2012年6月27日星期三

人生の苦味

華やかなショーも幕を閉じ、伊坂とともに葉奈は舞台裏に下がった。
綾乃と吉永、聡と玲香も、違う入り口から裏へとやってきた。印度神油

ショーの成功を喜び合う声が、あちこちで飛び交う。
モデルたちや、裏で頑張っていたひとたちが、お互いをねぎらう姿。

その心動かされる場面を前にして、いつもの葉奈ならば感動して目を潤ませたことだろう。

舞台に上がっていた間は、伊坂に救われて自分を取り戻せ、安堵だけを感じていたけれど、舞台裏に戻ってきた途端、自分の失態を冷静に見つめ、葉奈は恥ずかしくてみなに合わせる顔がなかった。
とくに更紗には申し訳なくてたまらなかった。

「素晴らしかったわ。あなた方、良くやってくださったわ。おかげで素晴らしいショーになったわ」

思ってもなかった更紗の嬉しげな言葉に驚いて、葉奈は顔を上げた。

「で、でも…わたし…」

苦しげな葉奈の表情に、更紗がやさしく微笑みながら肩を抱いてきた。

「あがってしまったわね。でも、そんなことはどうでもいいのよ。とても素敵だったわ。あなた自身には想像もつかないくらい、見ているものにはね」

「ほんとに…ですか?」

葉奈はどうしても素直に受け取れず、更紗に聞き返した。

「ええ。演出を考えた主人もきっと大喜びしているわ。彼にはあとでご紹介するわね」

「叔父様、来てらっしゃるの?」玲香が嬉しげに尋ねた。

「ええ。彼のお気に入りの若い方を数人お呼びしていて、今日をずいぶんと楽しみにしていたようだわ」

「叔父様、大好き。とっても面白くってやさしいんだもの。明日のパーティーにはふたりしていらっしゃるんでしょ?」

「ええ。行かないとあなた方のお父様がご機嫌を損ねてしまうものね」と、更紗はくすくす笑う。

「親父は、強引だからな。ところでわたしはこれで失礼するよ。明日は仕事をさせてもらえないから、今日中に片付けてしまわないと」

聡はそう言うや、みなに機敏に頭を下げ、部屋を出てゆこうとして踵を返した。

「兄さん食事を終えてからにしろよ。働き過ぎだぞ。少しは人生を楽しめよ」

数歩歩いた兄の背中に伊坂がそう声を掛けると、聡が苦笑しながら振り向いた。

「一年前のお前に聞かせたいな、その言葉」

伊坂は眉をあげて聡に応え、葉奈を見つめてきた。

「俺もやつに聞かせてやりたいよ。望みは…叶うぞってね」

「やはり、ハナはお前の福の神か?」

葉奈は会話の意味が分からず首を捻った。

「わたし…福の神?」

「いや、ハナ違いだ。福の神は、我が家のハナのことですよ」

「ああ。あの…」葉奈は言葉につまった。

あのハナにはとんでもなくやられてばかりだ。あれがすべて偶然とはとても思えなかった。
ほんとうに普通のネコなのだろうかと疑いたくなる。

「さあ、ディナーの準備が整いつつあるわ。聡さんも、参加ということでよろしいわね。パートナーがいないと玲香さんも可哀相でしょ?三人とも急いで着替えていらっしゃい」

更紗に背中を押されるようにして、葉奈たちは着替えの控え室に入った。
先ほど着替えをした場所ではなく、みんな同じ部屋だった。
だだっ広い部屋では、すでにたくさんのモデル達が着替えをしていた。

特殊なコルセットを付けられていた葉奈は、それから自由になるのに時間が掛かったこともあり、ふたりよりも支度を終えるのが遅れてしまった。

化粧を落とし、メイクをしてくれた同じ人に薄い化粧を施してもらい終えた綾乃と玲香は、葉奈に先に行くねと声を掛け、会場に戻ってしまった。

遅れた葉奈も支度が出来、メイクのひとに礼を言って立ち上がると、急いでみんなのところに戻ろうと部屋から出た。

「ちょっと」

葉奈は、彼女を追って部屋から出てきたらしい女性に呼び止められて、立ち止まった。

「は、はい」

「調子に乗らないでよね」

「えっ?」

「今回、あんたがとりを務めたのは、更紗さんのお遊びなのよ。舞台であがって、あんなみっともない姿さらしたくせに…成功したのは自分のおかげみたいに…まったくおめでたいわ。おこがましすぎるわよ。翔様に助けられて事なきを得ただけのくせに…」強力催眠謎幻水

「あ…すみません」葉奈は弱々しく答えた。

毒のある言葉のひとつひとつが、胸を鋭くえぐるようだった。

「久しぶりに舞台復帰された翔様にあんなご迷惑まで掛けて、ただで済むと思ってるの、あんた」

相手の怒りの強さに、全身が竦んで葉奈は身動きすることも言葉を発することも出来なかった。
足首のあたりが小さく震え始め、その震えが大きくなりすぎて倒れたりしないよう、葉奈は両足に精一杯の力を入れた。

「だいたい翔様のお相手は美智歌さんって決まってるのよ。とりも美智歌さんに決まってるの。ふたりは恋人同士なんだからね。あんたなんかが割り込んでくること事態お笑いだわ。あんたみたいなど素人が大きな顔してしゃしゃり出てきて、むかついて…」

「やめなさい!」

鋭い叱責の声が飛んできた。
女性の顔から怒りが消え、そこに怖れが浮かんだ。

「美智歌さん、で、でも」

「更紗さんに、このことが知られたら、あなた困ったことになりかねないわよ」

「そ、そんな…でも」

「でもは、これ以上聞きたくないわ。もう行きなさい」

美智歌という女性の言葉にうなだれたものの、不満そうな顔に憎しみを加えた表情で、彼女は葉奈をもういちどきつく睨み、先ほどの着替えの部屋に入ってしまった。

心臓がどくどくと跳ね続けていた葉奈は、苦しくなって胸を押さえた。

彼女がいなくなったことで力が抜けたからなのか、身体がガクガクと大きく震えだし、葉奈はよろめいた。

「大丈夫?」

美智歌は真っ青になった葉奈の顔を見て、ひどく心配そうに顔を歪めた。

「こっちに、休めるところがあるの。行きましょう」

「いや!」

美智歌が葉奈を抱えるように手を添えて言ったが、葉奈は反射的にそれに抗った。

「葉奈?」

伊坂の声に葉奈は顔を上げた。

「どうしたんだ?葉奈、気分が悪いのか?」

「ごめんなさい。翔君」

「美智歌?なんで?彼女はどうしたんだ?」

「仲間のひとりが…彼女にひどいことを…ごめんなさい」

伊坂の瞳が、危険なほど鋭くなった。

「はっきりと聞かせて欲しいな、美智歌。誰がやった?」

凍るように冷たい声だった。

「翔君、報復するでしょ。だから言えないわ」

「…わかった。そいつにはっきりと伝えてくれ。絶対に…許さないってね」

「いいんです。本当のことを言われただけなんです。ごめんなさい、わたし…」

言われたことは、葉奈が思っていたことと同じようなものだった。
他人の口から言葉として繰り返されたことで、葉奈の中でさらにその思いが強くなった。

「彼女が言ったことはね…」

美智歌が葉奈に向けて何か言い掛けたが、伊坂はそれを制した。

「もういい。モデル仲間には、二度と葉奈に近寄るなって警告しとけ。次は、ただじゃ置かないってな」

「…わかったわ」

美智歌が真顔で頷いた。






伊坂は葉奈を連れ、会場とは別の部屋に入った。

「座って。ここには誰も来ないから」

椅子に座り、葉奈は両手で顔を覆った。

言葉にひどく怯えたこと、舞台でのこと…。
自分の弱さに、恥ずかしさがどうしようもなく湧き上がり、葉奈は伊坂に顔を見られたくなかった。

「先生、ごめんなさい。迷惑ばかり掛けてしまって。わたし、恥ずかしくて」

「迷惑?葉奈、落ち着いて、何を謝ってるんだ?」

「だって、あがって動けなくなっちゃって、先生に助けてもらって…。わたし、どうしてこんなに弱いんだろう。自分が嫌になる」

伊坂がそっと葉奈の肩を抱いてきた。
そして少しずつ抱き締める腕に力を入れてゆく。

「自分を責める必要なんかないんだ。もともと更紗叔母に強制的にやらされたことなんだから」

「でも、引き受けたんです。引き受けた以上、責任はわたしにあります」

「君は自分を責めすぎだ」VIVID

「でも、責められるようなことをしちゃったんです」

「もっと視野を大きくして見るようにしたほうがいい。君が思うほど…」

「でも、あのひとは…あ…」

葉奈は言いかけて口をつぐんだ。
あんな言葉を伊坂に聞かせるなんて、絶対に嫌だ。

「何を言われた?」

「…忘れました」

「そう。なら、なんで君は自分を責め続けてるんだ?責める理由を忘れてるのに?」

「あのひとに言われたことは忘れたけど、自分の失態はちゃんと覚えてます」

むっとして言い返した葉奈を見て、伊坂が笑い出した。

「少し元気が戻ったみたいだな。良かった」

伊坂が葉奈をぎゅっと抱き締めた。

毒のある言葉が脳裏に蘇りはじめ、葉奈は思い出すまいとして無意識に頭を振った。

「どうした?」

伊坂の問いかけに、葉奈は小さく首を振って彼の胸に頬を寄せた。

抗おうとすればするほど、まざまざと蘇ってくる言葉に、葉奈はぐっと奥歯を噛んだ。

美智歌という女性は、とてもきれいなひとだった。
そして伊坂とのこと…

葉奈は宙を見据えて、いま起こったことを胸に受け入れようとした。

いま、伊坂と付き合っているのは葉奈なのだ。

付き合っていたという言葉が本当か嘘かも葉奈には分からないし、過去は過去でしかない。
彼女は自分にそう言い聞かせた。

宮部と伊坂が付き合っていたとの情報に翻弄されてひどく落ち込み、伊坂にみっともない姿をさらしてしまったときも、いまと同じほど辛かった。

前と同じに、この拒否したくなるような感情も、すべて自分の中に受け入れて、最後には乗り越えられるはずだ。

恋は苦しい。
けれど、その苦しみを味わっても、伊坂とともにいたい。

葉奈は顔を上げると、気遣うように葉奈を見つめている伊坂の肩に両手を掛けた。

「葉奈」

葉奈は、伊坂のぬくもりを求めるように、そっとふたりの唇を重ねた。蔵八宝

2012年6月25日星期一

透輝視点

「だーかーらー、無理だって」
「もう決めたんだ。お前が間違えたら、何度でも撮り直ししてやるからな」
殴ってやりたくなるぐらい意地の悪い楽しげな顔に、透輝は怒りを通り越して呆れて来た。
「撮り直しばかりしてたら、予算がかさんでスポンサーが怒るんじゃないの、久野さん」
「今回はうまく行く。そう分かるんだ」V26Ⅱ即効減肥サプリ
この台詞は、以前にも耳にした。
透輝は脱力感にさいなまれた。うまくいかなかったことも覚えている。
「雪の降る中、降る角度が悪い、雪の質が思ってるのと違うとかいって、俺を散々な目に合わせたときも、撮影に入る前、久野さん同じ台詞言ったよ」
「そうだったか? だがあんときも、最高の映像を撮れたし、賞も貰った」
うんうんと自分を自画自賛しているに違いない表情で、目じりを下に垂らかしている。
透輝は時計を確かめて、立ち上がった。真帆と会う約束の時間が迫っている。
このひげ男とこれ以上一緒にいても、むかつきが増すばかりだ。
「おい、まだ終わってないぞ。この中から早く選べ」
透輝はテーブルに並べられている写真をさっと見つめて首を振った。
「どの子も同じにしか見えない。無理だ」
「撮影は、九月の第一土曜日だぞ。一枚選んでくれれば会わすから、そしたら見誤る確率も減るさ」
「確率に賭けてんのかよ」
透輝は、写真を睨みつけた。
同じ制服、同じ髪型、おまけに背格好まで同じなのだ。
もちろん顔はそれぞれだが、後姿だけでこの中のひとりを…
透輝はふいに良いことを思いついた。
「久野さん、確率が格段に上がる子がいるんだ」
「なんだ、真帆君は駄目だぞ。あのスタイルじゃ、浮く」
「真帆じゃないんだ。これ見て」
透輝はそう言いながら携帯を取り出した。

「真帆、頼むから。協力してくれよ」
「やーよ。芹ちゃん騙すなんて、恐ろしいこと言わないで。私まで巻き込まないでよ。ひとりでやればいいじゃない」
透輝は唇を尖らせて天井を睨んだ。
もう一時間ほども説得しているのに、真帆はまったく応じてくれない。
こうなったら仕方が無いと、携帯をポポポンと、プッシュした。
「芹菜、俺、透輝だけど。頼みがあるんだ」
うろうろと歩き回りながら話をしていた透輝は電話を終えて、椅子に座り込んだ。
「知らないわよ」真帆が鋭い目で睨んできた。
「大丈夫だって。自信あるんだ。芹菜なら他の奴らとなんか絶対に間違えない自信が」
「意味が違うってば」
「意味って?ところで芹菜のスリーサイズ分かる?身長と…髪型はまあ大丈夫そうだな」
「馬鹿っ!」
透輝は馬鹿の一言にむっとして真帆を見た。
真帆の口の悪さには慣れたつもりだし、悪意がないのも分かっている。
それでも胸のあたりがツクンとするのだ。
芹菜の真帆のやさしさや可憐さを、真帆に求めてはいけないことくらい分かっている。だが、もうほんのちょっぴりでいいから、やさしさを感じさせて欲しかった。
愛しているのは真帆だ。それ以外の女など考えられない。
なのに、どうしても芹菜の真帆が忘れられないのも事実だった。
ふたりまとめて結婚できたらいいのに。
真帆が聞いたら、即、崖から蹴落とされそうなことを、つい考えてしまう透輝だった。

真帆を助手席に乗せて、楠木家に向かう透輝は、気が気ではなかった。
「芹菜、明日、来れるよな。もう熱下がったんだろ」
「たぶんね。午前中に話したときには熱は下がってるって言ってたから」
「また熱が上がってたら、どうすればいいんだよ」
「その時は仕方ないんじゃないの」
「仕方ないじゃすまないんだよっ」
透輝は思わず真帆を怒鳴りつけ、ハッと口を噤んだ。
「ご、ごめん。つい」
「まあ、いいわ。いらいらする気持ちもわからないじゃないから」
透輝は目を丸くした。
「なによ、その顔は」
「いや、嬉しいなと思って」
「怒鳴られなかったくらいで、嬉しがらないでよ。普段の私がよほど酷いみたいに聞こえるじゃないの」
結局は怒鳴られてしまった。
その台詞からすると、真帆の自覚はやはり低いようだと透輝は哀しくなった。

楠木家は二階建ての、それほど大きくない一軒家だった。
それでも庭もあれば車庫もある。
「車庫に入れちゃえばいいわ。父さんは、この時間じゃ、まだ帰って来ないから」
「まるで自分の父親みたいに言うんだな」
真帆がふっと目元を和ませて笑った。その瞳に愛がほのみえている。
透輝は目を細めた。胸に喜びのさざなみが立つ。
こういう時の真帆は本当に美しい。
「父親だもの。芹ちゃんも同じだと思うわ。私の両親も彼女にとって、いまは両親と同じの筈よ」
「そんなものなのか。面白いな」
車を降りて二人は玄関に向かった。
「私、思うのよね。芹ちゃんと私は双子の魂なんじゃないかって。ふたりはどこかで繋がってるの、きっと」日本秀身堂救急箱
「それ、俺も分かる気がする。俺にとっても、芹菜はなんか特別に感じるもんな」
「それで行くと、わたしと宮島だって少しは特別な意識芽生えても良いはずなのに、不思議ね。宮島には敵対意識しか湧かないわ。芹ちゃんのことも…私の大事な物を取る嫌な野郎としか思えないのよ」
「宮島って、誰?まさか芹菜の…」
「ああ、もう複雑にしないでよ。この場面であんたの気持ちなんかどうでもいいわ」
透輝はまた、胸に痛みを感じて黙り込んだ。
「透輝は少し待ってて。ワンクッション置いたほうが良いわ。母さんあんまりびっくりさせたら、かわいそうだから」
真帆が呼んでくれるまでかなりの時間が掛かった。だが、母親の芹菜を呼ぶ声が聞こえたし、玄関先に芹菜の声がして心が浮き立った。
「お望みの彼女と、久々のご対面よ」
真帆が玄関から頭を出して言った。透輝は中にすっと入って行った。
「透輝!」
芹菜は真帆の時があるからか、真帆が彼を呼び捨てにするからか、彼の名前を呼び捨てにする。真帆だってさん付けで呼ぶのに、自分が特別な気がして気分が良かった。
帽子とサングラスを外し、透輝は芹菜に微笑みかけた。
   … … …
芹菜の妹と母親のことを思いやって、透輝は真帆と早めに帰ることにした。
外まで見送りに出て来た芹菜に明日のことを念押しした。
実際、今日はこのためにやって来たのだ。
困った顔の芹菜に、彼は必死で大丈夫だからと説明した。
真帆が芹菜を迎えに来ると言って聞かないので、仕方なく迎えは頼んだのだが、はっきりいってものすごく心配だった。
芹菜に、真帆と三人のデートを約束させて、透輝は得々として帰路に着いた。


