2012年12月10日星期一

暗黒物質

レイナがふわっと優しい笑顔になった。
 宇宙を航走するトラヴェリンプレイヤIIの操縦区劃で、ジェイムズとクリスティは、はじめて見るキャプテン・ジャックの表情に驚いて視線を交す。しかし笑顔はすぐに平生の皮肉なものに変り、船長は操縦席で舵を取る副長のスティレットを呼んだ。紅蜘蛛(媚薬催情粉)
 船を自動操縦にしたスティレットがやってくると、レイナは全員が見える高さにスクリーンを泛べる。映ったのは精悍と洒脱を同時に漂わせるネグロイドの男だ。
『レイナ?』
「もちろんわたしだ。あんたが呼んだんだろう」
『そりゃそうだが……個人通信デバイスにおまえを呼び出すためのファイルを作っといて、そいつをオンに書き換えれば即座におまえから連絡がくるなんて、魔法の角笛じゃあるまいし』
 スクリーンで男が両手を掲げる。
『だいたい、俺の船のセンサーはトラヴェリンプレイヤIIを捉えてないぜ。なのにこの通信にはまるでタイムラグがない。天文単位じゃなくキロメートルで測れる距離にいるみたいだ』
「我々は二〇一七光年離れている」
 男の両腕が弧を描いていっぱいに開いた。
『おまえ、通話交換手をやれよ。超光速通信承りますなんてとてつもなく儲かるぞ』
「ウクニェ、レイナを呼んだのはむだ話のためなのか?」
『よお、ひさしぶりだな、スティレットおじさん』
 トラヴェリンプレイヤIIの副長は若々しい額を指で支える。
「おじさんは止せと言ってるだろう。俺はあんたの叔父じゃない」
『冷たいな。あんたは親父の兄弟分で、俺のことも甥っ子同然にかわいがってくれたのに』
「キャプテン・ウンクルンクル、あんたはもうとっくに子供じゃないぞ」
 ユニオンの船長らしい男が眼を眇める。
『レイナ、そこの超美少年は、もしかしてクリスティ王子か?』
 問われたレイナは脣の片端を上げ、クリスティに一礼する。
「王太子殿下、星間運輸業者組合加盟員のキャプテン・ウンクルンクルことウクニェです。スティレットと二百年以上に亙り親しくしていた機関士の息子で、現在のユニオン執行部の強引な組合運営には反対、信用のおける男です。ウクニェ、こちらはハイランドフォールズの王位継承者、クリスティ王太子だ」
『殿下、ウクニェと申します。お見知りおきを』
 作法に則り完璧な礼をしたウクニェが表情をひきしめる。
『お悔みを申しあげます。殿下の御悲嘆には及びもつきませんが、私も数年前に父を亡くしまして。いつまでも導いてくれると思っていた存在がいなくなるのは辛いことです。ですが、父は私に、困難をのりこえる強さを与えてくれていました。父王陛下も同じかと』
「ありがとう、キャプテン・ウンクルンクル」
 クリスティはほほえんで会釈した。ジェイムズは友達の躯を視る。ストレスの徴候はかなり消えている。もちろん完全にではないが。ジェイムズはハイランドフォールズをユニオンの占領から救うためならなんでもしようとあらためて強く思った。
『さて、用件だが』
 ウクニェの口調が変る。
『ユニオン史上二度めの組合総会開催要請にめどがついた。会議が巧く進めば執行部の暴走を止められる。だが拙く運べば反執行部派がたたきつぶされて終りだ。執行部の表も裏も承知したスティレットの助言が欲しい。会えないか』
「分った。トラヴェリンプレイヤIIはランカスカの近傍にいるんだが、来られるか?」
『ランカスカは好いな。五十年前に情報拠点星系最大手のエトワールが疑似重力事故と直後の政権交代で混乱したとき、ランカスカは情報拠点星系としてのまきかえしのきっかけをつかんだ。大昔の宇宙一繁盛してた頃に較べたら滓みたいなもんだが、今じゃ中の上クラスの情報拠点で、この数年は外国投資もどんどん呼びこんでる。両替をソーズがにぎってて政府が通貨価値を操作するのは無理でも、公定歩合は好きにできるからな。高金利めあてにもともと外資が集まってたところへ、ユニオンと連盟の大戦争の噂で投資先に困った資金がてっとり早く利鞘を稼ごうと大量に流入した。金と情報があるところには人が集まる。ユニオン船も犇いてるから、無用な注意も惹かずに反執行部の仲間と会える』
 レイナが頷く。
「誰と会う? 全員を招集するか?」
『全員でなくてかまわんが――おまえ、銀河系中のどこにいる可能性もある船の現在位置が判るのか? ストレンジャーの力はたまげたもんだな』
「わたしの力じゃない」
