2014年6月10日星期二

ミス・ハイドの旋律

不調和な二つが一つの束にならざるをえないこと、悩める意識のなかでこの正反対の二つがいつも争いあっていることはまさしく人類にかけられた呪いである。どうやったらその二つを分離することができるのだろう?三便宝


 自分がこのような高級ホテルに泊まったのはもうどれくらい昔かと考えをめぐらせ、雪村初子(ゆきむらはつこ)はため息をついた。──きっと新婚旅行だ。夫と別居した今となってはあれもただ滑稽な思い出でしかないが……。
「YOKOさん、デビューアルバムが異例の売れ行きを見せていますが」
 初子ははっと我にかえった。そうだ、今は仕事中。同僚である友人が新進気鋭のピアニスト、YOKOにインタビューをしている最中である。
 初子は小さな雑誌社でデザインの仕事をしている。彼女はライターではないから、記事の内容に関与していない。そんな彼女がこうしてインタビューの場に同席するのは初めてのことだった。YOKO自らがデザイナーである初子に興味を示したのだというが、その辺りの事情は良くわからない。
「私の音楽を受け入れて下さる方が思いの外たくさんいらっしゃって、正直驚いています」
 YOKO。本名は知られていない。年は初子の娘と同じくらい──確かまだ音大生だと聞いている。染めたことなどないのだろう、艶やかな黒髪は長く、いささか直線的に過ぎるほどだった。たとえが悪いが、まるで何かの呪いを掛けられた日本人形のような、そんな美しさ──この危うい魅力が、彼女のアルバムの売上にも一役買っているのかもしれない。
 彼女はあくまでも落ち着いた口調だった。最近は各種マスコミに持ち上げられていながら、浮かれた様子などは全くない。
「私の音楽はどちらかといえば内向的だと言われていて、私自身誰かに聞かせることには無頓着だったのですが」
「YOKOさんの師は吾妻春枝(あがつまはるえ)さんですよね。先生は今何と?」
「先生は最初、アルバム作成には反対だったんです」
 YOKOは目を伏せた。
「録音してしまえば音楽はそこから先に進めなくなる──私はまだその段階ではない、と」
 吾妻春枝は十年前ほどに一世を風靡した名ピアニストであった。しかし今は持病の糖尿病が悪化して両脚が不自由となり、車椅子生活を余儀なくされている。後進の指導に熱心に取り組んでいるという話だ。
 師弟関係に突っ込んで話を聞くことは得策ではないと感じたのだろう、友人は話を変えた。
「アルバムの中で、特にお気に入りの曲は?」
「そうですね、どれも好きな曲ばかりを集めたものですけれど──」
 初子は手元のCDを見下ろした。ジャケットは彼女本人の写真だが、ふたりの彼女が向かい合わせに立ち互いの手を合わせている……まるで鏡か、それとも双子のような。
 ──そういえば、私はどこかでこの人に会っているような気がする。
 初子は眉をひそめた。思い出せない。最近物忘れが激しくなった。歳を取るのは嫌なものだ……。
「コンサートのご予定もおありとか」
「ええ」
 YOKOは彼女の背後に佇んでいた若い男性に軽く合図した。端正な顔立ちにも関わらずひどく無表情なその男は、胸ポケットから何やら取り出して友人と初子の前にそれぞれ置いた。どうやらチケットらしい。初子の前には二枚、おそらく友人にも同じだけの枚数が渡されているだろう。
 男はマネージャーだと言っていたか。YOKOとは年齢的にも容貌もお似合いだが……。ふと初子は娘とその交際相手を思い出した。少し変わっているその青年を、初子は自分でも意外なほど気に入っている。礼儀正しく、溌剌としていて、かと思えば思慮深く──何より重要なのは娘を大切に扱ってくれているということ。我が娘ながら一癖も二癖もある子なのだが、彼にとってはそれがいいらしい。「蓼食う虫も好き好きね」とつぶやいたところ、娘はひどくむくれていたっけ。
「お忙しいところ、お時間ありがとうございました」
 ふと気付くと友人が立ち上がり、礼を述べている。インタビューは終わりのようだ。今日はどうも意識が集中しないな、と初子は思った。
 YOKOは年齢不相応に落ち着いた笑みでそれに応えている。
「こちらこそ、私などのためにわざわざご足労下さって……」
 ふ、と彼女の視線が初子をとらえた。
「雪村さん……でいらっしゃいますよね?」
「え、ええ」
 インタビューが始まってから、YOKOが初子に声を掛けたのはこれが初めてだった。面食らった初子が目を瞬かせると、YOKOはくすりと笑って言葉を続ける。
「お嬢さまと良く似ていらっしゃいますわ」
「絵音(かいね)をご存知で……?」
「お時間ですよ、YOKOさん」
 マネージャーに遮られ、初子は口をつぐむ。YOKOも笑ったまま初子の問いには答えなかった。
「それでは失礼致します」
 部屋を出るYOKO、従う青年。取り残された中年女性ふたりは、自分の子供のような年代の彼らに、どこか圧倒されたような様相であった。


