプラムがテーブルの上に並べられる。
 そのうちの一つにフォークを刺し、滴る果汁をトントンと切ってから、口へ運んだ。
 顎を動かして飲み込むと、行成は相変わらずの無表情のまま呟いた。
「ああ、これか。昔ばーさんの家で食ったな」
「あ、ホントに? おばあちゃんも家でつくってたの?」
「いや、多分ご近所さんからのお裾分けだったんだと思う。果物やら野菜やら、いつもたくさんもらってたよ」
「へー、羨ましいね。どの辺に住んでるの?」
「北陸の山ん中だよ。ガキの頃は毎年夏になると行ってたけど……。最近は顔も出してねぇな」
 瞼を伏せて遠い目をすると、 「まぁ、こんなんじゃ合わせる顔もないけど」と自嘲気味に笑った。
 ……それは、どういう意味なのだろうか。そういえば、初めて見たときもベンチの上にうずくまったりして、何か深刻な悩みを抱えていそうな雰囲気だった。
 だけど、自分が聞いていいものか……、と考えていると、先に口を開いたのは行成の方だった。
「お前はいいよなぁ」
「えっ?」
「やりたいこと、いっぱいできるし、まだまだこれからだもんなぁ」
 真咲はムッと顔を顰めた。正直、小学生だってそこまでお気楽ではない。特に自分は、父を亡くし友達も出来ず、羨ましがられるような境遇にはいない。
 反論しようとするより先に、行成は「ごめん、なんでもない」と言って再び俯いてしまった。
 生暖かい風に乗って、開け放した窓から子供達のはしゃぐ声が届いた。酸っぱいプラムを食べきってしまうとすることが無くなり、気まずくなって真咲は話題を振った。 
「そういえば、どこか出掛けるところじゃなかったの?」
 先ほどのこと。家の中から勝手に扉が開いた。あれは外に用事があったからではないのだろうか。この前のように自分のせいでバイトに遅れたりしたら大変だ……そう思って尋ねる。 
「あ、ああ。夕飯の買い出しだし行こうと思ってたんだわ。日も暮れそうだし、そろそろ行くか」
 大した用事でなくてよかった……。そう胸をなで下ろしたのもつかの間、行成は麦茶を飲み干すと、急にテーブルの前から立ち上がった。なんだか唐突な行動である。呆気にとられた真咲は、慌てて背中に向かって声を掛けた。
「どこ行くの?」
「駅前の商店街。あの辺、総菜とかが安いんだよ」
 部屋の中を「財布、財布」と、うろうろしている行成に、真咲は思い切って聞いてみる。
「着いてっていい?」
 行成が真咲を振り返って、「ああ」と頷いた。
 真咲は皿を流しに運んでザッと流すと、運動靴を履いて行成より先に玄関を出た。
 ふと空を仰ぎ見ると、太陽の沈んで行く方角に、一つだけ光る星を見つけた。
 月は、まだ出ていない。
駅前から数100メートルに渡るアーケード下の商店街には、飲食店をはじめ洋品店、楽器店など、大小様々な店が連なっている。夕暮れ時ともなれば行き交う人々の波で活気に溢れるのだが、今日は特に賑わっている気がする。
 その理由をいち早く察知した行成が、隣を歩く真咲に向かって呟いた。
「もう夏祭りやってんのか。早いな」
 通りの真ん中に、軽食などの露店がいくつも出店している。普段は母親に止められているためあまり買い食いなどをしない真咲だったが、別に何も買わなくてもこのような催し物を見ると心が躍ってしまう。
 尤も、真咲よりもこの雰囲気を楽しんでいるのは、彼女よりうんと年上の、隣を歩く青年のようだったが――
「チョコバナナかりんご飴、食う?」
 弾んだ声で尋ねられ、真咲は首を振る。
「お母さんがご飯作ってくれてるから、今日は大丈夫」
 それに、家の近くまで送ってもらったり、傘を貸してくれたり、お世話になっているのはこちらの方なのに、これ以上恩を受けることはできない。
 すげなく断られ、行成は不服そうに口をとがらせた。
「そっか」
 ……もしかしたら、お裾分けでももらう算段でいたのだろうか。
 行成のこういうところが、自分の知っている他の大人の人たちと違って、たびたび自分を戸惑わせるんだろうな、と真咲は思った。

 前方から綿菓子を持った5,6歳ぐらいの幼児が突進してきた。ぶつからないようにひらりと身を避けると、行成とはぐれてしまいそうになった。
 行成が「こっちだ」と言って真咲の手を取る。
 彼の手のひらはがさがさしていて、大きく、それでいて少し冷たかった。


 そのまましばらく歩いていると、天ぷら屋の前を過ぎたところで行成は急に足を止めた。
「おっ、金魚すくい」勃動力三体牛鞭
 半畳ほどの浅い水槽の中に、オレンジ色に近い赤の金魚が、長い背びれをひらひらと揺らしながら何匹も泳いでいる。よく見るとたまに黒いものも混じっていた。真咲よりもいくらか年若い女の子二人組が、真剣な表情で網を片手に水槽の前にしゃがみ込んでいる。
 この子達は上手くすくえるかな、と後ろからその様子を伺っていると、金魚を水槽の角に追いつめたところで、女の子達の網は無惨にも破れてしまった。
「あー、残念」
 まるで自分のことのように悔しそうに行成がため息をついた。
 女の子達は「はい、オマケ」と店番らしき中年女性から一匹ずつ金魚をもらうと、満面の笑みを浮かべ、そのままどこかへと駆け出した。
 行成が尋ねる。
「お前、こういうの得意?」
「やったことないからわかんない」
 そうなのだ。年の離れた兄姉や両親など真咲の周りは合理的な考え方をする大人が多く、こういった遊びを「やってみたい」となどと口に出すのはなんとなく憚られる感じがして、結局一度もやらないままこの年になってしまった。
 行成は「あ、そうなの」と意外そうに眉を動かして、水槽の前に座り込んだ。
 ポケットから財布を取り出すと、お金と引き替えに網を受け取り、その網を真咲の方へと差し出した。
「はい」
「えっ」
「いいからやってみなって。何事も経験だよ」
 にやにやとしながら手に網を押しつけてくる。断り切れず真咲は、行成の隣にしゃがんで水槽の中を睨みつけた。
 一匹、周りの魚たちに較べて動きの鈍い奴がいた。所狭しと泳ぎ回る金魚が多い中、そいつだけのろのろと白いプラスチックの池を漂っている。
 それに狙いを定めて、壁際に寄った隙に網をくぐらせた。捕れた! と喜んだのも一瞬、案外大きかったその金魚はうすい網の上を跳ね回り、お碗の中に入れる寸前でぼとりと水の中に落ちてしまった。
「……やっぱりダメだったか」
 あともう一歩のところだったのに。逃げた金魚を未練がましく視線で追ってしまう。
 名残惜しいけど仕方がない。諦めようとしたとき、隣の行成が急に袖を捲って宣言した。 
「よし、今度は俺がやる」
 ……結局、自分がやってみたかっただけではないだろうか。それなら最初から自分だけチャレンジすればいいのに、と思ったが、真咲も生まれて初めての金魚すくいを結構楽しんでいたので、何も言わず行成の狩りを見守った。
 隣の行成は、先ほどまでのどんよりした表情が一変、今は活き活きと目が輝いている。
 行成は水槽に向かって前のめりになると、網と鉢を持って口を固く結んだ。
 網を水面すれすれの所で待機させてタイミングを伺う。エサと勘違いしたのか上部に何匹か集まってきた。キッと目つきを鋭くさせると、素早い動きで金魚を水の中から攫った。
 間髪入れずにそれをお碗の中へと滑らせる。
「やった!!」
「よっしゃ! ゲット!」
 行成が笑顔でガッツポーズを作った。
 掬うと同時に網は破れてしまったが、お碗には今しがた捕獲したばかりの金魚が二匹、ぴちぴちと動いている。
 
「すごーい、やっぱ上手だね」
「いや、そんなんでもねぇよ」
 謙遜するように鼻をならす……が、顔は嬉しくて仕方がないといったように緩んでいる。「の」の形をした奥二重の眼が、ますます細く狭められた。
「あー、赤いのだけ狙ってたのに、おまけがいる」
 お碗の中を覗き込む。目当てだったのは赤い金魚のみで、黒くて一回り体の小さいものは巻き添えを食らってしまっただけらしい。金魚にとっては災難かもしれないが、自分たちにはラッキーと言えるだろう。
 それを店番に手渡した。二匹の金魚は透明な巾着状のビニール袋に移し替えられた。
 立ち上がって店番に礼を言うと、行成は金魚の入った袋を、ごく自然に真咲に差し出した。
「はい」
「えっ……、もらっていいの?」
 意外な行動にきょとんと顔を見上げた。あれだけ一生懸命やっていたのは、よっぽど金魚が欲しいのかと思って見ていたのだが、そうではないのだろうか。
「ああ。俺、ズボラだし、きっと多分すぐ死なせっちゃうから。お前が持って帰って世話してくれよ。名前でも付けてさ」
 あの自宅の散らかりぶりを見れば、生き物を飼える状態じゃないというのは分かってもらえそうなものだが。
 それでもまだ納得できないでいる様子の真咲に、行成は背を屈めて顔を覗き込み、その手をとって無理矢理ビニールを握らせた。
「んで、子供が生まれたら引き取るからさ。頑張って育てるんだ」
 
