兄貴のおかげで俺達は思わぬ旅行をできるようになった。
温泉旅行、それも和歌と唯羽も一緒にだ。
けれども、浮かれてばかりもいられない。麻黄
赤木影綱という前世についてゆかりがある土地。
彼についてを知ると言う事が、椿姫の呪いに何かしらの対処ができるかもしれない。
高速道路を走る車内。
兄貴が運転手、俺は助手席に座り、和歌たち3人は後ろで楽しく話している。
麻尋さんと和歌達は普段から仲が良い。
ふたりとっては姉みたいな存在で、麻尋さんにとっては妹達という感じらしい。
「ねぇ、ユキ君。そう言えば、ふたりのうち、どちらが本命なの?」
「げふっ!?」
そのお姉さんがとんでもない手榴弾をこちらに放り込んできた。
「あ、え?」
「和歌ちゃんも唯羽ちゃんも、2人同時交際中でしょ?世間的に、こんな風に堂々と二股交際してる子は珍しいと思うの。それはお互いに納得してるなら良いと思うし。だけど、気になるじゃない。一体、ユキ君はどちらが本命なのか?」
どちらが本命とか、そんな事を言われても困る。
「それは私も気になりますね、元雪様」
「元雪がどっちを一番に好きか、私も知りたいな」
和歌と唯羽も、俺の答えを望んでいる。
「……あ、あのですね。その、どちらが、というのは」
「はっきりしろー。男らしくないぞ、ユキ君?」
人の事だと思ってえらく煽ってくれる。
ホントに麻尋さんは……厄介な人だ。
俺は内心、呆れながらもピンチな状況に兄貴に救いを求めた。
俺の視線に気づいた兄貴は微笑しながら言うのだ。
「元雪。男には逃げちゃいけない時ってのがあるものだぞ」
兄貴にも見捨てられた!?
「「……どっち?」」
和歌も唯羽も、なぜか乗り気で俺に迫る。
ど、どうすればいいのだ、俺は!?
思わぬ大ピンチに車内の俺は心の中で大絶叫していた。
温泉地に着いた頃には、俺はすっかりとぐったりしていた。
何とかあいまいな返事で誤魔化し続けました。
うぅ、はっきりとしない自分が情けない。
「ほら、元雪。温泉地についたよー?楽しもうよ」
「……あ、あぁ」
車内と言う逃げる事の出来ない密室が怖いと思ったのは初めてだぞ。
車から降りると、そこは湯けむりの独特の香りがする温泉街だった。
「予約している温泉旅館の部屋は4時から入れるそうだ。それまではしばらく、この辺りを散策するのもいいだろう。温泉地だから色々と楽しめるはずだ。元雪、時間を決めて別れようか?」
「うん。それでいいよ。俺達は適当に遊んでおく」
「じゃぁね、ユキ君。行きましょう、誠也さん」
麻尋さんが兄貴の手を引いて歩きだす。
ホント、仲のいい夫婦だよなぁ。
兄貴達と別れると俺達も温泉地を歩いてみることにする。
「そうだ、唯羽。ここが影綱のゆかりの地だって話らしいが、場所は近いのか?」
「少し離れてる。明日でもいいんじゃない?どうせ、お城の跡しか残ってないし。それよりも、私、食べたいものがあるの」
「食べたいもの?」
唯羽が道沿いを歩いていると、あるお店で目的のものを見つけたらしい。
彼女はそれを買ってくると俺と和歌にも手渡した。
「温泉たまご♪」
「お姉様、好きなんですか?」
「卵は大好きだよ。やっぱり、本当の温泉卵が食べたいじゃない」
「確かに。美味しそうだな」
俺達は街並みを眺めながら、卵を食べる。
なるほど、ただのゆで卵とは違う気がする。
「温泉のいい匂いがするな。温泉にきたって感じがしていい」
「元雪、提案があります。混浴温泉を探して……」
「ダメです。認めません」
「むぅ、どうしてヒメちゃんが反対するの?」
間髪入れずに否定する和歌。
「当然です。お姉様、旅行と言えども節度は大事です」
「えー。ちょっとくらい、いいじゃん」
「いけません。そう言うのは絶対に許しません」
「ヒメちゃんだって元雪と一緒にお風呂に入りたいとか思わないわけ?」
唯羽に対して彼女は「うっ」と言葉に詰まる。
「ほら、ヒメちゃんだってそういう願望あるじゃん」
「そ、それとこれとは違いますっ。私は別に……そんなことは……」
「ほら、元雪も何か言ってよ」
「今の俺に話を振るな。……正直、困るだけだっての」
男の願望を刺激しないでくれ。
最近の和歌と唯羽は微妙な事で喧嘩をしてる。
俺のせいでもあるのだが、俺がどちらかの味方をすることもできず。
「あー、そ、そうだ。ソフトクリームでも食べないか?」
俺は適当に周りを見渡して、お店を指さした。D9 催情剤
どこかの高原の牛乳で作られたソフトクリーム。
こういう場所でしか食べられないご当地ものってやつだ。
「ソフトクリーム好きだろ?好きに決まってる。よし、俺がふたりにおごってあげるから待っていてくれ。すぐに買ってくる」
俺はぽかんっとする2人にそう言って足早に店へと向かう。
そんな俺を彼女たちは顔を見合わせてやがて微笑し合っていた。
「足湯が気持ちいい~っ」
ソフトクリームを食べ終わり、唯羽が足湯につかる。
道沿いにある誰でも入れるタイプの足湯だ。
唯羽は体温が低い方なので、温泉とかが好きなようだ。
その横で俺と和歌は見てるだけだ。
「和歌は見てるだけでいいのか?」
「はい。少し、人前で素足をさらすのが抵抗もありますし」
さすが、和歌は真面目な大和撫子です。
和歌のそう言う所は可愛いと思う。
「何か、ヒメちゃんが清楚系を気取ってる」
「……へぇ、お姉様。そう言う事を言うんですか?」
はっ、またふたりが険悪モードに。
「ふたりとも仲良くしようぜ」
俺が言うなと言われるかもしれないが、せっかくの旅行で争い事はやめましょう。
予想通りに火の粉がこっちに飛んでくる。
「元雪様はお姉様を甘やかせしすぎなんですよ」
「私は元雪の恋人だから甘やかされてもいいもん」
「わ、私の方が先に恋人なんですっ。もうっ」
2人に抱きつかれて、周囲の目が気になる。
周囲から見れば羨ましがられるシチュではあるが、実際は大変です。
「……?」
その時だった。
俺は妙な違和感を抱いた。
『……様と離れたくない……だから……』
寂しそうな女の子の声。
『忘れないで……の事を、忘れないで』
誰かの声が脳内に響く。
ハッとした俺は「なんだ、今のは……」と驚いた。
誰かが俺を呼んでいた?
唯羽がこちらの変化に気付いて声をかける。
「どうしたの、元雪?」
「分からない。だけど、誰かに呼ばれた気がして」
「はい?……私たちの声じゃないんですか?」
和歌の言う通りなのかもしれない。
けれども、違う気がするんだ。
あの声は、誰なんだ……?
「呼ばれた……?ヒメちゃん、喧嘩ストップ。それどころじゃないかも」
「どうしたんです?」
「元雪。今、その声は聞こえる?」
「いや、何も聞こえない。はっきりとは聞こえなかったし」
これだけ人々で賑わう場所だ。
誰かの声を聞いただけなのかもしれない。
そう思いこもうとする俺と違い、唯羽は顔色を変えていた。
「……私も来た時から薄々感じていたの。元雪まで異変に気付いた。ここはやっぱり、私達に影響のある場所だよ」
唯羽が温泉街を見渡しながら呟いた。
その顔には先程までの笑顔は消えていた。
「元雪様とお姉様は何を感じたんですか?」
「……前世の影響。ここは私達にとって因縁の地ってことだよ」
前世と現世、時を超えて繋がるモノ。
「まぁ、いいや。今は温泉地を楽しもうか」
「いいのか?」
「いいの。せっかくの旅行を楽しまなきゃ。次は温泉まんじゅうが食べたい」
唯羽が感じたのは、俺と似たようなものかもしれない。
前世との因縁の地、何かが起きそうな予感がしていた。
兄貴達と合流したあとは予約していた旅館へと着く。
思っていた以上に広い旅館で、部屋も立派なものだ。
「兄貴、部屋割のことなのだが」
「……なんだ?いいじゃないか、これで。それともなんだ?元雪は僕と二人の部屋がいいと?僕は嫌だね、旅行に来てわざわざ弟と同室ってのは勘弁してもらいたい」
「俺も同感だっての。でも、ホントにいいのか?」
そう、予約してたのは2部屋。
兄貴と麻尋さん、俺と唯羽と和歌の部屋割になった。挺三天
当然と言えば当然の部屋割なのだが、これでいいのかと戸惑いもある。
「元雪はそう言う所が真面目だな。大体、今さら気にする事でもないだろう?元雪達は普段からも一緒の家に暮らしているんだ。彼女達と一緒に寝た経験とかないのか?」
「……あるけど」
「それに変な意味での心配ならしてない。元雪がその気ならとっくにしてるだろ」
「その信頼は、ヘタレの意味も込められて嫌だ」
普段と変わらない、そう言われてしまえばそれまでだ。
だが、旅行と言うのは普段と違う雰囲気もあるわけで。
深く考えずに普通に楽しめばいいか。
「元雪~、浴衣に着替え終わったよ」
「うぃ。すぐに行く」
女性陣が浴衣に着替え終わったらしい。
俺達が部屋に入ると、温泉旅館の定番の浴衣姿の唯羽と和歌がいた。
まぁ、唯羽は家での普段着が浴衣だったりするので変わった様子がないけどな。
……しかし、温泉旅館の薄い浴衣は妙な色っぽさもある。
「お祭りの時よりもラフな感じですな」
「元雪様、ジロジロとみられると恥ずかしいです」
俺の視線に気づいてそっと胸元を手で隠す和歌。
和歌はスタイルがいいから、つい見ちゃうのは仕方ないんだよ。
「こら~っ、元雪。ヒメちゃんばかり見ない。私も見て」
「前にも言ったが、唯羽は普段から見慣れてる感があるからな。新鮮味に薄れるんだよ」
「えー。私だって特別視してよぉ」
不満そうな彼女は唇を尖らせた。
唯羽の場合は自堕落な時に、もっと浴衣が着崩れてギリギリできわどかったのを思い出した。
……あれは、今思い返すと普通にやばかったよな。
「ヒメちゃんにだけ見惚れるなんてずるい」
「ふふっ。これはギャップの違いですね、お姉様」
「……おにょれ、ヒメちゃんめ。元雪を誘惑するなぁ」
険悪モード再び、いつものやり取りになってきた。
「はいはい、ふたりとも喧嘩してないで。夕飯にいくよー」
ふたりの仲裁に入ったのは麻尋さんだった。
夕食の時間になったので呼びに来てくれたらしい。
「ユキ君もしっかりしなきゃダメだよ?」
「……努力はします」
けれど、このふたりの争いにどう入りこめばいいのか分からないのだ。
食堂のテーブル席は5人分の食事がセットされていた。
「食事は皆、一緒なんだ」
「あぁ、そう頼んでおいたんだ」
ここは兄貴の友人がやってる旅館だ。
今回は団体客のキャンセルで友人達を集めたと言う事もあり、周囲の人々も兄貴の友達ばかりらしい。
楽しそうに会話をする兄貴達を見ながら和歌が言う。
「元雪様。誠也様は友好関係が広いんですね」
「気さくで優しいから友人も多いよ。人気もあったから高校時代も相当、女の子にモテていたような……ハッ!?」
「へぇ、そうなんだ?その話、ちょっと興味があるかも」
俺の背後に麻尋さんが立っていた。
兄貴はそう言う話をあんまり麻尋さんにするはずもなく。
「え、えっと……俺は教えづらいかも」
「どうして?昔の誠也さんのこと、知りたいと思うのは不思議な事じゃないでしょ?」
お姉さんの顔が笑ってないから怖くて言えません。
こういうこと、麻尋さんは結構気にするタイプだからな。
「そうだけど、あ、そうだ。ほら、皆に聞いてみればいいんじゃないかな?」
俺は兄貴の友人達に視線を向けて言うと、麻尋さんは「そうね」と頷いた。
結局、食事前に兄貴の友人達に色々と彼女は過去の兄貴について尋ねていた。
昔、どういう子と付き合ってたとか面白そうに話す友人達に慌てて兄貴が口止めに走る。
「……元雪、頼むから余計な事を麻尋には言わないでくれ。お願いだ」
どっと疲れたような顔で兄貴にお叱りを受けました。
旅館の食事も豪華なもので、美味しそうな料理が並ぶ。
「おっ、美味そうだな。いただきます」
俺はさっそく、刺身に箸を伸ばす。
「海も山もあるから食材も豊富なんだってさ」
「なるほどねぇ。この刺身も新鮮ですごく美味い」
和食好きの俺としてはメニューも大満足だ。
食事をしていると、麻尋さんはある事に気付く。
「……和歌ちゃんってすごく丁寧な箸使いをするわよね」
「私ですか?」
「うん。食べ方ひとつにしても上品だもの。さすがは大和撫子って感じだよね」
「お褒めていただいて、ありがとうございます」
確かに麻尋さんの言う通り、和歌は姿勢もいいし、礼儀正しい。
箸使い一つにしても優雅さがあり、清楚なお嬢様っぽい。
そう言う仕草を麻尋さんは気にいったらしい。
「小さな頃からお父様にしつけられてましたから」
「やっぱり小さな頃からの習慣って大事なんだ。私も子供が生まれたらしっかりとしつけようかな。和歌ちゃんみたいに上品な仕草が自然にできる子になってもらいたいし」
「麻尋がまず、それを教えるだけの上品さを身につけてからの話だと思うけどね」
「うっ、誠也さん。痛い所をつかないでよ」
先程の事を根に持ってるのか、兄貴が珍しくチクリと麻尋さんに突っ込む。
「ねぇねぇ、元雪。私はどう?」VIVID XXL
「まず、唯羽の場合はいつも猫背だし。姿勢を正す所から始めようか」
「うーん。自堕落生活のツケがここに。私には大和撫子は無理かぁ」
茶色の髪を撫でながら拗ねる。
唯羽だって悪いわけじゃないけども、比べる相手が悪い。
和歌という、本物の大和撫子は隙がないのだ。
「元雪~、これ苦手だからあげる」
「トマトか。今の時期が美味しいのに」
「酸っぱいのはあんまり好きじゃないんだ」
俺の皿に唯羽が苦手なトマトを置く。
その代わりに俺は彼女に俺の苦手なエビを箸でつまむ。
「代わりにこれをやるよ。俺の天敵だ」
「そっか、元雪はエビが苦手だもんね。あーん」
「わざわざ、食べさせろってか。しょうがないな、ほら」
彼女の開けた口に入れてやると嬉しそうに彼女は微笑んだ。
「んー、甘くて美味しい。これが苦手なんて元雪は損してるよ」
「嫌いなんだからしょうがないだろ。匂いもダメなんだ」
エビだけは俺も本当に苦手なのだ。
多分、俺の前世からの因縁でもあるんだろう、そうに違いない。
「……」
そんな俺と唯羽に他の3人からの微妙な視線を感じる。
「何だよ、皆して?」
「ユキ君と唯羽ちゃんがまるで長年付き合ってる恋人同士みたいに、自然に甘ったるい事をしてるから、びっくりしただけ」
「普通のことなんだけどな」
この程度は別に意識する事でもない。
ただ、その行為に不満を抱く女の子はいるわけで。
「……元雪様、はしたないです」
「うぐっ、そうか?」
「いいじゃん。ヒメちゃんは行儀が悪い事はできないもんね?羨ましい?」
「う、羨ましくはないです」
そっぽを向いてしまう和歌。
機嫌を損ねてしまうのは困る。
「あらら、拗ねちゃった。ユキ君のせいだね」
「わ、和歌?」
「元雪様っ。お姉様ばかり甘やかせるのはやめてください」
和歌は意外と怒らせると怖いんだよ。
「和歌も食べるか?」
「いいですっ。元雪様、行儀が悪いですよ」
「……これはこれで、普通のシチュのひとつだと思うのだが」
怒られた俺は黙り込むしかない。
むすっと拗ねてしまった彼女の機嫌を取ろうと必死だ。
「元雪、3角関係は大変だな。あちらも、こちらも気を配るってのはさ」
「……2人を好きになったんだから仕方ないよ」
兄貴に俺はそう答えてみせた。
仲違いしている時はどちらに肩入れする事もできないけども。
俺は2人を愛すると決めたんだからその想いの責任は取る。
俺は影綱と違うんだ、と証明してみたい。
「ユキ君。純粋で初々しい行為を私もされてみたい。あーん」
「事態がこじれるからやめてください。兄貴に頼んでくれ」
「えー、誠也さん。そういうこと、全然してくれないし。する歳でもないし。ユキ君にされてみたい~っ」
……若干1名、この状況を混乱させようと企むお姉さんがいるのだがどうにかしてくれ。
旅行の夕食は慌ただしく過ぎっていった。福潤宝
2013年2月28日星期四
2013年2月26日星期二
アレン・ターナー
火星の周りにぐるりと浮いているコロニー群の中の一つ、M657コロニー“エジカマ”。
宇宙船造船技術専門コロニーのエジカマは船乗り達の聖地であり、百以上もあるドッグはどこも、数ヶ月先まで予約が埋まっていた。 Motivator
酸素供給補助のために、コロニーには必ずまとまった森を作るように義務付けられている。その森を背にして建つティーキードッグには、海賊アレンの戦艦・ブレイブアローがいた。
ティーキードッグは、ブレイブアローが海賊戦艦ではなく、何でも屋の船で、主もザナックという男だった頃からのホームドッグだ。ザナックから船を受け継いだアレンは、ドッグもそのまま変えずにいる。この船を隅から隅まで熟知しているのは、太陽系広しといえどティーキーだけだと知っているからだ。
固定されたブレイブアローを見下ろす中二階のブースで、アレンは数人の技術屋と、モニタに写した図面を見ながらあれこれ話していた。背を向けて電話をしていた小柄なひょろひょろした男が、電話を切り浮かない顔で振り向いた。
「アレン。どうしても明後日になっちまうそうだ。悪いな、一日伸びちまう」
「そうか、仕方ないさ。ティーキーのせいじゃない、運送屋のミスなんだから」
ティーキーは細く尖った顎で深く息を吐き出して言った。
「いつも通りにクロニャン運輸にしときゃ良かったぜ」
アレンのためを思って、日頃取引はないが早いと評判の運送屋に部品の運送を頼んだのだが、思いっきり裏目に出てしまった。
「一日ぐらい問題ないし、神様がくれた休暇ってことで俺ものんびりするよ」
「…悪いな、アレン…」
「気にするなって。さ、飯、行こうぜ!」
アレンはしょぼくれているティーキーの背中を押しながら、皆と一緒にわいわいとドッグを出て町へと繰り出した。
ティーキー・ドッグのゲストルームは、こじんまりとしたワンルームだった。
奥のドアが開いて、シャワーを浴びていたアレンが、わしわしと髪の水分をふき取りながら入ってきた。スウェットパンツを履いただけの姿で、どさっとベッドに倒れ込んだ。
しばらく目を閉じ横たわっていたが、手だけ動かしてリモコンを掴むと、ボタンを押した。壁に埋め込まれたモニタがパッと点く。画面には数字がたくさん並んでいるが、アレンはベッドに突っ伏したままモニタを観ることはしない。
「なお、情報を寄せて下さる方は、その他・連絡方法の手順でアクセスして下さい。知りたい海賊の番号をリモコンで入力するか、画面に触れて下さい」
メッセージがエンドレスで流れる。アレンはにゅっと伸ばした手でリモコンをモニタに向けると、リモコンのボタンを見る事も無く、ぴぴぴぴ…と番号を器用に打った。画面には、すぐに海賊アルテミスの顔が現れた。
ようやく身体をうつ伏せから横向きにずらし、額に無造作に張り付いている湿った前髪の間からモニタを観た。
アルテミスだ…でも、アルテミスじゃない。
記憶の中の彼女は、こんな蝋人形みたいな顔じゃない。
顔写真の下にたくさんのメニューがある。その一つを選んだ。
「マーズエリアが送る、海賊アルテミスの現在位置は、マーズエリアだと推測されます」
アレンはガバッと飛び起きた。前髪をかきあげ画面をしっかり見つめる。しかし我に返る。
(いやちょっと待て…。)
トップ画面に戻して、自分を検索した。
「マーズエリアが送る、海賊アレンの現在位置は、ヴィーナスエリアだと推測されます」
(やっぱり…)
自分こそ今マーズにいるのに… ヴィーナスにいたのは一ヶ月も前だ。そもそも、ヴィーナスエリアのコロニーでアルテミスと出会ったのだから。
ぶちっとモニタを消すとベッドにひっくり返った。今日一日の疲れが一気に体中を侵食していくようだ。
「あー…」と、思わず深い溜息が漏れる。落胆と共に後悔が湧き出す。
海賊情報番組なんて、散々バカにして来たのだ。それが今や、海賊アルテミスの呼出し番号すら暗記しているとは。
疲労した頭で考える。仮に本当にマーズエリアにいたとしても、どのコロニーにいるかまではわからないし…。結局、何も分からず仕舞いじゃねーか。また会うなんて夢みたいな話なんだよ…。
こうして彼女の情報をチェックする事はすでに日課と化している。あれから一ヶ月。
このどんぐりは、本当に貰って良かったのか?
アレンは、ベッドのヘッドボードに置いてあるカプセルを手に取った。どんぐりがコールドストックされている小瓶を収めた小型カプセルだ。いつどこでアルテミスに再会しても返せるように、持ち歩いているのだ。
どんぐりを育てるためには、何が何でも彼女に再会して、確認しなければ。どうしたら彼女に会えるのだろう。
(何処にいるんだよ)
このひと月、来る日も来る日も彼女のコトを考えていた。寝ても覚めても、仕事中も、仲間と遊んでいる時も、脳内で彼女との出来事を繰り返しスライド再生していた。
(しかし、樫の木のためとは言え、こんなに女のコト考えてるのは初めてだな…。まぁ、仕方ないか、樫の木だもんな)
彼女のコトばかり思っている本当の理由に、アレンは自分でも気付いていなかった。“どんぐりの確認”という大義名分を掲げていたし、よもや自分が女に入れ込むなんて事は絶対にないと信じていたからだった。
『狂乱の月』戦争末期、戦争孤児になっていた12歳のアレンは、孤児仲間のユウジと同じ船でムーンベースから脱出した。
その脱出船がどこへ逃げようとしていたのかは、子供達には知らされていなかったが、宇宙へ上がっても戦火からはなかなか逃れられず、必死に払いのけ潜り抜けたが、戦争が終結した時には、船は数人の子供を乗せて漂うだけの難破船と変わり果ててしまった。帰るムーンベースはもうない。どこへ助けを、どうやって呼べばいいのか、年端も行かない子供だけでは何も出来ずに、ただ漂流していた。太陽系連邦局の救済船にも運悪く見つけて貰えずに、ただただ漂い続けた。
水も食料も酸素も尽きかけた時、何でも屋のザナックという男が難破船に気付き、とりあえず自分の船に引き取ってくれた。その後ザナックは連邦局へ掛け合い、子供達の希望が通るように動いてくれた。ザナックの船を降りて、どこかのコロニーの施設へ入るも良し、ザナックの船に残りたければ、乗組員として雇ってもくれた。
ザナックの船は大きくて――ブレイブアローだが――強くて、不沈の戦艦に思えた。ザナックのそばに居ることを選んだアレンとユウジは、それこそ数年ぶりに不安のない環境に身を置いたのだった。
船同様、ザナックも頼りがいのある、がっしりとした宇宙の男だった。ザナックみたいな男になりたい!アレンもユウジも心底憧れ、崇拝し、彼のような男に成長するべく、鍛錬に励んだ。きつい戦闘訓練も、難しい航行学の勉強も、親友と一緒なら乗り越えられた。
やがて少年達の夢は、いつか二人で独立して、俺たちだけでザナックみたいな船を持つという壮大かつ具体的なものになった。アレンとユウジは熱く夢を語り合い、固く固く約束した。
それから五年間、彼らはザナックの元で立派な青年に成長して行った。なのに…。二人で掲げていた夢は、ある日突然、永遠に叶わぬ夢へと変わった。
評判の良くない大富豪の男とその娘の護送の仕事を、ザナックは珍しく迷った挙句に引き受けた。今思えば、虫の知らせだったのだろうか。
テロを恐れていた男は贅の限りを尽くした派手で目立つ自分の船を使わず、屈強の船ブレイブアローに自ら乗り込み運んで貰うという注文をして来た。護衛ではなく護送の依頼だ。
ところがその道中、何でも屋の乗組員の若者と娘が恋仲になってしまった。同行させていた実の娘は、到着先で政略結婚へと差し出す大事なコマ。傷物にされてはたまらない。男はあっさりと若者を始末した。それが引き金となり、坂を転がり落ちるように悪い事だけが起こった。
やがて、テロ艦隊とブレイブアローと連邦局警備艦隊の三つ巴という最悪の状況に陥り、それが全て終わった宇宙空間には、虫の息のアレン一人を乗せたブレイブアローだけしか、船と呼べる形は残っていなかったのだった。 SPANISCHE FLIEGE D6
こうして、連邦局警備艦隊を粉砕した罪で、アレンは5億ドルの懸賞金付きの指名手配犯になった。
政略結婚に向かわされていた娘に心惹かれたばかりに命を落とした若者が、ユウジだった。
アレンには理解できなかった。
あと少しで夢が叶ったのに。二人で独立する夢が。ザナックだって応援してくれていたじゃないか。
あれほどあの女に係わり過ぎるなと言ったのに。俺との約束よりも、あの女が大事だったのか。
お前にとって、あの女は何だったんだ。命を捨てても良い程の存在だったのか?
じゃぁ、俺は?ガキの頃からずっと親友で、あんな過酷な戦争を一緒に生き抜いて来た俺は?
