「誰ね、その人」
害虫を見る目つきで母早百合は言い放った。
島田はさりげなく繋いでいた手を離していた。暗かったので見えなかったようだが、見られていたかと思うと冷や汗がどっと吹き出した。花痴
「こちら、会社の上司で、島田さん」
失礼やろ、そんな態度とらんでよ――と小声で訴えるが、聞こえなかったかのように母は島田を睨みつけている。
「はじめまして、島田です。お嬢さんにはいつもお世話になってます」
彼はどこからか取り出した眼鏡をかけていて、綺麗に頭を下げた。営業用の顔だ。
だが母は硬い態度を解かない。
「会社の上司が、どうして土曜日にここにおるんね?」
「きゅ、休日出勤で、遅くなったけん、送ってもらったんよ」
上ずりそうになる声を必死で抑えてさくらは言う。その際、ぐっと握った右手に硬い感触を感じさくらは密かに指輪を外す。母と会う時には見せないようにしていたのだ。
「休日出勤……ねぇ。その割にラフな恰好しとるやないね」
母はさくらの頭からつま先までをじろじろと観察する。
(ああああ、そんなに見られたら、ブラが外れてるのバレる……!)
泣きそうになりながらさりげなく胸の辺りをバッグでカバーした。とにかく話題を変えないとと尋ねる。
「で、なんでこんなところにおるん?」
「こっちが訊きたいんよ。なんで携帯切っとうとね。いつまでたっても出らんけん、心配したんよ」
「あ」
そういえば、病院で携帯の電源を切った事を思い出す。ポケットから携帯を取り出して復活させると、着信履歴と留守電の山だった。だが腑に落ちない。母が昼間に電話をかけて来る事は滅多になかった。
「なんか用事やったん?」
「あんたカーネーション贈ってくれたやろ。今日の昼届いたけん、お礼言おうと思ったら……」
すっかり忘れていた。――明日は母の日だ。
一月前くらいに忘れないようにと花を注文していたのに、色々あり過ぎて注文していた事を忘れていたのだ。覚えていたら、電話がかかって来る事を予想して待機していたのに。
(うわぁ……やっちゃった)
窮地に追い込まれて、さくらは言い訳を探る。だがどうしても電話を切っていた理由が思い浮かばない。
と、
「実は僕の父が入院したので、病院に付いて来てもらっていました」
島田がさらりと言い、さくらは何を言い出すのだと目を丸くした。
「なんでです」
案の定母は怪訝そうな顔だ。
「僕とさくらさんはお付き合いをしていますから」
さくらと母は同時にぽかんとした。
「なんて?」
「島田さん……、何言って」
あわあわとさくらは爆弾発現を否定しようととするが、
「いい機会だろ。きちんと話をするべきだ」
と島田は譲らない。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」
礼儀正しく島田は頭を下げるが、母は逆に反り返った。さくらは嫌でも思い出す。このポーズは、高校二年のあの夏と同じ。
「――まさかうちの娘に手を出したりしとらんやろうね?」
案の定、地を這うような声が響いた。
「なにもしてません」
無礼な質問にも島田は淡々と答える。眼鏡の奥の表情は読めなかった。
「ほんとかね。こんな夜遅くまで連れ回して、今までなにしよったんね」
「遅くないやろ、まだ九時前やん」
島田を庇って突っ込むと、
「あんたは黙っとき。大体、門限は八時って言ってなかったかね」
母はぎろっと睨みつけてさくらを黙らせると、再び島田に向き直った。
「島田さんとか言ったかね。嘘はいかんね――口紅がついとるよ」
島田は僅かに眉を寄せ、口元に手をやった。だが、暗いのにそんな事が分かるわけがない。卑劣な誘導だ。D10 媚薬
催情剤
彼の仕草を見て何か確信を抱いたのか、母は凶悪な顔でさくらの手を引くとエントランスの外へと引きずった。
「そんな事やと思った。さくら、帰るよ。すぐにここ引き払って、実家に帰るけんね。仕事も辞めさせてもらい」
「ちょっと――いやだって!」
「待って下さい。話を聞いてもらえませんか」
島田が追って来るが、母は立ち止まらずに言った。
「卒業したての世間知らずの娘をこんな風に騙して。あんたやろ、悪知恵授けて、ここに引っ越させたのは。どうせ都合よく囲うつもりなんやろ」
「何言いようとって!」
やめてと叫ぶように言うが、母の放言は止まらない。
「手をつけるだけつけて責任とらん男なんかいっぱいおる。適当に遊ぶつもりなんやろ」
「島田さんはそんなんやないよ」
「さくらさんとは真剣にお付き合いさせて頂いてます。結婚もきちんと考えてます」
島田が真剣に訴えるが、母は鼻で笑った。
「結婚? そんな口約束には騙されんよ! それやったらなんでさっさと結婚せんのね。なんでこんな風にこそこそする必要があるとね? 二人とも立派に社会人なんやし、何の問題もないのにどうしてね?」
「それは」
島田が言葉に詰まると、母はそれ見た事かと勝ち誇った顔をする。
「さくら。こんな妙な男に引っかかって、後で泣いて後悔しても誰も助けてくれんとよ!」
申し訳なくて死にそうだった。彼の言葉はきっと精一杯の誠意だったろうに、母にはまるで届かない。
絶望的な気分で島田を見る。
彼の苦々しい表情が高校の時の彼と重なる。
『ごめん、無理』――そんな声が耳に響いた気がしたとき、
「さくら。選んで」
島田が真剣な面持ちで手を差し出した。
「俺とマンションに戻るか。お母さんと家に戻るか」
彼の言葉を受けて、母も挑戦的な顔で手を差し出した。二人とも譲る気がないのが分かる。
島田の手を取りたかったけれど、取れば、母との関係は完全に壊れるだろう。そのとき母の攻撃の矢面に立つのは島田だ。今以上の非難の言葉を彼が受けると考えただけでぞっとした。
だからと言って母の手を取れば、島田はきっと離れていく。
どちらの選択も最善とは思えなかった。
(選べない)
ただでさえさくらの心は、母の言葉でこれ以上ないくらいに萎縮していた。今の判断力でどんな選択をしても後で後悔しそうだった。
出来る事ならば、時間を巻き戻したい。
あのとき病院で電話の電源を切らなければ? それともカーネーションを贈らなければよかったのか。
そんな後悔と共に、どうしてただの上司だと誤摩化してくれなかったのか。こんな残酷な選択を迫るのかというような、島田に対しての恨めしい気持ちも湧いて来る。
様々な感情がさくらの中でどろどろと渦巻く。
「無理です。選べない」
さくらが音を上げると島田は酷く傷ついた顔になる。
しばしの沈黙。やがて彼はぽつんと言った。
「俺――今、聞きたい」
何の事だろうとさくらが瞬くと、
「約束しただろ? 今日の昼、後で言うって」
思い当たってさくらは目を見開いた。でも、今、母の前でそれを言うのは彼の手を取る事と同義だった。
「…………明日じゃ、駄目なんですよね?」
ずるいと分かっていたがさくらがそう言うと、島田は寂しげに目を伏せた。
「そっか。分かった」
島田はさくらの手に目をやると、もう一度手を差し出す。紅蜘蛛(媚薬催情粉)
「それ、もう要らないだろ? 人前で堂々と着けられないようなものだしさ」
彼の視線がさくらの右手の薬指に止まっていた。何のことを言われているか分かって、それがどういう事かも分かって、涙がこぼれる。
「ごめんなさい」
引き止めたかった。だが、もう島田は決めている。さっきのが最後のチャンスだったのだと今さらながら気が付いた。
彼の手の上にずっと握りしめていた指輪を置く。島田はふっと小さく息を吐くと、営業用の笑顔を浮かべた。とても綺麗な笑顔だった。
「じゃあ片桐さん(・・・・)、さよなら。――月曜日に、また」
彼はそう言うとエントランスの光の中から出る。
全身が闇に染まったとたん、彼は側溝へ向かって手を振り下ろした。一筋の金の煌めきが線を描いたか思うと、小さな金属音が辺りに響き渡った。
それが島田の嘆きに聞こえて、さくらはその場に崩れ落ちた。
どのくらいそうしていたか分からない。さくらはエントランスの隅で膝を抱えていた。
強引に家に連れ帰ろうとする母をさくらは全身全霊で拒絶した。失恋の痛手は大きかったけれど、だからと言って母の手を取る気にはならなかった。おそらく生まれて初めて本気で母に抵抗した。島田がさくらの何にがっかりしたか分かったから。
「もう二度とお母さんの言いなりにはならない。自分の生き方は、自分で決める」
何度もそう言った。母に向かっても、自分に向かっても。
さくらを無事に取り返したつもりでいたのだろう。思わぬ抵抗に根負けした母はとうとう言った。
「お母さんは帰るけん。あんたも家に入り」
無言で立ち上がると、さくらは一人マンションへと入った。
部屋は酷く殺風景で寒々しかった。万が一を予想して必死で片付けていたけれど、連れて来る覚悟がないのでは意味がない。見せる勇気がない下着と同じ。
さくらはどうしても最後の一歩を踏み出せなかった。
「馬鹿みたい」
頑に守ったものと引き換えに失った物があまりにも大き過ぎた。
今更気づいても遅い。自らの愚かさをひとしきり笑った後、子供のように泣いてベッドに倒れ込んだ。
疲れ果てていたが、全く眠れない。
どうやったら島田を取り戻せるだろう、その事ばかりが頭の中を駆け巡った。いくら自分に無駄だと言い聞かせても諦めがつかなかった。
空が白々と明けはじめた頃、さくらは一つのひらめきと共にジャージに着替えて外に出る。
重たい側溝の蓋を開けると素手で冷たい泥を探る。一つ一つ丁寧に泥をさらい、蓋をし直す。胡散臭そうに通行人が泥だらけのさくらを見下ろすが、構っていられなかった。
夕方になり、植え込みのサツキの赤い花を雨が濡らしはじめても、さくらは捜索を止めなかった。雨空で流れ星を探すようなものとは分かっていたけれど、もし見つかったら――と縋るような気持ちだったのだ。
だが、人生はそんなに甘くない。
(やっぱりチャンスの神様には後ろ髪はないみたい)
その日。暗くなるまで溝(どぶ)さらいをしてもさくらの探し物はとうとう見つからなかった。紅蜘蛛
II(水剤+粉剤)
2012年11月30日星期五
2012年11月27日星期二
夜の前に
「何だか大変な事になっちゃったね」
摩子と二人で帰り道を歩いていた。帰る方向が同じ者同士で家へと向かう。そんな友達同士で帰る。ちょっとした喜びだ。将刀も同じ方角だったけれど、何か用事がある様で別の道を行ってしまった。威哥十鞭王
「うん、でも私は、不謹慎かもしれないけど、みんなと一緒に遊べるのは嬉しい」
法子の遠慮がちな言葉に摩子が笑う。
「そう、良かった! 私も法子ちゃんが楽しんでくれるなら嬉しいよ」
摩子と話している時間は楽しい。けれど法子の家は駅からとても近い。この幸せな時間がすぐに終わってしまうのはとても悲しかった。駅から近い事を呪いたくなってしまう位に。
そんな事を考えていたから法子は完全に油断していた。近づいていくる自分の家がもっともっと離れてくれたらなんて願いつつ、漫然と摩子と会話していた。
「でも、法子ちゃん、本当は一人で病院に行きたかったんじゃないの?」
「そんな事無いよ。みんなで行けるのは楽しみ」
「そうかなぁ。私は一人で行きたかったけど」
「そうなんだ。確かに、ま、摩子はそうなのかもね。でも、私は、あんまり他の人と出かけた事が無かったから」
「うーん、でも今回ばっかりは。危なそうだし」
「うん、危なそうだね」
「うん、だからあんまり周りに人が居ない方が良いでしょ? 変身するかもしれないんだから」
「そうかもしれないけど、でも私はやっぱり」
あれ?
おかしい。何で?
法子が摩子を見ると摩子はとても楽しそうに笑っていた。
「やっぱり」
何で? 何でばれてるの?
「駄目だよ。魔法少女って事はちゃんと隠しておかなくちゃ」
「あ、あ」
何で? どうして? ばれた? 何で? 何なの?
「ねえ、法子ちゃん、ちょっと寄りたいところがあるんだけど良い?」
「え? あの、私」
「ね? 良いでしょ?」
法子が断る前に、摩子が法子の手を強引に取って、道を外れ始めた。
何処へ行くんだろう。
摩子が何者なのか。これから何をされるのか、全く分からない。もしかしたら摩子は敵でこれから何処かへ連れ込まれて殺されてしまうのかもしれない。そんな想像が湧いた。
けれどすぐに頭を振って、そんな想像を打ち消した。そんな訳が無い。
だって、摩子は友達だ。
摩子につれられた先は、閑散とした住宅街で、冬空の下、高く上った日に照らされた誰も居ない道路は何だかやけに寂しく見えた。どんどん人気の無いところに向かっているなと法子が不安に思い始めた時、摩子の足が止まった。そこに『金厳屋』という看板のかかった店があった。どこか古めかしい洋風建築は、明らかに周囲の画一的な現代建築とかけ離れているのに、浮いている様な感じがしなかった。溶け込んでいるのとも違う。周りと違うのに違和感だけが無い。何だか存在感が抜け落ちた様子だった。
「きんげんやさーん!」
摩子が大声を出して店の中に入る。店の中も外観に違わず古びていて、何だか映画に出てきそうな、靄掛かった吸い込まれる様な雰囲気があった。立ち並ぶ棚の一つを少しずらせば、その奥が別の世界に繋がっている様な気がした。
「きんげんやさーん!」
かびの付いた雰囲気を吹き払う様に摩子が再度叫ぶ。
しばらくすると突然棚の一つが動いて、奥からぼさぼさと髪を逆立ててずり下がった眼鏡の奥に寝ぼけた眼を携えたパジャマ姿の男性が現れた。かと思うと、摩子を見るなり笑顔になり、続いて法子を見て驚いた顔をした。
そしてまた引っ込んだ。
誰だろう今の。
まさか何か拷問とかをする人なのだろうかと、不安が湧いてくる。何でか分からないけど。アンティークな雰囲気に囲まれているからだろうか。とても残酷な想像が湧いてくる。
怖いなぁと思っていると、再び男性が現れた。けれど同一人物だとは思えなかった。整えられた髪でまず印象ががらりと変わっているし、眼鏡の奥の鋭い視線が何だか冷たそうで、先ほどの空とぼけた様子とはまるで違う。それに何だか大正時代の人が着ていそうな黒いマントを着けて、何故か室内なのに丸みを帯びた山高帽をかぶっていて、何か常人離れした掴みどころの無い雰囲気があった。
やはり拷問師の印象があって法子は再び恐怖に身を震わせた。
男性が棚を閉める。閉めた拍子に本が一冊落ちて、男性の頭に当たって、床に落ちた。男性はしゃがみ込んで本を取り上げ、埃を払って元の場所に戻した。
法子は思わず唾を飲み込んでいた。
男性の行動の意味はまるで分からなかったが、何か法子に誇示している様な印象を受けた。けれどその真意が分からない。友達になろうという行動ではなかったし、お前を殺すというのも違う。何か得体の知れなさが法子の中でもやもやと浮かんだ。
男性が法子の元へ歩んでくる。
法子の前に立つ。
笑顔を浮かべている。
けれど眼鏡の奥の瞳はやけに冷たく見えた。
「やあ、いらっしゃい!」
男性が手を差し伸べてきた。
法子は思わず震える。何故急に手を差し伸べてきたのか。挨拶等という生温いものでないのは、この場の雰囲気からひしひしと伝わってくる。その手を掴めば、棚の奥へ、光の無い闇の中に連れ込まれそうな気がした。
けれど法子は抵抗する間も無く手を掴まれ、そして笑いかけられた。
「いやあ、お客さんが来るのなんて久しぶりだよ。ささ、何でも見ていってください」
「きんげんやさん、きんげんやさん」
摩子がきんげんやの傍に歩み寄り、そっと何か耳打ちをした。
「ああ」
きんげんやも応じて法子を見る。
法子にはそのやり取りが自分の処分方法を相談しあっている様にしか見えなかった。
きんげんやがまた奥に引っ込み、そして何かを持ってきた。
「これは初来店プレゼントという事で。どうぞお近付きの印に」
プラスチック製のそれはペンライトの様な形をしている。法子は受けとりたくなかったが、断ればどんな事を何をされるのか分からないので、仕方無く受け取った。妙に手にしっくりと馴染んで、それが不気味だった。
きんげんやが使用方法を伝えてくるが、法子はもうほとんど恐れに支配されて、まともに聞く事が出来ない。
説明し終えたきんげんやは溜息を吐いて言った。
「まあ今日は町も物騒だし、早く帰りなさい。また来てくれるのを待っているよ」
途端に法子の顔に満面の安堵が浮かぶ。
「あ、けど摩子君はちょっと残りなさい」
「え? でも私、法子ちゃんと一緒に」
「良いから」
「はーい」
きんげんやはそうして法子に手を振った。
法子は何故か何度も頭を下げながら店を出ていった。
法子が出た事を確認して、きんげんやは摩子に向き直った。
「あの子、大分僕の事を怖がっていたみたいだけど、何を吹き込んだの?」
「え? きんげんやさんの事は特に何も言ってないですよ」
「そう。ならここに来る前に何か言ったでしょ?」
「え? 何か?」
「凄い怯えてたよ。あの子」
「ええ!? でも何も。法子ちゃんって魔法少女やってるんだねって話してただけで」
「あの子は正体を隠してないの?」
「さあ? 良く分からないです」
「じゃあ、ばれたら嫌なんじゃないの?」
「何でですか?」
「だって、じゃあ摩子君は他人に正体がばれても良い訳かい?」
「え? 私は別に。マチェが隠せって言ってるからだし。それにおんなじ魔法少女なんだし知られたって」
きんげんやはがっくりと項垂れた。
「こんなに人の心に疎い子だったとは」
「え? そんな事無いですよ!」
「ああ、折角もう一人の魔女に会えたっていうのに。摩子君の所為で」
「ええ!? 何で私の所為にしてるんですか?」
法子は帰り道を歩きながら落ち込んでいた。田七人参
金厳屋でのやり取りを思い出して、恥ずかしくてしょうがなかった。
どう考えてもさっきの自分はおかしかった。
摩子もあのきんげんやという人もどっちも普通に接してくれていたのに、どうしてもそれを悪意ある行動だとしか受け取れなかった。
理由は何となく分かっている。きっと摩子に魔法少女だと見ぬかれたから。隠していたはずなのにそれがいつの間にか見抜かれていて、それを指摘されてしまったから。だから動揺して。
けれどそれだけだろうか? そこまで正体を隠す事に拘っていただろうか。確かに自分があの嫌われ者の魔法少女だと知られるのは怖い。その逆に、摩子や純が褒めてくれた魔法少女がこんな情けない自分だと知られてしまう事も怖い。
でも、それであそこまで動揺してしまうのだろうか。そもそも動揺であんなにもおかしくなるのだろうか。
考えても分からない。分かりそうにない。
分からないなら考えても仕方が無い。今は他にも考える事がある。
確かにさっきの事は恥ずかしかったけれど、それよりも問題がある。
「ねえ、タマちゃんどうしよう。私正体ばれちゃったかも」
そうまずは摩子に正体をしられたというイレギュラーをどうにかしなければならない。そもそも変身した姿を見られなければ正体は分からないはずなのに。どうしてなんだろう。
そういえば、タマと話すのは久しぶりだなと思った。昨日家に帰ってからずっと話していなかったから、丸一日以上話していなかった事になる。たった一日かもしれないけれど、随分と久しぶりに感じた。それだけタマという存在が自分の身近なんだと改めて思った。
「確かにそんな注意して変身した事はほとんど無いけど、でもそんなに人が居るところで変身してないし。タマちゃんはどう思う?」
タマちゃんは何て言ってくるのかな。何だか法子は楽しみだった。久しぶりのタマの第一声。それはどんな言葉であっても、例え叱られようと呆れられようと嬉しい言葉になるにちがいない。
「ねえタマちゃん?」
何だか返答が無い。
「ねえってば!」
まさか。嫌な予感がした。前にも一度あった。幾ら語りかけても何の反応も返ってこなかった時が。タマが居なくなってしまった時が。それは結局タマが黙りこくっていただけなのだけれど、その時無視されていたのはタマが呆れてしまっていた事が原因で、今回もまた何かタマを呆れさせる様な事をしてしまったんじゃないかと不安になった。心当たりがありすぎる。何より真っ先に思い浮かぶのは、池に突き落とされて落ち込みすぎた事だ。たかがあれしきの事で、別に誰かが死んだ訳でもなく、自分に二度と消せない傷が出来た訳でもないのに、あんな世界の終わりみたいに落ち込んでしまった所為で嫌われてしまったのかもしれない。
そうだとしたらどうしよう。
「ねえ、タマちゃん? お願い一言で良いから答えてくれない?」
しばらく間があって、法子が不安で気を失いそうになった時に、タマが答えた。
「ごめん、法子」
法子は安堵して、それから疑問に思う。タマに謝られる理由なんてあっただろうか。タマにはそれこそ良い事は沢山もらったけれど、悪い事なんて何一つもらっていない。弟となら良くお菓子を食べられたりだとか、漫画に折り目を付けられたりだとかで喧嘩しているけれど。タマとはそんな関係に無い。それなのにどうしてだろう。
「どうしたのタマちゃん?」
「ごめん、法子。ごめん」
タマから返ってくる思いは真っ暗に沈み込んでいる。とてもおやつを横取りしたからとかそういう謝罪じゃない。
「何? そんな謝られる様な事されたっけ?」
「違う。しなかったんだ」
「しなかった?」
タマが何をしなかったのか法子には全く分からない。そもそもタマに何か行動をお願いした事も強制した覚えもない。
「しなかったって?」
「私は君を助けられたのに、見捨てたんだ」
「え?」
どういう事?
「君が池に突き落とされた時、いやそれだけじゃない、もっともっとずっと前から、私は君に危険があっても変身させなかった事があった。君を変身させれば難なく危機を抜け出せたはずなのに」
「え? いやいや。そんな池に落とされた位で変身? うん、まあ確かに怖かったし、死んじゃうかと思ったし、変身すれば助かったかもしれないけど」
「そうなんだ。変身すれば助かったんだ。けど私は君を助けなかった。うだうだ考えて、結局君を見殺しにしたんだ」
「私ぴんぴんしてるけどね?」
「思えば、そうだ。あの時の主だって、罪を償おうと身を捧げた時に変身させれば良かったんだ。主の思いを尊重するだとか、そんな理由を付けて見殺しにして。何よりも主を思うのなら、主の安全を守るのが一番なのに」
ああ、そっかと、法子は思った。どうやらタマは前の主が殺されてしまった事をずっと気に病んでいた様だ。それが今回の事で何もしない自分が重なって、思いが吹き出てしまったのだろう。
何となく、格好良い悩みだ。上手く人と話せないだとか、そんな悩みとは次元が違う。
何にせよ、タマが悩んでいる。これは恩返し出来るチャンスだ。ここでささっと悩みを解決出来れば、日頃の恩返しになる。
「そんな事無いよ、タマちゃん。その前の主さんもそうだし、私もそうだけど、自分で選んだんだもん。自分で変身しなかったんだから、タマちゃんは全然悪くないよ」
「違うさ。その時の精神状態は明らかに普通と違っていた。法子は変身しなかったんじゃなくて、変身する事すら考えられない程、混乱していただけだ。だから、それなら私が、無理矢理にでも変身させれば良かったんだ」
でも変身の呪文唱えないと変身出来ないんじゃなかったっけ?
そういえば、いつの間にか変身していた事があった。
「そうだよ。私は君を無理矢理変身させる事が出来る」
「あ、やっぱりそうなんだ」
「ああ、そうさ。そして、それが何を意味しているのか分かるだろう?」
「え? 何が?」
「そう、私は嘘を吐いていたんだ」
「ごめん、タマちゃん。私いまいち話についていけてない」
「黙っていた事を本当に申し訳なく思うよ。そう、私は君の体を意のままに操る事が出来る」
「へえそうなんだ」
何となく答えてから、理解が追いついた。
「え?」
「まあ私は従だから、動かせるのは僅かな時間だけだけれどね。けれどそれも私と君の魔力が伸びていけば、時間も伸びる。つまり君が成長すれば成長する程、私は君の体を乗っ取れる様になる訳だ」
それってもしかして。
「私の体を依り代にして、タマちゃんを顕現出来るって事?」
法子は現世に現れた人型のタマを想像する。それはきっととても怜悧で美しい姿に違いない。
「まるで邪神だね。でもちょっと違うよ。君の体を自由気ままに、好き勝手放題に、操り倒すだけだ。まあ人に仇なすっていう点は一緒かもね」
なんだ。ちょっと期待していたのに。きっと格好良いお姉さんなんだろうなぁ。妄想に入り始めた法子の頭に、タマの鋭い思念が突き刺さった。
「どうだい? 分かっただろう?」
何の話だっけ?
「君が成長すれば成長する程、私は君の体を操れる。そして成長が及ぼす害はそれだけじゃない。魔力が増えるとどうなるか。何か思い浮かぶ事は無いかい?」
「ああ、もしかして、将刀君が言ってた事? 魔力を撒き散らすから魔物を呼び寄せるっていう?」
「そう君は成長すれば成長する程、魔物との戦いも余儀なくされるんだ」
「それ何だけど」
「ただ一つだけ言い訳をさせてもらえるなら、私はその事だけは全く考えもしていなかった。さっきあの子に説明されるまで。今更こんな事を言っても全く信じてもらえないだろうけど。でも」
「信じる信じる。でね、その事なんだけど」
「信じて……くれるのか?」印度神油
「え? うん、勿論。タマちゃんの事、信じない訳ないじゃん」
「……そうか。ありがとう。最後にその言葉を聞けて、それが本当は嘘であっても、嬉しいよ」
「え? 最後って? な、何で?」
「最後は最後さ。君はこれだけの事実を聞いても、まだ魔法少女を続けたいと思うのかい?」
「うん。で、何で最後なの? 嫌だよ」
「え? 続けたいのか?」
「え? 続けたいけど?」
「え、だって……嫌だろ?」
「何が?」
「聞いてた? 私に体を操られたりするし、このままだとどんどん君の周りに魔物が現れる様になるんだよ。嫌だろ?」
「全然」
「え?」
「え、だって、タマちゃん、別に私の体を操ったって変な事しないでしょ?」
「まあ。でも」
「え? するの? だってタマちゃん女でしょ?」
「しないけど。いや、一応言っとくけど、私性別無いからね? まあしないけどさ」
「しないでしょ? だから別に操られたって問題無いもん」
「いや。そんな。うーん。でも、そうだ、でも私は君を見殺しにしたんだ」
「だから私は死んでないって。あのね、確かに前の主さんの事を悔いているのは分かるけど、私とは関係無いでしょ? こうして立ち直ったんだし。そもそも、あれは私の所為で起こった事で、別にタマちゃんの所為じゃないじゃん。私が解決する問題だよ」
「いや、違う。それは違うぞ。そもそも君が変身する様にならなければ、物事は全く別の方向へ変わっていた。つまり昨日の事だって私の責任だ。それだけじゃない。君は入院した事だってあった。少年を……とにかく嫌な事が沢山あったじゃないか」
「でもそれよりも、タマちゃんとあえて幸せだった事の方が多いもん。もしもどっちか選べって言われたら、もう一回タマちゃんと会うよ」
「あ、う」
「っていうか、タマちゃん気負い過ぎだよ。昨日のだって、確かにちょっと落ち込んじゃったけど、別に何とも無いでしょ? 池に落とされただけだよ。あ、そもそも、タマちゃん、それじゃあこれから私に起こる事の全部の責任を取る訳? それはちょっと嬉しいけど、でもそれは」
ちょっと重い。これから何をするにも気を使ってしまう。
「気負い過ぎなんてあるもんか。君の昨日の落ち込み方を見たら、誰だって。あれが自分の所為だと分ったら、誰だって、本当に自分殺したくなる位に嫌な気持ちになる!」
「そんなに? なんかきも、あ、とにかく昨日のは私の責任だもん!」
「でも」
「それに魔法少女をやめたら、タマちゃんと会えなくなっちゃうんでしょ? やだよ、絶対やだ!」
「じゃあ! じゃあ、君が魔法少女をやめても、ずっと一緒に居るそれならどうだい?」
「え?」
「あ、ごめん。今の無し。それじゃあ結局私が君を操れる事には変わりないし、これからも見殺しにするかもしれないし」
もしも魔法少女をやめてもタマと一緒に居られるなら?
嫌だ。
魔法少女を続けたい。
何で?
魔法少女を続ける意味ってタマちゃんと一緒に居たいだけじゃないの?
ならタマちゃんと一緒に居られるなら辞めたって良いじゃん。
でも嫌だ。
それ以外の理由があるの?
みんなから認められたいから?
でもそれなら、もう魔法少女の私はみんなから嫌われている。認められてない。
魔法少女が楽しいから。
そんなに楽しかった? だって魔法少女は苦しくて、今は友達も出来て、そっちの方がよっぽど楽しい。
ならその楽しさのきっかけになった大切な事だから?
そんな感傷的な人間じゃない。きっかけとしての役目が終わったなら、もうそれは要らない。
なら、
なら、
なら、
どうしてまだ続けたいの?
ふと、何故だか将刀の顔が思い浮かんだ。将刀君の事が好きだから? けれどそれと魔法少女に何の関係が?
全く分からない。
でもとにかく、
「私は魔法少女を続けたい」
「え?」
「だって、何だかうまく説明出来ないけど、でもとにかく、私は魔法少女続けたい」
「だって、私に操られて」
「それは良いって言ってるでしょ。私は魔法少女を辞めたくない。それにタマちゃんとも別れたくない」
「法子」
「タマちゃんと別れる位なら」
恐ろしく暗い声が。
「死ぬ」
「う、洒落になってないよ」
「冗談じゃないよ」
「そっか。でも、でもそれだと魔物がこれからも。そうだよ、これは君だけの問題じゃない。君の周りにも及ぶんだ。君の家族にも、折角出来た友達にも」
「あ、だから、その魔力と魔物の出現についてなんだけど」
「何だい?」
「それって結局私達が必要だよね?」
「うん?」
「あのさ、だから、何だか自分が魔物を呼び寄せるから、魔法少女を引退しなくちゃいけないみたいな話になってるけど」
「うん」
「辞めたら、これから来る魔物はどうやって退治すれば良いの?」
「だって、そうしたらもう魔物は」
「来るでしょ?」
「自然発生する量は本当に少ないんだ。だから」
「この辺り全然自然じゃないよね? だって魔力をまき散らしてそうな人って、まず私でしょ? それに将刀君でしょ? 後は、あのもう一人の魔法少女とそれから黒騎士さん。それから、さっきの摩子さん、じゃなくて摩子の言い方だと摩子も変身ヒーローみたいだし。後は徳間さんが居たよね。それからエミリーちゃん。あの人からも物凄い魔力を感じたし」
「あ、分かってたんだ」
「うん、ちょっとは成長したかな?」
「してるしてる」
「ありがと。で、何だか他にも色々な人が居たでしょ? 病院の近くで戦った女の人とか、その人を追っかけていった魔物みたいの従えてた人とか。それに人だけじゃないよ。ルーマみたいな魔物も居るし、それに魔物が現れ初めた時期を考えると、アトランも怪しいよね。国内最大の魔術専門店があるって事はそれだけ魔力が集まってるって事だし。それが魔物を呼び寄せたって考えると、あの魔王が現れたのはアトランの所為かも。幸い潰れたけど、魔王が放った魔力は沢山残ってると思うし。後は病院。今日何かあるみたいだけど、もしかしたら魔物が現れるのかもね。だって色んな最新の設備があって、それにあそこはこの辺りで一番大きいから色んな病気の人が集まってるっていうし、魔力が生み出される条件は集まってるでしょ? そもそも世の中一杯機械があるけど、魔力を使ってない機械ってあんまりないよ? 最近魔物の出現が増えてるってネットで見た気がするけど、その所為なのかも」強力催眠謎幻水
珍しく法子が饒舌に思念を送ってくるので、タマは口が挟めなかった。
「つまり私達が居ようと居なかろうと、魔物は出てくるんだよ。それなら少しでも魔物を食い止められる力があった方が良いでしょ?」
法子が尋ねたが、タマは答えなかった。
「あれ? 黙ってるって事は私の考え間違ってる?」
「いや、その通りだと、思う。ただ君がそこまで考えているとは思わなくて」
「うん、将刀君に言われてから色々と考えてたんだけどね。やっぱり誰の所為でもないと思う」
「そうだね。きっとそうなんだろう」
「ね? これならもう、私が魔法少女を辞める理由も、タマちゃんと別れる理由も無くなったでしょ? だからこれから一緒にずっと居られるよね?」
タマが黙っているので、法子は不安になった。
「ね?」
やがてタマが答える。
「ああ、そうだね」
「ホントに? ずっと居てくれる?」
「ああ」
「やったー!」
法子が嬉しそうに声を上げて、電柱に気が付かずぶつかった。けれどそんな事無かったかの様に、また喜び始める。
「法子」
「何?」
「やっぱり私の目に狂いは無かった」
「え? 何が?」
「君を選んだ事が」
「む、何か恥ずかしい台詞。でも選んでもらって嬉しいよ。タマちゃんには何だかもらってばっかり」
「そんな事無いよ」
「そう?」
「ああ。私は救われた。決めたよ法子」
「何を?」
「私はもう迷わない。何があろうとまず第一に君の幸せを考える。例え天秤の片側に何を載せても必ず法子の幸せが重みで下がる様に。その方法を考える。絶対に何かに仮託したりしない。私が決断する。私が決断して君を守る」
「え? あ、ありがとう」
「私が必ず君を幸せにする」
「あ」
告白みたい。
法子が思い描いていた人間のタマ像が、段々と男性に変化し始める。男性の前には見蕩れている法子が居て。
法子は慌てて首を振るって打ち払って、また凛々しい女性の姿を思い浮かべた。
「タマちゃんはお姉さん。タマちゃんはお姉さん」
「え? 何が?」
凛々しい女性が固定化する。法子はほっと安堵した。その女性は安堵した法子を抱き寄せ、法子の顎を上に押し上げた。
あああ!
「駄目。やっぱりそれも駄目!」
「だから何が?」
首を振る法子とそれを見守るタマ。二人はようやく家に着いた。法子が玄関を開ける。中は静かで誰も居ない様だった。
「あ、そうだ」
「どうしたんだい?」
「タマちゃん私に嘘吐いてたよね。もう嘘吐いちゃやだって言ったのに」
「う。本当にごめん」
法子が笑う。
「まあ良いや。許してあげる。今日は何だかもう疲れたからね」
「ありがとうございます」
法子が階段を上がる。
「はあ、でも夜には病院行くからなぁ」
「そうだね。頑張らなくちゃ」
「危なくないかなぁ? 大丈夫だよね?」
「どうだろうね。信憑性がはっきりしないけど、でも危ないかもね」
「止めないの?」
「うーん」
「ちょっと! さっき私の幸せを一番に考えるって言ったじゃん!」
「根拠は無いんだけど、行かないともっと危険な目に会う気がするんだよね。それに君が行かなくても友達は行くんだろ? 行かないと何かあったら絶対後悔するじゃないか」
「まあね」
「そりゃあ、君を殺そうと誰かが襲い掛かってくるならともかくね。情報は曖昧だし。今の状況じゃ行った方が良いよ」
「そっか」
法子が自室の前に着いた。
「でも確かに私を殺そうとする人が居たら怖いね」
「そうしたらすぐに変身だ」
「うん!」
法子が扉を開けると、部屋の中に先客が居た。音に気がついて振り返ったのは、この世のものとは思えない美しさを湛えたサンフだった。とても優しげが笑みを浮べている。法子は何故だかその表情を見て、かつてない恐怖を感じた。
「あら、おかえりなさいませ」
「あの、ただいまです。えっとどうしてここに?」
「すみません。今の私では上手く口でお伝えする事が出来ません。なので書きだしてみたので、お選びください」
そう言って、サンフが法子へと歩んでくる。
法子は何故だか逃げ出したくなった。頭の中に恐ろしい勢いで警鐘が鳴り始めた。逃げた方が良い。
けれど足を動かそうとした途端、頭の中に更なる警報が鳴り響く。逃げてはいけない。
本能的な直感が何をしても危険な事をこれでもかと法子へ伝えてきている。
けれど何も出来ない。
だから何も出来ない。
法子は歯の根を打ち鳴らしながらただ立っている。処刑人は少しずつ歩んでくる。
やがて法子の前に立ったサンフは法子に紙を差し出した。
受け取らなければ死ぬ。
法子は必死の思いで、その手紙を受け取った。
中にはこう書かれていた。
『どうするか。
一つ目です。殺して消す。
二つ目です。皮を剥いでなりすます。VIVID
三つ目です。ぐちゃぐちゃにして醜くしてみる。』
読み終えた法子が顔をあげると、サンフの笑顔がくっつく程間近に迫っていた。
「さあ、お選びください」
法子は何か答えようとしたのだが、口が動かない。
喋れば死ぬ。
そんな気がした。
「では皮を頂戴してよろしいですね?」
あ、死ぬ。
全身の神経の全てが死を直感した。
私死ぬ。
摩子と二人で帰り道を歩いていた。帰る方向が同じ者同士で家へと向かう。そんな友達同士で帰る。ちょっとした喜びだ。将刀も同じ方角だったけれど、何か用事がある様で別の道を行ってしまった。威哥十鞭王
「うん、でも私は、不謹慎かもしれないけど、みんなと一緒に遊べるのは嬉しい」
法子の遠慮がちな言葉に摩子が笑う。
「そう、良かった! 私も法子ちゃんが楽しんでくれるなら嬉しいよ」
摩子と話している時間は楽しい。けれど法子の家は駅からとても近い。この幸せな時間がすぐに終わってしまうのはとても悲しかった。駅から近い事を呪いたくなってしまう位に。
そんな事を考えていたから法子は完全に油断していた。近づいていくる自分の家がもっともっと離れてくれたらなんて願いつつ、漫然と摩子と会話していた。
「でも、法子ちゃん、本当は一人で病院に行きたかったんじゃないの?」
「そんな事無いよ。みんなで行けるのは楽しみ」
「そうかなぁ。私は一人で行きたかったけど」
「そうなんだ。確かに、ま、摩子はそうなのかもね。でも、私は、あんまり他の人と出かけた事が無かったから」
「うーん、でも今回ばっかりは。危なそうだし」
「うん、危なそうだね」
「うん、だからあんまり周りに人が居ない方が良いでしょ? 変身するかもしれないんだから」
「そうかもしれないけど、でも私はやっぱり」
あれ?
おかしい。何で?
法子が摩子を見ると摩子はとても楽しそうに笑っていた。
「やっぱり」
何で? 何でばれてるの?
「駄目だよ。魔法少女って事はちゃんと隠しておかなくちゃ」
「あ、あ」
何で? どうして? ばれた? 何で? 何なの?
「ねえ、法子ちゃん、ちょっと寄りたいところがあるんだけど良い?」
「え? あの、私」
「ね? 良いでしょ?」
法子が断る前に、摩子が法子の手を強引に取って、道を外れ始めた。
何処へ行くんだろう。
摩子が何者なのか。これから何をされるのか、全く分からない。もしかしたら摩子は敵でこれから何処かへ連れ込まれて殺されてしまうのかもしれない。そんな想像が湧いた。
けれどすぐに頭を振って、そんな想像を打ち消した。そんな訳が無い。
だって、摩子は友達だ。
摩子につれられた先は、閑散とした住宅街で、冬空の下、高く上った日に照らされた誰も居ない道路は何だかやけに寂しく見えた。どんどん人気の無いところに向かっているなと法子が不安に思い始めた時、摩子の足が止まった。そこに『金厳屋』という看板のかかった店があった。どこか古めかしい洋風建築は、明らかに周囲の画一的な現代建築とかけ離れているのに、浮いている様な感じがしなかった。溶け込んでいるのとも違う。周りと違うのに違和感だけが無い。何だか存在感が抜け落ちた様子だった。
「きんげんやさーん!」
摩子が大声を出して店の中に入る。店の中も外観に違わず古びていて、何だか映画に出てきそうな、靄掛かった吸い込まれる様な雰囲気があった。立ち並ぶ棚の一つを少しずらせば、その奥が別の世界に繋がっている様な気がした。
「きんげんやさーん!」
かびの付いた雰囲気を吹き払う様に摩子が再度叫ぶ。
しばらくすると突然棚の一つが動いて、奥からぼさぼさと髪を逆立ててずり下がった眼鏡の奥に寝ぼけた眼を携えたパジャマ姿の男性が現れた。かと思うと、摩子を見るなり笑顔になり、続いて法子を見て驚いた顔をした。
そしてまた引っ込んだ。
誰だろう今の。
まさか何か拷問とかをする人なのだろうかと、不安が湧いてくる。何でか分からないけど。アンティークな雰囲気に囲まれているからだろうか。とても残酷な想像が湧いてくる。
怖いなぁと思っていると、再び男性が現れた。けれど同一人物だとは思えなかった。整えられた髪でまず印象ががらりと変わっているし、眼鏡の奥の鋭い視線が何だか冷たそうで、先ほどの空とぼけた様子とはまるで違う。それに何だか大正時代の人が着ていそうな黒いマントを着けて、何故か室内なのに丸みを帯びた山高帽をかぶっていて、何か常人離れした掴みどころの無い雰囲気があった。
やはり拷問師の印象があって法子は再び恐怖に身を震わせた。
男性が棚を閉める。閉めた拍子に本が一冊落ちて、男性の頭に当たって、床に落ちた。男性はしゃがみ込んで本を取り上げ、埃を払って元の場所に戻した。
法子は思わず唾を飲み込んでいた。
男性の行動の意味はまるで分からなかったが、何か法子に誇示している様な印象を受けた。けれどその真意が分からない。友達になろうという行動ではなかったし、お前を殺すというのも違う。何か得体の知れなさが法子の中でもやもやと浮かんだ。
男性が法子の元へ歩んでくる。
法子の前に立つ。
笑顔を浮かべている。
けれど眼鏡の奥の瞳はやけに冷たく見えた。
「やあ、いらっしゃい!」
男性が手を差し伸べてきた。
法子は思わず震える。何故急に手を差し伸べてきたのか。挨拶等という生温いものでないのは、この場の雰囲気からひしひしと伝わってくる。その手を掴めば、棚の奥へ、光の無い闇の中に連れ込まれそうな気がした。
けれど法子は抵抗する間も無く手を掴まれ、そして笑いかけられた。
「いやあ、お客さんが来るのなんて久しぶりだよ。ささ、何でも見ていってください」
「きんげんやさん、きんげんやさん」
摩子がきんげんやの傍に歩み寄り、そっと何か耳打ちをした。
「ああ」
きんげんやも応じて法子を見る。
法子にはそのやり取りが自分の処分方法を相談しあっている様にしか見えなかった。
きんげんやがまた奥に引っ込み、そして何かを持ってきた。
「これは初来店プレゼントという事で。どうぞお近付きの印に」
プラスチック製のそれはペンライトの様な形をしている。法子は受けとりたくなかったが、断ればどんな事を何をされるのか分からないので、仕方無く受け取った。妙に手にしっくりと馴染んで、それが不気味だった。
きんげんやが使用方法を伝えてくるが、法子はもうほとんど恐れに支配されて、まともに聞く事が出来ない。
説明し終えたきんげんやは溜息を吐いて言った。
「まあ今日は町も物騒だし、早く帰りなさい。また来てくれるのを待っているよ」
途端に法子の顔に満面の安堵が浮かぶ。
「あ、けど摩子君はちょっと残りなさい」
「え? でも私、法子ちゃんと一緒に」
「良いから」
「はーい」
きんげんやはそうして法子に手を振った。
法子は何故か何度も頭を下げながら店を出ていった。
法子が出た事を確認して、きんげんやは摩子に向き直った。
「あの子、大分僕の事を怖がっていたみたいだけど、何を吹き込んだの?」
「え? きんげんやさんの事は特に何も言ってないですよ」
「そう。ならここに来る前に何か言ったでしょ?」
「え? 何か?」
「凄い怯えてたよ。あの子」
「ええ!? でも何も。法子ちゃんって魔法少女やってるんだねって話してただけで」
「あの子は正体を隠してないの?」
「さあ? 良く分からないです」
「じゃあ、ばれたら嫌なんじゃないの?」
「何でですか?」
「だって、じゃあ摩子君は他人に正体がばれても良い訳かい?」
「え? 私は別に。マチェが隠せって言ってるからだし。それにおんなじ魔法少女なんだし知られたって」
きんげんやはがっくりと項垂れた。
「こんなに人の心に疎い子だったとは」
「え? そんな事無いですよ!」
「ああ、折角もう一人の魔女に会えたっていうのに。摩子君の所為で」
「ええ!? 何で私の所為にしてるんですか?」
法子は帰り道を歩きながら落ち込んでいた。田七人参
金厳屋でのやり取りを思い出して、恥ずかしくてしょうがなかった。
どう考えてもさっきの自分はおかしかった。
摩子もあのきんげんやという人もどっちも普通に接してくれていたのに、どうしてもそれを悪意ある行動だとしか受け取れなかった。
理由は何となく分かっている。きっと摩子に魔法少女だと見ぬかれたから。隠していたはずなのにそれがいつの間にか見抜かれていて、それを指摘されてしまったから。だから動揺して。
けれどそれだけだろうか? そこまで正体を隠す事に拘っていただろうか。確かに自分があの嫌われ者の魔法少女だと知られるのは怖い。その逆に、摩子や純が褒めてくれた魔法少女がこんな情けない自分だと知られてしまう事も怖い。
でも、それであそこまで動揺してしまうのだろうか。そもそも動揺であんなにもおかしくなるのだろうか。
考えても分からない。分かりそうにない。
分からないなら考えても仕方が無い。今は他にも考える事がある。
確かにさっきの事は恥ずかしかったけれど、それよりも問題がある。
「ねえ、タマちゃんどうしよう。私正体ばれちゃったかも」
そうまずは摩子に正体をしられたというイレギュラーをどうにかしなければならない。そもそも変身した姿を見られなければ正体は分からないはずなのに。どうしてなんだろう。
そういえば、タマと話すのは久しぶりだなと思った。昨日家に帰ってからずっと話していなかったから、丸一日以上話していなかった事になる。たった一日かもしれないけれど、随分と久しぶりに感じた。それだけタマという存在が自分の身近なんだと改めて思った。
「確かにそんな注意して変身した事はほとんど無いけど、でもそんなに人が居るところで変身してないし。タマちゃんはどう思う?」
タマちゃんは何て言ってくるのかな。何だか法子は楽しみだった。久しぶりのタマの第一声。それはどんな言葉であっても、例え叱られようと呆れられようと嬉しい言葉になるにちがいない。
「ねえタマちゃん?」
何だか返答が無い。
「ねえってば!」
まさか。嫌な予感がした。前にも一度あった。幾ら語りかけても何の反応も返ってこなかった時が。タマが居なくなってしまった時が。それは結局タマが黙りこくっていただけなのだけれど、その時無視されていたのはタマが呆れてしまっていた事が原因で、今回もまた何かタマを呆れさせる様な事をしてしまったんじゃないかと不安になった。心当たりがありすぎる。何より真っ先に思い浮かぶのは、池に突き落とされて落ち込みすぎた事だ。たかがあれしきの事で、別に誰かが死んだ訳でもなく、自分に二度と消せない傷が出来た訳でもないのに、あんな世界の終わりみたいに落ち込んでしまった所為で嫌われてしまったのかもしれない。
そうだとしたらどうしよう。
「ねえ、タマちゃん? お願い一言で良いから答えてくれない?」
しばらく間があって、法子が不安で気を失いそうになった時に、タマが答えた。
「ごめん、法子」
法子は安堵して、それから疑問に思う。タマに謝られる理由なんてあっただろうか。タマにはそれこそ良い事は沢山もらったけれど、悪い事なんて何一つもらっていない。弟となら良くお菓子を食べられたりだとか、漫画に折り目を付けられたりだとかで喧嘩しているけれど。タマとはそんな関係に無い。それなのにどうしてだろう。
「どうしたのタマちゃん?」
「ごめん、法子。ごめん」
タマから返ってくる思いは真っ暗に沈み込んでいる。とてもおやつを横取りしたからとかそういう謝罪じゃない。
「何? そんな謝られる様な事されたっけ?」
「違う。しなかったんだ」
「しなかった?」
タマが何をしなかったのか法子には全く分からない。そもそもタマに何か行動をお願いした事も強制した覚えもない。
「しなかったって?」
「私は君を助けられたのに、見捨てたんだ」
「え?」
どういう事?
「君が池に突き落とされた時、いやそれだけじゃない、もっともっとずっと前から、私は君に危険があっても変身させなかった事があった。君を変身させれば難なく危機を抜け出せたはずなのに」
「え? いやいや。そんな池に落とされた位で変身? うん、まあ確かに怖かったし、死んじゃうかと思ったし、変身すれば助かったかもしれないけど」
「そうなんだ。変身すれば助かったんだ。けど私は君を助けなかった。うだうだ考えて、結局君を見殺しにしたんだ」
「私ぴんぴんしてるけどね?」
「思えば、そうだ。あの時の主だって、罪を償おうと身を捧げた時に変身させれば良かったんだ。主の思いを尊重するだとか、そんな理由を付けて見殺しにして。何よりも主を思うのなら、主の安全を守るのが一番なのに」
ああ、そっかと、法子は思った。どうやらタマは前の主が殺されてしまった事をずっと気に病んでいた様だ。それが今回の事で何もしない自分が重なって、思いが吹き出てしまったのだろう。
何となく、格好良い悩みだ。上手く人と話せないだとか、そんな悩みとは次元が違う。
何にせよ、タマが悩んでいる。これは恩返し出来るチャンスだ。ここでささっと悩みを解決出来れば、日頃の恩返しになる。
「そんな事無いよ、タマちゃん。その前の主さんもそうだし、私もそうだけど、自分で選んだんだもん。自分で変身しなかったんだから、タマちゃんは全然悪くないよ」
「違うさ。その時の精神状態は明らかに普通と違っていた。法子は変身しなかったんじゃなくて、変身する事すら考えられない程、混乱していただけだ。だから、それなら私が、無理矢理にでも変身させれば良かったんだ」
でも変身の呪文唱えないと変身出来ないんじゃなかったっけ?