撮影開始まで、透輝はバスの中に缶詰状態だった。
外には山ほどの女子高生に扮した女達がいる。
たしかに現役高校生も多いだろうが、まず半分はそうではないはずだ。
「入りました。楠木芹菜さん」
スタッフからの連絡が入り、それを聞いて透輝は心からほっとした。
それからだいぶたって、やっと撮影が始まった。
透輝の出番は、最後尾のグループが出発したすぐ後だ。
本当に芹菜を見つけられるだろうか?
だんだん不安が湧いてきた。
万が一、芹菜と見間違えて違う子を抱き上げたら、そこで撮影はストップ、また最初から撮り直しだ。
はじめの位置に戻るのに、かなりの時間が掛かるだろう。
一度の取り直しが、どれだけ時間をロスするか分からない。
それがすべて透輝に掛かっている。
プレッシャーに押しつぶされそうになったが、膨張するプレッシャーと対立するように理由の無い自信が湧いてきた。
「透輝さん、出番です」
彼はバスからすっと降りた。黒いズボンに白のシャツ。
撮影のためにうっとおしいほど伸ばした前髪、掻きあげたいのをぐっと堪える。そうするなと指示が出ている。
合図があって、透輝はゆっくりと駆け出した。
目標はずいぶん前のはずだが、目の前に同じ姿の女の子達が群れをなしている。
その情景に、確実なはずの自信がいささかぐらついた。
彼の周りで「きゃー、トウキ」という悲鳴に近い声が上がり「しゃべるなっ」という怒号が響き渡った。途端にシーンと静まり返った。それからは誰も一言もしゃべらなかった。
透輝は前を見つめてひたすら駆けた。
右手に歩道橋が見えてきた。
そろそろ芹菜の姿を捉えられるはずだ。
そう思った時、ひとりの背中が目に飛び込んできた。はっきりと分かった。あれだ。
透輝はその目標に向かって少し足を速めた。
なるべく歩道橋の直前で捕まえてくれと監督は言っていた。
出来なければ無理は言わないがと。
彼女まであと少しというところで、歩き続けている彼女を不自然でなく抱え上げられるだろうかと不安になった。だが、なぜかまるで透輝に気づいたとでも言うように、目の前にした芹菜が立ち止まった。
自分でも驚くほどうまくいった。
芹菜は軽く、透輝に持ち上げられてほんの少し宙に舞った。
前に回りこむと、ひどく驚いた芹菜の顔に出くわし透輝は微笑んだ。
その頬にそっとキスをすると、透輝は彼女の手を取って走り出した。
ものすごい開放感を感じた。
このまま空までだって飛んでいけそうだった。


小さな小部屋で、透輝はため息をついた。
出来上がったCMを見せてくれるという久野監督の申し出は嬉しくもあったが、芹菜を他の男に取られたショックからまだ立ち直れなかった。
あの男には見覚えがあった。
芹菜の真帆が入院していたとき、彼女の見舞いに来ていたところに出くわしたこともあるし、会社の前で真帆を待ち伏せしていたときも、あの男が最後に出てきて、彼のことを睨みつけた。
嫌な野郎だ。
そういえば、真帆もあいつのことをそう言ってたなと思い出して、透輝は少し気分がすっとした。
「よ、お待たせ」と、久野が部屋に入ってきて、上映が始まった。
上映といっても、写しているのはただのテレビだが。
数字がカウントされ、画面全体に女子高生の群れが現れた。
少し明るく、スキップを踏みたくなるようなメロディーが画像を装飾している。
カメラがクルリと回り、少しズームインした後、全員がシャンプーとリンスを持ち上げた。
瞬間、音楽が止まり、画像が一瞬でアップになった。簡約痩身
真ん中にいた女の子が、みんなより一テンポ遅れて、両手をぎこちない動作であげながら顔をあげた。
どきりとした。
見ているこちらが信じられないほど切なくなった。
心細そうな表情と、戸惑ったように開かれた両腕と両手のひら。
また、どんとアップになった。
言葉に出来ない不思議な瞳の輝き、少し開いた唇。
そして最後に彼女の瞳が閉じた。
もう一度見たい。その瞳を。そう思わせる。
「ひょーっ、さ、さ、最高だっ!何度見てもいいっ!」
久野が自分の膝をバシバシッと叩きながら言った。
その言葉に一度頷き、透輝は瞬きもせずに画面見つめ続けた。
場面が変わった。
同じように見える女の子の波を掻き分けて走る彼の背中。
歩道橋が見え、彼がひとりの女の子を抱き上げた。
ここだけスローになり、芹菜の身体がふわっと浮く感じがさらに増している。
彼女の前に回りこんだ透輝の表情に、彼自身が驚いた。
「げはっ」
透輝の口から思わずそんな叫びが洩れた。
顔中真っ赤になったに違いない。
一瞬で頭全体が熱くなった。
「うっわー」と叫びながら両手で顔を覆い、透輝は後ろにのけぞった。
指の隙間から覗くと、手を繋いで走っているふたりが見えた。
文字が淡く、そしてはっきりと浮かんでくる。
『君の髪の輝きは特別』
「一騒ぎあるだろうな。話題作りになる。喜ぶぞ、スポンサー」
椅子に座ったまま、身体全体を跳ねらかしながら、久野が嬉しげに喚いた。
透輝は真っ青になった。
そんなことになったら、真帆と、あのいけすかない野郎から袋叩きにされる。
いや、三人か…な。
「久野さん、あんな、あんなカット…あったのか…」
久野が待ってましたというように、得々とした顔を透輝に向けた。
「前もって見せたら、お前、使うなって言っただろ」
なぜか怒りは湧いてこなかった。
それよりも背骨から力が抜け、よろめいて倒れそうになった。
「こ、このコマーシャルって、いつから」
「半月先」
すでに新しい事務所になって、やっと落ち着いたところだった。
嬉しいことにスケジュールはぎっしりだ。
だが、それだけでは安心出来ない。
透輝はバッグからスケジュール帳を取り出した。
すべてマネージャーに頼りっぱなしで、一応マネージャーが書き込んでくれたスケジュール帳は持っていたが、自分でチェックなど一度もしたことがなかった。
背後で前の事務所から一緒についてきてくれた信頼の置けるマネージャーが酷く驚いたが、彼はまるで気づかなかった。
透輝はため息をつきながらページを捲った。
「俺、海外で長期のロケとかなかったかなぁ」西班牙蒼蝿水口服液

2012年6月21日星期四

虚しいキス

「やっと、記憶の封印が解かれたみたいね」
まだ受けた衝撃から立ち直れないでいたユウセイは、花売り娘のその言葉に、ゆっくりと振り返った。絶對高潮
「記憶の封印?」
「ええ」
「どういうことです? 忘れていたのは、封印されていたからだとでも?」
そう問いかけたユウセイに対して、花売り娘がおかしなことを聞いたとでもいうように、くすくす笑い出した。
ユウセイは、その笑いにむっとしつつ、花売り娘を見返した。
「ただ、忘れてましたーっていうんじゃ、王子様自身が嫌じゃないの?」
ユウセイは顔をしかめた。言われてみれば、そのとおりだ。
「ではいったい誰が、私の記憶を?」
ユウセイの問いを聞いた三人は、意味ありげに互いに顔を見合わす。その様子に、ユウセイはハッとした。
「まさか、あなた方が……」
「違う、違うわよ、ユウセイさん」
アリシアが慌てて否定してきた。
「ならば?」
再度の問いかけに、花売り娘が肩を竦めて口を開いた。
「シズネ。マナミの祖母」
「彼女の祖母が?」
眉をひそめたユウセイは、思わずマナミに目を向けた。
「いったいどうして私の……いや、そんなことはいまはどうでもいい! 彼女は、マナミは?」
何よりも、マナミの容体が気がかりなのに……私ときたら……
どうも、この一連の事態に、冷静さを激しく欠いてしまっているらしい。
「彼女は……」
話そうとしたのに、花売り娘は言葉を止めてしまった。
「どうしたんです? 早く教えてください」
「だって……ねぇ?」
花売り娘は、老人のほうに向く。
「順を追って話すほうがいいんじゃないか。衝撃を和らげられるなら……」
「衝撃? どういうことなのです?」
わけがわからず、ユウセイは老人に詰め寄った。そのユウセイに、アリシアが慌てて手をかけてくる。
「まあまあ、落ち着いてユウセイさん」
「ねぇ、わたしたちはちょっと場所を外すってのはどうかしら?」
花売り娘は、老人とアリシアに言う。
「ああ、そうだな、それがいい、そうしよう」
老人はにこにこしつつ、花売り娘の提案に即座に同意した。
アリシアのほうは少々心配そうに顔を曇らせながらも頷く。
「あの……?」
「ふたりきりにしてあげるわ。わたしたちはさっきの部屋でお茶してるから、王子様は、気が済んだら戻ってきてちょうだい」
気が済んだら……?
「私は……」
「ユウさん」
老人に呼びかけられ、ユウセイは顔を向けた。
「ただ、彼女は目覚めない。それはわかっておいてください」
「目覚めない? まさか、眠りから覚めない呪いでもかけられているのですか?」
「詳しいことはあとで話すから」
花売り娘は手を振りながら、スタスタとドアに向かって歩いて行く。
「それじゃ、ユウセイさん」美人豹
そう声をかけ、アリシアも花売り娘のあとを追う。
ふたりが出て行き、ドアが閉まると、最後に残った老人が肩を叩いてきた。
「彼女は目覚めないが……貴方には、彼女とふたりきりの時が必要です。それと、これを」
老人が差し出してきたものを見て、ユウセイは目を見開いた。
それは、ユウセイの心をおかしなほどひきつける、あの白き花だった。
「これは幻のようなもの……だが……ここにあることも現実」
そう言葉を添えながら、老人はユウセイの手に白き花を手渡す。
「震えて……いる」
白き花を手にし、ユウセイは思わず口にした。
「混沌とした中に……貴方が触れてきたからでしょう。では」
謎めいた言葉を残し、老人は部屋から出て行った。
その間も、ユウセイの視線は、白き花に注がれていた。
白き花は、彼の魂に直接触れてくるようだ……
白き花を手に出来ていることに、狂いそうなほどの喜びを感じる一方、それを受け入れきれず、身体か全力で拒む。
ユウセイは吐きそうなほど気分が悪くなり、たまらず、白き花を手から離し、ベッドの上に置いた。
手放した途端、吐き気は嘘のように収まった。
なんなんだ?
白き花に触れたくてたまらないのに……
理不尽さに奥歯を噛み締め、ユウセイは魂を誘う白き花から視線を引き剥がした。そして、ベッドに横たわっているマナミに目を向けた。
彼女の頭近くに手を突き、顔を覗き込む。
閉じられている瞼、まつ毛、鼻筋、そして頬と唇。
確認するように視線を向けるたび、懐かしい記憶が湧き上がるように思い出された。
初めての出逢い。祖母を交えてのおしゃべり。湖のほとりを手を繋いで歩いたこと。秘密のお気に入りの場所への招待。
祖母が持たせてくれた、中身のぎっしり詰まったランチボックスを抱えているユウセイに、「重たくない?」と、何度も心配そうに問いかけてくれたマナミの表情をリアルに思い出し、ユウセイは顔を歪めた。
胸が、どうしようもなく切ない……
愛らしくて、愛しくてならなかった。だが、彼女はユウセイよりも十も年下……恋愛の対象にはなりえない。
それでも、いつでも側に置いておきたくてならなくなって……それで……城に……
頭の中に鈍い痛みを感じ、手のひらをあてた。
彼女を城に連れて行きたいと祖母に言った。
そうしたら、それはできないことだと言われて……いや、違う……いまはできないと言われたのだ。いまはできないと……
だが、どうしても納得できなくて……マナミに言った。私の城に、行こうと……
驚いたマナミの顔……それから、ひどくまぶしい光が……そして、額をつらぬくような衝撃を受けた。
記憶を封印されたとすれば、きっと、このときではないだろうか?
老人たちは、彼の記憶を封じたのは、マナミの祖母だと言っていた。
マナミの祖母は、そんな特殊な能力を持つ人物なのか?
まさか、マナミをこんな状態にしたのも?
どうやら彼は、彼女の祖母だというシズネに会いに行かなければならないようだ。
真意を聞き、なんとしてもマナミを目覚めさせてもらわねば。
やるべきことが決まり、ユウセイは意志を固めてマナミを見つめた。
恐ろしいほど生気を感じない。これでは人形のように見える。
息はしているのだろうか?
不安になったユウセイは、マナミの口元に耳を寄せた。
ハッ! い、息を……していない?SUPER FAT BURNING
ユウセイは仰天して身を起こし、目を見開いてマナミを見つめた。
ま…さか……死んで……?
違う。そんなわけはない。落ち着け!
自分を怒鳴りつけたユウセイは、大きく息を吸い込み、ゆっくりと息を吐き出しながら自分をなだめた。
彼女は目覚めない。老人が言った言葉が、いまさら重く心にかかった。
いくら大声で彼女を目覚めさせようとしても、無駄な事なのだ。
彼女を助ける術は、あの三人が知っている。
行動を起こさなければ……そして必ず、マナミを救う。
ユウセイはマナミの顔に、触れるほど顔を近づけた。
「マナ。きっと私が君を助ける。……待っているんだよ」
ユウセイは、約束するように彼女のぬくもりのない頬に、そっとキスをした。
顔を上げたユウセイは、自分の胸にある虚無感に顔をしかめた。
虚しい……苛立つほどに……
彼女の反応がないからではなく……
自分自身が理解できず、ユウセイは割り切れない気持ちで瞳を揺らした。
そのユウセイの目が、ぼんやりと白いものを捉えた。ハッとして目を向けたユウセイは、動揺した。
白き花……
ぼんやりした光になり、ほとんど消えそうになっている。
「どうして?」
ユウセイは飛びつくように白き花を手に取ろうとした。だが手には何も触れず、白き花はパッと散るようにして消えてしまった。
ドクドクドクと心臓が激しく脈打つ。
「マナっ!」
ユウセイは、もどかしさを吐き出すように叫んだ。
「ユウ……セ……」
微かな声が、ユウセイの叫びに呼応するように聞こえた。超級脂肪燃焼弾