女は何もかも俺から奪って行った。女に罪はないのだろうが、とにかくやっかいな存在だ。係わらないに越したことはない。
アレンはそうして生きて来た。
その後、知り合ったゴセの妹や女海賊カーラといった女友達ができ、友達付き合いは気負わずに出来るようになった。楽しいと思えるようにもなった。それをきっかけに初対面の女性にも、すんなりとはいかないまでも、そこそこ失礼の無い対応ができるようになって、仕事の幅も評判も各段にあがった。
泥濘でバイクを起こせず困っていた見知らぬ女を見かけた時、冷静に判断して、ザナックに叩き込まれた正義感を奮い立たせ、頑張って声をかけたのだった。表情までにこやかに作れなかったのは、この際大目に見て欲しい。
こうして生きて来たアレンなので、友達ではなく、それどころか良く知りもしないたった一人の女性のコトを、ずっとずっと、ずっと考えている…。などという事は本当に初めてなのだ。どんぐりを言い訳にしていたとしても。
カタカタカタ――――…微かな振動がサイドテーブルに置いたグラスを小刻みに揺らし始めた。
アレンは耳を澄ました。徐々に大きくなる振動と音に連動するかのように、アレンの鼓動もどんどん早くなる。
(彼女だ……)
直感だ。アレンは跳ね起き、ゲストルームからベランダに飛び出した。そしてドッグの外壁に沿って折り返しながら屋上まで続いている階段を全力で駆け上がった。
屋上へ立ち、息が乱れたままスカイビジョンを見上げると、晴天の夜空に星の光を潰しながら降下して来る影があった。真っ黒で船の輪郭しかわからなかったが、やがて森影から四筋の誘導光が伸びて船を射した。その光が船体を掠めた一瞬に浮かび上がったマークは、ゴセが言っていたリンディアーナのマークと同じだった。
「リンディアーナ…!」
直感は当たった。リンディアーナの振動なのか、自分の脈なのか。リンディアーナの音なのか、自分の心臓の音なのか。判断のつかないまま、ただひたすらじっと、四筋の光に沿ってリンディアーナが森影の中へ消えるのを見守った。
太陽系の中で、人類が行動している範囲は金星から木星まで。金星、地球、火星、木星の周りに浮かべた巨大コロニーだけでも数千個ある。
約束をしたわけでもない、通りすがりで片付いてしまう間柄。それが、たった一ヵ月後にこうしてまた同じ場所にいる。
(こんな偶然があるなんて…!)
音と光がすっかり消えてしまっても、アレンは風に吹かれながらリンディアーナの沈んだ森から目が離せなかった。
「本当に絶滅なのかな…」
大木を見上げ、幹に触れながら、午後の森の中をゆっくりと歩くアルテミスは呟いた。
コロニー“コーナ”で海賊アレンと出会ってからというもの、どこかに寄航した際に時間があれば、森へ足を運んでいた。アレンが欲しがっていた樫の木…。本物を見てみたい。彼が好きだと言った木を。
その時、木陰で何かがきらりと光った。光った瞬間に、アルテミスは大木の陰に身を隠し、素早く腰から銃を抜いた。
鳥の声。葉のざわめき。遠くのドッグからの機械音もかすかに風に乗って来る。
ぱきっ。枯れ枝を踏みしめる音がした。息を殺すアルテミスの耳に、その足音は近づいて来る。
至近距離戦は苦手なのに。と、暗い気持ちで銃を握る手に力を込めた瞬間、
「アルテミス?」
と、呼ばれた。今まで聞いたことのある「アルテミス!観念しろー!ぐははははー!」の類ではなく、明らかに場違いな口調だ。こんな風に名前を呼ぶ賞金稼ぎなんて初めてだ!変なヤツ!
張り詰めた空気が、微妙にぼよんとたわむ。柔らかく呼べば「なあに?」と出て来るとでも思ってるのだろうか?かくれんぼしてるわけじゃないんだけど、命がけだし。
途切れそうな緊張感を平常心で繋ぎ止め、銃を握り締め直した瞬間、目の前を何かがザッ!と横切った。微かに睫に触れた不意打ちに、うっかり悲鳴を漏らしてしまった。一度発した声は飲み込めない。
「どうした?」と、マヌケな賞金稼ぎが言いながら、パキポキと小枝を踏みしめながら近づいて来る。
こんなポカミスも初めてだ!と全身の血が一気に足元に落ちたが、「とんっ」と何かが降り立った衝撃が頭の上に走った。
見えない重みは瞬時に恐怖に変った。払いのけようと手を動かしたが、その何かは彼女の頭の上で踊っているのか、手が触れることすら出来ない。正体の分からない物体が頭の上で跳ねている恐怖。
賞金稼ぎも怖いが、こっちは生理的な恐怖だ。抑えきれない。全身に鳥肌が立ち、狂ったように手を動かした。
「とったよ」
声はすぐ横でした。いつの間に真横に!はっとして見ると…………アレンがいた。
「アレン………!」
アレンの手には、小さな動物が居た。リスに似ている。
頭で飛び跳ねていた物体の正体が、危険のない小動物のようだと知り、賞金稼ぎだと思ったのはこれまた危険のない(多分)知り合いで、体中の力が抜けそうになった。
が、今度は違う種類の緊張が、彼女の身体を支配した。
………アレンが目の前に居る!
リンには、「もう会うこともないでしょうけど」と言ったが、言った側から「それは嫌だ」と心の奥では思っていた。でも、その本心には自分でも気付いていなかった。心の深い奥底で、あの笑った顔がまた見たいと思っていたのだ。
今、目の前に、その笑顔でアレンは立っていた。ちょっと恥ずかしそうに。
動物を木の枝に放して、アレンは言った。
「やあ、久しぶり」
「お久しぶり、アレン」
アルテミスはとりあえず同じ言葉をオウム返しに言いながら、頭の中でぐるぐると状況を判断しようと踏ん張った。
「また、樫の木を探してたの?」
自分が樫の木を探していたこともあり、つい連鎖反応で言葉が出た。
「違うよ、アルテミスを探してたんだ」
その台詞がどんな風に彼女に響くか考えてから口にしろ!という方が無理である。何しろアレンにとって、全ては“どんぐりの確認”のためだけなのだ。
「この間は俺、ちゃんと礼も言わないでさ」
(あぁ、どんぐりのコトね…!)
彼女も恋愛値が低かったので、変な誤解などせずに会話はそのまましゃくしゃくと進む。
「借りを返しただけよ。芽は出そう?」
「…まだ、埋めてないんだ。本当に貰って良かったのかって」
アレンの言わんとしている事が分からず、アルテミスは次の言葉を待った。
「だって、どんぐりって、もうどこにもない実なんだぜ。あれは、その、どこで誰が保存してくれていたの? それをアルテミスが譲り受けたんだろ? 俺、もうずっと探してるから、貴重レベルが半端じゃないってイヤって程分かってる。だから、…あんな簡単に貰っちゃいけなかったと思ってさ」
そう言うと、アレンは小型カプセルを差し出した。アルテミスは驚いた。
それで、会えるかどうかも分からない私に確認するまで、土に埋めるのを我慢していたと言うの? こんなふうにいつも持ち歩いてまで…? あぁ、なんて律儀な人なの…!
ちょっとしょんぼりしたようなアレンを見て、アルテミスは切なくなった。
「それは、昔、どこかで、知り会った人がくれたの。あの、アレン、どんぐりをけなすつもりはないけど、私には貴重レベルゼロなの。だから、私に気を遣う必要はないわ。煮るなり焼くなり好きにして」
このどんぐりは、本当はアルテミスが父親から貰った物だった。父親はその父親からと、代々子供へと受け継がれてきた実だと聞いていた。ご先祖様は、かつて地球にあったヨーロッパ大陸という地に住んでいて、敷地内に樫の木の森があったという。月面移住計画が始まって、いよいよ地球を去る時、子供だったご先祖様は、大好きだった樫の木の実をコールドストックして持ち出したという言い伝えだった。 SPANISCHE FLIEGE D5
こうしてどんぐりの旅を辿ってみると、確かにアレンの言うように、貴重な物だと分かるが、この先自分が持っていても宝の持ち腐れになるに違いないと強く思うのだ。例えば私が逮捕されてしまったら、どんぐりは船の奥で人知れずコールド期間が切れて腐ってしまうだろう。そんな風に失うくらいなら、心から欲しがっている人の手に委ね、どこかで命を芽吹いてくれた方がどんなに素晴らしいか。最良の使い道だ。
「無理してない?」
「ちっとも」
念を押したアレンは、やっと不安が消えて晴れやかに笑った。
「そか。じゃあ、埋めさせてもらうよ」
「どうぞ」
「サンキュ」
「いいえ」
見たいと思っていた笑顔を、目の前で惜しげも無く炸裂されて、アルテミスは目を伏せるしかなかった。笑顔が見られて嬉しいのに、その嬉しさを自分自身どう受け止めたらいいのか分からずに、居心地が悪くなってくる。そもそもこんなシチュエーションは経験がない。所在無げな気分に、表情には不機嫌な色が滲みそうだ。
用件は済んだが、じゃぁこれで、とは言い出せず、アレンは俯いているアルテミスに尋ねた。
「何処のドッグ?」
アルテミスは自然に顔を上げる事ができて答えた。
「この奥の、ベスタのドッグよ。アレンは?」
「ティーキーのドッグだ。十日目なんだけど、手違いがあって今日はオフになったんだ。そっちはいつまで?」
「ベスタ次第だから予定なんてないの。今日もベスタは出かけちゃったし」
ベスタは、船乗りの間ではモンスターおばさんと呼ばれている女性エンジニアだ。おばさんと言われてはいるが、現在はすでにおばあさんの域に入っていると年齢だ。うっそうと伸ばした銀色の髪を適当に束ねた(しかもはみ出してる毛束が大量にある)、他人の目を一切気にしない独特のスタイルは、モンスターを連想するに充分だったのだ。エンジニアとしての腕もこれまたモンスター級に素晴らしかった。その確かな技術を求める船乗り達からは絶大な人気で、予約を入れようにも半年以上先まで埋まっているドッグだった。
海賊アルテミスの戦艦・リンディアーナがモンスタードッグ。そうだよな、最高級の戦艦には最高級のドッグだ。そりゃそうだぜ。勝手に納得しながらつい口が滑る。
「初日からオフにされちまったのか」
「…。そう、今日が初日なの…」
なんで知ってるの……? アルテミスは不思議な顔でアレンを見た。
「昨夜、リンディアーナが降りて来たの、偶然見たんだ。驚いたよ、また会えるとは思ってなかったら。でも会えた。良かったよ。そう、どんぐりの確認もできたし」
アレンの本音と建前が一瞬垣間見えたが、二人とももちろん気付かない。
「リンディアーナ、ACS積んでるんだろ?」
「ブレイブアローだって積んでるんでしょう?」
自分の船の名が相手の口から出る事に、お互い密かにドキドキしながらも何とか押し殺し会話を進める。
ACSとは、オートコンバットシステムの略。このシステム、真に高性能級なら乗組員は一切不要になる。主一人がシステムに命令を下すだけで、あとは全てコンピュータが臨機応変にコンバットするのである。更に経験値を積んで常に進化もする。戦闘だけではなく、離着陸や航海も任せられる、本当に便利なシステムなのだ。
「でもリンディアーナのACSは違うって噂じゃないか。元祖にして最高のACS。開発者不明の幻の完全型」
そう…その噂は真実だ。この完全無欠のACSは、アルテミスが前科者になってでも守り通したシステム。その経緯を知る者は、一人残らず一瞬にして消え去った。彼女の手で。そして噂だけが静かに静かに星の海に広がっていったのだった。
「もしかして、開発者?」
何も知らないアレンは無邪気に問う。
「いいえ、違うわ……。ずっと昔の知り合いよ………。もういないわ……」
これも真実だ。悲しい悲しい真実。その思い出に触れるたび、今でもアルテミスの胸はぎゅっ…と縮む。
いけない、とアルテミスは沈みそうな気持ちを振り払うように顔を上げた。
と、アルテミスの目に、アレンの頭の上1センチ程をふわふわと浮いている動物が映った。
「あ…!」
アルテミスの声と視線に、アレンは自分の頭の上にそっと手をやった。
両手にふわふわした感触が触れた。これは、さっきアルテミスの頭の上で飛び跳ねていたリスみたいな動物? と推測した瞬間、目の前のアルテミスの頭上に浮かぶ姿を発見した。
「多分、今俺が捕まえてるのと同じのが、アルテミスの頭の上に浮いてる」
頭の上でそっと動物を掴んだままアレンは言った。アレンに言われて、アルテミスもそっと両手を上げた。もう正体不明ではない、アレンの手の中にいるのは、さっき見たリスのような動物だもの。
動物はどちらもおとなしく、両手の中に納まっていた。腕を下ろしてまじまじと観察してみた。アレンの手の中にいるのは白毛で、アルテミスの方は茶毛。でも同じ種類のようだ。鼻をひくひくと震わせて、大きな瞳でじっとアルテミスを見上げている。愛らしい。頬が緩んで思わず呟いた。
「かわいい…」
「ああ。かわいいな」
「何度も来てるコロニーなのに、初めて見た」
「俺も」
初めて見た。彼女の笑った顔を。目の前でぽっと開いた彼女の笑顔のせいで、アレンの頬も緩んだ。「かわいいな」も、動物がなのか、アルテミスがなのか。
ふと、アレンを一瞬見たアルテミスは、緩んでいた頬を引き締めるかのように、唇をきゅっと引いた。伏せた目で、自分の手を見つめている。それは、微笑を殺しているかのようだ。照れているようには見えない。まるで…叱られた子供が反省しているような………。
何故…? 花のような笑顔だったのに…!
アレンは理解できずに言葉が続かなくなってしまった。
沈黙の中、アルテミスが見つめている掌で、乗っていたリスもどきがふわりと浮いた。
「え…」
アレンの手の中からもふわりと浮かび上がる。驚いている二人の目の前で、二匹はふわふわと上昇し、梢の影に消えて行った。
「飛べるんだ…!」
そう言ってアレンに向いたアルテミスの顔は明るかった。可愛い生き物のまさかの能力に我を忘れたのか、梢を見上げながら、すごい…!と呟いた。その口元は確かに笑っている。今、消えてしまった笑顔が控え目に戻っていた。
(もっと見ていたい…!)
ざわめいた胸で梢を見上げたアレンは、枝にちょこんと止まった二匹を見つけた。
「あそこにいる。行ってみるか!」
「え?」
意味が分からず聞き返したが、アレンは幹に近づき枝振りを確認し始めた。
「行けるよ」
と、振り返って笑うと、枝に手を掛け、コブに乗り、要領よく登り始めた。
木登り、ですか…? 呆然と眺めているアルテミスをアレンは呼んだ。
「大丈夫だって」
アレンの笑顔に促されたアルテミスは、木の根元に立ち、アレンを真似ながら、身体を上へと移動させて行った。途中の枝に到着し、姿勢を安定させたアレンが、上から誘導する。
「そこに右手を先にかけてから…そう、左足を先にそっちへ乗せて…」
指先は触れるのだが、身体を支えられるようには手が届かない。アレンは身を屈めて腕を下ろした。アレンの顔を見上げたアルテミスは、ちょっとだけ躊躇って、でも手を伸ばした。アレンはアルテミスの手を、そっとしっかり握った。 K-Y
今まで、滑りそうな彼女を抱きとめたり、腕を掴んだり、銃撃戦の中、背中を合わせたり、頭を押し込んだりと、色々な形で彼女に触れて来たが、こうしてお互いの顔を見ながら、納得した上で触れるというのは初めてだ。
信じて委ねてくれた…。アレンの中に今まで感じたことのない不思議な感覚が湧いた。これは何なのか。いや、あとでじっくり考えよう。とにかく今は、彼女を無事に導かないと。
アレンは彼女が足をかけるタイミングに合わせて、ゆっくりと彼女を引き上げた。そうして二人は、ずいぶんと高い枝まで登った。
リスもどき達は、二人が到着するまで同じ場所に座っていた。
「いた…!」
アルテミスは興奮して言った。生まれて初めて、こんな高い枝まで登った。興奮するなと言う方が無理だ。
彼女の全開の笑顔を見て、アレンも笑顔があふれる。彼女を安定感の良さそうな枝に座らせて、自分もすぐ隣の枝に腰を下ろした。案外と強い風がときおり吹いて行く。陽の光に透けてチラチラと眩い金糸の髪が、アルテミスの頬や額を撫でる。
なんて綺麗なんだろう…。眩しくてアレンは目を逸らした。目の端で金糸の光が反射している。
心地良い風。穏やかな陽。緑の匂い。葉擦れの音。鳥の声。アルテミスの、笑顔。
この感覚はなんだろう…なんだか分からないけれど、とても満ち足りた気分だ。アレンから、自然と言葉が滑り出した。
「護衛の仕事、あの貿易商船の専属なの?」
「専属契約はしてないけど、でも、ほとんどそんな感じ」
アルテミスは、ちょっとの間で勇気を貯めて、さりげなさを装って言った。
「―――、、、。 アレンは? 何をしてるの?」
うまく装い切れなかったが。
「俺は、便利屋だな。護衛もするし、運び屋もする。ほんと、何でもするよ」
「この間の友達と一緒に?」
「あぁ、ゴセ? たまにあるけど、でも、基本的には一人。一応積んでるから、ACS」
リンディアーナのには遠く及ばないレベルだけど、と言いながらアレンは笑った。
――一人…。私ももちろん一人だけど、船の大きさが違う。システムの問題じゃない。あの広い空間にたった一人なんて……。寂しくはないのかしら…。それとも、一人が好き…? 私みたいに。
アルテミスが言葉を返せないでいると、
「地球に降りた事はある?」
と、アレンは尋ねた。たくさんのコロニーや火星ベース、金星ベースには降りたが、地球は一度もなかったアルテミスは首を横に振った。
「俺さ、今、地球に住んでるんだ。ほとんど海でさ、大海の中にぽつぽつ島が浮いてて、大きさはそうだな、一番大きな島でも、巨大コロニーよりちょっと大きいぐらいなもんでさ。夏はハンパなく暑いし、冬は容赦なく寒いし、天気なんか予告無しに変わって大変なんだけどさ。台風ってのが本当にあるんだぜ、凶暴な雨と風」
幼い頃、家の窓から眺めていた蒼い星。地平線から登って来るその星を、黒いビロードの布に置かれた宝石のようだといつも思って眺めていた。でも大人たちからは「恐ろしい海賊達がたくさんいる、怖い怖い星なんだ」と、言い聞かされてきた。野蛮な星は、野蛮な海賊にのみ相応しいと。
ずっと“野蛮な星”の意味が判らずにいたが、たった今、アレンの言葉で理解できた。自分達でコントロールできない自然のままの星。という意味だったんだ。
なんて勝手な……。傲慢な……。
自分を取り巻いていた大人たちの考えを、今改めて知ったアルテミスは、心底寒くなった。
そんな考えおかしい。間違ってる。その大人たちがやがて月面をも滅ぼしたんだ。
「地球は野蛮な星で、野蛮な海賊達しか住んでない、怖い怖い星だ。――って、子供の頃大人に言われなかった?」
頭の中に渦巻いていた言葉をそっくりアレンが口にしたので、アルテミスは驚いてアレンの顔を見つめた。
「俺、ムーンベース育ちだったから、部屋の窓から毎日見てたんだ、地球。きれいでさ。真っ青な球体に真っ白な雲がかかってて。あの星の何が野蛮なんだって不思議だった。海賊が野蛮ってのは子供心にも分かったけど」
アレンは、ははっと笑った。
アルテミスは、騒ぎ出す心を抑えるのに必死になった。二人ともムーンベース育ちなのだから、窓から地球を眺めていた幼少の頃の記憶が同じなのは当たり前だ。でも、その情景を誰かと共有した事は一度もない。アルテミスがムーンベース出身だと知る人は誰もいないし、彼女自身が打ち明けないからだ。今も打ち明ける気はない。
打ち明けないなら、ざわめく心を隠さなければ。
「海賊になったから地球に住んでるわけじゃないけど、でも、地球はほんといいトコだよ。全部本物だ」
そう言って、アレンは空を…スカイビジョンを見上げた。アルテミスもつられて見上げる。
「どう違うの……? 本物の空…」
素直に口から出た。
「自分で確かめたらいいよ」
「え…」
「大丈夫、野蛮な星なんかじゃないから。海賊が大勢いるのは本当だけど、極悪系の海賊はいないし、それにたった人口の1割だ。9割は一般人なんだぜ」
「そうなの?」
「海賊だけうじゃうじゃいる、刑務所みたいな星って思ってた? そりゃ勘弁だよな。いくらゴセに誘われても、俺も無理だ、住めない」
あはははと大きく笑う。
「ゴセに誘われて?」
「そう、指名手配になって、帰る家もとっくになくて困ってたら、ゴセがさ。地球はいい星だからお前も来いよ、って。ゴセは海賊じゃないけど、檜祖父さんが海賊で、地球に住み始めた最初のメンバーだったんだって。地球生まれの地球育ちに“いいトコだぞ~”って言われたら、そっかって思うだろ」
「…。そうね」
どんな空なんだろう…どんな海なんだろう…夜空は………月は、どう昇って見えるのだろう………
「月の女神」
いきなり言われて、アルテミスは呼吸を一つ飲み込んでしまった。
「アルテミスって、ギリシャ神話に出てくる月の女神の名前だよな」
確かめながらアレンは言い切った。
「ムーンベースに居た頃、友達に、カグヤって名前の妹がいた。昔話の月のお姫様だって言ってた。もしかしてアルテミスもムーンベース出身?」
そうなの。と言ってしまったらどうなるだろう…。
同郷の思い出話に花が咲くのだろうか。でも楽しい思い出なんて何もない。『狂乱の月』戦争で、楽しかった何もかもが辛いだけの思い出に変わってしまったのだから。そんな話はしたくない。思い出したくもない。
今まで使って来た台詞をアルテミスはぽんと落とした。
「いいえ」
「…そうか」
じゃぁ、どこ? と、アレンは訊ねなかった。その手の質問には一切答えないという空気を感じ取ったからだ。
実際、彼女がどこの出身だろうと、構うことは何もないのだし。ただ、同郷だったら思い出話が出来ただけだ。それが出来なくても、別に困らない。
枝の先で、二人を見ていたリスもどきがふわりと浮かんで、傾き始めた太陽(もちろん本物ではない)に照らされて丸くなった。
「チビ太陽だな。よし、お前はソル、お前は白いからルナ」
「どんな意味?」
「ラテン語って昔の言語で、ソルは太陽。ルナは月。隣ン家がラテン系の友達の家だったんだ。すっごい陽気な家族だったよ、毎日が祭りでさ」
宇宙に広がった人類は、人種で分かれて暮らしていたのではないので、どのコロニーやベースも多人種だった。千年もの長い月日の中で、居住地区ごとの言語は出来てしまったが、公に通用するのは星間共通語と呼ばれるものだった。今、二人が使っているのも、この星間共通語だ。 曲美
それから二人は梢の上で風に吹かれながら、時に沈黙を鋏み、時に笑顔を浮かべながら、あちこちのコロニーやベースで体験した出来事を話した。
何時間そうしていただろう。気付くと辺りはすっかり夕暮れに包まれていた。
「飯行かない? 何も予定が入ってなければ…」
こんな時間にこのまま別れるなんて不自然に思ったアレンは誘った。ゴセの妹のディミーとするように、女友達と食事をする。おかしくないよな?
アルテミスは海賊になってから誰かと食事をとることはなかった。ジーナとも数えるくらいしかない。すっかりそんなスタイルに慣れているので、誰かと食事なんて苦痛だ。
(絶対無理…!)
その緊張は、今までのものとは違う種類の緊張だとアルテミスは気付かない。
「せっかくだけど……」
俯いたまま、小さな声でやっとそれだけ言った。
「そっか、分かった。とにかく下りなくちゃな」
アレンは失意を隠して笑顔で言うと、ゆっくりと下り始めた。
二人は暮れなずむ木立の中へと下り立ち、アレンがバイクを止めた林道まで歩いた。
ティーキードッグを出て、リンディアーナが降りた方へと林道をバイクで走っていて、ベルトか何かをきらりと光らせた彼女を、木立の奥に運良く見つけたのだった。
アルテミスは歩いてここまで来ていた。これにはアレンもびっくりした。
「この森、暗くなるとゲルが出るの知ってる?」
ゲルとは、熊のような大きな獣で、こんな人口の森でどうやって繁殖できたのか不思議な肉食獣だった。何から進化したのか、住人達も知らない。もっとも、このコロニーに住む者達には、ゲルの祖先や進化の過程など関心外の事だった。日が暮れたら森には入らない。ゲルのディナーになりたくなければ。それだけだ。
「ちょっと出てきただけだったんだもの…」
(あぁ、俺が長居させたのか…)
「ごめん。送るよ」
え?! と驚くアルテミスに、
「大丈夫、今日はエアバイクだから安心だぜ」
と言って、ぽんぽんとバイクのシートを叩いた。
タイヤかエアか、そんな事を気にしているのではない、男の人のバイクで二人乗りなんてした事がないの。
どうしたらいいのか躊躇していると、森の奥から不気味な音が低く響いて来た。ゲルだ。思わず二人とも、闇と化した森の奥に目をやった。
「ほら、目覚めて腹ぺこだってさ」
そう言うと、アレンはアルテミスをひょいと抱え上げて、バイクのシートへと下ろした。想定外の一瞬の出来事に、着座してから一気に彼女の心臓だけバクバク大忙しだ。
アレンは自分も跨るとエンジンをかけた。
「行くよ」
バイクはするりと発進した。どこに手を回していいのか分からなかったアルテミスはどこにも掴まっていなかった。上体が取り残されそうになりガックンと反り返り、慌ててアレンの脇の服を掴んだ。
ゲルの遠吠えが増える中、アレンのバイクは林道を飛ぶように走り抜けた。
ベスタのドッグは、あっという間にその屋根を木々の上から見せた。アルテミスはアレンの背中をぽんぽんと叩いて、バイクを止めさせた。
「ここで…。アレン、ドッグの誰かに見られたら、大騒ぎになっちゃうから……」
絶大な人気の海賊アレンの生アレンだ。自分が世間からどんな風に思われているかを深く考えたことはなかったが、出かけた先々で、女・子供に囲まれる事は何度もある。迂闊だった。さらには、有らぬ噂が立って彼女に迷惑をかけてしまうかもしれない。
ここまでドッグに近いとゲルも出ては来ないので、降ろしても大丈夫だ。
アレンはバイクのエアーシフトをロウにして、車高を下げた。足が届き、バイクを降りたアルテミスは、アレンに向き直って礼を言った。
「…ありがとう…。助かったわ」
前回、コーナで転倒したバイクを起こした時、彼女は「頼まなかったけど」と付け足して礼を言っていたのをアレンは覚えていた。(今日は、そう言わないんだ…)
「遅くまで悪かったな」
アルテミスはそんなことないと首を振る。
かわいい。
見とれていると、ついっと真剣な顔を上げてアルテミスが言った。
「帰ったら一言メール下さい…」
アルテミスは携帯電話を巻いた手首を差し出した。
これは…! メアド交換ってことだよな…! 無事に帰り着いたか知りたいって、心配だって事だよな…!