 そっけなく肩を竦めるキャプテン・ジャックにキャプテン・ウンクルンクルが質問を重ねる。
『なら誰の力だ?』
 脣は笑ったまま、レイナの眉根が僅かに寄る。
「言っても信じない」
『レイナ、おまえがほらをふくような奴じゃないのはみんなが識ってる。俺がおまえの言葉を疑ったことがあるか』
 レイナの笑顔がほんの一瞬、苦笑にちかくなり、元に戻った。
「あんたが呼んでいると教えてくれたのはヴィエナだ。彼女には反執行部派船長の船の位置も判る」
『ヴィエナって、まさか、ドリーミングジュエルアイド・ヴィエナか?』
「ほら、信じないだろう」
『もちろん信じるさ。ただ――』
「無理をするな。信じてくれとは言っていない」
 釈明を続けるウクニェをレイナがいなす背ろできょとんとするジェイムズにクリスティが説明する。
「ドリーミングジュエルアイド・ヴィエナっていうのは、船乗りが死ぬ間際に訪れて人生のすべての傷を癒し、安らかな死出の旅へ送ってくれる、夢みる宝石の瞳の少女のことだよ。ユニオンの船乗りの伝説――一般的には伝説とされてるんだけど、レイナがああ言うんだから、伝説じゃないのかしら」
「レイナは赤ん坊の頃からヴィエナを知っているそうだ」
 スティレットが少年たちの隣に来ていた。
「虚界を通じていつでも話ができると、いちどだけ話したことがある。そのときレイナは十五歳だったか……いつも大人びて隙を見せない彼女が齢相応の笑顔になったのを憶えてるよ」
 ジェイムズはさきほどの優しい笑顔を憶い出した。ウクニェが呼んでいるとヴィエナに教えられたのがあのときだろうか。
 ヴィエナはキャプテンにとって特別なんだ。
 そう思うとなぜだか心が揺れて、ジェイムズは慌てて自律神経のバランスを調節した。
「ドッキング完了。ハッチを開く準備ができたら連絡する」
『了解』
 ウクニェの声はこんどは通常通信で届いた。
 キャプテン・ウンクルンクルの船がランカスカ星系近傍で実時空に出、精確な位置をレイナが感じとってトラヴェリンプレイヤIIをその宙域へ動かした。相対速度を調整して連絡ハッチを接合させ、これからスティレットがあちらの船へ乗りこむ。
「ランカスカ外港で反執行部派の船長たちと話をしたあと、いろいろとあたって情勢を探ってくる。おまえのほうの調査が終ったら俺をみつけてトラヴェリンプレイヤIIへ連れ帰ってくれ。それまでは俺は放っておいて宜いぜ。ジムとクリスを船に残していくんだから、彼らをしっかり視ててやれ」
 ハッチの前でスティレットの言葉にレイナが応える。
「おまえのことは心配していない。わたしの年齢の十倍以上も宇宙を飛んできた船乗りのめんどうなどとても看られないさ」
「レイナ?」
「変装がよく似合ってるな」
 片眉を上げた副長は、平生の船内服でなく、雑踏にとけこみ易いカジュアルなスタイルだった。いつも撫でつけている前髪も垂して髪色を明るめにし、ずいぶん印象が違う。
「三百歳くらい若く見えるぞ、スティレットおじさん」
 顔を顰めてハッチの向うへ消えるスティレットを見送ったレイナは、緩んだ頬をひきしめてジェイムズとクリスティが待つ操縦区劃へ戻る。
「トラヴェリンプレイヤIIはこれから虚界に入り、首都惑星の海中へ出る」
 船長がこともなげに言うのにクリスティが息を呑む。
「ぼくは船乗りでも虚界物理学者でもないからまちがっているかもしれないけど、水分子が充満する空間へ船一隻分の物質を出現させたら、大規模な核融合がおきるんじゃないの?」
「宇宙空間が真空だと思うか? 虚界航行では星間塵や素粒子を含めて時空の置換を行う。ストレンジャーの船長なら海水と船の置換も完璧に熟す。心配は無用だ」
 それはほんとうだった。クリスティの菫色の瞳が思わず閉じた瞼に隠れる間に、外部センサーの表示スクリーンが変化した。闇黒の背景に泛ぶ星がゆらゆらと動く。真空に瞬かない恒星や銀河ではない。深海を漂うマリンスノウだ。核融合どころか船殻の分子一つも損わずに、レイナは船を海中に移していた。紅蜘蛛 II(水剤+粉剤)
 トラヴェリンプレイヤIIが虚界に入った次の瞬間、ジェイムズは喪失を感じた。宇宙空間から宇宙空間への移動では感じなかったものだ。船に等しい質量の海水が船と置き換るのを感じとったのだろうか。反射的に船があった宙域を視る。氷のかけらもなにも、海水の痕跡はなかった。時空の置換と言っても単純に物質の位置を交換するわけではなさそうだ。では海水はどこへ?