そういえば、いつの間にか変身していた事があった。
「そうだよ。私は君を無理矢理変身させる事が出来る」
「あ、やっぱりそうなんだ」
「ああ、そうさ。そして、それが何を意味しているのか分かるだろう?」
「え? 何が?」
「そう、私は嘘を吐いていたんだ」
「ごめん、タマちゃん。私いまいち話についていけてない」
「黙っていた事を本当に申し訳なく思うよ。そう、私は君の体を意のままに操る事が出来る」
「へえそうなんだ」
何となく答えてから、理解が追いついた。
「え?」
「まあ私は従だから、動かせるのは僅かな時間だけだけれどね。けれどそれも私と君の魔力が伸びていけば、時間も伸びる。つまり君が成長すれば成長する程、私は君の体を乗っ取れる様になる訳だ」
それってもしかして。
「私の体を依り代にして、タマちゃんを顕現出来るって事?」
法子は現世に現れた人型のタマを想像する。それはきっととても怜悧で美しい姿に違いない。
「まるで邪神だね。でもちょっと違うよ。君の体を自由気ままに、好き勝手放題に、操り倒すだけだ。まあ人に仇なすっていう点は一緒かもね」
なんだ。ちょっと期待していたのに。きっと格好良いお姉さんなんだろうなぁ。妄想に入り始めた法子の頭に、タマの鋭い思念が突き刺さった。
「どうだい? 分かっただろう?」
何の話だっけ?
「君が成長すれば成長する程、私は君の体を操れる。そして成長が及ぼす害はそれだけじゃない。魔力が増えるとどうなるか。何か思い浮かぶ事は無いかい?」
「ああ、もしかして、将刀君が言ってた事? 魔力を撒き散らすから魔物を呼び寄せるっていう?」
「そう君は成長すれば成長する程、魔物との戦いも余儀なくされるんだ」
「それ何だけど」
「ただ一つだけ言い訳をさせてもらえるなら、私はその事だけは全く考えもしていなかった。さっきあの子に説明されるまで。今更こんな事を言っても全く信じてもらえないだろうけど。でも」
「信じる信じる。でね、その事なんだけど」
「信じて……くれるのか?」印度神油
「え? うん、勿論。タマちゃんの事、信じない訳ないじゃん」
「……そうか。ありがとう。最後にその言葉を聞けて、それが本当は嘘であっても、嬉しいよ」
「え? 最後って? な、何で?」
「最後は最後さ。君はこれだけの事実を聞いても、まだ魔法少女を続けたいと思うのかい?」
「うん。で、何で最後なの? 嫌だよ」
「え? 続けたいのか?」
「え? 続けたいけど?」
「え、だって……嫌だろ?」
「何が?」
「聞いてた? 私に体を操られたりするし、このままだとどんどん君の周りに魔物が現れる様になるんだよ。嫌だろ?」
「全然」
「え?」
「え、だって、タマちゃん、別に私の体を操ったって変な事しないでしょ?」
「まあ。でも」
「え? するの? だってタマちゃん女でしょ?」
「しないけど。いや、一応言っとくけど、私性別無いからね? まあしないけどさ」
「しないでしょ? だから別に操られたって問題無いもん」
「いや。そんな。うーん。でも、そうだ、でも私は君を見殺しにしたんだ」
「だから私は死んでないって。あのね、確かに前の主さんの事を悔いているのは分かるけど、私とは関係無いでしょ? こうして立ち直ったんだし。そもそも、あれは私の所為で起こった事で、別にタマちゃんの所為じゃないじゃん。私が解決する問題だよ」
「いや、違う。それは違うぞ。そもそも君が変身する様にならなければ、物事は全く別の方向へ変わっていた。つまり昨日の事だって私の責任だ。それだけじゃない。君は入院した事だってあった。少年を……とにかく嫌な事が沢山あったじゃないか」
「でもそれよりも、タマちゃんとあえて幸せだった事の方が多いもん。もしもどっちか選べって言われたら、もう一回タマちゃんと会うよ」
「あ、う」
「っていうか、タマちゃん気負い過ぎだよ。昨日のだって、確かにちょっと落ち込んじゃったけど、別に何とも無いでしょ? 池に落とされただけだよ。あ、そもそも、タマちゃん、それじゃあこれから私に起こる事の全部の責任を取る訳? それはちょっと嬉しいけど、でもそれは」
ちょっと重い。これから何をするにも気を使ってしまう。
「気負い過ぎなんてあるもんか。君の昨日の落ち込み方を見たら、誰だって。あれが自分の所為だと分ったら、誰だって、本当に自分殺したくなる位に嫌な気持ちになる!」
「そんなに? なんかきも、あ、とにかく昨日のは私の責任だもん!」
「でも」
「それに魔法少女をやめたら、タマちゃんと会えなくなっちゃうんでしょ? やだよ、絶対やだ!」
「じゃあ! じゃあ、君が魔法少女をやめても、ずっと一緒に居るそれならどうだい?」
「え?」
「あ、ごめん。今の無し。それじゃあ結局私が君を操れる事には変わりないし、これからも見殺しにするかもしれないし」
もしも魔法少女をやめてもタマと一緒に居られるなら?
嫌だ。
魔法少女を続けたい。
何で?
魔法少女を続ける意味ってタマちゃんと一緒に居たいだけじゃないの?
ならタマちゃんと一緒に居られるなら辞めたって良いじゃん。
でも嫌だ。
それ以外の理由があるの?
みんなから認められたいから?
でもそれなら、もう魔法少女の私はみんなから嫌われている。認められてない。
魔法少女が楽しいから。
そんなに楽しかった? だって魔法少女は苦しくて、今は友達も出来て、そっちの方がよっぽど楽しい。
ならその楽しさのきっかけになった大切な事だから?
そんな感傷的な人間じゃない。きっかけとしての役目が終わったなら、もうそれは要らない。
なら、
なら、
なら、
どうしてまだ続けたいの?
ふと、何故だか将刀の顔が思い浮かんだ。将刀君の事が好きだから? けれどそれと魔法少女に何の関係が?
全く分からない。
でもとにかく、
「私は魔法少女を続けたい」
「え?」
「だって、何だかうまく説明出来ないけど、でもとにかく、私は魔法少女続けたい」
「だって、私に操られて」
「それは良いって言ってるでしょ。私は魔法少女を辞めたくない。それにタマちゃんとも別れたくない」
「法子」
「タマちゃんと別れる位なら」
恐ろしく暗い声が。
「死ぬ」
「う、洒落になってないよ」
「冗談じゃないよ」
「そっか。でも、でもそれだと魔物がこれからも。そうだよ、これは君だけの問題じゃない。君の周りにも及ぶんだ。君の家族にも、折角出来た友達にも」
「あ、だから、その魔力と魔物の出現についてなんだけど」
「何だい?」
「それって結局私達が必要だよね?」
「うん?」
「あのさ、だから、何だか自分が魔物を呼び寄せるから、魔法少女を引退しなくちゃいけないみたいな話になってるけど」
「うん」
「辞めたら、これから来る魔物はどうやって退治すれば良いの?」
「だって、そうしたらもう魔物は」
「来るでしょ?」
「自然発生する量は本当に少ないんだ。だから」
「この辺り全然自然じゃないよね? だって魔力をまき散らしてそうな人って、まず私でしょ? それに将刀君でしょ? 後は、あのもう一人の魔法少女とそれから黒騎士さん。それから、さっきの摩子さん、じゃなくて摩子の言い方だと摩子も変身ヒーローみたいだし。後は徳間さんが居たよね。それからエミリーちゃん。あの人からも物凄い魔力を感じたし」
「あ、分かってたんだ」
「うん、ちょっとは成長したかな?」
「してるしてる」
「ありがと。で、何だか他にも色々な人が居たでしょ? 病院の近くで戦った女の人とか、その人を追っかけていった魔物みたいの従えてた人とか。それに人だけじゃないよ。ルーマみたいな魔物も居るし、それに魔物が現れ初めた時期を考えると、アトランも怪しいよね。国内最大の魔術専門店があるって事はそれだけ魔力が集まってるって事だし。それが魔物を呼び寄せたって考えると、あの魔王が現れたのはアトランの所為かも。幸い潰れたけど、魔王が放った魔力は沢山残ってると思うし。後は病院。今日何かあるみたいだけど、もしかしたら魔物が現れるのかもね。だって色んな最新の設備があって、それにあそこはこの辺りで一番大きいから色んな病気の人が集まってるっていうし、魔力が生み出される条件は集まってるでしょ? そもそも世の中一杯機械があるけど、魔力を使ってない機械ってあんまりないよ? 最近魔物の出現が増えてるってネットで見た気がするけど、その所為なのかも」強力催眠謎幻水
珍しく法子が饒舌に思念を送ってくるので、タマは口が挟めなかった。
「つまり私達が居ようと居なかろうと、魔物は出てくるんだよ。それなら少しでも魔物を食い止められる力があった方が良いでしょ?」
法子が尋ねたが、タマは答えなかった。
「あれ? 黙ってるって事は私の考え間違ってる?」
「いや、その通りだと、思う。ただ君がそこまで考えているとは思わなくて」
「うん、将刀君に言われてから色々と考えてたんだけどね。やっぱり誰の所為でもないと思う」
「そうだね。きっとそうなんだろう」
「ね? これならもう、私が魔法少女を辞める理由も、タマちゃんと別れる理由も無くなったでしょ? だからこれから一緒にずっと居られるよね?」
タマが黙っているので、法子は不安になった。
「ね?」
やがてタマが答える。
「ああ、そうだね」
「ホントに? ずっと居てくれる?」
「ああ」
「やったー!」
法子が嬉しそうに声を上げて、電柱に気が付かずぶつかった。けれどそんな事無かったかの様に、また喜び始める。
「法子」
「何?」
「やっぱり私の目に狂いは無かった」
「え? 何が?」
「君を選んだ事が」
「む、何か恥ずかしい台詞。でも選んでもらって嬉しいよ。タマちゃんには何だかもらってばっかり」
「そんな事無いよ」
「そう?」
「ああ。私は救われた。決めたよ法子」
「何を?」
「私はもう迷わない。何があろうとまず第一に君の幸せを考える。例え天秤の片側に何を載せても必ず法子の幸せが重みで下がる様に。その方法を考える。絶対に何かに仮託したりしない。私が決断する。私が決断して君を守る」
「え? あ、ありがとう」
「私が必ず君を幸せにする」
「あ」
告白みたい。
法子が思い描いていた人間のタマ像が、段々と男性に変化し始める。男性の前には見蕩れている法子が居て。
法子は慌てて首を振るって打ち払って、また凛々しい女性の姿を思い浮かべた。
「タマちゃんはお姉さん。タマちゃんはお姉さん」
「え? 何が?」
凛々しい女性が固定化する。法子はほっと安堵した。その女性は安堵した法子を抱き寄せ、法子の顎を上に押し上げた。
あああ!
「駄目。やっぱりそれも駄目!」
「だから何が?」
首を振る法子とそれを見守るタマ。二人はようやく家に着いた。法子が玄関を開ける。中は静かで誰も居ない様だった。
「あ、そうだ」
「どうしたんだい?」
「タマちゃん私に嘘吐いてたよね。もう嘘吐いちゃやだって言ったのに」
「う。本当にごめん」
法子が笑う。
「まあ良いや。許してあげる。今日は何だかもう疲れたからね」
「ありがとうございます」
法子が階段を上がる。
「はあ、でも夜には病院行くからなぁ」
「そうだね。頑張らなくちゃ」
「危なくないかなぁ? 大丈夫だよね?」
「どうだろうね。信憑性がはっきりしないけど、でも危ないかもね」
「止めないの?」
「うーん」
「ちょっと! さっき私の幸せを一番に考えるって言ったじゃん!」
「根拠は無いんだけど、行かないともっと危険な目に会う気がするんだよね。それに君が行かなくても友達は行くんだろ? 行かないと何かあったら絶対後悔するじゃないか」
「まあね」
「そりゃあ、君を殺そうと誰かが襲い掛かってくるならともかくね。情報は曖昧だし。今の状況じゃ行った方が良いよ」
「そっか」
法子が自室の前に着いた。
「でも確かに私を殺そうとする人が居たら怖いね」
「そうしたらすぐに変身だ」
「うん!」
法子が扉を開けると、部屋の中に先客が居た。音に気がついて振り返ったのは、この世のものとは思えない美しさを湛えたサンフだった。とても優しげが笑みを浮べている。法子は何故だかその表情を見て、かつてない恐怖を感じた。
「あら、おかえりなさいませ」
「あの、ただいまです。えっとどうしてここに?」
「すみません。今の私では上手く口でお伝えする事が出来ません。なので書きだしてみたので、お選びください」
そう言って、サンフが法子へと歩んでくる。
法子は何故だか逃げ出したくなった。頭の中に恐ろしい勢いで警鐘が鳴り始めた。逃げた方が良い。
けれど足を動かそうとした途端、頭の中に更なる警報が鳴り響く。逃げてはいけない。
本能的な直感が何をしても危険な事をこれでもかと法子へ伝えてきている。
けれど何も出来ない。
だから何も出来ない。
法子は歯の根を打ち鳴らしながらただ立っている。処刑人は少しずつ歩んでくる。
やがて法子の前に立ったサンフは法子に紙を差し出した。
受け取らなければ死ぬ。
法子は必死の思いで、その手紙を受け取った。
中にはこう書かれていた。
『どうするか。
一つ目です。殺して消す。
二つ目です。皮を剥いでなりすます。VIVID
三つ目です。ぐちゃぐちゃにして醜くしてみる。』
読み終えた法子が顔をあげると、サンフの笑顔がくっつく程間近に迫っていた。
「さあ、お選びください」
法子は何か答えようとしたのだが、口が動かない。
喋れば死ぬ。
そんな気がした。
「では皮を頂戴してよろしいですね?」
あ、死ぬ。
全身の神経の全てが死を直感した。
私死ぬ。
2012年11月25日星期日
いかなる未来
予想外の闘いが終わり、エリスとウィアーレはほぅっと安堵の息を吐く。リーゼは目の前で起きた人外対決に放心状態で言葉もない。
そんなエリスたちの考えを裏切るように、幸助の動きは止まらない。暴走した状態なのだ、対応していたセクラトクスがいなくなったところで止まるわけではない。相手がいなくなったことで、どのように動くかわからない状態だ。つまりはエリスたちに危険が及ぶということもありえる。威哥十鞭王
周囲にあるもの、兵たちがいなくなり、幸助の視線がエリスたちに向く。相変わらずの光のない目で、いまだ正気を取り戻していないのだとわかる。
やばいかもしれないと、エリスが逃亡用のために転移魔法を準備を始める。
エリスたちへと歩こうとして、幸助の動きが鈍る。どこか苦しげな唸り声を出し、その場に立ち尽くす。
「どうしたのかしら?」
リーゼの問いに二人は答えることができず、幸助を見守る。
すると幸助の着ているジャケットが鷹へと変化し、エリスたちの元へ飛んでくる。足下に降り立った鷹は人間の子供へとさらに姿を変えた。
エリスとウィアーレは、この子供は話に聞いたリンではないかと思いつく。
「リン君なのかな?」
ウィアーレの問いに、少し苦しげなリンがこくんと頷き、視線をエリスとウィアーレに向ける。
「お姉さんたちに頼みがあるんだ」
「なんじゃ? コースケに関することか?」
「うん。お兄さんを止めたいから協力して」
「止められるのか!?」
「僕一人じゃ無理だけど、お姉さんたちとさっきまで闘ってた人の協力があれば」
「あやつの?」
エリスが顔を顰めた。好感を持っている人物ではないことと、協力など得られるのかという思いがある。
「どうしてもあやつの力を借りなければ駄目か?」
「んーお姉さんたちの誰かが、お兄さんを気絶させることができるならいなくても大丈夫」
「ウィアーレ、歪みを飛ばしてコースケを気絶させてくれ」
わかったと頷き、ウィアーレは歪みを飛ばす。歪みは幸助に当たり消える。
「駄目。弾かれた」
兵に使った時は体の中に染み込む様が見えていたが、今飛ばした歪みは染み込まずに表面で弾けて消えていった。
エリスはウィアーレの歪み以外に気絶させる方法が思い浮かばない。気絶させるとなると攻撃魔法が一番有効だろうが、かつて黒竜にほとんど効かなかったことをよく覚えていて、今の状態の幸助にも有効な効果は望めそうにないと予想していた。
歪みをぶつけたことで刺激を与えたことになり、幸助の注意が再びエリスたちに向く。それだけで恐怖から周囲の気温が下がったように感じられた。。ゆっくりと近づいてこようとしている幸助の周囲に、エリスは魔法で土人形を生み出し、幸助へと歩かせる。それに幸助は反応し、土人形を潰していく。
「……仕方ないか。起こす前に聞いておきたいことがある。コースケがああなった原因を知らないかということと、セクラトクスになにをさせたいのか。いや後者は聞くまでもないか」
気絶させる役目なのだろうと言いながら気づいた。この場にいる者で一番高い攻撃力を持っているのだ。
聞いたばかりのことが頭から抜け落ちるほど、エリスは大きな焦りを抱いているのだろう。
「原因は、生存本能の過剰反応と力の発散ができてなかったこと。命の危機に溜め込んだ力を使って難を逃れようとしたんだけど、力を溜めすぎてたんだ。意識をなくした状態で、力の制御なんかできるわけもなくて暴走してる。
このまま暴れてお姉さん達を傷つけたら、お兄さん絶対悲しむから止めたいんだ!」
「コースケのことを大事に思っておるのじゃな」
リンから苦しげな表情が減り、かわりに照れが浮かんだ。そんなリンにエリスたちは笑みを浮かべた。すぐに引き締めたが。
「してコースケを気絶させた後はどうする?」
「気絶までいけば後は僕が力を吸い取って、元の状態に戻すよ。今も力を吸い取って動きを鈍くしてるんだ。
元々お兄さんから力を吸い取るって役割も持っているんだよ僕」
「吸い取って現状のようなことにならせないためか?」
「うん。結局はなっちゃったけどね」
エリスに脳裏に、今後神たちがなんらかのアクションを起こすかもしれないと浮かんだ。
その思いは当たっていた。下級神クラスとはいえ、神の域に届いて見せたのだ。コーホックたちは慌てて今後のことを話し合っている。
「今は神のことなど考えても仕方ない。セクラトクスを起こすぞ!」
エリスたちがリンの話を聞いているうちに、リーゼがセクラトクスを運んできていた。
倒れているセクラトクスに治癒の魔法を使い、頬を殴って起こす。殴られた仕返しも兼ねていた。
怪我人兼英雄に対してのそんな行動にウィアーレとリーゼは引いている。
「なんだか頬が痛いんだが」
「気にするな」
エリスは一言で切って捨て、手短に用件を伝える。
こうなったのはセクラトクスにも責任があると締めくくる。
「まあ、手伝うのはかまわんさ。俺がやることはまた闘うことでいいんだろう?」
リンは頷きを返す。
「ただな? 二つほど問題がある」
なんだろうと四人は首を傾げる。
「一つ目は、先ほどまでの強さは今俺の中にはないということ」
「どういうことですか?」
あれほどまでの強さを見せつけておいて、どういうことなのだろうとリーゼが聞く。
「さっきまでの強さは称号で強化していたものだ。
効果としては俺の知名度の高さを強さに変換するというもので、一日に一回一時間のみ強化できる。さっき気絶したことで効果が切れたことになったんだ。使うには一日待つ必要がある。
今俺に求めてられている役割なら巨人殺しの称号の方が向いているんだが、既に一度称号換えていて変更もできん」
セクラトクスが考えているのは巨人の一撃での攻撃だ。今のまま攻撃するより、あちらの方が威力は高い。
ウィアーレが勢いよく一歩進み出る。
「それなら私が! 私は称号変更できるギフト持ちですから! 早速換えます」
すぐにウィアーレが称号を換え、セクラトクスはそれを確認した。
「これで一つ目の問題は解決したが、もう一つは俺の攻撃が当たるかってことだ。殴りかかって素直に当たってくれると思うか?」
「効くかどうかわからんが、魔法で動きは止めてみるが」
準備ができるならば対竜用に習得したステータスを落す魔法が使えるが、時間も道具もないためその魔法は使えない。
「僕も力をもっと吸って力を下げるよ」
「私は応援くらいしかできないよ」
「私もそうですね」
ウィアーレとリーゼはなにかしようとしても邪魔でしかないと自覚している。
「じゃあ、僕から始めるよ」
そう言ってリンは集中し始める。その横でセクラトクスが力を溜め始め、エリスも魔法を使う準備を始めている。
動きを鈍らせていた幸助はさらに重圧がかかったように動作が重たげなものになる。
「ぅぅっ」
「なんだか苦しそうだけど大丈夫?」
成果が出始めると同時に顔を顰めるリン。
ウィアーレの問いかけに頷いて大丈夫だと示す。だが実のところ大丈夫とはいえない状態だった。
本来ならばリンが今のように動けるようになるのは十年単位の時間を必要としていた。それを幸助の助けになるために無理して実体を出していた。
それだけならば問題はなかった。苦しげな理由はもう一つあり、それは限界を超えた力の吸収にある。例えば植物に水や栄養剤のやりすぎは成長に悪い。それと同じで、ある程度の力の吸収はリンにとっていいことだが、今の吸収量は栄養過多となっている。
リンは今ここで自分が倒れると幸助を助けられないという思いだけで、立ち続け、力を吸収していた。
その無理のおかげで平均B+のステータスが一時的にB-まで下がっている。
「絡みつけ鉄鎖!」
地面から生えた金属製の鎖が、何本も幸助に絡みつく。若いエリスが幸助に使った土の鎖の上位に当たる魔法で、幸助の動きを封じる。
リンの様子から何度も挑戦できることではないとエリスは推測する。それはセクラトクスも察していて、力を限界まで高め、確実に当てられるタイミングを計っている。
リンの我慢も気合も限界に達しようとしていた時、セクラトクスが動く。
「うらぁっ!」
幸助の動きを読んで拳を放つ。セクラトクスの右拳は吸い込まれるように、幸助のこめかみ辺りに当たった。
真正面から頑丈さを抜いてダメージを与えられるとは最初から思っておらず、脳を揺らすことで意識を刈り取ろうとした。
弱者でも打ち所が良ければ、強者を殺すことは不可能でも倒すことは可能と知っていた。
セクラトクスは小さく舌打ちをする。少しだけ狙いがずれたのだ。
拳がこめかみに当たった状態で一秒五秒と過ぎていく。誰もが動けず長く感じた十秒が過ぎた時、幸助が崩れ落ちた。
エリスたちがほうっと安堵の溜息を吐く中、リンだけは幸助に走り寄り、小さな手を幸助の背に当てる。老虎油
最後の一踏ん張りで、いっきに力を吸っていく。皮膚の黒さが薄くなっていき、角や手足の防具や尻尾の先から青い光の粒となっていく。その粒はリンへと集まっていく。代わりにリンの顔色がさらに悪くなる。
リンの姿が鷹へと戻る。人型でいるよりは楽なのだ。
一分ほどで幸助の姿が元の人間のものへ戻り、リンは青い光の中に姿を隠す。光が収まるとそこには鷹の姿はなく、鷹よりも少し大きな青い竜が幸助の背中に乗っていた。
竜は小さく鳴くと、力なく倒れ伏し濃紺のジャケットへと変わった。
リンが竜に変化したのは力を一度に吸い過ぎたせいだ。大量吸収した力が運良く進化へと使われることになった。一歩間違えば、吸収した力を暴発させ死んでいた。
幸助の力のほとんどは竜から得たものだ。それを多く吸い取ったリンはその影響を強く受けたのだ。
後に精霊竜と呼ばれる竜はこうして生まれた。
といっても無理しすぎたリンが竜として動くようになるのは三十年という長い月日を要する。
特に今は休息のため深い眠りについているため、これまでできていた鷹への変化もできなくなっている。
防具としての格が下がったかというとそうでもなく、リンが強くなったため防具としても強化されている。
鋼を上回る硬度に、魔法にも強くなっていて、軽さと柔軟性服は布と同じ。そこらの一級品を超える一品となった。
ただしこれを着ている幸助が、素でそこらの雑魚の攻撃を受け付けないので、あって困らないという程度の防具になってしまっている。
リンが眠りにつき、幸助も元に戻って眠っている。これで本当に終わったと皆、その場に座り込む。セクラトクスだけ若干の余裕を残しているのはさすがといえる。
周囲は元々荒れていたが、さらに荒れている。地に伏していた兵たちは戦いの影響で飛ばされ散らばっており、土台が残っていた封印は全部砕けていて、地面もところどころ砕け抉れていた。
皆休みたく思っていて、村に戻ろうとして止まる。兵がいてまともに休めそうにないと小船を借りた漁村まで戻ろうということになる。
転移で飛ぼうと提案したエリスに皆集まる。幸助はウィアーレとリーゼが二人がかりで運んでいる。
「お前も来るのか」
近寄ってきたセクラトクスにエリスが迷惑そうな顔を向ける。
「いいじゃねえか。竜殺しを止めるの手伝ってやったろう」
「……仕方ないのう」
本当に嫌そうに言う。このまま残して、これまでのことを話されても困ると渋々了承した。
皆が集まったことを確認し、エリスは漁村に転移する。
セクラトクスはすぐに眠り、女三人は幸助の世話を少しした後ソファーや椅子に座り眠気に負けて眠る。捕まっていた時、眠り心地が悪く、よく眠れていなかったのだ。
五人が寝ている間に島では、異変が治まり封印の様子を見に行った兵によって騎士たちが回収されていた。
無事な者はおらず、軽傷の者も少ない。皆どこかしら軽くない怪我を負っており、中には死者もいた。人外の闘いに無防備な姿で巻き込まれたのだから当然といえるのだろう。
ジスは重傷で腕一本失くし、一般人のクレントは巻き込まれて生きていられるはずもなく死亡していた。
兵たちはなにがあったのか調査していく。目的は、封印を解いて封印されていたものを回収することだ。回収すべきものが見当たらないので、このまま被害だけ受けて帰れば叱責は必定。せめてどうなったかの調査はやらなければならないことだった。
その調査で、封印されていたのはセクラトクスで、その英雄と互角に戦っていた幸助のことを兵たちは知る。二人が闘っている時に起きた兵が何人かいたのだ。巻き込まれて再び気絶する羽目になっていたが。住居と強いということ以外に幸助の情報が得られなかったのは、兵士たちにとっては不満があったが、幸助にとって幸運だった。
生きていた騎士はこの情報のみを持って主の下へ戻る。
これを聞いた主はクワジット王に報告し、幸助とセクラトクスの入手を提案する。王もそれに即頷く。高い能力を持った人材を喉から手が出るほど欲しているのだ。
セクラトクスはその名声も利用できるし、能力の高さも保障されている。英雄が国にいて王に従っているというだけで、一つのステータスになる。他国に出張して指導の一つでもしてもらうというのは、外交に役立つカードになるだろう。
幸助の方は名声はないが、戦闘能力の高さだけでも十分に魅力的だ。
この二人を手に入れるために国が取った手段は、兵の派遣と賞金首として冒険者ギルドに登録することだった。もちろん生きて捕らえることを絶対条件にしている。国の兵に手を出し、死者すら出した罪人という名分がある。賞金首とするのに迷いはなかった。
英雄やそれに比する実力者といえども、小国といえど国一つと戦うことは無謀だ。王たちは三ヶ月もせずに、二人が自分たちの目の前に現れるだろうと考えていた。
しかしそれは実現しなかった。兵の派遣をしようとした時、思っていなかったところからストップがかかったのだ。
ストップかけたのはコウマ国。ペレレ諸島でも上から数えた方が早い大国からのストップに、クワジット王国は文句も言えずにいた。
コウマ国が動いたのはルビダシア家が原因だ。見覚えのある名前が賞金首になっているのだ、どういうことか気になって問い合わせたのだった。ルビダシア家は幸助に借りがあるが、それを恩に思って有罪を取り消そうとしたわけではない。本当に罪を犯したのなら庇う気はない。ただどうして賞金首になったのか詳細を知りたかったのだ。
クワジット国にとっては詳細を知られるのは避けたかった。見つけた高能力の人材を他国に取られるかもしれない。罪人とした経緯がいいがかりに近い。たった二人に精鋭が一方的に負けたという恥も知られたくない。封印を解く時の幸助の扱いもマイナスだろう。
大国へのプレッシャーと後ろめたさが態度に出て、コウマの使者は怪しんで疑いを抱く。堂々としていれば案外スムーズに調査が終わったかもしれなかったのだが。
そういった腹芸を容易く行えないから小国のままなのだろう。
調査は詳しく行われ、エリガデン島にも使者は赴き話を聞く。それにクワジット兵も同行し、余計なことを喋らせないように目を光らせたが、そんなものは無視したリーゼやそんなリーゼに後押しされた村人が全て話したため、クワジットの行いは全てコウマに知られることとなった。
結果、幸助とセクラトクスの賞金は取り下げられる。セクラトクスは少し無理があるかもしれないが、幸助は無実だと判明したのだ。むしろ被害者だろう。依頼で来たのに、人質を取られて利用されたのだから罪に問いようがない。
兵たちの怪我は事故として扱われ、セクラトクスの賞金もそのついでに取り下げられたのだ。セクラトクスの罪状について調査すれば、その過程でクワジットの行ったことも明らかになる。国としての弱みを晒すわけにはいかず、セクラトクスも無罪とされたのだ。
クワジット国は幸助に近づくなとコウマ国から命じられた。これに対してクワジット側はさすがに横暴だと意見を出したのだが、輸出入制限の一言で意見を取り消さざるを得なかった。コウマから買う物売る物は少なくなく、それに制限がかかるとクワジットとしては痛いものがある。制限された分を他国と取引しようとしても、ペレレ諸島内ではコウマの機嫌を損ねたくない国は取引を拒むだろう。諸島外では経費がかかりすぎて、国の予算に大きなダメージがいく。
この命令は、今後クワジットがちょっかい出して幸助が困るかもしれないと考えたルビダシア家が、王に頼んで出してもらったのだ。これでシズク救出の借りを返したことにする。
コウマ王もシズク救出のことは知っていて、今回のことで幸助の実力を知り、自国の印象を良くするのにちょうどいいとルビダシア家からの要望に頷いたのだ。
ちなみにこの一連の出来事は幸助たちが帰った後、知らない間に起きて終わった出来事である。
時は遡って、幸助が起きた時のことだ。
五時間ほどで目を覚ました幸助。その前に全員起きていて、セクラトクスに封印された経緯などを聞いていた。
人間のライバルを求めて、いつか誕生すると予言されていた竜殺しに会うため友人に封印してもらい、解除を頼んだ。始めは友人の子孫が封印を守っていたが、それはいつしか村ぐるみの使命となり、重要視されていった。
そんな流れの始まりを聞いて、友人の遠い子孫にあたるリーゼは脱力せざるを得なかった。
突然の英雄の失踪に世間では、暗殺や敗北して隠居したといった噂が流れた。それを信じたのはセクラトクスを知らない者たちで、知人たちはきっと碌でもない理由で消えたのだと確信を持っていた。
知人たちはセクラトクスが英雄と呼ばれるような人物ではないと知っていた。戦いを求めてあちこちと移動し、その戦いの過程で偶然人間にとって害のある魔物を殺していっただけなのだ。本人には人助けをしたという意識はほとんどない。依頼で魔物退治したのは。美人に頼まれたり、子供の裏表のない称賛に煽てられ勢いで行った程度だ。
話を聞いた後は、皆思い思いに過ごしていた。
ウィアーレは幸助の世話で、エリスは今後のことを考え、セクラトクスは島の皆のことを心配するリーゼから今の世界のことを聞いている。
「あ、起きた。どこか痛いとことかない?」
「……ないけど、なんでこんなところにいるんだっけ?」
ウィアーレに聞き返す。
「どこまで覚えておる?」
「えっと……闘ってて、いいようにやられて、そんなところ。負けて見逃された?」
「いや、俺が負けたんだ。暴走していたみたいだから覚えてなくて当然だろうがな。いやー強かった! またやろうな?」
笑いつつ言ってくるセクラトクスに、やらんと返す。
セクラトクスはこう言われても気にせず、無理矢理押しかけ闘おうと思っている。夢にまで見た自身よりも強い人間だ。闘わないという選択肢はない。
なんとなくそういう考えが読めて、幸助は肩を落とした。
「コースケさん、お腹空いてない? 果物あるけど食べる?」
聞かれると空腹を自覚し、音が鳴る。
ウィアーレはそれを返事と解釈し、果物の皮を剥いて渡す。少しだけ不恰好なそれを受け取り礼を言う。
「ありがと」
渡された果物を口に運ぶと同時に、部屋の中に突然人が現れる。
幸助だけが見覚えがある人物、いや神だ。いつになく真剣な表情で幸助を見ている。
「コーホック? なにしに来たの?」
口の中のものを飲み込み、問いかける。
驚いたのはエリス、ウィアーレ、リーゼで、セクラトクスもコーホックが神だと知れば驚いた。
セクラトクスが半生を過ごした時代の娯楽の神とは代替わりしていて、名前に聞き覚えがなかったのだ。
「コーホックって神様じゃないですか!? え? 本物? 同じ名前の人間じゃなくて?」
「本物だよ。これでも神の一員だ」
驚くリーゼに硬い声で返す。
「あ、声が同じだ」
声だけは聞いていたウィアーレもコーホック本人だとわかった。
「長いこと生きてきたがこんな近くで神なんぞ見たのは初めてだ。コースケといると退屈せんのう」
「神なのか。強いんだろうな」
セクラトクスの目がキラリと光るが、今すぐ闘おうとは思わない。いずれは神とも闘ってみたいと思っているが、もっと力をつけていい勝負ができるようになってからと思っている。
ウィアーレたちを無視して、コーホックは幸助を見たまま口を開く。
「今日ここに来たのは一つ聞きたいことがあるからだ」麻黄
「聞きたいこと?」
なんだろうと幸助は首を傾げる。
「今後、神に対してどういった対応を取るかだ」
「対応って言われても。特にこれといった指針はないけど。それに会おうと思って会える存在じゃないし、対応なんて決める意味はないと思う」
「もしでいい、もし出会ったらどういう行動を取る?」
「もしというか今会ってるし……相手次第かな。コーホックみたいに穏やかに接してきたら穏やかに返す。敵対なんかしてきたら逃げようとするかな」
「敵対し返すということはないと考えていいのか?」
「敵対して無事でいられるわけないし、どうにか逃げてコーホックとか見てる神に助け求めるけど。あ、身近な人に手を出されたらわからない」
「……それはそうだろうな。基本的には好戦的といった対応はしない。これでいいんだな?」
「それであってる」
ここでコーホックは深く溜息を吐いた。安堵しているのがよくわかった。硬かった雰囲気が柔らかなものへと変わる。
「なんで安堵してんのさ」
「お前さんの実力が洒落にならんところまで来てたからな。暴走中の平均ランクがどれくらいになっていたと思う? 平均B+だぞ? 下級神クラスだ。筋力に至ってはA。中級神上位クラスにまで届いてんだ。それで問題にならないわけがないだろう。
暴走するお前さんを見ていた神々からは、封印だとか排除といった意見も出ていたんだ。史上初の神殺しが生まれる前に始末しておけってな」
「…………」
血の気の引いた幸助はなにか言おうとして何も言えずにいる。
自分が神々に警戒される、そんな大それた存在であることが信じられなかった。性質の悪い冗談であってくれと願う。
「対応について聞いたのは、神がコースケに対してとる方針を決めるためなのか?」
エリスの問いに頷く。
「もしコースケが戦いたいといった選択をしていたら、問答無用で排除となっていたと見ていいのじゃな?」
「ああ。その選択をしていたら今ここを見ている神々が転移してきて、ここら一帯ごと封印することになっていた。その上でコースケを排除するために動いた」
「非好戦的で助かった」
心の底から助かったと思っている幸助に、コーホックはそうだなと頷く。
「好戦的で思い出したけど、セクラトクスさんも暴走していたコースケさんに追従してたよね。
セクラトクスさんも神様にとって要注意人物ってことになるのかな?」
ウィアーレの疑問にコーホックは首を横に振る。
「現状では放置しても問題ない。古の大英雄の称号効果でも下級神に及ばない。セクラトクスの名声は現状で最大値だからこれ以上効果の上昇はあり得ない。コーホックの評価を落せば称号効果も落ちるから弱体化は楽だ。
これらの理由から問題視はされていない」
上がるのは幸助の竜殺しと違って、ステータスのみだ。ステータス外の能力まで上がらないので、神に近かろうが気にしないのだ。後平均一ランク上がれば下級神に届くが、その一ランクがすごく遠い。修行に明け暮れても早くて二十年先だ。
「問題視されてないなんて言われたら、一矢報いたくなるな」
「努力次第ではそれはできるそうだ。一年五年の努力じゃ無理だそうだが」
戦いの神といった戦い関連の神たちの評価だ。
修練を積んだとわかったら評価した神が手合わせに行くというコーホックの言葉に、セクラトクスは気合が入る。
再び幸助に向き直り、称号を見えるようにしてカードを見せてくれというコーホックに、幸助はカードを渡す。
「予想が当たったか」
「なにが?」
「竜殺しの称号が成長しているんだ」
ほれ、と幸助の目の前に出されたカードには、竜殺し3と確かに刻まれている。
「あの暴走中の変化は成長に関係していると確定したか」
「変化? 暴走中なにかあった?」
「そういや明確な意識はなかったんだったな。その時の姿を頭に送ってやる」
コーホックが幸助の額に指を当てる。すぐに幸助は変わった自身の姿を見ることができた。
「竜っぽくなってたんだなぁ」
「俺たちはあれをギフト『竜装衣』と名づけた。竜を真似たような姿だ、ピッタリだと思わないか?」
「竜を装う衣ね、ほんとにそれっぽいよ」
「ちょっと変わってくれるか、ステータスの変化をみたいんだ」
「いきなり変われって言われても」
さっきの姿をイメージし、変化しろーと念じる。
変化はすぐに起きた。幸助の体から青い風が出て、体を包んだ。繭のようにはならず、額と手に青い風が集中し、幸助はあの時とはまた違った姿に変わる。
髪や目の色は変化なく、肌は褐色へ。角は青水晶のようなものが生え、手には色しか変わらない青鱗のガントレット。足には変化なく、尾もない。
ステータスも二段階アップではなく、一段階アップとなっている。
目には変化前と変わらず理性の光が宿り、暴走状態ではないとわかる。
変化した自身の手を幸助は物珍しげに見ている。
「あの時とは違うのう」
「あの姿は最終変化した姿じゃないか? 修練を積めばあの姿に辿り着くと思うぞ」
コーホックはそう言うが、竜殺しの称号が成長した時点であの姿になることは確定していた。修練を積めば変化が早まるというだけでしかない。そしていつか半竜半人という世界でただ一人しかいない種族が生まれる。
「別に修行しなくていいよね。この姿でも持て余すのに」
これ以上は余計だと言い切った。
パワーアップせずとも、今までの暮らしに十分すぎるほどの能力を持っていたのだ。切羽詰った状態でもないのに、これ以上のパワーアップを望むはずもなかった。
「コースケならそう言うじゃろうな」
「だよねー」
エリスとウィアーレは納得したように頷く。
セクラトクスはもったいないと言っている。リーゼは話を理解する気はなかった。この場の話は聞かなかったことにすると決めていた。自分が関わるには不釣合いと考えたのだ。竜殺しのことも、ウィアーレの歪みのことも忘れることにしている。迷惑かけた分の恩返しはしようと思っているが。
「そう言ってもらえると助かる。鍛えるとか言い出したらまた警戒する必要があるしな。そろそろ帰るが、最後にこれを飲んでくれ」
コーホックはヤクルトサイズの小瓶を懐から取り出し、カードと一緒に渡す。
「これは?」
目のあたりに持っていて小瓶を揺らし、中身がチャプチャプと揺れる様を見つつ言う。
中の液体は不純物の入っていない、透明感のある綺麗な朱色をしている。見ただけではどんな効力かはわからない。
「上級神から渡されたものでな。神と竜殺しが出会った時に両者の力が落ちるようになるんだと」
「神の力も落ちんの?」
「お前さんの力だけが落ちるようにすると、神が気軽に会いに行ってちょっかいかけるかもしれん。それは竜殺しだけに負担を負わせるだろうと仰ってな。神の力も落ちるようになると、ふとしたことで神も死ぬ可能性がある。死にたいと思っている神はいないだろうから、会うことを避けるようになる。会いに行こうと思う神はそうそういないから、念のためなんだが」
「ほんとにその効力だけ?」
「俺に聞かれてもな。作ったの上級神だからなぁ。飲まないって選択してもいいが、その場合は警戒度が上がるぞ?」
「だろうね。仕方ない飲むか!」
腹を括って、いっきに飲む。ほんのり甘く、すっきりとした味だった。
コーホックがそばにいるため効果はすぐに表れ、カードのステータス表記がオールEまで下がった。
「なんか体が重く感じる」
「俺も似たようなもんだ」
コーホックも自身の体を見回し変化を確かめる。D9 催情剤
「じゃあ、俺は帰る。宿からある程度離れたら元に戻ると思う」
そう言ってコーホックは宿から出て行った。
コーホックがいなくなって一分ほど経ち、体が軽くなるのを感じ、ステータスが元に戻る。
「さてともう一泊したらさっさと出ようかの。リーゼも私たちについて来るがいい」
「え? でも島の皆が心配」
「今帰ったら兵たちに捕まる可能性があるぞ。五日もすればいなくなるだろうし、私が転移で送ってやろう」
「……送ってくれるなら」
一泊した五人は転移し、行きに立ち寄ったセブシック大陸の港で時間を潰す。
この五日の間にリーゼは幸助に、迷惑をかけたことを謝った。リーゼのせいではないとはいえ、知り合いがやったこと。自身も一部加担したところもあるのだ。
色々と疲れたとはいえ、もう終わったことなので幸助は謝罪を素直に受け入れた。
受け入れる条件といわけではないが、自分が竜殺しだと黙っていてくれという口止めをする。リーゼは既に忘れると決めていたので、即頷いた。
セクラトクスにも口止めするが渋るので、喋ったら絶対手合わせしない闘わずに逃げる、と脅し頷かせた。竜殺しと戦うためだけに封印までされたのだ、この脅しはよく効いた。
五日後にリーゼを送り、エリスは幸助の荷物を持って帰ってきた。
「コウマに寄る予定じゃったが、向こうをうろつくとクワジット国に言いがかりつけられる可能性もあるし止めておこうか。わざとでないとはいえ、兵を怪我させたからのう。しばらくは近寄らん方がいいじゃろうて」
「エゼンビアに続き、ペレレ諸島も行けなくなったよ」
行かない方がいいというだけで行ってもいいのだが、行けば面倒事が起こるだろう。
「時間が経てば行けるようになるよ!」
ウィアーレの励ましに少し癒される。
「私たちは帰るが、セクラトクスはどうするのじゃ?」
とっとと別れたいと思いつつ聞く。
「どこかに行こうにも金がねえしな。ついていこうと思ってるが?」
「ついて来られても迷惑じゃ。お金ないと言うが、お主なら強めの魔物殺して荒稼ぎできるだろうに」
「ああ、そういやそうだな。ついて行かなくても問題ないのか。じゃあ自由にやるかな」
再戦のため幸助の住所を聞いたセクラトクスは、酒と女が待ってるぜと言いながら街の外へ向かう。早速魔物を殺してお金を稼ぐつもりなのだろう。
セクラトクスがいなくなり、幸助はほっと安堵の溜息を吐いた。
「あの人はすぐに名を広めるだろうねぇ」
「強いし、それを隠すつもりもないだろうし広まるだろうね」
幸助の言葉にウィアーレが頷く。
たしかにセクラトクスは有名にはなるが、さすがに英雄が復活したとは思われず、同じ名前の強い者が現れたと考える者が多数だ。
「あれのことはもういいじゃろ。帰るぞ」
「あ、うん。しっかしただ封印解くだけと思ったのに、一騒動だったなぁ。また剣壊したし。頑丈な剣ってどこにかにないものか」
「素手で戦うしかないんじゃない?」
「進んで戦う方じゃないし、それでもいいけど。触りたくない魔物に出会ったときとかね」
「そういう魔物は魔法で相手すればいいじゃろ。剣が欲しいならどうにかならんことはないが」
「どうになるの?」
「家にある竜の鱗を材料に作ってもらえばいいのさ」
武具の材料としては最高の部類だ。ただし作り手が一流でないと材料を生かしきれないのだが。
幸助はそういった人材に繋がりがある。ベラッセンにいるのだ。クラレスの父が一流といっていい職人だ。
費用もそれなりにかかるが、お金ならばある。頼めば問題なく剣はできあがるだろう。
「その方向でいこうかな。鱗少しわけてもらっていい?」
「かまわんよ。元々はお前さんのものみたいなものじゃ」
「ベラッセンに行くなら、ついて行くからね。皆に会いたいし」
断る理由もなく幸助は頷く。
ベラッセンで剣作製どころではない騒ぎが待っている、そんなことを予測もせず三人は一ヶ月ぶりの家に思いをはせる。
数えるのも馬鹿らしくなる数の魔物。それに対する人々の数は少ない。千分の一いればいい方だろうか。
戦いの始まりに幸助が一人、人々の先頭に立つ。一メートルを越す剣を持ち、竜装衣を使った状態で、それを真横に薙いだ。その一振りから力が解き放たれ、前面にいた魔物を扇状に削る。そのたった一度の攻撃で、幸助は一万近くの魔物の命を奪っていた。
そんな幸助に人々は恐怖を抱き、魔物たちは意に介さず前に進む。人々も魔物を迎え撃つと、幸助を避けて前に進む。幸助も一人で前に進む。
人と魔物の戦いが始まる。
神に連れられ消えていくウィアーレがいる。諦めの表情を浮かべたウィアーレへと幸助が走る。だが多くの人々に邪魔され、どうしてもたどり着くのが遅くなる。
人々を掻き分けそばにたどり着いた時、ウィアーレは消える寸前だった。
ウィアーレは近寄ってきた幸助へと手を伸ばす。助けを求めるためではなく、これからの幸助の助けとなるよう歪みを放つため。
歪みは放たれ、幸助の体に注ぎ込まれた。気持ち悪さでうずくまる幸助の前でウィアーレはいなくなった。
幸助が傷だらけで地に膝をついている。そのそばには口とわき腹から血を流すエリスがいる。エリスは致命傷を負っている。百メートル以上離れた位置には手を幸助たちへと向けた神が数人。
エリスが何事か喋り、幸助が必死に止めようとしている。その間に神たちの手には光が集う。
小さく笑みを浮かべたエリスが何事か話す。それに幸助は首を横に振る。同時に神たちは一斉に光を二人へ放つ。
神たちの放った光が当たる寸前に、幸助の姿は消えた。残ったエリスは髪の毛一本も残さず光の中に消えていった。
二人が消えたことを確認した神たちは満足げに頷いて去っていく。挺三天
満月が照らす荒野の下、鋭い雰囲気を持つ幸助が岩を背に座り、ぼろぼろになっている剣を抱いて目を閉じている。ぼろぼろなのは剣だけではなかった。着ているもの、そばに置いていある鞄もぼろい。幸助自身も薄汚れている。
雲一つない満月の夜なのだが、どこか薄暗い。風も澱んだものを含んでいるように思われる。
座り続け、十分か一時間か。時間の経過がわかりずらい。
どれくらい経っただろうか、不意に幸助が目を開き立ち上がる。その三秒後、神が数人現れた。
神の一人が幸助へとなにかを喋るが、幸助は聞き流しいっきに近寄り、その神を斬り捨てた。
慌てて距離を取りつつ攻撃を始める神と、攻撃を全て避けながら追いかけ次々と斬り捨てていく幸助。
幸助の表情は淡々としていて作業をこなしているだけといった感じだ。
やがてその場に立っている者は、神を殺し力が増した幸助だけとなる。
風は止み、水は濁り、地は荒れ、光は遠のく。
倒れ伏した上級神たち。
竜の爪を世界神に突き立てる幸助。
崩れ行く世界。
世界を喰らった竜の誕生。
人形のように微動だにしなかったミタラムが目を開ける。ほぼ同時にコーホックが帰ってきた。
ミタラムはコーホックに近づき問いかける。その目には焦燥の色が浮かんでいる。
「コースケに薬渡した?」
「渡したが、なんで知ってるんだ? ミタラムが意識を閉じている間のことなのに」
「未来を見たから」
早口でそれだけ言うと、ミタラムは急ぎ足でその場から離れる。
ミタラムがそんな様子を見せるのは珍しく、コーホックは後を追い話しかける。
「どこに行くんだ?」
「上級神のところ」
「なにしに?」
「見た夢の実現を防ぐため」
「どんな夢を見たんだ?」
「世界崩壊」
「は?」
呆けるコーホックを置き去りにして、ミタラムは上級神の元へ急ぐ。
ミタラムが見た夢は変えることができる未来。だが阻止するために動かなければ高確率で実現する未来。
あんな未来が実現したところなど見たくないミタラムは、阻止するために動く。
