2013年2月24日星期日

蒼空の扉

 ガーゴイルのレリーフが浮き出た禍々しい扉を前にして、彼はもう一度うしろを振り返った。
「準備はいいか」
 緊張をみなぎらせていた他の三人の王たちは、我に返ったように深くうなずく。
 それぞれの手には、柄に聖なる宝玉を嵌めこんだ剣が握られている。威哥十鞭王
「護衛の魔物たちに目をくれるな」
「まっすぐに玉座に向かい、この剣を奴の手足に突き刺すのだ」
「決して、あの紫の目を見るなよ。たちまち操られてしまうぞ」
「大丈夫だ。われらには、精霊の女王のご加護がある。決して負けはせぬ!」
 矢継ぎ早に言い交わしながら、くじけそうな勇気を奮い立たせる。それほどに、この扉の向こうにいるのは、強大な敵なのだ。
「いつでもよいぞ、ナブラの王」
 仲間の呼びかけに応えて、先頭に立っていた最も年若き王は、雄雄しく叫んだ。
「よしっ。みんな、行くぞ!」
「おおっ」
 四人の勇者は扉を差して、いっせいに剣を掲げた。
「アラメキアに仇なす魔王ゼファーよ、今日こそ、おまえを永遠に封印してやる!」

「陛下」
 しわがれた声に、ユーラスは目を覚ました。
 異世界への旅の途中で気を失い、夢を見ていたようだ――はるか昔の夢を。
 まず見えたのは、目を射るほど真っ蒼な空だった。アラメキアの紫を帯びた青とは明らかに異なる色。
 鉄サビの匂いが肺を突く。たくさんのうち捨てられたゴミの山に、彼らはなかば埋もれているのだった。
 白い髭の男が、彼のかたわらでガラクタを取り除けている。そのうしろには、ふたりが乗って来た巨大な【転移装置】が、着地したときの衝撃もそのままに、傾いて立っていた。
「この世界に、奴がいると申すのか。大賢者アマギ」
「仰せのとおりです、陛下」
「混沌とした醜悪な景色だ。さすが、あの魔王の流刑地にふさわしい」
 ユーラスは嫌悪に唇をゆがめると、電子レンジやプリンターの堆積物をがらがらと崩して立ち上がった。
「ふふ。待っていろ、魔王。余が来たからには、もう逃がれられぬ」
 彼は、虚空をにらみつけて不敵に笑った。
「たとえ、女王の裁きがいかなるものであっても、余のなすべきことは、ただひとつ。地の果てまでも、おまえを追いかけて――滅ぼしてやる!」

 アマギの道案内によって、ユーラスは一軒の建物の前に導かれた。
 アラメキアではほとんど見かけぬ二層建てだが、外観はかなりみすぼらしい。
「ここが奴の根城か」
「はい、さようでございます」
 目深に黒いローブをかぶった博士は、うやうやしく答えた。この異世界の男はアラメキアに来てから、ローブを着る資格のある大賢者のひとりと数えられていた。
「わたしは以前、魔王の従者という魔族をひとり、【転移装置】で地球に送り込みました。奴から発信された電波の座標位置から計算すると、間違いなく、ここが奴の住居」
 うなずいて、まさに一歩踏み出そうとしたユーラスの耳に、楽しそうな歌声が届いた。
「しろくまが、めがねをかけたら、パンダさん~」
「しまうまが、しまをとったら、風邪をひく~」
 振り返ると、黒髪の浅黒い男と、雪のように白い肌の小さな女の子が手をつなぎ、笑いながら道を歩いてくる。
「あの男が、今申した魔王の従者ですぞ」
 アマギが、こっそり耳打ちをした。
 ユーラスは、身をおおっていたマントを背中に掃い、彼らの前に立ちふさがった。
「きさま、魔王の配下だな」
「え?」
 ふたりは、怪訝そうな顔で立ち止まった。
「余はナブラの王だ。アラメキアからはるばる魔王に会いに来た」
「アヤメキア!」
 幼い少女は、小鳥のさえずりのような歓声をあげた。