2012年6月19日星期二

見えない同伴者

沙絵莉は自転車を押して道のほうへゆき、誰もいない空間に向かって「ここに乗って」と、後部座席を叩いてみせた。
「乗る? ここに?」
「ええ。大丈夫だから。ゆっくりこげば、転んだりしないわ」
沙絵莉はアークの声がした方に向けて話しかけた。曲美(Sibutramine)
目の前にいるのはわかっていても、姿が見えないせいで、視線を定められず瞳が揺らぐ。
「いいから、ここに腰かけて」
自転車が少し片側に傾き、沙絵莉は力を入れて自転車を支えた。
タイヤがぐっと沈み込んだ。どうやら無事にアークは腰かけたようだ。
沙絵莉はためらいがちに、彼の背中があるだろうと思えるところに手のひらを当ててみた。
うん。ちゃんといる。
「サ、サエリ?」
戸惑ったような声を耳にし、沙絵莉は慌てて手を離して頷いた。
「大丈夫よ」
彼女は強く請け負うように言い、ハンドルを力一杯掴んで、自転車に腰かけた。
「どこか掴んで」
「えっ?」
「バランスが取りづらいの。腰のあたりを掴んでくれる」
しばらくまったが、腰に触れてくる様子はない。沙絵莉はもう一度催促した。
「腰を掴むのだろう。もう掴んでいるぞ」
一瞬意味が分からず首を傾げた沙絵莉は、ようやく彼の言葉の意味に気づいてぷっと噴いた。
顔に似合わず、まったくとんちんかんなんだから。
「あなたのじゃないの。私のよ」
「えっ! そ、そうか。…だが、その…君の腰に…触ってもいいのか?」
ごくりとつばを飲み込む音がした。
意味ありげな口調に、なんだかこちらまで緊張してきた。
「嫌だったらいいの。ほら、この辺をぎゅっと掴んでくれれば…」
沙絵莉はサドルの後ろを指して言った。
「嫌なわけがなかろう。君が、許すというのなら、もちろん私は…いいんだ。君の腰の方が…」
沙絵莉は反射的に頭の後ろへと手を振り上げた。
何処に当たったか知らないが、パシッと音がした。
どうもアークの耳の辺りだったようだ。
「叩くことはないだろう」
不服そうな声に、沙絵莉は吹き出した。
「もう腰はなし。ここを掴んでて」
自分のお尻の後ろ辺りを指さした沙絵莉は、コホンという咳払いに、ぎょっとして顔を向けた。
小さな子どもを連れた母親が、不審そうに彼女を見つめていた。
沙絵莉はためらいがちに微笑み、「まあ、かわいらしいお嬢さんですね」と声をかけた。
娘を褒められて喜ばない親はない。
母親は不審そうな表情を消して、態度を和ませた。
「まあ、どうもぉ。真理ちゃん、かわいいってぇ」
娘の両手を持ってしゃがみ込んだ母親を尻目に、沙絵莉は力を込めて自転車をこぎ出した。
はたからは一人で乗っているように見えるだろうが、後ろには大きな男性一人を乗せている。
おかげで、自転車はかなりよろよろといった感じで進んだ。
「大丈夫か…サエリ、降りようか?」
「声かけないで!」
沙絵莉は短く叫び返した。
お喋りなどしていたら、バランスが崩れてしまう。
それでも乗っているうちにいい調子にリズムがついてすいすいと走り出した。
風を切って進むのは気持ちがいい。そのうえ、後ろには素敵な荷物を乗せているのだ。
ほんとになんてことだろう。
アークがいまここにいる。
沙絵莉はあまりの嬉しさに、叫び出したい気分だった。
そんな乙女の純な喜びに浸っていた沙絵莉の耳に、またお腹の虫が喚くような音がした。
アークは何も言わずに、ぐっとだまりこんでいる。おかしくて吹き出しそうになったが、沙絵莉はなんとか我慢した。
「よっぽどお腹が空いてるのね」
「…昼食を取っていないからな」
「まあ、昼食も取れないほど、何がそんなに忙しかったの」
「ずっといたんだ。朝から…ずっと。こっちに」
「えっ?」
叫んだ沙絵莉は自転車を止め、後ろのアークに振り返ってみた。Motivator

アークはどぎまぎした。
彼の姿が見えていない彼女には知りようもないが、互いの顔はくっつきそうなほど近くにあるのだ。
彼の息を頬に感じたのか、サエリが慌てて身を引いた。
ほっとしたが、残念な気持ちも湧く。
頬を赤らめているサエリを見つめ、アークは話を続けた。
「声をかけようにも人が大勢で、姿を消して、ずっとチャンスを待っていたんだ」
「まあ」と言ったサエリは、しばし考え込んでから口を開いた。
「なんとなく感じたあれって、そうだったのね」
「感じた。私を?」
「ええそう。教室で…。もしかして、さっきのあれもそうなの、私の自転車が…」
「ああ、テレポしたんだが、接近しすぎていてかわせなかった。すまない。君に怪我がなくてよかった」
「あなたは? 衝撃があったもの、ぶつかったんでしょ。どこをぶつけたの?」
アークは痛む足を差し上げたが、サエリに見えるはずもなかった。
「足だ。少し痛むが…大丈夫だ」
癒しの術を使えばすぐになおる。と言いかけたアークだったが、「あとで手当して上げるから我慢してね」とサエリが心配そうに言うのを聞いて口を閉じた。
癒しのことは黙って置くことにしよう。
自分の癒しなどよりも、サエリの手当のほうが心がそそられる。
「あのおばさんをひっくり返したのもあなたなのね。ちょっと気の毒だったわ」
「わざとではないぞ。私だって、あの女の膝が背中に当たって痛かったんだ」
「まあ、背中を蹴られちゃったの」
心配そうに顔を曇らせるサエリを見て、アークはにやついた。
幻に包まれている安心感で、大っぴらににやつける。
それにしても、彼女の手当が待ち遠しい。

--------------------------------------------------------------------------------

沙絵莉はいつも買い物をしているスーパーの前で自転車を止めた。
お腹を空かせているアークに、何か食べさせてあげなければならない。
周りから人がいなくなるのを待って、アークに話しかけた。
「ここで買い物するけど、一緒に来る? それともここで待ってる?」
「一緒に行く。姿を現してもいいか?」
「だ、だめだめ、人が多すぎるわ。姿を現した瞬間を目撃されたら、とんでもないことになるわ。この間も…ああっ」
「なんだ?」
沙絵莉はふぅーと息を吐いた。
すっかり忘れていたが、下の階に住んでいる奥さんの噂話。
あれは本当のことだったのだ。
そして、その噂の主は…
「あとで話しましょう」
沙絵莉はそう言葉を締めくくり、バッグを手にしてスーパーの中に入った。
「ちゃんといる?」
小声で確認すると、「ああ」という微かな声が返ってきた。
沙絵莉は安心して、買い物を始めた。
透明人間と一緒に買い物をするという事態はかなり斬新で愉快な体験だった。
品物を選んでいると、アークがこれはなんだあれはなんだとひっきりなしに問いかけてくる。
店内は騒々しいし、音楽も流れているから、彼の声を気にとめる人はそうそういなかったが、タイミングが悪いと、彼の声を耳にしたのか、きょろきょろと首をまわす人もいた。
もう黙っているようにと彼女に命令されて、彼はおとなしくなった。
満杯になったかごを持ち、沙絵莉はレジに並んで会計をすませた。
アークに美味しい物を食べさせようとあれこれと買い込んだのでダンボール一杯にもなった。
かなり重かったが、透明人間のアークに持ってもらうわけにはゆかない。
ずっしり重い段ボール箱を抱え、沙絵莉は出口に向かって歩いた。
これだけの荷物を抱えていたら、気づかいを見せない彼ではないと思うのに、彼女の命令を律儀に守っているのか何も言わない。
自転車に荷物を積んでしっかりと固定した沙絵莉は、周りを見回して誰もいないのを確かめてからアークに声をかけた。
「アーク?」
何にも返事がない。
「返事をして…いるんでしょ?」
やはりなんの返事もない。
まさか、つまらなくなって、自分の世界に帰ってしまったのだろうか?
いや、そんなことはしないだろう。沙絵莉に一言もなく帰るはずはない。
とすると…
沙絵莉は荷物をそのままに、慌てて店内に戻った。
スーパーの中を「アーク」と囁くように呼びかけながら小走りに移動していると、大量の缶詰が転がった通路で人が右往左往していた。
ひとりの婦人が、おろおろと謝りながら、数人の店員と一緒に転がった缶詰を拾って、元通りに並べるのを手伝っている。
へこんだ缶詰をより分けながら、若い女性店員がぶつくさ言っていて、沙絵莉からみても、ひどく感じが悪かった。
年長の男性店員がその態度をみかねて叱責し、婦人に向いて感じのいい笑みを浮かべた。
「お客様。私たちで片付けますから。どうぞお買い物をお続け下さい」
「で、でも」
婦人は泣きそうな顔で缶詰を握りしめている。SPANISCHE FLIEGE
年長の男性店員はにこやかに笑みながら、その缶詰を受け取った。
「こういうことはとてもよくあることで馴れていますから。さあ、お買い物をお続け下さい」
床に置かれていた婦人の買い物かごを持たせて促し、男性店員は最後に「これに懲りずに、またおいで下さいね」と声をかけた。
見上げた客あしらいだと感心していると、肩に手が置かれ、沙絵莉はほっとした。
もちろんアークだ。
「何をしていたの、探したのよ。行きましょう」
囁いた沙絵莉は、すぐに店から出た。
荷台には荷物があるから自転車を押してゆく。
アパートはすぐそこだ。だが、その前にパン屋にも寄りたい。
歩いている途中でアークが悔いるような沈んだ声で言った。
「私が悪いんだ。あの婦人に悪いことをした」
「あなたが缶詰を転がしたの?」
「あれはカンヅメと言うのか? 私が転がしたわけではないんだが。その缶詰とかいうのを見ていたら、あの婦人に気づかなくて、私の身体にぶつかって、その拍子にあの婦人が…」
「缶詰の山に突っ込んだってわけね」
「姿を現して、片づけを手伝いに行くべきかな」
「そんなのかえっておかしいわ。仕方ないわ、ふたりであのおば様に、心の中で謝りましょう」
「…そうだな。そうしよう」
沙絵莉はアークの言葉に微笑んで頷き、歩き始めた。
「さきほどのカンヅメというものは、買ったのか?」
しばらくしてアークが聞いてきた。
やたら期待がこもっているように聞こえた。
「いいえ」
「そうか。あれの中身を見てみたかったのだが…」
かなり残念そうな口振りだ。
「あれと同じ物じゃないけど、缶詰ならうちにあるわよ」
「そうか」
明るい口調になったアークがおかしくて、彼女はくすくす笑った。
「家はもうすぐだげと、その前にパン屋に寄るわね」
「パン?」
「美味しいのよ。もう少し我慢してね」
「サエリ、世話をかけてすまない」
見えない同伴者は、きっと頭を下げているのだろう。
沙絵莉は笑みを浮かべながら、彼の手があるであろうと思える方向に手を差し伸べた。
その手にそっと触れるものがあり、彼女はそっと握り締めた。
目に見えなくても、あたたかな彼の手のひら…
アークの温もりがじんわりと心に沁み、沙絵莉は涙ぐみそうになった。SPANISCHE FLIEGE D9

