午後の予定は、土砂降りできれいさっぱり流れてしまった。自室に戻り、着替えたアムジャッドは、謁見の間へと向かう。今の時間なら、港から運ばれてくる資材を手配した商人が顔を出しているはずだ。強効痩
部屋の両側に並ぶ官僚たちの列の中に、さりげなく紛れ込み、部屋の最奥を覗き込む。玉座のカムシーンは、相変わらずだらしない姿勢で浅く腰掛け、組んだ足の上に書類を広げていた。最前列に立っている宰相の眉間の皺が、細かく震えているように見えるのは、恐らく幻覚ではない。
「すべて揃うのは、いつだ?」
「明後日には、なんとか…」
「ふむ……」
もっともらしい表情を作っている時のカムシーンは、たいてい何も考えていない。アムジャッドが睨みつけているのに気がついたカムシーンは、何故か笑顔を返してきた。宰相の顔がさらに引き攣る。
後宮から出た火は、東屋が置かれている奥庭と、壁を隔てて隣接していた外庭を囲む棟をいくつか焼いたが、懸命の消火と救助が功を奏し、被害は最小限に留められた。
しかし、奥から燃えたのが災いし、焼け跡から、王だけが身につけることのできる大粒の宝石に飾られた骨と、それを取り囲む女性の骨が出た。焼け残った衣服や貴金属から、その中の一人がカムシーンの実母である第一后妃と断定され、他にも後宮で力を持っていた后や寵姫たちの骸が見つかった。出口に近い場所にいた下働きの女官たちは、ほぼ無傷で逃げ出すことができたのとは対照的だ。袋小路の立地が災いしたとしか言えない。
トランセーズからの亡命者のために設えられた部屋からは、アムジャッドの予想通り炭化した男女の死骸が二つと、刃の潰れた長剣が見つかった。
焦げた剣は打ち直し、今はアムジャッドが身につけている。
鍛冶職人に、ついでに少し短くした方がいいと言われた時は、仮にも武官として少し傷ついたが、そのまま腰に吊ると鞘の尖端が床を擦ってしまうという事実には、それ以上に打ちのめされた。
彼らの死を疑っている者は、今のところいない。
それどころではないと言った方が正しい。もし、死骸がそこになかったとしても、カムシーンは捨て置いただろう。それほどに、今の彼は多忙だ。
後宮は、再建されないことが決まった。
王族の外戚にならんとしていた貴族からの強い反対の声を、カムシーンは強引に押し切ってしまったのだ。跡地の半分は資料庫が置かれ、残りの半分は外庭に吸収された。作り直される壁には東西の両側に門を設け、そのすぐ傍には、一般市民のための施薬院が設置される計画がある。この大火を教訓に、宮殿を回遊できる造りにするというのが次期国王の主張だ。
謁見の間を出る時、カムシーンは必ず目配せを送ってくる。
アムジャッドが急ぎ足で付き従うまで必ず待っていて、二人で私室に戻る。本人いわく、退屈な話を我慢して聞いたのだから、これぐらいは当然らしい。
「……立場というのは、人を変えるな」
溜め息混じりの疲れた声を吐き出しながら、カムシーンは奥へと向かう。以前は、将官が使う部屋を使っていたが、亡き王の私室が今のカムシーンの部屋だ。
当初、アムジャッドは良い思い出の無いこの部屋を敬遠したのだが、あの夜の大火で煙と煤だらけになったため、調度から壁紙まで、すべてカムシーンの好みで揃え直されたら、まったくの別物になってしまった。驚くほど質素になった部屋には、それでもなんとか威厳を残そうと国宝の焼き物や香炉が飾られているのだが、剥き出しで置いてあると壊してしまいそうで落ち着かないと、常々カムシーンは愚痴をこぼしている。
見慣れた扉を開いても、頭の奥まで痺れさせるような重い香りは無い。代わりに、窓が大きく開け放されており、雨と草木の匂いが部屋に満ちている。
「父が、俺を急かした気持ちがわかる。立太子を受け入れた時は目の前が暗くなる思いだったが、口頭だけでも了承しておいてよかった。俺が第一王子のままでいたら、もっとややこしくなっていたぞ…」
