2012年12月30日星期日

わたしのお母さま

頼まれ、母親のクラス会の通知文をパソコンで打ちこんで、プリントしたら誤字があった。
 それと気づかずに発送してしまって、今朝、ちくりと母が文句を垂れたのだ。
「気づかなかった私も悪いけど、最後にチェックしてから送ってねって頼んだのに」
 頬を膨らませてブツブツと文句を言った娘に、母ははぁとため息をついた。OB蛋白痩身素(3代)
 かちんと来た。
 あとは、売り言葉に買い言葉で喧嘩をし、外出した。
 それは日常の小競り合いで、特別区切りになるようなものではなかった。
 ため息をついた母が、最後の記憶になってしまった。

 最初に気づいたのは、聞きなれない言葉。呪文のような言葉だった。
 何度も呼ばれるそれがなんであるのか、わからないままにまどろんでいた。
(あ、名前か)
「…… シア?」
 はじめて目に映ったのは母の顔、ではなく金髪に青い瞳の男の子だった。
 きれいな顔立ちをしている。多くの人が思い浮かべる天使像はきっとこんな形に違いない。
 先ほど出会ったダンディな顔とは似ても似つかない。
 と、比べてみようとしたら、モザイクがかかったようにうまく思い出せなくなっていることに気づいた。
 もともと人の顔を覚えるのは得意ではないが、若年性認知症の始まりだろうか。
「シア、セシア?」
 動物の鳴き声のようにも聞こえるが、シア、セシア、覚めない意識の中でも何度も聞いた言葉だ。
 おそらくこの身体の名前だろう。
 ずっとまぶたを閉じていたのに、いざ開けたら目玉は乾いているという不思議。
 貼りついてしまったような痛みがあった。何度も瞬きをくり返していたら涙がこぼれ落ちた。
 表面が潤い、視界がわずかにクリアになる。
 覗きこんでくる男の子に、何かを言おうと口を開いた。
 声が出ない。
 喉元に手を持っていくと布のようなものが巻かれている。包帯だろうか。
 怪我でもしたのか。過去の記憶を探ってみるが、うまく引き出せない。
 今、頭の中に三つの記憶が居座っていることを確認した。
 向こうの世界の記憶と、おそらくこの身体の記憶、そして今まさに積み上がっている記憶だ。
 鮮明なのは三つ目のみで、後の二つはそこにあるだけという感じ。
 身体の記憶については触れることすらかなわない。箱の中に大切にしまわれている感じだ。
 
 だから、目の前の天使のような男の子が誰なのかもわかっているようで、わからない。
 青い瞳にまっすぐ見つめられ、困った“私”は首をかしげた。
 海のように深い青だ。吸いこまれそうだと錯覚をする。
 男の子は、しばらくすると何も言わずに部屋から出て行った。
 人を呼びに行ったのかもしれない。
 あたりは暗い。夜のようだ。
 ベッドサイドにある卓の上には明かりが灯っていて、椅子の上に本が逆さまに伏せて置いてあった。
 読書をしていたんだろうか。
 表紙にイラストがついている。薄く、少し大きめのサイズの本は、絵本のように見える。
 興味を引かれたが手を伸ばすことができない。起き上がることさえ難しそうだ。
 明かりに向かって手をかざしてみる。
 小さな手。
 手は赤い輪郭を持って暗闇の中に浮かび上がり、血液が通っている人間だと教えてくれた。
 鏡がないので全体像はわからないが、ずいぶんと幼いようだ。
 縮んだ、というよりは身体ごと違う感覚だった。
 首元にもう一度手を這わせる。
(セシア、か)
 どんな女の子なのだろう。
 目を閉じるとまたとろとろと睡魔がやってきて、もう一度夢と現実の狭間の世界へと意識を手放した。


 てっきりすぐに周りで動きがあると思っていたがそんなことはなく、朝を迎えた。
 鳥の鳴き声が窓のカーテン越しに聞こえて、けれど自分で起き上がる気力はまだ戻っていなかった。
 やがて、部屋の扉が開き、一人の女性が現れた。
 白いレースのエプロンに、ふんわりとふくらんだ紺色のスカート。
 細い両腕に掃除道具を抱えていて、今から仕事に取り掛かるようだ。袖をまくっている。
 メイドさん、だろうか。物珍しさに、その動向をしばらく目で追いかける。
 てきぱきとした動きには無駄がない。毎日やることの手順がしっかりと決まっているのだろう。
 この広い部屋を掃除するのは大変だろうな。美諾荷葉纖姿
 日本の平均的家屋のリビングよりよほど広いのではないだろうか。
 しかし、家具や余計な装飾品が少ないせいか、殺風景にも見える。
 今眠っているベッドは、セシアの身体に比べてかなり大きく、ダブルベッドくらいのサイズである。
 とりあえず、カーテンを開けてくれないかな。
 と思ったが、なかなか叶えられない。
 メイドは、ベッドを中心にコンパスで描いた範囲を避けるように、近づいてこなかった。
 そういう決まりでもあるのかもしれない。
 驚くべき速さで掃除を終えると、最後に、花瓶に白い小さな花を生け、ベッド横の卓に置いた。
 こういう類いの花だけで飾るというのも珍しいような気がするけれど、小さな花が集まり一つの大きな花のように見え、きれいだ。
 椅子の上で開きっぱなしになっていた絵本も花瓶のすぐ横に置かれた。
 じいっと見つめていると、やっとメイドの顔がこちらを向いた。
 はじめて、ベッド上で目を開けているセシアに気づいたように。
「セシアお嬢様、おはようございます」
 お嬢さまという呼び方に戦慄を覚えつつ、こくりとうなずきを返すと、微笑みが戻ってくる。
 一拍置いて、キャーーー!!! という甲高い悲鳴が家中に響き渡った。


 悲鳴でかけつけてきたのは、同じような格好をした、やや腰の曲がったメイドがもう一人と、おそらく組み合わせ的に執事だと思われる男性だ。若い。
 そして、最後にきらびやかな女性が登場した。
 朝だというのにこれから舞踏会に出かけるのかいシンデレラ、という装いである。
 しかしこれがここの普通であるのかもしれない。
 メイドも執事も、日本にはいなかったし。お姫さまも当然いなかったから。
「………… セシア!!!」
 声とともに、抱きしめられた。
 なんてきれいな人なんだろう。セシアはドキドキとした。
 まるで洋画の世界から飛び出してきた女優さんのようだ。
 いい香りがする。甘いかおりだ。
 セシアがこっそり鼻をきかせていると、キスの雨が降ってきた。
 ひやっと飛び上がりそうになったが、抱きすくめられているので動けない。
 白粉と紅と香水と、いい香りが混ざり合い酔いそうだ。
「セシア? 本当に? ああどうしましょう!」
「奥様、落ち着いてください」
 執事らしき若い男性が興奮したお姫さまの肩にそっと手を置いた。
 お姫さまはなんとか呼吸を整えると、その手をそっと握り返した。そして何度もうなずく。
「旦那様に早急に知らせを」
「そうね、そうね。それから先生にもお伝えしなくては。あとはあとは、ああ、どうしましょう」
 間近にすると、お化粧の必要性がまったくなさそうな顔立ちだった。
 ゆるやかにウェーブのかかった栗色の髪に碧色の目は飛び出す心配をしてしまうほど大きく、まつげは長くくるんと上を向いて、鼻は高く筋がすっと通っており、唇はふっくらとして熟れた桃を連想させる。
 淡いピンク色のドレスがよく似合っていた。後は頭にティアラが載っていれば完璧だ。
「セシア、母様ですよ? わかりますか?」
 このお姫さまが母親なのか。
 愕然とした。この現実を受け入れるのには時間がかかりそうだ、とセシアは思った。
 しかし、そう思いながらも、こくりとうなずいた。理解はしたのだ。
(セシアのお母さまは、お姫さま)
 特大の涙が緑色の瞳からこぼれ落ちた。まるで宝石のようだった。

 頬をなでる指の滑らかな感触がくすぐったい。
 思わず身を引くと、嫌がられていると思われたらしい。手がすぐに離れていった。
 セシアの持つ、“私”の一番古い記憶は、母親の手だ。
 母の親指を触るのが好きで、握ったまま眠ってしまうこともよくあったそうだ。
 カサカサに乾いた指紋の触り心地が好きだったのだ。
 お母さまの手は今まで一度も泥遊びをしたことがありません、という手だった。
 滑々とした石鹸のようで、やはり触られると少しくすぐったい。
 何も話そうとしないセシアにお母さまは困惑したようだった。あからさまに肩を落としている。
 セシアも意地悪で口を聞かないわけではないのだが、声の出し方を忘れてしまったようである。
 そして、先ほど抱きしめられて揺すられて気づいたが、この身体、骨が溶けてしまったように支えがきかない。
 おそらく筋力が衰えているせいだと思うが、お母さまが手を離した途端、顔からベッドに倒れこんでしまった。
 小さな悲鳴を上げてお母さまが驚いていた。ショックと顔に書いてある。
 ずいぶんとわかりやすい人らしい。 
「先生、どうです?」
 
 白衣に聴診器、というのはこの世界でもお医者さんの記号であるらしい。
 セシアの身体のあれこれを診て、医者は難しい顔をした。数字減肥
「まだ目覚めたばかりとのことで断言はできませんが、記憶を失っているようですね」
「ああなんてこと……!」
 この世の終わりというように頭を抱え、お母さまはよろめいた。
 執事がいいタイミングで後ろから背を支え、代わりに口を開く。
「記憶を喪失する病。各地で流行っていると聞き及んでおりますが、そちらとの因果関係は?」
「“迷える悪魔の気まぐれ《フーエンピタル・サファ》”、ご存知でしたか。図書館でいくつかの文献に目を通したことがありますが、これだけでは肯定も否定もいたしかねます。アレは奇病の類。いまだ原因を特定できず、予防も治療も有効な方法はありません。ただ、一時的なものにせよ一生のものにせよ、記憶を失うというのは昔から見られる症状です。いろいろな要因を視野に入れた上で、経過を診ていきましょう」
 よくわからない単語があったが、病名なのだろうと推測する。
 記憶喪失が流行っているのか。伝染するようなものには思えないけれど。
「先生、セシアは、私は、これからどうすればいいのでしょう?」
「現状は周囲がしっかりと支えてあげることが肝要でしょうね」
「では声は、声のほうはどうなのでしょうか?」
「喉の傷については治癒していると見受けられます。こちらも精神的なものが原因なのではないかと」
 
 というような、二人のやりとりを聞きながら、どうやらセシアというこの女の子は一年ほど前から意識不明の状態であったことを知る。
 今年で五歳。
 確かに、何歳からでもいい、と言ったような気がするが、五歳からのスタートとなるとは。
 そして、次に気になったのはこの子自身の意識のことだ。
 今のところ、医療器具らしきものが聴診器くらいしか見当たらないので、意識不明というのがどれくらい深刻なものなのか、判断しかねた。
 心臓を動かしながら眠り続けていた、というところなのだろうが。
 そこに“私”が入りこんだりして大丈夫なのだろうか。
 頭の中の、この触れない記憶の箱がこの子なのかな。何か違うような気もする。
 そういえば、生まれ変わる先の情報については、契約書にちらりと書いてあったような。
 きちんと読まないからですよ、と叱られた気がした。すみません。

 いろいろ考えにふけっているといよいよお母さまの顔色が深刻になってきた。
 それに気づいた医者が別室で休むようにと伝えた。
 執事に細い両肩を支えられながら、部屋の外へと出て行く。
 
 その様子を視線のみで追いかけていたメイドが一人、残された。
 灰色の髪に灰色の目をした、朝、掃除をしてくれていたメイドだ。
 ふぅとため息のようなものをついた後、セシアと目が合うと慌ててぺこりとお辞儀をする。
 仕事モードに切り替わったように見えた。働き者なのだろう。
 新しい寝巻きを持ってきて、着替えをさせてくれる。
 ふにゃふにゃの身体なので苦労したが、慣れた手つきでサポートしてくれた。
 いつも身の回りの世話をしてくれているんだろうか、ありがたいなぁ。
 思ったことを言葉にできないというのは、もどかしい。
 喉の傷と言っていた。こんな小さな女の子がどうしてこんなところに怪我をしたのだろう。
 セシアがもぞもぞしていると、声が降ってきた。
「―― おかわいそうに」
 不意に届いた言葉にセシアはぽかんと顔を上げた。
 メイドは視線の意味をはかりかねたように首をかしげる。
「お嬢様、どうかされましたか?」
 空耳だったようだ。びっくりした。セシアは首を振った。
 メイドは不思議そうにしながらも、黙々と作業を続ける。
 あまり口数は多くないようだ。といっても、話せる相手がいないのだから当然か。
 セシアはおとなしくベッドに横になった。
「―― あんな女が母親なんてかわいそう」
 メイドが退出をする際、今度は閉じる扉から滑りこむようにはっきりと耳に届いた。
 ぱたり、と扉が閉じてしまう。
 …… こんなに堂々とした悪口をはじめて聞いた、とセシアは思った。玉露嬌 Virgin Vapour

2012年12月27日星期四

魔王

黒い霧が消えた後の大広間は、それまでとは打って変わった様子です。先程まで所狭しと存在していた残像達は綺麗に消えてなくなり、がらんとした空間だけが広がっています。
 採光を十分に考えて設えられた窓からの光は、ここをきちんと照らしています。舞う埃さえ見える程です。SPANISCHE FLIEGE D9
 今が朝だと言う事をすっかり忘れていました。大広間の片側にずらりと並ぶ窓から差し込む日の光に、ようやくその事を思い出しました。先程まで朝らしからぬものを見ていましたからね。
 大広間の一番奥、数段高い場所にある玉座に座るのは、黒い服を着た人物です。大広間の中程にいるおかげで、その顔立ちはきちんと判別出来ます。
 先程まで目の前で残像を見ていた相手、今の魔王、マーカスです。
 魔王、マーカスはゆっくりと立ち上がり、玉座から離れてこちらに歩いてきます。
「よく来た。待っていたよ」
 顔には微笑みさえたたえて。その様子に逆に背筋が寒くなる感じがします。先程まで見ていたのは、彼のこれ以上はない程の怒りと憎しみでした。なのに今は優しささえ感じる程の笑みです。その落差に薄ら寒いものを感じます。
 近づいてくる彼の顔立ち、それをじっと見ていて妙な違和感に気づきました。先程の残像にはない部分があるんです。ジューンとしての記憶にも、ないものです。
 顎の辺りから目の下辺りまで、顔の輪郭に沿うように入っている文様。まるで大祭司長のそれのようです。違うのはその色でしょうか。
 墨を入れたような黒です。それがまた異様な雰囲気を醸し出しています。黒い服に黒髪なのが相まって、全ては記憶にあるマーカスのままなんですが、ひどく得体の知れない風が漂っていて、足がすくみます。
 記憶を取り戻した私は、彼を前にして何を思うだろう、そう考えた事もありました。結局はわからないままだったので、早々に放棄してしまいましたけど。
 今こうして本人を前にして思うのは、一番は恐怖でした。懐かしさも何も感じません。
 魔王になる前の姿を覚えてはいますが、単純に記憶しているだけという感じです。体の記憶が伴わないせいでしょうか。
 ゴードンさんもちびっ子も巨乳ちゃんも、私達の前でまるでかばうように立ちはだかっています。守ってくれようとしているのが伝わって、少しだけ気が落ち着きました。
 魔王は高所からは降りずに、際の辺りでその歩みを止めました。
「どうした? 何も怖がることはない。あの連中はもういないよ」
 魔王の視線は、気のせいでなければ私に向かっています。私の前にいる四人を通り越して、突き刺さるような視線を感じます。
 声音も表情も優しいのに、その視線だけは強くて彼の前に出るのは勇気がいりそうです。
「こんな異常な状況、ルイザが怖がらない訳ないだろう」
 私の心を代弁するように、グレアムが言いました。割と落ち着いてます。討伐の旅で影とはいえ魔王を倒していますからね。当然と言えば当然ですか。私と比べると踏んだ場数が違いますよ。それ言ったら私以外の四人は全員でした。
 マーカスの方は、少し目をすがめてグレアムを見下ろします。
「今代の勇者。いつまで意地を張り続けるつもりだ? もういい加減気づいているんだろう?」
 気づく? 何を? 私は思わずグレアムの顔を見上げてしまいましたが、背中側からでは彼の表情までは伺えません。
「何を言って」
「守ったはずの人間は、本当にそうするだけの価値があったか?」
 ゴードンさんの言葉を遮り、マーカスはあくまでグレアムから視線を外さずそう言いました。まるで彼以外とは会話する気がないとでも言いたげです。
 魔王の言葉は私にも突き刺さりました。守るだけの価値。その一言は重く心に沈みます。元シーモア侯爵や例の伯爵令嬢を思い出してしまいました。
 この大広間で見たもの程大がかりなものではありませんでしたし、未然に防げたものではありましたが、方向性としては同じようなものだと思います。
 世界を救い、彼らを守った形の『勇者』を傷付け兼ねない行動を取ったのが、当の守られた側だというのが何とも皮肉です。魔王もそこを突いてきているのでしょう。
 グレアムは返答しません。しないのか、出来ないのかはわかりませんが。王都でのあれこれを思うと、後者かも知れません。
「何も無理することはない。ただ認めればいいだけだ。この世界は狂っている。そしてそこに住まう人間もまた救いようがないほど壊れた代物だ。こんな世界や人間など、存在する意味があるのか?」
「一部を見て全体を判断するのか?」
 グレアムの返答に、マーカスは一瞬眉根をしかめましたが、すぐに余裕を取り戻しました。グレアムが反論するとは思わなかったようです。
「一部とは言え、同じ事を繰り返す愚か者共にはうんざりしているだけなのだよ。今代にはまだ理解はしてもらえないかな?」
「俺だけじゃないだろう? 四代目以降は納得していないはずだ。それに被害者ぶるのは止めておけ。お前は既に十分加害者側だ」
 魔王となった経緯には同情を禁じ得ませんが、その後の行動を見る限り、やはり魔王は魔王でしかありません。グレアムもそう思っているのでしょう、態度にはとりつく島がありません。
 マーカスの方はと言えば、『加害者扱い』に引っかかったようです。不快な表情を露わにしました。
「小童(こわっぱ)が。いい気になるなよ」
 そう言ってマーカスとグレアムはしばしにらみ合いになりました。高所から見下ろす形のマーカスと、下から睨み上げるグレアムの視線が交差します。
 いつまでこのにらみ合いが続くのかと思いましたが、意外な事にそれを終了させたのはマーカスの方です。
「ふん、まあいい。さて、先程の茶番劇は楽しんでもらえたかな?」
 茶番劇。先程目の前で繰り広げられた再現劇の事ですか。劇という訳ではありませんね。多分あれは、実際ここであった事でしょうから。
「何故あれを俺たちに見せた?」
 グレアムがそう聞きました。その言葉に、マーカスは少し眉を上げて面白そうな表情をしています。そしてそのまま視線をグレアムの後ろにいる私の方へ向けてきました。
「ちょっとした余興にと思ったんだよ。連中が何を考えてあんな事をしでかしたか、君なら知りたがるかと思ったんだ」
 確かに知りたいとは思いましたけど。でも目の前で見せられるとは思いませんでしたよ。
 しかも知っても、結局は何も考えずに行動を起こしたというのがわかっただけですからね。大祭司長からも理由らしき事は聞いていましたし。
 それに見せた理由は、本当に余興のつもりだったんでしょうか。あれだけ執拗に見せようとしていたのに?
 でもそれを口にする事は止めておきました。追求しても意味はないと思ったんです。
「あの、黒い霧みたいなのは、何なの?」
 代わりのように私も聞いてみました。マーカスの方は今すぐどうこうするつもりはないようです。なので聞いてみました。先程王達を巻き込んだあの黒いもの。あれは何だったのか気になったんです。
 切り札は私の手にあります。これを使えば、少なくとも邪魔さえされなければ、魔王を消滅させることはいつでも出来るはずです。だから、焦らなくていい。私は自分にそう言い聞かせました。
 先程に比べれば、徐々にですが緊張がほぐれてきている気がします。
「あれか……知りたいかい?」
 マーカスの口調はあくまで穏やかです。表情も。なのに恐怖心が心の底からわき上がってきます。根源的な恐怖、とでもいうものでしょうか。聞いた事を後悔しそうです。
 それでも、頷かざるを得ません。知りたい。あの後彼らはどうなったのか。本当に死んだのか。それとも、死体さえ残さず消え去ったのか。
 ただの好奇心なのか、それ以上の何かがあるのか、自分の心なのに自分でもよくわかりません。でも、私は知るべきだと、そう思うんです。
 ジューンの死が、マーカスを魔王へと変えさせました。遠因としてでも、彼らの死に、ジューン(私)は関わっています。だからこそ、最後のこの時に知っておきたいんです。
 魔王を消滅させたら、私という存在もここから消えるから。
「あれは彼らを生まれ変わらせる為のものだよ」
 マーカスは薄い笑みを顔に浮かべて、その右手をすい、っと前に差し出しました。
「見るがいい。自らの所行に相応しい姿になった連中の浅ましい姿を」
 そう言うと差し出した右手をさっと振り払うような仕草をしました。それと同時に床の辺りから低い響くような音がします。振動も伝わってきますよ。SPANISCHE FLIEGE
「な、何?」
「下がって!」
 ゴードンさんはそう言うと、体で私達を脇へ、大広間の壁の方へ押しました。
「心配する事はない。見せるだけだ」
 マーカスがそう言うと、大広間の扉が急にばたんと閉まりました。今の今までしまっていると勘違いしていましたが、現実では扉は開け放したままだったんです。閉まっていたのは残像の大広間の方でした。
 ちびっ子がとっさに扉の方へ向かい開けようと試みますが、取っ手をガチャガチャ鳴らしてもいっこうに開かないようです。
「だめ! 開かない!!」
 そうこうしているうちに、なんと大広間の床に奥から入り口にかけて真っ直ぐ線が走りました。かつては赤い絨毯が敷かれていたそこには、今は何もありません。石敷きの床がむき出しで存在しているだけです。
 そこに走った線は、やがてぎしぎしと音を立てながら開いていきます。ここ、こんな仕掛けってあったんでしょうか。
 違いますね。おそらくはマーカスの、魔王の魔力で開いているのでしょう。その証拠に床は材質が変わったように、柔らかい布地のような状態でめくれていきます。仕掛けがあったとしても、こんな開き方はしませんよ。
 見る見るうちに石の床はぱっくりと口を開けていきます。壁際に寄った私達の足下にも振動は届いているんですが、倒れる程ではありません。
 床の形状も、開いている部分とこちらとでは、切り離されてでもいるように質感その他に影響はありません。それがかえって今の状況の異常さを表しているように思えます。
 開かれた床の底は、ひどく暗いようです。私の立ち位置からは床の底までは見えません。ですが、何かが動いているような音だけは聞こえてきます。何か、いる?
 がさがさともガチャガチャとも聞こえる音は、地の底から響いているかのようです。ひどく、嫌な音。それに、もの凄い異臭です。息が詰まりそうな程ですよ。一体何の匂い?
「な、何ですの? 一体」
 私達の一番前にいるゴードンさんに、巨乳ちゃんが口元を押さえながら聞いています。彼の位置からなら底の方を見る事が出来るんでしょうか。
 背中しか見えませんが、様子が変なのはわかります。緊張が走り、ゆっくりと口元に手が持って行かれました。こんなゴードンさん、初めてです。一体、その床の底には何があるんですか。
 しびれを切らした巨乳ちゃんが、ゴードンさんの脇から出て前に出ようとしましたが、腕を乱暴に掴んで後ろへと放り投げるように阻止しました。壁に激突した巨乳ちゃんは痛そうです。
 ちょ、らしくないですよ、ゴードンさん。
「な、何をするんですの!?」
「見るんじゃない! リンジー、そこから動くな!!」
 さすがの巨乳ちゃんも怒りを露わにしましたが、それ以上にゴードンさんの怒声が凄くて、びっくりしています。私もびっくりしました。
 扉の方から戻ろうとしていたちびっ子も驚いていて、その場で足を止めてしまいました。
 ゴードンさんがこんな風に怒鳴るのは初めて見ました。巨乳ちゃんとちびっ子の様子から、二人も同じように見た事がないんだと判断しました。
 そんなに見せたくないものがあるんでしょうか、その底に。何だか背筋に冷たいものが走ります。
 先程マーカスは『自らの所行に相応しい姿』と言いました。まさか何百年も前に死んだ王達が、あの底にいるとか、言うんじゃないですよね?
 この異臭……まさか。つい怖い想像をしてしまって気持ち悪くなってしまいました。死体って、さすがに何百年も経てば骨になりますよね?
 思わず前に立つグレアムの背中に縋り付こうとした途端、私の耳に遠い位置からの声が聞こえました。
「邪魔はしないでもらおうか。彼女には知る権利がある」
 そうマーカスの言葉が響くと、いきなり私の体がふわりと浮かびました。吊り上げられた訳でも、足下が持ち上がった訳でもありません。
 うまく説明出来ませんが、体そのものが軽くなったらこんな風になる、という感じです。その状態で体が浮かび上がりました。
 いきなり人の頭の高さ程まで持ち上げられ、驚いて周囲を見回せば、足下には肩の辺りを抑えてうずくまるグレアムが見えます。その手からは……血!?
「グレアム!!」
「勇者殿!」
「きゃああ!!」
「今治療を!」
「止めろ! こっちに来るんじゃない!」
 みんなもいきなりの事に慌てています。私も慌ててグレアムの方へ手を伸ばそうとしましたが、どうやっても今いる場所から動きません。じたばたと暴れる様は、端から見たらひどく滑稽だった事でしょう。
 グレアムは左手で右肩を押さえています。その手の辺りに銀色の光があふれたと思ったら、程なく彼は立ち上がりました。ここからでは確認出来ませんが、どうやら傷の方は大丈夫そうです。一安心しました。
「今代には随分と入れ込んでいるんだね」
 その声は、私のすぐ側で聞こえました。下にいるグレアムの方ばかりに意識を向けていたので、マーカスがどうしているかは、失念していたんです。
 顔を上げた私の真横に、彼はいました。同じように宙に浮いて。
「ひっ!」
 思わず小さく悲鳴を上げてしまいました。いつの間に!? 驚いている私の顔のすぐ横、マーカスとの間を、風切り音と共に何かがすり抜けていきました。その後斜め上方で何やら重い音がしました。
「ルイザから離れろ!」
 その格好から察するに、何か投げましたね、こちらに。そろーっと音のした方を見てみると、グレアムが持っていた剣が天井と壁の境目付近に突き刺さっています。あれを投げたのか!?
「ちょ! 危ないでしょ! 当たったらどうするのよ!?」
「ルイザには当たらないから大丈夫だ」
 待て。その自信はどこから出てくるんだ。まあそのおかげでマーカスは一旦私から離れましたけど。
「悲鳴を上げるなど傷つくな」
 剣で狙われた割には余裕のあるマーカスは、またすぐ私の方へ向かってきました。空中だというのにまるで普通に床の上を歩いているようです。
「君には奴らの姿をちゃんと見せようと思っただけなのに」
 そう言うとあっという間に私の腰を抱き寄せて、ぱっくり口を開けた大広間の中央付近の方へ連れてきてしまいました。
「ルイザ!」
「ちょっと! 離して!!」
 さすがのグレアムも、これだけ密着したマーカスを狙う事はしないようです。これで攻撃されたら私も確実に被害を被るでしょう。
 なので自力でどうにかならないか、出来る限りで抵抗してみたんですが。
「暴れると落としてしまうよ?」
 そう言われてはおとなしくせざるを得ません。さすがに口開けた底に落ちたいとは思いませんよ。
 下を見ると。暗がりでやはり何かが蠢いているのが見えます。何でしょう、魔物か何か? ちょ! そんなものの上に私いるんですか!?
 下から響く音とひどい臭い。それにはっきりとは見えなくても何かが蠢く様子はわかる状態に、生理的嫌悪感がわき上がります。
 まさか、ここにいた王侯貴族達を、魔物に……そこまで考えて頭がそれ以上を想像するのを拒絶しました。
「暗くてよく見えないか。これでどうかな?」
 そう言うと、マーカスの手元に丸い光る玉が出現しました。電灯のような明るさです。それを放るようにして床の方へ投げやりました。
「やめろお!!」
 グレアムの怒号が響きましたが、無情にも光の玉は、そのまま床の中へと吸い込まれるように落ちていきました。そしてそれが明るく照らし出した光景は。
 まさしく地獄絵図です。黒い、蠢く何かと思ったのは、人です。いえ、人であったもの、と言い直した方がいいでしょう。
 喉の奥で、悲鳴が固まったような気がします。両手で口元を押さえて、私は床の下のその惨状を見続けていました。Motivator
 顔だけは人のまま、体はまるで大きな昆虫のような、不気味な存在が床の下にはうごめいていました。それらは互いの体を食いちぎり、共食いをしているような状態です。
 一体どれだけの数がいるのか。広い大広間の下の空間全てにその異形が存在しているようです。地下室かなにかでもあったのでしょうか。わざわざ作った空間なのかも知れません。
 どの存在もうつろな目のまま、手当たり次第に相手の体に食らいついています。それは空腹の為というよりは、それだけしか知らないかのような行動に見えました。
 手当たり次第に相手を捕まえては、その体にかぶりつく。そうしている間にも、他の誰かにかぶりつかれている状態です。
 不思議と顔だけには食らいつかないようです。おかげでどの顔も、この位置からでもしっかりと確認出来ました。ああ、先程国王の側で見た宰相もいるようです。
 食われた部分はすぐに肉が盛り上がり、あっという間に再生するようです。こうして永遠のように続く責め苦が続けられてきたという事なのでしょうか。
 おそらくあの黒い霧に飲まれた人達は、一人残らずこの姿になって、この城の地下に押し込められたのでしょう。
 目をそらしたいのに、そらす事も出来ずに凝視したまま、私の耳はマーカスの言葉を捉えていました。
「君を殺させた連中と、実際にあの殺戮に加わった連中だ。奴らはあの時から今日まで、この城の地下で魔物として共食いをし続けている。人ならざる者達だ、相応しい姿だろう?」
 おぞましい姿の中には、確かにあの国王の姿もあります。こんな姿になってまで王冠をかぶっているのは、いっそ滑稽な程です。
 見れば王の体を食んでいるのは、無精ひげのある男の顔でした。あの時の広場にいた群衆の一人でしょう。
 大広間の分だけ地下の空間があったにしても、この数を収容するには狭いと思われます。だからでしょうか、相当な密度のようです。本当に隙間もない程密集していますよ。
 胃のそこから何かがせり上がってくる感覚がします。このままだとまた嘔吐きそうです。気力で何とか押さえ込みました。それでも胸のむかつきは止まりません。
「ゴードン、一体」
「あなた達は見ないように! こちらに来てはダメだ」
 そう言ってゴードンさんとグレアムに阻まれ、彼らの後ろに追いやられた二人は、この光景を見ていないようです。いつの間にかちびっ子も巨乳ちゃんの隣にいます。
 それでも私の様子から、尋常じゃない光景が広がっているのがわかったのでしょう。表情が硬いです。
 私の足下に広がるこれは、人が見るべきものではありません。相応しい姿とマーカスは言っていましたが、私にはとてもそうは思えません。
 確かに彼らは罪を犯しました。でもここまでの責め苦を負わされるほどのものなんでしょうか。
 マーカスの言葉が正しいのなら、彼らはこの姿のまま何百年とこの地下にいた事になります。そして私達がこの虚空城にこなければ、このまままた百年以上の時を過ごしたのでしょう。この暗く狭い、地下の空間で。
 正直、あの記憶を取り戻した後、あの広場にいた人達や、王達に対して憎しみが沸かなかったと言えば嘘になります。
 でもまさかこんな事になっていたなんて! 私の体はがくがくと震えだしていました。
 それと同時に恐怖心もわき上がってきました。このまま、下に落とされたらどうなるんだろう。私もあの、人なのか虫なのかわからない生き物に、生きたまま食われるんだろうか……。
 思わずその様子を想像してしまって、目眩を起こしそうになりました。
「これでも手ぬるいと思っているんだがね。どうだろう?」
 パニック状態の私の耳元で、マーカスは実にのんびりとした様子で話しています。この状況でその口調というのが、ひどくアンバランスでかえって不気味さを煽る形になっています。
 彼は私を抱きかかえたまま、下方を見てあざけるように言いました。
「ああ、お前達は討伐の旅の途中で似たようなものは見ただろう?」
 え? 私はマーカスの方を見ました。マーカスはにこやかな表情のまま、不可解な事を口にしています。
「あちらは虫ではなく動物だったか。あの城の領主は狩猟好きだそうだからな。そういう『注文』になったのは当然か」
 どういう事? 彼は何を言っているの? 言われた方のゴードンさんとグレアムは苦い顔をしていますが、巨乳ちゃんとちびっ子は訳がわからない様子です。
 その時グレアムの言葉を思い出しました。二人には街道に現れる魔物の退治を頼んでいて、壊され、魔物の巣と化した街の中には連れて行かなかった、と。
 大技で一気に終わらせた、とも言っていました。じゃあ、魔物の巣でこれと同じようなものを彼らは見たんでしょうか。
 ゴードンさんはこちらをぎらりと睨み、怒声を張り上げました。その表情には憎しみではなく、怒りがあふれています。
「今ここで言うような事か!」
「ここで言わずにどこで言うのだ? 王国の騎士よ。隠したところでいずれは露見するのだぞ」
 ゴードンさんにそう言い、マーカスは薄い笑みを浮かべました。
「どういうこと? 魔王は何を言ってるの!?」
「ゴードン! 私達に隠し事をしているんですの?」
 見ればちびっ子と巨乳ちゃんがゴードンさんに詰め寄っています。
「あなた方が知る必要はない!」
 ゴードンさんはにべもなく二人を退けています。そんな言い方じゃ余計煽るだけでしょうに。案の定二人は柳眉を逆立てて怒りを露わにしています。
「何ですってえ」
「知る必要ないとはどういう言いぐさよ! 私達だって討伐の旅に同行したのよ!!」
 言い合っている事に意識が向かっていたのか、ゴードンさんもグレアムも、ちびっ子と巨乳ちゃんの立ち位置にまで意識が向かなかったようです。
 二人はゴードンさんとグレアムに詰め寄る形で、どんどんと大広間中央に近づいていました。私が浮かんでいる、こちら側にです。いけない!
「ダメ!」
 こんなもの、見るべきじゃない! そう思って制止しようとしましたが、遅かったようです。見る見る巨乳ちゃんの顔色が悪くなっていきます。
「……何ですの? あれ」
「! 見てはダメだと!」
 ゴードンさんが改めて巨乳ちゃんを引き戻しますが、そのこわばった表情から、既に遅いと気づいたでしょう。ちびっ子の方も見てしまったのでしょうか、青ざめた顔をしています。
「くっくっく。麗しい仲間意識といった所か。だがいくら見せぬようにした所で、人の悪辣さまでは隠せまいよ」
 私を腕の中に抱え込みながら、マーカスは嫌な様子で笑っています。人を蔑むようなその笑い方は、ひどく邪悪なものに見えました。
 この人の側にいたくはない。そう思うのですが、空中で腰をがっしり抱えられていては、離れようがありません。へたに動けばこの下に落とされそうで、それも怖いですし。
「いい加減ルイザを離せ! ぐ!」
 グレアムが、いつの間にか手元に戻した剣を構えてこちらに向かおうと一歩踏み出した途端、いきなり膝を突きました。何? どうしたの!?
 焦る私の視界の端に、マーカスの右腕が入りました。彼はグレアムに向けて手をかざしています。
「勇者殿!」
「近、寄る、な」
 言葉を発するのも苦しそうです。何かの圧力に抗っているような、そんな様子に見えます。これ、どう考えてもマーカスが何かやっていますよね?蒼蝿水(FLY D5原液)
「やめて!」
 私は腕を伸ばして、マーカスの右腕に縋りました。男の人の力は強いけど、女の体重をかければ何とか腕を下ろさせる事が出来るんじゃないかと思ったんです。
 結果、マーカスはあっさりとその右腕を下ろしました。力を込めた分、そのまま私は転びそうになりましたけど、ここ、空中なんですよね。体勢を崩した程度で終わりました。
 崩した体勢を戻すように、彼は私の腹部に腕を回して引き上げました。そこまではいいんですが、そのまま後ろから抱きしめるような体勢になります。
 ちょ、これは良くない! 腹部に回された腕を外そうとしますが、がっちり抱えられていて外せません。先程より密着度が上がっていますよ!
 焦れる私の耳元で、マーカスの声がしました。
「さて、お遊びはおしまいだ。彼女をここまで連れてきてくれた事には感謝するが、そろそろ君らにはお引き取り願おうか」
 マーカスのその言葉に、私の意識は彼に向けられました。マーカスは再び右手を前に差し出しています。今度は何をする気!?
 私は彼の腕の中でじたばたと手足を動かしましたが、見えない何かに阻まれているようで、うまく動く事が出来ません。
「ではごきげんよう」
 そう言って彼が手を振ると、今度はグレアム達の足下の床が急に消えました。その開いた口の中に、声を上げる暇もなく彼らは飲み込まれていったんです。私の目の前で!
 声を出す暇もありませんでした。ただ呆然とその様を見ているしかなかった自分に、我に返って怒りがわき上がりましたよ。人間、唐突に理解不能な事が起こると動けないものなんだと、初めて知りました。
 彼らを飲み込んだ床が元に戻って少ししてから、体がすーっと冷えていくような感じがしました。みんなはどうなったの? グレアムは大丈夫なの!?
「……怖い思いをさせたね」
 その声に、のろのろと声のした方を見れば、少し困った風な表情の魔王がいました。
 そう、彼は紛う方なき魔王です。マーカスと、以前の名で呼ぶ気にはもうなれません。彼の非道な行いを目の前で見ているんですから。
 私の様子を見て苦笑した魔王は、私を背後から抱きしめた体勢のまま、玉座の方へ移動します。やっと床を足で踏みしめたというのに、私は足の力が抜けてその場にへたり込んでしまいました。
 その私の目の前で、ぱっくりと口を開けた床は元通りに戻っていきました。先程グレアム達を飲み込んだ床も、元の通りになっています。
 どうしよう。どうすればいいの? 混乱する頭でも、何とか落ち着くようにと深呼吸をしました。意識して呼吸をすると、随分と呼吸が荒かったのがわかります。
 二度三度と深呼吸して、少しだけ落ち着いてきました。彼らは勇者一行です。これまでにも討伐の旅で困難には何度も直面しているはずです。
 それでも彼らはちゃんと戻ってきました。だから、今回も大丈夫。彼らの心配をするよりは、私は私に出来る事をしなくてはいけない。元々一人で来る予定だったんだから、一人でも魔王を消滅させなくては。
 私がそんな決意をしているとは思わない魔王は、すっと私の目の前にその手を差し出しました。
 さしのべられたその手に、体がびくりと反応します。それを見て、一瞬魔王が苦しげに顔を歪めた気がしましたが、きっと気のせいですよね。
 私がその手を取らないのを見て、ぐっと手を握り込むと少し私から離れました。その表情には苦痛が見えます。
 そんな表情、しないで欲しい。魔王には魔王らしく、残虐な面だけを見せておいて欲しいと思います。そうでないと、決心が鈍りそうで。
 つい先程まで感じていた恐怖も混乱も、どこかへと吹き飛んでしまうような気がして、絆されそうになるのを意識して押さえました。
「こちらへ。見せたいものがある」
 そう言うと、魔王は玉座の隣、カーテンのようなものが引かれている前に、私を誘いました。これ、何?
 マーカスはカーテンの脇に垂れ下がっている房飾り付きの紐を引きました。開いたカーテンの先にあったのは。
「これ……」
「君が戻るまでと思って、こうしておいたんだ」
 そこにあったのは。
 大の大人が二人で両手を広げたより少し広いくらいの幅の、壁に穿たれたへこみのような部分に花で飾られた大きな水晶が置かれています。
 透明なその水晶の中には、少女が閉じ込められていました。瞳を閉じて、まるで眠っているようなその姿。ジューンです。
 その姿は残像で見た通り、綺麗にされていました。あの惨劇の跡はどこにも見当たりません。
 何だか不思議な感じです。生前は確かに自分だったという感覚と、どこまでも他人を見ているような感覚と、両方が私の中で混在している感じです。
 この姿を見ていると、あの時の夢が思い出されます。夢の中で彼女は、あなただけ幸せになっていいのか、と問うてきました。あの時は意味がわかりませんでしたが、今ならわかります。
 なすべき事をなさない限り、幸せになる権利はない、そう言いたいんですね。そして私のなすべき事は……魔王を解放すること。その術を私は既に持っています。
 決意を新たに、水晶の中の彼女を見上げていると、魔王が隣に立っていました。彼も私と同じように、水晶の中の少女を見つめています。
 その目は優しく、慈愛にあふれてさえいます。魔王がジューンを思う気持ちは、本物でとても深いものなのだというのがわかります。
 人を大事に思う事が出来るのに、同じ『人』を何故あれほど憎めるのか。いえ、人を思う事が出来るからこそ、ですか。
 愛憎というくらいで、愛情と憎悪はとても似ている感情だと聞いた事があります。人を深く思える魔王だからこそ、人を深く憎む事も出来てしまうのでしょう。
「あの時、罪人の穴で君の姿を見つけた時の俺の気持ち、理解してもらえるだろうか」
 魔王は静かにそう言いました。胸に痛みが走ります。決して私のせいだとは言いませんが、それでも遠因の一つは確かに私にもあります。
 その結果、ジューンが死んだ事で彼、魔王はその全てを狂わせてしまいました。
 いいえ、彼だけじゃない。アンジェリアやソフィー、それに先程見た床の底で蠢く者達。彼らもまた、『あたし』という存在がいた為に狂わされた人達です。
 やった事を考えれば当然とする考え方もあるでしょう。けれどやっぱり女神がジューン(あたし)をここへ召喚しなければ、少なくともあんな目に合うような行動は取らなかったと思うと、どうしても……。
「腐臭が充満し腐肉にたかる蠅をかき分けながら君を見つけた。近くにアンジェリアとソフィーもいたよ。彼女達の姿もそれはひどい状態だった」
 魔王の一言一言が胸に突き刺さります。大祭司長に話を聞いた時の情景が思い浮かんできて、息をするのも苦しいくらいに感じました。levitra
 彼女達を死に追いやったのは間違いなくジューン(あたし)だ。あんなに良くしてくれた二人だったのに!