「おにいちゃん、アヤメキアから来たの?」
「姫さま!」
 従者の男は、ユーラスに手を伸ばそうとする女の子の身体を、とっさにかかえこんだ。
「姫……だと?」
 ユーラスは片眉を上げ、少女をうさんくさげに見つめた。「ということは、その小娘、ゼファーの娘か」
「おまえ、本当にニャブラの王か」
 ようやく事情が飲みこめた様子の従者だったが、それでもまだユーラスを見つめて、ぽかんとマヌケ面をさらしている。
「それじゃあ、まさか隣にいるのは、アマギ博士」
「ふっふ。久しぶりだな」
「我ら魔族に味方すると誓ったはずニャのに、人間側に寝返ったのか?」
「恩知らずな魔族と違って、ナブラ王は、わたしを地球に連れ帰ると約束してくださったからな」
「そうか……だから代償に、そんな姿に」
 従者は視線をユーラスに戻して、少しいたましげな顔つきになる。その憐れみのこもった目つきが、ユーラスの怒りをいっそう燃え立たせた。
「そこまでして、この世界に来るとは、いったいニャんの用だ」
「知れたことを。七十年前の魔王討伐の続きを、ここで果たそうというのだ」
 ユーラスは言うが早いか、右手を聖剣の柄にかける。
「北と西と南の三人の王は寿命を全うし、もはや余を残すのみ。魔王を滅ぼすことは、余に託された神聖な義務なのだ」
「ニャにが、神聖な義務だ。どうせ精霊の女王さまの言いつけにそむいて、こっそり来たのだろう」
「だまれ!」
 ユーラスは図星をつかれて逆上し、あざやかに剣を鞘から放った。
「まず、きさまから血祭りにあげてやる!」
 そのとき、チリンチリンとベルを鳴らし、たくさんの紙束を運ぶ二輪の乗り物が、キキーッと彼の目の前で停まった。
「おい、坊主」
 乗っていた地球人の男が、ぽんぽんと彼の頭を叩く。
「小ちゃな女の子相手にチャンバラごっこなんかしちゃいけねえ」
「チャンバラごっこ?」
「それじゃあ、気を引くところか、泣かせちまって元も子もなくなるぜ」
 ユーラスは憤怒のあまり、頬をイチゴのように赤らめ、答えることもできなかった。
 無理もない。
 アラメキアの四覇王のひとり。青い髪と青い目を持つ、並ぶもののない伝説の勇者、ナブラ王ユーラス。
 しかし今はどう見ても、カーテン地か何かをマント代わりに引きずり、オモチャの剣を振り回す、わんばくな小学生にしか見えなかったのである。田七人参

「ユーラスが、子どもに?」
 夜、工場から帰ってきたゼファーに、ヴァルデミールは今日の騒動の顛末を話して聞かせた。
「いったい、なぜそんなことになったのだ」
「はニャせば、長いことニャがら」
 ヴァルデミールは、佐和からもらった塩鮭を、皿までていねいに舐めてしまうと、説明を始めた。
「そもそもアマギの作った【転移装置】は、56年に一度しか作動できニャいのです」
「天城博士は俺には、アラメキアと地球が最接近するのは7年に一度、と言っていたぞ」
「ところが、アラメキアでは地球と比べて、およそ八倍もの速度で時間が流れるらしいのです」
 ヴァルデミールは、必死に両手の指を折りながら説明する。
「シュニンがこの世界に来てから9年。ところが、その間にアラメキアでは72年の歳月が経ってしまいました。あのとき18歳だったナブラ王は、たぶん90歳をとっくに越えていたはずです」
 退屈な話に雪羽はすっかり眠気がさして、佐和の膝の上で、こっくりと舟を漕いでいる。
「わたくしがこの世界に来たとき、アマギは【転移装置】を動かすために、時間神セシャトのもとへ行き、装置の時間を40年ほど進めてくれるように頼みました。セシャトはその代価として、装置に乗る者の時を40年戻すことを要求したのです」