 数えきれない数の船が六百年ちかくも虚界航行で移動してきた。一隻の移動で消える物質は無に等しくても、累積すればどれほどになるだろう。
 ジェイムズの思いはレイナの指示でとぎれる。
「結晶の森へ向う。首都大陸とは別の大陸で原始の海岸線が多く、監視衛星の走査にも穴がある。古木の虚が海に続いているところへ浮上し、船は虚の内部に停泊させる。わたしは首都大陸でいくつか調査をしたあとスティレットを伴って戻る。ジェイムズ、それまで周囲をよく視ていろ。まずあり得ないがトラヴェリンプレイヤIIが走査されるようなことがあれば攪乱するように」
「はい、キャプテン」
 クリスティの表情が曇るのをレイナは見逃さなかった。口調は変えずにジェイムズへの指示を続ける。
「それと、システムネットへの安全な接続を保て。ここからの接続だと悟られるな」
「はい」
「クリスティ」
 ストレンジャーの力でレイナを助けるジェイムズの隣で無力感におちこむハイランドフォールズ王太子が、船長に声をかけられてびくんと顔を上げる。
「ランカスカは情報拠点星系だ。システムネットでどんな小さなことでも宜いから戦争阻止に有用な情報を探せ。ハイランドフォールズ貴族の教養は広くかつ深いはずだ。雑多な情報を有機的にむすびつけて意味を見出す能力はあるな」
「はい!」
 少年の瞳が輝く。クリスティが喜ぶのを視てレイナの報酬系も活性化したが、彼女がそれを躯の外に表すことはなかった。
 ランカスカはウクニェの言葉どおり好景気に沸いていた。体表面の光の散乱を変えて別人に見せたレイナどころか服装と髪型を変えたスティレットをそれと見分けるのも難しそうな数の群衆が首都を忙しなく行き交う。
 レイナは観光客に雑って展望塔の最上階に立った。壁と床は強度も透明度も最高クラスで、空中浮揚気分で首都全域を見渡せる。高所恐怖に騒ぎながら仮想現実でなく現実の視覚で鳥瞰図を堪能する観光客から一歩下がり、塔の支柱に凭れて半覚醒状態に入る。
 ストレンジャーの力のみならず視覚も十全に活用する。
 ジェイムズに視覚情報を採りすぎるなとは命じても、視覚を使うなということではない。ストレンジャーはそもそも周囲のあらゆる情報を感じてしまう。情報の効率的な取捨選択が重要で、ヒトの五感は不要な情報をきりはなす助けになるのだ。
 星系外縁にいるよりも首都惑星にいるほうが、結晶の森の大陸にいるよりも首都大陸にいるほうが、求める情報は効率的に捜せる。そして捜す対象が存在する蓋然性の高い区域が判ればそこに近づき、さらにクリアに情報を感じる。
 しばらく探っても情報のありかは感じとれなかった。
 レイナの力はいかなるストレンジャーをも凌駕するとは言え、全能ではない。諸々の謎の背後に朧に泛ぶヴィクター――連盟のストレンジャー研究の責任者でありながらソーズに所属する医師の素性を調べにランカスカまでやってきたが、彼が太陽系に移住したのは二百年以上も前のことだ。当時のランカスカは国そのものが破綻しかけており、公的記録の管理も杜撰だった。
 袖を引かれる。
 背ろにいるのが誰か判って防犯センサーの記録を改竄する。同時に周囲の空気と光の振動を調節して観光客の眼と耳も欺く。
「わたしはお尋ね者なんだ。現地政府の注意を惹きたくない。自分がどんなにめだつ存在か解るか、ロザリンダ」