クジュラムは原則として長子相続だが、立太子は王権を得るために必ず踏まなければならない手続きとなっている。王太子と王子は、似ているようで大きく違う。例えば、国王不在の期間、代理として権限を行使できるのは王太子のみだ。
「国王となられたらすぐに王太子を擁立できるよう、支度を進めねばなりませんね」
「……アム。お前、シンディバードに似てきたんじゃないか?」
アムジャッドの忠実な副官は、土砂降りの中に残って現場の撤収を指揮している。くしゃみを一つしたところで、本人も周りも不思議には思わないだろう。
「臣下として、当然のことを申しました」
「心配するな。王太子には弟を擁てるつもりでいる。俺は、跡目さえ定めておけば、婚姻を急ぐことは無いと思っている。歳を取っても后を娶ることはできる。ここぞという時に高く売りつけるさ」
「………はぁ」
ここぞという時は、永遠に来ないのではないか。
カムシーンの中の父王に対する妙な気負いや対抗意識がなくなり、自分に執着する理由が無くなれば、自然と離れていくだろうと思っていた。しかし、現実は正反対で、カムシーンは私的な時間のほとんどを、アムジャッドに費やしている。
「それで、土壌の調査は進んでいるのか?」
「この雨で中断してしまいましたが、明日には更地にできると報告が上がっています」
「上出来だ。資材が届き次第、着工させろ」
「御意」
アムジャッドの報告を聞いたカムシーンは、話し終わると同時に相好を崩し、真新しい長椅子を手の平で軽く叩く。
「……殿下」
「今日の仕事は終わりだ。早く座って、話を聞かせてくれ」
アムジャッドが仕方なく腰を下ろすと、早速、膝を枕にしようとする。もっと柔らかい枕はいくらでもあるだろうにと思うが、両親を亡くしたばかりの彼が、それをおくびにも出さずに政務をこなしているところを見た後では、何も言えなくなる。
「で、昨日は何を読んだんだ? お前が、毎晩、真剣な顔をして本にしがみついているから、俺は我慢しているんだぞ」
「クジュラム国内の手工業に関する論文です。聞きますか?」
「やめておく。アムは、俺よりもそんな物がいいのか」
「良し悪しではありません。必要だから読むだけです」
「……仕事は楽しいか?」
「はい」
「偉いな、お前は。俺は大嫌いだ」
一国の王となる身とは思えない発言だが、カムシーンは大真面目だ。アムジャッドの髪をグリグリと乱暴に撫でながら、嫌いだからもう寝るなどと子どものようなことを言う。
口だけだ。
アムジャッドが呼ばれる夜も、寝かさんだの寝るなだのとふざけた後で、明け方にきちんと仮眠を取っている。以前のように、執務中に居眠りをするようなことはない。
「アム、この国が好きか?」
「どうしたんです、突然?」
「もう俺の国になってしまう。お前に好きでいてほしい」
「…………」
カムシーンは、トランセーズの二人が生きていることを知らない。闇の中から手を伸ばしたバルタザールの言葉に、アムジャッドが揺れたことも。
砂糖と生姜を煮詰めたシロップを、匙でとろとろとグラスの底に落とし、キリリと冷えた酒で割る。
王太子の身の回りの世話のために女官は多数置かれているが、夜遅くに顔を出したアムジャッドに、料理長は躊躇いなくそれを渡した。
「酒の分量を、増やせと仰る。これ以上は身体に毒だと、それとなく伝えてくれ」
「わかりました。もう、休んで下さい」
「まだ、朝の仕込みが残っているんでね。あんたこそ、捕まらずに休めるといいな」
壮年の料理長の何気ない一言に、アムジャッドは苦笑する。OB蛋白の繊型曲痩
Ⅲ
彼の立場は、至福門の内側で仕える人間のほとんどに知れたわっている。多かれ少なかれ蔑みの視線を向けられるが、稀にこだわらない人間がいる。この料理長もその一人だ。
アムジャッドの足取りに音はなく、盆の上のグラスの水面は、まるで作り物のように動かない。両手で丁寧に支えていた盆を片手に持ち替え、軽く扉を叩く。許可か不許可か判然としない、呻きのような声が返ってきた。そっと扉を開くが、カムシーンは大きな図面に目を落とし、こちらを見ようともしない。