2012年12月24日星期一

邂逅と懐疑

そのひとはしばし黙り込んだ後、ややあって静かな声で言った。
 もう少し、詳しく話を聞かせてくれないか、と。


「いい店だな」
「でしょう?」
 奇異と好奇の視線がちらちらこちらにやってくるのを感じつつ、目の前の人物の言葉に椋は笑って頷いた。老虎油
 現在の、いつものようにクラリオンの厨房に立つ椋の前には、今日偶然出会った人形売りがゆったりと座っていた。カラカラとグラスの氷を揺らしつつゆっくりと中身に口をつけていく様には、妙に気品のようなものが感じられる気がする。
 そこまで相手を眺めて思考したところで、未だに彼女、だと思うが正直自信がないこの相手の、名前すら聞いていなかったことに椋は気づいた。
 椋自身、まだちゃんと相手に名乗っていない。「どういうことなのかもう少し詳しく話を聞きたい」、そんな今までにない反応をこの相手が返してきたせいで、若干焦ってしまっていたようだった。
 声だけ聞けば少年そのもののような声で喋る、妙にたたずまいの落ち着いた静かな人。
 椋が口を開こうとしたまさにそのタイミングで、カラン、と軽やかにまた店のドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませーって、あ。クレイ」
「……リョウ?」
 中に入ってきたのは、ここ一ヶ月強の間にすっかりクラリオンの常連になってくれてしまった友人クレイの姿だった。若干目の前の相手への出鼻をくじかれてしまいつつ声を上げる椋に、なぜかクレイはひどく怪訝な顔をした。
 多分さっきまでずっとみんなに言われてたことと、同じようなこと考えてるんだろうなあ、と。
 そんなことを椋が思う間に、つかつかとクレイは椋たちの方に向かって歩みを進めてくる。
「……おまえの新しい客か?」
 店内での第一声と同じ怪訝を宿す声は、傍から見れば確かにそれなりに怪しい、全身すっぽり枯葉色のローブとフードで覆い隠してしまっている人形売りを指してのものだ。
 既に何度目かも知れないやりとりに慣れてしまったのか、ふっとフードの奥からどこか楽しげな声が聞こえる。
「きみにはいい友人が多いんだな、リョウ君」
「いやあの、さっきから何度もすみませ、……リョウ君?」
 謝りかけて、告げていないはずの名を当然のように彼女に呼ばれたことに気づく。
 またひとつ、フードの奥で笑ったような空気があった。
「つい先ほど、彼が呼んでいただろう? ああ、しかし初対面も同然の私がいきなり君の名を呼ぶのは失礼だったかな。気分を害したなら申し訳ない」
「いや? 別に俺のことは、リョウでもミナセでも、好きに呼んでくれて構わないよ」
「そうか? ではリョウ君と。そう呼ばせてもらうことにするよ」
 どうも聞きなれない不思議な響きの名だが、君という存在にはしっくりくる名前だな、と。
 また、グラスを揺らしつつフードの奥から楽しげな声がする。一方何が面白くないのか、明らかにこの相手が不審に見えるせいか、再度口を開いたクレイの口調は非常にとげとげしかった。
「……あんたは? リョウに何の用だ」
「クレイ」
 それは下手に子どもに向ければ、それだけで子どもが泣きだしそうな声であり視線だった。
 いや、クレイが怪しむのは椋も分かるのだ。何しろこの相手は全く顔が見えない性別も定かでない、しかも誰も(たぶん)彼女のことを知らない。人目の多い王都などという場所にいる以上、正規の手続きは踏んで、この国に入っているのだろうが。
 感覚としては分からなくもない。ないのだが、結局そんなものを全てすっ飛ばして「可能性」が勝ってしまった結果がこれなのだ。
 彼女からしてみれば確実にいわれもない、クラリオンの同僚たちや常連の冒険者たち以上に鋭い追及の声にはさすがに椋も困った。この滅茶苦茶なまでの頑なさは、もはや言うまでもなくジュペスの一件が関与しているのだろう。
 もう少しこっちも話が聞きたいからって、このひとここに連れてきたのはさすがに失敗だったかな、それにしてもさすがにここまで来ると逆に鬱陶しいぞクレイ、などとさりげにひどいことを思う椋をさておき。
 またしても、フードの奥から聞こえてきた声は一切の揺らぎがなかった。
「そう怖い顔をせずとも、私はただ彼の話がもう少し聞きたくてここにいるだけだよ。私はレンシア・フロース。あちこちを旅しながら、自作の人形を売り歩いて暮らしている、人形細工師だ」
「女の身で一人旅、か。感心できるものではないな」
「え、」
「そうかい? 慣れてくるとこれも意外に楽しいものだよ」
 思わずあげかけた声は、彼女の楽しそうな声にかき消された。とりあえず今の会話の流れで判明したが、目の前のこのフードの人物、レンシア・フロースという名の女性らしい。
 クレイのおかげというべきかせいというべきか、目の前の人物に対する疑問が一気に二つとも解消されてしまった。「私(I)」と「あなた(YOU)」で完結してしまう会話には名前が要らない、ということを奇妙に実感することになってしまった椋であった。
 それにしてもなぜ、クレイは彼女を女性だと端から断定できたのだろうか。
 物腰の柔らかさや人々のいなし方などから確かに椋もこのひとが女性ではないかと考えてはいたが、確定の手段がなく、なおかつ当たっていても外れていても失礼な質問になってしまうためにどうにも言いだせなかったのだった。
「で? リョウ。おまえはいったい何をして、そんな人物と知り合ったって言うんだ」
「さっきからなんでそう刺々しいんだよ。おまえは俺の保護者か」
「そうされたくないなら、もう少しおまえは色々なことに対する自覚を強く持て。俺は先日のような騒動をもう起こしたくないだけだ」
「……はいはい」
 思わずぼそりと呟いた言葉は、しれっとざっくり一刀両断された。まったくもって鋭さの減退しないクレイの視線に、椋は苦笑するしかない。
 しかし純粋に誰であろうと「凄い」と思えるようなものが創れるような人間に、悪い人などいない気がするのだが。そんなことを言えば今度こそクレイが烈火のごとく怒りだしそうなので、その思考は口には出さずに留めておいた。
 そもそも椋は、この目の前のフードの人を信じたいから信じただけだ。
 ひょんな話の流れで名前が分かったこの奇妙な人形細工師、レンシア・フロースを。
「そういうあなたは? 名前を伺っても?」
「……クレイだ」
「俺の友人で、ここもひいきにしてくれてるんだよ」
 物凄く言いたくなさそうに、全ては名乗らないクレイの声に重ねて注釈する。椋を思っての行動であることは非常によく分かるのだが、なぜかそれが妙に子どもっぽくも見えるのはなぜなのだろうか。
 まあそれもこれも結局俺のせいかーなどと思う椋をさておき、相変わらず不機嫌と怪訝と不審を隠そうともしない目で、クレイはレンシアのほうを見た。
「あんたは、こいつがヘンだってことを知っててここにいるのか?」
「いや、だからおまえ、クレイ、あのな」
「ほう、リョウ君はヘンなのか。随分と面白いことをいきなり切り出してくる御仁だとは思ってはいたが」
「……」
 本当に椋の内心など知らず、ただ己のペースで相手に滔々と質問をぶつけていくクレイと、そんなクレイの言葉にまたしても楽しそうにフードの奥で笑うレンシアである。
 もはや言葉で応えを返せず、げんなりと椋はひとつため息を吐いた。しかもクレイの追及の目線は、レンシアの言葉を受けてさらに鋭く怪訝さを増したものになった。
「で? おまえは何をしたんだ」
 その上でのこの言葉である。この場合の「面白いこと」というのがクレイの中では即座に「無茶なこと」「普通はあり得ないこと」として変換されただろうことは想像にまったくもって難くない。
 実際ここ数日、あちこちに無茶ぶりをしに回っていた椋には反論らしい反論もできない。痛いまでの追及の緑色に彼はさらにため息を重ねた。麻黄
「……仕方ないだろ。義手の話してまともに取り合ってくれたの、レンシアさんが初めてだったんだから」
「リーでいいよ、リョウ君。まあ、確かに驚いたが、あのときの君の妙な視点と着目の仕方には納得ができたよ。おかげでね」
 二人分の剣呑な空気に反して、レンシア改めリーの声はやはり妙に楽しそうだ。まったくもって、先ほどからクレイの追及の的になっている人物とは思えない気楽さである。
 またしても何とも言えない顔で黙り込んでしまったクレイにとりあえず炒め物を、表情は相変わらず見えないがどうにも面白げなリーにはサラダを出してみる。コトリと皿を置く音に、改めてクレイは顔を上げた。
 上げたと思えば、ほとほと訳が分からなそうな顔でこちらの名を呼んできた。
「……リョウ」
「うん?」
「……ギシュ?」
「あぁ」
 クレイにはそこから説明が必要だったことを、彼の反応を見て椋も思いだした。
 この世界には魔術があるゆえに、「失ったものの代替」としての機械や装具品といったものの需要がほぼ皆無なのである。それは奇しくもかつて、椋が礼人に向かって何気なく口にした言葉の内容をそのままなぞっていた。
 口は災いのもと、とはよく言うが。それなりに言葉の失敗は、したこともある椋であるが。
 ここまで言わなければよかったと、過去の自分を殴りたくなったのも最近では珍しいことでもない。残念なことに。
「ジュペスのなくした、腕の代わりのことだよ」
「!?」
 そんな言葉に弾かれたように、クレイがほぼ限界まで目を見開いた。代替としての「言葉」すら存在していないことを明示する彼の反応に、椋は曖昧に笑うしかなかった。
 ふわりと、そこでリーもまた静かに笑ってこちらに頷いてくる。彼の反応も無理はないだろう、と。
「この国は、魔術が随分発達しているものな。そういうものに対する絶対的な必要性が、他国よりも更に少ないのも当然だ。……ということは結局、そんな言葉を当然のように知っているリョウ君こそがおかしいということにしかならないな」
 首をかしげたときにちらりと見えた彼女の表情は、どこか悪戯っ子のような軽やかさでやはり笑っていた。
 肩をすくめるしかない椋である。リーさんがそういうの面白がってくれる人でよかった、などと暢気なことを考える椋の目前を、また一段階低くなったクレイの声がリーへと向かって通り過ぎていった。
「レンシア・フロースとやら」
「いちいちそれでは長いだろう、リーと呼んでくれ。何だ? クレイ君」
「……こいつから言われたことを、口外してはいないだろうな」
「そんなことをするより、彼の話を聞いてみるほうがよほど楽しそうに思えたからな」
「……ならいい」
 心底やれやれとばかりにため息を吐いたクレイの様子に、リーが去ったあとのクレイの行動が至極想像できてしまった椋であった。これは確実に怒られる。おまえは学習能力がないのかと、言われてもおかしくないことをしたのは椋自身分かっている。分かっていてやったといったら、またそれはそれで余計にたちが悪いと怒られるのがオチだろうが。
 そんな思考への駄目押しのように、笑ったままのリーの声がクレイへ続いてきた。
「まあ確かにこんなことは、あまり大声で人前で喋るようなものではないな」
 