 急に手を掴まれ、耳の後ろがカッと熱くなる。照れていることを気づかれたくなくて、「わ、わかった」と頷くしかできなかった。
 ビニール袋を目の高さまで持ち上げる。水の中で、鮮やかな朱赤と濁りのない漆黒の小さな生物が絡みつくように踊っている。
 
「それじゃ、赤い方がうめぼしで、黒い方がこんぶ」
「お前、案外食い意地はってるのな」
 真咲が直感的につけた名前を、どっちもおにぎりの具だろ、と行成は声を立てて笑った。
 
 行成は近くの弁当屋で酢豚とサラダを選んで、当初の目的だった夕飯の買い出しを済ませた。
 他愛のないことで笑いながら、日の暮れてしまった街を子供の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。行成の髭の生えた白い肌とシャツが、夕闇に溶けずに浮かんでいた。
 家の途中まで着くと、「またね」と手を振って別れた。手にぶら下げた金魚が増えたときのことを想像しながら。そうなったら真っ先に会いに行こうと決めた。


  
 その日の夜、真咲は夢を見た。
 
 ごつごつした岩の多い海で。服を着たまま、尾びれの付いた足で縦横無尽に陸へ向かって泳いでいた。
 水の中では、その日捕まえた二匹の金魚と彼らとよく似た子供たち、それと骨だけの青い魚がたくさん泳いでいて、何回もすれ違った。蒼蝿水
 目指す場所に待っている人を焦がれながら。息をしようと顔を上げると、外は闇に包まれていた。
 
 空には大きな星が半分だけ浮かんでいた。深い青色を地に、緑と白のマーブル模様の星。あれはどこかで見たことがある。
 あの星は地球だ。だとしたら、ここは――
 そう考えた瞬間、鮮やかな夢は終わった。

2012年7月15日星期日

引っ越しの目的

「石見主任、お疲れさんでした。また明日っす」
助手席から降りた滝野は、夜中だというのに大声を出す。SEX DROPS
まったく、こいつほど神経が図太いやつは、そうそういまい。
「少しは声を抑えろ。近所迷惑だぞ」
「えーっ、俺、そんな大声出してないしぃ」
心外とばかりにむくれて言い返してくる滝野に、亮介は心が折れた。
こいつには、何を言っても無駄だ。
「それじゃな」
「はーい。主任、気をつけて」
無邪気に大きく手を振られ、亮介は半笑いで手を振り返すと、すぐに車を出した。
確かに滝野に難点はあるが、それでも充分亮介の役に立ってくれているのだ。
不本意だが、奴には感謝すべきだろう。
滝野がいるからこそ、祥子を自然に誘えるのだし、彼女も気軽に誘いに応じてくれるのだ。
運転しつつ、亮介は笑みを浮かべた。
今日も祥子は美しかった。
自分は特別面食いというわけではないつもりだが……彼女の顔を目にすると、亮介は思わず見入ってしまいそうになる。
あんな顔が自分の好みだったのだなと、いまさら思う。
二年前、入社してきた祥子を初めて見た日から、亮介の心は彼女に囚われている。
祥子が自分の部署に配属されたと知った瞬間など、危うく跳び上がりそうになったほどだ。
感情のこもらない独特の話し方と、クールな性格。
整った目鼻立ち。目を引くほど長いまつげ。
引き締まったウエストに、すらりと伸びた脚。ほどよくふくらんだ胸。
何もかもが亮介を虜にする。
もちろん亮介は、祥子との距離を詰めたい。だが……
彼女の反応を見るに、祥子が彼に対して上司以上の気持ちを持っているとは思えなかった。
この二年、なんの策も取らなかったわけではない。さりげないアプローチを何度もしてきた。
だが……まるで効果はなかった。
彼女への好意を伝えようと微笑んで見せたときは、あからさまに引いていたし、ワザと勢いよくぶつかって、抱き締めたときも、哀しいほど華麗にスルーされた。
それでも、嫌われていないとは思う。
少なくとも、嫌悪されてはいない……はず。
彼のことを嫌いなら、いくら上司の誘いだからって、こう頻繁に一緒に食事をしてくれたりしないだろう。
頭の中に滝野の顔がひょいっと浮かび、亮介は顔を歪めた。
まさか、あの厚顔無恥な滝野を好きなんてことは……ないよな? 
絶対にありえてほしくない想像を、亮介は切って捨てた。あんな奴に男として負けるなんて、プライドが崩壊する。
むっとした顔で運転している自分に気づき、亮介は気を取り直そうと、深呼吸した。
注意すべきは滝野などではない。亮介と同期の柿沼。奴のほうだ。
柿沼は祥子に好意を持っているようだ。たぶん、亮介同様に、彼女が入社してきたときから。
ことあるごとに柿沼は祥子の仕事ぶりを褒めるし、自分の部署に来ないかと繰り返し彼女を誘っているらしい。
頭がよく、仕事もできて、見た目もいい。
いささか変人ではあるが、そういうおかしなところが不思議とひとを引きつける。それが柿沼という男だった。三体牛鞭

車をマンションの駐車場に止め、自分の部屋に向かっているところで携帯が鳴った。
相手を確認し、携帯を耳に当てる。
「亮介、いまどこにいる?」
きりっとした声の主は、松田修治。亮介の高校時代からの親友で、従妹のめぐみの夫でもある。
「うん? ああ、なんだ来てたのか?」
亮介の部屋の前で携帯を耳に当てている修治の姿が見えた。
「修治、こっちだ。いま行く」
こちらに振り返り、亮介の姿を確認したらしく、修治が手を上げてきた。
「いま来たところか?」
亮介は駆け寄ると、玄関の鍵を開けながら尋ねた。
「ああ。いいタイミングだったみたいだな」
家に入って何より先に暖房を入れると、亮介は飲み物を用意するために、キッチンに入った。
修治は居間のソファの、互いの顔が見える位置に腰かけ、すぐに話を切り出してきた。
「頼まれてた物件だが、思ったより早く完成した」
「本当か?」
笑顔を浮かべた亮介は、勇んで聞き返した。
「ああ、入居開始が二週間早まった。亮介、どうする?」
「もちろん、すぐに引っ越すさ」
コーヒーを淹れながら、機嫌よく答えた。
修治は不動産屋で、亮介は彼に新しい住まいを探してもらったのだ。
別に、いま住んでいるこの部屋に文句があるわけではなかった。
彼が引っ越す目的は、ただひとつ。それは、祥子のご近所さんになること。
亮介の希望にぴったりの物件はすぐに見つかったものの、そのときはまだ建築途中だった。
半年以上待たなければならないと知り、別の物件も探してもらったが、祥子のアパートに近いところには他にいい物件がなかった。
どうせ引っ越すのなら新築のマンションのほうが居心地もいいし、仕方なく完成を待つことにしたのだ。
「ほんとに最上階で良かったのか?」
「いいさ。高みで暮らすという経験も悪くない」男宝
あの高さからなら、祥子の住むアパートも見えるかもしれない。もちろん、彼女の生活を覗こうなどと不埒なことは考えていないが。
「ここも悪くないと思うんだが……」
コーヒーカップを受け取りながら、修治が言う。
「それにしても、片付いてるよな。この部屋が男のひとり所帯だなんて、誰も思わないぞ」
まるでけなすように言う。
亮介は声に出して笑った。
「掃除は苦にならないんでな」
「おかしなやつだよな、お前って。料理はそこいらのレストランよりうまいときてるし……」
そう言った修治は、愉快そうに笑い出した。
「めぐみのやつ、お前が越してくるのを手ぐすね引いて待ってるぞ。ほんとに、あそこで良かったのか?」
従妹のめぐみはまるで遠慮のないやつで、亮介のところにやってきては、ご飯を食べさせろと横柄に言う。
さらには自分の家の夕食まで作らせたり、ケーキを作らせたり……
今度引っ越す先に難点があるとすれば、それは修治たちの家が、ここよりもかなり近くなるということ。
めぐみには悩まされることになるだろう。だが、祥子を手に入れる可能性が増すのなら、甘んじて受け入れるつもりだ。
「まあ、お前が近くに住むようになれば、ちょくちょく酒も飲めるだろうし、俺は大歓迎だけどな。しかし、うまいな。このコーヒー」
「そうか」
亮介は自分もコーヒーを口にしながら、近づきつつある引っ越しの手順について考え込んだ。男根増長素