だが既に薬は渡された。崩壊の未来を阻止にするには薬が渡されないよう動く必要があった。あれは弱くするが、強くもなる薬。
阻止するためにできることはまだあり、協力を得るため上級神の元へ向かう。
ここが運命の分岐点だった。ミタラムが幸助を見ていなければ、未来を見なければ、阻止するために動かなければ、世界の崩壊は決定していた。VIVID XXL
そんなエリスたちの考えを裏切るように、幸助の動きは止まらない。暴走した状態なのだ、対応していたセクラトクスがいなくなったところで止まるわけではない。相手がいなくなったことで、どのように動くかわからない状態だ。つまりはエリスたちに危険が及ぶということもありえる。威哥十鞭王
周囲にあるもの、兵たちがいなくなり、幸助の視線がエリスたちに向く。相変わらずの光のない目で、いまだ正気を取り戻していないのだとわかる。
やばいかもしれないと、エリスが逃亡用のために転移魔法を準備を始める。
エリスたちへと歩こうとして、幸助の動きが鈍る。どこか苦しげな唸り声を出し、その場に立ち尽くす。
「どうしたのかしら?」
リーゼの問いに二人は答えることができず、幸助を見守る。
すると幸助の着ているジャケットが鷹へと変化し、エリスたちの元へ飛んでくる。足下に降り立った鷹は人間の子供へとさらに姿を変えた。
エリスとウィアーレは、この子供は話に聞いたリンではないかと思いつく。
「リン君なのかな?」
ウィアーレの問いに、少し苦しげなリンがこくんと頷き、視線をエリスとウィアーレに向ける。
「お姉さんたちに頼みがあるんだ」
「なんじゃ? コースケに関することか?」
「うん。お兄さんを止めたいから協力して」
「止められるのか!?」
「僕一人じゃ無理だけど、お姉さんたちとさっきまで闘ってた人の協力があれば」
「あやつの?」
エリスが顔を顰めた。好感を持っている人物ではないことと、協力など得られるのかという思いがある。
「どうしてもあやつの力を借りなければ駄目か?」
「んーお姉さんたちの誰かが、お兄さんを気絶させることができるならいなくても大丈夫」
「ウィアーレ、歪みを飛ばしてコースケを気絶させてくれ」
わかったと頷き、ウィアーレは歪みを飛ばす。歪みは幸助に当たり消える。
「駄目。弾かれた」
兵に使った時は体の中に染み込む様が見えていたが、今飛ばした歪みは染み込まずに表面で弾けて消えていった。
エリスはウィアーレの歪み以外に気絶させる方法が思い浮かばない。気絶させるとなると攻撃魔法が一番有効だろうが、かつて黒竜にほとんど効かなかったことをよく覚えていて、今の状態の幸助にも有効な効果は望めそうにないと予想していた。
歪みをぶつけたことで刺激を与えたことになり、幸助の注意が再びエリスたちに向く。それだけで恐怖から周囲の気温が下がったように感じられた。。ゆっくりと近づいてこようとしている幸助の周囲に、エリスは魔法で土人形を生み出し、幸助へと歩かせる。それに幸助は反応し、土人形を潰していく。
「……仕方ないか。起こす前に聞いておきたいことがある。コースケがああなった原因を知らないかということと、セクラトクスになにをさせたいのか。いや後者は聞くまでもないか」
気絶させる役目なのだろうと言いながら気づいた。この場にいる者で一番高い攻撃力を持っているのだ。
聞いたばかりのことが頭から抜け落ちるほど、エリスは大きな焦りを抱いているのだろう。
「原因は、生存本能の過剰反応と力の発散ができてなかったこと。命の危機に溜め込んだ力を使って難を逃れようとしたんだけど、力を溜めすぎてたんだ。意識をなくした状態で、力の制御なんかできるわけもなくて暴走してる。
このまま暴れてお姉さん達を傷つけたら、お兄さん絶対悲しむから止めたいんだ!」
「コースケのことを大事に思っておるのじゃな」
リンから苦しげな表情が減り、かわりに照れが浮かんだ。そんなリンにエリスたちは笑みを浮かべた。すぐに引き締めたが。
「してコースケを気絶させた後はどうする?」
「気絶までいけば後は僕が力を吸い取って、元の状態に戻すよ。今も力を吸い取って動きを鈍くしてるんだ。
元々お兄さんから力を吸い取るって役割も持っているんだよ僕」
「吸い取って現状のようなことにならせないためか?」
「うん。結局はなっちゃったけどね」
エリスに脳裏に、今後神たちがなんらかのアクションを起こすかもしれないと浮かんだ。
その思いは当たっていた。下級神クラスとはいえ、神の域に届いて見せたのだ。コーホックたちは慌てて今後のことを話し合っている。
「今は神のことなど考えても仕方ない。セクラトクスを起こすぞ!」
エリスたちがリンの話を聞いているうちに、リーゼがセクラトクスを運んできていた。
倒れているセクラトクスに治癒の魔法を使い、頬を殴って起こす。殴られた仕返しも兼ねていた。
怪我人兼英雄に対してのそんな行動にウィアーレとリーゼは引いている。
「なんだか頬が痛いんだが」
「気にするな」
エリスは一言で切って捨て、手短に用件を伝える。
こうなったのはセクラトクスにも責任があると締めくくる。
「まあ、手伝うのはかまわんさ。俺がやることはまた闘うことでいいんだろう?」
リンは頷きを返す。
「ただな? 二つほど問題がある」
なんだろうと四人は首を傾げる。
「一つ目は、先ほどまでの強さは今俺の中にはないということ」
「どういうことですか?」
あれほどまでの強さを見せつけておいて、どういうことなのだろうとリーゼが聞く。
「さっきまでの強さは称号で強化していたものだ。
効果としては俺の知名度の高さを強さに変換するというもので、一日に一回一時間のみ強化できる。さっき気絶したことで効果が切れたことになったんだ。使うには一日待つ必要がある。
今俺に求めてられている役割なら巨人殺しの称号の方が向いているんだが、既に一度称号換えていて変更もできん」
セクラトクスが考えているのは巨人の一撃での攻撃だ。今のまま攻撃するより、あちらの方が威力は高い。
ウィアーレが勢いよく一歩進み出る。
「それなら私が! 私は称号変更できるギフト持ちですから! 早速換えます」
すぐにウィアーレが称号を換え、セクラトクスはそれを確認した。
「これで一つ目の問題は解決したが、もう一つは俺の攻撃が当たるかってことだ。殴りかかって素直に当たってくれると思うか?」
「効くかどうかわからんが、魔法で動きは止めてみるが」
準備ができるならば対竜用に習得したステータスを落す魔法が使えるが、時間も道具もないためその魔法は使えない。
「僕も力をもっと吸って力を下げるよ」
「私は応援くらいしかできないよ」
「私もそうですね」
ウィアーレとリーゼはなにかしようとしても邪魔でしかないと自覚している。
「じゃあ、僕から始めるよ」
そう言ってリンは集中し始める。その横でセクラトクスが力を溜め始め、エリスも魔法を使う準備を始めている。
動きを鈍らせていた幸助はさらに重圧がかかったように動作が重たげなものになる。
「ぅぅっ」
「なんだか苦しそうだけど大丈夫?」
成果が出始めると同時に顔を顰めるリン。
ウィアーレの問いかけに頷いて大丈夫だと示す。だが実のところ大丈夫とはいえない状態だった。
本来ならばリンが今のように動けるようになるのは十年単位の時間を必要としていた。それを幸助の助けになるために無理して実体を出していた。
それだけならば問題はなかった。苦しげな理由はもう一つあり、それは限界を超えた力の吸収にある。例えば植物に水や栄養剤のやりすぎは成長に悪い。それと同じで、ある程度の力の吸収はリンにとっていいことだが、今の吸収量は栄養過多となっている。
リンは今ここで自分が倒れると幸助を助けられないという思いだけで、立ち続け、力を吸収していた。
その無理のおかげで平均B+のステータスが一時的にB-まで下がっている。
「絡みつけ鉄鎖!」
地面から生えた金属製の鎖が、何本も幸助に絡みつく。若いエリスが幸助に使った土の鎖の上位に当たる魔法で、幸助の動きを封じる。
リンの様子から何度も挑戦できることではないとエリスは推測する。それはセクラトクスも察していて、力を限界まで高め、確実に当てられるタイミングを計っている。
リンの我慢も気合も限界に達しようとしていた時、セクラトクスが動く。
「うらぁっ!」
幸助の動きを読んで拳を放つ。セクラトクスの右拳は吸い込まれるように、幸助のこめかみ辺りに当たった。
真正面から頑丈さを抜いてダメージを与えられるとは最初から思っておらず、脳を揺らすことで意識を刈り取ろうとした。
弱者でも打ち所が良ければ、強者を殺すことは不可能でも倒すことは可能と知っていた。
セクラトクスは小さく舌打ちをする。少しだけ狙いがずれたのだ。
拳がこめかみに当たった状態で一秒五秒と過ぎていく。誰もが動けず長く感じた十秒が過ぎた時、幸助が崩れ落ちた。
エリスたちがほうっと安堵の溜息を吐く中、リンだけは幸助に走り寄り、小さな手を幸助の背に当てる。老虎油
最後の一踏ん張りで、いっきに力を吸っていく。皮膚の黒さが薄くなっていき、角や手足の防具や尻尾の先から青い光の粒となっていく。その粒はリンへと集まっていく。代わりにリンの顔色がさらに悪くなる。
リンの姿が鷹へと戻る。人型でいるよりは楽なのだ。
一分ほどで幸助の姿が元の人間のものへ戻り、リンは青い光の中に姿を隠す。光が収まるとそこには鷹の姿はなく、鷹よりも少し大きな青い竜が幸助の背中に乗っていた。
竜は小さく鳴くと、力なく倒れ伏し濃紺のジャケットへと変わった。
リンが竜に変化したのは力を一度に吸い過ぎたせいだ。大量吸収した力が運良く進化へと使われることになった。一歩間違えば、吸収した力を暴発させ死んでいた。
幸助の力のほとんどは竜から得たものだ。それを多く吸い取ったリンはその影響を強く受けたのだ。
後に精霊竜と呼ばれる竜はこうして生まれた。
といっても無理しすぎたリンが竜として動くようになるのは三十年という長い月日を要する。
特に今は休息のため深い眠りについているため、これまでできていた鷹への変化もできなくなっている。
防具としての格が下がったかというとそうでもなく、リンが強くなったため防具としても強化されている。
鋼を上回る硬度に、魔法にも強くなっていて、軽さと柔軟性服は布と同じ。そこらの一級品を超える一品となった。
ただしこれを着ている幸助が、素でそこらの雑魚の攻撃を受け付けないので、あって困らないという程度の防具になってしまっている。
リンが眠りにつき、幸助も元に戻って眠っている。これで本当に終わったと皆、その場に座り込む。セクラトクスだけ若干の余裕を残しているのはさすがといえる。
周囲は元々荒れていたが、さらに荒れている。地に伏していた兵たちは戦いの影響で飛ばされ散らばっており、土台が残っていた封印は全部砕けていて、地面もところどころ砕け抉れていた。
皆休みたく思っていて、村に戻ろうとして止まる。兵がいてまともに休めそうにないと小船を借りた漁村まで戻ろうということになる。
転移で飛ぼうと提案したエリスに皆集まる。幸助はウィアーレとリーゼが二人がかりで運んでいる。
「お前も来るのか」
近寄ってきたセクラトクスにエリスが迷惑そうな顔を向ける。
「いいじゃねえか。竜殺しを止めるの手伝ってやったろう」
「……仕方ないのう」
本当に嫌そうに言う。このまま残して、これまでのことを話されても困ると渋々了承した。
皆が集まったことを確認し、エリスは漁村に転移する。
セクラトクスはすぐに眠り、女三人は幸助の世話を少しした後ソファーや椅子に座り眠気に負けて眠る。捕まっていた時、眠り心地が悪く、よく眠れていなかったのだ。
五人が寝ている間に島では、異変が治まり封印の様子を見に行った兵によって騎士たちが回収されていた。
無事な者はおらず、軽傷の者も少ない。皆どこかしら軽くない怪我を負っており、中には死者もいた。人外の闘いに無防備な姿で巻き込まれたのだから当然といえるのだろう。
ジスは重傷で腕一本失くし、一般人のクレントは巻き込まれて生きていられるはずもなく死亡していた。
兵たちはなにがあったのか調査していく。目的は、封印を解いて封印されていたものを回収することだ。回収すべきものが見当たらないので、このまま被害だけ受けて帰れば叱責は必定。せめてどうなったかの調査はやらなければならないことだった。
その調査で、封印されていたのはセクラトクスで、その英雄と互角に戦っていた幸助のことを兵たちは知る。二人が闘っている時に起きた兵が何人かいたのだ。巻き込まれて再び気絶する羽目になっていたが。住居と強いということ以外に幸助の情報が得られなかったのは、兵士たちにとっては不満があったが、幸助にとって幸運だった。
生きていた騎士はこの情報のみを持って主の下へ戻る。
これを聞いた主はクワジット王に報告し、幸助とセクラトクスの入手を提案する。王もそれに即頷く。高い能力を持った人材を喉から手が出るほど欲しているのだ。
セクラトクスはその名声も利用できるし、能力の高さも保障されている。英雄が国にいて王に従っているというだけで、一つのステータスになる。他国に出張して指導の一つでもしてもらうというのは、外交に役立つカードになるだろう。
幸助の方は名声はないが、戦闘能力の高さだけでも十分に魅力的だ。
この二人を手に入れるために国が取った手段は、兵の派遣と賞金首として冒険者ギルドに登録することだった。もちろん生きて捕らえることを絶対条件にしている。国の兵に手を出し、死者すら出した罪人という名分がある。賞金首とするのに迷いはなかった。
英雄やそれに比する実力者といえども、小国といえど国一つと戦うことは無謀だ。王たちは三ヶ月もせずに、二人が自分たちの目の前に現れるだろうと考えていた。
しかしそれは実現しなかった。兵の派遣をしようとした時、思っていなかったところからストップがかかったのだ。
ストップかけたのはコウマ国。ペレレ諸島でも上から数えた方が早い大国からのストップに、クワジット王国は文句も言えずにいた。
コウマ国が動いたのはルビダシア家が原因だ。見覚えのある名前が賞金首になっているのだ、どういうことか気になって問い合わせたのだった。ルビダシア家は幸助に借りがあるが、それを恩に思って有罪を取り消そうとしたわけではない。本当に罪を犯したのなら庇う気はない。ただどうして賞金首になったのか詳細を知りたかったのだ。
クワジット国にとっては詳細を知られるのは避けたかった。見つけた高能力の人材を他国に取られるかもしれない。罪人とした経緯がいいがかりに近い。たった二人に精鋭が一方的に負けたという恥も知られたくない。封印を解く時の幸助の扱いもマイナスだろう。
大国へのプレッシャーと後ろめたさが態度に出て、コウマの使者は怪しんで疑いを抱く。堂々としていれば案外スムーズに調査が終わったかもしれなかったのだが。
そういった腹芸を容易く行えないから小国のままなのだろう。
調査は詳しく行われ、エリガデン島にも使者は赴き話を聞く。それにクワジット兵も同行し、余計なことを喋らせないように目を光らせたが、そんなものは無視したリーゼやそんなリーゼに後押しされた村人が全て話したため、クワジットの行いは全てコウマに知られることとなった。
結果、幸助とセクラトクスの賞金は取り下げられる。セクラトクスは少し無理があるかもしれないが、幸助は無実だと判明したのだ。むしろ被害者だろう。依頼で来たのに、人質を取られて利用されたのだから罪に問いようがない。
兵たちの怪我は事故として扱われ、セクラトクスの賞金もそのついでに取り下げられたのだ。セクラトクスの罪状について調査すれば、その過程でクワジットの行ったことも明らかになる。国としての弱みを晒すわけにはいかず、セクラトクスも無罪とされたのだ。
クワジット国は幸助に近づくなとコウマ国から命じられた。これに対してクワジット側はさすがに横暴だと意見を出したのだが、輸出入制限の一言で意見を取り消さざるを得なかった。コウマから買う物売る物は少なくなく、それに制限がかかるとクワジットとしては痛いものがある。制限された分を他国と取引しようとしても、ペレレ諸島内ではコウマの機嫌を損ねたくない国は取引を拒むだろう。諸島外では経費がかかりすぎて、国の予算に大きなダメージがいく。
この命令は、今後クワジットがちょっかい出して幸助が困るかもしれないと考えたルビダシア家が、王に頼んで出してもらったのだ。これでシズク救出の借りを返したことにする。
コウマ王もシズク救出のことは知っていて、今回のことで幸助の実力を知り、自国の印象を良くするのにちょうどいいとルビダシア家からの要望に頷いたのだ。
ちなみにこの一連の出来事は幸助たちが帰った後、知らない間に起きて終わった出来事である。
時は遡って、幸助が起きた時のことだ。
五時間ほどで目を覚ました幸助。その前に全員起きていて、セクラトクスに封印された経緯などを聞いていた。
人間のライバルを求めて、いつか誕生すると予言されていた竜殺しに会うため友人に封印してもらい、解除を頼んだ。始めは友人の子孫が封印を守っていたが、それはいつしか村ぐるみの使命となり、重要視されていった。
そんな流れの始まりを聞いて、友人の遠い子孫にあたるリーゼは脱力せざるを得なかった。
突然の英雄の失踪に世間では、暗殺や敗北して隠居したといった噂が流れた。それを信じたのはセクラトクスを知らない者たちで、知人たちはきっと碌でもない理由で消えたのだと確信を持っていた。
知人たちはセクラトクスが英雄と呼ばれるような人物ではないと知っていた。戦いを求めてあちこちと移動し、その戦いの過程で偶然人間にとって害のある魔物を殺していっただけなのだ。本人には人助けをしたという意識はほとんどない。依頼で魔物退治したのは。美人に頼まれたり、子供の裏表のない称賛に煽てられ勢いで行った程度だ。
話を聞いた後は、皆思い思いに過ごしていた。
ウィアーレは幸助の世話で、エリスは今後のことを考え、セクラトクスは島の皆のことを心配するリーゼから今の世界のことを聞いている。
「あ、起きた。どこか痛いとことかない?」
「……ないけど、なんでこんなところにいるんだっけ?」
ウィアーレに聞き返す。
「どこまで覚えておる?」
「えっと……闘ってて、いいようにやられて、そんなところ。負けて見逃された?」
「いや、俺が負けたんだ。暴走していたみたいだから覚えてなくて当然だろうがな。いやー強かった! またやろうな?」
笑いつつ言ってくるセクラトクスに、やらんと返す。
セクラトクスはこう言われても気にせず、無理矢理押しかけ闘おうと思っている。夢にまで見た自身よりも強い人間だ。闘わないという選択肢はない。
なんとなくそういう考えが読めて、幸助は肩を落とした。
「コースケさん、お腹空いてない? 果物あるけど食べる?」
聞かれると空腹を自覚し、音が鳴る。
ウィアーレはそれを返事と解釈し、果物の皮を剥いて渡す。少しだけ不恰好なそれを受け取り礼を言う。
「ありがと」
渡された果物を口に運ぶと同時に、部屋の中に突然人が現れる。
幸助だけが見覚えがある人物、いや神だ。いつになく真剣な表情で幸助を見ている。
「コーホック? なにしに来たの?」
口の中のものを飲み込み、問いかける。
驚いたのはエリス、ウィアーレ、リーゼで、セクラトクスもコーホックが神だと知れば驚いた。
セクラトクスが半生を過ごした時代の娯楽の神とは代替わりしていて、名前に聞き覚えがなかったのだ。
「コーホックって神様じゃないですか!? え? 本物? 同じ名前の人間じゃなくて?」
「本物だよ。これでも神の一員だ」
驚くリーゼに硬い声で返す。
「あ、声が同じだ」
声だけは聞いていたウィアーレもコーホック本人だとわかった。
「長いこと生きてきたがこんな近くで神なんぞ見たのは初めてだ。コースケといると退屈せんのう」
「神なのか。強いんだろうな」
セクラトクスの目がキラリと光るが、今すぐ闘おうとは思わない。いずれは神とも闘ってみたいと思っているが、もっと力をつけていい勝負ができるようになってからと思っている。
ウィアーレたちを無視して、コーホックは幸助を見たまま口を開く。
「今日ここに来たのは一つ聞きたいことがあるからだ」麻黄
「聞きたいこと?」
なんだろうと幸助は首を傾げる。
「今後、神に対してどういった対応を取るかだ」
「対応って言われても。特にこれといった指針はないけど。それに会おうと思って会える存在じゃないし、対応なんて決める意味はないと思う」
「もしでいい、もし出会ったらどういう行動を取る?」
「もしというか今会ってるし……相手次第かな。コーホックみたいに穏やかに接してきたら穏やかに返す。敵対なんかしてきたら逃げようとするかな」
「敵対し返すということはないと考えていいのか?」
「敵対して無事でいられるわけないし、どうにか逃げてコーホックとか見てる神に助け求めるけど。あ、身近な人に手を出されたらわからない」
「……それはそうだろうな。基本的には好戦的といった対応はしない。これでいいんだな?」
「それであってる」
ここでコーホックは深く溜息を吐いた。安堵しているのがよくわかった。硬かった雰囲気が柔らかなものへと変わる。
「なんで安堵してんのさ」
「お前さんの実力が洒落にならんところまで来てたからな。暴走中の平均ランクがどれくらいになっていたと思う? 平均B+だぞ? 下級神クラスだ。筋力に至ってはA。中級神上位クラスにまで届いてんだ。それで問題にならないわけがないだろう。
暴走するお前さんを見ていた神々からは、封印だとか排除といった意見も出ていたんだ。史上初の神殺しが生まれる前に始末しておけってな」
「…………」
血の気の引いた幸助はなにか言おうとして何も言えずにいる。
自分が神々に警戒される、そんな大それた存在であることが信じられなかった。性質の悪い冗談であってくれと願う。
「対応について聞いたのは、神がコースケに対してとる方針を決めるためなのか?」
エリスの問いに頷く。
「もしコースケが戦いたいといった選択をしていたら、問答無用で排除となっていたと見ていいのじゃな?」
「ああ。その選択をしていたら今ここを見ている神々が転移してきて、ここら一帯ごと封印することになっていた。その上でコースケを排除するために動いた」
「非好戦的で助かった」
心の底から助かったと思っている幸助に、コーホックはそうだなと頷く。
「好戦的で思い出したけど、セクラトクスさんも暴走していたコースケさんに追従してたよね。
セクラトクスさんも神様にとって要注意人物ってことになるのかな?」
ウィアーレの疑問にコーホックは首を横に振る。
「現状では放置しても問題ない。古の大英雄の称号効果でも下級神に及ばない。セクラトクスの名声は現状で最大値だからこれ以上効果の上昇はあり得ない。コーホックの評価を落せば称号効果も落ちるから弱体化は楽だ。
これらの理由から問題視はされていない」
上がるのは幸助の竜殺しと違って、ステータスのみだ。ステータス外の能力まで上がらないので、神に近かろうが気にしないのだ。後平均一ランク上がれば下級神に届くが、その一ランクがすごく遠い。修行に明け暮れても早くて二十年先だ。
「問題視されてないなんて言われたら、一矢報いたくなるな」
「努力次第ではそれはできるそうだ。一年五年の努力じゃ無理だそうだが」
戦いの神といった戦い関連の神たちの評価だ。
修練を積んだとわかったら評価した神が手合わせに行くというコーホックの言葉に、セクラトクスは気合が入る。
再び幸助に向き直り、称号を見えるようにしてカードを見せてくれというコーホックに、幸助はカードを渡す。
「予想が当たったか」
「なにが?」
「竜殺しの称号が成長しているんだ」
ほれ、と幸助の目の前に出されたカードには、竜殺し3と確かに刻まれている。
「あの暴走中の変化は成長に関係していると確定したか」
「変化? 暴走中なにかあった?」
「そういや明確な意識はなかったんだったな。その時の姿を頭に送ってやる」
コーホックが幸助の額に指を当てる。すぐに幸助は変わった自身の姿を見ることができた。
「竜っぽくなってたんだなぁ」
「俺たちはあれをギフト『竜装衣』と名づけた。竜を真似たような姿だ、ピッタリだと思わないか?」
「竜を装う衣ね、ほんとにそれっぽいよ」
「ちょっと変わってくれるか、ステータスの変化をみたいんだ」
「いきなり変われって言われても」
さっきの姿をイメージし、変化しろーと念じる。
変化はすぐに起きた。幸助の体から青い風が出て、体を包んだ。繭のようにはならず、額と手に青い風が集中し、幸助はあの時とはまた違った姿に変わる。
髪や目の色は変化なく、肌は褐色へ。角は青水晶のようなものが生え、手には色しか変わらない青鱗のガントレット。足には変化なく、尾もない。
ステータスも二段階アップではなく、一段階アップとなっている。
目には変化前と変わらず理性の光が宿り、暴走状態ではないとわかる。
変化した自身の手を幸助は物珍しげに見ている。
「あの時とは違うのう」
「あの姿は最終変化した姿じゃないか? 修練を積めばあの姿に辿り着くと思うぞ」
コーホックはそう言うが、竜殺しの称号が成長した時点であの姿になることは確定していた。修練を積めば変化が早まるというだけでしかない。そしていつか半竜半人という世界でただ一人しかいない種族が生まれる。
「別に修行しなくていいよね。この姿でも持て余すのに」
これ以上は余計だと言い切った。
パワーアップせずとも、今までの暮らしに十分すぎるほどの能力を持っていたのだ。切羽詰った状態でもないのに、これ以上のパワーアップを望むはずもなかった。
「コースケならそう言うじゃろうな」
「だよねー」
エリスとウィアーレは納得したように頷く。
セクラトクスはもったいないと言っている。リーゼは話を理解する気はなかった。この場の話は聞かなかったことにすると決めていた。自分が関わるには不釣合いと考えたのだ。竜殺しのことも、ウィアーレの歪みのことも忘れることにしている。迷惑かけた分の恩返しはしようと思っているが。
「そう言ってもらえると助かる。鍛えるとか言い出したらまた警戒する必要があるしな。そろそろ帰るが、最後にこれを飲んでくれ」
コーホックはヤクルトサイズの小瓶を懐から取り出し、カードと一緒に渡す。
「これは?」
目のあたりに持っていて小瓶を揺らし、中身がチャプチャプと揺れる様を見つつ言う。
中の液体は不純物の入っていない、透明感のある綺麗な朱色をしている。見ただけではどんな効力かはわからない。
「上級神から渡されたものでな。神と竜殺しが出会った時に両者の力が落ちるようになるんだと」
「神の力も落ちんの?」
「お前さんの力だけが落ちるようにすると、神が気軽に会いに行ってちょっかいかけるかもしれん。それは竜殺しだけに負担を負わせるだろうと仰ってな。神の力も落ちるようになると、ふとしたことで神も死ぬ可能性がある。死にたいと思っている神はいないだろうから、会うことを避けるようになる。会いに行こうと思う神はそうそういないから、念のためなんだが」
「ほんとにその効力だけ?」
「俺に聞かれてもな。作ったの上級神だからなぁ。飲まないって選択してもいいが、その場合は警戒度が上がるぞ?」
「だろうね。仕方ない飲むか!」
腹を括って、いっきに飲む。ほんのり甘く、すっきりとした味だった。
コーホックがそばにいるため効果はすぐに表れ、カードのステータス表記がオールEまで下がった。
「なんか体が重く感じる」
「俺も似たようなもんだ」
コーホックも自身の体を見回し変化を確かめる。D9 催情剤
「じゃあ、俺は帰る。宿からある程度離れたら元に戻ると思う」
そう言ってコーホックは宿から出て行った。
コーホックがいなくなって一分ほど経ち、体が軽くなるのを感じ、ステータスが元に戻る。
「さてともう一泊したらさっさと出ようかの。リーゼも私たちについて来るがいい」
「え? でも島の皆が心配」
「今帰ったら兵たちに捕まる可能性があるぞ。五日もすればいなくなるだろうし、私が転移で送ってやろう」
「……送ってくれるなら」
一泊した五人は転移し、行きに立ち寄ったセブシック大陸の港で時間を潰す。
この五日の間にリーゼは幸助に、迷惑をかけたことを謝った。リーゼのせいではないとはいえ、知り合いがやったこと。自身も一部加担したところもあるのだ。
色々と疲れたとはいえ、もう終わったことなので幸助は謝罪を素直に受け入れた。
受け入れる条件といわけではないが、自分が竜殺しだと黙っていてくれという口止めをする。リーゼは既に忘れると決めていたので、即頷いた。
セクラトクスにも口止めするが渋るので、喋ったら絶対手合わせしない闘わずに逃げる、と脅し頷かせた。竜殺しと戦うためだけに封印までされたのだ、この脅しはよく効いた。
五日後にリーゼを送り、エリスは幸助の荷物を持って帰ってきた。
「コウマに寄る予定じゃったが、向こうをうろつくとクワジット国に言いがかりつけられる可能性もあるし止めておこうか。わざとでないとはいえ、兵を怪我させたからのう。しばらくは近寄らん方がいいじゃろうて」
「エゼンビアに続き、ペレレ諸島も行けなくなったよ」
行かない方がいいというだけで行ってもいいのだが、行けば面倒事が起こるだろう。
「時間が経てば行けるようになるよ!」
ウィアーレの励ましに少し癒される。
「私たちは帰るが、セクラトクスはどうするのじゃ?」
とっとと別れたいと思いつつ聞く。
「どこかに行こうにも金がねえしな。ついていこうと思ってるが?」
「ついて来られても迷惑じゃ。お金ないと言うが、お主なら強めの魔物殺して荒稼ぎできるだろうに」
「ああ、そういやそうだな。ついて行かなくても問題ないのか。じゃあ自由にやるかな」
再戦のため幸助の住所を聞いたセクラトクスは、酒と女が待ってるぜと言いながら街の外へ向かう。早速魔物を殺してお金を稼ぐつもりなのだろう。
セクラトクスがいなくなり、幸助はほっと安堵の溜息を吐いた。
「あの人はすぐに名を広めるだろうねぇ」
「強いし、それを隠すつもりもないだろうし広まるだろうね」
幸助の言葉にウィアーレが頷く。
たしかにセクラトクスは有名にはなるが、さすがに英雄が復活したとは思われず、同じ名前の強い者が現れたと考える者が多数だ。
「あれのことはもういいじゃろ。帰るぞ」
「あ、うん。しっかしただ封印解くだけと思ったのに、一騒動だったなぁ。また剣壊したし。頑丈な剣ってどこにかにないものか」
「素手で戦うしかないんじゃない?」
「進んで戦う方じゃないし、それでもいいけど。触りたくない魔物に出会ったときとかね」
「そういう魔物は魔法で相手すればいいじゃろ。剣が欲しいならどうにかならんことはないが」
「どうになるの?」
「家にある竜の鱗を材料に作ってもらえばいいのさ」
武具の材料としては最高の部類だ。ただし作り手が一流でないと材料を生かしきれないのだが。
幸助はそういった人材に繋がりがある。ベラッセンにいるのだ。クラレスの父が一流といっていい職人だ。
費用もそれなりにかかるが、お金ならばある。頼めば問題なく剣はできあがるだろう。
「その方向でいこうかな。鱗少しわけてもらっていい?」
「かまわんよ。元々はお前さんのものみたいなものじゃ」
「ベラッセンに行くなら、ついて行くからね。皆に会いたいし」
断る理由もなく幸助は頷く。
ベラッセンで剣作製どころではない騒ぎが待っている、そんなことを予測もせず三人は一ヶ月ぶりの家に思いをはせる。
数えるのも馬鹿らしくなる数の魔物。それに対する人々の数は少ない。千分の一いればいい方だろうか。
戦いの始まりに幸助が一人、人々の先頭に立つ。一メートルを越す剣を持ち、竜装衣を使った状態で、それを真横に薙いだ。その一振りから力が解き放たれ、前面にいた魔物を扇状に削る。そのたった一度の攻撃で、幸助は一万近くの魔物の命を奪っていた。
そんな幸助に人々は恐怖を抱き、魔物たちは意に介さず前に進む。人々も魔物を迎え撃つと、幸助を避けて前に進む。幸助も一人で前に進む。
人と魔物の戦いが始まる。
神に連れられ消えていくウィアーレがいる。諦めの表情を浮かべたウィアーレへと幸助が走る。だが多くの人々に邪魔され、どうしてもたどり着くのが遅くなる。
人々を掻き分けそばにたどり着いた時、ウィアーレは消える寸前だった。
ウィアーレは近寄ってきた幸助へと手を伸ばす。助けを求めるためではなく、これからの幸助の助けとなるよう歪みを放つため。
歪みは放たれ、幸助の体に注ぎ込まれた。気持ち悪さでうずくまる幸助の前でウィアーレはいなくなった。
幸助が傷だらけで地に膝をついている。そのそばには口とわき腹から血を流すエリスがいる。エリスは致命傷を負っている。百メートル以上離れた位置には手を幸助たちへと向けた神が数人。
エリスが何事か喋り、幸助が必死に止めようとしている。その間に神たちの手には光が集う。
小さく笑みを浮かべたエリスが何事か話す。それに幸助は首を横に振る。同時に神たちは一斉に光を二人へ放つ。
神たちの放った光が当たる寸前に、幸助の姿は消えた。残ったエリスは髪の毛一本も残さず光の中に消えていった。
二人が消えたことを確認した神たちは満足げに頷いて去っていく。挺三天
満月が照らす荒野の下、鋭い雰囲気を持つ幸助が岩を背に座り、ぼろぼろになっている剣を抱いて目を閉じている。ぼろぼろなのは剣だけではなかった。着ているもの、そばに置いていある鞄もぼろい。幸助自身も薄汚れている。
雲一つない満月の夜なのだが、どこか薄暗い。風も澱んだものを含んでいるように思われる。
座り続け、十分か一時間か。時間の経過がわかりずらい。
どれくらい経っただろうか、不意に幸助が目を開き立ち上がる。その三秒後、神が数人現れた。
神の一人が幸助へとなにかを喋るが、幸助は聞き流しいっきに近寄り、その神を斬り捨てた。
慌てて距離を取りつつ攻撃を始める神と、攻撃を全て避けながら追いかけ次々と斬り捨てていく幸助。
幸助の表情は淡々としていて作業をこなしているだけといった感じだ。
やがてその場に立っている者は、神を殺し力が増した幸助だけとなる。
風は止み、水は濁り、地は荒れ、光は遠のく。
倒れ伏した上級神たち。
竜の爪を世界神に突き立てる幸助。
崩れ行く世界。
世界を喰らった竜の誕生。
人形のように微動だにしなかったミタラムが目を開ける。ほぼ同時にコーホックが帰ってきた。
ミタラムはコーホックに近づき問いかける。その目には焦燥の色が浮かんでいる。
「コースケに薬渡した?」
「渡したが、なんで知ってるんだ? ミタラムが意識を閉じている間のことなのに」
「未来を見たから」
早口でそれだけ言うと、ミタラムは急ぎ足でその場から離れる。
ミタラムがそんな様子を見せるのは珍しく、コーホックは後を追い話しかける。
「どこに行くんだ?」
「上級神のところ」
「なにしに?」
「見た夢の実現を防ぐため」
「どんな夢を見たんだ?」
「世界崩壊」
「は?」
呆けるコーホックを置き去りにして、ミタラムは上級神の元へ急ぐ。
ミタラムが見た夢は変えることができる未来。だが阻止するために動かなければ高確率で実現する未来。
あんな未来が実現したところなど見たくないミタラムは、阻止するために動く。
だが既に薬は渡された。崩壊の未来を阻止にするには薬が渡されないよう動く必要があった。あれは弱くするが、強くもなる薬。
阻止するためにできることはまだあり、協力を得るため上級神の元へ向かう。
ここが運命の分岐点だった。ミタラムが幸助を見ていなければ、未来を見なければ、阻止するために動かなければ、世界の崩壊は決定していた。VIVID XXL
2012年11月21日星期三
ザガンが死んで
魔王と戦って危機感を煽ろう、という作戦は不発に終わってしまった。
(魔王のくせに弱いぞ)
マリウスは八つ当たり的かつ利己的な怒りを覚えたが、どうしようもない。
幸いバーラは空気を読んで「ランレオに注意を呼びかける手紙を書く」と約束してくれた。
ルーカスもとりあえず魔王復活自体は事実だと、報告する事にした。levitra
魔王復活とそれを狙って魔人が動いている事は皆信じてくれるが、危機感はやはり皆無に近い。
マリウスが脱力してしまったくらいだから無理ないかもしれない。
どの魔王も弱くて取り越し苦労ですめばいいのだが……モンスターも魔人も軒並み弱い事を考えると心配しすぎている気がしてくる。
「これが魔王の心臓です」
ベルンハルト三世に差し出すと、差し出された方は及び腰になりながらも、まじまじと見つめる。
「四つ揃えると滅魔の武器が作れるという伝説の魔王シリーズか……」
ゴクリと唾を飲み込む。
エキストラアイテム「滅魔の武器」はその名の通り、魔属性に対して絶対的な攻撃力を誇る。
何せ修正前はただの上位プレイヤーがただの一撃で大規模戦闘ボスの魔王を倒せたくらいだ。
ゲームバランスを考慮しないエキストラアイテムを並べていた運営が唯一修正した、バランスブレーカー・オブ・バランスブレーカー。
と言えば聞こえがいいが、実のところただの欠陥品、それが滅魔の武器シリーズだ。
皆の反応から察するにこちらの世界でも凄いアイテムなのだろう。
「予が持っていても奪われかねんしな。マリウス殿が持っていてくれ」
「了解しました」
マリウスはしまうと滅魔の武器シリーズについて尋ねた。
「メリンダ=ギルフォードの伝説の一つにあるが、笑うしかないくらいの強さだぞ。メリンダの伝説でなかったら作り話としか思えぬ程にな」
メリンダ=ギルフォードは確かに人類史上最強クラスの魔法使いだったが、それでもアウラニースには到底敵わなかった。
しかし命からがら逃げ帰った後、魔王の心臓、魂、牙、爪を揃えて滅魔の黒杖を手にし、アウラニース軍を一人で全滅させ、アウラニースをも撃破したという。
余りの強さにメリンダは振り回されてしまい、アウラニースを滅ぼすだけの力は残らなかったという。
アウラニース封印後、メリンダは強すぎる武器を残す事を危惧し、破壊してしまったという。
「昔は七つあった大陸が今では六つしかないのが、メリンダとアウラニースの戦いの結果だという話だ」
大陸一つが跡形もなく消し飛んだというわけで、武器を破壊したメリンダが責められなかった理由である。
もっともこの逸話が半信半疑で伝わっているのも同じ理由なのだが。
(こっちでの方がやばくね?)
運営が修正する前の性能を持っている可能性は高そうだ。
もしかしたらより強くなっているかもしれない。
アウラニースが滅魔の武器でないと倒せない可能性があるのは頭が痛い。
とりあえずザガンのように復活する前に攻撃をしかけて倒してしまうのが一番だとマリウスは思った。
魔王を倒す為とは言え大陸を消し去るなんて、いくら何でも寝覚めが悪すぎるだろう。
もっともターリアント大陸に存在すると言われる魔王は後二体で、うち一体がアウラニースなのだから、滅魔の武器を作るのは非現実的だと言わざるをえないが。
「とりあえず各国には通達しておこう。マリウス殿が魔王ザガンと、魔王復活を目論んでいた魔人を倒したとな」
ザガンが滅んだ事で魔人達がどういう手段に出てくるのか、油断は許されない。
魔人には伝わらないようにしたいのだが、ゲーリックが人間に化けて潜入している以上、漏れない事はありえないだろう。
ゾフィの情報によるとまだ何体もの魔人がいるし、即ち数万の軍勢を用意する事は可能という事になる。
モンスター十万よりも魔人一体の方が厄介ではある。
上級魔人ともなればなおさらだ。
フィラートにはマリウスとゾフィがいるので、滅多な事はないだろうが。
「ああ。マリウス殿。貴殿が助けたキャサリン王女が、礼を言う為に来ると使者が来たぞ」
「王女自らですか?」SPANISCHE FLIEGE D6
頷く国王にマリウスは嫌な予感がする。
多少得たこちらの世界の常識だと、王女ともなると礼状を使者に持たせて金品をつければ充分のはずだ。
「ボルトナーとは仲よくやっていきたい。申し訳ないが、礼は丁重に受け取ってくれないだろうか」
マリウスは素直に了解した。
いたいけな少女に意地悪をする趣味はない。
まさか十二歳の少女までが色恋沙汰外交要員として来るという事はないだろうが……。
そんなマリウスの思い違いを指摘したのは私室で茶を淹れてくれたアイナだった。
「一国の王女が十歳で嫁いだ例はいくつもありますよ?」
むしろ身分が高い者程結婚が早い、という。
平民の結婚適齢期は十八歳からだそうだ。
そんな情報を聞いたマリウスは自分でも意外なくらいに驚かなかった。
無意識下では想定していたのだろう。
でもそうなると、ロヴィーサ、エマ、バーラ、アステリアといった王族の女性達は行き遅れという言葉が当てはまってしまうのではないのか。
声には出さなかったが、態度には出ていたのだろう。
アイナはたしなめるような言い方をした。
「ロヴィーサ様、エマ様、バーラ様は例外的です。悪い言い方をいたしますが、特にとりえのない方が早いのです」
「後、口はばったいですが、私のように王族や大貴族の方々にお仕えする者も遅くなりがちですね」
王族や大貴族の侍女は皆貴族の女性であり、箔をつける親が多い為に競争率は凄まじい。
アイナのようにロヴィーサの側にいられるという事は、それだけの生存競争に勝ち抜いた、非常に優秀な少女となり嫁として価値も高騰する。
「エマ様に至っては他国の王族が頭を下げて縁談を申し込んでくるような領域ですよ?」
親や家が鼻高々で強気に出られるし、少々年を食っても何の問題もないというわけだ。
(エマさん、美人で何でも出来るからなぁ)
おまけに戦闘力も侍女にしては強いと言える。
嫁の貰い手に困らないだろうな、とマリウスでも思う程だ。
「ちなみにアイナの年は?」
「十六です。女性に年を聞くのは失礼なんですよ?」
「聞いても失礼な年じゃないだろうに」
おどけて答えたアイナにおどけて返しておいた。
「そう言えば一夫多妻だけど、この国は誰々がやっているんだ?」
マリウスの疑問にアイナは記憶を掘り起こしながら答える。
「えーと陛下もですし、宰相様にルーカス様、ニルソン様、グランフェルト様、ヤーダベルス様、それから……」
「いや、もう充分だよ」
つまり重鎮全員で、尋ねたのが馬鹿馬鹿しく思えた。
一夫多妻に抵抗を示したマリウスに対して、皆があんな反応だったのも頷ける話だった。
「ぶっ」
アステリアは紅茶を噴き出すという、淑女としても国王としても失格な行いをやってしまったが、誰も咎めなかった。
フィラートの間者よりマリウスが生き埋め魔王を葬り去ったという報告が行われた為である。
「ま、魔王……魔王を、く、くくっ」
アステリアは笑いを堪えるのに必死だった。
ザガンと言えばターリアントでも悪名高き魔王なのに、何とも珍妙なやられ方をしたものだ。
(謹んでお悔やみを申し上げよう……)
ほんのわずかだがザガンに同情するゆとりも生まれたが、アステリア以外の者は全員が放心状態だった。
「え……?」
「い、生き埋め……?」
ホルディアという大国の中枢にいる者達でも例外ではなかった。
一瞬で精神の再建をしたアステリアは、今後の対策に頭を高速で回転させる。
魔人達が今回の件をしるのは恐らくまだ先の事だ。
彼らは情報の共有を軽んじ、伝達網を整備していない。
自分たちの力に驕りがあるのだった。SPANISCHE FLIEGE D5
最初に知るのは恐らくはゲーリックで、それからルーベンスに伝わる事となるだろう。
その時間差をいかさねばならない。
ランレオ王ヘンリー四世はバーラからの手紙を読んで唸った。
「魔王復活? 魔王の心臓……?」
笑い飛ばしたい事ばかりだが、娘の筆跡で書かれたものではそうはいかない。
娘は色々と残念な部分があるが、決して愚劣ではない。
早急に対策を練る必要があるだろう。
ただちに軍の上層部を召集し、強めの警戒を敷くように通達を出した。
下級魔人ならばともかく上級魔人はランレオ軍だけでは厳しい相手だ。
フィラートやセラエノと連携して事に当たりたいものだ。
こうなると講和派は先見の明があったと言えるかもしれない。
あくまでも結果論的には。
「魔王復活か……魔人どもめ、予の可愛い可愛い大事な大事なキャサリンを酷い目にあわせおって」
ボルトナー王は魔人への怒りを再燃させた。
「いかがいたしましょう。荒唐無稽なのにも程があるかと存じますが」
強い困惑を浮かべる重臣達を一喝する。
「たわけ、フィラート王は夢の世界に生きる御仁ではない! そもそもだ、黙っていた方が利益が大きいではないか。あの国にはマリウス殿がいるのだからな」
王の言葉に一同はなるほどと頷いた。
皆が脳筋に近かった。
セラエノ王デリクもフィラートからの通達に唸った。
「魔王の復活か……やはり魔人達はそれが狙いか」
「陛下、如何いたしましょう」
「我が国に該当地はない。あれば数十年前の段階で魔王は復活しているだろうからな。となるとランレオか、ベルガンダか? いずれにせよ、救援の用意はせねばなるまい。魔王は国や価値観を超えた、人類の敵だ」
「ははっ」
セラエノも対魔王、対魔軍を想定して動き始める。
しかし人間の愚かさか、全ての国が同調したわけではない。
「はは、フィラートは一気に大陸の盟主になろうという腹積もりか」
ベルガンダは信じなかった。
「何故今頃になって、なのか説明してもらわないとな」
ヴェスター、ガリウス、バルシャークは半信半疑だった。
このあたり、フィラートへの好感度が影響していたりする。
ランレオがすんなり信じたのはバーラのおかげだし、ガリウスが信じないのは王のせいだが。
ただ、ガリウス王はそれでも念の為に国内を調査しようと思った。
友好国であるフィラートへの義理立てみたいなものだ。K-Y
(魔王のくせに弱いぞ)
マリウスは八つ当たり的かつ利己的な怒りを覚えたが、どうしようもない。
幸いバーラは空気を読んで「ランレオに注意を呼びかける手紙を書く」と約束してくれた。
ルーカスもとりあえず魔王復活自体は事実だと、報告する事にした。levitra
魔王復活とそれを狙って魔人が動いている事は皆信じてくれるが、危機感はやはり皆無に近い。
マリウスが脱力してしまったくらいだから無理ないかもしれない。
どの魔王も弱くて取り越し苦労ですめばいいのだが……モンスターも魔人も軒並み弱い事を考えると心配しすぎている気がしてくる。
「これが魔王の心臓です」
ベルンハルト三世に差し出すと、差し出された方は及び腰になりながらも、まじまじと見つめる。
「四つ揃えると滅魔の武器が作れるという伝説の魔王シリーズか……」
ゴクリと唾を飲み込む。
エキストラアイテム「滅魔の武器」はその名の通り、魔属性に対して絶対的な攻撃力を誇る。
何せ修正前はただの上位プレイヤーがただの一撃で大規模戦闘ボスの魔王を倒せたくらいだ。
ゲームバランスを考慮しないエキストラアイテムを並べていた運営が唯一修正した、バランスブレーカー・オブ・バランスブレーカー。
と言えば聞こえがいいが、実のところただの欠陥品、それが滅魔の武器シリーズだ。
皆の反応から察するにこちらの世界でも凄いアイテムなのだろう。
「予が持っていても奪われかねんしな。マリウス殿が持っていてくれ」
「了解しました」
マリウスはしまうと滅魔の武器シリーズについて尋ねた。
「メリンダ=ギルフォードの伝説の一つにあるが、笑うしかないくらいの強さだぞ。メリンダの伝説でなかったら作り話としか思えぬ程にな」
メリンダ=ギルフォードは確かに人類史上最強クラスの魔法使いだったが、それでもアウラニースには到底敵わなかった。
しかし命からがら逃げ帰った後、魔王の心臓、魂、牙、爪を揃えて滅魔の黒杖を手にし、アウラニース軍を一人で全滅させ、アウラニースをも撃破したという。
余りの強さにメリンダは振り回されてしまい、アウラニースを滅ぼすだけの力は残らなかったという。
アウラニース封印後、メリンダは強すぎる武器を残す事を危惧し、破壊してしまったという。
「昔は七つあった大陸が今では六つしかないのが、メリンダとアウラニースの戦いの結果だという話だ」
大陸一つが跡形もなく消し飛んだというわけで、武器を破壊したメリンダが責められなかった理由である。
もっともこの逸話が半信半疑で伝わっているのも同じ理由なのだが。
(こっちでの方がやばくね?)