 そんな言葉を口にしつつ、彼女は袖口から取り出した何かをひどく無造作に中空に放った。ほんのわずか一瞬、薄荷か何かに似たような匂いがするりと鼻腔を抜けていったような気がした。
 思わず左右を見回す。当たり前だが何もない。この場にそんな洒落たものなど置いていないし、そもそもこの世界に放りこまれてからハッカの、ガムに良くあるあの匂いを嗅いだのは初めてのことだった。
 フード越しにもかかわらず何となく得意げに見える目の前の相手へと、椋は問いを投げた。
「リーさん今、何した?」
「別に一切、身体に害はないから安心してくれていい。私たちの声に、適度に雑音を入れるようにしただけだよ」
 全く何でもないことのように、何でもないわけがない事をのたまうリー。
 その言葉に先に反応したのは、クレイの方だった。
「声に、……雑音?」
「もし必要だというなら、お近づきのしるしに一つ差し上げようか」
「おいおいリーさん、今リーさんと商売の話しようとしてるの俺でしょう?」
「……リョウ。つくづく思うがおまえは、簡単に他人を信用しすぎだ」
 酒のせいかそれとも元々の性格なのか、リーの調子はどこまでも一定は越えずに楽しげだ。
 そんな彼女のテンションに乗っかって笑って見せれば、クレイが頭の痛そうな顔で額を押さえてげんなりした声を出した。結果的に彼女がこんな人だったのだから別にいいじゃないかと思う椋は、おそらく確実に破滅的なまでに甘い。
 が、これも椋の性分である。今更どうしようもないことだった。
「それに関しては全く私も同意見だよ、クレイ君」
「なに?」
「リーさん?」
 などと考えていたら、若干予想外の方向からクレイの言葉への援護射撃が来た。思わず目を開いたのは椋もクレイも同じことで、しかしやはり目線の先のリーは楽しげな、そしてどこか妙に落ち着いて穏やかな雰囲気を崩さない。
 女性にしては低い、少年のものと確実に声だけでは間違える声はゆるやかに続きを紡いだ。
「私はこの国のものではないし、この国で普遍的な職業に就いているわけでもない、さらには恰好までがこれだ。私のような人間を見たら、まず怪しいと思うのが先決だろう?」
 私自身、クレイ君の反応こそが普通だと思うよ。
 あっけらかんとそんなことまで口にして、彼女は笑う。どうも反応に困ってしまい、椋は軽く頬をかいた。何というか、肯定にも否定にも困るような言葉である。
 一方、クレイはふっとひとつ息をついて言った。
「そう思うのなら、せめて顔くらいこちらに見せたらどうだ」
「本当に君は真っ直ぐな男なんだな、クレイ君」
 ここまであからさまな敵意にも近いものを向けられつつ、何でこの人は笑っていられるのだろう、と。
 微妙に不思議になりつつ何となく展開を見守っていた椋の目の前で、不意に袖口から顔を出したびっくりするほどに白い手が、そのフードに指先をひっかけた。
「正直あまり、他人に見せて気持ちの良いものではないんだが」
 ふわりと、ひどく自然な動作でリーの頭部からフードが取り去られる。
 光にさらされたその相貌に、またわずかに椋は彼女に向かって目を見開くことになった。
その瞬間、言葉を失ったのは椋たちだけではなかった。
 さりげなくを装いながら、やはり意識は確実にこちらに向けていたのだろう。クラリオンの客たちも、にわかに騒ぎを止めていた。
 フードを取り去ったあとに出てきたのは、半分の整った顔と半分の真っ白な、ひどく不気味なのっぺらぼうの仮面だった。
 真っ白な肌と、少し切れ長な新緑色の瞳と薄い唇、涼やかに整った顔立ちが見えるのは左半分だけだった。もう半分は完全に、無表情で、無機質な異様なまでに白い仮面が覆ってしまっていた。
 何もない左半分がなまじ整っているだけに、右半分を覆う仮面はより不可解なものであるように映る。
 言葉を続けられない椋たちに、わずかにリーは困ったように笑った。
「若気の至りというやつでね。少し色々無茶をして、最終的に外せなくなってしまったんだ」
「……」
「言ったろう? 目にして気持ちの良いものではないと」D9 催情剤
「あ、いや、少し驚いただけで、……それだけで十分失礼か。ごめん、リーさん」
 椋もまた苦笑しつつ、彼女へ謝罪の言葉を向け軽く頭を下げる。下手に奇妙に取り繕おうとするよりも、素直に謝ってしまった方が良いだろうと思っての行動だった。
 一方のクレイもまた、深々とリーへと向かって首を垂れる。
「すまなかった」
「そう畏まらないでくれ。君たちが謝るようなことはなにもないよ、クレイ君。リョウ君も」
「いや、俺たちが失礼したのに変わりはないからさ。そこはちゃんと謝らせてよ」
「気にしなくていい、いつものことだ。君たちの言葉を受けてフードを下ろしたのは私自身なのだしね」
「しかし」
 何とも申し訳ない椋たちに対し、あくまでリーはあっさりした、さばさばと拘りのない様子を変えない。彼女はある意味椋の予想に違わず、何とも変わった不思議な人物だった。
 しかし彼女が気にしなかろうとも、無礼を働いてしまった椋たちはそうもいかない。
 まだ何事かを言い募ろうとするクレイにふっと左側だけで笑って、改めてリーは厨房側の椋を片目で見上げてきた。
「それならリョウ君。この店で一番のお勧めの酒と、料理を一品ずつもらおう」
 勿論、君たちのおごりでね。
 最後の一言は、どこか悪戯っぽいウィンクつきだった。外れないという右側の仮面が、何とも勝手ながらもったいなく思われてしまうくらいの楽しげな、違う感情による淀みの一切ない明るい笑い方だった。
 彼女がそうしたいというよりも、椋とクレイのわだかまりを解くための申し出であることは確認するまでもない。
 椋としても、これから一緒に色々と話をさせてもらうためにも非常にありがたい申し出である。彼もまたリーへと笑って、すぐに頷いて見せた。
「了解。もしエビ平気なら、今日すごく珍しいのが入ってるからそれ持ってくるよ」
「エビか。ずいぶん口にしていないな。楽しみだ」
「な、クレイ。クレイもそれがいいよな?」
「……わかった」
 やや大仰なため息とともに、その口の端には苦笑をのせてクレイもまた頷く。軽く頬杖をついて椋たち二人を楽しげに見やるリーの、左とは対照的に右側の仮面は当然ながら一切動くことはない。
 すべてを拒絶するように真っ白なそれは、おおよそ彼女の手が創り出す人形たちともほど遠い奇妙で不可思議で不可解なものだった。
 どこでそんなものとこの人に関連ができたんだろう、若気の至りってどんなものだったんだろうか。
 思いつつ、口に出すことはせずにオーダーを厨房へと椋は伝えた。料理は今日依頼を終えて帰ってきたばかりのパーティが手土産にとくれた巨大エビの蒸し焼き、酒はこの間入ったばかりの新作で、客からの評判も非常によいウィスキーの水割りだ。
 余裕さえあればむしろ椋のほうが飲み食いしたい代物であるが、そんなことは無論、今ここでは口には出さない。
「随分、話がそれてしまったな」
 またひとつリーが笑い、小さく肩をすくめた。あくまでも自分のペースを崩さない彼女の様子に、そのすぐ横のクレイが何か奇妙なものでも見るかのような顔を向けているのがどことなくおかしい。
 しみじみこの人がこういう人で良かったと思いつつ、再度彼女の言葉に椋は頷いた。
「さっきも言った通り、少し事情があって義手が創りたいんだ。でもさっきのクレイの反応から見ても分かるように、この国にはそもそも、そういうものの需要が全然なくてさ」
「それこそ言っておくが、知っているおまえの方が異常だ、リョウ。そもそも腕や足が失われるような異常事態など、そう簡単に起こるものではないぞ」
「あー、そこはもう俺だから、で流していいから。な」
「……おまえの行く末が、本気で心配になってくるな」
「俺自身、さっぱり予測なんてできてないよ」
 深いため息とともに向けられるクレイの言葉に、軽く肩をすくめて椋は応じた。本当に自分がどこに行こうとしているのか未だにまったく分からない、と思う。
 未だに、というよりも、自分のできる限りのことをしようと足掻き始めたが故に余計に分からなくなっているのかもしれない。何しろ椋が持つものは、この場所からしてみれば結構に片っ端から生粋の「異端」でしかない。
 それらがうまい方向に転がってくれることを祈りつつ、またも逸れかけた話を椋は戻すことにした。面白そうな表情で、椋たちのやり取りを見守っていたリーへと視線を向ける。
「で、さ。義手を必要としてるのは、今年で十五になる奴なんだ」
「十五? 随分若いんだな」
「そうなるまで、俺についていた騎士見習いだからな」
 わずかに驚いたように眉を上げたリーに、クレイが淡々と、さりげなく椋が伏せた情報を続けた。
 これにはむしろ、椋の方が驚いてしまった。思わずクレイの顔を見やれば、先ほどの椋の行動をそのままなぞるかのように、しれっと肩をすくめて返される。
 クレイの中でのリーへの警戒レベルが下がったのか、それとも。
 詳しいことはよく分からないが、ひとまずはある程度のジュペスに関する情報の公開はクレイに許してもらえた、らしかった。
 なるほどな。リーがひとつ頷きを返してくる。
「立ち居振る舞いからそうではないかと思ってはいたが、やはりクレイ君はこの国の騎士なのか。そしてリョウ君が義手を探してやっている相手は、君の関係者だと」
「ああ。元々こいつの無茶は、俺が原因を作ったようなものだ」
「そんなことはないだろう。私はまだ君たちと知り合って幾分もないが、それでもリョウ君が飛びぬけておかしい、自分の思考でしか行動しない御仁であることは理解できるぞ」
「おーい、リーさん、ざっくりひどいこと言ってるよね?」
「リョウ、残念ながら否定してやれる要素が俺には見当たらん」
「ひでっ」
 少し大仰に嘆いて見せれば、次には三人分の穏やかな笑いがその場に開いた。
 ひとしきり笑った後、完全に見計らったタイミングで料理と酒が二人の元へと運ばれてくる。椋の合図があるまで少し待っていてくれた同僚たちの気遣いに感謝しつつ、そろそろ何となく気になってきた自身の空腹については、ひとまず無視を決め込むことにした。
 それにしても巨大なエビの切り身である。元のエビが到底一人で食べきれるような大きさではなかったので(何しろ身の詰まっている部分だけで三メートルくらいあったのだ)現在のリーとクレイに出されているのもその切り身と殻の一部だけなのだが、それでも軽く三十センチくらいはありそうだ。そしていい匂いだった。
 手慣れた綺麗な手つきで身を切り分けていきつつ、わずかにリーは目を細めた。さり気にクレイにも取り分けてやりながら、首をかしげる。
「しかし十五歳の騎士見習い、か。ならば義手は見栄えより機能性を重視した方が、その少年には相応しいのかな」
 半ば独り言のように呟きつつ、蒸し焼きを口にして切れ長の目をリーは見開いた。すぐにふわりとその視線が料理に向かって弛んだところを見ると、どうやらこの料理、リーにとっては相当の当たりだったらしい。
 あきらかに厨房奥からこちら側に向けられている複数の視線にぐっと親指を立ててやれば、我が意を得たりとばかりにガッツポーズをする複数人の動きがちらっと見えた。
 だが料理を出されたもう一方、クレイはと言えば、エビを口にするどころかナイフとフォークを手に取ることすらせずにリーをただ凝視している。
「機能性、と言ったか?」
「ああ。何かおかしいことでも?」
「機能性、……動く、のか? 魔具が装着者の意思で、自由自在に動かせると?」
 怪訝と理解不能の詰められたクレイの視線に、ただわずかに首をかしげるだけでリーはあっさりと応じている。挺三天
 さらりと可能と告げられたそれは、人形が何がしかの魔術によってかわいらしく踊りまわっていた光景を目にしていた椋にはまだ予想できないこともないものだった。しかし当然のことながら、それがとんでもない、不可解なことであることには椋もまた、変わりはない。
 何しろ現代においてもそれは、今もまだ多くの思考錯誤が繰り返されている分野なのだ。
 下拵えの手を止め、ひょいとリーの方へ向かって椋はわずかに身を乗り出した。
「それに関しては、俺ももう少し詳しく聞きたい。何をすればどれくらい、どんなふうにどうやってどこが動かせるのか、装着者の負担に関してはどうなのか、とかさ」
 椋の知る「人の意思」で動く機械には、多くの機械が操縦者側にもまた接続されていたうえに、ごく細かな動き、自然な曲がり方や自然な外見などといったものにはまだ随分と遠かった。さらに自分の言葉と思考の結果で、はたと椋は思い当たる。まだ椋たちは、リーと金額について、代金、謝礼についての話を一切交わしていないのだ。
 いざとなればヨルドたちに泣きつけば何とかしてもらえそうな気もしなくもないが、どうもそれでは色々と恰好がつかないにもほどがある。
 内心少し青くなる椋をさておき、リーは料理へ向ける手を止めて軽く、顎へと手を当てた。
「ふむ。その少年には、魔術の才能はあるのかい?」
「え?」
「詳しいことは分からんが、奴は魔術師にも転向できるらしいとは聞いたことがある」
 暢気で思考の遅い椋の代わりに、彼女の質問にはクレイが応じた。元々椋が知らなかった情報でもあるので、少しの驚きも持ってクレイの言葉にはそうなのか、と頷く。
 剣の腕も、魔術の腕も確実に並以上。しかしジュペスから話を聞くに、まだまだ自分より上の人間は数多くおり、だからこそ一刻も早く己が場に戻り、鍛錬を、修練を再開したいのだと、先に進みたいのだと彼は言っていた。
 彼の言う「先」が何を指すのか、青空の色をしたあの目が何を見据えているのかを椋は知らない。相変わらずジュペスに関して、一切の確信など持ててはいない。
 しかし何を知らずとも、妙な椋個人の思考が入っているとしてもジュペスの復帰を願っている気持ちには決して、偽りはない。
 クレイの言葉を受け、少し何か考え込むように左目を閉じてリーは黙り込んでいる。その姿勢や雰囲気は妙に、この国、この場所で椋が一番よく知る人物、ヘイのそれによく似ていた。
 何となく湧いてくる笑いをかみ殺した椋の前で、ややあってからふわりと、リーは切れ長の目を開いた。
 そうして口の端をきゅっとつり上げる。――笑う。
「ならば確実に「動く」ものを創ることは可能だ。詳細な動きに関しては、義手としての魔具の方向性や装着者との相性、魔力の循環法などという、技術と装着者の問題になってくる」
「本当に?」
「奴の腕が、……戻せる、のか?」
「君たちが、そしてその少年が望むというなら」
「本当、に、か」
「ああ。私は決して、自分の仕事に嘘はつかない」
 椋たち二人分の問いに力強く頷き、柔らかくリーは左側だけの表情で笑う。不気味なのっぺらぼうの右側の仮面すらどこか自信ありげに見えたのは、それこそリーの魔具師としての自信や矜持といったものの表れなのかもしれない。
 うっかりその笑みに引き込まれそうになって、しかしいざ「可能」となれば一番の大事となってくる事柄に改めて椋は思い当たった。彼女がこれを「仕事」として受けようとしてくれている以上、きちんと仕事としてこちらも契約を成立できるような立場でいなければならない。
 ウィスキーを楽しみつつ、料理も静かにきれいに、しかもさっさと平らげていくリーを改めて椋は呼んだ。
「リーさん」
「うん?」
「ここまで色々聞いておいて申し訳ないんだけど、そっちの提示金額によっては、俺たちはリーさんには制作を頼めないと思う」
「ああ。それについてはいくつか、交換条件に応じてくれさえすればそれで私は構わないよ」
「えっ?」
 予想の斜め上にもほどがあるような言葉が、あまりにあっさりとリーからは返ってきた。思わず目前の彼女を凝視するも、素知らぬ顔で料理と酒を楽しむリーには何の妙な他意があるようにも見えない。
 他意どころか、面白そうな表情を相変わらず崩そうともせずに彼女はこんな言葉を続けてまで来るのだ。
「それより、本当にその少年の義手を創るとするなら、その子のもう少し詳細な身体的な情報が欲しいな。君なら知っているかな、リョウ君」
「それより、ではないだろう。……本気で言っているのか? それとも、到底こちらが不可能な交換条件でも、突き付けてくるつもりか」
「まさか。そんな無粋で、真剣そのものの君たちを踏みにじるようなことはしないよ。それに私は自分の仕事に嘘はつかない。さっきも言ったはずだ」
「い、いや、でも」
「君たちのような面白い人物と知り合えて、そんな珍妙な依頼が受けられるという時点で私には十分だよ」
「正気の沙汰では、ないぞ。そんなものは」
「なくて構わないさ。君たちが私の懐を、気にする必要などないよ。私はただ、私が楽しむことさえできればそれでいいんだ」
 幸い、そんな無茶ができるくらいの持ち合わせは手許に常に在るからね。
 本当なのか嘘なのか、全くわからない見通せないような不可思議な言葉を吐いてリーはまた楽しそうに笑う。自分が楽しければそれでいい、その言葉に妙な引っ掛かりを覚えるのはおそらく、いつもヘイが同じようなことを、折に触れて椋に向かって当然のように妙に威張って言い放つからだ。
 いや、だが、しかし、でも。椋の脳内を駆け巡る逆接は止まない。
 詳しく見たことはないが、義手というのは基本的に一本いくらぐらいする代物だった? どんなに小さいものでも二十万は下らない、大きいものになれば普通に桁が変わるようなものだったような気がする――。
 リーは椋をヘンだと言い笑うが、どうやらこのレンシア・フロースという人間もまた、とんでもなく変で無茶苦茶な人間であるらしい。
 もはや二の句を継げない椋とクレイに、いつの間にか最後のひときれになっていたエビの切り身をフォークに刺してリーは肩をすくめた。
「度を過ぎた道楽ものでもなければ、いつまでもあてもない旅など、できるものではないさ」
 この世界の魔具師って、皆が皆こんな無茶苦茶に金銭感覚の狂っためちゃくちゃな人たちばっかりなのか、と。VIVID XXL
 最初の無茶を吹っかけているのは自分であるにもかかわらず、ついつい思わずにはいられない椋なのであった。

2012年12月20日星期四

反逆者

「『隠形《おんぎょう》』!!」
 俺は何も持っていない左手で脇差を取り出し、隠密系スキル『隠形』を発動させた。
 これは『隠身』の上位に当たるスキルで、格下の相手から完全に身を隠す効果がある。
 幸いなことに辺りも暗い。D10 媚薬 催情剤
 その暗さも俺の姿を隠すのに役立ってくれるだろう。
 ただ、
「…なにか、かわった?」
「隠蔽スキルのようですね。
 私達には丸見えですが」
 同格以上の相手には全く効果がないので、ミツキどころかリンゴにも無意味だった。
 少しだけ悲しい。
 『隠身』との違いはこの状態でスキルや魔法を使ったり、ダメージを受けたり与えたりすると効果が切れてしまうことだ。
 あ、あと、エフェクトには実体があったりはしないので、当然防御にも使えない。
 ただ、普通の町の人とか相手には抜群の隠密性能を誇るので、この状況にはちょうどいいだろう。
 討伐大会以来、俺のレベルも上がっている。
 アレックズやライデン辺りにぶつかってしまうと流石に無理だろうが、普通の冒険者相手であれば、たぶん見破られないはずだ。
「まず、町に入って情報を集めようと思う」
 確かゲームでも、衛兵を殺したりして町や城の勢力友好度が極端に下がると、ちょっとした小ネタとして掲示板に指名手配が出る、という話を聞いた気がする。
 そういう時は基本リセットだったので詳しい知識がないのが悔やまれる。
 ただ、どちらにせよ手配書まで出されるなんて尋常な事態ではない。
 ヒサメ家の窃盗事件程度では、流石にここまでのことにはならないだろう。
 いや、まあその可能性を完全に否定出来ない所が『猫耳猫』なのだが。
「なら、行きましょうか」
 リンゴは無言でうなずき、ミツキはさっさと歩き出す。
 何が起きようと、この二人といればそうそう危険ことにはならないだろう。
 俺は緊張しながら、ミツキの後ろに隠れるようにして街の門をくぐった。

 日が沈んだ後とはいえ、人通りが多く明かりもある王都では、それなりに人はいる。
(いや、いつもより少し、ざわついているか?)
 というか、なんとなく俺が注目されている気がする。
 初めはミツキやリンゴが美人だからかとも思ったのだが、そんな感じの視線ではない。
 俺の方を見てぎょっとした後、二度見してくるような人もいるのだ。
(まさか、『隠形』が切れてる?!)
 ステータス画面が覗けないこの世界では、魔法効果の持続を確認する術がない。
 俺は焦ったが、どうにもそういう雰囲気でもない。
 手配された犯人を見つけたというよりは、むしろ超常現象を目撃したような……。
 俺がその不可解さに首をひねっていると、不意にミツキが口を開いた。
「一つ尋ねますが、貴方のスキルは自身の存在を隠す物なのですよね?」
「え? ああ」
「だったら、『それ』も貴方の一部だという事になるのですか?」
 言われて右腕の方を見て、
 ――ニタァ。
 笑顔のくまさんと目が合った。
(しまった!)
 あまりにナチュラル過ぎて忘れていたが、そういえばくまは俺の右腕に抱きついていた。
 俺が消せるのは俺と俺の持ち物だけだ。紅蜘蛛(媚薬催情粉)
 周りの人にとっては、くまのぬいぐるみが勝手に宙に浮いているように見えていたに違いない。
 新たな怪談が生まれそうなレベルのホラーだった。
 これでは二度見されるのも無理はない。
 俺より高レベルだという疑惑が発生したくまさんをリンゴに預け、先を急ぐ。

(今度こそ、大丈夫か)
 くまをリンゴに預けてから、明らかにこちらに向けられる視線の数が減った。
 というか、なくなった。
 『隠形』の効果は確実にあるようだ。
 街の景色も見慣れた物に変わってきている。
 あともう少しで八百屋のおばちゃんの所まで着くかなという時、
「あー、はんざいしゃのおにーちゃんだー!!」
 後ろから、聞き慣れた、そしてあまり聞きたくない声がした。
 まさか、と思いつつ振り返る。
「ねーねー、いしなげていい? いしなげていい?」
 そこにいたのは無邪気な顔をした幼女。
 『猫耳猫』でたぶん一番有名なモブキャラ、ポイズンたんだった。

 ちらっと横に視線を走らせると、ミツキが「こいつはっ…!」という感じで猫耳をピーンと立てて警戒している。
 そういえばポイズンたんは俺の『隠形』をあっさりと破った訳で、既に格上確定である。
 ミツキが警戒するのも無理はない。
 一方のリンゴはというと、完全に無反応でぼーっとしていた。
 無表情なその顔にはどんな感情も浮かんでいないが、よく見るとちょっとだけ眠そうにも見える。
 ……うん、まあ、もうそろそろ夜だからね。
「ええと、石を投げるのはやめてくれるかな?」
 俺が下手に出るようにそう言うと、ポイズンたんは花が開くように笑った。
「えっ? あ、ごめんねはんざいしゃのおにーちゃん。
 おにーちゃんはよわいから、わたしがいしをなげたらすぐしんじゃうよね。
 きづかなくってごめんね」
「い、いいんだよ、気付いてくれれば……」
 俺は必死で怒りを抑え、そう答えた。
 ポイズンたんと付き合うコツは、とにかく言葉を受け流すことなのだ。
「そっかー。つまんないのー」
 そう言うと、ポイズンたんはいつの間にか手にしていた石を近くのゴミ箱に投げ入れた。
 ゴミ箱は破壊された。
 俺は恐怖した。
 ポイズンたんの投げた石のあまりの威力に、思わずクーラーボックスを用意したいと思ってしまった。
 なんというか、あいかわらず見た目とスペックに開きのある御仁である。
「それで、はんざいしゃのおにーちゃんはこんなところでなにしてるのー?
 『くろいどくろをもちいたおぞましきやみのぎしき』のじゅんびー?」
 ポイズンたんの言葉に我に返る。
「ああいや、そうじゃなくて……」
「もしかしてみせーねんりゃくしゅ?
 おまわりさーん、こいつ……」
「いや、だから違うから!!」
 ポイズンたん相手ではなかなか話が進まない。
 指名手配のことを抜きにしても、選択肢を間違えると即座にリアル犯罪者としてしょっぴかれてしまいそうな危険性がある。
「でも、おにーちゃんすごいんだね。
 わたし、みなおしちゃったよ」
「見直し、た?」
 なぜだろう。
 ポイズンたんに褒められると、無性に嫌な予感がするのは。
「それって、どういうこと、なのかな?」
 俺が恐々とそう尋ねると、ポイズンたんは邪気のない顔であっさり言った。紅蜘蛛 II(水剤+粉剤)

「――だっておにーちゃん、『くににけんかをうった』んでしょ?」

 ……は?
 国に喧嘩を、売った?
 混乱する。
 泥棒、とかではないのか?
 あるいはもしかして、広場に髑髏を置いたことが問題に?
 いや、流石にそれだけで国に喧嘩を売ったとまでは言われないだろう。
「いや、そんなこと、した覚えがないけど……」
 俺がそう言うと、ポイズンたんはきょとんとした顔をした。
「ええ? でも、あやしげなやしきにたてこもっておーこくのきしをまねきいれ、くちにするのもはばかられるおそろしいめにあわせてほうりだし、かんぜんとこっかにはんきをひるがえした、っておとなのひとたちはいってたよ?」
「何だそりゃ!」
 身に覚えがないにもほどがある。
 屋敷に立てこもったことなどないし、騎士を屋敷に招き入れたこともない。
 そもそも俺はこの三日間、ヒサメ家の道場に詰めていたのだ。
 王国の騎士に何かをすることなんて物理的に……。
「言われてみれば、屋敷の方が騒がしいですね」
 しかし、その思考を遮るようにミツキがそうこぼした。
 見ると、確かに猫耳が屋敷の方を向いている。
(屋敷、か……)
 髑髏の事件の時にあれだけ宣伝したのだし、俺の身元が分かっているのなら屋敷が押さえられていても何の不思議もない。
 いや、むしろ髑髏の時点で犯罪者扱いされていたのだし、本当に屋敷の中にいないのか、無理矢理に入って確かめようとするような人間がいてもおかしくない。
 そうなったら、一体何が起こるか……。
「悪い、用事を思い出した!
 ミツキ、リンゴ、屋敷に行くぞ!!」
 俺は不吉な予感に背中を押され、駆け出した。
 ここまでくれば俺たちの猫耳屋敷は近い。
 少しだけ様子を見て、異常がないことを確かめるだけ。
 俺はそんなことを考えながら夜の街を駆け、最後の角を曲がって、
「……あっちゃあぁぁ」
 そこに見えた光景に、思わず地面に膝をついた。

 ――俺たちの住んでいた大きな屋敷、猫耳屋敷の周囲は、多数の騎士によって囲まれていた。紅蜘蛛赤くも催情粉

2012年12月18日星期二

理性と本能の狭間

円卓の間……そもそも円卓の起源は何処かの国で序列に関係なく、自由闊達な議論をするために上座、下座を廃止しようみたいな所から始まったらしい。
 上っ面ばかり整えても中身が伴わないじゃ意味がないんじゃないの? と思わなくはないけれど、形式は割と大事。韓国痩身一号
 そんなことを考えつつ、あたし……エレナ・グラフィアスは円卓に頬杖を突き、欠伸を噛み殺していた。
 あいつに買われたのは去年の六月頃だから、もう十ヶ月が過ぎている計算だ。経理の仕事にはすっかり慣れたし、夜伽の方は……精神的にはともかく、体の方は、畜生、あたしの気持ちを裏切ってる。
 あいつのことは嫌いじゃない。一度ならずも二度までも命を救われてる訳だし、仕事だって世話して貰ってる。
 そりゃ、あたしが留学して培った学力があるからこそ、経理を任せて貰ってる訳で、仕事の世話はして貰ったけど、成果を出したのはあたしの実力だ。
 まあ、その点を差し引いても嫌う要素はあまりない。ぶっちゃけ、物語だったら、ハッピーエンドを迎えててもおかしくない。
 奴隷商人に売られた準貴族の娘がいて、成り上がり者の新貴族が助ける。そのまま、仇なんか討っちゃったりして、普通はそこで終わり。
 あいつは仇を討つのに手なんて貸してくれなくて、無償で仇を討ってくれないならと誘惑したけど、やっぱりダメで……でも、ヤられた。
 ド畜生っ! 尻、よりにもよって尻! こ、こん畜生っ! な、何が自分で選ばせてやるよ! じ、じ、自分は仰向けで、こ、この……そ、それなのに、自分で串刺し刑を実行したあたしが……く、屈辱!
 あたしが夜伽の件を思い出して身悶えしていると、
「異議ありだ! ハーフエルフ!」
「何がでしょう、ティリア皇女?」
 タユンと言うか、ブルンと言うか、ティリア皇女は胸が揺れる勢いで立ち上がり、レイラを指差した。
 いつも通り、レイラは無表情……な~んとなく、ムスッとしているような気がしなくもない……でティリア皇女と真っ向から対峙した。
 ま、レイラの気持ちは理解できなくもない。愛人がレイラと女将、あたしの三人しかいなかった頃はレイラがあいつを独占していたからだ。
 女将はアレで夜伽に関しては一歩か、二歩か、とにかく退いた態度を取ってるし、あたしも……そうそう頻繁に枕を取りに行ってる訳じゃない。精々、月一、いや、半月に一度だったか、いやいや、週一か、週二くらいだったかも。
「回数だ! どうして、私が一回なのにお前が四回も入っているんだ? 順番も気に入らないぞ! 何故、私が最後なんだ!」
「ティリア様とされると、クロノ様が疲れ果てて翌日の仕事に支障を来すからです」
 レイラは事実を述べているかのように建前を口にした。
 仕事に支障を来すってのは嘘じゃないけれど、形式と同じくらい建前も大事だ。
「お~、レイラってば一歩も退かないね」
「譲ったら最後、地の果てまで後退るみたいな」
「……アンタ達は回数増やさなくても良いの?」
 あたしは隣でドライフルーツを囓っている双子のエルフに尋ねた。
 こいつら……デネブとアリデッドは愛人になったばかりだ。
 こいつらはこいつらで週に一度あるかないかの夜伽で満足している節がある。
「あたしらは愛に生きてるから」
「腕枕して貰えるだけで幸せみたいな」
 二人一組で夜伽を務めるヤツが愛とか終わってる。
「く、クロノを疲れ果てさせてしまったのは最初の一回だけだ! に、二回目からは控えてるぞ」
 後半部分は声がトーンダウンして、特に『控えてるぞ』の部分が微妙に自信がなさそうだった。
「……なるほど」
「そ、その微妙に勝ち誇った笑みはなんだ!」
 あたしは目を細めてレイラの口元を見つめたけれど、勝ち誇った笑みらしきものは浮かんでいない。
「勝ち誇っておりませんが?」
「いいや、お前は勝ち誇っている。こ、こう、クロノに女を教えたのは自分的な、私が教えたテクニックで……みたいな優越感に浸っているんだろ!」
 どちらかと言えば、ティリア皇女が劣等感に苛まれているだけのような気がする。あいつの、キスとか、愛撫とかにレイラの影を見るなんてティリア皇女は意識しすぎじゃないだろうか。
「ティリア皇女にしてみればレイラは恋敵みたいなものだし」
「ティリア皇女の凋落はクロノ様を寝取られてから始まったような気が」
 頼んでもいないのにデネブとアリデッドが解説する。
「だ、大体、仕事に支障を来すと言うのなら、お前が回数を減らせば良いじゃないか」
「……私はティリア皇女と違い、自制できますので」
 間が開いたのは何故だろう。
「むむ、女の戦いでありますね」
 ガリガリと炒り豆を食べながら、フェイが言った。
「どうして、ここにいるのよ?」
「後学のために会議を見学しているのであります」
 あたしはフェイが抱えている袋から炒り豆を手の平に収まる分だけ貰った。
「そう言えば、順番をティリア皇女に譲ったって聞いたけど?」
「申し訳ないであります」
「折角、あたしがお膳立てしてやったんだから、もう少し考えなさいよ。アンタ、没落した家を再興するのが夢なんでしょ?」
 あたしが炒り豆を一粒食べると、フェイは口を上に向けて炒り豆を頬張った。
「……考えたでありますよ」
「まあ、それなら良いんだけど」
 あいつは変な所で真面目だから、愛人って理由で領地を譲ったりしないだろう。
 けど、支援くらいはしてくれるはず。
「……レオさんも、ホルスさんも、リザドさんも死んでしまったであります」
 ポツリとフェイは呟いた。
「それが理由?」
「心が完全にクロノ様の方を向いていない状態で夜伽を務めるのは不誠実だと思ったのであります」
「……そう」
 アンタの場合、家を再興するのが目的なんだから、あいつのことは二の次にすべきなんじゃない? と思ったけれど、あたしは気のない返事をした。
 その、一歩間違えればバカにしか見えない彼女の愚直さをあたしは好ましいと感じているからだ。
「クロノ様の部下である限り、機会は巡ってくるであります」
「アンタ、待機組だったじゃない」
 フェイが待機組になった理由は治安を維持するのに騎兵が必要だからだ。
 何気にエラキス侯爵領は広い。
 これだけの広範囲をカバーするためには騎兵の機動力が不可欠だ。
「……馬は十頭余ってるんだけど、領地が増えちゃったし、焼け石に水ね」
「領地が増えるのは良いことであります」
「程度の問題よ、程度の」
 今のエラキス侯爵領とカド伯爵領は人手不足に陥っている。そりゃ、まあ、あいつの部下は増えたけど、騎兵の数は増えてないし、役人も不足している。
 そんな状態で戸籍造りとか、制度について教えに行くとか、無理……無理だけど、そこを無理に回しているのが現状だ。
 せめて、書類を書く手間が省ければ楽になるのに。
 ふと視線を傾けると、ティリア皇女とレイラが無言で睨み合っていた。
 パンパンと手を叩く音が響いたのはその時だ。
 ちなみに手を叩いたのは女将だ。
「もう夜更けなんだから、さっさと決めちまいなよ」
「……分かりました。順番を変更し、明日はティリア皇女に夜伽を努めて頂きます」
「ぐぬぬ、回数を譲るつもりはないのか?」
「ティリア皇女が自制できる方と判断すれば回数を増やしますが?」
「見てろ、ハーフエルフ! 私は立派に夜伽を務めてみせる!」
 ビシッ! とレイラを指差し、ティリア皇女は宣言した。