2012年6月12日星期二

潮目

午後の予定は、土砂降りできれいさっぱり流れてしまった。自室に戻り、着替えたアムジャッドは、謁見の間へと向かう。今の時間なら、港から運ばれてくる資材を手配した商人が顔を出しているはずだ。強効痩
 部屋の両側に並ぶ官僚たちの列の中に、さりげなく紛れ込み、部屋の最奥を覗き込む。玉座のカムシーンは、相変わらずだらしない姿勢で浅く腰掛け、組んだ足の上に書類を広げていた。最前列に立っている宰相の眉間の皺が、細かく震えているように見えるのは、恐らく幻覚ではない。
「すべて揃うのは、いつだ?」
「明後日には、なんとか…」
「ふむ……」
 もっともらしい表情を作っている時のカムシーンは、たいてい何も考えていない。アムジャッドが睨みつけているのに気がついたカムシーンは、何故か笑顔を返してきた。宰相の顔がさらに引き攣る。
 後宮から出た火は、東屋が置かれている奥庭と、壁を隔てて隣接していた外庭を囲む棟をいくつか焼いたが、懸命の消火と救助が功を奏し、被害は最小限に留められた。
 しかし、奥から燃えたのが災いし、焼け跡から、王だけが身につけることのできる大粒の宝石に飾られた骨と、それを取り囲む女性の骨が出た。焼け残った衣服や貴金属から、その中の一人がカムシーンの実母である第一后妃と断定され、他にも後宮で力を持っていた后や寵姫たちの骸が見つかった。出口に近い場所にいた下働きの女官たちは、ほぼ無傷で逃げ出すことができたのとは対照的だ。袋小路の立地が災いしたとしか言えない。
 トランセーズからの亡命者のために設えられた部屋からは、アムジャッドの予想通り炭化した男女の死骸が二つと、刃の潰れた長剣が見つかった。
 焦げた剣は打ち直し、今はアムジャッドが身につけている。
 鍛冶職人に、ついでに少し短くした方がいいと言われた時は、仮にも武官として少し傷ついたが、そのまま腰に吊ると鞘の尖端が床を擦ってしまうという事実には、それ以上に打ちのめされた。
 彼らの死を疑っている者は、今のところいない。
 それどころではないと言った方が正しい。もし、死骸がそこになかったとしても、カムシーンは捨て置いただろう。それほどに、今の彼は多忙だ。
 後宮は、再建されないことが決まった。
 王族の外戚にならんとしていた貴族からの強い反対の声を、カムシーンは強引に押し切ってしまったのだ。跡地の半分は資料庫が置かれ、残りの半分は外庭に吸収された。作り直される壁には東西の両側に門を設け、そのすぐ傍には、一般市民のための施薬院が設置される計画がある。この大火を教訓に、宮殿を回遊できる造りにするというのが次期国王の主張だ。
 謁見の間を出る時、カムシーンは必ず目配せを送ってくる。
 アムジャッドが急ぎ足で付き従うまで必ず待っていて、二人で私室に戻る。本人いわく、退屈な話を我慢して聞いたのだから、これぐらいは当然らしい。
「……立場というのは、人を変えるな」
 溜め息混じりの疲れた声を吐き出しながら、カムシーンは奥へと向かう。以前は、将官が使う部屋を使っていたが、亡き王の私室が今のカムシーンの部屋だ。
 当初、アムジャッドは良い思い出の無いこの部屋を敬遠したのだが、あの夜の大火で煙と煤だらけになったため、調度から壁紙まで、すべてカムシーンの好みで揃え直されたら、まったくの別物になってしまった。驚くほど質素になった部屋には、それでもなんとか威厳を残そうと国宝の焼き物や香炉が飾られているのだが、剥き出しで置いてあると壊してしまいそうで落ち着かないと、常々カムシーンは愚痴をこぼしている。
 見慣れた扉を開いても、頭の奥まで痺れさせるような重い香りは無い。代わりに、窓が大きく開け放されており、雨と草木の匂いが部屋に満ちている。
「父が、俺を急かした気持ちがわかる。立太子を受け入れた時は目の前が暗くなる思いだったが、口頭だけでも了承しておいてよかった。俺が第一王子のままでいたら、もっとややこしくなっていたぞ…」
 クジュラムは原則として長子相続だが、立太子は王権を得るために必ず踏まなければならない手続きとなっている。王太子と王子は、似ているようで大きく違う。例えば、国王不在の期間、代理として権限を行使できるのは王太子のみだ。
「国王となられたらすぐに王太子を擁立できるよう、支度を進めねばなりませんね」
「……アム。お前、シンディバードに似てきたんじゃないか?」
 アムジャッドの忠実な副官は、土砂降りの中に残って現場の撤収を指揮している。くしゃみを一つしたところで、本人も周りも不思議には思わないだろう。
「臣下として、当然のことを申しました」
「心配するな。王太子には弟を擁てるつもりでいる。俺は、跡目さえ定めておけば、婚姻を急ぐことは無いと思っている。歳を取っても后を娶ることはできる。ここぞという時に高く売りつけるさ」
「………はぁ」
 ここぞという時は、永遠に来ないのではないか。
 カムシーンの中の父王に対する妙な気負いや対抗意識がなくなり、自分に執着する理由が無くなれば、自然と離れていくだろうと思っていた。しかし、現実は正反対で、カムシーンは私的な時間のほとんどを、アムジャッドに費やしている。
「それで、土壌の調査は進んでいるのか?」
「この雨で中断してしまいましたが、明日には更地にできると報告が上がっています」
「上出来だ。資材が届き次第、着工させろ」
「御意」
 アムジャッドの報告を聞いたカムシーンは、話し終わると同時に相好を崩し、真新しい長椅子を手の平で軽く叩く。
「……殿下」
「今日の仕事は終わりだ。早く座って、話を聞かせてくれ」
 アムジャッドが仕方なく腰を下ろすと、早速、膝を枕にしようとする。もっと柔らかい枕はいくらでもあるだろうにと思うが、両親を亡くしたばかりの彼が、それをおくびにも出さずに政務をこなしているところを見た後では、何も言えなくなる。
「で、昨日は何を読んだんだ? お前が、毎晩、真剣な顔をして本にしがみついているから、俺は我慢しているんだぞ」
「クジュラム国内の手工業に関する論文です。聞きますか?」
「やめておく。アムは、俺よりもそんな物がいいのか」
「良し悪しではありません。必要だから読むだけです」
「……仕事は楽しいか?」
「はい」
「偉いな、お前は。俺は大嫌いだ」
 一国の王となる身とは思えない発言だが、カムシーンは大真面目だ。アムジャッドの髪をグリグリと乱暴に撫でながら、嫌いだからもう寝るなどと子どものようなことを言う。
 口だけだ。
 アムジャッドが呼ばれる夜も、寝かさんだの寝るなだのとふざけた後で、明け方にきちんと仮眠を取っている。以前のように、執務中に居眠りをするようなことはない。
「アム、この国が好きか?」
「どうしたんです、突然?」
「もう俺の国になってしまう。お前に好きでいてほしい」
「…………」
 カムシーンは、トランセーズの二人が生きていることを知らない。闇の中から手を伸ばしたバルタザールの言葉に、アムジャッドが揺れたことも。
砂糖と生姜を煮詰めたシロップを、匙でとろとろとグラスの底に落とし、キリリと冷えた酒で割る。
 王太子の身の回りの世話のために女官は多数置かれているが、夜遅くに顔を出したアムジャッドに、料理長は躊躇いなくそれを渡した。
「酒の分量を、増やせと仰る。これ以上は身体に毒だと、それとなく伝えてくれ」
「わかりました。もう、休んで下さい」
「まだ、朝の仕込みが残っているんでね。あんたこそ、捕まらずに休めるといいな」
 壮年の料理長の何気ない一言に、アムジャッドは苦笑する。OB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ
 彼の立場は、至福門の内側で仕える人間のほとんどに知れたわっている。多かれ少なかれ蔑みの視線を向けられるが、稀にこだわらない人間がいる。この料理長もその一人だ。
 アムジャッドの足取りに音はなく、盆の上のグラスの水面は、まるで作り物のように動かない。両手で丁寧に支えていた盆を片手に持ち替え、軽く扉を叩く。許可か不許可か判然としない、呻きのような声が返ってきた。そっと扉を開くが、カムシーンは大きな図面に目を落とし、こちらを見ようともしない。
「お持ちしました」
「………アムか?」
「はい」
「今日は、呼んでいないぞ」
「たまたま、厨房に用がありましたので」
 そこまで聞いたカムシーンは、ようやく顔を上げる。苦い薬湯を、鼻を摘んで飲み込んだ時のような渋面だ。歯でも痛むのかと、アムジャッドは小声で聞く。
「…如何されましたか?」
「俺の顔を見にきたと言われたわけでもないのに、ヘラヘラするわけにはいかんだろう」
 図面が大き過ぎて、机の上に空きが無い。数日前まで、国宝の壷が飾られていた台に載せる。薄い青で手触りの滑らかな壷は、ぽってりとした底部に華奢な口の珍しい形をしていて、アムジャッドは少し気に入っていた。口に出すと、それなら持っていけと簡単に言われそうで、黙っていたが。
「ご苦労だったな」
「は?」
「焼跡の灰かきと土壌整備の件だ。後宮の造りを知っている男はほとんどいない。俺ですら、入ったことがなかったからな。お前にはさせたくなかったが、他にいなかった。すまん」
 灰の中から、王の死骸を見つけたのはアムジャッドだった。
 先王は、稀にアムジャッドを後宮に伴っていくことがあった。女達の中に一緒に並べて、女のような姿をさせて、女を喜ばせるような物をアムジャッドに与えることが好きだった。去勢の話も出ていたが、小さいながらも貴族出だったために、その難は逃れることができた。先王は、アムジャッドを女の延長として見ていたのだ。
「殿下、王は謝ってはなりません」
「…そうだったな」
 散らばった女達の骨と違い、王の遺骸は焼け残った上座に座ったままで発見された。即位以来、頭を下げたことの無い男の最期の姿として相応しいものだった。
 飲み物を両手でそっと取り上げたアムジャッドは、カムシーンの脇に跪いて差し出す。
「アム、これを見てくれ」
 酒を受け取りながら、カムシーンの空いた手が図面を傾ける。
「これは……港湾でしょうか?」
「クジュラムは陸路に偏り海路の開拓に積極的ではなかったが、お前を前に行かせた港を、海洋都市として整備しようと思っている……首都が落ち着いた後の話だが」
「総督府を置くのですか?」
「あの街の者は、各国の文化が混ざり合っているせいか、クジュラムの民だという自覚が薄い。シンディバードを見ていればわかるだろう?」
「……いえ」
「俺よりも、お前への忠誠の方が強い。…別に、非難しているわけじゃないぞ。王家を軽んじているわけではないが、自らの才覚で切り開くという考え方が街全体に浸透しているようだ。突然、役人が乗り込んでいって頭ごなしに命令しても、反発しか生まんだろう。最初は、この地に縁のある小貴族の中から総督を選ぶ。将来…そうだな、二十年後には、お前とシンディバードを行かせるつもりだ」
「私をですか?」
「俺としては、あの街で生まれ育ったシンディバードを総督に据えたいが、生まれが平民では軽んじられる。お前を据えれば、勝手にあいつはついていくだろう」
「……………」
「他にも、やりたいことはいくらでもある。俺は、今年二十一歳だ。人並みに生きれば歴代の王の中でも指折りの長い治世を敷くことになる。それで何も成さなかったでは、聞こえが悪い」
 酒で口を湿らせながら、カムシーンは次々と耳慣れない言葉を紡いでいく。
 数百年前に作られた法の整備、福祉の充実、今は地方や階級でバラバラになっている学制の統一や識字率の向上。どれだけできるかわからんと笑っているが、目は真剣そのものだ。
 この方も、王への道を昇っていく。過ちの許されぬ、高く孤独な長い道を。
「総督になれば、首都から離れることになりましょう」
「二十年後の話だぞ。場合によっては、もっと先になるかもしれん」
 そういう問題では無いのだ。
「私は、お傍には置いてもらえぬのですか?」
 笑みを浮かべ、あくまで軽い調子でアムジャッドは言う。
 先王は、自分を女のように扱った。彼は、どうしたいのだろう。例えば、三十年、五十年先の老いた自分を、この人はどうするのだろう。
「この馬鹿馬鹿しいほど大仰で装飾過剰な宮殿から、逃げたくはならないか?」
「え?」
「俺はここに居なければならんが、お前がそれに付き合う必要はない。まあ、海は俺の趣味だから、お前が他にやりたいことがあるなら、それを選べばいい。何も考えずに傍にいろと言えた頃が懐かしいな。ほんの少し前のことのはずなんだが」
 無責任で楽しかったとカムシーンは笑い、図面に指を滑らせる。
「ガレリアというものを知っているか?」
「並んでいる商店に、屋根がついている通りだと聞いたことがありますが…実際にどういう形の物なのかは存じません」
「二十年後に見せてやる。街の中央に総督府を置いて円形広場で囲み、そこを中心に放射状にガレリアを作る。海沿いの露店街はそのまま活かすつもりだ。生鮮物は外で見た方が旨そうに見える」
 ひとつひとつ図面を指し示すカムシーンの説明は、淀みない。覗き込んでいたアムジャッドを膝の上に座らせ、肩越しに手を伸ばす。
「いい街を作るぞ。諸外国に恥ずかしくない、クジュラム最大の商業都市にする。交易船も増やす。人材の育成も必要だな。いくらでもやることがある」
「ご無理は、なさらないで下さい」
「居眠りしているよりは、いいだろう?」
 グラスを手渡され、促されて一口含む。思った以上に酒の苦みが強く、アムジャッドは顔を顰めた。まったくの下戸ではないが、強くはないし飲める銘柄も限られている。そもそも、クジュラムには胃が焼けるほど強い酒が好まれている背景もある。
「御酒も過ごされぬよう、ご自重ください」
「料理長に聞いたか?」
「はい」
「仕方がないな。お前に免じて、残りは全部飲んでいい」
「……………」
 なんとも微妙な表情になったアムジャッドは、じっと手の中のグラスを見つめる。
「飲めないなら、俺が飲むぞ?」
 そこまで言われては後に引けない。息を止めて、グイとグラスを傾け、中身を一気に呷る。なんとか全てを胃の腑に流し込んだが、あまりの酒の強さに噎せ返った。
「がんばったな」
「…子ども扱いは止めて下さい」
「褒めただけだ。そろそろ部屋に戻れ。酒が回って、まともに歩けなくなるぞ」
 つむじに軽く口づけられ、振り返ると頬にキスされる。
 王子だった頃の彼は、行動に自制が無かった。気が向いた時間にアムジャッドを抱き、気が向かなくても接している間にその気になれば、手を伸ばしてきた。王太子として責任を背負うようになってからは、同じ夜でも、彼の中で公人として眠る日と私人として過ごす日を明確にわけている。
 呼ばれない日は、抱かれない。親愛以上の態度を見せない。
 父王に似てきたと言えば、機嫌を損ねることはわかりきっているから、何も言わない。カムシーンにとって父は悪徳の化身だ。
「行かないのか?」
 腰を抱いていた手が、いつの間にか離れている。
 膝の上からそっと下りると、しっかりと抱き込まれていた背や肩が急に心細くなった。
周囲の目まぐるしい変化に取り残されているアムジャッドにとって、シンディバードの変わらぬ言動は貴重なものだ。今朝も、以前と変わらず回廊を駆ける、忙しない足音が部屋の中にまで届く。
「アムジャッド様、おはようございます!」
「おはよう。シンディ、回廊は…」
「真っ直ぐ作るからいけないんです。直線は走るためにあるんです」
 わけがわからない。
 わからないが、毎朝、違う理由をスラスラと述べるのは、ある種の才能だとも思う。ほっこりと煮込まれた豆と米の朝粥を匙で混ぜながら、アムジャッドは足下に積み上げている資料の中の一つを抜き出した。薄い冊子を差し出されたシンディバードは、怪訝そうに受け取る。
「地図ですか?」
「いろいろ調べていたんだが、その土地の出身者に聞くのが一番早いとわかったんだ。シンディ、故郷のことを教えてくれないか?」V26 即効ダイエット
「どうしたんです、突然」
 粥を口に運びながら、アムジャッドは訥々とカムシーンに聞かされた話をシンディバードに伝える。冊子を捲りながら、しばらく黙って聞いていたシンディバードだったが、話が深部へと進むにつれ、溜め息が混じりだす。
「それはまた……。殿下は、重症ですね…」
「重症?」
「確かにクジュラムは、海洋技術では他国に遅れをとっています。それに力を入れるのは、間違ってはいませんけれど……」
「本当は、シンディに総督をやらせたいと…」
「ただの建前ですよ。殿下は、自分の大好きな物ばかりでできた街を作って、それを大切に大切に育てたいだけです。国情が安定したら、視察だの避暑だの避寒だのと理由をつけてはアムジャッド様を連れて行きますよ。で、言うんです。どうだ、凄いだろうって。殿下とアムジャッド様が、建設中の建物を見て回っている間、私は書類に埋もれてるんでしょうけど」
「いくら何でも、それは考え過ぎ…」
「いいえ、絶対にそうなります。間違いありません」
 きっぱりと断定したシンディバードは、両腰に手を当て、ギュッと唇を噛む。
「……故郷が発展するのは、嬉しいですけどね。あの街には、海しかありません。職業選択の幅が狭いんです。総督府が置かれれば現地からの登用も期待できます」
 ただの田舎ですからとシンディバードは笑う。
 返す言葉に困ったアムジャッドは、粥の残りを口の中に黙々と運ぶ。食べ終わるまでに、気の聞いた台詞でも思い浮かぶかと思ったが、結局、空になった椀をシンディバードに取り上げられ、微妙な表情のまま、彼の背を追って部屋を出ることになった。
 この数ヶ月、時間が飛ぶように過ぎていく。
 指折り数えたアムジャッドは、あの土砂降りの戦場で洞穴に迷い込んだのが、たかだか半年前だということに気づき、呆然とした。今は雨期の半ば。乾期と雨期を二度繰り返して一年というクジュラムの気候は、まだ一回りしてすらいない。
 最近、隠さなくなった鎖を指で弄ると、小さな鍵が揺れる。
 誰の目にも見せた方が、もうこれは特別な物ではないのだと思うことができる。半年の間に、これまでに得られなかった喜怒哀楽のすべてを経験することができたことは、バルタザールに感謝している。だが、彼を許せるかと問われれば、許さぬと答えるだろう。
 少し歩いて振り向くが、厨房に食器を持っていったシンディバードは戻って来ない。また、あの料理長に何か食べさせられているのかもしれない。前料理長が後宮の大火に巻き込まれ、カムシーンと時を同じくして厨房の長となった彼は、魚介料理を得意としていて、シンディバードの餌付けが趣味だ。
 仕方なく一人で歩いていたアムジャッドは、ふいに額を突かれ、驚きに後ずさる。いつの間にか、大きな影が目の前に差していた。
「そう難しい顔をしていると、皺が残るぞ」
 カムシーンの指が、眉間を撫でる。
「私はきっと、皺の一つぐらいあった方がいいのです」
 半年より以前の自分は、王の傍に侍りながら何も考えていなかった。ただ緩慢に過ごしてきた日々を思うと、頭の奥がキリキリと痛む。
「俺は無い方がいい。……皺も消えるような、旨い菓子が手に入ったぞ。食べるだろう?」
 僅かな間に、カムシーンの迷いが見える。
「伺います」
 どこか不安そうに頷きだけを返したカムシーンに、アムジャッドは笑ってみせる。
「必ず、伺います」
「……ん」
 居心地の悪い顔で頷いたカムシーンは、アムジャッドの脇をさっさと擦り抜けていってしまう。
 今日は、謁見を望む者をできる限り王宮に入れるとカムシーン自身が決めた日で、早朝から表敬門が閉まる夕刻まで、彼は、謁見の間に詰めていなければならない。悠々と朝食を摂っていたアムジャッドと顔を合わせる機会はないはずなのだが、どういうことだろう。
 また、眉間に皺を刻んだアムジャッドに、やっとシンディバードが追い付く。
「……アムジャッド様は間食も甘いものも好きじゃないって、殿下は御承知ですよね」
「お忙しいんだ。俺の好みをいちいち覚えていられないだろう」
「気の毒に。やっぱり重症ですね」
「さっきから、いったいなんの話なんだ?」
 シンディバードは、問いに問いを重ねてくる。
「私が外に出されていた時から、あんなんじゃないんでしょう?」
「俺には、違いがあるように見えないが…」
 足早に立ち去っていくカムシーンの背を眺めながら、シンディバードは頭を掻いていたが、アムジャッドの二の腕を掴み、思い切ったように口を開く。
「アムジャッド様。殿下に、呼ぶ時に理由を作る必要はないって言ってあげた方がいいですよ。先王がご健在の頃は、こう…視野が極端に狭くなってましたから、勢いでどうにでもなったんでしょうけど……」
「勢い?」
「多分、そういうことが得手じゃないんですよ、あの方は」
 そういうことというのが何を指すのかは理解できるが、性欲処理が必要な時に相手を呼ぶというだけのことに、得手不得手があるとは思えない。
 眉間の皺が、さらに深くなったアムジャッドが顔を向けると、シンディバードは思案顔だったが、自分に向けられている視線に気づくと、朝一番に見せたような屈託の無い笑顔を返してきた。

 菓子はよりによって、一番苦手な砂糖菓子だった。
 蜂蜜に漬けた食用の花を砂糖粉で包んだそれは、色とりどりで目には楽しいが、芯まで甘い。青い花弁を舌で転がしながら、さりげなく茶を口に含む。カムシーンはどこか上の空で、繊細な細工を見もせずに次々と口に放り込んでいる。
「……お疲れですか?」
 脇息にだらしなく凭れた身体は、見るからに重そうだ。緩く伏せていた目を開いたカムシーンは、また一つ菓子を口に入れながら、大きな溜め息をつく。
「人当たりだ。たいしたことはない……手が、粉だらけだ」
 菓子からこぼれた粉を払おうとしたカムシーンの手を、緩く押しとどめ、手に取る。白い粉が燭台の灯りに照らされて、細かく光を散らしている。中指に舌を這わせ、ゆっくりと口に含む。手の平に口づけ、他の指も吸う。甘味がじわりと口腔に広がる。V26 即効ダイエット
 指が動いた。
 固い爪が舌を擦り、中指が上顎をくすぐる。飲み込み損ねた唾液を追って、含まされている指を吸う。追い付かずに顎を伝った雫を、カムシーンの舌が舐めとった。
「……アム」
 口づけを交わす間に、名を呼ばれる。首に腕を絡め、舌で答える。
 毛足の長い絨毯に横たえられ、少しずつ自分の服が乱されていくのを、アムジャッドは目の端で見る。先王とカムシーンを比較するつもりはないが、明確に主従の線を引き、幼い頃から奉仕することを覚え込ませた先王の相手は楽だった。擦り、舐め、受け入れる間、頭を空っぽにしていればよかった。
 カムシーンは、余すこと無く感情を汲み取ろうとするかのように、目線を合わせて離さず、アムジャッドがこれまでに覚えてきた手管に、思いもしない反応を返す。
 まだ幼く、身体が慣れていなかった頃、女官たちの監視の目を逃れ部屋に忍び込んでくるカムシーンに、指一本動かすこともできず、寝台に身体を投げ出している姿を見られたことがある。そんなことはしなくていいと言う時の彼は、あの時と同じような途方に暮れた顔をする。
 シンディバードの『得手じゃない』という言葉が頭を過るが、吐息の熱に浮かされ、何もかもが押し流されていく。何度目かに触れた唇の熱さが、火傷の引き攣れのような痛みをアムジャッドに与え、後を引く痺れを柔らかな舌で掬い取られると、閉じた目の中が白くなる。
 もう砂糖はすべて飲み下したはずなのに、いつまでも口の中が甘い。
『もっと深いところで繋がっていても、何とも思わないのに、唇同士を合わせるという、ただそれだけのことを、何故自分は特別に捉えたがるのだろう』
 そう呟いた少年の横顔を、アムジャッドは十年ぶりに思い出した。