「つまりは、乗る者を40歳若返らせる、ということか」
「はい。わたくしは魔族ですから、40年の年を差し引かれても、さほど不便は感じませんでした。そのときアマギも、「若返れるなら一石二鳥」と地球に帰りたがっていましたが、セシャトは、『異世界人の時間は、代価にニャらぬ』と言って、断ってしまいました」
 ヴァルデミールは、ほうっとため息をついた。
「たぶんアマギは今回、自分もいっしょに地球に連れ帰ることを条件に、ニャブラ王に協力すると約束したのでしょう。ニャブラ王は、しかたニャく、自分の分とアマギの分の代価も合わせて、二倍の時間をセシャトに差し出した」
「もしそれが40年だとしたら、ユーラスは80歳若返ったということか」
「どう見ても、9歳か10歳くらいにしか見えませんでしたからねえ」
 と、おおげさなため息をつく。
「あれだけ小さいと、昔戦ったときの、あの炎のような気迫も強さも、全く感じませんでしたよ。本人は、まだそのことを自覚してニャいみたいですけど」
 ヴァルデミールは、上目づかいでゼファーを見た。
「シュニン、どうしましょう。ヤツはしつこくも、まだシュニンの命を狙っているみたいです。けど、あれじゃあんまり可哀そうで、ニャぐる気も起きませんよ」
「どうしたものかなあ」
 ゼファーは、箸を食卓に置いて、黙り込んでしまった。

 家電ゴミ置き場に埋もれた転移装置の中で寝苦しい夜を過ごしたユーラスは、すっかり寝坊してしまい、日が高くなってからゼファーの居城に駆けつけた。
 どうも、この身体になってから、一日9時間睡眠を取らないと、眠くてしかたがない。
 昨日は、おせっかいな通りすがりの新聞配達人にこんこんと説教され、這う這うの体で逃げ出し、それきりになっていた。
「今日こそは、ヤツをこの剣で仕留めてやる」
 抜き身の剣をかかげ、ユーラスはアマギが止める間もあらばこそ、一階の真正面の扉に突入した。
「ゼファー、覚悟」
 数秒後、中にいた住民に首根っこをつかまれ、部屋の外に放り出された。
「冗談じゃない、おもちゃの刀なんか振り回して。あんた小学生だろ。学校サボって何してるんだい」
 口やかましそうな太った婦人が、腰に手を当てて仁王立ちしている。城の入り口を守護するゴーレムも真っ青になるほどの迫力だ。
「なぜだ。ここはゼファーの城ではないのか」
「ゼファー? ああ、瀬峰さんを訪ねてきたのなら、二階の右から二番目だよ」
「み、右から二番目?」
 ユーラスはあぜんとして、二階の扉を見上げた。
「こんなアリの巣のような建物の、たった一室が魔王の居城だというのか?」
「悪かったね。アリの巣みたいなアパートで」
 女はバタンと扉を閉めてしまった。
「魔王は、かなり貧乏な暮らしをしているようですな」
 アマギがぽりぽりと白髪頭を掻いている。
「大賢者。おまえは、ここで待っていろ」
 ユーラスは、キッとまなじりを吊り上げると、階段を駆け上った。
「ゼファー、覚悟しろ!」
 勢いよく飛び込んだ部屋の中では、ゼファーの妻とおぼしき女と娘が、ふたりで朝ごはんを食べていた。
「あ、アヤメキアから来たおにいちゃんだ」
「まあ、ゼファーさんのお知り合いですか。いらっしゃい」
 のんびりとしたふたりの笑顔に、ユーラスはすっかり毒気を抜かれて、持っていた抜き身の剣を、あわてて後ろ手に隠した。
「ま、魔王は?」
「ごめんなさい。ゼファーさんなら、さっき工場に出勤したところなんですよ」
「コージョー? シュッキン?」
 ユーラスは心の中でうなった。