 翌日、あたしは眠い目を擦りつつ、書類の作成に勤しんでいた。
 奴隷売買と娼館営業の許可証を更新しているのだ。
 許可証の有効期限は三ヶ月……短すぎる気もするけれど、口実としては有用だ。
 あいつの施策……適切に奴隷を管理している商人にのみ奴隷売買を許可する……は購入者の権利を守るための施策だった訳だけど、これって購入者だけじゃなくて奴隷商人も守ってるのよね。
 適切な管理をしてるとお墨付きが出てて、エラキス侯爵領にある病院で健康診断まで受けさせている訳だから、購入者が手荒に扱って死んでも、難癖を付けにくい。実際、それだけの手間を掛けてる訳だから、まともな商売をしていると奴隷商人だって胸を張って言える。
「……それにしても奴隷商人の数が増えたわね。五十人もいるのに週一回の奴隷市で利益を上げられるのかしら?」
 五十人分の許可証を作成しなきゃいけないなんてゾッととする。
「自分が奴隷として売られたのに、奴隷商人の片棒を担ぐとかマジで最悪」
「エレナ殿、食事を持って来たであります」
 フェイはノックもせずに部屋に入り、あたしのテーブルに皿を二つ置いた。
「何、これ?」
「女将の創作料理であります」
 皿の上には紡錘状のパンが置かれている。これだけなら単なる嫌がらせなんだけど、パンの中心には切れ込みがあり、そこにソーセージが挟まれているのだ。上に乗っているのはマスタードだろう。御秀堂養顔痩身カプセル第2代
「ちなみにテーマは『手軽』であります」
「『手抜き』の間違いじゃない?」
 フォークとナイフがないんだけど、とあたしが困惑していると、フェイは創作料理を手で掴んでかぶりついた。
 そういう風に食べるのか、とあたしは恐る恐るそれを掴んで口に運んだ。
 ソーセージを噛み切ると、熱々の肉汁が……熱っ、熱っ!
 酸味がほどよく効いてて美味しい。
「……うん、こういう食事も偶には良いわね」
「もう少し量があれば言うことなしであります」
 日常的に体を動かしているフェイには物足りなかったみたい。
「そう言えば聞きたいことがあるんだけど?」
「何でありますか?」
「奴隷商人が五十人もいるんだけど、こんなにいて商売って成り立つの?」
「全員が全員、奴隷市に参加している訳じゃないであります」
 フェイは皿を重ねながら言った。
「どういうこと?」
「ハシェルを本拠地とする奴隷商人は少ないであります。けれど、仕入れで何日もハシェルを離れると、その分、儲けが少なくなるであります」
 まあ、一ヶ月で金貨一万枚分も奴隷を売り捌くようなヤツらだもんね。
「なので、留守中の代役を立てたり、他の奴隷商人から奴隷を購入して転売しているのであります」
「つまり、そいつらの許可証も含まれてるのね」
 自分で仕入れて自分で売るんじゃなくて、他所から仕入れて売る。
 他の商人も似たようなことをやっているはずなんだけど、釈然としない。
「ああ、もう! 面倒臭いわね!」
「どうしたのでありますか?」
 あたしが叫ぶと、フェイは不思議そうに首を傾げた。
「書類を書くのが面倒臭いのよ! 同じ文面を何枚も何枚も……書類を書く手間が省ければ少しは楽になるのに」
「省けるでありますよ」
 え? とあたしはフェイを見つめた。
「どうやって?」
「版画機を使えば簡単であります」
「ちょ、それ、何処にあるのよ!」
「案内するであります」
 フェイに案内されて辿り着いたのは……やっぱりと言うべきか、エラキス侯爵邸内にあるドワーフの工房だった。
 カーン! カーン! と鎚を打つ響きが鬱陶しい。
「これであります」
「これが版画機?」
 誤解を恐れずに言うのなら版画機はテーブルに似ていた。いや、机と本棚を組み合わせて、スライドする板を付け足したと言うべきだろうか。
 本棚と言っても仕切りはなく、斜めに溝の掘られた鉄棒が中心を貫いている。ついでに言うと溝の掘られた鉄棒の真ん中からは木の棒が真横に伸びていて、先端部は木の板のようなものが付属している。
「どうやって使うのよ、これ?」
「まず、スライドする板の上に金属製の版を置き、紙を重ねるであります。次に板を押し込んで、木の棒を動かすであります」
 フェイが木の棒を引くと、少しだけ溝の掘られた鉄棒と板が下に降りる。多分、半円を描くように木の棒を動かすと、溝の掘られた鉄棒に付属する板が紙と金属製の版に押しつけられるのだろう。
「……凄い、凄い発明よ、これ! どうして、教えてくれなかったのよ!」
「聞かれなかったであります」
 そうなんだけど、あたしは興奮を抑えきれなかった。
 許可証を書く手間が省けるし、奴隷商人や娼館経営者が申請する時も、戸籍造りも必要な項目が記入してある紙を用意しておけば大幅に手間が省ける。
「版画機に何か用ですかな?」
「これを使わせて欲しいのよ」
 工房のドワーフ……ゴルディに声を掛けられ、あたしは版画機を指差しながら言った。
「自由に使って貰って構いませんぞ。もちろん、原画を持ってきて下されば版を掘らせますぞ」
 あたしはグッと拳を握り締めた。
「あとは、クロノ様にお願いしないと」
「クロノ様は奴隷市の視察に行っているであります」
 わざわざ奴隷市に出向かなくても、戻ってくるまで待てば良いんじゃないかと思ったけど、あれであいつは忙しいのだ。奴隷市の視察を終えた直後に、カド伯爵領の視察に行かれたら目も当てられない。
 ただ、正直に言えば奴隷市になんて行きたくない。あの時の、糞尿で汚れた体や腫れ上がった顔を思い出すと、気が狂いそうになる。
「……フェイ、付き合ってくれる?」
「構わないでありますよ」

 奴隷市が開催されるのは商業区の一角にあるマイルズの娼館だ。紳士の社交場と嘯いているだけあり、マイルズの娼館は他よりも小綺麗で、それっぽさを隠しているような感じがする。
「……失礼」
 あたしがフェイと一緒に娼館に入ろうとすると、門番が槍を交差させて行く手を阻む。
「クロノ様に用があって来たであります」
 フェイがあたしを庇うように歩み出ると、彼女の顔を覚えていたのか、門番はゆっくりと槍を引いた。
「どうぞ、お入り下さい」
 これも形式ってやつかしらね? とあたしはロビーを通り抜け、ホールの扉を開けた。
 扉を開けた途端、熱気が押し寄せる。
 不覚にも足が震えた。
「私が付いているであります」
「……そう、ね」
 あたしはフェイに手を引かれ、あいつの姿を探した。
 ホールの中央にある舞台……そこを歩く奴隷から意図的に視線を逸らし、あたしはあいつを見つけた。
 あいつは舞台の正面……特等席に腰を下ろし、髪の長い娼婦らしき女を隣に侍らせていた。
 あたしは歩み寄り、
「おや、貴方は」
「邪魔するわよ」
 マイルズを睨み付け、あいつの隣に腰を下ろした。
「どうしたの?」
「……アンタにお願いがあってきたのよ。真っ昼間からお酒?」
「ん、水だよ」
 あたしが言うと、クロノ様はカップを軽く掲げた。
「……嫌がらせでも受けてるの?」
「私どもが最高のおもてなしをしようとしても、クロノ様は受け取って下さらないのですよ」
 マイルズは心外だと言わんばかりに反論した。
「娼館に来て、女も抱かずに帰るなんてお堅すぎるんじゃないかしら?」
「一応、視察だからね」
 七人……一人は男で不在だけど……も愛人がいるんだから、娼婦に手を出してる暇がないだけじゃない? と思ったけれど、あたしは沈黙を守った。
「で、何のお願いに来たの?」
「許可証や申請書を作るのにドワーフの工房にあった版画機を使わせて欲しいのよ」
「版画機?」
 身を乗り出したのはクロノ様じゃなくて、隣に座っていた娼婦だった。
「アンタに言ったつもりじゃないんだけど?」
「別に良いじゃない」
 気分を害した様子もなく、娼婦はあたしに向かって微笑んだ。
「版画機は……版画を刷るための道具だよ」
「道具で刷る意味があるの?」
「まあ、いつか役に立つんじゃないかな」
 娼婦が上目遣いに問い掛けると、クロノ様は自信なさそうに言った。
「ちょっと、あたしの質問に答えなさいよ」
「せっかちな娘ね」
 ぐるる、とあたしは犬のように唸って娼婦を睨み付けた。
「娼婦のくせに気安いわよ。せめて、名前くらい名乗りなさいよ」
「エレイン、エレイン・シナーよ」
 何処かで聞いたような名前ね、とあたしは彼女の名前を口の中で繰り返した。
「……娼婦ギルドのギルドマスター?」
「よく知っているわね」
「自由都市国家群に留学していた時に、バカな男どもが騒いでたから覚えてただけよ」
 あたしが娼婦ギルドのギルドマスターの名前を知っていたからって、どうにかなるわけじゃない。
 この女の言う通り、『よく知っているわね』程度の知識でしかないのだ。
「留学の経験があるのね。けれど、奴隷のくせに少し気安いんじゃないかしら?」
「そんなのお互い様よ」
「娼婦と性奴隷……どちらも大した違いはないかも知れないわね。でも、私達には大きな違いがある。そうじゃないかしら、エレナ・グラフィアスさん?」
 エレインの声は優しかった。
「私は自分で娼婦になることを選んだけれど、貴方は自分で奴隷になることを選んだ訳じゃない。私は娼婦であることに誇りを持っているけれど、貴方はどうかしら?」
「……」
 それはアンタが成功しているからでしょ、とあたしは言い返したかった。
 けれど、エレインは自信に満ちていた。
 例え、成功していなくても彼女は変わらないんじゃないかと思うほどに。
「クロノ様の隣に座った時、自分がどんな顔をしていたのか分からないの? ああ、『女も抱かずに』と私が言った時も、よ」
 クスリと笑い、エレインは見下すような視線を向けた。
「安堵の笑みよ。奴隷だもの、仕方がないわ」
「……あたしは、自分の力で」
 畜生、自分に何の力もないって奴隷市(ここ)で思い知らされたじゃない。
 意地を張って、見せしめのために殴られて、ボロボロになった。
 あの時、最期まで意地を張り通せば言い返せたかも知れない。
 けど、あたしは折れたのだ。
 水浴びをさせて、と奴隷商人に懇願さえした。
「今も貴方は奴隷なのよ。舞台を歩いている彼女のようにね」
「……っ!」
 舞台の方を見つめ、あたしは身を強張らせた。
 それは相手も同じだった。
 あたし達は目があった瞬間に体を強張らせ、どちらからともなく目を伏せた。
「……名前はウェスタ、年齢は十八、破産した商家の娘です」
 頼んでもいないのにマイルズが素性を説明する。
 知ってる。
 ウェスタはあたしより指一本分くらい背が高かった。
 いつも眠そうな目をしていて、のんびりした性格だった。
 けど、無神経って訳じゃなかった。
 胸が大きいのに悩んでいて、いつも猫背気味に歩いていた。
 どうして?
 エレインはあたしとウェスタが友達だった、と知っているんだろう。
 いや、知っていたとしても、ここにあたしが来るまでは予想できなかったはず。
「器量はそこそこ、教養もあります。要領は悪そうですが、処女ですので」
 舞台を回り終えたのか、ウェスタの声が響く。
「ウェスタ、です。自由都市国家群出身で、あまり算術は得意じゃなくて、でも、それなりに学はあるつもりです」御秀堂養顔痩身カプセル第3代
 今にも消え入りそうな声。
「……話題についていけないんだけど?」
「質問してくれれば答えたわよ」
「エレナが喧嘩を売ったのに、口出しするのもアレかなと思って」
 クロノ様は緊張感の欠片も感じられない声で言った。
「では、金貨二十枚からスタートです!」
「金貨二十一枚!」
「二十三だ!」
 小刻みに金額が上昇する。金貨二十枚を超えた時点……つまり、金貨二十一枚の値段が付けられた瞬間にウェスタを助ける機会は失われた。
 あたしは自分を買い戻すために節約している。この十ヶ月で貯めたお金が金貨二十枚だったのだ。
「三十!」
「三十一!」
 何が楽しいのか、ドッと会場が盛り上がる。
「……金貨百枚」
 その一声で会場は静まりかえった。
「……アンタ、何のつもり?」
「う~ん、娼館の人手が足りないから補充しておこうかと思って」
「ふ、ふざけんじゃないわよ」
 ウェスタに娼婦なんてできるわけがない。
「本気よ。私は娼婦であることに誇りを持っているけれど、侮蔑されて笑顔で許してやるほど寛大な性格じゃないの」
 畜生、この女は最低だ。
 きっと、この女はあたしを苦しめるためなら何でもやる。
「……クロノ様、お金を貸して欲しいであります」
「何で?」
「あの奴隷が欲しくなったので、金貨百枚貸して欲しいであります」
 反射的にフェイの方を振り向き、あたしは不覚にも泣きそうになった。
「もちろん、ただでとは言わないであります」
 フェイは剣帯から剣を外した。
「父の形見であります」
「引き取り価格は金貨一枚程度でしょう」
 フェイが剣の柄を差し出すと、マイルズは笑いを堪えるように肩を震わせた。
「いつでも、クロノ様の求めに応じるでありますよ?」
「ちなみに、私は金貨千枚まで出す用意があるわよ」
 フェイはエレインを睨み付け、
「上限なしでお願いするであります」
「じゃ、金貨百一枚で」
 クロノ様は遠慮がちに手を挙げた。
「なら、私は……金貨百ごじゅ」
「……エレインさん」
「何かしら?」
 クロノ様が呼ぶと、エレインは穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「う~ん、僕はエレインさんと仲良くしたいんだけど?」
「あら、私もよ。でも、さっきも言ったけど、私は侮蔑されて笑顔で許してやるほど寛大な性格じゃないの」
「気持ちは……理解できると言ったら、怒られそうだから言わないけど、ここは分水嶺だと思うんだよね」
「どういう意味かしら?」
 エレインは優雅に足を組み、クロノ様の真意を窺うように目を細めた。
「仲良くできるか、できないか」
「仲良くできなかったら?」
「……残念なことになるよ。ああ、脅しとかじゃなくて、ここで退いてくれる柔軟な人じゃないと、仲良くするのは難しいかなって」
 クロノ様は身を乗り出してエレインを見つめた。
「仲良くできたら?」
「今、港を造っているんだけど」
 クロノ様はソファーに体を沈め、世間話を切り出すように言った。
「ええ、知ってるわ」
「月か、一年単位で港の使用権を売ろうと思ってるんだけど、自分でも貿易をやってみたいな~、と」
「それで?」
 エレインは身を乗り出し、クロノ様と見つめ合った。
「雇われ店長と言うか、カブシキガイシャで良いのかな?」
「カブシキ、ガイ、シャ……何処の言葉よ、それ」
「まず、エレインさんが商売を始めるとします。でも、お金がありません。そこで出資者を募ります」
 エレインも、マイルズも不思議そうに首を傾げている。
「結局、それって借金じゃない。前提条件がよく分からないけど、担保もないのにお金が借りられる訳ないでしょ」
「なので、商売の権利を担保にお金を貸します。利益が出たら分け前を貰うし、色々と経営に口を出したりするけど、基本的に利益を出してくれれば文句を言いません」
 う~ん、とエレインは唸った。
「つまり、ガブシキガイシャと言うのは……私は経営を任されているだけと考えれば良いのね? 君は私をクビにする権利を持っているし、君が権利を手放すか、私が権利を買い戻すまで、分け前を支払わなければならない」
 興味を引かれたのか、エレインはクロノ様に視線を向ける。
「取り分は?」
「……利益の半分、じゃなくて、三割くらい?」
「私の取り分が減ってるじゃない!」
「僕の取り分を減らしたんだけど」
「ああ、君の取り分が三割なのね」
 エレインは身を乗り出して叫んだが、自分の取り分が七割であることに旨味を感じたらしくソファーに浅く腰を掛け直した。
「面白い話ではあるけれど、君の真意が見えないわね。だって、それだけのお金を用立てられるのなら、自分で商売を始めた方が早いもの」
「確かにお金はあるけど、コネも、経験もないから。まあ、出資者と雇われ経営者って意味じゃ上下関係はあるけど、互いにない物を補い合うって意味じゃ、対等な関係じゃないかな」
「娼婦と貴族が対等ですって?」
「そう、対等な関係」
 エレインとクロノ様は笑みを浮かべたまま見つめ合った。
「……分かったわ。そこの奴隷に侮蔑されたことを許すつもりはないけれど、君と仲良くしたいから、我慢してあげる。さて、ここからは商売の話よ。カブシキガイシャの件だけど、今すぐにでも動きたいのよ」
「話が早くて助かるよ」
「金貨百一枚で落札です!」
 クロノ様とエレインの駆け引きが終わると、司会の男が落札を宣言した。

 あたし……あたしとフェイ、クロノ様、ウェスタが侯爵邸に戻ったのは陽が暮れてからだった。あれからクロノ様はカブシキガイシャ方式でエレインに出資することを決め、その話し合いで時間が掛かったのだ。
 版の元になる許可証を手に取り、ドワーフ工房に行くと、エレインがクロノ様から大きな箱を受け取っていた。
 クロノ様がエレインに出資する金額は金貨一万枚……侯爵邸の金庫には用途の定まってない金貨が五万枚以上残っていると分かっているけど、その光景があたしは堪らなく悔しかった。
 畜生、と馬車に乗って去っていくエレインを睨み付けていると、クロノ様に手招きをされた。
「エレナ、明日からウェスタをサポートに付けるから」
「……面倒を見ろってこと?」
「そうなるね。部屋はエレナの隣にしておいたから」
「あの……エレナちゃん、よろしくね」
 ウェスタはクロノ様のマントを羽織り、胸を隠すように両腕を交差していた。
「……部屋に案内するから付いてきなさい」
 あたしは仕事場や浴室、トイレの場所を教え、ウェスタを部屋に案内した。
 掃除は行き届いているけど、部屋には最低限の家具しか置かれていない。
「取り敢えず、着替えなさいよ」
「……うん、ごめんね」
 警戒心が欠如しているのか、ウェスタは服と呼ぶのも憚られる布を脱ぎ捨て、苛々するほど鈍い動きで用意されていたワンピースに着替えた。
「でも、良かった。エレナちゃんが一緒で」
「よく、ないわよ」
 あたしは俯き、拳を震わせた。
「奴隷よ、奴隷! あたしも、ウェスタも、クロノ様の所有物なの!」
 畜生、とあたしは髪を掻き毟った。
 あの女のせいで、自分が奴隷なんだって思い知らされた。
「あの、エレナちゃんは酷いこと……ごめんなさい」
 あたしが睨み付けると、ウェスタは怯えたように俯いた。
「されたわよ、色々と。最初は殴られるんじゃないって怖くて仕方がなくて、惨めったらしい気分で、ムカムカして……それだけじゃなかったわよ」
 あたしは自分が被虐嗜好(マゾ)なんだとばかり思っていたけど、本当にそれだけだったんだろうか。御秀堂 養顔痩身カプセル
 あたしが本当に恐れていたのは捨てられることだったんじゃないだろうか。だから、口では嫌だと言いながら、自分に女としての価値があることに安堵していたんじゃないだろうか。
 あたしは自分の力で居場所を手に入れたつもりだったけど、出会った時からクロノ様の庇護下にあっただけなんじゃないだろうか。
「……あたしの部屋は隣だから」
「エレナちゃん!」
 ウェスタの声を無視して、あたしは自分の部屋に戻った。
 それから、ボーッと時間を過ごした。
 使用人用の食堂で食事を取り、何となく部屋に戻りづらくて侯爵邸をブラブラしていると、
「……~♪」
 ティリア皇女が軽やかな足取りであたしの前を通り過ぎた。
 ふわりと石鹸の匂いが鼻腔をくすぐる。
 どうして、こんなに楽しそうなんだろう? と後ろ姿を見つめていると、ティリアは皇女はピタリと足を止め、あたしの前に戻ってきた。
「私に何か用か?」
「……別に用ってわけじゃ。ただ、楽しそうだなって」
「うむ、楽しいぞ」
 ティリア皇女は大きさを誇示するように胸を反らした。
「お前は楽しくなさそうだな。私で良ければ……済まん。知っての通り、私は今から夜伽を務めなければならないのだ。だが、お前が夜伽の順番を譲ってくれるのなら、相談に乗っても良いぞ」
 う~ん、とあたしは唸った。この人に相談をしても共感を得られそうにない。相談というのは慰めて欲しかったり、自分を肯定して欲しいからするもので、慰めてくれなかったり、肯定してくれなかったら、余計にダメージを負うような気がする。
「ええ、相談に乗ってくれないかしら?」
「うむ、任せろ」
 多分、ティリア皇女に相談しようと思ったのは自暴自棄になってたからだ。
 落ち着いて話せる場所……そう考えて思いついたのは自分の仕事部屋だった。
 あたしはティリア皇女を仕事部屋に案内し、向かい合うようにイスを並べた。
「一体、何に悩んでるんだ?」
「今日、嫌な女と喧嘩して自分の立場を思い知らされたのよ。あたしは奴隷でクロノ様に守られてて、友達を守ることも、意地を張ることもできないくらい無力なんだって」
 む、とティリア皇女は難しそうな顔をした。
「……むぅ、自分の無力さに気づいて何が悪いんだ?」
「あたしは奴隷よ。あたしはクロノ様の所有物で、守られてて、そんなことにも気づかずに自分の力で居場所を手に入れたと思ってたの」
 むむ、とティリア皇女は眉根を寄せた。
 相談する相手を間違えた、とあたしは心の底から後悔した。
「……お前はクロノの奴隷で、クロノの領地の経理を担当しているのだろう? 奴隷としてのお前はクロノの財産で、経理担当としてのお前は領地運営に欠かせない人間なのだから、クロノがお前を守るのは当然じゃないか」
「あたしはクロノ様に苛められると捨てられるような気がして怖くて、でも、抱かれると安心するの」
「そんなの当たり前じゃないか」
 え? とあたしは目を見開いた。
「クロノに部屋から閉め出された時、私は怖くて仕方がなかったぞ。縛られたり、目隠しをされたりするのも怖いし、他の女と比べられるのだって怖い。でも、抱かれると安心するんだ。それは普通のことじゃないのか?」
「縛られたり、目隠しは普通じゃないと思うけど」
 うんうん、とティリア皇女は何度も頷いた。
「怖いと思うのは真剣だからだ。夜伽を務める時は血統とか、勉強や剣が得意とか、神威術を使えるとか……今まで私が頼りにしていた物が使えないんだ。夜伽の時はベッドの上で身一つで勝負だ。奴隷も、ハーフエルフも、平民も関係ない。だから、楽しくて、怖いんだ」
「……」
 この人はあたしが思っていた以上に真剣なんだ。
 真剣にクロノ様を愛していて、本気であたし達と競おうとしている。
 エレインは自分が娼婦であることに誇りを持っていると言った。
 あたしは奴隷であることに誇りなんて持ってない。
 でも、あたしは真剣だ。
 きっと、あの女は今の地位まで上り詰めるまでに辛酸を舐めたんだろう。
 けど、あたしだって地獄を見た。
 意地を張れないほどの挫折を味わった。
 あたしは奴隷だけど、本気で生きてる。
 それだけは否定させない。
「あとはアレだ。フェイはお前を友達だと思っているみたいだぞ。お前の置かれた状況で慕ってくれる人がいるのは救われる話じゃないか。じゃ、私は行くぞ。クロノが待っているんだ。それから夜伽の順番を譲る約束は守るんだぞ」
 ティリア皇女は捲し立てるように言って部屋から出て行った。

 翌日、版画機を使って許可証を刷り上げた。実際に刷ったのはウェスタだけど、何と言うか、版画機なんて作る必要あったのかな~ってレベルの便利さだった。版画機なんてなくても手刷りで十分って感じ。
 まあ、仕事を始めたばかりのウェスタに複雑なことはやらせられないし、雑用をこなしながら仕事の流れを覚えて貰うのが一番だ。
 あたしは刷り上がった許可証を抱えて、クロノ様の執務室に向かった。上の階にはクロノ様の寝室もある訳で……何となく内股気味で歩くティリア皇女と鉢合わせした。
「……ああ、何か用か?」
「えっと、楽しくなさそうだなって」
 フッとティリア皇女は笑みを浮かべ、
「クロノは楽しそうだったぞ」
「ティリア皇女は?」
「ふふふ、ま、まさか、猿轡まで噛まされるとはっ!」
 ティリア皇女はその場に崩れ落ち、頭を抱えた。
 オロロ~ン、オロロ~ン、とそんな感じの嘆きが聞こえてきそうな感じだった。
「わ、私が言い返せないのを良いことに卑猥な、卑猥な言葉を! ぐぬぬっ! 牛、よりにもよって牛!」
 ティリア皇女は身一つで立ち向かい、無惨に敗北したようだ。
 多分、牛のような胸とか、この駄乳とか、ミルクを出すだけ牛の方がマシみたいなことを言われたんだろう。
 オロロ~ン、オロロ~ン、と身悶えするティリア皇女を放置してあたしはクロノ様の執務室に向かった。
「入るわよ」
「……どうぞ」
 執務室に入ると、クロノ様は真面目に仕事をしていた。
「許可証にサインして」
「分かった」
 あたしが机の上に紙の束を置くと、クロノ様は読んでいた紙の束を脇に置き、サインを始めた。終極痩身
「何、それ?」
「ん~、アーサー先生が士官教育を始めたでしょ? それで授業中に出てきたアイディアを報告書にして提出してくれたんだよ」
 へ~、とあたしは適当に返事をした。

2012年12月16日星期日

悪魔のゲーム

  真希は、『猫耳猫』を悪魔のゲームだと評した。
 フリーダムの極みのような真希すら恐れさせるとは、流石の『猫耳猫』。
 俺は最初、そんな風に思っていたのだが……。御秀堂養顔痩身カプセル第3代
「……だってね。
 最初の緑の人が出てくる『いべんと?』からしておかしいと思うんだ!
 わたし、あそこでいきなり殺されちゃったよー」
「緑の……ああ、『リザードマンの罠』な」
「あ、たぶんそれかなー。
 だって、はじめっから五人も敵が出て来るなんてずるいよね!」
「まああれは……ん、五人?」
 その辺りから、早速雲行きが怪しくなってきたのを感じた。
 『リザードマンの罠』とは、一人の女性が四人のリザードマンに襲われていると見せかけて、実は女性の方がリザードマンを襲っているという引っかけ系イベントだ。
 初めてプレイした場合、女性の方が盗賊だと分からずに殺されることが多いのだが、戦い自体は一対五。
 こちらが人数的に有利な状況で戦えるはずだ。
「いや、あのイベントじゃ、そんな状況にはならないはずなんだが……。
 ええと、お前はどうやって戦ったんだ?」
「え? どうって、ふつーにだよ?」
「普通?」
 昔から、こいつの『普通』は信用出来たためしがない。
 俺がいぶかしげに訊き返すと、真希はあっけからんと言った。
「うん。おそってきた女の人と緑の人、まとめて相手をしてやっつけただけだけど……」
「はいアウトォ!」
 何だかおかしいと思ったら、案の定だった。
 こいつは味方のはずのリザードマンごと、盗賊を倒してしまったらしい。
 ラインハルト、お気の毒に……。
 というか、あのメンツに1対5で勝つなんてゲーム初心者に出来るようなことではない気がするが、真希はゲーム音痴のくせに運動神経だけは異常にいい。
 現実の運動神経のよさがゲームのうまさにも直結するVRゲームなら、一概に不可能だとは言い切れない。
「というか、それでどうしたんだよ?
 リザードマン倒したら町に乗せていってももらえないだろ?」
「んー? 乗せていくとか分からないけど、ふつーに進んだよ?
 馬車の中にある『どろっぷあいてむ?』を回収して、道を歩いていった」
 いや、それはドロップアイテム回収じゃなくて、強盗殺人なんじゃないだろうか。
 そんな風に脳内でツッコみながらも口には出さず、先を促した。
「そしたら塀に囲まれた怪しげな砦みたいなのを見つけてねー。
 わたしはすぐにぴーんときちゃった。
 これが、敵の基地だ、って」
「え、えーっと、敵の基地?」
 突拍子もない発言にぽかんとなる。
 王都だけでなく、この世界の少し大きめの町には街壁がめぐらされているが、それだけで基地というのはどうだろう。
 というか、敵ってなんだろうか。
 真希、お前は一体何と戦っているんだ?
「だって、門の所にいて槍を持ってた人が、わたしを追いかけてつかまえようとしてきたんだよ?
 それって、『てききゃらくたー?』ってことだよね?」
「いや、お前、それ……」
 それはたぶん、盗賊プレイヤーから町を守ろうとした正義感にあふれた町の衛兵だろう。
 どんな町であれ、所属している善良な市民を殺すと、その勢力の友好度は最悪になる。
 真希がリザードマンの商人を倒したことで、ラムリックの町の友好度が下がっているだけだ。
「そこでは頑張ったんだけどね。
 なんか負けちゃって、また最初からやりなおしだったよー」
「そ、そうか……」
 苦労自慢みたいな感じで嬉々として告げてくるが、この勘違いっぷりにはもはや言葉もない。
 普通は町に着いていきなり衛兵に襲われた時点で、自分が何か間違ったのだと気付くと思うのだが、ゲーム経験のない真希には『そういうもの』だとしか感じられなかったらしい。

 そこから、真希の勘違いプレイは本格始動する。
 最初からゲームをやり直した真希は、今度は簡単に女盗賊とリザードマンを全滅させ、馬車の荷を奪い、敵の基地(ラムリックの町)を避けて、近くの山の中腹にある洞窟を根城にした。
 このゲームでは、場所を問わず時間が経過すればHPやMPは回復する。
 宿屋と違ってオートで時間を飛ばせないので面倒ではあるが、無理に宿屋を使わなくても休憩することで傷や疲れを癒すことは出来るのだ。
 真希は根城にした洞窟や近くのフィールドの敵を狩って力を蓄え、夜陰に乗じて基地(何度も言うが、ラムリックの町)に近付いて、町の近くのモノリスで初のセーブ。
 それから町に忍び込み、店を襲撃して物資を奪う。
 途中敵の兵士(町の衛兵)に見つかるものの、全速力で逃げ出して、何とか事なきを得たらしい。
「最初はうまくいかなかったんだけど、だんだんコツがつかめてきてね。
 それに、敵の基地の『あいてむ?』は一晩で補給されるから、すごく便利なんだー」
 楽しげに話しているが、なんというか、あれだ。
 山の洞窟を住処に、夜な夜な町に忍び込んで、店から金品を奪う。

(それ、完全に山賊じゃないか!!)