2012年6月10日星期日

そんなん言うたら、誰も恋できひん

春休みのうきうき感が半減してしまった。
 会えなくなるから。
 好きな人ができると価値観が変わる。
 卒業式は先週終えた。三年生がいなくなり尚更広々として感じられる体育館にて簡素な式を済ませ、続いて各自教室にてホームルームを済ませ今学期が終了する。終わるなりやはり先生に呼び出された。今度は廊下に。簡約痩身美体カプセル
 進路希望調査の紙は本当は水曜日に提出せねばならなかった。欠席が続いた私は提出が遅れていた。
 朝出せばよかったのに。出さなかったのは諦めの悪さが残っていたからかもしれない。
 感情を交えず手短に要件を述べる辺りは流石に先生で、エモーショナルなところと事務的なところの切り替えがしっかりしている。
「私は一年間きみたちの担任をできて嬉しかった」なんて感慨深げに述べて小澤さんの涙を誘っていたのに。
 それでも、遅れてすみませんでした、と用意しておいて即座に提出する私もそこそこに大人の仲間入りを果たしたと思う。
 宮本先生はもうなにも言わない。
 ただ曖昧に笑い、
「進学組でないんなら私はきみの担任になるかもしれないな」
 と言い残して。
「まっさきぃーなーこんあと空いとるーよな? なあなどっか行かんかっ?」
 心なしか寂しげな後ろ姿を見送ってるところに紗優がやってきた。思うに、うちのホームルームはよそに比べて長い。
「いいけど、……みんなは?」
 戻ると教室内は音量のつまみを間違えたかの騒がしさだった。やかましいと呼ぶべきか。終わったーっていう開放感に満ち満ちていろんな話に盛り上がる面々。のなかでいちはやく気づいたのは小澤さんだった。
「まーたあんたか。真咲真咲て毎日うろついてよおも飽きんもんやわ」
 ホームルーム後にちょくでやってきた紗優に露骨に嫌そうな顔をする。
 毛嫌いされているのを読んで紗優は、
「心配せんだっても、あたしとあんたがおんなじクラスになることはないよ?」
「私もね」
「せやな……」目がまだ充血している小澤さん、彼女はタスクと同じく畑中大学への進学を志望している。「なんやろな、あんたと違うクラス振り分けられっと思ったらきゅーに寂しゅうなってきた」
「私いじめが愉しみだったもんね」
「そや。三年なったら誰いびり倒しゃあいいんか」
「ちょっと。そこ否定しなよ」
「あっはは」紗優が笑った。
「なあな。カラオケ、宮沢さんと都倉さんも行くやろ?」吉原さんきりのいいとこまで終わるの待ってたっぽい。
「和貴とタスクと、んーとマキも誘わんか?」
「蒔田くんならさっき帰ったよ」
 えうそ。
 私、……マキと今日、一言も喋ってないよ。
 これで学校が再び始まるまでの二週間を会えないだなんて。
 この春休みは部活がお休みで、海野住まいの彼と奇遇にもこの町で偶然会える機会なんてのも、ない。
 ……ああ。
 ちょっと前の私だったら学校がないほうが嬉しかった。
 やなテストとかも含めても、だったら、毎日マキに会えるほうを私は選ぶ。
「えっらい急いで出てったもんなあ」隣の子が意味有りげに笑い、
 畑高て休み入っとんのやて。会いに行ったんじゃん?
 こういう台詞で都度顔を強張らせないようにしている。
 私にできるのは薄笑いが、せいぜいだ。
 マキが、稜子さんと付き合い始めたのはあの、演奏会の日だった。
 私が目撃した場面は恋人同士として的確だったということだ。
 畑高生は皆で集まってバスで帰る。そのバスの発着所までマキは見送りに来た。稜子さんと二人過ごしたことを隠さず、周囲の注目を集めようとも見られていないかの振る舞いだったそうだ。
 そう彼はいつも恥じることも隠すことも持たない。堂々とした人間だった。
 私が熱を出して早引けした月曜日は朝からその噂で持ちきりだったらしく。
 なんのことはない。あのとき注目を集めたように感じたのは、噂の的であるマキが一緒だったせいだ。
 単に、それだけの理由で。
「なんっか。大事にされとって羨ましいなーしっかもあの蒔田にやろ?」
「……そーか? あいつ、いぃつも機嫌悪いしめんどくさいだけやんか。あれやと仏像とおるほうがマシやわ」
「なーんも分かっとらんなあ茉莉奈は? みんなの前でクールにしとんのに自分にだけに優しい、そーゆーんが女の子は嬉しいんよ」
「あたしかて女の子やわいねっ」
「つか蒔田ってさりげにかんなり優しいよ? こないだな、ダンボール運ばされたときさ、……北川てあいつ、うちらパシリに使うやんかしょっちゅう」私に向けて補足を加えた。男子の体育の先生で……サッカー部の顧問もしているのは知ってる。「つーかでっかいダンボール運んどる女子がおんのにみんなけっこームシすんのね。階段の前でさーこれ三階までかって思うとちょーブルーはいってさ、置くとなんかやんなったの。したらさ、んな往来で邪魔だ。……つって、持ってってくれたんよ。次の授業遅れたとき、腹壊しました、てでっかい声で言ったが、……あたしのせいながよ」
「なんや。腹壊した発言でちょっつ引いてんけど……そやったんね」
「蒔田くんつうたらなあ、調理実習で味付けひっどいことになったんに、残さんと平らげてくれた。同じ班の子みぃんな残しとったんに」
「肉じゃがやろ。あんっなしょっぱいんよぉーも食えたなー」
「後で謝ったんよ。したらな、詫びなどされる筋合いはない。それに、美味かったぞ、やってさ……」
「うわあ……いかんやろそれ」
 他の子が次々に頬を染め出すのに。
 私は一人、頭を殴られたかの衝撃を受けていた。
 なんだ。
『……おまえが来ねえと寂しがるやつがいる。いいから来い』
 なにを思い上がっていたのだろう。
 私にだけだと思っていた。
 私だけだと思い込んでいただなんて。
 彼には好きなひとが、いる。
 大切な彼女が、いる。
 表層的な態度では伝わりにくい、仮面の裏に隠された彼の本当を見抜いていたのは、私だけじゃなかったのだ。
 バレンタインは、二つの袋にいっぱいにチョコを貰った。お返しは一切しない。それでも、彼の悪口を言う子なんて噂レベルでも一人も現れなかった。
「げっ。桜井も呼びに行ったがかあいつは」
「田辺も連れてくりゃあいいがに」
 含み笑いをしたみどりさんは私の怪訝な顔色を見て、怒ったように小澤さんに向き直った。「あんた。なして都倉さんに隠しとるが。……茉莉奈な、田辺とつき合っとるんよ? 付き合いたてほやほやながよー」
「ひゅーひゅーだねーあっついねー」
「仏像よりも蒔田くんよりもたーなべくんが好き好きぃー」
「ちょいっ、やめいやっ」
 意外、だった。
 ひょろっとして頼りない田辺くんを、強気な小澤さんが好むようには思えなかったから。
 じゃあ、「田辺くんも呼ぼうか?」まだ教室のなかにいるから彼。
「野球部は……練習あっから。邪魔したあない。春と夏が本番なんやよ。ゆわんといて……くれんか。頼むわ」
 この場の全員が呆然とした。
 思ってもみない小澤さんの乙女な一面に。西班牙蒼蝿水
 ただし、
 例外があっけらかんと場の空気を変えた。
「へっえー健気じゃん小澤さん。田辺っち大事にされてんねえアッハ」
「うっさいわぼけっあんたは黙っとけっ」
「あーあー僕にも春が来ないかなあ。独りもんは寂しいよねえ紗優」
 ここでそれを言うか和貴。後ろでタスクが苦笑いをしているではないか。
「もーいい。みんな揃ったとこやしはよ行かんか」見回して目立たぬよう出てきたいっぽい小澤さん。「あんま遅なっと部屋埋まってまうやん」
「きよかわにする?」
「あすこ東工生もおりそうやしわたなべにせんか」
 いずれにしても個人経営のマイナーなカラオケ屋さんか。何度か行ったことはあるので一部屋三千から三千五百円の一時間をみんなで割り勘する感覚にも慣れてきた。大勢だとマイクが回ってこないし少なすぎると割高になる、だからこのくらいの、十人弱がベストな人数なのだ。
 嬉々として出ていくみんなを待ち、教室を出る。
 後ろ髪を引かれる感じがあった。
 来たばかりの頃に一人寂しく座ってた自席がすぐそこに。体育祭の張り紙のされてた壁……最初はいがみあってた小澤さんの席。遠かった宮本先生の教卓に、窓際でいつもくっちゃべってる男子の存在。
 でかい図体してるのにいつも寝てばかりいたあの彼の、席と。
 もうみんなの荷物が残っていない、ロッカーが。
 懐かしいとも思えるこの教室に、半数ほどが残って喋っている。立って座ってそれぞれが、去りゆく時間を惜しむように。
 これが、
 二年四組という最後の空間だった。
 例え同じ学校に通っていても、同じメンバーで揃うことは二度と無い。小澤さんとも違うクラスになることだし、
 マキとも、勿論……。
 こういう、ひとつひとつのステップを乗り越えていくのが大人になるということなのだろう。
 幾つもの出会いと別れが必然となる。
 気づいて手を振ってくれた男子に手を振り返しながら、私は独り、感傷的な気持ちに駆られた。
 そこに。
 私の肩を、叩く、手があった。
 顔を傾けると頬に、プニと人差し指が当たる。
「古い。和貴」
 見えなくても分かってる。
 こんなこと誰にも言えないけど、骨っぽい彼の手の感触は……私の感覚に刻まれている。
「引っかかる真咲さんも古いよ」
 ぶくくっ、と腰を曲げて笑う。
 始まった。和貴の笑い上戸。
 目を細めて冷たく睨みをきかせるとますます煽るのか。涙目となった目許を拭う有り様で。
「そんな顔しない、しなーい。ほぉら。笑って?」
「笑える原因をちょうだいよ」
 一旦微笑みを口許に仕舞い、和貴は咳払いをする。
「ほしたらこれ言ってみて。ピザピザピザ……」
 十回十回クイズですか。
「古い。本当に古すぎるよ。正解はヒザね」
「違うよ真咲さん。答えはヒジだよ?」
 真顔で自分の肘を指す和貴。
「あっ……」
 得意げに言い放った私って。
 
 しばしの沈黙ののち。
 どちらからともなく吹き出した。
 腰を折り曲げる和貴を見て、
 私もお腹を押さえた。
「あんったらなーにを笑とるが。置いてくよっ!」
 四組のボスと呼ばれる小澤さんのドスの利いた声が廊下を響いても、私たちの笑いはすぐには止められなかった。
 * * *
「雑誌、返すね。これありがとう」
 小澤さんが今井美樹の『PRIDE』を熱唱するさなか、私はこっそりと紗優に差し出した。
「あーれー? あげたつもりやからよかったんに」
 お見舞いグッズのうちの一つを、ませっかく持ってきてくれてんし、と紗優は受け取ってくれた。
「紗優って欲しい物に赤く丸、つけるんだね」
「あ、あ……」和貴みたく頭に手が伸びる。「恥ずかしいなあ。買えんがについつけてまうんよ。なんでやろ……」
 競馬をするおじさんのような癖につい、笑ってしまう。
「春休みってどうするの。どっか行く?」
 からだを捻りかばんに仕舞いつつ紗優。「んー暇やね。家族で旅行するくらいかな」
「へえ。どこに行くの?」
「飛騨高山。パパがドライブ好きやしあの辺にいぃつも車で行くんよ。去年軽井沢やった」
 いいなあ。「うち絶対旅行なんて行かないよ。お店があるから。一度でも行けるだけ羨ましい」
「ん……」
 空いてるならいっぺん遊ぼうよ。私んちでも紗優んちでもいいからさ。
 気軽に誘おうと思ったのに、
 憂いを帯びた眼差しになにも、言えなくなった。
 彼女は彼女のなかに思考を閉ざしている。
 俯き、指を絡ませ、ぽつり。
「春休みなんて、嫌いや」
 紗優……?
「くおーらそっこ! 人が歌っとんがにくっちゃべっとんな!」
 マイク越しに叫ばれ、揃って背筋を正した。
 以後お喋りにうつつを抜かせず。
 その曲が終わるのを待って部屋を出ると入れ違いで和貴に出くわした。
 から訊いてみた。
「紗優って春休みが好きじゃなさそうなんだけど、なにか理由でもあるの?」
 上を向いて顎を摘まむ。
 迷っているようだ。
 あそうか。言えない事情があるって場合もある、でそこのとこを和貴に負わせることになっちゃう。
 こういう気が回らないところが私の至らなさなのだと思う。私にとって以上に和貴には紗優が大切な友達なのだ。
「あの。いまのは気にしないで。じゃ私お手洗いに」
「いや」
 和貴はおそらく反射的に私の肘を掴んだ。
「あ。ごめ、ん」
 すごく顔が赤くなるのが分かった。
 どうしても、私、……
 その腕のなかに、
 抱きしめられたことを意識してしまう。
 見ぬいてなのか、軽く微笑んで和貴は壁にからだを預ける。倣って壁に寄りかかる私に顔を傾け、procomil spray
「紗優の誕生日っていつだか知ってる?」
「知らない。そういえば……」
「三月の二十八日。て必ず春休み中っしょ? 昔っからそれやだったみたいでさあ。学校あんなら友達におめでとーって言われんじゃん。女の子って誕生日会? ての? そーゆーのやりたがるよねえちっちゃい頃から。そーゆーんも自分が行くだけで一度もされたことないが寂しがっててさー。女の子の友達少ないんも隠れて悩んでるし」
 いつも明るく振舞おうとも、内面まで明るく振舞えているとは限らない。
 誰だってそう。
 悩みのない人間なんてこの世に存在しない。
「去年なんてさー怜生が熱出しちゃってさ、おばさんにも忘れられてたんだよ。まだまだ手ぇかかんからね怜生は。僕がね、じーちゃんからのお使いで買ったケーキとお花持ってったらおばさん、ああっ忘れとった! ってすんごい驚いてたや」
 思い出したようにくすくす笑う。
「今年は大丈夫だといいんだけどさ」
「じゃあ」
 私は和貴に向き直る。
「私たちでお祝いしようよ」
 透き通る瞳が、大きくなる。
「だって。紗優にはいっぱいお世話になってるし、なんかお返ししたげないなあって思って。一年に一度しかない大切な日なんだよ? 楽しく過ごして欲しいよ」
 嫌いや、だなんて。
 あんな悲しいこと呟かせるんじゃなくって。
「……そだね」
「誰からも祝って貰えない誕生日なんて寂しすぎるよ。自分が生まれた意味を失うような、まさにアイデンティティ・クライシスなんだよ」
「なに、それ?」
 和貴は吹き出すけれど、彼も同じような孤独を知っているはずだ。
 
 私の誕生日は。
 物心ついた頃から、父が祝ってくれることは無かった。
 母が手作りケーキを用意してくれるのは嬉しかった。でもケーキなんて既成品でも……ううん、無くたって構わなかったから、一度でも。
 父と母の揃った、あたたかな誕生日を経験したかった。
 それは二度と叶わぬ、夢。
 去年の夏の私の誕生日は、離婚の手続きで慌ただしい母に忘れられていた。
 