「いいよ」
にやけてしまう顔を必死に押し殺して、アレンは自分の手首を彼女の手首に沿わせてデータ交換をした。
「ゲルの餌食にならなかったらメールするよ」
「じゃ…」
アルテミスは、そそくさと背を向け、ドッグの方へと歩いて行った。
(これは何としても無事に帰って彼女を安心させないと!)
ドッグの入り口の灯りの中へアルテミスが消えたのを確認して、アレンは片足を軸にしてバイクの向きをぐいんと変えると、フルスピードで林道を戻って行った。 sex drops 小情人
宇宙船造船技術専門コロニーのエジカマは船乗り達の聖地であり、百以上もあるドッグはどこも、数ヶ月先まで予約が埋まっていた。 Motivator
酸素供給補助のために、コロニーには必ずまとまった森を作るように義務付けられている。その森を背にして建つティーキードッグには、海賊アレンの戦艦・ブレイブアローがいた。
ティーキードッグは、ブレイブアローが海賊戦艦ではなく、何でも屋の船で、主もザナックという男だった頃からのホームドッグだ。ザナックから船を受け継いだアレンは、ドッグもそのまま変えずにいる。この船を隅から隅まで熟知しているのは、太陽系広しといえどティーキーだけだと知っているからだ。
固定されたブレイブアローを見下ろす中二階のブースで、アレンは数人の技術屋と、モニタに写した図面を見ながらあれこれ話していた。背を向けて電話をしていた小柄なひょろひょろした男が、電話を切り浮かない顔で振り向いた。
「アレン。どうしても明後日になっちまうそうだ。悪いな、一日伸びちまう」
「そうか、仕方ないさ。ティーキーのせいじゃない、運送屋のミスなんだから」
ティーキーは細く尖った顎で深く息を吐き出して言った。
「いつも通りにクロニャン運輸にしときゃ良かったぜ」
アレンのためを思って、日頃取引はないが早いと評判の運送屋に部品の運送を頼んだのだが、思いっきり裏目に出てしまった。
「一日ぐらい問題ないし、神様がくれた休暇ってことで俺ものんびりするよ」
「…悪いな、アレン…」
「気にするなって。さ、飯、行こうぜ!」
アレンはしょぼくれているティーキーの背中を押しながら、皆と一緒にわいわいとドッグを出て町へと繰り出した。
ティーキー・ドッグのゲストルームは、こじんまりとしたワンルームだった。
奥のドアが開いて、シャワーを浴びていたアレンが、わしわしと髪の水分をふき取りながら入ってきた。スウェットパンツを履いただけの姿で、どさっとベッドに倒れ込んだ。
しばらく目を閉じ横たわっていたが、手だけ動かしてリモコンを掴むと、ボタンを押した。壁に埋め込まれたモニタがパッと点く。画面には数字がたくさん並んでいるが、アレンはベッドに突っ伏したままモニタを観ることはしない。
「なお、情報を寄せて下さる方は、その他・連絡方法の手順でアクセスして下さい。知りたい海賊の番号をリモコンで入力するか、画面に触れて下さい」
メッセージがエンドレスで流れる。アレンはにゅっと伸ばした手でリモコンをモニタに向けると、リモコンのボタンを見る事も無く、ぴぴぴぴ…と番号を器用に打った。画面には、すぐに海賊アルテミスの顔が現れた。
ようやく身体をうつ伏せから横向きにずらし、額に無造作に張り付いている湿った前髪の間からモニタを観た。
アルテミスだ…でも、アルテミスじゃない。
記憶の中の彼女は、こんな蝋人形みたいな顔じゃない。
顔写真の下にたくさんのメニューがある。その一つを選んだ。
「マーズエリアが送る、海賊アルテミスの現在位置は、マーズエリアだと推測されます」
アレンはガバッと飛び起きた。前髪をかきあげ画面をしっかり見つめる。しかし我に返る。
(いやちょっと待て…。)
トップ画面に戻して、自分を検索した。
「マーズエリアが送る、海賊アレンの現在位置は、ヴィーナスエリアだと推測されます」
(やっぱり…)
自分こそ今マーズにいるのに… ヴィーナスにいたのは一ヶ月も前だ。そもそも、ヴィーナスエリアのコロニーでアルテミスと出会ったのだから。
ぶちっとモニタを消すとベッドにひっくり返った。今日一日の疲れが一気に体中を侵食していくようだ。
「あー…」と、思わず深い溜息が漏れる。落胆と共に後悔が湧き出す。
海賊情報番組なんて、散々バカにして来たのだ。それが今や、海賊アルテミスの呼出し番号すら暗記しているとは。
疲労した頭で考える。仮に本当にマーズエリアにいたとしても、どのコロニーにいるかまではわからないし…。結局、何も分からず仕舞いじゃねーか。また会うなんて夢みたいな話なんだよ…。
こうして彼女の情報をチェックする事はすでに日課と化している。あれから一ヶ月。
このどんぐりは、本当に貰って良かったのか?
アレンは、ベッドのヘッドボードに置いてあるカプセルを手に取った。どんぐりがコールドストックされている小瓶を収めた小型カプセルだ。いつどこでアルテミスに再会しても返せるように、持ち歩いているのだ。
どんぐりを育てるためには、何が何でも彼女に再会して、確認しなければ。どうしたら彼女に会えるのだろう。
(何処にいるんだよ)
このひと月、来る日も来る日も彼女のコトを考えていた。寝ても覚めても、仕事中も、仲間と遊んでいる時も、脳内で彼女との出来事を繰り返しスライド再生していた。
(しかし、樫の木のためとは言え、こんなに女のコト考えてるのは初めてだな…。まぁ、仕方ないか、樫の木だもんな)
彼女のコトばかり思っている本当の理由に、アレンは自分でも気付いていなかった。“どんぐりの確認”という大義名分を掲げていたし、よもや自分が女に入れ込むなんて事は絶対にないと信じていたからだった。
『狂乱の月』戦争末期、戦争孤児になっていた12歳のアレンは、孤児仲間のユウジと同じ船でムーンベースから脱出した。
その脱出船がどこへ逃げようとしていたのかは、子供達には知らされていなかったが、宇宙へ上がっても戦火からはなかなか逃れられず、必死に払いのけ潜り抜けたが、戦争が終結した時には、船は数人の子供を乗せて漂うだけの難破船と変わり果ててしまった。帰るムーンベースはもうない。どこへ助けを、どうやって呼べばいいのか、年端も行かない子供だけでは何も出来ずに、ただ漂流していた。太陽系連邦局の救済船にも運悪く見つけて貰えずに、ただただ漂い続けた。
水も食料も酸素も尽きかけた時、何でも屋のザナックという男が難破船に気付き、とりあえず自分の船に引き取ってくれた。その後ザナックは連邦局へ掛け合い、子供達の希望が通るように動いてくれた。ザナックの船を降りて、どこかのコロニーの施設へ入るも良し、ザナックの船に残りたければ、乗組員として雇ってもくれた。
ザナックの船は大きくて――ブレイブアローだが――強くて、不沈の戦艦に思えた。ザナックのそばに居ることを選んだアレンとユウジは、それこそ数年ぶりに不安のない環境に身を置いたのだった。
船同様、ザナックも頼りがいのある、がっしりとした宇宙の男だった。ザナックみたいな男になりたい!アレンもユウジも心底憧れ、崇拝し、彼のような男に成長するべく、鍛錬に励んだ。きつい戦闘訓練も、難しい航行学の勉強も、親友と一緒なら乗り越えられた。
やがて少年達の夢は、いつか二人で独立して、俺たちだけでザナックみたいな船を持つという壮大かつ具体的なものになった。アレンとユウジは熱く夢を語り合い、固く固く約束した。
それから五年間、彼らはザナックの元で立派な青年に成長して行った。なのに…。二人で掲げていた夢は、ある日突然、永遠に叶わぬ夢へと変わった。
評判の良くない大富豪の男とその娘の護送の仕事を、ザナックは珍しく迷った挙句に引き受けた。今思えば、虫の知らせだったのだろうか。
テロを恐れていた男は贅の限りを尽くした派手で目立つ自分の船を使わず、屈強の船ブレイブアローに自ら乗り込み運んで貰うという注文をして来た。護衛ではなく護送の依頼だ。
ところがその道中、何でも屋の乗組員の若者と娘が恋仲になってしまった。同行させていた実の娘は、到着先で政略結婚へと差し出す大事なコマ。傷物にされてはたまらない。男はあっさりと若者を始末した。それが引き金となり、坂を転がり落ちるように悪い事だけが起こった。
やがて、テロ艦隊とブレイブアローと連邦局警備艦隊の三つ巴という最悪の状況に陥り、それが全て終わった宇宙空間には、虫の息のアレン一人を乗せたブレイブアローだけしか、船と呼べる形は残っていなかったのだった。 SPANISCHE FLIEGE D6
こうして、連邦局警備艦隊を粉砕した罪で、アレンは5億ドルの懸賞金付きの指名手配犯になった。
政略結婚に向かわされていた娘に心惹かれたばかりに命を落とした若者が、ユウジだった。
アレンには理解できなかった。
あと少しで夢が叶ったのに。二人で独立する夢が。ザナックだって応援してくれていたじゃないか。
あれほどあの女に係わり過ぎるなと言ったのに。俺との約束よりも、あの女が大事だったのか。
お前にとって、あの女は何だったんだ。命を捨てても良い程の存在だったのか?
じゃぁ、俺は?ガキの頃からずっと親友で、あんな過酷な戦争を一緒に生き抜いて来た俺は?
女は何もかも俺から奪って行った。女に罪はないのだろうが、とにかくやっかいな存在だ。係わらないに越したことはない。
アレンはそうして生きて来た。
その後、知り合ったゴセの妹や女海賊カーラといった女友達ができ、友達付き合いは気負わずに出来るようになった。楽しいと思えるようにもなった。それをきっかけに初対面の女性にも、すんなりとはいかないまでも、そこそこ失礼の無い対応ができるようになって、仕事の幅も評判も各段にあがった。
泥濘でバイクを起こせず困っていた見知らぬ女を見かけた時、冷静に判断して、ザナックに叩き込まれた正義感を奮い立たせ、頑張って声をかけたのだった。表情までにこやかに作れなかったのは、この際大目に見て欲しい。
こうして生きて来たアレンなので、友達ではなく、それどころか良く知りもしないたった一人の女性のコトを、ずっとずっと、ずっと考えている…。などという事は本当に初めてなのだ。どんぐりを言い訳にしていたとしても。
カタカタカタ――――…微かな振動がサイドテーブルに置いたグラスを小刻みに揺らし始めた。
アレンは耳を澄ました。徐々に大きくなる振動と音に連動するかのように、アレンの鼓動もどんどん早くなる。
(彼女だ……)
直感だ。アレンは跳ね起き、ゲストルームからベランダに飛び出した。そしてドッグの外壁に沿って折り返しながら屋上まで続いている階段を全力で駆け上がった。
屋上へ立ち、息が乱れたままスカイビジョンを見上げると、晴天の夜空に星の光を潰しながら降下して来る影があった。真っ黒で船の輪郭しかわからなかったが、やがて森影から四筋の誘導光が伸びて船を射した。その光が船体を掠めた一瞬に浮かび上がったマークは、ゴセが言っていたリンディアーナのマークと同じだった。
「リンディアーナ…!」
直感は当たった。リンディアーナの振動なのか、自分の脈なのか。リンディアーナの音なのか、自分の心臓の音なのか。判断のつかないまま、ただひたすらじっと、四筋の光に沿ってリンディアーナが森影の中へ消えるのを見守った。
太陽系の中で、人類が行動している範囲は金星から木星まで。金星、地球、火星、木星の周りに浮かべた巨大コロニーだけでも数千個ある。
約束をしたわけでもない、通りすがりで片付いてしまう間柄。それが、たった一ヵ月後にこうしてまた同じ場所にいる。
(こんな偶然があるなんて…!)
音と光がすっかり消えてしまっても、アレンは風に吹かれながらリンディアーナの沈んだ森から目が離せなかった。
「本当に絶滅なのかな…」
大木を見上げ、幹に触れながら、午後の森の中をゆっくりと歩くアルテミスは呟いた。
コロニー“コーナ”で海賊アレンと出会ってからというもの、どこかに寄航した際に時間があれば、森へ足を運んでいた。アレンが欲しがっていた樫の木…。本物を見てみたい。彼が好きだと言った木を。
その時、木陰で何かがきらりと光った。光った瞬間に、アルテミスは大木の陰に身を隠し、素早く腰から銃を抜いた。
鳥の声。葉のざわめき。遠くのドッグからの機械音もかすかに風に乗って来る。
ぱきっ。枯れ枝を踏みしめる音がした。息を殺すアルテミスの耳に、その足音は近づいて来る。
至近距離戦は苦手なのに。と、暗い気持ちで銃を握る手に力を込めた瞬間、
「アルテミス?」
と、呼ばれた。今まで聞いたことのある「アルテミス!観念しろー!ぐははははー!」の類ではなく、明らかに場違いな口調だ。こんな風に名前を呼ぶ賞金稼ぎなんて初めてだ!変なヤツ!
張り詰めた空気が、微妙にぼよんとたわむ。柔らかく呼べば「なあに?」と出て来るとでも思ってるのだろうか?かくれんぼしてるわけじゃないんだけど、命がけだし。
途切れそうな緊張感を平常心で繋ぎ止め、銃を握り締め直した瞬間、目の前を何かがザッ!と横切った。微かに睫に触れた不意打ちに、うっかり悲鳴を漏らしてしまった。一度発した声は飲み込めない。
「どうした?」と、マヌケな賞金稼ぎが言いながら、パキポキと小枝を踏みしめながら近づいて来る。
こんなポカミスも初めてだ!と全身の血が一気に足元に落ちたが、「とんっ」と何かが降り立った衝撃が頭の上に走った。
見えない重みは瞬時に恐怖に変った。払いのけようと手を動かしたが、その何かは彼女の頭の上で踊っているのか、手が触れることすら出来ない。正体の分からない物体が頭の上で跳ねている恐怖。
賞金稼ぎも怖いが、こっちは生理的な恐怖だ。抑えきれない。全身に鳥肌が立ち、狂ったように手を動かした。
「とったよ」
声はすぐ横でした。いつの間に真横に!はっとして見ると…………アレンがいた。
「アレン………!」
アレンの手には、小さな動物が居た。リスに似ている。
頭で飛び跳ねていた物体の正体が、危険のない小動物のようだと知り、賞金稼ぎだと思ったのはこれまた危険のない(多分)知り合いで、体中の力が抜けそうになった。
が、今度は違う種類の緊張が、彼女の身体を支配した。
………アレンが目の前に居る!
リンには、「もう会うこともないでしょうけど」と言ったが、言った側から「それは嫌だ」と心の奥では思っていた。でも、その本心には自分でも気付いていなかった。心の深い奥底で、あの笑った顔がまた見たいと思っていたのだ。
今、目の前に、その笑顔でアレンは立っていた。ちょっと恥ずかしそうに。
動物を木の枝に放して、アレンは言った。
「やあ、久しぶり」
「お久しぶり、アレン」
アルテミスはとりあえず同じ言葉をオウム返しに言いながら、頭の中でぐるぐると状況を判断しようと踏ん張った。
「また、樫の木を探してたの?」
自分が樫の木を探していたこともあり、つい連鎖反応で言葉が出た。
「違うよ、アルテミスを探してたんだ」
その台詞がどんな風に彼女に響くか考えてから口にしろ!という方が無理である。何しろアレンにとって、全ては“どんぐりの確認”のためだけなのだ。
「この間は俺、ちゃんと礼も言わないでさ」
(あぁ、どんぐりのコトね…!)
彼女も恋愛値が低かったので、変な誤解などせずに会話はそのまましゃくしゃくと進む。
「借りを返しただけよ。芽は出そう?」
「…まだ、埋めてないんだ。本当に貰って良かったのかって」
アレンの言わんとしている事が分からず、アルテミスは次の言葉を待った。
「だって、どんぐりって、もうどこにもない実なんだぜ。あれは、その、どこで誰が保存してくれていたの? それをアルテミスが譲り受けたんだろ? 俺、もうずっと探してるから、貴重レベルが半端じゃないってイヤって程分かってる。だから、…あんな簡単に貰っちゃいけなかったと思ってさ」
そう言うと、アレンは小型カプセルを差し出した。アルテミスは驚いた。
それで、会えるかどうかも分からない私に確認するまで、土に埋めるのを我慢していたと言うの? こんなふうにいつも持ち歩いてまで…? あぁ、なんて律儀な人なの…!
ちょっとしょんぼりしたようなアレンを見て、アルテミスは切なくなった。
「それは、昔、どこかで、知り会った人がくれたの。あの、アレン、どんぐりをけなすつもりはないけど、私には貴重レベルゼロなの。だから、私に気を遣う必要はないわ。煮るなり焼くなり好きにして」
このどんぐりは、本当はアルテミスが父親から貰った物だった。父親はその父親からと、代々子供へと受け継がれてきた実だと聞いていた。ご先祖様は、かつて地球にあったヨーロッパ大陸という地に住んでいて、敷地内に樫の木の森があったという。月面移住計画が始まって、いよいよ地球を去る時、子供だったご先祖様は、大好きだった樫の木の実をコールドストックして持ち出したという言い伝えだった。 SPANISCHE FLIEGE D5
こうしてどんぐりの旅を辿ってみると、確かにアレンの言うように、貴重な物だと分かるが、この先自分が持っていても宝の持ち腐れになるに違いないと強く思うのだ。例えば私が逮捕されてしまったら、どんぐりは船の奥で人知れずコールド期間が切れて腐ってしまうだろう。そんな風に失うくらいなら、心から欲しがっている人の手に委ね、どこかで命を芽吹いてくれた方がどんなに素晴らしいか。最良の使い道だ。
「無理してない?」
「ちっとも」
念を押したアレンは、やっと不安が消えて晴れやかに笑った。
「そか。じゃあ、埋めさせてもらうよ」
「どうぞ」
「サンキュ」
「いいえ」
見たいと思っていた笑顔を、目の前で惜しげも無く炸裂されて、アルテミスは目を伏せるしかなかった。笑顔が見られて嬉しいのに、その嬉しさを自分自身どう受け止めたらいいのか分からずに、居心地が悪くなってくる。そもそもこんなシチュエーションは経験がない。所在無げな気分に、表情には不機嫌な色が滲みそうだ。
用件は済んだが、じゃぁこれで、とは言い出せず、アレンは俯いているアルテミスに尋ねた。
「何処のドッグ?」
アルテミスは自然に顔を上げる事ができて答えた。
「この奥の、ベスタのドッグよ。アレンは?」
「ティーキーのドッグだ。十日目なんだけど、手違いがあって今日はオフになったんだ。そっちはいつまで?」
「ベスタ次第だから予定なんてないの。今日もベスタは出かけちゃったし」
ベスタは、船乗りの間ではモンスターおばさんと呼ばれている女性エンジニアだ。おばさんと言われてはいるが、現在はすでにおばあさんの域に入っていると年齢だ。うっそうと伸ばした銀色の髪を適当に束ねた(しかもはみ出してる毛束が大量にある)、他人の目を一切気にしない独特のスタイルは、モンスターを連想するに充分だったのだ。エンジニアとしての腕もこれまたモンスター級に素晴らしかった。その確かな技術を求める船乗り達からは絶大な人気で、予約を入れようにも半年以上先まで埋まっているドッグだった。
海賊アルテミスの戦艦・リンディアーナがモンスタードッグ。そうだよな、最高級の戦艦には最高級のドッグだ。そりゃそうだぜ。勝手に納得しながらつい口が滑る。
「初日からオフにされちまったのか」
「…。そう、今日が初日なの…」
なんで知ってるの……? アルテミスは不思議な顔でアレンを見た。
「昨夜、リンディアーナが降りて来たの、偶然見たんだ。驚いたよ、また会えるとは思ってなかったら。でも会えた。良かったよ。そう、どんぐりの確認もできたし」
アレンの本音と建前が一瞬垣間見えたが、二人とももちろん気付かない。
「リンディアーナ、ACS積んでるんだろ?」
「ブレイブアローだって積んでるんでしょう?」
自分の船の名が相手の口から出る事に、お互い密かにドキドキしながらも何とか押し殺し会話を進める。
ACSとは、オートコンバットシステムの略。このシステム、真に高性能級なら乗組員は一切不要になる。主一人がシステムに命令を下すだけで、あとは全てコンピュータが臨機応変にコンバットするのである。更に経験値を積んで常に進化もする。戦闘だけではなく、離着陸や航海も任せられる、本当に便利なシステムなのだ。
「でもリンディアーナのACSは違うって噂じゃないか。元祖にして最高のACS。開発者不明の幻の完全型」
そう…その噂は真実だ。この完全無欠のACSは、アルテミスが前科者になってでも守り通したシステム。その経緯を知る者は、一人残らず一瞬にして消え去った。彼女の手で。そして噂だけが静かに静かに星の海に広がっていったのだった。
「もしかして、開発者?」
何も知らないアレンは無邪気に問う。
「いいえ、違うわ……。ずっと昔の知り合いよ………。もういないわ……」
これも真実だ。悲しい悲しい真実。その思い出に触れるたび、今でもアルテミスの胸はぎゅっ…と縮む。
いけない、とアルテミスは沈みそうな気持ちを振り払うように顔を上げた。
と、アルテミスの目に、アレンの頭の上1センチ程をふわふわと浮いている動物が映った。
「あ…!」
アルテミスの声と視線に、アレンは自分の頭の上にそっと手をやった。
両手にふわふわした感触が触れた。これは、さっきアルテミスの頭の上で飛び跳ねていたリスみたいな動物? と推測した瞬間、目の前のアルテミスの頭上に浮かぶ姿を発見した。
「多分、今俺が捕まえてるのと同じのが、アルテミスの頭の上に浮いてる」
頭の上でそっと動物を掴んだままアレンは言った。アレンに言われて、アルテミスもそっと両手を上げた。もう正体不明ではない、アレンの手の中にいるのは、さっき見たリスのような動物だもの。
動物はどちらもおとなしく、両手の中に納まっていた。腕を下ろしてまじまじと観察してみた。アレンの手の中にいるのは白毛で、アルテミスの方は茶毛。でも同じ種類のようだ。鼻をひくひくと震わせて、大きな瞳でじっとアルテミスを見上げている。愛らしい。頬が緩んで思わず呟いた。
「かわいい…」
「ああ。かわいいな」
「何度も来てるコロニーなのに、初めて見た」
「俺も」
初めて見た。彼女の笑った顔を。目の前でぽっと開いた彼女の笑顔のせいで、アレンの頬も緩んだ。「かわいいな」も、動物がなのか、アルテミスがなのか。
ふと、アレンを一瞬見たアルテミスは、緩んでいた頬を引き締めるかのように、唇をきゅっと引いた。伏せた目で、自分の手を見つめている。それは、微笑を殺しているかのようだ。照れているようには見えない。まるで…叱られた子供が反省しているような………。
何故…? 花のような笑顔だったのに…!
アレンは理解できずに言葉が続かなくなってしまった。
沈黙の中、アルテミスが見つめている掌で、乗っていたリスもどきがふわりと浮いた。
「え…」
アレンの手の中からもふわりと浮かび上がる。驚いている二人の目の前で、二匹はふわふわと上昇し、梢の影に消えて行った。
「飛べるんだ…!」
そう言ってアレンに向いたアルテミスの顔は明るかった。可愛い生き物のまさかの能力に我を忘れたのか、梢を見上げながら、すごい…!と呟いた。その口元は確かに笑っている。今、消えてしまった笑顔が控え目に戻っていた。
(もっと見ていたい…!)