 しかも、本人が特にロールプレイをしている訳でもなく、素でそれが正しいプレイ方法だと思っているところが救われない。
(違う! 違うんだ真希! 『猫耳猫』はそんなゲームじゃないんだ!)
 しかし、俺の心の叫びは届かず、
「一番苦労したのは、武器かなー。
 最初の剣が壊れちゃってから、基地にあったのをいくつか試してみたんだけど、どれも弱かったからやめちゃったよー」
「やめた、って?」
「うん、もう武器なくってもいいかなーって」
「素手戦闘かよ!?」
 真希は武器の使用を放棄したことを宣言した。
 しかも、武器が弱かったと言うが、最初のラスティロングソードより弱い武器なんて町にはない。
 これは、もしかすると……。
「なぁ、真希。武器、ちゃんとメニュー画面で装備したか?」
「メニュー画面?」
「ログアウトとかする時に出す画面だよ!
 お前、そこでちゃんと『装備』って選んだか?」
「そんなのやってないよ?
 え、武器って手に持つだけじゃダメなの?」
 この返答である。
 RPGの基本、『武器は装備しないと効果が出ない』をこんなにも忠実に守っていないプレイを聞くのは初めてだった。
 序盤で素手プレイなんて普通であれば続くはずもない。
 しかし真希は、武器を持たない故の素早さを活かし、類まれな運動神経で野生の獣のように機敏に立ち回り、モンスターや人間を倒し続けたらしい。御秀堂養顔痩身カプセル第2代
 とはいえ、素手の戦いにくさは攻撃力やリーチだけではない。
「でも、素手スキルって使いにくいのが多くないか?
 そこら辺はどうやって……」
「え、スキルってなーにー?」
「な、に…!?」
 時間が、凍った。
「お前、まさか、そんな……」
 ありえない、ありえないとは思うが、
「お前、スキル、使ったことないのか?」
「…? うん」
 何も迷わずに即答される。
 むしろ、俺の方が「何言ってんだこいつ」みたいな目で見られた。
 そりゃ、今まで一度もVRゲームも普通のRPGもやったことのない人間が、説明書も読まず、チュート爺さんにも会わずにゲームを進めればスキルという考え方に行き当たらないのも当然かもしれない。
 いや、でも、だけど、そんなのってありなのか?
「ま、待てよ。でも、ほら、スキルとか魔法、使わなきゃクリア出来ないイベントとかも……」
「『いべんと?』って、最初のやつのほかにもあるの?」
「……あ、あぁあ」
 衝撃、だった。
 もはや言葉もない。
 だが、それはそうだろう。
 ずっと洞窟にこもり、町の人との友好度が最低だったらイベントが起こるはずもない。
 いや、フィールドやダンジョンで起こるイベントもないではないから皆無ということはないはずだが、何かのイベントフラグを立てる必要があるイベントは起こらないだろうし、ラムリックの周辺から動かないとなれば、当然その数は限られる。
「ちょっと待て!
 じゃあお前、何で『人間性が破壊される』とか、『悪魔のようなゲーム』とかって……」
「んー。だって、出てくる人も動物も、みーんなこっちを見るといきなりおそってくるんだよ?
 すっごく野蛮っていうか、ひどいなーって思って。
 わたしもゲームが『敵と戦うもの』だってそーまから聞いてなかったら、すごくびっくりしてたと思うよ?」
「お前の解釈に俺の方がびっくりだよ!」
 というか、悪魔なのはゲームじゃなくてお前のプレイスタイルだ。
「じゃ、じゃあ、バグ、とかとは関係ないのか?」
「へ? バグってなぁに?」
 なにそれおいしいの、な顔をされる。
「なんて、こった……」
 俺はその場にがっくりと膝をついた。
 『猫耳猫』にはバグが多い。
 パッチを入れてもなお、犬が歩いて当たるくらいには無数のバグがある。
 しかし、真希のプレイがあまりに斜め下(・・・)すぎて、バグが発生する余地がないのだ。
 真希はイベント一つ起こさず、武器を装備もせず、スキルすら使うことなくただひたすらに戦闘だけを繰り返している。
 その状況では、バグが発生する要素なんてほとんどない。
 いや、何かバグが発生していても、ゲームに疎い真希はまた『そういうもの』と適当に納得して、スルーしてしまったことだろう。
(何なんだよ、それは……)
 俺は、悔しかった。
 ありえないゲームバランスに悪態をつき、訳の分からないモンスターに度肝を抜かれ、性格の悪いイベントに振り回され、致命的なバグに涙する。
 それが、俺の知っている『猫耳猫』の正しい楽しみ方のはずだ。
 それを乗り越えたプレイヤーだけが、『猫耳猫』の意外に使えるシステムや、無駄に豊富なスキルや魔法、無数に存在するバグの有用性を発見出来る。
 そして、『猫耳猫』の理不尽に反逆し、製作者の裏をかく快感を覚え、だんだんとゲームにはまりこんでいく。
 それが『猫耳猫』プレイヤーの正道なのだ。
 あろうことか真希はそれらを全部すっとばし、『猫耳猫』どころかRPGのゲームシステムをほとんど使わず、素手で延々モンスターと渡り合い、敵拠点に潜入して物資を奪う。
 いわばサバイバル潜入アクションとかいうよく分からないジャンルのゲームにしてしまっている。
 しかも、一番いらっとくるのが、
「それに、『悪魔のゲーム』って言ったのは、もう一つ理由があってねー。
 こんなひどいゲームだけど、やってみるとちょっとだけ、ちょっとだけだけどおもしろくて、なかなかやめられなくなっちゃって……えへへ」
「えへへ、じゃねー!!」
 こいつが、そんなプレイをしていながら、一人前に『猫耳猫』を楽しんでいる気になっているということだ。
 もう、我慢の限界だった。
「……教えてやる」
「え?」
「お前に本当のRPGを、『猫耳猫』を教えてやる!!」
 そう言い放って、俺は真希の手を引いて歩き出した。
「そ、そーま?」
 あわてたような真希の言葉を聞きながら、俺は『こいつと趣味が合わなくなってしまったのはいつからだろう』と考える。
 子供の頃は、俺とこいつでごっこ遊びなんかもやった。
 俺が勇者、真希が囚われのお姫様になって、目には見えない邪悪な魔王や、空気で出来たドラゴンを倒したものだった。
 あの時のように二人で同じ物を、なんてことまでは望まない。
 ただ、真希がこの『猫耳猫』を『強靭な肉体を使ってひたすら暴れまわるゲーム』という風に勘違いしているのはまずい。
 というかそもそも、真希は根本的にRPGという物を理解していない。
 あれでは真希は、『ソロプレイ』『装備変更禁止』『スキル・魔法使用禁止』『アイテム購入禁止』の縛りプレイをしていたのと同じだ。
 序盤でイベント戦闘なしだったから運動神経だけで何とかなっていたかもしれないが、この世界はそんなに甘い物じゃない。
 俺に言わせれば、真希はゲームをしていたんじゃない。
 ただ、仮想現実世界で暴れまわっていただけだ。
 ゲームにはゲームの法則があり、術理がある。
 それを理解するとしないでは、ゲームの効率には大きな差が出る。
「ど、どこ行くの?」
 手をぎゅっと握り返しながら、真希が尋ねる。韓国痩身一号
 俺もかなり勢いだけで動いてしまったが、
「別に遠くには行かないよ。ええと……あそこでいいか」
 すぐに目的地を決める。
 そこは、初日に俺たちが泊まることを決めた居間。
 ソファーやテーブルなどがいい感じに配置されていて、適度に障害物がある。
 俺は真希を連れてその部屋の端に行くと、
「なぁ、真希。ちょっとあの向こうの壁にタッチして、もどってきてくれないか?」
「え? なんで?」
「ん、まあ、ちょっとな。あ、出来るだけ速く頼むぞ」
 真希にそんなことを頼んだ。
 俺の計画は単純だ。
 RPGの要素と言っても、イベントや装備の恩恵をここで見せるのは難しい。
 だからてっとり早く、スキルの力を真希に見せつけてやろうと思っているのだ。
 そうすれば、ゲームというのは現実と同じようにやっていてはいけないのだときちんと理解出来るだろう。
「じゃ、行くねー」
 そんな思惑も知らず、真希はそう俺に一声かけて、
「はやっ!?」
 疾風のような速度で走り始めた。
 それはミツキの洗練された、流麗な動きとはまた違う。
 野生の獣を思わせるしなやかな動きでテーブルを躱し、無茶な動きでソファーをかすめ、壁に手を打ちつける。
 そのままターンして、行きとほとんど同じ速度で俺の所までもどってきた。
「これでいいのー?」
 息一つ切らさずにもどってきた真希に、俺はああ、と上ずった声で答えた。
「それで、どうだったー?」
「え、いや、なんというか、人間離れしてるな……」
「えー?」
 真希には嫌な顔をされたが、これは素直な感想だ。
 真希の運動能力の高さは知っていたが、この世界で王女と入れ替わってからは、そのレベルは現実ではありえないレベルまで向上している。
 俺は、ちょっと間違っていたかもしれない。
 ゲーム理論を無視して天性の運動能力だけで『猫耳猫』を乗り切るのは無理だろうが、今の真希は王女だ。
 ゲーム世界のシェルミア王女と同等のスペックを持ち、それを存分に使えるとしたら、それは実に驚異的。
 王族の能力はNPCの中でも群を抜いているし、おそらく装備も優秀。
 『王都襲撃』イベントでの戦いを見ても分かる。
 もしかすると真希は、ゲーム的要素を全く使わなくても、充分な強さを発揮出来るだけの身体を手に入れたのかもしれない。
 ――だが。
「真希。これからの俺の動きを、よく見ておいてくれ」
「そーま?」
 それは絶対に、ゲーマーの壁を越えるものじゃない。

 はっきり言って俺は、運動能力では真希の足元にもおよばない。
 切ない事実だが、これは真実だ。
 高校時代、正月に羽根突き代わりのバドミントンをやって、顔中を墨だらけにされたあの日を俺は忘れていない。
 二歳年下の、しかも女の子のはずのこの従妹にコテンパンに負かされたあの時以来、俺はこいつとスポーツで勝負するまいと誓った。
 だが、ゲームの中では違う。
 ゲームなら、誰だって一流になれる。
 ちょっとボタンを連打するだけで世界記録で走れたり、ちょっとタイミングよくキー操作をするだけで名曲を奏でられたり、ちょっとしたショートカットを選ぶだけで、必殺技が使えたりする。
 俺自身は陸上選手のように走ることは出来ないし、剣の達人のように凄まじい剣技を操ることも出来ない。
 でも、スキルをオーダーすることは出来る。
 見てろよ、真希。
「これが、ゲームの、『猫耳猫』の、『普通』だっ!!」
 叫びながら、
(ステップ!)
 俺はまず、ステップで普段の俺なら絶対に出せないほどの速度で前に跳ぶ。
 加速していく身体。
 しかし、このままでは正面のソファーにぶつかってしまう。
(ハイステップ!)
 だからそのステップをショートキャンセル、ハイステップで慣性を無視して直角に曲がる。
 普通、方向転換する時、人は、いや、生き物は必ず減速する。
 今回の場合なら、まず足を踏ん張るなりして前に進む勢いを殺し、次に地面を蹴って横に進むだけのエネルギーを得て、ようやく直角に曲がることが出来るのだ。
 だが、それは現実世界のルールだ。
 ゲームのルールに則って、スキルをキャンセルした場合は違う。
 トップスピードで前に進んでいる状態から、何の前触れもなく一瞬で横に移動することだって出来る。
 跳びすぎなくらい横に跳ぶ。
 しかしそれで、俺から壁までの間に、何も障害物がなくなった。
 そこで、
(縮地!)
 コンボの締めには、当然縮地を使う。
 人間が普通に移動しようと思えば、トップスピードに達するまでに助走距離がいる。
 だが、この縮地は発動から一瞬で最高速になり、しかもその速度は人間が走って出せる限界を軽々と越えていく。
 しかし、それを使った後で硬直していれば世話がない。
 だからそのまま向こうの壁にぶつかる。
「っし!」
 その時にもちろん手が壁に触れる。
 これで折り返し!
「そーま!?」
 後ろから真希の驚いたような声が聞こえるが、気にしない。
 見た目には派手な激突で、さぞや痛いだろうと思うかもしれない。
 しかし、移動スキルの使用中に障害物にぶつかっても、大したダメージは出ない。
(エアハンマー)
 俺が壁に激突した一瞬後、狙い澄ましたタイミングでエアハンマーが俺を真後ろに弾き飛ばす。
 吹き飛ばされながら、次の魔法を詠唱。
 帰りはもう、障害物をいちいち避けるつもりもなかった。
(瞬突!)
 短剣スキルの瞬突は、上下左右どの方向にも使用することが出来る。
 背後に吹き飛ばされている状況から、振り向き動作なしで一瞬にして逆を向く。
 ソファーを飛び越えてそのまま空中に躍り出て、
(エアハンマー)
 さっき詠唱していたエアハンマーで空を飛ぶ。
 直線で移動すれば、部屋の広さは大したことがない。
 そこからもう一度瞬突とエアハンマーをつないで、
「ま、こんなもんだな」
 俺は真希の目前に降り立った。
 タイムなんて、計らなくても分かる。韓国痩身1号
 真希も人間の限界を超えたような速度で往復していたが、絶対に俺の方が早くもどってきた。
 これで、真希もスキルの有用性に気付いてくれただろうか。
「どうだった?」
 そんな期待を込め、俺が問いかけると、
「そーま、どうして人間やめちゃったの?」
「やめてねえよ!!」
 何だかすごく失礼なことを言ってきた。
 お前も大概だったからな、と言いたいのをこらえて、真希を諭す。
「な、これが、ゲームのシステムを利用した移動方法。
 つまり、ゲームらしい移動の仕方なんだよ。
 真希もこれを覚えて……」
「でも、わたしだって負けないよ!」
 だが、聞いていない。
「さっきは少し手を抜いちゃったけど、本気出せばもっと速いから」
「いや、そうじゃなくて……」
 何か真希の闘争本能みたいな物に火をつけてしまったらしい。
 引き留めようとしたが、もう遅い。
「見ててね!」
 そう叫ぶなり、真希は向こうの壁に向かって飛び出していってしまった。
 本当に、引き留める暇もなかった。
 俺は唖然としてそれを見守るしかない。
(そういえば、これが、真希だったな……)
 俺のことで反省している間は多少しおらしかったが、それが終わったらすぐにこの調子である。
 こんなことなら、もうちょっとしおれていた方がよかったんじゃないか。
 そんなことを思って肩を落とす俺の視界に、一枚の紙切れがひらひらとしながら地面に落ちていくのが映った。
「あれ、これ……」
 真希が飛び出した時に飛び出したのだろう。
 紙切れだと思ったのは、例の短冊だった。
 なんとなく拾い上げる。
 そこにはあいかわらず、『お姫様になりたい』という、口から砂糖をジェット噴射したくなるようなメルヘンな願いがデカデカと書かれている。
 が、
「あれ?」
 よく見ると、それだけではない。
 短冊の右隅に小さく、文字のような物が書かれているのに俺は気付いた。
「……リーア①?」
 何かのメモだろうか。
 小さい上に癖字なのでうまく読めないが、そんな言葉が書かれているようだった。
「なんだこれ?」
 意味不明な暗号に、俺が首をひねっていると、
「どう、そーま? 今回はさっきより……あ、だ、ダメ!!」
 もどってきた真希が、俺の手から短冊を奪い取る。
 そして、
「み、見た…?」
 何だか妙に挙動不審な様子で、そんなことを尋ねてきた。
 見たというのは、あの端の方に書かれていたおかしな文字列のことだろうか。
「まあ……見た、けど」
 俺がそう言うと、真希の顔が見る間に真っ赤になっていって、

「そ、そんなんじゃないからぁ!!」

 なぜか大声で叫ぶと、後ろも見ずに部屋の外に駆けだしていってしまった。
「あ、おい、話し合い……」
 無人になった部屋に、俺の言葉だけが虚しく響く。
「なんだったんだ、あれ」
 真希はいつも訳が分からないが、今日はいつもにもまして意味が分からない。
 異世界に来たところで、真希は真希だということだろうか。
 安心出来るような困るような事実を発見したところで、とりあえず、今日の教訓。
 ――真希と俺は、やっぱり合わない!!新一粒神

2012年12月12日星期三

襲撃

一〇〇〇人もの人間が、一人残らず動きを封じられている。殺すのは容易いが、無力化するのはとても骨が折れるものだ。
 しかし今、王国軍の前に広がるのは、倒れたまま呻いている人間たちばかり。圧巻の光景だった。花痴
 敵である前にエリステインの国民である。救う手間が増えたのは確かだが、自国民の救済を面倒だなどと感じる人間が、正規軍に籍は置けない。罰するかはこれから決めること。まずは保護が先だ。部下にその対処を命じたベラは、彼らのてきぱきとした働きぶりに目を細めていた。
 次々と報告が上がってくる。死者はいないという報告が。
 奏の提案が正解だったのは、この結果を見れば明らかだ。殺さずに沈黙させた奏の功績は大きい。
 そう考えれば、ベラは奏の身を案じずにはいられない。
 太一に手を出そうというバカは彼の力を知ればいなくなるだろうが、奏はその限りではない。奏の実力が世界屈指だとベラは太鼓判を捺している。それでも、彼女は人間の範疇を出ていない。自分の言葉がおかしいとベラ自身も思うが、それでもこの表現は間違っていないと思う。
 自分の身を守るための選択をしなければならない。レミーアのように、世間から距離をおいた生活を強いられることになるか、或いは自分のように組織に所属するか。最後の選択肢は、太一の側を片時も離れないか、だ。選びやすいのは三つめか。自由がない生活は受け入れなければならないだろう。まあ、奏という少女を知っていけば、三つめの選択肢で問題ないという答えに行き着くのだが。
 どれほど時間が経過しただろうか。横で電撃の魔術を練習していたレミーアがベラに声をかけた。先程の電撃魔術の制御が、彼女的には納得いかなかったらしい。あれだけコントロール出来るなら充分ではないか、と思わずにはいられないレベルの話である。
「ベラ。あいつらを行かせて良かったのか?」
 魔術の練習を止めて、レミーアはベラに顔を向けた。
「問題ありません。むしろ願ったりの申し出でしたので」
「お前の独断ではないか?」
「伊達に軍で二番目の地位にいません。スミェーラ将軍にも、もちろん陛下にも、私がきちんと説明します」
「偉くなったもんだ。昔はゴブリン(ざこ)相手にびくついてピーピー泣いていた小娘が」
「レミーア様!」
 耳まで真っ赤にして大声をあげるベラ。
 上官にもそんな時代があったのか、と、周囲の兵士たちが聞き耳を立てているのが分かる。もちろんそれはベラも気付いたことであり、彼女はやおら魔力を活性化させ、たっぷりと威圧感を乗せて撒き散らした。ぎゅぴーん、と目が光ったように、レミーアには見えた。実に愉快な光景である。
 蜘蛛の子を散らすように慌てて離れていった部下たちを見詰め、ベラは大袈裟にため息をついて肩を竦めた。あれで仕事はきちんとこなしているから、強くは咎められない。優秀な部下を持つ上司の贅沢な悩みである。
「レミーア様こそ、行かなくてよろしかったのですか?」
「私が行く必要があると思うか? タイチ、カナデ、ミューラがいるというのに」
 レミーアが挙げた三名の中で戦闘力で一番劣るミューラでさえ、騎士と宮廷魔術師を合わせたような実力があるとレミーアが評価しているのを思い出し、ベラは素直に戦慄を覚えた。
「それに、あいつら、特にタイチとカナデには良い勉強になるだろう。本物の対人戦闘の経験を積むという意味でな」
 彼女の言いたいことが良く分かったベラは、それ以上異を唱えはしなかった。
 内乱に携わった以上、避けて通れる道ではない。まかり間違えば人を殺めてしまうかもしれないが、それもまた、この世界では普通のことだ。戦争となれば尚更である。
 レミーアは、自分の目が届く範囲では最大限気を配ろうと考えている。しかしいつ何時も共にいられると約束は出来ない。
 人を殺めるかもしれないという覚悟はもちろん、慣れておいて困ることはない。共に行かなかったのも、過剰戦力というのも理由のひとつだが、レミーアのフォローが受けられないという状況も経験してもらった方がいいと思ったからだ。
 必ずしも正解だと自惚れているわけではない。しかしレミーアなりの親心である。本人たちがこの意図に気付いているかは別にして。


◇◇◇◇◇◇


 荒野から王都に戻り、歩くこと二〇分。目的地までもうすぐと告げられ、太一たちは気を引き締めた。
 王都ウェネーフィクスは、敷地内に隙間なく建物が建てられている訳ではない。王都の中を小さな川が流れているし、池があれば林も存在している。それらを利用した畑や牧場もあるのだ。
 メインストリートから離れるように歩けば、様々な顔をのぞかせる王都。
 ふと太一の目に、人だかりが飛び込んできた。人の往来が少ない状態の王都において、そこだけが異様と思えるほどに人が多い。
 興味深げな目をしている太一の視線を追いかけたミューラが「あれはレージャ教の教会ね」と言った。アズパイアには教会はなかったので気にも留めなかったが、この世界にも宗教があるようだ。
「外の出歩きを非推奨している今、人々の暮らしを支えるのは商業組合から代理販売を請け負った国かレージャ教なんだ」
 ここまで太一たちを案内してくれた宮廷魔術師の青年が答える。
 商人にも等しく外出を自重させているため、市場が回らなくなる。しかし日々の食料は生活していれば無くなっていくのだ。国民を飢えさせるわけにはいかない。言ったからには国が責任を負っているというわけだ。そしてそれを手助けしているのが、前述のレージャ教らしい。この世界唯一の宗教であり、世界すべての国にて『人類の未来を救うために今を救う』という教えのもと、布教活動を続けているという。D10 媚薬 催情剤
「如何せん人が不足気味だから、彼等にはとても助けられているよ」
 今を救う、と、口にするだけでなく行動もしているということか。信念がどうであれ、吐いた言葉に責任を取るには行動で明かすしかない。どこかの国の政治家にも聞かせてやりたいものである。
 彼等を横目に見ながら、太一たちは目的地へ足を止めない。たまに群衆からこちらに目を向ける者がいるが、宮廷魔術師と共にいるため、特に咎められることはない。これが太一たち三人だけなら、「早く家に帰れ」と忠告されていただろう。
 更に歩くこと一〇分弱。大きな屋敷が見えてきた。物陰から覗き見てみる。これだけの大きさの屋敷は、土地の限られる日本ではちょっと見掛けない。もう宮殿といっていいかもしれない。土地も当然ながら広い。
「これが、サーワハ伯爵邸だよ。どうする?」
 興味があるのだろう。青年が問い掛けてきた。
 どうするも何も、作戦などある訳じゃない。
 代表して奏が「小細工なし。正面から行きます」と言った。キョトンとする青年をよそに、三人は身を隠していた角から身を踊らせ、スタスタと正門まで歩いていった。
 門番が三人の前に立ちはだかる。
「何用だ」
「サーワハ伯爵に会いたいんだけど」
 前置きもなしにそう告げた太一に対して、門番の男は露骨に警戒の色を浮かべる。今は戦時中である。それでなくてもアポなしで貴族を訪ねるというのはよほど切羽詰まっているか、大切な用があるかだ。聞き入れられる筈はなかった。
「帰れ帰れ。どうしても会いたくば、書簡で約束を取ることだな。伯爵様が会う価値があると判断してくだされば、二週間後くらいにはお顔合わせが出来るだろう」
 返された答えに、太一は「仕方ないな」と呟いた。門番としては当然のリアクションである。ほいほいと会えるような人物ではないのだ。
 妙な奴等が来たものだと門番は思ったが、この後の三人の行動は、彼の想像を越えていた。
「分かった。押し通る」
「何? が……」
 後頭部に鈍い衝撃。崩れ落ちる門番の後ろで、いつの間にか彼の背後を取っていたミューラが、剣の柄を掲げていた。そこで殴打したようだ。
「奏」
「ファイアボール」
 ゴオンと腹に響く音と共に、門が吹き飛んだ。ド派手な侵入である。いや、これは最早侵攻だ。
 爆発と共に門が吹き飛べば、それはそのまま警報となる。怒号を上げながら、何十人と武装した男たちが現れた。
 向かってくる人の波に臆すことなく、太一たちも徐々に速度をあげて向かっていく。
 始まった乱戦を目の当たりにして、案内役の青年は唖然としていた。まさか伯爵家を相手に正面突破をやってのけるとは。自分達の実力に自信がなければとても出来る芸当ではない。ベラには「参戦しなくていい」と言われているため、彼の仕事と言えば退路の確保くらいだ。
 しかしそれも、彼らの闘いを見れば必要性を感じない。悠々と戻って来るのだろうな、と想像がつく。個々の力が飛び抜けている上に、連携もかなりできているのだ。
「自信なくすなあ」
 青年は苦笑した。彼とて人から羨ましがられるような実力者だ。しかし今に限っては、比較対象が悪かった。