(おのれ、魔王め。性懲りもなく、この世界でもコージョーという国に出陣して、攻め取ろうとしておるのか)
「そんなところにいたら、寒いわ。どうぞ中へ」
 佐和は立ち上がって、玄関に立ち尽くしている少年の肩に手をかけると、食卓に案内した。
 光線の加減によっては、美しい藍色に見える髪と瞳。革のベストとスパッツに似たズボン。緋色のマントにくるまれた手足は骨ばって細く、すべすべした頬には髭の生える気配すらない。
 どう見ても、10歳そこそこ。佐和の子どもだとしても、不思議ではない年齢だ。
 昨夜の夫とヴァルデミールの話では、この子どもがアラメキアから追いかけてきて、夫の命をつけねらっているらしいというのだが、この澄んだ目をした子がそんなことを考えているとは、とても信じられない。
 佐和には、アラメキアの歴史も、【転移装置】の話もよくわからなかった。ただひとつわかることは、少年が知らない場所に来たばかりで、途方にくれていること。
 ちょうど、出会ったばかりのころのゼファーのように。あのときの夫は、この世界のことを何も知らず、住む所も信頼できる仲間もなく、すさんだ目をしていた。
 そして何よりも、お腹をすかせていた。
「よかったら、朝ごはんをごいっしょにいかがですか?」
「え?」
「おにいちゃん、雪羽の鮭のおにぎり、あげる」
 少女は、「はい」とユーラスの前に、白い三角の物体の乗った自分の皿を押しやる。
(魔王城で食べているものなど、食えるか。毒が入っているに決まっている)
 そうは思ったが、食べ物だとわかっただけで、口の中はたちまち唾でいっぱいになる。
「ゼファーは、いつ戻る」
 ユーラスはむりやり視線をそらすと、佐和に向かって高飛車な態度で訊ねた。
「たぶん、遅くなると思います。納期が近いそうなので」
「ノーキ?」
(近づくだけでゼファーの帰りをはばむとは、ノーキとはいかなる強敵だろう。手を結んでおく必要があるかもしれぬ)
「あの、お名前は?」
 女は怖じずに、まっすぐ彼の顔をのぞきこんできた。
「名前だと」
 ユーラスは油断なく身構えた。
「余の名を聞くとは、よい度胸だ。さては最高位の魔女だな」
「いいえ、私は魔女ではないし、名前は呪文を唱えるのに使うのじゃありません」
 佐和もゼファーのときの経験があるので、もうすっかり慣れたものだ。
「この世界では、名前をうかがうのは、相手と仲良くなる第一歩なんですよ」
「仲良くする?」
 ユーラスはまた考え込んだ。
(この女、どうやら余を敵だとは思っておらぬらしい。これは好都合かもしれぬ)
 内心ほくそ笑む。
(味方のふりをして油断させ、こいつらを人質にしてしまえばよい。ゼファーの奴め。帰ってきたら驚くぞ。自分の居城が余に乗っ取られて、入りたくとも入れないのだからな)印度神油
「余の名は、ユーラス・サウリル・ギゼム・ド・ファウエンハールだ」
「あ、あの、長いので覚えられません。ユーリさんとお呼びしていいですか?」
「――好きにするがよい」
「それじゃあ、ユーリさん、おにぎりはいくらでも作りますので、どんどん食べてくださいね」
 皿に盛られた白い三角形の山は、つやつやと輝き、どうにも目が離せない。
 横から、ひょいと小さな手が伸びてきた。
「おにいちゃん、雪羽とどっちが早く食べられるか、きょうそうしよ。ヨーイ、ドン」
 なぜか、その「ヨーイ、ドン」という魔法の呪文を聞くと、ユーラスは矢も盾もたまらず、三角形にむしゃぶりついた。

 その夜、ゼファーは残業を終えて、疲れた身体で家路についた。
 会社の業績は、悪化の一途をたどっている。