運営が修正する前の性能を持っている可能性は高そうだ。
もしかしたらより強くなっているかもしれない。
アウラニースが滅魔の武器でないと倒せない可能性があるのは頭が痛い。
とりあえずザガンのように復活する前に攻撃をしかけて倒してしまうのが一番だとマリウスは思った。
魔王を倒す為とは言え大陸を消し去るなんて、いくら何でも寝覚めが悪すぎるだろう。
もっともターリアント大陸に存在すると言われる魔王は後二体で、うち一体がアウラニースなのだから、滅魔の武器を作るのは非現実的だと言わざるをえないが。
「とりあえず各国には通達しておこう。マリウス殿が魔王ザガンと、魔王復活を目論んでいた魔人を倒したとな」
ザガンが滅んだ事で魔人達がどういう手段に出てくるのか、油断は許されない。
魔人には伝わらないようにしたいのだが、ゲーリックが人間に化けて潜入している以上、漏れない事はありえないだろう。
ゾフィの情報によるとまだ何体もの魔人がいるし、即ち数万の軍勢を用意する事は可能という事になる。
モンスター十万よりも魔人一体の方が厄介ではある。
上級魔人ともなればなおさらだ。
フィラートにはマリウスとゾフィがいるので、滅多な事はないだろうが。
「ああ。マリウス殿。貴殿が助けたキャサリン王女が、礼を言う為に来ると使者が来たぞ」
「王女自らですか?」SPANISCHE FLIEGE D6
頷く国王にマリウスは嫌な予感がする。
多少得たこちらの世界の常識だと、王女ともなると礼状を使者に持たせて金品をつければ充分のはずだ。
「ボルトナーとは仲よくやっていきたい。申し訳ないが、礼は丁重に受け取ってくれないだろうか」
マリウスは素直に了解した。
いたいけな少女に意地悪をする趣味はない。
まさか十二歳の少女までが色恋沙汰外交要員として来るという事はないだろうが……。
そんなマリウスの思い違いを指摘したのは私室で茶を淹れてくれたアイナだった。
「一国の王女が十歳で嫁いだ例はいくつもありますよ?」
むしろ身分が高い者程結婚が早い、という。
平民の結婚適齢期は十八歳からだそうだ。
そんな情報を聞いたマリウスは自分でも意外なくらいに驚かなかった。
無意識下では想定していたのだろう。
でもそうなると、ロヴィーサ、エマ、バーラ、アステリアといった王族の女性達は行き遅れという言葉が当てはまってしまうのではないのか。
声には出さなかったが、態度には出ていたのだろう。
アイナはたしなめるような言い方をした。
「ロヴィーサ様、エマ様、バーラ様は例外的です。悪い言い方をいたしますが、特にとりえのない方が早いのです」
「後、口はばったいですが、私のように王族や大貴族の方々にお仕えする者も遅くなりがちですね」
王族や大貴族の侍女は皆貴族の女性であり、箔をつける親が多い為に競争率は凄まじい。
アイナのようにロヴィーサの側にいられるという事は、それだけの生存競争に勝ち抜いた、非常に優秀な少女となり嫁として価値も高騰する。
「エマ様に至っては他国の王族が頭を下げて縁談を申し込んでくるような領域ですよ?」
親や家が鼻高々で強気に出られるし、少々年を食っても何の問題もないというわけだ。
(エマさん、美人で何でも出来るからなぁ)
おまけに戦闘力も侍女にしては強いと言える。
嫁の貰い手に困らないだろうな、とマリウスでも思う程だ。
「ちなみにアイナの年は?」
「十六です。女性に年を聞くのは失礼なんですよ?」
「聞いても失礼な年じゃないだろうに」
おどけて答えたアイナにおどけて返しておいた。
「そう言えば一夫多妻だけど、この国は誰々がやっているんだ?」
マリウスの疑問にアイナは記憶を掘り起こしながら答える。
「えーと陛下もですし、宰相様にルーカス様、ニルソン様、グランフェルト様、ヤーダベルス様、それから……」
「いや、もう充分だよ」
つまり重鎮全員で、尋ねたのが馬鹿馬鹿しく思えた。
一夫多妻に抵抗を示したマリウスに対して、皆があんな反応だったのも頷ける話だった。
「ぶっ」
アステリアは紅茶を噴き出すという、淑女としても国王としても失格な行いをやってしまったが、誰も咎めなかった。
フィラートの間者よりマリウスが生き埋め魔王を葬り去ったという報告が行われた為である。
「ま、魔王……魔王を、く、くくっ」
アステリアは笑いを堪えるのに必死だった。
ザガンと言えばターリアントでも悪名高き魔王なのに、何とも珍妙なやられ方をしたものだ。
(謹んでお悔やみを申し上げよう……)
ほんのわずかだがザガンに同情するゆとりも生まれたが、アステリア以外の者は全員が放心状態だった。
「え……?」
「い、生き埋め……?」
ホルディアという大国の中枢にいる者達でも例外ではなかった。
一瞬で精神の再建をしたアステリアは、今後の対策に頭を高速で回転させる。
魔人達が今回の件をしるのは恐らくまだ先の事だ。
彼らは情報の共有を軽んじ、伝達網を整備していない。
自分たちの力に驕りがあるのだった。SPANISCHE FLIEGE D5
最初に知るのは恐らくはゲーリックで、それからルーベンスに伝わる事となるだろう。
その時間差をいかさねばならない。
ランレオ王ヘンリー四世はバーラからの手紙を読んで唸った。
「魔王復活? 魔王の心臓……?」
笑い飛ばしたい事ばかりだが、娘の筆跡で書かれたものではそうはいかない。
娘は色々と残念な部分があるが、決して愚劣ではない。
早急に対策を練る必要があるだろう。
ただちに軍の上層部を召集し、強めの警戒を敷くように通達を出した。
下級魔人ならばともかく上級魔人はランレオ軍だけでは厳しい相手だ。
フィラートやセラエノと連携して事に当たりたいものだ。
こうなると講和派は先見の明があったと言えるかもしれない。
あくまでも結果論的には。
「魔王復活か……魔人どもめ、予の可愛い可愛い大事な大事なキャサリンを酷い目にあわせおって」
ボルトナー王は魔人への怒りを再燃させた。
「いかがいたしましょう。荒唐無稽なのにも程があるかと存じますが」
強い困惑を浮かべる重臣達を一喝する。
「たわけ、フィラート王は夢の世界に生きる御仁ではない! そもそもだ、黙っていた方が利益が大きいではないか。あの国にはマリウス殿がいるのだからな」
王の言葉に一同はなるほどと頷いた。
皆が脳筋に近かった。
セラエノ王デリクもフィラートからの通達に唸った。
「魔王の復活か……やはり魔人達はそれが狙いか」
「陛下、如何いたしましょう」
「我が国に該当地はない。あれば数十年前の段階で魔王は復活しているだろうからな。となるとランレオか、ベルガンダか? いずれにせよ、救援の用意はせねばなるまい。魔王は国や価値観を超えた、人類の敵だ」
「ははっ」
セラエノも対魔王、対魔軍を想定して動き始める。
しかし人間の愚かさか、全ての国が同調したわけではない。
「はは、フィラートは一気に大陸の盟主になろうという腹積もりか」
ベルガンダは信じなかった。
「何故今頃になって、なのか説明してもらわないとな」
ヴェスター、ガリウス、バルシャークは半信半疑だった。
このあたり、フィラートへの好感度が影響していたりする。
ランレオがすんなり信じたのはバーラのおかげだし、ガリウスが信じないのは王のせいだが。
ただ、ガリウス王はそれでも念の為に国内を調査しようと思った。
友好国であるフィラートへの義理立てみたいなものだ。K-Y
2012年11月19日星期一
本日は晴天なり
「ふん、ふ~ん♪」っと鼻歌をしながら、俺はゴソゴソと牛革で出来たトランクケースに荷物を入れていた。
「それじゃ最終チェック開始っと。米よ~し。赤と白味噌よ~し。醤油よ~し。----……」
二リットルペットボトルに入れた米や密封容器に入れた味噌等を鞄に入れた事を指で確認していた。V26即効ダイエット
「着替え、よ~し。……以上かな」
別に旅行に行く準備ではない。釣りに行く準備だ。
「ロッドケース、クーラーボックス、タックルボックス、ゴムボートっと! 準備万端。後は、綾香さんに出発の報告とお弁当を貰おう。……と?」
俺は二〇〇キログラムまで耐えれるキャリーカートにクーラー等をくくり付けていると、「コンコン」とドアをノックされたので「どうぞ~」と返事をした。
開いたドアの向こうに“年下の同級生”である岡山君が立っていた。
「白鷺さん。生徒会から呼び出しを受けましたよー。って何時もながら荷物が多いッすね? 米とか要るんですか?」
俺は自分の疑問より先に岡山君の質問に答えた。
「基本的に用心の為だよ。
昔、沖の磯で釣りをしていた時に、台風が急に進路を変えたせいで迎えの船が着岸出来なくて台風が去るまで過ごす羽目になってさ、その時に飯がなくて困ったのが教訓になったんだ。それ以来、荷物になっても食料を持って行く事にしてるのさ」
俺の回答に「はー、大変だったすね」と同情した感じで肯いた。
次に俺から質問した。
「ところで生徒会? 何のようかな、知ってる?」
呼び出される用件が思い付かないので、呼びに来てくれた岡山君に聞いてみた。
「いや~、分からないです。すいません、力になれなくて。」
謝る岡山君に対し「いや、こっちこそ無理言ってすまん」と頭を下げ、「じゃ、確かに連絡しましたから」といって岡山君は立ち去っていった。
俺は部屋着のジャージから、ジーパンにYシャツとラフな格好をし、上から六つボタンのライフジャケットを着た。
「ふむ、生徒会から呼び出しなんてなんだろう?」
と呟き、キャリーを引っ張りながら部屋を出た。
寮の入り口横の管理人室に入っていった。
「失礼します。綾香さーん。二二七号室の白鷺です。出発の連絡と荷物受け取りに来ました~」
俺は部屋の奥に居るであろう女性に声をかけた。
部屋の奥のキッチンから見た目は二十代前半の女性が小包を抱えて出てきた。
男子寮のアイドル? の『藤澤 綾香(ふじさわ あやか)』さん。
たれ目で泣きホクロがチャームポイントで、顔に皺が無く、とても若く見えた。
実際の年齢は五十代前半で、OB・OGが多い教師達も頭が上がらない存在である。
ちなみに綾香さんの美貌は学園七不思議のひとつにも数えられている。……俺も入ってるけどな、七不思議。
「あ、白鷺君。もう出発するの? はい、お弁当。無理しないでね」
「いつもすみません。お土産期待しててください」
俺は頭を下げると「いいのよ~」と頬に右手を当てながら左手でヒラヒラと手を振った。こういった仕草は年代を感じさせるが見た目が合っていない。
「お帰りは明日のお昼だったかしら?」
俺は弁当袋を受け取りショルダーバックに入れ、代わりに計画が書かれた紙を取り出し渡した。
「はい、一応、計画表を渡しておきます」
綾香さんは慣れた手つきでボードに紙を貼り、それを確認した俺は「失礼しました」っと部屋から出た。
玄関に貼ってある部屋割りの名札表を『退出』に裏返し、寮を出た。
「じゃ、いってらっしゃ~い♪」
綾香さんが後ろで手を振ってくれた。わざわざ外に出てきてくれたのか。……ああいう所が人気がでる秘訣なんだろうと心の中で呟いた。
さて、先ずは生徒会室に寄りますか!
★ ★ ★ ★ ★
普段ならそのまま学園の外に繋がる玄関方面に向かうのだが、生徒会から呼び出しを受けた為、校舎が建つ方向に足を向けた。
季節は五月の終わりで少し暑くなってきた。週が明けた月曜からは衣替えで夏服を着ることになるだろう。
寮から校舎までは徒歩十分程で、問題の生徒会は校舎ではなく独立した建物を持っている。仕事が多く、書類整理のために独立しているらしい。
俺が通う『私立御堂学園』は全寮制で生徒全員が寮生活を送っている。生徒総数は三学年全体で四五一人。
私立の割には授業料が国公立並に安い。
まあ、理事長の爺さん曰く「半分は自己満足でやっているからの」と茶を飲みながら話していた。理事長の個人資産で運用されているらしい。
『文武両道』が校訓だが、運動面はあまり厳しくない。その代わり学業の面では厳しく、テストで赤点を取るなどしたら即退学だ。留年などは存在しない。
俺は例外中の例外だ。理由は伏せておくが、俺に悪い所は無く、まあ金持ちの思惑が動いている。既に卒業した俺より年上の先輩連中は理由を知っているが、同級生や後輩は理由を知らない。V26Ⅱ即効減肥サプリ
おかげで怖がられたり、見下されたりしているが気にしていない。
考え事をしている内に生徒会の館に到着だ。荷物を載せているキャリーごと建物の中に入った。
建物に入って直にある『会長室』のドアをノックした。
中から『どうぞお入りください』と女性の凛とした声が聞こえた。更紗の声だなっと頭の片隅で思いながら「失礼します」とドアを開け、中に入った。
部屋の中には二つ机が有り、会長用と書かれた机の席に更紗が座っていた。
どうやら先客が居るらしい。
俺からみて左側のソファーに座っていた先客二人組を、目線だけを向け確認した。
一人は知っているがもう一人は知らん。目線を前に戻し、声をだした。
「普通科 三年A組 白鷺 紅(しらさぎ こう)。生徒会に呼び出しありと連絡を受け、出頭しました。それで呼び出し理由は何でしょうか?」
キザっぽい言い回しだが、何となくだ。去年の会長がこういった言い回しを好んでいたからな。
俺から見て、右側のソファーに座っていた副会長の池山 真治(いけやま しんじ)が鼻を鳴らし、俺を睨みつけてきた。何時もながら喧嘩売ってんのかこいつは……。
「はん、どういうわけか留年できた無能者がのうのうと。呼び出しを受けたのだから制服で来んかっ!」
うん。今回も百パー喧嘩を売っているな。
今度はその横にいた一年生で書記の藤枝(ふじえだ) つばさ嬢が先輩の言葉に同調して文句を言ってきた。
「呼び出された理由は思いつかないのですか? あまり会長の手を煩(わずら)わせないで下さい」
つばさ嬢は会長を尊敬しているらしく、誰に対してもこんな反応を示す。こいつも何時もの事だと思い聞き流す事にした。
一通り形式どおりの反応をし終わったのを確認して座っていた生徒会長の御堂 更紗(みどう さらさ)が声をだした。
「突然の呼び出しに足を向けていただき、有難うございます。立ったままではなんですからお座りください」
“ロ”の字に置かれたソファーで、生徒会メンバーと先に呼び出された二人が座った為、正面のソファーには更紗が座るだろうから、残っていた前のソファーに一人で座り、荷物もソファーの裏に置いた。
「さて、本来なら一人づつお声を掛けるべきでしたが、皆さんにも時間の都合があると思い、全員に集まってもらいました。
先ずは料理部の部長として来てもらった天の川さん」
席に座った更紗は開口一番に謝罪を述べ、次に左側に座っていた女子生徒・天の川 優姫に声をかけた。
「料理部が今年度予算で買ったオーブンが届いたそうですので受け取りのサインと設置に立ち会ってください。立会いの日時は明日の13時頃を予定しております。なにか都合が入っておりますか? 今なら変更がききますので」
天の川さんは手帳を取り出し予定を確認し「大丈夫です」と答えた。
それだけなら俺たちと一緒に呼び出さなくてもいいのでは? と思っていると、
「さて次の案件です。
料理部が現在、他のクラブ――主に農業部と釣り部から食材提供を受けておりますが、来月から廃止を検討しています。理由ですが安全の確認が取れていない品を使うのはどうかとPTAから忠告を受けました。学校側は生徒会に一任すると言われております。多数決の結果、廃止を検討する事になりました」
更紗は淡々と理由を述べているが結構重要なことだ。
学校創設以来の決まり事を止めるということなんだからさ。
天の川さんも困った様子で、
「急に言われても……。決まったんですか?」
更紗が口を開こうとしたら、池山が先に口を開いた。
「学校側が生徒会に一任すると言い、我々が決定を下したのだから下っ端はそれに従え」
……相変わらず喧嘩を売るというか、空気を読まない奴である。
天の川さんが「そんな……」と絶句している。
可哀想だし、俺も当事者の一員だから反論した。
「決定といいますが、俺たち当事者に断わり無く言われてもねぇー。……話し合いが先じゃないんですか?」
「そう「ふん! 無能がしゃしゃり出るな!」……」
更紗が口を開こうとしたら、池山が被せてきた。あー、殴りてー。
俺は池山をとりあえず無視することにし、更紗に提言した。
「とりあえず農業部や釣り部も交えて話し合いをしませんか? 料理部にしても提供を受けない分、食材を買う予算を付けてもらわないと困るでしょうし。いくら生徒会でも部活連を無視して決定は下せないはずですが?」
俺のセリフが正論の所為か、池山は舌打ちし、つばさ嬢は俺を睨んだ。……なぜ睨む。
「来週にも部活連を召集し、話し合いの場を持ちましょう。場合によっては予算を変更する必要もありますから」日本秀身堂救急箱
更紗は一つ肯き、俺の提言を受け入れたようだ。
「それでは天の川さんは退出していただいて結構です。明日の事を忘れないで下さい。今日は有難うございました」
天の川さんに頭を下げた。
天の川さんも「わかりました」といい、立ち上がって退出しようとした。
俺の横を通る時に小声で「有難うございます」といったので、俺は「いえいえ」と返した。部同士の助け合いは必要だからな。
バタンとドアが閉まるのを確認し、次につばさ嬢が「秋山君」と残っていた男子生徒に声を掛けた。
茶髪でバンダナとフィンガーグローブを着用して、少々うっとしい空気を醸し出している。
学園(うち)の校則はゆるい方だが、髪を染めたりするのは禁止だったはず。
「秋山君。貴方を呼び出した理由ですが、前から言ってましたが服装と髪の毛を校則に沿って守ってください。来週までに直さない場合は停学も有りえるそうです」
どうやら校則違反常習者らしい。一、二回の警告では停学までいかないはず。
秋山と呼ばれた男子は強気に、
「停学にしたいんならすれば好いだろ! 俺は俺の意地を通す!」
言っている事は格好いいが、膝が震えているぞ。見た目に反してチキンか?
残りの生徒会連中からは見えないが、俺や更紗からは見えている。
更紗は「ふぅ」と小さく一息入れた。
どうやら、この件は後回しするみたいだな。
「秋山君。貴方については後で話し合いの場を設けましょう。退出せず待っていてください。先に白鷺さんについて話しましょう」
やれやれ、やっと自分の番か。この様子だと碌でもない用件じゃないだろうな?
「白鷺さん。あなたに関しては……って、え!」
クールな更紗にしては珍しく驚いているが、俺も驚いている。
急に部屋が暗闇になったと思えば、次に白く光りだした。目を開けるのも辛い閃光だ。
「更紗!」
咄嗟に俺は机を横に除けて更紗を引っ張り、左手で抱え、右手でソファーの後ろにあった荷物類を持った。
……光は徐々に薄れていき、視力の方も回復してきた。
目に飛び込んできたのは、周りの壁が石造りをしており、見知らぬ部屋のようだ。
腕の中には更紗がいるし、右手にはキャリーとロッドケースをちゃんと持っている。
視力が完全に回復すると、目の前にいたローブを着た人間がいることに気づいた。
敵かな? と、俺が警戒していると、ローブの後ろから金髪の美少女が出てきた声を掛けてきた。
「ようこそ、勇者殿! 我がエレン…シ……ア……ってあれ? 複数いないか?」
凛とした声だったが最後は素っ頓狂な声をだした。
……勇者か。どうやら面倒な事になってきたぞ。簡約痩身
「それじゃ最終チェック開始っと。米よ~し。赤と白味噌よ~し。醤油よ~し。----……」
二リットルペットボトルに入れた米や密封容器に入れた味噌等を鞄に入れた事を指で確認していた。V26即効ダイエット
「着替え、よ~し。……以上かな」
別に旅行に行く準備ではない。釣りに行く準備だ。
「ロッドケース、クーラーボックス、タックルボックス、ゴムボートっと! 準備万端。後は、綾香さんに出発の報告とお弁当を貰おう。……と?」
俺は二〇〇キログラムまで耐えれるキャリーカートにクーラー等をくくり付けていると、「コンコン」とドアをノックされたので「どうぞ~」と返事をした。
開いたドアの向こうに“年下の同級生”である岡山君が立っていた。
「白鷺さん。生徒会から呼び出しを受けましたよー。って何時もながら荷物が多いッすね? 米とか要るんですか?」
俺は自分の疑問より先に岡山君の質問に答えた。
「基本的に用心の為だよ。
昔、沖の磯で釣りをしていた時に、台風が急に進路を変えたせいで迎えの船が着岸出来なくて台風が去るまで過ごす羽目になってさ、その時に飯がなくて困ったのが教訓になったんだ。それ以来、荷物になっても食料を持って行く事にしてるのさ」
俺の回答に「はー、大変だったすね」と同情した感じで肯いた。
次に俺から質問した。
「ところで生徒会? 何のようかな、知ってる?」
呼び出される用件が思い付かないので、呼びに来てくれた岡山君に聞いてみた。
「いや~、分からないです。すいません、力になれなくて。」
謝る岡山君に対し「いや、こっちこそ無理言ってすまん」と頭を下げ、「じゃ、確かに連絡しましたから」といって岡山君は立ち去っていった。
俺は部屋着のジャージから、ジーパンにYシャツとラフな格好をし、上から六つボタンのライフジャケットを着た。
「ふむ、生徒会から呼び出しなんてなんだろう?」
と呟き、キャリーを引っ張りながら部屋を出た。
寮の入り口横の管理人室に入っていった。
「失礼します。綾香さーん。二二七号室の白鷺です。出発の連絡と荷物受け取りに来ました~」
俺は部屋の奥に居るであろう女性に声をかけた。
部屋の奥のキッチンから見た目は二十代前半の女性が小包を抱えて出てきた。
男子寮のアイドル? の『藤澤 綾香(ふじさわ あやか)』さん。
たれ目で泣きホクロがチャームポイントで、顔に皺が無く、とても若く見えた。
実際の年齢は五十代前半で、OB・OGが多い教師達も頭が上がらない存在である。
ちなみに綾香さんの美貌は学園七不思議のひとつにも数えられている。……俺も入ってるけどな、七不思議。
「あ、白鷺君。もう出発するの? はい、お弁当。無理しないでね」
「いつもすみません。お土産期待しててください」
俺は頭を下げると「いいのよ~」と頬に右手を当てながら左手でヒラヒラと手を振った。こういった仕草は年代を感じさせるが見た目が合っていない。
「お帰りは明日のお昼だったかしら?」
俺は弁当袋を受け取りショルダーバックに入れ、代わりに計画が書かれた紙を取り出し渡した。
「はい、一応、計画表を渡しておきます」
綾香さんは慣れた手つきでボードに紙を貼り、それを確認した俺は「失礼しました」っと部屋から出た。
玄関に貼ってある部屋割りの名札表を『退出』に裏返し、寮を出た。
「じゃ、いってらっしゃ~い♪」
綾香さんが後ろで手を振ってくれた。わざわざ外に出てきてくれたのか。……ああいう所が人気がでる秘訣なんだろうと心の中で呟いた。
さて、先ずは生徒会室に寄りますか!
★ ★ ★ ★ ★
普段ならそのまま学園の外に繋がる玄関方面に向かうのだが、生徒会から呼び出しを受けた為、校舎が建つ方向に足を向けた。
季節は五月の終わりで少し暑くなってきた。週が明けた月曜からは衣替えで夏服を着ることになるだろう。
寮から校舎までは徒歩十分程で、問題の生徒会は校舎ではなく独立した建物を持っている。仕事が多く、書類整理のために独立しているらしい。
俺が通う『私立御堂学園』は全寮制で生徒全員が寮生活を送っている。生徒総数は三学年全体で四五一人。
私立の割には授業料が国公立並に安い。
まあ、理事長の爺さん曰く「半分は自己満足でやっているからの」と茶を飲みながら話していた。理事長の個人資産で運用されているらしい。
『文武両道』が校訓だが、運動面はあまり厳しくない。その代わり学業の面では厳しく、テストで赤点を取るなどしたら即退学だ。留年などは存在しない。
俺は例外中の例外だ。理由は伏せておくが、俺に悪い所は無く、まあ金持ちの思惑が動いている。既に卒業した俺より年上の先輩連中は理由を知っているが、同級生や後輩は理由を知らない。V26Ⅱ即効減肥サプリ
おかげで怖がられたり、見下されたりしているが気にしていない。
考え事をしている内に生徒会の館に到着だ。荷物を載せているキャリーごと建物の中に入った。
建物に入って直にある『会長室』のドアをノックした。
中から『どうぞお入りください』と女性の凛とした声が聞こえた。更紗の声だなっと頭の片隅で思いながら「失礼します」とドアを開け、中に入った。
部屋の中には二つ机が有り、会長用と書かれた机の席に更紗が座っていた。
どうやら先客が居るらしい。
俺からみて左側のソファーに座っていた先客二人組を、目線だけを向け確認した。
一人は知っているがもう一人は知らん。目線を前に戻し、声をだした。
「普通科 三年A組 白鷺 紅(しらさぎ こう)。生徒会に呼び出しありと連絡を受け、出頭しました。それで呼び出し理由は何でしょうか?」
キザっぽい言い回しだが、何となくだ。去年の会長がこういった言い回しを好んでいたからな。
俺から見て、右側のソファーに座っていた副会長の池山 真治(いけやま しんじ)が鼻を鳴らし、俺を睨みつけてきた。何時もながら喧嘩売ってんのかこいつは……。
「はん、どういうわけか留年できた無能者がのうのうと。呼び出しを受けたのだから制服で来んかっ!」
うん。今回も百パー喧嘩を売っているな。
今度はその横にいた一年生で書記の藤枝(ふじえだ) つばさ嬢が先輩の言葉に同調して文句を言ってきた。
「呼び出された理由は思いつかないのですか? あまり会長の手を煩(わずら)わせないで下さい」
つばさ嬢は会長を尊敬しているらしく、誰に対してもこんな反応を示す。こいつも何時もの事だと思い聞き流す事にした。
一通り形式どおりの反応をし終わったのを確認して座っていた生徒会長の御堂 更紗(みどう さらさ)が声をだした。
「突然の呼び出しに足を向けていただき、有難うございます。立ったままではなんですからお座りください」
“ロ”の字に置かれたソファーで、生徒会メンバーと先に呼び出された二人が座った為、正面のソファーには更紗が座るだろうから、残っていた前のソファーに一人で座り、荷物もソファーの裏に置いた。
「さて、本来なら一人づつお声を掛けるべきでしたが、皆さんにも時間の都合があると思い、全員に集まってもらいました。
先ずは料理部の部長として来てもらった天の川さん」
席に座った更紗は開口一番に謝罪を述べ、次に左側に座っていた女子生徒・天の川 優姫に声をかけた。
「料理部が今年度予算で買ったオーブンが届いたそうですので受け取りのサインと設置に立ち会ってください。立会いの日時は明日の13時頃を予定しております。なにか都合が入っておりますか? 今なら変更がききますので」
天の川さんは手帳を取り出し予定を確認し「大丈夫です」と答えた。
それだけなら俺たちと一緒に呼び出さなくてもいいのでは? と思っていると、
「さて次の案件です。
料理部が現在、他のクラブ――主に農業部と釣り部から食材提供を受けておりますが、来月から廃止を検討しています。理由ですが安全の確認が取れていない品を使うのはどうかとPTAから忠告を受けました。学校側は生徒会に一任すると言われております。多数決の結果、廃止を検討する事になりました」
更紗は淡々と理由を述べているが結構重要なことだ。
学校創設以来の決まり事を止めるということなんだからさ。
天の川さんも困った様子で、
「急に言われても……。決まったんですか?」
更紗が口を開こうとしたら、池山が先に口を開いた。
「学校側が生徒会に一任すると言い、我々が決定を下したのだから下っ端はそれに従え」
……相変わらず喧嘩を売るというか、空気を読まない奴である。
天の川さんが「そんな……」と絶句している。
可哀想だし、俺も当事者の一員だから反論した。
「決定といいますが、俺たち当事者に断わり無く言われてもねぇー。……話し合いが先じゃないんですか?」
「そう「ふん! 無能がしゃしゃり出るな!」……」
更紗が口を開こうとしたら、池山が被せてきた。あー、殴りてー。
俺は池山をとりあえず無視することにし、更紗に提言した。
「とりあえず農業部や釣り部も交えて話し合いをしませんか? 料理部にしても提供を受けない分、食材を買う予算を付けてもらわないと困るでしょうし。いくら生徒会でも部活連を無視して決定は下せないはずですが?」
俺のセリフが正論の所為か、池山は舌打ちし、つばさ嬢は俺を睨んだ。……なぜ睨む。
「来週にも部活連を召集し、話し合いの場を持ちましょう。場合によっては予算を変更する必要もありますから」日本秀身堂救急箱
更紗は一つ肯き、俺の提言を受け入れたようだ。
「それでは天の川さんは退出していただいて結構です。明日の事を忘れないで下さい。今日は有難うございました」
天の川さんに頭を下げた。
天の川さんも「わかりました」といい、立ち上がって退出しようとした。
俺の横を通る時に小声で「有難うございます」といったので、俺は「いえいえ」と返した。部同士の助け合いは必要だからな。
バタンとドアが閉まるのを確認し、次につばさ嬢が「秋山君」と残っていた男子生徒に声を掛けた。
茶髪でバンダナとフィンガーグローブを着用して、少々うっとしい空気を醸し出している。
学園(うち)の校則はゆるい方だが、髪を染めたりするのは禁止だったはず。
「秋山君。貴方を呼び出した理由ですが、前から言ってましたが服装と髪の毛を校則に沿って守ってください。来週までに直さない場合は停学も有りえるそうです」
どうやら校則違反常習者らしい。一、二回の警告では停学までいかないはず。
秋山と呼ばれた男子は強気に、
「停学にしたいんならすれば好いだろ! 俺は俺の意地を通す!」
言っている事は格好いいが、膝が震えているぞ。見た目に反してチキンか?
残りの生徒会連中からは見えないが、俺や更紗からは見えている。
更紗は「ふぅ」と小さく一息入れた。
どうやら、この件は後回しするみたいだな。
「秋山君。貴方については後で話し合いの場を設けましょう。退出せず待っていてください。先に白鷺さんについて話しましょう」
やれやれ、やっと自分の番か。この様子だと碌でもない用件じゃないだろうな?
「白鷺さん。あなたに関しては……って、え!」
クールな更紗にしては珍しく驚いているが、俺も驚いている。
急に部屋が暗闇になったと思えば、次に白く光りだした。目を開けるのも辛い閃光だ。
「更紗!」
咄嗟に俺は机を横に除けて更紗を引っ張り、左手で抱え、右手でソファーの後ろにあった荷物類を持った。
……光は徐々に薄れていき、視力の方も回復してきた。
目に飛び込んできたのは、周りの壁が石造りをしており、見知らぬ部屋のようだ。
腕の中には更紗がいるし、右手にはキャリーとロッドケースをちゃんと持っている。
視力が完全に回復すると、目の前にいたローブを着た人間がいることに気づいた。
敵かな? と、俺が警戒していると、ローブの後ろから金髪の美少女が出てきた声を掛けてきた。
「ようこそ、勇者殿! 我がエレン…シ……ア……ってあれ? 複数いないか?」
凛とした声だったが最後は素っ頓狂な声をだした。
……勇者か。どうやら面倒な事になってきたぞ。簡約痩身
2012年11月16日星期五
名前
俺がこの世界にやってきた日のことを思い出してみる。
もう遥か昔のようにも感じるが、たったの六日前のことだ。
そもそも俺がこの世界に飛ばされたのは、従妹の真希が、倉庫で見つけたおかしな道具に『俺なんてゲームの世界に行けばいい』と願ったことが原因だった。D10 媚薬 催情剤
故意ではないとはいえ真希にはずいぶんとひどいことをされたと思うが、それはとりあえず脇に置いて、その時のことをもう少し深く思い出して欲しい。
倉庫から見つかった道具は、一つではなかった。
どんな願いでも叶いそうな七つの玉や、三つまで願いを叶えてくれそうな猿の手のミイラ、壊れた電話ボックスに枯れた井戸、そして俺をこの世界に飛ばした打出の小槌。
そしてその他にもう一つだけ、真希がその場所で見つけた物があったのを覚えているだろうか。
そう、それは、一見何の変哲もなく思える細長い紙。
七夕で使う『短冊』である。
願いが叶う品物なんて言われても眉唾物だが、もしあの打出の小槌が本物だったとしたら、他も本当に願いを叶える効果を持っていたというのも考えられなくはない。
真希はあの日、その短冊に『お姫様になりたい』と書いたと話していた。
もちろんその時は何も起こらず、その短冊には特別な力はなかったのだと今の今まで思っていたが、それが単に、時期が来ていなかっただけだったとしたら?
『お姫様になりたい』という彼女の願いが、七夕、つまり7月7日の今日になって、急に叶ったと考えるとどうだろうか。
――真希がこの世界のお姫様、『マキ・エル・リヒト王女』になり、本来の王女だったシェルミアがその座から弾かれて俺の許にまで飛ばされてきた、とは考えられないだろうか。
当然これは恣意的な解釈という奴で、どうして真希がよりにもよってこのゲーム世界のお姫様になったのかとか、王女になるという条件を満たすためにどうして元の王女の立ち位置に取って代わる必要があったのかとか、王女だったシェルミアが消えたり別人になったりせずに、バグった状態で俺の所に飛ばされたのはどうしてかとか、そういう疑問全てに答えが出るような模範解答ではない。
だが、そういう諸々の不自然さを飲み込んでも、それでもある程度支持出来る仮説だと俺は思っている。
7月7日の午前0時近くに事が起こったというのは偶然にしては出来すぎであるし、それ以外にバグったシェルミア王女が俺の所に突然飛ばされてくるような状況は、はっきり言って思いつかないからだ。
「あんた、さっきからぶつぶつと、本当にだいじょぶかい?」
八百屋のおばちゃんにそう声をかけられて、そこで俺はハッと我に返った。
思考に没頭していた意識を、現実世界に浮上させる。
「あ、ああ、すみません。
実は俺、最近この国にやってきたばっかりで、記憶が混乱してたらしくて。
この国の王女は、真希……マキ様でしたよね。
彼女の噂とかはありませんか?」
慌てて取り繕い、今度はそう尋ねてみる。
おばちゃんの俺を見る視線は完全に不審者を見るそれになっていて、全く誤魔化し切れてはいなかったようだが、おばちゃんはそれ以上に噂好きだった。
俺の怪しさなど忘却の彼方にうっちゃって、すぐに王女の噂について話してくれた。
「うーん。いくらあたしでも、マキ王女の話題についてはそんなに聞かないねぇ。
そもそも王族なんて連中は、年がら年中城に引きこもって外には出て来ないからね。
おっと、あたしがこんなことを言っていたなんて、他の人には内緒だよ?」
「あはは、そうですよね。ありがとうございます」
そうやって受け答えをしながら、俺は考える。
もし真希が王女と入れ替わったのだとしたら、それはやはり今朝起こったのだろう。
だって、あのトラブルメイカーが何日も城でおとなしくしているはずがない。
それでも何の噂もないのだとしたら、彼女はここに来たばかりだと考える方が自然だ。
次に気にするべきは、この世界における彼女の立ち位置だろうか。
王女関連のフラグや能力を引き継いでいると考えるべきなのだろうか。
それに、イベントの強制力をどの程度受けるのかも個人的には気になる。
少なくとも俺に限って言えば、プレイヤーの時にあったシステムの干渉をほとんど受けていないように感じる。
『盗賊メリペの遺産』の埋まっている地面をイベントフラグが立っていない時に掘り返したのもそうだし、ゲームであれば観戦モードになって身動きが出来ないはずのイベントの最中でも、この世界では自由に動けた。
元々がゲームのNPCでない真希であれば、俺と同様にイベントの制約をほとんど受けない可能性もあるのだが、どうだろうか。
最悪、記憶や性格なんかもこのゲームの王女と同じにさせられていたとしたら、色々と面倒くさいことになりそうだ。
しかしどの道、真希以外の人間はゲームの時とある程度似通った行動を取るだろうし、そうすると真希と接触するのは非常に難しい。紅蜘蛛(媚薬催情粉)
イベントでしか外に出ない王女が表に出て来る機会は、本当に少ないのだ。
それでも本当に『マキ王女』が俺の知っている真希であるのなら、絶対に会って話をする必要がある。
だが逆に、ゲームの通りに話が進むなら、真希が危険に晒される可能性もごく少ないと言える。
『王都襲撃』イベント以外では、王女に危険が及ぶような状況はなかったはずだ。
時間的な猶予はある、と思っていいだろう。
彼女が元の世界のままの真希で、イベントの制約も受けない身分だといいのだが、どちらにせよ彼女と話が出来るイベントが起こるまでに、出来れば帰還の手がかりくらいつかんでおきたい。
消えたのが俺一人だったら、独り暮らしの大学生がいつの間にかいなくなりました、でそんなに影響はないかもしれないが、流石に真希までこっちの世界に来たとなると話が違ってくる。
ぼっちだった俺とは違って、真希には元の世界に色々とやり残したことがあるだろう。
トラブルを起こしてばっかりのしょうがない従妹ではあるが、せめて彼女だけでも元の世界に戻してやりたい。
「う、ぐ……」
そこまで考えて、嫌なことに思い至ってしまった。
帰還の手段を優先するのなら、また『あいつ』に会うというのがやはり正道だろう。
気は進まないが、こうなったら今からでも……。
(いや、待て待て)
今すぐに行ってもどうしようもないだろう。
何より、俺に相応の実力が伴う前に『あいつ』と行動を共にするのは危険すぎる。
「……ちょっと、落ち着こう」
やることが多すぎて、どうも混乱しているようだ。
まず先に片付けるべきこと、すぐにやれることを考えて、少しずつ処理していかなければ。
「……あ」
そうやって落ち着いて初めて、俺から少し離れた場所で、芯だけになったリンゴを持って所在なさげに立ち尽くす彼女に気付いた。
(何をやってるんだ、俺は)
まず優先すべきは、俺のことでも真希のことでもなく、真希の願いのせいで全てを失ってしまった彼女のことだったはずなのに。
「ええと、シェル……リンゴ」
シェルミアと言いかけて、すぐに言い直す。
少なくとも、俺がそれを教えるまで、彼女はシェルミアではなく、リンゴだ。
「君のことで、色々分かったことがあった。
一度宿に帰って、それを説明したいと思う」
そのリンゴに、俺はそんな風に言葉をかけた。
その時も彼女の目は俺を向いてはいなかったけれど、俺の言葉に応え、ミクロの単位で小さくうなずいていた。
宿に帰ってリンゴと二人で食事を頂いてから、部屋に戻ってリンゴに今回のことを説明することにする。
「こんな、まだ日の高い内から……」
部屋に入っていく俺たちを見て、なぜかアリスちゃんが戦慄の表情を浮かべていたが、聞こえなかったフリをしてリンゴと一緒に部屋に戻った。
「まず、なんで君が記憶を失っているかってことなんだが……」
流石にこの世界がゲームだとか、俺が別の世界から来たとかいう話をすると話がややこしくなりすぎる。
願いを叶えるアイテムなんていうのも、このファンタジー世界でのことにした方が受け入れやすいだろう。
俺は、俺の従妹が願いが叶うと言われているアイテムを使って『お姫様になりたい』と望んだこと。
そしてそれによって、本来のお姫様であったシェルミアが世界から弾き出され、俺の所にやってきた可能性があることなどを説明した。
話を要点だけに絞れば、そんなに語ることは多くはない。
元の彼女について、俺は記憶している限りのことを話して聞かせたが、彼女は特には反応を見せなかった。
流石にその無反応さが不安になってきたので、彼女にも話を振ってみることにした。
「って、ことなんだけど、何か分からないこととか訊きたいこととかはないか?」
そう問い掛けても、俺の言葉を聞いているのかいないのか、彼女は何の反応も見せずにしばらく虚空を見つめるばかりだったのだが、
「……なまえ」
身動き一つしなかった彼女が、やがてぽつりと漏らしたのは、そんな言葉だった。
「名前?」
思わず聞き返すと、彼女はごくごく控えめにうなずいた。紅蜘蛛 II(水剤+粉剤)
「まだ、聞いてない」
久しぶりに彼女がしゃべってくれたのだが、その内容に俺は首を傾げる。
彼女の本当の名前はシェルミアだと何度も話したはずだが……。
「あ、もしかして、俺の名前か?」
その思い付きを口に出すと、彼女は小さくうなずいた。
そういえば、彼女にまだきちんと名乗っていない気がする。
異常な状態に気を取られていたことも確かだが、これはうっかりしていた。
「悪かったな。俺は、相良……じゃなかった、ソーマ・サガラだ」
「……………」
しかし、俺が名乗っても彼女は特に反応を示さなかった。
聞いたからどうということでもないらしい。
(あ、そういや、名前……)
彼女の元々の名前は『シェルミア・エル・リヒト』。
鑑定紙に映ったのは『*ェ♯*♯・*♭・゛※*』だから、文字数的には正しいことになる。
そして、彼女を元の場所から弾き出した『願いの力』のせめてもの温情なのだろうか。
実は2文字目だけがさりげなく合っている所が心憎いというかなんというか。
そこまで考えて、俺の頭にちょっとした疑問が浮かんだ。
(そういえば、今鑑定紙を使えば前と結果が変わったりするのか?)
ゲーム的、コンピュータ的に考えると、本人の意識なんかで途中で名前のデータが書き換わるというのはあまり考えられない事態だ。
しかし、デジタルな物とそうでない物が奇妙に混交しているこの世界なら、彼女が自分の名前を認識したことでバグが改善されるということもありえる気がした。
「もう一度、君の名前を調べてもいいか?」
俺はそれを期待して彼女に許可を取り、彼女の腕に鑑定紙を張り付けた。
その結果は……。
リンゴ・サガラ : LV1
俺の予想を、ことごとく裏切るものだった。
「いや、おかしいだろ、これ」
我に返って、そうつぶやく。
なんか唐突に俺と兄妹か何かみたいな設定になっているし、適当に決めたはずのリンゴが正式な名前のようになっている。
「な、なぁ。いいのか、これ?」
俺が紙を見せると、やはり注意して見なければ分からないほど小さく、彼女はうなずいた。
だが、それこそ腑に落ちない。
「だけど、シェルミアっていうのが君の本当の名前なんだぞ?
それが分かったのに、まだ仮の名前を使い続けるっていうのは……」
だが俺のその言葉にも、彼女はいかにも億劫そうに小さく首を横に振るだけだった。
そして彼女は、深い知性を感じさせるその青い瞳に、自らの確固とした意志を込め……。
珍しく顔を上げてまっすぐに俺を見つめ、涼やかな声で言ったのだ。
「……だって、リンゴのほうが、おいしそう」
「えっ?」
人の名前は、時に『おいしさ』を基準にして決められることもある。
そんな世の理を学んだ、ある朝の一幕だった。紅蜘蛛赤くも催情粉
もう遥か昔のようにも感じるが、たったの六日前のことだ。
そもそも俺がこの世界に飛ばされたのは、従妹の真希が、倉庫で見つけたおかしな道具に『俺なんてゲームの世界に行けばいい』と願ったことが原因だった。D10 媚薬 催情剤
故意ではないとはいえ真希にはずいぶんとひどいことをされたと思うが、それはとりあえず脇に置いて、その時のことをもう少し深く思い出して欲しい。
倉庫から見つかった道具は、一つではなかった。
どんな願いでも叶いそうな七つの玉や、三つまで願いを叶えてくれそうな猿の手のミイラ、壊れた電話ボックスに枯れた井戸、そして俺をこの世界に飛ばした打出の小槌。
そしてその他にもう一つだけ、真希がその場所で見つけた物があったのを覚えているだろうか。
そう、それは、一見何の変哲もなく思える細長い紙。
七夕で使う『短冊』である。
願いが叶う品物なんて言われても眉唾物だが、もしあの打出の小槌が本物だったとしたら、他も本当に願いを叶える効果を持っていたというのも考えられなくはない。
真希はあの日、その短冊に『お姫様になりたい』と書いたと話していた。
もちろんその時は何も起こらず、その短冊には特別な力はなかったのだと今の今まで思っていたが、それが単に、時期が来ていなかっただけだったとしたら?
『お姫様になりたい』という彼女の願いが、七夕、つまり7月7日の今日になって、急に叶ったと考えるとどうだろうか。
――真希がこの世界のお姫様、『マキ・エル・リヒト王女』になり、本来の王女だったシェルミアがその座から弾かれて俺の許にまで飛ばされてきた、とは考えられないだろうか。
当然これは恣意的な解釈という奴で、どうして真希がよりにもよってこのゲーム世界のお姫様になったのかとか、王女になるという条件を満たすためにどうして元の王女の立ち位置に取って代わる必要があったのかとか、王女だったシェルミアが消えたり別人になったりせずに、バグった状態で俺の所に飛ばされたのはどうしてかとか、そういう疑問全てに答えが出るような模範解答ではない。
だが、そういう諸々の不自然さを飲み込んでも、それでもある程度支持出来る仮説だと俺は思っている。
7月7日の午前0時近くに事が起こったというのは偶然にしては出来すぎであるし、それ以外にバグったシェルミア王女が俺の所に突然飛ばされてくるような状況は、はっきり言って思いつかないからだ。
「あんた、さっきからぶつぶつと、本当にだいじょぶかい?」
八百屋のおばちゃんにそう声をかけられて、そこで俺はハッと我に返った。
思考に没頭していた意識を、現実世界に浮上させる。
「あ、ああ、すみません。
実は俺、最近この国にやってきたばっかりで、記憶が混乱してたらしくて。
この国の王女は、真希……マキ様でしたよね。
彼女の噂とかはありませんか?」
慌てて取り繕い、今度はそう尋ねてみる。
おばちゃんの俺を見る視線は完全に不審者を見るそれになっていて、全く誤魔化し切れてはいなかったようだが、おばちゃんはそれ以上に噂好きだった。
俺の怪しさなど忘却の彼方にうっちゃって、すぐに王女の噂について話してくれた。
「うーん。いくらあたしでも、マキ王女の話題についてはそんなに聞かないねぇ。
そもそも王族なんて連中は、年がら年中城に引きこもって外には出て来ないからね。
おっと、あたしがこんなことを言っていたなんて、他の人には内緒だよ?」
「あはは、そうですよね。ありがとうございます」
そうやって受け答えをしながら、俺は考える。
もし真希が王女と入れ替わったのだとしたら、それはやはり今朝起こったのだろう。
だって、あのトラブルメイカーが何日も城でおとなしくしているはずがない。
それでも何の噂もないのだとしたら、彼女はここに来たばかりだと考える方が自然だ。
次に気にするべきは、この世界における彼女の立ち位置だろうか。
王女関連のフラグや能力を引き継いでいると考えるべきなのだろうか。
それに、イベントの強制力をどの程度受けるのかも個人的には気になる。
少なくとも俺に限って言えば、プレイヤーの時にあったシステムの干渉をほとんど受けていないように感じる。
『盗賊メリペの遺産』の埋まっている地面をイベントフラグが立っていない時に掘り返したのもそうだし、ゲームであれば観戦モードになって身動きが出来ないはずのイベントの最中でも、この世界では自由に動けた。
元々がゲームのNPCでない真希であれば、俺と同様にイベントの制約をほとんど受けない可能性もあるのだが、どうだろうか。
最悪、記憶や性格なんかもこのゲームの王女と同じにさせられていたとしたら、色々と面倒くさいことになりそうだ。
しかしどの道、真希以外の人間はゲームの時とある程度似通った行動を取るだろうし、そうすると真希と接触するのは非常に難しい。紅蜘蛛(媚薬催情粉)
イベントでしか外に出ない王女が表に出て来る機会は、本当に少ないのだ。
それでも本当に『マキ王女』が俺の知っている真希であるのなら、絶対に会って話をする必要がある。
だが逆に、ゲームの通りに話が進むなら、真希が危険に晒される可能性もごく少ないと言える。
『王都襲撃』イベント以外では、王女に危険が及ぶような状況はなかったはずだ。
時間的な猶予はある、と思っていいだろう。
彼女が元の世界のままの真希で、イベントの制約も受けない身分だといいのだが、どちらにせよ彼女と話が出来るイベントが起こるまでに、出来れば帰還の手がかりくらいつかんでおきたい。
消えたのが俺一人だったら、独り暮らしの大学生がいつの間にかいなくなりました、でそんなに影響はないかもしれないが、流石に真希までこっちの世界に来たとなると話が違ってくる。
ぼっちだった俺とは違って、真希には元の世界に色々とやり残したことがあるだろう。
トラブルを起こしてばっかりのしょうがない従妹ではあるが、せめて彼女だけでも元の世界に戻してやりたい。
「う、ぐ……」
そこまで考えて、嫌なことに思い至ってしまった。
帰還の手段を優先するのなら、また『あいつ』に会うというのがやはり正道だろう。
気は進まないが、こうなったら今からでも……。
(いや、待て待て)
今すぐに行ってもどうしようもないだろう。
何より、俺に相応の実力が伴う前に『あいつ』と行動を共にするのは危険すぎる。
「……ちょっと、落ち着こう」
やることが多すぎて、どうも混乱しているようだ。
まず先に片付けるべきこと、すぐにやれることを考えて、少しずつ処理していかなければ。
「……あ」
そうやって落ち着いて初めて、俺から少し離れた場所で、芯だけになったリンゴを持って所在なさげに立ち尽くす彼女に気付いた。
(何をやってるんだ、俺は)
まず優先すべきは、俺のことでも真希のことでもなく、真希の願いのせいで全てを失ってしまった彼女のことだったはずなのに。
「ええと、シェル……リンゴ」
シェルミアと言いかけて、すぐに言い直す。
少なくとも、俺がそれを教えるまで、彼女はシェルミアではなく、リンゴだ。
「君のことで、色々分かったことがあった。
一度宿に帰って、それを説明したいと思う」
そのリンゴに、俺はそんな風に言葉をかけた。
その時も彼女の目は俺を向いてはいなかったけれど、俺の言葉に応え、ミクロの単位で小さくうなずいていた。
宿に帰ってリンゴと二人で食事を頂いてから、部屋に戻ってリンゴに今回のことを説明することにする。
「こんな、まだ日の高い内から……」
部屋に入っていく俺たちを見て、なぜかアリスちゃんが戦慄の表情を浮かべていたが、聞こえなかったフリをしてリンゴと一緒に部屋に戻った。
「まず、なんで君が記憶を失っているかってことなんだが……」
流石にこの世界がゲームだとか、俺が別の世界から来たとかいう話をすると話がややこしくなりすぎる。
願いを叶えるアイテムなんていうのも、このファンタジー世界でのことにした方が受け入れやすいだろう。
俺は、俺の従妹が願いが叶うと言われているアイテムを使って『お姫様になりたい』と望んだこと。
そしてそれによって、本来のお姫様であったシェルミアが世界から弾き出され、俺の所にやってきた可能性があることなどを説明した。
話を要点だけに絞れば、そんなに語ることは多くはない。
元の彼女について、俺は記憶している限りのことを話して聞かせたが、彼女は特には反応を見せなかった。
流石にその無反応さが不安になってきたので、彼女にも話を振ってみることにした。
「って、ことなんだけど、何か分からないこととか訊きたいこととかはないか?」
そう問い掛けても、俺の言葉を聞いているのかいないのか、彼女は何の反応も見せずにしばらく虚空を見つめるばかりだったのだが、
「……なまえ」
身動き一つしなかった彼女が、やがてぽつりと漏らしたのは、そんな言葉だった。
「名前?」
思わず聞き返すと、彼女はごくごく控えめにうなずいた。紅蜘蛛 II(水剤+粉剤)
「まだ、聞いてない」
久しぶりに彼女がしゃべってくれたのだが、その内容に俺は首を傾げる。
彼女の本当の名前はシェルミアだと何度も話したはずだが……。
「あ、もしかして、俺の名前か?」
その思い付きを口に出すと、彼女は小さくうなずいた。
そういえば、彼女にまだきちんと名乗っていない気がする。
異常な状態に気を取られていたことも確かだが、これはうっかりしていた。
「悪かったな。俺は、相良……じゃなかった、ソーマ・サガラだ」
「……………」
しかし、俺が名乗っても彼女は特に反応を示さなかった。
聞いたからどうということでもないらしい。
(あ、そういや、名前……)
彼女の元々の名前は『シェルミア・エル・リヒト』。
鑑定紙に映ったのは『*ェ♯*♯・*♭・゛※*』だから、文字数的には正しいことになる。
そして、彼女を元の場所から弾き出した『願いの力』のせめてもの温情なのだろうか。
実は2文字目だけがさりげなく合っている所が心憎いというかなんというか。
そこまで考えて、俺の頭にちょっとした疑問が浮かんだ。
(そういえば、今鑑定紙を使えば前と結果が変わったりするのか?)
ゲーム的、コンピュータ的に考えると、本人の意識なんかで途中で名前のデータが書き換わるというのはあまり考えられない事態だ。
しかし、デジタルな物とそうでない物が奇妙に混交しているこの世界なら、彼女が自分の名前を認識したことでバグが改善されるということもありえる気がした。
「もう一度、君の名前を調べてもいいか?」
俺はそれを期待して彼女に許可を取り、彼女の腕に鑑定紙を張り付けた。
その結果は……。
リンゴ・サガラ : LV1
俺の予想を、ことごとく裏切るものだった。
「いや、おかしいだろ、これ」
我に返って、そうつぶやく。
なんか唐突に俺と兄妹か何かみたいな設定になっているし、適当に決めたはずのリンゴが正式な名前のようになっている。
「な、なぁ。いいのか、これ?」
俺が紙を見せると、やはり注意して見なければ分からないほど小さく、彼女はうなずいた。
だが、それこそ腑に落ちない。
「だけど、シェルミアっていうのが君の本当の名前なんだぞ?
それが分かったのに、まだ仮の名前を使い続けるっていうのは……」
だが俺のその言葉にも、彼女はいかにも億劫そうに小さく首を横に振るだけだった。
そして彼女は、深い知性を感じさせるその青い瞳に、自らの確固とした意志を込め……。
珍しく顔を上げてまっすぐに俺を見つめ、涼やかな声で言ったのだ。
「……だって、リンゴのほうが、おいしそう」
「えっ?」
人の名前は、時に『おいしさ』を基準にして決められることもある。
そんな世の理を学んだ、ある朝の一幕だった。紅蜘蛛赤くも催情粉
2012年11月13日星期二
酷く真っ当な戦い
飛び出した俺に、敵の後衛からの矢と魔法攻撃が飛んでくる。
こちらに気付いたのは一部とはいえ、その母数は膨大。
攻撃の数もかなりの物になっているが、その大半は仲間に当たらないように曲射になっている。美人豹
ほとんどはこちらの移動速度に追いつけず、俺の背後に流れていくが、
(こっちは、当たるか!?)