 太一は二〇の強化を施し、肉弾戦で戦っていた。どんなものだろうと最初は一〇の強化で戦っていたのだが、一人二人なら問題なくても、これだけ数が多いと死角のフォローに限界があることが分かったのだ。しかし、対する方はたまったものではない。一〇の強化でも戦士として強いのに、いきなり強さが倍加したのだから。太一の動きを追うだけで大変だ。
 太一の武器は拳と蹴りの格闘だ。決して楽な戦いではなかった。スペックでは明らかに上回ることが出来ているが、殺さぬように相手を倒すのが大変である。
 基本はボディと顎狙い。気絶を狙った攻撃だ。殴る相手が魔物から人になると、こうも精神的な疲労が強いとは思わなかった。レミーアが言っていたことは大当たりだったのだ。
 斜め後ろから来た斬撃をひらりとかわし、顎を撃ち抜く。魔物を殴ったときと違う脆い感触が手に残る。これでも大分手加減している。もう少し力を込めていたら、首の骨を折ってしまっていただろう。今のでさえ、顎の骨にヒビが入ったかもしれない。その前兆はあった。顔面を狙ったハイキックを放ち、防がれはしたのだがぼきりというなんとも言えない感触が残った。腕の骨を折ってしまったのだ。オーガの首の骨を折ったこともある太一だが、それが人のものとなれば、抱く感想はまるで変わってくる。
 普通に考えれば相手の腕を折るくらいで申し訳ない気分にはならない。相手とて必死である。抜き身の刃で殺すつもりで斬りかかって来られているのだから、腕の一本や二本折った程度でどうこう言う必要はない。
 それでも申し訳ない気分になるのは、太一にとってこの戦闘では命の危険をまるで感じない故である。
「対人戦闘って気使うなあ……」
 ぽつりと呟く。けたたましい戦闘の音にかき消された。
 今後も対人戦闘は増えていく。やむを得ず出撃して、力加減の手探りから始めるのはあまりよろしくない。味方の命も掛かっているのだから。
 であれば、自分からその場所に飛び込んでいくというレミーアの助言はもっともだと思ったし、今ならばいい意味で気を使わなくて済む面子だけで戦えている。
「くそ! 何だこのガキ!」
「取り囲め! 一斉に行くぞ!」
 周囲を囲まれるのはかなりのピンチだ。だが、太一が抱いた感想は違う。「作戦明かしちゃっていいの?」だ。この程度はなんのことはない。
 周囲を囲むのは一〇人強。一斉にとは言うが、一度に全員はさすがに来ないだろう。味方の攻撃まで阻害しては数の優位を保つ意味がない。
 まず向かってきたのは正面から二人。背後から一人。そして、真横から石が飛んできた。
「おお」
 石を避けると隙が出来る。太一はそれを受け止め、握り潰して粉々に(・・・・・・・・)した。それを正面に向けて投げる。散ったのは砂。効果は抜群で、正面の二人は勢いを緩めて目をかばった。
 彼等を一旦スルーして、太一はくるりと振り返る。強化した聴覚は、背後から向かってくる男のスピードと距離をざっくりでも把握することを可能とした。
 驚く衛兵に向かい、太一は振り返る動作の慣性を利用して後ろ回し蹴りを男の脇腹に直撃させた。
「ぐほっ」
 呻き声を上げて地面を転がる男には目もくれずに、身体の向きを目潰しをかけた二人に向け飛び掛かった。二〇の強化を施した太一の身体能力は、体操選手世界チャンピオンを数倍単位で上回る。地面に手をついて前回り程度は簡単な動作である。反動で人を飛び越える高さまでジャンプし、両足を外に広げて二人の頭を同時に蹴り飛ばした。紅蜘蛛(媚薬催情粉)
「ぐっ!」
「があっ!」
 たん、と軽やかに着地した太一に、取り囲んだはずの男たちが二の足を踏んでいる。それはアドバンテージを自ら放棄する行為。
「来ないならこっちから行くぞ」
 律儀に宣言し、太一は目に映った衛兵に向かって駆ける。既に相手を呑んでいた。

 奏は自分の手数の多さによる難しさを実感していた。相手を殺さないように、負わせる怪我も最低限にして攻撃をする。目的はそれであり、それを実行するのが難しい。
 炎系の魔術は相手に火傷を負わせてしまうためNG。
 氷系の魔術も持続的に凍らせてしまえば凍傷の危険があるのでNG。因みにかつてマリエに撃った時は効果を一瞬で解除したので問題なかった。
 そうすると残るのは水属性、風属性、土属性か。
 水も風も土も、打撃を与える目的で行使するのなら悪くはない。奏は、あまり使う機会がなかった土属性魔術をメインに据えることにした。
 石を相手の進路などに叩き付けて牽制したり、砂煙を巻き起こして視界を奪ったりと、実に様々な使い方があり、とても便利である。
 そして、中小人数の対人で奏的にもっとも有効だと思う魔術がこれだ。
「うおお!」
「穴ぁ!?」
 こちらに接近していた四人を一撃で落とし穴に放り込む。深さは大体三メートルから五メートルといったところだ。出られない深さではないが、もちろん容易くやらせはしない。
 穴の底を田植えをイメージして膝まで浸かる泥にしたり、またカチカチの氷にしたり。受ければ厄介極まりないトラップで次々と穴に落としていく。
 周囲にいくつか穴を作ったところで、「やりすぎる」可能性が出る方法だと実感した。穴だらけにしてしまうかもしるれないのだ。這い上がれない相手に対しては足止めとして十分な効果があるが、這い上がれる相手に対しては一時しのぎにしかならない。そんな欠点も、考えているうちは良いと思っても、実際に使ってみなければ気づかないことだった。
 この魔術は使い所を吟味する必要がありそうだ。自分だけならいいが、味方の邪魔をしては意味がないし、問題なく抜けれる相手に対して使う場合にはもっと脱出しにくい構造を考える必要がある。
 ひとまず落とし穴は横に置いて、奏は素直に行くことを決めた。水鉄砲で相手を吹き飛ばす方針に切り換える。落とし穴の存在が相手の進路を制限する。際限なく水鉄砲を放つ奏は、衛兵たちにとって相当な脅威だった。

 三人の中で一番オーソドックスな戦闘をするのがミューラである。
 剣術と強化魔術を軸に、牽制に炎や石を使用する。近距離から中距離を得意とする剣士。それがミューラという少女だ。
 三人の中では、ミューラがもっとも与し易いだろう。彼女が、もっと弱ければ。
 太一、奏と行動を共にするようになって、ミューラはめきめきと腕をあげてきている。奏やレミーアほどでないにしろ、素質そのものはもともと高かったのだ。これまでは慌てる必要がなかったために、ゆっくりとしたペースで修行を重ねていた。そんな日常を過ごすなかで、突如ミューラの前に現れた異世界の二人。
 圧倒的な素質と、それを生かすセンスに舌を巻いた。今後も共に行動していくことになるだろう。そう考えたときに、いい意味で焦燥感にかられた。
 威力では逆立ちしたって太一に敵わない。
 魔術のバリエーションでは異世界の知識を駆使するフォースマジシャンの奏に敵わない。
 幸いというべきは、嫉妬するのもバカらしい程、素質に差があったことだ。だからこそ、前向きに自分の得手を磨くと素直に決意できた。
 自分の得意は剣。
 デュアルマジシャンであり、魔力量も魔力強度も宮廷魔術師の基準を大きく上回っている。
 太一と奏が特別だと考えればいい。ミューラだって人から羨ましがられる素質を持っているのだ。
 レミーアという最高の師の元で築き上げた土台が、ミューラを支える。
 王都に来て宮廷魔術師の魔術を見学する機会があったが、魔力の操作などは劣っていないと自信を持てる。
 騎士のかかり稽古を見て、独学にしては悪くない剣術を使えていると実感できた。
 けれん味のないオーソドックスな魔術剣士のスタイル。正攻法で得られた強さ。
 実質的なスピードでは太一の方が明らかに速いが、ミューラには『遅く見せる』技術がある。相手の視覚を惑わして間合いに入り、先手を打てる。剣を振るいながら同時に魔術を紡ぐことができる。戦闘における技能を全体的に見れば、ミューラは太一と奏の二人を上回っているのだ。
 片刃の剣を普段と逆に持ち、目の前の相手に容赦なく剣を叩き付ける。切れないだけましだが、そんなのは慰めにならないほどの殴打の一撃が次々と加えられていく。
 二人との差をもっとも顕著に現すのが、対人戦闘での躊躇いの無さである。今回はなるべく殺さない、という制限がかけられているが、必要とあれば峰ではなく刃の方で剣を振るうことも、ミューラは厭わない。
 人殺しが好きだ、などという猟奇的な性癖は持っていないが、殺さなければ殺されるという常識の世界で剣を取った以上、そこに忌避感が過剰に入り込んでは命を落とすのはミューラの方だからだ。
 むしろ人を殺すのを躊躇っていても命の危険が少ない太一と奏の実力が非常識なだけである。
 横合いの衛兵が剣を振りかぶるそれを受け止めようとして、ミューラの直感が警鐘を鳴らした。膂力を大幅に強化し、横から振り下ろされようとしている剣を横薙ぎの一閃で半ばからへし折った。そのまま半歩ずれながら振り返り、背後をとっていた男の足下を刈る。
「ぎゃあ!」
 膝を砕かれて悲鳴を上げ、のたうち回る男には一瞥もくれずにくるりと回転し、剣を折った男の上腕に剣の峰をめり込ませ、弾き飛ばした。
 同時に発動させた土属性魔術で石を生み出し、膝を砕いた男の鳩尾にぶつけて気絶させた。
 隙を見せない流れるような連続攻撃。ミューラにもっと容赦がなければ、今の一瞬で二人は絶命していただろう。
「くっ! 退け! 立て直せ!」
 指揮官の判断は遅かった。こちらを牽制しながら引いていく衛兵たちの数はものの五分の戦闘で半分近く減っている。
 衛兵たちの被害は上層部に伝わっているはすだ。伯爵家の戦力から考えれば、もうすぐ主力が出てくるだろう。
「カナデ」
「うん」
 奏は杖を取り出して魔術を紡ぐ。
 数えて凡そ三〇秒。衛兵たちの退路の先に、三発の稲妻が落ちた。網膜をつんざく光の奔流と鼓膜を揺るがす轟音が彼らの足を止め、地面を伝わった電撃で数人が崩れ落ちる。
 逃がすわけがない。太一たちの意図は伝わっただろう。紅蜘蛛 II(水剤+粉剤)
 戦闘開始から四〇分。たった三人の襲撃によって、サーワハ伯爵家は半壊滅的な人為的ダメージを負った。
 重傷者が多数出たものの、死者ゼロという結果を残して。

2012年12月10日星期一

暗黒物質

レイナがふわっと優しい笑顔になった。
 宇宙を航走するトラヴェリンプレイヤIIの操縦区劃で、ジェイムズとクリスティは、はじめて見るキャプテン・ジャックの表情に驚いて視線を交す。しかし笑顔はすぐに平生の皮肉なものに変り、船長は操縦席で舵を取る副長のスティレットを呼んだ。紅蜘蛛(媚薬催情粉)
 船を自動操縦にしたスティレットがやってくると、レイナは全員が見える高さにスクリーンを泛べる。映ったのは精悍と洒脱を同時に漂わせるネグロイドの男だ。
『レイナ?』
「もちろんわたしだ。あんたが呼んだんだろう」
『そりゃそうだが……個人通信デバイスにおまえを呼び出すためのファイルを作っといて、そいつをオンに書き換えれば即座におまえから連絡がくるなんて、魔法の角笛じゃあるまいし』
 スクリーンで男が両手を掲げる。
『だいたい、俺の船のセンサーはトラヴェリンプレイヤIIを捉えてないぜ。なのにこの通信にはまるでタイムラグがない。天文単位じゃなくキロメートルで測れる距離にいるみたいだ』
「我々は二〇一七光年離れている」
 男の両腕が弧を描いていっぱいに開いた。
『おまえ、通話交換手をやれよ。超光速通信承りますなんてとてつもなく儲かるぞ』
「ウクニェ、レイナを呼んだのはむだ話のためなのか?」
『よお、ひさしぶりだな、スティレットおじさん』
 トラヴェリンプレイヤIIの副長は若々しい額を指で支える。
「おじさんは止せと言ってるだろう。俺はあんたの叔父じゃない」
『冷たいな。あんたは親父の兄弟分で、俺のことも甥っ子同然にかわいがってくれたのに』
「キャプテン・ウンクルンクル、あんたはもうとっくに子供じゃないぞ」
 ユニオンの船長らしい男が眼を眇める。
『レイナ、そこの超美少年は、もしかしてクリスティ王子か?』
 問われたレイナは脣の片端を上げ、クリスティに一礼する。
「王太子殿下、星間運輸業者組合加盟員のキャプテン・ウンクルンクルことウクニェです。スティレットと二百年以上に亙り親しくしていた機関士の息子で、現在のユニオン執行部の強引な組合運営には反対、信用のおける男です。ウクニェ、こちらはハイランドフォールズの王位継承者、クリスティ王太子だ」
『殿下、ウクニェと申します。お見知りおきを』
 作法に則り完璧な礼をしたウクニェが表情をひきしめる。
『お悔みを申しあげます。殿下の御悲嘆には及びもつきませんが、私も数年前に父を亡くしまして。いつまでも導いてくれると思っていた存在がいなくなるのは辛いことです。ですが、父は私に、困難をのりこえる強さを与えてくれていました。父王陛下も同じかと』
「ありがとう、キャプテン・ウンクルンクル」
 クリスティはほほえんで会釈した。ジェイムズは友達の躯を視る。ストレスの徴候はかなり消えている。もちろん完全にではないが。ジェイムズはハイランドフォールズをユニオンの占領から救うためならなんでもしようとあらためて強く思った。
『さて、用件だが』
 ウクニェの口調が変る。
『ユニオン史上二度めの組合総会開催要請にめどがついた。会議が巧く進めば執行部の暴走を止められる。だが拙く運べば反執行部派がたたきつぶされて終りだ。執行部の表も裏も承知したスティレットの助言が欲しい。会えないか』
「分った。トラヴェリンプレイヤIIはランカスカの近傍にいるんだが、来られるか?」
『ランカスカは好いな。五十年前に情報拠点星系最大手のエトワールが疑似重力事故と直後の政権交代で混乱したとき、ランカスカは情報拠点星系としてのまきかえしのきっかけをつかんだ。大昔の宇宙一繁盛してた頃に較べたら滓みたいなもんだが、今じゃ中の上クラスの情報拠点で、この数年は外国投資もどんどん呼びこんでる。両替をソーズがにぎってて政府が通貨価値を操作するのは無理でも、公定歩合は好きにできるからな。高金利めあてにもともと外資が集まってたところへ、ユニオンと連盟の大戦争の噂で投資先に困った資金がてっとり早く利鞘を稼ごうと大量に流入した。金と情報があるところには人が集まる。ユニオン船も犇いてるから、無用な注意も惹かずに反執行部の仲間と会える』
 レイナが頷く。
「誰と会う? 全員を招集するか?」
『全員でなくてかまわんが――おまえ、銀河系中のどこにいる可能性もある船の現在位置が判るのか? ストレンジャーの力はたまげたもんだな』
「わたしの力じゃない」
 そっけなく肩を竦めるキャプテン・ジャックにキャプテン・ウンクルンクルが質問を重ねる。
『なら誰の力だ?』
 脣は笑ったまま、レイナの眉根が僅かに寄る。
「言っても信じない」
『レイナ、おまえがほらをふくような奴じゃないのはみんなが識ってる。俺がおまえの言葉を疑ったことがあるか』
 レイナの笑顔がほんの一瞬、苦笑にちかくなり、元に戻った。
「あんたが呼んでいると教えてくれたのはヴィエナだ。彼女には反執行部派船長の船の位置も判る」
『ヴィエナって、まさか、ドリーミングジュエルアイド・ヴィエナか?』
「ほら、信じないだろう」
『もちろん信じるさ。ただ――』
「無理をするな。信じてくれとは言っていない」
 釈明を続けるウクニェをレイナがいなす背ろできょとんとするジェイムズにクリスティが説明する。
「ドリーミングジュエルアイド・ヴィエナっていうのは、船乗りが死ぬ間際に訪れて人生のすべての傷を癒し、安らかな死出の旅へ送ってくれる、夢みる宝石の瞳の少女のことだよ。ユニオンの船乗りの伝説――一般的には伝説とされてるんだけど、レイナがああ言うんだから、伝説じゃないのかしら」
「レイナは赤ん坊の頃からヴィエナを知っているそうだ」
 スティレットが少年たちの隣に来ていた。
「虚界を通じていつでも話ができると、いちどだけ話したことがある。そのときレイナは十五歳だったか……いつも大人びて隙を見せない彼女が齢相応の笑顔になったのを憶えてるよ」
 ジェイムズはさきほどの優しい笑顔を憶い出した。ウクニェが呼んでいるとヴィエナに教えられたのがあのときだろうか。
 ヴィエナはキャプテンにとって特別なんだ。
 そう思うとなぜだか心が揺れて、ジェイムズは慌てて自律神経のバランスを調節した。
「ドッキング完了。ハッチを開く準備ができたら連絡する」
『了解』
 ウクニェの声はこんどは通常通信で届いた。
 キャプテン・ウンクルンクルの船がランカスカ星系近傍で実時空に出、精確な位置をレイナが感じとってトラヴェリンプレイヤIIをその宙域へ動かした。相対速度を調整して連絡ハッチを接合させ、これからスティレットがあちらの船へ乗りこむ。
「ランカスカ外港で反執行部派の船長たちと話をしたあと、いろいろとあたって情勢を探ってくる。おまえのほうの調査が終ったら俺をみつけてトラヴェリンプレイヤIIへ連れ帰ってくれ。それまでは俺は放っておいて宜いぜ。ジムとクリスを船に残していくんだから、彼らをしっかり視ててやれ」
 ハッチの前でスティレットの言葉にレイナが応える。
「おまえのことは心配していない。わたしの年齢の十倍以上も宇宙を飛んできた船乗りのめんどうなどとても看られないさ」
「レイナ?」
「変装がよく似合ってるな」
 片眉を上げた副長は、平生の船内服でなく、雑踏にとけこみ易いカジュアルなスタイルだった。いつも撫でつけている前髪も垂して髪色を明るめにし、ずいぶん印象が違う。
「三百歳くらい若く見えるぞ、スティレットおじさん」
 顔を顰めてハッチの向うへ消えるスティレットを見送ったレイナは、緩んだ頬をひきしめてジェイムズとクリスティが待つ操縦区劃へ戻る。
「トラヴェリンプレイヤIIはこれから虚界に入り、首都惑星の海中へ出る」
 船長がこともなげに言うのにクリスティが息を呑む。
「ぼくは船乗りでも虚界物理学者でもないからまちがっているかもしれないけど、水分子が充満する空間へ船一隻分の物質を出現させたら、大規模な核融合がおきるんじゃないの?」
「宇宙空間が真空だと思うか? 虚界航行では星間塵や素粒子を含めて時空の置換を行う。ストレンジャーの船長なら海水と船の置換も完璧に熟す。心配は無用だ」
 それはほんとうだった。クリスティの菫色の瞳が思わず閉じた瞼に隠れる間に、外部センサーの表示スクリーンが変化した。闇黒の背景に泛ぶ星がゆらゆらと動く。真空に瞬かない恒星や銀河ではない。深海を漂うマリンスノウだ。核融合どころか船殻の分子一つも損わずに、レイナは船を海中に移していた。紅蜘蛛 II(水剤+粉剤)
 トラヴェリンプレイヤIIが虚界に入った次の瞬間、ジェイムズは喪失を感じた。宇宙空間から宇宙空間への移動では感じなかったものだ。船に等しい質量の海水が船と置き換るのを感じとったのだろうか。反射的に船があった宙域を視る。氷のかけらもなにも、海水の痕跡はなかった。時空の置換と言っても単純に物質の位置を交換するわけではなさそうだ。では海水はどこへ?
 数えきれない数の船が六百年ちかくも虚界航行で移動してきた。一隻の移動で消える物質は無に等しくても、累積すればどれほどになるだろう。
 ジェイムズの思いはレイナの指示でとぎれる。
「結晶の森へ向う。首都大陸とは別の大陸で原始の海岸線が多く、監視衛星の走査にも穴がある。古木の虚が海に続いているところへ浮上し、船は虚の内部に停泊させる。わたしは首都大陸でいくつか調査をしたあとスティレットを伴って戻る。ジェイムズ、それまで周囲をよく視ていろ。まずあり得ないがトラヴェリンプレイヤIIが走査されるようなことがあれば攪乱するように」
「はい、キャプテン」
 クリスティの表情が曇るのをレイナは見逃さなかった。口調は変えずにジェイムズへの指示を続ける。
「それと、システムネットへの安全な接続を保て。ここからの接続だと悟られるな」
「はい」
「クリスティ」
 ストレンジャーの力でレイナを助けるジェイムズの隣で無力感におちこむハイランドフォールズ王太子が、船長に声をかけられてびくんと顔を上げる。
「ランカスカは情報拠点星系だ。システムネットでどんな小さなことでも宜いから戦争阻止に有用な情報を探せ。ハイランドフォールズ貴族の教養は広くかつ深いはずだ。雑多な情報を有機的にむすびつけて意味を見出す能力はあるな」
「はい!」
 少年の瞳が輝く。クリスティが喜ぶのを視てレイナの報酬系も活性化したが、彼女がそれを躯の外に表すことはなかった。
 ランカスカはウクニェの言葉どおり好景気に沸いていた。体表面の光の散乱を変えて別人に見せたレイナどころか服装と髪型を変えたスティレットをそれと見分けるのも難しそうな数の群衆が首都を忙しなく行き交う。