 そのことを聞きつけた部品メーカーや機械リース会社の中には、現金でしか取引に応じないところも出てきた。
 経理は、すでに自転車操業状態だった。いくら、工場長やゼファーたちが新規の受注を取ってこようにも、もうそれすら引き受けられないところまで追い込まれている。
(時間の問題なのかもしれないな)
 凍えた夜の道をひとりで歩いていると、つい悪いほうへと気持が向いてしまう。
 ゼファーはぐっと拳を握りしめると、勢いよくアパートの階段を駆け上がった。
「おかえりなさい」
 いつもの明るい佐和の声に迎えられて、靴を脱いで部屋にあがったゼファーの手から、持っていたカバンがどさりと落ちた。
 部屋の中では、雪羽といっしょの毛布にくるまって、ユーラスがこのうえなく幸福そうな寝顔で、眠りをむさぼっていたからである。
朝焼けが窓をうっすらとバラ色に染めている。
 暖かい布団にぬくぬくとくるまりながら、また若かった頃の夢を見ていたユーラスは、目を開けた。
(いったい、なぜ余はこんなところに寝ているのだ)
 記憶を取り戻すまで、しばらくかかった。
 確か昨日は、魔王城に突入し、勧められるままに食事をしたのだった。
 あの白い三角形の食物は、たいそう美味だった。
 お腹が満たされたあとは、雪羽という魔王の娘に付き合って、積み木やカルタで延々と遊ばされた。
 そのあいだに魔王の妻だという女、佐和は彼のぼろぼろに破れたマントを丁寧につくろい、短く仕立て直してくれた。
 そして、夕食を平らげたあとは、魔王の帰りを待つうちに、睡魔に勝てずにそのまま寝てしまったのだった。
(結局、昨夜はやつは居城に戻らなかったのか)
 魔王の邪悪な気配がそばに近づけば、たちまち目が覚めるはず。とてもこんなにぐっすりとは寝ていられなかっただろう。
 顔を横に向けると、狭い部屋に四つの布団が敷き詰められているのが見える。
 佐和はもう早くから起きているらしく、紙張りの引き戸で隔てた向こうからは、軽やかな足音や水音が聞こえてきた。
 雪羽の隣には、見たことのないひとりの人間が寝ていた。
 優しそうな男だ。漆黒の髪は寝ぐせがついて先が丸まっている。身なりは貧しいが、気品を備えた風貌をしていた。
(誰だろう。こやつも魔王の従者なのか)
 突然、魔王の娘がむくりと起き上がり、男に向かって寝ぼけたような声をあげた。
「父上、おしっこぉ」
「な、な、なんだと!」
 ユーラスは、布団から跳ね起きると、枕元に置いてあった剣を鞘ごとつかんだ。
「おのれ、きさまが魔王か!」
 ゼファーは身体を起こして大きな欠伸をすると、ちらりとユーラスを見た。
「朝っぱらから、うるさい。少しは時間をわきまえろ」
「なんだと」
「だいたい俺のパジャマを着ているくせに、威張れた立場か」
「……」
 ユーラスは自分の着ているものを見た。確かにゆうべ風呂に入った後に、だぶだぶの服を借り受けて着ていたのだった。
「おまけに昨日一日で、おにぎりを15個も食ったそうだな」
 と、すこぶる不機嫌そうな声で言う。「そのせいで、俺の夕食のおにぎりには、鮭が入ってなかった」
「父上ぇ、おしっこ、もれちゃうぅ」
「雪羽はもう、ひとりでトイレに行けるだろう」
「でも、父上といっしょがいいの!」
 「やれやれ」と、魔王は娘の両脇に手を差し入れて抱きあげると、行ってしまった。
 布団の上に残されたユーラスは、自分の目が見たことが信じられなかった。
 幼い娘を抱っこして厠に連れていくなど。おにぎりに鮭とやらが入ってないと文句を言うなど。これが、最強の魔王軍の頂点に立ち、無慈悲にも人間を殺戮し続けた、あの魔王なのか?