2012年7月12日星期四

美味し過ぎる妄想

「あー、美味しかった」
スパゲティーを瞬く間に平らげた詩織は、満足そうに言いながら、お腹をさする。
残る三人は、まだ食べている最中だ。
「詩織ちゃんたら、ほんと食べるのが早いわね」狼1号
芙美子は詩織を眺め、感心したよう言った。
「そうなんですよ。もっとしっかり咀嚼しろって、いつも言ってるんですけど…」
しかめた顔を詩織に向け、千里は小言を言う。
「もおっ、千里は口うるさいんだよぉ。いいじゃんか、美味しいものはパクパクと勢いづいて食べるほうが、さらにうまいの」
詩織の反論に、千里はやれやれというように肩をすくめ、スパゲティーを口に運ぶ。
それにしても、詩織は誰よりもおしゃべりしていたというのに、いつの間に食べてるんだろうと思う。
沙帆子は、みんなの会話に相槌を打っていることの方が多いのに、いつも食べるのが遅い。
詩織は、昼食が出来るのを待つ間も観ていた結婚式のアルバムを、また開いて見始めた。
昨日観せてもらった、佐原の弟の順平が作ってくれたアルバムだ。
新郎の佐原と、花嫁の自分が並んで映っている写真…
照れくさいけど、佐原と結婚したことを実感できるアイテム。
でも、その実感も、写真を観てるときだけなんだよね。
現実なのに、現実と思えなくて…
妙なところで頑固な自分の意識に、彼女自身が呆れてしまう。
「ねえ、沙帆子さあ」
スパゲティーをちゅるんと口に入れたところで千里から話しかけられ、沙帆子は顔を向けた。
「うん?」
「いつから佐原先生と付き合ってたのよ? まさか、春ってことはないでしょ? 秋くらい?」
質問の内容にびっくりした沙帆子は、思わず息を吸い込みそうになり、危ういところで息を止めた。
口に入っているスパゲティーを、もう少しで喉に詰まらせるところだった。
「あーっ、それ。わたしも聞きたい、聞きたい」
右手を勢いよく上げ、詩織はテーブルに身を乗り出してきた。
母は、どういう含みなのか、意味ありげな視線を沙帆子に向けている。
「う、うんとね…」
そんな現実は存在していないため、彼女としては、口ごもるしかない。
「今年に入ってからなんじゃないの?」
まるで助け船を出すように母が言ってくれ、沙帆子は反射的に「うん」と頷いていた。
「やっぱし今年かぁ。だよねぇ」
何が、『だよねぇ』なのかわからないが、詩織は自分で言って、納得というようにうんうんと頷く。
「で、いつなのよ? もちろん、佐原先生から告白されたんでしょう?」
千里から直球で問われ、沙帆子は困った。
「そりゃあそうだよ。沙帆子が、自分から告白なんて、世の中がひっくりかえっても、ありえないね」
沙帆子は息を詰めて、口々に言う友を見つめ返した。
確かに、自分から告白なんて、絶対にできない。
けど…先生から告白ってのも…ありえ…
頭の中でそう考えた瞬間、沙帆子はハッとした。
さ、佐原先生からの告白っ!
さ、された、されたしっ!
「さ、さ、された…」
思い出したことに激しく動揺し、沙帆子はうわごとのように口にしていた。
「さされた?」
小首を傾げて、詩織が繰り返す。
「ち、違う」
沙帆子はぶんぶん首を横に振った。
「沙帆子?」
「沙帆子、どうしたの?」
千里と母に問いかけられ、焦った沙帆子は、さらに首を振り続けた。
わたしってば、な、なんで、忘れてたんだ。あんな凄いこと。
佐原先生が、『俺が付き合ってくれって言ってたら、お前、なんて返事した?』とかって聞かれて…、どうしても想像つかないから、告白してみてくれって、お願いしたんだ。
そ、そしたら…
言ってくれたよね?
あれは、現実だったよね?
衝撃の強さに、あの瞬間、頭の中身がすべて吹っ飛んじゃって。
返事を強要されたんだ。けど、思い出せなくて、それで…それで…
誤魔化したんだった。
ちょっと待ってくれとか言って…
そんで、いたぶりされそうな気配にびびって、進退窮まった挙句、佐原の名前を呼び捨てにした。
そしたら、なんでか…名前を呼ぶの、あと一回でいいってことになって…
なんで、一回に減らしてもらえたのかが、わからないんだが…男宝
返事は帰ってからでいいって、言われたっけ。
そこまで思い出せたことに、沙帆子は「はあっ」安堵のため息を漏らした。
「沙帆子ってば、何を思い出して、ため息ついてんのよ」
「そりゃあもう、佐原先生に告白されたときのこと、思い出してるに決まってんじゃん。ねっ、沙帆子ぉ」
「へっ?」
友達ふたりに話しかけられて我に返った沙帆子は、いまさら自分を見つめている三人に視線を向けた。
「そいで? なんて告白されたの?」
「つ、付き合ってくれって」
「きゃはーーっ!」
詩織が悲鳴のような叫びを上げる。
「やっぱりね。ほんと佐原先生らしい、ストレートな告白だったってわけだ」
千里は納得と言うように言う。
「それで、沙帆子、あんたなんて答えたの?」
千里に聞かれ、沙帆子は戸惑った。
こ、答え?
それはこれから考えるんだけど…
いや、考える必要もないじゃないか。
「は、はいって…」
思わず照れてしまい、沙帆子は顔を真っ赤にして「てへへ」と頭を掻いていた。
不思議なもんで、こうして口にしたことで、まるで本当にそんな過去があったような気になってしまう。
「へーっ。なんか意外だよ」
詩織の言葉に、沙帆子は驚いた。
「えっ、な、なんで?」
眉を寄せた詩織は、「うーん」と唸りながら腕を組み、口を開く。
「だってさぁ。あの全校女生徒憧れの存在、佐原先生そのひとからのマジ告白だよ。それも告白されたのは沙帆子なわけだしさ。『はい』なんて、普通に返事できたなんて、信じらんないよ」
的を射すぎている言葉に、沙帆子は目を丸くした。
「確かにね。冷静でいられたわけないわ。あんた、嘘ついてるでしょ?」
千里にそんな風に言われ、沙帆子は言葉をなくした。
「え…えっと…」
詩織の言ったとおりだ。
佐原に切ない片思いをしてた自分がマジ告白されて、『はい』なんて言えたとは思えない。
絶対に叶うはずのない恋だと思ってたんだし…
「じ、実は…言われた瞬間、頭が真っ白になっちゃって…」
「やっぱしぃ」
「う、うん」
沙帆子は汗を掻き掻き、俯きがちに頷いた。
すでに結婚したいまになって、それもこちらからお願いしてまで告白してもらったというのに、それでも頭真っ白現象に陥ったのだ。
これが付き合う以前だったら…?
間違いなく、気絶してる。
「頭、真っ白になって、それでどうしたのよ?」
「え、えーっと。ど、どうしたっけ?」
思わず聞き返すように言った沙帆子に、三人は同時に吹き出した。
そして、そろってお腹を押さえ、爆笑する。
沙帆子は自分を笑いものにしている三人に、拗ねた目を向けた。
「と、ともかく、啓史君にあんたの気持ちは伝わって、ふたりは付き合うことになったわけね?」
「う、うん」
「芙美子ママ。美味しい部分の話をすっ飛ばしちゃ、楽しみがなくなっちゃう」
「まあまあ、いいじゃない。そういうのはふたりの秘密にしときたいものよ」
「ちぇーっ、秘密かぁ」
どうやら詩織は、芙美子の言葉で、渋々のようだが納得してくれたらしい。
しかし、このやりとりのおかげで、佐原からのマジ告白に対する自分の反応はだいたい予測がついた。VVK
少なくとも、冷静に『はい』などと答えられてはいないということなのだ。
それにしても、佐原から出された宿題が多すぎて、ころりと忘れてしまいそうだ。
呼び捨て、残り一回。
こいつは絶対に忘れちゃならない。
忘れずに言えたら、ご褒美がもらえて、白衣でぎゅっが現実になり、でかうさも救えるのだ。
告白に対する返事のほうは、佐原がすんなり納得してくれるだろう答えを、家に帰るまでにしっかりと考えておくとしよう。
「芙美子ママ、ご馳走様でした」
千里も食べ終えたようで、フォークを置き、両手を合わせてお礼を言う。
見ると母も食べ終えていて、沙帆子だけになってしまっている。
母が片づけを始め、沙帆子は急いで残りのスバゲティーを口に運んだ。
千里は詩織の隣に移動し、一緒にアルバムを見始める。
はしゃいでいるふたりを横目に、沙帆子は佐原マジ告白の場面を想像してみることにした。
まずは、佐原先生に、呼ばれるところからだよね。
佐原が、沙帆子に告白しようとして、実行に移すとすれば…校舎の中で呼び止めてなんてシチュエーションはまず不可能。となると、佐原の部屋に呼び出されてって感じだろうか?
もし、呼び出されたとしたら…
わたし…何か悪いことをして、叱られるために呼び出されたと思うんだろうな。
そいで、いったい自分は何をやらかしたんだろうと、涙目になって、佐原の部屋に行くのを怖がったに違いない。
な、なんか…それって、あまりに情けなさすぎないか?
告白されるんだよ。
いや、いや、信じられないし…
「沙帆子?」
小声で呼びかけられ、沙帆子は顔を上げた。
「な、なに、ママ」
「もう片付けていい?」
母に言われて、お皿に視線を落とすと、スパゲティーが一本残っているだけだった。
「あ…ごめん」
沙帆子は、急いで最後のスパゲティーを口に入れ、空になった皿を母に渡した。
まったく、やれやれだ。
現実には体験できなかったことを、必死になって想像してるとは…
それでも…
結婚の前であろうと、後であろうと、佐原から付き合ってくれとの言葉をもらったのは事実。
考えたら、この妄想、美味し過ぎるじゃないか。
よ、よしっ。あとでゆっくり味わうとしよう。
そう決めた沙帆子は、三人の目が自分に向いていることにも気づかず、目尻を下げてにやついたのだった。sex drops 小情人