直線に伸びてきたいくつかの攻撃は、俺に直撃するコースを取っている。
左右に振れば避けられるかもしれないが……。
(それじゃ、ここを抜けられない!)
ここでのタイムロスを避けたい俺は、あえてルートを変更。
自分から魔法攻撃に突っ込むような進路を取る。
(ステップハイステップ……)
距離を合わせるためにステップとハイステップでジグザグに移動して、魔法や矢を目前まで引き付けてから、
(……縮地!!)
弾幕の一番薄い一角に向かって、縮地で飛び込んでいく。
緊張の一瞬!
「――抜け、ろぉ!!」
叫びと共に、俺は弾幕の内側に入り込んでいた。
『猫耳猫』ではその仕様上、スキル使用中でもキャラクターの命中判定がなくなるということはない。
だからスキル使用で無敵状態になるということはないが、縮地はその速度ゆえ、最初の数メートルの判定が『抜ける』。
スキル使用の次の瞬間、命中判定位置が一気に3メートルほど先に飛ぶため、スキル使用位置から前方3メートル以内の場所にある攻撃を、結果的にすり抜けてしまうことになるのだ。
流石にモンスターや壁をすり抜けることは出来ないものの、タイミングさえそろえれば絶対に避けられないような攻撃を避けることも出来る。
(久しぶりにやったけど、うまくいったな)
うまく攻撃をすり抜けて、ほっと一安心。
何より、これで敵の近くまで入り込んだ。
縮地が終わり、一瞬のひやりとする間があって、
(来た!)
エアハンマーが発動して、俺の身体をさらに前へと運ぶ。
タイミングが遅めだったのは反省材料だが、これで完全に敵の懐に飛び込んだ。
それでも散発的に魔法や矢が飛んでくるが、最初の攻勢を躱した以上、そこにもう勢いはない。
(ステップ横薙ぎステップ、横薙ぎステップ……)
それをロングとショートのキャンセルを混ぜた神速キャンセルの小刻みな移動で避けながら、敵に接近して、
(……ステップ横薙ぎ!!)
最後の横薙ぎで、正面の魔法使いたちを一掃する。
(手応えあり!)
幸い、遠距離攻撃グループに高レベルモンスターはほとんどいない。
俺の放った横薙ぎはまるでバターでも切り裂くように魔物たちの身体をたやすく両断し、大太刀のスキルが生み出す半径3メートルを越える半円、その内側にいたモンスターはことごとく一瞬で絶命した。
幸先のいい滑り出し。
だが、
(やはり、前に進むのは無理か!)
敵の死体が邪魔で、すぐには前に進めない。
『猫耳猫』の、倒したモンスターの死体がしばらく残る、という仕様がここでも仇になった。
ここで無理に移動スキルで押し通ろうとすれば死体にぶつかって止まってしまうし、かといって棒立ちで死体が消えるのを待てば敵のいい的だ。
だとしたら、やっぱりここは……。
(ジャンプ、瞬突!)
敵の頭上に躍り上がるようにしてジャンプ。
そのジャンプの最高地点で、空中発動、空中移動が可能な短剣スキル、瞬突を使用する。
ステップほどの速度は出ないものの、身体は風を切って前に進み、
(そして、ここでっ!)
俺の背中が何かに押され、俺はさらに勢いよく前に飛び出していく。
遅めに発動予約していたエアハンマーが、今度はばっちりのタイミングで俺の身体を前方に押し出したのだ。
エアハンマーは上下方向の角度指定が出来ない。
だから単体で空を飛ぶことは出来ないが、空中での水平移動には抜群の性能を誇る。
(瞬突、エアハンマー、瞬突、エアハンマー、瞬突……)
瞬突と早めのエアハンマーをつないで、心なしか呆然と俺を見上げるモンスターの群れを越えていく。
そして、群れの最後の一匹、オールドゴブリンメイジをエアハンマーで飛び越えて、
(……エアハンマー、マジックスティール!!)
MP吸収効果のある短剣の第9スキル、『マジックスティール』で斬りつけて着地。
行きがけの駄賃として、エアハンマーの連発で消費したMPを補給させてもらう。
(ステップハイステップ、縮地!)
もちろんそこで止まりはしない。
後衛部隊の奥にある主力部隊が俺の本当の目標だ。
後衛と本隊との間の距離は、そんなに広がっていない。
KBキャンセルを混ぜた最速の移動で一気に駆け抜ける。
「うわっ!」
ちらりと後ろを振り返ると、抜き去った後衛部隊から、最後の土産とばかりにこちらに大量の魔法や矢が放たれるのが見えた。
あの数が当たればただでは済まない。
ただでは済まない、が、
(このまま、行く!)
俺は前進を選択。
ステップハイステップ縮地からのエアハンマーのコンボを二度繰り返して、最後、
(突っ込む!)
主力部隊の群れの中でも比較的安全そうな場所。
ブラックオークが固まっている地点に向かって突撃を敢行する。
(ステップ横薙ぎ、ステップハイステップ、っくう!)
至近距離へ接近してからの横薙ぎで敵を倒し、その死体の間を縫うように移動スキルで突っ込む。
流石に二つ目、ハイステップの段階で敵にぶつかって止まったが、群れの内部には入り込めた。超級脂肪燃焼弾
――そこに殺到する、無数の魔法と矢の攻撃。
いまだ消えずに残るオークの死体が即席の壁になる。
いくつかはオークの壁を抜けて俺に届くが、
(隠身!)
その瞬間に俺は忍刀スキル、『隠身』を使う。
絶対不可侵の黒いオーラが俺の身体を包み、飛んできた遠距離攻撃だけでなく、周りのモンスターからの近接攻撃も全て弾いた。
これでしばらくは隠身を使えないが、急場は凌いだ。
(……横薙ぎ、ハイステップ!)
横薙ぎで周りの敵を蹴散らしてから、ハイステップで後ろに跳んだ。
もう死体の壁は消えていたが、恐れていた後方からの第二射はない。
距離が離れすぎていて追撃がされなくなったか、ミツキがうまくやってくれたのだろう。
その代わりに前方へと目をやれば、目に映るのは、敵、敵、敵!
どこを見渡しても、モンスター以外の物が見えない。
絶望的とも言えるこの状況で、しかし俺は笑みを浮かべていた。
無数の敵の前に、思うのはこんなこと。
(これだ! これが本当の『猫耳猫』の戦闘なんだ!)
スキルを数発組み合わせて息切れしているようでは話にならない。
一瞬ごとに違うスキルを組み合わせ、KBキャンセルの度に次のスキル構成を練り、敵の攻撃を必死の思いで躱しながらコンボを組み立てていく。
それが普通で真っ当な、『猫耳猫』の戦いという物だろう。
そもそも『KBキャンセル』、つまりはカスタムエアハンマーやカスタムプチプロージョンなしにスキル戦闘をしろなどというのは、目隠しをしながら全力疾走をしろと言われているような物だ。
そのせいで、俺はこれまでストレスの溜まる戦闘を強いられてきた。
だが今。
万全とは言えない程度だが、必要なスキルや魔法、装備がそろってきている。
(つまり、ここからが本番だってことだ!)
時折頭上で光る雷撃の輝きに口の端を歪めながら、俺は手始めに左側のレッドキャップエリートの群れへと突っ込んでいった。
(横薙ぎ!)
敵の死体が残るという仕様は非常に不人気だが、集団を相手にする場合にはそれが優位に働く場合もある。
死体が残るということは、その場所へ奥にいるモンスターがやって来にくいということ。
要するに、前にいるモンスターを倒せば、しばらく余裕が出来る。
(ステップ、横薙ぎ!)
それでもその場に留まったままでは、やがて死体が消えて奥のモンスターが襲ってくるし、何より左右から押し込まれてしまう。
俺はステップで斜め横に跳んで、そちらから回り込もうとしていた新たなモンスターたちに、横薙ぎを喰らわせる。
(ステップ、横薙ぎ!)
後は、その繰り返し。
レッドキャップエリートやブラックオークは大挙して迫ってくるが、それはむしろ好都合。
横薙ぎの一撃で死んでいく人数が、ただ増えるだけ。
(ステップ、横薙ぎ!)
目の前の敵を斬って、横に跳んで、また目の前の敵を斬って、の繰り返し。
それを4回ほど、反復して、
(エアハンマー!)
予約発動させたエアハンマーによって移動するというのを、基本パターンとする。
本当はステップの代わりにハイステップを使えれば楽なのだが、ハイステップからは下位の攻撃スキルである横薙ぎにはつながらないし、スタミナの消費量も多い。
ステップと横薙ぎのセットを4回分。
それが、エアハンマー中に回復出来るスタミナ量の限界だった。
(ステップ、横薙ぎ、……!?)
だが、流石にルーチンワークで済ませるという訳にはいかないようだ。
目の前のブラックオークの集団の奥、こちらに迫る、巨大な斧を持った半獣半人の怪物の姿を見つける。
サベッジミノタウロス。
レベル155ながら、強大な攻撃力を持つ厄介な相手だ。
そこから若干外れた場所、ここから少し遠い所にはグレイトリザード、レベル140の姿も見える。
不意を打たれたりすれば面倒だ。
(先に仕掛ける!)
次のエアハンマーまでの間にミノタウロス前の敵を優先的に排除、エアハンマーでのノックバック中に、
(パワーアップ、エアハンマー!)
エアハンマーだけでなく、パワーアップも詠唱、発動予約する。
そして、
(ステップ、横薙ぎ!)
パワーアップの発動に合わせての横薙ぎ。
それはサベッジミノタウロスを見事に捉え、周りのオークも巻き込んで一刀両断。
「やった!」
俺は思わず歓声を上げ、
「えっ!?」
そのせいで、迫ってくるもう一つの巨体に気付かなかった。
気配に気付いた時にはもう遅い。
(グレイトリザ――!?)
大写しになるグレイトリザードの巨体!
この突進は避けられない!
「がっ!」
吹き飛ばされる。
一瞬、意識が飛ぶ。
それから、
(痛い! 痛い! 痛い!)
全身を襲う耐えがたい痛み。
痛い、確かに痛いが、
(ブラッディスタッブ!)
これだけでもう、痛みは消える。
ブラッディスタッブの反転した闇属性攻撃が、俺の身体を瞬時に癒す。
(……大丈夫)
スタンならともかく、ノックバックなら問題ない。
一撃で死ななければ大丈夫。
すぐに立て直せる。
それよりも、自分の甘さを悔やむ。SUPER FAT BURNING
ミノタウロスを倒したことで油断して、もう一匹の敵を警戒するのを忘れていた。
ゲーム時代ではありえないミス。
だが、長々と反省している暇はない。
(朧残月、ステッ…くっ!)
結果的に距離の離れたグレイトリザードに朧残月を置き、すぐにそこから移動しようとしたが、吹き飛ばしを挟んだせいでエアハンマーのタイミングが致命的にずれる。
痛みに気を取られて、秒数を数えるのをすっかり忘れていた。
やはりゲームの時にはあり得なかった、明らかな失態。
想定外の移動で、敵の前に無防備に躍り出る。
ここぞとばかりに群がってくるブラックオーク。
「…っのぉ!」
それでもノックバックが切れる前にエアハンマーをセット。
地面に足が付いた瞬間、横薙ぎで前方のオークを薙ぎ払ったところで、
「なっ!」
一難去ってまた一難。
朧残月で死んだグレイトリザードと無数のオークを蹴散らしながら、今度は巨大なダンゴ虫みたいな生き物が凄い勢いで転がってくる。
レベル150のモンスター、ヒュージバグ。
まるで『猫耳猫』そのものを指しているかのような適当な名前だが、あの転がりには強制スタンがついている上に、背中の防御力が非常に高い。
パワーアップをかけていない近接攻撃ではおそらく弾かれる。
(ステップ、縮地!!)
追尾性がある転がりを、ステップで後ろに跳んでわざと追いつかせてから、本命の縮地で横に跳んでギリギリ避ける。
が、避けた先に、
「じょう、だんっ!?」
レベル170デスアーマー!
高レベルな上、明らかにボスクラスのモンスター!
(こんなのまでいるのか、ここはっ!!)
内心悪態をつきながらも反射的に横薙ぎを放つが、
(通らない…!?)
鎧によって止められる。
たいまつシショーに最初に攻撃した時と同じだ。
近接攻撃スキルであまりに威力が足りないと攻撃が弾かれたと判定され、硬直が発生する。
足の止まった俺に、デスアーマーが大剣を振りかぶる。
「しまっ…!?」
背筋を走る悪寒。
しかし寸前で、身体が急速に後ろに吹き飛ばされる。
方向を後ろに発動予約していたエアハンマーに命を救われた。
だが後ろに目をやると、ヒュージバグが方向転換、ふたたびこちらに向かって来ようとしている。
加えて目の前のデスアーマーは、いまだ無傷でこちらを狙っている。
(くそ、行けるか?!)
一体ずつならともかく、こんな奴らを同時に相手にするほどの実力はない。
ヒュージバグの速度と、デスアーマーの挙動、それを、思い出して……。
(いや、無理でも、やるしかない!!)
祈るような気持ちでエアハンマーの詠唱を済ませ、始動。
「邪魔だ!」
右側に迫ってきていたオークを一掃、ステップで前進。
剣を構え直したデスアーマーの前に出て、攻撃を誘う。
思惑通りに攻撃は来たが、
(よりにもよって…!)
一番避けにくい薙ぎ払い。
縮地で後ろに逃げたいところだが、
(こ、のっ!)
それでもステップ以外で避けたら時間にズレが出る。
決死の思いで振りかぶった腕に向けてステップ。
相手の攻撃を潜り抜けるようにして回避を試みる!
(あぶ、なぁっ!!)
まさに間一髪、頭の上を大剣が唸りを上げて通り過ぎる。
心臓が冷たい手につかまれたように縮み上がった。
しかし、本番はここからだ。終極痩身
(それ、からっ!)
タイミングに余裕はない。
神速キャンセルで後ろにステップ。
元の位置にもどる。
(これで……来た!!)
後ろから、轟音と共にヒュージバグが迫る。
完全な挟み撃ち、だが、ここで、
「天覇無窮飛翔剣!」
剣スキル、『天覇無窮飛翔剣』を発動。
俺の身体は、ジャンプとは比べ物にならないほどの速度で上に跳び上がる。
直前で目標に避けられたヒュージバグは止まり切れず、目の前のデスアーマーに激突する!
(よし!)
ヒュージバグはデスアーマーに転がりを止められて硬直、デスアーマーは転がりの強制スタンを喰らって硬直、二体同時に動きを封じた。
天覇の落下が始まる前に、エアハンマーが空中で発動。
空に浮いたまま後ろに飛ぶ。
滑空をしながら、
(パワーアップパワーアップパワーアップ!!)
落下までの時間で呪文詠唱。
時間差で魔法を複数セット。
着地と同時に、不知火を振りかぶり、
(朧残月、ステップ朧残月、ステップ朧残月――)
パワーアップの発動に合わせ、ヒュージバグとデスアーマー、両方に当たるように位置を調節した朧残月三つを発動!
さらに、
(ハイステップ、ジャンプ横薙ぎ!!)
最後の朧残月には横薙ぎを重ねて、
「朧十字斬り!!」
叫びと一緒に、気合を乗せる!
今度の横薙ぎは鎧に弾かれることなく、ヒュージバグの外殻を、そしてデスアーマーの鎧を切り裂く。
二体のモンスターに刻まれる、十字の斬線。
パワーアップの効いた四発の攻撃には流石のヒュージバグとデスアーマーも耐え切れなかったらしく、二体は粒子になって空に消えていくが、
「……くそ!」
それを見ながら、俺は歯噛みをしていた。
技後硬直で、身体が動かない。
パワーアップを三つ重ねるのが精いっぱいで、硬直キャンセル用の魔法を使えなかった。
それに、二発目の朧残月は放った角度がズレて、デスアーマーにしか当たっていなかった。
「まだまだ、甘い」
そうつぶやいたところで、横薙ぎの硬直が終わる。
自らの戦闘技術の衰えに苛立ちを感じながらも、それでも戦いは続いていく。御秀堂 養顔痩身カプセル
こちらに気付いたのは一部とはいえ、その母数は膨大。
攻撃の数もかなりの物になっているが、その大半は仲間に当たらないように曲射になっている。美人豹
ほとんどはこちらの移動速度に追いつけず、俺の背後に流れていくが、
(こっちは、当たるか!?)
直線に伸びてきたいくつかの攻撃は、俺に直撃するコースを取っている。
左右に振れば避けられるかもしれないが……。
(それじゃ、ここを抜けられない!)
ここでのタイムロスを避けたい俺は、あえてルートを変更。
自分から魔法攻撃に突っ込むような進路を取る。
(ステップハイステップ……)
距離を合わせるためにステップとハイステップでジグザグに移動して、魔法や矢を目前まで引き付けてから、
(……縮地!!)
弾幕の一番薄い一角に向かって、縮地で飛び込んでいく。
緊張の一瞬!
「――抜け、ろぉ!!」
叫びと共に、俺は弾幕の内側に入り込んでいた。
『猫耳猫』ではその仕様上、スキル使用中でもキャラクターの命中判定がなくなるということはない。
だからスキル使用で無敵状態になるということはないが、縮地はその速度ゆえ、最初の数メートルの判定が『抜ける』。
スキル使用の次の瞬間、命中判定位置が一気に3メートルほど先に飛ぶため、スキル使用位置から前方3メートル以内の場所にある攻撃を、結果的にすり抜けてしまうことになるのだ。
流石にモンスターや壁をすり抜けることは出来ないものの、タイミングさえそろえれば絶対に避けられないような攻撃を避けることも出来る。
(久しぶりにやったけど、うまくいったな)
うまく攻撃をすり抜けて、ほっと一安心。
何より、これで敵の近くまで入り込んだ。
縮地が終わり、一瞬のひやりとする間があって、
(来た!)
エアハンマーが発動して、俺の身体をさらに前へと運ぶ。
タイミングが遅めだったのは反省材料だが、これで完全に敵の懐に飛び込んだ。
それでも散発的に魔法や矢が飛んでくるが、最初の攻勢を躱した以上、そこにもう勢いはない。
(ステップ横薙ぎステップ、横薙ぎステップ……)
それをロングとショートのキャンセルを混ぜた神速キャンセルの小刻みな移動で避けながら、敵に接近して、
(……ステップ横薙ぎ!!)
最後の横薙ぎで、正面の魔法使いたちを一掃する。
(手応えあり!)
幸い、遠距離攻撃グループに高レベルモンスターはほとんどいない。
俺の放った横薙ぎはまるでバターでも切り裂くように魔物たちの身体をたやすく両断し、大太刀のスキルが生み出す半径3メートルを越える半円、その内側にいたモンスターはことごとく一瞬で絶命した。
幸先のいい滑り出し。
だが、
(やはり、前に進むのは無理か!)
敵の死体が邪魔で、すぐには前に進めない。
『猫耳猫』の、倒したモンスターの死体がしばらく残る、という仕様がここでも仇になった。
ここで無理に移動スキルで押し通ろうとすれば死体にぶつかって止まってしまうし、かといって棒立ちで死体が消えるのを待てば敵のいい的だ。
だとしたら、やっぱりここは……。
(ジャンプ、瞬突!)
敵の頭上に躍り上がるようにしてジャンプ。
そのジャンプの最高地点で、空中発動、空中移動が可能な短剣スキル、瞬突を使用する。
ステップほどの速度は出ないものの、身体は風を切って前に進み、
(そして、ここでっ!)
俺の背中が何かに押され、俺はさらに勢いよく前に飛び出していく。
遅めに発動予約していたエアハンマーが、今度はばっちりのタイミングで俺の身体を前方に押し出したのだ。
エアハンマーは上下方向の角度指定が出来ない。
だから単体で空を飛ぶことは出来ないが、空中での水平移動には抜群の性能を誇る。
(瞬突、エアハンマー、瞬突、エアハンマー、瞬突……)
瞬突と早めのエアハンマーをつないで、心なしか呆然と俺を見上げるモンスターの群れを越えていく。
そして、群れの最後の一匹、オールドゴブリンメイジをエアハンマーで飛び越えて、
(……エアハンマー、マジックスティール!!)
MP吸収効果のある短剣の第9スキル、『マジックスティール』で斬りつけて着地。
行きがけの駄賃として、エアハンマーの連発で消費したMPを補給させてもらう。
(ステップハイステップ、縮地!)
もちろんそこで止まりはしない。
後衛部隊の奥にある主力部隊が俺の本当の目標だ。
後衛と本隊との間の距離は、そんなに広がっていない。
KBキャンセルを混ぜた最速の移動で一気に駆け抜ける。
「うわっ!」
ちらりと後ろを振り返ると、抜き去った後衛部隊から、最後の土産とばかりにこちらに大量の魔法や矢が放たれるのが見えた。
あの数が当たればただでは済まない。
ただでは済まない、が、
(このまま、行く!)
俺は前進を選択。
ステップハイステップ縮地からのエアハンマーのコンボを二度繰り返して、最後、
(突っ込む!)
主力部隊の群れの中でも比較的安全そうな場所。
ブラックオークが固まっている地点に向かって突撃を敢行する。
(ステップ横薙ぎ、ステップハイステップ、っくう!)
至近距離へ接近してからの横薙ぎで敵を倒し、その死体の間を縫うように移動スキルで突っ込む。
流石に二つ目、ハイステップの段階で敵にぶつかって止まったが、群れの内部には入り込めた。超級脂肪燃焼弾
――そこに殺到する、無数の魔法と矢の攻撃。
いまだ消えずに残るオークの死体が即席の壁になる。
いくつかはオークの壁を抜けて俺に届くが、
(隠身!)
その瞬間に俺は忍刀スキル、『隠身』を使う。
絶対不可侵の黒いオーラが俺の身体を包み、飛んできた遠距離攻撃だけでなく、周りのモンスターからの近接攻撃も全て弾いた。
これでしばらくは隠身を使えないが、急場は凌いだ。
(……横薙ぎ、ハイステップ!)
横薙ぎで周りの敵を蹴散らしてから、ハイステップで後ろに跳んだ。
もう死体の壁は消えていたが、恐れていた後方からの第二射はない。
距離が離れすぎていて追撃がされなくなったか、ミツキがうまくやってくれたのだろう。
その代わりに前方へと目をやれば、目に映るのは、敵、敵、敵!
どこを見渡しても、モンスター以外の物が見えない。
絶望的とも言えるこの状況で、しかし俺は笑みを浮かべていた。
無数の敵の前に、思うのはこんなこと。
(これだ! これが本当の『猫耳猫』の戦闘なんだ!)
スキルを数発組み合わせて息切れしているようでは話にならない。
一瞬ごとに違うスキルを組み合わせ、KBキャンセルの度に次のスキル構成を練り、敵の攻撃を必死の思いで躱しながらコンボを組み立てていく。
それが普通で真っ当な、『猫耳猫』の戦いという物だろう。
そもそも『KBキャンセル』、つまりはカスタムエアハンマーやカスタムプチプロージョンなしにスキル戦闘をしろなどというのは、目隠しをしながら全力疾走をしろと言われているような物だ。
そのせいで、俺はこれまでストレスの溜まる戦闘を強いられてきた。
だが今。
万全とは言えない程度だが、必要なスキルや魔法、装備がそろってきている。
(つまり、ここからが本番だってことだ!)
時折頭上で光る雷撃の輝きに口の端を歪めながら、俺は手始めに左側のレッドキャップエリートの群れへと突っ込んでいった。
(横薙ぎ!)
敵の死体が残るという仕様は非常に不人気だが、集団を相手にする場合にはそれが優位に働く場合もある。
死体が残るということは、その場所へ奥にいるモンスターがやって来にくいということ。
要するに、前にいるモンスターを倒せば、しばらく余裕が出来る。
(ステップ、横薙ぎ!)
それでもその場に留まったままでは、やがて死体が消えて奥のモンスターが襲ってくるし、何より左右から押し込まれてしまう。
俺はステップで斜め横に跳んで、そちらから回り込もうとしていた新たなモンスターたちに、横薙ぎを喰らわせる。
(ステップ、横薙ぎ!)
後は、その繰り返し。
レッドキャップエリートやブラックオークは大挙して迫ってくるが、それはむしろ好都合。
横薙ぎの一撃で死んでいく人数が、ただ増えるだけ。
(ステップ、横薙ぎ!)
目の前の敵を斬って、横に跳んで、また目の前の敵を斬って、の繰り返し。
それを4回ほど、反復して、
(エアハンマー!)
予約発動させたエアハンマーによって移動するというのを、基本パターンとする。
本当はステップの代わりにハイステップを使えれば楽なのだが、ハイステップからは下位の攻撃スキルである横薙ぎにはつながらないし、スタミナの消費量も多い。
ステップと横薙ぎのセットを4回分。
それが、エアハンマー中に回復出来るスタミナ量の限界だった。
(ステップ、横薙ぎ、……!?)
だが、流石にルーチンワークで済ませるという訳にはいかないようだ。
目の前のブラックオークの集団の奥、こちらに迫る、巨大な斧を持った半獣半人の怪物の姿を見つける。
サベッジミノタウロス。
レベル155ながら、強大な攻撃力を持つ厄介な相手だ。
そこから若干外れた場所、ここから少し遠い所にはグレイトリザード、レベル140の姿も見える。
不意を打たれたりすれば面倒だ。
(先に仕掛ける!)
次のエアハンマーまでの間にミノタウロス前の敵を優先的に排除、エアハンマーでのノックバック中に、
(パワーアップ、エアハンマー!)
エアハンマーだけでなく、パワーアップも詠唱、発動予約する。
そして、
(ステップ、横薙ぎ!)
パワーアップの発動に合わせての横薙ぎ。
それはサベッジミノタウロスを見事に捉え、周りのオークも巻き込んで一刀両断。
「やった!」
俺は思わず歓声を上げ、
「えっ!?」
そのせいで、迫ってくるもう一つの巨体に気付かなかった。
気配に気付いた時にはもう遅い。
(グレイトリザ――!?)
大写しになるグレイトリザードの巨体!
この突進は避けられない!
「がっ!」
吹き飛ばされる。
一瞬、意識が飛ぶ。
それから、
(痛い! 痛い! 痛い!)
全身を襲う耐えがたい痛み。
痛い、確かに痛いが、
(ブラッディスタッブ!)
これだけでもう、痛みは消える。
ブラッディスタッブの反転した闇属性攻撃が、俺の身体を瞬時に癒す。
(……大丈夫)
スタンならともかく、ノックバックなら問題ない。
一撃で死ななければ大丈夫。
すぐに立て直せる。
それよりも、自分の甘さを悔やむ。SUPER FAT BURNING
ミノタウロスを倒したことで油断して、もう一匹の敵を警戒するのを忘れていた。
ゲーム時代ではありえないミス。
だが、長々と反省している暇はない。
(朧残月、ステッ…くっ!)
結果的に距離の離れたグレイトリザードに朧残月を置き、すぐにそこから移動しようとしたが、吹き飛ばしを挟んだせいでエアハンマーのタイミングが致命的にずれる。
痛みに気を取られて、秒数を数えるのをすっかり忘れていた。
やはりゲームの時にはあり得なかった、明らかな失態。
想定外の移動で、敵の前に無防備に躍り出る。
ここぞとばかりに群がってくるブラックオーク。
「…っのぉ!」
それでもノックバックが切れる前にエアハンマーをセット。
地面に足が付いた瞬間、横薙ぎで前方のオークを薙ぎ払ったところで、
「なっ!」
一難去ってまた一難。
朧残月で死んだグレイトリザードと無数のオークを蹴散らしながら、今度は巨大なダンゴ虫みたいな生き物が凄い勢いで転がってくる。
レベル150のモンスター、ヒュージバグ。
まるで『猫耳猫』そのものを指しているかのような適当な名前だが、あの転がりには強制スタンがついている上に、背中の防御力が非常に高い。
パワーアップをかけていない近接攻撃ではおそらく弾かれる。
(ステップ、縮地!!)
追尾性がある転がりを、ステップで後ろに跳んでわざと追いつかせてから、本命の縮地で横に跳んでギリギリ避ける。
が、避けた先に、
「じょう、だんっ!?」
レベル170デスアーマー!
高レベルな上、明らかにボスクラスのモンスター!
(こんなのまでいるのか、ここはっ!!)
内心悪態をつきながらも反射的に横薙ぎを放つが、
(通らない…!?)
鎧によって止められる。
たいまつシショーに最初に攻撃した時と同じだ。
近接攻撃スキルであまりに威力が足りないと攻撃が弾かれたと判定され、硬直が発生する。
足の止まった俺に、デスアーマーが大剣を振りかぶる。
「しまっ…!?」
背筋を走る悪寒。
しかし寸前で、身体が急速に後ろに吹き飛ばされる。
方向を後ろに発動予約していたエアハンマーに命を救われた。
だが後ろに目をやると、ヒュージバグが方向転換、ふたたびこちらに向かって来ようとしている。
加えて目の前のデスアーマーは、いまだ無傷でこちらを狙っている。
(くそ、行けるか?!)
一体ずつならともかく、こんな奴らを同時に相手にするほどの実力はない。
ヒュージバグの速度と、デスアーマーの挙動、それを、思い出して……。
(いや、無理でも、やるしかない!!)
祈るような気持ちでエアハンマーの詠唱を済ませ、始動。
「邪魔だ!」
右側に迫ってきていたオークを一掃、ステップで前進。
剣を構え直したデスアーマーの前に出て、攻撃を誘う。
思惑通りに攻撃は来たが、
(よりにもよって…!)
一番避けにくい薙ぎ払い。
縮地で後ろに逃げたいところだが、
(こ、のっ!)
それでもステップ以外で避けたら時間にズレが出る。
決死の思いで振りかぶった腕に向けてステップ。
相手の攻撃を潜り抜けるようにして回避を試みる!
(あぶ、なぁっ!!)
まさに間一髪、頭の上を大剣が唸りを上げて通り過ぎる。
心臓が冷たい手につかまれたように縮み上がった。
しかし、本番はここからだ。終極痩身
(それ、からっ!)
タイミングに余裕はない。
神速キャンセルで後ろにステップ。
元の位置にもどる。
(これで……来た!!)
後ろから、轟音と共にヒュージバグが迫る。
完全な挟み撃ち、だが、ここで、
「天覇無窮飛翔剣!」
剣スキル、『天覇無窮飛翔剣』を発動。
俺の身体は、ジャンプとは比べ物にならないほどの速度で上に跳び上がる。
直前で目標に避けられたヒュージバグは止まり切れず、目の前のデスアーマーに激突する!
(よし!)
ヒュージバグはデスアーマーに転がりを止められて硬直、デスアーマーは転がりの強制スタンを喰らって硬直、二体同時に動きを封じた。
天覇の落下が始まる前に、エアハンマーが空中で発動。
空に浮いたまま後ろに飛ぶ。
滑空をしながら、
(パワーアップパワーアップパワーアップ!!)
落下までの時間で呪文詠唱。
時間差で魔法を複数セット。
着地と同時に、不知火を振りかぶり、
(朧残月、ステップ朧残月、ステップ朧残月――)
パワーアップの発動に合わせ、ヒュージバグとデスアーマー、両方に当たるように位置を調節した朧残月三つを発動!
さらに、
(ハイステップ、ジャンプ横薙ぎ!!)
最後の朧残月には横薙ぎを重ねて、
「朧十字斬り!!」
叫びと一緒に、気合を乗せる!
今度の横薙ぎは鎧に弾かれることなく、ヒュージバグの外殻を、そしてデスアーマーの鎧を切り裂く。
二体のモンスターに刻まれる、十字の斬線。
パワーアップの効いた四発の攻撃には流石のヒュージバグとデスアーマーも耐え切れなかったらしく、二体は粒子になって空に消えていくが、
「……くそ!」
それを見ながら、俺は歯噛みをしていた。
技後硬直で、身体が動かない。
パワーアップを三つ重ねるのが精いっぱいで、硬直キャンセル用の魔法を使えなかった。
それに、二発目の朧残月は放った角度がズレて、デスアーマーにしか当たっていなかった。
「まだまだ、甘い」
そうつぶやいたところで、横薙ぎの硬直が終わる。
自らの戦闘技術の衰えに苛立ちを感じながらも、それでも戦いは続いていく。御秀堂 養顔痩身カプセル
2012年11月11日星期日
澪と料理と勇者と
「ええっと、厚みのある海草と干して堅くなった魚……でしたね」
港町の市場を似つかわしくない女性が歩く。
通りの左右に展開される賑やかな品々、そして品数に負けぬ程に店主たちの呼び込みも声高に行われている。御秀堂養顔痩身カプセル第3代
露店が展開されていない場所が道だとばかりに迷路のような不規則な格子状の通路が構成されていた。
道行く者も上半身裸であったり薄いシャツ一枚を着ている程度の筋骨隆々の男たちが多い。
明らかに見慣れぬ、黒に近い程に濃い藍色の服に身を包んだ彼女は明らかに浮いた雰囲気を放っていた。
着物と言う、恐らくはこの港町の誰も見た事の無い服装。
そして肩に届くかどうかで綺麗に切りそろえられた艶やかな黒髪。切れ長の黒い瞳と鮮やかな紅の唇、異彩を放つその美貌は誰の目にも明らかだった。
服装と容姿、二つの意味で通り過ぎる人を次々に振り向かせ二度見させているのは、クズノハ商会が誇る最強の双璧が一、澪である。
代表である真は現在学園都市にて店舗の開店準備に追われ、何かと最近行動を共にしていた巴は真から申し付けられた所用で遠出している為、彼女は今一人だった。
だが、彼女とて暇なのではない。
真から言われた港町の開拓をする為に、ツィーゲから一路北へ進み、海に面したこの町に辿り着いていた。
さほどに大きな町ではない。ツィーゲと比べればその規模は明らかに小さい。
かの辺境都市には黄金街道と呼ばれる陸路の物流が確保されている事が、この町の発展に多少歯止めをかけていることは否めない。
ヒューマンの足で歩いて数日という微妙な距離も理由に挙げられるだろう。
いずれにせよ、ある程度立地には恵まれたこの港町コランは世界の果ての特需に直結する事が出来ず、本来なら最大級の商船を受け入れるだけの潜在能力を秘めながら未だその規模に達していない、残念な町だった。
それでも流石に海産物についてはツィーゲと比べるべくも無く、澪が初めて見る食材も多く市場に展開されている。
だが、どうやらお目当ての物、それに近しい物は見つからなかったようで澪は足を止めて嘆息する。
「コンブもカツオブシも、ソレらしい物はありませんわねえ」
澪の探し物は真の世界ではごく有り触れた食材だった。
ただ、これは真に頼まれたものではない。
真と別れてからも澪は食を楽しんでおり、ツィーゲで名のある食堂や酒場などは大抵彼女の手がついている。真も彼女に付き合って食べ歩いたり、薦められた料理を頂いたりしてきたが、広いとは言え店の数には限りがある。まだ数軒は主に紹介出来ていない店はあるがすぐに底をつく事は想像に難くない。真と美味しいものが好きな澪としては悩む事になる。
そんな折だった。
巴が何気なく口にしたのだ。
「それなら澪が若の好まれる料理を作れば良いではないか」
と。
澪にとってはまさしく天啓のような一言だった。
自分で、料理を、作る。
出された料理をただ食べるだけだった彼女はその言葉の衝撃に身をよろめかせた。そして天才を見るような目で巴をまじまじと見つめた。
その通りである。
自分が作れば、自分が理想とする味付けが出来る。真が望んだ味の料理だって出せるではないか、と。
手始めにこれまで食してきた料理を再現してみようと取り掛かった彼女だが愕然とすることになる。
料理の手順がまったくといって良い程にわからないのだ。
切って焼く、煮る、炒める、揚げる程度は想像できるがその先がいけない。
亜空にも料理が出来る者はいて、彼女は主にオークに教えを乞い料理スキルを向上させていった。
それでもツィーゲで食べた料理の技には届かず、澪は冒険者ギルドに貼り出される依頼を受ける回数を減らして、食べ歩いた食堂と酒場を再訪して料理人に頭を下げた。
何度か挑戦しては失敗し、基本的な部分から料理に手をつけ始めた澪は、未だ自分が再現出来ていない料理を作る彼らに少々の敬意を抱いていた。だからこそ、そのレシピや技術を教わろうとする澪からすれば頭を下げるのは当然の事だったが、一方でそうされた料理人や店長たちは堪らない。
最早ツィーゲの冒険者やその関係者で知らぬ者はいない存在になっていた澪から料理を教えて欲しいといきなり頭を下げられたのだから。
どちらが頼み事をしているのかわからない程に恐々として竦み上がった料理人たちはほぼ即答で澪の願いを聞き届けた。ただし、他店との競争や秘伝の関係で、教えられない部分もあると冷や汗を隠せない表情で澪に懇願した上で。勿論、澪はその言葉に頷く。そして私的にしか料理はしないし、商売の邪魔になるような事は考えていないと話し、秘伝の味や技法までは教えてくれなくて良いと続けた。
そうして、澪は寝る間を惜しんでそれぞれの料理人の厨房を訪れ、仕込みや仕入れにも、彼らの時間に合わせて同行もした。一ヶ月もすると、澪は完全な再現とまではいかないまでもツィーゲで振舞われている料理の基本的な骨子を理解して真似ることが出来るようになっていた。
小手先の技やソースなどの細かな部分は未だ本職には及ばないとは言っても、目を見張る上達速度だった。御秀堂養顔痩身カプセル第2代
余談だが、冒険者には冷たく接する事も少なくない澪が、教えを受けている料理人には当たり前の様に敬語で接していた為、食堂や酒場、またそれらを内包する宿における冒険者の振る舞いが大人しくなったりもした。
そして今。港町に到着した澪の目的はずばり和食の再現だった。
主人たる真の世界の食べ物。学園に向かう前に真が異なる世界から来た事を説明され、澪はあの記憶の中にある風景や食べ物に出会う可能性が激減したことを悲しんだ。ちなみに真の出自については特に感想も抱かなかった。識などは大いに興奮して騒いでは巴の鉄槌を受けたりしていたが、正直澪にとっては真がどの国で生まれていようと、いやどの世界から来ていようと関係なかった。ただ唯一の主人でありかけがえの無い存在、故にその過去に何があろうと彼女には意味が無い。そんな詰まらない事よりも真が普段食べていた和食の方が大切だった。
和食はツィーゲの食べ物とは根本的に雰囲気が異なる。肉類よりも魚介類を多く使う印象があり、それらが集まる港町は手がかりになる筈だったのだが。
「参りましたね、そもそも乾物の類が少ない。未だ記憶に見た和食は、目玉焼きしか再現出来ていません。巴さんに協力してもらって料理法などを調べてもらってはいますけど、どうやら昆布と鰹節なるものは必須な様子。米やら味噌は巴さんが再現に努めていますからお任せしておくとして、私は材料を調達して色々料理方法を検討したいのに……」
いずれ亜空で真に和食を振舞おうと決心している澪は港町コランに相当な期待をしていた。
しかし現状、色々料理してみたい材料は見つかるものの、肝心の乾物が絶対的に少ない。この町ではそういった加工をしていないのか不安になる程だった。
「乾物? 干物かい? うーん、この辺りじゃあ干してまで魚を食おうって所は無いし遠くまで持っていくなら大抵は相手さんが氷漬けにして運ぶ用意をしてくるし……」
「ここは鮮度が何より重要だからねえ。わざわざ干して加工するってのは、そりゃまあそれぞれの家で一夜干しくらいならしているかもしれないけれど……」
「少ないけど、土産物の店や問屋の方に顔出してみれば少しはあるかもしれないっすよ」
尋ねまわっても得られる回答は頼りないものばかり。それでも魚の乾物については情報も少しはあった。問題は昆布の方だ。特徴を話してみても皆聞いた事が無いという顔をし、澪を落胆させた。
市場を一回りした澪は浜辺に出てみることにした。
魚を干す場所は砂浜だと教えられた為、実際に従事している人から追加の情報を得られないかと藁にすがる思いだった。
「あれか、何だか独特な匂いがしますね。生臭いというか……市で感じた臭みとはまた違う匂い。ふう、浜辺にはそれこそ海草なんて幾らでも流れ着いているというのに。どうして見つからないのかしら」
作業を遠目に見ながらも、そこには魚しか無いことに軽く絶望する澪。ちらと見た浜辺の一角には黒い塊があり、打ち上げられた海草だとわかった。
小石を敷き詰めた場所や木を組んで日光が当たりやすく工夫された台の上に魚が置かれていた。小さい物は原型のまま、それ以外は開かれた状態で干されている。
「そういえば……魚は獣に比べて臭みが強い。獣骨を長く煮込むような出汁の取り方にも適さないものが多いような気がする。巴さんは、そこで昆布と鰹節なんじゃ、とか言っていたから特殊な方法がある? 私は単純に獣骨が魚の骨、香草や野菜の類が海草に置き換わって基本的な調理は一緒だと考えていたけど違うのかも……」
結局、作業者からも真新しい情報は得られず、しかし自分の考えに疑問を抱いて浜辺にある黒い帯状の塊へと近づいていく。
作業者の一人から「それは海のゴミですよ」と声を掛けられたが澪は気にしない。
「肉厚な物も薄い物も、結構種類がある。色もよく見ると緑や青、赤なんて物もある。味は……あら。シャキシャキして美味しい。ゴミだなんて勿体無い。こちらのは……少しヌメりが気になるけど食べれる。この肉厚のは、所々に白い粉が付いてるわね。へぇ、これ旨味が強い。香りも磯の良い匂い。白い粉も毒じゃない。乾燥した部分は硬くなるけど旨味は強くなっている。……十分食材じゃないですか。まったく、見る目が無いこと」
巴にも検証してもらおうと状態の良い物を吟味していく澪。魚を干していた者たちは澪の奇行を遠巻きに気持ち悪そうに見ていた。だがその内の一人が急に澪の方を向いて両手を上げて何かを叫び始めた。
だが、海草選びに集中していた澪はそれに気づかない。
何人もがその原因を見て澪に口々に注意する。中々の騒音になってようやく、澪はその様子に気がついた。しかし時既に遅し。
「あれは……一体何だと言うの? ああ、海草を食べてみた私が不思議なのかしらね。……えっ!?」
突然の背後からの衝撃。
常人がそこにいたなら致命傷は間違いない強力な攻撃が澪に加えられた。
しゃがみこんだ状態から片手に収穫を手にして立ち上がった澪は完全に油断していた。元々、”網”を張って感知域を広げた状態ならともかく、澪は周囲を感知する能力は高くない。何の対処も無く攻撃を受けて吹っ飛んだ。
浜辺の、波打ち際から少し離れた場所に打ち上げられた海草の吟味をしていた所へ背後からの衝撃。
派手な水音が波の音に紛れて上がる。
そう、澪は思いっきり海水の中に飛び込んだ形になった。
手にしていた彼女が厳選した食材たちを不意の攻撃で離してしまい、それらは波に運ばれて沖へと消えていく。
「……」
澪は無言で立ち上がった。
その肩口に獰猛な表情を隠そうともしない銀色の獣が強く噛み付いたままぶら下がっている。後ろ脚で澪の体を何度も蹴りつけていて、下顎にも何度も力が加わっている様子からその獣の攻撃が継続している事がわかる。だと言うのに、澪に反応は無い。
砂浜を澪の方に走ってくる影が一つ、彼女の視界に映る。
「……濡れてしまいました」
底冷えのする声がした。
蹴りを入れるのを止め足を伸ばせば地に脚が付きそうな大きな狼、それが澪を襲った獣の正体だった。韓国痩身一号
けれど、その大きな躯を持つ獣が澪の一言に怯えたように瞳に弱気を浮かべた。
喉からの唸り声もどこか頼りなく響く。
「……」
左の肩口に牙を立てる銀狼の首を右手で無造作に掴む澪。
女の膂力とは思えぬ所業だが彼女はそのまま片手で狼を己の肩口から引き剥がし、海へと叩きつけた。
澪の肩は傷一つ無い。着ていた着物に少々の跡が残った程度。明らかにただの獣ではない狼の一撃をものともしない布。ただの着物で無い事はようと知れる。
一方の狼は、ただ一撃地へと叩きつけられただけでまともに立ち上がる事も出来ない位に弱っていた。前足で体を起こしながらも、後ろ脚がついてこない。澪を弱々しく唸りながら見つめることしか出来ない。
「死になさい、畜生」
澪は懐から出した扇子を閉じたまま振り上げる。
容赦の一切が伺えない冷たい目で狼を見据え、一気に振り下ろす。
正に紙一重だった。
黒い影が攻撃と狼の間へと立ち入り、狼を抱いて駆け抜けた。
余程の全力疾走だったのか、澪から然程の距離も開かない場所で影は体勢を崩す。
「……」
澪は依然目に危険な冷気を纏わせたまま、動きを停めて膝立ちになっていた乱入者を見る。
ずず、と。
何かその場に聞き慣れない音が一つ。乱入者は何事かと音のする方に注意を向ける。