「お持ちしました」
「………アムか?」
「はい」
「今日は、呼んでいないぞ」
「たまたま、厨房に用がありましたので」
そこまで聞いたカムシーンは、ようやく顔を上げる。苦い薬湯を、鼻を摘んで飲み込んだ時のような渋面だ。歯でも痛むのかと、アムジャッドは小声で聞く。
「…如何されましたか?」
「俺の顔を見にきたと言われたわけでもないのに、ヘラヘラするわけにはいかんだろう」
図面が大き過ぎて、机の上に空きが無い。数日前まで、国宝の壷が飾られていた台に載せる。薄い青で手触りの滑らかな壷は、ぽってりとした底部に華奢な口の珍しい形をしていて、アムジャッドは少し気に入っていた。口に出すと、それなら持っていけと簡単に言われそうで、黙っていたが。
「ご苦労だったな」
「は?」
「焼跡の灰かきと土壌整備の件だ。後宮の造りを知っている男はほとんどいない。俺ですら、入ったことがなかったからな。お前にはさせたくなかったが、他にいなかった。すまん」
灰の中から、王の死骸を見つけたのはアムジャッドだった。
先王は、稀にアムジャッドを後宮に伴っていくことがあった。女達の中に一緒に並べて、女のような姿をさせて、女を喜ばせるような物をアムジャッドに与えることが好きだった。去勢の話も出ていたが、小さいながらも貴族出だったために、その難は逃れることができた。先王は、アムジャッドを女の延長として見ていたのだ。
「殿下、王は謝ってはなりません」
「…そうだったな」
散らばった女達の骨と違い、王の遺骸は焼け残った上座に座ったままで発見された。即位以来、頭を下げたことの無い男の最期の姿として相応しいものだった。
飲み物を両手でそっと取り上げたアムジャッドは、カムシーンの脇に跪いて差し出す。
「アム、これを見てくれ」
酒を受け取りながら、カムシーンの空いた手が図面を傾ける。
「これは……港湾でしょうか?」
「クジュラムは陸路に偏り海路の開拓に積極的ではなかったが、お前を前に行かせた港を、海洋都市として整備しようと思っている……首都が落ち着いた後の話だが」
「総督府を置くのですか?」
「あの街の者は、各国の文化が混ざり合っているせいか、クジュラムの民だという自覚が薄い。シンディバードを見ていればわかるだろう?」
「……いえ」
「俺よりも、お前への忠誠の方が強い。…別に、非難しているわけじゃないぞ。王家を軽んじているわけではないが、自らの才覚で切り開くという考え方が街全体に浸透しているようだ。突然、役人が乗り込んでいって頭ごなしに命令しても、反発しか生まんだろう。最初は、この地に縁のある小貴族の中から総督を選ぶ。将来…そうだな、二十年後には、お前とシンディバードを行かせるつもりだ」
「私をですか?」
「俺としては、あの街で生まれ育ったシンディバードを総督に据えたいが、生まれが平民では軽んじられる。お前を据えれば、勝手にあいつはついていくだろう」
「……………」
「他にも、やりたいことはいくらでもある。俺は、今年二十一歳だ。人並みに生きれば歴代の王の中でも指折りの長い治世を敷くことになる。それで何も成さなかったでは、聞こえが悪い」
酒で口を湿らせながら、カムシーンは次々と耳慣れない言葉を紡いでいく。
数百年前に作られた法の整備、福祉の充実、今は地方や階級でバラバラになっている学制の統一や識字率の向上。どれだけできるかわからんと笑っているが、目は真剣そのものだ。
この方も、王への道を昇っていく。過ちの許されぬ、高く孤独な長い道を。
「総督になれば、首都から離れることになりましょう」
「二十年後の話だぞ。場合によっては、もっと先になるかもしれん」
そういう問題では無いのだ。
「私は、お傍には置いてもらえぬのですか?」
笑みを浮かべ、あくまで軽い調子でアムジャッドは言う。