 初子がYOKOを思い出すまでにはさほど時間が掛からなかった。娘に聞くまでもない。ちょうどその日発売の女性誌が、YOKOに関して少々踏み込んだ記事を掲載していたのである。
 ──美人ピアニスト・YOKOの双子の姉は元医大生、半年前に自殺!巨人倍増枸杞カプセル
「これはさあ、載せちゃなんないわよねえ。かわいそうに」
 取材帰りの喫茶店。カメラマンを先に帰し、ふたりは駅でその雑誌を購入した。なぜか罪悪感があったのは、まだYOKO本人の印象が鮮烈だからだろうか。
 初子は友人の吐き出す煙草のけむりに顔をしかめる。しかし友人はそれが自分の発言への同意だと受け取ったらしい。まあ、あながち間違ってはいない。
 初子は小さくつぶやいた。
「うちの娘もちょっと巻き込まれてね。病院ですれ違ったのかも」
 友人は目を丸くしてうなずく。
「そう……それで」
 娘はあまりあの事件について語ろうとしない。嫌な体験だっただろうし、初子も無理にとは思っていないが、やはりまだ少しは気に掛かっている。
「でもやっぱり芸術家ってちょっと神経が違うのかしらね」
 友人はぺらぺらと雑誌をめくりながらつぶやいた。
「『姉の死を乗り越え才能を開花させた』……か」
「わかんないわよ、本人の気持ちなんて」
 初子はコーヒーをすすった。酸味がきつすぎて、あまり美味しいとは思えなかった。
「案外引きずっているかも」
「でも、YOKOの名が知られ出したのってここ半年よ。それに以前はそんなに目立つ子じゃなかったって……これはみんな言ってる」
「みんなって誰?」
 嫌味交じりの初子の問いは、彼女には聞こえなかったらしい。
「きっと何かあったのよ。間違いないわ」
「…………」
「あのマネージャーとも噂になってるしねー。知ってる? あれ吾妻慎二(しんじ)って言ってね、吾妻春枝の息子なの」
 一息にまくし立てた後、友人は突然我に返ったように身を引き、ため息をついた。
「……大変だわね、人気者は」
「つぶれてしまわなければいいけれど……」
「確かにね。まだ若いし……そうでなくても、急に人気が出るとみんなどこかおかしくなっちゃうから」
 だが、彼女に限ってそういったことは起こらないような気がした。根拠などない。ただ、あえて言えばあの落ち着き払った態度。どこか陰のある美貌。そのすべてが、どこか浮世離れした雰囲気を漂わせている。「呪いの掛かった人形」――自分で思い浮かべた表現だが、それがあまりにもぴったり当てはまる。しかしきっと彼女は人形などではないだろう。誰かに操られることなど、彼女が是とするとは思えない……。

 初子は彼女の笑みを思い出して小さく身震いする。──何か、得体の知れない不気味な感覚。それを、人は予感と呼ぶのかもしれない……。

 ただその醜悪な姿を鏡で眺めていても、嫌悪を感じるどころか、大歓迎で小おどりしたいくらいのものだったのだ。これも私自身なのだ。それは自然であって、人間味が感じられた。私の目には、精神の躍動する姿が感じられ、いままで自分だと思っていた不完全で分裂した態度よりも、ずっとはっきりしていてひたむきに思われた。