ざわめいた胸で梢を見上げたアレンは、枝にちょこんと止まった二匹を見つけた。
「あそこにいる。行ってみるか!」
「え?」
意味が分からず聞き返したが、アレンは幹に近づき枝振りを確認し始めた。
「行けるよ」
と、振り返って笑うと、枝に手を掛け、コブに乗り、要領よく登り始めた。
木登り、ですか…? 呆然と眺めているアルテミスをアレンは呼んだ。
「大丈夫だって」
アレンの笑顔に促されたアルテミスは、木の根元に立ち、アレンを真似ながら、身体を上へと移動させて行った。途中の枝に到着し、姿勢を安定させたアレンが、上から誘導する。
「そこに右手を先にかけてから…そう、左足を先にそっちへ乗せて…」
指先は触れるのだが、身体を支えられるようには手が届かない。アレンは身を屈めて腕を下ろした。アレンの顔を見上げたアルテミスは、ちょっとだけ躊躇って、でも手を伸ばした。アレンはアルテミスの手を、そっとしっかり握った。 K-Y
今まで、滑りそうな彼女を抱きとめたり、腕を掴んだり、銃撃戦の中、背中を合わせたり、頭を押し込んだりと、色々な形で彼女に触れて来たが、こうしてお互いの顔を見ながら、納得した上で触れるというのは初めてだ。
信じて委ねてくれた…。アレンの中に今まで感じたことのない不思議な感覚が湧いた。これは何なのか。いや、あとでじっくり考えよう。とにかく今は、彼女を無事に導かないと。
アレンは彼女が足をかけるタイミングに合わせて、ゆっくりと彼女を引き上げた。そうして二人は、ずいぶんと高い枝まで登った。
リスもどき達は、二人が到着するまで同じ場所に座っていた。
「いた…!」
アルテミスは興奮して言った。生まれて初めて、こんな高い枝まで登った。興奮するなと言う方が無理だ。
彼女の全開の笑顔を見て、アレンも笑顔があふれる。彼女を安定感の良さそうな枝に座らせて、自分もすぐ隣の枝に腰を下ろした。案外と強い風がときおり吹いて行く。陽の光に透けてチラチラと眩い金糸の髪が、アルテミスの頬や額を撫でる。
なんて綺麗なんだろう…。眩しくてアレンは目を逸らした。目の端で金糸の光が反射している。
心地良い風。穏やかな陽。緑の匂い。葉擦れの音。鳥の声。アルテミスの、笑顔。
この感覚はなんだろう…なんだか分からないけれど、とても満ち足りた気分だ。アレンから、自然と言葉が滑り出した。
「護衛の仕事、あの貿易商船の専属なの?」
「専属契約はしてないけど、でも、ほとんどそんな感じ」
アルテミスは、ちょっとの間で勇気を貯めて、さりげなさを装って言った。
「―――、、、。 アレンは? 何をしてるの?」
うまく装い切れなかったが。
「俺は、便利屋だな。護衛もするし、運び屋もする。ほんと、何でもするよ」
「この間の友達と一緒に?」
「あぁ、ゴセ? たまにあるけど、でも、基本的には一人。一応積んでるから、ACS」
リンディアーナのには遠く及ばないレベルだけど、と言いながらアレンは笑った。
――一人…。私ももちろん一人だけど、船の大きさが違う。システムの問題じゃない。あの広い空間にたった一人なんて……。寂しくはないのかしら…。それとも、一人が好き…? 私みたいに。
アルテミスが言葉を返せないでいると、
「地球に降りた事はある?」
と、アレンは尋ねた。たくさんのコロニーや火星ベース、金星ベースには降りたが、地球は一度もなかったアルテミスは首を横に振った。
「俺さ、今、地球に住んでるんだ。ほとんど海でさ、大海の中にぽつぽつ島が浮いてて、大きさはそうだな、一番大きな島でも、巨大コロニーよりちょっと大きいぐらいなもんでさ。夏はハンパなく暑いし、冬は容赦なく寒いし、天気なんか予告無しに変わって大変なんだけどさ。台風ってのが本当にあるんだぜ、凶暴な雨と風」
幼い頃、家の窓から眺めていた蒼い星。地平線から登って来るその星を、黒いビロードの布に置かれた宝石のようだといつも思って眺めていた。でも大人たちからは「恐ろしい海賊達がたくさんいる、怖い怖い星なんだ」と、言い聞かされてきた。野蛮な星は、野蛮な海賊にのみ相応しいと。
ずっと“野蛮な星”の意味が判らずにいたが、たった今、アレンの言葉で理解できた。自分達でコントロールできない自然のままの星。という意味だったんだ。
なんて勝手な……。傲慢な……。
自分を取り巻いていた大人たちの考えを、今改めて知ったアルテミスは、心底寒くなった。
そんな考えおかしい。間違ってる。その大人たちがやがて月面をも滅ぼしたんだ。
「地球は野蛮な星で、野蛮な海賊達しか住んでない、怖い怖い星だ。――って、子供の頃大人に言われなかった?」
頭の中に渦巻いていた言葉をそっくりアレンが口にしたので、アルテミスは驚いてアレンの顔を見つめた。
「俺、ムーンベース育ちだったから、部屋の窓から毎日見てたんだ、地球。きれいでさ。真っ青な球体に真っ白な雲がかかってて。あの星の何が野蛮なんだって不思議だった。海賊が野蛮ってのは子供心にも分かったけど」
アレンは、ははっと笑った。
アルテミスは、騒ぎ出す心を抑えるのに必死になった。二人ともムーンベース育ちなのだから、窓から地球を眺めていた幼少の頃の記憶が同じなのは当たり前だ。でも、その情景を誰かと共有した事は一度もない。アルテミスがムーンベース出身だと知る人は誰もいないし、彼女自身が打ち明けないからだ。今も打ち明ける気はない。
打ち明けないなら、ざわめく心を隠さなければ。
「海賊になったから地球に住んでるわけじゃないけど、でも、地球はほんといいトコだよ。全部本物だ」
そう言って、アレンは空を…スカイビジョンを見上げた。アルテミスもつられて見上げる。
「どう違うの……? 本物の空…」
素直に口から出た。
「自分で確かめたらいいよ」
「え…」
「大丈夫、野蛮な星なんかじゃないから。海賊が大勢いるのは本当だけど、極悪系の海賊はいないし、それにたった人口の1割だ。9割は一般人なんだぜ」
「そうなの?」
「海賊だけうじゃうじゃいる、刑務所みたいな星って思ってた? そりゃ勘弁だよな。いくらゴセに誘われても、俺も無理だ、住めない」
あはははと大きく笑う。
「ゴセに誘われて?」
「そう、指名手配になって、帰る家もとっくになくて困ってたら、ゴセがさ。地球はいい星だからお前も来いよ、って。ゴセは海賊じゃないけど、檜祖父さんが海賊で、地球に住み始めた最初のメンバーだったんだって。地球生まれの地球育ちに“いいトコだぞ~”って言われたら、そっかって思うだろ」
「…。そうね」
どんな空なんだろう…どんな海なんだろう…夜空は………月は、どう昇って見えるのだろう………
「月の女神」
いきなり言われて、アルテミスは呼吸を一つ飲み込んでしまった。
「アルテミスって、ギリシャ神話に出てくる月の女神の名前だよな」
確かめながらアレンは言い切った。
「ムーンベースに居た頃、友達に、カグヤって名前の妹がいた。昔話の月のお姫様だって言ってた。もしかしてアルテミスもムーンベース出身?」
そうなの。と言ってしまったらどうなるだろう…。
同郷の思い出話に花が咲くのだろうか。でも楽しい思い出なんて何もない。『狂乱の月』戦争で、楽しかった何もかもが辛いだけの思い出に変わってしまったのだから。そんな話はしたくない。思い出したくもない。
今まで使って来た台詞をアルテミスはぽんと落とした。
「いいえ」
「…そうか」
じゃぁ、どこ? と、アレンは訊ねなかった。その手の質問には一切答えないという空気を感じ取ったからだ。
実際、彼女がどこの出身だろうと、構うことは何もないのだし。ただ、同郷だったら思い出話が出来ただけだ。それが出来なくても、別に困らない。
枝の先で、二人を見ていたリスもどきがふわりと浮かんで、傾き始めた太陽(もちろん本物ではない)に照らされて丸くなった。
「チビ太陽だな。よし、お前はソル、お前は白いからルナ」
「どんな意味?」
「ラテン語って昔の言語で、ソルは太陽。ルナは月。隣ン家がラテン系の友達の家だったんだ。すっごい陽気な家族だったよ、毎日が祭りでさ」
宇宙に広がった人類は、人種で分かれて暮らしていたのではないので、どのコロニーやベースも多人種だった。千年もの長い月日の中で、居住地区ごとの言語は出来てしまったが、公に通用するのは星間共通語と呼ばれるものだった。今、二人が使っているのも、この星間共通語だ。 曲美
それから二人は梢の上で風に吹かれながら、時に沈黙を鋏み、時に笑顔を浮かべながら、あちこちのコロニーやベースで体験した出来事を話した。
何時間そうしていただろう。気付くと辺りはすっかり夕暮れに包まれていた。
「飯行かない? 何も予定が入ってなければ…」
こんな時間にこのまま別れるなんて不自然に思ったアレンは誘った。ゴセの妹のディミーとするように、女友達と食事をする。おかしくないよな?
アルテミスは海賊になってから誰かと食事をとることはなかった。ジーナとも数えるくらいしかない。すっかりそんなスタイルに慣れているので、誰かと食事なんて苦痛だ。
(絶対無理…!)
その緊張は、今までのものとは違う種類の緊張だとアルテミスは気付かない。
「せっかくだけど……」
俯いたまま、小さな声でやっとそれだけ言った。
「そっか、分かった。とにかく下りなくちゃな」
アレンは失意を隠して笑顔で言うと、ゆっくりと下り始めた。
二人は暮れなずむ木立の中へと下り立ち、アレンがバイクを止めた林道まで歩いた。
ティーキードッグを出て、リンディアーナが降りた方へと林道をバイクで走っていて、ベルトか何かをきらりと光らせた彼女を、木立の奥に運良く見つけたのだった。
アルテミスは歩いてここまで来ていた。これにはアレンもびっくりした。
「この森、暗くなるとゲルが出るの知ってる?」
ゲルとは、熊のような大きな獣で、こんな人口の森でどうやって繁殖できたのか不思議な肉食獣だった。何から進化したのか、住人達も知らない。もっとも、このコロニーに住む者達には、ゲルの祖先や進化の過程など関心外の事だった。日が暮れたら森には入らない。ゲルのディナーになりたくなければ。それだけだ。
「ちょっと出てきただけだったんだもの…」
(あぁ、俺が長居させたのか…)
「ごめん。送るよ」
え?! と驚くアルテミスに、
「大丈夫、今日はエアバイクだから安心だぜ」
と言って、ぽんぽんとバイクのシートを叩いた。
タイヤかエアか、そんな事を気にしているのではない、男の人のバイクで二人乗りなんてした事がないの。
どうしたらいいのか躊躇していると、森の奥から不気味な音が低く響いて来た。ゲルだ。思わず二人とも、闇と化した森の奥に目をやった。
「ほら、目覚めて腹ぺこだってさ」
そう言うと、アレンはアルテミスをひょいと抱え上げて、バイクのシートへと下ろした。想定外の一瞬の出来事に、着座してから一気に彼女の心臓だけバクバク大忙しだ。
アレンは自分も跨るとエンジンをかけた。
「行くよ」
バイクはするりと発進した。どこに手を回していいのか分からなかったアルテミスはどこにも掴まっていなかった。上体が取り残されそうになりガックンと反り返り、慌ててアレンの脇の服を掴んだ。
ゲルの遠吠えが増える中、アレンのバイクは林道を飛ぶように走り抜けた。
ベスタのドッグは、あっという間にその屋根を木々の上から見せた。アルテミスはアレンの背中をぽんぽんと叩いて、バイクを止めさせた。
「ここで…。アレン、ドッグの誰かに見られたら、大騒ぎになっちゃうから……」
絶大な人気の海賊アレンの生アレンだ。自分が世間からどんな風に思われているかを深く考えたことはなかったが、出かけた先々で、女・子供に囲まれる事は何度もある。迂闊だった。さらには、有らぬ噂が立って彼女に迷惑をかけてしまうかもしれない。
ここまでドッグに近いとゲルも出ては来ないので、降ろしても大丈夫だ。
アレンはバイクのエアーシフトをロウにして、車高を下げた。足が届き、バイクを降りたアルテミスは、アレンに向き直って礼を言った。
「…ありがとう…。助かったわ」
前回、コーナで転倒したバイクを起こした時、彼女は「頼まなかったけど」と付け足して礼を言っていたのをアレンは覚えていた。(今日は、そう言わないんだ…)
「遅くまで悪かったな」
アルテミスはそんなことないと首を振る。
かわいい。
見とれていると、ついっと真剣な顔を上げてアルテミスが言った。
「帰ったら一言メール下さい…」
アルテミスは携帯電話を巻いた手首を差し出した。
これは…! メアド交換ってことだよな…! 無事に帰り着いたか知りたいって、心配だって事だよな…!
「いいよ」
にやけてしまう顔を必死に押し殺して、アレンは自分の手首を彼女の手首に沿わせてデータ交換をした。
「ゲルの餌食にならなかったらメールするよ」
「じゃ…」
アルテミスは、そそくさと背を向け、ドッグの方へと歩いて行った。
(これは何としても無事に帰って彼女を安心させないと!)
ドッグの入り口の灯りの中へアルテミスが消えたのを確認して、アレンは片足を軸にしてバイクの向きをぐいんと変えると、フルスピードで林道を戻って行った。 sex drops 小情人
2013年2月24日星期日
蒼空の扉
ガーゴイルのレリーフが浮き出た禍々しい扉を前にして、彼はもう一度うしろを振り返った。
「準備はいいか」
緊張をみなぎらせていた他の三人の王たちは、我に返ったように深くうなずく。
それぞれの手には、柄に聖なる宝玉を嵌めこんだ剣が握られている。威哥十鞭王
「護衛の魔物たちに目をくれるな」
「まっすぐに玉座に向かい、この剣を奴の手足に突き刺すのだ」
「決して、あの紫の目を見るなよ。たちまち操られてしまうぞ」
「大丈夫だ。われらには、精霊の女王のご加護がある。決して負けはせぬ!」
矢継ぎ早に言い交わしながら、くじけそうな勇気を奮い立たせる。それほどに、この扉の向こうにいるのは、強大な敵なのだ。
「いつでもよいぞ、ナブラの王」
仲間の呼びかけに応えて、先頭に立っていた最も年若き王は、雄雄しく叫んだ。
「よしっ。みんな、行くぞ!」
「おおっ」
四人の勇者は扉を差して、いっせいに剣を掲げた。
「アラメキアに仇なす魔王ゼファーよ、今日こそ、おまえを永遠に封印してやる!」
「陛下」
しわがれた声に、ユーラスは目を覚ました。
異世界への旅の途中で気を失い、夢を見ていたようだ――はるか昔の夢を。
まず見えたのは、目を射るほど真っ蒼な空だった。アラメキアの紫を帯びた青とは明らかに異なる色。
鉄サビの匂いが肺を突く。たくさんのうち捨てられたゴミの山に、彼らはなかば埋もれているのだった。
白い髭の男が、彼のかたわらでガラクタを取り除けている。そのうしろには、ふたりが乗って来た巨大な【転移装置】が、着地したときの衝撃もそのままに、傾いて立っていた。
「この世界に、奴がいると申すのか。大賢者アマギ」
「仰せのとおりです、陛下」
「混沌とした醜悪な景色だ。さすが、あの魔王の流刑地にふさわしい」
ユーラスは嫌悪に唇をゆがめると、電子レンジやプリンターの堆積物をがらがらと崩して立ち上がった。
「ふふ。待っていろ、魔王。余が来たからには、もう逃がれられぬ」
彼は、虚空をにらみつけて不敵に笑った。
「たとえ、女王の裁きがいかなるものであっても、余のなすべきことは、ただひとつ。地の果てまでも、おまえを追いかけて――滅ぼしてやる!」
アマギの道案内によって、ユーラスは一軒の建物の前に導かれた。
アラメキアではほとんど見かけぬ二層建てだが、外観はかなりみすぼらしい。
「ここが奴の根城か」
「はい、さようでございます」
目深に黒いローブをかぶった博士は、うやうやしく答えた。この異世界の男はアラメキアに来てから、ローブを着る資格のある大賢者のひとりと数えられていた。
「わたしは以前、魔王の従者という魔族をひとり、【転移装置】で地球に送り込みました。奴から発信された電波の座標位置から計算すると、間違いなく、ここが奴の住居」
うなずいて、まさに一歩踏み出そうとしたユーラスの耳に、楽しそうな歌声が届いた。
「しろくまが、めがねをかけたら、パンダさん~」
「しまうまが、しまをとったら、風邪をひく~」
振り返ると、黒髪の浅黒い男と、雪のように白い肌の小さな女の子が手をつなぎ、笑いながら道を歩いてくる。
「あの男が、今申した魔王の従者ですぞ」
アマギが、こっそり耳打ちをした。
ユーラスは、身をおおっていたマントを背中に掃い、彼らの前に立ちふさがった。
「きさま、魔王の配下だな」
「え?」
ふたりは、怪訝そうな顔で立ち止まった。
「余はナブラの王だ。アラメキアからはるばる魔王に会いに来た」
「アヤメキア!」
幼い少女は、小鳥のさえずりのような歓声をあげた。
「おにいちゃん、アヤメキアから来たの?」
「姫さま!」
従者の男は、ユーラスに手を伸ばそうとする女の子の身体を、とっさにかかえこんだ。
「姫……だと?」
ユーラスは片眉を上げ、少女をうさんくさげに見つめた。「ということは、その小娘、ゼファーの娘か」
「おまえ、本当にニャブラの王か」
ようやく事情が飲みこめた様子の従者だったが、それでもまだユーラスを見つめて、ぽかんとマヌケ面をさらしている。
「それじゃあ、まさか隣にいるのは、アマギ博士」
「ふっふ。久しぶりだな」
「我ら魔族に味方すると誓ったはずニャのに、人間側に寝返ったのか?」
「恩知らずな魔族と違って、ナブラ王は、わたしを地球に連れ帰ると約束してくださったからな」
「そうか……だから代償に、そんな姿に」
従者は視線をユーラスに戻して、少しいたましげな顔つきになる。その憐れみのこもった目つきが、ユーラスの怒りをいっそう燃え立たせた。
「そこまでして、この世界に来るとは、いったいニャんの用だ」
「知れたことを。七十年前の魔王討伐の続きを、ここで果たそうというのだ」
ユーラスは言うが早いか、右手を聖剣の柄にかける。
「北と西と南の三人の王は寿命を全うし、もはや余を残すのみ。魔王を滅ぼすことは、余に託された神聖な義務なのだ」
「ニャにが、神聖な義務だ。どうせ精霊の女王さまの言いつけにそむいて、こっそり来たのだろう」
「だまれ!」
ユーラスは図星をつかれて逆上し、あざやかに剣を鞘から放った。
「まず、きさまから血祭りにあげてやる!」
そのとき、チリンチリンとベルを鳴らし、たくさんの紙束を運ぶ二輪の乗り物が、キキーッと彼の目の前で停まった。
「おい、坊主」
乗っていた地球人の男が、ぽんぽんと彼の頭を叩く。
「小ちゃな女の子相手にチャンバラごっこなんかしちゃいけねえ」
「チャンバラごっこ?」
「それじゃあ、気を引くところか、泣かせちまって元も子もなくなるぜ」
ユーラスは憤怒のあまり、頬をイチゴのように赤らめ、答えることもできなかった。
無理もない。
アラメキアの四覇王のひとり。青い髪と青い目を持つ、並ぶもののない伝説の勇者、ナブラ王ユーラス。
しかし今はどう見ても、カーテン地か何かをマント代わりに引きずり、オモチャの剣を振り回す、わんばくな小学生にしか見えなかったのである。田七人参
「ユーラスが、子どもに?」
夜、工場から帰ってきたゼファーに、ヴァルデミールは今日の騒動の顛末を話して聞かせた。
「いったい、なぜそんなことになったのだ」
「はニャせば、長いことニャがら」
ヴァルデミールは、佐和からもらった塩鮭を、皿までていねいに舐めてしまうと、説明を始めた。
「そもそもアマギの作った【転移装置】は、56年に一度しか作動できニャいのです」
「天城博士は俺には、アラメキアと地球が最接近するのは7年に一度、と言っていたぞ」
「ところが、アラメキアでは地球と比べて、およそ八倍もの速度で時間が流れるらしいのです」
ヴァルデミールは、必死に両手の指を折りながら説明する。
「シュニンがこの世界に来てから9年。ところが、その間にアラメキアでは72年の歳月が経ってしまいました。あのとき18歳だったナブラ王は、たぶん90歳をとっくに越えていたはずです」
退屈な話に雪羽はすっかり眠気がさして、佐和の膝の上で、こっくりと舟を漕いでいる。
「わたくしがこの世界に来たとき、アマギは【転移装置】を動かすために、時間神セシャトのもとへ行き、装置の時間を40年ほど進めてくれるように頼みました。セシャトはその代価として、装置に乗る者の時を40年戻すことを要求したのです」
「つまりは、乗る者を40歳若返らせる、ということか」
「はい。わたくしは魔族ですから、40年の年を差し引かれても、さほど不便は感じませんでした。そのときアマギも、「若返れるなら一石二鳥」と地球に帰りたがっていましたが、セシャトは、『異世界人の時間は、代価にニャらぬ』と言って、断ってしまいました」
ヴァルデミールは、ほうっとため息をついた。
「たぶんアマギは今回、自分もいっしょに地球に連れ帰ることを条件に、ニャブラ王に協力すると約束したのでしょう。ニャブラ王は、しかたニャく、自分の分とアマギの分の代価も合わせて、二倍の時間をセシャトに差し出した」
「もしそれが40年だとしたら、ユーラスは80歳若返ったということか」
「どう見ても、9歳か10歳くらいにしか見えませんでしたからねえ」
と、おおげさなため息をつく。
「あれだけ小さいと、昔戦ったときの、あの炎のような気迫も強さも、全く感じませんでしたよ。本人は、まだそのことを自覚してニャいみたいですけど」
ヴァルデミールは、上目づかいでゼファーを見た。
「シュニン、どうしましょう。ヤツはしつこくも、まだシュニンの命を狙っているみたいです。けど、あれじゃあんまり可哀そうで、ニャぐる気も起きませんよ」
「どうしたものかなあ」
ゼファーは、箸を食卓に置いて、黙り込んでしまった。
家電ゴミ置き場に埋もれた転移装置の中で寝苦しい夜を過ごしたユーラスは、すっかり寝坊してしまい、日が高くなってからゼファーの居城に駆けつけた。
どうも、この身体になってから、一日9時間睡眠を取らないと、眠くてしかたがない。
昨日は、おせっかいな通りすがりの新聞配達人にこんこんと説教され、這う這うの体で逃げ出し、それきりになっていた。
「今日こそは、ヤツをこの剣で仕留めてやる」
抜き身の剣をかかげ、ユーラスはアマギが止める間もあらばこそ、一階の真正面の扉に突入した。
「ゼファー、覚悟」
数秒後、中にいた住民に首根っこをつかまれ、部屋の外に放り出された。
「冗談じゃない、おもちゃの刀なんか振り回して。あんた小学生だろ。学校サボって何してるんだい」
口やかましそうな太った婦人が、腰に手を当てて仁王立ちしている。城の入り口を守護するゴーレムも真っ青になるほどの迫力だ。
「なぜだ。ここはゼファーの城ではないのか」
「ゼファー? ああ、瀬峰さんを訪ねてきたのなら、二階の右から二番目だよ」
「み、右から二番目?」
ユーラスはあぜんとして、二階の扉を見上げた。
「こんなアリの巣のような建物の、たった一室が魔王の居城だというのか?」
「悪かったね。アリの巣みたいなアパートで」
女はバタンと扉を閉めてしまった。
「魔王は、かなり貧乏な暮らしをしているようですな」
アマギがぽりぽりと白髪頭を掻いている。
「大賢者。おまえは、ここで待っていろ」
ユーラスは、キッとまなじりを吊り上げると、階段を駆け上った。
「ゼファー、覚悟しろ!」
勢いよく飛び込んだ部屋の中では、ゼファーの妻とおぼしき女と娘が、ふたりで朝ごはんを食べていた。
「あ、アヤメキアから来たおにいちゃんだ」
「まあ、ゼファーさんのお知り合いですか。いらっしゃい」
のんびりとしたふたりの笑顔に、ユーラスはすっかり毒気を抜かれて、持っていた抜き身の剣を、あわてて後ろ手に隠した。
「ま、魔王は?」
「ごめんなさい。ゼファーさんなら、さっき工場に出勤したところなんですよ」
「コージョー? シュッキン?」
ユーラスは心の中でうなった。
(おのれ、魔王め。性懲りもなく、この世界でもコージョーという国に出陣して、攻め取ろうとしておるのか)
「そんなところにいたら、寒いわ。どうぞ中へ」
佐和は立ち上がって、玄関に立ち尽くしている少年の肩に手をかけると、食卓に案内した。
光線の加減によっては、美しい藍色に見える髪と瞳。革のベストとスパッツに似たズボン。緋色のマントにくるまれた手足は骨ばって細く、すべすべした頬には髭の生える気配すらない。
どう見ても、10歳そこそこ。佐和の子どもだとしても、不思議ではない年齢だ。
昨夜の夫とヴァルデミールの話では、この子どもがアラメキアから追いかけてきて、夫の命をつけねらっているらしいというのだが、この澄んだ目をした子がそんなことを考えているとは、とても信じられない。
佐和には、アラメキアの歴史も、【転移装置】の話もよくわからなかった。ただひとつわかることは、少年が知らない場所に来たばかりで、途方にくれていること。
ちょうど、出会ったばかりのころのゼファーのように。あのときの夫は、この世界のことを何も知らず、住む所も信頼できる仲間もなく、すさんだ目をしていた。
そして何よりも、お腹をすかせていた。
「よかったら、朝ごはんをごいっしょにいかがですか?」
「え?」
「おにいちゃん、雪羽の鮭のおにぎり、あげる」
少女は、「はい」とユーラスの前に、白い三角の物体の乗った自分の皿を押しやる。
(魔王城で食べているものなど、食えるか。毒が入っているに決まっている)
そうは思ったが、食べ物だとわかっただけで、口の中はたちまち唾でいっぱいになる。
「ゼファーは、いつ戻る」
ユーラスはむりやり視線をそらすと、佐和に向かって高飛車な態度で訊ねた。
「たぶん、遅くなると思います。納期が近いそうなので」
「ノーキ?」
(近づくだけでゼファーの帰りをはばむとは、ノーキとはいかなる強敵だろう。手を結んでおく必要があるかもしれぬ)
「あの、お名前は?」
女は怖じずに、まっすぐ彼の顔をのぞきこんできた。
「名前だと」
ユーラスは油断なく身構えた。
「余の名を聞くとは、よい度胸だ。さては最高位の魔女だな」
「いいえ、私は魔女ではないし、名前は呪文を唱えるのに使うのじゃありません」
佐和もゼファーのときの経験があるので、もうすっかり慣れたものだ。
「この世界では、名前をうかがうのは、相手と仲良くなる第一歩なんですよ」
「仲良くする?」
ユーラスはまた考え込んだ。
(この女、どうやら余を敵だとは思っておらぬらしい。これは好都合かもしれぬ)
内心ほくそ笑む。
(味方のふりをして油断させ、こいつらを人質にしてしまえばよい。ゼファーの奴め。帰ってきたら驚くぞ。自分の居城が余に乗っ取られて、入りたくとも入れないのだからな)印度神油
「余の名は、ユーラス・サウリル・ギゼム・ド・ファウエンハールだ」
「あ、あの、長いので覚えられません。ユーリさんとお呼びしていいですか?」
「――好きにするがよい」
「それじゃあ、ユーリさん、おにぎりはいくらでも作りますので、どんどん食べてくださいね」
皿に盛られた白い三角形の山は、つやつやと輝き、どうにも目が離せない。
横から、ひょいと小さな手が伸びてきた。
「おにいちゃん、雪羽とどっちが早く食べられるか、きょうそうしよ。ヨーイ、ドン」
なぜか、その「ヨーイ、ドン」という魔法の呪文を聞くと、ユーラスは矢も盾もたまらず、三角形にむしゃぶりついた。
その夜、ゼファーは残業を終えて、疲れた身体で家路についた。
会社の業績は、悪化の一途をたどっている。
そのことを聞きつけた部品メーカーや機械リース会社の中には、現金でしか取引に応じないところも出てきた。
経理は、すでに自転車操業状態だった。いくら、工場長やゼファーたちが新規の受注を取ってこようにも、もうそれすら引き受けられないところまで追い込まれている。
(時間の問題なのかもしれないな)
凍えた夜の道をひとりで歩いていると、つい悪いほうへと気持が向いてしまう。
ゼファーはぐっと拳を握りしめると、勢いよくアパートの階段を駆け上がった。
「おかえりなさい」
いつもの明るい佐和の声に迎えられて、靴を脱いで部屋にあがったゼファーの手から、持っていたカバンがどさりと落ちた。
部屋の中では、雪羽といっしょの毛布にくるまって、ユーラスがこのうえなく幸福そうな寝顔で、眠りをむさぼっていたからである。
朝焼けが窓をうっすらとバラ色に染めている。
暖かい布団にぬくぬくとくるまりながら、また若かった頃の夢を見ていたユーラスは、目を開けた。
(いったい、なぜ余はこんなところに寝ているのだ)
記憶を取り戻すまで、しばらくかかった。
確か昨日は、魔王城に突入し、勧められるままに食事をしたのだった。
あの白い三角形の食物は、たいそう美味だった。
お腹が満たされたあとは、雪羽という魔王の娘に付き合って、積み木やカルタで延々と遊ばされた。
そのあいだに魔王の妻だという女、佐和は彼のぼろぼろに破れたマントを丁寧につくろい、短く仕立て直してくれた。
そして、夕食を平らげたあとは、魔王の帰りを待つうちに、睡魔に勝てずにそのまま寝てしまったのだった。
(結局、昨夜はやつは居城に戻らなかったのか)
魔王の邪悪な気配がそばに近づけば、たちまち目が覚めるはず。とてもこんなにぐっすりとは寝ていられなかっただろう。
顔を横に向けると、狭い部屋に四つの布団が敷き詰められているのが見える。
佐和はもう早くから起きているらしく、紙張りの引き戸で隔てた向こうからは、軽やかな足音や水音が聞こえてきた。
雪羽の隣には、見たことのないひとりの人間が寝ていた。
優しそうな男だ。漆黒の髪は寝ぐせがついて先が丸まっている。身なりは貧しいが、気品を備えた風貌をしていた。
(誰だろう。こやつも魔王の従者なのか)
突然、魔王の娘がむくりと起き上がり、男に向かって寝ぼけたような声をあげた。
「父上、おしっこぉ」
「な、な、なんだと!」
ユーラスは、布団から跳ね起きると、枕元に置いてあった剣を鞘ごとつかんだ。
「おのれ、きさまが魔王か!」
ゼファーは身体を起こして大きな欠伸をすると、ちらりとユーラスを見た。
「朝っぱらから、うるさい。少しは時間をわきまえろ」
「なんだと」
「だいたい俺のパジャマを着ているくせに、威張れた立場か」
「……」
ユーラスは自分の着ているものを見た。確かにゆうべ風呂に入った後に、だぶだぶの服を借り受けて着ていたのだった。
「おまけに昨日一日で、おにぎりを15個も食ったそうだな」
と、すこぶる不機嫌そうな声で言う。「そのせいで、俺の夕食のおにぎりには、鮭が入ってなかった」
「父上ぇ、おしっこ、もれちゃうぅ」
「雪羽はもう、ひとりでトイレに行けるだろう」
「でも、父上といっしょがいいの!」
「やれやれ」と、魔王は娘の両脇に手を差し入れて抱きあげると、行ってしまった。
布団の上に残されたユーラスは、自分の目が見たことが信じられなかった。
幼い娘を抱っこして厠に連れていくなど。おにぎりに鮭とやらが入ってないと文句を言うなど。これが、最強の魔王軍の頂点に立ち、無慈悲にも人間を殺戮し続けた、あの魔王なのか?