2012年7月9日星期一

意地悪と謝罪

ゆらゆらと揺れるからだ。
なんともいえないほど気持ちの良い温かさと、肌に触れている素敵な感触。
「真子、起きろ」
遠くで真子を呼ぶ声がした。西班牙蒼蝿水
この心地良さから彼女を引き離そうとする敵がいるらしい。
真子は徐々に大きくなってくる声から身を隠すように、心地よさの源にすがりついた。
おでこがコツンと叩かれた。
「やっ」
「こいつ、なんで起きないんだ」
「あっちに行って」
「起きてるのか?おい、おい」
薄ぼんやりと現実が見えてきた。
目の前は真っ白だった。
…シーツ?ベッド?
けれど、肌に当たる感触が、いつもとぜんぜん違う。
真子は手を上げて自分がほっぺたをくっつけている白いシーツらしきものを撫で回した。
「わっ」
男の驚いた悲鳴ともとれる叫びと同時に、真子はシーツから引き剥がされそうになり、慌ててしがみついた。
「襲うぞ。こら」
パチンとまた音がして、今度は後頭部がちょっと痛かった。
「いったーい。いったい何?」
真子は顔を上げ、まだ半分も開いていない目で、あたりをキョロキョロ見回した。
「やれやれ起きたか。こんなところで一晩明かしたら寒さで風邪引くぞ。ほら、帰るぞ」
「寒くない」
眠気に捕らわれて、ひどく舌ったらずになった。
「君は俺の背広被ってるからだ。君は温かいだろうが俺は肩と背中が寒い」
その説明を聞いているうちに、眠気が飛び、真子はいまの事態を丸ごと全部把握した。
真子は凄い勢いで立ち上がった。
彼女の肩に掛かっていた男の背広の上着がばさりと床に落ちた。
床に座ったままの男を見て立ち竦んでいると、相手も立ち上がった。
「荷物持って。行くぞ。着替えは…もうそのままでいいだろ」
呆然とした真子は、男に促されるまま社の裏玄関に向かった。
こちら側には、表玄関より小さな警備の詰め所があり、中はぼんやりした明かりがついているものの、ひとはいなかった。
男はカードのようなものを取り出し、玄関脇にある機械にそれを通すと扉を開け外に出た。
「それは?」
「マスターキーみたいなものさ、これがあれば社のどこからでも出入り出来る」
「ど、どうしてそんなもの。ぬ、盗んだんですか?」
「なわけないだろ。お忘れらしいが、僕は専務なんだが」
そうだった。
真子にとって彼は、どうしても侵入者のイメージが抜けない。
男の車へと歩いて行きながら、真子はふと疑問に思った。
「あの。そのカードがあれば、わたしたち、いつでも帰れたんじゃ…」
「僕一人ならそうしたさ。でも君がいた。僕は別に構わなかったが…」
車の助手席に乗り込んだ真子に、彼がにやりと笑った。
「君は構うだろ?」
真子はこくこくと頷いた。
もちろんだ。そんなことになったら、会社に来られなくなる。
車がすべる様に走り出した。
乗り心地のいい車だ。
「左に…」
「途中までは分かる」
「な、なんで知ってるんですか?」
「社員名簿。ちなみに君の社内メールアドレスも、携帯番号も知ってる。芳崎真子。可愛い名前だな。誰がつけたんだい?」
しばらく真子は答えなかった。
そんな呑気な話題は、この場に相応しくないような気がしたのだ。
けれど、相手は催促するようなこともなく、真子の方が沈黙に耐え切れなくなった。
「父母の両方の名前に、真の字がついてて、ふたりの子どもだからって、真子…」
「そうか。愛されてるんだな」
愛されているの言葉に、真子は薄く笑った。
運転していた彼は、その笑みに気づかなかったようだ。
「あの?」
「なんだ?」
「あなたの名前、聞いてないんですけど…」
「そうだったな。…高杉和磨(たかすぎ・かずま)だ。他に聞きたいことは?」
「おいくつなんですか?」
なぜか真子を横目に見て、彼は躊躇してから答えた。
「…26」
真子は驚いた。
眼鏡を掛けているからか、その落ち着きからか、かなり年上だと思っていたのに…
「その歳で、うちの社の専務に抜擢されて、大改造を任されたんですか?」
「なんか引っかかるな。その疑わしげな語尾の抑揚」
「みえないから」
「みえないって?」
ただの危ない侵入者にしかみえない…とは言えない。
「えーと…」
「ところで、社内では僕の歳は33ということになってる。本当の歳を口外するなよ」
「どうして?」西班牙蒼蝿水口服液
「もっと上だと偽りたいくらいだが、見た目でそれ以上は無理だろうと考えてのことだ。能力だけでは人は動かせない。ひとの指揮を取ることを円滑にするために、部下よりかなり年上である方が望ましい」
「考えてるんですね。でも、歳を誤魔化したままずっと勤めるなんて無理じゃありませんか?」
「三ヶ月か半年程度だ。改装が終了すれば、その時点で僕は降りる」
「また親会社に戻るんですか?」
「さあ。分からないな」
「ずっとこういうお仕事してるんですか?」
「いや、社の改装を丸ごと任されるのは初めてだ。元々改装が本職ってわけでもない。今回は特別さ」
堂々とした彼に、初めてと言う言葉はなんとなく似つかわしくなく、真子は意外に感じた。
「そうなんですか。改装については、みんな喜んでます。これまでどの職場も酷い状態でしたから」
「ああ。そうだな。子会社というのは名ばかりで、亡き社長は独裁者だった。朝見グループの接触を完全にはね付けていたんだ。親会社は内情を把握していても、手を出せなかった」
「そうだったんですか」
「もちろん、ここだけの内緒の話だぞ、真子」
「え?あ、はい」
ん?…真子?
「その呼び方、馴れ馴れしすぎやしません」
「すでに馴れ馴れしい仲だろ、君と俺は…」
なんだ。その含みのある笑いは?
「すでに口づけした仲だ」
和磨がにやりと笑った。
真子は真っ赤になり真っ青になって目を剥いた。
何か言ってやろうにも、言葉が出てこない。
「あ…そうだ」
ふと思い出したというように、和磨が呟いた。
なんだか知らないが、ものすごく嫌な予感がした。
「つい、夢中になって…」
ちらりと振り返った和磨の視線が、なぜか真子の首筋を捉えたように見えた。
「キスマークが…。明日はきっちり襟を閉めておいた方がいいぞ」
「そ、そんなものいったいいつ?いったいなんで?いったいぜんたい…」
「真子、落ち着け。一週間もすれば消えるさ。たぶん…」
「そういう問題じゃなくて。き、気絶してる女性になんてことするんですか」
和磨が唇を尖らせた。
大人びて凛々しかった顔が、少し少年ぽく見えた。
「気づかなかったんだ、気絶してるのに。夢中になりすぎて」
「はあ?」
真子は呆れた声を上げた。
素直と言おうか、バカ正直と言おうか…
「夢中になっている時の人間は、冷静な思考ができない。夢中というのは夢の中にいるということで、現実にいないわけだから、現実的思考が…」
真子は、運転している和磨の頭に拳骨を食らわした。
ゴンと音がした。
「何をするんだ。状況をよく見極めて行動しろ。俺が失神したら、ふたりしてあの世行きだぞ」
少し気持ちがすっとした真子は、彼の言葉を無視した。
鋼の精神を持つらしい和磨が、失神などという奥ゆかしいものをするとは思えなかった。
キスマークの存在が真実かどうか確かめるために、真子は和磨を気にしながら手鏡を求めてバッグの中を漁った。
運転に支障のないように、幾度か振り返りながら、真子を睨んでいた和磨の顔が、なぜか突然変化して、笑みを浮べた。
和磨は何も言わなかったが、その笑みに真子は薄ら寒さを感じた。
色々忘れ物をしたが、手鏡はちゃんとバッグに入っていた。
真子は手鏡を取り出しながら、和磨を咎めるように見返した。
「なんなんですか?」
「いや、別に。ただ、仕返しと言う言葉の重みを…後で君にゆっくりと教えてやろうと思ってね」
真子はぞくりとする恐怖に捕らえられ、手鏡を持ったまま、助手席のドアに身体をぎゅっとくっつけた。
「腹、減ってないか?」
それまでの会話がなかったかのように、和磨が唐突に言った。
「え?…空いてますけど」
「軽いものでいいけど、家で何か作れるか?」
わたしの家?
作れると言ったら、この男は彼女のアパートにあがり込むつもりなのだろうか?
とんでもない話しだ。
こんな危険分子を、彼女の神聖な部屋にあげるわけには行かない。
真子は手鏡で自分の首元を確かめた。
「たぶん、ここらへんだ」
襟の中に和磨が指先を突っ込んで言った。簡約痩身美体カプセル
「な、何するんですか?」
唇を尖らせて抗議しながらも、真子は和磨が指を押し付けたあたりを手鏡で映した。
視界が曇っていて分かりずらかった。
「で、作れるのか?」
「作れません」
そう叫ぶように言うと、真子は目を細めて手鏡を見つめた。
信じられないくらい濃い赤い痣が、首の付け根のところに見つかった。
「き、きゃー」
この痣が出来た経緯がまざまざと脳に浮かび、真子は悲鳴とともにそっくり返った。
「そうか。この時間に開いてる店というと…」
真子がパニックに陥っていることなど歯牙にも掛けず、和磨はひとり言を呟いた。
急ブレーキが掛かり、車がぐっと左に曲がった。
愕然として両手を浮かしていた真子の身体は、その勢いに、右側へとひっくり返った。
「きゃっ」
車が止まった。
「こんなところじゃ、いくら誘惑されても、その気にならないぞ」
和磨の腿の付け根の中央に顔をつっぷしてあがいている真子に、ひどく愉快そうに和磨が言った。
「誰が誘…」
パッと顔を上げた真子の後頭部で、ガツンと大きな音がした。
彼女の頭は、ハンドルに見事にヒットしたらしい。
「あーあ」
哀れんでいるような和磨の声に、真子はひどい屈辱を感じた。
自分の無様さがたまらないほど恥ずかしくなり、真子は泣きたくなった。
普段の彼女はこんなにドジでも、こんなにヒステリーに叫んだりもしない。
極めて普通なのに…。
「どうした?」
「…どうしてそんなに意地悪なんですか?」
真子は和磨の膝に顔を埋めたまま、しくしく泣き出した。
泣き声にあわせたように頭がジンジン痛んだ。
「真子…」
和磨の手が真子の頭に触れた。
そのやさしい手つきに、なぜか慰められる自分がいて、真子は自分にむっとした。
「ファーストキス…だったのに…」真子は恨みを込めて言った。
涙声の真子の言葉に、和磨が小さく口笛を吹いた。
その口笛の音に、安らぎかけていた真子の心が傷を深めた。
真子は黙々と狭い場所から抜け出し、上体を起こした。
「ごめん」
涙をなんとか止めようと唇を噛み締めていた真子は、その言葉に不意を付かれた。
外した眼鏡を掴んだ手をハンドルに掛けた和磨が、これまでになく気まずげに瞳を曇らせていた。
真子の胸が切なさにきゅんと痺れた。
「ふざけすぎた。悪かった、真子」
和磨の低い声で名を呼ばれ、彼女の背筋に、また不思議な震えが走った。
真子は和磨から視線を外した。
何んなのか分からないが、これまで感じたことのない感覚を、彼は真子の身体に呼び起こすらしい。
「真子…」
「もう謝らなくていいです。お腹すきました。とにかく何か食べましょう」
真子は和磨の返事も聞かずに車を降りた。日本秀身堂救急箱