 レイナは観光客に雑って展望塔の最上階に立った。壁と床は強度も透明度も最高クラスで、空中浮揚気分で首都全域を見渡せる。高所恐怖に騒ぎながら仮想現実でなく現実の視覚で鳥瞰図を堪能する観光客から一歩下がり、塔の支柱に凭れて半覚醒状態に入る。
 ストレンジャーの力のみならず視覚も十全に活用する。
 ジェイムズに視覚情報を採りすぎるなとは命じても、視覚を使うなということではない。ストレンジャーはそもそも周囲のあらゆる情報を感じてしまう。情報の効率的な取捨選択が重要で、ヒトの五感は不要な情報をきりはなす助けになるのだ。
 星系外縁にいるよりも首都惑星にいるほうが、結晶の森の大陸にいるよりも首都大陸にいるほうが、求める情報は効率的に捜せる。そして捜す対象が存在する蓋然性の高い区域が判ればそこに近づき、さらにクリアに情報を感じる。
 しばらく探っても情報のありかは感じとれなかった。
 レイナの力はいかなるストレンジャーをも凌駕するとは言え、全能ではない。諸々の謎の背後に朧に泛ぶヴィクター――連盟のストレンジャー研究の責任者でありながらソーズに所属する医師の素性を調べにランカスカまでやってきたが、彼が太陽系に移住したのは二百年以上も前のことだ。当時のランカスカは国そのものが破綻しかけており、公的記録の管理も杜撰だった。
 袖を引かれる。
 背ろにいるのが誰か判って防犯センサーの記録を改竄する。同時に周囲の空気と光の振動を調節して観光客の眼と耳も欺く。
「わたしはお尋ね者なんだ。現地政府の注意を惹きたくない。自分がどんなにめだつ存在か解るか、ロザリンダ」
 純白と真紅の細長い布を巻きつけて金色の環で留めたような衣裳、無風でも靡き続ける月光色の髪、紫から赤まであらゆる色を無限の彩度で映す夢みる瞳の少女に諄々と言い聞かせる。ロザリンダは、彼女を支配する者――それが誰なのかレイナには不明だ――が必要と判断した知識以外の記憶を長期に保存しない。どんなに外見を変えようがレイナを忘れることはないものの、以前のことは憶えていないのがふつうだった。
「分っているわ。今は特別なの。わたしに追いてきて」
 ロザリンダはきっぱり言うとリフトに向った。少女を追うレイナが訝しむ。ロザリンダに天真爛漫な笑顔がない。厭な記憶と無縁のロザリンダはつねに純粋な幸福に溢れているのに。
 二人――ランカスカ経済が好転してようやく街の要所に設置されるようになった監視センサーにとっては変装したレイナ一人――は街外れに着いた。復興においていかれた地域のようで、二百年前のままかと思わせる朽ちかけた建物が雨晒しになっている。
 そんなビルの一つの前でロザリンダが立ち停った。
「往昔ランカスカの役人だったひとが、死ぬ前の何年かここに住んでいたの。彼女が執務していたのは二百年ほど前、大混乱の時代に可能なかぎり仕事を全うしようとした。その仕事は市民の移住記録の管理よ」
 ロザリンダが見上げる一室の内部を視る。主が去ってから略奪に遭ったらしく乱雑な室内の隅に、小箱がみおとされて遺り、中には旧式のデータキューブがきれいに並んでいた。
「当時はエネルギー供給も不安定だったしデータベースの不適切な運用も珍しくなかったわ。そこで彼女は已むなくデータを自分で保存して守ることにしたの。ランカスカが最悪の状況から脱し始めた頃、彼女は汚職に協力するのを拒んで役所を追われた。ランカスカ政府が元どおりきちんと機能するようになったらデータベースの精査に役立てようとたいせつに保管し続けたデータキューブを、彼女は生涯手許に置いたの。年金も受給できずに困窮しながらも清廉に生きていた彼女が、荒んだ少年たちになんの理由もなく嬲り殺されたとき、わたし、最期の何分か一緒にいた。厭な記憶をわたしの心に移して、幸福な記憶に癒されて息をひきとった彼女の笑顔を憶えている」
 レイナは驚愕をなんとか隠した。
「ロザリンダ……記憶が、あるのか?」
 夢みる瞳の少女がほほえむ。その笑みは天真爛漫とは遠く、彼女の半身であるドリーミングジュエルアイド・ヴィエナの哀しい笑顔にそっくりだった。
「今は特別だって言ったでしょ。このあいだヴィエナに会ったとき、彼女はだれにもないしょで、わたしにいくつかの記憶を戻してくれたの。あのデータキューブのことは、レイナが識りたがるはずだって。視て」
 ロザリンダに促されるまでもなく浪費する時間はない。この地域に監視センサーはないとは言え、一箇所に長居すべきではなかった。レイナはロザリンダに、また、虚界を通じてヴィエナに、問い質したい気持を抑えてデータキューブを視た。
 ヴィクターの移住記録は、連盟本部最高機密エリアで視た太陽系の永住外国人名簿には載っていても、故国ランカスカの公的記録には残っていなかった。現在のランカスカ市民台帳にヴィクター・ワンの登録はない。
 二百年前の生データでは、彼は一時出国者の扱いだった。
 二百年前にランカスカを後にした市民の記録が不完全なのは当時の状況に鑑みれば理解できなくはない。しかし、銀河統合連盟加盟星系、とりわけ太陽系の出入国管理は厳格だ。移民受容れはもちろん外国人に永住資格を与えるに際して出身国に於ける身許調査を怠ることはあり得ない。太陽系から調査要請があれば通常それは記録される。
 ヴィクターの太陽系永住資格取得は特殊な状況で行われたのだ。それは、彼がソーズだったから?
 太陽系の登録ではランカスカ人となっているヴィクターの住所は冥王星ステーションのソーズ自治区だ。ソーズは徹底した秘密主義の集団で、外部の人間が立ち入れるのはソーズ事務所と呼ばれる渉外窓口のみ。元エトワール警察長官のモニクが記憶しているとおりヴィクターはソーズの一員のはずだ。また、外部の人間がソーズに加入した例はソーズ設立以来識られていない。
 ヴィクターはほんとうはランカスカ人ではないのか?
 ヴィクターのデータには両親の情報もあった。データキューブ内の情報をすべて視る。
 父方の家系は植民初期から代々ランカスカで暮してきたが、母方は違う。母方の先祖は太陽系からの移民だった。銀河統合連盟結成以前、太陽系統合連盟ができるすこし前に混沌の極みにあった地球を離れた人々の一人で、現在では消えてしまった民族の出身だ。
 ソーズはその大和民族の容姿をとる。
 ヴィクターの母方の一族はソーズと関連があるのか。
 ソーズは第一に両替商だが、人類居住星系総てに事務所を置く利点を活用して広汎な分野で営む代理業からも莫大な利益を得ている。彼らは傘下の代理業によって蒐集した各種の情報を通貨価値の査定に活かし、その結果ソーズの相場はほぼ実勢レートに等しくなって、どこの政府も自国通貨の両替をソーズに任せる。ソーズは人類宇宙唯一の両替商の地位を守るため絶対公正中立を堅持し、集めた情報を濫用することはないとされる。紅蜘蛛赤くも催情粉
 だが、濫用はないと誰が検証できるだろう。ソーズ内部は完全なブラックボックスなのに。
 ランカスカは人類の太陽系外植民が軌道に乗った頃から情報拠点星系として繁栄し、二百年ほど前に破綻しかける直前まで宇宙のあらゆる情報の集積地だった。ヴィクターの母方の一族はランカスカで成功し、官僚支配の下にあったランカスカで何人も高級官僚を輩出した。ヴィクターの祖父も医療省の高官だ。母方の一族はソーズと悟られずに情報を蒐集する役割を担っていたのか?
 思いたって官庁街へ意識の焦点を移す。官僚国家のランカスカではあらゆることが詳細に亙って記録されてきた。現在のランカスカ政府もそれほど性格は変らない。機密情報は、最高のプロテクトがかかっていたため二百年前の混乱の時代にも失われなかった。過去に収蔵された記録はそのまま残っている。
 そして、どれほど高度な防禦技術もストレンジャーには通用しない。
 ランカスカを存亡の危機に追いやる原因となったのは防衛省の暴走だった。反政府勢力に対して限定使用するために生物兵器を開発したのだ。生物兵器ウィルスの感染は想定を超えて拡大し多数の市民が死亡した。ランカスカへの渡航は激減、情報が集まらなくなって情報拠点としての価値は急落した。そのウィルスはサンプルも残さず全数が焼却されたはずだったが、なぜか一部が破棄を免れ、五十年前テロ組織の手に渡ったと、先日モニクに聞いたばかりだ。
 プロテクトをかいくぐってウィルス破棄の責任者の名前を視る。ヴィクターの祖父だった。
 データキューブの情報に戻る。ヴィクターの祖父とその親族は、一族ではないヴィクターの父と結婚した娘(ヴィクターの母)を除いて全員が、壊滅状態のランカスカを捨てエトワールに移民した。エトワールはランカスカ移民を大量に受け容れて急成長し、宇宙最大の情報拠点星系となった。
 レイナの翡翠色の瞳が冴々と明る。
 ソーズはユニオンと連盟の戦争について正式にコメントはしていない。絶対公正中立の立場から沈黙を守っているのか、それとも、彼らには特別な思惑があるのか。
「レイナ」
 夢みる宝石の瞳が見上げていた。
「二人で見たいものがあるの」
 トラヴェリンプレイヤIIにジェイムズとクリスティを二人きりで残してきた。虚界を通って瞬時に戻れるとは言えあまり長く留守居をさせられない。しかしロザリンダの煌めく瞳は哀切の色だ。
「だめ?」
「ロザリンダとヴィエナがわたしの頼みを断ったことはない。わたしも同様だ」
 ランカスカ首都は海に近い。ロザリンダがレイナを連れていったのは、海に注ぐ河口へ向ってまっすぐ川が流れてゆくのを見晴らす場所だ。
 空ではランカスカ主星がかなり傾いていた。海洋生物の排出する物質が海から吐き出されて大気中を漂い、G型恒星の光のうち波長の長いものの大部分を散乱させる。ランカスカの海辺で見られる青い夕焼けを、レイナはヒトの眼で感知した。
 陽が落ちきる。
 陽の残りにロザリンダが眼を閉じるのが見える。実時空に属していないロザリンダはストレンジャーの力ではかえって捉え難いが、少女がレイナの胸に凭れたのは触覚で判った。二筋だけスカーフで結ばれずに胸元へ垂れる赤髪を華奢な指が爪繰る。
 レイナはか細い躯をそっと抱いた。
「はじめまして、ミズ・アニス」
「こちらこそ、ミッカ会長。お会いできて光栄です」
 一流ニュースキャスターのアニスに椅子を勧めながら、柔らかい金髪の男が端整な顔を和らげる。
「それは皮肉でしょうね。わたしはジャーナリストのみなさんには嫌われているから」
「嫌ってなんていませんわ。ただ、いちどくらい取材に応じてくださっても宜いのにと思っているだけです」
 ミッカはランカスカを本拠とするNGOの会長だ。五十年前に地域の貧困支援団体として彼の父親が設立した組織は、今では起業支援団体として宇宙で広く活動している。経済界ではソーズに次ぐ規模と深さのネットワークをもつとされるほどに成長した。ランカスカ政府とのコネクションも緊密で政府の経済政策への影響力も大きいと噂されるが、ミッカ本人は極度のメディア嫌いだ。報道陣の前では柔和な笑顔を見せるだけでひとことも発したことはなかった。その有名な笑顔で話題を替える。
「こちらは初めてでいらっしゃいますね? いかがですか、ランカスカは」
「まだほとんどなにも拝見していませんけれどとても活気のある印象です。じっくり取材してみたいわ。じつはわたし、先祖がランカスカの出身ですのよ」
「存じています」
 ミッカがまじめな表情になる。
「ランカスカ防衛省が生物兵器を使用したとき、御自身もウィルスに冒されながら最期まで報道をお続けになったリポートは、現在でも我国のニュースアーカイヴの貴重なコンテンツです。当時はそのリポートが渡航者の激減を招いたと死者を鞭打つ酷い扱いを受けたそうですが、お嬢さんがやはりジャーナリストとなってお母様の名誉回復に努められた。そのために制作されたドキュメンタリーもいまなお観られています。あなたも御先祖の遺志をりっぱに継いでおいでですね」
「あら、わたしのほうが取材されているようですわね」
 アニスは相手ににぎられかけたペースをとりもどそうとする。こちらも笑顔をひきしめた。
「申し遅れましたが、お父様のお加減はいかがですか? お早い恢復をお祈りしております」
 ミッカの父親はここ数箇月入院していた。入院先はNGOの経営する病院で病状などはいっさい外には漏れてこない。
「お心遣いありがとうございます。ですが恢復は期待しないようにしているのですよ。父ももう齢ですし」
「あら、まだお若いでしょう。地球年で八十歳にもならないはず――」
 ミッカの穏やかな笑顔にちらりと皮肉の陰が差す。
「ランカスカのストリートでは八十歳と言えばたいへんな長寿です。ほんの五十年前、ランカスカで老化防止処置を受けられるのはほんのひとにぎりの者だけだったのですから」
 しかし皮肉は瞬時に消えた。
「さすがですね。話をさせるのがおじょうずです」
「わたしはそんなつもりでは」
「確認しておきましょう。あなたに協力はいたしますが、取材にはお応えしません。その条件を承諾していただけないのであればおひきとりください」
 笑みも口調も柔和なままの最後通告。アニスはシーリーンに言われたことを憶い出す。ミッカを操ることは神ならぬ身には不可能だ。
 宇宙最大のNGOコーディネイター幹部のシーリーンに、経済分野で大きな力をもつミッカを紹介してもらったのは、クリスティ王太子を捜すためだ。
 ユニオン執行部がハイランドフォールズを占領したのが事実なら、占領を告発したクリスティを放ってはおくまい。執行部の権力を用いて彼を捕えハイランドフォールズで訂正会見を開かせるはずだ。それがまだ行われていないということはクリスティはいまだ自由の身で、彼独りで逃避行は困難なのだから、つまり、執行部に背く者がある。しかも告発はエトワールのシステムネットに投稿された。ハイランドフォールズからエトワールへの移動には虚界航行船が不可欠だ。執行部に背く者にはユニオン加盟の船長が含まれる。
 執行部は船長の口座凍結を命じることができる。クリスティの乗る船はなんとかして逃亡費用を捻出せねばならない。その金策がミッカの係る経済ネットワークを利用すればそこからクリスティに連絡をつけられるかもしれない。
 ここはクリスティに専念しよう。ミッカとはゆっくり関係を築けば宜い。取材には時間がかかるものだ。心の隅で早くもミッカの独占インタビューの構想を練る自分のジャーナリスト根性にいささか呆れながら、アニスは視聴者を魅了するほほえみで肯んじた。
「キャプテン・イクストリームが呼んでいる」
 それだけ言ってくるりと背を向けたキャプテン・ネイヴィの副官は、ウィルの冷笑は目に入れなかった。
 ウィルに昏倒させられて以来、彼はストレンジャーのリーダーとの接触を最小限に留めている。キャプテン・ネイヴィの不興を買う虞さえなければ意趣返しをしたいところだろう。
 きれいなだけのぼうやに何ができるわけでもないさ。
 ウィルは鼻で笑うとユニオン執行部中央委員を感じる。彼女の居場所に黒い眸が鋭くなった。
 歩きながら副交感神経を活性化させる。キャプテン・イクストリームの前で自然にふるまう必要があるだろう。
「キャプテン・イクストリーム、俺に用だとか」
「来な」
 キャプテン・イクストリームは、ハイランドフォールズ王宮のほかの棟よりは簡素と言えるがそれでも国外の基準ではじゅうぶん瀟洒な建物の前で彼を待っていた。彼女の後に付いてゆくときウィルは掌の発汗を抑えねばならなかった。王宮医学研究所に足を踏み入れるのは初めてなのだ。
 特別室に近づくと医師が速足でやってきた。他を威圧するのに長けたユニオン執行部中央委員を恐れてはいるものの、特別室の患者を護る決意は揺がない。紅蜘蛛
「キャプテン・イクストリーム、ベイカー隊長の容態にまだ顕著な変化はありません。記憶走査が可能になればこちらからお報せいたします」
 虎の瞳の船長は顔の刺青に漣を走らせる。
「いつまでもそう言ってれば宜いさ。今日はストレンジャーを連れてきたんだ。こいつは部屋の外からでもベイカーの躯を視られるんだからね」
 怯む医師からウィルへ猛虎のまなざしが移る。
「特別室に寝てる女を視な。記憶走査に耐えられるかどうか確認するんだよ」
「分った」
 ウィルは特別室へ向き直る。真剣な表情で眼を眇めた。
「やめたほうが良いな」
 キャプテン・イクストリームの刺青が燃えたつのにはかまわず言葉を続ける。
「記憶走査の過程で海馬が損傷を受ける可能性が高い。可能性は百パーセントじゃないが、一か八か賭けて記憶がなくなったら拙いだろう」
 嘘だが執行部中央委員に真贋は判らない。キャプテン・イクストリームは脣をぎりりと結んだまま踵を返した。戻ってくるようすはない。
 医師の視神経を伝わる情報を書き換える。ウィルが去ったと信じて特別室から離れる医師を見送り、黒髪のストレンジャーは特別室の扉開閉プログラムを操作する。もちろん監視センサーも改竄中だ。
 室に入りベッドに横たわる女性を視覚で見る。整った容貌にはまだうっすらと傷痕が残るものの、美しさはほとんど負傷前の状態を回復している。
 近衛隊長としての能力も原状に復しつつあるようだ。
 アン・ベイカーは室内にだれかがいるのを感じて眠りから醒めた。ぎごちないながらも上半身を起す。
「あなたは誰」
 厳しい目を向けられてウィルの感情が昂る。
「俺か? 俺は、あんたの息子だよ」
 ウィルとは似ていない金髪の女性が眼を瞠る。瞳の菫色だけはウィルと同じだ。
 脣が顫え、伸び始めたばかりの金髪がふたたび枕に落ちた。
「ウィリアムなの?」
 白い手が赤い脣を覆う。
 ちくしょう、ばかなことをしちまった。捨てた息子が現れて喜ぶわけがないじゃないか。
 居た堪らなさに顔を背けたウィルはベイカーの眼が濡れるのを視た。
「ごめんなさい……赦してはくれないわね」
 必死に涙を堪えているのも感じる。
「やっと会えたのに我子と判らないなんて、なんて母親なの」
 おずおずと顔を合せる。
「あんただけじゃないよ。俺だって遺伝子を視るまで判らなかった」
 ベッドの脇へ寄る。と、動揺を感じとった。
「遺伝子を視たら、父親も判るの?」
 そういうことか。
 ウィルはまた苦いものを呑み下す。
 父親を識られたくない理由は決ってる。ハイランドフォールズの平民に婚外交渉はないからまずレイプだな。だから捨てたのか。
 どうでも宜い。望まれて生れたなんて思ってなかったさ。
「心配するな。遺伝子を視るのはたいへんだ。よっぽどのことがなきゃ遺伝子なんか視ない。父親が誰かも興味ないし」
 肩を竦めて出てゆこうとしたが、その前に白い手が差し伸べられた。
 菫色の瞳が合う。
 ウィルは養母を憶い出す。忙しい人だがウィルと二人のときには彼だけを見てくれた。
 ベイカーの血流や内分泌系はそのときの養母と同じだ。
 ウィルは母の手を取り、両掌で包んだ。
 風流に金箔を散らした襖がゆるりと開き、部屋の隅に控えていたミッカが畳に額を擦りつけんばかりに深くおじぎをした。
「誠志朗さん、ごぶさたしております」
「息災かな、貴三郎くん」
 部屋に入ってきたヴィクターはにっこりほほえむと床の間を背に座る。掛軸の若武者の鎧を飾る紺絲威によく映る菖蒲がすっきりと立つ。
「どうぞ、座布団を当てて」
「失礼いたします」
 ミッカはアニスが見たら驚くほど緊張している。運ばれてきた盃をヴィクターから受ける手も硬い。
「お父上はいかがですか」
「ありがとうございます、いろいろと臓器が弱っておりまして、ただ、本人があまりおおげさな治療は厭だと申すもので」
「そう……」
 ヴィクターが睫を伏せた。
「お父上にはほんとうにもうしわけないことをした。老化防止処置さえ受けていればまだまだ若々しくいられたのに」
 眼を上げてミッカと視線を合せる。
「帯刀家の人にはどれだけ感謝してもし足りない。外見まで白人に変えてランカスカ人になりきってもらって」
「そんな、誠志朗さん、もったいない。わたしたちは本家筋の方々が敷いてくださった道をただ歩いただけです。誠志朗さん、誠志朗さんのお母様、お祖父様お祖母様、皆様の御苦労に較べればなにほども」
「僕たちはある程度の人数がいたもの。きみたちは家族だけであれだけの組織を築いたんだからね。頭が下がる」
「誠志朗さん、お願いです、ほんとうにもったいなくて……」
 ミッカがあまりに恐縮するのでヴィクターは話を実務にきりかえる。
「それで、進行状況はどう。もう準備は整ったと聞いたけれど」
「はい。あとは実行に移すだけです」
 話題が替りミッカは目に見えてほっとしたようすだ。ヴィクターが頷いて盃に口をつけるとミッカもぐいと飲む。ヴィクターは頬を緩めて徳利を持ち上げる。
「さあ、もう一杯。日本酒はひさしぶりでしょう」
「いえ、そんなにいただくわけには」
「宜いんだよ。これからはゆっくりお酒を嗜む暇もなくなってくる」
 ミッカはまた背筋を伸す。勃動力三體牛鞭
「よろしく頼むよ。タイミングがだいじだからね」