佐和が、ひょいと部屋の仕切りから顔をのぞかせた。
「ユーリさん、私パートに行って来ます。朝ごはんは用意しておきましたから、おなかがすいたら食べてくださいね」
「う、うむ」
「でも……大丈夫かしら。敵同士のふたりを残して行って」
佐和の目は心配そうに、ユーラスの顔と、トイレから戻ってきた夫の顔の間を往復する。
ゼファーは肩をすくめて、答えた。
「大丈夫だろう。万が一戦うことになれば、雪羽を隣の田中さんに預けて外へ出る」
「それじゃあ、くれぐれも、ふたりとも怪我のないようにお願いしますね」
(……何だ、この緊張感のない会話は)
佐和が出て行ったあとゼファーは、剣を手に立ち尽くしているユーラスに背中を向けて、さっさと布団をたたんで、押入れにしまい始めた。
ユーラスは、無視されたことへの屈辱に震えた。
「魔王よ、外に出ろ。きさまの望みどおり、戦ってやる」
「この時間はまだ、暗くて寒いぞ」
「黙れ。今日こそ、おまえの心臓をこの剣で串刺しにしてやる」
「いいから、先にそのパジャマを着替えて、顔を洗って、飯を食べろ」
「ふざけるな!」
怒りが頂点に達し、ユーラスは剣を抜いて斬りかかった。
ゼファーは軽く身をかわすと、勇者の腕をうしろにねじりあげた。
「こんなものを、狭い部屋で振り回すな」
「うっ」
命の次に大切な剣は、あえなく床に落ちた。
「ふすまを破ってみろ、張替え代2100円を弁償してもらうぞ」
ユーラスは腰砕けになって畳に座り込み、深くうなだれた。
悔し涙が目ににじむ。
やはり、この幼い身体ではダメなのだ。七十年前、魔王を倒したときに持っていた力も技も、何もかも失ってしまった。
ゼファーは、そんな彼をじっと見下ろした。
「ナブラの王よ。見てのとおり、俺はすでに魔王ではない。普通の人間だ」
「……だが、この世界を征服して、アラメキアに攻め込むことを企んでいる。――アマギがそう言っていた」強力催眠謎幻水
「昔の話だ。佐和と結婚して以来、そんな気はとうに失せた」
「嘘をつくな。今もなお、コージョーという国を侵略しているくせに」
「コージョー?」
「毎日、朝早くから夜遅くまで出陣していると聞いた」
魔王は顔をそむけ、驚いたことに、くつくつと笑い出した。
「……おまえもいっしょに来てみるか?」
「え?」
「自分の目で確かめてみろ。俺がこの世界で、何と戦っているのか」
佐和がパートから帰ってきたあと、ゼファーとユーラスは連れ立って外へ出た。
アパートの軒下で、ローブにくるまって寒さに震えていたアマギは、ふたりが並んで階段を降りてくるのを見て、目を丸くした。
「ゼ、ゼファーさま」
数年ぶりに再会した老科学者に、ゼファーは皮肉げに笑いかけた。
「変わらんな、天城博士。アラメキアでは不思議なことに、この世界の人間はまったく齢を取らないと見える」
「わ、わたしを裏切り者だと思っているだろう」
闇組織の非情なボスだった頃のゼファーしか知らないアマギは、あたふたとユーラスの後ろに隠れた。
「だがわたしは、どんな手段を使ってでも地球に帰りたかった。【転移装置】の成功を、わたしの並行宇宙理論の正しさを、わたしをバカにした科学者どもに突きつけてやりたかったんだ」
「大賢者。おまえは【装置】のところに戻っていろ」
ユーラスはアマギに低く命じると、そのままゼファーの後に従った。
連れて行かれたのは、コージョーと呼ばれる、何の装飾もない大きな建物だった。
そろいの服を着た大勢の人間が、集まってきた。魔王とともに攻撃を受けるかと一瞬身構えたユーラスは、満面の笑顔が彼に向けられていることに戸惑った。
「かわいいーっ」
「おっ。坊主、不登校か。俺の仲間だな」
「主任、この子、ご親戚ですか? どことなく似てますよ」
彼らのあけっぴろげな様子から察するに、ゼファーは、ここで厚い信頼を受けているに違いなかった。
(アラメキアでは人間の敵だった魔王が、この世界では人間から慕われている?)
とてもではないが、認めたくない光景だった。
ユーラスはその日一日、工場の隅にぼんやり座って、魔王が彼らとともに、ほとんど休みも取らずに働くのを見つめていた。
とっぷりと日が暮れたころ、ようやく彼はユーラスのもとに戻ってきた。
「待たせたな」
「……いや」
「ナブラ王。これが、俺の戦場だ」
「これが、戦場――」
「そうだ。この世界はアラメキアとは違う。生きて家族を養うためには、朝から晩まで額に汗して働かねばならぬ」
かつての魔王は、工場のうす汚れた天井を見上げて笑んだ。
「ここで俺は機械油にまみれ、朝から晩まで、単価数十円や数百円にしかならぬパーツを作っている。だがこれは、破壊のための戦いではなく、生み出すための戦いだ」
「……」
「今のところ、負け戦のようだがな。それでも俺は最後まであきらめない」
と言いながら、その笑顔には誇りさえにじむ。
ユーラスは目眩を感じた。それほどに激しく動揺している。
「さあ、帰るぞ」
工場を出て、夜の道を先立って歩き出した魔王に、とぼとぼとついていく。
奴の背中が大きく見える。それとも余が小さくなっただけなのか。
突如、得体のしれない悲しみと怒りが、腹の中を駆け上がってきた。
「余は、きさまを赦さん!」
ユーラスは立ち止まり、小さな全身がきしむほどの大声で叫んだ。
「アラメキアは、魔族との戦争で大きな荒廃を喫したままだ。その爪あとは、四王国で今も消えておらん。民はいまだに食糧不足に苦しみ続けている」
魔王は背中を向けたまま、何も答えない。
「たくさんの命が失われた。きさまのせいで! そのアラメキアを逃げ出して、知らぬふりをして生きようというのか。新しい戦いを始めようというのか。余は赦さん! きさまには、あの戦いを忘れる資格などない!」
ユーラスは、ゼファーを残して駆け出した。月明かりの中をめちゃめちゃに走った。
どうして自分のことを負け犬のように感じるのか、わからなかった。
若き紅顔の勇者は大胆にも、真正面から斬りかかってくる。その気迫は、ゼファーの紫の目が放つ魔力さえ跳ね返している。
注意を奪われた一瞬をついて、両側面から【テュールの七重の鎖】がゼファーの身体に巻きつき、ぶざまにも膝をついた。
その足元には、魔族と人間の死骸が、じゅうたんのように敷き詰められている。
髪をふり乱してもがき、牙で鎖を噛み切ろうとしたが、縛めはびくともしない。
ゼファーは憤怒に我を見失った。
ただ憎い。何もかもが憎い。
人間が、人間に加担する精霊の女王が、そして女王の愛するアラメキアそのものが憎い。
右手に鋭い痛みを感じる。
ナブラ王ユーラスの剣先が、彼の手首を刺し貫いたのだ。
ゼファーは野獣のように吼えた。魔力が噴水のように、傷口から失われていく。精霊の女王が、人間の四人の王に与えたという聖なる封印の剣。
ついで、左手。左足。右足。
「魔王ゼファー。きさまに殺された幾万の民の恨みを思い知れ!」
「おの……れ。ユーラス」
ひゅーひゅーと互いの息が感じ取れるほど間近で、ふたりは命を懸けた憎悪をこめて睨み合った。
ゆっくりと起き上がると、ゼファーは吐息をついた。
「ゼファーさん」
佐和が布団の中から、そっと夫の名を呼んだ。
「眠れないのですか?」
「……ああ」
彼は大きな手で、妻の髪を撫でた。
「おまえは、何も心配する必要はない」
「ええ。わかっています。けれど……」
佐和は今までの結婚生活で、夫がときどき、ひどく辛そうに見えることに気づいていた。
そういうときのゼファーは決まって、何も見ていない目をしている。
この世界にあるものすべてを突き抜けて、過去の記憶を見ているのだ。そして、絶対そのことを語ろうとしない。VIVID
「準備はいいか」
緊張をみなぎらせていた他の三人の王たちは、我に返ったように深くうなずく。
それぞれの手には、柄に聖なる宝玉を嵌めこんだ剣が握られている。威哥十鞭王
「護衛の魔物たちに目をくれるな」
「まっすぐに玉座に向かい、この剣を奴の手足に突き刺すのだ」
「決して、あの紫の目を見るなよ。たちまち操られてしまうぞ」
「大丈夫だ。われらには、精霊の女王のご加護がある。決して負けはせぬ!」
矢継ぎ早に言い交わしながら、くじけそうな勇気を奮い立たせる。それほどに、この扉の向こうにいるのは、強大な敵なのだ。
「いつでもよいぞ、ナブラの王」
仲間の呼びかけに応えて、先頭に立っていた最も年若き王は、雄雄しく叫んだ。
「よしっ。みんな、行くぞ!」
「おおっ」
四人の勇者は扉を差して、いっせいに剣を掲げた。
「アラメキアに仇なす魔王ゼファーよ、今日こそ、おまえを永遠に封印してやる!」
「陛下」
しわがれた声に、ユーラスは目を覚ました。
異世界への旅の途中で気を失い、夢を見ていたようだ――はるか昔の夢を。
まず見えたのは、目を射るほど真っ蒼な空だった。アラメキアの紫を帯びた青とは明らかに異なる色。
鉄サビの匂いが肺を突く。たくさんのうち捨てられたゴミの山に、彼らはなかば埋もれているのだった。
白い髭の男が、彼のかたわらでガラクタを取り除けている。そのうしろには、ふたりが乗って来た巨大な【転移装置】が、着地したときの衝撃もそのままに、傾いて立っていた。
「この世界に、奴がいると申すのか。大賢者アマギ」
「仰せのとおりです、陛下」
「混沌とした醜悪な景色だ。さすが、あの魔王の流刑地にふさわしい」
ユーラスは嫌悪に唇をゆがめると、電子レンジやプリンターの堆積物をがらがらと崩して立ち上がった。
「ふふ。待っていろ、魔王。余が来たからには、もう逃がれられぬ」
彼は、虚空をにらみつけて不敵に笑った。
「たとえ、女王の裁きがいかなるものであっても、余のなすべきことは、ただひとつ。地の果てまでも、おまえを追いかけて――滅ぼしてやる!」
アマギの道案内によって、ユーラスは一軒の建物の前に導かれた。
アラメキアではほとんど見かけぬ二層建てだが、外観はかなりみすぼらしい。
「ここが奴の根城か」
「はい、さようでございます」
目深に黒いローブをかぶった博士は、うやうやしく答えた。この異世界の男はアラメキアに来てから、ローブを着る資格のある大賢者のひとりと数えられていた。
「わたしは以前、魔王の従者という魔族をひとり、【転移装置】で地球に送り込みました。奴から発信された電波の座標位置から計算すると、間違いなく、ここが奴の住居」
うなずいて、まさに一歩踏み出そうとしたユーラスの耳に、楽しそうな歌声が届いた。
「しろくまが、めがねをかけたら、パンダさん~」
「しまうまが、しまをとったら、風邪をひく~」
振り返ると、黒髪の浅黒い男と、雪のように白い肌の小さな女の子が手をつなぎ、笑いながら道を歩いてくる。
「あの男が、今申した魔王の従者ですぞ」
アマギが、こっそり耳打ちをした。
ユーラスは、身をおおっていたマントを背中に掃い、彼らの前に立ちふさがった。
「きさま、魔王の配下だな」
「え?」
ふたりは、怪訝そうな顔で立ち止まった。
「余はナブラの王だ。アラメキアからはるばる魔王に会いに来た」
「アヤメキア!」
幼い少女は、小鳥のさえずりのような歓声をあげた。
「おにいちゃん、アヤメキアから来たの?」
「姫さま!」
従者の男は、ユーラスに手を伸ばそうとする女の子の身体を、とっさにかかえこんだ。
「姫……だと?」
ユーラスは片眉を上げ、少女をうさんくさげに見つめた。「ということは、その小娘、ゼファーの娘か」
「おまえ、本当にニャブラの王か」
ようやく事情が飲みこめた様子の従者だったが、それでもまだユーラスを見つめて、ぽかんとマヌケ面をさらしている。
「それじゃあ、まさか隣にいるのは、アマギ博士」
「ふっふ。久しぶりだな」
「我ら魔族に味方すると誓ったはずニャのに、人間側に寝返ったのか?」
「恩知らずな魔族と違って、ナブラ王は、わたしを地球に連れ帰ると約束してくださったからな」
「そうか……だから代償に、そんな姿に」
従者は視線をユーラスに戻して、少しいたましげな顔つきになる。その憐れみのこもった目つきが、ユーラスの怒りをいっそう燃え立たせた。
「そこまでして、この世界に来るとは、いったいニャんの用だ」
「知れたことを。七十年前の魔王討伐の続きを、ここで果たそうというのだ」
ユーラスは言うが早いか、右手を聖剣の柄にかける。
「北と西と南の三人の王は寿命を全うし、もはや余を残すのみ。魔王を滅ぼすことは、余に託された神聖な義務なのだ」
「ニャにが、神聖な義務だ。どうせ精霊の女王さまの言いつけにそむいて、こっそり来たのだろう」
「だまれ!」
ユーラスは図星をつかれて逆上し、あざやかに剣を鞘から放った。
「まず、きさまから血祭りにあげてやる!」
そのとき、チリンチリンとベルを鳴らし、たくさんの紙束を運ぶ二輪の乗り物が、キキーッと彼の目の前で停まった。
「おい、坊主」
乗っていた地球人の男が、ぽんぽんと彼の頭を叩く。
「小ちゃな女の子相手にチャンバラごっこなんかしちゃいけねえ」
「チャンバラごっこ?」
「それじゃあ、気を引くところか、泣かせちまって元も子もなくなるぜ」
ユーラスは憤怒のあまり、頬をイチゴのように赤らめ、答えることもできなかった。
無理もない。
アラメキアの四覇王のひとり。青い髪と青い目を持つ、並ぶもののない伝説の勇者、ナブラ王ユーラス。
しかし今はどう見ても、カーテン地か何かをマント代わりに引きずり、オモチャの剣を振り回す、わんばくな小学生にしか見えなかったのである。田七人参
「ユーラスが、子どもに?」
夜、工場から帰ってきたゼファーに、ヴァルデミールは今日の騒動の顛末を話して聞かせた。
「いったい、なぜそんなことになったのだ」
「はニャせば、長いことニャがら」
ヴァルデミールは、佐和からもらった塩鮭を、皿までていねいに舐めてしまうと、説明を始めた。
「そもそもアマギの作った【転移装置】は、56年に一度しか作動できニャいのです」
「天城博士は俺には、アラメキアと地球が最接近するのは7年に一度、と言っていたぞ」
「ところが、アラメキアでは地球と比べて、およそ八倍もの速度で時間が流れるらしいのです」
ヴァルデミールは、必死に両手の指を折りながら説明する。
「シュニンがこの世界に来てから9年。ところが、その間にアラメキアでは72年の歳月が経ってしまいました。あのとき18歳だったナブラ王は、たぶん90歳をとっくに越えていたはずです」
退屈な話に雪羽はすっかり眠気がさして、佐和の膝の上で、こっくりと舟を漕いでいる。
「わたくしがこの世界に来たとき、アマギは【転移装置】を動かすために、時間神セシャトのもとへ行き、装置の時間を40年ほど進めてくれるように頼みました。セシャトはその代価として、装置に乗る者の時を40年戻すことを要求したのです」
「つまりは、乗る者を40歳若返らせる、ということか」
「はい。わたくしは魔族ですから、40年の年を差し引かれても、さほど不便は感じませんでした。そのときアマギも、「若返れるなら一石二鳥」と地球に帰りたがっていましたが、セシャトは、『異世界人の時間は、代価にニャらぬ』と言って、断ってしまいました」
ヴァルデミールは、ほうっとため息をついた。
「たぶんアマギは今回、自分もいっしょに地球に連れ帰ることを条件に、ニャブラ王に協力すると約束したのでしょう。ニャブラ王は、しかたニャく、自分の分とアマギの分の代価も合わせて、二倍の時間をセシャトに差し出した」
「もしそれが40年だとしたら、ユーラスは80歳若返ったということか」
「どう見ても、9歳か10歳くらいにしか見えませんでしたからねえ」
と、おおげさなため息をつく。
「あれだけ小さいと、昔戦ったときの、あの炎のような気迫も強さも、全く感じませんでしたよ。本人は、まだそのことを自覚してニャいみたいですけど」
ヴァルデミールは、上目づかいでゼファーを見た。
「シュニン、どうしましょう。ヤツはしつこくも、まだシュニンの命を狙っているみたいです。けど、あれじゃあんまり可哀そうで、ニャぐる気も起きませんよ」
「どうしたものかなあ」
ゼファーは、箸を食卓に置いて、黙り込んでしまった。
家電ゴミ置き場に埋もれた転移装置の中で寝苦しい夜を過ごしたユーラスは、すっかり寝坊してしまい、日が高くなってからゼファーの居城に駆けつけた。
どうも、この身体になってから、一日9時間睡眠を取らないと、眠くてしかたがない。
昨日は、おせっかいな通りすがりの新聞配達人にこんこんと説教され、這う這うの体で逃げ出し、それきりになっていた。
「今日こそは、ヤツをこの剣で仕留めてやる」
抜き身の剣をかかげ、ユーラスはアマギが止める間もあらばこそ、一階の真正面の扉に突入した。
「ゼファー、覚悟」
数秒後、中にいた住民に首根っこをつかまれ、部屋の外に放り出された。
「冗談じゃない、おもちゃの刀なんか振り回して。あんた小学生だろ。学校サボって何してるんだい」
口やかましそうな太った婦人が、腰に手を当てて仁王立ちしている。城の入り口を守護するゴーレムも真っ青になるほどの迫力だ。
「なぜだ。ここはゼファーの城ではないのか」
「ゼファー? ああ、瀬峰さんを訪ねてきたのなら、二階の右から二番目だよ」
「み、右から二番目?」
ユーラスはあぜんとして、二階の扉を見上げた。
「こんなアリの巣のような建物の、たった一室が魔王の居城だというのか?」
「悪かったね。アリの巣みたいなアパートで」
女はバタンと扉を閉めてしまった。
「魔王は、かなり貧乏な暮らしをしているようですな」
アマギがぽりぽりと白髪頭を掻いている。
「大賢者。おまえは、ここで待っていろ」
ユーラスは、キッとまなじりを吊り上げると、階段を駆け上った。
「ゼファー、覚悟しろ!」
勢いよく飛び込んだ部屋の中では、ゼファーの妻とおぼしき女と娘が、ふたりで朝ごはんを食べていた。
「あ、アヤメキアから来たおにいちゃんだ」
「まあ、ゼファーさんのお知り合いですか。いらっしゃい」
のんびりとしたふたりの笑顔に、ユーラスはすっかり毒気を抜かれて、持っていた抜き身の剣を、あわてて後ろ手に隠した。
「ま、魔王は?」
「ごめんなさい。ゼファーさんなら、さっき工場に出勤したところなんですよ」
「コージョー? シュッキン?」
ユーラスは心の中でうなった。
(おのれ、魔王め。性懲りもなく、この世界でもコージョーという国に出陣して、攻め取ろうとしておるのか)
「そんなところにいたら、寒いわ。どうぞ中へ」
佐和は立ち上がって、玄関に立ち尽くしている少年の肩に手をかけると、食卓に案内した。
光線の加減によっては、美しい藍色に見える髪と瞳。革のベストとスパッツに似たズボン。緋色のマントにくるまれた手足は骨ばって細く、すべすべした頬には髭の生える気配すらない。
どう見ても、10歳そこそこ。佐和の子どもだとしても、不思議ではない年齢だ。
昨夜の夫とヴァルデミールの話では、この子どもがアラメキアから追いかけてきて、夫の命をつけねらっているらしいというのだが、この澄んだ目をした子がそんなことを考えているとは、とても信じられない。
佐和には、アラメキアの歴史も、【転移装置】の話もよくわからなかった。ただひとつわかることは、少年が知らない場所に来たばかりで、途方にくれていること。
ちょうど、出会ったばかりのころのゼファーのように。あのときの夫は、この世界のことを何も知らず、住む所も信頼できる仲間もなく、すさんだ目をしていた。
そして何よりも、お腹をすかせていた。
「よかったら、朝ごはんをごいっしょにいかがですか?」
「え?」
「おにいちゃん、雪羽の鮭のおにぎり、あげる」
少女は、「はい」とユーラスの前に、白い三角の物体の乗った自分の皿を押しやる。
(魔王城で食べているものなど、食えるか。毒が入っているに決まっている)
そうは思ったが、食べ物だとわかっただけで、口の中はたちまち唾でいっぱいになる。
「ゼファーは、いつ戻る」
ユーラスはむりやり視線をそらすと、佐和に向かって高飛車な態度で訊ねた。
「たぶん、遅くなると思います。納期が近いそうなので」
「ノーキ?」
(近づくだけでゼファーの帰りをはばむとは、ノーキとはいかなる強敵だろう。手を結んでおく必要があるかもしれぬ)
「あの、お名前は?」
女は怖じずに、まっすぐ彼の顔をのぞきこんできた。
「名前だと」
ユーラスは油断なく身構えた。
「余の名を聞くとは、よい度胸だ。さては最高位の魔女だな」
「いいえ、私は魔女ではないし、名前は呪文を唱えるのに使うのじゃありません」
佐和もゼファーのときの経験があるので、もうすっかり慣れたものだ。
「この世界では、名前をうかがうのは、相手と仲良くなる第一歩なんですよ」
「仲良くする?」
ユーラスはまた考え込んだ。
(この女、どうやら余を敵だとは思っておらぬらしい。これは好都合かもしれぬ)
内心ほくそ笑む。
(味方のふりをして油断させ、こいつらを人質にしてしまえばよい。ゼファーの奴め。帰ってきたら驚くぞ。自分の居城が余に乗っ取られて、入りたくとも入れないのだからな)印度神油
「余の名は、ユーラス・サウリル・ギゼム・ド・ファウエンハールだ」
「あ、あの、長いので覚えられません。ユーリさんとお呼びしていいですか?」
「――好きにするがよい」
「それじゃあ、ユーリさん、おにぎりはいくらでも作りますので、どんどん食べてくださいね」
皿に盛られた白い三角形の山は、つやつやと輝き、どうにも目が離せない。
横から、ひょいと小さな手が伸びてきた。
「おにいちゃん、雪羽とどっちが早く食べられるか、きょうそうしよ。ヨーイ、ドン」
なぜか、その「ヨーイ、ドン」という魔法の呪文を聞くと、ユーラスは矢も盾もたまらず、三角形にむしゃぶりついた。
その夜、ゼファーは残業を終えて、疲れた身体で家路についた。
会社の業績は、悪化の一途をたどっている。
そのことを聞きつけた部品メーカーや機械リース会社の中には、現金でしか取引に応じないところも出てきた。
経理は、すでに自転車操業状態だった。いくら、工場長やゼファーたちが新規の受注を取ってこようにも、もうそれすら引き受けられないところまで追い込まれている。
(時間の問題なのかもしれないな)
凍えた夜の道をひとりで歩いていると、つい悪いほうへと気持が向いてしまう。
ゼファーはぐっと拳を握りしめると、勢いよくアパートの階段を駆け上がった。
「おかえりなさい」
いつもの明るい佐和の声に迎えられて、靴を脱いで部屋にあがったゼファーの手から、持っていたカバンがどさりと落ちた。
部屋の中では、雪羽といっしょの毛布にくるまって、ユーラスがこのうえなく幸福そうな寝顔で、眠りをむさぼっていたからである。
朝焼けが窓をうっすらとバラ色に染めている。
暖かい布団にぬくぬくとくるまりながら、また若かった頃の夢を見ていたユーラスは、目を開けた。
(いったい、なぜ余はこんなところに寝ているのだ)
記憶を取り戻すまで、しばらくかかった。
確か昨日は、魔王城に突入し、勧められるままに食事をしたのだった。
あの白い三角形の食物は、たいそう美味だった。
お腹が満たされたあとは、雪羽という魔王の娘に付き合って、積み木やカルタで延々と遊ばされた。
そのあいだに魔王の妻だという女、佐和は彼のぼろぼろに破れたマントを丁寧につくろい、短く仕立て直してくれた。
そして、夕食を平らげたあとは、魔王の帰りを待つうちに、睡魔に勝てずにそのまま寝てしまったのだった。
(結局、昨夜はやつは居城に戻らなかったのか)
魔王の邪悪な気配がそばに近づけば、たちまち目が覚めるはず。とてもこんなにぐっすりとは寝ていられなかっただろう。
顔を横に向けると、狭い部屋に四つの布団が敷き詰められているのが見える。
佐和はもう早くから起きているらしく、紙張りの引き戸で隔てた向こうからは、軽やかな足音や水音が聞こえてきた。
雪羽の隣には、見たことのないひとりの人間が寝ていた。
優しそうな男だ。漆黒の髪は寝ぐせがついて先が丸まっている。身なりは貧しいが、気品を備えた風貌をしていた。
(誰だろう。こやつも魔王の従者なのか)
突然、魔王の娘がむくりと起き上がり、男に向かって寝ぼけたような声をあげた。
「父上、おしっこぉ」
「な、な、なんだと!」
ユーラスは、布団から跳ね起きると、枕元に置いてあった剣を鞘ごとつかんだ。
「おのれ、きさまが魔王か!」
ゼファーは身体を起こして大きな欠伸をすると、ちらりとユーラスを見た。
「朝っぱらから、うるさい。少しは時間をわきまえろ」
「なんだと」
「だいたい俺のパジャマを着ているくせに、威張れた立場か」
「……」
ユーラスは自分の着ているものを見た。確かにゆうべ風呂に入った後に、だぶだぶの服を借り受けて着ていたのだった。
「おまけに昨日一日で、おにぎりを15個も食ったそうだな」
と、すこぶる不機嫌そうな声で言う。「そのせいで、俺の夕食のおにぎりには、鮭が入ってなかった」
「父上ぇ、おしっこ、もれちゃうぅ」
「雪羽はもう、ひとりでトイレに行けるだろう」
「でも、父上といっしょがいいの!」
「やれやれ」と、魔王は娘の両脇に手を差し入れて抱きあげると、行ってしまった。
布団の上に残されたユーラスは、自分の目が見たことが信じられなかった。
幼い娘を抱っこして厠に連れていくなど。おにぎりに鮭とやらが入ってないと文句を言うなど。これが、最強の魔王軍の頂点に立ち、無慈悲にも人間を殺戮し続けた、あの魔王なのか?