2012年7月5日星期四

閉ざされた扉

だだっ広い部屋の中、真子が部屋を見回してくるりと一回転するのを和磨は愛しさを持って眺めた。
この部屋は、多目的に利用できるように作られた部屋だ。
壁には長子の描いた絵、亡くなった祖父の、そして母の描いたものも飾られている。
壁に掛けられた、それら一作一作の前に和磨は立ち止まっては、真子に紹介した。sex drops 小情人
家族の絵ばかりではなく、両親の気に入りの絵もこの部屋には飾られている。
中には、誰でも知っている巨匠の絵画もある。
はっきりいって、真子にそれらを紹介したくはなかった。
だが、わざと口にしないと言うのは、おかしなものだろう。
考え直した和磨は、真子に本当のことを告げた。
真子は、驚くというより、とんでもなく引いたようだった。
「なんか、他の絵と特別視されてなくて、さりげなーく飾られているところが、なんていうか…こう、すさまじいですね」
真子の表現に和磨は吹き出し、なかなか笑いを収められなかった。
そんな中で、真子が立ち止まって魅入ったのは、若い長子を描いた和磨の祖父の絵だった。
若さ、華やぎ…その絵は明るさに満ちている。
そして祖母の聡明な瞳には、形容しがたい熱い思いが湧き出ているかのようだ。
「とんでもなく愛が詰ってますね。この絵…」
和磨は真子の感想を嬉しく受け止めた。
「ああ。そうだな」
「お祖父様の思い出は?」
真子の問いに、和磨は記憶を探った。
祖父は和磨が幼い頃に亡くなっている。
それでもどっしりとした存在感は、和磨の胸にはっきりと残っている。
「祖父の腕に抱かれた記憶はあるよ。熱いひとだったな。そう感じた」
「和磨さんに似てらしたんですね」
「それは僕が熱いということか?」
和磨は軽く言った。
真子が真面目な顔で頷いた。
「和磨さんの小さな頃の写真…みたいです」
真子のその言葉に、和磨は口元を曲げた。
「あまり見せたくないな」
「どうしてですか?」
その問いに和磨は詰った。
自分でもなぜそう思うのか理由が分からなかった。
彼は首を捻った。
「どうしてかな?」
「和磨さんってば…」
真子が拗ねたような呆れたような笑いを零した。
その複雑な表情に野性を刺激され、和磨がすばやく真子を抱き寄せた途端に、ドアがノックもなしに開いた。
「あ、す、すみません」
ひどく慌てた声が、和磨の背中に飛んできた。
驚いた真子が、両手に力を入れて和磨の胸を突き飛ばした。
だが、彼女は和磨の体格に負けて、自分の方が飛ばされる形になった。
よろけて転びそうになった真子を、和磨はさっと腕を伸ばして支えた。
「こちらにおいでとは…知りませんで…」
突然の侵入者は、顔を赤くしてひたすら頭を下げたが、真子は彼の倍ほども赤くなっている
彼は笑みを浮かべて、真子の赤い頬を見つめてから、後ろに振り返った。
「別に構わないよ。それより、どうしたんですか?ずいぶん慌てているようだけど」
「いえ。システムの具合を点検に…」
和磨が女性といるところなど見たことがなかったせいかもしれない。
ひどくうろたえて足をもじもじさせている馴染みの相手に、和磨は笑いを噛み殺した。
「ああ。そうだった。この部屋は大丈夫そうだ」
「そうですか。それでは、これで」
すぐにも退散しようとする相手に、和磨は呼びかけた。
「僕が見てみようか」
「よろしいんですか?」
相手は笑顔を見せてそう言ったが、すぐに笑みをけしてかしこまった。
「ですが、和磨様にそんなことをお願いしては…」
「真子にシステム管理室を見せてやれるし…。真子、見てみたくないか?」
「迷惑でなければ、見たいです」
真子が遠慮がちに言った。
和磨は頷くと彼に向いた。
「迷惑か?」
相手はフルフルと首を左右に振った。
「もちろんお願いできれば、助かります」


「いかがですか?」
パソコンの画面を見つめている和磨に、期待を込めた声が掛けられた。
「うん」
和磨は言葉にしづらくて、それだけ口にした。
真子は初めの物珍しさも解消したのか、勧められた椅子にかしこまって座っている。
周りに人がいるせいで、かなり緊張しているようだ。
もしかすると、先ほど乱しに乱してきた客間のことを、後ろめたく感じているのかもしれない。
「復旧させるとなると、少し時間が取られそうなんだ。いまは…悪いが…」
かなりの期待を持っていたらしい相手は、和磨の言葉にがっかりした様子で肩を落とした。
和磨は申し訳なさが増した。VVK
「役に立てなくて、すまない」
「と、とんでもございません。ありがとうございました」