 あんな思いを、紗優にはして欲しくない。
「なんか、……紗優が喜ぶことしてあげたいな。食べ物絡みならよしののパフェがダントツなんだけど」
 どうしたんだろう。
 黙って聞いていた和貴が、途端に苦々しく息を吐く。「……坂田に訊いてみるよ」
「どうして坂田くん?」
「よしのってあいつのおうちなの。知らなかった?」
「うっそ」
「カウンターのなかでコーヒー淹れてる腕ムッキムキで似合わない薄ピンクのエプロン着てるリーゼントのおじさんあれ、坂田のお父さん」
「いたっけ?」
「僕的にヅラかぶった海坊主」
 それを覚えている限り人違いはしなさそうだ。
 吹き出すのをこらえ話を戻す。「じゃ、プレゼント。なにがいいかな」花束なんていいだろうか。「悦ばせるのは和貴の得意分野でしょう?」
 軽い皮肉のつもりが。
 大きく肩を落とす。
「あのごめん、冗談だったのに……ね。私紗優の好みってそんなに詳しくないから、教えてくれるかな」
 こんな風に和貴と話しながら紗優のお誕生日会のプランが作られていった。
 よかったね、紗優。
 ただひとつ、残念だったのは。
 マキが、用事があるからと言って来られないことだった。
 言われなくても分かる。
 稜子さんと会うためなのだと。
 こんな、胸の奥が焦げる想いがいったいいつまで続くのか。
 終わりが見えなかった。WENICKMANペニス増大

2012年6月6日星期三

Forget-me-not Fairy

長年、僕の世話をしてくれているミセス・ディケンズが足を骨折した。昨日の午後、買い物を済ませ屋敷に戻る途中、道路を横断しようとしていたら、横筋から飛び出してきた自動車に撥ねられたのだという。幸い、骨折だけで他には異常がなく、痛がっていることを除けば精神的にもそれほど参っている様子はない。ぶつけた相手がとある会社の副社長で、しかもかなりの資産家なので、治療費どころか慰謝料もたんまりもらえるとわかったからだろう。そういう意味では僕の方も心から安心した。僕の勤務するセント・ポール病院に入院させたから、ちょくちょく様子は見に行けるし、担当の整形外科医のトム・ベイカーは友人で信頼できる奴だし、整形外科病棟の看護師長にもくれぐれも世話を頼むと伝えておいた。彼女については何も心配は要らないだろう。問題は僕自身だ。SEX DROPS
 10年前に両親が不慮の事故で亡くなって以来、ミセス・ディケンズは母親のように僕の一切の世話を引き受けてくれた。食事、洗濯、買い物、手紙の処理、事務弁護士との連絡、その他諸々。掃除のために通いのパートで女性を二人雇ってはいるが、僕の大部分の生活は彼女が支えてくれているといっても過言ではない。その彼女が入院してしまった。トムの話では、彼女の歳のことを考えると、退院までに1ヶ月半、退院してからのリハビリに1ヵ月半は必要だという。つまり、都合3ヶ月、彼女は仕事に復帰できない。その間、僕はどうしたら良いのか……。 長年、僕の世話をしてくれているミセス・ディケンズが足を骨折した。昨日の午後、買い物を済ませ屋敷に戻る途中、道路を横断しようとしていたら、横筋から飛び出してきた自動車に撥ねられたのだという。幸い、骨折だけで他には異常がなく、痛がっていることを除けば精神的にもそれほど参っている様子はない。ぶつけた相手がとある会社の副社長で、しかもかなりの資産家なので、治療費どころか慰謝料もたんまりもらえるとわかったからだろう。そういう意味では僕の方も心から安心した。僕の勤務するセント・ポール病院に入院させたから、ちょくちょく様子は見に行けるし、担当の整形外科医のトム・ベイカーは友人で信頼できる奴だし、整形外科病棟の看護師長にもくれぐれも世話を頼むと伝えておいた。彼女については何も心配は要らないだろう。問題は僕自身だ。 長年、僕の世話をしてくれているミセス・ディケンズが足を骨折した。昨日の午後、買い物を済ませ屋敷に戻る途中、道路を横断しようとしていたら、横筋から飛び出してきた自動車に撥ねられたのだという。幸い、骨折だけで他には異常がなく、痛がっていることを除けば精神的にもそれほど参っている様子はない。ぶつけた相手がとある会社の副社長で、しかもかなりの資産家なので、治療費どころか慰謝料もたんまりもらえるとわかったからだろう。そういう意味では僕の方も心から安心した。僕の勤務するセント・ポール病院に入院させたから、ちょくちょく様子は見に行けるし、担当の整形外科医のトム・ベイカーは友人で信頼できる奴だし、整形外科病棟の看護師長にもくれぐれも世話を頼むと伝えておいた。彼女については何も心配は要らないだろう。問題は僕自身だ。 10年前に両親が不慮の事故で亡くなって以来、ミセス・ディケンズは母親のように僕の一切の世話を引き受けてくれた。食事、洗濯、買い物、手紙の処理、事務弁護士との連絡、その他諸々。掃除のために通いのパートで女性を二人雇ってはいるが、僕の大部分の生活は彼女が支えてくれているといっても過言ではない。その彼女が入院してしまった。トムの話では、彼女の歳のことを考えると、退院までに1ヶ月半、退院してからのリハビリに1ヵ月半は必要だという。つまり、都合3ヶ月、彼女は仕事に復帰できない。その間、僕はどうしたら良いのか……。
 自分で家事をこなすことは到底できない。僕に家事能力がないというわけではない(実を言うと、家事能力があるのかないのかについては、今までやったことが全くないのでわからない)。時間的に無理なのだ。外科医の仕事はとにかく勤務が不規則で、いつ呼び出しが掛かるかわからない。手術が長引いて夜中を過ぎてから自宅に帰ることも日常茶飯事だ。そんな状態だから、たまの休日には一日中寝てたいし、寝ていなくてもボーっとしていたい。そんな僕に家事をする時間がどこにある?
 では、3ヶ月の間、他の誰かを雇うか?だが、それも億劫だ。たとえ3ヶ月でも雇うからにはその人物をしっかり見極めなければならないし(どんなに朝早く出掛けても、どんなに夜遅く戻ってきても不満を言わずに食事を出してくれる人物か、とか、しつこくやってくるセールスマンを追い払うだけの強さがあるか、とか……)。よしんば、そういった優秀な人材が見つかったとしても、仕事を一から説明しなくてはならないし、慣れるまではいろいろ齟齬もあるだろうし、そして、ようやく慣れた頃にはミセス・ディケンズが復帰してきて……。
 僕は頭を振りながら立ち上がった。時計を見ると午後2時になっている。とりあえず昼食をとろう。今朝は夕べ買ってきたロールパンをコーヒーで流し込んだだけだった。4時から手術が入っていて、外のレストランに行く時間はないので、病院内の軽食堂に行くことに決めた。
 2時という、昼食を取るには遅い時間にかかわらず、軽食堂はかなり混雑していた。カウンターでミートパイとハムサラダとチリビーンズをトレイに載せ、空いている座席を探す。空いている座席はどうもなさそうだと諦めかけたとき、窓際の2人用のテーブルから声がかかった。
「ドクター・マンスフィールド、こちらに来て座りませんか?」
見ると内科医のヘンリー・バーグマンが手を振っている。僕は迷わずそちらの方に足を向けた。
「助かった。ありがとう」
テーブルにトレイを置いて椅子に座る。ヘンリーは食事を半分ほど食べたところらしい。早速僕も食べ始める。
「どうしてこの時間帯にこんなに込んでいるのかね」
「西棟にある食堂が雨漏りで使えなくなったんで、みんなこっちに来ているらしいですよ」
「なるほど……」
雨漏りといえば、屋敷の2階にある客室も雨漏りがしているとミセス・ディケンズが言っていたのを思い出した。雨の日はバケツを置いて凌いでいるが、いつか全館を点検して、修理させた方が良いと言われていた。だが、使っていない客間だし、大掛かりに手を入れるとなると日常生活が乱されるようで躊躇していた。200年ほど前に建てられた古い屋敷だ。そろそろ大々的に補修するべきなのだろうが……。
 「そうか……」
思わず呟く。ヘンリーが何事かと自分を見つめるのを放っておいて、考えをまとめるのに集中した。この際、ミセス・ディケンズが治療に専念している間、館の補修もやってしまおう。3ヶ月もかければ終わるだろう。その間、僕はどこか賄い付きの下宿に住めばいい。工事の監督は事務弁護士のミスター・シズムに頼んで、郵便局で郵便物の転送の手続きを取れば……。
 我ながら良いアイディアだ、と、気をよくしたせいで、それ以上深く考える前にヘンリーに言ってしまっていた。
「どこか、いい下宿はないかな。静かで、食事の時間帯に融通がきいて、できればここから近いところが良いんだが。」
ヘンリーが理由を促すように眉を吊り上げたので、ミセス・ディケンズの入院の件と館の改修について説明した。すると、ヘンリーはにっこり笑ってこう言った。
「それなら打って付けの下宿を知ってますよ。僕の妻が結婚するまでの1ヶ月住んでたところで、まさにあなたの言う条件にぴったりです」
ヘンリーは元来おせっかいな性格なので、早速ポケットから携帯を取り出してダイヤルをはじめた。
「あ、おい、ちょっと」
僕の止める言葉も聞かず、ヘンリは携帯に向かって話し始める。
「ミセス・ギルバート、お久しぶりです。ヘンリー・バーグマンです」
彼は妻のアリスともうすぐ生まれてくる子供についてしばらくの間語っていたが、やがて本題に入った。
「ところで、僕の知り合いで下宿を探している人物がいるんですが、そちら、今空き部屋がありますか? ある? じゃあ、紹介していいでしょうか。ええと……」
ヘンリーは僕の方を振り向いた。三体牛鞭
「いつ行けますか? 」
「いつって……。明日の午前中なら3時間ほど空いているが……」
ヘンリーは再び携帯に向かって言った。
「明日の午前中に伺うそうです。 ええ、はい。じゃあ、よろしく」
ヘンリーは携帯を切ってポケットに仕舞い込んだ。
「……」
その時になって、漸く自分が早まったことをしてしまったかもしれないと思った。もっと慎重に事を進めた方がよかったのではないか……?
「大丈夫ですよ」
僕の顔に懸念の色が浮かんでいたのがわかったのか、ヘンリーは朗らかに言った。
「一度、辺りの環境と家と部屋を見て、気に入らなかったら断ればいいんです。でも、いい所ですよ。シティの中心部に近いとは思えないほど静かで、下宿の女主人のミセス・ギルバートは親切で穏やかでとてもいい人です。それに料理もとても美味い。おまけにアフタヌーン・ティーまで出してくる」
ヘンリーがそういうのならそれに間違いはないだろう。それに、躊躇する時間はもともとないのだ。いつまでもロールパンとコーヒーだけの朝食は嫌だし、毎日夕食をレストランで取れる時間帯に帰れるわけではない。たまの休日にはスコーンと一緒に紅茶も飲みたい……。
「まあ、では、行くだけ行ってみるよ。住所と電話番号を教えてくれ。骨折ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
ヘンリーの何か魂胆があるような笑みが気になったが、僕はおとなしく住所と電話番号が書かれたメモを受け取った。
 4時からはじめた手術は思わぬ展開のせいで時間が延びて、終わったのは午後7時だった。集中治療室に運ばれた患者を診る前に、整形外科病棟に行ってミセス・ディケンズの様子を見に行く。
 彼女は右足を吊った状態でベッドに横たわり、雑誌を読んでいた。僕がドアを開けて入ってくるのを見ると、彼女は嬉しそうな、申し訳なさそうな、気遣わし気な複雑な表情を見せた。
「アルフレッド様、食事はどうなされてます?」
開口一番がそれだった。
「ああ、ちゃんと外で食べてる。」
「でも、遅くなった時はどうするんですか?真夜中まで空いているレストランはないでしょう?」
「そのことなんだが……」
僕は彼女に下宿の話と屋敷の改修の話をした。
「それはいい考えですが……。その下宿はちゃんとしたところなんでしょうね」
「明日、午前中に見に行ってくるよ。気に入らなければ断ればいいし」
「ああ、もしアルフレッド様が……」
ミセス・ディケンズはそう言ったきり口を閉じた。自分を戒めるようにちょっとの間目を閉じて小さく頷く。彼女の言おうとしていた言葉は簡単に想像がついた。以前はしょっちゅう口にしていた言葉だ。だが、3年前から一切言わなくなった。
「僕の心配はしなくていい。自分のことだけ考えて、トムや看護師たちの言うことを良く聞くんだよ」
僕はミセス・ディケンズの皺がある、まん丸な頬にキスをすると病室を出た。
 「アルフレッド様が結婚していらっしゃれば」とか「奥様がいらっしゃれば」とかそういうことだろう。ミセス・ディケンズが言いたかったことは。だが、そういうことは決して自分の身には起こらない。それは太陽が東から昇るということ以上に明らかなことだ。
「ステラ、私、今日から2週間ほど出張でいないから」
慌しく食堂に飛び込んできたリタ・ブラウニングはテーブルの上のトーストを立ったままつまみ上げるとむしゃむしゃ食べ始めた。ネイビーブルーのかっちりとしたスーツにパン屑が散かる。コーヒーをカップに注いであげると、それも立ったままですすり始めた。
「帰る前に電話するわね」
トーストを食べ終えたリタは手とスーツについたパンくずを払いのけると足元に置いてあったコートと鞄を持ち上げて私の頬にキスをした。
「じゃ、行って来ます」
彼女は入ってきたときと同じようにばたばたと部屋を出て行った。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
私の言葉が終わらないうちに玄関の扉が閉まる音がした。
「やれやれ、リタ嬢はまた出張かい?」
リタと入れ違いでランサム教授が入ってきた。
「かなり急いでいたみたい。事故に会わなければいいんですけど」
そう言いながら私はリタの使ったカップと皿を重ねて持ち上げた。それを台所に運ぶ途中で教授を振り返って言った。
「朝食はあと5分待ってくださいね」
「急がないよ」
教授はゆったりと椅子に腰掛けて新聞を開いた。教授が新聞を読み始めたということは、朝食は少なくとも20分後でいいということだ。では先に洗濯機を回しておこう。今日はとてもいい天気だ。シーツを庭に干すには絶好の日和に違いない。
 洗濯が終わった山のようなシーツを抱えで裏口から庭に出た。10月半ばともなると朝の空気はひやりと冷たいが、空はすばらしく晴れ渡っている。こんな日に乾燥室でシーツを干すなんてばかげてる。太陽の光は天からの贈り物なのだから。
 12枚のシーツを木と木の間に渡したロープに掛け終わってから庭を見渡した。塀に沿って植えられた木々の葉は既に黄色く色づいている。もうしばらくしたら芝生の上に嫌というほど落ち葉を降らせるだろう。夏の間に咲き誇った花たちはほとんどが枯れかかっていて、残っているのはコスモスとシオンくらい。それももう長くは持たないだろう。私は残っているそれらを全部手折ると家の中に入った。枯れた植物を全部取り払って、来年の春に向けて準備をしなければならないと思うけど、それは明日にしよう。今日は午前中に客が来ることになっている。ドクター・バーグマンの紹介だから変な人ではないと思う。ここを気に入ってくれると良いけど……。
  コスモスとシオンを居間の花瓶に活けて、コーヒーを淹れるべく、コーヒーメーカーのスイッチを入れた時、玄関のノッカーが鳴った。例の客だろう。私はエプロンの皺を伸ばし、手で髪の毛を押さえ、一呼吸着いてから玄関のドアを開けた。
 そこには、見上げるほど背が高い男が立っていた。ドクター・バーグマンも背が高かったが、それ以上ではないかと思う。歳は40才にはなっていないだろうが、かなりそれに近いだろう。そしてすばらしくハンサムだ。真っ直ぐで高くて形のいい鼻、薄い唇、彫りの深い顔立ち。髪の毛はシルバーといって良いほど薄い金髪で男性にしては長めにカットしてある。瞳はグリーン。そのグリーンの瞳が冷たく私を見下ろしている。そういえば、ドクター・バーグマンからは名前を聞いていなかった。相手が黙ったままなのでこちらから聞くしかない。
「あの……。ドクター・バーグマンからの紹介でいらっしゃった方……ですか?」
彼はにこりともせずに頷いた。
「お待ちしてました。どうぞ中へお入りください」
私は扉を大きく開けて彼を玄関ホールに招き入れた。彼は一瞬躊躇したようだったが、ドアを潜って中に入ってきた。私も入ってドアを閉める。そして彼に手を差し出した。
「始めまして、ステラ・ギルバートです」男宝
「アルフレッド・マンスフィールドです」
そう言いながら彼は私の手をさっと握って直ぐに放した。ちょっとの間だけでも彼の手の大きさに驚くのは十分だった。
「お部屋をご覧になる前に、コーヒーをいかがですか?今淹れたところなんです」
彼はその提案をさえぎるように手を上げると、私の顔をまじまじと見つめて言った。
「失礼ですが、あなたはミセス・ギルバートの娘さん……ですか?」
私は彼のぎこちなさに合点がいって思わす微笑んでしまった。決して彼を馬鹿にしたわけではない。理由がわかって安心したのだ。彼は下宿の女主人を年配の女性だと勘違いしてたらしい。
「いいえ、ミセス・ギルバートは私です。私がここの女主人です。夫は2年前に亡くなってますけど……」
そう私が告げたときの表情を、私は一生忘れないかもしれない。彼は怒りと苛立ちと怖れが入り混じったような複雑な表情をしてその場に固まった。
「とりあえず、居間へどうぞ、直ぐにコーヒーを……」
「いえ、結構」
彼は固い口調できっぱりと言った。
「申し訳ないが、他をあたってみることにします」
「あの、でも、とりあえずお部屋をご覧になりません?いま、ちょうどいいお部屋が空いていて……」
「大変申し訳ないが」
彼は繰り返した。が、少しも申し訳なさそうではない。むしろ、私の方に非があるとでも言いたそうな顔だ。私が困惑してしまって言うべき言葉を見つけられないでいるうちに、彼は踵を返した。丁度その時、
「アルフレッド・マンスフィールドじゃないか!」
という声が聞こえてきた。声がした方を見ると、玄関ホール脇の、2階へと続く階段をランサム教授が下りてくるところだった。
「ランサム教授!」
振り返って教授を見たミスター・マンスフィールドは口をあんぐりと開けた。
「いやあ、まさかこんなところで君に会うとは! いったいどうしたんだね」
教授は軽やかに階段を駆け下りてミスター・マンスフィールドの前に立った。そして満面の笑みを湛えて親しげに彼の肩に腕をまわし、パンパンと背中を叩いた。
「教授こそ、どうしてここに」
ミスターは呆然としている。
「私は半年前からここに住んでるんだ」
「ここに? レッキンヒルの屋敷はどうしたんですか」
「息子に譲ったよ。ああ、立ち話ではとても説明しきれない」
教授は私の方を振り向いた。
「ミセス・ギルバート、コーヒーを頂けるかな?」
そして、ミスターに視線を戻すと言った。
「時間はあるんだろう?居間で話そう。さあ、さあ、入って」
教授はミスターの背中を押した。私は直ぐに2人のために居間のドアを開け、それを支える。2人が居間の中に入り、暖炉の前の椅子に落ち着くのを見届けてからドアを閉め、台所へ向かった。
 2人にコーヒーとフルーツケーキを持っていったあと、私は再び台所に篭り、自分の分のコーヒーをマグカップに注ぐとテーブルに就いた。テーブルに頬杖をついて、つらつらと客のことを考える。
 たぶん彼は、もうこの下宿には来ないだろう。何かは分からないけど、とても気に障ることがあったに違いない。部屋は見てもいないから部屋ではなくて、立地とか、建物自体とか――古いものね、この屋敷――。あるいは庭にシーツを干してあったのが気に入らなかったのかもしれない――そういうことを嫌がる人もいるから――。あるいは……私が気に入らないとか……。
 だったら、それはそれで無理に住んでくれなくても結構だ。ここを、もしくは私をよく思わない人物と一つ屋根の下で暮らしていきたいとは思わない。経済的に困っているわけではないもの。
――だけど……――
あと1人か2人、住んでくれる人がいれば良いのに、と、ずっと思っていた。リタはバリバリのキャリアウーマンで、月の半分は出張でいない。もう1人の下宿人のデビッド・ストライザーも恋人の家と此処とを行ったり来たりで、やはり月の半分しか此処にいない。ランサム教授はずっといてくれるし、親切で朗らかで父親みたいで私は大好きだけど、もっと賑やかな方がいい。私は小さい頃から賑やかな家庭に憧れていたのだ……。
 でも、彼はだめだわ。冷淡だし、気難しそうだし、何せ此処を気に入っていない。私はため息を吐いてコーヒーをすすった。男根増長素