 アンコールを終えても客席の拍手はまだ収まらなかった。それを雑音であるかのように聞き流しながら、楽屋でYOKOは頭頂部にまとめていた長い髪を下ろす。鏡を見つめ、少しだけ微笑んだ。そこに誰かがいるかのように。
 ――とん、とん。控えめなノックの音に、YOKOは軽く答えた。
「どうぞ?」
「失礼します」
 入ってきた人物を鏡越しに確認し、YOKOは首をわずかに傾げる。
「慎二さん。ご用はお済みになったの?」
「うん」
 吾妻慎二は頷き、YOKOの隣の椅子に腰を掛けた。
「君に言われたとおり、雪村親子に渡してきた。……それで良かったんだよね?」
「ええ、そうです」
「…………」
 YOKOをじっと見つめ、慎二は小さくため息をついた。YOKOは表情を翳らせ、慎二の顔を覗き込む。その手が彼の腕に触れ、慎二はわずかに身じろぎした。
「どうかしましたか?」
「……いつまでその口調なんだ、百合子(ゆりこ)。俺は」
「あら、その名は呼ばない約束でしょう?」
 YOKOの見せる笑みに、慎二は言葉を詰まらせる。そんな彼の緊張を優しくほぐすかのように、YOKOの声は甘く響いた。
「大丈夫、お約束したことは守ります。何もかもがうまくいけば――」
 聴衆を魅了してやまない音を紡ぎだす、YOKOのほっそりと長く骨ばった指先。それが慎二の伸びた前髪をかき上げ、耳にそっと掛けていった。
「私は自由になれるわ。そして、貴方も」
 慎二はYOKOを抱き寄せようと腕を伸ばす。だが彼の手が彼女の真っ黒なドレスに触れる前に、彼女はするりと身を引いた。まるで彼の意図になど気付いていないかのように自然な身のこなし。だがきっと気付いていたはずだ。慎二は手を握りしめる。
「では、私は先生のところに行って来ます」
「……ああ」
 慎二はため息混じりに言葉を吐き出した。そして無理やりに自分の中のモードをYOKOのマネージャーへと切り替える。
「待っています」
 うなずく自分に、YOKOは満足そうに微笑んだ。長い髪が彼女を追って軌跡を描く。慎二はそれをじっと見つめていた。
 ――そうだ。きっと何もかもうまくいく。そして、自分は必ずこの女を手に入れてみせる。中絶薬RU486
「一緒にはおいでにならない?」
 思い出したように振り返り、YOKOはあどけなく微笑んでみせた。思わず胸を高鳴らせた自分に、慎二は苦笑を浮かべる。
「いや……母さんには会いたくない」
「わかりました。じゃ、後ほど」
 ぱたん、と閉まる扉の音。慎二はそれを目を閉じて聞いていた。
 
 慎二さん。私にはね、双子の姉がいるのよ。とっても素敵な姉。私よりずっと賢くて、優しくて、ピアノも姉の方が上手いくらいなの。――いや、慎二さんには会わせたくないわ。だって慎二さん、姉を好きになってしまうかもしれないもの。
 
「葉子(ようこ)」
 慎二はつぶやく。
「お前の言ったとおりだったな……」
 だがこれは彼女の言うようなそんな綺麗な感情ではない。好きだとか嫌いだとか、そんなものではない。執着、好奇、嗜虐――形にならないどろどろとしたものが、ただ彼女の方を向いているだけ。まるで血に飢えた殺人鬼のように。
 きっと……、葉子を殺したのは百合子に違いない。それは間違いない。だが、何故彼女は慎二にそれをほのめかしたのだろう。一体何が目的だったのだろう。
 ――私の本当の名前は、百合子というのよ。
 葉子とそっくりの顔で、しかし全く違う微笑みを浮かべる女、百合子。
 先ほどから握りしめたままだった拳をそっと開いてみる。彼女に触れることのできなかった掌には、じんわりと不気味な熱がこもっているようだった。
 