和磨はそうそうにシステム管理室を出て、無意識に自分の部屋に足を向けていた。
もちろん真子が一緒についてくることは自覚していたが…
システムを故意に混乱に陥れた人物がいることは、はっきりした。もちろん、やったのは和磨の父、真人だ。
システムの復旧は、パスワードが必要になっていた。
いじっているうちに、その表示がポンと画面に飛び出てきて、和磨は表には出さなかったが内心ぎょっとし、誰にも見られないうちに、表示を消した。
もちろんパスワードが分からなければシステムを正常に戻すのは無理だが、父の考え付いたパスワードは推理できた。
その思いついたパスワードを、彼は試してみたくてならなかった。
己の性格で、よくぞそれを思いとどまったと、自分を褒めてやりたいくらいだった。
けれど、パスワードを解いてしまうと、父親の仕業だとみなにばれてしまう確率は高いし、父の企みを、和磨の手で潰してしまうわけにはゆかないだろう。
真人はいつも、深い思慮のうえで行動する。
それがひどく突飛で、ひとをからかっているとしか思えないようなものでも…
まあ、七割がたは、みなの反応を楽しんでいるに違いないが…
「和磨さん、どうしたんですか?」
深い思考に捕らわれていた和磨は、真子の声に我に返った。
「あ、ああ。システムの復旧の見込みを考えていたんだ」
「みなさん、困ってるみたいですね。でも…」
「うん?」
真子が気まずそうな笑みを浮かべた。
「みなさんが慌ててるのをみて、こんなことを言ってはいけないのでしょうけど…なんだか、ほっとします」
和磨は真子をまじまじと見つめた。
「和磨さん?」
どうやら彼は、企みの核に触れたようだった。
「何を笑ってるんですか?」
「いや。ちょっとしたことに気づいただけだ。たいしたことじゃない」
和磨は目の前にある自分の部屋の扉を開けた。
「ここは?」
「僕にあてがわれた部屋。どうぞ」
和磨は真子を先に部屋の中に入れ、自分も後に続いた。
この部屋に入ったのは、本当にひさしぶりのことだった。
真子が部屋を見回している後ろで、この部屋の主なはずの和磨自身も、部屋を物珍しげに眺め回した。
「ずいぶん雰囲気が違うんですね」
「どこと比べて?…ああ、マンションか?」
「はい。あちらは全体的にすっきりとしてましたけど、こちらは…」
この部屋の家具を選んだのは母親だ。
和磨が他人の部屋のように思わずに、心地よく過ごせるようにと考えてだろうが、やたら物が飾ってある。
「寝るだけの部屋なのに、母がね…」
和磨はそう言って苦笑した。
「お母様、和磨さんがここで暮らしてくれたらと、思ってらっしゃるんじゃありませんか?」
「うん、まあ、そうかもしれないな」
「ご両親と一緒に暮らすつもりはもうないんですか?」
「先のことは分からないな。けど、いまは、そのつもりはないよ」
真子の頭の中でいろんな思いが駆け巡っているのが、彼女の瞳の揺らぎで分かる。
無理なことだと分かってはいても、和磨はその全てを知りたいと思う。
彼女が今どんな思いでいて、どんなことを考えているのか…
真子に強い視線を当てていた和磨は、真子の表情の変化に気づいた。
どうやら、彼の視線が強すぎたのか、真子を怖がらせているらしい。
「えっと…そ、そろそろ戻りましょうか?」
「まだいいだろう。せっかく…」
和磨は意味ありげに言葉をとぎらせ、真子をじっと見つめてから、わざとベッドに視線を這わせた。男宝
「み、みんな待ってます。きっと、いえ、絶対に」
真子を怖がらせていることに良心がチクチクする。
だが、彼女の反応が、彼の悪魔な部分を増幅させるのだ。
和磨は、いまは五歩ほど離れたところにいる真子の方へ一歩踏み出した。
真子がびくんと大きく跳ね、和磨の悪魔が狂喜した。
「か、和磨さん」
真子が泣きそうな震える声を上げた。
和磨の中の天使が、ほんの少しほろりとした。が、悪魔は勢いを増すばかりだ。
一歩一歩近付いてくる和磨に何度も呼びかけながら、真子は部屋の壁に背中を押し当てるようにして、ドアの方へといざってゆく。
和磨は間一髪のタイミングで彼女が逃げられるように、甘く追いつめて行った。
やっとドアに辿り着いた真子が、ノブに手を掛けて安堵したのを見届けて、和磨はゲームを終了させた。
彼は湧き上がってくる笑いを噛み殺しながら腕を組んだ。
真子は最高に面白い!
「か、和磨さん、い、いつの間に…」
ドアからすぐに飛び出てゆくと思っていたのに、真子はまだ部屋の中にいて、相変わらず恐怖の色を浮かべて和磨を見つめてくる。
和磨は意味が分からず眉を寄せた。
「どうしたんだ?」
「ど、どうしたって?…鍵を掛けたのは和磨さんでしょう?」
鍵?
和磨は本気でめんくらった。
「僕は鍵など掛けていないぞ」
「え?で、でも、だって、開きませんよ」
真子はなんどもドアノブをガチャガチャさせている。
和磨はドアに歩きよった。
和磨への信頼を完璧に失くしていた真子が、ずざざざと音がしそうな動きで、右側に勢い良く移動した。
その様はあまりにおかしくて、和磨は派手に吹き出した。
和磨の様子を見た真子が、怖れを消してむっとしたのをみながら、和磨はドアノブに手を当てて、ぐっと押した。
確かに、開かない…
和磨は、なんとなしに真子に向いた。
真子の膨らんだ頬から空気が抜け、その目に再び怖れが湧き上がった。
どうやら、彼ら二人は、密室に閉じ込められたようだった。狼1号

2012年7月3日星期二

ひとすじの涙

他にたとえようのない異質な浮遊感。
それは、自分が生身の人間であることに疑いを生じさせる。
何度経験しても、奇妙な体験だ。OB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ
静寂の中、一瞬の暗闇に包まれ、光がカズマの内へと、洪水のように流れ込んできた。
カズマは眩しさに、薄く目を開けた。
池のほぼ中央の空間に彼はいた。
ゆっくりと池の縁へと馬ごと下降していたカズマの目は、とんでもないものを捉えた。
地べたにタクミが転がり、トモエが覆いかぶさっている。
さらにトモエは、鋭い剣をタクミの顔に向け、いまにも突き刺しそうな勢いだった。
「何をしているっ!!!」
驚愕の一瞬が去り、カズマは辺りに響く声で叫んだ。
ぎょっとしたようにトモエが振り返った。
シルバーが地面に着地するより早く、カズマはシルバーの背から跳躍し、地面に降り立った。
カズマは勢いのまま、まだ驚きから抜け出せないらしいトモエへと走った。
トモエは初めの驚きから我を取り戻したのか、ぱっと立ち上がると、カズマに向けて攻撃体勢を取った。
「な、なぜ、お前がここに…」
「その質問は、俺からもさせてもらおうか?トモエ」
カズマは魔力を放出しつつ右手を捻って、炎をほとばしらせた。
彼はメラメラと燃える剣を、トモエに向けて構えながら、タクミの様子を窺った。
タクミは、頭が痛むのか、ふらつくのか、右手で頭を抱えて意識をはっきりさせようとするように首を振っていた。
どうやら無事のようだ。カズマは安堵した。
タクミの近くに、タクミの愛馬であるナイトがいたが、魔力で封じられてでもいるのか、まるで置物のように固まっている。
「タクミ、大丈夫か?」
たぶん、タクミは待ち構えていたトモエに、不意打ちを食らったのだろう。
タクミは青い顔をして、カズマを見つめ返してきた。
驚愕が取り去れないでいるものの、どうやら、傷は負っていないようだ。
「トモエ、タクミを待ち伏せていたのか?」
「どうしてそのような問いに、我(われ)が答えなければならぬ」
カズマは眉を寄せ、怪訝な目でトモエを見つめた。
こいつは?
「死んだと思ったが…。どうしてここに現れた?」
「俺の質問には答えなかったくせに、俺には問うのか?」
トモエは、思案するようにカズマを見つめ、首を回してタクミを見つめた。
「あれが赤ん坊の兄者(あにじゃ)だ…」
赤ん坊の兄者?
カズマは目を細めて、相手の言っている意味を推し量ろうとした。
トモエの姿をしたこの者が、トモエで無いことは分かるのだが…
「こやつに付いてくる者がいたとは…」
「お前はトモエではないな。いったい何者だ?なんの目的でタクミを襲った?」
相手は感情の無い顔で、カズマを見つめるばかりで口を開こうとはしなかった。
「ここにタクミがくることを、お前はあらかじめ知っていたようじゃないか?」
カズマの言葉を耳に入れているのか、相手は唐突に残忍といえる笑みを浮かべた。
「我はトモエ王じゃ。妖精国の王じゃ。我に刃向かう無礼者は、誰であろうと殺すのみ」
軋むような声には、顔と同じに黒い残忍さが滲んでいた。
「むざむざやられると思うのか?」
カズマの挑むような声に、相手はケタケタと笑った。
相手は突然剣を振り上げ、カズマに向けて切りつけてきた。
カズマは、なんとか攻撃を剣でかわしたが、衝撃の反動を食らった手に、かなりの痺れが残った。
魔力の差をまざまざと見せ付けられ、カズマは顔を歪めた。
いま、敵は渾身の力で切りつけてきたわけではない。
軽く振り下ろしてきただけと思えた。
こいつ、並みの力じゃない…
思い上がっているわけではないが、カズマの魔力は相当なものだ。
魔女タケコに匹敵するほどの魔力は、あるはずなのに…
「我に逆らうものは殺すのみ。お前なぞ、この池に飛び込み、消えてしまえ」
相手は、カズマの力を見切ったからか、カズマなど相手にする必要も無いと思ったようだった。
もちろん相手に見下され、カズマははらわたが煮えくり返る思いだったが、どれだけ憤っても、それが真実ではどうしようもない。
闇雲に切りかかったりすれば、カズマの屍がそこらあたりに転がるだけ…
どうすればいい…?どうすれば?
相手がタクミに目を向けたのをみて、カズマはタクミに駆け寄った。
相手は数歩歩き、タクミとカズマの前に立った。
その目はタクミだけを見つめ、カズマなど映っていないようだ。
「我の欲するものを運びし者よ、さあ、闇の目を我が手に」
闇の目?福潤宝
「いったい?」
そう言ったタクミははっとしたように、自分の腰にぶら下げている袋に手を当てた。
「それか?」
そう口にした敵の目が、喜びを表して、ぎらぎらと燃え始めた。
そうか!
こいつの狙いは、タクミが抱えている闇の玉か!
「お前…闇の魔女と関係のある者か?」
カズマの言葉を聞いた相手は、目を眇めるようにしてカズマを見つめてきた。
「我こそが闇の魔女じゃ!闇の目は我のものじゃ。はよう我が手に!」
「皆様、お集まりでしたのね。ごきげんよう」
この場の殺気に不釣合いな、なんとも礼儀正しい声がして、カズマはぎょっとして声の主に振り返った。
「あ、あなたは」
敵の登場より、カズマは度肝を抜かれた。
声の主は、トモエの乳母シオンだった。
妖精国の王の城に行くたびに、顔を合わせてきた相手。
彼女は、自己中心的でわがままなトモエの母よりよほど、トモエを愛し慈しんでいた。
「馬鹿な!いったいどうしてこんなところに」
「もちろん、貴方がたをお助けに参ったのですよ」
シオンはほんのりした微笑をたたえて言いながら、自然な歩調で歩んでくる。
「その者に近づいてはいけません。このトモエは、トモエではないのですよっ!」
カズマの必死な叫びに、シオンはゆるく首を横に振った。
「いいえ、そんなことはありませんわ。カズマ様、この方はトモエ様ですよ」
まるで間違いを、やさしくたしなめるように言われて、カズマは強烈に苛立った。
この場の異様さにどうして気づかない?
「おぬしは?」
トモエの姿をした敵は、シオンを見つめて、憎々しげに顔を歪めた。
「邪魔立てをするな!」
シオンは突然表情を変え、肩を竦めた。
「するに決まってるわ。指を咥えて、あんたの狼藉をこの私が眺めていると思って」
カズマはシオンの物言いに眉をひそめた。
彼の知っている彼女らしくない。
「おぬしの力など、赤子同然じゃ。我に勝ると思うなど、愚かなことぞ」
シオンは恐れの色もなく、敵の目を見つめ返した。
「愚かはどっちかしらね。時は経過しているのよ。お前には関係なかっただろうけど」
敵はよほど憤ったのか、ギリギリと歯を軋らせた。
「こしゃくな!」
敵は、シオンに向かって、金属を擦り合わせたような苛立ちの声を張り上げ、突如切りかかった。
もちろんカズマは助けに入ろうとしたが、シオンが杖を手にしているのを見て、動きを止めた。
あの杖?
「まさか?」
カズマが驚きとともに叫んだ瞬間、まばゆい光がきらめき、彼は眩しさに目がくらんだ。
いったい…
「ひさしぶりじゃないの、闇の魔女。…まったく、無様な姿ね」
カズマは目をあけて、目の前の事態を見た。
黒い影のような像がいた。
目のあたりだけが、異様な光を発している。
「どう、本来の姿に戻れた気分は?」
「お黙り!」
「カズマ!タクミを守りなさい!」
高飛車に命じられ、カズマは冷静に受け止めて素直に従った。
同時に黒い影も行動を起こした。
「闇の目は我のものじゃ」
「タクミ、闇の目を渡しては駄目よ」
タクミは慌てたように玉が入っている袋を両手で抱え込んだ。
カズマは影より先に、タクミに覆いかぶさった。VIVID XXL
「邪魔者めっ!」
「やめろーっ!」
その叫びはトモエのものだった。
「ギャーッ!」
影のものだろう、身の氷るような断末魔のような叫びが背後で聞こえ、カズマはタクミに覆いかぶさったまま、後に振り返った。
影を貫いているのは純白の眩しい光を放つ、トモエの剣だった。
「トモエ」
トモエは、渾身の力で剣を握り締め、両肩を上下させて激しく息をついている。
「カズマ、ぼけっとしてないで、トモエ王の加勢をなさい!」
叱責するように怒鳴られたカズマは、さっと立ち上がり、意識無く光の剣を創り上げていた。
カズマは勢いよく、いまもまだもんどりうっているように見える影に、剣を突きたてた。
もがき苦しむような悲鳴が微かに聞こえたような気がした。
数秒待つことなく、異様な影は煙のように消えた。