 佐和が、ひょいと部屋の仕切りから顔をのぞかせた。
「ユーリさん、私パートに行って来ます。朝ごはんは用意しておきましたから、おなかがすいたら食べてくださいね」
「う、うむ」
「でも……大丈夫かしら。敵同士のふたりを残して行って」
 佐和の目は心配そうに、ユーラスの顔と、トイレから戻ってきた夫の顔の間を往復する。
 ゼファーは肩をすくめて、答えた。
「大丈夫だろう。万が一戦うことになれば、雪羽を隣の田中さんに預けて外へ出る」
「それじゃあ、くれぐれも、ふたりとも怪我のないようにお願いしますね」
(……何だ、この緊張感のない会話は)
 佐和が出て行ったあとゼファーは、剣を手に立ち尽くしているユーラスに背中を向けて、さっさと布団をたたんで、押入れにしまい始めた。
 ユーラスは、無視されたことへの屈辱に震えた。
「魔王よ、外に出ろ。きさまの望みどおり、戦ってやる」
「この時間はまだ、暗くて寒いぞ」
「黙れ。今日こそ、おまえの心臓をこの剣で串刺しにしてやる」
「いいから、先にそのパジャマを着替えて、顔を洗って、飯を食べろ」
「ふざけるな!」
 怒りが頂点に達し、ユーラスは剣を抜いて斬りかかった。
 ゼファーは軽く身をかわすと、勇者の腕をうしろにねじりあげた。
「こんなものを、狭い部屋で振り回すな」
「うっ」
 命の次に大切な剣は、あえなく床に落ちた。
「ふすまを破ってみろ、張替え代2100円を弁償してもらうぞ」
 ユーラスは腰砕けになって畳に座り込み、深くうなだれた。
 悔し涙が目ににじむ。
 やはり、この幼い身体ではダメなのだ。七十年前、魔王を倒したときに持っていた力も技も、何もかも失ってしまった。
 ゼファーは、そんな彼をじっと見下ろした。
「ナブラの王よ。見てのとおり、俺はすでに魔王ではない。普通の人間だ」
「……だが、この世界を征服して、アラメキアに攻め込むことを企んでいる。――アマギがそう言っていた」強力催眠謎幻水
「昔の話だ。佐和と結婚して以来、そんな気はとうに失せた」
「嘘をつくな。今もなお、コージョーという国を侵略しているくせに」
「コージョー?」
「毎日、朝早くから夜遅くまで出陣していると聞いた」
 魔王は顔をそむけ、驚いたことに、くつくつと笑い出した。
「……おまえもいっしょに来てみるか?」
「え?」
「自分の目で確かめてみろ。俺がこの世界で、何と戦っているのか」

 佐和がパートから帰ってきたあと、ゼファーとユーラスは連れ立って外へ出た。
 アパートの軒下で、ローブにくるまって寒さに震えていたアマギは、ふたりが並んで階段を降りてくるのを見て、目を丸くした。
「ゼ、ゼファーさま」
 数年ぶりに再会した老科学者に、ゼファーは皮肉げに笑いかけた。
「変わらんな、天城博士。アラメキアでは不思議なことに、この世界の人間はまったく齢を取らないと見える」
「わ、わたしを裏切り者だと思っているだろう」
 闇組織の非情なボスだった頃のゼファーしか知らないアマギは、あたふたとユーラスの後ろに隠れた。
「だがわたしは、どんな手段を使ってでも地球に帰りたかった。【転移装置】の成功を、わたしの並行宇宙理論の正しさを、わたしをバカにした科学者どもに突きつけてやりたかったんだ」
「大賢者。おまえは【装置】のところに戻っていろ」
 ユーラスはアマギに低く命じると、そのままゼファーの後に従った。
 連れて行かれたのは、コージョーと呼ばれる、何の装飾もない大きな建物だった。
 そろいの服を着た大勢の人間が、集まってきた。魔王とともに攻撃を受けるかと一瞬身構えたユーラスは、満面の笑顔が彼に向けられていることに戸惑った。
「かわいいーっ」
「おっ。坊主、不登校か。俺の仲間だな」
「主任、この子、ご親戚ですか? どことなく似てますよ」
 彼らのあけっぴろげな様子から察するに、ゼファーは、ここで厚い信頼を受けているに違いなかった。
(アラメキアでは人間の敵だった魔王が、この世界では人間から慕われている?)