佐和が、ひょいと部屋の仕切りから顔をのぞかせた。
「ユーリさん、私パートに行って来ます。朝ごはんは用意しておきましたから、おなかがすいたら食べてくださいね」
「う、うむ」
「でも……大丈夫かしら。敵同士のふたりを残して行って」
佐和の目は心配そうに、ユーラスの顔と、トイレから戻ってきた夫の顔の間を往復する。
ゼファーは肩をすくめて、答えた。
「大丈夫だろう。万が一戦うことになれば、雪羽を隣の田中さんに預けて外へ出る」
「それじゃあ、くれぐれも、ふたりとも怪我のないようにお願いしますね」
(……何だ、この緊張感のない会話は)
佐和が出て行ったあとゼファーは、剣を手に立ち尽くしているユーラスに背中を向けて、さっさと布団をたたんで、押入れにしまい始めた。
ユーラスは、無視されたことへの屈辱に震えた。
「魔王よ、外に出ろ。きさまの望みどおり、戦ってやる」
「この時間はまだ、暗くて寒いぞ」
「黙れ。今日こそ、おまえの心臓をこの剣で串刺しにしてやる」
「いいから、先にそのパジャマを着替えて、顔を洗って、飯を食べろ」
「ふざけるな!」
怒りが頂点に達し、ユーラスは剣を抜いて斬りかかった。
ゼファーは軽く身をかわすと、勇者の腕をうしろにねじりあげた。
「こんなものを、狭い部屋で振り回すな」
「うっ」
命の次に大切な剣は、あえなく床に落ちた。
「ふすまを破ってみろ、張替え代2100円を弁償してもらうぞ」
ユーラスは腰砕けになって畳に座り込み、深くうなだれた。
悔し涙が目ににじむ。
やはり、この幼い身体ではダメなのだ。七十年前、魔王を倒したときに持っていた力も技も、何もかも失ってしまった。
ゼファーは、そんな彼をじっと見下ろした。
「ナブラの王よ。見てのとおり、俺はすでに魔王ではない。普通の人間だ」
「……だが、この世界を征服して、アラメキアに攻め込むことを企んでいる。――アマギがそう言っていた」強力催眠謎幻水
「昔の話だ。佐和と結婚して以来、そんな気はとうに失せた」
「嘘をつくな。今もなお、コージョーという国を侵略しているくせに」
「コージョー?」
「毎日、朝早くから夜遅くまで出陣していると聞いた」
魔王は顔をそむけ、驚いたことに、くつくつと笑い出した。
「……おまえもいっしょに来てみるか?」
「え?」
「自分の目で確かめてみろ。俺がこの世界で、何と戦っているのか」
佐和がパートから帰ってきたあと、ゼファーとユーラスは連れ立って外へ出た。
アパートの軒下で、ローブにくるまって寒さに震えていたアマギは、ふたりが並んで階段を降りてくるのを見て、目を丸くした。
「ゼ、ゼファーさま」
数年ぶりに再会した老科学者に、ゼファーは皮肉げに笑いかけた。
「変わらんな、天城博士。アラメキアでは不思議なことに、この世界の人間はまったく齢を取らないと見える」
「わ、わたしを裏切り者だと思っているだろう」
闇組織の非情なボスだった頃のゼファーしか知らないアマギは、あたふたとユーラスの後ろに隠れた。
「だがわたしは、どんな手段を使ってでも地球に帰りたかった。【転移装置】の成功を、わたしの並行宇宙理論の正しさを、わたしをバカにした科学者どもに突きつけてやりたかったんだ」
「大賢者。おまえは【装置】のところに戻っていろ」
ユーラスはアマギに低く命じると、そのままゼファーの後に従った。
連れて行かれたのは、コージョーと呼ばれる、何の装飾もない大きな建物だった。
そろいの服を着た大勢の人間が、集まってきた。魔王とともに攻撃を受けるかと一瞬身構えたユーラスは、満面の笑顔が彼に向けられていることに戸惑った。
「かわいいーっ」
「おっ。坊主、不登校か。俺の仲間だな」
「主任、この子、ご親戚ですか? どことなく似てますよ」
彼らのあけっぴろげな様子から察するに、ゼファーは、ここで厚い信頼を受けているに違いなかった。
(アラメキアでは人間の敵だった魔王が、この世界では人間から慕われている?)
とてもではないが、認めたくない光景だった。
ユーラスはその日一日、工場の隅にぼんやり座って、魔王が彼らとともに、ほとんど休みも取らずに働くのを見つめていた。
とっぷりと日が暮れたころ、ようやく彼はユーラスのもとに戻ってきた。
「待たせたな」
「……いや」
「ナブラ王。これが、俺の戦場だ」
「これが、戦場――」
「そうだ。この世界はアラメキアとは違う。生きて家族を養うためには、朝から晩まで額に汗して働かねばならぬ」
かつての魔王は、工場のうす汚れた天井を見上げて笑んだ。
「ここで俺は機械油にまみれ、朝から晩まで、単価数十円や数百円にしかならぬパーツを作っている。だがこれは、破壊のための戦いではなく、生み出すための戦いだ」
「……」
「今のところ、負け戦のようだがな。それでも俺は最後まであきらめない」
と言いながら、その笑顔には誇りさえにじむ。
ユーラスは目眩を感じた。それほどに激しく動揺している。
「さあ、帰るぞ」
工場を出て、夜の道を先立って歩き出した魔王に、とぼとぼとついていく。
奴の背中が大きく見える。それとも余が小さくなっただけなのか。
突如、得体のしれない悲しみと怒りが、腹の中を駆け上がってきた。
「余は、きさまを赦さん!」
ユーラスは立ち止まり、小さな全身がきしむほどの大声で叫んだ。
「アラメキアは、魔族との戦争で大きな荒廃を喫したままだ。その爪あとは、四王国で今も消えておらん。民はいまだに食糧不足に苦しみ続けている」
魔王は背中を向けたまま、何も答えない。
「たくさんの命が失われた。きさまのせいで! そのアラメキアを逃げ出して、知らぬふりをして生きようというのか。新しい戦いを始めようというのか。余は赦さん! きさまには、あの戦いを忘れる資格などない!」
ユーラスは、ゼファーを残して駆け出した。月明かりの中をめちゃめちゃに走った。
どうして自分のことを負け犬のように感じるのか、わからなかった。
若き紅顔の勇者は大胆にも、真正面から斬りかかってくる。その気迫は、ゼファーの紫の目が放つ魔力さえ跳ね返している。
注意を奪われた一瞬をついて、両側面から【テュールの七重の鎖】がゼファーの身体に巻きつき、ぶざまにも膝をついた。
その足元には、魔族と人間の死骸が、じゅうたんのように敷き詰められている。
髪をふり乱してもがき、牙で鎖を噛み切ろうとしたが、縛めはびくともしない。
ゼファーは憤怒に我を見失った。
ただ憎い。何もかもが憎い。
人間が、人間に加担する精霊の女王が、そして女王の愛するアラメキアそのものが憎い。
右手に鋭い痛みを感じる。
ナブラ王ユーラスの剣先が、彼の手首を刺し貫いたのだ。
ゼファーは野獣のように吼えた。魔力が噴水のように、傷口から失われていく。精霊の女王が、人間の四人の王に与えたという聖なる封印の剣。
ついで、左手。左足。右足。
「魔王ゼファー。きさまに殺された幾万の民の恨みを思い知れ!」
「おの……れ。ユーラス」
ひゅーひゅーと互いの息が感じ取れるほど間近で、ふたりは命を懸けた憎悪をこめて睨み合った。
ゆっくりと起き上がると、ゼファーは吐息をついた。
「ゼファーさん」
佐和が布団の中から、そっと夫の名を呼んだ。
「眠れないのですか?」
「……ああ」
彼は大きな手で、妻の髪を撫でた。
「おまえは、何も心配する必要はない」
「ええ。わかっています。けれど……」
佐和は今までの結婚生活で、夫がときどき、ひどく辛そうに見えることに気づいていた。
そういうときのゼファーは決まって、何も見ていない目をしている。
この世界にあるものすべてを突き抜けて、過去の記憶を見ているのだ。そして、絶対そのことを語ろうとしない。VIVID
2013年2月21日星期四
As I look at the moon, I become hairy.
自分でもどうかしていると思う。それは分かってる。
けれど、何度考えてもおかしい。そして私の格好もおかしい…たぶん。levitra
今は宵の口で、空には夜の色が混じりだして寂しげな色にになっている。でも、商店街は夕飯の買い物をする奥様たちで賑わっているから、寂しさとは無縁だ。自転車をゆっくり押しながら歩く人の影に隠れるように、私は歩く。
私は慣れない眼鏡をかけている。普段はコンタクトだから、鼻の辺りがむず痒い。おまけにマスクもつけていて、眼鏡の柄とマスクの紐の耳への負担で、少し頭が痛い。マスクでろ過されて吐き出される息は白い。街灯のスポットライトに、私の息が溶ける。
「さむーい」
私は軽く巻いているマフラーを、ぐるぐる巻きにした。幾ら小春日和でも、夕方になるとだいぶ寒い。もうひと月もすればクリスマスだ。通りかかった洋菓子屋さんの前にはサンタの格好をした女の子の人形が飾られている。私は人間の子供くらいもあるそのお人形の頭を強く撫でた。あなたは呑気でいいね、私はいま結構大変なのに。
パーカーの袖越しに、ひんやりとした空気が肌に伝わる。足先も冷たい。やっぱりブーツにすればよかった。でも、私はヒールのあるブーツしか持ってない。アスファルトを歩くとこつこつと音がでる。音に気をつけるなら、スニーカーが一番だ。選択は正しい。
今の私はスパイだ。ストーカーじゃなく、あくまでスパイ。
対象は雨宮《あまみや》迅《じん》。社会人2年目。ひょろっと背が高いから、どこにいてもすぐ分かる。スーツ姿でない彼は、少し幼くみえる。グレーのジャケット、ブラックジーンズ。手足が長いから、何を着てもよく似合う。
迅はとてもきちんとした人だ。いつも持ち歩いているショルダーバッグからエコバッグを取り出している。場所はお肉屋さんの前。ショーケースを熱心に覗いて、随分考えてから注文している。お店の人はちょっとびっくりした顔をしてから、ケースの肉を切り分けて、量る。
私は、彼のいるお店の向かい本屋さんにいる。店頭に並ぶ適当な雑誌を広げて、ちらちらと迅を見る。エコバッグを持っていても、大きな肉の塊を買っていても、サマになるなあ。なんてしなやかな指をしてるんだろう。そのくせ大きい手。包装されたお肉の塊を余裕で片手で持って、丁寧にエコバッグに入れる。
「迅ちゃん、今日は随分奮発したね。彼女でもくるのかい?」
お得意さんなのか、お肉屋のおばさんは迅を親しげにからかう。おばさんの声はだみ声でよく通る。彼女。私はどきっとして、急いで眼鏡を引き上げる。迅の表情の変化を見逃さないように。
すでに足を進行方向に向けていた迅は、おばさんの声に振り向いて、困ったような照れたような顔をして頭を掻いた。迅のさらさらの髪が揺れる。迅の髪は柔らかで茶色くて、夕日の欠片に照らされて金色がかってみえた。
「これから彼女が来る」って顔してる。私には、そう見える。
胸が痛い。彼女って誰?
再び歩き出す背を追いかけたい。肩をたたいて、びっくりした迅に聞きたい。…彼女って誰?
私じゃあ、ないの?
迅と私は会社の同期だ。迅は営業、私は総務。歳は私がひとつ下。新人研修でお互いに挨拶したとき、さわやかなヤツだなあ、と思ったのを覚えている。笑うと白い歯が見えた。
迅は誰とでも適度な距離を置いて付き合う。ひと当たりがいい。営業の成績はダントツで、とにかくよく動く。電話一本、カバンを持って直ぐに駆け出す。とても俊敏だ。私は風を切るように駆けていく彼の後姿をいつもぼんやりと目で追っていた。なんでもない普通のオフィスビルの中を、まるで草原を駆けるように颯爽《さっそう》と、茶色の髪を揺らして走る彼を。
そうやって彼に目が行くようになって、同じように迅を目で追う同僚が多いことに気が付いた。秘書課の遠藤さんもその中に入っている。遠藤さんは清楚な美人だ。遠藤さんに微笑まれて心の動かない男の人なんていないんじゃないだろうか。
受付の田端さんもそう。遠藤さんとはまた違った派手な美人で、迅が受付の前を通るといつも呼び止める。どう考えたって迅に気があった。私に勝ち目があるわけない。ただ、私は幸運にも同期なので、彼との繋がりは切れない。時々ランチに行ったり、自販機の前でちょっとした仕事の愚痴を言い合ったりしていた。
迅が目の前にいると、私の心臓の鼓動は早くなる。私は低血圧で、いつも朝起きるのが大変だけれど、迅の前にいると高血圧になってるに違いなかった。顔は火照って、じんわりと背中に汗をかく。顔がてかてかしていたらどうしようとか、そんなことばかり気にかかる。目は意識して合わせないようにしていた。目を見て話すことが出来ないほど、私は迅が好きだった。幸いにも私はチビなので、真っ直ぐ前を見ても、背の高い迅の咽喉《のど》の辺りしか見えない。
私はともかく、社内の二大美人でさえ迅に興味を持っていたのに、不思議なことに迅には入社2年目の春まで彼女がいなかった。遠藤さんをふったとか、田端さんの色仕掛けに動じなかったとか、ホントか嘘か分からない噂が出た。でも迅は特に気にしていないようだった。私はそんな噂が出るたびに、ひとりで一喜一憂していたのだけれど。蒼蝿水(FLY D5原液)
もうひとつ、不思議があった。迅は夜の付き合いが悪い。飲みに行ったのは、新人歓迎会の一回だけ。仕事だって全て昼間にこなす。必ず定時に帰る。大きなバイクで、ヘルメットを被るところを何度も見かけた。近辺の会社と比べると、ウチの会社は始業時間が少し早くて、就業時間も合わせて少し早い。だから、夜の迅を知っている人は、社内にいない。…入社当時こそ、付き合いが悪いと上司に言われていたけれど、彼の営業成績はすごくいいから、そのうち何も言われなくなった。
きっと彼女がいるのね。…社内の噂は、行き着くべきところに落ち着いた。迅はその彼女をとても大事にしているから、夜は早くに帰るのだと。噂には尾ひれがつき、その彼女は病弱だとか、余命少ないから迅は病院に通っているとか、なんだか悲劇的になっていった頃…。
忘れもしない、入社二年目の…今年の春。昼休み、いつもの自販機まえ、いつものコーヒーを飲んでいる迅が、ふいに言った。
「俺と目を合わせないね」
飲んでいた紅茶をふきだすかと思った。私は咳き込んだ。自然に俯き加減になる私を、迅が覗き込む。
「ずっと好きだったんだけど。気付かなかった?」
今度こそ私はふきだした。迅は私の背を軽く叩いてから、綺麗にアイロンのかかったハンカチを貸してくれた。
「今度の休み、どこか行かない…って誘ってもいい?」
多分私の顔は見られたものじゃなくて、咳は止まらないし、なんでか涙は出るし、ついでに鼻水まで出る始末だった。迅のストライプのハンカチは、これ以上ないほど活躍した。鼻をすすり上げると、ハンカチからは日なたの匂いがした。
「私、この瞬間にも振られそうだね」
涙声で言った私の頭を、迅が撫でてくれた。私はまだ、彼の顔を見られない。
「じゃ、了解ってことでいいのかな」
こうして、私たちの付き合いは始まった訳だけれど。
あの時、それは盛大に咳き込んでいたから、当然周囲には直ぐにバレた。ウチの会社は社内恋愛禁止じゃなかったけれど、私は随分とやっかみを買ったものだ。
それでも、別に平気だった。表立って意地悪する人がいるわけじゃないし、何より迅が、プライベートと仕事をきっちり分ける人だったので。…最初の告白以外は。だってなかなかチャンスないし、あのとき妙に可愛かったからさ、と迅は笑っていたけれど。
私たちは仲が良かった。休日はいつも一緒に出かけた。遊園地、近所の公園、水族館。私のアパートでゆっくり過ごした日もあったっけ。たくさん話をした。私が話し手、迅が聞き手。彼は話を聞くのが上手だ。「それで?」と優しく先を促してくれる。私はとても幸せだった。
…昨日、田端さんと話すまでは。
「ねえ、雨宮くんって、夜は何をしているの?」
終業時間がだいぶ過ぎた、更衣室だった。ふいに、田端さんが私に話しかけた。
私は曖昧に笑った。答えられないからだ。だって私は夜の迅を知らない。迅と逢うのはいつも昼間。お日様の出ている間だけだ。私たちは中学生のように、夕方別れる。場所はだいたい知っていても、彼のアパートに行ったこともない。
ずっとずっと不安だった。でも、その不安をぶつけてしまったら、迅は居なくなってしまう…そんな気がして、聞けないでいた。
田端さんに、本当のことを言うのは嫌だった。気の利いた嘘も思いつかず、私が少し黙っていると、田端さんが化粧を直しながら言う。
「雨宮くんって、謎の多い男よねえ。夜のことは誰も知らない…か。『彼女』さえ知らない秘密って、なんだかドキドキするわよね」
田端さんの言う『彼女』の言葉には、明らかにトゲがあった。田端さんがお先に、と更衣室を出て行ってしまったあとも、私の心に真っ直ぐにささったそのトゲは抜けない。チクチクと、胸が痛んだ。更衣室から出たとき、私は決心した。
だから私はここにいる。迅との約束がない土曜日。以前、迅はいつもスーパーじゃなくて近くの商店街で買い物するって言っていた。あの雰囲気が好きなんだよね、ほのぼのしてて皆幸せそうでさ。
確かにこの商店街はなんだかとても癒される、と思う。普段の私だったら。
でも今は、私だけがこの風景から浮いている。だって私は自分の彼をスパイしている。彼の秘密を暴こうとしている。幸せの場所に紛れ込んだ、嫌な女。分かっていても、私はもう後に引けない。
迅は人込みを上手に縫いながら、幾つかの店に立ち寄った。そしてひとり分とは思えない量の食糧を買い込む。シンプルなエコバッグはすでに満杯だ。
エコバッグを抱え直して、迅は何度か空を見上げた。空には一番星が出ている。迅の足が速まる。私もこそこそと後を追った。
路地を曲がるごとに、どんどん賑わいから遠ざかる。気が付けば住宅街で、どこからか煮物のような匂いがしてきた。私のお腹がぐう、と鳴る。こんなに緊張していても、お腹がすく自分が嫌になる。
迅の歩調は速い。私が小走りでなんとか追いつく速さだ。ひとりで歩くときはこんなに速いんだ。…迅は私にいつも合わせてくれているんだ、と気付く。Motivator
優しい迅。こんなに優しいのにこんなに好きなのに、私は一番じゃないんだろうか。怖い、本当は知りたくない。でも、もうこのままではいられない。私は迅の全てが知りたい。
迅が一軒のアパートに入っていく。道路側に階段のある、ちょっと古びた二階建てのアパートだ。アパートの横に、見慣れたバイクがあった。エンジ色に塗られた階段を登って、一番手前の部屋に迅が入っていく。そして、明かりがついた。
私は向かい側の電柱の横で考える。迅は鍵を開けた。明かりをつけた。ということは、部屋は無人だったはずだ…たぶん。
ふいに肩の力が抜けた。首の付け根がすごく凝っていた。私は電柱に軽く寄り掛かる。
迅のアパートの背景に星空が見える。いつの間にかすっかり夜だ。私はマスクをとって空に向かって息を吐きだした。白い息の向こうにみかん色の月が見える。とても綺麗な満月だ。そういえば、ゆっくり夜空を見上げるのは久しぶりだな。なんとなく手を擦り合わせると、指先が随分と冷たくなっていることに気が付いた。
寒さのせいじゃないと思った。極度に緊張していたせいだ。
「なんだか私、馬鹿みたい…」
ホントに馬鹿みたいだ。情けなくて涙が出そうになる。迅には迅の事情があるのに。幾ら彼女だって、立ち入ってはいけないところがある。秘密を暴《あば》いて何になるというの?