 純白と真紅の細長い布を巻きつけて金色の環で留めたような衣裳、無風でも靡き続ける月光色の髪、紫から赤まであらゆる色を無限の彩度で映す夢みる瞳の少女に諄々と言い聞かせる。ロザリンダは、彼女を支配する者――それが誰なのかレイナには不明だ――が必要と判断した知識以外の記憶を長期に保存しない。どんなに外見を変えようがレイナを忘れることはないものの、以前のことは憶えていないのがふつうだった。
「分っているわ。今は特別なの。わたしに追いてきて」
 ロザリンダはきっぱり言うとリフトに向った。少女を追うレイナが訝しむ。ロザリンダに天真爛漫な笑顔がない。厭な記憶と無縁のロザリンダはつねに純粋な幸福に溢れているのに。
 二人――ランカスカ経済が好転してようやく街の要所に設置されるようになった監視センサーにとっては変装したレイナ一人――は街外れに着いた。復興においていかれた地域のようで、二百年前のままかと思わせる朽ちかけた建物が雨晒しになっている。
 そんなビルの一つの前でロザリンダが立ち停った。
「往昔ランカスカの役人だったひとが、死ぬ前の何年かここに住んでいたの。彼女が執務していたのは二百年ほど前、大混乱の時代に可能なかぎり仕事を全うしようとした。その仕事は市民の移住記録の管理よ」
 ロザリンダが見上げる一室の内部を視る。主が去ってから略奪に遭ったらしく乱雑な室内の隅に、小箱がみおとされて遺り、中には旧式のデータキューブがきれいに並んでいた。
「当時はエネルギー供給も不安定だったしデータベースの不適切な運用も珍しくなかったわ。そこで彼女は已むなくデータを自分で保存して守ることにしたの。ランカスカが最悪の状況から脱し始めた頃、彼女は汚職に協力するのを拒んで役所を追われた。ランカスカ政府が元どおりきちんと機能するようになったらデータベースの精査に役立てようとたいせつに保管し続けたデータキューブを、彼女は生涯手許に置いたの。年金も受給できずに困窮しながらも清廉に生きていた彼女が、荒んだ少年たちになんの理由もなく嬲り殺されたとき、わたし、最期の何分か一緒にいた。厭な記憶をわたしの心に移して、幸福な記憶に癒されて息をひきとった彼女の笑顔を憶えている」
 レイナは驚愕をなんとか隠した。
「ロザリンダ……記憶が、あるのか?」
 夢みる瞳の少女がほほえむ。その笑みは天真爛漫とは遠く、彼女の半身であるドリーミングジュエルアイド・ヴィエナの哀しい笑顔にそっくりだった。
「今は特別だって言ったでしょ。このあいだヴィエナに会ったとき、彼女はだれにもないしょで、わたしにいくつかの記憶を戻してくれたの。あのデータキューブのことは、レイナが識りたがるはずだって。視て」
 ロザリンダに促されるまでもなく浪費する時間はない。この地域に監視センサーはないとは言え、一箇所に長居すべきではなかった。レイナはロザリンダに、また、虚界を通じてヴィエナに、問い質したい気持を抑えてデータキューブを視た。
 ヴィクターの移住記録は、連盟本部最高機密エリアで視た太陽系の永住外国人名簿には載っていても、故国ランカスカの公的記録には残っていなかった。現在のランカスカ市民台帳にヴィクター・ワンの登録はない。
 二百年前の生データでは、彼は一時出国者の扱いだった。
 二百年前にランカスカを後にした市民の記録が不完全なのは当時の状況に鑑みれば理解できなくはない。しかし、銀河統合連盟加盟星系、とりわけ太陽系の出入国管理は厳格だ。移民受容れはもちろん外国人に永住資格を与えるに際して出身国に於ける身許調査を怠ることはあり得ない。太陽系から調査要請があれば通常それは記録される。
 ヴィクターの太陽系永住資格取得は特殊な状況で行われたのだ。それは、彼がソーズだったから?