2012年6月4日星期一

宮廷晩餐会

「ルーク! その方が、噂の婚約者殿ね? 噂に違わず美しい方ね!」
ダークレッドのドレスに身を包んだ、いつもと同じく快活な王女の姿に、ルークは微笑んで頷いた。
王女は、美しく光に煌めく黄金の髪にルビーの髪飾りを付けた、蜂蜜色の瞳を持つ、女性ながらにして王位継承権第一位の貴人である。老虎油
「そうだろう。セリーヌと言うんだ」
ルークが笑みを浮かべて気安く返している隣で、セリーヌは礼を取るよりも、少し呆然とした様子でブリジット・ヴェルルーニを見つめていた。
どうやら、小さな声で喋る楚々とした人という印象でも抱いていたようだ。黙って座っている姿だけ見れば、確かにそれも頷ける。
しかも、王女、と聞くと誰でも自然と、そういう大人しい女性を思い浮かべてしまうだろう。
ところが、実際のブリジット王女は少しも大人しくもなければ、小さな声でぼそぼそ喋るような真似は絶対にしない。誰にでも毅然と対する、女性らしい事よりも武術に長けた、溌剌として男っぽく力に満ち溢れている人である。
その、洞察力と決断力には、現王よりも王たるに相応しいとさえルークに思わせる事もあるほどだった。
「セリーヌ。こちらのブリジット・ヴェルルーニ王女殿下は、次代の国王陛下、女王になられる方だ」
セリーヌの、想像していたのとまったく違う王女の姿に、驚いているのが良く分かるのを面白く思いながら紹介した。
すると、セリーヌが言葉を発する前に、ブリジットが眉を顰めてルークを軽く睨んで来た。
「そういう事を、軽々しく口にしないように。お父様には確かに私しか子供は居ないわ。でも、女王の即位には反対の声が多い事を知っているでしょうに……隣国に留学中の従兄弟を押す声が強いのを、あなたが知らないとは言わせないわよ」
「君の従兄弟? ああ、そう言えばそんなのも居たな。……王族であるのを良い事に、ならず者達とつるんでは悪さばかりしていたロクデナシが。……それで、あんまり民を泣かす物だから、とうとう押え切れない噂になってしまい、慌てた父親の王弟が罰を与える事もせず、留学と言う都合の良い理由を付けて隣国にほとぼりが冷めるまで逃がしたのだったな……そんな屑を、メイナードは王として承認など絶対にしないぞ。この私が、君の女王即位を望んでいるんだ。誰が邪魔出来る物か。今、ロバート陛下が就かれている席は、そのまま君の物になるんだ。これは、決定事項だ」
ロバート国王陛下は、側妃を何人娶っても構わない立場にありながら、王妃一人しか後宮に召していない王である。
しかも、その王妃はブリジット王女を儲けた後から体調を崩してしまい、完全に復調するに至らず今となっている。病弱となれば、当然次の御子など望めるわけもなく、王には現在ブリジット王女しか子供はいない。
重臣も貴族達もこの事態を憂慮し、何度も王に側妃を後宮に召し上げるようにと上奏した。
次の子供が望めないからと王妃の廃位までは訴えないが、側妃は次代を安定させる為には必要だとしつこいほどに説いた。しかし、臣下の声を良く聞く王が、それに関してだけは首を縦に振る事はなかった。
王妃の父である老伯爵ですら、王子を産めない娘に情けを掛けなくても良いとまで言って王を説得した。
老伯爵はそこそこの領地は持つが大貴族とは呼べない人である。だが、娘が王妃となってもヴェルルーニ家の外戚として権勢を得ようとは考えない、清廉な欲の薄い人物だった。
その証拠に、重職に就く要請はすべて断り、王都を離れて領地に下がっている。息子達も同じく領地で暮らし、彼らも父親同様王宮での職を求めるような真似はしていない。
ロバート王が即位され王妃を決めるとなった時、多くの貴族が我先にと争うようにして己の娘や縁者の娘を推薦した。
数多く寄せられたそれに、しかし、王は意中の存在を見出す事はなかった。乾いた笑みを浮かべ 『政略結婚なのだから誰でも良い』 と宰相とルークの父に丸投げした。
推薦された者に意中の相手がいないからと、好きに国を探し回って気に入る相手を探して結婚するような、恋愛婚は王には許されていない。
それが、家格の釣り合う貴族の令嬢ならば許されるだろうが、王に貴族の令嬢の内に意中の相手が居ないとなれば、貴族達の持ってきた相手の誰かと、心の伴わない政略婚をするしかないのである。
その王妃の選定が宰相とルークの父に任されたと知った貴族達は、二人の下に、自分の勧める者を是非にと言っては、連日押しかけて騒ぎ立てた。
宰相は、どの家の娘を選んでも外戚となって煩い事になりそうだと頭を抱え、ルークの父は押しかけてくる者すべてを無視した。
そして王に推薦したのが、知性と品位を充分に備え、その上欲も薄い伯爵家の娘だった。母が伯爵家と懇意にしているという事で知った令嬢を見た瞬間、父は王妃となるのは彼女しか居ないと思ったそうだ。
伯爵は娘を王妃とするのはかなり躊躇ったが、父が説得を重ね、終には伯爵も令嬢も折れた。そして、王と伯爵令嬢は顔を合わせ、そのまま恋に堕ちたというわけだった。
宰相もこの結果には大いに満足し、貴族達は 『結局メイナード公の推薦する娘なのか!』 と歯噛みしながらも公然と抗議するような真似は出来ず、王と令嬢の挙式は世界が知るほど盛大に行なわれた。
王妃となった伯爵令嬢は中流貴族出身者であるが、宰相とリディエマ一の権勢を誇る大貴族メイナードの当主が後見するのだ。王妃を蔑ろに出来るような貴族は存在せず、王子を望めないと皆が知るようになるまで、国王夫妻は側妃の問題に煩わされる事なく平穏に暮らしていた。
しかし今、その平穏が崩され側妃の問題が幾ら取り沙汰されようとも、王の王妃のみを愛する心に変わりはなかった。
リディエマは、滅多に立つ事は無いのだが、女王が立っても良い国である。
王位継承権は王女にも与えられるのだ。
王はその事を持ち出し、 『王女一人しか子が無くとも、その子が健康であり、無事に女王として立てば何の問題も無い!』 と王子を望む者達の声を完全に退け、側妃問題を終わりにしようとした。
すると、側妃はどうあっても受け入れてもらえないと思った重臣の一部が、今度は女王が滅多に立たないと言う事を、過剰に取り上げ始めたのだ。
側妃をどうしても容認できず、自身の王子を諦めるのなら、王弟の息子を押すと宣言し、ブリジットを時期王として確定する事に異議を唱え始めたのだ。
王には歳の近い弟が一人おり、その王弟にはブリジットと歳の近い息子が一人居る。
しかし、ルークが見るところ、現在王室に王となれる資質のある人間はブリジットしか存在しない。王弟の息子など相手にならず、健康状態にまったく問題なく、ブリジットほど優れている女性に対し、女性の何が駄目なのか、ルークにはさっぱり分からなかった。
国王陛下自身も実子であると言うことを抜きにしても、そう見ている。
どんな反対があろうと、屑共に国を荒らさせて面倒を増やさせない為にも、その背中を守ってブリジットを女王とするのに躊躇いはなかった。
「……相変わらずの、強気だわね。……でも、そう上手く行くかしら? 叔父様が、私とそのロクデナシを結婚させて、次代の王にしようと貴族達に働き掛けていると言うのに……」
ブリジットは今年二十五歳になるが、まだ婚約者も定めていない。話は降るようにあるのだが、どの相手にも乗り気になれないとして断っているのだ。王族の女性としては極めて珍しい行いに周囲は気を揉んでいたが、本人はいつかどうにかなるだろうと至って気楽にしていた。
そこを、王弟である叔父が利用しようと画策しているのだ。
王にしつこく上奏し、機嫌を損ねるような真似をして、ブリジットから強引に王位継承権一位を奪うよりも、二人を結婚させて、王女から夫となった息子に自主的に継承権一位を譲らせる。そして後には王に。
これなら、ロバート王も反対できず、すべてが円満に解決し、国が荒れる事はない。そう、自分の側に付き、息子を押してくれる貴族達と話しているのはルークも知っている。
しかし、ブリジットの性格からしてロクデナシの従兄弟と気が合うとは思えず、王弟がどれ程画策しようとそんな話は成立しないだろうと放置していた。
「……君が、そのロクデナシとどうしても結婚したいと言うなら、それに関しては反対しないが……王位をロクデナシに、と言うのには……たとえ、ヴェルルーニ王家が崩壊するような事になったとしても、賛成しないだろうな」
にやり、と笑んで答えると、ブリジットはこちらを軽く睨んで嫌そうに言った。
「私だって、あんな男と結婚なんてお断りよ。叔父様は、王位争いの事だけ考えて、ほとぼりがさめたと判断して呼び戻すつもりのようだけど、一生隣国に置いて置けば良いと思うわ……でも、もし私が叔父様に負けて結婚を承諾すれば、あなたは王家を見捨てるのね。あなたにとって、王家は恐れる必要も無い存在、と言うわけね……まったく、何でも持っているから、何でも思い通りになると思っている。怖い物知らずの困った男だわ……」
王家への敬いが感じられないルークの言動に、怒るのではなく、ぼやくように返しているブリジットを、何故かセリーヌが目を輝かせて見ていた。
胸の前で両手を重ね合わせて握り、じいっと嬉しそうに食い入るように見つめているのに、ルークが怪訝に思うと同時に、ブリジットもその視線に気付いてセリーヌに目を向けた。
「どうしました? 私の顔に何か?」
「え、あ、いえ……失礼致しました!」
問われてセリーヌがはっとし、慌てて頭を下げるのに、ブリジットは軽く首を振った。
「夜会用の、こういう化粧はあまり好きでないから、おかしな所があるのでしょう? 遠慮せずにどうぞ」
「とんでもない事です! 王女様は、とても美しい方です!」
ぶんぶん、と音がしそうなほど激しく頭を振って言い募るセリーヌに、ブリジットは面白そうに笑った。威哥十鞭王
「あなたのような美しい方にそんな事を言われても、今一つ信用ならないわ。正直に言ってくれたので良いわよ。何故、そんなに嬉しそうに私を見ているの? 私はこれでも女よ。公爵を袖にして私を望まれても、あなたを妃に迎えることは出来ないのよ」
「なっ! そ、そのような事は、考えておりませんっ! ただ、あの……」
真っ赤になって首を振り、次いで困ったように目を彷徨わせたセリーヌに、ブリジットはなおも問うた。
「ただ?」
「王女殿下は、公爵様の幼馴染みと伺いましたが……」
「そうよ。物心付いた頃からの付き合いで、結婚の話も出たのだけど……こんな、何年友人として付き合っても何を考えて居るのか良く分からない男は嫌だったから、断ったの。だから、どんな噂があろうとも、私のことは気にしなくて良いわよ。臣下としては信頼できるけど、男としては、全然全くそんな気持ちなんてないから」
そう、ブリジットがきっぱりと答えると、セリーヌはますます嬉しそうな顔をしてブリジットを見つめた。
その表情は、しかし、どう見てもブリジットがルークに想いを抱いていない事を喜んでいる、といった物には見えず、ルークはセリーヌの考えている事が分からなかった。心中で、首を傾げるばかりである。
「王女殿下……あの、少しだけ、非礼をお許しくださいますか?」
小さく問うたセリーヌに、ブリジット怪訝な顔をした物の頷いた。
「少し、なら……えっ?!」
頷いたと同時にセリーヌはブリジットに抱き付くようにして、その身を抱き締めていた。
突然の行いに、ブリジットが驚いて目を丸くする。ルークも、まさかそんな事をするとは思わず、ぎょっとした。
王女とルークが話しているという事で、残っている面々のほとんどがこちらを見ていた為、大広間にはざわめきが起こるほどだった。
しかし、当のセリーヌはそんな外野になどまったく頓着せず、喜びの笑顔でブリジットを抱き締めていた。
「幼馴染みの王女殿下にとっても、何を考えているのか分からない、訳の分からない男なんですね……なんでも思い通りになると思い込んでいる、困った人間なのですね……良かった。良かった。私だけが、そう思っているのかと思って……公爵だからそれで当たり前なのだと、みんなと同じように思わなければならないとどんなに思っても無理で、違う事ばかり思ってしまう自分がおかしいのかと辛かったのです。……あなた様のそのお言葉に、救われました。……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます、王女殿下!」
ブリジットの肩口に顔を埋めるようにして思いを語るセリーヌに、抱き付かれた当初は驚いた顔をしていたブリジットだったが、その内容に、優しい目をしてセリーヌの背を撫で、労わるようにぽんぽんと軽く叩いた。
そうして、ルークには何とも言えない嫌そうな目を向けてきた。
「結婚相手を見たい、とは思っていたけど……やっぱりあなたみたいな男が円満な結婚なんて無いわよねぇ。……彼女が気に入ってるのは本当みたいだけど、嫌がってるのをごり押しして奥方に迎えるとしか、見えないわね。……まったく。そんな事をしたら、彼女が可哀想でしょうが! 少しは、相手の事も考えてあげなさいよね!」
最後ははっきりとセリーヌを庇ってルークを怒鳴り付けて来たのに、片眉をひょいと上げてその顔を見返すと、セリーヌは抱擁を解いて目を丸くしていた。
「貴族の家同士の事情を考えた政略婚など、当たり前の事だろうに……それを、そんなに怒られても、正直困るのだが……」
「当たり前の事でも、やりようがある筈よ。貴方は、絶対に彼女に碌な事をしていない。……本当に、おかしな男に目を付けられて、気の毒に。私で何か力になれる事があれば良いのだけど……」
そう言って、ブリジットは幼馴染みであるルークを容赦なく悪と決め付け、優しくセリーヌの手を取ると両手で包み込むようにして握った。
どうやら、ずいぶんと気に入ったようだ。良い展開である。
「勿体無い、お言葉です。王女殿下」
手を握られたセリーヌは、とても感激した様子で、少し涙ぐんでさえいた。
「公の場でなければ、ブリジットと名で呼んだので良いわ。ルークもそうしてるのよ。……私には、ルークの結婚を反故に出来るような力は無いけど、話を聞くくらいなら出来るわ。いつでも、遠慮せず王宮に訪ねて来なさい。逃げ場所ともなってあげるわ。あなたの事は、無条件で通すようにと伝えておくから。……一人で我慢して泣いていては駄目よ」
「王女様。ありがとうございます! ありがとうございます!」
何度も深々と頭を下げて、感謝を示すセリーヌを、ブリジットはすっかりお姉さんのような目で見ていた。