帰ろう。私はマスクを外してパーカーのポケットに突っ込み、マフラーを鼻先まで引き上げた。もう一度だけ迅の部屋を仰ぐ。いつか、迅がここに招いてくれますように。
寒さに肩が震えた。私は自分の肩を抱いて帰路につく。
振り返って直ぐ、壁があった。…壁じゃない。人だ。見上げればフルフェイスのヘルメットを被った男が立っている。男の手が伸びて、強く肩を掴まれた。同時に心臓が掴まれたような恐怖が湧き起こる。
路地には人影がない。でも、近くの家には明かりが点いている。叫べば、誰か助けてくれるかもしれない。誰か…迅、ごめんなさい。助けて。
悲鳴の形になった口元を、黒い皮手袋を嵌めた大きな手に塞がれる。私はありったけの力で暴れた。とりあえず相手の足を踏んだ。ああ、やっぱりヒールのある靴にすればよかった。
「いてっ」
その声には聞き覚えがある。聞き覚えがあるどころではない…けれど。
「迅?」
なんでそんな格好しているの?と言う前に、迅は手袋の手で「シー」と、人差し指を立てると、私を軽々と抱き上げた。本当に、軽々と。
線のほそい迅からは想像も出来ない力強さに、私は驚いて何も言えない。迅はそんな私に軽く頷くと、地を蹴った。
ぐん、と身体が浮き上がるような感覚。迅はたったひと蹴りでブロック塀の上に降り立ち、直ぐにもう一度跳ぶ。ばたばたと耳元で風が鳴った。
「声を上げないで」
次はアパートの屋根で跳ぶ。重さを感じさせない、跳びかた。まるで猫みたいだ。跳びながら、迅が耳元で囁いた。私は頷くことしか出来ない。急降下に迅の首に縋りつくと、「そう、いい子だ」と迅がヘルメットの奥で笑う。
迅は次々と跳んだ。屋根から屋根へ。どんどん高く。私がスパイごっこをした商店街を越えて、いつの間にかビル群の中に…そして、明かりの疎《まば》らな一際高いビルの屋上に降り立つと、私をそっと降ろした。屋上の隅で赤いライトがちかちかと光っている。航空障害灯というんだよ、と迅が以前教えてくれたことを思い出しながら、私はこわごわと足をつく。浮遊感が身体に残っていて、ふらふらする。迅が支えてくれたけど、すぐに離れた。
「スパイごっこは楽しかった?」
「気付いてたんだ。…なんで怒らないの?」
迅はヘルメットを脱がない。だから表情は分からない。怒っているのか、そうでないのか平淡な声からは分からない。それに、今起こったことは何なのか。私は夢でも見ているのかもしれない。
「怒らないよ。確かに俺は不自然だからね。大事な人に、夜の姿を見せていない…月の夜の、俺の姿を」
迅は空を見る。さっきより近いところに円い月がある。迅はしばらく月を見て、ずっと下の道路から聞こえるクラクションの音に我に返ったように、私に向き直る。
「嫌われたくなかったんだ。俺は普通じゃないから。本当はね、入社の時の歓迎会だって断ろうと思ったんだよ。でもあの日は雨だったから。…俺は名前に『雨』があるけれど、困ったことに晴男でね」
そういえば、迅との思い出を振り返っても雨の風景は浮かんでこなかった。
「受け入れられなかったら……別れてくれていい。ありのままの俺を見せるから。…俺の家系には昔、妖怪と結ばれた人がいるんだよ。それで、時々先祖がえりが生まれる。突飛もない話だと思うだろう?でも、本当なんだ」
言いながら迅はまず手袋を外した。きらきらと金色がかった体毛が、手全体を覆っているSPANISCHE FLIEGE。
「迅…」
「まって、全部、見て」
両方の手袋をとってから、迅はゆっくりとヘルメットを脱ぐ。見慣れた迅の顔じゃない。犬…ちがう、狼だ。金色の狼。人の姿をした、狼だ。
「どう、これが俺。人狼っていうんだ。分かりやすく言えば狼男。昔話に出てくる、あれだよ。月の光を浴びると、こうなる。毛深くなる…なんて可愛いもんじゃないだろう?力もぐんと強くなるしね。でも安心して、俺は人の意識を失わないから、襲ったりしないよ」
私は口元をおさえた。おとぎ話だ、まるで。私の好きな人は、夜、狼になる。
「男はみんな狼っていうけど」
思わず言うと、迅は狼の顔を歪めた。どうやら笑ったようだ。よく見ると狼ほどの鋭さはない。迅の柔和な部分が残っている。
「ほんとだね、文字通りだ」
自嘲気味に言って、目を伏せる。私が少しでも怯えたら、迅はきっと居なくなる。
怖いとは思わない。月の光に照らされる迅は、とても綺麗だ。ああ、言葉が足らない自分がもどかしい。とにかく狼の彼も、私は好きだということだ。私はゆっくりと彼に寄り、うんと背伸びして彼の頭を撫でた。三角の耳が、ぴくんと動く。
「狼でも何でも、迅が好き」
心からそう思った。迅が私を抱き締める。いつもよりも日なたの匂いが強い。会社の自販機のまえの、突然の告白を思い出す。あのときのハンカチ。ずっと変わってない想い。
「ありがとう」
搾り出すように言って、迅は急に私から離れた。
「ごめん、ほんとはずっとこうしていたいんだけど」
恥ずかしそうに迅が頭を掻く。また耳がぴくんと動く。
「狼に近づくごとに、いろんな欲が増すんだよ。食欲とか…そのほかの欲も。満月の晩は、本当にどうにもならないんだ。たとえ月光を浴びないで、人の姿を保っていてもね」
あのたくさんの食糧は、全部自分のなんだ。私は納得して、それから迅の言った『そのほかの欲』に思い当たって、赤くなる。
「下まで送るから…ひとりで帰れる?」
迅がもう一度手袋とヘルメットを身に着けて、私を抱き上げる。まるで重さなんて感じていないように抱き上げられると、なんだか嬉しい。おとぎ話のお姫様になったみたいだ。
「月の光を浴びなければ、人に戻るの?」
「うん、まあ…そうだね」
私は迅の胸に顔を埋める。迅の身体が強張るのが分かる。
「それなら今日は、迅のところに泊まりたい」
ヘルメットの奥の迅が驚いているのが、気配で分かる。
「いいの?疲れちゃうよ、きっと」
「うん、いい」
迅は私の耳を優しく咬んだ。熱っぽい声で「帰るまで我慢するのが大変だ」と言う。
そして、跳ぶ。きらきらと光る夜の街に。
だって明日は休みだ。迅のアパートで朝寝坊。きっととても幸せな目覚めだろう。
もう、私たちの間に、秘密は何もない。SPANISCHE FLIEGE D9
けれど、何度考えてもおかしい。そして私の格好もおかしい…たぶん。levitra
今は宵の口で、空には夜の色が混じりだして寂しげな色にになっている。でも、商店街は夕飯の買い物をする奥様たちで賑わっているから、寂しさとは無縁だ。自転車をゆっくり押しながら歩く人の影に隠れるように、私は歩く。
私は慣れない眼鏡をかけている。普段はコンタクトだから、鼻の辺りがむず痒い。おまけにマスクもつけていて、眼鏡の柄とマスクの紐の耳への負担で、少し頭が痛い。マスクでろ過されて吐き出される息は白い。街灯のスポットライトに、私の息が溶ける。
「さむーい」
私は軽く巻いているマフラーを、ぐるぐる巻きにした。幾ら小春日和でも、夕方になるとだいぶ寒い。もうひと月もすればクリスマスだ。通りかかった洋菓子屋さんの前にはサンタの格好をした女の子の人形が飾られている。私は人間の子供くらいもあるそのお人形の頭を強く撫でた。あなたは呑気でいいね、私はいま結構大変なのに。
パーカーの袖越しに、ひんやりとした空気が肌に伝わる。足先も冷たい。やっぱりブーツにすればよかった。でも、私はヒールのあるブーツしか持ってない。アスファルトを歩くとこつこつと音がでる。音に気をつけるなら、スニーカーが一番だ。選択は正しい。
今の私はスパイだ。ストーカーじゃなく、あくまでスパイ。
対象は雨宮《あまみや》迅《じん》。社会人2年目。ひょろっと背が高いから、どこにいてもすぐ分かる。スーツ姿でない彼は、少し幼くみえる。グレーのジャケット、ブラックジーンズ。手足が長いから、何を着てもよく似合う。
迅はとてもきちんとした人だ。いつも持ち歩いているショルダーバッグからエコバッグを取り出している。場所はお肉屋さんの前。ショーケースを熱心に覗いて、随分考えてから注文している。お店の人はちょっとびっくりした顔をしてから、ケースの肉を切り分けて、量る。
私は、彼のいるお店の向かい本屋さんにいる。店頭に並ぶ適当な雑誌を広げて、ちらちらと迅を見る。エコバッグを持っていても、大きな肉の塊を買っていても、サマになるなあ。なんてしなやかな指をしてるんだろう。そのくせ大きい手。包装されたお肉の塊を余裕で片手で持って、丁寧にエコバッグに入れる。
「迅ちゃん、今日は随分奮発したね。彼女でもくるのかい?」
お得意さんなのか、お肉屋のおばさんは迅を親しげにからかう。おばさんの声はだみ声でよく通る。彼女。私はどきっとして、急いで眼鏡を引き上げる。迅の表情の変化を見逃さないように。
すでに足を進行方向に向けていた迅は、おばさんの声に振り向いて、困ったような照れたような顔をして頭を掻いた。迅のさらさらの髪が揺れる。迅の髪は柔らかで茶色くて、夕日の欠片に照らされて金色がかってみえた。
「これから彼女が来る」って顔してる。私には、そう見える。
胸が痛い。彼女って誰?
再び歩き出す背を追いかけたい。肩をたたいて、びっくりした迅に聞きたい。…彼女って誰?
私じゃあ、ないの?
迅と私は会社の同期だ。迅は営業、私は総務。歳は私がひとつ下。新人研修でお互いに挨拶したとき、さわやかなヤツだなあ、と思ったのを覚えている。笑うと白い歯が見えた。
迅は誰とでも適度な距離を置いて付き合う。ひと当たりがいい。営業の成績はダントツで、とにかくよく動く。電話一本、カバンを持って直ぐに駆け出す。とても俊敏だ。私は風を切るように駆けていく彼の後姿をいつもぼんやりと目で追っていた。なんでもない普通のオフィスビルの中を、まるで草原を駆けるように颯爽《さっそう》と、茶色の髪を揺らして走る彼を。
そうやって彼に目が行くようになって、同じように迅を目で追う同僚が多いことに気が付いた。秘書課の遠藤さんもその中に入っている。遠藤さんは清楚な美人だ。遠藤さんに微笑まれて心の動かない男の人なんていないんじゃないだろうか。
受付の田端さんもそう。遠藤さんとはまた違った派手な美人で、迅が受付の前を通るといつも呼び止める。どう考えたって迅に気があった。私に勝ち目があるわけない。ただ、私は幸運にも同期なので、彼との繋がりは切れない。時々ランチに行ったり、自販機の前でちょっとした仕事の愚痴を言い合ったりしていた。
迅が目の前にいると、私の心臓の鼓動は早くなる。私は低血圧で、いつも朝起きるのが大変だけれど、迅の前にいると高血圧になってるに違いなかった。顔は火照って、じんわりと背中に汗をかく。顔がてかてかしていたらどうしようとか、そんなことばかり気にかかる。目は意識して合わせないようにしていた。目を見て話すことが出来ないほど、私は迅が好きだった。幸いにも私はチビなので、真っ直ぐ前を見ても、背の高い迅の咽喉《のど》の辺りしか見えない。
私はともかく、社内の二大美人でさえ迅に興味を持っていたのに、不思議なことに迅には入社2年目の春まで彼女がいなかった。遠藤さんをふったとか、田端さんの色仕掛けに動じなかったとか、ホントか嘘か分からない噂が出た。でも迅は特に気にしていないようだった。私はそんな噂が出るたびに、ひとりで一喜一憂していたのだけれど。蒼蝿水(FLY D5原液)
もうひとつ、不思議があった。迅は夜の付き合いが悪い。飲みに行ったのは、新人歓迎会の一回だけ。仕事だって全て昼間にこなす。必ず定時に帰る。大きなバイクで、ヘルメットを被るところを何度も見かけた。近辺の会社と比べると、ウチの会社は始業時間が少し早くて、就業時間も合わせて少し早い。だから、夜の迅を知っている人は、社内にいない。…入社当時こそ、付き合いが悪いと上司に言われていたけれど、彼の営業成績はすごくいいから、そのうち何も言われなくなった。
きっと彼女がいるのね。…社内の噂は、行き着くべきところに落ち着いた。迅はその彼女をとても大事にしているから、夜は早くに帰るのだと。噂には尾ひれがつき、その彼女は病弱だとか、余命少ないから迅は病院に通っているとか、なんだか悲劇的になっていった頃…。
忘れもしない、入社二年目の…今年の春。昼休み、いつもの自販機まえ、いつものコーヒーを飲んでいる迅が、ふいに言った。
「俺と目を合わせないね」
飲んでいた紅茶をふきだすかと思った。私は咳き込んだ。自然に俯き加減になる私を、迅が覗き込む。
「ずっと好きだったんだけど。気付かなかった?」
今度こそ私はふきだした。迅は私の背を軽く叩いてから、綺麗にアイロンのかかったハンカチを貸してくれた。
「今度の休み、どこか行かない…って誘ってもいい?」
多分私の顔は見られたものじゃなくて、咳は止まらないし、なんでか涙は出るし、ついでに鼻水まで出る始末だった。迅のストライプのハンカチは、これ以上ないほど活躍した。鼻をすすり上げると、ハンカチからは日なたの匂いがした。
「私、この瞬間にも振られそうだね」
涙声で言った私の頭を、迅が撫でてくれた。私はまだ、彼の顔を見られない。
「じゃ、了解ってことでいいのかな」
こうして、私たちの付き合いは始まった訳だけれど。
あの時、それは盛大に咳き込んでいたから、当然周囲には直ぐにバレた。ウチの会社は社内恋愛禁止じゃなかったけれど、私は随分とやっかみを買ったものだ。
それでも、別に平気だった。表立って意地悪する人がいるわけじゃないし、何より迅が、プライベートと仕事をきっちり分ける人だったので。…最初の告白以外は。だってなかなかチャンスないし、あのとき妙に可愛かったからさ、と迅は笑っていたけれど。
私たちは仲が良かった。休日はいつも一緒に出かけた。遊園地、近所の公園、水族館。私のアパートでゆっくり過ごした日もあったっけ。たくさん話をした。私が話し手、迅が聞き手。彼は話を聞くのが上手だ。「それで?」と優しく先を促してくれる。私はとても幸せだった。
…昨日、田端さんと話すまでは。
「ねえ、雨宮くんって、夜は何をしているの?」
終業時間がだいぶ過ぎた、更衣室だった。ふいに、田端さんが私に話しかけた。
私は曖昧に笑った。答えられないからだ。だって私は夜の迅を知らない。迅と逢うのはいつも昼間。お日様の出ている間だけだ。私たちは中学生のように、夕方別れる。場所はだいたい知っていても、彼のアパートに行ったこともない。
ずっとずっと不安だった。でも、その不安をぶつけてしまったら、迅は居なくなってしまう…そんな気がして、聞けないでいた。
田端さんに、本当のことを言うのは嫌だった。気の利いた嘘も思いつかず、私が少し黙っていると、田端さんが化粧を直しながら言う。
「雨宮くんって、謎の多い男よねえ。夜のことは誰も知らない…か。『彼女』さえ知らない秘密って、なんだかドキドキするわよね」
田端さんの言う『彼女』の言葉には、明らかにトゲがあった。田端さんがお先に、と更衣室を出て行ってしまったあとも、私の心に真っ直ぐにささったそのトゲは抜けない。チクチクと、胸が痛んだ。更衣室から出たとき、私は決心した。
だから私はここにいる。迅との約束がない土曜日。以前、迅はいつもスーパーじゃなくて近くの商店街で買い物するって言っていた。あの雰囲気が好きなんだよね、ほのぼのしてて皆幸せそうでさ。
確かにこの商店街はなんだかとても癒される、と思う。普段の私だったら。
でも今は、私だけがこの風景から浮いている。だって私は自分の彼をスパイしている。彼の秘密を暴こうとしている。幸せの場所に紛れ込んだ、嫌な女。分かっていても、私はもう後に引けない。
迅は人込みを上手に縫いながら、幾つかの店に立ち寄った。そしてひとり分とは思えない量の食糧を買い込む。シンプルなエコバッグはすでに満杯だ。
エコバッグを抱え直して、迅は何度か空を見上げた。空には一番星が出ている。迅の足が速まる。私もこそこそと後を追った。
路地を曲がるごとに、どんどん賑わいから遠ざかる。気が付けば住宅街で、どこからか煮物のような匂いがしてきた。私のお腹がぐう、と鳴る。こんなに緊張していても、お腹がすく自分が嫌になる。
迅の歩調は速い。私が小走りでなんとか追いつく速さだ。ひとりで歩くときはこんなに速いんだ。…迅は私にいつも合わせてくれているんだ、と気付く。Motivator
優しい迅。こんなに優しいのにこんなに好きなのに、私は一番じゃないんだろうか。怖い、本当は知りたくない。でも、もうこのままではいられない。私は迅の全てが知りたい。
迅が一軒のアパートに入っていく。道路側に階段のある、ちょっと古びた二階建てのアパートだ。アパートの横に、見慣れたバイクがあった。エンジ色に塗られた階段を登って、一番手前の部屋に迅が入っていく。そして、明かりがついた。
私は向かい側の電柱の横で考える。迅は鍵を開けた。明かりをつけた。ということは、部屋は無人だったはずだ…たぶん。
ふいに肩の力が抜けた。首の付け根がすごく凝っていた。私は電柱に軽く寄り掛かる。
迅のアパートの背景に星空が見える。いつの間にかすっかり夜だ。私はマスクをとって空に向かって息を吐きだした。白い息の向こうにみかん色の月が見える。とても綺麗な満月だ。そういえば、ゆっくり夜空を見上げるのは久しぶりだな。なんとなく手を擦り合わせると、指先が随分と冷たくなっていることに気が付いた。
寒さのせいじゃないと思った。極度に緊張していたせいだ。
「なんだか私、馬鹿みたい…」
ホントに馬鹿みたいだ。情けなくて涙が出そうになる。迅には迅の事情があるのに。幾ら彼女だって、立ち入ってはいけないところがある。秘密を暴《あば》いて何になるというの?
帰ろう。私はマスクを外してパーカーのポケットに突っ込み、マフラーを鼻先まで引き上げた。もう一度だけ迅の部屋を仰ぐ。いつか、迅がここに招いてくれますように。
寒さに肩が震えた。私は自分の肩を抱いて帰路につく。
振り返って直ぐ、壁があった。…壁じゃない。人だ。見上げればフルフェイスのヘルメットを被った男が立っている。男の手が伸びて、強く肩を掴まれた。同時に心臓が掴まれたような恐怖が湧き起こる。
路地には人影がない。でも、近くの家には明かりが点いている。叫べば、誰か助けてくれるかもしれない。誰か…迅、ごめんなさい。助けて。
悲鳴の形になった口元を、黒い皮手袋を嵌めた大きな手に塞がれる。私はありったけの力で暴れた。とりあえず相手の足を踏んだ。ああ、やっぱりヒールのある靴にすればよかった。
「いてっ」
その声には聞き覚えがある。聞き覚えがあるどころではない…けれど。
「迅?」
なんでそんな格好しているの?と言う前に、迅は手袋の手で「シー」と、人差し指を立てると、私を軽々と抱き上げた。本当に、軽々と。
線のほそい迅からは想像も出来ない力強さに、私は驚いて何も言えない。迅はそんな私に軽く頷くと、地を蹴った。
ぐん、と身体が浮き上がるような感覚。迅はたったひと蹴りでブロック塀の上に降り立ち、直ぐにもう一度跳ぶ。ばたばたと耳元で風が鳴った。
「声を上げないで」
次はアパートの屋根で跳ぶ。重さを感じさせない、跳びかた。まるで猫みたいだ。跳びながら、迅が耳元で囁いた。私は頷くことしか出来ない。急降下に迅の首に縋りつくと、「そう、いい子だ」と迅がヘルメットの奥で笑う。
迅は次々と跳んだ。屋根から屋根へ。どんどん高く。私がスパイごっこをした商店街を越えて、いつの間にかビル群の中に…そして、明かりの疎《まば》らな一際高いビルの屋上に降り立つと、私をそっと降ろした。屋上の隅で赤いライトがちかちかと光っている。航空障害灯というんだよ、と迅が以前教えてくれたことを思い出しながら、私はこわごわと足をつく。浮遊感が身体に残っていて、ふらふらする。迅が支えてくれたけど、すぐに離れた。
「スパイごっこは楽しかった?」
「気付いてたんだ。…なんで怒らないの?」
迅はヘルメットを脱がない。だから表情は分からない。怒っているのか、そうでないのか平淡な声からは分からない。それに、今起こったことは何なのか。私は夢でも見ているのかもしれない。
「怒らないよ。確かに俺は不自然だからね。大事な人に、夜の姿を見せていない…月の夜の、俺の姿を」
迅は空を見る。さっきより近いところに円い月がある。迅はしばらく月を見て、ずっと下の道路から聞こえるクラクションの音に我に返ったように、私に向き直る。
「嫌われたくなかったんだ。俺は普通じゃないから。本当はね、入社の時の歓迎会だって断ろうと思ったんだよ。でもあの日は雨だったから。…俺は名前に『雨』があるけれど、困ったことに晴男でね」
そういえば、迅との思い出を振り返っても雨の風景は浮かんでこなかった。
「受け入れられなかったら……別れてくれていい。ありのままの俺を見せるから。…俺の家系には昔、妖怪と結ばれた人がいるんだよ。それで、時々先祖がえりが生まれる。突飛もない話だと思うだろう?でも、本当なんだ」
言いながら迅はまず手袋を外した。きらきらと金色がかった体毛が、手全体を覆っているSPANISCHE FLIEGE。
「迅…」
「まって、全部、見て」
両方の手袋をとってから、迅はゆっくりとヘルメットを脱ぐ。見慣れた迅の顔じゃない。犬…ちがう、狼だ。金色の狼。人の姿をした、狼だ。
「どう、これが俺。人狼っていうんだ。分かりやすく言えば狼男。昔話に出てくる、あれだよ。月の光を浴びると、こうなる。毛深くなる…なんて可愛いもんじゃないだろう?力もぐんと強くなるしね。でも安心して、俺は人の意識を失わないから、襲ったりしないよ」
私は口元をおさえた。おとぎ話だ、まるで。私の好きな人は、夜、狼になる。
「男はみんな狼っていうけど」
思わず言うと、迅は狼の顔を歪めた。どうやら笑ったようだ。よく見ると狼ほどの鋭さはない。迅の柔和な部分が残っている。
「ほんとだね、文字通りだ」
自嘲気味に言って、目を伏せる。私が少しでも怯えたら、迅はきっと居なくなる。
怖いとは思わない。月の光に照らされる迅は、とても綺麗だ。ああ、言葉が足らない自分がもどかしい。とにかく狼の彼も、私は好きだということだ。私はゆっくりと彼に寄り、うんと背伸びして彼の頭を撫でた。三角の耳が、ぴくんと動く。
「狼でも何でも、迅が好き」
心からそう思った。迅が私を抱き締める。いつもよりも日なたの匂いが強い。会社の自販機のまえの、突然の告白を思い出す。あのときのハンカチ。ずっと変わってない想い。
「ありがとう」
搾り出すように言って、迅は急に私から離れた。
「ごめん、ほんとはずっとこうしていたいんだけど」
恥ずかしそうに迅が頭を掻く。また耳がぴくんと動く。
「狼に近づくごとに、いろんな欲が増すんだよ。食欲とか…そのほかの欲も。満月の晩は、本当にどうにもならないんだ。たとえ月光を浴びないで、人の姿を保っていてもね」
あのたくさんの食糧は、全部自分のなんだ。私は納得して、それから迅の言った『そのほかの欲』に思い当たって、赤くなる。
「下まで送るから…ひとりで帰れる?」
迅がもう一度手袋とヘルメットを身に着けて、私を抱き上げる。まるで重さなんて感じていないように抱き上げられると、なんだか嬉しい。おとぎ話のお姫様になったみたいだ。
「月の光を浴びなければ、人に戻るの?」
「うん、まあ…そうだね」
私は迅の胸に顔を埋める。迅の身体が強張るのが分かる。
「それなら今日は、迅のところに泊まりたい」
ヘルメットの奥の迅が驚いているのが、気配で分かる。
「いいの?疲れちゃうよ、きっと」
「うん、いい」
迅は私の耳を優しく咬んだ。熱っぽい声で「帰るまで我慢するのが大変だ」と言う。
そして、跳ぶ。きらきらと光る夜の街に。
だって明日は休みだ。迅のアパートで朝寝坊。きっととても幸せな目覚めだろう。
もう、私たちの間に、秘密は何もない。SPANISCHE FLIEGE D9
2013年2月19日星期二
突然の訪問
それから数日。
紫乃は、極力弘晃のことを思い出さないことで平静を保ち、妹たちは見合いの話を姉の前で蒸し返さないことで自分たちの身の安全を確保した。V26Ⅲ速效ダイエット
この間。 紫乃にとって一番厄介なのは自分の母親だった。
彼女は、娘の縁談が決まりそうなので、いつになく浮かれていた。
成り上がりの六条家とは違い、数百年に渡って日本橋の大通りに店を構え、幕府や大名などの御用商人を勤めてきた中村家は、特に体裁を気にする母にとっては、同じ商売人でも商売人の格が違う。
今から結婚式の相談などされても紫乃にとっては鬱陶しいだけだが、かといって邪険にすれば母の不審を招く。
彼女は紫乃がこの縁談に乗り気だと信じているのだ…笑って彼女の話し相手になるしかなかった。
見合いから10日ほどたったある日。
「お嬢さま! ああ、よかった。ようやくお戻りになられた」
いけ花の稽古から帰ってきた紫乃を、女中頭が取りすがらんばかりの勢いで出迎えた。
「どうしたの? そんなに血相を変えて…」
「中村さまです! お見えになっているんです!」
「なんですって?」
紫乃は顔色を変えた。
あの男……、事前に連絡もいれずにいきなり家に押しかけるとは、いったい、どういう了見なのだ?
紫乃はムッとしながら、稽古から持ち帰った花材を束にしたものを抱えたまま、まっすぐに応接間に向かった。
女中頭が後ろから彼女に追いすがりながら、「先ほど奥さまが戻っていらっしゃいましたが、それまでは、お嬢たちがお相手を…」と紫乃に報告する。
その妹たちは、応接間の入り口に群がって中の様子をうかがっていた。
姉を見つけると、彼女たちは、クスクスと笑いながら彼女に道をあけた。
「あなたたち、はしたないわよ。 向こうに行っていなさい」
紫乃は、小さな声で妹たちを追い払った。
去り際に、月子が「素敵な方ね。お姉さま♪」と耳打ちする。
こともあろうに、「お姉さまのお相手が、とても優しそうな方でよかった……」 と、おとなしい夕紀までが、月子に同調した。
『よかった』? あんな男の、どこがよいものか? 全然よくない。
紫乃は、ますます不機嫌になりながら、応接間の扉を開けた。
「やあ、お邪魔していますよ」
紫乃が入ってくるや立ち上がった弘晃が、げんなりするほど晴れやかな笑みを彼女に向けた。
「なにしにっ! ……いらしたのでしょうか?」
母の手前、紫乃は途中で言葉を改めたが既に手遅れ…彼女は母に、「なんという口のききかたをするんです?」と咎められた。V26即効ダイエット
「結婚を前提にお付き合いさせていただくのであれば、紫乃さんのお母さまにもご挨拶しておくべきかと思いまして……」
余計なことにまで気が回る男だ…と紫乃は思ったが、「本当にご丁寧にありがとうございます。 失礼をしたのは、わたくしのほうですのに…」 と、母は、ほんのりと頬を染めながら弘晃に礼を言った。
どうやら、彼は、既に母親を丸め込むことに成功したらしかった。
母と親しげにしている弘晃を紫乃が忌々しく思いながら見ていると、弘晃が、母に向けていた笑顔を、そのままこちらに向けた。
「それから、なによりも、貴女にお会いしたかったので」
「は???」
紫乃の頭は、弘晃の言葉の意味するところを理解することを放棄したようだ。
「なに、言ってるの?」
紫乃は、口をポカンと開けたまま弘晃にたずねた。
「ですから、言葉通りの意味ですよ。貴女にお会いしたくて、ここまで来たんです。 少しばかり、お時間を頂戴できますか? できたら、ふたりだけがいいのですが」
「困ります」
紫乃は即答した。
彼女は、弘晃から逃げるように数歩後ろに下がった。
「困りますか?」
「ええ。とっても」 という紫乃の返事は、「まあまあ、困ったりするわけないじゃないですか。この娘ったら照れているんですわっ!!」という甲高い母の声に打ち消された。
母は紫乃に向き直ると 怖い顔で彼女の耳元に口を寄せた。
「紫乃。 お客様になんて失礼なことを言うのです? 今日のあなた、変よ」
「だって、困ります。 あ、あの。 ほら、持って帰ってきたお花だってね。活けなおさなくてはいけないし…」
紫乃は、まるで自分の身を守るように、持っていた花束を両手で抱えこんだ。
花束から不恰好に突き出た藤の花房が、いやいやするように、母の顔の前で大きく揺れた。
「……で、なんで、こんなことになるのよ……」
数分後。紫乃は、カーペットが敷き詰められた応接間の片隅に正座して花を活けていた。
紫乃の傍らには、 同じく床に敷いた座布団の上に正座をした弘晃が、穏やかな微笑を浮かべながら、彼女のすることを興味深げ眺めている。
母は、すでに席を外していた。
花を活けかえなければならないので弘晃と話す暇はないとごねる娘の主張は、母には通じなかった。
「そうね。では、活けかえておしまいなさい。 弘晃さん。この子の活けた花は、母親のわたくしがいうのもなんですが……」
母は、紫乃の特技を弘晃にアピールする丁度良い機会だと言わんばかりに、女中頭に命じて、活けかえるのに必要な道具や花器を応接間に持ってこさせた。
そして、「では、ごゆっくり」と微笑むと、紫乃と弘晃を残していなくなってしまった。
母は、愛娘をこの男を二人きりにすることについて、何の心配もしていないらしい。
本来は用心深い人なのに、短い間に、よくもそこまでこの男を信用したものだと、紫乃は苦々しい思いをしながらも感心せずにはいられなかった。
「逃げそびれてしまいましたね?」
母がいなくなったのを確認すると、弘晃が、内緒話でもするように紫乃にささやいた。
「べ……別に、逃げようと思ったわけではありませんわ」
紫乃は、弘晃から、つんと顔を背けた。
「そうですか?」
「そうよ。 誰が逃げたりしたりするものですか。 ふ、藤が……」
泳いだ紫乃の目が、紫色の花のところでとまった。
「藤?」
「そう、こ、この藤が」
紫乃は、藤の枝を掴むと、弘晃に突きつけた。
花の重みに耐えかねるかのように藤の蔓が大きくたわんだ。
花の房の動きに合わせて、弘晃の視線が、上から下へ大きく動いた。
「ほらね? 蔓だから花の重みで曲がってしまうのよ。 V26Ⅱ即効減肥サプリ
だから……。だから、後で活け直すことにして、バケツに入れといても良かったのだけど、それでは花を傷めてしまいそうだし…だから、決して逃げようと思ったわけではなくて……」
「なるほど、扱いが難しい花なのですね?」
紫乃の言い訳を、弘晃はニコニコしながら聞いていた。
終始こちらに向けられた微笑といい、やんわりとした話し方といい、紫乃の空威張りなど百も承知だといわんばかりである。
そんな、弘晃の何もかも見透かしたような態度は、紫乃をひどく落ち着かない気分にさせた。
そればかりではない。 この男は、紫乃をわざと怒らせて喜んでいるようなところがある。
紫乃に突きつけられ、まるで、びっくり箱から出てきた人形のように上下に揺れている藤の花を見みながら弘晃が無邪気に言った。
「それにしても……。 この色といい、人の目を引きつかずにはいられない美しさといい、まるで紫乃さんのようですね」
「それは、つまり、私の扱いが難しいっておっしゃりたいんですか?」
たちまち、紫乃の声が尖る。
「違いますよ。 素直に綺麗だなって思っただけですっ!! 紫乃さん。 お願いですから、花鋏をこちらに向けるのは、やめてくれませんか?」
弘晃が、刃物の先端から逃れるように、わずかに身を引いた。
「もう~!! 本当に、いったい何しにいらしたの? 用がないないなら、とっとと帰ってくださいな」
紫乃は、プリプリと怒りながら、弘晃から視線を外し、花器に向き合うと、花を活けることに集中しようとした。
「だから。貴女にお会いしたかったのですよ」
弘晃が答えた。
「嘘ばっかり」
紫乃はにべもない。
「本当ですよ。貴方に、ぜひ伺いたいことがありましてね」
「なんでしょう? なんでも答えて差し上げますから、答えを聞いたらさっさと帰ってくださいな」
「では、遠慮なく」
弘晃が居住まい正した。
「紫乃さんは。 どうして、僕との交際を断らないんですか?」簡約痩身
紫乃は、極力弘晃のことを思い出さないことで平静を保ち、妹たちは見合いの話を姉の前で蒸し返さないことで自分たちの身の安全を確保した。V26Ⅲ速效ダイエット
この間。 紫乃にとって一番厄介なのは自分の母親だった。
彼女は、娘の縁談が決まりそうなので、いつになく浮かれていた。
成り上がりの六条家とは違い、数百年に渡って日本橋の大通りに店を構え、幕府や大名などの御用商人を勤めてきた中村家は、特に体裁を気にする母にとっては、同じ商売人でも商売人の格が違う。
今から結婚式の相談などされても紫乃にとっては鬱陶しいだけだが、かといって邪険にすれば母の不審を招く。
彼女は紫乃がこの縁談に乗り気だと信じているのだ…笑って彼女の話し相手になるしかなかった。
見合いから10日ほどたったある日。
「お嬢さま! ああ、よかった。ようやくお戻りになられた」
いけ花の稽古から帰ってきた紫乃を、女中頭が取りすがらんばかりの勢いで出迎えた。
「どうしたの? そんなに血相を変えて…」
「中村さまです! お見えになっているんです!」
「なんですって?」
紫乃は顔色を変えた。
あの男……、事前に連絡もいれずにいきなり家に押しかけるとは、いったい、どういう了見なのだ?