2012年12月5日星期三

星降る夜にきかせてよ

「まってください」
 上級実務訓練航海、通称ミステリーツアー一日めから高波に翻弄されているGOC二四号のブリッジで、船医のツカサがたまりかねて声を挙げた。
「通常どおり点呼をして、このままミステリーツアーをつづけるんですか?」SUPER FAT BURNING
 ツカサだけでなくほかの乗員の視線も、だれひとりなまえすら聞いたことのなかった少女のような若い船長に向く。
「テロリストに追尾されたんですよ。ユウくんのアクロバット操縦にもあきらめず追ってきた。膨張駆動に入らなければ攻撃されていたかもしれない。たまたま標的になったにしては執拗すぎました。わが社の船がねらわれる理由があるなら航海をつづけるのは危険だ。すみやかに地球にもどって会社の指示をあおぐべきでは?」
 平生は温厚な紳士であるツカサの口調がつよい。
 問われた船長のリナが答えるまえに、二等整備士のトオルが口をひらく。
「とちゅうで会社に連絡したらミステリーツアーはそこでおわりよ。ツカサ先生はいいわ、今回の航海がどうなろうと会社の評価はたかいもの。でも、わたしやマモルやタカシは、このつぎいつミステリーツアーに参加できるかわからないのよ。若手社員にとってミステリーツアーがどれだけおおきなチャンスかわかってるでしょ。わたしたちからそれをとりあげるの?」
 女ことばのままながらトオルの声音にはすごみがあった。周囲が気圧される間を置いて、完璧な化粧の二等整備士が表情をやわらげる。
「あれがテロ組織の船だときまったわけじゃないし、もしそうだったとしても、宇宙最大のテロ組織のMTPだって毎日全星系で事件を起してるわけじゃない。とおくはなれた星系で連続しておそわれる可能性なんてどれくらいある?」
 ツカサが、よせた眉根に懸念をのぞかせながらもだまる。リナが乗員をみまわす。
「ほかに航海の中止を支持する方は?」
 二等航宙士のマモルがきっぱりと首をふる。一等整備士のアキラの表情が硬いほかは中堅の乗員たちは反応を見せない。最後に二等宙測士のタカシの心配そうな目をまっすぐ見てリナがうなずく。
「では航海を続行します。航路を確認しましょう。副長、おねがいします」
 リナのあとから副長のケイが航行コンピュータとのインターフェイスパネルにあゆみよる。
 ミステリーツアーでは航路全体をしるのは船の航行コンピュータだけだ。航行コンピュータは船長と一等航宙士――副長がのりくむGOC二四号の場合は副長――の入力するコードとかれらの生体認証を承認してつぎの寄港地と到着期限を示す。期限内に到着すると、同様の手順によりそのつぎの寄港地と到着期限が判明し、それをくりかえして期限内に航海を完了すれば、乗員の社内評価はいちじるしくたかまる。
「最初の寄港地はエリジアムです。一等宙測士、みなさんに星図を見せてください」
 リナの指示に、一等宙測士のシノブが、ブリッジのメインスクリーンへ現在地からエリジアム星系までの航路を表示していう。
「一回の膨張駆動で行けます」
 膨張駆動は光速の壁を越えて星系間を移動するためには必須の航法だ。船の周囲の空間だけを瞬間的に伸縮させ、船自体は周囲の空間に対して静止したまま、実用的には瞬間移動にひとしいわずかな時間で数百光年をまたぐ。とはいえ、恒星や惑星、準惑星、衛星、小惑星、彗星――無視できない重力をもつ物体を避けるため、伸縮させる空間は慎重にえらばねばならない。
「そうですね。ただ、さきほど太陽系内で燃料をかなり消費しました。エンジンにも負荷をかけたのでドックで点検もおこないたいところです。エリジアムは観光地で補給に最適な星系とはいえません。グラッセを経由する航路は検討に値しますか?」
 そう問うてリナがシノブをおおきな瞳でみつめる。宙測士としての経歴ばかりでなく恋愛経験にもすくなからぬ自負をもつシノブが目をうばわれる。
 すいこまれそうな眸だ。
 おいおい、いくら女がいなくたって、コドモは対象外だぜ。シノブはつぎの瞬間には意識を業務にもどした。
「グラッセへの寄港には賛成です。宇宙有数の商業星系で、しかも最小限のロスでエリジアムに行ける位置にある」
 シノブがメインスクリーンの星図にグラッセ星系を高輝度表示させ、膨張駆動のルートをえがく。たしかにさきほど表示されたルートとほとんど変らない。
「みなさん、いかがですか?」
 こんどは異論は出ない。ケイがみなを代表して答える。
「全員賛成です、船長」
「よかった」
 シノブだけでなく全員の目がリナにくぎづけになった。ひきしまっていた脣がふわりとほころび、赤子か天使のような純粋無垢の笑顔になったのだ。硬派で鳴らす二等機関士のシンまでみとれている。
 当のリナはみなの視線を感じたようすもない。にこにこしてつづける。
「では、部屋割りをきめましょうね。この船には、寝棚がみっつある乗員用船室が二室と、寝台がふたつの客室があります。船医には慣例どおり医療室に附属の個室をつかっていただいて、二人の女性が客室、副長は船長室を――」
「船長?」
 ことばをはさんだケイのみならずリナ以外の全員が表情を懐疑に変えている。テロリストの襲撃にもまったく動じなかった若い船長が、はじめて不安を見せた。
「航路を確認したら、部屋割りをきめるんですよね? ちがったかしら?」
 星系内からの膨張駆動を命じた際の凛とした態度がうそのようにたよりなげな風情だ。ケイがあわてて説明する。
「まちがっていませんよ。ただ、船長は船長室にいらしていただかないと。指揮系統というものがありますから」
「そうですか……ごめんなさい」
 リナがしゅんとうつむく。気まずい空気のなかで乗員の批難がましい目がケイにあつまる。わざと眼をつりあげるシノブをにらんでから、副長がやさしい口調で船長にはなしかける。
「よろしければわたしが部屋割りをきめますが」
 黒眼がちの眸が少女めいた印象をつよめる女性が顔を上げる。
「おねがいします、副長」
「はい」
 リナのほっとした笑顔につりこまれてつい頬をゆるめたケイが、シノブや一等航宙士のユウがにやにや笑うのに気づいて背筋を伸す。
「ツカサ先生は船長のおっしゃったとおりに。船長は船長室をご使用ください。サヤ、きみは客室を独占してくれ。いくら二交替制でも男と同室はいやだろう。航宙士と整備士の四人で一室、宙測士とシンと僕で一室だ」
「ぼく、ケイさんといっしょじゃいけませんか?」
 ケイがてきぱきと話をおえようとしたところへマモルがたずねた。しおらしげに、しかし美貌の魅力を駆使した媚はたっぷりまぶして。
「二交替制で、ぼく、ユウさんとほとんどお話ができないでしょう。ケイさんは副長でシフトがおなじだから、いろいろうかがいたいんです。星際航宙大学航宙士課程歴代トップの成績の方と乗務できることなんてあまりないし……」
 ほんの一瞬ケイとユウが視線をかわす。たがいにしかわからないほどかすかにうなずいて、ケイがおだやかに答える。
「同一職種の者が同室という原則はなるべくくずしたくないし、一室に寝棚はみっつしかないから、おまえと僕が同室になるためには航宙士とシンと僕のくみあわせでないと。だがそうすると、アキラがシノブのめんどうをみるはめになる。それはきのどくだよ」
 中堅の乗員たちが笑い声をたてる。シノブだけはふきげんだ。
「アキラ! 笑うな!」
「すみません、シノブさん」
 口を押えながらアキラがこらえきれず喉の奥でわらいつづける。
「あーあ、アキラの笑い上戸がはじまっちゃった。かわいそうに、しばらくとまらないよ」
 顔を赤くしてなんとか笑いをおさめようとするアキラの肩をささえて一等機関士のサヤがシノブを眇で見た。
「俺のせいかよ。ケイがへんなこといったのが――」
「シノブさんが潔白でケイさんが悪玉なんてことがあるわけないでしょう。ケイさんは事実を基に正当な判断をしただけですよ」
「ユウのいうとおり。同室の子がシャワーをあびてるのに気がつかないで女を船室につれこんでそのままはじめたもんだから、その子が出るに出られず何時間もバスユニットでかんづめになったのって、つい三箇月前よ」
「でしたね。あと、去年、あれはサヤさんが同乗してたんじゃなかったかな、マッサージナノマシンを寝棚でつかってから、ねすごしてナノマシンを回収もせずシフトについて、過稼働で暴走したナノマシンのせいでつぎに寝棚でやすんだやつが全身筋肉痛になって」
「そうそう、あのときはほかにも――」
 にがりきったシノブをかこんでもりあがる乗員たちを見ながらケイがためいきをつく。
「まったく、シノブとサヤとユウを組ませるなんて、だれがきめたのやら」
 苦笑をリナに向ける。
「かれらはわたしの責任でなんとかします。シノブとサヤは大学からの同期だし、ユウも大学でおなじ航宙士課程の一期下でしたから、つきあいはながいんです」
 リナはくすりと笑ってケイをみあげる。
「よろしくおねがいします。できれば日常の指揮は副長にとっていただきたいのですけど」
「はい。それが副長のしごとです。船長を雑事でわずらわせはしません」
 サヤがケイに声をかけてくる。
「宙測士って人種は直観やひらめきが第一だから、まっとうな社会生活がにがてなの。ケイ、タカシがシノブみたいにならないようにしっかり教育してよ!」
「そのまえにきみたちを教育しなきゃな。あそんでいるひまはないぞ。早くグラッセに到着して補給と整備をしたい。十二時間の二交替はグラッセを出てからはじめよう。まずは第一シフトで膨張駆動に入り、グラッセ星系内で第二シフトに交替、宇宙ステーションがちかくなったらふたたび第一シフトに交替する。さあ、持場につけ」
 ケイの指示に、ゆるんでいたブリッジの空気がひきしまった。サヤとアキラが機関室へ向う。おどおど周囲を見ていたタカシの肩をケイがたたく。
「僕たちは船室に行こう。宙測士の業務についてはなにも助言できないが、宇宙船のことならおしえてあげられるよ」
「は、はい。ありがとうございます」
 ケイに肩をだかれてブリッジをでてゆくタカシをマモルが険悪な表情でみおくった。
 航海は順調にすすんだ。太陽系で酷使されたエンジンも有能な機関士と整備士のケアで問題なく稼働し、現在はグラッセ星系内を通常航行中だ。
 一等航宙士席で操船するマモルは、実務経験一年あまりでミステリーツアーに参加するだけの伎倆を十二分に見せ、船長席のケイから指示や注意をうけることもなかった。
 すごいな、このひと。おれと一期しかちがわないのに。
 一等宙測士席のタカシはちらりとマモルに目をやって内心で嘆息した。
 マモルさんならミステリーツアーにえらばれてもおかしくないや。でも、おれは、なんで?
 マモルは星際航宙大学の航宙士課程を歴代三位の成績で卒業したそうだが、タカシが卒業したのは星際航宙大学ですらないし、入社試験や入社後研修の成績が優秀だったわけでもない。
 しかも初航海は……。
 いやな記憶がよみがえり、タカシの意識が、ヘッドキャップが集積して脳に送ってくる船の各種センサーの情報からふとはなれた。
 航行コンピュータからの警報。
 あわてて情報を認識する。船の外殻にダメージをあたえかねないおおきさの微小天体が数十万キロメートルのところにせまる。
 マモルに警告するまえに、船は微小天体の進路を避けていた。
 もちろん航行コンピュータの警報はブリッジの全員につたわるようになっている。船を元の航路にもどしたマモルがタカシにさっとむきなおった。
「なにぼけっとしてるんだ! 船が一秒に何万キロすすむとおもってる! 星間塵もみつけられなくて宙測士といえるのか!」
「す、すいません」
「あやまったって意味ないだろ。ちゃんとしろよな!」
 そのあとは、宇宙ステーションにちかづいて第一シフトと交替するまで、タカシはミスをおかさなかったし航海も順調そのものだったが、マモルはタカシのほうを見ようともしなかった。
 ひきつぎを済ませ、タカシが肩をおとしてブリッジを出る。ぐいと手首をつかまれる。ふりむくとマモルがブリッジのなかへ顎をしゃくる。超級脂肪燃焼弾
 リナとケイがなにやら話している。
「きっと、さっきの微小天体のことだ」
 マモルがタカシの鼻先に指をつきつける。
「いいか、おまえにはミステリーツアーなんて実感ないだろうけど、ぼくにとってはすごくおおきなチャンスなんだ。入社二年めでミステリーツアーに参加して、しかも会社で一番の航宙士のケイさんとおなじシフトなんだぞ。ぼくはどうしてもケイさんにみとめられたい。おまえ、ぜったいにぼくの足をひっぱるなよ」
 声こそ抑えていたもののマモルのいきどおりは明確に感じられた。くるりと踵を返してとおざかるすがたに、タカシの肩がもう一段おちた。
「今回の寄港は補給と整備が目的だ。補給と整備にかかわる者以外は下船しない。惑星に降りるのは船長と僕だけだ」
 宇宙ステーションに入港したGOC二四号のブリッジ。ケイの説明にトオルが挙手する。
「燃料だけ買うのは非効率よ。ミステリーツアーでは必要最低限の乗員だけで積荷も乗客ものせないから積載量によゆうがある。ここで食料なんかの補給もしてしまえばしばらくは補給のための寄港はしなくていいわ。もうひとりくらいいっしょに行って、いろいろ買ってきたら? わたし、お買物じょうずよ」
「トオルくん、僕たちは宇宙ステーションで船の点検整備だよ。惑星には行かない」
 すかさずアキラにさえぎられて、トオルが、バーガンディからパールモーヴのグラデーションでいろどった脣をとがらせる。ケイがなだめるようにほほえんだ。
「もちろんトオルには整備をしてもらうが、提案は採用しよう。タカシ、いっしょに来てくれ」
「は、はい」
 ブリッジでも、非番になってからも、ケイはタカシをミスの件で叱責することはなかった。星系内移動の大半をまかされたシフトがながかったため、よく休養するよう命じられただけだ。きびしく責められるとおびえていたタカシはなにもいわれないことにとまどった。やさしくおだやかなケイのたたずまいを信じたいものの信じきれずにいた、が。
 ほかのクルーの目がないところでなぐるのか?
 萎縮した心をかかえ、宇宙ステーションから惑星へ降りる軌道エレベータのなかで船長や副長にはなしかけられても、タカシはみじかく応えるだけだった。
「ではここからは別行動しましょう。わたしは燃料を調達します。船長はそのほかの補給物資の購入をおねがいします」
 おおげさでなくひとつの町ほどもあるバザールの表門でケイがそういった。リナがうなずき、タカシは観念する。少女のようなこの船長のまえで暴力はふるうまいというのがかすかな希望だったのに。
「タカシ、グラッセのバザールは警備がゆきとどいているが、百パーセントの安全はありえない。船長をしっかりエスコートしてくれよ」
「……はい」
 別行動って、おれと船長がいっしょで、副長がべつ?
 ……なぐらない、のか?
「二等宙測士、どうかしましたか?」
 おだやかな態度のままたちさったケイの背をぼうっとながめていたタカシがリナの声にわれにかえる。
「あ、え、なんでもないです」
 リナはしばしタカシの顔をみつめてからにっこりする。
「では、補給にかかりましょう。まずは食料ね」
 制服の袖に織りこまれている情報ディスプレイを表示モードにする。
「ちょうどよかった、ちかくに食料品店がありますね」
「ちょっとまって、そこはだめですよ」
 反射的に異をとなえてしまってからタカシが口をつぐむ。二等宙測士が船長に意見するなんて。
 しかしリナは気分を害したようすもない。純粋に疑問を覚えたといった表情できいてくる。
「そうなの? どうしてかしら、おしえていただけますか?」
「ええと、つまり、表門のすぐそばで店構えもりっぱでしょう。たぶんすごくたかいですよ」
 自分の制服の情報ディスプレイでその店のリアルタイムの価格表をしらべ、リナにも見せる。
「ほら、とんでもないねだんです」
「そう……なの」
 リナはぴんときていないようだ。タカシは価格比較サイトをよびだした。そうしてはじめて、船長は近傍の店が高級食品店であることを理解したらしかった。
 一事が万事このさまで、リナは早々にタカシに補給品リストをわたし、宙測士特有の直観力で情報を分析してぎわよく買物をこなすタカシに同道して電子財布の認証をするだけになった。商品はバザールの配送センターがまとめて船に送るので荷物をもちはこぶ必要もない。
「あなたに来てもらってほんとうによかったわ。わたしひとりだったら、お金を何倍もつかって、まだ半分も買えていなかったわね」
 リストのすべてを――タカシが――購入して、リナは感心しきった声を挙げた。
「お買物がじょうずね」
「慣れですよ。おれのうち、親がいそがしかったから、買物はおれのしごとで。すくない予算で弟と妹にもたべさせてとなるとしぜんにやりくりがうまくなるんです」
「お買物のベテランなのね。わたしなんて足元にもよれないわ、お買物したことないんだもの」
「え?」
 リナがぱっと笑みをひっこめた。おずおずとタカシをうかがう。
「……お買物、したことなかったの。みなさんにはないしょにしてくださる? だって……船長の、沽券にかかわるでしょ」
 タカシは笑いをこらえきれなかった。おかっぱで薔薇色の頬をしたリナと「沽券」はどうにもそぐわない。
「機密事項ですね、了解です」
 リナのこまった顔が、笑いをかみころすタカシを見ているうちにゆるむ。とうとうリナもわらいだした。
 なんてくったくのない笑い顔をするひとだろう。
 リナとわらいあうタカシの頭からは、微小天体をみのがしたミスも、マモルにつめよられたこともきえていた。
「太陽系のテロ事件のニュースがグラッセにもとどいてるぞ」
 GOC二四号のブリッジではシノブがグラッセ星系の惑星・衛星間インターネットでチェックしたニュースをメインスクリーンに出す。ブリッジの機器をマモルと点検していたユウがシノブのとなりに立つ。ユウのあとをついてきたマモルがスクリーンに目をはしらせていう。
「よかった、死者や負傷者は出なかったんですね」
 そっけなくうなずいたユウがシノブにはなしかける。
「けっきょく発進デッキに侵入するまえにステーション警察に制圧されたんですか。地球の宇宙ステーションを攻撃するなんてMTPくらいにしかできないはずだが、MTPのテロにしてはめずらしく失敗した」
 MTPとは、ここ十数年、宇宙のあちこちでテロ事件をひきおこしている武装組織だ。正式名称はMaterialism Testimony Promotion(唯物主義証明振興運動)。Mad Tea Party(気狂いお茶会)と揶揄されはするものの、あらゆる星系に細胞をひそませ、資金も人脈も豊富らしい。各星系、その連合体である星際連合、星系を越えた犯罪を捜査する星際警察機構の緊密な協力をもってしても、組織の実体はつかめぬままだ。
「続報がアップされた。……襲撃計画は粗雑で、周到に準備された形跡はない。MTPのテロにつきものの犯行声明もいまのところ出てない」
「MTPのテロは入念に計画されたものばかりだ。あれはMTPのしわざじゃなかったってことですか?」
 マモルの問いにシノブがかるく肩をすくめる。
「MTPのほかに地球の宇宙ステーションをおそうちからをもつテロ組織があるならそれはそれでおおごとだな。……あと」
 シノブの口調がわずかに変ったのを感じて、ユウが小柄な一等宙測士をみやる。
「この船が不審船に追跡された話はどこのニュースサイトも報じてない」
 長身の一等航宙士の眉が上がった。
「不審船がつっこんできたのは宇宙ステーションのちかくだ。だれも見ていなかったはずはない――宇宙ステーションの管制室ではとくに」
「だな」
 マモルがきょろきょろ視線を移すシノブとユウの顔はおちつきはらっているが、どちらも目はするどかった。
「お茶でもいかが? ごちそうします」
 リナがタカシにほほえみかけた。顔が赤くなったのがじぶんでもわかり、そのためいっそう交感神経が昂進して、タカシの声がうわずる。
「そ、そりゃまずいですよ、勤務中に」
「補給物資の購入はおわりました。予定よりずっと短時間で。時間があるのだから、乗員の話を聴くのは船長の職務です。さぼっているのじゃないわ」
「あ、いや、おれ、その、すいません」
 恐縮しきりのタカシにリナがくすくす笑う。
「あやまらないでください。ほんとうはティールームに入ってみたかったの」
 リナがさししめす先には瀟洒な喫茶店がある。エレガントなティールームなどには縁がなかったタカシはどぎまぎしながら店に入り、案内された中庭のしゃれたテーブルにつくにも腰がひけていた。リナのほうは、気後れするようすこそないながら、ものめずらしそうに店内をみまわす。
 ティールームに入ってみたかった、っていったっけ?
 買物をしたことがなかったという船長は、喫茶店でくつろいだこともなかったのだろうか。
 すっごいおじょうさんなのかな。たしかにそんな感じだけど、じゃ、なんで宇宙船の船長なんかやってるんだ?
“ご注文をおうかがいします”
 しみひとつないモノトーンの制服を着こなした店員の声でタカシの疑問は頭の隅においやられた。
“ニルギリをください”
“お、おれ、コーヒー”
“……当店は紅茶専門店でございます”
 タカシはますます頬が熱くなるのを感じ、眼の前の空間にうつしだされるメニューを読みもせずいちばん上を指した。いきおいあまって指がメニューにつっこみ、画像を映していたエアロゾルがみだれる。
 エアロゾルが自律的に配列を回復しふたたびメニューをくっきり映した直後――店員が注文を確認してメニューがすうっと宙にとける寸前――にタカシは紅茶の価格を見た。あわてて注文を変更しようとしたが店員は去ったあとだった。
「どうしたの?」
「おれ、ねだん見ないで注文しちゃって。いちばんたかいやつ」
「だいじょうぶですよ、わたしがごちそうするっていったでしょう?」
「そんな、だったらもっとまずいです、あんなたかいの。あれならめしを二回喰っておつりがきます」
「気にしないで。……あ、船の予算をつかうと心配しているの? そんなことしませんよ、ちゃんとわたしのお金ではらいます」
 タカシもそれ以上固辞はできなかった。それでも優美な曲線をえがく椅子にちぢこまるすがたはいたいたしいほどだ。リナが真顔になる。
「二等宙測士――タカシくん。そう呼んでもかまわないかしら?」
「は、はい、どうぞ」
 おおきな瞳をまっすぐに向けられてタカシのこごんでいた背筋が伸びる。
「タカシくんは、宇宙船、すきですか?」
 一年前なら即答できた。
 ためらううちに紅茶がはこばれてくる。店員がきどったしぐさでそそいでくれた紅茶はいかにもたかそうな味がした。ひとことで語れない複雑な。
 リナの質問への答とおなじだ。
 タカシが答えないのでリナは話題を替える。
「微小天体に気づくのが遅れたのはタカシくんのミスです。二等航宙士に注意されてもしかたがないわ。でもタカシくんはミスを自覚して、そのあとはしっかり宙測士の職務をはたしました。二等航宙士がいつまでもミスについて叱責するようなことがあれば、それはかれのほうがまちがっています。わたしか副長に報告してください」
 え。
 タカシはそんなことをいわれるとはかんがえもしなかった。それどころか。
 おれ、ケイさんになぐられるなんてびびってたんだ。
「タカシくんもミスを気にしすぎないで。人間だからかならずミスはするけれど、反省して、おなじまちがいをくりかえさなければいいんです。あなたは資格を有するプロの宙測士なんですもの。自信をもってしごとをすればいいわ」
 リナがほほえむ。
「副長がタカシくんのことほめていましたよ。着実に進歩するタイプだって」
 賛辞は厳密にいえば伎倆でなく性格に対してだったものの、マモルがみとめてほしいと切望する「会社で一番の航宙士」にほめられたというのは、やはりうれしい。
 お茶の時間はなごやかにながれた。
 紅茶の代金をリナが私用の電子財布でしはらう。
 複雑な認証過程をたどる電子通貨の情報を、システムに慎重にもぐりこんだプログラムがぬすみみる。窃視された情報は、星系内をランダムに経由して、かくされたサーバーに到着し、ほかの膨大な量の情報とともに分析にかけられる。星系外から内密にとどいていたキーデータのひとつとの関連がうかぶ。重要情報としてはじきだされた分析を基に、あるアドレスに暗号指令が送られた。
「タカシくん、ここに入りましょう」
「えぇっ?! おれは、その、そとでまってますよ」
 リナがたちどまったのは濃淡さまざまなピンクで装飾された店のまえだ。
 キャミソール、ペチコート、ビスチェ、タンガ、ガーターベルト……レースやフリルやリボンやなにやかやでかざられたシルクだのコットンだの新素材だのが女性の肌に密着しようとさまざまな形状にととのえられてまつなかへ足をふみいれる勇気はタカシにはない。
「だめ。いっしょにきて」
 タカシを文字どおりひきずって主要顧客を女性に想定した下着店に入ったリナは、店のなかほどまであるいてゆくと店員を小声でよびとめる。
「おもいすごしかもしれないんですけど。あの方、ほんとうにお買物にいらしたのかしら」
 リナが周囲をはばかって目だけで示した男は、女性連れでもなく、服装も男性がおおくこのむタイプでフェミニンなファッションが好みではなさそうだ。女性向け下着店にまっとうな用があるようには見えない。ほかの客もうさんくさげな視線をやっている。店員になにかおさがしですかとたずねられ男がもごもごと要領をえない答を返すすきに、リナはタカシをうながしてはでな広告オブジェの陰に移る。終極痩身
「あの男の人、さっきからずっとわたしたちの十メートルくらいうしろにいて、わたしたちがこのお店に入ったらついてきたの」
「つけられてたってことですか。どうして」
「わからないけれど、善意の理由とはおもえません。この奥にもうひとつお店があるわ。そこから出ましょう」
 リナが情報ディスプレイで確認したのは店の位置だけのようだ。なにを商う店かは見なかったらしい。タカシはいったんとめようとしたものの、不審船に追われたあとに不審な男につけられたとあってかくごをきめた。
「奥の店も見せてもらうよ」
 童顔を制服がおぎなってくれることをねがいつつ、店員をおしのけるようにしてとなりの店舗への扉を開ける。リナの手をひいて早足で店内をぬけ、下着店の裏にあたる場所に出た。
「左へすこし行ったかどに三次元エレベータがあるわね。それでなるべくとおくにはなれましょう」
 縦横斜に移動するかごにのりこんでふうと息を吐いたタカシの額にリナが手を伸す。
「わっ、なんですか」
「タカシくん、顔が真っ赤よ。熱でもあるのかとおもって」
「い、いや、あの、そうだ、そう、走ったから。それだけです。なんでもないです」
「でもまだ赤いわ」
「だいじょうぶですってば」
 なかなか動悸がおさまらないタカシとちがってリナは冷静だ。タカシはおそるおそるきいてみる。
「あのぅ、船長、さっきの店、奥のほうですけど、なんの店かわかりました?」
「くらくてよくわからなかったわ。しらべてみましょうか」
「うわぁ、いいです、いいです、それより早く船にもどらないと」
「そうですね。副長に連絡しましょう」
 リナがそれきり店のことはわすれたようだったのでタカシは顔には出さず安堵した。自分もラバースーツや革鞭や用途を想像するのもはばかられる器具の残像をわすれようと努める。
 リナはケイに連絡している。男につけられたことをつげ、燃料の調達をおえたという副長に、じぶんたちをまたず帰船して発進準備をすすめるよう命じる。
 リナとタカシはしばらくエレベータに乗り、バザールのメインタワーのエントランスホールのひとつに出る。
「表門とは逆のほうですね。軌道エレベータまでかなりあるな」
 出口へ向いながら、情報ディスプレイを確認したリナがタカシのことばに応える。
「ええ、でも鳳凰門のそとには空中車乗場があります。それに乗ってしまえばひとまず安心できるわ」
 エントランスホールを出ると、インタラクティブ彫刻から大道芸人までさまざまなものが歩行者をたのしませるエンタテインメントエリアがひろがる。空中車乗場へいそぐとちゅう、リナがタカシの腕をとって自分の腰に回した。
「タカシくん、わたしを見て」
 きゃしゃな躯を腕に感じ愛らしい顔をのぞきこんで、タカシの頬はまたほてりそうになる。
「そのまま顔をうごかさないでください。またつけられているの。さっきとはちがうひとにだけれど」
 リナはほほえんでいるが口調は真剣だ。タカシの赤面もおさまる。
「すんなり空中車に乗せてもらえそうにありません。あなたの宙測士としての感覚に懸けるわ。わたしと完全におなじタイミングで跳んでください」
 タカシがなんの話か理解できないうちにふたりは広場のはずれに来た。そのあたりはちょっとした高台になっていて、広場の下を遊覧レールカーがとおる。
「いまよ」
 腕からつたわるリナのうごきにあわせて跳ぶ。低速で走る遊覧車の屋根に着地。レールカーの速度は目測してあったので、瞬時の判断で、衝撃をやわらげるのにちょうどよい角度で足首と膝を曲げられた。
 遊覧車がカーブを曲り、追っ手の視界がさえぎられる。リナの視線は数百メートルはなれたあたりへ。ごちゃごちゃとならぶ小規模な建物をはさんで巨大なドームがある。
 リナが目をちかくに移した。
「あそこの草地に降りましょう」
 やはりけがもなくとびおりたふたりはすぐに小路にかけこむ。そのままリナはタカシの手をにぎって走る。
「あとをつけられたのは、電子通貨をつかったあとと、通信をしたあとです。わたしたちがどのお店にいたか、どのエレベータに乗っていたかをつきとめたのね。でもそのあとは人の目でわたしたちを確認するしかなかった。電子通貨や通信の記録は見られるけれど、わたしの制服の情報チップを追跡したり監視衛星の情報をモニターしたりはできないんだわ。つまり、グラッセの情報システムにスパイプログラムをおくりこんではいても、治安関係に潜入することはできていないんです」
 リナがようやく歩をゆるめた。
「つきました」
 さきほどリナが位置をたしかめていたドームのまえだった。
「バザールの配送センターです。宇宙ステーションに寄港中の船に配送される貨物はここでコンテナにいれられ、直通チューブで軌道エレベータに送られて、専用便で宇宙ステーションにとどきます」
 リナはタカシをしたがえきびきびとした歩調で配送センターにあゆみいる。受付のまえで背筋を伸して立つ。少女めいた容姿でなく一流航宙会社の制服があいての印象にのこるような、船長の威厳をかもしだす。
“わたしはシンケールス社GOC二四号の船長です。交易の持続的発展および安全に資する法律第百条第二十項により、当船あて貨物の輸送へのたちあいを要請します”
 受付の担当者はあっけにとられたが、法律を確認するとたしかに、宇宙ステーションへの寄港をみとめられた宇宙船の船長が身分をあきらかにして自船あて貨物の輸送を監視したいともうしでれば、配送センターは拒否することはできない。
 リナとタカシは食料や日用品がぎっしりつまったコンテナの外部に附属する作業デッキに乗って宇宙ステーションへ出発した。
「グラッセの経済の柱は交易です。交易関連施設が攻撃をうければ星系経済が甚大な打撃をこうむるので、貨物輸送ルートの安全確保には莫大な資金や人材が投じられています。貨物といっしょなら、わたしたちをつけてきたひとの手もおよばないわ」
 にっこりしてから、リナの表情がぱっと変って心配そうになる。
「元気がありませんね。むちゃをさせてしまいました、もしや、けがを?」
「いえ、だいじょうぶです」
 タカシがなんともないと足をうごかしてもリナは気づかう顔色のままだ。おおきな瞳がみせかけでないおもいやりをものがたる。
 会社で一番の航宙士のケイは自由時間をつぶして宇宙船や航海についておしえてくれ、買物をしたことがなくても不審者はあざやかにまき宙測士の伎倆もたかいリナは未熟な二等宙測士に心をくばってくれる。
 やさしくされたのがひさしぶりだったとおもいいたる。
 とつぜん、べっとりと心にこびりついてどんどん厚みを増すいやな黒いものをふりすてたくなる。こんな重石をかかえていたらあるけなくなる。
「ききましたよね――宇宙船、すきかって。……答えます」
 何時間もまえの質問にいきなり答えたのに、リナはとまどいもいらだちも見せない。ただ真摯に聴いてくれる。
「おれ、ちっちゃいころ、すごく宇宙がすきで、おとなになったら航宙士になるっていってました。だけど、ちょっとおおきくなると、航宙士になるには大学を出なきゃならなくて、おれのうちにはこどもを大学にやる金はなくて、もちろん宇宙旅行する金だってないし、おれが将来金持になるのもむりだから、宇宙なんてただの夢なんだってことがわかりました。それでもやっぱり宇宙がすきで、ずっと図書館サイトで宇宙のコンテンツを閲覧したりしてました。
 そしたら、中等学校の適性テストで、おれに宙測士の素質があるって。しかも潜在能力がたかいって結果が出て、宙測士課程がある大学の奨学金を申請してみないかって先生にいわれたんです。おれはむちゃくちゃうれしかったけど、親はいい顔しないだろうってわかってました。もしうまくいって学費を奨学金でぜんぶまかなえたとしても、大学にかよってるあいだはフルタイムじゃはたらけないから、うちに金をいれられない。でも中等学校を卒業してすぐおれがしごとをすれば家計がたすかる。
 先生にことわろうとしたら、弟と妹が、親にいったんです、じぶんたちがはたらいてかせぐからおれを大学へ行かせてくれって。けっきょく親もゆるしてくれて、おれ、奨学金で大学の宙測士課程に入れました。おれはぜったい一流航宙会社に就職していい給料もらって弟と妹の学費を出してやるんだと決心して、あそびもしないで必死で勉強しました。なんとか宙測士資格をとれて、うちの会社にも入れて、しおくりもできました。
 だけど、一流航宙会社って、一流の乗員ばっかりなんですよね、あたりまえだけど。おれはぎりぎりいっぱいまでがんばってるのに、研修でもおちこぼれないようにするのがやっとで。とうぜん、航海に出てもミスして、先輩もいそがしいからおれにおしえるひまはないし、おれはあせってまたミスして、いらついた先輩になぐられて」
 リナが息をのむのがきこえてタカシはことばをきる。リナがきびしいといえるほど真剣な表情できく。御秀堂 養顔痩身カプセル
「新人にじゅうぶんな教育もせずに暴力をふるったのですか?」
「……でも、おれがわるいんだから」
「いいえ。非があるのは先輩の乗員です。会社に報告はしましたか?」
 タカシは頭をふった。
「そんなのふつうのことかなとおもったし。……つげぐちしたってうらまれたらまずいし」
 うつむいて自分の足先を見ていてもリナの視線を熱く感じる。
「タカシくん、報復をおそれるのは理解できます。でも、被害者がだまっていたら、加害者はまたおなじことをするわ。後輩があなたのように暴力にさらされるかもしれません」
 いまごろだれかがなぐられている、かも。
 腹がきりきりと痛む気がする。
「おれみたいに、宇宙を見せてもらえないとか」
「なんですか?」
 顔を上げるとリナが首をかしげている。知識にかなりのアンバランスがあるらしい船長は、宇宙船乗組員の通過儀礼についても無知なのか。
「ええと、展望窓の遮蔽を開けるのは、航行に得になることはなにもないし、星間物質や宇宙線の危険は増すから、純粋に乗客向けのサービスですよね。ただ、初乗務の乗員には、しばらく展望窓から宇宙をながめることがゆるされるんです」
「タカシくんは前回の航海が初乗務でしたね。そのとき宇宙を見せてもらえなかったの?」
 タカシは諦観の笑みを顔にのぼせた。
「ちっちゃいころに見たコンテンツで、恒星が船の進行方向にぐーっとあつまってるのを船の舳先の展望窓から見るって場面があったんです。おれはしばらく、宇宙船に乗ったらそいつが見られるって信じてたけど、中等学校にあがるまえに、亜光速ででも飛ばなきゃそんなことにはならないってしりました。光年単位で離れた恒星がうごいて見えることすらなくて、宇宙船の窓から見ても宇宙ステーションから見ても宇宙はたいして変らないって。だからべつに、いいんですよ」
「それでも、見たかったでしょう?」
 心の底までまっすぐ入ってくる澄んだ眸。
 こどものころにゆめみたとおりに宇宙船乗組員となって宇宙空間を移動している。その感激を、航行する船のそとに実際にある光景を視界いっぱいにすいこんでかみしめる。
 一生に一度の体験。
 それをうばわれたやつがほかにもいたら。そしてこれからも。
 タカシはリナの瞳をみかえした。
「おれ、ちゃんと、会社にいいます。なぐられたりしたこと」
 リナがうなずく。
「それがいいわ。報復をうけないためにはどうすべきか、わたし、副長に相談してみますね」
「ありがとうございます」
 相談はすこしさきのことになった。
 船が太陽系で不審船におそわれたつぎの寄港地で船長が不審者に尾行されたとあって、リナたちがもどったときにはすでに点検整備と燃料補給をおえていたGOC二四号は、ただちに出航することにしたのだ。かれらが所属する航宙会社への報告は、不審者の存在がわかっているグラッセでなく、何光年もの距離をへだてたエリジアムでおこなうとも、ツカサおよびトオルをふくめた全員が合意した。
 宇宙ステーションをはなれ星系外への針路をとって六時間後、シフト交替が実施された。とびきり有能な第一シフトによる航行にはなんの支障もなく、船をつけてくる不審船の徴候もない。ひきつぎはスムーズに完了した。
 宙測士席をあとにしたシノブがすれちがいざまにタカシの腕をつかむ。
「俺たち宙測士は天才なんだ。じぶんを信じろ」
 小柄できゃしゃな躯に自信をたっぷりつめこんだ一等宙測士がブリッジをでてゆくのをしっかりみとどけてから、タカシは一等宙測士席についた。
 一時間ほど経った。巨大ガス惑星に接近する。大型惑星の重力と公転を利用したスゥィングバイにより加速するためだ。タカシが適切に処理してつたえる船の周囲の情報を認識したうえでマモルがあやつる船は、もとめられるコースを精確に維持して巨大ガス惑星にちかづく。
「未確認飛翔体接近!」
 タカシはことばに出すまえにマモルのヘッドセットに飛翔体の情報を表示させている。間断なく送られてくる船の各種センサーからのデータを統合して情報を補強する。マモルのヘッドセットにうつしだされる飛翔体の情報はすぐに詳細なものに変った。
「自動追尾式ミサイル?」
 マモルのととのった顔がひきつる。かれは民間航宙会社の航宙士であって宇宙軍の戦闘機操縦士ではない。GOC二四号も商船であり、自動追尾式ミサイルを妨碍したり迎撃したりできる装備はそなえていない。
 どうしてよいかわからず、おなじ情報をえている副長に指示をあおごうとしたとき、となりの席から声がかかる。
「マモルさん、これ」
 ヘッドセットに新たな情報が示される。
「……たしかなのか?」
「はい」
 これまでみくだしてきた二等宙測士がにやっと笑う。
「あとはマモルさんの腕にかかってます」
 伎倆のたかさ以上におおきな自負心を刺激され、二等航宙士の恐慌はきえさった。
「いったな。見てろよ!」
 GOC二四号は急転針して巨大ガス惑星の数多い衛星のひとつへつっこむ。ミサイルの自動追尾装置は高性能らしく、ただちにGOC二四号を追って進路を変更する。
 衛星は巨大ガス惑星やほかの衛星の重力の影響をうけて地質活動が活溌だ。いくつもの火山が噴煙を揚げる。GOC二四号は宇宙船というより航空機のような機動性を発揮して峻険な山並みの上空を飛ぶ。
 船のこきざみな転針により進路変更をしいられるミサイルは直進するのにくらべ速度がおちるものの、かせげる時間はわずかなものだ。
 だが、船尾にミサイルがせまったとき、マモルはタカシの提示した情報どおりのタイミングで、船にある地点を通過させた。
「前進全速!」
 機関室にはすでに指示済だ。船は上限いっぱいの速度で、通過したばかりの地点からとおざかる。
 その地点は火山の火口だ。
 惑星系の重力にゆがみたわめられた結果生じるマグマが何キロメートルもふきあがり、GOC二四号につづいて火口の上をとびすぎようとしたミサイルをのみこむ。
 光と熱とマグマの飛沫と、粉砕されたミサイルの破片がひろがって、漆黒の宇宙をつかのま照す。
 すでに爆発からじゅうぶんな距離をとっていたGOC二四号は、華やかな花火を見ることもなく、いまいちどスゥィングバイへのコースに乗ろうと針路をさだめた。
 グラッセ星系を出て膨張駆動が可能な宙域に入り、ふたたびシフトを交替する。シノブへのひきつぎを済ませてブリッジを去ろうとしたタカシをマモルがよびとめた。
「あのさ、ぼく、まえのシフトのあと、おまえに足をひっぱるなっていったけど、逆もありえるよな」
 色白の頬にほんのり赤がにじんでいる。マモルとのつきあいがながくなくてもプライドがたかいのはわかる。タカシは頭をふった。
「ありえるかもしれないけど、可能性はほとんどないですよ」
 マモルの頬の赤色がこくなる。
「ぼく、もうちょっとでケイさんになきつくところだったんだ。それがケイさんの航宙日誌に記録されたら、ぼくの評価が上がるわけない。おまえが噴火のことおしえてくれなかったら――」
 口のなかでありがと、とつぶやく二等航宙士の顔はもう赤面といってよかった。タカシがにっこりほほえむ。
「おれ、マモルさんの足をひっぱらないようにがんばります。じぶんのためにも」
 タカシと目をみあわせ、マモルの顔のほてりがしずまる。平生の自信たっぷりな笑顔がもどった。
「うん、がんばろうな。ユウさんとシノブさんに負けない操船をして、ミステリーツアーの最後を締めようぜ」
 ケイが「会社で一番の航宙士」ならユウは「会社で二番めの航宙士」だ。しかもシノブが「会社で一番の宙測士」なのはだれもがみとめるところでタカシはいまのところおちこぼれにちかいのだが、マモルはそんなことでみずから可能性をせばめるつもりはないようだ。タカシはそこまで楽天的にはなれないものの、リナやケイのあたたかいことば、そしてなによりおのれの判断が基になってミサイルをのがれたことで、シノブにいわれたとおりじぶんを信じてみようという気になった。
 すこし肩のちからをぬく。となりではマモルがおおきく伸びをしてすっかりくつろいだようすだ。
「おなかすいちゃった。食堂に行かないか」
「はい」
 マモルとつれだってあるきだしたタカシの背に声がかかる。
「タカシ!」
 ケイだ。きびしい声音もはじめて聞いたが、こんなけわしい表情も見たことがない。ケイのとなりに立つリナも顔をくもらせて副長をみあげている。御秀堂養顔痩身カプセル第3代
「来い」
 タカシの返事も聞かずに歩をすすめる。あとでな、とささやいてそそくさとたちさるマモルをみおくるひまもなく、タカシは大股であゆむケイに小走りでついていった。
 無言のまま足をはこんで、ついたのは、展望室だ。