 太陽系の登録ではランカスカ人となっているヴィクターの住所は冥王星ステーションのソーズ自治区だ。ソーズは徹底した秘密主義の集団で、外部の人間が立ち入れるのはソーズ事務所と呼ばれる渉外窓口のみ。元エトワール警察長官のモニクが記憶しているとおりヴィクターはソーズの一員のはずだ。また、外部の人間がソーズに加入した例はソーズ設立以来識られていない。
 ヴィクターはほんとうはランカスカ人ではないのか?
 ヴィクターのデータには両親の情報もあった。データキューブ内の情報をすべて視る。
 父方の家系は植民初期から代々ランカスカで暮してきたが、母方は違う。母方の先祖は太陽系からの移民だった。銀河統合連盟結成以前、太陽系統合連盟ができるすこし前に混沌の極みにあった地球を離れた人々の一人で、現在では消えてしまった民族の出身だ。
 ソーズはその大和民族の容姿をとる。
 ヴィクターの母方の一族はソーズと関連があるのか。
 ソーズは第一に両替商だが、人類居住星系総てに事務所を置く利点を活用して広汎な分野で営む代理業からも莫大な利益を得ている。彼らは傘下の代理業によって蒐集した各種の情報を通貨価値の査定に活かし、その結果ソーズの相場はほぼ実勢レートに等しくなって、どこの政府も自国通貨の両替をソーズに任せる。ソーズは人類宇宙唯一の両替商の地位を守るため絶対公正中立を堅持し、集めた情報を濫用することはないとされる。紅蜘蛛赤くも催情粉
 だが、濫用はないと誰が検証できるだろう。ソーズ内部は完全なブラックボックスなのに。
 ランカスカは人類の太陽系外植民が軌道に乗った頃から情報拠点星系として繁栄し、二百年ほど前に破綻しかける直前まで宇宙のあらゆる情報の集積地だった。ヴィクターの母方の一族はランカスカで成功し、官僚支配の下にあったランカスカで何人も高級官僚を輩出した。ヴィクターの祖父も医療省の高官だ。母方の一族はソーズと悟られずに情報を蒐集する役割を担っていたのか?
 思いたって官庁街へ意識の焦点を移す。官僚国家のランカスカではあらゆることが詳細に亙って記録されてきた。現在のランカスカ政府もそれほど性格は変らない。機密情報は、最高のプロテクトがかかっていたため二百年前の混乱の時代にも失われなかった。過去に収蔵された記録はそのまま残っている。
 そして、どれほど高度な防禦技術もストレンジャーには通用しない。
 ランカスカを存亡の危機に追いやる原因となったのは防衛省の暴走だった。反政府勢力に対して限定使用するために生物兵器を開発したのだ。生物兵器ウィルスの感染は想定を超えて拡大し多数の市民が死亡した。ランカスカへの渡航は激減、情報が集まらなくなって情報拠点としての価値は急落した。そのウィルスはサンプルも残さず全数が焼却されたはずだったが、なぜか一部が破棄を免れ、五十年前テロ組織の手に渡ったと、先日モニクに聞いたばかりだ。
 プロテクトをかいくぐってウィルス破棄の責任者の名前を視る。ヴィクターの祖父だった。
 データキューブの情報に戻る。ヴィクターの祖父とその親族は、一族ではないヴィクターの父と結婚した娘(ヴィクターの母)を除いて全員が、壊滅状態のランカスカを捨てエトワールに移民した。エトワールはランカスカ移民を大量に受け容れて急成長し、宇宙最大の情報拠点星系となった。
 レイナの翡翠色の瞳が冴々と明る。
 ソーズはユニオンと連盟の戦争について正式にコメントはしていない。絶対公正中立の立場から沈黙を守っているのか、それとも、彼らには特別な思惑があるのか。
「レイナ」
 夢みる宝石の瞳が見上げていた。
「二人で見たいものがあるの」
 トラヴェリンプレイヤIIにジェイムズとクリスティを二人きりで残してきた。虚界を通って瞬時に戻れるとは言えあまり長く留守居をさせられない。しかしロザリンダの煌めく瞳は哀切の色だ。
「だめ?」
「ロザリンダとヴィエナがわたしの頼みを断ったことはない。わたしも同様だ」