澪が扇子を振り下ろした先の海。
騒ぎにも変じる事無く波を運んでいた海が、突然に割れた。
澪から十数メートルばかりの範囲で海が裂けて海底が露呈する。
たった数秒の現象だったが、乱入者は息を呑んでその様子を凝視していた。
「飼い主? なら一緒に逝ってやりなさい」
先の現象に言葉を失っている乱入者に答えを聞くこともなく、再び澪は扇子を振り上げる。
「ごめんなさい!!」
振り下ろされようとした腕がピクリと動いて、止まる。立ち上がったかと思ったら全力で頭を下げられたからだ。
「……」
興味を惹かれたのか澪の手は止まり、乱入者の次の言葉を待つ。
「砂浜を見に来たら、急にこの子が貴女に襲いかかってしまって……。私の責任です。お怒りなのはわかります、でもお願いします。許してください。お怪我の治療も、その着物の修繕も必ず私たちがしますから!」
澪は扇子をゆっくりと降ろし、そして懐へとしまう。許した、と言うよりは目の前の存在に興味が湧いたからだった。
この辺りで初見でそうと名前を言った者などいない着物を、当たり前の様に知っているこの黒髪の娘に。当の娘は下ろされる扇子を凝視し、脱力している様子だったが。
「……怪我はしていないから治療は結構よ。それに着物の修繕? これは残念だけど貴女に直せる物では無いわね」
着物に牙の跡がわずかに押し込んだ風に残っているだけで破れてもいない。実際、被害らしい被害は選別した海草が流れてしまった事と濡れた事位だった。
「す、すみませんでした」
「そうねえ、私の手伝いと夕食をご馳走してくれるなら無かった事にしてあげてもいいけれど?」
「私に出来る事なら! 食事は勿論ご馳走させて下さい! ありがとうございます! ええっと?」
「澪、よ。貴女は?」
「響(ひびき)です。澪さん、本当にすみませんでした。この子も反省していますので……」
示す先の狼は尻尾を丸めているが未だ敵意ある視線を澪へと送っている。あまり反省している様子ではない。
「反省?」
「ごめんなさい! ホルン! 戻ってなさい!」
銀狼の姿が光に包まれて響の帯へと消えていく。澪はその様子に少しだけ目を細めた。
「あの狼、道具に住まう精霊の類だったの」
「詳しくは私も知らないんですけど、守護獣のような存在、らしいです」
「……そう。じゃあ響、この海草から状態の良い物を選り分けるのを手伝ってくださる?」
「海草、ですか? あの、ワカメとか昆布とか? 澪さん料理人なんですか?」
何気ない響の一言に澪は目を見開く。当の響からすると本命は料理人かと問うた後半部分で、澪が何者かを尋ねる質問に続ける心算だった。勿論、海を平然と割った澪を料理人だとは思っていない。
「!? その! 昆布、この中にあります!?」
「えっ!? あ、その、多分そこの大きな……」
「これ!? それともこれ!?」
先ほどまでの迫力はどこへ行ったのか、両手にそれらしい海草を鷲掴みにして違う迫力を瞳に宿して響へと詰め寄る澪。
「い、今澪さんが右手に持っている方が多分、昆布なんじゃないかと……」
「まさか売っているどころか落ちているなんて……!」
左手に持っていた方を放り投げて右手の昆布(らしい海草)を両手で掴んでまじまじ見つめる澪。
(ええ? 本当に料理人か何かなの? ツィーゲって街から先に広がっている荒野は色々と常識が通じない場所だって聞いて覚悟して来たけど……もうこの辺りから常識が通じないのかしら? ホルンに襲われても無傷で、扇子で平然と海を割れる人が料理人やってるなんて)
そんな澪をまじまじ見つめる響。
「あの、澪さん。捨てられた方も多分ワカメって言って味噌し、じゃなかった。スープの具材何かに合うと思います」
見た目だけで確証こそは無かったが響は捨てられて無残に浜にぶつけられたもう一方の海草をフォローする。すると再び澪はワカメを掴むと海水で洗って手に取る。
「ワカメ! そう、これがワカメだったの! ああ、響さん! この出会いを若様に感謝します!」
「うわっ! 澪さん、若様って一体? って言うかすみません、痛いです、磯臭いです。離してーーー!!」韓国痩身1号
左手にワカメ、右手に昆布を手にした澪は遠慮無く結構な勢いと強さで響に抱きついた。
澪は全く気がついていないがリミアの勇者、音無響と彼女はこうして出会った。
港町の市場を似つかわしくない女性が歩く。
通りの左右に展開される賑やかな品々、そして品数に負けぬ程に店主たちの呼び込みも声高に行われている。御秀堂養顔痩身カプセル第3代
露店が展開されていない場所が道だとばかりに迷路のような不規則な格子状の通路が構成されていた。
道行く者も上半身裸であったり薄いシャツ一枚を着ている程度の筋骨隆々の男たちが多い。
明らかに見慣れぬ、黒に近い程に濃い藍色の服に身を包んだ彼女は明らかに浮いた雰囲気を放っていた。
着物と言う、恐らくはこの港町の誰も見た事の無い服装。
そして肩に届くかどうかで綺麗に切りそろえられた艶やかな黒髪。切れ長の黒い瞳と鮮やかな紅の唇、異彩を放つその美貌は誰の目にも明らかだった。
服装と容姿、二つの意味で通り過ぎる人を次々に振り向かせ二度見させているのは、クズノハ商会が誇る最強の双璧が一、澪である。
代表である真は現在学園都市にて店舗の開店準備に追われ、何かと最近行動を共にしていた巴は真から申し付けられた所用で遠出している為、彼女は今一人だった。
だが、彼女とて暇なのではない。
真から言われた港町の開拓をする為に、ツィーゲから一路北へ進み、海に面したこの町に辿り着いていた。
さほどに大きな町ではない。ツィーゲと比べればその規模は明らかに小さい。
かの辺境都市には黄金街道と呼ばれる陸路の物流が確保されている事が、この町の発展に多少歯止めをかけていることは否めない。
ヒューマンの足で歩いて数日という微妙な距離も理由に挙げられるだろう。
いずれにせよ、ある程度立地には恵まれたこの港町コランは世界の果ての特需に直結する事が出来ず、本来なら最大級の商船を受け入れるだけの潜在能力を秘めながら未だその規模に達していない、残念な町だった。
それでも流石に海産物についてはツィーゲと比べるべくも無く、澪が初めて見る食材も多く市場に展開されている。
だが、どうやらお目当ての物、それに近しい物は見つからなかったようで澪は足を止めて嘆息する。
「コンブもカツオブシも、ソレらしい物はありませんわねえ」
澪の探し物は真の世界ではごく有り触れた食材だった。
ただ、これは真に頼まれたものではない。
真と別れてからも澪は食を楽しんでおり、ツィーゲで名のある食堂や酒場などは大抵彼女の手がついている。真も彼女に付き合って食べ歩いたり、薦められた料理を頂いたりしてきたが、広いとは言え店の数には限りがある。まだ数軒は主に紹介出来ていない店はあるがすぐに底をつく事は想像に難くない。真と美味しいものが好きな澪としては悩む事になる。
そんな折だった。
巴が何気なく口にしたのだ。
「それなら澪が若の好まれる料理を作れば良いではないか」
と。
澪にとってはまさしく天啓のような一言だった。
自分で、料理を、作る。
出された料理をただ食べるだけだった彼女はその言葉の衝撃に身をよろめかせた。そして天才を見るような目で巴をまじまじと見つめた。
その通りである。
自分が作れば、自分が理想とする味付けが出来る。真が望んだ味の料理だって出せるではないか、と。
手始めにこれまで食してきた料理を再現してみようと取り掛かった彼女だが愕然とすることになる。
料理の手順がまったくといって良い程にわからないのだ。
切って焼く、煮る、炒める、揚げる程度は想像できるがその先がいけない。
亜空にも料理が出来る者はいて、彼女は主にオークに教えを乞い料理スキルを向上させていった。
それでもツィーゲで食べた料理の技には届かず、澪は冒険者ギルドに貼り出される依頼を受ける回数を減らして、食べ歩いた食堂と酒場を再訪して料理人に頭を下げた。
何度か挑戦しては失敗し、基本的な部分から料理に手をつけ始めた澪は、未だ自分が再現出来ていない料理を作る彼らに少々の敬意を抱いていた。だからこそ、そのレシピや技術を教わろうとする澪からすれば頭を下げるのは当然の事だったが、一方でそうされた料理人や店長たちは堪らない。
最早ツィーゲの冒険者やその関係者で知らぬ者はいない存在になっていた澪から料理を教えて欲しいといきなり頭を下げられたのだから。
どちらが頼み事をしているのかわからない程に恐々として竦み上がった料理人たちはほぼ即答で澪の願いを聞き届けた。ただし、他店との競争や秘伝の関係で、教えられない部分もあると冷や汗を隠せない表情で澪に懇願した上で。勿論、澪はその言葉に頷く。そして私的にしか料理はしないし、商売の邪魔になるような事は考えていないと話し、秘伝の味や技法までは教えてくれなくて良いと続けた。
そうして、澪は寝る間を惜しんでそれぞれの料理人の厨房を訪れ、仕込みや仕入れにも、彼らの時間に合わせて同行もした。一ヶ月もすると、澪は完全な再現とまではいかないまでもツィーゲで振舞われている料理の基本的な骨子を理解して真似ることが出来るようになっていた。
小手先の技やソースなどの細かな部分は未だ本職には及ばないとは言っても、目を見張る上達速度だった。御秀堂養顔痩身カプセル第2代
余談だが、冒険者には冷たく接する事も少なくない澪が、教えを受けている料理人には当たり前の様に敬語で接していた為、食堂や酒場、またそれらを内包する宿における冒険者の振る舞いが大人しくなったりもした。
そして今。港町に到着した澪の目的はずばり和食の再現だった。
主人たる真の世界の食べ物。学園に向かう前に真が異なる世界から来た事を説明され、澪はあの記憶の中にある風景や食べ物に出会う可能性が激減したことを悲しんだ。ちなみに真の出自については特に感想も抱かなかった。識などは大いに興奮して騒いでは巴の鉄槌を受けたりしていたが、正直澪にとっては真がどの国で生まれていようと、いやどの世界から来ていようと関係なかった。ただ唯一の主人でありかけがえの無い存在、故にその過去に何があろうと彼女には意味が無い。そんな詰まらない事よりも真が普段食べていた和食の方が大切だった。
和食はツィーゲの食べ物とは根本的に雰囲気が異なる。肉類よりも魚介類を多く使う印象があり、それらが集まる港町は手がかりになる筈だったのだが。
「参りましたね、そもそも乾物の類が少ない。未だ記憶に見た和食は、目玉焼きしか再現出来ていません。巴さんに協力してもらって料理法などを調べてもらってはいますけど、どうやら昆布と鰹節なるものは必須な様子。米やら味噌は巴さんが再現に努めていますからお任せしておくとして、私は材料を調達して色々料理方法を検討したいのに……」
いずれ亜空で真に和食を振舞おうと決心している澪は港町コランに相当な期待をしていた。
しかし現状、色々料理してみたい材料は見つかるものの、肝心の乾物が絶対的に少ない。この町ではそういった加工をしていないのか不安になる程だった。
「乾物? 干物かい? うーん、この辺りじゃあ干してまで魚を食おうって所は無いし遠くまで持っていくなら大抵は相手さんが氷漬けにして運ぶ用意をしてくるし……」
「ここは鮮度が何より重要だからねえ。わざわざ干して加工するってのは、そりゃまあそれぞれの家で一夜干しくらいならしているかもしれないけれど……」
「少ないけど、土産物の店や問屋の方に顔出してみれば少しはあるかもしれないっすよ」
尋ねまわっても得られる回答は頼りないものばかり。それでも魚の乾物については情報も少しはあった。問題は昆布の方だ。特徴を話してみても皆聞いた事が無いという顔をし、澪を落胆させた。
市場を一回りした澪は浜辺に出てみることにした。
魚を干す場所は砂浜だと教えられた為、実際に従事している人から追加の情報を得られないかと藁にすがる思いだった。
「あれか、何だか独特な匂いがしますね。生臭いというか……市で感じた臭みとはまた違う匂い。ふう、浜辺にはそれこそ海草なんて幾らでも流れ着いているというのに。どうして見つからないのかしら」
作業を遠目に見ながらも、そこには魚しか無いことに軽く絶望する澪。ちらと見た浜辺の一角には黒い塊があり、打ち上げられた海草だとわかった。
小石を敷き詰めた場所や木を組んで日光が当たりやすく工夫された台の上に魚が置かれていた。小さい物は原型のまま、それ以外は開かれた状態で干されている。
「そういえば……魚は獣に比べて臭みが強い。獣骨を長く煮込むような出汁の取り方にも適さないものが多いような気がする。巴さんは、そこで昆布と鰹節なんじゃ、とか言っていたから特殊な方法がある? 私は単純に獣骨が魚の骨、香草や野菜の類が海草に置き換わって基本的な調理は一緒だと考えていたけど違うのかも……」
結局、作業者からも真新しい情報は得られず、しかし自分の考えに疑問を抱いて浜辺にある黒い帯状の塊へと近づいていく。
作業者の一人から「それは海のゴミですよ」と声を掛けられたが澪は気にしない。
「肉厚な物も薄い物も、結構種類がある。色もよく見ると緑や青、赤なんて物もある。味は……あら。シャキシャキして美味しい。ゴミだなんて勿体無い。こちらのは……少しヌメりが気になるけど食べれる。この肉厚のは、所々に白い粉が付いてるわね。へぇ、これ旨味が強い。香りも磯の良い匂い。白い粉も毒じゃない。乾燥した部分は硬くなるけど旨味は強くなっている。……十分食材じゃないですか。まったく、見る目が無いこと」
巴にも検証してもらおうと状態の良い物を吟味していく澪。魚を干していた者たちは澪の奇行を遠巻きに気持ち悪そうに見ていた。だがその内の一人が急に澪の方を向いて両手を上げて何かを叫び始めた。
だが、海草選びに集中していた澪はそれに気づかない。
何人もがその原因を見て澪に口々に注意する。中々の騒音になってようやく、澪はその様子に気がついた。しかし時既に遅し。
「あれは……一体何だと言うの? ああ、海草を食べてみた私が不思議なのかしらね。……えっ!?」
突然の背後からの衝撃。
常人がそこにいたなら致命傷は間違いない強力な攻撃が澪に加えられた。
しゃがみこんだ状態から片手に収穫を手にして立ち上がった澪は完全に油断していた。元々、”網”を張って感知域を広げた状態ならともかく、澪は周囲を感知する能力は高くない。何の対処も無く攻撃を受けて吹っ飛んだ。
浜辺の、波打ち際から少し離れた場所に打ち上げられた海草の吟味をしていた所へ背後からの衝撃。
派手な水音が波の音に紛れて上がる。
そう、澪は思いっきり海水の中に飛び込んだ形になった。
手にしていた彼女が厳選した食材たちを不意の攻撃で離してしまい、それらは波に運ばれて沖へと消えていく。
「……」
澪は無言で立ち上がった。
その肩口に獰猛な表情を隠そうともしない銀色の獣が強く噛み付いたままぶら下がっている。後ろ脚で澪の体を何度も蹴りつけていて、下顎にも何度も力が加わっている様子からその獣の攻撃が継続している事がわかる。だと言うのに、澪に反応は無い。
砂浜を澪の方に走ってくる影が一つ、彼女の視界に映る。
「……濡れてしまいました」
底冷えのする声がした。
蹴りを入れるのを止め足を伸ばせば地に脚が付きそうな大きな狼、それが澪を襲った獣の正体だった。韓国痩身一号
けれど、その大きな躯を持つ獣が澪の一言に怯えたように瞳に弱気を浮かべた。
喉からの唸り声もどこか頼りなく響く。
「……」
左の肩口に牙を立てる銀狼の首を右手で無造作に掴む澪。
女の膂力とは思えぬ所業だが彼女はそのまま片手で狼を己の肩口から引き剥がし、海へと叩きつけた。
澪の肩は傷一つ無い。着ていた着物に少々の跡が残った程度。明らかにただの獣ではない狼の一撃をものともしない布。ただの着物で無い事はようと知れる。
一方の狼は、ただ一撃地へと叩きつけられただけでまともに立ち上がる事も出来ない位に弱っていた。前足で体を起こしながらも、後ろ脚がついてこない。澪を弱々しく唸りながら見つめることしか出来ない。
「死になさい、畜生」
澪は懐から出した扇子を閉じたまま振り上げる。
容赦の一切が伺えない冷たい目で狼を見据え、一気に振り下ろす。
正に紙一重だった。
黒い影が攻撃と狼の間へと立ち入り、狼を抱いて駆け抜けた。
余程の全力疾走だったのか、澪から然程の距離も開かない場所で影は体勢を崩す。
「……」
澪は依然目に危険な冷気を纏わせたまま、動きを停めて膝立ちになっていた乱入者を見る。
ずず、と。
何かその場に聞き慣れない音が一つ。乱入者は何事かと音のする方に注意を向ける。
澪が扇子を振り下ろした先の海。
騒ぎにも変じる事無く波を運んでいた海が、突然に割れた。
澪から十数メートルばかりの範囲で海が裂けて海底が露呈する。
たった数秒の現象だったが、乱入者は息を呑んでその様子を凝視していた。
「飼い主? なら一緒に逝ってやりなさい」
先の現象に言葉を失っている乱入者に答えを聞くこともなく、再び澪は扇子を振り上げる。
「ごめんなさい!!」
振り下ろされようとした腕がピクリと動いて、止まる。立ち上がったかと思ったら全力で頭を下げられたからだ。
「……」
興味を惹かれたのか澪の手は止まり、乱入者の次の言葉を待つ。
「砂浜を見に来たら、急にこの子が貴女に襲いかかってしまって……。私の責任です。お怒りなのはわかります、でもお願いします。許してください。お怪我の治療も、その着物の修繕も必ず私たちがしますから!」
澪は扇子をゆっくりと降ろし、そして懐へとしまう。許した、と言うよりは目の前の存在に興味が湧いたからだった。
この辺りで初見でそうと名前を言った者などいない着物を、当たり前の様に知っているこの黒髪の娘に。当の娘は下ろされる扇子を凝視し、脱力している様子だったが。
「……怪我はしていないから治療は結構よ。それに着物の修繕? これは残念だけど貴女に直せる物では無いわね」
着物に牙の跡がわずかに押し込んだ風に残っているだけで破れてもいない。実際、被害らしい被害は選別した海草が流れてしまった事と濡れた事位だった。
「す、すみませんでした」
「そうねえ、私の手伝いと夕食をご馳走してくれるなら無かった事にしてあげてもいいけれど?」
「私に出来る事なら! 食事は勿論ご馳走させて下さい! ありがとうございます! ええっと?」
「澪、よ。貴女は?」
「響(ひびき)です。澪さん、本当にすみませんでした。この子も反省していますので……」
示す先の狼は尻尾を丸めているが未だ敵意ある視線を澪へと送っている。あまり反省している様子ではない。
「反省?」
「ごめんなさい! ホルン! 戻ってなさい!」
銀狼の姿が光に包まれて響の帯へと消えていく。澪はその様子に少しだけ目を細めた。
「あの狼、道具に住まう精霊の類だったの」
「詳しくは私も知らないんですけど、守護獣のような存在、らしいです」
「……そう。じゃあ響、この海草から状態の良い物を選り分けるのを手伝ってくださる?」
「海草、ですか? あの、ワカメとか昆布とか? 澪さん料理人なんですか?」
何気ない響の一言に澪は目を見開く。当の響からすると本命は料理人かと問うた後半部分で、澪が何者かを尋ねる質問に続ける心算だった。勿論、海を平然と割った澪を料理人だとは思っていない。
「!? その! 昆布、この中にあります!?」
「えっ!? あ、その、多分そこの大きな……」
「これ!? それともこれ!?」
先ほどまでの迫力はどこへ行ったのか、両手にそれらしい海草を鷲掴みにして違う迫力を瞳に宿して響へと詰め寄る澪。
「い、今澪さんが右手に持っている方が多分、昆布なんじゃないかと……」
「まさか売っているどころか落ちているなんて……!」
左手に持っていた方を放り投げて右手の昆布(らしい海草)を両手で掴んでまじまじ見つめる澪。
(ええ? 本当に料理人か何かなの? ツィーゲって街から先に広がっている荒野は色々と常識が通じない場所だって聞いて覚悟して来たけど……もうこの辺りから常識が通じないのかしら? ホルンに襲われても無傷で、扇子で平然と海を割れる人が料理人やってるなんて)
そんな澪をまじまじ見つめる響。
「あの、澪さん。捨てられた方も多分ワカメって言って味噌し、じゃなかった。スープの具材何かに合うと思います」
見た目だけで確証こそは無かったが響は捨てられて無残に浜にぶつけられたもう一方の海草をフォローする。すると再び澪はワカメを掴むと海水で洗って手に取る。
「ワカメ! そう、これがワカメだったの! ああ、響さん! この出会いを若様に感謝します!」
「うわっ! 澪さん、若様って一体? って言うかすみません、痛いです、磯臭いです。離してーーー!!」韓国痩身1号
左手にワカメ、右手に昆布を手にした澪は遠慮無く結構な勢いと強さで響に抱きついた。
澪は全く気がついていないがリミアの勇者、音無響と彼女はこうして出会った。
2012年11月7日星期三
秋・永遠に星を往く旅人
それは私が宿屋で借りてきた本を読んでいた時のことだった。
「うぉーい!! やったぜー! 取れた取れたー!」
ノックもせずにいきなり扉をブチ開け、シグが大はしゃぎで私の寝転がっているベッドにそのままの勢いで転がり込んできた。もはやコイツの発作的なハイテンションは慣れたものなので、私は動じることなく本の世界へと飛び立っていたのだが。男宝
「なぁなぁ、どうした? って聞かないの?」
わざわざ覗き込んで尋ねるシグ。その期待に満ちた態度はさながら尻尾を振る犬のよう。思ったんだが、シグはその……いわゆる天然たらしキャラ、じゃないだろうか。年上のお姉さんにバカ受けしそうな気がするんだが。可愛がってあげるわ坊や、とかな。
だが同時に、この三歳児元気君はそれらのフェロモンを天然で弾き返しそうで怖い。シグナチュラルガード。絶対領域だな。というかなにくだらなすぎることを考えてるんだ私。
それはともかく、私はチラと彼に視線をくれて、淡々と返す。
ドアノブが取れたのなら、素直に宿屋の人に謝って弁償してきなさい。
「その取れたじゃないよ!」
分かった分かった。……この前怪我したところの瘡蓋が取れたんだな? わざわざ報告ありがとう、見せるなよ?
にこり、と作り笑いを向けると、シグは漫画で言うところのデフォルメ化に雰囲気の変化を遂げており、茫然とこちらを見つめた後、眉をハの字にして、ゆっくりと起き上がった。無言で部屋の入り口へと歩くシグの背中には哀愁が漂っており、時折未練ありまくりに残念そうな顔で振り返ってくる。
…………。
無言の駆け引き。それは十数秒で幕を閉じた。
分かった。分かったから。えーと、どうしたんだ?
本を閉じて寝転がったまま尋ねると、途端にシグは犬耳があったならばピンと立てそうな勢いで元気よく振り返ってきた。駆け寄り、ベッドにダイブしてくる。反動で少し揺れた。あまりの切り替わりっぷりに閉口していた私に構うことなく、シグは手に持っていたものを私に見せてくれた。
それは二枚の紙切れだった。ただの紙切れではない。入場券だ。
「音楽祭のチケット、取れたぞ。やっぱり秋は音楽の秋だよな!」
ほほぅ……つい昨日までは「読書の秋だ!」とか言って、私にも読書を勧誘もとい強要していた気がするのだが? 現に私はこうして今も読書の秋続行中なのだがな。
「んー、そうだっけ?」
お前はニワトリか。
「まぁまぁ、人の心というものは移り変わっていくものなのさ。様々な感性を磨こうと本能が働きかけているのさ」
まだ半眼を向けている私へ、というわけで、という前置きをしてから、シグは宣言する。
「今から行こう! 音楽祭!」
…………今から!?
秋とは実りの季節だ。時間を掛けて育ってきた作物や木の実が人間や動物、魔物達にとって生命の糧となる。五穀豊穣の祝福された季節とも言える。そして同時に、涼しい風が吹き始めて命が枯れ、冬への眠りの準備を始めていくのだ。今頃動物たちは、冬眠に備えて腹一杯に食べ物を胃に詰め込み、たらふくに太ろうとしていることだろう。
木々の葉は橙色や黄、赤に紅葉し、道には色とりどりの落ち葉。落ち着いた、それでいて何か欲求に駆り立てられるような雰囲気を持っている。そう、例えば本を読みたくなったり、芸術を鑑賞したくなったり、
こうして音楽を聴きたくなったり。
シグに引きずられるようにしてやってきたところは、この都市の闘技場だった。本来は格闘技やその他競技の舞台として使われるのだが、それをちょちょいと改造して音楽特設ステージにしてしまったらしい。応用を利かせるというのはよくあることであり、収容人数やスペースの広さでいうならば闘技場は丁度良い公用施設である。
闘技場の周辺は人集りが出来ており、既に入場が始まっていた。ある者は団扇を持ったり、子供は鈴を持ったりしている。鈴で音頭を取るのはともかく、何故団扇なんだろう?
そのことをシグに尋ねると、彼は意気揚々と歩きながら答えた。
「とっても運のいいことに、今日の音楽祭には、世界を回る歌姫、ミユコが出るらしいんだ。団扇持っている人は、ミユコの応援が目的なんだよ」三體牛鞭
どこからか入手してきたらしいパンフレットを手にしていたので、ちょっと見せてもらってもいいか、と断りを入れてからパンフレットに目を通す。
今日のビッグゲストとして招かれたミユコ(未諭子)は、東方大陸出身者で、幼少の頃から音楽と共に育ってきた。最初は数人の仲間と共に旅をしていたのだが、その知名度が高まった今では、大勢の護衛を引きつれながら馬車や飛空挺に乗って各地を旅して回っているらしい。有名人になると、ままならないこともあるものだ。
名前だけなら聞いたことがあるかもしれないが、生憎と唄は聞いたことがない。
どれほどの歌唱力があるのかは知らないが、好感を得られているのだからそれなりにあるのだろう。またこういう有名人にはアンチファンがつきものだ。それも人気の証である。
どうであれ、私が気に入るかどうかだな。
大人も子供も集まってきた音楽祭は、賑やかに行われた。鼓笛隊が鳴らす民族楽器の音楽に合わせて、子供や大人の踊り子が華麗に舞い、さらには歌を披露する。それが終われば、子供合唱隊が舞台に立って壮大な声の音楽を震わせて名曲を歌い上げる。
観客の子らは鈴を打ち鳴らし、それらの音が秋の空へと吸い込まれていく。まさに様々な曲と歌が集まった音楽祭。
最初こそあまり気分が乗ってこなかった私だったが(なにぶん、読書モードで設定されていたので)、会場の和やかな賑わいと、次々と奏でられる音楽に次第にのめり込んでいった。私は自分でも感性が鋭くないと思っている。そんな私でも、彼らの鳴らす楽器や歌声には、訳もなく心を揺さぶられた。どう揺さぶられたのか、と聞かれると返答に困るのだけれど、確かに心に響いてくるのだ。声なき何かが、話しかけてくる感覚だ。
もっと聞いていようと、もっと聞いていたいと思う。音と、そこに秘められた形のない何かを。
なるほど、これが音楽の秋、というものか。私は奇妙に感心した。
「あ。次だ、ミユコが出てくるの」
パンフレットに記入されている曲目に視線を走らせ、シグが私の肩を叩く。そうか、と返しながら私が会場を見れば、客の纏う雰囲気、のみならず会場の空気が変わっている。
期待の籠もった良い意味で重いものだ。大物を前に敬愛を示すざわめき。
どんな人だろうか、と思いながら見つめていると、やがてステージに一人の女性があがってきた。二十代後半くらいの、セミロングの髪をした落ち着きある女性だ。
彼女はマイクを片手に、艶やかな微笑みを浮かべると、静かに一礼した。すると会場から沸き起こる歓声。彼女の名前を叫ぶ者もいる。その熱狂はある種の重圧だった。これほどの支持を集めながらも、彼女は一歩も引かない。いなすように受け止めていくだけだ。
この時点で私は彼女の持つ雰囲気に呑まれていた。力がある、とは音楽界ではミユコのような人のことをいうのかもしれない。
何か挨拶でもするのかな、と思っていたが、その予想は外れた。ミユコはもう一度笑いかけた後、僅かに目を伏せ、
『―――』
歌い始めたのだ。余計な言葉など要らぬ、とでもいうかのように。
初めは、あ、から成る音の連なりだった。アカペラで『あ』を歌っていく彼女。腹の底から出される声量はとても深く、会場全体に広く浸透していくものだった。音として充分に成立する、というよりこれこそ音なのだと思わされる声という名の楽器。
持ち込まれたグランドピアノが静かにゆっくりと奏でられる中、ミユコは歌う。
歌詞は、春も、夏も、秋も、冬も、大事な人と共に歩き、共に過ごし、けれどもいつかは別れなければいけないという切ない想いを抱きながら、これからも大事なものを抱き締めていくよ、というものだった。会場は、不思議な静けさに包まれている。
伸びやかに、高音で、ゆっくりと歌い上げられるその唄に、私は不覚にも泣きそうになった。彼女の歌には魂が込められている、大袈裟に言ってしまえば、この一曲を歌うことに命を賭けているんだという必死さ。強さ。
そして、まるでその歌が、私達のようだと思ってしまったからだ。
一緒に旅をし続けて、初めは旅の道連れで、向こうから強引についてきたのだけれど、やがて本当に一緒に道を歩くことになり、春を、夏を、秋を、冬を、笑ったり喧嘩したり呆れたりしながら過ごしてきた。大事な仲間だ。いつの間にか、本当に大事になっていた。
でもやがて、いつかは終わりを迎えるのだろう。終わりがくるのだろう。狼1号
その時私は、どうなっているだろうか。笑顔で、お前と別れることができているだろうか。そして、私達のお別れとは、どういうお別れなのだろう。想像もつかない。なにせ二人とも、根無し草の身だから。できることならば、
いけるところまで行って、そして、満足のいく何かを得てから、別れたいものだ。
ああもう、いつの間に私は涙もろくなったんだ。ええい、早く枯れてしまえ。私が必死に潤む涙を堪えていると、不意に隣のシグが口火を切った。
「なぁ。俺達もいつか、この旅の終わりがくるのかな」
シグも彼女の歌を聴いて、同じ想いを馳せていたようだ。だって、呆れるほどにあの歌、私達みたいだもんな。きっと誰かにとっても、あの歌は誰かのような歌なのだろう。
ああ、そうだな。いつか終わるよ。
私はそう答えてから、シグがどんな顔をしているのか気になって、隣を見た。
彼は、前を向いたまま淡々とした表情で、
「そっか。そうだよな」
と、達観めいた口調で呟いた。それで終わるのかと思った。終わりがあることを確認しただけで、終わるのかと。けれども、次の瞬間彼はこちらに顔を向けた。
「じゃあ、その時まで、俺がお前を見ててやるよ」
そして彼はほんのりと笑顔を浮かべる。無邪気な笑顔で、人を安心させるものだ。
「だってお前、俺がいないとすぐに世界から離れてくじゃないか。だからだよ。俺がいる間は、俺がお前を捕まえててやるよ。でもお前力強いからなぁ……離れてどっかいっちゃうかもしれないなぁ」
…………。うるさいバカシグ。それはこっちのセリフだ……。
いつものように冷たく切って捨てようとしたのに、力が出てこなかった。その時私はまた前に向き直って、俯いていたからだ。
唇を少し噛んで、これ以上涙が零れないように。
自分の気持ちと同調させてしまうほど、ミユコの存在感、歌は素晴らしかった。今までは名前しか知らなかったが、立派なファンになったぞ。また会えるかな。会えるとしたら、是非今度も聴いておこう。今回はしっとりした曲が中心だったが、もっと力強い曲もあれば明るい曲もあるらしいので、それらも一度は聴いてみたいところだ。
うん、さすがは音楽の秋だな。物思いに耽りやすい季節にはぴったりかもしれない。
そう想いながらその日は満足な気持ちで就寝し、翌日。
扉をけたくって、元気よくシグが転がり込んできた。なんだなんだ?
「なぁなぁ! この都市の美食満腹ツアーってのを見つけたんだけど、行かね!?」
今度は食欲の秋ってやつですね、シグさん。
私達の秋は、こんな調子で目まぐるしく進んでいく。巨根
「うぉーい!! やったぜー! 取れた取れたー!」
ノックもせずにいきなり扉をブチ開け、シグが大はしゃぎで私の寝転がっているベッドにそのままの勢いで転がり込んできた。もはやコイツの発作的なハイテンションは慣れたものなので、私は動じることなく本の世界へと飛び立っていたのだが。男宝
「なぁなぁ、どうした? って聞かないの?」
わざわざ覗き込んで尋ねるシグ。その期待に満ちた態度はさながら尻尾を振る犬のよう。思ったんだが、シグはその……いわゆる天然たらしキャラ、じゃないだろうか。年上のお姉さんにバカ受けしそうな気がするんだが。可愛がってあげるわ坊や、とかな。
だが同時に、この三歳児元気君はそれらのフェロモンを天然で弾き返しそうで怖い。シグナチュラルガード。絶対領域だな。というかなにくだらなすぎることを考えてるんだ私。
それはともかく、私はチラと彼に視線をくれて、淡々と返す。
ドアノブが取れたのなら、素直に宿屋の人に謝って弁償してきなさい。
「その取れたじゃないよ!」
分かった分かった。……この前怪我したところの瘡蓋が取れたんだな? わざわざ報告ありがとう、見せるなよ?
にこり、と作り笑いを向けると、シグは漫画で言うところのデフォルメ化に雰囲気の変化を遂げており、茫然とこちらを見つめた後、眉をハの字にして、ゆっくりと起き上がった。無言で部屋の入り口へと歩くシグの背中には哀愁が漂っており、時折未練ありまくりに残念そうな顔で振り返ってくる。
…………。
無言の駆け引き。それは十数秒で幕を閉じた。
分かった。分かったから。えーと、どうしたんだ?
本を閉じて寝転がったまま尋ねると、途端にシグは犬耳があったならばピンと立てそうな勢いで元気よく振り返ってきた。駆け寄り、ベッドにダイブしてくる。反動で少し揺れた。あまりの切り替わりっぷりに閉口していた私に構うことなく、シグは手に持っていたものを私に見せてくれた。
それは二枚の紙切れだった。ただの紙切れではない。入場券だ。
「音楽祭のチケット、取れたぞ。やっぱり秋は音楽の秋だよな!」
ほほぅ……つい昨日までは「読書の秋だ!」とか言って、私にも読書を勧誘もとい強要していた気がするのだが? 現に私はこうして今も読書の秋続行中なのだがな。
「んー、そうだっけ?」
お前はニワトリか。
「まぁまぁ、人の心というものは移り変わっていくものなのさ。様々な感性を磨こうと本能が働きかけているのさ」
まだ半眼を向けている私へ、というわけで、という前置きをしてから、シグは宣言する。
「今から行こう! 音楽祭!」
…………今から!?
秋とは実りの季節だ。時間を掛けて育ってきた作物や木の実が人間や動物、魔物達にとって生命の糧となる。五穀豊穣の祝福された季節とも言える。そして同時に、涼しい風が吹き始めて命が枯れ、冬への眠りの準備を始めていくのだ。今頃動物たちは、冬眠に備えて腹一杯に食べ物を胃に詰め込み、たらふくに太ろうとしていることだろう。
木々の葉は橙色や黄、赤に紅葉し、道には色とりどりの落ち葉。落ち着いた、それでいて何か欲求に駆り立てられるような雰囲気を持っている。そう、例えば本を読みたくなったり、芸術を鑑賞したくなったり、
こうして音楽を聴きたくなったり。
シグに引きずられるようにしてやってきたところは、この都市の闘技場だった。本来は格闘技やその他競技の舞台として使われるのだが、それをちょちょいと改造して音楽特設ステージにしてしまったらしい。応用を利かせるというのはよくあることであり、収容人数やスペースの広さでいうならば闘技場は丁度良い公用施設である。
闘技場の周辺は人集りが出来ており、既に入場が始まっていた。ある者は団扇を持ったり、子供は鈴を持ったりしている。鈴で音頭を取るのはともかく、何故団扇なんだろう?
そのことをシグに尋ねると、彼は意気揚々と歩きながら答えた。
「とっても運のいいことに、今日の音楽祭には、世界を回る歌姫、ミユコが出るらしいんだ。団扇持っている人は、ミユコの応援が目的なんだよ」三體牛鞭
どこからか入手してきたらしいパンフレットを手にしていたので、ちょっと見せてもらってもいいか、と断りを入れてからパンフレットに目を通す。
今日のビッグゲストとして招かれたミユコ(未諭子)は、東方大陸出身者で、幼少の頃から音楽と共に育ってきた。最初は数人の仲間と共に旅をしていたのだが、その知名度が高まった今では、大勢の護衛を引きつれながら馬車や飛空挺に乗って各地を旅して回っているらしい。有名人になると、ままならないこともあるものだ。
名前だけなら聞いたことがあるかもしれないが、生憎と唄は聞いたことがない。
どれほどの歌唱力があるのかは知らないが、好感を得られているのだからそれなりにあるのだろう。またこういう有名人にはアンチファンがつきものだ。それも人気の証である。
どうであれ、私が気に入るかどうかだな。
大人も子供も集まってきた音楽祭は、賑やかに行われた。鼓笛隊が鳴らす民族楽器の音楽に合わせて、子供や大人の踊り子が華麗に舞い、さらには歌を披露する。それが終われば、子供合唱隊が舞台に立って壮大な声の音楽を震わせて名曲を歌い上げる。
観客の子らは鈴を打ち鳴らし、それらの音が秋の空へと吸い込まれていく。まさに様々な曲と歌が集まった音楽祭。
最初こそあまり気分が乗ってこなかった私だったが(なにぶん、読書モードで設定されていたので)、会場の和やかな賑わいと、次々と奏でられる音楽に次第にのめり込んでいった。私は自分でも感性が鋭くないと思っている。そんな私でも、彼らの鳴らす楽器や歌声には、訳もなく心を揺さぶられた。どう揺さぶられたのか、と聞かれると返答に困るのだけれど、確かに心に響いてくるのだ。声なき何かが、話しかけてくる感覚だ。
もっと聞いていようと、もっと聞いていたいと思う。音と、そこに秘められた形のない何かを。
なるほど、これが音楽の秋、というものか。私は奇妙に感心した。
「あ。次だ、ミユコが出てくるの」
パンフレットに記入されている曲目に視線を走らせ、シグが私の肩を叩く。そうか、と返しながら私が会場を見れば、客の纏う雰囲気、のみならず会場の空気が変わっている。
期待の籠もった良い意味で重いものだ。大物を前に敬愛を示すざわめき。
どんな人だろうか、と思いながら見つめていると、やがてステージに一人の女性があがってきた。二十代後半くらいの、セミロングの髪をした落ち着きある女性だ。
彼女はマイクを片手に、艶やかな微笑みを浮かべると、静かに一礼した。すると会場から沸き起こる歓声。彼女の名前を叫ぶ者もいる。その熱狂はある種の重圧だった。これほどの支持を集めながらも、彼女は一歩も引かない。いなすように受け止めていくだけだ。
この時点で私は彼女の持つ雰囲気に呑まれていた。力がある、とは音楽界ではミユコのような人のことをいうのかもしれない。
何か挨拶でもするのかな、と思っていたが、その予想は外れた。ミユコはもう一度笑いかけた後、僅かに目を伏せ、
『―――』
歌い始めたのだ。余計な言葉など要らぬ、とでもいうかのように。
初めは、あ、から成る音の連なりだった。アカペラで『あ』を歌っていく彼女。腹の底から出される声量はとても深く、会場全体に広く浸透していくものだった。音として充分に成立する、というよりこれこそ音なのだと思わされる声という名の楽器。
持ち込まれたグランドピアノが静かにゆっくりと奏でられる中、ミユコは歌う。
歌詞は、春も、夏も、秋も、冬も、大事な人と共に歩き、共に過ごし、けれどもいつかは別れなければいけないという切ない想いを抱きながら、これからも大事なものを抱き締めていくよ、というものだった。会場は、不思議な静けさに包まれている。
伸びやかに、高音で、ゆっくりと歌い上げられるその唄に、私は不覚にも泣きそうになった。彼女の歌には魂が込められている、大袈裟に言ってしまえば、この一曲を歌うことに命を賭けているんだという必死さ。強さ。
そして、まるでその歌が、私達のようだと思ってしまったからだ。
一緒に旅をし続けて、初めは旅の道連れで、向こうから強引についてきたのだけれど、やがて本当に一緒に道を歩くことになり、春を、夏を、秋を、冬を、笑ったり喧嘩したり呆れたりしながら過ごしてきた。大事な仲間だ。いつの間にか、本当に大事になっていた。
でもやがて、いつかは終わりを迎えるのだろう。終わりがくるのだろう。狼1号
その時私は、どうなっているだろうか。笑顔で、お前と別れることができているだろうか。そして、私達のお別れとは、どういうお別れなのだろう。想像もつかない。なにせ二人とも、根無し草の身だから。できることならば、
いけるところまで行って、そして、満足のいく何かを得てから、別れたいものだ。
ああもう、いつの間に私は涙もろくなったんだ。ええい、早く枯れてしまえ。私が必死に潤む涙を堪えていると、不意に隣のシグが口火を切った。
「なぁ。俺達もいつか、この旅の終わりがくるのかな」
シグも彼女の歌を聴いて、同じ想いを馳せていたようだ。だって、呆れるほどにあの歌、私達みたいだもんな。きっと誰かにとっても、あの歌は誰かのような歌なのだろう。
ああ、そうだな。いつか終わるよ。
私はそう答えてから、シグがどんな顔をしているのか気になって、隣を見た。
彼は、前を向いたまま淡々とした表情で、
「そっか。そうだよな」
と、達観めいた口調で呟いた。それで終わるのかと思った。終わりがあることを確認しただけで、終わるのかと。けれども、次の瞬間彼はこちらに顔を向けた。
「じゃあ、その時まで、俺がお前を見ててやるよ」
そして彼はほんのりと笑顔を浮かべる。無邪気な笑顔で、人を安心させるものだ。
「だってお前、俺がいないとすぐに世界から離れてくじゃないか。だからだよ。俺がいる間は、俺がお前を捕まえててやるよ。でもお前力強いからなぁ……離れてどっかいっちゃうかもしれないなぁ」
…………。うるさいバカシグ。それはこっちのセリフだ……。
いつものように冷たく切って捨てようとしたのに、力が出てこなかった。その時私はまた前に向き直って、俯いていたからだ。
唇を少し噛んで、これ以上涙が零れないように。
自分の気持ちと同調させてしまうほど、ミユコの存在感、歌は素晴らしかった。今までは名前しか知らなかったが、立派なファンになったぞ。また会えるかな。会えるとしたら、是非今度も聴いておこう。今回はしっとりした曲が中心だったが、もっと力強い曲もあれば明るい曲もあるらしいので、それらも一度は聴いてみたいところだ。
うん、さすがは音楽の秋だな。物思いに耽りやすい季節にはぴったりかもしれない。
そう想いながらその日は満足な気持ちで就寝し、翌日。
扉をけたくって、元気よくシグが転がり込んできた。なんだなんだ?
「なぁなぁ! この都市の美食満腹ツアーってのを見つけたんだけど、行かね!?」
今度は食欲の秋ってやつですね、シグさん。
私達の秋は、こんな調子で目まぐるしく進んでいく。巨根
2012年11月5日星期一
神の木
あったかい。
我が身を包む温もりを、心地良く感じながら目覚めたフェリシアは、自身の置かれた状況を上手く把握できなかった。
「…………」
裸の男の胸元に抱かれて眠っている。超級脂肪燃焼弾
どうして、こんな事に?