 
 その日、いつもより随分早い時間に帰宅した桐生千影(きりゅうちかげ)を待ち受けていたのは、額をつき合わせて深刻な顔をしている若者たちだった。一人は桐生の同居人、七条草摩(しちじょうそうま)である。向きあって腰掛けているのは草摩の恋人、雪村絵音だ。
「あ、おかえり」
 物音に気付いたのか、草摩がふと顔を上げた。桐生は目を瞬かせながら返事をする。
「……ただいま」
 絵音がぺこりと頭を下げる。
「こんばんは、お邪魔しています」
「あー、いえむしろ僕のほうがお邪魔だったのでは」
「いやそんなんじゃないから」
 草摩に軽くあしらわれて、桐生は少し寂しそうな顔をした。草摩は怪訝そうに尋ねる。
「どうした?」
「もう少し前ならもっと初々しく恥じらってくれていたのに……時間の流れって、残酷ですね」
「お前はあほか」
 不意に、絵音が身を乗り出した。
「ちょうど良かった。桐生さんにも聞いていただきたかったんです」
「僕にご用ですか?」
「ええ」
 桐生はネクタイの首元を緩めながら、二人の座るソファに近付いた。L字型のソファの九十度になる位置に二人は座っていた。草摩の隣か、絵音の隣か、どちらに座ろうか迷う。いっそどちらかに寄ってくれればと思うのだが、二人は全く気付いていない。
「いいから座れって。ほら、こっち」
 草摩の声に従い、結局桐生は彼の隣に座った。
「これを見て欲しいんだ」
 草摩が差し出したのは紙片だった。手にとると、何かのチケットらしいということがわかる。桐生は目を丸くした。
「何ですか? これ」
「YOKOのコンサートのチケット」
「……は?」
 桐生は草摩を見返した。
「何でそれがこんなところに?」
「絵音がお母さんとコンサートに行ったら、YOKOのマネージャーとかいうのが渡してきたんだって」
 ――以前YOKOがお世話になった七条草摩君と桐生千影さんに、これをお渡しいただけませんか。
「……罠かしら」
「いや、まさか」
 真面目な顔でつぶやく絵音に、草摩は苦笑する。
「でも……」
「絵音さんはYOKO――いえ、冴木(さえき)百合子のコンサートに行かれたんですね? 何故ですか?」
 突然の桐生の問いに、絵音は表情を引き締めた。
「母が仕事の関係で彼女に会ったんです。インタビューに同席したとかで、それで」
「絵音のお母さんってデザイナーさんじゃなかった? インタビューにも行くのか?」
「ううん、そんなことないの」
 絵音は首を横に振った。MaxMan
「何だか向こうが母のデザインに興味を持って、一緒に来てくれって言われたみたい」
「嘘くせえなあ」
「私もそう思う」
 ため息混じりにつぶやく絵音。桐生は軽く顎に手を当てた。
「ふむ……それで、お母様の分と貴方の分のチケットをもらったんですね?」
「ええ、そうです」
「それでお二人がコンサートに行って――この」
 桐生は手元のそれに目を落とした。
「チケットを渡された、と」
「私たちが行ったのは先週のO公演だったんです。で、渡されたのは来週のK公演のチケット」
「最寄の公演のチケットを用意したってわけか」
 草摩は感心したような口調でつぶやいた。
「えらく手の込んだことを……」
「これで何の目的もない訳がないわ」
 絵音は少し心配そうな顔で草摩を見つめている。草摩は安心させるように明るく笑ってみせた。
「さすがに俺たちをどうこうはできないだろ。向こうは舞台、こっちは客席だぜ?」
「マネージャーもいるでしょ?」
「そりゃそうだけどさ」
「いっそオークションで転売しましょうか。YOKOのチケットなら高く売れると思いますよ」
 桐生は嘲笑とも苦笑ともつかない奇妙な笑いを浮かべながら、チケットを電灯に透かすようなしぐさをした。もちろん透かしなど入ってはいない。
「はは……」
 草摩は渇いた笑い声を立てる。それに打ち消されるくらいの小さな声で、絵音がつぶやいた。
「でも……あの人、今は一体どう思っているのかしらね」
 独り言のように続ける。
「双子の妹を身代わりに仕立てて、自分が成り代わって――妹の名前であっという間に成功して……」
「…………」
 桐生は絵音の横顔を眺める。その脳裏に、冴木百合子との短い会話が思い出された。
 
 ――茶番ではない人生が、この世にあるとでも思っていらっしゃるのですか?
 
 そう言って笑っていた百合子の口元。
 
 ――貴方は、貴方の人生から逃げた。それだけですよ。
 
 桐生の言葉に、さっと青ざめた百合子の頬。
 
 思い出せる。まだ、自分ははっきりと記憶している。百合子は――どうだろうか。彼女もまだ、覚えているだろうか。
 ……覚えているからこそ、彼らを呼んだのだろう。彼女が仕掛けたことの真相に気が付いたのは、恐らく草摩と絵音、そして自分の三人だけだ。だが百合子が三人とも記憶しているかどうかはわからない。実のところ、直接彼女と話をしたのは自分しかいない。
 ――ということは、本当に彼女が呼びたいのは……僕かもしれない……?
 桐生は眉をひそめ、ずれてもいない眼鏡を押し上げた。
「草摩君」
「ん?」
 顔を上げた草摩は、いつものように真っ直ぐな眼差しで桐生を見返した。その強さに、桐生は何故かほっとする。
「行ってみましょうか。コンサート」
「……そうしようか」
 草摩は笑っている。だから、きっと大丈夫。桐生の胸のうちを、たとえようもないような穏やかな安堵が満たす。――百合子の目的が何であれ、自分たちは決して負けない。そんな気がした。威哥王

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