先王は、自分を女のように扱った。彼は、どうしたいのだろう。例えば、三十年、五十年先の老いた自分を、この人はどうするのだろう。
「この馬鹿馬鹿しいほど大仰で装飾過剰な宮殿から、逃げたくはならないか?」
「え?」
「俺はここに居なければならんが、お前がそれに付き合う必要はない。まあ、海は俺の趣味だから、お前が他にやりたいことがあるなら、それを選べばいい。何も考えずに傍にいろと言えた頃が懐かしいな。ほんの少し前のことのはずなんだが」
無責任で楽しかったとカムシーンは笑い、図面に指を滑らせる。
「ガレリアというものを知っているか?」
「並んでいる商店に、屋根がついている通りだと聞いたことがありますが…実際にどういう形の物なのかは存じません」
「二十年後に見せてやる。街の中央に総督府を置いて円形広場で囲み、そこを中心に放射状にガレリアを作る。海沿いの露店街はそのまま活かすつもりだ。生鮮物は外で見た方が旨そうに見える」
ひとつひとつ図面を指し示すカムシーンの説明は、淀みない。覗き込んでいたアムジャッドを膝の上に座らせ、肩越しに手を伸ばす。
「いい街を作るぞ。諸外国に恥ずかしくない、クジュラム最大の商業都市にする。交易船も増やす。人材の育成も必要だな。いくらでもやることがある」
「ご無理は、なさらないで下さい」
「居眠りしているよりは、いいだろう?」
グラスを手渡され、促されて一口含む。思った以上に酒の苦みが強く、アムジャッドは顔を顰めた。まったくの下戸ではないが、強くはないし飲める銘柄も限られている。そもそも、クジュラムには胃が焼けるほど強い酒が好まれている背景もある。
「御酒も過ごされぬよう、ご自重ください」
「料理長に聞いたか?」
「はい」
「仕方がないな。お前に免じて、残りは全部飲んでいい」
「……………」
なんとも微妙な表情になったアムジャッドは、じっと手の中のグラスを見つめる。
「飲めないなら、俺が飲むぞ?」
そこまで言われては後に引けない。息を止めて、グイとグラスを傾け、中身を一気に呷る。なんとか全てを胃の腑に流し込んだが、あまりの酒の強さに噎せ返った。
「がんばったな」
「…子ども扱いは止めて下さい」
「褒めただけだ。そろそろ部屋に戻れ。酒が回って、まともに歩けなくなるぞ」
つむじに軽く口づけられ、振り返ると頬にキスされる。
王子だった頃の彼は、行動に自制が無かった。気が向いた時間にアムジャッドを抱き、気が向かなくても接している間にその気になれば、手を伸ばしてきた。王太子として責任を背負うようになってからは、同じ夜でも、彼の中で公人として眠る日と私人として過ごす日を明確にわけている。
呼ばれない日は、抱かれない。親愛以上の態度を見せない。
父王に似てきたと言えば、機嫌を損ねることはわかりきっているから、何も言わない。カムシーンにとって父は悪徳の化身だ。
「行かないのか?」
腰を抱いていた手が、いつの間にか離れている。
膝の上からそっと下りると、しっかりと抱き込まれていた背や肩が急に心細くなった。
周囲の目まぐるしい変化に取り残されているアムジャッドにとって、シンディバードの変わらぬ言動は貴重なものだ。今朝も、以前と変わらず回廊を駆ける、忙しない足音が部屋の中にまで届く。
「アムジャッド様、おはようございます!」
「おはよう。シンディ、回廊は…」
「真っ直ぐ作るからいけないんです。直線は走るためにあるんです」
わけがわからない。
わからないが、毎朝、違う理由をスラスラと述べるのは、ある種の才能だとも思う。ほっこりと煮込まれた豆と米の朝粥を匙で混ぜながら、アムジャッドは足下に積み上げている資料の中の一つを抜き出した。薄い冊子を差し出されたシンディバードは、怪訝そうに受け取る。
「地図ですか?」
「いろいろ調べていたんだが、その土地の出身者に聞くのが一番早いとわかったんだ。シンディ、故郷のことを教えてくれないか?」V26