まさか、こんなにも早く良好な関係が築かれるとは思っていなかったが、セリーヌの人徳だろうとルークは満足した。
政略婚を理由にしても、自分の行いが強引過ぎる事など、今更言われるまでもなく分かっている事なので、己をすっかり悪人にされていても、特に気を悪くしたりはしなかった。
それどころか、ブリジットが自分から進んでセリーヌの助けとなってくれる事に感謝しつつ、二人の遣り取りを口を挟まず見つめた。
「結局、陛下のお心が、公爵家から動かれる事はありませんでしたわね。当然の結果ではありますが……少し騒ぐくらいで、あの事業があなたから奪えるのでしたら、我が家がとっくに騒いでおりましたわ。……当主も後継者も物事をきちんと把握出来ない愚か者揃いで、あの三家は先がありませんわね」
涼やかな声に視線を向けると、栗色の髪を美しく結い上げた琥珀の瞳の魅惑的な美女が、微笑みを浮かべて立っていた。
「カトリーヌ! そうだな、君が率いるダリュー家が対抗として出てきていれば、私に任されることは無かったかもしれないな」
「そのお言葉。お世辞でも嬉しいですわ」
麗しく微笑むカトリーヌ・ダリュー伯爵令嬢も、セリーヌを紹介しておきたい一人だった。
彼女はルークより二歳年上である。それでも結婚どころか、婚約者さえ決めていない。ブリジットと同じく、どうするつもりなのだと周囲をやきもきさせている人物なのだが、あと数年は独りでいると堂々と言い放ち、両親を苦笑いさせている。
早婚の貴族に於いては、立派な行き遅れの歳であるのだが、これまたブリジットと同様に結婚の申し込みは後を絶たない。しかし彼女は、それを喜びもせず、男が寄って来過ぎて鬱陶しいとの理由で、夜会には滅多に姿を見せないほどである。その為、これまでは紹介する機会が無かったのだ。
伯爵家の後継者である彼女は、その美貌以上に、今すでに父当主よりも伯爵家の事業を上手く仕切っている才媛としても有名である。
そして、幼い頃からルークの気の合う親友だった。
互いが遠慮なく好きな事を言い合う関係であるからこそ、両家の親達は結婚の話を進めようとしたのだが 『親友であり、結婚相手ではない』 と二人揃って同じ事を言った為、その話は消えたのだ。
カトリーヌはルークと結婚してメイナードの奥方として納まるよりも、自分が継ぐ事となるダリュー家を己の力でより発展させ、その姿を見てみたいと考える野心家だった。その野心にルークとの結婚を利用しない考えが、気に入っている。
リディエマでは女王の戴冠が可能であるのと同じく、爵位を女性が継承する事も認められている。基本は男が継ぐとなっている為、もちろんこれもあまりある事ではないのだが、当主がそれを決め国王の許可も得られた場合は認められるのである。
ダリュー家も王と同じく娘を一人しか儲ける事が出来なかった。
メイナードもルークが一人というように、貴族は後継者を生む正妻には一般市民の血を入れず、貴族の中でのみ婚姻を繰り返して来た為、建国から長い年月が経った今では血が弱ってしまっているのか、子供を多く儲けられる家が少なくなっていた。
愛人として一般市民を囲う事は多く見られたが、愛人の子が後継者となり血を繋いでいく事は滅多に無いのである。
もし、貴族の正妻に娘しかおらず愛人に息子が居たとしても、娘の方が後継者として選ばれるのが貴族の家なのだ。故に、貴族の家にはまったく繋がりの無い新しい血が入る事は皆無に近かった。
ところが近頃では、貴族の血を持たない富裕な商人の娘を正妻として娶り、財力と新しい血を家に入れ、何の権利も与えられない愛人の子ではなく、正式な子供を多く儲けたいと考えを変える貴族がちらほら現れている。
元々貴族に一般市民との婚姻を禁じる法律などなく、代々の方針として貴族同士の婚姻を選んでいたに過ぎないのだ。
そこに、家の存続と言う重大事を突き付けられ、子孫を絶やすか血を混ぜるかの選択を迫られた場合、方針を変更し混ぜる方を選ぶ者が多くなるのは、当然だろうとルークは思う。
ルークとて、市井の民にこれぞと思う存在が居れば、一族がどう思おうとも娶っただろう。
しかし、セリーヌ以外は、本当に誰をどれだけ見ても結婚相手としては惹かれる者など無く、駄目だったのだ。
貴族の男の多くが結婚相手にと望む、美貌も知性も財力も兼ね備えたカトリーヌでさえ、生涯の伴侶とは考えられなかった。
そのカトリーヌは、微笑みを浮かべたまま琥珀の瞳をセリーヌに向けた。
今日まで紹介する機会を持てずに来たのだが、こちらもブリジットと同じくルークの婚約者にずいぶんと興味を持っていた。
『あなたの理想は見つからないわ。きっと、歳を取ってから諦めて冷え切った政略婚をするか……縁戚から養子を迎えるかのどちらかですわね』 と、カトリーヌはルークの結婚相手への望みを知ると、きっぱりとそう言ってばっさりと切ってしまった。
その言葉に反論の言葉が出なかった通りに、これまで一向に見つからずにいた者が、ここに来て見つかったのだ。
先日王宮で顔を合わせた際に、婚約したと伝えると、早く顔を見てみたいですわ、と我が事のように興奮し、どのような人物だと詳しく訊いてきた。
ここで声を掛けて来たのは、自分と話したいと言うよりも、間違いなくセリーヌを間近で見たいが為だろう。セリーヌはカトリーヌが嫌うような人間ではないと言いきれるので、ブリジットのように親しくなってくれればありがたいと思う。
「初めまして。カトリーヌ・ダリューと申します。……メイナード公とは事業の取引相手として、また友人として親しくお付き合いをさせて頂いております」
優雅な所作で礼をし挨拶をしたカトリーヌに、セリーヌは両手で口を覆って目を見開いていた。
「カトリーヌ伯爵令嬢様……だなんて……まさか、ご本人様にお目に掛かる事が出来るなど夢のようです! 初めまして。セリーヌ・リンディと申します!」
物凄く感激した様子で頬を薔薇色に染め、勢いよく頭を下げたセリーヌの過剰な返礼に、頭を下げられたカトリーヌも驚いていたがルークも訳が分からなかった。
「……セリーヌはカトリーヌの事を知っているのか?」
ずいぶんと嬉しそうな様子に問うと、セリーヌは顔を上げて大きく頷いた。田七人参
「カトリーヌ様をご存じない貴族の娘など誰もいません! リディエマ一の大学を男性を押えて首席で卒業された才媛。事業の才も素晴らしく、幾つも会社を興しては弱者を差別無く雇って下さる方としても有名です。私の憧れの方です!」
「なるほど……カトリーヌは、セリーヌが好む要素ばかりを持った女という訳か……」
男の貴族達が誰もが妻にと望む有名人なのだ。貴族の娘達の間でも有名であってもおかしくない。
それに、確かにカトリーヌは勤勉なセリーヌが関心を持つに値する女だ。歳が離れている上に、マートル子爵家とダリュー伯爵家では家格に大きな差があるので面識は無かっただろうが、憧れの人として敬っているのは頷けた。
「はい! いつかそのお姿を拝見したいと願っていましたが、このように美しい方とは……本当にすべてが素晴らしい方です!」
自分には向けられる事の無い、キラキラと光輝く瞳で嬉しそうに見つめられているカトリーヌに、非常に面白く無い物を感じた。こんなに明るいセリーヌを見たのは初めてだと思っていると、セリーヌから一心に見つめられているカトリーヌが、コロコロと鈴を転がすように笑った。
「なんと可愛らしいお嬢様でしょう。ご自分の婚約者と親しく付き合っていると言った女に、そんなに嬉しそうな目をして憧れているなど……初めてですわ」
「え?」
きょとんとしてセリーヌが首を傾げるのに、カトリーヌの好意的な笑みがますます深まった。
「ルークの傍に居る女性にわたくしがこう挨拶いたしますと、大抵の女性は表面だけはわたくしに世辞を言い取り繕いながらも、陰では醜くわたくしを睨んできますの。……友人と断っているのに信用して下さらない。わたくし、そういう女性が好きになれないのですわ。わたくしが、もしルークに気持ちがあるなら、とっくに結婚しておりますもの。……ですが、この先も経営者としてルークとの付き合いは絶つ訳には参りません。それが、奥方にいつも関係を疑われ、睨まれていたのでは息が詰まります。……ルークがようやく見つけた奥方となる方が、あなたのような方で良かったですわ。わたくしは、お二人の家庭に波風を立てるような真似だけは絶対に致しませんわ。仲良く致しましょうね」
「……はい。……勿体無いお言葉です……」
笑顔の申し出に、それまでの明るさが消え、困った様子で小さく頷くのに、今度はカトリーヌが首を傾げた。
「お嫌、ですか?」
「いいえ! とんでもないです。ありたが過ぎるお言葉です。嫌だなどとそのような……」
慌てて首を振るセリーヌだったが、それでも困った様子が消えないのに、ますますカトリーヌが不思議そうな顔をすると、ブリジットが横から言った。
「彼女はルークと楽しく婚約している訳ではないようだから……奥方と言われても、言葉が返しにくいのよ」
「楽しくない婚約……と言う事は、王女。この男、結婚に納得していない彼女を、無理矢理傍に置いているの?」
カトリーヌはブリジットと自分と同じく親しい。ルークを指差し、砕けた物言いで訊いてもブリジットはまったく気にせず、頷いて見せた。
「そういう事。円満恋愛婚なんて程遠い、家の事情による政略婚ですって。……それでも、メイナード程の大家に嫁げるとなれば、普通は喜ぶ物だと思うのだけど、彼女はどうやら違うようなのよね」
「無理矢理。メイナード公ともあろう方が無理矢理ですって!……ふふふふ……この男の財力にも権勢にも靡かないなんて、あなた素晴らしいわ!」
「きゃっ!」
楽しげに目を輝かせたカトリーヌに、思い切り抱き付かれてセリーヌが驚いて声を上げる。
それでも構わず抱き締めて、カトリーヌは機嫌よく笑っていた。
「ルークの財力にも権力にも媚を売らない女性が貴族の内に居たなど驚きですわ。……どんなに探しても一生掛かっても見つからないと思っていましたのに、……探せば居るものなのですね」
「……それは、カトリーヌ様も同じなのではないでしょうか? お二人がご結婚されるとのお話は、多くの者が耳にしておりました。ですが、お断りされたと窺っております……カトリーヌ様も、財力や権力などどうでも良いとお考えであるから、そうなされたのではありませんか?」
セリーヌを見ながら感心しているカトリーヌに、セリーヌは小さく首を傾げて問うていた。
「そうですわね。ルークの持っている権力や財力には興味がありませんわ。……ですが、興味は無くとも、魅力的な物である事は理解しておりますわ。わたくしは欲深な女です。どうでも良い物などとは思っておりませんわ。……それを、あなたは魅力的な物とすらまったく思っていらっしゃらないご様子。その目。本心からわたくしとルークが結婚していれば良かったのに、と思われていますね。……ふふふ……本当に可愛いですわ」
面白そうに笑っているカトリーヌは、セリーヌのように財や権力に興味が無い女ではない。
それどころか、興味のあり過ぎる女だ。
だが、単純に結婚して、夫の物を貰うのではなく、自分で築いたり奪ったりするのが好きなのだ。
こんな考えの女なのだ。おそらく夫に選ぶのは、家に力が無く己の邪魔をしない、大人しくて礼儀正しい男ではないだろうかと思う。
正直、カトリーヌと言うのは自分を見ているような気持ちにさせられる女なのだ。カトリーヌの方もそう思っているだろう。
だから、ルークは結婚など考えられないと言い、カトリーヌの方も同じ思いで同じ事を言ったのだろうと思う。自分と同じ存在が生涯の伴侶など、息が詰まるに決まっている。友人でいるのが最良である。
「ルークを愛しているのでもなく、その持つ物に何の興味も無いとなれば、こんな、何を考えているのか分かりにくい男との政略婚など怖ろしいだけでしょう。ですが、散々に言っていますが、ルークはそんなに甲斐性の無い悪い男では無いと思いますので、自ら望んで迎えたあなたを、不幸にする事はないかと思いますわ。……なんでも力になれるとまでは、はっきりお約束出来ませんが、いつでもわたくしを訪ねていらっしゃいませ。遠慮などしなくてよろしいですわ。今日からあなたとわたくしは友人です。あなたが幸せになれるよう、少しでもお手伝い出来ればと思いますわ」
「ありがとうございます! そうなのですか。カトリーヌ様でも、何を考えているのか分かりにくいのですね……公爵様は、ずいぶんと不思議な方なのですね」
ブリジットと同じような事を述べ、セリーヌの両手を包み込むようにして握り笑みを向けるカトリーヌに、セリーヌは感謝を示して深々と礼をすると、しみじみとした様子で言ってルークを見た。
その目に嫌悪が浮かんでないのは良いが、言葉には納得出来なかった。
「私の何が分かりにくいと言うんだ」
特別、複雑怪奇な行動を取った覚えなどない。常に無表情でいる訳でもなく、嫌な事は嫌だと示し、嬉しい時には笑っている。会話もきちんと交わしていると思うが、それなのに、セリーヌのみならず親しい相手には概ね 『分かりにくい人間』 と評価されているように思う。正直、不満だった。
「行動が……」
口を噤んで逃げず、もごもごと遠慮しつつもセリーヌが言うのに、ルークが言葉を返す前にブリジットが笑って同意した。
「そうなのよね! 確かに悪い男とは言わないけれど、何でも楽に手に入ると思ってるからか、行動が突飛過ぎるのよね。……おかげで、周りの人間は驚かされてばかりだわ。何もしないつもりなのかしら、と思っていると、いきなり前触れもなく動いて事態を動かす……本当に、訳の分からない男だわ」
腕を組んで頷きながら言っているブリジットに、カトリーヌが賛同するが、ルークとしては納得出来ない。
「王女やカトリーヌにはそう見えるのかもしれないが、私としては考えて動いた結果がそれだ。何もおかしな事などしていないぞ」
不満を述べるが、しかし、親友達から同意を得られる事はなかった。
親友達のように大きく主張する事はなかったが、セリーヌもブリジット達の方が正しいと思っている様子がしっかりと伝わってくる。
確かに、セリーヌに関してだけは、考えた通りの行動とは言えない事を何度もしているな、とも思う。
そこを訳が分からないと言われれば、それは仕方が無いので、それ以上の反論は控えた。
正直、口ではカトリーヌやブリジットには叶わないのだ。あまり余計な事は言わず、黙っていた方が良いに決まっていた。印度神油

何にせよ、信頼する二人がセリーヌの味方になってくれた事は、大変満足できる喜ばしい事だった。