驚愕に大声を上げそうになった所で、あ、と思い出した。
神の実が欲しくて、今己を抱きしめて気持ち良さそうに眠っているジーンと、取引きをしたのだ。
そうだった、と思いながらゆっくりと身動くと、さらりとシーツが肩から滑り落ちた。
すると、より鮮明に自分の姿が見て取れて、フェリシアは首まで真っ赤になった。
何も着ていない。
それを実感すると物凄く恥ずかしくなった。
何とか起こさないよう、背に回っているジーンの手を外して寝台に半身を起こした。
「っ!」
途端に、全身に漂う奇妙なだるさを自覚する。その上、身の内から何かが溢れ出すのに、服を探す事も忘れて、ぎょっとした。
身体がだるい訳も分からなければ、身を汚す滴りの意味も分からない。
フェリシアは、取引き成立後、ジーンにされていた事を途中までしか覚えていなかった。
この寝台に押し倒されて、行為の途中でジーンが何かを言った。その何かも思い出せないし、それから後の記憶も完全に途切れていた。
記憶のない間、自分の身体が一体どうなっていたのか。
幾ら考えても、脳裏にその情景はまったく浮かんではこなかった。
「私……あれからどうしたの……」
何故、覚えていないのだ。
記憶がおかしい事に不安を抱いていると、ジーンの目蓋が開いた。
「……おや。もう起きているのか? まだ疲れているだろうに。もう少し寝ていると良い」
「あの、……私は何があったのか、あまり良く覚えていないのですが……」
笑顔で見上げられるのに、フェリシアはシーツを引っ張って己の身体を隠しながら、困って目を泳がせた。
取引きをして、己の身を差し出すと約束した筈なのに、何があっていつ眠ったのかを覚えていないとは、どういう事なのだろう。
自分の事なのにあやふやで、訳が分からない。
これでは実が貰えるのかどうかさえ分からず、それが一番不安だった。
「ああ、それは……君の身体があんまり良くて、私が無理を強いたからだろうな。すまないな。今夜はちゃんと覚えていられるように、ゆっくり優しく抱くよ」
「こ、今夜もっ! あんな事をするのですか?」
眉を下げてジーンを見つめるフェリシアに、楽しそうに返ってきた言葉は、ぎょっとするばかりの物だった。
大層機嫌の良さそうなジーンの様子に、怒らせるような真似はしていないようでホッとしたが、告げられた言葉は笑って頷ける物ではなかった。
たくさん身体を触られて、キスもされ、とても自分の声とは思えないような声を上げる事を、今夜も行なう。
そこまでは覚えているのだが、それを思っただけで、全身が赤く羞恥に染まった。
「当然だろう? フェリシアは私の妻となる。早く、夫の私に身も心も慣れて貰わなければならないからな」
「妻?」
思いも寄らない言葉にさらにぎょっとし、呆然としてジーンを見返した。
『ジーンの者となる』 とは、身体を差し出して好きにされる事だとばかりに思っていただけに、結婚を持ち出されてフェリシアは酷く驚いた。
「私の者となってここで暮らすと言うのは、そういう事だ」
「きゃっ!」
腕を掴まれ、ぐいと少し強く引かれる。
フェリシアはジーンの胸元に逆戻りした。
頬に手を添えられ、上を向かされると同時に、口づけられていた。
「んんっ! ぁ…ん……」
舌を絡めて擽られる。
甘い刺激に息が上がるまで解放されず、ようやく解放された時には身体に力が入らなくなっていた。ジーンの胸元にぺったりと縋るようにして身を伏せてしまう。
「可愛いな。私としては今からでもまた抱きたいが、身体が辛いか?」
「あっ!」
身体を巻くシーツの中に入り込んできたジーンの手に、すっと背を撫で下ろされる。
途端に身の内深くから湧き立つ物に、身体がびくんと震えた。
恐怖で震えたのではない。
ジーンの手に快さを感じ、悦びに震えたのだ。
一体何をされれば、こんなにも触られる事に抵抗がなくなるのだ。そして、このままずっとその腕に抱かれていたいなどと思うようになるのだ。
分からない。
自分の心も身体も、自分の物ではないように感じた。
理解出来ない事ばかりで、フェリシアは困惑に瞳を揺らせながらジーンを見つめることしか出来なかった。
「おや……身体はすでに、私の手に慣れているようだ」
「え?」
楽しそうに言い当てられるのに、フェリシアは目を見開いてその顔を凝視した。
どうして、そんなに簡単に自分の事が分るのだ。自分よりも自分を知っていそうなジーンが、不思議だった。
「……君は忘れているようだが、君が眠るまでに、私と君はたくさん愛し合った……もう私に慣れていてもおかしくはない。証拠を見せようか?」
フェリシアの頭を撫でてから、ジーンが身を起こした。
「ジーンっ……なにをっ……」
寝台を降りガウンを羽織ったジーンに、シーツを剥がれ、有無を言わさず抱き上げられる。
そして、広い寝室の一角にある、壁に掛けられた全身を映す大きな鏡の前に、全裸のフェリシアは運ばれ、下ろされた。
磨き抜かれた黒茶の木枠に、秀逸な花模様の彫刻が施された姿見だった。美しい姿身である事に間違いはないが、今の何も隠す術のない頼りない姿を映して見たいとは、フェリシアはまったく思わなかった。
しかし、嫌がってその場を離れようにも、身体はとてもだるく満足に力が入らない。その上、足を少しでも動かすと、身の内から何かが溢れて下肢に滴りそうになるのだ。
その事がどうしても恥ずかしく、動きが緩慢になってしまう。そんなフェリシアがジーンに叶う訳もなく、されるがまま鏡の前に全身を晒された。
何故、こんな事をされるのか分からず、フェリシアは羞恥に身を震わせた。
ジーンはフェリシアの背後に立ち、緩く腕を回して抱きしめると、耳元に唇を寄せて楽しげに笑った。
「怯える事はない。私しか見ていないのだから」
「ジーン……」
そう言われても、全裸で鏡の前に立たされているのだ。恥ずかし過ぎて、平常心を保つ事も、平気な顔を作る事もどちらも出来ない。
フェリシアは全身を真っ赤に染めて何度も首を横に振り、一刻も早く止めてくれるよう願った。
しかし、ジーンにフェリシアの気持ちは届かなかった。ジーンはフェリシアの首筋に触れると、ゆっくりと肌を撫で始めた。SUPER FAT BURNING
「これが、愛し合った証だ。ここもここも、みんな私が付けた。君は、そこに私が触れる度に、とても悦んでくれた」
機嫌の良い声で囁かれる内容に、嘘です、と叫んで否定する事は出来なかった。
そうされた事をフェリシアは覚えてなくても、ジーンが触れる場所には、確かに印が刻まれているのだ。
赤い鬱血の痕が、幾つもフェリシアの肌には花開いていた。
見ないで欲しいと手で身体を隠したくても、そうするとジーンの機嫌が悪くなると思うと、手は動かなかった。
神の実の為に機嫌を取りたいだけではなく、取引きが無くても、ジーンの機嫌は損ねたくないと何故か思ってしまうのだ。
やはり、自分が良く分からない。
少し眠っただけで、何かが大きく変わってしまっているのに戸惑っていると、ジーンの右手がフェリシアの胸に触れた。
その胸にもたくさんの痕があった。
それをジーンの手が辿るのに、フェリシアはその手を制止するよりも先に、快感の喘ぎを零していた。
鏡には、男の胸元に凭れた姿で、胸を揉まれて恥ずかしげもなく気持ち良さげに目を細め、恍惚として浸っている自分が映っていた。
「フェリシアは、特にここを触られると悦んだな」
胸の頂を軽く指で撫でられる。瞬時に走った甘く強い快感に、首を振って悶えた。
「あ、ああぁ……く、ふっ…ぅん……」
フェリシアが身体を揺らせ、歓喜の声を上げれば上げるほど、ジーンは執拗に胸を揉んできた。突起も摘まれ捏ねられる。
うなじにも舌を這わされじっくりと舐め舐られた。
与えられるすべてが心地良い。
仰け反って喘ぐフェリシアの唇に、うなじを這っていたジーンの唇が触れる。口づけは深く、舌を絡め取られて吸い上げられた。
「んふっ、あぅん……」
その最中、左手が下腹部を撫でながら足の狭間に下りていく。
「あぁっ! そ、そこは…だめっ……ああぅん……」
躊躇いなく秘所に触れた指に、フェリシアは堪らず大きく身を捩った。口づけを解くと、制止の声を上げてしまった。
その手が嫌で、逆らいたくて声を上げたのではない。
そこに触られている自分を、鏡に映され間近に見せ付けられるのが、とにかく恥ずかしかったのだ。
「駄目? フェリシアの身体は、私に触られて悦んでいるようにしか見えないのだが?」
フェリシアの抵抗に、ジーンは機嫌を損ねる事無く変らず楽しそうに笑っていたが、望みを聞いて、手を止めてくれる事はなかった。
それどころか、フェリシアの足の間に己の足を割り入れて大きく広げさせると、秘所の割れ目を軽く撫で、指を二本挿し入れた。
すると、中に溜まっていた物が押し出され、とろりと白濁が大量に下肢に滴り落ちた。
「あっ! ぅんっ……」
太腿を何本もの筋を作って滴り落ちて行くそれが、毛足の長い柔らかな絨毯を汚していく。その光景に、フェリシアは居た溜まれずに俯いた。
「お風呂に入れて綺麗にしてあげる前に、私も寝てしまったからな……中にたくさん残っているな、私の注いだ物が」
俯くフェリシアとは対照的に、ジーンはこの上なく楽しそうだった。フェリシアの身の内に沈めた指を、中に溜まっている物を掻き出すようにしながら、ゆっくりと蠢かした。
「はぅ、んぅ…ぁあ……ああぁ……」
くちゅ、にゅちと粘ついた水音が響く。
しかし、本当に不思議な事に、下肢に滴る白濁を見るのも、自分がはしたなくも蜜を滲ませるのも恥ずかしくて堪らないのに、フェリシアの心には、どうにかしてこの場を逃げ出そうと思うほどの嫌悪の感情は、まったく育つ事はなかった。
それどころか、フェリシアの中はどんどん熱く潤い、悦んでジーンの指を迎え入れ、その指をしゃぶるように肉襞が纏わりついていた。
フェリシアの奥深くに埋められたジーンの指が、そこで中を広げるように動く。すると、とうとうとろりとフェリシア自身の快楽の証が、下肢に零れて滴った。
「ふあぁ…んんっ……ジーン。分かりましたから……もう止めて下さい……あぁ……」
このまま続けられれば、身も心も蕩けてしまう。そうなると、もっと自分が変わってしまうように思えて、それが怖くてフェリシアはジーンに懇願した。
「何が分かった?」
だが、ジーンはフェリシアの懇願にも微笑むばかりで、聞き入れてはくれなかった。その指は変わらず中を掻き回し、さらには親指までもを使い、弾くように花芯を弄られた。
問うて来る低音の魅力的な声。耳を擽る吐息にさえ快感を煽られながら、フェリシアは喘ぎ混じりに正直に答えた。それで止めてくれる事を願いつつ。
「ジーンの手が……んんっ……気持ち良い…事…あんっ…身体が慣れてる……事……ああっ……」
何があったのかは覚えてなくとも、ジーンに触られる事が堪らなく気持ち良くて、愛し合ったと言う言葉を疑う気にはなれなかった。
「その通りだ。君はここに私を受け入れて、たくさん気持ち良くなって悦び、私に慣れてくれたのだよ」
ジーンはフェリシアの肩に顎を乗せ、右手では変わらず胸を揉みながら、大きく広げた足の間では、左手が花弁を捲り上げて鏡の前に中を晒した。
ジーンから注がれた残滓と己の蜜を滴らせながら、何かを求めて物欲しそうに蠢く、真っ赤に熟れた秘められた場所を。
「ジーンっ! そんな事、しないで下さいっ……分かりましたから……本当に、分かりましたからっ!」
鏡に映し出される、あまりに淫らな己の姿を見ていられず、フェリシアは顔を両手で覆って叫んだ。
「そうかい?」
ジーンがフェリシアの身の内から指を抜いた。やっと聞き入れてくれたのだと安堵の息を吐いたその時、顔を覆っていた両手を剥がされ、鏡に押し付けられた。
「え? きゃうっ! くふっ……あ、ああぁ……んっ……」
指などより遥かに太くて熱いもので、一気に最奥まで貫かれた。秘所から蜜が飛び散り、淫猥な水音が部屋に響き渡る。
突然の強引な行いに、それでも、何の嫌悪も恐怖も感じなかった。逆に、身の内をいっぱいに広げられ、背後から中が泡立つほどに激しく突き上げられるのが、心地良いばかりだった。
「これからも、こうしてたくさん愛して、フェリシアの望む事は何でも叶えよう。だから、君は私に溺れて、私だけを見るのだ」
「ああんっ! ジーンっ……ひっ、あ、ああぁ……」
蜜壷内の、特に気持ちの良い場所を擦り上げ、抉られる。両手で胸を揉み込まれ、突起も転がすように愛撫される。
鏡に縋り、与えられるすべてに感じ入って、フェリシアは嬌声を上げ続けた。
鏡の前で激しく抱かれる。
自分がどんな顔をしてそれを受け入れ、淫らで恥ずかしい姿を晒しているのか目の当たりにさせられるのに、抵抗するよりもフェリシアは、ジーンから与えられる快楽にのめり込み溺れてしまった。
次第に羞恥は消え、その代わりに欲望が煽られ、高まった。
最後には、自分から足を開いてジーンをねだりまでしてしまった。
満足行くまで抱き合った。終極痩身
その熱い時間が過ぎ、快楽の余韻が消える。
落ち着いた所で、フェリシアは、変わり過ぎている己の身体に愕然として震えた。
幾らなんでも、簡単に身を許し過ぎなのではないだろうか。
しかもそれを、ジーンなら良いのだとばかりにあまり悪い事だと思っていない己に、フェリシアは青褪め混乱した。
自分の中に、別の自分がいるように感じる。
そんな馬鹿げた事を真面目に考えてしまうフェリシアを、ジーンは浴室へと誘った。
「自分をおかしいなどと思う必要はない。君をそうしたのは私だ。君は、私の望みを叶えてくれているだけなのだ。何も気にする事はない」
「ジーン……」
フェリシアの混乱が、言葉にせずとも伝わっているとしか思えない。
それを、何故伝わるのだ、と訝しむよりも、己を気遣う気持ちを強く感じ、それがとてもあたたかくて心地良く心を穏やかにしてくれた。
「私達は、まだ出逢ったばかりだ。……フェリシアにとって、私はよく分からない人間だろうな。だが、私は君との約束は守る。その証拠を食事が済み次第見せよう。だから、少しずつで良い。身体だけではなく、心も私に開いて欲しい。私は君を誰より大切にする」
向けられた優しい微笑みに、フェリシアは何かを思うよりも先に頷いていた。
取引きを持ち掛けて来たジーンは、正直に言うととても恐ろしかった。
でも、今のジーンは優しくてあたたかくて、ただただ惹き付けられるばかりだった。
それに、取引きに関係なく、自分はこの男を嫌えない。
ジーンという存在は、フェリシアにとって何故かそんな存在だった。
二人で広い、白大理石造りの浴室に入って身を清めた後、ジーンはフェリシアの前に、同い年くらいの少女を一人呼び寄せた。
身の回りの世話役として紹介され、その少女リーファに、あれこれと世話を焼いてもらいながら、フェリシアは淡いブルーのワンピースを着てジーンと食事を摂った。
他人に着替えを手伝って貰うなど初めての事で、最初は抵抗感が勝り遠慮した。
しかし、リーファは 『これが、私の仕事ですからご遠慮なさらないで下さい』 と、可愛らしく笑ってフェリシアの遠慮を封じた。
その、柔らかな人の良さそうな雰囲気と、己の身体の状態に負け、フェリシアはリーファに身支度を任せてしまった。正直、身体は酷くだるく、少し動くだけでも鈍い痛みを訴えてくるのに、病気でなくとも人の助けはとてもありがたい物だった。
リーファは、赤毛を三つ編みにし、それをくるくると巻いて一纏めにしている、薄茶色の丸い瞳が愛らしい少女だった。
自分と同い年くらいだと思うのだが、フェリシアの世話をするのに何の屈託もなく、てきぱきと手際良く動いてくれた。
それどころか、見ていると気持ちが明るくなる笑顔の持ち主であり、色々な事を丁寧に話してくれるのが、とても楽しかった。
フェリシアは、短い時間の遣り取りで、すぐにリーファと打ち解けた。
食事の後、ジーンはフェリシアを断っても歩かせようとはせず、胸元に抱き上げ自ら運んだ。
ゆっくりなら歩けますから、と何度訴えても無視され、行き先も教えて貰えなかった。
機嫌良くフェリシアを抱いて歩くジーンの足取りに苦は感じず、こんな事をして貰っても良いのだろうか、と思いながらも結局は好意に甘える事にした。
ジーンは、城の外に出た。
そこは、フェリシアが地上から案内された折に入って来たのとは異なる場所だった。
恐らく、裏庭だろうと思う。
とは言え、とても広い。
立派な木が多く植えられ、そよ風に吹かれて枝葉が揺れている。可憐な白い花が咲いている小さな木も、規則正しく植えられていた。
そんな、隅々まで手入れの行き届いた庭の左。そこには、赤と白の蔦薔薇が小山を作っていた。
ジーンはそちらに向かって歩き、小山の前に立った。
ジーンの背丈よりも高く蔦薔薇は這い昇り、複雑に絡み合って小山を形成している。
他の木は美しく剪定されているのに、この蔦薔薇だけは伸びるがまま放っているようにしか見えず、フェリシアは首を傾げた。
そんなフェリシアにジーンは楽しげに笑うと、傍らに立つ、己の背と同じくらいの高さの銀色の細い円柱に、左手を触れた。
すると、薬指に填められた指輪と柱の一部が赤く光って反応し ピ と軽い音がした。
同時に、するすると蔦薔薇が動き始める。
複雑に絡み合って小山を形成していたのが嘘のように、瞬時にアーチとなり、人が通れる場所を開けた。
「え?」
植物が動いた。目の前に見ていても信じられない光景に、フェリシアは頓狂な声を上げてしまった。
驚いたままジーンを見つめると、蔦薔薇のアーチをくぐるジーンは面白そうに笑った。
「蔦薔薇は植物ではない。侵入者避けの警備システムの一つだ。あの柱に、入る資格のある者が触れない限り、道を開けない事となっている。無視して強引に山を崩そうとする者の命はない」
「…………」
淡々と語られる、ずいぶんと恐ろしい仕組みに、この先には、そこまで厳重にしなければならない一体何があるのだろうと思う。
アーチを抜けた先には、赤レンガの門柱と壁、ガラスの門扉が待っていた。
裏庭に出るにも、蔦薔薇の小山も解くのも、どこかに手を触れて開けさせていたように、ジーンはここでも同じようにした。
すべて鍵が掛かっており、限られた人間にしか開けられない。その事実に、ここは特別な天の島の中でもさらに特別重要な場所なのだと、自然とフェリシアにも理解できた。
でも、何がある場所なのかは、やはり分からない。
「ここに、何があるのですか?」
「その、丁寧に話すのは止めて欲しい。普通に話せないと言うなら、証拠を見せようと思っていたが止める。……この先には、フェリシアの欲しい物があるのだが、ここで引き返す」
「そんな……」
ガラスの門扉を通った所で立ち止まったジーンに、フェリシアは眉を寄せた。この先に欲しい物がある、などと言われれば見たいに決まっている。
だが、ジーンとは自分が素で会話をしても良い人なのだろうか。本人に良いと言われても、これまでの状況から察するに、あまり良いとは思えないのだ。名を呼んでいる事も、本当は良いとは思っていないフェリシアは、困って考え込んだ。
「私が良いと言っているのだ。余計な事は考えず、頷いて欲しい」
「…………本当に良いの? 無礼者として、神の実の約束を無しにして、罰を与えたりしない?」
促されるのに、おずおずと素の口調で問うと、ジーンはフェリシアの目尻にキスをした。
「大事な君に、そんな馬鹿げた事などしない。ああ、やはりその方が良い……」
「それなら……」
不興を買うどころか、とても機嫌の良い様子に、仄かに頬を赤く染めて小さく頷いた。
ジーンの自分を見る眼差し、そして話す口調にも、すべてに心が甘く擽られているフェリシアだった。
「ここは、神の実を実らせる木がある場所だ」
「え?」
フェリシアの了承に笑みを浮かべ、ジーンは少し歩いた。
歩んだ先にもガラスの扉があり、今度は壁もガラスだった。
中が見える。
キラキラと虹色に煌めいている中には、確かに木があるように見えた。
「私達は、実を持っているだけではない。神の木その物も、ここで管理している」
ガラス扉の一角にジーンが手を触れる。
音も無く扉は開き、フェリシアはすべてを目にした。
ガラス壁で囲まれた円形の広場中央に、虹色に輝く美しい大樹が一本、悠然と枝葉を伸ばしていた。御秀堂 養顔痩身カプセル
天より注ぐ光が葉に当たって煌めいているのではない。この木は自身で光を放っている。
なんとも珍しく美しい木に、フェリシアは陶然と見惚れた。
サアァ、と水音がし、霧雨のような物が周囲に立てられた柱から木に降り注ぐ。しばしその光景を眺め、水が止まるとジーンは木の傍までフェリシアを運んでくれた。
「綺麗ね」
「一族の宝だ。五百年ほど前に、エディナに奪われるのを警戒した統主が周囲の土地ごと掘り、空に上げた」
「そうなの……」
天の島は、どこかの島を浮かせているのではなく、地上にあった神の木とその周辺の土地だったとは。五百年も前にそんな技術があった事も、驚きだった。
しかし、そんな事よりも、さすがは神の実である。
こんなに美しく神々しい木に実るとは、やはり奇跡の万能薬とは素晴らしい。フェリシアはうっとりした。
ジーンが木のすぐ傍に降ろしてくれた事をありがたく思いながら、フェリシアは手を伸ばし、大事な実を育んでくれる木を、感謝の気持ちを込めて撫でようとした。
「それは、駄目だ」
木の幹に指が触れる寸前、腕を掴まれ止められる。
「神の木は見た目は美しいが、猛毒を持つ木だ。少し触れただけでも確実に死ぬから触るのは駄目だ」
「毒?」
真剣な眼差しで告げられるが、神聖な物を備えているようにも思える美しい木が毒の木とは、信じ難かった。
「そうだ。触れるのは、我が一族かエラノールの中和の術が使える人間だけだ」
「こんなに綺麗なのに……」
誰にも触れる事が出来ないとは、残念な事だ。フェリシアは寂しい気持ちで美しい木を見上げた。
木の上を覆うような屋根も天井なくそよ風が吹き込んでくる。周囲のガラス壁も、よく見れば風が通るようにきちんと何箇所も開けられている。
その風に揺らされ、木の葉が触れ合ってさやさやと音を立てる。優しい音が、触っても良いよと自分に囁いているようにしか聞こえず、フェリシアは思わず神の木を凝視してしまう。
自分の、触りたいと思う気持ちが幻聴となっただけだと分かっていても、この神の木は何故か自分には優しいように感じた。
「最高の宝はそう簡単には手に出来ないという事だ。触ってみたいだろうが、眺めるだけにしておいてくれ」
「はい」
フェリシアは素直に頷いた。自分の不確かな感覚を優先し、ジーンの注意に逆らおうとは思わなかった。
「神の木の毒素を無効化する中和の術。神の実は、その術を高度に使える人間にしか採集出来ない」
「それは、アルピニスの一族なら誰でも出来る、という訳ではないの?」
ジーンの言い方から察するに、たくさん居るようにはとても思えなかった。
「そうだ。私だけだ」
「ジーンだけ、なの?」
言い切られた言葉に、フェリシアは呆然としてジーンを見上げた。
「ああ。今のアルピニスに、神の木の毒を完全中和出来る術師は、私だけだ。だから私が一族の長となり、レイズの統主となっている」
「そんなに……難しいの……」
実を採集出来る人間がレイズの統主。支配者一族(アルピニス)の長となる。
となれば、それは、間違いなく安易な技ではない。
「難しいが大丈夫だ。必ずフェリシアに実を渡す。私の君への愛の証として」
「愛の証……」
手を取られ、そっと口づけられる。
真剣な眼差しと言葉に、胸が高鳴った。
「私は、君を愛している。君にも、ゆっくりで良いから私を愛して欲しい」
心の底まで見通すような瞳で真っ直ぐに見つめられるのに、フェリシアは首まで真っ赤に染めた。
出会ってまだ数時間だ。
フェリシアはジーンの事をまともに知らないし、それはジーンの方とて同じ事だろう。それなのに、妻とか愛とかとんでもないと思う。
優しそうに見えても怖い。
でも、やっぱり優しいのではないかと思ってしまう。
そんな両極の印象を抱くジーンの、この愛の囁きは、どう考えても唐突過ぎる。
しかしそう思っても、フェリシアは拒否しようとは思わなかった。
「…………ゆ、ゆっくりで……良いなら……」
緊張に言葉は途切れてしまうが、受け入れたフェリシアに、ジーンが心より幸せそうに微笑み、優しく口づけてくる。
その口づけも、目を閉じて受け入れた。
これは、神の実を貰う為にしているのではない。
大事な神の実以上に、ジーンから捧げられる愛の方が嬉しいと思ったのだ。
そんな自分の心の動きは、自分でも上手く説明できない物だったが、ジーンに抱きしめて貰うのは、とてもあたたかくて心地良かった。曲美
我が身を包む温もりを、心地良く感じながら目覚めたフェリシアは、自身の置かれた状況を上手く把握できなかった。
「…………」
裸の男の胸元に抱かれて眠っている。超級脂肪燃焼弾
どうして、こんな事に?
驚愕に大声を上げそうになった所で、あ、と思い出した。
神の実が欲しくて、今己を抱きしめて気持ち良さそうに眠っているジーンと、取引きをしたのだ。
そうだった、と思いながらゆっくりと身動くと、さらりとシーツが肩から滑り落ちた。
すると、より鮮明に自分の姿が見て取れて、フェリシアは首まで真っ赤になった。
何も着ていない。
それを実感すると物凄く恥ずかしくなった。
何とか起こさないよう、背に回っているジーンの手を外して寝台に半身を起こした。
「っ!」
途端に、全身に漂う奇妙なだるさを自覚する。その上、身の内から何かが溢れ出すのに、服を探す事も忘れて、ぎょっとした。
身体がだるい訳も分からなければ、身を汚す滴りの意味も分からない。
フェリシアは、取引き成立後、ジーンにされていた事を途中までしか覚えていなかった。
この寝台に押し倒されて、行為の途中でジーンが何かを言った。その何かも思い出せないし、それから後の記憶も完全に途切れていた。
記憶のない間、自分の身体が一体どうなっていたのか。
幾ら考えても、脳裏にその情景はまったく浮かんではこなかった。
「私……あれからどうしたの……」
何故、覚えていないのだ。
記憶がおかしい事に不安を抱いていると、ジーンの目蓋が開いた。
「……おや。もう起きているのか? まだ疲れているだろうに。もう少し寝ていると良い」
「あの、……私は何があったのか、あまり良く覚えていないのですが……」
笑顔で見上げられるのに、フェリシアはシーツを引っ張って己の身体を隠しながら、困って目を泳がせた。
取引きをして、己の身を差し出すと約束した筈なのに、何があっていつ眠ったのかを覚えていないとは、どういう事なのだろう。
自分の事なのにあやふやで、訳が分からない。
これでは実が貰えるのかどうかさえ分からず、それが一番不安だった。
「ああ、それは……君の身体があんまり良くて、私が無理を強いたからだろうな。すまないな。今夜はちゃんと覚えていられるように、ゆっくり優しく抱くよ」
「こ、今夜もっ! あんな事をするのですか?」
眉を下げてジーンを見つめるフェリシアに、楽しそうに返ってきた言葉は、ぎょっとするばかりの物だった。
大層機嫌の良さそうなジーンの様子に、怒らせるような真似はしていないようでホッとしたが、告げられた言葉は笑って頷ける物ではなかった。
たくさん身体を触られて、キスもされ、とても自分の声とは思えないような声を上げる事を、今夜も行なう。
そこまでは覚えているのだが、それを思っただけで、全身が赤く羞恥に染まった。
「当然だろう? フェリシアは私の妻となる。早く、夫の私に身も心も慣れて貰わなければならないからな」
「妻?」
思いも寄らない言葉にさらにぎょっとし、呆然としてジーンを見返した。
『ジーンの者となる』 とは、身体を差し出して好きにされる事だとばかりに思っていただけに、結婚を持ち出されてフェリシアは酷く驚いた。
「私の者となってここで暮らすと言うのは、そういう事だ」
「きゃっ!」
腕を掴まれ、ぐいと少し強く引かれる。
フェリシアはジーンの胸元に逆戻りした。
頬に手を添えられ、上を向かされると同時に、口づけられていた。
「んんっ! ぁ…ん……」
舌を絡めて擽られる。
甘い刺激に息が上がるまで解放されず、ようやく解放された時には身体に力が入らなくなっていた。ジーンの胸元にぺったりと縋るようにして身を伏せてしまう。
「可愛いな。私としては今からでもまた抱きたいが、身体が辛いか?」
「あっ!」
身体を巻くシーツの中に入り込んできたジーンの手に、すっと背を撫で下ろされる。
途端に身の内深くから湧き立つ物に、身体がびくんと震えた。
恐怖で震えたのではない。
ジーンの手に快さを感じ、悦びに震えたのだ。
一体何をされれば、こんなにも触られる事に抵抗がなくなるのだ。そして、このままずっとその腕に抱かれていたいなどと思うようになるのだ。
分からない。
自分の心も身体も、自分の物ではないように感じた。
理解出来ない事ばかりで、フェリシアは困惑に瞳を揺らせながらジーンを見つめることしか出来なかった。
「おや……身体はすでに、私の手に慣れているようだ」
「え?」
楽しそうに言い当てられるのに、フェリシアは目を見開いてその顔を凝視した。
どうして、そんなに簡単に自分の事が分るのだ。自分よりも自分を知っていそうなジーンが、不思議だった。
「……君は忘れているようだが、君が眠るまでに、私と君はたくさん愛し合った……もう私に慣れていてもおかしくはない。証拠を見せようか?」
フェリシアの頭を撫でてから、ジーンが身を起こした。
「ジーンっ……なにをっ……」
寝台を降りガウンを羽織ったジーンに、シーツを剥がれ、有無を言わさず抱き上げられる。
そして、広い寝室の一角にある、壁に掛けられた全身を映す大きな鏡の前に、全裸のフェリシアは運ばれ、下ろされた。
磨き抜かれた黒茶の木枠に、秀逸な花模様の彫刻が施された姿見だった。美しい姿身である事に間違いはないが、今の何も隠す術のない頼りない姿を映して見たいとは、フェリシアはまったく思わなかった。
しかし、嫌がってその場を離れようにも、身体はとてもだるく満足に力が入らない。その上、足を少しでも動かすと、身の内から何かが溢れて下肢に滴りそうになるのだ。
その事がどうしても恥ずかしく、動きが緩慢になってしまう。そんなフェリシアがジーンに叶う訳もなく、されるがまま鏡の前に全身を晒された。
何故、こんな事をされるのか分からず、フェリシアは羞恥に身を震わせた。
ジーンはフェリシアの背後に立ち、緩く腕を回して抱きしめると、耳元に唇を寄せて楽しげに笑った。
「怯える事はない。私しか見ていないのだから」
「ジーン……」
そう言われても、全裸で鏡の前に立たされているのだ。恥ずかし過ぎて、平常心を保つ事も、平気な顔を作る事もどちらも出来ない。
フェリシアは全身を真っ赤に染めて何度も首を横に振り、一刻も早く止めてくれるよう願った。
しかし、ジーンにフェリシアの気持ちは届かなかった。ジーンはフェリシアの首筋に触れると、ゆっくりと肌を撫で始めた。SUPER FAT BURNING
「これが、愛し合った証だ。ここもここも、みんな私が付けた。君は、そこに私が触れる度に、とても悦んでくれた」
機嫌の良い声で囁かれる内容に、嘘です、と叫んで否定する事は出来なかった。
そうされた事をフェリシアは覚えてなくても、ジーンが触れる場所には、確かに印が刻まれているのだ。
赤い鬱血の痕が、幾つもフェリシアの肌には花開いていた。
見ないで欲しいと手で身体を隠したくても、そうするとジーンの機嫌が悪くなると思うと、手は動かなかった。
神の実の為に機嫌を取りたいだけではなく、取引きが無くても、ジーンの機嫌は損ねたくないと何故か思ってしまうのだ。
やはり、自分が良く分からない。
少し眠っただけで、何かが大きく変わってしまっているのに戸惑っていると、ジーンの右手がフェリシアの胸に触れた。
その胸にもたくさんの痕があった。
それをジーンの手が辿るのに、フェリシアはその手を制止するよりも先に、快感の喘ぎを零していた。
鏡には、男の胸元に凭れた姿で、胸を揉まれて恥ずかしげもなく気持ち良さげに目を細め、恍惚として浸っている自分が映っていた。
「フェリシアは、特にここを触られると悦んだな」
胸の頂を軽く指で撫でられる。瞬時に走った甘く強い快感に、首を振って悶えた。
「あ、ああぁ……く、ふっ…ぅん……」
フェリシアが身体を揺らせ、歓喜の声を上げれば上げるほど、ジーンは執拗に胸を揉んできた。突起も摘まれ捏ねられる。
うなじにも舌を這わされじっくりと舐め舐られた。
与えられるすべてが心地良い。
仰け反って喘ぐフェリシアの唇に、うなじを這っていたジーンの唇が触れる。口づけは深く、舌を絡め取られて吸い上げられた。
「んふっ、あぅん……」
その最中、左手が下腹部を撫でながら足の狭間に下りていく。
「あぁっ! そ、そこは…だめっ……ああぅん……」
躊躇いなく秘所に触れた指に、フェリシアは堪らず大きく身を捩った。口づけを解くと、制止の声を上げてしまった。
その手が嫌で、逆らいたくて声を上げたのではない。
そこに触られている自分を、鏡に映され間近に見せ付けられるのが、とにかく恥ずかしかったのだ。
「駄目? フェリシアの身体は、私に触られて悦んでいるようにしか見えないのだが?」
フェリシアの抵抗に、ジーンは機嫌を損ねる事無く変らず楽しそうに笑っていたが、望みを聞いて、手を止めてくれる事はなかった。
それどころか、フェリシアの足の間に己の足を割り入れて大きく広げさせると、秘所の割れ目を軽く撫で、指を二本挿し入れた。
すると、中に溜まっていた物が押し出され、とろりと白濁が大量に下肢に滴り落ちた。
「あっ! ぅんっ……」
太腿を何本もの筋を作って滴り落ちて行くそれが、毛足の長い柔らかな絨毯を汚していく。その光景に、フェリシアは居た溜まれずに俯いた。
「お風呂に入れて綺麗にしてあげる前に、私も寝てしまったからな……中にたくさん残っているな、私の注いだ物が」
俯くフェリシアとは対照的に、ジーンはこの上なく楽しそうだった。フェリシアの身の内に沈めた指を、中に溜まっている物を掻き出すようにしながら、ゆっくりと蠢かした。
「はぅ、んぅ…ぁあ……ああぁ……」
くちゅ、にゅちと粘ついた水音が響く。
しかし、本当に不思議な事に、下肢に滴る白濁を見るのも、自分がはしたなくも蜜を滲ませるのも恥ずかしくて堪らないのに、フェリシアの心には、どうにかしてこの場を逃げ出そうと思うほどの嫌悪の感情は、まったく育つ事はなかった。
それどころか、フェリシアの中はどんどん熱く潤い、悦んでジーンの指を迎え入れ、その指をしゃぶるように肉襞が纏わりついていた。
フェリシアの奥深くに埋められたジーンの指が、そこで中を広げるように動く。すると、とうとうとろりとフェリシア自身の快楽の証が、下肢に零れて滴った。
「ふあぁ…んんっ……ジーン。分かりましたから……もう止めて下さい……あぁ……」
このまま続けられれば、身も心も蕩けてしまう。そうなると、もっと自分が変わってしまうように思えて、それが怖くてフェリシアはジーンに懇願した。
「何が分かった?」
だが、ジーンはフェリシアの懇願にも微笑むばかりで、聞き入れてはくれなかった。その指は変わらず中を掻き回し、さらには親指までもを使い、弾くように花芯を弄られた。
問うて来る低音の魅力的な声。耳を擽る吐息にさえ快感を煽られながら、フェリシアは喘ぎ混じりに正直に答えた。それで止めてくれる事を願いつつ。
「ジーンの手が……んんっ……気持ち良い…事…あんっ…身体が慣れてる……事……ああっ……」
何があったのかは覚えてなくとも、ジーンに触られる事が堪らなく気持ち良くて、愛し合ったと言う言葉を疑う気にはなれなかった。
「その通りだ。君はここに私を受け入れて、たくさん気持ち良くなって悦び、私に慣れてくれたのだよ」
ジーンはフェリシアの肩に顎を乗せ、右手では変わらず胸を揉みながら、大きく広げた足の間では、左手が花弁を捲り上げて鏡の前に中を晒した。
ジーンから注がれた残滓と己の蜜を滴らせながら、何かを求めて物欲しそうに蠢く、真っ赤に熟れた秘められた場所を。
「ジーンっ! そんな事、しないで下さいっ……分かりましたから……本当に、分かりましたからっ!」
鏡に映し出される、あまりに淫らな己の姿を見ていられず、フェリシアは顔を両手で覆って叫んだ。
「そうかい?」
ジーンがフェリシアの身の内から指を抜いた。やっと聞き入れてくれたのだと安堵の息を吐いたその時、顔を覆っていた両手を剥がされ、鏡に押し付けられた。
「え? きゃうっ! くふっ……あ、ああぁ……んっ……」
指などより遥かに太くて熱いもので、一気に最奥まで貫かれた。秘所から蜜が飛び散り、淫猥な水音が部屋に響き渡る。
突然の強引な行いに、それでも、何の嫌悪も恐怖も感じなかった。逆に、身の内をいっぱいに広げられ、背後から中が泡立つほどに激しく突き上げられるのが、心地良いばかりだった。
「これからも、こうしてたくさん愛して、フェリシアの望む事は何でも叶えよう。だから、君は私に溺れて、私だけを見るのだ」
「ああんっ! ジーンっ……ひっ、あ、ああぁ……」
蜜壷内の、特に気持ちの良い場所を擦り上げ、抉られる。両手で胸を揉み込まれ、突起も転がすように愛撫される。
鏡に縋り、与えられるすべてに感じ入って、フェリシアは嬌声を上げ続けた。
鏡の前で激しく抱かれる。
自分がどんな顔をしてそれを受け入れ、淫らで恥ずかしい姿を晒しているのか目の当たりにさせられるのに、抵抗するよりもフェリシアは、ジーンから与えられる快楽にのめり込み溺れてしまった。
次第に羞恥は消え、その代わりに欲望が煽られ、高まった。
最後には、自分から足を開いてジーンをねだりまでしてしまった。
満足行くまで抱き合った。終極痩身
その熱い時間が過ぎ、快楽の余韻が消える。
落ち着いた所で、フェリシアは、変わり過ぎている己の身体に愕然として震えた。
幾らなんでも、簡単に身を許し過ぎなのではないだろうか。
しかもそれを、ジーンなら良いのだとばかりにあまり悪い事だと思っていない己に、フェリシアは青褪め混乱した。
自分の中に、別の自分がいるように感じる。
そんな馬鹿げた事を真面目に考えてしまうフェリシアを、ジーンは浴室へと誘った。
「自分をおかしいなどと思う必要はない。君をそうしたのは私だ。君は、私の望みを叶えてくれているだけなのだ。何も気にする事はない」
「ジーン……」
フェリシアの混乱が、言葉にせずとも伝わっているとしか思えない。
それを、何故伝わるのだ、と訝しむよりも、己を気遣う気持ちを強く感じ、それがとてもあたたかくて心地良く心を穏やかにしてくれた。
「私達は、まだ出逢ったばかりだ。……フェリシアにとって、私はよく分からない人間だろうな。だが、私は君との約束は守る。その証拠を食事が済み次第見せよう。だから、少しずつで良い。身体だけではなく、心も私に開いて欲しい。私は君を誰より大切にする」
向けられた優しい微笑みに、フェリシアは何かを思うよりも先に頷いていた。
取引きを持ち掛けて来たジーンは、正直に言うととても恐ろしかった。
でも、今のジーンは優しくてあたたかくて、ただただ惹き付けられるばかりだった。
それに、取引きに関係なく、自分はこの男を嫌えない。
ジーンという存在は、フェリシアにとって何故かそんな存在だった。
二人で広い、白大理石造りの浴室に入って身を清めた後、ジーンはフェリシアの前に、同い年くらいの少女を一人呼び寄せた。
身の回りの世話役として紹介され、その少女リーファに、あれこれと世話を焼いてもらいながら、フェリシアは淡いブルーのワンピースを着てジーンと食事を摂った。
他人に着替えを手伝って貰うなど初めての事で、最初は抵抗感が勝り遠慮した。
しかし、リーファは 『これが、私の仕事ですからご遠慮なさらないで下さい』 と、可愛らしく笑ってフェリシアの遠慮を封じた。
その、柔らかな人の良さそうな雰囲気と、己の身体の状態に負け、フェリシアはリーファに身支度を任せてしまった。正直、身体は酷くだるく、少し動くだけでも鈍い痛みを訴えてくるのに、病気でなくとも人の助けはとてもありがたい物だった。
リーファは、赤毛を三つ編みにし、それをくるくると巻いて一纏めにしている、薄茶色の丸い瞳が愛らしい少女だった。
自分と同い年くらいだと思うのだが、フェリシアの世話をするのに何の屈託もなく、てきぱきと手際良く動いてくれた。
それどころか、見ていると気持ちが明るくなる笑顔の持ち主であり、色々な事を丁寧に話してくれるのが、とても楽しかった。
フェリシアは、短い時間の遣り取りで、すぐにリーファと打ち解けた。
食事の後、ジーンはフェリシアを断っても歩かせようとはせず、胸元に抱き上げ自ら運んだ。
ゆっくりなら歩けますから、と何度訴えても無視され、行き先も教えて貰えなかった。
機嫌良くフェリシアを抱いて歩くジーンの足取りに苦は感じず、こんな事をして貰っても良いのだろうか、と思いながらも結局は好意に甘える事にした。
ジーンは、城の外に出た。
そこは、フェリシアが地上から案内された折に入って来たのとは異なる場所だった。
恐らく、裏庭だろうと思う。
とは言え、とても広い。
立派な木が多く植えられ、そよ風に吹かれて枝葉が揺れている。可憐な白い花が咲いている小さな木も、規則正しく植えられていた。
そんな、隅々まで手入れの行き届いた庭の左。そこには、赤と白の蔦薔薇が小山を作っていた。
ジーンはそちらに向かって歩き、小山の前に立った。
ジーンの背丈よりも高く蔦薔薇は這い昇り、複雑に絡み合って小山を形成している。
他の木は美しく剪定されているのに、この蔦薔薇だけは伸びるがまま放っているようにしか見えず、フェリシアは首を傾げた。
そんなフェリシアにジーンは楽しげに笑うと、傍らに立つ、己の背と同じくらいの高さの銀色の細い円柱に、左手を触れた。
すると、薬指に填められた指輪と柱の一部が赤く光って反応し ピ と軽い音がした。
同時に、するすると蔦薔薇が動き始める。
複雑に絡み合って小山を形成していたのが嘘のように、瞬時にアーチとなり、人が通れる場所を開けた。
「え?」
植物が動いた。目の前に見ていても信じられない光景に、フェリシアは頓狂な声を上げてしまった。
驚いたままジーンを見つめると、蔦薔薇のアーチをくぐるジーンは面白そうに笑った。
「蔦薔薇は植物ではない。侵入者避けの警備システムの一つだ。あの柱に、入る資格のある者が触れない限り、道を開けない事となっている。無視して強引に山を崩そうとする者の命はない」
「…………」
淡々と語られる、ずいぶんと恐ろしい仕組みに、この先には、そこまで厳重にしなければならない一体何があるのだろうと思う。
アーチを抜けた先には、赤レンガの門柱と壁、ガラスの門扉が待っていた。
裏庭に出るにも、蔦薔薇の小山も解くのも、どこかに手を触れて開けさせていたように、ジーンはここでも同じようにした。
すべて鍵が掛かっており、限られた人間にしか開けられない。その事実に、ここは特別な天の島の中でもさらに特別重要な場所なのだと、自然とフェリシアにも理解できた。
でも、何がある場所なのかは、やはり分からない。
「ここに、何があるのですか?」
「その、丁寧に話すのは止めて欲しい。普通に話せないと言うなら、証拠を見せようと思っていたが止める。……この先には、フェリシアの欲しい物があるのだが、ここで引き返す」
「そんな……」
ガラスの門扉を通った所で立ち止まったジーンに、フェリシアは眉を寄せた。この先に欲しい物がある、などと言われれば見たいに決まっている。
だが、ジーンとは自分が素で会話をしても良い人なのだろうか。本人に良いと言われても、これまでの状況から察するに、あまり良いとは思えないのだ。名を呼んでいる事も、本当は良いとは思っていないフェリシアは、困って考え込んだ。
「私が良いと言っているのだ。余計な事は考えず、頷いて欲しい」
「…………本当に良いの? 無礼者として、神の実の約束を無しにして、罰を与えたりしない?」
促されるのに、おずおずと素の口調で問うと、ジーンはフェリシアの目尻にキスをした。
「大事な君に、そんな馬鹿げた事などしない。ああ、やはりその方が良い……」
「それなら……」
不興を買うどころか、とても機嫌の良い様子に、仄かに頬を赤く染めて小さく頷いた。
ジーンの自分を見る眼差し、そして話す口調にも、すべてに心が甘く擽られているフェリシアだった。
「ここは、神の実を実らせる木がある場所だ」
「え?」
フェリシアの了承に笑みを浮かべ、ジーンは少し歩いた。
歩んだ先にもガラスの扉があり、今度は壁もガラスだった。
中が見える。
キラキラと虹色に煌めいている中には、確かに木があるように見えた。
「私達は、実を持っているだけではない。神の木その物も、ここで管理している」
ガラス扉の一角にジーンが手を触れる。
音も無く扉は開き、フェリシアはすべてを目にした。
ガラス壁で囲まれた円形の広場中央に、虹色に輝く美しい大樹が一本、悠然と枝葉を伸ばしていた。御秀堂 養顔痩身カプセル
天より注ぐ光が葉に当たって煌めいているのではない。この木は自身で光を放っている。
なんとも珍しく美しい木に、フェリシアは陶然と見惚れた。
サアァ、と水音がし、霧雨のような物が周囲に立てられた柱から木に降り注ぐ。しばしその光景を眺め、水が止まるとジーンは木の傍までフェリシアを運んでくれた。
「綺麗ね」
「一族の宝だ。五百年ほど前に、エディナに奪われるのを警戒した統主が周囲の土地ごと掘り、空に上げた」
「そうなの……」
天の島は、どこかの島を浮かせているのではなく、地上にあった神の木とその周辺の土地だったとは。五百年も前にそんな技術があった事も、驚きだった。
しかし、そんな事よりも、さすがは神の実である。
こんなに美しく神々しい木に実るとは、やはり奇跡の万能薬とは素晴らしい。フェリシアはうっとりした。
ジーンが木のすぐ傍に降ろしてくれた事をありがたく思いながら、フェリシアは手を伸ばし、大事な実を育んでくれる木を、感謝の気持ちを込めて撫でようとした。
「それは、駄目だ」
木の幹に指が触れる寸前、腕を掴まれ止められる。
「神の木は見た目は美しいが、猛毒を持つ木だ。少し触れただけでも確実に死ぬから触るのは駄目だ」
「毒?」
真剣な眼差しで告げられるが、神聖な物を備えているようにも思える美しい木が毒の木とは、信じ難かった。
「そうだ。触れるのは、我が一族かエラノールの中和の術が使える人間だけだ」
「こんなに綺麗なのに……」
誰にも触れる事が出来ないとは、残念な事だ。フェリシアは寂しい気持ちで美しい木を見上げた。
木の上を覆うような屋根も天井なくそよ風が吹き込んでくる。周囲のガラス壁も、よく見れば風が通るようにきちんと何箇所も開けられている。
その風に揺らされ、木の葉が触れ合ってさやさやと音を立てる。優しい音が、触っても良いよと自分に囁いているようにしか聞こえず、フェリシアは思わず神の木を凝視してしまう。
自分の、触りたいと思う気持ちが幻聴となっただけだと分かっていても、この神の木は何故か自分には優しいように感じた。
「最高の宝はそう簡単には手に出来ないという事だ。触ってみたいだろうが、眺めるだけにしておいてくれ」
「はい」
フェリシアは素直に頷いた。自分の不確かな感覚を優先し、ジーンの注意に逆らおうとは思わなかった。
「神の木の毒素を無効化する中和の術。神の実は、その術を高度に使える人間にしか採集出来ない」
「それは、アルピニスの一族なら誰でも出来る、という訳ではないの?」
ジーンの言い方から察するに、たくさん居るようにはとても思えなかった。
「そうだ。私だけだ」
「ジーンだけ、なの?」
言い切られた言葉に、フェリシアは呆然としてジーンを見上げた。
「ああ。今のアルピニスに、神の木の毒を完全中和出来る術師は、私だけだ。だから私が一族の長となり、レイズの統主となっている」
「そんなに……難しいの……」
実を採集出来る人間がレイズの統主。支配者一族(アルピニス)の長となる。
となれば、それは、間違いなく安易な技ではない。
「難しいが大丈夫だ。必ずフェリシアに実を渡す。私の君への愛の証として」
「愛の証……」
手を取られ、そっと口づけられる。
真剣な眼差しと言葉に、胸が高鳴った。
「私は、君を愛している。君にも、ゆっくりで良いから私を愛して欲しい」
心の底まで見通すような瞳で真っ直ぐに見つめられるのに、フェリシアは首まで真っ赤に染めた。
出会ってまだ数時間だ。
フェリシアはジーンの事をまともに知らないし、それはジーンの方とて同じ事だろう。それなのに、妻とか愛とかとんでもないと思う。
優しそうに見えても怖い。
でも、やっぱり優しいのではないかと思ってしまう。
そんな両極の印象を抱くジーンの、この愛の囁きは、どう考えても唐突過ぎる。
しかしそう思っても、フェリシアは拒否しようとは思わなかった。
「…………ゆ、ゆっくりで……良いなら……」
緊張に言葉は途切れてしまうが、受け入れたフェリシアに、ジーンが心より幸せそうに微笑み、優しく口づけてくる。
その口づけも、目を閉じて受け入れた。
これは、神の実を貰う為にしているのではない。
大事な神の実以上に、ジーンから捧げられる愛の方が嬉しいと思ったのだ。
そんな自分の心の動きは、自分でも上手く説明できない物だったが、ジーンに抱きしめて貰うのは、とてもあたたかくて心地良かった。曲美
2012年11月2日星期五
出逢いの罠
アンジェラのわがままは、最高潮に達していた。
「眠いよー。ねぇぇぇむぅぅぅいぃぃぃ! 超眠い! 無駄にねむーいっ!」
本日十二回目の台詞だ。
(んなの知ったことか)
などと内心毒づきながら、エリスはとりあえず言葉を返した。紅蜘蛛(媚薬催情粉)
「……天気良いしね」
春の陽気は幾分いつもより暖かい気はしたが、まぁそれに不満はなく、あるとしたらやたらに眠気を誘うといったことくらいだろう。暖かいのは大歓迎だ。
後ろからとぼとぼと歩いてくるアンジェラの気配を感じながら、エリスはあごを上げた。
まだ低い位置にある太陽は、陽射しをきつく降り注いでいる。
陽光が木々の合間から煌いていて心地よい。が、逆に言えば遮るものがないと眩しすぎるほどだ。
(……確かに、暖かいけど。ちょっと暑いくらいかなぁ)
なんだかここ最近、気候が妙な日が多い。また冬に逆戻りか、と感じるような寒い日があるかと思えば、今日のように暑いくらいに暖かい日もある。
(大陸間の異常現象……か、な?)
魔物の大量発生なども最近問題になっているが、こういう気候に関する妙もまた、そういったもののひとつなのかもしれない。
ともあれ、このバジル街道の深い木々の間では、暑すぎるということもない。涼やかな風と、少しばかりきつい陽射しは、ちょうど眠気を誘うのに適していた。アンジェラのわがままもそのせいだと思うことにする。
「疲れたよー」
……違ったらしい。
「……まだ街を出て数時間しかたってませんけどお嬢様?」
「昨日夜通し歩いたしー」
「……宿までだけでしょ」
しかも行き道をずれてまで宿に寄ったのは、野宿は嫌だと言ったアンジェラのせいだ。
「ベッド硬かったしー」
「安宿だから仕方ないでしょ」
もともと、アンジェラもエリスも、割と不自由なく暮らしてきた金持ちの娘だ。貴族家系のアンジェラにしても、騎士家系として地位を築いたマグナータ家の長女であるエリスにしても、安い宿というのは実のところ初体験だった。
アンジェラの言う通り、安宿のベッドの硬さに寝付けなかったのは事実だ。エリスもそのせいで、疲れはとりきれていない。
(……そのうち慣れるんだろうけどね)
というよりは、慣れざるを得ないのだろうが。
それにしても、アンジェラの不平不満は次々と言葉になって漏れて来る。
「エリス起こすの早いしー」
「あんたが遅いんだって」
「……ていうか、マジ眠いよぅ」
「……もー少し行ったらレナード村ってとこに着くから、今は起きてなさい」
「足痛いー。疲れたー。眠いー。暑いー。喉乾いたおなかすいたー!」
「……やかましぃ」
呻く。振り返り睨み付けると、アンジェラがぷっと頬を膨らませた状態で足を止めた。
低く、言ってくる。
「――ていうか。ウザいよー」
「……それは同感……」
苦笑して、エリスは頷いた。自らも足を止め、空を仰ぐ。
バジル街道。整備もろくにされていない道は街道と呼んでいいのかなんなのか知らないが、まぁそう呼ばれている。ジャリ道と、両脇の林。鼻先をくすぐる濃い緑の匂いは心地よいが、森林浴としゃれこむわけにはいかなさそうだ。
アンジェラがさっと前髪をかきあげ、呟いてきた。
「……出て来てもらおうよ」
「……賛成」
エリスはペンダントに一度触れ、それからその手で腰の剣に触れた。なじんだ柄の傷を人差し指のはらでなぞりながら、声をあげる。
「――ってなわけで。残念ながら気付いています。眠すぎてこの子無駄に気がたってるみたいだから、早く出てきたほうが身のためよ」
数瞬の沈黙。ややあって――風が流れた。
アンジェラが拗ねた表情のままでそちらを向く。右手奥、街道脇の木陰。そこから、二つ、人影が出てきた。
――若い。
反射的に脳裏に浮かんだのは、その単語だった。
エリスはじっとその二つの影を見据える。
男だ。二人とも、背は高いほうだろう。エリスたちからすれば、頭ひとつ半は違う。年齢は――多少判りづらいが、十七、八、くらいか。アンジェラが小さく口笛を吹いた。
「カッコいいじゃん」
「……あのね」
アンジェラのあっけらかんとした感想に、エリスは思わず苦笑を漏らした。
(まぁ確かに。美形っちゃ美形、かな?)
一人はエリスと同じ黄色人種――いや、エリス自身とはまた少し違うらしい。目鼻立ちがはっきりしている。彫りが深い。セイドゥールでは、というよりは、この大陸西部ではあまり見かけない顔立ちだ。異国人だろうか。
長い黒髪と、同色の切れ長の眼。体の線は細いが、弱々しい感じは全く見受けられない。
もう一人。こちらは白色人種然とした容姿だ。ルナ大陸で一番よく見かける人種の特徴をかねそなえている。丁寧にカットされた、陽光に輝く金色の髪と、翡翠のような碧の瞳。手足がすらりと長く、剣を携えてはいるが、正直あまり似合っているとは思えない。慣れた感じは受けるのだが、むしろ楽器でも持っていたほうが似合いそうだ。
その、白人のほうが口を開いた。
「エリス・マグナータ……アンジェラ・ライジネス」
澄んだ声だ。清水のような雰囲気すら、ある。
「……どうでもいいけど。家名、やめてくんないかなぁ……」
エリスは思わず嘆息を漏らしていた。家を出てきたのだから、自分にはもう家名を名乗る資格はないし、名乗りたくもないのだから、いいかげんやめて頂けるとありがたいと思う。最も、そんなことあちらがわには関係のないことではあるだろうが。
「そうだけど。なぁに? 悪役の世界には、相手を襲うときにはフルネームで呼びかけなければいけないとかいう法律でもあるの?」
アンジェラが飄々と言ってのけるが、それに構う様子もなく、今度は黒髪の男が口を開いた。
「……気の毒だが、少々、手荒な真似をさせてもらうぞ」
その言葉に、エリスはアンジェラと顔を見合わせた。違和感が、二つ。
(……アクセント、こっちの方のじゃないな。東部訛り……?)
完全に訛っているわけではないのだが、微妙な違和感がある。この辺り――西部ではあまり聞き慣れない音だ。それが違和感の一つ。もう一つは、台詞の内容そのものだ。アンジェラが肩をすくめて続けた。
「へぇ。案外紳士なんだ。でもね、お兄さん。女の子を襲うのは、感心しないわよ?」
(……だよねぇ)
わざわざ襲うのに断りを入れてくる奴というのも珍しい。エリスは苦笑して、言葉を投げた。
「まぁ、それはいいけど――で、お兄さんたちのどっちが『ダリード』さん?」
ぴくり、と白人男の眉が動いた。黒髪のほうは、全くの無表情だ。気付いているのかいないのか、隠すのが上手いだけなのか知らないのか、それすら読み取れない。
ダリード。昨日聞いた名前だ。といっても、あの男が言っていたのは『おまえ達と同じ年頃の』だ。この二人だとしたら少しばかり年かさになるのだが。
どちらにせよ、この反応――全く無関係ではなさそうだ。
「昨日、ラスタ・ミネアで聞いたんだけど。『ダリード』さんとやらがあたし達狙ってるらしいんで。手ごまじゃなけりゃ、あんた達のどっちかがそうなんでしょ?」
挑発するように肩をすくめ、剣から手を離す。乗ってくるか否か。いちかばちかの懸けだ。
黒髪の男が、薄く唇を開いた。
「――ダリードとは、関係ない」
(……!?)
「エリス……!」
アンジェラが警戒したように小さく声をあげてくる。
知らないわけでもない。雇われているわけでもない。本人でもない。
――関係ない。
(別口……!?)
そうとしか考えられなかった。しかも『関係ない』と言う事は、この二人は『ダリード』とやらを知っている、確実に。
「どういうことよ!」
アンジェラが甲高い叫び声を上げた。黒髪の男が、淡々とした口調で続けた。
「――俺はドゥール」
「……ッ!」
唐突にエリスの肌が粟立った。膨れ上がる強烈な殺気。
反射的に足をひき、アンジェラを引っつかんで退がらせた。
危ない。
脳がその言葉をしきりに発している。
危ない。こいつらは、危ない。
もう一人の白人男が、口を開いた。
「――おれは、ゲイル……いくぞ!」
「来ないでいいわよっ!」
反射的にだろう、アンジェラが悲鳴のように叫んだ。そのアンジェラを背後にかばい、エリスは慌てて剣を引き抜いた。
――ィヂギィッ!
重く、歯の根の浮きそうな音がバジル街道の空に響く。同時にエリスの腕にしびれが来た。噛みあった剣を滑らせるために、角度をつけて無理やり流す。白人男だ。ゲイルと名乗っていたか。紅蜘蛛 II(水剤+粉剤)
(こいつ……案外やる!)
上段から振り下ろされた剣の威力は、ただ力任せにしただけのレベルではなかった。練りこまれた威力がそこにある。
エリスはアンジェラから離れるように距離をとった。この男、スピードもそれなりにあるようだ。昨晩の男に比べれば、スピード自体は遅いが、それでもエリスに付いてこられるのだからかなりのものと言える。
男――ゲイルはそのまま、こちらにむかってきた。流された剣に左手を添えて引き戻すと、そのまま突きに転じてくる。後ろに下がればアンジェラがいる。エリスは反射的に左に跳んだ。
「……っ!」
紙一重。鼻先を剣がかすった。エリスが左に跳んだ瞬間、ゲイルは突くのをやめて剣を薙いだのだ。
ド、ド、ド……と、心臓が恐怖を感じて鼓動をうるさくさせている。祈る。少し静かにして、後でいくらでも怖がっていいから、今は静かにして。
しゃがみこみ、エリスはすくい上げるように剣を振るった。ゲイルが跳び退り、間合いが開く。
と、そこへアンジェラの声が降り注いだ。
「――炎の精霊よ、風の精霊よ! 共に我が腕に今来たれ!」
呪文。唐突に炎が膨れ上がり、風が吹いた。そのまま、ゲイルに向かって熱風が襲い掛かる。助かった――とエリスは一つ溜息をつき、背後から援助をしてくれたアンジェラに親指を立てた。
「サンキュ、アンジェラ!」
「どーいたしましてっ!」
にっとアンジェラが笑い――その顔がそのまま固まった。
「――だめ、エリス! 跳んで!」
「……っ?」
訳も判らず、言われるがまま跳ぶ。次の瞬間、いままでエリスがいたその空間を、ゲイルの剣が薙いでいた。
「効いてない……!?」
アンジェラが悲鳴のような声をあげた。先ほどの魔導が、全く効果をなしていない。アンジェラが慌ててこちらに走り寄ってくる。
「どういうこと、アンジェラ!」
「わ。わかんないわよぅ!」
「――風に干渉しただけだ」
ゲイルが、淡々とした口調で告げた。
(風に干渉――?)
魔導に疎いエリスにはさっぱり判らない言葉だったが、隣のアンジェラが息を飲んだので、それが酷く異常なことらしいというのは理解できた。
と、今度はいままで成り行きを見守っていただけの黒髪の男――ドゥールが、すっと右腕を上げた。武器は持っていない。
「なに……?」
思わず眉根をひそめる。ドゥールはそれには答えず、静かな表情のまま、パチン――と指を鳴らした。
その瞬間、自分の身に何が起こったのかエリスはよく判らなかった。
ただ言えるのは、脳が拒絶反応を起こすようなレベルでの爆発音があったという事。そして、周りの木々が数本壮絶な音を立てて倒れたという事。視界が煙に閉ざされたという事。最後に、自分の肌のあちこちに、裂傷が生まれたという事だけだ。
「きゃっ……!」
アンジェラの悲鳴が聞こえ、慌てて彼女をかばうように腕を回した。身長差で言えばほとんど変わらない――どころか、実はほんの僅かアンジェラのほうが高いのだが――彼女は、エリスの腕の中で身を縮めていた。瞬間的な『何か』が収まった後、エリスは我知らず閉じていた目を見開いた。
アンジェラの体が、震えている。
「――アンジェラ、怪我は!」
「……擦り傷……ひっどーい! 乙女の柔肌傷つけて!」
大丈夫そうだ。
頬や手足に赤い線が走っているが、大きな傷は受けていない。エリスはほっと安堵の息をつくと、アンジェラから離れる。
剣を握りなおし、向き直った。
「……一体、なんなのあんた達は。変な魔導使いね?」
「魔導じゃ――」
エリスの言葉に反応したのは、ゲイルでもドゥールでもなく、アンジェラだった。彼女は細い体を震わせながら、悲鳴のように叫んだ。
「法技じゃないわよあんなの! あれじゃ、あれじゃまるで――」
「……魔法、か?」
その言葉を引き継いだのは、ドゥールのほうだった。感情すら見えない黒瞳に、僅かに光が反射する。
(魔導……法技? 魔法?)