 ランカスカ首都は海に近い。ロザリンダがレイナを連れていったのは、海に注ぐ河口へ向ってまっすぐ川が流れてゆくのを見晴らす場所だ。
 空ではランカスカ主星がかなり傾いていた。海洋生物の排出する物質が海から吐き出されて大気中を漂い、G型恒星の光のうち波長の長いものの大部分を散乱させる。ランカスカの海辺で見られる青い夕焼けを、レイナはヒトの眼で感知した。
 陽が落ちきる。
 陽の残りにロザリンダが眼を閉じるのが見える。実時空に属していないロザリンダはストレンジャーの力ではかえって捉え難いが、少女がレイナの胸に凭れたのは触覚で判った。二筋だけスカーフで結ばれずに胸元へ垂れる赤髪を華奢な指が爪繰る。
 レイナはか細い躯をそっと抱いた。
「はじめまして、ミズ・アニス」
「こちらこそ、ミッカ会長。お会いできて光栄です」
 一流ニュースキャスターのアニスに椅子を勧めながら、柔らかい金髪の男が端整な顔を和らげる。
「それは皮肉でしょうね。わたしはジャーナリストのみなさんには嫌われているから」
「嫌ってなんていませんわ。ただ、いちどくらい取材に応じてくださっても宜いのにと思っているだけです」
 ミッカはランカスカを本拠とするNGOの会長だ。五十年前に地域の貧困支援団体として彼の父親が設立した組織は、今では起業支援団体として宇宙で広く活動している。経済界ではソーズに次ぐ規模と深さのネットワークをもつとされるほどに成長した。ランカスカ政府とのコネクションも緊密で政府の経済政策への影響力も大きいと噂されるが、ミッカ本人は極度のメディア嫌いだ。報道陣の前では柔和な笑顔を見せるだけでひとことも発したことはなかった。その有名な笑顔で話題を替える。
「こちらは初めてでいらっしゃいますね? いかがですか、ランカスカは」
「まだほとんどなにも拝見していませんけれどとても活気のある印象です。じっくり取材してみたいわ。じつはわたし、先祖がランカスカの出身ですのよ」
「存じています」
 ミッカがまじめな表情になる。
「ランカスカ防衛省が生物兵器を使用したとき、御自身もウィルスに冒されながら最期まで報道をお続けになったリポートは、現在でも我国のニュースアーカイヴの貴重なコンテンツです。当時はそのリポートが渡航者の激減を招いたと死者を鞭打つ酷い扱いを受けたそうですが、お嬢さんがやはりジャーナリストとなってお母様の名誉回復に努められた。そのために制作されたドキュメンタリーもいまなお観られています。あなたも御先祖の遺志をりっぱに継いでおいでですね」
「あら、わたしのほうが取材されているようですわね」
 アニスは相手ににぎられかけたペースをとりもどそうとする。こちらも笑顔をひきしめた。
「申し遅れましたが、お父様のお加減はいかがですか? お早い恢復をお祈りしております」
 ミッカの父親はここ数箇月入院していた。入院先はNGOの経営する病院で病状などはいっさい外には漏れてこない。
「お心遣いありがとうございます。ですが恢復は期待しないようにしているのですよ。父ももう齢ですし」
「あら、まだお若いでしょう。地球年で八十歳にもならないはず――」
 ミッカの穏やかな笑顔にちらりと皮肉の陰が差す。
「ランカスカのストリートでは八十歳と言えばたいへんな長寿です。ほんの五十年前、ランカスカで老化防止処置を受けられるのはほんのひとにぎりの者だけだったのですから」
 しかし皮肉は瞬時に消えた。
「さすがですね。話をさせるのがおじょうずです」
「わたしはそんなつもりでは」
「確認しておきましょう。あなたに協力はいたしますが、取材にはお応えしません。その条件を承諾していただけないのであればおひきとりください」
 笑みも口調も柔和なままの最後通告。アニスはシーリーンに言われたことを憶い出す。ミッカを操ることは神ならぬ身には不可能だ。