紫乃はムッとしながら、稽古から持ち帰った花材を束にしたものを抱えたまま、まっすぐに応接間に向かった。
女中頭が後ろから彼女に追いすがりながら、「先ほど奥さまが戻っていらっしゃいましたが、それまでは、お嬢たちがお相手を…」と紫乃に報告する。
その妹たちは、応接間の入り口に群がって中の様子をうかがっていた。
姉を見つけると、彼女たちは、クスクスと笑いながら彼女に道をあけた。
「あなたたち、はしたないわよ。 向こうに行っていなさい」
紫乃は、小さな声で妹たちを追い払った。
去り際に、月子が「素敵な方ね。お姉さま♪」と耳打ちする。
こともあろうに、「お姉さまのお相手が、とても優しそうな方でよかった……」 と、おとなしい夕紀までが、月子に同調した。
『よかった』? あんな男の、どこがよいものか? 全然よくない。
紫乃は、ますます不機嫌になりながら、応接間の扉を開けた。
「やあ、お邪魔していますよ」
紫乃が入ってくるや立ち上がった弘晃が、げんなりするほど晴れやかな笑みを彼女に向けた。
「なにしにっ! ……いらしたのでしょうか?」
母の手前、紫乃は途中で言葉を改めたが既に手遅れ…彼女は母に、「なんという口のききかたをするんです?」と咎められた。V26即効ダイエット
「結婚を前提にお付き合いさせていただくのであれば、紫乃さんのお母さまにもご挨拶しておくべきかと思いまして……」
余計なことにまで気が回る男だ…と紫乃は思ったが、「本当にご丁寧にありがとうございます。 失礼をしたのは、わたくしのほうですのに…」 と、母は、ほんのりと頬を染めながら弘晃に礼を言った。
どうやら、彼は、既に母親を丸め込むことに成功したらしかった。
母と親しげにしている弘晃を紫乃が忌々しく思いながら見ていると、弘晃が、母に向けていた笑顔を、そのままこちらに向けた。
「それから、なによりも、貴女にお会いしたかったので」
「は???」
紫乃の頭は、弘晃の言葉の意味するところを理解することを放棄したようだ。
「なに、言ってるの?」
紫乃は、口をポカンと開けたまま弘晃にたずねた。
「ですから、言葉通りの意味ですよ。貴女にお会いしたくて、ここまで来たんです。 少しばかり、お時間を頂戴できますか? できたら、ふたりだけがいいのですが」
「困ります」
紫乃は即答した。
彼女は、弘晃から逃げるように数歩後ろに下がった。
「困りますか?」
「ええ。とっても」 という紫乃の返事は、「まあまあ、困ったりするわけないじゃないですか。この娘ったら照れているんですわっ!!」という甲高い母の声に打ち消された。
母は紫乃に向き直ると 怖い顔で彼女の耳元に口を寄せた。
「紫乃。 お客様になんて失礼なことを言うのです? 今日のあなた、変よ」
「だって、困ります。 あ、あの。 ほら、持って帰ってきたお花だってね。活けなおさなくてはいけないし…」
紫乃は、まるで自分の身を守るように、持っていた花束を両手で抱えこんだ。
花束から不恰好に突き出た藤の花房が、いやいやするように、母の顔の前で大きく揺れた。
「……で、なんで、こんなことになるのよ……」
数分後。紫乃は、カーペットが敷き詰められた応接間の片隅に正座して花を活けていた。
紫乃の傍らには、 同じく床に敷いた座布団の上に正座をした弘晃が、穏やかな微笑を浮かべながら、彼女のすることを興味深げ眺めている。
母は、すでに席を外していた。
花を活けかえなければならないので弘晃と話す暇はないとごねる娘の主張は、母には通じなかった。
「そうね。では、活けかえておしまいなさい。 弘晃さん。この子の活けた花は、母親のわたくしがいうのもなんですが……」
母は、紫乃の特技を弘晃にアピールする丁度良い機会だと言わんばかりに、女中頭に命じて、活けかえるのに必要な道具や花器を応接間に持ってこさせた。
そして、「では、ごゆっくり」と微笑むと、紫乃と弘晃を残していなくなってしまった。
母は、愛娘をこの男を二人きりにすることについて、何の心配もしていないらしい。
本来は用心深い人なのに、短い間に、よくもそこまでこの男を信用したものだと、紫乃は苦々しい思いをしながらも感心せずにはいられなかった。
「逃げそびれてしまいましたね?」
母がいなくなったのを確認すると、弘晃が、内緒話でもするように紫乃にささやいた。
「べ……別に、逃げようと思ったわけではありませんわ」
紫乃は、弘晃から、つんと顔を背けた。
「そうですか?」
「そうよ。 誰が逃げたりしたりするものですか。 ふ、藤が……」
泳いだ紫乃の目が、紫色の花のところでとまった。
「藤?」
「そう、こ、この藤が」
紫乃は、藤の枝を掴むと、弘晃に突きつけた。
花の重みに耐えかねるかのように藤の蔓が大きくたわんだ。
花の房の動きに合わせて、弘晃の視線が、上から下へ大きく動いた。
「ほらね? 蔓だから花の重みで曲がってしまうのよ。 V26Ⅱ即効減肥サプリ
だから……。だから、後で活け直すことにして、バケツに入れといても良かったのだけど、それでは花を傷めてしまいそうだし…だから、決して逃げようと思ったわけではなくて……」
「なるほど、扱いが難しい花なのですね?」
紫乃の言い訳を、弘晃はニコニコしながら聞いていた。
終始こちらに向けられた微笑といい、やんわりとした話し方といい、紫乃の空威張りなど百も承知だといわんばかりである。
そんな、弘晃の何もかも見透かしたような態度は、紫乃をひどく落ち着かない気分にさせた。
そればかりではない。 この男は、紫乃をわざと怒らせて喜んでいるようなところがある。
紫乃に突きつけられ、まるで、びっくり箱から出てきた人形のように上下に揺れている藤の花を見みながら弘晃が無邪気に言った。
「それにしても……。 この色といい、人の目を引きつかずにはいられない美しさといい、まるで紫乃さんのようですね」
「それは、つまり、私の扱いが難しいっておっしゃりたいんですか?」
たちまち、紫乃の声が尖る。
「違いますよ。 素直に綺麗だなって思っただけですっ!! 紫乃さん。 お願いですから、花鋏をこちらに向けるのは、やめてくれませんか?」
弘晃が、刃物の先端から逃れるように、わずかに身を引いた。
「もう~!! 本当に、いったい何しにいらしたの? 用がないないなら、とっとと帰ってくださいな」
紫乃は、プリプリと怒りながら、弘晃から視線を外し、花器に向き合うと、花を活けることに集中しようとした。
「だから。貴女にお会いしたかったのですよ」
弘晃が答えた。
「嘘ばっかり」
紫乃はにべもない。
「本当ですよ。貴方に、ぜひ伺いたいことがありましてね」
「なんでしょう? なんでも答えて差し上げますから、答えを聞いたらさっさと帰ってくださいな」
「では、遠慮なく」
弘晃が居住まい正した。
「紫乃さんは。 どうして、僕との交際を断らないんですか?」簡約痩身
2013年2月7日星期四
期待はずれ
合わせた両手の指先を額に軽くつけるようにして仏壇に向かっていた橘乃が顔を上げた。
「生前、父が、六条さまと大変仲良くしていただいたそうで」D9 催情剤
一応父だということになっている恵庭久志前茅蜩館ホテルオーナーの遺影を、橘乃と一緒に見つめながら、要は礼のつもりで、そう言った。
だが、橘乃は、そのことを知らなかったようだ。
「まあ。そうだったんですか」
座布団からにじり下りると、彼女は、真ん丸にした目を彼に向けた。
「ええ。 六条さまは、今でも、こちらにお参りしてくださいます。 今上げてくださったお線香も、六条さまからいただいたものです」
彼は香立てから、仏壇横に3つばかり積み重ねられた桐の箱に目をやった。
普段は客としてホテルを利用する六条氏がこの部屋を訪れるのは、久志の命日の頃と、春の彼岸の頃と決まっている。
要たちが小さかった頃、六条氏は、線香の他にも玩具なども持ってきてくれた。
それも必ず3人分。 彼らが学生になると土産の玩具は学用品や本になり、成人してからは、もっぱら酒の肴になった。 酒のほうは、八重がふんだんに用意しているからだ。
そんなことを思い出しながら、要が何の気なしに仏壇脇に置かれた一升瓶に視線を移すのを、橘乃は見逃さなかったようだ。
「もしかして、そのお酒もですか?」
同じものを六条氏が家で飲んでいるのを、彼女は見たことがあるという。
「いえ、お酒のほうは、お参りくださったお礼に、こちらからお渡ししているものです」
「それじゃあ、私、『ごちそうさまです』って言わなくちゃいけませんね」
小さく舌を出しながら橘乃が笑う。 彼女の母親がいける口らしく、六条氏は、彼女の部屋で晩酌をすることが、たびたびあるのだという。
「それで、私も、ちょっとだけ御相伴させてもらったことがあるんです。 日本酒は、あまり好きじゃないんですけど、このお酒は、とても美味しく感じられました。 ほら、普通の日本酒って、なんだかベタベタしていて、いかにも男の人が飲むものって感じじゃないですか? でも、これは、飲みやすいというか、後味がスッキリしているように感じました。 あまりお店に出ていない出回らない珍しいものだと聞いたので、余計にそう感じたのかもしれませんけどね」
「いえ、橘乃さんの舌は確かですよ」
酒瓶を引き寄せながら要は笑った。 「この吟醸酒は、特別です。 というよりも、本来は、このお酒のほうを『普通です』と言ったほうがいいのかもしれませんね。 今、市場に多く出回っているお酒には、アルコールや糖分が添加されたものが多いですから」
いわゆる三増酒という、戦中戦後の酒造用米の不足を補うための救済策として作られるようになった合成酒が、まだまだ幅を利かせている時代である。
「あれは甘ったるくてベタベタしているうえに悪酔いしやすいんです。 それで日本酒嫌いになる方も多いんです」
とはいえ、昔から旨い物を知っていた茅蜩館の常連客は、戦後の物不足であろうとなんであろうと、そんな紛い物めいた安酒で我慢する気にはなれなかったらしい。
そのため、当時のオーナーだった久志が、昔ながらやり方で酒造りをしている、あるいは再開してくれる気がある蔵元を苦労して探したのだ。 それどころか、一時期などは、配給される酒米では質量共に物足りないとかで、ホテルは『ヤミ酒米』の栽培にも手を貸していたという。
「ホテルが貸した……というよりも、ホテルのお客様がホテルを通じて貸した、ですね」
この話を要に聞かせてくれた時、六条氏は、『旨い酒を飲むためなら、男は何だってするんだよ』と、笑っていた。
彼は、ここに来るたびに、久志にまつわることを話してくれる。 思い出話だけで出来ている要の父親像の大半を形作ったのは六条氏であるといっても過言ではない。
初対面の時から、六条氏は、要が久志の息子ではないことを見切っていた。
要だけではない。 彼は、他のふたり――浩平も隆文のことも久志の息子だと認めなかった。 それにもかかわらず、六条氏は、3人を3人とも、八重の孫として可愛がってくれた。
「だってよ。 息子ばかりか孫までいなくなっちまったら、八重さんが寂しくてしょうがねえだろ?」
『だから、お前たちは、しっかり八重さんの孫してろ。 手ぇ抜くんじゃねえぞ!』と、この家に来た頃、要は彼から命じられたものだ。
六条氏のあの一言で、要は楽になった。 彼のおかげで、自分も、この家族の一員であるという夢が見られた。
それほど世話になったのだから、今度は要が六条氏に返す番である。
八重に頼まれてやむなくという側面はあるが、 せっかく、六条氏が、自分たちだけでは解決できなくなった茅蜩館の相続問題に介入してくれようというのだ。 巻き添えを食うことになった六条氏の娘が幸せになれるように、要は、彼ができることならなんでもするつもりだ。挺三天
他の男と一緒になって、橘乃を巡って争うなんてとんでもない。 彼を嫌う人々に釘を刺されるまでもなく、要は、『立場が違う』ことを、わきまえているのだ。
(……って、思っているのに、どうして、僕は、戦後の日本酒事情について、橘乃さんに得意げに語っているんだよ!?)
要は、頭を抱えたくなった。
女たちの前で生半可な知識を得意げに大声で語る男たちに食事の給仕をしながら、要たちホテルのスタッフは、何度嗤いをかみ殺してきたことだろう。
それなのに、今の自分は、彼ら……つまり、《好きな女性の気を引くために通ぶってウンチクを披露するアホ男》、そのものではないか?
こんなことをしていてはいけない。 こんなことをしている場合ではない。
わかっているのに、橘乃から向けられる好奇心いっぱいの眼差しを前に、梅宮の舌は、滑らかになる一方である。 しかも、この橘乃という子は、若いくせに八重並みに人に話をさせるのが上手いようだ。
「蔵元によってお酒の味に違いがあるって、面白いですね。 ワインみたい。 このホテルでも、いただけるんですよね? 置いてあるのは、このお酒だけなんですか? それとも」
相槌を打つついでのように、橘乃が、要が話しやすいこと、もっと話したくなるような質問を挟んでくる。
「和食系の店でなら、どこでも召し上がっていただけますし、この酒以外にも、いろいろとご用意しております。 また、吟醸酒以外にも、生もとですとか、女性に好まれそうなシャンパンに似た風味を持つ日本酒などもございますよ」
「わあ、面白そう。 いろいろ試してみたいけど、酔っ払っちゃいそうですね」
「少量からでも、ご注文いただけますよ」
4合瓶からならば、たいていの酒は彼女の部屋に届けることもできる。 だが、親の知らないところで大事な娘を飲んだくれにしたら六条氏に合わせる顔がないので、要は言わないでおいた。
「それぞれの料理長のお勧めの銘柄もあるので、お気軽に試してみてください。 お気に召したものがあれば、お母さまへのお土産になさってもよろしいかもしれませんね。それで、あの……」
まだまた話していたかったが、要は強引に話を打ち切った。
「ええと、その…… あなたさまの、旦那さま、ひいてはこのホテルの次期オーナーを決定する件についてですが」
「自分の気持ちを一番大事にしてくださいね」と、梅宮は言ってくれた。
「ホテルのオーナーとして誰がふさわしいかとか、誰を選べば相続問題が丸く収まるかとか、そういったことにまで、あなたが頭を悩ます必要はありません。 自分が好きになった人を、選べばいいんですよ」とも言ってくれた。
「橘乃さんの旦那さまになる方が、ホテルのことに詳しくなくても、あるいは全く興味がなくても、そこは私たちスタッフがしっかりとフォローします。 誰が選ばれたとしても、異を唱える者が出てくるでしょうが、何があっても私が黙らせてみせます。 だから、橘乃さんは、自分の好きな人と結婚なさってください」
「ありがとうございます」
橘乃は、とりあえず頭を下げた。
梅宮の申し出は、橘乃にとって、ありがたいものだった。
普段の彼女なら、こんなに優しい申し出を受けたら、嬉しさのあまり相手に飛びついて感謝しただろう。 VIVID XXL
だが、なぜだろう。 彼女は素直に喜べなかった。
どうしてなのかはわからないが、梅宮が橘乃から距離を置こうとしているように感じるのだ。
それも、なるべく遠くに。
(もしかして、怒っているのかしら?)
そうかもしれない。
梅宮は、八重の3人孫の中で一番年上に見える。
相続で揉めているとはいえ、順当にいけば、梅宮がホテルを手に入れていたに違いないのだ。
それを、トンビが油揚げをさらうように、橘乃と彼女の父親が彼の鼻先から相続の権利をかっさらってしまった。 梅宮にしてみれば、面白いわけがない。
「ごめんなさい。 梅宮さんを差し置いて、私なんかがホテルを継ぐことになっちゃって……」
傷ついている人がいるのも気が付かずに、憧れていたホテルが手に入ると浮かれていた自分が恥ずかしい。
「橘乃さん、そういうことではなくてですね」
手をついて謝る橘乃を前に、梅宮が慌てたようすをみせた。
橘乃がホテルを継ぐことを、彼は、不満に思っていないという。
「本当に? 気を悪くなさってるわけではないんですね?」
「もちろんです。 私は、六条さまが、この件に介入してくださって、正直ホッとしているんです」
自身なさげにたずねる橘乃に、梅宮が力強く言い放った。
「それならいいのだけど。 でも、怒っているわけでなない……ということは…… あ、わかった!梅宮さんには、既に結婚を決めた女性がいらっしゃるのね?」
そういうことならば、婿選びの候補にされること自体、梅宮にしてみれば迷惑千万なことだろう。 下手をすれば、恋人(もしかしたら、まだ両想いにはなっていないのかもしれないけれども)に誤解されたり嫉妬されたり剣突をくらわされたりするかもしれない。
「そんなことなったら、仲直りするのも骨でしょうし……」
「勝手に話を作らないでください! そんな人はいません!」
仕事場での人あしらいのよさはどこへやら、顔を真っ赤にして梅宮が否定する。
「まあ、いないんですか? 恋人さん?」
「いませんよ」
「そうなんですか。 みなさん見る目がないんですね」
橘乃は素直に自分の感想を口にした。
梅宮だったら容貌も愛想も性格も人並み以上に良いと思うのに、世の中の女性は、どこを見ているのであろう? 思わぬ形で誉められてしまった梅宮は、毒気を抜かれたような顔で、「ありがとうございます」と言った。福潤宝
「あれ? 何の話から、こんな話になったんでしたっけ?」
「梅宮さんが、どうして私と関わり合いになりたくないのか?……という話からですわ」
「そんな話は、していなかったと思いますけれども」
眉間にしわを寄せた梅宮が、冷静に指摘する。
橘乃は拗ねたように視線を逸らした。 彼の言うとおりだ。 そんな話はしていなかった。
でも、橘乃は、そう感じるのだ。 梅宮が自分を避けようとしている。 ホテルなんていらないから、自分と関わり合いになりたくないと思っている。
梅宮がそう思っているのならば、他の男の人だって、きっとそう。 彼を同じように、橘乃を疎ましく思っているに違いないのだ。
だから、いまだに、誰も橘乃に言い寄ってこないのだろう。
やってくるのは、橘乃の顔も知らない変な男ばかり。 少しでも橘乃のことを知っている男たちは、遠巻きに彼女を眺めているだけだ。
「私って、そんなに嫌な女でしょうか?」
橘乃は、思い切って訊いてみた。
「はあ? いきなりなにを……」
思いつめた表情を浮かべている橘乃を見て、梅宮はうろたえているようだった。
「すみません。 こんなこと、梅宮さんに言うことじゃないことぐらい、私だってわかっているんですけど。 なんだかもう、自分が情けなくなってきちゃって……」
頭を下げたまま、橘乃は、うつむいてしまった。
「そりゃあ、私はすごいおしゃべりですよ。 軽薄なところも、いい加減に直さなくっちゃって思います。 それに、姉たちに比べたら、成績だって運動神経だって容姿だってスタイルだって普通すぎるぐらいに普通だし、髪の毛だってクルクルだし…… でも、お金目当ての人さえ寄ってこないほどひどいとは、自分では思ってなかったんですけど」
「ちょっ、ちょっと待ってください。 クルクル? クルクルのどこがいけないんですか?」
ようやく顔を上げた橘乃を見て、梅宮がホッとしたような顔をしながら、自分の髪のひと房に指を絡める。 「それに、私だって、かなり『クルクル』ですけど?」
「……あ」
橘乃は、自分の失言を悔やむように口元に手を当てた。
「ちなみに、私の弟たち――浩平と隆文もくせっ毛ですよ。 ついでに、その写真ではわかりづらいですが、私の父も『クルクル』だったそうです」
父親の遺影に顔を向けながら、『うちの親戚は、くせ毛の人が多いんですよ』と、梅宮が笑う。
「私にも、くせっ毛をからかわれた経験がありますから、橘乃さんが卑下したくなる気持ちはわかります。 けれど、橘乃さんのくるくるした髪は、可愛いですよ」
「変じゃない?」
「ちっとも変じゃありませんよ。 橘乃さんの雰囲気にとても似合っていると思います。 それに、私は、橘乃さんのおしゃべりは嫌いじゃないですよ」
「煩くなかったですか?」
「ええ。 お世辞でもなんでもなく、お話していて楽しいですよ」
目を潤ませる橘乃に、梅宮が微笑んだ。
「じゃあ……どうして?」
「なぜ、あなたに誰もアタックしてこないのかってことですか? 他の者の事情までは、わかりませんが、私の場合は…… 失礼します」V26 即効ダイエット
梅宮が立ち上がった。 横長の茶箪笥の上に置かれた電話が鳴っていた。
「フロントに、お姉さまが、いらしているそうです。 2番目の、森沢さまの奥さまの方の」
振り返った梅宮が橘乃に告げる。
「明子姉さまが?」
「それは、お待たせしてはいけないね」 「うんうん。 すぐに行かなきゃ」
どこからか出てきた八重と、可愛らしい顔をした若い男性が現れて、橘乃に勧めた。
若い男性のほうが、握手を求めるように彼女に手を差し伸べながら、『自分は、竹里浩平である』と名乗った。 先日、父が3人まとめて『松竹梅』呼ばわりしていた八重の孫のひとりである。梅宮が話していた通り、なるほど、彼もくせ毛だった。
「ところで、花嫁さんだけど、無事に式に戻れたよ」
橘乃の手を握りながら、浩平が教えてくれた。
こういう事例の場合、茅蜩館では花婿側――つまり逃げられる側にはギリギリまで事情を話さないでおくことになっているそうで、何も知らない花婿は、幸せそうに花嫁の手を取ったという。
「でもさ、式の当日に自分が花嫁から捨てられるところだったって知ったら、花婿さんは、どうしただろうね?」
『ああ、よかった』と胸を撫で下ろす橘乃に、浩平が意地悪なことを言う。 「僕たちは、花婿が自分のことしか考えられない女と縁を切ることができる、せっかくのチャンスを潰してしまったかもしれないね」
「浩平。 おまえは、また、そういうことを……」
浩平のこうした物言いは珍しいことではないようだった。 梅宮は、八重と一緒になって彼をにらむと、その冷たいまなざしを祖母にも向けた。
「それで、お祖母さまたちは、いつから、僕たちの話を盗み聞きしていたんですか?」
「ごめん。 要が、めったにないほど面白かったから」 「ねえ」
浩平と八重が、顔を見合わせて笑う。
「面白いって……」
「それは後でいいから、橘乃さんを、早くフロントに連れて行っておあげ。 お姉さんがお待ちかねだよ」
文句を言いかけた梅宮を、八重が急き立てた。
浩平が、「橘乃ちゃん、またね」と、手を振りながらウインクをする。 そのまま見送ってくれるのかと思いきや、彼は、フロントに向かう橘乃たちの後についてきた。 OB蛋白の繊型曲痩 Ⅲ
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