カズマは、しばし状況を飲み込もうとするように、立ち尽くしたまま彼の前にいるトモエを見つめていた。
トモエがガクリと膝を折り、前屈みに倒れた。
「トモエ!」
「いったい、何がどうなったんだ?」
カズマの側にいるタクミが、呆然とした口調で言うのを耳にしながら、カズマはトモエに近づいた。
すでにシオンがトモエに寄り添っていた。
「トモエは?彼は?」
「質問は、いまはいいわ」
シオンはカズマに向けて言うと、トモエの額に触れて、そっと前髪をかき上げた。
「トモエ王…よくやったわ」
称賛とねぎらいのような乳母の言葉を聞き、トモエ王は顔をくしゃりと歪めた。
「終わったんだ、終わったんだ、終わったんだ…」
繰り返されるトモエの叫びは、聞くものの胸を疼かせるほど、深い感慨を込めた震えを帯びていた。
「ええ、終わったのよ」
シオンは確信を込めた言葉を、トモエに告げた。
頷いたトモエは、深い安堵のこもった顔になり、はーっと息を吐き出しながら、ゆっくりと目を閉じた。
その頬に、ひとすじの涙が伝った。挺三天

2012年7月1日星期日

過去の意味

空が白み始めていた。
時間の経過など無関係に感じる集中治療室の中では、医師や看護師がたえず動き回っている。
詩歩を元気づけるために、やさしい笑みや明るい声を掛けてくれる彼らに、強張りのとれない頬のまま、彼女は無言で頷いていた。頂点3000
様々な医療器具が取り付けられた真理の様が、過去とダブり、ピッピッという真理の生を知らせ続ける音が、詩歩を必要以上に怯えさせる。
意識が戻る様子のない真理の手をやさしく撫で続けながら、、詩歩は寄り添ってくれている海斗から発する愛を感じていた。
彼の手のひらの温かさだけが、いまの詩歩の精神を落ち着かせてくれる。
「海、頼みがあるの」
「なんでも」
そう応えてくれた海斗に、詩歩はポケットから携帯を取り出して手渡した。
「岸川幸太っていうひとに電話して、真理さんのこと伝えて欲しいの。どうしても逢わせてあげなきゃいけないひとなの」
「真理さんの…恋人?」
「う…ん。真理さんを愛してくれているひと。真理さんも…」
海斗が外に出てゆくのを見送ってから、詩歩は真理に明るさを込めて囁いた。
「真理さん、寝てる場合じゃないわよ。あのひと来ちゃうんだから…ね、真理さん、自分の心に素直にならなきゃだめだよ」
真理の目覚めを期待して、詩歩は同じような言葉を繰り返し真理に囁いた。
そうしているうちに、海斗が戻ってきた。
「すぐに来るそうだよ。とても…大切に思ってるみたいだね、真理さんのこと。倒れたって聞いて、岸川さん…息を呑んだまま声を出せなかった」
「…そう。海、ありがとう」
詩歩は、バッグを手に取った。
「わたし、少し外の空気を吸いに行きたい。海も一緒に…」
「岸川さんが来るから?」
意味を含めた海斗の言い方に、詩歩は手を止めてゆっくりと振り返った。
「海、そのひとと、…何か話した?」
「詩歩、どうしてそのひとって呼ぶの?」
詩歩は、まっすぐな海斗の視線を見返した。
彼女は大きく息を吸って胸を膨らませ、よどんだ空気をすべて吐き出すように長い息を吐いた。
「彼を父だと思うのは、やめたの」
「詩歩らしくないね。何があったの?」
詩歩は海斗に背を向けて、真理の手のぬくもりを確かめるために握り締めた。
真理から離れるのは辛かったが、詩歩はゆっくりと手を放し、海斗と視線を合わせてからドアに向かった。
「歩きながら話すわ」