 とてもではないが、認めたくない光景だった。
 ユーラスはその日一日、工場の隅にぼんやり座って、魔王が彼らとともに、ほとんど休みも取らずに働くのを見つめていた。
 とっぷりと日が暮れたころ、ようやく彼はユーラスのもとに戻ってきた。
「待たせたな」
「……いや」
「ナブラ王。これが、俺の戦場だ」
「これが、戦場――」
「そうだ。この世界はアラメキアとは違う。生きて家族を養うためには、朝から晩まで額に汗して働かねばならぬ」
 かつての魔王は、工場のうす汚れた天井を見上げて笑んだ。
「ここで俺は機械油にまみれ、朝から晩まで、単価数十円や数百円にしかならぬパーツを作っている。だがこれは、破壊のための戦いではなく、生み出すための戦いだ」
「……」
「今のところ、負け戦のようだがな。それでも俺は最後まであきらめない」
 と言いながら、その笑顔には誇りさえにじむ。
 ユーラスは目眩を感じた。それほどに激しく動揺している。
「さあ、帰るぞ」
 工場を出て、夜の道を先立って歩き出した魔王に、とぼとぼとついていく。
 奴の背中が大きく見える。それとも余が小さくなっただけなのか。
 突如、得体のしれない悲しみと怒りが、腹の中を駆け上がってきた。
「余は、きさまを赦さん!」
 ユーラスは立ち止まり、小さな全身がきしむほどの大声で叫んだ。
「アラメキアは、魔族との戦争で大きな荒廃を喫したままだ。その爪あとは、四王国で今も消えておらん。民はいまだに食糧不足に苦しみ続けている」
 魔王は背中を向けたまま、何も答えない。
「たくさんの命が失われた。きさまのせいで! そのアラメキアを逃げ出して、知らぬふりをして生きようというのか。新しい戦いを始めようというのか。余は赦さん! きさまには、あの戦いを忘れる資格などない!」
 ユーラスは、ゼファーを残して駆け出した。月明かりの中をめちゃめちゃに走った。
 どうして自分のことを負け犬のように感じるのか、わからなかった。

 若き紅顔の勇者は大胆にも、真正面から斬りかかってくる。その気迫は、ゼファーの紫の目が放つ魔力さえ跳ね返している。
 注意を奪われた一瞬をついて、両側面から【テュールの七重の鎖】がゼファーの身体に巻きつき、ぶざまにも膝をついた。
 その足元には、魔族と人間の死骸が、じゅうたんのように敷き詰められている。
 髪をふり乱してもがき、牙で鎖を噛み切ろうとしたが、縛めはびくともしない。
 ゼファーは憤怒に我を見失った。
 ただ憎い。何もかもが憎い。
 人間が、人間に加担する精霊の女王が、そして女王の愛するアラメキアそのものが憎い。
 右手に鋭い痛みを感じる。
 ナブラ王ユーラスの剣先が、彼の手首を刺し貫いたのだ。
 ゼファーは野獣のように吼えた。魔力が噴水のように、傷口から失われていく。精霊の女王が、人間の四人の王に与えたという聖なる封印の剣。
 ついで、左手。左足。右足。
「魔王ゼファー。きさまに殺された幾万の民の恨みを思い知れ!」
「おの……れ。ユーラス」
 ひゅーひゅーと互いの息が感じ取れるほど間近で、ふたりは命を懸けた憎悪をこめて睨み合った。

 ゆっくりと起き上がると、ゼファーは吐息をついた。
「ゼファーさん」
 佐和が布団の中から、そっと夫の名を呼んだ。
「眠れないのですか?」
「……ああ」
 彼は大きな手で、妻の髪を撫でた。
「おまえは、何も心配する必要はない」
「ええ。わかっています。けれど……」
 佐和は今までの結婚生活で、夫がときどき、ひどく辛そうに見えることに気づいていた。
 そういうときのゼファーは決まって、何も見ていない目をしている。
 この世界にあるものすべてを突き抜けて、過去の記憶を見ているのだ。そして、絶対そのことを語ろうとしない。VIVID
 

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