 宇宙最大のNGOコーディネイター幹部のシーリーンに、経済分野で大きな力をもつミッカを紹介してもらったのは、クリスティ王太子を捜すためだ。
 ユニオン執行部がハイランドフォールズを占領したのが事実なら、占領を告発したクリスティを放ってはおくまい。執行部の権力を用いて彼を捕えハイランドフォールズで訂正会見を開かせるはずだ。それがまだ行われていないということはクリスティはいまだ自由の身で、彼独りで逃避行は困難なのだから、つまり、執行部に背く者がある。しかも告発はエトワールのシステムネットに投稿された。ハイランドフォールズからエトワールへの移動には虚界航行船が不可欠だ。執行部に背く者にはユニオン加盟の船長が含まれる。
 執行部は船長の口座凍結を命じることができる。クリスティの乗る船はなんとかして逃亡費用を捻出せねばならない。その金策がミッカの係る経済ネットワークを利用すればそこからクリスティに連絡をつけられるかもしれない。
 ここはクリスティに専念しよう。ミッカとはゆっくり関係を築けば宜い。取材には時間がかかるものだ。心の隅で早くもミッカの独占インタビューの構想を練る自分のジャーナリスト根性にいささか呆れながら、アニスは視聴者を魅了するほほえみで肯んじた。
「キャプテン・イクストリームが呼んでいる」
 それだけ言ってくるりと背を向けたキャプテン・ネイヴィの副官は、ウィルの冷笑は目に入れなかった。
 ウィルに昏倒させられて以来、彼はストレンジャーのリーダーとの接触を最小限に留めている。キャプテン・ネイヴィの不興を買う虞さえなければ意趣返しをしたいところだろう。
 きれいなだけのぼうやに何ができるわけでもないさ。
 ウィルは鼻で笑うとユニオン執行部中央委員を感じる。彼女の居場所に黒い眸が鋭くなった。
 歩きながら副交感神経を活性化させる。キャプテン・イクストリームの前で自然にふるまう必要があるだろう。
「キャプテン・イクストリーム、俺に用だとか」
「来な」
 キャプテン・イクストリームは、ハイランドフォールズ王宮のほかの棟よりは簡素と言えるがそれでも国外の基準ではじゅうぶん瀟洒な建物の前で彼を待っていた。彼女の後に付いてゆくときウィルは掌の発汗を抑えねばならなかった。王宮医学研究所に足を踏み入れるのは初めてなのだ。
 特別室に近づくと医師が速足でやってきた。他を威圧するのに長けたユニオン執行部中央委員を恐れてはいるものの、特別室の患者を護る決意は揺がない。紅蜘蛛
「キャプテン・イクストリーム、ベイカー隊長の容態にまだ顕著な変化はありません。記憶走査が可能になればこちらからお報せいたします」
 虎の瞳の船長は顔の刺青に漣を走らせる。
「いつまでもそう言ってれば宜いさ。今日はストレンジャーを連れてきたんだ。こいつは部屋の外からでもベイカーの躯を視られるんだからね」
 怯む医師からウィルへ猛虎のまなざしが移る。
「特別室に寝てる女を視な。記憶走査に耐えられるかどうか確認するんだよ」
「分った」
 ウィルは特別室へ向き直る。真剣な表情で眼を眇めた。
「やめたほうが良いな」
 キャプテン・イクストリームの刺青が燃えたつのにはかまわず言葉を続ける。
「記憶走査の過程で海馬が損傷を受ける可能性が高い。可能性は百パーセントじゃないが、一か八か賭けて記憶がなくなったら拙いだろう」
 嘘だが執行部中央委員に真贋は判らない。キャプテン・イクストリームは脣をぎりりと結んだまま踵を返した。戻ってくるようすはない。
 医師の視神経を伝わる情報を書き換える。ウィルが去ったと信じて特別室から離れる医師を見送り、黒髪のストレンジャーは特別室の扉開閉プログラムを操作する。もちろん監視センサーも改竄中だ。
 室に入りベッドに横たわる女性を視覚で見る。整った容貌にはまだうっすらと傷痕が残るものの、美しさはほとんど負傷前の状態を回復している。
 近衛隊長としての能力も原状に復しつつあるようだ。