即効ダイエット
「どうしたんです、突然」
粥を口に運びながら、アムジャッドは訥々とカムシーンに聞かされた話をシンディバードに伝える。冊子を捲りながら、しばらく黙って聞いていたシンディバードだったが、話が深部へと進むにつれ、溜め息が混じりだす。
「それはまた……。殿下は、重症ですね…」
「重症?」
「確かにクジュラムは、海洋技術では他国に遅れをとっています。それに力を入れるのは、間違ってはいませんけれど……」
「本当は、シンディに総督をやらせたいと…」
「ただの建前ですよ。殿下は、自分の大好きな物ばかりでできた街を作って、それを大切に大切に育てたいだけです。国情が安定したら、視察だの避暑だの避寒だのと理由をつけてはアムジャッド様を連れて行きますよ。で、言うんです。どうだ、凄いだろうって。殿下とアムジャッド様が、建設中の建物を見て回っている間、私は書類に埋もれてるんでしょうけど」
「いくら何でも、それは考え過ぎ…」
「いいえ、絶対にそうなります。間違いありません」
きっぱりと断定したシンディバードは、両腰に手を当て、ギュッと唇を噛む。
「……故郷が発展するのは、嬉しいですけどね。あの街には、海しかありません。職業選択の幅が狭いんです。総督府が置かれれば現地からの登用も期待できます」
ただの田舎ですからとシンディバードは笑う。
返す言葉に困ったアムジャッドは、粥の残りを口の中に黙々と運ぶ。食べ終わるまでに、気の聞いた台詞でも思い浮かぶかと思ったが、結局、空になった椀をシンディバードに取り上げられ、微妙な表情のまま、彼の背を追って部屋を出ることになった。
この数ヶ月、時間が飛ぶように過ぎていく。
指折り数えたアムジャッドは、あの土砂降りの戦場で洞穴に迷い込んだのが、たかだか半年前だということに気づき、呆然とした。今は雨期の半ば。乾期と雨期を二度繰り返して一年というクジュラムの気候は、まだ一回りしてすらいない。
最近、隠さなくなった鎖を指で弄ると、小さな鍵が揺れる。
誰の目にも見せた方が、もうこれは特別な物ではないのだと思うことができる。半年の間に、これまでに得られなかった喜怒哀楽のすべてを経験することができたことは、バルタザールに感謝している。だが、彼を許せるかと問われれば、許さぬと答えるだろう。
少し歩いて振り向くが、厨房に食器を持っていったシンディバードは戻って来ない。また、あの料理長に何か食べさせられているのかもしれない。前料理長が後宮の大火に巻き込まれ、カムシーンと時を同じくして厨房の長となった彼は、魚介料理を得意としていて、シンディバードの餌付けが趣味だ。
仕方なく一人で歩いていたアムジャッドは、ふいに額を突かれ、驚きに後ずさる。いつの間にか、大きな影が目の前に差していた。
「そう難しい顔をしていると、皺が残るぞ」
カムシーンの指が、眉間を撫でる。
「私はきっと、皺の一つぐらいあった方がいいのです」
半年より以前の自分は、王の傍に侍りながら何も考えていなかった。ただ緩慢に過ごしてきた日々を思うと、頭の奥がキリキリと痛む。
「俺は無い方がいい。……皺も消えるような、旨い菓子が手に入ったぞ。食べるだろう?」
僅かな間に、カムシーンの迷いが見える。
「伺います」
どこか不安そうに頷きだけを返したカムシーンに、アムジャッドは笑ってみせる。
「必ず、伺います」
「……ん」
居心地の悪い顔で頷いたカムシーンは、アムジャッドの脇をさっさと擦り抜けていってしまう。
今日は、謁見を望む者をできる限り王宮に入れるとカムシーン自身が決めた日で、早朝から表敬門が閉まる夕刻まで、彼は、謁見の間に詰めていなければならない。悠々と朝食を摂っていたアムジャッドと顔を合わせる機会はないはずなのだが、どういうことだろう。
また、眉間に皺を刻んだアムジャッドに、やっとシンディバードが追い付く。
「……アムジャッド様は間食も甘いものも好きじゃないって、殿下は御承知ですよね」