エリスにすれば、どれも同じに思えるのだが――少ない知識を呼び起こし、考える。法技は一般的に使用されているもの。魔法は――
ふと、思い当たる。
魔女、特殊能力者しか使えないはずだ。アンジェラの『先見』の能力と同じ――!
「……そうよ。あんたたち何者よ!」
アンジェラの声に、男達はお互い一度視線を交わすと、黒髪の――ドゥールのほうが、一歩前へ出て来た。胸元に手を入れ、そして引き出す。
バジル街道の木々の隙間から降り注ぐ太陽光が、引き出されたそれに反射した。
赤い、小さな石――
どくん
「……月の石……っ!」
アンジェラがかすれた声をあげた。
エリスは反射的に、左手で自分のそれを握っていた。月の石。あの男が持っているものと同じ、月の石――
「……じゃあ、じゃああんた……エリスと同じ……月の者――!」
「……」
肯定も否定もせず、ドゥールはそれを再び胸元にしまうと、また一歩、前に歩み出て来た。ゲイルも同じように近づいてくる。エリスとアンジェラは、それに反応するように二歩、後ろに下がった。
「……エリス」
右隣に立っていたアンジェラが、エリスにだけ聞こえる声でささやいてきた。視線だけで促す。
「――ここから村まで、後どれくらい? 走っていける?」
アンジェラの質問の意味が判らず、エリスは眉を寄せた。一番近い村はレナードという名前だ。一度だけ行った事がある。そう遠くはない。ここからだと――
「……走れば、十分ってとこかな。走るの?」
アンジェラは答えず、男二人をにらみやったまま、エリスの手を握ってきた。剣を持つその手を握られて、反射的に振りほどきそうになったが、アンジェラの手の力が思いのほか強く、やめる。乾く喉に無理やり音を発してもらう。
「なに、アンジェラ」
「――十分、か。ちょっと……辛いわね」
アンジェラの横顔に、挑むような笑みが浮かんでいた。その表情に、エリスの心臓が高鳴った。酷い不安感。
「アンジェラ、あんた……まさか!」
「――やるしか、ないでしょう。ちょっとだけ無茶するわよ。死んじゃったら――ごめんということで」
「アンジェラ……!」
さらりといった言葉に、これからアンジェラがやることが危険度が高いものだと理解した。なんとなく判る。過去に一度だけ、たった一度だけだが、見たことがある。あれをやろうというのだ――!
しかしエリスが止めるまもなく、アンジェラがあいていた右手を上げた。声高に、叫ぶ。
「我が中に眠りし時の力よ! 我アンジェラ・ライジネスが命ずる!
我に先の未来を見せ、我らが時を進ませよ!」
――視界がぶれた。
胃の浮くような感覚。違和感――浮遊感とでも称すれば一番近しいのだろうか、感じたこともないような感覚が全身を支配した。
そして、急激な疲労が襲ってくる。
「――ッ……!」
エリスは我知らず、両手を地面に押し付けていた。剣は知らないうちに地面に転がっている。いつもなら絶対にしない。剣を粗末に扱うなんて事はない。けれど、そんなことに構う余裕がなかった。
体が、鉛を埋め込まれたかのように重い。肺が新しい空気を求めて、浅い呼吸を要求している。
「う……」
頭痛と吐き気――めまい。
湿った土の冷たさが、手のひらを通じて伝わってくる。土だ。つい先ほどまで足の裏にあったのは、バジル街道のジャリのはずなのに――
体の望むまま、短い呼吸を繰り返して、エリスは顎を無理やり上げた。冷たい汗が、一筋滑り落ちる。
「……アンジェラ!」
叫び声のはずが、ひしゃげた声にしかならなかった。すっと血の気がひいていくのがわかる。こうなるから、嫌だったのだ――
エリスのすぐ右隣、アンジェラが倒れていた。
「アンジェラ! この馬鹿! なんて無茶したのよ!」
「……」
アンジェラは口を幾度か開いて、何かを言おうとしている。だがはっきりと音にならない。ふだんは白くとも健康的な顔色が青ざめている。ほんの一瞬――いや、正確には一瞬ではないのかもしれないが――で、このありさまだ。
エリスはアンジェラの口に耳を近づけた。細い、熱く湿った息がかかる。
「……し、かたない、でしょ……」
途切れ途切れに、荒い呼吸の間からそういってくる。きつく閉じたまぶたが、僅かに開いた。湿ったアメジストの目が、こちらを見つめてきている。
「……はっ……ちょ……っと、私たちの『時間』を……十分、はやめた、だけ」
「馬鹿!」
思わず叫ぶ。
心臓が、呼吸が上手く出来ないためではなく別の理由で痛んでいる。さっそくこれだ――守ってやれないどころか、こんな目に合わせている。
「……それやったら、あんたしばらく動けないんでしょう!?」
エリスの言葉に、アンジェラは僅かに目を伏せて肯定した。その行動は必要ないとも思える。実際、見れば判る。動けないのだ、アンジェラは。指一本動かすのさえ、辛そうだ。
「……擬似時間転移……擬似空間転移に近い、んでしょ?」
「……だ。か、ら。ごめん……って」紅蜘蛛赤くも催情粉
アンジェラが細く息を吐いた。白い頬に走った赤い裂傷が、痛々しさをいっそう増してみせている。エリスは思わずその傷を人差し指のはらでなぞった。
アンジェラの能力――『先見』。しかしそれは『一番使用度の高い』能力だ。正確にはアンジェラの能力は――『時間』に関する全て。
これもそのひとつだった。以前に一度だけ見たことがある、時間を早める能力。アンジェラ自身、その一度きりで懲りたらしく――下手をすれば、死んでいたといった――今日この瞬間まで、二度とやるつもりはないと断言していたのに。
「……しかた、ない、じゃない?」
アンジェラの頬が悪戯っぽく歪んだ。こんなときでも、アンジェラはアンジェラだ。
「こうでも、しないと……逃げられそうに、なかったし。……あんただって、疲れ、てる、でしょ? 怒鳴ると体力、なくすわよ……」
アンジェラの疲労は、使用した魔法に体がついていっていないからだ。エリスの疲労とは違う――エリスの疲労は、慣れない感覚と、時間の急速な移動によって、体が悲鳴を上げているだけでしかない。アンジェラほど、辛くはない。
「……ごめ、やすませ……」
「判ってるわよ」
アンジェラの台詞をさえぎり、エリスはその細い手を握った。冷たい。
「とりあえず、宿……探すよ。歩ける?」
あいまいにアンジェラが頷くのを見てから、エリスは自らももう一度立ち上がった。なんとかなりそうだ。少なくともエリス自身は。転がった剣をしまい、一度大きく息をつく。
基礎体力はある。もう心臓も肺も、かなり落ち着いてきている。
けれどまだいまいち感覚のはっきりしない両足に力をこめ、踏ん張った。アンジェラの小さな体に手を差し伸べ、起こす。
さらりと黒い髪が、頬にかかった。
アンジェラのほとんど全体重が、エリスにもたれかかってくる。昨晩のわき腹の傷がその拍子に痛んだが、さして気になるほどでもなかった。なんとでもなる。
「……アンジェラ。ごめん」
「……」
かすかにアンジェラが笑った。馬鹿なことを言うなとでも言うように。それがほんの少し辛く、けれど嬉しくもあった。
顔を上げる。
整備もされていない片田舎の土剥き出しの地面。遠くのほうでキラキラと池が輝いている。青い空を背景に、点在するように立てられた、古い建築技術の家々の姿。
鼻をくすぐるのは、遅い朝食の匂いだろうか。どこか遠くから、子供たちのざわめきも聞こえる。
ようやっと落ち着いて来た。バジル街道ではない。
――レナード村に、エリスたちはいた。
「エリス顔怖い」
ベッドの中からのアンジェラの台詞に、エリスは眉間に刻んだしわをさらに深くさせた。
「……あんたが無茶するからね」
こんな片田舎の村でも、街道沿いにあるというのは便利なものだ。民家をそのまま改装したような小さなものだったが、宿があった。
アンジェラをそこへ運び込み、ベッドに寝かせて――開口一番この台詞を吐かれ、エリスは少しばかり不機嫌になった。
「うー。……だからぁ、ごめんって言ってるじゃない」
ベッドに横になって、多少とも落ち着いたらしく、アンジェラは苦笑を漏らしてきた。
「大体、エリス。あんたは休まなくていいの?」
「あたしはもう大丈夫だよ。とにかくあんたが休みなさい」
「……はぁい」
存外素直に頷いて、アンジェラはシーツを引き上げる。隣に座っていたエリスは、軽く彼女の頭をなでた。
「おやすみ。でも……まあ、ありがとう」
「うん……」
アンジェラがまぶたを下ろした。やはり疲れているのだろう。
「――っと、そうだ」
いきなり慌てた様子でアンジェラが目を開いた。
「? なに」
「エリス病院!」
「……はぁ? つれてっけっての?」
疲労なんてものは、寝ているのが一番だと思うのだが――と言いかけたエリスを遮って、アンジェラが早口でまくし立ててくる。
「そうじゃなくて。……わき腹の傷。昨日手当てちゃんとしてないでしょ?」
「……ああ」
右わき腹に触れてみる。もうすでに出血もないし、確かに痛みはするがさほど深い傷でもない。エリスは肩をすくめてみせた。
「大丈夫だよ。別に、もう平気」
「だめ。あんたってばいつもそうなんだから。私は寝てるから、エリスはその間に病院にいってきて」
頑としていってくるアンジェラに、エリスは小さな苦笑を漏らした。心配しているのだろう――が、今はこんな傷よりも、自分のことを心配して欲しいとも思う。
「……はいはい。一応探してみるよ。こんな村にあるかどうか知らないけどね」
「うん」
アンジェラがほっとしたように笑んだ。エリスは再度その艶やかな髪をなで、微笑を返す。
「じゃ、あたしは行ってくるけど……一人で平気?」
「平気よ」
「……判った。じゃあね。おやすみなさい、アンジェラ」
「おやすみなさい」
アンジェラが小さく笑って、瞳を閉じた。
こっぴどく叱られてしまった。
まだ脳内でがんがんこだましている医者の怒鳴り声に、エリスは半ばフラフラになりながら宿へ戻ってきた。
何で放っておいた。どこの子供? どうしてすぐに手当てをしなかったんだ。親はどこに居る。何をしたらこんなことになるの。危ないまねをするんじゃない――等々。
まさか、狙われました、とも、実は家出してきました、とも言えるはずもなく、適当にごまかしてきたのだが――医者というのはやはりどうにもエリスは好きになれない。カイリやパズーの家も医院をしていたが――
(……って、思い出すのやめよ)
ふいに暗澹(あんたん)な気持ちになりかけ、エリスは小さく頭を振った。
まだ、あっけらかんと思い出すほどには気持ちの整理がついていない。
安宿の、きしむ階段を上がり、アンジェラの寝ている部屋の扉をあける。
「あ、おかえりなさいエリス」
「ただいま」
ベッドに座っていたアンジェラが、顔を上げてきた。だいぶ落ち着いたようで、顔色も戻ってきている。
ほっと安堵の笑みがこぼれるのを、エリスは自覚した。
(よかった……大事に至らなくて)
アンジェラは手にしていた一冊の本を閉じると、それを小さく振ってきた。見覚えのある、青い表紙。
「借りたわよ、これ」
「……って。何で勝手に人の荷物漁ってんですかあんたは」
「だってヒマだったんだもん。でももうこれ、エリスんちであきるくらい読んだわよー。他のないの、他の」
「あのね」
嘆息。どうやらだいぶ元気にはなったらしいが――だからといって人の荷物を勝手に漁って、あまつさえそれに文句をつけるのはどうかと思う。
「あたしはそれが好きなの。読みたくないなら読むな。むしろ漁るな人の荷物を勝手に」
「いいじゃん別に。セシレル・ハイム、だよね?」
「そうだよ」
近寄って、アンジェラの手からその本を奪い返す。幾度も開いたおかげで、ページの隅はよれてしまっている。だが、お気に入りの一冊だ。
セシレル・ハイム――詩人画家の詩集だ。エリスの好きな芸術家で、自室の壁にはその絵のレプリカも飾ってあった。
「まぁともかくありがとう。暇つぶしにはなったわ。あ、それから、この子だしといてあげたからね」
「……って、ぬいぐるみまで引っ張り出してるし」
ベッドの枕もとに、白い犬のぬいぐるみが転がっている。お気に入りの一体で、バックパックに詰め込んできたやつだ。
詰め物がたりないせいで、やたら力の抜ける外観のぬいぐるみ。ココアと呼んでいる――白いのに。
このぬいぐるみは、実はアンジェラに以前もらったものなのだが、すでにそのときに名前がついていたからだ。白いのに、とはエリス自身さんざん思ったが、アンジェラに理屈は通じなかった。曰く『ココアはココアだから』。もはや訳が判らない。
アンジェラはそのぬいぐるみをぺしぺしとたたきながら、続けてきた。
「あ、洋服とかはクロゼットにかけといたわよ」
「勝手になにしまくってんですかお嬢様」
「ヒマだったんだもん。エリス帰ってくるの遅い」
「……病院行けって言ったのあんたでしょうが」
「そうよ? ちゃんと行った?」
「……行きました」
ちょっとぐらい疲労していたほうが静かでいいのではないだろうか――などとどこか冷めた思いでアンジェラを見ながら、エリスは小さく嘆息を漏らした。紅蜘蛛
闇。
何もない、真の闇。夜ではない。もっと深く、まとわりつく、虚無――
闇が、そこにあった。闇しかなかった。
エリスはその中で一人、立っていた。
いや――立っている、のだろうか。地面の感触すらなく、立っているのかどうかすらよく判らない。浮いている? それも違う――存在している、というのが一番近いのかもしれない。
「……ここ、どこ」
思わず言葉を漏らす。音が、おかしなほど響かない。奇妙な感触。
首を左右にめぐらす。だが、何もない。右もない、左もない。上下もない。手を伸ばす。視覚が効かないのなら、それ以外の感覚で情報を得るだけだ。けれど――いくら伸ばしても、なににも触れられない。
足を伸ばす。何もない。
匂いを嗅ぐ。何も匂わない。
耳を澄ます。何も聞こえない。
寒くも、暑くもない。本当に――『何もない』。
そんな空間が存在するなど、思いもしなかった。だが、ここにある――
ぞっと震えが来た。それで、少しだけ安心する。少なくとも『エリス』はここにいる――はずだ。
「アンジェラ……? アンジェラ、どこ」
声をあげてみるが、言葉はまるでスポンジに吸収される水のように、掻き消えてしまう。
返答もない。
ぞっとまぶたを閉じる――閉じたのだろうか。本当に? 判らない。視界は変わらない。そもそも自分は本当に、ここにいるのか――?
いや。
『ここ』は本当にあるのか――?
『――月の者よ』
ふいに、音が響いた。
何処からともなく――まるで、洞窟内で叫んだときのように、反響して聞こえる。
「……つっ!?」
唐突に、心臓に痛みが走った。胸元を抑え、たまらずしゃがみこむ。頭蓋に響いてくる声に頭痛がした。
「……う」
汗が、流れる。
『――汝、我が前に来たれ。我、汝を待ち受けん――』
響く声。
闇があった。
ただ闇しかなかった。
闇だけがあった。
闇以外には何もなかった。
ただ、判る。
呼んでいる声がする。
自分を呼んでいる声がする。
そう――行かなければ、この声に応えなければならない。
行かなければならない。
呼ばれているから。待ってくれているから。あのお方が。
エリスはゆるりと立ち上がった。闇の中、頤(おとがい)を上げ、呟く。
「はい……ルナ、よ――」
自分を呼ぶ声がする。
呼ばれている。
「――ス。エリス――」
呼ばれている。
闇の中から、闇の向こうから。
呼ばれている。
「エリス……エリス?」
呼ばれている――誰に?
「――エリスってばあッ!」
「うわぁっ!?」
耳元で強烈に叫ばれ、エリスは飛び起きた。鼓膜がジンとしびれている。
「な、な、な……」
「……あ、起きた。よかったぁ……」
「よくなあいッ! ビビるでしょ!? 何なのアンジェラ!」
反射的に叫び返して、エリスは声の主を睨みあげた。ベッドの上、覗き込んできている紫色の双眸。緩やかに揺れるウェービー・ヘア。
アンジェラだ。
彼女ははぁと大きく息をついてきた。あっけらかんと笑って続ける。
「……おはよ。目、覚めた?」
「覚めたけど! 何もこんな無茶な起こし方ないでしょ! 鼓膜破れる!」
「あんた頑丈だから平気」
「鼓膜まで頑丈でたまるか!」
叫びながらベッドから立ち上がる。昨晩寝たときとは違う疲労感がある気がしたが――体はわりと素直に動いてくれた。しかしそのついでといわんばかりに、頭がずきりと痛んだ。
アンジェラの叫び目覚ましのせいでもないらしい。呻く。
「あー……なんか、ちょっと目覚め悪いかも」
「うなされてたわよ? 大丈夫?」
「……?」
うなされていた――?
きょとんとして顔を傾ける。別に暑くて寝付けなかったとか、疲れすぎててどうとか、そういうことはなかったはずだ。だとしたら、うなされる理由は一つしかない。
「……なんか、変な夢見たかも。……よく覚えてないけど」
気持ちの悪い、不快な感触が肌に残ってはいたが、それに理由が見つからない。夢なのだろう。
告げると、アンジェラは肩をすくめた。
「まぁ、夢なんてのはそんなもんでしょ。で、どうするエリス? 流石にそろそろ動かないと、昨日の二人が怖いわよ?」
「ん。……今日出ようか。あんたは大丈夫?」
「いっぱい寝たからね」
アンジェラの笑顔に、エリスはつられて笑った。
「オーケイ」
ゆっくりと歩き、部屋にある小さな窓を開いた。春先の花の香りが、流れ込んでくる。
レナード村。
本当に小さな村で、セイドゥール帝国領の中でもかなり生活水準が低いところだろう。役所もなければ学校もない。医師が居たのは幸いだが。
村そのものの外観にも、さして特徴があるわけでもない。赤茶けた屋根はセイドゥール帝国の中ではごくごく一般的なものではあるし、白い壁面もまたそうだ。作りの粗雑さや古さは逆に、帝都や大きな街では見られないが――まぁはっきりと良い特徴ではない。
唯一その名が知られているのは酒が美味い、といった程度か。レナード村の銘酒コンチェルトは、その筋では高く売れる。 現金収入があるのは、村としてはそこそこありがたいはずだ。
酒が美味いのは、気候的なものもあるのだろうが、それよりも水の美味さが効いているのだろう。紅蜘蛛
村の西北にある高山からの雪解け水が、小川となってこの村に流れ込んできている。その水の美味さは、わざわざそれだけのために立ち寄る旅人もいるというのだから、相当なものだ。
そのレナード村の、整備もされていない、ほぼ自然発生的な広場。広場の真中には噴水――といっていいのかどうか、というレベルのこじんまりとした奴ではあったが――があり、主婦や子供たちが井戸端会議やら遊びやらに興じている。
「眠いよー。ねぇぇぇむぅぅぅいぃぃぃ! 超眠い! 無駄にねむーいっ!」
本日十二回目の台詞だ。
(んなの知ったことか)
などと内心毒づきながら、エリスはとりあえず言葉を返した。紅蜘蛛(媚薬催情粉)
「……天気良いしね」
春の陽気は幾分いつもより暖かい気はしたが、まぁそれに不満はなく、あるとしたらやたらに眠気を誘うといったことくらいだろう。暖かいのは大歓迎だ。
後ろからとぼとぼと歩いてくるアンジェラの気配を感じながら、エリスはあごを上げた。
まだ低い位置にある太陽は、陽射しをきつく降り注いでいる。
陽光が木々の合間から煌いていて心地よい。が、逆に言えば遮るものがないと眩しすぎるほどだ。
(……確かに、暖かいけど。ちょっと暑いくらいかなぁ)
なんだかここ最近、気候が妙な日が多い。また冬に逆戻りか、と感じるような寒い日があるかと思えば、今日のように暑いくらいに暖かい日もある。
(大陸間の異常現象……か、な?)
魔物の大量発生なども最近問題になっているが、こういう気候に関する妙もまた、そういったもののひとつなのかもしれない。
ともあれ、このバジル街道の深い木々の間では、暑すぎるということもない。涼やかな風と、少しばかりきつい陽射しは、ちょうど眠気を誘うのに適していた。アンジェラのわがままもそのせいだと思うことにする。
「疲れたよー」
……違ったらしい。
「……まだ街を出て数時間しかたってませんけどお嬢様?」
「昨日夜通し歩いたしー」
「……宿までだけでしょ」
しかも行き道をずれてまで宿に寄ったのは、野宿は嫌だと言ったアンジェラのせいだ。
「ベッド硬かったしー」
「安宿だから仕方ないでしょ」
もともと、アンジェラもエリスも、割と不自由なく暮らしてきた金持ちの娘だ。貴族家系のアンジェラにしても、騎士家系として地位を築いたマグナータ家の長女であるエリスにしても、安い宿というのは実のところ初体験だった。
アンジェラの言う通り、安宿のベッドの硬さに寝付けなかったのは事実だ。エリスもそのせいで、疲れはとりきれていない。
(……そのうち慣れるんだろうけどね)
というよりは、慣れざるを得ないのだろうが。
それにしても、アンジェラの不平不満は次々と言葉になって漏れて来る。
「エリス起こすの早いしー」
「あんたが遅いんだって」
「……ていうか、マジ眠いよぅ」
「……もー少し行ったらレナード村ってとこに着くから、今は起きてなさい」
「足痛いー。疲れたー。眠いー。暑いー。喉乾いたおなかすいたー!」
「……やかましぃ」
呻く。振り返り睨み付けると、アンジェラがぷっと頬を膨らませた状態で足を止めた。
低く、言ってくる。
「――ていうか。ウザいよー」
「……それは同感……」
苦笑して、エリスは頷いた。自らも足を止め、空を仰ぐ。
バジル街道。整備もろくにされていない道は街道と呼んでいいのかなんなのか知らないが、まぁそう呼ばれている。ジャリ道と、両脇の林。鼻先をくすぐる濃い緑の匂いは心地よいが、森林浴としゃれこむわけにはいかなさそうだ。
アンジェラがさっと前髪をかきあげ、呟いてきた。
「……出て来てもらおうよ」
「……賛成」
エリスはペンダントに一度触れ、それからその手で腰の剣に触れた。なじんだ柄の傷を人差し指のはらでなぞりながら、声をあげる。
「――ってなわけで。残念ながら気付いています。眠すぎてこの子無駄に気がたってるみたいだから、早く出てきたほうが身のためよ」
数瞬の沈黙。ややあって――風が流れた。
アンジェラが拗ねた表情のままでそちらを向く。右手奥、街道脇の木陰。そこから、二つ、人影が出てきた。
――若い。
反射的に脳裏に浮かんだのは、その単語だった。
エリスはじっとその二つの影を見据える。
男だ。二人とも、背は高いほうだろう。エリスたちからすれば、頭ひとつ半は違う。年齢は――多少判りづらいが、十七、八、くらいか。アンジェラが小さく口笛を吹いた。
「カッコいいじゃん」
「……あのね」
アンジェラのあっけらかんとした感想に、エリスは思わず苦笑を漏らした。
(まぁ確かに。美形っちゃ美形、かな?)
一人はエリスと同じ黄色人種――いや、エリス自身とはまた少し違うらしい。目鼻立ちがはっきりしている。彫りが深い。セイドゥールでは、というよりは、この大陸西部ではあまり見かけない顔立ちだ。異国人だろうか。
長い黒髪と、同色の切れ長の眼。体の線は細いが、弱々しい感じは全く見受けられない。
もう一人。こちらは白色人種然とした容姿だ。ルナ大陸で一番よく見かける人種の特徴をかねそなえている。丁寧にカットされた、陽光に輝く金色の髪と、翡翠のような碧の瞳。手足がすらりと長く、剣を携えてはいるが、正直あまり似合っているとは思えない。慣れた感じは受けるのだが、むしろ楽器でも持っていたほうが似合いそうだ。
その、白人のほうが口を開いた。
「エリス・マグナータ……アンジェラ・ライジネス」
澄んだ声だ。清水のような雰囲気すら、ある。
「……どうでもいいけど。家名、やめてくんないかなぁ……」
エリスは思わず嘆息を漏らしていた。家を出てきたのだから、自分にはもう家名を名乗る資格はないし、名乗りたくもないのだから、いいかげんやめて頂けるとありがたいと思う。最も、そんなことあちらがわには関係のないことではあるだろうが。
「そうだけど。なぁに? 悪役の世界には、相手を襲うときにはフルネームで呼びかけなければいけないとかいう法律でもあるの?」
アンジェラが飄々と言ってのけるが、それに構う様子もなく、今度は黒髪の男が口を開いた。
「……気の毒だが、少々、手荒な真似をさせてもらうぞ」
その言葉に、エリスはアンジェラと顔を見合わせた。違和感が、二つ。
(……アクセント、こっちの方のじゃないな。東部訛り……?)
完全に訛っているわけではないのだが、微妙な違和感がある。この辺り――西部ではあまり聞き慣れない音だ。それが違和感の一つ。もう一つは、台詞の内容そのものだ。アンジェラが肩をすくめて続けた。
「へぇ。案外紳士なんだ。でもね、お兄さん。女の子を襲うのは、感心しないわよ?」
(……だよねぇ)
わざわざ襲うのに断りを入れてくる奴というのも珍しい。エリスは苦笑して、言葉を投げた。
「まぁ、それはいいけど――で、お兄さんたちのどっちが『ダリード』さん?」
ぴくり、と白人男の眉が動いた。黒髪のほうは、全くの無表情だ。気付いているのかいないのか、隠すのが上手いだけなのか知らないのか、それすら読み取れない。
ダリード。昨日聞いた名前だ。といっても、あの男が言っていたのは『おまえ達と同じ年頃の』だ。この二人だとしたら少しばかり年かさになるのだが。
どちらにせよ、この反応――全く無関係ではなさそうだ。
「昨日、ラスタ・ミネアで聞いたんだけど。『ダリード』さんとやらがあたし達狙ってるらしいんで。手ごまじゃなけりゃ、あんた達のどっちかがそうなんでしょ?」
挑発するように肩をすくめ、剣から手を離す。乗ってくるか否か。いちかばちかの懸けだ。
黒髪の男が、薄く唇を開いた。
「――ダリードとは、関係ない」
(……!?)
「エリス……!」
アンジェラが警戒したように小さく声をあげてくる。
知らないわけでもない。雇われているわけでもない。本人でもない。
――関係ない。
(別口……!?)
そうとしか考えられなかった。しかも『関係ない』と言う事は、この二人は『ダリード』とやらを知っている、確実に。
「どういうことよ!」
アンジェラが甲高い叫び声を上げた。黒髪の男が、淡々とした口調で続けた。
「――俺はドゥール」
「……ッ!」
唐突にエリスの肌が粟立った。膨れ上がる強烈な殺気。
反射的に足をひき、アンジェラを引っつかんで退がらせた。
危ない。
脳がその言葉をしきりに発している。
危ない。こいつらは、危ない。
もう一人の白人男が、口を開いた。
「――おれは、ゲイル……いくぞ!」
「来ないでいいわよっ!」
反射的にだろう、アンジェラが悲鳴のように叫んだ。そのアンジェラを背後にかばい、エリスは慌てて剣を引き抜いた。
――ィヂギィッ!
重く、歯の根の浮きそうな音がバジル街道の空に響く。同時にエリスの腕にしびれが来た。噛みあった剣を滑らせるために、角度をつけて無理やり流す。白人男だ。ゲイルと名乗っていたか。紅蜘蛛 II(水剤+粉剤)
(こいつ……案外やる!)
上段から振り下ろされた剣の威力は、ただ力任せにしただけのレベルではなかった。練りこまれた威力がそこにある。
エリスはアンジェラから離れるように距離をとった。この男、スピードもそれなりにあるようだ。昨晩の男に比べれば、スピード自体は遅いが、それでもエリスに付いてこられるのだからかなりのものと言える。
男――ゲイルはそのまま、こちらにむかってきた。流された剣に左手を添えて引き戻すと、そのまま突きに転じてくる。後ろに下がればアンジェラがいる。エリスは反射的に左に跳んだ。
「……っ!」
紙一重。鼻先を剣がかすった。エリスが左に跳んだ瞬間、ゲイルは突くのをやめて剣を薙いだのだ。
ド、ド、ド……と、心臓が恐怖を感じて鼓動をうるさくさせている。祈る。少し静かにして、後でいくらでも怖がっていいから、今は静かにして。
しゃがみこみ、エリスはすくい上げるように剣を振るった。ゲイルが跳び退り、間合いが開く。
と、そこへアンジェラの声が降り注いだ。
「――炎の精霊よ、風の精霊よ! 共に我が腕に今来たれ!」
呪文。唐突に炎が膨れ上がり、風が吹いた。そのまま、ゲイルに向かって熱風が襲い掛かる。助かった――とエリスは一つ溜息をつき、背後から援助をしてくれたアンジェラに親指を立てた。
「サンキュ、アンジェラ!」
「どーいたしましてっ!」
にっとアンジェラが笑い――その顔がそのまま固まった。
「――だめ、エリス! 跳んで!」
「……っ?」
訳も判らず、言われるがまま跳ぶ。次の瞬間、いままでエリスがいたその空間を、ゲイルの剣が薙いでいた。
「効いてない……!?」
アンジェラが悲鳴のような声をあげた。先ほどの魔導が、全く効果をなしていない。アンジェラが慌ててこちらに走り寄ってくる。
「どういうこと、アンジェラ!」
「わ。わかんないわよぅ!」
「――風に干渉しただけだ」
ゲイルが、淡々とした口調で告げた。
(風に干渉――?)
魔導に疎いエリスにはさっぱり判らない言葉だったが、隣のアンジェラが息を飲んだので、それが酷く異常なことらしいというのは理解できた。
と、今度はいままで成り行きを見守っていただけの黒髪の男――ドゥールが、すっと右腕を上げた。武器は持っていない。
「なに……?」
思わず眉根をひそめる。ドゥールはそれには答えず、静かな表情のまま、パチン――と指を鳴らした。
その瞬間、自分の身に何が起こったのかエリスはよく判らなかった。
ただ言えるのは、脳が拒絶反応を起こすようなレベルでの爆発音があったという事。そして、周りの木々が数本壮絶な音を立てて倒れたという事。視界が煙に閉ざされたという事。最後に、自分の肌のあちこちに、裂傷が生まれたという事だけだ。
「きゃっ……!」
アンジェラの悲鳴が聞こえ、慌てて彼女をかばうように腕を回した。身長差で言えばほとんど変わらない――どころか、実はほんの僅かアンジェラのほうが高いのだが――彼女は、エリスの腕の中で身を縮めていた。瞬間的な『何か』が収まった後、エリスは我知らず閉じていた目を見開いた。
アンジェラの体が、震えている。
「――アンジェラ、怪我は!」
「……擦り傷……ひっどーい! 乙女の柔肌傷つけて!」
大丈夫そうだ。
頬や手足に赤い線が走っているが、大きな傷は受けていない。エリスはほっと安堵の息をつくと、アンジェラから離れる。
剣を握りなおし、向き直った。
「……一体、なんなのあんた達は。変な魔導使いね?」
「魔導じゃ――」
エリスの言葉に反応したのは、ゲイルでもドゥールでもなく、アンジェラだった。彼女は細い体を震わせながら、悲鳴のように叫んだ。
「法技じゃないわよあんなの! あれじゃ、あれじゃまるで――」
「……魔法、か?」
その言葉を引き継いだのは、ドゥールのほうだった。感情すら見えない黒瞳に、僅かに光が反射する。
(魔導……法技? 魔法?)
エリスにすれば、どれも同じに思えるのだが――少ない知識を呼び起こし、考える。法技は一般的に使用されているもの。魔法は――
ふと、思い当たる。
魔女、特殊能力者しか使えないはずだ。アンジェラの『先見』の能力と同じ――!
「……そうよ。あんたたち何者よ!」
アンジェラの声に、男達はお互い一度視線を交わすと、黒髪の――ドゥールのほうが、一歩前へ出て来た。胸元に手を入れ、そして引き出す。
バジル街道の木々の隙間から降り注ぐ太陽光が、引き出されたそれに反射した。
赤い、小さな石――
どくん
「……月の石……っ!」
アンジェラがかすれた声をあげた。
エリスは反射的に、左手で自分のそれを握っていた。月の石。あの男が持っているものと同じ、月の石――
「……じゃあ、じゃああんた……エリスと同じ……月の者――!」
「……」
肯定も否定もせず、ドゥールはそれを再び胸元にしまうと、また一歩、前に歩み出て来た。ゲイルも同じように近づいてくる。エリスとアンジェラは、それに反応するように二歩、後ろに下がった。
「……エリス」
右隣に立っていたアンジェラが、エリスにだけ聞こえる声でささやいてきた。視線だけで促す。
「――ここから村まで、後どれくらい? 走っていける?」
アンジェラの質問の意味が判らず、エリスは眉を寄せた。一番近い村はレナードという名前だ。一度だけ行った事がある。そう遠くはない。ここからだと――
「……走れば、十分ってとこかな。走るの?」
アンジェラは答えず、男二人をにらみやったまま、エリスの手を握ってきた。剣を持つその手を握られて、反射的に振りほどきそうになったが、アンジェラの手の力が思いのほか強く、やめる。乾く喉に無理やり音を発してもらう。
「なに、アンジェラ」
「――十分、か。ちょっと……辛いわね」
アンジェラの横顔に、挑むような笑みが浮かんでいた。その表情に、エリスの心臓が高鳴った。酷い不安感。
「アンジェラ、あんた……まさか!」
「――やるしか、ないでしょう。ちょっとだけ無茶するわよ。死んじゃったら――ごめんということで」
「アンジェラ……!」
さらりといった言葉に、これからアンジェラがやることが危険度が高いものだと理解した。なんとなく判る。過去に一度だけ、たった一度だけだが、見たことがある。あれをやろうというのだ――!
しかしエリスが止めるまもなく、アンジェラがあいていた右手を上げた。声高に、叫ぶ。
「我が中に眠りし時の力よ! 我アンジェラ・ライジネスが命ずる!
我に先の未来を見せ、我らが時を進ませよ!」
――視界がぶれた。
胃の浮くような感覚。違和感――浮遊感とでも称すれば一番近しいのだろうか、感じたこともないような感覚が全身を支配した。
そして、急激な疲労が襲ってくる。
「――ッ……!」
エリスは我知らず、両手を地面に押し付けていた。剣は知らないうちに地面に転がっている。いつもなら絶対にしない。剣を粗末に扱うなんて事はない。けれど、そんなことに構う余裕がなかった。
体が、鉛を埋め込まれたかのように重い。肺が新しい空気を求めて、浅い呼吸を要求している。
「う……」
頭痛と吐き気――めまい。
湿った土の冷たさが、手のひらを通じて伝わってくる。土だ。つい先ほどまで足の裏にあったのは、バジル街道のジャリのはずなのに――
体の望むまま、短い呼吸を繰り返して、エリスは顎を無理やり上げた。冷たい汗が、一筋滑り落ちる。
「……アンジェラ!」
叫び声のはずが、ひしゃげた声にしかならなかった。すっと血の気がひいていくのがわかる。こうなるから、嫌だったのだ――
エリスのすぐ右隣、アンジェラが倒れていた。
「アンジェラ! この馬鹿! なんて無茶したのよ!」
「……」
アンジェラは口を幾度か開いて、何かを言おうとしている。だがはっきりと音にならない。ふだんは白くとも健康的な顔色が青ざめている。ほんの一瞬――いや、正確には一瞬ではないのかもしれないが――で、このありさまだ。
エリスはアンジェラの口に耳を近づけた。細い、熱く湿った息がかかる。
「……し、かたない、でしょ……」
途切れ途切れに、荒い呼吸の間からそういってくる。きつく閉じたまぶたが、僅かに開いた。湿ったアメジストの目が、こちらを見つめてきている。
「……はっ……ちょ……っと、私たちの『時間』を……十分、はやめた、だけ」
「馬鹿!」
思わず叫ぶ。
心臓が、呼吸が上手く出来ないためではなく別の理由で痛んでいる。さっそくこれだ――守ってやれないどころか、こんな目に合わせている。
「……それやったら、あんたしばらく動けないんでしょう!?」
エリスの言葉に、アンジェラは僅かに目を伏せて肯定した。その行動は必要ないとも思える。実際、見れば判る。動けないのだ、アンジェラは。指一本動かすのさえ、辛そうだ。
「……擬似時間転移……擬似空間転移に近い、んでしょ?」
「……だ。か、ら。ごめん……って」紅蜘蛛赤くも催情粉
アンジェラが細く息を吐いた。白い頬に走った赤い裂傷が、痛々しさをいっそう増してみせている。エリスは思わずその傷を人差し指のはらでなぞった。
アンジェラの能力――『先見』。しかしそれは『一番使用度の高い』能力だ。正確にはアンジェラの能力は――『時間』に関する全て。
これもそのひとつだった。以前に一度だけ見たことがある、時間を早める能力。アンジェラ自身、その一度きりで懲りたらしく――下手をすれば、死んでいたといった――今日この瞬間まで、二度とやるつもりはないと断言していたのに。
「……しかた、ない、じゃない?」
アンジェラの頬が悪戯っぽく歪んだ。こんなときでも、アンジェラはアンジェラだ。
「こうでも、しないと……逃げられそうに、なかったし。……あんただって、疲れ、てる、でしょ? 怒鳴ると体力、なくすわよ……」
アンジェラの疲労は、使用した魔法に体がついていっていないからだ。エリスの疲労とは違う――エリスの疲労は、慣れない感覚と、時間の急速な移動によって、体が悲鳴を上げているだけでしかない。アンジェラほど、辛くはない。
「……ごめ、やすませ……」
「判ってるわよ」
アンジェラの台詞をさえぎり、エリスはその細い手を握った。冷たい。
「とりあえず、宿……探すよ。歩ける?」
あいまいにアンジェラが頷くのを見てから、エリスは自らももう一度立ち上がった。なんとかなりそうだ。少なくともエリス自身は。転がった剣をしまい、一度大きく息をつく。
基礎体力はある。もう心臓も肺も、かなり落ち着いてきている。
けれどまだいまいち感覚のはっきりしない両足に力をこめ、踏ん張った。アンジェラの小さな体に手を差し伸べ、起こす。
さらりと黒い髪が、頬にかかった。
アンジェラのほとんど全体重が、エリスにもたれかかってくる。昨晩のわき腹の傷がその拍子に痛んだが、さして気になるほどでもなかった。なんとでもなる。
「……アンジェラ。ごめん」
「……」
かすかにアンジェラが笑った。馬鹿なことを言うなとでも言うように。それがほんの少し辛く、けれど嬉しくもあった。
顔を上げる。
整備もされていない片田舎の土剥き出しの地面。遠くのほうでキラキラと池が輝いている。青い空を背景に、点在するように立てられた、古い建築技術の家々の姿。
鼻をくすぐるのは、遅い朝食の匂いだろうか。どこか遠くから、子供たちのざわめきも聞こえる。
ようやっと落ち着いて来た。バジル街道ではない。
――レナード村に、エリスたちはいた。
「エリス顔怖い」
ベッドの中からのアンジェラの台詞に、エリスは眉間に刻んだしわをさらに深くさせた。
「……あんたが無茶するからね」
こんな片田舎の村でも、街道沿いにあるというのは便利なものだ。民家をそのまま改装したような小さなものだったが、宿があった。
アンジェラをそこへ運び込み、ベッドに寝かせて――開口一番この台詞を吐かれ、エリスは少しばかり不機嫌になった。
「うー。……だからぁ、ごめんって言ってるじゃない」
ベッドに横になって、多少とも落ち着いたらしく、アンジェラは苦笑を漏らしてきた。
「大体、エリス。あんたは休まなくていいの?」
「あたしはもう大丈夫だよ。とにかくあんたが休みなさい」
「……はぁい」
存外素直に頷いて、アンジェラはシーツを引き上げる。隣に座っていたエリスは、軽く彼女の頭をなでた。
「おやすみ。でも……まあ、ありがとう」
「うん……」
アンジェラがまぶたを下ろした。やはり疲れているのだろう。
「――っと、そうだ」
いきなり慌てた様子でアンジェラが目を開いた。
「? なに」
「エリス病院!」
「……はぁ? つれてっけっての?」
疲労なんてものは、寝ているのが一番だと思うのだが――と言いかけたエリスを遮って、アンジェラが早口でまくし立ててくる。
「そうじゃなくて。……わき腹の傷。昨日手当てちゃんとしてないでしょ?」
「……ああ」
右わき腹に触れてみる。もうすでに出血もないし、確かに痛みはするがさほど深い傷でもない。エリスは肩をすくめてみせた。
「大丈夫だよ。別に、もう平気」
「だめ。あんたってばいつもそうなんだから。私は寝てるから、エリスはその間に病院にいってきて」
頑としていってくるアンジェラに、エリスは小さな苦笑を漏らした。心配しているのだろう――が、今はこんな傷よりも、自分のことを心配して欲しいとも思う。
「……はいはい。一応探してみるよ。こんな村にあるかどうか知らないけどね」
「うん」
アンジェラがほっとしたように笑んだ。エリスは再度その艶やかな髪をなで、微笑を返す。
「じゃ、あたしは行ってくるけど……一人で平気?」
「平気よ」
「……判った。じゃあね。おやすみなさい、アンジェラ」
「おやすみなさい」
アンジェラが小さく笑って、瞳を閉じた。
こっぴどく叱られてしまった。
まだ脳内でがんがんこだましている医者の怒鳴り声に、エリスは半ばフラフラになりながら宿へ戻ってきた。
何で放っておいた。どこの子供? どうしてすぐに手当てをしなかったんだ。親はどこに居る。何をしたらこんなことになるの。危ないまねをするんじゃない――等々。
まさか、狙われました、とも、実は家出してきました、とも言えるはずもなく、適当にごまかしてきたのだが――医者というのはやはりどうにもエリスは好きになれない。カイリやパズーの家も医院をしていたが――
(……って、思い出すのやめよ)
ふいに暗澹(あんたん)な気持ちになりかけ、エリスは小さく頭を振った。
まだ、あっけらかんと思い出すほどには気持ちの整理がついていない。
安宿の、きしむ階段を上がり、アンジェラの寝ている部屋の扉をあける。
「あ、おかえりなさいエリス」
「ただいま」
ベッドに座っていたアンジェラが、顔を上げてきた。だいぶ落ち着いたようで、顔色も戻ってきている。
ほっと安堵の笑みがこぼれるのを、エリスは自覚した。
(よかった……大事に至らなくて)
アンジェラは手にしていた一冊の本を閉じると、それを小さく振ってきた。見覚えのある、青い表紙。
「借りたわよ、これ」
「……って。何で勝手に人の荷物漁ってんですかあんたは」
「だってヒマだったんだもん。でももうこれ、エリスんちであきるくらい読んだわよー。他のないの、他の」
「あのね」
嘆息。どうやらだいぶ元気にはなったらしいが――だからといって人の荷物を勝手に漁って、あまつさえそれに文句をつけるのはどうかと思う。
「あたしはそれが好きなの。読みたくないなら読むな。むしろ漁るな人の荷物を勝手に」
「いいじゃん別に。セシレル・ハイム、だよね?」
「そうだよ」
近寄って、アンジェラの手からその本を奪い返す。幾度も開いたおかげで、ページの隅はよれてしまっている。だが、お気に入りの一冊だ。
セシレル・ハイム――詩人画家の詩集だ。エリスの好きな芸術家で、自室の壁にはその絵のレプリカも飾ってあった。
「まぁともかくありがとう。暇つぶしにはなったわ。あ、それから、この子だしといてあげたからね」
「……って、ぬいぐるみまで引っ張り出してるし」
ベッドの枕もとに、白い犬のぬいぐるみが転がっている。お気に入りの一体で、バックパックに詰め込んできたやつだ。
詰め物がたりないせいで、やたら力の抜ける外観のぬいぐるみ。ココアと呼んでいる――白いのに。
このぬいぐるみは、実はアンジェラに以前もらったものなのだが、すでにそのときに名前がついていたからだ。白いのに、とはエリス自身さんざん思ったが、アンジェラに理屈は通じなかった。曰く『ココアはココアだから』。もはや訳が判らない。
アンジェラはそのぬいぐるみをぺしぺしとたたきながら、続けてきた。
「あ、洋服とかはクロゼットにかけといたわよ」
「勝手になにしまくってんですかお嬢様」
「ヒマだったんだもん。エリス帰ってくるの遅い」
「……病院行けって言ったのあんたでしょうが」
「そうよ? ちゃんと行った?」
「……行きました」
ちょっとぐらい疲労していたほうが静かでいいのではないだろうか――などとどこか冷めた思いでアンジェラを見ながら、エリスは小さく嘆息を漏らした。紅蜘蛛
闇。
何もない、真の闇。夜ではない。もっと深く、まとわりつく、虚無――
闇が、そこにあった。闇しかなかった。
エリスはその中で一人、立っていた。
いや――立っている、のだろうか。地面の感触すらなく、立っているのかどうかすらよく判らない。浮いている? それも違う――存在している、というのが一番近いのかもしれない。
「……ここ、どこ」
思わず言葉を漏らす。音が、おかしなほど響かない。奇妙な感触。
首を左右にめぐらす。だが、何もない。右もない、左もない。上下もない。手を伸ばす。視覚が効かないのなら、それ以外の感覚で情報を得るだけだ。けれど――いくら伸ばしても、なににも触れられない。
足を伸ばす。何もない。
匂いを嗅ぐ。何も匂わない。
耳を澄ます。何も聞こえない。
寒くも、暑くもない。本当に――『何もない』。
そんな空間が存在するなど、思いもしなかった。だが、ここにある――
ぞっと震えが来た。それで、少しだけ安心する。少なくとも『エリス』はここにいる――はずだ。
「アンジェラ……? アンジェラ、どこ」
声をあげてみるが、言葉はまるでスポンジに吸収される水のように、掻き消えてしまう。
返答もない。
ぞっとまぶたを閉じる――閉じたのだろうか。本当に? 判らない。視界は変わらない。そもそも自分は本当に、ここにいるのか――?
いや。
『ここ』は本当にあるのか――?
『――月の者よ』
ふいに、音が響いた。
何処からともなく――まるで、洞窟内で叫んだときのように、反響して聞こえる。
「……つっ!?」
唐突に、心臓に痛みが走った。胸元を抑え、たまらずしゃがみこむ。頭蓋に響いてくる声に頭痛がした。
「……う」
汗が、流れる。
『――汝、我が前に来たれ。我、汝を待ち受けん――』
響く声。
闇があった。
ただ闇しかなかった。
闇だけがあった。
闇以外には何もなかった。
ただ、判る。
呼んでいる声がする。
自分を呼んでいる声がする。
そう――行かなければ、この声に応えなければならない。
行かなければならない。
呼ばれているから。待ってくれているから。あのお方が。
エリスはゆるりと立ち上がった。闇の中、頤(おとがい)を上げ、呟く。
「はい……ルナ、よ――」
自分を呼ぶ声がする。
呼ばれている。
「――ス。エリス――」
呼ばれている。
闇の中から、闇の向こうから。
呼ばれている。
「エリス……エリス?」
呼ばれている――誰に?
「――エリスってばあッ!」
「うわぁっ!?」
耳元で強烈に叫ばれ、エリスは飛び起きた。鼓膜がジンとしびれている。
「な、な、な……」
「……あ、起きた。よかったぁ……」
「よくなあいッ! ビビるでしょ!? 何なのアンジェラ!」
反射的に叫び返して、エリスは声の主を睨みあげた。ベッドの上、覗き込んできている紫色の双眸。緩やかに揺れるウェービー・ヘア。
アンジェラだ。
彼女ははぁと大きく息をついてきた。あっけらかんと笑って続ける。
「……おはよ。目、覚めた?」
「覚めたけど! 何もこんな無茶な起こし方ないでしょ! 鼓膜破れる!」
「あんた頑丈だから平気」
「鼓膜まで頑丈でたまるか!」
叫びながらベッドから立ち上がる。昨晩寝たときとは違う疲労感がある気がしたが――体はわりと素直に動いてくれた。しかしそのついでといわんばかりに、頭がずきりと痛んだ。
アンジェラの叫び目覚ましのせいでもないらしい。呻く。
「あー……なんか、ちょっと目覚め悪いかも」
「うなされてたわよ? 大丈夫?」
「……?」
うなされていた――?
きょとんとして顔を傾ける。別に暑くて寝付けなかったとか、疲れすぎててどうとか、そういうことはなかったはずだ。だとしたら、うなされる理由は一つしかない。
「……なんか、変な夢見たかも。……よく覚えてないけど」
気持ちの悪い、不快な感触が肌に残ってはいたが、それに理由が見つからない。夢なのだろう。
告げると、アンジェラは肩をすくめた。
「まぁ、夢なんてのはそんなもんでしょ。で、どうするエリス? 流石にそろそろ動かないと、昨日の二人が怖いわよ?」
「ん。……今日出ようか。あんたは大丈夫?」
「いっぱい寝たからね」
アンジェラの笑顔に、エリスはつられて笑った。
「オーケイ」
ゆっくりと歩き、部屋にある小さな窓を開いた。春先の花の香りが、流れ込んでくる。
レナード村。
本当に小さな村で、セイドゥール帝国領の中でもかなり生活水準が低いところだろう。役所もなければ学校もない。医師が居たのは幸いだが。
村そのものの外観にも、さして特徴があるわけでもない。赤茶けた屋根はセイドゥール帝国の中ではごくごく一般的なものではあるし、白い壁面もまたそうだ。作りの粗雑さや古さは逆に、帝都や大きな街では見られないが――まぁはっきりと良い特徴ではない。
唯一その名が知られているのは酒が美味い、といった程度か。レナード村の銘酒コンチェルトは、その筋では高く売れる。 現金収入があるのは、村としてはそこそこありがたいはずだ。
酒が美味いのは、気候的なものもあるのだろうが、それよりも水の美味さが効いているのだろう。紅蜘蛛
村の西北にある高山からの雪解け水が、小川となってこの村に流れ込んできている。その水の美味さは、わざわざそれだけのために立ち寄る旅人もいるというのだから、相当なものだ。
そのレナード村の、整備もされていない、ほぼ自然発生的な広場。広場の真中には噴水――といっていいのかどうか、というレベルのこじんまりとした奴ではあったが――があり、主婦や子供たちが井戸端会議やら遊びやらに興じている。
订阅:
博文 (Atom)