 アン・ベイカーは室内にだれかがいるのを感じて眠りから醒めた。ぎごちないながらも上半身を起す。
「あなたは誰」
 厳しい目を向けられてウィルの感情が昂る。
「俺か? 俺は、あんたの息子だよ」
 ウィルとは似ていない金髪の女性が眼を瞠る。瞳の菫色だけはウィルと同じだ。
 脣が顫え、伸び始めたばかりの金髪がふたたび枕に落ちた。
「ウィリアムなの?」
 白い手が赤い脣を覆う。
 ちくしょう、ばかなことをしちまった。捨てた息子が現れて喜ぶわけがないじゃないか。
 居た堪らなさに顔を背けたウィルはベイカーの眼が濡れるのを視た。
「ごめんなさい……赦してはくれないわね」
 必死に涙を堪えているのも感じる。
「やっと会えたのに我子と判らないなんて、なんて母親なの」
 おずおずと顔を合せる。
「あんただけじゃないよ。俺だって遺伝子を視るまで判らなかった」
 ベッドの脇へ寄る。と、動揺を感じとった。
「遺伝子を視たら、父親も判るの?」
 そういうことか。
 ウィルはまた苦いものを呑み下す。
 父親を識られたくない理由は決ってる。ハイランドフォールズの平民に婚外交渉はないからまずレイプだな。だから捨てたのか。
 どうでも宜い。望まれて生れたなんて思ってなかったさ。
「心配するな。遺伝子を視るのはたいへんだ。よっぽどのことがなきゃ遺伝子なんか視ない。父親が誰かも興味ないし」
 肩を竦めて出てゆこうとしたが、その前に白い手が差し伸べられた。
 菫色の瞳が合う。
 ウィルは養母を憶い出す。忙しい人だがウィルと二人のときには彼だけを見てくれた。
 ベイカーの血流や内分泌系はそのときの養母と同じだ。
 ウィルは母の手を取り、両掌で包んだ。
 風流に金箔を散らした襖がゆるりと開き、部屋の隅に控えていたミッカが畳に額を擦りつけんばかりに深くおじぎをした。
「誠志朗さん、ごぶさたしております」
「息災かな、貴三郎くん」
 部屋に入ってきたヴィクターはにっこりほほえむと床の間を背に座る。掛軸の若武者の鎧を飾る紺絲威によく映る菖蒲がすっきりと立つ。
「どうぞ、座布団を当てて」
「失礼いたします」
 ミッカはアニスが見たら驚くほど緊張している。運ばれてきた盃をヴィクターから受ける手も硬い。
「お父上はいかがですか」
「ありがとうございます、いろいろと臓器が弱っておりまして、ただ、本人があまりおおげさな治療は厭だと申すもので」
「そう……」
 ヴィクターが睫を伏せた。
「お父上にはほんとうにもうしわけないことをした。老化防止処置さえ受けていればまだまだ若々しくいられたのに」
 眼を上げてミッカと視線を合せる。
「帯刀家の人にはどれだけ感謝してもし足りない。外見まで白人に変えてランカスカ人になりきってもらって」
「そんな、誠志朗さん、もったいない。わたしたちは本家筋の方々が敷いてくださった道をただ歩いただけです。誠志朗さん、誠志朗さんのお母様、お祖父様お祖母様、皆様の御苦労に較べればなにほども」
「僕たちはある程度の人数がいたもの。きみたちは家族だけであれだけの組織を築いたんだからね。頭が下がる」
「誠志朗さん、お願いです、ほんとうにもったいなくて……」
 ミッカがあまりに恐縮するのでヴィクターは話を実務にきりかえる。
「それで、進行状況はどう。もう準備は整ったと聞いたけれど」
「はい。あとは実行に移すだけです」
 話題が替りミッカは目に見えてほっとしたようすだ。ヴィクターが頷いて盃に口をつけるとミッカもぐいと飲む。ヴィクターは頬を緩めて徳利を持ち上げる。
「さあ、もう一杯。日本酒はひさしぶりでしょう」
「いえ、そんなにいただくわけには」
「宜いんだよ。これからはゆっくりお酒を嗜む暇もなくなってくる」
 ミッカはまた背筋を伸す。勃動力三體牛鞭
「よろしく頼むよ。タイミングがだいじだからね」

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