「お忙しいんだ。俺の好みをいちいち覚えていられないだろう」
「気の毒に。やっぱり重症ですね」
「さっきから、いったいなんの話なんだ?」
シンディバードは、問いに問いを重ねてくる。
「私が外に出されていた時から、あんなんじゃないんでしょう?」
「俺には、違いがあるように見えないが…」
足早に立ち去っていくカムシーンの背を眺めながら、シンディバードは頭を掻いていたが、アムジャッドの二の腕を掴み、思い切ったように口を開く。
「アムジャッド様。殿下に、呼ぶ時に理由を作る必要はないって言ってあげた方がいいですよ。先王がご健在の頃は、こう…視野が極端に狭くなってましたから、勢いでどうにでもなったんでしょうけど……」
「勢い?」
「多分、そういうことが得手じゃないんですよ、あの方は」
そういうことというのが何を指すのかは理解できるが、性欲処理が必要な時に相手を呼ぶというだけのことに、得手不得手があるとは思えない。
眉間の皺が、さらに深くなったアムジャッドが顔を向けると、シンディバードは思案顔だったが、自分に向けられている視線に気づくと、朝一番に見せたような屈託の無い笑顔を返してきた。
*
菓子はよりによって、一番苦手な砂糖菓子だった。
蜂蜜に漬けた食用の花を砂糖粉で包んだそれは、色とりどりで目には楽しいが、芯まで甘い。青い花弁を舌で転がしながら、さりげなく茶を口に含む。カムシーンはどこか上の空で、繊細な細工を見もせずに次々と口に放り込んでいる。
「……お疲れですか?」
脇息にだらしなく凭れた身体は、見るからに重そうだ。緩く伏せていた目を開いたカムシーンは、また一つ菓子を口に入れながら、大きな溜め息をつく。
「人当たりだ。たいしたことはない……手が、粉だらけだ」
菓子からこぼれた粉を払おうとしたカムシーンの手を、緩く押しとどめ、手に取る。白い粉が燭台の灯りに照らされて、細かく光を散らしている。中指に舌を這わせ、ゆっくりと口に含む。手の平に口づけ、他の指も吸う。甘味がじわりと口腔に広がる。V26
即効ダイエット
指が動いた。
固い爪が舌を擦り、中指が上顎をくすぐる。飲み込み損ねた唾液を追って、含まされている指を吸う。追い付かずに顎を伝った雫を、カムシーンの舌が舐めとった。
「……アム」
口づけを交わす間に、名を呼ばれる。首に腕を絡め、舌で答える。
毛足の長い絨毯に横たえられ、少しずつ自分の服が乱されていくのを、アムジャッドは目の端で見る。先王とカムシーンを比較するつもりはないが、明確に主従の線を引き、幼い頃から奉仕することを覚え込ませた先王の相手は楽だった。擦り、舐め、受け入れる間、頭を空っぽにしていればよかった。
カムシーンは、余すこと無く感情を汲み取ろうとするかのように、目線を合わせて離さず、アムジャッドがこれまでに覚えてきた手管に、思いもしない反応を返す。
まだ幼く、身体が慣れていなかった頃、女官たちの監視の目を逃れ部屋に忍び込んでくるカムシーンに、指一本動かすこともできず、寝台に身体を投げ出している姿を見られたことがある。そんなことはしなくていいと言う時の彼は、あの時と同じような途方に暮れた顔をする。
シンディバードの『得手じゃない』という言葉が頭を過るが、吐息の熱に浮かされ、何もかもが押し流されていく。何度目かに触れた唇の熱さが、火傷の引き攣れのような痛みをアムジャッドに与え、後を引く痺れを柔らかな舌で掬い取られると、閉じた目の中が白くなる。
もう砂糖はすべて飲み下したはずなのに、いつまでも口の中が甘い。
『もっと深いところで繋がっていても、何とも思わないのに、唇同士を合わせるという、ただそれだけのことを、何故自分は特別に捉えたがるのだろう』
そう呟いた少年の横顔を、アムジャッドは十年ぶりに思い出した。
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