詩歩の両親は、大学のサークルで出会った。
すぐにふたりは付き合い始め、流れに乗って結婚の約束をし、出逢って二年後に、母が身ごもったのが分かって結婚した。
「…花とか植物がとても好きなひとなの。よくハーブとか育ててた。花を見つめているときの父は、いつもとても幸せそうだった…」
長い話の途中で、思いだすまま記憶の路線がずれてゆく詩歩の言葉を、海斗は辛抱強く黙って聞いてくれていた。
詩歩は、脱線した話の元を手繰り寄せ、歩きながら話の軌道を修正した。
語り出そうとして、詩歩は海斗の手を取って握り締めた。力が欲しかった。言葉にするための力が。
ふたりは病院の広い庭にいた。木立があり涼しい風が心地よく頬に触れてゆく。
詩歩へ向けて、彼女を取り囲む新鮮な空気から気力が注がれてくるのを感じる。
彼女は呟くように言葉にした。
「あの日、…庭にいた父が…手にしていたレンガを投げつけたの…居間に、わたしと母がいて…ガラスが粉々に割れた…」
言葉に出来て、不思議なほど詩歩はほっとした。
「病院に、父は…来られなかった。それ以上父を苦しめたくなくて、母はわたしを連れて、祖父の弟の助けを借りて引っ越したの」
「詩歩が、いくつのとき?」
「八歳、小二の夏休みだった」
六年生の時に祖母が亡くなり、一人暮らしになってしまう祖父の願いで、一緒に住むことになった。
真理はその時結婚していたが、相手のひととうまくゆかず離婚して戻ってきた。
父は、真理に逢って、本当の恋をしたのだ。そして、真理も。
詩歩の母は、そんなふたりの気持ちに初めから気づいていた。
「家を出るときに母が言ったの。わたしたちの傷よりも、深く…父の心は傷ついてる。わたし達を見るたびに、父は自分を責めて苦しむことになる。だから…わたしたちはここにいちゃいけないって」
詩歩はすべてを淡々と口にした。
これまで過去を語ることはなかったが、彼女の心の中では、すっかり整理のついたことなのだ。
「海…いま、わたしは辛くないし、苦しんでもないの」
「わかってる。…でも、過去の詩歩が、僕の中で泣いてる…」
詩歩は、手のひらで海斗の濡れた目尻に触れた。
海の涙はあたたかかった。そのあたたかさが詩歩の中に流れ込み、極度に強張っていた詩歩の体をほぐしてゆく。
ありがとうと、声には出せなかったけれど、海斗はそれを感じて小さく頷いてくれた。
「二人きりの生活のとき、母は自分を責めてよく泣いてた。父の気持ちを知っていたのに、三人の生活を壊したくなくて、気づかないふりをしていたって…」
「アルバムは、お母さんが…?」
海斗の問いに詩歩は俯き、足元の芝生から顔を出している黄色い小花に気づき、それを見つめながら静かに頷いた。
「処分したのかもしれないし、どこかに隠したのかもしれない。でも、出てこなくていいの。目にするのは辛いから」夜狼神
詩歩は母のよく言ってた言葉を思い出していた。
ひとは本当に必要なものはすべて持って生まれてくる。
でも、その必要なものは目にすることが出来ないから、持っているのを忘れて、ひとは目に見えるものに幸せを求めようとしてしまうと。
詩歩は手を握り締めてからゆっくりとひらいた。
そこには、求めるものすべてがあると詩歩には思える。
「形あるものすべて無くしても、ひとは必要なものすべてを持っている…か」
海斗はそう口にして、考え込んだ。
どんなときでも、詩歩は幸せだったし、母も幸せだった。
父にその真実を分かって欲しい。そして真理にも…
幸せになって欲しいのに、ふたりは幸せになろうとしない。
詩歩もいまは天国にいる詩歩の母も、ふたりの幸せを心から願ってるのに。
ふたりして心を閉ざしている。
詩歩は言葉を切り、彼女の言葉に耳を傾けながら考え込んでいる様子の海斗を見つめた、詩歩の視線を感じて海斗が振り返った。
「父は、わたしをとても愛してくれてる。だから、わたしを見られないの。父が苦しむから、わたしも父の前に出てゆけない」
詩歩は海斗の瞳をまっすぐに見つめながら、胸のボタンを三つ外し、胸元を開いた。
海斗が息を呑んだ。
「この傷はわたしの一部。生きてきた、あかしみたいなもの」
詩歩はボタンをはめ直しながら、呟くように言葉にした。
「ふたりに幸せになって欲しい…。母もそう願ってる」
詩歩は急激に嗚咽が込み上げてきた。胸が苦しかった。
「真理さんは、絶対に、このまま逝くべきじゃない」
両手で胸を痛いほど掴み、詩歩は叫んだ。
「詩歩、君はしなければならないことがある」
立ち上がった海斗が、まっすぐに手を差し出してきた。
「行こう」
詩歩は海斗の手を握り、頷いて立ち上がった。
存在の重さ

光一郎に家まで送ってもらう帰りの車の中で、海斗は詩歩の手をずっと握り締めてくれていた。
あたたかでやさしい気が、彼の手のひらから詩歩の中に絶えず流れ込んでくるようだった。
海斗のしたことに驚愕するほど驚いたのも事実だし、いまも混乱の最中にいる。
それなのに、くすぐったいような笑いも、絶え間なく込み上げてくる。
「詩歩の、あの絵だけど…」
詩歩の気持ちを自分に向かせようとしてか、彼女の手を一度ぎゅっと握ってから海斗が言った。
ふたりの視線が合うと、海斗が続けた。
「居間に置こうというのを、僕が嫌がってるんだ」
詩歩の目を見つめたまま海斗が続ける。
「いま、君が描いている絵、またチャリティーに出すつもり?」
「完成すれば」と詩歩は言った。
海の花は完成するだろう。
だが、あの絵をチャリティーに出すつもりはなかった。
当初描こうとしていた空の花を、チャリティーまでに完成させることができれば出すつもりだった。
「完成したら、僕に一番に見せてくれる?」
詩歩は頷いた。海斗に贈ろう。あの海の花を…
笑みを浮べた海斗を詩歩は見つめた。海斗が、「何?」というように詩歩を見つめ返してくる。
わたしなんかでいいの?
そう問いたい気持ちが一瞬湧いたが、詩歩はその言葉をすぐに打ち消した。
思いは、それぞれのひとのものだ。
そして、詩歩が自分という存在を疎ましく思うのも、仕方のないことなのだ。
詩歩の家に着いた。
海斗の父に丁寧にお礼を言い、詩歩が車を降りると海斗も続いて降りてきた。
光一郎が車を方向転換しているのを見ながら詩歩は海斗に言った。
「わたし、海に、話さなくちゃならないことがあるの」
「そうか、嬉しいな」
詩歩はその返事に驚いて戸惑い顔で、海斗の目を見返した。
「どんなことでも喜んで受け入れる。どんなことでも…」
「海は…海(うみ)と同じね」
海斗が、苦笑しつつ手を横に振った。
「いや、悪いけど、僕は君が思うほど心が広くないんだ」
彼のすぐ近くに、光一郎の車が止まった。
海斗が詩歩の耳に唇を寄せて、微かな声で囁いてきた。
「矢島や他の男子が君に触れるたびに、嫉妬でどうにかなりそうになる」
「海斗、公衆の面前だぞ」と、光一郎の愉快そうな声が飛んできた。
角度的に、海斗が詩歩にキスをしたように見えたのかもしれない。
海斗の指が、詩歩の唇をそっと撫でた。その刺激に詩歩の全身が小さく震えた。
「それじゃ、詩歩。二度目のキスは、明日」
去ってゆく車を見送りながら、詩歩は現実を取り戻そうとして、自分のほっぺたを必要以上に強く捻った。


家の中に入り、詩歩は玄関から真理に呼びかけたが、返事はなかった。
また作業場で時のたつのを忘れているのだろうと思いながら、詩歩は居間へと入った。
「真理…さん?」ru486
ひどく不自然な格好で、真理が床に転がっていた。
「ま…真理さん!」
真理は目を見開いていた。
瞳が詩歩に向き、詩歩は緊張して身体を強張らせた。
真理の瞳に恐怖が見えた。
事態が飲み込めず真理自身、混乱しているようだった。
「詩歩ちゃん、なんか…おかしいの…耳が…ぼーっとしてて…声が…」
詩歩は息を止めた。
この症状には、忘れられない辛い記憶あった。
「き、救急車、呼ぶ…」
「…の方がいい…のかな?ね、詩歩ちゃん、これって似てるよね…あの時の…姉さん…」
「真理さん、心配しないでわたしがついてるから」
早口に詩歩は言ったが、彼女の全身は、隠しようもないほどガクガクと震えていた。
詩歩は大きく震える手で携帯を取り出した。
救急車の二文字がぐるぐる渦巻く中、パニックに襲われて彼女の目に涙が溢れてきた。
「真理さん、どうしよう…わたし…海、海…」
無意識に言葉を発しながら、詩歩は携帯を無我夢中で操作した。
「詩歩?どうしたの?」
「真理…うっ…うぐっ、真理さん倒れ…てる。意識あるけど…でも、どう、どうしよう、海、海、真理さん死んじゃう。助けてっ」
詩歩の悲痛な叫びに、海斗の緊張した声が返って来た。
「父さん!緊急事態、詩歩の家に戻って。詩歩、すぐ行くから」
海斗は、戻ってくるまで、ずっと詩歩と繋がっていてくれた。
詩歩は真理の瞳を瞬きもせず見つめ続けながら、真理を母のようには連れてゆかせまいとして、手をぎゅっと握り締めていた。
海斗の声に、詩歩は次第に落ち着きはじめ、救急車を呼んだ。
真理の意識は病院についてすぐに途絶えた。
怖れていた医者からの告知。
冷たい病院の中、海斗の存在だけが詩歩の支えだった。
海斗の存在がどれほど大きなものになっていたのかを、詩歩はいまさら気づいた。VIVID XXL